黄色い日日

梅崎春生




 垣根の破れたところから、大きな茶のぶち犬が彼の庭に這入ってきた。お隣の発田の飼犬である。なにか考えこんでいる風に首を垂れ、彼が大切にしている牡丹ぼたんのところへふらふらとあるいてきたが、その根の辺をくんくん嗅ぎながら二三度廻り、また何となく縁側の方に近づいてきた。どこかで転んだと見え、脇腹に濡れた枯葉を二三枚貼りつけている。縁の前にはバケツをさかさに伏せ、その上に彼の古靴が乾してある。そこで立ち止ると、急に考え深そうな表情になって、丹念に古靴のあちこちを嗅いでいたが、束ねたひもをいきなりくわえて、靴の片方ずつを顔の両側にぶらりと垂らした。そのままでちらりと彼の方を見たようである。硝子戸の内側に座布団を何枚もならべ、その上に寝そべって、彼はそれを眺めていた。
(どうも変だ)頬杖をついたまま、彼はそう考えた。
 ぶち犬は靴をくわえたまま、彼の方から眼をそらすと、重そうにくびをふり、今来た道をふらふらと垣根の方に戻って行った。硝子戸の外の犬のいる風景は、ありありと眼に見えていて、またどことなく黄色い光を帯びていた。最後にぶち犬の尻尾が垣根の破れ口にちらりとひらめいて、靴もろとも外に消えた。
(あの垣根も早いうちに修繕しなければ、やがてぼろぼろになってしまうだろう)
 彼はけだるく身体を起しながら、垣根の方をぼんやり眺めていた。朽ちかけた竹垣だが、発田の家と彼の家の仕切りになって、往き来できないようになっていたのに、発田のおかみさんが燃料にするために引抜くから、近頃では犬が自由に出入できる隙間ができた。そのうちに人間が通れるようになるだろうし、やがては馬も通れる位になるだろう。今のところは犬だけだが、あのぶち犬は日に三四度は何となく彼の庭にやってくる。茶のぶちをつけたりして、感じのわるい犬だ。牡丹ぼたんの根を掘ってみたり、捨ててあるものをくわえて持って行ったり、つまらないいたずらばかりする。この間も線の切れた電球をくわえて行ったが、あれはどういうつもりだったのだろう。先日乾しておいた彼の革財布をくわえて行ったのも、この犬にちがいない。
(しかしどうしてこんなに身体が重いのだろう?)
 身体のどこかが変調子になっていることを、彼はこの頃はっきり意識していた。とにかく身体がひどくだるくて、それに応じて気持もひどく重い。気持がすこしも動かない。ある鈍麻が彼の全部を漠然と満たしている。ものを眺めても、ただ眺めているだけで、それに働きかける意欲が全然起らない。げんに今だってそうだ。復員のとき持って帰った古靴だが、もう穿けないという程のものではない。盗られて惜しいと思うのではないが、あれば充分役に立つ靴なのだ。あのぶち犬がくわえてゆくのを、ありありと見ていながら、しかも立ち上って取戻す気持になれないのは、どうしてだろう? 犬の姿が全く消えてしまうと、彼はふといつものに似た生理的不安におそわれた。その不安は、漠然と、確実に、執拗に、彼の上にかぶさってきた。
 塀の外に、俄風にわかかぜが吹き起っている。
 この妙な状態は、何時の頃からか。昨日今日のことではない。身体の機能の狂いを自覚したのは、一週間ほど前、いや十日位になるだろう。食慾がしだいに減退し、身体をうごかすのが大儀となり、何をするのもいやになってきた。ねじを巻き忘れた柱時計の振子が、いつのまにか止ってしまうように、情緒までがだんだん振幅をせばめて、反応を失い始めてきたようだ。現象に呼応して、感じ揺れるものがない。食慾の減退からみると、消化器系の障害もあるらしいが、風邪をひいている気配もたしかにある。それは中山と一緒に酒を飲んで、水に落ちたあの夜以来だ。
 昔からの友達の三元が、どうした心境からか強盗をはたらき、とうとう碑文谷ひもんや署につかまった。ほっておく訳にも行かないので、その善後策を相談するためにあの夜中山と会ったのだが、とにかく酒でも飲もうということになり、ふたりで神田のマーケットに行った。中山の行きつけの店で、匂いの強い酒をコップに五六杯飲んだと記憶する。それから外にでて、マーケットの裏側のくらいところを二人でふらふらあるいていると、どういうはずみか、彼の身体ははじかれたようによろめいて、外套のまま、防火用の水溜りに落ちこんでしまった。落ちこんだというより、まるで突きとばされたような具合であった。おそろしく深い水溜りで、しかも底はどろどろの沈澱物で、足が立たなかった。黒い水にあごまでひたして、もし本能的に水溜りの縁を両掌でつかまなかったなら、大変なことになったかも知れない。中山の手を借りてやっと這い上り、酔いも醒めて、そのままで急いでうちに帰ったのだが、下着まで水がしみ通り、靴の中やズボンの折目には濡れた黒い泥がたくさん入っていた。いくら酔っぱらったとはいえ、どうしてあんな馬鹿な目にあったのだろう。そこは暗い空地で、板片や縄きれが散乱し、あるきにくい場所ではあったが、黒く淀んだ水溜りのかすかな反射が、彼の眼にとどまらなかった訳はなかったのだ。空地に足を踏み入れるとき、彼の気持はたしかに酔いにこじれて、ひどく荒れていた。店で酒を飲んでいる間、ずっと三元の話だけしていて、そして少しばかりそのことで中山と言い合ったりもしたのだ。
「三元があんなことをやったのも、もともと君の影響だよ」
 中山はそんなことを押しつけがましく彼に何度も言ったのだ。そればかりにこだわっているような言い方で。中山も相当酔っている風であった。
「こんな時代だから、強盗やってもいいんだと、三元に教えたのは君だろう」
「そんなことがあるものか」と彼はひたすら抗弁した。「そんな莫迦ばかげたことを、僕が言うわけはない。言ったとしても、三元が真に受けるものか」
「そら、言ったんだろ。言わなくても、暗示ぐらいはしただろう。そしてあいつは可哀そうにやっちまった。やっちまったから、あいつの負けさ」
 中山は眼をきらきらさせて、そんな事も言った。三元の犯罪事件の後始末を相談するために会ったのに、後始末の話はほとんど出ず、なぜ三元があんなことを仕出かしたのかという問題を、堂々めぐりするだけであった。三元のことをサカナにして酒を飲むなど、いささかなまぐさすぎる感じもしたが、中山の語勢につられて、彼もすこしは力んでいるようであった。始めはそんな具合に酔いを殺して飲んでいたのだが、しかしだんだん廻ってくるにつれ、三元の所業などは、もともと彼に縁のない遠いものに思われてきた。
「仲間うちから強盗が出るようになって、おれたちも大したものだよ」
 酔った心で思ったままを、彼は口走ったりした。中山は眼を光らせてそれを聞いていた。中山は彼より二つ年上で、ある週刊雑誌の編輯へんしゅうをしている。あまり有能ではないという話であった。若いときからの酒好きで、しらふのときでも鼻が真赤であった。顔の中央に鼻が真赤に凝縮しているのは、ちょっと異様な感じでもあった。
 下着まで水に濡れた翌朝、彼が眼を覚ますと、鼻の奥や耳の底が不快にうずいていた。熱っぽい身体からは、かすかにどぶの臭いが立っていた。濡れた上着の内ポケットから革財布を取出すと、十円札が二三枚しか残っていなくて、ここにも強くどぶの臭いが残っていた。彼はそれを水で洗って、庭の日向ひなたに乾しておいたのだが、いつの間にか乾したところから見えなくなっていた。発田のぶち犬のことは思いつかなかったので、彼は白木の小娘が持って行ったにちがいないと、漠然と疑いをかけていた。白木の娘は手癖がわるいというのが、もっぱらの近所の噂であったから。
 それから三四日して、夕食にシチウが出た。そのどろどろのシチウを膳の上に見たとき、彼は神田マーケット裏の泥水溜りをすぐ聯想れんそうして、いきなり嘔吐おうとがこみ上げてくるのを感じた。意識下に眠っていた嫌悪のかたまりが、いきなり現実のシチウに刺戟されて直結したような感じであった。彼は顔をしかめて、台所をたのんでいる婆やに言った。
「これは食えない。下げてくれ」
 そして彼は御飯に熱い茶をかけて、やっと一杯たべた。御飯は消しゴムのような厭な味がした。それから念のために体温を計ってみると、検温器は六度八分を指していた。平熱が常人よりもずっと低い彼にしては、正常な体熱ではなかった。平常の彼の体熱は、三十五度を越えることはなかったから、肉体のなかで、なにか異常がおこっているのは確かであった。
(三元のことで、中山はおれにまるで腹を立てているような具合だったな)
 あの水溜りに落っこちたのは、酔いに足をとられたのではなくて、中山が突き落したのかも知れないと、彼はふと考えたりした。あの夜中山が三元の心情をしつこく問題にしたのも、三元の所業が中山にとって他人事ひとごとでなかったからに違いなかった。その事は漠然と彼にも想像できた。三元と中山は古いつき合いで、気持の上でもほぼ同じコースを生きて来たと言ってよかったから。しかしあの夜、中山がその事で彼にからんだ気持は、彼には判らなかった。ただ彼は中山の赤い大きな鼻を、よごれた紅中ホンチュンパイみたいな印象の風貌を思い浮べるだけであった。
(おれを突きとばしたのが中山だとすれば、その時あいつはどんな表情をしていたのだろう?)
