桃太郎

石塚浩之




 沖に出てから三日になる。
 もちろんときおり名前の分からぬ海鳥が飛んできたりもするが、それとてもほとんど蠅と見間違えたとしても不思議はあらぬような、色彩を失った点として、薄い雲で覆われた曖昧な空模様をなめらかな曲線で区切って移動していくのみであり、お互いの姿を確認しつつも気づかぬようなふりをしながら相手の様子をうかがうといった気晴らしのひとときを過ごせるほどにまで近づいてくるわけでもない。ましてやしばしの休憩のため、あるいはあわよくば水なり餌なりを恵んでもらえることを期待して舳先に留まったりする気配などは全く見せずに、灰色の空になめらかな弧を描いている様子は、むしろその背後に残るひたすら退屈な風景の退屈さを際だてんがために旋回しているかのようだ。実際には手を伸ばせば届くくらいの高さを飛んでいる蠅かもしれぬ色彩を失った点を、蠅ではなく頭上はるかな高さを飛んでいる海鳥なのであると確信させるものは、移動する灰色の点が描く軌跡の独特のなめらかさに結びついている海鳥の飛び方の記憶と、その運動に注意を向ける目が感じる遠さの感覚に加えて、なによりもいたずらに鬼気迫った鳴き声なのである。二羽か三羽が鋭く乾いた絶叫を交わしながら飛び去ったあとには、休むことなく鳴り響いていたはずなのにもはや意識しなくなっていた低い海鳴りが鼓膜を震わせ続けていたことに今さらのように気づき、目を閉じてみるとその通底基音のなかから、小さな波が船の腹で砕ける無邪気な音が浮かび上がってくる。空と海の境目を示す単調な直線を舳先が左右に分割する構図にもなんの変化もなく、ただ自分が腰を下ろしている粗末な木の椅子が、海面の起伏をなぞって、まだ新しい船に特有の木と油の匂いがとれぬ甲板ごとゆったりと上下に揺れるのを胃のなかで感じながら、見渡すかぎりのさざ波の連なりに漠然とした視線を泳がせるうちに、この船が正確に目的地に向かっているのかどうかさえ疑わしく思えてくる。そのような疑いが胸のなかに浮かんでくるときにはきまって、疑いを抱いてしまったおのれに対する罪悪感がわき起こり、罪悪感の喚起する虚勢が、疑いも罪悪感もまとめてぬぐい去ってしまおうとするのは、自分に期待しているのがあばら屋で待つ年老いた育ての親ばかりではなく、貧しい村人がなけなしの蓄えを出し合ってこの小舟を用意してくれたのだから、たとえいかなる困難があろうとも退屈な光景の先にあるはずの鬼ヶ島にたどり着き、未だ目にしたこともない鬼たちと戦い、なんとしても勝利し、金銀財宝を村に持ち帰らねばならぬという使命感ゆえなのだ。
 なにを考え込んでおられるのですか。という猿の声があまりにも唐突に感じられたために、ついまるで臆病な草食動物のように体を震わせてしまったことが悔やまれ、腹いせに不必要なほどに殺気をたたえた目つきで猿のことをにらみつけてやる。猿はなにやら機嫌を損ねるようなことを言ってしまったのだと勘違いしたのか、まるで声を発したことなど嘘だったとでも言わんばかりの白々しくも空々しい態度をとり、おのれの放った言葉を中途半端に空中に漂わせたまま、船の行く手の白波を眺めて物思いに耽っているかの表情をしてみせる。猿の瞳にはなにも映っておらぬのだろうし、その胸中は船の行く末であるよりはこちらの機嫌を損ねてしまったことへの後悔と畏れで満たされているのが手にとるようにわかる。鬼ヶ島に行くとの噂を聞きつけ、道中で同伴を願い出たこの男は自ら猿と名乗り、名前を尋ねても、皆に猿と呼ばれているからそれでいいなどと割り切ったふうな口を利いていたが、おそらくもともと名前などないのではあるまいか。というのも彼にはしっぽがあり、そのためにもしかすると本当に人間よりは猿に近いのではないかとも考えられるからなのだが、もっとも猿が何者なのかということをことさらに詮索しようという気は起きない。
