私は先ず我国民生活が目下の窮迫情態に陥った原因に溯って一言したいことがあります。我々は昭和六年満州事変の発生以来、昭和二十年太平洋戦争の終了に至る迄、我国が対外関係に於いて執り来った行動を、冷静に、客観的に顧みてみまするならば、遺憾ながら正しい道を踏み誤まった事実を認めざるを得ませぬ。その行動が、

日本の前途は寔に多難でありますが、暗闇ではありませぬ。我国当面の悩みは病気の兆しではなく、産前の陣痛であります。陣痛が始まると、健全な、元気溌溂たる新日本が生まれ出ずることを信じます。永く平和の恵みと、文化の潤いに浴する国家が、茲に固い基礎を据えんとしているのであります。その新日本は厳粛な憲法の明文を以て戦争を放棄し、軍備を全廃したのでありますから、国家の財源と国民の能力を挙げて、平和産業の発達と科学文化の振興に振り向け得られる筋合であります。従って国費の重要な部分を軍備の用に充当する諸国に比すれば、我国は平和的活動の分野に於いて、遙に有利なる地位を占めることになりましょう。今後尚若干年間は我国民生活に欠乏と不安が続くものと覚悟しなければなりませぬけれども、国家の生命は永遠無窮であります。人間万事は
然らば他日若し外国より我国の軍備が皆無なるに乗じ、得手勝手の口実を構えて、日本領土を侵かすことがあらば、我国として之に処すべき自衛対策如何。この問題は当然我国民の最大関心事であります。之が対策に就いては追々締結せらるべき講和条約又は国際協定中、或は日本が行く行くは何等か相当の自衛施設を有つことを認められるような取極が望ましいとか、或は永久局外中立国たる保障を求むべきであるとか、或は又何ずれかの国より事態の必要に応じて、兵力的掩護を受ける約束を取付けられたいとか、種々の意見があるように聞こえます。この際私一己の考えを卒直に述べることを許されますならば、かかる意見は何れも現実の政策として適切なものとは思われませぬ。
第一に我国に於いて自衛に必要なる施設を保有せしむることを希望する意見も、固より自衛なる名義の下に、又々軍国主義に
第二に永久局外中立制度の効果も亦頗る疑わしいものがあります。
第三に我国が他国の侵略に遇った場合に、何ずれかの第三国より兵力的掩護を受けんとする構想に至っては、凡そ一国が何時でも優勢なる兵力を東洋方面に集中しうる体制を整えて日本を掩護することは、固より容易ならざる犠牲を伴うものであります。従って我国が予め特定の第三国と条約を結び、その第三国自ら現実の利害関係を有っていない場合でも、有らゆる犠牲を忍んで、日本を掩護すべき義務を引受けんことを期待するが如きは元来無理な注文と謂わざるを得ませぬ。加之かかる兵力的掩護条約の存在それ自体が侵略国を刺戟し、その敵対行動の口実を
以上述べました私一己の考えを縮めて言えば、我々は他力本願の主義に依って国家の安全を求むべきではない。我国を他国の侵略より救う自衛施設は徹頭徹尾正義の力である。我々が正義の大道を履んで邁進するならば、『祈らぬとて神や守らん』と確信するものであります。その所謂正義の規準は主観的の独断ではなく、世界の客観的な公平な与論に依って裏附けされたものでなければなりませぬ。これは迂濶な遠路のように見えても、実は最も確かな近道であります。私は我国の対外関係が終始これを基調として律せられんことを切望して已まぬものであります。
(幣原平和財団発行『幣原喜重郎』六九五―九七頁)