世界記録と私

人見絹枝




 年の暮れまでにはまだ一月あるが、神宮の大会が終ると私はなんだか自分の生活の一年が終ったような気がする。
 あわただしい一年ではあった。それだけになんだか今年はいつもの二倍の仕事をしたような気持もする。
 去年九月、オランダのオリンピック大会から帰って来て年の暮れるまで旅のつかれと二度の遠征による体のつかれでふたたび競技場に立てるかと心配した。下駄箱の中で次第にサビのついてゆくスパイクシューズも何ら気にとまらないまでに競技生活の倦怠を覚えていた。私はこうした変化にあったのは初めてであった。
 競技場に練習もせず社の仕事もやや落ち着いた時、私は二カ月ばかしをついやして競技生活の回顧録のようなものを書いた。それが今春平凡社から出た『スパイクの跡』であった。
 社の仕事をすまして夜九時頃家に帰って来ると、毎晩木枯らしの声をききながら火鉢を抱いて原稿を書いた。十九の年瑞典スウェーデンに遠征してから今日まで、満三カ年の間競技生活を綴って行くペンの走りにつれて、生々しい涙の思い出や自分一人の知る喜びがさらに私を軽い気分にさしたり、底冷えのする冬の夜にかなしみを引きずりこんで行くことが毎夜のようであった。
 しかし原稿の出来上って行くにつれてもうわたしはさっきまでのような元気も、若々しさもなくなってグラウンドのトラックを疾走しながら世界記録を破るなんてことの出来ない人間になるのみではなかろうか、外国の競技場で邦人の歓呼をうけることももう出来なくなるんだと競技場に活躍する自分の姿を自分の目に浮かばせるのであった。落ち着いた、物淋しい、人間らしい気持であった。
 原稿が出来上って校正のゲラが手に入る頃には私はまた元気になった。元気にしてくれた、世間の人々が。
 お前は若い、お前は責任を全うせよ、後輩を作れ、最後を飾れ、
 と世の人は私に説いた。
 私はまだ若かった。まだまだ私は自分の競技生活を全うしていない。オランダの大会では破れている。後輩は一人もいない。
 そうだ私は最後を飾るのだ、若いのだもの。
 来年(一九三〇年)の九月には第三回の万国女子オリンピックがある。瑞典の大会があってちょうど四年目、私には思い出の深い競技会だ、これに出場してそして最後を飾るのだ、私は一大決心のもとにふたたびサビついたスパイクシューズを手入れした。
 春になった、四月に入ると私は去年よりも元気になった、毎年挙行の女子オリンピックで世界記録を一つ出した。それに調子づいた運動神経はまた去年以上の緊張を見せてくれた。
 五月に入ると『スパイクの跡』が出版された。
 私は毎日自分の本がならべてある本屋のショーウインドの前を通った。
 一冊へり二冊へり次第に棚の上から本が少なくなっていくことがどんなにうれしかったか。
「あんたでもそんなに本が売れるなんていうことにうれしみを感じますか、私はあなたなんか超然としていられると思っていました」とある奥さんがいわれたが、私はやはり超然となんか出来なかった。五月にも大きな競技会があった、ここでもまた一つ世界記録が出た。競技をやっておってよかったと初めてうれしかった。
 私はまだ若かったのだ、と思った。
 八月に入ると私は日本中から十四、五人の女の子を集めて合宿練習を二週間大和の美吉野で行った。後輩を作れという世間の人らの言葉にはげまされて、女の子十五人の合宿練習費を捻出すところがなくて生れて初めて金策の苦しさを味わった。金の力を知った。
『スパイクの跡』の印税をこれにあてた。今考えてみれば愉快な思い出だ。
 十月になった、ドイツの選手がやって来た。忘れることの出来ないドイツの国旗とドイツの国歌を聞いてまた涙を出した。去年アムステルダムでドイツのラートケに破れた瞬間を思い出して。
 春のシーズンに作った二百と三種競技が世界公認記録として発表された。世界レコードの表に自分の名前が四つ出た。十月、十一月、私の競技生活再生の最後を飾る月だ。私は思い残すことのないまでの活躍をねがった。
 希いはほぼ達せられて来た。
 秋のシーズン二つの世界記録にまた恵まれた。
 春以来生れた四つの世界記録とスパイクの跡と、昨日今日三省堂から出版される『戦う迄』の小著を一九二九年の思い出として年が暮れて行く。
 新聞記者生活も三カ年の月日がたちかけた。もう一カ月で二十四になるのだ。
 来春はチェッコにオリンピックが開かれる。私は行くのだ、若き少女をつれて。
(4・12





底本:「「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻」文藝春秋
   1988(昭和63)年1月10日第1刷
   1988(昭和63)年3月15日第7刷
底本の親本:「文藝春秋」文藝春秋社
   1929(昭和4)年12月号
初出:「文藝春秋」文藝春秋社
   1929(昭和4)年12月号
※底本編者による前書きは省略しました。
入力:sogo
校正:フクポー
2018年7月27日作成
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