 なにしろ自分にだって確かな素性があるわけではないのだ。育ての親が村で待つあの年老いた夫婦であることは間違いないことなのだが、自分には彼らのことを父あるいは母として呼ぶという習慣はなく、そのかわりにおじいさん、おばあさんと呼ぶべく育てられたのであり、彼らがどうやらおのれの本当の両親ではないらしいということをまともに言葉にして説明されたことこそないものの、物心がつくにつれて、おのれの出生にはなんらかの後ろ暗い秘密があるらしいこと、その秘密については口にしてはならぬということ、そしてその秘密を知っているそぶりすら見せてはならぬこと、あくまでも明るい光のほうにのみ顔を向け、そうした光以外は目に入らぬようなふりをしておらねばならぬことを肝に銘じつつ、おのれを育ててくれる一組の男女に対してはおのれの親とは別のものとして接しなければならぬということを、少しずつ悟らされてきたのである。そうかといって洗濯と柴刈り以外に日常のやり過ごし方を知らぬかと思われるあの老夫婦が実の両親であるという可能性も完全に消えたわけではない。件のなんらかの後ろ暗い秘密というのは、実際には秘密というには大げさすぎる些細な事情なのであるのかもしれない。たとえば老夫に全く心当たりがないにも関わらず老妻が身ごもってしまい、老夫が気づいたときにはもはや老妻の下腹部はあまりにも自然な不自然さ、あるいはあまりにも不自然な自然さで、手を合わせて拝むしかないまでに不気味に膨れ上がっており、産む以外に道はなかったということかもしれぬし、そうではなくて、一子をも授かることなくあの年になってしまった老夫婦が、今さらのように子供をもうけてしまったことの間の悪さから、曖昧な嘘を塗り重ねてしまっただけということもありえる。けれども事実を知るものが誰なのかということすら当たり前のように隠蔽されてしまう状況では、ことの次第を明らかにすることは絶望的であり、こうした絶望的な状況は、裏に潜んでいる案外複雑かつ深刻な事実を暗示しているのだとも考えられるのだし、だとすればやはりあの老夫婦はおのれの両親ではなく、血のつながりすらもないのだろうか。村の連中の間で表向き通用しているあの馬鹿馬鹿しい誕生の由来、曰く、川から流れてきた桃を食った老夫婦がにわかに若返り身ごもっただとか、さもなくば、こちらのほうはさらに馬鹿馬鹿しくしかもくり返し唱えられることが多いのだが、拾って帰った大きな大きな桃から生まれただとかいう戯言の、子供だましな、いや、実をいえばどんな幼い子供でさえだませぬような噂の陰に、興味津々で瞳を輝かせる村人の残酷で好色な視線を感じてきたのは一度や二度ではない。そもそも柿や梨や蜜柑ではなく桃でなくてはならなかった理由は、自分自身かつて納得していたように、果実の中心にある大きな種が立派な赤子を思わせるからということではなくて、産毛の生えた人肌色をした実のなんとも艶っぽい欲望に満ちたあの姿態にあるのではないだろうか。桃という思いつき自体が、隠された事情を知るものの間のみで通用する符丁であるとすれば、符丁というものにありがちな特有の隠微な口振りから、なにも知らぬものにも、その事情に含まれている人前で口に出すことははばかられるような嫌らしさだけは伝え続けられているのだとしても不思議はあるまい。
 未知の敵に向かうのだ。大将の心中だって平静であるわけはなかろう。という言葉がふいに聞こえる。今度の声は猿ではなく、先ほどまで甲板の上に腹ばいに寝そべり眠っているように見えていた犬の口から出たものである。犬にしてみればその言葉は、先ほど猿が口にして宙に漂い続けたままの言葉を受けたつもりだったのかもしれぬが、いくら周りの風景に際だった変化が現れておらぬように見えようとも、あれから船はいくらかの航路を進んでおり、その言葉はもはやあのとき船があった海上のどこかに吸い込まれて消えていったはずであり、犬の言い方も、いったい誰に向かって口を開いたのかはっきりせず、猿のほうもまさかおのれが話しかけられたとは考えてはおらぬので、犬の言葉もやはり宙に浮かんでしまい、進み続ける船の上からやがて海上に取り残され、誰もいないあたりの風景のなかに吸収されてしまう。この犬も猿と同様に道中の行きがかり上、鬼ヶ島へ同伴することになったものである。一見したところ見かけは生粋の柴犬となんら変わるところはないこの犬を、尋常の柴犬と決定的に分かつ点は、人語を解し自ら話しさえするということだ。初めてこの犬に出くわし話しかけられたときには、態度にこそ出さなかったものの、けだものが話しおのれに関わろうとするという状況の奇態さに内心すっかり肝をつぶしてしまっていたのであるが、今になって思えば、これから命がけで鬼退治に行こうとする人間がたかだか言葉を話す犬と遭遇したくらいのことで動揺を示すとは情けないかぎりで、だからこそ同伴の申し出を断ることが怯えの現れだと受け取られるのではないかという、実際に感じていた怯えとは裏腹の虚勢がわき起こり、後先を考えずに犬が旅の道連れとなることを受け入れてしまったのである。