このエッセーは開巻第一に置かれているけれども、それは決して最初期に属するからではない。むしろ「人間というものは変化してやまないものだ」という意見が述べられているからであろう。こういう人間観は、すべての時期を通じてモンテーニュのいだいた主要な思想の一つであって、第二巻の第三十七章、すなわち一五八〇年版『随想録』の最終章にも述べられていること、また第二巻第一章も同じ思想で充満していること、を思いあわせるべきである。モンテーニュは『随想録』中の各章を特別の方針によらずに漫然とたばねたもの、すなわち
fagotage
だと言っているけれども、全三巻を注意して読んで見ると、案外各エッセーの排列には著者の細かい考慮が払われているように思う。この点については第一巻第二十八章冒頭のパラグラフはきわめて暗示的である。同章の解説と註を参照せられたい。そこで、『随想録』全体が一貫した一つの目的のために書かれていることがいっそうよく理解される。


(a)かねて我々に怨みをいだいていた者どもが、こんどこそ
ウェールズ公エドワードは、長いことわがギュイエンヌ州を統治された天性きわめて高邁なお方*であったが、かねてリモージュ
* 英王エドワード三世の子、黒太子と呼ばれた人。モンテーニュはこの話をフロワッサールの中で読んだのであろう。
皇帝コンラート三世は、バヴァリア公ゲルフェンを包囲した時、どんなに卑下した条件をもち出されてもなかなかおゆるしにならなかった。ただやっとのことで、公と共に城中に囲まれていた貴婦人たちがその名誉を犯されることなく、かちはだしで、みずからその身に負いうるものだけをもって、脱出することをお許しになった。ところが彼女らは、けなげなことにも、その肩の上に、その夫と、その子と、はては公をさえ、にないゆこうと思い定めた。皇帝は、その勇気のしおらしさをみそなわして深くお喜びになり、感涙をさえ催された。そして、公に対するそれまでのやる方ない遺恨を和らげられた。すなわち、それからというものは、公をも、その身内の人々をもやさしくあしらわれた。
(b)これら二つの方法は、いずれも、わたしが好んでとるところである。まったくわたしは、慈悲にも寛恕にも、どちらに対してもはなはだ気がよわいのである。だがわたしの考えるところでは、やはり、どちらかといえば、わたしは人に感心するよりはむしろ同情するように、生れついているらしい。だがこの憐れみの感情は、ストア学者にとっては悪い感情になっている。彼らは言う。「悲しんでいる人たちは助けてやらなければならないが、一緒になってくずおれたり嘆いたりしてはならない」と。
(a)さて以上の実例はこの場合に最も適切なものだと思う。何となれば、今あげた人々は以上二つの方法のいずれをとるかと迫られた時、一方には頑として抵抗しながら、またもう一方にも降参しているからだ。あるいはこう言えるかも知れない。「同情の前にその意志をまげるのは、とかく人を信じやすく、お人よしで、柔弱であるせいである。だから比較的弱い性質の人々、例えば女子供や俗衆などが、そうなりやすい。ところがそうではなくて、涙や嘆願などには目もくれず、ただ勇気の聖なる姿を尊敬して始めて降参するのこそ、雄々しく粘り強い力を愛し尊ぶ不撓不屈な心のいたすところである」と。けれどもそれ程に太っ腹でない人々においても、驚嘆の心が同じ結果を産み出すことがある。例えばテーバイの民がそうだ。彼らはその大将たちがその任期を越えて職権を行ったからとて、彼らを裁判にかけ死刑にしようとしたが、そういう無礼な抗議の下におめおめと屈伏してただ哀訴嘆願のみをこととしたペロピダスの方は、なかなかゆるさなかった。かえってエパメイノンダスの方が堂々と自分の行為を説明し、自信満々、(c)威張って(a)人民の抗議を責めたものだから、人民は投票をする勇気さえなくしてしまった。そして群衆は大いにこの人の気宇高大なのを賞め
(c)大ディオニュシオスは、長いこと困難に困難を重ねたのち漸くレギオム市を奪取するや、そしてそこに、この都市をかくまで頑強に防衛した義烈の大将フュトンを生捕るや、これを復讐の血祭りにあげて人々への見せしめにしようと思い立った。彼はまずフュトンに向って、どのようにして前の日に、彼の息子を始め一族の者どもをことごとく溺死させたかを語った。するとフュトンはただ一言、「彼らはわたしよりも一日だけ幸福であった」と答えた。次にディオニュシオスは、獄卒に命じて彼の衣服を
(a)実に人間くらい驚くほど

* Certes, c’est un sujet merveilleusement vain, divers, et ondoyant que l’homme. しばしば引用される有名な句で、第二巻第十章にも ondoyantet divers という語はでてくる。なおこの「まちまちで変りやすい」という人間の一般的特質を、モンテーニュは自己のうちにもしばしば認めているけれど、彼自らはそう自覚していただけに、人間として可能な限りにおいて、相当よくこの病弊を克服していると思う。すなわちこの句その他から推して、モンテーニュその人までも無定見でつかまえ所がない人であったと考えるのは浅はかである。第三巻第二章における彼の告白およびその註参照。『随想録』の中にはいろいろな矛盾があるが、それはそれぞれに理由動機があってのことで(巻頭所載の解説にも述べるとおりである)、モンテーニュその人は常に彼の主要な幾つかの考え方の下に統一されている。




* 当章の中には、人間の思想や性格や、その時折の物の考え方感じ方などが変化して極りないことを描きながら、一方どこまでも己を枉げず、権力暴力の前に節を屈しない崇高な人物の姿を示している。これは、やがて後出二十八章にはっきりと示そうとするラ・ボエシの肖像をはるかに準備しているように見える。
なおこの章に述べられている人間観は、奇しくも老
荘周のそれと完全に一致している。『荘子』在宥篇第十一に「人 の心 は排 うれば下 り、進 むれば上 り、上下 して囚殺 す。……其 の熱 するや焦火 、其 の寒 なるや凝冰 、其 の疾 きこと俛仰 の間 にして再 び四海 の外 を撫 う。其 の居 るや淵 にして静 、其 の動 くや県 にして天 、※驕 [#「にんべん+賁」、U+50E8、53-1]にして係 ぐべからざるものは、其 れ唯 だ人 の心 か」とある(以後『荘子』からの引用は、すべて福永光司『荘子』新訂中国古典選7、8、9巻、昭四一、朝日新聞社、による)。

本章から第十八章にいたる一連のエッセーは、一五七二年頃にモンテーニュが読んだグイッチャルディーニとかブーシェとかデュ・ベレとかいう人たちの歴史記録の類が動機として生れた「書籍的」随想の部に入る。この種のエッセーは当時流行したいわゆる
le
ons
すなわち説話集(ほぼ『今昔物語』『古今著聞集』の類)と大同小異で、まだモンテーニュ独特なものをもっていないと言われる。彼が自己について語っている部分は、(b)(c)の標識によってわかるように一五八〇年以後に書き加えられたものであるが、それにしてもモンテーニュの心理学的関心、心理解剖の精緻は、これら初期の短篇の中にも十分現われている。



(b)わたしは最もこの感情*を免れている者の一人である。(c)そして、これを愛しも尊びもしない。だが世間の人は、これをまるで品質証明のレッテルみたいに、特別に有難がって珍重している。人々はこれでもって知恵と徳と良心とを装わせているが、ばかばかしい変なお飾りもあったもんだ。イタリア人はこれに悪心という名前**をつけたが、この方がずっと似合っている。まったくそれは、常に害のある、常に狂った、そしていわば常に卑怯で下賤な、性質なのである。ストア学者は彼らの賢人にこの感情を禁じている。
* モンテーニュは生来快活であった。しかし悲哀に対して無感覚であったわけではない。むしろ彼は喜悲いずれにも敏感であった。第一、この章そのものが彼の悲哀に関する感情の深さを示している。ただ悲観的感傷的な人でなかっただけである。
** イタリア語の tristezza は邪悪という意味をももつ。
この事は、人がつい先頃我々の宮様*のお一人の御身の上に見たところにくらべることができよう。そのお方はトレントにあって、長兄の宮の・しかも御家の柱石であり栄誉でもある長兄の宮の・


* カルディナル・ド・ロレーヌと言われたシャルル・ド・ギュイズをさす。次に、長兄とあるのは、一五六三年にオルレアンの攻囲の際刺客ポルトロ・ド・メレに暗殺されたフランソワ・ド・ギュイズのこと。更に次兄とあるのは、それからわずか十日後に死んだ僧院長クリュニーをさしている。
悲しみのために化して石となれり。
(オウィディウス)
とうたったのである。つまりそう言って、たくさんの出来事が我々の力に支えきれない程のしかかるときに我々を石のようにしてしまうところの、あの哀切の極みなる茫然自失の状態を表現しようとしたのである。
ほんとうに、どんな悲痛でも、それが極度に達すると、魂全体を麻痺させてその活動の自由を妨げる。例えば、きわめて不吉な報知にどしんと胸をつかれると、この身が抱きすくめられ凝り固まったように、いわばあらゆる運動をうばわれたように感じ、あとで涙と嘆きとの中にとけほぐれるようになって、始めて魂がとき放され、
(b)胸の悲しみきわまりて路をひらき、
叫びとなりて出でたり。
叫びとなりて出でたり。
(ウェルギリウス)
(c)フェルジナンド王がブダをめぐってハンガリー王ジャンの未亡人に対してした戦いにおいて、ドイツの大将ライジアックは乱軍の間で抜群の働きを示した一人の騎士の死骸が運ばれて来るのを見て、人びとと共にその死を悼んだ。ところが、みんなと一緒にそれが何者であるかを知ろうとして、着ていた
(a)いかに恋い焦 れてあるやを言いうる者はなお小さき炎の中にあるものなり。
(ペトラルカ)
と恋する人たちは言って、次のようにやるせない激情を表現しようとしている。
哀れやわれは
恋のために知覚を失う。君を見れば、
レスビアよ、わが心うつろとなりて、
語るべき言葉も知らず。
舌はもつれ、身は火のごとく燃え、
耳はなり、わが両の眼は
暗やみとなる。
恋のために知覚を失う。君を見れば、
レスビアよ、わが心うつろとなりて、
語るべき言葉も知らず。
舌はもつれ、身は火のごとく燃え、
耳はなり、わが両の眼は
暗やみとなる。
(カトゥルス)
(b)だから、さかんな烈しい恋の炎にやかれている時は、我々はとうてい嘆いたり
(a)実にそうしたことから突然の衰弱が生じて、時節柄をもわきまえずに、恋人たちを襲うのである。いやこの氷は、非常に強い力で彼らを享楽のまっ最中にとらえるのである。すべて味わわれ消化される感情は平凡なものにすぎない。
軽き物思いは語り、深き感情は黙す。
(セネカ)
(b)思わぬ喜びの襲来も、同様にわれわれをぼんやりさせる。
彼女はわが近づくを見、トロヤの旗印をここかしこに認めるや、
恐ろしき幻を見しがごとく狂気し自失し石となれり。
熱は彼女の骨を去り、彼女は倒れたり。
彼女が言葉を出したるは、それよりはるか後なりき。
恐ろしき幻を見しがごとく狂気し自失し石となれり。
熱は彼女の骨を去り、彼女は倒れたり。
彼女が言葉を出したるは、それよりはるか後なりき。
(ウェルギリウス)
(a)息子がカンナエの負け軍から生きて帰ったのを見て狂喜のあまり死んだローマの婦人、喜びのために落命したソフォクレスおよび烈王ディオニュシオス、ローマの元老院から与えられた名誉の知らせを読んでコルシカで死んだタルナのほかに、我々は、当世紀においても、法王レオ十世が、かねてから熱望していたミラノ奪取の報知をえてひどく喜び、そのために発熱して逝去されたのを知っている。それから、人間の力弱さの最も顕著な実例として古人に特筆されたところによると、弁証家ディオドロスは、自分の学校で、衆人の前で自分に提出された議論に答えられなかった恥ずかしさのあまりに、その場で頓死したそうだ。
(b)わたしはこのような烈しい感情にはあまり捉えられない。わたしは生れつき鈍い感受性*を持っている。しかもそれを毎日理性のはたらきによって硬く厚くしている。
* この告白もまた、話半分にきかなければならない。むしろモンテーニュは、自ら感じやすい性質を覚っていたからこそ、ことさらに推理思索によってこれをなおそうとつとめたのである。
本章こそ、当時流行の説話集 le
ons の域を脱しない平凡なエッセーが、後年の加筆によってだんだん面白いものに変化して行った好い実例とも見られるが、同時にまたそれらの増加のために散漫になり統一を失った場合の標本とも言えよう。ここに「我々を越えて」au del
de nous と言っているのは chez nous, en nous に対して言ったので、「現在の我々を追いこして」という意味であるから、当然現世を越えた「彼岸」「あの世」という意味も含まれている。


(b)人間が常に未来のものごとを追い求めるのを咎め、我々に「現世の幸福をしっかり捉えよ。そしてその中に安住せよ。我々には未来のことがらをとらえることはできないのだ。それは過ぎ去ったことがつかまえられない以上であるぞ」と教える人々は、いかにも人間の誤りの最も普通なものを衝いているが、きっとそういう人たちは、自然がその仕事を続けてゆくために我々に行わせることまでも、あえて誤りと呼びたいのであろう。(c)自然は我々が知ることよりも活動することの方をいっそう熱望して、わざと我々の心の中に、他のいろいろな思想とともに、こういう誤った思想までも賦与してくれたのに。
(b)我々は決して我々の許にいない。常にそれを越えている。心配・欲望・期待は、我々を未来に向って追いやり、我々から現にあるところのものに対する感覚と考察とを奪って、やがてそれがなるであろうところのものに、いや我々がいなくなる後のことにまで、かかずらわせる。(c)


* ここに言う未来は勿論来世のこと、死後の問題を意味している。モンテーニュの根本的な考えの一つが、この短い引用句の中にそっとほのめかされている。それは本巻第十一章その他に、これからしばしば述べられることである。


エピクロスによれば、未来の洞察と用意とがなくても、人は賢者になれるのだ。
(b)死者に関するもろもろの法規のうち、最も動かしえないもののようにわたしに思われるのは、「帝王たちの行為はその死後において審判されなければならない」というそれである。彼らは法規と同列のものであって、その主人ではない。正義がさきに彼らの頭上に加え得なかったものを、あとから彼らの評判の上に、彼らの後継者の財宝の上に、すなわち我々がしばしば生命よりもだいじにするそれらのものの上に、加えるのは当然である。実にこの習慣は、これが守られている国々に非常な便益をもたらすばかりでなく、すべての善王たちがむしろ乞い願うところである。(c)彼ら善王は、悪王の記憶が彼らのもののように考えられてはやりきれないからだ。我々は臣従と恭順とを等しくすべての王に負う。まったくそれらは彼らの官職に属するのである。けれども、尊敬は、愛慕と共に、ただ彼らの徳に対してだけ捧げればいいのだ。国家の秩序のために、我慢してふさわしくない王に堪えよう。彼らの不徳をかくしてやろう。彼らの権威が我々の支持を必要とする限りは、我々の勧告でもってその心ない一挙一動を助けてやろう。だが我々の主従関係がひとたび終ったら、正義に対し、また我々の自由に対して、我々のいつわらぬ感情の表出を拒むのは間違っている。特に主君の欠点をよく知っていながらこれに
* ここにモンテーニュの政治上の理性主義、ないしその帝王機関説の片鱗がうかがわれる。後出三の一参照。
わたしが不快に思うのは、あのラケダイモンのような神聖な国にも一つのはなはだしい虚礼があったことである。王が死ぬと、すべての同盟者及び隣国人、すべての島民は、男も女も、皆入り交じって、その額を切って
(b)人、完全に人生を離脱すること難し。
人は皆、無意識に、何ものかが
おのれの死後に残りながらうと想像す。
人は、死によって打ちひしがるるも
そのなきがらの中より、全く脱け出ることをえず。
人は皆、無意識に、何ものかが
おのれの死後に残りながらうと想像す。
人は、死によって打ちひしがるるも
そのなきがらの中より、全く脱け出ることをえず。
(ルクレティウス)
(a)ベルトラン・デュ・ゲクランは、オーヴェルニュのピュイに近いランコンの城を攻囲中に戦死した。籠城者たちは、後に降伏したとき、この人の遺骸の上に城の鍵をささげさせられた。
ヴェネツィア軍の総大将バルトロメオ・ダルヴィアノがブレシアノ地方の遠征中に戦死し、遺骸が敵地ヴェロナを通ってヴェネツィアに運ばれなければならなかった時、軍中の人々の大部分は、この際ヴェロナ側に向って通過免状を乞うがよいという意見に一致した。ところが、テオドロ・トリヴォルツィオはこれに反対した。そしてむしろ、合戦の運にかけても押し破って通る方がましだと主張した。


(b)まことに類似の場合に、ギリシアの法律によると、埋葬のために敵に向って死骸の引渡しを乞うたものは、勝利のほまれを放棄したものと見なされ、戦勝塔を建てることがゆるされないことになっていた。そしてその乞いを受けた者の方に、かえって戦勝の名目がゆるされた。そんなわけでニキアスは、そのコリントス勢に対して明白にかちとった勝利を失った。そしてアゲシラオスの方が、そのボイオティア勢に対してすこぶるあやしげに得た勝利を確実にした。
(a)これらの事柄はめずらしいことのように思われるかも知れないが、事実いかなる時代にも我々が自己に関する心遣いをこの世の向うにまで及ぼすことはもちろん、天寵がきわめてしばしば墓の中まで我々についてゆき、我々の遺骨にまでも及ぶと信ずることさえ、ゆるされていたではないか。これについては、古代の実例はずいぶんたくさんあるから、我々の間の例を別にしては、特にわたしがこれに言及する必要はないと思う。イギリス王エドワード一世は、スコットランド王ロバートとの長い戦いの間に、自分の親臨がいかに味方の戦闘によい影響を及ぼすかを経験したので、つまり自ら陣頭に立った場合はいつも勝利をえたものだから、その死に臨むや、太子に向い、「わたしが死んだら、必ずわたしの遺体を煮て骨と肉を分離させ、肉はこれを墓に葬り、骨の方はこれをとっておいて、スコットランドに事あるたびに、お前自ら身に帯びて出陣せよ」とおごそかに遺言された。あたかも運命が勝利を決定的に彼の手足に結びつけているかのように。
(b)ヨハン・ジシュカは、ウィクリフの邪説をまもるためにボヘミアを乱した人であるが、自分の死後その皮膚を剥ぎ、それで太鼓を作り、敵と戦うにあたってはいつもそれを携えてゆくようにのぞんだ。彼自ら指揮して得た勝利をそうやって継続できると考えたからだ。同様に或るインド人たちは、スペイン人との戦いに、彼らの酋長の一人の遺骨を携えてゆき、彼が生きていた時のめでたき武運にあやかろうとした。また同じ地方のもう一つの民族は、その合戦の際に倒れた勇士たちの死骸を戦場に引きずってゆき、味方の武運と激励とに役立たせた。
(a)始めの例は、いずれもただ彼らの過去の行為によって得られた評判を墓の中に保存するだけであるが、後者はそこに更に積極的な効果を発揮させようとしている。勇将バイヤールの物語は最もよくできている。この人は、火縄銃によって胴なかに致命的な傷をうけたことを覚ったが、戦場から退くようにすすめられると、「おれは最期に臨んでも敵に背なかをみせようとは思わない」と答えた。そして力の限り戦い、いよいよ力がつきて馬に乗っていられなくなってから、始めて家令に命じてその身を或る樹の根もとに横たえさせた。ただしあくまでも敵におもてを向けて死ねるように。そして望みどおり敵をにらんで死んだ。
わたしはこの問題のために、さきにあげたいずれにも劣らない著名な事例をもう一つ加えなければならない。皇帝マクシミリアンは、現在の王フィリップには曽祖父にあたらせられ、偉大な特質を沢山にもっておられたが、わけても玉体まことに美しくいらせられた。だが、いろいろな御気質の中に、帝王の御気質には全く反するそれを、すなわち、火急のおん大事ある時は便器に跨ったまま御決裁を遊ばされるという帝王がたの常とは、はなはだちがったそれを、持っておられた。というのは、最もなれた下僕にさえ、その便所における姿をお見せにならなかったのである。小便をなされるにも隠れてあそばされた。まるで年頃の娘のように気をつかって、医者にも誰にも、人が通例かくしておく諸器官を見られまいとなさった。(b)わたしだって、露骨な口はきくけれども、やはり、生来、この恥じらいは知っている。必要あるいは欲望に大いにけしかけられない限り、我々の習慣が隠せと命じている器官や行為を人前に示しはしない。わたしは、男としては、特にわたしのような職分*の男としては、むしろ不似合だと思うほど、その点では窮屈にしている。だが彼においては、(a)これが余りに神経質すぎた。彼はその遺言書の明文によって、自分が死んだら股引をはかせてくれ、とまでお命じになったのである。それ程に思うなら、追って書きの中に、「それをはかせてくれる者は目隠しをすること」とでもつけ加えればよかったに。(c)キュロスはその子供たちに、「お前たちにしろ誰にしろ、魂がこれを離れた後は、決してわたしの体にさわることも見ることもならぬ」と言ったが、わたしはこれを彼の何かの信心のせいにする。なぜなら、彼の伝記を書いた人〔クセノフォン〕も彼自らも、ともに彼らの一生を通じて幾多の偉大な特質を示しているが、始終そこに宗教に対する特別の心遣いと敬意とを交えているから。
* 彼は自ら、王臣 gentilhomme たること武士 soldat たることをもって、本職と心得ているのである。私の『モンテーニュを語る』八一―九一頁、『モンテーニュ伝』一六〇頁註(2)参照。
これとは正反対の執心も(ここにもわたしは身内の実例を欠かないのである)、すなわちその葬礼をある特別な例のないつましさをもって極度に切りつめ、お供一人




(c)わたしは、あのアテナイの民の非道を思い起すと、あらゆる民主国家に対してどうにもおさえきれぬ憎悪にかられそうである。民主主義こそ最も自然で公平な制度だとわたしは思っているのだが*。彼らはあのアルギヌサ島付近の海戦で(それはギリシア人が全兵力を挙げて海上で戦った最も危険な激しい戦いであったと言われている)ラケダイモン人を打ち破って凱旋したあの勇敢な大将たちを、すでに勝利をえているのにひたすら戦法上の好機を追うばかりで、とどまってその死者を収容し弔慰しなかったと言って、すこしも容赦するところなく、その弁解を聴くことすらしないで、殺してしまったのである。それにディオメドンの事跡は、この処刑をますます忌わしいものに思わせる。この人は、その処刑にあった内の一人であるが、将軍としても政治家としても、誠に高徳の人であった。彼は彼らの宣告文をきき終ると、意見を述べるために進み出て、群衆のようやく静まるのをまって、少しも自分のために弁解することなく、またこの残酷な決議の非道を鳴らすこともなく、ただただ裁判官たちの身の上が心配になると述べ、どうかこの判決が彼らの幸福に転ずるようにと神々に祈った。そして、さきに自分たちが神々に捧げた誓いを、このような輝かしい武運を得たことを感謝しながら実行しえないことから、神々の怒りが自分たちよりもかえって裁判官の方にふりかからないようにと、その誓いがどんなものであったかを人々にあかした。そして少しも余事に及ばず、減刑を乞うこともせず、そのままいさぎよく刑場にむかった。運命は、数年の後、アテナイ人たちの上に、しっぺい返しをくらわした。まったく、アテナイ軍の水師提督カブリアスは、スパルタの海将ポリスをナクソス島付近でうち破ったが、前例の不幸を再びなめまいとして、その国の興廃にとって最も重大な戦争の確実な成果を失った。そして、海上にただよう味方の死骸を一つも失うまいとしてみすみす大勢の敵を生きて帰らせ、後に彼らに、この七面倒な迷信を価高く払わせるもとを作った。
なんじ死して何処 にゆくやを知らんとするや。
すべての物はその生れ出る前にありし所にゆくなり。
すべての物はその生れ出る前にありし所にゆくなり。
(セネカ)
また別の人は、霊魂のない肉体にこそ再び平安の感覚が与えられると言う。
彼に、その休む墓を持たすなかれ。
人生の重荷をおろす港を持たすなかれ。
人生の重荷をおろす港を持たすなかれ。
(キケロ)
* こういう所に、モンテーニュの民主主義的な気質傾向を読みとらねばならない。
* 以上数行のパラグラフはボルドー本の上には読まれないが、一五九五年版にのせているところである。ストロウスキーのボルドー市版は、これを製本師に裁ち切られたものと想定して本文中に挿入しているが、アルマンゴー博士はこの点について疑いをいだき、これを欄外に置いている。
(a)われわれの仲間の一人で、ひどい痛風になやんでおられるひとりの貴族は、医者から断然塩物をお絶ちになるようにと言われると、「わたしは苦しさが高じてたえがたくなると、きっと誰かに食ってかかりたくなる。だから、或る時は腸詰めを、或る時は牛の舌やハムなどを罵りくさす。そうするとそれだけ苦しさが軽くなるね」と、ふざけてお答えになるのが常であった。だがほんとうに、ふり上げた腕がその物にぶつからないで
(b)風もまたうっそうたる森がこれを遮 るなくば、
力を失いて空中に吹きちらばるがごとく、
力を失いて空中に吹きちらばるがごとく、
(ルカヌス)
(a)ゆり動かされた霊魂もまた、そのすがりつく所が与えられないと、ただいたずらに自己の内側を彷徨するばかりのように思われる。だから必ず何かそれがぶつかり働きかけるものをそれにあてがわなければならない。プルタルコスは、牝猿や子犬をかわいがる人たちについて、「我々の内にある愛の器官は、正当な目あてがないと、空しくそのままにやまないで、このようにうその・仮の・相手をさがし出す」と言っている。いや我々はよく知っているではないか。霊魂は昂奮すると、嘘の・気まぐれの・相手をこね上げ、自分自身の所信に逆らってまでもわれとわが身を欺き、決して何者にも働きかけずに終ることはないということを。
(b)だから怒り狂った動物は、夢中で自分を傷つけた石や刃物にうちかかるのである。いや、自分の身体を噛みやぶって自分が感じる苦痛の復讐をするのである。
かくてパノニアの熊は、
リビの細き革紐のつける
あの銛 に刺されてよりいよいよあれ狂い、
或いは自分の傷の上に倒れころがり、
或いはその身を貫ける銛に立ちむかい、
その穂先を追いてめぐりにめぐりたり。
リビの細き革紐のつける
あの
或いは自分の傷の上に倒れころがり、
或いはその身を貫ける銛に立ちむかい、
その穂先を追いてめぐりにめぐりたり。
(ルカヌス)
(a)我々は、我々にふりかかる不幸について、どんな原因をも造り上げる。何かに打ってかかりたくて、何にでも見さかいなく食ってかかる。だが、あなたのいとしいお兄さんをむざんにも鉄砲でうち殺したのは、あなたが掻きむしるそのゆたかな金髪でもなければ、怒ってあなたが乱暴にうちたたくその白い胸でもないのだ。ほかのものに食ってかかりなさい。(c)リウィウスは、スペインにおけるローマ軍がその偉大な大将であった二人の兄弟を失った時の有様を語って、


(c)わたしは幼い頃、よくこんな話をきいた。「隣国のさる王様は神の鞭を受けたのに対してひそかにその返報をしようと誓い、『十年のあいだ神を祈ってはならぬ。神について語ってはならぬ。またわたしが位にある間は決して神を信じてはならぬ』と布告した」と。このお話は、その国に特有な愚かさを描いているのではなく、むしろその傲慢さの方を物語っているのであった。この二つは常に相伴う不徳であるが、今申したような行為は、まったく愚昧よりもむしろ傲慢から発するのである。
(a)アウグストゥス・カエサルは、海上で暴風雨にうたれてから、神ネプトゥヌスをうらむようになった。そして円形競技場での華やかな競技の最中に、いっしょに並んでいる他の神々の間からネプトゥヌスの像を取り除かせてうっぷんを晴らした。こんなことをした彼は、前のキュロスよりもカリグラよりもずっとゆるされがたい。いや後年ドイツにおいて、クインティリウス・ウァルスの指揮の下にある味方が戦争にまけたときき、憤怒と絶望のあまり


事件に向って怒っても仕方がない。
いくら怒っても事件はびくともしない。
いくら怒っても事件はびくともしない。
(アミヨ訳仏文)
(b)だが、我々の精神の錯乱は、いくらこれをののしりはずかしめても足りることはあるまい。
[#改ページ]
(a)ローマ軍の副将ルキウス・マルキウスがマケドニア王ペルセウスと戦った時、味方の軍勢をたて直すための暇を得ようとして
敵に対しては、詭計もよし、武勇もよし。
(ウェルギリウス)
といううまい格言を知らなかったらしい。
(c)アカイア人は、ポリュビオスがそう言っているが、戦うに当ってどんな詭計をもしりぞけた。敵が全く心服した場合でなければ勝利とは思わなかったから。


汝とわれのいずれに、運命は王位を委ねんとするか?
いざ、勇気によってこれを決せん!
いざ、勇気によってこれを決せん!
(エンニウス)
テルナト王国では(それは我々が口をきわめて野蛮国ときめつける国々の一つだが)、「戦争はまずもってこれを布告してからでなければやらぬこと。しかもその布告には、それに用いようとする手段、すなわち、いかなる兵士を幾人・またいかなる軍用品・いかなる攻防の具・を用いるかについて、十分な説明を付け加えること」が習慣になっている。だが、それだけの事をしても、なお相手が譲歩もせず和解をも乞わない場合には、最悪の方法に訴えることをあえてする。そうなったら裏切りだろうが詭計だろうが、勝つためにはどんな手段を用いても咎められるわけはないと考える。
昔のフィレンツェ
(a)我々にいたってはそれ程までに潔癖ではなく、戦争から得をえる者をもって勝利の名誉をになう者だと考え、リュサンドロスにならって、「獅子の皮だけで足りない所には狐の皮をはぎ合せろ」と言っているが、奇襲はたいていの場合、この言葉を実践したものである。そして、我々のよく言うことであるが、講和談判の時くらい大将が注意の眼を見張らねばならぬ時はないのである。そこで、そうした理由から、「包囲された城の大将は講和のために自ら城を出てはならない」ということが、現今のすべての軍人がひとしく唱える
(b)ノラの城中にいたエウメネスは自分を包囲したアンティゴノスから、しきりに講和のために出て来いとうながされた。アンティゴノスが、さまざまな条件をもち出した末、「おれの方が位も高く力も強いのであるから、お前の方から出て来るのが当然だ」と言いはると、エウメネスの方では、「おれにこの剣のある限り、おれに優るものがあろうとは思わぬ」と立派な返答をして、要求どおりアンティゴノスの方からその甥のプトレマイオスを人質として送ってよこすまでは、頑として城を出なかった。
(a)けれどもまた、攻囲者からすすめられるままに城を出て、かえって得をした者もある。例えばかのシャンパーニュの騎士アンリ・ド・ヴォがそれであった。彼はコメルシの城においてイギリス兵に包囲されていたが、包囲軍の大将バルテルミ・ド・ボンヌは、城外から坑道を掘りすすめてすでに城の下の大部分を侵し、今はただこれに火を点じさえすれば籠城の士卒を微塵になしうるまでになったので、今言ったアンリにいよいよ四度目の使を出し、出て来て和を講ぜられる方がおためであろうと申し入れた。そのようにして彼の明白な破滅が目の前に示されたので、アンリは深く敵の深切に感じた。実にその情誼によって、彼がその兵とともに降った後に、はじめて火が坑道内に点ぜられ、支えの柱が吹っとんで、城はとうとう
(b)わたしは容易に他人の誠意を信ずる。けれども、「あれはむしろ絶望のあまり勇気がなくなってやったのだ。率直さによってでも、こちらの真心を信頼してでもない」などと判断されそうな場合には、そうやすやすと人のいうなりにはならないであろう*。
* 一五七〇―七七年の頃、モンリュックはしばしばモンテーニュ邸を訪問し、互いに軍事上の経験を語り合った。当章はその頃の所産である。モンリュックの『戦記』にも同じ意見が述べられている。なお当時は野戦によって勝敗を決することは稀で、城の攻防によって決戦をすることが多かったのである。
(a)けれどもわたしは、この頃近くのミュシダンで、わが軍のためにここを撃退された者どもが、彼らの党派の誰彼とともどもに、「和睦の交渉中、しかも談判がなお継続中だというのに、いきなり自分たちを急襲し全滅させたのは裏切りだ」と非難しているのに会った。なるほど世が世ならば、おそらくそれももっともと言わなければなるまい。だが、今し方わたしが述べたとおり、我々の習わしはそういう掟からは全くかけ離れているのである。すなわち、約束の最後の調印がすむまでは、お互いに気をゆるしてはならないのである。それまではまだ事終っていないのである。
(c)だから、やさしい有利な話しあいによってたった今自分たちの都市の降伏が容れられたからといって、早くもその約束が本当にまもられるものと思いこみ、勝ちほこった敵の欲するがままに、その士気が最もあがっている最中に、敵兵の自由入城をゆるすなどは、やはり危険千万なことであった。ローマの執政官L・アエミリウス・レギルスは、フォカエアの城を奪い取ろうと努めたが、住民のたぐい稀な勇敢さのために空しく時日を失ったので、「是非自分たちを連合国の都市に入るように入城させよ。今後は君たちをローマ人の友と見なすから」と約束して、彼らに敵対行為に対するすべての心配をすてさせた。けれども、彼がその威武を示すために軍を従えてそこに入城した時には、いかに努力しても、部下の昂奮を抑えることができなかった。そして目の前にそのフォカエアの町の大部分が、軍靴に踏みにじられるのを見なければならなかった。つまり、欲望と復讐の力が、ついに彼の権威および軍規の力を踏み越えたのである。
(a)クレオメネスは言った。「戦争中は敵にどんな危害を加えても是非を問われない。それは神々の眼から見ても、人々の眼から見ても、正義に反しない」と。そしてアルゴス人と七日の休戦を約しておきながら、三日目の晩に寝こみを襲ってこれを破り、「自分の休戦条約の中には夜のことは何とも言ってない」と言訳をした。だが、神々はこの不信と狡知をお罰しになった。
(c)談判のあいだに人々が心をゆるめたひまに、カシリヌムの都は奇襲によって奪われた。しかもそれは、最も正義を重んずる軍士と最も軍規厳正なローマ民軍時代のことである。まったく、「もって来いの時と場所でも、敵の卑怯につけ入るようにその愚かさを利用することはゆるされない」などとは、どこにも言われてないのである。いや本当に、戦争というものは、本来理屈にもとりながらしかも理屈の立つ特権を、たくさんに持っている。そこには、


だがわたしはクセノフォンが、彼が戴いていた完全な皇帝*の御言葉により、またそのさまざまの御勲功によって、こうした諸特権にえらく広い幅をもたせているのには驚く。彼は大将としても、ソクラテス門下の高足の中に数えられる哲学者としても、この種の問題にかけてはすこぶる重きをなす作者であるのに。わたしは、どんな場合にも、あんな広範な許容には賛成できない。
* クセノフォンがその著『キュロペディア』の中に描いている理想の皇帝キュロスを指す。
勝利をこそ常にほめ称 えん。
それを運に負うとも狡知に負うとも。
それを運に負うとも狡知に負うとも。
(アリオスト)
と彼らは言う。けれども哲人クリュシッポスは意見を異にした。わたしだって余り賛成ではない。まったくクリュシッポスが言っているとおりである。競走をするものは、もちろん早さのために全力をつくさなければならないが、手をさし伸べて相手をさえぎったり脚をのべてこれを倒すようなことは、とうてい許されるわけがないのである。
(b)いや、更に高潔なのはあのアレクサンドロス大王で、夜にまぎれてダレイオスを撃つことが得策だと勧めたポリュペルコンに対して、「いけない」と彼は言ったのである。「勝利をかすめ取るのは、わたしがすることではない。


彼は恥じぬ。逃ぐるオロデスに後ろより斬りかくるを。
彼に見えざる矢を射かけてその背中 を傷つくるを。
彼は馳せ向いて、真向正面より打ちてかかる。
奇襲によらず、ただ武力によりて勝たんとす。
[#改ページ]彼に見えざる矢を射かけてその
彼は馳せ向いて、真向正面より打ちてかかる。
奇襲によらず、ただ武力によりて勝たんとす。
(ウェルギリウス)
(a)死はあらゆる義務から我々を解放すると言われる。わたしはこれをさまざまに解釈した人々を知っている。英国王ヘンリー七世は、あのマクシミリアン皇帝の御子ドン・フィリップ、もっと尊げに並べて呼び奉るならばカルル五世皇帝の御父ドン・フィリップと仲直りされたが、その時そのドン・フィリップは、ヘンリーの敵でオランダに逃れて隠居していた白ばら家のサフォーク公を、決してその命を害しないならばという約束でヘンリーの手に委ねた。ところがそのヘンリー七世は、死に臨むと、王子に遺言して、自分が死んだら直ちに彼の命を絶て、と命ぜられた。近くはアルバ公がブリュッセルにおいてホルン侯とエグモント侯のおん身の上に関して我々に見させたあの悲劇の中にはいろいろと注目すべき事柄が沢山にあったが、中でもかのエグモント侯は(この人の言葉を信じてホルン侯はアルバ公に降ったのだったから)、どうか自分をさきに死なしてくれと嘆願せられた。彼は死んでそのホルン公に対する義理から解かれようと思ったのだ。だが死はヘンリー七世をその約束から決して解除しなかったし、エグモント侯の方は死ななくてもその責めをゆるされていると思う。我々は我々の力と手段とを越えて、責任を負うことはできないのである。だから、行為と実践はとうてい我々の力ではどうにもならないのであるし、本当に我々の力で動かせるのはただ意志だけであるから、その意志なるものの中にこそ、人間の義務に関するすべての規則は、必然的にその礎を置かれおし立てられなければならないのだ。こう考えるとエグモント侯は、その霊魂と意志とに約束の責任を負わせているから、これを実行するだけの力をもたなかったとはいえ、そしてホルン侯よりあとに生き残ったとしても、確かにその義務から解かれている。ところがイギリス王の方は、その意図によってその約に背いたのであるから、この不信の実行を死後までのばしたからといって、到底ゆるされるわけにはゆかない。それはヘロドトスの石工と同じことである、そいつは、自分の仕えていたエジプト王の宝の秘密を生きている間こそ忠実に守ったが、死にのぞんでそれを子供たちにあかしたといわれる。
(c)わたしは当世の多くの者どもが、ちゃんと他人の物をかすめ取っていることを意識していながら、遺言によって自分が死んだ後にそれを弁償すればいいと思っているのに出あった*。早速にもなすべきことをそんなにおくらせたり、そればかりの悔恨と賠償とをもって悪事を償おうとするなんて、まったく彼らのするところには一文の値打もありはしない。彼らはそれ以上に、自分自身のものまで吐き出さなければいけないのだ。いや、つらい苦しい思いをして支払えばこそ、彼らの賠償もそれだけ正しくそれだけ値打のあるものとなるのである。後悔は重荷であることを要する。
* 第三巻第二章「後悔について」にこの泥棒の話が詳しく語られる。
わたしはできるものなら、わたしの死が、わたしの生がかつて言ったことよりほかには何も言わないようにと、心がけよう。
[#改ページ]
モンテーニュはここに漠然と簡単ながら、どうして自分が随筆など書くようになったかを述べている。おそらく彼が故郷に隠退して間もないころ(一五七〇―七一)、すなわちまだ「エッセー」という独特な標題が考えつかれなかった頃の文章であろう。だからここには、最後のパラグラフに何となくわが『徒然草』の書き出しの句を思わせるようなことが書かれているのを見るだけである。第一巻第五十章、第二巻第八章のはじめにおかれた解説をあわせ読まれたい。モンテーニュが何時頃から読書家から文筆家に転じたかは、資料によって確立しがたいが、やはりラ・ボエシを失って、心中悶々の情を聞いてもらうすべを失ってから、いよいよ紙に向って独り、t
te
t
te avec lui-m
me をするより仕方がなくなったからであろう。




(a)ちょうどただの空地は、よしそれが肥えていても、種々さまざまの役に立たない雑草がもさもさしていて、これを役に立てるためには、我々の役に立つような何かの種子をそこに蒔かねばならないように、また婦人たちはたった独りでもなるほど形のない肉の塊やかけらを産み出しはするが、善い自然の世継が得たいならば、なおもう一つの種子をそこに加えなければならないように、精神もまた同じことである。人がもし何事かでそれをみたし、それを抑制することがなければ、精神もだだっぴろい想像の野原をただ無茶苦茶に駈けめぐるばかりであろう。
(b)青銅の器の中に立つ波の、
日の光月の影をば映すとき、
その光いたずらに揺れ躍りて
器の高き縁に戯るるがごとく。
日の光月の影をば映すとき、
その光いたずらに揺れ躍りて
器の高き縁に戯るるがごとく。
(ウェルギリウス)
(a)いや、気ちがいじみた考えや夢みたいなはかない思いなどは、いずれも皆、精神がこうした動揺の中で産み出したものにあらざるはない。
それらは病人 の夢に見らるる
空なる夢まぼろしの如し。
空なる夢まぼろしの如し。
(ホラティウス)
確かな目的を持たない霊魂はさまよう。まったく、人が言うとおり、いたるところにあるとはどこにもないということなのだ。
(b)マクシムスよ、至る処にあるものはいずこにもなし。
(マルティアリス)
(a)先頃わたしが、できるだけほかのことにはかかりあわず、ただわたしに残されたこの僅かな歳月を独りで静かに送ろうと堅く決心して、ここの家に引込んだ最初の頃は、このわたしの精神のためにはただそれをうんとひまにしてやり、それがただ自分にだけかまけ、それがいつもじっと自分のうちに落ちついていられるようにしてやるのこそ、それ〔私の精神〕にとって何よりのことなのだとばかり思っていた。そしてそれが、年とともに重厚になり円熟もして、ますます容易にそのような生活ができるようになることを、希望していた。ところがわたしは、
無為が精神をあちらこちらに追いちらす
(ルカヌス)
ので、かえってそれ〔わたしの精神〕が手綱をはなれた馬みたいになり、他人のために苦労するよりも百倍も自分のために苦労していることを知った。いや、彼が余りにも奇怪な妄想を後から後からと、順序も計画もなく、産み出すので、わたしはそのとりとめのなさや、その物狂おしさをとっくりと考えて見るために、それらを一つ一つ書きつけて見ることにした。いつかわたしの精神が、自分からはずかしいな、と思うようになってくれればよいが。
[#改ページ]
この章もまた初期の随想の一つであるが、後に自らを描こうとする意図が加わって始めて興味津々たるものとなった。
モンテーニュはその序文のなかで第一に約束したように、常に率直正直である。だからしたくなれば自慢もするが、欠点といえどもあえて少しもかくそうとはしない。世の学者先生や著者たちが、いかにも自分は頭がよく、道徳的にも潔白であるような顔ばかりするのとは、まさに反対である。そこにモンテーニュの魅力の一つがあろう。ここでも彼は、自分の記憶力の不足を告白する。ただそれだけでも物おぼえの悪いのをひそかに嘆いている読者は慰められるが、さらに彼はそういう欠陥にもまたなにかの取り柄があること、そしていわゆる長所だって場合によっては自他を困らせることなどを教える。ここにも無為無学をたたえ、無用の用あることを説く老荘道家の発想と相通ずるものがある。とかくものごとをただ一方からばかり眺め、因習的な判断にばかりとらわれていた人たちは、なるほどそういう見方もあるのかと、始めて気がつく。そしてその眼界をもその思想をも広くゆるやかにしてもらう。むしろそんな小さなことを悲しんだり羨 んだりするよりも、自己の真実に徹することの方が、人間にとっては肝心なのだということを教えられる。この一章の主意はおそらくそうしたところにあるであろう。
モンテーニュはその序文のなかで第一に約束したように、常に率直正直である。だからしたくなれば自慢もするが、欠点といえどもあえて少しもかくそうとはしない。世の学者先生や著者たちが、いかにも自分は頭がよく、道徳的にも潔白であるような顔ばかりするのとは、まさに反対である。そこにモンテーニュの魅力の一つがあろう。ここでも彼は、自分の記憶力の不足を告白する。ただそれだけでも物おぼえの悪いのをひそかに嘆いている読者は慰められるが、さらに彼はそういう欠陥にもまたなにかの取り柄があること、そしていわゆる長所だって場合によっては自他を困らせることなどを教える。ここにも無為無学をたたえ、無用の用あることを説く老荘道家の発想と相通ずるものがある。とかくものごとをただ一方からばかり眺め、因習的な判断にばかりとらわれていた人たちは、なるほどそういう見方もあるのかと、始めて気がつく。そしてその眼界をもその思想をも広くゆるやかにしてもらう。むしろそんな小さなことを悲しんだり
(a)およそわたしくらい記憶の話をするのがふさわしくない男はない。だってわたしはわたしの内に、ほとんどその痕跡すら認めないからである。いや、わたしの記憶ほど恐ろしく不完全な
(b)わたしはそういう生れつきに当惑するばかりではない。――(c)いやまったく、それが欠くべからざるものであることを考えると、プラトンがそれを偉大で強力な女神と呼んだのはもっともである。――(b)わたしの国では「だれそれは全く分別を持たない」という場合に、「あいつはまるで記憶をもたない」と言う習わしなので、いくらわたしが記憶の不足を嘆いても、皆がそれを本気にしてくれない。まるでわたしが自分の無分別を責めてでもいるようにとるのである。つまり彼らは記憶と分別との間にけじめをつけないのである。これはわたしの立場を著しく不利にする。いやそれどころか、それはわたしを傷つけることになる。だって経験に照らして見ると、むしろあべこべに、優れた記憶こそとかくひ弱な判断に伴いがちではないか。彼らはまた、つぎの点でもわたしを傷つけている。だって、わたしは人の友であることより大事なことはないと思っているのに、わたしの物覚えのわるいことを咎めるその言葉でもって、わたしの忘恩をせめ立てるのだから。人はわたしの愛に浴しようとわたしの記憶にすがりつく。そして生れつきの欠陥と意識の欠陥とをごっちゃにしている。そして言う。「あいつはこれこれの頼みや約束を忘れた。あいつは少しもその友達を思い出さない。あいつはおれのために、かくかくのことを言うべきなのを、なすべきなのを、いや黙っているべきであるのを、少しも思い出さなかった」と。なるほどわたしはじきに忘れるかもしれない。だが友人からたのまれた用事をおろそかにするなんて、そんなことは決してない。どうかこれをわたしの欠陥のせいだと思ってがまんしてほしい。悪意だとは思わないでほしい。悪意くらいわたしの気質の敵であるものはないんだから。
わたしは或る程度こう思って自ら慰めている。第一に、(c)わたしはもっぱらこの病のおかげで、ともすれば心の中に生じそうであった、もの忘れよりも更に悪い病すなわち野心を、やっつけることができたから。まったく、えらい人たちとの交際に心を砕く者にとっては、これこそやりきれない欠陥なのである。それに、自然の推移の同じような沢山の実例が教えているとおり、いつも自然は、わたしにおいても、この性能が衰えるに従って、それだけ他の幾多の性能を強くしてくれたのである。まったく、記憶のおかげでひと様の創意や意見が始終わたしのうちに頑張っているならば、自分もまた皆さんと同様に、わが精神と判断とにそれら自らの力を行使させないで、容易にそれらをして他人のあとをよろよろおめおめと追いかけさせることであろう。(b)またおかげでわたしの話が手短かであるのも仕合せだ。まったく記憶の倉庫は創意の倉庫よりも常に多くのものを蔵しているのである。(c)もし記憶がわたしに忠実であったなら、さまざまな主題が、わたしの多少は賦与されているおしゃべりの性能を呼びさまし、ますますわたしの談話をあおりたてて、わたしはおしゃべりをもってわがすべての友だちを聾にしたことであろう。(b)そうなったらみじめだ。わたしはそれを親しい友達のたれかれの実例によって経験する。すなわち、記憶が彼らに物事を完全にありありと想い出させるに従って、彼らはますますおしゃべりを昔に引きもどし、それをくだらない事柄で一杯にするから、お話そのものは面白くても折角の面白さがおかげで押しつぶされてしまうのだ。もしそのお話が面白くなかった日には、諸君は彼らの記憶の幸運をのろうか、あるいは彼らの判断の不運をのろわずにはいられまい。(c)いや興に乗って来ると、話を閉じたり中止したりすることはむつかしい。馬の力量にしても、楽々と鮮やかなストップをするかどうかで、一番よく知られるのである。節度ある人々の間にさえ、わたしはそのおしゃべりを止めようとして止められないでいる人たちを見受ける。彼らはもうおしまいにしようと切っかけを捜しながら、だらだらとしゃべりつづける。まるで衰え疲れた人のように引きずってゆく。殊に老人が危険である。いろいろ古い事柄はおぼえているくせに、近頃幾度もそれらを繰りかえしたことは忘れている。わたしはすこぶる面白いお話が、或る殿様のお口にかかるとはなはだ退屈なものになるのを経験した。傍のものどもはそれぞれそれを百万べんも聞かされていたからである。(b)第二にわたしは、ある古人がいっているとおり、受けた侮りをいつまでも覚えていないだけでもしあわせである。(c)わたしには一人の囁き手が入り用であろう。例えばあのダレイオスがアテナイ人からこうむった侮辱を忘れないために、そのお小姓に、彼がテーブルにつく度毎に、「陛下よ、アテナイ人を想い出し給え」と三度ずつ言わせたように。(b)それからまた、たびたび見る場所、たびたび読む書物が、常にみずみずしい新しさをもってわたしにほほえみかけることもしあわせだと思う。
(a)「物覚えにかけて十分な確信がない者はうっかり嘘をつきなさるな」といわれるのは、理由のないことではない。わたしは文法家が「嘘を言う」(dire mensonge)と「嘘をつく」(mentir)との間に区別を設けているのを知っている。すなわち「嘘を言う」とは、嘘のことを本当のことだと思って嘘とは知らずに言うことであるが、ラテン語における「嘘をつく」という語の意味は(わがフランス語はそれから来たのであるが)、結局己れの良心に逆らうことを言い、従って、「嘘つき」と言えば、今わたしが取り上げているような、自分の知っていることのあべこべを言う人にかぎる、というわけだ。ところでこの「嘘つき」たちだが、かれらは何から何まで全部作り上げることもあれば、何かの真実をいつわったり変えたりすることもある。この変えいつわる場合は、自分ではそれを同じ形の話にしばしば繰り返しているつもりでも、いつの間にか矛盾におちいっている。なぜかといえば、物事はまずそれがあるとおりに、認識や知識の道を通って、記憶の中にはいって来てそこに刻みつけられるのだから、それはもともと堅固な根拠を持たない嘘の事柄を押しのけて、幾たびとなく考えの中に現われて来ないはずはなく、そのつど最初に認識された様々な事情は、心の中に深く浸みこんで、後から加えられた・うその・でっち上げの・部分に関する記憶を消滅させずにはおかないからである。彼らが徹頭徹尾作り上げた事柄においては、彼らの嘘に衝突する反対の印象が一つもないだけに、それだけどじをふむおそれはないように思われる。だがそれにしても、それはとらえどころのない空のことであるから、当人の記憶がよっぽどしっかりしたものでない限りとかく記憶から逃げ去りがちである。(b)そういう例をわたしはたびたび実際に見聞した。だが、笑止千万にも、ただ自分の調停する事件をうまくまとめ、ひたすら相手のお歴々の御意にかなうことばかり考えている口先上手の方が失敗している。まったく、彼らがその信念をも良心をもあえてその奴隷にしよう従わせようとするそれらの事情は、色々な変化をこうむらなければならないから、その都度彼らの言葉も変らなければならないのである。そこで彼らは同じ物事を、時には黒いと言い、時には黄色いと言い、甲に向ってはああ、乙に向ってはこう、と言うことになる。だがふとそれらの甲乙丙丁が、それぞれ聞いたところのまるで食いちがった事柄を持ち寄りでもしたら、一体どうなるか。さしもの口達者も台なしじゃないか。それに、彼ら自らうっかり自縄自縛に陥ることもきわめてしばしばである。まったく、同じ主題について捏ねあげたあれほどさまざまな形態を一つ一つ覚えているには、どれほどの記憶力があったらば足りるであろうか。わたしは当世の多くの人々が、そういう用意周到のすばらしい評判をきいてうらやましがるのを見たが、それはただ評判だけのもので、実際の効果はないものだということを、彼らは知らないのである。
(c)本当に、嘘つきは呪うべき不徳である。我々は言葉によってはじめて人なのである。いや、それによってはじめてお互いに心が通うのである。我々が真にその恐ろしさ、その重大さを知るならば、他の犯罪以上に火刑をもってそれを罰するのが当然であろう。火あぶりの刑はこの嘘つきという罪に対してこそ適用されるべきだろう。人はいつもはなはだ不適当に子供たちの罪のない過失を罰する。何らの痕跡も何らの結果も残さないような無心の行為のために彼らを折檻する。だが、ただ嘘をつくことだけ、それからその少し下位に、強情を張ること、ただそれらだけが、人があくまでその発芽と増長とを阻止しなければならない事柄のように思われる。この二つは彼らの成長とともに増長する。いや、一度舌にこの悪い癖をつけると、それをあらため直すことがどんなにむつかしいかは、想像以上である。それで身はれっきとした紳士でありながら、この悪癖にかかってどうしても脱けきれない者も出てくるのである。わたしの仕立屋はまことに良い男であるが、ついぞ一ぺんも彼が真実を言ったのを聞いたことがない。真実を言う方が彼に有利な時でさえも。
もし真実のように虚偽もただ一つの顔だけしか持たないならば、我々はもうちっと仕合せだろう。我々は嘘つきの言うことの正反対を確かな事と見なすことができようから。ところが真実の裏面は種々様々な顔をしており、そこには無限の広さがある。
ピュタゴラスのともがらは、善を確実で限界があるものとし、悪を限界がなく不確実なるものとしている。千の路が的をはずし、ただ一すじだけが的中するのだ。実際わたしもせっぱつまれば、はっきりした恐ろしい危険を避けるために、ずうずうしい・勿体ぶった・嘘をつかないとも限らない。
或る昔の教父は言った。「言葉の通じない人間とともにいるよりは、見知りごしの犬とともにいる方がましだ」と。


(a)王フランソワ一世は、ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの使臣で雄弁学において非常に有名であったあのフランチェスコ・タヴェルナを、こんな風にしてとっちめてやったと御自慢になった。この者は、ある重大な事件についてその主君の申し開きをするために陛下の許に遣わされたのだが、それは次のような次第である。
王は、自分が前に追い出されたイタリアに、特にミラノ公領に、なお多少の気脈を通じていたかったので、そのミラノ公の側近に、味方の貴族の一人を、ほんとうは使臣としてであるが表面はただの私人として、しかもただその人の私用のためにそこにいるかのようによそおわせて、駐在させようと考えつかれた。なぜなら、ミラノ公はむしろローマ皇帝*の方に深い関係があり、特に皇帝の姪御で現在はロレーヌ公の未亡人となっておられる、あのデンマーク王の御息女と御婚約中でもあったから、我々と少しでも交際があるように見られては大変御都合が悪かったのである。こういう任務には、ミラノの貴族で王の主馬寮に仕えるメルヴェーユが最も適していた。そこでこの者は、数通の秘密な訓令と使臣としての信任状とを与えられた上、更に表面を
* 皇帝というのは、この頃はカルル五世をさす。
[#改ページ]
(a)いまだかつて、すべての人にすべての恵みが与えられしこと、あらざりき。
(ラ・ボエシ)
だから雄弁の天賦においても、或る者が容易と迅速、いわゆる当意即妙の才をうけて、いかなる局に面するも驚かないのに、或る者はのろくさくて、あらかじめ練り考えておいた事でなくては何一つしゃべれないのである。人が婦人がたに向って、それぞれ持前の美しさがどこにあるかに従って遊戯や運動をするようにとすすめているように、わたしもまた以上の二種類の雄弁の得失について勧告をしなければならないとすれば、当今は説教家と代言人とが専ら弁舌を職とするもののようであるから、のろいのは説教家に似つかわしく、早い方は代言人に適するとでも申そうか。なぜなら、説教家は職掌がら準備のために欲するだけの時を費やすことが許されるし、その進行は始めから終りまで邪魔されずに続けられるが、代言人の方は職掌がらしじゅう討論にはいりがちだし、相手方の意外な答弁のために脇道にそれることも多く、そうなれば自らも即座に陣容を立てなおさねばならないからである。
けれども、法王クレメンスとフランソワ王とのマルセーユにおける会見*の際には、まるであべこべの事になった。ポワイエ殿は、一生を代言人席で送った評判の高い人で、法王を
* 一五三三年のこと。フランス王と法王とがスペイン王カルル五世に対して同盟を結ぶための会見である。
(a)どうも一瞬の間に事をしてのけるのは機知が得意とするところ、ゆっくりと落ちついてやるのはむしろ判断のよくするところであるらしい。けれども準備の暇がないと全然言葉が出ない人、それから暇があっても特にうまく言えない人は、いずれも同じ程度に異例に属するものだ。言い伝えによると、セウェルス・カッシウスは不用意な時ほど雄弁であり、勉強のおかげよりも運のおかげを
* これと同じことが、『荘子』「田子方篇」に、宋の名君が「真の画人」を見出した説話を通じて述べられている。
(b)わたしは、自分で自分を把握し処理することが得意でない。偶然の方がその場合わたし自身よりも多くの力をふるう。むしろ機会とか、仲間とか、自分の声の抑揚までが、わたしの精神からより多くのものを引き出す。かえってわたしが自分独りでそれを探りそれを用いる時に見出す以上に。
(a)それで、わたしにあっては、話の方が文章よりもいくらかうまい。いずれにしても大したものではなかろうが、どちらかといえば。
(c)またこんなこともある。つまりわたしは、わたしのさがすところに自分を見出さないこともある。いやわたしはわたしの判断の捜索によってよりも、むしろふとした偶然によって自分を見出すのである。わたしも筆のはずみではいくらかうがった文句を吐いたかもしれない(勿論それは人から見たらつまらない・自分にとってだけ鋭い・言葉にすぎないが、まあそんな謙遜はやめにしよう。誰だって、その力に相応したことしか言えるものではないのだから)。だがわたしはそれをすっかり見失ってしまったから、その時自分が何を言おうとしたのか、今では自分にもわからない。かえって、ときには、ひと様からそれを教えていただく始末である。もしわたしがそういう場所毎に
* 当章の終りの部分は、後出二の十(四九三―五〇七頁)と対比して読むとよい。両方を通じて、モンテーニュの思想の本質根柢が捕捉されよう。
(a)確かに託宣の方は、キリスト出現のずっと前から、すでに世の信用を失い始めていた。現に我々は、キケロがそれがすたれた原因を見出すことに努めているのを見るからである。(c)次の言葉は彼が言ったものである。






(b)なにゆえぞオリュンポスの宰神よ、
さらでだに憂い多き世の人に
前兆によりて未来の苦難までも知らせんとはする?
願わくばおん神の謀 、よきにつけ悪しきにつけ、
突如として我らをば襲えよかし。
人間の英知も運命を読むには暗くあれかし、
恐るる者にもなお一抹の希望を残せよかし。
さらでだに憂い多き世の人に
前兆によりて未来の苦難までも知らせんとはする?
願わくばおん神の
突如として我らをば襲えよかし。
人間の英知も運命を読むには暗くあれかし、
恐るる者にもなお一抹の希望を残せよかし。
(ルカヌス)
(c)


* このあたりは前出一の三の延長線上にあり、最終章三の十三の結論につながる。
賢き神は未来のことを
深い闇もてかくしたまい、
その身に及ばざる遠くまで
憂いを伸ばす人間どもをば
わらいたまえり。
毎日次のごとくに言いうるものは
おのれ自らの主人 となりて、
幸福にその一生を終るべし。
「われは今日を生きたり。ユピテルよ、
明日の日を、雲深く掩い給うとも、はた
麗らかなる日に照し給うとも、いずれにてもよし」
深い闇もてかくしたまい、
その身に及ばざる遠くまで
憂いを伸ばす人間どもをば
わらいたまえり。
毎日次のごとくに言いうるものは
おのれ自らの
幸福にその一生を終るべし。
「われは今日を生きたり。ユピテルよ、
明日の日を、雲深く掩い給うとも、はた
麗らかなる日に照し給うとも、いずれにてもよし」
(ホラティウス)
今日に満ち足りて、明日を憂うる愚をばなすまじ。
(ホラティウス)
(c)反対に次の言葉を信ずる者は、誤った考えを抱いているのだ。


鳥の言葉をききわけ獣の肝を知りながら
おのれ自らの理性をわきまえざる者あり。
人らみな、彼らの言葉をきき流せよかし。
ゆめゆめ彼らを信ずべからず。
おのれ自らの理性をわきまえざる者あり。
人らみな、彼らの言葉をきき流せよかし。
ゆめゆめ彼らを信ずべからず。
(パクウィウス)
あの名だかいトスカナ
(b)わたしは、こんな夢にたよるくらいなら、むしろ
(c)いやほんとうに、いずれの国でも、たいていのことはいつも運の決定に
(b)世間には暦を研究したり註釈したりして、何でもかでもそれに準拠してきめるものがある。あれ程に言ったなら当ることも当らないこともあるに相違ない。(c)


