古句を観る

柴田宵曲




はじめに


 ケーベル博士の常に心を去らなかった著作上の仕事は「文学における、特に哲学における看過されたる者および忘れられたる者」であったという。この問題は一たびこれを読んで以来、またわれわれの心頭を離れぬものとなっている。世に持囃もてはやされる者、広く人に知られたものばかりが、見るべき内容を有するのではない。各方面における看過されたる者、忘れられたる者の中から、真に価値あるものを発見することは、多くの人々によって常に企てられなければならぬ仕事の一であろうと思われる。
 古句を説き、古俳人を論ずる傾向は、今の世において決して乏しとせぬ。見方によっては過去のあらゆる時代より盛であるといえるかも知れない。ただわれわれがひそかに遺憾とするのは、多くの場合それが有名な人の作品に限られて、有名ならざる人の作品は閑却されがちだという点である。一の撰集が材料として取上げられるに当っては、その中に含まれた有名ならざる作家に及ばぬこともないけれども、そういう撰集を単位にして見れば、これもまた有名な集の引合に出されることが多く、有名ならざる俳書は依然として下積になっている。有名な作家、有名な俳書に佳句が多いということは、常識的に一応もっともな話ではあるが、その故を以て爾余じよの作家乃至ないし俳書を看過するのは、どう考えても道に忠なる所以ゆえんではない。
 芭蕉を中心とした元禄の盛時は、その身辺に才俊を集め得たのみならず、遠く辺陬へんすうの地にまで多くの作家を輩出せしめた。本書はその元禄期(元禄年間ではない)に成った俳書の中から、なるべく有名でない作家の、あまり有名でない句を取上げて見ようとしたものである。勿論もちろん有名とか、有名でないとかいうのも比較的の話で、中には相当人に知られた作家の句も混っているが、その場合は人口じんこう膾炙かいしゃした、有名な句をつとめて避けることにした。比較的有名ならざる作家の、比較的有名ならざる俳句の中にどんなものがあるか、それは本書に挙げる実例があきらかに示すはずである。
 われわれはすなの中から金を捜すようなつもりで、閑却された名句を拾い出そうというのではない。自分一個のおぼつかない標準によって、みだりに古句の価値を判定してかかるよりも、もう少し広い意味から古句に注意を払いたいのである。従って本書に記すところも、いわゆる研究とか、鑑賞とかいうことでなしにわれわれのおぼえ書に類することが多いかも知れない。われわれは標題の通り「古句を観る」のである。もしその観た結果がつまらなければ観る者の頭がつまらないためで、古句がつまらないわけでは決してない。

昭和十八年八月十日

著者
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新年



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 順序上新年の句を最初に置くことにする。今の新年は冬の中に介在しているが、昔の新年は春の中にあった。従ってその空気なり、背景なりには、大分今と異ったものがある。古人も俳書を編むに当り、あるいは歳旦さいたんを独立せしめ、あるいは春の部に混在せしめるという風で、必ずしも一様の扱方をしていない。広い意味で春に包含すると見れば差支さしつかえないようなものの、藤や山吹と前後して正月の句を説くのは、感じの上においてそぐわぬところがある。すなわちこれを独立地帯として、歳旦という特別な気分の下に生れた句を一括する所以ゆえんである。
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正月はどこまでわせた小松売    円解

「どこまでわせた」は、正月はどこまで来たか、といって小松売に尋ねる意であろう。正月というものに対して次第に無関心になりつつあるわれわれも、この句を読むといろいろなことを思い出す。
 京伝きょうでん黄表紙きびょうしに子供のうたとして「正月がござつた。かんだまでござつた。ゆづりはにこしをかけて、ゆづり/\ござつた」というのが引いてある。泉鏡花氏の書いたものによると、「正月はどうこまで、からから山のしいたまで……」という童謡を「故郷のらは皆師走しわすに入って、なかば頃からぎんずる」と書いてあった。各地方にそれぞれ同じ意味の唄が、少しずつ言葉が違って伝えられているのであろう。「どこまでわせた」もそういう文句をふまえたものに相違ない。
 正月を擬人した句は他にいくらもある。一茶の「今春が来た様子なり煙草盆」などは、最も人間的に扱った例として知られているが、それより前に「正月が来たか畠に下駄の跡」という誰かの句があった。円解の句はこの二句ほど気がいていないかも知れない。しかしこう三句並べて見ると、一番鷹揚おうようで上品な趣に富んでいる。

元朝がんちょうやにこめく老のたて鏡    松葉

「にこめく」という言葉はあまり耳慣れぬようであるが、漢字を当てるとすれば「和」の字であろうか。「物堅き老の化粧やころもがへ」という太祇たいぎの句ほど面倒なものではない。元朝を迎えた老人が、にこやかに鏡に対しているところである。

蓬莱ほうらいや日のさしかゝる枕もと    釣壺

 めでたい句である。朝日のはなやかにさしたる、とでも形容すべきところであろう。晏起あんきの主人はまだ牀中しょうちゅうにあって、天下の春を領しているような気がする。
 新年の句のめでたいのは何も不思議はないが、こういう巧まざるめでたさを捉えたものはかえって少い。「さしかゝる」という言葉も、蓬莱を飾った枕許まくらもとだけに、すこぶる気が利いているように思う。

万歳まんざいのゑぼしをはしるあられかな    胡布

 この句の趣は今の正月としても味わわれる。万歳のかぶった烏帽子えぼしを霰がたばしるというのは、寂しいながら正月らしい趣である。春の正月と、冬の正月とによって、感じに変化を生ずるほどのものではない。
「ものゝふの矢なみつくろふ小手こての上に霰たばしる那須の篠原」という実朝の歌は、殆ど森厳しんげんに近いような霰の趣である。芭蕉は身に親しく霰を受けて「いかめしき音や霰の檜木笠ひのきがさ」とんだ。万歳の烏帽子にたばしる霰は、そういういかめしい性質のものではない。もっと軽快な、さらさらとした霰である。

犢鼻褌ふんどしあごにはさむやはじめ    ※(「さんずい+(吝−口)」、第3水準1-86-53)ぶんそん

 著衣始というのは年頭に衣を著初きそめるの意、三カ日のうち吉日を選ぶとある。この句は読んだまでのもので、格別説明を要するところはない。著衣始の句としてはむしろ品格の乏しい方に属するが、われわれは別個の興味から看過し難いのである。
『浮世風呂』の中であったか、犢鼻褌を腮でしめた時分の話だ、というような意味のことがあった。川柳子せんりゅうしもこの説明に都合のいいように「古風なる男犢鼻褌腮でしめ」「元禄の生れ犢鼻褌腮でしめ」と二通りの句を残している。※(「さんずい+(吝−口)」、第3水準1-86-53)村の句は正徳しょうとく二年の『正風彦根躰しょうふうひこねぶり』に出ているのだから、そういう人間がまだ古風扱を受けるに至らぬ、現役の時代である。川柳の方は時代の推移を知るに便宜なため、しばしば人の引くところとなっているけれども、※(「さんずい+(吝−口)」、第3水準1-86-53)村の句は従来あまり問題になっていない。眼前瑣末さまつのスケッチに過ぎぬ著衣始の句も、こうなるとたしかに風俗資料に入るべき価値がある。

戸をさしてとぼその内や羽子はねの音    ※(「糸+丸」、第3水準1-89-90)もうがん

 正月――少くとも松の内位の間、夜早くから店をしめて、人通りもあまりないのは、以前も同じことであるが、点燈夫がつけて歩く軒ラムプの時代には、とてもその光で羽子をつくことは出来なかった。軒ラムプが電燈に変ってからも、はじめのうちはかなり暗いもので、街燈の光がその度を加え、店鋪てんぽが内外の電燈に強烈な光を競うようになったのは、まだそう久しいことではない。そのため夜は店を閉じても外の明りで十分羽子をつくに足り、夏の郊外などでは真夜中に蝉が鳴きひぐらしが鳴くようになった。こういう燈火の作用は明治時代の人の想像も及ばぬところであろう。
 毛※(「糸+丸」、第3水準1-89-90)のこの句は風の強い日などであるか、戸をしめた枢の内から羽子の音が聞える、という変った場合を見つけたのである。今なら広い土間か何かに光の強い電燈をつけて、夜でも羽子をつき得るわけであるが、元禄時代の燈火ではそんなことを望むべくもない。ただそういう風の当らぬ別天地に、しきりに羽子をつく音が聞える。そこに作者は興味を持ったらしい。羽子の句としては珍しいものである。この珍しさは夜間街燈に追羽子おいばねを見得るようになった現代といえども、依然これを感ずることが出来る。

蝋燭に帯のあふちや著そはじめ    魚珞

 この蝋燭は夜でなしに、朝非常に早い室内の燭ではないかと思う。衣をえ、帯を結ぶに当って、そこにかすかな風が起る。その風によってしずかな燭の火がゆらぐというのである。「あふち」という語はあおりと同意であろう。
 繊細な見つけどころの句で、燭の火に衣を改める人の面影が髣髴ほうふつとして浮んで来るような気がする。同じく衣を改めることを詠じながら、夏の更衣ころもがえと全然別の趣を捉えているのをとしなければならぬ。

万歳の春をさし出すおうぎかな    子直

 万歳のさし出す扇から春が生れるように感ずる、というよりも更に進んで、万歳が扇によって春そのものを差出す、と見たのである。こういういい現し方は今の句とは大分異った点があるように思う。
「今朝春の小槌こづちを出たり四方よもの人 存義ぞんぎ」という句と全然同じ行き方ではないが、新春そのものを包括して、ある形の下に現したのが、この種の句の特色をなしている。

七くさやそこにありあふ板のきれ    吏全

 七種ななくさなずなをたたく行事は、今でもところによっては行われているのであろうか。こういう行事のあった時代は、それだけ正月のにぎやかさを添えたことと思うが、師走しわす餅搗もちつきの音でさえ、動力機械に圧倒された今日、そういうことを望む方が無理であろう。
 古人の七種の句を通覧すると、多くは薺をたたく拍子が問題になっている。「七種や明ぬにむこのまくらもと」という其角の句も、今日だったらどういう解釈になるかわからぬが、夜の明けないうちから聟の枕許で、わざとトントンやるのが主眼らしく思われる。各人各戸に拍子を取ってやったものとすれば、蒲鉾屋かまぼこや経師屋きょうじやの音から類推することはむずかしそうである。

七草や拍子こたへて竹ばやし    りん

というような閑寂かんじゃくな世界もある。

七種のついでにたゝく鳥の骨    薄月

というような、余興だか、実用だかわからぬこともあったのであろう。幾人も寄ってたたく中には、おのずからたたき馴れた先達せんだつがあって、先ず範を示してこうやれという。その結果は、

七種の手本にも似ぬ拍子かな    車要

ということになって、あらたに笑を催すこともあったらしい。こういういろいろな句によって、その賑かさを想像するより外はないことを考えると、われわれの次の時代には餅搗の趣を解することがだんだん困難になるのも、またやむをえぬ順序になって来る。
 薺を打つ板は元来きまったものがあったのであろうが、大勢おおぜいの手に行渡るほどはないので、そこらにあり合せの板切でたたいている、というのが吏全の句意である。こういう先生は単にいんそなわるだけで、手本に似ぬ拍子をやる仲間だろうと思うが、それがまたかえって一座を賑かにするのであろう。
 物の足らぬがちな家で、薺をたたくにもあり合せの板切ですまして置く、という簡素な趣を詠じたものと解されぬこともない。ただ薺打を賑やかなものとして考えると、及ばずながら板切を取って加わる方が、新春の趣にふさわしいような気もするのである。事実を知らぬ者の想像だから、これも間違っているかも知れない。

君が代をかざれだいだい二万籠    舟泉

 橙は御飾おかざりに用いられるので、歳旦の季題になっている。作者は現実に二万籠という橙を眼に浮べているわけではない。君が代の春を飾るべき多くの橙ということを現すために、極めて漠然たる数字を持出したのである。二万と限ったのも恐らくは調子の関係から来たので、中七字であったら更に他の数詞に替えたかも知れぬ。算術の問題ならば、一籠いくつとして総計どの位になるかというところであるが、「李白一斗詩百篇」や「白髪三千丈」の国でないだけに、大きく見せた二万という言葉も、それほど驚くべき感じを与えないように思う。
 西鶴の『胸算用むねさんよう』に橙のはずれ年があって、一つ四、五分ずつの売買であったため、九年母くねんぼを代用品にしてらちを明けた、という話が出ている。これを二万籠の方に持込めば、また一つ数学の問題がえるわけであるが、それはわれわれの領分ではない。二万籠の橙の量は、常人の想像以上に属する。この数字は文学的形容として、なるべく軽く見なければならぬが、元禄の句としてはやや奇道を行くものというべきであろう。

わか水やよべより井桁いげた越せる音    孚先

 年立つ朝の水はどこでも若水ととなえるが、この井戸はまた格別である。あふれやまぬ水は絶えず井桁を越して外へ落ちる。持越した去年の水は溢れ尽して、真に新なる水ばかりをたたえているような気がする。
 井は水の豊なるよりめでたきはない。井桁をこぼれる水の上に、しずかに元朝の光のゆらぐ様を思えば、自ら爽快の感を禁じ得ぬものがある。

廊に蓬莱ほうらい重きあゆみかな    友静

「廊」は「ワタドノ」あるいは「ホソドノ」とでも読むのであろうか。蓬莱といえば飾ってあるところの句が多いのに、これは運ぶ場合であるのが珍しく思われる。蓬莱を大事にささげて、長い廊下をしずしずと歩く人の姿が眼に浮んで来る。「蓬莱重きあゆみ」というだけで、運ぶ様子を髣髴ほうふつせしめるのは、技巧というよりもむしろ真実の力であろう。

八日
薺粥なずながゆまたたかせけり二日酔    洗古

 七種ななくさの日に飲み過ぎて、宿酲ふつかよい未ださめやらぬ結果、薺粥をもう一度くことを家人に命じた、というのである。七日のものときまっている薺粥を、翌日にまた炊かせたというところに、破格というのも少し大袈裟おおげさであるが、一種の面白味がある。
 かつて西鶴輪講の時、『一代男』の「衛士えじ焼火たくひは薄鍋にもえて、ざつと水雑水みずぞうすいをとこのみしは、下戸げこのしらぬ事成べし」というのが問題になって、いろいろ説の出たことがあった。三馬は『式亭雑記』の中で「世にいふ水雑炊は湯沢山の薺粥にて雑炊の名むなし」といって、味噌入雑炊の作り方を述べているが、山崎楽堂氏はこれに対して、酒後の腹直しには味噌気のない、塩味一つの淡泊なのが最もいい、といわれた。水雑炊と薺粥とを一緒にするのは少し妙だけれども、この筆法を以てすれば、薺粥にも似たような効能があるのかも知れぬ。盃中はいちゅうの趣を解せぬわれわれは宿酔の対策もまた不案内である。酒徒の示教をつより外はない。

七種や茶漬に直す家ならひ    朱拙しゅせつ

 この句も七種の句としては破格の部であろう。薺粥というものがあまり口に合わないので、その後で茶漬を食うの意かと想像する。「直す」というのが十分にわからぬが、「口直し」などという言葉もあるから、便宜上そう解して見たのである。儀式的に薺粥を食べて、あとは直ぐさっぱりした茶漬にする。嗜好から出発した家例で、毎年それを繰返すというのではなかろうか。
 あるいは七種の粥を全然やめてしまって、茶漬を食う家例に改めたという「直す」かとも思うが、それではどこか落著かぬようである。宿酔のために翌日再版を発行する人もあれば、当日のきまりすら略して茶漬にする人もある。一の薺粥について反対の傾向の窺われるのが面白い。

家々のふところふかし松かざり    舟泉

「懐」といったのは作者の働きで、奥深い家の様であろう。そういう家がいくつも並んでいるところらしい。奥深い家の門に松飾まつかざりが立ててある様とも、松飾もまた道路から引込んだあたりに立ててある様とも解せられるが、先ず前の解に従うべきものかと思う。大した句ではないが、松飾の或趣は現れている。

あら玉の文の返事やちらし書    方橋妻

 年始状も印刷の端書と相場がきまってしまうと甚だ殺風景である。以前には絵端書が大分あって、その色彩だけでも春らしいものを感じさせたが、近年はそれも少くなってしまった。
 この句は元禄だから、勿論年賀端書などではない。作者が婦人である以上、返事をよこす人も婦人であろう。細くめでたい筆蹟で、散らし書に書いてある。いずれきまりきった文句ではあろうが、何となくゆかしい感じがする。仮名の稽古にうといわれわれの世界では、散らし書の文などはちょっと望むべくもない。
「あら玉」といっただけで、すぐに新年の意味になる。必ずしも「新玉」という字を当てるからではない。枕詞まくらことばなどという約束をえて、自由に活動するのは俳諧得意のところである。

蓬莱に飾りならべん米俵    道賢

 北枝ほくしが「元日や畳の上に米だはら」という句をんだ時、芭蕉は「さて/\感心不斜ななめならず、神代のこともおもはるゝと云ける句のしもにたゝん事かたく候、神代の句は守武神主もりたけかんぬし身分相応に情の奇なる処御座候、俵は其元そこもと相応に姿の妙なる処有之これあり候、別而べっして歳旦歳暮不相応なるは名句にても感慨なきものに候、今天下第一の歳旦なるべしと京大津の作者も致称美しょうびいたし候」という手紙を送ってめた。畳の上の米俵はたしかにめでたい感じがする。作者の境涯より生れたとすればなお更であろう。
 道賢の句は北枝のと違って、現在畳の上に米俵が置いてあるわけではない。この飾ってある蓬莱のそばに米俵を置き並べよう、といったのである。別にいい句でもないが、何となく豊な感じがする。「蓬莱の山まつりせん老の春」という蕪村の句より、かえって親しく感ぜられるのは、やはり身分相応なためかも知れない。

山出しの町馴にけり門の松    釣玄

「山出し」という言葉は、今では人間のことになってしまったが、元来は材木に使われた言葉だという説を、どこかで聞いたおぼえがある。山から出したままの材木でも、町へ持って来るには大分手数をかけなければならぬが、門松ならば人工を要せぬ。全く山出しのままで直ぐ使用出来る。
 山から持って来た松の木が、門に立てると町馴れた様子に見える、というだけのことらしい。山出しの人間が都会馴れて来た、という事実が引かけてあったりすると、擬人的色彩が強くなるが、それは「山出し」を人間とのみ心得た現在のわれわれの考かも知れない。
 句としてはつまらないけれども、「山出し」という言葉を考える上には、一顧の価値なしとせぬであろう。

遣羽子やりはごや子供に似せて親の前    定依

「老父を慰て」という前書がついている。そういう意識の下に羽子はねをついて見せた、ということになるらしい。
 ツネという婦人の句に「羽子をつく童部心に替りたし」というのがある。昔の世の中ではなお更のことであろう。羽子板を手にしたところで、嬉々として遊ぶ子供に返ることは出来ない、ああいう心持に今一度なって見たいというのは人情であるが、定依の句は老父を慰めるために、わざと子供のように羽子をついて見せるのである。「子供に似せて」というところに、どうしても子供になりきれぬ気持が窺われる。
 羽子をついて老父を慰めるというのは、愚に返った老人を喜ばすだけの事か、更に何か意味があるのか、十分にわからない。例の老莱子ろうらいしをはじめ、孝子譚こうしたんにはよく出る話であるが、孝の一点からのみこの句を見るのは不賛成である。

御代の春ひきも秀歌をつかまつれ    鷺水ろすい

「いづれか歌をよまざりける」と『古今集』の序に書かれて以来、蛙に歌はつき物になった。宗鑑の「手をついて歌申上る蛙かな」などという句も、蛙の様子を擬人しただけのようで、やはりちゃんと『古今集』の序がかせてあるから妙である。ただし同じ蛙の仲間でも蟇となると、風采が風采だけに、古来あまり歌よみの方には編入されていないらしい。この句はそこをねらったので、歌を得詠むまじき蟇も秀歌を仕れ、といったのである。そこに俳諧一流の転化がある。昔の新年は今と違うにしたところで、蟇がのそのそ歩くにはまだ寒過ぎるが、「御代の春」に蟇を持出したのは、一の奇想たるを失わぬ。

元日や一の秘蔵の無分別    木因ぼくいん

 妙な句を持出した。
『本朝文鑑』の中に「影法師対」という文章があって、冒頭に「老の暮鏡の中に又ひとり」の句を置き、最後をこの句で結んである。歳暮にはじまり元旦で終るので、回文格かいぶんかくだなどと支考は理窟をいっているが、俳文の格などはどうでもいい。「影法師対」の内容は近頃の人も時々やる形影けいえい問答である。「白髪を清めて元日をまつ所に、汝何人なれば我が白桜下に来り、我と対して座せるや」というに筆を起して、此方こちらが何かいうと、向うも何かいう。「我いかれば彼いかり、我笑へば彼笑ふ。此公事くじは漢の棠陰比事とういんひじにも見えず、倭の板倉殿のさばきにも聞えず。ここに我ひとつの発明あり。実に我紋は左巴ひだりどもえなり、汝が著せしは右巴なりといはれて、ついに此論みてたり」――左巴と右巴でらちが明くなどは、形影問答としても簡単過ぎるようであるが、作者は更に数行を加えている。即ち「我また我心を責ていわく、一論に勝ほこりて、是を智なりと思へるや。その所詮を見るに、たゞ唇に骨をらせ、意識をあからせたるまで也。いでや隠士の境界は世間の理屈を外に置て、内に無尽の宝あり、その宝は」とあって「元日や」の句があるのである。
 この句を解するのに、右の形影問答はそれほど必要とも思われぬが、「世間の理屈を外に置て、内に無尽の宝あり」の一句はすこぶる注目に値する。ここにいう「無分別」は今のいわゆる無分別ではない。浜田珍碩ちんせきが洒落堂の戒旛かいへんに「分別の門内に入るをゆるさず」と書いたのと同じ意味である。風雅の骨髄は世間の理窟の外にある。今の無分別と紛れぬように言い換えれば、分別を離れたところに風雅の天地がある、ということになるのであろう。木因はこの無分別を以て「無尽の宝」とし、句においても「一の秘蔵の無分別」と繰返している。元日の朝だけ分別を離れているのなら格別のこともない。平生この心を一の秘蔵としていることを、今更の如く元日に当ってかえりみるのである。われわれも木因のこの宝に敬意を表せざるを得ない。

三方さんぼうの海老の赤みや初日影    昌房

 三方の上に飾ってある海老の赤い色に、うらうらと初日の影がさして来る、という風に限定して考えないでも、初日の光がさし上るということと、三方の上の海老の赤いのとを、新春の景象として受取ればいいのである。ありふれた材料ではあるが、そのありふれたところにまた新年らしい感じがある。ただ「赤み」という言葉は、普通にはもう少し色彩の薄い場合――少くとも海老ほど真赤でない場合に用いられるものかと思うけれども、あるいはわれわれだけの感じかも知れぬ。

万歳のゑぼし取たるはなしかな    小春

 万歳同士であるか、他の人を相手に話すのか、それはいずれでも差支さしつかえない。万歳が烏帽子えぼしを取って話をしつつある。衣裳はそのままで、烏帽子がないというところが作者の興味をいたのである。
 特に新春らしい背景も何も描かずに、烏帽子を取った万歳が誰かと話している、という変った場合を捉えた。そこにちょっと人の意表に出た面白味がある。

雑煮ぞうにぞと引おこされし旅寝かな    路通

備後びんごともにて」という前書がある。旅中の気楽さは元日といえども悠々ゆうゆうと朝寝をしている。もう御雑煮が出来ましたから御起き下さい、といわれてようやく起出すところである。ものに拘束されぬ旅中の元日、殊に路通のような漂泊的人物の元日を如実に見るような気がする。
 一茶に「船が著て候とはぐふとんかな」という句がある。同じようなところをねらったものであるが、路通の方が元日だけに、いろいろな連想が浮ぶようである。恐らく悠々と寝過して、去年今年の分別もないところから、宿の者がたまりかねて起しに来たものであろう。「引おこされし」の一語がよくこれを現している。

門松や黒き格子こうしの一つゞき    呂風

 あまり大きくない家が並んでいるようなところであろう。裏町ではないかも知れぬが、道幅なども広くない光景が目に浮ぶ。そこにある一連の格子が黒いというのは、もとより塗ったものでもなければ、用材の関係でもない。年を経たその住いと共に黒光くろびかりを生じたので、古い方の感じが主になっているものと思う。従ってこの黒はうるしとか、墨とかいうような種類の色彩ではない、もう少し感じの側に属する黒である。
 そういう古びた、小さい家並やなみが一斉に門松を立てている。一陽来復いちようらいふくの気はおのずからそこに溢れているが、この句の中心をなすものは全く古びた格子である。最も人目を惹かぬはずのものが、門松を配するに及んでかえって人の目につく。そこに正月があり、俳句らしい世界がある。堂々たる大きな門構でなければ、正月らしく感ぜぬ人たちは、こういう句のめでたさとはついに没交渉であるかも知れぬ。

万歳に蝶々とまれたびら雪    左次

 昔の正月は今ほど寒くはないにしても、本当の蝶が飛出すには少々早過ぎる。この句は雪のひらひらと舞い散る様を、蝶々に見立てたものと思われる。「たびら雪」は雪片の大なるものだから、この見立には適当なわけである。
 万歳がそでひるがえして舞う。折から翩々へんぺんと散るたびら雪を蝶と見て、万歳の上にとまれといったのであろう。われわれの子供の時分の唱歌にも「蝶々蝶々、菜の葉にとまれ」というのがあったが、昔にも何かそういううたがありそうな気がする。雪片そのものの形容をはぶいて、すぐに「蝶々とまれ」といってのけたところにこの句の特色がある。万歳の句として一風変ったものであろう。

母親やなずな売子に見えがくれ    鼠弾

「はるの野をふご手にうけて行しずのたゞなとやらんものあはれ也とは慈鎮の言なり」という前書がついているが、この句を解する上に、それほど必要なものとも思われぬ。本によっては「薺売子に母親や見えがくれ」ともなっている。句としては「母親や」と真先に置くよりも、「薺売子に母親や」とした方がいいようであり、作者が後に改めたものかと思うが、句意の上には格別の相違はない。(売子はウリコでなしにウルコと読むのである)
 子供が正月の薺売に出る。まだいとけない子であるか、あるいは今年はじめて売りに出るとかいうような場合で、子供は一人で大丈夫だといって出かけたが、母親は何となく心許こころもとなく思って、見え隠れにあとからついて行く、というのであろう。一面母の愛という人情に立脚していると共に、他の一面において、その場限りで済まぬものを持っている。元禄期の句としては、いささか単純ならざる種類に属する。

蔵開くらびらき順に入るゝや孫息子    夕兆

 蔵を持たぬわれわれに取って、蔵開という季題はあまり交渉がない。子供の時分には鏡餅かがみもちを割って汁粉しるこにする日を蔵開というのだと、漫然心得ていたこともあった。
 蔵開の句は古来どの位あるか、殆ど記憶に存するものがないが、この句はまごう方なき蔵開である。いずれ富貴繁昌の大店おおだなであろう。蔵開の日には一家の者を蔵に入れる慣例でもあると見えて、家格の順か、年齢順かによって順々に孫の男の子を蔵へ入れる。金銀の気が直に眉宇びうに迫って来るような気がするのは、必ずしもわれわれが蔵を持たぬためばかりではあるまい。
「孫息子」というのは、孫および息子の意味に解されぬこともないが、「孫娘」などという言葉の例もあるから、孫の男の子と解した方がよくはないかと思う。大勢の孫どもが相次いで蔵に入る。大黒頭巾だいこくずきんでもかぶった隠居がにこにこしながら、それを眺めている。――西鶴の『永代蔵』にでもありそうな、めでたい蔵開である。

元日やずいと延たる木々の枝    芙雀ふじゃく

 ただ眼前の景色である。上天気の元日であろう。しずかな空へ木々の枝が手をさし出すように、ずっとのびている。別に元日らしいこともない景色のようであるが、すくよかにのびた木々の枝の感じと、希望の多い年頭の気分との間には、何らかつながるものがあるように思われる。
 昔の元日のことだから、冬の中にある今の正月と違って、一陽来復の気が行渡っており、木々の枝の伸び方にも著しく目に立つものがあるかも知れぬ。しかし「ずいと延たる」は元日になってにわかに延びたのではない。すでに伸びた枝に目をとめたのである。その伸びた枝にあるよろこびを感ずるのは、元日の気分がしからしめたものであるにしても、作者は特にそれを強調しようとしていない。そこに元禄の句らしい自然の趣がある。
 版で刷ったような、おめでたい普通の元日の句より、こうした句に真のめでたさはあるともいい得るであろう。

青竹の神々しさよえほうだな    遅望

 恵方えほうというものは毎年干支えとによって異る。その方に向って高く棚を張り、葦索あしなわを飾り、松竹を立て、供物並くもつならべに燈火を献じてこれを祭るのを年徳棚としとくだなといい、また恵方棚ともいうと歳時記に書いてある。その恵方棚の中で、真新しい青竹の色が神々しく作者の眼に映じた。その印象を直に一句としたのである。
 青竹の色ほど鮮麗なすがすがしい感じのものは少い。路傍の建仁寺垣けんにんじがきが新に結い替えられた時などは、実際目のさめるような感じがする。一時トタン塀を建仁寺まがいに作って、青いペンキで竹らしく見せようとしたものがあったが、芝居の書割以上に俗悪であるのみならず、色彩の一点からいっても、人工の天然に及ばざることを暴露するに過ぎなかった。ああいう塀の中に住んだのでは、孔雀くじゃくの羽で身を飾ろうとするからすわらうわけには行かない。
「古寺の簀子すのこも青し冬かまへ」という凡兆の句は、新に仕替えられた簀子の青さを捉えたので、背景がもの寂びた古寺だけに、青竹の効果も極めて顕著であるが、恵方棚の青竹も、きよらかな燈火、供物その他に対してまた別個の趣を発揮している。作者の青竹から受けた印象が、そのまま読者の前に現れて来るように思う。

七草や多賀の杓子しゃくしのあら削り    亀洞

「多賀の杓子」というのは、江州ごうしゅうの多賀社から御守に出す杓子のことであろう。柳亭種彦は昔の杓子のはいたく曲っていたものだという考証をして、『もっとも草紙そうし』のまがれる物品々の段に「大工のかねや、蔵のかぎ、檜物屋ひものやの仕事、なべのつる、おたがじやく」とあるのを引き、蛙の子を「お玉じゃくし」というのは「おたが杓子」の誤だといっている。柄の曲った杓子の古風を最後まで存していたのが多賀の杓子で、蛙の子が水中で尾をうねうねする様が、その形に似ているから名づけたものに相違ない、というのである。おたが杓子か、お玉杓子かなどといい出すと、何だか外郎売ういろううり台詞せりふのようになって来て、甚だ事面倒だから、そんな問題は春永はるながの節に譲ってよろしい。杓子の柄の曲直もそれほど重大視する必要はないが、種彦が『玉海集ぎょっかいしゅう』から引いた

ゆがみなりにも寿命ながかれ
手づよさはお多賀杓子の荒けづり    正式まさのり

という俳諧は、参考に挙げて置いた方がよさそうである。種彦の説によれば、多賀の杓子の柄が曲っていたのは百余年前までだという。百余年という数はいささか漠然としているから、亀洞の句もいずれに属するかわからぬが、「お多賀杓子の荒けづり」は已に先蹤せんしょうがあるわけである。ただし正式の句が多賀杓子の説明を脱し得ぬに反し、亀洞の方はたしかに或空気を描き出している。勿論この杓子がどういう役割をつとめるのか、この句の表からはあきらかにしにくいけれども、七草という簡素な、明るい新年の行事と、荒削りな多賀の杓子とは、趣の上においてぴたりと合うものがある。多賀の杓子が寿命の御守であるに至ってはなお更であろう。句もまた荒削りですこぶる工合がいい。

昼過にたゝきて見たる薺かな    不玉ふぎょく

 前の句が少し面倒だったから、今度は思いきって簡単なのを持出す。薺をたたくのは「唐土の鳥が日本の国へ渡らぬ先に」だから、どこでも早きをきそう中に、これは昼過になってたたいて見たといって澄している。あるいは昼頃になって起出す我党の士かも知れぬ。そういう無性者ぶしょうものでも行事の薺だけは敲いて見る。これもまた太平の姿である。

元朝がんちょうにはくべき物や藁草履わらぞうり    風国

 一夜明けて元日になった気分は、一口にいえば清浄、簡素である。華麗だの、豪奢だのという種類のものは、どう考えても元日気分と調和しないように思う。正月用の調度なり食物なりが清浄、簡素の妙を示しているのは、一歳の始に当って節倹をむねとするような、理窟を含んだ意味からだけではない。手の込んだ、きらびやかな種類のものでは、年が改ったばかりの気分に合致せぬからであろう。
 藁草履は穿物はきものの中の簡素なものである。未だ一度も人の足に触れぬ新しい草履なら、極めて清浄でもある。元日気分と調和する点からいえば、革のくつ塗木履ぬりぼくりの比ではない。清らかな神域の砂を踏むような場合、新しい藁草履は他の何よりも処を得た穿物でなければならぬ。作者は背景となるべき場所も描かず、現在藁草履を穿いている様もべず、藁草履の新なことにも言及せず、ただ「元朝にはくべき物や」という風に語を下し来ったため、やや観念的にしたきらいはあるけれども、元日に藁草履を捉えた著眼は決して捨つべきではない。うらむらくは元日気分との調和にとどまって、藁草履の趣があまり発揮されていないことである。

参宮さんぐう小幡おばたどまりや明の春    里東

 小幡という地名は方々にあって、どこを指したものか、はっきりわからない。尾張おわり東春日井ひがしかすがい郡にもあれば、近江おうみ神崎かんざき郡にもある。伊勢の三重郡には大治田と書いて「オバタ」と読む地名があって、一に小幡にも作る。二条院讃岐の知行だった時代、富田基度とみたもとのりのために押領されたのを、鎌倉に愁訴して旧に復したなどという由来も伝えられている。更に伊勢の度会わたらい郡には小俣という村があって、「オバタ」と読む。宮川みやがわの西岸で、宇治山田とは橋一つ隔てているだけだとある。作者は膳所ぜぜの人だから、どれが一番適当かわからぬが、参宮のちなみを以て見れば、あるいは最後のそれを挙ぐべきであろうか。オバタと発音するために、俣を幡に誤ったものと見れば、地理上の面倒はなさそうである。
 今日のように夜東京を発して、翌朝神路山かみじやまを拝し得る便利な時世ではない。幾日幾夜の旅を続けて小俣まで辿り著いたら、その年は暮れてしまった。眼が覚めて見れば元日である。身も心もすがすがしくなって、今日は内宮外宮ないくうげくうを拝そうという。小俣に泊って新年を迎えたところがこの句の眼目である。あるいはかねて元日に両宮を拝むつもりで、大晦日おおみそかに小俣に著くように計画したのかも知れない。元日参宮ということについては、今と昔でいろいろ事情の異るものもあろうが、めでたくかしこき年の初である点は同じであろう。
 但以上は小幡を小俣として解したのである。小幡が他の土地であるとすれば、右の解釈は抛棄しなければならぬ。「小幡どまり」ということが、めでたい参宮の春の感じを損わぬ限り、必ずしも小俣を固執するわけではない。

七種や八百屋が帳のつけはじめ    ※(「さんずい+(吝−口)」、第3水準1-86-53)

 新年も松の内位までは、めでたく平穏な日が続く上に、いろいろ暮にととのえた物があって、庖厨ほうちゅうに事を欠かぬ。七日に至ってはじめて八百屋に用が出来るのは、七種粥の関係もあるが、この日あたりを境界として、ようやく平生の生活に還ろうとするためであろう。八百屋の帳面にもはじめて記載事項が出て来る。つい二、三年前まで、われわれもこういう感じを繰返していたのであった。
「八百屋が帳のつけはじめ」は瑣事さじ中の瑣事である。こういう事柄を捉えながら、さのみ俗に堕せず、のんびりした趣を失わぬのは、元禄の句の及びがたい所以ゆえんである。
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桃色に雲の入日やいかのぼり    其木

 句意は格別説明するまでのこともあるまい。この句の生命はいうまでもなく「桃色」にある。夕日の空にたこの上っているところは、必ずしも特色ある景色ということは出来ないが、「桃色」を先ず点じ来ったため、夕雲のあざやかな色が眼に浮ぶように思われる。
 北原白秋氏の歌に「鳰鳥におどりの葛飾小野の夕霞桃いろふかし春もいぬらむ」というのがあった。こういう色彩に対する感覚は、近代人の得意とするところであるが、古人も決して閑却していたわけでないことは、この一句によってもおのずから明であろう。

くわの夕日に光ル田打たうちかな    嘯風

 今日の眼から見ると、何となく平凡な句のように見える。しかしこの句の出来た元禄時分にも、果して平凡だったかどうかは疑問である。夕日に光る鍬の刃は、当時にあってはむしろ新しい見つけどころではなかったろうかという気もする。
 振上げ打おろす鍬の刃が、夕日を受けてきらりと光る。そういう動作は句の表面に現れてはいないけれども、「田打」という言葉によって、同じような動作を繰返しつつあることが連想されるのである。
「振あぐる鍬のひかりや春の野ら」という杉風さんぷうの句も、ほぼ同様な光景に著眼しているが、この句に比べるとよほど大まかなところがある。杉風は「振あぐる」という動作に重きを置いているに反し、嘯風はそれを「田打」という語に包含せしめ、夕日を点ずることによって時間的背景を明にした。両句の相異は主としてその点から来ている。

うぐひすや内等の者の食時分    黙進

 この句を読むとすぐに蕪村の「うぐひすや家内揃うて飯時分」を思い出す。「食時分」はやはり「メシジブン」とよむのであろう。こう二つ並べて見ると、「内等の者の」は「家内揃うて」よりも表現が不束ふつつかなように思われる。そこに修辞上における元禄と天明との差が認められるのであるが、「家内揃うて飯時分」という言葉には多少の俗気があって、蕪村の句としては上乗のものということは出来ない。食事時に鶯がくという全体の趣向からいっても、すでに元禄にこの句がある以上、蕪村の手柄はやや少いわけである。
 鶯の句にはなお元禄に

鶯や宮のあかりの起時分    幾勇

というのがあり、天明にも

鶯のなくやきのふの今時分    樗良ちょら

というのがある。「何時分」という語で結ぶ句がいくつもあるのは偶然であるか、どれかの先蹤せんしょうならったものであるか、その辺はよくわからない。

鶯や片足あげてないて見る    桃若

 スケッチである。鶯は昔から愛玩される鳥だけに、その形についてもいろいろな観察が下されているが、其角の「鶯の身をさかさまにはつねかな」にしろ、蕪村の「うぐひすの啼くやちひさき口あけて」にしろ、梅室の「尾をそらす鶯やがて鳴きにけり」にしろ、皆これを遠く見ず、近く観察している点に注意すべきであろう。しかもその動作がいずれも啼く場合のものであるのは、声に重きを置く鳥だからである。桃若の句も鶯が片足あげてちょっと啼いて見たという、平凡な事柄のようでありながら、そこに一脈の生気が動いている。実際触目しょくもくの句なるが故に相違ない。
 この作者は「豊後少年」という肩書がついている。由来少年の句というものは、大人の影響が多いせいか、子供らしいところを失いがちなものであるが、この句などは比較的単純率直な、部類に属する。

もみひたす池さらへけり藪の中    鶴声

 苗代なわしろに種をくにさきだって、籾種を水に浸して置く。普通に「種浸」とか「種かし」とかいうのがそれで、浸す場所によって「種井たない」とも「種池たないけ」とも呼ばれている。この句はその籾を浸す前に池をさらったという、やや特別な趣を捉えたのである。
 藪の中にあるというのだから、この池はそう大きなものとは思われない。池を浚って冬以来溜っていた水を一掃するのは、籾種を浸すために先ずその水を清からしむるのであろうと思う。農家の人々から見たら、あるいは平凡な事柄であるかも知れぬが、こういう句は机上種浸の題をあんじただけで拈出ねんしゅつし得るものではない。実感よりきたった、たくまざるところに妙味がある。

草に来てひげをうごかす胡蝶かな    素翠

 このままの句として解すべきである。「草に来て」という上五字に重きを置いて、花に来ないで草に来た、という風に解すると、理窟に堕するおそれがある。この句の特色は蝶が草にとまって髭を動かしているという、こまかな観察をしている点にあるので、表現法の問題はともかく、古人の観察も往々かくの如く微細な方面にわたることを認めなければならぬ。
 其角に「すむ月や髭を立てたるきりぎりす」という句がある。きりぎりすは姿態の美を見るべき虫でないから、長い髭が目につくのも当然であるが、蝶ははねの美に先ず目をかれるものだけに――またその髭がそう著しいものでもないだけに、これに著眼することが、いささか特異な観察になるのである。もっとも観察の精疎は直に句の価値を決定する所以にはならぬから、以上の理由だけを以て、この句をすぐれたものとするわけではない。

拍子木ひょうしぎたえて御堀の蛙かな    一箭

 拍子木を打って廻っていた音が聞えなくなって、御堀の蛙がしきりに鳴立てる。句の上にはこれだけしか現れていないけれども、城のほとりか何かで、夜もややけた場合かと想像される。「拍子木」といい「蛙」といっただけで、その音なり声なりを連想させるのも、馴れては誰も怪しまぬが、俳諧一流の省略的表現である。
 子規居士の「石垣や蛙も鳴かず深きほり」という句は、蛙が鳴くべくして鳴かぬ、闃寂げきせきたる深い濠を想像せしめるが、見方によっては夜と限らないでもよさそうな気がする。この「御堀の蛙」が直に夜景を思い浮べしむるのは、上に「拍子木も絶て」の語があるからである。こういう連想の力を除去すれば、俳句はかなり索然たるものになりおわるに相違ない。

打はらふたもとの砂やつく/\し    源女

 一見何人も婦人の句たることを肯定するであろう。女流俳句の妙味は常にこういう趣を発揮する点にある。
 われわれは元禄のこの句に逢著する以前、明治の『春夏秋冬』において

裏がへすたもとの土や土筆つくしんぼ    秋竹

という句を読んでいた。頭に入った順序は全く逆であるが、この「裏がへす」の句は「打はらふ」の句を換骨奪胎したものとは思わない。むしろ作者も選者も元禄にこういう句のあることを、全然知らなかったのではないかという気がする。土筆を採って袂に入れて帰る場合、いくらも起り得べき事実であるだけに、二百年を隔てて殆ど同一地点に掘り当てるようなことになるのかも知れない。
 しかし正直にいうと、かつて「裏がへす」の句を読んだ時には、別に女性的な句だとも感じなかった。そう考えるようになったのは、「打はらふ」の句を知った後である。われわれの鑑賞とか批評とかいうことも、存外種々な先入観念に支配されがちなものであるらしい。

春雨や桐の芽作る伐木口きりこぐち    本好

 根もとからった桐の株に新な芽を吹いて来る。桐の芽立は勢のいいものではあるが、「桐の芽作る」という言葉から考えると、これはまだあまり伸び立たぬ時分であろう。春雨はしずかにこの伐株の上に降る。「伐木口」とあるがために、その木口もあざやかに浮んで来るし、そこに「芽作る」新な勢の籠っていることも想像される。
 桐の芽立は春の木の芽の中では遅い方である。長塚節氏の「春雨になまめきわたる庭の内に愚かなりける梧桐あおぎりの木か」という歌は、その芽立の遅いところ、他の木におくれてなお芽吹かずにいる有様をんだのであるが、本好の句はすでに芽吹かんとする趣を捉えている。普通の芽立と、伐株の芽立との相違はあるにしろ、春雨の中の桐の木を描いたことは同じである。春もよほどあたたかになってからの雨であることはいうまでもない。

雉子きじなくや茶屋より見ゆるかやの中    蓑立

 野景である。今いこいつつある茶店から萱原が見える。その萱の中から雉子の啼く声が聞えて来る、という句であるが、この茶店と萱との距離は、そう遠くないように思われる。
 雉子の声というものは、現在のわれわれにはあまり親しい交渉を持っていない。眼に訴える方の雉子ならば、けづめで「美しきかおかく」其角のそれにしても、「木瓜の陰に貌たぐひすむ」蕪村のそれにしても、胸裏に浮べやすいにかかわらず、雉子の声になると、すぐに連想に訴えにくいのである。勿論これはわれわれの見聞の狭い結果に過ぎぬ、柳田国男氏に従えば、雉子の声を聴くには東京がかえって適していたということで、「春の末に代官町だいかんちょうの兵営の前を竹橋へ通ると、右手の吹上ふきあげの禁苑の中から、いつでも雉子の声が聞えていた」というし、「駒込こまごめでも岩崎の持地もちじがまだ住宅地に切売されぬ前には、盛んに雉子が遊んでいた」という。東京にいても耳にする機会はいくらもあったらしいのである。
 けれどもこの「萱の中」の句は、われわれが読んでも雉子の声が身に親しく感ぜられる。萱との距離が遠くなさそうに思われるのも、畢竟ひっきょう雉子の声の親しさによるのであろう。その点は

雉子啼や菜を引跡のあたりより    鞭石べんせき

という句もそうである。畑に来て何かを求食あさりつつある雉子の声は、前の句より更に人に近い親しさを持っている。尤もこの「引跡」という言葉は、文字通りに現在菜を引きつつある、その近くまで雉子が来て啼くものと考えなくても差支ない。菜を引いた跡の畑に来て啼くということでよかろうと思う。
 前の句は萱の中から声が聞えるので、無論雉子の姿は見えておらず、後の句も「あたりより」という漠然たる言葉によって、やはり姿を表面に現さないでいる。しかもこの場合、雉子の声がごうも他のものに紛れぬ響を持っているのは、実感の然らしむる所に相違ない。

宿取て裏見廻ルやあか椿    寿仙

 田舎宿の趣であろう。日高いというほどでなくても、まだ明るいうちに宿を取った場合と思われる。夕飯にも多少間があるので、庭へ下りて見た。「見廻ル」という言葉は、今日では或目的を持って巡回するような意味になってしまったが、これは無論そんなわけではない。無目的な、軽い気持でぶらぶらしているので、偶然その家の裏に真紅まっかな椿の咲いているのを発見した、というだけのことである。「庭」といわずに「裏」といったのは、実際裏であったに相違ないが、つくろった様子の庭でないことも窺われる。

ちる花や猫はね入てうごく耳    什佐

 庭前か何かの光景であろう。猫が睡っている上に桜の花が散りかかる、睡っていながらも猫は時々無心にその耳を動かす、というスケッチである。
 其角は四睡図しすいずに題して「陽炎かげろうにねても動くや虎の耳」という句を作った。多分猫から連想したのであろうが、この虎の句にしろ、猫の句にしろ、一句の主眼というべきものは、睡っていても耳が動くという事実の興味にあるので、陽炎なり落花なりは背景として趣を添えているに過ぎない。が、同時にこの背景によって、その事実がうららかな春の中に浮んで来ることは、俳句の特色として多言を要せぬであろう。

ひよどりのあぶとりに来るさくらかな    細石

 芭蕉に「花にあそぶ虻な食ひそ友雀」という句がある。材料は大体同じであるが、この句はそういう主観を加えずに、花に遊ぶ虻を鵯が取りに来る、という眼前の事実をそのまま叙したものである。
 昆虫学者の書いたものを見ると、虫の多く集る花の上は即ち強食弱肉の小世界で、蜜を吸う以外に何の用意もない蝶や虻などは、しばしば悲惨な運命に陥るという。季節は違うけれども、蟷螂かまきりなども花のほとりに身をひそめて、得意の斧を揮うものらしい。その点は人の多く集るところに犯罪者が入り込み、それをつけ狙う探偵もまたここに集る、というのとほぼ傾向を同じゅうするようである。荘子の言を借用すれば「一蝉まさに美蔭を得て而して其身を忘れ、蟷螂かげを執りて而して之をたんとし、得るを見て而して其形を忘れ、異鵲いじゃく従つて而して之を利し、利を得て而して其真を忘る」というところであろう。
 芭蕉は風雅の眼から、雀が花に遊ぶ虻を食うことを憎んだのである。この句はそういう寓意なしに、ただ鵯が虻をって桜のほとりに来ることを詠んでいる。鳥を配し虫を配するだけなら敢て珍とするに足らぬが、鳥虫交錯の世界を描いたところに、桜の句としてはいささか異色がある。

そばゆく袂の下のさくらかな    潘川

 ちょっと変ったところを見つけている。岨の下に桜が咲いている、といってしまえばそれまでのことであるのを、「岨を行袂の下」といったために、その岨道の細いこと、その道のすぐ下まで花のこずえの迫っていることなどが連想されて来る。「袂の下」という言葉はかなり際どいいい現し方であるが、この場合は細い岨道をとぼとぼと歩みつつある姿を髣髴ほうふつし得る点で、成功しているといわなければなるまい。

むしたて饅頭日和まんじゅうびよりや山桜    理曲

 山中の茶店などであろうか、蒸し上った饅頭の湯気ゆげが、濛々と春日の空へ立騰たちのぼる、あたりに桜が咲いている、という光景である。同じ白い湯気であっても、寒い陰鬱な空に立つ場合と、うららかに晴れた空に立つ場合とでは大分感じが違う。「饅頭日和」というのは随分大胆な言葉であるが、恐らく作者の造語であろう。一見無理なようなこの一語によって、桜の花に湯気の立騰る明るい感じを受取ることが出来る。俳句独得の表現である。

山吹の岸をつたふや山葵掘わさびほり    支浪

 これはわれわれが見馴れている庭園の山吹ではない、山中の景色であろうと思う。山葵掘の人が清らかな流れに沿うて岸伝いに来る。山吹はその清流に影を※(「くさかんむり/(酉+隹)/れんが」、第3水準1-91-44)うつして咲いているのである。
 子規居士の早い頃の句に「山吹の下へはひるや鰌取どじょうとり」というのがあった。景色は違うけれども、調子は大分この句に似ている。或目的を持った人物を山吹に配した点も、共通しているというべきであろう。

杉菜すぎな喰ふ馬ひつたつるわかれかな    関節

「餞別」という前書がついている。如何なる人が如何なる人を送る場合か、それはわからない。わかっているのは送られる方の人が、これから馬に乗って行くらしいということだけである。
 名残を惜しんで暫く語り合ったが、どうしても出発しなければならなくなって、馬を引立てて行こうとする。今まで人間の世界と没交渉に、そこらに生えている杉菜を食っていた馬が、急に引立てられることによって、二人はたもとを分つわけになる。「杉菜喰ふ」で多少その辺の景色も現れているし、「ひつたつる」という荒い言葉の裏に、送る者の別を惜しむ情が籠っているように思われる。餞別の句としては巧なところを捉えたものである。

菜の花や山路出れば夕日影    舎六

 今まで歩いていた山路を出て、濶然かつぜんたるながめひらけた感じと、菜の花に夕日の当っている明るい感じとが、ぴたりと一緒になっている。「山路出れば」という中七字は、作者が菜の花を見るまでの経過であり、「夕日影」に至るまでの順序でもある。言葉で説明すると面倒になるけれども、要は山路を出ると共に眼に入った、菜の花に夕日の景を直叙したに過ぎない。この句を一誦して、ぱっと眺の変った明るい感じを受取り得れば、それで差支ないのである。形よりも感じを主とする点に元禄俳句の長所があるともいえる。

