人の心と云うものは本来縛らねばならぬように出来ておるのかどうかは知らぬけれども、吾等は何かかんか云うてこの心を繋ぎ、この身を苦しめておる。何もない処にぽかんとしておることが出来ぬ。もしそんなことでも有ると、自分で
屹度何か手頃の束縛を造り出す。蜘蛛が巣を作り、蚕が繭を作ると全く一般である。何かと云うと、平等であるとか、一視同仁であるとか云う人間が、社会なるものを造ると、
此処に貴族と云うもの、平民と云うものをおき、その貴族の中にも公侯伯子男と順序を並べ、また一般の市民や役人の中にも位階を設け、正一位であるとか、従八位であるとかやり出す。こんなものが出来ると、男爵になっておるより伯爵にでもなって見たくなり、正六位と云うよりも従二位として欲しかったりする。それだけならそれで悪くもあるまいが、この階級が人格の上下を批判するもののように思われて来る。正一位の人が正八位の人より、その人格において、特に秀でたものと想像せらるる。また公爵の人が男爵の人よりも何だか別格の人間で
毫光でも射すかと怪しまるる。ここに到るとその弊害に堪えられぬと云うてよい。まだある、人爵を離れ、位階を超えておると思わるる僧侶でさえ、正三位とか侯爵とか云うものが欲しくなって、人天の大導師もとんでもない狂言を演ずることになる。馬鹿さ加減もまずこの辺にして止めて欲しいものである。
話が大変大きくなって来たようであるが、始めに束縛
云云と云い出した動機は、わしらのような境遇にはいると休日なるものが
頻りに恋しくなるものであると云うことを云いたかったのである。下らぬことである。日日是れ好日であるからには、勤めの日も休みの日も結構であるべき筈だ。ところが、人間と云う馬鹿もの、中々そうは行かぬ。来年の暦が出来て来ると、直ちに日曜と祭日と重なるか重ならぬかと調べ始める。新聞などはこれを心得ておるから、まっ先に報道する。わかった顔した読者は「何だ、早く気をまわしたものだ」と云いつつ、自分も熱心にその報道を研究し始める。先生は生徒に向って、「そんなに休みばかり勘定せずに勉強しなければならぬ」と云うては見るが、自分もその休みは大に歓迎するのである。わしもその一人であることを白状する。
御大典の有難さは、一週間の休みと云う形式で現われて来た。御盛儀を拝観するだけの資格もない凡夫は、田舎に退いて読書か坐禅か綴文か位をやる外、何等の技倆もない。それでこの一週間は何時もの庵へ引き込んだ。何時か秋の頃、三、四日ばかりゆっくりと山居をして見たいと云うのが、帰国以来の希望であった。予は性来山が好きである、そうして山の最も好いのは秋であるから、今度の休みは誠に
優渥なる天恩と感謝してよい。この一篇の目的はかくの如くにして得た山居の消息を伝えんとするに在る。
この山居と云うは予が二十年前によく来て坐禅をやった処で、中々想い出が多い。その頃は随分の貧乏書生で、一箇月六円かそこらを兄から貰って東京に遊学しておった。鎌倉あたりへ来るにしても、汽車は贅沢なものと考えた。それで夏休みのときは、夜東京を出て、翌朝鎌倉へつくと云うようにした。今そんなことをやれと云われると、やれぬこともないが、時間が惜しくて御免を蒙る。
併しその頃は時間はあっても金がないから、あるものを費やして、ないものを包んでおいた。今日この頃のように月夜のこともあった。
皎皎たる月の下を、単衣一つ、涼しい風に吹かれて、ぶらりぶらり、川崎から神奈川、保土ヶ谷、戸塚とやって来たことを、今思うと、貧書生の境涯も
亦一段の風流と云わねばならぬ。
或る年、夏休みもすんで、もう帰京せねばならぬとき、例の一物がない。同じく庵居しておった陸軍の士官が、吾を憐んで少しやろうかと云うたけれども、歩いて行けばと云うて断った。今度は一人のつれがあったが、この男も「嚢中自有銭」底の男で、余り頼りにならぬ相手であった。昼頃、保土ヶ谷だったか神奈川であったか忘れたが、お腹がへり出して歩行困難となった。「何か食べねばいかんぞ」とは云うものの一膳めしさえ食べる余裕がない。「おい君、どうしよう」と互に嚢底を叩くと、三、四銭ほどか出て来た。「よし」と云うて焼芋を買うて、途々食べて帰京したこともあった。
このつれの男と云うは佐藤某と云うた、名は忘れた。第一高等学校の学生で、何時も李白の詩集を持って歩いた。この詩集を一日も放すことが出来ぬと云うので、参禅の暇にも見ておった。漢文臭い男かと思うと、中々そうでなく、政治家風の才子肌の人であった。本所に家があって、予も二、三遍尋ねた覚えがある。惜しいことには
夭死した。今居ったなら
一廉の人物となっておるに相違ないと思う。何でも議論風発と云う勢で、そうして東京育ちの弁を振うもの故、予の如き
田舎漢はいつも遣りこめられた。
その頃の
