日の果て

梅崎春生




 暁方あけがた、部隊長室から呼びに来た。跫音あしおとが階段を登り網扉あみとびらを叩く前に、落葉のみちを踏んで来る靴の気配で、彼は既に浅い眠りから浮上するようにして覚めていた。当番兵の佐伯の声である。網扉のむこうで薄黝うすぐろく影が動くのが見えたが、すぐ行く、と彼は返事をしたまま再びまぶたをふかぶかと閉じていた。軍靴のびょうが階段に触れる音が、けだるい四肢しし節々ふしぶしかすかに響いて来る、跫音はそのまま遠ざかるらしかった。
 しばらくして彼は寝台に起き直り、ゆっくりした動作で身仕度みじたくませ長靴をつけた。粗末な小屋なので動く度に床がきしみ、腕が触れる毎に壁はばさばさと鳴った。蝶番ちょうつがいのびかけた網扉を押し階段を降りると、おびただしい朝露である。ふり仰ぐと密林の枝さしかわこずえのあわいに空はほのぼのと明けかかり、あかつきの星が一つ二つ白っぽく光を失い始めていた。梢から梢へ、姿を見せぬ小鳥たちが互いにかわしながら移動して行くらしく、また遠くで野生の鶏がするどい声でつづけざまにいた。大気は爽快であった。内地の月見草に似た色の小さい花が小径こみちをはさんで咲き乱れ、歩いて行く彼の長靴の尖はそれらに触れてしたたか濡れた。
 径は斜めにのぼり更に樹群は深くなる。そこが煤竹色すすたけいろの部隊長の小屋であった。木と竹を簡単に組み合せ、屋根をニッパでいた単純な作りである。床は湿気を避けて人の背丈ほどもあるが、階段を踏むとおのずからぎしぎしと鳴った。開き扉を押し中に入ると、部屋の内はまだ暗かった。窓の前にえた竹製の机にひじをつき、隊長は椅子にかけたまま彼が入って来たのも気付かぬふうであった。扉のあおりでゆらぐ蝋燭ろうそくの光の中では、その横顔は何時になく暗く沈んで見えた。机の上には空薬莢からやっきょうを花瓶とし、黄色の花が二三本さしてある。書類つづりの耳を隊長の指が意味なくもてあそんでいた。彼はぼんやり部屋の中を見廻しながら、しばらく床の上にたたずんでいた。天井の暗みにひそむらしい虫が突然キキキと啼いたが、隊長は今まで椅子にもたせかけていた軍刀のつかを掌で膝の間に立てながら、しかし、彼にはやはり横顔を見せたまま、低い乾いた声でつぶやいた。
「宇治中尉か」
 そして窓の方に顔をあげながら苦しそうに眼を閉じ、椅子の背に肩を落した。
「――実は今日、花田軍医のところに連絡に行って貰いたいのだ。花田が何処にいるか、場所は判っているだろうな」
 彼の返事を待たず、椅子をぎいときしませ隊長は身体ごと彼の方に向きなおった。そして激しく口早に言った。
「射殺して来い。おれの命令だ」
 朝の薄い光が窓から斜めに隊長の頭に落ちていたが、近頃めっきり白さの増した頭髪やまた形相ぎょうそうの衰えが、蝋燭の火影ほかげの中でくまをつくり、かえって険悪な表情に見えた。そのまま隊長の視線はすがるように彼をとらえて離さなかった。心の底でたじろぐものがあって、彼は思わず足を引いた。長靴の裏に食い込んだこいしが堅い床木にれていやなおとを立てた。掌で洋袴ズボンをしきりにこすり、彼は全身の重心を片足のかかとにかけていた。火影の乱れが彼の表情を不安定なものに見せたが、やがてうすぼんやりした笑いが彼の頬に突然浮んで消えた。そして両かかとをつけ胸をややらし何か言おうとしたが、その前に隊長は眼をしばたたきながら重々しく、むしろいたわるような口調で彼に言った。
「誰か、射撃のうまい下士官を一人連れて行け」
 ふと顔を光からそむけて視線を下方に落した。「花田は、射撃の達人だったな」
 うつむいた隊長の髪の薄い顱頂ろちょうを見守りながら、彼はふっと涙が流れそうな衝動を感じたが、それを押し切るように首をあげ、彼は確かな声音で一語一語復唱した。
「私は、花田中尉に会い、射殺します」
 よろしいと言う代りに、隊長は彼の方を見ないまま右掌みぎてをあげてわずか振った。敬礼をし、扉を押し、彼は一歩一歩階段を降りた。降りながらためらうように振り返ったが、扉のあおりから部屋の床に火影がちらと揺れただけで、後の長靴は階段にきしみを残しながら既に濡れた地面を踏んでいた。
 地面には梢の網目あみめをのがれた光線が散乱しながら落ちていた。密林の彼方かなたで、太陽がすでに登り始めたのであろう。樹々は新芽を立てながら同時に古びた葉を梢から散らしていた。雨季うき乾季かんきとよりほか、季節と言うものを知らぬ此の風土では、植物の営みも自ずと無表情になるものらしかった。樹はおおむね闊葉樹かつようじゅである。径を曲るにつれて、はるか山の下手の方からかすかに歌声が聞えたり、また急に聞えなくなったりした。厚い落葉の層を踏みながら、彼は沈欝にひとみを定め、自分の小屋へ径をたどった。歌は女声である。その単調な哀愁を帯びた旋律せんりつは、執拗に樹々の幹をい、位置によっては言葉尻まで判るほど明瞭に耳朶じだに響いて来るのだ。密林の持つ不思議な性格のひとつである。一つの歌声が先行すると、雑然たる合唱が乱れながらそれを追った。あれはイロカノ族の女達の籾搗もみつきの歌声である。此の山のふもとから北方に拡がるサンホセの盆地から、米機の眼を盗み、兵達が搬送はんそうして来たもみをバンカに連ね、既に朝の籾きが始まったのであろう。両腕を組み、淡い光斑こうはんの散らばる小径を、黄色い花弁を蹴って歩きながら、彼はようやく自分が必要以上に靴先に力を入れ過ぎていることに気付きはじめていた。先刻さっきぼんやり隊長の室を見廻したとき、ふと彼の注意をいたのは机の横の壁に巧みに竹で造られた勲章くんしょう掛けであった。あれは隊長自らが造ったものか、当番兵の佐伯がこしらえたものか――隊長が身体ごと向き直ったとき壁が揺れ、裸火の光をはじいていくつかの勲章がきらきらと光ったのだ。
(あのうつむいた隊長のひよわそうな顱頂ろちょうを見おろした時ふと涙が出そうになったが、あの時の気持は何だろう)
 突然にがい笑いが冷たく彼の頬にのぼって来た。

 花田中尉が原隊を離脱してから既に一箇月近かった。
 宇治の属する旅団は初め呂宋ルソン北端のアパリにいた。比島作戦に於ける米軍上陸必至の地点である。幾重にも陣地を構築して待っていたにもかかわらず、レイテの戦況が一段落するや米軍は突如とつじょとしてリンガエンに上陸を開始して来たのだ。リンガエンに於ける日本の守備は誠に微弱であった。米軍は文字通り枯葉をく勢でマニラにせまった。アパリ上陸の公算こうさんは既に此の頃から薄れ始めていたのである。持久戦じきゅうせんを予想するとしても、アパリ地区は旅団全部を養うに足りない。アパリに孤立することは餓死を意味した。五月末旅団はついにアパリを見捨てた。カガヤン渓谷けいこくを南下して苦難に満ちた行軍こうぐんを続け、北の入口からサンホセ盆地に入ろうとした時、リンガエン上陸の米軍の一支隊は疾風しっぷうのような早さでカガヤン渓谷を逆に北上、旅団の最後尾に猛烈な砲撃を加えて来たのである。
 宇治の属する大隊は旅団の先達せんだつとして、その前日すでに盆地に入っていた。最後尾の大隊が砲撃を受けたと言う報告が来た時、宇治はほとんど信ずることが出来なかった。北上する米軍を食い止める為に二箇大隊の将兵が急行し、カガヤン渓谷上流のオリオン峠に陣を張っているはずであった。北入口で米軍の砲撃を受けたということは、オリオン峠の二箇大隊が全滅したということにほかならない。宇治たちにも予想出来ない情況であったが、旅団後尾の将兵にとっても此の砲撃は全然予測の外であった。米軍の砲撃は極めて正確であった。情報の不備から、敵砲兵陣地の位置すら判らなかった。ただ砲弾だけが正確に炸裂さくれつし人員を殺傷さっしょうした。部隊はたちまちにして大混乱を起した。花田軍医中尉はその中にいた。
 炸裂さくれつの破片は、花田中尉の当番兵を即死させ、余勢をかって花田中尉の脚を傷つけたのだ。道路にあふれる死屍と傷兵を見捨て花田中尉は住民シビリアンの女の肩につかまり、東方に向け戦場を離脱し密林を抜け、インタアル付近の小部落に落ち延びたと言う。此の事実を宇治達が知ったのはずっと後のことである。宇治たちの大隊は盆地を横断し、盆地の南入口付近の密林中に行嚢こうのうを解き、仮小屋や鐘乳洞しょうにゅうどうに分散、もっぱらツゲガラオ飛行場に対する遊撃戦を待機していた。だから北入口で砲撃された後尾の情況は知らぬ。花田中尉は戦死したものと思われていた。しかし北入口から逃れて来た傷兵やインタアル付近に居る海軍部隊の報告を綜合すると、花田中尉の行動は自ら明かとなって来た。
 脚部に負傷したとは言え軍医ともあろうものが、死傷者を見捨てて戦場を離脱したということは何であろう。その事実は秘されていたにもかかわらず口から口へ広がっているらしかった。北入口から離脱したとしても、当然彼は南入口付近にたむろする遊撃大隊に合流すべきであったのだ。しかしサンホセ盆地の錯綜する道路網を、地理不案内のため方角を間違うこともあり得る。またインタアル付近で脚の傷が悪化するということもあり得ないではない。しかし此の経過に先ず引っかかって来るのは、花田中尉に肩を貸したという住民の女のことであった。
 使いが出された。傷が未だ治癒ちゆせず歩行が困難であるからと言う理由で、花田中尉はかえって来なかった。使者の報告では、密林中によりそうように建てられた五六軒のニッパ小屋部落のひとつに、花田中尉は女と同盟の記者と三人で暮していたと言う。あとの小屋には、戦場や部隊から離脱したり逃亡したりした陸海軍の兵隊が七八名、それぞれ分宿しているらしい。四五日経って、再度使いが立った。それでも花田中尉は還って来なかったのだ。
 その中にだんだん食糧事情が悪くなり始めた。盆地の開闊地にはもみは山と積まれていた。比島の農民は、籾を収穫期に一度にくことはせず必要なだけその時々に搗くので、白米としての保有はない。部隊としては籾を集めて、これを米とする以外になかった。しかしツゲガラオ飛行場から飛び立つ米機のため、昼間は籾の搬送はんそうは出来ぬ。夜間にかろうじて、密林内に引き込み、住民を集めて搗かせ、之を部隊の食糧にあてた。北口で後尾が襲撃された時、運悪く塩を搭載とうさいした牛車隊が全滅したので、宇治達は次第に塩分の不足に悩まされ始めて来たのである。それははっきりした症状ではなく、初めは何となく頭が霧をかけたようにぼんやりし、刺戟に対する反応が自分でも判るほど鈍くなる。可笑おかしいなと思っているうちに身体の部分がむくみ、急に立ち上ったりすると膝頭ひざがしらががくがくした。こうなって初めて塩分の不足ということが頭に来た。たまに一塊の塩を得ると、貴重なもののようにしてめた。久し振りに舐める塩は、ふしぎなことには甘い味がした。塩とはこんな甘いものかと思った。砂糖よりももっとあまかった。舐めると次の一日間位は元気が出た。
 此のような悪条件下でも、宇治の大隊はツゲガラオ飛行場に対する遊撃戦を放棄する訳には行かなかったのだ。毎夜斬込隊きりこみたいが編成され、五号道路を越えツゲガラオ飛行場付近の幕舎や倉庫を襲った。将校を長とする大きな編成の斬込隊や下士官を主とする奇襲隊が、一夜に幾組も密林を越えた。斬込みにおもむいたまま帰らぬ者も多かった。斬込行の途中で逃亡する兵がようやく多くなった。十数名に足らぬ編成から七八名も逃亡することもあった。密林にまぎれて何処に逃げようと言うのか。斬込みに行くより逃げる方が、死ぬ率が少ないに決まっていた。死を賭して斬込むとしても、斬込みそれ自身にどれほど効果のあるものか、それは疑問であった。厭戦の気分が将兵のすべてにはっきりときざし始めていた。逃亡兵は斬込隊だけではなく、部隊本部からも出た。宇治の部下も二三既に姿を消していた。
 宇治は兵器係である。部下と共に、斬込みに使用する破甲爆雷などの製造に寧日ねいじつなかった。製造所は鐘乳洞しょうにゅうどうの中であった。鍾乳石の垂れ下る洞窟の中で、一日中火薬の臭いと共に暮した。時に同僚の昔の部下が、斬込みに行くため訣別けつべつのあいさつに来た。そんな時でも彼等はわらっていた。わらいながら手を振って、洞窟を出て行った。宇治は洞窟の出口まで見送りながら、あれが人間としての最後の虚栄であると思いながら、それでも涙が出そうになるのを押えることが出来なかった。そして出て行った人々の半数は帰らなかった。疲れ果てて夜仮小屋の寝台に横になるとき、宇治は帰って来ぬ同僚や部下の数をひとりひとり心の中で読んでいる。そして自分はまだ生きている、と思う。それは感傷的な気持ではなく、実感として胸に来た。そのような瞬間に必ず宇治は漠然と花田中尉のことを考えているのだ。考えるというはっきりしたものではなく、言わば意識の入口にぼんやり立つ花田の像を眺めていた。花田は此の旅団が久留米で編成されて以来の、数少ない彼の僚友のひとりであった。――
