軍国歌謡集

山川方夫




 私は人間が進歩したり、性格が一変したり、というようなことはあまり信じてはいない。たしかに人間はかわるものだが、それはべつに進歩を意味しないし、他人になるということでもない。彼の中の感情の回路、納得の形式というものは、いつのまにか一定してしまっていて、それは取り替えがきくものではない。
 大学生だったころ、友人の下宿にころげこんでいた季節がある。ときどき、私はその下宿での自分の経験が、皮膚の奥から一つの烙印らくいんのようにまざまざと浮かびだすのを感じる。そして、たぶん、私は一生あのときの自分から他人にはなれないのだ、と思う。……これは、かなり絶望的な認識だが、でも、その絶望からしか、私はなにひとつはじめることができないのだ。
 その下宿で暮したのは、四月の半ばから夏にかけてだったが、たしか朝鮮での戦争が、さんざん難渋した板門店はんもんてんでの調印で、やっとケリがついた年だったと思う。私は二十一才になったばかりで、酒を飲んで議論をするのが大好きという困った男だった。女性にはほとんど関心をもたなかった。(前の年、私ははじめて商売女と接して、早まりすぎた失敗をおかしていた。それで自信がなかったせいもあるが、そのころは半分は本気で、自分には女なんからないと信じていたのである。)要するに、私は生意気ざかりだった。
 友人といっても、場末ばすえの飲み屋で知り合った男なので、そいつは大学生ではない。彼の職業は映画のエキストラで、毎日バスに乗って撮影所に出掛けて行く。酒の入っていないときはひどく無口な男だった。
 もう頭髪が薄くなって、地肌が光りはじめているのに、真赤なシャツや派手なチェックの靴下などをもち、いつもだぶだぶのコールテンの上着を着て、低い声で私のことを、「アンタさん」と彼は呼んだ。……風態ふうていだけは一応の映画屋さんだったが、どうやら、うだつのあがらない万年エキストラの一人だったようだ。でも、撮影所に通っていさえすればけっこう金は入るらしく、私は一文も払わずに毎日そこでゴロゴロしていたのだ。ときには少額だが小遣銭こづかいせんまで、そのエキストラ氏――本名か芸名かは知らないが、彼は磯島大八郎という名前だった――は、私に用立ててくれていたのである。
 もっとも、私は最初から長逗留ながとうりゅうをするつもりでその下宿に連れてこられたのではない。そこで一泊した翌日、私が、彼のひきとめるままに居候いそうろうをきめこむ気をおこしたのは、父のいない家族内でのわずらわしい自分の役目から、たとえ一時的にせよ解放されたかったためにすぎない。……私は、当時はまだ疎開先の湘南海岸で暮していた家族宛てに、すこし友人の家で勉強する、用件があったら手紙をくれ、手紙で返事をする、とハガキに書いて出した。母はふしょうぶしょう承諾の返事をよこした。
 案ずるより生むはやすしとはこのことだ、とつぶやきながら、私はあんまり簡単に事が運んだのにポカンとして、母のその承諾の手紙を眺めた記憶がある。当時の私自身にさえ、その現実は夢のようだったのだから、いまの私にとり、それがまったく夢の中の出来事のようにしか回想できないのも、あたりまえのことかもしれない。しかし、とにかく私は、そうして、夢の中で暮しはじめたのだ。
 磯島大八郎は、一風いっぷうかわった男だった。私は、「大チャン」と呼んでいたが、彼は料理をつくることが上手で、居候の私にきちんきちんと食事を食わせるのに、責任と熱意とをかんじている様子だった。壁に、牛やクジラや白菜の絵の描かれた円型の紙が貼られていて、彼は毎日それを眺め、ヴィタミンはどう、カルシュウムはどう、蛋白質たんぱくしつはどう、と呟きながら栄養価と熱量を計算して、もっぱら栄養のバランスがとれ、カロリーのある食事をつくるのである。大チャンはもと坊主で、お経もたくさん暗記していた。私は彼に般若心経を教えられたが、あんまりおぼえないので、彼は三日ほどであきらめてしまった。
 彼は壁にいろいろなものを画鋲がびょうでとめておく趣味があって、文句は忘れたが、西郷隆盛の辞世の歌というのがあったり、なんじ、けっして怒るべからず、怒ることは友人をうしなう術なり、汝、けっして許すべからず、許すことは自己を喪う術なり、という格言(?)を墨書ぼくしょした紙があったり、古い相撲の番付や、映画のスチール写真などが、その八畳の日本間の壁という壁に貼られていた。その中には、たしかオーデンの作品と思える英語の詩もまざっていた。彼は、一度結婚をしたことがある、というようなことをいったことがあったが、私はくわしくはかなかった。
 彼が、いったい何故なぜ、私を同居させ、食わせてくれるという親切心をおこしたのか、私にはよくわからない。私は大学の英文の生徒だったが絵が好きで、展覧会を片っぱしから見てまわってはノートをつけたりしていた。そんな私、それも彼よりは十才は確実に年下の私を、彼はどういうわけか尊敬さえしているみたいだった。酒を飲みたい、と一言いえば、たとえ借金をし、眠っている店をたたきおこしてでもウィスキイびんを買ってきてくれるのである。そして、いちいち真剣にうなずいては、私のでたらめな美術史の講義をきく。私は思いつきの、口からでまかせの仮説を、さも最新の学説のようにしゃべりまくる。あらゆる巨大な絵描きたちを一言で片づけてみせる。すると彼は心から感にたえたように、いかにもうれしそうにうなずくのだ。私は、次第にそんな大チャンにいらいらとしてきて、だが一方、自分の気焔きえんに逆にあおりあげられるみたいになり、しまいに収拾がつかなくなり、酔っぱらってそこにノビてしまう。そして翌日、自分がちゃんと大チャンの浴衣ゆかたを着て、蒲団ふとんの中に寝かされているのに気がつく。……
 いまから考えれば、どうしてそんなことができたか不思議な、いささか恥ずかしくもある話なのだが、それが彼の下宿での、私たちのくりかえしていただいたいの日課だった。いずれにせよ、私はそこで生れてはじめて思うさまに羽根をのばし、好き放題な自分だけのおしゃべりを満喫して、大威張りで徒食としょくしていたのである。

 下宿は、下北沢の駅に近いしもた屋の二階だったが、そこで暮しはじめて間もなく、私は窓の下を通って行く若い女の声の歌を聞いた。毎晩のように、その歌声が窓の下の道を通りすぎる。いつも、夜の十時前後になると、その歌声は聞こえてきた。
 下宿には庭も塀もなくて、窓の下は、直接に、オート三輪がやっと通れるほどの道がはしっている。道は細く長く、しかしまっすぐにつづいていて、歌声の聞こえてくる方向を逆に行くと、表通りへと出るややひろい道につながる。歌は、どうやら毎日お勤めに出ている若い女が、帰宅する道で歌っているのらしく、日曜日や休日には聞こえないのだ。
 道がまっすぐなせいか、しいんとした屋敷町の夜の静けさの中で、歌声はかなり遠くから聞こえてくる。それはまず、かすかな幻聴のようにはじまり、ためらいがちなごく細い声で、だが、はっきりと歌詞の立った澄んだ明瞭な歌いぶりで、まるで闇の中に一本の白い糸を引くみたいに、私たちの窓の下に近づく。歌はかならず戦争中のもので、一時、私の姉が夢中になって憶えたり歌ったりしていた軍国調のやつばかりだった。歌声の主は、歌詞をまちがえないよう熱心に気を配っていて、ちょっとでもつっかえると、また最初からやり直したりする。そして、一語一語はっきりと発音しながら、自信にみちた正確な歌いぶりで、闇の中をゆっくりと歩いて行く。……そんなことから、私はその女が、姉と同じ年頃に戦争を経験してきたオフィス・ガールで、しっかり者の、どこか潔癖けっぺきなかたくなさをもった老嬢(そのころの私は、二十才以上の未婚の女はみんな婆サンだと思っていた)だという気がした。大チャンは、どういうわけか、彼女は処女にちがいないと主張し、いままで夜のこんな歌声は、ついぞ聞いたことがなかった、といった。
 だが、毎晩のように、その女の歌声は、森閑しんかんとした夜の闇の奥からはじまり、足どりと調子を合わせながら、テンポ正しく窓の下を通りすぎる。酒を飲み、大声でしゃべりあっている私たち――といっても、しゃべっているのは、ほとんどつねに私だけなのだが――は、なんとなく黙ってその歌声に耳をすませたりした。小さな、しかし可憐かれんに張りつめたものを感じさせる声音こわねに、奇妙に哀切な感動をかんじていたのかもしれない。私たちは、ときにはその繊弱せんじゃくな、か細い緊張した歌声に合わせて、「神風特別攻撃隊」や「学徒出陣の歌」や「丘の夕月」を、われ知らず小さく口ずさんだりするのだった。
丘の夕月 飛ぶ雁に
母のやさしい子守唄
おさな心に あこがれの
空のトクカン 兄はく……
 大チャンは、青島で海軍の戦闘機に乗っていたという話だったが、歌のメロディも文句もまるで知らなかった。私は彼に執拗しつようにせがまれ、うろおぼえの歌詞を書いて「軍国歌謡集」という一冊のノートをつくった。……お経できたえた彼の胴間声どうまごえは、低声で西欧ふうな音程の曲を歌うのにはまったく適さなかったが、彼は肌身はなさずそのノートを持ちあるいて、表紙がボロボロになるまで読んで練習した。歌声が聞こえだすと、まるで待ちかまえていたように私にその曲の名前を訊き、あわててノートのページをくる。彼は、低声で不器用に一節ずつを追いかけ、やがて、女の声になんとか唱和できるほどに上達した。私はあまり面白くなかった。だいいち、いまごろ戦争中の歌に熱中するのなんて、どこかてれくさかったし、抵抗と反感をおぼえはじめたのだ。それに、なんといっても大チャンの関心が、自分のいい加減な美術論からその歌声に移ってしまったみたいなのが、いまいましくなってきたのである。
 そのうちに、私は次第にその女の顔を見てやりたくなった。声が窓の下にくるのをみはからって、窓を開けてみればいいのである。――だが、私がこのプランを話すと、大チャンは何故か頑強に反対した。それだけはやめてくれ、と彼は低く、しかし涙さえうかべて私にいったのである。
「私にはね、あれは救いなんです」と、彼はいった。「こうして、私はなんとなく毎日を生きてしまっている。ふわふわと、毎日を、本当に私たち人間ってやつは、うわそらで生きているんだ。なんとなく、それがあたりまえだと思いながら、自分にそう弁解をつづけながら、上の空で毎日を送り迎えしている。そうでしょう? 私には、この上の空の気分ってやつが大切なんだ」
「それと女の顔を見てやることと、どんな関係があるんだ?」
 私は、手を合わせ、いつくばって私を拝まんばかりの大チャンが、よく理解できなかった。
「私はね、自分がまじめになることがこわいんです。まじめに自分について、自分が生きてるってことについて、私は考えたくないんだ。もしそんなことと正面からとっくみはじめたら、私は、道をまっすぐに歩くことさえできない。ぐずぐずと道にうずくまって、そこで死んでしまうのにきまってます」大チャンは、大真面目な顔で答えた。「私の聞いているのは、あの人の歌じゃない。歌っているあの人の感情なんです。それが、私をしてくれる。あのひたむきな、思いつめた声音、緊張した歌いぶりが、私のいちばん深いところを刺してくれるんです」
「……ただの女の子の歌だぜ? 大チャン」
 私はあきれていた。大チャンはその私のを握りしめて、それを上下に振るようにして叩頭こうとうした。
「そうです、そうです。アンタさんのいうとおりだ。あれはただの女の子の歌です。でも、私にはあれは意味があるんだ。私はだらしのない、無気力な人間だ。卑怯ひきょうな、だめな男だ。私はまじめな人間じゃない。しかし、あの歌を歌っている人はきっとちがう。あの声は、鋭い刃物のように私を刺してくれる。私の、いちばん底にある忘れていたものを思い出させてくれる。そのありかを教えてくれるんです。それは痛みなんだ。でも、私は、そういう痛みが好きなんです。それが必要なんです。……私は、上の空の世界でしか生きて行けない。しかし、あの声に深く刺しつらぬかれる部分がある。これが私には救いなんです。これは、まじめな話なんだ。お願いだ、あの人の顔なんか気にしないで下さい。もし、私たちが顔をのぞいたりしたなら、あの人は、二度と歌なんて歌ってはくれなくなる」
 事実、そのとき大チャンは涙をながしていた。力ずくでも私を止めよう、という決意が察しられて、私はそれ以上、女の顔をみようと主張する気をくしていた。……大チャンがその女の声に感じているのは、一つの純粋、一つの無垢むくというものだろうか、と私は考えたが、私には、どうにもそのときの大チャンの言分いいぶんは理解できなかった。理解できなかったために、よけいそのときの彼の表情とか言葉とかを、奇妙な衝撃として私は心にふかく刻みつけたのかもしれない。
 その夜も歌声は聞こえてきて、近づき、遠ざかった。私は低く熱心に唱和する大チャンの深刻な顔をみつめ、ふと、きっと大チャンは戦争で幾人かの人間を殺してきた、その記憶が忘れられないのだ、という気がした。彼は、おそらくあの女の澄んだ歌声を触媒しょくばいとして展開する、過去の中の自分の純粋さを愛している。が、同時に、その過去とはこんりんざい対面したくない気分で生きているのだ。――私は、そんなことを思ったのだ。

