桜島

梅崎春生




 七月初、坊津ぼうのつにいた。往昔、遣唐使が船出をしたところである。その小さな美しい港を見下す峠で、基地隊の基地通信に当っていた。私は、暗号員であった。毎日、がけを滑り降りて魚釣りに行ったり、山に楊梅やまももを取りに行ったり、朝夕峠を通る坊津郵便局の女事務員と仲良くなったり、よそめにはのんびりと日を過した。電報は少なかった。日に一通か二通。無い時もあった。此のような生活をしながらも、目に見えぬ何物かが次第に輪をせばめて身体をめつけて来るのを、私は痛いほど感じ始めた。歯ぎしりするような気持で、私は連日遊びほうけた。月に一度は必ず、米軍の飛行機が鋭い音を響かせながら、とうげの上をかけった。ふり仰ぐと、初夏の光を吸った翼のいろが、ナイフのように不気味に光った。
 或る朝、一通の電報が来た。
 海軍暗号書、「勇」を取り出して、私が翻訳ほんやくした。
「村上兵曹桜島ニ転勤ニ付至急谷山本部ニ帰投サレタシ
 午後、交替の田上兵長が到着した。
 その夜、私はアルコールに水を割って、ひとり痛飲した。泥酔でいすいして峠の道を踏んだ時、よろめいて一間ほどがけを滑り落ちた。まぶたが切れて、血が随分流れた。窪地くぼちに仰向きになったまま、すさまじい程えた月のいろを見た。酔ってれになった意識の中で、私は必死になって荒涼たる何物かを追っかけていた。
 翌朝、医務室で瞼を簡単に治療して貰い、そして峠を出発した。徒歩とほで枕崎に出るのである。生涯再びは見る事もない此の坊津の風景は、おそろしいほど新鮮であった。私は何度も振り返り振り返り、そのたびの展望に目を見張った。何故なぜ此のように風景がき活きしているのであろう。胸をむにがいものを感じながら、私は思った。此の基地でいろいろ考え、また感じたことのうちで、此の思いだけが真実ではないのか。たといその中に、訣別けつべつという感傷が私の肉眼を多分にゆがめていたとしても――

 枕崎から汽車に乗って、或る小さな町についた。そこでバスに乗り換えるのである。しかし日に一回のそのバスが、もはや、通過したあとであった。
 軍隊のトラックを呼び止めて、それに便乗びんじょうする手は残っていた。しかしそれも物憂ものうく、街の中央にある旅館に入って行った。そして飯をたべた。縁側に立って、夕方の空のいろを眺めていると、通りかかった若い海軍士官が私に声をかけて来た。私は、私の旅行の用向きを答えた。それから此の士官の部屋に行き、煎豆いりまめを噛みながら、しばらく雑談をした。
 やはり坊津の、山の上にある挺身ていしん監視隊長、谷中尉と言った。背が低い、がっしりした、眼の大きい男である。二十三四歳に見えた。先日、博多が空襲くうしゅうにあった際、博多武官府にいたと言う。その時の話をした。博多は、私の古里であり、博多にいる私の知己や友人のことを思い、心が痛んだ。
「美しく死ぬ、美しく死にたい、これは感傷に過ぎんね」
 谷中尉は、煎豆いりまめからをはき出しながら、じろりと私の顔を眺め、そう言った。
 日が暮れた。そして一泊することに、心をきめた。遊ぼうと言うので、宿屋を出て、駅の裏手にあるという妓楼ぎろうに出掛けて行った。宿のおんなに教えられた家は、暗い路の、生籬いけがきに囲まれた、妓楼らしくもないうらぶれた一軒屋である。前の崖の下を、煙突から赤いほのおをはきながら、機関車がゆるゆる通る。パッと火の粉が線路に散ったりした。星の見えない空には厚い雲の層が垂れているらしかった。
 おんなが一人しか居なかったのだ。そして、酒はなかった。谷中尉の発議はつぎで、私がくじをつくった。此のような場所で女と寝るのもわびしく、私は短い籤を引きたいと願った。しかし、私が長い籤にあたった。谷中尉は、お茶を一杯飲んだだけで、では、とわらいながら立ち上った。ややって、玄関から門までの石畳いしだたみを踏んで出て行く谷中尉の靴の音がきこえて来た。しばらくして、おんなが部屋に来た。
 妓には、右の耳が無かった。
 女と遊ぶ、このことが生涯の最後のことであることが、私にははっきり判っていた。桜島に行けば、もはや外出は許されぬ。暇さえあれば眠らねばならぬような勤務が、私を待っているのだ。私は窓に腰かけ、黙って妓を眺めていた。女は顔の半分を絶えず私の視線から隠すようにしながら、新しく茶をいれた。にわかに憤怒に似た故知らぬ激しい感傷が、鋭く私の胸をよぎった。
「耳がなければ、横向きに寝るとき便利だね」
 此のような言葉を、荒々しい口調で投げて見たくてしようがなかった。言わば、頭をかきむしるような絶望の気持で――妓を侮辱ぶじょくしたかったのではない。此の言葉を口に出せば、言葉のひとつひとつが皆するどい剣のようにはねかえって、私の胸に突き刺さって来るにきまっていた。口に出さずとも、もはや私の胸は傷ついているのではないか。私は、私自身を侮辱したかったのだ。生涯、女の暖い愛情も知らず、青春を荒廃させつくしたまま、異土に死んで行かねばならぬ自身に対し、此のような侮辱がもっともふさわしいはなむけではないのか。私は窓に腰かけたまま、じっと女の端麗たんれいな横顔に見入っていた。
「こわいわ」
 視線を避けるように、妓は一寸ちょっと横を向いた。かすかに身ぶるいしたようであった。一瞬、右の半面がとぼしい電灯の光に浮き上った。地のうすい頭から、頬がすぐにつづいていた。耳のついているべき部分は、ある種の植物の実の切口のように、蒼白あおじろくすべすべしていた。
「瞼を、どうしたの」
「崖から落ちたのさ」
「あぶないわね」
 私は立ち上って上衣を脱いだ。そして、時間が過ぎた。何の感興もない、ただ自分の肉体の衰えを意識するだけの短い時間のあいだ、私はぼんやり外のことを考えていた。此の町に、小さな汽車に乗ってやって来た。明朝はやくバスに乗って去る。一生のうち、初めて訪れた町であり、もう訪れることはない。此のうらぶれた妓楼の一夜が、私の青春のどのような終止符の意味をもつのだろう。私は窓の下を通る貨物列車の音をわびしく聞きながら、おんなと会話をかわしていた。
「桜島?」
 妓は私の胸に顔を埋めたまま聞いた。
「あそこはいい処よ。一年中、果物がなっている。今行けば、梨やトマト。枇杷びわは、もうおそいかしら」
「しかし、私は兵隊だからね。あるからといって勝手には食えないさ」
「そうね。可哀そうね。――ほんとに可哀そうだわ」
 妓は顔をあげて、発作的ほっさてきにわらい出した。しかしすぐ笑うのを止めて、私の顔をじっと見つめた。
「そして貴方は、そこで死ぬのね」
「死ぬさ。それでいいじゃないか」
 しばらく私の顔を見つめていて、急にぽつんと言った。誰に聞かせるともない口調で――
「いつ、上陸して来るかしら」
「近いうちだろう。もうすぐだよ」
「――あなたは戦うのね。戦って死ぬのね」
 私は黙っていた。
「ねえ、死ぬのね。どうやって死ぬの。よう。教えてよ。どんな死に方をするの」
 胸の中をふきぬけるような風の音を、私は聞いていた。妓の、変に生真面目きまじめな表情が、私の胸の前にある。どういう死に方をすればいいのか、その時になってみねば、判るわけはなかった。死というものが、此の瞬間、妙に身近に思われたのだ。覚えず底知れぬ不吉なものが背骨を貫くのを感じながら、私は何気ない風を装い、妓の顔を見返した。
「いやなこと、聞くな」
 紙のように光を失った顔から、眼だけが不気味に私の顔の表情につきささって来る。右の半顔を枕にぴたりと押しつけた。顔がちいさく、夏蜜柑なつみかん位の大きさに見えた。
「お互いに、不幸な話は止そう」
「わたし不幸よ。不幸だわ」
 妓の眼に、涙があふれて来たようであった。瞼を閉じた。切ないほどの愛情が、どっと私の胸にあふれた。歯を食いしばるような気持で、私は女の頬に手をふれていた。

 翌日の昼、霧雨きりさめの中を谷山に着いた。ごうの中は湿気に満ち、空気は濁っていた。暗号室は、壕の一番奥にあった。霧雨を含んでしっとり重い略帽りゃくぼうを手にさげ、はりで頭打たぬよう身体をかがめて入って行った。高温のため、眼鏡がふいてもふいても直ぐくもった。
「今すぐ桜島にって呉れ。あそこには暗号の下士官がいないのだ」
「一人、居るはずではないのですか」
「赤痢で、霧島病院に入院したんだ」
 掌暗号長とこういう話をした。
「すぐ出発します」
 暗号室を出て来ると、顔見知りの下士官や兵隊がいて、やあやあとあいさつした。此処ここはずっと雨で、二三日前は、居住区きょじゅうくの方の壕の入口が壊れたという。砂岩質の、もろい土質であった。湿気のためか、壕内はいやな臭いがした。兵隊の顔色は皆蒼白あおじろかった。
 佐世保海兵団から、桜島に行くべき兵隊が六名、間違えて谷山に来ているから、それらを連れて行けと言うので、私迄入れて七人、壕の入口に整列し、当直将校にあいさつし、また霧雨の中を赤土の路を踏み、市電の停留場へ進んで行った。聞いてみると、六名は皆補充兵である。回天や震洋艇しんようていの修理のために派遣されるのだと言う。
「桜島には、震洋がもう来ているのかね」
「判りませんです」
 答えたのは一番年嵩としかさの一等兵である。四十は既に越した風貌である。身体に合わない略服を着て、見すぼらしく見えた。衣嚢いのうも小さい。佐世保海兵団で焼け出されたため、ごくわずかの衣類しか支給されなかったと言う。私の衣嚢の重そうなのを見て、しきりに自分のものと交換してかつごうと言って聞かなかった。善良な型の人物のようであったけれども、軍隊の仕来しきたりに忠実であろうとするその愚直さが、私には何となく重苦しかった。
「俺のは俺が持つ」
 素気そっけなく私はそう言い、あとは黙って路を歩んだ。停留場に着いた。小さな電車に乗ってしばらく走ったと思うと、すぐ降された。爆撃された為、電車は此処迄しか通じないのだ。再び列をつくって、今度は舗装路を歩み出した。
 鹿児島市は、半ば廃墟はいきょとなっていた。鉄筋混凝土コンクリートの建物だけが、外郭だけその形を止め、あとは瓦礫がれきの散乱するちまたであった。ところどころこわれた水道のせんが白く水をふき上げていた。電柱がたおれ、電線が低く舗道ほどうっていた。灰を吹き散らしたような雨が、そこにも落ちていた。廃墟の果てるところに海があった。海の彼方かなたに、薄茶色に煙りながら、桜島岳が荒涼としてそそり立った。あのふもとに行くのだと思った。皆、黙ってあるいた。衣嚢が肩に重かった。
 波止場はとばで船を待っているうちに、空がようやく明り出した。雲が千切れながら、青い空を見せ始めた。船を待つ人は皆、痴呆ちほうに似た表情をし、あまり口をかなかった。切符売場の女の子達は、ふかした馬鈴薯ばれいしょを食べていた。それが変に私の食欲をそそった。私はそれから眼をらし、衣嚢に腰を掛け、無表情な群衆を眺めていた。昨夜の女のことを考えていたのだ。昨夜の情緒が、妙に執拗しつように私の身体に尾を引いているように思われた。何か甘いその感じが、逆に作用して、波止場にいる無感動な人々の表情に対する嫌悪をそそった。
(馬みたいに表情を失っている)
 私は激しく舌打ちをした。兵隊たちは、女の子から馬鈴薯をわけて貰い、私の眼をはばかるようにしてそれを食べていた。じりじりするような時間が過ぎた。やがて白い波頭を立てながら、船が来た。私達は乗った。濁った水をわけながら、船は動き出した。
 やがて着いた対岸の砂浜に板をおろし、ひとりひとり渡って飛び下りた。此処が桜島である。海沿いの道を約一里あるいて、袴腰はかまごしという処に部隊がある。眼をあげると、空は晴れ上って、朱を流したような夕焼であった。私の心もほっと明るくなるような感じであった。気軽く兵隊たちにも話しかけ、そして歩き出した。雨上りの、鮮烈な緑をたたえた樹々が道のくねりにしたがって次々につづいた。農家らしい家に立ち寄り、梨を沢山買った。
 茶褐色の、かたい小さな梨であった。気が付くと、群れ立つ樹々の間に、此の野生の梨はあちこちに茶褐色の実を点じていた。
「昨夜の女が言った梨が、これか」
 汁液の少ない、甘味に乏しい実をんではき散らしながら、私はそう思った。