(c)わたしは是非この眼でもって、あの二つの不思議の真偽を見きわめてやりたいものだ。すなわち未来の法王様たちの御名前とお姿とを一つ一つ予言したラ・カラブレの僧ジョアシャンの書の不思議と、ギリシアのすべての皇帝と族長とを予言したレオ皇帝の書の不思議とを。ところがわたしが、この眼でたしかに見きわめることができたのは、乱世においては人々が自分たちの運命の転変にうち驚く結果、すっかり迷信家になって、ますますその不幸の原因と前兆とを天に向って尋ねたがるということだけである。いや、人々がそのお蔭でわたしの若い頃には不思議にもあんなに幸福であったことを思うと、いわばそれは頭の鋭いひまな人たちの娯楽みたいなものなのであるから、ひとたびこの緻密な方術に熟し、これを組み合せたり解いたりすることになれると、どんな書き物の中にでも、その欲するものを何でも見出すことができるのではないか、というふうに思われる。しかし殊に彼らの
(b)ソクラテスのデーモン〔ギリシア語ではダイモン。本来超人的、神的存在であるが、後には人間と神との中間的存在と考えられた。哲学では人間に内在する超人的偉力のこと〕というのは、おそらく彼の理性の勧告を待たないで彼に現われた、一種の意志の衝動であったろう。彼の霊魂のように非常に清められた霊魂、徳と知恵との不断の錬磨によって鍛えられた霊魂においては、この種の傾向も、たとえそれが唐突で練れていなかったにせよ、とにかく服従するに足りる重大な意味のあるものであったことは本当らしい。人は誰でも、それぞれ心のうちに何かそのように立ちさわぐ影のようなものを感じる。(c)それは偶然迅速猛烈に浮かびでる一想念の余響である。だがわたしはむしろこの方にいくらかの権威をみとめ、われわれ人間の知恵の方はあんまり信用しない。(b)わたしもたまにはそういった霊感を持つことがある。(c)その理由は問われれば弱く、そのくせわたしを勧告したり諫止したりする点ではなかなか強いことにおいてソクラテスの場合と同様だが、ただ彼においてはそういうことがよりしばしば起ったのである。(b)わたしもこれに従ってはなはだ得もしたし幸福でもあったから、やはりそれは一種神来の霊感と見てよいのではないかと思う。
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(a)勇敢勇気の掟は、「我々はできる限り、我々にふりかかる不幸災難をかわしてはならない」などと言ってはいないし、「それらが我々を襲うのを恐れてはならない」とも言ってはいない。かえって、不幸を免れる公明な方法はすべて許されているだけでなく、それはほめていいのである。そして勇気の働きは、主として癒す道のない不幸に我慢して堪えるところに発揮されるのである。だから、どう身をひねろうと、どう手にもつ武器を振りまわそうと、我々はそれを悪いとは思わない。もしもそれが凶刃から我々をまもるに役立つものなら。
(c)はなはだ好戦的な幾多の国民は、数々の戦争に際して逃走を利用し、かえって大きな得をした。背中を見せながらかえって正面を見せる以上に敵からおそれられた。
トルコ人の間には今でも多少この方法がのこっている。
いやプラトンの語るところによると、ソクラテスは勇敢を「敵に対して一歩も譲らないこと」だと定義したラケスをわらって、「では数歩を譲って敵を討つのは卑怯だとでもいうのかね」と言った。そしてアエネアスの退却の巧妙さを
スキュティア人についてはこんな話がある。ダレイオスが彼らを討伐に向った時のこと、彼は彼らの王に向って、絶えず戦いを避けて退却ばかりしていることを大いに難詰した。これに対してイダンテュルソスは(これがその王の名であった)こう答えた。「これはあなたを恐れるのでも生きとし生ける誰を恐れるのでもない。むしろこれがわが国の戦法なので、我々には守るべき耕地もなければ都市も家もないからである。敵にとられて困るようなものは何一つないからである。あなたがそんなに喧嘩をしたいのなら、試しに我々の祖先の墓地に近づいて見られよ。はばかりながら御相手を致すであろう」と。
(a)けれども砲戦の場合に敵に銃先をむけられてから、戦争ではしばしばそういうことが起るが、弾丸にあたるのをこわがってそわそわするのは見苦しい。それは激烈迅速なものでとうてい避けられるものではないからだ。ところが手を挙げたり首を縮めたりして、いたずらに戦友の物笑いのたねとなった者が実に沢山ある。
それはともあれ、カルル五世がプロヴァンスの我々に向って進軍して来た時のこと、グヮスト侯がアルルの城の偵察に出かけ、始めそれに身をかくして近寄って行った風車小屋の蔭からひょいと飛び出すと、忽ちに闘技場の上を散歩していたボンヌヴァル殿や法官アジュノワに見付けられてしまった。人々はそれっと、砲兵司令ヴィリエ殿に告げたので、彼はぴたりと長銃のねらいをつけた。もしこの時に、侯が発火を見ると同時に横っ飛びにとばなかったら、胴体のまんまん中を射ぬかれたにちがいなかった。それからまた同様に、数年前のこと、わが王のおん母カトリーヌ大妃には父上にあたらせられるウルバノ公ロレンツォ・デ・メディチは、いわゆる司祭領の内にあるイタリアの要塞モンドルフォを囲まれたが、御自分の方にむけられた砲門に火が
(b)わたしは、もしも思いもかけぬ場所で不意に火縄銃の爆音に耳をうたれるならば、びっくりして飛び上らずにはいられまい。これは、見るところ、わたしなどよりもずっと豪胆な人たちにおいてさえおこることなのである。
(c)ストア派の人たちも、彼らの賢者の霊魂が、ふと彼らの前に現われるどんな幻影妄想にも対抗しうるようにとは要求しない。むしろ、持って生れた癖に従うのと同じように、雷電の響や建物の崩れ落ちる音には降参して、青くなっても縮み上ってもよいとしている。そればかりでなくもろもろの感情に動かされてもよいとしている。ただその人の判断がつつがなく完全に保たれており、その理性の状態がそのために侵されたり変えられたりしていなければ、そしてその人が自分の恐怖と苦痛とに少しも同意しなければ、それでいいとする。賢者でない人々も第一段においては全然同じことで、ただ第二段に至って全然ちがって来るのだ。まったく凡人においては、もろもろの感情の印象が表面にとどまらず、深くその理性の座にまで侵入し、これを
彼の涙は流るるも、その心は折れず。
(ウェルギリウス)
逍遙学派の賢者も心の動揺は免れてはいないが、これをおさえている。
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(a)いくらつまらない問題でも、まったくこの雑録の中に席を占めるに足りないということはあるまい。われわれの普通の規則から言っても、訪問の知らせを受けていながら家で待っていないのは、目上に対してはもちろん同輩に対してさえ明らかに失礼であろう。ナヴァールの女王マルグリットも、こう言いそえておられるくらいだ。「来られるお方がとんなに偉いお方であろうと、これをお迎えするために、よく見られるところではあるけれど、主人がお迎えに出るということは、礼儀しらずである。むしろ家にいてお客様を待つ方が、行き違うまいとの心遣いからだけでも、ずっと丁寧である。ただそのお立ちの時にお送り申上げれば十分である」と。
(b)わたしはといえば、こうしたつまらぬお勤めは、しばしば両方とも忘れてしまう。うちでは礼儀というやつは一切おやめにしているもんだから。人によっては気をわるくなさるが、いたし方がない。一ぺんだけ人の機嫌を
(a)身分の低い者ほど先に定めの場所に参集せよというのが、どんな集りの場合にも共通した規則である。待たせることはおえら方の特権なのだから。けれども、法王クレメンスと仏王フランソワとの間のマルセーユにおける御会見の際には、王は万端の用意をお命じになってからしばらく当市をお離れになり、法王が到着後二、三日の休養をとってから御前に伺候できるようにとりはからわれた。同様に、法王とカルル皇帝とがボローニアに御入城の際にも、皇帝は法王が先に到着するようとりはからわれ、御自分はおくれてお出でになった。人々の言うところによると、こういう王様同士の会見においては、身分の高いお方の方が先に定めの場所にゆくこと、つまりその会見が行われる国の王様よりも先にそこにつくことが、普通の礼儀だそうだが、人々はそれをこんな風に解釈している。すなわちこういう形式によって、位の低い者の方から位の高い者のところに出かけてゆき、そのお目どおりを願うのが当り前で、えらい人の方から出てゆくべきではないというのである。
(c)それぞれの国ばかりではなく、それぞれの都市が、いや、それぞれの職業が、みな特有の礼儀をもっている。わたしは子供の時代からそれに対してかなりやかましくしつけられ、かなり礼儀正しい人たちの中に暮して来たから、わがフランスの礼法を知らないではない。いや、その先生だってできるくらいだ。わたしはそれに従うことが好きだけれど、余りにそれにしばられて自分の生活を窮屈にするのはごめんだ。中には苦しい作法が幾らもある。そんなのは誤って忘れるのでなく分別して忘れるのであれば、ちっとも失礼にはならない。わたしは、余りに礼儀正しくてかえって礼を失する者、ご丁寧すぎてうるさい者に、あったことがしばしばある*。
要するに礼儀作法は、はなはだ有用な修業である。それは愛嬌や美貌と同様に、やがて我々を親しい交際へと導く最初の案内者である。従ってそれは、我々が他人を模範として自己を教育する道を開いてくれるし、また我々の方に何か他人が学んでためになるようなものがある場合には、それがその人の役にたつように手伝ってくれる**。
* モンテーニュの少年時代の教育の根本になったのはエラスムスの『プエリス』とそれに続く『少年作法規範』であったが、父ピエールは、礼法よりもモラルの方を重んじたので、ミシェルが礼儀作法を学んだのは、一五五〇―五四年、パリ遊学時代、特にジャン・ド・モレルのサロンにおいてであろう。おしゃれやエレガンスと共にそこで学んだのであろう。いずれにせよ、モンテーニュは形式より精神を重んじている。
** この章も決してつまらぬ章とはいえない。交際を永続させるには相互の礼譲がなくてはならぬし、無作法がすぎれば喧嘩別れをもたらす。モンテーニュはこういう人心の機微をわきまえている。
この章は、第一巻第二十章などと同様に一五七二年ごろに書かれたモンテーニュ初期の随想で、哲学的ストア的随想と呼ばれるものの一つである。引用や借用の語句実例が多く、やがて個性を豊かにたたえる後年のエッセーにくらべるとすこぶる書籍的で、のちに彼自らをして「外国(人)のにおいがする」(三の五)と言わしめたものの一つであるが、そのかわり、この頃のモンテーニュの哲学的態度、換言すれば理性や緊張した意志の力を信頼し、人生のもろもろの出来事、苦痛や死などを克服するために、たえず思索し瞑想している彼の姿を、よくあらわしている。だがこのストア主義は深刻なものではなく、相当茫漠としているし、加筆(b)の部分には、彼みずからの経験がながながと述べられているし、更に加筆(c)においては、本章の主意をまったく否定してはいないが、もはや意志の緊張や困難な徳に訴えるよりも良識の指示するところに従って、自然の命令におとなしく服従しようという、自然哲学が述べられる。しかもそれは初期の態度の鮮明なテキストとはなはだしい矛盾を示さないように、控え目に述べられている。この死ならびに苦痛に対する後年の心境は、やがて「気分の転換について」(三の四)や「人相について」(三の十二)の章において、いよいよ力強く言い現わされる。富裕に関する考察にいたっては、これこそほかからの借りものではなくて彼自らの経験がもとになっているだけに、本章のなかで最も興味が深い部分であろう。しかしこの恬淡 ぶりは決して彼生来のものではなく、やはり後得のものであろう。「旅日記」を見てもモンテーニュは案外金銭に関して几帳面である。これらの点については拙著『モンテーニュとその時代』第四部第五部や白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」のところどころを参照せられたい。
(a)人間は(古代ギリシアの格言が言っているとおり)、物事それ自体によってではなく、彼らがこれに関していだいているところの考えによって苦しめられている。もしこの説をどんな場合にも真実であると証明することができるならば、それは我々人間本来の悲惨な境遇を慰める上で立派な根拠となるだろう。まったく、もし不幸がただ我々の判断をとおして始めて我々の中に入って来るのだとすれば、それを無視することも幸いに転ずることも我々の思いのままになるはずだと思う。もし物事が我々の思いのままになるのならば、どうして我々はそれらを支配しないのか。どうして我々のとくになるようにそれらを
もし我々が恐れるそれらの事柄の根源であるその本質が、それ自体の権威をもって我々の中に宿るというのなら、それはすべての人において同様な形で宿るだろう。まったく、人間はすべて一つの種に属しており、多少の差こそあれ、思惟し判断するために同じ道具器官を持っているのである。しかるに我々のそれらの物事に対していだく考えがまちまちであるということは、明らかに、それらが我々の同意をえて始めて我々の中に入って来るのだということを示している。或る人はおそらく、それらをその真の本質のままに自分の内に宿すであろう。けれども他の幾千の人たちは、それらに実際とはちがった・あべこべの・本質を与えている。
我々は死と貧と苦とを、我々のおもな相手・かたき・と思っている。
ところで、或る人たちが「恐ろしいものの中で最も恐ろしいもの」と呼んでいるこの死を、他の人たちが「この世の苦労を免れる唯一の港だ」とか、「自然の至上善だ」とか、「我々の自由の唯一のささえだ」とか、「あらゆる不幸に対し誰にもたちまちにきく薬方だ」とか呼んでいるのを、知らない者はないじゃないか。いや、一方がおののき恐れつつこれを待つかと思えば、もう一方は生よりもやすやすとこれに堪えているのだ。
(b)これなる人は、
死よ。ゆめ臆病者よりその生をうばうなかれ。
死はただ徳高き者への賜物でのみあれかし。
死はただ徳高き者への賜物でのみあれかし。
(ルカヌス)
と、死が誰に向っても優しいことを嘆いている。
(c)ところで次のような輝かしい勇気はしばらくおこう。例えば、テオドロスが自分を殺そうと脅かしたリュシマコスに向って、「
(a)庶民の間にも、死の前につれてゆかれて、しかもただの死ではなく時には恥とつらい責苦さえもまじっている死の前につれ出されて、あるいは強情我慢により、あるいは天性の単純さによって、まことに泰然自若、少しも平生の有様を変えなかった者どもがたくさんいる! 彼らは、家事を始末し、あとの事を友に委ね、歌をうたい、説教をし、群衆に向って話しかけ、いや時には冗談をさえそれに交え、あるいは知人のために乾杯するなど、ソクラテスにもなかなか劣りはしなかった。或る男は首吊り場に引かれてゆく道々、「これこれの町は通らないでくれ。そこには古い借りがあるから、商人に首根っこを押えられる危険がある」と言った。もう一人の奴は首斬役人に向って、「どうか俺の
(c)ナルシンガ王国では、今でも僧侶の妻は、その死んだ夫と共に生き埋めにされる。その他の女たちは、夫の葬礼に際して、生きながら焼かれる。いずれもこわがることなく、むしろうれしそうに。それから、御他界になった王様のお体が焼かれる時には、その妻妾寵童から官人使丁の末にいたるまで、すべて、上下こぞって、いかにも喜ばしげにその身を同じ火中に投じ、その君に殉ずる。あたかも主君の死の道づれになるのを光栄とでも考えているかのように。
(a)それから道化という心卑しいともがらの間にも、そのおどけを死に臨んでさえ捨てようとしなかった者がある。執行人からいよいよ踏台をはらわれようとしたその男は、十八番の「あとは野となれ山となれ!」を絶叫した。またもう一人は、いよいよ臨終という時、煖炉の前の藁床の上にねかされていたが、「どこがお苦しいか」と医者がたずねると、「椅子と煖炉との間が苦しゅうござる」と答えた。また坊さんが最後の抹油を施そうと、病気のために曲げちぢこめた彼の足をさぐると、「それは
先頃の我々のミラノの戦いでは、あまりにも奪取と奪還が繰り返されたので、人民はそのような運命の転変のあわただしさに堪えきれず、深く決死の覚悟をかためた。わたしが父から聞いたところによると、一週間に自分からその身を殺した家長たちが、ゆうに二十五人を数えたほどであったという。これにつけて思い出されるのは、クサントスの町に起った出来事である。ブルートゥスに攻囲されたこの町の人々は、男も女も、また子供たちも、こぞって狂ったように死を願った。彼らは我々が死を避けようと努めるのと同じいきおいで生を避けようと努めたので、まったく手の施しようがなく、ブルートゥスも、そのごく少数を救いえたにすぎなかった。
(c)どんな思想もたやすくこれをまげることはできない。人は命にかけてそれをまもる。ペルシア戦争の時にギリシアが誓いかつ守った、あの堂々たる誓約の第一箇条は、「我々の法をペルシアの法にかえるくらいならば、むしろ生を死にかえよう」ということだった。いかに多くの人々が、あのギリシアとトルコとの戦いの時、割礼をうけて邪教に従うことを拒み、いかに苛酷な死を甘受したか。だがこのくらいのことはどんな宗教も平気でやってのける事柄である。
カスティリャの王たちがユダヤ人をその領土から放逐するや、ポルトガル王ジョアンは一人あて八エキュで彼らが自分の領内に避難することをゆるした。「約束の日が来たらすぐに退去すること」という条件で。だがその代り王の方でも、その時は彼らのためにアフリカ行の船を仕立ててやる約束をした。その日が来た。「その日がすぎても命令に従わないものは永く奴隷とする」とは、かねて布告されていたことであったが、彼らに提供された船の数はごく少なかった。しかもこれに乗り込むことができたものも、船子どものために散々に虐待された。彼らはいろいろな侮辱を加えられたばかりか、海の上を前に後にと散々に漕ぎまわされたために、しまいにはもって来た食料もたべつくし、高い金で、長いこと、船子どもから食料を買わねばならないというわけで、やっと岸におろされた時は、何れも皆シャツ一枚というひどい有様だった。やがてこういう顛末が風のたよりにとりのこされた人たちに伝わると、その大部分は奴隷に落ちる決心をした。或る者どもは改宗をした風を装った。やがてエマヌエルが王位につくと、始めは彼らを解放したが、後にその考えを変え、特に彼らの渡航のために三つの港を指定し、或る期間内に国外に退去するよう布告した。つまりこの王は(と現代における最も優れたローマ史の専門家オゾリオ司教が言っている)、始め彼らに自由をゆるしてやったにもかかわらず、結局彼らをキリスト教に改宗させることができなかったので、今はただ、さきの同胞と同様に船子どもの掠奪に身を委せるつらさや、今まで大きな富をいだいて住みなれた土地を去って見も知らぬ異郷におもむかねばならぬつらさを思いしらせて、何とか彼らを改宗させようと、望んだのであった。ところがこの希望は見ごとにはずれ、彼らがみな渡航の決心をしたのを見ると、王は始めに約束した三つの港の中の二つを閉鎖した。そうすれば、渡航の永びくことやこれに伴ういろいろな不便を考えて、少なくとも彼らの幾人かはその決心を飜すであろう、いやむしろ、こうして彼らをすべて一カ所にまとめておけば、予定の事柄を実行するのにもすこぶる便利であろう、と考えたからである。その予定というのはほかでもない。王は、十四歳未満の幼な子を父母の手から奪い、親たちの眼も言葉も届かないところに連れてゆき、そこで我々の宗教を教え込んでやろうと思ったのであった。伝えられるところによると、その結果は恐ろしい光景となって現われたそうである。親子の間の自然の情愛や、旧来の信仰に対する熱情が、この乱暴な命令に抵抗したからだ。いたるところに、われとわが命を絶つ父と母とを見た。いや、もっと恐ろしかったのは、わが子可愛さいとしさの余りにこれを井戸に投げ入れ、そうやってまで命令を免れさせたことである。でも、あらかじめ約束された期限がきれると、やはり彼らはやむなくもとの奴隷にかえった。或る者はとうとうキリスト教徒になることはなったが、これらの人たちの・いや彼らユダヤ人の・信仰を、それから百年もたった今日といえども、心から本気にするポルトガル人はほとんどないのである。長い月日と習慣とは他のいかなる強制にもまして力ある勧告者であるとはいえ。キケロは言った。


* ユダヤ人の信仰うすきを責めているのではない。人は他人の信仰をかえようとして強請しても無駄であるというのである。自分の信仰だけを守っていればよい、というのが、このパラグラフの真意である。モンテーニュは、ルーテル派、カルヴァン派の折伏精神を非とし、自分はあくまでカトリックだと言いたいのである。
(a)我々の時代にも、人々が、いやこどもさえもが、ごくささいな不快を苦にして自殺した例はいくらもある。古人はこれについて、こう言っている。「卑怯者がその隠れ家として選んだものまでこわがるなら、われわれにとってこわくないものは一つもあるまい」と。こんにちよりも人々がもっと幸福だった時代に、平然として死んだとか死を待ったとか、または、ただこの世の苦しみを免れたいためばかりでなく、或いは単に生きるのに飽きあきしたとか、或いはより良い境遇をよそに得ようとか望んで、自ら進んで死を求めたとかいうような、貴賤男女あらゆる宗派の人々の名前を、ここによみ上げるような愚をわたしは決してしないだろう。まったく、そういう人たちは数限りないのだから、死を恐れた者を数え上げる方がずっと気がきいていよう。
ただ一つだけ申すことにしよう。哲人ピュロンは、或る大嵐の日にたまたま舟に乗り合せたが、自分の周囲で最も恐れ騒いでいる人々に向って、同じく船の中にあって少しもこの暴風雨に気をとられていない一頭の豚を指し示して、人々をはげました。ということは結局、こう我々は言わねばならないことになるのではあるまいか。すなわち「我々があんなに珍重するところの・そして我々が万物の霊長たるゆえんのものとして有難がるところの・その理性という特権は、
* モンテーニュは、ここではまだピュロン説を支持していない。むしろそれを疑っている。彼はこのとき、なお純然たるストア学者であって、哲学が死を蔑視する上に有効であることを確信している。次のパラグラフはこのストア主義に対するピュロン説の反駁である。
* 「汝モンテーニュのストア学説」の意味である。「哲学は死を克服する」という説を指している。
** 以上のようにモンテーニュはピュロン説者の言いそうな抗議を仮想して、次に自らの考えをのべる。
もしここに感覚が頼むに足らずとせば、
全理性もまたむなしからん。
全理性もまたむなしからん。
(ルクレティウス)
我々は我々の皮膚に、鞭の打撃をくすぐったいと思わせることができるか。我々の味覚に
それは過ぎたるか、或いは将 に来らんとするもの。
その内には現在的なる何ものもなし。
その内には現在的なる何ものもなし。
(ラ・ボエシ)
死そのものは死の待望ほどに苦しからず。
(オウィディウス)
百千の動物、百千の人間は、あなやと思う間もなく死んでしまう。いやまったく、我々が死において、もっぱら恐ろしいと言っているのは、いつもその前ぶれをする苦痛なのだ。
(c)だがある教父の言ったことが本当だとすれば、


* 「死を恐れるのは、これに伴う苦痛のせいだ」「死がこわいのではなくて苦痛がいやなのだ」という弁解は嘘であり口実にすぎぬ。
(a)例えば貧乏にしても、ただそれが飢えや渇きや暑さや寒さや不眠などによって我々を苦痛の腕のうちに投ずればこそ恐れられるので、その他には、何もこわいところはないのである。
そこで、ただ苦痛だけを問題にしよう。わたしもまた、それが人生最悪の不幸であるとすることに賛成する。喜んで賛成する。まったくわたしは、今までのところは、有難いことに、あまり苦痛とは御縁がなくているけれども、それを最も忌み嫌い、それを最も避けたがる男なのである。だが、我々は、これを絶滅することはできなくても、これを忍耐によって軽減することができる。肉体はこれによってかき乱されても、霊魂と理性とは良い状態のうちに保つことができる。
いや、そうでなかったら、誰が我々の間で、徳や勇気や我慢や太っ腹や覚悟を、重んじたであろうか。もし




徳はこれを行うに難ければ益々楽し。
(ルカヌス)
それに次のことは我々を慰めるにちがいない。すなわち、本来苦痛は、激しければ短く長ければ軽いのだ。(c)




(a)我々が苦痛をそのように堪えがたく思うのは、我々が我々のおもなる満足を霊魂のうちに求めるのに慣れていないからである。(c)霊魂に十分に頼らないからである。霊魂こそ、我々の境遇や行為の唯一至上の主人であるのに。肉体は、程度の差こそあれ、一つの歩み方、一つのありようしか持たない。霊魂の方はいろいろな形にかわり得る。そして自分に、それがどんなものにしろ、とにかく自分の支配に、肉体の感覚やその他外界の出来事を従わせる。だから、まず霊魂を研究し調査し、そこにその全能な弾力をよびさまさなければならない。理屈も命令も暴力も、霊魂の傾向選択には、とうてい抵抗しえないのである。霊魂が思いのままになしうるところの幾千のあり方の中から、我々の安静と存続とに最も適する一つをそれに許すならば、我々はたちどころにあらゆる危害からまもられるばかりでなく、ときには危害や災難からも愛撫されたりへつらわれたりする。
霊魂はどんなものをも無差別に利用する。まちがった思想も夢のような考えも、彼にはりっぱに役に立つ。いずれも、我々をまもり我々を満足させる忠実な素材となるのである。
我々の苦楽を鋭くするのは我々の精神の鋭利さであるということは見やすいことだ。畜類は、その精神を鼻輪の下につながせておき、その自由自然な諸感覚の方は肉体に委せきっている。したがって、それらの感覚はどの獣においてもほとんど一様である。それは同じような彼らの動作によってもわかる。もし我々も我々の諸器官において、当然それらに属している権能を妨害しないならば、我々はもっと幸福であろうと信ぜられるし、自然はそれらの器官に、快楽に対しても苦痛に対してもそれぞれ最も中正な度合いを与えたとも信ぜられる。いや、自然は中正ならざるを得ないのである。それは平等一般なのであるから。けれども我々はすでにこの自然の掟をふり切って、我儘勝手な我々の空想に身をまかせてしまっているのだから、せめてそうした空想を最も愉快な方向に向けるように努めようではないか。
プラトンは我々が苦痛と快楽とに余りにとらわれすぎていることを心配している。それではあまりにも霊魂を肉体に縛りつけることになると言うのである。だがわたしはむしろ反対だ。両方をひき離すことこそ心配なのである。
(a)ちょうど敵が我々の逃げるのを見るとますますたけり立つように、苦痛もまた我々がその前に震えるのを見るといよいよ威張る。苦痛は、それに抵抗する者の前には、案外やさしい条件で降伏するであろう。是非ともそれに対して対抗し威張らなければならない。
(a)だが実例に移ろう。この方が、わたしのように脚の弱い人間が追いかけるのにふさわしい獲物*である。そうした実例を見れば、我々にも、苦痛はちょうどそのはめられる台のいかんによって光ったり光らなかったりする宝石みたいなものであるということや、それはわれわれがこれに与えるだけの場所しか取らないものだということが、わかるであろう。


* 獲物というと獲たものという風に日本語の慣用は解釈させるが、フランス語の慣用では狩猟の目的物という意味にとられる。すなわちここでは、「虎や猪などのような大物」でなく、「自分のような弱虫の手にもおえる獲物、せいぜい兎か鴨ぐらいのもの」を想像させる。推理論証はむつかしくて手におえないから、自分は哲学者ではないのだから、これから実例をならべようというのである。


(a)人はみなあのスカエウォラの物語を知っている。彼は、敵の大将を殺そうと思ってその陣屋に忍び込んだが、惜しくもこれを討ちもらしたので、もっと変った


* 以上二つの話は何れもセネカの「書簡」にあるのだが、二人の哲学者の名前は出ていない。
(b)その白髪を抜き、その皮を剥がせて、
みめ美わしからんと憂身 をやつす女あり。
みめ美わしからんと
(ティブルス)
(a)わたしは、砂や灰を飲み、ほどよく胃を害することにつとめ、わざと青白い顔色になろうとするものを見たことがある。すっかりスペイン風の姿になるためには、大きな
(c)わざとおのれの身に傷をつけて自分の言葉に偽りのないことを信じさせるのは、現代の多くの国民の間で至極普通なことである。我々の王〔アンリ三世〕は、その著しい実例をいくつか物語っていられる。かつてポーランドにおいて、彼おん自らのためにそのようなことが行われたのを御覧になったのであるから。けれどもわたしは、それがフランスでもたれかれに真似されたのを知っているばかりでなく、一人の少女*が、その熱烈な約束とその変らぬ心の証しとして、髪にさしていたピンを引き抜き、これをしっかりと、五度も六度も、その腕に突きさし、そのためにほんとうに皮膚がやぶれて血潮のほとばしるのを見たことがある。トルコ人はその女のために、わが身に大きな
* 一五九五年版には「ピカルディの一少女」となっている。そうすると、これはグルネ嬢のことではないかと推測される。拙著『モンテーニュとその時代』第七部第四章五九一頁参照。
* ジョアンヴィル。『聖ルイ伝』の著者。
** ギュイエンヌ州、すなわち旧アキタニア。
*** 信心のためならまだわかる。信心の刺激は貪欲のそれよりも一層つよいものだから。ただ、金ほしさにこれ程の苦痛をしのぶということは、モンテーニュをほとほと感心させたのである。前出の女たちが美のために歯を抜かせたりする話と同様に。なお白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」の中にこの種の苦行者の行列を見た記事がある。「旅日記」索引「苦行会員」の項参照。


* トランス侯ガストン・ド・フォワがその三人の息子ギュルソン伯、フレ伯、トランス殿をモンクラボの戦闘で一時に失ったことを、モンテーニュはその「家事録」に、一五八七年七月二十六日の日付で記載している。
** この告白がもとで、モンテーニュは子供に対して冷淡であったと非難されるが、そのすぐ後に、「これくらい深く人の心をつくものはない」と言っていることを読みおとすことはできない。
*** この句はモンテーニュ夫妻の間柄について或る種の想像をゆるす。年表一五六九年の項参照。また『モンテーニュとその時代』第四部第二章参照。
(c)執政のカトーがスペインの或る都市の治安を確保しようとして、住民たちに武器を帯びることを禁じたところ、ただそれだけのために大勢のものが自殺した。それは


* 細君に不行跡をされて知らずにいる二本棒の亭主のことをコキュという。ここでは、わざと細君を囮 にして間男から金をまきあげる亭主のことを言っている。
いや、誰かがタレスに向って「なぜ結婚しないのか」と聞いたとき、彼は「子孫をのこすことを好まないから」と答えている。
我々の考え方が物事に価値をつけるのだということは、われわれが多くの場合それらのものそれ自体を評価しようとして見るのではなく、むしろそれらを我々との関係において見ようとしていることによってわかる。いや我々は、それらの性質をも効用をも考えてはいない。ただそれらを得るためにはどれ程の犠牲費用を要するかということばかり考えている。あたかもそれがそれらの物の本質の一部ででもあるかのように。そしてそれらの物において、それらが我々にもたらすものではなしに、かえって我々がそれに投ずるところのものを、価値と呼んでいる。そこでわたしは、我々が出費にかけて甚だけちであるわけを理解する。出費はそれが辛ければつらい程、役に立たねばならぬと思っている。我々の考えは、決してその出費がそれだけの役に立たずに終ることを黙ってはいない。買値が金剛石に折紙をつける。困難が徳行に、苦行が信心に、苦さが薬に、値うちをつける。
(b)誰かが清貧になろうと思ってお金を海に投げ入れる。かと思うとたくさんの人々がその同じ海を、その中からお宝を釣りあげようとかきまわしている。エピクロスは言っている。「富むということは重荷をおろすことではなくて、それを取りかえることである」と。真実、
わたしは、少年時代を終えてから、三とおりの境遇のうちに生きて来た。第一期はほぼ二十年ばかり続いたが、わたしはその間を、元手といえば不時の収入の外にはなく、ひたすら他人の指導と援助とに頼って過した。きちんとした勘定もしなければ予算も立てなかった。すべてを運命のなすがままにまかせていたから、わたしはそれだけ愉快に、それだけ心配せずにお金を使った。その頃くらいよい時代はなかった。友人たちの財布の紐が締まるのを見るようなことは、一度もなかった。わたしは他のどんな義務よりも、返済の時をたがえない義務をきびしく自分に課していたからだ。皆はその期日を幾度となく延ばしてくれた。わたしが一所懸命に彼らを満足させようと努めていることがわかるからだった。つまりわたしは、ちびちびと、いわばけち臭く、どうやら義務を果したというわけである。わたしは生れつき支払うことにいくらかの快味を感ずる。ちょうど自分の肩からいやな重荷をおろすような・また奴隷の衣を脱ぐような・気がするからである。いや、正しいことをして人を満足させるというところに、わたしの心をくすぐる若干の満足があるからである。だが、値切ったり駈け引きをしたりしなければならないような支払いだけは別である。まったく、そういう役目を任せる人が見つからないと、恥ずかしいこと、ふとどきなことだが、わたしはそれをできるだけ延ばすことにしているのである。わたしの性格といい弁舌といい、全然相容れないあのいがみ合いがいやだからだ。およそ値切ることくらいわたしのきらいなことはない。それは純然たるぺてんと厚かましさとの取引である。一時間にわたる口論とかけひきとの末に、双方ともが、ただの五銭の修正で、約束をも誓言をもすてて顧みない。それでわたしは、借金をしてはいつも損ばかりしていた。まったく、面と向って要求する勇気がないので、わたしはいつも運を手紙に委せていたが、この手紙というやつは、大して骨を折ってはくれない。いやかえって相手の拒絶に手を貸すのである。わたしは借金のやり繰りを、あげて天の星にお委せしていた。この頃の方が後にこれを自分の用心と分別とに委せた頃よりずっと愉快で、ずっと自由だった。
世帯持ちの上手な人たちの大多数は、このような不確かな状態で暮すことをとんでもない事と考えている。そして第一に、世間の大部分の人たちがそんな風に暮しているとは知らないでいる。だが、いかに多くの名門の人たちが、その確実なものを何もかも放棄してかえりみずにいることか。いや毎日、彼らはそうやって、王様がたや・運命の・ひいきの風むきを追っかけているではないか。カエサルはその財産をすりへらした上さらに万金の負債をした。カエサルになりたいために。また、いかに多くの商人どもが、その商法の手始めに、親代々の田畑を売りとばして、はるばるその金をインドまで捨てに行ったか。
逆巻く波をおかして!
(カトゥルス)
当今のような信心ひでりの時代にも、なお我々の間には何千という学寮があり、多くの人たちが、そこで食べるのに必要なものをただ毎日天の恵みにまちつつ、愉快な生活を営んでいる。第二に彼ら〔世帯持ちの上手な人たち〕は、自分たちが土台にしているその確実が、偶然そのものにも劣らぬほど不確実で偶然なものであることを、さとらずにいる。わたしは貧窮を、年収二千エキュの彼方にも、あたかもそれがわたしの真向いにあるのと同じように、ちかぢかと見る。まったくわたしは、運命がどのように我々の富裕を通じて貧乏への通り路をあけるかを、知っているからである。(c)巨富と赤貧との間にはしばしば何らの中間状態がないからである。
富はガラスの器のごとし。よく輝きまたよく破損す。
(プブリウス・シルス)
(b)またそれが我々のあらゆる防禦と堤防とをひっくり返すだけの力を持っていることばかりでなく、窮乏がいろいろな理由によって、財産のある者の許にも少しもそれのない者の許にも、同じように始終宿っていることを、知っているからである。いや、多分窮乏は、それがただひとりある時の方が、それが富裕と共にあるときよりも、かえって堪えやすいものだということもわたしは知っているのである。(c)富裕は収入からよりも整頓から来る。




最もえらい最も富んだ王侯たちも、貧乏したとなるとたいていは極度の窮迫におちいる。まったく、貧乏がもとで暴君となり、その臣下の財産の不当な簒奪者になることくらい、きわまれる窮迫はなかろうじゃないか。
(b)わたしの第二の暮し方は、お金をためることであった。わたしはこの事に専念して、やがてわたしの身分としては相当な貯蓄をした。わたしは日常の費用から余しえたお金以外に財産があろうとは思わなかったし、いかにそれが分明なものでも、まだ希望されるだけで本当に手の中に入らないお金なんか、当てになるとは考えなかったからである。まったく、よくわたしは言ったものだ。「もしやこれこれの災難に出あったらどうなることであろう」と。そして、さんざんそういうつまらない取越苦労をしたあげく、今申したような僅かの
(c)こうしたわけから、しぜん、富裕な都市の大門や城壁の護衛にあたるのは、最もお金にゆたかな人たちということになる。お金持というものは、わたしから考えると、だれもみなけちん坊である。
プラトンは、肉体的ないし人間的幸福を、「健やかさ、美しさ、力、富」という風に分類した。そして、「富は、知恵の光に照らされると、盲目どころか千里眼である」と言っている。
(b)小ディオニュシオスは、これに関して味なことをやった。彼は或る人から、彼に仕えるスュラクサイ人の一人が地中にお宝を埋めたことをきくと、その男に、早速それを持って来るように命じた。男は一応命に従ったが、そっとその一部分を隠しておき、やがてそれを持って他市に走った。ところがそこでは、それまでのお金をためる欲望をなくしてしまい、ずっとゆとりのある暮し方を始めた。それを聞くとディオニュシオスは、さきに召しあげたお宝を返してやり、「やっとお前にもお金の使い方がわかったようだから、喜んでこれを返してつかわす」と言った。
わたしもそんな状態で数年を過した。が、なんというよい守神か知らないが、有難いことにも、わたしをちょうどそのスュラクサイ人のように、そういう状態から外に投げ出してくれた。そして、わたしにそれまでの貯蓄をそっくり投げ出させた。或る大がかりの旅の面白さがそれまでの愚かな考え方をけっとばしたのだ。そこでわたしは、ふたたび(わたしは感じたままに言うが)、確かにそれまでよりはずっと愉快で・ずっと整った・第三の生活状態に立ちかえった。つまり支出も収入も共に自然にまかせるようになったのである。出費が先になることもあれば、入金の方が先になることもある。が、その一方だけということはほとんどない。今、わたしはまったくその日暮しで、目の前の・毎日の・入り用をみたすだけのものがあればそれで満足している。だって、非常の場合を考えたら、世界中の金を積んだところで、まだ足りないだろう。(c)いや、「運命が、そのうち、十分にかれ〔運命〕に敵対する武器を我々に提供してくれるだろう」などと期待するのは馬鹿げている。我々の武器をもってこそ運命を倒さなければならないのだ。偶然がかしてくれるような武器はどたん場で我々を裏切るだろう。(b)わたしが金を積むのは、ただそのうち何かにそれを使ってやろうと思えばこそである。土地なんかを買うためではない。(c)そんなものにわたしは用はない。(b)むしろ愉快を買いたいからである。(c)




(c)フェラウラスは貧富両様の運命を経過する間に、財宝が増加したからといって、飲んだり食ったり眠ったりその妻を抱いたりする欲望が増加するわけではないことを知り、また一方、わたしとおなじように理財の
いや、わたしの知っている或る年老いた司教の境涯をこそ、わたしは大いにほめたい。彼はきわめて奇麗さっぱりと、その財布を、その収入をも支出をも、召使のあるいは甲にあるいは乙にとあずけてしまわれたので、ご自分は全く御客様のように、世帯向の苦労は少しも知らないで、いとも静かに、ながくながく余生を保たれたのである。他人の善意を信ずるということは、その人自らの善意をあかしする小さくない証拠である。だから、神様は喜んでそういうことをお助け下さる。実際、彼の場合にしても、わたしは彼の家ほど立派にまた常に変りなく整頓されている家を見たことがない。自分の欲求をそういう正しい程度に整えているために、自らは心配もせず窮屈な思いもしないで、しかも何の不如意も感じない人、財産が集まろうと散ろうと少しも気にならず、そんなことよりもずっとふさわしい・静かな・しかも自分の心にかなった・別の業に打ちこんでいられる人こそ、何とも幸福ではないか。
(b)だから、富裕と窮乏とは、各自の考え方次第なのだ。そして富だって、栄光や健康と等しく、それを所持する者がそれに貸すだけの美と愉快とを持つにすぎないのである。(c)各人は、それぞれの考え方次第で、幸福でもあり不幸でもある。人が見て幸福だとおもう人ではなしに、自分で本当に幸福だと思う者こそ、満足しているのだ。いやここでは、ただそう思う心だけがその本質と真実とを与えられるのだ。
運命は我々を幸福にも不幸にもしない。ただその材料と種子とを我々に提供するだけである。それらを、それらよりも強力な我々の霊魂が、自分のすきなように、こねかえすのである。これが我々の霊魂の状態を幸福にしたり不幸にしたりする・唯一の・おもな・原因なのである。
(b)外からつけ加えた物は、内部組織の色と味とを帯びる。それは、着物がそれ自体の温かさをもって我々を温かにするのではなく、我々の体温をもって我々を温かくするのと同じことである。着物はこの体温をおおい保つだけのもので、もしそれで冷たい物体を包むならば、それは同様にその冷たさを保つ役にたつであろう。そのようにして氷や雪は保存される。
(a)本当に怠け者には勉強が・酒飲みにとっては禁酒が・責苦となるのと同様に、贅沢者には粗食が苛責であり、ひ弱でものぐさな男には労働が拷問である。これは他の何事についても同じことである。物事はそれ自体、そんなに苦痛でも困難でもないので、むしろ我々の弱さ意気地なさが、万事をそのようにしてしまうのである。高尚偉大な物事を判断するには同じく高尚偉大な心がいる。そうでないと、我々はこれに我々の不徳をなすりつけてしまう。真直ぐな
そこでだ! 人間は死を蔑視せよ・苦痛に堪えよ・といろいろに教えさとす哲理があれほどたくさんあるのに、どうして我々は、その中から自分たちのためになるようなやつを取り上げようとはしないのか。いやさ、あれほどたくさんの思想がそのことを他の人たちには得心させたのに、何だってわれわれは、その中で最も自分の気質に適するものを取って自分に適用しないのか。病気を根絶するために思いきって強烈な瀉下剤をのむことができないというなら、せめて病気を軽くするために緩和な下剤くらい用いたらどうだ。(b)


(c)どんな人も長く不幸であることはない。その人のせいでなければ。
死にも生にも堪える勇気がなく、抵抗することも避けることも望まない男は、一体どうしてくれたらよいのか*。
* これは最も晩年の加筆分であるが、やはり彼は、明らかにピュロン説をしりぞけている。すなわち、どっちつかずの懐疑論者は始末におえないと吐き出すように言っている。
(a)勇気にも他の
(c)それからポルトガル人がインド征服のついでに通った地方には、「王自らあるいはその副将によって討ち負かされた敵に対しては、身代金や助命の交渉などに応ずる必要はない」ということを、一般の・侵すべからざる・規則としている国々があった。
(b)だからできるだけ、勝ちほこった武装せる敵の裁判官の手にはかからないよう、特に用心が必要である。
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(a)わたしはかつて、武将のほまれ甚だ高いさる王様が、「心底卑怯だからといってその兵士を死刑に処してはならぬ」と主張されるのを聞いたことがある。その時王様は、食卓についておられたが、ブローニュを敵の手に渡したというかどで死刑に処せられたヴェルヴァン殿の訴訟のお話をあそばされた。
まったく、我々の弱さから来る過失と我々の悪意から来るそれとの間に大きな区別をするのはもっともなことである。実際、後の場合には、我々は故意に自然から賦与されている理性の掟にさからっているのであるが、前の場合には、その同じ自然が我々をそういう不完全無能力に委せたのであるから、むしろその罪は自然に転嫁することもできそうに思われるのである。だから多くの人々は、「人は我々が良心に反してなしたことに対してだけ、我々を責めることができるのだ」と考えた。じっさい、異端者や不信者に首きりの刑を適用する人々の考え方は、一部分この規則の上に立っている。「代言人や裁判官は証拠不十分のために誤審をしても責任を問われない」とする意見もまた、同じである。
けれども卑怯なふるまいは、確かに恥ずかしさ不面目によってこれを罰するのが最も普通な方法である。そして聞くところによれば、この規定は立法家カロンダスによって始めて実施されたもので、彼以前にはギリシアの法律は戦場から逃げ帰った者どもを死をもって罰していたのであるが、彼が始めてそのような手合にはただ女の着物を着せ三日間町の広場に坐らせることとし、彼らがそれに恥辱を感じて再び勇気を振いおこすよう、もう一度お国の役に立つよう、期待したのだということである。(c)


けれども恥ずかしさが彼らを破れかぶれにし、味方に対してただ冷淡にするのみならず、かえって敵たらしめることも恐れなければならない。
(a)我々の父たちの時代に、かつて元帥シャティヨン殿の軍の副将であったフランジェ殿は、元帥シャバーヌ殿の命によりリード殿に代ってフォンタラビアの太守に補せられたが、この城をスペイン人の手に渡したので、貴族たる位をうばわれ、彼もその子孫ももろともに、
けれども、あらゆる普通の度をこえた・あまりにひどい・あまりに著しい・無知あるいは卑怯があったら、それは悪意悪心の十分な証拠と見なしてそれ相応にこれを処刑するのが当然であろう。
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(a)わたしは旅に出ると、いつも
風を論ずるは船頭、農事を語るは農夫、負傷を語るは戦士、
しかして、羊の群れにつきて語るは羊飼。
しかして、羊の群れにつきて語るは羊飼。
(プロペルティウス)
ところが世間は最もしばしばあべこべで、人はそれぞれ自分の職業よりもかえって他人のそれについて話すのである。そうすればそれだけ新たな評判がえられると思っているのだ。アルキダモスがペリアンドロスに、彼が名医のほまれをすててへぼ詩人のそれを得ようとしたのを咎めているのは、そのよい証拠である。
(c)見たまえ、カエサルがその橋梁兵器を建造する工夫を説明するためにいかに長々と語ったかを。そしてその代りに、専門の役目について・武勇や兵略について・語る場合にはいかにその言葉をつつしんだかを。
彼の数々の手柄は彼が優れた大将であることを十分に語っている。そこで彼は、優れた技師であるといういわば専門外の才能の方を人に知らせたかったのである。或る法学を専門とする人は、つい先頃、彼の専門の書を始めその他いろいろの書物の備わった或る文庫の参観に連れてゆかれたが、そこには少しも語り出す機会を見出さなかった。ところが、文庫の螺旋階段のきわに置かれてあったバリケードを見かけると、いきなり立ちどまって、堂々と講釈を始めた。それはたくさんの将兵たちが毎日目にしながら、一向に注意もしなければあやしみもしなかった物であった。
大ディオニュシオスは、その生れにふさわしく、はなはだ偉大な武将であった。けれども、もっぱら詩によって己れをあらわそうと努めていた。だが詩なんかまるでわかってはいなかった。
(a)のろき牛、鞍 を負わんとし、馬、鋤 を牽かんことを願う。
(ホラティウス)
(c)こんな風では、おまえたちも、これといって何一つしでかすことはあるまい。
(a)だから、建築家も画家も靴屋も、その他誰でも、それぞれの専門に追いやらなければいけない。それで、そういう考えから、歴史の本を読むに当っては、それはあらゆる人々の物するところであるから、わたしはその作者が誰であるかを考えるようになった。もしそれが文学を職とする以外には何もしない人であれば、わたしはそこにもっぱら文章や語り方を学ぶ。もしそれが医者であるならば、その気候や・王侯の健康体質や・怪我や病気・について述べているところを、特に信用する。もし法律家であるならばもろもろの権利に関する論議・諸般の法令・国家の組織・その他それに類する事柄を、神学者ならば宗教界の諸事件・宗門上の検閲や・赦免ないし結婚のことを、朝臣ならば故実や儀式を、武人ならばその道のことども、特に彼らが親しく行った功名手柄の物語を、使臣ならばいろいろな工作や交渉や権謀術数のことなど、そしてそれらをどのように行ったかなどを、それぞれ学びとることにしている。
そういう理由から、他の人のであったなら気をとめずに見すごしたであろうことを、わたしはそれらの事柄にかけてきわめて通じておられるランジェ殿の記録の中では特に重視した。というのは、そのランジェ殿は、皇帝カルル五世が、ローマの法王庁で、わが国の使臣たるマコンの司教やデュ・ヴェリ殿を前にして堂々たる演説をなされたことや、そこにいろいろと我々を侮辱する言辞をまじえられたこと、なかでも、「もしわたしの将卒および臣下が、忠節ないし武芸においてフランス王に仕えるそれらと異なるところがないというなら、直ちにわたしは首に縄をまとってフランス王の膝下に憐れみを乞うであろう」とまで豪語したこと(このことについてはかなり確信があったらしく、彼はその後も、その一生を通じて二、三べん、同じ言葉を吐いたことがある)、それからまた、「それぞれシャツ一枚になり、剣と首とで舟の中で勝負をしよう」とわが王様に挑んだこと、などを物語ったのち、更につづけて、「前記のわが使臣たちは、これらの事柄を王に報告するに当ってその大部分をいつわったのみならず、以上の二箇条は全然申上げなかった」と付け加えているからである。さてわたしは、使臣たるものがその主君に対してなさねばならぬ報告を、しかもかような人物より発し・かように大勢の人の中で言われた・かほどに重大なことがらの報告を、せずにすますこともその人の自由であったということは、ずいぶんと不思議なことだと思った。わたしには、「家来たる者の務めは物事をそれが起ったままに全部報告することにある。命令し判断し選択する自由はただ主君の手の中にあるべきだ」と思われる。まったく、「主君が真実をまちがって取りはしないか。それが彼を悪い決心に導きはしないか」と恐れて、彼の前にそれを変えたり隠したりすることは、そして長い間彼に彼自身の問題を全く知らせずにおくというのは、どう考えてもそれは、命令を与える者の方に属することであって、命令を受けるもののなすべきことではなく、後見人や学校の先生がするところであって、たんにその権能においてのみならず、その熟慮とか知恵とかにおいても、とうてい自ら及ばないと考えなければならない者のなすべきことではないのである。とにかくわたしならば、そんな風に仕えられたくはない。身のまわりのごく些細な事柄に関してさえ。
(c)とかく我々は、何かの口実を構えて、命令を免れ支配権を侵害したがる。誰でもみなそのように自由と権威とにあこがれるのがむしろ自然らしいから、上に立つものとしては、仕える者の単純素朴な服従くらい、有難く思わなければならないものはないと思う。
おそれかしこんで服従をするのでなく、えりごのみの服従をするのでは、司令権の侵害である。そこでプブリウス・クラッススは、ローマ人から五つの幸いを兼ね有するとうたわれた人だが、かつて執政としてアジアに在った時、ギリシア人の一技師にむかって、自分がさきにアテナイで見た船の二本の
だが一方、このように窮屈な服従は、明確に規定された命令に対してだけ望まれることだと、考えることもできよう。使臣たるものの役目はもっと自由なもので、それはいろいろな場合に臨んで、もっぱら彼ら自らの意向にしたがうのである。彼らは単に主君の意志を代行するだけではなく、自己の意見によってそれを作り上げもするのである。わたしは現在司令にたずさわる人々が、王の訓令の辞句に拘泥して、そのすぐ目の前にある好機を捉えなかったとて咎められているのを、見たことがある。
なお悟性ある人たちは、ペルシアの諸王がその大使や司令官の職権を甚だしく拘束し、ごく些細なことに関しても一々命令を仰がねばならぬようにしているのを非難している。そのようにして時日を遷延することは、あのようにだだっぴろい国においては、その国務の上に著しい損害を与えるからである。
それからかのクラッススは、或る専門家にあてて手紙を書き、自らその帆檣をいかなる用途にあてるつもりであるかを報じたが、これは自己の決意を述べるとともに相手にも意見を述べさせようとしたのではあるまいか。
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(a)余りのおそろしさに、われ、髪はさか立ち、声は喉につかえたりき。
(ウェルギリウス)
わたしは、みんなが言うようにえらい生理学者ではない。いったいどんな動機によって恐怖が我々の内部で働くのか、わたしにはとんとわからない。だがとにかく、それは不思議な感情で、お医者さんたちも、「これほど我々に理性の平衡を失わせる感情はない」と言っている。ほんとうにわたしは、恐怖のために正気をなくした人たちをたくさん見た。いや、最も沈着な人にさえ、確かに恐怖は、その発作が続く間じゅう、ひどい眩惑を起させるのである。俗衆はしばらくおく。彼らはよく恐怖のために、
ブールボン殿がローマの城を乗っ取ったとき、ボルゴ・サン・ピエトロを守っていた一人の旗手は、最初の警報にすっかりおびえて、旗をかついだまま城壁のわれ目から外に飛び出し、城内さして逃げ込むつもりで、敵陣めがけてまっしぐらに駈けだした。そこで、ブールボン殿の軍勢がこれを見て、それ城内の者どもが討って出たぞとばかりそのまん前に立ちふさがるに及んで、始めてはっと我に帰り、くるりと後ろをむくや一目散、既にもう三百歩ばかりも野外に進み出ていたのだが、出て来た同じわれ目から城内へとかけこんだ。ところがサン・ポールの城がビュール侯とルー殿によって我々から奪われた時には、大将ジュイルの旗手にとって、事はそううまくはこばなかった。まったく恐怖のためにすっかり度を失った彼は、旗をかついだまま銃眼から城外に飛び出し、攻撃軍のために滅多切りにあったのである。またもう一つ同じ籠城において思い出されるのは、恐怖が一貴族の心を余りにも強く締め・捉え・冷やした結果、彼はそのために、かすり傷一つなかったのに、城壁の割れ目からころげおちて死んだことである。
(b)同様な恐怖は時に大勢の人々全体をとらえる。ゲルマニクスがドイツ人と交えた会戦の一つにおいては、二個の大部隊が、驚きのあまり二つの逆の方向につっぱしり、お互いの陣所があべこべになってしまった。
(a)時に恐怖は、前の二つの場合に見るように我々の


(c)恐怖がその最大の偉力を示すのは、それがさきに我々の義務と名誉とからうばった勇気を、いよいよの際に再び我々の手にかえすその時である。ローマ人が執政センプロニウスの指揮の下にハンニバルの軍と戦って敗れたあの最初の戦闘に際して、一万に余る歩兵の一隊は、はじめ非常に恐怖を覚えたが、卑怯の振舞いをしようにも他に道のないことを知るや、猛然として敵の真唯中に割って入り、めざましい努力をもってこれを突き破り、大いにカルタゴ人を殺戮した。こうして彼らは、恥ずかしい遁走を、光栄ある勝利のために払うのと同じ代価を支払って、手に入れることになったのである。恐怖こそわたしが最も恐怖するものである。
またそれこそ、苦しさつらさにおいて他のどんな出来事をも越えるものである。
そもそも、ポンペイウスの船の中に在って、あの恐ろしい殺害を眼のあたりに見た彼の友人たちの感動以上に、激しい・また当然な・感動がまたとあろうか。けれども、ますます自分たちを追っかけて来るエジプト
恐怖はその時わが心よりすべての知恵を追い出せり。
(エンニウス)
戦争に出て十分にもまれて来た人たちなら、まだ傷がいえず血がかわかなくても、あくる日再びこれを攻撃につれて出られるけれども、何か敵のおっかなさをしたたかに思い知らされた者どもには、もはや敵をまともに見させることすら出来ないだろう。財産を失いはしないか、異境に送られはしないか、奴隷におとされはしないか、と安き心もない者どもは、飲食も睡眠をも失って不断の苦悶の中に暮すが、貧乏人や亡命者や奴隷たちの方は、しばしば普通の人たちと同様に面白たのしく暮している。いや、恐怖の刺激に堪えきれないで、首を吊ったり河に身を投げたりする人たちがあんなに多いところを見ると、恐怖というものが死よりもずっと堪え難い、いやなものであることがよくわかるのである。
ギリシア人はもう一つ別種の恐怖を認めているが、それは我々の判断の誤りから来るのではなく、彼らの言うところでは、何らこれといった原因もなく、ただ天来の衝動によって来るものだそうな。しばしば人民全体が、また軍隊全体が、それに捉われる。カルタゴに不思議な荒廃をもたらしたのもそれであった。人はただ叫喚とおびえた声のみを耳にした。住民たちが警報をきいたかのように戸外に飛び出し、互いに打ちあい傷つけあい殺しあうありさまは、まるで敵が彼らの都市に攻め入りでもしたようだった。何もかもが混乱と喧騒のうちにおち、ついに祈祷と犠牲とをもって彼らが神の怒りを鎮めるに及んでやっと終った。彼らはこれを「パンの神の恐怖」と呼んでいる。
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(a)人は常に最後の日を待たざるべからず。
なんぴともその死その葬いの未だ到らざるに、
幸福なりと言わるるをえず。
なんぴともその死その葬いの未だ到らざるに、
幸福なりと言わるるをえず。
(オウィディウス)
子供たちでも、このことについての王クロイソスのお話は知っている。この人はキュロスに捕えられて死刑を宣告されたが、いよいよその場にのぞむと、「おおソロンよソロン!」と叫んだ。このことがキュロスに伝えられ、その意味を問われると、彼はこうキュロスに説明した。「今こそ自分は、昔ソロンから与えられた訓戒がうそでなかったことを、しみじみ思いしるからだ。彼はよくこう言った。『人間は運命からどんなにやさしい顔を向けられても、その生涯の最後の日を通りすぎるまでは、自ら幸福だなどと思うわけにゆかない。人間界のことがらは不確実で変りやすく、きわめて軽い動きによって全くあべこべの状態に転ずるものだから』と」。まったく、だからこそ、アゲシラオスも、「ペルシア王は幸福だ。まだ若いのにあのような強国の主となったから」と言った者に向って、「成程そうだが、プリアモスだってあの年頃には不幸ではなかった」と言ったのである。かつては、あの偉大なアレクサンドロスの後継者であるマケドニアの諸王の中にも、後にローマの町で指物師や書記になったものがあったし、シケリアの暴君たちの中からもコリントスで学校教師になったものがあった。世界の大半を征服し三軍を叱咤した大将も、やがてエジプト王の無頼な役人の前に哀れむべき哀訴者となり下った。つまりただ五、六カ月を生きのびたばかりに、あの偉大なポンペイウスさえこれ程の憂目を見たのである。また我々の父たちの時代には、あの第十世ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァが、それは長い間全イタリアをゆり動かした人だが、あのとおりロッシュにおいて牢死なされた。しかもそれは、十年間もそこで最大の不運をなめられた末のことである。(c)キリスト教界最大の王様の未亡人で最もみめ美わしかった女王様〔メアリ・ステュアート〕も、ついこのごろ獄卒の手にかかって死なれたではないか。(a)いやそういう実例は幾千となくある。まったく、あたかも暴風雨がわざと我々の高くそびえたった建物に突っかかるように、高いところには下界の権勢をねたむ精霊がさまよっているのではないかと思われる。
思うに人間の権勢を憎む隠れたる力ありて、
美わしき執政杖と無慈悲なる斧とをふみにじり翻弄するが如し。
美わしき執政杖と無慈悲なる斧とをふみにじり翻弄するが如し。
(ルクレティウス)
いや、運命は時に、我々が永い一生を通じて築きあげた物をも一瞬の中にぶちこわす力あることを示さんがために、特に我々の一生の最後の日を狙っているかのように思われる。そして我々がラベリウスにならって


こんな風にソロンの有難い勧告が解釈されるのは当然である。けれどもそれは哲学者のことであるから、そして哲学者たちにとっては運命の寵愛や憎悪なんぞは幸不幸の数にはいらないのだから、いや権勢や栄達なんかはほとんどどうなってもかまわない事柄なんだから、どうしてもソロンは、それよりはずっと先の方を見ていたんだと思う。「我々の一生の幸福は、良く生れついた
この時初めて真実の言葉我らの胸中よりほとばしり出で、仮面おちて真相あらわる。
(ルクレティウス)
こういうわけだから、この最後の瞬間においてこそ、我々の一生のあらゆる他の行為は試みためされなければならないのである。それは肝心な日である。他のすべての日々を裁く日である。それは、古人の言ったとおり、わたしの過去のすべての年々を裁くべき日である。わたしはわたしの研学の結果の審査〔エッセー〕を死に委ねる。その時こそ、わたしの議論がただわたしの口先だけのものか、それとも心の底からのものか、わかるであろう*。
* モンテーニュはさきにラ・ボエシの従容たる死を目の当りにした。この期のエッセーの中には常に亡き友の姿があらわれる。此章は次章の自然のプレリュードである。
(c)なかには勇ましい幸運な死もある。わたしはそういう死が、或る人において目ざましい出世の綱を、しかもその伸びゆく花の盛りに、ふっつりと切ったのを見たことがあるが、その最期はいかにも壮麗であって、わたしの考えでは、彼の
* 多分これはラ・ボエシのことであろうとする説(アルマンゴー)もあるが、わたしはむしろ、一五八八年ブロワにおいて非業の死をとげたアンリ・ド・ギュイズに対する哀悼の言葉とするトランケの説にくみする。これはモンテーニュの「家事録」における記載とも照応する。拙著『モンテーニュとその時代』第七部第三章五六八頁参照。
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当章は、ラ・ボエシの臨終の様子を父に報告した書簡の自然の延長とみることが出来る(白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「書簡集」書簡2参照)。それはモンテーニュが最もストア的であった時期と言えよう。モンテーニュはこの章のなかで、「十五日ばかり前に三十九歳になった」と述べているから、これこそ確実に一五七二年に書かれたものである。「死はわれわれの周囲のたれかれの上にほとんど毎日のように見られるきわめて日常平凡な事実であるのに、大多数の人間は努めてその死を想うことを避ける。だが、そうしていれば恐ろしい死にあわないですむか。そうはゆくまい。だからむしろ逆を行って、われわれは日常死を瞑想し、死とふだんからなれ親しんでおくにかぎる……」こうモンテーニュは提唱する。それは畢竟、他のもろもろの艱難 苦労に対するのと同様に、死に対しても敢然とぶつかってゆこうという、いわゆるストア的態度である。「なるほど恐ろしい死がいよいよ眼前に立ちはだかる時は、そんなふだんの準備は物の役に立たないかも知れないが、少なくともその瞬間が到来するまでは、とにかくそうすることによって平穏に暮してゆけるかも知れない。それだけでも決して悪くはあるまい。それに自然は毎時毎瞬少しずつわれわれの生命をこわしてゆくから、老い衰えていよいよ死ぬ時にはそう大して苦しくも悲しくもないであろう」。こうモンテーニュは考える。ここでも博引旁証、まさしく「書籍的」「非個性的」といわれる初期のエッセーの特徴を遺憾なく示している。――なおこのストア主義、セネカへの傾倒は、彼の一時的心酔、時代の英雄に対する束の間のあこがれであって、一五八六年までは少しずつ緩和されながらもほぼそのままに継続するが、このとき以来モンテーニュは、死に対して全然反対の態度をとるようになる。ここでは「人生行路の目的は死である」と言うが、一五八八年には「死は生の目的 but ではない、単に末端 bout だ」(三の十二)としゃれのめす。ここでは死を全然想わない俗人を「獣みたいな愚鈍」(brutale stupidit
)「畜生のような無頓着」(cette nonchalance bestiale)と嘲っているが、一五八八年のエッセーにおいては、かえってこの無頓着こそ哲学の極致であると考える。そして「気分転換」(三の四)の法を提唱する。この点に関しては、特に後出「人相について」(三の十二)の章を対比せられたい。――なおモンテーニュにおけるこのストア的傾向は、もとより彼の天性に由来するものではないが、また一方、あまりにそれを彼の読書にのみ付会すべきではなかろう。むしろ彼にその種の読書をさせた当時の険悪な世相やラ・ボエシとの交遊の影響をこそ重視すべきであろう。拙著『モンテーニュとその時代』索引「モンテーニュの思想的態度」の項参照。

(a)キケロは、「哲学するとは死に備えることに他ならぬ」と言った。つまり研究や瞑想は、いわば我々の霊魂を我々の外部に引き出し、これを肉体と別にはたらかすことで、結局死のけいこか予行演習みたいなものだからである。あるいはまた、世の知恵や究理は、
(c)哲学諸派の紛争はこの場合言葉の争いである。


* ラテン語の virtus は vis すなわち力という語から出ている。ゆえに、フランス語の vertu という語も、身心両面における・困難を克服する強い力、努力、の意味を持っている。だがモンテーニュは、ここに((c)の加筆において)徳は楽しいものだという。――モンテーニュの「徳」に関する考え方は時期によって色々変っている。索引によって、あちこち対照せられたい。後出第一巻第二十六章、二二一頁の註**参照。
* 本章最初のパラグラフ「哲学するとは死に備えることに他ならぬ」に照応する。
(b)我らはみな同じ方向に押し流さる。
早かれ晩 かれ、うちゆるる運命の壺の中より、
我らの札こぼれ落つるや、
われらはみなカロンの舟にのせられて、
永遠の死へと運ばれゆくなり。
早かれ
我らの札こぼれ落つるや、
われらはみなカロンの舟にのせられて、
永遠の死へと運ばれゆくなり。
(ホラティウス)
(a)したがって、ひとたび死が我々に恐怖となるならば、それは絶えまのない責苦の種子となり、我々はどうしてもゆるしてはもらえない。(c)死の出て来ない場所はないのだから、我々が怪しい里にいるかのように、始終右に左に気を配るのも当りまえである。


(b)シケリアの佳肴 も
彼らにはうまからず。
鳥の囀 りも琴の調べも、
彼等の眠りをさそわず。
彼らにはうまからず。
鳥の
彼等の眠りをさそわず。
(ホラティウス)
(a)彼らがそれらを楽しむと、君たちは思うか。彼らの旅の究極の目的が、しょっちゅう目の前にぶらさがっていて、彼らのためにこれらもろもろの愉快の味わいを、まずいものに変えてしまうとは思わないか。
(b)彼は道を問い、日をかぞえ、その命を里程もて計る。
おのれを待つ死刑に絶えずその心を悩ましめつつ。
おのれを待つ死刑に絶えずその心を悩ましめつつ。
(クラウディアヌス)
(a)人生行路の目的〔終点〕は死である。これは我々が必ず目指さざるを得ない目標である。もし死が我々を恐れさせるならば、どうして我々はうち震えずに一歩を前に進めることができるか。庶民の持薬はそれを考えないことである。けれども何という獣みたいな愚鈍によって、彼はああもひどい盲目になり切れるのか。そういう奴はろばの背にうしろまえに乗っけてやり、その
驢馬はよく尻込みするものなれば。
(ルクレティウス)
彼があんなにしばしば落し穴にはまっても、少しも不思議はない。こういう連中は、死という名をきくだけでふるえ上る。そしてたいがいの者は、悪魔の名をきいたように十字を切る。また、遺言書の中にはその死という字が出て来るから、彼らはいよいよ医者から最後の宣告を与えられない限り、いっかなそれに手をつけようとはしない。だから、いよいよ苦痛と恐怖との間にはさまるとき、彼らはいったいどんな良い判断をもってその大切な遺言書を
(b)この死という綴音は余りにも荒っぽく人々の耳にあたるから、そしてその響はいかにも気味がわるいから、ローマ人はこれを和らげることを、すなわち婉曲語法の中にそれを緩和することを、考えついた。「彼は死んだ」と言う代りに、「彼は生きることをやめた」「生き終った」などと彼らは言った。「生きる」という言葉でさえあれば、「生き終った」でも気がすんだのである。我々はそれを真似て「ありし*ジャン殿」と言うのである。
* モンテーニュはこの feu すなわち「故」という語を、qui fut から来たものと考えたらしい。すなわち「故ジャン殿」を「亡きジャン殿」といわずに「ありしジャン殿」というと、考えたのである。
* 「返済期の延期は借手の得になる」という意味。すなわちここでは、死の考えをなるたけ後に延ばすことを指して言ったのである。
** 一五六三年に janvier(ヤヌスの月)をもって年の始めとした。それ以前は復活祭を年の始めとしていたのである。従って一五六三年のヤヌスの月(ジャンヴィエ)は一五六四年の一月となった。故に、旧暦でいえば、モンテーニュの生れたのは一五三二年の最終日ということになり、新暦では三三年二月となるのである。
*** メトセラは九百六十九歳の齢をえたと、聖書にある。
瞬間毎にふりかかるその危険を
人は一々予見する能わず。
人は一々予見する能わず。
(ホラティウス)
熱病や肋膜炎の話はしばらくおき、ブルターニュ公ともあるお方が、わたしの隣人法王クレメンスのリヨン御入城の際に、群衆におしつぶされて死なれようなどとは、いったい誰が予想したか。お前は我々の王様のお一人*が御遊戯の最中に死なれたのを見なかったか。またその御先祖の一人は豚に突きあたられて亡くなられたではないか。アイスキュロスは家の下敷になって死ぬぞと脅かされてから、始終野天に暮したが駄目だった。とうとう空をかける鷲の爪先から落ちて来た亀の甲羅にあたって死んだ。或る者はぶどうの種子のために、或る皇帝は髪をくしけずりながら得た傷のために、アエミリウス・レピドゥスは入口の
* アンリ二世が野試合の最中槍で目をつかれて死んだのは、一五五九年で、モンテーニュはこの事件の前後に朝廷にいたと推定される。年表一五五九年六月三十日の項参照。
** サン・マルタンの領主、アルノー・エーケム(一五四一―六九)のことであるから、本当は二十三歳ではなく二十八歳になる。この青年とモンテーニュ夫人との間に情交があったことについては、『モンテーニュとその時代』第四部第二章参照。
われ賢くして苦しまんよりは
むしろ愚か者よとあざけられん。
願わくは誤謬われを幸いにし、
わが眼をばくらまさんことを!
むしろ愚か者よとあざけられん。
願わくは誤謬われを幸いにし、
わが眼をばくらまさんことを!
(ホラティウス)
だがしかし、それでことがすむと考えたら、それこそ気ちがい沙汰。人々は往ったり来たり、飛んだり跳ねたり。死からは何の便りもない。この世は春だ。だが一たび死が、あるいは彼ら自らの上に、あるいはその妻や子や友に、突如として、不意に、やって来てごらん。どんなに彼らは苦悶し号泣し狂乱し絶望するか。こんなに気をおとし、こんなに変り果て、こんなに気を失った者を、お前たちはかつて見たことがあるか。どうしても早くからそれに備えなければならない。あの畜生のような無頓着は、かりに分別ある人の脳裏に宿ることがあるにしても(そんなことは全くありえないことだとわたしは思うのだが)、うっかりそんな商品を買ったら我々はひどい目にあう。もしそれが避けられる敵であるなら、卑怯という武器を借りることも、わたしはすすめるだろう。だがそうはゆかないのだから、(b)それはお前たちを、逃げ腰の臆病者であってもまた立派な勇士であっても、同じように捉えるのだから、
(a)そは、逃げ走る者どもをも追いかけ、
意気地なき若者の
ひかがみをも背中 をも仮借せず。
意気地なき若者の
ひかがみをも
(ホラティウス)
(b)いかに堅固な鉄の
いかに用心して黒鉄 青銅 にその身を鎧うとも
死はまんまと首級をその中より引っこ抜く。
死はまんまと首級をその中より引っこ抜く。
(プロペルティウス)
(a)むしろ、しっかりと足を踏まえてこの敵を受けとめることを、いやこれを打ち倒すことを、学ぼうではないか。そして、まず彼からその我々に対する最大の強みをうばい取るために、全然普通のとはあべこべの道を取ろうではないか。彼から怪異を取り除いて、彼となれ親しもうではないか。何よりもしばしば死を念頭におこうではないか。常にそればかりを、しかもそのすべての
毎日はいつも汝がための最後の日なりと考えよ。
さすれば思わぬ今日を儲け得て喜ぶことをえん。
さすれば思わぬ今日を儲け得て喜ぶことをえん。
(ホラティウス)
どこで死が我々を待っているかわからない。だからいたるところでこれを待とうではないか。死の準備は自由の準備となる。死を学びえた者は奴隷であることをわすれたのである。いかに死すべきかを知れば、我々はあらゆる隷従と拘束とから解放される。(c)生命の剥奪が少しも不幸でないことを悟りえた者にとっては、この世に何の不幸もない。(a)パウルス・アエミリウスは、彼の
本当にどんな事にかけても、自然が多少とも手を貸さないならば、技術や工夫は一歩も前進することがむつかしい。わたしはうまれつき
(b)わが齢 、花盛りにして、春をたのしめる頃
(カトゥルス)
(a)女たちに取りまかれて遊びに耽っているわたしを見て、或る男は、「独りひそかに嫉妬にでも悩んでいるのではないか、あるいは何か希望の遂げ難いのをはかなんでいるのではないか」などと想像したが、その時わたしは、その数日前に、やはり同じような宴会のかえるさに、わたしと同じように夢心地と恋ごころと楽しい時のこととで頭を一杯にしているところを、突然高熱と死とにおそわれた或る男のことを思い浮べ、自分にもまた同じ運命がさし迫っているかのように、考えていたのであった。
(b)やがて現在はすぎ去りて、ついにこれを呼びもどすすべなからん。
(ルクレティウス)
(a)もっともそういうことを考えていたからと言って、わたしは特別に眉をひそめてはいなかった。もちろんわれわれは、最初からそういう想像の刺激を感じないというわけにはゆかない。けれども人は、しょっちゅうそれをいじくりまわし復誦していると、必ずいつともなしにそれになれてしまう。でなければわたしだって不断の恐怖と焦慮の中にいたであろう。まったくわたしほど、自分の命を疑ったものもなければ、わたしほど、自分の寿命に自信のなかった者もない。わたしは今まですこぶる旺盛な・ほとんどとぎれたことのない・健康をうけ楽しんでは来たが、その健康も長命の希望を長くはしないし、そのかわり病気もまたそれをちぢめはしない。毎時毎瞬「まあよかった」と思っている。(c)そして絶えず繰り返している。「いつか起りうることは今日もまた起りうる」と。(a)ほんとに偶然や危険は、ほとんど、いや少しも、我々を我々の最期に近寄せはしないのである。もし我々が、最も我々をおびやかしているように思われる或る事件がなくたって、なおその他に、幾千万の事件が我々の頭上に臨んでいるのだと考えれば、我々は元気であろうと熱があろうと、海の上にいようと家のなかにいようと、戦っていようと休んでいようと、最期はいつも我が