猿であれば風向きが変わったときなどの帆の上げ下ろし作業や舵取り、あるいは櫓の操作など、航海に必要な仕事をいくらか手伝わせてみることもできるのであるが、犬はいくら人語を解し意志疎通の上で問題はないとはいえ、体の構造上、四つ足でなければまともに立つこともできず、立ち上がってしまえばあと自由になるのは口だけという有様では、こちらが望むだけの働きなどできようはずもない。一度犬に向かってその旨を伝えたこともある。おい。犬よ。なにも立ち上がるだけのために四本もの足を使う必要はあるまい。後ろ足二本で立ち上がってみよ。そして残った前足でなにか役に立つことをしてみせよ。それともなにかにつけ偉そうな口こそ利きはするものの所詮は貴様も愚鈍な畜生にすぎぬのか。その言葉を聞いた犬は、なかば傷ついたような、なかば怒ったような表情をして、余もその気になれば二本の後ろ足で立つくらいの芸当はしてみせよう、などとほざいて前足を上げたのだが、無様に前につきだした前足はいかにも頼りなげで、やはりそれは手ではないのであり、四つ足で立ってさえいればいくらかは役に立った口すらも、放っておけば上を向いてしまうところをかろうじて前方に向けているのが精一杯といったふうで、とてもなにかをくわえることなどできそうになく、それどころか普段は人目に触れることなど滅多にない生白い腹が無防備な醜さをさらしながら、ふだん男言葉を使っているこの犬が実は牝犬であったことを知らしめている。それでも犬はさも自慢げな表情で、如何で御座るか、などとのたまっていたが、その短い爪先立ちの足は小刻みにふるえながら細かい足踏みを続けずにはおられぬようで、すっかり白けきってしまい返すべき言葉を持たぬこちらの沈黙をどのように解釈したのか、犬はそのままの姿勢でしばらくのあいだ、むかし村を訪れた僧侶が身振りを交えて話してくれた支那の幽霊のような踊りを踊り続け、やがてそのまま後ろにひっくりかえってしまった。それ以来、一度も二本足を命じられないことを犬自身がどのように考えているのかはわからぬが、こちらが猿と一緒に船の操舵に汗を流しているあいだも、この犬は決してなにか手伝おうなどという素振りは見せず、ただときおり妙にわけしり顔で知ったようなことをつぶやくのみであるところを見ると、今さら犬になにかを期待する気にこそならぬものの、やはりこの犬を仲間にくわえることを決める際に牡牝の区別くらいはつけておくべきだったのかもしれぬ。
 猿はまたいつものように、思わず目を見張らずにはいられぬほど毛むくじゃらの胸元を開いて手を入れ、どこか痒いところでもあるのか、無理やり痒いところを探さねば気がすまぬのか、あるいはいじっているうちに痒くなってくるのか、なにやら切羽詰まったような真剣な面持ちで、しきりに体を掻きむしっては、蚤なのか垢なのか、その両方が混じり合った混合物なのか知らぬが、なにかを見つけだしては、それをつまみ出すような仕草をし、そのたびに何本かの毛が抜けて風に舞い、犬の鼻先をかすめて船の後ろのほうに運ばれていき、流麗な曲線の軌跡を描きながら、海上に漂いだして見えなくなってしまう。その様子を眺めている犬の目は、ほとんど閉じてしまいそうで表情をうかがうことはできないのではあるが、聞こえよがしに何度も鼻を鳴らしてみせる態度からは、猿の振る舞いを気にとめておらぬわけではなく、むしろその粗暴な振る舞いを嫌悪し、軽蔑していることは間違いない。しかしいくら猿の粗暴さを嫌悪しようとも、犬だってけだものにしか見えぬことには変わりなく、いくら人間と同じように言葉を話すとはいえ、あのようなあからさまな嫌悪をあいもかわらずの同じ仕草でしか示すことができぬおのれの愚かさに気づかぬようでは、たとえ犬が人間であったとしても、けだものなみの程度の低い人間としか扱ってもらえまい。
