医学の歴史

History of Medicine

マクス・ノイバーガー Max Neuburger

水上茂樹訳




原始医学および東洋医学


序言(ウィリアム・オスラー)

 過去20年間に医学史にたいして目覚ましい興味が戻ってきた。ヨーロッパ、イギリス、アメリカの大学で講座が作られ、この問題についての学会やクラブが出発した。1つだけでなく3つか4つの雑誌が作られ、数え切れないモノグラフや論文で豊かになった。Index Medicus(医学論文の2次資料。1879年に始まり2004年に最終号)を10年から12年のあいだ最近のものと比較すると、医学が源泉の研究にいかに関与しているか、および我々がいかに新しい歴史の方法によって影響されているか、が示される。
 この問題には3つのことが関連している。第1に学生にとって、教育的な面は評価できないほど重要である。医学は進化的な観点から、最高に教えられるからである。経歴の初めに、現在の知識が到達した段階をはっきりとさせることは如何に重要であろうか! しかし、ぎゅう詰めカリキュラムの現状からすると、医学史を必須課目にすることは好ましいとは言えない。私は数年前に述べた。「魅力的な課目は良い学生を捕え、彼らを良くする。しかし、もっと価値あることは、学生に物事を歴史的な観点で見る訓練をさせることであり、もっと重要なことは次のフラーの発言の真理を自分自身で評価する1人1人の教師によってのみ可能なことである。“歴史は若者を皺だらけにせず白髪にせずに老人にする。彼に欠陥や不便を与ることなく年の経験を持たせる。そうだ、これは過去の事柄を現在のものにするだけでなく、将来に来る事柄について合理的な考えを持たせる。この世界は新しい事件を与えることはない。古いものであり形だけが違うだけで以前と同じ月を我々が新月と呼ぶのと同じ意味である。古い行動は再び戻ってきて、新しく異なる環境で見栄えを良くする。”」(ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル 1902)。
 第2に、研究として、治療と関係する科学の部門の歴史は、特別な魅力を持っている。医学は人類学に基礎を持っていて、大部分の神学、多くの哲学、錬金術や占星術の偽科学、と関係を持っている。この徐々に起きる進化を追跡し、種々の時代における知的な動きとの関係を研究することは、新しい研究方法で訓練された学者たちの仕事である。しかし、現在の功利主義の時代には、事実を発見するだけでなく、それらの意義を認識するの充分な歴史的な洞察力を持つ、フレンド、リトレ、ヘッサー、ダレムバーグ、アダムズ、グリーンヒル、のような性格の人たちは稀である。真実は学者、古文書保管人、および「裏階段の男たち」と呼ばれる人たち、は我々の大学の医学部からの援助が必要である。この国には1つも医学史講座が存在しない! ロイヤル・コレッジ・オブ・フィジシャンにあるフィッツパトリック財団(1901)は幾つかの重要な講演のスポンサーとなり、J・F・ペイン博士によるアングロ・サクソン時期のイギリス医学の価値ある研究を可能にした。しかし必要とする趣味と奨学金を持つ人たちはこの国には多くなく、彼らのエネルギーは他の分野に散らばってしまう。もっとも力強い学者のグループはドイツにいて、医学史において完全に第1の重要性をもつ2つの大きな仕事がなされている。帝国ベルリンアカデミーの援助のもとでライプチッヒ大学のトリューブナー株式会社は医学におけるギリシャ著作者の新しいテキストを発行している。この大仕事の準備として優れた学者たちがディール教授の指導のもとにヨーロッパの幾つもの図書館にあるすべての重要な草稿を調べ蒐集している。ヒポクラテスおよびその後のギリシャ著作者たちについての我々の知識のすべての源についての地理分布リストが刊行されている。すでに行われた仕事を高く評価し過ぎることはできない。しかし、この問題についての興味を高めることにもっと重要なのは優れた学者である故プッシュマン教授を記念して創設されたライプツィヒ大学の医学史研究所である。ズドホフ教授の指導のもとにこの研究所はラテン著作者たちの完全に新しい版を刊行することになっている。ドイツにおける研究およびモノグラフの生産は第一流の研究援助であって世界全体を一緒にしたものに等しい。この発言をしながら、フランスの医学史学派は常に最も目覚ましい位置を占めてきたことを見逃してはいない。医学史は何世紀にもわたってフランスの大学から奨励されてきた。
 もっと顕著なことは3番目の関連としてのこの領域の進歩である――ある地域または全般的における医学の歴史に興味を持っている、忙しい人たちの暇なときに役に立つ余暇である。イギリスおよびアメリカにおいて、このことは医学史の伝記的な面に傾き、多くの価値あるモノグラフが刊行された。いつでも第一流の仕事ではないが、興味を惹き起こし、医学の英雄について多くの楽しい教育的な話を供給する。スミス・エルダー・アンド・カンパニー社が刊行したマスター・オブ・メディシン・シリーズが続けられなかったことは残念である。ペインによるシデナム、パウアーによるハーヴィ、ペイジェットによるハンター、の生涯は正確で情報に富む伝記のモデルである。医学史の最高のものの多くがこのようにして描かれ、そして実際に多くの古い医師や外科医の側面がその時期の様子や習慣として与えられる。ジョージ・マーシャルの子孫(パリ)により語られたルイ14世の外科医の生涯の話はその時期における宮廷生活の活き活きとして絵として聖シモンの本のページから拾い集められるであろう。
 この問題への興味が戻ったことによる価値ある結果は、いろいろなセンターにおける医学図書館の生長であり、この学問の各地における歴史を示す書類、絵画、その他の蒐集である。
 医学史を体系的に取り扱った重要な仕事が幾つかこの期間中に刊行された。グールトの「外科学の歴史」は記念碑的な貢献である。プッシュマンが計画しノイバーガーとパーゲルが編集した「医学史ハンドブッフ」は参考書として価値が高い。学生および一般の読者に適する医学史は、書くのに困難な本である。この仕事に必要な能力を持つ人はあまり居ない。ある1つの時期について全く完全で正確な知識を持っている特別な学者は、バランスが重要な仕事を引き受けるのは全く最後の男である。ノイバーガーの「医学史」の第1分冊を受け取ったときに、これはイギリスおよびアメリカの学生に特に有用な本であると私は思った。明晰に書いてあり、あまりに詳し過ぎはせず、良く体系的に整頓されている。ノイバーガー教授はウィーンに生まれ教育されて、医学史の研究を非常に大きく促進したプッシュマン教授の気遣いと教育を受けた。幾つかの予備研究を刊行してから、彼はプッシュマン教授の計画による医学史の百科全書的な仕事を行い、ベルリンのパーゲル教授と共同して成功のうちに完成させた(1902-1905)。
 この第1巻ではルネッサンスに至る医学の成長の話が見られるであろう。多かれ少なかれ継続的な話は太い活字を使って容易に滑らかに読めるようにし、学生は細い活字の部分で典拠および特別に詳細なことを見るであろう。
 近代医学と呼ばれているものを取り扱う第2巻は活発に進行していて、来年には刊行されるであろう。〔第1次世界大戦のためか刊行されなかった:訳者〕
ウィリアム・オスラー、オクスフォード
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原始の医学

 ある文明現象の起源を探るのに、研究者は最低の段階からではなく、進化の梯子の一の定の高さを示す歴史的時間において、仮にぼんやりとしていてはっきりとしていないにしても、最も最初に出現したときを探し求める。医学においては、ぼんやりとしてはいるが、もっと容易である。先史時代の過去の遺物とは別に、今日の人たちの話や習慣(医学的民俗学)に、少なくないものを見つけることができる。さらに、現在でも原始的な人間に似た生活を送っている人類(先住民)の医学は、これらのデータに光を与えている。
 もしも痛みまたは刺激を軽くさせる、これらの意図的な本能的な行動が広義の意味で医学的と考えることができるならば、これらは自然の治癒力の外的発現であるので、医学は人類の子供時代に戻らせるだけでなく、動物医学として存在すると考えることができるであろう。
 熱くなった動物は冷たい水の中で元気になり、強張った手足を太陽で温め、刺激的な寄生物を殺す。ネコやイヌは傷を舐め、イヌは草を食べて嘔吐を起こす。1本の骨が折れたイヌは3本の脚で走り、折れた脚を引っ込めてその脚が目立って短くならないようにし、棘のような異物を取り除くのに巧みである。動物の医学はさらに自己を助けるだけでなく、時に特に幼若動物の時には他の動物を助けることまでする。
 これらのよく知られている例に加えて、最近になり信用できる研究者たちは数多い驚くべき観察を集めていて、そのうちの多くは、単なる本能より上の推理能力を考えなければ説明できない。特に社会生活を営んでいる動物、例えばミツバチやアリで相互援助の例が見られ、後者では傷ついたものを養護する。
 ギリシャやローマの著者たちは数多くの話を残していて、我々は動物を治療する方法や手段をこれらに負っている。エジプトのコウノトリがクチバシを自分自身で浣腸に使い、食べ過ぎをしたカバがアシの鋭い先端を押し付けて放血を行い、ツバメが爛れた眼を治すのにキンポウゲの汁を使い、クマが胃病を治すのにサトイモの葉を摂取し、カメはヘビに噛まれたときに種々のオレガノを使い、雄シカは自分の傷をハクセンの葉で治す、などなど。
 インドではophiorrhiza mungoの苦い根をヘビに噛まれたときの解毒薬とし、住民はその性質をエジプトマングースから学んでいる。
 上記の原始的な行動は人間の医学の基礎とも考えることができ、意図的な反射および直感的な行動は、子供たちや成人たちにより毎日のように行われている。掻いたり、擦ったり、圧力をかけたり、引きずったり、痛みから場所を変えたり、傷を唾液で濡らし、吸ったり、吹いたり、するのがその例である。
 高度に分化した治療方法は、原始的な行動から進化している。例えばマッサージはそのような元来の摩擦、打撃、揉むこと、からの発展である。
 非常に初期の単純な手術のあるものは目的を持った智慧の痕跡を示している。例えば異物(棘)を皮膚から指で取り出すことや、傷ついた場所に冷やすための葉を載せ、皮膚に粘土を塗って冷えや昆虫にたいして防ぎ、乱切りの傷をつける(これからスカリフィケーションが始まる)、などなど。
 多くの医学手術がその後になってよく行われる習慣の始まりとなることは興味深い。このようにして、皮膚に土を塗りつけることが身体のペインティングになり、傷を乱切して土やゴミを塗るのは(痛みが減るかどうかは別として)入れ墨になる。
 友達が傷に包帯をするのを助ける他に、出産の手伝いと看護は古くから始まっている。従って女性は最初の医師であって、幾つもの時代を通じてその地位を保ってきた。
 外科の始まりは、文明の武器すなわち毎日使っている道具が治療に使われるようになった時からのことである。ここで言うのは、初期にはフリント石(火打石)、とげ、木材の破片、貝殻、魚の骨、尖った骨、歯、角、などなど、である。このような方法で異物を取り出し、膿瘍を開き、乱切りや瀉血を行った。毎日の道具を細工するのは治療術の助けになった。たとえば、壊れた道具を修理する方法は骨折の原始的な治療のパターンになった。
 戦争のときであるだろうが、ある種の傷によって死なないで生きていられるだけでなく、その傷の治ることもあるという経験は、手術の考えを出発させ、銅時代および青銅時代に道具の製造が改良されるのに伴って、手術は巧みになった。部族のメンバーのうちには手術が巧みなことで目立ち、治癒させる経験があるものとして有名になる。このようにして子孫のあいだに徐々に医学経験者の階級が作られてきた。
 既に示したように、頭蓋骨に鋸で穴をあけるトレパネーションのような手術が石器時代に行われていたことは、驚くべきことであり、今日の原始人の多くが手術を好み、外科に巧みなことを見ると良く理解できる。
 新石器時代にトレパネーションを行った頭蓋が、ヨーロッパの大部分の国、アルジェリア、カナリア諸島、北アメリカ、メキシコ、ペルー、アルゼンチン、で見つかっている。
 これらの頭蓋の多くで瘢痕の良くできたトレパネーション孔が見られ、同じ個人でこの辛い手術が2回か3回も行われたことが証明される。骨は小片にして齧り取るか、または鋭いフリント道具の曲鋸で切るか、骨をフリントで擦って頭蓋を開けている。トレパネーションの適応は、頭痛か痙攣か知的障害であった。
 歴史時代前の外科技術の痕跡は歴史時代になっても実際に残り、多くの民族のあいだでは、ある種の由緒ある手術たとえばエジプトでミイラ作りのための死後の切開、彼らおよびユダヤ人の割礼に、石のナイフを使用する。鉄を毎日使うようになってかなりしても、多くの外科道具は鉄ではなく、以前にローマの土地の一部だったところで、青銅製であることが確かめられた。
 新石器時代の人の骨の病気や傷害に、多くの研究者たちは注目している。その結果、種々の骨の骨折(あるものは変形が起きずに治癒している)、傷害(フリント石の鏃による)、硬直、炎症過程、カリエス、壊死、および佝僂病が記載されてきた。
 青銅器時代についても同じ事が成立する。その時代の墓で鏃による傷や変形性関節炎が見られている。
 野獣に取り囲まれ、すべての相異なる天候や、汚くしばしば食物欠乏に曝されている放浪者たち、これらの荒々しい狩猟者や漁師は、傷害だけでなく、すべての虫食い、寄生虫、腫瘍、皮膚病、カタル、内蔵の炎症、発熱、毒、に曝されていた。
 しばしば激しい虚弱性の原因となる内的な障害は、自然の手に任せられるようになり、最終的に次第に医薬品が種々の食品や有毒植物から作られるようになる。非常に初期のこのような機会および経験主義は、確信をもって認めることができる。すべての国の神話は歴史以前の時期からのものであり、すべての国は歴史の最古の曙から始まって、今日の原始民族と同じように、治療法をかなり蓄えている。これらの元来の経験療法に始まり個人の経験から共通の知識に移行する隠れた道筋は、歴史的研究によっては明らかにならない。初期の人たちが自然および生命を魔術のヴェールで取り囲んでいるからである。
 ここで原始的な人のもつ宇宙の概念を論ずると、呪物崇拝と兆候信仰から、アニミズムと多神教への移行を伴うことにより、非常に遠くまで我々を導くことになり、魔神崇拝と医学のあいだの興味深い関係を細かく追求することになり、原始的医学とその心理的な源におけるいろいろな神秘主義の主な種類を示すことになるであろう。
 医学的な考えの基礎は不十分な経験主義にあるという事実を再び強調することになる。原因と結果の関係は事故による障害(噛み付き、刺傷、切り込み、矢傷など)や異物の貫徹や寄生虫による痛み、などは原始人にとっても明らかである。重傷、失血、飢餓による死も容易に理解できる現象である。しかし説明が必要なのはこのように明白な原因だけではない。毎日の急務は障害からの緩和を要求する。生命そのものはバランスにあり。自己保全の本能――自然の好奇心ではないにしても――謎への回答をいやおうなしに要求する。
 原始人のあいだにおける理由付けの鎖――医学における最初の理論――は非常に短いものであった。彼の想像の限界は、彼個人の個性の外には比較する基準が無かったからである。原始的な考えによると、すべての病気は簡単に説明できるものではなく、原因による結果の並びは大部分の病気のように、魔神の権力の強い悪気のある意思によるものであった。このようにして、原因とその操作のあいだに明らかに大きな不均衡が存在している中毒は、彼にとっては魔術だった。
 原始人の医学的な考えにおける基本的な誤りは、主として医学史の広範な時代で種々な方向において追求されたものであった。現在の経験または理解を超えるすべてのものを、超自然または超絶的なものとして説明することであり、不明なものに自然な機械的な法則以上の個性(オントロジー)を与えたり、実際には関係が無い考えの間に主観的な仮定を置いている。(次の例は最後に述べた論理的な誤りによるものであった。天然痘流行のときにシベリア原住民のヤクートはラクダを初めて見て、これは悪意の神の来訪であると思った。)
 これらの魔術的な影響における原因および作用と思われるものは、場所および知的な発展によって異なる。時間が過ぎるとともに異なった意見が、同じ種族のあいだですら共存する。しかし基本的な考えは全般的に同じであり、誤った推論に導く具体的な現象から常に引き出された。
 このような確信は思慮の事実と密接に関連していて、医学経験および痛覚、打撲、刃物または飛び道具で刺すことや、毒物、有毒蒸気、気がつかないうちに身体に入る寄生虫、または異物(石、木片、麦わらまたは骨)の結果としておきる病気、を起こす魔術ができる悪者の中に存在している。医学経験およびある痛感覚の現実的な発現が想像上の誤解を起こすことを我々は容易に理解できる。他の表現によると、苦しみは離れた悪魔的な動物が原因であり、これは病人の体内にまで入り込む(取り付かれた状態)。これと関連するのはある種の病気に特異的な悪い魂であり、これらの病気は個人化したものと考えられていた。
 このような信念の起源は夢(原始人はこれを実際と思う)、特に恐ろしい幽霊を伴う悪夢に求められる。
 同様に痙攣および精神障害は、顔の変形および病人の全個性の変化を伴い、変化した人の幻覚を生ずる。もっと抽象的な概念、および高度の倫理的レベルの前兆は、病気において試みまたは悪習にたいする試みまたは処罰である。
 現在の未開人のあいだには、以前は高い文明であったが現在の低い状態になったものも居るだろう。しかし彼らは決して原始人の医学的な考えを我々に与えることはできない。
 この情報源の信頼性は、異なる原始種族の医学概念の基本的な均一性、およびもっと更に文明医学および民間医学の超自然性の痕跡における多数の類似性によって支持される。
 上には述べなかった病気の原因と思われるものはまた、「イーブル・アイ」(凶眼)、吸血鬼、魔術による魂を失うこと、または暗闇、または身体の部分では位置の変更、病気の交感的移行、である。
 非常に文明が低い多くの人種のあいだで、病気の自然な原因、たとえば不健康な風、不適当な栄養物、身体の使いすぎ、“感染゛(肺結核の例)、遺伝(ハンセン病、テンカン)、もまた考えられていることは注目に値する。
 夢の顕示の他に、医学の領域における別の観察が悪い魂、例えば人間の怪物、の概念に影響を持ってきた。動物のあいだでは、魂の表現または病気のスピリットのモデル、として「ムシ」の役割は小さくなかった。これと、腐った動物のあいだでウジが作られる事実、および真のムシは人や動物に病気を惹き起こしたり、腐敗しつつ有る木の皮で作られることが観察された。ここではヨーロッパの民間医学や東洋医学で見られる「ムシバのムシ」を引用することにしよう。
 原始人は病気の原因をデモン仮説で明らかにしたと思っていたので、治療は従って原因学的(aetiological)であり、魔術は魔術で対抗すべきであった。
 原始人は病気と回復を魔術を行使する2つの対抗者のあいだの争いとみなしていた。この争いで武器は超自然のもの、すなわち神秘的および魔術的な武器から作られたものであった。これは自然法則を破壊するものであって、知識によってこれらの過程を助けるものではなかった。非自然的な方法によって影響して、自然に関係することであった。
 この力が与えられるのは種族の個々のメンバーだけであった。秘密な知識と神秘的な術(主として毒を使う)によって、霊的な世界と関係し、魅力と対抗し、魔神から防ぎ、そして怒った神が静かになるように連絡をとる。彼らは狂信的な働き手であって、普通の治療方法に成功しないと、魔術医に変わって魔的な方法で天候に影響し、追跡に成功し、戦争に有利になり、将来を予言する。病気および疫病蔓延のときに、彼らの評判は彼らの知力にあり、経験が増すにつれて利益を得るようになり、魔神に対抗する光雲で取り囲まれる。他人の信頼が増加するとともに自分たちへの信頼が増加し、彼らの治療師としての成功は、疑いなく彼らが真の治療方法を使っていること、これらは驚くべき付加物ではあるが身の回りにつけ、これによって自然治癒が起きる(示唆)こと、によっている。
 もちろん、我々の時代まで下ってきた魔的治療は少なく、初期石器時代および初期青銅時代の魔除け(北部のメディシン・マンのポーチ)からなっている。前者は死後に頭蓋骨から得たトレパネーションの一片であり紐をつけて持ち歩く。後者は動物の歯、イタチの骨、ネコの前足、リスの顎骨、トリの気道、ヘビの背骨、などなど、である。これらの遺物は話し言葉であることを意味している。何故かと言うと、これらは魔神を信じていた過去だけではなく、今日の原始人の知識においても、現存する習慣と関連していて、医学および宗教信念の種々の段階に生き残っているからである。古代の医術における神秘主義および今日の原始人のメディシン・マンの魔術から、歴史前時代の治療師が使った処置についての結論を引き出すことができるであろう。これらは宗教的な儀式(犠牲、祈り、燻蒸、浄化、などなど)や魔術の方法および行為に見られるであろう。後者には魔除け、病気の移行、呪い、悪魔祓い、魔神の追い出し、および、種々のシンボル的な儀式、が属していて、多くは医薬的な飲料、または理性的な治療手段、たとえばマッサージ、瀉血、水浴、食養生、と関連している。元来は直感または経験の結果である多くの治療法は2次的な魔術的な意味を獲得して、本来の趣旨が曖昧になった。このようにして、痛い部分を打ち付けたり、捏ねたり、圧をかけることは、悪魔を追い出すことに変化する。患者を叩いたり息を吹きかけたり唾をかけたり、絵を描いたり、入れ墨をしたり、などは、魂の影響にたいする魔術としての秘技的な意味を持っている。水浴、浄化、燻蒸、そのほか食養生は儀式に変化した。批判的に調べてみると、魔術的治療処置の大部分は、基本的には通常の生活で危険から守るための攻撃および防御の習慣を、シンボル的に使ったものであることが最終的に示される。このようにして、例えば、犠牲と懲戒はより高い権力を得る試みであり、呪いと悪魔祓いは挑戦および脅かしであり、狡い脅しで悪魔を追い出し、雑音やダンスや患者を震わしたり打つたりしてで脅かすのは、真の敵と戦うことを連想させるものである。
 魔除けは病気にたいする予防の最も古い型であり、他者の一部分を持つと所有者はその機能(その結果として自然治癒力を強める)を持つようになるという信念に基いている。臓器(骨髄、脳、睾丸、など)を食べる元来の習慣から、もっと簡単な動物、毒に免疫のある動物(クモ)、稀なもの、磨いたものまたは悪習を放つもの、を身につけるようになった。
 デモン信仰が理論であり魔術が習慣である所では、診断と予後判断は視察と超自然的な発現によってのみ行われる。従って病気の過程およびその予後は夢の強い能力、またはエクスタシーの条件、および部分的には偶然の前兆または神託、によって得られる。いろいろな後者のうちで腸の観察は高い意義があり、初歩的な解剖学的な知識に導いた。
 魔術医師の方法の生き写しは原始人のあいだで行われている条件に記述されている。病人治療の大きな役割はメディシン・マンの手にある。彼らは超自然的な力の光雲が身の回りに生じて人々に恐れと驚きを与えるように意図的に風変わりな生活を送っている。「彼らは離れて普通で無い時間に食事をし、他の人たちが起きているときに眠り、」多くの部族で彼らは離れて住み、ある種の食品(例えば特殊な肉)を避ける。彼らは普通は、魔術治療をするときにグロテスクな職業的な衣服を着る。診察室はしばしば親譲りであり、魔術医に適するには生まれが特別(双子)であったり、特別な経験(夢、病気から回復)を持っている。生まれつきのシベリア人種のシャーマンのあいだでは、テンカン様の発作を起こしやすい神経症体質がこの暗示能力に必要であるか、少なくとも精神病的な個人のみがこの職業に献身することに成功する、とみられている。この職業は、伝統のもとで、痙攣に親しみを持ち、自己示唆の用意ができていると、外部刺激(信頼者の存在、呪文の繰り返し、タンバリン類似の魔術太鼓、リズム運動)のもとで、彼らは意図的に自分自身をエクスタシー状態で痙攣発作に落ちいることができる。
 魔術治療の能力が高度の霊感に達するために、見習いは“call”すなわちある種のヒステリー的で催眠術的な動作を行えるまで、一定の指導のもとに孤独で激しい準備を行い、しばしば懲戒と秘密の儀式を受ける。魔術医の組織がある所で、見習いは年配のメンバーを信頼して技術指導を受ける。このようでない所では見習いはメディシン・マンに付き添い、教育を受け(医用ハーブを探す、薬を作る、などなど)、魔術操作を助け、徐々に必要な技術を手に入れる(手品もまた)。多くの種族のあいだで熟練者はある種の医学試験の後で認可を得る。
 謝礼金は時にはかなりのものであった。しかし、この職業は危険が無いものではなかった。治療が不幸な結果に終わった後になり、死は友愛が無い種族の悪意を持ったメディシン・マンの所為であると友達に納得させる必要があった。このようにして、ハイティの住民のあいだで親族はもしも医師の有罪性を信ずるなら、彼を告訴して処罰する。時にはもっとも厳しいこともある。古代の文明的な人種のように宗教的なカルトをもつ真の祭司が発展しているところでは、治療に成功しない問題はもはや祭司の問題ではなく、治癒を否定している怒れる神の全権であるとみなしていた。
 メディシン・マンの持ち物には薬品小袋があり、この中にはすべての特別なものが入っている。狩猟動物の爪、カタツムリの殻、稀な石、などなど。その他に、ダンスや呪文のときに驚かせる音を出す太鼓とガラガラも。超自然の行為は主として祈りおよび犠牲いけにえを伴い、燻蒸の中で、身体、魂から盗まれたものを戻す、魔神を捕まえ縛り破壊することを示す魔除けおよびシンボル操作である。揉み、打ち、圧をかけたり、マッサージをするのは明らかに痛点を探す経験的医学からのものである。吹いたり(水や液体薬品)を掛けるのも同様である。
 間接的なメッセージと同じ線上にあるのは、口で吸うのかどうかは別として、病気のシンボル的な除去であり、疑いもなく異物の除去と似ていて、前もって準備した石のようなものをメディシン・マンが手品のような手段で取り去るのと同じである。
 魔神信仰は盛んであり、束縛されていない考えは存在していないと目立つが、比較研究は現地人が有効な治療方法を全く持っていないのでないことを示す。
 治療に関しては、我々の薬局方のかなりな部分は原地人の最も有効な内容であることにより充分に示されるであろうし、将来においてはもっと多くがこれらから得られるであろう。原住民たちは多数の下剤、胃薬、吐剤、麻酔薬、駆虫剤、催淫剤、香料、発泡剤、発赤剤、を知っている。
 多くの場合に、植えられている薬草の他に鉱物質や動物の材料が使われた――動物材料としては脂肪、脂肪層、臓器、血液、胆汁、唾液、骨や歯の粉、尿や糞があげられる。
 医薬品は煎じ薬、ハップ、湿布、塗り薬、軟膏、膏薬、稀には粉薬、または錠剤として与えられた。ある人種は原始的な器具で浣腸を行い、燻蒸、吸入、嗅ぎ薬、鼻注水、点滴、に親しんでいた。多くの人種で天然痘(南ガーナ)や蛇の噛傷にたいして接種が行われ、膿瘍の内容を皮膚の切り傷に摺りこんでいることは興味深い事実である。動物毒に対抗するのに有毒動物の脂肪、サソリの油、その他を塗擦するのは、同じ有毒物質のぼんやりとした前兆を見ることができる。
 薬品療法の他に食養生も重要な役割をしている。それとともにマッサージ(いろいろな変更型、軽いタッチからタッチングおよび踏み付けまで)、水治療(冷水浴、冷水温水の噴霧、薬湯、高温浴、蒸気浴)、飲水。これらはすべて多くの儀式、迷信、示唆的な習慣、によって囲まれていて、これらは第一義的な重要性があるとされていた。
 いろいろな吸角法(カッピング、吸玉)および瀉血法は広範に使われている方法である。吸角は口で力強く吸ったり、単純な器具(骨の管、ウシや水牛の角の、孔を開けた点を急速にワックスで塞いだもの、稀には常用の吸角ガラス)によって行う。
 乱切りは棘、魚の骨、石の破片、貝殻、骨の破片とガラス、またはナイフで行う。静脈切断は石の破片またはナイフで種々の静脈に行う。この目的のためにしばしばフリント石を木のハンドルに据付け、石は静脈の中に入る必要なだけ突き出るようにする。切開は突き刺すかまたは器具のハンドルの上に木片で叩く。ニューギニアのパプア人のあいだでは、非常に短いフリントの鏃をもった小さな矢を飾りのある弓で近くから静脈内に射ち込んでいる。
 外科的な成果はかなりのものである。解剖学的な知識が貧弱なことを考えると手術の大胆なことは驚くべきである。棘その他の鋭い物で異物を取り出し膿瘍を開く。傷の治療に吸引を使用し、時には竹の節を使って一種の排膿を行う。融着を促進するために縫合や固い包帯をすることはある部族では知られている。小さい傷の縫合は棘で行い、棘は切り傷の両側を固定するのに使われ、次に両端を包む。
 ブラジルのインディアン種族の中には、傷の両端にある種のアリの頭の鋭い触手を押さえ付けて、アリの身体はすぐに切り取る習慣を持っている。1匹づつのアリを使って傷は閉じられる。
 潰瘍の治療において、熱い灰、熱した刃物や鉄による焼灼は好んで行われた。出血を止めるのは原始民にとって非常に困難であった。大部分において、どのようにすれば良いかわからなかった。時には植物性および鉱物性の止血剤を使った。それほどではないが円形の加圧(強く巻いた包帯)を使った。脱臼の治療には意味を持った方法は無かったが、骨折を治す理論的方法の驚くべき報告をすることができる。副木(木、木の皮、竹)だけでなく、粘土で作った固定装置を使っていた。
 手術の多くは、男性割礼、女性割礼、去勢、マイカ手術(尿道割礼)、帝王切開、卵巣切除、のように性と関連している。同じように大きな外科的な勇気が必要なのはトレパネーションや、ロイヤルティー諸島(南太平洋)の原住民が行っている骨の空洞を擦る(リューマチ性疾患の治療で骨髄が外に出るまで)手術や頸部消化腺の摘出、である。麻酔薬および催眠術による中毒または昏睡がこのような厳しい方法の前処置に必要である。このような手術を何らかの消毒を前もってすることなく行なって、結果の成功が稀でなくないことは、原始の人種が高度に文化的な国民よりもずっと外傷感染にたいして強い対抗力があるということによってのみ、説明できる。出産はふつう必ず女性の手で行われるが、人種によってその発展段階は非常に大きく異なっている。例えばマレーでは子宮内における胎児の位置が不適当なときには正しくするように試みられるが、ベトナムで遺残胎盤は腹の上で踊ることが治療である。月経期間の女性は他の家族と離れて暮らす。出産は特別な出産小屋で行われ、出産期間が過ぎるとこの小屋は燃やさる。
 デモニズム(魔神信仰)と魔術医師が盛んなにも拘わらず、狭い範囲の外科学において純粋な経験主義は完全には決して消失しなかった。
 神秘主義は生命が呼吸および温かい血液に依存するという認識を原始人に失わせることはなかった。死はこの基本的な真理を常に思い出させるものである。
 しかし、将来は祭司と一緒になる。国家が成立するか祭司カーストが組織化されると、好ましい条件にあって文明は徐々に発展し、独立し広範に広がった原始医学の胚は、部分的にはテウルギア〔神働:神の御業への祈願〕的で部分的には経験的であり、驚くべき折衷的な体験から、飛び出す。これらはすべて古代の文明に見出され、すべての高度医学の出発点となる。
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東洋の医学