 しかし、それから一週間ほどたったある夜、私は窓をあけた。歌の主の、若い女の顔を見たのである。
 私は、発作的にそれをしたのではない。その夜、私が大チャンへの、すくなくも意地わるな意志をもっていたのはたしかである。ことによると、私は、私の好き放題なおしゃべりの相手の心を奪い去ったその歌の主に、敵意に似た感情を抱いていたのかもしれない。とにかく、私は計画的にそれをしたのである。
 大チャンはちょうどその二三日前から、巨匠の演出する山賊の一味いちみになり、帰宅はいつも十二時をまわっていた。彼は、きまって二階へと上ってくるなり今夜の歌はなんだったかとたずね、それを口ずさみながら、朝用意して行った私の食事の後かたづけをはじめるのである。前夜、私は彼のさも幸福そうな後ろ姿をみて、はっきりとその思いつきの実行を心に誓ったのだ。
 九時近いころには、準備は終っていた。私は窓の溝に油を塗り、電燈のコードをのばして、窓を引きあけると同時に、それですぐ下を照らせるように工夫をした。一度、その路地に下りて角度をためしてみた。万に一つの失敗もないつもりで、歌声が聞こえはじめるのを待ちかまえた。
 案の定、十時をちょっと過ぎたころ、しのびやかな歌声が角を曲ってきた。いつもの声の主にまちがいはなかった。歌は「加藤はやぶさ戦闘隊」で、エンジンの音、轟々ごうごうと……というあれであった。
隼は行く 雲の果て
翼にかがやく 日の丸と
胸に描きし 赤鷲の
印は われらが 戦闘隊
 そこで軽快な、弾むようなリズムから一転して、哀調をおびたルフランがはじまる。
……いさおの かげに 涙あり
ああ いまは亡き もののふの……
 ちょうど、そのルフランの切れ目だった。歌声が窓の下に到達した。私は、勢いよく曇りガラスの戸を引きあけ、片手で電燈のかさをもって、それを細い暗い道の、歌の出てくるあたりに向けた。私はびっくりした。歌の主は、色白の、まだ子供みたいな顔の少女だった。すくなくとも私には、彼女はまだ十五六才くらいにしか見えなかった。
 でもタマげたのは、もちろんその娘だっただろう。唇をまるく肛門のような形にすぼめたまま、娘は、大きく見ひらかれた一重瞼ひとえまぶたの目で、窓に立った私を一瞬まじまじとみつめた。小さな、おびえたような顔が青白く呼吸をのんで、次の瞬間、それがみるみる上気したように赤く染まるのがわかった。
 なにもいわず、娘はすぐ顔を伏せて、全速力で逃げるように走りだした。あわてた靴音が消えて行った。私は笑いだした。
 なあんだ、と私は思ったのだ。日本ふうな顔だちの、小柄な首の細い娘で、赤いカーディガンのようなものを着ていた。彼女は、せいぜい高校生ていどの年令のようで、私たちの想像していた気むずかしげなオールド・ミスとは、まるっきりイメージが違っていた。案外、定時制高校の生徒なのかもしれなかった。私はなんとなくあてがはずれた気がしていた。
 だが、私はひどく愉快だった。そのようにして歌の主の顔をおぼえ、あらあらしく不意に土足で乱入したみたいに、娘に強引に私という一人の他人の存在を気にとめさせたのが愉快であり、意地のわるいよろこびを私にあたえていた。
 窓を閉め、電燈のコードをもとどおりに直すと、私は仰向けに畳に寝ころがって、くすくすとながいこと笑いつづけた。私は、娘にも大チャンにも、ザマアミロ、といった気分にこそなれ、悪いことをしたとか、すまないとかいう気持ちにはまったくなれなかった。他人というやつは、いつも残酷なものだ。人間には、いつだってそんな他人というやつが存在していて、他人は、いつだって人間を一人きりの世界になんて住まわせておいてはくれないのだ。それがあたりまえで、それが世の中というものだ。だから、こんなことくらい、べつに大したことじゃあない。多かれ少かれ、人間はみんな他人に耐えているのだ。それが生きることだ。……
 しかし、時間がたつにつれて、私は自分の心の貧しさ、意地わるさが、不快になりはじめた。歌声の主が意外に可愛かわいらしい少女だったことも、私の心を痛ませた理由の一つだったかもしれない。自分の残酷さが、悪趣味ないたずらとしかいいようのない行為が、次第に胸に重くつかえてきた。だいたい、はた迷惑なほどの歌声ではなかったのだ。わけのわからない大チャンの神秘化にしたって、なにもわざわざ私が干渉するいわれはなかったのだ。私はふさぎこんで、酒を飲みはじめた。大チャンの部屋にはラジオもなく、私は他に気のまぎらわせようがなかった。
 二時に近く、大チャンはけるようにして階段を上ってきた。呼吸をととのえながら、彼は、「今夜はなんて歌でしたか?」と重々しく私にたずねた。
 私は、つい自分のしたことをいいそびれた。「……加藤ハヤブサ、戦闘隊の歌さ」と、私は酔って舌をもつれさせながら答えた。「エンジンの音、轟々と、っていう、あれさ」「ほ、ほんとですか?」
 突然、悲鳴をあげるように大チャンが叫び私はびっくりした。中腰のまま、大チャンは目をえて私の前ににじり寄った。「ほ、ほんとにあの歌だったですか? ハヤブサは行く、雲の果て、っていう、あの歌だったですか? まちがいありませんか?」
「ほんとだとも。……どうしたんだ? 大チャン」
 私は、びくびくして答えた。雀躍こおどりせんばかりの彼の態度がせなかった。
「いや、おどろいた、おどろいているんですよ、私は」大チャンは顔をかがやかせて、ふいにしっかりと両掌で私の手をつかんだ。「きっと、いよいよ心が通じたんです」
「ココロが通じた? なんのことさ」
「今日ね、十時ごろ、私は撮影所にいたんですよ。ね? 酔っているようだが、わかりますか?」
「わかりますよ、それくらい」
「そしたらね、いいですか? ふいに、やはりハヤブサの歌が聞こえてきたんですよ。ありありとね。ええ、あの女の人の声で。ほんとなんです」
「え?」私は起き直って、呆れて大チャンの顔をみつめた。
「いや、その、私の心の中でなんです」大チャンは顔を真赤にしていた。「霊感です。だから私は、今夜の歌は、きっとあれだっていう気がしたんだ」
「……よしてくれよ、ばかばかしい」
 私は皮肉な表情を、意識してとりもどしながらいった。「偶然だよ。偶然大チャンの幻聴と同じだっただけのことです」
「ええ、ええ、アンタさんは、きっとただの偶然にすぎないとおっしゃる、それはよくわかっています」大チャンはムキになった。「でもですね、これを偶然だときめつけるのは、一つの解釈にすぎない。そう解釈したところで、なにがどうなるというんですか? 世の中には解釈だの説明だの、解決だのがあるんじゃない。ただ事実だけがあるんですよ。人間は、その事実だけをしょいこんで生きてるんです」
「なにをいいたいんだ? 大チャン」
 私は、しゃべりながら次第に接近してくる大チャンの顔を、左右に首を振って避けながらいった。ドングリ色の小肥こぶとりの彼の顔が、エネルギーと熱気とにちて私の前にあった。彼は、あぐらをかいたような小鼻をひくひくさせ、鼻翼びよくあぶらをかがやかせて、なおもいいつづけた。
「いや、私はただ、事実というものの、のっぴきならなさをいってるんです。……アンタさんは、それを理屈で片づけようとなさる。わけのわからない符合ふごうは、偶然だとして片づけようとなさる。しかしですね、人間には、ただ事実だけがあって、人間は、その事実の責任をとらなくっちゃいけないんだ。アンタさんは、信じなくっちゃいけない。私は今日アンタさんがここでほんもののその歌を聞いたのと同じ時刻に、同じあの女性の、同じ歌を聞いた。それは、……」
 大チャンはいいよどんで、はじめておどおどとしたふだんの表情にもどった。畳に目を落しながら、急に耳たぶまで赤くなった。低いふるえ声で、しかしはっきりと彼はいった。「……それは、私があの人を愛しているからです」
 私は、言葉を失くしていた。酔いがさめて行くのがわかったが、私はただ馬鹿みたいな顔でぼんやりとしていたのに違いなかった。
「私が、あの人を愛しているからです」
 大チャンはくりかえした。「……私と、あの人とは、もはや感情の交流をはじめている。ウソじゃない。私はいま、あの人の内部が手にとるようにわかる。私は、これからさき毎晩聞こえてくるあの人の歌がなにか、ぜんぶわかるような気がしますよ。ありがたいことです。……ね? これが愛なんです」
 ……その夜、彼がある大部屋の女優にもらったのだといい、皿にいちごを盛って出してくれたのを私は憶えている。素人しろうとの菜園でできたのらしいその小粒の、すこししなびたい苺を機械的に口に運びながら、私は酔いもさめて、大チャンは狂人かバカか、またはその両方だと思っていた。私は、その夜の自分のいたずらは、彼にはいうまいと思った。もし私が女の顔を見てしまったことを告げたら、そのせいで二度と歌が聞こえてこなかったらこの気違いは私を殺すかもしれない、と私は思ったのだ。
 大チャンは、二階にもついている流しで私の食器を洗いながら、さもたのしげにひどい音痴の鼻歌を歌っていた。そして、私に向ってうれしそうに笑いかけて、片目をつぶったりしていた。とうてい、私にはその彼にいたずらを告白する勇気はなかった。
「ああ疲れた。今日は三回も殺されちゃってね」と大チャンは座敷にもどるなりそういい、小さな茶箪笥ちゃだんすから砂糖の缶を出すと、二匙ふたさじほどをペロリと舐めた。「疲れをとるには糖分がいちばんです」そして、声をひそめて私の耳にいった。「いいですか? 明日もよく聞いといて下さいよ。明日はね、きっと潜水艦の歌です。ゴーチン、ゴーチン、ガイカが上りゃ、っていうあれ。明日は、きっとあの歌が聞こえてきますからね」

