夢を見ていた。
ともすれば目を覚まそうとする意識をねじ伏せねじ伏せして眠っているうちに、顔も服装もはっきり判らぬ、ごちゃごちゃした人のむれに交って、ぞろぞろと小学校の門の中に入って行った。
小学校の校庭に死骸が埋めてあって、それを掘り出さねばいけないというので、私は
肩や指先に砂がつまって居るような不快な疲労を感じながら、私は眼を閉じたり開いたりした。眼の先をちらちら動くものがある。窓から薄ら日が
昼御飯に私は近くの食堂に行き、油濃い魚の煮付をおかずにして飯をむさぼり食べた。それから部屋に戻って来て、何もすることが無かったから、寝床をしいて無理矢理に眠った。わけのわからない夢が切れたりつながったりしていたとき、風が出て来たと見えて、私は頭のどこかで濁った風の音を遠くに聞いていた。硝子戸越しに
窓の外には墓場がある。葉が落ち尽した、小魚のように小骨が多い樹。石で造った墓や四角の木や薄い板の墓標。寺の本堂の屋根瓦が弱い入日を受けて
私は学校の制服に着換えながら、墓地を見おろしていた。墓標の長い影や、花立てに枯れかかった白い菊や、毎日眺めている景色ではあったけれど――貧しい、何か貧しいと、遠い日の悔恨のようにその風物は私ににがさを
胃のあたりが妙に重かった。私は廊下に出て
低く連なった家並の上にあかあかと落日がかかる駒込
本郷の大学前の電車通りを、
満員の電車が無茶苦茶な音を立てて引っきりなしに
此の頃疲れている、と私は思った。不しだらな生活をしてるから、学校に出ないで寝てばかりいるから。その様な原因を考えるのは恐かった。そこを考えないように逃げながら、外の事を考えようと探し廻る。外套の内で、指を曲げたり伸ばしたり
「
「天願さんで御座居ますか」
と私の様子をうかがうように眼をすばしこく動かして、突然息を引くようにして言った。
「はあ、いらっしゃいます」
私はむっとしながら靴を脱いだ。此の下宿には天願氏を
「廊下を静かに歩いて下さいませ」
ぎょっとして私が振り返ったら、その小さな女中がきらきら光る眼で私をちらと眺めてそこらの薄暗がりに消えてしまった。
廊下を曲りながら、どうも背筋のあたりがうす寒かった。油を塗って鈍く光る廊下を天願氏の部屋の前まで行ったら、電灯がぱっと
机に
「何だ。君か。びっくりするじゃないか」
天願氏の胸はまだ
「入るときは戸をたたけよ」
「今日は変ですねえ。何事かあるのですか」
取り乱した机の上から
「いや。なに、考えごとしてたものだから」
声を急にひそめて、
「娘が死にかかってるんだ。ここの」
天願氏がいる部屋は四畳の細長い部屋で、此の奥に八畳の部屋がある。そこが此のうちの一番奥に当る部屋だが、そこを天願氏がゆびさして
「今までうなり声がしてたんだが」と天願氏が煙をふいた。もう落着きを取りもどしたらしかった。
日の当らぬ湿地に咲いた花のような娘であった。ときどき廊下で私はすれちがったことがある。妙に派手な長い
「夕御飯まだなんですね」
「夕御飯を持って来るかな?」と天願氏がむき直った。
「夕御飯は持って来ねばならん。が、娘が死にかかっているというのに、下宿人の夕御飯を作らねばならぬというのは哀しいな。持って来ないだろうな」
「皆、そこの部屋に集ってるんですか?」
「君が入って来る前に、おかみさんが娘の名をしきりに泣きながら呼んでいたから、意識が無くなったんだな。意識が無くなっても
「そりゃありますよ」私は、昨年死んだ父の
「寝言みたいなものかな」
と天願氏が低い声で言った。そして何かを押えるような、努力するような表情をした。
「唸り声が聞えて来るときは矢張り
隣の部屋で一人の人間が生命を絶とうとしている。そのざわめきを感じながら細長い部屋の片すみに息をこらしてじっとしていた天願氏の心の姿勢に思い到ったとき、私は異様な