穴市あないち仕舞しまいはくやむめの花    路圭

 普通には「穴一」と書いてある。『言海』に従えば「穴打の転」ということだから、一にしろ、市にしろ、皆借字なのであろう。地上に小さい穴を穿うがって、少し離れたところから銭なりメンコなりを投げる、穴に入ったものを勝とし、もし穴の外へ出た場合には、次の者が別の銭なりメンコなりを打って、あたったら勝とする、というような説明がある。われわれが子供の時に石ケリ玉(文法学者は蹴という字にケリという活用はないというが、実際石ケリといい、石ケリ玉というのだから仕方がない)と称する平たいガラス玉でやったのは、穴の代りに地上に円なり角なりを劃して置いて、その中へ先ず投入れる、次の者がまた同じように投げて、前の玉をその区劃の外へ跳ね出させる、という勝負のようであった。その時は何とも思わなかったが、今この説明を読んで見ると、やはり穴一の系統に属するものらしい。穴一銭と称して両面に恵比須大黒えびすだいこくだの、富士山だのを鋳出いだしたものがあったという。石ケリ玉にも先輩があったのである。
 穴一をして遊んでいた子供が帰ってしまった。地上に穿った穴をはじめ、踏荒したあとの土を掃き清める。その辺に梅の花が咲いている、という趣である。梅の花というと、とかく文人墨客が幅を利かして、矢立瓢箪やたてひょうたんと最も調和するように考える人もあるかも知れぬが、この句は右のような児童遊戯に配して立派に成功している。児童の帰り去った後、遊び荒した土を掃くというのは、梅の花の静な趣味によく調和している。

うそくらき木々の寐起や梅の花    木兆

 この句はやや擬人的な叙法を用いている。夜がまだ明けきらぬ、ほの暗い木々の様を形容して「寐起」といったのは、気の利き過ぎたうらみはあるが、或感じを現し得て妙である。恐らく作者も寐起のところで、そういう暁闇ぎょうあんの中に咲く梅花を認めたのであろう。自己の寐起を移して植物の上に及ぼしたなどというと、少し話が面倒になって来る。読者はこの語によって、昧爽まいそうしずかな空気の中に匂う梅の花の趣を感じさえすればいいのである。

むめちるやその木蔭なる雪の上    有節

 梅の木の陰に解け残った雪がある、その上に梅の花が散る、といったのである。「その木蔭」というのは、多少説明的ないい方のように見えるが、上に「むめちるや」といって、その散るところが梅の木の下であることを現すためには、こういうより仕方がないかも知れない。子規居士もかつて「梅の木に近くその木の梅を干す」という句を作ったことがあった。「その」の字の使い方は全く同じである。ただし因果関係からいえば、自分の枝になった実を梅干にして、その木に近く干すというよりも、ただその下蔭したかげの雪に散る花の方が、複雑でないことはいうまでもない。

梅がかや雨だれ伝ふやれすだれ    古道

 閑窓春雨のながめは決して新しいものではない。けれども「つくづくと春のながめのさびしきはしのぶに伝ふ軒の玉水」という『新古今』の歌から、「春雨や蜂の巣つたふ屋根のもり」という芭薫の句に眼を移すと、そこに歌と俳句との相異を感ずる。同じ閑中の趣にしても、蜂の巣を伝う屋根の漏のわびしさ、面白さは、おのずかあんたしむるものがある。
「雨だれ伝ふやれ簾」は所詮蜂の巣の斬新なるにかぬ。ただ去年のままの破簾に雨垂あまだれしずくが伝う趣は、やはり俳人の擅場せんじょうともいうべき天地である。蜂の巣にゆずるの故を以て、軽視するわけには行くまいと思う。

うぐひすのにうち当る割木かな    李邦

 木を割る音の中に鶯の声を聞いたのである。もう少しくわしくいえば、戞然かつぜんとして木を打ち割った音と同時に鶯がいたので、「音にうち当る」といったものであろう。音に形あってぶつかるものの如くいったのは、一種の技巧ではあるが、またその場合の感じをよく現している。
 単に二つの音が空中にかち合ったというだけでなしに、作者が現在木を割りつつある場合と思われる。「鶯の音にうち当る」というのは、たしかに木を割る方が主になっている感じである。

鶯や寺のはさかるまちの中    野紅

 必ずしもその寺に鳴くと限らなくてもよろしい。町中に寺の介在している、そういう場所で鶯が啼くのである。「はさかる」は「はさまる」と同義であろう。
 一茶に「五月雨さみだれの竹にはさまる在所ざいしょかな」という句がある。竹にはさまる在所は、じめじめした五月雨時の陰鬱さを想像せしむると共に、その在所の小さなものであることをも語っている。市中に介在する寺も、勿論そう大きなものではあるまい。むしろそこに寺のあることが、周囲に対して多少不調和なような場所ではないかと思われる。

鶯もわたる日和ひよりリや[#「日和リや」はママ]浜の松    玄指

 明治二十六年春であったか、子規居士がどこかの連座で、「鶯の淡路へ渡る日和かな」という句を作った。それが最高点だったので、多人数の評判のあてにならぬことはこれでわかる、という意味の手紙が残っている。
 鶯が淡路島まで渡って行く、それほどうららかな日和であるということは、俗人にもなるほどと合点し得るところがある。考えて成った趣向だからであろう。
 玄指の句には鶯の渡る距離の問題は含まれていない。その代り鶯の渡って来た浜の様子――松の生えている景色が現れている。この方が遥に自然である。

梅がかや客おくり出る燭明しょくあかり    梅坡

 燭をるということは、近頃は停電でもないとあまり見られなくなった。人気ひとけのない玄関のようなところでも、スウィッチを一つひねりさえすれば、直に皎々こうこうたる電燈の世界になるのだから、便利になったには相違ないが、それだけ趣を失ったともいえるであろう。ラムプを持って玄関まで送り出たり、マッチをって穿くべき下駄げたを検したりしたのは、ついこの間のように思うけれども、どうやら過去の風俗誌中のものになりかけてしまった。
 この句は燭を秉って客を送り出た場合である。定らぬ燭のあかりに、送る主の影も、送られる客の影もゆらぐ。そういう夜気の中にただよう梅がを感ずるのは、電燈世界にはあるまじきほのかな趣である。
 梅が香なるものは歌よみがいうほど強い匂ではない、代々の歌人がよんだ梅が香の量は大変なものだから、それを香水の料にでも用いるのは格別、歌の材料としては今後見合せたらどうだ、といってわらったのは子規居士であった。俳句に用いられた梅が香を見ても、単に梅というのと変らぬようなのもあるが、香に即したものはややもすると利き過ぎる弊に陥る。この句の如きは不即不離の間において、よく梅が香の趣を発揮し得たものというべきであろう。

あかねうらふきかへす春に成にけり    耕月

「田家春」という前書がある。正に蕩々とうとうたる天下の春である。
 謡曲作者が「四条五条の橋の上、/\老若男女貴賤都鄙、いろめく花衣、袖をつらねてゆくすゑの」といった洛中の春ではない。「世界を輪切りに立て切った、山門の扉を左右にさっと開いた中を――赤いものが通る、青いものが通る。女が通る。子供が通る。嵯峨の春を傾けて、京の人は繽紛絡繹ひんぷんらくえきと嵐山に行く」と漱石氏が書いた洛外の春でもない。そこにはただ村娘の茜裏を吹きかえす春風があるだけである。この一色のもたらす太平の気は、洛中洛外の春に優るとも劣るものではない。
 満々たる野趣は「茜うら」の一語に集っている。一茶流の俗語を駆使するばかりが、野趣の表現にかなうわけではない。大まかを極めたこの種の叙法も、なお這般しゃはんの野趣を盛って余あるのである。あるいは天下の春は彼にあらずしてこれにあるのかも知れぬ。

正月を直す二月の文字ふとし    端当

 二月になってからついうっかりして正月と書いた、その正の字を二と改めたために、二月という字が太くなったという風にも解せられる。あるいは已に書いてあった正月の文字を、二月という字に改めた、という風にも解せられる。いずれにしても二月になってから書改めたので、それがこの句の季になっている。
 つまらぬ句だという人があるかも知れない。われわれも別に大した句だとは思わぬ。明治年代にも「文月ふみづき水無月みなづきと書いて消しにけり 麦人」という句があって、『春夏秋冬』撰の時、碧虚両氏の間に議論を生じ、結局採用にならなかったと伝えられている。これも無論大した句ではないが、要はこの瑣末な事実に興味を持つか否かにある。われわれがその事実の瑣末なことを認めながら、これを俳句にした点に一種の興味を感ずるのは、自分でもしばしばこれに似たことを繰返しつつあるためであろうか。
「正月」の句と「水無月」の句とは、全くいつにするわけではないが、ほぼ同じような点をねらっている。但書損かきそこなって消したというよりは、正の字を二に改めたのが太くなったという方が、事柄としてまとまっているであろう。そこに元禄の句と明治の句との相違があるといえばいえる。

出かはりや猫抱あげていとまごひ    慈竹

 出代という季題は、東京などではつとにその実がなくなった。京都あたりでは比較的近くまで、その風を存していたそうであるが、それもこの頃では如何であろうか。雇人交代ということは永久に続くとしても、それが三月を待ってはじめて動くという季節的意味がなくなるのである。近代生活にあってはむしろ卒業生の就職の方が、季節的意義を持っているであろう。
 出代の句は旧人物の名残を惜しむ意味か、代って登場する新人物の様子か、大体この二通りを出でぬようになっている。この句は退場する雇人が、今まで自分に馴れた猫を抱上げて、名残を惜しむ趣である。あるいは子供のない家庭で、この猫も大事に飼われているのかと思うが、文字以外の連想は人によって違う。いて限定するには及ばぬことである。

寄かゝるはだか火燵ごたつやはるの雨    意裡

 もう大分暖くなって、火燵の必要もないのであるが、未だ全く撤去せざる状態にある。裸火燵というのは中に火も置かず、布団ふとんも掛けてないのであろう。こういう言葉があったものかどうかわからぬが、作者の造語であるにしても、十分その意味を受取ることが出来る。
 外には春雨が煙るように降っている。だんを取る必要も何もないのだけれども、習慣的に火燵に寄かかっている。ものういような春雨の感じが溢れているように思われる。

春雨ややぶに投込む海老の殻    广盤

 面白いところを見つけたものである。いずれ田舎の景色であるに相違ない。食膳にのぼせた海老の赤い殻を、藪の中にほうんだ。湿っぽい、薄暗いようなあたりの空気に対して、赤い海老の殻があざやかに眼に映るのである。
 一茶の「掃溜はきだめ赤元結あかもとゆいや春の雨」という句もほぼ似たような趣に目をつけているが、何となく重みに乏しいような感じがするのは、必ずしも元結と海老の殻だけの相違ではあるまい。春雨の寂しい華かさとでもいうべき趣は、殆どこの海老の殻に集っているような気がする。

雪ふりのあくる日ぬくし藪椿    之道

「ヤブツバキ」という植物は別にあるらしい。『本草図譜』などは女貞(ネズミモチ)の一名として「ヤブツバキ」を挙げている。そういう事の当否は専門家の知識にたなければならぬが、もともと俳句は博物学に立脚したものでなし、俳人は植物学者ではないのだから、どう解決がついたにしろ、それのみにのっとるわけには行きそうもない。この句なども女貞と解したのでは、やはり面白くないようである。
 春になってからのことであろう。雪の降った翌日が非常に暖い天気になった。そのうららかな、明るい天気の中に椿の花が咲いている。(この場合「藪椿」は藪の中の椿の意に解したい。崖椿などという言葉が通用している今日から考えれば、藪椿を藪中の椿と解することは、決して無理ではあるまいと思う)暖い、明るい雪晴の藪に咲く椿の花は、白では工合ぐあいが悪いから、ここはあかと見るべきであろう。
 尤も女貞は常緑樹である。強いていえば雪後の女貞を詠んだものと解されぬこともないが、それでは「ぬくし」という趣が一向利いて来ない。雪後の麗な日和ひよりを生かすためには、どうしても藪中の椿として別個の色彩を点ずる必要がある。

一雨に椿落ち来ん藪の水    荘人

 藪の中に累々るいるいたる花をつけた椿がある。今一雨来たならば、あの花がぽたぽた落ちるであろう、といったのである。「藪の水」というのは、藪の中に溜っている水であるか、藪の根をめぐる流であるかわからぬが、後者と解した方が景色としても面白いし、「落ち来ん」という言葉から考えても、単に藪中の溜り水に落ちるだけでなく、落ちて流れるという動きがあった方がよさそうに思う。
 桜などに配した雨は、多くは花のうつろうことを惜しむ意に用いられるが、この「一雨」は、それによって椿の花の落ちることに、或風情を認めているのである。「一雨」は将来の仮定と解さないでも、「この一雨」の意味として、現在降りつつある場合でも差支ない。――この句を読むと、田舎の藪などに累々と花をつけた、比較的大樹の椿が想像される。この花もやはり紅と見たい。

雉子きじなくや川の向ひの小松原    楚舟

 大きな川ではあるまい。その向側が小松原になっていて、そこからケンケーンという雉子の声が聞えて来る。雉子の声は鋭いから、かなり遠きに及ぶものであろうが、この句の場合は、そう多くの距離を必要とせぬように思われる。
 雉子の声が過去において相当人に親しいものだったらしいことは、前に述べた。

塀越に庭の深さや雉子の声    笑酔

というに至っては、山野を離れて庭園に入込んでいる。何人の住居であるか知らぬが、塀越に深々とした庭があって、そこから雉子の声が聞えて来るのである。春日ののどかなる趣は、ありふれた小鳥のさえずりよりも、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の鳴声よりも、かえってこの雉子の声において深められたかの感がある。
 如何に昔の世の中にしても、庭に雉子が来てくのは野趣横溢に過ぎる、という説が起るかも知れぬ。しかしこの句の雉子は、場合によっては野生のそれでなしに、庭籠にわこに飼ったものと見ても差支ない。西鶴が『五人女』の中で「広間をすぎてえんよりかけはしのはるかに熊笹くまざさむら/\としてその奥に庭籠ありてはつがん唐鳩からばと金鶏きんけいさま/\の声なして」と書いたような庭籠が、大きな屋敷などにはあったらしいからである。

春雨や灯花ちょうじがしらのくらみ立    ※(「さんずい+(吝−口)」、第3水準1-86-53)

 電燈万能の世の中になってしまっては、丁子丁子吉丁子などという、昔人の縁起がわからなくなるのもやむをえない。丁子などというと、われわれの連想はとかく神棚かみだな御燈明おとうみょうに行きがちであるが、こういう油火が一般の燈火であったことに留意しなければならぬ。
 春雨のしとしと降る夜、座辺の灯火に丁子が立って、にわかに暗くなった、というだけのことである。作者はむやみに担いでいるわけではないが、丁子の吉兆たることは十分意識した上の句であろう。
 丁子のことはつとに漢時代にあった迷信で、『西京雑記せいけいざっき』に「火華則拝之」とあるのがそれだと、三村竹清氏の書かれたものにあった。ってきたること遠しというべきである。電燈の世界にも停電、漏電その他いろいろの現象があるが、こういう迷信の種にはなりそうもない。丁子頭によって暗くなる灯火は、たしかに春雨と調和を得ている。

かりそめにはえて桃さく畠かな    心流

 若木の桃であろう。種をいたのでもなければ、苗を植えたのでもない。畠の隅に桃の木が生えたのを打棄うっちゃって置いたら、いつの間にか花が咲くようになった。「桃栗三年柿八年」という。種のこぼれからでも生えたらしい桃の木が花をつけるまでには、そう多くの年月を要せぬのである。
 別にいい句でもないが、何となくのんびりしている。こういう技巧のない、大まかな句を作ることは、近代人にはむずかしいかも知れない。

大竹をからげて青しもゝの花    桐之

 太い竹を縄か何かでからげる、その竹が真青まっさおな色をしている。場所はどんなところであっても差支ない。真青な竹の色と、桃の花の色との配合が、この句の眼目である。
 こういう句法で、「……青し」から「桃の花」へかかる場合と、かからぬ場合とがある。この句は上十二字が竹の叙述で、「青し」で言葉が切れるのみならず、意味もはっきり切れる。桃の紅はその背景をいろどるに過ぎないが、慥に美しい一幅の図をなしている。

はるもやゝ※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)とり蹴爪けづめ牡丹ぼたんの芽    磊石

 見立みたての句である。「はるもやゝ」は芭蕉の「春もやゝけしきとゝのふ月と梅」などと同じく、「漸々」の意であろうと思う。単に「牡丹の芽は※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の蹴爪の如し」といったのでは、そういう思いつきを述べたまでのものであるが、ようやくに春がととのい来るという背景の下にこれを置くと、見立以外に或感じを伴って来る。「※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の蹴爪」も漫然たる思いつきでなしに、春の感じを助けていることがわかる。俳句が季節の詩であることは、約束的に季題の力を借りるためばかりではない。季題以外のものを捉え来っても、よく季節の感じを助けしむる点に注意すべきである。

つばくろ反橋そりはしなりにとびにけり    助叟

 反橋の上を飛ぶ燕が、すっと上りまたすっと下る。反橋の反ったなりに飛ぶ、というのである。燕の飛方を説明したまでのようだけれども、やはり実際の観察からでないと、こういう句は生れない。ただ燕がすっと上り、またすっと下るだけでは、眼に訴える力がいささか薄弱である。「反橋なりに飛ぶ」というに及んで、反橋のかかっている池辺の様子、燕が幾度となく反橋なりに往反する姿などが想像されて来る。

雲にいる鳥の行衛ゆくえや星ひとつ    其由

「鳥雲に入る」という季題は、春になって鳥の北地に帰ることを意味するらしい。古来の句を見るのに、いずれもただ鳥の遥に眼界より消え去ることを詠んでいるようである。「げに歌人、詩人といふは可笑おかしきものかな。蝶二つ飛ぶを見れば、必ず女夫めおとなりと思へり。ねぐらかえ夕烏ゆうがらすかつて曲亭馬琴に告げていわく、おれは用達ようたしに行くのだ」といった明治の皮肉家の筆法を以てすれば、果して北地へ帰る鳥であるかどうか、一々吟味がつかぬはずであるが、雲に入ってしまうのだから、その辺は大まかに見てよかろうと思う。
 この句は夕方の景色で、雲に入る鳥を目送していると、蒼茫と暮れ初めた空の中に、一点の星が見えて来た、というのである。星光一点は巧に似てしかも自然なところがある。芭蕉の「ほとゝぎす消行く方や嶋一つ」と同じような調子であるが、印象はこの方がはっきりしている。飛鳥の影の消え去ったあとに、しずかに一点の星光を認めるのは、大景のうちに引緊ったところがあって面白い。

もまるゝや花見の中の相撲すもうとり    李千

 花見の群集の中に相撲取が一人まじっている。人波にまれながらも、その巨躯きょくが目立って見える。一人の相撲取をここに点じたのは、群集に或ポイントを与えたもので、その大きな身体が揉まれることによって、おびただしい周囲の人波が想像されるのである。

行過て女見返す汐干しおひかな    露挂

 川柳子は「三月はいとなまめいた漁師出る」といった。春の干潟ひがたたしかに汐干狩の女によって彩られる。「汐干けふ女草履や一からげ 兎園」などという句は、干潟に下り立った女の草履を、一まとめにしてからげて置くというに過ぎないが、それでも何となくえんなる趣を感ぜしめる。平生へいぜい何もない海上だけに、特にそういう色彩が著しく感ぜられるのであろう。
「行過て」の句は、汐干潟で出逢った女が、行過ぎてから此方こちらを見返した、というだけのことである。向うが見返したのを認める以上、此方からも見返ったか、そのまま見送っていたかしたに相違ない。あるいは女の方から見返したものとせずに、行き過ぎてから此方が見返した、と解することも出来る。「女(が)見返す」と見るか、「女(を)見返す」と見るかの相違であるが、そうやかましく僉議せんぎするほどのこともあるまいと思われる。
 子規居士にも「春の野に女見返る女かな」という句がある。これは行違った女同士が互に見返るという点で、多少複雑な変化を生じている。

春雨に雀かぞゆる夕部ゆうべかな    如嬰

 穉拙ちせつな句である。春雨の夕方、庭先か軒端のきばかに来て雀が啼き交している。それが何羽いるか、数を算えて見たというに過ぎない。
 その実雀が何羽いるかはさのみ問題ではないので、数を算えて見るというところに、徒然つれづれな春雨の夕方の心持を感じ得ればいいのである。

でまりや花に座を組雨蛙あまがえる    伊珊

 このままの景色であろう。粉団花こでまりの白い花の上に坐っている緑色の雨蛙は、色彩の上からも調和を得ている。「座を組」というのは単なる蛙の形容で、仏様に見立てたりしたわけではない。
 雨蛙という季題は、今では独立して夏になっているが、古くは蛙の下に包括されて、春の部に入っていた。この句もその一例である。

合羽カッパ干日影に白きつゝじかな    不流

 合羽がひろげて干してある、そのそばに白い躑躅つつじが咲いている、という趣である。合羽と躑躅との間には格別重大な関係はない。躑躅は躑躅で白く咲き、合羽は合羽で日に乾きさえすればいいのである。
 雨のあがった庭先などの景色であろうか、日光のみなぎった、明るい空気が眼に浮ぶ。

うぐひすやくらの内ほす朝日影    遅候

 縁側えんがわなどであろうか、鞍の内側を日に当てるために干してある、どこかで鶯がいている、という静な朝の光景である。
 単に鞍を干すというのでなしに、「鞍の内ほす」というのが面白い。早春の朝の日影だけに、うすら寒い感じがする。塗鞍の日を受けて光る様なども想像される。鶯と鞍との配合も、一の取合に過ぎぬようであって、決してそうではない。季節の感じが的確に現れた句である。

うぐひすや有明ののありやなし    舎羅しゃら

 鶯という鳥は早朝に来て啼くことが多いようである。夜を徹して机に向っている時など、室内は燈火がかんかんついているので、天明の近づいたことも知らぬうちに、思いがけず鶯の声を耳にすることがある。しずかな暁闇ぎょうあんを破って、朗かな鴬の声を聞く毎に、「鶯の暁寒し」という其角の句を、今更のように思い出す。
 この句の作者は灯をかかげて起きているわけではない。終夜ともして置く灯を有明の灯という。
 昔はもとより、明治のラムプ時代にも、古風な家では行燈あんどんを有明の灯に用いていた。「ありやなし」は「ありやなしや」で、蕪村の「若竹や橋本の遊女ありやなし」なども同意であろう。鶯に対する暁の情というべきものを捉えた句である。「有明の燈のありやなし」と続くあたり、歌ならば調子を取ったというところであるが、この句はただ自然にそうなったと見た方がいいかも知れない。

老僧の理窟いはるゝ接木つぎきかな    重就

 これは別にいい句ではない。老僧の接木という言葉があって、よわい已に傾いた老僧が接木をする。なお幾程の未来をたのんでそんなことをするのかというと、自分のためにするのではない、こうやって接いでさえ置けば、何時いつかは大きくなって人の役に立つ時があろう、と答えるのである。鳩巣きゅうそうの『駿台雑話すんだいざつわ』にも「老僧が接木」なる一章があり、三代将軍が谷中やなか辺へ鷹狩に出た時、将軍とは知らずに今のような理窟をいって聞かした、という話が出ている。その真偽はわからぬが、そういう考で接木をした者はいくらもあったろうと思う。子規居士の没前数日に口授した「九月十四日の朝」という文章を読むと、朝納豆売なっとううりが来たのを聞いて、家人にこれを買わせる話が書いてある。「余の家の南側は小路こうじにはなっているが、もと加賀の別邸内であるので、この小路も行きどまりであるところから、豆腐売りでさえこの裏路へ来る事は極て少ないのである。それで※(二の字点、1-2-22)たまたま珍しい飲食商人が来ると、余は奨励のためにそれを買うてやりたくなる」というのであるが、これなどもやはり老僧の接木の一種であろう。
 重就の句は老僧が理窟をいったというまでで、その内容には触れていない。けれども老僧が接木をしながらの理窟である以上、先ず例の話と見て間違はなさそうである。ただその理窟を御尤ごもっともとも何ともいわず、「理窟いはるゝ」とだけいったところに、多少のおかしみを生じているような気がする。

新井戸や春たつけふの釣瓶竿つるべざお    釣眠

 立春の日に古今の相違はない。違うのは暦の上の日だけである。けれども正月の初に春が立つのと、二月の初に春が立つのとでは、連想に著しい相違がある。この感じは畢竟ひっきょう新年と立春とが一致すると否とによって分れるのであろう。
 尤も現在でも農村あたりでは一般に旧暦が用いられている。折衷的に一月おくれというところも少からずある。それも遠い地方ではない、先年大東京に編入された府下の某村などでも、役場とか、学校とか、工場とかいう文明的施設の場所では、勿論一月一日に新年を祝うけれども、農家の方は二月にならないと正月の行事をやらぬという話であった。つまり年賀状は一月、雑煮は二月というわけで、あるいは今の人の気には入らぬかも知れぬが、そこに日本らしい面白味があるように思う。由来統一論者の弊は、狭い範囲の主張を強いて一般に推及ぼそうとする点にある。われわれの考え方が時に都会本位になるおそれがあるのも、不知不識しらずしらずの間に同様の誤に陥っているのかも知れない。
 この釣眠の句なども、一陽来復という言葉が、そのまま新年に通用する時代ならば、とかくの説明を要せぬのである。年内に掘った井戸を春立つと共に汲みはじめる。井戸が新しいのだから、釣瓶も竿もことごとく改っているに相違ない。新しい木の香を帯びて汲上げられる水にも、同じく新春のよろこびを感ずる、という新な気持である。この気持は「春立つ」を「年たつ」としたら、今の人にもわかりよくなるかと思う。
 尤もこの「新井戸」は単に新しい井戸というまでで、若水から汲みはじめるものとまで限定しなくとも差支ない。以上は昔の春が大体において年と共に改ることを説くために、新しい感じをやや強めていったに過ぎぬのである。

霞む日やまばゆき紅の水洗    里東

「紅」はモミと読むのであろう。あかい絹の意である。うらうらと霞む長閑のどかな日の下に、水に浸してざぶざぶと洗う、その絹の紅が日にえてまばゆいような感じがする、という趣を詠じたものと思われる。
 上に「霞む日」と置いたところを見ると、普通の井戸端などでない、多少眺のひらけた流のほとりかも知れない。そうすればまた一句の連想が複雑になって来る。あるいは霞む日の空を遠い背景として、水洗をした紅絹がそこに干してある、その紅の眩いような感じを捉えたものとも解せられぬことはない。一句の主眼は春の日を集めた紅絹の眩さにあるのだから、他は各自の連想に任せていいようなものであるが、しばらく前のように解して置く。

黙礼の跡見かへるや朧月おぼろづき    柳之

 夜道を歩いて行くと、黙って御辞儀をする人がある、此方こちらも礼を返して行き違ったが、何歩か行ってあとを振返って見たら、今の人は朧月の下を向うへ歩みつつある、といったような趣かと思う。相手は誰であるかわからぬ、御辞儀をするから此方でも御辞儀をしたものの、いぶかしいような気がして振返ったものとも解せられる。それほど面倒に考えずに、黙礼をしたまますれ違った人を、少し行き過ぎてから振返った、というだけでもいいかも知れない。何とも挨拶せぬために、いくらか無気味な影が附纏うようだけれども、その人を怪しむというほど強い感じでもなさそうである。
 人通りなどのあまりない場所であろう。朧月の下に顧る人影の、遠からずしかもあきらかならざるところに一種の趣がある。

さらば又かき餅焼んおぼろ月    露堂

「舎羅除風に草庵に押こまれて」という前書があるから、その場合は一応わかるが、舎羅、除風と作者との関係はあまり明瞭でない。この前書によってあんずるに、二人が突然やって来たので、いささかもてなしのため、夜話のとぎにするような意味で、かき餅でも焼こうといったのであろう。「さらば又」というところを見れば、こんな事はしばしばあるので、御互に親しい間柄らしいことも、「押こまれて」の一語から想像し得る。
 この句を読んでふと思い出したのは、吉野左衛門よしのさえもん氏の「十三夜行」である。月夜の松濤庵しょうとうあんに清流を汲んで茶をれ、何かないかと戸棚を捜したら一袋の掻餅が出て来た、それを泉鏡花氏が喜んで食べた、ということが書いてある。春と秋で情景は全く異るけれども、夜の客に対して掻餅を持出すところ、相手が二人であるところなどもすこぶる趣を同じゅうしている。この句が目についたのも、事によったら「十三夜行」の記事が頭にあったせいかも知れない。
 簡素な昔の生活の思いやられる句である。

吹上る※(「土へん+參」、第4水準2-5-10)ほこりの中の雲雀ひばりかな    呈笑

 畠であるか、河原であるか、それはわからぬ。強い風が吹いて濛々とほこりあがる、その中に雲雀の声がする、というのである。
 雲雀の声は多くの場合、長閑のどかな光景に配せられている。この句は風が吹いている上に、濛々たる砂塵まで揚っているのだから、平安朝流の歌よみなどは閉口しそうな趣であるが、それで雲雀の感じは少しもそこなわれていないところが面白い。

蛙子かえるごや尾先ににごす小田おだの水    淵龍

 田の水の浅いところに、蝌蚪おたまじゃくしが沢山かたまっている。あのやがて消え去るべき短い尾を動かすたびに、田の水にささやかな濁りが立つ。大まかなようで繊細な趣を捉えたものである。
「尾先ににごす」という言葉だけ切離して考えると、もう少し大きな動物であってもよさそうな感じがする。従ってこの蝌蚪も一疋の動作と見た方が、印象がはっきりするかも知れぬが、蝌蚪そのものとしてはやはり黒くかたまって、絶えず動いている方がよさそうに思う。蝌蚪の尾によって絶えず濁りを生ずるところに、浅い田の水の様子が窺われる。

肩もみてともに眠るか春の雨    百洞

 春雨のものうさとでもいうべきものを現した句である。肩をませているうちにいい気持になって、ついうとうとする。揉んでいる方も眠くなったのであろう、揉む手に力が入らなくなる、外は春雨がしとしと降っている、というのである。
「ともに眠るや」では断定に過ぎる。眠っているのかいないのか判然せぬ状態、揉ませている方の意識もやや朦朧もうろうたる点が、春雨の趣に調和するのであろう。

枯蘆かれあしに雪の残りや春のさぎ    怒風

 これは見立みたての句であろうと思う。枯蘆のほとりにいる鷺の白いのを、のこンの雪に擬したので、実際枯蘆に雪が残っているわけではない。散文的に解釈すれば、春の鷺の白きは枯蘆に残れる雪の如し、ということになるわけであるが、作者は机上にこの趣向を案出したのではなく、現在眼の前に枯蘆を見、白鷺を見ているのである。そうでなしに単にこれだけの譬喩ひゆを持出したものとすれば、一箇の思いつきに過ぎぬことになってしまう。「枯蘆に雪の残りや」という十二字だけなら、あるいは枯蘆の上の残雪と解することも出来るかも知れない。ただそのあとから登場するものが白鷺なので、雪に色を奪われたのでは折角出て来た甲斐かいがないから、ここはどうしても枯蘆の鷺を残雪に見立てたという解釈によるべきであろう。この辺は今の句とは大分勝手の違うところがある。
 尤も鷺を雪に見立てるのは、必ずしも珍しい趣向ではない。宗鑑にも「声なくば鷺こそ雪の一つくね」という句があった。これは「雪の一つくね」という語が鷺の形容に適切であるという外、全然理智的譬喩になりおわっている。従って吾人ごじんの眼前には何も浮んで来ず、文学的価値もすこぶる乏しいわけである。しかるに鴎外博士の『佐橋甚五郎』を読むと、中に次のような描写がある。
丁度春の初で、水のぬるみ初めた頃である。とある広い沼の遥か向うに、鷺が一羽おりていた。銀色に光る水が一筋うねっている例の黒ずんだ土の上に、鷺は綿を一つまみ投げたように見えている。
 この鷺を撃てるか撃てぬかのかけになって、甚五郎が鉄砲で撃つ。そこに「そのまま黒ずんだ土の上に、綿一撮みほどの白い形をして残った」と、もう一度同じ形容が繰返してある。かつてこの条を読んだ時、譬喩の文学的効果ということについて、少し考えて見たことがあった。散文あるいは長詩の一節としてこれを用いれば、おおいに効果のある譬喩的形容でも、俳句の如き短い詩にあっては、他に補足的な文字を添える余裕がないため、譬喩倒れにおわる傾向がある。『佐橋甚五郎』の一節としては効果のある「一撮みの綿」の如きも、俳句においては成功せぬ場合が多くないかと思われる。
 宗鑑の鷺はしばらく問題の外としても差支ない。怒風の句が或程度まで早春水辺の景色を展開しているにかかわらず、全体の感じを弱めているのは、主として譬喩の一点にある。これは俳句に適するか否かの問題で、必ずしも形容の巧拙に関するものではなさそうである。

新道しんみち置土おきつちかわくすみれかな    里東

 菫という花は、明治以後いわゆる星菫せいきん趣味の普及によって、一種の型を生じたが、昔の日本にはそんなハイカラなものはない。野草として普通の待遇を受けるにとどまっていた。赤人の「野をなつかしみ一夜ねにける」にしても、芭蕉の「山路やまじ来て何やらゆかし」にしても、明治の若い連中が随喜したようなものでないことは勿論である。
 この里東の句なども当り前の田舎の景色で、新しく作った道の上に置土をする、その土の乾いたところに菫が咲いている、というまでである。ハイカラでもなし、えんでもない。ただそういう置土の間にある、小さな野草の紫色が人の目をくに過ぎぬ。

小便につれまつそばの菫かな    松白

に至っては、一層野趣の甚しいもので、星菫党に見せたら憤慨しそうな句であるが、わざわざこういう材料を持出したのではない。古人は自然の間に菫を認め、或観念を以て臨まなかったから、岨道に小便をする男なども、句に取入れられることになったのであろう。反対に古人が或観念を以て臨み、今人こんじんはかえって無関心なものもある。時代趣味の上からいろいろ対照して見たら、存外面白い結果になるかも知れない。

あひさしのからかさゆかし花の雨    淀水

「あひさし」は二人でさすの意、相合傘あいあいがさのことであろう。こういう言葉があるかどうか、『大言海』などにも挙げてはないが、相住あいずみ相客あいきゃく等の用例から考えて、当然そう解釈出来る。
 花の雨の中を相合傘で来る人がある。「ゆかし」は「暖簾のれんの奥ものゆかし」とか、「御子良子おこらごの一もとゆかし」とかいうのと同じで、傘の内の人は誰だか知りたい、という意味である。艶といえば艶なようなものの、少しつき過ぎるきらいがある。ただし普通の春雨よりは、花の雨の方がいくらかいいかと思う。

鶯や籠からまほる外のあめ    朱拙しゅせつ

 飼鶯である。「まほる」は「まぼる」即ち「まもる」の意であろう。雨の日の鶯が籠の中からじっと外を見ている。雨の降る様を見守っているようだ、というのである。
 鶯には限らぬが、動物には時にこういうところがある。彼らは実際外の雨を見ているのかも知れない。あるいは人間にそう見えるだけで、うつろな眼には雨も何も映っていないのかも知れない。いずれにしても作者は自己の感じたままを句にしたので、つれづれな雨の日の観察がここに及んだことはいうまでもあるまい。

鶯や目をこすり来る手習子てならいこ    温故

 鶯がいている。手習子がやって来る。朝早いのに無理に起されたと見えて、眠そうな眼をこすりながらやって来る、というのである。「目をこすり来る」の一語によって、朝の早い様子と、その子の年の行かぬ様子とをよく現している。そうした可憐かれんな趣が鶯と或調和を得るのである。

ふたつみつ花になりけりこけの梅    従吾

 老木の梅と見える。幹には深々と苔をつけた梅の木が、わずかに二輪か三輪の花をけている。「花になりけり」という言葉は、単に花が咲いたというだけでなしに、咲くべくも思われなかったのに咲いた、というような意が寓せられているように思う。
 森田義郎氏の歌に「苔むせる老木のつはり痛々しかくて幾世の春を飾れる」というのがあった。花と芽との相違はあるけれども、老木を憐むの情においてはほぼこの句と趣を同じゅうしている。「苔の梅」という言葉は多少無理な感じがないでもないが、苔むせる老木の梅を現す場合、他に適当な言葉もなさそうである。

朱鞘しゅざやさす人物すごしんめの花    一庸

 この梅の咲いているのはどんな場所かわからぬ。が、恐らくは梅見に人の来るようなところで、特に朱鞘の人が目立つというのであろう。講談に出て来る中山安兵衛のような浪人者であるかどうか、とにかく一見物凄ものすごいような感じを与える人物がいる。「人物すごし」は「ヒトモノスゴシ」で「ジンブツスゴシ」でないことは勿論である。
「何事ぞ花見る人の長刀」という桜の下では、到底この種の人物は調和しない。仮令たとい朱鞘の浪人者が徘徊はいかいするにしても、空気は一変して春風駘蕩しゅんぷうたいとうの図とならざるを得ぬであろう。物凄い朱鞘の人物に調和するのは、やはり梅より外はあるまいと思う。
 梅を「んめ」と書くのは古俳書によくある例である。蕪村は「梅さきぬどれがむめやらうめぢややら」と言ったが、文字面もじづらからいうと、もう一つ「んめ」がある。ただし発音は「む」と同じだから、特にいうほどのことはないかも知れぬ。

いかのぼり見事にあがるあほうかな    林紅

 たこ得揚えあげまいと思っていた阿房あほうが、見事に凧を揚げたというだけでは面白くない。皆が揚げ悩んでいる風の日であるとか、人の目をそばだてるような大凧であるとか、何か特別な事実がないと、いくら阿房でも揚げ甲斐があるまいと思う。「見事にあぐる」でなしに、「見事にあがる」である点にも注意しなければならぬ。凧を揚げ得た阿房が主眼ではない。阿房の手から見事に大空に揚った凧が主眼なのである。
 他に何の能もないが、凧を揚げることは名人だという解釈も成立ち得るかも知れぬ。われわれは阿房の手によって見事に揚った凧を仰ぎ見るだけにとどめて置きたい。

羽織はおり著た禰宜ねぎの指図や梅の垣    素覧そらん

 垣の修理か、庭の手入かわからぬが、羽織を著た禰宜がそこに出て、何かしきりに指図している。その垣根には梅が咲いている、という趣である。平服の禰宜を捉えたのが一風変っていて面白い。
『その後』の中にある「地祭り」という文章の最後のところに、地祭が済んで地主の家へ行って見ると、神官は束帯そくたいを脱いでただの人で坐っていた、そして目白の話をしたりしていたが、帰る時に好いついでだからといって接骨木にわとこの小苗を貰って行った、ということがある。
 この句を読んだらすぐあの一節を思い出した。平服の神官に興味を持ったりするのは、俳人的観察の一であろう。

飛咲の菜の花寒し麦の中    三径

「飛咲」というのは飛び離れて咲くの意であろう。青い麦の中にぽっつり離れて菜の花の咲いている趣である。万緑叢中黄一点というほどではないが、とにかく菜の花の甚だ優勢ならざることを示している。「寒し」は気候の感じでもあり、また乏しい菜の花の感じでもある。春色未だあまねからざる野の景色であろうと思う。
 麦緑菜黄をはっきり描いた句に、子規居士の「菜の花の四角に咲きぬ麦の中」がある。印象明瞭の一点では、三径の句はこれに及ばぬであろう。ただ感じの複雑なところは、あるいはまさっているかも知れぬ。「飛咲」という耳慣れぬような言葉も、この場合相当な効果を収めている。

川越せばあとに啼なり雉子きじの声    文砌

 今まで前路に当って聞えていた雉子の声が、川一つ越したら後の方になった、という意味であろう。ぼうっと霞んだような、春の野の様が眼に浮んで来る。
 この川はかなりの大河らしく思われる。これを越すことによって眼界も異り、今までの雉子の声も遥かうしろの方に聞える。必ずしも同一の雉子が啼いているわけではないかも知れぬが、その声がうしろになったというので、川を越した感じはよく現れている。

水汲の手拭てぬぐい落すやなぎかな    祐子

 井戸端か、川のほとりか、それはわからぬ。手拭はかぶっているのか、持っているのか、腰にでも挿んでいるのか、それもわからぬ。ただ水を汲みに来た人が、手拭を地に落す、その白い色と、緑に垂れた柳との対照がこの句の主眼である。
 色彩の対照以外に、明るい、軽やかな感じが一句に溢れていることは、ぜいするまでもあるまい。

ちかよりて見れば畑打女かな    枳邑

 遠くに畑を打つ人の姿は、ただそれと見えるばかりで、男だか女だかわからぬ。だんだん近寄るに及んで、はじめて女であることがわかった、というのである。「ちかよりて見れば」という言葉は、わざわざ近寄って見る場合にも用いられるが、この際は作者の歩いている足が自然と畑打はたうちに近づくのである。
 去来の「動くとも見えで畑打つ麓かな」という句は、本によっては下五が「男かな」ともなっている。「動くとも見えで」という語は遠景に適し、「男かな」は遠景に適せぬところがあるが、「麓かな」ならすべてが遠景になって、その問題は消滅することになる。枳邑の句は去来の句には無論及ばぬけれども、遠く畑打を望み、近づいてはじめてその女たることを知るという順序は、極めて自然に行っているように思う。

春の夜やかぶらにとぼす小挑灯こぢょうちん    牧童

 この句には「夜更ふけて帰る時に蝋燭なし、亭坊の細工にて火とぼす物でかしてわたされたり、むかし龍潭りゅうたん紙燭しそくはさとらんとおもふも骨をりならんとたはぶれて」という前書がついている。夜更けて帰るのに蝋燭がないといったら、亭坊が蕪の中をくり抜いて――だろうと思う――灯をとぼすものをこしらえてくれた、というのである。西瓜燈籠すいかどうろうはありふれているが、蕪の挑灯は面白い。よほど大きな蕪でないと、火をとぼすには工合が悪かろうと思うけれども、そこは然るべく工夫したのであろう。
「龍潭の紙燭」は『碧巌集へきがんしゅう』にある話である。徳山がはじめて龍潭に参した時、侍立じりつするほどにいつか夜が更けてしまった。「潭いわく何ぞ下り去らざると、山遂に珍重してれんかかげて出で、外面の黒きを見て、卻回きゃっかいして云く、門外黒しと。潭遂に紙燭を点じて山に度与どよせむとす。山接せむとするにあたって潭便すなわ吹滅ふきけす。山豁然かつぜんとして大悟す。便ち礼拝す」とある。龍潭の紙燭は受取ろうとするのを吹消すところにあるらしいが、牧童は蕪の挑灯で足下を照して家へ帰らなければならぬ。「さとらんとおもふも骨をりならん」というのは、例の俳人一流の態度であろう。
 蕪の挑灯というのは他にもあるかも知れぬが、私はまだ見たことがない。しかしこの句を読むと、俳味津々しんしんたるのみならず、何だか春の夜に調和するように思われるから妙である。異色ある句といわなければならぬ。

客亭主ともに老けり炉の名残    諷竹

 炉塞ろふさぎの場合、そこに坐っている客も主人も共に老人で、茶をすすりながら閑談にふけっている、というようなところらしい。びた趣である。
 天明の句にはこういう世界をねらったものが多い。この句はその先蹤せんしょうとも見れば見らるるものである。

陽炎かげろうや川の浅みのあわびから    范孚

 陽炎が立っている。さらさら流れる川の浅いところに、蚫の殻が一つ沈んでいて、きらきら光っている。まばゆいような明るい趣である。
 われわれの子供の時分には、金魚池などに蚫の殻をいたちよけにつるすということがあった。蚫の殻は裏がよく光るので、夜でも鼬が恐れて近寄らぬからだという。そういう貝だけに、川の浅みに沈んでいても、その光が目につくわけであろう。

玉椿落て浮けり水の上    諷竹

 椿の花がぽたりと落ちて、しずかに水の上に浮ぶ、という意味である。こういう風の句は近来の写生句には極めて多いが、元禄時代にあってはむしろ異とすべきであるかも知れぬ。
 椿が水に落ちるというだけの句なら、古来無数にある。「玉椿」と最初に置いたのも、修辞的に趣を助けておらぬことはないが、それよりもこの句において見るべきは中七の叙法である。
「落て浮けり」という言葉には、自ら時間的な経過がある。椿の花がぽたりと水に落ちて、しかして水面に浮ぶ。普通の落花と違って、大きさからいっても、重量からいっても、どっしりしたものであるだけに、落ちてしかして浮ぶという経過が、はっきり眼に映るのである。単に椿の花が水面に浮んでいるというだけのことではない。
 再考するに「落て浮けり」という言葉には、大まかな中に一種の働きがあって、やはり元禄らしい特色が認められるかと思う。

朧夜おぼろよや化物になるざうりとり    長年

 作者の肩書に「イカ小童」とあるから、これは少年俳句である。「女をともなふ野辺の帰り日くれて道をたどる」という前書によって、この句の場合は明瞭になる。
 女を連れた野辺の帰りに日が暮れて、朧夜のほの暗い道を帰って来る、供の草履取が女たちをおどすべく化物の真似をした、というのである。「化物になる」というのはどんなことかわからぬが、そういう説明を十七字詩中に求めるのは無理であろう。殊に作者が少年である以上、先ずこの辺で満足するより仕方があるまい。
 太祇に「春の夜や女をおどす作り事」という句がある。これは化物になるところまで行かぬ、話頭わとうの作り事なのであろう。こういう趣向はくだって春水作中の一齣となり、お化蝋燭を持出したりして、道具立はいよいよこまかくなるけれども、あまり感心したものではない。太祇にはまた「後の月庭に化物つくりけり」という句もある。百物語ひゃくものがたりなどの趣向ででもあろうか、いずれ誰かを威すはかりごとに相違ない。
 野中の辻堂に集って百物語を完了したが、未だ夜は明けず、別に怪しい事も起らぬから、もう帰ろうといって立去ろうとすると、一人がおれだけ少し残る、皆さきへ行ってもらいたい、といい出した。怪しんでその故を問うたところ、実は堂を下りようとした時に、うしろから腰を抱えた者がある、その手をしっかり押えているのだ、という答であった。そいつは化物だろう、少し切って見よう、と刀を抜きかかると、その化物の声として、それは危いといった。百物語の中途で、気分が悪いといって帰った男が化物になっていたのだ、という話が『窓のすさみ』にある。百物語の化物などは、とかく仲間のうちから生れるものらしい。朧夜の野道の化物も、草履取が一足先に廻って、そんな悪戯いたずらをするのではないかと思うが、もとより想像に過ぎぬ。万事春の夜の朧々ろうろうたる中にまかして置いて差支ない。

折々や蝶に手を出す馬の上    我峯

 長閑のどかな春の道中の様である。
 馬はほくほくと歩いて行く。馬上の人は屈託もなさそうに揺られて行く。折々蝶がひらひら飛んで来るのを、馬上の人は捕えようともなく手を出す、というのであろう。
 春日の永きにむ馬上の旅の様子がよく現れている。煕々ききたる春光の中を飛ぶ蝶の姿が、ありありと眼に浮んで来るような気がする。

朝風や蛙鳴出す雨くもり    千百

「雨くもり」というのは、雨を催す曇り空の意であろう。しずかな朝風もおのずから湿気を含んでいる。どこかで蛙の鳴く声が聞える。この蛙は雨蛙のようなものではないかも知れぬが、集団的合唱でなしに、少数の蛙の率先して鳴く場合が想像される。「鳴き出す」という語は、その声の多からざることを示しているからである。

泥足やえんにさげたる桜がり    万乎まんこ

 泥足というと泥田の中にでも踏込んだように思われるが、それほど限定しないでも差支あるまい。泥まみれになった足をぶら下げて、縁にいこうている有様を描いたのである。
「桜がり」とあるだけで、この場所は明瞭でないから、他は想像で補うより仕方がない。寺か何かの高い縁であれば、ぶら下げるということも適切なような気がするが、それもそういう気がするまでである。泥足だから上へ上るわけに行かず、ぶらりと縁から垂れている。そこに草臥くたびれた様子も窺われる。
 桜狩中の一瑣事を捉えたのである。

寐はぐれるあけぼの白し梅の花    無笛

「寐はぐれる」は今普通に「寐そびれる」などというのに同じであろう。眠りそこねてぐずぐずしているうちに、いつの間にか夜が明けかかった。この句では梅の咲いている場所はわからぬが、それは漠然たる古句の常として、強いて穿鑿せんさくするにも及ぶまい。寐はぐれた、眠りそこねた暁の空気の中に、梅の花を認めたというだけのことである。
「白し」はしらしら明にかかる言葉かと思うが、この梅はやはり白梅のような気がする。

普請場にうぐひす鳴や朝日和    芙雀

 市井しせいの鶯というほどではなくとも、人寰じんかんを離れざる世界である。普請場小景というところであるが、のみ手斧ちょうなの音が盛にしはじめては、如何に来馴れた鶯でも、近づいて啼くほどにはなるまい。先ず大工たちがやって来て、焚火たきびでもしている位の時間かと思う。
 周囲に多少の立木がある、ものしずかな場所らしく思われる。今日も上天気で、まだ寒い春の朝日が明るく普請場にさして来る。折ふしほがらかな鶯の声を聞いたというので、「普請場に」の語は「普請場のほとりに」という程度に解すべきであろうか。普請場の木材にとまって啼くわけではない。
 鶯の句としては、ちょっと変った場合を見つけたものである。「朝日和」の下五字も、ものしずかな普請場の様子をよく現している。

鶯や雨がはるれば日がくるゝ    釣壺

 これは反対に夕方の景色を持出して来た。一日ほそぼそと降りつづいた雨が夕方近くやんで、あたりの空気も明るくなると、ほどなく日が暮れて行く。雨が霽れて日が暮れる。その僅な間の時間に鶯が啼いたのである。
「雨が霽れば日がくるゝ」という時間的経過のみを叙して、他の何者をも描かずに鶯を点じたのは、たくみといえば巧であるが、恐らくは技巧の産物でなく、自然の趣がそのまま句になったのであろう。

うぐひすや日のさし残る小芝はら    路柳

 これも夕方の鶯である。
 もう暮近くなったが、芝原の上にはまだ日がさしている。その明るいしずけさの中に鶯が啼く。前の句は雨が霽れて日が暮れるという、しずかな中にも変化ある空気を捉えているが、この方は暮れる前の静止した空気が主になっている。「日のさし残る小芝はら」の印象は頗るあざやかである。

世のさまや質屋にかゝる涅槃像ねはんぞう    除風

 寺になければならぬ涅槃像、年に一度涅槃会ねはんえにかけて、世尊入滅の日をしのぶべき涅槃像が質屋の壁にかかっている。在家ざいけの人の持つまじきものだから、寺の住持が金にでも困っててんしたのであろう。鳥もけものひとしく涙を流している涅槃像だけに、質屋にかかっているのは情ない。作者はそれを「世のさまや」と歎じたのである。この歎息はもっとも千万ではあるが、句としてはかえってつまらぬことになっている。
 年に一度あればいい品物だから、不断は質に置いて、涅槃会の前に受出すのかもわからない。あるいは太夫たゆうが語り物を典し、雲助がふんどしを質に置くように、寺としてなければならぬものを置くので、質屋の方でも安心して取るのかも知れない。そういう点を描いたら、少し平凡の嫌はあるけれども、西鶴あたりの一材料にならぬとも限らぬ。更に下って川柳子の嘲笑を浴びそうな事実である。
 いずれ末世における売僧まいす仕業しわざであるが、質屋の壁で風に吹かれている有様は、涅槃会ならぬ日の事と解したい。

雪ちるや梅の垣根の魚の骨    巴水

 梅の咲いている垣根に魚の骨を捨てる、降出した雪がその上にかかる、というのである。古人としては梅に不調和な垣根の魚の骨が、雪のために隠れむことをねがうような心持があるかも知れない。
「雪ちるや」というのは、雪の降りはじめの頃、まだ多く積らぬ場合らしく思われる。従って垣根に捨てた魚の骨も気になるのである。

