山川方夫




 昔、一人の女がいた。
 女は御所ごしょにつとめ、幼いころからその御所の奥ふかくに住み、中宮ちゅうぐうの御身のまわりのこまごまとした雑用をはたすのが役目だった。
 中宮と主上しゅじょうとの御仲はたいへん円満で、毎日は時の刻みのように着実に、平和に過ぎ、そのあいだ女もまた中宮に表裏なくまめまめしく仕えたので、中宮は女に一部屋を下さるまでになった。いつのまにか、女の年齢は二十を大幅に越えてしまっていた。

 ある春の一日、御所で花見の宴が催された。女は、禁裏きんりに招かれた大臣たちの警護の武士の一団に、酒肴をすすめていた。若い武士たちは烏帽子えぼし狩衣かりぎぬをつけ、毛抜形のそりをうった太刀たちを傍に置いて、おそらくはじめて見るのだろう禁裏の、それも裏庭からの眺めに、ものめずらしげな目を散らしていた。革くさい武具の匂いのする若者たちであった。
 みやびな公卿くぎょうたちに慣れた宮中の女どもには、かれらは眉をひそめさせるようなあらあらしい粗野な男たちに思えた。年若い女どもは、近づくのさえこわがっているのがありありと見てとれたが、その中で女は、さきに立って酌をしてまわっていた。女の物ごしの落着きに気をくじかれてか、男たちは彼女にだけは卑猥な冗談を投げかけることもせず、女もまた、毎年のそのようなかれらからの反応――あるいは反応のなさには、すっかり慣れてしまっていた。
 女が一人のまだ若い武士の杯に酒を注いでやったときであった、その杯に、一ひらの桜の花びらが落ちて、浮いた。
「……うつくしい」と、武士はいった。「まるで、あなたの頬が杯に浮いたようだ」
 まだどこかに幼な顔ののこった、少年のような武士であった。武士は、そして女をちらりと見て恥ずかしげにまつげを伏せ、花びらごと酒をぐいと喉に流しこんだ。
 女の胸に、生まれてはじめての熱い痛みがはしったのは、その刹那だった。女は、ごくごくと音をたてて大杯の酒をあおる若い武士の、たくましい喉の動きを呆然とみつめながら、まるで、あっという間に自分が彼の喉を通り、彼の中にみこまれてしまったようなはげしい惑乱をおぼえた。その一瞬、女はいわば若い武士の中に、すっぽりと包みこまれてしまったのだ。
 とたんに身内が熱く火照ほてりはじめ、女は空になった武士の杯を満たしてやるのも忘れて、全身がわななくようにふるえた。少年のような若い武士は、目もとをぽうっとあかく染めて、怒ったような顔で杯の底を見ていた。
 そうして、女ははじめての恋に落ちた。恋が身を刺すような一つの痛みであり、その痛みとともに呼吸いきづく幸せであり、ぼんやりとしたままでの充実にみちびく胸ふさぐおののきであり、なんの理屈もない、ただその人のそばにいたいと願う、ばかげた、しかしとどめようのない火であるのを、女は生まれてはじめて知った。

