待っている女

山川方夫




 寒い日だった。その朝、彼は妻とちょっとした喧嘩けんかをした。せっかくの日曜日なので、彼がゆっくりと眠りたいのに、妻はガミガミと彼の月給についての文句をいい、まくらをほうりなげて、挙句のはて、手ばやく外出の仕度をして部屋から出て行ってしまったのだ。
 蒲団ふとんに首をうずめたまま、彼は、またか、と思った。また半日も帰らないのだろう。近ごろ、妻はよくこの手を使う。どうせ実家にでも行き、思うさまおれの悪口をならべてくるのにきまっている。が、それで彼女の気がすむなら、それもよかろう。おれはおれでもう少しの時間、このみつのような眠りをむさぼれればそれでいいのだ。
 窓はもう明るく、一人きりの静かな部屋の中で、彼は、ごくやすらかにまた眠った。
 目がさめたとき、まくらもとの時計は十一時をまわっていた。――腹のあたりが空虚すぎて、もう、どうにもねむることができない。
 まだ、妻は帰っていない。彼は舌打ちをした。いまいましいことだが、結局、いつものように近くの煙草屋たばこやまで行き、ソバ屋にでも電話しなければ食事にはありつけない。
 仕方なく、彼は顔を洗い、ふだんの服に着替えた。寒風の中をジャンパーのえりをたてて、二、三十メートルはなれた煙草屋へとあるいた。
 煙草屋は、四辻よつつじの一角にあって、銀行の私設野球場をかこむ金網の塀の角に、ちょうど対角に面している。赤電話でソバ屋のダイヤルをまわし終えて、彼はふと私設球場の金網に片手をかけ、背を向けて、その若い女が立っているのを見たのだった。
 脚のすばらしく美しい女だった。えりの大きな、焦茶色こげちゃいろの、しかしいささか毛脚の古ぼけた外套がいとうに身をつつんで、長い髪がやわらかく肩にかかっている。
 女はでも、私鉄の駅に向う一本の道に、じっと顔を向けつづけている。きっと、だれかを待っているのだ。……なんとなく、彼はすてきな青年が呼吸をきらし、走り寄ってくるさまを空想した。それは、見事な、頬笑ほほえましい「愛」の風景に違いなかった。
 突然、うしろから声が呼んだ。煙草屋の小母さんが、ケースの上に乗り出すようにしていた。「……あの娘さんねえ」と、彼に目配めくばせのような笑いを送りながら、小母さんは、声をひそめた。「ああして、もう二時間も前から、ずっとあそこに立っているのよ」
「二時間も前から?」
 そのとき、女が振りかえった。
 彼は、讃嘆さんたんの表情をかくすことができなかった。髪が少し乱れ、化粧もしていない顔だったが、女は充分に若く、美しく、魅力的な、あざやかな目鼻立ちをしていた。大きなひとみが、びっくりしたように彼をみつめている。色が白く、ぽっつりと小さな唇が紅い。
 だが、彼への無関心を示すように、女はすぐ、くるりと横を向いた。鼻が高く、耳のうしろのほつれ毛が可憐かれんに風にそよぎ、女はまだ十代のように思えた。
 女は、しかし歩き出さなかった。彼はあわてて『いこい』を買い、どぎまぎと我にかえりながら、まっすぐに下宿へといそいだ。……どうせ、あんな美しい娘なんて、おれなんかとは関係のない遠い生物でしかないのだ、とくりかえし心につぶやきつづけながら。

