愛の終り

山川方夫




 ドアが開くと、一人の青年が入ってきた。青年は流行のシルキイな布地の背広をぴったりと身につけ、暗緑色のサン・グラスで顔をかくしていた。そのまま、彼はすばやく室内をながめた。
 彼女はゆっくりとベッドから起き上った。
「いらっしゃい、坊や」
 青年はサン・グラスをはずした。色白で女性的な面だちの、ただ眉だけが濃いその顔に、いかにも人工的な、不自然な微笑がうかんだ。
 彼はつかつかと歩み寄って彼女を抱き、接吻した。
 彼女はかるい呻き声をもらした。
「ねえ、冗談なんでしょう? いまの電話」
 同じつくりつけたような微笑のまま、青年はいった。
 彼女は、部屋の中央に歩いた。そのテーブルには、すでに半分ほどになったコニャックの瓶と、二つのグラスがあった。
「……真白なスポーツ・カーを買ったんですって?」
 彼女は、それが癖らしい疲れたような声でいった。
「すてきね。でも、ここに乗りつけたのはどうやら違う車だったようね。私、この窓から見てたの」
 彼女はレースのカーテンの下りた窓を背にして、コニャックを掌で温めながら笑いかけた。
「でも、よく来てくれたわ。私、もう来てくれないんじゃないかって考えていたの」
「そんなこと……、ぼくの愛しているのは先生だけだってこと、先生だって知っているはずじゃないの」
 青年は甘えるような表情をつくった。が、その声にはあきらかに演技が感じられた。
「そうちょいちょい逢いにくるわけにもいかないし、目立つような真似はできない。ぼくだって苦しいんだ。……先生だけは、わかって下さると思っていた」
「そうね、わかってるわ。よく」
 彼女は頬笑ほほえみながら、うっとりとしたようにその青年をみつめた。
「ほんとにわかっていてくれるの?」
「ええ。ほんとにわかっているつもりよ」
「じゃ、どうしてさっきの電話みたいなこと、いったりなんかするの?」青年は絨毯じゅうたんにひざまずいて、彼女の手を握った。「ね。いってよ、ただのおどかしなんでしょ? そうなんでしょ?」
「だいぶ、おいそぎのようね」
 彼女は笑いながら答えた。
「これから、すぐ飛行機で大阪に……」
「そう、それは結構ね。いやみじゃなく、おめでとうをいわせてもらうわ」
 青年は黙った。わざとそわそわと腕時計をみた。だが、彼女はソファに腰を下ろし、ネグリジェの脚を組んで、青年のその落着きのなさ、焦立いらだちを完全に無視していた。彼女はしゃべりだした。
「昨夜のテレビみたわ。あなたが初出場したN・H・Kの紅白歌合戦。すばらしかったわ。すごい人気だったじゃない? あれに出られたら歌手として一人前だってよくいわれるけど、あなたはもう一人前以上よ。私があれに出た最後は、もう四年も前のことになるけど、その当時だって私はあんなものすごい拍手はうけなかったわ」
「とんでもない……みんな先生のおかげですよ。ぼく、ほんとにそう思っている、……」
 青年がいいかけたが、彼女はそれにも知らん顔で、グラスの琥珀色の液体を見ていた。
「昇り坂のときって、ほんとに、だれが聞いても気持ちがいいくらい声につやと張りがあるのね。それに、坊やはマスクも新鮮だし、もう映画会社からいくつか契約の交渉があったって、いうじゃない? 今年はあなたの年だわ。昨日のテレビを見て、私、そのことがはっきりとわかったのよ。あなたの主演する映画、テレビ、あなたのレコードが次から次へとつづいて……」
「やめて下さい。お願いです」青年は、やや強い語気でいった。「それより、さっきの話のつづきをしましょう。そのためにぼくはここへやってきたんだから」
 やっと青年に目をもどして、彼女は、一瞬ぼんやりとした顔になった。
「さっきの電話での話ですよ」と、青年はいった。「テープのことです。ほんとにそんなもの、とってあったんですか?」
「……ああ、あのこと」
 彼女は笑いはじめた。
「そうそう、私たちのベッドでの会話を、ぜんぶテープに録音してあるっていったことね? ……そうだったわ。私、生まれてはじめて他人を脅迫したんだった。もし、いますぐ私の家に来てくれなかったら、それをすぐ適当な週刊誌あてに送りつける、ってね」
 彼女は、青年の真剣な、おびえた小動物の目をのぞきこんで、ふたたび大きな声で笑った。
「どう? すばらしい特ダネじゃなくって? いま売り出しの、今年のホープであり、混血の美人歌手とのひそかな婚約を噂されている人気者の坊やの、二十五も年上の私へのすてきに早熟なドン・ファンぶり。しかもそれが三年まえ、坊やがまだバンド・ボーイだった十五の頃からのことときている。それが、最初からそっくりそのまま録音されているんですもの、若い女の子のファンや美人歌手だけじゃなく、だれだってびっくり仰天するにちがいないわ。……そうでしょ? ねえ、……ね、なんとかいったらどう? 坊や」