「僕とは何の関係も無いのだよ」冷たい眼付になった。
「あの女が死のうが死ぬまいが、僕の知った事じゃない」
その時、襖を
「もう死んだんですか」
「まだらしい」
と天願氏が陰欝な調子で言った。
天願氏は旅川を嫌っている。私はそれを知っていた。旅川が俗人だから嫌う以上に、何か深い、天願氏の性格の秘密があるらしかった。私は黙っていた。
「呼吸が四十二あったからねえ」
旅川は私と同じ高等学校だけれど、今は帝大の医学部に居るから、そんなことを言うのである。
「
「あんまり早いのは悪いのかね」
「勿論悪いですよ。体が
日が落ちたと見えて、窓の外が
「僕の部屋は、あの部屋の真上なんで、とても居たたまれなかった。足の下で死にかかっていると思うと、何だか悪いような――」
「そんな馬鹿なことがあるか」と天願氏がたけりたった鶏のような声を出した。「君は医者になるんだろう。そんな感傷的なことを言っては駄目だ」
「だって、じゃああんた行ってごらんなさい。不思議にいやな気持がするから」
「ぼくは先刻からここにいる。そして隣の部屋のうなり声を聞いた」と天願氏が
私は黙って会話を聞いていた。種々の感慨が起って来た様な、それでいて言葉にしようとしたら皆逃げ出してしまいそうな空虚な気持であった。いらいらして、皆につきかかって行きたいような
「そんなもんですか」と旅川が言った。
風の音が少し
「風が出て来たな」と私は誰に言うともなく呟いた。泥竜館は家で囲まれているのだ。風は露地から露地へ抜けて行く。露地の曲角では、風が生き物のような悲しい音をたてた。前の家で物干ざおが
沈黙が来るのが恐かった。何か話さねばならぬと思いながら、また疲労に似た憂欝を感じていた。せわしげに机の端を指でたたきながら天願氏が私の方を見た。
「幽霊や心霊などはありはせん。死んだら、漠々として何も無いのだよ。人が死ぬというのに皆集って泣いたり
「そんな訳には行かないでしょう。矢張り悲しいのは本当なんだから」
「宗教は科学が発達すれば無くなるさ。ぼくはそれを信ずる、迷信は亡びる」
旅川がそれをさえぎって言った。
「生命というものは不思議なものだから――」
その時、壁の向うで
「生命は蛋白質だから、生命は蛋白質の配列によって定まるものだから――」
天願氏が、かすれた声で言い淀んだ。
臨終。此の号泣を、此処の下宿人は今皆聞いている。手も足も出ない下宿人達の心の姿勢は、此の上も無く奇怪なものに思われた。私は此の部屋にじっとすわっていることに、一種の不快な
「死んだんだな」
と旅川が低い声で言って、目を落した。旅川や、天願氏ですら、居てもたってもいられない気持でいるのがじかに私の胸に響いて来た。
「厭だな」
「何だか厭だな」と私は思わず
天願氏は極端に憂欝そうな表情をして壁に
「この部屋を出よう。どこかお茶飲みに行こう」
私達は立ち上った。足音を忍ばせるようにして廊下に出た。私はちらと奥の間に目を走らせたら、あけはなされた
「天願様。おでかけでございますか。御飯の支度が出来ておりますけれど」
何処を見ているのか判らないようなはるかな目付をして、
「夕飯は食べない」と天願氏が
ぞろぞろと露地の暗がりを踏んで明るい本郷通りの方に私達は出て行った。
本郷通りにある田村というがらんとした喫茶店の奥の方の
天願氏は
殺気だった部屋から逃れて、不意にこんな明るい灯の下に来たので、何となく落着かない。娘の死んだことが、何だか夢のように現実感が無かった。ちぐはぐな気持になって三人で冗談ばかり言い合った。
「年頃の娘が死ぬのは惜しい気がするね。何となく損をした様な気になるね」
天願氏が眼玉をぎょろぎょろさせながら私の顔を計るように見て言った。
