櫻島噴火の概況

石川成章




一、櫻島の地理

【湧出年代に關する舊記】
 櫻島は鹿兒島縣鹿兒島郡に屬し、鹿兒島市の東約一里錦江灣頭に蹲踞せる一火山島にして、風光明媚を以て名あり、其海中より湧出したる年代に關しては史上傳ふる所によれば靈龜四年と[#「靈龜四年と」はママ]云ひ、或は養老二年と云ひ、或は和銅元年と云ひ、或は天平寳字八年と云ひ諸説紛々として一定せず、顧ふに斯くの如き火山島は决して單に一回の噴出によりて成りたるものには非ずして、前記數回の大噴火によりて大成したるものなるべし。
【櫻島の各部落】
 島は略々圓形を爲し、周回九里三十一町、東西櫻島の兩村あり、西櫻島村には赤水、横山、小池、赤生原アカフバル、武、藤野、松浦、西道サイドウ、二俣、白濱の十大字あり、東櫻島村には野尻、湯之、古里、有、脇、瀬戸、黒神、高免の八大字あり、大正二年度に於て戸數三千百三十五戸、人口二萬一千九百六十六人を有せり。
【櫻島の地形】
 櫻島の地形は大體に於て整然たる截頭圓錐状を呈し、遠く裾野を引き、緩斜面を以て錦江灣に臨み、村落は何れも海岸に發達せり、山頂は略島の中央に位し三峯より成り、何れも圓形又は橢圓形の火口を有せり、北にあるを北嶽(海拔千百三十三米突)南にあるを南嶽(海拔千〇六十九米突)中央なるを兩中フタナカ(海拔千百〇五米突)と云ふ、平時多少の噴烟ありしは南嶽にして、兩中には水を湛へたり。
 全山輝石安山岩及び其集塊岩より成り、中腹以下は大部火山灰及び灰石の被覆する所となる、只西方の裾野に卓子状を爲せる城山(俗稱袴腰)は凝灰集塊岩より成り櫻島本體と其成立を異にせり。
 櫻島の海岸には往々岩骨峩々として削壁を爲せる所あり、是昔時の熔岩流の末端にして、黒神村の北方に突出せる大燃崎、野尻、持木兩部落の間なる燃崎、湯之、古里兩部落の間にある觀音崎及び其東方湯の濱の間に在る辰崎は何れも文明年度の迸發に係る熔岩流にして、東北海岸高免の東なる西迫鼻より浦の前に至る間は安永熔岩流の末端なり。
 櫻島近海の島嶼中西南海中に於て今回の熔岩流下に沒したる烏島及び其東南の沖小オゴ島は共に文明年間の湧出に係り、沖島は角閃輝石安山岩より成れり、櫻島の東北海中に散布せる燃島(一名安永島)猪ノ子島、ドロ島、中ノ島、硫黄島、濱島の諸島は何れも安永八年大破裂の際新造せられたるものなり。
【噴火口】
 櫻島の西側には主なる爆裂火口三あり、第一は北嶽の西南に近きものにして、其位置最も高く、第二に引平(海拔五百五十三米突)の東にあるもの、第三は四百米突高地の南にあるものにして、新噴火口は實に其中にあり。
 櫻島の東側に於て東方に開ける半圓形を畫せるを鍋山側火口とす、今回櫻島の東部に於ける新噴火口は何れも其南方に開口せり、北嶽の北側には略々南北に走れる二條の顯著なる峻谷あり、恰かも地割れの状を爲せり、今回の地變により多少崩壞し、岩骨を曝露したる形跡あり。
 鹿兒島造士館篠本講師は今回の地變により櫻島の地體に西々北より東々南に走る幾多の地割れを生じたるを目撃したりと云ふも、予輩の踏査區域は主に熔岩流の附近なりしかば是等の地割れを觀察するの機會を逸したるは遺憾なり、只黒神村より熔岩縁に沿ひ瀬戸に至る間に於て西々北より東々南に走る一條の小段違(落差二三尺)あるを目撃せり。

