愛書癖

辰野隆




 パリに遊んだ人々は誰でもセーヌ左岸にならんでいる古本屋ブキニストを決して忘れないだろう。店と云っても、家ではない。ただ、セーヌ河岸の石崖の上に、無数の古本の箱が、石崖の続く限り――と云うと少し話が大きくなるが、――サン・ミシェル河岸からヴォルテール河岸に至る七、八丁か八、九丁の間は、高さ一尺、方三尺ばかりの箱に古本を詰め込んだのが数限りなく行列している。二、三間きに箱の主がいて、牀几しょうぎに腰をかけたり、ぼんやり、セーヌ河畔かはんの釣客を眺めたり、煙草の煙を輪に吐いたり、葡萄酒の喇叭ラッパ飲みをしたり、居睡いねむりをしたりしている。大抵は無愛想なような、人の善さそうな爺さん連で、若い顔はまれであるが、彼等は日が暮れると、各自の箱に錠を卸して帰ってしまう。翌朝になると、彼等はたのこのこと、馬の糞のように集まって来て、箱の前に呑気のんきな顔を列べて、愛書家の群を待っている。

 此の河岸の古本屋で珍書をあさる人もすくなくないが、掘出物は滅多にないらしい。僕もしばしば、眼を皿のようにし、片端から漁って歩いたが、ニザールの仏文学史四巻を二十フランで買ったのが関の山だった。或日、『屁の術』という珍本を見付けて、一寸ちょっと誘惑されたが、あまり馬鹿々々しいので、表題だけ拝見して御免こうむった。が、今思い出すと、矢張り買って置いてもよかった。風来山人の『放屁論』などと読み較べたら、今頃は比較放屁学ペトコロジー・コンパレーの学位論文位は提出していたかも知れない。

 しかんな卑近な珍本は買っても買わなくてもいいが、どうかすると、河岸の箱にも、途方もない稀覯きこう書が紛れ込んでいる事がある。歴史家のガブリエル・アノトーがかつて、河岸の箱を漁っている中に、偶然、大ナポレオンの署名のあるシーザーの『ゴール遠征記』を発見して有頂天になったと云う有名な話がある。その署名がボナパルトとあったか、それとも又ブオナパルテとイタリア流に書いてあったか、其処迄そこまでは聞もらしたが兎に角、五年に一度でも、十年に一度でも、斯んな掘出物があるから、愛書家が血眼になったり、蚤取眼のみとりまなこになったり、の目鷹の目になったりするのも無理ではない。

 愛書家のことを一般にビブリオフィルと呼んでいるが、此の愛書家の癖が高じると、ビブリオマーヌ即愛書狂となる。其の愛書狂の中にも色々種類があって、書籍であれば何でも有難がる奴がある。つまり書籍の偶像崇拝家で、書物さえ見れば矢鱈やたらに御辞儀をしたり合掌したりする、ビブリオラートルと云う連中である。此他にビブリオターフと云うのがあるが、ターフとは墓の義で、唯いたずらに読みもせぬ書物を買って積んで置くのを楽しむやからである。愛書狂の中でも、合掌派や墓守流は未だ未だ無難であるが、これが更に一歩進むとビブリオクレプト即書盗となる。甚だ物騒な話で、此んな奴が飛び出すと、愛書家はお互に用心しくなる。ところが、此の書盗に※(「走」の「土」に代えて「彡」、第3水準1-92-51)しんにゅうをかけたのが、書籍欲しさの人殺しで、斯んな奴に会ったら、それこそ百年目である。以下、愛書癖の穏健派から過激派に至る段階を、順を追うて説く事にしよう。