 もともと村を出発することを決意した時点では、たったひとりで鬼を倒すことを決意していたのだとはいえ、こんな連中を連れて鬼ヶ島へ行ったとしてもまともに鬼と戦い勝つことなどできるのだろうか。援軍になるどころか足手まといになるだけではあるまいか。そんな疑念から、かえって当初なかったはずの恐怖感を煽り立てられるとしてもおかしなことではあるまい。いや、彼らのせいにするのは卑怯ないいわけでしかなく、自分自身に嘘をつくのにもそれなりの演技力が必要で、今のおのれがそれほどの器用さを身につけておらぬのだとすれば、思い切って白状してしまったほうが善後策も立てやすいというものだ。正直に言おう。おれは恐ろしい。茶碗一杯の飯を食えば一杯分だけ、二杯食えば二杯分だけ成長するとまで言われたのは言葉の彩にすぎぬのだろうが、あながちそれも大げさではなかったのではあるまいかと思えるほどに、並外れた体格に恵まれ、村一番の力持ちであると認められていた自分と相撲をとってかなうものは、自分の村にはもちろんのこと、周辺の村にもひとりもいなかったのにもかかわらず、日々の修練を怠ることなくひたすら修行に励んでいたのは、なにもおのれの研鑽のためではなく、ましてやおのれの力を村人たちに誇るためではない。田も畑もなく山から刈ってきた柴を売って得る収入だけが貧しい日々を支える唯一の手段という有様では、少なくとも育ての親であることは間違いないおじいさんとおばあさんに人並みの暮らしをさせてやることなどとてもかなわなかったために、天の与えてくれた体躯を生かし田舎相撲に出場し、その賞金を稼ぐことで貧しい暮らしを少しでもましにしたかったのである。おのれが強かったのは本当のことであるが、その強さはなにもただ天性の素質のみにたよっていたわけではなく、自分としてはいつ敗れるともしれぬ緊張感のなかで、相手の相撲を徹底的に研究して戦法を練り、他人の三倍の稽古によっておのれの弱点をひとつひとつ克服してきたからであり、端から見ればほとんど奇跡に近いように見えるらしいこの強さにしてみても、自分自身ではそれまでに費やした努力から考えれば、種も仕掛けも十分すぎるほどに満ち充ちてある当然至極のものなのだから、極端な期待を抱かれるのはありがた迷惑な話なのである。もっとも鬼退治などという無謀な仕事をそそのかされてそれにのってしまったのは自分なのだ。それは自覚しているものの、我ながら調子にのりすぎていたなどと今さら反省してみても後に引き返すことなどできぬところまできてしまっており、考えれば考えるほど勝算などあるのかどうか不安になるばかりである。なにしろ今度の相手とは初顔合わせである上に、相手に関して知るところはほとんどなにもなく、かろうじて知っていることといえば相手が人間ではなく鬼なのだということだけである状態では、戦法の対策など立てられようはずもあるまいし、それどころかその戦いは相撲の譬えとしての戦いではなく、文字通りの実戦であり、土俵際のきわどいところで相手をかわしつつ、徳俵にかけた踵で踏ん張りながらとっさの投げを打つなどということは期待できず、たとえそんなことがありえたとしても、それくらいの戦い方しかできぬようではとても勝ちは望めぬばかりか、下手をすると死ぬかもしれず、これは弱気になっているのでもないし非現実的な悲観に陥っているわけでもないのだが、現実的に現状を考えればこそ、生きて帰れることのほうがむしろ幸運なのだ。
 乳色の雲で一面に覆われ、これから晴れようとしているのか、それとも雨模様に向かうのか見当のつけかねる空の色を眺めるでもなく眺めていると、背後で慌ただしい鳥のはばたきが聞こえ、さてはまた退屈をもてあました猿が要らぬことをしでかしたのかと振り返ると、案の定、今の騒ぎで抜けたらしい鳥の羽根が風に運ばれて漂っていくところで、出発前に捕まえたキジを閉じこめてある鳥籠の前に座り込んだ猿が、体をこわばらせて神妙な皺を眉間に寄せていたところに目を合わせてしまう。けれども予めにらまれるであろうことを予想していたらしい猿の皺を見たとたんに、すでにこちらはなにかを言ってやる気をなくしてしまっている。このキジを捕まえたのは、何日続くのかもしれぬ海路で口にできるものはもともと十分ではなかったところへ、涙がこぼれるくらいありがたく心強い猿と犬の援軍があり、来るべき食糧不足の際の食料とするためなのである。