新年の挨拶

山川方夫




 夫が受話器を置いたとき、彼女は腕時計を見た。
「ちょうど三十分間ね、今年も」
 元旦の昼ちかい光が、ガラス戸ごしに部屋に流れている。夫は、しばらくは口をきかなかった。
「恒例の、新年のご挨拶ね?」
「うん。……あいつさ」
「今年はどんな話だったの?」
「子供が、学校に上るってさ。……だけど、それがいったい俺とどんな関係があるっていうんだ? 毎年、判で押したように元旦の朝、この電話だ。勝手に自分のことばかりペラペラしゃべりまくりやがる。……迷惑だよ」
「あら、けっこう楽しそうな顔してたわ」
「冗談じゃない。こうしつっこいと、ウンザリして、だんだん怖くなってきちゃう。たぶん、相手はまともな精神の持主じゃないよ。たった一回、いっしょに映画を見てお茶を飲んだ、それだけのことで、こんなに……」
 夫と話しながら、彼女はふと、去年の元日の朝も、まったくこれと同じ会話を交したのを思い出した。いや、去年だけではない。たしか一昨年も、その前の年も……。

 年に一度、きまって元日のお昼ちかく、夫に電話をかけてくるその女が誰かは、もうとうに彼女は知ってしまっていた。それは夫がまだ大学を出たてのころ、ただ一回だけお見合いをさせられたという、その相手の女性だった。その女が、まるで習慣のように、毎年の元旦、声だけで夫を訪ねてくるのだ。
 彼女は、その女の顔を憶えている。まだ婚約したてのころ、夫と二人で銀座を歩いていたとき、擦れちがいざま大仰な声をあげて夫に挨拶をしたのが彼女だった。色の白い、瘠せてはいるが猫のように身のしなやかな感じの、頬に大きな黒子がある女だった。しばらくのあいだポカンとして、「ああ」と夫が間の抜けた声を出したときは、女はすでに雑沓の中にかくれていた。夫は、そして彼女にその女のことを説明した。……べつに、嫉妬はなかった。美しくないとはいえない女だったが、彼女には、でもその女はけっして夫の好きなタイプの女ではないという確信があった。
 翌年、夫と結婚して、今年でもう四年になる。夫の話だと、その三年まえ、つまり二人が見合いをした翌々年の正月から、こうした電話がかかりはじめたのだという。だとしたら、欠かさずにもう七年。それは、一つの執念じみたものと思えないでもない。

「だって、あなたとは話す用事も、話すべき理由もないって電話を切っちゃっても、かならずお正月のうちにまたかかってくる。仕方ないからこのごろじゃあきらめて三十分間だけは合槌をうってやることにしているんだ。それでその一年間の厄落しのつもりでね」
 夫はそう説明する。でも、はじめのころ、彼女はその電話に、夫が渋い顔のまま三十分間も受話器を握っているのを見て、怒ったり泣いたりした。どうしてそんなに親切にしてやる必要があるの? あなた、なんとかかんとかいって、年に一度のあの電話を、楽しんでいるのと違うの? ほんとうにあの人が好きなんだわ。弱むし! そんなに誰からもかれからも好かれたいの?
 私、信じないわ、そんなの、常識じゃ考えられない。あの人とあなたとのあいだには、きっとなにかあったんだわ。
 夫は顔を真赤にして怒った。……翌年、彼女は待ちかまえていて元旦のその電話の受話器をとり、叫んだ。「やめて下さい。お願いです。うちじゃ迷惑してるんです!」
 だが、受話器を置くとすぐにまたベルが鳴った。夫が受話器をとり、「もしもし」といってそれを彼女に渡した。電話線の彼方で、女は笑っていた。
「――ごめんなさい? 奥さまを怒らしちゃって。でも、そういえばまるであなたと私と、なにかがあったみたいですものね。誤解なさるの無理はないわ。たった一回お茶を飲んだだけだなんて、信用して下さんないの、あたりまえね。……」女は、また笑った。
 彼女は呆然として、受話器を夫の手に戻した。その電話も、きっかり三十分間つづいた。