春の野も寂しや暮の馬一つ    由水

 昼の間は行楽の人で賑っていた野が、夕暮近く急に寂しくなった光景であろうか。あたりにはもう人影も見えず、ただ一頭の馬がいるだけだ、という風にも解せられる。
「寂しや」という言葉は昼の光景に対したものではあるが、必ずしも行楽の人ばかりには限らぬ。野良のらへ出て働く人も、春はおのずから多いわけだから、そういう風に解しても構わない。要するに暮色がようやく迫って、物音もないような、寂しい春の野の様である。
 ただこの句で不明瞭なのは、唯一の登場者たる馬である。歩いているのか、路傍に繋がれているのか、放し飼なのか、その辺は一切わからぬ。今日の句であったら、この馬の状態をもう少しはっきり描いたかも知れぬが、元禄の作者は一頭の馬を野中に点じたまま平然としている。けれどもこの句をじゅすると、薄墨色の野の暮色の中に唯一つ馬のいる様子が、髣髴ほうふつとして浮んで来るような気がする。

まよひ子の太鼓たいこきく夜のおぼろかな    壺中

 誰かが迷子まいごになった場合、家族はいうに及ばず、近隣の者まで動員して、「迷子の迷子の――やい」といって捜して歩く。遠くからわかるように、しょうや太鼓でたずねるという話は、われわれの子供の頃までよく聞かされたが、交番という便利なものが出来ていたので、実際にはもうなかった。漱石氏が『坊ちゃん』に用いた「かねや太鼓でねえ、迷子の迷子の三太郎と、どんどこどんのちゃんちきりん……」といううたなども、やはりこの迷子さがしをふまえているようだから、昔はしばしばこういう事件があったものであろう。
「まよひ子の太鼓」は「迷子を捜す太鼓」の意味である。迷子自身が太鼓を聞くわけではない。春の夜の朧の空に太鼓の音が聞える。またどこかに迷子があって、それを捜しているのであろう、と想像したのである。
 迷子を捜すという事柄に対しては、寒月とか、木枯とかいう配合の方が適切だという人があるかも知れない。しかしそれはやや型にはまった見解で、哀れを強いるきらいがある。この句の場合はそう立入った気持でない、ああまた迷子があるな、という非人情的態度である。そうすれば背景が春の朧夜であることも、緩和的効果を与えているように思う。

春雨や戸板に白き餅の跡    酒楽

 かつて餅搗もちつきの場合に、戸板をはずしてその上に餅を並べた。その時の餅の粉が白く戸板に残っている、というのである。作者はそれを春雨の際に発見したのであるが、この戸板は外されているのか、それとも立っているのであろうか。「戸板」という言葉だけ切離して考えると、外された場合のようでもある。ただ雨戸といったのでは、何で餅の跡があるのかわからぬから、前に外した時のことを現すため、殊更に戸板といったのかも知れない。必ずしも歳暮の餅搗でなしに、近く搗いた餅の跡としても差支ないが、とかくは無用の穿鑿せんさくであろう。春雨のつれづれなるに当って、「戸板に白き餅の跡」を発見しただけで、作者は満足なのである。
 面白い見つけどころの句である。戸板に残る餅の跡などに興味を持つのは、俳人得意の世界でなければならぬ。

子を運ぶ猫の思ひや春の雨    里倫

 猫が自分の産んだ子を他の場所へ移す。人があまりのぞいたりすると、危害を加えられるように思うのか、知らぬ間に全く別の箇所へ運んでしまう。子猫の首のところをくわえて、一匹ずつ運ぶ親猫の様子は、たしかに真剣なものの一である。
 香取秀真かとりほずま氏の古い歌に「おしいれの猫の産屋うぶやに雨もりて夜たゞ親鳴く子を守りがてに」というのがあった。この場合もあるいは雨漏のためにどこかへ移すのかも知れない。雨の中を子を銜えて運ぶ親猫の様子が見えるようである。
 この句の面白味は「思ひ」というところにある。「蛇を追ふますのおもひや春の水」という蕪村の句も、動物の「思ひ」を捉えているが、いささか特殊に過ぐる嫌がないでもない。「子を運ぶ猫の思ひ」は平凡な代りに、何人にも窺い得る境地であろう。

なく雉子きぎす微雨に麦の茎立ぬ    鷺雪

「微雨」はコサメと読むのであろうか。どこかに雉子の声がする。微雨の中の麦もいつか茎が伸び立って来たというので、単なる配合のように見えて、そこにいうべからざる陽春の気が感ぜられる。雨に濡れた麦の色と、どこともわからぬ雉子の声と、野外の春は一句にあふれているといって差支ない。
「ほろ/\と椿こぼれて雨かすむ巨勢こぜの春野に雉子なくなり」という歌は、美しいことは美しいけれども、大和絵風の繊麗にした傾がある。茎立つ麦に啼く雉子のたくまざるにかぬような気がする。

紅梅やひらきおほせて薄からず    睡闇

 紅梅の花が開ききって、なおこまやかな色を保っているというのである。それだけのことで、格別すぐれた句でもないが、古人の観察が往々この種の世界に触れているという点で、やはり棄てがたいものがある。
 子規居士の晩年、鉢植の紅梅を枕辺に置いて、日夕にっせき見ながら作った歌の中に「紅のこそめと見えし梅の花さきの盛りは色薄かりけり」「ふゝめりし梅咲にけりさけれども紅の色薄くしなりけり」というのがあった。これは紅梅の花が開いたら、やや色のうすくなったことをんだのである。「薄からず」にしろ、「薄かりけり」乃至ないし「薄くしなりけり」にしろ、こういう観察は漫然紅梅に対する者からは生れない。比較的長い間、紅梅をじっと見入った結果の産物である。紅梅は紅いものだというだけで、それ以上の観察に及ばぬ人から見たら、この句も歌もけだし興味索然たるものであろう。

はなの山のぼりすませば上広し    淡水

「二丁上れば大悲閣だいひかく」ではないが、項上まで登って見たら、上にたいらなところがあって、広やかな感じがした、という意味らしい。作者は多分はじめてこの山に登り、思いがけず上に平地を見出したものかと想像する。
 高い山ではなさそうである。上広くして人の遊ぶに任すのは、如何にも花の山にふさわしい。

三味線や借あふ花の幕隣    柳士

 其角の句に「花に来て都は幕の盛かな」というのがある。花見の幕は上方風俗だったらしい。この句の作者も恐らくは上方であろう。西鶴の『五人女』にも花見の幕が出て来るのは、お夏清十郎のところであった。
 幕を張って花を見る、その幕の隣同士が三味線を借合って唄でもうたうという意味らしい。偶然幕を隣合せただけの人に三味線を借りたりするのも、花見の一情景たるを失わぬ。花に浮れ、酒に興ずる人の間には、今でも珍しからぬことかも知れない。

ちっていかの尾かゝるこずえかな    従吾

「いか」は「いかのぼり」の略、紙鳶たこのことである。花の散った梢に紙鳶の尾の引かかっているのを発見した。多分花の咲く前からのものであろうが、花が散ってから今更のように目につく。それを「いかの尾かゝる」といったわけである。
 面白いところを見つけたものである。

足洗ふ石川浅しもゝの花    市中

「石川」というのは地名でなしに、底に石の多い川の意であろう。「砂川」などという例もあったような気がする。
 見るから清冽な流が想像される。そういう浅い川で足を洗う。桃の花はその川のほとりに咲いているらしい。桃の句というと、とかく平遠へいえんな農村の景色がつきもののようであるが、これは多少趣を異にする。
 桃花の趣は梅より桜よりも明るい。そうして野趣がある。底の見える石川の流に日がさして、きらきら光るあたりに足を浸して洗うなどは、たしかに桃と或調和を持っている。

あすの雨西にもちてやおぼろ月    林陰

 空には朧な月がかかっている。明日は雨になるのであろうか、というのである。それを漠然と雨になるといわずに、「あすの雨西にもちてや」といったところに、この句の生命がある。「西が曇れば雨となる」という唄の文句の通り、西の空がどんより曇っては、明日の天気はおぼつかないのであろう。

梅が香や※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)にわとり寝たる地のくぼみ    如行じょこう

 農家の庭などの実景であろう。日向ひなたの土の窪んだところに、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)が寝て砂を浴びている。あたりにある梅が馥郁ふくいくたる香を放っている、というようなところらしい。
 香ということにはあまり執著する必要はない。梅の咲いている日向に※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)が砂を浴びている、しずかな光景が浮べばいいのである。「地のくぼみ」の一語がこの場合最も重要な働をなしている。

広庭や鳩の物くふ梅の花    昌房

 梅に鶯は陳腐の極であるが、鳩を配したのはちょっと変っている。広庭の日当りのいいところであろう、鳩が下りて餌を食っている。この鳩は一羽や二羽ではあるまい。多くの鳩が一種の声を立てながら、豆でも拾っている光景らしく思われる。
 神社か寺の境内のような感じもするが、そう限定する必要はない。前の※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の句といい、この鳩の句といい、自然を直に捉え来って一幅の画図を成しているのは、さすがに元禄人の世界である。

雉子啼や見付た事の有やうに    野紅

 一茶調である。曾呂利新左衛門の筆法を用いれば、太閤たいこうが猿に似たのではない、猿が太閤に似たのだというところであろう。
 しかしこの句は単に一茶調といい去るには、あまりに似過ぎている。『一茶発句集』にある「雉子なくや見かけた山のあるやうに」という句は、材料からいっても、調子からいっても、全くこの句の通りであるのみならず、「見かけた山」という言葉も自然の丘山でなしに、見込がついたという意味の諺だそうだからである。両句の僅な相異点である中七字も、存外意味が近いことになって来る。
 一茶の特色の一として擬人法が挙げられる。われわれもあの顕著な特色を認めぬわけではないが、あれを以て直に一茶独造の乾坤けんこんとする説には賛成出来ない。その証拠には現にこういう句が元禄時代に存在している。一茶調の先蹤せんしょうをなすことは、野紅の名誉ではないかも知れぬ。ただし一茶としてはどうしても野紅に功を譲らなければなるまいと思う。

尺八の庵は遠しおぼろ月    魯九ろきゅう

 門を吹いて通る虚無僧こむそうの尺八ではない。どこかの庵で吹いている尺八である。そう断定する以上、作者はその尺八の音色を知り、吹く人を知り、その庵を知っているのであろう。その庵は遠くにある。かねて聞おぼえのある尺八がそこから聞えて来るので、この「遠し」は視覚に訴える意味のものでなしに、聴覚に訴える遠さであろうと思う。万象はことごとおぼろなる月の下に眠っている。その中に尺八の音だけ流れて来るというのは、如何にも春の夜らしい感じである。

日和ひよりつゞく雲雀ひばり高音たかねかな    夕兆

 毎日毎日いい天気が続く。その日和を喜ぶように雲雀が啼く。快適な春の感じを現した句である。
 これだけの客観の句としても差支ないが、この句には「餞別」という前書があって、路健の旅に出るのを送ったことになっている。出立しゅったつの際も已に天気つづきだったので、眼前の景色をそのまま取入れたものであろうが、同時に旅立つ人に対し、この日和の更に続けかしとねがう意が含まれているような気もする。日和の空に高く啼く雲雀の声を聞きながら、おもむろに旅程に上る。こういう風物を採って直に餞別とするのは、俳句以外の詩のあまり執らぬ手段であろう。

春雨や障子しょうじを破る猫の顔    十丈じゅうじょう

 障子の破れから猫がぬっと顔を出す、というのでは平凡である。締出された障子の外から、猫が紙を破って入って来る、というところに面白味がある。外から入る場合には限らぬ。内から破って出るのでもいいわけであるが、内から外へ出るのでは「顔」がかない。紙を押破ってぬっと猫の顔が現れる。そこがこの句の主眼でなければならぬ。
 猫を飼ったことのある者なら、しばしば経験する実景である。春雨に降り込められて徒然なる日、障子を破って猫が顔を出すのは、俳味横溢して面白い。春雨時分ならば障子に穴を明けられても、そう迷惑ではなかろうなどと余計なことをいう必要はない。

落さうな神鳴雨や木瓜ぼけの花    路青

 中七字は「カミナリアメ」と読むか、「カミナルアメ」と読むか明でない。雷雨を訓じて「カミナリアメ」と読むのが無理ならば、「カミナルアメ」でよかろうと思う。全体の意味には大した変りはないからである。
 春雷とはいうものの、すさまじく鳴りはためいて、今にも落ちそうになる。そういう雷雨の中に木瓜の花がしずかに咲いているというのである。木瓜の咲いているのはどういう場所だかわからぬが、深く穿鑿せんさくする必要はない。ただそういう雷雨の下の木瓜の花というだけで、この句の感じは十分である。春雷と木瓜との配合も、自然に或調和を得ている。

春風やよごれて戻る手習子てならいこ    吾仲

 登場人物が手習子であれば、「よごれて戻る」材料は墨にきまっている。「顔に書子と手に書と、人形書子は天窓あたま掻」という寺子屋の文句は人の耳目に熟しているが、寺子屋というものがなくなった今日でも、この光景にあまり変りはない。小学校の生徒も習字のある日などは、大概顔や手足を汚して帰って来る。
 しかしあの「よごれて戻る」様子は、すこぶるのんびりした情景である。「春風」を配合しないでも、たしか春風駘蕩しゅんぷうたいとうたるところがある。

行燈あんどんの一隅明しはるの雨    紫貞女

 古ぼけた行燈の隅のところだけ明るい、という風に一応解せられる。春雨が音もなく降るような晩、座辺の行燈をじっと見つめて、こういう趣を発見したのであろう。
 しかし再案するに、行燈だけの一隅と解するのは、少しく世界を局限し過ぎるきらいがある。行燈を置いた座の一隅がぼんやり明るいという、やや広い場合に解した方がいいかも知れない。今から考えれば何の威力もなさそうな行燈の光が、それだけ明るく感ぜられるということは、昔の夜の暗さ――戸外の闇ばかりでなしに、室内の暗さを語るものである。
「一隅明し」というところにこの句の主眼がある。女流の句だから「イチグウ」とよまずに「ヒトスミ」とよむべきかと思う。

鳴さかる雲雀ひばりや雨のたばね降    沙明

 雨中の雲雀である。「たばね降」という言葉はあまり耳にせぬようであるが、相当強い降りであることは想像に難くない。ザアザア降る雨の中に、しきりに雲雀の声が聞える、という意味らしい。
 太閤たいこうの「奥山にもみぢふみわけなく蛍」の時に細川幽斎ゆうさいが持出した「武蔵野やしのをつかねてふる雨に蛍よりほかなく虫もなし」という歌は、出所曖昧あいまいの三十一字だけれども、「たばね降」はこの「しのをつかねて」の意味に当るのではないかと思う。ただし地方語として何か特別の意味があれば、もう一度出直してかかる必要がある。

気うつりに酒のみ残す桜かな    桃妖

 桜に酒はつきものである。年々歳々相似たる花を見る人は、歳々年々同じように酒を飲んで、春を短しと歎ずるのであろう。これ故に花見の句には古往今来、紛々たる酒気がつき纏うのを常とする。
 この句の主人公も型の如く酒を携えて出たのではあるが、いよいよ出かけて見ると、それからそれへと気が移るために、遂に持って行った酒を飲み残した、というのである。
 眼目であるべき酒を飲み残したというところに、別な意味の花見気分が窺われる。随処の春が人を支配するためであろう。

梅が香や様子の替る伯父の跡    岱水

「伯父の跡」というのは伯父の亡き跡――それもやや時間の経過した跡を指すのであろうと思う。一家の主人たる伯父が亡くなって、その跡嗣あとつぎの時代になると、どこということなしに家の様子が変って来る。必ずしも旧慣をことごとく廃棄するわけでもないが、主人公が異るにつれて、その空気に変化を生ずるのである。
 変化は家の内にはじまって、漸次庭にも及んで来る。そこにある梅は昔ながらに咲いているが、あたりの様子は大分変った。在りし日のままに梅が咲いているという方を主とせず、跡の変化した方を描いたのが、この句の主眼であろう。
「伯父の跡」という言葉は、かつて伯父の住んでいた跡――屋敷跡と解せられぬこともない。その屋敷が人手に渡って、面目一変したという風に見ると、どうやらわれわれの周囲によくある現象のようになって来るが、強いてそういう変革を望むには当らぬ。先ず跡嗣の代になって家の様子が大分変った、という程度に見て置きたい。いずれにしてもこの作者が「伯父の跡」の変化を喜んでいないことだけは明である。

里坊さとぼうからうす聞クやむめの花    昌房

「里坊」は「山寺ノ僧ナドノ別ニ人里ニ構ヘ置ク住家」と『言海』に見えている。「里坊に児やおはしていかのぼり」という召波の句の里坊と同じものである。
 米でもいているのであろう、ずしりずしりという重い碓の音が里坊から聞えて来る、あたりに梅が咲いている、という即景を句にしたもので、里坊を持出して、特に趣向を凝したような跡は見えない。そこへ行くと召波の句は、里坊が非常に働いている代りに、多少斧鑿ふさくあとの存するをまぬがれぬ。
 上五字が「里坊に」となっているのもあるが、全体の意味は大差ないように思われる。「聞クや」という言葉も、殊更に聴耳を立てたわけでなく、「聞ゆ」というほどの意に解すべきである。

雨気つく畠の梅のよごれけり    鼠弾

 読んだ通りの句である。梅の花の白さはあまり鮮麗なものでないから、曇った日などは多少薄ぼんやりした感じを与えることがある。この句は雨催あめもよいの畠の中にある梅の花で、あるいはやや盛を過ぎているのかも知れない。花の色が汚れて見えるというのである。
 取立てていうほどの句でもないし、俳句としては珍しいこともないが、文人趣味、南画趣味でなしに、野趣横溢の梅を描いたのが面白い。画にするならば正に俳画の世界である。どんよりした空の下に汚れた色の梅が咲いているなどは、漢詩人も歌よみも恐らくは喜ばぬ趣であろう。自然を生命とする俳人の眼は、元禄の昔において悠々と如是にょぜの景を句中に取入れている。

鶯の障子にかげや軒づたひ    素覧そらん

 鶯が庭に来て、軒端のきばに近い木を彼方此方あちらこちらと飛び移っている、その影が障子にうつる、というのである。
 歌ならば「軒端木づたふ」というところであろう。俳句は字数が少いから、「軒づたひ」の五字で済してしまったが、鶯の性質から考えて、軒端の木から木へ飛び移りつつあることは疑を容れぬ。それだけなら平凡におわるべき景色を、障子にうつる影によって変化あらしめたのが作者の手際である。
 一杯に日の当った南軒の障子が目に浮んで来る。「軒端木づたふ」鶯の影は、その障子にはっきりうつるのである。障子のうちの作者は、影法師の動きだけで十分に鶯たることを鑑定し得るのであろうが、それだけではいささかきょくがない。一杯に日の当った南軒の障子に対しても、影の主はその嬌舌きょうぜつを弄する義務がある。

谷川やうぐひすないてはえ二寸    水札

 まだ谷の戸を出でぬ鶯がしきりに啼いている、谷川の鮠は已に二寸位になっている、という山間早春の景を叙したのである。「うぐひすないて」という中七字は、現在鶯が啼いていることを現すだけでなしに、もう鶯が啼くようになったという、季節の推移を現しているような気がする。
 鶯と二寸位の鮠との間には、格別交渉があるわけではない。早春の季節が谷川を舞台として、一見没交渉らしい両者を繋ぐ。そこに一種生々の気が感ぜられる。

寺の菜の喰のこされて咲にけり    亀洞

 寺の中に畠があって菜が作ってある。いずれ坊主どもの食用であろうが、その食い残りの菜にとうが立って花が咲いた、という風に解せられる。事実としては寺の畠の菜に花が咲いたというに過ぎぬが、それを坊主どもに食い残されたと見たのがこの句の眼目である。「喰のこされて」の一語によって、この菜は油を取る目的や何かで花を咲かせたものでないことがわかると同時に、花の分量がそう多くないことも想像出来る。
「春雨や食はれ残りの鴨が鳴く」という一茶の句がある。春まで池か沼にいる鴨に対して、人に捕られず、食われずに命をまっとうしたと見るのは、いささか持って廻った嫌があって、素直に受取りにくいが、畠の菜が食い残されて花が咲くという方は、句に現れた通り感じ得るように思う。それが寺の畠であるということも、場所に関する連想を補う効果があって、しかも不自然にわたる弊からは免れ得ている。奇抜という点からいえば、一茶に一籌いっちゅうせねばならぬけれども、食われ残りの鴨よりは、食い残されて春に逢う菜の花の方に真のあわれはあるのである。

染物をならべてかける柳かな    路健

 綺麗きれいな感じである。染物の色は何だかわからぬが、柳の緑に映発えいはつする鮮な色のような気がする。色彩を表面に現さないで、色彩が目に浮ぶから妙である。
「ならべ」という言葉は、柳に並んで染物を掛けたという風に解されぬこともないが、染物をいくつも並べて掛ける、即ち複数の場合と見る方が自然であろう。この十七字をじゅして、駘蕩たいとうたる春風をおもに感ぜぬ者は、ついに詩を解するの人ではない。

笠かけて笠のゆらるゝ柳かな    荻人

 この方は柳に掛けるものと見ていいようである。柳に近く茶屋の柱とでもいうべきものがあって、そこに笠を掛けたのでも差支ないが、特に柳の木から切離す必要もなさそうに思う。
 春風はおもむろに空を吹き、また柳を吹く。柳の枝のなびくにつれて、そこに掛けた笠も揺れるのである。笠を掛けていこう者は旅人であろう。場所を描かず、人を描かず、柳と笠とだけで一幅の画図を構成しているから面白い。
「笠かけて笠の……」という風に同語を繰返す句法は、後世にも好んで用いる人がある。見方によれば一種の技巧であるが、この句の場合の如きは極めて自然で、一向斧鑿ふさくあとは感ぜられぬ。

目ぐすりの看板かける柳かな    呂風

 ついでだからもう一つ同じような句を挙げて置こう。
 読んで字の如き市中の小景で、説明を要する点もないが、この句に至ると、染物の句ほど柳を離す必要もなし、笠の句ほど柳につける必要もない。配合趣味ともいうべきものが強くなっている。「目ぐすりの看板かけむ糸柳」となっている本もあるが、いずれにせよ店の前に柳の垂れた、長閑のどかな景色が目に浮ぶまでで、強いて柳と看板との関係を限定するにも及ばぬようである。
 この三句を併観すると、柳という一の季題に関し、期せずして同じところへ落込んだという風にも考えられる。しかしその落込んだ狭い領域の中で、三句三様の変化を示しているのを見れば、俳諧の天地は容易にきわまらぬという感じもする。俳諧の変化は毛色の変った句の中に求めるよりも、こういう近似した句の中に求めた方が、かえってよく会得出来るのかも知れない。

春雨や音こゝろよき板庇いたびさし    蘆角

 雨に古今の変りはないが、これを受けるものには変りがある。この句は板庇に当る雨の音を快しと聞いたので、従ってこれは音もなく煙るような春雨でない、もっと強い降り方の場合と思われる。
 香取秀真氏が大学病院で詠まれた歌に「風の音あめのしづくの音聞かむ板葺いたぶきやねを恋ひおもふかな」というのがあった。これは「雨ふれど音の聞えず、しぶきのみ露とぞ置く」コンクリート建築に慊焉けんえんたる結果、さわやかな雨の音におもいせられたものであろう。板庇にそそぐ雨の音をずることは同じであっても、茅葺かやぶき屋根に居住する人の心持と、トタン葺に馴れた人の心持とでは、その間に多大の逕庭けいていあるを免れまい。この句の眼目は春雨の音を主にした点にある。閑居徒然の耳を爽にする春雨は、相当降りの強い場合でなければならず、これを受けるのも板葺でなければならぬ。トタンでは爽を通り越して、少々やかましいうらみがある。

白鷺の雨にくれゆく柳かな    諷竹

 柳に鷺の配合は、日の出に鶴ほどではないかも知れぬが、画材としてはすこぶる陳腐なものである。それに雨を添えただけでは、まだ格別のこともない。ただ「くれゆく」という時間的経過が加わるに及んで、やや陳套を脱すると同時に、絵画の現し得る以外のものを取入れたことになる。
 柳の上にじっとしている鷺は、下の水にいる魚でも狙っているのであろうか、先刻から少しも動かぬ。霏々ひひたる雨のやまぬ中に、水辺の空気はおもむろに暮れかけて来た。白い塊のような鷺の姿も、影のような柳の木も、一つになって夕闇の中に見えなくなろうとしている。――こう解して来ると、見慣れた常套的画景の外に、何らか新なものが感ぜられる。作者が脳裏に組立てた景色でなく、実感より得来ったためであろう。

花の雨鯛に塩するゆふべかな    仙化

 これだけのことである。到来の鯛でもあるか、それに塩をふって置く。こういう事実と、花の雨との間にどういう繁りがあるかといえば、こまかに説明することは困難だけれども、そこに或微妙なものが動いている。その微妙なものを感ずるか、感ぜぬかで、この句に対する興味はわかれるのである。
 花の雨ということに拘泥して、花見のりょうに用意した鯛が、雨のためにむだになったのを、夕方になってから塩をふるという風に解すると、誰にもわかりやすいかも知れぬが、それでは一句が索然たるものになってしまう。この句の眼目は、鯛に塩をふるということと、花の雨との調和にあるのだから、どうして鯛に塩をふらなければならなくなったか、という径路や順序について、そう研究したり闡明せんめいしたりする必要はない。そんなことが何処どこが面白いかというような人は、むしろ最初からこの句に対する味覚を欠いているのである。この作者が都会俳人であることは、贅するまでもあるまい。

灸居てみる山近しはつ桜    吾仲

「灸居て」は「スエテ」である。きゅうをすえながら山を見るというのか、灸をすえてから山を見るというのか、その辺は俳句の叙法の常で判然しないが、とにかくしかして見た山のに初桜を認めた、という句意らしく思われる。
 その山は近くにある。従ってその桜も霞か雲かと見まがうようなものではない。初桜というものは花の量の乏しいことを現すと同時に、季節においてやや早いというところをふまえている。そこに灸をすえるために脱いだ肌の寒さというようなものが感ぜられて来る。初桜と灸との間には、それ以外に何の因縁いんねんもなさそうである。

菜の花のふかみ見するや風移り    路健

 一面の菜の花に風が吹渡る。そう強い風ではないが、花から花へと風の移って行くのを見送ると、今更のように菜の花畑の広さ、奥行の深さというようなものが感ぜられる、という意味であろう。
 ちょっと変った句である。点景もなければ背景もない。ただ菜の花というものを――一本一輪の微でなしに、一面に咲いた菜の花を見つめたところに、この句の特色がある。

春雨の足もと細しみそさゝい    りんじょ

 春雨の中を餌でもあさっているのであろう、鷦鷯みそさざいがちょこちょこしている、その足もとを細しと見たのである。
 小鳥の中でも小さい鷦鷯の足もとが細いということは、格別特異な観察でもないが、作者は見た通り、感じた通りを句の中に持って来た。この場合、鷦鷯がどこにいるというようなことは問題にせず、細い足だけに注意を集中している。鳥よりもむしろ人間に近い感じがせぬでもない。そこに女流の作たる所以ゆえんがあるかと思う。

菜畠にやぶの曇りや雉子きじの声    風国

 菜畠の向うにどんより曇った日の藪が見える、というのがこの句の背景で、そういうしずかな舞台の空気を破って、突然鋭い雉子の声がした、というのである。古風ないい方をすれば、静中動ありとか何とかいうことになるのかも知れない。
 この菜畠は花が咲いていてもよし、春をよそにした青菜畠であっても差支ない。要するに雉子が登場するまでの背景をつとめれば足るのだから、画家の手心で一面の緑にしても、少々黄色をなすっても、そこは深く問うに当らぬであろう。

棚解てよごるゝ藤の長さかな    探志

 何かの必要があって藤棚ふじだなの竹を解いたので、そこに下っていた藤の長房が地に垂れて、花の末を汚した、という意味であろう。藤棚の藤を句にする場合、その棚の竹を解く光景などは、容易に頭に浮ぶものでないから、こういう実景に逢著して詠んだものに相違ない。
 藤の花はそう寿命の短いものでもないにせよ、棚の修理でもするなら、花が過ぎてからにしてもよさそうな気がする。何か事情があったものと思うが、作者はそんなことは穿鑿せんさくしない。
 ただ眼前に棚を解いたため、藤の花房が垂れて地に汚れている、という事実だけを捉えている。棚を外された藤などはたしかに変った眺であり、そこにまた一種の趣も存する。

早梅や奥で機織はたおり長屋門    吏明

 もうだんだん少くなってしまったが、それでも古い屋敷などで長屋門を存しているところが、東京にもいくつかある。門の両側が長屋になって、人の住むように出来ている、いかめしいといえばいかめしいが、現代の邸宅にはちょっと縁の遠い門である。
 この句の早梅の花は、長屋門のどこに咲いているかわからない。門のほとりに咲いているとしないでも、長屋門のある屋敷の中なり、あるいは近所なり、とにかく背景的に存在すればいいのである。その長屋門の奥で機を織っている――目に見えるのでなしに、音が聞える方だろうと思うが、それがこの句の眼目になっている。早梅の花と、長屋門の奥に聞える機の音とが、季節的に或調和を得ていることはいうまでもない。

鶯やついとのぞいてついとゆく    白雪

 鶯が庭先か何かにやって来て、ちょっと覗くようにしていたかと思うと、そのままついと行ってしまった。相手が鶯である以上、見つけた者はそのくことを期待する。鶯に取っては迷惑かも知れぬが、人間の方で勝手にそうきめている。しかし人間のために啼かなければならぬ理由はないから、鶯は啼きたくなければ構わず澄して行ってしまう。その期待外れのようなところを詠んだのである。
 作者はこの句に「鳴はせで」という前書をつけた。前書があれば一層はっきりはするけれども、「ついと覗てついとゆく」といえば、その鶯が御誂おあつらえ通り啼かぬことは言外に含まれている。「鳴はせで」と断るのは蛇足である。今の人はあまりこういう前書をつけないが、昔はしばしば前書によって句意を補うという方法を取った。それだけ世の中がのんびりしていたのであろう。

梅さぶしあかりもきえず朝餉    素覧

 この句にも「寒梅」という前書がある。特に寒梅と断らずとも、「梅さぶし」の語がこれを現しているように思うが、あるいは春立つ以前の――冬の梅という意味で、特にこの前書を置いたのかも知れぬ。
 朝餉は「アサガレイ」である。宮中の場合に特に用いられることもあるが、この句はそういう特別なものではあるまい。早朝の膳に向って食事をする。この「灯」は何の灯かわからぬが、前夜来の灯でなしに、暁の暗いためにともしたものらしく思われる。寒梅のほのかに薫る早朝に、そういう灯の消えぬ下で膳に向うという、何となく引緊った感じの句である。その感じを主にすれば、必ずしも如何なる家であるかを穿鑿する必要はない。

種まきや当字あてじだらけの※(「代/巾」、第4水準2-8-82)かみぶくろ    左岡

 種をこうとして去年しまって置いた袋を取出す。その袋には種の名か何かが書いてある。いずれ農家の事であろうから、本当の名前を知っているわけではない。いい加減な当字ばかり書いてある。滑稽というほどでもないが、ちょっと微笑を誘うようなところがある。
 昔は教育が普及していなかったから、余計そういう傾があったろうと思うが、現代といえどもこの種の当字は絶無ではあるまい。専門語の中には、仲間だけに通用する特殊な当字があるかも知れぬ。

山やくや舟の片帆の片あかり    水颯

 湖か、川か、あるいは海に近い山を焼く場合であるか、とにかく春になって山焼をする。その火の明りが水にうつり、またそこを行く舟の片帆にうつる、という西洋画にでもありそうな景色である。
 一茶に「山焼の明りに下る夜舟の火」という句がある。『七番日記』には「夜舟かな」となっているが、その方がかえっていいかも知れない。山焼の明りが火である上に、更に火を点ずるのは、句として働きがないからである。片帆に片明りするのはるかに印象的なるにかぬ。山焼と舟というやや変った配合も、元禄の作家が早く先鞭を著けていたことになる。

江戸留守の枕刀やおぼろ月    朱拙しゅせつ

 主人が江戸に出ている場合であろう。留守の心細さに枕許まくらもとに刀を置いて寝る。折からの朧月夜であるが、何となく寂しい留守の状態を詠んだものであろう。
 天明期の作者は、しばしばこういう複雑した場合を題材に採る。しかし元禄期の作者も、全然興味がなかったのでないことは、この句のみならず、「江戸留守」を詠んだ句が散見するによって証し得られる。

江戸留守やたけのこはえて納戸口なんどぐち    露竹
江戸留守を見込で鳴やかんこ鳥    宵月
江戸留守を嫁々の岡見ぞをかしけれ    涓流

 江戸留守を題材にした点は同じであるが、一句の働きにおいては朱拙の朧月をはじめに推さなければなるまい。
 蕪村の「枕上秋の夜を守る刀かな」という句は、長き夜の或場合を捉えたものである。この句も或朧月夜を詠んだに相違ないが、江戸留守という事実を背景としているために、もっと味が複雑になっている。朧月というものは必ず艶な趣に調和するとは限らない。こういう留守居人の寂しい心持にもまた調和するのである。

踏なほす新木あらきの弓やはるの雨    孟遠もうえん

 弓に関する知識は皆無に近いから、頗るおぼつかないけれども、新木でこしらえた弓は狂いやすいというようなことがあるのであろう。春雨に降りこめられたつれづれに、その弓を足で踏んで狂いをめようとする、という意味ではないかと思われる。あるいは新木で拵えた弓であるために、雨降の時には狂いを生ずるというようなことがあるのかも知れぬ。
 弓から「はる」ということを持出したので、「はるの雨」は「張る」にかけたのだ、というような解釈を下す人があっても、それは取らない。そういう解釈を妥当とするには、元禄より更に前にさかのぼらなければならぬ。後世蕪村等の用いた縁語といえども、勿論これとは趣を異にする。ただこのままの句と見るべきである。

魚懸にあたまばかりや春の雨    朱拙

 西鶴の『永代蔵』であったか、『胸算用むねさんよう』であったか、台所に魚懸さかなかけというものがあり、年末にぶりでも懸けてあるのを見て、出入の者がもう春の御支度も出来ましたという条があったと記憶する。この句はそういう魚懸の魚をだんだん食べてしまって、頭だけが残っているというのである。春の用意に懸けた魚が、春雨頃に頭だけになるのは自然の数であろう。
 魚懸は現在のわれわれには縁が遠い。われわれが台所にぶら下っていたのを知っているのは、塩引の鮭位のものである。「塩鮭の頭ばかりや……」といえば、今の人には通じいいかも知れない。だんだんに食べて頭ばかりになった魚と春雨との間には、趣としても相通うものがある。

雉子啼や蔵のあちらの蜜柑畑    桃先

 田舎の屋敷内などであろう。母家を離れたところに土蔵があって、その向うはずっと蜜柑畑になっている。雉子はその辺まで来て啼くとも解せられるし、蔵の向うに蜜柑畑の見えるような場所で、けんけんと啼く雉子の声を聞いたということにしても構わない。
 雉子の声の背景としては、これまでも随分いろいろな世界を挙げて来たが、「蔵のあちらの蜜柑畑」は正に一幅の画図である。ここに雉子の声を点じて、画以上にすべてを生動せしめた。雉子の啼く頃では、蜜柑は枝頭にあかい玉をとどめていないかも知れぬが、土蔵の先に一面の蜜柑畑が展開しさえすれば、果の有無の如きは深く問うに及ばぬであろう。

山焼て峯の松見る曇かな    魚口

 この句において多少の疑問があるのは、「山焼て」という言葉にかかる時間である。山を焼いて然る後、どの位の時間を経ているか、それによってこの句の味は異らなければならぬ。
 山焼の済んだ後の峯に、何本かの松がそびえている、焼かれてややあらわになった山の頂の松が、曇った空に高く見える、という風にも解釈出来る。
 もう一つは現在なお山を焼きつつある場合で、煙はそこら一面に流れている、峯頭の松もその煙のために曇って見えるか、あるいは実際曇った空に聳えているか、とにかく山焼が現に行われているものと解するのである。
「山焼て」という言葉は、本来はっきりした時間を現していないから、何方どちらにも解し得ると思うが、再案するに「峯の松見る曇かな」という十二字には、しずかに落著いた空気が含まれているので、現に火が燃えている――山を焼きつつあるものとすると、感じの上においてそぐわぬところがある。やはり山を焼いてから多少の時間を経過したものと見るべきであろう。

にくまれてたはれありくや尾切猫    蘆本ろほん

 猫の恋をんだ句は、比較的漠然たる趣のものが多く、猫そのものの様子なり、動作なりを現したものはむしろ少い。この句はその少い方に属する一である。
 春の季題に猫の恋を取入れたのは誰か知らないが、恋猫というものはそれほど雅趣に富んでいるとも思われぬ。家を外に浮れ歩くあの様子は、平生猫に好意を持っている人にすら、うとむとか、憎むとかいう心持を起させやすい。そういう猫の中に尾を短く切られたのが一匹おって、日夜狂奔しつつある。その様子を皆が見て憎らしいというが、猫はそんな世評には頓著せず、相変らず家を外に狂い歩いている、というのである。
 猫を飼う趣味にもいろいろあって、必ずしも同一標準に立つわけではないけれども、尾の長い方が見た恰好かっこうもいいし、可愛らしくもある。この猫が人に憎まれるのは、尾の短いことも一理由になっているかもわからぬが、作者はそれを正面に置いてはいない。「にくまれて」はどこまでも「たはれありく」様子にかかるので、その猫は尾が切られていて短い、という特徴を描いたまでのものであろう。
「恋ひ負けて去りぎはの一目尾たれ猫 より江」という句は、さすがに近代の産物だけあって、猫の様子なり、動作なりについて更にこまかい観察を試みているが、「尾たれ猫」の一語は特に画竜点睛の妙がある。蘆本の句は観察の精粗においてもとより同日の談ではない。ただしこの句の眼目は畢竟ひっきょう「尾切猫」の一語にある。この一語がなかったら、尋常一様の漠然たる恋猫の句になってしまったに相違ない。

昼からは茶屋が素湯さゆ売桜かな    ※(「僕のつくり」、第4水準2-86-28)ぼくげん

 これはどういう場所であるか、桜があって、茶屋があって、人が見に来るようなところらしいが、それ以上の想像は困難である。あるいは不必要かも知れぬ。
 特に「昼からは」と断ったのは、午前は何もないが、午後からは……という意味に解せられる。午前はあまり人が来ないのか、茶屋が開業しないのか、それもわからない。
 反対に人があまり来過ぎるので、午後からは茶屋が茶でなしに素湯を飲ませている、という意味に解すると、素湯だから冷たくはないにしても、いささか冷遇の意味になって来る。「昼からは」という以上、午前と午後とで何か異る事情がなければならぬ。その事情は大づかみに見て、消極、積極の二通りになるが、いよいよとなると断定は下しにくいように思う。

羽子板はごいたの箔にうけたり春の雪    吾仲

 美しい句である。
 春降る雪の冬の雪と感じの違うところはいくらもあるが、要するに季節を過ぎているだけに、何となく一種のゆとりを生じており、雪片が大きいながらふわふわと降って来る趣なども、この感じをおおいに助けている。この句はその趣を捉えたもののように思われる。
 箔を置いた羽子板をさしのべて、春の雪片を受けて見る。深窓に育つ羽子板の持主の嫣然えんぜんたる趣を連想すれば更に美しい。「ロシヤ更紗サラサの毛蒲団を、そっとぬけでてつむ雪を、銀のかざしでさしてみる、お染の髪の牡丹雪ぼたんゆき」という夢二氏の童謡を昔読んだことがあるが、どこかそれと共通する浮世絵趣味に似たものが感ぜられぬでもない。しかしそれは固より連想、余情の範囲で、句の表に現れたものは、春の雪の降る中にさしのべた、美しい羽子板だけである。
「箔にうけたり」という言葉を、箔を置いた羽子板と取らずに、春の雪を受けて羽子板の箔とした――雪片そのものを箔と見る――という意味に解すると、多少技巧的な句になる。われわれはやはり箔ある羽子板をさしのべた、美しい句としてこれを見たい。

たずねよる門やしまりて梅の花    野紅

 この訪問者と居住者との関係はわからない。門前を通りかかったから寄って見るというような漫然たる訪問でないことだけはたしかである。
 折角たずねて来た門がしまっている。近頃は門がしまっていても、必ず不在だとはきまらない。ベルを押して、取次が出て来てからでも、真の在否のわからぬ手合てあいさえある。作者はこの場合「門やしまりて」の一語によって、門がしまっているということだけでなく、主の不在であることをも現している。「九日駆馳くちシテ一日閑ナリ。尋ネテ又空シク。怪詩思清ウスルヲ人骨。門寒流」というような趣であるとすれば、梅花に門を鎖した主は隠者らしくなって来るが、この句はそこまではっきり描いていない。門のしまっているために得た失望の感を、「尋よる」の一語に含ませているに過ぎぬ。

白梅の月をさゝげて寒さかな    りん女

 明治の末に「寒月照梅花」という勅題が仰出おおせいだされた時、誰かがいろいろ古歌の例を引いたものを見たら、月に梅を配したものはあっても、寒月という感じのものは少かった。当時詠進の歌には、何かの景物によって寒さを現したものが多かったように記憶する。歌では「寒月や」という風の言葉が使いにくいため、自然配合物の力をることになるのであろう。
 この句は春になってからの句かも知れぬが、寒さが主になっているので、「寒月照梅花」の意にもかなうかと思う。皎々こうこうたる月の光の下に、白い梅の花が咲いているという、見るからに寒い感じの句である。月下の梅ということをいわずに、「月をさゝげて」といったのは、月が中天にかかっていることを現すためもあるが、そこに作者の技巧らしいものが見えて、そういい句だというわけではない。ただ同じ作者の句に「白梅の月をおさゆる寒さかな」というのがあり、彼これ対照すれば、やはり「さゝげて」の方が優っている。「おさゆる」では作者の技巧的主観が強くなって、自然の趣を損ずることが多いからである。

炉ふさぎや上へあがりてふんでみる    朱拙

 久しい間の炉をふさいで蓋をする。一冬を頼みにして来ただけに、いよいよ塞いでしまう段になると、うら寂しい感じもするが、同時にその辺が綺麗になって、さっぱり片付くところもある。作者はそういう気分の下に、今塞いだばかりの炉を上から踏んで見たのであろう。
「上へあがりて」というと、何だか高いものの上に上ったように聞えるが、実際は炉を塞いだ畳の上を踏むに過ぎまいと思う。今まで明いていたところを急に塞いだので、そのたしかさを踏み試みるという風にも解せられる。実際は年々歳々塞ぐことを繰返し、その度にこうやって踏んで見るのかも知れない。もし難をいえば、「上」ということよりも「あがりて」の方にありそうである。

桃さくや古き萱屋かややの雨いきれ    四睡

 桃の咲く時分になって、春の暖気はにわかに加わり、降る雨にも万物を悉く蒸し返らすような力を生じて来る。この句はそういう雨にれた、古い萱屋根の家を描いたのである。
 瓦屋根やトタン屋根では、到底こういう感じは起らない。萱屋根にしても、新にかれたばかりの家だったら、やはり感じが異るかも知れぬ。多くの歳月を経て真黒に古びた萱屋根が、折からの雨に濡れて、ムーッといきれたようになっている。このいきれた空気の中に、屋根草は芽を吹き、もろもろの虫の卵はかえり、天地の春を形づくるのであろう。野趣といっただけではまだ尽さぬ、多くの詩歌の看過する春のいぶきを、俳人は容易に捉え得た。この蒸れるような雨の感じに調和するものは、他の何の花よりも桃でなければなるまい。
 あるいはこの句は現在雨が降っている場合でなしに、雨がやんだばかりに日がさして、水蒸気が一面に立騰たちのぼるというような光景でもいいかと思う。春らしい実感を十分に盛り得た点で、異色ある桃の句というべきである。

はるの月またばや池にうつる迄    諷竹

猿沢さるさわ辺に円居まどいして」という前書がついているから、この句の場所は明瞭である。もうほどなく春の月が出る。それが少し高く上れば、猿沢の池の面にうつるようになる。それまで待とう、待って池にうつる春の月を見よう、という句意らしい。
 もう十年近くも前になるか、奈良に遊んで一宿したことがある。当時は燈火管制も何もなかったが、春の夜の町へ散歩に出るのに、驚いたのは道の暗いことであった。元禄時代の奈良は更に暗かったであろう。作者はどんなところに円居しているのかわからぬが、日が暮れてから電車で京都や大阪へ帰り得る時代でないから、月を待ってどうしようというのでもあるまい。猿沢の池にうつるまで、月の上るのを待って、その眺をはやそうというに過ぎまいと思う。
 奈良の月はすぐに「春日なる三笠の山を出でし月」を連想せしめるが、作者はそういう伝統に捉われず、猿沢の春月という新な配合を見出し、更に「池にうつる迄」という興味を点じた。「はるの月またばや池にうつる迄」と繰返し誦して見ると、のんびりした昔の春の心持が、我身に近く感ぜられて来る。

我のせよ御形おぎょう咲野のはだか馬    祐甫

 御形の花の咲いた野に裸馬が放し飼になっている。あの馬に乗ってこの野を乗廻して見たい、おれを乗せてくれぬか、といったのである。「我のせよ」は単なる願望の意で、もし強いて対象を求めれば、その裸馬に対して述べたことになる。
 御形はハハコグサである。この作者の感興の背景をなすものとしては、ハハコグサは少し寂しい。五形と書くゲンゲの方なら、一望の野を美しくするかと思うが、作者が御形と書いている以上、やはりハハコグサのながめと解してむべきであろう。

陽炎かげろうや身を干海士あま日向ひなたぼこ    朱拙

 岩の上か、砂浜か、場所はわからぬ。今しがた海から上ったばかりの海士が、身体を乾かしながら日向ぼっこをしている。そのほとりから陽炎がゆらゆら立のぼる、という海岸の一小景である。
「身を干」という言葉がこの句の眼目であろう。この一語によって、単に日向にいるというだけでなしに、海から上ったばかりの海士ということもわかれば、風もない海辺の日和ひよりの暖さも自ら連想に浮んで来る。
 現在の歳時記では「日向ぼこ」は冬と定められているが、必ずしもそう限定するには及ぶまい。身体を乾かしながらの「日向ぼこ」には、冬よりも春の方が適切であろう。ゆらゆらと立つ陽炎は、この光景を一層効果あらしめているような気がする。

乳呑子ちのみごの耳の早さや雉子の声    りん女

 この句の舞台に登場する者は、乳を含ませている母親と、乳を飲みつつある幼児とだけである。しずかな春の日中であろう、どこかで鋭い雉子の声がする、というので、その空気は一応描かれたことになるが、「耳の早さや」という中七字は、考えようによっていろいろに解釈出来る。
 主要な登場人物の一人である乳呑子が、いち早く雉子の声を聞きつけたという点に変りはないが、ただ聞耳を立てたというだけか、あれは何の声だといって尋ねたのか、あるいは已に雉子の声の何者たるかを知っていて聞きつけたのか、そこは俄に断じがたい。乳呑子のことだから気がつくまいと思ったのに、いち早く聞きつけたというのか、母親がうっかりしているうちに、乳呑子の方が聞きつけたというのか、その点も解釈が二、三になりそうである。
 けれどもここではっきりしているのは、母親の乳を含みつつある幼児の小さい耳が、いち早く雉子の声を聞きつけたということと、その耳の早さを先ず感じた者が母親だということである。女性たる作者がその母親であることも、ほぼ推定し得る。一句の眼目たる事実が動かぬ以上、その他の小さい連想は、各自の感ずるところに従って差支あるまいと思う。

夜の明ぬ松伐倒きりたおすさくらかな    陽和

 山中の景色であろうかと想像する。
 まだ夜の明けぬうちにそまがやって来て、そこにある松の木を伐り倒す。巨幹は地ひびきして倒れると、またもとの静寂にかえる。あたりには桜がたわわの花をつけている、というような光景を描いたものらしい。
 この場合の松と桜は、ただ近くにあるというだけで、深い因縁や交渉があるわけではない。「花の外には松ばかり」という山中自然の配合であろう。未明の天地に木を伐るという一の活動が起って、間もなく松は伐倒される。その背景として爛漫たる桜を描いたというよりも、桜の背景の前にこういう活動が行われたものと解すべきである。
 人の姿を点出せずに、ただ松と桜のみを描いたのは、如何にも未明伐木の光景にふさわしい。伐られる松と、しずかに咲いている桜とを対照的に扱って、とかくの弁を費すが如きは、そもそも無用の沙汰であろう。
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湯殿ゆどの出る若葉の上の月夜かな    李千

 爽快そうかいな句である。湯上りの若葉月夜などは、考えただけでもいい気持がする。湯から上ったあとは何時でも悪いことはないが、一脈のものうさを伴っている春の夜よりも、汗を流すのを第一とする夏の夜よりも、はっきりした空気の中に多少の冷かさを含んでいる若葉時分の夜が、爽快な点では最もまさっているであろう。湯殿を出た人はそのまま庭に立って、若葉に照る月のさやかな光を仰いでいるのである。時刻を限る必要もないけれども、あまり夜のけぬうちの方がよさそうに思う。
 この句は中七字が「青葉の上の」となっている本がある。若葉にしても青葉にしても、爽快な点に変りはない。その方には作者が「里仙」となっているが、恐らく同人であろう。珍碩――珍夕、曲翠――曲水その他、同音別字を用いた例はいくらもあるからである。

病後
たけのこときほひ出ばや衣がへ    吾仲

 病がようよえて衣をえる場合であろう。その恢復に向う力に対して、土をぬきんずる笋の勢を持って来たのである。現在それほど元気になったというわけではない。笋の勢にならおうというので、なお病後の弱々しい影の去りやらぬことは、前書および「出ばや」という言葉に現れている。病後の更衣はその後にもしばしば見る趣向であるが、これは主観的に笋を扱って、恢復に向う力を描いたところに、元禄の句らしい特色がある。
 子規居士にも「病中」の前書で「人は皆衣など更へて来りけり」という句があった。癒ゆべからざる長病のとこにあって、更衣の圏外に置かれた居士の気持は、この句を誦する者に或うらさびしさを感ぜしめずには置かぬであろう。笋と共にきおい出でむとする病者は、癒ゆべき日を眼前に控えているだけに、一句の底に明るい力が籠っているように思われる。

山ごしに顔は見えけりのぼりの画    峯雪

 一目瞭然、説明するまでもない句であるが、幟の顔ということは、近頃の人にはちょっとわかりにくいかも知れぬ。子規居士が「定紋じょうもんを染め鍾馗しょうきを画きたる幟は吾等のかすかなる記憶に残りて、今は最も俗なる鯉幟のみ風の空に飜りぬ」といって歎息したのは、已に四十余年の昔だから、今の東京に鯉幟が幅をかしているのも、勿論やむをえぬ次第である。
 この句の働きは「山ごしに」という上五字にある。大した山でないと同時に、そう遠距離でないことは、「顔は見えけり」という言葉から想像出来る。この顔は幟に画いた鐘馗か何かの顔である。「幟の画」とある以上、如何に鯉幟が天下を風靡ふうびしたところで、鯉の顔と解釈されるおそれはなさそうに思うが、念のために蛇足的説明を加えることにした。

定紋の下に鬼かく幟かな    秋冬

などという句も、鯉にあらざる幟の様子を最もよく現している。とかくの説明にも及ばぬが、前の句の参老資料たるだけの価値は十分にあると思う。

長竿にの武者絵や帋幟かみのぼり    ※(「さんずい+(吝−口)」、第3水準1-86-53)ぶんそん

 この幟も同類である。長い竿の幟が立ててあるが、その幟は布でなしに紙で、しかもその絵が肉筆でない。版でってあるという。(板の字のわきに棒が引いてあるから、これはハンと音で読むのである)いずれ簡略なものであろう。その絵が武者絵であることも、この句は明にしてある。
 絵の幟の句があまり見当らぬ中にあって、紙に板画で武者絵を刷ったことまで描いたのは、慥に珍とするに足る。あるいは作者も珍しいと思って、特に一句にまとめて置いたのかも知れぬ。

