暑くない夏

山川方夫




「……夏が来たのね」
 女は、天井を見上げたままでいった。
 白い天井。白い壁。白いシーツ。女の顔も白い。
「空を見ていると、わかるの。ついこないだまで、どんよりと空のにごった日ばかりがつづいてたわ。まるで、水に落ちたケント紙のような色の空だったわ。……それが、見てごらんなさい、あんな真青な色になって、むくむくした力こぶみたいな雲が見えるわ」
 女は声を落し、彼に笑いかけた。
「もう、一年になるのね」
 うなずいて、彼も窓を見やった。窓の外は、一面に濃い群青ぐんじょうの夏の空だ。――この部屋は五階だ。なるほど、ベッドに寝たきりでいるのだったら、見えるのは空しかない。
「学校の話をしようか?」
 二人は、大学のクラス・メートだった。が、女はちがう返事をした。
「お願い。窓のカーテンを閉めて」
 彼はカーテンを引いた。女は、大きな呼吸をした。ふざけたような声でいった。
「……私には、もう、夏も冬もないの。私はもう、なにも感じないわ。暑くも寒くもなく、いつも気密室に入っているみたいなのよ。みんな、他人の夏、他人の冬でしかないの」
 何万人、いや、何百万人に一人という奇病だった。去年の夏、突然高熱を発した二十歳の彼女は、そのまま全身が動かなくなった。
 意識は明瞭だが、五官の感覚がほとんどなく、あとは死を待つほかはないのだ。医者は、最大限一年しかもたないと明言した。その一年の期限が、もはや目の前に来ている。
 部屋がむしむしする。彼はハンカチで汗をふいた。わざと明るい声でいった。
「うらやましいよ。暑さ知らずだなんて」
 女は、目のすみでちらりと彼に笑った。
「そうね。いまに文化が進歩して、人間たちが気温を一定に調節して、この世から夏や冬を追放することになるのかもしれない。……私、そんな未来の国に住んでいるみたいね」
「そうさ」と、彼もいった。
「そうしたら、夏や冬は、季節の名前じゃなく、土地の名前になっちまうさ。金持ちだけがそれを味わいに出かけて行く、遠い土地の名前に」
「夏や冬は、つまりぜいたく品になるのね」
 笑って、女は目をつぶった。
「……でも、夏は、もう私にははっきりとは思い出せない。夏、夏っていくら考えても、なにか子供のころに聞いた海岸の物音みたいな遠いぼやけた思い出しか、私にはもう浮かばないの。……ねえ、夏って、どんなものだったの? 暑いって、どんなことなの?」
 青く血管のけるような白い頬で、女は、でも、固く目を閉ざしていた。ふいに、涙がその目じりからあふれた。頬に光の筋を引いた。
 ……やがて、彼は立ち上がった。涙の線をのこしたまま、女は眠っていた。彼は、いつもと同じように、その女の顔を、これが最後かもしれぬという気持でしばらくみつめてから、病室のドアを押した。病院の表へ出た。
 女の声が、まだ耳に聞えていた。――ねえ、夏って、どんなものだったの? 暑いって、どんなことなの?
 突然、彼は足をとめた。夏の街を歩きながら、彼はひとつも暑くないのだ。むしろ、はだ寒ささえ感じられる。
 あわてて、彼はあたりを見た。戦慄に似たものが、彼を走りすぎた。いつのまにか、まぶしかった夏の充実した日射しは消え、どこにも夏がないのだ。――彼にも、夏がないのだ。
 空は暗く、季節の消えた街を、不気味な冷えた風が動いている。
「暑くなったり、急に寒くなったり、ほんとにへんな陽気ですわね」
「ほんとに。さっきまであんなに照りつけていましたのに。……あら、雨だわ」
 中年の女の二人づれが、話しながら足早あしばやに通りすぎる。頭にハンカチをのせ、近くの果物店に駆けこむ。彼は、息を吐いた。
 夕立が来ようとしているのだ。
 やっと、彼に夏がかえってきた。彼は歩きだした。
 空が翳り、落ちてくる大粒の雨の中で、だが、彼は自分にも夏がないと感じたいまの一瞬の記憶を、心の中でしっかりと握りしめるようにしていた。そのときだけ、彼は彼女の住む「未来の国」にさわり、その記憶だけが、彼女を彼につなぐ、ただ一つの手がかりであるのかもしれない……。
 急速に空に黒い雲がひろがり、雨脚が繁くなった。わざと夏のその雨の中を歩きながら、彼は、ハンカチで顔をふきつづけた。





底本:「親しい友人たち 山川方夫ミステリ傑作選」創元推理文庫、東京創元社
   2015(平成27)年9月30日初版
底本の親本:「山川方夫全集 4 愛のごとく」筑摩書房
   2000(平成12)年5月10日初版第1刷発行
初出:「朝日新聞(夕刊)」
   1962(昭和37)年7月1日
入力:toko
校正:najuful
2021年6月28日作成
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