 もちろん、私は大チャンの「霊感」などを本気で信じたわけではない。私は、狂気や感傷にたいしては、冷笑的な態度をとるのを習慣としていたのである。
 しかし、私はその夜の大チャンには、いちがいに笑いとばすことのできない迫力、薄気味のわるい奇妙な真実のようなものを感じていた。彼は私を、ふしぎな不安のとりこにしていたのだ。
 翌日の夜、私は耳をそばだてて歌声が聞こえてくるのを待った。十時すぎ、かすかに例の歌声が聞こえてきた。耳の迷いではなかった。か細くけんめいな、いつもの声音だった。いつもと同じように、歌声は歩調にテンポを合わせながら、着実に近づいてくる気配だった。
 なんとなく、私はほっとしていた。昨夜のいたずらで、歌声が途絶えなかったことに。そしてそれが「潜水艦の歌」ではなく、「予科練の歌」だったことに。……が、その歌声は、私たちの部屋の窓が投げかけている淡い灯影のはるか手前の位置で、ぷつんと糸を断つようにとまった。そのまま、その夜は二度と聞くことができなかった。それが私のいたずらの効果であることはたしかだった。私はまた酒を飲みはじめた。
 私は、大チャンの予想がみごとに外れたことに、いい気持ちになっていたのではない。もし歌声が「潜水艦の歌」だったら私はちがった反応をおこしていたろう。だが歌は「潜水艦の歌」ではなく、大チャンは、あきらかにばかげた誤りを犯していた。たあいのないいい気な空想の上に、彼の「愛」を築き上げているのだ。が、私はその大チャンを、何故か嘲笑ちょうしょうする気にはなれなかった。……私は彼の感傷的な「愛」の確信、でたらめで勝手な彼の狂気に、いささかの軽蔑ももたなかったわけではない。いや、私の中には、彼への嘲笑はたしかに存在していた。しかし、私は大チャンを嘲笑し、大チャンを軽蔑しながら、次第にその大チャンへの劣等感にとらえられはじめたのだ。
 私は、それまで自分がだれひとり愛したことがなかったのを、そして、たぶんこれからもだれも愛せそうにもない自分を、ある切実な苦痛とともに意識していた。私は、わざとのように「愛」という言葉を迂回うかいして生きてきた自分を思った。私にとり、「愛」はどうにもならぬ連繋れんけいの意識であり、その負担であり、身動きのつかぬ「関係」の別名でしかなかった。私はそれをたのしめたことも、すすんでもとめたこともなかった。すくなくとも、だから私は、「愛」なんてものは無いほうが生きやすいと思っていた。たぶん、まだ幼く、小心だった私は、もっぱら「負担」への嫌悪と恐怖とを生きていたのである。
 むろん、私はこれらのことを、そのとき明瞭に意識していたわけではない。私をおそったのは、結局のところ一つの不安であり、いまいましさであった。私の知らない「愛」、その幸福、その歓び、その能力が大チャンにあること、それへの不安であり、興味であり、嫉妬めいたいまいましさにすぎなかった、といまの私は思う。
 大チャンが帰宅したとき、ウィスキイ壜はからになってころげていた。日本酒の壜もころげていた。私は、部屋じゅうを引っかきまわし、あらゆる酒精分しゅせいぶんを飲み干してしまっていた。私はやたらと眠たかった。
「どうでした? 今夜は?」
 大チャンは呼吸をはずませてたずねた。
「ウィスキイ」と、私は答えた。すると彼は飛鳥ひちょうのように身をひるがえして、たちまち丸壜を一本買ってきて私の前に置いた。私にしたら、それは一瞬のあいだの速さだった。私は大チャンが、なんでもこちらの希望するものを黒い上衣うわぎの中にかくしている、お伽噺とぎばなしの魔法使いのような気がした。
「さ、飲んで下さい。アンタさんは大切な方です。なにしろ、ほんもののあの人の歌を聞いてくれる生証人いきしょうにんなんだからね」はしゃいだ声音でいい、コップにウィスキイを注ぎながら、彼はまたたずねた。
「ね、どうでしたか? 潜水艦の歌だったでしょう?」
 私は、一瞬返答に窮していた。「……それよか、大チャンのほうはどうだったの。また聞こえてきた?」
「聞こえてきましたとも」大チャンは胸を張った。「潜水艦の歌でしたよ、やっぱり」
「へえん」と私はいい、大チャンのすっかり有頂天な、お菓子を待つ子供のような目に出あった。私はうろたえたように目を伏せ、とたんに、自分が彼の内部にどんな場所も占めていないのがわかった。私は完全に彼の皮膚の外にはじき出され、一本の電柱のような私が彼に見られていた。……彼は、ただ、彼の愛への関心だけで充満していた。いま、彼には自分への関心しかないのだ。
 大チャンはそれをむき出しにしていた。彼は強者だった。そのとき、私の中に奇妙な敵意に似たものがうまれた。むざむざただの電柱扱いなんかされてたまるものか。こっちだって人間だ。なにもお前のためにだけ生きているわけじゃないんだ。よし、うんと飴をしゃぶらせておいてから谷底に蹴落してやる、と私は思った。さりげなく、私はいった。
「おどろいたよ。……こっちも、やはり潜水艦の歌だったぜ」
「そうでしょう? そうでしょう?」
 待ちかまえていたみたいに、大チャンは手をって跳ね上った。「ああ、やっぱりほんものだ。ほんものの愛が、私とあの人とをつなげている。すばらしい。じつにすばらしい。愛だ。ほんものの愛だ。……」
 大チャンは、そして急に黙りこんだ。沈黙がつづいていた。私は目をこすって彼をながめた。古い仏像のような笑いを頬にうかべたまま、彼はぐったりと肩を落し、唇からよだれを垂らしていた。だらしなく口がひらき、その涎の筋が、光りながらヨーヨーの糸のように伸びたり縮んだりしている。目が、放心したように遠くをみつめている。
 そのまま、なにもいわなかった。私はすこし怖くなった。
「ああ、世界が私ひとりの中にあつまってきたみたいだ」と、やがて彼はいった。「……どうです? 相撲をとりませんか?」
 でも、ベロベロに酔っぱらった私は、彼を見ているだけがやっとで、立ち上ることさえおぼつかない。大チャンは歓喜の表現の手段がなく、太短ふとみじかい脚を組むと、「ああ、ああ」とうめきながら、酒を飲みはじめた。
「ああ。まるで、全身が傷口になって、そこにアルコールをぶっかけて火をつけたような気持ちですよ」と、彼はぐいぐいと酒をあおりながらいった。「私は火だ。火ダルマです。一つの巨大な痛みとなって燃える光だ。燈台だ。そうだ、あの人は、その燈台の光のとどく夜の沖に、やっと姿をあらわしたただ一隻の船だ。純潔な白い帆をつけたヨットだ。黒い海が私たちをへだて、しかし一条の光が私たちをつないでいる。私たちは、その光の橋を渡っておたがいにするんだ。ああ、なんという美しい景色だ。これは詩ですな。うん。そしてこの景色こそが、真実の愛のそれだ。ああ、いまこそ私は愛を生きているんだ。ああまったく」
「……でもさあ、大チャン」私は、笑うどころではなかった。自分の嘘の効果のあまりの絶大さに、悪夢でも見ているような朦朧もうろうとした気持ちで、でも半分は本気でそれをたずねたのだ。「愛だなんていってるけど、相手は大チャンのこと、知らねえんだろう?」
「そんなこと、ぜんぜん必要ありませんよ」
 言下げんかに、大チャンはさも当然なことのように答えた。
「だって、……」
「だって、なんなんです? とにかく、私の心の耳にあの人の歌が聞こえてきた。今夜、現実にあの人がこの窓の下を通りながら歌った歌がですよ? ところが、ここと撮影所は、バスで四十五分もかかるほど離れている。そんなもの、聞こえてくるはずがないじゃありませんか。え?」
「そうです。そんなもの、聞こえるはずがねえです」
「でしょう? ところがそれが聞こえてきた。それも昨日、私の予言した歌がですよ。あの人はそれを歌い、私は撮影所でありありと心の耳に聞いた。これは私の内面がですね、現実のあの人をついにキャッチしてしまった、という証拠ですよ。あの人と私とは、もはや距離とかはさみではちょん切れない切っても切れないある種の関係がうまれている。これを愛と呼ばずに、いったい、なにを愛と呼べばいいんですか?」
「だって、そんなの、大チャンの幻影にすぎないといわれたらそれまでじゃないか」
 私はわけがわからなくなり、悲鳴に似た声をあげた。大チャンは、さも驚いたという顔をつくって私を見た。
「おや? 幻影で、いったいなにが悪いんです? これはアンタさんのお言葉とも思えないね」ガブ飲みのせいか、すでに大チャンは呂律ろれつがあやしかった。「だいたい、人間とは幻影なんだ。たとえば、アンタさんの思うアンタさんとは? 幻影です。アンタさんの思う人間とは? 幻影です、人間の内面は、つねに幻影です。幻影、これ人間なんです」
「……ばかいえ、幻影は幻影だぞ」私はどなった。私は、負けずにウィスキイをコップ飲みした。大チャンも一息で喉にあけた。
「幻影は幻影だ。もちろんです。しかしですね、そういって整理をして、人間からその幻影を取っちゃったら、いったいなにが残りますか? 人間は、しんまで物質のつまった石ころと同じになっちゃうじゃあないですか。そんなことでいいわけはない。人間が石ころと同じだなんてのはウソだ。人間はね、幻影をつくりだす能力と、それを信じる勇気があるからこそ、人間なんです。石ころは石ころだ。人間は、自分が一箇いっこの石ころであるのを、その現実を、つねに拒否しつづけなくちゃ、いけないんだ。……」
 突然、彼は大声でサイレンのように咆哮ほうこうした。立ち上ると、手足を突っぱるようにして奇妙な踊りをはじめた。がくがくと首を上下に振り、膝をたたき、密林の猛獣のような雄叫おたけびをあげて、ぐるぐると部屋を廻りだした。そして、次つぎと服を脱ぎはじめた。
 あっけにとられたまま、私は、彼のその醜怪しゅうかいなストリップを見ていた。……そのとき、私に大チャンへの、うまくダマしてやったという意地のわるい快感、想像をこえたそのばかげた興奮ぶりへの驚愕きょうがくや嘲笑、それらがあったのかどうか、いまはなんとも確言することができない。ただ、一つだけたしかなのは、文字どおり狂喜乱舞している大チャンの姿に、私が心から敗北を意識し、感動していたという事実である。私は、心から感動してその踊りを見ていた。その自分を、私はいまも明瞭によみがえらせることができる。
 いつのまにか、大チャンはパンツ一枚のはだかだった。顔だけが浅黒い大チャンの裸体は、ぶよぶよにみっともなく肥っていて身長のわりに大きすぎる顔がレンガ色に、あとの全身がかすかに紅潮して、手足の短い彼のその姿は、ひどくよく豚に似ていた。満面に恍惚こうこつとした笑みをうかべたまま、彼は奇声をあげ、いくども同じ手ぶり足ぶりをくりかえした。けたたましい声で笑いつづけた。