 南口の此の部隊はまだまだ良かった。北口の情況はもっとひどかったのだ。北呂宋ルソン穀倉こくそうと言われる此の盆地を確保することは持久戦を続けるために絶対必要なことである。此処を失えば全員山中に追い込まれて餓死の他はない。南口の戦況はさほど活発ではなかったが、米軍は北口からじりじりと侵入を続けていた。北口をやくする一箇大隊の将兵は、昼間は個々の蛸壺たこつぼに身をひそめ、身体をかがめて自らの口を充たすべき籾を搗き、夜に入れば初めて地上に出て戦った。しかし精神力だけでは米軍に敵し切れなかった。もはや米軍を圧倒することは夢であった。ただ持久の態勢を持続し内地戦力の充実を待つ、此れ以外になかった。比島戦局に充てるため内地では航空機二千余機を東北地方に既に集結したと言う噂を、兵たちは半ば信じ半ばうたがっていた。此のような状態になっても何故日本の航空機は飛ばないのか。リンガエン上陸以来、空を飛ぶのは米機のみであった。敵が「我が腹中に入る」のを待って大挙日本の航空勢力が活動を開始するに違いない。その日をむなしく待ちながらサンホセ北口では日々に死傷の数を重ねて行った。軍医を送れ、と言う使いが北口から宇治の隊に何度も何度も来た。使者の兵ですら顔色は蒼黒く濁り、眼は憤るように血走っていた。これが戦場の顔であった。そのまま持って来た戦場の表情であった。
 南口をやくする此の隊にしても、見習軍医が一名とわずかの衛生兵がいるだけに過ぎない。食糧不調と風土病と斬込みの際の負傷者のため、それだけでは手が廻りかねる状態である。しかも米軍が南口からの侵入を企図したならば更に多数の傷者が出ることは火を見るより明かなことであった。侵入の気配を斬込隊により僅かに阻止そししているとはいえ、それが何時までつづくか判らない。しかし北口の情況は使者の連絡を待つ迄もなく焦眉しょうびの急を告げている。如何なる事情があろうとも花田中尉を呼び返し、北口に廻すほかはない。最後の使者が選ばれた。高城衛生伍長が隊長の命を受け花田中尉のもとに急行した。そして昨夜遅く、高城伍長はむなしく戻って来た。
 自分は高級軍医である。高級軍医である自分を最も危険の多い北口地区に出そうと言うのは何か。南口にいる見習軍医か衛生下士官を派遣すべきではないか。自分はそのような不法な命令には応じない。
 高城伍長は抑揚よくようのない発声法で、花田中尉のそのような返答をはっきりと報告した。まだ若い、少年のおさなさを身体の何処かに残したような下士官である。その時宇治は偶然隊長室にいて、隊長と共にその報告を聞いた。斬込みに使う破甲爆雷やダイナマイトの原料が既に欠乏しかかっていて、その善後策について宇治は隊長室で話し込んでいたのである。彼は高城伍長の、若々しいくせに変につめたい、あきらかに感情を殺した表情の動きにふと興味をうばわれていた。隊長が低い声で聞いた。
「お前が行った時、花田軍医は何をして居ったか」
「小屋のすみにすわって、バイヤバスの実を食べて居られました」
 バイヤバスというのは、黄色い食用果実である。暗い密林の中のちいさな小屋で、柱にもたれてバイヤバスを食べている花田中尉の姿が、突然宇治の想像にありありと浮んで来た。その花田中尉の姿は、清潔な襯衣シャツを着け顔は何か幸福そうに輝いているようであった。
(あの窓からのぞいて見たときの花田中尉の顔だ)
 宇治は何故ともなく身ぶるいしながらその想像を断ち切った。しばらくして隊長は、苦しそうにうめくような声で訊ねた。
「――で、女は?」
「女は、一緒に居りました」
 裸火の蝋燭が揺れ、影が大きく壁にゆらいだ。そして暫く沈黙があった。夜風が密林の上を渡って行くらしく、葉ずれの音が高まり、そして消えて行った。宇治の心の底にかねてから漠然とわだかまるある想念が、此の時初めてひとつのはっきりした形を取りはじめたのである。彼は頬をややこわばらせ、それでも何気ないふうよそおいながら、無意味な視線を隊長と高城伍長の上にかたみに移していた。

 しっとり濡れた長靴の先に黄色い花弁を二三枚貼りつけたまま、宇治は自分の仮小屋の階段を登った。此処は林相の関係で籾搗きの歌声はほとんど聞えない。部屋に入ると床を鳴らしながら彼は壁にかけた拳銃を手におろした。黒色のずっしり持ち重りのするブロオニングである。寝台のへりに腰をかけ、彼は背を曲げて仔細しさいに点検し始めた。点検し終るとひとつひとつ丁寧ていねいに弾丸をこめた。布片を出して銃身から銃把じゅうはを何度も拭いた。うつむいたままその操作をくり返しながら彼は低い声を出してわらい始めた。ひどく苦しそうな笑い方であった。拳銃を持ち上げると笑いを止め、背を立てて右手を伸ばしねらいをつけた。彼の瞳と、照門と照星をつらぬく彼方に、窓の外に展がる密林の暗さがあった、太い幹や細い枝に蔓草つるくさがからみ、薄赤い小さな実が蔓のあちこちに点じている。拳銃をおろし安全装置をかけながら、彼は再び短いひからびた笑い声を立てた。そして床の上にたんをはいた。彼は昨夜の、花田の返答を高城から聞いたときの気持を思い出していた。
 あの花田中尉の言い分は身をしてつっぱなしたようなものであった。自身がたとい高級軍医であろうとも、命令が不当なものであろうとも、上官の命令をこばむことはどのような結果をもたらすものか、花田が知らぬわけがない。それがどのような具合に言われたのか昨夜の高城伍長の口裏では判らないが、しかしそれを聞いたときに宇治の背筋を、冷たい戦慄せんりつがするどくはしり抜けた。口腔こうこうの中が乾いて行くような不快な気持がそれにまじっていた。宇治は思わず視線を隊長の顔に定めたが、火影を背にした隊長の顔はただ暗くよどんでいるばかりであった。ただ軍刀の柄頭をにぎった隊長の手が小刻みにふるえるのを宇治ははっきり見たのだ。顔にあらわさないだけその怒りは、言いようのない激しいものとして宇治の胸をゆすった。そんなに怒ったってどうなるんだ、と宇治は反射的に考えたが此のやせた再役の老将校に対するあわれみの気持がおこる前に、彼は此のような険悪な雰囲気とは全然無関係にさえ見えるあの花田中尉の営みがにわかに新鮮な誘ないとして心を荒々しくこすって来るのを感じていたのだ。――
 寝台から立ち上り略刀帯をつけ、拳銃を右の腰に吊した。部屋の真中に立ち、彼はしばらく部屋中を見廻していた。壁はニッパの葉で造ってあるのだが古びてささくれ立っている。粗末な竹の寝台。鼠色によごれた毛布。此の小屋でもう一箇月も暮したのだ。先刻はいたたんが腐った牡蠣かきのように床に付着している。彼はじっとその痰を眺めていた。何か荒廃した感じがふと宇治の嫌悪をそそったが、彼は背を揺り上げるとそのまま扉を身体で押し、階段を一気にかけ降りていた。
 山の斜面に、丁度腰かけたように見える細長い建物の入口を宇治は入って行った。此の部隊の医務室である。中に入ると中央に置いた卓の上で衛生兵が二三人、キニイネ剤かなにか白い粉末を調合していたが、その中の一人が顔をあげて不審そうにちらと彼を眺めただけで、また仕事をつづけた。窓がひろく取ってあるので割りに明るかったが、竹のすだれで区切る奥の方は薄暗く、そこに床をつらねて病傷兵が寝ているらしい。鋭い消毒薬の臭いに混り、青臭い病臭がほのかにただよっていた。窓の外からは高く低く籾搗もみつき歌が流れて来る。右手の小入口の外側で突然、
「道に迷ったって。うそをつくな。逃げようと思ったんだろう」
 何か固いものが肉体にパシパシと当る音がした。
「いえ、伍長殿。ほんとに迷ったのであります」それから声が低くなり何かくどくど言う声音であったが、声が途断とぎれると又急になぐるらしい気配がした。
「――いいか。それは判っとる。目下の状況では配置を一旦離れたら、逃亡と見なされても仕方がない。判ったか。判ったらかえれ」
 抑えた嗚咽おえつがそれに続いて聞えた。衛生兵等は感動の無い様子で黙々と仕事をつづけている。彼は刀を床に立て眼を閉じ、じっとそれを聞いていた。しばらくして右手の小入口から扉を押し、高城伍長がのっそりと部屋にあがって来た。顔が少し紅潮こうちょうしている。宇治の姿を見て立ち止まったが、若々しい声で、
「見習軍医殿はおいでになりません」
 宇治は身振りで、ついて来いと合図あいずをし、黙って刀を提げたまま外に出た。
 密林の中は自然に踏み固められた道がついていて、それを斜めに下ると地面は次第に湿気を帯びて来る。斜面の中腹には巨大な石が幾つも根を据えていて、径は危くその間を縫い、そこらあたりから密林がやや薄くなって来る。サンホセの盆地は此の山を降り切ったところから北方に拡がっているのだが、梢の切れ目に隠顕いんけんする湿地帯の彼方を、バンカを水牛にかせて三四人の男達がそれに乗りゆるゆると動いて行くのが見える。遠いから、それが兵隊か比島の農夫か判らない。サンホセ盆地の中央部に通ずる運河の水が、遠く一筋ひとすじに鈍く光った。彼は歩を止め石を背にして振り返った。高城の顔に視線をおとしながら言った。
「今から直ぐ、花田軍医の処に行く。お前も来い」少し間を置いて「部隊長の命令で、花田は銃殺ときまった。ただしこれは、誰にも言うな」
 緊張の色が一寸高城の顔をかすめただけで、あとは普通の表情であった。白い歯を見せて笑ったようであった。
「はい。誰にも言いません」
「すぐ用意をととのえて、俺の小屋に来い」
 敬礼して立ち去ろうとする高城の後姿に、宇治は追っかけて呼んだ。
「――拳銃を持って来い。そして身の廻りの大事なものも持って行け」
 高城の不審そうな視線が彼の顔にかえって来た。宇治は眼をらしながら掌を振った。そして足を引きずるような歩き方で高城と反対の方に歩き出した。
 頭の上を突然サワサワという幽かな音が通った。宇治が眼を空に向けると、梢の切れたところを渡る幾百羽とも知れぬ候鳥こうちょうの群であった。一群が過ぎるとまた一群がつづいた。チチチと鳴く声も聞える。それらは次々に盆地を越えて行くらしい。あの方向がインタアルである。盆地を横切って行けば近いがそれは危険だから、やはり密林の道を迂回うかいするほかはない。彼は首を振りながら顔をしかめて痰を飛ばした。それは薄赤い点となって崖の下に落ちて行った。先刻仮小屋の床に見た痰の色がまざまざと宇治の脳裏にふとよみがえって来たのである。
 それにははっきりと赤い血の色がまじっていたのだ。アパリに居る時も、夕刻になるとひどく疲れたり肩がったりしたが、カガヤン渓谷を上るあの難行軍の途中、彼は思いがけぬ喀血かっけつをした。勿論もちろん状況が状況であったから安静などは思いもよらず、強行してサンホセに入ったのだが、それから一箇月の日光から遮断しゃだんされた密林の生活で、彼は自分の身体が刻々とむしばまれて行くのをはっきりと自覚していた。医務室にもろくな薬がないのが判っていたし、診察を受けても意味のないことは明かであったから、宇治は誰にも言わず今まですごして来たのだ。彼は今年三十三歳になる。三十歳を越せば病状の進行もゆるやかであるということは彼も知っていたが、それも平和な市民の生活をしている場合のことであった。遠からず砲弾か銃剣で死ぬことが予想出来るのに、何を病状を苦にすることがあろうと、時に冷たく笑いがこみ上げて来ることもあったが、ふしぎなことには痰の中の血のいろを見ると彼は生きたいという欲望が猛然と胸の中にき起って来るのが常であった。
 ――自然に踏みならされた石階を降りると、洞窟の入口であった。乾いた風が洞の奥から絶えず吹いて来て、彼は目を細めながら入って行った。入口の近くが自然の広間になって居て、彼の部下たちがもはや仕事にかかっていた。彼の姿を見ると皆立ち上って挙手きょしゅの敬礼をした。黒い粉末を容器に詰める仕事をしていた松尾軍曹が、歯をのぞかせて笑いかけながら言った。
「中尉殿。今日は顔色がすぐれませんね」
 彼はあいさつを皆にかえしながら、突然激しい羞恥しゅうちの念が胸いっぱいにひろがった。それは押えようがなかった。入口を入る時心がまえが出来ていたつもりにも拘らず、日頃見なれた部下の兵隊の顔を目前にした時、覚えず血が頬にのぼって、彼は暗がりに顔を背けながら不機嫌な声で言った。
