最近、或る啄木展で、啄木がデカルト命題に魅せられている書簡を見て、私は青春の啄木を見る気がした。日付は明治三十九年の一月十八日、二十一歳の年の冬である。
そこには、次のようなことが書かれていた。「我考ふ、故に我在り」というデカルトの提言は意味が深い、人間のもつどんな確信だって、つまりは「我の存在」の自覚に伴われないものはないではないか、『聖書』も読み、『法華経』も読んで考えたけど、自分はどうにも「動く」ことができなかった。けれどもデカルトのいう「存在の一意識に触るゝ」に至って、俄然私は目醒めた、と。
デカルトが、自分が考えるところに自分の実存をつかみ、あの命題(コギト・エルゴ・スム)にたどりついたのは、二十三歳の年、季節は同じく冬であった。デカルトの右の命題の形がととのってはじめて表現されたと思える彼の『方法論』(“Discours de la Methode”)のなかで、彼は少年時代の述懐をこまごまと記している。幼いときから沢山の本を読んだこと、そしてまた得がたい本をも渉猟したことを述べている。そして何よりも私たちに注意されるのは、彼が友人たちをはるかに凌いでいる学才を自覚していたことを書いていることである。そうした傾向は十五、六歳の頃にはもう彼自身をもてあますところへきていたようである。
人間の成長は、嬰児の時から一七、八年もの月日をつむと、肉体がととのい、情感が溢れ、思索が方度なく湧いてくるようになる。こうした豊饒のなかでは、つきつめる自己探究は放心に変身するほど懐疑的である。
啄木は右の書簡のなかで、そうしたことを、自分は生来「頑迷」であり、人から「神童」だと言われ、「益々この性を増長せしめた」というように言い表わしている。彼は感性の豊饒と思索の過度のなかで、索々不安を生きていたのである。
啄木はこうした錯迷と懐疑のうちから自分をとり戻さねばならなかったのだろう。だから、デカルト命題に触れるや、彼の魂が
深さを深さとして置いておけない。深さの確実さが存在において求められる。これがデカルト命題の真意だと、私はあの書簡に見入りつつ感じたのであった。
自分を思うことにおいて感じられる確実さ、それを存在で示そうとする、デカルトの後ではスピノザが、いや何はおいてもカントが試み、近頃ではフッサールがまたハイデッガーがデカルト命題を掘り下げたけれど、「我考ふ、故に我在り」の本当の、だから素朴であっても、原始的な体験的意味は、若い啄木のうちにたぎるああした情感のなかに見えているのではなかろうか。