私の飼った犬

斎藤弘吉




最初はカラフト犬

 私が最初に飼った犬は、カラフト犬でした。大正の終わりごろですが、その当時はほしいと思う日本犬が手にはいらなかったので、立耳巻尾で形が似ているカラフト犬を、ホロナイ河口で漁業組合長をしていた友人に頼んで送ってもらったのです。生後二カ月余、全身黒褐色で胸のところに白毛があり、ムクムクふとって、ちょうどクマの子そっくりでしたので“クマ”と名づけました。東京の気候は、カラフト犬には暖かすぎるので、夜も外につないでおきました。ところが、これがわざわいとなったのです。というのは、飼って間もなく夜半に外から侵入して来た狂犬病の浮浪犬にかまれ、この恐ろしい病気をうつされて、とうとう私自身の手で悲しい処置をしなければならなくなったのでした。犬を飼ったら、決して外から他の犬がはいって来られるところに置くものでないと覚ったことでした。

土佐闘犬の子犬

 自分の家の犬が狂犬病になったので、一家中十八日間も毎日世田谷の家から目黒の伝染病研究所に通って予防注射を受け、もう再び犬は飼うものでないと決心したのでしたが、一度かわいい純真な犬の愛情を知ると、もうどうにもさびしくてたまらず、つぎに飼ったのが血統の正しい土佐闘犬の子でした。うす茶色の美しい犬でしたが、残念ながら骨軟症という骨の病気にかかり、これをなおそうと牛の骨を食べさせすぎて、胃腸を悪くし、とうとう死なせてしまいました。
 その後、私は日本犬保存会を作り、日本犬の調査や研究を始めたので、よい日本犬が手にはいり、戦前まで飼った犬は全部日本犬で、合計十数頭にのぼります。このうち、いまなお忘れられない犬のことを少し述べましょう。

秋田犬“出羽”号

 秋田犬“出羽”は秋田県大館市のある畜犬商が種犬にしていた犬で、うす赤の、肩の高さ六十一センチぐらい、耳が小さく立ち、尾は太く左巻きで、体型も気性もまことによい犬でした。当時、私の家は山小屋ふうの洋館で、板敷でしたので、夜は家の中に入れて自由にしておきました。家から十六メートルばかり離れた中門のあたりに人が来ると、私たちにはその足音も聞こえないのに、出羽はもう玄関のドアの前に行って低くウーッとうなっているのです。家の者が来客と話して、警戒しなくてもよい人間とわかると、もう身を引いておとなしくなります。私が来客と話しているときは、いつも私のイスの側に横になっているのですが、客と議論したりして声高になると、出羽は立ってウーッと攻撃の姿勢をとるのでした。
 夜、私たちは二階にやすみ、出羽は階段の下の洗面所のドアの前に寝て、私たちを守ってくれるのがいつものならわしでしたが、年の暮れのある夜半のことです。突然出羽が猛然とほえたので、びっくりして飛び起きました。出羽のほえ声は実に大きな威力のある声で、数百メートル離れた駅までも聞こえるほどだったのです。階段を下りて見ると、出羽は洗面所のドアに向かってほえているので、ドアを開けて見ると、上の回転窓が閉め忘れたとみえ開いているのです。ちょうど雪の降った晩でしたが、かなり遠い道路から畑をまっすぐに横切ってこの窓の下まで来て、またまっすぐに道路まで逃げて行った人間の足跡が、雪の上に残っていました。
 当時は、有名な“説教強盗”と呼ばれた怪盗が出没し、どうにも捕えられなかったときです。私たちは、きっと説教強盗に違いない、開いていた回転窓から忍び込もうと近よって、出羽のあの猛烈な勢いに逃げたものだろうとウワサをしたことでした。説教強盗は、はいった家では必ず「番犬を飼いなさい」と説教していたそうです。

