浜尾新先生

辰野隆




 毎週二回か三回、僕は帝大構内の、浜尾新先生の銅像の下を通つて、丘の上の教員食堂に午飯ひるめしを食べにゆくのだが、その銅像を眺める度毎に、在りし日の先生とは似てもつかぬ姿だと思はぬためしはない。率直に言へば、この銅像は浜尾先生ではないのだ。食へない狸爺的総長が年度がはりの予算について思案してゐるやうでもあり、総長の椅子も一時の腰掛としてはまんざらでもない、と云つたやうな政治家的人相が、観る者を親しましめないのである。その昔、僕等が慈父の如く懐しがつた故先生の特質がこの銅像には殆ど現はれてゐない。
 第一に、浜尾先生の顔はいつ見ても春風駘蕩で、その慈眼には子弟を愛する温情があふれるほど湛へられてゐたのに、銅像の顔には、かすかな笑ひの裡に、専制的な意志と皮肉な冷やかさが潜んでゐる。第二に、銅像のポオズが、未だ嘗て僕等が昔の先生に於いては一度も見たことのない、脚を組んで手で頬を支へた姿勢なのである。謹厳な先生にしても、その生涯に一度や二度はあんなポオズをされたこともあつたかも知れぬし、さうした姿の写真もあるのかも知れぬが、少くも僕等は、あの銅像のやうにバタ臭い先生の態度を一度も見たことがなかつた。どう考へても制作者は浜尾先生といふ仁を知りもせず、見もせず、その人格の香りに触れなかつたアルティストに相違ない。
 尤も、今の帝大学生は既に先生の※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)ふうぼうを知らず、在りし日の面影をしのぶよすがもないから、あの銅像が本尊に似なくても、何等の痛痒を感ぜぬだらうが、少しでも、先生の謦咳に接し温容に親しんだ人々は、仁者を描いて狗盗に類するあの銅像を、頗る物足らなく思ふことであらう。
 全く、浜尾先生のやうな名総長は何処の学府でも再び得られぬかも知れない。先生はL・L・Dといふ立派な学位を持つて居られたが、それが如何なる学問を意味するものか、僕は永い間知らなかつた。学生時代に僕等の仲間の一人が、一体L・L・Dといふのは何の学位だらうと云ひ出した時、誰も知らなかつた。誰いふとなく、『恐らく総長学だらう』といふことに一決したが、蓋し帝国大学総長といふタイトルと浜尾新といふ名前位ぴつたりと来る感じは滅多にあるものではない。
 先生は尽忠の君子であつた。東大の陸上運動会や短艇競漕や剣道、柔道の大会の折には、いつも先生が天皇陛下の万歳を三唱して会を閉づるのが吉例になつてゐた。而も万歳の声が先生の肚の底から発せられる時、僕等学生は厳かにして且つ朗かな気分になつて、心から先生の音頭に和して高らかに万歳を唱へ、日本帝国の学生たる幸福を満喫したのである。
 先生はまれに見る訥弁であつた。巧言令色には凡そ無縁の仁者であつた。而も先生の演説のまずさ加減が世の常の雄弁にもまして敬愛されてゐたのだから愈※(二の字点、1-2-22)貴かつた。嘗て青山胤通博士が先生の演説を聴きながら、会心の笑を漏らして、『あの拙さが何とも言へない――。』と三歎してゐたのを僕は小耳に挟んで、これある哉と思つた。幾度か聴いた浜尾先生の演説では『之を要するに』と云つて、実は何も要してゐなかつたり、『蓋し』が少しも蓋さなかつたりするのは珍しいことではなかつた。『諸君は……身体の……健康を……壮健にし……』などといふ珍妙な文句が聴衆を失笑させたことも度々であつた。而もそれがトンネルの中で法螺の貝を鳴らすやうな音声で語られると、真摯な情熱と愛嬌とが湧いて来るのであつた。
 先生は、また、話の長い人であつた。当時の多くの教授のうちでも、浜尾先生から電話がかかると、先づ短くて三十分と定めて、電話室に椅子を持ち出す人が少くなかつたといふ。