二、噴火の沿革

【噴火の舊記】
 舊記に依るに今を去ること千二百六年和銅元年始て隅州向島湧出せりとあり、其後靈龜、養老、天平、應仁、文明年間にも或は噴火し、或は温泉湧出し、新島突如として沿海に隆出せり等の記事あり、大日本地震史料によれば天平九年十月二十三日大隅國大地震、次に天平神護二年六月五日大隅國神造新島地震動止まず居民多く流亡せりとあり、是より以後慶長元年に至る迄大隅、薩摩に大地震の記事なし。
 慶長元年閏七月九日豐後薩摩地大震、次で慶長九年十二月十六日薩摩、大隅地大震とあり、又寛文二年九月十九日日向、大隅地大震とあり。
 近代に於る櫻島大噴火は文明三年九月十二日、文明七年八月十五日、同八年九月十二日、寛永十九年三月七日、安永八年九月晦日に起りたるものにして、就中猛烈を極めたりしは安永八年九月晦日より十月朔日に及べる大噴火とし、之に次ぐものを文明三年、同七年の噴火とす、文明より安永に至る間は約三百年にして、安永八年は大正三年より百三十五年前なり、斯くの如く大噴火は數百年を距てて起れども、其間に之に次げる噴火あり、大抵六七十年を週期として消長するものの如し。
 大日本地震史料によれば安永八年十月一日辛亥大隅國櫻島前夜より鳴動し地震ふこと強く、是日山巓兩中の地爆裂して火を噴き砂石泥土を迸流し山麓の諸里落是が爲めに蕩盡せられ人畜の死傷せるもの夥し是時島の近海に新嶼を生ぜり、後名けて安永島と謂ふとあり、當時の地變に死者合計百四十八人(内男八十二人、女六十六人)を出せり、梅園拾遺には今年(安永己亥)九月廿九日の夜より翌十月朔日南に當て雷の如くして雷にあらず(云  云)櫻島の南北端より火起り(乃  至)去年以來伊豆大島なども燒くる由沙汰せりとあり、又地理纂考には文明七年八月十五日野尻村の上より火を發し砂石を雨らし此邊凡て燃石なりとあり、是等の記事により察するに、安永八年の大噴火は新月の時に起り、文明七年及び今回の破裂は共に滿月の頃に起れり、而して安永及び文明の地變は共に北々東より南々西に走れる地盤の弱線即ち霧島火山脈の方向に活動を逞うしたるものの如く、主として災害を蒙りたるは北岸にては高免コウメン、白濱、南岸にては野尻、持木、湯之、古里、の諸部落なりしが、今回の變災は西々北より東々南の方向に走れる弱線に沿ひ暴威を振ひたるものの如く、新噴火口の位置を連結すれば正に此方向に一致し、又鹿兒島市及び其西北伊集院方面が地震最も強烈なりし事實に徴するも思半ばに過ぐるものあり、從て櫻島西岸に於て最も慘害を蒙りたるは横山、赤水、小池、赤生原、調練場の諸部落にして、東南岸に於て最も慘怛たる状況を呈せるは瀬戸、脇、有の諸部落なりとす。
 現に鹿兒島市に於て南北又は是に近き方向の石垣は大部分倒壞又は大損害を被りたるにも係はらず東西若くは是に近き方向に延長せる石垣に損害少なきを觀ても西々北より東々南の方向に振動したる地震が最も強大なりしを察知するに難からず。

三、噴火の前兆

(一)、地震

【噴火の前兆たる地震】
 大正三年一月十日頃より頻繁に鹿兒島市附近に地震ありたり、今鹿兒島測候所に於て觀測の結果を示せば左の如し。
十一日  二三八回  十二日  二三一回  十三日  五回
十四日    二回  十五日    九回  十六日 一一回
十七日    三回  十八日    六回  十九日  〇回
二十日    一回 二十一日    二回
 但十二日午後六時廿九分烈震後十五日午後一時四十二分まで缺測、
 鹿兒島測候所の記録によれば一月十一日午前三時四十一分無感覺の地震あり、爾後地震頻繁にして十二日午前十時迄に總計四百十七回の地震あり、其多數は微震にして弱震は三十三回あり、其震動は主に水平動にして、上下動は極て輕微なるも性質稍々急なりきと。
 抑も火山噴火に伴ふ地震の多數は左の如き特徴あり。
(一)、初期微動及び終期動短くして著しからず、主要動のみ著し
(二)、主要動は水平動に比し上下動割合に顯著なること多し
(三)、下より衝き上るが如き衝動と轟鳴を伴ふ
(四)、震域狹小にして震央よりの半徑二里を出でざること多し
(五)、頻繁に續發し性質急なり
 是を前記の事實に適用して考察するに、一月十日頃より鹿兒島市附近に續發したる地震は火山性のものたりしを推知するに難からず、只其水平動に比し上下動の輕微なりしは震央よりの離距[#「離距」はママ]遠きに因るものと思考せざるを得ず。
他の特徴は何れも具備したるが如し。

