かなしみ

高見順




 赤羽の方へ話をしに行つた日は白つぽい春の埃が中空に舞ひ漂つてゐる日であつたが、その帰りに省線電車の長い席のいちばん端に私が腰掛けて向うの窓のそとのチカチカ光る空気にぼんやり眼をやつてゐるといふと、上中里か田端だつたかで、幼な子を背負つたひとりの若い女が入つてきて手には更に滅法ふくらんだ風呂敷をさげてをつた。そこで席を譲つた私であつたが、このごろ幼な子となるとこの私としたことが、きまつておのが細頸を捩ぢ曲げたり或は長い頸をば一層のばしたりしてまでその幼な子の顔をのぞいてさうしてそのあどけなさをば、マア言つてみりや蜂が騒々しく花の蜜を盗むみたいになんとなく心に吸ひ取り集めないではゐられないのであつたから、そのときもその幼な子に遽しく眼を向けたことは言ふまでも無いのだ。どうやら眼が見え出してからやつと一二月位にしかならないと察せられるその子は、眼と眼とのあひだのまだ隆起のはつきりしない鼻の上ンところに、インキのやうな鮮やかな色合ひの青筋を見せてゐて、そのせゐもあるんだらうが、総じて脾弱な感じで顔色もこつちの主観からだけでなく病弱の蒼さと見られ、さういふ子にはなほのこと親ならぬ私ながらいとしさが唆られるのである。ところがその親の若い女なんだが、これはまたどうして骨太のおつとやそつとでは死にさうもない体格の牛みたいなやうな女で、そしてさういふ女に有り勝ちの眼暈を催させるやうな色彩と柄のそれにペカペカと安つぽく光るところの着物を着てゐる。その背中で小さな頼りない幼な子はキョトンとした青つぽい眼をあらぬ方に放つてゐたが、するうちに何を見つけたか、弱さうな子でもやはりくびれは出来てゐるその頸を精一杯うしろに曲げて、それは全くもやしの茎がポキント儚く折れるやうに今にも折れはしないかとハラハラする位に無理にのけぞらせて、一心に何かを瞠め出したものだ。何か横の上の方にあるものに幼な子は大変な興味を惹かれて了つたらしいのだ。瞬きもせず瞠めてゐるのだつた、すぐその無理な恰好が苦しくなるのだらう、首を前に戻すのだが、その戻すのが戻すといつた式のものでなくガクッと首を前に倒す、いいえ、ぶつつけぶつ倒すのだ。さうして鼻をペチャンコに潰したまま母親の襟に顔を埋め、しばらくはさうしてフーフーと息をついてゐる。この幼な子にとつて仰向いて瞠めるのはそれこそ大変な労苦であることをそれはありありと語つてゐた。とまた首を持ちあげ頸を折るみたいにして仰向くのであつた。さうして再びガクッとやる。はて何が一体そんなにまで幼な子の心を強く捕へたのかと私は心穏かでなく幼な子の視線を辿るといふと、席の横にひとりの背の低い青年が立つてゐてその男の顔を瞠めてゐることが分つた。さりながらその顔は至つてありきたりの雑作であつて別に不思議な顔といふのではなかつた。けれど如何にも不思議さうに幼な子は見入つてゐるといふことを青年は夙に気づいてゐたらしく、青年らしい羞恥と困惑を押へ隠してさりげない風を敢へて装つてゐる表情であつたが、ここでまた私の吟味的な視線を面皰の吹き出た頬に感じると、もはや我慢がならぬといつた如くに苦虫を噛み潰したやうな顔をした。とその瞬間、私はああさうだとひそかに合点をした。青年はセルロイド製の黒いふちの眼鏡を掛けてゐた。たしかにその眼鏡に幼な子は惹かれたのであるらしい。軈て幼な子は小さな手まで上へ頼りなげに差しのべはじめたが、その手の動きも私の推測の誤りでないらしいことを告げてゐると私はした。幼な子の春の芽のやうな可愛い手は然し充分にあがらず、空間を模索的に動かしてゐるうち青年の洋服の袖をとらへた。すると、この、幼児を身辺に持つたことのないらしい青年はすつかり照れて、冗談ぢやないよといつた風にすげなく、だがさうあらはに引つこめるのも大人気ないといつた様子で静かに手をひくと同時に幼な子は例のガクッとやるやり方で顔を伏せた。