「君は又肥えたね」
「そうですか」と私は頬のあたりを
「はれてるんじゃないか? 近頃君は段々
私は高座の三遊亭円生の顔をふと思い浮べた。あんなぶざまな肥え方に私をなぞらえる天願氏の
小さなエプロンをつけた給仕女達が卓から卓へ
「学校には出ている?」と旅川が私に聞いた。
「いや」と私は苦しく答えた。「どうも――いろいろ――用事があったりするものだから」
「皆心配しているよ。出た方が良いよ」
「そりゃ判ってるけれど――どうも
「小説か何か書いているのかい」
私は
「小説など書かないよ。あんなもの。ぼくの性に合わないし」
「小説書いたとて始まらんさ」と天願氏がにやにやしながら口を出した。「此の人が学校に出ないのは、自然にそうなったからさ。そんな風の性格に骨の
「どうして僕の性格が判ります?」と私は思わず反問した。「そりゃ僕は
「自由意志で学校に出ないと言うのだろう」と天願氏が言った。「それは僕は信じないな。実際には登校していないじゃないか」とにやにや笑った。
私は瞼の裏に物うい一日の行程を描いて見て居た。此の上無い退屈の瞬間がずらずらと連続してそれが昼寝をしたり魚をおかずに飯食ったりそうした現実を組立てて居るようであった。学校に通う制服姿の私の影像から、極度に遠く離れた何とも言いようの無い退屈の世界であった。
「話を変えようよ。
私達は、郊外に行きたいという話や、
会話の
七時頃になってそこを出た。本郷の通りには夜店が出ていて、男や女が明るい顔してぞろぞろと通った。
天願氏がブリキのように薄い肩で人波を切りながら
風は少し衰えたようだけれど、
台町に入りこむ露地のところで私は立ち止った。
「僕は帰ります」
「そりゃ駄目だよ」と天願氏があわてて私の腕を
「しかし――
「そんな事はないさ」と、私の腕を引っぱって露地につれこんだ。「あれは下宿屋なんだよ。下宿人の所に出入りするのがどうして悪いんだ」
私は観念して歩き出した。考えて見れば無理に別れて帰ったとて、私の宿には何一つとして面白いものはないのだ。
泥竜館の玄関には誰もいなかった。私達が
「お帰りなさいませ。いろいろお騒がせしまして」
何と言ってあいさつを交していいのか判らないらしく、天願氏は目玉をぎょろぎょろさせた。
「此の度は――とうとう――」
「とうとう駄目でございました」
おかみさんは急に袖を目にあてた。肩が動くのが痛ましかった。私達三人は黙然として板の間に立っていた。来なければよかったと私は悔いた。二人は下宿の住人だから仕方がないけれど、私は何の関係もない異邦人だ。
「どうぞ。死顔でも見てやって下さい」
おかみさんの
部屋の真中に床がしいてあって、顔の部分には白い布をかぶせてあった。そのまわりに三四人の人がすわって居て、皆うなだれている。
私達は
死骸がうすら笑いを浮べていたのである。絶対に見てはならぬものを見たような恐怖感が私の全身をゆすった。ああ、死骸がわらっている。昔見た映画のスメルジャコフみたいな残忍な笑いが
暫くして眼を開いたら、もう白布が顔にかぶせてあった。布の上から鼻の高みがうかがわれた。髪は解いてあって畳の上にさらさらと流れている。その髪に光がなかった。それは氷よりも冷たい感じがした。
あいさつして立ち上って廊下に出たら、おかみさんがあわてて立ち上って追っかけて来た。
「何もございませんけれど、あちらに」
と掌を動かした。「お酒など用意してありますから」
お通夜だ、しまったと私は心の中で膝を叩いた。先刻玄関を入るとき、私は、不思議なざわめきが、泥竜館のどこかで起っているのを感じていたのである。天願氏は平然としておかみさんの後について歩いて行った。始めから予期していたことに違いない。