暗い山中で人を助ける

 この出羽が、一度人を助けたことがありました。私は毎日、出羽とメスの“松”を朝と夕方の二回、近所の大山園に運動に引いて行くのが日課でした。ある日、来客のため夕方の運動がおくれて、九時ごろになりました。当時、大山園は電灯のない立ち木の多い山でしたが、暗いところでも犬は見えますし、忠実な強い出羽がいっしょですので、夜でも安心だったわけです。山の中で急に出羽が道をそれて、やぶの中へ引き綱を引っぱって進みます。何かあるなと私もそれについて行きますと、出羽は急に立ち止まって低くウーッとうなり出しました。やみをすかして見ますと立ち木を掘った跡の丸いくぼ地に、若いアベックがしゃがみこんでいて、それをヤクザふうの男がおどしているところでした。私はとっさに「駅ならこちらですよ。私も行くところですから案内しましょう」と声をかけると、その不良は「おれは犬なんかこわくないぞ」と叫びながら、私に向かって来ようとしたその瞬間、出羽がうなり声とともに猛然と飛びかかりました。私が引き綱を握っていなかったら、その男はおし倒され、ひどい傷を負わされたでしょう。この出羽の勢いに驚いて、男はやみの中へ逃げていってしまいました。
 私は若い二人を駅前通りまで案内しながら、二度とあんなところへ夜行ってはいけませんよ、と注意してあげました。私は、いままで出羽ほど迫力のある犬は見たことがありません。

柴犬のいわれ

 小型日本犬を柴犬と呼ぶことは、いまでは犬好きならだれでも知っていることですが、実はこの柴犬を最初に都会で飼い、柴犬の名を広めたのは私なのです。ただしその名のいわれはいろいろの説があって、いまでもはっきりしません。柴やぶを巧みにくぐり抜けるから、あるいは毛色が赤褐色で柴の色に似ているから、また小さいものはシバグリなどのようにシバというからなど、いろいろいわれています。
 この柴犬がどこかに残っていないかと捜していると、出入りの肉屋の主人が、自分の郷里に近い群馬多野郡の神流川上流上野村の山奥にはイノシシやシカの猟師がいて、耳の立った尾の巻き上がった昔からの犬を飼っていると教えてくれました。
 私の持っている江戸時代の徳川将軍家の巻狩りの時の猪鹿狩名犬調査書にも、この地方に良犬が多いと調べがのこっているのでぜひ調査に行きたいと考えていると、昭和三年秋、ちょうどこの神流川の入口に近い藤岡という町の浅見さんが、近くの古墳から犬のハニワを発掘したという知らせがあったので、この日本最初の犬のハニワを調査しに出かけました。
 その夜、同地方の愛犬家との座談会のとき、この藤岡から西南八十キロの群馬、長野の県境十石峠の下にあたる、神流川上流の上野村字中沢集落には、喜六という老猟師がいて、猪鹿狩りの名犬を飼っており、付近の集落にも猟師が多い話をすると、日本犬愛好者の医師・原徳人さんが、私と探査に同行しようと申し出ました。

柴犬をさがしに山奥へ

 藤岡から自動車で鬼石町に出て、これから神流川に沿って十石街道をのぼり、万場町を通って新羽で自動車を乗り捨て、それから村の自転車を借りて約十二キロ、坂下集落で自転車を預け、それから沢伝いにのぼること十キロ、ようやく中沢集落に着いて、喜六老人をたずねて一泊しました。
 老人の犬は茶褐色、立耳巻尾の柴犬で、右肩に逆V字形の大傷のあとがあります。これは同村の猟師がこの犬を借りてウラの三国山にイノシシ狩りに行ったところ、不幸にも牙にかけられて、内臓が出るほどの大傷を負いました。とても助からぬ傷ゆえ、長く苦しませるのはかわいそうと、その猟師が自分の鉄砲を向け「気の毒なことをした」と声をかけたところ、目を開き、少し首を持ち上げたので、借りてきた他人の犬を息のあるうち殺すのは悪いと、背負って山を下ったのを、喜六老が傷を縫い合せ、八方手を尽して介抱、幸い全快して、再び猟に行けるようになったものだというのです。
 これは、折りよく来合わせた借り人の猟師の炉辺の思い出話でした。このあたりの猟師は皆この埼玉、山梨、群馬、長野にわたる関東第一の森林地帯三国山を猟場としているのです。

