モンテーニュ随想録

ESSAIS DE MONTAIGNE

第一巻

ミシェル・エーケム・ド・モンテーニュ Michel Eyquem de Montaigne

関根秀雄訳




第一章 人さまざまの方法によって同じ結果に達すること



 このエッセーは開巻第一に置かれているけれども、それは決して最初期に属するからではない。むしろ「人間というものは変化してやまないものだ」という意見が述べられているからであろう。こういう人間観は、すべての時期を通じてモンテーニュのいだいた主要な思想の一つであって、第二巻の第三十七章、すなわち一五八〇年版『随想録』の最終章にも述べられていること、また第二巻第一章も同じ思想で充満していること、を思いあわせるべきである。モンテーニュは『随想録』中の各章を特別の方針によらずに漫然とたばねたもの、すなわち※(始め二重山括弧、1-1-52)fagotage※(終わり二重山括弧、1-1-53)だと言っているけれども、全三巻を注意して読んで見ると、案外各エッセーの排列には著者の細かい考慮が払われているように思う。この点については第一巻第二十八章冒頭のパラグラフはきわめて暗示的である。同章の解説と註を参照せられたい。そこで、『随想録』全体が一貫した一つの目的のために書かれていることがいっそうよく理解される。

 (a)かねて我々に怨みをいだいていた者どもが、こんどこそ復讐ふくしゅうの思いをとげようと我々を完全に手のうちに握った時、彼らの心を和らげる一番普通の方法は、降参して彼らの憐れみや同情に訴えることである。けれども反抗や勇気も、それとは全く反対の方法だが、時に同様の結果をもたらした。
 ウェールズ公エドワードは、長いことわがギュイエンヌ州を統治された天性きわめて高邁なお方であったが、かねてリモージュびとに対してきわめて深い遺恨をもっておられたので、彼らの都市を攻めとられたときは、いくら人民が泣き叫んでも、屠所にひいてゆかれる老幼婦女がこもごも彼の足下にひれ伏してお慈悲を叫んでも、ひた押しにおして市中に侵入せられたのであったが、ふとそこにただ三人のフランスの貴族が、信じられない程の大胆さで、彼の勝ちほこった大軍をささえているのにおん眼をとめられた。そしてその顕著な武勇の程に深く感心あそばされて、始めて憤怒のほこさきを和らげられ、その三人をはじめとして市民全体をおゆるしになった。
* 英王エドワード三世の子、黒太子と呼ばれた人。モンテーニュはこの話をフロワッサールの中で読んだのであろう。
 エペイロスの王スカンデルベルグが、部下の一兵士をきものにしようとこれをつけねらわれると、その兵士は、はじめ卑下と愁訴の限りをつくして主君の怒りをしずめようとしたが、ついにせっぱつまって、剣をとって王を待つ決心をした。彼のこの決心は主君の怒りをぴたりととめた。この男にもこのように尊い決意があったのかと思し召されて彼をゆるされたのである。この実例は別様の解釈をもゆるすかも知れないが、そのような説をたてる者どもは、この王様の驚くべき武勇のほどを読んだことがないにきまっている。
 皇帝コンラート三世は、バヴァリア公ゲルフェンを包囲した時、どんなに卑下した条件をもち出されてもなかなかおゆるしにならなかった。ただやっとのことで、公と共に城中に囲まれていた貴婦人たちがその名誉を犯されることなく、かちはだしで、みずからその身に負いうるものだけをもって、脱出することをお許しになった。ところが彼女らは、けなげなことにも、その肩の上に、その夫と、その子と、はては公をさえ、にないゆこうと思い定めた。皇帝は、その勇気のしおらしさをみそなわして深くお喜びになり、感涙をさえ催された。そして、公に対するそれまでのやる方ない遺恨を和らげられた。すなわち、それからというものは、公をも、その身内の人々をもやさしくあしらわれた。
 (b)これら二つの方法は、いずれも、わたしが好んでとるところである。まったくわたしは、慈悲にも寛恕にも、どちらに対してもはなはだ気がよわいのである。だがわたしの考えるところでは、やはり、どちらかといえば、わたしは人に感心するよりはむしろ同情するように、生れついているらしい。だがこの憐れみの感情は、ストア学者にとっては悪い感情になっている。彼らは言う。「悲しんでいる人たちは助けてやらなければならないが、一緒になってくずおれたり嘆いたりしてはならない」と。
 (a)さて以上の実例はこの場合に最も適切なものだと思う。何となれば、今あげた人々は以上二つの方法のいずれをとるかと迫られた時、一方には頑として抵抗しながら、またもう一方にも降参しているからだ。あるいはこう言えるかも知れない。「同情の前にその意志をまげるのは、とかく人を信じやすく、お人よしで、柔弱であるせいである。だから比較的弱い性質の人々、例えば女子供や俗衆などが、そうなりやすい。ところがそうではなくて、涙や嘆願などには目もくれず、ただ勇気の聖なる姿を尊敬して始めて降参するのこそ、雄々しく粘り強い力を愛し尊ぶ不撓不屈な心のいたすところである」と。けれどもそれ程に太っ腹でない人々においても、驚嘆の心が同じ結果を産み出すことがある。例えばテーバイの民がそうだ。彼らはその大将たちがその任期を越えて職権を行ったからとて、彼らを裁判にかけ死刑にしようとしたが、そういう無礼な抗議の下におめおめと屈伏してただ哀訴嘆願のみをこととしたペロピダスの方は、なかなかゆるさなかった。かえってエパメイノンダスの方が堂々と自分の行為を説明し、自信満々、(c)威張って(a)人民の抗議を責めたものだから、人民は投票をする勇気さえなくしてしまった。そして群衆は大いにこの人の気宇高大なのを賞めたたえながら解散した。
 (c)大ディオニュシオスは、長いこと困難に困難を重ねたのち漸くレギオム市を奪取するや、そしてそこに、この都市をかくまで頑強に防衛した義烈の大将フュトンを生捕るや、これを復讐の血祭りにあげて人々への見せしめにしようと思い立った。彼はまずフュトンに向って、どのようにして前の日に、彼の息子を始め一族の者どもをことごとく溺死させたかを語った。するとフュトンはただ一言、「彼らはわたしよりも一日だけ幸福であった」と答えた。次にディオニュシオスは、獄卒に命じて彼の衣服をぎ縄をうたせ、はずかしくもむごたらしくこれをむちうたせながら、しかも口汚なくこれを罵りはずかしめながら、市中を引きずり廻らせた。それでもフュトンは泰然自若、きっとおもてをふり仰いで、かえって声も高らかに、こうして祖国を暴君の手に委ねないために命を捨てることは名誉であり光栄である、かえってお前たちの方にこそ近く神々の罰があたるであろうと、ディオニュシオスを威嚇した。ディオニュシオスは部下の多くの者どもの眼の中に、この敗将が彼らの大将と彼らの勝利とを罵る長広舌に憤るどころか、かえってこの人の稀代の豪勇に威圧されて士気ますますおとろえ、まさにフュトンを獄卒の手から奪いかえそうとする気勢さえあるのを見てとったので、あわててこの迫害を中止し、ひそかに彼を海に送って溺死させた。
 (a)実に人間くらい驚くほどくうで・まちまちな・そして変りやすい・ものはない。その上に一定不変の判断をうちたてることは容易でない。あのとおりポンペイウスは、マメルティニびとに対して大変怒っていたのに、一市民ゼノンが公衆のあやまちを一身に引きうけ独り刑罰をこうむろうと願い出たその勇と義とに感じて、市民全体をゆるした。ところが、ス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラの客は、ペルシア市において同じような徳を行ったのに、自分自身のためにも、ほかの人々のためにも、何のとくもしなかった。
* Certes, c’est un sujet merveilleusement vain, divers, et ondoyant que l’homme. しばしば引用される有名な句で、第二巻第十章にも ondoyantet divers という語はでてくる。なおこの「まちまちで変りやすい」という人間の一般的特質を、モンテーニュは自己のうちにもしばしば認めているけれど、彼自らはそう自覚していただけに、人間として可能な限りにおいて、相当よくこの病弊を克服していると思う。すなわちこの句その他から推して、モンテーニュその人までも無定見でつかまえ所がない人であったと考えるのは浅はかである。第三巻第二章における彼の告白およびその註参照。『随想録』の中にはいろいろな矛盾があるが、それはそれぞれに理由動機があってのことで(巻頭所載の解説にも述べるとおりである)、モンテーニュその人は常に彼の主要な幾つかの考え方の下に統一されている。
 (b)それどころか、わたしの始めの実例とは全くあべこべの話もある。最も豪胆で敗者に対してはきわめて寛仁であったあのアレクサンドロスは、多大の困難ののちやっとのことでガザ市に攻め入り、守将ベティスとめぐりあった。この人の武勇についてはすでにその攻囲最中にもその驚くべき証拠をみせられていたが、その時は、ただ独りで、部下たちには見すてられ、着ているよろいはうちちぎられて、全身血汐と傷とにおおわれながら、なおかつ、四方から切ってかかる多くのマケドニア人を相手に奮戦していたのである。アレクサンドロスは、自分の勝利がこれほどまでに高くつくのかと思うと口惜しくて(まったく数々の損害をこうむったばかりでなく、おのれ自らさえ二つのなまなましい手傷を負わされていたのである)、ベティスに向ってこう呼ばわった。※(始め二重山括弧、1-1-52)お前が思うとおりには死なせはせぬぞ、ベティスよ。捕虜に対して案じ出される限りのあらゆる責苦をくらわせてやるからそう思え※(終わり二重山括弧、1-1-53)と。すると相手は、ただに平気なばかりでなく、きっとした屈しない顔つきで、この威嚇を黙殺した。そこでアレクサンドロスは、この不敵で強情な沈黙を見て、※(始め二重山括弧、1-1-52)どうしても膝を曲げないか。どうしても泣き声をあげないか。よし、お前の無口をたたき破って見せるぞ。言葉を吐かせることはできなくても、せめて呻き声は吐かせて見せるぞ※(終わり二重山括弧、1-1-53)と叫ぶや、その憤怒を狂暴にかえ、彼のかかとになわを通し、これを車の後につなぐことを命じ、生きながら彼を引きずりまわし、ついに五体微塵にしたのである。そもそも彼にとって豪胆はあまりにも普通のことなので、これを賞賛する気がなくこれを尊重もしなかったのであろうか。(c)それともまた、これを専ら自分だけのものと考えていたので、これがそんなに高度に他人のなかにもあるのを見て、嫉妬の感情から来る不快を禁じえなかったのであろうか。あるいはまた、彼の生れつきの憤怒の勢いがあまりにつよく、これをさえぎり止めることができなかったのであろうか。ほんとうにそれが制御できるものであったのなら、あのテーバイ市を奪い取り踏みにじった際にも、あの勇敢な人々が力尽きて国家防衛の手だてを失いむざんにも剣に貫かれるのを見たら、やはり彼の怒りはおさえることができたはずである。まったく、この時もゆうに六千人の人が殺されたのであるが、ただの一人として逃げたり命乞いをしたりしたものはなかったのである。否むしろ、町の中のあっちでもこっちでも、かち誇った敵に挑みかかり、ひたすら名誉ある死を得ようと自ら求めたのである。実際、これ程のいたでをこうむりながら、その最後の息を吐きつくすまで復讐の志をすてなかったものは、かつてなかった。死にもの狂いのやいばをふるって自分の死を誰とでもよいから敵と刺しちがえることによって慰めようとしたものは、かつてなかった。だのに、この彼らの悲愴な武勇は、ついにすこしも憐れみをそそがれなかった。そして一日の長さも、アレクサンドロスの復讐心を満足させるのに足りなかった。この虐殺は、血汐の最後の一滴まで続けられた。そして武器を帯びない老幼婦女の前でやっと止ったが、それだって、実は、彼らの中から三万の奴隷を得ようがためであったのだ
* 当章の中には、人間の思想や性格や、その時折の物の考え方感じ方などが変化して極りないことを描きながら、一方どこまでも己を枉げず、権力暴力の前に節を屈しない崇高な人物の姿を示している。これは、やがて後出二十八章にはっきりと示そうとするラ・ボエシの肖像をはるかに準備しているように見える。
 なおこの章に述べられている人間観は、奇しくも※(「耳+冉の4画目左右に突き出る」、第4水準2-85-11)ろうたん荘周のそれと完全に一致している。『荘子』在宥篇第十一に「ひとこころおさうればくだり、すすむればのぼり、上下じょうげして囚殺しゅうさつす。……ねつするや焦火しょうかかんなるや凝冰ぎょうひょうはやきこと俛仰ふぎょうかんにしてふたた四海しかいそとおおう。るやえんにしてせいうごくやけんにしててん※驕ほんきょう[#「にんべん+賁」、U+50E8、53-1]にしてつなぐべからざるものは、ひとこころか」とある(以後『荘子』からの引用は、すべて福永光司『荘子』新訂中国古典選7、8、9巻、昭四一、朝日新聞社、による)。
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第二章 悲哀について