重い足を引きずりながら、廊下を歩き出すと、旅川が私に言った。
「皆酒飲むのだろう。僕は出ないよ」
「出ないったって――」と私が何か言おうとしたら、廊下の曲角で天願氏が、何を話しているんだというそぶりでふりかえった。私は冷たい廊下を踏んでそちらに行った。
旅川はその廊下の反対側に姿を消した。私がよく知らぬ下宿屋の、三四度しか会ったことのない娘が死んだだけなのに、私はどうして沈欝なる通夜の座で苦い酒を飲まねばならないのか。はっきりと、今から酒を飲むぞということが現実感がなかった。迷路に追い込まれた羊のように、私は自分の意志をうしなって天願氏の後にくっついてとある部屋に入って行った。
十畳位の広さの部屋に、十四五人の男達が
天願氏が急にすわり直すと、此の度はどうもと
私は
眉が濃くて男のように秀でていて、その下に白眼勝ちの油を含んだような眼があった。黒い洋服を着ていたが、その洋服は今まで見たこともないような奇異な
黙って注がれるままに飲んでいると、やがて体中がじんじんと快よく熱くなり出した。お昼に御飯を食べたきりだから、酒のまわりが早かった。そのうちに白けたように見えた座も段々
私の右手にすわっていた帝大生が、突然手をにょきにょき伸ばして、私の左にいる天願氏の方に盃を差出した。
「天願さん。飲みましょう。どうせ今夜は勉強が出来ないんだから」
やけで、飲むぞと言う声がした。誰が言ったのか判らない。言った人のむしゃくしゃした気持は私にもよく判った。天願氏が盃を受け取ったら、学生は徳利をとって注いだ。天願氏は年かさだし、ぶらぶら遊んでいるけれど何処か尊敬されていると見える。
しかし、盃に酒を注ぐ操作が私の眼の前で行われている。私は、無視されたような気がして面白くなかった。その男はもう相当飲んだと見えて真赤な顔をしている。娘が死んだって死ななくったって殊勝に勉強する柄じゃないように見えた。
私は天願氏の脚をこづいて、部屋の中央にすわっている中年の婦人をあごで指して聞いた。
「あれは誰ですか?」
「あれ」と天願氏はもう赤くなっている。上体をふらふらとさせた。矢張り
「親類の人だろう」
「不思議な人ですね」と私が言ったら、うんと言ってまた盃をあけた。
おばさんは、体をあっちに向けたりこっちにむけたり、大きな徳利をふり廻すようにして皆に注いで廻っている。酒をこぼしたりすると、あらあらと言って、その声が若やいでいるのが何だか奇妙に気になった。今までその影になって見えなかったが、
座も段々乱れて来る気配があった。
娘が死んだとて直接は関係の無い、恐らくは悲しくも嬉しくもない連中が、落着かぬ気持で酒を飲んでいるうちに段々いい機嫌になっては来たものの、騒ぐわけには行かんという反省が内向して変な具合になり、酔いがこじれたままで一挙にふくれ上って来るようすであった。
何時の間にか、あの体の小さな女中も入って来て、酒を注いで廻って居る。何が楽しいのかにこにこしたり冗談口を利き合ったりしている。先刻まであんな鹿爪らしい顔をしていた癖に、
上体を前後に振ってみると頭の中がごろごろ言うのが面白くてゆらゆらしていると、小さな女中がちょこちょこ私の前あたりにやって来たと思ったら、べったり横ずわりして、横の文科の学生に話しかけた。
「今日はずいぶん泣いたわね」
私が横眼で見たら、その男が照れるというような
ほの字か何か知らないが、先刻まで泣いていたという男が今、へらへらと酒を飲んでいる気持を私ははかりかねた。人の心は不思議だよと、心の中で節をつけて私は歌ってみた。今泣いた
冗談のやりとりしていた隣の学生がひょっと真面目くさった顔になって言い出した。
「僕は菊子さんを可哀そうだと思うよ」
「そうだわねえ」
「あんなに仲が良かったんだから、ほんとに悲しいだろうね」
