楞伽窟老大師の一年忌に当りて

鈴木大拙




 月日のたつのは誠に早い、楞伽窟の遷化せられてから、もう一年を経過した。昨日今日のように思うて居たが、この分で進めば三年も七年も間もなく過ぎることであろう。そうして他人と自分と皆悉く「永遠」と云うものの裡に吸い込まれて行く。人生も意義があるような、ないような、妙なものである。「永遠」を「刹那」に見て行けば、刹那刹那に無限の義理があるとも云えるが。それでも刹那は水の泡のように次から次へと消えて仕舞う。はかなき点から見れば「永遠」とてもまたはかないではないか。何れが是なのか、何れも是なのか、また何れも非であるか、所謂いわゆる白雲の「未在」か。しかしいくらこんなことを曰うても、俗人には何もわからぬ、只悲しいときには悲しい、おかしいときにはおかしい。「畢竟如何」などと六箇敷むつかしいことは云わぬがよい。楞伽窟が亡くなられてから一年をすぎたと云うのは事実である。そうして予は今この事実を思うて居るのである。
 先頃九月末日の大雨に東慶寺の青松軒は大損害をうけた。老師が書斎の前栽も崖から崩れた土砂でめちゃめちゃになった。併し幸にお墓の処には何等の影響もない。阿弥陀の古銅仏は端然として楞伽窟の遺骸を護って居られるように見える、岩穴から流れ出る水も滾滾こんこんと尽きぬ、手水鉢ちょうずばちは充ちて居る。石燈には老師の自作を毒狼窟どくろうくつの筆で刻み込まれてある。その歌はこうである。