 日が落ちた。満山に湧くせみの声も衰えた。薄明の中、私達は部隊に着いた。道から急角度にそそり立つ崖に、大きな洞窟どうくつを七つ八つも連ね、枯れた樹などで下手な擬装ぎそうをしている。ドラムかんなどが、壕の入口にいくつも転がっていた。そして兵隊が壕を出たり入ったりしている。皆、年取った兵ばかりであった。静かななみの音がした。
 当直将校に会い、七名分の送り状をわたし、私はそこで六名と別れた。通信科の兵が来て、それと一緒に居住区に歩き出した。通信科の居住区は、丘の頂上近くにある。暗い歩き難い山道をのぼりながら、私は空をあおいだ。参差しんしするこずえのために、星も見えなかった。
「まだ上の方かね」
「もうすぐです」
 少し広い道に出て、梢が切れた。片側が崖になり、暗い海の展望があった。かすかな風が私のまぶたにあたる。海の向うにはくろぐろと鹿児島の市街があり、そのひとところが赤いほのおをあげて燃えていた。疲労した私の眼に、その火の色は此の世のものならぬ不思議な色で、とろとろと静かに燃えていた。
「毎晩、ああやって燃えているのです」
 変に感動しながら、私は兵のその言葉を聞いた。
 狭い道に降り、そして居住区についた。崖下の洞窟より一回り小さい入口が、やはり竹や樹で小うるさく擬装してあって、電線が岩肌を何本も這って居た。壕はU字形をしているらしかった。身体をかがめて入って行った。
 壕の一番奥は送信所になっていて、発電機とか送信機がごちゃごちゃ置いてある。そこで電信の先任下士官などに会い、あいさつをした。送信所に到る通路が、いわば居住区の形で、寝台や卓子テーブルが並んでいた。その一つの卓にびんを置いて、準士官が一人酒を飲んでいた。骨組みは太そうだけれど、肉付きの薄い、通信科の軍人に特有の青白い皮膚をした顔の、こけた頬の上に赤く濁った眼がぎろりと私にそそがれた。陸戦の士官の持つような頑丈がんじょうな軍刀に片手を支え、酒盃しゅはいに伸びた手の指が何か不自然なほど長かった。
「村上兵曹か」
 私は敬礼をした。
「ここは、当直はつらいぞ。下士官だからといって、夜の当直を抜けることは、俺が絶対に許さん。他の基地のことは知らん。此処は少くとも第一線だ。毎日グラマンが飛んで来る。どうせ此処で、皆死ぬんだ。死ぬまで、人からわらわれたり後指をさされたりするようなことをするな」
 老人のようにしゃがれた声であった。
「判っております」
「俺は、俺はな、吉良きら兵曹長」
 投げつけるような口調くちょうでそう鋭く言ったと思うと、執拗なまで私の顔にそそいでいた視線をふいとらし、再び私の方を見ようともしなかった。私のことをすっかり忘れ果てた様子で、視線をじっと中空にえ、長い指でさかずきを唇にはこんだ。
「帰ります」
 敬礼をし、私は兵隊に導かれ、私に定められた寝台のところに行った。衣嚢を寝台の下に押込み、湿った服を脱いだ。山の下から、微かに巡検ラッパの音が流れて来る。寝台は二段になっていて、二階の方に、下手糞へたくそな字で、村上兵曹、と書いた新しい木札がかけてあった。梯子はしごを登り、私は毛布の上に横たわった。あおむけに寝た私の顔のすぐ上を、黒い電線や裸線が幾本も通り、壕内の乏しい電灯の光を吸うて微かに光った。天井からは絶えず細かい砂がはらはらと落ちて来るらしかった。私はそのまま目を閉じた。
(あの眼だ)
 軍人以外の人間には絶対に見られない、あの不気味なまなざしは何だろう。奥底に、マニヤックな光をたたえている。常人の眼ではない。変質者の瞳だ。最初に視線が合ったとき、背筋を走りぬけた戦慄せんりつは、あれが私のおびえの最初の徴候ちょうこうではなかったか。私が思うこと、考えることを、だんだん知って来るに従って、吉良兵曹長は必ず私を憎むようになるに決っている。それは一年余りの私の軍隊生活で、学び取った貴重な私の直観だ。あの種類の眼の持主は、誤たず私の性格を見抜き、そして例外なく私を憎んだのだ。
「苦手!」
 私はそう口に出してつぶやいた。此の桜島での生活が、何時まで続くか判らない。しかし死の瞬間までに到る此処での生活の間、彼を上官としていただかねばならぬこと、漠然たる不吉の予感がにがく私の胸をつつんだ。
 昨夜の記憶が、遠い昔のことのように感じられた。それは遥かな、もはや帰って行けぬ世界であった。
 そのうちに私は、うとうとと深い眠りに落ちて行ったらしかった――

 こうして、私の桜島の生活が始まった。
 昼間は二直制。夜は三直制。そして午後六時から巡検時迄、昼直とも夜直ともつかぬ直があって、それは午前の直に立ったものが当る仕組になっていた。だから、多い日は一日十二時間の当直に立たねばならなかった。それも電報量が多いという訳ではない。電信員の技術が落ちて来たためと、暗号員の質の低下のために、たとえば昼間六時間の当直の間、一通の電報すら翻訳しかねているような暗号員がいる位であった。もっとも此処の暗号員は大部分が志願兵で、十五歳というのもいた位だから、無理もないのであろう。その上悪いことには、昼間の当直でないときは、彼等は皆、壕掘りに使役しえきされていた。そのため夜の当直では、彼等はそろって居眠りし、一通の電報が交替の度にそのまま申しがれ、朝になっても完全な翻訳が出来ていなかったりする。その責任はすべて当直下士官にかかって来る。
 暗号室は、受信室と一所の壕になっていて、丘の中腹にあった。方角が悪いせいか、湿気が多くて、ひどくむし暑い。交替のとき入って行くと、空気がにごっていて、いやな気持がした。だから之に、通風のための穴を一つ掘るというのである。換気かんきと涼風入れを兼ねた此の工事は、まこと良い思い付であったに違いなかったが、ある日私が現場に行って、私の直の兵隊が働いているのを監督がてら、計算した結果に依れば、此の風穴が完成するのは少くとも三箇月はかかるのである。十一月頃になったら、さだめし涼しい風が吹きこむことであろうと、むしろ腹立たしく、私は兵隊に話しかけた。
「此の工事は誰の命令だね」
「吉良兵曹長です」
「それまで此処がつと思うのかね」
 その兵は、もっこをわきに置いて、私の前に立った。
「此の穴が出来上らないうちに、米軍が上陸して来ますか」
 真面目な表情であった。十五歳になるという少年暗号員である。私はたばこを深く吸い込みながら、聞いた。
「勝つと思うか?」
「勝つ、と思います」
 童話の世界のように、疑いのない表情であった。ふっと暗いものを感じ、私はをふって作業を始めるように合図した。そのとき、私は不機嫌な顔をしていたに違いない。私は立ち上り、たばこを踏み消した。そしてあるき出した。
 だらだら坂を登り切ると、丘の頂上は喬木きょうぼく疎林そりんとなり、その間を縫うみちを通るとき、暑い午後の日射ひざしは私の額にそそぎ、汗が絶え間なくしたたった。林をぬけると、やや広闊こうかつな草原があった。大きな栗の木が、その中央に生えていた。その木の下に、一人兵隊がいて、私の跫音あしおとにびっくりしたように振り返った。
 四十を越したか越さない位の、背の低い男であったが、私はふと彼の手にした双眼鏡そうがんきょうに目を止めた。私の不審そうな視線に、男は人なつこそうな笑いをちらりと見せて、はっきりした声で言った。
「見張です」
 そう言えば、栗の木の幹を利用して電話が設けてあり、此の草原からは湾内も大空も一望いちぼうの中にあった。草いきれの中を、私はその男に近づいた。
「あいているなら、双眼鏡を貸して呉れないか」
「ええ、いいですよ。お使いなさい」
 双眼鏡を受取った。ずっしりと重かった。眼に当てて、ゆるゆる視野しやを移動した。
 大正初年の爆発によって海水になだれ入った溶岩のみさきが、すぐ目の前にあった。そのこちらが軍用の船着広場で、中央に中世紀の塔に似た放水塔があり、それに群れて水をくんだり洗濯せんたくしたりしている兵たちの姿が見えた。そして油を流したような海。船着場にある発動機船、そして私の頭の回転につれて、双眼鏡の視野に、大きく桜島岳の全貌ぜんぼうが浮び上って来た。
 それは、青いものが一本もない、代赭たいしゃ色の巨大な土塊の堆積たいせきであった。赤く焼けた溶岩の、不気味なほど莫大なつみ重なりであった。もはや之は山というものではなかった。双眼鏡のレンズのせいか、岩肌の陰影がどぎつく浮き、非情の強さで私の眼を圧迫した。かれたように私はそれに見入っていた。
「ちょっと」
 低い押しつけられたような声であった。私は思わず双眼鏡をはなして、その男の顔を見た。中腰の姿勢で、眼を据え、耳を立てている。
「飛行機です」
 男は私から双眼鏡を受取ると、南の空に目を向けた。私には何も聞えない。ただ蝉の声が降るようにはげしかった。
 空には雲がなかった。太陽はぎらぎら輝きながら、むなしい速度で回転していた。その大空の何処かを、鋭く風を切って、飛行機が近づいて来る気配けはいがあった。
 男は、双眼鏡を眼から離すと、栗の木の電話機に飛びついた。呼鈴よびりんをならした。此のような山の中で聞く呼鈴の音は、妙に非現実的に響いた。
「グラマン一機、ええ、グラマン一機、鹿屋かのや上空。針路、針路北北西――」
 その時、突然のように、えた金属性の響きが、微かながら私の耳朶じだをとらえた。私が空を振り仰ごうとしたとき、男の手が私のひじをとらえた。
待避たいひ、待避しなくてはいけません」
 栗の木から五メートル位離れた、灌木の茂みのそばに、一寸した窪地があって、私達は少しあわててそこに走り込んだ。二人並んであおむけに寝た。胸が動悸どうきを打っている。
「これが、私の寝棺ねかんです」
 男は低い声で言い、微かな笑い声を立てた。まこと、寝棺の形であった。二人では、狭すぎる。何か答えようとして、私が男の方に身体を動かしかけたとたん、空気をち切るような金属音が急に破裂するように増大し、轟然ごうぜんたる音の流れとなって私達の頭上をおおった。私の視野を、銀色に輝きながら、グラマンが大きく現われ、そして瞬時にして消えた。思わず身体を起しかけたとたん、引裂くような機銃の音が連続しておこり、そして止んだ。飛行機の爆音は見る見るうちに小さくなり、海のむこうに消えて行ったらしかった。飛行機の通りすぎる間、忘れてしまっていた蝉の声が、此の時になってよみがえって来た。男は身を起して、電話機についた。
「鹿児島方面に退去。ええ、退去しました」
 しばらくして待避もとへのサイレンが遠く山の下から聞えて来た。私も立ち上って、草原のはなに立ち、あたりを見下した。今迄あちこちに待避していたらしい人影が、道路や広場にぽつぽつと現われて来た。
 私は男と並んで草原に身をなげ出してすわった。
「グラマンがよくやって来るね」
「今日は、まだ初めてですよ」
 男は私の顔をちらと見て言った。
「兵曹は応召おうしょうですか」
「補充兵だよ」
「下士候補の?」
「そう。受けたくなかったけれど」
「兵隊でいるよりはいいでしょう」
 男はそう言い、神経質な笑い声をたてた。
「蝉が、多いね」
「夜でも、うっかりすると鳴いているのですよ」
「つくつく法師は、まだかね」
「まだですよ。あれは八月十日すぎ」
 男の表情に、いらいらした影が浮んで消えた、と思った。
「つくつく法師は、いやな蝉ですね」
 男はそう言い、一寸間をおいて、
「私はね、あの蝉は苦手なんですよ。毎夏、あの蝉が鳴き出す時、いつも私は不幸なんです。変な言い方だけれど。――去年は、六月一日の応召。そして佐世保海兵団、御存じでしょう、十分隊。そこにいて、毎日いやな思いで苦労して、この先どうなることかと暗い思いをしているとき、食事当番で烹炊所ほうすいじょの前に整列していると、その年初めてのつくつく法師がそばの木に取りついて、いやな声立てて鳴きましたよ。丁度ちょうど、サイパンがちた直後で、どうせ私達は南方の玉砕ぎょくさい部隊だと、班長たちから言われていた時で――」
 声が一寸途切れた。
一昨年おととしもそうでした。その前の年も。いつも悲しい辛いことがあって、絶望していると、あの蝉が鳴き出すのです。あの鳴き声は、いやですねえ。何だか人間の声のようじゃないですか。へんに意味ありげに節をつけて、あれは蝉じゃないですよ。今年も、どのような瞬間にあの虫が鳴き出すかと思うと、いやな予感がしますよ」
 暫く黙っていた。私が聞いた。
「で、見張には?」
「秋になって、見張の講習に行ったのです。いろいろつらいこともあったのですよ」
「年取っていると、なおのことそうだろうね」
「年齢のせいだけでもありませんよ」
「判らない奴が多いからな」
 男は黙っていた。
「志願兵。志願兵上りの下士官や兵曹長。こいつらがてんで同情がないから」
 男はうなずいた。そして、低い、沈欝な調子で言った。
「私は海軍に入って初めて、情緒というものを持たない人間を見つけて、ほんとに驚きましたよ。情緒、というものを持たない。彼等は、自分では人間だと思っている。人間ではないですね。何か、人間が内部に持っていなくてはならないもの、それが海軍生活をしているうち、すっかり退化してしまって、蟻かなにか、そんな意志もない情緒もない動物みたいになっているのですよ」
「ふん、ふん」
「志願兵でやって来る。油粕あぶらかすをしめ上げるようにしぼり上げられて、大事なものをなくしてしまう。下士官になる。その傾向に、ますます磨きをかける。そして善行章を三本も四本もつけて、やっと兵曹長です。やっとこれで生活が出来る。女房を貰う。あとは特務少尉、中尉、と、役が上って行くのを楽しみに、恩給の計算したり、退役後は佐世保の山の手に小さな家を建てて暮そうなどと空想してみたり。人間の、一番大切なものを失うことによって、そんな生活を確保するわけですね。思えば、こんな苛烈かれつな人生ってありますか。人間を失って、生活を得る。そうまでしなくては、生きて行けないのですか。だから御覧なさい、兵曹長たちを。手のつけられない俗物になってしまっているか、またはこちこちにひからびた人間になっているか、どちらかです」
「そうだね」
 私は、吉良兵曹長のことを頭に思い浮べていた。彼は、ひからびた男でもなければ、また俗物でもない。全然違った別の型の人間だ。志願兵の頃から、精神棒などで痛めつけられていた人間、他の人間ならあきらめて忍従して行くところを、おそらくは胸に悲しい復讐の気持を、自ら意識せずに育てて行ったにちがいない。人間の心の奥底にある極度に非情なものを、育てて行き磨いて行き、それを自我にまで拡げて行ったに違いない。やっと兵曹長となり、一応の余裕が出来て、あたりを見廻した時、ひそかに育てて来た復讐のきばは、実はむなしいものにせられてあったことに気付いたに違いないのだ。彼はきばを、自分自身に突き刺すより仕方がなかったのだ。彼の奇妙な性格も、異常な動作も、そして彼にとって唯一の世界である海軍が、沖縄の戦終り、既に潰滅かいめつしたことによるいらいらした心情も、おそらくは皆そこにあるのだ。通信科の兵隊を集めての故もない制裁せいさいの場における、彼の偏執的な挙動きょどうを、私は瞼の裏にまざまざと思い浮べていた。それは、二三日前のことであった――
 赤痢が流行していた。その日、暗号の兵隊が一人、野生の梨をもいで食べ、そして赤痢の疑いで霧島病院に送られた。梨を食うことは、堅く軍医の禁ずるところであった。医務室でその兵と別れ、居住区に戻り夕食を私は食べていた。湾内でれるらしい細長い小さな魚の煮付を噛んでいたとき、私の背後を通り抜け、そして振り返った。吉良兵曹長であった。
「村上兵曹、山下はどうした」
「霧島行きに決まりました」
「梨を食ったというのは、本当か」
「本当らしいです」
 山下というのは、その一等水兵の名である。吉良兵曹長の顔に、急に怒りの表情があらわれた。
「梨を食うなということは、度々兵隊に言ってあるではないか。近頃の兵隊は、気合は入っていない癖に、悪いことは一人前する」
 押しつぶされたような声であった。じっと私の顔を凝視ぎょうししながら、
「下士官も悪い。下士官がだらしないから、兵隊が我ままをする。俺の命令を聞きたくなければ、聞きたくなるようにしてやる。村上兵曹。兵隊を整列させろ」
 私は黙っていた。一人が梨を食ったというかどで、残り全部の兵隊が制裁されることはまことに意味が無いことだ。数日間の此処での生活で、私は私の部下にあたる暗号兵たちに、ほのかな愛情を感じ始めていた。意味なく制裁されるような目に合せたくなかった。表情を変えず、私は頑固に押し黙っていた。吉良兵曹長は急に横をむくと、送信所の方に急ぎ足で入っていった。
 私は元にむいて、食事をつづけた。私は、応召以来、佐鎮さちんの各海兵団や佐世保通信隊や指宿いぶすき航空隊で、兵隊として過ごして来た。さまざまの屈辱くつじょくの記憶は、なお胸に生々しい。思い出しても歯ぎしりしたくなるような不快な思い出は、数限りない。自分が目に見えて卑屈な気持になって行くこと、それがおそろしかった。
(しかしもう死ぬという今になって、それが何であろう)
 私は暗い気持で食事を終えた。壕を出、落日のみちを降り、暗号室に入って行った。そして当直を交替した。
 電報は多くなかった。今日の電報つづりを見ても、銀河一機どこそこをったとか、品物を何番号の貨車で送ったとか、あまり重要でない電報ばかりである。当直士官に立っている暗号士がうつらうつら居眠りをしている。電信機の音が四辺あたりに聞える。電信兵の半ばは、予科練の兵隊である。練習機不足のため、通信兵に廻された連中なのだ。私は頬杖をついたまま、目を閉じた。
 ――先刻、夕焼の小径こみちを降りて来る時、静かな鹿児島湾の上空を、古ぼけた練習機が飛んでいた。風にさからっているせいか、双翼をぶるぶるふるわせながら、極度にのろい速力で、丁度空を這っているように見えた。特攻隊に此の練習機を使用していることを、二三日前私は聞いた。それから目を閉じたいような気持で居りながら、目をらせなかったのだ。その機に搭乗とうじょうしている若い飛行士のことを想像していた。
 私は眼を開いた。坊津の基地にいた時、水上特攻隊員を見たことがある。基地隊を遠く離れた国民学校の校舎を借りて、彼等は生活していた。私は一度そこを通ったことがある。国民学校の前に茶店ちゃみせ風の家があって、その前に縁台を置き、二三人の特攻隊員が腰かけ、酒をのんでいた。二十歳前後の若者である。白い絹のマフラーが、変に野暮やぼったく見えた。皆、皮膚のざらざらした、そしてすさんだ表情をしていた。その中の一人は、何か猥雑わいざつな調子で流行歌を甲高かんだかい声で歌っていた。何か言っては笑い合うその声に、何とも言えないいやな響きがあった。
(これが、特攻隊員か)
 丁度、色気付いた田舎の青年の感じであった。わざと帽子を阿弥陀あみだにかぶったり、白いマフラーを伊達者だてしゃらしくまとえば纏うほど、泥臭く野暮に見えた。遠くから見ている私の方をむいて、
「何を見ているんだ。此の野郎」
 眼をけわしくして叫んだ。私を設営隊の新兵とでも思ったのだろう。
 私の胸に湧き上って来たのは、悲しみとも憤りともつかぬ感情であった。此の気持だけは、どうにも整理がつきかねた。此の感じだけは、今なお、いやな後味を引いて私の胸に残っている。欣然きんぜんと死におもむくということが、必ずしも透明な心情や環境で行われることでないことは想像は出来たが、しかしのあたりに見た此の風景は、何か嫌悪すべき体臭に満ちていた。基地隊の方に向って、うなだれて私は帰りながら、美しく生きよう、死ぬ時はくいない死に方をしよう、その事のみを思いつめていた。――
 ふと気が付いて私はあたりを見廻した。暗号室のテーブルは、私の外二人の兵隊がいるだけで、あとの席には、「呂」の厚い暗号書や、乱数盤らんすうばんが組立てたままほうり出されているだけで、誰もいなかった。
「此のちょくはどうしたんだ。もう交替時間はとっくに過ぎているじゃないか」
 一人の兵隊が顔を上げて答えた。
「皆来ていたのですが――」
「来ていて、どうしたんだ」
「居住区から呼びに来たのです。電報持っているものだけ残って、手空てすきは全部来い、と言って」
「誰が、呼んだのだ」
「吉良兵曹長、だそうです」
 兵隊は、何かおどおどした調子で、そう答えた。私は、顔の表情がこわばって来るのが、自分でもはっきり判った。
 兵隊を直接指導して行く立場にあるのは、下士官である。その任にあたる立場を、私が無視された、その事が口惜しかったのではない。もはや此処が戦場になるということが、時間の問題となっている現在にもかかわらず、味方同士で何をきずつけ合う必要があるのだろう。そのことが哀しく胸に響いて来た。ここにいる二人の兵隊も、同僚が居住区で何をされているか、よく知っている。偶然、電報を翻訳していたそれだけの理由で、それからまぬかれている。後ろめたさと漠然たる不安で、陰欝な表情のまま、暗号書を繰っている。何かやり切れない、不快な気持が、私をいらいらさせた。
「よし、居住区に行ってみる」
 誰にともなく私はつぶやき、立ち上った。狭い通路を通り抜け、外はすでに黄昏たそがれであった。山道を走り登り、横に切れる小径へくだろうとしたとき、私は思わず立ち止った。居住壕の入口に、吉良兵曹長が立っていた。そして、居住壕前の海を見下す斜面に、兵達は皆両手を土に着け、「前へ支え」の姿勢をしていた。吉良兵曹長は、三尺程の棒を片手に下げ、腰を下げて地につけたりしようとするのを、大声出して怒鳴りつけていた。私は歩をゆるめながら、そこに近づいた。
 その姿勢を余程よほど長く兵達がつづけているということは、その姿勢のくずれ方や、手を楽なように置き換えようとする絶望的な努力の様子で、はっきり判った。彼等はそろって頭を垂れていた。黄昏たそがれの薄い光の中で、私は私の足もとの兵隊のひたいから、脂汗あぶらあせがしたたり落ちるのをはっきりと見た。私は息が苦しくなった。新兵の時、私も何度もこれをやらされた。常人よりも膂力りょりょくの弱い私は、常に人一倍の苦痛を忍ばねばならなかった。その記憶が眼前の光景につながり、呼吸いきがつまるような気がした。私は、吉良兵曹長の顔をぬすみ見た。
 とぼしい光線の中で、吉良兵曹長の顔は、思わずぎょっとする位、青ざめて見えた。非常な苦痛を押しこらえているような不思議な表情が、彼の顔をゆがめているようであった。眼だけが、偏執的に光りながら、伏せている兵隊の背にあちこち動いた。燃えるようなひとみのいろであった。不意に振り返り、私の方を見た。
「村上兵曹。皆を立たせろ」
 そう言いすてると、棒を崖の下になげすてた。棍棒こんぼうは岩角に二三度にぶい音を立てて、熊笹の谷間に落ちて行った。彼は立ち止り、一寸ちょっと何か言いたそうにしたが、何も言わず、私に背を向け、大股に居住区に入って行った。幅の広い、やせた肩のあたりが、何となく淋しそうに見えた。
「立て」
 兵達は、皆のろのろと大儀たいぎそうに立ち上った。疲労がそうさせるのか、皆一様な単純な表情であった。考える力を喪失した、言わば動物園のおりのけもののようであった。妙に不気味な圧迫を私は感じながら、私は低い声で言った。
「当直の者は当直へ、残りは別れ」
 当直の兵隊と一緒に暗号室への道を歩み出した。海の面だけが淡く暮れ残り、群れ立つ樹々の間は暗かった。兵達を立たせ、そして私が一席の訓戒くんかいを加えることを、吉良兵曹長は予期したのだろうか。あるいは兵隊に苦痛をあたえたことだけで事足りたであろうか。私には判らなかった。うしろに何か重い物を引きったような歩き方で、居住区の中に消えて行った彼のうしろ姿が、奇妙に私の眼にみついて離れなかった。ほかの下士官がやるように、自分たちが兵隊であった折にやられたから、今兵隊に同じことをやる、といったような単純なものではないであろう。痼疾こしつのように、吉良兵曹長の心にくう何物かが、彼をかり立てているようであった。私の理解を絶した、おそらくは彼自身にも理解出来ない鬼のようなものが、彼の胸を荒れ狂っているようであった。
(あの眼が、それだ)
 新兵教育を受けた時、私の班長がやはり、性格の上では違っていたけれども、そのたぐいの眼を持った下士であった。平常は温和な、そして発作的に残忍なふるまいをする。あとで何か事件を起して軍法会議に廻ったことを聞いた。私は此の男のことをふと思い出していた。
 所詮しょせん、彼等は私と全く異った世界に住む男達であった。そして、私は、吉良兵曹長の中に住む鬼を、理解するには、あまりにも疲れ過ぎている。疲れていると言うよりは、そのような無縁のものを考えるより、私には、せまり来つつある自らの死のことが気になっていたのだ。桜島に来て以来、このことは常住じょうじゅう私の心を遠くから鈍くおびやかし続けている。――

 確かに、私は苛立いらだっている。連日の睡眠不足のせいもあった。が、それだけではなかった。一言で言えば、私は、私の宿命が信じ切れなかったのだ。何故私が、小学校の地理では習ったけれども、訪れる用事があろうとも思えなかった此の南の島にやって来て、そして此処で滅亡めつぼうしなければならないのか。この事が私に合点がてんが行かなかったのだ。合点が行かなかったというより、納得なっとくしようと思わなかったのだ。納得出来るわけのものでなかった。しかし事態は、急迫していた。どの道どのような形でか、覚悟を決めなければならぬ処まで来ていたのだ。
 暗号室や居住区での雑談で、米軍が何処に上陸するかということが、時々話題にのぼった。海軍は吹上浜ふきあげはまに上陸を予想し、陸軍は宮崎海岸の防備に主力を尽しているという噂がまことしやかに語られた。沖縄は既に玉砕したし、大和やまとの出撃も失敗に終った。日々に訳す暗号電報から、味方の惨敗ざんぱいは明かであった。連日飛来ひらいする米機の様相から、上陸が間近であることも必至ひっしであった。不気味な殺気をはらんだ静穏せいおんのまま、季節は八月に入って行った。八月一日の真夜中、私は当直に立っていた。
 土のにおいのする洞窟の、薄暗い灯の下で、皆不機嫌の眼を光らせて、暗号を引いていた。ときどき電信室の方から、取次が眠そうな眼をして電報を持って来た。暗号書をめくる音が、変に小うるさく感じられた。私は手を伸ばして、今持って来た電報を取り上げた。作戦特別緊急電報である。はっとして私は頭を上げた。いよいよ何か起ったのではないか。私は急いで暗号書を繰った。一語一語、訳文書に書き取った。
「敵船団三千隻見ユ。針路北」
 大島見張所の発信である。私は立ち上った。
「敵船団の電報です」
 当直士官の眠たげな顔に、一瞬緊張の色が走った。
 電鈴が鳴って、すぐ幕僚室ばくりょうしつに通報され、暗号室に至る通路に、枕を並べて眠っていた暗号士や掌暗号長や通信士が、兵隊に起されてぞろぞろと起きて来た。暗号室に入るとき、一様に眼をしかめ、灯から眼をそむけるようにした。指揮官卓に集って、低い声で話し合った。
 にわかに電報量が多くなった。作戦特別緊急電報ばかりである。報告や通報や、各部隊に対する命令電波が、日本中に錯綜さくそうしているらしかった。船団は明かに東京方面を目指していた。千葉海岸あたりに殺到し、一挙に東京を攻略するのではないか。それはあり得ないことではなかった。
(東京都民は、今頃何も知らずに眠っているだろう)
 応召するまで私が住んでいた本郷のことや、また友達のことが、突然のようにはっきり頭に浮んで来た。それは戦争とは関係のない静かな街であり、平和な人々の姿であった。私が自分に落ちるものと覚悟していた悪運が、今や彼等の上に置き換えられようとしている。此の、死の巨大な凶報も心付かずして、寝床の中に穏かな顔をして眠っているのではないか。一つの或る想念が、私の心を烈しい苦痛を伴って突き刺した。
(もし東京に上陸するならば、桜島にいる私はたすかるのではないか?)
 うめくような気持で、私は此の考えを辿たどっていた。――
 私の背後の指揮官卓での話し声が少しずつ高くなって来た。ときどき、笑い声がまじった。緊張のなかに、へんに自棄やけっぱちな気持がこじれたままふくれ上り、冗談を言い合う声が奇妙にうわずって来るらしかった。
「軍令部や東通の連中、いい配置かと安心していた奴等が泡食うぜ」
太えしくじりとぼやいてもおっつかない」
「しかし関東平野は逃げでがあるだろう」
 誰かが口をはさんだ。
「特攻隊は、出撃する様子かな」
 暫く誰も口をかなかった。その沈黙が、痛いほど私の背にのしかかって来た。その瞬間、投げやりな調子で、誰かが冗談を言った。
「どうせ来年の今頃は、俺達はメリケン粉かつぎよ。佐世保港かどこかで」
 低い笑い声が起った。
「兵隊も準士官も無しよ。そうなれば」
 突然、笑いを含まぬ質の違った口調が、その会話をち切った。
「馬鹿な事を言うなよ」
 真面目な、はげしい声であった。笑い声が止んだ。私は身体を少しよじって、背後をぬすみ見た。
「兵隊の居る処で、不見識なこと言うのは止めろ」
 吉良兵曹長であった。何時暗号室に入って来たのか、私は知らない。眺めているのもはばかられて、私は前にむきなおり、暗号書を繰るふりをした。そう言いながら、吉良兵曹長は立ち上ったらしかった。白けた空気の中から、
「冗談じゃないか。冗談だよ」
 誰かが止める気配けはいがした。
「誰も日本が負けるなどとは思っていないよ」
「冗談にしてもだ、言って良いことと悪いことと――」
「吉良兵曹長。言いがかりのようなことはよせ」
 なに、と言葉にならない言葉が聞えたと思うと、何かからみ合うような気配のうち、肉体がぶつかり合うようなにぶい音がし、小さくなっている私の背に、誰かがよろめいてたおれかかった。乱数盤が、かたりと床に落ちると、数十本の乱片がそこらにみだれ散った。烈しい呼吸が、私の襟筋えりすじをかすめた。私は背筋を硬くして、じっと暗号書を見つめていた。低いうつろな笑い声のようなものが、聞えたと思った。私は思わずふり返った。壕を支えた木組きぐみによりかかって、背の高い吉良兵曹長の顔は、ろうのように血の気を失い、仮面に似た無表情であった。見ていけないものを見たような気持で、思わず目を外らしたとき、うめくような小さな声で、吉良兵曹長の声がした。
「よして呉れ」
 冗談を言うのをよせと言うのか、醜い争いをするのをよせと言うのか、自分に言い聞かせるような弱々しい声音こわねであった。白々しい沈黙が来た。その中を、よろめくようにして、吉良兵曹長は壕を出て行ったらしかった。湿った土くれを踏む長靴の音が、それにつづいた。そして、緊張のあとの、ゆるんだ気配が背に感じられた。私は今日の電報綴りを意味なく繰っていた。繰る指が、おさえようとしてもぶるぶるふるえた。
(船団が見えた。それだけのことに皆興奮している)
 私をも含めて、度を失った此の一群の男たちに、私は言い知れぬ不快なものが胸に湧き上って来るのを感じた。不快と言うよりも、もっと憤怒に近い感情であった。ああ、自分の体も八つ裂きにし、そして彼等のも八つ裂きにし、谷底にでも投げ込みたい。私は手刀てがたなで力をこめてくび筋を、えいえい、とたたいた。たたく度に後頭部に、しびれるような感覚をともなって血が上って来た――
「村上兵曹。村上兵曹。訳文点検てんけん御願い致します」
 兵隊の声であった。私は手を伸ばして訳文紙を受取った。稚拙ちせつな字で、翻訳文がしたためてある。
「サキノ敵船団ハ夜光虫ノ誤リナリ。大島見張所」
 苦い笑いが浮び上って来た。すべては茶番ちゃばんに過ぎないではないか。もし米軍が日本の電波状況を傍受ぼうじゅしていたなら、此の突如として巻き起った電波の嵐を、――大島から横鎮よこちんへ、横鎮から全国へ、部隊から部隊へ、ひっきりなしに打ち廻された作戦特別緊急信の大群を、何と解釈しただろう。此の部隊にも、先刻佐鎮さちんから、即時待機たいきの命令が出た。今頃は整備兵らが起されて、仕事にかかっているはずである。夜光虫の誤りだと判ったとき、整備兵たちはどんな思いでまた寝にくのであろう。にがい笑いは、何か生理的な発作ほっさのように、無く湧き上ってまなかった。私は立ち上り、訳文を当直士官に差し出した。指揮官卓にいた準士官等の視線が、それに集った。読んでも、誰も笑わなかった。
「夜光虫、か」
 変に感動のうすれた声で誰かが言った。
 私は席に戻り、当直士官が幕僚室に電話をかける声を聞いていた。電話機の具合が悪く、夜光虫、というのが仲々なかなか通じないらしかった。その声に混って、外の準士官等の、疲れたような口調くちょうの会話を耳にとめていた。
「近頃、いらいらしているらしいのだね」
「ひがんでるのさ。やっこさん」
 会話は、それだけで止んだ。もはや起きている必要はないというので、それぞれの寝室へ、壕を出て行くらしかった。
 三時になった。交替の当直員が来た。私達は申継もうしつぎをし、並んで暗号室を出て行った。通路を出ると、真闇まっくらであった。私は目を慣らすために、出口の崖によりかかり、しばらく待っていた。対岸の鹿児島市は、相変らず一二箇所、静かにほのおを上げていた。もはや消す気もないようであった。昨夜と同じ個所が、同じ量の焔をあげて、とろとろと燃えている。――
 歩き出した。片手を崖に沿わせ、歩き悩みながら、私は、大船団に見まがう夜光虫の大群の光景を想像していた。暗い海の、果てから果てまでキラキラと光りながら、帯のようにくねり、そしてゆるやかに移動して行く紫色の微光を思い浮べたとき、私は心がすがすがしく洗われるのを感じた。先刻の気持の反動と判っていながらも、私は此の感傷に甘く身をひたしていた。ひそやかな孤独の感じが、快よく身体をりょうしていた。夜風が、顔の皮にあたって吹いた。
 山道を長いことかかって登り、居住区に着いた。入口を入ると、奥のテーブルによりかかり、誰かが腰をおろしていた。私の方を見た。吉良兵曹長であった。今までそのままの姿勢で、じっとしていたらしかった。
「上陸地点に近づいたか」
「あれは、夜光虫だそうです」
 私は事業服のえりひもを解きながら、そう答えた。安堵あんどとも疑惑ともつかぬ妙な表情が、彼の顔にちょっと現われて消えた。いじめられた子供のように切ない表情にも見えた。光を背にしているので、それもさだかでなかった。そして眼を閉じた。
 私は、寝台に行き、音のしないように横になった。両掌りょうてをそろえて、顔をおおった。まぶたがしきりとかゆかった。坊津での傷は、ほとんどなおっていて、その跡がしわになっているらしかった。そこをこする私の指の爪が、眼鏡のふちにふれて、かたかたと鳴った。私は侘びしくその音を聞いていた。

 午前の当直を終え、正午、私は居住区に戻って来た。当直の時、当直士官の掌暗号長からしかられた。電報が一通、届け方が遅れた。それも傍受ぼうじゅ電報である。此の部隊に、直接関係があるわけではない。当直士官が幕僚ばくりょう室に、「カブを上げ」たかったからに過ぎない。私は憂欝な気持で昼食を終え、寝台に入り、昼寝をした。そして夢を見た。
 何の夢だったかは判らない。ただ、薄暗がりのようなところを、何か一所懸命にわめきながら歩いていた。涙をだらだら流しながら滅茶苦茶に歩いていた。手を振り、足を踏みならしながら、何かさけんでいた。そのまま、ゆるゆると浮き上って来るようにして目が覚めた。汗をびっしょりかいていた。身体中が重苦しくて、夢の感覚がまだ身体のそこここに残っていた。うつつの私も、夢の中と同じように涙を流していた。何物に対してか、つかみかかりたいような気持で、べとつく肌の気味悪さに堪えながら、じっとあおむけに横たわっていた。
(これでいいのか。これで――)
 不当に取扱われているという反撥はんぱつが、寝覚めのなまなましい気持を荒々しくゆすっていた。私はひとりで腹を立てていた。誰に、ということはなかった。掌暗号長にではない。私を此のような破目はめに追いこんだ何物かに、私は烈しい怒りを感じた。突然するどい哀感が、胸に湧き上った。何もかも、徒労とろうではないか。此のようなむなしい感情を、私は何度積み重ねてはこわして来たのだろう。……
 私は身体を起し、寝台から飛び下りた。乱れた毛布を畳むために、毛布の耳をひとつひとつそろえながら、ふとつぶやいた。
「毛布でさえも、耳を持つ――」
 耳たぶがないばかりに、あの田舎町いなかまちおんなは、どのような暗いいやな思いを味わって来たことであろう。あの夜、あの妓は、私の胸に顔を埋めたまま、とぎれとぎれ身の上話を語った。耳なしと言われた小学校のときのこと。身売りの時でも、耳たぶがないばかりに、あのような田舎町の貧しい料亭に来なければならなかったこと。そのような不当な目にあいつづけて、あの妓はどのようなものを気持の支えにして生きて来たのだろう。妓の淋しげな横顔が、急に私の眼底によみがえって来た。びしい感慨を伴って、妓の貧しい肉体の記憶がそれに続いた。
(此の感傷によりかかり、そして気持を周囲から孤立させる、此の方法以外に、私の此のいら立ちをなだめる手があろうか?)
 もはや、私の青春は終った。桜島の生活は、既に余生よせいに過ぎぬ。自然に手に力が入り、揃えた毛布を乱暴に積み重ねると、私は服を着け、洞窟を出て行った。午後の烈しい光線が、したたかに瞼にみわたった。丘の上に登ってみようと思った。
 石塊道いしころみちを登り、林を抜けると、見張所であった。栗の木の下には、此の前と同じ見張の男が立っていた。私を認めると、かすかに笑ったようであった。何となく元気が無いように見えた。
「また来ましたね」
 うなずきながら、私は見張台に立ち、四周まわりを見渡した。心の底まで明るくなるような、炎天の風景であった。
 積乱雲が立っていた。白金色に輝きながら、数百丈の高さに奔騰ほんとうする、重量ある柱であった。その下に、鹿児島西郊の鹿児島航空隊の敷地が見え、こわれた格納庫かくのうこや赤く焼けた鉄柱が小さく見えた。黒く焼けこがれた市街が、東にずっと続いていた。市街をめぐる山々は美しく、鮮かな緑に燃え、谷山方面は白く砂塵さじんがかかり、赤土の切立地きりたてちがぼんやりとかすんでいた。自然だけが、美しかった。人間が造ったものの廃墟は、いじけて醜かった。草原に腰をおろした。男も、此の前と同じく、並んですわった。
「見張も、大変だね」
「大したことはないですよ」
「何だか元気がないようだけれど、身体の具合でも悪いのかね」
「疲れているのですよ」
 男は、静かな湾内をぐるぐるっと指さして見せた。
「此の湾内に、潜水艦が三隻いるのです」
「ああ、電報で見た。味方のではないか」
「兵曹は通信科ですか。味方のか敵のかはっきりしないんです」
「味方識別しきべつをつけ忘れていた、と言うらしいのだよ」
「そうですか」
 男は、しばらくの沈黙の後、私に聞いた。
「通信科なら――特攻隊、あれはどうなっているのですか」
「てんで駄目だよ。皆、グラマンに食われてしまうらしい」
「やはり駄目ですか」
 溜息をついた。そして、
「特攻隊、あれはひどいですね」
「ひどいって、何が?」
 男はしばらく黙っていた。そして、一語一語おさえつけるように、
「木曽義仲、あれが牛に松明たいまつつけて敵陣に放したでしょう。あの牛、特攻隊があれですね。それを思うと、私はほんとに特攻隊の若者が可哀そうですよ。何にも知らずに死んで行く――」
「君にも、子供がいるのだろう」
「ときどき練習機の編隊が飛んで行きますね。あれも特攻隊でしょう」
「ああ。――無茶むちゃだよ」
 男の顔は、光線の加減か土色つちいろに見えた。ひどく大儀たいぎそうだった。
「身体には、注意しなくてはいけないよ。壕生活はこたえるから」
「鹿児島には、昔、土蜘味つちぐもという種族がいたらしいですね。熊襲くまそみたいな。やはり私達と同じで、洞窟に住んでいた」
「君は、東京かね」
「もうほろんでしまったんですね。弱い種族だったに違いないですよ」
「蝉が、ずいぶんふえたね。ほんとにうるさい位だ」
 熊蝉が、あちらこちらの樹に止って、ここを先途せんどと鳴いていた。
「蝉? ああ、蝉のこと。法師蝉は、まだ今年は来ませんよ」
 男は白い歯を見せて、神経質な笑い声を立てた。肩のあたりの骨が細く、服の加減で、少年のようなおさなさを見せている。何か漠然とした不安が、私をとらえた。男は、両掌りょうてを後頭部に組み、そのままうしろに寝ころがった。今日は、飛行機も来ないらしかった。低い声で男は話し出した。
「私はねえ、近頃、滅亡の美しさということを考えますよ」
 しみじみとした、自分に言い聞かせるような声音こわねであった。
「廃墟というものは、実に美しいですねえ」
「美しいかねえ」
「人間には、生きようという意志と一緒に、滅亡におもむこうという意志があるような気がするんですよ。どうもそんな気がする。此のようなさかんな自然の中で、人間がのようにもろくほろんで行く。奇体に美しいですね」
 あとの方は独り言のようになった。
「此の間、妙なものを見ましたよ」
「何だね」
 男は持っていた双眼鏡を私に渡し、横合いの谷間を指さした。
「あそこに家が、百姓家が見えるでしょう。もう少し右。ええ、そこです。双眼鏡で見てごらんなさい。母家おもやの横に、小さな納屋なやが見えるでしょう。そこの、軒下のきしたに何か下っているでしょう。見えますか」
 傾いた納屋の入口のはりに、何か長い、ひものようなものが、風のためふらふら揺れているのが、双眼鏡にうつって来た。子供が一人、納屋の前の地面にしゃがんで、あそんでいた。それは何だか判らなかった。どういう意味があるのか、私には判らなかった。双眼鏡を返しながら、私は男の顔を見た。
「で?」
「あの家はね、百姓なんです。どこか、遠い所に、田か畠を持っているらしくて、毎日、そこの夫婦はくわなど持って出かけて行くようです。お爺さんがいましてねえ、長いこと病気をして、母家の奥の部屋に寝ているらしいのです。時々、納屋なやの横の便所に立つために出て来るのですが、どうも身体がよくかない。双眼鏡で見てても、危っかしいのですよ。それに長いわずらいだと見えて、邪魔者あつかいにされているらしく、昼飯の仕度に帰って来た女房からののしられたりしているのです。また子供がいましてねえ、頭のはちの開いた、七つか八つの男の子なんですが、これも爺さんを馬鹿にしているらしい。勿論、双眼鏡で見るんだから、声など聞えはしないけれど、此の黙劇パントマイムからそのしぐさで私が推察したんですが、まあ、そんな訳なんです。子供は爺さんを馬鹿にしてるけれど、爺さんにとっては孫ですからねえ、可愛いらしい」
「よく判るもんだね」
 男は、かすれた声で一寸わらった。
「そうじゃないかと思うのですよ。で、爺さんにしてみれば、息子夫婦からは邪魔にされるし、行末の希望はないし、という訳で、或る日のことでしたが、私が此処から双眼鏡で見ていたんですよ。昼間でね、日がかんかん当っている。爺さんが縁側にい出して来たんですよ。そして庭に下りて、納屋の方に歩いて行く。便所に行くのかな、と思って見ていたら、そうでもないらしい。納屋の奥から苦労して、踏台ふみだいと縄を一本持ち出して来たんです。何をするのかと思っていると、入口の所に踏台をおいて、それに登ろうというのです。ところが身体がかないもんだから、二三度転げ落ちて地面にたおれたりしましてね。何とも言えず不安になって、私は思わず双眼鏡持っているから、脂汗あぶらあせがにじみ出て来ましたよ。そして終に踏台に登った。はりに取りついて、縄をそれに結びつけ、あとの垂れた部分を輪にして、二三度ちょっと引張ってみて、その強さをためしてみる風なんです」
「――首を吊る」
「いよいよこれで大丈夫だと思ったんでしょうね。あたりをぐるっと見廻した。するとすぐ真後まうしろの六尺ばかり離れた処に、影のように、あの男の子が立っているのです。黙りこくって、じっと爺さんがする事を眺めているんです。爺さんがぎくっとしたのが、此処まではっきり判った位です。爺さんは、縄をしっかり握って、その振り返った姿勢のまま、じっと子供を眺めている。子供も、石のように動かず、熱心に爺さんを見つめている。十分間位、にらみ合ったまま、じっとしているのです。その中、がっくりと爺さんは、踏台から地面にくずれ落ちた。男の子は、やはりじっとしていて、手を貸そうともしない。地面をうようにして縁側までたどりつくと、爺さんはくつぬぎにうつ伏せになって、肩の動き具合から見ると、虫のようにしくしく、長いこと泣いていましたよ。ほんとに長い間」
 男は上半身を起した。
先刻さっき見えたでしょう。あれが、その縄なんです」
 私は、ふっと此の男に嫌悪を感じていた。はっきりした理由はなかった。少し意地悪いような口調で、私はたずねた。
「で、いやな気持がしたんだね」
「――残酷な、という気がしたんです。何が残酷か。爺さんがそんな事をしなくてはならないのが残酷か。見ていた子供が残酷か。そんな秘密の情景を、私がそっと双眼鏡で見ているということが残酷なのか、よく判らないんです。私は、何だかぎしりしながら見ていたような気がするんです」
 男は、首を上げて空を眺めた。太陽は、ぎらぎらと光りながら、中空にあった。
「そうですかねえ。人間は、人が見ていると死ねないものですかねえ。独りじゃないと、死んで行けないものですかねえ」
 男は光をさえぎるために、片手をあげた。強い光線に射られて、男の顔は、まるで泣き笑いをしているように見えた。

 午後の当直を終えて外に出ると、夕焼雲が空に明るかった。今日は麦酒ビールの配給があったと言って、交替に来た兵の中には、目縁まぶちを赤くしているのも居た。私が当直に立っているとき、交替時の直ぐ前だったか、緊急信が一通来た。私がそれを訳した。
 居住区の方に戻りながら、私はその電報のことを考えていた。それは決定的な内容を持った電報であった。
 居住区に入って行くと、通路の真中に卓を長くつらね、両側にそれぞれ皆腰かけ、卓の上は麦酒瓶ビールびん行列ぎょうれつであった。煙草の煙が奥深くこもり、瓶やコップの触れる音がかちかち響いた。奥の方に通り抜け、私の席についた。食器に麦酒がトクトクとつがれるのを眺めながら、私は此の騒然そうぜんたる雰囲気に何か馴染なじめない気がした。卓が白い泡で汚れている。私は上衣を脱ぐと、口に食器を持って行った。生ぬるい液体が、快よい重量感をもって、咽喉のどを下って行った。
 私の前には、電信の先任下士と吉良兵曹長が腰をおろしていた。先任下士は頬を赤くしていたが、吉良兵曹長はむしろ青く見えた。そしてその話し声がふと私の耳をとらえた。
「大きなビルディングが、すっかり跡かたも無いそうだ」
「全然、ですか」
「手荒くいかれたらしいな」
「どこですか」
「広島」
 ぼんやり聞いていた。吉良兵曹長がふと私の方に向きなおった。
「村上兵曹。何か電報があったか」
 濁ったその眼が、射るように光った。交替前の電報のことが、再び頭をよぎった。
「ソ連軍が、国境を越えました」
 私の言葉が、吉良兵曹長に少なからぬ衝動を与えたらしかった。しかし、表情は変らなかった。黙ってコップをぐっとほした。長い指で、いらだたしげに卓の上を意味なく二三度たたいた。
「参戦かね」
「それはどうか判りません。電報では、交戦中と言うだけです」
 私は吉良兵曹長の顔をじっと見つめていた。無表情な頬に、何か笑いに似たものが浮んだ。ぞっと身をすくませるような、残忍な笑いだった。私は思わず目をらした。食器をかたむけて、麦酒ビールを口の中に流し込んだ。再び瓶を傾けて、食器についだ。酔いがようやく廻って来るらしかった。手足の先がばらばらにほぐれるような倦怠感けんたいかんが、快よく身内にしみ渡って来た。
 ずっと向う側の卓で、話し声がようやく高くなって来た。上半身裸になって、汗が玉になって流れている。出口の方に、黄昏たそがれの色がうすれかかった。どうにでもなれと思って、私はひじを卓についたまま、ついでは飲み、ついでは飲んだ。
 次第に酔いが廻って来て、何だかそこらがはっきりしないような気持になって来た。いろいろとめもないことが、頭に浮んで消えた。坊津ぼうのつのことをぼんやり考えていた。あの頃はまだ良かった。坊津郵便局の女事務員は、私が転勤するというので、葉書二十枚をはなむけに呉れた。衣嚢いのうの底に、それはしまってある。まだ一枚も使わない。
 ふと自責じせきの念が、鋭く私を打った。桜島に来て以来、私は家にも便りを出さない。桜島に来て居ることすら、私の老母は知らないだろう。私の兄は、陸軍で、比島にいる。おそらくは、生きて居まい。弟はすでに、蒙古もうこで戦死した。にわかに荒々しいものが、疾風しっぷうのように私の心を満たした。此のような犠牲をはらって、日本という国が一体何をなしとげたのだろう。徒労と言うには――もしこれが徒労であるならば、私は誰にむかって怒りの叫びをあげたら良いのか?
 洞窟にこもった話し声が、騒然とくずれ始めたと思うと、出口近くの卓から、調子はずれの歌声が突然起り、そしてそれに和すいろいろの声がそれに加わった。歌は「同期の桜」であった。麦酒瓶の底で卓をたたく。歌声は高く低く乱れながら、新しい歌に代って行った。卓についたひじに、卓を打つ振動が伝わって来る。眼がすわって来るのが、自分でもわかった。更に新しい麦酒を傾けて、一息にのみほした。
 黙ってしきりに麦酒をほしていたらしい吉良兵曹長が、身体からだをずらして私の正面にむきなおった。もはや上半身は裸になっていた。堅そうな、筋肉質の肩の辺が、汗にぬれて艶々つやつやと光った。低い、いどみかかるような声で私に言った。
「兵隊どもに、戦争は今年中に終ると言ったのか。え。村上兵曹」
「そんなことは言いません」
 あの厭な、マニヤックな眼が、私の表情に執拗しつようにそそがれている。何気なにげなく振舞おうと思った。飲みほそうと食器を持った手が少しふるえた。
「此のように決戦決戦とつづけて行けば、どちらも損害が多くて、長くつづけられないだろうというようなことは、あるいは言ったかも知れません」
 そう言いながら、私は自らの弱さが、かっとする程腹が立って来た。私もじっと彼の顔を見据みすえながら言った。
「どうでもいいことじゃないですか。そんな馬鹿げたこと」
「今年中に終るか」
 執拗な口調であった。少し呂律ろれつが怪しくなっているらしかった。
「村上兵曹。死ぬのはこわいか」
「どうでもいいです」
「死ぬことが、こわいだろう」
 瞳の中の赤い血管まではっきり見えるほど、私は彼の顔に近づいた。酔いが私を大胆にした。私は、顔の皮が冷たくなるような気持で、一語一語はっきり答えた。
「私が、こわがれば、兵曹長は満足するでしょう」
 はげしい憎悪の色が、吉良の眼に一瞬みなぎったと思った。それは咄嗟とっさの間であった。立ち上るなと感じた。立ち上らなかった。吉良兵曹長は、首を後ろにそらせながら、引きつったような声で笑い出した。声は笑っていたが、顔は笑っていなかった。卓の下で握りしめていた私のに、今になってあぶらがにじみ出て来た。
 一人の兵隊が、卓からはなれて、よろめいて来た。歌声は乱れながら、雑然と入りまじった。
「兵曹長。踊ります」
「よし、踊れ」
 笑いを急に止めて、吉良兵曹長は叱りつけるような声でそう言った。
 その兵隊は、半裸体のまま、手を妙な具合に曲げると、いきなりシュッシュッと言いながら、おそろしくテンポの早い出鱈目でたらめの踊りを踊り出した。よろめく脚をじくとして、独楽こまのように廻った。手を猫の手のようにまげて、シュッシュッという合の手と共に、上や下に屈伸くっしんした。歌声が止み、濁った笑い声が、それに取って代った。
「何だい、そりゃあ」
「止めろ、止めろ」
 兵隊は、ますます調子を早めて行った。目が廻るのか、額を流れる汗が眼に入るのか、眼をつむったままかれたもののように身体を烈しく動かした。よろめいて、身体を壕の壁で支えた。電灯の光まで土埃つちぼこりがうっすらと上って来た。けろりとした顔付になって兵隊は敬礼をした。
「終りました。四国の踊りであります」
 歌い声が新しく起った。何か弥次やじが飛んだようだけれど、はっきり聞えない。向うの方で、麦酒瓶がくだける音がした。そして、雑然たる合唱がはじまった。

さらばラバウルよ 又来るまでは
しばし別れの 涙がにじむ

 私は、眼をつむった。動悸どうきが胸にはげしかった。掌で、あごを支えた。顔についた土埃のため、ざらざらとした。頭がしんしんと痛かった。じっと一つのことを考えて居た。
 死ぬのは、恐くない。いや、恐くないことはない。はっきりと言えば、死ぬことは、いやだ。しかし、どの道死ななければならぬなら、私は、納得して死にたいのだ。――このまま此の島で、此処にいる虫のような男達と一緒に、捨てられた猫のように死んで行く、それではあまりにもみじめではないか。生れて以来、幸福らしい幸福にも恵まれず、営々えいえいとして一所懸命何かを積み重ねて来たのだが、それも何もかも泥土でいどにうずめてしまう。しかしそれでいいじゃないか。それで悪いのか。私は思わず、吉良兵曹長に話しかけていた。
「吉良兵曹長。私も死ぬなら、死ぬ時だけでも美しく死のうと思います」
 残忍な微笑が、吉良兵曹長の唇にのぼった。毒々しい口調で、きめつけるように言った。
「おれはな、軍隊に入って、あちらこちらで戦争して来た。支那戦線にもいた。比律賓フィリッピンにもいたんだ。村上兵曹。焼けげた野原を、弾丸がひゅうひゅう飛んで来る。その間をって前進する。陸戦隊だ。弾丸の音がするたびに、額に突き刺さるような気がする。音の途断とだえたすきをねらって、気違いのように走って行く。弾丸がな、ひとつでも当れば、物すごい勢で、ぶったおれる。皆前進して、焼け果てた広っぱに独りよ。ひとりで、もがいている。そのうちに、動かなくなり、呼吸をしなくなってしまう。顔はゆがんだまま、汚い血潮は、泥と一緒に固まってしまう。日が暮れて、夜が明けて、夕方からすが何千羽とたかり、肉をつつき散らす。うじが、また何千匹よ。そのうち夜になって冷たい雨が降り、ひじの骨や背骨が、白く洗われる。もう何処の誰ともわからない。死骸か何か、判らない。村上兵曹。美しく死にたいか。美しく、死んで行きたいのか」
 言い終ると、身の毛もすくむような不快いやな声でわらい出した。じっと堪えながら、私は谷中尉のことを思っていた。あの若い元気な中尉も、美しく死にたいという考えは、感傷に過ぎぬと話して聞かせた。しかしそれが何であろう。虚無が、谷中尉にしろ吉良兵曹長にしろ、その胸に深い傷をえぐっているに過ぎぬ。私がもつ美しく死にたいというひそやかな希願きがんと、何の関係があるか。
 不思議な悲哀感が、私をおそった。私は、再び吉良兵曹長の方は見ず、うつろなまなざしを卓の上に投げていた。騒ぎはますます激しくなって行くようであった。昏迷こんめいしそうになる意識にむち打ち、私は更に麦酒を口の中にそそぎ込んだ。かねてから私を悩ます、ともすれば頭をもたげようとするのを無意識のうちに踏みつぶし踏みつぶして来たあるものが、にわかにはっきりと頭の中で形を取って来るらしかった。私は、何の為に生きて来たのだろう。何の為に? ――
 私とは、何だろう。生れて三十年間、言わば私は、私というものを知ろうとして生きて来た。ある時は、自分を凡俗ぼんぞくより高いものに自惚うぬぼれて見たり、ある時は取るに足らぬものといやしめてみたり、その間に起伏きふくする悲喜を生活として来た。もはや眼前に迫る死のぎりぎりの瞬間で、見栄も強がりも捨てた私が、どのような態度を取るか。私という個体の滅亡をたくらんで、鋼鉄の銃剣が私の身体にせられた瞬間、私は逃げるだろうか。這い伏して助命じょめいを乞うだろうか。あるいは一身の矜持きょうじを賭けて、戦うだろうか。それは、その瞬間にのみ、判ることであった。三十年の探究も、此の瞬間に明白になるであろう。私にとって、敵よりも、此の瞬間に近づくことがこわかった。
(ねえ、死ぬのね。どうやって死ぬの。よう。教えてよ。どんな死に方をするの)
 耳の無いあのおんながこう聞いた時、その声は泣いているようでもあったし、また発作的な笑いを押えているような声でもあった。酔いの耳鳴りの底で、私は再び鮮かにそのまぼろしの声を聞いた。私は首をらして、壁に頭をもたせかけ、そして眼をつむった。頭の中で、蝉が鳴いている。幾千匹とも知れぬ蝉の大群が、頭の壁の内側で、鳴きすさんでいる――
 洞窟の内の、此の不思議な宴は、ますます狂躁きょうそうに向い、変に殺気を帯びて来た。入口から風が吹き抜けると、歌声がまた新しく起った。卓子がぐらぐらゆれる。私は眼を開いた。ソ連の参戦もくそもあるか。頭を強く二三度振り、今までの考えから抜け出ようと努力しながら、歌でも歌おうとよろめく足をふみしめ、卓に手をかけ立ち上ろうとした。吉良兵曹長の声が、吹き抜けるように洞内にひびいた。
「兵隊。軍刀を持って来い!」
 黒白もわかたぬほど酔っているらしかった。目がすわり、顔がぞっとする程蒼かった。立ち上ろうとして、平均を失い、卓にひじをついた。麦酒瓶が大袈裟おおげさな音を立てて倒れ、白い泡が土間にしたたり落ちた。卓に片手をついて、下座の方を見据えた。
剣舞けんぶをやるから、持って来い。軍刀」
 ふらふらと進み出た。
 雑然たる騒音の中から、獣のような声を出して、詩をぎんじ始めた。誰の声か判らない。文句も節もはっきりしないままに、吉良兵曹長は軍刀を抜き放った。拍手が三つ四つ起って、すぐ止んだ。笑い声がする。詩をぎんずる声が二つ重なったと思うと、起承きしょうも怪しいまま、転々と続いて行くらしい。軍刀をかざしたまま、吉良兵曹長の上体はぐらぐらと前後に揺れた。眼をかっと見ひらいた。軍刀を壁に沿って振り下すと、体を開いてこぶしを目の所まで上げた。よろよろとして倒れかかり、私の肩にがっとしがみついた。軍刀は手から離れて、土の上に音無く落ちた。
「村上。飲め。もっと飲め」
 彼の掌につかまれて、私の肩はしびれるように痛かった。それに反抗するように肩を張り、私は更に新しい麦酒瓶に左の手を伸ばして居た――

 丘を降りて、船着場の放水塔の下で洗濯をした。雲は無く暑かったけれども、風は絶えず東南の方向から吹いていた。洗濯物のかわきも早いだろうと思われた。放水塔の周囲には、兵隊が沢山集って洗濯をしていた。ほとんど、年多い兵隊ばかりであった。私の隣に洗濯していた兵が、もひとりの兵に話しかけるのを聞いた。
「ソ連が、参戦したそうじゃないか」
「うん」
 それ切り黙ってしまった。話しかけられた兵隊は、何か不機嫌な顔をしていた。彼等の洗う石鹸せっけんの泡が、白くふくれてかたまったまま、私の前の水溝に流れて来た。
 鹿児島の新聞社が焼けてからというものは、此の部隊に新聞は入って居ない筈であった。掌暗号長が兵たちに、ソ連参戦のことを外に洩らすなと訓示くんじしているのを私は聞いたが、それにもかかわらず何時の間にか拡がっているらしかった。怠業たいぎょうの気分が、部隊一般にかすかにただよっていた。どの点がそうだと指摘は出来ないが、腐臭ふしゅうのようにかぎわけられた。海岸沿いの道端に天幕を張って、士官達は一日中ごろごろしていたし、もっこを持って壕を出入する兵隊も、何かのろのろした動作であった。