柴犬“十石”を手に入れる

 付近の集落を全部調査して、黒川村の飯山猟師の飼犬七歳のオス、肩の高さ四十一センチ、茶褐色、巻尾の体型の最優秀の柴犬をゆずり受け、坂下まで猟師に連行してもらって、そこでビールの空箱に入れて自転車の荷台につけ、新羽まで出、それから自動車に乗って、途中魚尾に一泊、藤岡に帰ることができました。原医師宅に泊まり、つぎの朝、引き運動に連れ出すと、近所のはなし飼いの犬にかまれて左横腹に八センチばかりの傷を負いましたが、原医師に縫合されている間、ジッと歯をくいしばって、声も出さずに痛さに耐えている根性には、さすが猛猪とたたかってきた犬だと、感心したことでした。
 飯山猟師に聞くと、この犬は子供のとき、三国山の西側の長野県南佐久郡川上村字梓山でもらいうけ、山越しに連れて来たものだそうです。私は黒川集落の上の十石峠にちなんで名を“十石”と付け、昭和六年八月十歳で病死するまで、愛育しました。昔、よい県知事を良二千石りょうにせんせきといったものです。これは米二千石の俸給を与えるのにふさわしい立派な知事という意味ですが、この十石も、米十石に値する名犬という意味をふくんで名づけたのでした。
 東京の宅に着くと、前からいる秋田犬が体が何倍もある出羽に敢然と向かって行きましたが、出羽の方が私のいいつけで、相手にしなかったので、この二頭の日本犬オスはじきに仲よくなりました。出羽もそうだったように、十石も町の放し飼いの犬に、自分からけんかを売るようなことはありませんでしたが、相手に向かわれると、どんなに力強く大きい相手でも、相手が逃げるまでは向かって行く犬でした。おさえつけられ、かまれ、振り回されても、はねかえしはねかえし向かって行く犬でした。十石にすれば、どんなに大きな犬でも、イノシシよりは小さく見えたのかもしれません。

気魄のある小型犬

 ある暴風雨のあった翌日のこと、私がハシゴをかけて屋根にのぼり、ずれたカワラを直していると、腰のところに何か触れるものがあります。振りかえってみると、十石がのぼって来ているのでした。山でけわしい崖をのぼり、丸太を渡っていたりしたのでハシゴをのぼるくらいは平気だったのでしょう。なんでも高いところにのぼって四方を見渡しながら番をしているのが好きでした。
 その後は、ハシゴをかけはなしにしておいたり、屋根と松の木との間にハシゴを渡したりしておくと、屋根の上で遊んだり、ハシゴを渡り歩いたりしていました。犬舎につないでおくと、その自分の住まいの上にすわっていることが多いくらいでした。小柄ながらあの精かんな気魄は、いまでも忘れることができません。
 昭和のはじめ、日本犬を保存しようという運動をはじめたころ、甲府市で検事をしていた安達氏は、この山国には、必ずどこかに残存しているものと調査され、昭和六年八月とうとう中巨摩郡芦安村でカモシカ猟に用いられてきた虎毛の日本犬を発見されました。私は芦安より、もっと山奥の南巨摩郡西山村奈良田部落(現早川町)を調査しようと考え、昭和七年五月甲府の愛犬家小林氏らとともに、奈良田部落に行って、猟師の犬を集めて調査しました。

たくましかった虎毛“百”

 奈良田部落の調査を終えて、それから高山、トノコヤ峠を越えて芦安村に出るため、深沢さんという猟師に道案内を頼みましたが、この人の連れていた虎毛八カ月のオス犬が実に名犬でした。
 このあたりは、ほとんど岩山で、しかもくずれやすいぼろぼろの岩、ちょっと足をかけても、ガラガラとくだけ落ちる石ころの道ですが、この黒虎毛は、実にたくみに、軽くその上を飛び歩いて、決して石を落としません。石ころを落としては、その音で獲物のカモシカが逃げてしまうからでしょう。案内の深沢さんが、一行の先頭に立つと、この黒虎毛は安心した様子で、百メートルぐらい先を歩いています。道の分かれているところでは、振り返って、深沢さんの左右の手の合図で、その方に進んで行きます。試みに私が先頭に立ってみると、早速引き返してきて、深沢さんの側について離れません。この利口さには、私もびっくりしました。