わが身をば何にたとへん白雲の山ある里は家路なりけり

「不可往道人」としてあるのは「楞伽」即ち「ランカー」の義訳である。去年密葬の日は夕方からしょぼしょぼと降って、うら寒い天気であった。今日は晴れわたると云うほどではないが、気候は寧ろ暖かい。(今日も二時半頃から降り出した。)墓の上の方の楓はまだ紅葉しない、石段の上にある銀杏の樹数本は亭亭ていていとしてそびえて居る。これから益※(二の字点、1-2-22)黄ばんでくると、此処ら一面は落葉で埋まるであろう。お墓はまだ新しいので、何となく落付きがない。併しこれから二年、三年、五年、十年とたつと、生垣も茂り、石段も苔蒸こけむして、お墓らしくなるであろう。何だか有り難いような又有り難くもないような気がせぬでもない。
 書斎に行って見れば、仙崖の画も、隠元の書も、もとの通りであるが、床の間には老師の油画の懸物に線香を上げてある。在りし人の面影のみはいくらか留めて居る、併しその人は見えぬ。「何れの処にか在る」と一場の問答でもすべき処である。ただ向うの山は旧に依りてかやで蔽われて居る。雑木の林の方はまだ十分に秋の景色を現わして居ない。老師在世の頃はよくこの山を見て、今年は紅葉が深いとか浅いとか云われたのを覚えて居る。庭の柿の樹も二本やら三本やら有るのが、去年のようにのって居る。が、雨で庭も池もこわれたので、今年は何だか一帯の趣きが変って来た。東慶寺の現住は中々責任がある。老師はなるほど中興であった。あれほどに荒廃した寺をこれほどに復興せられた。併しこういうものは一代にて興りもし、亡びもする。後継者は単にお寺の留守居をすると云うことだけでも、一寸六箇敷むつかしいものであるが、中興の跡を受け、又その上に事業を進めて行かんと云うには、中々の努力が必要である。禅忠師の責任も亦大とすべきだ。
 お墓へ参るたびに観音堂の前を通るが、この堂も亦懐旧のもとである。冬の朝など早く参禅にくると、老師はまだ観音堂で読経して居られる。当初は書斎内の持仏堂で看経せられたが、この勤めは何時頃よりか観音堂へ移った。朗朗たる音声で、茶の間へも聞えた。帰られるとその儘直ぐに参禅をきかれて、それから茶礼されいに残ったこともあった。こんなことは何れも昔を偲ぶ種子たねである。亡くなられてからは、東慶寺は大いに淋しい。主のない亡骸なきがらでは、どうも仕様がない。生きて居るものには何だか一種の暖かき空気のようなものが溢れ出る、その人の前へ来たり、又その人を思うたりすると、その気に包まれるような心持になる。只思うときでは何となく物足らぬ、愈※(二の字点、1-2-22)その活人かつじんに近づくとき始めて一種の満足を感ずる。そうしてその空気ようのものは、その人の居た室内などに、妙香のにおいのように永く遺るものである。ただその活きた発散の源が現前して居ないので、無窮の供給が出来ぬ、随いて今老師の居間へ来て見ても、すこぶる物足りがせぬ。何だか寂しい、悲しい心持がして仕様がない。自分がもっと精神的になったら、物質の拘束をはなれて、こんな感じもなくなるのかも知れず。
 先頃居を移す必要があって、古いものや何かを引っくり返して見なければならなんだ。その中から偶然に老師からの手紙や端書なども出た。学校の事がわしかったので、諸事万端の整理がつかず、その日その日暮しになって居たので、老師の書信もその儘となって居た。最近のものではデュウイ教授訪問のとき、ファーネス婦人参堂などのときに送られた書信がある。想えば去年の六月、海禅寺かいぜんじで、あの天文学者の婦人がマコレー師と共に老師を尋ねたとき、あれが老師病臥前にゆっくり御話を承った最後なのである。あの時は老師は余程疲れて居られた、会談中は別に気もつかなかったが、後からの容体は大分悪いと予はひそかに心配したほどであった。翌朝信州へ行くといって御出たが、どうかと思うた。後から聞けば、近侍の人はこの行を断然お止めになるように勧めて、松ヶ岡へ帰ることにせられたと云うのである。もしあの時そうしなかったら、老師は信州で不帰の客となられたかも知れぬ。
 老師はよく云われた、「人は病後を大事にせよと云うけれど、そう云う後から何処へ来て講演してくれとか、説法してくれとか云う。そう云わるれば否と云うわけに行かぬ。※(二の字点、1-2-22)いよいよ出かけて行けば、生半可な好加減なことが出来ぬ、力の出せるだけ出す、結果のよしあしなど考えて居られぬ」と。人間もこうなると中々六箇敷い、何もかも止むを得ぬと云うのが当然なのであろう。老師も動かずにじっとして居られたら、もっと長き命はあったに相違ない。併し四囲の事情はこれを許さなかった、また老師の性格も只生きのびるためにとて鎌倉に隠栖することを許さなかった。内外の勢で六十一歳はその寿命となった。吾々の方から見れば、もう十年生きて居られたならなどと思うことが※(二の字点、1-2-22)しばしばある。老師の尚お若きときには「わしは四十まで生きて居るかどうか」と云われたこともあった。血気盛んなとき、又は修行中には随分無理を通して来たのであるから、自分のからだは「ひび」だらけであるなどと云われたこともあった。体質から見れば余り強い方ではなかったと思う、それでも養生のしようでは七十位は何でもなかったろう。六十まで持てたのも精神の力であったに相違ない。
 一体僧堂の修行法は余程健康なものでなくてはいけぬ。十年、十五年もあんな生活に堪えるには生れつき強く出来て居なくてはならぬ。ようように堪える位では修行が出来ても、これから衆生済度をやろうと思うとき斃れて仕舞う。勿論もちろん世間でも秀才の人が大学を出際で死ぬるのもある、或は高等学校で逝くのさえある。これは今日の学校教育が脳力を浪費させるように出来て居るからでもあろう。長生きするのが能ではなけれど、或る人々はなるべく早く死んだ方がよいと思うのもあるが、兎に角生命が永ければ永いほど修養を積むことが出来る故、人物もより完全に近づくわけである。殊に僧侶は長命して欲しい。吾々はまだ伝習的僻見に囚われて居るのかも知れぬが、年とった仙骨を帯びたような坊さんが何となく有り難い。若いものは何だか客気があり、俗気があり、色気があるように見えて、尊敬する気分が出ぬ。殊に近来の僧侶など、俗的勢力にこび近づかんとする容子がありありと見えすくので、嘔吐を催すのである。これが禅坊主と来ては何とも曰われぬ嫌な気がする。外の坊さんは兎に角としても、禅坊さんだけは世間を超絶して欲しい。一服の清涼剤でも嚥下えんげするような坊さんに出遇うと、その日一日気分が清清して、俗人に接し、俗事を処するに、さっぱりとやって行ける。禅僧には学問もあってよい、弁才も亦可なりである。併し是非なくてならぬものはこの一種世間を超絶した清新の気持であると予は信ずる。