 たぶん、それからも彼は踊りつづけ、さらに「愛」についての演説をぶちつづけたのだと思う。さ、踊りましょう、いっしょに踊るんです、と手を引っぱられた記憶もある。だが、私は立てなかった。私は混乱し、恐怖と滑稽こっけいとをないまぜに感じつづけながら、酩酊めいていのあまり、いつのまにかそのまま眠ってしまっていた。気づいたのは翌日の昼ちかくである。私はいつものとおりちゃんと大チャンの浴衣を着て、蒲団の中で寝ていた。
 もう、大チャンの姿はなかった。流しのそばのガス焜炉こんろで、薬罐やかんの湯が煮えたぎっている音が聞こえた。私は身をおこしかけて、割れるような頭痛に気づいた。そのとき、枕もとに一通の封書が置かれているのを見た。私宛の封書で大チャンが撮影所への出勤まえ、新聞といっしょに取ってきて、置いて行ってくれたのに違いなかった。
 動かすとずきずきする頭を、なるべく動かさないようにして私はその重い封書をとり、封を切った。案の定、母からの手紙だった。……読みおわって、私はウンザリとしていた。用件は最後の一枚だけで、あとは母の愚痴ばかりなのだ。その用件にしたって、庭の松の木が二本、虫くいになっているのを隣りから注意された。危いからってくれというのだが、どうしようか、というだけのことなのである。
 寝たまま私はハガキと万年筆とを取り、すぐに返事を書いた。松はさっそく伐るように。もし隣りから役場にいわれ県で伐ることになったら、一本で千円くらいの補償しかくれない。町の材木屋に行けば、伐って運んであと始末をして、代金として一万円はくれます。どうせ伐らなければならないのだし、そのほうがトクでしょう……それだけを書くと、もう書くことがなかった。私はぼんやりした。母、祖父、姉妹の顔を順ぐりに思いうかべようと努力したが、高さ二十メートルほどの「虫くい」の松の幹が目にうかぶようにしか、それらは私の前にあらわれない。……なんとなく期待していた甘いなつかしさが湧くどころか、一人一人がさも非難するような目つきで、くどくどと自分のことだけをしゃべりだすのが耳に聞こえるような気がしてきて、私はただ、まだ当分はあの家には戻りたくない、とだけ明瞭に思った。――
 わけのわからない怒りが、はげしく私をとらえたのはそのときのことだ。突然、それまですっかり忘れていた昨夜の情景がありありと目によみがえって、私は夢中で踊りつづけ、「愛」についてしゃべっていた興奮した大チャンを思い出した。焦立いらだちながら、その幸福な彼に気を呑まれて茫然としていた自分を思い出した。
 私は思ったのだ。大チャンは愛を生きているといった。たしかに彼の中に、あの歌声の主への「愛」は生き、いや、その「愛」の中に彼は生きているのだ。でも、これは彼が、彼以外の幻想を生きていることじゃないか。つまり、彼が一つの不在に化しているということ、彼が、彼を生きていないことじゃないか。
 ――許せない、とはげしく私は思った。あんな安易あんいな、ばかばかしく滑稽な狂気を、恥ずかしげもなく「愛」と呼んで、その中に自分を解消する彼の幸福な才能、すくなくとも、あんなに簡単に、いい気に、「愛」を信じ、その中で幸福になっていられるという能力、これが許せない。その自己解消の能力が大チャンにあって、自分にはないということ、それが許せないのだ。……私は、あきらかに大チャンを嫉妬していた。その幸福をねたみ、彼を憎んでいた。もはや、それは軽蔑でも、嘲笑でもなかった。私の意識していたのは、一つの明白な敵意だった。
 私が顔をしかめていたのは頭痛のせいばかりではない。私には、大チャンのような幸福な「愛」、たのしい「愛」の記憶も、その持ち合わせもなかったのだ。でも、それが自分であり、どうしてそれが私の負目おいめにならなければならないのか。……ふと、私は昨夜ささやいた彼の言葉を思い出した。
「明日はね、さらばラバウルです。あれを歌いますよ。もう、私にはちゃんとわかるんです」
 ――よし。と私は口の中でいった。今夜も、やはりその歌だったよといってやろう。これからも私は彼をダマしつづけ、彼のいい気な「幸福」の構造を、その狂気の滑稽さを、意地わるくとことんまで見きわめてやるのだ。私は、私の嘘で彼の「愛」を飼って、彼が最高にご機嫌になった瞬間に、それをバラしてやる。彼を「石ころ」の現実の中に突きおとしてやる。否応いやおうなく、彼もまた一箇の石ころにすぎないのを、思い知らせてやる。……
 ……私は、それが「石ころ」の現実しかもたぬ自分、一箇の「石ころ」である以外に、自分の誠実さの信じられぬ私の、せめてもの大チャンへの復讐だと思った。彼のように、あんなに簡単に「石ころ」の現実を脱出できるなんて、信じがたい。「石ころ」を侮蔑ぶべつし、あんなに安直なごまかしで「石ころ」を否定して得意気な、彼のあのいい気さが許せない。私は、母からの手紙の着いたその朝、はっきりと彼に挑戦してやろうという決意をかためたのだ。
 喉がかわいていた。水を飲みに起き上って、私は窓をあけた。きらきらと輝くような日光がまぶしく、細い路地をへだてた隣りの家のきりの花が、紫いろの穂もせて散って、茶褐色ちゃかっしょくのただの棒のようになっているのが目に入った。そういえば、昨夜はもう窓が白みはじめていた、と私は思った。いつのまにか初夏も終りかけているのだ。みずみずしい紺青こんじょうに輝く湘南の海の肌が、ふと私の目にうかんできた。

 女の歌声はつづいていた。雨の夜にも、それは聞こえてきた。歌はやはり軍国調のものばかりで、女は、なにかかたくなに、それを自分に課してさえいるみたいだった。私には好都合なことに、大チャンの帰宅は、かならず十二時より遅くなった。巨匠の山賊役は終ったようだったが、彼は仕事がけっこう繁昌はんじょうしているらしい様子だった。計画どおり、私は大チャンをダマしつづけた。
 もっとも、歌声の主は、いつかの私の行為をけっして忘れたのではなかった。歌の声は、私たちの下宿の近くまでくると、急に遠慮したみたいに低くなったり、時にはぷつんと切れたりして、でも、たいていは私の部屋の窓がおとしている灯影の範囲をすぎるあたりからもとの調子に戻るのだが、三度に一度はそのまま聞こえてこなかったりした。
 あの娘が、あれからのち、私の存在を気にしていることはたしかだった。むしろ、脅えていた、というべきなのかもしれない。ふと歌声が中断して、そのあとにつづく数瞬間、私はたびたび漆黒の夜の闇の中に、敏感に敵の気配を察知して身をかたくし、そっと迂回して行くそんな小動物のような娘の、私に向けられた意識を、ありありと肌に感じたりした。自然、こちらも呼吸をころし、耳をすませたまま、そろそろと動いて行くその姿と動きとを想像する。ただ一度だけ見た小柄で色白なあの娘の、驚愕とも恐怖ともつかぬ開けっぴろげな表情をまぶたにうかべながら、その沈黙に対抗する。……娘は、いつかの私のいたずらに、よほどきもをツブしたのらしく、一度だって前のように歌いながら下宿の窓の下を過ぎたことはなかった。どうやら、私は、彼女にはおそろしい敵と思われていたのにちがいない。げんに、通り越したな、と思った瞬間、バタバタと軽い靴の音が全速力で駈けだすのを、幾度となく私は聞いているのだ。
 もちろん、私は二度といたずらをくりかえさなかった。それどころか、あの行為が歌声を殺さなかったことに、救われたような気持ちでいた。そして、毎夜くりかえされる彼女の通過するときに感じる、無数の黒い小鬼こおにたちが音もなく干戈かんかを交えているみたいな、影も形もない無言のおたがいの意識のたたかいは、次第に、私と彼女との、二人きりの奇妙なゲームのように思えてきた。いつのまにか、私は夜ごとの秘密な愉しみのように、それを待ちもうけている自分を発見した。
 しばらく雨の夜がつづいたのは、あれは梅雨のせいだったのかもしれない。でも、女の歌声はまなかった。依然として大チャンの帰宅は十二時をまわりつづけ、彼は毎晩かならず明日の歌を予告してから床に入った。
 それにしても、現実の歌声が、一度だって大チャンの予言どおりには歌われなかったというのは、むしろ不思議だった。ことごとく大チャンの予言は外れていたのである。
 だが、私は毎日彼をダマしつづけていた。彼の予告どおりの歌が今夜も聞こえてきたといって、かなり大げさにおどろいたり、気味わるがったり、からかったりしてみせていたのである。大チャンは完全にひっかかった。もはや彼は自信満々で、幸福というより、至福の状態にあった。彼は、そうでなくてさえ細い目を細めて、涎のたれんばかりの唇でいうのである。
「そうでしょう? やっぱり今夜はあの歌だったでしょう? もちろん私にも聞こえてきました。じつにきれいな声です。凜々りりしい、澄んだ、ピンと張ったプラチナ線のような声です。明日は、マレー沖海戦だな、あれを歌いますね。でもね、明日は一箇所かしょまちがえます。マレー半島、クワンタン沖に、ときて、その次がちょっと出ない。いまぞ、と、いまや、とをまちがえるんです。だから、もう一回歌い直しますね、明日は」
 私はぞくぞくしてくる。予定どおり、彼は彼の「愛」ではなく、たんに私の「嘘」を生きはじめているのだ。……そこで翌日、私は、奇蹟きせきを見たような顔をつくり、まったくそのとおりだったと報告する。大チャンは相好そうごうをくずし、茶色い顔をてかてかにかがやかせてうなずくのだ。そしていう。
「もうね、歌だけじゃない。私にはあの人のすべてがわかるようです。……あの人はね、生垣いけがきのある家に住んでいます。生垣は椿ですな。あの人は、白い椿がとても好きなんです」
「ほう。スゴいね大チャン、そんなことまでわかっちゃうの?」
「わかりますとも、パッ、パッとひらめくようにいっさいが私の心の目に見えるんです。愛というものは、そういう不思議な力を生みだすんです」
 鼻の穴をふくらませて、彼はいかにも感嘆しきっている私を見る。いよいよ調子にのり、まるで見てきたようなことをいうのである。
「あの人は、長女なんです。お父さんが亡くなっていて、家はあまり裕福じゃないのだ。だから皆に、冷たいといわれるほどしっかり者の、孤独な娘さんなんです。どこにも甘える人がいない。会社でも、有能すぎてきらわれてしまうんです。でも、そういう人ほど、自分をすっぽりと包みこんでくれるやさしい愛に飢えているものです。可哀かわいそうな人です。あの人は、もうすぐ三十になるんですよ」
「知ってるんじゃないの? 大チャン」私はあまりに自信ありげな彼に、ときにそんな疑問にとらえられる。「でなきゃ、どこかにモデルがいるんだろう? 白状しちゃえよ」
「とんでもない」大チャンは、するとさも心外なことをいわれたという目をする。ムキになって私にいう。「アンタさんは、まだわからないんですか? モデルなんて、そんな地上的なこととはわけがちがうんです。私はただ、私の心の中に日ましにはっきりとしてくるあの人についていっているだけです。どうしてこれが信じられんのかなあ。あの人の歌声をよーく聞いていてごらんなさい。深く、しずかに、心の耳で聞いてごらんなさい。そうしたら、アンタさんにもちゃんといっさいが見えてくるはずなんです」
「ふうん。……ところで、美人ですか? 彼女は」
 私がそれを訊くと、彼はいつも露骨に不快げな顔をつくった。
「どうしてアンタさんはそんなに顔とか見てくればかりを気にするんです? 私は、アンタさんが、もっと肉眼では見えないものに関心をもってくれたら、と思いますね。だいいち、そんなことはいわぬが花です」
 そのころ、大チャンの「愛」は、どうやら夜ごと空中に、「あの人」の姿がおぼろげに浮かぶあたりにまで行っていたのらしい。声の主を見ている私は、大チャンがどんな女性を想像しているのかに興味をもっていたが、彼は言を左右にしていつも逃げた。きっと、イメージを自分ひとりのものにしておきたいんだろう、と私は思った。
 ときどき、私は合唱をして彼のご機嫌をとった。私は、大チャンの関心があの歌声かられて行くのを、いちばんおそれていたのである。
きさまと俺とは 同期の桜
別れ別れに 散ろうとも
咲いた花なら 散るのは覚悟
同じ梢に 咲いて逢おうよ
 二人で手拍子をとって歌いだすと、私にはきまって戦争中のよく晴れた青空が目にうかんできた。その青空にまっすぐな白い航跡をいて動いていたB29。疎開先の家でうけた真夏の昼の小型機の銃撃。私は、家族と折り重なって部屋の隅にかたまりながら、もし私に弾丸が命中して死んでも、この皮膚を接している母や姉妹たちは死なないのだ、彼女らにはまた明日がやってくるのだと考え、奇妙な衝撃にとらえられた記憶がある。私が私だけであって、他の人間のだれでもないということ、他の人間のだれにもなれないということ、家族だとか兄妹とか、あらゆる癒着ゆちゃくの幻影がじつは錯覚にすぎないこと、それだけが確実なことであるのを、私は「死」の光にてらしだされながら、全身の肌で感じていた。私は、自分がほんとうに生れたのは、あの瞬間の中でだったと思う。すくなくとも、あのとき私は自分以外の人間たち、他人たちというものの存在に目ざめたのだ、と思う。……だが私は、いつも自分から歌を始めながら、自分から歌をやめた。歌っている自分が、まるであの青空の中に吸収され、解消されて行くみたいな気がして、私はそこに一つの恥ずべき猥褻わいせつをかんじるのだ。私は、自分が感傷的になってしまうことを、ひどくおそれ、警戒し、嫌悪していたのかもしれない。……
 ながい梅雨が終り、遠い空にいかつい入道雲にゅうどうぐもが湧いて、日中の強烈な夏の重い光が、夜ふけまで部屋の空気を熱している暑い日々が来ていた。思い出したようにつづけていた私の大チャンへの我流の美術史の講義も、古代キリスト教美術が一応すみ、そろそろ日本にかえって伎楽面ぎがくめん白鳳はくほうの彫刻の話でもはじめようかと思っていた矢先きだった。ふいに、女の歌声が途絶えた。
 七月に入ったばかりのころで、二日たち、三日たち、一週間がすぎても、窓の下を通って行く夜のあの緊張した歌の声は、ふたたび聞くことができなかった。