(二)、温泉并に井水の異状

【地震以外の噴火の前兆】
 鹿兒島造士館篠本講師に宛たる加治木中學校長田代善太郎氏の通信によれば、加治木温泉は一月七日頃より温度を増加し、又加治木、國分附近の井水は其の水量増加せりと。
 避難民の言によれば、櫻島の北岸白濱に於ては爆發前井水涸れたりと云ふ。
 鹿兒島市外西田、武、新照院附近の井水は濁り又は涸渇せる事實あり。

(三)、地割

 入來温泉附近にては著しき地割を生じたりと云ふ。

(四)、水産物の斃死

 一月十一日頃[#「一月十一日頃」は底本では「一月十一月頃」]瀬戸、有村、附近沿海に海老類の夥く斃死せるを觀たりと云ふ。

四、破裂當時の概況

【今回の破裂】
 大正三年一月十日頃より鹿兒島市附近に地震續發し人心恟々たりしが、十二日午前八時東櫻島鍋山の西方より噴煙を初め、數分の後御嶽の右側に於て雲霧状の白煙上り、横山村の上方海拔約五百米突許りの處よりも噴煙を初めたり、九時十分南嶽の頂上より白煙の騰るを認めたり。
 十二日午前十時十五分赤水部落の直上海拔約三百五十米突乃至四百米突の谷間(噴火口?)より一團の黒煙を望み、轟鳴と共に火光の燦然として射出するを目撃せり。
 午前十一時に至り黒煙高く天に沖し、其雲頂の高さは約三千米突に達す、同三十分頂上より盛に岩石の噴出落下を觀、戸障子は震動によりて鳴りハジめたり、午後二時三十分黒煙白煙全山を包圍し、鳴轟次第に猛烈と爲り、同三時三十分より初めて爆聲起る、同六時三十分激震と同時に火影擴大し、鳴轟強大と爲り、同十時より爆聲亦次第に強し、翌十三日午前一時前後最も猛烈を極め、同六時より稍々輕※[#「冫+咸」、U+51CF、158-13]せしも、日中は猶間斷なく鳴轟あり、午後五時より風位南轉し、右側の島影初めて現はる、同八時十四分大噴火盛に熔岩を流出し、火の子山頂より村落に連り、鳴動轟々爆聲を連發し、黒煙東方に棚曳て閃電縱横に放射し、北岸一帶に火災を發す、同八時三十分爆聲止む、續て鳴轟斷續するに至る、戸障子の鳴轟亦止む。
 十四日午後一時以後噴煙は尚盛なるも、鳴轟稍々遠し、同七時熔岩の噴出爆發盛なるを觀る、此熔岩を流下し城山の上方約五町許りの距離迄押出し、其幅員約二十町厚さ數十尺に及べり、城山より沖の小島附近の海面は一帶に輕石充滿し、黒灰色を呈せしも、正午頃までには皆南方に流去せり、午後五時頃より熔岩の迸發稍々衰ふ、十四日夜間の活動は主に横山の正東に當り海拔約二百米突の所に在る噴火口よりし、其勢力は日中に比し衰頽せり、十五日朝より十六日に至る噴火の状況は著しき異状なきも、噴煙は稍々※[#「冫+咸」、U+51CF、159-10]少せるが如し、大熔岩を徐々流下して海邊に切迫しつゝあり斯くして、赤水、横山方面は遂に海中に突き入りて烏島に及べり、十五日午前十時四十五分愛宕山上より黒煙噴出、同十一時より鳴轟稍々強大と爲る、午後二時十分大噴煙、同五時十五分轟聲一時止む、夜に入り山麓熔岩上の爆發盛なり、同十時噴火大に衰へ鳴轟微なり、同十時十分山麓熔岩上一列に七個の噴口現はれ、音響強し、十六日午前一時四十分鳴轟一時止む、同四時五十分鳴轟強く噴火盛なり。
以上の記事は鹿兒島測候所に於る當時の記録に據りたるものなり。
 爾後日日の噴煙鳴轟に多少の消長はありたる模樣なるも、大勢は日を經るに順ひ漸次靜穩と爲り、以て實査當時に及べり。
 新噴火口開口の順序は東櫻島に於る新噴火口は其開口の時刻及順序稍明確を缺くも、當時注意して實況を觀測したりし篠本造士館講師の報告によれば、同島の西側に於ける噴火口一の開口は十二日午前八時、二は同八時二十分、三は十二日午後一時、四は十二日[#「十二日」は底本では「十二月」]午後四時頃より噴煙を初めたり、而して三は爾後三四日間活動最も旺盛にして、活動の時間亦最も長かりき。(大森佐藤兩氏の地圖參照)