メソポタミアにおける医学
 メソポタミアは実際に揺りかごでなかったとしても、全ての文明の託児所であった(メソポタミアはチグリス川とユーフラテス川のあいだの部分。そのうちで南部の平地がバビロニア、北部の台地がアッシリア:訳注)。
 ツルハシとシャベルの科学(発掘)およびクサビ文字碑文の解読によって、予想できないほど高度で多くの側面を持った文明を我々が知るようになり、その記録によると、紀元前3千年には既に長期にわたる発展期間を示していた。
 最近の研究の結果によると、文明の種は紀元前3千年から4千年ごろにシュメール人によって蒔かれた。この人たちは運河を作って、それまで住むのに適しない土地を住むことができて実り多い土地にした。彼らは古代オリエントの宇宙生成説、宗教、国家の基礎を作った。絵文字を発明し、クサビ文字はその発展であった。天文学および自然科学の研究、芸術および工芸を促進した。
 バビロニア人とアッシリア人はメソポタミアを征服したセム族であり、シュメール人から道徳の基礎、学問、芸術を借用した。彼らはこれらを更に発展させ、その上に彼らの個性および富の変化を刻みこんでハイピッチの完成度を持ち来たらしたが、最終的に王権および古代文明はインド・ゲルマン民族によって取り上げられた。
 カルデア(メソポタミアの東南部)地域の素晴らしい飾りであるバビロン、および「神的な大都市」であるニネヴェは、知的発展の始まりと言うよりは歴史的に最も重要な時代を示していた。バビロンとアッシリアは彼らが政治的権力を持つ前の文明に名前を与え、政治権力が無くなってもこの文明は完全に消え去ることはなかった。
 知的な意味でメソポタミアの影響のもとに人種と国は分かれて「バビロニア人」になり、一時的または地理的な境界を越えてバビロニア文化の所有者になった。
 バビロニア文明の先駆者であるシュメール人は南西からのセミ族征服者によって圧し潰されたが、バビロニアの征服者にシュメールおよびアカデ王として彼らの名前が残り、彼らの文字、話、文化は彼らが敗れたあと数世紀のあいだ続いた。
 元来シュメール人は(中国人のように)草書体の絵文字を持っていて、右から左へ垂直に並んでいて、徐々に(4分円で周りながら)草書体のクサビ文字に変化し、左から右に並ぶようになり、この変化は主として書く材料(粘土板および尖筆)に依存した。シュメールの言葉は(活きた言葉でなくなった後でも)バビロニア人およびアッシリア人によって文化および教育の言葉として、中世におけるラテン語のように助長された。
 シュメール人はたぶん中央アジア出身だったのであろう。古い仮説によると、彼らの起源はタリム川(ウィグルにある内陸河川)のアムダリア川とヤクサルテス川の水源地の谷においてアーリアン(インド・ゲルマン)および中国人と一緒にいて、共通の考えや知識(特に天文学)が広がったと考えられていた。シュメール・バビロニア文明と中国文明の類似性はインドの多くの知的発現にも適用できるし、バビロニア(ギリシャかも知れない)の影響とも考えることができるであろう。
 我々の情報の源になる数多くの碑文と書類は廃墟となった幾つかのアッシリアの市で見つかりアッシリア語で書かれている。アッシリアの覇権は紀元前約900年から606年のニネヴェの陥落まで続き、疑いも無くセミ族の権力の頂点にあったが、文明の全時期がバビロニア時代と呼ばれているのは正しい。バビロニア人が真の創設者であり、彼らはほとんどすべての時期において科学と芸術、通商と産業、の進歩の大部分を行ったからであり、工業的および科学的に遅れていたアッシリア人は、主な活動として軍事と政治、威厳の誇示と宮廷生活の儀式に見つけていた。
 カルデア人が天文学よび数学の研究を行ったこと、およびもっと特定すると占星術の研究をしたことは、古典古代の不完全な習慣により区別はされていたが、現代の研究や発掘が、メソポタミア文明の幅広さ、深さ、および世界的な意義、を明らかにするのを待たなければならなかった。ギリシャが歴史の地平線の上に初めて出現したときよりずっと前に、幼児であったイオニア人は素晴らしい正確さをもって天文学的観察と計算をすることができた。書くスタイル、絵による表現、兵術、多くの国の法律、は直接または間接にメソポタミアの影響によるものである。重さや長さの今日のシステムにはユーフラテス川とティグリス川の土地の古い住民による発明天才の痕跡が残っており、時間の決定、円の分割、についてバビロンが知識の領域へその影響を及ぼし、世界交通の刺激を終わらせていないことを示す多くの事柄の一部である。
 クサビ文字による天文学データは現代の天文学者を驚かせただけでなく、実際的に役立つものであった。バビロニア人たちは2つの高度に発展した天文学的測定システムを持ち、月の現象を計算する2つの大きなシステムおよび惑星観察の幾つかのシステムを持っていた。
 彼らは春分点歳差をよく知っていた。黄道の分かれ目における星座の日時を与えた。惑星が太陽と同時に上ったり下がったりすること、および太陽との合(ごう)に気がついていた。秋分から計算して天文学的な四季、月の速度、太陽の速度を決定する法則、1年の長さ、合の月の平均、観察された流星、彗星、天気、その他。当然のこととして数学は対応する進歩状態にあった。2種の記録システムがつかわれた。10進法と60進法であった。バビロニア起源のものは、特に、水時計、円の分割、60進法による時の測定(360度、2セットの時間(午前午後?)、60分、60秒)、多くの人種に共通な重さと長さのシステム、黄道の名前、12月、週7日、金と銀の価値の関係。バビロニア人は包囲の方法と通信の技術を進歩させ――ウマを導入し――遠く、広範に通商を行い、素晴らしい法体系を持ち、芸術を進歩させ(色をつけた織物、絨毯、焼き物、ガラス吹き)、宝石細工、をした。
 動物をリアリズム的に表現した彼らの彫刻は非常に優れている。彼らの建築は非常に高度のものであった。音楽について彼らの11弦のリラは初期のバビロニア彫刻に見られる。バビロニアの芸術的影響は数学、天文学、気象学、文学および芸術や神話学に顕著である。これらの影響は直接に西アジアの国々、エジプト、および多分インドにも及んでいる。しかしバビロニア文明の採用は決して独立した活動にたいして、偏見を起こしてはいないで、弟子が教師を超すことの少なくないことを認めなければならない。
 バビロン文明の高度の業績、最高のもの、学があり選ばれた祭司の知識の深遠な果実は、宇宙の計画からなっており、洗練され完成して、多くの世代の働きの結果であり、これから政治的、社会的、科学的な、生活のすべての詳細が推定され、数学の証明と似たものである。すべての体系の基礎となっている公理は、すべての物は神の権力の発散であり、すべての現象は神により運命づけられており、既に成立しているハーモニーの不変の法則に従って成し遂げられた、という見解からなっている。
 神の意思、神の働きは、広く存在している。同じ力と法則が大きな物も小さい物も支配している。種々の現象のすべてのシリーズは、相互に鏡の反映のように関連している。しかし、最も重要な現象は天体の動きであり、見たところ誤っているようではあるが、実際には正確な法則により導かれている。従って、天空は全宇宙の法則を記した偉大な本である。地上の全てのことは、それに対応したものが天空にある。天文学は科学の科学であり、地上の事柄と占星学の法則および相互関係、や生活への実際的応用、についての最も明白な洞察を与え、現在およびすべての将来の予見を理解する手掛かりを与える。
 バビロニアが起源と思われる占星術は個々の事実から始まり、それ自身としては完全に正しいが、“post hoc ergo propter hoc”(この後に、したがって、これ故に)の(誤った)原則を無批判に応用して、この基礎をグロテスクに一般化した。周期的に起きる天体および地球の過程を観察し、この過程は変化することのない一致性から正しい関係(例えば太陽の位置、気候、四季、植物)に持ち込まれる。例えばこのようにして、すなわち太陽の高度と星の上昇を一方とし、四季と暖かさを他方とし、または月の相と気象上の過程とのあいだの原因関係の存在と潮の状態の関係を立ち上げて、このように尚早な一般関係は、天体と地上の物の相互関係、星の表れと地上の事柄、に導かれた。
 最初には、疫病、戦争、王の運命、その他のような国家に関係ある顕著な現象だけに注意が払われた。この種の事柄の偶然の一致は、ある種のはっきりとした天文現象と一緒にして、人を誤らせる偶然一致のこの発現が単なる一時的なものではなく原因であるという偏見から、注意深く記載された。それ故に、彗星のようなある種の天体現象が繰り返して起きることは、すぐに疫病や戦争のように、見かけ上に関係している地上の出来事の予言を正当化した。大きく一般的なことから小さく特殊なことまで、論理的には1ステップに過ぎない。なぜかと言うと、終わりなく規則的な星の力には境界を設定できなかったからである。
 誤った類推を伴って絶えず記録し比較することは、最終的に、人が他の世界に依存するという見解は一般的なものであるだけではなく、個人は非常に詳細な点まで宇宙のコピーであり、彼の身体の状態および運命は、最終的には天体に依存し、そらから予言される、という見解に導かれた。全システムは発達し多くの修正を受け、古代によって神聖なものになり、近代まで生き続けた。
 古代オリエント宇宙生成論の光で見ると、我々が受け取ったバビロン・アッシリア医学の小断片はもっと容易に理解できる。現在の研究段階では、少ない顕著な事実について最も重要な原則だけしか自由になっていないが、この不十分な材料が医学システムの起源をぼんやりと照らしている。
 バビロン・アッシリア医学は一般的に言うと、テウルギアと経験医学の両方の性格を持っていると言うことができる。少なくとも、教育ある祭司の影響のもとに理論が経験から推論され、経験的に得た事実が占星術で色付けされたデモニズム宗派の視点で体系化されていたときには、正しい。その結果として、一緒にされたシステムは、すべての医学的方法および考えを征服した。実際のところ、純粋にテウルギア的であったり、純粋に経験的な性質を持つ、医学方法と考え方の両方の存在する部分があったであろうが、後者は少なくて両者のうちのほんの少しである。生活、病気、健康、は基本的に形而上学的な力に依存し、神とデモンは動いnている天体に影響されるが、他方、それら(天体?)は血液とその変化に関係する(血液理論)が、呼吸は2次的機能として稀に考えられるだけであった。
 生命の機能および身体の構造についてのバビロン人の教えに関する限り、入手できる少ない材料によると、次のように言うことができる。「生体には身体と魂がある。理解の座は心臓であり、血液の中人的な臓器は肝臓である。血液は実際の生命を持つ成分である。2種類あることは重要である。昼間の血液と夜間の血液であり、赤い動脈とどす黒い静脈である。」
 生体液、とくに血液が生命の基礎であるという見解は、宇宙創造の神話に見つかり、この中で神の1人は斬首され、彼の血液は土地と混ぜられる。神話には「生命の水」の引用があり、これは影響が強い体液理論であり、メソポタミアが豊潤で農業的に成功しているのはユーフラテス川とティグリス川によっている。
 しかし、他の国民の医学知識で呼吸は役割を果たしているのに、バビロン人の生命および病気の理論において呼吸は役割を果たさないが故に、呼吸の意義が彼らから逃れたと想像すべきではない。
 シュメール人の表意絵文字には身体の種々の部分を示すものが見つかる。このようなものはクサビ文字による碑文で見ると、犠牲動物の解剖における原始的な知識を示している。犠牲の観察は予言の観点から大きな意義があり、強調されたのは肝臓の実際および空想の異常である。この肝臓観察のモデルとしてヒツジまたはヤギが使われた。紀元前約3000年のテラコッタの2個のモデルがみつかった。下面は4辺形のスペースに直線で分けられ、肝臓実質の中に真っ直ぐに孔があいていたり、ただ窪みがあった。肝臓表面の種々な部分に、この国の将来の状態または国王の運命について、碑文として予言が書かれていた。
 病気は常に身体にとって外来のもので外から導入され、しばしば悪いスピリットとして個性化したものと考えられた。治療は悪いスピリットを取り出すことによって行い、分泌物または排出物内の病的物質に反対作用をしたり排除したりする。
 しばしば変わる神秘主義の網および浪費的ではない生理病理的な推察の網は、治療の方法として認識され、部分的に神秘医学的であり、部分的に経験的である。祈り、儀式的観察、魔除け、魔術の祭文、お守り、シンボル操作は、治療薬品その他の治療方法の入った治療文書と一緒になったり不明瞭にする。
 このようにして多くの祈りおよび聖歌は治療の合理的な方法を含んで(例えば頭痛にたいする濡れた圧定布)いたが、神秘主義が進行するとともに迷信的な呪文になる。
 治療材料はバビロニア医学によってすべての3つの王国から得られたが、名前の大部分は確かでなく、広範囲のリストを作ることはできない。もっとも好まれたのは内服用のハーブ、外用の軟膏で、後者の主なベースはゴマ油であった。香辛料としてはデーツ・シロップとハチミツが使われた。薬は水、ミルク、油、クワス(ロシアのビール)で抽出された。多くの標品は数多くの成分からなり、他の標品と混ぜられ、秘密の名前がつけられた。例えば「太陽神の薬」、「イヌの舌」、『黄色ヘビの皮膚」、など。外用についても述べよう。塗り油、摩擦油、薬品浣腸、入浴、冷水浴、カッピング、瀉血、も知られていた。
 バビロニア人、アッシリア人は多くの種類の病気を区別していた。分類はもちろん症状を基礎としていた。「頭の病気」眼、耳、鼻の病気、口、唇、舌、「胸の病気」、胃痛、腹痛などの腹の病気、腕、指、爪の病気、皮膚と性器の病気(乳腺の炎症と腫瘍)、子供の病気、など、は彼らの書いたもの、に見られる。バビロン人によると心臓の魔術による精神障害。疫病についてはしばしば述べられているが、決定的な確定は無い。
 バビロン医学と古代オリエントの宇宙概念の関係を証明するのは古代および中世における彼らの分派を証明するよりも容易ではない。それでも、これまでに発見された痕跡は偉大な医学体系がこの考えをもって浸透していることを誤りなくさし示している。
 ありそうである以上のこととして、バビロニアの占星術は疫病の予言およびホロスコープの作成では終わらず、徐々に病気の予後の術に発展した。
 人体と宇宙、ミクロコスモスとマクロコスモス、の相互関係の追求にあたって、個々の解剖学領域を12宮(ゾディアック)のサインの下に置く。星座およびカレンダーの治療への大きな影響は特定の処方に見られる。(意味ある考察、たとえば四季および気候、これらの下に置く)
 数の影響への信仰、そして特に7が悪いことは、医師が月の7日、14日、19日、21日、28日に患者に触れることは完全に禁じられた(すなわち、7で割り切れる日、または前の月の始まりから49番目)。処方箋の成分は数の手品を裏切っている。このことは薬剤の数にも見られる(数はしばしば最後に与えられ、7またはその倍数は常にみられる)規定の数の成分数から在庫成分を引いたものである。
 占星術運命論のバビロン医学への影響は、彼らの医学知識の頂点であるよ予後の問題以上に明確に示しているものは無い。
 預言者のマントの残りはまだ医師に掛かっていて、どこに予後の源泉を探し求めるべきか、その初期の発展に用いる知的な方法は何か、そしてどのようにして超自然の考えから医学的な考えに推移するか、をバビロニア医学よりもはっきりと示すものはない。占星術は前兆で一般的に信じられていることの唯一な部分であることを前提とすべきである。この信念によると、天体現象に加えて、すべての注意すべき出来事、遭遇、その他、は、将来の運命への洞察を与える前兆の役割を持っている。バビロンの祭司はものすごく広範にわたる記録を持っていて、それを苦心して体系化することによって完全な文献を作り、その結果、前兆を書くことはアッシュルバニパル王(学問に熱心なアッシリア王)の図書館における不可欠な部分であった。
 特に注目されたのは種々の動物の出現および動きであり(ある動物が門から家に突然に現れること、イヌやメウシに会うこと、オウシが鳴くこと、トリが飛ぶこと)、動物および人間の流産、夢、であった。すべてこれらのことか結論が出された。今日でも迷信深いサークルでするように。
 医学はまた祭司の予言の小間使いであった。医学の観察は予言に使われた(奇形、生まれつきの異常)。
 祭司は前兆に興味を持って、次に病気についての一連の観察を集めた。このようにして「病歴」はまず予言のためであったが、後には患者の運命および病状の予測のためになった。この意味において患者を観察することは前兆を価値あるものにした(例えば顔の表現、毛の状態、瀉血した血液の状態、尿、など)。原因と病理学的経過の関連は知られていないので、個々のそれぞれの症状は(回復または死の)象徴、予後を示すものであって診断の象徴ではない。従って臨床的観察の経験的事実では夢や星占いの推論と同じレベルにある。医学知識が進歩する次のステップは、予後の基礎になってい前提における超自然の要素を除くことである。言い換えると、経験により病気と関係することが示される現象だけから推論が下される。この段階はオリエントでは取られなかったが、医師と祭司が縁を切ったことが実際に起きた自由なギリシャにおいて、ヒポクラテスが具体化された時代になって初めて行われるようになった。
 クサビ文字碑文の予言は患者の身体の種々な部分の観察に基いていた事が見つかり、この予言は体系的に並べられていて、話すこと、顔の表現、星座、右と左の眼、舌、右耳、首すじ、伸ばした右手、胸、足、について述べられていた。
 バビロン人たちが尿や血液の検査を行ったことは、ギリシャ後期の文献がこれらの方法をペルシャ医学と誤って考えたことからみると、ありそうなことである。清潔でないもの、特に身体からの排泄物を触ることを禁ずるペルシャ人の宗教的な原則から考えると、ペルシャ医学から導入されたことは極めてありそうもないことである。
 夢判断は熱心に行われた。寺院睡眠はメソポタミアの習慣であっただろう。すなわち、病気の治癒その他に関係する神から夢判断を受けるために聖域に1晩またはそれ以上も意図的に過ごすことである。アレキサンダー大王がバビロンで死の床にいたときにマケドニアの貴族たちは寺院睡眠を行なって治癒を「セラピス」神(エジプトの冥界の神)に祈願したと言われている。
 メソポタミアの医師は祭司の一部であり、彼らの評判は後者としての評判によって上下した。多分、独立の悪魔払い、カッピングをする人、横たえる人、や膏薬を貼る人たちが祭司や十分に教育を受けた医師のもとに(奴隷として)居たであろう。医学の報酬および医学の法律はハムラビの治世(紀元前約2200年ごろ)に正確に決定された。
 この問題についてのハムラビ法典は次の通りであった。
「もしも医師が青銅製手術ナイフで大手術をして患者を治したり、腫瘍(空洞)を青銅製手術ナイフで開いて眼を治したら、銀10シェケルを受け取る。」
「もしもそれが自由人であったら、かれは5シェケルを受け取る。」
「もしもそれが誰かの奴隷であったら、彼の所有主は医師に銀2シェルを渡す。」
「もしも医師が青銅製手術ナイフでひどい傷をつけ患者が死ぬか、もしも彼が青銅製手術ナイフで腫瘍を開いて患者が眼を失ったら、彼の手を切り落とす。」
「もしも医師が自由人の持つ奴隷にひどい傷をつけて殺したら、彼はその奴隷を別の奴隷で置き換える。「もしも医師が折れた骨を治すか、または病気の腸を直したら、患者は医師に銀5シェケルを払う。」