正伝庵は梁山泊同様であったと思う。何だかわしらにはわからぬ変てこな人物が沢山おって、天下の大勢を論じたり、古今の禅話を打したりなどしたので、わしらは隅の方に引っ込んで黙聴するより外なかった。今一、一その時の記憶を呼び起すわけに行かぬが、日清戦争のときに死んだものも二、三はあったと思う。神尾将軍などもおった、大尉だった筈である。例の二畳の間へ引っ込んで、だまって坐禅しておった。何だか怖い人であると思うた。それから今朝鮮へ行っておる秋山博士も、六畳の室で坐っておった。
布哇から帰って来たときであったか、それは今覚えておらぬ。何でも三橋から饅頭を沢山買って来て、わしらに食わした。その饅頭が随分多かったので今
尚お記憶しておる。貧乏書生に似つかわしい記憶である。
それから熊本の岐部別峯居士と云うのがあって、少尉か中尉かであったが、中々世話してくれた。よく
饒舌る人で、また面白く話する人であった。撃剣も上手と見えて、その方の事も話しておった。今出世しておれば少なくとも少将か位にはなっておると思う。世間には余り名が出ないからには、どこかに
燻ぶっておるのかも知れぬ。居士号もあって見性も済んでおるもの故、わしらは
種々と、禅のこと公案のことを尋ねたものである。
わしがこの庵へ始めて来た頃は、まだ洪川老師が在世であった。あの大きな体をもって、方丈の方から、わしらのおる処の庭先を通って、トンネルを抜けて、隠寮へ帰らるるのを、よく覚えておる。今の管長広田天真老師は尚お
副司寮を預かっておられた。早川雪堂居士からの紹介状を貰って副司へ出たときは、達磨然たる天真師を見て、「ああ是れが禅宗坊さんだな」と思うた。それから愈

蒼龍窟を尋ねたが、如何にも堂堂としておられたので、余りよくも見上げなかったようである。わしは元来臆病小胆なたちで、ひょっとすると気後れがして駄目である。併しその時老師の言葉のうちに、「お前は北国の生れか、北国のものは辛抱が強い」とあったのを今でも忘れぬ。この一言が妙に記憶に残っておる。
口を引き締めて、ちゃんとやっておられると、怖いようであったが、如何にも無心なものだと思われることもあった。或る朝、参禅に行くと、丁度池の方へ向うた縁側へ、施餓鬼か何かに使うときの机を出して、椅子に坐り、土鍋のままのお粥を
其処で上がらるるときであった。何時もと一寸調子が違うので、どこへ坐って、
見解(何もないのであるが)を呈せんかと、少しまごついておると、老師は自分の向いに在る籐椅子を指して、「それ、そこへ」と指図せられた。その時の様子が如何にも無心に見えたのみならず、枯淡な生活を実見して、何とも云われぬ感想に打たれた。何と云う
垂示があったかは少しも覚えておらぬが、当時の光景は依然として脳底に印せられてある。今でも隠寮へ行くと懐旧の情が涌いて来る。人間相互の関係と云うものは妙な具合で、何とも気のつかぬ処で感化して行く。蒼龍窟には一夏と一冬だけしか御厄介にならなんだが――それとも二夏であったか知らん――、何時も少なからぬ感化を受けたと思うておる。
これは冬の朝であったか知らん、老師はあの狭い三畳か二畳の室へ引き込んで書見をしておられた。わしらは狭い縁側で三拝して、またその縁側から参禅するのであった。参禅中だったか、参禅しようとしたときであったか、何れか忘れたが、老師は一寸待てと云われて、直ぐ向うの便所へ行かれた。暫らくすると、どさんと音がして、何だか侍者を呼ばるるようであったから、大にびっくりして侍者寮へ駆けて来て、その旨を報ずると、侍者はやって来た。が、老師は自分で何とか出来たと見えて、便所を出て、またもとの机の処へ坐られた。老師は老体でその関節が自由にならぬ処へ、肥えておられた故、便所で尻餅をつかれたらしかった。その時の話をせらるる様子が、また一種云うに云われぬ妙趣――と云うのは不適当であるが、一寸外によい言葉を思い出さぬ故、まず妙趣――、それがあって、如何にもわしの心を動かした。
隻手の声は聞えなかったけれども、老師の身説法の幾分かを獲たかのように覚え、今に謝恩の心もあるのである。
洪川老師の提唱を今でも覚えておるのは、『碧巌』の第四十二則で「好雪片片」の一則である。今日この頃でも何もわからぬのであるが、その頃は尚お以て
一文不通のときであるから、老師が講座の台上で、独りで感心して、「好雪片片不落別処、好雪とはどうじゃ」などとやられるのを聞いて、予は禅と云うものは妙なものだなと思うておった。「雪団打、雪団打、

老の機関
没可把」などに至りては、さっぱりわからず、これが隻手の声と何の関係があるのかと思い、また何時になったならこれがわかるのか知らんなど、その当時の考えは今に新たな思いがする。併し提唱がわからぬながらに、どうかしてこれを分明にしたいとの念は確乎として起きた。この念は今でも依然として存しておる。皆老師の賜であると云わねばならぬ。