猿や犬などはこの男についてゆけば米の握り飯くらいにはありつけるのではあるまいかと期待していたのかもしれぬが、村での貧しい暮らしぶりではとても米など持ち出せようはずもなく、あるのはただ黍の粉を水で練っただけの団子だけで、おばあさんに言わせると、それは日本一の黍団子なのだそうだが、いくらそれが普通の団子よりはひとまわり大きいとはいえ、日本一などという冠をつけたところで所詮は代用食は代用食でしかなく、こんな団子を食っただけで鬼と戦えるほどの力が出ようはずもない。はたして現状はといえば、一日にひとり三個と決めて食べてきた黍団子が、今日までしかもたぬことははじめからわかっていたことで、あと残りふたつしかない黍団子のうちのひとつをおのれが食べるのだとすれば、犬と猿はたったひとつ残った黍団子をどのように扱うのだろうかと考えぬでもないが、そもそもたいして役に立つわけでもなく、かといって退屈や不安を紛らわしてくれるような話し相手になるわけでもない彼らに、貴重な食料を今まで分けてやる義理だってなかったのだから、彼らが黍団子を分け合おうが、そうでなかろうが、そんなことは知ったことではない。ともかくこれからは、いざ鬼ヶ島に近づくまでは、ぎりぎりまで空腹に耐えていき、鬼ヶ島が見えたところで戦いの前の英気を養うつもりなのである。とはいえ今までだって十分な食料を口にできたわけではない。すでに空腹は慢性化しており、しかもこの目論見というのが、まだなんとか露命をつないでいられるうちに鬼ヶ島に到着するはずだという根拠のない仮定に基づいたものでしかないのだから、目の前にいるキジに狩猟本能をかきたてられる猿の気持ちはわからぬでもない。こんな空腹のまま鬼ヶ島に着いても、鬼と満足に戦うなんて無理ですよ。せいぜい猿の言いそうな台詞はそんなところだろうと見当はつく。どうせ猿は今すぐキジを焼いて食いたい一心で、そのキジを食ってしまったあと、すべての食料をなくしてしまった絶望感を味わうであろうなどということにまでは考えが及ぶはずもないのであるが、それでも猿が実際にその台詞を口にすることがないのは、猿独特の敏感な感受性から、そんなことを口に出そうものならにらまれるだけではすむまいということだけは察しがつくからなのだ。もちろん当のキジにはただの一度も食料など与えておらず、海に出てからは水すらもやっておらぬものだから、今朝目を覚まして様子を見たときには、形の崩れた剥製のように、ぐったりとして身動きひとつしなかったのに、まだあれほど激しいはばたきをしてみせるとは、それほど猿の脅しが鬼気迫ったものであったのか。
 鳥籠に近づいたことなどは、ほんのことのついでだったのだとでもいわんばかりのわざとらしさで、ふたたび動かなくなったキジを目の端でとらえながら、猿は甲板の片隅に寄せておいた櫓を拾って海面に突き刺しているのだが、見よう見まねで覚えたらしい仕草で櫓を動かしているその様子は、かろうじてどうやら漕いでいるつもりなのかとは思えるものの、猿の愚直で深遠な顔色とは裏腹に、櫓はただ海水をでたらめにかき混ぜるばかりなのである。猿がむやみと体力を消耗する様子を冷ややかに見つめる犬のほうも、猿のあがきとは無関係を装うことによりおのれの賢明さを保っているつもりかもしれぬが、それは犬には猿を助けてやるだけの知恵もなければ手だてもないというだけのことで、ひたすら甲板のひとところを暖め続けているだけの犬の態度には、道をわきまえた賢者の悠然とした落ち着きよりは、無能ゆえの怠惰しか感じられない。この犬にせよ猿にせよいったいなぜ鬼ヶ島への供などする気になったのか。こやつらの弛緩しきったていたらくは、遠くはない先に用意されているはずの鬼との戦いを予感することでいやがうえにも膨れ上がる皮膚の表面が粟立つような緊張感を、まだ差し迫ったものとは感じたくはないがゆえに、わざと気ぜわしいことなどさほどない退屈な船旅の日常のあれこれにかまけることによって忘れてしまおうとしているようにはとても思えず、鬼との戦いなどは永遠に自分の身には降りかかることのない絵空事で、この無邪気な船の旅をいつ終わるでもなく続けていけると信じているかのようだ。犬や猿は、桃から生まれたといわれる怪力の男が、貧しい村とその周囲ではかなり名前が知れているのを見て、その男が自分たちに対して、お互い得体の知れぬもの同士という親近感を持つことを期待し、なにかちょっとしたお恵みくらいにはありつけるかもしれぬとか、さらにうまくいけば一緒についていることができるかもしれぬとか、そうなれば、まかり間違っても食いっぱぐれることはあるまいなどと考えているのだろうか。