 そう考える度に、彼はへんに冷たい可笑おかしさが唇にのぼってくるのを意識した。その可笑しさのなかに、突きとばされた彼自身の恰好の滑稽さもふくまれていた。そしてそれはただの可笑しさだけであった。突き落した中山にたいする気持の働きかけは、彼の内部ですべて死んでいた。今残っているものは、水に濡れたことによる風邪、それに導かれた肉体内部の得体の知れぬ障害、それだけであった。身体のどの部分が狂っているのか、それを極めるのも物憂ものうかった。長い行軍のあとのような疲労感が、この二三日昼も夜もあった。彼は一日中昏々こんこんと眠っていたいと考えるのだが、いろんな用事がむらがって起き、止むなく歩き廻ったり人に会ったりしなければならなかった。動き廻っているときは気がまぎれて、現実にはげしく身を触れあっている気にもなるのだが、ひとりになってみて、気持がほとんど揺れ動いていないことに気がつくと、彼はその度にある不安にとらわれた。不安といっても、正体をつかみにくい、たとえば快感を伴わぬ射精のような、不透明な虚脱感であった。それがこの一週間ほどに時々おこった。しかしこの一週間というのは、彼に意識されただけで、本当はずっと以前から、何年も何年も前からつづいていたのかも知れなかったが。
 それなのに、用事はあとからあとから起きてきた。枕に顔をつけて眠ろうとすると、何度となく眠りから呼び帰しにくるあの意識の小悪魔に似ていた。会合がいくつも重なったし、また三元のことでM精神病院にも行かなければならなかった。裁判にあたって精神鑑定を申請するために、一応その方面のことを問い合せておく必要があったのだ。それはあの夜、中山が発議したことであった。日を定めて、彼は中山と連れだって、M病院にゆくことになっていたが、その行程を利用して、中山は自分の週刊雑誌に精神病院見学記を書くつもりらしかった。M病院には知合いの医者がいたが、まだ連絡をとっていなかった。
 それから彼は住居を見つける必要にもせまられていた。今の家は遠慮がちな追い立てをくっていた。家主は隣家の白木で、彼と発田の二軒が白木の持ち家であった。白木と彼の家をへだてる垣根に長者門があって、その扉をあけて白木は、三日に一度くらい彼の家にやってきた。彼と花札をたたかわす為である。白木は彼よりもすこし若く、小柄な男であった。皮膚が豆腐みたいにぶよぶよと白かった。黒い小さな眼球に、瞼が白くかぶさっていた。定まった職業をもたないので、いつも貧乏しているらしかった。毎日ぶらぶら家にいて、日向ひなたぼっこしているか、鶏の世話などをしていた。白木が飼っているのは、軍鶏しゃもである。白木はそれを若鶏のうちから育てて、訓練をほどこし、強大な成鶏にそだてあげると、それを闘鶏に持って行くのであった。白木が貧乏しているのは、このせいであった。だから白木は自分の持ち家を売って、金をつくりたがっていた。しかし彼のような借家人が居坐っていては、買手がつくわけもなかった。しかも白木が彼に明渡しを促す時は、ごく遠まわしな言い方で、まるで逆に居坐って呉れとでもいっているような具合であった。
「まだ、お家は見つかりませんでしょね」唐突にそう言うと白木は急に気の毒そうな表情になって、眼をぱちぱちさせる。自分の唐突さを恥じているような風情もある。そしてあわてて言葉をつぐ。「いや、おせきたてするわけではないんですよ。ただ、ちょっと、なにしたものですから。いや、今時、適当な家なんか、なかなか見つからないでしょうからね」
 世間話の切れ目に、白木はこの話をちょっと入れて、すぐ切り上げてしまう。しかしそれは時に、正面切った催促よりも、もっと切実な催促を感じさせることもあった。そんな時彼はだまって白木の顔を眺めている。白木の方でひとりで話を切り上げるから、大てい彼は何も返事をしないで済んだ。
 硝子戸ごしに、長者門のすきまから、白木の家が見える。土地が一段下っているので、低くなった庭には、軍鶏が一羽王者のようにあるいている。もうこれ一羽しかいないのだ。この軍鶏の世話をしている白木をときどき見かけるが、そんな時の白木の姿は、若いくせに虚脱したような印象で、まるで精気をすっかり鶏に吸いとられたような感じだ。そのくせ白木の顔には、切ない喜びといったようなものが、どことなくただよっている。彼はその姿を見るたびに、いつも強く「不能者」という言葉をかんじた。「不能者」という言葉が内包するすべてのものを。この若い不能者の家主には、色白の肉付きのいいおかみさんと、女の子がひとりいる。手癖がわるいと評判されているのは、この女の子だ。評判通りであるのかどうか、彼は知らない。両親の血をうけて、皮膚が白くて、あまり白いので、眼玉が青味がかって見えるほどだ。またその眼玉は絶え間なくよく動く。
「まだ凍ってんだってさあ」
 その女の子が喚きながら、白木の表から駆けこんでくる。手には目笊めざるをくるくるふりまわしながら。
「まだ凍ってんだってさあ」
 何が凍っているのか。彼はそれを知っている。先刻街をあるいているとき見たのだ。魚屋に配給の冷凍魚が入荷して、積まれてあった。スケソウだらである。凍ってコチコチになっているから、まだ庖丁ほうちょうが立たないのだ。なにしろこの界隈かいわいは、ことに白木の家では、魚といえば配給魚しか買わないので、逆に配給魚であれば買わねばならぬという強迫観念におちているようであった。だから今日魚屋に何が入荷したかについては、ことに敏感である。しかしまだ凍っているのでは、仕方がないだろう。
 彼はもとから、この界隈何百軒の人々が、たらなら鱈と、同じ夕食に同じおかずを食べるという現象を、面白く思っていなかった。一緒に集って食べるのならともかく、各自マッチ箱のような家に立てこもって、隣家や向いと同じおかずを、ほそぼそと突っつく。――今の気分はことにそうであった。あのどろどろのシチウを見た夜以来、彼の食慾は急速に減退していた。何を見ても食慾が起らないし、何を食べても味がない。食物を想像するだけで、咽喉のどがつまるような気がした。鱈。スケソウ鱈のあの猫の舌みたいなざらざらした感触をかんがえると、彼は食道の内側に毛の生えたものを無理矢理に押しこまれるような気がした。そのスケソウ鱈の冷凍がとけて、庖丁が通るようになり、たくさんの切り身となるのを数百数千の人が待っている。……
(さて、どうやってあの靴を取戻したらいいだろう。まさかおれが忍びこんで、靴をくわえてくる訳にも行くまいし――)
 女の子の甲高かんだかい叫び声をききながら、彼はぼんやり考えた。そう考えてみただけで、実際取戻すということには、ほとんど現実感がなかった。皮膚のあちこちが、しきりにかゆかった。

「やはり黄色いよ。どう見ても、黄色だね」
 中山は写真機に黄色いフィルターをかけながら言った。彼はその写真機の前に、すこしみじめそうな顔になって立っていた。
「そんなに黄色かねえ」
「黄色かねえって、まるで夏蜜柑だよ」
