釈宗演師を語る

鈴木大拙




 今年の夏、米国シカゴ市で万国博覧会を開くそのついでに、万国宗教大会を催すと云う計劃けいかくがあったと聞く。しかしそれは中止になったらしい。その理由の一として、もしそんな大会を開くと、今から四十年前に同じ市で同じ会合があった時のように、東方からの宗教者に宣伝の好機会を与え、藪から蛇をつつき出すことになる、しかしてそれは基督キリスト教徒にとって好都合のことではないと、こう云うのが一の理由となって中止せられたものだと、或る人は云って居た。こんな理由もあったかも知れぬ。何故かと云うに、吠檀多ヴェーダンタ教や仏教など云う東方の教えが米国に入り込んだのは、実に印度や日本の人々が宗教大会に大いに気焔を吐いた、その時からのことである。釈宗演師などの名が米国に伝わり、又再度の渡航を促すようになったのは、実にその因縁をこの時に結んだのである。
 不思議な因縁で、自分の渡米もこの時に出来たのである。仏教のうちでも禅が割合に英米に知れて来たのも、やはりその機はこの時から熟し始めたのである。それで今釈宗演師につきて語らんとするに当り、自分の想は自然に今度計劃せられた宗教大会から四十年前の大会に溯るわけである。
 宗演師はその頃既に多少英語を解して居られたけれど、大したことではなかった。自分の英語も怪しいものであったけれど、それでも何かの助けになった。大会のプログラムを談じたり、講演の草稿をこしらえたり、往復の手紙を書いたりなどした。今から見ると、どんな事をやったか、随分冷汗をかくような事をやったに違いない。宗演師講演の英訳をえて、それを当時円覚寺内の帰源院に来て居られた夏目漱石さんに見てもらったことを覚えて居る。元良もとら先生も、その時居られたかと思う。
 とに角、この大会が縁になって、米国のケーラス博士は『仏陀の福音』と云うものを書いた。これが不思議にも欧米によく売れた。ケーラスは随分沢山色々の書物を書いたが、今でも売れる本は『仏陀の福音』だけである。彼の名はこれで不朽になるであろう。自分はこの書を和訳した。それから、大会のプログラムによりて、自分はまた『新宗教論』と云う一著述をやった。
 余宗は知らぬが、こんな大会に臨済宗の管長で師家であったものが単身出かけるなど云うことは、破天荒の事であった。それで宗演師の渡米に反対するものも、可なりあったのは事実だ。併し師は敢然として外遊することに決心して、著著その準備を進めた。今では禅坊さんの外国行は何でもないが、時勢も変れば変るもの。但しその始めをなす人には、可なりの決意と先見とが必要である。この点から見ても、宗演師には時代から一歩先んずるだけの見識と実行力があったわけである。その当時、師はまだ三十を越ゆること四、五を出でぬと思う(今年代記を持ち合わせて居ないし、その上自分は殊に時の観念に乏しいので、歴史的記述は何時も無茶苦茶である。乞御諒察)。
 その頃平井金三ひらいきんぞうと云う人がシカゴ市に居て、大会では仏教のために大雄弁を振ったと聞いて居る、何でも英語に堪能であったと見える。印度からはヴィヴェカナンダと云う吠檀多教の大立者が来て、この人が大会の花形役者であった。今時の米国基教者は、この人のようなものが、又大会に乗り込んで来るかと心配して居るのだ。印度人は語学の天才で、雄弁・高論をやる、その上印度思想の幽遠なところを滔滔とうとうとしゃべり立てたので、基教の外、世界に何の宗教もないと思って居たものにとっては、千年の夢一時に醒めたと云う塩梅であったに違いない。仏教者はそれほどに光彩を放たなかったが、今までの基教的伝統・因襲に飽きたらず居たものは、喜んで仏教に耳をそばだてたのである。宗演師の一行は、シカゴ市附近の富豪で、又思想界の趨向に興味を持って居たヘグラー翁に招かれ、その家にしばらく滞在して、宗教上の問答をやった。もとより師などは余り語学がいけないので、相手役は平井氏が主として勤めたが、言葉の上よりも、人格の上で一段の威圧を感ぜしめたのは、宗演師であったらしい。それは自分が渡米してからも、何時までもその人々の口に上ったからである。これに言葉が自由に出来たら、中々面白き事もあったろうと思う。とに角これが機会となって、ケーラス氏をして『仏陀の福音』を書かしめたことは、大なる収穫であった。