(a)われわれは、できることなら、いつでも出かけられるばかりにちゃんと靴をはいていなければならない。そして特にその時は、ただもう自分の用事よりほかには何もすることがないようにしておかなければならない。
(b)いかなれば我らは、かくも短き一生に、
かくも多くを企つるにや。
かくも多くを企つるにや。
(ホラティウス)
(a)まったくその時ともなれば、別に追加をするまでもなく、我々には相当たくさんの用事があるのだ。或る者は、死そのことよりも、死が花々しい勝利のまさに成ろうとしている所を中断すると言って嘆く。或る者は、その娘を
(c)御蔭さまでわたしは、この時にそなえて、こんな心持になっている。すなわち御意のままに、いつでも身まかることができるようになっている。もはやこの世に何の未練もない。ただし、
彼らは言う。「おお不幸なるかな不幸なるかな。
ただ一日の厄日こそ、人生のすべての喜びをわれより奪う」と。
ただ一日の厄日こそ、人生のすべての喜びをわれより奪う」と。
(ルクレティウス)
(a)いや、建築師は言う。
わが業絶たれたり。
高き壁いまだ成らざるに。
高き壁いまだ成らざるに。
(ウェルギリウス)
そんな大がかりな仕事を企ててはいけない。少なくとも、是非ともこれを仕上げようというほどの熱意をもってかかってはいけない。我々はただ働くために生れたのである。
願わくは死よ、わが働きつつある真最中に来らんことを。
(オウィディウス)
わたしは人が働くことを、(c)人ができるだけ人生の務めを長くのばすことを、(a)のぞむ。そして死が、わたしがそれに無頓着で、いわんやわたしの菜園の未完成であることなどにはなおさら無頓着で、ただせっせと白菜を植えている真最中に、到来することをのぞむ。わたしは或る人がこんな死に方をしたのを見たことがある。その人は末期に臨んで、運命が彼の書きつつあった歴史の連続を、我々の王の十五代目だか十六代目だかのところで断ち切ったことを、嘆いてやまなかった。
(b)人は言うを忘れたり。
これらの幸福を惜しむ心もまた、
やがてその人と共に朽ち果つべきを。
これらの幸福を惜しむ心もまた、
やがてその人と共に朽ち果つべきを。
(ルクレティウス)
(a)こういう卑俗で有害な心持から、我々は抜け出さなければいけない。人が墓地を寺院の隣に・町の最も人通りの多い場所に・置いて、リュクルゴスの言うところに従えば、下々のものや女子供を、死人を見てもこわがらぬように慣らしたように、そうやって絶えず骨や墓や葬いを目の前に見させることによって我々に人間の境遇を悟らせたように、
(b)かつては殺傷が宴会の席を賑わし、
更に剣優の残酷なる演技がそれに加わりき。
彼らはしばしば盃盤の真中に倒れ、
その血が食卓を色どることもしばしばなりき。
更に剣優の残酷なる演技がそれに加わりき。
彼らはしばしば盃盤の真中に倒れ、
その血が食卓を色どることもしばしばなりき。
(シリウス・イタリクス)
(c)またエジプト
ディカイアルコスはそういう標題の本を書いたが、それは別の・さほどに有用でない・目的のものであった。
(a)人はわたしに言うであろう。「事実はとても想像以上だよ。どんなに立派な構えだって、その
(b)こうして我々を毎日少しずつ変化衰弱させながら、いかに自然が我々の消滅と衰弱との感覚を我々にかくしているかをよく見ようではないか。一個の老人に、彼が若かった頃の精力の一体どれ程が、その過去の生命の一体どれ程が、残っているか。
ああ、老人たちに残れる命のいかばかり微かなるよ。
(マクシミアヌス)
(c)カエサルは、今は老いさらばえた昔の警護の武士が、或るとき彼を道に迎えて、死を賜わりたい旨願い出たところ、つくづくとそのよぼよぼの姿をうち眺めながら、わらってこう答えた。「お前はそれでもまだ生きているつもりでいるのかね」と。(b)もし一ぺんにそうした状態に陥るならば、とても我々はそのようなはげしい変化に堪えられないであろう。ところが自然は我々の手を取って、なだらかなほとんど感じられないような坂道を、少しずつ一段一段とみちびいて来て、ついにこの哀れむべき状態の中に我々をころがし込み、これに慣らすのだ。だからこそ我々は、青春が我々の内に滅びる時も、この方が本当に、深く考えて見れば、弱りはてた生命の全き死よりも、老衰の果ての死よりも、はるかに辛い死であるのに、少しも動揺を感じないのである。なぜなら、苦しい存在から無存在への跳び降りは、花咲きて妙なる存在から苦しく悲しい存在への跳び降りほどには、ずしんとこたえないからである。
(a)物体は、折れ曲っておれば、それだけ重荷をささえる力がよわい。我々の霊魂もまたそうである。どうしてもそれをすっくと立ちあがらせ、その強敵にあたらせなければならない。まったく霊魂は、この敵を恐れる限りとうてい落ちついていることはできないが、ひとたびこれに対して覚悟ができれば(もっともそれはいわば人間わざを凌駕することであるが)、そうなれば、もう、不安も苦悶も、恐怖も、一抹の不快も、ここには宿ることができないぞ、と威張ることができるのである。
(b)何物も彼の堅き心をゆるがさざりき。
暴君のいかれる眼 も、
アドリアの海をゆるがす雨かぜも、
雷火を投ぐるユピテルの腕 も。
暴君のいかれる
アドリアの海をゆるがす雨かぜも、
雷火を投ぐるユピテルの
(ホラティウス)
(a)このような霊魂はよくその邪念や情欲を支配する。赤貧や恥辱や窮乏や、その他あらゆる運命の障害を支配する。われわれは、一所懸命に、こういうすぐれた力を養おうではないか。ここに始めて真実至上の自由がある。この自由こそ、暴力と不正とに抵抗する力、牢獄と鉄鎖とをあなどる力を、我々に与える。
「手と足とを鎖もてしばり、
われ汝を、残忍非道の獄卒に渡そうぞ」
「われもし願うなれば、立ちどころに神来りてわれを救いたまわん」
思うにこれ、「われ喜びて死なん」との意 なるべし。
げに死こそは万事の終りなり。
われ汝を、残忍非道の獄卒に渡そうぞ」
「われもし願うなれば、立ちどころに神来りてわれを救いたまわん」
思うにこれ、「われ喜びて死なん」との
げに死こそは万事の終りなり。
(ホラティウス)
我々の宗教は、この生の蔑視以上に確実な人間的根拠をもったことがない。ただ理性だけが我々に生を蔑視せよと教えるのではない。まったく、なくなったとしても惜しくも何ともない物を失うのが何だってこわいのか。それに、どうせ我々は種々様々の死におびやかされているのだから、それらのすべてを
(c)いつやって来ようとかまうものか、それはどうせ避けられないものなのだから。或る人がソクラテスに、「三十
何という愚かなことであろう。いかなる苦痛も絶えてない境に入ることを悲しむとは!
我々の出生が万物の出生を我々にもたらしたように、我々の死は万物の死をもたらすであろう。だからこれから百年の後に我々が生きていないであろうことを悲しむのは、百年前に我々が生きていなかったことを嘆くのと同じくばかげている。死は別の生の始まりである*。だから我々は泣いたのである。だからこの世に入るのが苦しかったのである。だからこの世に入るとき我々は古いヴェールをかなぐりすてたのである。
* 「死ノ後ハ則チソノ前ナリ。生ノ前ハ即チ死ノ後ナリ」(西郷南洲『孟子講義』)。
* 「殀寿ハ弐ツナラズ」(『孟子』「尽心篇上」)。
* 前頁十行目「ただ理性だけが」につながる。次の(c)の加筆がこのつながりをわかりにくくしている。生の蔑視を教えるのは理性や哲学ばかりではなく、自然もまた同様に教えるのである。
(b)人々はその生命を次から次へとわたす。あたかも、競争者がその炬火を次々にわたすがごとし。
(ルクレティウス)
(a)わたしはお前たちだけのために万物のこの美わしい組織を変えるわけにはゆかない。死はお前たちの創造の条件であり、お前たちの一部なのである。お前たちは畢竟お前たち自身を避けているのだ。お前たちが今うけつつあるそのお前たちの存在は、等分に生と死とに属している。お前たちの誕生の第一日は、お前たちを生に導くと共にまた死に導く第一歩なのである。
我々の第一時は、我々に生を与えながら、早くも生をこわす。
(セネカ)
生るるは死するの始めなり。終末は誕生の結果なり。
(マニリウス)
(c)お前たちは生きれば生きるだけ、お前たちの生を減らす。それだけ生の損になるのである。お前たちの生命の不断の営みは、つまり死の建設なのである。お前たちは生の中にある限り死の中にある。まったく、お前たちがもう生の中にいない時は、すでにお前たちは死を越えているのである。
あるいは、この方が望みだとあれば、お前たちが生きてから後に死ぬことにしてもいい。その代り、生きている間じゅうお前たちは瀕死人である。そして死は、死人に対してよりも瀕死人に対して、いっそうひどくぶつかる。いっそう勢い鋭く・いっそう本気に・ぶつかる。
(b)もしお前たちが人生から利得したのならば、すでに飽きているだろう。満足して立ち去るがよい。
いかなれば満腹したる陪食者のごとくに人生をば去らざる?
(ルクレティウス)
もし人生を利用することができなかったのならば、それがお前たちに無益のものであったのならば、それを失うことが何であろう。更にながらえてまたどうしようというのか。
何のために毎日を更に重ねんとはする?
明日もまた昨日のごとく空しく消ゆべきに。
明日もまた昨日のごとく空しく消ゆべきに。
(ルクレティウス)
(c)人生はそれ自体善でも悪でもない。それはお前たちのあんばい次第で、善の舞台とも悪の舞台ともなる。
(a)それにお前たちは、一日を生きたならば、すべてを見たのである。一日はもろもろの日に等しい。別の光、別の闇はない。あの日、あの月、あの星、あの配列、それらはお前たちの祖先が楽しんだものであって、またお前たちの子々孫々を慰めるものである。
(c)あれこそ我らの父たちが見つるものよ。
あれこそ我らの子孫が見んずるものよ。
あれこそ我らの子孫が見んずるものよ。
(マニリウス)
(a)そして、いくらまずくいっても、わたしの喜劇のすべての場面の配置や変化は、ただ一年をもって完結するのである。お前たちはわたしの四季の移りかわり*に注目したことがあるか。それは世界の少年期・青年期・壮年期・老年期にあたる。世界はその演技を終った。もはや、同じことをくりかえすよりほかにすべを知らない。それはいつまで見ても同じだろう。
* 「気 変 じて形 有 り。形 変 じて生 有 り。今 また又 た変 じて死 に之 く。是 れ相 い与 に春秋冬夏 四時 の行 を為 すなり」(『荘子』「至楽篇」)。
(b)我らは同じ輪の中をめぐりてこれを出 ずることなし。
(ルクレティウス)
年はおのれが轍 の上をめぐりにめぐる。
(ウェルギリウス)
(a)わたしはこれ以上に新規なひまつぶしを、お前たちのために作り出そうとは思わない。
われはこの上さらに汝らをたのしますべきすべを知らず。
そはいつまで見るも同じなるべし。
そはいつまで見るも同じなるべし。
(ルクレティウス)
他の人々のために席をゆずるがよい。かつてお前たちがこれを譲られたように。
(c)平等は公正の第一の要素である。誰も、万物がひとしく含まれる所に含まれるのを、怒るわけにゆかない。(a)だからお前たちは長生きをしてもむだである。お前たちが死んでいなければならない時間を、そのために少しでも短くすることはできないのである。それは何にもならないことだ。やはりお前たちは、お前たちがこわがるあの状態の中に、ちょうど乳母の胸に死んだ場合と同様に長い間いなければなるまい。
思うがままに長生せよ、数百歳までも。
されど死は常に永遠なり。
されど死は常に永遠なり。
(ルクレティウス)
(b)だがしかし、わたしはお前たちを、何らの不満もないような状態に置いてやろう。
知らざるや、汝、死が、
汝の死んで横たわるをなげくべく、
もう一人の汝が生き残るをゆるさざるを。
汝の死んで横たわるをなげくべく、
もう一人の汝が生き残るをゆるさざるを。
(ルクレティウス)
お前たちがそんなに惜しがる生命を、もう願いもしないであろうような状態にしてやろう。
その時人は、その身をもその命をも思うことなし。
その時はわれらに、己れを悼 む心だになし。
その時はわれらに、己れを
(ルクレティウス)
死は無よりもなお恐れるに足らないものだ。もしも世に、何か無にさえも及ばないものがあるとすれば。
無にもなお及ばざるもの世にありとせば、
死こそは、その無よりもなお恐ろしからぬものよ。
死こそは、その無よりもなお恐ろしからぬものよ。
(ルクレティウス)
(c)それは、お前たちが生きていようと、死んでいようとお前たちにかかわりのないものである。生きている時はお前たちはあるのだから。死んだ時はお前たちはもうないのだから。
(a)なんぴともその時がこないで死ぬことはない。お前たちがあとに残す時間は、お前たちの誕生前の年月と等しく、もともとお前たちのものではなかったのだ。(b)二つながらお前たちにはかかわりのないものなのである。
想い見よ、まことに、我らの前にありし数世紀は、
我らにとりて全くなかりしも同然なることを。
我らにとりて全くなかりしも同然なることを。
(ルクレティウス)
(a)どこでお前たちの命が終っても、それはそこで全部なのだ。(c)人生の利益は、その長さにはなく、その用い方にある。或る者は長く生きはしたがほとんど生きなかった。お前たちがこの世にある間は、ただ生きることに意を用いよ。お前たちが十分に生きたかどうかは、かかってお前たちの意志にある。年数にはない。(a)お前たちは絶えずそこに向って歩みながら、決してそこにゆき着く日がないと考えていたか。(c)それに果てしない道というものはないのである。(a)だがしかし、道連れはお前たちを慰めることができる。見よ、世の人はこぞってお前たちと同じ道をゆくではないか。
(b)汝の一生が終る時、万物もともに死して汝に従うなり。
(ルクレティウス)
(a)万物はお前たちの舞を舞うではないか。世にお前たちと共に老いないものがあるか。幾千の人、幾千の動物、その他幾千の被造物が、お前たちが死ぬのと同じ瞬間に死ぬのである。
夜は日につぎ暁は夕べにつながりて絶えざれども
呱々 の声と葬いの鐘の音 との相交わることなく
明け暮れし日夜はただ一つだになし。
明け暮れし日夜はただ一つだになし。
(ルクレティウス)
(c)何だってお前たちは尻込みするのか。どうせ引きかえすことはできないのに。お前たちはかなりたくさんの人たちが、死んで(すなわちそのために不幸を免れ得て)かえって仕合せであったのを見たことがある。だが、死んで不仕合せだった者を見たことはあるか。そうだ、お前たちが自分によっても他人によっても経験しなかったことを一概に悪いものにしてしまうのは、あんまり単純すぎる。なぜお前は、わたしと運命とに向って不平を言うのか。果してわたしたちはお前を苦しめているか。そもそも、お前がわたしたちを支配するのか、それともわたしたちがお前を支配するのか。お前の年齢は終らないでもお前の生命は終る。小男も、大男も、ひとしく一人前の人間なのである。
人間も、その一生も、
わたしは、お前たちの中の第一の賢人タレスに、生死はどうでもよいことだと教えた。だから、『では何故にそなたは死なないのか』ときいた者に、彼は、はなはだ賢明にも、『それはどっちでもよいことだから』と答えたのである。
水や土や火やその他わたしのこの建物を作りなす各物質は、お前の生の道具でも死の道具でもない。なぜお前は最後の日をおそれるのか。その日は、他のもろもろの日以上に、お前の死に協力しはしない。最後の一歩が疲労を作るのではない。ただそれを宣告するだけである。もろもろの日は死に向ってゆき、最後の日がいよいよこれに達するのである*」。
* この」は一四三頁八行目の「この世をば、……に対応する。この母たる自然の教訓の中に、「お前」と「お前たち」とが混合するときがあるが、それは同じ(c)の加筆でも、全部が同時期に書かれたものではなかったためであろう。大体 vous をもって書いているが、ときに tu, ta 等がまじっている。
* 若い頃のモンテーニュは、死とは急激に来るものと思っていたが(一の五十七)、やがて自ら疝痛にしばしば襲われるようになってからは、死とはゆっくりと近づいてくるものと考えるようになった。死は生と相対するものではなく、生の延長、生の一部分として意識されて来たのである。それは老いかつ病めるものが徐々に迎える死であるから、緊張した努力の対象とはならなくなる。こういう変化は、思想のエヴォリュシオンと言うよりは、むしろ年齢と共に自然に体得されたもの、自然の経過成り行きと言うべきだろう。
この章もまた一五七二年に書かれたものらしく、これを最初の形において読むと(すなわち(b)(c)等の添加を飛ばして読むと)、まったく「書籍的」「非個性的」であって、モンテーニュみずからの思想判断経験というようなものはほとんど含まれていない。むしろ当時一般に le
ons と呼ばれて流行した奇事異聞集と余り選ぶところがない。だが後年結婚初夜における性交妨害、いわゆる呪縛の話がきっかけとなって、面白い著者の経験談が加わるにいたって、大きな興味をそそるようになる。要するにこの章は、「疑心暗鬼ヲ生ズ」とか「心頭滅却スレバ火モマタ涼シ」とか「病ハ気カラ」とか言うような人心の機微にふれるさまざまな面白い挿話をいろいろ含んでいるし、モンテーニュの実証主義者、科学者らしい面影も到るところに見られるし、特に終りの方には彼の近代的な歴史観も見られたりして、誠に充実した一章である。また本章全体を(a)(b)(c)三つのテキストを通じて読んで見ると、『随想録』の最初と、それがその後どのように生長したかという径路が、きわめてよくわかる。

(a)


しばしば遂げたりとの幻想のもとに、
彼らは精液を洩らし寝衣をけがす。
彼らは精液を洩らし寝衣をけがす。
(ルクレティウス)
それから、寝る時には何ともなかったのに夜中に頭に角がはえたなどいう話は別に事新しくもないけれども、イタリア王キップスの事跡はやはり特筆するに足りるものである。彼は昼間熱心に闘牛を見物し、夜はよもすがら頭の上に角をいただいた夢を見たせいで、とうとう想像の力によってほんとうに額の真中に角をはやしたというのである。強い悲しみはクロイソスの息子に、自然が彼に拒んだ声を与えた。またアンティオコスは、その心にストラトニケの美しさをあまりに深く刻みこんだために熱を出した。プリニウスは、ルキウス・コッシティウスがその結婚の日に女から男に変じたのを、見たと言っている。ポンタノ及びその他の人々も、近世においてイタリアにおこった同様の変身を物語っている。それから、彼およびその母の切なる祈願によって、
イフィスは男となりて娘なりし日の誓いを果したり。
(オウィディウス)
(b)ヴィトリ・ル・フランソワを通過した時、わたしはその堅信礼の時にスワソンの司祭からジェルマンと名づけられた男に会うことができたが、彼は二十二の年まではマリと呼ばれて、土地の人たちから娘と思われていたのである。わたしの会った時は、髯むじゃな爺さんで独り身だった。彼自ら言うところでは、飛ぼうと思ってちょっとばかりふんばったら、とたんに男のものが出たんだそうな。今でもその地方の娘たちの間には歌が一つ残っていて、それによって、マリ・ジェルマンのように男になるといけないからお転婆をしないようにと、互いに戒めあっている。こういう出来事がしばしばおこるのは別に珍しいことでも何でもない。まったく、想像がよくこのような事をしでかすのは、想像がこのことにしょっちゅう・しつこく・からみつくからなのである。度々そういう考えやそういう切なる欲望に堕ちこまないようにするには、むしろこの男のものを、娘たちの体にくっつけっきりにしてしまう方がましである。
(a)或る人たちは、あのダゴベール王および聖フランチェスコの傷痕を想像の力のせい*にする。また同じ原因で身体がいまいる場所から離れることもよくあるというし、ケルススの物語っているところのある僧は、しばしば恍惚無我の境に入り、その体は長いこと無呼吸無感覚でいたという。(c)聖アウグスティヌスのあげているもう一人の僧は、ただ人の泣き悲しむ声をきくだけで忽ちに気を失って卒倒し、独りでによみがえるまでは、ゆすぶろうと怒鳴ろうと、つねろうと
* ダゴベール王はレプラにかかったが、某所の聖水で患部をこすって癒え、そのあとにはただ傷痕のみをのこしたという。また聖フランチェスコは、或る時聖なる恍惚状態におちたところ、キリストが現われ、同時にキリストと同じく四肢に釘をうたれたと感じたそうだが、覚めて見たらそこに傷痕が残っていたという。
わたしはまた、あのおかしなリエゾン*〔糸縛〕も(我々の仲間はよほどこれにしばられているものと見え、寄るとさわるとこの話ばかりしている)、大抵は恐怖心配のせいだと信じている。まったく、わたしはこういう事実を経験して知っているのである。或る人が、それはわたしが我が身同様に責任をもつことのできる人、少しも不能の疑いのかけようのない人、魔法などにもかかるはずのほとんどない人であったが、その友達の一人が折もあろうに最も肝心なときに不思議な性交不能に陥ったという話をきいたため、自ら同様の場合に臨むや、ふとその話を思いだしてひどく想像を刺激され、とうとう自分までが同じ運命に陥ってしまった。(c)そして、それからというもの、これに陥るのが癖になってしまった。その失敗の回想がいよいよ彼を苦しめ悩ましたからである。だが彼は、遂に他の夢想によってこの夢想を
* 一五八〇―八八年版には liaison des mariages と書いている。すなわち所謂
Nouement d’aiguillette
(呪縛)のこと。すなわち、結婚妨害のおまじないで、当時はこういうことが本気で信じられたものらしい。


(a)この不幸が心配されるのは、ただ我々の心が欲望と尊敬とでひどく緊張する場合だけである。特に思いもうけぬ好機が急にやって来る場合には、人はこの障害から立ち直ることができない。わたしの知っている或る者は、よそでたんのうしかけた体をそっくり持って来て(c)この激しい昂奮を眠らせることに(a)成功した。(c)また年のせいで精力がやや衰えるに従ってかえって不能でなくなった者もある。それからもう一人の者には、その友人がこれをよけるききめあらたかなおまじないを教えて安心させたことが役立った。ここにその顛末を正直にお話しする方がよかろう。それはわたしがきわめて親しくしている・大層家柄のよい・某伯爵*が、或る美しい姫君**と結婚される折のことであった。その姫君は或る者に想いをかけられており、その当人がその日の宴会にも出てくるというので、友人一同は大いに心配した。中でも花婿の近親の一老婦人は(それはこの結婚の司会者で・しかもこれをその邸内で行おうという・お仲人であったが)、かの魔法を心配して、その旨をわたしにお漏らしになった。わたしは万事自分にお委せ下さるようお願いした。幸いわたしは、自分の手箱の中に、様々の天体の形が刻まれた小さな金の薄板を一ひら持っていた。それは頭蓋の上にぴたりと載せておれば日射病や頭痛がよけられるという有難いもので、なるほどそうするのに都合がよいように、ちょうど顎の下で結べるようなリボンが縫いつけられていた。いかにもわたしが次にお話ししようとしている手品に用いるには恰好のものであった。昔ジャック・ペルティエ***が、こんな奇妙な物をくれたことがあったので、わたしはふとこいつを一つ役に立ててやろうと思いついたのである。そこで伯爵にこう言った。「あなたもあるいはたれかれのように、あの不祥事に
* モンテーニュの学校時代の友人ルイ・ド・フォワ。
** 前者と恋仲であったディアーヌ・ド・フォワ=カンダル。後出第一巻第二十六章の冒頭解説参照。
*** ジャック・ペルティエ・デュ・マン Jacques Pelletier du Mans 医者、数学者、ユマニスト、表音式綴字法の提唱者の一人、詩人。一五七二―一五七三年ボルドーの「ギュイエンヌ学院」の校長をした。この頃しばしばモンテーニュ邸を訪れたらしい。
さて、女たちが顔をしかめ、怒ったり拒んだりするようなそぶりで我々を迎えるのはいけない。それでは
(c)結婚した者は、時は十分にあるのだから、まだだと思ったらことを急いではいけない。試みてもいけない。むしろ昂奮熱狂にみちた初夜の交わりは、不面目ながらまあやめた方がよい。もっと打ちとけた・もっと落ちついた・やがての楽しみをまつ方が、最初の拒みに驚かされ絶望して永い不幸におちいるよりはずっとましである。この癖のある者はすっかり抱き合う前に、ちょいちょい、そして幾度にも、興奮して執拗とならない程度に軽く挑み試み、いよいよ大丈夫という確信をえなければならない。自分の器官が性来従順であることを知っている者は、ただ自分の想像にたぶらかされないように気をつければよい。
人がこの器官の気随気儘をせめるのはもっともなことだ。それは用のない時にいやにうるさく出しゃばるかと思うと、困ったことに最も用のある時に意気沮喪している。そしてきわめて強硬に我々の意志と抗争し、我々の心や手の勧誘にすこぶる頑固に抵抗する。けれどももし、人がこの器官の反逆を難詰し・それを理由に彼を処断し・ようとするのに対して、この器官からの弁護を依頼されることでもあれば、おそらくわたしは、「彼の友だちである我々の諸器官が、彼の作用が重要で快いのを羨みねたんで、この喧嘩を吹っかけたのではないか。そして結束して世間を彼の敵側にたたせ、自分たちに共通な欠点を、意地悪くも彼一人に転嫁しようとしているのではあるまいか」と、まず疑ってみるであろう。まったくよく考えていただきたい。我々の肉体の諸器官の中で、しばしばその作用を我々の意志に対して拒まないものが、しばしばそれを我々の意志に反して行わないものが、ただの一つだってあるだろうか。それらの器官にはそれぞれ固有の感情があって、我々の賛否には関係なく自己を目覚ましたり眠らせたりしているのである。しょっちゅう我々の顔面の勝手な動きは、我々が秘密にしているないしょの思いを暴露し、我々を人々の前に裏切り示すではないか。かの器官を昂奮させるあの同じ原因は、我々がしらないうちに心臓をも肺臓をも脈をも昂奮させる。かわいらしいきれいな物を見れば、いつしらず我々の体じゅうに情熱の炎がひろがるからである。我々の意志の承諾ばかりでなく、我々の思考の承諾すらもえないで、あるいは高ぶりあるいは静まるのは、ただこれらの筋肉や脈管だけであるか。我々は、自分の髪の逆立つことを、我々の皮膚が欲望や危惧によって打ちふるえることを、とめることができない。手はしばしば我々が少しも持ってゆこうと思わない所に向って伸びる。いよいよとなると、舌はもつれ声は喉にからまる。揚げ物にする物がなくて、むしろ食欲を抑えたいと思う時だって、飲食の欲は、それに服従するもろもろの器官を動かさずにはいない。それはあのもう一つの欲望と少しもまさり劣りはない。いや時をえらばず勝手に我々を放棄することも変りがない。お腹の中を空にする器官も、我々の意見を越えまたこれに反して、それ特有の収縮開閉をする。腎臓を空にする器官も同様である。我々の意志が全能であることの証拠として、聖アウグスティヌスは、そのお尻に思うがままのおならをさせた人を見たと言ったが、それからその註解者のヴィヴェスは、更にこれを裏書して、読み上げる歌の調子にあわせておならをするという当時の人の実例をもう一つ挙げたが、いずれもこの器官の絶対従順を支持するには足りない。まったくこの器官こそ、通例、最も無遠慮で最も時をわきまえないのである。それにわたしは、殊の外に騒々しくて手におえないお尻を知っている。それは四十年間その持主に絶えず休みなしにおならをさせ、とうとうその人を死にまでつれて行った。
けれども我々の意志くらい(我々はこの意志の権利をまもるためにこういう非難を提出するのだが)、乱暴で言うことをきかないかどで、最も我々が反逆者よ反抗者よと呼んで然るべきものはないのではないか。意志は、我々がこう欲してほしいと思うことをいつも欲するか。我々が彼に欲するなと命ずることをたまには欲しないことがあるか。否。明らかに我々の損になるようなことをさえ欲するではないか。それはまた我々の理性の結論に導かれてゆくか。否。そこで結局、わたしは我が依頼人殿のためにこう言うであろう。「以上の事実によって、この件は共同訴訟人の一人と不可離不可分のものであると思われるのに、皆してただ彼一人を相手どっている点を、しかも双方の事情を考えるに到底被告ひとりに転嫁することのできない論難攻撃を彼一人に加えている点を、なにとぞ御考慮願いたい」と。これで告発者たちの私怨と違法とは明々白々である。だがそれはともかく、弁護人と裁判官とが下らない討論をしたり宣告をしたりしている間も、自然はやはりその歩みをやめないであろう。自然がこの器官に多少の特権を与えたって、それはむしろ当然である。この器官こそ、死すべきものに唯一つ不死の業をなさしめるのであるから。だから、生殖はソクラテスにとって神の業であった。そして恋愛は不死の欲求であり、それ自ら不死のデーモンであった。
(a)或る人はおそらくこの想像のおかげで
* フランソワ一世のマドリッド幽閉以来、瘰癧にかかったスペイン人たちの間には、フランス王に撫でてもらうと治るという迷信が行われた。そのために大勢のスペイン人がフランスにやって来た。
ある婦人は、ふとパンと一緒にピンを呑み込んだと思うと、その
しかし以上の事柄はすべて、精神と肉体とが密接な関係をもっていて互いにその運命を分ち合う事実に帰することができる。けれども、想像がただその人の肉体の上だけでなく、ときには他の人の肉体の上にまで影響を及ぼすというのは、これはまた別の問題である。まったく、或る一つの肉体がその病気を、例えばペストや疱瘡や眼病などを、隣りの人にうつすように、
病める眼を見ればその眼もまた病む。
多くの病は、かくの如くにして人より人へとうつる。
多くの病は、かくの如くにして人より人へとうつる。
(オウィディウス)
激しくゆり動かされた
何者の眼とも知らず、わがやさしき羊をいざなえり。
(ウェルギリウス)
この魔法使いというやつは、わたしにはとうてい信じられない。だが、婦人たちがそのお
(b)論説*の方はわたしのものであるが、これは理性の証言によって立っているので、経験の証言によっているのではない。実例の方は皆さんがいくらでもつけ加えてくださればよい。現在それを一つもおもち合せでなくても、それは捜せばいくらもあるものだとお考えにならなければいけない。事件は数多くあり、その種類もいろいろありうるのだから。
* discours すなわち th
orie, conclusion の意味である。

だから、わたしが我々の考えや行いについて論じているこの研究の中には、お話めいた証拠も、それがありそうに思われる限り、真実の証拠と同様にとり入れてある。それらは、あるいはローマであるいはパリで、あるいはジャンにあるいはピエールに、起ったにしろ起らなかったにしろ、やはり人間の能力の一面なのであって、それをわたしは、それらのお話によって教えられ、かつ得るところもあるからである。わたしはそれを見て、それが影であろうと本物であろうと、等しくそれから益をうける。そして、もろもろの物語がしばしばもっているいろいろな教訓の中で、わたしは最も稀で記憶すべきものをとって、わたしの役にたてる。世に作者は多いが、彼らの目的はみな事件を物語ることである。わたしの目的は、果してそこまでゆくかどうかわからないが、むしろ起りうる事柄について語ることであろう。学校では、全く類似の事柄がないときでも、それらを仮想することが当然のこととして許されている。だが、わたしはそんなことはしない。そこへゆくとわたしはすこぶる小心翼々で、どんな歴史家にもまして事実に忠実である。わたしがここに述べている実例の中でも、わたしはなされた・または言われた・と聞いた事柄は、最も小さなつまらない事情にいたるまで、あえて変えることをしなかった。無知のために事実と相違したことを言うことはあるかも知れないが、わたしの
* ローマの政治家、歴史家、当時の現代史家。
(a)アテナイ人デマデスは、その町の埋葬用諸用品の販売を業とする一人の男を、「あまりに利益をむさぼりすぎる。しかもその利得は多くの人々の死がなくては生じえないものだ」と言って処罰した。この裁きは間違っていたと思う。なぜなら、どんな利得だって他人の損失とならないものはないし、そんな風に考えるとすべての利得を処罰しなければならなくなるからだ。
商人が栄えるのはただ若者の乱費のためだし、百姓が栄えるのはただ麦が高いためだし、建築家が栄えるのは家が倒れるため、裁判官が栄えるのは世に喧嘩訴訟がたえないためである。聖職者の名誉とお仕事だって、我々の死と不徳から生ずるのだ。「医者は健康がきらいで、その友人が健康であることさえよろこばない。軍人は平和がきらいで、自分の町の平和をさえよろこばない」と古代ギリシアの喜劇作者は言ったが、その他何でもそんなわけである。いや、なお悪いことには、皆さんがそれぞれ心の底をさぐってごらんになるとわかるが、我々の内心の願いは、大部分、他人に損をさせながら生れ且つ育っているのである。
そう考えているうち、ふとわたしは、自然がこの点においても、その一般的方針にそむいていないことに気がついた。まったく博物学者は、物の出生・成長・繁殖はそれぞれ他の物の変化腐敗であると説いているのである。
まことに物その形と性質とを変えるとき、
前にありしものの死のあらざることなし。
[#改ページ]前にありしものの死のあらざることなし。
(ルクレティウス)
この章のなかにも奇事異聞集の傾向が多分に含まれている。なにしろ古代が研究されアメリカ大陸や東インドなどへの航路が発見された時代のことである。歴史家も旅行家もモラリストも、こぞって中世以来の人間観を修正しようと、各地各時代の奇異奇怪な風習の実例を集め出したのは当然である。モンテーニュもまた、すでに註したとおり、その例に洩れなかった。だがモンテーニュはただそうした実例を集めるだけでは満足せず、更にそれらを比較しまた批判もしている。すなわちこの章の意義は、それがモンテーニュの道徳論ないし政治論に対する、いわば序論をなしているところにある。ここにはモンテーニュの二つの思想が述べられている。一、「習慣の力は恐ろしいものでわれわれの理性をも盲にする。しばしばわれわれは盲目的に習慣の奴隷となっている」(ここからやがて、道徳や法律は絶対的なものではないという彼の革新的論説が生れる)。二、「われわれの習慣はそのように根拠薄弱なものであるが、それにしても賢者は習慣を尊重する」(これが彼の道徳上政治上の保守主義を生む)。以上二つの考えはやがて第二巻第十二章において再び取りあげられ、いよいよ花々しく展開される。我々はそこにこの章においてすでに挙げられている実例が再び挙げられ註釈されて、いわゆるモンテーニュの懐疑主義の礎の一つとなっているのを見る。そして遙かに第三巻第一章「実利と誠実について」における堂々たる彼の政治論に発展する。すなわちそういうモンテーニュの思想展開の発足点として、この章は特に意義が深い。だがここに特に注意しなければならないのは、とかく頑固な保守主義者がこれらの諸章を浅薄に解釈して、モンテーニュを自分の仲間ででもあるかのように誤り信ずることである。だが彼は一方で習慣を、特に陋習を、思いきって真理や理性に照らして批判している。人間が勝手にでっちあげた法令を自然の法則につき合わせているばかりでなく、各国各時代の思い思いの政治を、全世界に通じる、いわば神の政治と対比することさえもした。のちに出て来る「カンニバルについて」(一の三十一)の章や第二巻最終章「父子の類似について」などには、モンテスキューやディドロやルソーを想わせる民主主義的、社会主義的傾向さえ読みとられる。われわれはこれらのことを、決して読みおとしてはならないであろう。なお習慣の問題はモンテーニュがいろいろな時期にしばしばふれたことであるが(一の三十一、一の三十六、一の四十九、二の十二、二の二十七、三の十三)、その意見は前後を通じてこの章の所論とほとんど変っていない。
(a)或る百姓の女が、子牛をその生れ落ちから撫でたりかかえたりすることを覚え、ずっとそれをつづけているうちに遂にそれが習慣となって、しまいには子牛が大牛になってからもなおそれを抱いて歩いたという話があるが、始めてこの話を作り上げた人は、きわめてよく習慣の力のほどをわきまえていたのだと思われる。まったく習慣というものは、本当に乱暴で陰険な女教師なのである。それは少しずつ、そっと、我々のうちにその権力の根を植えつける。けれども、始めこそそんなに優しくつつましやかだが、一たび時の力をかりてそれを植えつけてしまうと、たちまちに怖ろしい・暴君のような・顔をあらわす。そうなると、我々はもう、目を上げてこれを見る自由すらなくなしてしまう。われわれは、しょっちゅう習慣が自然の法則をねじまげるのを見る。(c)


(a)そこでわたしは、(c)プラトンの『国家』にある洞窟*の話を本当だと思う。(a)きわめてしばしば習慣の権威の前に医学上の理論規則を捨てる医者があるというのも、本当だと思う。それからまた、習慣によって自分の胃を毒を容れるのに慣らしたという王様の話も、アルベール・ル・グランののべている
* プラトンの『国家』(七)によれば、地獄に一つの洞窟があって、死者はみな、次の世の暮し方に関する命令をうけるまで、しばらくそこに留まる。ところが、再び地上にかえってその好む職業に従うことをゆるされる時は、誰もみな例外なく前世の職業を再びとる。


これらの実例は
* 『随想録』の中にはこの種の地口 jeu de mots がかなり沢山ある。一々訳出できないが、時折それをルビに表示してみた。estranger と estrange とは発音が似ていて意義にちがいがある。
** 後出第三巻第三章に、モンテーニュの住んでいた塔の詳しい叙述がある。これは道徳的な父ピエールの感化であろう。更にさかのぼればエラスムスの精神の結果であろう。
わたしは、我々の最も大きな不徳は我々の最も幼い時代からの癖にほかならず、我々の主要な教育は乳母の手の中にあると思う。子供がひよこの首をひねったり犬や猫を傷つけて面白がったりするのを見ることは、母親のなぐさみになっているし、或る父などは、愚かな話だが、息子が無抵抗な百姓や下僕を
* 後出第三巻第二章「後悔について」の章の中では、こう言っている。「わたしは自己を裁判するために、自分の法律と自分の法廷をもっている。そして、よそに訴えるよりもまずそこに訴える……」。
けれども習慣の力が一そうよく認められるのは、それが我々の霊魂の中に不思議な印象を刻みつける場合である。霊魂の中では習慣が肉体におけるほどに多くの抵抗にあわないからである。実際習慣は、我々の判断や信仰の中で、どんなことでもできないことはないのである。ずいぶんと奇妙な考えを(あれ程の堂々たる大国やあれ程の能ある人物までが迷わされた、あのもろもろの宗教がおしえる大嘘はしばらくおく。まったくこうした部門は我々人間の理性の埓外にあるのだから、神様の恩寵によってこれに関する特別の知識を賦与されていない者は、よしこれに迷ったからといってもまだ許されてよいと思う*。だがそれ以外にも)、ずいぶんと奇怪千万な考えを、習慣はあちこちの地方に、まるで法律のようにおしたててしまったではないか。(c)次のような古人の叫びは甚だもっともである。


* 形而上の問題に関しては、モンテーニュは常に不可知論の立場をとる。しかしその他の方面では、彼は理性主義者・実証主義者・科学者の立場をとり、旧来の習慣を検討し、そのヒューマニズムに反するものはこれを廃しまたは改めようと努力する。彼は懐疑主義者ではなく、学問を信じ進歩を信じた人である。
(c)ここに一つお話をさしはさもう。或るフランスの貴族はいつも手鼻をかんだ。これは我々の作法がはなはだ厭うところである。そこで彼はその申訳に(それは当意即妙をもって有名な人であったが)、わたしにこう問いかえした。「そもいかなる特権があってこの穢ない排泄物は、我々をしてこれをうけるのに奇麗なハンカチーフを用意せしめるのか。しかもそれを包んでだいじに懐ろにしまっておけとは何たることか。その方がずっときたならしく、気味がわるい。むしろほかの排泄物と同じように、どこへなりと吐き捨てたらよい」と。わたしは彼の言うことも一理なきにあらずと思った。実際習慣が我々からそれが奇怪だという感覚を奪ったのであって、もしそれがよその国のこととして語られたなら、我々もまたきわめてきたならしいと思うに違いないのである。
奇跡は我々の自然に関する無知から生ずるので、自然の本質から生ずるのではない。慣れは我々の判断の眼を眠らせる。野蛮人が我々にとって不思議なら、我々もまた野蛮人にとって同じように不思議なのであって、彼らのみが特に不思議がられる理由をもっているのではない。このことは、もしめいめいがそれらのめずらしい実例をあれこれと見まわしたのち、自分自身の場合を省みて、公平に両者を比較することができるならば、誰しもが認めるところであろうと思う。人間の理性は、それらがどんな形のものであろうと、我々のあらゆる思想習慣がほとんど同じような割合でぶちこまれている染料のようなもので、材質においても限りなく、色合においても限りないものなのである。前の話にもどると、(b)或る民族の間では、その王妃と王子とを除いてはなんぴとも仲介なしに王様と話をすることがない。また同じ一つの種族の中では、処女はその恥ずかしいところを人目にさらすのに、結婚した婦人はこれを注意深く包み隠す。よそで行われている次のような習慣は、これと多少の関係がある。というのは、貞操がそこでは、ただ結婚生活のためにのみ重んぜられているのであるから、処女の方は気随気ままの振舞ができるし、懐妊しても特殊の薬を用いて、人の目の前でおろすこともできるのである。またよそでは、結婚するのが商人であれば、その祝いに招かれたすべての商人が、花婿よりも先に花嫁とねる。そしてその数が多ければ多いほど、花嫁はその忍耐と能力とをほめ称えられる。役人が結婚する場合も同じこと、貴族でも誰でも同様である。ただ百姓とか、ごく卑賤のものの場合だけが違う。まったくその場合は、ことに当るのは領主なのである。だが、みんなはその際、結婚中は貞淑であれと、厳重に勧めることを忘れないのである。ある国では男娼が公然と認められており、男同士の結婚すら行われている。また或る国では、妻たちは夫たちと一緒に戦争にゆく。戦闘に参加するのみならず司令にさえたずさわる。或るところでは、鼻や唇や頬や足の指に環をおびるのみならず、乳首や
(a)ここでは人が、人間の肉をもって常食とするかと思うと、あそこでは、或る年に達した父を殺すのが孝行とされている。またよそでは、父がその子のまだ母の胎内にあるうちから、これは捨てよ殺せよ、これは養い育てよ、と命ずる。よそでは、老いた夫はその妻を若い者に貸しその用に供する。よそでは、妻が共有せられ、それが罪ともならない。或る国では、その接した男の数だけの毛糸もしくは絹糸の玉を裳につけ、名誉のしるしとする位である。更にまた習慣は、女だけの国家をも作ったではないか。彼女らの手に武器をとらせ、彼女らに軍隊を組織させ、また戦争さえもさせたではないか。また哲学が総がかりになっても最も賢明な頭脳に植えつけることができなかったことを、習慣は独りの力で最も粗野な俗衆に教え込んだではないか。現に我々は知っているのである。その上下を通じて、死が蔑視されるばかりか喜び祝われている国さえ、幾らもあったことを。七歳の少年が死ぬまで顔色をかえずに、鞭の苦痛に堪えた国もあったことを。富がはなはだ軽視されていて、最も賤しい男さえ黄金の一杯に入った財布を拾おうともしない国もあったことを。否そればかりではない。あらゆる食料に富みながら、パンと
(b)習慣はまた、あのケオス島において、七百年もの長い間、いかなる妻もいかなる娘もその徳を傷つけた
(a)要するに、わたしの考えるところでは、世に習慣のなさざるもの、なし得ざるものは、一つとしてないのである。だから、ピンダロスがこれを呼んで「世界を
(c)或る男は、父をなぐりつけているところを人に見とがめられて答えるには、「これはわが家の習わしなのだ。わたしの父はこのようにわたしの祖父を打った。わたしの祖父はこのようにわたしの曽祖父を打った。だから」とその息子を指さし、「この子も、やがて今のわたしの年頃ともなれば同じようにわたしを打つであろう」と言った。
また父の方も町なかを引き回され小突きまわされながら或る門のところまで来ると、いきなり「とまれ!」とどなった。まったく、彼はその父をそこまでしか引いて来なかったし、これが、彼らの家で子供たちがその父に対して加える習わしになっていた、いわば家伝の虐待の限界であったのだ。アリストテレスによれば、病気によってばかりでなく習慣によってもまた、女はしばしばその髪をむしり、その爪を噛み、炭や土を食べる。また、自然によっても習慣によっても、男は男と交わる。
良心の掟は自然から生れると言われるが、むしろそれは習慣から生れる。めいめいは、その周囲で認められている思想習慣をおなかの中で尊重しているから、それからはずれると悔いを感ぜざるを得ないし、それを守れば必ず皆から称えられるのである。
(b)昔クレタの人たちは、誰かを呪詛しようとするときには、「かの者を悪しき習慣にひき入れ給え」と神々に祈った。
(a)けれども、習慣の威力の第一の結果は、習慣が我々をしっかりと握ってはなさないことであって、そのためにその把握から自己を取りもどし、自己に立ち帰り、その命令を理知に照らして判断することなどは、もはやほとんどできなくなっている。ほんとうに、我々は母親の乳と共にもろもろの習慣を呑みこむのであるから、そして世界の姿は習慣という状態において始めて我々の眼に映るのであるから、いわば我々はこのような歩みに従うという条件つきで生れて来たようなものである。そして、現に我々の周囲で信用を博しているところの・そして我々の父たちの種によって我々の霊魂の内に浸みこんでいるところの・あの共通の思想が、いかにも一般的自然的な思想であるかのように思われるのである。
(c)そういうわけで、習慣の埓外にあるものは理性の埓外にあるものと、信ぜられるようになる。だがそう考えることが、最もしばしばいかに不合理千万であるかは、神様が御承知である。もしも自己を研究している我々が会得したように、みんなが格言を耳にするごとに、すぐにそれがどんな点で自分の身にあてはまるかを考えるならば、いずれもそれが単にうまい言葉であるだけでなく、いつも愚かな自分の判断に対する一大痛棒であることを悟るであろう。ところが人は、真理の忠告と教訓とを庶民にだけ与えられたものと考え、少しも自分のためとは考えない。それらを自分の日常生活の上には適用しないで、ただその記憶の中にしまっておくだけだ。まことに愚かな・まことに無益な・ことだと思う。再び習慣の力にもどろう。
自由と自治とのうちに生い育った人民は、他の政体をみんな奇怪な自然に反するものと考える。君主制にならされた人たちもまた同様である。運命が彼らにいかに変革の便宜を与えても、いな彼らが非常な困難の末にようやく或る君主の束縛を脱しえたその時でさえも、彼らは再び同じ苦労を重ねて、またもや別の君主をかつぎあげる。心底から君主制を呪う気にはなれないのである。
(a)ダレイオスが或るギリシア人たちに向って、「幾らやったらお前たちはインドの習慣にならって死んだ父を食うかね」とたずねたところ(まったくこれが彼らインド人の作法であって、彼らは、自分たちの体よりもよい霊廟を父たちのために与えることはできないと、考えていたのである)、「どんなお宝を賜わりましょうともそんなことはできませぬ」と答えた。けれども同じようにインド人たちに向って、彼らの作法をすててギリシアのそれを取り、その父たちの遺骸を焼くようにと説き勧めたところ、彼らはいっそうびっくり仰天したのである。誰でも皆そんなものである。習慣は我々に物事の真実の姿をかくすからである。
はじめて見れば
いかに偉大にして嘆賞すべきものなりとも、
慣るれば人、さのみにこれに驚かず。
いかに偉大にして嘆賞すべきものなりとも、
慣るれば人、さのみにこれに驚かず。
(ルクレティウス)
かつてわたしは、我々の掟の一つで、我々の周囲からかなり遠く離れた所でまで厳守されていた或る掟の一つを、擁護しなければならないことがあったが、ただよくやるように法律や先例の力にばかりたよってこれを守らせるのがいやであったから、どこまでも溯ってその起源を尋ねてみたところ、その根拠があまりにも薄弱なので、わたしはそれをあくまで人に
* おそらくこれは、年若き評定官時代のことであろう。彼は本式に法律の勉強をしていなかったから、却って問題ごとに一々根本的に問題の本質を考えざるをえなかったのであろう。
まことに純潔は一つの美徳である。それが有益なものであることも十分わかっている。けれども、これを自然に準拠して論じたり擁護したりすることは甚だむつかしい。むしろ習慣や法規によってする方がやさしい。物事の根本的普遍的な理由は、詮索がむつかしいのである。だから、我々の先生たちも、ちょっとその表面をさわってみるだけで素通りしてしまう。でなければ、単に触れることさえもしないで、はじめから習慣の袖の下に飛びこみ、そこに安価な得意と勝利とを貪る。あくまであの根源〔すなわち自然〕の中によりどころを得ようと執着する人々にいたっては、なおさら失敗する。そして野蛮な意見におちる。例えば、クリュシッポスのごときは、その著書の至るところに、自分はどんな不倫な交わりをも問題にしないと放言している。(a)あの習慣から来る強力な偏見を脱け出ようと思う者は、何の疑いももたれずに確信されているたくさんの事柄が、ただただそれらに伴う慣例の白髯と皺とに支えられているにすぎないのを見るであろう。けれども、一たびこの仮面をひんむいてことを真理と理性との前に引き出して見ると、それまでの自分の判断がいわばひっくりかえったみたいに感ずるであろうが、そのかわり、前よりもずっと確かな基礎を得たような感じがするであろう。わたしはそのとき、その人に向って問うてみたいと思う。「早い話、国民が未だかつて聞いたこともない法規に従うことを余儀なくされており、結婚・贈与・遺言・売買等あらゆる日常の問題において、その国の言葉では書かれたことも布告されたこともないために国民がそれを知ろうにも知る由のないそれらの法規に縛られて、いやでも公証人や弁護士にお金をはらって何とかしてもらわねばならないということくらい、べらぼうな話がありますかい」と。(c)これは、「人民の商売は自由無税にしてたくさん儲けさせよ。喧嘩訴訟には莫大な税金を課して金がかかるようにせよ」と王に向って進言した、あのイソクラテスの名論によるのではもとよりない。むしろ道理までも売買し、法規までも商品なみに取扱おうとする、奇怪千万な意見によるものである。(a)わたしは次のことを偶然に向って感謝しなければならない。わが歴史家の言うところによれば、シャルルマーニュが我々にローマ帝国の法律をおしつけようとしたときに第一にこれに反対した者は、わたしの生国ガスコーニュの一貴族であったということを。現に次のような国があったとしたらどうであろう。そこでは、習慣によって合法的に裁判官の職が売買され、裁判が現金払いでなければ行われず、法的に、裁判がこれに支払う金を持たない者には拒絶される。そして、この商品〔すなわち裁判〕が非常に重んぜられる結果、一国のうちに訴訟をつかさどる人々からなる第四の身分*が、僧侶・貴族・庶民という旧来の三つの身分のほかにできあがる。この第四の身分は法令を把握し我々の生命財産に関する至上権をもつから、貴族とは別個の一団体となる。したがってその国には二つの法律、すなわち名誉の法と正義の法とを生じ、多くの場合にそれらが全くぶつかりあう(それで前者が侮辱をうけてがまんしている者を厳重に罰すると、後者はあえて復讐を企てる者を厳罰に処する)。武人の義務によると侮辱を忍ぶ者は名誉と貴族の位をうばわれるし、市民としての義務によると仇を討つものは首をはねられる(その名誉の上に加えられた非礼に報いようとして法に訴えると、自らの名誉をけがすものと見なされるし、法によらずに直接行動にでると、こんどは法によって罰せられる)。そしてこんなにまでに相異なる二つの階級が、やはりただ一人のお頭を戴き、一方は平和を一方は戦争をつかさどる。一方は利得を守り一方は名誉を戴く。一方は学問を一方は武勇を、一方は言葉を一方は行為を、一方は正義を一方は勇気を、一方は道理を一方は力を、一方は長い衣を一方は短い衣を、持つ。これくらい恐ろしいことがまたとあろうか。
* 一五八八年の Etats g
n
raux(国会)には、高等法院は本当にこの第四身分として出席した。モンテーニュのこの仮説はとうとう事実となったのである。


その国の法に従うは美わし。
(クリスパンの『ギリシア格言集』より)
またこういう考え方もある。つまり、とにもかくにも現在認められている何かの法律を変更することに、果してそれほど明らかな利益があるのかどうか。それは大きな疑問である。これを動かすのはむしろ有害ではあるまいか。なぜなら、一つの政体はいわばいろいろな部分が緊密に結合してでき上った建物のようなもので、全体がその影響を感じないようにその一部分を動かすことは、とうていできないからである。だから、トゥリオン人の立法者は布令して言った。「旧法の一つを廃止しようとする者、あるいは何か新しい法律を設けようとする者は、必ず首に縄をかけて人民の前に出でよ」と。つまり、万一その革新が皆の賛成をえない場合には、立ちどころに首をしめられるように、というのであった。またラケダイモンの立法者は、一生かかって、自分の布令がただの一カ条といえども変更されないという確約を、その市民から得たのである。フリュニスが楽器に加えた二筋の絃をかくも荒々しく断ち切ったというあの民選長官は、楽器がそれによって改良されたかどうか・調和がいっそう完全になったかどうか・などということは、すこしも考えていなかったのである。ただ古式を変更したというだけでこれを斥けるに足りると思ったのである。マルセーユの裁判所に今なお錆びて用に立たぬ一ふりの刀が保存されている意味も同じことである。
(b)わたしは改革が嫌いである、それがどんな顔をしていても。それは当然のことだと思う。現にわたしは、そのはなはだ有害な結果を幾つも見ているのだ。久しい前から*我々に迫っているあの改革も、それは全部をなしとげたわけではないが**、人はこう言っても間違いではないと思う。「それは間接にいろいろなものを産み出した。不幸や破壊をまでも産みだした。そしてそれらは、その後、改革とは別に、改革とは逆方向に、行われている。これでは、改革はまず自分自身を改革してかからなければならない***」と。
ああ、わが放てる矢こそ、われを傷つけたれ。
(オウィディウス)
国家に動揺を与えるものは、いつも真先にその破滅にまき込まれる。(c)攪乱の結果は、かきまわしたものの手に残らない。結局他の漁夫たちのために水を打ち波をあげただけにおわる。(b)堂々たる大きな建物のような我々のこの君主国も、今やいよいよその老齢にのぞみ、この改革のためにその統一と組織とを解体破壊されて、あのような害毒の思いのままなる侵入をこうむりつつある。(c)王者の尊厳は、古人の言ったように、その頂上から中腹まで堕ちるのは容易でないが、中腹からどん底までは
* 一五八八年版には「二十五年ないし三十年以前から」とあるのを、モンテーニュはボルドー本で「久しい前から」と変更したのである。宗教改革運動のことをさしている。
** 「それは全部をなしとげたわけではないが」とはいささか皮肉である。「まだ批判を下すのは早いかも知れないが……」という意味だが、その害はすでに目にあまるものがあった。モンテーニュは次に断然それを指摘している。
*** 改革は勿論そう意図したわけではあるまいが、いろいろな害毒をうみ出した。その害毒は改革本来の崇高な目的をわすれて行われた。こうなると、何を改革するよりも、「改革はまず自分自身(の悪)を改革してかからなければならない」ことになる。これがモンテーニュの社会時評である。彼は改革がきらいなのではなく、改革を自ら邪魔する似而非 革命家をにくむのである。
* 創始者とはカルヴァン、ルーテル等の真の宗教改革者を指し、模倣者とはこれにならったカトリック教会内部の革新者、ないし神聖同盟派の人々を指している。




ローマの元老たちは、宗教上の祭祀に関して自己と民衆との間に紛争が生ずるや、あえて次のような逃げ口上を並べた。


(b)キリスト教は、それがはなはだ正義にかない有益であるというしるしをいろいろもっているが、その最も明瞭なしるしは、国憲の尊重と国体の擁護とを最も厳格に命令している点である。知恵ある神は、この点に関して何という驚嘆すべきお手本を我々にお残しになったことか。神は、人類の永遠の幸福を確立し、死および罪に対して自己の光輝ある勝利を完うしようと念願せられながらも、ひたすら我々の国家的秩序の命ずる所に違背しまいとなされたではないか。そしてその知恵の発展をも、これほど高い目的をもち・これほど世のためになる・その知恵の指導をも、我々の盲目にして不正なる慣習慣例に服せしめ給うたではないか。そのために愛する多くの選ばれた人々の罪なき血が流されることをも忍ばれたではないか。あの尊い果実を実らせるために長い年月の浪費をも忍ばせられたではないか。
その国の制度法規に従う者の言い分と、それを使用変更しようと企てる者の言い分との間には、大きな差別がある。前者は自らの申訳のために、単純であり従順であり先例を重んじるのだと主張する。つまり、従ってさえいれば悪に堕ちようはずはなく、せいぜい不幸くらいですむからである。(c)


けれどもあのイソクラテスは、「弊害は過度よりもむしろ節度から生ずる」と言っている。(b)後者の立場はずっと苦しい。まったく選択と変更とにたずさわるものは、判断の権威を不当に
コッタはうまいことを言っている。


我々の現在の争いの中には、あるいは廃すべき・あるいは復活させるべき・さまざまな問題がある。いずれも重大深遠な問題であるが、両派の理由と根拠とを確実に認識し得たりと自負しうるものが、果して幾人いるだろうか。それは神様が御承知である。数といえば数であるが、そんな数では人を動かすだけの力はない。だが、あの大衆の方はどうか、彼らは一体どこを指してゆくのか。いかなる旗印の下に進もうとするのか。彼らの薬から生ずるものは、効目のない見当ちがいの薬から生ずるものと同じである。それは我々の体内の体液を清めようとしたが、いたずらにそれを紛争によって煽り、たかぶらせ、いらだたせたばかりであって、問題の体液*は依然として我々の内に残っている。その薬は弱くて我々の体内を掃除することができず、かえって我々を弱くした。そのために我々は、今更これを吐き出すこともならず、ただただその作用のために、体内に長い苦痛をこうむるばかりである。
* 古代医学は、人間の病気や気分気質を、血液、痰、黄胆液、黒胆液という四つの体液の混合不調によって説明した。
(b)だから乱暴に侵入して来る革新の勢力に抵抗しようとして、あらゆる場合あらゆる事柄にあくまで規則を守りとおそうとするのは、戦場の鍵を握っているその相手というのが、その目的遂行のためには手段を選ばず、自派の利を追うほかには法もなければ秩序もないという手合であるから、いよいよもって危険であり損である*。(c)


* 以上三、四頁の間にモンテーニュはその政治的立場を明らかにしているが、例によってきわめて微妙な述べ方をしている。読者はどこに筆者の真意があるかを察しなければならない。第二巻第十二章「レーモン・スボン弁護」の章ではそれが最も著しいが、モンテーニュは機微な問題を論ずる場合、いつもその結論を普通あるべき場所におかず、よくパラグラフの中間に忍びこませている。要するに彼は新教徒のまきおこした内乱を非難しているけれども、決して強硬なカトリック派を支持してはいない。そして国王には彼らに対して若干の譲歩をするように、すなわち寛容の精神をもってのぞむようにすすめている。彼はミシェル・ド・ロピタルやド・トゥ De Thou などと政見を同じくし、いわゆるポリティーク党 Politiques lib
raux といわれる政派を支持している。拙著『モンテーニュとその時代』索引により「モンテーニュの政治的態度」「ポリティーク」等の各項参照。


[#改ページ]
この章は、セネカの「寛仁について」(De Clementia)のなかにアウグストゥスとキンナの話を読んだのが動機で、ふとそれと正反対のギュイズ公の実例が思い出されて出来たものと思われる。セネカの『寛仁論』はモンテーニュがいろいろな時期に繰り返して読んだ本であるから、この随想の時期を確定するわけにはゆかないが、とにかくモンテーニュは以上二つの相反する実例から、われわれの行動においては運命の支配が圧倒的に強いこと、われわれの判断はすこぶる不確実であること、従ってわれわれは飽くまで慎重でなければならないことを学んだので、われわれはここに第二巻第十二章「レーモン・スボン弁護」における彼の懐疑論の萌芽がおもむろに成長しつつあることを感ずる。
前章で政治上の寛容(トレランス)が詳述された後をうけて、ここに道徳上の寛仁(クレマンス)が語られるのは、例によってなかなか配列の妙をえている。モンテーニュにとって、政治は常にモラルの上にたっている。
前章で政治上の寛容(トレランス)が詳述された後をうけて、ここに道徳上の寛仁(クレマンス)が語られるのは、例によってなかなか配列の妙をえている。モンテーニュにとって、政治は常にモラルの上にたっている。
(a)フランス宮中司祭長ジャック・アミヨは、或る日のことわが国の親王様のお一人〔フランソワ・ド・ギュイズ〕の徳をたたえながら(そのお方は御先祖こそ外国*の方でいらせられたが、れっきとしたわが国の親王様でいらせられたのだ)、わたしに次のようなお話をなされた。それはわが国における最初の宗教戦争の際、ちょうど我々がルアンの城を囲んだ時のことである。その親王様は、王太后様から御自分の命にかかわる企てがめぐらされている由を告げられたのみならず、特に数度のお手紙によって、その張本人は、かねてからその目的のためにしげしげ親王家にお出入をしている者で、アンジューだかメーヌだかの一貴族であるということまで教えられたが、誰にもそのことをおあかしにならなかった。けれどもその翌日、我々がそこからルアンの砲撃を行おうという聖カトリーヌの山の上を(というのはちょうど我々がルアンの町を取りかこんだ時のことなのである)、前記の宮中司祭長ともう一人の司祭とを従えて巡視しておられると、たまたま太后様から告げられたその貴族の姿をお認めになったので、早速これをお召しになった。その者が御前にまかり出ると、早くもその心騒ぎのために顔の色青ざめ、わなわなと震えているのを御覧になりながら、こう仰せられた。「何々殿よ、あなたはちゃんと、なぜわたしがあなたを呼びとめたのかを察していられる。お顔の色がそれを物語っている。何事もお隠しなさるな。わたしは何もかも知っているのだから、おかくしになってはおためにならない。これこれしかじかのことを(と例の企ての最も秘密な部分をことこまかに指摘して)、よもやご存じないことはあるまい。お命はいただかぬ故、包まずありていに白状せられよ」。かわいそうにその貴族は、もはや逃れるに道のないことを悟ったので(まったく何もかも同志の一人によって王太后様に暴露されていたのである)、ただただ手を合わせて親王様のお慈悲を乞うより仕方なく、いきなり御前にひれ伏そうとすると、親王様はこれを遮り止め、お言葉を続けられるには、「もっとちかくお寄り下さい。わたしがいつかあなたに憂き目を見させたことがありましたかね。私怨をもってあなたがたの一味の誰かを害したことがありましたかね。わたしはあなたを知ってからまだ三週間にもなりません。一体どんな理由に動かされて、あなたはわたしの命をうばおうと企てられるのですか」。その貴族は震える声で答えた。「それは決して個人的な動機からではございません。わが党全体の主張のためでございます。或る人たちがわたくしに向って、どのような方法にてもあれ、あれだけ強力な教敵を亡きものにするのは、最も神慮に叶うゆえんであると、説きすすめたからでございます」「それでは」と親王様はおつづけになった。「どれほどわたしの奉ずる宗教があなたがたの披瀝するそれよりも寛大であるかを見せてあげよう。あなたがたの宗教は、わたしの側から何の侵害もうけていないのに、わたしの言うこともきかずに、わたしを殺せとあなたに命じた。しかるにわたしの宗教は、あなたが理由なくわたしを殺そうと決意したのを知っても、なおあなたを許すようにと、わたしに命じている。さあ、いいから行きなさい。さがりなさい。二度と再びわが前に現われたもうなよ。もしあなたが賢明ならば、今後はことを企てるに当って、もっと信義をわきまえた人々に
* ギュイズ家がロレーヌの出であることを言っている。モンテーニュはこの年の六月パリに居て、高等法院のカトリック教の宣誓に参加したが、そのままパリの朝廷にとどまり、秋、国王に従ってルアンに赴いたのである。ルアンの攻囲は一五六二年のことである。年表参照。
* 一五六三年、ギュイズ公はポルトロ・ド・メレ Poltrot de M
r
に暗殺された。アウグストゥスの寛仁は奏功し、ギュイズ公の場合は逆の結果をもたらした。年表参照。


さて、もう一度いうが、それはただ医術においてばかりではない。もっと確実なもろもろの学問においても、運命こそそこに大きな働きをするのである。詩的感興は詩人を駆って彼自身の外に遊ばせるが、これだって彼の好運に帰せざるを得ないではないか。詩人自ら、それが自分の力量を越えていることを白状し、それが自分以外のところから来たこと・それは自分の力ではどうにもなしえないこと・を認めているではないか。演説家たちもまた、彼らをその目指すところよりも遠くまでつれてゆくあの非常な感激昂奮を、自分の力ではどうにもなしえないと言っている。絵画においても同様である。ときに画工の手の内から彼の構想や技倆を越えた線が飛び出して、絵かき自身をびっくりさせることがある。けれども運命は、この種の作品における自己の役割がいかに大きいかを、そこに見られる趣や美しさが単に作者の意図にかかわりなく存在するばかりか、彼に認識されることさえもなく存在するという事実によって、いっそう明瞭に示している。見識ある読者は、しばしば他人の書いたものの中に、作者がここに置きえたと考えている完全さとは全く別個の完全さを発見し、そこにいっそう豊富な意味と風貌とを賦与する。
作戦計画となると、運命がいかに多分にこれにあずかるか、それは誰でも知っている。我々の熟慮決意の中にだって、たしかに幾分かの偶然と好運とがまじっているのだ。まったく、我々の知恵がなし得るところは、結局大したものではないのであって、知恵は鋭敏であればあるだけ、それだけ自身に弱点を発見するし、それだけ自分が頼りにならなくなる。わたしはス

だから、われわれは、それぞれさまざまな事件や事情がかもし出すいろいろな困難のために、何が最も便利な方法であるかを発見し選択することができず躊躇当惑を感ずる時は、たとえ他の考察は我々にそう勧めなくても、最も確実な方法は、わたしの考えるところでは、誠実と正義とがより多く存する側につくことである。近道がわからないかぎり、真直な路をとるのが一番であると、わたしは思う。例えばわたしが今しがたお話しした二つの例について見ても、人の恨みの的となった者にとって、敵の陰謀をゆるしてやることが他のいかなることよりも尊く美わしいことであったことは、少しも疑いのないことである。なるほど前者は不幸な結果に終ったけれども、それをこの人の立派な意図のせいにしてはならない。よし反対の決意をなされたからと言って、果して彼が運命より課せられたあの最期を免れられたかどうかはわからない。むしろただ、かくも顕著な慈悲のほまれを失われただけのことであろう。
歴史を見ると、同じ恐怖になやんだ人はたくさんあるが、大部分の者は自分に対して企てられた謀叛に対して、復讐と処刑とをもってこっちからぶつかってゆく道を取った。だがこの方法によって成功したものを、わたしはほとんど見ないのである。多くのローマ皇帝たちがよい証拠である。この種の危険のうちにあるものは、決して自分の力量や用心に多くを期待してはいけないのだ。まったく、最も忠実な友人づらをした敵から自分を護ることがどんなにむつかしいか、また我々にかしずく者どもの秘めたる意思を知ることがどんなにむつかしいか、それは考えてもわかることだ。護衛として外国人を用いたってだめである。始終武装した人々にとり囲まれていたってだめである。おのれの命を軽んずるものがつねに他人の
(b)故にディオンは、カリプスが自分を亡き者にしようとねらっていると聞いたけれども、それ以上に詮索する気にはまったくならなかった。「敵ばかりでなく友だちまでも用心しなければならないような情けない日々を送るくらいなら、むしろ死んだ方がよっぽどましだ」と言って。この気持をアレクサンドロス大王は、さらに明白に、さらに力強く、行為の上に示した。すなわちパルメニオンの手紙によって、その最も寵愛する医者のフィリッポスがダレイオスの銀貨に買収されて彼を毒殺しようとしていることを知ったとき、読めと言ってその手紙をフィリッポスにつきつけるとともに、彼がすすめる飲み薬を一いきに飲みほした。これこそ、友人が自分を殺したいのなら喜んで殺されようという心意気を、示したものではあるまいか。大王は勇敢な行為の最高の模範とされる人であったけれども、わたしは彼の一生の中に、どう考えても、これくらいその気魄を示し・これくらい燦爛たる美しさを示した・行為がほかにあったかどうかを知らないのである。王侯に対してあまりに注意深い用心を勧める者は、彼らの安泰を説くような顔をしながら、その実主人に破滅と恥辱とをすすめる者である。崇高な行為が危険を冒さずになされることはない。わたしの知っている王侯の一人〔ナヴァール王アンリ〕は、(c)天性きわめて雄々しくまた機略にとむ人であったが、(b)「家の子郎党に取りかこまれていらせられよ。旧敵の和解を求める声には耳をかし給うな。独り離れておわし、どのような約束を持ち出されても、そこにどのような利益をごらんになっても、決してご自分より強力な人に身を委せ給うな」と、毎日くどくどしく言い聞かされたので、あたらそのいみじき御運を台なしにされてしまった。(c)ところがもう一人のおかた〔ギュイズ公〕は全く反対の決意を遊ばされたために、思いがけなくその御運を高められた*。豪毅は、人々がそれによって誉れをかちえようと願う特質であって、それは、必要があれば、平服の時も武装の時も、家の内においても陣営においても、腕をおろしている時にもこれをふりあげている時にも、いつも同じように輝かしく現われるものだ。(b)あのように細かくゆきとどいた慎重さは、高邁な功業の大敵である。(c)スキピオはスュファクスを味方に引入れるために自分の軍を離れ、新たに征服したばかりでまだ十分に信頼のおけないスペインをそのままにし、ただ二隻の船を