 そして中山はうつむいてレンズの位置を定めた。彼は両手をぶらりと垂れて、中山の赤い鼻を眺めていた。焦点がうまく定まらないらしく、中山は身体を動かしながら、なかなかシャッターを切らなかった。それを見ながら彼は、写真機のなかに倒逆して映った自分の黄色い顔を、想像するともなく想像していた。倒逆し凝集ぎょうしゅうした彼の顔の背後にも、精神病院の灰色の建物がうつっている筈であった。写真は不馴れと見えて、中山は首をかしげたり、機械を傾けたりして、なかなかはかどらなかった。――
 精神鑑定の件については、やはりその時でなければどうなるか判らないし、また法廷が精神鑑定の申請を受諾したとしても、その件がこの病院に依嘱されてくるかどうかも確実でない、というのが知己ちきの医師の返事であった。三元の事件をかんたんに説明したが、医師はほとんど興味を示さないふうであった。
「別段おかしいところは無いじゃありませんか。筋道は通っているし――」
 医師は彼の話を聞き終えると、そう言った。そういえばそうだ、と彼も思った。しかし三元の行為を、筋道の通るように整理して話したのは、彼自身であることに、彼は次の瞬間気付いていた。中山は彼の隣に腰かけて、終始口をつぐんでいた。
「折角おいでになったんだから、院内でも見物しておいでになりますか」
 そして始めに脳の手術室を見せてもらった。それはへんてつもない、狭い殺風景な部屋であった。しかし医師が戸棚から出した大型のケースを開いたとき、彼はなにかひりひりするようなものが身体を走りぬけるのを感じた。それは手術の器具であった。大きなメスや、小さなメスや、小型のドリルや、その他いろんな形の器具が整然と収められ、鈍色にびいろに磨き上げられていた。ドリルは頭蓋に穴をあけるためのものであった。そしてメスを穴からさしこんで、前頭葉の組織を切り離す。メスは刃のにぶい、鈍重な形をしていた。
「脳というのはね、半熟の卵みたいにぶよぶよでしてね、切り離すとき血管を切断すると大変でしょう。だからこんなに鈍い刃を使うのです。こんな具合に手探りしながら――」
 医師は両手でメスを操作する仕草をやって見せた。メスを握る細い指が微妙に動くのを彼は見ていた。中山がそばから訊ねた。
「手術時間はどの位かかるのです?」
「三十分位で済みますよ」
「頭蓋骨の穴はそのままにしておくのですか」
「いえ。やっぱりふさぎます。ドリルで骨を削るでしょう。その破片や粉末が血と一緒になって、こねられて、粘土みたいになっているんです。そいつを丸めて、穴に押しこんでおくと、ひとりでにふさがっていますよ」
 医師はケースを閉じて、戸棚にもどした。人間の、考えたり感じたりする実体が、それらの部分を金属のメスで手探りされたり切り離されたりする時、その実体そのものは何を考えたり感じたりしているのだろう。医師の話では、その手術は局部麻酔で、患者は手術中に医師と話も出来るということであった。その局部麻酔というのも、頭蓋の外側だけに必要なので、頭蓋骨や脳には不必要だというのであった。考えたり感じたりする脳が、感覚を欠除しているということが、彼には妙に不気味に感じられた。この感じは、一週間ほど前に彼が読んだ、動物試験で心臓を切り取って、その心臓が食塩水かなにかの中で数時間生きていたという実験の記事につながっていた。科学がすすんで、たとえば脳や眼玉がそんなことになったら、感覚器をもたない脳は孤立して何を考えつづけ、また眼玉は孤立して見るだけ見つづけることで、果ては一体どんなことになるのだろう。しかしそれは疑問としてではなく、ある不気味な実感として彼におちてきた。彼は頬にうすら笑いを浮べながら、医師のあとについて、つめたい廊下に出た。廊下では彼の下駄の音が鳴った。犬に靴をもって行かれたままだから、仕方なく下駄をはいて来たのであった。
 病棟の方には目新しいものもなかった。ありふれた顔をした患者が、すすけた病室にいるにすぎなかった。そこらあたりから中山は急に饒舌じょうぜつになって、いろんな質問をしたりした。記事につくるための質問であるらしかった。
 構内のひろい直線道路を、背の高い痩せた男が、脚をすらりと伸ばして、ゆっくり散歩していた。その男は上衣をぬいで、細い上体にズボン吊りを見せていた。眼鏡の奥のくぼんだ眼窩がんかに、黒く小さな瞳がぼんやり動いて、彼等の方を見た。そしてその男は彼のそばを静かに通りぬけた。冷たい風のようなものが、彼に触れた。
 中山が写真機をとりだしたのは、医師に別れを告げてからであった。とり出しながら、中山が言った。
「病室でも撮らせて貰おうと思ってたんだが、つい質問に身が入って、忘れてしまった」
「ぼんやりしてんだな」と彼はすこし笑いながら答えた。「写真版にでもして出すつもりかい。建物でも撮っておけよ」
「そう思っていたところだ」
 酒を飲んでいないときの中山は、肩のあたりが妙に寒そうで、乾いた眼のいろをしていた。写真には自信がないらしく、これで写るかな、などとつぶやきながら、それでも三四枚写した。
「一枚君を撮ってやろうか」
 空は灰色に乱れていた。その下にぼんやりたたずんでいる彼の姿を、探るように見つめながら、中山は押えつけたような声で言った。
「さっきから、変だと思っていたんだが、君の顔は、おそろしく黄色いぞ」
 彼にむけられた写真機のシャッターが切られたとき、彼はすこし上向いて、遠くの空を眺めていた。遠くの空もやはりほのかに黄色を帯びていた。病感がじわじわと彼の胸にひろがってきた。
 帰途、電車に揺られながら、中山が言った。
しじみの味噌汁をのむといいんだよ。三度三度ね」
「そんなことでなおるかね。身体のあちこちがとてもかゆいんだ」
「脂肪分はいけないよ。澱粉をたくさんるんだ。そして肝臓にグリコーゲンを貯えるようにするといいんだね」
「いろんなことを知っているんだね。やっぱり雑誌記者などやっていると、いろんなことを覚えるんだな」
「商売で覚えるんじゃないよ。おれも昔、黄疸おうだんをやったことがあるんだよ」
 それからすこし三元の話をした。三元が押入った被害者宅に行って示談書を書かせようとした話を、中山がした。
「三元の友人で、今度のことについてあやまりに来たんだ、と言ったら、なかなか愛想がよくてね、うまい具合に行きそうだと思ったんだが、示談書をかいてくれと切りだしたら、とたんに硬い顔になってね、厭だと言うんだ」
「示談書とはっきり言ったの?」
「いや、その犯罪は憎んでいるが、その本人を憎んでいるわけじゃない、ということを、一筆かいて呉れと言ったんだ」
「そんな切出しかたをするから駄目だよ」と彼は笑った。
「いや。話しているときは、そこまで行ったんだよ。あんなことで捕まって、ほんとにお気の毒だなんて言っているんだ。ところがその心境を書いて呉れと言うと、厭だと言うんだね」
「そんなものだろうな」深い疲労を感じながら彼はそう答えた。「あんまり無理しない方がいいよ」
「無理って、なにが無理なんだい」吊皮に下ったまま、中山が赤い鼻を近づけてきた。
「いや。わざわざそんなところに行ったりして、大変だっただろう」
「だって、可哀そうだからね」
「可哀そうって、誰が?」