五日
旅なれや菖蒲しょうぶふかず笠の軒    鶴声

 端午たんごの句である。こういう年中行事に対する古人の心持は、自ら今人と異るものがある。今日でも全く人の意識から離れ去ったわけではないけれども、各自これを守る心づかいに至っては、多大の軒輊けんちを免れぬ。王維が九日山東の兄弟をおもうの詩「独リテ異郷異客。毎佳節ますますしん。遥カニ兄弟けいていキニ処。遍シテ茱萸しゅゆカン一人いちにん」の如きも、単に家郷の兄弟を懐うだけでなく、こういう年中行事の中に洩れた自分を顧るところに、自ら微妙な味が籠っている。これは時代も古いし、そういう懐郷の情を正面から詠じたのであるが、一歩俳諧の世界に踏入って

旅中佳節
馬の背の高きに登り蕎麦そばの花    移竹
雨中九日病起
試みに下駄の高きに登りけり    銕僧

というような句を見ると、そこに或転化のあとが目につく。移竹の句の登高は本当の登高ではない。重陽ちょうようの日も旅にあって馬にまたがりつつあることを、「馬の背の高きに登り」と登高に擬して興じたのである。銕僧の句も重陽ではあるが、雨が降っているし、病起の状態でもあるので、高きに登ることなどは出来ない。そこで単に下駄を穿いて見たまでのことを、「試みに下駄の高きに登りけり」と誇張していったのである。この二句は元禄期の作ではないけれども、俳諧の一特色たる転化の傾向を見るべきもので、正面からいうのと違ったおかしみを伴っている。鶴声の菖蒲葺の句もやはりこの種類に属する。旅中端午の節句に逢って家郷を想うに当り、たちまち例の転化を試みて、現在自分がかぶっている笠を持出したのである。即ち旅にあって端午の菖蒲も葺かずにいるということから、笠の端を軒端に見立てて、そこに菖蒲を葺かぬということを以て一句の趣向にしたので、それが「馬の背の高き」に登ったり、「試みに下駄の高きに」登ったりするほど明快に片づかないのは、元禄調と天明調との相違によるのかも知れない。格別すぐれた句ではないが、一種の句として観る価値はありそうである。

薄紙にひかりをもらす牡丹かな    急候

 子規居士の『牡丹句録』の中に「薄様に花包みある牡丹かな」という句があった。これも同じような場合の句であろう。「ひかり」というのは赫奕かくえきたる牡丹の形容で、同じく子規居士に「一輪の牡丹かゞやく病間かな」という句があり、また「いたつきに病みふせるわが枕辺に牡丹の花のい照りかゞやく」「くれなゐの光をはなつから草の牡丹の花は花のおほぎみ」などという歌もある。牡丹に「ひかり」という強い形容詞を用いたのは、この時代の句として注目に値するけれども、薄紙を隔てて「ひかりをもらす」などは頗る弱い言葉で、豊麗なる牡丹の姿に適せぬうらみがないでもない。「い照りかゞやく」にしろ、「光をはなつ」にしろ、その形容の積極的に強い点からいえば、遥にこの句にまさっている。
 もっともこういう言葉の側からいうと、元禄の句がやや力の乏しいのは、必ずしもこの句に限ったわけではない。牡丹に雨雲を配した

雨雲のしばらくさます牡丹かな    白獅
方百里雨雲よせぬ牡丹かな    蕪村
雨雲の下りてはつゝむ牡丹かな    虚子

の三句について見ても、言葉は蕪村の「方百里」が一番強い。しかして曲折の点からいえば、元禄の句はついに大正にかぬような気がする。けだし長所のここに存せぬためであろう。

美しき人の帯せぬ牡丹かな    四睡

 ちょっと見ると、牡丹の咲いている側に、美人が帯をしめずに立っているかの如く解せられるが、実際はそうでなしに、牡丹そのものを帯せざる美人に見立てたものと思われる。牡丹の妖艶嬌冶きょうやの態は単に「美しき人」だけでは十分に現れない。「帯せぬ」の一語あって、はじめてこれを心裏に髣髴ほうふつし得るのである。
 こういう句法は今の人たちには多少耳遠い感じがするかも知れないが、この場合強いて目前の景色にしようとして、帯せぬ美人をそこに立たせたりしたら、牡丹の趣は減殺げんさいされるにきまっている。句を解するにはどうしてもその時代の心持を顧慮しなければならぬ。

捲あぐるすだれのさきやかきつばた    如行

『句兄弟』に「簾まけ雨に提来さげく杜若かきつばた」という其角の句がある。これは「雨の日や門提て行かきつばた」という信徳の句に対したので、単に燕子花かきつばたを提げて通るというだけの景色に、「簾まけ」の一語によって山を作ったのが、其角一流の手段なのであろう。
 如行のこの句には、其角のような山は見えない。縁先えんさきの簾を捲上げると、すぐそこに燕子花の咲いているのが見える、という眼前の趣を捉えたのである。簾を捲くと同時に、燕子花の色がぱっとあざやかに浮んで来るように感ずるのは、この句が自然なために相違ない。自然に得来ったものは、一見平凡のようでも棄て難いところがある。

ほとゝぎす栗の花ちるてら/\日    李千

 紛れもない昼のほととぎすである。ほととぎすの句というものは、習慣的に夜を主とするようになってしまったが、古句を点検して見ると、必ずしもそうではない。この句は「てら/\日」というのだから、相当日の照りつけている、明るい昼の世界である。

ほとゝぎすあみだが峯の真昼中    路通
郭公ほととぎす日高にとくや筒脚半    探志

などというのは、あきらかに昼の時間を現しているし、

幟出す雨の晴間や時鳥    許六きょろく
ほとゝぎす傘さして行森の雨    洒堂しゃどう

の如きも、やはり昼と解した方がよさそうに思われる。元禄人は伝統に拘泥せず、句境を自然に求めて随所にこの種の句を成したのであろう。
「ほとゝぎす」という言葉がその鳥を現すのみならず、直にそのく声までを意味するのは、活用の範囲が広きに失しはせぬかということを、鳴雪翁はいっておられた。しかしほととぎすは声を主とする鳥で、啼く場合殆ど姿を見せぬということも考えなければならず、その名詞が五音であるため、他の語を添える便宜に乏しいという消息も認めなければなるまい。ここに挙げたのはいずれも昼のほととぎすであるにかかわらず、一向句の表に姿を現していない。「栗の花ちるてら/\日」という明るい世界にあっても、ほととぎすは依然声を主として扱われているのである。

※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)餌袋えぶくろおもし五月雨さつきあめ    胡布

 ※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の餌袋は胸のところにある。かつて少しばかり※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)を飼った頃の経験によると、夕方※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)舎をしめる時などに、よくその餌袋に手を触れて、腹が十分であるかどうかをしらべたものであった。貪食な※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の餌袋が一杯砂でも詰めたように固くなっているのは常の事であるが、これは五月雨時なので、いささか運動が乏しく、特に餌袋の重きを感じたものかも知れない。
 この句の眼目は「おもし」の一語に尽きる。これによって客観的に※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の餌袋を重しと見るのみならず、何となく自分の事ででもあるかのような感じを与える。※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)に親しい生活の人でなければ、こういうことは捉えにくいだろうと思う。

味噌の香に蔵の戸前や五月雨    海人

 陰鬱な五月雨の空気の中に漂うわびしい香を見つけた――嗅ぎつけたのである。味噌は蔵の中にあるのであろう。じめじめした暗い五月雨と、プンと鼻に感ずる味噌の香とを脳裏に浮べ得る人ならば、この句の趣は説かずともこれを了するに相違ない。
 子規居士に「秋雨や糠味噌臭ふ仏の間」という句があったと記憶する。季節も違い、場所も違い、匂うものも違うけれども、嗅覚が捉えた句中の趣には、おのずから相通ずるものがある。

中わろき隣合せやかんこどり    一夫

「さびしさに堪へたる人の又もあれな」というような山里ででもあるか、閑古鳥が啼くといえば、自ら幽寂な境地を想像せしめる。しかもそこに住んでいる人は、隣合っていながら仲が悪い、という人間世界のやむをえざる事実を描いたものらしい。
 しかしわれわれがこの句を読んで感ずるところは、それだけの興味に尽きるわけではない。かつて『ホトトギス』の俳談会が

腹あしき隣同志の蚊遣かやりかな    蕪村
仲悪しく隣り住む家や秋の暮    虚子

という両句の比較を問題にしたことがあった。人事的葛藤を描く上から見ると、蕪村の句が最も力があり、活動してもいるようであるが、句の価値はしばらく第二として、自然の趣はかえってこの句にゆずるかと思う。こういう趣向の源もまた元禄に存することは、句を談ずる者の看過すべからざるところであろう。

とぶひかりよわげに蚊屋の蛍かな    鶴声

 蛍を蚊帳かやに放つという趣向は、早く西鶴が『一代男』の中で「夢見よかと入りて汗を悲む所へ、秋まで残る蛍を数包みて禿かぶろつかわし、蚊屋の内に飛ばして、水草の花桶入れて心の涼しき様なして、都の人の野とや見るらむといひ様に、寝懸姿ねかけすがたの美しく」云々と書いている。

蚊屋の内にほたる放してアヽ楽や    蕪村

という句は、その放胆な句法によって人に知られているが、蕪村は果して西鶴の文中から得来ったものかどうか。蚊帳に蛍を放つの一事が、それほど特別な事柄でないだけに、偶合と見る方が妥当であろう。「アヽ楽や」の句は一応人を驚かすに足るけれども、再三読むに及んでは、蚊帳の中を光弱げに飛ぶ元禄の蛍の方に心がかれて来る。このかんの消息は「自然」の一語を用いる外、適当な説明の方法もなさそうである。
 子規居士が「試問」として『ホトトギス』の読者に課した中に、「子は寝入り蛍は草に放ちけり」の句を批評せよ、という問題があった。この句は誰の作かわからぬけれども、その答と共に居士が掲げた文章によると、享保頃に

子を寝せてひまやる蚊帳の蛍かな    喜舌

という句があるらしい。居士は「子は寝入り」の趣向の古きものとしてこれを挙げたのであるが、更にさかのぼれば元禄に

ねいらせてうばがいなする蛍かな    たゝ女

という句がある。「試問」における居士の批評は、第一に句尾の「けり」を難じ、第二に「子は」「蛍は」と二つ重ねた句法を難じ、第三に「子は寝入り」といい放したことを難じ、「もし句調を捨てて極めて簡単にせば『子寝ねて蛍を放つ』とでもすべきか」といっている。「草に」の一語がこの場合、あまり働かぬ贅辞となっていることも自ら明である。
 享保の喜舌の句は、放つべき草をいわずに、今いる蚊帳を現した点が多少異っているけれども、「隙やる」の一語は何としても俗臭を免れない。元禄のたゝ女に至ると、寝入った子を主とせず、寝入らせた姥を主役にして、その姥が蛍を放つことになっている。これには草もなければ蚊帳もない。「ねいらせて」及「いなする」という言葉に厭味はあるが、「子寝ねて蛍を放つ」ということから見れば、この句が一番近いようである。こういう種類の句は、何時誰が作ったにしても、所詮俗を脱却し得ぬものであろう。ただこの趣向においてもまた、元禄の句が最も自然に近いとすれば、他の方面の事は推察に難くない。

すてゝある石臼薄し桐の華    鶴声

 農家の庭などの有様かと思う。桐の花の咲いているほとりに、使わない石臼が捨ててある。単に石臼が捨ててあるだけで満足せず、その石臼の薄いことを見遁みのがさなかったのは、この句のやや平凡を免れ得る所以ゆえんであろう。
 元禄時代に「すててんぶし」と称するうたがはやったことは、人の知るところであり、其角の『焦尾琴しょうびきん』には「棄字ノ吟」の題下に「すてゝある」の語を詠み込んだ句十七を列記してある。この鶴声の句は、それを引合に出すにも及ぶまいかと思うが、時代が同じだから、いささか念を入れて置くことにする。

若竹やきぬ踏洗ふいさゝ水    兀峰こつぼう

 ただ洗濯するといわず、「衣踏洗ふ」といったところに特色がある。場所ははっきりしないけれども、「いさゝ水」という言葉から考えると、井戸端や何かでなしに、ささやかな流の類であろう。その水に衣を浸して、足で踏んで洗いつつある。若竹の緑にさす日影も明るい上天気に違いない。ひなびた趣ではあるが、さわやかな感じのする句である。

芥子けしの花咲や傘ほす日の移り    烏水

 芥子の句は由来散るということに捉われやすい。越人の「散る時の心やすさよ芥子の花」などというのは、その代表的なものである。「芥子畑や友呼て来る蜂の荒 潘川」の如きは、そう著しく表面に現れていないが、それでも「蜂の荒」ということが、散りやすい芥子に対して或危惧を懐かしめる。他の花なら何でもないことでも、芥子の場合は散りやすさに結びつけられる点があるのであろう。
 然るに烏水のこの句にはそれが全くない。雨の後であろう、庭に傘が干してある、芥子もその辺に咲いている、という純客観の句である。「日の移り」という言葉は、文字通りに解すると、此方こちらから彼方あちらへ移動するもののように思われるが、映ずるという意味の「うつる」場合にも、昔はこの字を使っている例がある。今まで干傘にさしていた日が芥子に移ったと見るよりも、干傘に照る日が芥子にうつろうと見た方がよさそうな気がする。

なぜて見る石の暑さや星の影    除風

 暑さの句というものは赫々かくかくたる趣を捉えたのが多いが、これはまた一風変ったところに目をつけた。一日中照りつけられた石が、夜になってもほてりがさめきらずにいる。恐らく風も何もない晩で、空に見える星の影も、いずれかといえばぼうとしたような場合であろう。作者の描いたものは、僅に手に触れる石のほてりに過ぎぬようだけれども、夜に入ってもなおほてりのさめぬ石から、その夜全体の暑さが自然と思いやられるのである。
 鬼貫に「何と今日の暑さはと石の塵を吹く」という句があり、暑さを正面から描かず、塵を吹く人をして語らしめたのが一の趣向であるが、少しく趣向らしさに堕したうらみがある。除風の句の石は何であるかわからぬけれども、「撫て見る」という以上、小さな石でないことはいうまでもない。

供先ともさき兀山はげやまみゆるあつさかな    虎角

 支那、朝鮮あたりを旅行していた人が、内地に帰って第一に感ずるのは、山の緑のうるわしいことだという。兀山のながめ何時いつにしてもありがたいものではないが、炎天下の兀山に至っては、たしかに人を熱殺するに足るものがある。この句は大名などの行列を作って行く場合であろう。その供先に兀山が見える。そのあかい山肌には烈々たる驕陽きょうようが照りつけているに相違ない。これから進んでその兀山の下を通るのか、あるいはそれを越えなければならぬのか、そこまでは穿鑿するに及ばぬ。ただそこに見えているだけで、暑さの感じは十分だからである。
 蕪村の「日帰りの兀山越る暑さかな」という句は、時間的に長い点で知られているだけに、この句よりは大分複雑なものを持っている。一言にしていえば、この句より平面的でないということになるかも知れぬ。日帰りに兀山を越えなければならぬ暑さは、もとより格別であろうが、炎天下の行列の暑さも同情に値する。大勢の人が蹴立てて行く砂埃すなぼこりを想像しただけでも、何だかむせっぽい感じがして来る。

虫ぼしや掛物そよぐ笹の風    里揚

 虫干でいろいろな掛物がかけてある。その掛物に庭から風が吹いて来る。「曝書ばくしょ風強し赤本飛んで金平怒る」などというような、えらい風ではない。日中の笹もそれによってそよぎ、掛物もまたそよぐという静な風である。趣は平凡だけれども、自然なところが棄て難い。

虫干や葛籠つづら払へば包熨斗つつみのし    鶴声

 これとちょっと調子の似た句に「虫干や幕を振へば桜花 卜枝」というのがある。花見の時用いた幕の中に、桜が散り込んでいたと見えて、幕を振ったらその花びらが出て来たというのは、一種の浮世絵趣味で、綺麗な代りに巧に失する嫌がある。葛籠を払った中から包熨斗が出て来たのでは、画にはならぬかも知れないが、それだけ真実性が強い。われわれはこの真実性を尊重したいのである。

かういなものゝ書たき扇子せんすかな    秋冬

 説明するまでのこともない、つまらぬ句である。ただ正面から率直にいったところが、取得といえば取得であろう。句を作る者の通弊は、どうしても巧に流れる点にある。こういう稚拙な句を故意に作ろうとすると、大人が子供の字を真似したようになって面白くない。この句にしても「買や否」の上五字は、単なる初心者には置き得ぬところがある。

蚊屋釣ていれゝばほえる小猫かな    宇白

 水鳥がさえずるということはないといったら、いや『源氏物語』にあるといって例を挙げた話が、『花月草紙』に書いてあった。猫が吼るというのもざらにはない。例証を挙げる必要があれば、この句なども早速持出すべきものであろう。猫が不断と違ったような声を出すのを、「吼る」といったものではないかと思う。
 吉村冬彦よしむらふゆひこ氏がはじめて猫を飼った経験を書いた文章の中に、蚊帳のことが出て来る。この句を解する参考になりそうだから、左に引用する。
我家に来て以来一番猫の好奇心を誘発したものは恐らく蚊帳であったらしい。どういうものか蚊帳を見ると奇態に興奮するのであった。殊に内に人がいて自分が外にいる場合にそれが著しかった。背を高くそびやかし耳を伏せて恐ろしい相好そうごうをする。そして命掛けのような勢で飛びかかって来る。猫にとっては恐らく不可思議に柔かくて強靭な蚊帳の抵抗に全身を投げかける。蚊帳のすそは引きずられながらに袋になって猫のからだを包んでしまうのである。これが猫には不思議でなければならない。ともかくも普通のじゃれ方とはどうもちがう。余りに真剣なので少しすごいような気のする事もあった。従順な特性は消えてしまって、野獣の本性が余りに明白に表われるのである。
蚊帳自身かあるいは蚊帳越しに見える人影が、猫には何か恐ろしいものに見えるのかも知れない。あるいは蚊帳の中のあおずんだ光が、森の月光に獲物をもとめて歩いた遠い祖先の本能を呼び覚すのではあるまいか。もし色の違った色々の蚊帳があったら試験して見たいような気もした。
 われわれも猫を飼った経験はしばしばあるが、不幸にしてこういう観察を下す機会がなかった。猫と蚊帳についてこれだけ精細な観察を試みたものは、あるいは他に類がないかも知れない。宇白の句は僅に「吼る」の一語によって、猫の蚊帳に対する奇態な興奮を現したに過ぎぬが、とにかく観察のここに触れている点を異とすべきであろう。

しる人の見込て通る蚊やりかな    和丈

 門口を通る人が家の中をのぞいて通る。それは知った人で、家の中を覗いては行ったが、別に立寄もせずに通ってしまった。夏の晩で家の中には蚊遣かやりが焚いてある、という趣である。
 知人の店の前を通る時など、通りすがりに家の中を見込んで、在否を窺うようなことは現在のわれわれにもある。この句の場合は作者が家の中にいて、外を通る者の知人たることを認めているのだから、立場は反対になるわけであるが、中を見込んで通る知人の方は、やはりわれわれと同じく在否を窺うような心持なのではなかろうか。この句は町家の光景と解したい。

膳棚に鼠早渡る蚊やりかな    河菱

「早渡る」は「さわたる」と読むのであろう。灯火の暗い家の中には蚊遣の煙がみなぎっている、膳棚には鼠が伝い歩く、というわびしい感じの句である。「さわたる」という言葉は、鼠には少し上品な感じがせぬでもないが、ちょろちょろと伝う様子をよく現している。
 ちょっと見ると夜寒とか、夜長とかの方がふさわしいようにも思われる。しかし再按するにそれは机上句案の頭で、蚊遣の煙の籠った家の中に鼠の荒れている様子は、ついに如何ともし難い実感である。活字で読む場合の感じだけで是非するわけには行かない。

雨もりも天井ちかき紙帳しちょうかな    十丈

 紙帳というものは釣って寝た経験がないから、何ともいうことは出来ないが、この句から想像する紙帳の趣は、蚊帳より遥に侘しそうである。天井近い雨もりの跡なども、はっきり眼につくに相違ない。その雨もりの跡を仰ぎながら、紙帳の中に寝ている様子を考えると、甚だ憂鬱になって来る。実際紙帳に包まれて見たら、はじめて蚊帳にぶつかった猫のように、奇態な興奮を感ずるかも知れぬが、目下のところではにわかに経験して見たいとも思わない。

供舟ともぶねはまだ日のあたるすずみかな    花明

 まだ日の暮れぬうちに涼み舟に乗った場合である。自分の舟は比較的岸に近くおり、供舟はやや向うに漕出しているのであろうか、半ばかげった水の上に、供舟の人たちが夕日を浴びているのが見える。「供舟はまだ日のあたる」という言葉によって、その間に多少の距離のあることもわかり、水面も此方こちらはやや暗く、向うの方が明るい情景も眼に浮んで来る。納涼の本舞台はまだはじまらぬのであるが、晩涼の気は已に四辺に動きつつあることと思われる。
「供舟」の「供」は深く文字に拘泥せず、「友舟」と同程度に解して然るべきであろう。

涼風や障子にのこる指の穴    鶴声

「おさなき人の早世に申遣もうしつかわす」という前書がついている。この句について思い出すのは、小泉八雲が「小さな詩」の中に訳した「ミニシミルカゼヤシヤウジニユビノアト」という句である。この句の作者は誰か、八雲の俳句英訳に関する最も重要な助手であった大谷繞石おおたにじょうせき氏が、この句の下に(?)をつけているのを見ると(全集第六巻)あるいは出所不明なのかも知れない。ケーベル博士が日本の詩歌について語った中に
おお、「障子」のあなを通って来る風の寒いこと、私は硬くなる――これもお前の小さい指の仕業しわざだ!
とあるのは、何に拠ったものかわからぬが、やはりこの句を指したものであろう。
 身にむということは、俳句では秋の季になっている。「ミニシミル」の句は前書がないと意味が十分に受取りにくいけれども、八雲のいう通り、「死んだ子をいたんでいる母の悲みを意味している」ことは想像出来る。障子の「軟かい紙へ指を突込んで破るのを子供は面白がる。すれば風がその穴から吹き込む。この場合、風は実に寒く――その母の心の底へ――吹き込むのである。死んだその子の指が造った小さな穴から吹き込むからである」という説明も、西洋人に対しては無論必要であろう。ただこの説明に従えば、この句は冬らしくなる。近頃のように障子を冬の季と限定してかかれば差支ないが、昔の句としては、やはり「身に入む」によって秋と解すべきではあるまいか。
 作者不明の「ミニシミル」の句は、この「涼風」の句から生れたものかどうか、今俄に断定しがたいけれども、一句として見る場合には殆ど比較にならぬものである。実際のところ「身に入みる風」といい、「指のあと」といっただけで、子供の破った障子の穴から寒い風が吹き込むと解釈するのは、いささか骨が折れる。それが亡くなった子供の指の痕で、そのために一層身に入みて感ぜられるのだ、というに至っては、前書なしには不可能な話である。八雲が易々やすやすとしてそう解し去ったのは、何かその意味を補うだけの前提があったものと見なければならない。
 そこへ行くと「涼風」の句は第一にちゃんと前書がついている。これによって作者は自分の亡児を思い出しているのでなしに、他人が子を失ったのに同情しているのだということがわかる。
 第二にこの場合の障子は夏の障子で、しめ切って中に籠っている場合ではない。涼風はその穴から吹入るものと解せられぬこともないが、夏のことだから明放してあったとしてもいい。即ちこの「指の穴」は眼に訴えるので、その穴から吹込む風が身に入む、というほど深刻ではないのである。第三に「のこる」という一語が前書と相俟あいまって、世に亡い子供の残した形見であることをよく現している。子供は世の中に残す痕跡の少いものだけに、僅なものが親の心を捉えずには置かぬのである。一茶が亡児を詠じた「秋風やむしり残りの赤い花」でも、子供がむしり残した花というところに、綿々たる親の情が籠っている。この句の生命は繋って「のこる」にあるといっても、過言ではあるまいと思う。第四に――もう一つ附加えれば、「指のあと」という言葉は「指の穴」の適切なるにかぬであろう。畢竟ひっきょう「のこる」という言葉を欠いたから「あと」といってその意を現そうとしたものであろうが、その点は不十分な嫌がある。
 障子の穴から吹込む風が身に入みることによって、今更の如くかつてその穴をあけた亡児を思い出すというのは、一見悲痛な感情を描いたようで、真に凄涼なものを欠いているのを如何いかんともすることが出来ない。鶴声が他人の上を思い遣るに当って、障子の穴を点出したのは、この意味において遥に自然である。俳句が強い人情を詠ずるに適せぬことは、先覚のつとに説いている通りだから、繰返す必要もあるまいと思う。

白雨ゆうだちほらの中なる人の声    畏計

 洞穴の中に夕立を避けたのである。その人の姿を描かずに、その声のみを描いたのが面白い。雨やみをしている人の声が、洞穴の中にくぐもって聞えるなどは、都会人の思いもよらぬ趣である。
 子規居士も奥羽旅行の時、飯坂温泉で「夕立や人声こもる温泉の煙」という句を作っている。趣はこの句と違うけれども、心持には似通ったところがある。

夕顔のにぶきそよぎやすだれ越し    包之

 あまり風のない夕方らしい。簾越に咲いている夕顔の白い花が僅にそよぐのが見える、というのである。「にぶきそよぎ」の一語が、簾越の花の僅にそよぐ趣をよく現している。元禄らしい写生句である。

瓢箪の蔓に見越すや雲の嶺    范孚

 俳画に描くとすれば、窓に垂れた瓢箪の蔓を比較的大きく画いて、その向うに雲の峯の白くそびえているところを現すのであろうか。この句を読むと、青い瓢箪の葉越に晴れた夏の空と、雄大な雲の峯のたたずまいが眼に浮んで来る。
 大小の配合といったような点からこの句を見ることは、必ずしも当っていない。ただ雲の峯というような題目は、とかく大景の連想に捉われやすいのに、この句は植物の中でも細い、軟な瓢箪の蔓を配したところに興味がある。それも一茶の「蟻の道雲の峯よりつゞきけり」のような、意識的な配合でなしに、自然の景色として成立っているから面白いのである。

馬のりに乗や清水の丸木橋    釣眠

 湧き出る清水がおのずから細流をなして、そこに一本の丸木橋が架っている、清水をむすびに来た人が、ふとした興味でその丸木橋にまたがって見た、というだけのことであろう。清水の句としては少しく変った趣を具えている。
 これが夕涼の場合ででもあったならば、橋に跨る趣向も多少平凡に陥らざるを得ない。運座席上の調和論などは、往々にしてこういう平凡を支持しやすいものである。清水に対して丸木橋を持出し、それに馬乗になるというようなつれづれのすさびは、単に平凡でないのみならず、経験なしには念頭に浮べにくい。おどけたようでしかも棄て難い閑中の趣である。

えり垢の春をたゝむや更衣ころもがえ    洞池

 軽い著物に脱ぎ替る初夏の快適な心持は、今も昔も変りはあるまい。「蝶々も軽みおぼえよ」といい、「籠ぬけのかろみ覚えつ」といい、多くは軽快な感じが主になっている。この句の如く脱ぎ捨てた旧衣に眼を注いだものはあまり見当らぬ。
 新衣に更うるに当って脱ぎ捨てた著物は、已に多少襟垢がついている。作者はこの襟垢を以て、すがすがしい新衣に対照せしむると同時に、旧衣に対する愛著の情を寓するものとした。
「えり垢の春をたゝむ」というのは、かなり巧な言葉遣いで、その衣につつまれた三春行楽の迹も、自ら連想に上って来る。昔の更衣は四月一日ときまっていたから、過去った春を顧る情は、今よりもはっきりしていたことと思われる。
 西鶴の「長持に春かくれ行く更衣」という句も、多少この句と趣を同じゅうするようであるが、西鶴の更衣は単に季節を現しているまでで、洞池のような実感を伴っていない。「長持に春かくれ行く」は、華かな花見小袖の類が、長持にしまわれることを指すのであろうが、巧を求めて機智を弄し過ぎた嫌がある。旧衣の襟垢にとどめた春の名残の自然なるに如かぬのである。

綿抜やひそかに宵の袖だたみ    兆邦

 綿抜というのはあわせのこと、布子の綿を抜いて袷とするの意であろう。「南無阿弥陀どてらの綿よひまやるぞ」という一茶の句は、最も簡単にこのかんの消息を伝えている。
 この句は隠れた意味はない。綿を抜いて著られるようになった袷を、そっと袖畳にして置いた、というつつましやかな趣である。それが宵の燈下であることも、何となくこの句に或情味を添えている。

家土産いえづとしきみに附し笹粽ささちまき    鶴声

 粽というものは、国により土地によって随分種類があるらしい。歳時記などにもいろいろ書いてあるが、名称だけではなお心往かぬ感じがする。粽の種類を列挙するのは、風俗誌の領分に属するにしても、各地に固有の粽が存在する以上、俳人の観察がそこに及ぶのも徒爾とじではあるまい。例えば『猿蓑』にある「隈篠くまささの広葉うるはし餅粽もちちまき 岩翁がんおう」という句にしても、単に粽とのみあるものよりは、遥に読者に与える印象がはっきりしているからである。
 鶴声の句の粽は笹に巻いたもので、樒の枝にいくつもつけてあるらしい。特に「家土産」と断ってあるのは、御土産用にそういうものを売っているのか、持って帰る便宜のためにそうしてくれたのか、その辺はわからない。

青梅や葉かげをのぞく眉の皺    伽香

 活字本には「眉の雛」となっているが、恐らく「皺」の誤であろう。仮に原本に「雛」とあったにしても、雛では意味をなさぬ。木版本にもこの程度の誤はしばしばあるから、皺として解すべきものと思われる。
 かつて蕪村句集輪講の時、「青梅に眉あつめたる美人かな」の「眉あつめたる」について議論があったのを、これは何でもない、青梅を見て、おお酸ぱいといって眉を寄せたのだ、と断じたのは子規居士であった。伽香の捉えどころも全く同じで、「眉の皺」は子規居士説の通りと思われるが、蕪村は眉あつめたる美人を主として描き、伽香は青梅を見る様子に重きを置いたので、句の表は大分異ったものになっている。葉陰の青梅を覗いて眉根に皺を寄せる者は、やはり女であろう。元禄と天明との相異はここにもある。句としては蕪村の方が成功しているかも知れぬが、時代的に先じた点で、伽香の句を一顧する必要がある。

しら壁や若葉のひまの薄曇    葉圃

 新緑におおわれた初夏の天地は、すがすがしい明るさを持っている一面、何となくどんよりした感じを免れない。この句はどんよりした方の趣である。
 茂り合う若葉のひまから白壁の家が見える。緑と白との対照が、どんよりした薄曇の中に眼に入るのである。景色としては格別珍しいこともないが、たしかに初夏の或趣を捉え得ている。

白壁は若葉に曇る朝けかな    未出

という句も、同じくどんよりした若葉の趣である。「朝け」という時間を持出したことが、どんよりした若葉の感じを助けてはいるが、眼に訴える印象からいうと、前の句の方がすぐれている。殊に看過すべからざるものは「ひまの」の三字であろう。後の句の「白壁は」という上五字は、「白壁の」と大差ない意味であろうが、決して巧な用語というわけには行かない。

裏門のくぐりに見ゆる青葉かな    野紅

 簡単なスケッチである。
 裏門の潜戸があいていて、そこから庭の青葉が見える。塀をめぐらした大きな屋敷でもあろうか。こういう景色にはしばしば逢著しながら、これほど単純に句にすることはむずかしい。「潜に見ゆる」が一句の眼目である。

の花や落米つつおを拾ふ※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)とりの声    里東

 卯の花の咲いたあたりに米がこぼれている、その米をついば※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の声がする、というだけの句である。俳句に用いられる「※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の声」は、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)おんどりの時をつくる声が多いようであるが、これは落米のところに集って、コココココと忙しげにいう方であろう。卯の花と落米との取合は、場合によってその落花を落米に見立てたような解釈を生ぜぬとも限らぬが、※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)が啄んでいるのだから、正真正銘の落米であるに相違ない。
「つつお」という言葉は『大言海』などにも、「筒落米、つゝおちまいノ略、米さしヨリ落チコボレタル米の称。ツヽオチゴメ。ツヽオゴメ。略シテつゝお」と出ている。何時いつ頃からある言葉か知らぬが、西鶴は『永代蔵』の中に「西国米水揚の折ふし。こぼれすたれたる筒落米をはき集て。其日を暮せる老母」が、落米を拾い溜めては売り、拾い溜めては売りして、二十余年間に十二貫五百目の金を得た、という話を書いた。『懐硯』にも「早や敦賀に売られ、筒落米拾ひし事を忘れたか」とあるから、最初は船著ふなつきの落米をいったものらしい。「ツツオチゴメ」という言葉は調子が悪いが、どうしてチを略してツツオとなるのか。「花咲かせ爺」とあるべきが「ハナサカジジイ」で通用する例と同じものかどうか、そういう問題になるとわれわれの手には合わない。ただし里東のこの句は西鶴の書いたような、船著の光景ではなさそうである。農家の庭などにこぼれた米を※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)が啄んでいる、しずかな趣であろう。

竹垣やの尻かわくくりの花    可吟

 竹垣に桶を引掛けて、尻の乾くようにしてある。その辺に栗の木があって、例の花が垂れている、という小景である。
 栗の花は一面陰鬱な連想を伴うようであるが、必ずしもそうばかりではない。栗の花盛りの梢に日の当っているところなどは、むしろ明るい、あざやかな感じがする。「合歓ねむ未ださめず栗の花あさひに映ず」という子規居士の句は、その明るい方の趣を捉えたのである。可吟の句はそれほどはっきりした場合ではないが、桶の尻を干す日和ひよりである以上、日の照っている栗の花であることはいうまでもない。

砂に居る心もさびし袷比    洞月

「砂に居る」という言葉は多少不十分であるが、砂の上にかがんでいるとか、腰を下しているとか、とにかく極めて砂に親しい感じと思われる。春が過ぎて夏に入る頃は、身のまわりが軽くなるに従い、室内生活から解放されて屋外の空気に親しむようになる。其角に「たそがれの端居はしいはじむるつゝじかな」という句があった。『五元集』には上五字が「旦夕の」となっているが、「たそがれ」にしろ「旦夕」にしろ、外気に親しむ点に変りはない。「砂に居る」も先ずそういう意味に解すべきであろう。
 晩春初夏の明るいながらうらさびしい心持を捉えたのが、この句の眼目である。その心持は完全に描き得ていないかも知れぬが、袷の句の常套に堕せず、作者が捉えようとしたところには、われわれも同感出来る。
「袷比」は「アワセゴロ」と読むのであろう。「袷時」という言葉もあったかと思う。袷を著る時節という意味であるが、漠然たる季節をのみ指すのではない。作者は現に袷を著ているのである。

五月雨さみだれや又一しきり猫の恋    白雪

 猫の恋は春にあるばかりではない。猫の子に夏子も秋子もあるように、恋の方にも自ら段落がある。季題によって季節の連想を限るのは、俳句の長所であると同時に、その短所でもあるが、俳人は時に他の配合物をらっきたって、季節外れの猫の恋を句にしている。子規居士は寒の内から已に恋い渡る猫の声を聞いて、「凍え死ぬ人さへあるに猫の恋」と、ややあさましいという見方をした。季題の春を猫の恋のシュンとすれば、寒の内のはハシリであり、梅雨中のは時候おくれのわけである。
 梅雨に入って毎日のように雨が降る。その雨の中を恋い渡る猫の声が聞える。「又一しきり」というのは、春以来一時やんでいた恋猫の声が、五月雨時になって再興されて、また一しきり聞えるという意味であろう。この「一しきり」は普通に「雨がまた一しきり強く降る」などというほど、短い時間の「一しきり」ではない。長い梅雨の間の一時期を指すものと思われる。

五月雨や朝行水のたばね髪    洛翠

 行水というものは大体夕方か、夜のものと相場がきまっている。一日の汗を流す簡単な入浴なのだから、実際問題からいっても、そういう時間になりやすい事情がある。
 この句は変った場合と見えて、特に「朝行水」という語を置いた。時節も五月雨だから、いわゆる行水のシーズンではない。「朝行水のたばね髪」という言葉は、束ね髪をして朝行水をする、という意味にも取れる。朝行水をした後を束ね髪でいる、という意味にも取れる。後の解の方がよくはないかと思う。
雲萍雑志うんぴょうざっし』の著者は「夏日の七快」の一として「湯あみして髪をくしけずる」を挙げた。五月雨時の粘った膚を朝行水で洗うのは、爽快でないことはないかも知れぬが、夏日の十快には該当しそうもない。やはり五月雨の鬱陶しさが先に立つからであろう。

ほとゝぎす月夜烏つきよがらすの跡や先    里東

 月夜に浮れて烏が啼く。そうかと思うと今度はほととぎすが啼渡る。月夜烏が啼き、ほととぎすが啼く、という趣をんだのである。「跡や先」という言葉は、前後して啼くといったら、一番わかりいいかも知れない。
 鵑声と鴉声とを配したものは、其角に「それよりして夜明烏や時鳥」という句がある。ほととぎすの声を聞いてから、ややあって夜明烏の声が聞える、というのである。もっともこの方は声々相雑るのではない。鵑声から鴉声に移ることによって、夜明に至る時間の経過を現している。(『己が光』には中七字が「それよりして夜明の馬や」となっており、伝え誤ったものかとも思われるが、明方早く戸外を通る馬の音は、また別個の趣をなしているようである。一概に誤伝とすべきではあるまい)

蛍籠さげて聞夜や後夜ごやの鐘    半残

 蛍を追うて知らず知らず遠くまで歩いて行ったような場合かと想像する。もう大分けたと見えて、どこかで後夜の鐘を打つのが聞える。作者はこの鐘声に驚いて、蛍籠を提げながらきびすを回したことであろう。
 この句では「提」の字がよほど句の意味を限定する力を持っている。もしこれが仮名で「さげて」とあったならば、必ずしも蛍狩の場合にはならない。軒に蛍籠を吊して後夜の鐘を聞くとも解せられる。単に「蛍籠」という時は、蛍狩を連想せぬ方がむしろ自然かも知れない。けれどもこの句は現在手に提げているのだから、軒端のきばの蛍では工合が悪い。夜更に蛍籠を提げているとすると、蛍狩の句と見るのが妥当らしく思われる。
 但中七字に「聞夜」とあって、下五字にまた「後夜」とあるのは、文字面もじづらからいって多少重複の感を免れない。「後夜」は時刻の名には相違ないが、夜であることが明な以上、「聞夜」の「夜」は蛇足のようである。

蠅打に猫飛出ルや膳の下    ※(「さんずい+(吝−口)」、第3水準1-86-53)

 猫はよく食事の時膳の下に入っているものである。膳上の蠅を打つ音に驚いて、下にいた猫が飛出した。「飛出ル」の一語で、猫の驚いた様を現している。同時に人間の方も、多少不意を打たれたような気味がある。
 大した句ではないが、空想ではちょっとこの趣を捉えにくい。画にすれば俳画よりも漫画に近いものであろう。

家なみのはなれ/\やけしの畑    竹夜

 家並が尽きて家が離れ離れになる。そういうところに芥子畑があって、花が盛に咲いている、という趣である。離れ離れの家の間が芥子畑だというほど、景色を限定しなくても差支ない。離れ離れに建っている家と、芥子畑とが一幅の画図に収りさえすればいいのである。
 形容の大まかな割に、印象の明な句である。われわれもかつてどこかでこんな景色を見たような気がする。

あからみし麦や正木まさきの垣間より    巴流

 青い正木垣の間から麦畑が見える。その麦は已に十分に熟している。――垣根のぐ外まで、麦畑が迫っている場合と思われる。
 作者は一望黄熟した麦圃ばくほの大景をも描かず、繁忙な麦秋の人事や、それに伴う埃っぽい空気をも描かず、正木の垣の間より瞥見した熟麦の色だけを捉えた。特色ある句というべきであろう。

涼しさや寝てから通る町の音    使帆

「町の音」という言葉は、今だと都会の騒音を連想せしめやすいが、これはそんなに大規模なものではない。自分はもう寝ているのに、戸外にはまだりょうを逐うて歩く人が絶えぬらしく、足音だの、話声だのが聞える。それなら「人の音」といっても同じようなものであるが、「人の音」では夜涼を背景にした町の空気が、全然現れぬうらみがある。
「人声の夜半を過ぐる寒さかな」という句は、その人声の何であるにかかわらず、一種のいかめしい響がある。深夜の門を通る人声によって、現在歩きつつある人々の寒さも思いやられる。使帆の句はそれに比べると頗る軽い。同じ夏の夜であっても、『猿蓑』の附合つけあいにある「暑し/\と門々の声」では、なお全く炎苦から離脱出来ぬが、これは自分は已に寝ているほど涼しいのである。従って外の響も涼しく聞かれるのである。

虫干の又めづらしや絵踏帳    悠川

「長崎にしばしのいとまあり名主の家に入て」という前書がある。虫干の句としては珍しい題材を捉えたものである。
 長崎の絵踏えぶみのことは、古い歳時記には皆説明が出ているから、ここに改めて述べる必要もあるまい。切支丹の信徒を吟味するため、聖像を踏ませるのである。明治あたりまでの句集には、絵踏を詠んだものがいくらもあるが、その多くは未見の人事に対して空想的興味を鼓するのだから、どうしても考えてこしらえたものになりやすい。この場合俳人も講釈師と同じく、見て来たような※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)をつくわけである。
 この句は絵踏を詠んだものではないけれども、妙な方角から実在的な絵踏に触れている。名主のところにある絵踏帳というのはどんなものか、それは長崎研究者に聞くより外はないが、恐らく絵踏を行う際の人名その他を記したものであろう。悠川が長崎に行った時は、切支丹迫害当時よりは大分年数がたっているので、多少好奇的な眼でこれを見たものではないかと思われる。絵踏帳は今の切支丹研究者に取っても、看過すべからざる材料であろう。
 この句を見て思い出すのは、太祇の「魂祭たままつる料理帳あり筆のあと」である。太祇一流のそつのない、複雑な事柄を一句に纏めた手腕は認められるけれども、この句に比べると、どこか工夫の余に成ったらしい点がある。故人の書いた料理帳、それは魂祭のためのもうけであるというので、季題にもなっているのであるが、こういう表現はよほど脳漿のうしょうしぼらないと出来ない。元禄の句は無造作むぞうさで自然である。天明の句は細心で巧緻こうちである。

ほろりとも降らで月澄む蚊遣かやりかな    焦桐

 大旱たいかんの夜のしじま、とでもいうべきものを描いたのである。降れと待つ雨は一向降らず、今宵こよいも明るい月が澄んでいる。暑にあえぐ人はまだ寝かねて、蚊遣を焚きながら月を見ている。恐らく風などの少しもない、闃寂げきせきたる夜であろう。
「ほろりとも降らで月澄む」の十二字を以て、大旱の夜の空気を現した伎倆ぎりょうは尋常でない。蚊遣は片靡かたなびきもせず、作者の座右に細々とくゆりつつあるものと想像する。

月涼し百足むかでの落る枕もと    之道

 夏嫌の人が不愉快な箇条を数える中には、虫が多いということも加っている。羽のある虫も嫌、羽のない虫も厭だという。昼だけならまだしも、夜まで灯を求めて活動する。夜の虫はありがたくないが、殊にそれが百足と来ては、虫嫌を標榜せぬわれわれでも降参である。枕にさす月の涼しい光も、ここに至ってはとみに凄涼な感じに変化するように思う。
 古い藁葺わらぶき屋根の家を買い求めて、電燈を引き、勝手許かってもとも綺麗にして住むようになったら、急に虫が多くなったので驚いた、今まで絶えなかった燈火の油煙、炊煙の類が自ら防虫の役をしていたのだとわかった、という話がある。虫嫌を弱らす虫は、今の建築でも全然はねつけるわけに行かぬらしい。昔の多かったことは想像の外である。

朱硯しゅすずりかわくもはやし雲の峯    釣眠

 一種の取合とりあわせの句で、雲の峯立つ盛夏の天と、たちまち乾く朱硯の水とを配合したに過ぎない。こういう配合を一の趣として感じ得ぬ人に、言葉で説明することはあるいは困難であるかも知れぬ。
 普通の硯より小型でもあり、浅くもあるから、朱硯の水は乾きやすいという点もある。大して面白い句でもないが、一読して筆硯に対する親しさを感ずる。日夕朱硯をともとする人でなければ、ちょっと思いつかぬところであろう。

唐黍とうきびのかぶりもふらぬ暑さかな    梅山

 いわゆるそよりともせぬ暑さを詠んだのであるが、相手が唐黍では全体が大き過ぎて、「そより」というような言葉では十分に現れぬところから、「かぶりもふらぬ」という中七字を拈出ねんしゅつしたのであろう。唐黍の頂もじっとして動かぬということによって、大暑の烈しさ、畑中の照り工合が思いやられる。
「かぶりもふらぬ」というような言葉は、俳句に用いるにはあまり好ましいものではない。ただ擬人的であるばかりでなしに、否定するという意味をも兼ねているからである。「芋の葉や蓮かと問へばかぶりふる」という句の如きは、芋の葉と蓮の葉とが似ているという、『万葉』以来の問題を取入れたので、蓮かと問うたら、芋の葉がかぶりを振って否定した、という結果になっている。けれどもこの唐黍の句には、そういう寓意はなさそうに見える。作者は大暑にじっと立っている唐黍を見て「かぶりもふらぬ」といったまでであろう。俗謡子の材料になった芋の葉などでないために、それほど俗に陥ってないようである。

ほめられて小歌やめけり夕涼    微房

 夕涼をしながら何か小唄を口吟くちずさんでいると、うまいぞといってめる者がある、それっきりうたうのをやめてしまった、というのである。「ほめられて」といっただけでは、相手の様子は何ともわからぬが、どうもこれは見知越みしりごしの人らしくない。誰だか知らぬ人に声をかけられたので、多少ばつが悪くなって、やめてしまったものと思われる。
『遠野物語』の中に、山を越えながら笛を吹いていると、白樺しらかばの茂った谷の底から、何者か高い声で「面白いぞう」とよばわる者がある、薄月夜うすづきよつれも大勢あったが、一同ことごとく色を失って逃げ帰った、という話が出て来る。この話はたしかに読者をぞっとせしめるだけの気味悪い力を持っているが、微房の句の褒め手はそう物凄い者でもあるまい。大分後の話だけれども、秋葉の原が火除地ひよけちであった時分は、夏の月夜などに大和町辺の駄菓子職人の中から、咽喉自慢のどじまんの連中がやって来て、涼みながら唄をうたったものだという。見知越と否とにかかわらず、うまければ「うまいぞう」位の声はかけたであろう。「ほめられてやめ」る小歌は、先ず此方こちらの世界に近そうである。ただ月下にうたいすさむだけでなしに、褒められてやめたという事件を捉えたのが、この句の働だといえるかも知れない。

水うてば夕立くさき庭木かな    芝柏

 一日照りつづけた庭に水を打つ。立木といわず、草といわず、石や土のたぐいからも、一斉に一種の気が立騰たちのぼる。あの気を感ずるのは第一に嗅覚であるが、それが何に似ているかといえば、夕立の降りはじめに感ずる匂に外ならぬ。「夕立くさき」の一語は穉拙ちせつだけれども、ちょっと他に換うべき言葉が見当らない、穉拙なりにその感じを道破どうはしている。
 こういう句に比べたら、太祇の「水打て露こしらへる門辺かな」の如きは巧であろう。けれども畢竟ひっきょう巧であるというに止って、吾人の感覚に訴えて来るところは何もない。のみならず「こしらへる」の語にいうべからざる厭味を感ずる。実感による穉拙と、厭味を伴う巧と――この比較の結果は、已に度々繰返した元禄、天明の対照になりやすい。それは一句一句の優劣論でなしに、この両時代の句の傾向の相異である。特にこの一句について多くを談ずるに及ばぬであろう。

朝草の鎌利立とぎたて※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)くいなかな    史興

「朝草」というのは朝刈る草の意であろう。『猿蓑』にも「涼しさや朝草門に荷ひ込」という凡兆の句があった。
 この句は朝草を刈るべき鎌をいでいる場合らしい。水郷などの実景であろうか。朝まだきの静な空気の中に水※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の声が聞える、という趣である。全体の表現はやや不明瞭だけれども、水※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の句としては珍しい方に属する。

藻の花に雲の白みや峯の池    濫吹

 山上の池というものは、何となく恐しい感じのするものである。山の池で泳ぐのが一番気味が悪い、という話を誰かに聞いた。やはり底が深かったり、水が冷たかったりする関係かも知れない。その水につきまとう伝説でもあればなお更の話である。
 この句は峯の池を舞台としているが、そういう気味の悪い空気には触れていない。そこに藻の花が咲き、白雲が影を落す、夏の日中の静な様子を現しているだけである。しかし場所が峯の池だけに、普通の池沼とは多少趣を異にするものがないでもない。

青すだれ黒歯つけ/\のはなしかな    山鳳

 鉄漿かねというものは今のわれわれには全く親しみがない。先日図らずも歯を染めた老婆を往来で見たが、周囲の世界と全くかけ離れた感じであった。
 川柳子は鉄漿に関する観察をいろいろな点から試みており、デッサンとして面白いものもあるが、未だ一幅の画図を成すに至っていない。この句は青簾を垂れたところに、鉄漿をつけながら誰かと話をしている女を描いたので、大してすぐれた句というでもなし、好画図というほどでもないけれども、全体がちゃんと纏っている。川柳と俳句との相異は、こういう扱い方の上にも認められる。
「黒歯」はやはり「カネ」と読むのであろう。「黒歯つけ/\」という言葉によって、その女の様子、鉄漿をつけるのに相当時間を要することなども想像出来る。「つんぼかと覗けばかねをつけている」「稍しばしあってお歯黒返事する」などという川柳は、この句を解する上に多少参考になる。

夜に入て雨を呼出す※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)くいなかな    源五

 日が暮れてから一しきり水※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の声が聞えていたかと思うと、やがて雨が降って来た、というような場合であろう。水※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)が啼き、しかして雨が降る、という自然の現象を、水※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の声が雨を誘うものの如く見たのである。「雨を呼出す」の一語は人為的に過ぎる嫌があるが、季節の上から見て、こういう事実はいくらもありそうに思う。
 水※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の句にはこの外にも

夜嵐よあらしをおさへて廻る水※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)かな    東推
狐火をたゝきけしたる水※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)かな    楚山
なるかみをしづめてたたく水※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)かな    露川

というように、何か他に働きかけるような意味のものがあるけれども、水※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の声の性質からいうと、いずれも少し強過ぎるようである。尤も事実は水※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の声にそういう力があるわけではなく、夜嵐や神鳴かみなりのしずまったあとに啼き、狐火の見えなくなった闇に啼くのであろうが、言葉の意味はどうしても水※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)にそぐわぬうらみがある。雨を呼出す水※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)は一番平凡かも知れぬが、それだけ無難だともいい得るであろう。

さはやかに身はあいくさし衣がへ    和風

 重い綿入わたいれを脱いであわせに著更える。それだけでも爽快なのに、新しい著物と見えて藍の香がしきりに鼻をうつ。「くさし」という言葉は、いずれかといえば不愉快な匂の場合に用いられるようであるが、この句は必ずしもそうではない。強い藍の香もまた「さはやか」な感じの幾分かをつとめているのである。
 化学染料の幅をかす今日では、昔のような、爽な藍の香に浸ることは困難であろう。