 愛書家ビブリオフィル。ビブリオフィルと云う語は、十八世紀の終り頃から一般に行われ出したので、それ以前はフィルビブリオンと云う語が用いられた。而して其の源は中世紀の文学者リシャール・ド・ビュリーの著わすところ『フィルビブリン』迄さかのぼるそうである。では、古代には愛書家という語はなかったのかと聞かれると一寸困るが、語はなくとも愛書家が存在した事は確かである。それは旧説に、昔々エジプトの或王様が宮廷の図書室の戸口に「霊魂慰藉いしゃの宝庫」と誌した、と云う事が書いてあるからである。中世紀は、フィルビブリオンと云う言葉まで出来た時代であるから、愛書家が名実共に存した事はけだし疑いを容れない。「書籍を好まず、書籍を信ぜざる輩の死こそ実に犬死なれ」というのは確かに中世紀の格言だと記憶している。然るに時代の進むに従って、書物の数は殖える一方で、ことに印刷術の発明以後の殖え方が著しく目立って来た。そこで、如何に本好きでも、読み切れなくなり、あつめ切れなくなる。だから諦めるかと思うと、決して諦めない。一層いっそ読まずに、蒐めるだけにして見ようかなどという断然二兎を追わざる篤志家が出て来るのは自然の数である。然しかかる篤志家に無闇に書物を買占められると、読む方の愛書家は往々迷惑する。で、つい蒐集しゅうしゅう家の悪口も言って見たくなる。『人の性カラクテール』という名著を遺した十七世紀フランスのラ・ブリュイエールは或時、知名の蔵書家の書庫を見て、金文字背皮の書冊が何万という程書架にならべてあるのが一寸癪にさわったらしい。「此の好書家の書庫と称する鞣皮なめしがわの物置」などと憎まれ口をたたいている。悪口では人に負けを取らぬヴォルテールも、次の世紀において、「書物も人間と同じで、群の中から選択する他はあるまい」と、『チェリオに与うるの書』の中に記した。同じく十八世紀で、百科全書編纂へんさん者として名高いダランベールも、ヴォルテールに劣らぬ人の悪い男であるが、彼の百科全書第二巻、愛書狂のページには斯んな事が書いてある。「……場所をとらぬ簡便な図書室を造る最良の方法は、例えば、十二巻の全集中、六頁だけ有用と信じたら、六頁だけ切取って、余は火中すし」

 然しながら、以上三人のフランスの粗探しが、二世紀に渉って、皮肉混じりの警告を発したって、愛書家の病がそれでおる筈もない。そう云われれば意地になって蒐めたがる奴も飛び出して来る。然し、如何なる蒐集家でも、書物に対して多少の註文がないわけではない。で、先ず僕は此処で蒐集家の趣味、態度と云ったようなものを一言して置く必要があると思う。一体、蒐集家に通有な好みは、一般的にいえば、全集を求める事である。之はすこぶる当然で、別に説明を要せない。次には、書物の頁の縁の広い事である。度々製本を仕直す中には、縁が段々に狭くなるものであるから、始めから縁にゆとりの無い書物を愛書家は特に忌むのである。現に、僕の持っているモンテーニュの『論集エッセー』(十七世紀ライデン版)などは、ロバート・ラングと云う人のエキス・リブリスが貼ってあって、少くも僕自身では、相当に佳い本だとは思うが、何分、縁に余白がなくなっているので、手に把って暫く眺めていると、どうもえん側が狭すぎて、やや窮窟な感じを与えるのがきずである。ぬれえんも悪くないなどと洒落れて見るが、やっぱりいけない。その次に、蒐集家が紙質に注意する事は云う迄もないが、其上にお製本が丈夫に出来ていなければならない。装釘は住宅と同じく、むしろ地味にすぎる位がいいので、人目につくようなものは直ぐに飽きが来る。

 愛書家が書籍を大切にする事は改めて断わる必要もないだろう。書籍も生きものと同じで、余り使い過ぎたり、遊ばせ過ぎたりするのは保健に宜しくない。時々は日光浴をさせたり、新鮮な空気にあててやらないと箱入娘のように、病気になったり、虫がついたりする。そこで書物にも医療が必要になって来る。書籍治療ビブリアトリックという語もある位で、本の手入れに就いては、昔から相当に研究されているものと見えて、ボナルドーの『書画保存法』(一八五〇年)と云う著書もある。然し此の本は、専門家用で、僕等の興味は左迄さまで惹きそうにもないが、多少面白いと思うのは、ニューヨークの「ライブラリー・ジャーナル」第十一巻第四号に出た「書物に対して加うる可らざる暴行」という頗る有益な教誡がある。書籍保存に関する注意を、ユーモアを交えて書いたもので――寝床の中で読書すべからず、新刊書の頁をあわてて切る可らず、と云うような甚だ穏やかな忠告から始まって、頁の上に煙草の灰を墜落せしむる可らず、寧ろ喫煙せざるにかず、煙を透して書を読むは第一、眼に毒なればなり。顔の上に書物を載せる可らず(これは午睡の場合)婦人の頭髪用のピンなどを借りて頁を切る可らず(女の頭の穢らわしきは、古今東西を問わざればなり、という意味らしい)それから、書物にくさめす可らず、小供や猫に書物を投げつける可らず(如何に騒々しくとも)などと云う事も書いてある。どうも僕などはことごとく落第しそうな注意ばかりである。