* モンテーニュは永くナヴァール王を大将の器として擁護して来たが、一五八六年のサン・ブリス会談以来、此人を信用しなくなった。そしてかえってアンリ・ド・ギュイズの方を信頼するようになった。拙著『モンテーニュとその時代』第七部第二章五五九頁参照。
(c)彼は平然たる面持をもて
芝山の上に現われたり。
彼は何物をも恐れざりしかば
恐れらるるに値したり。
芝山の上に現われたり。
彼は何物をも恐れざりしかば
恐れらるるに値したり。
(ルカヌス)
(b)けれども、本当に、こういう強い確信は、死という何もかも終った後になおかつ起りうる最悪の事を想像することすら敢えて恐れぬ人々によってのみ、完全かつ自然に示されるのである。まったく、まだ何となく不確かなあやふやな信念をおっかなびっくり示すのでは、重大な和解をなしとげるのには何の役にも立たないのである。そもそも人の心を得る最良の方法は、こっちから先にそれを信じそれに服することであるが、それはあくまで自由に、いかなる必要にもしばられずに、なされなければならない。少なくともその額からあらゆる心配の色を拭きとり、純粋な信頼を相手に示すのでなければならない。わたしは子供の時分に、或る大都市の司令官であった一人の貴族が、激昂した群衆の渦巻の中にまきこまれるのを見た*。彼は叛乱を大事に到らぬ前に鎮めようとして、それまでいたきわめて安全な場所から出て、この暴徒の群れの前に説得にゆこうと決心したのであった。ところが事、志とたがい、彼はむざんにもその場で殺されてしまった。けれども彼の過失は、通例人が彼を想い出して咎めるように、彼がその公館を立ち出でたことではないと思う。むしろそれは、屈服と軟弱の道をとったことにあった。指導せずに追従しながら、叱咤せずに哀訴しながら、暴徒の激昂をしずめようとしたことにあった。思うに、もし彼が厳格ながらしかも温情をたたえ、その身分役柄にふさわしい・自信と信頼にみちた・いかにも軍人らしい威厳を以てのぞんだならば、はるかによい結果をえたことであったろう。少なくとも、もっと名誉ある・恥ずかしくない・終りを遂げたことであったろう。およそ慈悲だとか温情だとかくらい、このようにいきり立った怪物の前に無効なものはない。かれらはむしろ畏敬と恐怖の方をはるかによく感じるであろう。わたしは更に彼に向ってこう責めたい。「身に寸鉄も帯びず平服のまんまで、思いきってあの大波のように押しよせる狂暴な群衆の唯中に飛びこんだのは、あながち無謀のことではなく、むしろ勇敢な振舞であったと思うが、一たびこの挙に出たからには、最後までそれを押しとおすべきで、その態度を中途で放棄してはならなかったのだ。それをあなたは、危険がその身に迫ると、たちまちに鼻先をへし折られたばかりか、ついには始めにとった柔和謙遜の態度を恐怖の態度にかえてしまった。その声と眼とに驚愕と後悔との色を示して逃げかくれようとした。それでかえって敵を煽り、敵を呼びよせることになったのである」と。
* 一五四八年ボルドーの都督ムシュ・ド・モナン Monsieur de Monein の身におこったこと。巻末年表中、一五四六―五〇年の項、および私の『モンテーニュとその時代』一七三頁参照。
* 一五八五年モンテーニュがボルドー市長在職中の事実。巻末の年表、および拙著『モンテーニュとその時代』五一七頁参照。
** マチニョン元帥。モンテーニュの一派。
(b)一人の外国人が、「おれはスュラクサイの主ディオニュシオスが、うんとこさお金をくれさえすれば、部下の陰謀を最も確実に知りうる方法を教えてやるんだがな」と、方々をふれ歩いた。ディオニュシオスはこれを聞いて早速その者を召しいだし、自分の存命のために最も必要なその方法を教えてくれと言った。外国人はさっそく答えて言った。「別に秘法とてございませぬ。ただわたくしに一タラントンを下しおかれてから、『朕は彼から一つの秘法を学びえたぞ』とおふれなさいませ」と。ディオニュシオスはなるほどとその思いつきに感心して、これに所望の銀六百エキュ〔二十六・六キロに相当する銀貨〕をとらせた。まったく何かよほど有益な教えをえた報いとしてでなければ、ディオニュシオスがこれほどの大金を見ず識らずの男にくれてやろうはずはなかった。そこでこの評判が敵を恐れさせるに役立った。だから王侯が、自分をなきものにしようとの陰謀の密告をうけると早速これを公表して、「自分たちはちゃんと知っているぞ。何を企てようとこのとおりすぐに
(a)わたしは想い出す、むかし或る身分の高いローマ人の話を読んだことがあったのを。その人は三頭執政官の暴政を避けるためにさまざまな詭計を案じ出しては、自分に追い迫る魔の手を幾度となく免れてきたのであったが、或る日のこと彼を捕えよとの命をうけた騎馬の一隊が、彼の隠れている藪のすぐ傍を駆けすぎながら、とうとう彼を見つけなかった。けれども彼の方では、この時ようやく、到るところで絶えず自分をつけねらう倦むことなき追跡からのがれるためにそれまで随分長いこと苦労に苦労を重ねて来たことや、このような生活を今後いくらつづけたところで、ほとんど楽しい生活は期待できないし、何時までもこのような危惧の中に戦々兢々としているくらいなら、いっそのこと、一歩をふみ出した方がどんなにましかわからないと考えたので、自分の方からゆきすぎたその一隊を呼びとめ、その隠れ場をあかして、長い苦難から自分をも彼らをも救おうと、すすんで彼らの残酷にその身をゆだねた。自分から敵の手を招くとはいささかゆきすぎた決意のようであるけれども、策の施しようのない事件を恐れて絶えず不安の中にとどまるよりは、むしろこの決意を取る方がましだとわたしも思う。しかしながら、こういう場合に対する用心準備はいつも不確実と不安とを免れないのであるから、むしろ一大確信をもって、起りうるあらゆる場合に備える方がよい。そして、それらといえども必ずしも起るとは限らないのだと考えて、いささか自ら慰められるがよい*。
* 此章はモンテーニュのミシェル・ド・ロピタルに献呈した書簡(白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「書簡5」)の延長敷衍と見るべく、ここにモンテーニュは理想的オネトムの像を描き、次の第二十五、第二十六の両章を準備しているように思われる。
この章はヴィレの推定によれば、大体一五七二年と七六年との間に書かれたものである。
モンテーニュは『随想録』のあちらこちらで盛んに学問をくさしている。この章においてもそうである。だが彼がけなしているのは「嘘の学問」(la fausse science)いわばインチキな非科学的えせ学問(たとえばスコラ学もその一つ)であって、必ずしも一般的絶対的に学問を認めないのではない。彼は別のところで、「わたしも知識を愛しかつ尊ぶ。……それは正しく用いるならば、それこそ人間の最も高尚で強力な後得能力(acquest)である」(三の八)、「およそ知識欲ほど自然な欲望はない。……真理はすこぶる大事なものだから、我々はそこに導かれそうなどんな手だても軽視してはならない」(三の十三)、「学識は、はなはだ有用で偉大な性能である。これを軽蔑する者は自分の愚かさを実証してあまりがある」(二の十二)などと言っている。そしてかえって、思想史・科学史の上に経験的・実証的方法の創始者としてその名をとどめている。だが人間の道徳生活との関係においては、最後まで学問知識を重視しないのである。
なおついでに『随想録』の三つの時期に準拠して彼の学問知識に関する考えを整理して見ると、大体次のようになると思う。すなわち、最初(一五七六年以前)は、ただ「ペダンティスム」(p
dantisme=pedantry)、換言すると「嘘の学問」「えせ学問」「見て呉れの学問」を攻撃するだけで、ほんとうの学者には十分の敬意をいだいているのだが、第二巻第十二章「レーモン・スボン弁護」の章(一五七七年前後)の中では、インチキ学者でなくても、あまりに熱心すぎる学者、人間の認識力に過大の信頼をかける者は、いささかこれを嘲笑している風に見える。すなわち、彼は、自己の知識に限界があることを意識した知性でなければ、ほんとうの学問と見ないのではないかと思われる。一五八八年以後になると、いよいよ明らかに人間の実生活からあまりにも超越あるいは遊離した哲学者たちを揶揄嘲笑しており、更にそれ以後の加筆を見ると、「学問知識は
よく生れついた
(bien n
)少数の精神においては有益であるが、俗衆のもとにおいてはむしろその道徳を破壊し実行力をにぶらすばかりだ」という考えを強調し、筆舌を弄するだけで全く実行力を欠く人間は、オネトムの資格を欠く者と考えている。第三巻第十二章「人相について」の章では、いよいよ無知なる者の自然への従順をたたえ、むしろ百姓を模範とせよと説いている。
モンテーニュは『随想録』のあちらこちらで盛んに学問をくさしている。この章においてもそうである。だが彼がけなしているのは「嘘の学問」(la fausse science)いわばインチキな非科学的えせ学問(たとえばスコラ学もその一つ)であって、必ずしも一般的絶対的に学問を認めないのではない。彼は別のところで、「わたしも知識を愛しかつ尊ぶ。……それは正しく用いるならば、それこそ人間の最も高尚で強力な後得能力(acquest)である」(三の八)、「およそ知識欲ほど自然な欲望はない。……真理はすこぶる大事なものだから、我々はそこに導かれそうなどんな手だても軽視してはならない」(三の十三)、「学識は、はなはだ有用で偉大な性能である。これを軽蔑する者は自分の愚かさを実証してあまりがある」(二の十二)などと言っている。そしてかえって、思想史・科学史の上に経験的・実証的方法の創始者としてその名をとどめている。だが人間の道徳生活との関係においては、最後まで学問知識を重視しないのである。
なおついでに『随想録』の三つの時期に準拠して彼の学問知識に関する考えを整理して見ると、大体次のようになると思う。すなわち、最初(一五七六年以前)は、ただ「ペダンティスム」(p




(a)わたしは少年の頃、イタリア喜劇の中で学校の先生がいつも馬鹿あつかいをされているのを見、また我々の間でも、先生という呼び方に少しも尊敬の意味がこもっていないのを知り、しばしば悲しく思った。まったく、わたしだって彼らの指導と監督とに委ねられていたのだもの、どうして彼らの評判を気にしないでいられたろうか。わたしは本気で彼らの弁護に努めていた、一般俗衆と判断知識において優れた稀な人々とは、もともと
われ何よりも知ったかぶりの先生をきらう
と言っている」と言われると、さすがのわたしも、返す言葉がなかった。
(b)それにこういう習慣は古くからのものであってプルタルコスも、「ギリシア人とか学徒とかいうことは、ローマ人の間では非難もしくは軽蔑の言葉であった」と言っているのである。
(a)その後、年をとるにつれて、わたしも皆のいうことがもっとも千万であり、


(b)あんなにたくさん、ひと様の・しかも非常に力のある・はなはだ偉大な・脳みそを受け入れるには、どうしても(と我々の内親王様の第一位にあらせられる或る姫君*が、或る人のうわさをなさりながらわたしに申されたとおり)、自分の脳みその方が、ひと様のそれに席をゆずるために、片隅に小さくなってちぢこまらねばならないのだ。
* アンリ・ド・ナヴァールの妃マルグリットのことらしい。モンテーニュはこの女性をネラックでもパリでもよく知っていた。姫君 une fille と言っているのは fille de France 王女の意味であろう。
では、いっさいの公職から退いた哲学者たちはどうか。正直のところ、彼らもまたしばしば、当時の喜劇作者たちにさんざんに翻弄された。(c)彼らの意見や挙動が彼らをこっけいにしたからである。たとえば彼らに訴訟の理非なり人の行為なりを判断させてみようか。それこそ、待ってました! とばかりにしゃべり出す。だが相変らず、「生命ありや否や、運動ありや否や、人間は牛と別物なりや否や、そもそも能動とは何ぞ受動とは何ぞ、法律裁判とは何とえたいのしれぬしろ物ぞや」なんて詮索ばかりしていて、いったい法官について語っているのかこれに向って語っているのか、とにかく非礼野蛮な大言壮語である。彼らの前でその君侯なり、どこぞの王なりをほめてごらん。いずれも、彼らにとってはただの羊飼なのである。「悠々閑々たること羊飼の如く、専心その獣の乳を
* 以上の似而非哲学者の描写はプラトンの『テアイテトス』からの引用である。
(c)われは行いにおいて卑怯にして唯言葉においてのみ哲学者なる人々を憎む。
(パクヴィウス)
(a)あの昔の人の尊敬した哲学者たちにいたっては、ほんとに、学識においても偉大であったが、すべての行為において更にいっそう偉大であった。君は人があのスュラクサイの幾何学者について伝えるところを知っているか。彼は「瞑想にばかり耽っていずに、少しはそれを祖国の防衛のために活用したらどうだ」と言われると、立ちどころに恐るべき器械を発明し、あらゆる人知を越えた結果を現わして見せたが、自分ではそんな発明製作を軽蔑し、それをもって自分の学芸の品位を汚すもの、こんな作品は要するに学者の手すさびであり玩具であるに過ぎないと、考えていたと言うことだ。同様に、あの〔昔の〕哲学者たちも、時に実効を示せと迫られると、いつもきわめて空高く雄飛してみせたから、あたかも彼らの心情と霊魂とが、物事の理解によってすばらしく大きく豊かになったように見えた。けれども(c)そのうちの或る人たちは、国政統御の職が無能な人々によって占められているのを見てあとじさりした。そしてクラテスに向って「いつまで哲学せねばならないのか」と尋ねた者は、「ろば追いどもが大軍を指揮するようなことがなくなるまで」という返答を得たのであった。ヘラクレイトスは王位をその弟に譲った。そしてエフェソスの町の人たちが、彼が神殿の前で子供たちと遊びながらひまをつぶしているのを見てこれを咎めたときには、「君たちと一緒になって国政をあんばいするよりは、こうして遊んでいる方がずっとましではないかね」と答えたのである。(a)また他の人たちは、その思想を現世における栄達などよりも遙かに高いところにかけていたから、法官の席をも王の玉座をも低く卑しいと見た。(c)だからエンペドクレスも、アグリゲントゥムの人々から捧げられた王冠を拒絶したのである。(a)タレスは或る時、家政と蓄財に腐心する人を見てこれを咎めたところ、「自分にそれができないからといって、寓話に出てくる狐のような口をきくな」とやり返された。そこで彼は、ふと面白半分にその腕前を見せてやりたくなり、こんどはその知恵を金もうけのために引き下げて商売を始めた。ところがそれは、たった一年の間に、この道の最も老練な者どもが一生かかってもほとんど及び得ないくらいの莫大な富をもたらした。
(c)アリストテレスが語るところによると、或る人々はタレスとアナクサゴラスと彼らの同類を、最も有用な事柄に十分の注意を注がないので、「知恵はあるが分別のない者」と呼んだそうであるが、わたしにはこういう
(a)わたしはあの最初の理由*を捨てる。そして、この悪弊は彼らの学問にたずさわる態度が悪いことに由来するといった方がよいと思う。また我々が教育を受けたああいうやり方では、先生や生徒が、より博識にはなってもより有能にはならないからとて、驚くにはあたらないと思う。本当に、父兄の心遣いと費用とは、ただただ我々の頭の中に学問を詰め込むことばかりをねらっている。判断や徳操に至ってはほとんど問わない。(c)試みにわが国の民衆に向って、道行く一人を指さし「おお学者よ」と呼び、またもう一人を指さして「おお徳人よ」と叫んでごらん。必ず人々は前者の方に眼をむけ敬意を注ぐ。そこでどうしても第三の男が出てきて、「おおこの馬鹿者どもよ!」と叫ばなければならなくなる。(a)我々はよく聞きたがる。「あの人はギリシア語を知ってるのかラテン語を知ってるのか。韻文を書くのか散文を書くのか」と。だが「彼は徳を増したのか知識を増したのか」っていうことは、昔は第一に問われたもんだが、今では一番あとまわしだ。問うべきことは、誰が「最もよく知るひとか」で、「最も多く知るひとか」ではない。
* 学識が多すぎると、どうしても精神の働きが自由でなくなる、という説(一八九頁参照)。
(c)なんとも驚いたことに、この愚かさはわたし自らのしていることにそっくりだ。だってわたしがこの本のあちらこちらでしていることは、それとまったく同じではないか。わたしはいろいろな書物の中から、あれこれと自分の気に入る格言を盗んで歩く。だがそれはしまっておくためではない。わたしはそれらをしまっとく箱なんか持ってはいないのである。ただこの本の中に運び込むためなのだ。そこに入ってからも、それらは、正直のところ、元の場所にあったときと同様にわたしのものではないのだ。わたしは信ずる。我々はただ現在の知識のみによって物識りなのである。過去の知識によっても将来の知識によっても物識りとは言われないのだ。
(a)だが一ばん困ったことは、ああいう先生に育てられる学生やひよっこが、やはりその知識を己れの栄養としてはいないことである。むしろそれが手から手へと渡されて、ただただお飾り物にされ、交際の道具にされ、お話の




(セネカ)
自然は自分の指導する物事の中には野蛮な物は何一つないことを示そうとして、最も芸術を教えこまれていない人民の間に、しばしば最も芸術的な作品に負けないほどの気のきいた作品を生れさせた。あのガスコーニュの


(a)我々はよく言う。「キケロがこう言った。これはプラトンの心持である。これはアリストテレスの言葉そのものだ」などと。だが我々は、我々自らは、一体どう言うのか、どう判断するのか、またどう行うのか。
(c)わたしの識っている或る先生は、彼の得意とする事柄を尋ねると、必ず本を持ってこさせてからそれを教えてくれる。自分のお尻に
(a)我々は他人の意見と知識を貯め込む。それから? それでお仕舞い。だがそれらを我々のものにしなければいけないのだ。我々はちょうど、火が入用になってお隣りにこれを貰いに行き、そこに美しいたくさんの火を見出すと、もはや火だねを家に持って帰ることは忘れてしまって、そのままそこにあたりこんでしまう、その人に似ている。食い物を腹一杯詰めこんで、一体何になるんだ。それが消化されなければ、それが我々の血や肉にならなければ、それが我々をふとらせ強くしなければ。ルクルスは経験をせずに、ただ兵書の研究だけで、あんなにえらい大将になったのだが、果して我々みたいな研究の仕方をしたんだろうか。
(b)我々は余りに他人の腕に頼りすぎて、自分自身の力をなくしてしまう。例えばわたしが死の恐怖に対して自分を
(a)よしんば我々は他人の知識で物識り savant になれるにしても、知恵者 sage には我々自身の知恵によってでなければなれない。
おのれ自らのために賢明ならざる賢者をわれは憎む。
(エウリピデス)
(c)


(b)もし彼が貪欲ならば、高慢ならば、
またエウガネアの山羊の如くに女々しからば。
またエウガネアの山羊の如くに女々しからば。
(ユウェナリス)
(c)


ディオニュシオスは、オデュッセウスの不幸を詮索するのに夢中で自分の不幸を知らずにいる文法家を、その笛の調和にかまけていてその心を調えない音楽家を、正義を説くことにかまけながらこれを行わない雄弁家を、わらった。
(a)もし我々の霊魂が知恵を得たためにより良い歩調を取らないならば、我々の判断がそのためにより健やかにならないならば、わたしはうちの生徒がテニスの遊戯に時を過す方をむしろ望むであろう。少なくとも体はそのおかげで活溌になるであろうから。十五、六年の月日を費やした後、彼が先生たちの所から帰って来るのをごらん。これくらい物の役に立たないものはない。どれ程のものを持って帰ったかと見れば何のこと、ただラテン語とギリシア語とが彼を前よりも高慢にしただけである。(c)満ちたる霊魂を持って帰るべきを、ただふくらませたそれを持って来ただけである。ただふくらませただけで中はからっぽなのである。
これらの学士さまたちこそ(彼らの親類であるソフィストについてプラトンが言っているとおり)、すべての人間の中で最も人類を益するはずの人たちである。それなのに彼らは、我々が託したものを、大工や石工のように繕ってくれないばかりかかえって悪くし、しかもこれを悪くしたことの報酬を請求する、まことに天下に類のない人たちである。
プロタゴラスがその弟子たちに与えた規定、すなわち、「弟子たちは規則書にあるとおり支払うこと。さもなければ神前において、わたしの教育からえた利益をどれほどに尊重しているかを誓言し、それに相応してわたしの労に報いること」という規則は守られたにしても、わたしの先生がたは、わたしが経験したあんな誓言を本当になさっては、きっと当てがはずれることであろう。
(a)わたしの国ペリゴールの方言は、かれら学者先生をからかって




* f
rit も f
ru も f
rir(=frapper)という動詞の過去分詞であるから、全体を直訳すれば、“Letter struck”(Trechmann はそう訳している)、すなわち「文字でさんざん打ち叩かれた者」「石あたま」の意となる。意訳すれば「文学かぶれ」「学問中毒」か。



おおふり返って見ようともせざる貴族の子弟よ。
そなたの背にあびせられるあざけりに御用心あれ。
そなたの背にあびせられるあざけりに御用心あれ。
(ペルシウス)
(a)案外ひろくはびこっているこの種の人々を近く寄って見られるならば、人はきっとわたしのように気がつかれよう。最もしばしば彼らには自分のことも他人のことも解ってはいないこと、そして、かなりいろんなことを覚えてはいるが、判断に至っては全く空っぽであることに。でも、天性がしぜんと彼らの判断を別様に育成した場合もある。例えばアドリアヌス・トゥルネブス*をごらん。彼は文学以外を業としなかったが、そして彼こそ、わたしの考えるところでは、この千年来最も偉大な文学者であったのだが、その教授服を着ている以外には、少しも先生然たるところがなかった。多少その外見が宮廷風に洗練されていなかったとしても、そんなことは何でもないことだ。(b)わたしは、心のゆがみよりも衣服のゆがみの方を気にして、そのお辞儀の仕方やその物腰格好やその長靴の上で人を判断しようとする人々がきらいである。(a)まったく内面においては、それは世にも優雅な人であった。わたしはしばしば、彼を、ことさらにその平生とはかけ離れた問題の内に引き入れてみた。彼はそれを、きわめて明らかに、きわめて迅速な理解ときわめて健全な判断とをもって、洞察した。あたかも、軍事や政治以外の職業はついぞしたことがなかったかのように。それこそ、
(b)プロメテウスが最良の泥土を用い、
その特殊の技能をもって作りなせる、
その特殊の技能をもって作りなせる、
(ユウェナリス)
(a)美しく力ある天性であって、悪い教育を受けても決してそこなわれることがないのである。ところで我々の教育は、我々を
* アドリアヌス・トゥルネブス、フランス名アドリアン・テュルネーブ Adrien Turn
be. 一五一二年フランスのアンドリ Andelys に生れ、一五六五年パリで死ぬ。その間、一五四五年頃、二カ年ばかりトゥールーズ大学で教えたことがあるが、パリにおける教職は前後十八カ年に及んだ。その死んだ時、ランバン Lambin は「ヨーロッパ第一の文学者」を失ったと嘆いた。ロンサールはその弔詩の中で此人の学を底深き大洋にたぐえている。モンテーニュはパリ遊学時代にこの人を知り、その講義に列したばかりでなく、しばしばその家を訪問して大きな感化を受けた。後出二の十二の註、拙著『モンテーニュとその時代』第二部第二章一五九頁参照。

悟性なくば博学も何にかはせん。
(ストバイオス『詩文選』より)
とあるとおり、分別がなかったら学問も一体何の役に立つ? どうかわが裁判の正しさのために、これら法曹家たちには、判断と良心とがあの博学とともにありますように! (c)




* これは一五五五年頃にモンテーニュが法学士の肩書きもないのに租税法院審議官になりえた、当時の法官採用試験の実状を如実に物語っている。
だから我々の祖先が大して文学を重んじなかったことも、また今もなお文学が我々の王様の御前会議でただ偶然にしか見出されないということも、人がやかましく言うほどに驚いたことではないのである。いや、あの富を得ようとすることが(これがこんにち法学や医学や教育学やまた神学によってまで目ざされる唯一の目的なのであるが)、文学の重んじられない原因だとすれば、文学が今も昔も同じようにみじめな状態にあるのはむしろあたりまえである。だが文学が我々に良く思考することも良く行為することも教えないとすれば、それは何と口おしいことであろう。(c)


他の学問は、どれも皆、善の意識を持たない者には有害である*。けれども、わたしがいましがた求めていた〔なぜ先生たちは世間から馬鹿にされるのかという〕理由は、また次のことにも由来するのではあるまいか。つまりフランスにおける我々の研学はほとんど利得以外の目的を持たないこと、始めから儲け仕事よりも高尚な仕事にむくように生れついた人々が文学にうちこむ場合を除けば、しかもほんのしばらくの間これにうちこむ場合を除けば(というのは文学の面白さがわかる前に書物とは全く縁のない職業にそれてしまうことが多いので)、本式に文学の研究に精進する者というと、もはや多くの場合、ただ身分が低くて、そこに生活の手段を得るより他に道のない者ばかりになってしまうことから来るのではあるまいか。そして、これらの人々の霊魂は、その天性によってもその家庭でうけた教育や模範によってもはなはだ
* 「他の学問はどれも」Toute autre science というのは、「文学以外の学問、人文学研究以外の研究」という意味、「善の意識を持たない者」とは道徳意識のない者、善悪のけじめのつかない者という意味である。科学を殺人や戦争の具とする者などはさしずめこの部に入る。この句には jeu de mots があって、格言の体をそなえている。
Toute autre science est dommageable
celui qui n’a la science de la bont
.






(a)クセノフォンがペルシア人から学んだあの立派な教育法を見ると、彼らはその子弟に、あたかも他の国民が文学を教えるように、徳を教えていたのである。(c)プラトンによると、世継の王子はこんな風に教育されていたのである。すなわち生れると、婦人の手には委ねられないで、高徳であるために王の身辺で最も重んじられている
(a)なお、ここで大いに考えるに値すると思うのは、あの優れた国、その完全なこと実に驚くばかりのリュクルゴスの国〔ラケダイモンすなわちスパルタ〕においては、子供たちの教育を最も大切なこととしてそれにあれほどの注意を払っていたにも拘らず、またそれはミューズの神々のまします国であったにもかかわらず、学問をひけらかすような風はほとんどなかったということである。あのほこり高い若者たちは徳そのもの以外の
* クセノフォンの『キュロペディア』Cyrop
die を指す。アスティアゲスは、この物語の主人公たるキュロスの祖父である。

(c)ソクラテスがいつもの流儀であのヒッピアスをからかっているのを見ると、はなはだ愉快である。ヒッピアスは彼に向って語る。「自分は物を教えながらとても儲けた。特にシチリアの或る小さな町々ではしこたま儲けた。だがスパルタではびた一文取れなかった。それは愚昧な人民で、測量も計算も知らぬばかりか、文法をも押韻をも重んぜず、ただただ諸王の交代とか国家の興亡とかいうくだらない話を覚えるのにひまをつぶしている」と。さんざんにしゃべらせたあげく、ソクラテスは、少しずつ彼らの政治形態が世に優れたものであることや、彼らの生活が幸福で徳に適っていることなどを彼に認めさせ、彼の自慢の諸芸がいかに無用の長物であるかというその結論は、これを彼自らにゆだねている。
もろもろの実例は、この雄々しい国においてもこれに類する他の諸国においても、学芸の研究が人の心を堅固勇壮にしないでかえってこれを柔弱にしていることを、我々に教えている。当今世界で一番強い国と思われるのはトルコであるが、この民もまた武術を尊び文学を軽んずるように教えられている。ローマも、まだ学問を持たなかった時分の方が、ずっと勇敢であったと思う。現代においても、最も好戦的な国民は最も野蛮無知である。スキュティア人、パルティア人、チムールがこれを証明してくれる。ゴート人がギリシアを荒した時、すべての書庫を兵火から救ったのはなぜか。それは彼らの一人が、「この建物はそっくり敵にのこすがよろしい。やがて彼らに武技を忘れさせ、家の中の遊惰なわざに熱中させるのにこれくらい適したものはないのだから」という意見を流布したためであった。我々の王シャルル八世が剣の鞘をはらわずしてナポリ王国およびトスカナの大部分の主となったとき、彼に従っていった諸侯たちは、この征服が予想外に楽であった理由を、イタリアの王侯貴族が強い武士になるより利巧な学者になろうと努めていたことに帰した*。
* モンテーニュはこの章において、衒学(ペダンティスム)と科学の悪用とを攻撃しながら、一方本当の学問、特に人間の研究、子供の教育の重要性を強調している。最後の数頁においては、いかにも現代人の文弱をなげき、武術を尊重しているような口ぶりであるが、これは例のカムフラージュでもあるし、彼が気質的に三段論法がきらいでパラドクスがすきだからでもある。彼はいつも結論を最後におかない。おいてもそれを裏返しに述べる。本当の結論は、よく人の気がつかないような場所にすべりこませている。
ギュルソン伯夫人ディアーヌ・ド・フォア様に
この章は、ギュルソン伯であるとともにトランス侯でもあったルイ・ド・フォワという貴族の夫人ディアーヌ(前出一の二十一、一五三頁註*、**参照)に献呈されたもので、夫人が当時懐胎していた若様を目あてに書かれたものである。この若い夫婦の結婚の時期(一五七九年三月八日)から推して、この文が書かれたのは一五八〇年の始めごろではないかと思われるが、それはモンテーニュがようやく自らを描こうと考えはじめたころである。この教育論はサドレ Sadolet という枢機官の著書にいろいろな点で似ているという説もあるが、むしろエラスムスの教育方針を基本として育てられたモンテーニュ自らの少年時代の回想から生れたものであることは動かせないと思う。それにサドレ其人も、イタリア派ではあるが、エラスムスの礼讃者であった。またボルドー市には、ギュイエンヌ学院開設以来、エラスムス派の教育者が沢山集まっていた。『モンテーニュとその時代』第三部第一章―第三章参照。
さてこの教育論は一般人民のために書かれたものではなく、一貴族の若様のために特に選んだ一家庭教師に行わせようという教育案であった。しかしモンテーニュは、その小さいジャンティヨムを一個の人間に仕あげようとしているのであるから、彼の意見は城内に行われる個人教育の枠内にだけ止まってはいない。しばしばそれは、すべての時代すべての階層の子供たちに関連している。そこにはやや極端な、またあまりに独断的なところもないではないが、とにかく健康な合理的な思想の上に立っているもので、やはり今日の教育論の基礎になるものを含んでいる。文明史の著者として有名なフランソワ・ギゾーは、こう言っている。「我々は生徒を、モンテーニュが彼を導いたよりも更に遠くまで導く必要を感じよう。しかし、それにしても、やはりモンテーニュが通った道を通らなければならない。彼はすべてを言いはしなかったが、その言ったことはみな真実である。だから彼を追い越そうとする前に、まず彼のところまで達すべく努めなければならない」と。そういう意味で、われわれ民主主義国家の人民もまた、この貴族教育論に耳を傾けるべきであると思う。それにモンテーニュがここで言っているジャンティヨムは、当時すでに階級上のジャンティヨムを指してはいなかった。それは教養上のジャンティヨムであって、むしろ次の時代十七世紀が理想としたオネトム honn
te homme のことであった。拙著『モンテーニュを語る』八一―九〇頁参照。更に今日のわれわれの言葉に言いかえれば、「教養ある視野の広い有能人」のことである。ルソーはその政治論においてもしばしばモンテーニュに負うているが、その教育論においても、その最良の部分をこの章に負うている。
さてこの教育論は一般人民のために書かれたものではなく、一貴族の若様のために特に選んだ一家庭教師に行わせようという教育案であった。しかしモンテーニュは、その小さいジャンティヨムを一個の人間に仕あげようとしているのであるから、彼の意見は城内に行われる個人教育の枠内にだけ止まってはいない。しばしばそれは、すべての時代すべての階層の子供たちに関連している。そこにはやや極端な、またあまりに独断的なところもないではないが、とにかく健康な合理的な思想の上に立っているもので、やはり今日の教育論の基礎になるものを含んでいる。文明史の著者として有名なフランソワ・ギゾーは、こう言っている。「我々は生徒を、モンテーニュが彼を導いたよりも更に遠くまで導く必要を感じよう。しかし、それにしても、やはりモンテーニュが通った道を通らなければならない。彼はすべてを言いはしなかったが、その言ったことはみな真実である。だから彼を追い越そうとする前に、まず彼のところまで達すべく努めなければならない」と。そういう意味で、われわれ民主主義国家の人民もまた、この貴族教育論に耳を傾けるべきであると思う。それにモンテーニュがここで言っているジャンティヨムは、当時すでに階級上のジャンティヨムを指してはいなかった。それは教養上のジャンティヨムであって、むしろ次の時代十七世紀が理想としたオネトム honn

(a)自分の
* モンテーニュは、これらの学問を一五四六―四八年、ボルドーのギュイエンヌ学院で学んだ。『モンテーニュとその時代』第二部第二章参照。
** モンテーニュは特に法官となるための勉強をしたことはないが、唯一五五五年頃、父のすすめに従い、租税法院の審議官となるため、大急ぎで試験勉強をしたことがある。この告白はその時の実際を語っている。
* プルタルコスとセネカの学問は、人間如何に生くべきか、如何に死すべきかを教える人間学、倫理学であったから。
** アルゴスの王ダナウスに五十人の娘があり、いずれも結婚の夜、その夫をきらってこれを殺した。その罪により、地獄におち、底のない桶に水を汲まされたという伝説がある。
* モンテーニュはここに、観念的な学問、形而上学などに専念することは不得手であって、もっと具体的な人間的な学問として歴史を愛し、特に人間の自然の情を歌った詩歌がすきであることを明言している。
** 標題「エッセー」のもつ意味の一つを、ここに推知することができよう。この他、第一巻第十九章、第五十章、第五十四章、第二巻第十章参照。なお拙著『モンテーニュを語る』一二三頁を見よ。なおモンテーニュはここに、他人 の学問・学説を問題にしているのではなく、もっぱら自己の天与の諸能力 facult
s naturelles を研究の対象にするのだという抱負をのべている。

(a)このあいだ、私はふとそのような一節にぶつかりました。私は、いかにも血の気がなく・肉が落ちて・意味も内容もからっぽで・どうやらフランス語と言えるにすぎない程度の・フランス文を、だらだらと読んで参ったのです。ところが、その長いながい退屈な道の果てに、ひょっくり、気高い・豊かな・天にもとどかんばかりの・一節にゆき逢ったのでございます。もしその坂が緩やかだったら、登りがもうちっと長かったら、あるいは我慢もできたでしょうが、それは全く断崖絶壁で、始めの六語を見ただけで、私は一足飛びに別の世界に飛び上ったのを感じました。そこからは今までいた窪地がいかに低くいかに深かったかが見おろされましたので、私はもう二度と再びそこに下りて行く気がなくなりました。もしも私が私の論説の一つをこういう豊かな分捕品でおおうならば、それはあまりにも私の他の部分のおろかしさを暴露するばかりでございましょう。
他人のうちに私自身の過失を見つけだすことも、私がよくやりますように他人の過失を私自身のうちに拾い上げることも、ともに矛盾したことではないように思います。過失はそれをいたるところに責め、それからすべての隠れ家を取上げてしまうべきでございます。けれども私は承知しております。いかに大胆に、私自ら、ことあるごとに自分を、わが盗品類と同等にしよう・それらと肩を並べてゆこう・と企てているかを。またあわよくば両者を識別しようとしている批判者の眼を欺いてやりたいという、大それた希望も持っていないではないことを。けれどもこれは、私の並べ方のいかんによることではございますが、同時に私の創意力量のいかんにもよることでございます。それに私は、これら古代の選手たち一般を相手に戦っておるのでも、一騎打ちをやっているのでもございません。幾度にも少しずつ軽い突きを入れようとするだけでございます。どこまでもねばる気はございません。ただちょっとつついて見るだけでございます。腹に思っておるほどには深入りしないのでございます。
もし私にも彼らと太刀打ちができますなら、あっぱれ私も達人と申せましょう。まったく私は、彼らの手ごわいところばかりを狙って、うってかかっているのでございます。
ある人々において私が認めましたように、自分の指先までも見えないほどに他人の鎧を着込み、自分の意図を(これは普通の問題に関してなら物識りにとってわけない仕事でございますが)、あちこちから寄せ集めた古人の諸創意のもとに述べるということは、もしそれらを押しかくしていかにも自分の物のように見せかけるのであれば、それは第一に不正で卑怯な業と申さなければなりません。つまりそれは、自分のうちに自分を輝かすべき何物も持たないので、他人の価値によって大きな顔をしようというのですから。第二にそれは、はなはだ愚かな業でございます。それは欺瞞によって無知な俗衆の賞賛をえるだけで満足し、分別ある人々の信用を失うことは何とも思っていないのでございますから。まったく心ある人々は、人から借りた宝石の象眼なんか、鼻の先であしらってしまいます。そういう人々のほめ言葉にこそ、千鈞の重みもあると申すものでございます。この私は、ああいう真似が一番きらいでございます。私は自分の思うところを一層強調するためでなければ、他人の言葉なんか借りは致しません。もっともこれは、始めから編集詩*として発表される詩にはかかわりのないことでございます。私は当代においてその極めて巧妙なものを見たことがございますが、中でもカピルプスという名の下になされたのが上手でございました。あながち古人ばかりには限らないのでございます。いずれも機知ある人々で、この編集詩においてばかりでなく、他の方面でも、成功しております。例えば、あの博学と忍耐とが織り込まれている『ポリチカ』の著者リプシウス**などもそうでございます。
* 他詩人の名句を編集して作った詩。その一例としてモンテーニュは次にカピルプスすなわちレリオ・カピルポ(一四九八―一五六〇)というイタリアの詩人の諷刺詩をあげている。フランスでは後にボワローがその『リュトラン』において同じ手法を用い成功している。
** オランダの哲学者ユストゥス・リプシウス。一五八九年以後モンテーニュとの間に文通が始まった。トゥルネブスの死後、モンテーニュは此の人を最も古代文学に通暁した人として尊敬していた。後出二の十二、六八三頁註**参照。
ところがある人が、私のペダンティスムに関する論説を見てから、このあいだ私のところへ参りまして、もう少し子供の教育という問題を詳述すべきであると申しました。ところで奥様。もし私に幾らかでもそういう問題を論ずる力があるとすれば、やがてあなたのうちから勇ましく生れ出ようとしている若様のためにそれを贈り物とする以上に、それを役に立てることはできますまい(あなたはきわめて大ような御気性ゆえ、きっと最初に男のお子さまをお産みなさるに相違ございません)。まったく、御結婚成立のためにもあれほど骨を折って差上げたのでございますから、それから生れ出るすべてのものの御隆昌御繁栄に関心をもつ権利は、私にも多少あるわけでございますし、またお家の永年の恩顧も、私にあなたに関するすべてのものに名誉あれ幸福あれと願わせる次第でございます。でも正直のところ、私はただ、「人間の学問の中で最も困難で大事なのは、この子供らの
(c)ちょうど農業においてと同じことで、植えつけ以前の仕方はきまりきったもので、植えつけそのこととともに容易でございます。けれども、植えつけたものが根づいてから、これを育ててゆく上には、ずいぶんといろいろなやり方もあり困難もございます。人間も同じことで、これを植えつけるにはほとんど工夫はいりません。けれども一度生れ出でてからは、これを養い育てるのに、こまかな手数や心配の充満したさまざまな心遣いをしなければならないのでございます。
(a)子供たちの性向の現われは、そういう幼い時期においてはきわめてかすかな・ほとんど人の目につかない・もので、その約束もはなはだ当てにならない・あやしい・ものでございますから、はやくからそこに確定した判断をうちたてることは、困難でございます。
(b)キモンをごらんなさい。テミストクレスをごらんなさい。その他たくさんの人々を。いかに彼らは子供のころと変ったことでしょう。熊や犬の子は、生れながらにその傾向を示しております。けれども人間は、生れるとすぐに習慣や学説や法規の中にとびこんで、容易に変化しまた変装してしまうのでございます。
(a)けれども、生れつきの諸傾向を無理にまげることも困難でございます。それで結局、彼らの進路をよく選ばなかったために、しばしば無駄骨をおらされたり、彼らに全くむかない仕事を仕込もうとして多くの歳月を費やしたり、するようなことにもなるのでございます。けれどもこうした困難があるとはいえ、私の考えではやはり彼らを最も良い・最も有益な・事柄に向わせるべきだと思います。そして、彼らの幼い時代の行為の中にみとめられるあの微かな前兆には、余りかかずらってはなりません。(c)プラトンまでが、その『国家』の中で、それらを余りにも重んじ過ぎているようです。
(a)奥様。学問というものは大きな飾りであり、しかも非常に役に立つ道具でございます。わけてもあなたのような御身分の高いお方々にとってはそうでございます。実際それは、低く卑しい者の手にあっては、とうていほんとうの効用を発揮しは致しません。それは戦争を指導し・人民を統治し・王者や外国人と交わりを結ぶ・のにその力を貸すほうを、弁証法の論をたてたり・控訴の弁護をしたり・丸薬の処方を書いたり・するお手伝いをするよりも、一だんと誇りにしているのでございます。ですから奥様。すでに学問のこういう部分*のうま味を味わわれただけでなく・文学の血筋をもうけ継いでおられる・あなたは(まったくご主人伯爵殿とあなたの御本家であるフォワ伯爵家の御先祖たちの書かれたものは、今でも我々の間に残っているではございませんか。伯父君**であるカンダルのフランソワ殿も現に毎日いろいろとものを書いておられますが、これまた数世紀の後まで御一統のお持ちになるこの御性質を伝えることでございましょう)、御子様方の御教育において今申し上げた部分のことはよもやお忘れにはなるまいと存じますから、私はこの点に関してただ一つ、私の世間一般のそれとはあべこべの考えを、申し上げるにとどめようと思います。これこそ、この方面において私があなたのお役に立ち得るすべてでございます。
* 戦争指導、外交、政治等、人文学を基礎とすべき分野を指す。
** エールの司教、フランソワ・ド・フォワ=カンダル。『モンテーニュとその時代』索引参照。
世の常の教師はのべつに我々の耳に向って叫んでおります。まるでじょうごに水でも流し込むようです。そして、我々の役目と申せば、言われた事柄をただ復誦するだけのことでございます。私は若様の先生に、是非この点を改めてもらいたいと思うのでございます。そして、最初からその預かった子供をその力に応じて独り歩きさせ、物事を独りで吟味し選択し識別するように、ある時はこちらから道を開いてもやれば、ある時は彼自らにこれを開かせもするように、してもらいたいのでございます。私は先生が一人で創案し講釈することを欲しません。やがて弟子が語り出すことに耳を傾けるように望みます。(c)ソクラテスは、またその後にアルケシラオスは、まずもって弟子たちに語らせ、それから彼らに向って語るのを常と致しました。


世の先生たちは、ただ仕来たりどおりに、程度といい形態といいあんなにも相違する種々様々な精神を、同じ読本同じ指導法で教育しようと企てておりますが、これでは彼らが、あれだけ大勢の子供たちの中に、自分たちの訓育から多少とも正当な成果を得る者を、やっと二、三人くらいしか見出さなくても、少しも不思議はありません。
(a)先生は若様に、その教えたことを言葉どおり反復させるだけではたりません。その意義および実質について語らせなければならないのです。そして、その記憶の証拠によってでなくその実生活の証拠によって、彼がどのような利益を得ているかを判断しなければならないのでございます。彼にその学びえたことを四方八方から観察させ、これをできるだけ雑多な問題に適用させて、彼が果してそれをちゃんとこなしているかどうか、よくそれを自分のものとしているかどうかを、(c)プラトンの教育法によってその進歩の度を測りながら、(a)観察しなければならないのでございます。食物を呑みこんだままの有様で吐き出すのは、食滞と不消化の証拠でございます。胃の腑は、もし消化するようにと与えられたものの形状を変えないならば、その務めを果さなかったのでございます。
(b)我々の霊魂は、他人の考えの欲するところに拘束され、それらの教えの権威に屈服して、ただただ他人を信じて動くのでございます。我々はあんなにも窮屈に縄*に従わせられましたから、ついに手ばなしで歩くことができなくなってしまったのでございます。我々の力と自由とは滅んでしまいました。(c)


* 昔は、歩きたての小児のために縄を張り、これにつかまって歩かせたのである。
** ジロラモ・ボロという医者でローマ大学の博士。モンテーニュはこの人から『潮の干満について』という著を贈られ、その他いろいろラテン語でかいた医学書などを見せてもらった。一五八一年七月十四日のことである。白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」索引参照。
(a)知ることに劣らず疑うことはわれに快し。
(ダンテ)
まったく、クセノフォンやプラトンの思想も、それを自分の推理によって思いいだくならば、それはもう彼らのものではなく、立派にその人自らのものでございましょう。(c)


(c)若様は、他人の助力によって得たすべてのものを隠し、ただそれによって自ら作り上げたものだけをお示しになりますように。盗人や借り手は、彼らの建てたものや買ったものをひけらかしますが、他人から盗んだり借りたりしたものを見せは致しません。あなたは裁判官が受取ったいろいろな
我々の勉強の利得は、それによって我々がより賢くより良くなることでございます。
(a)エピカルモスは申しました。「見たり聞いたりするのは悟性である。すべてを活用し、すべてを処理し、行為し、司令し、君臨するのも悟性である。他のものはすべて盲であり、聾であり、霊なきものである」と。まったく我々は、その悟性を卑屈な臆病なものにしております。これに何一つ自らする自由を与えてはいないのです。誰がいったいその弟子にむかって、(b)修辞学や文法学について、(a)キケロの言ったあれこれの格言について、「君はどう思うかね?」と尋ねたでしょうか。人はそれらをそっくりそのまま我々の記憶の中につめ込むばかりです。あたかもその各字各綴りが事の本質をなすという御託宣か何かのように。(c)そらで知るのは知るのではございません。それは教わったことをその記憶の中にしまっておくだけのことです。物事を正しく知っているならば、そのお手本を見ないでも、その原書に眼をむけないでも、人はよくそれを活用します。ただ書物の中でだけやしなわれた学問くらい悲しむべきものがありましょうや! 私はプラトンの意見に従って、そんなものは、飾りとするくらいはよいが、基礎とはしないようにとお願いいたします。プラトンはこう申しているのです。「勇気、信念、真率こそは真の哲学、それ以外のことを目指した・他の・学問はすべて虚飾にすぎない」と。
(a)ル・パリュエル(ルドヴィコ・パルヴァロ)とかポンペ(ポンペオ・ディアボノ)とかいう現代のすぐれた舞踊家たちだって、ただ自分のするところを見せるだけで、つまり我々は坐らせたまんまで、トンボ返りを教えてくれることはできますまい。ところが、どうでしょう。我々の先生たちは、我々の悟性を少しもゆり動かさずに、これを教育しようとしているのです。(c)我々にその練習をさせることなく、馬とか槍とか、琴とか歌とかを、仕込んでくれる先生はありますまい。ところがあの先生たちは、語ったり判断したりする練習をちっともさせずに、よく語りよく判断することを教えようとしているのです。(a)ところでこれらのことを学ぶのには、我々の眼の前に現われるもろもろの事実こそ、貴重な書物の役をするのでございます。小姓の悪さ、下男の愚かさ、食卓での話、いずれも新鮮な教材なのでございます。
ですから人々との交わりは、大へんためになるのでございます。異国を訪れることも同様でございます。ただしそれは、わがフランス貴族たちがするように、ただサンタ・ロトンダの周囲が何歩あるとか、リヴィア姫のズロースがどんなに豪奢であるとかを、見て来るためでもなければ、また、ある人たちみたいに、どこそこの廃墟にあるネロの顔はどこそこのメダルに刻まれたそれよりもどれだけ長いとか広いとかを、見て来るためでもございません。むしろ主として、これらの国民の人情や風俗を見てくるため、我々の頭脳を他の国民のそれとこすりあわせながら磨き上げるためでございます。私は若様を幼い頃から遍歴おさせするように望みます。そして最初には、一石二鳥の目的でその国語が最もわが国語とちがう近隣諸邦に、お連れするように望みます。早くからこれを慣らさないと、舌はとうてい異国の言葉に順応できないものでございます。
それに子供を両親の膝もとで育てるのはよろしくないことです。これはみんなが認める意見でございます。あの自然の情愛は両親を、その最も賢明なものをさえ、あまりにも甘く寛大にするからでございます。彼らにはその子の過失を罰することもできなければ、子供が相当荒っぽく、うっちゃりっ放しに、育てられるのを、黙って見ていることもできないのでございます。彼が汗をかき塵にまみれてお稽古から帰って来たり、(c)熱いものを飲んだり冷たいものを飲んだり、(a)また荒馬に乗っているところや、
(b)彼をして野辺に伏し、警急の唯中に生きさしめよ。
(ホラティウス)
(c)彼の霊魂を鍛えるだけではたりません。その筋肉をも鍛えてやらねばなりません。霊魂は、筋肉の助力をえない時は余りに苦労いたします。独りで二つの役目にあたるのは無理なのでございます。私は自分の霊魂が、きわめて軟弱な・感じ易い・とかく霊魂にばかり頼りたがる・肉体と共にいて、いかに難渋しているかを、いやという程承知しております。そしてしばしば読書の間に、わが師匠たちが、その著書の中で、寛大や勇気の実例としてむしろ皮膚の厚さ骨の堅さのせいではないかと思われる行いを


* モンテーニュは父からうけた教育に感謝しながら、一方では家庭内における個人教育の欠陥を諸々指摘している。
あの人々との交際という学校においては、私はしばしば次のような弊害を認めました。つまり我々は、他人を知ろうとは努めずに、ひたすら自分を他人に示そうと努めたり、自分の商品の売りさばきに急であって、少しも新たな商品を獲ようとはしないということです。言葉少なくひかえ目であることこそは、交際に最もふさわしい資質でございます。若様は、御成業の暁にもご自分の学識をひけらかさず、それをひかえめになさるよう、御前で語られるばかばかしいお話などにも御機嫌を損ねられぬよう、御教育申上げるべきでございます。まったく、自分の好みにあわないものはすべてしりぞけるというのは、礼儀をわきまえぬ執念と申すものでございます。(c)若様は、ただ御自分を






もしも若様の御教育係が私の考え方にご賛同くださるならば、どうか若様が国王に対して深い愛慕と大いなる勇気とを捧げる忠誠な奉仕者たらんとする意志を、養成して上げてください。けれども、公の義務によってではなく他の目的から君主に執着したがる心は、かえってこれをさまして差上げるべきでございます。そういう個人的な義理によって我々の自由を傷つける弊害はいろいろたくさんにございますが、なかでも、雇われ買われた人間の判断こそ、最も不完全不自由なものと申すべく、でなければ、不謹慎と忘恩とにけがされていると申さねばなりません。
宮臣と申すものは、どんな主君についても、ひいき目にでなければ言ったり考えたりする権利も意志も持つことができないのです。もともとたくさんの臣下の中から選ばれて、そのお手許で親しく養い育てられてきたのですから、こうした恩愛と利得とが彼の自由を腐敗し彼の目を眩ますのも、まあ無理もないことでございます。ですから御承知のとおり、これらの人たちの語るところは、通例、一般国民の語るところとは違うのでございます。そして、この事柄に関係する限りほとんど誰にも信用されないのでございます。
(a)若様の良心と徳性とが、そのお言葉の中に輝きますように・(c)そしてただ理性だけを案内者となさいますように・(a)ありたいものでございます。どうか若様に、自ら御自分の論説の中に誤りを見出すならば、よしそれが人には気づかれないにしても、進んでそれを告白することこそ判断と真率とがうむ結果であり、この判断と真率とこそ若様がお求めになるべき主要な資質であることを、(c)反抗し食いさがることは、ありふれた・もっと低い・霊魂にありがちな特質であり、昂奮の最中においてさえ、考え直し自己を訂正し誤れる論拠は潔くこれをすてることこそ、稀な・強い・そして哲学者らしい・特質であることを、(a)わからせてあげてください。
皆が一緒にいる時は、いたるところに眼をお注ぎになるよう、教えてあげて下さい。まったく、上席は通例かえって無能な人々によって占められておりまして、身分の尊さが才能とともにあることはほとんどないのでございます。私はかつてテーブルの上座の方で、人々がただ壁懸けの美わしさやマルヴァシア酒の甘さなどについて語り合っている間に、はるかに末席の方では、あまたの機知輝く言葉が空しく聞き流されているのを見たことがございます。若様は百姓であれ石工であれ旅人であれ、その人それぞれの力量を測り知らなければなりません。どうかすべての者を働かせ、それぞれをその専門に応じて利用していただきたい。まったく、万事がお家のために役立つのでございます。他人の愚かさ弱ささえ、彼には教訓となりますように。各人の天性や様子を検討する間に、おのずから良い性質を羨む心と悪い天性をあなどる心とが、生れ出ることでございましょう。
どうか若様のお心の中に、どんな物事でも研究せずにいられないという正しい好奇心を養ってあげて下さい。彼はその周囲にあるすべてのめずらしいものを御覧になるべきでございます。建物も、泉水も、人間も、古戦場も、カエサルやシャルルマーニュの足跡も。
(b)何処に氷とざし、いずこに熱砂まい立ち
またいかなる風がイタリアに舟を送るによろしきや。
またいかなる風がイタリアに舟を送るによろしきや。
(プロペルティウス)
(a)こちらの帝王またあちらの帝王の、ご性格や資源や同盟なども、御研究になるべきでございます。それらは学んできわめて面白く・また知っていて甚だ役に立つ・事柄でございます。
この人々との交際ということのうちに、私はただ書物の中でのみ記憶されて生きているにすぎない人々をも含めたい、しかも最も大切な人たちとして含めたい、と思います。若様は歴史の本を通して、今よりよかった時代の偉大な人々と交わりを結ばれるがよろしい。それは無駄な研究だと思われる方もあるかも知れませんが、また或る人から見ればそれこそ量りしられぬ結果をもたらすものなのです。(c)それはプラトンの申すところによれば、ラケダイモン人がただ一つその専門とした研究でございました。(a)若様もこういうご研究の中に、例えばプルタルコスの『英雄伝』をおよみになる間に、無限の利益をえられることでございましょう。けれどもわが指導者は、自分の職務が何であるかを忘れてはなりません。その教え子に、(c)カルタゴ破滅の日付よりもハンニバルとスキピオの心情を、(a)マルケルスがどこで死んだかと申すことよりも彼がそこで死んだことがなぜ彼の義務にかなわなかったかと申すことを、教えなければなりません。もろもろの史実を覚え込ますよりそれらを判断することをお教え申上げて下さい。(c)それこそ私の考えるところでは、もろもろの科目の中で我々の精神が、或いは浅く或いは深く、極めていろいろな程度で、打ち込むことができる科目だと思います。私はティトゥス・リウィウスのうちに、他の人が読みえなかった色々の事柄を読み取りました。プルタルコスにいたっては、私がそこに読み得た以外に、いや、ひょっとすると作者自身がそこに置いた以外に、更にたくさんの事柄をそこに読み取ったのでございます。ある者にとってはそれは単なる文法上の研究でございますが、ある者にとっては哲学的分析でありまして、それによって我々の天性の最も難解な部分が明らかにされるのでございます。(a)プルタルコスの中には、学ぶ価値が大いにある長文の論説がたくさんございます。まったく私の考えでは、彼こそこの道の大家でございます。けれども中には、彼がただわずかに触れたばかりの論説もまた幾千となくあるのでございます。すなわち彼は、ただその志がある者にその行くべき道を指さし示しているだけなので、しばしばただ問題の核心に一突き触れるだけで満足しているのでございます。そのような章は、ぜひこれを抜き出して衆人の眼のつく所に置かねばなりません。(b)例えば「アジアの民は否というただ一ことを発言できないために一人に屈従した」というあの一語。おそらくそれこそ、ラ・ボエシ*にその「奴隷根性」という題目とこれを書く機会とを与えたのでした。(a)彼がある一人の人間の一生の中から、大した意味もなさそうに思われるきわめてつまらない一つの行為または一言を、ああして抜き出すことが、ただそれだけで一つの論説なのです。悟性ある人たちがこんなにも簡潔を愛しているということは、残念なことです。たしかに彼らの名声はそのためにますます高まりますが、それだけ我々は損をするのです。プルタルコスは、我々が彼の博識よりも彼の判断をたたえる方を望んでいます。我々を飽きさせるよりも我々に物足りなさを残そうとしています。彼は良い事柄においてさえ言いすぎというものがあるのを、知っていたのでございます。かのアレクサンドリダスが、良いけれどもあまりに長々しい言葉を民選長官たちに対して述べ立てた者を、もっとも千万にも、「おお外国人よ。お前の言うところはもっともだが、その言い方はふさわしくない」とお叱りになられたのを、知っていたのでございます。(c)体の痩せた男は綿を着て体を大きく見せます。萎びた内容をもつ者は言葉でもってそれをふくらますのでございます。
* Etienne de La Bo
tie. 後出第二十八章、その註、また白水社版『モンテーニュ全集』第一巻付録、及び私の『モンテーニュを語る』六一頁参照。

この大きな世界こそ(それをある人たちは、一つの種の下にたくさんの族があるように、まだまだたくさんあるのだと考えておりますが)、我々が自己を正しく知るために覗き込むべき鏡でございます。要するに私は、これこそ若様の教科書であれかしと望むのでございます。あんなに多くの意見、学派、判断、学説、法律および習慣のあることこそ、我々にわが国のそれらを正しく判断することを教えるのでございます。そして我々の判断に、その不完全さと本来の微力とを認識するよう教えるのでございます。それは決してなまやさしい修業ではございません。これほど多くの国家の興亡や国運の盛衰を見れば、我々は決して自国の運命に驚いてはならないことを教えられます。あんなに多くの名前あんなに多くの勝利と征服とが空しく忘却の下にうずもれていることを思うと、ただ十人の騎馬武者を生捕ったとか・陥落して始めてその存在の知られるような小さな城を乗取ったとか・いうくらいのことで、己れの名を永遠にのこそうなどと希望するのはばかばかしくなります。外国の諸儀式のいかめしさ立派さ、諸方の朝廷ならびに権勢家の途方もない豪奢ぶりは我々の眼を鍛えて、目をしばたたくことなくわが国のそれらに対することを得させます。我々よりさきに数千万の人間が地下に埋められていることを想えば、あの世にそういう良い交わりを結びにゆくことは少しも恐れるに及ばないという元気も出て参ります。その他何ごとも同様でございます。
(c)人生はピュタゴラスが申したとおり、大勢のひとが群がり集まるオリュンピア競技の大会場そっくりでございます。ある人々はここで優勝の誉れを得ようと懸命の努力を致します。また他の人々は一儲けしようとここにさまざまの商品を運んで参ります。中にはまた(決してこれは一番割の悪い連中ではございません)、もっぱらそれらの事柄がどのように・また何のために・そこで行われるのかをうち眺め、そこで他の人々の生活を観察しつつ自分の生活を判断し調整しよう、ということより他に、何も考えない者どももございます。
(a)もろもろの実例さえあれば、それらにあらゆる哲学上の最も有益な理論を、適当にあてはめることができましょう。実にこの哲学にこそ、人間の行為はすべて、試金石にこすりあわせるように、こすり合わされなければならないのでございます。どうか若様に申上げて下さい。
(b)彼が望みうるは何事なりや、
かくも得がたき金銭はそも何に役立つや、
そもいかなる程度に祖国と家族とに自己を捧ぐべきや、
神はそも何を我々になせと望ませらるるや、
神の命ずるこの世の務めは何なりや、
我々は何者なるや、また何のために生をうけたりや。
かくも得がたき金銭はそも何に役立つや、
そもいかなる程度に祖国と家族とに自己を捧ぐべきや、
神はそも何を我々になせと望ませらるるや、
神の命ずるこの世の務めは何なりや、
我々は何者なるや、また何のために生をうけたりや。
(ペルシウス)
(a)知るとは何か知らぬとは何か。学問の目的は何であるべきか。勇気節度正義とは何であるか。野心と
(b)いかにして苦痛を避けまたこれに堪うべきや。
(ウェルギリウス)
どんな原動力が我々を動かすのか。何が我々のうちのあんなに雑多な衝動の原因であるのか。まったく、若様の悟性を養成するための第一の論説は、彼の行いと分別とを調える論説、彼に彼自らを知らせ彼によく死しよく活きる道を学ばせる論説、でなければなりません*。(c)自由科の諸芸**の中でも、真に我々を自由にする学芸からまず始めようではございませんか。
* 以上にモンテーニュは哲学の定義をしている。それは我々二十世紀人がこの語に与えている意味とはかなりちがう。それはむしろ世道人心に関する思索、いわばモラリストの検討の対象となる諸々の問題を包括している。
** Arts lib
raux(=liberal arts). 自由民にふさわしい学問技芸の意。当時は文法、修辞、弁証、算術、幾何、天文、音楽等の諸学科を、総括的にこう呼んだのである。

もし我々が真に人生に必要な領分をその正しい自然の範囲に限ることを知れば、今日行われている学問の大部分がいっこう我々の役に立っていないことがわかるでございましょう。現に我々に役立っている学問の内部にさえ、はなはだ役に立たない広がりや窪地があることもわかるでございましょう。そういう部分は、そっとふれずにおく方がよいでしょう。そして、ソクラテスの教示に従って、我々の研究を、こういう余り役に立たない領域においては、或る程度にとどめる方がよろしいでしょう。
(a)まず第一に賢人たるべくつとめよ。
これを後日に遷延せんとする者は、
河の水乾くを待ちて渡らんとする村人のごとし。
河は永遠に流れ流れてやまざるべし。
これを後日に遷延せんとする者は、
河の水乾くを待ちて渡らんとする村人のごとし。
河は永遠に流れ流れてやまざるべし。
(ホラティウス)
最もばかばかしいのは、我々の子供たちに
(b)双魚宮や燃ゆる獅子座の運勢はいかに。
ヘスペリアの海をくぐる山羊座の運勢はいかに。
ヘスペリアの海をくぐる山羊座の運勢はいかに。
(プロペルティウス)
(a)星の学問や第八天体の運行を教えることを先にし、彼ら自らの進退を教えることを後まわしにすることでございます。
プレイアデス座に何の用かあらん。
牛飼い座に何の用かあらん。
牛飼い座に何の用かあらん。
(アナクレオン)
(c)アナクシメネスはピュタゴラスに書き送って、「死や隷従が依然としてわが眼の前にあるのに、どうして星の秘密などにかかりあっておられようぞ」と申しました(おりしもペルシアの諸王が彼の国にたいして戦備をととのえつつあったからでございます)。我々はみなこんな風に申さなければなりません。「野心や吝嗇や向う見ずや迷信に攻められながら、その他さまざまな命の敵を自己の体内に持ちながら、どうしてわたしは天体の動きなどに思いを馳せていられようか」と。
(a)まずもって若様に、彼をより賢く・より良く・するに役立つ事柄をお教えしておいて、それから後に、論理学・物理学・幾何学・修辞学の大体をお教え下さい。その時はすでに判断力ができておられますから、その選ばれる学芸をやがて立派にやりとげられましょう。お稽古は、時には談話により時には書物によっておすすめ下さい。ある時はそういう彼の教育の目的にふさわしい書物をそっくり若様に提出せられるがよろしく、ある時はその精髄実質をよく噛み砕いて与えられるがよろしい。またもし先生ご自身があまり書物との交わりがなく、書物の中に立派な論説が見つけられない場合には、その目ざす目的を達するために誰か文学者を一人、助手としてつけたらよいのでございます。この人は必要に応じて必要な教材をえらび出し、これを若様の御用に供するでございましょう。こういうお稽古の方がガザ*流のそれよりも遙かに容易で自然であることは、誰も疑うことはできません。あのやり方には困難で不快な規則が、いや、がらんどうで中身のない言葉が、あるばかりで、手がかりになるものもなければ精神を呼びさます何ものもございません。しかし今申すやり方でゆけば、霊魂はその噛むべきもの、その食べるべきものを、見出します。こうしてえられる果実の方が比べものにならぬほど大きく、しかも、かえって早く熟するのでございます**。
* 十五世紀の学者で、アリストテレスを註し、またギリシア文典を著わした。
** Montaigne psychologue et p
dagogue の著者 J. Chateau が言うように、人間が人間らしく生きるということは、常に折に学することだとすれば、モラルに関する論議はすべて哲学と名づけることが出来よう。モンテーニュにとっては嘘つきの話をすることも、勇気の話をすることも、すべて哲学なのである。

(b)病める肉体の中にかくされた心の悩みは、
その喜びとひとしく色に出 ず。
顔こそはこれらさまざまの感情を反映す。
その喜びとひとしく色に
顔こそはこれらさまざまの感情を反映す。
(ユウェナリス)
(a)哲学を宿す霊魂は、その
* いずれもスコラ学者や論理学者が用いた術語。
** モンテーニュの徳に関する考え方は時期によって変っていると言われる。だがこの章の書かれた時(すなわち一五八〇年頃)、すでに徳を楽しいものと考えている。このパラグラフの終りの部分は(c)によって標示されるとおり晩年の加筆であるが、パラグラフの最初(a)の部分にもすでに同じエピクロス的な考えが現われている。一方第二巻第十一章には努力のない所に徳はないと述べているが、この章も大体一五八〇年頃に書かれている。第二巻第十一章の解説、同章書出しの句およびその註を参照せられたい。
* アリオストの『オルランド・フリオソ』中の人物。
** 牧人パリスはユノーとパラスとウェヌスのうち、ウェヌスを最も美なりとした。
* モンテーニュが哲学と呼ぶのは、勿論、すでに読んで来たとおり、道徳哲学のことで、高遠な形而上学ではない。後者は「ペダンティスムについて」の章以来むしろ彼の排するところである。すなわちモンテーニュは、ここで子供たちに、早くから道徳的判断、善悪のけじめを、つけさせようというのである。いわば早期道徳教育の提唱、その方法の考究で、エラスムスの教育論に由来する。
(b)粘土はなお軟らかく湿りてあり。
疾く疾く轆轤にかけてそれを形作れ。
疾く疾く轆轤にかけてそれを形作れ。
(ペルシウス)
(a)人が我々に生きることを教える時、人生はすでに過ぎ去っております。多くの学生は、梅毒にかかってしまってから、やっとのことで節制を教えるアリストテレスの教訓にたどりつくのです。(c)キケロは申しました。「二人前の生を生きようとも、わざわざ暇をつぶして抒情詩人などの研究は致すまい」と。だが私は、かの詭弁家どもこそ更にあさましくも一層無用な
今日の子供はもっともっと忙しいのでございます。学校生活に捧げられるのは彼の生涯の最初の十五、六年だけで、残りはことごとく活動に捧げなければならないのでございます。かほどに短い時間は、是非とも学ばねばならないことのために用いようではありませんか。(a)それは確かにまちがっております。弁証学みたいな、あんなむつかしくややこしい理屈は、みんなおやめにして下さい。あんなもので我々の一生は良くなりっこございません。むしろ哲学の単純な論説をおとり下さい。それらをうまく選んで研究することにして下さい。それらはボッカチオの物語なんかより解りやすうございます。どんな子供でも、母の胸から離れる頃にはそれがわかります。読み書きを習うよりもずっと楽にできます。哲学は老朽した年寄りのための論説とともに、生れたての少年のための論説をも持っております。
私はプルタルコスと同意見でございます。アリストテレスはその偉大な弟子アレクサンドロスに三段論法のたて方や幾何学の定理なんかのために時間を
(b)老いたるも若きも、ここに生活の基準を学びて、
頭に霜をいただく時のために備えよ。
頭に霜をいただく時のために備えよ。
(ペルシウス)
(c)これはエピクロスがそのメニケウスに与えた手紙の始めに、「最も若い者も哲学することを避けるな。最も老いたる者もこれにあきるな」と言っているのと同じ意味でございます。そうしない者に限って、今はまだ幸福に生きる季節ではないとか、いやもうそういう時代は過ぎちゃったとか、申すようでございます。
(a)とにかくこのような教育のために、私は若様を幽閉しとうございません。彼を狂暴な学校教師のメランコリックな気質にまかせたくございません。彼をよその子供たちと同様に、毎日十四、五時間も、まるで荷担ぎかなにかのように苦役させぬいて、その精神を腐らせたくはございません。(c)たとい彼が多少孤独を求めるメランコリックな性質であって、自分から異常な熱心さをもって書物の研究に没頭するのであっても、それを助長するのはやはりよろしくないと思います。それは人々を社交や会話に不向きにし、彼らを立派な職務にそむかせます。それに、飽くなき知識欲のためにばかになった人間を、いかにたくさん、私は今の世の中に見たことでございましょう。カルネアデスはあんまり学問に夢中になったために、髪を調え爪を切る暇までも失いました。(a)また、若様の大ような御性格を他の者の非礼野蛮をもってそこないたくございません。「フランス流の知恵」と申すことは、むかしは早く現われて長く続かない知恵をさす言葉でございました。本当に今日でも、フランスの子供たちほどききわけのよいものはないのでございます。けれども、彼らはいつも我々の期待を裏切ります。大人になったところを見ると、そこにはもう少しも優れたところが認められないのでございます。私は彼らの送りこまれる学校が、我が国にたくさんあるあの学校が、彼らをあのように気のきかない者にしてしまうのだと、悟性ある人々が主張されるのを、聞いたことがございます。
若様のためには、お部屋もお庭も、食卓も寝台も、独りでいることも大勢と一緒にいることも、朝も晩も、すべての時間が一つであり、すべての場所が勉強部屋でありましょう。まったく、判断と行いとを練成するものとして若様の主要な学課となるべき哲学は、このように万事に関与する特権をもっているのでございます。雄弁家イソクラテスは、ある宴会の席上でその専門について語るよう求められるや、「今はわたしがよくするところの事にふさわしい時ではない。今の折にふさわしいことは、わたしがよくするところの事ではない」と答えたので、人々はげにもと感心したと申します。まったく、笑い興じたりご馳走を食べたりするために集まった人々に向って、演説をしたり修辞学の議論などをするのは、あまりにも不調和な取り合せでございましょう。これは他のすべての学問についても、同じように言いうるでございましょう。しかし哲学だけは例外でございまして、それが人間を論じ人間の義務や職務を論ずる部分においては、それが語るところは愉快ですから、宴会の場合にも遊戯の場合にも、決してしりぞけられるべきものではありますまい。これはあらゆる賢者たちに共通した意見でございます。またプラトンが哲学をその宴会に招じた時、いかにそれがその場所と時とにふさわしく、並みいる人々をもてなしたかは、御承知のとおりでございますが、しかもそこには、最も高尚で有効な思索がかくれていたのでございます。
そは富みたる者にも貧しきものにも等しく有益なり。
これを軽んずれば老いたるも若きも等しく悔いあらん。
これを軽んずれば老いたるも若きも等しく悔いあらん。
(ホラティウス)
こんな風に致せば、きっと若様は、他の少年たちのようにぼんやりしてはいらっしゃらないでしょう。それどころか、我々が散歩をする時は、その踏む歩数がよし三倍も余計になろうとも、どこか命ぜられた道をいやいや歩かされるときほどに我々を疲れさせないように、我々の授業もまた、時と場所とを定めず、いわば臨機応変に、そして我々の生活と関連させて行われるならば、すらすらと苦もなく運ばれることでございましょう。遊戯や運動さえ、立派に勉強の一部となるべきでございます。競走・仕合・(c)音楽・(a)舞踊・狩猟・乗馬・撃剣、いずれもそうならなければなりません。私は外部の端正さや礼儀作法(c)や立居振舞(a)が、霊魂と同時に作り上げられることを望みます。霊魂を鍛えるのでも身体を練るのでもなく、一人の人間を鍛練するのでございます。決してそれを二つにしてはならないのです。そしてプラトンの申すとおり、一方を取って他方を忘れることなく、両方を同時に、同じ梶棒につけられた二頭の馬のように、指導しなければならないのでございます。(c)しかも、彼の言うところをきくと、彼はむしろ身体の鍛練の方に、より多くの時と心遣いとを寄せているのではないでしょうか。「精神はそれに伴って鍛えらるべきもので、その逆ではない〔精神教育を先にすべきではない〕」と考えているのではないでしょうか。
(a)なおこの教育は、厳しい中にもやさしさをこめて、行われなければなりません。現在行われているような風ではいけないのでございます。人は子供たちを文学へと導かずに、実際、ただ威嚇と折檻とのみを彼らに与えているではありませんか。どうか暴力と強制とを廃して下さい。これほど、良く生れついた天性*を堕落し
* une nature bien n
e. モンテーニュはよく、この「よく生れついた」という言葉を吐く。彼は教育の重大性、可能性をよく認識しているが、いつも人間の天賦の素質を重視している。だから彼の教育論道徳論は異常児や変質者にはあてはまらない。彼は自然の善性を信じているから、世間にはそう突拍子もない悪人などが生れ出るとは思っていないのだろう。先に、「天性どうにもならぬ馬鹿息子は、公爵の若様でもかまわない。くびり殺してしまえ」と言ったのは例のモンテーニュ流の放言だが、腹の中でも大体そんな風に思っているらしい。

** この自然への信頼はモンテーニュの一生を通じていつも変っていない。いろいろな場合にいろいろな形をとって現われる。それに幸いなことに、モンテーニュ自身は、実によい天賦をめぐまれていた。だから彼の道徳論には幾分甘いところがある。
*** この一章は、モンテーニュがギュイエンヌ学院で受けた教育の回想ではない。そこではエラスムスの教育論をもとに、老校長が一切の体罰を厳禁していた。ただし一般世間では暴力教育が横行していたのである。
彼はその練武場についてはたくさんの掟を設けて詳論していますが、文学上の諸学科については殆ど何もいわず、ただ音楽のために特に詩を勧めているだけであるように見えます。
(a)我々の習慣や性格における異常特異なものは、すべて交歓交遊の敵として、(c)奇癖として、(a)避くべきでございます。(c)あの、木蔭では汗をかき日にあたっては震えたというアレクサンドロスの家令デモフォンの体質に、驚かないものがありましょうか。(a)私はかつてリンゴの香りを煙硝の匂い以上にきらう者に逢ったことがございます。


アリスティッポスはあらゆる境遇と運命とに従えり。
(ホラティウス)
このように、私はお弟子を
われは称えん。襤褸 にも錦繍 にも堪えうる人を。
よく運命の転変に堪えて二様の役を完うする人を。
よく運命の転変に堪えて二様の役を完うする人を。
(ホラティウス)
以上が私の意見でございます。(c)これを実行する者こそ、これを暗記する者より、より多く利益をうけたのでございます。その人の行うところはその言うところ、その言うところはその行うところでございます**。
* アルキビアデスはソクラテスと共にモンテーニュの理想の人物であった。この名は今後もしばしば出てくるから注意されたい。巻末の索引を利用してあれこれくらべられたい。
** 原文は簡潔で強い。それに対句的な妙味がある。また一種の jeu de mots もある。参考のため特に原文を添える。Voici mes le
ons. Celuil
a mieux profit
, qui les fait, que qui les sait. Si vous le voyez, vous l’oyez; si vous l’oyez, vous le voyez. 要するにモンテーニュは、自分の意見に従って教育された者は必ず言行一致した紳士となるだろう、と言うのである。一五八八年版には、この句の代りに「そこでは言と行と相並んでゆくのです。まったく実績がこれに伴わなければ精神を説いて何の益がありましょう……」の句があって、この頁終りから五行目の(a)「人は彼の企ての中に……」につづいている。





フリアジア人の君主レオンが、ヘラクレイデス・ポントスに向って、いったいいかなる学問いかなる芸術を職とするのかとたずねたところ、この人は、「わたくしは学問も芸術も知りませんが、哲学者でございます」と答えました。
或る人がディオゲネスに向って、どうしてそんな無学のくせに哲学などに携わるのかと咎めましたところ、「無学なればこそ哲学にたずさわるのにちょうどよいのだ」と申しました。
ヘゲシアスが彼に、何か本をよんで下さいと願うと、「おかしなことをいう人だね」と彼は答えました。「あなたはほんとの木になったいちじくを採り、画にかいたいちじくを採りはしない。どうして同様に、本に書かれたのでない・ほんとうの・生きた教訓を求めないのか」と。
若様はその学課を、口先でべらべら言わないで、黙って実行しなければなりません。それをその行為の中に反覆するようでなければなりません。(a)人は彼の企ての中に思慮があるかどうか、その行状の中に親切と正義とがあるかどうか、(c)その言葉の中に判断と優雅とがあるかどうか、その病気の際に我慢が・その遊戯の際につつしみが・その快楽の際に節度が・あるかどうか、(a)その嗜好の中に(すなわち獣肉魚肉・酒あるいは水・に対し)無頓着があるかどうか、(c)その出納に秩序があるかどうか、


我々の思想の真の鏡は、我々の日々の生活でございます。
(a)ゼウクシダモスは、「なぜラケダイモン人は武勇の掟を書きものにしなかったか。それを若者たちに暗誦させなかったか」ときいた人に答えて、「それは若者たちを言葉に慣らさないで、行いに慣らそうと思ったからだ」と申しました。十五、六年たった後に、この若様と学校育ちのラテン屋とを比較して御覧なさい。後者は同じ年月を学びながら、ただしゃべることができるだけでございましょう! 世間はただおしゃべりばかりです。言いたいことの言えない人など見たこともございません。むしろ言わでものことを申す人ばかりでございます。ところが、我々の生涯の半分はおしゃべりの修業に費やされるのでございます。我々はいやでも四、五年の間、さまざまの単語を学び、それらを章句に組みたてることをさせられます。それからさらに同じくらいの年月、それらの章句を四つか五つの部分から成る長い文章の中に配置することをさせられます。そしてさらに少なくとも五年の間、こんどはそれを手短かに、何とかうまい工合に、織り交ぜ組み合すことをさせられます*。こんな事は、それを専門とする人たちに委せることに致しましょう。
* これは当時の教科過程である。第一「文法学級」(五年)、第二「修辞学級」(五年)、第三「論理学級」(五年)。このあとに「哲学級」(二年)。
事理明瞭ならば言葉おのずから従う。
(ホラティウス)
また或る者は、その散文においてもやはり詩的に、




* モンテーニュが目ざしているのは専門技術教育ではなくて人格教育、人間の練成である。彼は何を専門とする人にも、特に人を指導する立場に立つ人には、人文学の素養がなくてはならないと考える。これがないと、人間はとかく科学を悪用する。前章に、「人文学の研究以外の学問は、善の意識のないものには有害である」と言っているとおりである。なおジャンティヨムとは本来生れによって貴族階級に属する人のことで、大にしては国王側近の重臣ないし一国一城の主、小にしてはそれら国王や大貴族に仕える一般武士をさす。とにかく、政治上軍事上の指導者たちである。詳しくは私の『モンテーニュを語る』八五―八六頁および『モンテーニュとその時代』事項索引について知られたい。
** Candide lecteur という読者への呼びかけが、十六世紀の書物の序文にしばしば見られる。Candido lectori すなわち「公平な読者」の意味で、日本ではよく「博雅の君子」の叱正を期待するという序文がきまり文句であったのとよく似ている。
(a)キケロの雄弁が最高潮に達しますと、人々はみな感嘆いたしましたが、ただ独りカトーだけは「我々の執政はおかしな人だね」と言って笑うばかりでした。前にあろうと後にあろうと、格言警句ならばいつも時節にかなうものでございます。(c)前文にそぐわなくても、また後句と合わなくても、それはそれ自体においてよいのでございます。(a)私は「よき韻はよき詩を成す」と考える人々にくみしません。もし詩人がしたいなら、彼に短い綴りを長くさせましょう。それはどうでもよいことなのです。その創意が面白く、そこに機知と判断とがよくその務めを果しているならば、韻はへたでも、それこそ良い詩人なのでございます。
(b)その趣味やよし。されど韻は拙 し。
(ホラティウス)
(a)ホラティウスは申しました。「彼の作品からその組み合せや韻律をすべてなくなして見よ。
(b)その韻脚を除き、語句の順序をさかしまにせよ。
かくして散らばれる各断片の中にも
おん身はなお詩人を見たまわん。
かくして散らばれる各断片の中にも
おん身はなお詩人を見たまわん。
(ホラティウス)
(a)そうしたからといって彼は少しも本領を失わないであろう。断片すらなお美しいであろう」と。メナンドロスの答もまた同じ意味でございました。約束の日が来ているのに、まだその喜劇に手をつけていないと言って咎められたとき、こう申しました。「それはもうちゃんとでき上っているよ。あとはただそれに韻脚を着せさえすればよいのだ」と。つまり、もうちゃんと心の中に材料内容の整理が終っていたから、あとのことはほとんど気にかけていなかったのでございます。ロンサールとデュ・ベレとがわがフランス詩の地位を高めてこの方、かけ出しの書生っぽまでが彼らの真似ごとをして語を誇張し韻をひねくらずにはいない有様でございます*。(c)


* 『荘子』のなかの宋の元君と画者の話(「田子方篇」第六の説話)、梓慶が
を造る話(「達生篇」第九の説話)に、全く同じ考えが認められる。

アリスティッポスから、「解けと言ったってどうして解かれよう。こう縛られては手も足も出ないわい」という面白いしっぺい返しを借りて来るがよろしい。或る人がクレアンテスに対して弁証法的詭弁の数々を浴びせると、クリュシッポスはこれに向って、「そんな手品は、子供相手にやるがよい。だが、そんなことで大人の真面目な思索をそらしてはいけない」と申されました。(a)もしこれらの愚かしい詭弁が、(c)






表現に人を打つものあれば喜ばる。
(ルカヌス)
(a)だらだらしたのよりは、むしろむつかしくて、気取りがなく規則にしばられず、小粒で大胆なのが、好きでございます。つまり各断片が一つ一つまとまっていて、先生じみず、坊さんじみず、弁護士じみず、むしろ昔スエトニウスがユリウス・カエサルの話しぶりを評して言ったように、「軍人風」なのが好きでございます*。(c)もっとも、なぜ彼をそう評したのか私にはよくわかりませんけれど。
* モンテーニュはここに「話し方」un parler という語を用いているが、以上はモンテーニュの文章上の好みを述べたもので、同時に彼自らの文章の説明にもなっている。彼の文章は時に熱をおびて雄弁調ともなり、時に理路整然として講義調にもなるが、全般的には淡々たる談話調で、そこに彼の文章の(言文一致体の創始者の)特徴と魅力がある。コメディー・フランセーズの俳優などが朗読するところをきくと、十六世紀の古文がよまれているという感じはむしろうすく、いかにも著者の談話清談 causerie をきく思いがある。モンテーニュはラ・ボエシと一心同体と言われるが、こういう文体上の好みにおいてだけは、完全にラ・ボエシと対蹠的である。
* これは地方からパリに出て来る書生たちの蛮カラ気取りをさして言っているので、一五五〇年頃、モンテーニュのパリ遊学時代の想出であろう。




我々が雄弁のために主題を忘れる時、雄弁は主題をそこなうものでございます。
服装の上で何か特別な風変りな風をして人目を引こうとするのは、子供じみたことでございますが、言葉使いの上でも同じことで、ことさらに新奇な言い回しや耳遠い語句などを用いたがるのは、やはりその人の学問をてらう子供じみた野心から来るのでございます。それよりはパリの市場で用いられる言葉ばかりつかって書いて見たいものでございます。文法家アリストファネスにはこのことがまるで分らなかったと見え、エピクロスを読んで、彼の用語の単純なことや、彼の雄弁術の究極がただ言葉の平明にあることを咎めました。話し方は真似ることが容易ですから、たちまちに全民衆につたわりますが、判断や創意の模倣はそう速くは参りません。大部分の読者は、同じような着物を見ますと同じような実体をつかんだように考えますが、それは大変な間違いでございます。体力や気魄はとうてい借りられないものでございます。着物や外套なんかなら、これはいくらでも借りられます。
しげしげ私の家に出入りされる人たちの大部分は、「エッセー」と同じように語られますが、果して同じように考えていられるのでしょうか。
(a)アテナイ人は(とプラトンは申しております)、もっぱら話し方の豊富と優美のために心を用いました。ラケダイモンの人々はその簡潔のために、またクレタ島の人々は言葉の豊富のためよりも思想の豊富のために、それぞれ心を砕きました。この後の人々の方がえらいのでございます。ゼノンは言いました。「自分には二種の弟子がある。一つはわたしがフィロログスと呼んでいるもので、ひたすら物事を学ぼうと懸命になっている。これこそわたしの
亡くなりました私の父は、博識で悟性ゆたかな人*たちと交わり、ある優れた教育法につき、人としてなしうる限りの調査研究を致しましたので、今申しました世間一般の悪弊をよく承知しておりました。彼はいつも皆からこう言いきかされていたからです。「我々は長い歳月を費やして古語を学ぶが、(c)それは古人にとっては何でもないことなのだが、(a)これこそが、我々が古代のギリシア人やローマ人の霊魂や知識の偉大さに及び得ない唯一の原因なのだ」と。私はそれが唯一つの原因だとは思いません。けれども、とにかく父がそこに見出した第一の対策はこうでした。つまり私を、まだ乳を飲んでいるうちから、まだ片ことも言い出さないうちから、一人のドイツ人の手に委ねたのでございます。その人は後に**有名な医者となってフランスで終りましたが、わが国語を少しも知らない代りに、ラテン語にはきわめて堪能な人でございました。実にこの人が、この、父が特によびよせ・高禄を以て召抱えた・人が、しじゅうその腕に私を抱いていたのでございます。それに、学殖において彼ほどでないのが更に二人おりまして、私の後に従い、彼の手助けを致したのでございます。これらの人々は、私にラテン語以外の言葉を語りませんでした。他の者どもも、父自身を始めとして母も下男も下女も、皆それぞれ私の前では、私と話をするために覚えさせられたラテン語のほかは、一言も話さないように厳命されておりました。めいめいがここに得た効果はすばらしいものでございました。父と母はそのためにかなりたくさんのラテン語を覚え、これをききわけるようになったのみならず、必要に際してはこれを語ることさえできるようになりました。特に私につけられた召使たちもそうでした。要するに、我々は大いにラテン化いたし、そのためにラテン語が四隣の村々にまであふれ出たほどでございます。今でもそこにはいろいろな道具や職業の名がラテン語で残っていて、相かわらず用いられております。当の私にいたっては、六歳を越えても、フランス語もペリゴール弁も、アラビア語同然わかりませんでした。そして、方法なく、教科書なく、文法も規則もなく、鞭もなければまた涙もなく、私は、学校の先生が知っておられるのと寸分ちがわない純正無雑なラテン語を、学び得たのでございます。まったくこれに混入したりこれをゆがめたりする何ものも、もたなかったからでございます。もし試験として学校流に


* これは具体的に言うとグヴェアを始めとするギュイエンヌ学院の教育者たちのことである。以下『モンテーニュとその時代』第二部の諸章参照。
** ホルスタヌスと言って、後にギュイエンヌ学院の上級を教えた。
*** ミュシダンの攻囲戦に出陣、二十六歳で勇敢な戦死をとげた。
**** 以上の回想は細部においてはいささか誇張を交えているが、大体において信憑性がある。『モンテーニュとその時代』第二部の諸章と対比せられたい。
* 「ギリシア語となるとほとんど全くわからない」quasi du tout point と言うが、本書の中にもギリシア語の引用は幾回もあり、書斎の梁 にもギリシアの格言を記させている。つまり相当程度によめたのである。ただラテン語は母語同様であったから、それにくらべれば、こう言うのがモンテーニュとしては当然であったのだろう。ギュイエンヌ学院におけるラテン語教育は完全であったが、ギリシア語のほうはそれほどでもなかったのは事実である。ギリシア哲学は大抵ラテン訳で読み、愛読のプルタルコスもアミヨの訳が出てからはその仏訳で読んだ。あえて原書にしばられなかったところはいかにもモンテーニュらしい。重大な内容の書物をよむには、あやふやな外国語の力によるよりも、しかるべき人の信頼すべき翻訳によってよむ方がよいというのが、モンテーニュの考え方である。だから拙訳初版においては、わざとギリシア名もラテン風に記したのであるが、こんどの新訳においては、いわば時代の要請に従って、厳密にギリシア読みに改めた。むしろ初版のようにしておく方が、私にはモンテーニュらしく思われるのであるが。第二巻第四章参照。
** 一五八〇年版には、「私はそのためのエスピネットの奏者をもっていた」と書いている。エスピネットとは旧式のピアノのことである。
* これが後年モンテーニュの懐疑主義、反骨精神となるものである。
** モンテーニュはここで当時の学校教育を批判しているが、この点に関しての所論は、果して正当であろうか。『モンテーニュとその時代』第二部第二章一五七―一六二頁参照。
(c)私はよくもそのとおりになったものだと感じます。今私の耳元にぶつぶつきこえる非難はまずこうなのでございます。「怠け者よ。朋友親族に対する務めにも公の務めにも冷淡な者よ。あまりにも自分勝手な者よ」というのでございます。いくら口の悪い奴でも、「なぜ彼は取ったか。なぜ彼は払わなかったか」とは申しません。ただ「なぜ猶予しないか。なぜ施さないか」と申すばかりでございます。
人が私にそのような義務以上のものを、ただ希望されるだけならば、私はそれをご好意として受け取ります。けれどもみんなが自分のなすべき義務は棚にあげておいて、ただ私にばかり、しかも私がする義務のないことまでも、きびしく要求するのなら、それは不公平というものです。皆が私にそういう強制をすることは、私の行為がもっぱら好意から出ていることを否定し、したがって私に対して当然なすべき感謝を取消すことになります。私が他人からどんな恵与も受けたことがないことを考えたら、この私が進んで行った積極的善行を、もっと高く買ってくれてもよいはずです。いったい私は、人に頼まれていやいや慈善を施すような男ではございません。私は私の財産を、それがもともと私のものであればあるだけ、それだけ自由勝手に処置してよいわけです。けれどももし私が自己の行為を大いに飾りたてたい男であるならば、おそらくこれらの非難を思いきり突っぱねてやることでございましょう。そして誰かさんに向っては、お前さんたちは私の施し方が足りないといって怒っているのではなく、もうちっと出せそうなものだと思って怒っているのだと、教えてやることでございましょう*。
* 「人が……」に始まるこの一節はエッセーの中で最も曖昧な文の一つである。別様の解釈も可能であろう。これはその中の一解釈である。
* モンテーニュは優柔不断、柔弱卑怯の人間のように伝説されているが、ここには少年モンテーニュの、外面はおとなしくおだやかでいて、内部に強い性格をかくしていたことが十分に読みとられる。これは彼の一生を通じて失われなかったことで、後年の政治的活動、乱世に対処せるさまざまの行動の中にも現われる。第三巻第十二章「人相について」の章の終りに語られている二つの逸話などは、その中の一つである。
年わずかに十二にして、
(ウェルギリウス)
当時我々のコレージュ・ド・ギュイエンヌで盛大に行われた、ブカナンやゲラントやミュレのラテン悲劇*に出て、その主要人物を演じたのでございます。このことにかけて我々の校長アンドレアス・グウェアヌス〔アンドレ・ド・グヴェア〕は、彼の職務の他のすべての部分においてと同様に、誰にもくらべようのないフランスで一番えらい校長でございました。そして私は、皆からこの道の名人と見なされていたのでございます。演劇は私が名門の子弟**に対して少しも咎めようと思わない娯楽でございます。私はその後わが国の君侯たちが、おん自ら、古代の君侯のたれかれにならって、上品にまた見事に、これに専念せられるところを拝見いたしたこともございます。
* 当時この学校の教授たちは、毎年学生たちのためにラテン語の戯曲を書くことを義務の一つとされていたのである。それでここに挙げられているユマニスト教授たちは、かわるがわるラテン悲劇を創作したのである。
** こうした言葉の末に、モンテーニュ自ら名門の子弟の一人であるという誇りがほの見えるように感じられる。


(b)まったく私は、こういう娯楽を排斥する人々を、いつもわからず屋だと言ってやりました。また、迎えてしかるべき俳優たちが我々の都市に入ることを禁じ・人民に向ってこういう公の娯楽を禁ずる・やからを、不公平だとして非難しました。よい政府は、厳粛なお祭のためばかりでなく、遊戯演劇のためにも、市民を寄せ集めるのに意を用いております。親和友愛の度はそれによって増すのでございます。それに市民の娯楽として、このように大勢の面前で・役人さえが見ている前で・行われる娯楽ほど、規律ある娯楽を彼らに与えることはできますまい。ですから、役人なり君侯なりが、それぞれの出費で、ときどき慈父のような愛情から人民を楽しませるというのは、理由あることだと存じます。(c)多くの人々の集まる大きな都市に、特にこういう催し事にあてられる場所があったこともまた、理由あることだと存じます。それは悪い秘密な行為を忘れさせます。
(a)さて私の問題にもどりますに、まず勉学の欲望と興味とを呼びさますことが何よりでございます。そういたしませんと、結局本を背負った驢馬を養うことに終ります。人は徒らに鞭を揮って彼らのポケットに学問をつめこませますが、本当の効果を望むならば、ただ学問を自分の家に宿すばかりではいけません、それを
* 以上に読まれたとおり、モンテーニュはこの教育論の中で、弟子の生活上の規則を古代には学んでも、ただの一遍も宗教に訴えることはしていない。そして、批評の精神を養うこと、正しい判断力をもたせることをもって根本にしている。すなわち以上二つの点からモンテーニュは近代の自由思想の先覚者と言い得る。ルソーの教育論の中の実行可能な部分が大抵このモンテーニュから出ていることも忘れることができない。
この章は第一巻第三十二章および第三巻第十一章とくらべて読むことが必要である。これら二つの章には、この章にのべられた意見、特に章の後半にのべられている意見とは、反対の意見が読まれるからである。しかし、この章も十分に注意してよめば、著者の真意がどこにあるかはおのずから明らかである。ここでもモンテーニュは、宗教をもっぱら政治的な観点から見ている。彼は神学者でも哲学者でもなく、政治家なのである。
(a)我々が容易に物事を信じたり信じさせられたりするのを、単純無知のせいにするのはあながち理由のないことではあるまい。まったくわたしは、昔こんなことを習ったような気がする。「信とは我々の霊魂におされた刻印のようなものである。だから霊魂が柔軟で抵抗が少なければ、それだけ何かをそこに刻みつけることは容易である」と。(c)


夢、魔の幻影、奇跡、妖女、夜の怪物、
その他テッサリアのさまざまな不思議
その他テッサリアのさまざまな不思議
(ホラティウス)
などの話を聞くと、そういうばかげた事柄にたぶらかされるたわいのない人たちにそぞろ憐れを催した。だが今となって見れば、自分だって少なくとも同じくらいに憐れまれてよいのであった。それは、その後の経験が何かわたしの最初の信念以上のものを見せてくれたからではない。――もちろんわたしの好奇心が足りなかったせいでもない。――むしろ理性が、「そんなにきっぱりと物を嘘だとかありえないとか断定するのは、僭越千万にも神の
(b)この大空の姿に我らなれ倦きたれば、
誰一人この光あふるる空間を仰ぎ見るものなし。
誰一人この光あふるる空間を仰ぎ見るものなし。
(ルクレティウス)
(a)そしてそれらの物事も、もし新たに我々の眼前に現われたら、何か他の珍しい物事と同様に、否それ以上に、信じ難く思われるであろうことが、わかるであろう。
それらの物始めて人々の前に現われ、
突如として彼らの眼を射たりとせよ。
人はそれらを何ものにもくらべ得ざるべし。
そはかつて夢にだに思い見ざりし物なればなり。
突如として彼らの眼を射たりとせよ。
人はそれらを何ものにもくらべ得ざるべし。
そはかつて夢にだに思い見ざりし物なればなり。
(ルクレティウス)
ついぞ河というものを見たことのなかった者は、ゆきあった最初の河を海と考えた。実に我々は、我々の知っている限りにおいて最も大きなものを、自然がその種において作りなした最大のものと判断するのである。
(b)他のより広大なる河にであわざりし者には、
この河、広大ならざるも、広大ならざるを得ず。
樹もまた然り、人もまた然り。
(a)すべてのものについて、各人は、
その見たる最大のものを、巨大という。
この河、広大ならざるも、広大ならざるを得ず。
樹もまた然り、人もまた然り。
(a)すべてのものについて、各人は、
その見たる最大のものを、巨大という。
(ルクレティウス)
(c)


物事が珍しいということは、それが偉大であるということ以上に、我々を駆ってその原因をたずねしめる。
(a)我々はあの限りない自然の偉力を、もっと多くの畏敬の念をもって、もっと自己の無知無能を認識しつつ、判断しなければならない。ほとんど本当とは思えない事柄が、いかにたくさん、信頼するに足る人々によって証拠だてられていることか。それらは、納得できなくても、少なくともそのままにしておかねばならない。まったくそれらを不可能だとしてしまうことは、可能の及びうる限界を知っていると自負することであって、実に大それた自惚れである。(c)もし不可能なことと普通でないこととの間・また自然の秩序に反することとただ人間の常識に反することとの間・に存する差別がよくわかれば、むやみに信ずることもなく軽々しく否定し去ることもなく、人はあのキロンのおしえた「よろず度をすごすな」という掟を守ることとなろう。
(a)人はフロワサールの中に、フォワ伯がその身はベアルンにありながら、カスティリャ王ジャンのアルジュベロタにおける敗北をそのすぐ翌日に知ったこと、また筆者がそれをどうして知ったかに関していろいろと証拠をあげているのを見て、あるいは笑うかも知れない。また我々の年代記の中に、法王ホノリウスが、王フィリップ・オーギュストが(b)マントで(a)崩ぜられたその日に、国葬を営ませ、イタリア全土にそれを執り行うよう命じたと書いてあるのをよんでも、やはり笑うかも知れない。まったくこれらの証人の権威は、おそらく我々を承服させるだけの力をもっていないであろう。だが、どうであろう。もしもプルタルコスが、古代について幾多の実例を挙げた上に、「自分はドミティアヌスの時代にゲルマニアにおけるアントニウス敗戦の報が、そこから数日の行程にあるローマで敗戦の当日に発表されたこと、そしてそれが皆の人に喧伝されたことを、確かな根拠によって知っている」と言ったとすれば。またカエサルが、「風評が事実に先んじたこともしばしばあった」と言ったとすれば。果して我々は、「これらの単純な人々は、俗人の言うところにまどわされたのだ。我々のように明らかな眼を持たなかったからだ」と言うであろうか。およそプリニウスがいよいよの場合に示した判断くらい、綿密で明瞭で発剌たるものがあったろうか。これくらい空虚から遠いものがあったろうか。彼の知識の優れていたことはしばらくおく。それはわたしのさほどに重んじないところだから。だが、この知識と判断のいずれにおいて、我々は彼を凌いでいるか。それは言わずと知れている。しかるに、極めてちっぽけな生徒までが、プリニウスの言葉を嘘だと言わないものはなく、自然の働きの経過について彼に向って説法しようとあえてしないものはない。
我々がブーシェの著*の中に聖ヒラリウスの御遺骨の奇跡を読むときは、どう言おうとよろしい。彼の信用は大したものではないから、これに抗言するのに遠慮はいらないのである。けれども、すべて同様の物語を一概にしりぞけるのは、はなはだ厚かましいことであると思う。あの大聖人アウグスティヌスは、ミラノにおいて一人の少年が、聖ゲルウァスス及び聖プロタシウスの遺骨に臨んでその視力を回復したこと、カルタゴにおいて一人の婦人が、新たに洗礼をうけたばかりの一人の婦人に十字の印を切ってもらったことによって、その


* 『アキタニア年代記』Les annales d’Aquitaine, par Jean Bouchet.
* ここにモンテーニュのカトリシスムへの復帰が認められる。しかしそれは理性主義的宗教復帰というべきであろう。なお、モンテーニュは奇跡に関する意見を二カ所に述べている。一つはこの章で、もう一つは第三巻第十一章である。そして、両章の間には矛盾がある。対比せられたい。私は、エルネスト・アヴェと同様に、モンテーニュの真の意見はむしろ第三巻の方にあるものと考えたい。ここにはただ、彼の信教上の伝統主義と宗教改革論者に対する彼の政治的立場とを、よみとるべきである。
この章は、モンテーニュが高等法院参議(評定官)であった時の同僚で、彼の上に深い感化を及ぼして早死にした心の友ラ・ボエシ Etienne de La Bo
tie(正しくはラ・ブウェティと発音される)に対する哀切な追憶が生んだ友愛論であると共に、否それ以上に、不遇の裡に早世した偉大な人物ラ・ボエシの頌徳の辞であって、モンテーニュはここに故人の肖像を描いて、腐敗せる同時代人の眼を醒そうとするのである。これは第一巻の中心をなしているばかりでなく、全三巻を通ずるモンテーニュの一貫した精神的姿勢とも言えよう。二人の交遊関係については、私の『モンテーニュとその時代』第三部第三章A、及び白水社版『モンテーニュ全集』第四巻所収「書簡」中モンテーニュがその友の臨終のさまを父に報告した手紙とそれに関する解説について、詳細を知られたい。なお「旅日記」のなかにも、すなわちそれはラ・ボエシと死別して十七年もたった後のことであるが、ふと亡友を想い出して哀悼の情を禁じえなかったことが記されている。この章も、一五七六年前後に書かれたと推定されるから、親友の死後十三年を経て書かれたものである。

(a)わたしはうちの絵かきが仕事を進めてゆくところを眺めているうち、ふと自分もその真似がしてみたくなった。彼はそれぞれの壁の真中の一番よい場所を選んで、そこに全力を傾けて一つの絵を描く。そして、そのぐるりの空白はグロテスクで埋めてゆく。グロテスクというのは、ただその変化と奇抜とをよろこばれる夢幻的な絵模様のことである。この本もまた、本当に、さまざまな肢体を継ぎ合せた・定形をもたない・偶然のそれを除いては何の釣合も連絡も秩序もない・そのグロテスク、その怪奇な絵模様でなくて何であろう。
そは魚の尾をもてる美女の姿なり。
(ホラティウス)
わたしもこの第二の部分までは、たしかにうちの絵かきに追い着いてゆける。だが、もう一方のよりよい部分においてはとても及ばない。まったくわたしは力量がとぼしく、豊富優麗で芸術にかなった絵はとうてい企ておよばないのである。そこでわたしは、そういう絵を一つ、あのエチエンヌ・ド・ラ・ボエシから借用しようと思いついた。それは私の仕事の残る部分に箔をつけてくれるだろう。それは彼自ら「奴隷根性」と題した論文であるが、この名を知らなかった人たちは、後に「反一人論」という甚だうまい名前をつけた。彼はそれをまだうら若い年頃に、暴君を排する自由をたたえつつ、作文のつもりで書いた*のであるが、それは久しい以前から悟性ある人々の手から手に渡り、きわめて大きな当然与えらるべき賞賛を与えられずにはいなかった。まったく、それは高雅でもっとも内容充実したものであった。けれどもこれが彼のなしえた最良のものでは決してない。もし彼が、わたしが彼を識ったあの時分に、すなわち彼がもっと年たけた頃おいに、わたしと同様の企てを抱いてその所感を書きとめたならば、我々はたぐいまれなる・我々を古人の栄誉のすぐ近くにおくような・数々のものを、見ることができたであろう。まったく、特にこの方面の天賦においては、彼に比べられるような者は、ただの一人もわたしは知らないのである。ところが彼のものとして残ったのは、ただこの論と(これはまことに思いがけないことであった。彼は一度この論を手の中から失って後は、遂にそれを見ることなくして終ったはずである)、それから、わが内乱で有名な正月勅令に関する「覚書**」(これはまたたぶん別の場所にその席を与えられるであろう)と、ただ二つだけである。以上が(c)(彼はその臨終の床の上で、苦しい息の下からいとも
* 原題 Servitude volontaire すなわち「意志の隷従」とは意志の自由 libert
volontaire と対をなす言葉で、一口に言えば奴隷根性のことである。ラ・ボエシは、「人々は自分の意志を大切にせず、それぞれボスの言いなり次第になる。そのボスはまたその上のボスに自分の意志を隷従させる。そうして一番上に坐る大ボスが、国王であり暴君である。だからわれわれは暴政を非難する前に、自分自身がボスを作らぬことに努めなければならない」というのである。「反一人論」というのは、ピラミッドの頂上にすわる大ボスに反対するという意味である。――このラ・ボエシの小論文は、その後にかいた「正月勅令に関する覚書」と共に、モンテーニュの「エッセー」との間に緊密な関係をもっているように思う。白水社版『モンテーニュ全集』第一巻付録にその全文を掲げた。「作文のつもりで」とは「学生の提出する論文として」、すなわち本当の著作ではないという意味。このモンテーニュの解説は、必ずしもラ・ボエシの弁護ではなく、事実を述べている。「反一人論」は本来全く純理の書であって、これに政治的意義を与えたのは、フランソワ・オットマンであった。

** 「正月勅令」というのは一五六二年に、大都市以外では新教徒が公然と彼らの宗教的集会を持つことを許した勅令である。ラ・ボエシの「覚書」というのは、一国内に二つの宗教の並存をゆるすのは不可なりとする意見書、建白書である。ラ・ボエシもかなりリベラルなところのある人だが、為政者、政治家としてはやはりモンテーニュと同様にこのような意見でいたのである。
*** La m
nagerie de X
nophon, Les r
gles du mariage de Plutarque et des vers fran
ais du feu Et. de La Bo
tie, 1571 Paris. 拙著『モンテーニュとその時代』参照。





**** モンテーニュとラ・ボエシは性格上相当ちがっていたが、何れもユマニストとして自由の夢にあこがれていた点は共通していた。彼らの友愛は、ラ・ボエシの自由の精神、反俗精神がもとで結ばれたと言えるであろう。そして二人の友愛そのものがまた、古代の優雅なストイックな友愛の模倣であった。モンテーニュのラ・ボエシに対する感情の中には、友のストア的な徳に対する尊敬が大部分を占めており、二人相競って、古代の賢人に近づこうと努力したのである。我々から見て二人の友愛が甚だ高踏的に見えるのはそのためである。自然なやさしい友愛感情は、この友愛論の終りの方にわずかに披瀝されるにすぎない。二人の友愛は要するに一種のユマニスム、古代聖賢へのあこがれの表出であったように思われる。
***** 利瑪竇(マテオ・リッチ)の『交友論』には、モンテーニュの影響があったかも知れないと言う。平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』(平凡社、昭四四、全三冊)参照。
あの古人の言った四種類、すなわち、自然が与える友交*、社交上の友交、主客間の友交*、性交より生ずる友交は、個々にしても一緒にしても、とうてい友愛には比ぶべくもない。
* 自然が与える友交とは親子兄弟間の親しみ。主客間の友交(soci
t
hospitali
re)とは、宿の主人とそこに泊った旅客との間に生ずる情愛であろうか。



(b)われ自ら、弟に対し慈父の如くなりとて、知られたりき**。
(ホラティウス)
* この点はきわめて正確である。トランケの研究は科学的にこの文章を支持実証している。
** モンテーニュの末の弟にベルトラン・ド・マトクロンというのがいた。父が六十四歳の時の子で、モンテーニュとは二十七も年がちがっていた。この弟を彼は全く息子のように愛した。この事実をホラティウスの句を借りてつつましく述べているのであろう。彼のラテンの引用は、凡例の中でも言ったように、実に色々に利用活用されている。
まったくわれみずからも、
恋の悩みにほろ苦き甘味を加えしかの女神に、
識られざりしにはあらざりければ。
恋の悩みにほろ苦き甘味を加えしかの女神に、
識られざりしにはあらざりければ。
(カトゥルス)
よりさかんで、身をこがすが如く、そして烈しい。けれどもそれは、無謀な浮気な動揺常なき炎であり、あるいは起りあるいは静まる熱病の炎であり、我々をただ一箇所においてだけとらえる炎である。友愛の方は、一般的で普遍的な・それに穏やかな・そして常に一様な・温かさであり、常にかわらない落ちついた・いかにも物しずかな・少しも激しく鋭いところのない・温かさである。それに恋愛の方は、逃げるのを追いかける執念ぶかい欲望にすぎない。
寒暑をしのぎ、谷を渡り山を越え、
兎の後を追う猟夫のごとし。
兎が手中にある時はこれを大切にせず、
逃ぐればすなわち
惶 としてこれを追う。
兎の後を追う猟夫のごとし。
兎が手中にある時はこれを大切にせず、
逃ぐればすなわち

(アリオスト)
それは、友愛の範囲内に入ると、すなわち両方の意志が相通ずるようになると、たちまちに消え衰える。享楽はそれを消滅させる。つまりその目的が肉的であって飽満を免れないからである。ところが友愛の方は、欲望されるだけ享楽され、享楽されて始めて高まり広がり増加する。つまり友愛は霊的であり、霊魂は使用によってますます研磨されるからだ。こういう完全な友愛の下位に、あの浮気な感情が、かつてわたしのうちにも席をえたことがある(ここで彼*のことを語らないのは、彼自らその詩句の中に十分にそれを告白しているからである)。そのようにこの二つの感情は互いに認知し合いながらわたしのうちに入って来たのであるが、それは相並んででは決してなかった。つまり友愛は高々と翼を張って、恋愛がその遙か下の方からおずおずと忍び寄るのを、さげすみ見おろしながら、わたしのうちに入ったのである。
* 彼とはラ・ボエシを指す。第二十九章およびその註、白水社版『モンテーニュ全集』第一巻付録二参照。
* モンテーニュはここで婦人をいささか低く見すぎているようであるが、後出第三巻第三章「三つの交わりについて」という章の中では、古今の良書との交わり、紳士との交わりとともに、淑女との交わりをたたえているし、第三巻第五章「ウェルギリウスの詩句について」の中では、はっきり男女の平等を認めていて、決して女性を軽視した人ではない。彼が至るところで女性の悪口をいうのも、むしろ女性を特に男性と区別せず、あまやかすまいと思うからであろう。第三巻第三章、第三巻第五章の本文およびその解説を参照されたい。







* 美少年を対象とする同性愛のこと。(c)の加筆の中にモンテーニュ自ら説明している。
** プラトン『饗宴』
* この句は始めから対句をなしてはいなかった。「それはわたしであったから」の句は前の句よりずっと後に加えられたものだということである(cf. Bulletin des Amis de Montaigne. 2e s
rie no. 1. p, 24.)。ボルドー本には両句ともペンで記入されているので、普通の版には(c)の標示の下に一緒に印刷されているのであるが、手跡を注意して見ると、そこには記入時の前後が、その書体変化によって、識別されるという。すなわちこの有名な美しい対句も一挙に書かれたものではなかったのである。

* 前出二四八頁註***参照。
** モンテーニュは時に三十五歳であった。拙著『モンテーニュとその時代』参照。
これと同列に、あの世間一般の友愛を、置いてくれては困る。勿論わたしはそれらをも人並みに知っている。否、その最も完全なものも知っている。(b)けれども、両方の掟を混同することはお勧めしない。それは間違いのもとであるから。世の常の友愛においては、手綱をひかえつつ、用心に用心をして、進まなければならない。結合が全く心配がいらないまでに結ばれていないからである。「やがてまた何時かは憎まなければならないものとしてこれを愛せよ。いずれまた愛さなければならないものとしてこれを憎め」とキロンは言った。こんな掟は、あの至上至高の友愛においては厭うべきものであるが、普通一般の友愛を行う場合には役にたつ。(c)こういう友愛に対しては、宜しくアリストテレスが口癖のように言った「おおわが友だちよ。友はただの一人もない」という言葉を言ってやるべきである。
(a)あの高貴な交際においては、もう一方の友愛をはぐくむ奉仕や恩恵などは、考慮にすら値しない。それは我々の意志が渾然と一つに溶け合っているからである。まったく、わたしが自分に対してそそぐ友愛は、ストア学者は何と言うにせよ、わたしが必要に応じて自分に与える助力の多少によって少しも増減することがないように、またわたしが自分に対してする奉仕について少しも自分に向って感謝などしないように、ほんとうの友だち同士の結合もまた、それはほんとうに完全無欠なのであるから、二人の間にああいう義理の感情を失わさせてしまう。彼らに恩恵とか義理とか感謝とか懇願とか御礼とかいうような、自他の差別を意味する語を嫌わせるばかりでなく、これを彼らの間から全く駆逐してしまう。意志・思想・財産・妻子・名誉・生命に至るまで、すべては、実際、二人の間では共通なのだから、(c)彼らの一致は、アリストテレスがきわめて適切に定義したとおり、いわば異体同心なのだから、(a)彼らは何物をも貸しあったり与えあったりすることができないのである*。さればこそ立法者たちは、結婚を多少なりともこの聖なる結合と似たもののように思うことによってこれを尊くしようとし、夫婦の間に贈与を禁じているのである。つまりその趣旨は、すべてが夫婦各自のものであり、二人の中には何一つとして分割すべきものがないことを教えるにある。もしわたしが語るところの友愛において、一方が他方に贈与することができるとすれば、うける者の方がその友のためにしたことになるであろう。まったく、両方ともが何事をおいても相手のためにつくそうと努めているのだから、この材料と機会とを与えるものの方が相手につくしたことになる。つまり、その友にその最も欲するところを行うという満足を与えることになるから。(c)哲学者ディオゲネスはお金がなくなると、友だちからお金を取りもどそうと言った。貰おうとは言わなかった。(a)次に、それは実際どういうふうに行われるかを示すために、一つ古代の奇妙な実例をお話しよう。
* マテオ・リッチの『交友論』の書き出しは、「吾が友は他にあらず、即ち我の半、乃ち第二の我なり。故に友を見ること当に己の如くすべし。友と我と二身ありと雖も二身のうちその心は一なるのみ」となっている。此人はモンテーニュを読んでいたのであろうか。
この実例はまことに申し分がないが、そのただ一つの欠点は、親友が二人いたということである。まったくわたしがいう完全な友愛は不可分なのである。各人は心身の全部を挙げてその友に捧げるのであるから、後にはもう、よそに分与すべき何物も残らないのである。否それどころか、自分が二つなく、三つなく、四つないことを、たくさんの心・たくさんの意志・を持ち合せていてそれらをそっくり当の一人に与えられないことを、悲しんでいるのだ。普通の友愛ならば、これを分割することができる。甲においてはその美を、乙においてはその心だての優しさを、丙においてはその気前の良さを、丁においては慈父のようなその愛情を、戊においては兄のような親しさを、というふうに愛することができる。けれども、霊魂を把握してこれを絶対に支配する友愛となると、それはとうてい二つになることができないのである。(c)もし二人が同時に救いを求めたら、どっちに駈けつけるか。二人が相反する奉仕を要求したら、いずれを先に果すか。一人にきかせたらためになることをもう一人が黙っていろというならば、どうしたらよいか。唯一至上の友愛は、他のすべての義務の
(a)この一点を除けば、先の物語はきわめてよくわたしの言ったところにかなっている。まったくエウダミダスは、二人の友に恩恵を施すつもりで彼ら二人を自分のために使ったのである。彼は二人の友にかれ特有の恵与を、すなわち、彼らに自分に対して慈善をするきっかけを与えるという独特の恵与を、遺贈したのである。だから確かに、友愛の力は、アレテウスの行為の中によりもむしろエウダミダスの行為の中に、ずっと豊かに現われている。要するにこれは、その経験のないものにはとうてい想像のできないことである。(c)実にこの故にこそ、わたしはあの若い兵士のキュロスに対する答を、大いに尊く思うのである。すなわち、その兵士は、「幾ら与えたら、お前は競馬に用いて賞をえたその馬を、わたしに譲るか。王国とならばとりかえるか」と訊ねたキュロスに、「絶対にいやでございます。陛下。しかし一人の友がその代りにえられまするならば、そういう交わりにふさわしい者がもしも見出されまするならば、喜んで手離しましょう」と言ったのである。
「もしも見出されまするならば」とは、なかなかうまいことを言った。まったく、浅い交際に適する人々は容易に見出されるが、お互いが心の奥底から契り合う・何一つ控えかくさない・そういう交際は滅多にないのである。まったくそこでは、すべての動機が完全に純粋で確実であることを要するからである。
ただある一点によってなりたつ交誼においては、特にその一点を危うくしそうな不完全な点を補ってゆけばよい。わたしの医者や弁護士はどんな宗派に属していようと、それはどうでもよいことだ。そういう問題は、彼らがわたしになすべき友愛の勤めと、何の関係もないのである。またわたしの召使たちとわたしとの間に生ずる主従のよしみについても、同様に考える。だから下男については、わたしは彼が純潔であるかどうかをあまり問わない。ただ勤勉であるかどうかを問う。驢馬引きは
これこそわが流儀なり。
君は君の欲するとおりなしたまえ。
君は君の欲するとおりなしたまえ。
(テレンティウス)
テーブルを賑わすためには、考え深い人でなしに面白い人を招く。寝床には善い心根よりも美しい肉体を迎える。議論の仲間には才能ある人を選ぶ。必ずしも廉潔の士でなくともよい。その他おおむね同様にする。
(a)或る人が、棒切れを股にはさんで子供と一緒に馬ごっこをしているところを、ふと人に見られ、「どうか君がお父さんになるまでは内密にね」とひたすらに頼んだ。その頃ともなればその人の心の中にも同じ情愛が湧きでて、こんな行為をも公平に判断してもらえるだろうと考えたからだ。ちょうどそれと同じに、わたしもまた、わたしの言うことを、そういう経験をしたことのある人々にきいてもらいたいと思う。けれどもそういう友愛が世間一般の習慣といかに隔絶したものであるか、いかに稀なものであるかはよく知っているから、その良い判断者に会えようとは期待していない。まったく、古人がこの主題に関してのこした論説さえ、わたしの抱いている感情に較べるとやはり力ないものに思われるのである。そしてこの問題にかけては、事実が哲学の原理を越えているのである。
われに理性のあらん限り、この世に
良き友に優るものありとは思うまじ。
良き友に優るものありとは思うまじ。
(ホラティウス)
古人メナンドロスは、どうやら友の亡霊にあうだけは出来たと言ったその人を、「幸福な人よ」と言った。そう言ったのはまことにもっともである。さすがに自らまことの友愛を経験した人だけある。まったく正直のところ、もしもわたしの一生の残りの部分全体を、――神様の御恵みによって、わたしは一生を、あの友を失ったという一事を除けば、大して重い悲しみにもあわず、きわめて心静かに、天から受けた幸福に満足してあえて人をうらやまず、しごく安穏に送ったのであるが、――いや残りどころか、わが一生のすべてを、あの人との甘美な交遊を楽しむべく与えられた四年間*にくらべるならば、それはただ煙にすぎない。暗くわびしい夜にすぎない。彼を失ったその日から、
永久に泣くべく永久に祭るべきその日より、
神の御意によりて彼とわれと別れしその日より、
神の御意によりて彼とわれと別れしその日より、
(ウェルギリウス)
わたしはただよわよわと永らえているにすぎない。わたしの前に現われる愉快なことさえわたしを慰めずに、かえって彼の損失を悼む心をいや増しに増す。我々は何をするにも二人でした。わたしは今、彼の分まで横取りしているような気がする。
すべてを分ちあわん友も今やなければ、
われもはや何事も楽しむまじと決心しぬ。
われもはや何事も楽しむまじと決心しぬ。
(テレンティウス)
わたしはすでに到るところで二人であるのに慣れきっていたから、今では自分が半分**になってしまったように思う。
(b)思わざるに早くも死到りて
わが魂の半ばを奪い行きたれば
われ独りとどまりて何をかなさん。
残れる半ばもすでに死せるがごとし。
まこと同じ一日が、二人を諸共に殺したるなり。
わが魂の半ばを奪い行きたれば
われ独りとどまりて何をかなさん。
残れる半ばもすでに死せるがごとし。
まこと同じ一日が、二人を諸共に殺したるなり。
(ホラティウス)
(a)何をしても、何を思っても、彼がいないことをなげかぬことはない。彼がわたしと入れかわっても、同じことであろう。まったく、彼は他のすべての才能及び徳性においてわたしを越えること限りなく遠かったように、友愛の義務においても遙かにわたしを越えていたのである。
かかるいとしき人を嘆き悼むに、
何をか恥じん、何をかためらわん。
何をか恥じん、何をかためらわん。
(ホラティウス)
おおわが兄弟よ。おん身を失いてわれいかに悲しき?
おん身死しておん身の友愛の賜 たる喜びもまたなし。
わが兄弟よ。おん身去りてわが幸福はすべて失せたり。
おん身と共に、わが霊もまた墓に埋 れぬ。
おん身なければ、かつては楽しかりし研学も忘れぬ。
おん身と語る日、おん身の声をきく日、
おん身の姿を再び見る日は、もはや来らざるのか。
命よりもなお貴かりしわが兄弟よ。
せめてはわれ、永久に、おん身を愛せん。
おん身死しておん身の友愛の
わが兄弟よ。おん身去りてわが幸福はすべて失せたり。
おん身と共に、わが霊もまた墓に
おん身なければ、かつては楽しかりし研学も忘れぬ。
おん身と語る日、おん身の声をきく日、
おん身の姿を再び見る日は、もはや来らざるのか。
命よりもなお貴かりしわが兄弟よ。
せめてはわれ、永久に、おん身を愛せん。
(カトゥルス)
さあ、少しくこの十六歳の少年の語るのを聴こう***。
* モンテーニュとラ・ボエシの交遊期間は、一五五七―六三年とすれば六年であるが、一五五九―六一年の間モンテーニュはパリに滞在し、ラ・ボエシと離れて暮らしたことを考えると、正に四年ということになる。
** 万暦三十三年、即ち一五九五年(『随想録』グルネ嬢版出現の年)、イタリア人ヤソ会士利瑪竇は漢文で『交友論』を著し、後に自らそのイタリア語訳を残した。そこにはアリストテレスの『ニコマコス倫理学』やモンテーニュの『随想録』が援用されている。平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』に詳しいパラレルがなされている(1.二二七―二六四頁)。しかしエッセーの友愛論は、モンテーニュ個人の友愛論であるが、マテオ・リッチのは友愛概論であって、中心がない。両者の間に特定の影響関係があったとはもちろん思われない。むしろそれは、モンテーニュが引用しているキケロやプルタルコスの方から来ていると言えるのかもしれない。けれども『随想録』のほうも、一五八〇、八二、八八年に既に出ていたから、マテオ・リッチが全くモンテーニュを知らなかったとも断定出来ない。
*** 厳密にいうと、十六歳ではなくて二十三歳である。ラ・ボエシが「奴隷根性」すなわち「意志の隷従」を書いたのは彼がトゥールーズの大学に遊学中のことであるから。それをモンテーニュがわざと十六歳と書いたのは慎重のためである。同じ理由から、モンテーニュは始めここに「意志の隷従」の全文を掲げるつもりであったのを取りやめた。次のパラグラフは、その間の事情を説明している。私の白水社版『モンテーニュ全集』においては、第一巻の末尾にその全文を新訳して収録した。
* 「奴隷根性」の断片が『フランス人とその隣人たちの目覚ましの鐘』R
veille-matin des Fran
ais(1574)に、その全文が『シャルル九世治下のフランス国の記録』M
moires de l’Estat de France sous Charles neuvi
me(1576)に挿入されたこと、そしていずれの場合にも革新教徒のヴァロワ王朝攻撃の文章と同居していること、を指している。すなわちモンテーニュは、このようにしてこの書が為めにせんとするものに悪用されることを恐れたのである。この本は本来真の自由を教えているので、一党一派に利用されるのは心外である。だからモンテーニュは、ラ・ボエシの自主独立の反俗精神を、別の方法で宣布しようとする。それが『随想録』となったと見ることも出来よう。




** ラ・ボエシの政治的態度については、彼の「正月勅令に関する覚書」の中によまれる。拙著『モンテーニュを語る』六一―六二頁参照。なお第三巻第一章におけるモンテーニュの政治的態度と対照せられたい。
[#改ページ]
ギッセン伯夫人グラモンさま
この章は、前章の最後の句が予告しているラ・ボエシの恋愛詩二十九篇を掲げるに当ってのいわば序文であって、一五九五年版を除く以前の諸版には、この後にその二十九篇が挿入されていた。モンテーニュは晩年これを削除して、後によまれるとおり「これらの詩句はよそに見られる」と書き加えたのである。アルマンゴーの想像にしたがえば、当時モンテーニュは、別にラ・ボエシの著作集刊行を予定していたのであろう。
この章の献呈されているギッセン伯夫人グラモンというのはルーヴィニー伯爵の娘でディアーヌ・ダンドワンといわれた人、一五六七年十二歳で、グラモンおよびギッシュ(=ギッセン)の領主フィリベールの妻となった。非常に美しい婦人で、朝廷では「美しいコリザンド」という名前でもてはやされた。コリザンドというのは当時流行したスペイン小説『アマディス』の中に出てくる美女の名である。夫フィリベールが一五八〇年ラ・フェールの包囲で戦死し、モンテーニュはその遺骸をソワッソンまで送った(白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」解説参照)。夫人はその後アンリ・ド・ナヴァールの熱愛を受け、アンリが王位につくまで長くその愛人として、また賢明な助言者として、心身をささげた。モンテーニュはこの婦人をフィリベールに嫁する以前から知っており、尊敬もし信頼もしていた。アンリ三世とアンリ・ド・ナヴァールとを握手させるためにも、モンテーニュはしばしばこの婦人を利用した。モンテーニュが特にこの人をラ・ボエシの詩の紹介者としてえらんだのは、この人が詩の愛好者であることのほかに、当時カトリック色の濃かった夫人の名によって、ラ・ボエシが新教徒の一味であるように誤解されているのを解こうとしたのであろう。前章の延長としてそのように解釈できるように思う。『モンテーニュとその時代』四〇四―四一一頁その他参照。
この章の献呈されているギッセン伯夫人グラモンというのはルーヴィニー伯爵の娘でディアーヌ・ダンドワンといわれた人、一五六七年十二歳で、グラモンおよびギッシュ(=ギッセン)の領主フィリベールの妻となった。非常に美しい婦人で、朝廷では「美しいコリザンド」という名前でもてはやされた。コリザンドというのは当時流行したスペイン小説『アマディス』の中に出てくる美女の名である。夫フィリベールが一五八〇年ラ・フェールの包囲で戦死し、モンテーニュはその遺骸をソワッソンまで送った(白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」解説参照)。夫人はその後アンリ・ド・ナヴァールの熱愛を受け、アンリが王位につくまで長くその愛人として、また賢明な助言者として、心身をささげた。モンテーニュはこの婦人をフィリベールに嫁する以前から知っており、尊敬もし信頼もしていた。アンリ三世とアンリ・ド・ナヴァールとを握手させるためにも、モンテーニュはしばしばこの婦人を利用した。モンテーニュが特にこの人をラ・ボエシの詩の紹介者としてえらんだのは、この人が詩の愛好者であることのほかに、当時カトリック色の濃かった夫人の名によって、ラ・ボエシが新教徒の一味であるように誤解されているのを解こうとしたのであろう。前章の延長としてそのように解釈できるように思う。『モンテーニュとその時代』四〇四―四一一頁その他参照。
(a)夫人よ。私はここに私のものは一つもお目にかけません。それは皆すでにあなたに差上げてしまったからです。多少残っているものはあっても、そこにはもうお目にかけられるものは一つもないからでございます。しかし次の詩句は、今後いかなる場所に掲げられましょうとも、是非いつもそのはじめにお名前を冠せられ、この偉大なコリザンド・ダンドワンの御推薦の栄を得ますようにと、切に望む次第でございます。この贈り物はいかにもあなたにふさわしいものだと存じます。何となれば、フランスにはあなたほどよく詩を判断し、あなたほどよくこれをお用いになる婦人は、まことに稀だからでございます。またあなたのように、あの・他のもろもろの美とともに天からおうけになった・美しく豊かな
(c)これらの詩句はよそに見られる。
* 当時詩は常に朗詠唱歌せられたのである。
** 一五七二年にモンテーニュが刊行した『ラ・ボエシ著作集』がポール・ド・フォワ伯に献呈されていることを指す。白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「書簡」第二および第六参照。
*** ラ・ボエシは青春時代に詩を愛好し、自らもドルドーニュと呼びなす不思議な女性のために恋愛詩をささげ、郷土のほまれとなっているドルドーニュの河とその恋人とを交互に歌っている。その詩が次に掲げようとして後に削除された二十九篇のソネ sonnets である。それはわれわれから見てあまり面白くないけれども、モンテーニュを含む当時のユマニストたちには相当魅力があったものと思われる。特にモンテーニュはこの詩を掲げることによって、ラ・ボエシの詩人的傾向を強調し、一方「奴隷根性」の作者のアナーキスト的思想をその蔭におしかくそうとしたものと考えられる。モンテーニュは、一五八八年以後、二十九篇のソネを『随想録』の中から削除する気になったのだが、その序文の部分をあえてそのままに残しているのは、ラ・ボエシの評判をまもろうとする気持はかわらなかったからであろう。詩そのものとしてはあまり面白くないが、『随想録』に対する註の意味をもたせて、白水社版『モンテーニュ全集』には第一巻の終りに和訳して付録した。なおラ・ボエシは、後にジロンドと呼ぶ女性とジロンドの河を詠ったが、このジロンドは後にラ・ボエシの夫人となった人のシンボルであった。これが、ポール・ド・フォワに献呈されたもの、モンテーニュが、「夫らしい冷静さが感ぜられる」と評しているのはそれである。
この章の書かれた時期は確定できないが、一五八〇年前の比較的初期に属するであろうことは否定できまい。ところがここで、モンテーニュはすでにストア主義者ではない。彼はすでに彼の本領たる中庸の徳をたたえている。この章は、「レーモン・スボン弁護」の章その他とともに、すでにキリスト教徒のファナティスム打倒を目標としているように見える。
(a)まるで我々の指先に毒でもあるかのように、我々はそれ自体善美な物事を、我々の取扱いによって腐らせる。余りに強烈な欲望をもってこれをいだくと、せっかくの徳が不徳になってしまうこともある。「徳の中には決して過度はない。そこに過度があれば、それはもう徳ではなくなるから」なんていう人たちは、言葉をもてあそんでいるのである。
徳を愛すること余りに度を越ゆる時は、
賢者も奇人と言われ正しき者も不正の者とならん。
賢者も奇人と言われ正しき者も不正の者とならん。
(ホラティウス)
あれは哲学者の詭弁というものだ。人は徳を愛しすぎることも、正しい行為において極端に振舞うことも、あるのである。この見方は、「賢きにすぎるな。ほどほどに賢くあれ」という神の声と一致する。
(c)わたしは或るやんごとなきお方*が、普通そういう御身分の方々には見られないほどの御信心振りを示されて、かえってその信心の誉れを損われたのを見たことがある。
* アンリ三世を指すらしい。法王シクスト五世が、フランスの枢機官ド・ジョワイユーズに向って、「貴国の王様は、一貧僧のようにあろうとして、あらゆることをなさった。余はそういう貧僧のようにはなるまいとしてできるだけのことをした」と言ったと伝えられる。また枢機官ドッサ Cardinal d’Ossat の書簡中にも、「この王は、王的生活と同程度あるいはそれ以上に、宗教的生活をした」とある。快楽に対しては節度を守れというだけなら誰でも言うが、モンテーニュは徳も学問も信心も極端になってはいけない、快楽も適度に享楽すべきだと言うのである。
的を越す射手は、的に達しない射手と同じく、射損じているのである。またわたしの目は、急にまばゆい光の中に出るときは、急にまっ暗闇に入る時と同様に、あたりを弁じないのである。カリクレスはプラトンの中で、哲学の極端は有害であると言い、役に立つ範囲を越えてこれに没頭することを戒めている。また、「それは節制をもって学べば面白く有益であるが、しまいには人を野蛮不徳にし、宗教及び一般の規則をあなどらせ、典雅な交際や人間らしい快楽をば敵視させ、国を治めることも、人を救うことも、自己を救うこともできなくし、いかにも万人のあざけりを受けるにふさわしいものにしてしまう」と言っている。ほんとうだ。まったく深入りすると、哲学は我々の生れつきの自由を拘束し、そのくどくどしい詮索によって、自然がわれわれのために造ってくれた美しい平らかな道から我々をそれさせる。
(a)我々が妻に情愛を注ぐのはきわめて正当なことである。けれども神学は、これをさえ抑えよ控えよ、という。わたしは昔聖トマスの中で読んだことがあったように思う。なんでも近親結婚の非を説いているところであったが、その数々の理由のなかに、「そのような婦人に対して注ぐ情愛は無節制に陥る危険がある。まったく、夫の愛があるべきとおりに完全無欠であり、その上さらに近親の愛が加わるならば、この増加が、この種の夫に理性の柵を突き破らせることは、疑いない」という理由をあげているのを。
人間の生活を規制する学問、例えば神学とか哲学とかいうものは、何にでも口ばしを入れる。いかに私的な秘密な行為といえども、それら神学や哲学の認識と支配を免れるものはない。(c)それらの無遠慮を非難する者こそ、物しらずと言わねばならない。男とあそぶときには見たいだけ見させながら、療治を受けるときには恥ずかしがって隠そうとする女どもみたいである。(a)だからわたしは、神学者哲学者にかわって世の亭主どもに教えてやりたい。(c)中にはなお、あまりにもしつこい奴もいるかと思うから。(a)「自分の妻との接触から得る快楽だって、そこに節制がないならば咎められる。不正な交わりにおけると同じく放縦過淫におちる危険があるから」と。(c)初夜の熱情がとかく我々にさせがちなあの厚かましい愛撫にいたっては、妻に対して失礼であるばかりか有害である。はずかしいあられもない行いは少なくとも我々自ら教えたくはないものだ。彼女たちは我々の要求に対して常に十分醒めている。わたしは自然で単純な方法でなければ用いたことがない。
(a)結婚は神聖で敬虔な関係である。だから、これから得る快楽は、慎みのある・真面目な・多少は威厳もこもった・ものでなければならない。それはある意味ではつつましい・良心にはじない・快楽でなければならない。そしてその主要な目的は生殖にあるから、そういう結果を希望しえない場合、例えば妻が年を過ぎているとか妊娠中であるとかいう場合には、果してこれに抱擁を求めてよいかどうかと疑いをいだいたものもある。(c)それはプラトンの筆法でゆくと殺人なのである。(b)或る人民は、(c)なかんずくマホメット教を奉ずる人民は、(b)妊娠中の妻に接することを忌む。月経中の妻を遠ざける人民もたくさんある。ゼノビアはただ一回しか夫にゆるさなかった。そしてその後は、その懐胎中を通じて夫をして赴くがままにまかせ、分娩を終って始めて再度の交わりをゆるした。これこそ気高い結婚の模範である。
(c)実にこの快楽に飢え渇いている或る詩人〔ホメロス〕から、プラトンは次の物語を借りて来たのであった。「ユピテルは、或る日、きわめて熱狂的に妻にいどんだ。妻が寝台に上るのも待ちきれず、彼女を床の上におし倒した。そして、その狂おしい享楽のうちに、天上の会議において他の神々と約束したばかりの重大な決心をすっかり忘却して、臆面もなく、『かつて親たちの目をぬすんであれの
(a)ペルシアの王たちは、その妻たちをよんで酒宴の相手とした。けれども、いよいよ本当に酒がきいてきて、全く肉欲の赴くがままに従わねばならなくなると、彼女たちをその私室に追いやり、自分たちの無節制な欲望にあずからしめまいとした。そしてその代りに、かような尊敬をはらうにおよばぬ女どもをよばせた。
(b)すべての快楽すべての恩恵がすべての人々にふさわしくはない。エパメイノンダスが或る素行の修まらない若者を牢にいれた。ペロピダスが、その男のために釈放方を懇請したが、エパメイノンダスはこれを
(a)皇帝アエリウス・ウェルスは、その妃から、他の女たちの愛にいざないゆかれることを怨み責められると、こう答えた。「わたしはむしろ良心の命によってそうするのだ。結婚といえば尊厳なもので、狂暴な淫欲のことではないからね」と。(c)また我が国の昔の宗教書には、夫のあまりに淫らな愛を助長すまいとしてこれと別れた或る夫人の話が、尊げに記されている。(a)要するに、過度になっても無節制に陥っても咎められない・そんな正しい・快楽なんてありっこないのである。
だが正直に言うと、人間くらい憐れむべき動物はないのではなかろうか。人間には、そのもって生れた性分のために、ただ一つの快楽さえ完全純粋に味わうことはほとんどできない。しかもなお、わざわざ理性によって快楽をおさえつけている。つまり学問と勉強によってその悲惨を増加しなければ、人間の惨めさがまだ足りないものと見える。
(b)我らは自ら運命の悲惨を増加す。
(プロペルティウス)
(c)人間の知恵は甚だおこがましくも、我々に属している快楽の数や楽しさを制限することにつとめて得々としている。そうかと思うと、また都合よく上手に人為を用いて、我々のためにもろもろの悪を塗りかくし、その感じを和らげている。もしもわたしが一派の長であったなら、もっと自然な別の方法を、つまり真実で・安楽で・清らかな・別の方法をとったであろう。そしておそらく、それを制御できるほどに自分を鍛えたであろう。
(a)何たることか。我々の精神の医者も肉体の医者も、あたかも互いに結託してでもいるかのように、いじめたり苦しめたりしなければ霊肉いずれの病をも療治する方法はないかのようにいっているのは。徹夜、断食、苦行帯、独り遠くにさすらうこと、終生の僧院暮し、
* キリスト教の精進では、鳥獣の肉は禁ずるが魚肉と卵はゆるされている。
[#改ページ]
カンニバルとは、厳密にいうとアメリカの人食人を指すのであるが、『随想録』の中ではもっとひろく、ペルーとメキシコとを除く新世界のすべての住民を指している。十六世紀には新世界発見にともなって諸種の宇宙誌、航海記等が著わされたから、モンテーニュもよくそれらの書物を読んだらしい。また一五六二年にはルアンにおいて(この章の終りに自ら書いているように)、かの地からつれてこられたアメリカ土人と直接問答もした。とにかくこの章はこうした経験と読書とが基となって、多分一五七七年前後に書かれたものであろう。「レーモン・スボン弁護」の章の重要な部分は一五七六年頃に書かれたのだとすれば、この章はそれよりやや遅れて書かれたものであろう。
「スボン弁護」の章の中では理性およびそれから来るすべてのものの虚しさが実証されたのであるが、この「カンニバル」の章の中ではその理性とか芸術とかいうものに対して自然がいよいよ賞賛せられ、さらに野蛮の賛美にまでも及ぼうとしている。ルソーの『エミール』も、ここに多くのものをんだと言われている。なるほどモンテーニュも、ここでは文明全体を、それが理性の所産であるかぎり、人為的なものとして全面的にけなしているが、これはむしろモンテーニュの一時的昂奮ないし放言であって、他のところではルソーほどに極端ではない。彼の真意は、ただ理性のはなはだしい行きすぎをしりぞけて、理性を伝統のもとに服せしめようとするだけなのである。モンテーニュの理性は純粋理性ではなく、いわば実践理性である。なお、「この国には全くいかなる種類の取引もない。……役人という言葉もなければ統治者という言葉もない」と言う項がほとんどそのままシェイクスピアの『あらし』に引かれているのは有名なことだが、モンテーニュの影響はこのシェイクスピア一人の上にとどまらず、むしろ当時の多くのイギリス戯曲家に及んでいることが、今では明らかになっている。Marston や Webster において特にいちじるしいと言われている。
だが、それらのことよりも特にわれわれがここで注目したいのは、モンテーニュの深い人間愛である。彼は当時ヨーロッパ人に征服されたアメリカ原住民のことを『随想録』のあちこちで語っているが、彼は常にそれらの罪のない純真な土人にあふれる同情を注ぎ、また文明人の飽くなき搾取と卑怯な欺瞞について憤っている。第三巻第六章「馬車について」の章でも、スペイン人の非道を(当時は宗教上、政治上、フランスとこの国との関係はすこぶる微妙であったにもかかわらず)、敢然として難詰している。それにくらべると、この章の叙述はまだ穏やかな方である。しかしこの章の全体を静かに読んでゆくと、やはりわれわれ文明人は顔があげられない。そしてわれわれ二十世紀の諸制度や国際感情などについても深く考えさせられる。モンテーニュの諷刺の辛辣とその底にひそむ公憤とは、ときにヴォルテールを彷彿せしめるほどである。願わくはこの章とともに第三巻第六章をも併せて読まれたい。読者はそこにモンテーニュの深い慈悲心と、人間のずるさや残酷に対する烈々たる憤りとを、感ぜられるであろう。いずれもラ・ボエシの「奴隷根性」論の延長線上にある。
「スボン弁護」の章の中では理性およびそれから来るすべてのものの虚しさが実証されたのであるが、この「カンニバル」の章の中ではその理性とか芸術とかいうものに対して自然がいよいよ賞賛せられ、さらに野蛮の賛美にまでも及ぼうとしている。ルソーの『エミール』も、ここに多くのものをんだと言われている。なるほどモンテーニュも、ここでは文明全体を、それが理性の所産であるかぎり、人為的なものとして全面的にけなしているが、これはむしろモンテーニュの一時的昂奮ないし放言であって、他のところではルソーほどに極端ではない。彼の真意は、ただ理性のはなはだしい行きすぎをしりぞけて、理性を伝統のもとに服せしめようとするだけなのである。モンテーニュの理性は純粋理性ではなく、いわば実践理性である。なお、「この国には全くいかなる種類の取引もない。……役人という言葉もなければ統治者という言葉もない」と言う項がほとんどそのままシェイクスピアの『あらし』に引かれているのは有名なことだが、モンテーニュの影響はこのシェイクスピア一人の上にとどまらず、むしろ当時の多くのイギリス戯曲家に及んでいることが、今では明らかになっている。Marston や Webster において特にいちじるしいと言われている。
だが、それらのことよりも特にわれわれがここで注目したいのは、モンテーニュの深い人間愛である。彼は当時ヨーロッパ人に征服されたアメリカ原住民のことを『随想録』のあちこちで語っているが、彼は常にそれらの罪のない純真な土人にあふれる同情を注ぎ、また文明人の飽くなき搾取と卑怯な欺瞞について憤っている。第三巻第六章「馬車について」の章でも、スペイン人の非道を(当時は宗教上、政治上、フランスとこの国との関係はすこぶる微妙であったにもかかわらず)、敢然として難詰している。それにくらべると、この章の叙述はまだ穏やかな方である。しかしこの章の全体を静かに読んでゆくと、やはりわれわれ文明人は顔があげられない。そしてわれわれ二十世紀の諸制度や国際感情などについても深く考えさせられる。モンテーニュの諷刺の辛辣とその底にひそむ公憤とは、ときにヴォルテールを彷彿せしめるほどである。願わくはこの章とともに第三巻第六章をも併せて読まれたい。読者はそこにモンテーニュの深い慈悲心と、人間のずるさや残酷に対する烈々たる憤りとを、感ぜられるであろう。いずれもラ・ボエシの「奴隷根性」論の延長線上にある。
(a)王ピュロスがイタリアに入ったときのことである。ローマ人が彼を迎え打とうとさし向けた軍隊の正々堂々たるさまを見てこういった。「いったいこれはどこの野蛮人か知らないが(まったくギリシア人は、すべての外国人をこう呼びなしたのである)、眼のあたり見るこの軍隊の排列には少しも野蛮なところがない」と。ギリシア人は、フラミニウスが自分たちの国に侵入させた軍隊についても、同じことをいった。(c)またフィリッポスも小山の上からプブリウス・スルピキウス・ガルバに率いられてその王国内に侵入して来たローマ軍の陣容が整っているのを望み見て、同じことを言った。(a)だから我々も俗論に捉われないように用心しなければならない。俗論を理性に訴えて判断しなければならない。決してそれを大衆の声によって判断してはならない。
わたしが長いあいだ手もとに召使った男に、我々の時代に発見されたあの新世界の、ヴィルガニョン*が上陸して南極フランスと名づけた地方に、十年とか十二年とか住んでいたというものがあったが、こういう果てしのない地域が発見されたということは、すこぶる重大な事柄であると思う。今後はもうこのような大発見はあるまいと、果してわたしに断言ができるだろうか。今度だって我々よりおえらい方々が、あのとおり見込み違いをなさったのだから。もしかすると我々は、胃の腑はちっぽけなくせに眼玉ばかりでかいのではあるまいか。つまり能力もないのに好奇心ばかり大きいのではあるまいか。我々は何もかもかかえ込むけれども、捉えるものはただ風ばかりである。
* ヴィルガニョン Villegaignon(1510-1571)、フランスの提督、マルト騎士団の騎士。この人の航海に随伴した二人アンドレ・テヴェ Andr
Th
vet, ジャン・ド・レリ Jean de L
ry がこの地方(今日のブラジル)についてそれぞれ報告を書いている。ヴィルガニョンがここに上陸したのは一五五七年のことである。