五、實査當時の概況

新噴火口

【新噴火口】
 大正三年一月廿七日より同三十日に至る踏査に際し、盛に活動せる噴火口は西側なる二個の噴火口にして十五分乃至二十分毎に轟鳴と共に灰より成れる黒烟と水蒸氣より成れる白烟とを盛に噴出せるを目撃せり、東側の活動は西側よりも遙に猛烈にして鍋山の南に於ける六個の噴火口より盛に噴烟し、烟霧遠く東南に棚引て半天を蔽ひ暗憺として灰を雨下し、轟々たる地鳴は連續して百雷の一時に落ち來るが如き感あり、就中一噴火口は約十分毎に白晝尚赫耀たる赤熱熔岩を溢流し、之に次ぐに爆然たる轟鳴と古綿の如き黒烟の猛烈なる射出を以てし、光景頗る凄壯を極めたり。
 櫻島の東西兩側に於ける約十一個の新噴火口を連結したる線は西北より東南に走りて此の地方に於る地盤弱線の方向を示せり、今回の地變は實にこの弱線に沿て起りたるものの如し、この弱線は日本弧島の地質構造線及び之に平行なる弱線たる霧島火山脈と直角以上の角度を以て相交叉するものにして、前者を地體の同心状弱線と見做せば此弱線は放射状弱線と見做すべきものなり、されば櫻島の今回の大噴火は南日本に於る放射状弱線に沿ひ活動を初めたるものにして幾干もなく中部日本に於る一大放射状弱線と稱すべき富士火山脈の一部硫黄島附近に於て新島の海中噴出を報ぜるは頗る注意すべき現象と謂ふべく、この方面に於ける火山が方に活動期に入りたるを想像するに足れり、之に反し同心状弱線上に座せる火山は霧島山、開聞岳の如き櫻島との距離遠からざるに係らず、全く今回の噴火に雷同の形跡なきのみならず、東霧島山の如き平時よりも一層靜穩の状態にあるものの如し。

