昔、一人の女がいた。
女は
中宮と
ある春の一日、御所で花見の宴が催された。女は、
みやびな
女が一人のまだ若い武士の杯に酒を注いでやったときであった、その杯に、一ひらの桜の花びらが落ちて、浮いた。
「……うつくしい」と、武士はいった。「まるで、あなたの頬が杯に浮いたようだ」
まだどこかに幼な顔ののこった、少年のような武士であった。武士は、そして女をちらりと見て恥ずかしげに
女の胸に、生まれてはじめての熱い痛みがはしったのは、その刹那だった。女は、ごくごくと音をたてて大杯の酒をあおる若い武士の、
とたんに身内が熱く
そうして、女ははじめての恋に落ちた。恋が身を刺すような一つの痛みであり、その痛みとともに
眠られぬ夜がつづいた。女は、すべてのおつとめに手がつかなかった。武士を思い出すことはいらなかった。杯に目を落して、「うつくしい」と呟くようにいったときのまだ若い武士のすがた、恥じたように目を伏せたその横顔が、まぶたの裏に鮮明に貼りつき、それはひとときも消えることがなかった。
武士はたぶんまだ二十にならず、官位もないただの従者の一人に違いなかった。彼の烏帽子には縁もなく矢車の

中宮が、かつて見せたこともない女のその異常に気づかれないはずはなかった。主上もお言葉をそえられ、気うつならばすこし引きこもって養生せよと仰せられた。女はありがたくそのお言葉を受け、あたえられた一室に引きこもった。
とはいえ、いくら考えても、当時の風習として、いったん中宮のお側にお仕えした身が、官位もなく、ただの雑色とたいしてかわりのない一介の武士に嫁ぐことは、許される道理がなかった。また、たとえ御所内の雑色を手なずけ、かれに文使いをたのんだにせよ、あの若い武士のような無位無官の男を、御所にしのびこませることなどは絶対にできない。せっかくのお心づかいで部屋に引きこもったのだったが、なにもせず思いをこらすことは、女の身のうちの炎に油を注ぎ、いよいよ妄想をつのらせ、肥らせることにしかならなかった。そして、あることを女は思いついた。女は中宮に木彫職人にたのみたいことがあると申し出て、そのご許可を得た。中宮は、気うつ散じに、女が人形とでも遊んでみる気をおこしたのだ、とお考えになられたのだ。
ご想像はあたっていた。たしかに、女は人形をほしいと思ったのだ。が、その人形は、中宮のお考えのような、小さな、いわゆる女子供のもてあそぶそれではなかった。女が木彫職人にたのんだのは、等身大のあの若者のすがたに
秋に入ろうとする頃、ようやく木彫職人の苦心の作は女の部屋に運びこまれた。
退紅の狩衣、縹色の袴、毛抜形の太刀、靴、それに縁のついていない烏帽子などは、すでに女が手をまわして部屋にそろえていた。女はまず生命のない生木の彫像に、いかにそれらを生あるもののごとく巧みに着せかけるかに専心した。女は、やがて職人から数種のノミを借りうけ、彫像に手を加えはじめた。あの若者のすがたは、目をつぶればたちどころに浮かんでくる。まぶたの裏に焼きついているその「彼」を仔細に追い、女は、けんめいに人形を若者に肖せることに没頭した。
終日、窓の外に吊された
やっとその人形が完成したのは、ちょうど仲秋の名月の夜であった。人形は、ふつうの人形とはちがって、顔などもあの若い武士と寸分違わず、色つやから毛穴まで丹念になまなましく模写され、耳や鼻の穴、口の中、真白い歯の数からその輝きまで、そっくりそのままの出来であった。女にあの一言を呟いたときのように、目もともぽっと赧くほんのり紅を
女は、ほっと呼吸をついて、飽きもせずうっとりとその人形を眺めやった。われしらず、女の口から言葉がほとばしった。
「そなたが恋しい……そなたは、あの一言とともに私をそなたの中に嚥みこみ、私をそなただけのものにしてしまった、私を、そなたの熱いわかわかしい
女が、久しぶりに半蔀の板戸をかかげたのは、自らのあまりの息苦しさからであった。が、するとおどろくほど明るい満月の光がなだれ入って、部屋の奥の薄暗い几帳とともに、人形に蒼白い光を浴びせかけた。
月光に照らしだされた烏帽子に狩衣を着けた人形、それは、まごうかたなき本物の若い武士のすがただった。思わず女はにじり寄って、
そのとき、ふいに女の背に、氷をあてたような悪寒がすべり落ちた。女は叫び、夢中で人形を突きはなした。人形は、重い生木の音を立てて床に倒れた。
女は顔をひきつらせて、倒れたままびくとも動かない人形、その表情のない顔を、もう一度まじまじとみつめた。女に来ていたのは恐怖だった。生身をそのままにうつし、再現している人形、動かない人形、たしかに恋人とこの人形とは、心のあるのと無いのとの違いだけだったが、それは生きているものと死者との違いだった。女は、ふたたび総毛だつようなうそ寒いおぞましさが、全身を走り抜けるのをおぼえた。
身を硬くしたまま、女は、自分から急激に一つの熱狂が失われてゆくのをかんじた。けんめいに
もう、その人形をそばに置いておくのもいやであった。女は、几帳の上からやにわにいちばん大きなノミを取ると、人形の頭に突き立て、
女が、ようやく恋を忘れ、そろそろ健康も回復してきたころ、御所には恒例の菊見の季節がきた。
例年と同じように女は
女は、すっかり彼のことを忘れていたのに気づいた。今日の宴に来ないだろうかとすら考えてはいなかったのだ。彼の発見は、女には意外といえば意外、思いがけぬことだったには違いなかった。
しかし、不思議と女には、なんの動揺もなかった。若い武士は、もはや女の心に小波ひとつ立てず、恐怖も、嫌悪も湧かなかった。ただ、女の胸に訪れてきたのは、春からのあの恋に心をわななかせつづけた日々、人形づくりに没頭してすごした自分の経てきた毎日への、なんともいえない不愉快な重苦しさ、途方もなく長い距離を歩いてしまったあとのような、けだるく漠然とした疲労の、奇妙に
女は若い武士に近寄り、酒を注いでやった。こんどは花びらも散らず、武士もなにもいわなかった。案外、彼は翌年一月の、官位を得るための登用試験のことで頭がいっぱいなのかもしれない。やはり怒ったような顔で目を落していた。
そこからも、御所の雑色たちが丹精してつくりあげた、見事な