洪川禅師のことども

鈴木大拙




 近頃洪川老師のことを調べて居ると、色々有り難きことに逢著する。自分も今老師の亡くなられた年に殆んど近づいて居るが、自ら省みて足りないことのみ多きをずる次第である。修養は一生を通じての事業でなくてはならぬ。「これでよい」などと、どこかで一休みすると、そこから破綻の機会が生れる。家康の云ったように、人生は車を推して長い坂を上るようなものだ、一寸でも緩みが出ると、後退する外ない。人生は進むか退くかどちらかである。じっと一処に止まって居ることはない。実にその通りである。乾の徳と云うこともあるが、天地自身が一刻も休むことなしに動いて居る。動かなくなるのは死んだときである。人間もまたかくの如しで、不断の努力が生命そのものなのである。これがなければ生きながら死んで居るわけである。
 洪川老師を知らぬ人も沢山居ることと思うので、一寸お話しする。師は鎌倉円覚寺の和尚さんであって、明治二十五年一月に遷化せられた。年七十七。遷化の日、自分は偶然三応寮に居合わせたので、殆んど半世紀を経た今日も尚その時の記憶の新たなるを覚ゆるものがある。老師の円覚寺へ来られたのは、明治八年であった。その前は周防の国、岩国の永興寺ようこうじに住せられた、時に年四十三。『禅海一瀾』はその頃書かれたのである。
 老師は元来が儒者であった。妻もあったのであるが、二十五歳の時出家せられた。修行中は並々ならぬ苦酸を重ねられたが、およそ十年にして臨済の宗義をその底に徹して参詳し尽くす。老師と時代を同じうする宗匠に、相国寺の独園、天龍寺の滴水、東福寺の敬冲、妙心寺の越渓等があった。洪川老師の遺稿を読んで見て居ると、その時代と今日と相隔ること半世紀以上であるが、禅界におけるその間の変遷は、各部面において、如何にも著しきものがある。
 老師は儒家の出身で、特に壮年の頃出家せられたのであるから、学問に対しての志向は、自ら他の禅者と異なるものがある。それから明治の初年は、政治・道徳・宗教、その外の思想文化の方面で、尋常ならざる衝動を受けた時代なので、まさに老境に入らんとせられつつあった老師などにとっては、その変化に順応するの如何に困難なりしかを想像するに余りあるものがあった。しかし老師は断えず所謂いわゆる新知識を吸収するに努められた。基督キリスト教徒に対する反撃なども、今から見れば、見当違いの面もあるが、その頃はどこでも、それ以上には出られなかったのである。老師はまた進化論などにも興味をもたれた。兎に角、新進の知識に触れようとせられたことは、注意すべきであろう。年は老いても精神の老いざることを示すものがあって嬉しい。
『宝鑑録』を読むと末後に左の記事がある。

師(愚堂)齢八旬余、一日〔豊〕玉に語りて曰く、老僧往年、本山に住するの日、単伝和尚、時に九十余齢なり、余の上堂の語を見て、歎美して曰わく、公猶いまだ老いたりとせず、意を刻せば則ち成らざるなけん。噫、羨望すべきのみと。余既に耳順、自ら謂えり這老耄矣、蒲柳の質※(「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2-94-57)なにをなすにか堪えんと。今指を屈するに已に二十年になんなんとす。その間孜孜ししとして之をつとめば、まさに事として成らざるなかるべし。老禅の一語、実に虚しからざる也、古人学業終身を期せんのみ。汝等深く思うてこれを勉めよ。

 これはまことに有り難き垂誡すいかいである。終身を期することは単に知識を新にし、思想を深めるなど云う知性的方面だけでなく、徳行の方面、人格向上の方面につきても亦大いにしか云うべきものがある。「これですんだ」と云うことは、棺の中へ這入るまでは云われぬことである。隠居など云うことは有るべからざる事である。