「おれは今日命令で出張する。あとのことは松尾軍曹がやれ」そして低い声でつけくわえた。「帰りは――帰りは何時になるかわからん」
 語尾が少しふるえた。皆しんと黙った。その沈黙は何か不自然なものに宇治には思えた。身体を少しずつ動かして彼は洞窟の中を見廻した。白く光る鐘乳石の間に道具がいくつも並んでいて、兵たちの青白い視線が一せいに彼を刺して来るようであった。彼はたじろぎながらそのまま歩を返そうとした。背後から松尾軍曹の声がした。何を言ったのか判らないが、彼は立ち戻らずに出口の方にあるいた。外には朝の光があふれていた。石階をのぼる時初めて冷たい汗が宇治の背筋を流れ出して来た。

 〇八三〇マルハチサンマル高城伍長は彼の仮小屋に来た。その少し前に隊長当番兵の佐伯が来て、しっかりやるようにとの隊長の伝言と贈物おくりものの水筒をもたらした。水筒をあけるとウィスキイの香がした。そして佐伯はずるそうに笑いながら、物入れから鶏卵けいらんを二箇出して、之を中尉殿に上げます、と言った。
「これも隊長からか?」
「いえ、これは私からです」
 佐伯が戻って行くのと入れちがいに高城がやって来た。拳銃一挺いっちょうさげただけの軽装である。高城の拳銃を何か不思議なものでも見る目付で眺めながら、彼は自分も略刀帯に軍刀を吊り拳銃を下げ、その上から水筒をつるした。そして長靴を軍靴にき換えた。網扉を押すとき、彼は部屋の様子を記憶に刻み込むようにも一度しげしげと振り返った。脱ぎ捨てられた長靴は、ひとつは立ちひとつは床にたおれていた。目をしばたたきながら彼はぎしぎしと階段を降りた。出発、と彼は低く言い、そして歩き出した。高城の跫音あしおとがそれにつづいた。
 密林の各所に日本軍が入ってから、連絡の必要もあって大体道らしいものは出来ていたが、それも定かなものではない。植物の旺盛おうせい繁殖はんしょくがすぐ道をかくしてしまう。群れ立つ樹々の梢が日光の直射をさえぎっていたが、それでもむんむんする草いきれで、しばらく歩くと汗が背筋に滲み出して来た。道は東北の方角である。歩くにつれて湿度が高く、羽虫のようなのが道のあちこちを飛んでいて、それが顔にぶっつかったりしてうるさくてかなわない。歩きながら彼は花田中尉の状況を聴いた。
 花田中尉はインタアルに落ち延びる時、水牛にでも積んで行ったのか薬品を沢山もっていて、今はその薬品を原住民の食糧と換えそれで食いつないでいるらしい。戦場から身をもって逃れたというような想像を彼は今までしていたのだが、そのような才覚なしでは密林中に一箇月も独立して生きて行くことは困難な筈でもあった。昨日高城が花田と会ったのは、両側から草山の斜面が切れこんだたにあいの小さな部落で、その小屋にはもはや同盟の記者はいない。食糧と塩を求めて東海岸方面に出発したという。東海岸はインタアルから一本道である。そこは未だ戦災が及んでいないのである。
「柱によりかかって脚には毛布をかけて居られましたから、負傷の具合は判りません」
召還しょうかんに応じないと言ったんだな。どんな口調で言った?」
「――あたり前の調子でした」
「部屋には彼一人がいたのか」
 高城は暫く黙って歩いていたが、ふと放心から呼び醒まされたような声で言った。
「情婦もいました」
 宇治はその言葉にいやな顔をして、肩を揺り上げた。今まで花田の女のことは、情婦という言葉では頭に浮んで来なかったのである。しかし現実のあり方から見れば、そのようないやしい称呼しょうこが一番適当しているのかも知れなかった。にがい思いが咽喉のどまでのぼって来たが、彼はそれをおさえて高城に問い返していた。
「その女は、どんな女だ」
 高城は彼の顔をちらと見上げ、すぐ何か答えようとしたが、そのままはにかんだように白い歯を見せて笑った。質問を彼の好奇からと思ったらしいと宇治は考えた。宇治はきびしい表情をくずさぬまま、おっかぶせるように言った。
「こんな女ではないか。目の大きな、眉のうすい――」
「そうです。右の眼の下に大きな黒子ほくろがあります」
 やはりあの女かと、うずくような気持で宇治は思い出していた。
 ――それはまだアパリに居たときであった。その頃アパリの防衛も一応完成していて、本陣地、前進陣地、海岸陣地と三段構えが出来上っていたけれども、レイテ島からの報告によって、米軍の攻撃力を支えるにはも一度根本的な陣地じんち改築が必要であることが判って来た。宇治は前進陣地近くの或る村にいた。応召の将校である彼は、戦略や築城については勿論もちろん間に合せの知識しかなかったが、彼の目から見ても之等の陣地が艦砲や航空機の攻撃に対して強固であるとは夢にも思えなかった。補強工事の令が発され、兵は昼夜兼行けんこうで働いた。そんな或る日、飛来ひらいした米機をめずらしくも味方の高射砲が射落し、飛行士は夕暮の空に白い花を開かせたように落下傘らっかさんで降りて来た。それは前進陣地に近い山の中であった。それきりその飛行士は消息を絶ってしまったのである。捕えて情報を得る必要があるというので、くまなく探索したけれども行方ゆくえが知れなかった。比島人の誰かがかくまっているに相違なかった。レイテの敗北の程度につれて比島人の心もようやく日本軍から離反して行くらしかった。米飛行士探索の命令が、宇治に与えられた。
 ある夜宇治は、飛行士が降下した山の付近の部落にひそかに入って行った。真夜中すぎて二十二三夜の月が出ていたが、風物は蒼然とくらく湿地を貫く道だけが白く浮き上っていた。部落は戸数にして七八十軒である。その中の一軒だけがあかあかと灯をともし、あとの家は暗く眠りに入っていた。此のような時刻に灯をともすのは、此処等の農民の習慣から見て一応疑えば疑えた。宇治は拳銃をにぎりしめ、足音を忍ばせてその家に近づいて行った。バンガロオ風の造りの窓から、そっと彼は内部をうかがった。勿論米飛行士がその内にいるなどとは思っていなかった。むしろ彼にそんな行動を取らせたのはかりそめの好奇心であった。窓掛けの隙間から彼は家の内部を見わたした。
 花田中尉がそこに居たのだ。
 青色の絨氈じゅうたんをしいたその部屋に卓をえ、椅子にふかぶかと腰かけて花田中尉は酒をのんでいた。卓をへだてて女がすわっていた。そして酒瓶を左手で持ち上げた処らしかった。土民がよく着る簡単服に似た服装で、花田の方をむいていたが、窓の外に宇治の気配を感じたのか、鋭くこちらに視線をむけて立ち上った。頬のほくろが目立つ眼の大きな顔立ちである。誰かに似ている、と咄嗟とっさに彼は思ったが、そのまま足音を忍ばせてすばやく窓の下をはなれた。見てはならぬ光景を見た気がしたのだ。彼は物かげにしゃがみ、或いは窓から顔を出すかと待ったが、その気配もなかった。ねっとりと夜風が肌を吹いた。花田が着ていた白い清潔そうな襯衣シャツの色が眼にのこっていた。すべて奇異な感じであった。彼はじっとうずくまったまま、何か解明出来ぬ複雑な感情が湧き上って来るのを意識した。
 その頃軍紀ぐんきは既に乱れ始めていた。将校の中でも定められた宿舎に寝ず、女をつくってそこに通うものもあった。そんな将校を宇治は何人か知っている。旅団の副官をしていた大尉が民家で泥酔し女とダンスに興じていたのを兵隊に見とがめられたという事件も起った。宇治はそのような出来事を見たり聞いたりする度に、同僚のそんな失態がおれとどんな関係があるのかと突っぱねて考えるのであったが、何か突っぱね切れぬかすのようなものが心に残った。女をつくるということは公然の秘密であった。宇治も女に対する嗜好しこうがないではなかったが、また道徳的である訳でもなかったが、女をつくろうという気にはなれなかった。年齢から来ているのかも知れない。しかしその当時は彼は自分の心が頽廃たいはいすることが一番こわかったのだ。
 あの家が花田の宿舎であったのか、それは宇治はとうとう知らず終いであった。誰にも言わず誰にも聞かなかった。しかしあのカアテンから見た一瞬の光景は、異常な鮮明さで彼の心にきついている。南口の戦場から花田が離脱したことを耳にしたとき、彼はすぐあの目の大きな女のことを思い浮べたのだ。あの女であるとすれば――あの女はどうやって隊についてカガヤン渓谷をのぼって来たのであろう。あれは言語に絶する難行軍であった。過労のため兵は倒れ馬匹ばひつは足を滑らして落ちた。倒れた兵は自決し、或いは射殺された。宇治は血を吐きながら杖にすがって歩いた。サンホセに入っても何時まで軍隊としての命脈めいみゃくが保てるのか。それはもはや烏合うごうの衆であった。僅かに皆を四散から踏み止まらせているのは、同じ危険と同じ運命にさらされているという共通の意識からであるように宇治には思えた。俺は俺のために生きよう。あえぎ進みながら宇治は此の時はじめてこう思ったのだ。あの難行軍を、女の足でどうしてついて来たのか。また南入口の砲撃の場をどうして女が花田に肩を貸し得たのか。それらはすべてわからない。わからないけれどもそれはふしぎな現実感をもって宇治の思いにかぶさって来る。

 道は歩くにしたがって次第に湿気を帯び始めた。会話が途断とぎれてから二時間ほど黙りこくって歩いた。幽かな径の跡が二叉にわかれている。何れをとってもさほど逕庭けいていはないみちだと高城が言うので、彼はしばらく考えた末、山に入る道を選んだ。だんだん密林が深くなり、巨大な樹が多くなり出した。樹々の幹肌に寄生木やどりぎが蒼黒い葉を茂らせ、つたが梢をおおって這っていた。地面には羊歯しだ科の植物が茂るまま茂り、幹々の奥の薄暗がりを蛍に似た発光体がすいすいと飛んだ。道はやや乾き、時々どこかで山水の流れる音もした。道幅は四五尺程である。宇治が先に立ち、高城はあとにつづいた。
「道は間違いないな」
「大丈夫です。あと二三時間もすれば旅団司令部に着きます」
 旅団司令部は予定の後方陣地の中央にあった。花田中尉の所在はそれより北方三キロの地点である。日が暮れる前に到着出来るだろう。彼は何となく時々背後の高城を振り返って見た。疲労がもはや宇治の肩を重くしていたが、高城は若いだけにまだつかれを見せていない様子であった。振り返る度に高城は彼の顔に眼で笑いかけた。
「お前は衛生科だったな。花田軍医の直接の部下だな」
「そうです」
「パラウイ島に居た時、花田の当番兵をやっていたのは、お前だったのではないか」
「そうです」
「そうすれば」と宇治は言葉を切った。「お前は自分の上官を殺すことになる」
 ついて来る高城の息づかいが少し荒くなったようであった。一寸経ってあえぐような口調で、
「命令でありますから――」そして後は口早に言った。「しかし私が悪いのではありません」
「誰もお前が悪いと言ってはしない」
 宇治はそう言いながら、冷たい笑いをぼんやり頬にうかべた。「それはどうでも良いことだ」
 そしてしばらくして「殺されなくても皆死んで行く」宇治はこの言葉を自分に言いきかせるようにつぶやいていた。
 道は狭くなり、密林が突然切れた。がけである。黒い岩肌が十メートルほども垂直に立ち、道は崖の上縁を危く縫っていた。彼等は崖のふちを歩き出した。反射で瞳の色も染まりそうな明るい盆地の展望があった。密林は崖の下から再び始まり、斜面を下るにしたがってまばらになり、それが尽きるところから田がひろがっていた。もみの山が何か玩具じみて点々と遠く視野を連っていた。片手で木の根や枝をつかみ僅かに身体を支えて歩き悩みながら、先刻何気なく呟いた言葉の意味が執拗しつように胸にからむのを彼は感じ始めていた。アパリに居た頃の彼の僚友りょうゆうの大半は既に亡い。ツゲガラオ南方のオリオン峠で米軍をむかえ撃つため、二箇大隊は選ばれて先発した。しかし時は既におそかったのである。オリオン峠は既に米軍に占拠せんきょされていて、二箇大隊は猛烈な攻撃を受け大隊長以下ほとんど全滅、わずか二十数名の兵がサンホセに還って来たのみである。オリオン峠の戦闘の選に洩れたことについて、彼は自分をひそかに祝福する気持がないとは言えなかった。また一日早くサンホセに入ったばかりに猛烈な砲撃を受けずに済んだことについて、また本部将校であるばかりに斬込隊に一度も参加せずに済んでいることについて、死んだ僚友の不運をあわれむ心のうらに、彼は或る冷たい喜びを用意していなかったとは言えないのだ。人が死ぬのも生きるのも、ごく些細ささいな要素がそれを定める。それは初めから戦争の常としてわかっていることであったが、現実に直面すると堪え難い気がした。生き延びているのを喜ぶ気持は、純粋なものであるか不純なものであるか、それは彼には判らなかった。そんなことを考えることすら無意味ないとなみに思えた。北口の将兵が全滅するのはもう時間の問題である。そして南口の大隊の運命も風前ふうぜんともしびにひとしい。それは誰しも予感していることである。それにも拘らずなお原隊に止まろうとするのは何か。人間としての矜持きょうじか、此処には最早もはや矜持とか自律とかはあり得ない。あるのは生きているか殺されるかという冷たい事実だけだ。善とか悪はない。真実とは一つしかないのだ。それは内奥ないおうの声だ。生きたいという希求だ。自分のために生きるのが、唯一の真実だ。爾余じよの行動は感傷に過ぎない。