 窓の外に、線路と平行した街道で、自動車が衝突したのか人をいたのか、車や人がごちゃごちゃに群れているのが眼にとまった。家並にさえぎられて、それはすぐ見えなくなった。中山もその光景に一瞬心をうばわれたのか、返事をしなかった。電車の轟音がひどく単調にひびいていた。しばらくして彼が聞いた。
「あの病院のこと、記事になるかね」
「うん」光線の具合か、中山は暗く沈鬱な顔をしていた。「どうにか書けるさ。それが商売だもの」
「しかし変なものだね」すこし間をおいて彼は言った。「精神鑑定を申請してさ、気違いということになれば、三元は無罪になるだろう。しかし三元にして見れば、気違いになるよりは、刑務所へ行った方がいい、と言い出すかも知れないね」
「そりゃそうかも知れん」
「その点から言えば、僕たちはひどく僭越せんえつなことをやってるとも思うんだよ。三元のことだけに限らず、どんなことにもね。僭越というより、何かしら実質もなにも無い、へなへなしたようなやり方ばかりで、生きているような気がするよ、おれは」
 中山とは雑沓ざっとうする駅で別れた。
 だるい身体をもてあましながら、家へ戻ってくると、彼は長者門をくぐって、白木の方へ降りてゆき、明日からしじみをすこし譲って呉れと頼みこんだ。白木は縁側に腰かけて籠に伏せた鶏を眺めていた。その鶏に食わせるために、白木が蜆を毎日どこからか持ってくることを、彼はもとから知っていたのである。花札をやっているとき、白木がふとその蜆のことをらしたことがある。特別に精のつく大型の蜆なのだそうであった。
「ええ。ええ。わけて上げてもいいですよ」
 白木は籠の中の鶏から眼を離さず、そう答えた。雲を洩れたわずかな夕陽ゆうひのなかを、鶏はくびを立て、鋭い眼でひとところを見据みすえていた。背の高さは、三尺ほどもある。白木は縁側にかけたまま、なにかいらだたしそうに呟いた。
「こればっかりが楽しみでね。もうこれ一羽になってしまった」
「勝負に出すのですか、これも」
「ええ。近いうちに千葉でやるんでね、それに出そうと思ってはいるんですよ」
 もし勝ち抜けば数万の金が入るのだが、負けたら一文にもならない上に、すっかり廃鶏になってしまうのだ、と白木は静かな声にもどって説明した。
「勝てばいいんですがね。金にもなるんでね。金のことはどうでもいいと思うんだけれど、貧乏したらやはり金も欲しいしね。今まとまって欲しいんですよ」
「勝つでしょう。こんないい体格だから」
「体格じゃ、こいつはきまりませんのでね」
 もしこの鶏が負けたら、もう軍鶏しゃもを育てるのも止めにするつもりだ、と白木は独白のように言いながら顔を彼にむけた。
「また、やりますか、こいつ」
 白木は花札をめくる手付をしながら、うながすような目付になった。彼はうすく頬に笑いを浮べて、白木のぶよぶよした生白い顔を見ていた。
 彼に花札を教えたのは、三元であった。復員してきて、住居がないまま、半年ばかり三元の家に同居していたことがあって、その時毎晩三元と花札を弄んだ。三元も彼と同じく軍隊から復員してきたのだが、どうやって借りたのか、独身のくせにちゃんと一軒の家に住んでいた。二間しかない小さな家で、その湿気の多い三畳間を、三元は彼のためにさいた。三元は花札はうまかった。ほとんど指先に眼があるのかと思われるほど、感が良かった。三元のそうした感の良さに、彼はときどき不気味なものを感じた。ある時中山や三元などと、麻雀卓をかこんだことがある。三元はろくに勘定もできないほど下手なのに、摸牌モウパイだけはほとんど玄人じみて正確なことを、彼はその時知った。ある時三元とふたりでいるとき、彼はそのことを言うと、三元はすこし厭な顔をした。
「おれの親爺おやじは、眼が見えないんだ」
 彼は三元のその言葉を無条件で信じた。なにかもやもやしたものが、どこかでぴたりと合った感じがした。
「めくらの手を引いて歩くときのこつを教えてやろうか。それはね、めくらより一歩自分が先に足を踏み出して行けばいいんだ」
 三元の指は細くて長かった。関節がないような印象の指であった。ふしぎに白木の指がそれと同じ感じであった。白木の指は長くはなかったが、細くて、くねくねと力点がないような動きをした。
 翌日から彼は三度三度しじみ汁をのんだ。
 白木が持ってくるざるの蜆は、台所の流しの上で、一日中チイチイと鳴いていた。便所の行き戻りにそれを聞くと、彼は身体の中に、しずかな音楽のようなものが流れるのを感じた。蜆は毎朝白木の小娘が持って来た。小娘は縁側まで来ると、大きな声で彼を呼んだ。
「蜆ですよう」
 縁側においとけばいいのに、と彼が寝床の中で思って、返事しないでいると、小娘は更に声を張り上げて叫んだ。
「蜆ですよう」
 朝の光が射しそめる頃から、彼の世界は黄色にひらけてくるのであった。彼の視界にあるどういう物体も、その色のまま黄色に見えた。黄疸おうだんらしいと判ってから、その黄色の感じも幾分変ってきて、視界をおおう黄色の膜は、眼の外にあるのではなく、網膜に貼りついていることが、神経的に感じられた。彼はときどき身体中に滲みうごく胆汁たんじゅうのことを思った。彼の想像のなかの胆汁は、うみがある種の軟膏のように、黄色くどろどろしていた。肝臓のちかくにある小さな胆嚢から、そんな液汁が四方に流れ出て、血管や組織に滲んでゆく幻覚じみた感じは、彼の身体のだるい状態とぼんやり重なっていた。身体は相変らず、だるく鈍かった。ひとりでいると、そのまますべてが黄色い世界のなかに静止していた。外を出て歩いたり、白木と花札をやったりするのも、彼が欲するからではなく、何かに強いられた、物憂ものうい生の習慣にすぎないことを彼はかんじた。
(病覚があるとしても――)汁の中から蜆をひとつひとつ拾いながら、彼は時々そう考えた。(それだけではどうにもならない)
 ある夕方、このように身体や気持が鈍麻した状態で、なお心の表面にひりひりと触れてくるような、ひとつの言葉を聞いた。その時彼は部屋を閉め切って、白木と花札をやっていた。コイコイという遊びであった。白木はそれをコヨコヨと発音した。白木は彼の取り札と自分の取り札を見くらべながら、まだ大丈夫と見ると、勝ちを大きくするために、コヨコヨと言いながら勝負をせり上げた。
「コヨコヨ」
「コヨコヨ」
 白木の黒い小さな眼球は、そんな時ふと残忍な光を帯びてうごいた。彼は反射的に札を出したり取ったりしながら、気持はそばで鳴っているラジオにきつけられていた。ラジオからは、東京裁判の実況放送が流れていた。英語と日本語が入りみだれて聞えていた。その中から、ひときわ荘重なはっきりした言葉を、彼の耳は拾いあげていた。その言葉は、ある重量と実質をふくんで、彼の耳におちた。
「デス・バイ・ハンギング」
「デス・バイ・ハンギング」
 ぶらりとぶら下った人間の姿が眼の前に見えるようじゃないか、と彼は心の中でつぶやいた。しかしその言葉の重さは、それだけでなかった。なにか言いようのない拡がりを、その言葉は持っていた。肉声を殺した機械音であったから、なおのことその感じは強かった。それは沢山の人を殺し、彼自身の内部のものを殺した兇暴な嵐の、ひとつの帰結点の位置で発音されていた。
(このような実質のある重い言葉を、どんなに長い間おれは聞かなかっただろう?)