 私は狼狽ろうばいした。最後の歌が聞こえたのは七月の二日だった。それまでは、欠かさずに歌はつづいていた。私は毎夜その時刻には、本を読んだり級友のノートをうつしたり、展覧会の記録をとったりして下宿にかならずいることにしていたので、それにはまちがいはなかった。彼女が歌うのを止めないため、私は毎日わざわざ暑いのに窓を閉めて、なるべく彼女に不安をあたえぬよう気を配ってもいたのである。
 歌は、十日たち、半月が経過しても、永遠の沈黙の中に消えたように二度と聞こえてはこなかった。夏休みになったせいだろうか? それとも娘は病気なのだろうか? 引越しをしてしまったのか? あれこれ理由を考えては、私は、考える自分に腹が立った。私もまた最近では、あの歌の主の存在を必要とし、あの歌声に恋情れんじょうをもよおしているような気がしたのである。急に途切れたり小さくなったりして、私を意識して暗い道を迂回して行くあの娘の存在が、妙になつかしく、それがなくなったことがたえられぬほどさびしいのだ。私は思い切って窓を開けた。十時前後になると、その下の道を通る人かげに注意をした。でも、あの娘の姿は一度もその路地にあらわれなかった。
 一方、大チャンはおそい帰宅をつづけていた。彼は、依然として歌声が毎夜聞こえてくるつもりでいた。なにも知らず、帰宅してその夜の歌が前夜いったとおりなのを私にたしかめては、明日の歌をはりきって予告するのである。彼は、そのころは、「あの人」と会話さえかわしている様子だった。歌声の絶えたのにも関係なく、彼の歌声の主への、「愛」は、勝手にそこまで進捗しんちょくしてしまっていたのである。
 ……もちろん、私は彼に嘘をつきつづけていた。だが、彼へのファイトとか悪意のようなものは消えてしまい、私はただ、面倒をさけるだけの気持ちで彼にツジツマを合わせていたにすぎない、奇妙ないい方だが、現実に夜ごとのあの女の歌声が聞こえなくなってみると、もはやそれは「嘘」としての実体を失ってしまっていたのである。実際の歌声があってこそ、私の嘘にあやつられ、その嘘を生きている大チャンに意地のわるいよろこびを感じることもできたのだが、その実際の歌声が消滅しているのでは、大チャンのいい気な幻影のおしゃべりにも、なんの手応えもないのだ。……彼の「あの人」についての饒舌じょうぜつは、私にはなんの関係もない、無縁などこかの女についての噂話うわさばなしとかわるところがなかった。
 私は、だんだん、そんな彼につきあうのがばからしくなりはじめた。初夏の終りのころの、あの朝にかんじた彼への敵意も、次第にどこかへ消滅してしまった。それでもなお私が、大チャンの予告どおりの歌がつづいているふりをしていたのは、一つの習慣への無気力にすぎなかった。
「あの人はね、すこし色が黒いんですよ。そして顔がながい。やっぱり女ですね、とてもそれを恥じてるんです。どうして恥じることがあるんだろう、とだから私はいってあげたんです。私だっていい男じゃない。私はでも、それを恥じない。私の恥じるのは、私の存在そのものなんです。私は、私が死ぬことが恥ずかしいんだ。私がたんなる一箇の物となって、一箇の物として腐って行くことが恥ずかしいんだ。生きているかぎり、人間は生きようとしなければいけない。そうなんだ。その、生きようとしている人間にとって、自分の見てくれなんかが、どうして問題になります? だれが美しく死ぬことなんかできるものか。美しいのは、生きていることなんです。生きる勇気なんです。度胸どきょうなんです。私は、やっとその勇気を、あなたによってあたえられたのだ、そう私はいってあげたんです」
 大チャンは、真剣な顔でそんなことを話しつづけた。私は、義務としてそれを聞いた。「あなたの歌、あれが私を目ざめさせてくれた。あれが私をゆり動かし、私にも勇気があったことを実証してくれたのだ、私は、そういったんです。撮影所で、はじめてあなたの歌を聞いたとき、私はまだ他人を愛し、自分を愛する能力がこの私に残っていたのに気づいたんだ、とね」
「いったい、愛とはなんなんだい?」と、私はいった。私には、いまだに彼の「愛」が理解できないでいたのだ。
「愛とは、ですね。つまり、自分が、相手の中に位置をしめているという幻影です。相手の中に、自分というものが、ある場所をもっているという意識なんです。それを信じる力だといってもいいと思いますね」
「ふうん」私はいよいよ理解できなかった。
「どうしてそんなものが必要なの?」
「それが人間だからですよ」
「どうしてそんなに人間とかいう伝説に義理を立てるの? たとえ人間でないことになったって、それで気持ちよければいいじゃねえか」
「ほんとに気持ちよければね。アンタさんはそういうけど、人間でなくなるということはすごく恐ろしいことですよ。私は三日、一人きりで山の中をさまよい歩いたことがあります。そのとき、私は自分がだんだん人間ではなくなるのがわかったんです。いや、人間以外のものになって行くのがわかりました。私は、発狂するか、猿になるか、死んでしまうかの三つの道しかないと思った。そのどれもが、人間以外のものです。私は、そのどれかになろうとしている自分を感じたんです。……でも、いまはわかります。私は、そのときほど人間をバカにしたことはなかったんだ。おかしなもんです。人間はね。人間であるためには、かならずもう一人の人間を必要とするんですよ。そこに愛が生れてくるんです」
「愛が人間を人間にするということかい」私は笑った。「はじめから人間じゃないの、俺たちは。死ぬまではどうせ人間だよ」
「ちがうんですよ、それが」大チャンはびっくりしたように答えた。「一人でいると、人間は人間じゃなくなるんです。だんだん、グロテスクな物に近づいちゃうんですよ。……私は自分の経験から、それを知ってるんです。一人きりの人間なんて、じつは存在しないんです。アダムとイヴ以来、人間は、二人がその最小の単位なんです」
「じゃ、一人きりになりたい人間はどうなんだよ」
「それは、死にたいということと同じです。私も、じつは死にかけていたんですよ。上の空の気持ちの中で、ムリに毎日を送りながら、私は、ほとんど死んでいたんですよ。……そこにあの奇蹟がおこった。そして、私にいっさいがわかり、私は、自分の勇気を確認したんですよ。あの歌声、それが毎日、前の日に私が予知したとおりのものがつづいているということ、これが私をふるい立たせるんだ。私は、あの歌声によって、やっと一人前の人間にもどったんです。……だから愛なんです。いっさいは、私があの人を愛したからなんです。……」
 美術史の合間に、大チャンはかれたようによくこんな話をした。私は、自分が彼の言葉を理解できていたという自信はない。しかし、いささかの滑稽を感じながら、彼の言葉が気になっていたのはたしかである。私はノートに断片的にそれをしるし、いまだにそのノートを持っているのである。ランニングにパンツ一枚の姿で、昨夜の大チャンの言葉をけんめいにノートに書きつけている自分を、私はいまもあざやかに思い出せる。
 私は、いつ大チャンが真相を知るか、それを心待ちにしていた。自分からいい出すつもりは毛頭もうとうなかった。私は、彼が自分の耳で、それがもはや聞こえてはこないのを聞くべきだと考え、その瞬間の彼の反応をつぶさに観察してやるつもりだった。
 そのとき、彼はなんというだろうか? もし、明晩を待つと彼がいったら、私はそれがすでに二十日も前から聞こえないのだと曝露ばくろしてやる。彼は、怒って私を打つだろうか、打たれてもよい、と私は思っていた。それだけのことはあるのだ。しかし、私を打って、そして幻影が現実になるものか。彼は、彼の生きていたのが「愛」ではなく、じつはたんなる私の「嘘」だったのに気づくはずだ。その彼の失墜しっついの瞬間こそ、私が彼の中に、彼流にいう私の「場所」を発見できる唯一の瞬間になるのだ。……
 私は、毎日を、そんな残酷な期待の中で暮していた。かならず十時まえには下宿の部屋に戻り、大チャンの帰宅を待った。だが、大チャンの帰宅は、あいかわらず毎夜十二時をまわっていた。真相を知るのがこわくて、それでわざと帰宅を遅らせているのではないだろうか、といつも私は思うのだが、でも帰ってきた大チャンは、例のてかてかと光る肉の厚い顔の表情をくずしながら、まずその夜の歌をたしかめ、うきうきした声音で、さもたのしげに明日の歌を予告するのだ。その習慣をかえなかった。

