「俳諧大要」解説

柴田宵曲




 明治二十五年六月以来、新聞『日本』に掲げられた「獺祭書屋俳話だっさいしょおくはいわ」が、翌二十六年五月に至り「日本叢書」の一として日本新聞社から刊行された。これが子規居士こじの著書の世に現れた最初である。明治俳句の進歩の迹をたずねる者は、この一篇を振出しとする居士の俳論俳話を切離して考えるわけにいかない。従ってその分量も甚だ多く、『子規全集』〔改造社版〕の二巻を占めているが、ここには「俳諧大要」以後のものについて、長短五篇を収め得たに過ぎぬ。
「俳諧大要」は明治二十八年中の『日本』に発表されたものである。はじめは「養痾雑記ようあざっき」の一部として執筆されたのであったが、やがて「養痾雑記」の題を廃して独立の読物となり、十月より十二月一杯にわたって漸く完了した。明治三十二年一月「俳諧叢書」をほとゝぎす発行所より刊行するに当り、第一編に「俳諧大要」を取入れた。俳句に対し総括的な定義を下すと共に、修学第一期、第二期、第三期の順を追うて種々の方面よりその特質を説いたもので、菊判半截はんさい一八八ページの小冊子を以てほぼ意を尽している。居士の俳論俳話のうち、最も広範囲にわたり、首尾一貫したものとしては先ずこれを挙ぐべきであろう。但しこの前半は松山滞留中に稿を起したので、座右に参考書の類を欠き、記憶によって筆を執ったため、時に多少不備な点のあることは居士自身も認めている。修学第一期の終り(本書四三ページ)に「静かさは栗の葉沈む清水かな」の句を尚白しょうはくの作としているが如きも、記憶によって生じた誤りの一である。これは「随問随答」の中で人に答えている通り、『猿蓑』にある「柳陰りゅういん」の作でなければならぬ。
「俳人蕪村」もまた『日本』紙上に連載された。「明治二十九年草稿」と記されているけれども、活字になったのは三十年四月以降であった。しかもこの稿を掲げはじめてより間もなく、居士の病状に異変があり、しばしば筆をなげうたざるを得なかったので、全部を掲了するのに十一月までかかっている。前後十七回。この内容に訂正を加え、三十二年十二月「俳諧叢書」第二編として刊行を見たのが現在の「俳人蕪村」である。俳諧史上における蕪村の位置はこの書によって定まった。明治の俳句に蕪村の影響が多いことは、居士自身「蕪村調成功の時期」というような言葉を用いているのでも明らかであるが、それはまた居士以前の俳句と立場を異にする所以でもあった。即ち蕪村によって居士の俳句観をうかがうことは、単に天明期の一俳人を伝うるに止まらず、明治俳句を知る上の重大な関鍵かんけんになるのである。
 明治三十一年十月、雑誌『ホトトギス』が松山から東京にうつるに及んで、俳句関係の居士の文章は、ほとんどこの誌上に集中される形になった。第一に現れたのが「古池の句の弁」で、十月、十一月(第二巻第一号、第二号)の両度に発表された。古池の句に対する居士の見解は早く「芭蕉雑談」(明治二十六年)の中に示されているが、「古池の句の弁」の説く所は、それに比してはるかにくわしく、議論としても深く掘下げられている。居士が古池の句を以て芭蕉が自然の上に眼を開いた限界の一句とし、これを立証するために連句以来の蛙の句を時代順に列挙して、古池の句に至り全く面目一新する所以を明らかにしたのは、余人の容易に企つべからざる方法であろう。殊に『野ざらし紀行』中の作品を以て「句々なほ工夫の痕跡ありて、いまだ自然円満の域に達せず」とし、「手の届かざること僅に一寸」と断じているのは最も注目に値する。この一篇は蛙の句を中心とした小俳諧史である。古池の句の立脚地を闡明せんめいすれば、俳諧の立脚地もまた大体悟了し得ることになる。