(b)聞くならく、これらの地はその昔、
唯一つの陸続きなりしかど、或るとき、
激しき地震によって相離れたりと。
唯一つの陸続きなりしかど、或るとき、
激しき地震によって相離れたりと。
(ウェルギリウス)
(a)キュプロス島をシリアから、エウボイア島をボイオティアの陸から、それぞれ切り離したということだ。またよそでは、かつて離れていた陸と陸とを、その間の海峡を土砂で埋めながら結びつけたということである。
かつては艪 を押すことをえたる不毛の沼沢、
今や鋤 にすかれて近くの町々を養いつつあり。
今や
(ホラティウス)
だが、あのアトランティスという島が我々の最近発見した新世界そのものだというのは、あまり本当らしく思われない。だってこの島は、ほとんどスペインに接していたのだ。それを洪水が千二百里以上も隔たった今の場所まで引離したということは、ちょっと信じられないではないか。それにすでに近代の航海者たちは、新世界が島ではなくて、むしろ一方東インドに接し、他方南北両極に接する大陸であることを、どうやら発見した様子である。たとえそこに間隔があるにしても、それはごくごく狭い海峡によってであるから、ただそれだけでこれを島とは呼べないであろう。
(b)これらの諸大陸にも、我々の大陸にも、同じように、(c)或る時は自然な、或る時は(b)急激な、幾変遷があるらしい。現にわがドルドーニュ河が下流に向って右へ右へと押してゆきつつあること、二十年の間にそれが著しく進出してすでにたくさんの建物の礎をさらったことなどを考えると、たしかにこれだって異常な変動であると思う。まったく、この河は始終こんなふうに動いて来たのだとすれば、いやこれから先も同じことだとすれば、世界の形相はやがてすっかり変ってしまうであろう。けれども河というものはしょっちゅう変るものだ。或る時は右に或る時は左に氾濫し、或る時はまた元のまんま流れる。わたしはここに、我々がちゃんとその原因を捉えうる突然の洪水について語っているのではない。メドックの海ぞいのところで、アルサックの領主であるわたしの弟は、自分の領地が、海がその上に吐き出す土砂の下にだんだんと埋もれてゆくのを現に見ている。いくつかの家の棟はまだ見えているが、さしもの彼の領地と穀倉も、もはや非常に痩せた草原になってしまった。土地の者の言うところを聞くと、しばらく前から海がぐんぐん押し寄せて来て、すでにもう四里ばかりの土地を失ったという。この砂は海の先駆である。(c)現に、うねうねと動く大きな砂丘が、半里ばかりも海より先んじて押寄せて来るのが見える。陸地に侵入して来るのが見える。
(a)もう一つ、人がこんどの新大陸の発見に結びつけたがる古代の証言が、アリストテレスの中にある。果してこの『前代未聞の不思議』という小冊子が彼のものであるかどうか怪しいが、そこにはこんなことが語られている。「或る幾人かのカルタゴ人がジブラルタル海峡を出て大西洋の唯中に漕ぎ出し、長いこと航海を続けたところ、とうとう或る大きく豊かな島が、全島こんもりとした森に掩われ、また広く深い河川にうるおされつつ、あらゆる陸地から遠く離れて横たわっているのを発見した。それ以来彼らをはじめ幾多の人々が、その地の温和でゆたかなのに心をひかれ、妻子を引きつれて続々とそこに移住するようになった。カルタゴの諸侯は、領内が少しずつさびれてゆくのを見て、なんぴともあの島に行ってはならぬ、と死刑をもって厳禁した。そして、それらの新しい移民たちを、その島から追い出した。それは、人の伝えるところによると、彼らが長い歳月の間に大いに繁殖して、しまいにカルタゴ人にとって代り、その国を滅ぼすにいたるだろうと恐れたからである」と。このアリストテレスの物語もまた、わが新世界とは照応しない。
わたしの許にいたその男というのは単純粗野な男であったが、このような性質はいつわりのない証言をするのに適している。なるほど気のきいた人たちは、より綿密により多くの物事を見るけれども、とかくそれに註釈をつけたがる。いや、自分の解釈に箔をつけ、これを人に信じさせたいので、いくらか話を変えないではおられない。つまり、物事を決してありのままに示さない。必ずそれをひんまげて、自分の眼に映った顔つきをそれにおっかぶせる。そして、自分の判断に重味をつけ、そこに君たちの注意を引くために、とかく素材によけいなものをつけ加え、それを伸ばしたり拡げたりする。だからこの場合には、はなはだ正直な人間か、でなければ、むしろきわめて単純で・虚構の事柄をいかにも誠しやかに見せかけるだけの力のない・人間、少しも自分の考えをもたないくらいの人間、の方がいいのである。うちの男はちょうどそういう男であった。その上彼は、しばしばその旅の間に知り合った水夫や商人などにも会わせてくれた。だからわたしは彼の報告に満足する。なにも宇宙学者の言うことなどきくまでもないのである。
我々にとっては、それぞれの訪れたところを物語ってくれる地誌学者たちが必要であろう。ところがそれらの人たちは、我々が見たことのないパレスチナを見たということを鼻にかけて、世界の他の部分の様子までも語る権利があるかのように思っている。わたしはめいめいが、その知っていることを、知っているだけ、書いてくれればよいと思う。それはこの問題だけに限らない。どんな問題についても同じことである。まったく、ほかの事にかけては誰でも知っているほどの事柄さえも知らない男が、ある河やある泉の性質についてはいくらか特別な知識経験をもっていることもあり得るのだ。ところがそういう男に限って、その小さな領分を案内するのに自然学汎論を書きたがる。実にこういう悪い癖から、いろいろと大きな不都合がかもし出されるのである。
さて本題に立ちもどるに、わたしが聞いたところだと、かの民族の間には少しも野蛮なところはないと思う。ただみんなが自分の習慣にないことを野蛮と呼ぶだけの話なのだ。本当に我々は、自分の住む国の思想習慣の実際ないし理想のほかには、真理および道理の標準をもっていないようである。あそこにもやはり完全な宗教、完全な政体、完全なもろもろの制度習慣がある。なるほど彼らは野生である。ちょうど我々が、自然が独りで・いつもの歩みの間に・産み出した果実を野生と呼ぶのと同じ意味では。だが本当は、我々が人為によって変更し一般の秩序から除外したものをこそ、野蛮と呼ぶべきであろう。前者においては、真実な・そしてより有用で自然な・性能特質が、生々と旺盛に存在する。ところがそれらを、我々は後者において悪変し、ただ我々の腐敗した趣味を喜ばすようなものにしてしまった。(c)だがしかし、かの地の少しも栽培の加えられていないもろもろの果実にも、我々の果実に負けない微妙な滋味風味があって、我々の舌にも何ともいえない味わいを感じさせる。(a)芸術の方が我々の偉大な力強い母たる自然よりも尊ばれるということは道理に反している。我々は自然の作品の豊かさと美しさとの上にあまりにも我々の工夫を加えすぎて、かえってそれらを窒息させた。だが、それにもかかわらず、自然の純潔は至るところに輝いて、我々の無用なくだらない作為に大恥をかかせている*。
(b)蔦 は培 わざるにますますはびこり、
山桃は人なき里にたわわに実 る。
鳥の歌は、巧みなければ、いよいよ妙なり。
山桃は人なき里にたわわに
鳥の歌は、巧みなければ、いよいよ妙なり。
(プロペルティウス)
* ルソーの『エミール』の書出しはまさにこのモンテーニュのパラグラフから発している。
(a)だから新大陸の住民は、人知の陶冶をこうむることがほとんどなく、彼らの原始の素朴さになおはなはだ近くあるがために、あんなにも野蛮に見えるのである。自然の法則が、人間の法律にほとんど毒せられずに、今なお彼らを支配している。しかも、それがあんなに純粋に保存されているのを見ると、わたしはなぜそれがもっと早く、すなわち我々よりももっとよくそれを判断したであろう人間のいた時代に、知られなかったのかと、ときどき悲しくなる。リュクルゴスとプラトンとがそれを知らなかったのは何とも残念なことである。まったく、我々がこれらの民族において実見したものは、詩が黄金時代を美化して描いているその絵巻よりも、詩が人間の理想的な幸福状態として想像するその


(b)これぞ自然が与えし最初の掟。
(ウェルギリウス)
(a)それに彼らは、きわめて快適ではなはだ温和な地方に生きている。したがって、わたしが実見者たちからきいたところによると、そこに病人の姿を見ることは非常に稀である。彼らはそこに、年とって足もとがよろよろしたり、眼がただれたり、歯がぬけたり、背中がまがったりしたものを、ただの一人も見なかったと、断言した。彼らは海に沿って住んでいる。陸の方は高くて大きな山々にかこわれ、その間のひろさはほぼ百里ばかりある。我々の見たことのないような魚肉や獣肉をゆたかにめぐまれていて、それらを火にあぶる以外には何らの調理も加えずに食べている。そこに始めて馬を乗り入れた人は、以前に幾度もここに旅して彼らとはすでによく知り合っていたのであるが、馬にのって現われたばかりに彼らをいたく恐怖させ、とうとう彼と識別される前に矢で射殺されてしまった。彼らの建物は大層ほそ長く、二、三百人の人を容れることができる。屋根は大きな樹の皮で
* スイダス Suidas. ギリシアの文法家、辞典編者。
(c)占いはこれ神の賜物である。であるから、これを乱用するのは罰すべき欺瞞であるといわねばならない。スキュティア人の間では、占い者が万一やりそこなうと、その手足に鉄の鎖をつけた上、いばらを満載した牛車の上に寝かせて、これをやき殺した。我々人間の知恵能力にまかされている事柄を処理する場合には、そこにどんな術策を用いようと許される。けれどもいま言った人たちにいたっては、我々の知識を越えた非常の能力を確信して我々を欺くのであるから、我々は彼らが約束の実をあげえない場合、その欺瞞の厚かましさについて彼らを罰するのは当然ではあるまいか。
(a)彼らは、彼らの山々を越えて更に深い奥地に住む諸民族と戦争をする。彼らは素裸でこれに赴く。武器としてはただ弓矢と、我々の猪槍の舌のように先のとがった木製の剣とを、帯びるだけである。彼らの戦闘のねばり強さはまことに驚くべきもので、未だかつて殺戮と流血とに終らなかったためしはない。まったく彼らは、逃げることもこわがることも、まるで知らないのである。めいめい戦勝記念として、自分が殺した敵の首をもって帰り、これを家の入口にかける。捕虜をつかまえて帰ったものは、長いあいだこれを優遇し、思いつく限りの安楽をこれに与えてから、いよいよ知人たちを大勢かり集める。そして、その捕虜の片腕に綱をつけ、(c)傷をこうむるといけないから数歩離れて(a)自らその末端をとり、その友人の最も親しい者に同様にもう一方の腕を取らす。そして二人して、大勢の面前で、剣でもって彼を打ちすえる。それから、皆でその男を火にあぶって食ってしまう。そしてその肉片をその席に来なかった友人たちに贈る。これは人が考えるように、その身の養いとするためではない。そこが古代のスキュティア人と違うところである。ただこうやって最大の復讐をして見せるだけなのである。その証拠には、彼らの敵側にくみしたポルトガル人が彼らを捕虜としたときに別様の殺し方をしたのを見て、――すなわち彼らを帯の所まで土の中に埋め、その上半身におびただしく矢を射かけたうえ首をしめて殺したのを見て、――彼らはこう考えたのである。「これら別の大陸の者どもは、すでにわれわれの近隣にたくさんの不徳を教えていった。諸種の奸計において彼らは遙かにわれわれよりうわ手である。故なくしてこのような復讐を行うはずがない。きっとこれはわれわれが今まで行っているものよりもよほど辛いものであるに違いない」と。そしてそれ以来、彼ら古来の方式をすてて、このポルトガル方式をまねるようになったのである。わたしは、そのような行為の中に恐ろしい野蛮が存するのを認めて悲しむのではない。むしろ、我々がひとの罪を鳴らしながら自分たちの罪に対してあまりにも盲目であることを悲しむのである。死んだ者を食うよりは、生きた人を食う方が、はるかに野蛮であると思う。拷問責苦と称してまだ十分に感覚をもっている肉体を引き裂いたり、これを少しずつあぶったり、これを犬や豚に噛みやぶらせたりする方が(これは我々がただ読んだだけではなく、つい近頃この目に見たことである。しかも長年の仇敵の間においてでなく、隣人同胞の間に、なお困ったことには、信心とか宗教とかいう名目の下に、なされたことである)、すでに死んだ体をあぶって食うよりも、はるかに野蛮だと思う。
なるほどストア学派の二頭目クリュシッポスとゼノンとは、死人の肉ならこれをどんな用途にあててもよい、これを食餌としてもよい、と考えた。我々の祖先も、昔アレシアにおいてカエサルに囲まれた時、年寄りや女たちや、その他戦争の役に立たないものの死体をもって、籠城の飢えを支えようと決心した。
(b)聞くならくガスコーニュの人たちは、
かかる食餌を用いてその齢をのべたり。
かかる食餌を用いてその齢をのべたり。
(ユウェナリス)
(a)お医者さんたちも、我々の保健上のいろいろな用途に、人肉を用いることをはばからない。外用にもしたし内用にもした。けれども裏切りや不信や圧制や残酷など、我々が日常犯している罪悪をも許すような、そんな無茶な意見は、古往今来、いまだかつてなかったことである。
だから我々は、理性の規則に照らして彼らを野蛮とよぶことはなるほどできるけれども、我々と比較してそういうことはできない。我々の方があらゆる野蛮さにおいて彼らをはるかに越えているのだから。彼らの戦争は徹頭徹尾高潔であって、この人間の病がゆるされる限りの申訳と美しさとをもっている。彼らの間では、戦争はただ一つ徳の尊重ということ以外には、何らの根拠ももたないのである。彼らは新しい土地を征服しようとして戦わない。まったく今なお彼らは、労苦しないでも必要なものは何でも得られるという、自然の豊かさを満喫しているし、その国境を拡張する必要がないほどにゆたかなのである。今でも彼らは、自然の要求が命ずる以外のものは少しも欲望しないという、幸福な状態にあって、結局それ以上のものは彼らには余計なものなのである。彼らは一般に、同年輩の者同士は兄弟と呼び合い、年下のものを子と呼んでいる。そして老人たちは皆のものの父なのである。これらの父たちはその共通の相続者たちのために、このゆたかな財産を共有財産として譲る。それは、自然がもろもろの被造物を産み出すときにそれらに賦与するものと、全然同じものなのだから。隣国の民が山を越えて彼らを攻めに来るとき、そして彼らを打ちまかして去るとき、勝った者の得るところはただ光栄だけである。武勇と徳とにおいて、なお自分の方が上だという優越だけである。まったく、彼らは負けた者の財宝などは大してほしくないのである。彼らはそのまま帰ってゆく。その国には必要なものは何一つ不足していないし、そのうえ自分たちの運命を喜んでうけかつこれに満足するという、偉大な特質をも備えているからだ。こっちが勝っても全く同じことである。その捕虜に対しては、負けたという承認告白を求める以外に何らの賠償も要求しない。けれども捕虜の方もさるもの、百年にただの一人だって、その言葉の上でもその顔つきの上でも、その絶対不敗の勇気を、ほんのちょっぴりたりとも譲るものはない。それくらいならばむしろ死んだ方がよいと考えない者はない。ただの一人だって、助命を乞うよりは殺されて食われてしまう方がよいと望まぬ者はない。彼らはこれらの捕虜を、全然自由にさせておく。それだけ命に未練をもたせてやれると思うからである。そして、やがて
(c)敵の霊を制してこれに敗北を告白させるよりほかに、
真正の勝利なし。
真正の勝利なし。
(クラウディアヌス)
ハンガリア人はきわめて戦争の好きな戦士たちであったが、昔は、敵が助命を乞えば、その上これを追わなかった。まったく彼らは、一度この告白をもぎ取りさえすれば、危害も加えなければ身代金もとらないで、敵を逃がしてやったものである。せいぜい、「これからは手向い致しませぬ」という誓約をさせるだけであった。
(a)我々は敵よりもかなりいろいろな長所をもっているが、それらは借りものの長所であって我々自らのものではない。より強い腕や脛をもつことは


* モンテーニュはここに死んだラ・ボエシを回想し、真のジャンティヨムの肖像を描いている。
* これもまた「一将功なって万骨枯る」の語と共に、ラ・ボエシの不遇夭折を回想している。
かつて誰が、名将イスコラスが敗戦に向って突っこんだときのように意気軒昂に、戦勝へと突き進んだか。誰が、イスコラスがその身の破滅をはかった時のように巧みを凝らし心血を注いで、その身の安泰をはかったか。彼はアルカディア人に対して、ペロポネソスの或る細道を守るべく委任されていた。しかしそれを完うすることは、地の利から見ても兵力の差からいってもとうてい不可能であると思ったし、また敵の前に打って出たら最後、そのままそこを動くことができなくなることも明白であったし、それにその任を果しえなかったら、己れの武名にかかわるばかりでなくラケダイモン全体の名誉にもかかわると考えたので、彼は攻防両極のまん中を採って、次のような決心をした。すなわち、隊中の若くて元気なものは祖国の守りにあてるためにこれを送りかえし、自分はそれが失われてもあまり困らない者どもとともに、この細道を固守しよう、そして死を賭して敵にできるだけの損害を与えてやろう、と決心したのである。ことはそのとおりになった。まったく、やがてアルカディア人の重囲に陥るや、さんざんに敵を斬りまくってから、彼及びその部下のものは、ことごとく敵の刃に突きさされて死んだのである。勝者のための凱旋塔がこの時くらい、敗者のためにこそ、かえってふさわしいと思われたことがあったろうか。ほんとうの勝ちはその戦い方にある。その身を全うすることにではない。武徳の誉れも戦いそのもののうちにあり、討ったの討たれたのにあるのではない。
(a)前の話に立ちもどると、それらの捕虜たちはどのような目にあわされても、どうしてなかなか降参するどころではない。かえってその監禁されている二、三カ月の間を、世にも愉快そうな顔をしてすごすのである。彼らは捕獲者に向って、早く我らを試みにあわせよとせき立てる。彼らに向って、挑む、罵る。その卑怯を咎める。また、幾度自分たちとの戦いに敗れたかを数え立てる。わたしは一人の捕虜が作った歌を一つ持っているが、そこにはこういう一節がある。「みんな思いきってやって来な。そして集まっておれの肉をくらえ。まったくおれの肉をくえば、お前たちは自らの父祖の肉を
* この時代には、被告に対して拷問が行われたし、罪人に対してはもちろん残忍な責苦が加えられた。また、新旧両教の間には争いが絶えないで、かの「サン・バルテルミの殺戮」などのような血なまぐさい事件もあった。スペイン人は、この新世界において、そこの住民に非常な圧迫を加えた。これらの事柄を読者は念頭におかれるがよい。なおその上に、我々の二十世紀の現状を反省することも大いに必要であろう。
(c)我々の妻たちは、まあ奇跡! とおどろいて叫ぶであろう。だがそれは奇跡でも何でもない。これこそ本当の夫婦の道なのだ。最も高級な夫婦の道なのだ。だから聖書を見ても、レアやラケルやサラやヤコブの妻たちは、いずれも自らの夫にその最も美しい腰元をさし出したとある。またリウィアはつらさを忍んで、アウグストゥスの欲望をたすけた。王ディオタロスの妃ストラトニケは、その召し使っている最もきれいな腰元を夫の用に奉ったばかりでなく、その子供たちを大事に養育し、彼らに父の位を継がせるための助力をした。
(a)万一、人がすべてこうした事柄を、ただ単に彼らの習慣への屈従によってなされたもの、古来の習慣の重圧の下に何らの推理も判断もなしになされたもの、また、別様の分別ができないほどに暗愚な心を持ったればこそできたもの、と考えてはいけないから、ここに彼らの知能のほどを示す若干の特徴を挙げなければならない。今わたしが読み上げた軍歌の一つのほかに、わたしはもう一つ恋の歌を持っているが、それはこういう意味で始まっている。「蛇よおまち。ちょっとおまち。わたしの妹が、お前の体の色どりをお手本に、わたしのいとしい人への贈り物にと、立派な帯をこしらえてくれるように。いつまでもそのままにあれよ、おまえの美しさよ。おまえのしとやかさが、どの蛇にもまして人みなにすかれるように」。最初の一節はこの歌の繰り返し句になっている。さてわたしは、詩には相当親しんでいるから、こう判断ができる。この詩想には少しも野蛮なところがないばかりでなく、アナクレオンにそっくりである。それに、彼らの言葉はやさしい響きのよい言葉で、ちょっとギリシア語の語尾のようにひびく。
こういう彼らの中の三人の者が、こちらの悪風に染まることが他日いかに彼らの平和と幸福とをそこなうかを思わず、我々との交際からやがておのれの破滅が生れようとも知らず、わたしの見るところではその破滅はすでに相当進んでいるのに、あさましいことにただ新しいもの見たさの思いに欺かれ、とうとう、フランス見物のため自分たちの静かな天地をすてて、前の王様シャルル九世がそこにおいでの頃、ルアンの町にやって来た*。王様は長時間彼らとお話をされた。人は彼らに、我々の習慣、我々の儀式、美わしいこの都の有様を見せた。それから後に、誰かが彼らの意見を求めた。そして何に一番感心したかを知ろうとした。彼らは三つのことを答えた。三番目をわたしは忘れてしまって残念であるが、始めの二つはいまだに覚えている。彼らはこう言った。「第一に不思議千万に思うのは、王様のまわりにいる・武装した・髯面の・たくましげな・大勢の・大男たちが(これは近衛のスイス兵のことを言っているらしい)、一人の少年の前に平身低頭すること、そして誰ひとりこれらの大男の中のたれかを選んでその王と戴かないこと、である。第二には(彼らはお互いに他人のことを半分とよびなす習慣を持っているので)、この国では、一方にあらゆる種類の安楽にみちあふれている者があるかと思うと、それらの人たちの半分が貧と飢えとのために痩せ衰えて、彼らの門前に食を乞うていることである。しかもかくまでに窮迫したこれらの半分が、よくそのような不正を堪え忍んで、もう一方の富める人たちの
* これは一五六二年の出来事で、シャルル九世は当時十二歳の少年であった。年表参照。
いずれもみなそう見当がはずれてはいない。だってさ、彼らはまったく股引なんかはいてはいないのだからね*。
* 我々は当章、或いは第一巻を通じて、三つの肖像を見る。ラ・ボエシ、モンテーニュ、そしてカンニバル。いずれも堕落した当世に容れられぬ有徳の士、古代から十六世紀のフランスに追放されて来た薄命の人たちである。カンニバルこそは当世の汚辱にけがされることなく、生き残れる真の自由人であるとモンテーニュの眼にはうつったのである。
モンテーニュはすでに第一巻第十一章や第二十七章において占いや予言について考察し、前章においても人間の認識の限界についてふれたが、この章においてはいよいよ人間が第一原因をさぐろうとしてもとうていおよばないことを説き、人間が形而上の問題について勝手な早まった判断を下すことに抗議している。なおよく読んで見ると、その目ざす所がキリスト教徒であること、そして、当時彼らが盛んに行った戦勝祈願や戦勝感謝の行事に対して強い反感をいだいていたことが察せられる。『随想録』は今や時と処を越えた不朽の古典であるが、当時は立派なアクチュアリテをもった辛辣な社会時評であった。
(a)詐欺がほんとうに幅をきかすところは不可知の世界である。なぜなら第一にそこでは奇怪そのことが信を与えるからである。それに不可知の事柄はまったく我々の普通の推理を越えているので、我々の方は始めからそれをくつがえす方法をもたないからである。(c)だから、プラトンも言っているが、人間の性質を語るときより、かえって神々のそれを語る時の方が、人を承服させやすいのである。つまり聞き手の無知が、隠れた事柄の取扱いに広々とした舞台と絶対の自由とを許すからである。
(a)そこで最も人にわからない事柄が一番堅く信ぜられることになり、いいかげんな作り話を語る者どもが、例えば、錬金術師、予言者、占星師、手相見、医者、


(b)インドのある人民の間には、こんな賞むべき習わしがある。すなわち、何かの衝突とか会戦とかで負けると、何か不正の行為でもしたかのように、皆して彼らの神である太陽に向って許しを乞う。つまり、自分の不幸を神のみ心によるものとし、自分の判断や推理はその下位においているのである。
(a)キリスト教徒たるものは、万事を神から来るものと信じ、神の測り難い知恵を肝に銘じつつ、それらをそのまま受け容れればよいのだ。したがって、それらがどんな形のもとに与えられようと、常にそれらをよい意味にとりさえすればよいのだ。けれども、よく世間で見かけることではあるが、我々の企ての好運や成功によって我々の宗教を固めたり支えたりしようとするのは悪いと思う。我々の信仰は他にたくさんの根拠をもっている。なにも出来事によってこれに権威を添えなくてもよいのである。まったく民衆は、こういう・いかにももっともらしく・彼らの好みにかなった・論拠に慣れると、一朝事件が彼らに不利に転ずる場合、その信仰をぐらつかせる危険がある。例えば我々の宗教戦争において、かのロッシュラベイユで勝利をえた新教徒はこの事件をよろこびたたえ、この偶然を自派の宣伝に利用したが、後にモンコントゥール及びジャルナックで悲運に遭遇すると、早速これは厳父の愛児に対する鞭であると弁明した。もちろん、こんなことで皆の人たちを得心させることはできなかった。たちまちに、「やあ、一袋で二袋分の


* これは異端者でも放蕩者でもなく、リヨンの司教で殉教者であった。
(a)わたしは古人の意見の大部分が、「生きるのに喜びよりも苦しみが多くなったら、死ぬべき時が来たのである。辛い苦しい思いをしながらなお命を保つのは自然の掟にも反することだ」という点で一致するのを見た。それは次の古い格言が言うとおりである。
静かなる生、しからずば、楽しき死。
生命が重荷とならば、死ぬこそよけれ。
不幸の中に生きんよりは生きざるをよしとす。
生命が重荷とならば、死ぬこそよけれ。
不幸の中に生きんよりは生きざるをよしとす。
けれども、こういう死の蔑視をさらに押し進めて、名誉や富や権勢やその他我々が運命の恩寵と呼びなすものを解脱するためにそれを用いよう、とする考え、あたかもただ理性だけで、この新手の加勢をえないではとうてい我々に以上のものを放棄する気をおこさせるには足りない、とする考えにいたっては、さすがにこれを、ひとに勧めるものも自らこれを行うものも、見たことがなかったが、このほどとうとう次のようなセネカの一節が手に入った。それを見るとセネカは、皇帝の側近において権勢のすこぶる高かったあのルキリウスに向って、その淫蕩で豪奢な生活を変えるよう・現世の野心を捨てて孤独静穏な哲学的生活に入るよう・すすめ、ルキリウスがその困難なわけを幾つかあげると、こういっている。「わたしの考えでは、君はそのような生活を捨てるか、でなければ全然生命を捨てるか、どっちかにしなければならぬ。わたしはどっちでも楽な道をとるようにとすすめているのだ。すなわち、『結びそこねたものはこれをたち切るより解く方がよい。だが、どうしても解くことができない場合にはこれをたち切るがよい』と言っているのだ。どんな臆病者だって、いつまでも落ちそうにぶら下っているよりは、かえってひと思いに落ちたいと望まない者はない」と。わたしはこの勧告を、なるほどこれは厳正なストア学にふさわしいわいと思いそうになった。ところがなお不思議なことに、それはエピクロスから借りたものであった。エピクロスは、イドメネウスにそっくり同じことを書き送っているのである*。
* モンテーニュの初期におけるストア主義と見られているものも、実はエピクロス説なのだとアルマンゴーは考えている。
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(a)運命*は転変常なきものであるから、どうしてもいろいろとちがった顔かたちで我々の前に現われる。だが正義が次の場合ほどはっきりとあらわれたことがあったろうか。ヴァレンチノ公はコルネットの枢機官アドリアノを毒殺しようと決心し、父である法王アレクサンドロス六世とともにヴァチカンにおける彼のもとで晩餐をすることとし、まず毒酒数本を送りとどけ、料理長にそれを大切に保管するよう命令した。法王はその子に先んじて到着し、飲み物を所望したので、その料理長は、いまの酒を、ただ良い酒であるがために大切にせよと言われたものと考えていたので、早速これを法王にすすめた。また公自らも、ちょうどその間食が始まろうとするところに来合せて、毒酒であろうとは夢にも思わず、もろともに飲んだ。そのために父法王は急死し、息子の方も長いこと病に苦しんだ末、さらに悲惨な最期をとげることになった。
* この「運命」という語がローマの法王庁で問題になったことは有名であるが(私の『モンテーニュ伝』二三八頁、白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」のローマ滞在中の記述、及び本書第五十六章解説及び註参照)、当時一般に fata とか fatum とか書くことは御禁制であったので、世間の利巧な著者たちは、本文には facta と印刷させておいて、後に正誤表の中で facta, lisez fata などとした位であったという。だがモンテーニュは平気でいたる所にこの語を用いている。全三巻を通じて少なくとも三百回は出てくる。後出一の四十七参照。
幾冬の長き宵々が彼らの恋を倦 しめる前に、
はやくもその新しき夫の腕の中からもぎとられて、
はやくもその新しき夫の腕の中からもぎとられて、
(カトゥルス)
礼を厚うして、どうぞわが夫をお返し下さいと、願い出なければならないことになった。もちろんエストレ殿はその乞いをお容れになった。昔からフランスの貴族は貴婦人に対して何一つ拒んだことがなかったのだ。
(c)またこんなのは巧妙な運命とでもいうべきであろうか。ヘレナの子コンスタンティヌスがコンスタンティノポリス帝国を建て、その後数百年を経てヘレナの子コンスタンティヌスが今度はその国を終らせた。
(a)ときに運命は我々の奇跡と張合ってみる。伝えるところによると、王クロヴィスがアングレームを包囲すると、城壁は神様の恵みによってひとりでに崩れおちた。またブーシエが何かの本から借りて来た話によると、王ロベールがどこやらのお城を包囲されたとき、しかもサン・タニャンの祭典に御臨席になるためオルレアンに赴かれたそのお留守中、ミサのまさにたけなわな頃、ちょうど王がご拝礼をなされたその時に、お城の壁はどうもしないのにひとりでに崩れ落ちたという。わがミラノの戦いの時には運命が全然逆に働いた。まったく、大将レンツォは我々のためにアロナの城を攻囲し、その大きな城壁の下に坑道を掘ったのであるが、そして城壁は一度突然宙に飛び上ったのであるが、しかしそのまま、崩れもせずに、そっくり元の礎の上におちて、籠城軍は少しも損害をこうむらなかったのである。
ときに運命は医術を行う。フェレスのイアソンは胸部の
運命は絵の道にかけて画家のプロトゲネスよりも名人ではなかったろうか。この人は衰え疲れた犬を描き上げたとき、他のすべての点では満足したが、犬の口もとのよだれと泡とが思うようにならなかったので、自分の作品が癪にさわりいきなり海綿をとりあげた。そして、それはいろいろな絵具を吸っていたので、全体を塗りつぶすつもりでこれを画面にたたきつけた。ところがどうだろう。運命はちょうどよくそれを犬の口元に持って行った。そして芸術の達しえなかったものを完成した。
運命はまた、我々の決心を是正したり矯正したりする。イギリスの女王イザベル*は、王子に味方し自分の夫に叛くために、軍隊を引きつれて、ジーランドから再び海をわたってその王国にお帰りになる途中、もしその目指す港に到着されたなら、忽ちそこに待受けていた敵のために失われたことであろう。ところが運命は彼女の意に逆らってよそに彼女を吹き送ったために、そこにつつがなく上陸せられた。また犬をめがけて
運命は我々よりも気転あり。
(メナンドロス)
という名句を吐いたのも、むべなるかな。
* フランス王フィリップ・ル・ベルの娘、イギリス王エドワード二世の妃。
(b)最後にもう一つ。次のような事実の中には、相愛する父子に対する運命の異常なまでの慈悲・恩寵が、はっきりと見られはしないか。イグナティウス父子はローマにおいて三頭政官から追放されると、けなげにもお互いに刺し違えて死のう、そうやって暴君の残虐の裏をかこうと約束した。二人は剣をぬき持って互いに突きあたった。運命は両者の鋒先を導き、両方の傷を同じように致命的なものにした。そしてそのように美わしい二人の友愛をよみし、彼らに互いにその血まみれな剣と腕とを相手の傷口からぬきとって、そのまま強く相抱くことをえさせた。それで刑吏も、一度は二人の首を一緒にはねたのであるが、さすがに二つの屍を永くこのけだかい結合の中にのこし、その胸の傷口を相接するままにして、親しくお互いの血と残りの命とを吸い合わさせたのである。
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(a)死んだわたしの父は、ただ経験と天賦とに助けられただけで、特別学問という学問をしたわけではなかったが、極めて判断のはっきりした人であって、かつてわたしに、こんなことを実施してみたく思ったことがある、と言われたことがある。すなわち諸都市の内に或る一定の場所を指定しておき、何か要求のあるものはそこに出かけて行って、係の役人に自分の希望を書きつけてもらえるようにする。例えば、(c)「真珠売却を希望す」「真珠の出物を望む」(a)「何某、パリにおもむくため道連れを求む」「何某、これこれの能ある下僕一人雇入れたし」「何某、お邸奉公を望む」「何某、徒弟一名雇入れたし」というふうに、皆がそれぞれその要求に応じて、登録できるようにしてみたかった、というのである。なるほどこうしてお互いの希望を告げあう便りができたら、それは人々の社会生活に少なからぬ便益をもたらすことであろう*。まったく、始終いろいろな条件が互いに求めあっているのだが、お互いにそれを知らないために、人々は相変らず貧窮をぬけきれずにいるのだ。
* この思いつきは、一六三一年フランス最初の新聞「ガゼット・ド・フランス」によって実現された。
* Lilius Gregorius Giraldus(1479-1552). 詩人にして考古学者、十六世紀のイタリアで令名をうたわれた人だが、生涯貧乏で晩年特に甚だしかった。モンテーニュはこの人の主著 Historia de diis gentium を蔵していた。
** Castellio(1515-1563). 主として聖書のラテン訳とフランス訳とによって有名である。始めカルヴァンの助力者であったが、やがてその恨みを買い、迫害をうけ、ために陋巷に窮死したと伝えられる。
*** アルマンゴーは、この或る人こそモンテーニュその人であろうと考えている。
* モンテーニュ自身も「家事録」Livre de Raison を一冊のこしている。一時アメリカに流れ出たが、今ではボルドー市の図書館に納まっている。それは「ブーテルの歴史暦」と称する当用日記風の一冊で、各頁すなわち各日付の下に、モンテーニュは簡単な記録をした。ナヴァール王が泊ったこと、自分がパリでバスティーユに投獄されたこと、などを書いている。アルマンゴーの『モンテーニュ全集』にはモンテーニュ自ら書いた部分が全部のっているし、その後ジャン・マルシャンによる写真複製版も出ている。拙著『モンテーニュ伝』挿絵、白水社版『モンテーニュ全集』第二巻口絵、『モンテーニュとその時代』書名索引『モンテーニュの家事録』の項参照。
この章はこれに先立つ第三十二、三十四章とともに一五七二年頃のエッセーである。ここには習慣のことが論ぜられているが、これはモンテーニュがいろいろな時期にふれた問題で、その意見は常に大同小異である。第一巻第二十三、四十九章、第二巻第十二章、第三巻第十三章等を併せよまれたい。
(a)どこに向って行こうにも、わたしは何かしら習慣の柵を押し破らないわけにはゆかない。それほど入念に習慣はあらゆる我々の通路をふさいでいる。この節は大分寒くなったので、わたしはふと考えてみた。あの近頃発見された諸民族の裸で歩きまわる習慣は、インド人やモール人の場合と同じく、気候が暑いために余儀なく生じたならわしなのか、それとも
されば、すべてのものは、或いは皮を、或いは毛を、
或いは殻を、或いは甲羅を、或いは樹皮をもて掩われたり。
或いは殻を、或いは甲羅を、或いは樹皮をもて掩われたり。
(ルクレティウス)
我々ももとはそうであったのだが、人工の光をもって太陽の光を消すものがあるように、我々もまた借りた能力を以て我々固有の能力を無くしてしまったのである」と。いや、不可能でないことを不可能にしてくれたのも習慣だということは、わかりきったことだ。まったく着物というものを知らないあの諸民族の中にも、我々の気候と同じ気候の下におかれているものだってあるのである。それに我々の最もデリケートな部分は常にむき出しになっているではないか。(c)眼・口・鼻・耳はみなむき出しではないか。わが百姓たちは、わが祖先と同様、胸や腹までまる出しにしている。(a)我々はスカートやズボンをはくように生れついたにしても、自然が季節の暴威にさらされる部分をいくらか厚い皮で武装してくれていることも、疑ってはならない。現に我々の指の先や足の裏などはそんなふうになっているではないか。
(c)なぜこういうことがそんなに信じ難く思われるのか。わたしの着物を着た姿とわたしの国の百姓の姿との間には、この百姓の姿とあの自分の皮膚以外に着物というものを持たない人間との間におけるよりも、なお一層のへだたりがあるとわたしは思う。
いかに多くの人々が、殊にトルコでは、信心のために裸で歩くことか。
(a)誰やらが、我々の乞食の一人が真冬にシャツ一枚で、あの耳まで
ヘロドトスは言っている。「エジプト人とペルシア人との会戦の際、戦場に横たわっている死体を見たところ、エジプト人の頭がペルシア人のそれよりもはるかに硬いことを、わたしだけでなく皆が認めた。これは、後者が始めは頭巾を、大きくなるとターバンを用いるのに反し、前者は子供の時から髪を剃り無帽でいたからである」と。
(a)また王アゲシラオスは、老齢に至るまで夏冬同じ着物を着る習慣を守りとおされた。スエトニウスの言うところによると、カエサルは常に陣頭に立って進んだが、多くの場合、無帽はだしで、照る日も降る日もかわることがなかった。ハンニバルについても同様のことが言い伝えられている。
その裸の頭の上に、彼は、
滝のごとき雨と雷霆 とを受けたり。
滝のごとき雨と
(シリウス・イタリクス)
(c)久しくそこにいて最近帰って来たばかりの一ヴェネツィア人は書いている。「ペグ王国においては、体の他の部分はこれを掩っているが、男も女もつねにはだしである。乗馬の際もまた同じである」と。
またプラトンは全身の健康のために、頭も足も自然がここにつけた以外のものをもって掩うな、と切に勧めている。
(a)ポーランド人がその王としてフランス出の王*の次に選んだその人**は、いかにも当世における偉大な君主の一人であるが、ついぞ手袋をはめられたことがなかったし、冬になっても、またどんな天気の日でも、日常その室内で用いていられる帽子を取りかえられたことがなかった。
* アンジュー公 duc d’Anjou 後にフランス王アンリ三世となった人。
** エチエンヌ・バトリ Etienne Bathory
(a)それから、我々は寒さの話をしているのだから、そして我々フランス人は色とりどりの着物を着るのだから(わたしは例外。まったくわたしは父にならって、黒か白でなければほとんど着ることがないのである)、またもう一つ、こんな話をさし加えるとしよう。大将マルタン・デュ・ベレの語るところによると、彼はリュクサンブールに出征した時非常な寒さに遭遇したが、携えて行ったぶどう酒はこれを斧で割って目方で兵士に分配し、兵士もこれを籠に入れて持って歩いたそうな。オウィディウスもまたそれによく似たことをいっている。
酒凍結して容れものの形を保つことあり。
飲む時人はこれを汲まずしてこれを砕く。
飲む時人はこれを汲まずしてこれを砕く。
(オウィディウス)
(b)パルス・マエオティス湾*の氷は非常なもので、ミトリダテスの代将は、冬足を濡らさないで敵を破ったその同じ場所で、次の夏には再び海戦によって同じ敵をやぶったと言われる。
* アゾフの海。ドン川の黒海にそそぐ所。
ギリシア人のバビロニアからの退却は、彼らがそこで遭遇した艱難辛苦によって有名である。次の話もその折のことである。彼らはアルメニアの山中で恐ろしい吹雪に逢い西も東もわからなくなった。そして見る間に雪に降りこめられ、一昼夜の間飲まず食わず、大部分の馬は
アレクサンドロスは、冬になると果樹を土の中に埋めてその寒さで枯れるのを防ぐ国を見たという。
(b)着物の話に立ちもどる。メキシコの王様は毎日四度その衣服をかえた。しかも二度と同じものを着なかった。脱ぎすてたものはいつもこれを施しものや褒美として人に与えるのに用いた。同様に壺も皿も、料理場の器具といい食卓のそれといい、二度と再び同じものを用いられなかった。
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小カトーとは大カトーと呼びなされる大伯父カトー(すなわち司直官カトー)に対して、マルクス・ポルキウス・カトーのことをいうので、この章はそのカトーの徳をたたえる五人のラテン詩人の比較論なのであるが、われわれはむしろこの章の冒頭をなすパラグラフの中に、モンテーニュの自由でとらわれない心境、自己を信じながらも決して他人を拘束したり無視したりはしない態度のゆかしさを、読みとるだけで満足すべきであろう。この章は一五七二年頃のエッセーの一つなので、とにかくカトーの高徳をほめる気分をたたえてはいるが、つとに、後年第三巻第三章に述べられるところ、すなわち、「人は自分の気分気質にあまり執着してはいけない。我々最上の知恵はいろいろな習慣に適応しうる点にある。ただ一つの生き方にいや応なしに拘束されているということは、在るのであって生きるのではない」といっているところに、通ずるものをもっている。すなわちここでも、すでに一五七二年頃から、モンテーニュ生来のエピクロス主義が、いわゆるストア主義ないし英雄崇拝的気分の蔭に隠然として存在していることが、証拠だてられるのである。それはともかく、こうした融通自在な態度は、すべての時代を通じて一般の道徳家の間では甚だまれな特質であって、こうしたところにモンテーニュの独特な魅力があるであろう。実際彼の道徳観は、一面はなはだ厳正であって、この人ぐらい清冽な良心をもった人はちょっとないと思われるくらいだが、また一方には、このように凡人には凡人なりに生きる道があることを教えてくれる。人にはそれぞれ個性があり、彼は、背伸びして偉人であろうとするよりは、真の自由人であることをすすめている。モンテーニュはわれわれの師であるよりもむしろ友である。なおこの章の終りにはモンテーニュが詩に対して非凡な鑑識をもっていたことが読みとられる。
モンテーニュのカトーに対する賞賛は第一巻第四十四章、第二巻第三章および第十三章等に見られるが、第二巻第十一章においてはそれが大分控え目になっており、第二巻第三十六章においてはモンテーニュの賞賛する三人の優れた人物の中にカトーはもう数えられていない。そして第三巻第三章および第十二章においては、ソクラテスがカトーに代っている。
モンテーニュのカトーに対する賞賛は第一巻第四十四章、第二巻第三章および第十三章等に見られるが、第二巻第十一章においてはそれが大分控え目になっており、第二巻第三十六章においてはモンテーニュの賞賛する三人の優れた人物の中にカトーはもう数えられていない。そして第三巻第三章および第十二章においては、ソクラテスがカトーに代っている。
(a)わたしは自分のものさしで他人を判断するという世間によくある誤りを、まったくもたない。他人には自分と全く違ったものがあることを容易に信ずる。(c)わたしも或る一つの流儀にしばられているとは思うけれども、世の常の人がするようにそれをみんなに強いはしない。そして、幾多のあべこべの生き方のあることを信じもするし、理解もする。いや、一般の人たちとは反対に、我々の間には類似があるということよりも、相違があるということの方が、わたしにはわかりやすい。わたしは人が欲する限り、他人をわたしの流儀や主義に従うことから解放する。そして彼を、単に彼自身において、他とは無関係に、彼を彼自らの模範に照らして考察する。自分は節欲家ではないけれども、フイアン派の僧やカプチン会の修道士たちが節欲家であることを本気で認め、彼らの生き方を是認するのに
だから、彼らがわたしと別様であればあるだけ彼らを愛し彼らを敬う。わたしは切に、人が我々をそれぞれ別々に判断することを願う。このわたしをも、世間一般の型にあわせて判断しないでほしい。
(a)わたしは自分が弱いからといって、ほめるに値する人々の勇気について、わたしが当然もって然るべき判断意見を少しもかえはしない。(c)


(c)徳はただ言葉の内にあるものと彼らは信じたり。
聖なる森も彼らの目にはただの樹木に過ぎず。
聖なる森も彼らの目にはただの樹木に過ぎず。
(ホラティウス)


それは書斎の柱にかける飾りである。耳にぶらさげる耳輪のように舌の端にぶらさげる飾りである。
(a)今ではもう徳行は認められない。それらしい顔つきはしていてもその精髄を蔵してはいない。まったく、利益・栄光・恐怖・習慣等の、まるで徳とは無関係の幾多の原因が、我々にそれを産み出すべく促しているのである。そのとき我々が行うところの正義・勇敢・慈悲は、はたから見れば、それらが人々の前にさらす顔つきから見れば、徳と呼ばれることができる。しかしそれらを行う当人の許では、少しも徳ではないのである。そこには別に目ざす目的がある。(c)別の原動力が隠れている*。(a)ところが徳は、自分によって・ただ自分のために・なされたこと以外には何も認めないのである。
* ラ・ロシュフコーの「格言」はここから発生した。
それに我々の判断は病んでいて、我々の堕落した風儀に引きずられている。わたしの見るところ、当代の人々の大部分は、いかにも利口ぶって古代の美しい崇高な行為にいやしい解釈を加え、ありもせぬ原因動機をなすりつけて、その栄光を曇らせている。
(b)えらいものぞよ、わる知恵というやつは! どんな崇高純粋な行為でもいい、出してごらん。わたしはそれに、まことしやかに五十の悪い動機をなすりつけてみせよう。それらに尾ひれをつけようとすると、いかにさまざまな想像が我々の心の底にむらがり起ることか。それは神様が御承知である。(c)世の人が詭弁を弄してさかしらぶるのは、悪意からというよりは、むしろ愚昧のせいというべきである。
みんながああいう偉大な名前を傷つけようとしてするのと同じ努力、同じ自由を、わたしはよろこんでそれらの名前を高めるためのお手伝いに用いよう。わたしはそれらの稀な面影、もろもろの賢者がこぞって人の手本とえらんだそれらの面影を、いよいよますます
けれどもわたしは、ここにこのいくら論じても切りのない問題を論議しようとしているのではない。ただカトーをたたえるラテンの五詩人の名句を互いに競争させて見ようと思うのである。(c)一つには、カトーその人のために。一つには、ついでに彼ら五詩人のために。さて、よく教育された少年は、他に比較して始めの二人は力強さが足りないこと、第三の人は、意気はややあがっているが、あまりに気張りすぎて力負けがしていること、に気がつくに違いない。また第三の人と第四の人との間には、創意の上でなお一、二段の懸隔があることを認め、後者に向って感心のあまり合掌するに違いない。そして最後の人を見ると、それは僅かの間隔をもって第一位にあるのだが、この間隔はいかなる人知をもってしても埋めえないものだと叫んだまま、茫然として心魂をうばわれるであろう。ここに不思議なのは、我々の間には詩を作る人は沢山いるのに、詩を判断し解釈する人はかえって少ないことである。まことに、これを作るのはやさしくこれを識別するのはむつかしい。凡庸なしらべならば、作詩法の原則に照らしてこれを判断することができる。けれども善美なるしらべ、卓抜なるしらべ、神韻
(a)カトーは、その生ける間も、かのカエサルよりも偉大なりき。
(マルティアリス)
と第一の者は言う。
カトーは屈せず、死をさえも屈せしめたり。
(マニリウス)
と次の者は言う。そして第三の者はカエサルとポンペイウスとの間の内乱について語りながら、
神々は勝者の側に立ちたれど、カトーは敗者の方にくみしたり。
(ルカヌス)
第四の者はカエサルをたたえて言う。
宇宙はすべて彼の足下にありき。
唯カトーの強き心のみは降 らざりき。
唯カトーの強き心のみは
(ホラティウス)
そして最後に唱歌隊長は、その叙述の中に偉大なローマ人の名をあまた連ねた後、こんなふうに結んでいる。
而してこれらに君臨するカトー。
(ウェルギリウス)
* ミシェルが十四、五歳、ギュイエンヌ学院上級の頃をさすのであろう。彼は詩をよく判断したばかりでなく、自ら詩人であったことを看過してはなるまい。それはモンテーニュその人とその作品を理解する上で重要なことである。後出三の三、九五六頁、三の九、一一四七―一一四八頁、及びその註参照。
(a)我々は歴史をひもといて、アンティゴノスが、その息子がたった今打ち果したばかりの敵王ピュロスの首をさも得意げに自分の前に差し出したのを見て、はなはだ不機嫌になったこと、そしてそれを見るなりさめざめと泣いたこと、それからロレーヌ公ルネもまた、自分が打ち負かしたブルゴーニュ公シャルルの死を
人の心はその秘めたる思いを、
うらはらなる姿の下にかくすものなり。
悲しみはこれをにこやかなる顔の下に、
喜びはこれをかなしげなる姿の下に。
うらはらなる姿の下にかくすものなり。
悲しみはこれをにこやかなる顔の下に、
喜びはこれをかなしげなる姿の下に。
(ペトラルカ)
などと朗詠してはいけない。カエサルの前にポンペイウスの首級が捧げられたとき、彼はあたかもいやな・いとわしい・光景を見たかのように目をそらせたと、歴史は伝えている。この二人はあれほど長い間互いに理解し提携し合って国政をとったのだし、あれほどに運命を共にしたのだし、またあれほど助け合い
彼はこの時、これよりは思いのままに
義父の真情を披瀝 しうるよと喜びつつ、
楽しき心の中 より無理に涙と嘆きとを引き出せり。
義父の真情を
楽しき心の
(ルカヌス)
などといったように。まったく正直いえば、我々の行為の大部分は仮面・見せかけ・にすぎないのではあるけれども、時には
相続人の涙は仮面せる笑なり。
(プブリウス・シルス)
が真実であることもあるにはあるのだが、それにしてもこのような事柄を判断するに当っては、いかにしばしば我々の霊魂がいろいろさまざまな感情にうごかされるものであるかということも、あわせ考えなければならないのである。いや聞くところによれば、我々の体内にはいろいろな体液が混在していて、我々の体質の
ウェヌスが花嫁たちにはいとわしきにや、
娘達が愚かなる親たちをよろこばさんと
閨 の帳 の片蔭に偽りの涙をそそぐにや。
いな、いな、その涙はまことのものならず。
娘達が愚かなる親たちをよろこばさんと
いな、いな、その涙はまことのものならず。
(カトゥルス)
と言ってはいるが……。だから、不倶戴天のかたきが死んだのを見て悲しんだとて、何の不思議もないのである。
(b)わたしは下男を叱るとき、それこそ真剣に叱りつける。この怒号はほんものであって、はったりではない。だが一度神鳴り様が通っておしまいになれば、もしその時すがられれば、喜んで彼をゆるしてやる。正に
(b)わたしが妻に対して或る時は冷淡で或る時はやさしい顔をするのを見て、そのどちらかをいつわりだと思う者があるなら、それはばかである。ネロはその母を溺れ死なせようと送り出しながら、やはりこの親子のわかれに胸のふるえるのを覚え、恐ろしさと憐れみとをこもごも感じたのであった。
(a)聞くところによると、太陽の光はつづいた一本ではない。むしろ、太陽は新たな光線をあとからあとからときわめて繁く注ぎかけているために、その切れ目が我々の眼に見えないだけの話だという。
(b)光明の豊かなる泉・太陽は、
絶えず新たに生れ出 ずる光もて空をひたし、
常に光明の上に光明をそそぎかけつつあり。
絶えず新たに生れ
常に光明の上に光明をそそぎかけつつあり。
(ルクレティウス)
同様に我々の霊魂もまた、その
(c)アルタバノスはふとその甥クセルクセスの、急にその態度を変えたのを見てこれを叱った。この人はギリシアに攻め寄せようとして、まさにヘレスポントスの海を渡ろうとする威武堂々たる自分の軍勢を打ち眺めながら、最初は、こんなにも大勢の軍士がみな自分の指揮下にあることを思い、喜びにふるえいかにもうれしそうな顔つきをしていた。ところがその時、ふと、これだけの生命も百年を待たずして滅びるのだということに気がつき、急に眉をくもらせ、とうとう悲しさの余り涙をながしたのである。
(a)我々は堅い決心をもって恥をすすごうと千辛万苦した。そしてやっと本望を達して喜んだ。しかも我々は泣く。本望をとげたことを泣くのではない。遺恨に変りはないのである。だが、我々の霊魂はことを別の目で見るのである。ことを別の面から見るのである。まったく、物事はいずれも、いろいろな面・いろいろな姿・をもっている。骨肉の情、旧来の友誼などが、突如として我々の心をとらえ、しばらくの間、その事情に応じて、我々の心を昂奮させる。けれどもその変化は、あまりに急激なために、目にとまらないのである。
(b)人の想いほど、心の動きほど、
世にすみやかなるはあるまじ。
されば、人の心は、世の
何ものにもまさりて移りかわる。
世にすみやかなるはあるまじ。
されば、人の心は、世の
何ものにもまさりて移りかわる。
(ルクレティウス)
(a)それで、そういうわけで、こういう移り変りをすべて一つに見ようとするから、間違うのである。あのティモレオンが練りにねった気高い
* このティモレオンの事績は後出第三巻第一章の中に詳しく論評されている。
このエッセーは、前出第十四章や第二十章などと共に、初期(一五七二―七四)の哲学的随想の一つと見られるが、一五八〇年発表される直前にいくらか修正が加えられたのではないかと思われる節もなくはない。マルセル・フランソンはこれを一五七八―七九年頃に書かれたとしている。ここにモンテーニュは隠遁生活の徳をたたえているのであるが、この脱俗超世ぶりは、一五八〇年以後、例えば加筆(c)や第三巻第十章などにおいて著しく緩和されているから、両方を併せ読む必要がある。なお第二巻第十六章「栄誉について」の章とも対比するならば、モンテーニュの隠棲論の真意を一そうよくつかむことができよう。
(a)あの孤独生活と活動生活と何れが是か非かという、果てしのない議論はもうやめにしよう*。そして、野心家や欲張りどもがそれによって自分の正体を掩おうとする「我々は我々一人のために生れたのではなく公衆のために生れたのだ」というもっともらしい文句については、一つ思いきって現に活躍しつつある諸公にきいて見よう。いや、一つ胸に手をおいて考えてもらおう。むしろ事実はあべこべで、公共のもろもろの職務をはじめ世間のいろいろな苦労は、公の利益の中から私の利益をひき出さんがために争い求められているのではないだろうか。こんにち人が世に出るために用いている悪い手段を見ると、その目的もろくなものではなさそうに察せられる。野心家に向っては、お前たちこそ我々に孤独へのあこがれを与えるのだぞと答えてやろうではないか。だって、
(b)善人はきわめて稀なり。
そは、テーバイの城門・ナイルの河口・の数にだも及ばず。
そは、テーバイの城門・ナイルの河口・の数にだも及ばず。
(ユウェナリス)
(a)感染は群衆の間においてこそ、はなはだ危険である。我々は不徳な者を真似るか・憎むか・しなければならないが、それは二つながら危険である。彼らが大勢だからとて彼らにならうのも、彼らが自分に似ていないからとて彼らを憎むのも、両方ともに危険である。
* 隠遁生活と、公共生活と、何れが是か非かの論は古代にもあったし、キリスト教徒にも論ぜられた。モンテーニュは、もうそんな議論はやめて実証主義でゆこうというのである。実際をこの眼で見ようというのである。
だからビアスは戯れて、自分といっしょに大あらしの危険にあって神々の救いを呼んだ者どもに向って、「お黙り! 神々にお前たちがおれと一緒にいることが知れたら大変じゃないか!」と言ったのである。
またもっと緊迫した例をあげれば、ポルトガル王エマヌエルの代りにインドの副王であったアルブケルケは、海難にあってその運が極まると、いきなり一人の少年をその肩に負った。つまりこうして二人の運命を一緒にするならば、少年の純潔のために自分までも神の加護にあずかり、命が助かるだろうと考えたからである。
(a)賢者はどこへ行っても満足して生きることができないというのではない。それどころか、ひとり宮臣ばらの間にたち交じって生きることだってできなくはない。だがもし選択がゆるされるなら、彼は自ら言っているとおり彼らの眼をさえも避けるであろう。必要があれば前の境遇にも堪えるであろうが、許されるならば後の方を選ぶであろう。賢者は、なお他人の不徳と争わねばならないうちは、十分に不徳を脱しえたとは考えないのである。
(b)カロンダスは、悪者の仲間に出入りしていると判明すると、だれでもこれを悪者同様に処罰した。
(c)およそ人間くらい非社交的でまた社交的なものはない。不徳をなす時は非社交的であるが、その天性は社交的である。
またアンティステネスは、悪人との交際を咎められると、「でも医者は病人の間に暮しているではないか」と答えたが、そんなことで非難者を承服させ得るとは思えない。だって医者どもは、病人たちの健康に役立ちはするが、自分自身の健康を、絶えず彼らを見、彼らと交わることによって、伝染によって、害しているではないか。
さて、孤独生活の目的は結局ただ一つ、独りゆったりと・気ままに・暮すことであると思う。ところが人は、必ずしもそういう道をとってはいない。しばしば、さあこれで重荷をおろしたと考えているが、なに、また別の重荷をしょいこんでいる。一家を治めるのにも、一国全体を
万里の波濤を見はるかす岸べにはあらず。
(ホラティウス)
野心・貪欲・不安・恐怖および淫欲は、住む里を変えたからとて我々を離れはしないのである。
暗愁は逃ぐる騎手を追いて、その馬の尻にうち乗る。
(ホラティウス)
それらはしばしば僧院の庭や哲学の講堂にまで我々を追いかけて来る。沙漠も洞窟も毛襦袢*も断食も、我々をそれらから救いはしない。
* 苦行をする者が着る馬の毛で織ったシャツ。
命とりの矢は脇腹にささりて抜けず。
(ウェルギリウス)
或る人がソクラテスに向って、「誰やらは旅に出たけれど少しも直らなかった」と言ったところ、「さもあろう。彼は自分をかかえたまま飛び出していったからね」といった。
なぜなれば別の太陽の照らす国を求めゆくや。
その国を出たればとて誰かおのれ自らを出でんや。
その国を出たればとて誰かおのれ自らを出でんや。
(ホラティウス)
もし人が、始めに自分自身とその霊魂とを、霊魂の上にのしかかっている重荷からとき放たないならば、動かせば動かすほど霊魂をおさえつけることになるだろう。だが、船にしたところで、積荷は、じっと落ち着いているかぎり、少しも邪魔はしないのである。病人に転地をさせるのも、当人のためには益よりも害がある。病気は、これを動かせばそれだけ深く入り込む。ちょうど杭が、それをゆすぶり動かせばますます深く突きささって抜けなくなるようなものだ。だから、人々から遠く離れたって足りない。場所を変えたって足りない。どうしても我々は、我々のうちにある凡俗な心境から離れなければならないのだ。自分を浮世から隔離してから、改めて自分を取りかえさなければならないのだ。
(b)「われ鎖を断てり」と君は言わん。されど見よ。
犬は長き努力の末その鎖を断ちたれども、
逃げゆくを見れば首にその長き端切れを垂れたり。
犬は長き努力の末その鎖を断ちたれども、
逃げゆくを見れば首にその長き端切れを垂れたり。
(ペルシウス)
我々も我々の鉄鎖を身ともろともに運んでいる。それでは完全な自由ではない。我々はなお背後にのこしたものをかえりみ、それでもって心を一杯にしている。
心もし不徳より清められずば、
内なる敵をいかでか防ぎうべき?
いかなる憂い、いかなる恐れに、
煩悩の男は、その身を裂かれざる?
誇りや驕 りや又憤りが、彼の心に、
いかなる悶えと怠りとをもたらさざる?
内なる敵をいかでか防ぎうべき?
いかなる憂い、いかなる恐れに、
煩悩の男は、その身を裂かれざる?
誇りや
いかなる悶えと怠りとをもたらさざる?
(ルクレティウス)
(a)我々の悪は我々の霊魂の中にがんばっている。ところが霊魂は霊魂から脱け出すことができない。
悪は霊魂の中にあり。霊魂はついに霊魂を脱しえず。
(ホラティウス)
であるから、霊魂を連れもどして自分のうちに引っ込めなければならない。それでこそ真の孤独であって、それならば市井や宮廷の真中においても享楽される。だが独り離れてであればいっそうらくに享楽される。
さて我々は、ただ一人で生きよう・仲間をもつまい・と企てる以上、我々の満足を我々自身によらしめよう。我々を他人に結びつけるあらゆる関係から抜け出よう。ほんとうに独りで生きることができるように・そうやって心静かに生きることができるように・なろう。
スティルポンは彼の都市の火事からただ身ひとつでのがれた。妻も子も財産もすべてをそこに失って。デメトリオス・ポリオルケテスは、スティルポンがこの祖国の大災害のまっただ中に平気な顔で澄ましているのを見て、「君は何も損害をこうむらなかったのか」ときいた。彼は答えて、「うん。有難いことにおれの物は何一つ失わなんだよ」と言った。(c)それは、哲学者のアンティステネスが、「人間は、いざ難船という時には水上に浮くような・そして一緒に泳いで逃げられるような・そういう糧食を積んで出るに限るね」と冗談を言ったのと、つまり同じ意味である。
(a)実際悟性ある人は、おのれ自らをもっている限り、何ものも失ってはいないのである。ノラ市が野蛮人たちのために破壊されたとき、そこの司教であったパウリヌスは、すべての物を失い捕虜となったが、神様にこう祈った。「主よ、どうか私がこの損失を感じないようにして下さい。まったく主も知り給うように、彼らはまだ私に属する何物にも手をつけなかったのでございます」と。彼を豊富にした富、彼を善良にした善は、依然として彼のうちに完全だったのである。これでこそ、損害をとうていこうむりえない宝を選んだと言えるのだ。これでこそ、なんぴとも足を踏み入れることのできないところ、我々自身によってでなければ決してばらされないところに、それを隠したと言えるのだ。妻も持たねばならない。子も持たねばならない。財産も持たねばならない。できれば特に健康をもたねばならない。だが我々の幸福は、かかってそこに在るというほどに、それらに執着してはいけない。全く我々の・全く自由独立の・そこに我々のまことの自由と本当の隠遁孤独とを打ちたてるべき・裏座敷*を、一つとっておかなければならない。我々はそこで、毎日我々対我々自身の話をしなければならない。どんな交際もどんな外部の交渉も、そこには入りこまないほどの内輪話をしなければならない。妻なく、子なく、財産もなく、供なく、また下僕もないように、談笑しなければならない。そうしていれば、万一何から何までことごとく失せてなくなる時が来ても、それらなしにすますことが別段こと新しく思われないであろう**。我々は自己を反省することのできる霊魂を持っている。それは、自己を友とすることができる。攻めるものも守るものも、受けるものも与えるものも、もっている。だから、この孤独の中で我々はひまで退屈しはしないかなどと心配するのはやめよう。
孤独の中において、汝こそ、汝自らのために世間たれ。
(ティブルス)
* arri
re-boutique 店舗裏のこと、表通りに面した所は商品を整然と飾りたて、他人を相手とする場所、その裏は誰に気がねもいらない家族の私生活の場所である。この語は実によく町人出身のモンテーニュのお里をあらわしている。拙著『モンテーニュを語る』九四頁参照。

** モンテーニュはここに、随分エゴイストらしいことを言っているが、三一二頁最初のパラグラフに加筆(c)がある。両方を併せよむことが必要である。すなわちこの頁における孤独生活へのあこがれは、それまで十七年間にわたってあくせくと他人のために働いて来たモンテーニュの、引退後間もない頃の感懐として理解すべきであろう。彼は案外ひとがよくて、とかく引張り出され利用されがちな傾向の人であったことを思えば、このような憧れをいだいたのも当然であろう。彼が他人の苦労を見て黙っていられぬ性分であったことは、『随想録』のいたる所によみとられるし、彼のあこがれの隠遁生活もそう長くはつづかず、やがて再び公的生活、政治的活動にもどって行く。これは伝記的研究が証するところである。年表参照。
(a)我々が日常行っているもろもろの行為のうち、真に我々に関係のあるものは千に一つもない。猛然として我をわすれ、雨と降る弾丸をおかして、あの崩れかけた城壁をよじ登ろうとしている者をごらん。またここに、体じゅう傷だらけで、飢えて生きた色もないのに、この城門を開くよりはむしろ斃れて後やまんと決心している者をごらん。果して彼らは自分のためにそこにいるのであろうか。おそらく彼らが一ぺんもあったことのない或る人のためにである。いや彼らのことなんか少しも意に介せず、現にその時も安閑として安逸を貪っているその人*のためにである。ここにまた、鼻汁だらけ眼やにだらけ垢だらけで、夜半過ぎにその書斎から出てくる男をごらん。果して彼はその書物の間に、「どうしたらより正しい人となることができるか。より満足した・より賢明な・人となることができるか」と求めているのだろうか。どう致しまして。ああやって命をちぢめるだけである。後世にプラウトゥスの押韻やたった一つのラテン語の正しい綴りを教えるだけである。一人として健康と安心と生命とを、評判や光栄と取り換えたがらぬものはないが、この評判や光栄くらい、役に立たないにせ金がまたとあろうか。我々自らの死だけではこわさがたりないのか、我々は妻や子や下僕の死までも
何事ぞ、いやしくも人間たるものが、
自分より以上に何事かを愛するとは。
自分より以上に何事かを愛するとは。
(テレンティウス)
* これは勿論国王をさしている。そして先行の数行は今日の戦争のありのままである。このような頁は他にもたくさん出てくることを思うと、モンテーニュは『随想録』を通じて、ひそかに読者の啓蒙をめざしているのではないか。少なくとも王およびその寵臣に対する彼の批評の中には、すでに十八世紀が胚胎しているように思う。彼が自由思想ないし革命の先駆者といわれる理由はここにある。
(a)ひとのために暮すのはもうたくさん。せめてこの人生のはしくれは、我々自らのために生きようではないか。我々の思考我々の思案を、我々の方に、我々の安楽の方に、とりもどそうではないか。隠遁を完うするということはなまやさしいことではない。別の企てをそこに加えないでも、それは相当に我々をせわしくする。せっかく神様は我々にお引越の手筈をするだけの暇は下さるのだから、その支度をしようではないか。荷物をからげよう。早くからお友達に暇乞いをすませておこう。我々をよそへ連れて行き・我々自身から遠ざけようとする・あの乱暴な束縛を脱しよう。まずあの強い
(c)今こそ社会とのつながりを絶つべきときである。我々はもうここに何物をも寄与することができないのだから。貸すことのできないものは借りることをよさなければならない。我々の力は出なくなった。これを引っこめて我々のうちにしまおう。友だちとの愛情やつき合いのつとめを翻して自分に向けかえることができるものはそうしなさい。このように老い衰えれば、誰でも他人にとって無用な厄介なうるさいものとなるのだが、自分にとっては、決してうるさいもの・不愉快な無用なもの・とならないように気をつけなさい。自分を愛撫しなさい。いや、殊に自分を指導しなさい。つまり、その理性と良心とを敬いかつ畏れ、それらの前でつまずいて恥をかかないように気をつけなさい。