いや。そうだとすればなにも鬼退治に行こうなどという危うい時期にとり入らなくとも、無事に帰ってきたことを確信してからあらためて近づいてもよかったはずであり、そうではなくわざわざ鬼ヶ島への同伴を申し出たということは、きっと今までは見せ物同然の暮らししかしてこなかったであろう犬や猿が、素性の知れぬものはよほど特別な能力を持っておらぬ限りは胡散臭がられるだけであると悟り、鬼を相手とした戦いに臨んではほとんど非力である自分たちを自覚しながらも、桃太郎が鬼に勝ち、自らもうまく立ち回り生きて村に帰り着くことができれば、今までとは違った待遇を受けられると考え、そのまま村に残り汚れた不吉のものとしての扱いに甘んじるよりは、万にひとつの可能性に賭けて、あえて危険を冒すことを選んだのだ。
 ふいにとぎれた雲間からこぼれた日差しが甲板の上につくりだした自分自身の影は、形こそひしゃげており胴のあたりだけ妙に長く引き延ばされてはいるものの、ちょうど等身大の長さで、鋭い輪郭線が描き出す虚像の細部は、実像の特徴を実物以上に引き出している。それはごく普通のいたってまっとうなひとりの若人の形をしており、明るい甲板に投影された力強い影のうちに、桃から生まれたなどという類い希なる運命を透かし見ることなど全く不可能だ。と思ううち、先ほどよりはまだらになってきた雲のあいだからこぼれ落ちる光が強まったり弱まったりするのにつれて、目の前の影法師も甲板の上で頼りなげに濃淡の調子を刻一刻と変化させ、そのうちにほんのりと肌を包んだ日の光のぬくもりを湿った冷たい風がぬぐい去ってしまうと、影法師はついにこの船の浮かんだ海全体の翳りのなかに自らの輪郭を埋もれさせてしまう。そんな偶然を装った光の悪戯によってあたりを包みこんだ翳りは、異形のものが人並みに暮らそうとすれば人並み以上の試練に耐えねばならぬという事情を胸中によぎらせる。そのことは犬や猿とて身にしみていることだろうし、素性の知れぬ私生児である自分が鬼ヶ島へ行くことを決意した動機だって結局はそんなところにあるのかもしれぬ。どんなに相撲の修行を積み、勤労に励み、学業に研鑽し、日々の行いを正し、あらゆる鍛錬に身を砕いても、いや、そんな努力を重ねれば重ねるほど、村での居心地は奇妙な違和感を増すのであり、相撲の賞金を持ち帰るときにはいつだって、こちらからは決して見つめ返すことのできぬ村人の視線が、冷たい炎のように体の表面をくまなく舐めまわすのを感じていた。この私生児め。そんなに金が欲しいのか。こんな田舎相撲ごときにむきになるほど飢えているのか。それほど欲しいならもっていくがいいさ。桃から生まれたんだってな。まさか本気でそんなことを信じているのかい。恥ずかしくないのかい。まあ確かに貴様は強いさ。日本一の桃太郎さんよ。早いとこ爺さんと婆さんにその金をもっていってやりな。面と向かってそんな口を利いたやつはひとりもいなかったとはいえ、村のものだって自分が桃太郎でなければ、鬼ヶ島へ送り込んで鬼と戦わせようなどという無茶は思いつかなかったはずなのだが、それを村人はさしてでたらめなことだとは考えておらず、おのれ自身でもそれをそう理不尽なことだとは思えぬ。それは決して鬼を相手に互角の戦いができるだけの力を持っているなどという自負ゆえではなく、たとえこんなおのれであろうとも、鬼を退治し無事に戻ることができたとなれば、やはり皆は感謝するだろうし、おそらくは最高の尊敬も受け、ひょっとすると村長のあの美しいひとり娘を嫁として迎えることによって、ようやく村の一員として安逸な暮らしを送ることができるようになるかもしれぬという前途を思い描くことができるからである。異形のものが健常者と対等になることはありえず、ありえるのは軽蔑か畏怖のどちらかだけであり、そして実はそのふたつは同じ事柄の別な面にすぎぬのではあるが、しかしどちらの面が表に出るかということが、ことの本質以上に重大なことなのだ。ときに物事の見かけはその本質に先立つ。