女中が声をひそめた。
「ずっと泣きつづけよ。枕
「仲が良い、あの人達は特別だったから」
「そうよ」と女中が勢いこんで猫のような声を出した。
「電話などかけ合う時、ほんとに楽しそうなのよ。着物もお揃いでつくるし、どこにも一緒に出かけるし――わかるわ。あの気持」と手で胸を押えて、「同性愛というものでしょうねえ」
蛇の肌をぬらぬらこすりつけられたような気がして、私はぞっとして女中の顔をみた。卑しむべき
がやがやとざわめきが高くなった。向う側に並んでいる連中も毛ずねを出したり、掌をひらひら動かして議論をしていたりして、取りとめも無い有様になって来た。すみではおばさんが盃を取ったり返したりして、飲んで居る様子であった。あのおばさんは此処の親類かしら。私の所からは、いくつもつぎをあてた茶色の靴下がマントの裾から出ているのが見える。体のこなしが奇妙なところを見ると、相当酔いが廻っているなと思って眺めていたら、ひょろひょろと立ち上ってこちらにやって来た。大きな徳利と盃を持っている。天願氏の前に坐って盃を指して、あの方が、と言った。盃をわたして呉れと言付かったのだろう。天願氏は泥竜館に七八年も居るので、主のような気がするから一応
「あらあら、こちらが天願様でいらっしゃいますか。いろいろ、お世話になりまして、こちらさまには、いつも、なんでございますから、死んだ娘も、よく申して居りましたですのよ」
何を言っているんだかさっぱり判らない。
「お国はずいぶん遠くだそうでございますわね。あたくしも一度は参りたい参りたいと思っておりますんですけれど」
天願氏は黙って盃の酒を飲んでいる。何と応答していいのか判らないようにも見えたし、酔っぱらって面倒臭いようにも見えた。おばさんのしゃべるのを聞きながら目を閉じたり開いたりしている。
不思議な悲哀が私の胸をかすめた。泥竜館の違った部屋では、うすらわらいを浮べた死骸を取り囲んで、
窓に風があたる音がした。頭がぼんやりして何が何だかはっきりしなかった。座が乱れ果てたこともそう気にならなかった。
「歌ってもいいだろう」と賛成を求める声がした。
「歌ってもいいものかな?」
「お通夜というものはも少し静かに飲むべきじゃないですかねえ」
あちこちから声がする。
「あのこは歌が大好きだったから」
「仏が好きだったんならやったがええ」
「天願さんうたいませんか」
天願氏はモナリザのおばさんに一生懸命に宗教のことを話している。おばさんは不服らしく時々口をさしはさんだりしている。天願氏は手をひらひらと振った。
部屋の隅で二三人が低い濁った声で歌いだした。
九千余人の泥棒が
玉屋の二階に忍び込み
反物 取って逃げて行く
逃げれや逃げれ何処までも
玉屋の二階に忍び込み
逃げれや逃げれ何処までも
ぱちぱちと手をたたいた。盃を手にもって茶わんや皿をたたく。歌が尻きれとんぼになってしまった。節が無いような変な歌なので、何だか此の宴会にふさわしかった。部屋の中空に
「歌!」と言った。
いまから歌いますという意味らしかった。何しろぐにゃぐにゃして立って居るのも大儀らしい。皆が静まったら、低い太い声で悠長な節まわしで歌いだした。二人かながなと芝居んちちゃびら。愛の雨傘に思いかくち。情ぬ雨やさちかゆてく。
二分間位かかってこれだけ歌い終えたら、しんかんとなっていた席がどっと
その時、モナリザのおばさんが急にすわりなおすのが見えた。何かを思い出したような顔をしながらマントを肩からずり落した。
「あたしがうたいます」
濃ゆい眉が二三度ぴくぴく動いて眼がとじられた。
ああ情無やぼた餅は
突かれて焼かれてたたかれて
おわんの牢屋に入れられて
……………
