汝自身を知れ

ベルンにて

辰野隆




 大正十年の七月、或日の午後、僕は山田珠樹と並んでスイス、ベルンの街をぶらぶら歩いていた。スイスに来て時計を買うのも少々月並すぎる話だが、モン・ブランやユングフラウに登って涼むのも、時計屋をひやかすのも、大した変りはないと思ったので、二人は互に第一流の時計屋らしいのを物色して、何か変った時計があったら――ふところと相談しておみやげに買って帰るつもりであった。
 とあるショー・ウインドーの前に来ると、二人は申合せたように足を停めた。大小の時計が硝子ガラス窓の向側に手際よく列べられている中に、唯一つ嬰児の拳ほどの、銀製の髑髏どくろが僕等に向って硝子越しに嗤っていた。
「おい、あれ時計かね、それともただの装飾品だろうか」と山田は好奇の目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはった。
「時計なら買うのか」と僕は問い返した。山田が勿論と答えた時には、僕も時計なら買う決心をしていたのだった。
 二人は店に入って、店員に訊ねて見た。店員は飾り窓に置いてあった銀の髑髏を手に取りあげて、髑髏の口を開いて見せた。開いた口の中には時計がめ込んであった。白い盤面の、普通ならロンジンとかウォルサムとかあるべき場所にはハムレットという銘があった。髑髏の後頭部にはラテン語でNOSCE・TE・IPSUMノスケ・テ・イプスム(汝自身を知れ)と刻してあった。正にホレイシオの哲学を嘲る髑髏時計であった。
 山田も僕もにわかにその時計が欲しくなった。然し店にはあいにく一つしか無かった。山田は暫し思案していたが漸く肚を決めて、貴様の方が年長だから譲ろうと云い出した。そうなると僕も買う気がなくなって「俺も諦める」と云った。店員の話に依ると、ハムレット時計は元々売るつもりで製作したのではなく、さる好事家から頼まれて、気まぐれに数個作って見たのが偶々一つだけ店に残ったのであった。チューリッヒの支店には或はもう一つ残っているかも知れぬという。山田は急に元気づいて、ではチューリッヒに長距離電話で問合せて呉れ、と頼んだ。店員は快諾して直ちに問合せると、確に未だ一つ残っていることが判った。それなら何日頃に日本人が買いに行くから、それまで蔵っておいて呉れと重ねて念を押した。僕も安心してハムレットを買い取った。
 それから数日の後、僕等は約束通り、旅のついでにチューリッヒを訪れ、支店に立寄って、山田も芽出度く最後のハムレットを手に入れたのである。
 帰朝してから暫く、僕はハムレットを愛用してゐたが、或日、弟が、呉れとは云わぬが当分借りて置く、と云って持って行った。その後、弟がかねて親しくしてゐた知名の力士が、頗るハムレットに惚れこんで、弟に、頂戴するとは申さぬが当分拝借仕ると云って、持って行ったそうである。
 昨秋弟が死んだ後、僕は久しぶりでハムレットの行衛を、亡弟の妻に訊ねて見た。彼女も亦久しぶりでそれを思い出して、あれは元々拝借して更らに貸したのだから、近いうちにお届けすると云った。別に貴重な品でもないので、僕はわざわざ取戻すのはやめて呉れと頼んだ。然るに、旬日の後十数年ぶりのハムレットは、旧の如く、死の嗤笑を口辺に浮べながら、僕の書斎の机の上に、ちょこなんと乗っていた。手に把って耳に当てると、懐しい髑髏は相変らず、NOSCE・TE・IPSUM NOSCE・TE・IPSUMと囁いてゐる。
『時計』と題するボードレールの詩の中にも、「刻々の現在を示す秒針は、我は既に過去なりと囁く」とか「昼は減じゆき夜は増しゆく、心せよ」というような言葉があった。僕のハムレット時計は、惟ふに、ボードレール時計でもあろう。
(昭和十四年夏)

N・B 問題の時計は今は内田百鬼園氏の机上で「汝自身を知れ」と囁いている。而も百鬼園氏は「何時、時針を知れ」と洒落れのめしながら、時計を撫でている。然るに近頃、宮城道雄氏がしきりにその時計を撫でたがっているということを仄聞した。ハムレットの人気想う可し、である。





底本:「日本の名随筆 別巻22 名言」作品社
   1992(平成4)年12月25日第1刷発行
底本の親本:「辰野隆随想全集4 ふらんすとふらんす人」福武書店
   1983(昭和58)年8月
※底本は新字新仮名づかいです。なお旧仮名遣い「ゐた」「ゐる」「惟ふ」は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2015年1月16日作成
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