 洪川老師は色々の覚帳を用意して居られた。これは自分等も幼時随分やったことであるが、壮年以後はそんな事をしなくなった。何か読書して心に留まったことを手帳に書きつけておくことは、好き習慣である。十読一写に如かずと云うこともあって、口で読むより筆に留めておく方が忘れにくい。但し近年は新しい事が次から次へと出て来るので、それに気をとられてしまうのである。色々の本を読んでおかぬと環境の変化に気が付かずに居て、随応の策を誤ることがある。自分だけなら、それでもよいが、何かの意味で他との交渉を持って居ると、自分だけ取り残されて居てはならぬことがいくらもある。殊に今日の世界は異常に拡がって行く世界である。天文学や数学又は物理学の方面の話をきくと、宇宙その物が拡がって行くと云うことであるから、吾等もまた何かにつけて拡がって行くべきであろう。或る意味では、同じ本を何遍も何遍も繰返して読むべきであるが、他の場合では、或る書物は一寸目を通すだけでその内容を一度につかみ得るよう練習しなければならぬ。吾等は、一面では益※(二の字点、1-2-22)深くなり行かなければならぬが、他面ではまた益※(二の字点、1-2-22)広くならなければならぬ。厄介な世界になったものである。
 洪川老師の抜萃録は色々の本からである。『楞厳経』『円覚経』『華厳経』『法華経』などは云うに及ばず、『徒然草』『常山紀談じょうざんきだん』『日本政記』『艮斎間話こんざいかんわ』等、多多益※(二の字点、1-2-22)弁ずである。悉くを調べたわけでないから、老師読書の範囲をくすことは固より出来ぬが、克明に覚書きせられてあるのを見ると、師の心懸けを仰ぐことが出来る。今、※(「くさかんむり/(楫のつくり+戈)」、第3水準1-91-28)りゅうしゅうざん、『人譜類記』抜萃と題したものから、二、三を引用する。劉※(「くさかんむり/(楫のつくり+戈)」、第3水準1-91-28)山とはどんな人か不幸薄識で知らぬ。

 シナの人――或は東洋人一般――は、客観的に事物の研究をしなかった。それで科学の進歩、機械的技能の精巧など云う点において、欧米人に比して著しく劣って居る。この点は今後吾等の大いに務めて自ら矯正すべきところであろう。科学的反省の本になる好奇心又は疑につきては、吾等東洋人も亦大いにこれを持って居るのである。ただそれが客観的に超自己的に外に向けられないで、自己の内面生活の上にのみ注がれて来た。それで道徳的に行為的に、よほど細かい点まで気がつくのである。洪川老師の抜萃中に左の句がある。

陳白沙ちんはくさ曰、前輩謂う、学は疑を知ることを貴ぶ。小疑には則ち小進あり、大疑には則ち大進ありと。疑は覚悟の機なり。一番覚悟すれば一番の長進あり。某初学の時、亦是れかくの如し。更に別法なし。

 疑が覚悟の機であると云うは、疑によりて新たな知識を得るとの義であろう。疑がなくては、猫のいつまでも猫であるように、その境涯において進一歩の機会は与えられぬ。「これは?」と云って疑が出るところに、新しきものが見つかる。学問の上でも、内省の上でも、然らざるはないのである。疑は思索を促す。思索がなければ、独立の判断が出来ぬ。いつも群衆心理で動くより外ない。或る場合ではそれも亦可なりであるが、又或る場合では、大いに然らずである。霊性的直覚の場合の如きは、この大いに然らざる場合である。ただ伝統的に教えられたものを受取るでは、本当の学でない。有字の書ばかり読んで居ては、所謂る故紙堆裡に浸溺するもので、徒らに精神を昏迷するに過ぎない。
 老師の抜萃に曰わく、

一斎云、学は自得を貴ぶ。人徒らに目を以て有字の書を読む、故に字にかぎられて、通透することを得ず。さに心を以て無字の書を読むべし。乃ちあきらかに自得あり。

「無字の書」は霊性的意味にのみ解しないでも、物理や化学の実験室も亦無字の書である。動物や植物の世界、星辰の世界、人類生息の社会も亦好個こうこ実験(此場合では観測)の室である。

 抜萃の一、一について話しすると、面白いことがいくらもある。ただ相互に関係のないことなので、まとめて書くわけに行かぬ。疑がいくらか知性的なので、学問修行に聯関して一言しただけである。次には、シナの人の性格を反映する一面として、偶然の記事を只並べておく。洪川老師がこんな記事に興味を持たれたと云うことの参考にもなろう。

司馬温公、家居の日、侍史一惟老僕あり。一更三点に、即ち老僕をして先ず睡らしむ。書を看て夜分に至る。乃ち自ら火をおおい、燭を滅して睡る。五更の初に至って公即ち自ら起きて、燭を発し、燈を点じて著述す。日日是の如し。