 彼は顔に日光の直射を受け岩角によりかかり、背後に近づく高城伍長の軍靴の裏金が岩角にふれてかつかつ鳴る音を聞きながら、暫く歩を止めてたたずんだ。跫音はだんだん近づいて来る。彼は振り返った。高城の顔色が、驚くほど蒼かった。
「お疲れになったのですか。中尉殿」
 彼はじっと高城を見据みすえながら、今朝のことを考えつづけていた。隊長の半白の頭を見おろして立っていた時、彼は不意に悲哀の感じが瞬間であったが胸一ぱいになっていたのである。あの気持は何だろう。隊長を気の毒に思ったのではない。彼はゆっくりした口調で高城に話しかけた。
「今朝隊長から花田を殺せと言われた。誰か下士官をつれて行けと言うので、お前をつれて来た」
 今朝、医務室で待っているとき、高城は室の外で兵隊を殴っていた。昨夜の彼の報告ぶりは変によそよそしく冷たかったが、あれは心の中でどんなことを考えていたのだろう。稚い正義観でそれがあるとするならば――しかし彼は高城の若々しい頬や色艶の良い腕首を眺め廻した。高城の澄んだ瞳がじっと彼の言葉を待っている。彼はかさぶたを一気に剥ぐような苛烈かれつな快よさを感じながら、一言ずつ力をこめて言った。
「おれはこれきり、原隊に帰らないつもりだ。――花田にあうかあわないか判らん。おれは東海岸に行く」
「中尉殿」さえぎるように高城は叫んだ。顔が見る見る赤くなって来た。「中尉殿。それはいけません」
 宇治はその叫びを冷たく黙殺しながら、岩角に身体をもっと押しつけるようにした。
「お前は逃げたければ俺と一緒にこい。逃げるのがいやなら、かえれ」
 高城の顔から急に血の気が引いた。岩角に靴を鳴らし後にすざりながら、青く燃えるような眼で宇治をにらんだ。宇治は表情を微塵みじんも動かさず、じっとその動作を凝視ぎょうしした。しばらく沈黙がつづいた。日の光が背に熱かった。突然高城があえぐような声で叫んだ。
「私は帰ります」
「よし、帰れ」
 宇治は叩きつけるようにさけんだ。高城は両かかとをそろえて宇治に挙手の敬礼をした。げた手がぶるぶる慄えた。宇治も視線を外らさず一寸片掌を上げた。高城はむこうをむくと崖縁の道を歩き出した。笑いがそのまま宇治の頬に凍りついた。右手が腰に行き、そろそろと拳銃を抜き出した。崖は一本道である。高城は一度も振り返らず、肩が小刻みに揺れながら遠ざかって行く。陽炎かげろうのようなものが立つのか像はゆらゆらする。岩角に銃身じゅうしんを乗せ、宇治は身体を曲げて岩によりかかった。片眼を閉じて頬を岩肌にあて、指を撃鉄げきてつにかけた。照星の彼方に高城の姿が小さく揺れる。あと三十秒もすれば角を曲るだろう。今撃鉄を引けば必ず当る。腕に自信はあった。打つぞ、と彼は思った。が頬にりついた笑いが急に消えて、彼は何か重いものに堪えるような顔付になって頭を上げた。拳銃を力無く下におろした。その時高城は角を曲ったらしく急に見えなくなった。曲る時一寸此方に振りむいたらしい。しかしそれも判然はっきりしなかった。宇治はふしぎな表情を浮べたまま、じっとそこに立っていた。

 しばらく経った。彼は頭を強く振るとのろのろと歩き出した。顔色は依然として悪かったが唇を堅く結び眼付がけわしくなったのが、かえって生気せいきが出たように見えた。逃亡の意志を自分一人に秘めて置かず、相手が高城にしろ吐き出してしまったので、気分はむしろ楽になったようであった。今朝隊長が、誰か射撃のうまい下士官を連れて行けと言った時、宇治は直ぐ高城のことを憶った。高城が射撃がうまいかどうか彼は知らない。が、すぐ高城のことが頭に来たのは何故だろう。宇治はその時はっきりと逃亡の決意をかためていたのだ。だから最も逃亡に加担かたんしやすい下士官を選ぶべきであった。それにもかかわらず彼は高城をえらんでしまった。昨夜の高城が報告する時の表情が頭にしつこく残っていたのだ。それは冷たく感情を殺した顔だった。宇治には判っている。高城は上官である花田を憎んでいるのだ。女と逃げて帰らぬ花田に、まことに通俗的な怒りを感じているのだ。そして高城を選んだというのも、宇治は自分の逃亡に対する通俗的な非難と言わば対決したかったのだ。
 宇治は欝々うつうつとうなだれて方途ほうともなく無茶苦茶に歩いた。道は再び密林に入った。逃亡の意志を打明ければ、高城の取るべき途は、宇治と共に逃げるか、宇治にそむいて帰るか、あるいは宇治を射殺するか、此の三つしかない。宇治は此の最後の場合を考えていた。(その時俺は高城を射つか黙って射たれるか、どちらを取るだろう?)彼はその事を考えたとき何故かうずくような快感を苦痛と一緒に感じていた。が、実際には高城は彼に背いて途を戻って行ったのだ。三時間もすれば原隊にたどり着くだろう。そして隊長に報告するだろう。そうすればあの人の好い隊長は激怒して追手おってをむけるだろう。それはすぐ頭に来た。だから高城を射殺しようと思ったのだ。しかしとうとう射たなかった。何故射たなかったのか。一度も振り返ろうとしなかった彼の疑いを持たぬ心が宇治を打ったのではない。宇治は賭けをしたかったのだ。更に追手が来る。宇治は自分の逃亡に対する外からの圧迫があればある程、反撥して自分の正当さを確かめ得るだろう。それが確かめたかったのだ。人知れず、難破なんぱを予感して船倉せんそうから逃れ出る鼠のように逃げたくはなかった。善いにしろ悪いにしろ邪魔物を押し分けて逃げたかった。抵抗を感ずることによって自らの行為を確かめたかったのだ。指で傷口を押し拡げることによって、傷の深さを確かめるように。――
 三十分ばかり黙って宇治はあれこれと考え悩みながら歩いた。やがて道に沿った小部落らしいものが見えて来た。ニッパの屋根が樹々の間から見え隠れしたと思うと、道の曲りに沿って四五軒の汚い小屋が不規則な形で集っているのが宇治の視線に止った。荒れた感じなので久しく無人であることが一目で判った。宇治は肩を落しながら何となく其処に入って行った。もみくきねが二三本床に転がっているばかりで柱ももはや朽ち始めていた。に似た匂いがうっすらと四辺に立ちこめていた。湿った地面を踏んで横手に廻ると、其処は羊歯しだの乱れ茂る間に傾き立った小屋であった。屋根から裂け下ったニッパの古葉の隙間から、その小屋の床に、何か黒い形のものが横たわっているらしい。思わずぎょっと右手で拳銃を押えながら、宇治は目を凝らして近づいた。それは日本の兵隊であるらしかった。
 ぼろぼろになった襯衣シャツをまとい、足を長く伸ばしてあおむけに横たわっていた。宇治が近づく気配を感じたものか物うげにくびを動かしたが、その顔には驚きとか喜びとかの感情は全く無かった。頬骨の出た色の黒い兵である。気がつけば胸の上に組み合された両手はほとんど肉が落ちて、筋だけが針金のように浮き上っている。枕許まくらもとに水筒と食べかけのバイヤバスがしなびて転がっていた。どんよりした視線で宇治の姿を眺めている。痴呆めいた視線であったが、その眼すらも暗い影にくまどられていた。床に片足をかけながら宇治は暫く冷たい眼付でその男を眺めていた。片足に力を入れて床の上にあがった。柱と床がいやな音を立ててきしんだ。
「お前は何か」
 男のぼんやりした表情は変らなかった。宇治は更に声を大きくして再び同じ問いを繰り返した。低いうつろな声が、ゆるゆるした調子で男の口から洩れて出た。
「病気であります」
 宇治はかさねて所属部隊を聞いた。何か答えるらしかったが、判然としないまま男はだるそうに眼を閉じた。瞼を閉じながら胸に組んだ掌を僅か動かして、これは比較的はっきりした声音で言った。
「も一人いるのです。奥に」
 宇治がそれについて視線を動かすと、ニッパの半壁を隔てて奥にも一つ部屋があるらしく、そこは樹々の梢が低く垂れているのか蒼黒くよどんだ色であった。その床にも黒くひとつの物体が横たわっていた。宇治はそちらに近づいて行った。近づくとそれもやはり兵隊であったが、宇治はぎょっとして立ちすくんだ。その男の顔から頭にかけておびただしくはえがたかっていたのである。
(死んでいるのか?)
 立ったままじっと見つめていると、床に垂れた手が極めてゆるやかに動き、そして顔のあたりに近づき、微かに蝿を追う仕草をした。蝿はぱっと飛び立ちぶんぶんなきながら、そしてそこらを飛び廻ったり柱に止ったりした。まだ死んでいるのではなかった。顔は刻んだように頬骨が立ち、ほとんど土の色であった。伸ばした脚にゲエトルがゆるみ、処々にぶざまなくぼみを見せていた。生きているうちから蝿はたかるのか。宇治は口の中ににがくつばがたまるのを意識しながら眼をそむけた。男の顔には再び蝿が戻って止り始めるらしかった。所属を離れた兵隊、ことに見失った兵隊がこのように密林をさまよっているうちに飢餓きがのためあちこちに倒れて行くものらしかった。規律が僅かでも保たれているのは本隊付近ばかりで、それを一寸はずれると此の漠々たる密林の中には、支柱を失った兵たちが修羅しゅらのように青ざめてさまよい歩くらしかった。その事は部下の兵などから聞き知っていたけれども、まのあたりに見た此の光景は、ある予感を伴って、宇治に堪え難く重くかぶさって来た。宇治はもとの部屋に戻って来ると柱によりかかり、大きく息をついた。その時気がついたのだが、奥の部屋からは既に屍臭ししゅうに似た臭いが立ち始めていたのだ。疲労が肩に重かった。背骨のしんがズキズキと痛んだ。身体の節々がしびれるようであったが、その癖身体の内側が変に熱っぽかった。柱によったまま宇治はしずかに目を閉じた。
 今朝の出発時の、逃亡の新鮮な意図が次第に重苦しい不快なものに変って来ているのを彼は感じた。今朝はまだ氷を力まかせに踏み破るような切ない喜びがあった。久しく欝屈したものが出口を見つけてほとばしるような気持であった。サンホセに入って一箇月間、絶えず求めていた逃亡の機会を、今朝はじめてはっきり掴んだと思ったのだが、あるいはそれが錯覚ではなかったか。昨夜高城の報告を聞いたとき、花田の現在の在り様がにわかに鮮かな感じで彼の眼底に浮んで来た。彼はその時重く静かな亢奮こうふんが湧き上って来るのを感じていた。その亢奮が心の底で逃亡という言葉と結びついたのは何時だろう。昨夜はいろいろな事を考え、長いこと眠れなかった。今朝当番兵の佐伯が彼を呼びに来た時すぐ彼は、それは花田の追討ついとうの命令であるだろうということを直覚していたのだ。
 高城が戻ってしまってからしばらく緊張していた心が、今になってくずれ始めて来た。
 第一に彼には道が判らなかった。果して此の道をたどればインタアルに着けるものか、それも判らぬまま消えがちのみちを無茶苦茶にあるいてここまで来た。そして今此の小屋に居る。このまま途を踏み迷うとすれば、あるいは此処にいる兵隊と同じ運命をたどることになるのかも知れなかった。糧食りょうしょくとても一日分しか持たぬ。歩いているうちに腹が減り、そして食を求めるすべがなければ、やはり力つきて道端に横たわり死を待つほかはないのだ。しかし此の道がインタアルへの道に間違い無ければ、――その時はまもなく追手が宇治に追い付くだろう。
(あの時、高城を射殺すればよかったのだ。おれは何をためらったのだろう?)
 宇治は激しく舌打ちして眼を開いた。追手が来るという不安が次第にはっきりした形をとって胸の中に今拡がり始めたのである。しかしそれは今更思い悩んでも始まらぬことであった。小屋を出てすぐ歩き出さねばならない。危険が迫っている。かり立てられるような気持の半面、何か図太いものが身体の芯をじっと掴んではなさなかった。
 善いにしろ悪いにしろ、と彼は立ったままぼんやり考えた。独楽こまのように、力尽きてたおれるまでは一所懸命廻っていなければならぬ!