 彼は意識をそこに置かずに、反射的に札を出したりめくったりしていた。白木は時々瞼をあげて、ちらりと彼をうかがいながら、札を出し入れした。彼はとつぜんM脳病院のつめたい廊下や、皮膚がひりひりするような手術道具などと一緒に、構内のひろい直線道路ですれちがった痩せた背の高い男の姿を思い出した。すれちがうとき男がつぶやいている言葉を、彼はあの時聞いた。意味は判らなかったけれども、それはたしかに独逸ドイツ語であった。男の細い上体は、黒いズボン吊りにしめつけられ、あえいでいるように見えた。
(あいつはたすかったんだな、あいつは)
 それは麻痺性痴呆の病名をもって、A級戦犯の法廷から除外された男であった。この男がM病院に収容されていることは知っていたし、直線道路の彼方にその姿を見たとき、彼はすぐその男であることを直覚した。長身のその姿は、つめたい風のようなものをただよわせながら、近づいてきた。すれちがうまで彼等三人は、しんと口をつぐんで歩いていた。
(どうしてあの時おれたちはしんとしてしまったのだろうな)
 彼はその時白木のしなやかな指が、めくった雨の十を桐の二十に合せて持ってゆくのを見た。彼はうす笑いを浮べて、それを見ていた。そして勝負が済んだ。彼は座布団の下から数枚の紙幣を出して、白木の方に押しやった。
「少し疲れたね」と彼は言った。
「まだずいぶん黄色いようですね」札をかきあつめながら白木が答えた。「もう止しますか。今日は私の方が勝った」
 ラジオは続いて判決の模様を伝えていた。しかし白木はそれにほとんど興味をもっていないらしかった。彼はたばこをふかしながら、耳をラジオに寄せていた。しばらくして白木が彼の顔をうかがうようにして、早口に言った。
「まだ、お家は見つかりませんでしょね」
 彼は返事の代りに、ちょっとうなずいてみせた。
「いえね、少し困ったりしましたんでね。あなた付きのままで、この家を売りたくないんでね」
「ええ。どこか探して引越しますよ」と彼は物憂ものうく答えた。「引越すとあなたからしじみもゆずって貰えなくなりますね」
「あいつが勝って呉れればね、それでもしばらくはやって行けるんですが――」
「発田さんの家を売ったらどうです」
「ええ。出来ましたらね。女房が田舎に戻りたいと言っていますんでね」
「でも、軍鶏しゃもはやはり飼いなさいよ」と彼は言った。「それを止めると、あなたはきっと変な具合になりますよ」
 白木はふくれた瞼をあげて、小さな瞳で彼をちらりと見た。冷たく硬い瞳の色であった。彼はそろえた花札を白木の前から取り、箱に入れながら言った。
「もし何でしたら、私付きのまま、この家をお売りになってもいいですよ。でも私もできるだけ探してはみますがね」
「ええ。ええ」
 白木はあいまいにうなずいた。そして立ち上った。彼は縁側まで送って出た。白木は下駄をはきながら言った。
「発田さんの犬が、この庭にも来るでしょう」
「ええ」
「昨日うちの鶏と喧嘩しましてね。あの犬、ときどきお宅のものをくわえて行きません?」
「いいえ」と彼はうそをついた。「いい犬ですね、あれは」
 白木は急に声を落して言った。
「発田さんはなかなか家賃をはらって呉れないのですよ。もう何箇月も。あなたからかけ合っていただけませんか。歩合を出しますよ」
 彼はただ黙ってぼんやり笑っていた。すると白木も気の抜けたような笑いを顔に浮べた。
「闘鶏の集りは、いつですか」
「ええ。もう二週間ばかり」
 お辞儀をして、長者門をくぐって白木が行ってしまうと、暫くして彼は部屋に戻り、ラジオを台にして、手紙を書き始めた。それは中山に宛てたものであった。書いている間、便箋の下では東京裁判のラジオが鳴っていた。三元がまだ碑文谷署にいるかどうかということ、またその後の状態を知らせて呉れというようなことを書いた。それから暫く考えて、三元が罪にちたのも此の世の約束が脆弱ぜいじゃくになったからだと思うと、書きそえた。そう書きながら、ふと彼は自らを嘲ける気持に落ちた。
(いつもおれは実のないへなへなした言葉ばかりを、言ったり書いたりしている)
 家を追い立てをくっているから、暫くでいいから同居させてほしい、と書くとき、彼はやはり微かな抵抗を感じた。中山が彼をむかえる訳がないことは、たしかな予感として彼にあった。中山をふくめた人物や事象は、平面的な模様として彼の心をへだたってはいたが、それらはまた漠然たる復讐の気配をふくんだ構図で、同時に彼に対していた。心身の変調を覚えてから、時々起きる理由のない不透明な不安も、押しつけてゆけばそのような壁につき当るようであった。彼はぼんやりした笑いを顔にふくませながら、だるい身体を起し、手紙を投函しに外に出た。
 戻って来たとき、発田のおかみさんがしゃがんで境の垣根を抜いているところを、彼は見た。彼の跫音あしおとを聞いても、おかみさんは上目使いでちらりと彼を見ただけで、やはり手の動きを止めなかった。朽ちた竹は湿った音を立てて折れ、おかみさんの手に束ねられた。
(あんな商売では、家賃をはらう余裕も出ないのかしら?)
 犬がくわえて行った靴のことは、彼はもうあきらめていた。発田がそれを穿いていることを、彼はある日見たのだから。

 発田という男と隣人になって、一年近く経っていたが、彼は発田とほとんど口を利いたことがなかった。発田は顔色のわるい、むくんだような感じの男であった。この男は胃弱にちがいないと、彼は常々思っていた。青ぐろい顔に、銃眼みたいな小さな眼がついている。発田は、朝早く出てゆくと、夜になって帰ってきた。その姿を彼は時々見ることがあった。
 発田は身体に合わない日にやけた背広を着ていた。弁当箱を小脇にかかえて、朝早くと夜けて、彼の家の前を通った。特徴のある跫音がその時刻にひびいた。彼は発田がネクタイをしめて帰るのを見たことがなかった。襯衣シャツの上にゆきの短い上衣を着ていた。そして足には靴を穿いているときもあったし、下駄を穿いていることもあった。服装にさほど気を使う必要のない職業に従事していることは、それで判った。
 彼とあうとき、発田はいつもきらりと眼を光らせて、彼を見た。彼があいさつしない限りは、頭を下げなかった。そして話しかけられるのを恐れるように、足早にとっとっと通りすぎた。
 彼の家と発田の家は、どちらも白木の持ち家で、しかも造りが同じであった。間取りから方角まで同じであった。発田は子供がいなくて、夫婦だけでその家に住んでいた。発田の家と造りが同じだということは、時々彼にある感じを起させた。生活の中の感覚や情緒が、ある程度住居の形に影響されることを思うとき、発田のことがいつも漠然と彼の胸に浮んでくるのであった。たとえば便所にゆくために日の当りの悪い縁側をふむ時とか、また部屋の中から庭を眺めている時でも、そこにある情緒は彼ひとりのものでなく、発田や発田のおかみさんも持つだろうということを、彼の意識に自然に入れていた。彼は発田の家のなかをのぞいたことはなかった。しかしその中に住んでいる発田夫妻の動きを、彼は彼なりに類推していた。その想像のなかでだけ、彼は発田夫妻とむすびついていた。