 だから、大チャンはまだ真相を知らなかった。すくなくとも、知らないはずの日々がつづいていたあいだだった。私は、ぱったりとあの歌声の主の娘と顔を合わせたのだ。
 七月の終りちかく、その年の最高気温をまたも更新した日の夕方だった。私はその日、私の家の唯一つの収入源である焼け残った東京の家の家賃と地代をとりに四谷まで出掛けた。――毎月、月末ちかくに金をもらいに行き、判をして、屋敷が荒されていないかを事こまかに観察をし、それから湘南海岸の家に金を郵送するのが私の仕事だった。ちょうど、妹が同級生を海岸の家に呼びたいといっているが、という相談を母からの手紙で受けていたので、私は郵便局で短い手紙を書き、金といっしょにその返事を送った。すると、急に泳いでみたくなった。
 夕暮れまで、私は後楽園のプールにいた。貸パンツを返して、まだ水の匂いや、雑然とした物音や叫喚きょうかんや、はなやかな水着の色彩の残像がちらちらと混りあっているような気分のまま、ぶらぶらと電車通りを歩いて、水道橋駅のプラット・ホームに出た。プールは子供たちで芋を洗うようだったが、私は久しぶりの水の味に、一応満足していたのだ。電車を待ち、口笛を吹いていると、ふいにうしろからだれかが肩をたたいた。それがあの娘だった。
「私、だれだかわかりますか?」
 と、娘は私を見上げながら、口上こうじょうでいった。私は、しばらく思い出せなかった。
 丸顔で、眉と目とのあいだがひろく、一重瞼の目がいささかれぼったい。指尖ゆびさきでつまみあげたような、ちんまりとした小さな鼻。色が白く、口紅のほかにはお化粧のあとのない肌。娘は、怒ったような目で私をみつめていた。
「わかりませんか? 私が」
 ニコリともせず、娘はくりかえした。くびれたあごが可愛いらしく、ひどく子供っぽい顔の娘なのだ。――あ、そうか、と私は思った。
「あそうか、あの歌のオバサンかあ」と私はいった。「へえ。よく僕がわかったね」
「しらべたんです、私」と、娘はたじろがずに私の目をみつめたまま答えた。「あなたは大学生で、あの下宿に居候をしているんでしょう? この春から。いつも、お昼すぎまで寝ているんですってね。イビキがすごく大きくって、あなたは、とってもナマケモノなんですって?」
「……おどろいたね」と私は答えた。事実、おどろいていたのだ。慢性偏頭痛へんずつうで、いつも首すじとこめかみに膏薬こうやくを貼っている下宿の小母おばさんを思い出した。私は彼女とはほとんど口をきいた記憶もない。しかし、あの小母さんしか、そんなに知っているやつはあるまい。
「小母さんに聞いたんだね? 下宿の」
「さあ。とにかく、ちゃんと知ってるんです」娘は、やっと緊張をほぐしたように、片方の頬で笑った。「私のほうでは、あなたをたびたび見てるんです。ときどき大学かどこかへ出掛けるでしょう? かしら線に乗って。私、同じ電車の箱の中にいたこともあるんです」
 そのとき電車が入ってきた。私は乗り、娘も乗った。娘は私の肩までの高さしかなかった。ならんで吊皮つりかわに手をのばして、私は娘の髪が湿っぽくれているのに気づいた。娘は、防水した小さな手提げ袋も手にしていた。
「なんだ、君もあのプールにいたの?」
「ええ」低い声で娘は答えた。不機嫌そうな顔で窓の外を見ていた。ふいに、私は彼女にいろいろと聞いてみたい気をおこした。
「どこの高校? 何年?」
「私ですか?」びっくりしたように見上げて娘は憤然ふんぜんとした顔になった。「私、お勤めです。今日は日曜日ですから、プールに泳ぎに行ったんです」
「お勤め?」私もびっくりしていた。「へえ、僕はまた、高校生かと思ってたよ」
「違うわ。高校は去年の春に出ました。私、いまはある会社の秘書課勤務なんです」
「……そりゃ失礼」と私はいった。「でもね、じゃ、いつかは僕がのぞいたりして悪いことしちゃったけど、どうしてこのごろじゃ歌わないの?」
「だって、……このごろじゃ、定時に帰れるんです。道にだっていっぱい人がいるし、歌う必要がないんですもの」
「必要? なんだい、その必要って?」
「……私、とってもこわがりなんです」
 口惜くやしそうにちらりと私を見て、でも娘は真面目な顔で答えた。「あのころは、ちょうどうちの社長が、疑獄ぎごく事件にひっかかりそうだったんです。それで、秘書室はたいへんだったんです。室長の命令どおり書類を整理したり、分散したり、社長のおめかけさんの家や、雲がくれしているアパートに情報を持って行ったり、弁護士に連絡しに行ったり。……目立たないもんだからって、私たち女の子が使われたんです。それで、毎晩九時すぎまで足止めだったの。私、臆病でしょう? だから、夜おそく、あの細い暗がりの道を一人で歩いて行くのが、とってもおっかなかったんです」
「それで歌を歌ってたの?」私は、そんな事情なんて想像がつかなかったと思った。「こわいもんで?」
「そうです」娘は、怒ったような声音のまま、ちょっと低い声になった。「……もし歌を歌ってたら、こわい人が出てきても、歌がへんな具合に止むからすぐわかるでしょう? そしたら、だれかが助けにきてくれるし、それに歌を歌っていると、こわさを忘れられるんです」
「……でも、どうしてあんな戦争中の歌ばっかり歌ってたの?」
「だって、いちばん調子いいんですもの。兄に教わったのを、いっしょうけんめい思い出しながら歌ってたんです」
「なるほどねえ」と、私はいった。「やっとわかったよ。一度、ぜひ君に聞いてみたいと思っていたんだ」
「……私も、一度あなたにどうしてもいいたい、と思っていたことがあります」娘は消え入るような低い声でいった。「プールであなたの泳いでいるのを見て、私、今日こそはそれをいおうと思って、それであなたについてきたんです」
「僕に? なにを?」
 私は小柄な娘の顔をのぞきこんだ。娘はまっすぐな視線を私に向け、唾を飲んだ。一語一語、はっきりと区切りながらいった。
「……あなたは、とってもいやらしい人です。いやな人です。私は大嫌いです。私、あなたのこと、憎んでるんです」
 いいながら、娘はいきむように急に真赤な顔になって、また唾を飲んだ。唇がふるえていた。
「窓を開けて、私を見たことです」と娘はいった。「あれから、私はあなたのことを、気にせずにはいられなくなっちゃったんです。ひどいと思うんです。まるで、強引に、無理じいに、ふいに乱暴になにかを盗まれちゃったみたいなんです。なんだか、ひどく恥ずかしい気持ちにさせられちゃって、それが、とっても暴力的な感じなんです。あの角を曲ると、いつも、あのときの光を背負った悪魔のようなあなたが、もう私をみつめはじめている気がして、私は、あなたを気にせずには家にかえることができないようなんです。あのとき、あなたは笑いましたね? 私、しゃくにさわってならないんです。なんだか、私、あなたが、口惜しくって、なんだか、……うまくいえないわ。でも、とにかく、だから、私はあなたのことを憎んでるんです。私、どうしてもあなたを許すことができないんです」
 私は、あやまるべきだったのかもしれない。だが、私はただあっけにとられていた。あえぐような口調で低く速口はやくちにしゃべりながら、目に涙をうかべている娘を見て、私は結局はなにもいえなかった。突然、その娘がいった。
「新宿で乗り換えますね?」
「……うん」
「お茶を飲みませんか? 私、払います」
 私は、ついて行くのが自分の義務のような気がした。なにげなく石を投げて、かえるから文句をいわれている少年のような立場に私はいた。自分のあの行為が、この娘の心にどんな残酷な傷をあたえたのか、私には、それは見当もつかない「他人の事情」だったが、私はそれについて、すくなくも自分が無実ではないということだけは承知していた。
 映画館の前の喫茶店で、私は娘と向い合ってすわった。私は黙っていた。私は待ちつづけた。だが、娘はなにもいわなかった。
 たしかに、私は動顛どうてんしていたのだ。いやらしい男、大嫌い、いやな人、憎んでいる……私は、自分を好ましい男だと思えた幸福な経験は皆無だったが、そうはっきり直接に一人の異性の唇から罵倒された経験もなかった。そのショックで、私は動揺しきっていたのだと思う。――うなだれたまま、娘の唇から浴びせられる糺弾きゅうだんの言葉を待ち、それを聞いてやるだけが私の仕事だと考え、突然、そして私は気づいたのだ。いま、私の心を占めているのは、一つのかなしみであって、けっして罪の意識とか罪悪感ではないのを。私は、後悔をしているわけではなく、悪いことをしたと考えているのでもなかった。ただ、私が彼女に「いやらしい」と思われ、憎まれている私であり、まさに間違いなくその私なのを、心にみるように痛切にかなしがっているのにすぎなかった。
 私はあやまったり、許してもらう希望はもたなかった。いっさいは私がただ私であっただけのことだ。それをいやらしいと思い、ひどいと思い、たかが窓を開けのぞいたぐらいのことで私に闖入ちんにゅうされたと非難するのは、すべて相手の事情であり、私の知ったことではない。他人たちが私にとり他人なのと同様、私もまた彼らには他人であり、他人というものはいつだって多かれ少かれ一人の人間にとり、残酷なものなのにすぎない。それらの他人に耐え、自分に耐える以外に、どこに人間の生き方があるだろうか。
 私はあやまらない、と私は思った。私はただ、彼女にとり一人の他人であっただけのことだ。どこがいけないのか?
 でも、私はたしかにさまざまな意味でうろたえていたのだったと思う。私は、自分のかなしみに目をこらし、なんとかしてそれを凝固ぎょうこさせることに夢中だった。目の前に坐っている娘が、切れ長の目の可愛らしい少女であり、それがいまはやさしい穏やかな瞳でじっと私をみつめているのに、私は長いこと気がつくこともなかった。娘は黙っていた。
 私が自分を取り戻したのは、無言のまま珈琲コーヒーをすすり終り、店のレコードが新しい盤にかわって、私のよく知っているジャズのトランペットが鳴りひびいたときである。それは「聖者の行進」だった。ふと娘が、いつも喫茶店などで見かける平凡な小娘たちの一人になり、四谷の屋敷やプールの現実に連続した時間の中に私はいた。娘への奇妙な畏怖いふの幻影が失われて、私は彼女を見た。娘は珈琲に手をつけていなかった。
「どうしたの? 飲まないの?」と、私はいった。
「いいんです。あなたを見てるんです」
 と娘はいい、はじめて親しげに笑った。私は娘の八重歯やえばを胸に痛いように感じた。彼女は、私の好きなタイプだと思った。
「……僕は、君のこと、十五六だと思ってたよ」
「バカなんです。だから子供に見られちゃって、私、困るんです」
 あいかわらずの切り口上で、彼女は、ふいに話題を転じた。
「疑獄って、悪いやつほど捕らない、ってほんとなんですね。うちの社長も、うまくごまかせちゃったらしいんです。とても悪いやつなんですよ、社長は」
「でも、おかげで早く帰れるようになって、ラクでいいじゃないの」
「ラクじゃありません。毎日、十三種類の新聞を読んで、切り抜いてスクラップしなくちゃなんないんです。とても疲れますよ。私、もうすぐ近眼になんじゃないかと思うんです。あなたは、目はいいんですか?」
「一・二と、一・五だ」
「あ、そう。……あなたは、新聞は何新聞が好きですか? 何新聞をとっているんですか?」
 だが、私の答えも待たず、彼女は赤くなって両掌で頬をおさえた。「……バカね、私。こんなこと、関係ない話ですね。どうだっていいことだわ」
「そうだろうね」
 私はわけがわからずに答えた。娘がなにをいいたいのか、見当がつかなかった。
 レコードがまたかわった。そのとき、娘がいった。
「ねえ、どうしてあれからあと、窓を開けなかったの? 私を、見なかったの?」
「どうしてって、……」私は口ごもった。「一度顔をみてやりたかっただけだからさ。一ぺんで、目的は果したんだ」
「それで、どうだったんです? もう興味を失くしたわけ?」
「べつに、妨害して歌を止めさせるつもりじゃなかったもの。あれから、僕は毎晩君の歌を聞いていたよ」
「そう。……私ね、またふいにあなたが顔を出すんじゃないか、そんないやがらせをするんじゃないか、って、いつもビクビクしてたんです。こんど開けたら、軽蔑してやる、可哀そうな人だと思ってやる、意地わる、って大声でどなってやる、と思ってたんです」
「……へえ」と私はいった。「そいつは面白そうだったな、また開けりゃよかった」
「そうよ。ほんとに、また開けてくれりゃよかったのよ。そしたら、私はあなたとは完全に縁が切れた気になったわ。あなたを、平気で無視できたわ。……でも、二度と窓は開かなかったわ。私、あなたが完全な敵になってくれないので、かえって癪にさわってきちゃったんです」
「でも、憎んでる、っていったじゃないか」
「ええ。憎んでます。まるで、不法侵入者みたいに、私の意識の中に勝手に住んでいるみたいなんです。私、それであなたのこと、怒るんです」
「だって、……」
「ぼくの知ったことじゃない、っていうんですか? ウソです」
「ウソ? どうして?」
「じゃ、なぜ暑いのに、あの窓を閉めっぱなしにしとくんです? あの窓は、いつも明りがいて、でも閉まったままだったわ」
「そりゃ、君の歌を妨害したくなかったからさ」
「そうでしょ? やっぱりそうなのね。ほかの窓が開いてるのに、あの窓だけが閉めてあるの。毎晩。……それは、あなたが完全に私を意識していることだったわ。私は、あの中であなたがいったいなにを考えているのか、さんざん考えたんです。なんてずるい、なんていやらしい男だろう、って思いました」
「どうして? ……よくわからないな。いいがかりをつけられているみたいだ」
「私は、あなたはまた窓を開けて、私にきらわれる勇気もないんだと思ったんです。平気で、ニヤニヤ笑ってあんな意地わるをしたりするくせに。……なんて男らしくないんだろう、って、暑いのにきっちり閉めてある窓を見るたびにそう考えたわ」
「……いいがかりだ」
 くりかえして、だが私は娘の言葉に胸を刺されていた。私は、ただ一回のあの行為が、娘にこれほどの意識の上の負担をあたえていたなどとは考えたことがなかった。……しかし、私はいった。
「そんなの、知ったことじゃないさ、僕の」
「いいえ、知ったことよ。あなたのしたことですもの」娘は答えた。「卑怯よ、そんなこというの」
「卑怯だっていいさ」と、私はいった。「どうしろというんだ? どう責任をとれ、っていうの? 僕はあやまらないよ。あやまる理由がない。僕は、君にとっての一人の他人だっただけじゃないか。君は君で生き、僕をいやらしくてきらいだといい、僕はその僕を生きているだけの話だ。そうだろ?」
 娘は黙っていた。
「あんなこと、君の顔を一度だけ見たことだが」と、私はいった。「君がそんなに恨んだり、怒ったり、憎んだりするほど、大したことじゃないよ。君は異常だよ。ざらにあることだぜ。僕は、僕だけの責任しかとれない。君にあたえた心理的影響なんて、僕の知ったことじゃない」
「あなたは、窓を閉めていたわ、毎晩。私もあなたに心理的な影響をあたえていると思うんです」
「そうかもしれない。でも、それは僕のものだ。僕にだけ属している。君の知ったことだとは思わない」
 娘は真剣な目をしていた。「あなたは」と娘はいった。「だれか、ひとを好きになったことがあります?」
「ありますよ、いっぱい」と、私は答えた。
「何人くらい、いままでに愛しました?」
 また「愛」か。ここでも「愛」か。私は笑った。
「僕はね、だれも愛さないよ。愛せないんだ、というより、愛はきらいなんだ」
「どうして?」
 娘は熱心にたずねた。おどろいたような目で、私をみつめていた。私は、こういう厄介やっかいな話こそきらいなんだ、と思った。
「他人を愛するのなんて、僕には負担なんだ。僕は僕の責任だけで手いっぱいなのに、そんな幻影でよけい不自由になんかなりたくない。人間は、それぞれ身動きもできない、けっして他人と本当に癒着しあえない特殊な個体なんだ。それが僕の信条だ」
「でも、だから愛がいるんでしょう?」
偽瞞ぎまんがかい?」
「ちがうわ」
「ちがわないよ」と、私はいった。「僕は知っているんだ。愛とはね、嘘を信じ、嘘を生きることさ。あえていえば、狂気を生きることさ。残念ながら、僕にはそんな趣味も勇気もない。僕には、僕がだれともけあわない一つの核をもっていること、これを信じる勇気しかない。そこからしか、なにもはじめられないんだ」
「……わからないわ。あなたのいうこと」と娘はいった。
 店には窓がなかったので気がつかなかったが、その喫茶店を出ると、あたりはもうすっかり夜になってしまっていた。
 私がふいに娘の肉体を意識したのは、商店街の照明にまみれたその新宿の人ごみの中でだった。突然、娘が私の腕をとった。雑沓ざっとうの中で、私は押しつけられる彼女のやわらかな胸と腿をかんじた。私は重くしびれるような慾望が、私の中に顔をもたげるのがわかった。
「君は、僕を憎んでいるんだろう? いやなやつだと思っているんだろう?」
「そうよ」と娘は答えた。ほがらかな、透明な声音だった。「それは、はっきりしてるわ。もしかしたら、私、いまにもあなたを引っかいちゃうかもしれないんです」
「大きらいだろう?」
「大きらいです」
 私はすこし笑った。私たちを見ている人びとは、こんな会話を想像しているだろうか、と思った。娘は唇を噛むようにしてくりかえした。「ほんとよ。私、ほんとにあなた、大きらいなんです」
「……君、名前はなんていうの?」
「芝田、晴子」娘はいい、私の掌にその字を書いて教えた。恋人のようなしぐさだった。
 私は、そんな娘が、まるで理解できなかった。腕に力をこめていった。「いったい、君が今日、僕をつけてきた理由はなんなの」
「……理由なんてないわ」娘は答えた。「あっても、いまはわからないわ。あとになってからきっとわかると思うんです。……とにかく、私はたしかめたかっただけなんです」
 突然、彼女は腕をほどいた。駅の前に来ていた。
「私、ちょっとお友達のところへ寄る用事があるんです。さよなら。ここで失礼します」
 娘は、真面目な、思いつめたような目をしていた。私は笑った。私は、この小娘にいいようにからかわれたのに違いなかった。
「さよなら」と、私はいった。娘は人ごみにまぎれた。
 ――その夜、私はまっすぐ下北沢の駅に下りて、大チャンの下宿への街燈のまばらな薄暗い道を歩きながら、声に出して、もし愛があるのならば、もし愛があるのならば、……と二三度呟いたのを憶えている。イメージの中に、小柄な首の細いあの娘の、白い裸の肌が動いていた。もし、愛があるのならば。……だが私は、いや、自分の求めているのは女体だけだ。あの娘の体だけだ、と思った。しかし、私は不安に駆られたように独白した。もし、もし本当に愛があるのならば。……
 私は、そのときの自分の、芝田晴子という名の娘を思うたびに胸にみこまれた、奇妙な痛みに似たひらめくようなうずきを、いまだに忘れてはいない。資格のないかなしみのように、それは私の胸に奥ふかくひろがり、私の足を止めさせた。いや、やめよう、愛についてなんか考えるのをやめよう、と私は低くいった。私は、その足でふたたび駅の方角に引き返した。その日もらった家賃から抜いてきた一枚の紙幣で、私は酒を買おうと思ったのだ。その夜は雨になった。