 本章から第十八章にいたる一連のエッセーは、一五七二年頃にモンテーニュが読んだグイッチャルディーニとかブーシェとかデュ・ベレとかいう人たちの歴史記録の類が動機として生れた「書籍的」随想の部に入る。この種のエッセーは当時流行したいわゆる※(始め二重山括弧、1-1-52)le※(セディラ付きC小文字)ons※(終わり二重山括弧、1-1-53)すなわち説話集(ほぼ『今昔物語』『古今著聞集』の類)と大同小異で、まだモンテーニュ独特なものをもっていないと言われる。彼が自己について語っている部分は、(b)(c)の標識によってわかるように一五八〇年以後に書き加えられたものであるが、それにしてもモンテーニュの心理学的関心、心理解剖の精緻は、これら初期の短篇の中にも十分現われている。

 (b)わたしは最もこの感情を免れている者の一人である。(c)そして、これを愛しも尊びもしない。だが世間の人は、これをまるで品質証明のレッテルみたいに、特別に有難がって珍重している。人々はこれでもって知恵と徳と良心とを装わせているが、ばかばかしい変なお飾りもあったもんだ。イタリア人はこれに悪心という名前**をつけたが、この方がずっと似合っている。まったくそれは、常に害のある、常に狂った、そしていわば常に卑怯で下賤な、性質なのである。ストア学者は彼らの賢人にこの感情を禁じている。
* モンテーニュは生来快活であった。しかし悲哀に対して無感覚であったわけではない。むしろ彼は喜悲いずれにも敏感であった。第一、この章そのものが彼の悲哀に関する感情の深さを示している。ただ悲観的感傷的な人でなかっただけである。
** イタリア語の tristezza は邪悪という意味をももつ。
 ところで(a)こんな物語がある。「エジプト王プサムメニトゥスは、ペルシア王カンビュセスに負けて捕われの身となった時、自分の娘が下女の装いをさせられて水みにやられるのを目の前に見たが、友人たちは皆して彼の周囲で泣き悲しんだのに、彼独りはじっと足もとを見つめたまま一声も漏らさなかった。それからまもなく彼の息子が死刑の場につれてゆかれるところを見ても、やはり同じ態度で我慢した。ところが彼の親しい友人の一人が、多くの囚人の間に交って連れてゆかれるところを見ると、そこで始めてわれとわが頭をうち叩き、限りない悲しみを現わした」と。
 この事は、人がつい先頃我々の宮様のお一人の御身の上に見たところにくらべることができよう。そのお方はトレントにあって、長兄の宮の・しかも御家の柱石であり栄誉でもある長兄の宮の・をきこし召され、やがてまたまもなくその第二の希望であった次兄の宮の訃にあい給うたが、そしてよくこの二つの不幸に人の模範ともしたいほどの忍耐をもって堪えられたが、それから数日ののちに御家臣の一人がふと他界すると、とうとうこの最後の出来事にお負けになった。そしてそれまでの我慢をわすれて、深い悲嘆と哀悼に沈ませられた。そこで或る人たちは、彼はこの最後の打撃にあって始めて心をかれたのだと結論した。けれども本当は、それまでに既に悲哀にみちあふれておられたればこそ、このごくわずかな増量が忍耐の堤をおし切ったのである。始めの物語も同様に判断することができよう(と、このわたしは思うのであるが)、ただそこにはこうつけ加えられている。※(始め二重山括弧、1-1-52)カンビュセスが、プサムメニトゥスに向って、なぜ令息や令嬢の不幸には動かされなかったのに、一人の友のそれにあのように堪えられなかったのか、とたずねたところ、彼は答えて、それは、この最後の悲しみだけがどうやら涙の中に表現できたからで、前の二つに至っては、どんな表現の道をも遙かに越えていたのである※(終わり二重山括弧、1-1-53)と。
* カルディナル・ド・ロレーヌと言われたシャルル・ド・ギュイズをさす。次に、長兄とあるのは、一五六三年にオルレアンの攻囲の際刺客ポルトロ・ド・メレに暗殺されたフランソワ・ド・ギュイズのこと。更に次兄とあるのは、それからわずか十日後に死んだ僧院長クリュニーをさしている。
 おそらくはこれにちなんで、あの古代の画家の創意が想い起されるだろう。彼はイフィゲニア犠牲の図の中に、これに臨んだ人たちの悲しみを、彼らの各々がこの純潔な美しい少女の死に寄せた関心の度に応じて表現しなければならなかったのであるが、いよいよ少女の父を描く段になった時は、もうその芸術の奥の手さえも使い尽していたので、やむなくこれを顔を掩った姿に描いたのである。あたかもどんな顔かたちもこのような極度の悲哀を表現するには足りないかのように。同じ理由で詩人たちは、先に七人の息子を失い続いてまた七人の娘を失ったあの不幸な母ニオベを、度重なる不幸のために化して岩となった、

悲しみのために化して石となれり。
(オウィディウス)

とうたったのである。つまりそう言って、たくさんの出来事が我々の力に支えきれない程のしかかるときに我々を石のようにしてしまうところの、あの哀切の極みなる茫然自失の状態を表現しようとしたのである。
 ほんとうに、どんな悲痛でも、それが極度に達すると、魂全体を麻痺させてその活動の自由を妨げる。例えば、きわめて不吉な報知にどしんと胸をつかれると、この身が抱きすくめられ凝り固まったように、いわばあらゆる運動をうばわれたように感じ、あとで涙と嘆きとの中にとけほぐれるようになって、始めて魂がとき放され、いましめをとかれ、ゆるやかになり、自分の自由にかえるように思われる。

(b)胸の悲しみきわまりて路をひらき、
   叫びとなりて出でたり。
(ウェルギリウス)

 (c)フェルジナンド王がブダをめぐってハンガリー王ジャンの未亡人に対してした戦いにおいて、ドイツの大将ライジアックは乱軍の間で抜群の働きを示した一人の騎士の死骸が運ばれて来るのを見て、人びとと共にその死を悼んだ。ところが、みんなと一緒にそれが何者であるかを知ろうとして、着ていたよろいを脱がせて見ると、それは自分の息子であった。すると、人がみな涙を流した中で、ただ彼独りは、声も立てず、涙も流さず、つっ立ったまま、またたきさえもせずに、じっとそのなきがらを見つめていたが、とうとう強い悲しみが彼の命を凍らせ、彼はそのまま死んで地上に倒れた。

(a)いかに恋いこがれてあるやを言いうる者はなお小さき炎の中にあるものなり。
(ペトラルカ)

と恋する人たちは言って、次のようにやるせない激情を表現しようとしている。

  哀れやわれは
恋のために知覚を失う。君を見れば、
レスビアよ、わが心うつろとなりて、
  語るべき言葉も知らず。
舌はもつれ、身は火のごとく燃え、
耳はなり、わが両の眼は
  暗やみとなる。
(カトゥルス)

 (b)だから、さかんな烈しい恋の炎にやかれている時は、我々はとうてい嘆いたり口説くどいたりすることができないのである。心はその時深い物思いに押しつけられ、身は恋にうちひしがれて、ただ衰えるばかりである。
 (a)実にそうしたことから突然の衰弱が生じて、時節柄をもわきまえずに、恋人たちを襲うのである。いやこの氷は、非常に強い力で彼らを享楽のまっ最中にとらえるのである。すべて味わわれ消化される感情は平凡なものにすぎない。

軽き物思いは語り、深き感情は黙す。
(セネカ)

 (b)思わぬ喜びの襲来も、同様にわれわれをぼんやりさせる。

彼女はわが近づくを見、トロヤの旗印をここかしこに認めるや、
恐ろしき幻を見しがごとく狂気し自失し石となれり。
熱は彼女の骨を去り、彼女は倒れたり。
彼女が言葉を出したるは、それよりはるか後なりき。
(ウェルギリウス)

 (a)息子がカンナエの負け軍から生きて帰ったのを見て狂喜のあまり死んだローマの婦人、喜びのために落命したソフォクレスおよび烈王ディオニュシオス、ローマの元老院から与えられた名誉の知らせを読んでコルシカで死んだタルナのほかに、我々は、当世紀においても、法王レオ十世が、かねてから熱望していたミラノ奪取の報知をえてひどく喜び、そのために発熱して逝去されたのを知っている。それから、人間の力弱さの最も顕著な実例として古人に特筆されたところによると、弁証家ディオドロスは、自分の学校で、衆人の前で自分に提出された議論に答えられなかった恥ずかしさのあまりに、その場で頓死したそうだ。
 (b)わたしはこのような烈しい感情にはあまり捉えられない。わたしは生れつき鈍い感受性を持っている。しかもそれを毎日理性のはたらきによって硬く厚くしている。
* この告白もまた、話半分にきかなければならない。むしろモンテーニュは、自ら感じやすい性質を覚っていたからこそ、ことさらに推理思索によってこれをなおそうとつとめたのである。
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第三章 我々の感情は我々を越えてゆくこと



 本章こそ、当時流行の説話集 le※(セディラ付きC小文字)ons の域を脱しない平凡なエッセーが、後年の加筆によってだんだん面白いものに変化して行った好い実例とも見られるが、同時にまたそれらの増加のために散漫になり統一を失った場合の標本とも言えよう。ここに「我々を越えて」au del※(グレーブアクセント付きA小文字) de nous と言っているのは chez nous, en nous に対して言ったので、「現在の我々を追いこして」という意味であるから、当然現世を越えた「彼岸」「あの世」という意味も含まれている。

 (b)人間が常に未来のものごとを追い求めるのを咎め、我々に「現世の幸福をしっかり捉えよ。そしてその中に安住せよ。我々には未来のことがらをとらえることはできないのだ。それは過ぎ去ったことがつかまえられない以上であるぞ」と教える人々は、いかにも人間の誤りの最も普通なものを衝いているが、きっとそういう人たちは、自然がその仕事を続けてゆくために我々に行わせることまでも、あえて誤りと呼びたいのであろう。(c)自然は我々が知ることよりも活動することの方をいっそう熱望して、わざと我々の心の中に、他のいろいろな思想とともに、こういう誤った思想までも賦与してくれたのに。
 (b)我々は決して我々の許にいない。常にそれを越えている。心配・欲望・期待は、我々を未来に向って追いやり、我々から現にあるところのものに対する感覚と考察とを奪って、やがてそれがなるであろうところのものに、いや我々がいなくなる後のことにまで、かかずらわせる。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)未来を思いわずらう心は不幸なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
* ここに言う未来は勿論来世のこと、死後の問題を意味している。モンテーニュの根本的な考えの一つが、この短い引用句の中にそっとほのめかされている。それは本巻第十一章その他に、これからしばしば述べられることである。
「汝の事を行い、汝自らを知れ」という偉大な箴言しんげんは、プラトンの中にしばしば挙げられている。その二つの部分は、合して我々の義務の全体を包み、それぞれがまた同じようにもう一方の部分を含む。自分のことを行わなければならない者は、「自己第一の修業は、自分が何であるか、何が自分に適当であるか、を知ることだ」と悟るであろう。それから、己れ自らを知る者は、もう他人のことと自分のこととを混同しない。何事よりも先に自分を愛し自分をやしなう。余計な仕業や無益な考えや企てを捨てる。※(始め二重山括弧、1-1-52)愚者は、これにその欲するがままをゆるすもなお満足せざるべし。されど賢者は、現にあるものに満足し、決して自らに不満をもつことなし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 エピクロスによれば、未来の洞察と用意とがなくても、人は賢者になれるのだ。
 (b)死者に関するもろもろの法規のうち、最も動かしえないもののようにわたしに思われるのは、「帝王たちの行為はその死後において審判されなければならない」というそれである。彼らは法規と同列のものであって、その主人ではない。正義がさきに彼らの頭上に加え得なかったものを、あとから彼らの評判の上に、彼らの後継者の財宝の上に、すなわち我々がしばしば生命よりもだいじにするそれらのものの上に、加えるのは当然である。実にこの習慣は、これが守られている国々に非常な便益をもたらすばかりでなく、すべての善王たちがむしろ乞い願うところである。(c)彼ら善王は、悪王の記憶が彼らのもののように考えられてはやりきれないからだ。我々は臣従と恭順とを等しくすべての王に負う。まったくそれらは彼らの官職に属するのである。けれども、尊敬は、愛慕と共に、ただ彼らの徳に対してだけ捧げればいいのだ。国家の秩序のために、我慢してふさわしくない王に堪えよう。彼らの不徳をかくしてやろう。彼らの権威が我々の支持を必要とする限りは、我々の勧告でもってその心ない一挙一動を助けてやろう。だが我々の主従関係がひとたび終ったら、正義に対し、また我々の自由に対して、我々のいつわらぬ感情の表出を拒むのは間違っている。特に主君の欠点をよく知っていながらこれにうやうやしく忠実に仕えた忠臣の光栄を、その人に与えることを拒むのは間違っている。そんなことをしては、後世からそういう有益な模範を奪うことになる。それから、個人的な恩義があるからといって、賞めるべきではない王の記憶を不正に擁護する人々は、自分独りの節義を完うするために天下の正義をそこなうことになる。次のティトゥス・リウィウスの言葉は真実である。「王様の庇護の下に養われた者の言葉は、常におびただしい虚飾と空なる証言に満ちている。皆が見さかいなく自分の王様を渾徳こんとくの最上位に押し上げるから」。
* ここにモンテーニュの政治上の理性主義、ないしその帝王機関説の片鱗がうかがわれる。後出三の一参照。
 人はネロに対して不敵な返答をした、あの二人の兵士の大胆さを非難することもできよう。一人は、なぜわたしを憎むのかときかれると、「おれはお前を、かつてはそれに値したから、敬愛もした。だが今は、父殺し・火つけ・大道芸人・馬丁となり下ったから、それなりにお前を憎むのだ」といった。もう一人は、なぜわたしを殺そうとするのかと問われて、「これよりほかにお前の止めどのない悪逆をおしとどめる方法がないからだ」と言ったのである。けれども、彼の悪逆無道について彼の死後になされた・そして永遠にくりかえされるであろう・あの全世界の証言にいたっては、健全な悟性を有するかぎり、なんぴともこれを非難することはできないであろう。
 わたしが不快に思うのは、あのラケダイモンのような神聖な国にも一つのはなはだしい虚礼があったことである。王が死ぬと、すべての同盟者及び隣国人、すべての島民は、男も女も、皆入り交じって、その額を切ってのしるしとし、大声で泣きわめきながら、その王こそ(実際はそれがどんな王であったにしても)、自分たちが戴いた最善の王であった、と言いふらす。すなわち、功績に捧げるべき賞賛を、王という位にささげ、しかも最高の功績に属すべき賞賛を、最低最下の位にささげたのである。アリストテレスは、あらゆる問題をあげつらった人であるが、ソロンの「誰でも死なないうちは幸福だと言われるわけにゆかない」という言葉に関して、「では、仕合せに生きそして死んだ者は、あとでその評判が悪くなっても、子孫が困窮しても、それでもなお幸福だと言っていいのか」と尋ねた。我々はうごめいている間こそ、先回りによってどこへなりともすきなところにゆく。だがひとたび生を失えば、我々はどんなものとも没交渉になるのだ。して見れば、ソロンはこう言った方がよかったのではないか。「絶対に人は幸福になることはない。人は亡くなった後でなければ幸福ではないのだから」と。