 発田は終戦前、朝鮮で視学をやっていたという話であった。そのことを彼は白木から聞いた。そういえば発田の身のこなしには、植民地にいたらしい臭いと、また視学という中途半端な権力者の臭いが、どことなく残っていた。銃眼みたいな小さい眼は、不必要な人間をしりぞける、とがめるような光を含んでいた。かたくなな自尊心が、そこにひらめいていた。この界隈では、発田はつき合いの悪い人間にちがいなかった。そして発田夫妻は、意識的に自分等のまわりに垣をめぐらして、孤立して生活したがっているようにも見えた。
 現在の発田の職業を、彼は知らなかった。近所の者も誰も知らないようであった。もちろん彼はそれを知りたいという興味は、全然持たなかった。
 しかし二三日前、彼は偶然に発田の商売を知った。
 ある用件の帰途で、彼はある街をあるいていた。時刻は夕方であった。場末の盛り場みたいな狭い道で、片側に露店がずらずらと並んでいた。往きかう人々に混って、彼は黄色い現象のように、だるい足を引きずっていた。やはりひどく体が重かったし、それに咽喉のども乾いていた。冬に入る前触れで、空気がからからに乾燥していた。なにか飲物を売る店を物色しながら、彼は駅の方向に力なく歩いていた。
 片側の露店は、半町ほどつづいていた。ごく貧しい露店の群で、並んだ感じもばらばらで統一がなかった。その中頃に、玩具を売る店が二軒ならんでいた。どちらもすすけたよしず張りで、ゴム風船などが竹の柱にゆわえてあったりした。その一軒の、安っぽい赤や青や黄の不協和な玩具の配列の奥に、そこに坐っている発田の姿を彼は見た。
(こんなところに発田が坐っている)
 ごく自然な、ぴったりした額縁のなかに、発田の顔がある。第一に来た感じはそうであった。奇異な感じは全然なかった。しかし彼が発田の顔を認めた瞬間、発田は青ぐろい顔を不自然なやり方で彼の方からそむけたようであった。発田の向い側に、道をへだてて、甘酒など売る店ののれんが下っていた。どういう気持であったのか、彼はふとその店に立寄る気になって、物憂ものうく肩をすぼめてのれんをくぐった。
咽喉のどが乾いていたんだ)
 しかし彼は一番表側の、通りの眺められる卓に腰をかけて、つめたい飲物を注文した。のれんの隙間から、通りを隔てて、発田の店が正面に見えた。すこしうつむいた発田の青ぐろい横顔に、夕陽がななめに射していて、発田の頬は玩具の色の反射で緑色に染っていた。発田はへんに落着かないふうに、身体をもじもじしたり、意味なく手をうごかしたりしていた。彼を意識しているのは明かであった。むくんだ感じの顔は、おこったようにかたく凝っていたし、視線は絶え間なく小刻みに動いているくせに、彼のいる甘酒屋の方には一度も止まらなかった。こちらを見ることを、意識して避けている様子であった。つめたい飲物を口にふくみながら、彼はそれをぼんやり眺めていた。
 店に並べられた玩具の品数は、ごく貧しかった。それらは粗末な棚の上と、下にしいた赤毛布の上に並べられていた。赤毛布はところどころ摺り切れていて、端の方は黒い地面に接していた。そこに発田が脱ぎ捨てたらしい一足の靴が置かれていた。その靴の色や形には、はっきりと彼は見覚えがあった。彼は口の中で思わずつぶやいた。
(ああ。あれは犬がくわえて行ったあの靴だ)
 すると奇妙な可笑しさが波をうって、自分の唇にのぼってくるのを彼はかんじた。あの犬が顔の両側にぶらぶらと下げて持って行ったあの靴が、今ここにきちんとそろえて脱いで置いてあるということが、見た目の上では、なにか関連がない妙な感じとして彼をくすぐった。彼は飲物を少しずつ飲みくだしながら、しばらくその靴の形に視線を定め、声を忍んでわらっていた。
 赤毛布の上に坐っている発田は、ますます落着かないふうに、膝を動かしたり、棚の上の玩具にせわしく手を触れたりした。伏目がちの小さな四角な眼が、ときどき険悪に光って通りに走ったりした。彼はのれんの隙間から、発田の顔や全身の表情が、次第に歪んだ苦痛にあふれてくるのを見た。
 甘酒屋には彼の他には、誰も客はなかった。彼のいる卓も汚れて、いくつもしみが出来ていた。そこに彼が飲みほした空のコップが、のれんや通りの人影をゆがんで映していた。そしてしばらく経った。
(さて――)と彼はゆっくりと考えた。(もう出かけようか)
 その時発田の店から、調子はずれの金属音が突然鳴り出すのが聞えた。その音は通りのざわめきを縫って、なにかそぐわないキンキンした響きを立てて流れた。のれんの隙間から、うつむいた発田の姿が見えかくれした。よく見ると発田の膝の前には、金属片をいくつも木につらねた玩具のシロホンが置かれていて、それを発田は懸命にたたいているのであった。発田は半ばうつむいて、しきりに小さな棒を打ちつづけていた。下手糞へたくそなその旋律は、草津節であった。やけくそな調子が、キンキンした響きの中にあった。うつむいた発田の顔は、すこし充血して、ひどく苦しそうに見えた。その草津節は調子はずれで、ごく下手糞であったにも拘らず、その音の中に彼は、ひりひりと胸に沁みてくるものをはっきりと感じた。ふと彼は呼吸をとめて、散乱する金属音に耳をすました。発田はそれを打ちつづけることで、何ものかから逃れようとでもするように、ある身振りをつけながら、シロホンを叩きつづけた。その音は孤独な破片のように、通りに散らばった。しかし通りの人々の中で、それに引かれて立ち止まるものは、誰もいなかった。皆いそがしげにその前を通りすぎた。
 その時、掛声のような小さな叫びがあがった。それは草津節の調子に合せて、短く断続した。発田の隣の店の玩具屋で、その主の若い男が、犬の玩具を両手で立て、シロホンに合せて踊らせているのであった。玩具の犬は、無表情のまま、おどけたふうに両手をうごかして、草津節をおどっていた。発田のシロホンと、犬の踊りは、そのままで暫くつづいた。彼はのれんのこちらから、シロホンをたたく発田の顔や犬のうごきを見つめていた。発田のうつむいた表情は、だんだん押しつぶされたかにのように、みじめな色をたたえてきた。隣の若者は、調子に乗って、あるいはいて調子をつけるために、大げさに首を振りながら、時々甲高かんだかい調子をあげた。その時発田のシロホンの調子が、急に早くなったと思うと、金属片の全部をかき廻すような音を立てて、その音楽は突然止んだ。
 発田は首を隣に廻して、その若者に何か早口で言うらしかった。その言葉は彼のところまで届いてこなかった。なにかなじるような調子が、その口つきや姿勢にはっきり出ていた。発田の小さい四角な眼は突き刺すように若者にむけられていた。若者はそれに何か言い返す風であった。その言葉も彼のところに届かなかった。
(おれがいるから、おれが眺めているから――)
 金を卓上に置き、物憂ものうく立ち上りながら、彼はかんがえた。
(だから発田は惨めになり、惨めになったことを怒っているのだろう)
 発田は中腰になって、すこし身体を乗り出すようにしながら、隣の若者に何か言っていた。声の切れはしから見ると、それは強くなじっている調子であった。自分が叩いている音楽に、無断で合せて犬を踊らせるのは、しからんじゃないか、と発田はなじっているのらしかった。発田の声は、その険悪な顔に似ず、時々かなしそうにかすれた。若者は興覚めた顔になりながらも、それに応じて言葉を返していた。
 のれんをくぐって彼が通りへ出た時、発田の身体はびくりと動いて、一瞬凝ったように静止した。それを眼に収めると、彼は外套のえりを立て、通りを駅の方へとぼとぼと歩き出した。
(あの奇妙ないさかいは、どんな決着をつけたのだろう?)