 眠られぬ夜がつづいた。女は、すべてのおつとめに手がつかなかった。武士を思い出すことはいらなかった。杯に目を落して、「うつくしい」と呟くようにいったときのまだ若い武士のすがた、恥じたように目を伏せたその横顔が、まぶたの裏に鮮明に貼りつき、それはひとときも消えることがなかった。
 武士はたぶんまだ二十にならず、官位もないただの従者の一人に違いなかった。彼の烏帽子には縁もなく矢車の※(「糸+委」、第3水準1-90-11)おいかけも着いてはいず、彼は粗末な布地退紅の狩衣にはなだ色の短いはかまをはき、ただ鮫皮を張った柄に毛抜の飾りのついた蒔絵まきえづくりの太刀、馬に乗るためのかんと〆緒のついたかのくつだけが、彼を公家武官の一人として、雑色ぞうしき(下男)どもと区別していた。まだ少年の面影をとどめていた頬。ちらと見せた真白な草食獣のような歯。……女にとり、そのすがたは日ましに鮮明さの度を加えて、ちらりとでも自分の中に住んでいるその「彼」に目をやるたび、女の全身には炎が燃え、熱い火がゆらめくのだ。女は、放心した表情を見せることが多くなった。
 中宮が、かつて見せたこともない女のその異常に気づかれないはずはなかった。主上もお言葉をそえられ、気うつならばすこし引きこもって養生せよと仰せられた。女はありがたくそのお言葉を受け、あたえられた一室に引きこもった。
 とはいえ、いくら考えても、当時の風習として、いったん中宮のお側にお仕えした身が、官位もなく、ただの雑色とたいしてかわりのない一介の武士に嫁ぐことは、許される道理がなかった。また、たとえ御所内の雑色を手なずけ、かれに文使いをたのんだにせよ、あの若い武士のような無位無官の男を、御所にしのびこませることなどは絶対にできない。せっかくのお心づかいで部屋に引きこもったのだったが、なにもせず思いをこらすことは、女の身のうちの炎に油を注ぎ、いよいよ妄想をつのらせ、肥らせることにしかならなかった。そして、あることを女は思いついた。女は中宮に木彫職人にたのみたいことがあると申し出て、そのご許可を得た。中宮は、気うつ散じに、女が人形とでも遊んでみる気をおこしたのだ、とお考えになられたのだ。
 ご想像はあたっていた。たしかに、女は人形をほしいと思ったのだ。が、その人形は、中宮のお考えのような、小さな、いわゆる女子供のもてあそぶそれではなかった。女が木彫職人にたのんだのは、等身大のあの若者のすがたにせた木の彫刻であった。
 秋に入ろうとする頃、ようやく木彫職人の苦心の作は女の部屋に運びこまれた。
 退紅の狩衣、縹色の袴、毛抜形の太刀、靴、それに縁のついていない烏帽子などは、すでに女が手をまわして部屋にそろえていた。女はまず生命のない生木の彫像に、いかにそれらを生あるもののごとく巧みに着せかけるかに専心した。女は、やがて職人から数種のノミを借りうけ、彫像に手を加えはじめた。あの若者のすがたは、目をつぶればたちどころに浮かんでくる。まぶたの裏に焼きついているその「彼」を仔細に追い、女は、けんめいに人形を若者に肖せることに没頭した。
 終日、窓の外に吊された半蔀はじとみを引き上げることもない日々がつづいた。わずかな灯油の光をたよりに、女は全身全霊をうちこみ、寝食も忘れて、あの武士を人形によって再現するため身も細るような努力をくりかえした。ときどき、彼女の独りごとに、その人形がうなずいたり、あのときの若者の声で答えたりするような気がすることもあった。その努力はたのしかった。