(b)人、完全に人生を離脱すること難し。
人は皆、無意識に、何ものかが
おのれの死後に残りながらうと想像す。
人は、死によって打ちひしがるるも
そのなきがらの中より、全く脱け出ることをえず。
(ルクレティウス)

 (a)ベルトラン・デュ・ゲクランは、オーヴェルニュのピュイに近いランコンの城を攻囲中に戦死した。籠城者たちは、後に降伏したとき、この人の遺骸の上に城の鍵をささげさせられた。
 ヴェネツィア軍の総大将バルトロメオ・ダルヴィアノがブレシアノ地方の遠征中に戦死し、遺骸が敵地ヴェロナを通ってヴェネツィアに運ばれなければならなかった時、軍中の人々の大部分は、この際ヴェロナ側に向って通過免状を乞うがよいという意見に一致した。ところが、テオドロ・トリヴォルツィオはこれに反対した。そしてむしろ、合戦の運にかけても押し破って通る方がましだと主張した。※(始め二重山括弧、1-1-52)生前少しも敵を恐れなかった者が、死んでからこれを恐れるような風を見せるのは、似合わしくない※(終わり二重山括弧、1-1-53)と言って。
 (b)まことに類似の場合に、ギリシアの法律によると、埋葬のために敵に向って死骸の引渡しを乞うたものは、勝利のほまれを放棄したものと見なされ、戦勝塔を建てることがゆるされないことになっていた。そしてその乞いを受けた者の方に、かえって戦勝の名目がゆるされた。そんなわけでニキアスは、そのコリントス勢に対して明白にかちとった勝利を失った。そしてアゲシラオスの方が、そのボイオティア勢に対してすこぶるあやしげに得た勝利を確実にした。
 (a)これらの事柄はめずらしいことのように思われるかも知れないが、事実いかなる時代にも我々が自己に関する心遣いをこの世の向うにまで及ぼすことはもちろん、天寵がきわめてしばしば墓の中まで我々についてゆき、我々の遺骨にまでも及ぶと信ずることさえ、ゆるされていたではないか。これについては、古代の実例はずいぶんたくさんあるから、我々の間の例を別にしては、特にわたしがこれに言及する必要はないと思う。イギリス王エドワード一世は、スコットランド王ロバートとの長い戦いの間に、自分の親臨がいかに味方の戦闘によい影響を及ぼすかを経験したので、つまり自ら陣頭に立った場合はいつも勝利をえたものだから、その死に臨むや、太子に向い、「わたしが死んだら、必ずわたしの遺体を煮て骨と肉を分離させ、肉はこれを墓に葬り、骨の方はこれをとっておいて、スコットランドに事あるたびに、お前自ら身に帯びて出陣せよ」とおごそかに遺言された。あたかも運命が勝利を決定的に彼の手足に結びつけているかのように。
 (b)ヨハン・ジシュカは、ウィクリフの邪説をまもるためにボヘミアを乱した人であるが、自分の死後その皮膚を剥ぎ、それで太鼓を作り、敵と戦うにあたってはいつもそれを携えてゆくようにのぞんだ。彼自ら指揮して得た勝利をそうやって継続できると考えたからだ。同様に或るインド人たちは、スペイン人との戦いに、彼らの酋長の一人の遺骨を携えてゆき、彼が生きていた時のめでたき武運にあやかろうとした。また同じ地方のもう一つの民族は、その合戦の際に倒れた勇士たちの死骸を戦場に引きずってゆき、味方の武運と激励とに役立たせた。
 (a)始めの例は、いずれもただ彼らの過去の行為によって得られた評判を墓の中に保存するだけであるが、後者はそこに更に積極的な効果を発揮させようとしている。勇将バイヤールの物語は最もよくできている。この人は、火縄銃によって胴なかに致命的な傷をうけたことを覚ったが、戦場から退くようにすすめられると、「おれは最期に臨んでも敵に背なかをみせようとは思わない」と答えた。そして力の限り戦い、いよいよ力がつきて馬に乗っていられなくなってから、始めて家令に命じてその身を或る樹の根もとに横たえさせた。ただしあくまでも敵におもてを向けて死ねるように。そして望みどおり敵をにらんで死んだ。
 わたしはこの問題のために、さきにあげたいずれにも劣らない著名な事例をもう一つ加えなければならない。皇帝マクシミリアンは、現在の王フィリップには曽祖父にあたらせられ、偉大な特質を沢山にもっておられたが、わけても玉体まことに美しくいらせられた。だが、いろいろな御気質の中に、帝王の御気質には全く反するそれを、すなわち、火急のおん大事ある時は便器に跨ったまま御決裁を遊ばされるという帝王がたの常とは、はなはだちがったそれを、持っておられた。というのは、最もなれた下僕にさえ、その便所における姿をお見せにならなかったのである。小便をなされるにも隠れてあそばされた。まるで年頃の娘のように気をつかって、医者にも誰にも、人が通例かくしておく諸器官を見られまいとなさった。(b)わたしだって、露骨な口はきくけれども、やはり、生来、この恥じらいは知っている。必要あるいは欲望に大いにけしかけられない限り、我々の習慣が隠せと命じている器官や行為を人前に示しはしない。わたしは、男としては、特にわたしのような職分の男としては、むしろ不似合だと思うほど、その点では窮屈にしている。だが彼においては、(a)これが余りに神経質すぎた。彼はその遺言書の明文によって、自分が死んだら股引をはかせてくれ、とまでお命じになったのである。それ程に思うなら、追って書きの中に、「それをはかせてくれる者は目隠しをすること」とでもつけ加えればよかったに。(c)キュロスはその子供たちに、「お前たちにしろ誰にしろ、魂がこれを離れた後は、決してわたしの体にさわることも見ることもならぬ」と言ったが、わたしはこれを彼の何かの信心のせいにする。なぜなら、彼の伝記を書いた人〔クセノフォン〕も彼自らも、ともに彼らの一生を通じて幾多の偉大な特質を示しているが、始終そこに宗教に対する特別の心遣いと敬意とを交えているから。
* 彼は自ら、王臣 gentilhomme たること武士 soldat たることをもって、本職と心得ているのである。私の『モンテーニュを語る』八一―九一頁、『モンテーニュ伝』一六〇頁註(2)参照。
 (b)これはさるやんごとなきお方が、わたしの親類の者で治乱いずれにおいても相当その名を知られた或る男について、わたしにお話しになったことであるが、わたしはそれを伺っていやな気がした。彼はそのお方の宮廷にお出入りをしていたものだが、老衰の末死に臨むと、結石の激しい痛みに苦しみながら、その最後の時間のすべてを、一方ならぬ心遣いをもって自分の埋葬の儀式を指図することに費やし、自分を見舞に来て下さるすべての高貴な方々に、「必ずお前の葬儀には参列してやる」という約束をおさせしたのである。わたしにこの話をなさったその宮様に対してさえ、彼がその最期をお見舞い遊ばされた際、「どうか御家中全体を私の葬儀に参列させて下さい」としつこくお願いし、いろいろな先例や理由をあげて、それが自分のようなものには当然なことであると証明したのである。そして、やっとそのお約束を得てしまうと、そして思うがままに葬礼万端の手筈を命じ終ると、さも満足そうに絶命した。こんなに執念深い虚栄はあんまり見たことがない。
 これとは正反対の執心も(ここにもわたしは身内の実例を欠かないのである)、すなわちその葬礼をある特別な例のないつましさをもって極度に切りつめ、お供一人提燈ちょうちん一張りに限ろうとまで心を砕くのも、やはり同じたぐいであると思う。なるほどこの心持をほめるものがある。マルクス・アエミリウス・レピドゥスの遺言をほめるものがある。この人はその相続者に向って、そのような場合に世間でするのを常とする儀礼をわがためには行うに及ばないと言ったのである。だが、自分に知覚されない浪費と満足とを避けることも、やはり節制質素なのであろうか。そんなことは楽な・辛くも何ともない・苦行である。(c)葬式の指図までする必要があるとすれば、わたしはその場合もまた、人生諸般の行事におけると同様に、めいめいがその身分境遇にふさわしいように取りきめるべきだと思う。哲人リュコンは、賢明にもその友に遺言して、「わたしの死骸は皆がもっともよいと思うところに埋めるがよい。葬儀に至っては、贅沢にも粗末にもならないようにせよ」と言ったのである。(b)わたしならもっぱら習慣にこの儀礼を指図してもらう。そしてその決定はわたしがその時御厄介に相成るであろうどなたになりとよろしくお委せする。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)そは自分のためには軽視すべく・残れる家人にとっては大切にすべき・事柄なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。それから、或る聖人は、いかにも聖人らしく、※(始め二重山括弧、1-1-52)葬儀の心遣い、墓場の選択、法事の壮麗は、むしろ生ける者の慰めにかかわることにして、死者のためにはどのようにてもよきことなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(聖アウグスティヌス)と言われた。だからソクラテスも、その臨終の時に自分に向って「先生はどのように葬られることをお望みですか」ときいたクリトンに、「君たちのよいように」と答えたのである。(b)でももう少しこのことを大切に考えておくべきだと言うなら、むしろわたしは、生きて息をしているうちから自分のお墓の壮麗を楽しもうと企てる人々、自分の死んだ姿を大理石の中にあらかじめ見て喜ぶ人々の方を、真似ることにしよう。その方がまだ気がきいている。幸いなるかな、無感覚によって自己の感覚をよろこばすすべを知る者! 自己の死によって生きるすべを知る者!
 (c)わたしは、あのアテナイの民の非道を思い起すと、あらゆる民主国家に対してどうにもおさえきれぬ憎悪にかられそうである。民主主義こそ最も自然で公平な制度だとわたしは思っているのだが。彼らはあのアルギヌサ島付近の海戦で(それはギリシア人が全兵力を挙げて海上で戦った最も危険な激しい戦いであったと言われている)ラケダイモン人を打ち破って凱旋したあの勇敢な大将たちを、すでに勝利をえているのにひたすら戦法上の好機を追うばかりで、とどまってその死者を収容し弔慰しなかったと言って、すこしも容赦するところなく、その弁解を聴くことすらしないで、殺してしまったのである。それにディオメドンの事跡は、この処刑をますます忌わしいものに思わせる。この人は、その処刑にあった内の一人であるが、将軍としても政治家としても、誠に高徳の人であった。彼は彼らの宣告文をきき終ると、意見を述べるために進み出て、群衆のようやく静まるのをまって、少しも自分のために弁解することなく、またこの残酷な決議の非道を鳴らすこともなく、ただただ裁判官たちの身の上が心配になると述べ、どうかこの判決が彼らの幸福に転ずるようにと神々に祈った。そして、さきに自分たちが神々に捧げた誓いを、このような輝かしい武運を得たことを感謝しながら実行しえないことから、神々の怒りが自分たちよりもかえって裁判官の方にふりかからないようにと、その誓いがどんなものであったかを人々にあかした。そして少しも余事に及ばず、減刑を乞うこともせず、そのままいさぎよく刑場にむかった。運命は、数年の後、アテナイ人たちの上に、しっぺい返しをくらわした。まったく、アテナイ軍の水師提督カブリアスは、スパルタの海将ポリスをナクソス島付近でうち破ったが、前例の不幸を再びなめまいとして、その国の興廃にとって最も重大な戦争の確実な成果を失った。そして、海上にただよう味方の死骸を一つも失うまいとしてみすみす大勢の敵を生きて帰らせ、後に彼らに、この七面倒な迷信を価高く払わせるもとを作った。