 海沿い道を通り、洗濯物をかかえて、私は丘を登った。居住区の前の樹に、洗濯物を注意して拡げた。上空から見えると、うるさいのである。私は壕の中に入り、衣嚢いのうの中から便箋びんせんを出した。私は卓の前にすわり、便箋を前にのべ、そしてじっと考えていた。
 しばらくして、便箋の第一行目に、私は、「遺書」と書いた。ペンを置いて、前の壁をじっと眺めた。
 書くことが、何も思い浮ばなかった。書こうと思うことが沢山あるような気がしたが、いざ書き出そうとすると、どれもこれも下らなかった。誰にてるという遺書ではなかった。次第に腹が立って来た。私は立ち上って、それを破り捨てた。
 壕を出、丘の上の方に登って行きながら、私は哀しくなって来た。遺書を書いて、どうしようという気だろう。私は誰かに何かを訴えたかったのだ。しかし、何を私は訴えたかったのだろう。文字にすればうそになる。言葉以前の悲しみを、私は誰かに知って貰いたかったのだ。
(このことが、感傷のわざと呼ばれようとも、その間だけでも救われるならそれでいいではないか)
 道はき、林に入った。見張台に行く方向である。あの健康な展望が、私の心をまぎらして呉れるかも知れない。私は、空を仰いだ。入り組んだこずえを通すまだらの光線が、私の顔に当った。
 ふと、聞き耳を立てた。降るような蝉の鳴声にまじって、かすかに爆音に似た音が耳朶じだを打った。林のわきに走り出て、空を仰いだ。しんしんと深碧ふかみどりの光をたたえた大空の一角から、空気を切る、金属性の鋭い音が落ちて来る。黒い点が見えた。見る見る中に大きくなり、飛行機の形となり、まっしぐらに此の方向にかけって来るらしかった。危険の予感が、私の心をかすめた。此処を、ねらって来るのではないか。林の中に走り入り、息をはずませながら、なお走った。恐怖をそそるようないやな爆音が、加速度的に近づき、私の耳朶の中でふくれ上る。汗を流しながら、なお林の奥に駆け入ろうとした時、もはや爆音の烈しさで真上まで来ていたらしい飛行機から、突然足もすくむような激烈な音を立てて、機銃が打ち出された。思わずそこに打ちたおれ、手足を地面に伏せたとたん、飛行機の黒い大きい影が疾風しっぷうのように地面をかすめ去った。
 地面に頬をつけたまま、私は眼を堅くつむっていた。動悸どうきが堪え難い程はげしかった。咽喉のどの処に、何かかたまりのようなものがつまって居るようであった。あえぎながら、私は眼を開いた。真昼の、土の臭いが鼻をうった。爆音はようやく遠ざかった。
 のろのろと立ち上り、埃をはたいた。手拭てぬぐいで汗をふきながら、梢の間から空をすかして見た。飛行機は、もはや遠くに去ったらしかった。私は歩き出した。
 此の前、見張台みはりだいでグラマンを見たとき、私は狼狽ろうばいはしたけれど、恐いとは思わなかったのだ。今、私をとらえたあの不思議な恐怖は何であろう。歯の根も合わぬような、あのひどいおそれは、何であろう?
 此の数日間の、死についての心の低迷が、ひびのように、私の心に傷をつけたに違いなかった。死について考えることが、生への執着を逆にあおっていたに違いなかったのだ。見張台に近い小径こみちを登りながら、私は、唇ゆがめて苦笑していた。
(遺書を書こうという人間が、とかげのように臆病に、死ぬことから逃げ廻る)
 自嘲じちょうが、苦々しく心に浮んで来た。
 見張台に登りつめた。見渡しても、例の見張台の男は見えないようであった。ふと栗の木のかげに、白いものが見えた。
(まだ、待避をしているのか?)
 いぶかしく思いながら、近づいて行った。伏せた姿勢のまま、見張の男は、栗の木の陰に、私の跫音あしおとも聞えないらしく、じっと動かなかった。地面に伸ばした両手が、何か不自然に曲げられていた。土埃つちぼこりにまみれた半顔が、変に蒼白かった。私はぎょっとして、立ち止った。草の葉に染められた毒々しい血の色を見たのだ。総身そうみに冷水を浴びせかけられたような気がして、私は凝然ぎょうぜんと立ちすくんだ。
「…………」
 死体が僅かに身体をもたせかけた栗の木の、みきの中程に、今年初めてのつくつく法師が、地獄の使者のような不吉な韻律いんりつを響かせながら、静かに、執拗に鳴いていたのだ。突然焼けるような熱い涙が、私の瞼のうちにあふれて来た。
(此の、つくつく法師の声を聞きながら、死んで行ったに違いない!)
 片膝かたひざをついて、私は彼の身体を起そうとした。首が、力なく向きをかえた。無精鬚ぶしょうひげをすこし伸ばし、閉じた目は見ちがえるほどくぼんで見えた。弾丸は、額を貫いていた。流れた血の筋が、こめかみまでつづいていた。苦悶の色はなかった。薄く開いた唇から、汚れた歯が僅か見えた。不気味な重量感を腕に感じながら、私は手の甲で涙をふいた。
 とうとう名前も、境遇も、生国も、何も聞かなかった。私にとって、行きずりの男に過ぎない筈であった。滅亡の美しさを説いたのも、此処で死ななければならぬことを自分に納得なっとくさせる方途ではなかったのか。不吉な予感におびえながら、自分の心に何度も滅亡の美を言い聞かせていたに相違ない。自分の死の予感を支える理由を、彼は苦労して案出し、それを信じようと骨折ったにちがいなかったのだ。
(滅亡が、何で美しくあり得よう)
 私は歯ぎしりをしながら、死体を地面に寝せていた。生き抜こうという情熱を、何故捨てたのか。自分の心を言いくるめることによって、つくつく法師の声を聞きながら、此の男は安心してとうとう死んでしまったのだ。
 風が吹いて、男の無精鬚はかすかにゆらいだ。死骸は、頬のあたりに微笑をうかべているように見えた。突然、親近しんきんの思いともつかぬ、嫌悪の感じともちがう、不思議な烈しい感情が、私の胸に湧き上った。私は、立ち上った。栗の木の下に横たわった死体の上に、私は私のよろめく影を見た。
 大きな呼吸をしながら、私は電話機の方に歩いた。受話器を取った。声が、いきなり耳の中に飛び込んで来た。
「グラマンはどうした。もう行ったのか」
「見張の兵は、死にました」
「え? グラマンだ。何故早く通報しないか」
「――見張は、死にました」
 私はそのまま受話器をかけた。
 男の略帽りゃくぼうを拾い上げた。死体の側にしゃがみ、それで顔をおおってやった。立ち上った。息をらしながら、身体をうごかし、執拗に鳴きつづけていたつくつく法師をぱっととらえた。規則正しい韻律が、私の掌の中で乱れた鳴声に変った。物すごい速度で打ちふるう羽の感触が、汗ばんだに熱いほど痛かった。生れたばかりの、ひよわな此の虫にも此のような力があるのか。残忍な嗜虐しぎゃくが、突然私をそそった。私は力をこめて掌の蝉を握りしめると、そのまま略服りゃくふくのポケットに突っ込んだ。蝉の体液が、掌に気味悪く拡がった。それに堪えながら、私は男の死体を見下していた。
 丘の下からは、まだ誰も登って来なかった。軽い眩惑げんわくが、私の後頭部から、戦慄せんりつともなって拡がって行った――

 玉音の放送があるから、非番直に全部聞くようにという命令は、その日の朝に出ていた。此の部隊に関係ある電報は一通り目を通していたから、その方面の事態には通じていたとは言え、桜島に来て以来、新聞も読まずラジオも聞かないから、私は浮世の感覚から遠くはなれていた。だから、玉音の放送ということがどういう意味を持つのか、はっきり判らなかった。が、今までにないという意味から、重大なことらしいという事は想像出来た。不安が、私をいらだたせた。
 午前中の当直であったから、私は聞きに行けない。当直が終り、すぐ居住区に戻って来た。放送は、山の下の広場であった。そこに皆が集って聞いているはずであった。居住区で飯を食べ終っても、放送を聞きに行った兵隊たちは帰って来なかった。
「ずいぶん長い放送だな」
 私はたばこに火をつけ、壕の入口まで出て行った。見下す湾には小波さざなみが立ち、つくつく法師があちらでもこちらでも鳴いていた。日ざしは暑かったが、どことなく秋に向う気配があった。目をむけると、三々五々、兵たちが居住区に戻って来る。放送が終ったのらしかった。
「何の放送だった」
 壕に入ろうとする若い兵隊をつかまえて、私は聞いた。
「ラジオが悪くて、聞えませんでした」
「雑音が入って、全然聞き取れないのです」
 も一人の兵隊が口をそえた。
「それにしても長かったな」
「放送のあとで、隊長の話があったのです」
「どういう話なんだ」
「――皆、あまり働かないで、なまけたり、ずる寝をしたがる傾きがあるが、戦争に勝てば、いくらでも休めるじゃないか、奉公ほうこうするのも、今をのぞいて何時奉公するんだ、と隊長は言われました」
「戦争に勝てば、と言ったのか」
「はい」
 敬礼をして、兵隊は壕の中に入って行った。私は、莨を崖の下に捨てると、暗号室の方に歩き出した。
 昨日、通信長が、暗号室に入って来て、暗号書の点検てんけんをし、こういう情勢で何時敵が上陸して来るか予測を許さんから、その時にあわてないように、不用の暗号書、あまり使わない暗号書は、焼いてしまったがよかろうと言った。今日午後、それを燃すことになった。私も、それに立会おうと思った。
 暗号室に近づくと、二三人の兵隊が、それぞれ重そうな木箱をかついで来るのに出会った。
「暗号書かね」
「そうです」
 私達は山の上につづく道を登って行った。私と同じ階級の電信の下士が、ガソリンのびんを持って後につづくのと一緒に、私も肩をならべて山の方に引き返して歩いた。
 林を隔てて、見張台と反対の斜面に一寸した窪みがあって、兵隊はそこに木箱を下し、腰かけて汗をふいていた。私達が近づくと、それぞれ立ち上って、箱から暗号書を出し始めた。皆赤い表紙の、大きいのや小さいの、手摺てずれしたのやまだ新しい暗号書が、窪みにうずたかく積まれた。
 電信の下士が向う側に廻って、一面にガソリンをふりかけた。私がマッチをすった。青い焔が燃え、赤い表紙が生き物のようにり始め、やがてそれが赤い焔になって行った。かすかな哀惜あいせきの思いに胸がつまった。私は電信の下士官に話しかけた。
「今日の放送は、何だったのかな」
「さあ本土決戦の詔勅しょうちょくだろうと言うのだがね」
「誰が言ったんだね」
「電信長もそう言ったし、吉良兵曹長もそんなことを言った」
 私は焔を眺めていた。熱気が風の具合ぐあいでときどき顔にあたった。厚い暗号書は燃え切れずにくすぶったと思うと、また頁がめくれて新しく燃え上った。煙がうすく、風にしたがって空を流れた。布地の燃える臭いが、そこらにただよっていた。時々、何か燃えはじける音がして、火の粉がぱっと散った。