よめばかりそめ物くさしころもがへ    広房

などという句も、ほぼ同じところをねらっているが、これは人事的関係を取入れたため、複雑になったようでかえって俗にちている。ひとり著る衣の爽なるに及ばざること遠い。

物拭ふ袖に紙あり衣更    其林

「物なくて軽き袂や更衣」とか、「袷著て袂に何も無かりけり」とかいうことは、明治以後の俳人もこれを詠んでいる。更衣をすました爽な心持からいえば、袂には一物もない方がいいかも知れぬが、一概にそうきめてしまうと、また一種の型に陥るおそれがある。
 其林の句は物を拭うべき紙を袖にしている、というだけではない。実際何かを拭う必要があって、袂の紙を取出した場合である。これほどのものならば更衣の感じを妨げぬのみならず、ただ袂に何もないというよりも複雑な場合を現している。元禄の句を単純だとのみ片づけることは、当っていないのである。

の花やせきだほしク里の垣    左白

「せきだ」は雪踏せったのことである。『言海』には雪踏の訛としてある。卯の花の咲いている里の垣根に雪踏が干してある、というだけのことに過ぎぬが、これは考えて後にはじめて得る配合ではない。眼前の実景である。工夫に成る配合は所詮自然の配合にかぬ。この句が一見平凡なようで、しかも棄てがたいのは全くそのためであろう。

卯の花にくしけづる髪の落    桃※[#「虫+羊」、U+86D8、181-10]

 これも実景に相違ない。卯の花の咲いているほとりに、誰がくしけずったものか、髪の毛が落ちている、という趣である。
 卯の花は必ずしも妖気を伴う花とも考えられぬが、白いこまかい花でもあり、陰鬱な季節の連想もあり、何となく寂しい感じがする。そこに「誰が櫛けづる髪の落」などという趣と一脈相通ずるものがある。この句は卯の花のすさまじいというか、無気味というか、そういう方の感じを発揮したものである。

初せみや日和鳴出す雲の色    邦里

 初蝉を聞くさわやかな空の感じを捉えたのである。蝉も盛になると暑苦しい感を免れぬが、初蝉の頃はまだその声が珍しいというばかりでなく、季節の関係と相俟って、むしろ明るい爽な感じを伴っている。
 子規居士の晩年の句に「蝉初メテ鳴クはえ釣る頃の水絵空」というのがある。句の内容は同じではないが、蝉のはじめて鳴く頃の空の感じを捉えた点は、いつにしているといって差支ない。

針つけて糸につながん柿のはな    染女

 面白い句ではない。ただ見つけどころの女らしい点を取れば取るのである。
 柿の花の固いところ、手に取っても崩れぬところ、その他いろいろな点から考えて、数珠じゅずつなぎにするにはふさわしい感じのように思う。色彩からいうと、いささか寂し過ぎるけれども、地上におびただしく落ちるところから、この想を得たものであろう。何でもないように見えて、女性でなければ思いつき得ぬ趣向である。

わた抜や机にひじをついてみて    雨帆

 あわせを著て机にる。毎日机に倚らぬ男が、ことさらに机に倚るわけではない。綿を抜いた軽い著物になって、何となく新な気持の下に、机に臂をもたせるというのであろう。「机に臂をついてみて」さてどうするのかというと、それは誰にもわからぬ。作者はただ臂をついた刹那せつなを捉えたまでなのである。
 これも大した句ではない。「ついてみて」という下の一字は少し軽過ぎるが、場合が場合だから、作者はこれでよしとしたのかも知れぬ。

灌仏かんぶつの日に生れけり唯の人    巴常

 天上天下唯我独尊といって生れた釈迦しゃかと同じ日に、ただの平凡な人間が生れる。仏縁あって同じ日に生れる、という風にこの作者は見ていない。釈迦と同じ日に当前あたりまえの凡夫も生れる、という世間の事実を捉えたものであろう。
 芭蕉にも奈良で詠んだ「灌仏の日に生れあふ鹿の子かな」という句がある。場所は仏に因縁の多い奈良であり、日も多いのに灌仏の日に生れるということが、芭蕉の興味を刺激したものと思われる。畜生の身ながら、かかるめでたき日に生れ合うことよ、というほど強い意味ではない。奈良で鹿が子を産むのを見た、それがあたかも灌仏の日であった、という即事を詠んだのである。この方は現に眼前に生れたところを捉えたのだから、軽い事実として扱うことも出来るが、今生れたばかりの子供を「唯の人」と断定するには多少の無理がある。釈迦に比べればどう転んでも「唯の人」に過ぎぬ、というような意味とすれば、益※(二の字点、1-2-22)理窟臭くなって来る。鹿の子ならそのままで通用する事柄も、「唯の人」という言葉を用いたために、いささか面倒なのである。
 芥川龍之介氏の『少年』という小説の中に、バスの中の少女の事が書いてあった。フランス人の宣教師が今日は何日かと問うと、十二月二十五日と答える。十二月二十五日は何の日か、と重ねて問われたのに対し、少女は落著き払って「きょうはあたしの誕生日」と答えるのである。この答を聞いて微笑を禁じ得なかったという作者の気持には、例の皮肉が漂っているようであるが、「クリスマスの日に生れ合う少女」も、面白い事実でないことはない。但こういう事実は散文の中においてはじめて光彩を放つべき性質のもので、俳句のような詩に盛るには不適当である。芭蕉の句が比較的離れ得たのは、眼前の即事を捉えたせいもあるが、ものが「鹿の子」で、「唯の人」というが如き理智を絶しているために外ならぬ。

つりそめて蚊屋のかおりや二日程    花虫

 この句に極めて類似しているのは「つり初て蚊帳の匂や二三日    浪化ろうか」である。「薫」と「匂」、「二三日」と「二日程」では殆ど両立するだけの相違点は認められぬ。『浪化上人しょうにん発句集ほっくしゅう』にはこの句は見えず、「二三日蚊屋のにほひや五月雨」という句が出ている。「二三日」も「にほひ」もこの方にはあるが、果してどう混線したものか。『類題発句集』以外にたしかな出所がわかるまでは、疑問として浪化の句を存し、花虫の句を挙げて置くより仕方があるまい。花虫の句は北陸の選集たる『猿丸宮集さるまるみやしゅう』にあるので、地方的にいえば浪化の作と混雑する可能性も多少ある。
 蚊帳はうるさいものであるが、釣りはじめの間はそう暑くないせいか、何となくなつかしいような感じがする。花虫の句は一日二日の間、萌黄もえぎの匂を珍しく感ずるところを詠んだのである。秋になって蚊帳を釣らなくなる時でさえ、「蚊帳の別れ」だの「蚊帳の名残」だのという情趣を感ずる俳人が、釣り初めの蚊帳に対して、普通人以上の感情を懐かぬはずはない。前に引いた浪化の「五月雨」の句以外にも

つり初て蚊帳面白き月夜かな    言水ごんすい
一夜二夜蚊帳めづらしき匂かな    春武

の如きものもあるが、花虫の句は最もすぐれたものといい得るであろう。

ほとゝぎす腹の立事言てより    草籬

 何か腹の立つことがあって、それを口にした、その後でほととぎすの声を耳にした、というのである。
 不機嫌な折からほととぎすを聞いたという事実の報告ではない。何か腹の立つことをいってのけた、むしゃくしゃしたような、しかも一面にはけ口を見出したような心理状態を捉えたところが主眼である。そういう気持とほととぎすの声とが、或調和を得ていることはいうまでもない。
 太祇の「思ひもの人にくれし夜時鳥」という句も、或心理的変化の上にほととぎすを持込んでいるが、その事柄が特別過ぎるため、奇は奇であっても、こしらえた痕迹を免れない。「腹の立事言てより」は平凡な代りに自然である。こういう心理的経過ならば、われわれでも十分察することが出来る。

くれもせぬ隣の餅や五月雨    野棠

 隣の家で餅をいている。五月雨に降りこめられた徒然のままにそれを聞いて、あの餅をくれればいいな、と思うが、一向持って来る様子もない。そのうちにきねの音も止んでしまった、というような趣であろうか。
「隣の餅」というだけでは、現在搗きつつある場合かどうかわからない。冬搗いたかき餅などを五月雨時分に焼いて食うこともないではないが、それにしてはいい方が事々し過ぎるような気もする。何か特別な事があって餅を搗いているものと見た方が、「くれもせぬ」という言葉にもかなうし、五月雨の徒然な様子も現れるようである。
 くれるときまりもせぬものに対して、「くれもせぬ」といったところに、多少滑稽な趣が伴っている。一茶の「我門に来さうにしたり配り餅」なども、気持の上に似たところがあるが、際どいだけに俗な点があって面白くない。「くれもせぬ」という余裕ある不平に及ばざること遠い。

たゝかれて沈む蛍や麻の雨    其風

 麻の葉にいる蛍が雨に打たれて、茂みの中に沈む趣である。この蛍は無論複数であろう。雨勢の相当強い様子もわかるし、麻の葉を打つさわやかな音も連想に浮ぶ。「麻の雨」の五字で全体を纏めた句法も、なかなか働いているように思う。
 画のような景色というところであるが、画ではかえってこういう趣は現しにくいかも知れない。生趣に富んだ句である。

にじ立や影と輪になる夏の海    柳糸

 昔の句では虹が季になっていない。西鶴の書いたものに冬の虹が出て来るのを、ちょっと妙に思ったが、その後気をつけて見ると、俳句にも冬の風物に虹を配したのがいくつもある。虹は夕立のあとにばかり出るわけではないのだから、夏に限定する方がかえって捉われているのかも知れぬ。
 この句の虹は夏の虹である。鮮に立った雨後の虹が海面に影を落して、大きな円を描く。「影と輪になる」という言葉は、極めて大まかな言葉のようだけれども、これ以上適切に現し得る言葉があるかどうか疑問である。昔の虹の句としては特色あるものたるを失わぬであろう。

よむほどやほしに数なき夕涼    風吟

 子規居士は「星」という文章の中で、「一番星といえば星の下に子供一人立っているように感ぜらる」といった。「一番星見つけた」というのは、われわれも子供の時にしばしば耳にした言葉であった。一つ見つけ、二つ見つけするうちに、眼界の星はいくらでもえて来る。「数なき」というと、数が沢山ないようにも聞えるが、ここは無数の意であろう。「真砂まさごなす数なき星のその中に吾に向ひて光る星あり」という子規居士の歌の「数なき」と同じことである。
「涼み台又はじまった星の論」という。夏の夕方、涼台にたむろする人たちの注意が自ら天に向うのは、けだし自然の成行である。

夕すゞみ星の名をとふ童かな    一徳

というのもやはり元禄の句であるが、天を仰いで闌干らんかんたる星斗に対する間には、天文に関する知識も働けば、宇宙に対する畏怖いふも生ずる。あるいはわれわれ人間は大昔から夏の夕ごとに、こういう経験を繰返して来たのかも知れない。

庭砂のかわきそめてやせみの声    北人

 朝のうちはしっとり湿っていた砂が、日の高く上るにつれてだんだん乾いて来る。今日の日和を卜するように、そこらで蝉が鳴き出す、というのである。句の表には格別時間を現していないようであるが、暑くなりそうな夏の日の感じがあふれている。
「かわき初てや」の「や」は必ずしも疑問の意ではない。しかし「かわき初むるや」というのとは、少し意味が違う。こういう言葉の味を説明するのは困難である。これをじゅして会得する外はあるまいと思う。

実桜や古茅ふるかやはこぶ宮の修理    邑姿

「修理」は「シュリ」と詰めて読むのであろうか。普通人名の場合はシュリ、修繕の場合はシュウリと発音するようであるが、ここは詰めないと調子が悪い。
 桜の実の熟した、もの静な宮の境内けいだいらしい。そこへ宮修理のための古茅を運んで来るという光景である。桜の実は境内の土の上に落ちていそうな気がする。
 直に俳画になり得べき趣である。日本の桜の実は、花と違って多くの場合閑却された形であるが、この句は実桜にふさわしい趣を捉えている。人目はかぬけれども、面白い句である。

昼顔や魚荷過たる浜の道    桃妖

 眼前の景色である。
 昼顔の咲いている浜の道を、魚荷を運ぶ人が通る。この句は魚荷が通ったあとの光景らしい。一面の砂浜の日が照りつけている中に、炎威にめげぬ昼顔の花の咲いている様が眼に浮ぶ。あたりには魚荷のなまぐさい香がまだ漂っていそうな気もする。

飯鮓いいずしや竹の広葉の折かへり    木因ぼくいん

月潺堂げっせんどうにまいりて」という前書がついている。多分人の住いであろうと思うが、よくわからない。句の表は鮓の写生が主になっている。
 飯鮓の中に入っている笹の広葉が折返っていた、というだけのことであるが、「折かへり」の一語がこの句に或生趣を与えているように思う。こういう微細な写生が元禄に已に行われている点に注意すべきである。「隈篠くまささの広葉うるはし餅粽もちちまき」という岩翁の句なども、元禄の句としては相当印象的であるが、この句の「折かへり」は観察の点において更に一歩を進めている。今のような握鮓の句でないことはいうまでもあるまい。
 但「月潺堂にまいりて」なる前書に何か意味があって、飯鮓並に「折かへり」の語も漫然置いたものでないということになれば、更に出直して解釈しなければならぬ。今はさし当り見たままの句として置く。

風の香も麻のうねりや馬の上    冠雪

 炎天下を馬上で行く場合であろうか。道端の麻畠を吹いて来る風も、生ぬるくてムッとするような感じが想像される。「風の香」は勿論麻の香で、青い麻の葉がゆさゆさ揺れている様らしく思われる。
 けれどもこの句は決して右のような光景を的確に表現しているわけではない。一読何となく暑そうな感じがしたために、そう解したまでであるが、作者の意はあるいは日も少しかげった場合で、麻を吹く「風の香」に多少爽涼の気を含ませているのかもわからない。要は「風の香」という語の解釈如何いかんにある。読者は自己の連想によって、これを解するより仕方がない。

手にすゑて浅瀬をのぼる鵜匠うしょうかな    一之

 読んで字の如くである。
 一羽の鵜を手に据えて、浅瀬をざぶざぶ上って行く鵜匠の姿を描いたので、現在鵜を使っているわけではない、準備的状況のように思われる。「浅瀬」の一語によって、自ら徒渉の様を現している。勿論昼の景色であろう。

夏旅やむかふから来る牛の息    方山

 今は夏を以て旅行シーズンとするのが常識になっているが、昔はそうでなかった。一所不住のような惟然坊いぜんぼうにしてなおかつ「夏さへも有磯行脚のうつけ共」という句を作っている位だから、その苦痛は思いやられる。
 ここに「夏旅」というのも、そういう季題があるのではない。今日の人が夏になって旅を想うのとは反対に、むしろ夏の旅の苦しさを現すために、先ずこの語を置いたものではないかと思う。
 あえぎ喘ぎ炎天下の道を行く。現代のような広い道路はないから、厭でも向うからのろのろ歩いて来る牛とすれ違わなければならぬ。牛の熱い鼻息を身に感ずる、といったような、昔の旅の暑さ、わびしさを捉えたものであろう。そこまでいわないでも、向うから牛が息を吐き吐き来るというだけでも差支ないが、特に「むかふから来る牛の息」という以上、どうしてもその息は身に近く感ずるように思われるのである。

松笠の火はきえやすき涼みかな    萬風

 そこらに落ちている松毬まつかさを集めて火をつける。一時よく燃えそうに見えるが、じき消えてしまう。その消えやすいところを面白がっているようにも見える。涼み人の手すさびを詠んだので、キャンプの人などにはこういう経験があるに相違ない。
 土芳が芭蕉を泊めた時の句に「おもしろう松笠もえよ薄月夜」というのがあった。同じ物を焚くにしても、材料が松毬となると、一種の雅致を生じ、必要以上の興味がある。町中まちなかの涼みでは到底こんな趣を味うことは出来ない。

白雨ゆうだちや赤子泣出す離れ家    野角

 夕立の降っている中の離れ家で赤ン坊が泣いている、というだけのことであるが、もう少し補っていえば、夕立のためにおびえたとも取れるし、夕立がにわかに降って来たため、母親が赤ン坊を置いて立上った、それで泣出したとも解せられる。
「離れ家」は離亭でなしに、ぽつんと一軒離れて建っている家の意であろう。「闇の夜や子供泣出す蛍舟」という凡兆の句を思い出す。

すしくっまずおちつくや祭顔    蒙野

 祭の家に招かれた場合であろう。もてなしの鮓の御馳走になって、一先ず落著いたら、何となく祭らしい気分になった、という場合を叙したのである。この鮓は今の握鮓のようなものではない。祭のために特に自分の家でつけたものと思われる。尤も句の眼目は、鮓を食って一先ず落著いたという段落にあるので、鮓そのものの吟味はいずれでも差支ない。恐らく鮓を前奏曲として、本格的な御馳走があとに控えているのであろうが、それはどうでもいい。鮓を食って先ず祭気分になった、というところにこの句の山はある。「先」の一語が重要な働きをつとめているわけである。
 何々顔という言葉は平安朝以来のもので、天明時代になってから、蕪村や太祇がしきりにこれを句に用いた。子規居士もこの語について何か書いたことがあったと記憶する。「祭顔」というような言葉でも、たった一語で祭の気分を最も端的に現している。これに代うる言葉の見当らぬのは勿論、説明しようとすれば多くの言葉を補わなければならぬ。日本語の長所のよく発揮された一例と見るべきであろう。

しずなお祭めかしや髪かしら    盛弘

 日頃はなりにもふりにも構わず働いているような人たちも、祭の日はさすがに髪をきちんとして、如何にも祭らしく見える、という意味らしい。今では髪というと女の世界に限られるようだけれども、結髪の昔は男といえども祭の髪をえたものに相違ない。
 祭の日の賤の髪が目立って見える、という点に作者は興味を覚えたのである。「猶」という言葉は、この場合なるべく軽く見たい。賤はなおの事、という風に強く解すると、多少理窟っぽくなるおそれがある。
 いい句とは思わぬが、元禄の句はこういう種類の句でも、どことなく重厚なところのあるのに注目しなければならぬ。

たけ高き法し見らるゝ競馬かな    草籬

 勝負事に熱心な人たちの狂奔する今の競馬ではない、五月十五日に行われる賀茂の競馬の句である。
 競馬を見る群集の中に、目立ってたけの高い法師がいる。皆の視線は自らそれに集る。見る人たちの側を主とせずに、法師を主にして「見らるゝ」といったのである。競馬そのものを描かないで、見物の中の或人間を中心とするような手段は、写生文家の得意とするところであるが、この句も期せずしてそういう点を捉えている。
 この句を読むと、『徒然草』の一節を思い出す。賀茂の競馬を見に行ったら、おうちの木に坊主が上って、木のまたのところで見物していた。木につかまりながら眠りこけて、落ちそうになるかと思うと、ハッと目をさましてまた眠り出す。見物がこれを見て嘲る、という話である。その坊主は木の上にいるのだから、別に大きいとも小さいとも書いてない。「長高き」というのはこの句の働きで、実景から得たものかも知れぬが、競馬の群集中に法師を点じたこと、皆がこれを見るというあたり、あるいは『徒然草』から脱化したのではないかという気もする。

卯の花のちるや流れぬ池のさび    従吾

 水錆みずさびの浮いた池水の上に、岸の卯の花がこぼれる。しずかな、陰鬱なような光景が眼に浮んで来る。池の水は必ずしも流動する性質のものではないが、場所によっては自ら他と相通ずるものがある。この池はそういうこともなしに、じっとたたえているらしい。
「池のさび」はしばらく水錆の意に解したが、「池の寂び」とも見られぬことはない。ただ卯の花の散るということに対しては、水錆の方がいいかと思う。

濁江にごりえ漬木つけぎの陰のかきつばた    東賀

 濁江の水に材木がひたしてある。浮ぶともなく浮んでいるその材木の陰に、燕子花かきつばたの花が咲いている、というのであろう。
 われわれの燕子花に関する感じは、伝統的に庭園に捉われ過ぎている。こういう自然の趣は、ただ燕子花らしい句を案出しようとする者の、所詮逢著し得ざる世界である。この句の強味はそこにある。

尼寺にみそする音やほとゝぎす    除風

 小さな尼寺であろう。朝か夕かわからぬが、ゴロゴロと味噌を摺る音が聞える。何処かでほととぎすが啼くという意味らしい。音に音を取合せるのは、効果の薄い方法のようにも思われるが、古人はしばしばこの手を用いている。一概に排し去るべきではあるまい。
 味噌摺る音だけでは平凡であるが、尼寺というので一種の興味を感ずる。ほととぎすとも何となく調和を得ているようである。

草の戸やむしろたたケばぎやう/\し    為重

 この筵は何の筵かわからぬが、上に「草の戸」とあるから、不断敷いている筵ではあるまいかと思う。バタバタ筵を叩く音がする、行々子ぎょうぎょうし即ち剖葦よしきりが啼く。これも音と音との取合せである。
 尼寺に味噌摺る音とほととぎすの声とは、必ずしも似通にかよっているわけではない。ただし趣の上に或調和がある。筵を叩く音と行々子の声とも、やかましい点では多少共通するかも知れぬが、似ているということは出来ない。わびしい趣が感ぜられる。

ほとゝぎす鳴や山田の日和虹    捨石

 昼のほととぎすらしい。日和虹というのは、雨も降らぬのにかかる虹をいうのであろう。後の俳書に「日和虹」という名のがあったかと記憶する。山田の空には鮮に日和虹がかかり、ほととぎすの啼き渡る声がする。さわやかな感じの光景である。
 俳人によって開拓されたほととぎすの世界はいろいろあるが、最も多いのは配合の句で、それだけまた相似たものになりやすい。その点からいうと、この句の如きは配合物の上で明に伝統を破っている。実感にあらずんば得難い趣であることは言をたぬ。

笠はみなうたにかたぶく田植かな    松葉

 笠を著連れた早乙女さおとめが一斉に歌をうたう。その時笠が皆傾いて見える。同じような姿勢の下に田植歌がうたわれるというのであろう。
「早乙女の笠かたぶけてうたひけり」とか、「うたふ時かたぶく笠や早苗取さなえとり」とかいう風にいった方が、意味はよくわかるかも知れぬ。ただ「笠はみな哥にかたぶく」というと、表現が力強いのみならず、一斉に笠の傾く様子が眼に浮んで来るように思う。

振たてゝ柳にちるかがり    林陰

 鵜飼というものは実際を見たことがないから、はっきりしたことはわからぬが、舟がやや岸に近いような場合であろうか。鵜匠の振立てる松明たいまつの火の粉が岸の柳に散りかかる、という意味らしく思われる。何となく爽な趣である。
 鵜飼を詠んだ句の多くは、鵜もしくは鵜匠に集注する。この句は鵜匠の働きを描いて、多少変った方角から見たところに特色がある。柳に散る篝火は美しいのみならず、涼しい感じをさえ伴っている。

川狩かわがりや樽あづけたる宿はあれ    朋水

 川狩というと必ずしも昼夜を限定せず、夜振よぶりというと夜の場合に限られる。この句は川狩を終えたら一杯やるつもりで、樽を預けて置いた、その宿は彼処あそこだといって指すような意味だから、昼の場合のように思われる。しかし遥に灯火か何か見えて、あれがあの家だというものとすれば、夜の場合でも差支ない。現在この句が描いているところは、それだけの動作に過ぎぬが、その裏には出がけに樽を預けたということや、川狩をしている間に自ら移動して、その家から遠くなったということや、川狩が済んだら一杯やろうということや、いろいろなものが含まれている。写生文を圧縮したような句である。

かたばみの花の盛や蟻の道    如此

 かたばみの花は大して見どころのあるものではない。恐らく俳句以外、在来の詩歌の類には顧みられぬ種類のものであったろう。本当の道ばた、市井の家の垣下などにも咲いているものだけに、町中まちなかに育ったわれわれにもこの草は親しい記憶がある。小さい胡瓜きゅうりのような形の実に手を触れて、そのはじけるのを喜んだ幼い日のことを思い出す。
 ひでりにめげぬかたばみの黄色い花のほとりに、ほそぼそと蟻の道が続いている。花も小さければ、それに配した蟻も小さい。炎天の下にじっとかがんで見入ったような小さな世界が、この句に収められているのである。

短夜みじかよの碁を打分うちわけ名残なごりかな    喜重

 人が来て碁を打つほどに、夏の夜はずんずんけて行く。更けて行くばかりではない、もうしらしらと明けるのではないかという気がする。先刻から何番打ったかわからぬが、未だ勝敗が決しない。名残惜しいけれども、このまま打分にするという句意である。
「名残」という言葉は無論碁の上にかかっている。同時に心持の上において、明やすき夜に通うところがある。そこにこの句の巧があるのであろう。

虫干やつづみにたゝく書物箱    此山

 曝書ばくしょというと書物のみに限られるようだが、虫干といえば包含する範囲が広くなる。この句は虫干の中における書物の場合である。
 本箱に入った書物を皆出して、からになったのをポンポンたたく。それを鼓に見立てたのである。「鼓に」は「鼓の如くに」の意であろう。虫干の最中に興じて鼓の真似をしたとまで解さなくてもいい。ほこりを払うために背中からポンポン打つ。それを鼓を打つようだ、といったものと見ればよかろうと思う。
 本箱といわずに書物箱といったのは、字数の関係とも見られる。しかしこういう風に置かれて見ると、書物箱という言葉は言葉で、本箱とは違った味いを持っているような気がする。

笈摺おいずりをかけて涼しやなぎの枝    自笑

「熊野道中」という前書がある。これが熊野道者どうじゃふうであることは、狂言の小歌にも「ここ通る熊野道者の、手に持つたも梛の葉、笠にさいたも梛の葉、これは何方いずかたのおひじり様ぞ、笠の内がおくゆかし、大津坂本のお聖様、おゝ勧進聖ぢや」とあるによって明であろう。ただこの句がやや明瞭でないのは、作者は熊野道中にあって、こういう道者の姿を描いたのか、作者自らも道者の群に加っているのか、という点である。
 手にも梛の葉を持ち、笠にもさして通る。青い梛の葉をかざす道者の姿を涼しと見た、とも解することが出来る。この場合はすべてが客観の涼しさである。そういう道者の一人として、笈摺をかけ、梛の葉をかざして見ると、身も心も涼しくなったような気がする、という風にも解することが出来る。この場合は大分主観の加った涼しさになる。いずれにしても道者の姿ということは動かぬのであるが、「熊野道中」という前書といい、「笈摺をかけて」の語が身に近く感ぜられるところから見て、後者と解するのが妥当ではあるまいかと思う。
 去来にも自ら順礼に出た経験があったらしく、「卯の花に笈摺寒し初瀬山」「順礼もしまふや襟に鮓の飯」というような句が伝わっている。自笑もあるいは自家の経験によってこの句をたのかも知れない。

涼しさやたもとにあまる貝のから    一琴

 海辺の土産に貝殻でも持って帰るような場合かと想像する。袂に入れた貝殻が相触れて鳴る音も涼しいが、長いこと波に洗われて真白になっている――動物というよりも石に近い感じの貝殻であることが、涼しさを加える所以ゆえんらしく思われる。
「袂にあまる」という言葉は、「うれしさを何にたとへむから衣袂ゆたかにたてといはましを」の歌以来、つつむに余るというような主観的の場合に用いられやすい。この句は実際袂に余るほど多くの貝殻を獲たのであろうが、それに伴ううれしさというものも陰に動いている。少くとも作者はそれを意識して「袂にあまる」の語を置いたのであろう。

谷水に松葉の浮てあつさかな    一楊

 谷川というと、考えただけで淙々そうそうの音が耳に迫るような感じがするが、一概にそうきめてかかるわけにも行かぬ。あまり深くない谷の、暑さ続きに水の乏しくなったところなどは、そう涼しい趣ではない。この句はそういう小景を描いたのである。
 石の間に捗々はかばかしくは流れぬような水がよどんでいる。そこに散った松葉が、これも流れずに浮んでいる。「清滝や浪に散り込む青松葉」というような背景なら、大に涼しかるべき松の落葉も、かえって暑そうな感じになるのは、谷そのものの感じが涼しくないためである。俳人はこういう景色に対し、つくろわざる真実を描いているのが面白い。

蚊屋つるに又ふまへけり鋏筥はさみばこ    流志

「旅行独吟」という前書がある。金属の鋏という字が書いてあるが、普通の挟箱、即ち箱に棒を添え、衣服などをれて僕に担わせて行くものの意であろう。金扁に拘泥して鋏を入れる筥ではないかなどと考えるのは、少々思いすごしである。
 蚊帳を釣るに当って釣手が高いため、何か踏台になるものはないかと思って物色した結果、挟箱を利用することにした。或旅宿でこういう経験を得たら、暫くしてまた同様のことを繰返す機会に逢著した。「又」の一語によって、その旅行の何日か続いたこともわかれば、同じ旅中に何度か挟箱を踏台にしたことも窺われる。
 一種の簡易生活であるが、その簡易も旅中より生れたものであることに注意しなければならぬ。「旅行独吟」の前書がないと、その点を看過するおそれがある。

たつあか障子しょうじの朝みどり    左次

「明り障子」というのは、或特別な障子を指す場合もあるらしいが、普通は今いう障子のことである。ガラス障子というような、更に明るいものの出現した今日から見れば、紙障子を「明り障子」と号するのは、いささか僣越の沙汰であろう。しかしこれが明り障子として通用するためには、一方に明るくない障子のあった時代を顧みなければならぬ。障子といえば子供が指で破るものときめてかかる時代になっては、かえって「明り」の語が何か特別のものの如く考えられる虞もあるからである。
 晴れ渡った朝空の色か、新緑の庭木の色か、あるいは両者合体した色でも差支ない。紙の障子に外面からそういう色がさすという、如何にも初夏の朝らしい爽快な感じである。「朝みどり」の語はこのまま朝と解すべく、浅緑の意味もあるなどという穿鑿せんさくはしない方がいい。

ほとゝぎす啼や子共こどものかけて来る    紫道

 この二つの事柄には元来関連はないのである。ほととぎすが啼く、向うから子供が駈けて来る、ということを取合せたので、今ほととぎすが啼いたからといって、誰かに知らせに来たわけではない。ただ関連のない二つの事柄をこうやって一句に収めて見ると、必ずしも離れ離れのものとも思われぬ。ほととぎすの倏忽しゅっこつな感じと、子供が駈けて来る動作との間に、自ら相通ずるものがあるのである。
 この駈けて来る子供の姿は、やはり見えていた方がいい。その点からいって、この句は真昼間でないにしても、とにかく夜でない、明るい間のほととぎすであろうと思う。

葉のふとる一夜々々や煙艸苗    釣壺

 畠に作った煙草でもいいが、昔のことだから、庭の隅か何かに生えた苗と見ても差支ない。ぐんぐん伸びる煙草苗が、一晩ごとに目に見えて大きくなる。葉の大きい、たけの高くなる植物だけに、その育ち方も著しく感ぜられるのである。平凡なようであるが、煙草苗ということは動かし難い。

見世はいて一人居るや更衣ころもがえ    助然

「居る」は「オル」ではない、「スワル」とよむのである。鴎外博士の小説には坐すという場合に、「据わる」と書いてあったように思う。「スワル」という言葉から考えると、そう書く方が正しいのかも知れぬ。今の人には手扁があった方がわかりいいが、感じからいえば「居る」の方が適切なようでもある。
 あまり大きな店ではなさそうである。自分で掃除をして、綺麗になった店の中に一人で坐って見る。丁度冬の衣を脱いで、軽いあわせに著更えた爽快な時節である。自ら満足したような気分が窺われる。この場合「一人居る」者はどこまでも作者自身――即ちこの句における主人公で、他人が坐っているのを傍観したのでは面白くない。

子規鯉の子うみにのぼる時    水颯

 この句におけるほととぎすは、現在啼いているものと見ないでもよろしい。ほととぎすの啼く頃という、漠然たる季節の感じである。ほととぎすがしばしば啼き渡る頃になると、水中の鯉も子を産むために上って行く、という事実を叙したのであろう。一句に纏められて見ると、そこに自然な面白味が感ぜられる。
 蘇東坡そとうばの詩に「竹外桃花三両枝。春江水暖ナルハ鴨先※(「くさかんむり/婁」、第3水準1-91-21)ろうこうチテ蘆芽短まさ河豚スルノラント時」というのがあった。季節による魚族の動きは、江辺垂釣すいちょうの客の関心事であるばかりではない。自然を愛する詩人に取ってもまた好個の題目でなければならぬ。さすがに俳人は伝統的なほととぎす以外に、こういう消息を解している。

五月雨さみだれや夕日しばらく雲のやれ    魯九

 長い五月雨の間の或状態を句にしたのである。来る日も来る日も五月雨で、鬱陶うっとうしい限りではあるが、朝から晩まで全く降り通すわけではない。時明ときあかりというやつで、今にも晴れそうな気配を見せることがある。夕方などは殊に天末てんばつが明るくなって、雲の間から夕日の光がほのめいたりする。しかしそのまま日が暮れると、相変らずの五月雨になるのである。
 沼波瓊音ぬなみけいおん氏の句であったか、「入日雲見えしもしばし皐月雨さつきあめ」というのがあったと記憶する。晴れそうになって晴れぬ状態は、この「しばし」といい「しばらく」という語に尽きるように思う。真の梅雨晴つゆばれでないこともまたこの語がよく現している。こういう自然の現象には、古今の相違があるべくもない。

卯の花やむかひから来る火のあかり    林紅

 この卯の花は路傍にでも咲いているのであろう。卯の花の白々と目立つ闇の道を、向うから誰か来る灯が見える、というだけのことらしい。
 もしこの「むかひ」が向い家の略で、今いう「おむこう」などというのに当るとなると、前の解釈は全然違って来る。庭の垣根か何かに卯の花があって、それに向い家の灯がさすものとすれば、それもまた一の趣たるを失わぬけれども、この場合の「来る」という語には、どうしても或動きがある。ただ灯がさすものとは受取れない。
 尤も前の解釈にしても、単に灯が向うから来るだけでなしに、その灯の明りが卯の花にさすことを認むべきであろう。夜目にもしるき卯の花だけでは、「あかり」というのがあまり利かぬおそれがある。

手拭も動く小風やしゆろの花    呂風

 手拭懸の手拭が動く程度であるから、大した風ではない。作者はそれを「小風」という語で現した。漢語を用いれば微風というところであろう。そういう繊細な景色に対して、一方にはどっしりした椶櫚しゅろの花を点じている。この句の妙味はたしかにそういうコントラストにあるが、同時にあまり風もない、よく晴れた初夏の庭前の様子が描かれていることも、固より見遁みのがすことは出来ぬ。

わか竹に麦のほこりや日の盛    吏全

 季題本位の人たちにこんな句を見せたら、何に分類していいかわからぬというであろう。若竹、麦埃、日盛と三つも季題が含まれているからである。しかし自然は季題のために存在するものでない。時として他の季節の風物と交錯することさえあるのだから、同じ季節のものが重なる位は怪しむに足らぬ。自然の上に立って見れば、立派に存在する光景なのである。
 初々ういういしい若竹の緑に、どこからか麦を打つ埃が飛んで来る。明るい日のかんかん照りつける日中の趣である。若竹も麦打も初夏の風物であるが、「日の盛」という言葉は普通には盛夏の場合に用いられているかと思う。その点あるいは季題論者から文句が出るかも知れぬ。しかし「日の盛」を日中もしくは真昼間まっぴるまの意とすれば、この光景は一幅の画として通用する。已に二つまで季語がある以上、そう「日の盛」に拘泥する必要はあるまいと思う。

陣貝じんがいの声のつよさや雲の峯    十丈

「陣貝」というのは陣中で吹く貝のことである。貝の音にも種々の区別があるのは、今の喇叭らっぱと同じであろう。実際の戦陣で貝を鳴らす場合を、空想的に描いたとしても悪くはないが、元禄の句のことだから、やはり実感と見るべく、従って演習的の陣貝と思われる。
 雲の峯は山の如く夏日の天にそびえ立つものだけあって、時に或音響が配合される。明治の句にも、「突き当る鐘の響や雲の峯」「雲の峯に響きてかへる午砲かな」などというのがあった。この陣貝の音は必ずしも雲の峯に当って反響する、という風に解さなくてもいい、雲の峯の強い感じと、陣貝の音の強い感じとが、配合の上に或調和を得ているまでである。

すゞしさや月ひるがへすぬり団扇うちわ    祐甫

 月下に涼んでいる場合であろう。灯火などは傍にないので、月光を受けた塗団扇が涼しく光る。団扇をひるがえす度に、一面に受けた月の光もひるがえるように感ずる。「月ひるがへす」という言葉は際どくもあり、多少誇張を免れぬが、或感じは慥に捉えているようである。
 昔の通人は屋根船を綾瀬川あやせがわまで漕ぎ上せて、月下の水に向って開いた銀扇を投げる。地紙の銀泥が月光を受けて、きらきら光りながら水に落ちるのを興じたものだという。ただ月に対するのみで満足せず、月光のうつるのを賞翫しょうがんするすさびらしい。月光を受けた塗団扇は銀扇ほど美しくはないが、月を受けて光る点だけは普通の団扇と違う。作者はそこに興味を持ったのであろう。
 尤も団扇は古来月のまどかなるにたとえられている。団扇をひるがえすのを月に見立てたのだ、という解釈も成立たぬことはない。しかしそれでは肝腎の塗団扇ということが格別かぬように思う。やはり前解に従って置きたい。

すもも盛る見世みせのほこりの暑かな    万乎まんこ

 果物というものはいずれかといえば涼しい感じを伴うようである。しかし果物にもより、また場所の関係もあるから、いつでも必ず涼しさを連想させるとは限らない。店先に李がうずたかく盛上げてあって、それに埃がかかっているなどというのは、どうしても涼を呼ぶ趣ではない。暑い方の感じであろう。作者はそれを率直に描いたのである。
 芥川龍之介氏の句に「漢口」という前書で「一かごの暑さてりけり巴旦杏はたんきょう」というのがある。この暑さは巴旦杏の色を主にしたのかも知れない。しかしこの一籃の巴旦杏を前にして、漢口の市街を想像すると、むっとするような暑さと、大陸のほこりとが無限にひろがって来るような気がする。即ち感じの上において、どこかこの句と相通ずるものがある。

裸身に蚊屋の布目の月夜かな    魚日

 灯火を置かぬ場合であろう。月の光が室内にさし込んで、蚊帳に寝ている人に及ぶ。裸の上に蚊帳の影が落ちて、布目がはっきり見える、というのである。夜更よふけらしいしずかな趣が想像される。
 長塚節氏の『はりの如く』の中に「四日深更、月すさまじくえたり」という前書があって、「硝子戸を透して※(「巾+厨」、第4水準2-8-91)かやに月さしぬあはれといひて起きて見にけり」外二首の歌がある。魚日の句はガラス戸のない時代だから、月は戸のひまか、窓からでもさし入るものと思われるが、長塚氏の歌は月のさす蚊帳かやに重きを置き、魚日の句はその蚊帳に入っている自分の姿が主になっている。歌と句との相異はその辺にもあるのかも知れぬ。
 この句と殆ど同じところをねらったものに、「手枕や月は布目の蚊屋の中 智月」というのがある。「手枕」と「裸身」ということ、「月は布目の蚊屋の中」といい「蚊屋の布目の月夜かな」という表現の上にも、男女の相違は現れているが、時代は智月の方が先んじている。こういう趣が偶合するのは怪しむに足らぬとしても、布目の月ということに対する先鞭の功は、智月に帰せなければなるまいと思う。

おちくぼのさうしめでたや土用干    桃先

 土用干の本の中に『落窪物語』があったというだけでは、元禄の句としても単純に過ぎるが、この句には「おちくぼのさうし、大伯母おおおば妙貞の娵入よめいり道具の一つとかや」という前書がついている。前書と相俟あいまってこの句を見れば、一概に単純といい去るわけには行かない。
 ここに『落窪物語』の草子がある。その本は大伯母に当る妙貞という婦人が、嫁入の時に持って来たものであるという。妙貞は剃髪後の名であろうが、まだ存生であるのか、没後の話か、この句だけではよくわからない。いずれにしても大伯母である人が嫁入したのだというのだから、随分古い話である。作者は土用干の中にこの書を見出して、そういう由来を思い浮べ、今更の如く過ぎ去った歳月を考える。すべてが淡々と叙し去ってあるにかかわらず、短篇小説でも読むような連想を与えずには置かぬ。句そのものの力より、前書に現れた事実の興味によるのであろう。
 嫁入道具の中に『落窪物語』があったということは、大伯母妙貞の人柄なり、生れた家柄なりを考えさせるものがある。書誌学者ならば、この時代の草子についても必ず説があることと思うが、われわれは「めでたや」の一語からその体裁を想望するだけで満足したい。

客人に水汲おとや夏の月    吾仲

 水は有力な夏のもてなしの一である。客人のために水を汲ませる。身体を拭く水か、飲む水か、そこまではわからぬが、汲むのは水道でなしに井戸だから、つめたいことは請合うけあいである。中七字が「水汲せたり」となっている本もある。「水汲おとや」とある以上、主人自ら汲むのでなしに、誰かに汲ませているので、特に汲ませると断るにも及ばぬかと思う。けれども「汲せたり」という言葉が、単に人をして水を汲ましむるにとどまらず、汲ませた水をそこへ運んで来るという動作を含むとすれば、その点は多少違って来るが、そこまで連想を働かすのが果して正解であるかどうか、疑問なきを得ない。
 水は目に訴える場合ばかりでなく、耳に訴える場合にもまた涼味を伴う。「音」の一字はこの場合、相当重要な役目をつとめている。

子をうんで猫かろげなり衣がへ    白雪

 おなかの大きかった猫が子を産んで、身も軽げに見えるという事実と、更衣をして自分の身も軽くなったという事実とを取合せたのである。句の表は猫が主になっていて、更衣は景物のように見えるけれども、猫の身を「かろげ」と観ずる根本は、更衣をして快適になった作者の気分にある。季節の上からそれが一致することはいうまでもない。
「子をつれて猫も身がるし……」となっている本もあるが、これだと単に子を産んだという事実だけでなしに、その子を連れてそこらを歩いているという猫の動作が加って、句の上の景色が多少複雑になって来る。いずれにしても、そういう軽快な猫の様子と、更衣の気分とを併せて一句の趣としているのである。

山ごしの豆麩とうふも遅し諌鼓鳥かんこどり    怒風

「豆麩」というのは豆腐のことである。腐の字は感じが悪いというので、泉鏡花氏などは「豆府」と書いていたが、古人はしばしば「豆麩」の字を用いているかと思う。
 山を越した向うの里から豆腐を売りに来る。その大凡おおよその時間がきまっているのであろう。もう来そうなものだと思うが、なかなかやって来ない。どこかで閑古鳥かんこどりの声がする、という山里の光景である。「諌鼓」の字が当ててあるが、「諌鼓苔深うして鳥驚かず」などという面倒な次第ではない。俳諧季題の一員たる閑古鳥が啼くのである。
「ほとゝぎす自由自在に聞く里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里」とかいう天明の狂歌があった。ほととぎすに不自由しない里は毎日の生活に不自由するという概念的の歌で、一読して誰にも合点は行くようなものの、そういう里の情景は一向躍動しないうらみがある。この閑古鳥の里も、豆腐屋へ二里あるか、三里あるかわからぬが、作者はそういう方角から眺めずに、自分をその里の中に置いて、山越に来る豆腐屋が遅いという点だけを描いた。閑古鳥に豆腐を配するなどというのは、俳諧でなければ企て得ぬところであろう。

飛石の間やぼたんの花のかげ    介我

 牡丹園とか何とかいう場所でなしに、普通の庭の牡丹と思われる。飛石と飛石との間の土に、牡丹の花の影がうつっている。日ざしの関係であろうが、作者はそこに興味を感じたものらしい。大きな花だけに花の影もはっきり地上にうつるのである。
「花に影」となっている本もあるが、牡丹の花に影をうつすとなると、飛石以外の何者かでなければならぬ。それは句の上に現れておらぬから、何の影か想像に困難である。「花のかげ」の方がいいと思う。

さは/\と風の夕日や末若葉    魯九

 夕方の景色である。若葉のこずえに明るく夕日がさして、さわやかな風が吹渡る度に、きらきらと光りながらひるがえる。『武蔵野』にある「林影一時にひらめく」とか、「木葉このは火の如くかがやく」とかいうような盛な感じではない。明るい中にも一脈の陰影と寂しさとを伴った光である。「さは/\」という言葉の現す風は、そう強い性質のものとも思われぬ。
「若葉吹風さら/\となりながら」という惟然いぜんの句は、若葉の風の爽な感じを主としたものであるが、時間は句の上に現れず、眼に訴える分子があまり多くない。魯九の句は「夕日」の一語があるため、斜陽の光の中に翻る若葉の梢が、直に眼に浮ぶように感ぜられる。夕日の若葉などというものは、いずれかといえば洋画的風景で、当時としては新しい世界を窺ったと見るべきであろう。
 明るいとか、光とかいう文字を使わないのは、昔の句の含蓄ある所以ゆえんであるが、今の人はこれでは満足しないかも知れない。

白南風しらはえや風吹もどすしゃの羽織    沙明

 沙明というのは筑前黒崎の人である。助然がこれを訪ねて別るるに当り、沙明は船まで送って来て別を惜んだ。その時示したのがこの句で、「下のかたより青鷺のこゑ」という脇を助然がつけている。
 白南風というのは近年白秋氏が歌集に名づけたりしたので、比較的人の耳目に熟しているかと思うが、黒南風と並んで梅雨中の天象の一となっている。古来いろいろな解釈があるらしいけれども、梅雨に入って吹くのをクロハエ、梅雨半に吹くのをアラハエ、梅雨晴るる頃より吹く南風をシラハエという『物類称呼ぶつるいしょうこ』の説に従って置く。いずれにしても空の明るさを伴う梅雨時の現象であることは間違ない。
 船まで送って来て別を惜む。ようやく晴に向わんとする梅雨の空から来る風が、しきりに紗の羽織を吹く。「吹もどす」の一語に惜別の情が含まれていることは勿論である。海の空は薄明るくなって、おのずから季節の移るべきを示しているのであろう。比較的大きな光景を前にして、小さな紗の羽織を描き、陰鬱の雲を散ずべき白南風に惜別の情を寓している。「下のかたより青鷺のこゑ」という助然の脇も、折からの景物と思われる。普通に景中情ありなどという平凡なものではない。実景実感の直に読者の胸に迫る句である。

うたゝねのかほのゆがみや五月雨さつきあめ    釣壺

 五月雨に降りこめられたつれづれにうたたねをしている人がある。ふとその顔を見ると、どういうものか歪んで見える。そこに或寂しさを感じた、というのである。
 病人などでなしに、うたたねの人であるところがこの句の面白味である。少し老いた人のような気がするが、必ずしもそう限定せねばならぬというわけではない。

蜀魂ほととぎす啼や琴引御簾みすの奥    吾仲

 作者はこの場合、御簾の外にいるものと思われる。ほととぎすが啼き渡る、御簾の奥では今琴を弾きつつある、という情景である。
 必ずしも平安朝の物語を連想する必要はないが、奥深い、大きな屋形であることは疑を容れぬ。琴を弾ずる人は恐らくほととぎすの声が耳に入らぬのであろう。『虞美人草』の文句にある通り、「ころりんと掻き鳴らし、またころりんと掻き乱」しつつある。
 音に音を配合するのは、一句の効果を弱めるという人があるかも知れない。しかしそれは御互にき過ぎて、相殺作用を起す場合の話であろう。この場合のほととぎすは琴を妨げず、琴もまたほととぎすを妨げない。作者は御簾の外にあって、両の耳に二つの声を収めるとすれば、その辺の心配はないわけである。

網打やとればものいふ五月闇さつきやみ    雪芝

 舟か陸かわからぬが、とにかく投網とあみを打っている男がある。ざぶんと打つ網の音が闇を破って聞えるが、人は黙々として打続けるらしく、五月の闇は濃くその姿をつつんでいる。ただ若干の獲物があった時だけ、「しめた」とか「今度は捕れた」とかいうのであろう。何も捕れなければ、黙りこくったまま、またざぶんと投網を打つのである。
 ひとごとか、誰か側にいるのか、それはわからぬ。何か捕れればその結果としてものをいい、獲物がなければ黙って網打つ動作を繰返しつつある。網の間に時々閃く銀鱗は、この場合さのみ問題でない。一句の中心をなすものは、闇中に動く黒い男の影だけである。「とればものいふ」の語は、後の太祇たいぎの句などに見るような使い方で、頗る働いているのみならず、これによって周囲の闇を一層深からしめている。他の如何なるものを持って来ても、この七字以上の妙を発揮出来そうもない。異色ある句というべきであろう。

みじか夜を皆風呂敷にいびきかな    除風

浪花なにわより船にのりて明石にわたる乗合あまたにて」という前書がついている。そういう船中の様子を句にしたのである。
 混雑した船の中で、ともかくも眠ろうとする。「風呂敷に」という言葉が多少不明瞭であるが、風呂敷を顔に当てて眠るか、風呂敷包を枕にするか、眠るに際して風呂敷を用いるという意味らしい。風呂敷包とすれば、やはり包の字が必要であろうから、ここは風呂敷をかぶって寝ると見た方がいいかも知れぬ。風呂敷に隠れた顔から鼾の声が聞えるなどは、短夜にふさわしい趣であろう。
 現代の夜汽車の中でも、往々これに似た光景に逢著することがある。昔の船は今の汽車ほど仕切がないから、「皆」という言葉を用いるのに都合がいいように思う。

世は広し十畳釣の蚊屋の月    怒風

 この上五字は今の人の気に入らぬかも知れない。しかし作者の主眼はむしろここにあるのであろう。
 世の観じようはいろいろある。人間の真に所有し得る面積は、坐って半畳、寝て一畳に過ぎぬという説を聞かされたことがあったが、そういう見方からすれば、十畳釣の蚊帳も大分広いことになる。いわんやそこに月がさして、のびのびと手足を伸して寝られる以上、「左右広ければさはらず」の感あることはいうまでもない。「十畳釣の蚊屋」というような、やや説明的な材料を活かすためには、時に「世は広し」の如き主観語を必要とする場合もあるのである。
 作者はこの蚊帳について月の外に何も点じておらぬが、いくら十畳釣の蚊帳だからといって、中に大勢人が寝ているのでは面白くない。仮令たとい一人と限定せぬまでも、「世は広し」と観ぜしむるだけの条件は具えていなければならぬ。蚊帳の広さ即世の広さだなどといって来ると、何だか少し理窟臭くなるけれども、作者がこの蚊帳の中に一の楽地を見出していることは事実である。この句を味うためには、どうしても蚊帳の中に楽寝をしている作者の姿を念頭に浮べる必要がある。

吹おろす風にたわむや蝉の声    如行

 句の上に場所は現れておらぬが、先ず山がかったところと想像する。上からサーッと風が吹きおろすと、山の木が一斉になびいて、鳴きしきっていた蝉の声が、一瞬吹きたわめられるように感ぜられる、というのである。
 この風は烈風とか、強風とかいう種類のものではないが、一山の木々が葉裏を見せて翻る程度の風でなければならぬ。蝉は風によって鳴声を弱めるわけではない。風声によって蝉声が減殺されるようになる。それを「たわむ」という言葉で現したのが、作者の技巧であろう。「吹落す」となっている本もあるが、「落す」では前のような光景は浮んで来ない。「吹おろす」でなければなるまいと思う。

野はづれや扇かざして立どまる    利牛

 元禄七年五月、芭蕉が最後の旅行に出た時、東武の門人たちが川崎まで送って行った。芭蕉が別れるに臨んで「麦の穂をたよりにつかむわかれかな」と詠んだ、その時の餞別はなむけの句の一である。
 芭蕉の姿はだんだん小さくなって行く。立って行く芭蕉も、見送る門弟も、これが最後の別になろうとは思いもよらなかったに相違ない。じっと姿の見えるまでは立って目送する。今ならハンケチを振るところであろうが、元禄人にはそんな習慣がない。立止ってかざす扇の白さが目に入る。別離の情はこの一点の白に集っているような気がする。
 芭蕉翁餞別という背景がなかったら、この句はそう注意をく性質のものではないかも知れぬ。俳人が別離の情を叙するに当ってみだりに悲しまず、必ずしも相手の健康を祈らず、不即不離のうちに或情味を寓するの妙は、この句からも十分受取ることが出来る。