毛が保護色の役も

 虎毛犬の毛色は、大体三系統に区別することができます。第一は黒色の勝ったもので、白色がかった綿毛に茶褐色の毛がまじり、その間にやや長目の黒毛が生えて不規則な虎斑とらふになっているもので、私はこれを黒虎毛といっています。
 第二は黒毛が茶褐色と半々ぐらいのもので、虎毛といっています。
 第三は茶褐色またはうす茶の地色に、黒褐色のシマ状の斑のはいったもので、これが赤虎毛です。
 深沢さんの犬は、この黒虎毛に属するもので、森林地帯にはいって地上にうずくまると、虎斑が、木の枝や葉をもれる日光の、地上に影さす点々と同じように見えて、全く犬のいるのがわかりにくい保護色のような効果がありました。

激流もおどり飛ぶ

 この犬は谷川を渡るときなどは、激流のしぶきに体をぬらしながら、流れの中の岩から岩へとおどり飛んで、野獣のような柔軟な飛躍を見せ、見ていてほれぼれする身のこなしでした。
 また両岸数十メートルの絶壁で、岸壁間に大丸太を横に渡し、その上に中丸太三本をたてにのせて、長い橋をかけ、下は激流が白アワをふいて流れ、目もくらむようなところでも、この黒虎毛は平気な顔をして、軽く渡って歩くのにはこれまた驚きました。
 私はむりに深沢さんに頼んで、この黒虎毛を譲り受け“百”と名付けました。中里介山著の「大菩薩峠」の中に出てくる甲斐の義盗“ガンリキの百”とその風ぼうや走りっぷりがそっくりだったからです。
“百”は後に、甲府の甲斐犬保存会に種犬に懇望されて寄贈し、同地で亡くなりましたが、私が甲斐犬の審査に行った時、一緒に御嶽昇仙峡に行き、有名なパノラマ台の大岩の上に“百”も上がって、眼下数百メートルの渓谷を平気でながめて、その身軽さと大胆さで、同地の愛犬家たちを驚かせたこともありました。私も“百”ほど野性味のある犬は、いままで見たことがありません。

悲しい思い出“ギャングの虎”

 この犬は、岐阜県の山で生まれた虎毛の犬で、家の者にはたいへんおとなしく、ふろしき包みやバスケットをくわえて、買い物のお供をするような犬でしたが、他人には猛犬で、その顔付もヤクザのすごんでいる時の顔に似ていたので、“ギャングの虎”と呼んでいました。
 老年になって、フィラリヤ病から皮膚病を併発し、全くなおる見込みがなくなってしまった時、私は“虎”の苦しそうな様子を見るに忍びず、安楽死をさせようと、医師に毒薬をもらい受け、夜半に肉に包んで与えました。
“虎”は毒薬のはいっているのも知らず、うれしそうにかすかに毛をふりながら私の手からこの肉を食べました。いそいで寝室にかえった私は、家内とかたく抱きあって悔んだのですが、その時はもうどうしようもありませんでした。ウーと一声、最後の声を聞いたときのことは、いまでも耳に残って忘れません。
 私はその後、犬を飼うことをばったりやめました。私の一生の日本犬保存事業への奉仕と、現在の動物愛護協会の奉仕も、この時に約束されたといってもよく、いまでも、この“虎”への罪ほろぼしをと思うのみです。

マタギ系のメス犬“松”

 私のいままで飼った犬は十数頭になり、みな思い出の深い犬ばかりですが、その中でも“松”という秋田マタギ系のメスが、一番忘れられない純情な犬でした。
 昭和二年春、秋田県大館の畜犬商から秋田犬オスとメスを買いました。オスは淡赤、立耳、左巻尾、肩の高さ六十一センチの実に体型のよい気性の鋭い犬で“出羽”と名づけました。メスは肩の高さ五十センチの中型で秋田マタギ(獣猟)系で“松”という名でした。毛色は赤にゴマ毛まじり、立ち耳、差し毛、顔がちょっとしゃくれて、ひいき目にも器量がよいとはいえない犬でした。
 後でその畜犬商に聞くと“松”は大館郊外のあるリンゴ園の番犬に飼われていて、六ぴきの子を産んだのを買い取り、子犬がいるから逃げ出すことはないだろうと、自分の家に放し飼いにしたら、その夜のうちに“松”は子犬を一ぴきごと口にくわえて、朝までに旧主のリンゴ園にみんな運んで帰ってしまったのでした。畜犬商の家はリンゴ園から四キロほど離れているところなのです。そんなことでこの犬は放し飼いにできず、手数がかかるので子犬が乳離れするとすぐ私に譲ったのでした。
 私は毎日朝夕“出羽”と“松”を連れて散歩にでましたが、出羽は知らぬ人には危険な犬でしたので綱をつけて引き、松はおとなしい犬でしたので、放し飼いでした。夜はさびしい道を歩くとき、先方から何か近づいて来ると、一番早く気がつくのは“松”です。すぐ十メートルほど先に飛び出して、地に腹ばいになって先方をすかして見て、もし犬だったりすると突然ぴょんぴょんととび上がっておどすのです。先方がびっくりして逃げると、ちょっと追いかけてからさも大手柄をしたような顔して、尾を振りながら私のところへもどって来るのです。先方が気の強い犬で、そのまま歩いて来ると“松”は急に尾を下げてしおしおと帰ってきて、私と“出羽”の後にかくれるのでした。

“松”をゆずる

 その後、私どもと親しくしていた都新聞(今の東京新聞)の論説委員長Hさん夫妻が、しきりに“松”をほしがりますので、とうとう差し上げることに決心しました。H氏夫妻はお子さんがなく愛情深い方々でした。東京世田谷区東北沢の私の家から“松”を自動車にのせて、わざと都内をぐるぐる回って、高田馬場近くのH家に連れて行ったのです。“松”はしっかり鎖につないで、夜は屋内に入れて絶対に放さぬようにといって帰宅しました。ところが翌朝、H夫人から電話で昨夜“松”が逃げてしまったと知らせがありました。驚いてH家にかけつけました。“松”はときどきH家に帰ってきては玄関をのぞき、庭に回っては座敷をのぞき、H氏夫妻が“松”と呼ぶと逃げてしまうというのです。“松”は私たちが訪ねてきてないかと見に来るのだとわかりましたので、私は“松”に、私がここに来ていることを知らせようと思って、玄関の前に私のゲタを並べ、その上に“松”の好きな煮干しを置きました。一時間ばかりすると、お手伝いさんが「煮干しがありません」というので、私が玄関に出て大声で“松”と呼ぶと、門のそばの電柱とゴミ箱の陰から“松”がとび出し抱きついてきました。どうにもかわいそうで、一応“松”を引き取って帰宅しました。
 その後H氏が世田谷代田に移られ、私もその一軒置いて隣に家を建てました。もう“松”が道に迷う心配もないのでH氏夫妻の希望どおりお返ししました。ところが“松”は毎朝食事がすんで解放されると、すぐ私の家にきてしまうのです。そのころは仲の悪かった秋田犬メスの“蕗”も死んで、いませんでしたので、大いばりで家内に甘えるのです。夕方になって、H家のお手伝いさんが呼びに来ると“松”はその足音で縁の下にかくれ、小さくなって息を殺しているのです。家内が「松ちゃん帰ってまたあすおいで」と声をかけると、さもさびしそうにしおしおと出てきて、お手伝いさんの後について帰って行くのでした。H氏夫妻がいくらごちそうしてかわいがっても、私の家に通うのをとめることができませんでした。
 そのうちに家内が病臥するようになりました。“松”は床の下にはいっては、家内の寝ているちょうどマクラの下にすわっているのです。家内が“松”と呼ぶとカタカタと尾を振る音が聞こえるのです。寝室を変えると“松”もその下に移ってすわっています。時々出てきては、くつぬぎの石の上に乗り、縁側に前足をかけて、家内の寝ている姿をのぞき、また床の下へはいって行くのでした。
“松”が病死したとき、私はその死体をもらいうけて全身の骨格を私の研究資料にしました。
“松”の死後一年余たって家内も病死してしまいました。私は、家内の愛用していた茶入れの中に家内の歯と松の歯とを一緒に納めて、墓に入れてやりました。いまでもきっと毎日お墓の中で仲よくしていることでしょう。





底本:「日本の名随筆76 犬」作品社
   1989(平成元)年2月25日第1刷発行
底本の親本:「愛犬ものがたり」文藝春秋新社
   1963(昭和38)年11月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2015年1月1日作成
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