「……そうか。わかった。これがあなたのしかけた罠なんだな!」
 青年は叫び、真青になって立ち上った。
「先生は、いまここでぼくにそれを肯定させて、それをテープにとってしまうつもりなんだ。……なんて人だ。先生は、じつはいま録音して、それを脅迫のネタにするつもりで、それでぼくを呼んだんだな? え?」
 怒りと恐怖とをむきだしにし、青年は彼女を睨みつけた。彼女の微笑が凝固するように停った。力なく、彼女は肩をおとした。
「……怒らないで」と、やがて首を垂れて彼女はいった。「ごめんなさいね。坊やに、私、逢いたかったの。どうしても、逢いたかっただけなの」
「録音器は、どこにあるんだ」青年の声は怒りにふるえていた。彼女は目をつぶった。首を、そっとベッドのほうに向けた。
 青年はベッドに走り寄った。細い蛇のようなコードが、ベッドの側面にかくれていた。
 マイクは、マットのあいだからのぞいていた。ベッドの下にかくされていた録音器の中では、ゆっくりと音もなくテープがまわっていた。
「……これは貰っていきます」
 青年はテープをとり、それをポケットに押し込むと、そのままドアに向かった。が、立ち止った。
 喧嘩けんか別れはいけない、と青年は計算した。たしかに、今はさんざん利用したこの婆あと別れるいいチャンスだ。しかし、このままぼくが出て行ったら、婆あめ、なにをしでかすか知れやしない。なにしろアタマに来ちゃっているらしいし、どんな突飛な方法で、おれたちのことをバラしにかかろうとするかわからないぞ。それに、いくらもうダメになった歌手とはいえ、まだまだマス・コミにも知り合いは多いはずだ。そうだ。ここはなんとかうまくごまかさなくちゃいけない。
 青年は、けんめいに情けないみたいな、甘えたような笑顔をつくりあげて、彼女を振りかえった。
「……先生」と、彼は悲しげな声を出した。「どうして先生は、ぼくを信じてはくれないの? ぼくにとって、先生以外の女性なんていないってこと、先生がいちばんよく知っているはずじゃありませんか。いまのぼくに、暇をつくるのがゆるされないことだって、先生ならよくご存知のはずだ。それを、……いやだ、ぼくは先生を愛している」
 彼女は、はじめて顔をあげた。青年は大げさにその膝にとりすがった。
「もしぼくに身体が二つあったら、いつでもぼくは先生といっしょにいられるのに。先生、ぼくはいつもそんなことばかり思っているんだ。ひまさえあれば、いつだってぼくは先生のところに駈けつけます。ぼくはそんな気持ちなんだ。だから先生、先生だけはぼくのことを信じていて。ね? ぼく、ぜったいに先生とは別れない」
「……ごめんなさい」と、彼女はいった。
 ふと、青年はあることを思いついた。
「先生。……先生は、ぼくのために、わざとぼくと別れようと考えたの? ぼくを怒らせ、ぼくを先生からはなれさせるために、こんなことを思いついたの?」
「そんなんじゃないわ。坊や。それはあなたの誤解よ」
 しずかに、彼女はいった。
「坊や、ゆるしてね。私が悪かったわ」
 彼女はコニャックを喉に流しこもうとした。その掌を青年がおさえた。
「ダメだよ、そんなに飲んでばっかりいちゃ。喉に悪いのはわかりきっているじゃありませんか。なぜそう自分を大切にしないの?」
「ありがとう」
 素直に、彼女はグラスをテーブルに戻した。青年は、その目が充血し、涙でいっぱいになっているのを見た。
「坊や、あなたは、私とはもう二度と逢いたくないと思っているんでしょう?」
「そんなこと、……」
 青年は唇をとがらせた。しかし俳優ではない彼の演技は、すこし拙劣すぎてもいた。
「私ね、今日、あなたに来てもらったのはね」と彼女はいった。「ほんとうに、ほんとうにもう一度だけ、あなたに愛してもらいたかったからなの。……お願い」
 彼女はすすり泣いた。その声は次第に上ずり、青年は当惑をかくすためにその肩を抱いた。彼女はいいつづけた。
「嘘じゃないの。私、本心からそう思っている。私、なんでもあなたの望んでいるとおりにしてあげたい。たぶん、あなたは、できることならもう二度と私には逢いたくないって思っている。いいの。私もそうする。約束するわ。だから、お願い、もう一度だけ愛して。そしたら私、一生、今日という日を記念にして、もう、二度とあなたには逢わない。……ほんとよ、ほんと。私、あなたの望みどおりの女になってしまいたいの。だから……」
 青年は、事情の奇妙な好転にびっくりした。今日だけで、もう二度と逢わないと約束すると、相手のほうからいってる。これは願ったり叶ったりだ。テープもとりもどした。これなら、まず心配はない。……
 彼は、もしかしたら彼女は死ぬつもりなのかもしれないと思った。しかし、まあ、気のきいた幽霊ならとうに消えている頃だ。それもいいじゃないか。