 司馬温公の如きはシナ的君子の典型的なるものと思う。簡素な生活で、精力絶倫、一日の中僅かに四、五時間の睡眠をとるにすぎぬ。そうでないと、彼の如き著作は不可能であろう。彼は馬に乗って外へ出るときも、蓋を張らずに、扇で日を遮ったと云う。又范蜀公と一緒に嵩山すうざんを尋ねたとき、各※(二の字点、1-2-22)茶を携えて行った。温公は茶を紙袋に入れて居たが、蜀公は小さな木の盒を持参した。温公はそれを見て驚いて曰わく、君はお茶道具を持って居るのか、と。蜀公はこれをきいて、その盒をお寺に寄附して帰った。
 司馬温公が御役人を拝命したとき、書をその姪に送って曰く、近ごろ聖恩を蒙って門下(?)侍郎に叙せられた。朝を挙げて自分を忌むものが無数である。自分は愚直一偏でその間に処して行くが、黄葉の烈風中にあるようなもので、何時吹き飛ばされるかわからぬ。それで君命を受けてからおそればかりで喜びなどはない。お前達も自分の心を酌みとれ、と。

 これは老師の抜萃帳からではないが、面白い草稿だと思って次にその大意を述べる。これは題して『僧侶国会準備論』と云う。「明治十五年六月、七本山管長総代、円覚寺洪川述」が奥書である。これはどんな形式で宗内一般の僧侶に通ぜられたものかわからぬ。全文四千四百字以上の仮名交り文である。明治二十三年に国会が開けるが、その準備に僧侶たるものは旧来の不品行を改めて本当の意義における僧侶になって居なければならぬ。然らざれば国会で弾劾せられて、仏教全体に大不利を招くにきまって居る。それ故、今日において早く袈裟下において人身を失せぬよう、「出家持戒の身分として女犯ならびに蓄髪ちくはつを好むは是畜生の業因なること」を知らなくてはならぬのである。
愚衲ぐのう※(二の字点、1-2-22)既往現今吾国宗教の幻象を想像するに、清僧社会に※(「口+敢」、第3水準1-15-19)肉蓄妻だんじきちくさいの弊事浸入せしより、清浄の練者は変じて汚穢の醜場と成り、僧侶活溌勇進の気風は、たちまち怠惰侈靡しびの姿と化し、爽快なる禅機腐敗して、慷慨悲憤の丈夫心を失」うと云うのが、洪川老師の痛大息して堪えざるところなのである。もし老師にして今日までも御在世であったら、何と云われることであろうか。僧侶の※(「口+敢」、第3水準1-15-19)肉蓄妻が現今のように日常事となってしまったのは、固より彼等が自家の使命に対する自覚のないところから出るのであるが、また一般社会の僧侶と云うものに対する考え方の変化にも由るのである。単に僧侶の堕落とだけ云うわけに行かぬのである。世界一般の思想の変移と云うものを、その根柢から解剖して、徹底した意見を樹立しなければならぬのである。自分等の遺憾とするところは、今日の僧侶にこの意見・主張・論理的立場なるものが皆無な事実である。これを遺憾とする。もし彼等に何かの積極的、思想的立場の明かなものがありさえすれば、それで従来の伝統に対して何等かの施為しいが可能になり、寺院も僧侶自身も更生の機会を得るのである。併しこれには吾等一般の仏教者も亦大いに考えなければならぬものがある。
 最後に、洪川老師時代の人の考えと、六十年後の今日吾等の持ち得べき考えとの間に大いなる立場の相違あることを覚知すべき参考資料として、左記を引文する。

さてこの※(「口+敢」、第3水準1-15-19)蓄の事たるや、夫々それぞれ宗旨社会に仏の制度、祖師の厳規のある有れば、元来政府より出令すべき事柄にあらざるに、遂に出令ありしは、その意旨を察するに、只僧侶に対し、不律不如法の処刑を廃すと云う迄に止まりて可なるべき事なるに、肉食妻帯勝手たるの令出しは、本と政府の好心より出るにあらず。畢竟は、僧侶は無気力不見識のもの奴隷視するより、その本心の正邪優劣を試んために左右するの仮想ならんに、軽躁惰弱けいそうだじゃくの輩は、その鉤意を察せず、只その甘言に精神を惑溺せられて、清僧の特操を変じて、己が勝手に泥著して、中心の醜拙を現わして、いささかも廉恥の心なく、大切なる本師釈尊の厳規を破り、国令を奉ずと云うを口実として、言語道断なる醜体を顕わすと云は、鄙陋ひろう千万、不見識も亦甚しきと謂べし。(筆者加点)





底本:「禅堂生活」岩波文庫、岩波書店
   2016(平成28)年5月17日第1刷発行
底本の親本:「鈴木大拙全集 第三十二巻」岩波書店
   2002(平成14)年5月9日
初出:「大乗禅 第二十一巻七号」
   1944(昭和19)年7月1日
入力:酒井和郎
校正:岡村和彦
2017年10月30日作成
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