 先生の話の長さには、実は僕も散々に悩まされた経験がある。多分明治四十二年の夏だつたと思ふが、伊豆戸田の帝大水泳部に、芝居好きな学生が集つたことがあつた。そのなかでも、中野武二、谷口喬一、今村信吉なんぞ一騎当千の劇通が、茶話会の余興に声色こはいろぐらゐぢや気分が出ないから一層大仕掛に水泳部主催で芝居興行をやらかさうぢやねえか、といふことになつて、忽ち相談がまとまり、外題は一番目が千代萩床下の場、二番目が源氏店と決つた。水泳部の学生さんが芝居をやるといふ噂が戸田村は云ふに及ばず、近在の村々にも伝はつた。愈※(二の字点、1-2-22)当日となつて、その景気のすばらしさ、これは大変なことになつたぞ、と少し恐ろしくなるほどであつた。近村から岡づたひに、或は海を渡つて押寄せた観衆が六百人、氷屋やしるこ屋おでん屋まで店を張りだすといふ騒ぎになつた。床下の場を無事に了つて、愈※(二の字点、1-2-22)呼びものの『ゆすり場』となり、中野老鉄山の蝙蝠安、谷口喬一の与三郎、丹波五郎のお富、今村信吉の多左衛門といふ役割で、水泳部の食堂にぎつしりと詰つた六百の観衆を唸りに唸らせたのであつた。

 ところが好事魔多し、芝居興行の噂がまはりまはつて浜尾総長の耳に入つたのであつた。九月の新学期になつてから、誰いふとなく、水泳部の芝居騒ぎについては、総長は非常な立腹で、取締三人は退学、演技者一同は停学になるといふ噂が僕等にも伝はつて来た。取締三人とは医科の宮部昇、法科の霜山精一、それから斯くいふ僕なのだから――而も名は取締だが三人とも取りみだしと評判されてゐたので――お互にこの夏は少々取りみだしすぎたなあ、と寄り寄り話し合つては、びくびくしてゐた。唯一つの頼みは当時の運動部委員長丹波敬三博士の五男、五郎君がお富に扮して、妙技を揮つたのであるから、万一取締や演技者が厳罰に処せられるやうになつたなら、委員長はまさかに俺たちを見殺しにするやうなこともあるまい。殊に丹波博士は狂言の名手でもあつたから、歌舞伎にも多少の同情はあつて然るべきだと、僕等はそんなことでも当てにして、自ら慰める他はなかつた。
 九月の末であつた。水泳部取締三名、何日、午後一時、本部総長室に出頭すべしといふ達しがあつた。そら来たとは思つたが、僕等三人は『まさか退学にもなるめえ』と肩を聳やかしたが、それでも、総長室へ往く歩みはのろかつた。三人は端然として大仏の如く構へてゐる総長の面前に、卓を隔ててかしこまつた。浜尾先生は徐ろに口を切つて、取締ならびに演技者の学生の本分にもとる行動を誡めて、いやしくも帝国大学の学生が顔に粉黛をほどこして河原者の真似をするとは何事であるか。シェークスピヤやゲエテの傑作の中から学生の余興にふさはしい場面を択んで演ずるならまだしも、市井無頼の徒のいかがはしい風習行蔵を描いた唾棄すべき演劇の真似などは言語道断である。深く反省して今後を慎しんでもらはねばならぬ、といふやうな意味であつた。僕等三人も初めは唯々恐縮して、先生の顔を仰ぎ見もしなかつたが、叱られてゐるうちに、次第に呑気な気持になつて来て、時々先生の顔をちらりと眺めると、一向に声色を励ますところもなく、まるでおぢいさんが穏かに孫を訓すやうな態度なので、三人とも『まづまづ退校は免れたな』と思つて、漸く安らかな気持になつていつた。それにしても、先生の訓戒の長いのには三人とも、ほとほと閉口した。一時から三時まで、同じ言葉を繰り返し繰り返し、而も言葉と言葉の間が長く、もうお仕舞だらうと思つて、三人が尻をもぞもぞさせて立ち上らうとするが、どうしても呼吸が合はない。すると、先生がた同じ訓戒を始めからやりなほして『苟も学生が粉黛をほどこして……』と来るので、三人は新たに顔を見合せては、仕方なしに腰を落ちつけてしまふのだつた。
 たうとう、二時間あまり訓されづめに訓されてから、三人は芽出度く放免された。総長室を逃れ出ると、三人は申合せたやうに大欠伸をしながら、『長げえ小言だなあ!。』と大笑ひをしたのであつた。斯くて、取締と演技者一同は兎に角、退学や停学の処分を免れたことを互に祝福し合つたのである。