なんじ死して何処いずこにゆくやを知らんとするや。
すべての物はその生れ出る前にありし所にゆくなり。
(セネカ)

また別の人は、霊魂のない肉体にこそ再び平安の感覚が与えられると言う。

彼に、その休む墓を持たすなかれ。
人生の重荷をおろす港を持たすなかれ。
(キケロ)

* こういう所に、モンテーニュの民主主義的な気質傾向を読みとらねばならない。
 自然もまた、多くの死んだ物がなお生命と不可思議な関係を保っていることを、我々に示している。ぶどう酒は、ぶどうそのものの四季折々の変化に従って、穴蔵の中で変質する。獣の肉も、人の言うところによると、塩桶の中で、生きた肉と全く同じおきてに従って、その状態をも味をも変える
* 以上数行のパラグラフはボルドー本の上には読まれないが、一五九五年版にのせているところである。ストロウスキーのボルドー市版は、これを製本師に裁ち切られたものと想定して本文中に挿入しているが、アルマンゴー博士はこの点について疑いをいだき、これを欄外に置いている。
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第四章 ほんとうの目あてがつかまらないと霊魂は
    その激情を見当ちがいの目あての上に注ぐこと



 (a)われわれの仲間の一人で、ひどい痛風になやんでおられるひとりの貴族は、医者から断然塩物をお絶ちになるようにと言われると、「わたしは苦しさが高じてたえがたくなると、きっと誰かに食ってかかりたくなる。だから、或る時は腸詰めを、或る時は牛の舌やハムなどを罵りくさす。そうするとそれだけ苦しさが軽くなるね」と、ふざけてお答えになるのが常であった。だがほんとうに、ふり上げた腕がその物にぶつからないでいたずらに空を打つ時は、かえって自分の肩が痛くなるように、また一つの眺めを面白く見るためには、それを茫漠たる空間にほっておかないで、それを適当な距離に区切って見なければならないように、

(b)風もまたうっそうたる森がこれをさえぎるなくば、
力を失いて空中に吹きちらばるがごとく、
(ルカヌス)

(a)ゆり動かされた霊魂もまた、そのすがりつく所が与えられないと、ただいたずらに自己の内側を彷徨するばかりのように思われる。だから必ず何かそれがぶつかり働きかけるものをそれにあてがわなければならない。プルタルコスは、牝猿や子犬をかわいがる人たちについて、「我々の内にある愛の器官は、正当な目あてがないと、空しくそのままにやまないで、このようにうその・仮の・相手をさがし出す」と言っている。いや我々はよく知っているではないか。霊魂は昂奮すると、嘘の・気まぐれの・相手をこね上げ、自分自身の所信に逆らってまでもわれとわが身を欺き、決して何者にも働きかけずに終ることはないということを。
 (b)だから怒り狂った動物は、夢中で自分を傷つけた石や刃物にうちかかるのである。いや、自分の身体を噛みやぶって自分が感じる苦痛の復讐をするのである。

かくてパノニアの熊は、
リビの細き革紐のつける
あのもりに刺されてよりいよいよあれ狂い、
或いは自分の傷の上に倒れころがり、
或いはその身を貫ける銛に立ちむかい、
その穂先を追いてめぐりにめぐりたり。
(ルカヌス)

 (a)我々は、我々にふりかかる不幸について、どんな原因をも造り上げる。何かに打ってかかりたくて、何にでも見さかいなく食ってかかる。だが、あなたのいとしいお兄さんをむざんにも鉄砲でうち殺したのは、あなたが掻きむしるそのゆたかな金髪でもなければ、怒ってあなたが乱暴にうちたたくその白い胸でもないのだ。ほかのものに食ってかかりなさい。(c)リウィウスは、スペインにおけるローマ軍がその偉大な大将であった二人の兄弟を失った時の有様を語って、※(始め二重山括弧、1-1-52)人々は皆涙をながし一斉にその頭をうち叩けり※(終わり二重山括弧、1-1-53)と言った。これは普通のことなのである。哲人ビオンは、悲しんでその髪の毛をかきむしった王について、冗談を言ったではないか。「この人は、毛を抜けば悲しさが軽くなるとでも考えたのかな」と。(a)お金をなくした腹いせに、カルタを噛んで飲みこんだり、さいさやを呑み下したりするのを、見たことのない者はあるまい。クセルクセスは、(c)ヘレスポントスの(a)海を鞭うち、(c)これに鉄鎖をつけ、さまざまにこれをこらしめた。そして(a)アトスの山に決闘状を送った。それからキュロスは、大軍を用い数日にわたってギュンデス河に復讐した。これを渡った時にひどくこわかったからである。またカリグラは、かつて母がそこでなめさせられた辛酸に報いるために、いとも壮麗な宮殿をうちこわした。
 (c)わたしは幼い頃、よくこんな話をきいた。「隣国のさる王様は神の鞭を受けたのに対してひそかにその返報をしようと誓い、『十年のあいだ神を祈ってはならぬ。神について語ってはならぬ。またわたしが位にある間は決して神を信じてはならぬ』と布告した」と。このお話は、その国に特有な愚かさを描いているのではなく、むしろその傲慢さの方を物語っているのであった。この二つは常に相伴う不徳であるが、今申したような行為は、まったく愚昧よりもむしろ傲慢から発するのである。
 (a)アウグストゥス・カエサルは、海上で暴風雨にうたれてから、神ネプトゥヌスをうらむようになった。そして円形競技場での華やかな競技の最中に、いっしょに並んでいる他の神々の間からネプトゥヌスの像を取り除かせてうっぷんを晴らした。こんなことをした彼は、前のキュロスよりもカリグラよりもずっとゆるされがたい。いや後年ドイツにおいて、クインティリウス・ウァルスの指揮の下にある味方が戦争にまけたときき、憤怒と絶望のあまり※(始め二重山括弧、1-1-52)ウァルスよ、わが兵卒をかえせ※(終わり二重山括弧、1-1-53)と叫びながら、自分の頭を壁にうちつけて歩いたそのときよりも、いっそうゆるされがたい。まったく、神や運命にまで、あたかもそれが自分たちの攻撃をきく耳を持っているかのように食ってかかる人々は、どんな狂気をも越えていると言わなければならない。そこには不敬さえ加わっているのだから。(c)それは、トラキアびとが雷がなったり稲光りがしたりする間、ティタンの復讐にならって天に向って弓を引き、矢によって神々に言うことをきかせようとしたのに似ている。(a)要するに、プルタルコスの中でかの古代の詩人が言っているように、

事件に向って怒っても仕方がない。
いくら怒っても事件はびくともしない。
(アミヨ訳仏文)

 (b)だが、我々の精神の錯乱は、いくらこれをののしりはずかしめても足りることはあるまい。
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第五章 包囲されたお城の大将は講和の際その城を出るべきや否や



 (a)ローマ軍の副将ルキウス・マルキウスがマケドニア王ペルセウスと戦った時、味方の軍勢をたて直すための暇を得ようとして和睦わぼくの申し入れをしたところ、マケドニア王の方はうっかりのせられて数日にわたる休戦をうけ入れ、まんまと敵に兵力を補充する機会と日時とを与えてしまった。結局、そのために、王はあえなき最期をとげるに至ったのである。ところが元老院の老人たちは、父祖の心事を想い起し、このやり口を古来の国風にもとるものだと非難した。(c)つまりそれによれば、戦うには武勇をもってすべきで、詭計きけいをもってしてはならなかったのである。不意討も夜討もいけなかった。逃げるふりを見せて不意に返り打つこともいけなかった。戦争は布告してからでなければ行わず、しばしば戦場と時刻とを予告してからしたのである。こうした良心から、彼らはピュロスに彼を毒殺せよとすすめる不忠な医者を引きわたし、ファリスキ人にはそのよこしまな学校教師をわたしたのであった。これこそ真にローマ的な態度であって、力によって勝つことをまやかしによる勝ちよりもほこるに足らぬとする、あのギリシア的狡知やカルタゴ的狡猾とは違うところなのである。詐欺もその時は役に立つ。けれども、詭計によらず時の運によらず、正々堂々たる戦いにおいて互いに隊と隊と相まみえ、武勇によって打ち負かされたと思う者こそ、本当に参ったと思うのである。(a)これらの正直な人々の言葉を見ると、彼らはまだ

敵に対しては、詭計もよし、武勇もよし。
(ウェルギリウス)

といううまい格言を知らなかったらしい。
 (c)アカイア人は、ポリュビオスがそう言っているが、戦うに当ってどんな詭計をもしりぞけた。敵が全く心服した場合でなければ勝利とは思わなかったから。※(始め二重山括弧、1-1-52)徳高く知恵ある人は、真の勝利とは唯一つ正義正道に反せずしてかちえたる勝利あるのみと、悟らざるべからず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(フロルス)と、またもう一人の者は言っている。

汝とわれのいずれに、運命は王位を委ねんとするか?
いざ、勇気によってこれを決せん!
(エンニウス)

 テルナト王国では(それは我々が口をきわめて野蛮国ときめつける国々の一つだが)、「戦争はまずもってこれを布告してからでなければやらぬこと。しかもその布告には、それに用いようとする手段、すなわち、いかなる兵士を幾人・またいかなる軍用品・いかなる攻防の具・を用いるかについて、十分な説明を付け加えること」が習慣になっている。だが、それだけの事をしても、なお相手が譲歩もせず和解をも乞わない場合には、最悪の方法に訴えることをあえてする。そうなったら裏切りだろうが詭計だろうが、勝つためにはどんな手段を用いても咎められるわけはないと考える。
 昔のフィレンツェびとは、奇襲によって敵に勝ちたいなどとは少しも思わなかったから、いよいよ兵隊をくり出す一カ月も前から、マルチネラと呼ぶ鐘を絶えずうち鳴らして敵に予告した。
 (a)我々にいたってはそれ程までに潔癖ではなく、戦争から得をえる者をもって勝利の名誉をになう者だと考え、リュサンドロスにならって、「獅子の皮だけで足りない所には狐の皮をはぎ合せろ」と言っているが、奇襲はたいていの場合、この言葉を実践したものである。そして、我々のよく言うことであるが、講和談判の時くらい大将が注意の眼を見張らねばならぬ時はないのである。そこで、そうした理由から、「包囲された城の大将は講和のために自ら城を出てはならない」ということが、現今のすべての軍人がひとしく唱えるおきてとなっている。我々の父たちの時代に、ナッソー伯に対してムーゾンの城を守ったモンモール及びラッシニ両侯は、この点で非難された。だが、それにしても、安全と利益とがなお味方にとどまるようにうまくやるぶんには、城を出ることも許されるべきであろう。例えば、レギオム市において、レスキュット殿が講和のため彼に近づいた時に、ギュイ・ド・ランゴン伯がなされたようにするぶんには(デュ・ベレの言うところを信じなければならないならば、――というのは、グイッチャルディーニはそれを自分のことにしてしまっているからである)。まったく、彼はごくわずかにその城を離れただけであったから、その談判の最中に小競合こぜりあいが起った時には、かえってレスキュット殿およびその護衛隊の方がかなわなくなり、アレクサンドロ・トリウルツィオまでがそこであえなく討たれたばかりでなく、レスキュット殿自らさえ、自分の命が助かるために伯の後に従い、その証言を信じて敵の城中に入り、辛うじて難をまぬかれるというような始末だったのである。
 (b)ノラの城中にいたエウメネスは自分を包囲したアンティゴノスから、しきりに講和のために出て来いとうながされた。アンティゴノスが、さまざまな条件をもち出した末、「おれの方が位も高く力も強いのであるから、お前の方から出て来るのが当然だ」と言いはると、エウメネスの方では、「おれにこの剣のある限り、おれに優るものがあろうとは思わぬ」と立派な返答をして、要求どおりアンティゴノスの方からその甥のプトレマイオスを人質として送ってよこすまでは、頑として城を出なかった。
 (a)けれどもまた、攻囲者からすすめられるままに城を出て、かえって得をした者もある。例えばかのシャンパーニュの騎士アンリ・ド・ヴォがそれであった。彼はコメルシの城においてイギリス兵に包囲されていたが、包囲軍の大将バルテルミ・ド・ボンヌは、城外から坑道を掘りすすめてすでに城の下の大部分を侵し、今はただこれに火を点じさえすれば籠城の士卒を微塵になしうるまでになったので、今言ったアンリにいよいよ四度目の使を出し、出て来て和を講ぜられる方がおためであろうと申し入れた。そのようにして彼の明白な破滅が目の前に示されたので、アンリは深く敵の深切に感じた。実にその情誼によって、彼がその兵とともに降った後に、はじめて火が坑道内に点ぜられ、支えの柱が吹っとんで、城はとうとう木端微塵こっぱみじんになったのである。
 (b)わたしは容易に他人の誠意を信ずる。けれども、「あれはむしろ絶望のあまり勇気がなくなってやったのだ。率直さによってでも、こちらの真心を信頼してでもない」などと判断されそうな場合には、そうやすやすと人のいうなりにはならないであろう
* 一五七〇―七七年の頃、モンリュックはしばしばモンテーニュ邸を訪問し、互いに軍事上の経験を語り合った。当章はその頃の所産である。モンリュックの『戦記』にも同じ意見が述べられている。なお当時は野戦によって勝敗を決することは稀で、城の攻防によって決戦をすることが多かったのである。
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第六章 講和の時の危険