 その後も彼は時折、その情景を思い出し、そんなことを考えたりした。ああいう折れ曲った怒りが、納得できる結末をもつことを、彼は想像できなかった。彼にできることは、あの草津節の散乱する金属音を、じんじんと皮膚によみがえらせることだけであった。そして、あそこにいた発田の姿を、見ないふりして過ぎないで、わざわざ向い側の甘酒屋に入ったことは、そして発田の姿を眺めていたことは、残酷なことであったかどうか。それを考える度に、言葉になった結論が胸に浮ぶ前に、自分をひっくるめた人間人間のありかたに、彼はかげりをふくんだ深い笑いを感じた。
 発田の犬はこの頃も彼の庭にしばしば現われていた。荒れた庭の唯ひとつの装飾である牡丹ぼたんは、その根のところに、彼がしじみからを一面にしきつめたから、もう犬も掘り返せなくなってしまった。犬は縁の下に首をつっこんでみたり、長者門の根元を嗅いだりして、また何となく何処かへ行ってしまった。犬は眼の下のところに傷を負っていた。つい近頃の傷であることは、黒くかたまった血の色がまだこびりついているのでも判った。それは白木の軍鶏しゃもにつつかれた傷に違いなかった。その傷のためか、犬の動作は以前より神経質に敏感になっているようであった。硝子戸のこちらで彼が立ち上ると、犬はぎょっとしたように脅えて、発田の家の方に逃げて行ったりした。境の垣根の穴は、犬が自由に通れるだけではなく、この頃では人間でさえも楽に通れる広さになっていた。
 朝になると、昨日一日食べたしじみのからを、牡丹の根にしくために、彼は庭に降りて行った。冬に入る営みらしく、牡丹の幹は茶色にささくれ始めていた。冬を越して、この花が開くまで、此の家に住んでいられるかどうか、彼にも予想できなかった。なるようになる他はない。そう思いながら、彼は下駄で蜆のからを踏みつけた。先日中山に書いた手紙の返事は、すでに彼の手に届いていた。もちろん彼の申し出をしりぞける文面であった。だからこの家を引越す当面のあては、今のところ無いわけであった。
 中山の手紙には、彼と同居して暮すのは厭だ、とはっきり書いてあった。
「三元が君と同居して、あんなことになったことを思えば、僕は君と一緒に暮すよりは、死人と同居する方を希望する」
 そういう文句のあとに小さな字で、コレハ冗談ダ、とつけ加えてあった。文面によると、三元はすでに碑文谷署から身柄は小菅こすげに移されている様子であった。公判の日時などが二伸に記されていた。彼は小菅刑務所がどこにあるのか知らなかった。しかし彼の想像のなかでは、ごみごみした家の露地のつきあたりに、その建物はうすっぺらな混凝土コンクリート造りで立っていた。その中に入れられている三元の姿も、彼はある程度まざまざと想像できた。一枚の絵を眺めているような程度の実感がそこにあった。その中で三元は自分の膝をだいて、つめたい房のすみにじっとよりかかっていた。その姿勢は彼の想像にはっきりした輪郭でうかんでくるにも拘らず、三元の顔かたちだけはぼんやりとぼやけて、彼に想像できなかった。いて想像しようとすると、それは中山の顔になったり、白木の顔になったり、発田の顔になったりした。三元の顔を忘れた訳ではなかったが、その情景にはうまく結びつかないのであった。しかしそのような情景を彼は想像してみるだけで、それ以上に気持をうごかして三元のことを考えることは、彼にはひどく僭越せんえつなことに感じられた。どんなことをおれが考えることが出来るだろう。思いは直ぐにそこに走った。彼はあの日の発田のことを思い出した。
(たといどんなに折れ曲っていたにしても――)青ぐろく緊張した発田の表情を思い浮べながら彼は考える。(発田があの草津節を叩きだしたような全身的な衝動を、人間はなぜ瞬間瞬間に持てないのか?)
 しかしあの時でも、彼は発田の動作に惨めな笑いを感じていたのであった。あるいはそれ故に、草津節の旋律の破片が、復讐のように彼の胸をこすり上げてきたのではあったが。――
(一度小菅まで行って見よう。そしてそれから、またいろんなことが俺のなかで始まるかも知れない)
 彼はそんなことを考えた。

 家賃のことについて、発田に彼がかけあったかどうか、それを白木は探りにきたに違いなかった。花札をやりながら、遠廻しな言い方で、白木がその件に触れた。
「いえ。まだかけあってはいませんよ」と彼はぼんやりと笑いながら答えた。「歩合をいただくよりも、花札で貴方から勝った方が、早そうですからね」
 その日彼は勝ちつづけていた。一回の勝負の賭金は大した額ではなかったが、勝ちがつづくので、彼の座布団の下にはかなり厚く紙幣がたまっていた。そしてその場の勝負も、彼が勝った。紙幣をまた受取ると、場にちらばった札をそのままにして、彼はたばこに火をつけた。
「私がかけあうのも、可笑おかしな話でしょうしね」と彼は白木の顔を見ながら言った。「やはり白木さんが行くべきですよ」
「ええ。ええ。でも私は口が下手でしてね」
「そう。口が下手らしいですね、あなたは」
 白木はくずしていた膝をゆっくり坐り直した。白木の膝もとには、もう二三枚の紙幣しか残っていなかった。白木はしろっぽくふくれた瞼の下から、ちらちらとそこを眺めたり彼の顔を見たりしながら、低い声で言った。
「もう、黄疸おうだんはいいのですか。あまり黄色くないようですねえ」
「電燈の光だから、そう見えるんですよ」
「実はね」と白木は少し言いよどんだ。「すこし金が要りましてね、明日が千葉行きでしょう、もう発田さんの方に話をつけていただいたかと思って、いえ、それでもいいんですけれどもね」
「明日が闘鶏日なんですか」
「それについてね、やっぱり色んなことがあって、金がかかったりしましてね」
「明日はきっと勝ちますよ」うす笑いを頬に浮べて彼は言った。「でも、何なら、家賃を前払いしてもいいですよ」
 白木はだまっていた。彼は次の部屋に立つと、また戻ってきて、白木に金をさしだした。
「鶏の調子はいいんですか」
「ええ。まあ」
 白木はすこしみじめな顔になって、金をふところに入れた。彼は散らばった花札をあつめながら、白木に言った。
「もう少しやりましょうか、コイコイ」
「いえ、もう」
 莨をふかしながら、しばらく経った。彼と発田が白木から引越料を貰い、お互に家を入れ替ったらどんなものだろう。そんなことを彼はぼんやり考えていた。そんな話を彼はいつか落語で聞いたことがあった。そうなっても、白木は怒りをはっきり出せないかも知れないし、またそこでこそ怒りの本音が現われるかも知れない。白木はふと顔をあげた。
「あなたとコヨコヨをやってると、不思議なんですけれどね、私はすこしイライラしてくるんですよ。勝っても、負けてもね」
「イライラね」
 白木は気の抜けたようなぶよぶよした笑いを浮べて、頭をすこし下げた。
「お邪魔しました。遅くまで」
「ゆっくりおやすみなさい。明日は大変でしょうからね」
 縁側まで送りながら彼は低い声で言った。庭の夜気は妙になまぬるかった。
 翌日から二三日あたたかい日がつづいた。
 彼はふと思い立って、小菅刑務所に出かけることに決めた。日当りのいい縁側で、彼はひげを剃った。鏡の中には彼の顔と、そのうしろに遠く、白木の家の破風はふが見えていた。白木は昨夜遅く帰ってきたらしかった。昨夜彼が寝ていると、白木の家で物音がして、女の子の声が聞えた。
「父ちゃんの酔っぱらい。酔っぱらってるよう」
 それからまたがたがたと物音がした。それを聞きながら、彼は眠りに落ちた。
(負けたのかしら。それとも、勝って祝酒でも飲んだのかしら)