 突然、跫音あしおとが聞えた。びくっとして宇治は身構えた。
 表の小屋の間を縫い、跫音は横手の濡れた地面に廻って来るらしい。宇治は注意深く耳をすましながら、右手で拳銃の銃把じゅうはを握り、安全装置を外した。此処らは特に林相りんそうが深いので、梢る光線も海底のように青かった。空気を押し分けるように暗い人影があらわれて来た。宇治は驚いたような声を立てた。
「高城、ではないか」
 宇治はしかし拳銃を握ったまま警戒の姿勢を動かさなかった。だんだん近づいて来る。高城伍長であった。宇治が立つ床のへりの直ぐそばに来て立ち止った。そして宇治を見上げた。宇治は黙って高城を見下していた。もともと色の白い高城の顔が、光線の具合で青く透き通るようだった。宇治を見上げたその長い切れ眼に、涙がいっぱいたたえられているのを宇治ははっきり見た。そう言えば近づいて来る時の高城の姿は、ほとんどよろめくようだった。疲労の極にある人のような衰えが高城の表情にみなぎっていた。何か言おうとして、そして言葉にならなかった。頬がびくびくと痙攣けいれんした、涙の玉が瞼から離れて頬に一筋すべり落ちた。宇治は身構えた姿勢を次第にきゅうに戻しながら、鼻筋にふとつんと突き上げるものを感じていた。しかしそれも瞬間のことで、彼は変に不機嫌な表情を作り、そして床の上の男を振り返った。男が何か言ったのだ。
 男は顔を彼等の方に向けてうつろなまなざしを開いていた。唇が僅か動いて乾いた声で何かを言うらしい。何を言っているか判らない。声と言うよりは咽喉のどから吹いて来る風のような音であった。
「何を言っているのか聞いてやれ」
 宇治は高城の方をむいてそう言い捨てると床から地面に飛び降りた。何気なくすらすらと口から出た。高城は一寸ためらったが、直ぐ床に登ると、男の枕許にしゃがみ首を曲げて耳を男の顔に近づけた。宇治はそのまますたすたと道の方に出て行った。
 道の端にある倒れた木に腰を掛けて、刀に上体を支え眼を閉じた。そして高城が一旦いったん戻りかけて又追って来た気持を考えた。高城の眼に涙が溜っているのをはっきり見たとき、先ず彼の胸にのぼって来たのは、一種のやり切れない感じであったのだ。(此の男はこれから先、暫くは俺の負担となるだろう)原隊から追手が来ないと判ったことは、不安が無くなったというよりむしろ拍子ひょうし抜けの感じであった。実は先刻、彼を追って来るであろう追手として、彼は僚友の顔を一人一人思い浮べていたのである。自分がぎりぎりの場に立つその予感が、それで皆消えてしまった。彼は眼を見開くと無感動な顔付でしきりと四周あたりを見廻した。道はわずか跡を示しながら密林の果てに消えている。
 小屋の陰から高城が出て来た。宇治も物く立ち上った。立ち上りながらたずねた。
「あの兵は何と言っていたのか」
 高城は近づいて来たが、その歩き方や動作の中に、へんに突き当る硬いものを鋭く感じて、宇治は微かに身がまえた。高城の声は暗く押えた調子をふくんだ。
「もし、東海岸に行くのなら、自分も一緒に連れて行って呉れ、と言うのです」
 聖地をした巡礼じゅんれいのように、皆ふしぎに東海岸に行きたがる。東海岸に行けば米も塩も魚も豊富にある。このことは原隊の間でも伝説のように兵等に信じられていたが、それは幾分誇大に伝わっているにせよ事実のはずであった。軍に属さぬ一般邦人は既にそれぞれ群をなして東海岸に向っていた。今その言葉をきいて宇治も漠然と自分が其処にかれていることに気付いていた。
「もし連れて行って貰えぬなら」高城は一寸息を呑んだ。「その拳銃で射ち殺して呉れ、と言うのです」
 宇治は黙って高城を見返した。返事をしないまま彼は歩き出した。そして低く独白どくはくのようにつぶやいた。
「道はこれでいいんだな」
 歩いて行く宇治の後を高城は小走りに追いすがった。
「殺して来ましょうか。宇治中尉殿」
 思い詰めたような声であった。何か殺気を感じて宇治はふり返った。高城の眼が宇治の視線を捕えてキラキラと光った。
「何故殺すんだ」
「殺して呉れと言うんです」
 変に頑固な嗜欲しよくが今の彼をとらえて居るらしかった。顔の筋肉がこわばっていた。宇治は高城の瞳の色から何とない圧迫をじりじりと感じ取った。それに堪えながら、宇治はその眼を見返していた。宇治の行為に対しての反感、それにも拘らず宇治に従おうとする自らの弱さ、それらに対する自棄やけな反撥が燃えるような彼の眼にあらわれていた。宇治は黙って背をひるがえし再び道を歩き出した。
 突然背後で笑い声を立てた。宇治はぞっとして足を止めた。それは笑い声ではなかったのだ。押えたような嗚咽おえつであった。次第に大きく乱れながらそれは号泣ごうきゅうに変って行った。追われるように宇治は足どりを早めた。

 時間は正午を遥か廻った。密林は行けども行けども果てしがなかった。疲労がそう感じさせるのかも知れなかった。食欲は全然なかった。ただ黙って歩いた。高城もれた瞼を伏せて黙々とついて来た。
 何と無く妥協して高城を再びつれて来るようになった事、これが次第に不快な重みとなって宇治の胸を押しつけて来るらしかった。何故あの時叱咤しったして追い帰さなかったのか。背後に同じ調子でついて来る高城の重い足音を耳に止めながら、宇治は益々ますます心が沈んで来た。
(何故俺はまるで囚人のように暗い気持になってしまうのだろう?)
 逃亡ということが善いことか悪いことか、それは既に今朝来心の中で計量済みの事であった。それについて自分を責めることは無い。生き抜く事が正しいと思えばこそ此のような逃亡を断行したのだ。それなのに東海岸への足をはばもうとするのは何であろう。
 突然、今まで意識のかげに隠そう隠そうと努力していたあるイメイジがはっきり浮び上って来た。それは今朝の鐘乳洞の内で彼が見た、あの部下の兵達の突き刺すような視線であった。あの兵達はアパリ以来の彼の部下である。それ等をも捨てて宇治は此処までやって来た。勿論もちろん彼等は今朝、宇治の心中を見抜いたはずはない。唯何時ものように上官の話を聞く時のように注目していたに過ぎない。自分の行動を正当と信じるなら、何故あの時あのようにたじろいだのか。白く光る鍾乳石の間から彼に向って放たれたいくつもの青白い視線が、今なお彼の胸を堪え難く苦しめて来る。
「――さて、さて」
 無意味な言葉をしきりに呟きながら、宇治はその想念を心から追い出そうとした。追い出そうとすればする程、それは宇治の心にすがりついて来る。堅くよろった筈の心の、ごく狭い弱味を誤たずねらって、何故それらは鋭い刃を立てて来ようとするのか。
 肩からった水筒がだんだん重荷になって来た。歩調につれて水筒の中で密度ある液体がぴちゃぴちゃと揺れるのが判る。宇治はくびを真直に立て鋭く視線を前方に固定させ、足を引ってあるいた。額から汗の玉がいても拭いてもしたたり落ちた。
 ――応召を受けて以来三年間、彼はあちこちを転戦して歩いた。戦野の陣地で彼が見たものは、人間というものの露骨な形であった。杖をついてサンホセ盆地への道を進み悩みながら、自分の為にだけ生きようと宇治がしみじみ決心したのも、彼が見聞きした現実がはっきりそれを教えたからであった。人間は、自分の利益とか快楽にしか奉仕しないということ、犠牲とか献身けんしんとかいうことは、その苦痛をおぎなって余りある自己満足があって始めて成立し得ること。それらのことを彼は此の三年間に深く胸に刻み込んでいた。彼の僚友、今生き残っているのも死んでしまったのも合せて、実に雑多な型の人間がいた。アパリでダンスと酒に酔いれた副官もあったし、また花田のように女を連れて逃亡したのもいる。その反面には進んで斬込隊を志願して帰らぬ若い少尉も居たし、部下を救うために己が身を殺した老大尉もいた。しかし此のような戦場の美談を彼は純粋な気持で受け入れることは何となく出来なかった。何か心にひっかかるものがあった。そうした人間の美しさを素直に受け入れないならば、戦野に於ける破倫はりんを彼は憎むわけには行かない筈であった。実際彼には、両方とも此んな危急ききゅうの状況にあってはむなしい営みに見えた。彼はもはや人間を眺める目に遠近を失っていたのだ。支柱を失った人間は、彼には影を失った幽鬼ゆうきに過ぎなかった。皆支柱を失っているのではないか。幽鬼の行為に美醜がある筈がない。
 あの難行軍をつづけてサンホセに入ったとき、南口付近はマニラから逃げて来た海軍部隊が駐屯ちゅうとんしていた。宇治は高熱のため当番兵のはからいで一軒の民屋に寝た。そこも海軍が占拠していて、その家にはジャンパアを着た海軍軍属ぐんぞくらしい男が住民の女と一緒に住んで居た。宇治の病気を知ると同情して、何処からか椰子やしやマンゴオの実を取って来て呉れた。軍属らしいと思ったら報道班員だと言う。仔熊のような眼をもった、恰幅かっぷくのいい男だった。今は海軍の糧秣りょうまつ係の仕事をして居るらしかった。宇治はその男の名に記憶があった。ずいぶん前のことだが或る文学賞を得た男である。宇治は地方にいた時その小説を読んだ記憶がある。何でも氷山の上を渡り歩いて熊を射とめる小説であった。翌朝別れを告げる時その男は、急に真面目な顔になって、此の戦争が勝つにしろ負けるにしろ自分は此処に踏み止まり、一生此の女と(横にいる女を指さした)此の土地で暮すつもりだ、と宇治の耳にささやくようにしみじみと言った。宇治はその時目を見張る程おどろいた。何というのんびりした事を考えているのかと思った。その後宇治の隊から兵が四五名盆地に糧秣りょうまつ求めに行った時ゲリラに襲われ、皆殺されたという事件が起った。そのゲリラを手引きしたのがあの報道班員だという噂をあとで聞いた。その後の事は知らない。戦場の噂ほど不確実なものはないから、宇治もその事について深く聞く事はなかったが、そんな噂が立ったとすればあるいはその後彼は殺されたかも知れない。戦場では個人の生命など問題ではなかった。唯ちょっとした恣意しいが人の命をうばう事もあり得る。小説を書こうという程の男が、どうして自分を危くするようなことをしたのか。しかしそれは何も不思議ではない。誰と限らず皆、判断の支柱を失っているのだ。現象に呼応する感覚があるだけで、皆その感覚を自分の理性だと信じ込んでいる。
(生きたいという希求から逃亡した俺も、あるいはその類かも知れない)
 あの小説家をわらう訳には行かないのだ。彼は次第に自分が何を考えているのか判らなくなり始めていた。何もかも自分の判断で割切りそして行動していると信じていたのだが、それもあやふやなもののように思われた。判っていることは、自分が今原隊げんたいを離れて遁走とんそうしているという事実だけであった。しかしそれも遂行すいこうおおせたわけではない。今からでも花田を射殺する決心になれば、そして何食わぬ顔をして原隊に戻れば、誰も知るものはない。高城が知って居るとしても、彼も宇治を追って来たからには、逃亡を意図したという点で同罪である。人にらす気づかいはないのだ。しかし高城は果して一緒に逃げるつもりで彼を追って来たのか。何故あの時涙をいっぱい溜めていたのか。何故あの病兵を殺したがったのか。何もかも判っているようで、考えれば彼には何もかも判らないことばかりであった。
(俺は一体何の為に此の密林の中をとぼとぼ歩いているのだろう?)