古代エジプト人の医学
 ファラオの王国はバビロン以上に、人類の記憶に深い痕跡を残している。全ての時を通して続くナイルの国の文化の記憶は、地中海諸国の文明と奥深く不変に関連して、生き生きと残っている。
 何千年にわたって、威厳あるピラミッドは数多い人種の心の中に彼らの生まれた土地のゴールデン・エイジを新しくした。聖書、ホメロス、ギリシャの哲学者たちや歴史家たちは、象形文字が解決できない謎になってから、長い後になってエジプトの科学や芸術の令名を追った。暗黒時代および迷信的な信仰の黄昏がぼんやりとちらちらしている地域では、エジプトの祭司は、意味深い神秘主義の源とし、もっとも超自然の芸術として祝われた。古代の叡智はヴェールを被った像のように、理解するより驚かされ、心および想像の上に魔的な影響によって形作られた。黙っているスフィンクスの舌を誰もほごすことができないからである。好奇心をもった割り込みによって、3言語の碑文ロゼッタストーンがファラオの忘れられた書類と話のキーを準備したときに、エジプトの文明を隠しているヴェールの片隅は、まず持ち上げられた。学者たちの賢明さは次に失われた数世紀の知的な宝を寺院や墓から、碑文やパピルスの草稿から光の中に出すことができた。
 砂漠の砂、エジプトのほとんど雨の無い気候は、過去の文明の古い遺物の保存に大きな助けとなり、それほど遠くはないギリシャやローマよりも、エジプトの発展、少なくともその顕著な特性をより良く見ることができる。そしてエジプト人の政治についての歴史および政治家の能力、彼らの生活、宗教についての考え、彼らの芸術、工業および手芸の能力、および彼らの科学、の洞察を手にしている。
 古墳や市の廃墟の発掘の後に多くの新しい展望が得られた。しかし多くない過大評価意見は批判的調査の純化炉の中に融けこんだ。
 堂々たる建築、装飾の天才、芸術的表現における自然への忠誠、驚くべく進歩した化学技術、あらゆる種類の構造に見られる初期に発展した数学的および幾何学的センス、宗教の哲学に細分化した大量の文献、純粋科学および詩――全てこれらは起源が古代の霞の中にあることを考慮すればするほど、期待を大きく超える。
 他方、事実に注意しなければならない。光が当てられるようになった記録は、同じことについてバビロニアの業績と比べると、世界に広く有名なエジプトの数学、天文学をほとんど具体化していなかった。驚くことには、宗教でも、自然現象の説明でも、どこでも、すべての個々の感情をおしつけて概念の最高位に到達する純粋な抽象は存在しなかった。最も崇高な質問にさえ、考えの不適当な定まりのあることに気がついた。感情(官能)および物質への極端な固執である。これはアフリカ人種の心理学に独特なものである(呪物崇拝、動物の頭を持った神、宇宙の力に反対する地域の神の多いこと)。将来の発見によってこの感じは変化するかも知れないが、考えられたエジプト文明の独占性はその発展の全域において支持できないであろうことはますます明らかになる(他の国から言語、宗教、芸術をしばしば借りていることに示される。)疑い無くアジアからの突発的な受け入れがあった。このことは繰り返して感じられた(ヒスコス王およびアルマナのもとで。)進歩にたいする新しいインパルスを告げながら、土地固有の不活溌な傾向、および、経験からくる時期尚早の一般化傾向、を圧倒するものであった。物質にたいする強い傾向をもつ神秘主義に関係する活発なリアリズムが古代エジプトに特有な性質である。
 エジプト医学はこれまで軽く叩いて得た情報が一定ならば、同じ感じを残している。しかし、この差があるのは、健康なリアリズムは豊富な経験主義の形を持っていて神秘なヴェールがあっても光り輝き絵に色々を与えるが、高度の抽象が欠如すると科学発展の基本的条件においても、天秤で重くないからである。
 ファラオの国におけるエジプトの医師と衛生条件は大きな評判を得た。古典古代が与えなければならなかった最高の評価は、多くのギリシャの思想家がナイル川の国でピラミッドの前で彼ら自身の建物を建てたことであった。ホメロスはこれらの原始の影響を示し、エジプトにおける医学の高い位置を賛美して、あの国をつぎのように歌った。