 (a)けれどもわたしは、この頃近くのミュシダンで、わが軍のためにここを撃退された者どもが、彼らの党派の誰彼とともどもに、「和睦の交渉中、しかも談判がなお継続中だというのに、いきなり自分たちを急襲し全滅させたのは裏切りだ」と非難しているのに会った。なるほど世が世ならば、おそらくそれももっともと言わなければなるまい。だが、今し方わたしが述べたとおり、我々の習わしはそういう掟からは全くかけ離れているのである。すなわち、約束の最後の調印がすむまでは、お互いに気をゆるしてはならないのである。それまではまだ事終っていないのである。
 (c)だから、やさしい有利な話しあいによってたった今自分たちの都市の降伏が容れられたからといって、早くもその約束が本当にまもられるものと思いこみ、勝ちほこった敵の欲するがままに、その士気が最もあがっている最中に、敵兵の自由入城をゆるすなどは、やはり危険千万なことであった。ローマの執政官L・アエミリウス・レギルスは、フォカエアの城を奪い取ろうと努めたが、住民のたぐい稀な勇敢さのために空しく時日を失ったので、「是非自分たちを連合国の都市に入るように入城させよ。今後は君たちをローマ人の友と見なすから」と約束して、彼らに敵対行為に対するすべての心配をすてさせた。けれども、彼がその威武を示すために軍を従えてそこに入城した時には、いかに努力しても、部下の昂奮を抑えることができなかった。そして目の前にそのフォカエアの町の大部分が、軍靴に踏みにじられるのを見なければならなかった。つまり、欲望と復讐の力が、ついに彼の権威および軍規の力を踏み越えたのである。
 (a)クレオメネスは言った。「戦争中は敵にどんな危害を加えても是非を問われない。それは神々の眼から見ても、人々の眼から見ても、正義に反しない」と。そしてアルゴス人と七日の休戦を約しておきながら、三日目の晩に寝こみを襲ってこれを破り、「自分の休戦条約の中には夜のことは何とも言ってない」と言訳をした。だが、神々はこの不信と狡知をお罰しになった。
 (c)談判のあいだに人々が心をゆるめたひまに、カシリヌムの都は奇襲によって奪われた。しかもそれは、最も正義を重んずる軍士と最も軍規厳正なローマ民軍時代のことである。まったく、「もって来いの時と場所でも、敵の卑怯につけ入るようにその愚かさを利用することはゆるされない」などとは、どこにも言われてないのである。いや本当に、戦争というものは、本来理屈にもとりながらしかも理屈の立つ特権を、たくさんに持っている。そこには、※(始め二重山括弧、1-1-52)何人なんぴとも他人の愚かさにつけ入りて利得すべからず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)という規則はないのである。
 だがわたしはクセノフォンが、彼が戴いていた完全な皇帝の御言葉により、またそのさまざまの御勲功によって、こうした諸特権にえらく広い幅をもたせているのには驚く。彼は大将としても、ソクラテス門下の高足の中に数えられる哲学者としても、この種の問題にかけてはすこぶる重きをなす作者であるのに。わたしは、どんな場合にも、あんな広範な許容には賛成できない。
 * クセノフォンがその著『キュロペディア』の中に描いている理想の皇帝キュロスを指す。
 (a)ドビニ殿がカプアの町を包囲しこれにはげしい攻撃を加えた時のこと、お城の大将のファブリツィオ・コロンナ殿が稜堡りょうほの上から和睦を申し出て、部下のものどもがいささか手をゆるめたすきに、我が方の強者どもはたちまちに城を奪い取りこれを微塵にしてしまった。いや、もっと記憶に新たなところでは、イヴォアにおいてユリアノ・ロメロ殿が粗忽そこつにもモンモランシー元帥殿と講和しようとしてその城を出たところ、帰って見ると城はすでにとられていた。しかし彼らもまた仇を取られずにはすまなかった。ペスカラ侯が彼らの庇護の下にオクタヴィアノ・フレゴサ公の司令していたジェノヴァを包囲した時のこと、講和談判が両方の間で大いに進み、人々はみなそれがすでに成立したものと信じていたところ、いよいよそれが締結されようとする瞬間に、スペインの軍勢が雪崩なだれのように押し込んで来て、まるで勝利者のような顔をした。またそれから後には、ブリエンヌが司令していたバロア州リニ市で、皇帝おん自らこれを取り囲み、ブリエンヌ伯の副将ベルトゥーユが講和のために城を出たところ、その協議の最中に城はもう奪われていた。

勝利をこそ常にほめたたえん。
それを運に負うとも狡知に負うとも。
(アリオスト)

と彼らは言う。けれども哲人クリュシッポスは意見を異にした。わたしだって余り賛成ではない。まったくクリュシッポスが言っているとおりである。競走をするものは、もちろん早さのために全力をつくさなければならないが、手をさし伸べて相手をさえぎったり脚をのべてこれを倒すようなことは、とうてい許されるわけがないのである。
 (b)いや、更に高潔なのはあのアレクサンドロス大王で、夜にまぎれてダレイオスを撃つことが得策だと勧めたポリュペルコンに対して、「いけない」と彼は言ったのである。「勝利をかすめ取るのは、わたしがすることではない。※(始め二重山括弧、1-1-52)恥ずべき勝利をえんよりは、むしろわれ運つたなきを嘆かんのみ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クイントゥス・クルティウス)」と。

彼は恥じぬ。逃ぐるオロデスに後ろより斬りかくるを。
彼に見えざる矢を射かけてその背中そびらを傷つくるを。
彼は馳せ向いて、真向正面より打ちてかかる。
奇襲によらず、ただ武力によりて勝たんとす。
(ウェルギリウス)
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第七章 我々の行為は意志によって判断されること



 (a)死はあらゆる義務から我々を解放すると言われる。わたしはこれをさまざまに解釈した人々を知っている。英国王ヘンリー七世は、あのマクシミリアン皇帝の御子ドン・フィリップ、もっと尊げに並べて呼び奉るならばカルル五世皇帝の御父ドン・フィリップと仲直りされたが、その時そのドン・フィリップは、ヘンリーの敵でオランダに逃れて隠居していた白ばら家のサフォーク公を、決してその命を害しないならばという約束でヘンリーの手に委ねた。ところがそのヘンリー七世は、死に臨むと、王子に遺言して、自分が死んだら直ちに彼の命を絶て、と命ぜられた。近くはアルバ公がブリュッセルにおいてホルン侯とエグモント侯のおん身の上に関して我々に見させたあの悲劇の中にはいろいろと注目すべき事柄が沢山にあったが、中でもかのエグモント侯は(この人の言葉を信じてホルン侯はアルバ公に降ったのだったから)、どうか自分をさきに死なしてくれと嘆願せられた。彼は死んでそのホルン公に対する義理から解かれようと思ったのだ。だが死はヘンリー七世をその約束から決して解除しなかったし、エグモント侯の方は死ななくてもその責めをゆるされていると思う。我々は我々の力と手段とを越えて、責任を負うことはできないのである。だから、行為と実践はとうてい我々の力ではどうにもならないのであるし、本当に我々の力で動かせるのはただ意志だけであるから、その意志なるものの中にこそ、人間の義務に関するすべての規則は、必然的にその礎を置かれおし立てられなければならないのだ。こう考えるとエグモント侯は、その霊魂と意志とに約束の責任を負わせているから、これを実行するだけの力をもたなかったとはいえ、そしてホルン侯よりあとに生き残ったとしても、確かにその義務から解かれている。ところがイギリス王の方は、その意図によってその約に背いたのであるから、この不信の実行を死後までのばしたからといって、到底ゆるされるわけにはゆかない。それはヘロドトスの石工と同じことである、そいつは、自分の仕えていたエジプト王の宝の秘密を生きている間こそ忠実に守ったが、死にのぞんでそれを子供たちにあかしたといわれる。
 (c)わたしは当世の多くの者どもが、ちゃんと他人の物をかすめ取っていることを意識していながら、遺言によって自分が死んだ後にそれを弁償すればいいと思っているのに出あった。早速にもなすべきことをそんなにおくらせたり、そればかりの悔恨と賠償とをもって悪事を償おうとするなんて、まったく彼らのするところには一文の値打もありはしない。彼らはそれ以上に、自分自身のものまで吐き出さなければいけないのだ。いや、つらい苦しい思いをして支払えばこそ、彼らの賠償もそれだけ正しくそれだけ値打のあるものとなるのである。後悔は重荷であることを要する。
* 第三巻第二章「後悔について」にこの泥棒の話が詳しく語られる。
 他人に対する何かの遺恨を、生きている間は隠しておいて、それを洩らすことを遺言の時まで取っておく人々と来てはますます悪い。いや、それは余りにも己れ自らの名誉をおろそかにしている証拠である。そうやって心を傷つけられた者は、彼らを思い出すたび毎に憤慨させられるのだから。また、むしろ、自らの良心を大切にしていない証拠でもある。というのは、彼らは、厳粛な死のまえでさえ自分の遺恨をすてきれなかったばかりか、その執念を自分の命以上に延ばしているのだから。ことの真相が認識できなくなるまでその判決を延ばす裁判官もまた不正である。
 わたしはできるものなら、わたしの死が、わたしの生がかつて言ったことよりほかには何も言わないようにと、心がけよう。
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第八章 無為について



 モンテーニュはここに漠然と簡単ながら、どうして自分が随筆など書くようになったかを述べている。おそらく彼が故郷に隠退して間もないころ(一五七〇―七一)、すなわちまだ「エッセー」という独特な標題が考えつかれなかった頃の文章であろう。だからここには、最後のパラグラフに何となくわが『徒然草』の書き出しの句を思わせるようなことが書かれているのを見るだけである。第一巻第五十章、第二巻第八章のはじめにおかれた解説をあわせ読まれたい。モンテーニュが何時頃から読書家から文筆家に転じたかは、資料によって確立しがたいが、やはりラ・ボエシを失って、心中悶々の情を聞いてもらうすべを失ってから、いよいよ紙に向って独り、t※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)te ※(グレーブアクセント付きA小文字) t※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)te avec lui-m※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)me をするより仕方がなくなったからであろう。

 (a)ちょうどただの空地は、よしそれが肥えていても、種々さまざまの役に立たない雑草がもさもさしていて、これを役に立てるためには、我々の役に立つような何かの種子をそこに蒔かねばならないように、また婦人たちはたった独りでもなるほど形のない肉の塊やかけらを産み出しはするが、善い自然の世継が得たいならば、なおもう一つの種子をそこに加えなければならないように、精神もまた同じことである。人がもし何事かでそれをみたし、それを抑制することがなければ、精神もだだっぴろい想像の野原をただ無茶苦茶に駈けめぐるばかりであろう。

(b)青銅の器の中に立つ波の、
日の光月の影をば映すとき、
その光いたずらに揺れ躍りて
器の高き縁に戯るるがごとく。
(ウェルギリウス)

 (a)いや、気ちがいじみた考えや夢みたいなはかない思いなどは、いずれも皆、精神がこうした動揺の中で産み出したものにあらざるはない。

それらは病人やもうどの夢に見らるる
空なる夢まぼろしの如し。
(ホラティウス)

 確かな目的を持たない霊魂はさまよう。まったく、人が言うとおり、いたるところにあるとはどこにもないということなのだ。

(b)マクシムスよ、至る処にあるものはいずこにもなし。
(マルティアリス)

 (a)先頃わたしが、できるだけほかのことにはかかりあわず、ただわたしに残されたこの僅かな歳月を独りで静かに送ろうと堅く決心して、ここの家に引込んだ最初の頃は、このわたしの精神のためにはただそれをうんとひまにしてやり、それがただ自分にだけかまけ、それがいつもじっと自分のうちに落ちついていられるようにしてやるのこそ、それ〔私の精神〕にとって何よりのことなのだとばかり思っていた。そしてそれが、年とともに重厚になり円熟もして、ますます容易にそのような生活ができるようになることを、希望していた。ところがわたしは、

無為が精神をあちらこちらに追いちらす
(ルカヌス)

ので、かえってそれ〔わたしの精神〕が手綱をはなれた馬みたいになり、他人のために苦労するよりも百倍も自分のために苦労していることを知った。いや、彼が余りにも奇怪な妄想を後から後からと、順序も計画もなく、産み出すので、わたしはそのとりとめのなさや、その物狂おしさをとっくりと考えて見るために、それらを一つ一つ書きつけて見ることにした。いつかわたしの精神が、自分からはずかしいな、と思うようになってくれればよいが。
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第九章 嘘つきについて



