近頃洪川老師のことを調べて居ると、色々有り難きことに逢著する。自分も今老師の亡くなられた年に殆んど近づいて居るが、自ら省みて足りないことのみ多きを
洪川老師を知らぬ人も沢山居ることと思うので、一寸お話しする。師は鎌倉円覚寺の和尚さんであって、明治二十五年一月に遷化せられた。年七十七。遷化の日、自分は偶然三応寮に居合わせたので、殆んど半世紀を経た今日も尚その時の記憶の新たなるを覚ゆるものがある。老師の円覚寺へ来られたのは、明治八年であった。その前は周防の国、岩国の
老師は元来が儒者であった。妻もあったのであるが、二十五歳の時出家せられた。修行中は並々ならぬ苦酸を重ねられたが、
老師は儒家の出身で、特に壮年の頃出家せられたのであるから、学問に対しての志向は、自ら他の禅者と異なるものがある。それから明治の初年は、政治・道徳・宗教、その外の思想文化の方面で、尋常ならざる衝動を受けた時代なので、
『宝鑑録』を読むと末後に左の記事がある。
師(愚堂)齢八旬余、一日〔豊〕玉に語りて曰く、老僧往年、本山に住するの日、単伝和尚、時に九十余齢なり、余の上堂の語を見て、歎美して曰わく、公猶未 だ老いたりとせず、意を刻せば則ち成らざるなけん。噫、羨望すべきのみと。余既に耳順、自ら謂えり這老耄矣、蒲柳の質甚
をなすにか堪えんと。今指を屈するに已に二十年に垂 んとす。その間孜孜 として之を懋 めば、当 に事として成らざるなかるべし。老禅の一語、実に虚しからざる也、古人学業終身を期せんのみ。汝等深く思うて旃 を勉めよ。

これはまことに有り難き
洪川老師は色々の覚帳を用意して居られた。これは自分等も幼時随分やったことであるが、壮年以後はそんな事をしなくなった。何か読書して心に留まったことを手帳に書きつけておくことは、好き習慣である。十読一写に如かずと云うこともあって、口で読むより筆に留めておく方が忘れにくい。但し近年は新しい事が次から次へと出て来るので、それに気をとられてしまうのである。色々の本を読んでおかぬと環境の変化に気が付かずに居て、随応の策を誤ることがある。自分だけなら、それでもよいが、何かの意味で他との交渉を持って居ると、自分だけ取り残されて居てはならぬことがいくらもある。殊に今日の世界は異常に拡がって行く世界である。天文学や数学又は物理学の方面の話をきくと、宇宙その物が拡がって行くと云うことであるから、吾等も


洪川老師の抜萃録は色々の本からである。『楞厳経』『円覚経』『華厳経』『法華経』などは云うに及ばず、『徒然草』『



シナの人――或は東洋人一般――は、客観的に事物の研究をしなかった。それで科学の進歩、機械的技能の精巧など云う点において、欧米人に比して著しく劣って居る。この点は今後吾等の大いに務めて自ら矯正すべきところであろう。科学的反省の本になる好奇心又は疑につきては、吾等東洋人も亦大いにこれを持って居るのである。ただそれが客観的に超自己的に外に向けられないで、自己の内面生活の上にのみ注がれて来た。それで道徳的に行為的に、よほど細かい点まで気がつくのである。洪川老師の抜萃中に左の句がある。
疑が覚悟の機であると云うは、疑によりて新たな知識を得るとの義であろう。疑がなくては、猫のいつまでも猫であるように、その境涯において進一歩の機会は与えられぬ。「これは?」と云って疑が出るところに、新しきものが見つかる。学問の上でも、内省の上でも、然らざるはないのである。疑は思索を促す。思索がなければ、独立の判断が出来ぬ。いつも群衆心理で動くより外ない。或る場合ではそれも亦可なりであるが、又或る場合では、大いに然らずである。霊性的直覚の場合の如きは、この大いに然らざる場合である。ただ伝統的に教えられたものを受取るでは、本当の学でない。有字の書ばかり読んで居ては、所謂る故紙堆裡に浸溺するもので、徒らに精神を昏迷するに過ぎない。
老師の抜萃に曰わく、
一斎云、学は自得を貴ぶ。人徒らに目を以て有字の書を読む、故に字に局 られて、通透することを得ず。当 さに心を以て無字の書を読むべし。乃ち洞 かに自得あり。
「無字の書」は霊性的意味にのみ解しないでも、物理や化学の実験室も亦無字の書である。動物や植物の世界、星辰の世界、人類生息の社会も亦
抜萃の一、一について話しすると、面白いことがいくらもある。ただ相互に関係のないことなので、
司馬温公、家居の日、侍史一惟老僕あり。一更三点に、即ち老僕をして先ず睡らしむ。書を看て夜分に至る。乃ち自ら火を罨 い、燭を滅して睡る。五更の初に至って公即ち自ら起きて、燭を発し、燈を点じて著述す。日日是の如し。
司馬温公の如きはシナ的君子の典型的なるものと思う。簡素な生活で、精力絶倫、一日の中僅かに四、五時間の睡眠をとるにすぎぬ。そうでないと、彼の如き著作は不可能であろう。彼は馬に乗って外へ出るときも、蓋を張らずに、扇で日を遮ったと云う。又范蜀公と一緒に

司馬温公が御役人を拝命したとき、書をその姪に送って曰く、近ごろ聖恩を蒙って門下(?)侍郎に叙せられた。朝を挙げて自分を忌むものが無数である。自分は愚直一偏でその間に処して行くが、黄葉の烈風中にあるようなもので、何時吹き飛ばされるかわからぬ。それで君命を受けてから
これは老師の抜萃帳からではないが、面白い草稿だと思って次にその大意を述べる。これは題して『僧侶国会準備論』と云う。「明治十五年六月、七本山管長総代、円覚寺洪川述」が奥書である。これはどんな形式で宗内一般の僧侶に通ぜられたものかわからぬ。全文四千四百字以上の仮名交り文である。明治二十三年に国会が開けるが、その準備に僧侶たるものは旧来の不品行を改めて本当の意義における僧侶になって居なければならぬ。然らざれば国会で弾劾せられて、仏教全体に大不利を招くにきまって居る。それ故、今日において早く袈裟下において人身を失せぬよう、「出家持戒の身分として女犯
「



最後に、洪川老師時代の人の考えと、六十年後の今日吾等の持ち得べき考えとの間に大いなる立場の相違あることを覚知すべき参考資料として、左記を引文する。