豊かなナイル川
豊かな大地が種々な単純な衣をもって
…………
プセオンから飛び立つ、パトロンの神が
ファラオの人種すべてに医療を。
「オデッセイア」第4巻 第1歌 320-25行(アレクサンダー・ポープの英訳による)
 ヘロドトス(歴史の父:紀元前485年:Herodotus)はエジプトを最も健康な国であると宣言したが、「あるものは眼の病気だけを取り扱い、他は頭だけ、歯だけ、腹だけ、または内臓だけを、取り扱う」と言っている。シケリアのディオドロス(ギリシャの歴史家:紀元前1世紀:Diodorus)は言った。エジプトの医師は食物の取り過ぎを病気の主な原因とみなし、断食、吐剤、下剤、で治し、兵士や旅行者を無料で治す義務を持っている、と言った。同じ著者はまた言っている。一連の治療を理解して処方を書いて行ったときに医師は非難されないが、限界の外で独立に行って致死の結果になった時には死刑に処せられる、と。アレクサンドリアのクレメンス(神学者:c.165-c.215)によると、エジプトの医学は21冊のヘルメス本に書いてありその著者はトート神(ギリシャのヘルメス神に相当)と言われているそうである。
 ホメロスの賛辞およびギリシャ歴史家の引用はエジプト医学の黄金時代を示しており言われていることは真理からあまり遠くはなかった。
 我々は今では知っている。紀元前7世紀にギリシャ人にたいしてナイルの地が開かれた頃にエジプト医学は頂点ではなく、下り坂であった。もしも発表された文学の独創性が基準となるのであったら、それが最高の発展の時代として認められるのは紀元前約2000年ごろと思われる。はっきりと証明されたこととして、エジプトの医学知識に関係すると主として考えられている2本のパピルス・ロール、すなわちエーベルス・パピルスとブルグッシュ・パピルスはそれぞれ紀元前1600年と1400年のあいだに書かれたものである。しかし、この2つはピラミドが作られた約3000年前の古い書類を編集したものに過ぎない。
 エジプト人は古代文明の人種の多くと共通に、治療術を超自然的な起源のものと一緒にして、数多くの神々を医学と密接な関係を持つようにした。この点で最もしばしば述べられるのは、次の通り。太陽の神ラー(Ra)、多くの薬の発見者で奇跡者の女神(イシス=大地)とその息子ホルス(Horus)、サイスで尊敬されるネイト(Neit)、月の神トート(ジェフティ、ヘルメス:計算および測定の発見者、宗教書類および科学書類したがって医学文学の創始者)。プタハ・イムホテプの息子(アスクレピオス、たぶん神になった医師)、彼の神殿はメンフィスにある。トートはイヌ・サルおよびイヌが頭の人およびコウノトリでシンボル化され、医療の特別な神であった。彼のおかげで浣腸が発見された(コウノトリは長いクチバシで海水を直腸に注入した)。イムホテープ(「平和のうちに来た彼」)の重要性はメンフィスおよびその学校とともに大きくなった。羊の角を持つクヌムとネコまたはライオンの頭を持つ女神セクメット、パクトおよびバステットは子供を作り出産を指導する神として崇拝された。神セト(またはタイフォン)は悪を代表し、疫病を持ち来たる。彼はロバの頭を持って描かれる。
 医師は祭司カーストに属しており、宗教的な崇拝を受け、すべての学びの世話がまかせられた。医学は他の科学分野とともに神殿に付属した医学校で教えられ、もっとも有名なのはヘリオポリス(古名オン)、サイス(古名ザウ)、メンフィスおよびテーベにあった。医学の熟練者が臨床と理論(これはトート神に霊感を受けた、聖なる本およびその注釈書から推論される)の教育を疑いなく受けていた。治療の機会は、数多くの患者には神殿で与えられるとともに、医師である祭司が患者の家を訪れることもあった。医師が祭司であることは利点もあったし欠点もあった。一方で正規の教育が確実になり、巧みでない医師が普及することはなく、医師は祭司集団に属するので祭司の財団から給料を受け取ることができた。他方、科学はテウルギア〔神働術、神秘医学〕と混ざり、神の霊感による禁止と進歩の無い習慣の下に、個々の企てには非常に狭い制限が設けられた。このようにして、有名な医学校については聞いているが、何らか優れた個人についてほとんど聞いていないし、医学校は診察上の見立てにそれぞれ違いがあるはずなのに医学の流派は可能では無かった。
 祭司-医師が、狭い意味の医師、外科医、魔物祓い、に分化したのは古いことであった(魔物祓いが最高の地位であった)。専門家の導入はしかし(ヘロドトスの言うように)たぶんエジプト医学の下降の時期に特有だったのであろう。個々の祭司学校が出現し、エーベルス・パピルスによると、ある特定な専門を作った。祭司学校は法人のように医学のことについても権利有る位置を占めて医学活動を監督した(サイスの筆頭祭司は「第1の医師」の肩書きを持っていた)。産科(および化粧科)は女性専門家の手にあり、その中で助産婦が最高であった。
 祭司の科学は治療方法や薬剤に自然現象の悪くない知識(動物学、植物学、化学)を持たらした。植物園は存在した。エジプトという国の固有な名前に由来する化学はかなり発展した〔エジプトの古代の現地名はケメト、「黒、黒い土地」に由来し、化学は「黒の技術」とも呼ばれた。整理者注〕。それにも関わらず、人の身体の構造と機能についての知識は非常に低いレベルであった。入手できる情報源は、当然のこととして実用的な医学研究および処方の本からなっていて、決定的な判断に何の基礎も与えなかった。しかしこれらはエジプト人には、ミイラ作成方法の基礎として、以前にそうであったように、なんらかの解剖学の知識はまったく役に立たなかった。彼らが知っていることはこのような処置によって学んだことよりも著しく少なかった。このことと関連して次のことは忘れてはならない。すなわち、ミイラ作成の前段階である内臓摘出は医師によるのではなく、労働者によって行われるものであり、習慣を取り巻く儀式観察が科学的な好奇心を満足させるのはほとんど不可能であった。エジプトの祭司が持つ解剖学の原始的な概念は動物の屠殺中の偶然の経験と観察から導かれたものであり、他の人々と同じように、自然哲学の上に予め予想していたネットワークに織り込まれた観察であった。
 もっとも古い時代(ネガダ時代)の発掘によると2種類の埋葬が明らかになった。1つは身体はしゃがむ姿勢で皮で覆われていた。もう1つは、アフリカのある人種が今日でも行なっているように、関節を外してばらばらにした後で骨からすべての軟組織を除いて埋葬する。
 ミイラ作成は徐々に進化したに過ぎなかった。第2王朝のときには一般には行われていなかった。第5王朝まで関節を外すことも行われていた。地上にいたのと同じ形で復活し魂が保存された身体の幸福に依存するという信仰から出て、熱い気候での急速な腐敗を防ぐ欲求が起きた。付属して起きる衛生的な利点は疑い無く2次的な考えであった。洞窟に埋葬したり砂漠の砂に埋めて自然にミイラになるのが実例になった。人工的な乾燥はまず硝石によって行われた。これは組織から水分を取り去り脂肪部分を破壊する。これに続いて没薬、香、桂皮、その他の防腐剤が使われた。そしてこの過程は脱臓器に除くことができない追加過程になり、これに体腔を香酒で洗い、バルサム、ヒマラヤスギ、ピッチ、アスファルト、削屑、包装材、などを詰めた。後になって屍体は手足は別々にして巻布をされる。完成したミイラは木製の棺おけに入れ、金持ちの場合には石棺に入れる。ミイラは「死の都市」に運び込まれる(死者の世話をするものはここで一緒に住まなくてはならない)。最初期の埋葬は地下の部屋に行われたが、後になると地上の離れた場所になった。
 ミイラ化操作を絵で示したのは多くのミイラの上にあるが、かなり正確な記載をしたのはヘロドトス及びシケリアのディオドロスである。
 3つの方法がある(貧乏な人の死体は単に硝石溶液に横たえる)。女性の死体はミイラ化するために女性に渡し、4日後にはじめて男性に渡す。
 この慣習の非常に古いものは、ギリシャの報告によれば、内臓摘出に対して一定の形式を伴ったことが示されている。まずγραμματε?は切開の線を示し、ここでπαρασχιστη?は左の腹部をエチオピアのフリント石ナイフで切り取った。この間、観衆は術者にに石を投げた(死体を冒涜したことに対する罰としての投石の象徴)。
 脳は鼻を通して青銅のフックで取り出す。臓器はいろいろと処理されるようである。ある叙述によると、容器に取り出し、ラーの祈りとともにナイル河に投げ入れる。他の人によると、臓器は清められ、ミイラ化した後で体内に入れられる。しかし、しばしば、死の4デモンに相当する4つの容器に分けて入れられることもある。(最初の容器の蓋には人間の頭のイムセットがつけられ、胃と大腸が入っている。2番目はイヌの頭のハピに捧げられていて小腸が入っている。3番目はジャッカル頭のドゥアムテフで心臓と肺を隠す。4番目はタカの頭のケベフセヌエフで、肝臓と胆嚢が入っている)。
 身体の主な部分の詳細については確かに引用は無いが、エジプト人の書類、発言、神話、で重要な役割を果たしている。かなり多数の象形文字が身体の部分を示している。エジプト語にはかなりの数の身体の名前があるだけでなく、抽象的なアイデアのイラストとして使っている。星座は四肢で、天空全体は擬人的に表されていた。土地の分割さえも解剖学的である。エジプトの14区域のそれぞれはオシリスの身体のそれぞれに対応していた。
 しかし、エジプト語の終了を確かめるには多くの困難がある。その中で考えなければならないのは、時に同じ言葉が身体の全く違う部分、たとえば耳と鼻、を述べるのに使われることである。
 象形文字の表意記号や絵文字で見るように、(料理または犠牲による)動物の解体による発見は類推によって人にも適用された。例えば肺はいつでも6葉(哺乳類)で表された〔訳注:人間は5葉、動物によってはもっと多い。]。
 特別な解剖学書を我々は受け取っていない。しかしヘルメス本の1冊には人体構造の記載があると言われていて、住民の言い伝えによると第1王朝2番目の王アトティス〔Athothis〕が解剖学書の著者であると言われている(エジプトのヘルメスすなわちトート〔Thoth〕神との普通に行われる語源的な誤りであろう)。
 エジプト人の解剖学的知識の程度は(「死者の書」や魔術の呪文、などでの)身体の部分の数のように、ばらばらな発言だけによって判断される。より詳細なのは、心臓を中心とする脈管系の記載である。エーベルス・パピルスには2箇所に脈管「メトゥ」の記載がある。この下には静脈など中の開いている臓器が書いてあり、その傍に神経と腱が含まれている。
 エジプト人の生理学的な思考は外的現象の人間へのアナロジーに依存していて、メソポタミアで行われたように星の観察にはあまりよらなかった。これはエジプトで四季は天にはよらないでナイル川の上昇下降によるからであった。はっきりとした土地のあいだの分離は水の氾濫(水・土地)によって実のりが多かった。ここで、太陽の暖かさの影響(火)、風(空気)、周期的なナイル川の上昇・下降、土地を適当に灌漑する運河システムの影響、は生体の構造と生命をシンボライズしていたようである。生体は固体(骨、肉、すなわち大地、腐植土)および液体部分(水)からなり、その広範に枝分かれした脈管系(運河)は血液を運び、脈として呼び戻してナイル川の上昇下降、体温(火)と呼吸(空気、風)、を起こす。エジプト人の生理学は、メソポタミア人が好んだ血液理論とは対照的に、呼吸の生命的重要性を強調しているところにローカル色のタッチがある。
 4元素の理論はたぶん最初にエジプトで発展し、多くの人が考えてきたようにピラミドやオベリスクの形態で視覚的に表現され、どこにも明確に定められていない。呼吸および身体の液体から生命を引き出すことは儀式において重要であり、呼吸および生命の水を表徴する聖なる煙および水で、神々と死者への奉納を規定した。
 似た自然現象が場所によって解釈が違うことは次に顕著に示される。過度の分泌、たとえば眼の炎症で長いあいだ分泌が続くのを、エジプト人は「水が(心臓から)眼に上がってくる」と言うが、ギリシャ人の観点では同じ現象を頭から水が溢れる、と解釈する。エジプトで灌漑は我々のように雨降ることによるのでなく、ナイル川の水の上昇による。
 呼吸運動は空気を身体に入れ身体から出していることは疑いの余地が無く、空気の循環が起きる経路は非常に遠い時代に動物および人体を観察してあまり当てにならない正確さで決定されていたようである。脈管系の一部は常に血液を含むが、他の脈管、すなわち動脈は常に空である(すなわち、空気が入っている)。後者が空気の経路であることは論争の余地が無い証明であり、生きた状態を死んだ状態から引き出したことにより誤った結論が得られていた。心臓は血管の源と思われていた。
 エーベルスとブルグッシュのパピルスは本の中には「Ueheduの排出」があり、空気の脈管を記載していて、最古の空気学説の起源である。ここで良い空気と悪い空気、すなわち生の空気と死の空気、の区別のあることは素晴らしい。入る空気と出る空気を考えないと、これらが別々に循環するとは考え難い(この区別はバビロニア人の血液の生命学説において昼の血液と夜の血液を区別するのに対応する)。心臓と胃(同じ象形文字の調理壺で示す)は取り込んだ食物から血液が作られる2重のシステムを形成していると考えられた。心臓は年齢をとると小さくなると考えられた。
 病理学、とくに疫病の病理学で宗教的および迷信的な要素が重要な部分であったが、合理的な観察は優位であった。
 エジプト人は病気を主として過食と、実存または想像上の寄生虫によると考えた。
 特定の草稿、魔術パピルス、または礼拝文で、想像または慣習的な病気原因は優勢であった。神秘主義は身体の異なる部分をそれぞれ特定の神の支配下にあるとし、それらを悪霊たちの有害な影響のもとにあるとした。「寄生虫」という言葉が病気の主なシンボルになったことは、動物寄生虫が実際に病原として非常に大きな部分を占めている土地では驚くべきことではない。一般化して、エジプト人は証明することができないところでは病原性「寄生虫」を推論し、これらが病気組織の液に起源すると思った。
 病気と記載されたものは、個々の症状または症状コンプレックスであった。当然のこととして、後者を認識するのはもっと高度な診断推理力を示している。
 エーベルス・パピルスには幾つかの病気にたいする治療法が書かれている。しかし、種々の病気の徴候の意味は言語学的および医学的な多くの困難を伴っていて、これはこれまでのところ完全には克服されていない。多くのうちで次のものがあげられている。腹の病気(この中にたぶん赤痢がふくまれる)、腸管寄生虫、直腸炎、痔、上腹部の病気、心臓病、頭痛、排尿痛、消化不良、頸の腫脹、咽喉痛、肝臓病、約30の眼の病気、鼻、耳、歯の病気、腫瘍と膿瘍。
 診断と関係して、エジプトの医者は視診と触診だけでなく尿も調べたことを証明されているとみなすことができるだろう。
 しかし、もっとも興味深いことはエーベルス・パピルスにあるように聴覚も無視されていなかったことである。そうでなければ、聴診のところで「耳は聴いている」という文章を解釈することが困難であろう。
 エジプト医学の大きな部分は治療学からなっている。半分は祭司的で半分は経験的であるハイブリッドな形では、テウルギア的な治療方法と合理的治療方法の両者が交互に対立したり、助けあったり、互いに影響しあった。
 より新しい草稿や素人用パピルスには、祈り、祝福、魔法の式文、呪い、シンボル的な手順、が多い。古い時代の非常に初期の本にはテウルギア的な影響が無いわけではないが、薬理治療の処方が多い。しばしば、祈りや懇願が処方の前に見つかる。魔術を持った文章が薬調製に伴ったり、その薬を服用するときに患者が話し、その薬の成分が神を起源とすることを説明することによって薬の暗示的な影響が高められる。吐剤、下剤、浣腸薬、は病気の発生を管理する基本原則に従って“materia peccans”〔ペカン:訳者、病気を引き起こす物質:整理者〕を除くために使われた。同じ目的で瀉血、発汗剤、利尿剤、クシャミ薬が処方された。体に悪い空気は(タマネギ、西洋ニラネギ、マメによる)ゲップと放屁の衝撃によって取り除かれた。薬局方の薬剤――植物、動物、鉱物の王国由来の――は異常に良く貯蔵されていた。特に吐剤としての銅塩および海葱カイソウのオキシメル〔蜂蜜と酢を混ぜたもの〕、下剤として(ビールと共に)ヒマシ油、駆虫剤としてザクロ、およびアヘンと毒ニンジンの使用を挙げることができる。外国の薬剤(アラビアとインド)の輸入は主としてフェニキア人によってなされた。エーベルス・パピルスの1節はフェニキア起源である。これの例外はハトシェプスト女王(紀元前1500年ごろ)の命令で行った紅海海岸の発見商業探検であった。これは記録に残っている最古のこの種の探検であろう。エジプト人は(トトメス2世およびラムセス3世の下で)アジアの国々に交渉して直接に新しい薬を入手し、疑い無くメソポタミアの祭司から神秘医学もまた入手した。
 薬として使う形は、水薬、なめ薬、噛み薬とうがい薬、嗅ぎ薬、吸入剤、膏薬、硬膏、湿布、注射薬、座薬、浣腸薬(エジプト人の発見)、燻蒸薬、であった。最後のものは空気学説の精神であって「悪い空気」(または空気の悪い臭い)を他の強い臭いで追い出す、または快い香りで置き換える、ことであった。ベンゾイン〔安息香〕のガム、蘇合香などがこの目的に使われたが、好まれた療法はビャクシン、没薬、フラグ〔ショウブの類〕、などからなる燻蒸剤でKyphi〔キフィ。「聖なる煙」:整理者〕と呼ばれた(プトレマイオス王朝の時代になっても同じ処方がエエドフ神殿の壁に刻み込まれている)。
 薬品による治療は厳しい規則を受け、個々の行動を制限する抑圧的拘束が感じられる領域では特にそうであった。急性の病気は5日以上治療することはできず、投薬は最初の日に強い薬を与え(最終的な毒の排出のための前置きの治療として)、次の4日は他の薬を摂取する(終わりの治療として)。したがって次のような付け書きが見つかる。「1日のあいだ」「4日のあいだ」。処方箋は今日と似た形式であり、基剤、追加剤、賦形剤、中和剤から成っていた。初期の単純な処方は後になってからの複雑な複合薬品とは対照的である。量は非常に正確に規制され、同じ量の薬には同じ物質が驚くべく規則正しい量で入っていて、薬の重さは1:2:4:8:16:32(重さの2乗システム)の関係であった。
 エジプトの外科について我々はほとんど知らないが、ここでも彼らは多くのことをした証拠がある。決定的な証明は(割礼と去勢を除いては)腫瘍の手術からのみ得られる。
 産科学は助産婦の手にある。分娩は分娩椅子の上で行われ、4人の助産婦の援助で行う。助産婦の長は産婦の前に座り、産婦はこの他に両側に1人づつと後の1人に支えられた。
 眼外科(エジプトの眼外科医は高い評判を得ている)、耳鼻科、歯科は医学教科書で代表になっている。
 最近まで解読されず外科的興味を欠く材料については最終的な判断をすべきではない。もっと関係がある記載が隠れているのであろう。カフーン(Kahun)の獣医学パピルスによると非常に古い時代から動物についてエジプト人はかなりの技術が必要な手術も避けなかった。発掘によると彼らは特殊な道具を作る能力を持っていた。カッピング・ガラス〔吸角:皮膚を吸引するためのガラス製カップ〕、ナイフ、フック、ピンセット、金属棒、針、など、であり、ミイラ作成者がこれらを使って顔を傷つけずに頭蓋から脳を取り出す器用さは、他の領域でも使っているであろう。教科書は確かに主として腫瘍の摘出を述べている。ミイラでは骨折が良く融合していて、4cmにわたって重なっている、のが見られた。四肢切断の事実は見られていない。
 エーベルス・パピルスは傷(咬傷、火傷、虫刺傷)、異物、壊疽、膿の蓄積、膿疱、悪臭を放つ膿瘍、新生物(脂肪腫、頸の膿瘍、腺の腫大、乳腺の腫脹)、体躯および四肢の外部の病気(膿疱、打撲傷、水ぶくれ、硬化、など)、および痔、などを取り扱っている。傷の手当は一部はリンネル、一部はリント(亜麻、リンネル、または木綿から作る)による。膏薬や硬膏は油、種々の脂肪(ガチョウ、ウシ、ブタ、ロバ、ネコ、カバ)、ワックス、ハチミツ、を混ぜ、多くの他の物質を加える。腔は支持材または類似の材料を広げたリントのパッドを詰める。異物(Filaria Medinensis〔メジナ虫症〕による)を取り去るには刺激除去硬膏を使い、手術にはランセット〔*外科手術で用いる両刀のメス〕と焼灼を用いる。
 以下のエーベルス・パピルスの例は診察および治療の方法を示している。
「先端が飛び出し、輪郭がはっきりとし、丸く、膿をもった、腫脹を見たら、次のように言いなさい、“肉で成長している膿をもった腫瘍です。...私はこの病気をナイフで治療しなければならない。”」
「患者の咽喉に増殖を見て...中に物が入っていて...頂点がいぼのように隆起していたら、その物は中に入ることを知る。」
「頸に脂肪の増殖を見て、それが肉の膿瘍のようで、指に柔らかったら“彼は頸に脂肪の増殖がある。私は血管に気をつけて、この病気を治療する。”」
「患者の特定の場所の肉に腫瘍を見つけ、肉の上の皮膚のようであって、指で動くようだったら、これは肉の腫瘍である。“私はこの病気を火で治そう。”」
 古代人が、エジプト人は初期の時代から割礼をしている、と言っているのはミイラおよび絵画(ラメセス2世の時代の絵が男児に手術しているのを示している)で発見された。祭司および貴族はいつでも割礼を受けていた。
 女性の割礼はエジプトで非常に初期から広範囲に行われた習慣であった。
 眼科手術はエーベルス・パピルスで非常に重要な部分を占めている。しかし、中世に現在の重要な地位を占めるようになった「“エジプト”の眼の流行性炎症」〔トラコーマか:訳者〕も白内障の手術にも光を当てていない。
 このパピルスに書かれている唯一の手術は逆さまつげのさいの脱毛である。認識された病気は、結膜炎――主症状は、発赤、腫脹、分泌、であって、それぞれ独立に治療される――炎症性角膜混濁、角膜の膿瘍、流涙症、縮瞳症、白斑症、眼瞼の斑状出血、斜視、稗粒腫、結膜浮腫、眼瞼下垂、逆さまつげ、など。
 治療に関して、局所治療(ガチョウの羽を使った着色)が最初の地位を得ているのは驚いたことである。
 医薬品として使われたのは、硫酸鉛、硫酸アンチモン(化粧品として、)、緑青、硫酸銅……
 歯学に関係して、パピルスは幾つもの処方を含んでいること、ミイラを調べると置き換えおよび保存が行われていたこと、を述べなければならない。
 産科と婦人科は2つの最も古いエジプトの草稿で取り扱われていた。妊娠の診断、妊娠促進の教育および出産補助、乳分泌の増加、月経の調節、子宮偏位、乳腺の病気、月経困難症、など、である。
 妊娠または分娩経過を前もって言うにはブルグッシュ・パピルスによると、女性が妊娠しているか否かを知る1つの指示は、すり潰したスイカを男の子を生んだ女の乳と混ぜて飲むように言う。もしも吐いたら彼女は妊娠、もしも鼓腸だけだったら、そうでない、と。
 古代エジプトにおける衛生および病気の予防への到達は治療よりも高い段階であった。見てみると彼ら自身の時代からだけでなく、特に気候が暑いことを考えると、今日の知識からも彼らの衛生方針の多くは完全に認める価値がある。「エジプト人はリビア人とともに最も衛生的な国民である」というヘロドトスの発言はよく支持される。
 エジプトにある社会衛生の素晴らしい建造物は疑いもなく遠い過去から得た経験、特に流行病の全ての様相、を基礎にして建てられてきたに違いない。もしも、これが最初のものであって主として、王、祭司、上層のカーストに役立ったとしたら、最低の層まで下がった人たちの生活にその影響が無かったのではなく、民衆の健康は王の最も神聖な気がかりであった。
 大部分の病気の由来が食べ過ぎからであり、病気の予防は治療より容易である事実を認識すると、純粋に予防のために(ヘロドトスとディオドロスに従って)毎月3日間続けて吐剤と浣腸をすることを習慣とした。
 エジプト人の聖職授任はたぶん神を起源とし、大衆心理学の深い知識の証拠である。ある程度知的に発展した人は権威により自分らの利益で行動するよう説得することができ、2次的に反省をもたらすことができるという行動原理を保っていた。これらの聖職授任は公衆衛生と生活の全様式、身体の世話、衣服、食べ物、性生活、および多くの寺院の碑文に見るように、信心深く(すなわち清潔で控え目)、超自然的な利益の代わりに、長命と境界が無い健康、豊富な問題の見通し、を約束した。
 ディオドロスは言った。「生命の全様式は非常に平等で整然としているので、立法者によるのではなく、学のある医者によって健康の規則が並べられているようである。」
 非常に初期から運河システム、運輸システム、燻蒸消毒(特に疫病のとき)、専門の祭司による、屠殺の前後の肉の検査、が公共措置として考えられた。この肉の検査は動物の外見検査、内臓の検査、臭いによる血液の検査、からなっていた。この肉の検査は儀式的慣例(犠牲いけにえ、最良の部分は前脚と心臓)であったが、意識的にせよ無意識にせよ、衛生の役にたった。犠牲検査で却下された肉を確かに人は食べないので、エジプト人の大部分の生活規則は2つの観点から見られることになる。
 実際的な観点から衛生学は常に前面に出ていて宗教的な考えは単なる口実であった。
 基本的な宗教的および衛生的な法律に従って、住居の清潔さ、身体のケア、衣服および食事へ、最高の強調が置かれた。最も厳しい清潔さの規則の例となったのは当然に祭司であった。彼らは毎日中2度、毎晩2度、入浴した。3日に1度は全身の毛を剃り、新王朝時代には彼らは丸坊主であった。白衣を着て(神殿のオフィスに勤務しているときは必ずリネンだった)。食事を選ぶときには注意深く必ず豚肉、豆、タマネギを避けた(鼓腸を避ける)。後になると彼らは煮沸した水か濾過した水だけを飲んだが、彼らの好物はオオムギから醸造したビール(オシリス神の贈り物)であった。学生たちの宴会の画像や、テキストからの様々な抜粋、から判るように、エジプト人は飲酒が嫌いではなかった(例えば学生への次の忠告:「お前は自分の本を捨て、歓楽に入り、酒場から酒場へ行け――ビールの臭いが人をお前から避けさせる」)。この方向およびに性的耽溺に進むのは祭司の規律および厳しい法律に反するものであった。性的倒錯は猥褻なトリノ・パピルスで証明された。ホルスとセトの神話は男色が古代に存在した事実であり、後まで残った2つのお伽話は姦淫のシーンを語っている。妊娠および出産の妨害、および妊娠中絶は厳しく罰せられた。月経中の交合は禁じられた。「死者の書」で自涜は悪行と言われた。祭司は1人の妻のみ許された。我々の見解と対照的に兄と妹のあいだの結婚は推奨され、王室では盛んに行われた(プトレマイオス朝まで)。性的衛生の領域に割礼が入り、儀式として行われ、祭司および武士のカーストでは6才から10才、他の情報によると14才までにフリント石製のナイフで行われた。
 エジプト人は彼らの子どもたちの保育に大きな注意を払った。幼児は大きな柔らかい布で包んで運んだ。乳離れの後にはまず牛乳だけ与え、後には野菜食と水だけ飲ませた。子どもたちは主として戸外に暮らし5才まで完全に裸であり(10歳まで裸足)、生き生きとゲームを行い(輪回しの輪、ボール、人形が墓で見つかった)、その後で子どもたちは学校(1日3−4時間)で読み書き算術を習った。
 体育、豊かな家では水泳も、で素晴らしいが激しい教育が終わる。
 労働階級では生涯の重労働が早くから始まった。エジプトの文書によるとそれを、「子供は母親の腕から離すためだけに作られる。彼は大人になると骨はロバの骨のように壊れる」と述べている。
 身体のケアは、たぶん予防も、化粧品の使用と密接にからみ合って、エジプトで著しく発展した。これらについては発掘によって生活の絵画が得られている(ベルリン博物館には紀元前3000年のメントゥホテップ王妃の化粧箱がある)。アイメイク(本来は結膜炎の予防)、毛の回復(最古のものはエーベルス・パピルスにあり第3王朝のシェス王妃のため)、香水(他のタイリングとともに女性性器の香料)、皮膚を滑らかにし容貌を良くするため、などの処方もまた発見された。歯を維持する器具について述べるのもここでよかろう――歯冠を被せ、金で封じる。
 エジプト人の高度に発達した衛生は、我々がよく知っているように、現在入手できる草稿が示すところでは、彼らの医学知識の影を全く薄くしてしまった。
 この不釣合いは非常に大きく、割れ目に橋をかけることができる文学的な記念碑が、隠れていたり判読されていない、可能性を暗示している。
 この不釣合いは、高度に発展した衛生は経験主義を基礎としており、正確な観察によるので、誤った学説のせいで失っているものはほとんどないことを、証明しているようだ。
 しかし今日、1つのことが明らかである。少なくともエジプトはユダヤの公衆衛生の先駆者、ギリシャにおける医学の始めに力強い影響を与え、これによって人類の発展に力強い影響を与えた。
 クサビ型文字とヒエログリフの書類の中の医学はそれらを作った土地の境界を越えて影響を与え両者が出会った焦点において、小さいとは言え新しい多くのオリエンタル医学文化の託児所が創設されたという仮説は多くの痕跡が肯定している。このような中心は例えばリディアの首都サルディスであるに違いなく、この点でその重要性を多くのギリシャ語文献が示している。
 シリアとパレスティナはエジプトとメソポタミアの政治と文化の影響が出会って鋭い対立関係のあった場所であり、両者の医学の交差したホームであったことが考えられる。これまでに発見された資料はこの考えの正しさを証明するには充分で無く、ある時期にこれらの土地に住んでいた人がどのような医学を得ていたか包括的な観点を持たない。
 フェニキアン人は薬を国際マーケットに持ち込んだり医学の発明発見の小売商であるだけでなく、エジプト人とは一部だけ違う薬治療のシステムを持っていた。
 フェニキアの処方がエーベルス・パピルスに見つかっている。最近になりフェニキアの医学神の神殿が発掘され、お供え物が見つかった。
 アラム人の国については彼らの話に数多い植物の名前が認められるようであり、これを使う知識を持っていたであろうことを示す。古代イスラエル人の医学達成についての主な情報は聖書から得られ、ここで「エロヒスト」〔モーセ5書中で神をエロヒムと呼んでいる筆者(グループ):作業者注〕と「ヤハウィスト」〔モーセ5書中で神をヤハウェと呼んでいる筆者(グループ):作業者注〕は血液学説(メソポタミア)と空気学説(エジプト)の対立と実際的な結果を反映している。
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古代ペルシャ人の医学
 キュロス2世の勝利は諸国の歴史からバビロンの名前を消し去り、若く力強いペルシャ人に全近東を支配させ、この支配範囲はインダス川から地中海まで広がったセム族のアキメニデス王国より広く、最終的にはファラオの国まで及んでいた。
 古代のバビロニア文明は変化した政治条件では決して本質的に残ることはできなかった。シュメール人とセム人が数世紀にバビロンの地で行った仕事は王権がイラン人およびインド・ゲルマン人に移っても触らないで残った。広い異質なペルシアの領域では多くのそれぞれの人種は自己の宗教、習慣、言葉が許された。3言語の書類(ロゼッタ・ストーン)はこのことを示している。寛大な政策をもって征服者はゼンド人種の国民的な特性を異種の要素と調和的な全体に融合させるように努力した。独創性が表面的であるにしても、現代の建築や彫刻にアッシリア、エジプト、ギリシャの影響が及ぶ構想であった。
 この折衷主義傾向の結果は大きな成功ではなかった。国々を集めても互いに密着した1つのものにはならなかった。ゼンド人種が小さな家父長的な条件から1度で世界帝国に跳び、消耗した古代文明に、それに相当する新鮮なものを与えるには、エネルギーが不足であった。大きな宗教的な考えから離れて、イラン人たちは彼ら自身の個性の少ない印象すら残さなかった。
 このことは特に医学において成立する。理にかなっていることだが、ペルシャ王国の医学とペルシャ国民の医学の区別をし、バビロンから借りた学問を除いてゼンド国家の旗の下に隠して、後になり西洋に移した。
 普通の情報源がほとんど完全に欠けているので、我々は今日のパールーシー教徒(インドのゾロアスター教徒)が注意深く保存してきた宗教書類のゼンダ・アヴェスタとその文学的前駆から非常に一般的な医学の概念を得ることができただけであった。これについて説明しなければならないのは、その発言はゾロアスター(ツァラスートラ)教の厳重な信者だけを縛ることである。
 古代ペルシャの医学はインドの医学のように、その起源は原始的なアーリアン医学にあり、その個性は宗教の国家システムに影響されていた。
 アフラ・マズダー(ゾロアスター教の最高神)の信者たちの生涯と考えにおける医学の役割はアヴェスタ(聖典集)に明らかになっている。法律の本であるヴェンディダドはほとんど最後の3章全部をこれに使いその起原を記している。「トリタ」は病気や死に戦うのに「パラダタ人種のうちで、助けになり、見識があり、力強く、金持ちで、智慧がある、最初の人である。」と言っている。天の助けにより、彼は内科と外科の両方を行うことができた。アフラ・マズダーは彼の祈りに答えて、数えられない治療ハーブが育つようにし、金属の手術ナイフを与えた。
 厳しく2元論的な宇宙の概念に応じて、病気が数えられないほど多い徴候をしめすのは、悪い神(アンラ・マンユ)の仕業であるとし、この悪神は神を信ずる者を何とかして傷つけようとしている。従って病気はいつでもデモンであり、患者は取り憑かれたものである。
 国民の大きな苦しみの中で考えなければならないのは多くの熱病(アヴェスタの書物は幾つもの記載をしていて、そのなかには熱病と悪寒を含んでいるし、あるものは)や皮膚病である。この他に述べられているものには、頭痛、めまい、性的障害、身体障害、中毒(蛇噛傷または有毒植物)、婦人病(産褥熱、月経異常――月経が9日以上続くのは病的と考えられた)である。
 このような悪い魂およびデモンに関係すると考えられるもの、病気、身体の分泌物、死体、は不潔とみなされた。記載しなければならないこととして、月経中の女性や産褥の女性は“不潔”なものに属し、そのことにより隔離され、はっきりと清潔にすることが指示された。
 言い伝えによると、猥褻な悪い魂であるジャーヒは、アンラ・マンユが彼女の頭にキスをしたときに初めて月経が始まったと言われている。月経中の女性は不潔とされ有害な影響を及ぼすと思われ、家の残りの人達から分離した部屋に隔離し(平均して4日間)、乾いた麦藁を撒いて、清潔であるべき火および水から15歩以上離れる。当然のことでアヴェスタはこの期間の性交を禁じ、然るべき純化の後で初めて許される。産褥の婦人もまた不潔と考えられ、一定期間(40日後)に男性と交わることができる。流産した女性は非常に厳しく隔離することが規定される。流産は最も高度な悪の影響と考えられるからである。強く強調されたのは身体の門すなわち、眼、耳、鼻孔、口、性器、肛門、の9つの開口部を清潔にすることであった。死体と接触することは特に不潔の原因とみなされた。これは初めから医学を大きく遅らせるものであった。アヴェスタの記載によると、死人の身体は悪い魂の分前になり、悪い魂は餌食をハエの形で持つ。不潔さは死体からそれの横たわっている家および総て中に拡ががる。悪い影響は総ての親戚に拡がり、関係が近いほど大きい。死体を横たえるのは棺持ちで彼はそれを商売にしており、完全に見下げられていた。暫くのあいだすべての人との関連は控えなければならなかった。
 不死および復活を強調するゾロアスター教徒によると、死は身体と魂が分離を意味することをここで強調しよう。しかし、ペルシャ人の心理学は、最終的な精神力として、身体の機能を導き、身体とともに来たりそれとともに消失する生気力、を認めている。生気力と関連していて身体と1つになり、それとともに消失しないものは、良心、魂、および狭い意味の精神(意思力)である。
 病人の治療はゾロアスター信者の観点からは病気のデモンを追い出し、浄化し(宗教的と衛生学的の両方の意味で)、祭司の手に委ねることであった。何よりも祈りと呪文(神聖な言葉)の両方が使われた。“多くの治療にはハーブと樹木が行われ、さらに水が使われ、さらに言葉が使われた。神聖なる言葉を使うことによって病人はほとんど必ず治癒した。”これらの文章から集められるように、テウルギアそのものの次に「ハーブによる治癒」があった。アフラ・マズダーはデモンの影響を制限するために、ハーブ、特に有毒なもの(リーク=セイヨーニラネギ、アロエ、カナビス=タイマ)、に治癒能力を与えた。
 ペルシャ人はインド人と同じように水の治療効果を高く評価していた。これはまた浄化および罪の償い(長く健康な生命の守り神は水と食物を支配する)の役割を果たす。病気によってはナイフによる治療が必要であったが、古代のペルシャ人は外科手術をあまり行わなかった。そうでなければダリウス1世は脱臼した距骨(足首の骨)の治療にギリシャの医師を呼ぶ必要は無かったであろう。医師開業の許可において手術の能力について高いストレッスがかけられていた。すなわち、3回の手術に成功した者(不信心者にたいし!)のみがアフラ・マズダー信者に能力を示すことができるからである。医師の努力にたいするお礼は患者の財力に応じて一定の割合で払われ、しばしば現物支給のこともあった。
 アヴェスタはテウルギアによる治療のうちで例えばバビロニア人、トゥーラーン人(ペルシャ人の一派)、メディア人がしているような妖術は禁じていた。そのような能力を持っているのは(アーリマンに援助された)不信仰者であった。祈りはデモンの悪業にたいする主な防御であった。しかし、ゼンド国民と一緒にある場合、とくに病気のさいに、一般に聖なる書類ではなく、抗魔術とみなされている一部の定められた文章が要求された。魔除けもまた使用された(Varadshan鳥の羽と骨、?カラス)。中世に“白魔術”と禁止された”黒魔術”が区別されたように、善いデモンと悪いデモンが関連するかどうかによって、魔術の型のあいだに境界が引かれたようであった。
 医学開業および謝礼について「法の本」は次のように言っている。”尋ねる人よ! 信仰者が医師になりたいときに、最初に誰を診療すべきだろうか、信仰者だろうか不信仰者だろうか? 最初に不信仰者に手術をして患者が死亡する、2度目に手術して死亡する、3度目に手術して死亡する。そうしたら彼は永久に開業するのに適しない。
 誰であれ、能力を証明するのに成功しなかったのに、敢えて診療して巧みでない治療で患者を殺したら、これは意図的な殺人とみなされる。
 “誰であれ、最初に不信仰者を手術して治癒し、2度目に不信仰者を手術して治癒し、3度目に不信仰者を手術して治癒したら、そのときに彼は永久に、信仰者に意のままに医療を行い、意のままに手術し、意のままに手術によって治す資格を持つ。”
 “祭司は信じ深い祈祷者のために治しなさい、1家庭の主人は小さな荷物引き動物の値段のために、1家族の主人は中程度の荷物引き動物の値段のために、1民族の主人は優れた荷物引き動物の値段のために、ある地域の領主は4スパンの車の値段のために治しなさい。”
 Vendidad(要約集)は急速な援助が医師の任務であると書いているが、治療を不必要に急がないように彼に注意し、症状を注意深く観察した後に治療をすべきとした。方針として次の決定的な方針を与えている。“もしも病気が朝に始まったのならその日に治療しなさい。もしも日中なら、夜に始めなさい。もしも夜であったら医者の治療は明け方になさい。”
 深く染み込んだ宗教的な影響は。医学の発展をテウルギア・経験的な段階からもっと高度なものに変化するのを妨げた。しかし祭司のシンボリズムは意図的にせよその創造者の智慧が無いにもせよ、衛生的な核心を隠し、このことは人々の健康に確かに有利に作用した。
 宗教儀式は浄化と関連し、祭司起原の教えであり、従って個人的な清潔、食事、性生活の規律、性過剰および変態的性生活の禁止、および多くの他の事柄について、強い示唆的な影響があり、アウトサイダーに、プリニウスが述べたように、ゾロアスターの教えは医学から出発したように感じさせた。
 ゾロアスターの教理は、人間の実際の生活におけるものであろうが自然におけるものであろうが(悪の魂であるアンラ・マンユで代表され、ムシおよびヘビがシンボルとなる、もの)、精神的および身体的な清潔(浄化する火がシンボルで、アフラ・マズダーの映像)のカルトであり、考え、言葉、行動、におけるすべての不潔なものと戦うことであった。精神的な清潔さ、のシンボルとして、実際の結果として、不信仰者、とくに不潔な草原の騎士たち(スキタイ人とトゥーラーン人)と比較して、物理的な清潔さ、が高く評価された。
 ある有害で不潔な動物を殺して祭司に届けるのは役に立つ行為であった。川に唾を吐いたり尿をするのは厳しく禁じられており、川で洗濯することさえも同様であった。清潔にすること、洗浄、および、祈り、儀式、は最も広範な種々の行為に伴った。
 身体を不潔にしたり衣服、器物、道具、を汚したりするのを避け、不純な程度、不潔が移り広がるのを用心するのは、宗教的な義務である。
 性的な悪徳はこの世ではアヴェスタ(聖典)の残酷な罰で、来世では永遠な天罰により怖れさせられた。このような悪徳には姦淫、売春、自慰、男色、および、犯罪的な妊娠中絶、が含まれていた。男色について彼は死ぬ前に悪魔であり、死後には信ずることができない怪物である、と言われた。近親相姦は刑罰が決まっているし、近親者結婚(兄妹)もそうであった。この事実から古代オリエントの宗教・法律の方針について判断することが必要であった。例えば、病人の清掃、洗浄、浄化を見るときに、これは消毒の前兆であるより、むしろデモンが信じていることなのを思い出すのを省略するのを忘れてはいけない。そうでなかったら祭司が祭りの洗浄および純化においてまず雌牛の尿を掛けるか理解するのは困難であろう。ペルシャ人にとって雌牛はインド人にたいするのと同じであり神聖な動物(静けさのシンボル)であり、歴史以前のアーリアン時代における考えである。
 病気が“不潔”であるという信念の厳しい結果は、不治の者を隔離することであった。
 世界医学におけるペルシャの重要性はこの国の医学における到達ではなく、この国の医師はインド、エジプト、ギリシャの医師たちに追い越されており、東西交流の地理的な役割による考え方の交換と薬品の通商が重要であった。
 価値が高く最も永続性あるサービスは後になっての、ササン朝の王たちの行為であった。彼らの愛国の精神は高かったが、ヨーロッパ文明が衰えてきたときに、ギリシャ医学および古典文明の避難所になり、勝利を占めたアラビア人に最終的にそれを渡したことであった。
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旧約聖書における医学
 政治的に独立していた古代イスラエル人の医学を知らせることができる医学著作は、聖書以外にない。これは儀式的な観察および宗教的法律と関連する医学的状態のみに光を当てている。この資料が歴史的な会話または宗教的な詩文における直喩で強められているとしても、この情報はユダヤ人の医学よりは、聖書における医学に関するものでああることを忘れてはならない。
 旧約聖書における医学の主な栄光はその社会衛生にあり、元来のインスピレーションは何であるにしても、その実行は国の福利と保存とに結べつけられていた。モーセの制度はあらゆる可能性において、他のオリエントの宗教制度と同じように、人間の2重の性質に応じ、物理的および倫理的な純粋さが相互依存のものであるという考えにおいて、最高であった。
 命令は疫病の予防と抑制、性病と売春の抑制、皮膚の手当、入浴、食物、住宅と衣服、労働の規律、性生活、人々の規律、などなど。これらの命令の多く、たとえば、安息日(Sabbath)の休息、割礼、食べ物についての法令(血液およぼ豚肉の禁止)、月経および産褥婦人および淋病に罹ったものの対策、ハンセン病患者の隔離、野営地の衛生、は、時代や気候の条件からみると、驚くべく合理的であり、現在の科学からみても、“諸国の国民にあなたたちの智慧と良識が示され”(申 iv.6)の予言を満たしている。
 モーセ五書の衛生はエジプト人たちの祭司の衛生をモデルにしていることは疑いがなく、そして後になってこれに多分ユダヤ人がバビロニア捕囚にさいして親しんだバビロニア人とパルシー(ゾロアスター教徒)の考え(清浄化儀式の詳細)が付け加わった。しかし、モーセ律法の顕著な特徴は、特別な例ではなく全民衆に適合することである。“あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる”(出. xix. 6)。
 モーセ律法がエジプト人起原であることは新約聖書の次に見られる。“そしてモーセは、エジプト人のあらゆる教育を受け、”(使 vii. 22)。
 Philoは古代ユダヤの習慣に従って、モーセはエジプト人およびカルデアン人(従ってバビロニアの影響のもとでも)の様式によって教育された、と言った。
 アレキサンドロスのクレメンス(c.150-c.215)によると、モーセはエジプト医師のもとで医学および化学さえも学んだ、と。
 パルシーイズム(ゾロアスター教)はユダヤ人の宗教概念に大きな影響(サタン、天使、復活の信仰)を与え、ユダヤ人はパルシーの儀式、とくに浄化の方法を受け取った。丁度、バビロニア人が習慣としている多神教的な傾向をユダヤ人が変化させて倫理的価値を与えたのと同じように、ユダヤ人はゾロアスター教徒が身体の清浄と同じものにしている道徳的な考えを明瞭なものにした。
 エジプト人、バビロニア人、パルシーズの他に、サービアン(今のイエーメンの住民)もユダヤの清浄化法律に影響を与え、自分たちであらゆる種類の不潔に反対する非常に厳しい法律を通した。彼らはソロモンの時代以後にヘブライ人と接触を持っていること知られている。性生活の衛生に関して、性交の後で入浴することの命令および月経中の婦人や子供を生んだ(40日間)婦人と性交することの禁止は、引用する価値がある。
 感染症とくにザラート(ハンセン病)の伝播にたいする防御、には法律が必要であり、診断が確かなときには、厳しい隔離と回復者の清浄化、だけでなく、衣服(洗濯および必要なら焼却)および住宅(崩壊さえも)の消毒、が要求された。死体と接触した後の消毒は、“赤雌牛の灰”による浄化を行う。汚点の無い若い雌牛をヒマラヤスギの木材、ヒソプ、エンジムシで燃やす。このようにして得た灰は清潔な場所に保存し必要なときに使う。灰の一部は容器に入れ”活きた水”を注ぎ、健康な人がこれをヒソプの房に注ぎ、すべてを死体に触れた人に掛ける。
 旧約聖書には実際のところ狭い意味における医学に関する記載が少なからず含まれている。たとえば疫病(ペスト?)、“leprosy”、足が不自由だったり痙攣を起こしている状態、精神病および性病、生まれつきの異常、皮膚病および奇形。しかしその記載は部分的であって、それらの本体は稀にしか得られない。このことは特に聖書の”leprosy”で正しく、それについての総ての引用を調べてみると、我々の知っているハンセン病と確かに同定することはできない。たぶんこの言葉は数多くの皮膚病を含んでいて、”leprosy”は特別な病気であってその鑑別診断にあたり最も詳細な記述を必要とするであろう(レビ xiii.)。
 原因に関して、全国民がかかる疫病はエホバによる罰または訪れとみなされているが、根本的な病原の意味の個々の痕跡だけが見られる。
 厳格な一神教の当然な結果として、悪意あるデモンを信ずることは旧約聖書では禁じられている。このことは新約聖書やタルムドが示すように、ユダヤ人種一般において正しいわけではない。偶像崇拝の行為に加えてモーセ五書の“エロヒスト”に医学民話の残りが区別される。
 病気治癒は祈りと犠牲を通じて希望され、それに加えて食栄養の方針および薬品も使われるが、見たところ少ない。後者の中には浴療法(ジョルダン川、泉治療、油浴)、ワイン、イチジク(湿布に)、油、魚の胆汁(眼のために)、軟膏、硬膏、燻蒸剤、がある。憂鬱症に音楽が有効なことは、ダビテがサウル王の前でハープを奏したことで理解される。
 外科手術としては割礼のみが述べられている。旧約聖書は去勢(切断または押し潰し)された男子についてのべられているが、ユダヤ人そのものが去勢を行ったかどうかは疑わしい。
 油、ワイン、バルサム、は傷を覆うのに使われた。包帯は壊れた四肢に使われた。
 産褥の女性は助産婦が助けた。しかし、これは主として慰めの言葉に限られた。出産椅子は古くから知られていたようである。
 衛生基準と宗教のあいだの不可分なつながりにより祭司、すなわちレヴィ族、は健康官吏の機能を専有していた。彼らの実務能力は口頭の習慣により伝えられると思われるある深遠な知識によるものであるが、健康官吏の任務を越えて職業として医学を行った証拠はどこにも無い。
 預言者は医学の才能が無いとは思われなかった。すべての時代に奇跡は最も要求されていたからである。このことは預言者――エリシャ、エリヤ、イザヤ――が行った幸福な治癒、および話されたある儀式文、によって示されている。預言者の学校で医学はカリキュラムの一部として必要だったに違いない。
 ある叙述によると、エズラとネヘミアは、ある薬の効力の知識によって高い評価を得ていた。ビザンティンおよびサレルノの著者たちはある特定の処方をエゾラ(エズラ)と呼んでいたのは興味深い。バビロニア医学の影響は治療学の観点からするとバビロン捕囚(紀元前597年)の時代を感じさせる。
 ユダヤ人の言い伝えによると、賢王ソロモンは治療において全く特殊な能力を持っており、彼の治世には近くの国と熱心に多角的な文化交流を行った。伝説によると病気とそれらの治療についての本さえも彼が書いたと言われ、この本の準備に信心深いヒゼキア王も援助したと言われている。多分これは魔術式文を含むハーブ・ブックだっただろう。よく知られているようにソロモン王は長いあいだ魔術において重要な役割を果たした。{脚注:言い伝えによると、ノアは神のインスピレーションおよび天使の教えによって1冊の本を書き、その中で病気およびデモンによる誘惑にたいするハーブ治療の処方を記した。ここで多くの国と同じように医学が神の起原であることがほのめかされている。}