 荒涼たる疑念が何の連関もなく彼の胸をき上げて来た。……
「歌が聞えます」
 高城がうしろから宇治に声をかけた。宇治は立ち止って耳を澄ました。かすかではあったが宇治の耳にもその声は聞えて来る。首を廻して高城の方を見ながら彼は独語のように言った。
「聞える。あれはイロカノの歌だ」
「旅団司令部です」
 落着いた低い声で高城がそういった。唇をきっとしめているので、高城の顔は何か思いつめた表情に見えた。ある疑いがふと宇治の心を影のようによぎった。血管の浮いた濁った眼で宇治はじっと高城を見つめていた。高城は表情を変えないまま自然に宇治を見返した。
「――よし」
 それは声になっては出なかったが、そう言う気持で宇治は肩を張るようにして歩き出した。二分間ほど歩くと突然道が切れた。うそのように明るい日光が天から落ちて来た。密林がそこだけ引き抜いたように開けていた。
 宇治は昔、耶馬渓やばけいを見たことがある。あの耶馬渓を構成する岩に似た岩群のたたずまいであった。宇治の居る所から眺めると、丁度円形劇場に似た風で、すりばちのように八方から斜面が切れ込んでいる。崖は段々になっていて、中途に引っかかるようにして点々とニッパ小屋があった。底の部分には簡単服に似た服装の女たちが沢山動いていた。歌声は其処から起るのである。崖を危く伝って兵達が登って来るのも見えた。
「あれが、司令部です」
 崖の中途の、他のよりもやや大きい小屋を高城は指さした。中空に棒を突き出し、白い襯衣シャツなどが乾してあった。斜面がもつ幻惑で距離が定め難いが、それでも呼べば聞えるほどの近さである。みちはすりばちの上縁をはしっていた。怒ったような口調で、宇治はたずねた。
「インタアルへ行くみちは――此のみちを通るのか」
「そうです。あの大きな木」人さし指を移動させながら、「あの木の所から右に折れるのです」
「――此の崖縁を歩かずに、密林の中を突き抜ける途はないのか」
「ありません。私は知りません」
 宇治は少し顔を険しくして高城を眺めた。そして低い声で言った。
「お前が先に歩け」
 高城は何かぎょっとした風で身体を硬くした。その気配は宇治にもはっきり判った。二人は密林で出会った二匹の獣のようにしばらく見つめ合った。高城は突然泣き出しそうな表情になって、大きな身振りをしながら甲高かんだかい声で言った。
「私は後から参ります」
 また沈黙が来た。
 宇治はふと視線を外らすと、行手の大きな木を眺めた。困惑したような表情が宇治の顔にひろがった。日の光が当る大木の頂きをぼんやり眺めた。樹肌のけた、頂上付近に僅かの葉をつけた巨樹が、何か意味があるような形に眺められた。
(あんな木がもう直ぐ自然倒壊するんだな。しかしあの木の下を曲れば安心だ)
 しかし宇治は歩き出そうとはせず、また高城の方に振りむいて言った。沈欝な調子であった。
「おれは――お前を信用していない。お前は司令部へけて行って、そして俺のことを言わないとも限らんから、な」
 高城の頬がぱっと紅くなったが、すぐ悲しみの色が瞳の中にあふれて来た。必死に打ち消すように身体をよじりながら、
「そんなことはありません。中尉殿」
 うめくような声であった。
「私は後から参ります」
 宇治は黙って腰から拳銃を抜いた。そして安全装置を外した。ずしりと掌に重いブロオニングを握りしめた。
「では」彼は先に立って歩き出しながら、「おれが先に行く。ついて来い」
 宇治は背後で高城の激しい呼吸いき遣いをききながら、黒い岩質の道を踏んだ。遥か下から歌声が浪のように高まり、小さな数多あまたの姿が一斉に律動した。底にうごめく人々の様子はむしろ楽しげに見えた。一歩一歩が身を刻むようであった。全身の神経を背後に集中させてあるいた。高城がどんな表情しているか判らない。もし声を立てたり、崖をすべり降りたりすれば、直に射殺するつもりである。殺してしまえば、あとの言い逃れはどうにでもなる。背後の跫音あしおとをひとつひとつ耳に捕えながら、宇治の拳銃を握る掌はやがて冷たい汗にぬれて来た。

 目標の巨樹まで来た。何事も起らなかった。道はそこで二叉に分かれ、一方は崖に沿って司令部へ行き、右に折れれば再び暗い密林に入る。赤くけた樹の肌であった。高さは七八十メートルもあるかと思われたが、枝はそぎ落したように千切ちぎれ、頂き付近に僅か残る葉も白くくずれた色であった。宇治はほっと肩を落してふり返った。疲れが一時に背に積み重なって来た。
「道はこれか」
 拳銃を腰にしまいながら宇治は低い声でたずねた。高城は蒼い顔をしていたが、だまってうなずいた。
「何を妙な顔をしているんだ」
 宇治は笑おうとしたが、笑いにはならなかった。表情がわずかゆがんだだけであった。高城もへんに硬ばった顔を宇治からそむけた。二人はそしてそのまま歩き出した。
 花田が居るという部落は此処から三キロほどである。道はやや下り坂となり、どこかで流れる山水の音がした。一歩一歩花田中尉の処に近づいて行く。そう思ってもそれは何か現実感がうすかった。宇治をとらえる感じは別のものであった。その感じを胸に探りながら、彼は一歩一歩靴先を草叢くさむらに入れた。蔓草つるくさが足にからんで歩き難かった。
 先刻のことのために高城の気持が硬化したことは、その怒ったような顔付でも判ったが、また荒々しい足どりでもうかがわれた。宇治は彼を信用しなかったわけではない。ただ万一という事もあった。あんな事を高城に言ったのも、本心というよりは露悪的な気持の方が勝っているように思われた。高城が二人に共通した罪悪感で彼に寄り添おうとしているのが、彼にはただくさりのように重苦しかったのだ。(茶番ちゃばんを一々本気にしてやがる)並んで歩く高城の顔を盗み見ながら、宇治は一瞬鋭い憎悪が彼に湧いて来るのを感じていた。しかし天につばするようにそれは厭な感じを伴って彼の心に戻った。……
 それからずいぶん長い間歩いたような気がする。梢をれる太陽の光はやや薄れ、蝉に似た虫の啼声が林の奥から流れて来る。花田のことをぼんやり考えていた。花田に逢えば花田は何と思うだろう。花田の驚く顔だけは想像出来たが、その先は頭に浮んで来なかった。女と共にいて原隊に戻らぬのも、言わば単純な情痴ではないだろう。単に情痴ならばあのような破目はめに落ちずとも、少くとも彼ほどの男なら、もっと悧口りこうに身を処することが出来る筈なのだ。もっと深い処で彼は身を賭けたに違いないのだ。しかしその詳細しょうさいは判らない。女と一緒になり原隊を離反した。その事件は驚くほど単純だが、そのぐるりにはさまざまの陰影が暗く尾を引いていて、どんな事を花田が考え、そしてそれを信じたのか、何も判っていないのだ。宇治に判っているのは、あのアパリで窓から見た一瞬の光景だけであった。
 ――俺は花田をどう思っているのか?
 物影にしゃがんで息を凝らしていたあの時、宇治が感じていたことはまことに複雑であった。暗い道をひとり米軍飛行士を探し求めて歩きながら、そしてあの光景を見たのだ。それは異様なものを見た単純な驚きではない。もっと深い、言わば静かな怒りのようなものであった。あの時の花田の顔があまりにも幸福そうに見えたから、それに対する反感もあったのかも知れなかった。しかし宇治はその時の気持を自分でもはっきり掴み兼ねている。花田がインタアルに行ってから毎夜、宇治はぼんやりと花田のことを考えていた。それはただならぬ切迫感で宇治の心に挑んで来た。
 ――俺は花田を憎んでいるのか?
 そうだとも言い切れない。思考をつづけて行くと何か薄い膜があって、それが彼の判断を狂わして来るようであった。やがて自分も花田と同じように逃亡する破目におちるかも知れない。その予感が、花田の放恣ほうしな行為を憎むことから今まで彼を遠ざけていたのではないのか?
 林がだんだん薄くなり、草山が見えて来た。何の確信もなく宇治はあるいた。
「もうそこです」
 突然きっとしたように高城が言った。宇治は立ち止るとうなだれていた首を上げた。灌木かんぼくと草におおわれたなだらかな丘陵きゅうりょうがあり、道はそれに沿って曲るらしかった。
「それを曲ると部落があります。花田軍医殿は昨日そこに居られました」
 口の中が変に乾いて行くような感じで、その癖不快な生唾がしきりに出た。何も硬くなることはないと思ったが、肉体の方でそれを裏切った。現実に花田と逢うということ、これが夢の中の出来事のようにはっきりしなかった。それでも胸がどきどきと動悸どうきを高めて来た。
 ――司令部の処から、もう三粁も来たのか?
 随分ずいぶん長かったような気がするし、また直ぐだったような気もする。下り坂で幾分楽だったとは言え、宇治は薄い肩を前方に曲げるようにして歩かねばならなかった。丁度カガヤン渓谷を上る時の行軍のように、肉体の限度を越えた疲れが鈍く背筋を押していて、額から冷たい汗が絶えず滲み出た。何のために歩くのか。宇治は蔓草つるくさを引きちぎる高城の靴音を聞きながら唇を噛んであるいた。肋骨ろっこつの間がずきずきとうずいた。
 草山のすそを廻ると、貧弱なニッパ屋根が四五軒宇治の視野に入って来た。あの一軒に花田がいるのだと思った。略刀帯を上にしごき上げながら高城に言った。
「お前はただ俺について来い」
 高城が右手で腰の拳銃を押えているのを彼は見た。高城は彼の方を見ず、一心に部落の方を眺めていた。顔が能面のように白く、不気味な艶が滲み出た脂肪の上にきらめいていた。
「一番奥の家です」
 宇治は手を挙げて高城をせいそうとしたが、思いなおしたように深い呼吸をし、そして先に立って部落の方へ歩き出した。靴がかつかつと鳴った。最初の小屋の入口が大きく開いていて、そこから低い声が聞えて来た。宇治は立ち止り、そして入口からのぞき込んだ。
「花田中尉は居ないか」
 枝打ち透かす日の色が赤く土間を彩っているのだが、そこに女が一人いた。むしろのようなものを床に敷いて何か低い声でつぶやいている。簡単な洋装だが髪の形といい顔の様子といい、明かに邦人の女である。髪は乱れて頬に垂れ、指でしきりに蓆の端をむしっているのだが、宇治の声にも気を止めぬらしく、眼を大きく見開いたまま呟き止めない。そしてふと明るみにむけて上げた顔はまだ若々しく、はっとする程美しかった。
「誰もほかに居ないのか」
 宇治は何か脅えるような気持にそそられ、背中を入口の柱にずらせながら内部の土間に身体を入れた。奥の方の薄暗いあたりにいるらしい男の濁った声で、
「どなたですか。こいつは気が狂っているのです」
 ごそごそ這い出して来たのを見ると、兵隊のようではない。四十がらみの顎の張ったするどい目付の男である。まぶしいのか片手を額にあてながら宇治を見た。
 宇治も身構えながら油断なく男を見つめた。
「花田中尉の小屋はどこか」
 男は彼が将校であることを認めたらしかったが、別段態度を改めるということもなかった。ゆっくりした声で言った。
「花田中尉ですか。中尉殿は居ません」
「居ない」
「ええ、居ないのです」
 男は上半身が裸である肉付きの良い分厚な肩であった。鼠色の洋袴ズボンに包まれた脚をだるそうに土間におろした。
 宇治は振り返った。高城は入口から顔だけ入れていた。
「花田中尉の小屋に行って来い。もし居たら宇治中尉が連絡に来たと言って来い」
 そして彼は再び男に向き直った。男は冷淡な表情で高城が出て行くのを眺めていた。
「此の部落にいる筈だ」
「先刻出発されました」
「出発した?」
 彼はほっと心が崩れるのを感じ、二三歩土間に入って行った。狂った女はきょとんとした顔を上げて宇治を眺めたが、ふいにごろりと横になり脚を立てた。すそから見えるまたの部分が目にしみるほど白い。思わず眼を外らそうとした時、女は寝ころんだまま咽喉のどを反らせて高い声で歌い出した。呂律ろれつの乱れた声であったけれども、それは目が覚めるほど鮮かな肉体の声であった。

みよや十字の旗高し
君なるイエスは先立てり

 讃美歌ではないかと、宇治は血走った眼をぎょっと見開いて女を眺めた。脚先を揺って調子を取るたびにむしろの縁から微塵みじんが立って、赤い光線の中をゆらゆらと動いた。女は突然歌い止めると大きな声で笑い出した。そんなに大きな声を立てたら悟られるではないか、宇治はふと混乱してそんな事を考えながら、不安な視線を男の方にもどした。
「そうすれば花田は原隊に戻ったのか」
 それならば連れの女はどうしたのか。何故途中で宇治達とわなかったのか。宇治は帽を上げ掌で額を押えた。女は笑いやめた。
「原隊にではありません」
 なに、と宇治は思わず頭を上げた。男は脚を土間に垂れ片手で上半身を支えて、するどく宇治を見ている。宇治と視線が合うと突然白い歯を出して笑ったようであった。憤りが宇治の胸をついて上った。畳み込んで宇治は訊ねた。
「何処に行ったんだ」
 男はいやしげな笑いを唇辺に浮べたままであったが、その問いに答えようか答えまいかと一寸口ごもった風である。すぐ老獪ろうかいなとぼけた顔になって、
「花田中尉は良い軍医どのでありましたなあ」
 宇治はいら立って軍刀の先で土間をとんとんとついた。
「そんなことを聞いていはしない」
 その時先刻の病兵の言葉が急によみがえって来た。男は宇治の視線を避けて、寝ころんだ女の姿をぼんやり眺めている風である。それは明かに装った態度であった。女は何か判らぬことをひとりで呟いている。宇治は顔を男の方に近づけながら、眼を堅く光らせて一語一語力をこめて言った。