ああ、何という悲しい歌ばかりみんな歌うのだろう。押えに押えて来た心の苦しみや悲しみが、その悲しいうたごえにつれてどっと胸の中に流れ出て来た。奇怪な突かれて焼かれてたたかれて
おわんの牢屋に入れられて
……………
……………
二本のお箸を杖 として
おなかに一夜の宿を借り
明日は出て行く下の関
二本のお箸を
おなかに一夜の宿を借り
明日は出て行く下の関
熱いものが胸から咽喉にぐっとこみあげて来たような気がした時、不覚にも私は思わず両手で眼をおおうた。火のように熱い涙の
廊下を曲って私は便所に入った。じっとしゃがみながら私は声をしのんで泣いた。何故泣きたいのか、はっきりわからなかったけれど、あとから涙がいくらでも流れ出た。
便所の窓に、夜の
目が覚めたら部屋は薄暗かった。頭の半分がずきずきと痛かった。昨夜、あれからまた宴席に戻り、苦い安酒を浴びるほど飲んだのだ。
天願氏の狭い部屋に、寝床を二つとって、その一つに私が覚めていた。雨戸がしめてあるので、暗くて時刻は判らない。雨戸に大きな
ゆらゆらして遠近がわからなかった風景が次第に所を定めて来た。家があった。柿の木らしい木が軒の上に梢をのばしている。その梢のあたりが微かに動いている。白い壁があった。物干竿がかかっている。それに、豆人形の着るような小さい小学生の小倉の上着がかかっている。それがぶわぶわとうごいた。
風がまだ吹いているなと私は思った。雨戸を鳴らさない所を見ると、幾分弱まったものと思われた。私はだるい体を起した。ふらふら立ちながら、雨戸をあけ放った。明るい日射しがさっと部屋に入って来た。私は眼をぱちぱちさせながら窓側に腰を下した。
もう昼はとっくに廻って居るらしかった。風物がみんな長い影を引いて、気のせいか夕暮に近いように見える。
今日も学校に出なかった! 胃のあたりににがさを感じながら私は
天願氏の乱れた髪が枕の上にかぶさっている。体が小さいので布団がぺしゃんこになって見える。ぼろ屑を捨てたようにたよりない寝姿を見ているうちに、次第にわけの判らぬ憎悪を感じて来た。その憎悪は何か親近な感情に裏打ちされて、濁っている。その事が二重になって私の嫌悪をそそった。
ここにぼろぎれのように眠る男も、やはり此の身を
本郷台から
日が短いので
あたりが暗くなった時、私は
本郷通りの並木の影に街灯が
私は腰を下して酒を注文した。狐のような顔をした女が、ちょうしをぶら下げてやって来た。生ぬるい液体が食道をこころよく流れ落ちる。私は頬杖をついた。
「無精鬚の円生」と私は思った。
私が二本目を飲んでいると、表の扉をあけて天願氏が影のように入って来た。顔が蒼ざめている。二日酔いのせいなのだろう。酔っぱらった天願氏をかつぎこんで寝かせたのは私である。やあと天願氏がこわばった笑い方をした。どうも昨夜は失礼。何が何だか判らなかった。そう言って天願氏は腰を下した。
私達はそこで更に五六本の酒を飲んだ。だんだん酔いが廻って来て、気持が快よく流れ出した。自分をいたわりたい気持と自分を
天願氏が言った。
「それは僕だってデカダンスの徒と言えるだろう。生活だってだらしないし、気持もそうだからね。しかし僕の頽廃というのも、僕にはちゃんとその根が判っている。どうして自分がこんな状態になったか、その原因がはっきりしている。もっともはっきり判ってても仕方がないんだが。ところが君の場合はちがうよ。君は、何故自分がこういう頽廃におちこんだか、その原因を知らないんじゃないか」
「原因知ったってどうにもならぬでしょ」と私が答えた。「原因なんて無いのかも知れない」
「そう、原因が無いというのは本当かも知れない。君は僕とはてんで違うんだ。君は、普通の人の眼から見れば、だらしない男だというだけの話なんだ」