蚊遣火かやりびや道より低き軒の妻    百里

 路傍に道より低い家があって、蚊遣を焚いている。単に「道より低き」といっただけでは、概念的であることを免れぬが、軒の端が道より低いというによって、その印象が明瞭になると共に、相当低い地盤に建った家であることがわかる。例えば土手の下にある家の如く、道を行く人は到底その内を窺い得ぬ程度のものであろう。
 そういう低い家から濛々たる蚊遣の煙が立騰たちのぼる。ひさしの深い、薄暗い地盤の低い家が、この趣を大に助けているから面白い。

箒木ははきぎの倒れふみ立すゞめかな    配力はいりき

 この箒木は歌人がしばしば伝統的に用い、其角あたりも句中に取入れて読者を煙に巻いた「その原やふせやにふる箒木」の類ではない。草箒くさぼうきの材料になる、ありふれた箒草のことである。
 風に吹折られたか、人に踏折られたかして倒れている箒木がある。それを雀が踏むまではわかっているが、「立つ」という言葉は二様に解せられる。雀がその倒れた箒木を踏えて立ったというのか、踏んで飛立ったというのか、二つのうちであろう。踏えて立つということにすると、雀の身体も小さいし、足も細過ぎて少々工合が悪いが、飛立つ場合なら特に「ふみ立」というのが念入のようである。ここは雀も小さい代りに、箒木も大きなものではないから、倒れた箒木に雀がとまっているのを、「ふみ立」といったものと解して置く。勿論雀の性質として、そう長くじっとしているはずはない。一度踏えて立ったにしろ、やがてパッと飛立つことは明であるが、それはこの句としては余意と見るのである。
 眼前の写生で、しかも相当こまかいところを捉えている。雀も箒草も平凡な材料であるにかかわらず、この観察は必ずしも平凡ではない。

川風や橋に先置まずおく蛍籠    陽和

 現代の風景とすると、蛍売が荷をおろしたような感じがするけれども、元禄の句だから、そんなこともあるまい。蛍狩に行った者が川端へ出て、夜風の涼しい中にたたずみながら、手に持った蛍籠をちょっと橋の上に置いた、というのであろう。
 方々蛍を捕って歩いた挙句、橋のところへ来かかったものとすると、この籠の中には蛍の光が点々として明滅していなければならぬ。これから出かける途中ならば、まだ獲物は入っていないわけである。その辺は作者が明示していないのだから、読者の連想に任せて差支ないが、籠は蛍用のものであるにしても、全然入っていなくては寂し過ぎる。少しは蛍が入っている籠を点ずることにしたい。ただし橋に出たのは蛍狩の目的でないので、偶然そこへ来たら川風が涼しいため、蛍籠を橋の上に置いて暫く佇んでいるものとすればいいのである。

くらがりに目あけてさびしなく※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)くいな    万乎

 ふっと目がさめた。あたりは真暗である。何時頃かわからぬが、どうも夜半らしい。今と違って時計の刻む音も何も聞えず、天地は真暗であるのみならず、極めて闃寂げきせきとしてしずまり返っている。
 その暗い、ひっそりした中に水※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の声が聞えた。戸をたたくという形容を持込んで、誰かがたずねて来たかというような連想を働かす必要はない。ただ真暗な夜の中に目をさました人が、闃寂たる天地の間に水※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の声を耳にしたまでである。「さびし」という言葉は、四隣闃寂たるだけでなしに、これを聞く人の心の問題でもなければならぬ。

行馬の水にいなゝく夏野かな    游刀

 炎天下を馬に乗って行く場合と思われる。鞍上あんじょうの人ももとより咽喉のどが渇いているであろうが、馬も烈日の威に堪えず、あえぎ喘ぎ歩みつつある。広漠たる夏野にさしかかって、どこで水に逢著するかわからぬ。そのうちに馬は前途に水あることに勘づいたと見えて、急に元気よくいなないた。鞍上の人もホッとして馬を急がせる、という風にも解することが出来る。
 しかし再案するに、この馬は鞍上の人となった場合に限る必要はない。馬を曳いて共に夏野を歩みつつあるのでもよさそうである。「水にいなゝく」という言葉も、前途に水あることを馬が直覚したというほど、特別な場合と見ないで、現在水に逢著して嬉しげに嘶いたとしても差支ない。ただこの句に必要なのは、炎天に渇し夏野に喘ぐ人と馬との間の親しい心持である。路傍の人として馬を見送る態度でさえなければ、他はしかく限定するに当らぬであろう。

夕がほにあぶせて捨る釣瓶つるべかな    臥高

 ちょっと見ると釣瓶を捨てたようであるが、如何に物資不足の世の中でないにしろ、そうやたらに釣瓶を捨てるはずがない。釣瓶の中の水を捨てたのである。
 釣瓶から水を飲むような場合であろう。汲上げた水がまだ大分釣瓶に残っている。その水を井戸のほとりの夕顔に、ざぶりと浴せて捨てたというのである。一杯の水もむだに捨てず、植木の根にやるという峨山がざん和尚の話は、結構であるに相違ないが、下手に俳句の中へ持込んだりすると、かえってその妙を発揮しなくなる。井戸流しへぶちまけてしまわずに夕顔に浴せれば、一味の涼はそこに生れる。俳人はこの程度の効果を以て足れりとすべきであるかも知れぬ。

ほとゝぎすなくや夜鰹はつ鰹    孟遠もうえん

 ほととぎすに鰹の配合というと、必ず素堂の「目には青葉山時鳥初松魚」が持出される。あまり判でしたようだから、一つこういうのを持出して見た。
 素堂の句は視覚、聴覚、味覚を併せて、首夏しゅかさわやかな感じを尽しているので、解釈するのに便宜であるが、この孟遠の句はそれほどはっきりしてはいない。ほととぎすが啼く頃夜鰹が来る、その夜鰹即初鰹だという風にも解せられる。それほど狭く限定しないで、「夜鰹はつ鰹」は「富士の霧笠時雨笠」というような、一種の調子を取った言葉と見ても差支ない。いずれにしても「夜」がほととぎすの啼く夜であるだけはたしかである。
 この二句を対照して見ると、素堂の方は三つの官覚を併せているだけに、首夏の趣は十分であるが、一句から受ける印象は、感じの上にぴたりと灼きつくというよりも、事実の上でなるほどと合点するところがある。ほととぎす啼く夜の鰹は、その場所とか、背景とかいうものが一切塗潰ぬりつぶされているにかかわらず、やはり実感に訴えて来るものを持っている。
 しかしこの句からすぐ新場しんばの夜鰹などを持出して、むやみに江戸ッ子仕立にすることは、恐らく見当違におわるであろう。孟遠は肩書に僧とあるからである。但初鰹の作者は必ずしも鰹の賞味者ばかりに限らぬ。この一句によって直に孟遠をなまぐさ坊主にする必要もなさそうに思う。

雨に折れて穂麦にせばきこみちかな    尺艸

 雨の降る日に穂麦畑に沿うた径を通る。麦の穂先が地に折れ伏しているため、径の幅が狭くなっている。その狭い径を雨にそぼ濡れながら行くというのである。
「雨に折れて」というと、雨のために穂麦が折れたもののように聞えるけれども、実際は雨中の径に穂麦の先が折れ伏している、という意味であろうと思う。穂麦に雨を点じて、こういう小景を描いているのが面白い。折れ伏した穂麦を踏むまじとして、雨に濡れながら径を行く足のうすら寒さまで、この句から窺い得るような気がする。

葉桜のうへに赤しや塔二重    唯人

 印象的な句である。
 葉桜の緑と、丹塗にぬりの塔との配合が、色彩の上からはっきり頭に残るというだけではない。樹木の緑と建築物の赤との対照は、日本においてはむしろ平凡な景色に属する。この句において特筆すべきものとも思われぬ。
 五重塔か、三重塔かわからぬが、多分前者であろう。丹塗の塔の上二重だけが、葉桜の上に見えている。この句が平凡を脱するのは「塔二重」の一語あるためである。近代の句ならば、こういう観察も敢て珍しくないかも知れぬが、元禄期の句としては注目に値する。「塔二重」をもう少し平凡な語に置換えて見れば、その差は自ら明瞭であろう。
 満目の葉桜の上に丹塗の塔が姿を現しているのを、やや遠くから望んだ景色と見ても悪くはないが、葉桜の茂った下に来て、梢に近く丹塗の塔を仰ぎ見た場合とも解することが出来る。新緑や青葉若葉でなしに、特に葉桜と限ったところを見ると、あまり遠望でない方がいいかも知れぬ。

若竹に晴たる月のしろさかな    魯九

 この句には前の「葉桜」のような、こまかい観察はない。特に「晴たる」と断ったのは、今まで降っていた雨が晴れて、すがすがしい月が出たという意味であろうか。三日月や半月では、どうもこの景色に調和しない。磨きたてたような円い月でありたいように思う。
「しろさ」というのがこの句の眼目である。この一語によって、晴れたばかりの月の新しい感じ、その光の明るさも眼に浮んで来る。実感につながる言葉は、一見平凡のようでしからざるものがある。

麦秋や弘法顔の鉢チ坊    巴龍

 表を汚い道心坊どうしんぼうの通るのを見て、さてさて小汚い坊主だと内儀がいうのを、滅多なことをいうな、弘法様かも知れぬ、と主がとがめる。坊主が立どまって、南無三あらわれたという。さてもさても太い坊主だ、弘法様かも知れぬといったら、あらわれたとぬかしたというと、坊主が「またあらわれた」という笑話がある。この句を読んで第一にあの話を思出した。
 弘法大師が今も世に存在して随所に現れる、ということは一般に信ぜられていた。大師と知らずに麁末そまつに取扱ったため、その家が後に非運に陥ったというような話も、いろいろ伝わっている。前の笑話はそういう漠然たる信仰を種に使って、ちょっとおどけたところに面白味があるが、巴龍の句にはそれほど曲折はない。麦秋の頃に鉢坊主がやって来る、それが如何にも弘法大師然たる顔をしている、といったのである。「弘法顔」という言葉は、自ら弘法を以て任じている場合にも使われるが、もしそんな手合てあいがあれば、必ず山師にきまっている。この句は作者が殊更にそう見たので、大師に関する伝説を頭から肯定したというよりも、むしろその鉢坊主を多少揶揄やゆするような気分で、「弘法顔」といったものではないかと思われる。
 鉢坊主は托鉢たくはつする乞食僧の俗称である。「鉢チ」と「チ」の字を送ったのは、「ハッチ」と読ませるためであろう。

毛氈もうせん達磨だるまに著ルや五月雨    白雪

 弘法が出たから、大師の因によって達磨を出したわけではない。全く偶然である。
 五月雨の時分には、あわせに羽織を重ねてもまだ寒いことがある。この句は五月雨に降りこめられた人が、肌寒いままに毛氈を頭から被って、つくねんとしている、その形が達磨のようだ、という意味らしい。その毛氈が赤ければ、いよいよ達磨に近いわけであるが、そこまでの穿鑿せんさくは無用であろう。
 この場合、達磨の如しとか、達磨に似たりとかいったのでは、いささか平凡になる。画にかいた達磨のような形に毛氈を被るということを、「達磨に著る」の一語で現したのは、奇にしてかつ妙である。寒夜毛布を被って机に対する経験は、われわれも持合せているが、他からこれを見る時は達磨然たるものであることを、この句によってはじめて合点した。
 見立みたての句ではあるが、別に厭味に陥っていないのは、「達磨に著るや」といってのけたためであろう。他人の姿を見た句でなしに、自己の姿を客観したもののような気がする。

はつ蚊屋に網うつ真似や小盃    呂風

 秋の蚊帳、蚊帳名残、蚊帳の別というような句は、今でもしばしば逢著するが、初蚊帳という句はあまり見たことがない。しかし蚊帳の別を惜む俳人が、蚊帳を釣りはじめるに当って、年々新な感興を覚えるのは当然であろう。袷の中に初袷というものを認めるならば、蚊帳の中に初蚊帳があってもいいわけである。
 古人が蚊帳の釣りはじめを詠んだ句については、前にも記したことがあった。ただ「はつ蚊屋」という言葉はなかったように思う。この句は蚊帳を釣りはじめた時の、浮れたような気持を現したので、その点は前に述べた句と大差ないが、小盃という道具が加っているため、つい浮れ方の度も強くなって、網を打つ真似などもするに至るのであろう。蚊帳の布目の影や、自らその中に身を置くことなどから、自然連想が投網とあみにも及ぶのであるかどうか。

つり初に寝て見る昼の蚊帳かちょうかな    惟斗

 この句は前の句ほど浮れたところはないように見える。しかし試に釣った蚊帳かやの中に、わざわざ入って寝て見る。昼間のことで昼寐をする目的でもなさそうなのに、わざわざ中へ入って寐て見るというのは、やはり気分の動きが認められる。逸興という言葉はぴったり当嵌あてはまらぬかも知れぬが、何か興の字のついた気持であることはいうまでもない。
 年々歳々釣る蚊帳、厭うべき蚊を防ぐ道具の蚊帳であっても、釣りはじめの際にそういう気持が起るというのは、人間の生活に何らかの変化を必要とする所以ゆえんであろう。蚊帳に興ずる子供の気持と同じようなものが、大人の脈管にも流れているのである。俳諧の面白味は、そうしたものを端的に捉えている点にもある。蚊帳の釣りはじめも、蚊帳の別も、夏中毎日釣る場合と同じく、何の感興もかぬという人があるならば、それは仮令たとい十七字の詩は作っても、真に俳諧の趣を解する人ではない。

白雨ゆうだちの滝にうたすやそくいた    孟遠

 今のヤマトのりが一般に普及する前は、子供が何かる場合も、ひめ糊がなければ続飯そくいを用いたものである。われわれは自ら続飯を作る技に習熟するより早く、ヤマト糊の類が手に入るようになったから、へらを執って飯粒を練った経験をあまり持合せていないけれども、昔の家には必要に応じて糊を作るため、続飯用の板と箆とが備えてあったものであろう。
 続飯を練ったあとの板は、たちまちにこびりついてかちかちにこわばってしまう。だからなるべく早く洗い落す必要がある。この句は「滝」という字を用いてはあるが、勿論本物の滝ではない。夕立によって軒から滝のように水が流れ落ちる。その水の落ちるところに続飯板を置いて、洗い落そうというのである。
 夕立の句としてはたしかに一風変った趣であり、俳人の観察の意外な辺に及んでいる一証にもなる。「白雨の滝」という言葉は少々無理だという人があるかも知れぬが、率直に読めばそのまま受取り得るように思う。

うちくらみ夕立すなり隣村    江橋

 一天にわかにかき曇って、今にも夕立が来そうになった。隣村の空は真黒な雲が垂れて、もう降っているらしい。それを「夕立すなり」といったのである。
 自分は此方こちらにいて隣村の空を望んでいるのだから、「夕立すらし」という風な言葉を用いるべきところかも知れぬが、それでは調子が弱くなって、隣村まで迫った夕立の勢は現れない。ここはどうしても、「夕立すなり」と現在の景にしなければならぬ。
「おほひえやをひえの雲のめぐり来て夕立すなり粟津野の原」という真淵まぶちの歌は題詠であろうが、「おほひえやをひえの雲のめぐり来て」という調子がなだらかなため、夕立らしい勢が浮んで来ない。江橋の句は「うちくらみ」の一語によって、直ぐ近くまで迫った夕立の空気を描き得ている。「夕立すなり」の語に効果があるのもそのためである。

旅泊
魚煮たる鍋あらためよ茄子汁なすびじる    使帆

 或人が寺で造る精進しょうじん料理がうまいといって感心したら、野菜を煮る鍋と腥物なまぐさものを煮る鍋とを別にして御覧、といわれたそうである。肉食に慣れて腥臭を意とせぬわれわれは、平生はさほどに感じないけれども、時に純粋なる精進料理――未だかつて腥物を知らぬ鍋で煮た精進料理を味ったら、やはり讃歎の声をおしまぬかも知れない。
 この句は旅宿で出された茄子汁に、何となく腥臭のまつわっているのを感じて、これは何か魚を煮た鍋で作ったに相違ない、茄子汁の場合はやはり別の鍋を用いた方がいい、といったのであろう。もっとも「あらためよ」という言葉は、旅宿の主人に注意したとまで見なくても差支ない。作者の独語でもいいわけである。「あらためよ」といったところで、必ずしも別の鍋を使うということには限らぬ。魚を煮たあとはよく吟味しろ、という意味でもよかろうと思う。
 作者は熊本の助成寺の住僧だそうである。平素純粋な精進料理に慣れているため、鍋の移り香が気になったものらしい。旅宿の茄子汁を一口すすって、眉をしかめているような様子まで連想される。

蝙蝠こうもりや日は今入て雲のあか    一彳

 赫々かくかくたる太陽が漸く西に沈んで、雲は一面紅になっている。日はもう落ちたが、全く暮れるにはまだ間がある。そういう空を蝙蝠が翩々へんぺんとして飛びつつある、という句である。
 近頃では夕焼というものを夏の季題にしているが、炎威が烈しいだけあって、夏の夕焼が最もめざましいように思われる。佐藤春夫氏も『田園の憂鬱』の中に、夏から秋への夕焼の推移を述べて、「空の夕焼が毎日つづいた。けれどもそれはつい二、三週間前までのようなただれた真赤な空ではなかった。底には深く快活な黄色をかくしてうわべだけが紅であった。明日の暑さで威嚇する夕焼ではなく、明日の快晴を約束する夕栄ゆうばえであった」とあるのが、そのかんの消息をよく伝えている。炎暑にあえぐ人は秋の到ることをよろこぶにしても、夕焼本位に見れば、明日の暑さで威嚇する時期が全盛の名に値するのであろう。
 蝙蝠は昼と夜との境目を自分の舞台としてしきりに飛廻るが、われわれの受ける感じは、いずれかというと幽暗な方に傾いている。この句はそういう感じに捉われず、夕焼雲だけを配したところが面白い。古人は別に季題として取上げはしなかったけれども、夏の夕焼の美しさは十分に認めていたのである。

やねふきが我屋ねふくや夏の月    夕兆

 屋根葺は自分の職業上、昼間は他人の屋根で仕事をしなければならぬ。もし自分の家の屋根を葺こうとすれば、仕事のない時か、夜にでもやるより仕方がない。この句は夏の夜の涼み仕事に、屋根葺が自分の屋根を葺いているていである。
 夏は井戸掘より涼しきはなく、屋根葺より暑きはない。しかし夜になって涼しい月の照す下に、風に吹かれながら屋根の上で仕事をするとなれば、そう暑いことはないかも知れぬ。雨の降る心配がないのだから、今夜中に葺いてしまわなければならぬというほど、必要に迫られているわけでなしに、涼みかたがた急がぬ仕事をやっているように見える。そこがこの句の眼目であろう。
 職業はどうしても暑さを伴う。また職業である限りは、暑さの故を以て回避するわけには行くまい。ただ我家の事である間、そこに自由な涼しさを領することが出来る。そういう風に考えて来ると、いささか分別臭くなるおそれがあるが、俳諧は固よりしかく観念に終始するを要せぬ。現在夏の月夜に屋根で働く人を見、屋根葺が涼みながら自分の屋根を葺いているな、という点に興味を感じただけでいいのである。眼前の光景とすれば、多少の滑稽をも含んでいるような気がする。

敷つめてすゞし畳のの匂    野径

 新しい畳の句はすがすがしいものである。替えたばかりの畳の上に寐ころんでいると、如何なる熱鬧ねっとうちまたにあっても、生々たる自然の呼吸に触れるように感ずる。自然に親しい日本建築の一条件に算うべきものであろう。
 この句は洒堂しゃどうの『いちいおり』という集にあるので、洒堂が膳所ぜぜから難波へ居を移した記念のものである。従ってこの集の中には「鋸屑おがくず移徙わたましの夜の蚊遣かな 正秀」とか、「ふむ人もなきや階子はしごの夏の月 臥高」とか、「上塗うわぬりも乾や床の夏羽織 探芝」とか、新築気分の横溢したものがいろいろある。野径の句もその一で、新居の洒堂に寄せたものだから、自分が現在そういう青畳の上に寐ころんだりしているわけではない。涼しい藺の匂に満ちた洒堂の新居を想いやり、淡い祝賀の意を寓したものと見れば足るのである。野径は洒堂のそれまでいた膳所の人で、膳所と難波は遠距離でもない以上、親しく新居を訪れた際のものとしても差支ないが、強いて限定してかかるにも及ばぬかと思う。

昼の蚊に線香さびし草の庵    ※(「さんずい+(吝−口)」、第3水準1-86-53)

 今だとすぐに蚊取線香を連想する。しかし元禄の昔に、今のような蚊取線香があったとも思われぬ。そうかといって線香は仏前に供えたもの、蚊は蚊で別に飛んでいるもの、という風に切離してしまうのは少々惜しいようである。
 蚊遣というものの起原は知らぬが、蚊蚋かぶゆの類が煙を厭うところから用いはじめたとすれば、蚊遣専用のものが発明される以前にも、あらゆる煙が試みられたに相違ない。われわれがおぼえてからでも、くすのきかやの木片が蚊遣用として荒物屋に並んでいた外に、普通の木屑なども盛に用いられた。蚊火かひの煙などといって歌の材料になるのは、進化した専門的蚊遣でなしに、むしろ原始的な濛々たる煙の方ではないかと思う。
 この句の線香は坐禅観法の人の座辺に立てたものかも知れぬが、縷々るるたる香煙はなお多少蚊をしりぞける力を持っている。庵主は香煙のゆらぎにも心を乱さじとして端坐しつつある、昼の蚊のほのかなうなりが時に耳辺をかすめて去る、というような寂然せきぜんたる光景も、連想をたくましゅうすれば浮んで来る。畢竟ひっきょう「さびし」の語が蛇足にならず、或効果をもたらしているのは、この句が蚊取線香でなしに普通の線香だからである。

夕顔に筆耕書ひっこうかきの机かな    牧童

連翹れんぎょう一閑張いっかんばりの机かな」という子規居士の句ほど客観的ではないが、元禄の句としては最も客観的な部類に属するであろう。
 夕顔の花の咲いている窓先か、縁先えんさきかに机を据えて、筆耕書が何か写し物をしている、というだけのことである。今のように早く電燈がつかないから、夕暮の色が漸く濃くなるまで、※(「日/咎」、第3水準1-85-32)ひかげを惜しんで明るいところへ机を持出しているのではあるまいかと思う。

絵簾えすだれを分けて覗くやあやめ売    いん

 この「あやめ」は端午たんごの「あやめふく」のことであろう。手許の歳時記をしらべて見たが、「あやめ売」というものを挙げていないから、特別な行装をしていたわけでもなさそうである。苗売のように声を張上げて呼んで歩くのか、一軒一軒寄って行くのか、その辺もよくわからない。この句は或家の簾を分けて、「あやめはよろしゅう」というようなことをいってのぞいたところらしい。
 ただの簾、普通の売物であったら、さほどのこともないが、あやめ売が絵簾を分けて覗くというので、一種の情趣を生ずる。作者が女性であることも、この場合情趣を助けているように思う。宛然一幅の風俗画である、などというものの、あやめ売の風俗がよくわからないのではいささかたよりない話である。

編笠のおとがい見ゆる祭かな    朱拙しゅせつ

 祭の列にいる人でもあろう、編笠を深くかぶっているので、その顔は見えぬ。僅に頤だけが見える、というスケッチである。祭という背景については何も描かず、祭の中にある人の、そのまた一部を捉えて描く。昔の句にもこういう傾向がないでもない。
 笠を被っている人の顔は、帽子などと違って何となく趣がある。「山車だし引くと花笠つけし玉垂のくわ少女の頬忘らえね」という香取秀真かとりほずま氏の歌は、山車を引く花笠であり、くわし少女の丹の頬であるから、更に美しいけれども、朱拙の句も祭の句だけに、尋常の編笠とは同一に見がたい。但この編笠の主は、男性か女性か不明である。

外向に咲かたがるや卯木うつぎ垣    四睡

 垣根の卯木が外向に白い花をつけて、その花のついた方に傾いている、というだけの句である。「かたがる」は傾くの意であろう。作者は内側から卯木垣を見ている場合ではないかと思われる。
 卯木垣のことは知らぬが、山茶花さざんか薔薇ばらの垣根なども、花は外向についていることが多いようである。垣根の山吹なども外へ咲き垂れる。それが行人の目を所以ゆえんであり、子供が折って行く動機にもなる。この句は垣根の卯の花が外向に花をつけるという一事を捉えた外に、「咲かたがる」の語によって、卯の花の趣を活かしている。類型や概念を離れて、直に眼前の卯の花を描いている点に、その特色を認めなければならぬ。

青梅や桑とるうたの息やすめ    萬子

 桑摘にいそしむ女たちがしきりに唄をうたいつつある。さすがに咽喉のどがかわいたか、うたい草臥くたびれたかして、しばらく唄をやめた。その間に青梅を取って口に入れた、という意味らしい。この梅は桑圃くわばたけのほとりにあるか、はじめからたもとにでも忍ばせてあったか、その辺の消息はわからぬが、青梅は元来話だけでも渇に悩む兵士の咽喉をうるおす効能を持っているのだから、実際口にすれば架空の梅に百倍するものがあるに相違ない。
 野趣野情に富んだ句である。花がしばしば高士隠者に配せらるるに引きかえ、青梅は所詮仙家の食物にはならぬ。村嬢むらむすめが桑摘唄の間に用いるのは、適材適所というべきであろう。「息やすめ」の語もこの野趣野情に適しているような気がする。

家々の門や田植の仕舞歌    卯七

 その辺の田を植えおわって、各※(二の字点、1-2-22)自分の家へ帰って来る。その門口へ来たところで、もう一度田植唄をうたうという意味らしい。「仕舞歌」というのは、特にそういう唄がきまっているのか、ただ最後にうたうというだけでこういったのか、われわれにはよくわからない。
 柳田国男氏の『民謡覚書』によると、「田植唄は、最近の約三、四十年が衰亡期であった。もはや復活する見込もなく、また年寄の歌の文句や節を記憶する者も、次第になくなろうとしている」ということである。田植は年々歳々繰返されても、田園を賑わす田植唄なるものは、払拭したように消え去る時が来るのかも知れない。そういう時代から過去を顧ることになったら、この句などは注目すべき一材料たるを失わぬであろう。
 この句の眼目は「家々」と複数になっているところにある。夕暮近くなった田のに響いて、方々から田植の仕舞唄が聞えて来る。どこも無事に田植をおわったらしいという、一安堵したような気持も窺われる。この場合、黙々として家に帰るのでは、一日の疲が身に残るに過ぎまい。一くさりの唄が如何に心身を和らげ、慰安を与えるか。――この句の連想の中にはそんなことも浮んで来る。
『民謡覚書』には、田植唄は朝と昼と夕で、それぞれうたう文句を異にする、いよいよ日が暮れてその日の田植が終る前になると、「田の神あげ」即ち田神たのかみを送る唄が歌われたようだ、と書いてある。「仕舞歌」という言葉は用いられてないが、この場合もあるいはそういう種類の唄をうたうのかも知れない。とにかく机上の句案では容易に探り得ぬ趣である。

青柿や壁土こねて休み居る    旦藁たんこう

 この青柿は木になっているのか、地上に落ちているのかわからぬが、そのほとりに壁土がこねかけたままになっている、という即景を詠んだのである。青柿というと、自然樹頭にあるよりも、ぽたぽた地上に落ちている様が想像される。こねかけた壁土の中などにも落ちていそうであるが、それは想像に上るまでで、文字に現れているわけではない。
 ただ青柿とこねかけた壁土との間には、一種の調和がある。この調和は言葉で説明するのは困難だけれども、俳諧を解する者なら直に感じ得るはずである。上を「青柿や」といい放したまま「壁土こねて休み居る」と承けているあたり、むしろ近頃の句と相通ずる点があるかと思う。

蜘のいや蓮の巻葉のひらき時    長虹

『今昔物語』に蜂と蜘蛛くもと戦う話があった。一たび蜘蛛のとりこになったのを人に助けられた蜂が、仲間をもよおして蜘蛛をしに来る。蜘蛛は軒から池の蓮の上に糸を垂れ、更にそれから水際まで下っていたので、蓮の葉は隙間がないまで螫されても、遂に身を全うしたというのである。
 この句にはそんな因縁はない。ただ蜘蛛の糸が蓮の巻葉まきばにかかっている。その巻葉があたかも今開こうとしている、というので、「蜘のい」なるものに時間が含まれていないため、下の「ひらき時」という言葉と格別照応するものがないように思われるが、開こうとする蓮の巻葉に蜘蛛の糸がかかっている、というだけの意と解すべきであろう。この辺の表現はやはり元禄流に、大まかに出来上っているのかも知れない。
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深爪に風のさはるや今朝の秋    木因

 子供の時分爪をるに当って、よく深爪を取るな、と注意された。堅い爪におおわれた肉は、外のところのように皮が厚くないから、ちょっとしたことでも直ぐこたえる。これは爪を深く剪り過ぎたあとに風がさわる、という微妙な触感を捉えたのである。
「さはる」という言葉は、あまり巧な表現でもないが、この場合他に適当な言葉もなさそうに思う。そういうこまかい触感も、夏から秋への替り目だけに、特に感じやすいところがある。このかんの消息はこれだけの事実からただちに感得すべく、文字を以て説くことはかえってむずかしい。

はつ秋や青葉に見ゆる風の色    巨扇

 句としてはむしろ平凡な部に属するであろう。ただ秋の到るということを著しく感じ、著しく現す習慣のついている人は、この種の平凡な趣を見遁みのがおそれがあるのである。
 秋になったというものの、赫々かくかくたる驕陽きょうようは依然として天地にちている。木々のこずえも夏のままに青葉が茂っている。その青葉を渡る風に、自らなる秋を感ずる。「風の色」という言葉は、ちょっと説明しにくい。青葉を吹く風に秋を感じ得る者だけが、この「風の色」の如何いかんを解し得るに過ぎない。

寝酒のむ心や余所よそのをどり歌    春艸

 老情というものの窺われる句である。浮れて盆踊の列に加わる者は、必ずしも老若を問わぬかも知れぬが、夜のくることを構わずに踊るのは、やはり若人の世界であろう。そういうむれに入らぬ老人が、しずかに酒を飲んで、これから寝ようとしている。踊の歌はいつやむべしとも見えぬ、という趣である。
 この句には二個の異った世界が含まれている。寝酒を飲む老人と、その人の耳に聞えて来る踊の歌とは、あきらかに対立の姿でなければならぬ。歓楽から取残されたというよりも、歓楽を通り越したといった方が、むしろ適切であろう。この趣は書きようによればあるいは小説になるかも知れない。
「老にけり獅子の番して酒を飲む 瓊音」という句の世界が、ちょっとこの句に似ている。老の字を句中に点じないで、自ら老情を感ぜしむるのは、春艸の句の巧なる所以ゆえんであろう。

馬牛もしなびてかなし盆の果    如蛙

 馬も牛も実際の動物でなく、生霊棚しょうりょうだなに供えられた瓜の馬、茄子なすの牛であることは、註するに及ばぬであろう。苧殻おがらの足で突立ったその馬も牛も、いささかしなびて見える。盂蘭盆うらぼんはもう済んだのである。
 香取秀真かとりほずま氏の歌に「魂祭すぎにけるかも里川に瓜の馬流る蓮の葉流る」というのがあったかと記憶する。生霊のために役目を果した瓜の馬をんだものは、必ずしも少くない。この句はその「しなび」に目をとめたのが特色である。「かなし」という言葉も平凡なようで、やはりいているように思われる。

聖霊しょうりょうも露けき蓮の葉笠かな    吾仲

 魂棚たまだなに供えた蓮の葉を聖霊の笠に見立てたのであろう。こういう句は教室の講義式に説いて行くと、大分面倒なことになるが、聖霊の笠にかぶるものの方から考えれば、露けき蓮の葉笠以上に恰好かっこうなものはなさそうである。
 西鶴は『一代女』の終近いところで、「一生の間さま/\のたはふれせし」主人公が、無気味な幻影を見ることを描いている。即ち「蓮の葉笠を著るやうなる子供の面影、腰より下は血に染て、九十五六程も立ならび、声のあやぎれもなくおはりよ/\と泣ぬ」とあるので、『一代女』の挿画は後世の草双紙くさぞうしのように、物凄さを強調するものではないが、この蓮の葉笠の姿は何となく凄涼の気を帯びている。吾仲の句はそれほど恐しい幻を見ているわけではない。魂棚の灯に真青な蓮の葉を見て、これを笠に戴く聖霊の姿を漠然と感じているのである。

村雨むらさめも過ぎて切籠きりこのあらしかな    乙双

 村雨がばらばらと降って止んで、切子燈籠きりこどうろうに強い風が吹いて来た、というのである。勿論夜の景色であろう。暗い夜空から降る雨も、にわかに吹いて来る強い風も、盂蘭盆が背景であるだけに、他の場合とは自ら別個の感じを与えるところがある。

桐苗の三葉ある内の一葉かな    知方

 桐の苗木なえぎに葉が三枚ついている。そのうちの一葉がばさりと落ちた。こういう若木は秋の到ることを著しく感ずるものであるかどうか。三枚のうちの一葉を欠くのは、その小さな木からいえば重大な事件である。
『猿蓑』に「三葉散りてあとは枯木や桐の苗」という凡兆の句があった。同じような材料ではあるが、これは一葉ではない。僅に三枚しかない苗木の桐の葉が皆散ってしまって、あとは坊主の枯木になっている、というのだから、季節はもう少し後になる。漱石氏が『野分のわき』の中でたった一枚梢に残っている桐の葉が、風に揺られて落ちるところを細叙したのは、それを見ている病人の心持と相俟あいまつ点があって、必ずしも自然の写生ばかりではないが、季節からいうと凡兆の句に近いであろう。「三葉散りて」といったところで、続けさまに葉が三枚散ったわけではなしに、かつては三枚あった葉が三枚ながら散ってしまって、今は枯木になっているという、やや長い時間が含まれている。知方の句は現在三枚あるうちの一枚が落ちたので、それほど時間的な意味は認められない。句としては凡兆の方が複雑でもあり、力強くもあるが、桐の苗の三枚の葉を別な立場から扱った点に、われわれは或興味を感ずる。

根太ねぶとから先へ名乗や草すまひ    范孚

 相撲すもうを秋の季と定めるのは、大内おおうち相撲節会すまいのせちえに基くものとすれば、実感写生を重んずる今の俳人が、依然これにならっているのは不思議なようである。専門家の相撲は一月、五月と相場がきまって、他の季のものは問題にされていない。今なお秋に属するものがあるとすれば、むしろ草相撲の類であろう。国技館の鉄傘てっさんの下から、ラジオによって勝負の経過が放送される大相撲よりは、素人の草相撲の方が俳句の材料に適していることはいうまでもない。
 この句は草相撲の中の漫画的小景を捉えたので、何という名かわからぬが、根太(腫物)の出来た男があって、その方から先へ名乗った、という意味である。如何に草相撲でも、根太を以て名としたわけではあるまい。根太が印象に残ったから、「根太のある男」の略で、こういったものと思われる。

山領は法師ばかりの相撲かな    遅望

 変ったところを見つけたものである。一山の荒法師どもが集って相撲を取っている。どれを見ても坊主頭ばかりだということが、すこぶる奇異な感を与えたものらしい。
 断髪令以後の民は往々にしてこういう消息を見遁すおそれがある。「投げられて坊主なりけり辻相撲」という其角の句にしても、その坊主頭が異様に眼に映ることを考慮に入れなければならない。伊勢浜が脱走した後、坊主頭で土俵に登ったのが異彩を放っていたことは、われわれの記憶にもあるが、昔としてはなかなかそんな程度ではなかったろうと思う。坊主ばかりの相撲に至っては、たしか鳥羽絵とばえ中のものである。

七夕たなばたや庭に水打日のあまり    りん

 まだ日の暮れぬうちである。梅雨の明けきらぬ新暦の七夕では、古来の情趣は殆ど失われたに近いが、「文月や六日も常の夜には似ず」といった古人の感情からいえば、七夕の日の暮れるのは、今より遥に待遠しかったであろう。新涼の気が動いているとはいうものの、昼の間はなかなか暑い。その日影がまだ残っている庭に水を打って、二星の相見るべき夜を待つのである。
 七夕の句は二星に重きを置き過ぎるため、ややもすれば擬人的の弊に陥りやすい。七夕に関する行事も、人間扱にしてある点が面白いのであるが、あまり度々繰返されては、句として成功しにくいうらみがある。この句は「七夕や」といっただけで、格別七夕らしい何者も点ぜぬところが面白い。

蠅ひとつねられぬ秋の昼寐かな    松醒

 この句を読むと直に「蚊ひとつにねられぬ夜半ぞ春のくれ 重五」という句を思い出す。表から見た両句は殆ど相似ているといって差支ない。しかし句の心持には多少の相違がある。
 ぶんぶん唸って来る蚊一つのために眠ることが出来ぬというのは、来るべき夏の前奏曲であるが、顔に来る蠅一つをうるさがって、容易に昼寐が出来ぬというのは、去りやらぬ残暑の一情景である。両句は夏を中心にして、各※(二の字点、1-2-22)前後における人および虫を描いている。必ずしも類句としてのみ見るべきでない。
 芭蕉の「ひや/\と壁をふまへて昼寐かな」は、無名庵残暑の句であるという。こういう風な句を見ると、古人が季題に拘束されず、楽々と句を作っていることがわかる。「秋の昼寐」などは言葉も雅馴であるし、そう無理に取ってつけたような感じでもない。

たばこ呑煙影ある月夜かな    素人

 一見古句らしからざる内容を具えている。明るい月の下に吸う煙草の煙が、ほのかにただよわす影を捉えたのである。元禄俳人の著眼がかくの如き微細な趣にわたっているのには、今更ながら驚歎せざるを得ない。
 かつて白秋氏の『水墨集』を読んで、
月の夜の
煙草のけむり
匂のみ
紫なる。
という詩に、この人らしいあざやかな感覚を認めたことがあった。素人の句は表面に何ら目立たしいものを持っていないにかかわらず、悠々として月夜の煙草の趣を捉え、ほのかな煙の影をさえ見遁さずにいる。新奇を好む人々は、巻煙草をくわえたこともない元禄人が、容易にこの種の句を成すことを不思議に思うかも知れない。句は広くあさり、多く観なければならぬ所以ゆえんである。

一すぢの蜘蛛くものゐ白き月夜かな    独友

 張り渡した蜘蛛の糸が一筋白く月に見える。糸は元来一筋だけしかないのか、一筋だけ特に目に入るのか、それはいずれでも差支ない。ただ白く見えるのは月の光によるだけでなく、露の置いた関係もありはせぬかと思われる。
「露やふる蜘蛛の巣ゆがむ軒の月」という曾良そらの句は、同じ元禄時代の作だけれども、この句に比すれば繊巧な点において遥にまさっている。月のさす軒端のきばの蜘蛛の巣が、露の置くためにゆがむかと疑ったのは、「眉毛に露の玉をぬく」などというよりも、かえって静寂な夜の露けさを想わしめる。但その一面に幾分の際どさを含んでいるだけ、元禄期の句としては、この句の自然なるにかぬかも知れない。しかも月下に白い蜘蛛の糸は、煙草の煙の影ほど特異なものでないにしろ、大まかな観察者の眼に入る趣ではないのである。

三味線をやめて鼻ひる月見かな    関雪

 月見の座の小景である。今まで三味線をいていた人が、急に手を止めたと思うと、大きなくさめをした。本人にあっては滑稽でも何でもないであろうが、あわただしく三味線をやめて嚔をしたという事実には、たしかに或滑稽味が伴っている。くるに従って冷えまさる夜気が、自ら嚔をさそったのであるということは、余情の範囲として贅言ぜいげんを要せぬであろう。

鳴神なるかみのしづまる雲や天の川    桃鯉

 雷雨後の夜景であろう。今まで鳴りはためいていた雷は、天の一角にある雲中におさまってしまって、晴れた空には天の川が明に見える。単に雷雨の後の天の川ならば、取立てていうほどのこともないが、雨は已に晴れて、しかも一方には雷のおさまった雲がわだかまっているというところに、多少複雑な趣が窺われる。一朶いちだの雲は全く響を収めていても、雷の名残だけに何となくただならぬものがあるように思う。

耳かきもつめたくなりぬ秋の風    地角

 春先、電車に乗ったりすると、乗降に掴む金属の棒が、冬と違って暖くなっていることを感ずる。俳句の季題に「水ぬるむ」というのはあるが、「金温む」というのはない。季題になるならぬは別問題として、天地の春がそういう人工品にまで及ぶことは、季節を考慮する者の等閑に附すべからざる問題であろう。
 この耳掻の句は、天地の秋が人工の微物に到ることを詠んだのである。耳掻を取上げて耳を掘って見ると、夏のうちと違って冷たく感ずる。踏む足に縁のひややかさを感じ、寐転んで畳の冷かさを感ずる類は、必ずしも異とするに足らぬが、耳を掘る耳掻の冷たさは、けだし俳人の擅場ともいうべき微妙な感覚である。それが使い馴れた耳掻であることは、「つめたくなりぬ」の中七字によく現れている。

きり/″\す秋の夜腹をさすりけり    青亜

 必ずしも腹が痛いからさするのではない。長々し夜をひとり寝て、我と我腹をさすって見る。寝つかれない場合と見るか、夜半よわ寝覚ねざめと見るかは、この句を読む人の随意である。近々と鳴く蟋蟀こおろぎの声を聞きながら、しずかに腹をさする夜長人の姿を想い浮べれば、先ずこの句の趣を解し得たに近い。
「きり/″\す」といって更に「秋の夜」の語を添えるのは、蛇足のようでもある。少くとも「秋」ということは不必要のように思われるが、しずかにこの句を三誦すると、「秋の夜」の一語は贅字でないのみならず、長々し夜の趣を現す上に或効果を持っていることがわかるであろう。「秋の夜腹をさすりけり」という悠揚迫らざる言葉の上に、夜長の趣を感じ得ぬとすれば、俳句に対する味覚を欠いているものと断言して差支ない。

拍子木ひょうしぎのかたき音きく夜寒かな    ※[#「槿のつくり」、U+5807、258-14]

 これだけの句である。ただカチカチと打って通るのを「かたき音」と形容したのが、この句の眼目であろう。いわれて見れば何でもないようなものの、「かたき音」という一語は拍子木の感じを現し得て妙である。
 秋も夜寒になる頃から、夜廻りなどが拍子木を打って歩くようになる。もしくはそういう音に耳を傾けるようになる。すぐれた句でもないが、季節はよく現れているようである。

木犀もくせいのしづかに匂ふ夜寒かな    賈路

 木犀の題を課して作ったとしたら、恐らくこういう句は出来まい。夜寒の題を課したとしても同断であろう。しずかに匂う木犀の花と夜寒とがぴたりと一緒になって、すこしすきも見せないのは、実感によるより仕方がない。
 もう何年前の秋になるか、一週間ほど広島に滞在した時、雨戸を引かぬ障子しょうじの外の中庭に、木犀の木が何本かあって、朝夕その花の匂に親しんで過したことがある。この句を読んで直にそれを思い出したのは、筆者だけの勝手な連想に過ぎない。実をいえばその時の広島は、夜寒を感ずるには少し暖かったからである。この木犀は庭にある場合と限らず、路傍にあるものとしてもいいが、一句の趣を味う上からいうと、通りすがりなどでなしに、静止したやや長い時間が必要のように思われる。

伐透す藪より来たる夜寒かな    釣眠

 藪にあった木を何本か伐ったために、今までより大分あらわになった。その藪が家の周囲にある場合、今までよりも夜寒を強く感ずるというのは、さもあるべき事実である。髪を短く刈った時の感じにたとえたら、あたらずといえども遠からずということになりはしないだろうか。
 この句の主眼は「伐透す」の五字にある。「藪より来たる」の語は少し強過ぎて――如何に藪があらわになったにしろ、何だか工合が悪い。「伐透す藪」の夜寒をしみじみと感ずるが故に、「より来たる」の語によって、この句を棄てたくないまでである。

澄切てとび舞ふ空や秋うらゝ    正己

 秋晴の天を詠じたのである。春の空は「うららか」秋の空を「さやか」という風に限るのは歳時記に捉われ過ぎた見解で、芭蕉にも「我ために日はうらゝなり冬の空」という句があったと思う。自然を重んじた元禄の俳人は、晴れ渡った秋晴の天にも、しずかにいだ冬の日光の中にも、うららかな趣の存在することを看過しなかったのである。
 秋天の鳶はいずれかといえば平凡な景物であろう。鳶を主としないで、澄みきった秋天のうららかな趣を捉えたところに、この句の特色はある。

焼米やきごめや鹿聞菓子に夜もすがら    半残

 秋になって鹿の音を聞くなどということは、現代のわれわれにはあまり縁のない話になってしまった。芭蕉が「ぴいとなく尻声かなし」と詠んだ「奈良の鹿」は、今日でも聞くことが出来るが、古人は更に山野に棲息する鹿の声を聞こうとしたものらしい。蕪村も「ある山寺へ鹿聞きにまかりけるに茶を汲む沙弥しゃみの夜すがらねぶらで有りければ晋子が狂句をおもひ出て」という前書で、「鹿の声小坊主に角なかりけり」という句を作っているから、山中の寺までわざわざ鹿を聞きに行ったものと見える。
 半残のこの句は蕪村のような前書がないので、そういう点は十分にわからぬけれども、やはり「鹿聞き」の句であることは疑うべくもない。焼米を菓子として食いながら鹿の声を聞いた――もしくは一晩中鳴くのを待っていた、というのである。焼米を菓子にするということが、おのずから鹿の声の聞けるような場所を現しているように思われる。

干綿に落て音なきじゆくしかな    暮谷

 自ら枝を離れた熟柿が、綿を干した上に落ちる。柿が堅いか、下のものが堅いかすれば、音がするわけだけれども、柿も熟しており、下が柔い綿なので、何の音もしなかった、というのである。
 ちょっと変った場合を見つけたところに面白味がある。綿を沢山積んで置いて、その上へ高いところから飛下りたら怪我をせずに済むだろうか、というようなことを考えた少年時代を思い出す。

鰯ほす有磯ありそにつゞく早稲田かな    句空

 磯に続く此方は、一面の田圃たんぼになっていて、穂に出た早稲がそよいでいる。磯には鰯が干してある。烈しい秋の日が照りつけて、むっとするような干鰯ほしかの匂もあたりにみなぎっているに相違ない。
 芭蕉の「早稲の香や分け入る右は有磯海」という句は、海に近い稲田の比較的大きい景色と、その間をとぼとぼと行く芭蕉の旅姿を連想せしめるが、句空は「鰯ほす」の一語によって、その磯の様子を強く描き出している。北国作家の一人だから、舞台は無論同じところである。

何をする家とも見えず壁につた    其由

 壁に蔦などをわせて住んでいるが、必ずしも数寄者すきしゃというわけではない。この「何をする」という言葉は、蕪村が「こがらしや何に世わたる家五軒」といったほど強い意味の言葉でなく、素性のわからぬ、得体の知れぬといった程度のものと見るべきであろう。子規居士の「職業のわからぬ家や枇杷びわの花」という句が、ちょっとこの句に近いものを捉えている。

張声や籠のうづらの力足    山店

 籠に飼われたうずら一際ひときわ声を張って鳴く時に、足に力を入れる、というだけのことである。「張声」といい「力足」といい、言葉の上にもいささか前後照応するものがある。
 由来俳人はこの種の観察を得意とする。鶯の鳴く場合の描写がいろいろあることは已に記した。但この種の観察は、自然に活動する山禽野鳥の上には下しにくいので、画家の写生と同じく、籠中のそれを便宜とするわけであろう。この句も「籠の鶉」であることを、ちゃんと断っている。

きって日のさす寺や初紅葉    吾仲

 句意は隠れたところもない。竹を伐った明るい感じ、日のあたる寺、あたりの紅葉し初めた木々、というようなものは、そのまま一幅の画図である。
「肌さむし竹切山のうす紅葉 凡兆」という句は、竹を伐ることに紅葉を配した点で、やや似たような趣を具えているが、凡兆の句が蕭条しょうじょうたる山中の気を肌に感ぜしむるに対し、吾仲の句は絵画的にあたりの景色を髣髴ほうふつせしむるところがある。「初紅葉」といい「うす紅葉」といい、紅葉の色の濃からざることが、句中の趣を助けている点は、両句ともあまり変りがない。

秋の日や釣する人の罔両    雲水

「罔両」は「カゲボウシ」とよむのであろう。秋天の下に釣する人の影法師を描いただけの句で、今の人から見たら大まかに過ぎるかも知れない。しかしおもむろにこの句を再誦三誦して見ると、何となく棄て難いものがある。無心に釣を垂れている人の影法師は、春日でも面白くなし、冬日でも工合ぐあいが悪い。夏の炎天ではなおいけない。ただ一個の影法師を描いただけで、或うらさびしさを感ぜしむるのは、天地にわたる秋の気の力である。何の背景もなしに或空気を描き出すのは、こういう大まかな句の一特長とも見ることが出来る。

いもがすむたばこの花の垣根かな    春鴎

 煙草の花は美しいものである。妹の垣根に煙草が高くびて、美しい花をつけているなどは材料が新しいのみならず、眺としても面白い。「妹が垣根三味線草の花咲きぬ」という蕪村の句は、実景であったかも知れぬが、妹と三味線とが縁のあるものだけに、殊更にこういう想を構えたかという疑も起る。煙草に至ってはそんな関係は何もない。極めて自然である。
 煙草が官営になってから、もう四十年近くになるであろうか。煙草の製品が専売局以外にないのみならず、植えられた煙草の葉一枚といえども、いやしくも出来ないことになってしまった。何かの煙草の中に種子がまじっていたのをいて置いたら、煙草が生えて花が咲出したため、遂に見つかって罰金を取られた、という話を聞いたことがある。煙草花咲く妹が垣は、昔の夢とするより仕方がない。

秋寒し起て詠ル我まくら    諷竹

 閨怨けいえんの句と見るべきであろうか。『閑吟集』に「逢ふ夜は君が手枕、来ぬ夜は己が袖枕、枕余りに床広し、寄れ枕こち寄れ枕、枕さへうとむか」といい「とがもない尺八を枕にかたりと投げあてても、さびしや独り寝」という類、いずれも同じ情趣を伝えているが、季節は別に現れていない。諷竹の句は情を抒することが多くない代りに、「秋寒し」の一語を以て、我と我枕を眺めている人の姿をまざまざと描き出している。俳句と他の詩との行き方の相違は、この両者を比較しただけでも、多少の消息を窺い得るであろう。
「詠ル」は「ナガムル」とよむのである。自分の枕を眺むる態度は、やがて自己を客観する態度とも解せられる。

年々のもたれ柱や星迎    白雪

 縁側えんがわの柱などであろうか、七夕たなばたの夜二星を迎うる毎に、必ずその柱にもたれる習慣になっている。格別子細しさいがあるわけでもない、年々歳々同じ星祭の行事を繰返すうちに、自然そういう習慣を生じたのである。この句の裏面にはかなり長い時間が含まれている。
冬籠ふゆごもり又よりそはんこの柱」という芭蕉の句は、冬籠だけに柱に寄添う時間が長いので、柱に対してもあたかも人の如き親しみを生じているが、白雪の句にはそれほどの感情は含まれていない。むしろ「年々に松打つ柱古りにけり 虚子」などという句の方に近いかと思う。尤も年に一度の「もたれ柱」は星のちぎりと同じく、見様によってはかえって情味が深いことになるのかも知れない。擬人の弊に陥りやすい七夕の句としては、この程度に離れる必要があるのであろう。