 浜尾先生の在任中、嘗て陸軍当局が一年志願兵制廃止の意向を帝大へ通告したことがあつた。先生は、たちどころに、国家の学問といふ見地から断乎として反対したのであつた。学生の修業期が中断されるのを国家の由々しき損失だと信じた先生は、自ら陸軍省に赴いて、当局を相手に例の大仏のやうな態度で志願兵制廃止の非なる所以を切言した。若し陸軍当局にして、飽くまで国家の学制を覆すやうな意向を固持するなら、帝国大学でも今後一切陸軍の依託学生の修学を拒絶する他はない、と力説して、軍部が主張を飜へすまでは、いつ迄も席を立たうとしなかつたさうである。先生の説くところは極めて平明で疑ひを容れる余地もなく、加之しかのみならず、同じ言説を、幾度となく繰り返されるので、流石の陸軍当局も、先生の欺かざる熱意と根気と、終りなき訥弁に、たうとうしびれを切らして、帝大の主旨を諒とするに至つたのださうである。而も堂々と所信を披瀝して憚らなかつた浜尾総長が軍部の怒りも恨みも買はず、軍部は軍部で帝大総長の人格と信念とを容れて、光風霽月の襟度を示した点は、当時、学府と軍部とがその思ふ所を忌憚なく語り合つて、倶に進まんとする美挙として、心ある者に深い感銘を与へたのであつた。
 浜尾先生は篤学の士を熱愛した。また先生の同僚や後輩の子弟にして帝大に遊ぶ者も少くなかつたので、さういふ学生には二代目に対する一種の感情を以て接して居られたやうに思はれた。我等の総長として在任中、僕は帝大の構内を楽しさうに散歩する先生に屡※(二の字点、1-2-22)会したことがあつた。恭しく帽を脱いでお辞儀をすると、先生は必ず、『勉強をして居るかね』と訊ねる。それから、『お父さんはお達者かね』と来る。これが何時も判で捺したやうにかはらぬ挨拶であつた。『勉強をして居るかね』と言はれても、当時一向勉強をいたして居りません僕には、この言葉がいつも痛く響いた。いつも『はツ!』と答へて、こそこそと逃げ出したものである。
 僕の記憶に誤りがなければ、片山国幸博士が未だ医科の学生であつた頃、或る朝、登校の際、本郷三丁目の辺で、後から、『片山君』と呼ぶ太い声に驚かされた。振り返つて見ると、それが浜尾先生だつたので、悪い人につかまつたとは思つたが、逃げるわけにもゆかず、二人の巨漢は肩をならべて歩き出した。然るに先生は一言も口を利かない。片山氏も口を利かない。二人は唖の如く――先生は悠々と黙しながら、片山氏は惴々焉として黙しながら――兎に角赤門まで辿り着いた。赤門をはいると、先生は左に折れて本部の方へ、片山氏はまつ直ぐに眼科の教室の方へ足を向けることになつた。片山氏が脱帽して別れようとした時、三丁目以来黙しつづけた先生は氏を顧みて、『お父さんはお達者かね』と第二の言葉を発したさうである。話と話とのの長いこと、蓋し先生の如きは罕であらう。
 復讐の女神ネメジスは人間の幸福を妬んで、之を傷けねばやまぬといふ。浜尾先生が不慮の火傷のために、僕等が祈念してゐた寿に先立つて、亡くなられたのは如何にも残念であつた。先生の如き人格者は、何をされずとも、唯生きて居られるだけで、僕等後身は何か清いもの、温かいものを感得して、寂寥たる人生の一角に春風の訪れるのを知つたのに、ネメジスは学会の大先輩を無理に奪ひ去つたのであつた。





底本:「日本の名随筆71 恩」作品社
   1988(昭和63)年9月25日第1刷発行
底本の親本:「忘れ得ぬ人々」角川文庫、角川書店
   1950(昭和25)年5月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2015年1月16日作成
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