熔岩流

【熔岩流】
 櫻島今回の噴火に初めて熔岩を迸流したるは一月十三日午後なりしものの如く、熔岩を噴出せる火口は西側にては二箇にして、東側にては五個の新噴火口何れも多少熔岩を迸流したるものの如し、熔岩原の面積は西側に於るもの約二百萬坪にして、東側に於るもの約二百七萬坪に達せり、熔岩流の厚さは七十尺以上百尺内外なり。
 横山方面の熔岩流は引平の下より愛宕山を包み横山、赤水兩部落の全部及び調練塲の西半部を其下に埋沒し、海中に突出すること約十五町、一部烏島によりて支へられ多少凹處を生ぜり、櫻島東側の熔岩流は鍋山の東南に溢流して二分し、一は瀬戸部落を埋沒して瀬戸海峽に押し出し、一月二十八日に於ては從來約六町の幅員を有せし海峽の幅僅に六間許に※[#「冫+咸」、U+51CF、163-2]じたりしが、其後の押出しにより遂に對岸早崎に連續し海峽は全く閉塞するに至れり。
 他の一は南方に流出して脇、有の二部落を全然埋沒し、海中に約七八町突出せり。
 海中に突入せる熔岩流は水深二三十尋の處に於て尚海面上十尺以上其頭角を露はし、海水と接せる部分は水蒸氣の白煙濛々として咫尺を辨ぜず。
 城山の東麓に於ては熔岩流が下方を堰塞したる爲め一部は水を潴溜して小池を形成せり、赤生原に於る熔岩流の厚さは八十尺乃至百尺なり、熔岩流の表面は、犬牙状を爲して凸凹錯綜甚しく、其縁邊は急峻なる絶壁を爲せり、時々岩塊の一部崩壞落下し同時に紅塵の高く上昇するを觀る。
 熔岩が噴火口より迸流する際は殆んど白熱の状態にある粘著性熔液として火口上に盛り上り遂に倒れ崩るるの状を爲して下方に流下するや否や火口底には爆然たる轟鳴起り同時に火山灰より成れる黒烟驀然として恰も砲門より古綿を發射するが如く高く空中に擲出せられ、尋で熱蒸氣より成る白烟猛烈に噴出するを觀る、熔岩は熱の不良導體なるを以て其表面は數日にして冷固すれども、内部は容易に冷却せず、故に割れ目より崩れたるとき其内部を窺へば尚赫耀として赤熱の状態にあり、故に熔岩流の附近に到れば著く熱氣を感じ、熔岩塊に手を觸るれば著く熱を感ず、一月廿七日城山西南麓に於て試に熔岩片の堆積中に攝氏寒暖計を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入したるに直に百度に上りたり。
 熔岩流下の速度は其分量の多少、流動性の強弱、地面の傾斜によりて異れり、山麓に於て大森博士の實測によれば一時間約一尺許なりしと云ふ。
 熔岩の色は千態萬状なるも主に赭色のものと黝黒色のものとの二種に大別すべく、何れも多少多孔質にして鑛※[#「金+宰」、U+28AC3、164-10]状を呈し、拍木状に[#「拍木状に」はママ]結晶せる斜長石の散點せる外往々橄欖石、黄鐵鑛の介在せるを觀る、他の有色鑛物は肉眼にては之を識別することを得ず、之を鏡檢すれば紫蘇輝石、輝石、角閃石、橄欖石、磁鐵鑛、赤鐵鑛、黄鐵鑛、を識別すべし、本熔岩は縞状又は流理を呈し、往々著く玻璃質のものあり、輕石又は他の岩片を包有し、角礫状又は集塊岩樣の構造を呈せるものあり、特に熔岩流の縁邊に多しとす。
【熔岩の分析】
 黒神村の上方に流下せる黝黒色熔岩の一片を採り比重を測りたるに二、五二九なる結果を得たり、
 又前記熔岩を福岡鑛務署に於て分析したる結果左の如し。
SiO2=58.72   CaO=6.68
Al2O3=21.83   MgO=0.20
Fe2O3=3.62   Na2O=1.21
FeO=6.37    K2O=0.47
Moisture(Free)=0.31
 この分析の結果によれば熔岩の質は安山岩なるも玄武岩に近しとす。
 今熔岩流の占有せる全面積を四百萬坪とし其平均厚さを十三間、比熱を〇、二温度を攝氏八〇〇度、比重を二、五として其總重量及び熱量を概算したるに左の結果を得たり。
總重量 十二億六千四百萬佛噸
總熱量 二百十二兆二千四百億大「カロリー」