ソクラテスは言っている。「若者は学ばねばならぬ。成人は善行にいそしまねばならぬ。老人は文武すべての職より身を退き、何の務めにも拘束されず悠々自適せねばならない」と。
(a)世にはこういう隠遁の教訓に特に適当した性格がある。理解の遅く鈍い人々、感情思想のデリケートな人々、それから、容易に人に屈従したり使われたりしない人々(わたしも、天性から見ても思想から見ても、こういう仲間に入るのだが)、こういう人々は、すべてを包容しすべてに関係しすべての物事に熱中するところの・すべての機会に自分から身を挺してそれに当ろうとするところの・あの活動的なはりきった霊魂にくらべて、より容易にこの勧告に従うであろう。勿論あの・偶然の・我々の外にある・安楽も、それが我々にとって愉快である限り、利用すべきであるが、それをもって我々の主要な基礎としてはいけない。つまり、それはそうしたものではないのである。理性も自然もそうすることを欲しないのである。なぜ我々は、そういう自然及び理性の掟に逆らってまで、自己の満足を他人の権威に従わせるのか。それから、前もって運命の転変に備え、多くの人々が信心によって・また若干の哲学者たちが理性によって・したように、手の中にある安楽をたち、万事人手を借りず、堅い寝床に伏し、眼をえぐり、財産を河の中に投げいれ、進んで苦痛を求めるというようなことは(前者はこの世で苦しんであの世で安楽を得ようとするのだし、後者ははじめから一番下の段階にいてこれ以上墜落する憂目にあうまいとするのであるが)、いずれにせよ、まことに行きすぎた徳行であるといわねばならない。天性つよ気でしっかりした方の人たちは、その隠遁までも輝かしい模範的なものにするがよい。
われ貧窮の内にある時は僅かのものに満足し、
ただつつましやかなる幸福をひそかに誇る。
されど、一朝運命好転すれば、すなわちいう、
衣食たりて始めて知恵と幸福ありと。
ただつつましやかなる幸福をひそかに誇る。
されど、一朝運命好転すれば、すなわちいう、
衣食たりて始めて知恵と幸福ありと。
(ホラティウス)
わたしにとっては、そんなにしないでも、することはかなりたくさんある。わたしは運命の寵愛をうけながら、いつか彼女〔運命〕の不興にあうであろう日のために備えるだけでたくさんだ。安楽の内にいながら、想像の及びうる限り将来の不幸を思い見るだけでたくさんだ。ちょうど我々が馬上試合や模擬戦で武技を練ったり、平和の只中にありながら戦争の稽古をするのと同じことである。
(c)わたしはあのアルケシラオスが、その境遇がゆるす限り金銀の什器を用いたという話をきいても、彼をそれだけ徳の低い哲人だったとは考えない。いや彼がそれをことさらに捨てないで、それをつつましやかにそして惜し気もなく使用したことに、かえって感心させられる。
(a)わたしは、自然の要求の最少限度が、およそどの辺にあるかを心得ている。だから、わたしの戸口に立つ哀れな乞食が、わたしよりも愉快そうで健康なのを眺めているうち、自分を彼の立場に置いて見、わたしも彼のような心持になってみようと試みる。そして、そうやってあれやこれやの実例を眺めていると、死や貧乏や軽蔑や病気がすぐそこまで追いかけて来ていることを知っていながら、わたしは容易に、「わたしにさえも及ばない者どもがあんなに堪えていることを恐れなぞするものか」と腹をきめる。まったく、低い悟性の者の方が高い悟性の者よりもよく堪えるとは、信じられない。言いかえれば、理性の力が習慣の力におよばないとは、とうてい信じられないのだ*。いや、あの仮の安楽がいかに頼むにたらないかをよく知っているから、それを十分に享楽はしつつも、なおわが至上の大願として、「ねがわくは私をして私自らに満足せしめ給え。私より生れる幸福に満足せしめ給え」と、神に祈ることを忘れない。見たまえ、元気溌剌たる若者でさえ、風邪の時の用意にと、一つまみの丸薬を小箱に入れて持っているではないか。彼らは薬を携帯していると思えばそれだけ風邪を恐れないのである。ああいうふうにしなければならない。いわんや、何かもう少し重大な病気をもっていると思う者は、あの患部を麻酔させる薬を用意していなければならない。
* モンテーニュは、この点に関してはたしかにしばしば意見をかえているようである。しかし結局、彼は理性の限界を認めながらも、やはり理性を信頼しているのである。彼にはどうしても、第一巻第二十五章の始めにのべているように「いろいろの知識に富んだ霊魂」が、「粗野で学問のない人たち」に及ばないとは、信じえないのである。習慣の力のおそろしさを知っていながら、理性ある人間が唯習慣にひきずりまわされていてはならぬ、と思っている。インテリにはインテリだけのことがなくてはならぬ、と彼は思っているのである。これが彼の本心だと思う。私はそれを、モンテーニュの相対主義と呼ぶ。
物事を従えよ。物事に従うことなかれ。
(ホラティウス)
そうでないと、家事の管理も、サルスティウスが言ったとおり、奴隷の仕事になってしまう。中には幾分我慢のできる部分もある。例えば庭いじりがその一つで、クセノフォンの言うところではキュロスもこれを行ったらしい。それに、すっかり家事にかかり切っている人々に見うけられる・あの張り切った・心配に充満した・卑賤な心づかいと、また一方の人々において見られる・すべてをなるがままにまかせておく・あの深い極端な無頓着、
羊らデモクリトスの畠の収穫を食べ荒しおるに
彼の心は、その肉体をいでて、遠く空のかなたに遊びたりき。
彼の心は、その肉体をいでて、遠く空のかなたに遊びたりき。
(ホラティウス)
との間に、程よい中間も見出されうるのである。
けれども、小プリニウス*がこの孤独ということについてその友コルネリウス・ルフスに与えた勧告を、きこうではないか。彼はこう言っている。「僕は君に勧める。せっかく君はみち足りた隠遁生活をしているのであるから、家事に関する卑俗な雑務はみな下僕たちに委せて、君は専ら文学の研究に傾倒し、そこから全く君のものである何ものかを引き出したまえ」と。つまり、そのようにして令名を得よと勧めたのである。それはキケロが、「わたしは孤独と政務の余暇とを、書き物によって不朽の生命を得るために用いたい」と言ったのと同じ意味であった。
* 『博物誌』をかいた大プリニウスの甥にあたる。
(b)何ごとぞ、
人知らざれば汝が知恵に価なしとは!
人知らざれば汝が知恵に価なしとは!
(ペルシウス)
(c)遁世を口にする以上、この世の外を目ざすのが道理であろうと思う。プリニウスとキケロとは、その点、中途半端である。なるほど彼らとて、やがてこの世にいなくなる時のために
* このような節をよむと、モンテーニュが全く不信仰者であったとは思えない。
書物は面白いものである。しかしこれに読み耽ることから我々の至上の宝ともいうべき陽気さと健康とを失うくらいならば、むしろ始めからこれを捨てようじゃないか。わたしは、読書の効果はとうていこの損失を償うにたらないと考える者の一人である。何かの病気で久しく身の衰えを感じている人々は、しまいに医者のいいなりになる。そして医学にかなうようなある種の生活法を考え出して、ひたすらそれにそむかないようにする。ちょうどそれと同じで、普通の生活に
人おのおの最も己れの心にかなう道を選べ。
(プロペルティウス)
(a)家事においても、研学においても、狩猟その他何事においても、快楽の最後の限界まで押してゆくがよろしい。ただし、その向う側には引き込まれないように用心しなければいけない。そこを境として苦味が混ってくるからである。勉強も苦労も、ただ自分が生きてゆく張合を感ずるのに必要なだけに、ただ何もすることがなく退屈で困るというあべこべの不快を避けるためだけに、とどめなければならない。世にはみのりのない、いばら〔荊棘〕だらけの学問がある。それらは大部分俗衆のためにできているのであるから、そんなものは世間に奉仕したい人たちに委せておけばよい。このわたしが愛するのは、ただ面白く易しくてわたしをくすぐる書物か、でなければ、わたしが自分の生と死とを調節するにあたって慰めとも力ともなるような・
われをして健 やかなる森の中を逍遙せしめ・
賢者と徳人とにふさわしきことを教うる・
賢者と徳人とにふさわしきことを教うる・
(ホラティウス)
書物だけである。賢明な人々は旺盛な霊魂をもっているから、全然精神的な安静を造り上げることができる。だがわたしはふつうの霊魂をもつだけだから、肉体的愉快の助けをかりて自己を支えてゆかなければならない。ところが年齢が、かつてわたしの心に適っていた肉体的愉快を今しがた持って行ってしまったから、わたしは今自分の欲望を、老いたる現在の季節にふさわしい残りの愉快に対して慣らしかつ鋭くする。我々は爪をも歯をも用いて、我々の年齢が一つ一つ我々の手から奪いとってゆく人生の快楽を、引きとめ用いなければならない。
(b)享 け楽しまん。ただ現在のみが我らのものなり。
やがては汝も、一握りの灰・一つの影・一つの噂とならん。
やがては汝も、一握りの灰・一つの影・一つの噂とならん。
(ペルシウス)
(a)ところで、あのプリニウスとキケロが勧める栄誉という目的にいたっては、わたしの考えからはきわめてかけ離れている。隠遁に最も反対な心持と言えば、それは野心なのである。光栄と安静とはとうてい同じ宿に住みえないのである。わたしの見るところでは、あの二人は腕と脚だけしか浮世の外に出していない。その霊魂、その意図は、依然として、今までよりも以上に、浮世につながれている。
(b)老いぼれよ。ただ他人の耳を楽しませるためにのみいそしむや。
(ペルシウス)
(a)彼らがちょいとばかり引っ込んだのは、もっとよく飛ぼうためであった。いや、もっと勢いよく俗衆のただ中に割り込んでゆくためであった。いかに彼らがわずかのところで金的を射損じているかを御覧に入れようか。二人の哲学者〔エピクロスおよびセネカ〕の意見を、〔このプリニウスおよびキケロの勧告に〕対立させてみよう。二人〔エピクロスとセネカ〕はきわめて相異なる二派に属する哲学者であるが、一人〔エピクロス〕はイドメネウスに、もう一人〔セネカ〕はルキリウスに、いずれも自分の友が俗務や権勢にかかずらうのをやめて、孤独の生活にはいるようにとすすめているのである。「君たちは(と二人はいう)今まで泳ぎながら生きて来た。いいかげんに港にかえってきて死になさい。君たちは始めの半生を光に与えた。残るところはこれを影に与えなさい。その果実を思いすてぬかぎり、仕事を捨てることはできない。だから、名声や栄誉をえようとするあらゆる執心から解脱しなさい。過去の行為の輝きが君たちを照らしすぎ、君たちのほら穴までついて行ったら危険である。他のもろもろの快楽とともに、他人の称賛から来る快楽もこれをすてなさい。君たちの学識や才能のことなどは気にしなさんな。そのために君たちがよりよくなっているとすれば、評判などはどうでもよいのだ。想い出し給え。或る人が、『多くの人々に知られないような学芸のために、そんなに苦心していったいどうする気か?』と聞かれて、『いや僅かの人が知ってくれればそれでたくさん。一人でもたくさん。いや誰にも知られなくたってたくさん』と答えたのを。これこそもっとも千万な返答だ。芝居をするには相棒一人あればたくさんなのだ。いや、君対君自らでたくさんなのだ。大衆をもただの一人とみたまえ。ただ一人をも全大衆とみたまえ。無為と隠遁から光栄をひき出そうとするのは、あまりにも意気地のない野心である。そのほら穴の入口で足あとを消すという獣のようにしなさい。世間が君たちについて語ることなどは、もはや君たちの尋ねるべきことではない。いかにおのれ自らに語りかけるべきかをこそ、尋ねなければならないのだ。君たち自らのうちに引っ込みなさい。しかし、まずもって君たちをそこに迎え入れる用意をしなさい。もし君たちが君たち自らを指導することを知らないならば、君たちを君たち自らに委せるのも愚かなことであろう。孤独の中でも衆人の間でと同じように過つ機縁がある。いよいよ君たちが、自分自身の前で跛はひけないというようなそういう人間になりおおすまでは、君たちがおのれ自らに対して羞恥や畏敬をいだくようになるまでは、(c)


* モンテーニュはこの章の中で隠遁生活の三つの様態を考察した。第一は宗教的隠遁、これに対してはただカトリック教徒としての敬意をささげたまま深くは追及しない。第二はプリニウス―キケロ式隠遁で、モンテーニュはこれの矛盾をわらった。第三がエピクロス―セネカ様式で、これこそ夫子自らのあこがれの隠遁であった。
この章は前章「孤独について」の後半においてキケロ―小プリニウス対セネカ―エピクロスの比較論がなされているので、その延長として書かれたのであるが、むしろ後年加筆せられた(c)の部分の中に、『随想録』解釈上の重大な鍵がかくれている点に注意すべきであろう。すなわち彼は、『随想録』の言葉づかいに関する世評に答えながら、「それらはそっぽをむいてさらに微妙な意味を響かせている」と言っている。これは第三巻第九章に「わたしには物事を半分しか言えない・またごたまぜにもちぐはぐにも言わねばならない・何か特別なわけがあるのだろう」と言った言葉とともに、我々が読みおとしてはならない重大な言葉である。モンテーニュを保守反動家であると見たり、懐疑論者だと見たり、あるいはその宗教的態度の矛盾や曖昧を咎める人たちは、皆この微妙な響きをききわけない人たちなのではあるまいか。これはアルマンゴー博士が指摘した重要な点である。
(a)これら二組*の人々を比較してゆくと、さらにもう一つのことに気がつく。キケロやこのプリニウス**(この男は、わたしの考えでは、少しもその伯父〔大プリニウス〕の性格に似たところがない)の書いたものの中には、彼らの極度に野心的な性質を示す証拠が限りなく見出される。その内の特に著しい一例をあげるならば、これは皆の人がよく知っているところであるが、当時の歴史家たちに対して、自分たちを記録の中に書き忘れないでくれと切望していることである。ところが運命もつむじをまげたか、そういう要求をした彼らの虚栄の方は忘れずに我々にまで伝えながら、彼らのことが記録されているその伝記の方はとうの昔になくなしてしまった。だが彼らの心事の
* 前章後半における、キケロ―プリニウス対セネカ―エピクロスの比較。
** 「このプリニウス」とは伯父である自然学者大プリニウスに対して前章以来論じて来た小プリニウスをさしている。
*** テレンティウス。
* モンテーニュは後に結局エッセーの著者たることに徹底するのであるが(拙著『モンテーニュとその時代』終章参照)、長いこと、特に始めのころは、自らジャンティヨムたることを誇りとし、単なる文筆家、売文家、学者たることをいさぎよしとしないような傾向があった。ここに言っていることは、さも他人事のようであるが、少なくともそこに自分をも含めて言っているように思われる。彼が理想とするジャンティヨムは、ただ詩歌管弦の道にたけたる風流優雅な宮廷人ではなく、王政の扶翼者、為政者としての才幹を備えていなければならなかったので、この点で彼はカスティリヨーネの『宮臣論』を抜いていた。このことは、次にマケドニア王フィリッポスの話をしていることでもわかる。その次に(c)の加筆では、はっきりとエッセーの著者の姿をあらわしているではないか。
* 海綿は液体をよく吸収するから大酒呑みをさしている。
刃むかう敵には強くあれ。
恐れる敵には優しくあれ。
恐れる敵には優しくあれ。
(ホラティウス)
狩猟や舞踊をよくするということも王者の本職ではない。
或る者は雄弁をふるって訴訟を弁護するがよし。
或る者はコンパスを取りて星の運行を記すがよし。
されど彼は、もっぱら民を治むる道を知るべきなり。
或る者はコンパスを取りて星の運行を記すがよし。
されど彼は、もっぱら民を治むる道を知るべきなり。
(ウェルギリウス)
(a)プルタルコスは更に一歩を進めて言う。「さほどに必要でないこういう部分において、これほどまでに卓越しているということは、もっと必要な有効な事柄にむけるべきであった閑暇と勤勉とを誤り用いた証拠であって、かえってその人の徳をそこなうゆえんである」と。実に同じ考えからマケドニア王フィリッポスは、その子のアレクサンドロス大王がある宴会の席上で、名ある音楽家たちにも負けないほどに歌うのを聞くと、「お前はそんなにうまく歌って恥ずかしいとは思わぬか」と言ったのである。また、この同じフィリッポスに向ってある一人の楽人は、さんざん王と音楽についてあげつらった末に、「おそれながら陛下よ。これらの問題について陛下の方が私よりも明るくおなりになったら、それこそ困ったことに相成りまする」と申上げたそうな。
(b)王たる者はあのイフィクラテスのように答えることができなければならない。「お前はえらく威張っているがいったい何者だ。剣士か弓士か、それとも槍士か」と彼に食ってかかった雄弁家に向って、「わたしはそのいずれでもない。しかしそれらすべてを指揮することのできる者だ」と彼は答えたのである。
(a)また、アンティステネスは、人がイスメニアスを「並びなき笛の名人であるぞ」と
(c)わたしは人が『エッセー』の言葉づかいについてあげつらっているのを聞いていると、いい加減にやめてくれればいいのにとつくづく思う。あれでは文章をほめているのではなく、むしろ内容をこきおろしているのである。それは遠まわしの批評であるだけに、それだけ針を含んでいる。けれども果して世の多くの著作家たちは、内容においてわたしよりも豊富なものを提供しておいでだろうか。そうは思われない。どのような書きぶりにもせよ、


* 章頭の解説に述べたように、ここは大層意味の深い一節である。反語的表現の中に、モンテーニュの世評に対する答え、ないし自著の抱負がうかがわれる。
後の二人の哲学者〔エピクロス及びセネカ〕においても、多少前の二人〔プリニウス及びキケロ〕に似たところがある。まったく彼らもまた、その友人*に与えた手紙に永遠を約束している。だがその仕方がちがう。すなわち、或るよい目的のために他人の虚栄に順応したのである。まったく、こんなふうに彼らはその友だちに告げているのだ。「もし後世に知られよう・よき評判をえよう・との心づかいが、なお君たちを政治に執着させるのならば、そして、そのために我々がすすめる孤独隠遁の生活を厭われるのならば、もうそういう御心配は無用である。我々は相当後世の信用をえているから、我々から手紙をもらっているというだけで、君たちの名前が有名になるであろうことは請合いである。何もわざわざ政治にたずさわらなくてもよろしい」と。それに、こうした区別があったばかりでなく、それは空虚な実のない手紙ではなかった。巧妙に語をえらんでそれらを調子よく響くように積み並べたということよりほかに、なんの取柄もないような手紙ではなかった。それは知恵の堂々たる議論が充満した手紙であった。それをよむと、人はさらに雄弁となるだけでなくさらに賢明になる。よく言う道を教えられるだけでなく、よく行う道をも教えられる。雄弁を羨望させるだけで、他の何事をも羨望させない雄弁なんか、いったい何だ。「キケロの雄弁は完全の極致であるから、ただそれだけで実質となる」と言う人もあるけれど。
* エピクロスはイドメネウスに、セネカはルキリウスに書いた。
(b)手紙の話が出たついでに、一言いっておきたいのは、「これならお前にも相当なものが書けるだろう」と、よく友だちから言われることである。(c)なるほど、もしその相手さえあったなら、わたしはわが幻想を発表するのに、この形式の方をとろうとしたであろう。だがわたしには、昔とちがって、わたしを引きつけ、わたしを支持し、わたしを向上させるような交際がもうないのである*。まったく、たれかれがするように空であげつらうなんてことは、夢の中ででもなければできないし、真面目な問題を論ずるのに、ありもしない名前をでっちあげることもできないのである。詐欺は一切大嫌いだから。わたしだって、誰か力あるやさしい相手をもつならば、大衆のさまざまな顔つきをながめながら書くよりは、ずっと張り切って確信を以て書いたであろう。いやそれで成功しなかったら、それこそわたしは失望したにちがいない。(b)わたしは生来平たい砕けた文体を持っているが、それは全くの我流で公文書などにはむかないのである。わたしの言葉はどんな場合にも、あまりにせっかちで・乱雑で・とぎれとぎれで・風変り・だから。それに、ばか丁寧な言葉の美しい連続にすぎない・あの内容空虚な・礼式文ときてはどうにもならない。わたしには「敬愛」とやら「奉仕」とやらを、ああ長々しく申し述べる能力もなければ趣味もない。わたしは心からそんなふうに思ってはいないのだし、心にもないことを仰々しく申しのべることはきらいなのである。だがこれは、こんにちの習慣からは甚だしくかけ離れている。まったく、未だかつてこれほどまでに挨拶の言葉がけがされ乱用された時代はなかった。いのち・たましい・忠誠・崇拝・しもべ・奴隷というような言葉があまりにふんだんに用いられているものだから、さてほんとうの尊敬の情を表わそうとなると、人々はもうどう言ってよいかわからないのである。
* 『随想録』は、失われた友との対話として生れ、ラ・ボエシの代替物になるわけだが、その過去の友愛に対するあこがれの情は、やがて将来多くの人々の間から誰か一人の生きた友人に出会いたいという欲望に変って行く。後出三の五、九七九頁参照。
(c)お迎えをしたり、お暇乞いをしたり、お礼を申し上げたり、ご挨拶をしたり、ご用を承ったり、その他我々の礼儀作法が命ずるさまざまの口上を述べるのに、わたしぐらい口不調法な者はちょっとないであろう。
だからわたしも推賞推薦の手紙を頼まれたことがないではないが、それを受け取った人が、おそろしくそっけない手紙もあったもんだと思わないこととてはなかったのである。
(b)イタリア人はむやみに書簡集を刊行する。わたしはそれをたしか百冊ばかりは持っている。なかでもアンニバレ・カロの手紙が最も優れているように思われる。万一わたしがむかし婦人たちのために書き散らした手紙が、わたしのこの手が本当に熱情に駆られて書いたその時のまんまでそっくり残っているならば、中にはひょっとすると、同じ狂気にうつつを抜かしている呑気な若者どもに見せるにたりるものも幾頁かはあるかも知れない。わたしはいつも急いで手紙をかく。あまりに気がせくので、たまらなく悪筆*だけれども、他人の手を
* モンテーニュは自ら悪筆と称しているが、ボルドー本の書き入れを見るとなかなか几帳面な行儀のよい字であって、それはむしろ学究的綿密さを思わせる。モンテーニュはいつもこのように謙遜であるから、読む方は文字どおりにとってはいけない。彼は厚かましさがきらいで、自慢も出しゃばりもしなかったために、他の点でも随分損をしている。『サント・ブーヴ選集』(実業之日本社版)中、私が訳した「モンテーニュ」の項及び白水社版『モンテーニュ全集』第二巻の口絵、ボルドー本書き入れ、および「家事録」の記入参照。
** 一五八八年版の『エッセー』を見ると、従来あった著者の肩書が扉紙の上から除かれている。このパラグラフも(b)であって、いわゆる彼の第三巻時代に属する。初版刊行のころは、ジャンティヨムとしての意識が強く、王室伺候という肩書きを刷り込まないのは王室に対する不敬になる位に考えていたようだが、やがて自ら『エッセー』の著者としての使命抱負をはっきりと意識するようになるからである。特に旅行以後の彼はもはやジャンティヨム・フランセではなしに、「世界の市民」の意識へと進んで来ていることが察せられる。
(a)世にあるもろもろの迷夢のうち最も広く人々にいだかれるのは、評判や栄光にたいする執念である。我々はそれらのために、財宝や安楽や生命や健康というような、実効的で実質的な幸福までもすててかえりみず、ひたすらこの実体もなく捉まえることもできない空しい影、単なる名声を追い求める。
名声は優しき声もて人々を誘えども、
その姿は艶に美わしけれども、そは、
木霊 にすぎず、夢にすぎず。否、
そよとの風にも吹き消さるる夢のまた幻よ。
その姿は艶に美わしけれども、そは、
そよとの風にも吹き消さるる夢のまた幻よ。
(タッソー)
いや人間にはいろいろと不条理な気分があるものだが、この名誉心こそは、哲学者ですらが最もおそく、最もしぶしぶと、脱却する気分であるらしい。
(b)これこそ最も頑固執拗な気分である。(c)


(a)まったくキケロも言っているとおり、この気持を攻撃している人々さえが、そのことを論じている書物の表紙には、自分たちの名が記されることを願っているのである。栄光を軽蔑したということをもって自分の栄光にしようと願っているのである。他の物は何でも交易される。我々は友人が困っていれば、財宝をも生命をも貸してやる。けれども、他人に自分の名誉をゆずったり自分の栄光を贈ったりすることは、あんまり見られない。カトゥルス・ルクタティウスはキンブリ人との戦いで、敵を恐れて逃げる味方の兵士たちを引きとめるのにあらゆる努力を尽した末、ついに自ら遁走者の群れに投じ、臆病者をよそおい、味方の者どもは敵を恐れて逃げたのではなく、ただ大将の後に従ったのだと見せかけた。これは自分の名誉をすてて他人の恥をかばったのである。皇帝カルル五世が一五三七年にプロヴァンスに侵入した時のこと、伝えるところによるとアントニオ・デ・レヴァは、主君がこの遠征を決意したのを見て、これこそ皇帝の大きな栄光であると考えたが、わざと反対を唱えて御意を翻そうとした。それは、この果断の栄光と名誉とをことごとくその主君のものにするためであった。皇帝の知略と明察とが万人の反対を押しきってこの雄々しい企てを決行させたのであると、人に言わせようとしたからであった。つまり自分の名を空しくして皇帝の誉れを高くしたのである。トラキアの使者たちは、ブラシダスの母アルキレオニダがその息子を失って悲しんでいるのを慰めて、「彼のような者は実にたぐい稀である」と称揚したところ、彼女はこの賞賛を私することを拒み、これを公衆に返して、「そう仰せられるな。スパルタには彼よりも更に勇敢な市民が沢山おられます」と言った。クレシの戦いのおり、ウェールズ公はまだきわめてお若かったが前衛を仰せつけられた。つまり、合戦で最も骨の折れるのは前衛であるからだ。彼に従った貴族たちは、いよいよ苦戦に陥るや王エドワードに向って来援を乞うた。すると王はまず王子の模様を尋ねられ、王子がつつがなく馬上にあらせられる由を聞し召されると、「せっかくこれまで持ちこたえてきたものを、今わしが出かけていって彼から勝利の名誉を奪うのはいかにもふびんだ。危険もあろうけれど、やはり勝利はまったく彼のものであらせたい」と仰せられた。そして、自ら赴かれることも援兵を差し遣わされることも欲せられなかった。つまり、御自身がここに赴かれるならば、世の人は必ず、「父王の救援がなかったなら散々の負け軍になったであろう」と言って、その大勝利をただただ王のせいにしてしまうであろうと思われたからである。(c)


(b)ローマでは、多くの人々が、「スキピオの主な勲功はなかばラエリウスに負うている。この人は自分の栄光などは少しも省みず、ひたすらスキピオの偉大と栄光とを大きく輝かそうと努めたのである」と考えていたし、また一般にそう言いなされていた。それからスパルタ王テオポンポスは、或る人が彼に「国家は陛下の統治がお上手であるために安泰である」と言ったのに答えて、「いやむしろ人民の方が服従の道を心得ているがためだ」と申された。
(c)大貴族の家を継がれた婦人たちが、女性であるにもかかわらず貴族裁判に列席してその意見を述べる権利をもっていたように、僧職にある貴族たちもまた、聖職者であるにもかかわらず戦争において王を助けなければならなかった。その家族や家来にそれをさせるだけでなく、自分でもそれをしなければならなかった。ボーヴェの司教はブヴィーヌの戦いの際、フィリップ・オーギュストに従ってきわめて勇敢に実戦に参加された。けれども何となく、この
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この章はモンテーニュの思想の上から見ても、民主主義の歴史の上から見ても、重大な意味をもっていると思う。モンテーニュはここに人間のうその偉大(富貴権力による偉大)に対する迷信や幻想をついた末、人間が皆生れながらにして平等であるという事実を読者にわからせているからである。キリスト教を始めもろもろの宗教は、すでに人間が神の前では平等であることを教えているが、それはわれわれが死んでから後の平等だから、われわれが手につかむことのできない、いわば画にかいた平等にすぎない。ところがモンテーニュは、この世のいろいろな差別が皆うそのものであり、一皮はげば、凡ての人間が現に我々の目の前で、みな平等であることを教えるのであるから、まさしくこれは今日の民主主義の第一歩であったといえよう。このかなりラディカルな思想は、テレンティウス、ホラティウス、プルタルコス等々の古代諸家の巧みな引用の下にうまくカムフラージュされているが、ここでもわれわれは『随想録』が当時のインテリにとってきわめて巧妙な精神革命の書であったことを思わせられる。なお当章は後出二の十九「信仰の自由について」、三の七「身分の高い人の不便窮屈について」へとつながる。
(a)プルタルコスはどこかで、動物仲間には人間同士の間におけるほどの隔たりがないと言っているが、それは霊魂の能力、内部的諸特質についての話である。ほんとうに、わたしが心に想像するエパメイノンダスと、現にわたしが知っている或るひと、すなわちただ普通の分別を備えた或るひと、との隔たりはとても遙かなものであるから、わたしは喜んでプルタルコスの所説を強調したい。そして、ある人とある人との間の隔たりは、ある人とある動物との間の隔たり以上であると言いたい。
(c)ああ、いかなれば、一人は他の一人に、
かくも遙かに優れたるよ。
かくも遙かに優れたるよ。
(テレンティウス)
いや、人々の精神と精神との間には、天と地とをへだてるほどの段階がある、それほど無数の段階がある、と言いたい。
(a)けれども人間の評価に関しては一つ不思議でならないことがある。それは、我々人間以外のものは、何でもみな、それ固有の特質によってのみ評価されているということである。我々は、馬を逞しく利巧だからほめるので、
(b)されば我ら馬をほめて言う。
「そは速し。そは人々の喝采の内に、
幾たびも棕櫚の葉をかちえたり」と。
「そは速し。そは人々の喝采の内に、
幾たびも棕櫚の葉をかちえたり」と。
(ユウェナリス)
(a)その付けたる馬具のためにほめはしない。猟犬も足がはやいからほめるので、首輪が美しいからとてほめはしない。鷹*をその翼によってほめ、その手綱や鈴によってほめはしない。なぜ同じように、われわれは、人間を彼自らのものによって評価しないのだろう。彼は多数の供まわり、立派な御殿、あのような評判とあのような年金とを持っている。だがそれらはみな彼の周囲にあるもので、彼のうちにあるものではない。君たちは猫を袋入りで買いはしない**。馬を値ぶみする時にも、まずその馬具を取りのけ、それを裸にして眺める。もっともむかし博労が王侯に馬を売る場合にしたように、それに覆いをかけることもあるが、それはむしろ重要でない部分にかけるのである。そうやって毛並みの美しさやお尻の大きさなどに気をとられないように、もっぱら最も有用な部分である脚と眼つきと蹄とをよく検査することができるために、するのである。
* 狩猟に用いる鷹。
** 中味をあらためずに物を買いはしないという諺。
諸王が馬を購 うときは、常に被覆して審査す。
思うに、往々にしてこれあるが如く、そが、
美わしき首と弱き脚とを持つ馬にして、
買う者の徒らにその姿に魅せられんことを
おそるればなり。
思うに、往々にしてこれあるが如く、そが、
美わしき首と弱き脚とを持つ馬にして、
買う者の徒らにその姿に魅せられんことを
おそるればなり。
(ホラティウス)
なぜ人間を評価するときに限って、包装のまんま評価するのか。彼は我々に、全く彼のものでない部分だけしか示さない。それによって彼の値うちを判断しうるその肝心な部分はかくしている。君たちが求めるのは剣の価値であって
賢明にして自己の主たりや。
貧をも、死をも、鎖をも恐れざるや。
その情欲を抑え、その名誉をあなどるや。
丸くまた滑らかにして、如何なる外物も
これがころがるのを妨ぐることなきや。
いかなる不運もこれをとらえ得ざるや。
貧をも、死をも、鎖をも恐れざるや。
その情欲を抑え、その名誉をあなどるや。
丸くまた滑らかにして、如何なる外物も
これがころがるのを妨ぐることなきや。
いかなる不運もこれをとらえ得ざるや。
(ホラティウス)
こういう人は、王国や公国より五百
(c)賢者は自己の幸福を作る工匠なり。
(プラウトゥス)
(a)この上彼に、一体何の願うところがあろう。
見ずや、自然はただ、苦痛なき肉体と、
恐れも憂いもなき快活なる霊魂とを、
欲するのみなるを。
恐れも憂いもなき快活なる霊魂とを、
欲するのみなるを。
(ルクレティウス)
こういう人物に、あの愚劣で卑屈でおちつきなく、絶えずさまざまな情欲のあらしに吹きまくられてふわふわしている・すなわち全然他人にすがりついている・人間どもをくらべてごらん。そこには天地をへだてる以上のへだたりがある。ところが我々は習慣のためにひどい盲目になっているので、そこのところをほとんど、否少しも、考えない。そのくせ、百姓と王様、(c)貴族と平民、役人と並の人、金持と貧乏人(a)を目の前にすると、忽ちそこに大きな相違を見つけだす。言って見れば、それはただほんの少しばかり、はいているズボンが違うだけなのだが……。
(c)トラキアにおいては、王とその人民との間に面白いまたきわだった区別があった。すなわち王は特別の宗教をもち、臣下の者にはおがむことの許されない王様だけの神メルクリウスをもっていた。そして臣下の神たるマルスやバッコスやディアナを軽蔑していた。
だがこれも表面上の相違にすぎず、すこしも本質上の差別とはならない。
(a)まったく、それは役者みたいなもので、たった今舞台の上で太公や皇帝になって威張っていたかと思うと、何時の間にやら見すぼらしい下男や荷担ぎになっているが、この方が彼らの自然本来の身分なのである。皇帝もまた同様で、公衆の前ではその荘厳さが君たちの目を
(b)その身には黄金のふちどる碧玉を帯び、
また美しき海の色なす衣をば、日々、
ウェヌスの汗に汚しては着換うれども、
また美しき海の色なす衣をば、日々、
ウェヌスの汗に汚しては着換うれども、
(ルクレティウス)
(a)彼をそのカーテンの蔭に見てごらん。それはただの人間にすぎない。ひょっとすると、臣下の最も微賤なものよりもさらに卑しい人間にすぎない。(c)


(a)臆病・迷い・野心・うらみ・ねたみなどに心をかき乱されることも、常の人とかわりはない。
げに、財宝も執政の斧杖も、
金殿の中に思い乱るる
彼の心の憂いを払いつくすには
足らざるなり。
金殿の中に思い乱るる
彼の心の憂いを払いつくすには
足らざるなり。
(ホラティウス)
(b)いや、心配と恐怖とが、百万の兵隊に守られた彼の喉もとをおさえている。
恐怖と憂鬱とはその身を去らねども、
武器のひびきも刀槍の光も恐るることなし。
黄金の光をもあえてはばからず、
王侯貴人の許に平然として坐せり。
武器のひびきも刀槍の光も恐るることなし。
黄金の光をもあえてはばからず、
王侯貴人の許に平然として坐せり。
(ルクレティウス)
(a)熱や頭痛や痛風は特別に彼を容赦するか。老いが彼の肩にのしかかる時、警護の弓士はそれを払いのけてくれるか。死の恐怖が彼をふるわせるとき、
金襴と猩々緋 の茵 の上に横たわるも、
また粗き毛布一片の上に打ち伏すも、
体熱の落つるに遅速なし。
また粗き毛布一片の上に打ち伏すも、
体熱の落つるに遅速なし。
(ルクレティウス)
大王アレクサンドロスにへつらう者どもは、彼がユピテルの子であることを、彼に信じこませていた。ところがある日のこと、彼は怪我をした。血がその傷口から流れでるのを見やりながら、「どうだ、これを見よ。まさしく人間の鮮血ではないか。ホメロスが神々の傷口から流れださせたものとは物が違うぞ」と彼はいった。詩人ヘルモドロスは、詩を作ってアンティゴノスを太陽の子とたたえた。ところが彼の方では、「わしの便器をあけるものはそうでないことをよく知っている」と言った。要するにいずれもただの人間なのである。だからその人自ら悪く生れついているならば、宇宙に号令する大王となったところで、とうてい別様にはなれないのである。
(b)おとめらよ、彼を争え。
彼が踏む至るところに花よ咲け。
彼が踏む至るところに花よ咲け。
(ペルシウス)
だがもしそれが粗野で愚鈍な霊魂であったら? 快楽だって、幸福だって、精力がなく機知がなくては、感じようがないのである。
物の価はこれを持つ人の心によりて変る。
よく用いる者には福となり、
よく用いざる者には禍となる。
よく用いる者には福となり、
よく用いざる者には禍となる。
(テレンティウス)
(a)運命の賜物はいずれもみな結構なものであるが、それらを味わうにはやはり感覚がなければならない。我々を幸福にするのは享受であって所持ではないのだ。
病を癒し憂 いを払うものは、
家にあらず、領地にもあらず、
また金銀の山にもあらず。
まず、それらの所有者は健康にして、
その幸を享楽しえざるべからず。
もしも利欲と恐怖とに苦しめらるるならば、
家も宝もさながら、
盲 の前の絵のごとく、
痛風病みのための膏薬のごとし。
家にあらず、領地にもあらず、
また金銀の山にもあらず。
まず、それらの所有者は健康にして、
その幸を享楽しえざるべからず。
もしも利欲と恐怖とに苦しめらるるならば、
家も宝もさながら、
痛風病みのための膏薬のごとし。
(ホラティウス)
彼は愚か者である。感覚は鈍くしびれている。風をひいた者がギリシア酒の芳醇を感じえないのと同じこと、馬がその着ている馬具の豪華をさとらないのと同じことだ。(c)同様に、プラトンも申したとおり、健康も美も力も富も、そのほか善とよばれるすべてのものは、正しい者には善であるが、正しくないものには悪である。そして悪の方はそれとはあべこべである。
(a)それから肉体と精神とが悪い状態にある場合、これらの外部的幸福がいったい何になるか。小さな針の一突きも、心中一抹の憂いも、世界の覇者たる喜びを奪うに十分である。ひとたび痛風の襲うところとなれば、(b)朕だろうが、陛下だろうが、
満身これ金銀
(ティブルス)
であろうが、おしまいである。(a)彼は自ら金殿玉楼のうちにあることも、威勢ならぶ者なき身であることも、うち忘れてしまうではないか。ひとたび怒れば、公爵様だって気ちがい同然、赤くなったり、青くなったり、歯がみをしたりせずにはいられないではないか。ところが、生れつき良識のある君子人*であるなら、王たることはその人の幸福にほとんど何もつけ加えはしないのである。
もしも君、よき胃と肺と脚とをもちたまわば、
王の富も、おん身の幸福に、何一つ付け加えざるべし。
王の富も、おん身の幸福に、何一つ付け加えざるべし。
(ホラティウス)
彼はそれがいかもの・にせもの・にすぎないことを知っている。そうだ。おそらく彼は、「王杖の重さを知る者は、それが道にころがっているのを見てもあえて拾おうとはしないであろう」と言った王セレウコスの意見にくみするであろう。それは善い王にとって王たることがいかにつらい重荷であるかを言ったものである。ほんとうに、人を治めるということはなまやさしいことではない。おのれ自らを治めるにさえあれほどの困難があるではないか。支配するということは甚だ快いことのように見えはするが、人間の判断力が鈍いことや新奇な疑わしい事柄の識別が困難であることなどを考えると、むしろわたしは、「導くよりは従う方がはるかに楽で楽しい。そしてただ示された道に従うだけ、ただ自分に責任をもつだけですむということは、大へん気が楽でよいことだ」という意見に大賛成である。
(b)国政を自ら行わんよりは、
心静かに服従するにしかず。
心静かに服従するにしかず。
(ルクレティウス)
それにキュロスは、「自らその司令する人たちよりもはるかに優れているのでなければ、人を司令する資格はない」と言っている。
*
un habile homme et bien n
生れながら正しい判断を備えている人の意。



(b)あまりにも幸福円満なる恋はうとましきもの。
佳肴あまりに多くして胃を疲らすに似たり。
佳肴あまりに多くして胃を疲らすに似たり。
(オウィディウス)
(a)合唱隊の少年たちは大いに音楽をたのしんでいるだろうか。否、むしろ食傷してげんなりしている。宴会・舞踏・仮装行列・野仕合等は、めったにこれを見ない者、しきりにこれを見たがっている者をよろこばすけれども、始終これを見つけているものには面白くも何ともない。女だって、げんなりするほど楽しんでしまえば、少しも欲情をそそらなくなる。喉を渇かすことのない者は飲むたのしさを知らないであろう。曲芸師の茶番は我々をたのしませるが、役者にとっては苦役である。論より証拠、王侯がたの遊ばされるあのお催しをごらん。ああした方々には、たまにあのようにお姿をやつし、人民どもの下等な暮しを真似してごらんになるのが、お嬉しいのである。
変化は貴人たちを喜ばす。
敷物もなく緋の茵 もなき賤 が家に、
質素にして清潔なる食物をとらるる時、
彼らも愁眉開くことあり。
敷物もなく緋の
質素にして清潔なる食物をとらるる時、
彼らも愁眉開くことあり。
(ホラティウス)
(c)世に豊富くらい、うとましくまずいものはない。トルコ皇帝のその後宮におけるように、三百の美女を思うがままに見た日には、どんな欲望だってげんなりするだろう。七千人の
(a)それからあの高貴な身分の輝かしさも、可憐なうれしさを味わうには少なからぬ邪魔になると思う。彼らはあまりに照らされすぎ、あまりに人目につきすぎる。
(b)またなぜか知らないが、特に彼らはその過失を掩いかくすように要求される。まったく、我々の間でならば単なるやりすぎと見られることが、彼らにおいては虐政とか法令の無視とかいうふうに人民から弾劾される。そしてたんに不徳への傾向があると取沙汰されるだけでなく、いかにも公の掟を足下にふみにじって快としているかのように、大仰に言いたてられる。(c)ほんとうにプラトンはその『
(a)そういうわけで詩人たちは、ユピテルの幾多の恋を、いずれも彼の本来の姿とは異なった姿の下になされたかのように想像したのである。またたくさんの恋物語を彼にかこつけているが、彼がユピテルらしい尊厳な姿で出て来るものはたった一つしかないように思う。
それはそうとヒエロンの話に立ちもどろう。彼はまた、自分の領内ではまるで囚人みたいに、自由にあちこち旅することもできないばかりか、何をするにしてもうるさい人々の群れに取り巻かれておらねばならないと言って、いかに王位にあることが窮屈でたまらないかを嘆いている。ほんとうに我々の王様たちが、べちゃくちゃしゃべったり・じろじろと眺めたりする・大勢の他人に取りかこまれて、一人ぽつねんと食事をしているのを見て、わたしはしばしば羨ましさよりは憐れみを催した。
(b)王アルフォンソは言われた。「驢馬どもの方がこの点においては王よりも結構な身分である。彼らの主人は彼らに勝手に草を食わしておくが、王はそういう自由を自分の家来どもからもゆるしてはもらえないから」と。
(a)また、分別のある人間の生活にとって、二十人ばかりの人に見守られながら便器に
* 前者はブリサック元帥、後者はモンリュック元帥。ともに王室伺候の侍従武官である。
** こういうところにモンテーニュの宮廷生活への失望と自嘲が読まれる。ここに桂冠引退の志の深さが察せられる。


(a)けれども特にヒエロンが嘆いているのは、人間生活の最も完全で甘美な果実が存する友愛と交際との道が、ことごとく絶たれていることであった。「まったく」と彼は言う。「否応なしにわしのためにその全力をつくさなければならない人間から、わしはいったいどんな愛慕と善意とのしるしを得ることができよう? 彼の
(b)王がうける最大の得は、
いかなる行為も許されざるはなく
賞められざるはなきことなり。
いかなる行為も許されざるはなく
賞められざるはなきことなり。
(セネカ)
(a)悪い王も善い王も、憎まれた王も愛せられた王も、いずれも同じように尊敬を受けているではないか。同じ態度同じ儀礼をもって先王は仕えられた。わしの後継者もまた同じであろう。わしの臣下はわしに逆らわないが、それは少しもこまやかな愛情のしるしではない。何だってそんなふうに思うかと言えば、彼らは逆らいたくたって逆らうことができないのだから。誰一人として、わしに対する友愛のためにわしに従うものはない。まったく、あれくらいしか交誼も交感もないところに、友愛の情は結ばれようがないのである。わしの高位はわしを人々との交際の外においた。そこには余りに多くの相違と不釣合とがあるからである。人々は礼儀の上から、習慣の上から、わしに従うのである。いやわしにつき従うのではない。むしろ、自分の財宝をふやそうとしてわしの財宝につき従うのである。彼らがわしのために言うことすること、いずれもみな上べばかりである。彼らの自由はわしの大きな権力によっていたるところで拘束されているから、わしは身のまわりに、蔽い隠されたものより他には何も見ることがない」と。
ユリアヌス皇帝の朝臣たちは、ある日のこと皇帝の裁判の公平をほめ
(b)帝王たちがうける真の安楽は、すべて中産の人間の誰しもがもつものと、おなじものである(翼ある馬に乗り、アンブロジア〔神様の召上る不老不死の食〕を食べる者は、ただ神々ばかりである)。彼らは決して、我々と異なる睡眠や欲望をもってはいない。彼らが着る鋼鉄は我々が着るそれより堅くはない。彼らの冠は日をよけ雨をよけるにたりぬ。ディオクレティアヌスは、あれほどに尊敬され、あれほどに運命に幸いせられた王冠をひとたびは戴いたが、やがてこれを思い捨てて私的生活の楽しさの中に隠れた。そしてしばらく後に国運打開の必要が再び彼の復帰を求めた時も、勧誘に来た者どもに答えて、「もし君たちが、わしが自ら植えた樹木の美しく整ったさまや、わしが
アナカルシスの意見によると、一国の一番幸福な状態は、他のすべての事柄が平等であって、ただ徳ある者ほど
(a)王ピュロスがイタリアに侵入しようと企てたときのこと、その賢明な顧問であったキュネアスは、王にその野心の空なるゆえんをさとらせようとして、彼にたずねた。「陛下よ。いったい何のためにこの一大事を企てられるのですか」と。「イタリアの主となるためさ」と王は言下に答えられた。「それから?」とキュネアスはつづけた。「ガリアとスペインに打ち入るのだ」と王。「してその次は?」「アフリカを従えにゆく。そして、しまいに世界をことごとく従え終ったら、わしは満足して、ゆっくりと余生を楽しもうと思う」。「恐れながら陛下よ」とキュネアスは追求した。「それならばなぜ、ただ今すぐにその境涯におはいりなされませぬ? なぜ即刻、お望みのその境涯におはいりなされませぬ? なぜ二つの境涯の間にそんなに多くの御苦労と危険とをあえてなされます?」
明らかに彼、その欲望を限ることを知らざりしなり。
真の幸福の境を知らざりしなり。
真の幸福の境を知らざりしなり。
(ルクレティウス)
わたしはこの場合に最も適切であると思われる次の古句でこの章を結ぼうと思う。


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十六世紀のフランス朝野は、イタリアの感化を受けて非常に奢侈に流れ、流行はめまぐるしく変遷したので、為政者は国費の国外に流出することを憂えるとともに、人々の社会階級を標示する伝統的服装を保存したかった。それでフランソワ一世よりルイ十四世にいたるまでの間、奢侈を取締る勅令が幾度となく強化せられたのである。このエッセーはそうした事情の下に生れたので、その直接の動機となったのは一五七三年あるいは七七年の布令であったろうと想像される。
(a)わが国の法令が衣食に関するばかばかしい浪費をただそうとしてとった方法は、その目的に反しているように見える。真にその目的を達しようというなら、人々に黄金だの絹布だのをつまらない無用の物として軽蔑する心をいだかせなければなるまい。ところが我々はかえってその貴さを力説しているではないか。人々にそれらのものを嫌悪させるには、実にまずいやり方である。まったく、「王侯でなければ
(b)いかに忽ちに、わが軍隊の間に
* Pourpoint. 始めは軍士の服。後には一般男子も着るようになった。首から腰の上までをおおうもので、その下にズボン chausses をはくのが一般男子の服装であった。
(b)名誉と野心とに訴えて人々を服従に導くのは、はなはだ効果的なやり方であった。我々の王様がたはそういう服装上の改革において何でも出来る。彼らの好みがそのまま法令となるからである。(c)


* いわゆる股袋 braguette のついた半ズボン。
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(a)理性は我々に、「常に同じ道をゆけ」とは命ずるが、「常に同じ歩みでゆけ」とは言わない。賢者は人間のもろもろの情念に正道をふみはずすことを許してはならないが、それらにその歩みを速めたり遅らせたりすることを許したって、少しも彼の義務にもとりはしない。何も無感覚な
大王アレクサンドロスは、あのダリウスに対する激戦が行われようという朝、ぐっすり睡っていてなかなか起きて来ないので、パルメニオンが彼の寝室に入ってゆき枕もとに近づいて、いよいよ出陣の時刻が切迫したと、再び三たび彼の名を呼ばねばならなかった。
皇帝オトーはいよいよ自害を決意するや、その夜は自ら家事を整理し、金を家来に分配し、自分の身に加えるべき剣を研ぎ終り、今はただその友人たちが安全に退去したかどうかを知るだけになって、はじめて深い深い眠りに落ちた。そのいびきは
この皇帝の死は、偉大なカトーの死に似た点をたくさん持っている。いま話した点までも似ている。まったく、カトーはいよいよ自決するばかりになると、彼が退去させた元老たちがウティカの港から沖合はるかに漕ぎ去ったという知らせが来るのを待つあいだ深い眠りに入り、そのいびきは隣の部屋にまでもきこえた。そして港の方に出してやった使者が帰って来て彼を呼びさまし、あらしのために元老たちが思うように出帆できずにいる由を告げると、更に第二の使者を出してやり、再び床の中にもぐり込んで、この二度目の使いが帰って来ていよいよ元老たちが出発したことを告げ知らすまで、熟睡したのである。なおこの人が護民官メテルスの陰謀におびやかされたあの大あらしの日の話は、前記アレクサンドロスの場合ともくらべることが出来よう。あのカティリナ
アウグストゥスは、シチリアにおいてセクストゥス・ポンペイウスを破ったあの海戦のとき、いよいよ出陣という間際になって、きわめて深く眠りこんでしまったので、同僚が皆して彼を呼びさまし、開戦の合図をさせなければならなかった。このことがもとになって、マルクス・アントニウスから、後にこう非難された。「彼は眼を見開いて味方の軍勢の配置を見る勇気さえなかった。アグリッパが彼に味方の勝利を告げ知らすまで、兵隊の前に立ち現われることさえようしなかった」と。けれども、小マリウスの場合には、もっとまずいことになった(まったく、そのス

(c)ヘロドトスの書物の中には、半年眠って半年覚めているという民族のことが書いてある。また賢者エピメニデスの伝記作者たちは、彼は五十七年間眠りつづけたと言っている。
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(a)われわれのドルゥの戦い*にはめずらしい事件がたくさんあったが、ギュイズ殿の名声をいささか心よからず思っている人々は、次のように言い立てる。「彼があれほどの軍勢をもちながら、それを停止させ待機させたことは弁解の余地がない。そんなことをしていたからこそ、軍の総大将たるコンネターブル〔ド・モンモランシー〕殿が敵の砲兵にたたきつぶされてしまったのである。敵の背面を突こうと時機を待ったためにあんな大損害をこうむったくらいなら、むしろ思いきってその側面を突いた方がよかったのだ」と。けれども最後の結果が証拠だてたことは別にしても、いやしくも感情をぬきにして論ずる者ならば、容易にこう告白することであろうと思う。「大将の目的はもちろん兵卒各個の目的もまた、終局の勝利を目指さなければならない。個々の出来事は、そこにどのような利益があるにしても、我々をこの肝心な点からそらしてはならない」と。
* 一五六二年、シャルル九世の治下に、モンモランシー元帥およびギュイズ公の率いるカトリック勢が、コリニーおよびコンデ公のひきいるプロテスタントを破った戦い。前章以来、古代の戦争の話ばかりしているので、モンテーニュはここで、自国内の、自ら眼の前に見た戦争の例をあげる。「われわれの」とはそういう意味だろう。
(b)アゲシラオスがボイオティア人をうったあの激戦において(それはこれに参加したクセノフォンが「未曽有の激戦」と言っているが)、アゲシラオスは、ボイオティア勢をやりすごしてその背後を突く格好の機運を恵まれながら、そうすればある程度の勝利は確実と見とおしたにもかかわらず、その好機をすてた。それでは武勇ではなくて詭計になると考えたからである。そして、めざましい勇気を揮ってその威武を示そうと、むしろ真正面からぶつかることにした。ところがそこでもまた打ち破られ傷を負ったので、とうとう囲みを切りひらいて、始めに
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(a)いくらいろいろな野菜がまじっていても、全体はサラダという名の中に含まれる。同様にわたしは、いろいろな名前の考察をしながらいろいろな事柄の寄せ鍋をしてみようと思う。
どこの国にもどういう訳か知らないが、悪い意味にとられる名前がいくつかある。わが国では、ジャン、ギヨーム、ブノワ*。
* ジャンは中世以来馬鹿・お人好し・の意に用いられ、ギヨームは何の取柄もない平々凡々の男を指し、ブノワは愚直なおめでたい人間をいう。
一つ、次の話はつまらぬことだけれども、珍しいという点で、しかもその目撃者が書いていることなので、記録に値する。イギリス王ヘンリー二世の王子ノルマンディー公のヘンリーがフランスで宴会を催された時のこと、貴族たちの参会するもの殊のほか大勢だったので、慰み半分に名前の類似によって幾組かにわけてみたところ、ギヨームを名乗る第一の組に入る騎士が百十人もあって、ずらっとこの名を記した一つの食卓に並んだ。それも、単なる武士や従士は別にしての話である。
(b)なるほど客人の名前によってテーブルを分けるのも面白いが、皇帝ゲタがなされたように食品の名の頭文字を考えて献立を作らせるのも妙である。その時はMの字で始まるものを揃えて、まず
(a)一つ、よい名をもつこと、すなわち信用と評判を得るということは、仕合せなことだと言われる。だが、立派な名前、呼びよい覚えよい名前をもつこともまた本当に仕合せである。まったく王様をはじめお歴々方は、そのためにじきに我々を覚えて下さるし、またなかなかお忘れにならないのである。いや我々だって、召使の中でその名が最もらくに言える者を、よりしばしば呼びもし使いもする。わたしは王アンリ二世が、当ガスコーニュ州出身の武士の名前を、どうしても満足に発音することがおできにならなかったのを知っている。陛下は女王様のある御腰元を、彼女の一門に共通する名前で呼ぶように望まれた。彼女の生家の姓があまりにも呼びにくかったからである。
(c)だからソクラテスも、子供たちによい名前を与えることは父親の心遣いに値する事柄だとしている。
(a)一つ、伝えるところによると、ポワチエのノートル・ダーム・ラ・グランド寺の建立の由来はこうである。昔ここに住んでいた一人の若い放蕩者が、遊女を買ってまずその名前をきいたところ、女はマリアと答えた。彼は我々の救い主のおん母たる乙女の・神聖な・この名をきくと、たちまちに神を畏れ敬う心を起し、直ちにその女を追いかえしたのみならず、その後の半生を
(c)右の敬虔な懲戒は、声となり耳にひびいて一遍に男の霊魂に
(a)一つ、後世の人たちはこんな風に言わないであろうか。「むかしのわが国の宗教改革はなかなか気のきいた・細かいところまで行届いた・ものであった。迷信と不徳とを打破し、世界を信心や謙遜や従順や平和などのもろもろの徳性をもって満たしたばかりでなく、更に我々の古い洗礼名、シャルル、ルイ、フランソワ等をやめて、それよりもずっと信仰の感じの深いメトセラ、エゼキエル、マラキ等の名前を普及させた」と。わたしの近くに住んでいるある武士は、今にくらべて昔がよかったことを想い出しては、いつもドン・グリュメダンとか、クェドラガンとか、アジェジランとかいう、
一つ、わたしはジャック・アミヨが、そのフランス文の一論著を通じてラテン名をそっくりそのままにし、これにフランス語らしいひびきを与えるために何らの変化も加えなかったことをうれしく思う*。始めは少々堅苦しく思われたが、彼の『プルタルコス英傑伝』の普及と共に我々は早くもそれに慣れ、今では少しも奇異な感じがなくなった。わたしはしばしばラテン文をもって歴史を書く人たちに向って、我々フランス人の名前はそのままにして置いてくれるよう希望した。まったくヴォドモンをウァレモンタヌスというようなふうに、それらをギリシア風ローマ風に修飾された日には、我々は一体どこの誰の話をしているのか、まるで見当がつかなくなってしまうのである。
* ラブレニーが示すところによると、『随想録』のなかで古人の名前は、古代風に綴られているのが五十八名、フランス化して書かれているのが十七名とのことである。ところが「奴隷根性」においては、逆に、フランス風に書かれているのが五十四名で、古代風のままになっているのが十二名ということである。
* 往時系図は樹木の形に書きあらわされたのである。
* このモンテーニュの友とはガストン・ド・フォワ。この人はアンリ二世の時代から沢山の領地を持つ大貴族である。
* グール gueule というのは紋章用語で赤地のこと。前出アジュール azur は空色をさす。
** モンテーニュは一五七六年に紋章入りメダイユを造らせたが(後出二の十二、六二三頁参照)、今や第三巻時代には、このように紋章の根拠薄弱なことをちゃんと意識している。
そは唯かりそめの競技の勝負にあらざれば。
(ウェルギリウス)
まじめな事なのである。つまりこれらの文字のいずれが、あの有名なフランスの総元帥によってなされた、あれほどの攻城と会戦と負傷と入牢と王様への忠勤とを、与えられるかという問題なのである。ニコラ・ドニゾ***はひたすら自分の名の綴り方にのみ心をくだき、全然その順序を転倒してアルシノワ伯という名前を造りあげ、これにその詩と絵画との誉れを捧げた。また歴史家のスエトニウスは、ただその名の意味だけをおしみ、父の苗字レニス〔和〕を名乗ることができなくなるや、トランクィルス〔静〕という名を用いて、これにその著作の評判をつがせた。誰が信じよう。あの勇士バヤールの名誉も、ピエール・テラーユの働きから借りたものにすぎない****のだと。アントワーヌ・エスカランも、その航海やその地上海上における勲功を、ことごとくカピタン・プーランやバロン・ド・ラ・ガルドに奪わせて黙っているのだ*****ということを。
* ゲスカンとゲアカンは Bouchet, Annales d’Aquitaine に出て来る形で、Froissart の中では同じ人物がグレスカンとなっているしだいである。M
nage の言うところによると、この人物の名は十四通りに書かれているということである。

** ルキアノスの『母音の裁判』のなかに出て来る。
*** 十六世紀フランスの画家、詩人。
**** ピエール・テラーユという肝心な名前が今では忘れられて、ただバヤールの騎士で通っていることを指摘したのである。
***** アントワーヌ・エスカランが本名であるが、かえってカピタン・プーラン、バロン・ド・ラ・ガルドという仮の名の方で知られている。
そは果して土中に埋れし枯骨を感激せしむるや。
(ウェルギリウス)
(c)次の二人は、いずれも今なお人々の間で尊敬されているけれども、果してどんな風に感じているか。エパメイノンダスは、我々が口々に彼をたたえるあの光栄ある詩句、
わが勲功は謀 によりてラケダイモンの栄光をすら暗うしたり****。
(キケロ)
について、どう感じているだろうか。またスキピオ・アフリカヌスは、
太陽がマエオティスの沼の彼方に出でてより
誰ひとり我がいさおしに比すべきいさおしをたてたるものなし。
誰ひとり我がいさおしに比すべきいさおしをたてたるものなし。
(キケロ)
の句について、どんな風に感じているだろうか。
* モンテーニュの家来の中にもピエール・エイケムという同姓同名が父以外にも二、三名あって、事実、後世の伝記作者に幾度も人違いをさせている。
** 大王ポンペイウス。
*** クネイウス・ポンペイウス・マグヌスを指す。
**** エパメイノンダスの像の台石に刻まれた詩句。
(a)しかし、
この希望がありたればこそ、
ギリシアやローマの大将も、
野蛮人の酋長たちも、奮闘したるなれ。
これありたればこそ、彼らも危険を冒したるなれ。
げにまこと、人は徳によりも誉れの方に渇きてあり!
[#改ページ]ギリシアやローマの大将も、
野蛮人の酋長たちも、奮闘したるなれ。
これありたればこそ、彼らも危険を冒したるなれ。
げにまこと、人は徳によりも誉れの方に渇きてあり!
(ユウェナリス)
(a)善くも悪しくも言いようはあまたあり。
(ホメロス)
ほんとうにいかなる場合にも、たくさんの言い方があり、善くもまた悪くも言い得るものだ〔ギリシア語引用句をモンテーニュが仏訳したもの〕とはよく言ったもんだ。例えば
ハンニバルはローマ人に勝ちたりき。
されどその勝利を利用するすべを知らざりき。
されどその勝利を利用するすべを知らざりき。
(ペトラルカ)
という意見にくみして、わが国の将士が最近モンコントゥールにおいて最後まで追撃をつづけなかったのは失敗であったと言い立てる者、あるいはスペイン王がサン・カンタンにおいてわが軍に勝ったにも拘らず、戦果をそれ以上に利用する術を知らなかったとてこれをそしる者は、次のように言うこともできるであろう。「この失敗は霊魂がその好運に酔ったことに由来する。心がこれっぱかりの幸福のさきがけに早くも満腹して、それだけのものさえも消化しきれず、いわんやそれをもっと増大しようなどとの欲望をなくしてしまったことに由来する。その両腕は早くも一杯になり、それ以上をかかえこむことができなかったというのでは、運命からああいう幸福を託せられる資格はない。まったく相かわらず敵に逆襲の頼りを与えるようでは、せっかくの勝利が何になろう。負けいくさに心おびえた敵をさえ追跡することをあえてせず、またそれをなしえなかったような者に、どうして我々は、おのれの陣容をたて直し、旧に倍する
運命がすべてを引きずり行き、すべてが恐怖に追わるる時、
(ルカヌス)
結局、彼にはあれ以上のことは何も期待できないのだ。打ち込みの数で勝負のきまる仕合とはことが違う。敵が倒れない限りますますはげしく切り込まなければならない。戦争を終らせるほどのものでなければ勝利とは言えない。カエサルはオリクム市の近傍で苦戦をしたことがあるが、ポンペイウスの兵士たちをののしって、『もしお前たちの大将が勝利の道を知っていたなら、わたしも危うく負けるところだった』と言った。そして後に攻守そのところをかえたときには、彼はポンペイウスを追うことはなはだ急であった」と。けれども反対に、次のようにいうものはないであろうか。「自分の欲望に



* 紀元前九一―八八年、イタリア人がローマ市民権を得ようとして起した内乱。
** 女教師がヒステリックになって児童を折檻したことの回想であろう。
(b)死を軽んずる者は、やぶるるもなお敵を傷つく。
(ルカヌス)
(c)だからファラックスは、マンティネア人との戦いに勝ったラケダイモン王を押しとどめて、負け
同様に兵士は美々しく豊かに武装させるべきか、それともただ必要をみたす程度にとどめるべきか、どっちがよいかという場合にも、前説にくみする者は(セルトリウス、フィロポイメン、ブルートゥス、カエサル等の人々はその部類に入るが)、こう言うであろう。「美々しく装うことは兵士をして常に栄光名誉を思わしめ、戦闘においていっそう頑強ならしめる。鎧かぶとをも親ゆずりの財産同様に敵にわたしてはならないからだ。(c)これが(とクセノフォンも言っている)、アジアの諸民族が、その妻妾をも、その貴重な金銀財宝とともに、戦場につれてゆく理由である」と。(a)ところが一方には、次のような説もでてくる。「兵士たちにはその身を完うしたいというような思いを増さしめず、むしろそれを少なくさせるようにしなければならない。そんな気持をもっていると、彼らは危険をおかすことを二重に恐れるであろう。そのうえ敵の方では、そのような立派な分捕品がえられるとなると、いよいよ勝利をえようという欲望をさかんにする。実際誰でも知っている。しばしばこれが、ローマの軍士をサムニウム人との戦いにおいて非常に勇猛にしたことを」と。(b)アンティオコスは、ローマ人たちに対して用意していた・諸種の装備において華美壮麗な・自分の軍隊をハンニバルに示し、且つたずねた。「ローマ人たちはこの軍隊に満足するであろうか」と。「満足するかと仰せられるか。いくら彼らが貪欲でも、それは疑いござらん」とハンニバルは答えた。(a)リュクルゴスはその部下に対して豪華な武装を禁じたばかりでなく、その打ち負かした敵から掠奪することも禁じた。つまり、彼自ら言ったとおり、軍士の清貧が会戦の他のすべてのことと共に輝くようにと望んだからである。
攻城戦をはじめ機会が敵と味方とを近づけるもろもろの場合に、常に我々は兵士どもがあらゆる悪口雑言を浴びせて敵に挑むことをゆるしている。いかにもこれは、もっともらしく見えなくはない。まったく兵士たちに、「こんなに敵を侮辱したからには、もはやとうてい和解することも勘弁してもらうこともできないぞ。今はただ勝つよりほかに方法はないぞ」と思わせ、彼らにむだな希望をもたせないようにすることは、決してささいなことではないのである。だが、ウィテリウスはこれでやり損じた。まったく彼はオトーと戦ったとき、敵の兵士どもが長らく戦争に遠ざかり太平無事の生活に慣れており、その武勇の程はとうてい味方に及ばないのを見てとり、終いには口をきわめてその臆病を罵ったり、そのローマにのこした女たちや宴会に心ひかれるだろうなどと嘲ったり、盛んに彼らをからかったために、とうとういかなる激励も及ばないほど彼らの心中に勇気を再生させたのであった。つまり自分から敵をその腕の中に引きよせておきながら、ついにこれを押し返すことができなかったのである。まことに悪口雑言がその人の胸をつくと、始めはただ王様の喧嘩のためにぐずぐずやっていたにすぎなかったのが、急に打って変った熱意をもって自分自身の喧嘩のために本気で戦うようになるのである。
大将の生存ということが一軍の士気の上にどれほど重大なことであるか、敵の目標もまた従ってこの軍全体が頼りとする人の首の上におかれることなどを考えると、「いよいよ混戦になりそうな時はその姿をやつすべきだ」という古来幾多の名将たちによってとられた意見は、疑う余地がないように思われる。けれどもこれによって生ずる不都合は、これによって避けようとする不都合に、決して劣るものではない。まったく大将が部下の者どもの目の前から消えてなくなってごらん。それまで大将のめざましい働きや存在のために持ちえた勇気は、もろともに消えてなくなる。見慣れた大将の装いや旗印が見えなくなってごらん。「大将は死んだのだ。でなければ、負けるのを見越して逃げたのだ」と判断する。そこで、経験に照らして見ると、そうやって得をした大将もあり、損をした大将もあった。ピュロスがイタリアで執政ラエウィヌスと戦った時に起きた出来事などは、一つで両方の意見を支持する。まったく、自らはデモガクレスの鎧を着、デモガクレスには自分の鎧を着せたおかげで、確かにピュロスは、その生命は完うしたが、その代り危うくその日の戦いに負けそうになったのである。(c)アレクサンドロス、カエサル、ルクルス等は、光り輝く特別な色の豪華な鎧かぶとを着て戦場に臨み、人目をそばだたせることを好んだし、アギス、アゲシラオス、それからあの偉大なギリッポスは、これに反して目だたぬさまに着こなし、大将の装いを帯びずに出陣した。
(a)ファルサロスの戦いにおいて、ポンペイウスはいろいろな非難を浴びせられたが、なかでもその軍をとどめて敵の
皇帝カルル五世がプロヴァンスに侵入した時、フランソワ王は進んでこれをイタリアに迎え撃つべきか、自国領内にとどまってこれを待つべきか、二つに一つを選ばなければならなかった。もちろん王はこう考えないではなかった。「自国を全く戦乱の外におくことはいかにも有利である。その国力さえ完全であれば、絶えず必要に応じて軍資金をも援兵をも供給することができよう。戦争である以上その一挙手一投足に若干の禍害が伴うことは免れまいが、それが自分の財産に及んではたまらない。それに百姓どもは、味方のものによって田畑が荒されれば、それが敵兵によってなされた時のようにはじっと我慢しない。そこでたちまちに国内に内乱一揆を生ずる。掠奪徴発の自由は自国内ではとうてい許されないが、外地にあっては大いに戦陣の味気なさを慰めるに足るものである。またその給与より他に何の利得も望めない者を、せっかくその妻や住居の近くにいるのに、きびしく勤務の中に拘束することはむつかしい。卓布をかける者がいつも費用をもたねばならない*。守るよりは攻める方がずっと愉快である。自分の国の唯中では敗戦の打撃はとてもひどいもので、そのために国全体が崩壊しないことは稀である。恐怖くらい伝染しやすい感情はなく、またこれほど信じられやすく忽ちのうちに流布する感情もない。城内では、城門の方に押し寄せる嵐のようなときの声をきいたり、味方の大将や兵卒たちが色を失い息を切って駈けこんで来るのにあうと、皆が急に悪い決心に移行する危険がある」と。だがそれにも拘らず、王は山の彼方にあった軍隊を呼びもどし、敵を待つ決心をした。まったく彼は、反対にこう考えたのかも知れない。「自分の国の内に味方に囲まれていれば、あらゆる便宜に事欠くはずがない。河川も道路も思いのままだから、金銭にしろ食料にしろ、最も安全に、護衛の必要もなく、運ばれて来るだろう。危険が迫れば迫るほど、臣下はますます慕いよるであろう。頼むべき都城も関所もたくさんにあるから、よい機会をとらえて、思うさま有利な作戦もできるであろう。持久戦をしようと思えば、安全な場所にかくれて敵の凍え死ぬのを待つこともできようし、敵が四面楚歌の内に陥り、身に迫るもろもろの苦難の中に独りでに潰滅するのを見ることもできよう。こうなれば敵の方は、前にも後にもまた右にも左にも、自分に戦いをいどむ者を見るばかりで、病気でも発生すれば、その軍をねぎらうことも補充することもできないばかりか、傷病兵を屋根の下に寝かすことさえもできない。槍の穂先にかけなければ一銭の金も一口の食もえられない。休む暇も息つく暇もない。土地不案内のために伏勢や奇襲を防ぐすべもない。いよいよ敗戦となれば遺骨を拾うすべさえもないであろう」と。それに、両説いずれの側にも実例は乏しくないのである。スキピオは、自分の領土を守ってイタリアで敵と戦うよりは、アフリカに渡って敵地を攻める方がよいと思った。そして勝った。けれども反対にハンニバルの方は、やはり同じ戦いにおいて、外国征服を思いすてて自国の守りにおもむき、失敗した。アテナイ人たちは、国内の敵をそのままにしてシチリアに押し渡ったため、非運にあった。だがスュラクサイの王アガトクレスは、国内の戦争をうっちゃっておいてアフリカに渡り、幸運をえた。そこで当然、我々はこう言うのに慣れてしまった。「決着結果は、わけても戦争においては、大部分が運命による。ところがその運命は、我々の推理や知恵に服従しようとはしない。それは次の詩句にも見られるとおりである」と。
しばしば不用意が成功し、用心かえって我々を欺く。
運命は、必ずしもそれに値するもののみを助けず。
そは、選ぶことなく、或いは甲に或いは乙にくみす。
思うに、我々の上に偉大な力ありて我々を導き、
その掟の下に、すべての死すべきものを把握してあればなり。
運命は、必ずしもそれに値するもののみを助けず。
そは、選ぶことなく、或いは甲に或いは乙にくみす。
思うに、我々の上に偉大な力ありて我々を導き、
その掟の下に、すべての死すべきものを把握してあればなり。
(マニリウス)
だがよく考えてみると、我々の企てや決心もまた、同じく運命の配下にあるもののようである。運命**はその混沌不定の中に、我々の推理をも引きずりこんでいるようである。
* 客を迎えるものがご馳走の費用を払わねばならない。敵を領内へ迎えるものは敵のために犠牲を忍ばねばならぬという意味になる。
** 運命ないし偶然の語は、モンテーニュにおいては「自然」「神」「摂理」などの同意語の如く、『随想録』の至るところに現れる。
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(a)さあこれから、文法家になってお目にかけよう。わたしは言葉というものをついぞ本式には学んだことがないのだが。形容詞とは何か、接続詞とは何か、また奪格とは何か、今もって知ってはいないのだが。わたしはローマ人が funales〔綱のついた駒〕または dextrarios〔右手の駒〕と呼びなす馬を持っていたという話を聞いたことがあるようだが、それは右手にすなわち「乗り替え」として引いてゆき、必要に応じて乗りかえたものなので、それが軍用に供する馬を我々が