 先頃鎌倉で同参の坊さんに汽車の中で出くわした。その人の話に「冷蔵庫禅」なるものの在ることを聞いた。それはこうである。冷蔵庫の中では冷やかに固く清くなって居るが、一たび庫から出すと融けて仕舞う、なまぬるくなる、一種の臭気が鼻につく。その通りに、坊さんも僧堂に居たり山寺に居たりすると如何にも禅僧らしき点があって面白いが、一たび山を下りて世間へ来ると世間の空気にかぶれてかその霊性に曇りを来す、余り俗人とかわらなくなる。こう曰う連中の禅を名づけて「冷蔵庫禅」と云うとのことである。面白いたとえである。自分等も書斎に立籠って居るときは一かどの見識もあり覚悟もあるようであるが、一寸外へ出ると以前とはがらりと違った気分になる。電車にでも乗って多くの人の前へ出ると尚更街頭の気分とでも云うものに襲われる。腑甲斐ない次第と慷慨すること屡※(二の字点、1-2-22)である。思うに禅坊さんなどにも、自分等のようなのがかなりにあると見える。何れご同様に益※(二の字点、1-2-22)修行を積みたいものである。
 逝ける老師を世間の或る人は俗僧であると罵ったのもある。併し予はそんな気がしたことは一遍もなかった。老師には書斎でも禅堂でも公会の場合でも旅行中でも随侍したが、そんな感じは少しも覚えないのである。また禅坊さんには時によると禅臭紛紛として鼻向けの出来ぬのもあるが、老師にはそんな風は微塵もなかった。それから又灑脱しゃだつが一変して時々下品に見えることもあるが、老師にはこの下品に類した風采は毫末ごうまつもなかった。修行の出来た坊さんでも、その言葉や、その態度・風格に何だか賤しいような気分の現われて居るものもある、それで心から帰服することが出来ぬ。これに反して、老師は妙に気高いところがあった。貴族風と云うでもなく、また謹厳に堅まったでもなく、ただ何となく上品で、そうして慈愛の情に充ちたところがあった。上品と云う言葉は当らぬ、またみずから持するところが高いと云うのも未穏であろう。兎に角何だか一種人を魅する底の風格を具えて居られた。その人格よりほとばしり出ずる一種の霊気とでも云うておこう。禅僧の洒落が下卑げびると面白くないものである。そうしてこの面白くないのがかなりに多いと思うが、どうかしらん。
 老師は愛の人であった、誠のある人であった。予の記憶に残って居るのはそれである。或る時、「そんなに毎日通信があってはお困りでしょう。代筆を侍者にお命じになったら、どの位手が省けるかしれません」と云うたら、老師は「時には実際そう思うこともある、又そうすることもないではないが、受信者の方から見ると、代書では不平であるだろうし、自分も何だか気がすまぬ。日本ではまだ西洋流に何でもかでもタイプライターでやるわけに行かぬ」と答えられた。予等への通信でも、単に日常の用で、御自身の筆でなくとも弁ずることを、矢張り自ら書かれた。時には侍者の筆もあったけれど。この老師の心持が如何にも有り難いと思う。初めて外国へ出たとき桑港サンフランシスコで検疫のため荷物を消毒せられて大損害を受け、それからエンゼル島へ逐いやられて二週間流罪の憂き目を見たとき、老師は懇篤こんとくなる手紙を送りて、大いに激励せられた。その時の記憶は今に忘れぬ。それから四、五年たってラサル市の病院でチブスを病んで夢中になったことがある。その時はもう死ぬるのだろうと思うたが、まだ仕かけの著述がその儘になるのが残念で囈語うわごとにも出した。誰も知り合いのもののなき処で病に疲れると云うは物淋しいものである。その時老師は「理趣品りしゅぼん」を読んで病気平癒を祈ったと云うて御札を送って下さった。その時の有り難い心持は今に何とも云えないのである。老師の広い愛から見れば予の如きもその一分に浴したに過ぎないのであろうけれど、これを受ける身から云うと、只自分のためのような気がして、老師の親情が心の底まで銘せらるるのである。今更こんな事をこんな場処で記すべきでないかも知れぬが、予は老師を以て情の人であると感じたその一端を人にも知らせたいと思い、又一は自警自憤報恩底の一弁の香に代えたいと思うに過ぎぬのである。
 まだ老師は生きて居らるるような心地がしてならぬ。お墓参りをしても、この感じは失せぬ。肉体の湮滅いんめつなどは精神の上に何等の影響を及ぼさぬものか。「老僧の舎利しゃりは天地を包む」と仏光国師は云われたが、よし、老師の残骸は松丘の上、楓樹の下に埋められても、その精神は宇宙に※(「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1-89-18)ほうはくして居るのである。この点から見れば、吾も亦この儘でその精神の上に働いて居るのであろう。精神か、霊か、物か、気か、何かはわからぬが、吾と彼と何れも同じもののうちに居て、そうして吾は吾、彼は彼、泣いたり、喜んだり、刹那を永遠にして、永遠を刹那にする。なるほど人生は妙であると云うが、この一字如何にも妙ではないか。
(大正九年十一月一日の夜、鹿山中の一草庵にて)





底本:「禅堂生活」岩波文庫、岩波書店
   2016(平成28)年5月17日第1刷発行
底本の親本:「鈴木大拙全集 第三十一巻」岩波書店
   2002(平成14)年4月5日
初出:「禅道 第一二三号」
   1920(大正9)年12月5日
入力:酒井和郎
校正:岡村和彦
2018年9月28日作成
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