火山噴出物

浮石並に火山灰
【浮石並に火山灰】
 破裂の當初最も盛に噴出したるは浮石並に火山灰にして、之に次では火山岩塊、石彈なりしが如し、浮石は一時櫻島四周の海面に充滿したりと稱せらるるも、一月廿七日頃に於ては櫻島の東方黒神附近の海中に一部浮石の浮ぶを觀たるのみにして、他には海面上には浮石を觀ざりき、浮石の累々として堆積せるは櫻島の西北部小池、赤生原より西道に至る海岸一帶の地にして、村落は火災の爲めに全滅し、今は只浮石の崔嵬たる荒原と爲れり。
 火山灰が雪の如く堆積せるは全島一般なるも、就中其量多きは鍋山より黒神村に至る地域にして、黒神村に於ては浮石の厚さ約五六尺に達し、其上厚さ約一尺は全く火山灰の被覆する所と爲れり。
 東櫻島村黒神小學校に隣れる神社の石華表は其上方の一部のみを灰の上に露はせり、この附近の人家は何れも全く浮石と灰の下に埋沒し、熱の爲めに蒸し燒と爲れる状實に慘鼻を極めたり。
 城山、赤生原附近の植物は灰浮石等噴出物落下の爲め折れ或は倒れ、樹皮は剥離せられ、枝葉は降灰の重量の爲め垂下し或は脱落し、宛然枯木の觀を呈せり、白濱より高免の上を經て黒神村に至る間の樹木亦然り、城山に於ける甘蔗は全然地上に押倒され其方向は何れも西々北に向へり。
 一月十二日破裂の當時以後毎日西々北の風卓越せるを以て、降灰は櫻島の東南方に當れる大隅國牛根、垂水方面に甚しく、厚さ二三尺に達したる處あるも、西方鹿兒島市附近は十七日に著く降灰ありしのみにて甚だ少く、北方に於ても國分村以東は厚さ四寸に達せるも加治木附近にては厚さ二寸、重富附近にては厚さ五分に過ぎず。
 櫻島噴煙の高さは一月十五日水雷驅逐艇がトランシツトを用て觀測したる結果によれば海面上二萬三千尺なりき、依て十二日の最も猛烈なる噴出は約三萬尺に達せしを想像するに足る、其當時下層の風は北西にして垂水の方面に灰を吹き送りたるが、上層氣流は南にして約二萬五千尺の高さより北方に向ひ灰を吹き送れり、降灰の大阪、東京方面に及びたるは恐くはこの上層氣流によりたるものなるべし、鹿兒島市附近に於て降灰の最も激甚なりしは一月十七日にして午前中晦冥咫尺を辨ぜず室内燈火を使用せり。
 一月廿七日頃に於る噴煙の勢は破裂當時の約百分一とも謂ふべき程度なりと云ふ。
 今回噴出したる灰を篠本造士館講師の鏡檢したる所によれば其形状丸みを帶びたるものと多角状のものとありと云ふ、多角状のものは固形體を爲せし岩石の粉碎せられたるものにして、主として、熔岩迸發以前に噴出したるものに多く、丸みを帶びたる灰は熔融體の分散冷固したるものと推考せられ、熔岩の迸發と同時又は其以後に噴出したるものに多し。
 鹿兒島縣農事試驗塲(鹿兒島市上荒田にあり)に於て同場内に降りたる火山灰の定性分析を爲したる結果は左の如し。
 試料二十瓦を五〇〇立方糎の水又は鹽酸にて處理したり。
 反應は強酸性にして三酸化硫黄SO3[#「SO3」は底本では「SO1」]、アルミニウム、鐵、カルシウム、五酸化燐(微量)、酸化カリウム(K2O)(痕跡)及び鹽素を含有せり。
 一月十七日鹿兒島縣廳構内天幕上に堆積せる降灰に就き同縣廳勸業課肥料係に於て定性分析を爲したる結果は左の如し。
 硫酸、亞硫酸、鹽素、鐵、硅酸、アルミニウム、カルシウム、を含有せり、砒素、鉛、銅の三者は存在せず五酸化燐及び酸化カリウムは多少存在せるも、肥料として價値なしと。
火山岩塊
【火山岩塊】
 火山岩塊の最も夥く落下したるは城山附近にして、其東北側には落下の爲めに生じたる小穴數多散在し、其大なるものは直徑三間深さ約六尺に及べり、穴の底には熔岩片の一部露出せるものと全然土灰中に沒せるものとあり。
噴出瓦斯
【瓦斯】
 火口より噴出せる瓦斯は熱蒸氣、亞硫酸瓦斯及び鹽素瓦斯其主要なるものものにして[#「ものものにして」はママ]、一月廿七日城山に上りて亞硫酸瓦斯の臭氣を感じ、翌廿八日白濱より黒神村上方の高地に至る間時々鹽素臭を少しく感じたり。

