海岸の小さな町の駅に下りて、彼は、しばらくはものめずらしげにあたりを眺めていた。駅前の風景はすっかり変っていた。アーケードのついた明るいマーケットふうの通りができ、その道路も、固く
東京には、明日までに帰ればよかった。二、三時間は充分にぶらぶらできる時間がある。彼は駅の売店で
夏の真昼だった。小さな町の家並みはすぐに尽きて、昔のままの踏切りを越えると、線路に沿い、両側にやや起伏のある畑地がひろがる。彼は目を細めながら歩いた。遠くに、かすかに海の音がしていた。
なだらかな小丘の
一瞬、彼は十数年の歳月が宙に消えて、自分がふたたびあのときの中にいる錯覚にとらえられた。……
濃緑の葉を重ねた一面のひろい芋畑の向うに、一列になった小さな人かげが動いていた。線路わきの道に立って、彼は、真白なワンピースを着た同じ疎開児童のヒロ子さんと、ならんでそれを見ていた。
この海岸の町の小学校(当時は国民学校といったが)では、東京から来た子供は、彼とヒロ子さんの二人きりだった。二年上級の五年生で、勉強もよくでき大柄なヒロ子さんは、いつも彼をかばってくれ、弱むしの彼をはなれなかった。
よく晴れた昼ちかくで、その日も、二人きりで海岸であそんできた帰りだった。
行列は、ひどくのろのろとしていた。先頭の人は、大昔の人のような白い着物に黒っぽい長い帽子をかぶり、顔のまえでなにかを振りながら歩いている。つづいて、竹筒のようなものをもった若い男。そして、四角く細長い箱をかついだ四人の男たちと、その横をうつむいたまま歩いてくる黒い和服の女。……
「お葬式だわ」
と、ヒロ子さんがいった。彼は、口をとがらせて答えた。
「へんなの。東京じゃあんなことしないよ」
「でも、こっちじゃああするのよ」ヒロ子さんは、姉さんぶっておしえた。「そしてね。子供が行くと、お
「お饅頭? ほんとうのアンコの?」
「そうよ。ものすごく甘いの。そして、とっても大きくって、赤ちゃんの頭ぐらいあるんだって」
彼は
「ね。……ぼくらにも、くれると思う?」
「そうね」ヒロ子さんは、まじめな顔をして首をかしげた。「くれる、かもしれない」
「ほんと?」
「行ってみようか? じゃあ」
「よし」と彼は叫んだ。「競走だよ!」
芋畑は、真青な波を重ねた海みたいだった。彼はその中におどりこんだ。近道をしてやるつもりだった。……ヒロ子さんは、
正面の丘のかげから、大きな石が飛び出したような気がしたのはその途中でだった。石はこちらを向き、急速な爆音といっしょに、不意に、なにかを引きはがすような
艦載機だ。彼は恐怖に
「二機だ、かくれろ! またやってくるぞう」奇妙に間のびしたその声の間に、べつの男の声が叫んだ。「おーい、ひっこんでろその女の子、だめ、走っちゃだめ! 白い服はぜっこうの目標になるんだ、……おい!」
白い服――ヒロ子さんだ。きっと、ヒロ子さんは撃たれて死んじゃうんだ。
そのとき第二撃がきた。男が絶叫した。
彼は、動くことができなかった。
突然、視野に大きく白いものが入ってきて、やわらかい重いものが彼をおさえつけた。
「さ、早く逃げるの。いっしょに、さ、早く。だいじょうぶ?」
目を
「いまのうちに、逃げるの、……なにしてるの? さ、早く!」
ヒロ子さんは、怒ったようなこわい顔をしていた。ああ、ぼくはヒロ子さんといっしょに殺されちゃう。ぼくは死んじゃうんだ、と彼は思った。声の出たのは、その途端だった。ふいに、彼は狂ったような声で叫んだ。
「よせ! 向うへ行け! 目立っちゃうじゃないかよ!」
「たすけにきたのよ!」ヒロ子さんもどなった。「早く、道の
「いやだったら! ヒロ子さんとなんて、いっしょに行くのいやだよ!」夢中で、彼は全身の力でヒロ子さんを突きとばした。「……むこうへ行け!」
悲鳴を、彼は聞かなかった。そのとき強烈な衝撃と
葬列は、芋畑のあいだを縫って進んでいた。それはあまりにも記憶の中のあの日の光景に似ていた。これは、ただの偶然なのだろうか。
真夏の太陽がじかに首すじに照りつけ、
彼女は重傷だった。下半身を真赤に染めたヒロ子さんはもはや意識がなく、男たちが即席の担架で彼女の家へはこんだ。そして、彼は彼女のその後を聞かずにこの町を去った。あの翌日、戦争は終ったのだ。
芋の葉を、白く裏返して風が渡って行く。葬列は彼のほうに向かってきた。中央に、写真の置かれている粗末な
彼は、片足を
突然、彼は奇妙な
まちがいはなかった。彼は、自分が叫びださなかったのが、むしろ不思議なくらいだった。
――おれは、人殺しではなかったのだ。
彼は、胸に
「……この人、ビッコだった?」
彼は、群れながら列のあとにつづく子供たちの一人にたずねた。あのとき、彼女は
「ううん。ビッコなんかじゃない。からだはぜんぜん丈夫だったよ」
一人が、首をふって答えた。
では、
彼は、長い呼吸を吐いた。苦笑が
葬列は確実に一人の人間の死を意味していた。それをまえに、いささか彼は不謹慎だったかもしれない。しかし十数年間もの悪夢から解き放たれ、彼は、青空のような一つの幸福に化してしまっていた。……もしかしたら、その有頂天さが、彼にそんなよけいな質問を口に出させたのかもしれない。
「なんの病気で死んだの? この人」
うきうきした、むしろ軽薄な口調で彼はたずねた。
「この小母さんねえ、気違いだったんだよ」
ませた目をした男の子が答えた。
「
「へえ。失恋でもしたの?」
「バカだなあ小父さん」運動靴の子供たちは、口々にさもおかしそうに笑った。「だってさ、この小母さん、もうお
「お婆さん? どうして。あの写真だったら、せいぜい三十くらいじゃないか」
「ああ、あの写真か。……あれねえ、うんと昔のしかなかったんだってよ」
「だってさ、あの小母さん、なにしろ戦争でね、一人きりの女の子がこの畑で機銃で撃たれて死んじゃってね、それからずっと気が違っちゃってたんだもんさ」
葬列は、松の木の立つ丘へとのぼりはじめていた。遠くなったその葬列との距離を縮めようというのか、子供たちは芋畑の中におどりこむと、歓声をあげながら
立ちどまったまま、彼は写真をのせた
――でも、なんという皮肉だろう、と彼は口の中でいった。あれから、おれはこの傷にさわりたくない一心で海岸のこの町を避けつづけてきたというのに。そうして今日、せっかく十数年後のこの町、現在のあの芋畑をながめて、はっきりと敗戦の夏のあの記憶を自分の現在から追放し、過去の中に封印してしまって、自分の身をかるくするためにだけおれはこの町に下りてみたというのに。……まったく、なんという偶然の皮肉だろう。
やがて、彼はゆっくりと駅の方角に足を向けた。風がさわぎ、芋の葉の
思いながら、彼はアーケードの下の道を歩いていた。もはや逃げ場所はないのだという意識が、彼の足どりをひどく確実なものにしていた。