 私が、あの歌声の主の娘――芝田晴子から手紙をもらったのは、それから三四日たってである。いつものように、大チャンは撮影所に出掛けていた。午後、私が起き、煙草たばこを買いに出て帰ってくると、いつも暗がりで縫物をしている偏頭痛の小母さんが、黙ったまま二通の封書を私の手にわたした。一通は母のであり、一通は切手が貼ってなく、署名もなかった。それが彼女からのだった。
 私はそっちから封を切った。すぐ、それが例の娘からのものであるのがわかった。私は意外だった。あの日、私が告げなかったのにかかわらず、娘は私の名前まで知っていたのだ。――私は、展覧会やメモをとったノートにそれをはさみ、いまだにその手紙を所持している。そろそろ焼かねばならぬ手紙だが、いまはその全文をここに写してみる。

佐々木昌二さま
あなたが佐々木昌二という名前なのを私は知っています。いままでにも、何度あてもなくこのお名前をレター・ペーパーに書き散らしたかわかりません。手紙も書きました。みんな、あなたへの憎さや口惜しさばかりを書きならべた手紙でした。私は、あなたを思ったり、意識したりするたびに、腹が立ってきてしまったのです。私が昨日、あなたの悪口をならべたのは、みんな本当です。でも、いまは簡単に書くつもりです。
佐々木昌二さま
あなたはしようがない人です。ダメな人間です。……あれから、一晩考えてわかりました。あなたは人間のくずです。ほんとうにダメな人です。あなた自身、どこかでそうお思いになってませんか? あなたは、自分がダメで、自分のことを考えることしか能のない最低の人間だということを、たぶん知ってらっしゃるのだと思います。それを引き受けたつもりで、威張っている。でも、そういう勇気のない、無気力なエゴイズムを生きようと決心している人間こそ、本当に勇気のない、無気力なエゴイストです。本当にダメな人間です。私はそう思うのです。私は、単純にあなたを憎んでいました。不作法な、暴力的な、私の気持ちの中への侵入者だと思って、どうしてもあなたが無視できなく、あなたが私の外に出てしまわないのに、毎晩のように腹が立って腹が立って、たまらなかったんです。このことは申し上げましたね。
でも、昨日、水道橋の駅からの電車の中で、私はふいに、私はこの人を愛しているんじゃないのか、と思いました。いやでいやでたまらないくせに、あんなにもいやらしい、意気地なしの、乱暴で不作法な男だとは思っているくせに、私は、あなたから離れたくなかったのです。べつに、あなたがやさしい、立派な男に見えてきたわけじゃありません。私の感じでは、思っていたとおりのあなただったくせに、そのあなたが好きなような気がしてきました。私には、必要なただ一人の人なのだ、とさえ思われてきました。私は、たぶん、あなたによって生きて行けるんじゃないかと。幸福に、いきいきと、私は、自分があなたのいう「特殊な個体」としての私であるためにも、あなたという人が、かけがえのない人のように思われはじめたのです。
佐々木昌二さま
私は、そんな自分にびっくりしました。実さい、私にも意外だったのです。
あれから、私はおそくまでクラス・メートの家に行って、型紙の裁断さいだんの手つだいをしました。その家を出ると、雨でした。傘は貸してもらったのですが、下北沢の駅にきたとき、私は、わざと傘をささずに雨の中を歩きはじめました。雨がへんにたのしかったのです。そして、臆病者の私は、めずらしくこわさを忘れて、人気ひとけのない夜の雨の道を、いつまでもぐるぐると歩きまわったのです。おどろかないで下さい。私は、そのとき、あなたと結婚する気持ちでいたのでした。
そのとき、私は、自分があなたを一生無視して生きることができないと信じていました。私は、あなたが好きで、あなたを愛していました。それを認めざるをえない気持ちでした。そして、私はあなたのことを考え、私には、もう、どうしようもなく不毛ふもうな未来しかないのだと、自分に納得させていたのでした。私は、あなたを気にして、ほったらかしにできないというただそれだけの気持ちで、あなたという不毛でダメな人間に一生を捧げるのだ、と思いました。いいわ。それでいいわ。私も、きっとあなたを救うことはできないだろう。でもそれでもいい。あなたは私を愛する勇気もない、いや、人間を愛することができない。すばらしいじゃないの。と私は思ったのです。
私は、きっとあなたにけてしまうだろう。でも強引に、むしゃぶりつくみたいにして、あなたの死を私の死にしてやるのだ。心中をしてやるのだ。……私は、自分とあなたとの上に、その未来に、そんなのぞみしかないこと、いえ、なんの希みもないという身の凍るような、あまりの空白に目がつぶれてしまうような事実に、ほとんど恍惚としていました。私は、酔ったように、我を忘れて雨の中をいつまでも歩きまわっていました。
佐々木昌二さま
私は、二時間ほど前に、家に帰りました。ですが、そのとき、この恍惚、この確信は、まるで目からウロコが落ちたように、どこかに消えて落ちてしまいました。のろのろと私は一人でお風呂を立て、そこから出て、机に向いました。あなたに、お別れの手紙を――この手紙を、書きはじめています。
私は、気まぐれではありません。いったんきめたら、めったなことではそれを変えない頑固な女です。私には、どうして気を変えたか、その意味がよくわかりません。ほんとに、よくわかりません。私は、最後に、あのいつもの通りを歩いて、つまり、あなたの下宿の横の路地を通って、家にかえりました。あなたたちの部屋には、まだ明りが灯き、大声でしゃべる声がきこえました。でも、窓が閉まっていました。どうしてなのです? あれは、ただの習慣なのですか? いずれにせよ、私はそこに、あなたの頑固に閉じたままの心を、一つの無表情をかんじました。そのとき、私に絶望がきました。
なぜなのか。ほんとによくわかりません。でも、ふいに、私から、あなたは外に出ていました。
私は、あなたがもう気にならない、一個のそうぞうしいただの他人、つまらない、弱虫の、どうしようもない他人への無感覚をわざわざ生きようとしているバカだとわかりました。なぜ、そんな人と、私は結婚しなければならないのでしょう? 私はいやです。私は、自分がもう、あなたを憎んでさえいないのを知ったのです。あなたが、憎むにもあたいしない、哀れまれるべきなだけの男だとわかったのです。私は、二度とあなたという存在に、わずらわされることもないでしょう。私は、あの閉ざされた窓を眺め、あなたが私を、私の恍惚をすら、冷たく閉め出しているのを感じたのです。私は、あなたから閉め出され、私はあなたの外にいます。同時に、あなたも私から外に出てしまったのです。……
いま、四時です。長い手紙でした。でも、これはお別れの手紙です。いまは私は、あなたを遠い他人として、軽蔑だけしているようです。
でも、ほんとはまだ自信がありません。もう二三日待ってみて、ほんとうに私があなたが気にならなくなっていたら、この手紙を小母さんにことづけます。
佐々木昌二さま
水曜日の夜です。私は読みかえしてみました。いまだにあなたを突然あきらめた(?)という理由はわかりません。でも、この手紙は、わざと書き直さずにおきます。
私は、二度とあなたのことに心をとられません。決心ではなく、事実です。さようなら。やっぱり、私はあなたとの心中はやめます。
一度だけ目を合わせ、一度だけお話ししたあなたですが、私の心の整理のため、お別れの手紙を渡します。お別れの手紙を書くに値するだけの相手ではあったのです。でも、もう私はあなたのことを、いやらしいとも憎いとも思ってはいません。もう、私はあなたを無視できています。
さようなら。
芝田晴子

 私は、苦笑してこの手紙を読んだ。破りかけ、思い直してノートにはさみこむと、母の手紙の封を切った。母が病気だった。
 仰向けに畳に寝て、私は、この下宿を引き揚げる時期がきているのを悟った。私はもう、この下宿ではなにもすることがなかった。この下宿での私の季節は終ったのだ。たぶん、私は湘南海岸の家にもどり、その中での私の可能性を見定めることしかできはすまい。あの関係の中の場所で、どうにかして生きて行く以外の私の誠実も、私の生きるためのチャンスもない。私は、それを引き受けることが私に可能な、せめてもの勇気だと思ったのだ。私はノート類をまとめだした。