「まったくへんな女さ」と、夫はいった。「あれから、誓って一度も逢っていない。それなのに自分はこの一年、こんな気持で送った、こんなことがあった、春には犬のペスが死んだのよ、だなんて、俺とはまるで無関係なことばかりを、一人でしゃべりちらしているんだ。もちろん、そんな名の犬がいたことも知らないこの俺にだよ。……そして最後に、じゃ、今年もしっかりね、なんていう。ただそれだけなんだからな。わけがわからないよ」
 もともと、夫は律義すぎるほど正直な男で、そういう自分にたいするプライドがひどく強い性質だった。彼女は信じた。夫は悪い夫ではなく、家庭は平凡だったがまずまず幸福で、そのころはもう最初の子も生れていた。
「俺、ほんとは彼女、まだ独身じゃないかって思うな。いや、きっとそうだ」
「どうして?」
 夫は年始まわりのための服を着、玄関に降り立ちながらいった。
「だって、つまり彼女は孤独なんだ。相手がほしいんだよ。そういう欲求不満のあらわれがあの電話なんだ。……結婚さえすりゃ、きっと俺もお役ごめんになる。俺は、一刻もはやく彼女が結婚してくれることを望むよ」
 なにかをいおうとして、思いかえしたように彼女は口をつぐんだ。「……行ってらっしゃい」とだけいった。
 夫が出かけたあと、彼女はしばらくはぼんやりと玄関に坐っていた。やはり、いわないでよかった、いう必要はないのだと思った。
 前の年のクラス会の帰りに、彼女は、あの女を見ていた。女は夫らしい男といっしょで、両親にそっくりの女の子の手をひいて街を歩いていた。
「ママ、ママ」と呼んで飾窓の中のものをねだっている女の子は、そろそろ小学校に上るくらいの年ごろに思えた。彼女はびっくりして無意識のうちにあとをつけて、そして「来週はお祝いをしなくちゃいかんね」「そうね、もう私たちの結婚生活も、七年目ね」という夫婦の声を聞いた。頬の大きな黒子が目立つその女は、ひとまわり豊かに肉がついて、にこやかな母と妻の貫禄をそなえていた。――

「あなたのパパって、バカね」
 彼女は三つになる子供の相手をしてやりながら、そっと口の中でいった。
「誰だって、愛人や夫や、子供がいたところで、孤独は孤独なのよ。それ以外の人を相手に、なにかを夢中で話しかけたいような心がちゃんとあるの。……パパったら、それを知らないのね」
 そして彼女は腕時計を眺め、ある仕事をはじめるべき時刻なのを知った。このことを知ったら、夫はたぶん私の夫への復讐、対抗心、嫉妬、つまり彼への私の愛がさせたことだと考えるだろう。とんでもない。でも、それがあの人の、人のよさなのかもしれない。
 元旦の昼の光が、いまは透明に部屋を充たしている。彼女は受話器をとり、高校のころ、映画館の中ではじめて彼女の手を握った同級の男の家のダイアルをまわしはじめた。無難な、いわば現在の自分には無関係な、心の中に住む遠い相手への、年に一度だけの勝手な年賀状のようなおしゃべり……。それは、三年ほど前の元日にこころみ、いまは病みつきになってしまった毎年の習慣、やはり三十分間の、もはや欠くことのできぬ彼女の新年の行事だった。





底本:「山川方夫全集 4 愛のごとく」筑摩書房
   2000(平成12)年5月10日初版第1刷発行
底本の親本:「親しい友人たち」講談社
   1963(昭和38)年5月20日
初出:「新刊ニュース 第一三巻第二二号(一月一日・一五日合併号)」
   1963(昭和38)年1月1日発行
入力:かな とよみ
校正:toko
2026年1月2日作成
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