 愛書家が珍重するのは、何と云っても稀覯書であるが、稀覯書にも種類がある。例えば、出版当時は三文の値打のない本でも、時代の御蔭で珍本づらの出来るようになる代物もある。此種の珍本で有名なのは、一六五五年アムステルダムのエルゼヴィエル版『フランス料理大全パチシェ・フランソワ』で、本書は十七世紀、十八世紀の間に、フランスの台所で大部分は焚附の代りになって了った程の俗書だが、それが今では珍書中の珍書で、十九世紀末には二万法という値が付いた。之は十七世紀の風俗、習慣を調べるにはなかなか貴重な文献だそうである。

 で、稀覯書を大別して、絶対的稀覯書と相対的稀覯書となすと云ったら、吹きだす読者があるかも知れないが、そんな馬鹿げた分類をした奴が居るのだから仕方がない。一七九〇年にカイヨーとデクロ合著『稀覯書に関する書籍学的、歴史的、批評的字典』というのが出ている。その本に書いてある分類にると、相対的稀覯書というのは、前述の『フランス料理大全』の類で、時代を経るに従って漸次に稀になる書物である。が、絶対的稀覯書の方は、初から部数の限られたもので、一地方の歴史、土俗に関する書物や、好事家の手になる、主として趣味に関する書物である。此他に人巧的稀覯書と称す可きものがあるが、それは、自分独りが持っていると思った書物が、未だ他に在る事を知った場合に、それを買取って破毀はきして了うという方法で、実例もある。然しそうした癖は、既に愛書癖を一歩踏み出して、狂の部類に属するので、それは後に述べる事にする。大体に於ては、稀覯書たるの要件は、時代の古い事である。先ず今日、とうとばれるのは、印刷術発明後一四八〇年に至る幼年期の書籍で、之をインクナブラと呼んでいる。インクナブラとは、襁褓おしめ、むつきの意味だそうで、つまり赤ん坊時代、たれ流し時代の書物を指すと思えば間違いない。平たく云えば「おしめ本」とでも訳す可きだろう。あまり清潔な名ではないが、日本の浄瑠璃本にも、しらみ本なんていうのがあるから、おしめ本だって、そんなに遠慮する事はない。インクナブラ以前の木版物は、クシログラフと呼ばれる書籍の一団であるが、「おしめ本」と相って稀覯書中の重鎮である。

 愛書狂ビブリオマーヌ。愛書癖がようやく深刻になると、愛書狂になる。此のビブリオマーヌと云う語は、十六世紀頃から用いられたので、其の通性は、書物を読まぬ事である。その代り、書物に対する所有欲は頗る旺盛で、此の癖は、古代に於ては、ローマよりもギリシアに著しかったらしい。皮肉屋のリュシアンが或愛書狂に自著の小冊子を贈った時に、その巻頭に「書斎を所有せる無学文盲なる男に本書をささぐ」と書いたという話が伝わっている。中世印刷術の発明が、ギリシア時代にもまして愛書狂の熱を高めた事は争えないが、一方にまた、愛書狂を苦めた事も疑えない。折角独占の愉快を味い得た珍書が、印刷の力で珍書でも何でもなくなる運命になったからである。これには、僕にも覚えがある。数年前僕はリヨンの或書房で、詩人マラルメの『昔の神々』と題する珍本を求めて、ひどく得意になった事があった。――今は其の本は、マラルメ通の鈴木信太郎君に半永久的に貸してあるが、鈴木君の方では租借地の法理を曲解して、永久的に占領したつもりらしい――無論、初版で、久しく絶版になっていた書物だが、不幸にして其の書物が昨年パリn・r・f社で再版せられたのである。その広告を見た時僕は余計なことをするn・r・f社だと思って大いに憤慨したが、其後再版が手元に届いて初めて安心する事が出来た。本の体裁と云い紙質と云い初版とはまるで較べものにならず、殊に初版にある美しい挿絵が再版には全然欠けているのが頗る気に入った。誠にらちもない話であるが、斯うした癖が高じると狂になるのだなと思って、其時、僕は微の字の付かぬ苦笑を漏らした事を一寸告白して置く。