「花田中尉は女を連れて、東海岸に行ったのだろう。俺は彼を捕えに来たんじゃない。話があるんだ。何と言って口止めされたんだ」
 その言葉を聞くと男は突然低い濁った声でふふとわらい出した。ゆるゆる視線を宇治に戻しながら、
「出て行ったのは昼頃でしたよ」
「何故お前も一緒に東海岸に行かなかったんだね」
 男は又卑しげに唇をゆがめて、短い笑い声を立てた。
「この女が居るんでね」
「お前は何処から来たんだね。恰好かっこうから見ても兵隊じゃないらしいが――」
 お前と呼ばれるのが男のかんにさわるらしかった。床をすざって宇治から離れながら、急にぞんざいな調子になった。
「マニラからでさ。海軍さんと一緒に命からがら逃げて来たんだ」
「此処に長いこと居るんだね」
「もう四五十日も居る」
「食べ物は?」
「花田中尉さんが持って来た薬品を、下の部落で米と替えた」
「まだ残りがあるんだな」
「あるもんか」
 男は急にぎらぎらする眼になって、宇治を見ながらも一度繰り返した。「米など残っているもんか」
 宇治は黙って男の分厚な肩を眺めた。そして女を指さした。
「このひとは身寄りかね」
「うん」あいまいな口調であった。「身寄りと言う程でもない」
「知合いか」
「まあそんなもんだ」
「何故一緒に東海岸に行かなかったんだ」
 宇治は何かいらだつ気持があって同じ質問を繰り返した。密林の中から風が立つらしく、さああと葉ずれの音が小屋の外にたかまって来た。土間に落ちる光斑こうはんがちらちらと赤く乱れた。風が行ってしまうのを黙って聞いていた。男は壁に背をもたせて低い声で言った。
「東海岸って、何処に逃げたって同じさ。おれはもう逃げ廻るのがいやになったんだ。何処に行ったって死ぬときは死ぬさ。おれは此の女と一生此処で暮すよ」
「食糧はどうするんだ」
「食糧などどうでもなるさ。花田さんみたいに逃げたって同じよ。女といちゃつくんなら此処だって出来る」
 背筋にあわの立つような嫌悪感が宇治を襲った。それに堪えながら彼は後にさがり、入口の処まで出て来た。土間に垂らした脚を引き上げて、男はきらきら光る瞳をまっすぐに宇治にそそいだ。張ったあごのあたりが何か酷薄な感じで宇治に迫って来た。
「あんたも何で花田中尉に用があるのか知らないが、もう追っかけるのは止しにしなさい。逃がしてやっても良いだろう」
「――用があるんだ」宇治は素気そっけなく答えた。
「用はあるだろうさ」ふてぶてしく顎をしゃくった。「もうサンホセの日本軍も近いうちに追いまくられて、東海岸に逃げて行くようなことになるんだ。逃亡兵がぞろぞろ出ているじゃないか。今逃げたって後で逃げたって同じだよ。司令部がもう浮き足立っていると言うじゃないか」
 宇治は顔を蒼くして、黙っていた。男の言い方が急に捨て身になって来た理由をはかり兼ねていた。めてかかって来たのかと思った。男は太い濁った声で笑い出した。
「あんたも逃げて来た口じゃないのか」
 男の顔は笑っていたが眼は険しく笑っていなかったのだ。かっと頬が熱くなり思わず再び進み入ろうとしたとたん、扉口に影がさして高城が戻って来た。高城の掌には拳銃が握られていた。
「花田中尉殿は居られません。あの小屋には誰も居ません。荷物も何もありません」
 拳銃が光を受けてきらりと光った。今まで寝ころんでいた狂女がその声に応ずるようにむっくり起き上った。眉をひそめて口汚くののしり始めた。
「助平。畜生。殺してやる。殺してやるから待ってろ」
 その瞳はしかし宇治達を見ている訳ではなかった。うつろに放たれた視線は更に遠くを捕えようとしているらしかった。胸の中に泡立ってたぎり立つものをいきなりねじ伏せると、ふいに宇治は背を向けて小屋の外に歩き出していた。高城は鋭く小屋の中を見廻すと、これも黙って宇治の後を追った。
 また道に出た。暫く休んだのでかえって疲労が激しかった。足を引きずる度に骨がぎくぎくと鳴った。風が林を渡って行く。もう歩くのが厭になって、どこでも良いから横になりたかった。
「インタアルは此の方角だな」
 インタアルまで出れば、東海岸まで一本道である。何も急ぐことはないにもかかわらず、宇治は何故か追われるように歩を進めた。原隊では無論宇治が逃げつつあることをまだ知る訳がない。それなのに宇治の背中は追手をひしひしと感じて粟立あわだち始めて来たのだ。
 既に其処から花田は逃亡していたと、帰って隊長に報告すれば、宇治は原隊に不自然でなく復帰出来るだろう。そして宇治の任務は解き放たれ、事は憲兵の手に移されるだろう。移されたとしても此の混乱では、憲兵の活動は無きに等しい。戦いはその中何らかの形で終結するに決っている。そして花田中尉は或いは生命を全う出来るかも知れない。
(その時この俺はどういうことになるのだ)
 勲章を部屋にかざった愚直な隊長や、鐘乳窟の火薬の臭いや、石鹸水のような地酒の味が突然ありありと頭に浮んで来た。彼はその記憶を打消すように強く顔を振った。そこにかえることを想像すれば、そこにはあまりなまぐさい抵抗があり過ぎたのだ。
(あの男は俺を逃げて来た口だろうと言ったが、あれは単ににくまれ口か、それとも俺の態度から何かを嗅ぎ出したのか?)
 宇治はよろめいて木の幹に身体をささえた。そしてそのままそこに崩れるようにしゃがんだ。
「高城伍長」彼は苦しそうに呼びかけた。「少し休んで行け」
 肩から吊した水筒を外し、せんをとった。強いウィスキイの香が拡がった。口をつけて水筒を傾けた。舌を焼くような液体が咽喉へ落ちて行った。しばらくして胃の部分が熱くなり、そしてその熱感はすぐ消え、やがて身体の内側から皮膚にほのぼのとある感覚が拡がって来た。かなり長い間眼を閉じ背を幹にもたせていたが、暫くして眼をぼんやり開いて彼は腕で口の周りを拭き、そして高城に水筒を渡した。
「お前も飲め」
 風景が急に生き生きと見えて来た。喬木きょうぼくの梢を風が渡るのが見える。道はうねりながら林の奥に消えていた。此処からは樹群がまばらで木々の長い影が地に落ちていた。疲労が快よい倦怠感に変って行くのがはっきり感じられた。
(あの男は何者だろう?)
 マニラから逃げて来たと言うからには、在留邦人の一人かも知れない。態度から見て善良な世渡りをしていたとも思えない。生活力の強そうな感じの男だったが、何故東海岸に逃げようとしないのか。それはまだ食糧をかくし持っているからに違いないのだ。あの否定ぶりが怪しかった。女房でも無い女と何をたのしみにしてあの小屋に留まろうとするのか。
 あの狂女の白い肉体が急に激しく宇治の頭に拡がって来た。それと同時に男の卑しげな犬歯けんしの印象がそれに重なった。その印象が意味するものが、今の俺と何の関係があるのか。宇治はそんな風に自分を一度は制しながらも、何か濁った亢奮こうふんがそれを超えて胸にひろがって行くのをじっと感じ始めていた。自分の顔が酔いを乗せたまま次第に歪んで行くのが判る。
「高城」
 高城も赤く頬を染めていた。宇治は掌をひらひらと動かして、今来た方向を指しながら、はき出すように口を開いていた。
「戻って行って、射ち殺して来い」
 どうしても許せない気がしたのだ。狂女の肉体をたのしむ為に東海岸に逃げることをせず、無人の部落に踏み止まっている。しかし俺はその醜悪さを、ほんとに心から憎むのか。はっきりとそう言い切れるのか。宇治は惑乱わくらんを感じながら、それを立てなおすように高城の顔に瞳を定めた。高城の表情に何か怪訝けげんの色がふと走ったが、そのまま水筒を彼に返してゆるゆる立ち上った。そして、ためらう風に彼を見おろして立った。
「行って来い!」宇治は言葉を重ねて強めた。
 意を決したように高城は背をひるがえして歩き出した。
 高城が樹々のかげに見えなくなるまで、宇治はそのままの姿勢でじっと見送って居た。それから膝を両手で抱き、頭を伏せた。あと何分か経つとあの男は殺される。あの男はどこで死んでも運命は同じだというようなことを言ったが、それならば彼にとって宇治は運命であった。自分の恣意しいによってもう直ぐ一個の生命が絶たれることを思った時、宇治は戦慄に似た快感が胸にのぼって来るのを感じた。その快感も明かに一時的な酩酊めいていにたすけられている。宇治ははっきり意識していた。
(あとで俺は後悔するかも知れない)
 破滅するなら早く破滅した方がいい。気持が急速に荒廃におもむくのを感じながら、宇治は顔をぐりぐり膝頭に押しつけた。眼花めばなが暗く入り乱れた。しばらく経った。
 林の奥から鈍い銃声が一発響いて来た。林に拡がる反響を全身で感じながら、顔を膝におしつけたまま、彼はその瞬間、鈍く湧き起ったある感じにじっと必死に堪えていた。――

 それから一時間程経った。二人は黙って不機嫌な顔をして密林の中を歩いていた。酔いはまだ身体の節々に残っていたが、意識は冷たく覚めかかっていた。
 道は矢張り僅かな下りである。身体は疲れている癖に何処かとがった処があって、歩いて行くのが大儀であったが、脚を交互に動かしているのが自分の力でないような気もした。黄昏たそがれの色が既に樹々の肌に渉み出ていた。今此処で野宿出来るとも思い、それでも歩いた。花田は何処まで行ったのか判らない。そこらの樹の影から現われて来るかも知れない。此の感じは厭であった。自ら鋭い眼付になる。盆地の彼方に今大きな日が没して行くらしく、梢の間に光が蒼然と衰えて行くようだった。道は落葉が層をなし、風の為に葉は次々に梢から散り降りた。前かがみに歩く宇治の後から、高城は声をかけた。
「花田中尉殿に今日中に追いつくのですか」
「それは判らん。追いつけたら追いつく」
 しばらく経って思い余ったような高城の声があった。
「宇治中尉殿」
 宇治はふり返った。五六歩遅れていた高城が足早に追いすがった。
「花田中尉殿にお逢いになったら――」泣き出しそうな表情に見えた。「隊長の命令を、果たしていただけませんか?」
「殺すのか?」
「そうです」
「何故殺すんだ」
 高城は唇を噛んだ。
「そうすれば、原隊に戻れます」
 幼児のようなひとつの単純な表情がそこにあった。ふと胸打たれ、宇治は思わず涙が流れそうな気がした。宇治は顔を光からそむけ、黙って歩き出した。
 逃亡のもつ切迫感が、宇治の背をするどく脅かしていたとは言え、直接肉体に来る感じとしては、ただ何となく目的もなく果て知らぬ密林に歩をすすめているに過ぎなかった。しかし此の事が自分を救うことであることだけは頭の中で彼は判っているつもりであった。だから自分の為に彼は歩いて来た。今更他の力や瞬間的な感傷のためにそれを曲げることは出来ない。彼は歩を移しながらも一度自分に言い聞かせた。
(今、高城のことで涙が流れそうな気がしても、それで思い止まる位なら、今朝隊長の薄い顱頂ろちょうを見おろした時の感情で、俺は既に逃亡を思い止まった筈だ)
 瞬間の感激のために人々が命を捨てるのを、彼は戦場で何度も眺めて来た。自分がそこにちるのが恐かった。しかし此の度の逃亡もひょっとすると自分の束の間の感傷から出たのかも知れない。サンホセでの一箇月間毎夜逃亡を考えつづけていたような気がするのも、ただあの日々の重苦しさをそう考え違いしただけで、昨夜咄嗟とっさに逃亡を思いついたのではないのか。彼は頭を振ってその思考から逃れようとした。
 道は次第に林を離れた。向うに土手があるらしい。土手に向って歩きながら、宇治はふと或る危惧きぐにとらえられた。
(花田とった時、高城が花田を射つかも知れない)
 彼はふと険しい表情で高城の顔を振り返った。高城は怒ったような顔で見返した。射つなと言うとなお射つ気になるかも知れぬ。花田を殺せば万事解決出来ると高城は思うかも知れないのだ。宇治は咄嗟にそう思い、表情をやわらげて他の事を聞こうとした。
「先刻――一発で殺したのか」
「一発で殺しました」
「何とか言ったか」
「何も言いません」
 かたくなな口調であった。一寸扱いかねる感じだったが、宇治は何か放っておけない気持でなお執拗に言葉をついだ。
「何処を射ったんだ」
「女の頭を、射ちました」
「女?」
 宇治は愕然がくぜんとして立ちすくみ斜面へ二三歩よろめいた。道は土手の上まで来ていたのだ。白い薄光が彼の網膜にぼんやりひろがって来た。
 河であった。
 カガヤン渓谷に連なる一支流であるらしく、かわらの中を白い水は泡立ちつつ流れ、果ては夕霧の中に消えていた。視野はことごとく黄昏たそがれのいろである。土手からかわらにかけて、サンホセの部隊にも咲いていたあの黄色の花が点々と咲き乱れていた。バンカが幾つも岸につながれ、水牛が一頭磧の水溜りに半身を浸し、青く淀んだ水の匂いがふと鼻をうったが、風がごうごうと鳴りながら川瀬の音にまじった。宇治は土手の鼻に立ち、その景観を展望しながら、歯ぎしりしたくなるような焦燥感が胸一ぱいに拡がって来るのを意識した。
(何処かに計算間違いがある)
 それは何処で間違っているのかは判らない。どこかで錯綜さくそうして居るのだが、その結び目が見つからないのだ。先刻も女を射てとは言わなかった。逃亡の最初から何かしら狂っているのではないか。ことごとく彼の思うようには動いていなかったのだ。彼は顔の皮膚を河風にさらしながら、段々混乱し始めて居た。も少しで判りそうな気持だが、それも一息で踏み込めないのだ。ただわるい予感がしきりに彼を脅かしつづけた。
(得体の知れないものが何処かにいるのだ!)