「いよいよ上陸して来るかな」
 棒で暗号書をつつき、かき寄せると、また新しい焔が起った。煙がさらにかたまって上った。
「あまり煙を出すと、グラマンが来たとき困るぞ」
「今日も来ないよ。昨日も来なかったから」
 そう言えば、グラマンは、見張の男を殺した日を最後に、昨日も一昨日も姿を見せなかった。飛行機が来ないということは、上陸の期がいよいよ迫って来ているせいではないかと思った。散発的な襲撃しゅうげきを止めて、大挙たいきょ行動する整備の状態にあるのではないか。
(上陸地点が、吹上浜にしろ、宮崎海岸にしろ、どのみち此処は退路をたれる)
 山の中に逃げ込むとしても、幅の薄い山なみで逃げおおせそうにもない。ことに、此処は水上特攻基地だから、震洋艇か回天が再びかえらぬ出発をした後は、もはや任務は無い筈であった。小銃すら持たない部隊員たちに、その時どんな命令が出るのだろう。
 ぼんやり焔の色を見ていた。焔は、真昼の光の中にあって、透明に見えた。山の上は、しんと静かであった。物のぜる音だけが、静かさを破った。兵隊が話し合う声が、変に遠くに聞えた。なびく煙の向うに、桜島岳が巨人のようにそびえていた。その山の形を眺めているうちに、静かな安らぎが私の心に湧き上って来た。
 退路を断たれようとも、それでいいではないか。何も考えることは止そう。従容しょうようとは死ねないにしても、私は私らしい死に方をしよう。私の死骸が埋まって、無機物になってしまったあとで、日本にどんなことが起り、どんな風に動いて行くか、それはもはや私とは関係のないことだ。あわてず、落着いて、死ぬ迄は生きて行こう。――
「村上兵曹。この木箱も燃しますか」
「うん。燃してしまえ」
 木箱は音を立ててこわされ、次々に投げ込まれた。新しい材料を得て、焔はあめのようにねばっこく燃え上った。何気なく手をポケットに入れた。何かがさがさした小さなものが手指に触れた。つかんで、取り出した。一昨昨日捕えたつくつく法師の死骸であった。すっかり乾いていて、羽は片方もげていた。私の掌の上でころがすと、がさがさと鳴った。他の者に見られないようにそっと、私はそれを火の中に投げこんだ。燃えこがれた暗号書の灰の中に、それは見えなくなった。
 死ぬ瞬間、人間は自分の一生のことを全部おもい出すとか、肉体は死んでも脳髄のうずいは数秒間生きていて劇烈げきれつな苦痛を味わっているとか、死んだこともない人間によって作られた伝説は、果して本当であろうか。見張の男の死貌しにがおはまことにおだやかであったけれども、人間のあらゆる秘密を解き得て死んで行った者のかおではなかった。平凡な、もはや兵隊でない市井人しせいじんの死貌であった。私が抱き起したとき見た、着ている服のえりの汚れを、何故か私はしみじみ憶い出していた。――
 夕方になって、暗号書は燃え尽きた。灰をたたいて、燃え残りがないかを確かめて、私等は戻って来た。
 居住区に入ると、奥に吉良兵曹長が腰をおろしていた。片手に軍刀を支え、湯呑みから何かのんでいた。アルコールに水を割ったものらしかった。かすかにその匂いがした。
「焼いてしまったか」
「もう、すみました」
 私は手に持った上衣を寝台にかけ、卓の方に近づいた。
「兵隊」
 衣嚢いのうの整理をしていたらしい兵隊が、急いで吉良兵曹長のところに来た。
「暗号室に行ってな、今日の御放送の電報が来ていないか聞いて来い」
 兵は敬礼をすると、急ぎ足で壕を出て行った。他に兵は誰も居なかった。壕内は、私と兵曹長だけだった。皆、相変らず穴掘りに行ったのらしかった。私は吉良兵曹長に向き合って腰かけた。吉良兵曹長は例の眼で私を見返した。しゃがれた声で言った。
「いよいよ上陸して来るぞ。村上兵曹」
「今日の放送が、それですか」
「それは、判らん。此の二三日、敵情の動きがない。大規模の作戦をたくらんでいる証拠だ。覚悟は出来ているだろうな」
 あざけるような笑い声を立てた。
「もし、上陸して来れば――此の部隊はどうなりますか」
「勿論、大挙出動する」
「いや、特攻隊は別にして、残った設営の兵や通信科は」
 にわかに不機嫌な表情になって、私の顔を見て、湯呑みをぐっと飲みほした。
「戦うよ」
「武器は、どうするんです。しかも、補充兵ほじゅうへいや国民兵の四十以上のものが多いのに――」
「補充兵も、戦う!」
 たたきつけるような口調であった。
「竹槍がある」
「訓練はしてあるのですか」
 私を見る吉良兵曹長の眼に、突然兇暴な光が充ちあふれた。臆してはならぬ。自然に振舞おう。私はそう思い、吉良兵曹長の眼を見返した。
「訓練はいらん。体当りで行くんだ。村上兵曹、水上特攻基地に身を置きながら、その精神が判らんのか」
「何時出来るか判らない穴を掘らせる代りに訓練をしたらどうかと、私は思います」
 全身が熱くなるような気になって、私も言葉に力が入った。吉良兵曹長は、すっくと立ち上った。卓をへだてて、私にのしかかるようにして言った。
「俺の方針に、絶対に口を出させぬ。村上。余計よけいなことをしゃべるな」
 言い知れぬ程深い悲しみが、にわかに私を襲った。心の中の何かが、くずれ落ちて行くのを感じながら、私は身体をらせ、じっと吉良兵曹長の眼に見入った。吉良兵曹長の声が、がっと落ちかかって来た。
「敵が上陸したら、勝つと思うか」
「それは、わかりません」
「勝つと思うか」
「勝つかも知れません。しかし――」
「しかし?」
「ルソンでも日本は負けました。沖縄も玉砕しました。勝つか負けるかは、その時にならねばわからない――」
「よし!」
 立ちるように吉良兵曹長はさけんだ。獣のさけぶような声であった。硝子玉ガラスだまのように気味悪く光る瞳を、真正面に私にえた。
「おれはな、敵が上陸して来たら、此の軍刀で――」
 片手で烈しく柄頭つかがしらをたたいた。
「卑怯未練な奴をひとりひとり切って廻る。村上。片っぱしからそんな奴をたたっ切ってやるぞ。判ったか。村上」
 思わず、私も立ち上ろうとしたとたん、壕の入口から先刻の兵が影のように入って来た。つかつかと私達の処に近づいた。両足をそろえると、首をらしてきちんと敬礼した。はっきりした口調で言った。
「昼のラジオは、終戦の御詔勅ごしょうちょくであります」
「なに!」
 卓に手をついて腰を浮かせながら、私は思わずさけんだ。
「戦争が、終ったという御詔勅であります」
 異常な戦慄が、頭の上から手足の先まではしった。私は卓を支える右手が、ぶるぶるとふるえ出すのを感じた。私は振り返って、吉良兵曹長の顔を見た。表情を失った彼の顔で、唇が何か言おうとして少しふるえたのを私は見た。何も言わなかった。そのままくずれるように腰をおろした。やせた頬のあたりに、私は、明かに涙の玉が流れ落ちるのをはっきり見た。私は兵の方にむきなおった。
「よし。すぐ暗号室に行く。お前は先に行け」
 私は卓をはなれた。興奮のため、足がよろめくようであった。解明出来ぬほどの複雑な思念しねんが、胸一ぱいに拡がっては消えた。上衣を掛けた寝台の方に歩きかけながら、私は影のようなものを背後に感じて振り返った。
 乏しい電灯の光の下、木目きめの荒れた卓を前にし、吉良兵曹長は軍刀を支えたまま、うつろな眼を凝然ぎょうぜんと壁にそそいでいた。卓の上には湯呑みがからのまま、しんと静まりかえっていた。奥の送信機室は、そのまま薄暗がりに消えていた。
 私はむきなおり、寝台の所に来た。上衣を着ようと、取りおろした。何か得体えたいの知れぬ、不思議なものが、再び私の背に迫るような気がした。思わず振り返った。
 先刻の姿勢のまま、吉良兵曹長は動かなかった。天井てんじょうを走る電線、卓上の湯呑み、うす汚れた壁。何もかも先刻の風景と変らなかった。私は上衣を肩にかけ、出口の方に歩き出そうとした。手を通し、ぼたんを一つ一つかけながら、異常な気配が突然私の胸をおびやかすのを感じた。私は寝台のへりをつかんだまま三度ふり返った。
 卓の前で、腰掛けたまま、吉良兵曹長は軍刀を抜き放っていた。刀身を顔に近づけた。乏しい光を集めて、分厚ぶあつな刀身は、ぎらり、と光った。かれた者のように、吉良兵曹長は、刀身に見入っていた。不思議な殺気が彼の全身を包んでいた。彼の、少し曲げた背に、飢えた野獣のような眼に、此の世のものでない兇暴な意志を私は見た。寝台に身体をもたせたまま、私は目を据えていた。不思議な感動が、私の全身をふるわせていた。膝頭ひざがしらが互いにふれ合って、微かな音を立てるのがはっきり判った。眼を大きく見開いたまま、血も凍るような不気味な時間が過ぎた。
 吉良兵曹長の姿勢が動いた。刀身はあやしく光を放ちながら、彼の手にしたがって、さやに収められた。軍刀のつばがさやに当って、かたいはっきりした音を立てたのを私は聞いた。その音は、私の心の奥底までみわたった。吉良兵曹長は軍刀を持ちなおし、立ち上りながら、私の方を見た。そして沈痛な声で低く私に言った。そのままの姿勢で、私はその言葉を聞いた。
「村上兵曹。俺も暗号室に行こう」

 壕を出ると、夕焼が明るく海に映っていた。道は色せかけた黄昏たそがれを貫いていた。吉良兵曹長が先に立った。崖の上に、落日にめられた桜島岳があった。私が歩くに従って、樹々に見え隠れした、赤と青との濃淡に染められた山肌は、天上の美しさであった。石塊道いしころみちを、吉良兵曹長に遅れまいと急ぎながら、突然瞼を焼くような熱い涙が、私の眼から流れ出た。いても拭いても、それはとめどなくしたたり落ちた。風景が涙の中で、ゆがみながら分裂した。私は歯を食いしばり、こみあげて来る嗚咽おえつを押えながら歩いた。頭の中に色んなものが入り乱れて、何が何だかはっきり判らなかった。悲しいのか、それも判らなかった。ただ涙だけが、次から次へ、瞼にあふれた。掌で顔をおおい、私はよろめきながら、坂道を一歩一歩下って行った。





底本:「桜島・日の果て・幻化」講談社文芸文庫、講談社
   1989(平成元)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「梅崎春生全集 第一巻」新潮社
   1966(昭和41)年10月10日
初出:「素直 創刊号」
   1946(昭和21)年9月
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年1月1日作成
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