 やっとその人形が完成したのは、ちょうど仲秋の名月の夜であった。人形は、ふつうの人形とはちがって、顔などもあの若い武士と寸分違わず、色つやから毛穴まで丹念になまなましく模写され、耳や鼻の穴、口の中、真白い歯の数からその輝きまで、そっくりそのままの出来であった。女にあの一言を呟いたときのように、目もともぽっと赧くほんのり紅をかれ、怒ったような眼眸が伏目がちに高麗縁の畳の目をみつめている。
 女は、ほっと呼吸をついて、飽きもせずうっとりとその人形を眺めやった。われしらず、女の口から言葉がほとばしった。
「そなたが恋しい……そなたは、あの一言とともに私をそなたの中に嚥みこみ、私をそなただけのものにしてしまった、私を、そなたの熱いわかわかしい血汐ちしおと肉の中に、強引に閉じこめてしまった……私は、そなたが恋しい。この胸のうちを、この火を、そなたは知らぬといわれるのか……?」
 女が、久しぶりに半蔀の板戸をかかげたのは、自らのあまりの息苦しさからであった。が、するとおどろくほど明るい満月の光がなだれ入って、部屋の奥の薄暗い几帳とともに、人形に蒼白い光を浴びせかけた。
 月光に照らしだされた烏帽子に狩衣を着けた人形、それは、まごうかたなき本物の若い武士のすがただった。思わず女はにじり寄って、あえぎながら人形をかき抱いた。顔をあげて、まじまじとその人形の顔をながめた。
 そのとき、ふいに女の背に、氷をあてたような悪寒がすべり落ちた。女は叫び、夢中で人形を突きはなした。人形は、重い生木の音を立てて床に倒れた。
 女は顔をひきつらせて、倒れたままびくとも動かない人形、その表情のない顔を、もう一度まじまじとみつめた。女に来ていたのは恐怖だった。生身をそのままにうつし、再現している人形、動かない人形、たしかに恋人とこの人形とは、心のあるのと無いのとの違いだけだったが、それは生きているものと死者との違いだった。女は、ふたたび総毛だつようなうそ寒いおぞましさが、全身を走り抜けるのをおぼえた。
 身を硬くしたまま、女は、自分から急激に一つの熱狂が失われてゆくのをかんじた。けんめいに現身うつしみの若者に肖せることに熱中し、じじつそれに成功したというのに、いまは見れば見るほどその肖ていることじたいが浅間しく、自分を怖気だたせるのだ。女は、その人形に、いまはにせものの恋人というより、その恋人への自分の執念のうす汚なさ、不潔な汗とあかにまみれた自分のその妄執のかなしさだけを見ていた。そして、そのおぞましさへの嫌悪といっしょに、女はさしものあの若者への自分の恋までもが、急にあとかたもなく消え、さめ果ててゆくのがわかった。……まるで、夢からさめたように。
 もう、その人形をそばに置いておくのもいやであった。女は、几帳の上からやにわにいちばん大きなノミを取ると、人形の頭に突き立て、うちきの袖を振ってこんかぎりの力でそれを打った。人形はたちまち二つに割れ、水の底のような月光のみちた部屋の中で、破壊され、すでに亡骸なきがらと化した女の恋そのままのすがたに、生木の白い裂けめをあらわにしてころげた。

 女が、ようやく恋を忘れ、そろそろ健康も回復してきたころ、御所には恒例の菊見の季節がきた。
 例年と同じように女は甲斐々々かいがいしく立ち働き、若い女どもの指図をして、また禁裏へと招かれた大臣たちの警護の武士の一団の酒肴の世話をしていた。大きな酒のかめをもって、革具くさい武士たちのあいだで杯を満たしてまわりながら、ふと女は、春のあの若い武士が――彼女が身も細るほどの思いでけんめいにその人形をつくった当の武士が――しずかに杯をふくんでいるのを見た。
 女は、すっかり彼のことを忘れていたのに気づいた。今日の宴に来ないだろうかとすら考えてはいなかったのだ。彼の発見は、女には意外といえば意外、思いがけぬことだったには違いなかった。
 しかし、不思議と女には、なんの動揺もなかった。若い武士は、もはや女の心に小波ひとつ立てず、恐怖も、嫌悪も湧かなかった。ただ、女の胸に訪れてきたのは、春からのあの恋に心をわななかせつづけた日々、人形づくりに没頭してすごした自分の経てきた毎日への、なんともいえない不愉快な重苦しさ、途方もなく長い距離を歩いてしまったあとのような、けだるく漠然とした疲労の、奇妙にうつろなそのひろがりでしかなかった。
 女は若い武士に近寄り、酒を注いでやった。こんどは花びらも散らず、武士もなにもいわなかった。案外、彼は翌年一月の、官位を得るための登用試験のことで頭がいっぱいなのかもしれない。やはり怒ったような顔で目を落していた。

 そこからも、御所の雑色たちが丹精してつくりあげた、見事な一文字いちもんじ造りの大輪の菊の花の群れが眺められた。酒甕をもち歩を移してその波うつような黄白の色彩に目を注ぎながら、女は、今年ほどその菊の花に、春からの一つの季節の推移というものを、重く手ごたえのあるものとして感じたことはなかったような気がした。





底本:「親しい友人たち 山川方夫ミステリ傑作選」創元推理文庫、東京創元社
   2015(平成27)年9月30日初版
   2015(平成27)年11月6日再版
底本の親本:「山川方夫全集 第4巻」筑摩書房
   2000(平成12)年5月10日
初出:「ヒッチコック・マガジン 第四巻第一二号」宝石社
   1962(昭和37)年11月1日発行
※初出時の表題は「親しい友人たち・その10」です。
入力:かな とよみ
校正:noriko saito
2021年1月27日作成
2021年6月2日修正
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