 愛書狂の熱は、印刷術発明後も益々激しくなるばかりだった。従って一方にはそれを冷笑する傾向も漸く辛辣しんらつになって来た。一四九七年、ドイツ人セバスチャン・ブラントの『狂者の御堂』と云う本の挿絵は、ロイド眼鏡をかけた老人が――断って置くが、ロイド眼鏡は決して近代の創意ではない。中世以来引続いて行われたもので、モリエールの喜劇に出て来る医者は、大抵ロイド眼鏡の愛用者である――で、ロイド眼鏡の老人が図書館のうす暗い一室で、巨大な書物に向って、左手で頁をひるがえし、右手にはペンを持って何か書きつけている。如何にも奇特な老学者だと思ったら大違いで、挿絵の説明には「俺は山のように書物を所有しているが、ひらいて読む事は殆どない。罕に読んでも直ぐに忘れて了うから、読まぬ以前よりも賢くはならない」なんて書いてある。

 斯んな愛書狂が更らに一歩進むと、変体になって来る、一例を挙げれば、誤植を尊重する癖がそれである。十八世紀末のフランスの文学者ポンス・ド・ヴェルダンの作と伝えられている四行詩カトラン

に本書こそ絶好の版なれ
その故は十五、十六の頁に
二箇所の誤植あればなり
是は悪しき版にはなき事なり。

 というのがある。誤植尊重癖の中で、一寸変わっているのは、聖書の誤植を有難がる連中で、彼等の最も愛好するのは、一五九〇年版と一六三一年版と一七一七年版である。
 一五九〇年の聖書は、ブルガータと呼ぶもので、これは法皇シキスト五世の監輯かんしゅうにかかるものであるが、法王自ら校正したにも不拘かかわらず、非常に誤植が多かった。法王は癇癪かんしゃくの持って行きどころがなく、其の聖書の巻尾に「若し信徒にして本聖典の誤植を指摘する者は破門せらる可し」というおどし文句を附け加えたが、却って世間の物笑いの種になった。法王は後に此の版を廃棄したが、唯数冊が厄を逃れて世の好事家を悦ばせる事になった。後世此の聖書が目の玉の飛び出るような値で売買されたそうである。
 一六三一年版は世に「悪性の聖書ウィッケッド・バイブル」と称せられる甚だ有難からぬ宝典で、此の聖書印刷の責任者はロンドンのロバート・バーカー及びジョン・ビルの二人であるが、此の二人がどうした間違か、モーゼの十誡第七条の文句の、否定にす可き所を肯定して了ったので「汝等すべからく姦淫を犯す可し」となったのである。斯んな聖書は誰が見ても悪性に相違ない。責任者は三百ポンドの罰金を払わせられた。
 一七一七年の聖書は、オックスフォードのクラレンドン版であるが、ロカ伝第二十の葡萄畑の寓話のくだりに、葡萄畑ヴィンヤードとあるべきところがヴィネガーとなっている。葡萄は酸っぱいと云うつもりか後世之を酸性・聖書ヴィネガー・バイブルと称えて大いに珍重しているが、そうした誤植のない通俗の聖書をアルカリ性の聖書と謂ってよかろうと思う。
 以上三種の聖書を揃えて持ってる奴は殆どないと云われている。全く、斯んな聖書を掘出して悦に入ったら、旧教からも新教からも破門されるかも知れぬから、寧ろハートとクラブとダイヤのポインの三幅対で我慢した方が無難だろう。

 愛書狂の別派に堆書狂ビブリオターフ即ち書物の墓守と云うのがあるのは前述の如くだが、百科学者ダランベールの挙げている例に依ると、十八世紀のフランスに、天文学の本ばかり集めた男が居たそうである。しかも其の男は天文学に関しては全然無智で、集めた書物を一行も読んだ事がなく、其上誰にも書物を借さなかった。十七世紀のサン・シモン公の回想録には、エストレー伯爵という愛書狂が全く読まぬ書物を五万二千冊、それも釘づけのこりに入れて所有していたと書いてある。同じ本の種類を幾通りも持っている点では、名は忘れたが英国人で、ホラチウスの版を三百六十五種蒐めた奴が横綱だと謂われている。

 堆書狂で名高かったのは、十九世紀初葉のオランダの貴族ウェストリーネン・ヴァン・ティエランドであるが、此男がえらい蔵書家で、且つ蔵書を人に見せたがらない奇人だった。彼は久しい間、彼の友である二人の愛書家に蔵書を見せる約束があった。彼は何とか口実を設けて期限を延ばしていたが、或日愈々いよいよ書庫を見せる事に決心して、二人の友人に条件を提出した。その条件がなかなか厄介で「今は一年中で最も湿気しける季節だから、書庫にはいるには特別の注意を払わねばならない。そこで、当方から、如何なる、湿気にも堪え得る馬車と上衣と帽子と上靴とを送るから、必ずその上衣を着て、帽をかむって、上靴を穿いて、防湿装置の馬車に乗って来て呉れ」という。二人の友は快諾して、招待の日を待っていたがティエランドは遂に違約して了った。又一説によると、二人の友は条件を具備した風体で蔵書拝見と出掛けたところがティエランドはそれでは満足出来ず、更に彼等二人に大きな袋を穿かせて、手足の自由を奪って置いて、袋から首だけを出させたままで、書庫に案内したが唯書架と書架との間をピョンピョン飛んで過させただけだった、とも伝えられている。
 堆書狂でティエランドをしのぎ、英国のリチャード・ヒーバーにも勝る程の豪傑はフランスのブーラールである。此のブーラールはアントワーヌ・マリー・アンリ・ブーラールの方で『書籍学啓蒙』を書いたシルヴェストル・ブーラールではない、とモリアンヴァールと云う親切な男が特に注意を与えている。堆書狂ブーラールは弁護士だった。彼も初めは尋常な愛書家で、主として中世紀の写本を蒐めて楽しんでいたが、フランス革命の時、国土が荒らされ、各地の僧院の蔵書が二束三文で売り飛ばされるようになったので、彼は国宝の散佚さんいつを慨し、翻然として悟って、而して逆上して書狂となったのである。彼は七十一年間の生涯に、六十万巻の書を蒐める事が出来た。彼が書物を漁りに出掛ける時には、いつも長い杖を曳いて行った。その杖の長さが一米突メートル九四九で、近代なら、アルペンストック、さては西園寺陶庵和尚の杖、昔なら、モリエールにわらわれた馬鹿貴族等の杖を想像させるが、彼は毎日杖の長さだけ書物を買わなければ機嫌が悪かった。彼は好んでインフォリオやインクワルトの大冊を求めた。彼は七階建の貸家を七棟持っていたが、書物が殖えるに従って、店子に店だてを食わせ、晩年には店子が一人も居なくなったそうである。詩人で小説家で愛書家であったシャルル・ノディエが或日ブーラールの書庫にはいった時の感想に斯うある。「六十万巻に近い書物が堆積しているのだ。何もセメントで固めてあるわけではないから、ブーラール君が、其の本なら此処ここにある、其の本なら彼処あそこにあると云いながら、例の杖で書物の山を突くと、山の嶺がゆらゆらと揺れる。自分はゴチック大伽藍の指天塔が暴風の空の下で揺れるように感じて、荘厳なる戦慄を覚えた。」
 ブーラールが滅茶苦茶に書物を買い込むのが細君の気に入る筈がない。或時、細君は亭主に一冊読了してからでなければ他の一冊を買う事は今後相成らん、と厳命を下した。之は如何にも俗見で、ブーラール夫人にしたところで、滅多にめない宝石入の指輪を大事にしまっていた形跡があるのだから、此の小言は無理である。然し、ブーラールは気立のやさしい人だったから、細君の警告に従った。ところが間もなく、どっと床に就いて、わけのわからぬ熱が出て、仲々直おらない。そこで細君は、亭主の親友で、同じく愛書家であるドクトル・デキシュレに相談せざるを得なくなった。ドクトルは患者の脈をとり、胸をたたき、舌を出させた後で、病軽からずと診断した。彼の説に拠ると、病人の発熱は恋の病と同系統の衰弱から来る発熱で、見捨てられた許嫁などにも此種の発熱が往々にしてある。ブーラール氏の場合は書物に対するノスタルジーであると宣告した。細君も亭主の趣味を拒否してまで、後家になるのは厭やだったと見えて、直ちに禁を解いた。ブーラールの病は其日の中に癒えて、其後何年間、好きな本を買って買って買いぬいて、芽出たく往生を遂げた。彼の死後、蔵書の競売が三年間も続いたそうであるが、彼が死んでから今年で丁度百年になる。フランスの或物好きが、十八世紀の食通、『味覚の生理』の著者ブリア・サヴァランの百年祭を催しながら、我がブーラール大人の百年祭を催さぬのは不合理であると慨歎しているのも、愛書家の身になって見ればあながち理由のないことではない。
 書盗ビブリオクレプト。本盗人には平の泥棒と異って、身分も卑しからず、人格も――書物以外の点では――高い人が少くない。各国の刑法で之を普通の窃盗せっとうと一律に罰しているか否かは、僕は知らぬが、俗説としては、本盗人は花盗人の一種であるから、寛大に取扱ってやれと云う議論と、愛書家に取って此位恐る可き敵はないから、出来得る限り厳罰に処せよと云う硬派の主張とがある。僕は無論硬派に賛成だが、ひそかに思うに、全体――職業的盗人は暫く論外として――身分あり、徳低からざる紳士にして往々本盗人となるのは、要するに社会の書籍に対する関心が足らぬからで、書物なんか盗まれても痛痒つうようを感ぜぬ輩が多く、従って社会の書籍に対する良心が、掠奪結婚を是認する時代、待合を議会と心得る時代の良心と相へだたる事遠くないからだと思う。つまり、社会的無関心が愛書家の良心の懈怠けだいを促す事になるのだろう。

 十九世紀、フランス、ルイ・フィリップ王の時に、パリの有名な書肆しょしの主人で書盗が居た。彼は相当に尊敬せられ、世間の信用もあった男であったが、書盗癖だけが彼の瑕だった。書物の競売があると、彼は屡顔を出したが、競売係りで彼の癖を知らない者はないので、彼が姿を現わした競売で、書物が紛失した場合には、係りの者は、直ちに彼の入札と極めて、勘定は後から貰いに行く習慣になって了った。

 十八世紀の末頃の話だと思うが、フランスのランスの図書館司書にエル・パリスと云う人がいた。彼が永年の図書館生活の経験から次の如き言をなした。「書物に関しては如何なる人も信用してはいけない。有徳の君子にも心を許してはならぬ。私の知人に有名な本盗人があった。其男は金をかけずに稀覯書を蒐めるのに妙を得ていた。彼は好んで落丁のある珍書を安く買い集めていた。どうするのかと思うと、彼は愛書家と親しくなってその書斎を見せて貰う時などに、自分の本と同じ本があると、人の目をかすめて、落丁の部分に相当するだけを切取って来る。また、書物の競売の催されるような日には、彼はあらかじめ下見をする際に欲しいと思う本があると、窃かに一頁だけ引き割いて置く。そして愈々競売が始まると、係りの者に例の書物を示して、落丁があるから安くしろと云って、うんと値を引かせてから買い取る。家に帰ってから、先に切取った頁を貼り付けて置くのが彼の慣用手段である。私は此男が図書館にやって来ると、一刻も目を放せなかった。私は或時彼に云った。――私は君が大好きだ、年中君の傍にいたい、どうぞ、今後は私と同じ机で、図書館の本を読んで貰い度いと。彼は自分の癖を勘付かれたので、其後は大いに慎しむようになった。或日、パリから二人の検査官、ベケーとクルトワと云うのが、ランスの図書館視察に来る事になった。すると、例の男が、私に此度来るベケーと云う奴が、仲々の曲者くせものだから用心しろと商売敵が憎らしいと云うような目付をしながら教えて呉れた。当日になって、私は二人の検査官を書庫に案内して歩いている間も、ひたすら警戒怠らなかった。然るに不図ふと気が付くと何時いつの間にか、一冊の稀覯書が、心覚えをして置いた書架から無くなっている。『やられたな』と思って、私は二人を玄関のホール迄送って来た時『実は今、珍本が一冊紛失した。三人のうち誰かがそれを持っている。先ず私から調べて頂き度い』と私は云った。私から始めて、次にクルトワを調べ更にベケーを調べようとすると、ベケーは苦笑しながら、ポケットから盗んだ珍本を取出して私に渡したが、彼は別のポケットから更に一冊取出して、『何故なぜ此の本も、ついでに用心しないのだ』と云って一度に二冊返してくれた。」