というよりも、人語を操る犬やしっぽのはえた猿はともかく、桃から生まれたなどという戯言さえなければほかの若人となんら変わるところなどないこの自分が、それにもかかわらず異形の扱いを受けねばならぬことを思えば、異形とは健常者の好奇の眼差しがつくりだしたいびつな言葉、すなわちなんら実体のない蜃気楼のようなものでしかないのではないかと考えられるのではあるが、それでも軽蔑と畏怖とのふたつの面のみが、あやふやな幻ではないものとしてあるのだとすれば、異形にはほんの薄紙一枚分ほどの厚さの本質もなく、それはただふたつの完全に密着した面に挟まれた無でしかない。しかしたとえそうだとしてもなお、猿や犬だけではなく、この自分までもが異形としてしか生きられぬような現実を生きざるをえぬ以上は、おのれはあの老夫婦のためではなく、ましてや村人たちのためではなく、おのれ自身のために鬼退治に向かうということこそが、輪廻のなかでくり返しくり返し生を受けたとしても、そのたびごとに反復せざるをえぬような永劫の宿命なのかもしれない。そんな悟りにとりつかれた瞳を凝らしてみれば、この船の前方にはかつて鬼ヶ島へ向かった数え尽くせぬほどの桃太郎が亡霊のようにどこまでも続いており、この船の後ろにはこれから鬼退治に行かんとする無数の桃太郎がさざ波の向こうの水平線の果てまで延々とつながっている様子が浮かび上がってくるのである。
 気が遠くなるほどの太古から、あるいはかつてのどの時にも属さなかったけれども記憶の深淵から浮かびだしてくる過去から語り継がれ、はるかなる未来へ、いってみればいつまでたっても決して訪れることのない悠久のさらに先までくり返す無惨な希望のような若武者の姿を、めくるめく思いで見やるうち、その鬼ヶ島を目指す亡者のうちのひとつであるおのれの腹の底からまたひとつの疑いがにじみ出てくる。村人たちがあれほどまでに恐れていた鬼に、誰かが実際に襲われたという話は聞いた覚えがないのであるが、鬼なるものが村を訪れたのはいったいいつのことなのだろう。誰それがいつ被害を受けたという話を聞いたことがないということは、鬼の襲来はもはや村人の記憶にはないほど遠い過去のことなのかもしれず、だとすれば、今さら戦いで無用の血を流さずとも、話し合いでなんとか解決がつくかもしれぬし、そもそも鬼が本当に悪事を働いたのかどうかすら曖昧に思えはじめ、あるいは異形のものに対するいわれのない恐怖感が漠然とした被害意識に結びついているだけなのではあるまいかという疑念が頭をもたげ、その畏れはさらなる憶測、すなわち、実は自分こそは鬼ヶ島の人間で自分が退治しようとしているものたちは実の両親や兄弟なのではあるまいかという想念に発展する。確かにそう考えればおのれの図抜けた強さにも納得がいくのだが、さすがにそれはあまりにもでき過ぎた話で、きっとどこかにおのれと本当に血のつながった人間を求めたいといういじましくも根強い願望がこんな妄想を生み出すのだろう。けれどもそれを妄想というならすべてが村人たちの妄想で、彼らが鬼に襲われたことなど一度もなく、実はその鬼すらもどこにもおらず、ただ自分たちの貧しさをありもせぬ暴力への被害意識とすりかえたいだけなのではないか。それならば、今すぐにでも船の進路を変えてもと来た方向へと引き返すべきではないか。鬼は確かに退治した。もう恐れることはなにもない。村に帰りそのように告げてやれば、いわれのない漠然とした畏れから生まれてきた迷妄などは直ちに払拭され、ついでにおのれは鬼を退治した英雄として歓待を受け、村長のあの美しいひとり娘を嫁にとり、安泰な暮らしを送れるのではないか。そんな考えが、浮かんだ途端にかき消されるのは、村人たちが鬼ヶ島には鬼が人間から略奪した財宝が眠っているとの言い伝えを忘れるはずはないからで、金銀財宝はおろか、一反の錦、一俵の米すらも持たずに帰ろうものならば、そのことについてなにも問い詰められぬはずはないのである。村人たちの妄想が貧しさからくる不安ゆえのものであれば、それをぬぐい去るには貧しさを解決するしかないのだが、しかしもし鬼ヶ島が妄想の産物で鬼などどこにもおらぬのだとすれば、鬼退治などありえず、もちろん財宝など手にできようはずもなく、ということは自分はいつまでたっても村には帰れぬことになる。途端に船の前後にどこまでも連なっていた桃太郎の幻影が、ひとつまたひとつと蜃気楼のように揺らめいては消え失せていき、相も変わらぬおのれだけはゆらゆらと霞のように消えてしまうことができず、たったひとりの桃太郎として取り残され、甲板の上に置いた木の椅子に腰を下ろしながら、もとと同じ薄曇りの弱々しい空の下で、耳鳴りにも似た唸りを聴かせる海面にさざ波だけが単調な模様をつくっているのを阿呆のように眺めている。