「俳句の初歩」は『ホトトギス』第二巻第五号(明治三十二年二月)に掲げられた。初心者の蒙をひらくに自家の経験を以てした所に特色がある。二十九年中雑誌『世界之日本』に発表された「我が俳句」もほぼ同じ意味のものであるが、いささか抽象的に失する傾があった。「俳句の初歩」は「我が俳句」に述べた所を、初学者のために改めて説いたと見られる節もある。子規居士が自己の俳句を省みて「近時の俳人の如く一躍して堂に上るが如き快事に遭遇せず、一歩々々刻苦に刻苦して漸くに進みたる者」といっているのは味うべき言で、明治の俳句が単なる一時の飛躍におわらず、確乎かっこたる基礎を固め得たのは、中心人物たる居士が一歩々々刻苦して進んだ結果に外ならぬ。「写実的自然は俳句の大部分にして、即ち俳句の生命なり。この趣味を解せずして俳句に入らんとするは、水を汲まずして月を取らんとするに同じ。いよいよ取らんとしていよいよ度を失す。月影紛々ついに完円を見ず」という最後の数行は、「古池の句の弁」と相俟あいまって考える必要がある。
「俳句上の京と江戸」は明治三十三年四月、京都から出た雑誌『種ふくべ』に寄せたものである。この前後の居士は、病苦が漸く募って来たのと、歌の方面に力を分つ関係もあって、俳論俳話の数を減じ、たまたまあるものも短篇が多い。やや長いものとしては同じ年の三月『ホトトギス』に載せた「糞の句」と、この「俳句上の京と江戸」とがある位のものである。進んで三十四年に入ると、「病牀俳話」という短い問答体のものが一つあるだけで、俳句に関する意見も『墨汁一滴ぼくじゅういってき』の中で折々述べるというようになった。三十五年には「獺祭書屋俳句帖抄上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ」一篇以外に何もない。これは標題が長いのみならず、全体の分量も全集にして十七ページに達している。但しその内容は子規居士がはじめて自分の句集を世に出すに当り、回顧的に感想を述べたものだから、従来の俳論俳話とは少しく種類を異にする所がある。「俳句上の京と江戸」はその点からいって、最後の長篇とすべきであろう。『種ふくべ』が京都から出る最初の俳句雑誌であったために、居士は特にこの題目を取上げ、力を入れてこの一文を草したものと思われる。
 徳川時代における俳句界の中心が京であるか、江戸であるかということは大問題である。居士はこの大問題を説くに俗談平話を以てし、全体の比較より時代々々の比較に移り、俳人の比較より転じて俳風の比較に及んだ。しかしてそのいずれの点より見ても両者優劣なしというのであるが、畢竟ひっきょうこれは橢円形の如く二箇中心だったためであり、俳句界が橢円になったのは徳川時代の政治界が橢円であったためであると断じている所に、透徹したその見識を窺うことが出来る。文章は如何にも平易である。何人も理解に苦しまぬ。しかしその底にはやはり居士をたなければならぬものが横たわっている。仮にこれだけの俳諧史的知識を持合せていたところで、その一切を十分に消化し、自在に説き去ることは容易でない。優に一部の書を成すに足るこの題目を、かくの如く要約する一事に至っては、厖然ぼうぜんたる大著とするよりあるいは困難であるかも知れぬ。
 子規居士の俳論俳話は明治俳壇における一の羅針盤であったのみならず、今日から見てなお啓発さるべき内容のものが少なくない。ここに収め得たのは真にその片鱗であるが、わずかにこの数篇を一瞥いちべつしただけでも、新を説くに当って常に旧を顧み、古を論じて今に及ぼすことを忘れなかった居士の態度を察知し得るであろう。もしこれだけではあきたらぬとする人があるならば、更に全集について俳論俳話の二巻を通読すべきである。

昭和三十年二月
柴田宵曲しょうきょく





底本:「俳諧大要」岩波文庫、岩波書店
   1955(昭和30)年5月5日第1刷発行
   1983(昭和58)年9月16日第2刷改版発行
   1989(平成元)年11月5日第8刷発行
初出:「俳諧大要」岩波文庫、岩波書店
   1955(昭和30)年5月5日第1刷発行
※底本における表題「解説」に、底本名を補い、作品名を「「俳諧大要」解説」としました。
入力:酒井和郎
校正:鴨川佳一郎
2019年8月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード