芸術統制是非

辰野隆




 ある日のこと、某国大使館に永年勤務していたしごく実直な男が言うのに、自分も永い間、大使館に出入りする各方面の日本人に接したが、その中でも、ことに勲章を欲しがったり、欲しそうな言動をあえてするのは、いつも美術家に多く、文人に少ない。いったいどういうわけなのだろう、と。
 そこで僕は即座に答えて、それは美術家の方が文人よりも、色彩や光沢にははるかに敏感だからだろう、と。
 もちろん、僕は笑い話のつもりで答えたのだが相手の男は何か苦いものでも口の中に入れられたような顔をして、さらに言うのに、勲章を貰いたがっても、別に悪い事とは思わぬが、そういう人々が世間では、比較的に名利には恬淡な君子扱いにされて、きわめてアンデパンダンな画派の親玉株だなどと聴くと、つい自分はあさましい心持ちになって、芥溜でも覗くような嘔気を感ぜざるを得ぬ。やっぱり、芸術家は、どこまでも、一人一党で、名誉や利害には疎い方が、何となくゆかしくて快い、と。

 美術院問題が世間の耳目を聳動して、毎日の新聞に各派の美術家の群が、頭から湯気を立てて論じているのを僕も多少読んでは見たが読者を首肯せしめるほどの卓見には接しなかった。むしろ初めから、官辺の庇護などに頼らず、一人一党の見地に立って、もしともに進むなら、真に気の合った同志だけで、あくまで、民間の団体として、好むところに淫するとも、楽しみを改めたくない、というような清々しい、潔い主張が一としてなかった事は限りなく淋しかった。たとえ、新美術院の展覧会には断じて出品せずと主張しても、それはむしろケチ臭い打算や党派心の方が目立つのが面白くない。官権を必要とする奴らは奴ら、俺達は俺達だという毅然たる態度でもなく、役人などをてんで馬鹿にしたのん気さも陽気さも感じられない。これなくて、そもそも何の芸術家ぞと言いたくなる。ことに不思議なのは、官権に拠っていた旧帝展の一派と対立して、布衣の美術家たる事を誇りとしていたらしい派から、新官僚美術院の主なる委員が、ジェネラシヨン・スポンタネとして、しかも月足らずで、多数生まれ出た事である。彼らは宿年の同志にも謀らずして、かかるトライゾンを、あたかも自由な行動であるかのごとく、平然として恥ずるところがないのだろうか。

 僕はこのたびの事件を眺めながら、美術家の群は文人の群とは比べものにならぬほど、毎度ながら如才ないものだと感服した。彼らは、特に委員諸氏は、そろそろ自分達の画境のいき詰まりを覚って、官権にでも頼らなければ、老先きが案じられるとでも思ったのだろうか。自ら知るの明を褒めたくもなるが、しかし冷静に判断すれば、彼らの画境はそれほど衰えてはいないのである。その制作は相当に旨いのだ。ただ絵の旨さよりもさらに輪をかけて、その政治家ぶりや商人ぶりが旨いのである。

 某画家はこのたびの挙を機として、在来の無鑑査を撤廃するのは不当であると述べていた。曰く、無鑑査撤廃に自分達が反対するのは、それが既得権を侵害されるという意味ではない。美術一般に与えらるる「制作の自由」を故なくして奪還するものだから、自由の画家として抗議するのだ、と。しかし制作の自由を真に尊重するなら、初めから官権の下に立つ展覧会なぞには出品しない方が当然なので、かかる主張ははなはだ謂れがない。しかのみならず、かかる説は、まったく問題に利害関係のない公平なる第三者が唱えてこそ、意義があるので、渦中の当事者の言としては穏やかでない。僕は万一、新美術院がまがりなりにも成立する暁には、その展覧会は断然無鑑査撤廃で行くのが純理でいやしくも展覧会に拠って作品を公表する以上無鑑査制のごときは、将来も、永く沮まるべきであると思う。第一、展覧会などは要するに一番角力の出たとこ勝負だ。その審査は出品画家の無限の収容を制限する点においてのみ有意義で、画家の本質を決定し得る性質のものではないのだから、いかにたびたび入選しても、持続的の自由や特権が与えらるべきではない。むしろ、それほど旨くもないのに、展覧会だけはいつも入選する画家があったら、かえって軽蔑されていいだろう。

 そもそも、芸術家は何らかの形式において、パトロナアジュがなければ、やって行けないのだろうか。古来、雅典においても、羅馬においても、巴里においても、芸術は往々にして、君主や貴族の庇護の下に栄えた歴史はある。ことに仏蘭西十七世紀の文学者達はルイ大王の庇護救援に浴したもっともいちじるしき実例だろう。批評家ブリュンチェエルは特にその点を指摘して次の言をなした。
『……この二十九歳の王ほど、その人民に服従せられ、その競争者より、崇拝せられ、畏怖せられ、羨望せられた者はなかった。――いわゆる「文人」までが他のものと同様に、王を褒めたこと、しかしてまた他のものと同様に彼らまでが王の下に服従したことと、彼らがすべてあたかも自然の不可抗の引力の中心に引き寄せられるように、この旭日の方に引かれたということ、を我らは驚かぬ。彼ら自らのため、また彼らの芸術のためにも、しかして自分の品格を保つ上からも、彼らは王に接近した。たとえば彼らは、自分らを安楽にしてくれる一つの神を欲しいと思っていたのだから、――どうして、いかなる作家も自分のペン一つで食ってゆけると考えなかった時代に、彼らはこれなしにいられようか――王の庇護は……彼らをして、なお目だたぬ、しかしとにかく社会的階級のうちに儼として規定せられたる一階級に列せしめた。して見れば、彼らが、この庇護に酬いるに多少の阿諛をもってしたことは、何でもないではないか。しかして万一、モリエエルやラシイヌやボアロオがこの恩誼に酬いなかったならば、彼らはそれだけ偉くなるであろうか。彼らはよく弁えていた。全然貴族的なる社会に在って、彼らの技能と天分とは、彼らの作を自由に完成し、それらを反対者に認めさせ、党派や世論の反発を一蹴するにはとうてい足りぬであろうことを。王の愛護なかりしならば、モリエエルは執拗なる敵のために斃れたのであろう……』(関根秀雄氏訳)

 今や、文部省の庇護がなければ画家的商売は上がったりなのだろうか。現文相をルイ大王に擬するほどの茶気はないが、彼は芸術を解し、芸術を統制する知識と趣味と力との所有者だろうか。新美術院の委員らは、新組織への迎合によって、自分達の不利益においてもなおかつ後進の道を拓く精進と思っているのだろうか。彼らは永年の同志から特に選ばれずして、官権に追随して、犬馬の労を致す自由を自分達だけに留保したとしか思えない。
 現文相は自らまったく美術がわからぬと、公然と宣言しているが、いやしくも一国の文相たる者にして、美術、文芸に定見がなければ、文相として芸術統制にたずさわる、資格を疑われても、いたし方があるまい。この事は、現代日本の文化が、しかしてまた、文化に対する政治が欧米のそれに較べていちじるしく劣っているのを立証する好材料であろう。芸術に関して、何らの理解力も定見もない官権に招かれて、きわめて恭順なるアルティストに、健全なる将来の方針が樹てられるであろうか。

 このたびの美術争議を冷ややかに観察することによって、とかく、商品になりやすい制作に従事する芸術家ほど、商人や政治家にちかく、そういう芸術にたずさわる連中ほど堕落しやすい事実をいよいよ痛感せざるを得ない。そこにゆくと、文人の群には、融通の利かぬ頼もしい馬鹿野郎が美術家に比してはるかに多いように思われる。
 かつて巴里に在りし日、ある無遠慮な一日本人がアンリ・マチスの面前で、
『私の観るところでは、先生は、描く術においては古来の大画家達に比して、決して劣っておられるとは思えませんが、古来のいかなる画聖も先生の傍に据えると、一人のこらず、馬鹿野郎に見えます』と放言した。マチスはこの率直すぎる言に接して、何とも言いようのない苦い顔をしたそうである。
 セザンヌも、モロオもあれほどのりっぱな作を残しながら、生涯サロンの入選を夢みてついに実現しなかった画家だと伝えられている。小説家フロオベエルは、往々レジヨン・ドヌウル勲章の略綬をフロックの襟につけて悦んでいたそうである。人によっては、これをすぐれた芸術家のむしろ愛嬌ある一面として、微笑するかも知れぬが、僕はかえって、日本人よりも幾層倍か虚栄心の熾烈な仏蘭西人の恥ずべき弱点として、微笑するよりも苦笑したくなる。現代仏蘭西のもっとも深遠な詩人ヴァレリィが仏国翰林院学士に当選した記事を読んだ時、僕はひそかにヴァレリィのために悼んだ。あのヴァレリィにしてなおかつ、選挙に先だって、多くのアカデミシャンを歴訪して清き一票を乞うたのかと思うと、彼の不朽の「ナルシス」の自負を、そもそもどこに捨てたのか、と歎かざるを得なかった。

 仄聞すれば、官辺には、単に美術のみならず、文芸をも統制せんとする意志がないでもないらしい。とかく、生活に悩む人々が、おそらく美術家よりも多い文人の間において、その生活を少しでも保証するためなら、それを強いて拒むには当たらぬだろう。しかし、文芸家の統制は美術家の統制よりもはるかに困難であろう事をあらかじめ知って置く必要がある。文壇には、明治以来、一人一党の抜くべからざる素地があり、したがって、平等の精神が、――まれな例外はあろうが――他のいかなる社会よりも深く、あまねく行き渡っている。それは、現代文壇を見渡して、その得意と失意とにかかわらず、大家といわるる誰一人、いまだかつて、官権の庇護を受けた者もなく、官権の意を迎えた者もなかったと、断言して、おそらく誤りではあるまい。僕は特に文芸家に希望したい、今までの通り、昂然としてアンデパンであらん事を。
10・7)





底本:「「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻」文藝春秋
   1988(昭和63)年1月10日第1刷
   1988(昭和63)年3月15日第7刷
底本の親本:「文藝春秋」文藝春秋
   1935(昭和10)年7月号
初出:「文藝春秋」文藝春秋
   1935(昭和10)年7月号
※底本編者による前書きは省略しました。
入力:sogo
校正:染川隆俊
2015年12月13日作成
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