 下宿の二階には、彼ら夫婦をふくめ四世帯が住んでいるので、二階にも炊事場と便所がある。その便所には窓があって、そこからまっすぐに煙草屋たばこやのある四辻よつつじがながめられる。
 彼が、本当にその女が気になりはじめたのは、それから一時間近くたってからだ。用を足して、なにげなく窓からその四辻を見下ろし、彼はショックを胸に受けた。焦茶色こげちゃいろ外套がいとうの女が、まだそこに立っているのだ。
 奇妙な、きりを胸にみこまれたようなショックだった。部屋にもどり、すでに隅々まで読みつくした新聞をひっくりかえしながら、だが、彼の目は活字やその意味を追っていたのではなかった。遠目には違いないが、うなだれたあの若い女が、しょんぼりと靴先でくりかえし道に線を引いていた姿が、彼の目にきついたように残っていた。
 彼はまた便所に入った。女は、靴先での遊びをやめ、首をまげこちらの道を見ていた。大きな欠伸あくびをした。
 一時間後、たまらなくなって彼はまた便所からのぞいた。女は、ぐずぐずと迷うようにあたりを眺めながら、こんどは小刻みに小さなを描いて、未練げに道の同じ場所をゆっくりとまわっていた。
 曇った冬の空が低く、ひどく底冷えのする日だった。炊事場のながしも薄く凍っている。女は、さぞ寒いだろう。さぞつらいだろう。――
 我慢できないような気分で、彼は下宿を出た。せわしなく四辻へとあるいた。女の姿が見えない。が、彼がやっと四辻まで来たとき、ちょうどそこに女が歩いてきた。彼は諒解りょうかいした。女の歩いてきた方角には、公衆便所のある小公園があるのだ。
 ちらりと彼を見て顔をそむけ、女は、それまでと同じ場所で立ち止った。石像のような姿勢で、話しかけるなんのキッカケもなかった。彼は、煙草屋に顔を向けた。
 ……むなしく机の上にふえた『いこい』の箱を眺めながら、彼は大きく呼吸を吐いた。女は、いつまで待っているつもりなのか。時計が、遅滞なく冷酷に時を刻みつづけるのだけを彼は聞いた。
 次第に、彼はいても立ってもいられない気持ちになりはじめた。もう、三時をまわっている。とすると女は六時間もあの四辻に立ちつづけているのだ。彼はまた便所へ行き、女が同じ場所にいるのをたしかめると、夢中で階段をかけ下り、ふたたび下宿の表に出た。彼は、寒さを忘れていた。
 女に近づくにつれ、しかし彼は、自分がなにをしようとしているのか、わからなくなった。たぶん、おれはいいたいのだ、はやく家へお帰りなさい、この寒空の下に、あなたを何時間もほうり出しておく男なんて、けしからん、……でも、こんな言葉が、なんの役に立つのだ? よけいなお世話です。あなたの知ったことじゃないわ。きっとおれは、女の鼻白んだそんな声に、完全に突き放されてしまうのにきまっている。……
 思うと、脚を出す速度が急に鈍り、歩一歩となにかが沮喪そそうしてゆくのがわかった。女は、赤いほおをしていた。だが、いまは腹をえたように両手を組み、金網をみつめている。彼はまた『いこい』の箱を買った。――結局、彼はなにもいえず、むなしく下宿の部屋にかえった。

 四時半になった。彼は机に四個の『憩』を置き、新しいカケうどんの汁をすすっていた。女は、思いつめたような顔になって、まだ同じところにいる。はしをほうり出すと、彼は仰向あおむけに畳に寝ころがった。
 いずれにせよ、と彼は思う。若い美しい女が真冬の路上に何時間も立ちつづけているのなんて、異常だ。そうじゃないか? この忍耐、この献身は、いったいなんのためだ? それに、なぜ女は、わざわざあの四辻よつつじに立たなければならないのだ?
 もしかしたら、女は、待っているのではなく、待たれているのかもしれない。なにかを、見張っているのかもしれない。立っていること自体で、なにかへの合図をしているのかもしれない。……麻薬の取引にでも加わっているのだろうか? 密輸団は、おそらく、多額の金か恐怖で彼女をやとったのだ。
 また、彼は思う。そうだ、たぶんあの女は、恋人が事故にったか、急病になったかしたのだ。きっと、それを知らないのだ。
 さまざまに空想してみながら、だが、彼はじつはある考えを避けようとしていた。自分でも、それがわかっていた。結局、彼はあの若く美しい女が、恋人にすっぽかされ、冬の四辻で八時間も待ちぼうけをくらいながら、しかし立ち去りかねている哀れな女だと、考えたくなかったのだ。恋人に捨てられ、かなしみにもだえながら、でも一縷いちるの望みをつなぎじっと待ちつづけている――彼は、彼女には、若い美しい彼女にだけは、そんな「不幸」は想像したくなかったのだ。
 ……しかし、おそらくそれ以外に、女の立ちつづけている理由はない。だんだんと、彼はそれを認めざるをえない気持ちに追いこまれた。女の「不幸」が、なまなましく、動かしがたいものになって、それが苦痛だった。いらいらして、彼は煙草たばこをねじり消した。
 吹きすさぶ刃物のような白い風の中に、女は、まだあきらめきれずに立っているのだ。胸がうずき、のどがしめつけられるような気がしてきた。彼は立ち上った。よし、どうしてもいってやるのだ、と彼は決心した。君、あきらめたまえ。はやく帰って暖まりたまえ。そして違う男をさがすことだ。いま、君のとるべき道は、それ一つしかないのだ。君みたいに若く、美しい女性が不幸だなんて、そんなことはゆるせない。君みたいな人が幸福になれなくって、いったいだれが幸福になれるというんだ。どこに幸福があるんだ。……さあ、不実な恋人のことなんて忘れるんだ。幸福になるんだ、君。