 聖書時代に職業医師はいなかった、治療術は祭司の手にあったと誤って考えられてきた。この考えは全く確証されていない。聖書はどこにも、比喩的でない意味で治療を話しているときに祭司について述べていないことは驚くべきである。ここで祭司自身が聖書を書くのを監督していたことを思い出さなければならない。しかし、預言者の時代に、ともかく、真の医師がいたという発言にはっきりとした基礎がある。職業的な医師に用いる表現“rophe”がこの時代に使われていたことである。アサ王がエホバの助けではなく医師の助けを求めたことにはっきりと示されている。
 エレミアはギレアドに医師が居ないとは信じ難いと言った。ヨブは彼の友達を“価値の無い医師”と呼んだ。
 後になっての事実から、特別な寺院医師が祭司たちのために任命されることを知っている。祭司たちは冷水浴、薄い衣服、裸足で冷たい石の上を歩くので、しばしば腹痛で苦しんでいた。
 医師が高く評価されたことは、ヨシュア(Jesus:シラの息子)の美しい言葉で示される(外典 シラ書=集会の書)
1.医師を尊敬しなさい。貴方が彼を必要とするのに応じて彼に負う尊敬を。主は確かに彼を創ったからである。
2.最も高いところから治療は来たからである。そして王から彼は贈り物を受けるであろう。
3.医師の技能は彼の頭を持ち上げるであろう。そして偉大な人々の見る前で彼は尊敬されるであろう。
4.主は土地から医学を創り出した。そして分別ある男は彼らを嫌うことはないだろう。
5.水は木で甘くならないだろうか。その特は知られている。
6.そして彼は人々に才能を与える。彼らは彼の優れた仕事により栄光を受けるであろう。
 医師が彼の働きのために支払を受けることは次に示された。“人々が争って1人が他の1人を石、もしくはこぶしで打った場合は、……もし、回復して、杖を頼りに外を歩き回ることができるようになるならば、彼を打った者は罰を免れる。ただし、仕事を休んだ部分を補償し、完全に治療せねばならない。”(出 xxi. 18, 20 et seq.)
 ユダヤ医学の聖書の後の時期についても我々は特別な文献を受け取っていないが、タルムドからある程度の光をうることができる。ここには医学のことについてしばしば述べられている。後のギリシャ医学へのタルムドの強力な影響は後の章に見られる。
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インド人の医学
 インド人の医学は彼ら民族の最高の成果ではないとしても、少なくともかなりそれに近いものであり、知識の豊富さ、思索の深さ、および、体系的な構成、によって、東洋医学の歴史において目覚ましい位置を占めている。
 汲み尽くすことができない豊富なサンスクリット文学の泉のお蔭で、ともかく概観的に経験主義およびテウルギア〔神働術、降霊、交霊、白魔術〕から、その発展は完全な学びの体系の高さまで、追跡することができる。
 この発展は2つの意味で興味深い。一方ではギリシャの医術と多くの点でパラレルであり、インド人の他の偉大な科学的な到達(哲学、天文学、数学、幾何学、言語学)および詩的芸術と対応している……他方でその大地から飛び出し東洋が一般的な文明条件をもって決定的な影響を医学的な傾向に働いている。
 セム人、ハム人、モンゴル人と同じように、生まれながらの天分はギリシャより悪くはなかったが、知的なインパルスはアーリアン・ヒンズー人種には不足していた。ドグマティズムの圧迫のもとで、個人の発展はすぐに、沈滞の条件に陥り、つまらない空想、小さい形式主義、グロテスクな想像的な、美やハーモニーから離れた取るに足りない空想、を表現するようになる。
 インド文明一般の歴史と同じようにインド医学の歴史は3つの時代に区別される。
 1.ヴェダの時代。ヒンヅーの最初のパンジャブ(インド北西部からパキスタン北東部の地域)への移住から紀元前800年まで 2.バラモン教時代。バラモン・カーストの覇権(インドの中世) 3.アラビア時代 約1000年から始まる
 ヴェダ時代は、文明の状態が太古の神聖な文書(主として宗教的な聖歌および科学の解釈)である4つのヴェダにより代表されるのでこのように呼ばれる。リグ・ヴェダ(紀元前1500)、アタルヴァ・ヴェダは医学の観点から重要である。これらの文学的な記念碑から最も古いインド医学は、経験的な知識を多神教、自然のデモン概念、の枠組みに入れると、中心はテウルギアにある。経験主義は、解剖学および病気(中毒も含んで)、ある種の医用ハーブの作用、冷水の利用、および、原始的な外科手術、に関係するそれ自身に幾つかの基本的な事実を要求する。あちらこちらで見られる生理学的な憶測の痕跡、は概念過程のような主題に関連し、空気(呼吸)は不可欠な力の主な源として見られる。
 宗教的な意識の増大と関連して、古いヴェダ時代のテウルギアは後の時期のものとは異なる。リグ・ヴェダの祈りおよび神々への祈願は支配的になる(病気は悪行の結果である)。アタルヴァ・ヴェダには主として魔術と呪文が見つかり、病気のデモンに向けてか、または魔術を扇動するとみなされるもの(悪魔)に対して、向けられる。
 病気のうちで、かなりの数は述べたが、Takman(個人の名前をつけた悪性熱病)はもっとも重要な役割を演じ、超自然な慣例は祈りと犠牲、魔除けやおおくの魔物祓いの方法(例えば呪文や大きな雑音)を含んだ。病気を魔術を通して人や動物に移す(寒い熱をカエルに、黄疸をオウムへ)試みをするのは重要な事実である。医薬ハーブ、この中で最も重要なのは聖なるソーマ(多分、Asclepias Syriaca=一般の乳液を分泌する植物)が強力であり、デモン的に個性化されて使われる。最も古いインドの医学(一般に原始医学のように)は同毒療法(homeopathic or idiopathic)をしばしば使っていることを記すのは興味深い。たとえば、黄色い植物は黄疸に使い、毒矢は毒に使う。医療魔術は元来、祭司の手にあるが、医師は後のヴェーダ時代に独立な階級を形成し、ある程度、バラモン(Brahman、婆羅門)と対立するようになった。
 古代のインド治療師は自分の医薬品を小さな箱に入れて持ち歩き、暗示されてきているように、社会奉仕よりは儲けのために治療を行なっていた。
 ヴェーダ後期にはっきりとした医学機能を持った神々、または疫病神がいたが、初期にはこのような専門化はなくて一般的な神々だけであり、そのうちには他の神々よりは医学や病気と関係のある神々がいた。これらの中にはアシュヴィン双神、ディオスクロイ(双子)、風の父親であるルドラ(暴風雨の神)、個人化して人気があったのは病気(たとえば熱病“Takman、タクマン”)。水の治療力(非常に初期に入浴および飲水はインドで知られていた)。ある種の植物の効力、とくにソマ(植物起原の飲み物。植物名は不明)、インド人およびペルシャ人により酔っ払う聖なる飲み物が作られた。
 アタルヴァ・ヴェーダの魔術的な処方は他の国民のものを思い起こさせ、とくにゲルマン人種のお守りや祈祷文に相当する。以下は病気を他所の仲の悪いまたは軽蔑する国民に送り込もうとするためにお世辞を言う例である。“輝く武器を持つ Takman に敬意を表する! オー タクマン、Mudsevant かまたはもっと遠く行ってください。ホラ吹きの Cudra 女性をいじめて下さい。彼女を困らせてください。オー タクマン”など。これは魔術にたいする反対のお守りである。“ワシが貴方を見つけ、イノシシが鼻で貴方を根こそぎにし、傷つけるものを傷つけるために探し、オー ハーブ 魔術師を打ち返せ。”
 外科病例に医薬ハーブだけでなくお守りを使い、そしてこれは古代インド人の傷についての知識に強い光を当てて、ヴェーダが矢の除き方、傷の手当、義足、去勢、などをよく知っていることを示した。この経験的な知識は取るに足りない量以上であった。かなりの数の病気のあいだの区別がなされた。その中には瘰癧、眩暈、水腫、癲癇、痛風、心臓病、黄疸、半麻痺、などなど、があった。ヴェーダの中にある治療法には堕胎を起こす方法、妊娠を起こす方法、インド医学の特徴である催淫剤、があった。
 医師の欲張りは違っていることは次に示される。“人の希望はそれぞれ違う。荷馬車の御者は樹木を欲しがり、医師は病気を欲しがり、祭司はお神酒を欲しがる。”
 リグ・ヴェーダに書かれている医師は治療の報酬として“ウマ、ウシ、衣服、を欲しがる”。
 テウルギアは決して完全には抑えられなかった。そしてインドの知識人の生涯は常に宗教と結びついていたので、従って後世の医学文献はアタルヴァ・ヴェーダにたいして絶えずほのめかしを行い、これにたいして追加のようにみなされた。両方の間における用語体系および生理的・衛生学的な見解はほとんど完全であった。
 宗教的儀式、迷信、習慣、呪文、は、特に助産婦の領域および子供の介護、およびさらに精神障害者の治療、の合理的な治療と関係して、変化しないで続いた。
 バラモン時代はインド医学の典型であり黄金時代であった。このことは特に興味深い。アラビアの影響のもとにおけるインド医学のその後の発展は一方では新しいものをほとんど加えていないし、他方では国民的な個性が無いことである。祭司と独立で、高く評価されたカーストで、素晴らしい科学文献があり、教育および義務論(deontology)が広く発展したことにしては、驚くべきことである。
 この時代のインド医学とギリシャ医学のアウトラインおよび詳細のあるものがあまりにも似ているのでインド医学の独創性がしばしば疑われたり、否定されていることのあるのも驚くべきことではない。特にインドでは、重要な仕事のなされた時代を決定するのが非常に困難なことにより、最も最近になり草稿が見つかる前には、そのような状態であった。
 多くの科学および芸術におけるインド人の優れた独立的な進展、外国の影響にたいする彼らの嫌悪、最近の発見により示された今日の傾向、を考えると、インド医学は最も顕著な点において独創性のあることが判る。
 解剖学、薬物学(materia medica)、食養生(dietetics)、衛生学、は土地固有のものであり、もしも理論的または実際的な知識が一時的にギリシャから来たとすると、インド人は独自性の印をつけ同化したであろう。
 経験主義、とくに外科学、がテウルギアによって遮られている限り、医学はバラモンの手中にあった。この頃には、科学的に教えられている医師たちは上級の混合カーストであるアンバシュタ(ヴァイディア=アユルベーダ医術の内科医)に属していて、彼らの父親側の先祖はバラモンである。
 下級の経験主義者である補助者が彼らと関係する。ヴァイシャ(庶民)のうちの上級でないカーストのものが含まれる。医療者の最初の起源が祭司であったことは、教育の全システム、およびこの専門職の倫理に見られる。このことはこの専門職の代表者の先祖がバラモンであったことによって最初にインド人によって確かめられた。教育はバラモン学者の教育と完全に同じようになされた。医学の専門職を選ぶには家柄の良いのが条件であり医師の家族であるのが望ましく、器用であり、道徳的および知的な能力のあると同様に肉体的にも優れていることが必要であった。生活様式および研究追求はもっとも少なく要求された。バラモン、恩師、先祖への尊敬は常に繰り返された。若者の入門は冬に月が満ちる幸先の良い日にバラモンの出席のもとに行われる。教育は儀式に始まり、終了に臨んで、宗教的な義務と医師としての所定の任務を果たす誓いを行う。教師は同時に4人から6人以上に教えることはできない。
 6年続く教育は認知され証明された教科書によって行われ、一方では教師が教える教訓を暗記することであり、他方は実習教育であった(病人を往診したり、特に外科学の訓練を受ける。)
 “理論だけの訓練を受けて、実習の経験が無い者は、患者を持ったときに何をすべきか知らないで、戦場における若者と同じように愚かに行動する。他方、実務の教育だけで理論の教育を受けていない医師はより優れた人たちの尊敬を得ることができない。”内科医学と外科学の両方を同じようにマスターすべきである。”これらのうちの1つの分科の知識を持たない医師は片方の羽根を持たない鳥と同じ”だからである。勉強が完成した後で、医療を行う許可を王様から受けることになる。
 科学の熱意に満ちて、この医師は専門の兄弟たちと交わることによって知識を広げるように言われて、智慧の光から彼が隠れないようにする。彼の外観、患者および患者の友達にたいする彼の関係、謝礼、これらすべては最小の詳細なことまで調節される。狩猟家、鳥追い、カーストを破るもの、犯罪人、それとともに不治のもの、を治療してはいけない。倫理よりは医学的な深慮として、王様に冷遇されている者を診療しないように忠告する。医師についての国民の感じは次のようである。“病気のときに医師は父親であり、回復のときには友達であり、健康が戻ったら彼は保護者である。”
 不適当な行為は法律に従って罰せられる。良い医師たちは褒美として死んだ後にインドラ神の天国に入ることができる。
 医科学のセンターはガンジス川岸の聖なるベナレス市にある。ここはまたバラモン学を学ぶ場所でもある。
 次の見解は医学を勉強するものや、教師になるものに適した、学者に必要な特性として一般に言われていることである。“学者は速い舌、小さな唇、きちんとした歯、気高い外観、形の良い鼻と耳、生き生きとした精神、および優雅な挙動、を持っていなければならない。彼は痛みと疲労に打ち勝たなければならない。”“教師は聖なる本を、1段階づつ、1行づつ、はっきりと、しかし努力せずに、躊躇することなく、速すぎも遅すぎもせず、鼻を通して話すことなく、性急な様子を示すことなく、大声で読む。”などなど。入学式が終わると、新参者は、品が良く、節度があり、口ひげをつけ、真を語り、肉を食べず、すべてのことについて教師に従順であるように、と注意を受けた。彼は医師として、バラモン、教師、貧しい友達や近所の人たち、信心深い人たち、孤児たち、などなどに、無報酬でなければならない。
 日により、夕暮れ、雷や稲妻のとき、王が病気のとき、大きな祭りのとき、または自然の大激動のときに、学問は半分の注意を受けないで行われることはない。“学生はロバがサンダル・木材を荷なうようにその価値ではなく重さだけを知るのとは違って、授業を耳で受け取るだけではないように。”
 果物を切断し、広げた皮革や膀胱や袋に孔をあけ、毛が残っている広げた皮革を乱切し、死んだ動物の血管やハスの茎で静脈切断をし、虫が食った木材または管状のものをプローブ(探り針)を行い、木材につけたこぶで膿瘍を開き、厚い布を縫い、像に包帯をし、肉の上で焼灼する、などなど、を示して、学生の外科手術の実習を行う。
 実習に入る医師へ与えられる指示に次のことが云われる。“汝の髪の毛と爪は短く切り、身体は清潔にし、白い衣服を着て、足に靴を履き、杖を汝の手に持つ。””汝の外観を控え目にし、汝の魂を純粋にし策略をしないように。”患者の家に入るときに医師は良い衣服を着て、頭を下げ、考え深くあり、静かな行状で、外見をすべて考える。中に入るにあたって、言葉、考え、感じ、は患者の治療以外のことには向けない。家で起きていることについて何も話してはならないし、患者または他の誰にとっての偏見になりうる終わりに近づく最後についての情報を与えない。とくに女性と親しくなることは避けるべきであり、医師はゴシップを言ったり冗談を言ったりたぶん食物を除いては何かを受け取らないように警告する。
 医学の報酬は患者の地位によって異なり、時には非常に高かった。得られた最高の地位は宮廷医師の地位であった。
 戦争のときに軍隊には医師たちが伴う。
 インドの医学文献で最も有名な代表者はチャラカ(Caraka)スシュルタ(Susruta)ヴァグバタ(Vagbhata)の“古代トリオ”であった。これらの医師たちが生きているか、または彼らが業績をあげていた時代は、ほんの最近の研究によって決定された。これによるとチャラカはたぶんキリスト紀元の始まりに生きており、スシュルタはずっと離れた紀元5世紀の著者であった、ことが示されている。そしてヴァグバタについてはチャラカとスシュルタを引用した彼の真の業績は紀元7世紀より古いことはあり得ないと思われている。現在ある文献が原本の単なる後の版であるか、部分的に古代のものか、部分的にもっと最近のものかは、たぶん時が明らかにするであろう。しかし、チャラカとスシュルタが自分たちは古代のアユルヴェーダ(Ayurveda=生命の科学)の若い共同者に過ぎないと言い、バラモンに直接に霊感を受けたもので1000節からなり、それぞれ100詩節からなる医学の言い伝えの、時代および重要性は事実である。この業績の伝説的と思われる始まりは、疑いもなく歴史的な胚芽を含んでいて、長い年代にわたる産物である、2人の著者たちの知識の完全さと形および内容の類似性を説明するであろう。教育システムおよび用語が2人に共通なだけでなく、散文体と詩の交換も共通である。チャラカは記載が大きく詳細なのが特徴であり、スシュルタはこの材料をもっと厳格に取り扱い、外科学をもっと完全に考察している。
 この後のすべてのヒンドゥーの書物は古い先生たちの後を追っており、オリジナルな業績の解説書であることで満足し、これらを新しい経験で完全にし改良していて、理論的な基礎や古代の形態に少しも手を入れようとしていない。
 真に科学的な医学の進展を妨げた主な障害は、死体を取り扱うすべての職業を宗教が禁止したことであり、これによって解剖学の研究が不可能であった。
 疑いなく、この禁止は時々に外科学への興味によって乗り越えられた。解剖学を知っていることが必要だったからである。死体は7日のあいだ水の中に寝かせておき、ふやけた外側部分は樹皮によって擦りおとし、内部を調べる。このような方法では勿論、対象の真の知識を得て、少なくとも推論を得なければならない推論の分野を開くことができなかった。
 インド人の解剖学には記載が無く、あるのは身体の構成部分の単なる数かぞえと分類だけであった。5と7が主な役割をする数字の曲芸が特徴である。身体の膨大な数の部分が上の過程によって部分的に取り扱われる。
 身体は6枚の主な膜と56枚の小さな膜、6または7重の皮膚、5つの“感覚臓器”(手、足、腕、性器、舌)、5つの”触る臓器”、7つの空気、胆汁、粘液、血液、消化された食べ物、未消化の食べ物、と女性では胎児のための8番目があり、15の内臓、9の開口、10の生命の座....107の点で、これが傷つくと危険であったり致死的である、360の骨、210の関節、900の靭帯、500の筋肉......脈管と関係してデータは変化する。1つの場所で300の静脈が述べられ、臍から放射状に拡がり、他の場所では10の主な血管が心臓から飛び出すと考えられている。これらから区別されるのは24本の管(神経)であって臍から導かれ、その他に管があり、このうちの2本づつは息、尿、糞、精液、および月経血のためである。エジプト人たちと同じように、脈管、神経、すべての種類の腔は混同されている。解剖学を知らないことは像における骨と筋の定義の無いことを説明する。
 インド人の医学理論によると、空気、粘液、胆汁の3種の元素は、霊魂(soul)とは独立に身体を通って生気的過程を行うとみなされた。空気は動きの目的を果たして主として臍の下にある。暖かさを配布する胆汁は臍と心臓の間にある。内臓を活気づける粘液は心臓の上にある。3種の元素は7種の根元的な成分を存在せしめる。すなわち、乳糜、血液、肉、脂肪、骨、髄、精液、である。7種の根元的な成分は7種の不純物に相当する。乳糜は消化の産物から生成して、内部の火によって起き、心臓から24の経路を通って全身に流れ、5日毎に次々と他の6成分に変化する。このようにして1月かかる進展の過程によって、血液がまず作られた。血液から筋肉が作られ、筋肉から脂肪が作られ、脂肪から骨が作られ、骨から髄が作られ、そして髄から精液が作られた。すべての7種の成分からなる重要物質はデリケートで、油様で、白く、冷たい、物質であり、全身を通過してその機能を調節する。
 空気(風)は老年で、胆汁は中年で、粘液は子供で有力である。元素のあるものが優勢である同じような関係は、1日、夜中、消化の期間、の始まり、中間、終わり、を調節する。どの元素が優勢かどうかはまた性質および気分に影響する。それぞれの種類は認識された。たとえば空気の5つの形、粘液の5つ、5つの胆汁。多くの著者はギリシャのの体液学説と同じように血液は特に重要なので4番目の生気的元素とみなしたことは記録する必要がある。ここで、4つの生気的元素の教えは仏陀の教えにあることを述べる必要があるだろう。
 健康は基本的物質が正常の構成であり正常な量的な関係にあることの表現である。もしもこれら、および、基本的な構成に変化が起き、異常に増加したり減少したりすると病気が起きる。
 病気の分類において、大量の病気は記載されていて、基本的な物質と主要な成分についての教えが表現された。しかし完全なものではない。それは部分的には宗教的であり創造的であり、部分的には経験的なものが、分類の基礎としての原則的なものとして役割を演じているからである。たとえば、病原論(aetiology)的考察がある。(病気の自然の原因、たとえば生活や栄養の欠陥、気候や天候、精神的な障害、遺伝、毒、病気の大流行や超自然の影響、神または悪魔の怒り、そして“カルマ”、これはインドの輪廻の教義によると前世の誤りによるものである。)病気の場所によるものもある(内部、外部、局所、全身、身体、精神。)治癒性(治る、軽くなる、治らない。)しかし、基礎において傷つきやすい部分は、常に空気、粘液、胆汁、血液、または他の元素の1つおよび基本的物質の1つまたは幾つか、であり、数多い重いまたは軽い病気の形が作られる。
 スシュルタによると1,120の病気があり、チャラカによると無数である。後者は80の風の病気、40の胆汁病、および20の粘液病をあげている(しかし、数は完全なものではない。偶然または外的理由による病気があるから。)彼は主なグループである、自然、精神、および悪魔、の3つの病気、を区別した。
 スシュルタは病気を障害による“身体的”なもの、精神的障害によるもの、および”自然の病気”(老年、飢餓、生まれつきのによるも)に分けた。ヴァグバタは”自然”と精神的・悪魔的な病気に分け、前者では元素の不良は基本的であり、後者では2次的な原因である。影響を受けた特定の元素は症状から知ることができる。すでに述べたものに加えて、スシュルタは7つの分類に分けている。1.遺伝的。2.生まれつき。3.主要な元素によるもの。4.障害によるもの。5.天気の影響によるもの。6.悪魔の影響または伝染性の接触によるもの。7.飢え、老年、などによるもの。
 ある病気はカルマ(業=ごう)による。例えばバラモンを殺すと貧血、姦通者は淋病、放火者は丹毒、スパイは目を失い、象皮病は貞淑でないものがなる。このような患者は罪滅ぼしの儀式と贖罪を行う。重い病気が軽い原因で起きたときには、カルマと病体の体液の関係を調べる必要がある。
 医学の視点からすると、この神秘主義から、通常の病原論はしばしば病気の説明に失敗をするという認識が、引き出されるであろう。疫病は干ばつ、洪水、星の影響、噴火、または神の罰、によって始まると考えられた。
 病気の診断は科学教条主義(ドグマティズム)の領域内に限られたものではあったが、注意深く集められていた感覚の事実の上に基礎を置いていた。
 インドの医師は視診、触診、および聴診、だけでなく、味覚および臭覚さえも医学へのサービスに押し込んだ。目でもって体重の増加および減少、皮膚、舌、排泄物、の状態、腫脹の形と大きさ、を感じた。耳でもって声の変化、呼吸の音、関節の雑音、折れた骨のパリパリ音、腸のゴロゴロ音、に注意を払った。触覚によって、温度、滑らかさと粗さ、皮膚の硬さと柔らかさ、を感じた。味は尿の状態について情報を与え(糖尿病のときの甘さ)、臭いは呼気の性質を与えた。
 すべてこれらの検査方法は、家族歴、習慣、病気の経過、患者の主観による症状、を注意深く尋ねて得た既往歴(アナムネーシス)を援助した。
 後の著作では、診断はもっと微妙になるとともにもっと教条主義的(ドグマティック)になった。たとえば、眼、舌および尿の状態から病原論および病気の座についての広範で憶測的な結果が引き出された。多分、外国の影響であろうが、もっと最近のインド医学において脈の検査に大きな重点が置かれた。脈は女性では左手、男性では右手で触れられた。医師は右手の中央の3本指を動脈の上に置き、圧縮性、速さ、リズムおよび容量に注意した。空気によって起きる病気は遅い脈を示す。ヘビまたはヒルのように。カエル、カラスまたはウズラのように跳び上がる脈は胆汁が有力なことを示す。クジャク、ハクチョウ、またはハトのように、指にゆっくりと出会うものは、粘液を指し示す。
 特徴的な脈は大部分の病気において記載されている。
 予後(プログノーシス=病気の経過の見通し)は最も完全に発展していて、このことは予知が祭司的カルトと医学的な見通しのあいだに関連が存在していることを、歴史上で反論の余地なく証明している。このようにインド人のプログノーシスは、一方では素晴らしい知覚と観察力を示しているとともに、他方では原始的な迷信の多い事実を文字どおり豊富に示している。
 この関連において、彼らの夢への信仰および、前に患者を往診したときの純粋に偶然な出来事の不吉な影響が、示されるであろう。
 医学政策は病気の一般的経過の想定および病気が治るかなおらないかについて早く明らかにして、治らないときには治療を控えるように要求し、また患者の性質と関連して、治療が善いが悪いかを明らかにするように要求した。(例えば大胆な方法で唯一の成功する方法の場合は、為政者、老人、子供、女性、には不適当である。大欲、貧乏、または無知によって医師の指示に従わなかったら、医師の活動は役に立たず、治癒は不可能になる。)
 治療を行う前に最も重要なことは患者の生気(ヴァイタル・パウワー)についての情報を得ることである。長寿はある種のサイン、たとえば手、足、歯、額、耳、肩、乳首の大きなこと、深くにある臍、その他である。短い指、長い性器は、短命なことを示すと考えられた。
 インドの著作者たちは死の前兆および予後の症状を詳細に書いている。一般的およびそれぞれ特定な不平の両方である。患者の事故的な出来事または精神的た変化は、この点において意味があると見做され、例えば、妄想、意識混濁、不眠、または熟睡、麻酔または突然の麻痺、突然の体温低下、発汗、静脈が目立つ、呼吸困難、運動困難、舌の乾燥、など。
 医者を呼びに来た使者が清潔で白衣を着ていて、患者と同じカーストであり、オウシが曳いた馬車に乗っていたら良い前兆と考えられた。もしも使者が高いカーストであったり去勢男子だったり女性だったり、彼自身が病気だったり、悲しかったり、怖れていたり、走ったり、汚い服を着たり、ロバまたは水牛に乗ったり、真夜中または真昼間に来たり、月食の時だったり、医師が眠っているときに来たり、裸で地面に寝たりしたときに来たり、などなど、は悪い前兆であった。良い前兆は、道で偶然に少女、授乳している女性、2人のバラモン、走っているウマ、に出会うことである。悪いのはヘビ、油、敵、1つ目の男、など、であった。
 個々の病気における予後の例は次の通りである。糖尿病は危険な潰瘍を伴っていると致死的とみなされた。“痔”は、口、足、睾丸、臍、肛門、に腫脹があり、血液喪失が多く、脱水状態、食欲不振、仙痛、熱、が起きたら、致死的と考えられた。
 予後が悪い危険な病気は、腹水、ハンセン氏病、淋病、痔、瘻管、子供の異常症、結石症および破傷風、である。
 病気の治療で、衛生と食養生は少なくとも薬品およびもっと厳しい治療的な方法と同じように重要であった。
 生命の全コースを社会的および衛生的な規則によって最小の詳細に至るまで命令を出している宗教の影響のもとでは、インド人が健康の実行における個人の清潔を他のすべての国民より熱心であり、適当な食べ物についてよく考えているのは当然である。宗教と医学は衛生に関して、方針の一致に見られるように、完全に同意している。例外は宗教で禁止されている肉とアルコールの消費について、医学の著者たちはそうでないことである。
 指示は次の通りである。
 a.毎日の入浴、排便の習慣、苦く収斂性の味のある枝をある種の木から新しく取って歯を磨き、舌を削り、口を注ぎ、顔を洗い、軟膏を眼につけ、身体に香油を塗り、頭、耳、足の踵に油をつけ、口を(キンマ葉、樟脳、カルダモン、その他の葉で)世話をし、髪の毛、ひげ、爪を世話する。(爪は5日ごとに切る。)
 b.食事と食栄養。1日に2回の食事を午前9時から12時のあいだ、と午後7時と10時のあいだ。前もって食欲増進に塩と生姜、食養生の材料についての指示、食事のときに座ること、皿を出す順序、食事のときの適当な飲料(食事の始めの水は消化を遅らせて希釈し、食事の後の豊富な飲み物は実質的にする)、食後の口の注意深い世話、短い散歩。最も重要な食品は、種々の穀物、特に米、果物、野菜、木の実、生姜、ニンニク、塩、水(雨水が最良)、乳、油、バター、蜂蜜、サトウキビ。肉のうちで最良なのは猟の動物で鳥や野牛。それほどでないのはブタ、ウシ、魚。食べ物の量は消化能力によって調節される。
 c.運動と休養、マッサージ、水浴および衣服、ギムナジウム、睡眠(日中は激しい運動の後。夜間は日の出の1時間前まで)。温浴と冷浴(ガンジー川が最も聖)、毎日の浴(食後は有害と思われる、寒気、冷たい熱、下痢、眼または耳の病気では有害)、温浴または温水で洗うのは下半身のみに良い、上半身には有害、海水および医用泉。衣服は清潔でなければならない、汚い衣服は皮膚病を起こす。杖を持ち、帽子と靴を身につけるのが望ましい。勲章、飾り、宝石を身につけるのは望ましい。生気を強め悪い魂を避けるからである。
 d.性交の調節(その後で乳を飲むべきである。)月の8日、14日、15日、および朝は記事られる。
 e.予防方法。吐剤を週に1度使い、下剤は月に1度使い、1年に1度静脈切開をする。食栄養調節は当然のこと季節により異なり、気候条件に少なからぬ注意を払う。
 栄養と消化の目的を持った調節は常にもっと直接的な治療法に先立つべきである。このうち特に食物摂取および食物を取り除くことは、少なくない役割を持つ。外用(浴、軟膏塗布、硬膏、湿布、燻蒸、吸入、うがい、くしゃみを起こさせる、浣腸、座薬、尿道および膣への注入、瀉血、など)は非常によく行われている。“5つの処理”の名前で最も重要な方法、すなわち、吐剤、下剤、浣腸、油浣腸、およびくしゃみ剤、があり、これを使う前に脂肪処理および発汗剤が使われる。療法の適用は数が多く詳細に記載されている。
 嘔吐を助けるために召使が頭と脇を支えているあいだに患者はトウゴマ(ヒマ)の枝を咽喉に押し込む。嘔吐したものを調べるのが医師の役割であった。
 浣腸をするための装置は浣腸袋(動物の膀胱または皮革で作った袋)と先の尖った金属、角または象牙の管を使う。これを使うときに事故がしばしば起きる。
 頭や咽喉の病気に特に適すると思われる点鼻薬は頭をはっきりさせるときや強くすときに使った。薬または医療オイルを鼻穴にいれたり、1滴ずつ鼻で吸った。
 脂肪や油は単独または追加によって外用または内用した。クシャミはメウシの糞または砂を布の中または蒸気浴で熱したものを用いた。(樽、熱い部屋で、孔の開いたストーヴで、熱した石板に寝かしたり、薬および赤熱した石の入ったジャーを患者のベッドの下に埋める。管の一方を蒸気鍋に入れ他方を患部の近くに置く。など)
 吸入のために次の方法が使われた。薬を粉にしペースト状に練り中空の茎の周りに広げる。ペーストが乾くと茎を引き抜き、結果として得たペーストの管は金属または木材または象牙の管に入れ、一方の端で立てて他方を鼻または口の前に置く。
 瀉血にはヒル、カッピング、乱切、または静脈切開を行った。ヒルの保存および使用の指示の詳細が与えられている。カッピングにはメウシの角が使われていて、先端に一片の布が結べつけられていた。または空のフラスコ形のヒョウタンがつけられ、中に燃えているランプの芯が入れられた。静脈切開はランセットで行い、非常に用心深い適用および反適用、ならびに切開部位を触れる方法が書かれていた。(病気の部分により、額、鼻、眼の過度、耳、胸、その他。)患者は前もって油を塗ってあり、手術のあいだに召使は頸のまわりに巻いた布で患者を支えた。
 薬局方はインド大陸の実り多い性質に対応して豊かであり、全く特有な性質のスタンプをインド医学に押し、その独創性を雄弁に語っているのは多くの薬用植物のうちで1つもヨーロッパのものが無いことである。治療物質のうちの大部分は植物起原である。チャラカは500の植物を知っており、スシュルタは760の治療植物を知っていた(根、木の皮。汁、樹脂、茎、果物、花、灰、油、棘、葉、その他、が使われた。)しかし、少なくとも少なくない数の動物物質、およびもっと驚くことに鉱物質も使われた。インド人は全くしょきに鉱物性薬品を外用だけでなく内用に使用し、大きく能率をあげたのは鉱物性薬品であった。
 インドから多くの薬用植物が西洋に来た。たとえば、カンショウ(甘松)、シナモン、コショウ、ゴマ、カルダモン、ショ糖、など。動物物質では、血液(強壮剤として)、胆汁、ミルク(ヒト、メウシ、ゾウ、ラクダ、メヒツジ、メウマ)、バター(好まれた構成物)、乳清、蜂蜜、脂肪、骨髄、肉、皮膚、精液、骨(ヤギの骨を膏薬に)、歯、腱、角、鈎爪、爪(マラリアに対する燻蒸)、髪(皮膚傷のために燃やす)、胆石(オウシの)、尿(メウシの)、糞(メウシの糞は炎症に、ゾウの糞はハンセン病に)。評判が高かったのは鉱物質であった。(金属、そのうちで金、硫酸銅、硫酸鉄、酸化鉛、硫酸鉛、酸化鉛、硫黄、亜ヒ酸、硼砂、ミョウバン、炭酸カリウム、食塩、塩化アンモン、貴石、など)。鉱物物質を作るには驚くべき化学能力が必要であった。金は叩いて金箔にし、7回熱して種々の液体をかける。酸化すると強壮剤、媚薬、生命の特効薬として推奨された。他の金属も同様に処理された。
 水銀については、古い文献に何回か述べられていただけであり、マホメッド時代の前には治療に使うのに必要な冶金過程が知られていなかった。しかし後になり、最も人気の高い治療法になった(皮膚病、熱病、神経または肺の病気、梅毒または生命を伸ばすため)。“金属の王”となり、ことわざに言われた。”根やハーブの治療力を理解している医師は人間である。水と火を理解しているのはデモンである。祈りの能力を理解しているのは預言者である。水銀の能力を理解しているのは神である。”インド人が化学技術の領域でもっと行うことができるようになると薬剤の交易は盛んになり、数が多くなった。植物をふやかしてジュースを抽出することが知られ、抽出、煎じ、蜜を混ぜ(材料を沸騰させ、油、バター、蜜、などと一緒に濃縮し)、混合物、シロップ、錠剤、ペースト、座薬、粉薬、ドロップ、目薬、膏薬、燻蒸薬、などである。
 これらの薬の量は自然の重さ(トウアズキの実)によって計った。
 大部分の処方は高度に複雑であり、「融けたバターのアンブロシア(ギリシャ神話の食物)」や「アシュヴィン双神のレモン錠剤」、のような名前で飾られていた。
 医師たちは医薬品を自分で探すことが期待され、羊飼い、隠者、狩猟者、に助言を求めることになっていた。彼らはある種の旅行用または自家用の薬品カバンを携えていた。スシュルタは植物を採取する季節と方法、および煙、雨、風、湿気から防ぐことができる医薬品を調製する場所、の指示を与えている。
 薬剤はそれが有効な病気により、作用によって分類された(たとえば吐剤、下剤、緩下剤、鎮静剤、強壮剤、媚薬、その他)
 このようにしてキャラカは50グループを持っていた。サブディヴィジョンの他の根拠は元素構成、味(甘み、酸味、塩味、シャープ、苦味、収斂性)、変化し易さ(消化過程における)、性質、加熱または冷却、柔らかさ、乾き易さ、洗浄性、滑らかにする、などである。
 化粧品(特に髪の染料)、生命の妙薬(力および個人の美しさを増やす)、催淫剤、毒薬と解毒剤(一般的な解毒剤も)、が重要な位置を占める事実によって、インド文明に明るい光が投げかけられるようになった。
 子供が居ないことは最大の不幸のひとつと考え、インポテンツは遺産を失う原因になる土地では、催淫剤は食養生および示唆的方法(歌、音楽、花)に加えて、当然のことに大きく要求された。文献にはそれらについてしばしば述べられた。ゴマ、豆、砂糖からなっているものについてスシュルタは次のように言っている。“Vir hac pulte comesa centum mulieres inire potest.”もっと重要な場所は毒物および解毒剤で占められていた。毒殺の頻度について医師は正確に知っているべきであった。インド人医師はヘビに噛まれたときの治療で有名だったことは疑いもない。特に宮廷医師は王を毒殺から守るのが任務であり、そのために調理場の監視が彼の任務であった。動物実験(例えば種々の鳥、サル、ハエ、などで)料理が有毒か無害かを決める。毒殺者は話し方や態度で知ることができた。
 文献には植物や鉱物や動物(ヘビ、トラ、サル、狂犬、ネズミ、マウス、魚、トカゲ、ムカデ、ハエ、クモ、など)に噛まれたときの中毒症状の詳細が含まれている。中毒の、軽い、または重い病例および段階にもまた。注意が払われ、治療において、合理的な方法も行われたが、魔術、祈り、および音楽(例えば、冷水、くしゃみ、カッピング、放血、四肢の傷の上部の緊縮、膀胱で防衛した唇で傷を吸うこと、摘出、焼灼)。よく使われた抗毒剤は、nymphaea odorata, brassica latifolia, aconitum ferox、であった。それとともに、特殊な複合剤としては5種類の塩の混合物、長コショウ、黒コショウ、ショウガ、蜂蜜、が内用または嗅ぎ薬として使われた。
 彼女と性交をすると生命を失うインドの“毒女性”の本性は知られていない。
 経験主義が集めた数多い薬剤は多剤投与にますます使われるようになった。数多くの独立の病気の存在が信じられていたからである。たとえば、26種類の熱病が記載されていた。(このうちで7種は1つの(体液の?)擾乱により、13は基本的体液の幾つかの擾乱により、1つは他の障害または外的な原因により、5つはマラリア熱のカテゴリーに属し、)腹部膨張は13種類、20のムシ病、20種の尿の病気による。最終的なものは糖尿病であった。これはインド人によって最初に記載されたもので、甘い尿にハエがたかっているのを彼らは気がついた。4種類の有痛排尿。8種類の黄疸。貧血(鉄剤で治療した)。咳、喘息、くしゃみ、のそれぞれ5種類。18種類の“ハンセン氏病”(この名前のもとに広範囲の皮膚病が含まれていた)。6種類の膿瘍、4−7種類のインポテンツ。5種類の肛門瘻管。15種類の潰瘍。76の眼病。28の耳の病気。65の口腔病。鼻の31病。18種類の咽頭病。その他に多数の精神病。
 ここで心に置かなければならないのは、それぞれの、いわゆる病気は曖昧な症状群そのものであり、想定した型より少しでも違うと数多くの新しいカテゴリーに分割されて再出現する。しかし、名前をつけらられた多くの病気のうちには、素晴らしく注意して観察された病原論および症状学に加え、押し付けがましさ(doctrinaire)を始まりとする基本原則に加えて、所々に解剖学的な考察が存在する。
 例えば、ある種の腹部腫脹は“脾臓−腹”と呼ばれる。大きくなり脾臓が下方に垂れるからである。(”これは石のように固く、カメの背のように丸く、腹の左側を満たす。”)右側にある同様な症状は”肝臓-腫脹”と記載される。
 このように局所化した病理学的な概念の自然な結果は局所化した処理方法であった。
 観察の正確さは、大便および尿のいろいろな構成、眩暈、皮膚病、性疾患、卒中、テンカン、偏頭痛、テタヌス、リューマチ、精神異常、その他、の記載に示される。コレラには吐剤、身体を温め、焼灼、が処方され、続いて、収斂剤とアギ、またはアヘンに白ペッパーが与えられる。天然痘は疑いもなくスシュルタにより示されたが、後になって正確に記載された。天然痘の女神の宗派および“天然痘姉妹”も後になってからのものである。古い文献には天然痘接種が行われていた記載は無い。
 熱病は最も重要な最初の現象のレベルに置かれ最も種々な原因が追求された。最初に患者は厳しい食事(希薄粥、温かい水)か、または絶食を指示される。特に怖れられたのは総ての3元素に擾乱のある熱病であり、7日目、10日目、12日目に危険であり、終わるかまたは死の原因になる。
 マラリアの種々な形として、毎日熱は筋肉、3日熱は脂肪、4日熱は骨髄と骨が関係すると考えられていた。身体の7つの構成分は多くの種々な熱と関連した。精液における熱は致死的である。
 他の病気と同じように熱においても、ある症状が強いかどうかによって、いろいろな段階(未熟、熟しつつある、熟している)が認められる。
 “ムシ”の題のもとに、線虫としばしば条虫が含まれる。しかし、多くの場合、病気の原因と見られ想像された。インド人はバビロニア人やエジプト人と同じように”ムシ”を多くの病気の原因と考え、眼、歯、耳、頭、心臓、その他にムシのいることを信じていた。めまいで苦しみ、6つの症状、すなわち、咳、下痢、側痛、しわがれ声、食欲不振、熱、にかかった患者、または熱、咳、出血、の3症状の患者を、有名になりたいいかなる医師も、治療してはいけない。
 “ハンセン氏病”は他の原因のあいだで、魚とミルクをしばしば消費することによる。
 16世紀以降のインド人著作で、梅毒は“フランク人の病気”といつも記載され、外部、内部、混合の3種類が記載された。治療は水銀により、粉とともに錠剤として内用、燻蒸により、塗擦により、――そうしてサルサ根飲料を使った。
 精神異常者の治療は、一部は肉体的に、一部は心理的に行った。患者に楽しい話をして元気づけをすることもあるが、多くな場合には野蛮な方法が行われた。(飢餓、火傷、ムチ打ち、暗い部屋に監禁、ヘビ、ライオン、ゾウで驚かす、死で脅かす、など)。精神異常のもっと厳しい型は取り憑かれたものされ、患者の行動によっては数多いデモンが掴まえたと結論した。
 外科学はインド医学の達した最高峰であり、最終の避難場所(ultimum refugiens)とみなされるが、優れた技術が必要であり、本質的に空論から離れている。一般に介護と清潔さで既に優れていたインド医師は外科学において特に価値が高く、多くの分野で長いあいだ他の国民の及ぶところではなかった。
 外科手術は8カテゴリーになる。すなわち、摘出(腫瘍、異物)、切開(膿瘍)、乱切(咽喉の炎症)、穿孔(水瘤、腹水)、探り針(瘻管)、抽出(異物)、搾る(膿瘍)、縫う(亜麻、麻、腱、髪の毛の繊維、)。
 スシュルタによると手術道具は101の鈍器と20の鋭い器具からなる。前者には種々のやっとこ、ピンセット、フック、チューブ、ゾンデ、カテーテル、ブージー、その他、および種々の付属器具、たとえば、マグネット(異物を取り出すため)、カッピング・ホーン、浣腸袋、など。“しかし、もっとも重要な助けは手である。これが無かったらどんな手術も行うことができない、からである。”鋭い器具には、ナイフ、メス、ランセット、ノコギリ、ハサミ、トロカール、など。
 器具は鋼鉄で作られていて、これを作るのをインド人は非常に昔から知っていて、これらを木の箱に入れていた。
 焼灼(特にカリウム使用)および燃焼(種々な形の実際の焼灼器および沸騰液)は切断よりも好まれた。“燃焼は焼灼よりも有効である。医薬品、装置と焼灼物質によって治らない病気を治すからであり、燃焼によって治療した病気は元に戻らないからである。”脾臓肥大は脾臓の実質に赤熱した針を差し込む。
 包帯として14種類があり、構造によって名前がついていた。使う材料は、木綿、羊毛、絹、リネンであった。副木は木の皮、竹、その他の木片で作られた。
 止血はハーブ、冷処理、圧迫、熱オイルで行われた。ある種の傷は縫合した(頭、顔、気管)。手術は幸先の良い星座のとき行われ、宗教的儀式により始まり、終了した。外科医は西に向かい、患者は東を向かなければならなかっと。麻酔は酩酊によって行った。
 外科治療は大胆な手術、正確な診断、および特に思慮深い後処理、の豊富な経験に基いていた。骨折の治療(徴候のうちでパリパリ音に気づいていた)、脱臼、腫瘍(摘出)、瘻管(切断または焼灼)、異物の除去(15の方法)、水腫のときの穿刺、など、すべて合理的な思考および堅実な知識を基礎にしていた。しかし、インド外科医の行為のうちでもっとも驚くべきことは、開腹術、結石切断術、および形成外科の領域である。
 腸管の縫合は次のように記載された。手術を行うのに外科医は腸管の傷ついた部分を清潔にしてクロアリに噛み付かせる。次にアリの身体を取り除き、頭を埋め込んだままにする。(原始医学の章を参考にせよ。)
 膀胱結石は側面切開によって除く。“結石は臍の下に置き、医師は爪をよく切った左手の人さし指と中指を患者の直腸に結石を感ずるまで差し込む。彼はそれ(結石)を肛門と尿道のあいだに持ってきて、それが結節のように飛び出すまで押す。次いでナイフで左側を小麦の種の幅ほど切開し、結石の大きさによっては右側を切開する。”
 形成外科への主な機会は、鼻や耳を切り落とすのが法の罰則として流行していた事実に関係する。スシュルタが形成外科について書いていることによると、”誰かの鼻が切り落とされたら、外科医は同じサイズの葉を木からとり、頬の上に置いて一片の皮膚および同じ大きさの筋肉を切り取り、頬を針と糸で縫い、鼻の切り株を乱切し、頬の切片を早くしかも注意深くその上につけ、適当な包帯をし、新しい鼻を縫うことにより固定する。彼は注意深く2本のチューブを注意深く差し込んで呼吸が容易になるようにし、持ち上がってきたら、彼は油を撒いて、綿を注意深く置いてしばしばゴマ油を撒いて、上に赤いビャクダンその他の止血性の粉を散らす。
 眼科手術について、治療はここでもやはりかなり現実的であった。水晶体は視力の座(部位)とみなされたが、白内障の手術についてのスシュルタの記載は透明性の事柄への要求を多く残している。
 産科学手技のうちで死後の帝王切開および胎児切断が行われた。複合の胎児回転は知られていなかった。妊婦の食養生についての方針、妊婦および新生児の養生、は記録する必要がある。
 胎児についての考えは精液と月経血の産物であり、両者ともに乳糜に起源するとしている。3月目に脚、腕、および頭の、身体の種々の部分の分化、が始まる。4月目に身体の諸部分および心臓のはっきりとした発展が続く。5月見に筋肉および血液が加わる。6月目に毛髪、爪、骨、腱、静脈、が発展し、7つき目に胎児は生存に必要なすべての物を持つようになる。8月目に生活力(vital force)が母親から子供に引き入れられる。この行ったり来たりの動きがあるので、この月に生まれた子供は生存できない。身体の硬い部分は父親からであり、柔らかい部分は母親からのものである。栄養物は乳糜を母親から胎児に導く脈管によって運ばれる。妊娠のあいだに胎児は子宮を占領し、母親の背中に向かい、頭は上に向かい、手は前頭部を越えて組み合わせ、男性だったら母親の右側に横になり、もしも女性だったら左側にいる。産まれる前に回転が起きる。
 子宮は魚の口の形をしている
 妊娠に最も望ましい時期は月経が始まってから12夜の後である。子供の性別は精液および月経血の優勢に依存し、後者の強さは奇数日に増加するので、妊娠が月経の後の偶数日なら子供は男性で、奇数日の後なら女性である。平均として10月の妊娠期間に注意深い食栄養が指示され、恐怖は特に避けることになっていた。9つき目に妊婦は宗教的な儀式を行って設備の整った出産の家に行くことになっていた。出産を促進するために種々な宗教的および暗示的な仕事があるときには、4人の女性が出産を助けた。胎盤の排出の遅れは外的な圧力、揺さぶり、吐剤、によって克服するようにした。産婦は10日目に起き上がるが、6習慣は厳しい食養生を守らなければならなかった。子供は3日目に母乳を与えられる。(それまでは蜜とバターを与えられる。)もしも看護婦(乳母)が母親の代わりをするならば、医師はまず最初に彼女を注意深く検査し、最も実際的な食養生の規則を順守させる。授乳の注意(例えば、栄養、横たわること、座ること、眠ること、遊ぶこと、)は極めて詳細に決められ、特に子供に危険なデモンの悪魔祓いが主な習慣である。乳離れは6月目に起き、米を与えることが始まる。
 難産の処理は他の医学のように高度のものではなく、ここでも魔術的過程が役割を果たしていた。狭骨盤(contracted pelvis)は知られて居らず、逆子も同様であった。足および臀部の不完全状態では他の足を引き出していた。婦人科学は同様に不完全であった。
 インド医学は経験的知識および技術的行為の堂々たる財産を持っていた。それは体系的・理論的思想の学派の高さに達していたが、真の科学を追求するのに必須である個人の働きの自由を欠いていた。偏見のない判断および批判の可能性を欠いており、尊敬する理論であってさえも短いあいだそこに留まることをしない。進化過程を短くし学問的硬直に導くする運命は、変わった抑圧的な文化的条件に根源を持っている。この中世において新しい時代の曙は起きていなかった。長い沈黙の過去におけると同様に、今日でもインド医学の殿堂は常に流れている進化の流れから孤立し離れていて変化していない。彼らの数学、寓話や話、哲学的および宗教的な思考、の場合と同じように彼らの医学は商業の経路に沿って東に西に道を見つけた。
 いつでもよく見られるわけではないが、インド医学とそれより幸福な姉妹であるギリシャの関係を見ることができる。アラビア人の仲介によって、インド人の発見の多くは西に運ばれ、アジアは仏教の進展に左右されてインド人の影響を受け、多かれ少なかれインドの医学知識のお蔭を蒙っている。