私はにがいものを口におし込まれたような気がした。「あんただってだらしない男だけに過ぎないですからね」
天願氏は盃をぐっとほした。「君は今、僕に親近感を持っているらしいが、そりゃ誤りだ。君には僕がわからないよ」
「底を割れば同じじゃないか」
「同じじゃないさ。君は苦しんでいるだろう。僕は毎日毎日が苦しくない。むしろ
私の心の中から、
「あなたは何時か旅川が嫌いだと言ったけれど、旅川から一種の圧迫を感ずるためでしょう。だからあれを嫌うのでしょう」
「圧迫? 圧迫なぞ感じはせんよ。何と言ったらいいか――」天願氏は遠い所を見る眼付になった。「むしろ肉体的嫌悪を感じる」
「そりゃ嘘だ。あなたはそう言ってみるだけの話なんだ」私は一生懸命になった。「天願さん。ぼくは自分ではっきり自分の気持は判らないけれど、ぼくはおそらくあなたを嫌いだろうと思うんです。そりゃ、僕は毎日のようにあなたの所にやって来るけれど、別にあなたと話したいとか、あなたが好きだから、やって来るんじゃない。つまり――惰性の様にしてやって来るのです。他に行くところも無いし、何もすることがないから、自然あんたのとこに足が向くのです。しかし僕は、その時あなたが居なかったり、他の客が来て話してたりすると、不思議なようだが実に厭な気持になる。此の気持は
「同性愛かね」と天願氏がせせら笑った。昨夜の女中の会話を聞いていたに違いない。私は黙殺してつづけた。
「僕は旅川は好きでも嫌いでもないのです。昨晩だって旅川があの
「影か」と天願氏が苦笑いした。「君は若くて馬鹿正直だから、いろいろ考えてきりきり舞いをしてるんだ。僕がそうだと言うんじゃないけれど、
「そういうことはありません。僕はあなたと話すたびに感じる。あなたは本当の事を言わない。嘘っぱちをしゃべって真実から逃げ廻る。武装している。ポーズを作っている。傷つくことがそんなに恐いのですか?」
「そうじゃない」
「そうです」
私は昨日から漠然と感じていた一つの疑問がようやく私の心の中で結晶して来たのを感じた。私は天願氏の顔を見た。やせた頬のあたりにも全く表情がなかった。風の様な自然さで私の顔を見返した。天願氏の長い指が盃を唇に持って行く。私は低い声で言った。
「天願さんは死んだ娘が好きだったんでしょう?」
盃が胸のあたりではたと止った。奇怪な表情が一瞬天願氏の面をかすめて消えたように思われた。そして盃中の酒を音立てて飲み乾した。
「惚れてたとすればどうなるかね」
「それはどうにもならないけど――」
「しかし僕は惚れてなんか居ないよ」と天願氏は
先刻から激しい尿意があった。私はふらふらと立ち上って、奥の方にある便所に歩いて行った。激しく放尿しながら、何もかも
「どこに行ったんだ?」私はあわてて聞いた。
「お帰りになりましたのよ」
「帰った?」
女が私にすり寄って来た。
「まあおかけなさいよ。お酒注ぎますわ」
私は黙って腰を下して盃をあけた。矢張り言って悪かったなと後悔の気持が起って来た。私一人でもいい、
「あの方貴方のお友達?」
「そうだ」
「何だか恐そうな人ね」
「そうでも無いんだよ。根はいい人なんだよ」
「今、喧嘩なさったの」
「喧嘩なんかするものか」と私が笑った。「議論していたんだよ」
一寸間を置いて女が言った。
「あの方、貴方を嫌いだと言ったわ」
私はぎょっとして女の顔をみた。
「あんまり貴方はくどいんですって」
見る見るうちに私の顔色が変って行くのが自分でもはっきり判った。私は思わず大きな声を出した。
「それを僕にことづけろとあの人が言ったんだな!」
「そう」女は哀れむような目付で私を見おろした。押え切れぬ激情が胸をついて湧き起った。私はやっとそれに堪えた。
暫くの後、私はその女を相手にして、つまらぬことをしゃべりながら酒を飲んでいた。どうにもやり切れない気持をはらいのけようとして、私は空虚な