 鏡のなかには、すべすべになった彼の顔があった。日当りのせいか、気のせいか、ひところよりも黄色さが減っているようにも思われた。彼は鏡をとりあげて、斜にしたりかざしたりして、いろんな角度から顔をうつして見た。顔のかたちはそれにしたがって、いろいろに変化した。顔の中では、耳がまだずいぶん黄色だと思ったが、それは病気のためでなくあかでよごれているのかも知れなかった。しかし自分の顔を鏡であれこれ眺めることに、彼はほのかな幸福を感じた。そしてその聯想れんそうで、小菅の三元のことを考えた。おそらくあそこでは、鏡を手許におけないだろうし、鏡にうつった自分をしげしげと眺める機会は、ほとんどないだろう。そして悪くすれば向う数年間、鏡から遮断しゃだんされた生活が三元に課せられることを思ったとき、ふと三元の不幸がはっきりした実感で近づいてくるのを彼は感じた。父親の盲目を告白したときの三元の顔を、彼はその感じのなかで思い出した。それは何ものへとも知れぬ憤怒と嫌悪に堪えているような表情であった。(草津節をたたいた発田の顔にも――)鬚剃り道具をしまいながら彼は思った。(それに似たものがあったな。どういうものだろうな、あれは)
 雲もなくて、いい天気であった。彼は身仕度して、外へ出た。道はよく乾き、風のために塵埃じんあいが立っていた。家並の遠くの空に、紙凧たこが二つ三つ上っていた。そしてそれは風に揺れていた。それを見ながら彼は駅の方にあるいた。駅に近づくにつれて、だんだん道の両側に物を売る店が多くなってきた。彼はその一軒一軒を物色しながらあるいた。新聞などで小菅には差入屋があることは知っていたが、どういうものをどういう方法で差入れるのか彼は知らなかった。もし差入れが出来なくても、また持って帰ればいい。そう思いながら、彼は店々の品物を眺めてゆるゆる歩いた。
 靴屋と花屋にはさまれた小さな肉屋に、鶏卵がたくさん籠に積まれているのに彼は眼をとめた。卵などはいいだろうな、と思って彼はその前に足を止めた。卵は澄んだ日の光の中で白っぽく艶をもっていた。そこに近づくと、肉切台のむこうに立っている肥った親爺おやじに、彼は卵を指さして見せた。
「これを、五つ。いや、十ばかり貰おうかな」
 何となく店の内部をのぞきこむと、肉屋の土間に鶏が一羽立っていた。鶏は頸をまっすぐに立て、眼を閉じ、まるで剥製のように微塵みじんもうごかなかった。それは白木の軍鶏しゃもであることが、彼には一目で判った。見慣れた尾毛の色が、先ず眼にきたのである。彼はふと胸を衝かれるような気がした。
「どうしたの。この鶏」
「眼をつぶされたんでさ。蹴合けあいでね」親爺は顎でその方をしゃくった。「こんなのの肉は堅くて食えないね。昨夜無理矢理に買わされたんだが――」
「縛っておかないでも、逃げ出さないものかしら」
「こうなれば絶対に動かないね。いさぎよいもんだね、蹴合けあい鶏というやつは。じたばたしないで、死ぬのを待ってるだけだね」
 卵を数えて紙袋に入れながら、親爺はそう答えた。彼はふたたび土間の鶏に眼をおとした。鶏はくちびるをかみ合せたまま、寂莫として立っていた。そして鶏冠とさかから眼のあたりにかけて、黒い血がおびただしくこびりついていた。人間の声が聞えるのか聞えないのか、鶏は相変らず土間に突ったったまま、びくとも動かなかった。肩を張り翼をふくらませたその姿勢に、戦いの意志が単なる形としてだけ残っているようであった。血のかさぶたの下に、瞼は薄黝うすぐろく閉じられていた。
(まだ生きてはいるんだな)
 蜆をこの鶏とわけ合って食べたことを、彼は考えていた。しかし今日からは、白木はもう蜆を持ってこなくなるだろう。
(そうしていよいよこの俺も――)卵を入れた紙袋を受取りながら彼は思った。(家もろとも他に売られる破目になるかも知れない)
 金を払って、彼は店を離れた。あるくにつれて、卵は袋のなかで微かな音を立てて鳴った。
 すでに駅に近かった。小菅までこの駅から、相当な時間がかかる筈であった。電車の中で読む雑誌でも買おうと思って、彼は本屋の前に足を止めた。台の上にはたくさん雑誌が並んでいた。刺戟がつよいあくどい表紙の雑誌が、ずらずら並んでいるその間に、中山がやっている週刊雑誌の最近号が、すこし表紙がめくれてはさまっているのを、彼は見つけた。卵の袋を脇の下にはさみ、彼は手を伸ばしてそれを抜きとった。そしてぱらぱらとページをめくって見た。中山の署名のある記事が、ふと彼の眼にとまった。彼は立ったまま、その記事をばらばら拾い読みをした。
 それはM精神病院の訪問記であった。中山はそれをルポルタージュみたいな形式で報告していた。読んでゆくうちに、彼は変な食いちがいをその中に感じた。なにかもどかしい感じがそこにあった。ところどころはさまれた彼の感慨が、その気持を引きおこすのであった。
(おれがあそこで感じたことを、中山は全然感じていないようだし)その記事を読みつづけながら彼はそう思った。(中山がここに書いているようなことを、おれは見もしなかったし、感じもしなかった)
 中山の記事が力点をおいているのは、病室で見た患者たちの生態であった。彼の記憶のなかでは、それらの光景はもはやぼんやりした灰色の連続として残っているに過ぎなかった。それを中山は丹念に拾いあげて、描写していた。そしてそれに加えた説明は、医師の説明をそっくり流用していた。
「……如何なる事態にたいしても感情を発露させることのない感情荒廃の状態である。この不幸な人々は、近親者や看護人に対しても、何ら親愛の情を示すことなく、周囲の人々の心づかいに対しても冷然としている。すべてのことに何の喜悦も関心もなく、他人に対する同情も道義心もない。発熱や疼痛とうつうを伴う疾患にも何の苦悩をも示さない」
 精神分裂病者の病棟を描写した後に、中山はこのような説明をつけていた。何もかも知っているぞという書き方をするのが、こんな記事のコツなんだな、と思いながら、彼は先をつづけて読んだ。
「……またある患者によっては、すでに感情生活の変化の最初期に、感興がうすれ、周囲に対する関心と愛情とが減じてゆくのを異様に感じ、悲しみを感じる事例もあるという。自己が現実世界から徐々に隔てられてゆくように実感するのである。かくして周囲の人々の感情が、患者に反応をもたらし難い状態となると、患者と周囲の人々との間の人間的関繋かんけいを取り結ぶ手段がなくなるので、患者は親しみ難い感情的疎通性に欠けた姿として印象づけられるようになる。ここに収容されている人々は、みなそのような不幸を背負っている。しかし私達はこれらの人々を、精神病者として突っぱねて考えてみることが出来るだろうか。私達は自分の内部を、自分の周囲を眺めたとき……」
 彼はそのページの下段にある写真に視線をうつした。紙質のせいで、それはぼやけて印刷されていた。しかしそれは確かに彼自身の写真であった。あの時中山が写した、下駄をはいてぼんやり立っている彼自身の写真であった。彼のうしろには病棟の一部がぼんやりと写っていた。彼は急につめたい苦笑いが胸にのぼってくるのを感じた。
(中山にしては、上出来な洒落しゃれだったな、こいつは)
 頁を伏せてその雑誌をもとの場所にもどすと、彼は頬にかすかな笑いを刻んだまま、歩き出した。電車の中で雑誌を読むより、外の景色でも眺めている方が、今はよさそうな気がした。
 彼の眼の前で踏切の遮断機がその時するすると下りた。彼は紙袋を持ちかえながら、しばらく立ち止った。やがて電車が近づいてきて、その青黒い車体がごうと彼の眼の前をはしりぬけた。車体の速度が引きおこす突風が、その瞬間彼の顔にはげしくぶつかった。その風は、鉄の臭いがした。彼はすこしよろめいた。





底本:「ボロ家の春秋」講談社文芸文庫、講談社
   2000(平成12)年1月10日第1刷発行
底本の親本:「梅崎春生全集 第2巻」新潮社
   1966(昭和41)年12月10日発行
初出:「新潮」新潮社
   1949(昭和24)年5月
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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