 ギリシャ医学がインドのいろいろな薬品および方法を使ったことは文献に書かれている。2つの文明はアレキサンダーの進軍によって最初に緊密な関係になり、ディアドコイ(アレキサンダーの後継者)の治世およびローマ、ビザンチン時代に切れずに続いた。アレキサンドリア、シリア、ペルシャは相互連絡の主な中心であった。インド医師、治療の手技や方法はグレコ・ローマンおよびビザンチンの著作者たちによってしばしば述べられ、インドの地方病であってそれまで知られていなかった多くの病気も述べられた。アッバース朝カリフたち(イスラムの初期元首)の治世下になってもインド医師はペルシャで有名であり、インド医学はアラビア医学に接木され、この効果はアラビアがインドを征服しても増加することはなかった。インドの影響はアラビア医学の見せかけをして西洋で新しいものに感じられた。15世紀にシチリアで起きた見かけ上は独立な鼻美容外科はそれ以前の長期にわたるインド・アラビアの影響を示している。19世紀の美容外科はインドの例によって促進された。最初の例はインドからのニュースであり、煉瓦工のカーストの1人の男が額の皮膚をとって、自然の鼻の代わりにした。
 インドは催眠術の普及に少なくとも間接的に貢献していると言えるであろう。示唆の経験的な実行は他所よりも発達しているからである。ほんの1つの事実をあげると、カルカッタでイギリスの外科医は催眠術を麻酔に使って事故無しに数多くの手術を行った。
 病人の介護は仏教徒を経て強力な勢いを得た。仏教徒は科学的よりむしろ人道的な衝動から治療技術を推進し、インドの方法を宗教的プロパガンダの旗のもとに外国に広めた(病院および医療および薬品製造のための組織)。
 最古の植民地はセイロン島であった。最も顕著な影響はチベット医学にたいするものであり、インドネシア諸島(ジャバ)にたいしても同様であり、さらにインド亜大陸(カンボジア、ビルマ)および中国ですら影響を受けないことはなかった。
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中国人および日本人の医学
 中国医学は記録されている外部のどんな影響とも無関係に何千年も前と同じイメージを今日でも示している。これは時の化石化の稀な例である。中国医学は現在における進歩発展の流れと離れていて古代医学の主要な特徴に対応していて、中国医学の現実の観察によって、我々が古代オリエント医学を構成するにあたって起きる隙間を満たすことができる。
 国民性と調和して発展し独特な地理的および歴史的な条件から生まれた特有な文明は、中国の知識生活のすべての他の部門に見られるのと同じ特性を中国医学に与えている。これらは盲目的な高慢さに伴う特権性であり、権威および過去への誇張された畏敬の不合理な信仰、子供っぽい学者ぶりおよび微妙な形式主義であり、必然的な結果として知性の沈滞に導く。これらは最大の知的な不毛性と風変わりな空想の不可思議な融合と関係し、実際的な観察および明白な洞察と高度の抽象化を正しく理解できないことの不可思議な融合と関係している。
 国民として中国人はメソポタミア、エジプト、アーリアン(インド)およびこれらに基礎を置いたヨーロッパの人たちが持っていた利点を全く持たなかったことを斟酌すると、彼らの文明は非常な注目に値する。この利点とは、絶えることのない国際交通、新しいアイディアと多くの方面における分化による、絶えることのない刺激と洗練、のことである。道徳および文明の始まりは、もしも中国人がアーリアンおよびシュメル人と同じ先祖を持つという仮説が正しいとすると、疑いもなく先史時代に西からの中国人が持ってきたに違いない。一度、非常に大きな帝国に落ち着くと、中国人は西アジアの当時の文明から孤立し低い発展段階にあり中国人と歴史が混和した諸国民とだけ付き合っていた。
 医学の文献は著しく豊富であった。一連の先駆的な仕事は彼らが主張しているほどでは無いにしても疑いもなく古代のものである。非常に大きな勤勉さと細かい明敏さは大部分の医学文献の特徴であるが、独創性は10世紀までにしか見られない。この時期以降になると著者たちは批判的編集者および注釈者として満足している。大量の著作は医学一般を取り扱い、序論として歴史的展望を記し、大部分のスペースにおいて、一部は種々の病気における脈の状態、他の部分は治療法を取り扱っている。これらの他に特殊な著作があり、たとえば脈について、または一定の病気グループについて、書かれている(婦人について、子供について、など)。
 主題に軽いタッチを与えるために一部の著者はそれを詩の形で書いている。
 中国人が建てた医学学習の神聖な組織は、厳しく自己充足的な閉鎖系の一例であって、経験的な学識を、すべての内的矛盾が存在しない硬い思考方法が普及している調和的な全体に結合させている。
 形式主義の驚異であり、真の科学のカリカチュアである。学識は内容の客観的な真理ではなく、前提の起原を支配的宇宙論に持っていて、このようにして総ての批判の向こうにあり、長く続く評価が保証され、疑いの無い原理の意義すらを持っている。西洋の概念の光では、この科学的ロマンスの花は急速に萎れ、偏見の無い歴史的解析ですら、その色の多くが失われることが怖れられる。
 このスキームの主な考えは、素晴らしく雄大な中国の自然哲学から引き出されたものであり、これは何世紀にもわたり、この国民の全知的な生活を結びつけ、経験的な研究を奴隷的に、無効な王位につかせられた推察体系を歩かせる。力を持つ人体は最小の詳細に至るまで宇宙における自然現象の反射であり、マクロコスモスとミクロコスモスのあいだ、身体そのものの種々の成分のあいだ、に数多くの類似が存在し、それらの相互作用は交差的および逆の影響を持っていることを、説明するという発言に要約できるであろう。この考えの隷属のもと、およびこれらの類似の発見は正常および病的状態の生命過程の理解を更に進めるという確信のもとで、すべての例において医学思想家はこれらの神秘的関連の推察的研究において努力する価値がある終着点のみを見ていて、経験主義は可能な限りにおいてこれらの不毛な学理を支持する仕事に落ち込んで、これらを正しくすることはなかった。
 このような条件では、発展に自由で偏見のない研究を必要とするこの特殊な科学の分野、すなわち解剖学が進歩することは何よりも不可能である。人体解剖が宗教の観点で禁じられていたことは別として、その各ステップが推察的偏見によってがんじがらめになっていたら、解剖学は栄えることができるだろうか? 解剖学は矯正方法ではなく仮定的な前提の支柱に過ぎないものであり、カリカチュアに過ぎない。このようなことは実際のところ、人体構造についての中国教育であり、偶然にも入手した幾らかの顕著な事実を含むに過ぎない走馬灯である。
 宗教的な信念によると、手足を切断して死の領域に入るものは誰でも先祖と再開することはできない。従って手術で取り除いた身体の一部でも死後に墓に収める。死後の病理解剖は信心深さと矛盾し死体を傷つけることになり、生きているものにとっても不適当である。稀な場合に罪人の死体解剖は例外として許された。このような古代の稀な宗教的禁止の違反、または処刑された罪人または激しい傷害の観察は、臓器の形や部位についての表面的な知識の源だったであろう。骨学は死者の残りの部分が注意深く保存されるので、有利だったであろう。比較のために動物の解剖を行うことはなかったようである。
 中国人の解剖学の記述は彼らの大げさな用語によって、しばしば解釈が困難である。医学の実際の目的だけなので、彼らは主として臓器および循環系を問題にした。書類に伴っている解剖図は、もしもぶざまなデザインによって自然にたいする虚偽でなかったとしたら、役に立ったであろう。
 中国人は腕、脚、骨盤、をすべてそれぞれが1つの骨と数えて描いている。筋肉、や神経系についても、感覚器についても、正確な知識は無かったようである。脳について頭蓋の中でほんの小さな部分を占めているとの驚くべき記載が為されている。脊髄は睾丸で終わっていると考えられていた。心臓には喉頭が開いているとされ、スイレンに比較していた。心臓には7つの開口部があり、3つの部分からなるとされていた。肺は脊椎3番目にあって、8つの肺葉からなり、80の小さな孔がある。肝臓には7つの葉があり9番目脊椎にある。胆嚢は酒袋のようなものである。脾臓は11番目脊椎にある。小腸および大腸には16の回転がある。ソラマメの形をした腎臓は14番目脊椎に頼っている。上記の臓器の他に、胃および尿道がついた膀胱を加えなければならず、中国の解剖学には中空の臓器が認められ、3つの部分に分かれ、これが無いと臓器はそれらの機能を果たすことができない。これはSantsiaoとして知られ、腹膜または胸膜のことであろう。脈管の経路は全く空想的であった。
 ピエール・ディオニスの解剖学をジェスイット僧のP・ペレニンに訳させて西洋の解剖学を導入する康煕帝(1662-1723)の試みは、中国人医師たちの反対によって挫折した。19世紀以後になりヨーロッパの解剖図の複製が中国で行われたが、支配的な見解に何らの深い印象を与えることはできなかった。
 発生学については次に述べる信念が一般的であった。1月目に胎児は水滴のようである。2月目はモモの葉。3月目に性が分化する。4月目に胎児は人の形になる。5月目に骨と関節が分化する。6月目に髪の毛。もしも男児だったら7月の終わりに右手が母親の左側に動く。もしも女児だったら8月目の終わりに左手が母親の身体の右側に動く。9月目の終わりに胎児の位置の3つの変化を外から触れるようになる。10月目の終わりに発生は完成する。妊娠気管は270日である。胎児の性別は母親の脈で決定できる。もしも右側が強くなったら男児を意味し、もしも左側だったら女児である。
 男児は子宮の左側で発育し、女児は右側で発育する。
 生理学はもちろん一般的な自然哲学の1つの分野であり、自然哲学の知識が無いと生理学は理解できない。同じ原理が人体におけると同じことが宇宙で成立する。人体は宇宙生命の唯一の発現である。
 中国人は宇宙の起原を2つの異なる原始的な力(異質性)の相互作用によると見なしている。男性の陽(Yang)と女性の陰(Ying)である。そのバランスはこの2つの調和のある活性によっている。
 陽(活性のある、確固たる原理、原始的な暖かさ、光)はふつう天によって代表され、陰(受身的、否定的原理、本来の湿度、暗さ)は地により代表される。定常的、反対的な、徐々に変化する男性(創造的、進歩的)の女性(破壊的、後退性)への力、大きく種々な事柄が起きる。性、性質、顕著な特性および形の変化は、根本的に陽または陰のどちらが強力かの結果である。前者は太陽、光、春および夏、若い時、強さ、乾燥、その他において強力である。後者は月、影、秋および冬、老年、弱さ、寒、湿、柔、において強力である。
 物質は5元素からなる。すなわち、木、火、土、金、および、水、である。すべての物はいろいろな割合のこれらからなっている。
 創造の場において、木(植物)は水から、火(摩擦により)は木から、土(灰)は火から、金属は土から、生まれる。従って自然の経路において物の変化の継起は同じ方向に続く。この中国の自然哲学から異なる元素のそれぞれの関係を演繹される。すなわち、由来、友人関係、対立関係、である。従って火は木を母親(木から生ずるので)とし、地はその息子(灰は木から生ずる)であり、水は対立物(火を消す)であり、金属は友人(金属は火に何の影響も与えないので)である。それぞれの元素に同じ関係があり、友人関係は常に対立の反対である。
 5元素と相互関係のあるのは、5遊星(木星、火星、土星、金星、水星)、5つの天候(風、熱、蒸気、乾燥、冷気)、世界の5部分(東、南、子午線、西、北)、1年の季節(我々の4季節に加えて、春、夏、秋、冬の最後の18日は別の1つの季節とされている)、1日の5時間、5色(青緑、赤、黄、白、黒)、5音、など。
 宇宙と同じように人で2つの原始的な力である陽と陰がすべての過程の基本的な条件である。人体は物質一般と同じように5元素からなり、これらはある臓器において主な代表となる。健康は男性原理および女性原理の平衡に依存し、元素のあいだの適当な量的な関係によっていた。男性原理、すなわち活気ある温かみ、はその拡大傾向によって、主として収縮性のある空洞の臓器、いわゆる“部屋”(大腸、小腸、膀胱、胆嚢、胃)に作用する。女性原理、すなわち元素の湿気はより固体の臓器(肝臓、心臓、肺、脾臓、腎臓)を座にする。それぞれの原理は貯蔵所を持ち両方は一緒に血液および生気(vital air)と一緒に循環し、これらを運搬車として使い、脈管系でこれらは諸臓器に運ばれ、次いで身体の全ての部分に導かれる。循環の障害は病気の原因である。
 脈管系は12本の主な静脈からなり、このうち6本は陽の元素、6本は陰の元素を含む。これらは手および足に部分的に始まり部分的に終わる。12本の静脈は2つの主な集合管で完結し、そのうち1本は身体の背部に向かい、陽の元素を含み、他は身体の前面を走り、陰の元素を含む。12本の静脈は23の枝分かれがあり、この他に幾つかの小さい管が記載されている。
 中国の生理学は血液と生気の循環を考え、24時間に50回の循環が起きると主張したことは興味ある事実である。呼吸の間に血液と生気は6インチ動く。
 5元素は人体内で5つの主な臓器(はらわた)を代表していて、従って補助者(兄弟)として他の5つの臓器(空洞“部屋”)が同系の機能を持つ。肝臓は質的に木に、心臓は火に、脾臓は地に、肺は金属に、腎臓は水に、対応する。肝臓は補助者として胆嚢を持ち、両者は体液を濾過する。心臓は乳糜を受け取って血液に変化させ、その補助者である小腸は食物を乳糜にする。脾臓と胃は消化を行う。肺は血液を循環させ、それを粘液から純化する。それらの補助者である大腸は粗で汚い物を排泄する。腎臓と尿管は尿の排泄に関与し尿は膀胱に入る。右側の腎臓、”生命の門”、には特に精液(力の座)を作る役割があり、肝臓は心(ソウル)の座であり、肺は体温を調節する。
 身体の組成が元素からなることに対応して中国生理学は5元素のそれぞれを宇宙または大地の現象(星座、天の部位、1年の時、など)に結びつけ、同様に臭い、色、味の5つのトーンを結びつけた。それぞれの臓器はその主な機能に加えて身体の遠い部分に影響を及ぼし(例えば、顔の特別な部分、特別な組織)、他の臓器に共感的または反感的な関係をもつ。しかし、それぞれのの臓器の最も目立つ性質は、それに特有な種類の脈の存在である。これらの高度に緊張した類似性は中国人の目には非常に現実的な意義があった。何故かと言うと、個々の病理的な異常は、健常と考えられる相互関係の体系からの変化として知り得るからである。
 診断および予後の決定において既往歴には比較的に小さい価値しか与えていない。これらは主として“通信”の理論の迷路から導入した細かく洗練されたすべての方法を行う全身を注意深く客観的に調べていることによる。しかし、ここ及びあそこに、いくつかの真の観察があり、経験の結果が見つかる。中国の医師は気温と一般条件、患者の心の状態、臭いと味の感覚、食欲および夢すらも考察している。彼は息使いおよび発音(声、泣き声、笑い、溜息、など)を注意し、体温(触診により)および排泄物の性質(鼻汁、痰、尿、および大便の量、色、および粘度)を調べた。彼はある静脈の色に注目し、髪の毛の性質すらも精密な検査を行った。これらにおいて、徴候の調和または不調和、それとともに環境の影響、1年または1日の時、を考える、しかし、これらは2つの最も重要な診断法、すなわち脈の検査および顔と舌の視診、によって得られた検査結果の拡大に過ぎない。
 中国の脈学は高度に複雑であり、実行には非常に詳細な方法があり、最も単純にも10分、もっと難しいものには数時間を必要とする。脈を触れる11の部位が知られていて、それぞれに名前がついている。普通に脈を触れるのは橈骨動脈である。方法は最初に中指を橈骨の頭部に置き、次いで人さし指と薬指を加え、そのあいだに親指は手首の背に置く。検査は両手に行い、医師は右手を左側、左手を右側の脈の検査に使う。両側で触れる3部分は3つの脈とみなされ、“Inch,” tsuen、“Narrow way,” konan および“Shoe,” tche の名前が与えられる。最初のものは薬指の下、2番目のものは中指の下、3番目は人さし指の下に感ずるものである。従って6つの脈を感じ、それぞれは1つのある臓器と関係し、それぞれが起こしている正常または病的な状態である。従って右側で感ずる“Narrow way,” konan は胃および脾臓に関連し、左側で感ずると肝臓および胆嚢と関連する。それぞれの脈は9回の呼吸のあいだに3回検査し、最初は弱く、次に中間的、最後に硬い圧力で行い、それらの性質、速さ、休止の可能性、に注意する。脈の変化のリストは無数である。
 中国の脈学によると、それぞれの臓器は、それ特有な脈に加えて、反対のものがあり、これは季節によって異なり、脈は星座の影響、1年の時または1日の時、年齢、体格、性、によって変化し、病理的条件で、これらは互いに有害に反応する。このような混乱した組み合わせは種々異なる莫大なリストであり、我々の目には架空であり、この知識は膨大な記憶と極端な接触感覚を必要とする。一例として51以上の主な型が、検査の単純な基礎である1つの事実を与えている。これらのうちに7つの“外部”脈(陽の基本原理)、8つの”内部”脈(陰の原理を示す)、9つの”道”(大きな連絡通路に相当する)、および致死的な証拠となる27の脈、がある。
 呼吸数1にたいして4−5の脈は正常な関係であり、脈が3であるのは男性原理が優勢な病的状態であることを示す。不斉脈について言うと50に1つの結滞は健康である。40,30,20,10に結滞のあるのは40,30,20,10の内部臓器から生命気が奪われていることを示し、死は4年、3年、2年、1年、に起きるであろう。脈学は著者が違うと異なっており、重要な点として、それぞれの腕の3箇所づつの脈と関係すると信じている臓器さえも異なる。
 脈だけで病気の性質および存在部位の診断の基礎として充分であると考えられている。お気に入りの直喩によると、人体は弦楽器と似ていて個々の部品は固有な音程の色(臓器の脈)を持っていて、その音程(脈)は協和音(健康)または不協和音(病気)である。顔および舌の検査は重要性において脈学に相当し、最高の注意は特色に払われる。舌の外見に37の違いが知られている。
 個々の臓器は特定の色に応じていて、この色は大量に存在する元素によって決まる。人体においてこの色は臓器に入り込んで居る空気によって起きる。病的状態で優勢な色は病気の存在箇所を示す。予後は優勢な臓器の脈と優勢な色の共感または反感に依存している。前者の例(共感)で予後は好ましいが、後者では色が親しい臓器に相応するか敵対する臓器に相応するかによる。色の視診は主として問題である臓器に関係する頭および顔の部分について行われる。このようにして、心臓のための場所は舌である。ここで、心臓の病気のときに正常では赤くなければならない舌が黒(腎臓の色)だったら、このことは心臓の敵である腎臓が優勢となり、ここで予後は心臓の破壊が起きていて致死的であることを示している。
 病気は不協和、すなわち、男性または女性の原始的原理(力または弱さ、熱または冷、乾または湿)の優勢による平衡の擾乱、である。これは生命気または血液の循環の障害によって臓器が傷つくことにより示される。
 中国の病理学は風、冷、乾、湿、愛、悩、毒、悪気、想像動物、を病気の原因とみなしている。分類は種々の観点(例えば、脈によって)からなされ、最も合理的な分類は内的および外的な疾患によるもの、または身体の部位または臓器によるものである。個々の型は症状群に相当するもののみであり、広範に異なる種々な過程の表面的な記載を集めたものに過ぎない。従って中国のペダントリーが例えば14型の赤痢ような多数の寄せ集めを区別しているのは驚くことではない。しかし、文献には特に感染症について優秀な記載が見られる。
 中国医学で最も精巧な分野である治療学はその配置に決して少なくない量の構成成分を持っている。その薬品は他のどのような国家を超えて多数である。自然にはすべての病気より多い数の治療法があるという信念は、考えることができるすべての植物と動物、およびそれよりは少ない数の鉱物を試みさせた。
 経験主義によるのであっても、忙しい何世紀のあいだに、大量の役に立たないものだけでなく、幾つかの本当に治療効果のあるものを集め、それらの多くはさらに試みの必要なことが正しく理解され、このような研究は広く医学に役立つと考えることができよう。同じような条件で中国医学とヨーロッパ医学が同意見である医薬品の数は少なくない。
 これらの中にはダイオウ、ザクロの根(寄生虫に)、樟脳、トリカブト、大麻、鉄(貧血に)、ヒ素(マラリヤと皮膚病に)、硫黄(皮膚病に)、ナトリウムと銅の硫酸塩(吐剤)、カリ明礬、アンモニア塩、麝香、が含まれる。
 ヨーロッパ医学は中央アジア交易によって導入したダイオウの利用について中国に負っている。中国の薬店が輸入していたのは、高価なアサフェティダ(インド産のスパイス)、ナツメグ、シナモン、胡椒、だけであった。
 すべての医薬品のうちで最高に尊重されていたのはチョウセンニンジンであり、これは強壮剤の性質を持っていたので、万能薬とみなされ、その重さの黄金の3倍の値段とみなされていた。
 特に好まれたのは、処方から見られるように、pachyderma cocos、ホオノキ、薄荷の葉抽出物、テンナンショウの根、tang-kui root(月経困難に)、甘草、クマの胆嚢、燃えた髪の毛、鶏冠石、辰砂、などである。中国の錬金術で哲学者の石の役割をする辰砂は、水銀製造に使われるとともに梅毒の燻煙治療(辰砂をつめた紙ロールを片方の鼻孔に入れて火をつけ、水銀の蒸気を吸う)に使う。ヨーロッパと同じように梅毒の水銀治療は中国で何世紀にわたって行われた(塗り薬には灰色軟膏の代わりに水銀の赤色軟膏、内服には硫酸カルシウムを混ぜた昇華物)。これは唯一の治療法ではなかった(他の内服薬にはサルトリイバラおよび真珠と真珠貝殻粉末)。多くの物質は温める、冷やす、体質改善、造血、の性質を持つと言われ、下剤、吐剤、去痰剤、は数が多く、次に多かったのは発汗剤と利尿剤であった。この他に中国医学には多くの月経促進剤、催乳剤、堕胎薬、および催淫剤、があり、最後のものは著しく有名であり広く自慢された主な薬品であった。
 中国医術で最も顕著な特性は動物起原の物質の多いことである。後になり臓器医療となった考えへのぼんやりとした手探りではあるが、神秘主義は例えば、種々の動物の肝臓、肺、腎臓から作った薬品がそれぞれ肝臓、肺、腎臓、の病気、または若者の精液や動物の神経組織を弱った状態、雄鶏の鶏冠を胃の病気、動物の睾丸をインポテンス、胎盤を分娩の助け、の指導原理になる。そのような性質の物質と関係して、他の国や過去の世紀のヨーロッパの薬物書に見られるように、完全に不愉快な物質(排泄物)が認められる。
 天然痘の予防接種は、多分インドから得られたのであろうが、動物利用治療法に含められるであろう。中国では少なくとも11世紀から行われていて、習慣に従って哲学者により発見され、血清療法の前駆とみなすことができよう。この目的には、天然痘膿疱の新鮮な内容で浸した木綿綿を接種する人の鼻の穴に入れる(男児は左、女児は右の鼻の穴)。または乾かした膿疱の粉末を鼻の穴に擦り込むか、吹き込む。何らかの推察により、接種は月の11日または15日には行わなかった。
 特定の臓器および病気と関連する医薬品の分類は、中国の自然哲学に従って、非常に詳細に行われており、薬品の成分、色、味、と、薬効のあいだに存在する類似性の考察は、特に重要な役割を果たしている。
 このようにして緑色物質および酸っぱい味のする薬品は主な構成分である「木」が理由なので主として肝臓に影響すると考えられる。同じ原理に従って、赤く苦い物質は心臓に、黄色で甘いものは脾臓に、白く鋭いものは肺に、黒く塩辛いものは腎臓に作用する。
 強い作用のあるすべての温める物質または冷やす物質は男性の原始原理“陽”の特性を持ち、弱い味があり顕著に酸っぱく苦く甘く味わいがあるか塩の香りのあるものは、”陰”の特性を持つ。上半身の病気は陽が優勢であり、植物の上部から得る薬品が相当する。下半身の病気は、陰が優勢と思われる根からの薬品が相当する。最後に治療薬は四季に関係する。例えば、上部に作用するものは春の生育力に似ており、重いものはもっと水分を持つ。下に向かうものは秋の落ちる力を持つ、など。処方を書くにあたって、以下は何世紀もの古い経験主義であり、四季、天候、患者の性に注意する。ときに薬品を選ぶにあたってシンボリズムは決定的要因である。従ってハイビスカスの紅い花は月経促進剤に使われ、サフランはその黄色のために黄疸に使われる。インゲンマメはその形から腎臓疾患に使われ、ツチボタルは点眼剤に使われる、など。
 患者に処方する薬品の数は非常に多い。薬品はしばしば外見が楽しく魅力的であり、それらの名前は想像に影響し、魅力に追加する(例えば3人の最も有能な学者、5つの起原をもつ粉末)。
 多くの医師たちは薬剤を自分で調製するが、ふつう(紅い紙に書かれた)処方箋は薬屋の店に持って行く。薬屋は贅沢な家具があり管理が優れている。ふつう処方箋には数多くの薬品(9または10以下は稀)が記入されていて、内容は支配者、大臣、家臣、への作用に応じて、我々の基準では追加剤、中和剤、を加える。処方の成分は量の指示と同じように数の迷信が重要である。従って支持する物質の数はしばしば5の倍数であり、ふつう5服が与えられる。
 すべての個々の病気に幾つもの薬剤があるが、どれを選ぶかには病気の原因により選択に厳しい規則がある。たとえば、気管支カタルでは、刺激、鎮静、去痰、の必要に応じて次のような薬剤が使われる。セロリ、ショウガ、トリカブト、ゲンチアン根、シナモン、アヘン、ツジャ、タケ、コウマの足、スミレ、燃やしたカメの甲、粘土錠、など。慢性気管支炎にはブタの肺が注目される。肺炎の薬剤のうちではカンゾウにアンモニア塩を混ぜたものがある。肺結核は肺の物質、複雑な方法で作ったオレンジ皮、またはロバの皮から作ったゼラチンをアラク酒で調理したもの、が使われる。心臓病は原因と思われるものによって、性欲抑制剤、少量の赤色鉛、クレマチスの抽出物、クサノオウの根、および粉末にしたカモシカの角、が有効の考えられる。浮腫の治療にはサルトリイバラ、サンシキヒルガオ、キングサリ、など、が試みられる。出血にはゲンチアン、トリカブト、ショウガ、石膏、boras、燃やした髪の毛、ニンニク、粉にしたサイの角、および龍の骨(化石の骨だろうか?)が使われる。子宮出血はイラクサを煎じたエキスで洗浄する。肝臓のうっ血に中国の治療はシソの他にタケの芽およびゾウの革、特にブタ肝臓の抽出液、ウシの胆汁またはクマの胆汁をアラク酒で処理したものを推薦する。腎臓病にはまたブタの腎臓。
 胃の障害に医薬品の長いリストがある。評価されているものは胃薬として、胡椒、クロープ、緑色のオレンジ皮、コリアンダー、ホオノキ、ニワトリのそ嚢、その他。吐剤としてベゴニア。下剤としてプラム、タマリンド、硫酸ソーダ、ダイオウ、ハトの胆汁、ヒマ、など。止血剤としてゲンチアン、または褐色黄土。しかしチョウセンニンジンが依然として最高である。
 単純な医薬品の他に多くの混合物が使われていて、食養生も決して無視されない。
 赤痢にたいして数多くの薬剤が推奨されている。合理的なアロエ、ダイオウ、ザクロの根、シナモン、ジャコウ、チョウセンニンジン、など、の他に、コウモリの排泄物、ヘビの皮、など。中国では稀でない肥満は治療されない。神経障害には多くの薬剤が供給されているが、いくらかだけしか数え上げられない。偏頭痛で好まれる薬剤はハッカ油であり、頭痛にたいしては多くのもののうちで雄シカの脳と骨髄、性交過剰による衰弱にたいしては雄シカ角の粉末および数多くの催淫剤がある。テンカンはカイコおよびクロウメモドキの根で治療される。足の不自由はいろいろな型があるが、カエデの根、ストリキニーネ、硫化水銀、トラの骨、ジャコウ、など、が使われる。痙攣には一種の吉草根が使われる。関節リューマチに最もふつう使われるのは、アシ、サルトリイバラ、ウマノスズクサ、炭酸カルシウム、であり、マラリアにたいしてはモクレン、料理したカメの頭、バッファローのチーズ、過酸化鉄、キジムシロ、が使われる。
 天然痘の治療には多くの物質が使われ厳しい法則により管理される。コレラには前に述べた腸管の薬剤が使われる。ジフテリアには誘導法(すなわち頸に人工的に斑状出血を起こさせる)および収斂性薬品を吹き込む。疫病には下剤、利尿、発汗、が使われる。皮膚の治療(痒いのは寄生虫によるとされる)には多くの外用薬、たとえば硫黄、明礬、ヒ素、水銀、が使われるが、内服薬も忘れられなかった。婦人科学について、中国医師は(すべての東洋医師と同じように)一連の月経異常を、開始の異常さ、または月経血の色、または病原的な考察によって、独立の疾患として区別する。子供の病気治療は特に注目され、もちろん憶測ではあるが、少なくとも57の病気が知られている。薬量は次の法則により決定される。大人で12-25グラムの薬は7才の子には4-6グラム、8-13才の子には6-8グラム、13-18才の子には8-12グラムを与える。
 子供の病気で診断の最も重要な徴候は不思議なことに人指し指の静脈の色の変化である。男児では指の左側であり女児では右側である。
 ライバルの医療法であり、考えられるときにいつでも行われるのは灸と鍼である。もぐさ(艾)はよもぎ(artemisia)の綿のようであり火口(ほくち)のような葉をもんで円柱または円錐の形にしたもの、または硫黄または油に漬けた灯心、からなる。唾液または金属板によってこれらを身体の表面に付けて火をつける。これらをつける場所、数、配置(丈夫な人では50もつけることがある)について詳細な規則がある。これらはよどんだ病原性の物質を通し外に出す機能を持っている。乳の病気のときには背中に、胃病のときには肩に、性病のときには背骨に行う。灸はまた予防にも使われる。鍼は中国人が発見したもののようであり、硬化した鋼鉄、銀、または金の細い針(長さ5−22cm)を伸展させた皮膚に(患者が咳をするあいだに)ハンマーで打って刺しこみ、さらに捩じ込む。針を引き抜いた後で挿しこんだ場所に圧力をかけたり、艾を作用させる。使った針の数、捩じる方向(右か左か)、差し込む深さ(ふつう3−3.5cm)、引き抜くまでの時間は、その個人の性質、その病気の重さ、またはその病気についての中国の理論によって決まっている。これと関係して、刺し込む場所や傷害(神経について)を避けることに非常な注意を払う。身体には鍼を行う388の場所があり、これについての正確な知識は中国の医師にとって前提であり、紙を貼った穴のあいた人形で練習を行う。鍼の基礎として人体は管のシステムが通り抜けていて、鍼は有害な物質を外に出し、体液の循環における障碍を取り除き、新鮮な生気を導入することになる。鍼は主として激痛または炎症性の条件で行われるが、多くの色々な病気(とくに腹部の病気、結石または骨折)で重要な役割を果たす。
 彼らが灸と鍼を好むことは血液を好まない中国医師がほとんど瀉血をしないことを説明する。乾いていて銅のカッピング容器を使うカッピングは瀉血とは違ってふつう代わりに使われる方法であって色々な病気で行われる。マッサージは主として盲目または年取った女性によって非常に巧妙に行われ、中国では何世紀にも渡って知られている医学体操は紀元前2500年頃に伝説的な Tschi-sung-tin によって発見されたと言われていて、完全な体系である。これは身体の一定部分における律動的・体系的な吸気と呼気、腹部の摩擦、(小石の入った袋による)胸と背中の打撃、正確に計画された筋肉運動、抵抗体操、など、からなっている。完全な治癒には食養生を伴って何月も必要であり、生命気と体液の循環の調節を意図している。
 最後に水浴療法について述べなければならない。これは健康保持の方法および、テウルギアの変幻自在な表現に隠れている示唆的な治療法として、高く評価される。
 解剖学の知識が欠乏していることと国民的な血液嫌悪によって、外科学は最も原始的なレベル以上にはならなかった。産科学はほとんどまったく産婆さんの領域であった。
 中国医師たちの外科器具は荒っぽく仕上げが悪く、外科よりは靴屋に向いていた。骨折の治療は解剖学的知識に対応して非常に非能率である。困難な転位はそのままにしていて、主な治療方法は絆創膏および添木と包帯による固定である。複雑骨折は整復を試みた後で治癒粉末を傷にかけ、殺したばかりで骨を除いたニワトリで覆う。
 出血は止血薬と包帯で押さえる。表面的な膿瘍は切開で治療するが、成熟の起こる(乾かしたガマガエル、酸化鉛、など)のを待って時間がかかる。すべての傷で肝臓が非健康的な状態にあるという支配的な見解によって、外用だけでなく内服薬(骨折の場合には少年の尿の内服)が使われる。潰瘍は膏薬で治療され、実際の焼灼は慢性潰瘍のときに行われる。一方では大工業が少ないので中国人はヨーロッパ人にくらべて事故に会うことが少ないし、他方、特に複雑骨折で見られるように傷や手術にたいして強い耐性を持っている。
 去勢を行うのに2つの異なった方法が記載されている。1つは性器を熱水浴中またはある種の液体中で揉んで無感覚にする。陰茎と睾丸は包にくるんで恥丘の近くで一刀のもとに切断し、傷口に1掴みの止血粉末を押し付ける。
 圧迫によって出血を止め、爪の形の栓を尿道に挿入し、手術者は包帯をして3日間そのままにし、このあいだ患者は何も飲むことは許されない。
 他の記載は無血法であり、(絹糸で)感覚の無い性器に徐々に捻りと結紮を与えて壊疽を起こさせる。分離は15日から20日で起こり、2月で治癒する。中国女性の纏足(足の変形)は7才のころに包帯をきつくして4本の趾を強く曲げて、踵を垂直の位置にする。
 歯学は非常に遅れている。刺激性の絆創膏、灸、鍼が主な治療法であり、最終的にぐらぐらになった歯は梃子によって抜く。眼科で(例えば前眼房の穿刺のような)幾らかの手術および幾つかの普通でない治療法が行われた。補正眼鏡を使う屈折異常の治療が数世紀前から行われてきた。
 全身麻酔は中国人に知られていて、トリカブトのような麻酔抽出物によって行われた。麻酔液により人工的に無痛にすることは古くから知られていて3世紀のHoatho(Hua Tuo 華佗:140-208)は四肢切断、頭骨穿孔を行ったと言われるが、信頼はできない。
 解剖学および生理学の知識の欠如は産科学ではっきりと見ることができ、産科学で多くの場合に実際の方法や手技を知っているのではなく、主として予想や誤った考えに基いて行われた。
 医師が援助を要求されるのは稀であって(痙攣、痛み、胎位の矯正までの)内服薬の処方に限られていた。分娩の援助はある種の内服薬服用と考えられ、その構成は(例えば麦角のような)合理的なものの他に子供の尿の入ったコウモリの排泄物、であった。
 難産の処理、たとえば産位を直すこと、脱出した手を正常の位置に戻すこと、摘出、死んだ子供を2重鉄フックで除き胎児切断をすること、などは産婆の手に任せられた。
 妊娠において特別な食事が推奨された(冷たく脂肪性のもの)。妊婦は時々に部屋を歩き回って子供が回転するように勧められた。これは中国の考えによると頭が決まった場所をとるのは最終時であったからである。より強い陣痛が始まると女性は半分2つ折れの姿勢をとって木の盥を下に置いて子供を受け止める。妊婦は少なくとも3日のあいだベッドの中でもたれかかり、栄養はアワと重湯からなり、14日のあいだ顔を洗ったり自分で梳ってはいけない。不健康な血液を出すために3才から4才の尿を1杯内服する。乾燥胎盤は貧血と戦うのに役立つ。4日目に新生児の臍帯の上にモクサを載せるか、ホースラディッシュで焼灼する。授乳は3年目まで続ける。これら、および妊婦と新生児の介護は習慣的な神聖な産婆からの大量の指示によって行われる。法的な禁止にもかかわらず流産の人工的促進は非常に普通のことであり、多くの色々な方法(ヒルを子宮頚管に挿入する、など)が試みられる。胎位の矯正や乳児の病気を取り扱っている特別な』著作がある。
 中国の初期の文献は一部の最も理屈にあった生活方針を含んでいる。たとえば仕事と休息の適当な割合、食物や飲み物や衣服の四季に応じての適当な調節、など、である。しかし公衆衛生は知られていない。主な都市の街路の無秩序はこの管理の欠如を充分に示している。
 Tsohang-Seng(=長命、ジェスイット神父 d’Embreoolies がフランス語に翻訳)に、他のこととともに、早起き、家を出発する前に朝食をとる、食事の前に少量の茶を飲む、昼に良く調理して食塩を多くしない食事をとる、ゆっくりと食べ後で2時間眠って休み、夜は少し食べ、ベッドに行く前に口を茶湯で洗い、足の踵を温めるために足を摩擦する。
 中国の法医学は非常に古く、紀元1248年の公的な写本により管理されていて、ヨーロッパは同様のものを持っていないので誇ることはできない。
 これの表題は Si-yuen-luh(洗冤録)すなわち“冤罪を洗ぐ方法の蒐集”である。この著作は記述の正確なことを特徴とし、他方、その独断的に明確で拘束力のある性質によって、司法を流産に導き、(冤罪者の)法的な処罰を予防する。これは5巻からなり、第1巻は殺人、検死、堕胎、子供殺し、第2巻は自殺、絞殺、溺死と焼死、第3巻と第4巻は毒殺の徴候、最後の巻は法的検査の一般記述である。
 中国におけるすべてのことと同じように法医学もペダンティックを特徴とし、付随的な詳細なことを不当に重要視し、学のあることで目をくらませ、それにより実際に求めている検査を学者的な見せかけより重要でないようにする。
 正確で実際的な考えが、このような問題では最も危険な奇想天外な推察と交じり合っている。原因が不明な死亡例では検死が必須であり、検死官の取り締まりは痛々しく厳しい。しかし、死体解剖は行われず、最も重要な所見は外部観察または曖昧であったり奇想天外な審問によっている。
 以下は幾つかの例である。身体の上で見えない傷は、酢をその上に注いだり、油で飽和した一片の絹を通った太陽の光のもとで、調べる。ナイフから除いた痕跡の血液はナイフを赤熱して酢をその上にかけると再現する。2人の関係はそれぞれの血液を水中で同時に流すと証明される。子供たちの両親の頭蓋骨を確かめるには彼らの血液を滴下する。もしも血液が骨にしみ込むと関係の証拠である。人がぶら下がっている綱を叩いてみると、その振動で自殺か殺人かが判る。毒殺の起きたことを証明するには、mimosa(オジギソウ)saponariaの煎じ液を通した銀針を紙で包んで死体の口に入れる。もしも針が黒紺色になり洗ってもそのままだったら毒殺は証明される。死体の口中に入れておいた米をニワトリに与えて死んだら、同じことが言える。水中で見つかった死体が水に入ったときに生きていたかどうかの徴候は次の通りである。腹部が非常に膨張している、髪の毛が頭に張り付いている、口の前に泡がある、手や足が硬直している、足底が白い、爪の下に砂がある。
 中国医学が見かけ上に安定なことは、疑いなく我々がその進化の有り様を充分に理解していないことによる。医学理論が変化できない形に結晶化することは長い進化の後にのみ起きることであり、最終的な結果は確かに多くの人の習慣では非常に遠い期間のものとする。しかし、この場所やあの場所で明らかになる文献は(例えば病気の病因、分類または脈学において)種々の意見の存在を示し、捨て去られた残りのものを明らかにする。現在の状態は、中国の著者たちが認めているように、確かに衰退である。
 衰亡の最もはっきりとした表現は教育の嘆くべき状態にみられる。これはその昔に栄えていたものの影である。唐時代(紀元618-907)に医学校は帝国全体に栄え、主として独創的な研究者が来て教えていたが、今では北京に1つの帝室医学校があるだけで、この機能は公務員、宮廷および肉体の医師を、理論的な教育により訓練するのが任務である。医学は自由職業であって強制試験は無く、誰でも慈善活動または単なる趣味で医療を行うことができる。政府は教育または医療能力の証明に全く関与せず、宮廷医学校(古代の技術の管理人として学校医学教育の保全を行っている)は基準から少しでも外れると処罰することにより科学の進歩を抑えている。官吏(7番目から4番目の階級)の宮廷医学校メンバー以外を除いて、医師は平民であり低い身分である僧よりは上であるが、易者や学校教師より下であった。正式教育は希望者に医学古典の適当な知識を学ぶことを要求する。彼は次に経験ある医療者から検査および患者の取り扱い方法を学ぶ。このために少なくとも2年が必要である。もっとも信用されるのは医師の家庭のもので、両親の教育を受け、最大数の医者の先祖を挙げることができるものである。これらの医師家庭の子孫に加えて、多くの学者たちが居て、国の補助を受けることができないので、自立の教師やあらゆる種類のヤブ医師は別として他の捌け口を探さなければならない。中国で専門は非常に完全に分化している。
 満州族だけが正式な家庭医を持っている。一般に医療の謝礼は非常に少なく、医師はふつう患者をいつも往診することはなく繰り返して招待されたときだけであり、この習慣は当然に病気の進行および薬の作用の真の観察を不可能にしている。ふつう朝に行われる紹介の儀礼を除いて、もっとも重要な往診は脈の検査であり、既往歴は注目されない。
 医倫理について明朝時代の著作に、医師は次のことを心に置かねばならないと、書かれている。すなわち、“患者がひどい病気だったら、貴方自身が治療してほしいように、彼の治療をしなさい。もしも貴方が診察するように頼まれたら、すぐに行って遅れないように。もしも彼が薬を要求したら、すぐに彼に与えて彼が金持ちか貧乏か尋ねてはいけない。貴方の心は常に生命を救い全てが喜ぶように使い、そうすると貴方自身の喜びは高められるであろう。世界が暗いときに、貴方を保護する人が居るであろう。貴方が急性病に呼ばれ、その患者から金を儲ける以外を考えることなく、もしも貴方の心臓は貴方の隣人への愛で満ちていなかったら、世界の暗闇の中で貴方を罰するもののいることは確かである。”
 中国医学の影響は中国(狭義では中原=黄河領域)の境界を超えた。たとえば安南やシャムの医学で感じられたが、彼らの知識は一般に教師の水準には及ばなかった。
 北方、朝鮮からは最高のチョウセンニンジンが得られ、中国医学の植民地であり、日本への道の中間段階でもあった。
 ヨーロッパ文明がミカドの国に導入される前に、中国は日本にとって以前にギリシャがローマにたいするのと同じであり、すべての道徳および文明の源であった。長いあいだ“日の出る国”は中国の科学と宗教、芸術と技術、の胚芽を、密接な関係のある朝鮮を通して間接に受け取っていた。政治的な条件が変化したときだけ、極東の2つの最も重要な国のあいだに直接な関係が可能になった。
 この関係はまた日本における新しい家庭を中国医学に与え、9世紀には日本古来の芸術を完全に追い出して優位を保ったが、19世紀の最後の3分の1まで、それ以上の発展は無かった。
 最近になってヨーロッパ医学が日本で置き換えた体系は主として中国のものであった。以前および部分的には中国のものとともに、原始的、土地固有の、古代日本の医療技術が、原始的な観察に基礎を置き、憶測を伴わずに存在し、かなりの数の病気を区別し、主として固有な薬用植物からなる豊富な治療品を利用していた。
 古代の日本の医師たちは4種類の脈を知っており、観察や質問や操作を基礎にして診断を確立し、簡単な外科手術を駆使し、下痢に苦い収斂性の物質、尿の異常に利尿剤、発熱に冷水浴、および寒気に発汗剤、を指示した。
 中国医学の侵入は3世紀(参考 魏志倭人伝:AD297)に始まった。この時から朝鮮との非常に短い関係が発展した。最も重要な結果は中国文明の導入であり、従って中国医学の方法が日本に入ってきた。
 最初に外国の医療者は宮廷のみに呼ばれてこの保護により朝鮮の医師はもっとしばしば日本に来るようになり、さらにもっと多数が指導者となり優秀な若者を中国科学に親しみを持たせるようにし、中国の仏僧の存在はこの目的をさらに推し進めた。
 7世紀末(飛鳥時代末)に首都および地方に、朝鮮の指導および国の援助によって医学校が作られた。この間にエネルギーがある若者が中国に送られ現地で学んだ。中国医学は日本で公的な認可を得られ、日本の医学はますます勢力を失い、しばらくの間は遠い田舎や神道寺院の暗闇で過ごし、最終的に民衆医学(フォークメディシン)のレベルに落ち込んだ。
 時々は国家的な反動の事実が無いわけではなかった。その1つは9世紀の始め(平安時代)における、古代日本の処方せんと調理法を集めるようにとの天皇命令であった。しかし、これは遅すぎた。この集録は大量の労力を必要としたが、実際の影響の無い文献的な記念物に過ぎないものであり、間もなく忘れ去られた。9世紀以後に中国医学は完全に日本に同化した。教育体系は繁栄して続き、女性も活躍した。新しく作られた病院と医学校は貧しい人たちに提供されて民衆に評判が高かった。12世紀(平家盛衰)から16世紀(織田信長入京)における激しい内戦のあいだに医学は衰退したが、有能な代表者が完全に無くなった訳ではなかった。
 16世紀のはじめに日本医学は無気力から目覚め、中国の教師たちの指導の影響は長く残ったが、一部の医学思想家たちは当時の理論に批判的に反対する勇気を持ち、彼ら個人の経験を確立し、古代日本医学の多くの忘れられた方法をよみがえさせた。
 初期に医師はほとんどすべて社会の最高層から集められ、低い階級に属するものは老人だけであった。
 17世紀の初めに導入され1868年(明治維新)には終わった封建制は御殿医師と民衆医師の区別をしていた。前者は厳しいヒエラルキー(天皇、将軍、大名、の医師)であって、上層階級の出身ではあるが戦場には向かないものであった。後者は平民に属していた。両者とも官職を示す同じ長袖を着ていたが、前者は区別する刀を持ち、後者は飾り刀を持っていた。
 御殿医はそれぞれ位によって一定の席次を持ち種々の位で呼ばれたが、民周医は彼らの患者の施しによっていて、謝礼の金額は法律により患者が決定した。次のように書かれていた。“医療奉仕者たちがその能力によって病気を治癒させるのに成功したときに、あまりに多くの収入を与えないように。彼らが任務を無視しないためである、”平均的な謝礼は医師が自分で作った医薬品に許される金額の2倍から4倍であった。虐げられ無防備な医師が権利を得るために使うことのできる手段は「お世辞」だけであった。医療の弟子は習慣に従って往診で先生について行ったときに、このことを習う機会があった。
 自分自身の文化を作り上げる能力はあまり無いが、外国の文明の成分を同化するのに極めて有能であるので、日本人は中国医学の重要な特徴を標準的な著作から急速に受取り、そのモデルから忠実に再現して数多くの科学文献を書いた。
 理論にかんして日本の知的な特異性は、逐語的な批判および説明的な追加についての議論以外に見通しを持たず、中国システムの足かせは憶測の発展を不可能にした。しかし、彼らは現実主義を好んでいたので技術は日本人医師にとって最高の魅力があり、あちこちではっきりしない医療習慣を背景にした地方的な色付けが存在する。カタルに発汗法や熱水浴を使うのがその例であり、後者はこの国の温泉により影響された習慣である。
 灸と鍼は日本でも好まれた治療法であり、マッサージも同様であり非常に巧みにある程度の理論もあった。鍼の専門家がある。灸は医師ではなく、低い身分の人たち、特に老婦人によってなされた。マッサージは主として「あんま」によって行われる。
 調剤書は中国のものを真似て作られた。外科学はヨーロッパの方法が導入されるまで低いレベルであった。抜歯は日本人に特有であり、最初に歯を木片と木槌で叩きそれから手指で抜いた。
 16世紀から徐々に解放が始まり、個人の優れた観察および医学のある分野では中国の独断主義からある程度の独立が行われるようになった。新しい運動の代表は曲直瀬正慶(道三:1507-1594)および彼の弟子の丹波であり、彼らは熱と湿が病気の最も重要な原因とし、治療を発汗剤で開始し、尿および大便の検査に重点を置いた。しかし最も重要なのは偉大な永田徳本(伝記不明)で’あった。彼は日本のヒポクラテスの名誉ある敬称の価値をもつ非常に有能な観察者であり、自然を最高の治療者とし、当時に行われていた複雑な治療を単純にし、本質的な必須条件は自然の治療力を助けることであるという考えから出発した。この啓蒙的な考えは当然のことながら中国の形式主義と衝突することになった。彼は勇気を持っていて、たとえば発熱している患者に冷水を飲ませた。
 人間の本性についての深い知識は次のような事実に示された。永田徳本は神経症にどの薬品を使うかを気にする代わりに、困難の原因を明らかにした後で心理的な影響によって治療を行った。
 このようにして彼は百姓に雨を降らせることについて話し、乙女には近づいた結婚を話し、妻には家出した夫が早く帰ることを話した。
 産科学は18世紀に中国と独立に発達した。これは主として普通の医療から離れて、古代日本医学の道理に従った方法を基礎とする専門家の手に移ったことによる。
 古代日本においても、妊婦は注意深く取り扱われた。特別な産室があり、妊婦は産前3週間、産後3週間をここに暮らした。妊娠の第2
 半期に帯を着け、正しい胎位をとるように腹部を摩擦した。分娩中およびその後の8日の間には特別な椅子が使われた。18世紀の中頃に産科学は賀川玄悦しげん(1700-1777)によって大きな刺激を受けた。彼はあんまで鍼師だったことがあった。彼は1765年に画期的な本「産論」を出版し、この中で多くの誤った中国の考えを攻撃し、アプリオリの結論を混ぜて多くの正しい観察を発表した。彼の後継者はこれらの合理的な努力をりっぱに受け継いだ。次に述べることが知られ実行された。肘膝分娩位、会陰部の保護、臍帯の二重結紮および鋏による切断、止血剤としての粉末胆汁、腹部摩擦および臍帯を引っ張ることによる遺残胎盤の除去、最終的な器具を使う引き抜き、4日後の授乳、である。
 手術:足位における分娩、内的および外的の頭・足回旋、穿孔および頭部切断。19世紀の始めから日本の産科医は鯨骨バンドを使っていた。この産科器具はヨーロッパ起原であるか、それと無関係であるかは未だ確かでない。
 このように準備されていたので、日本はヨーロッパ医学にとって適した土壌であり、特別な障害(鎖国)によって19世紀の最後の30年に至るまで完成しなかったが、その徐々の進歩はポルトガル宣教師の活動によって始まり、1871年(明治4年)にドイツ流の内科・外科アカデミーが東京に作られたことを基礎として、最高に達した。
 今日、日本医学は孤立の地位を離れて、世界医学の連盟における価値ある仲間になった。
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訳者解説