いくら飲んでも、ある程度以上に酔わないのが不思議であった。今日は朝から一杯の御飯も食べていなかったが、食欲は全くなかった。十二時頃、
三丁目の線路を横切り、大学の塀に沿って赤門の前まで来て私は立ち止った。本郷通りにはもはや人影はなくて、屋台店が点々と灯をつらねながら、蓬莱町の方に伸びていた。屋台にすらも人の気配が更になかった。前にのめりそうな気持をぐっとこらえて、私は人影のない巷を見わたした。
電線をふるわせて風が吹いて、赤門前に散らばった数知れぬ銀杏の落葉が一せいにがさがさと
ああ、何もかも風のようだ! 私は私の胸の空洞を吹き抜ける風の悲しい密度を感じながら、こう思った。底知れぬ絶望感が私をおそった。
しかしその夜遅く、私は不思議な力にひかれて、再び泥竜館の玄関に立った。私は靴をそっと脱ぎ、音を立てないように廊下を歩き、天願氏の部屋に忍び寄った。天願氏はすでに眠っていた。私はその顔をじっと見つめた。額にふつふつと寝汗の粒が並び、髪毛が四五本そこにへばりついていた。苦しそうな寝顔であった。思わず私はぐっと胸がせまって来た。私の胸の中にあった、あらゆる憎しみや悲しみや、そうしたものを、此の束の間の感傷が暫く押し流したのだ。生きて行くことはいい。生きて行くことはいいことだ。私は意味なく呟きながら、体を硬くしていた。天願氏がうめきながら寝がえった。私はそっと立ち上った。
障子をあけて、音のせぬように布団を取り出してしいた。電灯を消して暗闇になった底で、静かによこたわりながら私は眼をぱちぱちさせていろいろ考えていた。私には立派な生活は出来ぬ。どのみち退屈を食ってしか生きられぬ男だ。蓬莱町まで行きながら又引き返して来た自分のぶざまな恰好を私は
闇の中にいろいろなものが見えるような気がする。私はそれを一つ一つ探りあててやろうと酔眼を働かした。闇の濃いところやうすい所が
十分間の後、私は疲れて眠っていた。
昼前の明るい光の満ちた天願氏の部屋で、私達は朝御飯を食べた。風は全く止んでいた。空が淡青色に晴れわたり、雲が一片二片高い所に飛んでいた。私達は、郊外に行く話などしながら、遅い暖い御飯を食べた。食膳に、やせ衰えた
旅川が呼びに来た。告別式が始まるのである。今朝方より大工がやって来て、泥竜館の玄関に壇をつくった。かんかん釘をうつ音が此の部屋まで聞えて来た。そこに白い幕をかけ、
露地の中は人が押し合いへし合いする程、沢山の人が集った。白い服を着た看護婦の姿も見えるのである。そして読経がすんで、焼香が始まった。
下宿人の中では天願氏が真先に出て行った。人々の視線を浴びながら、天願氏は仏前まで頭を振りながら進んで行った。そして、鐘たたきを取ってチーンと鳴らした。一度で止せばいいのに、つづけざま二十遍ばかりちんちんちんと叩きつづける。香をひとつかみ
やっと重任を果したというような顔をして天願氏が戻って来た。香がまだ
告別式がすんで私達は天願氏の部屋にぞろぞろと集った。私達は其処で他愛もない無駄話に興じていると、下宿のおかみさんがやって来た。
「今から焼場に参りますけれども、皆さんもいらっしゃいますか」
来て貰いたくないけれど、形式的に聞きに来たという感じがはっきりと出ていたのである。
「参りましょう」と天願氏が大きな声を出した。私は天願氏の顔を眺めた。石のように無表情である。「さあ、出かけよう」と天願氏が先に立った。
玄関に立った時、
「ああ、何だかお正月のような気がする」と天願氏が言った。
乗り手をうながす為に自動車の運転手たちがぶうぶうと調子をつけて警笛を鳴らし始めた。私達は黒い露地の土を踏み、侘びしい明るさを拾いながら、通りの方へぞろぞろと出て行った。