老師の亡くなられたのは一月の何日やらであったが、丁度冬休みの続きで、尚お暫らく当庵に逗留しておった。その朝ふと隠寮へ行って侍者寮におると、奥でどさりと音がした。侍者と一緒に驚いて行って見ると、老師は仏間から平生の例の狭い室に行かんとする処で倒れておられた。その際に額の一角を書物箱か何かで打たれたか、少し傷がついておったように思うておる。朝のお粥か餅かを召上がって、それから便所へ行って、自分の室へ帰らんとして倒れられ、その儘大往生を遂げられたのである。併し素人では尚そんなこととは思わぬ故、八畳の室に床を敷き、其処へ休ませ申し、門前の小林玄梯と云う医者を呼んで来て診察させると、彼は心臓を検して見て、もう駄目であると宣告した。わしが老師の亡くなられるとき、丁度隠寮に来合わしておったと云うことが、何かの因縁でもあるかのように今でも思うておる。
それから
楞伽窟の代となった。その頃は、もはや正伝庵には居なかったと思う、
或はもう一夏ぐらいおったかも知れぬ。わしは記憶の極めて悪い方で、過去の事を覚えておることが少ない。楞伽老師にはその頃から引続き御世話になっておる、色々の点で御世話になっておる。わしが今日あるを致したのは、皆老師の恩である。併し今はまだそんなことを云う時期でない。その時分の禅堂には雑多の人物がおった。今一方の宗匠として力んでおる和尚様達も、他の雲水と一緒であった。色の衣を着て、
鹿爪らしい顔して、講座でもやられると、成程えらいもんじゃと思うが、昔木綿衣の
裳を引っからげて、藁ですげた下駄をはき、網代笠をかぶって、門前へ饅頭買いに行かれたときを思うと、予言者その郷に尊ばれずの習いを想い起さずにはおれぬ。これは敢えてその人を低うしようとて云うのではない、只その昔を偲ぶまでである。
こんなことを想い出しながら、そこはかとなく筆を運ぶと、隠寮から喚鐘の音がする。この音が
亦感慨無量である。「ちゃん」と鳴ると鹿山の静かな天地に響きわたる、そうして無字で苦しんでおる胸の底へえぐるように
徹って行く、その時の心持は何とも云えぬ。無慈悲な
直日は、そんなことに頓著なく人を単から引きずり下ろす。今の浄智寺の和尚さんなどは随分こんなことして罪を造ったものである。こうなると摂心と云うものは戦場と等しい、一所懸命となって来る、学校の試験などと違って真剣勝負である。併し実際を云うと、一旦の見処を得てから後は、摂心でない方がよいかとも思う。勿論、初心の人にとりては、この摂心を何遍もやるに越したことはあるまい。
もう
解定には間もあるまい。こんな下らぬ過去の追想に耽っておっても、余り功徳にもならぬ。窓を開けて見れば、月光水の如しである。月を見るたびに、かの李白の月下の詩を想い出す。その詩の月も今夜の月も同じ月であるが、これを見る人は、また昔時の人でない。思うに月ほど人の詩情を動かすものはあるまい。あの柔かな光で、青い空に、ひとりで光っておる様子を見ると、不風流なものでも一片の詩趣を催すであろう。東京に居ては日々の働きで
忙わしくて、夜は月を見る暇もなしですむのが平生である。またその余裕があっても、電燈に妨げられて、天然の美の半ば以上は滅却せらるる。それに引き更えて、この頃の庵居の月見は無上の趣がある。もし出来るなら、月下に坐禅でもして一夜を明かしたいとも思う。
鹿山には一種のチャームがあり、海外におっても夢は故郷を回らずして鹿山の空に落ちたことが屡

あった。何の因縁か知らぬが、心は何時もこの山の景色に引きこまれる。別に山が深いでもない、山水明媚と云うこともない、四時の景色がよいと云うこともない、高い処も、清い処もない。併し此処へ来ると、心に一種の落著きを覚える、ああ自分の処へ帰ったと思うようになる。昔の聯想があるかも知れぬ、また外に行くべき処がないからかも知れぬ、また知った人があるからかも知れぬ。何でも構わぬ、今の処では此処の山居が最も会心のときなのである。
もう疾くに解定の
板も鳴って仕舞った。只さえ静かな山は今一層の静かさである。聞えるものは、折々の汽車の汽笛、それに窓前の虫の音。十一月も半ばを過ぎておるけれど、尚お虫の音を聞く。
固より細い悲しい、今にも寂滅と云う声である。人間も何時かこんな声を出してこの世を「さよなら」するのであろう。虫を悲しいと云えば自分の身の上も悲しい。併しその悲しい処にも趣がないでもない。更けて行く夜に、細り行く虫の音を聞き、
万籟寂たるときに、さらさらと一枝の筆を走らせておると、面白い処がある。が、もう疲れて来た。床に就く前、今一度今夜の月の名残を惜しもう。明日からは亦忙わしい都の生活を送るのである。