 米国医学史学会を創設し、晩年はオクスフォード大学の内科学欽定教授であり英国医学史学会の会長であったウィリアム・オスラー卿が英米の学生に読むように推薦したノイバーガーのこの本は、体系的に整頓された優れた本である。しかし残念なことに難解な本である。私にとって理解できない部分もあったが、まず第1巻前半の原始医学の部分だけを翻訳した。原始医学と東洋医学に限ったのはこの先には訳者の理解できない部分があり、理解できても日本語にするのに困難を感じたためである。
 原始医学の部分には、メソポタミア、古代エジプト、古代ペルシャ、イスラエル、インド、中国・日本の医療における、魔術が関係する呪術(ゴエギア)、宗教による神働術(テウルギア)、および経験医療、について詳しく論じられている。現在アメリカなどで流行している代替医療、伝統医学、漢方医学と関連して、興味を覚えた。
 第1巻(https://archive.org/details/historyofmedicin01neub/)および第2巻(https://archive.org/details/historyofmedicin02neub/)の英文原著はインターネットから閲覧できるので、興味ある人達は英文で続きを読んで欲しい。原始医学からギリシャ医学への発展の経過、ヒポクラテスやガレノスで代表されるコス島医学と学問的には現代医学に近いクニドス島医学の問題、現代の病院のように進歩していたアラビア医学、などについてのノイバーガーの記載は非常に優れている。残念なことにルネッサンス以降の部分は第1世界大戦のために刊行されなかった。