 夕闇ゆうやみがあたりをつつみはじめ、四辻よつつじが白っぽくその中に浮かんでいた。やはり女はいた。ひざを折って、道にかがんでいる。
 びっくりして走り寄って、だが、彼はあわてて脚をとめた。女は、ケロリとした表情で無邪気に首をかしげ、道でまりつきをしているのだ。鞠は、軟式野球用の、硬いトップ・ボールだった。女は、低声で歌を歌っていた。
 すぐそばに立った彼に、女は知らん顔をつづけていた。白い球が、固い音を立てて道にはずみ、女のと路面とを往復する。ふと、球が横にれた。彼は、それを拾い上げた。
 女ははじめて顔を上げた。べつに苦しげでも、悲しげでもなかった。
「返して下さい」
 と、女は透明な声でいった。
「……どなたかを、待っているんですか?」
 と、やっと彼はいった。
「ええ」女は低い声でいった。
「ずいぶん長いこと待っていますね。……寒くありませんか?」
「いま来ます」
 女は立ち上り、手をのばした。
「そのボール、ここで拾ったんです。あなたのじゃなかったら、返して下さい」
「朝から、ずっとあなたは……」
「いま来ますわ」
 女は、奪うように彼の掌からトップ・ボールを取り、片方の膝を深く折ると、また鞠つきをはじめた。その姿勢は、あきらかに彼を拒んでいた。彼を無視していた。
 突然、燃え上るような羞恥しゅうち、逆上した、怒りに似た羞恥が彼をとらえた。そのまま、彼は下宿へと走り出した。部屋にかけこむと、畜生、畜生、と叫びながら机を拳骨げんこつでなぐりつけた。彼は、真赤まっかな顔をしていた。
 そうだ、まさにおれはよけいなことをしたのだ、と彼は歯がみしながら思った。おれは、彼女を侮辱したのだ。彼女の神聖な「愛」を侮辱したのだ。彼女は、彼女自身どうにもならぬ彼女の「愛」を忠実に生きているだけのことだ。……おれは、まるでその「愛」を、取り替えのきくもののように扱おうとした。なんという馬鹿ばかだ、なんという無礼だ、ああ。
 彼は恥じた。彼は孤独だった。でも、あの女と同様、おれもまたこのおれを引き受けねばならないのだ。――ふと、妻はいつ帰ってくるのだろう、と思った。