六、要結

(一)、今回の櫻島破裂は破壞的爆發にあらず、普通の火山破裂の稍猛勢なるものに過ぎず。
(二)、今回の破裂は北々東より南々西に走る霧島火山脈の活動にはあらずして是に交叉し西々北より東々南に走る地盤の弱線に沿て起れる火山活動にして、新噴火口は其線上に配列せり。
(三)、鹿兒島市及び伊集院村方面に地震強かりしは前記弱線の方向に當れるを以てなり。
(四)、鹿兒島市に於て地震の最大震動は任意地點と震源地とを連ぬる方向の震動即ち縱波にして、其方向は西々北、東々南なりしものゝ如し。
(五)、今回迸流したる熔岩流の量は天明三年淺間山噴火の際迸流したる熔岩流の量に比し約二と三の割合にして、面積約四百萬坪を占め、重量約十二億佛噸にして、世界に於ける一年間石炭總産額と略相近似せり。
(六)、噴出したる熔岩は斜長石、紫蘇輝石、輝石、角閃石、橄欖石、磁鐵鑛、赤鐵鑛、黄鐵鑛等より成り鑛※[#「金+宰」、U+28AC3、171-1]状にして、二、五二餘の比重を有し、複輝石安山岩に屬せり。
(七)、大噴火當時の下層氣流は西々北なりしを以て東々南に位せる大隅國肝屬郡、囎唹郡方面は降灰最も多く、薩摩方面は降灰少なかりしが、上層氣流は南西にして、降灰は遠く大阪並に東京に及べり、昔安永八年十月の大噴火の際も亦然り。
(八)、安永八年十月朔櫻島大噴火の際既に火山の破裂は多く望朔の交に起るものなりと唱道する學者ありしこと當時の記録に見えたるが、今回の噴火は文明七年八月の噴火と同じく滿月の頃に起れり、是望朔の頃は太陽太陰が地球に及ぼす引力の影響最も強大なる時なればなり。
(九)、一月十日頃より鹿兒島市附近に續發したる地震は火山地震の特徴を帶べるものなりき。
(十)、噴火の順序は安永八年十月の時と全然同一にして、地震、地鳴續發の後新噴火口開口するや灰、熱蒸氣の大噴出を以て初まり、次に浮石並に火山岩塊、火山石彈の噴出あり、尋で熔岩の迸流と爲り、時日を經過するに從ひ漸次勢力※[#「冫+咸」、U+51CF、172-1]退せり、鹿兒島市民は大に海嘯の襲來を恐れたること安永年度と同樣なるも其襲來なかりしこと亦安永の噴火と同じ。
(十一)、文明並に安永年度の噴火には附近海中に新島の湧出ありたれども、今回は附近の海中に新島の湧出なきが如し。
(十二)、文明並に安永年間櫻島大噴火と前後して富士火山脈中の火山にて一二の活動ありしが、今回も櫻島の大噴火に次ぎ、小笠原島の南硫黄島附近に新島の湧出を聞く、是に依り火山活動の消長が一の時期を劃するものなることを推知するに足る。
(十三)、古來の記録に徴するに、櫻島活動の週期は約六七十年にして、安永八年以後百三十五年を距てたる今回の噴火はこの週期の二倍に相當する者ならん。
(十四)、今回の地變により櫻島住民中より僅に十八人の死者を出したるに過ぎざりしは不幸中の幸と謂ふべく、石垣又は懸崖崩壞の爲め鹿兒島市附近に數十人の死傷者を出したるは甚だ遺憾にして、今後土木、建築上今回の變災により大に學ぶ所無かるべからず。(完)





底本:「地學論叢 第六輯」東京地學協會
   1915(大正4)年9月6日発行
※「塲」と「場」の混在は、底本の通りです。
※底本掲載時の署名は「理學士 石川成章」です。
※欄外の見出しは【】をつけて表記しました。
※「六、要結」の「(十一)」「(十二)」「(十三)」「(十四)」は漢数字の部分は縦組みで括弧を含めた全体としては横組みです。
入力:しだひろし
校正:岡村和彦
2017年5月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「冫+咸」、U+51CF    158-13、159-10、163-2、172-1
「金+宰」、U+28AC3    164-10、171-1


●図書カード