中にはその主人を助けるように、抜身を飛び越えて進むように、攻め寄せるものを蹄にかけ牙にかけるようにと、仕込まれた馬もたくさんあるが、それらは敵よりも味方を傷つけることの方が多い。それにそういう馬は、一度噛みついたら引き離そうと思っても引き離すことができない。結局馬の喧嘩の巻き添えをくわねばならぬことになる。ペルシアの大将アルティビウスはサラミス王オネシルスと一騎打ちになったとき、そのように仕込まれた馬にのっていたためにひどい目にあった。まったくその馬が彼の死因となったのである。馬がオネシルスに食いついている間に、彼はオネシルスの警護の士から両の肩の間を一太刀深く切り込まれたのである。
だからイタリア人は、「フォルノヴォの戦いに王の御馬は、追い迫る敵を蹄にかけて王を救った。そうでなかったら、王はあえなく討たれ給うたであろう」と言っているが、もしこれが本当だとすれば、それこそ大きな偶然であったと言わねばならない。
マメルク人は、世界一利巧な軍馬を持っていると誇っている。聞くところによると、それらは天性と訓練とにより、合図や掛声があればすぐに主人が落した槍や刀を口でひろって、混戦の最中にこれを主人に渡すことができた。また敵味方を識別することもできた。
(a)聞くところによると、カエサルにしても大ポンペイウスにしても、いろいろ優秀な特質を備えていたが、なかんずく馬術に長じていたそうである。カエサルなどは子供の時分から、手綱のない裸馬の背にまたがり、両手を後ろに組んだままそれを疾駆させたという。自然はこのカエサルとアレクサンドロスとをもって兵法における二大驚異たらしめようとしたが、また同時に非凡な武器を二人に賦与したとも言えよう。まったく誰でも知るとおり、アレクサンドロスの乗馬ブケファルスは、その頭、まるで牡牛のそれの如く、主人以外を乗せることを欲せず、彼以外の誰にも制御されず、死後は神に祭られたし、またその名を記念して一つの町がたてられたではないか。カエサルの乗馬にいたっては、前脚は人の脚の如く、蹄は人の指のようであった。やはりカエサル以外の者には御せられず、これを乗せなかった。カエサルはこの馬が死ぬと、その像を造って女神ウェヌスの堂に献じた。
わたしは馬に乗ったらなかなか下りない。まったくそれは、わたしが健康のときも病気のときも一番心持よく感ずる座席なのである。(c)プラトンは健康のためにこれを勧めている。(a)プリニウスもまた、それは胃のためにもよいと言っている。だからもう少し続けよう。乗りかかった馬だ。
クセノフォンを読むと、なかに馬を持っている者が徒歩で旅行することを禁ずる掟がある。トログス及びユスティヌスの言うところによると、パルティア人は馬で戦争をするのに慣れていたばかりでなく、その公私のあらゆる用務を、例えば商売も相談も閑談も散歩も、すべてを馬上で行った。そして彼らの間における自由民と奴隷との最も著しい差別は、一方は馬で行き一方は徒歩で行く点にあった。(c)これは王キュロスの時に始められた制度である。
(a)ローマ史の中には、いよいよ危険が切迫した場合、騎馬の兵士たちに下馬を命じた大将たちの実例が(スエトニウスはカエサルについて特にこのことをあげている)たくさんに見出される。これは兵士たちに遁走の望みを絶たせるためであった。(c)また歩兵戦の効果をいよいよ発揮させたいからでもあった。


それはともかく、ローマ人が新たに征服した人民の


(a)我々の祖先は、特に英仏戦争時代には、正々堂々たる列伍正しい戦闘をしたが、いつも大部分の時間を徒歩で戦った。名誉や生命のように貴重なものを、彼ら固有の力すなわち体力と気魄以外のものに委ねることを欲しなかったからである。(c)クセノフォンの中でクリュサンテスが何と言っているにしても、(a)君たちは自分の価値と運とを乗馬のそれに結びつけている。馬が傷つき馬が倒れれば、やがて君たち自らも傷つき倒れる。馬が恐怖するか猛りたつかで、君たちは勇猛にもなれば卑怯にもなる。馬が手綱や拍車に従わなければ、直ちに君たちの名誉は危うくされる。だからわたしは、徒歩の戦闘の方が騎馬の戦闘よりも頑強悽絶であったということを、少しもあやしまないのである。
(b)彼らは一度は退くもまた盛り返して戦えり。
負けたるものも勝ちたるものも
いずれも逃ぐることを知らざりければなり。
負けたるものも勝ちたるものも
いずれも逃ぐることを知らざりければなり。
(ウェルギリウス)
(c)昔の人の合戦を見ると、敵味方とも今よりもよく頑張っている。ところが今では忽ちに敗亡だ。


(b)風に運ばれる打撃はちっともあてにならない。
風をして運ばしむる打撃は不確実なり。
刀剣こそ兵士の力なれ。戦いにたけたる民は、
すべてただ剣のみを以て戦う。
刀剣こそ兵士の力なれ。戦いにたけたる民は、
すべてただ剣のみを以て戦う。
(ルカヌス)
(a)けれどもこの火器のことは、後に古今の武器の比較をする場合に、あらためて詳しく述べる*ことにしよう。その耳を驚かす爆音はしばらくおいても(その後人々はようやくこれに慣れたから)、それはきわめて効果の少ない武器であると思う。わたしはそれがやがて使用されなくなることを期待する。
* 著者は一五八〇年にはこの計画をもっていたのだろうが、ついに実行せずに終った。ただ一五八八年に、次につづく二項を書き添えたにとどまった。
けたたましき音をたてつつ
雷 のごとくファラリカはおち来りぬ。
(ウェルギリウス)
彼らはほかにもいろいろな道具を持っていて、それらの使用に巧みであった。いずれも経験のない我々には信じられないほどのもので、彼らはそれらに我々の硝薬や弾丸の代りをさせていたのである。彼らは非常な力で大槍を投げ、しばしば二枚の楯と鎧をつけた二人の兵士とを串ざしにした。彼らの






一万のギリシア兵はその有名な長途の退却*の途中、或る民族に遭遇し、その強く大きな弓と恐ろしく長い矢のために非常な損害をこうむった。その矢は拾ってこれを
* 「一万人の退却」と言われるもの。紀元前四〇一年、ギリシア人がクナクサの戦いに敗れ、クセノフォンの統率の下に辛うじてギリシアまで逃げかえったことをさす。
(b)わたしは昔、手綱をおっぱなし鞭一本で思いのままに乗れるように仕込んである馬を見て、ひどく感心したことがあるが、そんなことはマッシリア人の間では珍しくなかった。彼らは鞍も手綱もなしにその馬を乗りこなした。
マッシリア人は裸の馬に乗る。
彼らは轡 を知らずただ一本の鞭による。
彼らは
(ルカヌス)
(c)またヌミディア人は轡なき馬に乗る。
(ウェルギリウス)


(a)王アルフォンソはスペインに革帯騎士団とか飾帯騎士団とかを創設した人であるが、いろいろな規則をたてた中に、「
(c)『宮臣論*』のいうところによると、以前は武士が騾馬にのると叱られたものだそうな(だがアビシニア人は、その位がだんだんに昇って、彼らの王であるプレートル・ジャンの位に近くなればなるほど、かえって名誉として騾馬にのりたがる)。クセノフォンの言うところによると、アッシリア人は彼らの馬を、常に足かせをして
* バルタザレ・カスティリヨーネの著(一五二八)。
(b)スキュティア人は戦争においていよいよ饑餓に迫られると、軍馬の生血をしぼってこれを飲み、その身の養いとした。
サルマティア人もまた、馬の血を以て養いとしたり。
(マルティアリス)
クレタの人たちはメテルスに包囲されたとき、あらゆる飲料を用いつくしたので、とうとう馬の小便まで用いなければならなかった。
(c)トルコ人の軍隊が我々の軍隊よりもどうしてあんなに安上りに輸送され給養もされるかを明らかにするために、人々はこう説明している。「それは兵士たちが水と米と挽いた塩漬肉だけで満足するから、各自がそれらの一月分をやすやすと携帯してゆけるから、である。そればかりではない。彼らはダッタン人やモスコヴィ人と同じように、馬の血の飲みかたを知っているからである。彼らは塩を入れてこれを飲む」と。
(b)あのインド*で新たに発見された諸民族は、スペイン人がそこに到着した時、人間をも馬をも、神か獣か知らないが、いずれにせよ、自分たちより余程高貴な存在であろうと考えた。ある民族などは、いよいよ降参して兵たちの前に和睦と赦免を乞うべく、
* 当時アメリカのことを西方インドと呼んでいた。後出東方インドというのが我々のいうインドである。
(c)現代人の誰であったか、やはりこの地方において、牛の背に小さな荷鞍をおき、手綱や
クイントゥス・ファビウス・マクシムス・ルティリアヌスは、サムニウム人と戦ったとき、その騎兵たちが三回も四回も突貫してなお敵の大隊を突き破ることができないのを見ると、「馬の手綱をはなし力一杯拍車を入れよ」と命令したので、向うところ敵なく、彼らは武器を倒し人を倒して続く歩兵のために進路をひらき、とうとう敵に血みどろな敗北を味わわせた。
クイントゥス・フルウィウス・フラックスも、ケルティベリ人を攻めるに当って同じように命令した。


(b)モスコヴィ公はむかしダッタン人たちから使節を送られると、次のような礼をもってこれを迎えなければならなかった。すなわち徒歩で彼らを迎え、馬の乳を盛った器を彼らに捧げなければならなかった(これが彼らダッタン人の最も愛好する飲料であったから)。もしこれを飲む時に幾滴かが馬のたて髪の上にこぼれると、これを舌の先でなめとってやらなければならなかった。ロシアで、皇帝バヤズィトがここに送った軍隊は、恐ろしい大雪になやまされた。降りつむ雪をよけまた寒さを凌ぐために、大勢の者は意を決してその馬を殺し、その腹をさき、それぞれ中にもぐり込んでその体温であたたまった。
(c)バヤズィトはそのような苦戦も空しく、ついにタメルラン〔チムール〕にまけたので、アラビア産の牝馬にまたがり一目散に遁走した。彼が小川にさしかかった時に、馬に水を飲ませずにすんだらよかったのであるが、それは馬の気勢を非常に弱め
クロイソスはサルディス市の傍を通ったとき、大そう蛇のたくさんいる草原を見た。軍中の馬は皆うまがってそれをたべた。これが彼の戦いに負ける悪い前兆であったと、ヘロドトスは述べている。
(b)我々はちゃんとたて髪と耳を備えた馬を「完全馬」


(c)わたしは馬術の巧みさと鮮やかさにおいて、いかなる国民も我々よりまさっているとは思わない。「良い騎士」と言うと、我々の言葉の慣用に従えば、その人の技倆よりも勇気の方を指して言うもののようである。馬を御することに最も練達し腕前の最も確かであざやかな人といえば、わたしが知っている限りでは、わがアンリ二世王の馬の御指南番であったあのカルヌヴァレ殿であったと思う。わたしはかつてこんな男を見たことがあった。まず
* 当章を通じてわれわれは、モンテーニュの軍職礼賛の根拠と意義を知る。それは戦争賛美ではなく、騎士道の美しさを礼賛するのである。彼は武人においてその技術を重んぜず、ただその勇気と徳とに感動するのである。後出二の九「パルティア人の武器について」参照。
(a)わたしはわが国民が、自分たちの風俗習慣以外には完全の模範も標準ももたないことを、心から勘弁してやろうと思う。まったく、自分たちが子供の時代から親しんできた習慣を無上のものに思うのは、たんに凡俗の人たちだけではなくほとんどすべての人に見られる通弊なのである。彼らがファブリティウスやラエリウスを見てその様子態度を野蛮だと思うのももっともである。いずれも我々のような服装も作法ももっていないのだから。だがわれわれフランス人に特有なあの無定見にも困ったものである。彼らは現代の習慣の権威に、あまりにも欺かれ過ぎ
(a)わたしはここに、わたしの記憶するさまざまな古代の習慣を(中には我々の習慣と同じものもあるし違ったものもあるが)、並べてみようと思う。このように人間界の物ごとが始終変化してきわまりなきことを考えてみたら、我々もそれらについて今までよりはずっと明

我々のいわゆる「剣とカープで戦う*」ことは、ローマ人の間でも行われた。カエサルも、


* カープ cape というのは頭巾のついた袖のない短いマントである。
* 生え際の毛をぬかせて額をひろく見せたのである。当時の貴婦人の像を見るとわかる。
なんじ、胸や脛や腕の毛を除く。
(マルティアリス)
もっとも古人の方はそのための特別の香油を持っていたのであるが。
彼女はその身に除毛膏を塗りたり。
そは乾ける粘土を酢の中にひたせるものなりき。
そは乾ける粘土を酢の中にひたせるものなりき。
(マルティアリス)
彼らは柔らかなふとんに寝るのが好きだった。そしてわらぶとんに寝ることを忍耐のしるしとしてあげている。また寝床の上に横たわって食事をした。まず今日のトルコ人と同じような格好で。
その時アエネアスは床の上より次のごとく言えり。
(ウェルギリウス)
それで、伝えるところによると、小カトーはファルサロスの戦い以来、国運がはなはだ振わないのに心をいため、常に坐って食事し、毎日の生活を更にきびしくしたということである。彼らは敬慕の情を示すために、えらい人たちの手に接吻した。友人間においては挨拶として接吻を交わした。ちょうどヴェネツィア人がするように。
最も優しき言葉もてそなたをことほぎつつ、
われそなたに口づけせん。
われそなたに口づけせん。
(オウィディウス)
(c)またえらい人に懇請したり挨拶したりするには、その膝に手をふれた。クラテスと兄弟の哲学者パシクレスは、手を相手の膝にもってゆかずに股間にもっていった。その人が荒々しく彼の手を振りはらうと、「何とせらるる? これもまた膝と同じくそなたのものではないか」といった。
(a)彼らも我々のように食後に果物をたべた。彼らは海綿でお尻を拭いた(言葉の上のつまらぬ遠慮は御婦人がたにおまかせしよう)。だからスポンギアはラテン語ではみだらな言葉である。で、この海綿は棒の先につけられていた。その証拠にはこんな話がある。「ある男が見物人の前で獣に食わされるために連れてゆかれる途中、用たしにゆきたいと許しを乞うた。だが、別に自殺をしようにもほかに方法がなかったので、この棒と海綿とを喉に突っ込んで自ら窒息した」と。彼らはあれをしてしまうと、香料をしませたネルでさおをふいた。
このネルでそなたのペニスを拭うほかに
まことそなたのために何もなしえじ。
まことそなたのために何もなしえじ。
(マルティアリス)
ローマでは四辻ごとに、通行人が小便をするための便器や小桶が備えてあった。
しばしば少年はその夢に、自ら衣をかかげて
この用に備えられたる器に放尿すと見る。
この用に備えられたる器に放尿すと見る。
(ルクレティウス)
彼らは食事と食事の間に軽食をとった。夏は酒を冷やすための雪売りがあった。また冬でも、酒の冷たさが足りないからと雪を用いる者があった。えらい人たちはお酌をしたり肉を切ったりする少年を養っていた。それに道化者もいて彼らを面白がらせた。冬は食べ物を、卓上にのせられる
富める人たちよ。これらの佳肴 はおん身らのもの。
我らには、移動食膳はふさわしからず。
我らには、移動食膳はふさわしからず。
(マルティアリス)
また夏になると、彼らはしばしば下の部屋に溝をしつらえて、そこにつめたい清水をとおした。そこにはたくさんの生きた魚がいて、主客はあれこれと手取りにしては、めいめいそれを好きなように料理させた。当時も今日のように、魚はえらい人たちにお手ずから料理していただく特権をもっていた。それに、その味は獣の肉よりははるかにうまい。少なくともこのわたしにはそう思われる。けれどもあらゆる種類の豪奢、乱行、淫蕩な思いつき、遊惰、贅沢にかけては、我々もほんとうに彼らに負けないだけのことをやっている。まったく我々の意志は、確かに彼らのそれに劣らず腐っているのである。だが我々の才能の方はとうてい彼らに及ばない。我々の力は、徳においても不徳においても、とうてい彼らにおいつけない。まったく彼らにおいては、徳も不徳も我々のそれとはくらべものにならぬほど強い気魄から発しているのである。霊魂は弱くなればなるほど、それだけ大きな善も大きな悪も、二つながらになしえなくなるのである。
彼らの間の上席といえば中央である。書く場合も語る場合も、前後は少しも上下の意味を持たないのである。それは彼らの書いたものを見るとはっきりわかる。オッピウスおよびカエサル、ともいえば、カエサルおよびオッピウス、ともいう。わたしとお前でも、お前とわたしでも、どっちでもよいのである。そういえば、わたしはかつてフランス訳のプルタルコスの中でフラミニヌスの伝記を読んだとき、訳者が、アエトリア人とローマ人とが協力して得た戦勝の光栄を相争ったことを語るにあたって、ギリシアの歌の中にアエトリア人の方がローマ人よりも前に挙げられていることを多少重く見ているらしいくだりがあるのに、気がついたことがある。そのフランス文に曖昧なところがないとすれば、どうもそのようにとらないわけにゆかなかった。
貴婦人たちは蒸し風呂の中で男子をも一緒に引見した。そしてその場で、下男に体をもませたり油を塗らせたりした。
そなたが、全裸にて温浴をするとき、
黒革の褌 したる奴隷そなたの命を待つ。
黒革の
(マルティアリス)
彼女たちは一種の粉を身に振りかけてその汗をおさえた。
昔のゴール人は、シドニウス・アポリナリスの言うところによると、前髪を貯え後頭部を刈り込んでいたが、この風習は、現代の女々しい柔弱な風潮に乗じて、この頃またはやり出した。
ローマ人は渡し銭を船に乗るなり払った。我々は向うについてから払う。
旅人の金をあつめ、曳船に驢馬をつけるに、
ゆうにひと時はすぐるなり。
ゆうにひと時はすぐるなり。
(ホラティウス)
女は寝台の壁ぎわ*の方に寝たものである。だから人はカエサルのことを、「王ニコメデスの壁ぎわ」


* 壁ぎわ ruelle とは、寝台と壁との間の狭い空間をいう。カエサルは、少年のころ王ニコメデスに可愛がられたから、こう言われたのである。
若き奴隷よ。我々の傍を流るる水をみて、
とく、この熱きファレルナの酒を冷ませ。
とく、この熱きファレルナの酒を冷ませ。
(ホラティウス)
それから、我々の下男がよくやる・あの人をばかにした・しぐさも昔からあった。
おおヤヌスよ。人、君が背後にまわりて、
角を作らず、驢馬の耳を真似ず。
渇けるアプリアの犬の如くに長き舌を出さず。
角を作らず、驢馬の耳を真似ず。
渇けるアプリアの犬の如くに長き舌を出さず。
(ペルシウス)
アルゴスやローマの貴婦人たちは白い喪服を着た。わが国の婦人たちもそうであった。おそらくこの風習をこそ永くつづけるべきであったと、わたしは思う。
(a)しかしこういう問題に関しては、堂々たる著書が山ほどある。
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この章がいかなる時期に書かれたかは確かでない。ただおそらく第一巻第八章が書かれた一五七二年頃よりは後であろうと考えられる。そして、ここで始めて essai という語が、本書の標題として考えられたのではないかと思われる。
今日ではエッセーすなわち随筆というふうに考えられ、モンテーニュがヨーロッパにおける随筆文学の元祖と見られているわけであるが、モンテーニュの時代には、エッセーという語はまだそういうジャンルの名称とはなっていなかった。事実モンテーニュの著作は、すでに読んだ第一巻第八章に述べられているような情況のもとに書き始められたのであるから、『エッセー』は『随想録』にちがいないのであるが、このエッセーという標題は、この章のかかれた頃(おそらく一五七八年前後)より後に思いつかれたものであろう。それが当時どのような意味をもっていたかということを、特にこの一章のなかに読みとっていただきたいと思う。すなわち著者が、ここにもっぱら自分の判断力の試み、ためし、という意味で essai とか essayer とかいう語を用いているということに、注目していただきたい。同時に、そうした試みの集積は体験経験となるから、第二巻第三十七章や第三巻第十三章などにおいては、そういう意味でも用いられていることを知っていただきたい。「このわたしの雑録は要するにわたしの一生のエッセーを記録したものに他ならぬ」(三の十三)。すなわちモンテーニュの随筆がその根源に理性主義と科学的経験主義をもっていることを、十分に理解していただきたいと思う。もちろん『随想録』の中には花鳥風月(自然)も含まれていなくはないが、少なくともエッセーという語の中にはそういう趣は感じられないのである。『モンテーニュとその時代』第三部第三章、三三一頁参照。
なお最初のパラグラフの終りの二、三行もまた、文字通りに解すべきではない。前出第四十章の中で自分のエッセーに言及して、「それらはそっぽをむいて微妙な意味を響かせている」と言っているとおり、ここでもわれわれは側面から、この微妙な響きをききわけなければならない。すなわちモンテーニュはピュロン流の懐疑主義者ではなくして理性主義者である。彼はここでも自分の判断すなわち理性を十分に信頼している。しかも最後にはこうして断定をぼかし、いかにも懐疑論者であるようなふりをしている。これは彼の常套手段で、謙遜でも反語でもまたカムフラージュでもあるらしい。特に彼は、好んで形而上の問題の前にこうした態度をとる。彼は、そういう問題に関しては人知の及ばないことを、心底信じているからであり、また同時に、当時の狂信家の執拗な反撃と密告と酷刑とを恐れたからでもあろう。モンテーニュの科学的態度は、すでに読んだところでは「習慣」に関する章によく現われている。それは純然たる実験心理学であった。やがて第二巻第六章においては自分の気絶失神の経験をつぶさに記録するし、第二巻第十二章では人間を動物と同列に置いてこれに科学的観察を加えている。『随想録』全体をとって見ても、それは前後二十年を通じて、著者の思想が著者の身体的状態(病気や欲望や)に伴って変化している有様が克明に記載されている。モンテーニュが最も赤裸に自分を示しているその「旅日記」を見ても、彼は現代の臨床医家のような態度をもって、精密に科学的に、自分の病状の変化を観察し記録している。モンテーニュの『エッセー』は『徒然草』と同じようにして書き始められたものではあるが、両者には本質的にかなりちがうものがあるようにわたしは思う。
今日ではエッセーすなわち随筆というふうに考えられ、モンテーニュがヨーロッパにおける随筆文学の元祖と見られているわけであるが、モンテーニュの時代には、エッセーという語はまだそういうジャンルの名称とはなっていなかった。事実モンテーニュの著作は、すでに読んだ第一巻第八章に述べられているような情況のもとに書き始められたのであるから、『エッセー』は『随想録』にちがいないのであるが、このエッセーという標題は、この章のかかれた頃(おそらく一五七八年前後)より後に思いつかれたものであろう。それが当時どのような意味をもっていたかということを、特にこの一章のなかに読みとっていただきたいと思う。すなわち著者が、ここにもっぱら自分の判断力の試み、ためし、という意味で essai とか essayer とかいう語を用いているということに、注目していただきたい。同時に、そうした試みの集積は体験経験となるから、第二巻第三十七章や第三巻第十三章などにおいては、そういう意味でも用いられていることを知っていただきたい。「このわたしの雑録は要するにわたしの一生のエッセーを記録したものに他ならぬ」(三の十三)。すなわちモンテーニュの随筆がその根源に理性主義と科学的経験主義をもっていることを、十分に理解していただきたいと思う。もちろん『随想録』の中には花鳥風月(自然)も含まれていなくはないが、少なくともエッセーという語の中にはそういう趣は感じられないのである。『モンテーニュとその時代』第三部第三章、三三一頁参照。
なお最初のパラグラフの終りの二、三行もまた、文字通りに解すべきではない。前出第四十章の中で自分のエッセーに言及して、「それらはそっぽをむいて微妙な意味を響かせている」と言っているとおり、ここでもわれわれは側面から、この微妙な響きをききわけなければならない。すなわちモンテーニュはピュロン流の懐疑主義者ではなくして理性主義者である。彼はここでも自分の判断すなわち理性を十分に信頼している。しかも最後にはこうして断定をぼかし、いかにも懐疑論者であるようなふりをしている。これは彼の常套手段で、謙遜でも反語でもまたカムフラージュでもあるらしい。特に彼は、好んで形而上の問題の前にこうした態度をとる。彼は、そういう問題に関しては人知の及ばないことを、心底信じているからであり、また同時に、当時の狂信家の執拗な反撃と密告と酷刑とを恐れたからでもあろう。モンテーニュの科学的態度は、すでに読んだところでは「習慣」に関する章によく現われている。それは純然たる実験心理学であった。やがて第二巻第六章においては自分の気絶失神の経験をつぶさに記録するし、第二巻第十二章では人間を動物と同列に置いてこれに科学的観察を加えている。『随想録』全体をとって見ても、それは前後二十年を通じて、著者の思想が著者の身体的状態(病気や欲望や)に伴って変化している有様が克明に記載されている。モンテーニュが最も赤裸に自分を示しているその「旅日記」を見ても、彼は現代の臨床医家のような態度をもって、精密に科学的に、自分の病状の変化を観察し記録している。モンテーニュの『エッセー』は『徒然草』と同じようにして書き始められたものではあるが、両者には本質的にかなりちがうものがあるようにわたしは思う。
(a)判断は、どんな問題にも適用される道具で、あらゆる場合に関与する。だからわたしは、ここに判断の
* この節は、モンテーニュが essai, essayer という語に如何なる意義を与えているかを決定すべき重要な箇所であると思う。「力だめし」「こころみ」「ためし」「吟味」等の意味がここではその根本の意味であるように読まれる。日本語でいえば「胆だめし」「力だめし」「ためし算」という場合に用いられる「ためし」である。
(c)霊魂の働きの中には、低い働きもたくさんある。そうしたところからも見なければ、霊魂を知り尽すことはできない。いやおそらく、霊魂がその単純な歩みですすむ時の方が、人はよりよくその本質を認識するのである。激情の嵐は、霊魂が高ぶっている時にそれを襲うことが多い。それに霊魂は、それぞれの事柄に己れの全体をもって当り、それに己れ全体を働かす。そして一時に一つ以上の事柄にたずさわることは決してない。また事柄をそれに応じて取扱わず、己れに応じて取扱う。物事は、おそらく、それ自体、その重さ・その長さ・その他いろいろな性質・をもっているのであろうが、霊魂は一ぺんそれらを我々の内部に受け入れると、たちまちにそれら〔諸性質〕を自分の好きなようにかえてしまうのである。死はキケロには恐ろしいこと・カトーには願わしいこと・ソクラテスにはどうでもよいこと・である。健康も良心も権威も知識も富も美も、またそれらの物の反対も、みな入口で今まで着ていた衣をはがれ、霊魂から新しい着物を、その好みの色を、或いは褐色の或いは緑の、或いは明るい或いは暗い、或いはおとなしい或いはけばけばしい、或いは深い或いは浅い、実にとりどりの色をきせられる。それに、それぞれの霊魂にそれぞれの好みがある。まったくもろもろの霊魂は、ものごとの型や寸法にかけて意見を同じくしたことがない。それぞれ〔の霊魂〕がその国における女王なのである。だから物事の外面的性質について、我々はもう〔我々の錯覚についての〕言訳はよそう。こっちはこっちで勝手に考えればよいことである。我々の幸・不幸も、かかってただ我々にある。だから、我々自らに、我々の供物・我々の祈願・をささげよう。運命になんかささげないで。運命は我々の考え方の上に何もなしえないのである。かえって我々の考え方の方が運命を引きまわし、それを自分の鋳型にはめこむのである。どうしてわたしがアレクサンドロスを判断するのに、彼がテーブルによって
(a)デモクリトスとヘラクレイトスは二人ながら哲学者であった。前者は人間の本性(humaine condition)を空なるわらうべきものと思っていたから、顔に人をばかにしたような笑いをうかべずには人前に出たことがなかった。ヘラクレイトスの方は、我々のその同じ本性に憐憫同情をいだいていたから、しじゅう悲しそうな顔をして、眼には涙をたたえていた。
(b)彼ら一歩その家の外に踏み出すとき
一人は笑い、一人は涙を浮べたりき。
一人は笑い、一人は涙を浮べたりき。
(ユウェナリス)
(a)わたしは前者の気分の方が好きである。泣くより笑う方が愉快だからではない。この方が一そう侮蔑的であり、もう一方よりも一そう我々をこきおろすことになるからだ。実際我々は自分の値打を考えて見れば、いくら軽蔑されてもたりないように思われる。愁嘆や同情の方は憐れみながらも多少その物を尊重する気持を交えているが、人が物事を嘲笑するのはそれらを価値なしと見ているからである。わたしは我々を空虚であるからといってそれほど不幸なものとも思わないし、馬鹿だからといってそれほど邪悪なものとも思わない。我々ははかなさに満ちてはおれ、それほど不幸に満ちてはいないし、下賤ではあれ、それほど悲惨なわけでもないのである。だからディオゲネスはその樽をころがしながら、大王アレクサンドロスを鼻の先であしらいながら、我々人間を青蠅か風にふくらんだ風船玉くらいに考えながら、独り面白がっていたので、この方が「人間の憎悪者」と
スタティウスがブルートゥスからカエサルに対する陰謀に加わらないかと勧められた時の答もまた、同じ性質のものであった。彼はその計画を正しいとは思ったのだが、人間をばそんなにまで骨を折ってやるだけの価値あるものとは思わなかったのである。(c)これはヘゲシアスの掟にもかなっている。この人は、「賢者は自分のため以外に何事もしてはならない。なぜなら、独り賢者だけが人から何かをしてもらうに値するからである」と言った。またテオドロスの掟にもかなっている。この人は、「賢者がその国の幸いのために己れを危うくするのは正しくない。馬鹿者どものためにその知恵を危険にさらすのは正しくない*」と言った。
* モンテーニュはこの考えを後に第三巻第十章で詳説している。
* Nostre propre et peculiere condition est autant ridicule que risible. この章においては、モンテーニュはかなりペシミストで、またミザントロープでもあるように見える。もちろん彼も、毎日さまざまな犯罪や嘘や裏切やを見せつけられたのであるから、実際このようにペシミストになる日もあったであろう。しかし、パスカルが誤解しているように、モンテーニュは人間の卑小な面だけしか見ず、少しも人間の偉大な面を見なかったと考えるのはまちがっている。この章の所説は、むしろ彼の誇張でありまたパラドクスも放言 boutades もまじっていると見るべきである。例えば第二巻第十七章の終りの頁を読まれるがよい。彼は人間を正しく評価している。古人の中にだけでなく、同時代人の中にも、幾多のすぐれた人間を発見している。ラ・ボエシ、アンリ・ド・ナヴァールを始め、宰相のオリヴィエとかミシェル・ド・ロピタルとか、いろいろ偉大な人物のあることをモンテーニュは知っていた。また百姓の徳をもたたえている。われわれはモンテーニュの人間信頼とヒューマニズムが、これらの観察や体験に支えられていることを見おとしてはならない。なおこの点に関しては前記第二巻第十七章の他、第二巻第十章、第三巻第二章および第十二章を併せ見られたい。
(a)むかしのある修辞学者は、「自分の専門は小さな事柄を大きそうに見せたり大きく思わせたりすることである」といった。(b)つまり小さな足のために大きな靴を作るのがうまい靴屋さんということになる。(a)スパルタにおいてならば、これは詐欺を職とするものだといって鞭うたれたに違いない。(b)この国の王であったアルキダモスは、あのトゥキュディデス*の言葉をきいては驚かずにいられなかったことと思う。王はこの人に向って、「
* これは歴史家のトゥキュディデスではなく、ペリクレスの反対党であった貴族派の首領の一人を指している。
マホメット教徒は、これを無用のものとして彼らの子供たちに教えることを禁じている。
またアテナイ人は、これが彼らの都において甚だ重んぜられたためにいかに世を毒したかを覚り、人の感情を煽り立てるその重要な部分を、序説および結語とともに削除させた。
(a)それは規律にしたがわない群衆や暴徒を、煽動したり操縦したりするために考え出された道具である。医薬のように、病める国家においてのみ使用される道具である。アテナイやロドスやローマのように、俗衆や無知な者どもが何でも勝手なことをなし得た国々、物事が絶えず嵐にさらされていた国々には、雄弁家がたくさん集まった。本当にこれらの国家においては、雄弁の助けを借りずに衆望を負って立つことができた人物はほとんど見られないのである。ポンペイウス、カエサル、クラッスス、ルクルス、レントゥルス、メテルスは、いずれも自分の雄弁を大きな頼りとして、とうとうあれほどの高位にまでのしあがったのである。それを武器以上に利用したのである。(c)こういうことはより良い時代の思想に反することである。まったく、ルキウス・ウォルムニウスはクイントゥス・ファビウスおよびプブリウス・デキウスが執政に選挙されようとする時、二人のために公衆の前で次のように語った。「これらの人々は戦争のために生れついた人々で、実行にかけては偉いが舌戦にかけてはへたである。つまり真に執政たるべき人々である。利巧で雄弁で博学な人たちは、むしろ都市のために役立つ人で、裁判官として判決をするのにふさわしい」と。
(a)雄弁がローマで最も花やかだったのは、その政治が最も悪かったときであった。内乱の嵐がそれをかき乱している時であった。ちょうど
こんなことを言い出したわけは、ついこの頃、もとの枢機官カラッファに給仕頭としてその死に到るまで仕えた或るイタリア人と語りあったためである。わたしは彼にその職分のことを語らせた。彼は荘重に、もったいぶった態度で、その食味の学について演説をした。まるで神学上の大問題でも論じてきかせるかのように、彼は食欲にもいろいろな差別があることをわからせてくれた。例えば空腹時の食欲、二皿三皿たべた後の食欲、というふうに。また、単にそれを喜ばす方法もあれば、それを呼びさまし盛んにする方法もあるということなど。ソースの作り方についても、まずその総論から始めて、次に各調味料の特質および効果についての各論に入った。四季おりおりのサラダの種類が異なることから、これは温めて出すとか、これは冷やして出すとか、それらを眼に美しく見せるにはどんなふうに盛りつけるとか。そして最後に、それを供する順序に及んだが、そこにもまた立派な堂々たる考察が充満していた。
(b)兎の切り方と雛鳥の切り方とを区別するは、
決してかりそめの事にあらざるなり。
決してかりそめの事にあらざるなり。
(ユウェナリス)
(a)いやそうした事柄が、みな豊富壮麗な言葉をもって誇張して語られ、一国の政治を論ずる場合に用いられる言葉さえも用いられた。わたしはそのとき、わがテレンティウスを思い出した。
「それはあまりに辛し。これは焦げたり。
これは味わい乏し。これは大いによろし。
この次はこうせよ。忘るるな」。
かくわれは、知れる限りを彼らに教う。
最後に、デメアよ、われは彼らに告ぐ。
「皿をみがくには鏡を見るが如くせよ」と。
これは味わい乏し。これは大いによろし。
この次はこうせよ。忘るるな」。
かくわれは、知れる限りを彼らに教う。
最後に、デメアよ、われは彼らに告ぐ。
「皿をみがくには鏡を見るが如くせよ」と。
(テレンティウス)
とにかくギリシア人さえ、パウルス・アエミリウスがマケドニアから帰って彼らに供した料理の秩序整然としているのを見ては、ひどくこれをほめたたえた。だがわたしは、いま事柄について語っているのではなく言葉について語っているのだ。
果して皆さんにも同様の御経験がおありかどうか知らないが、わたしはわが国の建築師たちが、透し柱・
* 『アマディス』の中に描かれている善美をつくした宮殿。
(a)我が国の官職を、その職務の上に何らの類似もないのに、いやその権威や機能にいたっては到底くらべものにならないのに、ローマ時代の仰山な呼び方で呼ぶこともまた、同じ種類の詐欺である。いやこんな詐欺もある。もっともこれは、わたしの考えでは、やがて我々の時代がいかに活気がなく振わなかったかを証明するのに役立つくらいが落ちであろうと思うが、人は古代が数世紀を通じて僅か一人か二人という大人物に奉った最も輝かしい尊称を、誰彼おかまいなしに、手当り次第に、用いている。プラトンはあまねき同意によって「神の如き」という称をえたのであるから、誰一人これをねたんだものはないが、ついこの頃イタリア人は、自ら一般的に同じ時代のどの民族よりも目ざめた精神と
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(a)アフリカにおけるローマ軍の大将アッティリウス・レグルスは、カルタゴ人に勝って光栄のただ中にあったのに、本国に手紙を送って、全体で僅か七アルパンばかりにしかならない自分の地所の管理を頼んでおいた小作人が農具を奪って逃走したことを訴え、かつ妻子が困っているといけないから帰国してその始末を致したいと、暇を乞うた。そこで元老院は彼の財産を処理すべき者を新たに指名し、これに盗まれたものを補充させ、その上に彼の妻子を国費で扶養するように命令した。
大カトーは、執政となって、イスパニアから帰ると、船でイタリアに帰ったためについやした旅の費用を、乗馬を売って埋め合せた。またサルディニア総督時代には徒歩で巡視をした。お供といえばただ国の役人一人をつれたきりで、これが彼の官服をも犠牲用の器をも捧げて歩いたのである。それどころかきわめてしばしば自分で行李をかついで歩いた。自分は十エキュ以上する着物を着たことがないとか、一日に一ソル以上市場に払ったことがないとか、自慢した。また田舎にある自分の家は、外側に壁土を上塗りしていない荒壁ばかりだとも、自慢した。スキピオ・アエミリアヌスは、二回の勝利と二回の執政職の後に、ただ七人の下僕を連れただけで地方に使いした。伝えるところによれば、ホメロスはただ一人しか下男を持ったことがなく、プラトンは三人、ストア派の頭ゼノンはただの一人も持たなかったという。
(b)ティベリウス・グラックスは、国のために任に赴いたとき、ローマ最高の位にある人であったのに、一日にただの五ソル半しか支給されなかった。
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(a)もし我々が時折自分自身を考察してみるならば、そして他人のあらさがしをしたり・我々の外にある物事を詮索したり・するために用いる時間を我々自らを測量するのに用いるならば、我々は容易に、我々のこの全組織がいかに
(b)いまだ持たざるものこそ至上のものに見ゆれ。
げに、一たびこれを受くれば、また別のもの現われて、
我らが渇き、ついにやむことなかるべし。
げに、一たびこれを受くれば、また別のもの現われて、
我らが渇き、ついにやむことなかるべし。
(ルクレティウス)
(a)何に限らず我々に認識され享受されるものは、どうも我々を満足させない。そして我々はまだ来ないもの、まだ知らないものを、ひたすらに追求する。現在のものが少しも我々を満足させないからである。思うに現在のものが我々を満足させるだけのものをもっていないからではなく、むしろ我々のそれらをつかむつかみ方が、弱くまた狂っているからである。
(b)かれエピクロスは、死すべきものが、ほぼ、
その生存に必要なるものを備えおるを見たり。
また、富と名誉と才知ある子とを持ちつつ、
その心決して平らかならざる人々をも見たり。
すなわち、かれ悟りき。「すべての悪は器より来る。
器わるければ内なるものを腐らす」と。
その生存に必要なるものを備えおるを見たり。
また、富と名誉と才知ある子とを持ちつつ、
その心決して平らかならざる人々をも見たり。
すなわち、かれ悟りき。「すべての悪は器より来る。
器わるければ内なるものを腐らす」と。
(ルクレティウス)
我々の欲望は定めなく不確実である。それは何一つ捉えることができず何一つまともに享受することを知らない。人間はそれを、それらの物事が悪いせいにしてしまって、自分の全く知らない・見たこともない・他の物事にあこがれる。そしてそれらに自分の希望と欲望とをかけ、それらを崇め尊む。まことにカエサルが言うとおりである。


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(a)人々は時おり、つまらない・何の役にもたたない・小器用小細工によって、世間の評判を得ようとつとめる。例えば詩人たちの中にも、全篇ことごとくを同じ文字ではじまる詩句で作りあげているのがある。むかしギリシアの人たちは卵型・
* ミノは升目の単位。ほぼ三十九リットルに当る。
* 陛下。
** ラ・フォンテーヌの靴屋も Sire Gr
goire と呼ばれている。

(a)デモクリトスの言ったところによれば、神々と動物とは人間よりも鋭敏な感覚をもっていて、人間は両者の中間に位するのである。ローマの人たちは服喪の日と祝賀の日とに同じ服装をつけた。極度の恐怖と極度の勇壮とが、同様に消化作用をさまたげ、お腹を下すことも確かである。
(c)ナヴァラ王十二世サンチョは「武者ぶるいのサンチョ」と
(a)不能はウェヌスの営みにおける冷淡や嫌悪から生ずるが、またあまりに激しい欲望や度はずれの熱情からも来る。極度の冷たさと極度の熱さは物を焼き焦がす。アリストテレスの言うところによれば、鉛の地金は、冬の厳しい寒さにあうと、強い熱にあったように溶けて流れる。(c)欲望と飽満とは、快楽の前と後とを苦痛でみたす。(a)暗愚と賢明とは、人間界におけるもろもろの苦難を受ける時の感覚において暗合する。賢者は不幸を制御するし愚者はこれを感じない。いわば、後者は事故のこなたにあり、前者は事故のかなたにあるものだ。賢者の方は物事の性質をよく考量し、それらをあるがままに評価してから、旺盛な気魄をもってそれらを跳び越える。つまり彼らは堅固な霊魂をもっているから、物事を蔑視して足の下に踏まえるのである。こういう霊魂にぶつかっては、さしもの運命の矢も歯がたたず、先が丸くなってはね反らざるをえないのである。普通の・中等度の・人々の状態はこれら両極の中間にある。不幸を識別し、これを感受し、しかもこれに堪えられない人々の状態がそれである。少年と老年とは、脳の働きの弱さにおいて一致する。
(b)こういうことも当然言えると思う。(c)世には知識に先行する
* このパラグラフと次の二つのパラグラフが、パスカルのパンセ三二七を生み、更にそれを読んだシャトーブリアンをひどく感激させたことは有名な話である。
なお、次のパラグラフでは、モンテーニュはすこぶるオーソドックスな敬虔な意見をのべているけれども、彼の真意はむしろその次の(c)の加筆(一五八八―九二)の中にかくれていると思う(彼は自らを「二つの鞍の間に尻を置く」あいの児の仲間にいれている)。それはモンテーニュ最晩年の考えであるとはいえ、それと同じ考えがすでにこの章の最後のパラグラフの最後の四行の中にも含まれていることに注意したい。要するに、モンテーニュ自らもそのエッセーも、まん中の段階に属するものだと自ら認め自ら甘んじている。
(c)素朴な百姓たちも紳士であるし、哲学者もまた(当世風にいうならばもろもろの有用な学識を身につけた強力明敏なたちの人々も)、紳士である。ただ文字を知らない第一の段階を蔑視しながら、もう一方の高い段階にはとうてい及びえないあいの児たちが(二つの
民衆の産んだ純然たる自然的詩歌は技巧を越えた雅致をもっているので、芸術にかなった完全な詩歌の至妙の美にくらべられる。例えばガスコーニュの田園詩や、いかなる学芸も・また文字さえも・知らない民族の間から持ち帰られた歌謡がそれである。両方の中間にある凡庸な詩は、品位もなければ価値もないから、ただ軽蔑されるばかりである。
(a)けれども一ぺん知恵に道がついてみたら、よくあることだが、なんでもない事柄をそれまで困難な仕事・珍しい問題・と思い込んでいたのに気がついたし、一たび我々の創意に油がのってくると、同じような実例が限りなく、あとからあとからと、見つかるものであることもわかったから、わたしはもう次の一項を追加するくらいのところでやめておこうと思う。「これなるもろもろのエッセーは、よし人々から評価していただけるにしても、わたしの考えでは、おそらく平凡ふつうな精神の人々をも特別優秀な精神の人々をも喜ばさないことに、結局はなるであろう。つまり前者には十分わかってもらえまいし、後者にはあまりにわかり切ったことばかりであろうから。それらはせいぜい中間の境にほそぼそと生きるくらいなものであろう」。
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(a)或る人たち(例えばアレクサンドロス大王の如き)については、彼らの汗が何か稀な特別な体質のかげんで
女のかぐわしさとは全く香らざることなり。
(プラウトゥス)
女の最良のにおいはまったくにおわないことであると。(b)同様に、彼女たちの動作の最良の香りは、それが全く感じられないことだと言われる。(a)だから、人が舶来のにおいをかいでこれを帯びている人々をあやしいと思うのは当然である。何かその方面の先天的欠陥をかくすためではないかと邪推するのも仕方がない。そこで古代の詩人たちの「よい香りはくさい」という警句が生れたのである。
汝は嘲る。コラキヌスよ。我々によき香りなしと。
われはむしろ、よく香るよりは香らざるを好む。
われはむしろ、よく香るよりは香らざるを好む。
(マルティアリス)
ポストゥムスよ。常によく香るものはくさし。
(マルティアリス)
(b)けれどもわたしは良い香りに包まれているのが大好きで、悪いにおいをひどく嫌う。悪いにおいは誰よりも遠くから嗅ぎつける。
かくれ伏す猪を嗅ぎ出す犬よりもさとく、
ポリプスよ、
わが鼻は牡牛のにおいと腋臭 とを嗅ぎわく。
ポリプスよ、
わが鼻は牡牛のにおいと
(ホラティウス)
(c)最も単純で自然な香りが、わたしには最も愉快に思われる。だがこの
(b)どんな香りでも不思議なことに、実によくわたしにまつわりつく。実によくわたしの皮膚はそれが浸みるのに適している。自然が人ににおいを鼻に運ぶ道具を賦与しなかったといって残念がるのは間違っている。まったくにおいはひとりでに運ばれて来るのである。けれどもわたしにおいては、このゆたかな
* モンテーニュは少年時代からセンシュアルな傾向があり、ギュイエンヌ学院上級生時代にこの種の洗礼をうけてから後は、パリ遊学時代、法官時代を通じて恋愛の経験をしばしばした。
(b)わたしが宿をとる時の第一の心遣いは、くさい重苦しい空気をさけることである。ヴェネツィアやパリのようなああいう美しい都も、前者においてはその掘割から・後者においてはそのぬかるみから・発散する
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モンテーニュも若い頃には宗教改革の情熱に多少動かされないでもなかったらしい。『モンテーニュとその時代』第二部第三章二〇七頁参照。この章のなかにも、「もしも何かがわたしの青年時代を誘惑したとすれば、この近頃の企てに伴う危険と困難とに挺身してみたいという野心こそ、その相当大きな部分を占めたかも知れないのであるから」と告白しているし、第一巻第二十七章においては、彼がかつて宗教の実践に当り理性に基づいて或る種の信仰ないし宗規を廃したことがあったと述べている。だが、この祈りの章においては(これが書かれた時期は確定できないが一五七二―八〇年の間であろう)、理性の世界と信仰の世界との間にはっきりと一線を劃し、みずからカトリック教徒として生きていると言明している。この宗教上の態度は、やがて「レーモン・スボン弁護」の章において詳細に述べられるが、一方前出第一巻第二十三章「習慣のこと……」の章の中で、服装に関して述べている感想などをも、ここで想い出すべきであろう。
なおこの章の論旨はローマ庁において多少問題になった。この間の事情については白水社版『モンテーニュ全集』第四巻所収「旅日記」の中のローマ滞在中の記事および同日記巻頭の解説を見られたい。
要するにモンテーニュはローマ庁で注意をうけて帰って来てから、すこぶる敬虔な恭順の心を一五八二年版のこの章の冒頭に表明したのであるが、指摘された箇所はその後いっこう訂正も削除もしなかったことは注意すべきであろう。
なおこの章の論旨はローマ庁において多少問題になった。この間の事情については白水社版『モンテーニュ全集』第四巻所収「旅日記」の中のローマ滞在中の記事および同日記巻頭の解説を見られたい。
要するにモンテーニュはローマ庁で注意をうけて帰って来てから、すこぶる敬虔な恭順の心を一五八二年版のこの章の冒頭に表明したのであるが、指摘された箇所はその後いっこう訂正も削除もしなかったことは注意すべきであろう。
(a)わたしはここに混沌として
* 「死につつある」と現在形で書かれている。つまり「生きている」の意味である。モンテーニュは毎日の生活を死への近接と考えるからであろう。誕生のその日から一歩一歩すべての生物は死に向っての前進を始める、というのが彼の持説であったからであろう。それはすでに第二十章で読んだとおりである。次の「この宗旨の中で生れた」という句の意味は、第二巻第十二章に「我々はペリゴール人ないしドイツ人であると同じ資格でキリスト教徒である」と言っているのと同じであろう。
** 以上の一項は、初版にはなく、一五八二年の『エッセー』第二版に付加せられたもの、すなわち、イタリアから帰って来て加筆したものである。従って一五八〇年版のこの章は、次の項をもって始まっているのである。私の『モンテーニュ伝』二三八頁、白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」のローマ滞在中の記事参照。
だから、わたしがこれくらいよくおぼえている祈りはないのである。
(a)わたしは今も、こんなことを心の中で思っていた。「我々があらゆる企てごとにおいて神様にすがろうとする不心得はいったいどこから来るのか。(b)何かの要求にのぞむたびに、我々の微力が誰かの助力を必要とする場合に、いつでも、動機の正不正さえ考慮することなく神様を呼び奉る不心得、また我々がどんな行為どんな状態のうちにあるにしても、それが不徳なものであろうと何であろうとおかまいなしに、み名を呼びみ力にすがろうとするあの不心得は、そもそもどこから来るのか」と。
(a)神様は確かに、我々の唯一無二の保護者であらせられる。(c)また我々を助けて下さるにはどんなことでもおできになる。(a)だが、このように神様はかたじけなくも我々の父でいらせられるが、やさしく(c)強く(a)いらせられるだけ、それだけ正しくいらせられる。(c)だがその御力を
(c)プラトンはその『法律』の中に、神々をなみする信仰として、「神々は全くないとする信」「神々は人事にあずからないとする信」「神々は我々の祈願・供物・犠牲に対して何事をも拒まないとする信」の三つを挙げた。第一の誤りは、彼の意見によれば、一人の人において、その少年時代から老年時代にいたるまでずっと変らずにつづいたことはなかった。しかし後の二つは、変らずにつづく場合もありうる。
(a)神様の正義と威力とは不可分である。悪い目的のために御力におすがりしたってむだである。我々は神様に祈るその瞬間だけでも、清らかな心を持たなければならない。不徳な感情から離れていなければならない。でなければ、自ら自分がうたれるべき鞭を神様に差し出すことになる。自分の罪を償うことにはならないで、かえってそれを倍加することになる。それはお許しを乞わねばならないそのお方に向って、不敬と怨恨とに充満した感情を捧げることになるからである。だからわたしは、最も常に最もしばしば神様に祈る人々を見ても、その祈りのあとさきの行為がなにか補償悔悛の証拠を示してくれないならば、
(b)もしも夜、姦通を行わんとて、
昼間のみ、隠者の僧帽を戴くだけならば、
昼間のみ、隠者の僧帽を戴くだけならば、
(ユウェナリス)
とうていほめる気にならないのである。
(c)いや、極悪非道の生活の中に神信心をまじえる人の態度は、ありのままに振舞う人や徹頭徹尾不品行な人の態度よりも、或る意味でずっと非難すべきものであると思う。であるから、毎日、我々の教会は、何か著しい邪念にとらわれている人々に対して、その加入加盟の恵みを拒んでいるのだ。
(a)我々は習慣で祈っている。いや、もっと正しくいうならば、我々は祈りを読んでいる。いや、発音している。結局それはうわべだけである。
(b)わたしがにがにがしく思うのは、食前にも食後にもそれぞれ三度も十字を切りながら(この十字をきることはわたしが敬意をもって絶えず、(c)あくびをしながらでも、(b)行うものであるだけに、いよいよもってにがにがしく思うのである)、他のあらゆる時刻にはただただ怨恨と欲張りと不正とをこれ事としている者どもを見ることである。不徳にはその時間を・神様にはその時間を・貸す。まるで埋め合せをしたり差引勘定をしたりしているみたいである。あのように相異なる行動があのように連綿として相接し、両者の境目継ぎ目にさえ何らの
(c)何という不思議な良心であろう。罪悪と審判者とを同じ宿に、あんなに親しくあんなに仲よく同居させて平気でいられるとは? その頭を始終淫欲に支配されている人、しかもそれを神様の眼に甚だいとわしいものと判断している人は、神様にそのことについてお願い申上げるとき、いったいどんな風に言うのであろう。彼は自分を取りもどすが、
(a)ここに甚だ無理からぬことと思われるのは、教会が、聖霊のダビデに口授した聖歌を、むやみやたらに・見境なく・うたうのを禁じていることである。我々は敬虔な心と畏敬にみちみちた注意とをもってするのでない限り、けっして神様を我々の行為にあずからせてはならないのである。あの歌はあまりに神々しい。それをたんに我々の肺臓を鍛え・我々の耳をよろこばす・ために用いてはもったいない。それは心の底から歌い出されなければならない。舌の先からであってはならない。商家の
(b)また我々の信仰の神聖な奥義が述べられている聖書が、食堂や台所にころがっているということも、実に間違ったことである。(c)それは昔は奥義であったのに、今では暇つぶしであり慰みである。(b)ああいうまじめな尊い研究は、片手間にわいわい言いながらしてはならないのである。それは、特にそれにあてられた・落ちついた・行為としてなされなければならない。必ず我々はその前に、我々のお勤めの前奏ともいうべき


(c)それはすべての人の研究ではない。特にそれに身をささげた・特にそれを神様から命ぜられた・幾人かの人々のする研究である。邪悪な者、無知な者は、それをすると
(b)わたしはまためいめいが勝手に、あんなに神々しい大切なお言葉を、あんなにいろいろな国語に翻訳するのは、害あって益のないことと思う。ユダヤ教徒にしろマホメット教徒にしろ、その他どこの人民でも、ほとんどみな、彼らの神秘が始めに思いいだかれたその言葉を熱愛し尊重する。みだりにそれを変更することは禁じられている。誠に無理のないことと思われる。果してバスク*やブルターニュには、その国の方言に翻訳された聖書を議定するだけの判断ある者がいるであろうか。カトリック教会にとっても、これほど困難な・そしてまたこれほど重大な・判断はないのである。説教の際にも、その解釈は漠然としており、思い思いであり、まちまちである。また部分的である。したがってそれは原典と同じでないのである。
* 事実一五七一年に、ラ・ロシェルでバスク語の新約聖書が公刊された。
* ニケタス Nic
tas(1150-1216). ビザンティウムの歴史家。「わが」と冠しているのは、古代人でなく近代人たることを意味しているのである。

或る司教はこんなことを書き残した。「世界のもう一方のはてに、古人がディオコリデスと名づけていた島があり、そこはさまざまの樹木や果実が豊富で、また気候がよく健康によい楽土である。島民はキリスト教徒で教会と祭壇とを持っているが、そこには十字架が飾ってあるだけでほかには何の画像もない。いずれも断食と祭祀とを堅く守り僧に対して貢ぎを忘れない。きわめて純潔で一生にただ一人の女しか知らずにいる。それに自分の運命に満足しきっていて、海の真中に住みながら舟を使用することさえも知らない。またきわめて単純であって、後生大事に宗旨を信じ守りながら、経文のただの一語もわきまえない。これはちょっと信じられないことであるけれども、あれほどに偶像を拝する異教徒にしても、その神々についてはその名前とその姿とを知るにすぎないことを思えば、ちっとも不思議ではない」と。
エウリピデスの悲劇『メナリッポス』の冒頭には、昔はこうあったのである。
おお、ユピテルよ、おん身についてわれは、
ただおん身の名よりほかに何事をも知らざるなり。
ただおん身の名よりほかに何事をも知らざるなり。
(アミヨ仏訳による)
(b)わたしはまた現代においても、人が或る書物について、それが少しも神学を交えず全く人間的哲学的であるのを見て慨嘆しているのに出あった。だが、反対に誰かが次のように言っても、あながち理由のないことではあるまい。「神の掟は帝王のように、一人離れてある方が一層よくその位を保つ。それはいたる所において主位にあるべきで、決して補副の地位に立ってはならない。おそらく文法学・修辞学・論理学における実例は、このような聖なる部門からよりも、他の場所から引かれる方がふさわしかろう。芝居狂言その他の見せ物の主題もまたそうである。神の理法はそれだけ別に離して、それに相応した仕方で考える方が一層敬虔である。かえって人間的推理と一緒にしないがよい。こんにちでは神学者があまりに人間的に書くという弊害の方が、人文学者があまりに非神学的に書くというもう一つの弊害よりも、一層多く認められる。哲学は、聖クリュソストモスが言っているように、久しい以前から役にたたない


* エッセーの中の「運命」という語の頻出が一五八一年ローマ旅行の際法王庁の注意をうけたのであったが、この(b)「わたしはまた……」に始まる一五八八年の添加は、わずかにそれに対する返答ででもあろうか。事実その後の版においても、著者はその点に関していっこう訂正していないのである。前出第三十四章註参照。
(b)また、「公然とそれを自分の職とする者以外は、誰でもきわめてひかえ目にでなければ宗教について書いてはならないという掟には、やはりどこか有益で公正なところがあるのではないか」と言う人があるが、それはむしろ当然ではあるまいか。そして恐らくこのわたしまでもそこに含めて、「黙っているがよいぞ」と言ってもよいのではあるまいか。
(a)人から聞いたところでは、我々と宗旨を異にする人たちでさえ、やはりお互いに神という名を日常の談話の間に使用することをいましめ合っているということである。彼らはそれを間投詞すなわち感嘆詞ふうに用いることを、誓言のためでも比喩のためでも許さない。それをわたしはもっともなことだと思う。どんな場合にみ名を呼び神助を乞うにしても、それは常にまじめに敬虔になされなければならない。
何でもクセノフォンの中にこんな論文があったように思う。そこで彼は、「我々は神に祈ることをもっと稀にしなければいけない。我々はそう度々我々の霊魂を、祈りをするのにふさわしい・ああいう厳正で敬虔な・状態におくことはできないから。ああいう態度でしなければ、祈りをすることは、たんに無効であるだけでなくむしろ有害である」と教えている。「われらを傷つけた者をわれらゆるしたるごとく、われらをもゆるしたまえ」〔主の祈り〕と我々はいう。だがそれはいったいどういう意味か。復讐や怨恨をすてきった心を神に捧げまつるという意味ではないのか。しかるに我々は神を呼んで我々の悪事に助力させる。(c)神を不正に引きずり込む。
(b)その願うところは、神々を物蔭に招きて、声をひそめて願いうることのみ。
(ペルシウス)
(a)守銭奴はその財宝のいたずらなる保全のために神に祈る。野心家はその勝利とその欲望成就のために祈る。盗賊は自分の邪悪な企ての実行を邪魔するもろもろの危険困難を乗越えたいと神助を乞い、或いは道行く人をいともやすやすとしめ殺すことができたとて神に感謝する。(c)彼らはこれから
(b)ユピテルの耳に囁 かんと思うことを、
スタティウスに語り見よ。彼は叫ばん。
「おおユピテルよ。かかる願いを君きき給うや」と。
言うまでもなし。ユピテルはそれをかなえざるなり。
スタティウスに語り見よ。彼は叫ばん。
「おおユピテルよ。かかる願いを君きき給うや」と。
言うまでもなし。ユピテルはそれをかなえざるなり。
(ペルシウス)
(a)ナヴァールの女王マルグリットはある貴公子について(彼女はそのお名前を挙げてはおられないけれども、御身分の高いお方なので大抵想像がつく)、次のようなことを物語っておられる。「彼はパリの一代言人の妻と寝るために
真の祈祷、神と人との敬虔な融合は、その時にのぞみながらもなお悪魔の支配を脱しきれないような不純な霊魂の中には生じえない。不徳な生活を営みながら神助を呼ぶ者は、あたかも裁判の助けを仰ぐ巾着切りや、また嘘を誠と信じさせるために神の名をもち出す者どもと同じである。
(b)我々は声をひそめて、
罪深き祈りをささやく。
罪深き祈りをささやく。
(ルカヌス)
(a)その神に捧げる秘密の要求を、公然とさらけ出すことのできる人はほとんどない。
神前に恥ずかしげにその祈りを呟 くをやめて
声高らかにこれを言いうるものは一人だになし。
声高らかにこれを言いうるものは一人だになし。
(ペルシウス)
だからこそピュタゴラスのともがらは、「祈祷は公然と万人に聞かれるようにしなければならない」と言ったのである。つまり人は、次のように不義不正な事柄を祈ってはいけないからだ。
声高く「アポロンよ」と叫びたる後、あたかも
人にきかるるを憚 るかのごとく、彼は声をひそめぬ。
「美しきラウェルナ*よ、我に詐欺を教えたまえ。
而して我を、正しき人の如くに見えしめたまえ。
罪をば闇に、盗みをば雲に、かくしたまえかし」
人にきかるるを
「美しきラウェルナ*よ、我に詐欺を教えたまえ。
而して我を、正しき人の如くに見えしめたまえ。
罪をば闇に、盗みをば雲に、かくしたまえかし」
(ホラティウス)
* 盗人の守護神。
(a)本当に我々は、我々の祈りを、(c)まるで呪文のように、(a)あたかも妖術や魔法に神聖な言葉を借り用いる者のように、使用しているかに見える。そして、その効果の源は、その文句の配置・抑揚・順序または我々の身振りにある、と思いこんでいるかのようだ。まったく霊魂には邪念を充満させるだけで、我々は露ほどの悔悟もしなければ新たに神の許しを乞おうともせずに、ただ記憶が我々の舌のさきに貸すところの言葉を神前にお供えしているだけなのである。そして、それだけで罪業がつぐなわれるようにと望んでいるのである。およそ神の掟くらいやさしい・あまい・いつくしみ深い・ものはない。神様は我々のように罪深い憎むべきものをすらお呼びよせになる。いかに我々が卑しく・きたなく・泥にまみれて・いても、いや将来そうなりそうであっても、御手をさしのべて我々をお膝の上に抱き上げてくださる。しかしそれにしても、いやそうであればこそ、我々はいよいよ純良な眼をもって神を仰ぎ見なければならない。なおさら、このみ許しを感謝の姿勢でうけなければならない。そして少なくとも神の掟にすがり奉るその瞬間だけでも、自らの罪過を悲しむ霊魂を、神に背かせようと我々を誘う情欲を敵とする霊魂を、持たなければならないのである。神々も正しい人々も、プラトンのいったとおり、よこしまな者の贈物をうけられることはない。
もし祭壇に触るる手さえ清ければ、
高価なる犠牲をささげずとも、
ただ麦と塩とを供えるのみにて、
怒れる氏神をもなだめうべし。
[#改ページ]高価なる犠牲をささげずとも、
ただ麦と塩とを供えるのみにて、
怒れる氏神をもなだめうべし。
(ホラティウス)
(a)わたしは我々の・我々人間の・寿命のきめ方を受けいれることができない。賢者たちも、それを一般の意見にくらべるとずっと短く見ているのである。小カトーは、彼の自殺を思いとまらせようとしたものどもに向って、「何をいう? わたしはもう、あまりに早く命をすてると叱られるような年齢でもあるまい」と言った。だが彼はその時四十八歳そこそこであった。彼はこの年齢をさえ、すでに相当年よりだと思っていたのである。そこまで生き永らえる者がいかに少ないかを知っていたからである。ところがどれだけの長さを指すのか知らないが、人間のいわゆる自然の寿命というものは、それよりはもう少し長いものだと思って安心している人々がいる。そう思っているのは勝手だが、いったいどんな特権によって、あんなに沢山の出来事を彼らだけまぬかれることができるのか。我々は、誰でも、人間に生れついた以上、どうしてもそういう出来事をまぬかれるわけにゆかない。我々があえて自ら約束する寿命は、それらによって中断されざるをえない。極度の老齢がもたらす虚脱によって死のうと期待するのは、またこれをもって我々の生命の究極だと思うのは、何たる夢であろう。それは一番たぐい稀な・一番例の少ない・死に方ではないか。我々はこれだけを自然死と呼ぶ。まるで人が墜落して首の骨を折るとか・難船して溺死するとか・ペストや肋膜炎にかかるとか・いうことは、さも自然に反しているかのようだ。また我々の普通の境遇は、我々をこういった不幸なんかにはあわせないものであるかのようだ。だがそんなうまい言葉に好い気になるのはよそう。たぶん一般的な・普通な・普遍な・ことをこそ、自然的と呼ぶべきであろう。老衰して死ぬのは、まれな・特別な・非常な・死である。それだけ他の死にくらべて自然でない死である。それは一番最後に来る死に方である。それは我々から一番遠くにあるだけ、それだけ希望し難い死である。それは我々がその向うには行かないであろうところの・自然の掟が越えてはならぬと命じたところの・境界標にほかならない。だが我々がそこまで永らえられるのは、自然の特別待遇によってである。それは、自然がこの長い道程の中途に散在させたさまざまな困難障害を特にとり除いて、二、三世紀を通じてただ一人の果報者に、特別の思召しをもって与えるところの特赦である。
そういうわけだから、わたしは我々の現在の年齢は、僅かな人々がようやくに到達する年齢であると見なすべきだと思うのである。なみ大抵のことではなかなかここまでは来られないのであるから、それは我々がかなりに長生きをしていることの証拠になる。それに、我々はもう我々の寿命の真の尺度とすべき普通の限界を越えてしまったのであるから、これ以上生きのびようと望んではならないのである。たくさんの死の機会をすでに免れたのであるから、そこでは多くの人たちがあのとおりつまずき倒れたのであるから、我々は我々を支えているような非常の運命が、すなわち並はずれた運命が、このうえ永くはつづくまいと覚悟しなければならないのである。
あのような誤った思想をいだくのは法律そのものの罪である。法律は人が二十五歳以前に自己の財産を処理しうることを欲しないが、その歳まで生命を保つことは容易ではあるまい。アウグストゥスは古代ローマの掟から五年をけずり、司法の職にたずさわるには三十歳になっていればよいと言った。セルウィウス・トゥリウスは四十七歳以上の武士に兵役を免じたが、アウグストゥスはそれを四十五歳にひきさげた。人々を五十五歳ないし六十歳以前に隠居させるのは、大した理由がないように思う。わたしはできるだけ我々の在職期間を延長すべきだと思う。公の利益のために。欠陥はむしろあべこべの側にあると思う。つまりもっと早くから我々を職につけないのがいけないのだと思う。このアウグストゥスは十九歳で世界の覇者となった。そのくせ、
わたしに言わせれば、我々の霊魂は二十歳にもなれば十分一本だちになっているし、将来の能力をも十分予測させると思う。この歳になってもその力量を明白に予約しなかった霊魂が、後に及んでそれを発揮したためしは未だかつてないのである。天賦の良質と徳性とは、その力とその美しさとを、この時期までに現わさなければ遂に現わすことはないのである。
(b)茨 は萌え出たはじめに刺さなけりゃあ、
ついに刺す時はあるまいぞ。
ついに刺す時はあるまいぞ。
とドーフィネ地方では言いならわしている。
(a)わたしが知っている限りでは、人間のあらゆる立派な行為のうち、その種類は何であっても、古代においても近代においても、三十歳前に成されたものの方が、それ以後になされたものより、数えてみると多いと思う。(c)さよう、同一人の一生について見ても、しばしばそうであった。ハンニバルの生涯についても、またその好い相手であったスキピオの生涯についても、断然そう言いうるではないか。
この二人は、その生涯の美しい半分を、若いときにえた栄光によって生きた。一般の人に較べれば、その後といえども彼らは偉人であったけれども、昔の彼ら自身にくらべれば、少しもえらくはなかったのである。(a)わたし自らもこう確信している。「三十すぎてからは、精神も肉体も増すよりは減じた。進むよりは退いた」と。時間を上手に用いる人々においては、知識経験が年とともに増加するかも知れない。けれども溌、敏捷、がんばり等の・もっと我々本来の・もっと重要で本質的な・諸特質にいたっては、だんだんと色あせ衰えるばかりである。
(b)時の荒々しき攻撃が肉体を弱らせ、
四肢にあふるる力を奪いゆく時、
判断もよろめき、舌ももつれ、
機知もまた消えゆくなり。
四肢にあふるる力を奪いゆく時、
判断もよろめき、舌ももつれ、
機知もまた消えゆくなり。
(ルクレティウス)
ときには肉体の方が先に老いに降参する。或るときは霊魂の方が先になることもある。現にわたしは、胃の腑や足腰よりも頭脳の方が先に衰えた人たちを相当見た。それは当人にはさほどに感ぜられず・外にもあまり現われない・病であるだけに、かえって危険である。そこで(a)わたしは法律をうらむ。それがおそくまで我々を職にとどまらせることには苦情を言わないが、我々を登用することのあまりにも遅いのは残念に思う。我々の生命の脆弱なことを思い、またいかにそれが多くの自然普通の危険にさらされているかを考えると、人は若いときにあんなに長い年月を、なすこともなく、或いはお稽古ごとの中に、浪費してはならないのではないかと思う。