丁度そのとき電車は駅に入り、青年は降りて了つた。そして又電車が動き出すとその動揺に促された如くに幼な子はやをら首を挙げて不思議な眼鏡を観察すべく上を見たはいいが、さあ大変、大事な眼鏡は消え失せてゐる。今までちやんとあつたものがあッといふ間になくなるとは信じ難い、さういつた眼を幼な子はムキになつて向けてゐたが、やがてなんともいひやうのない哀しい顔付をしたとおもふと、それはすぐ無慙な歪んだ顔に成り、ヒーヒーと泣き出した。その泣き声が、抗議的な爆発的な叫喚的なものならいいんだが、いかにも弱々しい低い絶え入るやうな哀しいものであつたのも私の心をひとしほ苦しめた。若い母親は、ああよしよしと言つて背中をゆすぶり、その体躯にふさはしい勇ましい振り方をするもので、幼な子はガクンガクンと首をがくつかせてそして泣きつづける。泣きつづけるので母親は、ああよしよし、もうすぐだよ、上野に着いたらやるからネと言って[#「言って」はママ]自分の人差指を幼な子の口に突き込んだのであつたが、どうやらそれはおしやぶり代りに当てがふ積りらしく、幼な子の泣き出した事情も遣る瀬ないそのかなしみも知らない母親は一図に幼な子が空腹から泣いたものと解したのであらう。幼な子はそんな汚いおしやぶりは拒否したけれど、荒いゆすぶりに脳震蕩気味に成つたのか連続的に泣くのは控へて時々泣く泣き方に移つて行つた。その頃は私もさうジロジロ見るのは悪いやうな気がして心ならずもソッポを向いてゐたのだが、やはりどうも気になつてさりげなく横目でのぞくと、幼な子の顎の下にあるべき涎掛けがずれてゐて涎が母親の晴着の襟を汚してゐる。これはいけないと直してあげようとしかけたとき女は隣りにゐる草色のズボンをはいて上はシャツだけの若い男に話し掛け、その言葉はそのまだまるで若い男がどうも幼な子の父親であるらしいことを私に知らしめ、さうなるといふと私のしようとすることなどは当然その若い父親のすべきことであり、それを男をさておいて私がすることは何か恥をかかせることに成る恐れがあるといふことを私に知らしめた。そこで私はやめたのだが、然し、その若い父親は泣きじやくる幼な子にてんで眼を呉れようとはしないだけでなく、うるさい幼な子の存在に腹を立ててさへゐるかのやうな顔をツンと横に向けてゐる。さうして襟は汚されるままで、言ひかへると幼な子はそのかなしみを遂に察して貰へず、一向に顧られないままでいつか上野へ着いて、さて私はこれが最後だと別れの挨拶を幼な子にかけようとするみたいな想ひで改めて眼をやるといふと、幼な子は母親の濡れた襟にぴたりと頬をくつつけて、何か自分から諦めたそんな安らかさで眼をつぶつて、そして自分の下唇を口のなかに食ひ込ませ乳の出ないそんなものをチクチクとしきりに吸つてゐるのであつた。幼な子のかなしみが、いや、かなしみとは常にかういふものなのであらう、――かなしみがジーンと私の胸に来た。幼な子が車内から去つたずつとあとも私の心には深いかなしみが残されてゐた。それは幼な子へのあはれみといふのでなく、いつか私自身のかなしみといふのに成つてゐた。





底本:「日本の名随筆99 哀」作品社
   1991(平成3)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「高見順全集 第一九巻」勁草書房
   1974(昭和49)年1月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2017年6月25日作成
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