 九時を過ぎたが、妻は帰らなかった。そして、おどろいたことに、女はまだ同じ場所にいるのだ。……便所の窓からのぞくと、ときどき、自動車のライトに照し出され、女の姿が閃光せんこうを浴びて浮き上るのが眺められた。
 蒲団ふとんにもぐりこんで、彼は、もう女のことは気にするまいと思った。たとえ女が凍え、路上で餓死をしたにしても、それを見殺しにしてやることしかできないのだ。その人間の不幸は、だれにも、当人にさえ、どうすることもできない。それを知り、それに耐えることこそ、人間の真の「勇気」なのだ。……
 だれとも知れぬものへの呪詛じゅそつぶやきつつ、いつのまにか彼は眠っていた。妻が部屋に入り、扉を閉めたのはそのあいだだった。
「ただいま」と、妻は大きな声でくりかえして、彼の肩をゆすった。
 彼は時計をみた。十一時だった。妻は、まだ外套がいとうを着ていた。
「……煙草屋たばこやの前に、だれかいなかったか?」
 と彼はいた。妻は怪訝けげんな顔をつくった。
「べつに。誰もいなかったわ」
「ふうん」
 まるで、一つの刑罰から解放されたみたいな、ほっとした、しかしいささかあっけないものを彼は感じていた。
「……いままで、なにをしていたんだ?」と、はじめて妻の顔をみつめて、彼はいった。
「実家にでも行って、さんざんおれの悪口をいってきたんだろう」
「違うわ。私、実家へなんか行かなかったわ」
「じゃ、どこへ行ってたのさ」
「東京の端っこのね、今日はじめて行った公園。私、一日中、そこに立っていたの」
「なに?」
 彼は起き直った。「一日中、ずっと立っていたんだって? なぜ?」
「なぜって」妻は困った顔になった。「私、一人きりでいたかったの。私、このごろあなたと喧嘩けんかすると、いつも一人っきりになりに行くの。……そうしてると、また元気が出てくるのよ」
 妻は、真面目まじめな目をしていた。
「……そりゃはじめは実家へ行ってグチもいったわ。でも、向うにも迷惑だし、相手だってやはり人間でしょう? かえってなにかと煩わしいことになっちゃうのよ。それで……」
「……信じない」
 と、彼はいった。
「そんな、バカな、……一人きりで、なにをしていたんだ?」
「待っていたのよ」妻は答えた。「自分が、また元気を出してあなたとの生活にもどれるときがくるのを、じっと待っていたのよ」
「この寒いのに、飲み食いもせずにか?」
「そんなこと、ひとつもつらくなんかないわ。わかんない? 私はただ、一人っきりでいられればそれでいいのよ。それだけで、まるで酸素ボックスに入ったような気持ちで、すっかりのんびりとしちゃってるの。……でもね、男って、女が一人で同じ場所に立っていると、すごく気にするのね。バカねえ、わざわざなにもせず、なにも考えず、ほったらかしにされていたいためにそこにいるのに。……今日も一人、バカなやつがいたのよ。とてもしつっこいの。あなた、もう何時間も立ってますね、なんて。きっと、ずっと見ていたのね。ずいぶん暇な人だわ。バカな男」
「違う。……違う」うめくように、彼はくりかえした。彼は、今日のあの女を、十二時間も同じ場所にいたあの娘のことを思っていた。
 なるほど、妻はそのようにして同じくらいの時間をつぶしてきたのかもしれない。――しかし、あの娘は違う。あの娘だけは違う。絶対にそうじゃあない。あの娘は、「愛」のために今日一日をあそこに立っていたのだ。
「違わないわ、ほんとよ」
 妻は、急に声を大きくした。
「あら、あなた、今日はずいぶん煙草たばこを買ったのねえ。『いこい』が五つもあるわ。……わかった、パチンコ屋であそんでたのね?」
 黙ったまま、彼は妻のひざに手をのばした。妻は自分から抱かれてきた。そのほおがひどく冷たいのに、妻はれるように、すぐにあえぐ呼吸になった。突然、彼はその妻への愛、三年まえ、はじめて唇を吸いあった日の傷口のような記憶が、するどく胸をつらぬくのを感じとった。それは、遠い、はるかな、しかし今日、彼が感じつづけていたそれと同じうずきだった。それを、彼は思い出した。
 道を、自動車の爆音が走り過ぎる。一瞬、あの脚の美しい焦茶色こげちゃいろ外套がいとうの女の姿が、ひらめくように彼の目に浮んだ。彼にはふと、あの若い女は、彼の心が生んだ幻影だったような気がしてきた。……だが、彼はそれを払いのけるように首を振って、まだ冷えた冬の外気のにおいがする妻の身体を抱く両手に、力をこめていった。





底本:「夏の葬列」集英社文庫、集英社
   1991(平成3)年5月25日第1刷
   1991(平成3)年11月15日第3刷
初出:「ヒッチコック・マガジン 第四巻第三号」宝石社
   1962(昭和37)年2月1日発行
※初出時の表題は「ショート・ショート・シリーズ親しい友人たち(その一)」です。
※底本巻末の小田切進氏による語注は省略しました。
入力:kompass
校正:かな とよみ
2020年12月27日作成
2021年6月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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