 読者の参考のために、訳出しなかった第1巻後半からの見出しを下記にあげておく。

第1巻後半
古代古典時代における医学
 序言
 ホメロス的医療と祭司医学
 アスクレピアド医師、体育専門家、植物薬剤師
 医学理論の始まり
 医学校
 クニドス、コス、シチリア学派
 ヒポクラテス
 ヒポクラテス集典
 ドグマティスト
 アレキサンドリア時代の医学
 ヘロピロス、エラシステアトスおよび彼らの弟子たち
 エンピリスト学派
 外科医と薬理学者たち
 ギリシャ医学のローマへの翻訳
 アスクレピアデス
 メソディスト
 ローマの百科全書学者。ケルスス、プリニウス
 処方と薬局方
 ニューマティストと折衷主義者
 アレタイオス、ルポス、ソラノス
 付記:解剖学と生理学
 ガレノス
 アンティロス
古代衰退における医学
 一般状態
 文献
 教会神父の著述における
 タルムドにおける医学

中世における医学
 序論
 ビザンチン医学
 ビザンチン医学文献
 ギリシャ医学の東洋への翻訳
 文献の歴史的展望
アラビア医学

第2巻前半
初期中世における医学
 11世紀と12世紀における医学
 ヨーロッパへのアラビアの影響
 13世紀における医学
 後期中世における医学
 文献の歴史的展望

整理者注:
原翻訳では訳者注でも中括弧()が用いられていたが、原書にも多くの中括弧が用いられているため、区別のため、訳者注および整理者注には亀甲括弧〔〕を用いることにした。なお、特に注とする場合を除いて「訳者注、整理者注」の語は用いていない。





底本:Max Neuburger, "History of Medicine" (1910), translated by Ernest Playfair (1871-1951)
   2019(令和元)年6月9日青空文庫版公開
※本作品は「クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス」(http://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/)の下に提供されています。
Creative Commons License
翻訳者:水上茂樹
2019年6月8日作成
青空文庫収録ファイル:
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●表記について


●図書カード