 宗演師は人を包容するだけの器量を備えて居られた、即ち人をして出来るだけその力を延ばさしめられた。自分等でも、喜んでその能を尽さんとの決心をしたものである。親切でよく人の世話をせられたけれど、干渉がましいことは少しもしなかった。他を信じすぎられたかと思われさえもした。自分の力ではどうかと危ぶむことでも、平気で、「やれ」と命ぜられた、そう云われると、何だか今まで無い自信までついて来ることもあった。
 こんな風にして弟子を育てられたものと見える。併し自分等は俗人でもあった故か、そんなに叱られたこともなかったが、植村などは随分ひどくやられたと思われた。植村定造と云うのは、始め自分等と一緒に学生として参禅したものだ。ところが、大学を出てから植村は坊さんになった。老師の弟子になって宗光と命名せられた。自分が在米十余年間に一廉の人物に仕上げられたらしい。その間の生活は知らなかったが、老師が再度の渡米の時洩らされた述懐談で、その模様の大体を知り得た。宗光の亡くなったのは、宗演師にとりて非常の打撃であった。彼もし今日に生きて居たなら、一方の宗匠として、何かやり得たと思う。他のお師家さん達や管長さん等のように、妙に納まりこんで、「吾こそは三界の大尊師でござる」と云って居ることはなかろうと信ずる。
 話は横に入ったが、植村宗光は、日露戦争が休戦の仮条約を締結したその次の日に戦死したのである。彼は予備少尉か中尉であったので、戦争に呼び出された。戦争も大分進んで居た頃なので、新参の士官などは古参のものにいじめられたそうだ。それで馬賊の指揮の方へまわされて、正規の戦闘よりも、間道へ間道へと進んで行った。これが早く休戦の報に接する機を失した所以だ。その頃東京の自分へ送った手紙には、「直宗光」と云う赤い大きな名刺を添えて、実戦に処した経験などをつまびらかに云って来た。通化附近の戦に股を射貫かれて倒れ、遂に捕虜となったらしい。それから先は、どうしても分明でない。その筋も手を尽したが、どうも通化あたりで銃殺せられたらしい。その報知が在米の宗演師の手許に来たのだ。
 もう休戦にもなったから植村も除隊で渡米して来るかも知れぬなどと、互に噂して喜んで居た矢先、宗光戦死の知らせ。その時の老師の落胆の模様は今でも目に浮ぶようだ。「死んではもう万事休す」だと云われた時、自分も旧友をおもうて悵然ちょうぜんたらざるを得なかった。丁度夕方頃で、太平洋沿岸の一室、落莫たる大海原に対して憮然ぶぜん久之の光景、誠に気の毒であった。その後老師の洩らされた言葉に、「こんなに死んで行くなら、あれほどにしなくても善かったのに」と云うのである。その意味は、「あれまでに強く痛棒を加えて、無慈悲と思われるほど鍛錬の力を加えなくてもよかった、可哀相なことした」と云う心である。植村は中年で僧侶になったもの故、殊に目をかけて、我慢の角を矯め、且つ他時異日たじいじつの発展を期せんとて、痛く鉗鎚けんついを加えられたものと見える。それでこの長歎息ちょうたんそくがあったわけだ。親が子供に対すると同じ情熱の気分が見える。宗演師は一個の禅僧として、意志強く、又世を浮雲の如く見て行く、所謂いわゆるお悟りの人のように思われもしたであろうが、その実、情の人であった。