麻の葉の露や夜明の星祭    八菊

「夜明の星祭」は夜明になって星祭をするというのではない、「星祭の夜明」と見たらよかろうと思う。「星別れむとするあした」である。
 麻の葉と星祭とは直接の関係がない。作者はあの青いあざやかな葉の上に、夜明に近い露を認めたまでである。もし七夕に直接の関係を持っていたら、この麻の葉の露もまた少しく擬人的なものに変化するおそれがある。露を何者かの涙と見る趣向は、和歌以来已に陳腐であるのみならず、星の別の涙となってはいよいよありがたくない。この句は飽くまでも客観の景色と見るべきである。

田へかゝる風のにほひや天の川    河菱

「田へかゝる」というのは、多分田にさしかかる意味であろう。道が田圃たんぼにさしかかって、さわやかな稲の匂を鼻に感ずる。空には月がなく、天の川が斜に白々と流れている、という趣らしい。
 漱石氏の『夢十夜』の中に、盲目の子供を負って闇夜を歩く話がある。背中の子が「田圃へ掛かったね」というので、「どうして解る」と聞くと、「だって鷺が鳴くじゃないか」と答える、果して鷺が二声ほど鳴いた、と書いてある。この場合の鷺の声は一脈の妖気をただよわす点においてすこぶる妙であるが、「田へかゝる」の句を読んだら、直にあの話を思い出した。但この句には妖気などはない。爽な闇と、稲の匂とがあるだけである。「田のにほひ」といって稲の香が連想されるのは、季節の詩たる俳句の特長であろう。

いなづまにはつと消たる行燈かな    窓竹

 理窟をいえば稲妻と行燈あんどんの灯が消えるのと、別に関係があるわけではない。ただ稲妻がぴかりとさす、行燈の灯がぱっと消える、という倏忽しゅっこつの感じを捉えたところに、この句の面白味があるのである。
 行燈の消えたのは油が尽きたためか、風でも吹いて来たためか、それはいずれでも差支ない。窓を射る稲妻と、ぱっと消える行燈とが同時でありさえすればいいのである。寸隙すんげきを容れぬ瞬間の印象がよく現れている。

接待やあくびがちなる昼さがり    畏計

 摂待というのは「仏寺あるいは街衢がいくにて往来の人に茶湯を施すこと」と歳時記にある。日は別にきまっておらぬらしい。
 この句は摂待する側の人を描いたものである。仏寺であるか、街衢であるか、それはわからぬ。通行の人は次から次へと来て、茶に咽喉のどを潤して去る。いずれむに任せ、飲むに任せてあるに相違ないから、摂待する側の人はただそこに詰めているものと思われる。昼下りは由来最も眠くなりやすい時刻である。秋の日といえどもその点に変りはない。もし残暑の去りやらぬ時分でもあればなお更であろう。摂待する側の人が閑殺されたような形であくびばかりしているというのも、たしかに同情に値する事実である。摂待の句としては変った種類のものといわねばならぬ。

いわし寄る波の赤さや海の月    桃首

 魚の大群たいぐんの寄せて来る時は海の色が変るという。それは昼間のことであろうが、月下にも同様であるかどうか、不幸にしてまだ見たことがないから、何とも断言は出来ない。月明の夜であったら、潮の色が変って見えるのかも知れぬ。この句はどうしても空想に成ったものではなさそうである。
「鰊群来」という言葉がしきりに俳句に用いられたことがあった。幸田露伴博士の説によると「クキル」というのは古い言葉らしい。「北海道では今、群来の二字をてるが、古は漏の字を充てている。にしんのくきる時はいでいる舟のかいでもでも皆かずの子を以てかずの子鍍金めっきをされてしまう位である」と書いてある。この句は群来の語を用いずに群来を描いたので、それだけ景色が大きくもなり、ゆとりがあるようにも感ぜられる。あるいは夜景のためかも知れない。

引網の魚えり分くる月夜かな    川鳥

「寄月漁父」という前書がある。題によって想を構えたものであろう。その点前の句とは多少の逕庭けいていがある。
 尤もこれは構え得べき想ではあるが、全然実感を伴わぬわけではない。引寄せた網の中から獲物を選り分ける。銀鱗溌剌として月光に躍る有様は、決して悪いことはない。ただ全体から見ていささか平凡なのである。月下の漁父についてこれだけの景色を描き出すことは、比較的容易なうらみがある。

湖に行水ぎょうずいすつる月夜かな    西与

「大津止泊のころ」という前書がついている。湖畔の家に泊って、行水をすました湯を月夜の湖に捨てる、というだけの事である。今の人だと仮令たとい同じ場合に臨んでも、「湖に」と大きな語を点ずることを敢てしないかも知れぬ。元禄の句の面白味はこういう大まかな所にもある。
 行水を捨てる句として最も人口じんこう膾炙かいしゃしたのは、鬼貫おにつらの「行水のすてどころなし虫の声」であろう。この水を捨てたら折角鳴いている虫が鳴きやむに相違ない、虫はそこら一面に鳴いているので、どこへ水を捨てていいかわからない、というのは思わせぶりの甚しいものであり、えせ風流である。この句が俚耳りじに入りやすいのも、全くこの思わせぶりのためで、俗人はこの種のえせ風流に随喜するかたむきがある。子規居士も「月見つゝ庭めぐりせばなきやまんゐながら虫の声は聞かまし」という歌を評して
「なきやまん」と想像語にする事歌よみの常ながら極めて悪し。箇様かようなる想像を風流と思ひ居れども、こはえせ風流にして却て俗気を生ずるのみ。庭を歩行あるいて虫が鳴きやみたりとてそれが不風流になる訳もあるまじ。寧ろ想像をやめて、実地に虫の鳴きやめたる様を詠む方実景上感を強からしむるに足らんか。……古歌の「渡らばにしき中や絶えなん」といふも悪し。それよりも、渡りて錦の絶えたる方面白きなり。
喝破かっぱしたことがあるが、これはそのまま鬼貫の句に該当すべきものである。行水の湯をざぶりと月の湖に捨てるの朗然たるにかぬ。
 泊雲氏の「暗き湖に何洗ふ音や行水す」などという句は、同じく湖畔の行水を題材としたものである。但大正年代だけに捉え所がこまかくもなり、複雑にもなっている。

名月や葛屋ののきのたりさがり    東夷

葛屋くずや」は『言海』を見ると、「くさや、かややニ同ジ」とあって、茅屋の字が宛ててある。葛という字に格別の意味はないのであろう。草家の軒の傾いた様を「たりさがり」といったものと思われる。月下に茅屋を見る場合ではない、茅屋の内に坐して名月を望む場合である。そうでなければ「たりさがり」という言葉が、あまりかぬことになって来る。
「明月の御覧の通り屑家かな」という一茶の句は、茅屋より更に進んで「けちな家」という貶意へんいを含んだものと思われるが、これを読むと、名月に対する「屑家」という対照的な考が先に立って、肝腎なその家の様子は一向眼に浮んで来ない。一茶一流の自嘲の気が強過ぎるためである。従ってこの句の裏には、御覧の通りの屑家ではあるが、名月を見るには何のさまたげもない、という底意が窺われる。芥川龍之介氏はかつて芭蕉と一茶とを比較して、
「明月や池をめぐりて夜もすがら」とは芭蕉が明月の吟なれども、一茶は同じ明月にも、「明月や江戸のやつらが何知つて」と、気を吐かざるを得ざりしにあらずや。
といったことがあるが、必ずしも芭蕉との比較において然るのみではない。茅屋に坐して名月を望むという狭い天地において、有名ならざる東夷の作と比較しても、その差はかくの如く甚しいのである。芥川氏は元禄人と一茶との差異を以て人生観の差異に帰し「元禄びとの人生は、自然に対する人生なり。一茶の人生は現世なり。今人の所謂『生活』なり。一茶を元禄びとと異らしむるは、この一点にありと云ふも誇張ならず」と断じたが、この解釈はここにも当嵌あてはまるべきものと信ずる。

名月や何に驚くきじの声    示右

 句意は改めて説くまでもない、極めて明瞭である。名月の光の下に、突如として鋭い雉子きじの声がする。あれは何に驚いたのであろうか、といったのである。
 月の光にうかれて鳴く阿房鴉あほうがらすの声は、平凡であるだけに無事である。寝ぼけた※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の声にしても格別のことはない。雉子の声は鋭いと同時に、どことなく尋常ならざるものがある。雉子をかしむる何者かのあることを想像させる。「何に驚く」の語の生れる所以ゆえんであろう。

つむ本の木口こぐちぞ古き秋の暮    旦藁たんこう

「木口」と書いてあるけれども、これは「小口」の意であろうと思う。座右に積んだ本の小口がことごとく古びている。作者は秋の暮に当って、その古い小口にしみじみと目をとめたのである。
 書冊を詠じた句の少からぬ中にあって、書物の小口に注目したものは、この句の外に「待春や机にそろふ書の小口 浪化」しか今記憶にない。きちんと揃えた書の小口に春を待つよろこびを感じ、積み重ねた書の小口の古びに秋の暮の寂しみを感ずる。いずれも俳諧の微妙な観察であるが、平日書物に親しむ者でなければ、容易にこの種の趣は捉え得ぬであろう。但この両句を比較すると、趣においては浪化の方がまさっているかと思われる。

猫の子もそだちかねてや朝寒し    元灌

 春から夏へかけて生れた猫の子は、造作ぞうさなく育つようだけれども、秋口になってからのは、次第に冷気が加わるためであろう、どうも育ちにくいようである。われわれも秋口の猫の子を貰って、何度かやり損った経験を持っている。
 この句の眼目は「そだちかねてや」の一語にある。子猫は死んでいるわけではない、何だか育ちそうもない状態なので、「そだちかねてや」と断定しきらぬところに、余情もあれば哀もあるように思う。そこがまた朝寒という時候に調和を得ているのである。

もず啼や竿にかけたるあらひ物    浦舟

 鵙の声はただちに秋晴の天を連想させる。しきりに啼き立てる鵙の鋭声と、竿にかけて干す洗濯物と相俟あいまって、明るい秋の日和ひよりを十分に現している。それだけに句としてはむしろ平凡だという人があるかも知れぬ。けれどもそれはその後において、この種の趣向がしばしば繰返されたためで、浦舟の句が出来た時分には、まだそれほどでなかったのではないかという気もする。

ひとつふたつ星のひかりや秋の暮    稚志

 しずかな、風もない秋の夕暮であろうと思う。暮れむとして未だ暮れきらぬ空の中に、一つ二つ星の光が見えて来る。かくしておもむろに天地は暮れて行くのである。
 この句を読むと、どうしても「夕暮に独り風吹く野に立てば、天外の富士近く、国境をめぐる連山地平線上に黒し。星光一点、暮色漸く到り、林影漸く遠し」という『武蔵野』の一節を想い出さざるを得ない。「星光一点、暮色漸く到り、林影漸く遠し」というほど、徐に暮れ行く秋野の天を、簡潔にしかも生々と描き得た文章は稀であろう。この稚志の句は武蔵野の如き平野の光景であるかどうか、それはわからないが、おのずからその間に趣の相通ずるものがある。
 秋の暮には由来伝統的な観念が附纏つきまとっている。「心なき身にもあはれはしられけり」とか、「その色としもなかりけり」とか、「花も紅葉もなかりけり」とかいう三夕さんせき糟粕そうはくめぬまでも、多くは寂しいということに捉われ過ぎるかたむきがある。「うき人を又口説くどき見む秋の暮」「君と我うそにればや秋の暮」というような句は、一見この単調を破り去ったようで、実は心底の寂しさを紛らそうとする声に外ならぬ。稚志のこの句が殆どすべてのものを離れて、一、二点の星のみによって秋の暮を描いたのは、この意味において異色ありというべきであろう。作者は何ら自己の主観を述べず、これ以外に何者の姿をも点じておらぬが、天地にわたる秋暮の気はひしひしと身に迫るように感ぜられる。

しら菊をのぞけば露のひかりかな    春曙

 白菊の大きな花――であろう――をのぞいて見たら、花に置くこまかい露の光が眼に入った、というだけのことである。この句の特色は、菊に対して何者も配せず、じっと菊の花だけを見つめた――覗き込んだところにある。この場合、赤菊でも黄菊でも面白くない、白菊ではじめて「露のひかり」が生きるのであるが、作者はそういう商量を経たのでなしに、自分の覗いたのが白菊であったから、そのままを詠じたのであろう。
 花の露というような句は、いずれかといえば美しい空想の下に詠まれたものが多い。この句はそういう類ではなさそうである。作者は白い菊の花と、それに置いた露の光の外、何も描いていない。読者もそれだけを眼前に髣髴ほうふつすれば足るのである。

暮がたや次第/\にしろき菊    薄芝

 幸田露伴博士の「心のあと」という長詩の中に「夜に入ってたゞ鶴白く、桃李隠れて梅残る」という句があった。これは「人やゝ老いて神を知り、世念失せて詩を思ふ」という句の前提として置かれたものだから、単なる叙景の句ではない。白い色のはっきり見える点からいえば、やはり日光の下が一番なのであるが、周囲がだんだん薄暗くなって、外の色彩が次第に力を失うに及び、白い色が最後まで残っている。「次第/\にしろき菊」はその感じを捉えたので、菊が白くなるのではない、夕闇が次第に濃くなったのである。
 鳴雪翁に「灯ともせばたゞ白菊の白かりし」という句がある。闇中に灯を点じて、ただ白菊の白きを見る方が印象もあきらかであり、句としては巧であるが、次第に夕闇に没する白菊の趣も棄て難い。元禄らしい自然なところがあるからであろう。

垣ごしや菊より出て長咄ながばなし    旦藁たんこう

 俳画的小景である。垣根の向うに菊が作ってあって、そこに菊作りの主がいる。菊の中から現れたその人と、思わずそこで長咄をした、という意味らしい。
「菊より出て」という言葉は、見方によって二様に解せられる。「畠より出で来る菊の主かな」の句のように、菊の咲いている中から出て来て話をした、という風にも見えるが、「春寒や砂より出でし松の幹」のように見ると、満開の菊の中からぬっと姿を現した、というようにもなる。垣越の人とはいずれ前からっているのであろう。何でもない話がつい長くなってしまったので、必ずしも菊のやっこたる主が得々として菊作りの苦心を語るというが如く、菊に即して考える必要はなさそうに思う。最初に俳画的小景といったのは、菊の中から姿を現した方の解釈である。かつてどこかでそういう画を見たような気がするほど、この趣は一幅の画として感ぜられる。
「畠より出で来る」式な解釈にすると、それから垣根のところへ歩み寄って、長咄に移る段取になるのであるが、作者は「菊より出て」といったのみで、長咄をする人間の何者であるかを明にしないのだから、これ以上は各自の想像に任すより外はあるまい。われわれはやはり菊の中からぬっと現れて話す俳画的小景に心をかれるのである。

稲づまや昼寐のまゝの蚊帳かやの外    二方

 昼寐の時に釣らせた蚊帳がそのままになっている。昼寐の人は一度起きて外へ出たのか、そのままぐっすり寝込んで夜に入ったのか、そこはわからぬ。もし一度起きたにしても、この場合はまたその蚊帳に入っているのである。そういう蚊帳の外に稲妻が閃々せんせんす。蚊帳の中の人は暢気のんきにそれを見ている、といったような情景が想像される。
 稲妻は秋の季になっているが、夏にもないことはない。蚊帳も昼寐も夏のものである。秋と夏との風物が交錯する初秋の空気がよく現れている。勿論雷を恐れて蚊帳に入っているわけではない。

大かたは踊おぼえぬふた廻り    一荘

 はじめて踊に加った場合らしい。うたにつれ、人の拍子につれて、見よう見真似で踊って行く。踊の輪の二廻りも廻った時分には、大方踊の手振もおぼえたというのである。
 踊の句には局外から見たものが多い。「一廻り待つ人おそき踊かな 尚白」などという句は第三者として踊の輪の廻るのを見る一例であるが、一荘の句は自ら踊の輪の中にあって、二廻りも廻っているところに特色がある。二廻り廻ってやっと踊をおぼえるあたりは、さすがに元禄人らしく、悠々たる趣があっていい。

秋風や葛屋はなれてひさごづる    英之

 葛屋のことは前に書いた。草葺くさぶき屋根の家にからんでいるひさごの蔓の末が、離れて虚空こくうにある場合を捉えたものであろう。
 必ずしも秋風のために吹き離れたものと解釈しなくても差支ない。葛屋も、それに絡んだ瓢も、その蔓の末も、ことごとく秋風の中にあると見ればいいのである。

日ぐらしの声にくつはく鞠場まりばかな    一琴

 蹴鞠けまりというものはどういう時間にやるものか、またどの位の時間やっているものか、その辺の知識がないからよくわからぬが、無識のままにこの句を解すると、ひぐらしの聞える夕方になって、そろそろ鞠でも蹴ようかという場合かと想像する。蜩も秋の季にはなっているが、これは夏のうちから鳴いており、東京あたりでは普通の蝉より早く鳴きはじめる。従ってこの句は秋ではあっても、まだ暑い場合と解釈してよさそうである。
 暑い日脚ひあしななめになって、そこらで蜩が鳴き出す。もう鞠場の日もかげって涼しくなったから、少し鞠でも蹴ようとして沓を穿く、という風に解せられる。もしこの蜩の声がそういう明るいうちのものでなくて、薄暮を現すものとすると、反対に鞠場を引上げることにしなければならぬが、「沓はく鞠場」という続き様は、鞠を蹴るために沓を穿くものと見た方が自然のように思う。要はこの句における蜩の鳴く時間と、沓を穿くことに対する解釈によって、自ら句意が異るわけである。蹴鞠についてもう少しはっきりした観念を得たら、この解釈はあるいはもう一度出直さなければならぬかも知れない。

朝顔よ一番馬の鈴の音    北空

 今の電車にしろ、バスにしろ、始発と終発の時間は大体きまっているから、昔の馬にもそういう定めがあったものと思われる。其角の「それよりして夜明烏や時鳥ほととぎす」という句が『己が光』には「夜明の馬や」となっており、馬としても解釈出来ぬことはない、ということは已に述べた。もしきまって夜明に出る馬があれば、恐らく一番馬の名に値するのであろう。
 朝顔の花が咲いている。しずかにその花に対していると、一番馬の通る鈴が聞えて来る。「駅路の朝顔」とでもいうべき題材である。明方の爽涼の気と、朝顔の花と、高い鈴の音と相俟あいまって三重奏の観を呈している。

稲づまや扇ひろげてたゝむ間    千甫

 倏忽しゅっこつの感じである。
 扇をひろげてたたむ、その短い間にさっと稲妻がさす。ひろげた扇をパチリとたたむ。その感じと稲妻の走る光とが句の上で一になっている。
 配合の句といえばそれまでであるが、いわゆる配合以上に或感じを捉え得ているように思う。

乗かけの荷をしめ直す野分かな    冬稚

「乗かけ」というのは乗掛馬のこと、本馬ほんまならば三十六貫の荷を負わせるところを、荷を二十貫に減じ、一人これに乗るの謂である。
 そういう支度で出かけたが、あまり野分のわきが吹きまくるので、途中で馬の荷を締め直す。必ずしも野分によって吹飛されるわけではないにしても、著けた荷を途中で締め直すところに、野分らしい或不安が現れている。
 昔の旅の心細さというものは、今日からは十分に想像出来ない。馬背にまたがって野分に吹かれ行く旅人の様子も、われわれの脳裏にはややもすれば画裡の眺の如く映ずる。「荷をしめ直す」の一語は、旅の実感から生れたところに、いうべからざる強味があるのである。

溜り江や野分のあとの赤とんぼう    従吾

「溜り江」という言葉はいささか耳慣れぬようであるが、水のあまり動かぬ、じっとたたえている場所らしく想像される。荒れに荒れた野分がやんで、しずかな水の上に赤蜻蛉が飛んでいるというのである。
 この「溜り江」なる水はそう深くもないし、かつ清澄なものとも思われぬ。蘆葦ろいのたぐいでも生えているようなところであろうか、そこに弱々しい赤蜻蛉の飛んでいる趣は、野分のあとの空気に極めてよく調和している。平凡に似て平凡ではない。下五字は「赤とんぼう」と延さずに「赤とんぼ」と詰った方がいいようであるが、あるいは字でこう書いても、発音する場合には詰るのかもわからない。

谷中はわたくし風に鳴子なるこかな    ウ白

私雨わたくしあめ」という言葉がある。或場所に限って降る雨の意らしい。芭蕉に「梅雨ばれの私雨や雲ちぎれ」という句があり、西鶴も「さて此所ここの私雨、恋をふらすかと袖ぬれて行ば」(『三代男』)「軒端はもろ/\のかづらはひかゝりてをのづからの滴こゝのわたくし雨とや申すべき」(『五人女』)などと使っている。更に後世になっても「あやしさの私雨や初紅葉」という嘯山しょうざんの句、「箱根山関もる人も朝ぎりのわたくし雨にあざむかれつゝ」という景樹かげきの歌など、これを踏襲したものがある。そこばかり降るのを「私雨」と称するのは、誰の創意に成る言葉か知らぬが、含蓄があって面白い。
 已に私雨という言葉が通用する以上、私風もあって差支なさそうである。外は風が吹くとも見えぬのに、ここの谷間だけ風が吹いて、谷田の鳴子がガラガラ鳴る。「私風」という言葉には、妖気というほどではないけれども、多少怪しい感じが伴っているような気がする。
 私雨という言葉から出発して、新に私風という言葉を造ったのか、地方的にこういう言葉があったものか、その辺の穿鑿せんさくは不案内である。いずれにしてもこの語を用いずに、これだけの感じを現すことは困難であろう。

月うすし河獺かわうそや取ル鮭の魚    蘆錆

 薄月夜うすづきよである。はっきりとも見えぬ水のくまに、何やらざぶんという物音がする。獺が鮭でも取るのであろう、という句意らしい。
 獺が魚を取るのに不思議はないといえばそれまでのようであるが、この句はたしかに妖気を含んでいる。水面がはっきり見え渡らぬのも、獺のふるまいにふさわしい。はっきり獺の姿を現さず、ざぶんという水音だけ聞かせて――それも句の裏になっている――想像に委したのも妖気を助けている。但そういう細工を意識して捏上こねあげた句でなしに、作者の実感から得きたったものであることはいうまでもない。

月代つきしろや煮仕舞たる馬のまめ    広房

 月代は「月白」と書いたものもある。月のまさに出でむとするに当って、東の空が先ず薄明るくなる、それをいうのである。中七字は「煮えしまいたる」と読むのであろう。
 秋の夜長に馬にやるべき豆を煮る。ぐつぐついい工合に煮えた頃、ほのかに東に月代が上って来た。やや遅い月の出汐でしおになったのである。一読しずかな農家の庭に立つ想がある。

そよ風に早稲わせの香うれしかゝり船    松雨

 平野の中を流るる江河えがわのほとりであろうか、岸近く繋いだ船に、さわやかな早稲田の香が流れて来る。あるかなきかのそよ風が稲の香をただよわせるのである。
 昧爽まいそうか、夕方か、乃至ないしは昼間か、そういう時間はこの句に現れていない。船中にある作者は、岸近く繋いだことによって、野を渡る微風を感じ、そこに流るる稲の香をなつかしんだものであろう。「うれし」の一語に野をなつかしむ心持がうかがわれる。

芭蕉葉を尺取しゃくとりむしの歩みかな    末路

 広い芭蕉の葉の上を、小さな尺蠖しゃくとりむしが歩きつつある。作者はこの事実に興味を覚えたので、外に何も隠れた意味はない。芭蕉葉の寸法を測るのだなどと解するのは、この句にあっては曲解である。
 再版の『獺祭だっさい書屋俳話』の表紙には、芭蕉の葉と小さい蝸牛かたつむりの画がかいてあった。芭蕉の葉の蝸牛は直に画になるが、尺蠖ではそうは行かない。が、句としては一の興味ある光景になっている。いわゆる配合論者が考えてしかして成るようなものではない。

名月や背戸せどから客の二三人    枝動

 名月の晩に背戸から客が二、三人来た、というだけである。特に「背戸から」という以上、背戸以外から来た客もあることになるかも知れぬが、この句はそれには拘泥しない。ただ「背戸から客の二三人」とのみいい放っている。
 子規居士が『俳句問答』で、俳句と理窟とについて弁じた時、「名月や裏門からも人の来る」という句を例に引いて、「も」の字を難じたことがある。「裏門からも」という裏には「表門からも」ということが含まれている、そこに知識乃至理窟の働きがある、単に「名月の夜人の裏門より来る」という一場の光景を詠むべきである、というのである。「背戸から」の句は偶然その一方のみを叙した実例になっている。

蓮の葉のいよ/\青し花の跡    柳燕

 こういう句は季題に拘泥して分類すると妙なことになる。蓮というものは夏になっており、花という文字も使ってあるから、さし当り夏の部に入れて置くのが便宜のようでもある。しかし『八重葎やえむぐら』という俳書がこれを秋の部に入れたところを見れば、花の咲かなくなった蓮で、秋の句になるのであろう。蓮の実は秋の季題にあるが、花の跡だから実ということにすると、いささか理窟っぽくなる。季はわかっているにかかわらず、分類に面倒な句である。
 花は咲かなくなったが、蓮の葉は依然青い色をしている。秋だからといって直に葉の衰というところに考え及ぼすのは、自然に参せぬ、概念の産物である。実際蓮の葉は秋になってぐ破れるものではない。秋ながら青い蓮葉を描いたのがこの句の眼目であり、「いよ/\青し」の一語によって、その青さが強く浮ぶような気がする。実もそこらにあるかも知れぬが、作者はただ葉の青さに眼を注いでいるのみである。
 蓮の実とか、敗荷はいかとかいう季寄本位の観念を離れて、秋天の下にいよいよ青い蓮葉を見る。そこに元禄の句の自然なところがある。われわれは句そのものの価値よりも、この点に心をかれざるを得ない。

縁に出て手をうつ柿の烏かな    宜律

 句意は別に解するまでもない。縁に出て手を打って、柿に来る烏を追ったというのである。これを上から真直に読下して、柿の烏が縁側で手を打つように考える人は、少くとも俳諧国の民にはあるまいと思う。
 柿に烏は相当あり触れた題材である。柿の烏を追うという趣向も少くない。「柿を守るしわき法師が庭に出でてほう/\といひて烏追ひけり」という子規居士の歌もあり、漱石氏はまた『野分』の一節にこれを用いて、道也先生をして「蛸寺の和尚が烏を追っているんです。毎日がらんがらんいわして、烏ばかり追っている。ああいう生涯も閑静でいいな」と評せしめている。柿の烏を追う方法もいろいろあるらしい。この三種の中では、縁へ出て手を打つのが最も消極的のようである。

干稲の間もなく暮る日影かな    盛弘

 干稲に日が当っている。もう間もなく暮れる心細い日影である。干稲の日影もむしろ平凡な趣向であるが、「間もなく暮る」の一語によって、その光景を明瞭ならしめている。
 稲架はさにかけた稲か、田にひろげ干す稲か、それはわからぬ。この句の主眼はそういう道具立の上でなく、今にも暮れようとする秋の日ざしが、僅に干稲の上に残っている、その感じに存するのであろう。

ひよろ/\と蜂や水のむ秋の暮    歳人

 秋の暮は普通秋の夕のことになっているが、これは夕方の景色とすると、少しそぐわぬような気がする。暮秋の日向ひなたか何かで、もう元気のなくなった蜂が、ひょろひょろしながら水をのむところと見るべきであろう。『名残なごり』という俳書が暮秋の句の中に一括して入れているのを見ると、余計そういう風に考えられる。
 蜂の水をのむところを見つけた句は、太祇に「腹立てゝ水のむ蜂や手水鉢」というのがある。太祇一流の働いた句ではあるが、やや句格の低い点は如何いかんとも仕方がない。ひょろひょろと水のむ蜂の方が、自然でかつあわれが深いのである。

起もせず手の筋みるや秋の暮    長久

 この句は秋の夕暮で差支ない。ごろりと寐転んだまま自分の手の筋を見る。考え事があるようでもある。悲観しているようでもある。ものうそうでもある。けれども作者はそんなことは何もいわない。ただ起きもせずたなごころを見る男を描き出して、すこぶる冷然としている。俳諧の非人情的態度の一として見るべきであろう。
 春の暮でもいいような気もするが、何度も読返していると、やはり秋の暮にふさわしい。ひとり寐転んで掌を見る男の寂しさが、ひしひしと身に迫るように思われる。

述懐
手のしはをなで居る秋の日なたかな    萬子

という句も目についた。こういう自己の身体を見守るような心持、いとおしむような心持は、秋に起ることが多いようである。少し理窟を附加えれば、人生の秋に遭遇した者の経験しやすい心持なのかも知れぬ。必ずしもいい句というわけでもないが、心持の上に共通する点があるかと思うので、ついでに挙げて置くことにする。

秋たつやきのふの雨を今朝の露    従吾

 句としてはむしろ陳腐であろう。古い歌の中にもこんな意味のものがあったかも知れない。ただ何となく棄てがたいような感じがするのは、この句のもとになっている爽涼の気のためであろう。
 昨夜雨が降った。あるいは夜と限らずに、昨日一日降った雨でも差支ない。その雨の名残が草葉の露となっている。こういうありふれた光景も、「秋立つ」という自然の推移の上に立って見ると、今までと違った感じを与える。雨の名残の露というものにさえ、秋立つ前と後とでは感じの相違があるのである。この句をじゅして第一にそれを感ぜぬ人は、俳句を味う感覚において、何者かを欠いているといわなければならぬ。
 それが

八日の朝
星達のちぎりのすゑや木々の露    白良

という句になると、句の内容に大差はなくても、作者の心持は大分違って来る。木々の葉にしとどに置く露を、星合ほしあいの名残の露と見ることは、一見気が利いているようで、実は技巧の範囲にちる。「秋たつや」の句が直に大きな自然の動きに触れているのに反し、この句は或趣向が主になっている。同日に談ずべからざる所以ゆえんである。

星合や蚊屋一張に五人寝ル    里倫

 即事を句にしたものであろう。年に一度星の契るという七夕の夜を、一張の蚊帳の中に五人一緒に寝た、というのである。芭蕉も『嵯峨日記』の中に、一張の蚊帳に五人で寝たら、どうしても眠れないので、夜半過から皆起出して話したことを記し、「去年こぞの夏凡兆が宅にふしたるに、二畳の蚊屋に四国の人ふしたり。おもふことよつにして夢も又四くさと書捨たる事どもなど云出いいいだして笑ひぬ」などといっている。同じ蚊帳に四国の人が寝て、四通りの夢を見るなどは、俳諧らしいおかしみであるが、この句はそういう趣向があるわけではない。文字に現れた通りの事実を、そのまま捉えたに過ぎぬ。
 七夕の夜の即事という以外、格別七夕に関連したところはないが、こうして一句になったのを見ると、七夕なるが故にまた一種の味を生ずる。単に五人一張の蚊帳に寝るという事実も、七夕に配されることによって、別様の趣が発揮されるかと思う。表面離れたようで、内面に通うものがある。俳諧得意のところであろう。

聖霊しょうりょうもござるか今の風の音    桃妖

 迎火むかえびでも焚いている場合かと思われる。ざわざわと吹き渡る風の音も、その場合ただならぬようにおぼえて、亡き魂がこの風に乗って来るのではないかという気がする。「吹く風の目にこそ見えね」ということも、一方が聖霊であるだけに、特にもの恐しいような感じを伴っている。
 こういう心持は古今を通じて変りはあるまい。

迎火の消えて人来るけはひかな    子規
風が吹く仏来給ふけはひあり    虚子

 子規居士のは必ずしも仏でなしに、迎火の消えた闇の門を、向うから人の来るけはいがする、という意味かも知れぬ。しかしそういう普通の人の来るけはいさえ、この場合は或幽遠な世界に触れるのである。『鳴雪俳句集』などには出ていないが、鳴雪翁にも「迎火に魂や来る道の鴫飛んで」という句があるよしを、何かで見たおぼえがある。桃妖の句は技巧的にいえば、この中で一番劣るであろう。ただどこか素樸そぼくなところがあって、この内容に適しているのみならず、時代において先んじていることも認むべきである。

初秋や居所かゆるかたつぶり    史興

 蝸牛の存在は梅雨頃を全盛期として、赫々かくかくたる炎天下には閑却されがちになる。盛夏といえども雨が降続けば、自ら時を得るわけであるが、百虫活動の夏は蝸牛に取ってはむしろ影の薄い季節でなければならぬ。
「居所かゆる」というのは、今まで此処ここにいたものが何処へ行ったというほど、はっきりした動作ではあるまい。天地に充つる新秋の気が、蝸牛のような微物の上にも或衝動を与えて、居所を替えしむるに至ったというのであろう。即ち「日盛や所替へたる昼寐犬」というような、現金なふるまいではない。もう少し天地自然の大きな歩みに触れた動きである。
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども」という。見えざる秋の現れは、ひとり風の音のみには限らない。殻を負うた漂泊者蝸牛先生も、何者かをその身に感じて居を移す。そこに目をとめたのがこの句の眼目であり、俳諧らしい興味でもある。

きり/″\す扇をあけてたゝむ音    和丈

 このきりぎりすは蟋蟀こおろぎではない。螽斯の方である。きりぎりすの鳴いている場合に、扇をあけてたたむ音がする、という風に解せられぬこともないが、句の意味からいうと、扇をひろげてたたむ、あのギイというような音を、きりぎりすの声に擬したものと思われる。「山がらの我棚つるか釘の音」の格であるが、あれほど技巧を弄したところはない。今の人が見たら、ルナアル的興味だというかも知れぬ。

草刈のまだ夜はふかき月夜かな    長之

 草刈という季題は、近頃は夏に定められたかと思うが、必ずしもそう限定する必要はない。この句は秋の草刈である。
 まだ夜の明けぬうちに草刈に出る。天地は闃寂げきせきとしていて、東の空も白むに至らぬ。ただ明るい月が照っている。全く夜のままである。普通に夜深きという場合は、もう少し前の時間を指すようであるが、この句は明方に近づきながら、全く夜深き有様だということを現したのが面白い。白みやすい夏の夜では、この趣は窺われぬ。秋になって天明が遅くなりつつあることも、自らこのうちに含まれている。
「まだ夜は明けぬ」というのと「まだ夜はふかき」というのと、実際の時間からいえば大差ないかも知れぬが、受取る感じには非常な相違がある。「まだ夜はふかき」の一語によって、はじめて闃寂たる空気に触れ得るような気がする。

名月や壁に酒のむ影法師    半綾

 読んで字の如し。月をでて酒を飲む。その影が壁にうつるのは、即ち月の光によってである。「明月や円きは僧の影法師」という漱石氏の句は、奇においてまさっているが、この句は自然の裡に変化を蔵している。そこに元禄らしい好所がある。

鬼灯ほおずきくさの間にふと赤し    非群

 散文に書き直せば、鬼灯が草の間にふと赤く見えた、という意味である。草むらの中に赤く色づいていた鬼灯がふと目に入った。今までは青いために目につかなかったのだ、と解釈しなくてもいい。何かに隠れていた鬼灯が、ひょっと目に入ったのだ、という風に説明する必要もないかも知れぬ。草の間にたまたま赤い鬼灯を見た、という瞬間の印象を「ふと赤し」の一語にまとめたのである。「ふと」の一語がこの句の山であることはいうまでもない。

あはれさや日の照山にしかのこゑ    万乎

 鹿の声というものは、とかく夜の連想を伴いやすい。それは山野に棲息する彼らの行動が、どうしても夜間を便宜とするからであろう。奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声なるものは、現在のわれわれには縁の遠いものであるが、ただ鹿の声を詠じた句を見ると、自然夜の趣が心に浮んで来る。
 この句は白日の下の鹿の声を捉えた。前山に秋の日がかんかん当っていて、そこから鹿の声が聞えて来るとすれば、最もわかりいいわけだけれども、必ずしもそう限定する必要はない。作者自身も山中にあって、明るい秋の日の下を歩きつつある。そういう場合にどこかで鹿の鳴く声を聞いた、と解してもよさそうである。
 夜鳴く鹿のあわれさは古来幾多の人がこれを捉えている。万乎は日の照る山に鳴く鹿を聞き、そこに別箇のあわれさを認めたのである。

だき起す雨のすすきのみだれかな    苔蘇

 庭中の薄であろうかと思う。降り続く雨に穂先が乱れて俯伏うつぶすようになっている。重いその一叢ひとむらを抱き起すというだけのことである。
「だき起す」という言葉は人に対するもののようであるが、この場合少しも厭味を伴わず、かえって薄に対する或親しみが現れている。のみならず「だき起す」という動作によって、その一叢の薄の様子から、雨を帯びた重みまでが身に感ぜられる。薄の句としては特色あるものたるを失わぬ。

露ぬれて鳴子なるこの縄や一たぐり    陽和

 朝早く鳴子の縄を引くと、夜の間に置いた露のためにしとどに濡れている。そういう鳴子を一手繰り引いた、というだけのことである。
 鳴子という題を頭に置いて考えると、秋天の下にひらける田圃たんぼ、パッと飛立つ雀、遠くの道を行く人、森の向うに立つ煙、その他いろいろな光景が連想される。しかしこういう趣は決して思いつかない。それはわれわれがそういう生活の中にいないからでもあるが、古来の作家もこんな世界はあまり窺っておらぬような気がする。
 この句の眼目は「露ぬれて」の一語にある。これあるによって現在鳴子の縄を手にする場合の実感が、じかにわれわれにも伝わって来るのである。

朝顔やほうき立たる枳殻垣きこくがき    釣壺

 この「立たる」という言葉は、立てかけるという意味であろう。朝の庭を掃いた箒を、そのまま無造作むぞうさに立てかけて置くというのである。朝顔はその庭に咲いているので、枳殻垣にからんでいるとまで限定する必要はなさそうに思う。
 花が朝顔であるために、時間は自ら明瞭になるが、今その辺を掃いた箒でなしに、昨日あたり使った箒がそのまま枳殻垣に立てかけてあるものとしても差支ない。俳句のような短詩形にあっては、そういう時間の関係は現すことも困難であるし、またそれほど拘泥すべき問題とも思われぬ。

名月や肌は落著くひとへぎぬ    助然

 中秋名月は年によって遅速がある。従って昼のほてりのまださめやらぬような陽気の年もあれば、けて夜寒よさむの気が身にみるような年もある。この句の場合は依然として夏のままの単衣ひとえぎぬを著ているのだから、あまり遅い年ではないのである。しかし夏のうち、乃至ないし残暑の頃と違って、さすがに肌が汗ばんだりするようなことはない。単衣の肌ざわりもさっぱりと落著くようになっている。作者はそこを捉えたのである。
 名月の光、その夜の風物というようなものよりも、季節の感じが主になっている。月をのみ追駈ける者は、往々にしてその影を失する。月を離れたところにこういう世界を見出すのは、俳人得意のところであろう。

西瓜すいか喰ふ空や今宵こよいの天の川    沙明

 新暦が歳時記を支配するようになってから、人事としての七夕たなばたは夏の部に移り、天文の天の川は秋に取残される形になった。「久方の天の川原をうちながめいつかと待ちし秋は来にけり」というような感じは、古今を通じて変らぬにかかわらず、古人は銀漢を仰ぐに当って、特に牽牛織女けんぎゅうしょくじょの二星を連想し、今人こんじんは無数の星群としてこれを観ずる。句に現れるところが異るのは、もとより怪しむに足らぬ。
 この句は勿論七夕の夜の天の川である。「今宵の」の一語は「月今宵」などの「今宵」と同じく、あきらかに年に一夜の今宵であることを示している。七夕の夜の縁側えんがわか何かに端居はしいして西瓜を食う。空には天の川が白々とかかっている。したたる如き夜空の下に食う西瓜のしずくは、昼間食うより遥にさわやかであるに相違ない。
 年に一度の七夕の夜を描きながら、むしろ離れた趣を持出している。「今宵の」ということが、この場合離れたものを繋ぐ役に立っているような気もする。

露深し今一重つゝむ握り飯    蘆文

「旅行」という前書がある。朝立あさだちに臨んで握飯を腰に著けるのであろう。しとどに置いた露の中を分けて行くのに、濡れ透ることを恐れて、常よりも今一重余計につつむという意味らしい。
 露の深さ、草の深さに行きなずむというようなことは、句中にしばしば見る趣であるが、ただすそをかかげたり、衣袂たもとを濡したりする普通の叙写と違って、握飯を今一重裹むというのは、如何にも実感に富んでいる。昔の旅行の一断面は、この握飯によって十分に想像することが出来る。

又さけるいばら薔薇も後の月    荊口けいこう

 返り花という季題は冬の部になっている。小春の温暖な気候に時ならぬ花を咲かせることを指すのであるが、実際の返り花は小春をってはじめて咲くとは限らない。植物によると夏の末から秋へかけて、二度の花をつけるのがある。薔薇の中には三度咲などというのがあるから、荊口の句は返り花としないでも解釈することは出来るが、やはり返り花と見た方がいいかと思う。
 秋もやや深くなった十三夜の頃に、茨、薔薇の枝頭にまた花の咲いているのを発見した、その驚きに似たものを描いたのであろう。地上の花の漸く少からむとする時分になって思いがけず月下に匂う花を見たというのは、ちょっと変った趣である。茨、薔薇の返り花が珍しいだけではない、後の月の句としてもたしかに異彩を放っている。

衣うつ所へ旅のもどりかな    旦藁

 この旅から戻る人物は、どういう種類の者かわからぬ。突然戻って来たのか、あるいは帰るべき日に帰って来たのか、それもわからぬ。わかるのは女房が砧盤を出して衣をっているところへ、旅行から夫が帰って来たということだけである。理窟をいえば衣を擣つ者が妻であり、帰って来る者が夫であることも、句には現れておらぬようであるが、そこはそう解するのがきぬたの句の定石じょうせきであろう。下女砧を打ち、主人行商より帰るでは、この句の情味は全く減殺げんさいされてしまう。
 子規居士の「百中十首」の中に「七年の旅より帰るわが宿に妹が声して衣打つなり」という歌がある。この句から脱化したものかどうかわからぬが、境地は全く同じである。ただ旦藁は衣を持つ者の側より見、子規居士は旅より帰る者の側より見ているだけの相違に過ぎぬ。「七年の」の歌は固より想像の産物であるが、旦藁の句は一概にそう断ずることも出来ない。極めて手軽く叙し去っているところに、かえって実感らしいものが含まれている。

たばこ切隣合せやくつはむし    素覧そらん

 煙草をきぎむ音などというものは、専売局が出来た以後の人間には縁が遠くなった。夜なべか何かに煙草を刻んでいる家がある。その隣の方では轡虫くつわむしが鳴き立てている。いずれもあまり風流でない、やかましい方の取合とりあわせである。轡虫の声から思いついて、こういう取合を求めたとなると、いささか窮屈になって面白くないが、実際こういう光景があったのであろう。きそうで即き過ぎぬところに、自然の妙は存するのである。

茶ちりめん借て著て見る夜寒かな    秋之坊

 泊客などであろうか、やや夜寒を感ずるというままに、主人の著物でも出して著せる。その著物が茶縮緬なのである。一句の表だけ見ると、茶縮緬の著物を所望して借りたようであるが、そうではあるまい。夜寒をしのぐために借著をした、それが茶縮緬だったというのであろう。借著はして見たが、何となく身にそぐわぬような感じが現れている。
「借具足我になじまぬ寒さかな」という蕪村の句は、趣向としても奇抜であり、調子もこの句より引緊っている。秋之坊の句はさのみすぐれたものではなく、元禄の句としては多少の弛緩しかんを免れぬが、再誦三誦すると、やはりこの句の方がわれわれには親しみがある。といって逗留の夜寒に縮緬の著物を借りて見た経験があるわけではない。

笹葉たくあとやいろりのきりぎりす    夕兆

 この「蛩」は勿論今のコオロギである。例の「きり/″\すなくや霜夜のさむしろに」の歌が人口じんこう膾炙かいしゃしている通り、秋の虫の中ではコオロギが冬まで生延びることになっている。蛩によってわかてば秋になり、囲炉裏いろりによって分てば冬に入る。その辺は分類学者に任せて置いて差支ない。
 秋とすれば大分末の方、冬とすればまだ浅い頃である。囲炉裏に笹の葉を焚いて、あたりが暖くなったためか、炉辺ろばたでコオロギが鳴き出した。笹の葉を焚くのだから、真冬のほたのようなさかんな火になる気遣きづかいはない。そのほのかな温みがコオロギに蘇生の想あらしめたのであろう。断続してかすかな声が聞える、というのである。
 笹の葉を焚くというような趣向は、実際でなければ思いつくものではない。「もの焚きしあとや」とでも置替えて見れば、容易に自然の妙を感ずることが出来る。

すか/\と西瓜切也あきのかぜ    陽和

 西瓜というものは季題の上では秋になっている。瓜が夏で西瓜が秋というのは、藤が春で牡丹ぼたんが夏なのと同じく、季節の境目におけるやむをえぬ現象であろう。今は一切の事が便利過ぎる世の中になってしまったから、昔の季題の標準で律するわけには行かないが、西瓜を食うのは赫々かくかくたる炎暑の中にも多少の涼味が動き初めてから――秋意のほのめくようになってからが多いかと思う。
 西瓜の青い肌に庖刀ほうちょうを当ててすかりと切る。この庖刀はよく切れるのでなければならぬ。
「すか/\」という言葉は、その切味きれあじを示していると共に、先ず二つに割り、次いで半月形に切るというような、連続的な動作をも現している。
 この句は明に「龝の風」と断っているから、新涼の度がようやくこまやかになってからのものに相違ない。西瓜の中味もよく熟し、すかと切る庖刀を露の滴る様なども連想に浮んで来る。

畑々や豆葉のちゞむ秋日和    卓袋

 柳田国男氏の『豆の葉と太陽』という本を近刊予告で見た時、どういう意味の標題か、見当がつかなかったが、その内容を一読するに及んで、奥州の大豆畠における日光の美しさを説いた文章が、巻頭に置かれてあるための名であることがわかった。今日の風景鑑賞家なるものが、妙に農作物の色調に無関心であることは、柳田氏の説の通りであろう。もしこの間の消息を解する者があるとすれば、それは俳人の畠でなければならぬと思ったら、果してこういう句のあるのに気がついた。
 この句は柳田氏が説かれたように、豆の葉の美しさを明瞭に描いてはいない。ただこれを読むと、一面の豆畠に強い秋の日が照っている、明るい光景が展開する。豆の葉はもう黄ばんでちぢんでいる。その色調を現さぬのは、俳人がそういう感覚に無頓著なのではなくて、「ちゞむ」の語に豆の葉の已に黄ばんでいることを含ませたものと見るべきであろう。
 豆の葉などというものは、平安朝以来の伝統に立つ歌よみの顧るべき材料ではない。殊にそれが少し黄ばんで、ちぢれ気味になりながら、秋天の下にひらけている光景の如きは、恐らくは油画が渡来するまで、画家といえども看過していた美しさではあるまいか。元禄時代には、まだこの外に「大豆の葉も裏吹ほどや秋の風」という路通の句があり、附合つけあいの中に「豆の葉も色づく鳥羽のうね伝ひ 林紅」という句を発見したこともあるが、柳田氏の説かれるところに最も近いものとしては、卓袋の一句を推すべきであろうと思う。われわれは柳田氏が一般に閑却されがちな「豆の葉と太陽」を以て、旅と自然とに関する一書に名づけられたことに敬意を表すると共に、早くこの光景に留意して自家薬籠中のものとした俳人の観察眼を、この際改めて称揚して置きたいのである。

あさがおのうねりぬけたり笹の上    万乎

 朝顔のつるが笹にからまって、笹の上まで抜け出ているというのである。単に朝顔の蔓が上まで抜け出ただけでは面白くない。そこには必ず花が咲いていなければならぬ。俳人が朝顔という以上、花あることを常とするばかりでなく、花がなければ「うねりぬけたり」という感じもまたはっきりせぬからである。
 芥川龍之介氏の「閑庭」と題した歌に「秋ふくる昼ほのぼのと朝顔は花ひらきたりなよ竹のうらに」というのがあった。これは末方になった朝顔が昼まで咲いている景色で、趣はいささか異るけれども、朝顔が細い竹にからんで行って、高いところに花をつけている様子はよく現れている。手入などをあまりせぬ、蔓のうに任せた朝顔を描いた点は、この万乎の句と同じである。

稲妻や壁に書きたる大坊主    羽笠

 稲妻がぱっと壁を照すと、その壁に画いた大坊主の顔が浮んで見える、と思う間にまたもとの闇にかえってしまう。やや際どい、瞬間的な場合を現した句である。この大坊主は物凄いというほどでもないが、作者はいずれかといえば無気味な風に扱っているような気がする。
 この句を読むと、一茶の「秋風や壁のヘマムシヨ入道」を思い出す。ヘマムショ入道はヘヘノノモヘジのことである。似たようで違い、違ったようで似ているところに、この両句の独立性はあるのであろう。

残る蚊にあわせ著てよる夜さむかな    雪芝

 残る蚊と、秋の袷と、夜寒と三つの材料から成立っている。しかしそのために五目飯や三題噺さんだいばなしのようなことにはならず、渾然こんぜんとして一体になっているのが、この句の手際であろう。
 漸く夜寒を感ずる頃である。何かの集りがあって、来た人が皆袷を著ている。が、その座には秋の蚊が残喘ざんぜんを保っていて、時々人の肌を襲いに来る、という意味の句らしい。夜寒と残る蚊とが一句の上に交錯するなどは、ちょっと思いつかぬ趣であるが、自然の上にはいくらもある事実である。一面夜寒を感じ、一面残る蚊を見る。秋の或季節の趣は、殆どこの一句につくされているように思う。
「袷著てよる」の「よる」という言葉は、見方によっていろいろに解されるが、しばらく右のように解して置いた。人の集りといったところで、そう大勢の会合ではあるまい。ただ袷を著ているというだけでなしに、「よる」の一語があるため、一句をちょっと複雑なものにしている。平淡なようで手の込んだ句である。

うら道の露の深さや猫の腹    夕兆

 この裏道は草などのえた、狭い道らしく思われる。そういう道に現在猫がいるわけではない。猫の腹がしとどに濡れているのを見て、裏道を歩いて来たものと推定し、草に置く露の如何ばかり深いかを想いやったのであろう。
 眼前の光景を現したような「うら道の露の深さや」という言葉が、想像の上に立っているところに、この句の特色がある。猫の毛は一体に他の獣に比して水をはじく力が乏しいから、露の草むらなどを歩けばぐっしょり濡れてしまう。裏道の露の深さは、この猫の腹の濡れ工合によって想像されるのである。「露の深さ」と猫の腹との間に、想像的意味が含まれているものと見れば、必ずしも無理な表現とも思われぬ。

瓢箪ひょうたん軒端のきばにさがる日あしかな    為有

 軒端に瓢箪がぶらりと下っている、やや傾いた秋の日脚ひあしがその辺に明るくさしている、という光景らしい。作者はこう描き去ったのみで、瓢箪の影も点じなければ、他の配合物も持って来ない。手の込んだ後世の句から見ると、その点はうらやましい位大まかである。
「日あし」という言葉に限定された時間はないわけだから、こういっただけでは傾いた日脚かどうかわからぬようなものの、軒に下った瓢箪にさす日脚とすれば、外の時間では工合が悪い。西へ廻った秋の日脚で、明るい中に漸く日の詰ったことを思わせる光線が眼に浮んで来る。当然そう解して差支ないように思われる。

外屋敷や野分のわきに残る柿のへた    野童

「外屋敷」はトヤシキと読むのかと思うが、よくわからない。「野分に残る」という言葉から考えると、野分の直後のようだけれども、実際はもう少し時間の距離があるので、野分に吹落された柿の蔕がこずえに残っている、秋もかなりけた場合じゃないかという気もする。批評の発達した近頃の句は、電車の交叉点を突切る時のように、前後左右を見廻して作るから、言葉の現す意味も自ら考慮されているが、昔の人はそういう点にあまり頓著せず、眼中の印象を悠々として一句に収めている。この「柿の蔕」などもたしかにその一例と見るべきもので、どこにどう残っているのか、深く問わぬような趣がある。