 青年はうなずいた。ベッドを直すふりをし、慎重に第二の録音器のないのをたしかめると、彼女を両手で抱え上げた。
 四十歳を越えた彼女の皮膚はゆるみ、ながいあいだの舞台化粧で荒れたその顔の肌には、おぞましいほどのしわがあった。しかし、青年はせいいっぱいの努力でその女体を抱き、もはや完全な義務と化してしまっているいつもの愛撫の順序を、忠実にたどりはじめた。

 ドアの閉まる音がひびいた。
 音の消えた部屋の中で、彼女はうすく目をひらいた。
 青年の若い肉体の香りが、ごくかすかに、しかし鋭くまだ匂っていた。
「……やっぱり、思っていたとおりだったわ。私って、あなたの顔を見ていると、あなたのためだったら、どんなことでもしてあげたいとしか考えられなくなっちゃうのね。なんでも、あなたのいいなりに、あなたのいいようにだけしてあげたくなってしまう。……あのテープだって、訊かれたらやはりかくしてはおけなかったわ」
 まるですぐ目の前に青年がいるみたいに、彼女は声に出していった。
「あなたが私をひとつも愛してなんかいないってことは、最初から知っていたわ。だから、いつもこれが最後だという気がして、いままで何本テープをとったかわからないわ。はじめは私だけの記念にするつもりだったのに、いつのまにかそれが習慣みたいになって、……今日のも、その習慣のつづきだったの」
 そのとき窓の外に、自動車のスタートする爆音がひびいた。いそいでベッドを下り、窓に寄って、レースのかげから彼女は道をながめた。
 青年の乗ってきた小型の黒いセダンが、急速にその視野を消えて行った。
「さよなら」
 いって、彼女は大きく呼吸を吐いた。
「……やっぱり、そうだったわ。もしあれを持ったままでいたら、逢っているうちにあなたが可哀そうでたまらなくなって、きっと全部あなたに渡してあげちゃったにちがいないわ。……ごめんなさいね、坊や。そう思ったから私、今日、あなたに電話をかける前に、いままでのテープ、あれをそっくりある週刊誌にとどけさせておいたの。女中に。……たぶん、もう着いているころだわ」
 彼女はゆったりとソファに腰を下ろした。癖の、疲れた調子の声でいった。
「……悪かったわ。でも坊や、直接の動機は昨夜の紅白歌合戦なのよ。あれで私、今年があなたの年だとわかった。でも、そうなったら、あらゆるテレビ、ラジオ、週刊誌、雑誌で、日本中に坊やの顔と声が氾濫はんらんする。それなのにあなたは私に逢ってくれない。私、坊やをやはり私だけのものにしておきたかったし、しょっちゅう坊やの顔や歌を見たり聞いたりしながら、しかも逢えない自分なんて、思ってみただけでも耐えられない。だから私、いっそマス・コミの中からあなたを消し、いっしょに自分をあなたにあわす顔のない女、顔をあわす資格のない悪い女にしてしまおうと考えたの。それでこそ、私はあなたの思いどおり、あなたには逢えない女になる。自分でも、納得してそれを受け入れることができるわ。……私、それ以外に、あなたの希望どおりの女、もう二度とあなたに逢おうとしない女になんて、なれる自信がなかったのよ。
 ……たぶん、あなたに逢ってしまえばもう私はダメ。私はけ、またもとのモクアミになってしまう、そう思ったからこそ、さきにテープをとどけさせておいたの。やはり、私は正しかったわ。もしそうしておかなかったら、きっといまごろはテープは全部あなたに取り上げられ、そして、こんどはどうしたらあなたに逢うことができるか、私、そればかりを必死で考えつづけてるわ。……でも、これでもうお終い。さよなら。坊や」
 彼女は、グラスに最後のコニャックを注いだ。喉を仰向けてそれを一息に飲むと、まるであらゆる生命を生き終えた人間のように、深ぶかとソファに沈み、目をつぶった。
 しばらくして、電話のベルが鳴りはじめた。が、彼女は身じろぎも見せなかった。
 日が落ち薄暗くなった部屋の中で、やがて、眠ったようなしずかなその表情が動いた。それは、小さな欠伸あくびだった。





底本:「親しい友人たち 山川方夫ミステリ傑作選」創元推理文庫、東京創元社
   2015(平成27)年9月30日初版
底本の親本:「山川方夫全集 4 愛のごとく」筑摩書房
   2000(平成12)年5月10日初版第1刷発行
初出:「ヒッチコック・マガジン 第五巻第一号」宝石社
   1963(昭和38)年1月1日発行
※初出時の表題は「親しい友人たち 終回」です。
入力:toko
校正:かな とよみ
2021年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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