 情の話をすると、こんなことがあった。或る時、若い婦人(と思う)が早世した。その葬式に臨んで、不図ふと師は涕泣ていきゅうした。傍人はこれを怪しんで、「世捨人にも亦これあるか」と云う。このことを師は後からわしらに話して、「世間では禅坊主はまるで人間でないと思って居るらしい」と云って居られた。
 宮崎虎之助みやざきとらのすけは、「予言者」として飛びあるいた、妙な宗教者であった。わしの所へ尋ねて来て、これから東慶寺へ行くから紹介せよと云う。宗演師に会って、色々と自分の不遇・不幸を訴えたと見える、即ち或る宗教者は有福なブル的生活をして居るのに、自分は轗軻かんか不遇、今日の衣食にすら窮すると云う不平であったらしい。これは後から老師から聞いたのである。その時老師は、「そんな不平があっては、まだ真の予言者にはなれぬ、今一段の修行を要する。併し実際問題として、衣食に窮してはお困りだろう」と云って、老師は信者の喜捨金一包をそのまま与えて別れられたことがある。宮崎君のような宗教家は時々見付かる。一種の体験はあるが、知性の発達が、これに伴って居ないので、事物全般の展望が欠けて居る、それで畸形児的なものに成って仕舞う。一寸書き加えておく。
 野田大塊居士が、野人そのままの風采で、円覚寺から下りて来て、向いの松ヶ岡へ行かれるのに、時々出くわしたことがある。呼ばれて東慶寺で一緒に話したこともある。少し出過ぎたかも知れぬが、或る日老師に、「野田と云う人は、所謂る昔風の豪傑で、※(「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76)枝大葉そしたいよう、今日の政治家に適して居るか、どうです」と云った。すると老師は、「いや、ああ見えても、中々秩序の立ったよい頭を持って居る」とて、深く推奨せられたことを覚えて居る。
 又或る時、円覚寺中興の祖、誠拙せいせつ和尚に「大用国師」の追諡ついしがあった時、わしは又出過ぎたことを云ったことがある、「今日の坊さんは、国師号を戴くことや、寺を建てたり、法事をしたりすることに、骨を折ってばかり居る。もっと建設的な仕事をやらぬと、仏教や禅道の将来は思いやられる」と。こう云った時、老師は何時ものようには何の意見も吐かれず、黙して居られた。寺を建てること、法事のことなどにつきての老師の意見は多少知って居るが、今度は国師号のことを附け加えて愚見を吐いたので、「予が現に報いんとする切情を知らぬ、この馬鹿奴」とでも思われて、沈黙を守られたかと、まあ今はそう考えて居る。
 宗演師は六十一にならんとして逝かれた。今日生きて居られぬ齢でもない。居られると、有難い高僧であったろう。折に触れて逝かれた人を思うこと誠に切なるものがある。学生時代から、金がなければ金を貰い、智慧が足りなければ智慧を借り、徳が薄いところ、気のきかぬところは、その時々に補って貰い、亡くなられるまで面倒をかけたその人と、相別れて既に十五年(?)ほどになる。
 師は誰にでも情の厚い人であったが、自分から見ると殊にそんなように感ずる、これは人情の常であろう。
 今日師を語らんとして、ただ思い出すことの一片を書き付くると、何時とはなしに、私情を語るようになった。読者の寛恕を乞う。
(三月三十一日、円覚寺、春雨に閉籠められて記す。)





底本:「禅堂生活」岩波文庫、岩波書店
   2016(平成28)年5月17日第1刷発行
底本の親本:「鈴木大拙全集 第三十二巻」岩波書店
   2002(平成14)年5月9日
初出:「現代佛教 第一〇五号」大雄閣
   1933(昭和8)年7月1日
入力:酒井和郎
校正:岡村和彦
2018年6月27日作成
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