 その予感が、今朝離隊する時から彼の心をじっと掴んで離さなかったことを、彼は今初めて鋭く意識でつかんでいた。
「陸軍の将校が、今日此処を通らなかったかあ」
 手を口にあて、高城が土手の上から河に向って叫んでいる。かわらの水の流れている辺で、兵隊らしい男が二人洗濯をしているのだ。服装から判ずると海軍の兵隊である。ここらは海軍の占拠地区であった。高城の声が風に飛ぶので判然としないらしい。何か立ち上って答えるらしい様子であったが、それも聞き取れない。二人で笑い合う気配であった。海軍の兵は一旦崩れかかると、陸軍の兵よりも無頼ぶらいの感じが濃くなるのだ。一人が腕を上げて、下流の方の土手を指すらしかった。
 つつみに沿って点々とニッパ小屋が見える。
「あっちに行って聞けと言うのかも知れません」
 高城にうながされて宇治は呆然ぼうぜんと歩を踏み出した。土手の上はいっぽん道が白い薄明の間を伸び、土手は大きく迂回していた。河もそれにつれて曲り、粗末な仮橋がかかって居る。高城が先に立った。悪寒おかんが背を絶えず走り、力無い眼を見開いて宇治は引きずられるように歩いた。海軍の兵隊がかわらで何人も、何の為にするのか石を運搬しているのが遠く視野をかすめた。
 しばらく行くと堤下のニッパ小屋の入口に人影があった。何の気なしに宇治は見て過ぎようとした。それは住民の女だった。その瞬間にただならぬ気配で高城が振りむいた。
「あの女です」
 緊張のために押しつぶされたような声であった。はっとして宇治は目を凝らした。夕闇がかなり深く立ちこめているので女の表情は定かでないが、一瞬の印象はまさしくあの女であったのである。何故とはなく全身に凝縮ぎょうしゅくした感じが起って、無意識に軍刀のつかを押え、宇治は堤の斜面をすべりながらかけ降りた。高城がすぐ続いた。
 女はぼんやり柱にもたれて河面を眺めていたらしかったが、堤をかけ降りる気配に驚いて鋭く振りむいた。その時宇治は既に一間ほどの近さに寄っていた。女は宇治から背後の高城に視線をうつした。あっ、と声を立てて片手を入口の柱にもたせかけた。大きな瞳を更に見開いて、頬の黒子ほくろがなまなましく宇治の眼にうつった。宇治は激しく問いかけた。
「花田中尉はどこだ?」
 女は眼を見開いたままあえいだ。声にならなかった。あの夜窓からのぞいた一瞬の容貌に比べれば、幾分やせてすさんで見えるのを宇治ははっきり瞳に収めていた。油気の無い髪が風のために乱れる。よろめきながら女は入口から一歩外に踏み出した。
「花田中尉はどこにいるんだ」
 宇治は少し落着いた声になって、再びくりかえした。女の柱を掴んだ手がわなわなとふるえている。女の眼は宇治の肩を越え、河の方に見開かれているのだ。花田中尉は何処に居るのか。女の身体が激しくそれを言っている。そう感じると宇治はぎょっとして振りむいた。
 薄暗いかわらの方から今まで水浴をして居たらしく手拭てぬぐいで身体を拭きながら歩いて来る男が居る。上半身は裸だが将校洋袴ズボンを穿いた半身は、暗がりにそれと判るほどびっこを引いて居るのだ。まだこちらに気がつかないらしく、指に手拭いを巻いて耳の穴を拭きながら磧をのぼって来る。突然宇治の背後で、空気を切り裂くような鋭い女の叫び声が上った。何と言ったかは判らぬ。イロカノの言葉であった。その声に驚いて男は頭を上げた。髪が伸び頬がこけた様子はふと別人かと見えたが、宇治は思わず五六歩歩み寄った。それはまぎれもなく花田中尉であった。
 堤に足を一歩踏みかけた姿勢を、ぎくっとしたように花田は引いた。宇治との間隔は四五間である。水を浴びた為髪毛が立ったせいか、残照を背にして顔容に陰影をはらむためか、花田の表情は何か兇悪に見えたが、その頬に驚きの色が消えるとへんに不可解な笑いが突然ぼんやりと浮び上って来た。白い歯のいろであった。それを見た時宇治の胸に、思いがけぬ羞恥の念がじりじりと拡がって来たのである。高城が足をずらしながら花田の横手に廻ろうとするのをふと眼ですがりながら、耳や頬が熱くなるのを宇治はかくしきれないで居た。花田と会う瞬間の想像の中で彼は此の感情を計算に入れていなかったのだ。
「宇治中尉、か。連絡に来たのか」かすれた声で花田が言った。肉の薄くなった肩や胸を恥じるように彼は腕を不自然に動かした。
「――傷は、足の傷はどうなんだ。歩けるのか」
 宇治もかすれた声でそう言いながらまた三歩足を踏み出したとたん、花田は何故かぎょっとしたように再び身体を引いた。花田の右手が身体を滑りながら洋袴ズボンの方に伸びて行く。何か不自然な身のこなしであった。洋袴の物入れには何があるのか。花田は急に笑いを頬から消し突然右掌を胸に上げたのだ。花田の掌にあるものは鈍色にびいろにひかる小さな拳銃であった。全身の血が凍りつくような気がして、宇治は顔色を変えて身構えた。宇治の右手も無意識の中に略刀帯の拳銃にかかっていた。宇治を見つめる花田の顔は真蒼まっさおで、その瞳はぎらぎら燃えるようだった。
「待て!」
 宇治が全身でそう叫ぶのよりも早く、花田の指が撃鉄を引いた。衝撃的な戦慄が宇治の身体を瞬間にしてはしり抜けた。カチリと冷たい音が落ちた。
 ――不発だ!
 宇治は全身からふき出た汗が急速に冷えて行くのを感じながら、それと一緒にこみ上げて来る兇暴な喜びを意識して、素早く自らの拳銃を胸に擬した。花田はまっさおな唇を半ば開き、拳銃をにぎった腕を斜めに曲げて胸のあたりをおおい、哀願するように身体を伏せようとした。花田の眼の中に絶望の色があふれるのを宇治は見た。熱し切った宇治の頭のすみを、その時激しい苦痛を伴うある考えが通り抜けた。
(おれは花田を嫉妬していたんだな。それもずっと前から!)
 一瞬眼を閉じて、宇治は撃鉄を力をこめてぐいと引いた。瞼も染まる明るい瞬光と烈しい音響が同時に起り、強い反動が右の腕に来た。はっと両腕で胸を抱き、くびを内側に曲げたまま瞬間花田は佇立ちょりつしたが、そのまま棒を倒すように前にのめりかわらにたおれた。額が土にぶっつかる音が鈍く響いた。身体は一旦、うつぶせに倒れ、斜面の反動で少し向きを変えた。煙硝えんしょうの匂いがその時初めて宇治の嗅覚にのぼって来た。半顔を地面に押しつけた花田の顔は唇をやや開き、瞼に土の色を滲ましていたが、その唇が見ている中にやや動いたと思うと、真紅の血が口の中から少量流れ出て、顔の下に咲いた黄色い花片はなびらにどろりと滴ったのだ。花はその重みで茎を曲げ血を半ば滑り流して、またゆらりと立ち直った。それを見ながら宇治は耳の底がうずき、そしてきそうな衝動が胸から咽喉のどを走った。した拳銃を下に垂れ、しばらく不快な慄えがとまらなかった。
(到頭殺してしまった!)
 今朝からの出来事が連絡なく断続して頭をかすめた。どんなに努力しても逃れられない運命のようなものが、彼を強い掌で握りしめているらしかった。宇治は拳銃を腰に収めようとあせっていた。手がぶるぶるふるえるので、拳銃がうまく銃嚢じゅうのうに入らなかった。略刀帯の金具にふれて、拳銃はカチカチと冷たく鳴った。それでもどうにか押し込み止め金をかけた。高城が花田の死体から視線を離さないまま近づいて来て、低い乱れない声で聞いた。
「――止めをさしますか」
 宇治はそれに答えなかった。胴ぶるいを押えるように両腕を組み、顔を高城からそむけた。足が重く倒れそうだった。それでも二三歩堤を登ろうとした時、小屋の入口に立つ女が視線をよぎった。今奥から走り出て来たらしかった。先刻の女である。白い衣とそしてはだしであった。宇治を見おろすと鋭い声で何か叫んだ。憎しみにあふれた叫びであった。そしてよろよろと小屋を離れ、宇治の方に近づいた。
 女は泣いては居なかった。乾いた緑色の眼を一ぱい開いて、たじろがず強い視線を宇治にそそいでいた。女との距離は一間しかなかった。宇治の顔に瞳を定めたまま、女は背後に廻した左手をゆっくり前に出そうとするらしい。はっと身体を硬くした途端、鈍色にびいろにつらぬくものが女の掌に光った。拳銃であった。黒い銃口はまっすぐ宇治の胸にむけられていた。その部分の筋肉が生理的な予感にぎゅっと収縮するのを感じながら、彼は凝然ぎょうぜんと立ちすくんでいた。
(これだったんだな)
 宇治は両腕を組んだまま、泣き笑いのような表情を浮べた。そしてそのままじっと動かなかった。女の左手はしっかと銃把じゅうはを握り、人さし指がぐいと撃鉄にかかっていた。暗緑色の眼は乾いた光を放って、まっすぐに宇治の眼を射た。慄えも見せぬ黒い銃口の前で、彼は頬にも一度あの泣き笑いに似た表情を走らせていた。虚脱したような安定感が、いまは僅かに宇治の身体を支えていたのである。次々に生起して来る現実に抵抗しようとする力がようやく尽きかけて来たことを、彼は静かに感じ取っていた。
(今日一日、散々苦しんだ果てにこれがあったんだな。あの手付きでは、拳銃を撃つのも初めてではないらしいな)
 ……此の女は左利きらしいなと、彼は銃把を握る女の左掌を感じながらぼんやり考えていた。あの夜窓からのぞいた時も此の女は、確かに左手で酒瓶を支えていたと、彼は頭の片隅に思い浮べていた。あの時ふかぶかと椅子に掛け、若く幸福そうだった花田の姿が、今は冷たく息絶えて宇治の背後に横たわっている。土手の斜面に横たわる花田の死骸の恰好かっこうを、その瞬間宇治は肉眼で見るよりありありと背中で感じ取っていた。そこから少し離れた処にいた高城が、それと気付いて斜めに堤をかけ登るらしい。その気配もひどくのろのろと感じられた。高速度写真のように、女も高城も風景もゆるく動くようである。ふしぎな笑いを浮べたまま、宇治は両腕を組んだ姿勢で、視線をぼんやりと黒い銃口におとしていた。堤の上に登り切った高城の姿が、宇治の茫然とした視野の端を影絵のように動いて、拳銃を女にしながら急速にその方向に近づくらしい。女の全身が宇治の視線の中で凝然ぎょうぜんと収縮する。――
 銃口から突然烈しい光箭こうせんがほとばしって、その瞬間宇治は左胸部にけつくような熱い衝撃を感じた。彼は両腕でその箇所を守るように押えながらまっすぐ倒れ、そして斜面の草々を分けながら荒々しく堤の下に転がり落ちた。
 頭を下にしたまま彼は苦痛に耐え、薄く瞼を開いていた。彼はかわらを、磧のむこうに流れる仄白ほのじろい河明りを、力無い瞳で眺めていた。ひどく胸が苦しい。どんな姿勢でいるのか自分でも判らない。水筒がずれて腹のあたりを押しているらしい。とうとう此のウィスキイも半分以上残してしまった。風の音がする、黄色い花片はなびらが眼の前で揺れて二重にも三重にもなる。突然なまぐさいものが咽喉のどから口腔いっぱいに拡がって来た。
 ――宇治中尉殿、宇治中尉殿。
 耳のすぐ側で高城が大きな声を出して呼んでいる。その声が遠のくように急に弱まって、ふいにあたりがしんとなる。雲母うんもの膜をがすように、風景の遠い部分から順々に千切れて見えなくなる。……
 四周にはもはや霧が立ちこめていた。河面だけが暮れのこり、風はかわらの石の上をぼうぼうと吹いた。花田の死体から二間ほど隔たり、服の胸に赤く血を滲ませ、堤の斜面に頭を下にした姿勢のまま、手足から感覚が次々脱落して行くのを感じながら、宇治は次第に意識を失って行った。
 夕闇はそこにも落ちた。





底本:「桜島・日の果て・幻化」講談社文芸文庫、講談社
   1989(平成元)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「梅崎春生全集 第一巻」新潮社
   1966(昭和41)年10月10日
初出:「思索 秋季号」
   1947(昭和22)年9月
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年2月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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