 この章もまた初期の随想の一つであるが、後に自らを描こうとする意図が加わって始めて興味津々たるものとなった。
 モンテーニュはその序文のなかで第一に約束したように、常に率直正直である。だからしたくなれば自慢もするが、欠点といえどもあえて少しもかくそうとはしない。世の学者先生や著者たちが、いかにも自分は頭がよく、道徳的にも潔白であるような顔ばかりするのとは、まさに反対である。そこにモンテーニュの魅力の一つがあろう。ここでも彼は、自分の記憶力の不足を告白する。ただそれだけでも物おぼえの悪いのをひそかに嘆いている読者は慰められるが、さらに彼はそういう欠陥にもまたなにかの取り柄があること、そしていわゆる長所だって場合によっては自他を困らせることなどを教える。ここにも無為無学をたたえ、無用の用あることを説く老荘道家の発想と相通ずるものがある。とかくものごとをただ一方からばかり眺め、因習的な判断にばかりとらわれていた人たちは、なるほどそういう見方もあるのかと、始めて気がつく。そしてその眼界をもその思想をも広くゆるやかにしてもらう。むしろそんな小さなことを悲しんだりうらやんだりするよりも、自己の真実に徹することの方が、人間にとっては肝心なのだということを教えられる。この一章の主意はおそらくそうしたところにあるであろう。

 (a)およそわたしくらい記憶の話をするのがふさわしくない男はない。だってわたしはわたしの内に、ほとんどその痕跡すら認めないからである。いや、わたしの記憶ほど恐ろしく不完全な記憶やつが他にあろうとは思われないからである。他の性能はみな尋常普通なのをわたしはもっている。だが記憶ということにかけては、わたしはふしぎな珍しい男、正にこれによって評判をかちえるに足りると思う。
 (b)わたしはそういう生れつきに当惑するばかりではない。――(c)いやまったく、それが欠くべからざるものであることを考えると、プラトンがそれを偉大で強力な女神と呼んだのはもっともである。――(b)わたしの国では「だれそれは全く分別を持たない」という場合に、「あいつはまるで記憶をもたない」と言う習わしなので、いくらわたしが記憶の不足を嘆いても、皆がそれを本気にしてくれない。まるでわたしが自分の無分別を責めてでもいるようにとるのである。つまり彼らは記憶と分別との間にけじめをつけないのである。これはわたしの立場を著しく不利にする。いやそれどころか、それはわたしを傷つけることになる。だって経験に照らして見ると、むしろあべこべに、優れた記憶こそとかくひ弱な判断に伴いがちではないか。彼らはまた、つぎの点でもわたしを傷つけている。だって、わたしは人の友であることより大事なことはないと思っているのに、わたしの物覚えのわるいことを咎めるその言葉でもって、わたしの忘恩をせめ立てるのだから。人はわたしの愛に浴しようとわたしの記憶にすがりつく。そして生れつきの欠陥と意識の欠陥とをごっちゃにしている。そして言う。「あいつはこれこれの頼みや約束を忘れた。あいつは少しもその友達を思い出さない。あいつはおれのために、かくかくのことを言うべきなのを、なすべきなのを、いや黙っているべきであるのを、少しも思い出さなかった」と。なるほどわたしはじきに忘れるかもしれない。だが友人からたのまれた用事をおろそかにするなんて、そんなことは決してない。どうかこれをわたしの欠陥のせいだと思ってがまんしてほしい。悪意だとは思わないでほしい。悪意くらいわたしの気質の敵であるものはないんだから。
 わたしは或る程度こう思って自ら慰めている。第一に、(c)わたしはもっぱらこの病のおかげで、ともすれば心の中に生じそうであった、もの忘れよりも更に悪い病すなわち野心を、やっつけることができたから。まったく、えらい人たちとの交際に心を砕く者にとっては、これこそやりきれない欠陥なのである。それに、自然の推移の同じような沢山の実例が教えているとおり、いつも自然は、わたしにおいても、この性能が衰えるに従って、それだけ他の幾多の性能を強くしてくれたのである。まったく、記憶のおかげでひと様の創意や意見が始終わたしのうちに頑張っているならば、自分もまた皆さんと同様に、わが精神と判断とにそれら自らの力を行使させないで、容易にそれらをして他人のあとをよろよろおめおめと追いかけさせることであろう。(b)またおかげでわたしの話が手短かであるのも仕合せだ。まったく記憶の倉庫は創意の倉庫よりも常に多くのものを蔵しているのである。(c)もし記憶がわたしに忠実であったなら、さまざまな主題が、わたしの多少は賦与されているおしゃべりの性能を呼びさまし、ますますわたしの談話をあおりたてて、わたしはおしゃべりをもってわがすべての友だちを聾にしたことであろう。(b)そうなったらみじめだ。わたしはそれを親しい友達のたれかれの実例によって経験する。すなわち、記憶が彼らに物事を完全にありありと想い出させるに従って、彼らはますますおしゃべりを昔に引きもどし、それをくだらない事柄で一杯にするから、お話そのものは面白くても折角の面白さがおかげで押しつぶされてしまうのだ。もしそのお話が面白くなかった日には、諸君は彼らの記憶の幸運をのろうか、あるいは彼らの判断の不運をのろわずにはいられまい。(c)いや興に乗って来ると、話を閉じたり中止したりすることはむつかしい。馬の力量にしても、楽々と鮮やかなストップをするかどうかで、一番よく知られるのである。節度ある人々の間にさえ、わたしはそのおしゃべりを止めようとして止められないでいる人たちを見受ける。彼らはもうおしまいにしようと切っかけを捜しながら、だらだらとしゃべりつづける。まるで衰え疲れた人のように引きずってゆく。殊に老人が危険である。いろいろ古い事柄はおぼえているくせに、近頃幾度もそれらを繰りかえしたことは忘れている。わたしはすこぶる面白いお話が、或る殿様のお口にかかるとはなはだ退屈なものになるのを経験した。傍のものどもはそれぞれそれを百万べんも聞かされていたからである。(b)第二にわたしは、ある古人がいっているとおり、受けた侮りをいつまでも覚えていないだけでもしあわせである。(c)わたしには一人の囁き手が入り用であろう。例えばあのダレイオスがアテナイ人からこうむった侮辱を忘れないために、そのお小姓に、彼がテーブルにつく度毎に、「陛下よ、アテナイ人を想い出し給え」と三度ずつ言わせたように。(b)それからまた、たびたび見る場所、たびたび読む書物が、常にみずみずしい新しさをもってわたしにほほえみかけることもしあわせだと思う。
 (a)「物覚えにかけて十分な確信がない者はうっかり嘘をつきなさるな」といわれるのは、理由のないことではない。わたしは文法家が「嘘を言う」(dire mensonge)と「嘘をつく」(mentir)との間に区別を設けているのを知っている。すなわち「嘘を言う」とは、嘘のことを本当のことだと思って嘘とは知らずに言うことであるが、ラテン語における「嘘をつく」という語の意味は(わがフランス語はそれから来たのであるが)、結局己れの良心に逆らうことを言い、従って、「嘘つき」と言えば、今わたしが取り上げているような、自分の知っていることのあべこべを言う人にかぎる、というわけだ。ところでこの「嘘つき」たちだが、かれらは何から何まで全部作り上げることもあれば、何かの真実をいつわったり変えたりすることもある。この変えいつわる場合は、自分ではそれを同じ形の話にしばしば繰り返しているつもりでも、いつの間にか矛盾におちいっている。なぜかといえば、物事はまずそれがあるとおりに、認識や知識の道を通って、記憶の中にはいって来てそこに刻みつけられるのだから、それはもともと堅固な根拠を持たない嘘の事柄を押しのけて、幾たびとなく考えの中に現われて来ないはずはなく、そのつど最初に認識された様々な事情は、心の中に深く浸みこんで、後から加えられた・うその・でっち上げの・部分に関する記憶を消滅させずにはおかないからである。彼らが徹頭徹尾作り上げた事柄においては、彼らの嘘に衝突する反対の印象が一つもないだけに、それだけどじをふむおそれはないように思われる。だがそれにしても、それはとらえどころのない空のことであるから、当人の記憶がよっぽどしっかりしたものでない限りとかく記憶から逃げ去りがちである。(b)そういう例をわたしはたびたび実際に見聞した。だが、笑止千万にも、ただ自分の調停する事件をうまくまとめ、ひたすら相手のお歴々の御意にかなうことばかり考えている口先上手の方が失敗している。まったく、彼らがその信念をも良心をもあえてその奴隷にしよう従わせようとするそれらの事情は、色々な変化をこうむらなければならないから、その都度彼らの言葉も変らなければならないのである。そこで彼らは同じ物事を、時には黒いと言い、時には黄色いと言い、甲に向ってはああ、乙に向ってはこう、と言うことになる。だがふとそれらの甲乙丙丁が、それぞれ聞いたところのまるで食いちがった事柄を持ち寄りでもしたら、一体どうなるか。さしもの口達者も台なしじゃないか。それに、彼ら自らうっかり自縄自縛に陥ることもきわめてしばしばである。まったく、同じ主題について捏ねあげたあれほどさまざまな形態を一つ一つ覚えているには、どれほどの記憶力があったらば足りるであろうか。わたしは当世の多くの人々が、そういう用意周到のすばらしい評判をきいてうらやましがるのを見たが、それはただ評判だけのもので、実際の効果はないものだということを、彼らは知らないのである。
 (c)本当に、嘘つきは呪うべき不徳である。我々は言葉によってはじめて人なのである。いや、それによってはじめてお互いに心が通うのである。我々が真にその恐ろしさ、その重大さを知るならば、他の犯罪以上に火刑をもってそれを罰するのが当然であろう。火あぶりの刑はこの嘘つきという罪に対してこそ適用されるべきだろう。人はいつもはなはだ不適当に子供たちの罪のない過失を罰する。何らの痕跡も何らの結果も残さないような無心の行為のために彼らを折檻する。だが、ただ嘘をつくことだけ、それからその少し下位に、強情を張ること、ただそれらだけが、人があくまでその発芽と増長とを阻止しなければならない事柄のように思われる。この二つは彼らの成長とともに増長する。いや、一度舌にこの悪い癖をつけると、それをあらため直すことがどんなにむつかしいかは、想像以上である。それで身はれっきとした紳士でありながら、この悪癖にかかってどうしても脱けきれない者も出てくるのである。わたしの仕立屋はまことに良い男であるが、ついぞ一ぺんも彼が真実を言ったのを聞いたことがない。真実を言う方が彼に有利な時でさえも。
 もし真実のように虚偽もただ一つの顔だけしか持たないならば、我々はもうちっと仕合せだろう。我々は嘘つきの言うことの正反対を確かな事と見なすことができようから。ところが真実の裏面は種々様々な顔をしており、そこには無限の広さがある。
 ピュタゴラスのともがらは、善を確実で限界があるものとし、悪を限界がなく不確実なるものとしている。千の路が的をはずし、ただ一すじだけが的中するのだ。実際わたしもせっぱつまれば、はっきりした恐ろしい危険を避けるために、ずうずうしい・勿体ぶった・嘘をつかないとも限らない。
 或る昔の教父は言った。「言葉の通じない人間とともにいるよりは、見知りごしの犬とともにいる方がましだ」と。※(始め二重山括弧、1-1-52)異邦人は人にとりて人間にあらざるがごとし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(プリニウス)。まったく、嘘の言葉は沈黙よりどれほど親しみにくいかわからない。
 (a)王フランソワ一世は、ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの使臣で雄弁学において非常に有名であったあのフランチェスコ・タヴェルナを、こんな風にしてとっちめてやったと御自慢になった。この者は、ある重大な事件についてその主君の申し開きをするために陛下の許に遣わされたのだが、それは次のような次第である。
 王は、自分が前に追い出されたイタリアに、特にミラノ公領に、なお多少の気脈を通じていたかったので、そのミラノ公の側近に、味方の貴族の一人を、ほんとうは使臣としてであるが表面はただの私人として、しかもただその人の私用のためにそこにいるかのようによそおわせて、駐在させようと考えつかれた。なぜなら、ミラノ公はむしろローマ皇帝の方に深い関係があり、特に皇帝の姪御で現在はロレーヌ公の未亡人となっておられる、あのデンマーク王の御息女と御婚約中でもあったから、我々と少しでも交際があるように見られては大変御都合が悪かったのである。こういう任務には、ミラノの貴族で王の主馬寮に仕えるメルヴェーユが最も適していた。そこでこの者は、数通の秘密な訓令と使臣としての信任状とを与えられた上、更に表面を糊塗ことするために、彼の私用に関して便宜を与えられたい旨の公宛ての紹介状までも与えられてやって来たのであったが、余り長く公のお側に留ったものだから、とうとう皇帝に感づかれるに至り、それがやがて、我々の察しどおり、後でおこる事件の原因となった。つまり公は、彼に刺客の疑いがあるという言いがかりをつけて、ある闇の晩に彼の首をはねさせ、しかもただの二日で万事を片づけてしまったのである。フランチェスコ殿は、この顛末を言いくるめるための長談義を用意してやって来たのであったが、――まったく王は、その賠償を求めるためにあらゆるキリスト教国の王様方や当のミラノ公にあらかじめ訴えておかれたのである。――早速朝の御前会議に召し出された。そこで、自分の側に都合がよいように、いかにももっともらしい理由を沢山ならべ立て、「公はあの者を、ただ一介の貴族、自己の臣下が、ただその私用をもってミラノに来たもの、その他には何の資格もないものと思っておられました。決して王家に仕えるものとも、王の知遇を得ているものとも、いわんやその使臣であろうなどとは、思っておられませんでした」と言うや、王は様々の反駁と詰問とをもって彼を糺明し、四方八方から彼を攻め立てたあげく、「なぜそれならば夜陰ひそかに彼を殺したのか」とつめよられた。ここにおいて、可哀そうに、絶体絶命、とうとうフランチェスコ殿はいかにも朝臣らしくこう答えてしまった。「公は陛下を尊敬し給う余り、そのような処刑が白昼行われることを悲しまれたからでございます」と。思ってもわかるであろう。いかに彼が二の句がつげず生き恥をさらしたか。しかもあのフランソワ王の名だたるお鼻のおん前で!
* 皇帝というのは、この頃はカルル五世をさす。
 法王ユリウス二世がイギリス王の許に使臣をつかわしてフランス王〔ルイ十二世〕に対する謀叛むほんをすすめた時のこと、その使臣が御前にまかり出て使命を述べ終るや、イギリス王はこれに向って、そのように強力な敵に対しては万端の準備を整えることがはなはだ困難であることを強調し、それに関して幾つかの理由をあげられたので、使臣もついうっかりと、「実は私もそう考えまして重々法王をいさめたのでございますが」とまずい返答をしてしまった。イギリス王は、自分をすぐにも戦に引き入れようとするその提言とは非常にかけ離れたこの告白をもって、後にそのとおりに見出された事実の、すなわち、この使臣が彼一個の考えではむしろフランス側に傾いていたということの、第一の根拠とせられた。この事はやがて法王の知る所となり、その使臣は財産を没収せられ、あやうく一命をも失うところであった。
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第十章 弁舌には早いのも、のろいのもあること