 大チャンの帰宅は、きっとまた十二時を過ぎる、と私は思っていた。私は一度彼と顔を合わせ、一応の礼とか挨拶をして翌朝この下宿をたつつもりでいた。
 さすがに懐しい気分が湧き、私は西郷隆盛の辞世の歌を朗読してみたりした。いつのまにか新しい貼紙があって、そこには、ぼくはきみたちのかつての父と同じ男、ぼくらは火うち石と暗黒の息子だ、とか、最初の死のあとに、もはや死はない、という文句が走り書きのように書かれていた。大チャンがどこかから聞いてきた詩句らしく、彼は、それを私が眠っているあいだに貼ったのにちがいなかった。私がやった宗達そうたつ寒梅かんばいの図の写真も、ちょうど彼の足もとにあたる壁に貼られていた。よく見ると、古い貼紙の中には、戦陣訓せんじんくんの一部もまざっていた。
 私はその午後を、それらを読みながらぼんやりとしてすごし、大チャンの朝つくって行った肉と南瓜かぼちゃの煮つけと、胡瓜きゅうりもみとに、生玉子を添えて食べた。これが最後の大チャンの手料理だと思うと美味おいしかった。わざと冷めたのを食べたのだが、番茶を飲むと汗が全身に吹き出してきた。暑い日だった。ひとつも風がなかった。
 私は窓を開けて、無風の真夏の夕暮の空の下に、どこまでもつづいて行く東京の漂流物のような屋根瓦やねがわらの海をながめた。それは平凡で、おそろしく単調な猥雑さにみちた景色だった。空にのこるバラ色の夕日の最後の反映も、遠い森のような木々の上に、じりじりと濃さを深めて行く黄昏たそがれも、私には昨日もくりかえされ、また明日につづいて行く時間の重苦しさ以外のものを語りかけなかった。左手の小さな公園ふうの鉄棒や遊動円木ゆうどうえんぼくのある空地で、一人の少年が孤独な体操をしている。その上半身だけが眺められた。……しかし、私は、彼にも親近感が湧かなかった。
 どの家にも白いランニングやパンツやズロースの洗濯物が窓からのぞいていた。私は、毎日のようにそれを洗濯する無数の女たちの手を思った。彼女たちは、くりかえし、くりかえし、その白い色を新たにする労働を重ねながら、年老いて行く。でも、洗っても洗ってもその白に附着して行く汚れたあかの重なりだけが、たしかな、確実な生活というものを保証し、その実在を示す証拠のような気がしていた。私はなにをしているのだろう。私は、これからなにをして生きて行くのだろう。いったい、なにを愛するのだろう。私は自問していた。答えはなかった。私は生活を、人間たちを、その関係の中にからみとられ、その底であの洗濯物のような存在を重ね、毎日それを洗うような労働で年老いて行くのを、愛さない、と私は思った。私は生きることを愛さない。しかし、私は敗ける。この私は、敗けるにきまっている。敗けるにきまっている勝負に、なぜ私は固執するのか。私は思っていた。勝てるという幻影、これが完全に無くなるまで、私は永久に敗けつづける。だが、どうして私からその幻影は去らないのだ? これだけ敗けていても、まだ私の敗北は充分ではないというのか?
 その日、大チャンの帰宅は、日が暮れてまだ一時間とたたぬ時刻だった。私は意外だった。初夏のころから、それははじめてのはやい彼の帰宅だった。
「アンタさん、アンタさん」と、彼は大声で呼びながら二階への階段を上ってきた。彼は、みるからに有頂天で、白いポロシャツの胸が大きく喘いでいた。部屋に駈けこむなり、彼は汗くさい身体からだで私に抱きついた。
「どうしたんだい、大チャン」
「よろこんで下さい、よろこんで下さい。私は、本当にこれで一人前になります」
「よろこぶのはいいけど、なにごと?」
「私は、結婚します」
 大チャンはいった。私は耳を疑った。
 その私の肩に両手を置き、力ずくでのように座敷に坐らせると、大チャンは土瓶の番茶をごくごくと音をたてて飲んだ。
「今日ね、今日、私はあの人に出逢ったんです。ほんもののあの人です」
 大チャンはいった。番茶と涎とで、その唇が濡れて光っていた。「私は、ちょっと間違えていたようです。小柄な人でした。でも、私の好みにぴったりだったんです」
 芝田晴子。私はその顔を目にうかべていた。金魚のように、口がパクパクした。
「……おめでとう」と、やっと私はいった。
「ありがとう」と大チャンはいった。「あなたはいい人です。ほんとうに、いい人です」
 彼は声をひそめた。「アンタさん、ところで、お願いがあるんです。いま、下にその人がきてるんです」
「え?」
 私は立ち上った。でも、それは意味がなかった。
 大チャンはだらしなく相好をくずしたまま、私を手で制した。「ま、落ち着いて下さい。お願いです。……じつは、私、あの人に、私が歌声を聞いていたことを、いいたくないんです。あの人は、一度だってたがえず、私の予言したとおりの歌を歌っていた。でも、私はそれを口に出していいたくないんだ。私にとっては、それは必然だが、あの人はたんに偶然に、今日ぱったりと私に出逢った。それで好きあった。と、こういうふうにしておきたいんだ。私にとっての神秘は、あの人には狂人の幻想だと思われるでしょう。それはマイナスなんです。ね、だから、アンタさんも、歌のことは黙っていて下さい」
「……でも大チャン」と、私は質問した。「歌のことを伏せといて、どうしてその人が、あの軍歌の主だっていうことがわかったんだい?」
「直観です」大チャンは鼻の穴をひろげた。「今朝、ぱったり道で逢った。そのとき、私に閃いたんです。この人だ、とね。それで、いままで喫茶店で話をしていました。私の直感、霊感というんですかね。これは正しかった。まったく、私の考えていたとおりの性格、境遇の人だったんです。待っていて下さい。あんまり待たすのはへんだ。いま連れてきます」
 いうなり大チャンはドタドタと階段の下に消えた。私は、茫然としていた。だが、あんまり考えている暇はなかった。すぐ大チャンが女を連れて上ってきたのである。
「ご紹介します。友人の、望月ヤス子さんです。こちら佐々木さん、ぼくの美術の先生です」
「……はじめまして」
 と私はいった。声はかすれていた。大チャンの信じた「あの人」は、色が浅黒く、馬面うまづらの女だった。年齢は、あきらかに三十を越しているように眺められた。
「はじめまして」と、彼女はいった。硬い、金属的な声音だった。
 私は、内心の笑いをおさえることができなかった。女は澄ましかえっていて、「じゃ、また明日ね」と大チャンを振りかえると、小笠原流のばかていねいなお辞儀をして、さっと立ち上った。私は、階段を下りる彼女の跫音あしおとで気づいた。彼女は軽いビッコだった。
 送って行った大チャンが部屋に戻ったのは、それから一時間もたってである。そのあいだに、私は彼の滑稽さと、自分への自己嫌悪を、いやになるほど味わいつくしていた。でも、だれがこんな顛末てんまつになることを予想していただろうか。
「いかがですか? 彼女の印象は」
 大チャンは部屋にかえるなりそういい、もみ手をした。「ね? ぴったりでしょう? 私のいっていた女性像と。すこしせいは低いようだけれど」
「ぴったりだね」と、私はいった。たしかに、だれにも好かれない不幸なオールド・ミスのタイプだった。
「強引にね、今日は、会社をサボらせちゃったんです。だから、今日は彼女はここを歌を歌っては通りませんよ。昨日いったのは取り消しです。アッツ島玉砕ぎょくさいの歌でしたね?」
「じゃ、もう、歌ともお別れだね?」
 と、私はいった。私はもう、大チャンへのなんの悪意も反撥はんぱつももたなかった。私は、いままでの私の嘘も、ぜんぶ黙っていてやろうと思っていた。それが善良な大チャンの再出発への、私のせめてものお祝いの代りだった。そして、私は明日、この下宿を出て湘南海岸の家にかえることを彼に話した。彼は、私の遠慮だと考えたようで、かまわないからいてくれ、と懇請した。母の手紙を見せるまで、彼はしつっこく共同生活をつづけようと力説したのである。
「そうですか。……ご病気じゃ止むをえないですな」と、彼はいった。「じゃ、私は彼女の家に移ることにしますか。長女でしてね。家から離れにくい事情があるらしいんです。今日、その点は考えておく、と返事をしといたんですがね」
「なに? 早いね、もう婚約を成立させちゃったの?」私は呆れた。「スゴ腕だね」
「へっへ」と彼は笑った。「なにしろ、四ヶ月ばかりも歌で結ばれていたわけなんでね、向うでもすぐピンときたんですよね」
「……あの人の家はどこなの?」
「あの公園の裏手ですよ。タバコ屋なんですな、家は」
「引越したほうがいいよ」
 私は、老婆心からそうすすめた。「この路地から、なるべく遠いところに行きなよ」
 私がそれをいい終った刹那せつなだった。私は、ぞっとして大チャンの顔をながめた。
 大チャンの表情も、みるみるうちにかわった。それまでの陽気な幸福は拭い去られ、蒼ざめて彼はふるえだした。そのときは、すでに角を曲ってくる歌声は、明瞭に私たちの耳にひびいていた。
「あの声です。まちがいなく、あれはあの人の声です」
 呻くように大チャンはそういい、窓のふちににじり寄った。曇りガラスの戸をひらいた。ぽっかりと、そこに真夏の闇がられ、歌声はあのか細く張りつめた声音で、次第に私たちの窓に近くなった。
……みよ落下傘 空に降り
みよ落下傘 空を征く
みよ 落下傘 空を征く……
 歌は、窓の下に来ても止まなかった。知らん顔で、同じ調子のまま歌はつづいていた。
世紀の華よ 落下傘 落下傘
その純白に あかき血を
ささげて悔いぬ 奇襲隊
この青空も 敵の空
この山河も 敵の陣
この 山河も 敵の陣
「……違う。違う」と悲痛に大チャンは叫んだ。食い入るように路地を歩み去る女の姿をみつめていた。歌は、なんの躊躇ちゅうちょもなく緊張した声音で歌いすすみ、ゆっくりと遠ざかった。それは、晴子の声音だった。
……いずくかみゆる おさな顔
ああ純白の 花負いて
ああ青雲に 花負いて
ああ 青雲に 花負いて……
 いつのまにか、私は立ち上ってしまっていた。大チャンは窓枠に顔を伏せて、声をはなち泣きはじめていた。よく肥った彼の肩の肉が、力ずくで窓枠をつかみ、小刻みにぶるぶるとふるえていた。
 私は、言葉を失くしていた。涙できらきらと輝く顔を上げて、大チャンは私を見た。子供のように泣きじゃくりながら、彼はいった。
「……アンタさんは、アンタさんは、知っていたんですね」
 無言のまま、私は首を下げた。大チャンは、それからはなにもいわなかった。ただ腕の中に顔をうずめ、泣きつづけた。私は壁によりかかったまま、その夜は徹夜をした。
 朝、まどろみからさめたときは、大チャンの姿はなかった。いつものように、薬罐が音をたてているのが聞こえた。
 私は、大チャンの最後の心づくしの番茶を一杯ゆっくりと時間をかけて飲んだ。私は、大チャンにも、晴子にも、いや、だれにも許されはしないし、許されるのをあてにすることもしないだろう。そしてまた、私自身、だれも許さないだろう。と私は思った。私は昨夜用意したノートの包みをもって立ち上った。その日は、八月の五日だった。
 私は、朝風呂にでも行くようななにげない姿でその下宿を出た。晴れた青空が私の上にあった。だが私は一歩一歩、味わいぶかく道の土を踏みしめるようにしながら、下北沢の駅に歩いた。私は、それ以後、二度とその下宿をたずねたことがないのだ。


 あれから、かなり長い月日がたつ。その間、私は幾人かの女性を知り、結局はそのすべてと別れた。私にとっての「愛」、それは、私が努力すればするほど、歯ぎしりするような絶望と屈辱感、わずらわしい不自由しか私にはくれないのだ。幸福な融和よりも、窒息ちっそくしそうな埋没まいぼつしか、私にはあたえられない。歓びとともにその幻影に自分の核までを解消してしまう力が、私には欠けているのだ。
 まだ、私には敗北が充分ではないのだろうか。……芝田晴子のいったとおり、私は不毛な、卑怯な、凍りつくような未来しかもたぬ、不幸な、そんな最低の男かもしれない。だが、あの軍歌とともにひろがる人気ない青空への渇望から出発した私は、「愛」のためには、いつだってせいいっぱいの努力と勇気をふるいおこし、それを捧げてきた。私が私でしかないことの苦渋くじゅうは、そして、そのたびに私にかえってきた。私は、ただそれだけを、深めているような気もする。
 だが、私はいま、ある高校の教師として、もう一回、「愛」を信じるための行為を、全力でこころみようとしている。この春、私ははじめての結婚をするつもりだ。
 その後、芝田晴子の消息は知らない。大チャンと望月ヤス子との結婚がどうなったか、それも知らない。大チャンにも逢わない。
 ただ、この正月、私はたまたま見た映画で――それは、いつか大チャンが山賊に扮した映画を監督した、同じ巨匠の手になる作品だったが、――私は、ヒーローの豪傑ごうけつにばたばたと一瞬のうちに斬り殺される武士たちの中の一人に、大チャンを発見した。すくなくとも彼は生活の中では、いまだに同じ回路を生きているのだろう。私は、彼が日ましに薄くなる頭髪を気にしていたことを思い出したが、あいにく武士のかつらをつけていたので、その現状はよくわからなかった。
 なお、母は健在である。





底本:「百年文庫3 畳」ポプラ社
   2010(平成22)年10月12日第1刷発行
底本の親本:「山川方夫全集 第二巻」冬樹社
   1969(昭和44)年5月25日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿部哲也
校正:toko
2022年1月28日作成
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