篠深く梢は柿の蔕さびし    野水
三線からむ不破の関人    重五

という附合つけあいの句は、ずっと以前『七部集』を耽読たんどくした頃から、頭に沁み込んで離れぬものの一であるが、これが先入主になっているせいか、野童の柿の蔕も直に梢にあるものと解釈した。外屋敷の背景の下に、この蔕のあるところを考えれば、柿の木の梢より外にはあるまいと思う。
 子供の時分、父が柿の木を二本買って植えたことがあった。一本の百目柿ひゃくめがきには大きな実が一つ二つ残っていたが、一本の方は葉も何も悉く落尽して、枯木のようになっていた。その梢に点々と黒いものの残っているのを、何かと思って竹竿で落して見たら、固く干からびた蔕であることがわかった。この柿は庭に植えてから、一度もならずに枯れてしまったと記憶している。かつて「篠深く」の句に興味を感じ、今またこの柿の蔕を取上げたのも、畢竟ひっきょうこの少年の時の事が土台になっているのかも知れない。人間というものは他の句を解釈するに当っても、自己の世界を脱却出来ぬものと見える。

炭竈すみがまをぬりて冬待つ嵐かな    吏明

 山家やまがの句であろう。冬が近くなったので、炭を焼くべく炭竈を塗り、もう何時いつ冬が来ても差支ない用意がととのった。もし「炭竈をぬりて冬待つ山家かな」だったら、それこそ平凡極るものだけれども、作者は句に一転化を与えるため、嵐というものを持出して来た。冬が近づくに従って、山はしばしば嵐が吹く。「いかばかり吹く峯の嵐ぞ」というような、詠歎的なものではない。現実に山家の人の心を揺る寒い嵐である。この嵐あるによって、この句ははじめて魂が入ったことになる。
 俳諧の要諦はこの「嵐」の呼吸にある、といっただけでは、未だ意を悉さぬ嫌があるかも知れぬが、この嵐の如きものがあって、画竜点晴がりょうてんせいの妙を発揮する場合が多いということは、断言してよかろうと思う。

はつ秋や小袖こそでだんすの銀の鎰    巴水

「鎰」というのはカギのことである。普通の鍵とどう違うかわからぬが、その辺は専門家に一任してよかろうと思う。第一この句では鍵がどうなっているのか、それからして明瞭でない。
「小袖だんす」というものを句の中に持出した以上、腰にぶら下げたりしているのでないことは慥だけれども、今少し立入って、この場合鍵がどうなっているかという段になると、さっぱり見当がつかぬのである。
 この句の生命は「銀」の一字にある。もしこの句から銀の字を除いたならば、卒然として価値の半を失うに相違ない。鍵は銀光を放つことによって初秋と調和し、それが一句の中心をなしているように思う。仮にこの句から鍵の音を連想する人があるにしても、その音は銀光の範囲に属するものでなければならぬ。

蚊屋しまふ夜や銀屏ぎんびょうのさびのよき    酔竹

 蚊帳を釣らぬようになって、何となくぱっとした灯影が座辺を照す。そこに立てた屏風びょうぶの銀がややさびて、極めて落著いた色を見せている。作者は句中に灯を点じてはいないけれども、「さびのよき」銀屏がしずかに灯を受けていることは十分想像出来る。
 支考は芭蕉の「金屏の松のふるびや冬籠」の句について、「金屏は暖かに銀屏は涼し」といい、「六月の炎天に金屏をたてんに、人の顔かゞやきてよからず、さる坐敷は道具知らぬ人に落ちぬべし、されば金銀屏の涼暖を今の人の見付けたるにはあらず、そも天地より成せる本情なり」と論じた。それほど面倒なことをいわなくてもいいが、前の句といい、この句といい、初秋の季節に銀色を配したのは頗る感覚的である。銀の鍵は燦然さんぜんたるところに、屏風は銀の色のややさびたところに、各※(二の字点、1-2-22)秋の心を捉えている。「銀の鎰」の方は時間を明にせぬが、やはり夜の燈下がふさわしいような気がする。

あさがおや桃の下葉のちり初る    之道

 つくろわぬ庭などの様であろう。朝顔の花が咲いているほとりに桃の木があって、已に色づいた下葉をはらはらと落す、という光景である。朝顔と桃とは近くにあるというだけで、格別深い交渉があるわけではない。季題は勿論朝顔にあるけれども、朝顔の咲く時に当って桃の下葉が散りはじめるという、交錯した事実を描いたために、子規居士のいわゆる二箇中心の句のような趣になっている。
「あさましき桃の落葉よ菊畠」という蕪村の句は、菊畠に溜る桃の落葉をんだので、どこまでも菊畠が中心になっており、落葉はその景物に過ぎない。之道の句はむしろ「桃の下葉のちり初る」という推移に興味を置いたものの如く、それだけ句としては蕪村のほど纏っていないけれども、またその纏らぬところが自然だともいえる。元禄と天明との相異は、この辺にも存するのであろう。

雲高き野分のわきの跡の入日かな    空能

 野分がやみ方になって、一しきり赤い夕日が西の空を染める。その赤い入日の空を、野分の名残の風に乗って、断雲ちぎれぐもが高く飛んで行く、という光景を句にしたものかと思う。
 ただし「雲高き」という言葉は、必ずしも高く飛ぶ場合には限らぬかも知れない。野分のあとが何時いつの間にか晴渡って、澄んだ空高く雲が浮んでいるものとも解される。飛ぶにしても、浮ぶにしても、その雲が入日の朱を帯びていることはたしかである。
「野分の跡の入日」だけでは格別のこともないが、「雲高き」の一語を点じたため、濶然たる秋の夕空が直に眼に浮んで来るような気がする。

ばけかねる狐とびゆく野分かな    一空

 一疋の狐が何者かに化けるつもりで、先刻からいろいろ工夫しているが、未熟なせいか、あまり風が強過ぎるせいか、とうとううまく化けられないで、野分の中を向うへ飛んで行った、というようなところであろうか。句には現れていないが、夕方らしい情景である。
 日本の文学にはしばしば未熟の狐とか、ばけそこないの狐とかいうものが出て来る。妖気を伴うべき狐魅談に愛敬を生じ、滑稽が生れるのは全くこういう未熟な、化損いの徒が介在するためである。この野分の中で化けかねた先生なども、狐のために気を吐くに足らぬにせよ、文学的材料としては一顧の価値がある。
 狐は蕪村に至って大に独得の趣味が発揮された観があるが、この句はその先蹤せんしょうと見るべきものである。若干の滑稽味を伴う点において、特にその感を強うする。

はれきるや光に曇る月の影    旦藁

 晴れ渡った、明皎々めいこうこうたる月である。しかし中天にかかった円い影を見ると、そのあきらかな光の中にほのかな曇がある。霧が立つとか、薄雲がかかるとかいうわけではない。晴れた光の中の曇である。その感じを現すのに「光に曇る」の語を以てしたのであろう。
 秋の夜の月のくまなきをのみずるめでたき人々には、到底こういう観察は出来ない。そうかといって皎々たる月では平凡だから、殊更に光の中の曇を発見しようというわけでもない。じっと月の光に眺め入る時、そこに一点の曇を感じた、というのが自然の姿なのである。深夜の月の光の中に、うるんだような曇を感ずるのは、何人にも味い得べき趣であって、しかも容易に句にし得ぬところのように思う。「光に曇る」の語もいい得て妙である。

めいげつや客をむかひに里離れ    探志

 あまり月がいいので、急に人を呼んで酒でも飲もうと思い立って、ぶらぶら月下の道を里離れたあたりまで歩いて行った、という風にも解せられる。
 名月のことだから、かねて人を会する約があったが、漫然家にあって待つにえず、来る道はわかっているので、迎えかたがた出かけて行く。月並な歌よみなら「月を見がてら」とか何とかいうところとも解せられる。
 客の性質や客との関係は、そう僉議せんぎを加えるほどのこともない。この句の興味は、名月の夜に当って客を迎えに行くということ、その迎える道がいつか里離れたところまで来ていた、ということにある。月に浮れたというほどでないにしても、軽い気分の下に歩いていることは想像出来る。

ひるの貝おくる木玉こだま三井みいの秋    探志

 何かの合図に貝を吹くということは、現代のわれわれには殆ど没交渉である。法螺貝ほらがいを手に取ったことはあっても、未だかつて吹いたことはない。山伏にも因縁がないから、貝の音に耳を驚かされた記憶も持合せておらぬのである。
 この句の貝は時刻を報ずるものらしく思われる。食事の合図かどうかわからぬが、午になって貝を吹き鳴らす。その音が遠くこだまして聞えて来る。場所が三井寺だけに、秋天の下にひろがる大湖を背景にして、谺も遠きに及ぶのであろう。
 三井の秋は日本画の題材になりそうな舞台である。しかし湖を画き、雲を画き、寺を画き得ても、そこに「午の貝おくる木玉」を添えることは、丹青たんぜいの技のよくするところであるまい。詩の独自の境地はこの辺にも存する。

御明みあかしの消て夜寒やくつわむし    里東

 轡虫は秋鳴く虫の中でも最も景気のいい、哀感に乏しいもののような気がするが、この句は妙にうら寂しい情景を持出した。
 神前か、仏前か、今まで上げてあった御明がふっと消えて、あたりは暗くなった。と同時ににわかに夜寒を感ずる、轡虫が鳴いている、というのである。
 御明が消えて、俄に夜寒を感ずる、という風に限定して解釈しないでも、寂然たる夜寒の屋内に、今までついていた一点の灯が消えた、と見てもいいのであるが、この句の表現には或動きがあるので、その動きに基いて前のように説いたのである。いずれにしても句の世界に大した変りがあるわけではない。
 轡虫の声も最初のうちは四隣を悩ますだけの威力を具えているが、秋が深くなるにつれて、かすれたような声に変って来る。この轡虫もいささか声の衰えた場合、従って夜寒も身にむ頃と解していいかも知れない。

捻上ねじあげて友待顔や雁の首    諷竹

「友待顔」という言葉から考えると、この雁は一羽のように見える。首を捻上げるようにして友を待つという以上、これは飛んでいる雁ではない。水の上か、田圃たんぼか、何かの上に下りているらしい。作者はそういう雁の恰好を見て「友待顔」と解したので、そういう感じを起させたのは、雁が一羽きりで寂しげに見えたからだろうということになる。
 詩歌に取入れられた雁の多くは空を飛んでいるか、あるいは雁声を耳にするかで、雁そのものの姿に及んだものはあまり見当らない。俳諧には往々雁の姿を捉えたものがあるが、それにしても捻上げた雁の首などは、異色あるものたるを失わぬ。「月の出や皆首立てゝ小田の雁」という子規居士の句は、この句に比べると絵画的であり、趣向も複雑になっている。諷竹の句の興味は雁の形だけを描いた、単純な点にあるかと思う。

秋ふかし人切り土堤の草の花    風国

「人切り土堤」は地名というよりも、むしろ俗称の部類であろう。「人切り土堤」と称する以上、かつてそこで人が斬られたとか、よく人の斬られることがあるとか、何かそういう由来があるに相違ない。現在は何事もないにしても、そんな名があるだけに、何となく寂しい感を与える。もう秋も深くなった「人切り土堤」に草の花が咲いている、というのがこの句の見つけどころである。
 鳴雪翁の自叙伝に、今の芝公園と愛宕山あたごやまさかいのところを「切通し」という、昼間からよいの口までは相当賑であったが、夜がけると寂しくなり、辻斬などもしばしば行われた、翁は子供心に、始終人を斬るから「切通し」だと思っていた、ということが見えている。「人切り土堤」に至っては、その上に更に人の字がついているのだから、連想のそこに及ぶのは当然である。生々しい人斬のうわさなども伝わっているとすれば、寂しい以上に凄愴せいそうな感じさえ伴ったであろう。けれども「人切り土堤」に附会して、この草の花は赤い方がいいとまでは考えない。「秋ふかし」という季節に照応する、寂しい感じのものであればよかろうと思う。

二階からたばこの煙秋のくれ    除風

 ただ眼前の景である。煙草を吹かしている以上、そこに人間のいることはいうまでもないが、どんな人間かわからず、またどんな人間であってもいいわけである。作者は秋の暮の中に一軒の二階家を認め、その二階に吹かす煙草の煙を描いただけで、他の消息を伝えていない。「煙草ふかす二階の人や秋のくれ」とでもいえば、人間の姿が句の上に現れるが、そういう点に一向重きを置かず、煙だけで用を済してしまった。
 煙につきものの「立昇る」という言葉も、「なびく」という言葉も、この場合に用いるものとしては強きに失する。ふわりと宙に浮ぶような煙の状態は、「二階からたばこの煙」という無造作むぞうさな表現によって、かえってよく現し得るのかも知れない。

夜寒哉煮売にうりの鍋の火のきほひ    含粘

 煮売屋の鍋の下を焚き立てる火が、さかんに赤々と燃えている。鍋の内のものは食欲を刺激するような匂をさせることであろうが、作者はその句にも、ぐつぐつ煮える鍋の音にも、格別感覚を働かしていない。赤々と燃えさかる火そのものに興味を集中しており、それが夜寒の感を強からしむる結果になっている。
「夜寒哉」という風な言葉を上五字に置く句法は、俳句において非常に珍しいというほどでもないが、下五字に置いたのよりは遥に例が少い。それだけ用いにくいということにもなるが、詠歎的な気持は下五字を「かな」で結ぶよりも強く現れるような気がする。この句は「火のきほひ」の一語によって、上の「夜寒哉」を引緊めているようである。

朝顔や皆になして引たぐる    玄梅

 大輪たいりん朝顔か何かの貴重な種類であれば、自ら咲かせる花を制限して、多く実などを結ばせぬようにするのであろうが、これはそんな面倒なものではない。つぼみの出来ただけをことごとく花にし、その花も千切ったりせずに、皆実になるに任せて置いて、つるごと引たぐるという意味であろう。平凡なる駄朝顔である。
 これと同様なことは、人生の各方面において認められる。教育方針などということも、畢竟ひっきょうこの朝顔に臨む態度と似たものかも知れぬ。秀才を産み、貴重な花を作るのも固より結構であるが、花の咲くに任せ、実のなるに任す態度には、自らなる気安さがある。そこに安心の地を見出すのは、あるいはわれわれに与えられた使命であろう。
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水鳥のかたまりかぬる時雨しぐれかな    良長

 時雨の降る中に浮んだ水鳥が、一団となりそうに見えながら、かたまりきらずにいる。かたまるべくしてかたまらぬ様子を「かたまりかぬる」といったのであろう。時間は必ずしも限定するには当らぬが、何となく寂しい夕方の景色を想像せしめる。
 水鳥は時として岸の上などに群れていることもある。この句は岸の上としても解釈出来ぬことはないけれども、「かたまりかぬる」という語勢から考えると、やはり水上に浮びながら、かたまりあえぬもののような気がする。

霜しろくになひつれけりさかなふご    鶴声

 肴売が荷う魚畚さかなふごの上に霜が白く置いているというだけの句であるが、「荷ひつれけり」の一語によって、この肴売が一人でないことがわかる。肴の荷をいて走る魚河岸うおがしの若い者では、「霜しろく荷ひつれけり」はうつるまい。但一人でないから、幾分にぎやかな様子はこの句からも窺うことが出来る。
 鳴雪翁の句に「初霜をいたゞきつれて黒木売くろきうり」というのがあった。同巧異曲であるが、霜を帯びたものを荷うという点からいえば、あるいは黒木の方がふさわしいかも知れない。
 鶴声の句は「霜しろく」で意味を切って、霜白き朝を肴売が畚を荷いつれて行く、という風に解することもあるいは可能であろう。即ち「霜しろし荷ひつれたる肴畚」の意に取るのであるが、これには多少の無理がある。「霜しろく荷ひつれけり」と続く以上、霜白き畚を荷いつれた意に解する方が、先ず妥当であろうと思う。

水風呂すいふろ戸尻とじりの風や冬の月    十丈

 水風呂というのはもと蒸風呂に対した言葉だ、という説を聞いたことがある。橋本経亮つねすけなどは、塩浴場に対する水浴湯ということから起ったので、居風呂すえふろという名は誤だろうといっている。いずれにしても現在われわれの入るのは水風呂のわけである。この句もスイフロで、ミズブロではない。
 風呂に入っている場合、戸尻が透いていて、寒い風が吹込んで来る。そこから冬の月の皎々こうこうと照っているのが見える。一読身に沁むような冬夜の光景である。「戸尻の風」の一語が極めて適切に働いている。

石竹の一花さける冬野かな    桃里

 蕭条しょうじょうたる冬野の中に、たった一輪石竹の花が咲いている。こういう光景には未だ逢著したことがないが、実際にはしばしばあるのかも知れない。尚白にも「よろ/\と撫子なでしこ残る枯野かな」という句がある。趣はほぼ似たようなものであるが、句としては尚白の方が遥にすぐれている。「よろ/\と」の一語が枯野に残る撫子の様子を如実に現しているのみならず、強いて一花と限定しないのも、かえって風情ふぜいが多いからである。
 かつて定家の『拾遺愚草』を点検して「霜冴ゆるあしたの原のふゆがれに一花さけるやまとなでしこ」の一首を発見した時、尚白の句と比較すると、数歩を譲らなければなるまいと老えたことがあった。今にして思えば、尚白の句はむしろ独立して考えらるべきで、それよりはこの桃里の句の方が、よほど定家の歌に似ている。桃里は定家の歌によって、この趣向を立てたものではないかも知れぬ。ただ定家の歌以上の働きを、この句に認め難いのを遺憾とする。

大きなる雪折々のみぞれかな    旭芳

 霙が降るのを見ていると、時々大きな雪片がまじっている、といったのである。平凡な事柄のようで、一概にそういい去ることの出来ぬものがある。
 由来霙などという句は、配合物を主にしたものが多く、霙そのものを見詰めたものは少い。この句はその少い一例である。折々まじる大きな雪片は、ただちに読者の眼にはっきりうつるような気がする。

膳棚ぜんだなへ手をのばしたる火燵こたつかな    温故

 火燵を無性箱ぶしょうばこといい出したのは誰か知らぬが、すこぶる我意を得ている。物臭太郎にも或点で興味を持つわれわれは、勿論火燵を以て亡国の具と観ずるわけではない。無性を直に道徳的功過に結びつけるのは、少くとも俳人の事ではあるまいと思う。
 この句は火燵における無性の一断片を現したものである。火燵は第一に人の起居の動作をものうくする。膳棚へ手をのばしたというのは、立って取るのが面倒だから、無性中に事を行おうというに外ならぬ。

火燵からおもへば遠し硯紙    沙明

という句なども、やはり同じような心持を現している。作者は火燵にあって何か書くべき硯や紙の必要を感じながら、取りに行くのが懶いために、その「硯紙」の距離を遠く感ずるのである。句としては特に見るに足らぬが、無性箱の消息を伝えたものとして、前句と併看の価値はあるかも知れない。

炭竈すみがま両膝もろひざだきて髭男    散木

 炭竈を守るためであろう、ぼうぼう髭をはやした男が、両膝を抱いてそこにいる、というのである。「炭焼のひとりぞあらん竈の際」という其角の句は、炭竈の様子を想いやったのであるが、これは炭竈のところにいる男の様子を、的確に現した点に特色がある。
「両膝抱て」という中七字は、その男の様子を描き得て妙である。「むしろ敷いて長臑ながすね抱きぬ夜水番よみずばん 泊月」などという句も、この意味において軌を同じゅうするものであろう。

前髪に雪降かゝる鷹野かな    吏明

 鷹野の趣は、猟銃以後に生れたわれわれには十分にわからない。同じ狩であっても、飛道具に鷹を用いるとなると、雅致と余裕と並び生ずるような感じがする。一度呑ませたあとで吐かせる鵜飼うかいとは同日の談でない。
 御小姓などであろう、鷹野の御供をする若衆の前髪に、霏々ひひとして雪が降りしきる。勿論雪はあたり一面降り埋めつつあるのであるが、美しい若衆の前髪に降りかかるところを見つけたのが、この句の主眼であり、鷹野の景色に或ポイントを与えたことになっている。炭竈の髭男はもともとそこに一人しかいない役者であろうが、これは鷹野における人数の中から、特に若衆役を持出した点に一種の技巧がある。画のような趣である。

餅搗もちつきや捨湯流るゝ薄氷    晩柳

 餅搗の場合に湯をこぼす。その湯が白い湯気を立てながら、薄氷の方へ流れて行く、というだけのことであろう。薄氷のミシミシと音して解ける様、一面に立つ湯気の白さまで、眼に浮んで来るように思われる。
 元禄時代のこういう句を見る毎に、われわれはいつも真実の力を痛感する。写生といっても、実感といっても畢竟同じことである。如何に句を作る技術上の練磨が発達したところが、それだけでこういう句を得ることは不可能であろう。

麦まきのやぶをへだつる西日かな    吾仲

 現在麦をきつつある畑の向うに藪があって、その向うに夕日がかかっている。藪があるだけ、日の傾くことも多少早いわけであるが、同時にその藪によって平野の単調を破っている感がある。単に傾きつつある西日というよりも、藪のがこれを隔てるという方が、景色の上に或まとまりを作ることになるからである。
 麦蒔に夕日を配した句は、この外にもなお「麦蒔のうしろ淋しき入日かな 支庸」「麦蒔の影法師長き夕日かな 蕪村」の如きものがある。冬の日の暮れやすいことももとよりではあるが、麦蒔頃の野良のらの寒さが、何となく夕日の名残を惜しませるのではないかと思う。

時雨るゝや古き軒端のきば唐辛とうがらし    炉柴

 草家の軒などに真赤な唐辛子がつるしてある。そこに時雨が降るのである。
「古き軒端の」という言葉は、百人一首を連想せしめそうなものであるが、この場合、そんな事を顧慮する必要はない。古ぼけた軒端に吊した唐辛子だけが、ただ赤々と著しく眼に入る。その色が赤ければ赤いだけ、びた趣が増すのである。言葉は雅馴であって、内容に一種の新しい感じがある。しかも時雨と古き軒端と、極めて陳腐な配合を並べた末に、突如として唐辛子を点出することは、決して凡庸の手段でない。芭蕉の「春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏」の句が、春雨と軒のしずくという尋常な配合を用いながら、蜂の巣によって全く新なものにしているのと、やや相似た筆法である。俳諧の妙味はこの辺に存するのであろう。

冬旅や足あたゝむる馬の首    ※(「言+我」、第4水準2-88-62)

 馬上旅行というものは、未だかつて経験したことがないが、冬日風に向って馬をるなんぞは、あまりありがたいこととは思われない。芭蕉が伊良胡いらごに杜国を訪ねた時の句に「すくみ行くや馬上に氷る影法師」とあるのを見ても、その寒さはほぼ想像出来る。
 この句は馬上の旅を続けている人が、足のつめたさに堪えず、馬の首に触れてあたためる、ということらしい。ぬくどりと同じやり方である。馬の体温によって足をあたためるというのは、馬上の寒さを裏面から現したようで、実はそうでない。われわれも作者と同じく、足を触れる馬の首のあたたかさを如実に感じ、併せて昔の旅人の侘しさをしみじみと感ずる。珍しい句である。

炉びらきや障子しょうじの穴の日のこぼれ    東耕

 炉開の畳の上に――畳でなくても構わぬが、先ず畳と解するのが妥当であろう――障子の穴から日がさしている。ぽつりと落ちたような日影を「こぼれ」といったのである。いささか巧を弄した言葉のようでもあるが、最も簡潔にその感じを現したものと見ることが出来る。
 畳にさす小さな日影に目をとめる。そこに炉開頃にふさわしい、落著いた気分が窺われる。

筆や氷る文のかすりのなつかしき    機石

 人から来た手紙を読んでいると、ところどころ筆のあとのかすれたところがある。寒い夜半などに筆を執って、穂先が氷ったためにかすれたのであろうか、と想いやった句である。「文のかすり」といっただけで、手紙の字がかすれていることを現し、その手紙を書く場合の寒さを想いやるあたり、いうべからざる情味を含んでいる。
 蕪村の「歯あらわに筆の氷をかむ夜かな」という句は、自ら筆をかむ場合であり、身に沁み通るような寒さを現している点において、特色ある句たるを失わぬ。機石の句はその点からいえばむしろ平凡であろう。ただ平凡のうちに何となく棄てがたいものがある。

もの買に折敷おしきをかぶるあられかな    燕流

 折敷という言葉は地方によっては使われているかも知れぬが、現在のわれわれにはやや耳遠い。『言海』には「飯器を載する具。片木へぎ作りの角盆」とあるから、あまり上等なものではなさそうである。買物に行くのにそれを持って行くのは、何か載せて帰るためであろう。丁度霰が降って来たので、笠か帽子の代りに折敷を頭にかぶった、というのである。霰が降っている中を買物に出るのに、傘をさすほどのこともないから、折敷をかぶると解しても差支ない。
 木導の句に「鍋屋からかぶって戻る時雨しぐれかな」というのがある。鍋を買いに行ったか、修繕にやったのを取りに行ったか、いずれにしても鍋屋から鍋を持って帰る、折からの時雨に頭から鍋をかぶって帰るというので、この方が働いているかと思う。折敷をかぶって買物に出るというよりも、鍋屋から鍋をかぶって駈け戻るという方が、軽い即興的なところがあって面白い。

朝霜に摺餌すりえ摺なり歩長屋    梨月

「歩長屋」は「カチナガヤ」と読むのであろう。「カチ」は徒侍かちざむらい、普通にオカチというやつである。徒士とも書き、歩行とも書くように聞いている。ここで徒侍の分限ぶげんなどについて、武家生活の方から何かいうのは、われわれの任でもなし、またこの句にそう必要なわけでもない。歩長屋は徒侍の住んでいる長屋と解してよさそうに思う。
 霜の白く置いた朝、そういう歩長屋で小鳥にやるべき摺餌を摺っている。小鳥は朝起だから、無論早旦に相違ない。ゴロゴロ摺る摺餌の音と、朝霜との間には感じの上の調和があるが、朝早く鳥の摺餌なんぞを摺っているところに、武家生活の或断面が現れているような気がする。但それは眼前の小景を捉えたまでで、そう面倒な知識を要するほどのものではない。

ふける夜や舟のせききく橋の霜    ※(「樗のつくり」、第3水準1-93-68)

 深更の趣である。橋の上には已に白く霜の置いているのが見える。そこを通りかかった時、はからずも寒夜にしわぶく声を耳にした、それは橋の下あたりに泊っている舟人の咳であった、というのである。「置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける」――橋の上を踏む行人の姿よりも、水上を家として舟に寐る人の生活が思い浮べられる。
 店月橋霜は詩歌の題材として古来いい古された観があるが、この句をして力あらしむるものは、深夜の水に響く舟人の咳である。この咳一声あるがために、霜夜の天地の闃寂げきせきたる感じがかえって強くなる。行人の咳でなしに、姿は見えぬ舟人の咳であるだけに、一層あわれを感ぜしめる。

火のきえておもたうなりぬ石火桶    蘭仙

 理窟屋に聞かせたら、火の有無は重量に関係はない、というかも知れぬ。そこは感じの問題である。炭のおこっている時はさほどに思わぬのが、火が消えて冷たくなったら、ひどく重く感ずる。石火桶であれば、その冷たさも、重さも、二つながら普通の火鉢以上であろう。

底寒く時雨かねたる曇りかな    猿雖えんすい

「底寒く」ということは「底冷え」などという言葉と同じく、しんしんと底から寒いような場合をいうのであろう。空が曇って時雨でも来そうになったが、遂に降らず、依然としてどんより曇っている。そうして底寒い。何となく凝結したような状態である。
 時雨は関東の地に絶無というわけでもあるまいが、山に遠い関東平野の中にいるわれわれは、さっと来て直に去る初冬の時雨なるものに縁がない。その代り京都の冬を談ずる者の必ず口にする「底冷え」なるものからも免れている。時雨は底冷えのする土地の産物だといったら、あるいは語弊があるかも知れぬが、いずれも山近い土地の現象であるだけに、相互関係を否定出来まい。この句は時雨の降りかねた場合の寒さを、的確に現し得ている。

煤掃すすはきや埃に日のさす食時分    千川

 煤掃が一わたり済んで昼飯になる。まだ片づききらぬ家の中で飯を食う。がらんとした室内に冬の日光がさし込んで、こまかい埃の浮動するのが見える、という意味であろう。「埃に日のさす」という言葉から見ると、一隅に掃寄せられたごみに日が当るという意味に解せられぬこともないが、それでは趣が少い。飯時分になってやや落著いた室内に、さし入る日光をしみじみと見る。その中に浮動する埃にも或美しさを感ずる、ということでなければならぬと思う。
「食時分」は「メシジブン」とよむのである。
 特に煤掃の時という記憶はないが、日光に浮動する埃の美しさを感じたことは、われわれも子供の時分にある。美に対する子供の感じは存外早く発達するのである。あの中に無数の黴菌ばいきんがあるというようなことばかり教えて、何ものの中にも美の存することを知らしめぬのは、果して子供のために幸福であるかどうか。――この句を読んでそんな余計なことを考えた。

冬枯や物にまぎるゝとびの色    吏明

 冬になって天地が蕭条しょうじょうたる色彩にみたされる。そういう天地の間にある時、茶褐色の鳶の姿が物にまぎれて見えるというのであろう。保護色などという面倒な次第ではない。鳶もまた冬枯色の中に存するのである。
 作者は冬枯の中に鳶を点じ去っただけで、鳶そのものの状態については何も説明していない。飛んでいるか、とまっているかということも、句の表には現していないが、冬枯を背景とし、その色彩に紛るるとある以上、これはとまっている鳶と見るを至当とする。「物にまぎるゝ」という七字が簡単にこれをつくしている。

麦まきや風にまけたる鳶烏    吏明

 寒い畑に出て麦をきつつある。強い風が野一面に吹きまくる。先ほどまで飛んでいた鳶も烏も、風に堪えられなくなったと見えて、そこらに影が見えなくなった、という意味かと思われる。
「風にまけたる」という言葉は上乗のものではないかも知れない。ただ現在風に吹かれつつある――吹き悩まされつつある状態だけでなしに、今し方まで飛んでいたのが、いつか見えなくなったという時間的経過を現し、その上に風の強い意味まで含ませるとすれば、やはりこういう意味の言葉を使わなければおさまらぬのであろう。この種の言葉も元禄期の一特徴である。

初雪や桐の丸葉の片さがり    路健

 雪に対して桐の葉を持出したところに特色がある。桐一葉は秋の到るを現すのに恰好かっこうなものであるが、それだからといって、桐の葉は冬を待たずに全部落ち尽すわけではない。かなり遅くまで枝についている葉がある。同じ作者の句に「初雪や桐の葉はまだ落果ず」というのがあるが、これは桐のこずえがまだ幾葉もとどめていることを現したのである。「片さがり」の句はその葉の一に目をとめて、片さがりになっている状態を捉えた。「丸葉」は今の人だったら「広葉」というところかも知れない。
 俳句は或伝統の上に立つ詩である。季題趣味というものも、伝統の上に立たなければ解し得ぬ点がいくらもある。しかしそれがために、桐の葉は秋に落ちるものだから、雪に配するのは常磐木ときわぎか枯木に限るというような既成観念を生じて来ると、多少の危険を伴うことを免れぬ。句の趣は直に自然について探るべく、歳時記や既成観念に支配される必要は少しもない。古人もつとにそれを実行していることは、雪中の桐の葉がよくこれを証している。

栴檀せんだんの実にひよ鳥や寒の雨    蘆文

 この栴檀は二葉よりかんばしい名木ではない。オウチの実である。かつて新年に伊勢神宮に参拝した時、黄色い実のなっている木があって、センダンだと教えられた。「栴檀のほろ/\落つる二月かな」という子規居士の句をなるほどと合点したが、今度はこの句を読んであの木のことを思い出した。
 寒の雨の降る中を、ひよどりが栴檀の実を食いに来る。鵯も栴檀の実も等しく雨に濡れつつある。寒いながら何となく親しい感じのする句である。

こほる夜や焼火に向ふ人の顔    岱水

「焼火」は「タキビ」とよむのであろう。寒夜火を焚いてだんを取る。作者は何もくわしいことを叙しておらぬが、屋外の光景らしく思われる。燃えさかる赤い※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおが人の顔を照して、面上に明暗を作る。人の顔の赤く描き出された背後には、闃寂げきせきたる寒夜の闇がはてしなく横わっている。平凡なようで力強い句である。

はつ雪の降出すころや昼時分    傘下

 読んで字の如しである。何も解釈する必要はない。こんなことがどこが面白いかという人があれば、それは面白いということに捉われているのである。芭蕉の口真似をするわけではないが、「たゞ眼前なるは」とでもいうより仕方があるまい。
 音もなく夜の間に降出して、朝戸をあけると真白になっているということもあれば、朝から曇っている空が年頃ひるごろに至ってちらちら雪を降らしはじめることもある。この句は後者で、そういう初雪の降出す場合を、そのまま句にしたのである。

をし船のすなにきしるや冬の月    素覧

「をし船」という言葉はよくわからぬが、句の意味から考えて、浅瀬か何かで船を押すことではあるまいかと思う。
 えいえいと押す船の底が、沙にきしって寒そうな音を立てる。皎々こうこうたる寒月の下、船を押す人の姿が沙上に黒々とうつっているような気がする。夏の月夜ならば、こういう出来事も一興として受取れるが、天地一色の冬の月ではそう行かない。一読骨に沁みるような寒さを感ぜしめるところに、この句の特色がある。

門々や子供呼込よびこむ雪のくれ    野童

 雪が降って元気がよくなるのは、子供に犬と相場がきまっている。寒さにめげず、外へ出て遊んでいるうちに、いつか夕暮近くなって来た。もう御飯になるから御帰りとか、寒いから内へ御入りとかいって子供を呼ぶ声が、彼方あっちの家からも此方こっちの家からも聞える。「門々」の一語によって、その家が複数であることも、うち続いた家並であることもわかる。われわれもこの句を読むと、遊びほうけて夕方まで戸外にいた少年の日のことが、なつかしく心に浮ぶのである。
 平凡な句のようでもある。しかし一概にそういい去るわけにも行かぬのは、必ずしも少年の日の連想があるためばかりとも思われぬ。

鳶尾の葉はみなぬれにけり初しぐれ    鼠弾

「鳶尾」はシャガと読むのであろう。あやめに似て小さい花をつける、菖蒲あやめの種類としては最も見ばえのせぬものである。花は夏の季になっており、俳句の材料にもしばしば用いられているが、葉を取上げたのはあまり見たことがない。
 シャガの葉は冬をしのいで枯れぬ。その青い葉が時雨に濡れて、ほのかに光を帯びている。見るからに寒げな趣である。これが石蕗つわぶきの葉か何かであると、形も大きいし、冬の季のものでもあるから、さほどのこともないけれども、花が咲いていてさえ見ばえのせぬシャガの、遺却されたような葉に時雨が降る。そこに初冬らしいもののあわれが感ぜられる。秋を経て枯れ枯れになった植物にそそぐ時雨よりも、冬に到ってなお緑を変えぬところに、かえって目立たぬシャガの寂しさがある。「みなぬれにけり」という言葉も率直にこの感じをつくしているように思う。

買切と馬にのり出すしぐれかな    雪芝

「馬市」という前書がついている。馬の値がきまって自分の所有に帰するが早いか、直にその背にまたがって乗出す、というのである。折から時雨が降って来たため、急いで帰る意味もあるかも知れぬが、気に入った馬を買い得たという、意気揚々たるところがうかがわれるように思う。已にこの馬を買い得た以上、時雨の如きは深く意に介する必要はあるまい。
 かつて「馬かりてかはる/″\に霞みけり」という蓼太りょうたの句を講じた時、借馬であろうという解釈もあったが、「旅行」という前書によって、その場合が明になったことがある。この句の「馬市」という前書はそれほど必要とも思われぬが、前書なしにこの句を読むと、買切ったものが何であるか、多少不明瞭になって来る。何か他の物を買って、しかして馬背に跨って去るものとしては、少しく省略が多過ぎるから、結局馬を買ったというところに落著くであろう。しかし馬市の前書を置いて見れば、買い得た馬にぐ跨り去る様子が眼前に躍動するのみならず、時雨の中の馬市の喧騒を背景的に浮立たせる効果がある。この意味において前書あるに如くはない。面白い場合を見つけたものである。

こがらしの残りや松に松のかぜ    十丈

 一日吹きまくった木枯が、夕方になって漸く衰えたような場合かと思われる。大分いでは来たが、まだ全く吹き止んだわけではない。その名残の風が松のこずえを吹いて、いわゆる松風らしい音を立てている。松を吹く風なら何時いつでも松風であるに相違ないようなものの、木枯の吹きすさむ最中では、これを松風と称しにくい。吹き衰うるに及んで、はじめて松風らしいものを感じ得るのである。
 北原白秋氏の『雀の卵』に「この山はたゞさうさうと音すなり松に松の風しいに椎の風」という歌があった。ひとり松と椎ばかりではない、吹かるるものの相異によって、風の音も自ら異って来る。それを聞き分けるのが詩人の感覚である。同じ松を吹く風であっても、そこに差別があるなどということは、理窟の世界では通用しないかも知れぬが、吾人情感の世界では立派に成立する。風といえば直に風速何十メートルで計算するものと考えるのは、科学者の天地でわれわれの与るところではない。

摺小木すりこぎの細工もはてず冬籠ふゆごもり    蘆文

 冬籠の徒然に任せて摺粉木の細工を思い立った。無論自家用か何かの手軽なものであろう。素人の手に合うものだけに、わけもないつもりで著手したが、なかなか出来上らない。今日も削り、明日も削り、摺粉木一本が容易に完成せぬ状態を詠んだものと思われる。
 普通の内職などでは面白くない。冬籠中にふと思いついた摺粉木細工で、それが思ったほどはかどらず、冬籠の日々を消す、というところにこの句の妙味がある。摺粉木の細工も長ければ、冬籠の月日も長いのである。

虫の音も枯て麦ほる烏かな    沙明

 野に鳴く虫の声というものは、夏の末から冬の初にわたる。夜は全く声がしなくなってからでも、日当りのいいところでは、生残りの虫がかすかに声を立てることがある。この句はそういう虫の声さえなくなった冬枯の野で、百姓が折角いた麦を烏が掘りに来る、という意味らしい。
 虫の声さえ枯れ果てて、というようなことは歌の方にもありそうな気がする。ただ冬枯の畑に烏が下りて麦を掘るというよりも、虫の声も全く聞えなくなったという事実のある方が、時間的な推移を窺い得る効果がある。すぐれた句というわけではないけれども、蕭条たる冬野の空気を描き得た点において、やはり棄てがたいように思う。

天井に取付とりつく蠅や冬籠    紫道

 生残りの蠅が天井にとまって動かぬ。それを「取付」という言葉で現したのである。其角が憎まれてながらえる人に擬した通り、冬の蠅は已に活力を失っているが、暖を求めてどこかに姿を現す。天井に見出すのは多くは夜のようである。天井を離れまいとして、じっと取付いている冬の蠅は、憎むというよりは憐むべきものであろう。
 天井の蠅もじっとしている。下にいる主人も――恐らくはじっとしているに相違ない。そういう冬籠の一角を捉えたのがこの句の眼目である。

胸に手を置て寝覚るしぐれかな    水颯

 胸に手を置くというのは、熟考の際にも用いられるが、この句のはそうではない。胸の上に手を置いて寝ると、苦しい夢を見てうなされるから、手を載せないようにしろ、と子供の時分よくいわれた。意識して手を置くはずもないが、寝ている間に自然とそういう姿勢になるのであろう。子供がうなされた時に注意して見ると、やはり胸に手を載せていることが多いようである。
 この句の中には夢のことはいってない。しかし胸に手を置いて寝た結果、苦しくなって目が覚めたことはたしかである。目を覚して気がつくと、小夜時雨さよしぐれひさしに寂しい音を立てている。夜の寝覚に時雨を聞くなどは、陳腐の嫌を免れぬが、ただそういう姿勢を取って寝たため、目が覚めたというところに、多少常套を破るものがある。胸苦しい夢を見て目が覚めた刹那せつなの気持と、小夜時雨というものとの間にも、何らか調和するところがあるように思う。

たゝひろき庭も払はずむら時雨    舎羅しゃら

「何がしの院にまかりて」という前書がついている。上五字は「たゞひろき」と読むのか、今の俗語で「だだッ広い」というに当るのか、いずれにしても相当広い庭と思われる。その庭が掃除も行届いておらず、落葉なども払わずにある。というのであろうか。「払はず」という言葉はなお他の意にも解せられるが、この場合きちんと片づいていないことだけはあきらかである。
 一塵もとどめず掃き清められた広庭に、時雨が降るというのも一の趣である。片づかぬ庭に時雨が降るというのもまた一の趣である。両者共に自然であって、その間に時雨と撞著するところはない。強いて時雨趣味を限定して、統一を図るなどは無用の沙汰である。

餅つきや臼も柱も松臭し    諷竹

 ちょっと変った句である。臼も柱も新しいのであろう、餅をいていると、松の木の匂がする。住み古りた所帯、持ち伝えた臼では、こんな匂がしそうもない。
 新しい木の香というものは爽快に相違ないが、いい現し方によっては少しく俗になる。作者が鼻に感じた通り、「松臭し」といってのけたのは、かえってよく趣を発揮している。「臼も柱も」の一語で、家も臼も新しいことを現したのも、巧な叙法というべきであろう。

麦まきの寒さや宿はねぶか汁    鼠弾

 蕭条たる冬枯の野に出て麦蒔をする。日和ひよりが定って暖いこともないではないが、曇ったり、風が吹いたりすれば甚しく寒い。仮令たといそういう条件が加わらないにしても、日が傾けば寒さはひしひしと迫って来る。冬郊に働くことは、この一点だけでもたしかに楽ではない。
 この句はそういう麦蒔の人の寒さと、その人たちがやがて帰る家で、葱汁をこしらえて待っているという事実を描いたのである。麦を蒔く野良の寒さを想いやって、帰って来たらこれをねぎらうべく葱汁を拵えた、という風にも解せられる。しかし宿の方を主にして、野良の寒さは想いやっただけのものとすると、いささか感じの弱められるおそれがある。麦蒔をおえて寒い野良から帰って来る。宿では葱汁を拵えてくれたと見えて、暖そうな匂が鼻をうつ、という風に解釈したらどんなものであろう。この葱汁は膳に向ってすするところまで描かれないでも差支ない。野良の寒さが強ければ強いほど、宿の葱汁の暖さもまた強く感ぜられるのである。

初しぐれここもゆみその匂ひかな    素覧そらん

「爰も」というのはやや漠然たる言葉であるが、こういうことだけは想像し得る。
 初時雨の降っている時、町なら町を歩いている。今しがたどこかで柚味噌を焼く匂をいだと思ったら、またここでもそれらしい匂がする、というのであろう。「爰も」という以上、何箇所だかわからぬけれども、とにかく複数であることは疑を容れぬ。彼処かしこでも柚味噌の匂を嗅ぎ、ここでも柚味噌の匂を嗅ぐという意味かと思われる。ただその彼処此処は、果して町を歩きつつある時に嗅いだものかどうか、句の上に現れておらぬから、断定することは出来ない。便宜上そう解したまでである。
 柚味噌というものは、昔にしても一般的な食物とは思われぬ。しかし時雨の趣を解するような人が、初時雨をでて柚味噌を焼いているというほど、殊更な趣向とも解したくない。この句の眼目は時雨の降る冷い空気と、柚味噌を焼く高い匂との調和にあるので、作者もそこに興味を感じたのであろう。「爰も」という言葉は、一句を複雑にすると同時に、多少漠然たるものにした。それは柚味噌がやや一般的ならざる食物だからで、いわし秋刀魚さんまを焼く匂だったら、平俗を免れぬ代りに「爰も」ということについて、格別の問題は起らぬかも知れない。

煤の湯を流しかけたり雪の上    里東

「としのくれに」という前書がついている。煤掃をしたあとの湯を雪の上にこぼす。「流しかけたり」というので、ざぶりとこぼさずにおもむろにあける様子がわかる。強いて風流をてらうわけではないが、一面に積った雪の上に、煤に汚れた湯をこぼすのは、多少気が引けるようなところがある。概念的にこういう趣を弄ぶのではない。作者の実感から生れているところに一種の力を持っている。
 昔の煤掃は今の大掃除と違うから、天気都合で延すなどということはなかったかも知れず、また北国のように雪に降りこめられるところだったら、晴天を待つわけにも行かぬであろう。そういう雪の中でも、年中行事の一として、家の内の煤だけは払う。この作者は膳所ぜぜの人だから、必ずしも北国情景と見るに当らぬが、

煤はきや手鑓てやりたてたる雪の上    不玉ふぎょく

になると、作者が東北の人だけに、そう解しても差支ない理由がある。「手鑓」は短槍ともいう。槍の細く短いものの称である。何でそんな槍を雪の上に突立てたか、まさか雪の深さを測る意味でもあるまい。暫時の置場として雪の上に立てたものであろうか。手槍を立て得ることによって、その雪の深さもわかり、現在雪の降りつつある場合でないことも想像出来る。
 煤掃に雪などという趣向は、大掃除に慣れたわれわれにはちょっと思いもよらない。同じく「雪の上」を捉えた元禄の句が、全然異った世界を見出しているのは面白い。

寒夜や棚にこたゆる臼の音    探志

「寒夜」は「サムキヨ」と読むのであろう。隣が搗屋つきやでその臼の響がこたえるのだとすれば、小言幸兵衛こごとこうべえそっくりだが、そう限定する必要はない。臼はどこの臼で、何を搗くのでも構わぬ。ただずしりずしりという響が棚にこたえて、棚の上に置いてあるものがその震動を感ずる。もしこれが「壁をへだつる臼の音」とでもあったら、臼の所在は明になるけれども、句そのものの働きは単純になって来る。臼の音を臼の音で終らしめず、棚にこたえる点に著眼したのがこの句の特色である。
 はじめて人を訪れた夜など、近く通る汽車の響を地震かと思い誤ることがある。住慣れた人は平気で談笑を続けていても、はじめての者には汽車か地震かの判別がつかぬのである。この臼の音ははじめての驚きではない。棚の物がかすかにこたえるのを見て、また例の日だなと合点する、やや慣れた心持が現れている。それが冬の夜長の闃寂げきせきたる気分と合致しているように思う。

炒豆いりまめに鳩をなつけん雪の上    一秀

 一面に降積った雪の上に、鳩が飛んで来て何かあさっている。彼らの食物も雪のために蔽われているので、手許にある炒豆でも雪の上に投げてやろう、そうして鳩を自分に馴付なつかせよう、というのである。
 同じ雪の降積った場合にしても、その上に米をいて、寄って来る雀を捕ろうというのとは違う。餌のない鳩を憐んで豆を投げ与え、これを馴付けて自分の友にしようという、閑居徒然の人らしい趣が窺われる。菓子の乏しい昔にあっては、炒豆なども座辺に置いてぽつぽつ食べるりょうの一であろう。その豆を与えるところに、「なつけん」という親しい心持がある。鳩に豆は極めて陳腐な取合とりあわせのようであるが、この句は決してそうではない。むしろ実感によってその取合を新に活かしたところがある。

炉びらきやこてでつきわる灰の石    孟遠もうえん

 久しぶりに炉を開いて見ると、寂然せきぜんたる灰の中に小石のように固まったのが交っている。それを鏝の先で突割ったというだけのことである。
「灰の石」という言葉は、作者の造語らしく思われる。説明的にいえば「石のような灰」であるが、それでは文字が多過ぎる。「石の灰」では石灰と混同せぬまでも、石が焼けて灰になったように取られやすい。あるいは不十分かも知れぬが、この場合「灰の石」以上に適切な言葉は見当らぬのである。
『末若葉』に「炉びらきやまた形ある雹灰 夜錦」という句がある。「雹」は多分「アラレ」とでも読むのであろう。霰のように小粒に固まった灰の形容らしい。炉を開くに当って灰に目を留めるのは、格別不思議もないが、灰の固まったのを「灰の石」といい「雹灰」というのには若干の工夫を要する。精緻な観察は古人に縁がないように思う人は、これらの句を玩味しなければなるまい。

裁物たちものにせばき一間ひとまや冬籠    夕市

 一間にあって裁物をする。裁板たちいたも置かねばならず、裁った布もあたりにひろがるから、自然一間のうちは狭くなる。平凡だといえばそれまでであるが、その裏に平凡ならざる何者かを蔵している。
 この句にあって一間を狭しと感ずるのは、必ずしも裁物をする人自身ではない。作者は裁物の人と同じ一間にあって、傍から観察しているものの如く感ぜられる。即ち裁物のために一間が狭くなることは共通であっても、自ら裁物をひろげつつある人の感じとは若干の距離がある。この場合衣を裁つ者は当然女であろうから、作者はその外に求めなければならぬのである。
 冬籠る一間は広きを要せず、狭くとも暖きを条件とする。居間の狭くなることをかこったようなこの句も、その条件にははずれていない。しずかにこの句を誦すると、裁たれる布の華かな色は勿論、座辺の火鉢に火のかんかんおこっている様まで、連想として浮んで来る。

湯のぬるき居風呂すえぶろ釜を脚婆かな    還珠

 この句は冬の季にはなっているが、何の季題に分類すべきかということになると、ちょっと判断に苦しまざるを得ぬ。第一下五字はどう読んだらいいのか、よくわからない。俳句の振仮名はこういう場合に最も必要なのだけれども、かえってそれがついていないのである。
 そういう問題はしばらくいて、この句の意味はどうかといえば、格別面倒なこともない。居風呂に入ったところが、いささか湯がぬるいので、脚を直接風呂釜に当てて見た、という意味らしく見える。五右衛門風呂の中に浮いている板の用途がわからないで、ふたの類と心得て取ってしまったため、直接釜に触れる足の熱さに堪えず、下駄穿げたばきのまま風呂に入って、遂に釜を踏み破る話が『膝栗毛』の一趣向になっているが、この句は湯がぬるくなっているから、釜に足を触れても熱くないのである。
 俳諧では湯婆と書いてタンポと読んでいる。この上に更に一字を添えた「湯たんぽ」という言葉が一般に通用しているのは、幸田露伴博士が考証したチギ箱の例のように、一つ言葉を補わなければわかりにくいためかも知れぬ。湯婆と風呂とは目的を異にするが、湯で身体を温める点に変りはない。湯婆の如く釜で脚を温めるという意味から、脚婆という語を造り出したのではあるまいか。湯の字と婆の字とが一句の中にあり、かつ脚を温める作用をも取入れているので、強いて分類すれば湯婆の範囲にでも入るべきかと思う。但これは臆測である。正解があれば何時いつでもそれに従うことにする。

鉄砲の水田になりて里の冬    蘆文

 稲を刈った跡の田が刈田で、それが冬に入れば冬田になるというのが、季題の上の常識になっている。ここにある「水田」は普通にいうスイデンの意味もあるかも知れぬが、同時に稲を刈った跡の田が暫く水をたたえていることを現したものではないかと思う。
 そういう水田に雁鴨その他の鳥が何か求食あさりに下りる。それを目がけてしきりに鉄砲を撃つ。蕭条たる冬の里には日々何事もなく、ただ水田にこだまする鉄砲の音が聞えるのみだというのであろう。われわれも少年の頃、東京郊外の田圃たんぼでしばしばこういう感を味った。「鉄砲の水田になりて」というだけで、直に右のような趣を感じ得るのは、過去の経験が然らしむるのかも知れない。





底本:「古句を観る」岩波文庫、岩波書店
   1984(昭和59)年10月16日第1刷発行
   1988(昭和63)年4月15日第7刷発行
底本の親本:「古句を観る」七丈書院
   1943(昭和18)年12月15日発行
入力:kompass
校正:酒井和郎
2017年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「虫+羊」、U+86D8    181-10
「槿のつくり」、U+5807    258-14


●図書カード