(a)いまだかつて、すべての人にすべての恵みが与えられしこと、あらざりき。
(ラ・ボエシ)

だから雄弁の天賦においても、或る者が容易と迅速、いわゆる当意即妙の才をうけて、いかなる局に面するも驚かないのに、或る者はのろくさくて、あらかじめ練り考えておいた事でなくては何一つしゃべれないのである。人が婦人がたに向って、それぞれ持前の美しさがどこにあるかに従って遊戯や運動をするようにとすすめているように、わたしもまた以上の二種類の雄弁の得失について勧告をしなければならないとすれば、当今は説教家と代言人とが専ら弁舌を職とするもののようであるから、のろいのは説教家に似つかわしく、早い方は代言人に適するとでも申そうか。なぜなら、説教家は職掌がら準備のために欲するだけの時を費やすことが許されるし、その進行は始めから終りまで邪魔されずに続けられるが、代言人の方は職掌がらしじゅう討論にはいりがちだし、相手方の意外な答弁のために脇道にそれることも多く、そうなれば自らも即座に陣容を立てなおさねばならないからである。
 けれども、法王クレメンスとフランソワ王とのマルセーユにおける会見の際には、まるであべこべの事になった。ポワイエ殿は、一生を代言人席で送った評判の高い人で、法王をたたえる演説をするよう命令をうけ、久しくその想を練っていたのであるが、いや伝えるところによると、パリからすっかり準備された草稿を持って来ていたのであるが、いよいよそれが述べられる当日になってから、法王はその周囲にある他の諸侯方の御機嫌を損ずるような事でもいわれてはと、急に王に対してその時と場所柄に最も適当していると思われる別の論拠によるようにと要求された。ところが運悪く、それはポワイエ殿があらかじめ研究してあったこととは全く違ったことだったので、彼の演説は役に立たなくなり、早速別のものを作り直さなければならなくなった。けれども彼は自分にその力がないことを覚ったので、枢機官デュ・ベレ殿に役を代ってもらわなければならなかった。
* 一五三三年のこと。フランス王と法王とがスペイン王カルル五世に対して同盟を結ぶための会見である。
 (b)代言人の役は説教家のそれよりもむつかしい。けれどもわたしの考えでは、どうやら及第する者は、説教家よりも代言人の方に多いと思う。少なくともフランスでは。
 (a)どうも一瞬の間に事をしてのけるのは機知が得意とするところ、ゆっくりと落ちついてやるのはむしろ判断のよくするところであるらしい。けれども準備の暇がないと全然言葉が出ない人、それから暇があっても特にうまく言えない人は、いずれも同じ程度に異例に属するものだ。言い伝えによると、セウェルス・カッシウスは不用意な時ほど雄弁であり、勉強のおかげよりも運のおかげをこうむることの方が多く、話中にさえぎられることがあればたちまちにこれを利用するものだから、相手の方では憤りが彼の雄弁をますます倍加することを恐れ、できるだけ彼を刺激することをさし控えたくらいだったという。わたしは実際に、生れつき辛抱強い熱心な腹案工夫なんかしてはおられない性質の人を知っている。そういう人は、愉快自由に進まないときはまるで一文の価値もない。我々はよく或る種の著作について、「燈油の匂いがする」という。それはその大部分が努力だけで出来ているような著作にはどことなくごつごつした解りにくいところがあるからだが、なおそのほかに、ひたすら立派なものを作り上げようとする執心しゅうしん、その企てに対する余りにも緊張した心の努力が、かえってその企てを窮屈にし妨害するからでもある。あたかも水があまりに激しくあまりに豊かにひしめき合うと、ほそい一つの口から流れ出ることができないようなものである
* これと同じことが、『荘子』「田子方篇」に、宋の名君が「真の画人」を見出した説話を通じて述べられている。
 わたしが今お話しているこうした性分の人には、また同時にこんなところがある。すなわち、カッシウスの怒りのような、ああいう強烈な感情に動揺刺激されることは求めないが(この勢いはあまりに激しすぎよう)、つまり、ゆすぶられようとまでは欲しないが、うごかされることは欲している。その時の、偶然の、外部からの機会によって煽られ呼びさまされることは欲している。この種の人は、もし彼がたった独りでゆくならば、ただただよろめき衰えるのみである。昂奮こそ彼の生命であり魅力なのである。
 (b)わたしは、自分で自分を把握し処理することが得意でない。偶然の方がその場合わたし自身よりも多くの力をふるう。むしろ機会とか、仲間とか、自分の声の抑揚までが、わたしの精神からより多くのものを引き出す。かえってわたしが自分独りでそれを探りそれを用いる時に見出す以上に。
 (a)それで、わたしにあっては、話の方が文章よりもいくらかうまい。いずれにしても大したものではなかろうが、どちらかといえば。
 (c)またこんなこともある。つまりわたしは、わたしのさがすところに自分を見出さないこともある。いやわたしはわたしの判断の捜索によってよりも、むしろふとした偶然によって自分を見出すのである。わたしも筆のはずみではいくらかうがった文句を吐いたかもしれない(勿論それは人から見たらつまらない・自分にとってだけ鋭い・言葉にすぎないが、まあそんな謙遜はやめにしよう。誰だって、その力に相応したことしか言えるものではないのだから)。だがわたしはそれをすっかり見失ってしまったから、その時自分が何を言おうとしたのか、今では自分にもわからない。かえって、ときには、ひと様からそれを教えていただく始末である。もしわたしがそういう場所毎に剃刀かみそりをあてるなら、何もかも全くなくなってしまうだろう。偶然が、いつかまたその上に、真昼の光よりも明らかな光を投じてくれもしよう。そしてわたしは、自分が迷ったことにびっくりさせられることであろう
* 当章の終りの部分は、後出二の十(四九三―五〇七頁)と対比して読むとよい。両方を通じて、モンテーニュの思想の本質根柢が捕捉されよう。
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第十一章 予言について



 (a)確かに託宣の方は、キリスト出現のずっと前から、すでに世の信用を失い始めていた。現に我々は、キケロがそれがすたれた原因を見出すことに努めているのを見るからである。(c)次の言葉は彼が言ったものである。※(始め二重山括弧、1-1-52)何故に今日のみならず、すでに久しく、デルフォイに昔のごとき神託が行われざるや。それが今日これ程までに軽蔑さるるは何ゆえなるや※(終わり二重山括弧、1-1-53)と。(a)けれどもその他の占いにいたっては、すなわち犠牲の獣の開腹にもとづくものや(c)(これだってプラトンによれば、半分はこれらの獣の内臓の自然の構成に基づくのである)、(a)雛鳥の足の踏み方や・鳥の飛び方や(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)或る種の鳥類は、ただもっぱらこの易断のためのみに存するがごとし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)・(a)稲光りや川の渦・などに基づくもの、(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)鳥卜師はさまざまの事を占い、解腸師もまた多くのことを予言す。大抵の事柄は、或いは神託により或いは占いにより、或いは夢により或いは天地の不思議によって告げ知らさる※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)、(a)その他人々が公の事といわず私ごとといわず、常にその企てを支持したところのもろもろの占いに至っては、みな我々の宗教が始めて廃棄したのである。なるほど我々の間にも、まだ天体や幽霊や人体の形象や夢などに基づくいろいろの方法が残ってはいるけれども、――それは我々が生れつきただならぬ好奇心をもっていて、あたかも現在の事柄を処理するだけでは事足りぬかのように、未来の事柄までも詮索せずにはいられないことの明らかな証拠である。

(b)なにゆえぞオリュンポスの宰神よ、
さらでだに憂い多き世の人に
前兆によりて未来の苦難までも知らせんとはする?
願わくばおん神のはかりごと、よきにつけ悪しきにつけ、
突如として我らをば襲えよかし。
人間の英知も運命を読むには暗くあれかし、
恐るる者にもなお一抹の希望を残せよかし。
(ルカヌス)

(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)人は未来を知りて少しも得る所なし。そはいたずらに心苦しむるのみにしてまことに不幸限りなし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。――(a)でも、昔にくらべたら、それはもうかなり権威のないものになっている。
* このあたりは前出一の三の延長線上にあり、最終章三の十三の結論につながる。
 であるから、サリュス侯フランソワの実例は、わたしには珍しく思われた。まったくこの人は、山の彼方へ遠征の折にはフランソワ王の副将ともなったし、わが宮廷においては限りない寵遇をうけたし、かつてその弟が没収された侯爵領を再び自分に賜わるようになったことを王に対して深く感謝してもいたし、それにああいう謀反むほんなどするほどの理由は何一つなかったし、その気持の上でさえあんなことをするのには反対であったのに、「カルル五世が勝つであろう、フランスは負けるであろう」という予言がいたる処に流れるのを聞くと、――それはイタリアにさえ流布された。そこではこの馬鹿々々しい流言蜚語ひごが強く信ぜられ、ローマではこのフランスが負けるであろうとの説のために莫大な金が両替された位だった、――ひどく恐れおののいて(後日明らかにされたところによるとである)、フランスの王冠の上に、またフランスにいるその友だちの上に、やがてふりかからずにはすむまい不幸を近親に向ってしばしば嘆いたすえ、とうとう我々にそむいて敵に降ったのである。どんな星占いがあったにせよ、それは彼にとって非常に損なことであったのに、彼はさまざまな感情に攻められ迫られて、夢中でこの挙に出たのであった。まったく諸城をも軍兵をもその手の中に握っていたのだし、アントニオ・デ・レヴィアのひきいるスペイン軍も彼から三歩ばかりの所にいたし、我々の方では少しも彼の心事を疑う者はなかったのだから、彼はもっと悪いこともすればできたのである。まったく、我々は彼の反逆のおかげで兵隊をも城をも全然失わずにすんだのである。我々はただフォッサンの城を一つ失っただけで、それすら、さんざん敵をてこずらせた末のことであった。

賢き神は未来のことを
深い闇もてかくしたまい、
  その身に及ばざる遠くまで
  憂いを伸ばす人間どもをば
        わらいたまえり。
毎日次のごとくに言いうるものは
おのれ自らの主人あるじとなりて、
幸福にその一生を終るべし。
「われは今日を生きたり。ユピテルよ、
  明日の日を、雲深く掩い給うとも、はた
麗らかなる日に照し給うとも、いずれにてもよし」
(ホラティウス)

今日に満ち足りて、明日を憂うる愚をばなすまじ。
(ホラティウス)

 (c)反対に次の言葉を信ずる者は、誤った考えを抱いているのだ。※(始め二重山括弧、1-1-52)彼らは次のごとく推論す。占術あれば神あり。神あるが故に占術ありと※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。むしろパクウィウスの言うことの方がはるかに賢明である。

鳥の言葉をききわけ獣の肝を知りながら
おのれ自らの理性をわきまえざる者あり。
人らみな、彼らの言葉をきき流せよかし。
  ゆめゆめ彼らを信ずべからず。
(パクウィウス)