 十七世紀のフランスの肖像画家ダニエル・デュムーチエにも盗癖があった。彼は盗む事は好きであったが盗まれるのは嫌いだったと見えて、彼の書斎の入口には「書籍借用者は悪魔に食われて了え」と書いて置いた。彼はパリ、ポン・ヌフの一書肆で、永年探していた本を盗んだ事があると自白している。法王インノセント十世が、いまだパンフィリオ僧正と呼ばれていた頃、バルベリニ僧正と二人で、デュムーチエを訪問した事があった。パンフィリオは戯れに、デュムーチエの秘蔵していた『トラント宗教会議史』を盗む真似をした。するとデュムーチエは火のように怒って、パンフィリオを追い帰して了った。パンフィリオが後に法王になってから、デュムーチエを揶揄やゆして、汝の如き不逞ふていの徒は破門して黒焼にすべきであると云った時、デュムーチニは直ちに「私の頭は黒焼にするには白すぎる」と答えた。当時彼は七十四才だった。

 英国の貴族フィッツ・ジェラルドにも盗癖があった。彼はパリ、セーヌ河岸の古本屋で各国語対訳聖書をちょろまかしたのが露見して二年間の禁錮に服さねばならなかった。斯うした例を探したら幾らもあるだろうが、盗癖で名高い学者にリプリ・カルッチ・デラ・ソンマイアがある(十九世紀前半)。彼はイタリアの数学者で、後にフランスに帰化した男であるが、フランスの名の知れた図書館で彼に悩まされぬものは殆どなかった。殊にパリの国立図書館の被害が著しい。彼が盗んだ書物は大抵外国に売り飛ばされたが、彼に関する被害は、国立図書館だけでも、少くも百件を下らぬそうである。

 此の書物泥棒が更に発展すると、愈々殺人となるのであるが、その方面の実例はあまり多くないようである。然しあることはある。最も著名な例を挙げれば、一八五〇年、バルセロナの本屋ドン・ビンセントが、当時世界中に一冊しかないと信じられていたスペインの古書(一四八二年版)を同業者のアウグスチン・バトクソットと争って遂に相手を殺した事件がある。裁判の時に、たまたま該書はパリにも一、二冊残存している事実が発表されて、ビンセントは之を知ってひどく残念がったが、同業者を殺した事は何とも思わなかったそうである。裁判の結果、彼は他にも十二人殺していた事が明かになった。若い坊主一名、ドイツの学生一名、スペインの詩人一名、其他九名の愛書家を殺したのであるが、いずれも一度売った書物を取戻す為だった。売っては殺し、売っては殺して、十三人片付けた時に、――数が悪かった――此度は自分の方が死刑に処せられる事になったのである。彼は死刑を受ける前に遺言して、自分の蔵書を鄭重ていちょうに取扱って呉れるようにと云う条件を附けて、バルセロナの図書館に悉く寄附する事を申し出た。バルセロナの図書館は盗泉の水を飲んだのである。もっとも盗泉ものが幅を利かせている博物館なら、ヨーロッパには珍らしくない。最も甚しいのが大英博物館、それからルーヴル……。

 此処迄書いて来て、一寸後を振返って見ると愛書癖にも相当に種類のあるものだと、無くて七癖の感を深くする。その中で、最も物騒なのは、何と云っても、スペインのドン・ビンセントであるが、最も平和的で――家庭の平和は別として――而も極端なのはフランスのブーラールだろう。彼が最後に書物を買った時は、チョッキから、上衣から洋袴ズボンから、外套まで、小型の奴は悉くポケットに詰め込み、大冊は両わきに抱えたので、何処の辻馬車の馭者ぎょしゃも彼を乗せる事を拒んだ。彼は七階建、七棟の書庫に、未だ空いた場所があるか知ら、などと考えながら、而して玉の汗をかきながら、家に帰って行ったが、其日の過労が元で、肋膜炎を起し、遂に再び立たなかった。彼こそ誠に斯道の殉教者と云っていいだろう。

 僕は蔵書家と云い得る程の蔵書家でもないし、僕の愛書癖もまた云うに足らぬけれども、世の蔵書家、愛書家を少し軽蔑しながら深く尊敬する点に於ては、あえて人後に落ちぬつもりである。つらつおもんみる迄もないが、一八二五年ブーラールが死んでから百年目(正確に云えば百一年目)に僕が此の雑文を書くようになったのも、――少々阿呆陀羅あほだら経めくが――やっぱり、一樹の蔭、一河の流れで、之を要するに、他生の相対性原理とか何とか云うのだろう。
(大正十五年夏)





底本:「日本の名随筆 別巻35 七癖」作品社
   1994(平成6)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「辰野隆随想全集2 え・びやん」福武書店
   1983(昭和58)年6月15日初版発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2015年1月1日作成
2015年1月8日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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