 櫓を漕ぐ真似をしていたずらに体力を消耗するのにも厭きたらしい猿が、大仰なため息をつきながら船尾から戻ってきて、今まで使っていた櫓をもとの甲板の片隅に戻そうとしたとき、ふいにここしばらくはなかった大波がやってきて小舟を大きく縦に揺すったために、猿は体勢を崩して櫓を放り投げる格好になり、はからずもこちらのほうに投げつけられた形になったその櫓を自分は難なくかわしたのではあるが、無念にも櫓に付着していた水がしぶきとなって飛んできたのまではよけきれず、右の瞼の上、鼻の頭、左の頬など、数カ所におよび不快な冷たさを感じた。と思いきや、まばたきひとつする間もあらばこそ、村相撲で定評のあった鋭い立ち会いを彷彿させるに十分な素速さで猿の目の前に立ったときにはすでに、猿の貧相な面に全身の力を込めた張り手をかましてしまい、息の根の止まったような短い悲鳴を残してふたたび船尾のほうまで飛ばされた猿は、血の吹き出た唇を押さえ怯えた表情でこちらの顔色をうかがいながら、愚鈍さそのものである濁った視線でおもねるように体をくねらせる。その赤い皺だらけの顔の醜さは、出発の前夜にあてがわれた年老いた娼婦を思い出させた。私があなたの本当の母親なのよ。という別れの間際に残された卑劣な言葉が引き起こしたなんとも後味の悪い不気味さ。そのときの内股に鱗ができるような感触を思い出し、おどおどとした足取りで立ち上がってきた猿が折れてしまった前歯を押さえながら、あるべきところにあるべきものがない不思議さをもてあましている表情を浮かべている顔面に、もう一発、渾身の拳をめり込ませてしまったため、もんどりうった猿は両の掌で顔を覆いながら狭い甲板の上をのたうちまわり、勢い余ってキジの鳥籠に激突し、その立ち回りのせいで小さな船は大いに揺れた。ふいに襲来した嵐のごとく小舟の上でくり広げられた惨状を目の当たりにして、とばっちりを食うことを恐れた犬は、いつもの生意気な口を利くこともなく、身をかたくして眠ったふりをしているが、いかにも苦しげに腰のあたりをひねっており、その不自然な体勢と、本当に眠っているときにはいつも開かれているはずの口がぴったりと閉じられている様子からは、必要以上にことの成り行きに神経をとがらせているのがありありと見てとれる。こちらの機嫌をうかがい萎縮しているのは猿だけではなく、犬にせよ猿にせよ、鬼と戦って命を落とすことなどよりは、おのれの主人の機嫌を損ねることのほうが恐ろしいのだと今さらのように悟り、二匹の畜生に対する怒りがますます膨れ上がる一方、こやつらを供に連れてきたことを決意し、鬼ヶ島に行かんと心を決めたおのれ自身までが無性に腹立たしく思われてきた。くそ。こんなもの。自分は日本一と書かれた鉢巻を頭からむしりとり、甲板の上に叩きつけて踏みにじった。不覚にもただならぬ熱さのこみ上げてきた目頭を冷やそうと天を仰げば、そこにはまた名も知れぬ海鳥が二羽三羽と飛んできており、短くはあるが悲壮な決意をうかがわせる鳴き声を発しつつ、灰色の曖昧な空模様のなかにゆるやかな軌跡を描く。やがて視界の端でとらえていたその軌跡の一本がそれまでにはないほど近寄ってきて、それまでは色彩を失った点でしかなかったものが、真紅のくちばしをもった白い鳥の形となり、ついにはこの小舟の舳先に留まるのではないかと思われるくらいにまで近づき、ほんの少しだけささくれだっていた心の表面がなめらかになったような気がしたのもつかの間、何回か旋回しつつ、羽を休めるか否かのためらいを見せていたそれが、ようやくおのれと目を合わせたかと思われた途端、またゆったりとした弧を描きながら虚空の果てに飛び去ってしまったあとには、ただひたすら黒々とした海原が広がるばかり。
 鬼ヶ島はまだ見えない。





底本:「三田文学 第七十七巻 第五十三号 春季号」三田文学会
   1998(平成10)年5月1日発行
入力:大久保ゆう
校正:石塚浩之
2015年12月12日作成
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