あの名だかいトスカナびとの占術は、こんなにして生れたのである。「或る農夫が土中深くそのすきを入れたところ、子供のような顔でいながら老人の知恵を備えた半神タゲスがひょっこりと現われ出た。皆はそこに駈けつけた。そして占いの原理及び方法を含む彼の呪文と秘法とがそこで伝授され、数世紀の後までも保存された」。いかにもその後の流行にふさわしいたわいのない起源ではないか。
 (b)わたしは、こんな夢にたよるくらいなら、むしろさいでもころがして自分の問題を決定する方がいい。
 (c)いやほんとうに、いずれの国でも、たいていのことはいつも運の決定にまかせられた。プラトンも、その思いのままにでっち上げた国家において、もろもろの重大事件の決定を骰にゆだねている。そして特に、結婚が善き市民たちの間でくじによってきめられることを望んでいる。そしてこの偶然の選抜にはなはだ重きをおき、これから産れた子供たちだけを国内において教育し、悪しき結婚から産れた子供たちは国外に放逐するよう命じている。ただし、その放逐された子供たちの或る者が、万一長ずるに従って末頼もしげに見えるようなことがあれば、これを召還することができるとともに、始めは国内にとめおかれた子供たちも、将来の望みがなさそうに見えれば、これまた追放してよろしいと、規定している。
 (b)世間には暦を研究したり註釈したりして、何でもかでもそれに準拠してきめるものがある。あれ程に言ったなら当ることも当らないこともあるに相違ない。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)ひねもす的を射る時は、時には当らざるをえざるべし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)何かの拍子に当てたからといって、わたしは少しも感心はしない。いつも嘘をつくことにきまっている方が、かえってあてになるくらいのものだ。(c)それに彼らの思惑はずれを、一々帳面につける者はない。当らない方があたりまえでその方は無数にあるからだ。当れば、それこそ稀な・信じられない・驚くべきことであるから、人がはやし立てる。同じように無神論者と言われたディアゴラスも答えた。サモトラキア島に行った時、海難をのがれたものが奉納したおびただしい絵馬や献納物が神殿にかかっているのをさし示して、「どうですか。神々は人間のことにかかわり給わぬとあなたはおっしゃるが、こんなに多数の人々が神様の恵みによって救われているではありませんか」と言った者に対し、「それはね。溺れちゃった者には奉納もできないからさ。だがその方がずっと数は多いんだよ」と答えた。キケロの言うところによると、コロフォンのクセノファネスただ一人が、神々の存在を肯定するすべての哲学者の間にあって、あらゆる占いの根絶に努めたのだということだ。して見れば、(b)我々の王侯方の間にさえ、彼らのためには残念なことだが、往々にしてこのようなくだらない事にかかり合っているものがあるのも、さして不思議なことではない。
 (c)わたしは是非この眼でもって、あの二つの不思議の真偽を見きわめてやりたいものだ。すなわち未来の法王様たちの御名前とお姿とを一つ一つ予言したラ・カラブレの僧ジョアシャンの書の不思議と、ギリシアのすべての皇帝と族長とを予言したレオ皇帝の書の不思議とを。ところがわたしが、この眼でたしかに見きわめることができたのは、乱世においては人々が自分たちの運命の転変にうち驚く結果、すっかり迷信家になって、ますますその不幸の原因と前兆とを天に向って尋ねたがるということだけである。いや、人々がそのお蔭でわたしの若い頃には不思議にもあんなに幸福であったことを思うと、いわばそれは頭の鋭いひまな人たちの娯楽みたいなものなのであるから、ひとたびこの緻密な方術に熟し、これを組み合せたり解いたりすることになれると、どんな書き物の中にでも、その欲するものを何でも見出すことができるのではないか、というふうに思われる。しかし殊に彼らの手品ぺてんを都合よくするのは、予言の文句が曖昧ではっきりせず、とりとめがないということである。それらの作者は、そこに少しも明瞭な意義を与えていないから、後世の人々はこれに勝手な意味をこじつけることができるのである。
 (b)ソクラテスのデーモン〔ギリシア語ではダイモン。本来超人的、神的存在であるが、後には人間と神との中間的存在と考えられた。哲学では人間に内在する超人的偉力のこと〕というのは、おそらく彼の理性の勧告を待たないで彼に現われた、一種の意志の衝動であったろう。彼の霊魂のように非常に清められた霊魂、徳と知恵との不断の錬磨によって鍛えられた霊魂においては、この種の傾向も、たとえそれが唐突で練れていなかったにせよ、とにかく服従するに足りる重大な意味のあるものであったことは本当らしい。人は誰でも、それぞれ心のうちに何かそのように立ちさわぐ影のようなものを感じる。(c)それは偶然迅速猛烈に浮かびでる一想念の余響である。だがわたしはむしろこの方にいくらかの権威をみとめ、われわれ人間の知恵の方はあんまり信用しない。(b)わたしもたまにはそういった霊感を持つことがある。(c)その理由は問われれば弱く、そのくせわたしを勧告したり諫止したりする点ではなかなか強いことにおいてソクラテスの場合と同様だが、ただ彼においてはそういうことがよりしばしば起ったのである。(b)わたしもこれに従ってはなはだ得もしたし幸福でもあったから、やはりそれは一種神来の霊感と見てよいのではないかと思う。
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第十二章 勇気について



 (a)勇敢勇気の掟は、「我々はできる限り、我々にふりかかる不幸災難をかわしてはならない」などと言ってはいないし、「それらが我々を襲うのを恐れてはならない」とも言ってはいない。かえって、不幸を免れる公明な方法はすべて許されているだけでなく、それはほめていいのである。そして勇気の働きは、主として癒す道のない不幸に我慢して堪えるところに発揮されるのである。だから、どう身をひねろうと、どう手にもつ武器を振りまわそうと、我々はそれを悪いとは思わない。もしもそれが凶刃から我々をまもるに役立つものなら。
 (c)はなはだ好戦的な幾多の国民は、数々の戦争に際して逃走を利用し、かえって大きな得をした。背中を見せながらかえって正面を見せる以上に敵からおそれられた。
 トルコ人の間には今でも多少この方法がのこっている。
 いやプラトンの語るところによると、ソクラテスは勇敢を「敵に対して一歩も譲らないこと」だと定義したラケスをわらって、「では数歩を譲って敵を討つのは卑怯だとでもいうのかね」と言った。そしてアエネアスの退却の巧妙さをたたえているホメロスを引合いに出した。そこでラケスがその説をかえて、この戦法がスキュティア人の間で行われていること、そして終いには一般に騎馬武者の間でも採用されていることを承認したので、ソクラテスは更に、どこの国民よりも頑強に戦うように仕込まれているラケダイモンの歩兵の実例をあげた。彼らはプラタイアイの戦いにおいて、ペルシア軍の隊列を突破することができなかったので、断然意を決して後方に引退き、一度敗走したように思わせておいてから、反撃して敵の大軍を潰走させ、ついに最後の勝利をえたのである。
 スキュティア人についてはこんな話がある。ダレイオスが彼らを討伐に向った時のこと、彼は彼らの王に向って、絶えず戦いを避けて退却ばかりしていることを大いに難詰した。これに対してイダンテュルソスは(これがその王の名であった)こう答えた。「これはあなたを恐れるのでも生きとし生ける誰を恐れるのでもない。むしろこれがわが国の戦法なので、我々には守るべき耕地もなければ都市も家もないからである。敵にとられて困るようなものは何一つないからである。あなたがそんなに喧嘩をしたいのなら、試しに我々の祖先の墓地に近づいて見られよ。はばかりながら御相手を致すであろう」と。
 (a)けれども砲戦の場合に敵に銃先をむけられてから、戦争ではしばしばそういうことが起るが、弾丸にあたるのをこわがってそわそわするのは見苦しい。それは激烈迅速なものでとうてい避けられるものではないからだ。ところが手を挙げたり首を縮めたりして、いたずらに戦友の物笑いのたねとなった者が実に沢山ある。
 それはともあれ、カルル五世がプロヴァンスの我々に向って進軍して来た時のこと、グヮスト侯がアルルの城の偵察に出かけ、始めそれに身をかくして近寄って行った風車小屋の蔭からひょいと飛び出すと、忽ちに闘技場の上を散歩していたボンヌヴァル殿や法官アジュノワに見付けられてしまった。人々はそれっと、砲兵司令ヴィリエ殿に告げたので、彼はぴたりと長銃のねらいをつけた。もしこの時に、侯が発火を見ると同時に横っ飛びにとばなかったら、胴体のまんまん中を射ぬかれたにちがいなかった。それからまた同様に、数年前のこと、わが王のおん母カトリーヌ大妃には父上にあたらせられるウルバノ公ロレンツォ・デ・メディチは、いわゆる司祭領の内にあるイタリアの要塞モンドルフォを囲まれたが、御自分の方にむけられた砲門に火がひらめくよと見るや、ひょいとお首をちぢめて助かられた。まったく、そうでもなされなかったら、弾丸はおつむをお剃り申すだけにとどまらず、きっとお胸のまっただ中を射ぬいたことであろう。本当を言えば、わたしはそういう運動が意識をもって行われたとは信じない。まったく、そういう火急の場合に、ねらいが上か下かをどうして判定することができよう。いやむしろ、「運命が彼らの恐怖を憐れんだのだ。もう一遍やったら、それは弾丸をよけることにはならないで、あたることになるかもしれない」と考える方が容易である。
 (b)わたしは、もしも思いもかけぬ場所で不意に火縄銃の爆音に耳をうたれるならば、びっくりして飛び上らずにはいられまい。これは、見るところ、わたしなどよりもずっと豪胆な人たちにおいてさえおこることなのである。
 (c)ストア派の人たちも、彼らの賢者の霊魂が、ふと彼らの前に現われるどんな幻影妄想にも対抗しうるようにとは要求しない。むしろ、持って生れた癖に従うのと同じように、雷電の響や建物の崩れ落ちる音には降参して、青くなっても縮み上ってもよいとしている。そればかりでなくもろもろの感情に動かされてもよいとしている。ただその人の判断がつつがなく完全に保たれており、その理性の状態がそのために侵されたり変えられたりしていなければ、そしてその人が自分の恐怖と苦痛とに少しも同意しなければ、それでいいとする。賢者でない人々も第一段においては全然同じことで、ただ第二段に至って全然ちがって来るのだ。まったく凡人においては、もろもろの感情の印象が表面にとどまらず、深くその理性の座にまで侵入し、これをむしばみこれを腐らすのである。彼はその腐った理性によって判断し、その命令に従う。見なさい、ここにストア派の賢者の有様が遺憾なく言い現わされているのを。

彼の涙は流るるも、その心は折れず。
(ウェルギリウス)

 逍遙学派の賢者も心の動揺は免れてはいないが、これをおさえている。
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第十三章 王侯会見の儀礼



 (a)いくらつまらない問題でも、まったくこの雑録の中に席を占めるに足りないということはあるまい。われわれの普通の規則から言っても、訪問の知らせを受けていながら家で待っていないのは、目上に対してはもちろん同輩に対してさえ明らかに失礼であろう。ナヴァールの女王マルグリットも、こう言いそえておられるくらいだ。「来られるお方がとんなに偉いお方であろうと、これをお迎えするために、よく見られるところではあるけれど、主人がお迎えに出るということは、礼儀しらずである。むしろ家にいてお客様を待つ方が、行き違うまいとの心遣いからだけでも、ずっと丁寧である。ただそのお立ちの時にお送り申上げれば十分である」と。
 (b)わたしはといえば、こうしたつまらぬお勤めは、しばしば両方とも忘れてしまう。うちでは礼儀というやつは一切おやめにしているもんだから。人によっては気をわるくなさるが、いたし方がない。一ぺんだけ人の機嫌をそこなう方が、毎日毎日自分が気づまりな思いをするよりましである。しょっちゅうかしこまっているなんて真平だ。宮仕えをやめたからって、自分の洞穴ほらあなにまで同じ気苦労を引きずって来るのでは何にもなるまい。
 (a)身分の低い者ほど先に定めの場所に参集せよというのが、どんな集りの場合にも共通した規則である。待たせることはおえら方の特権なのだから。けれども、法王クレメンスと仏王フランソワとの間のマルセーユにおける御会見の際には、王は万端の用意をお命じになってからしばらく当市をお離れになり、法王が到着後二、三日の休養をとってから御前に伺候できるようにとりはからわれた。同様に、法王とカルル皇帝とがボローニアに御入城の際にも、皇帝は法王が先に到着するようとりはからわれ、御自分はおくれてお出でになった。人々の言うところによると、こういう王様同士の会見においては、身分の高いお方の方が先に定めの場所にゆくこと、つまりその会見が行われる国の王様よりも先にそこにつくことが、普通の礼儀だそうだが、人々はそれをこんな風に解釈している。すなわちこういう形式によって、位の低い者の方から位の高い者のところに出かけてゆき、そのお目どおりを願うのが当り前で、えらい人の方から出てゆくべきではないというのである。
 (c)それぞれの国ばかりではなく、それぞれの都市が、いや、それぞれの職業が、みな特有の礼儀をもっている。わたしは子供の時代からそれに対してかなりやかましくしつけられ、かなり礼儀正しい人たちの中に暮して来たから、わがフランスの礼法を知らないではない。いや、その先生だってできるくらいだ。わたしはそれに従うことが好きだけれど、余りにそれにしばられて自分の生活を窮屈にするのはごめんだ。中には苦しい作法が幾らもある。そんなのは誤って忘れるのでなく分別して忘れるのであれば、ちっとも失礼にはならない。わたしは、余りに礼儀正しくてかえって礼を失する者、ご丁寧すぎてうるさい者に、あったことがしばしばある
 要するに礼儀作法は、はなはだ有用な修業である。それは愛嬌や美貌と同様に、やがて我々を親しい交際へと導く最初の案内者である。従ってそれは、我々が他人を模範として自己を教育する道を開いてくれるし、また我々の方に何か他人が学んでためになるようなものがある場合には、それがその人の役にたつように手伝ってくれる**
* モンテーニュの少年時代の教育の根本になったのはエラスムスの『プエリス』とそれに続く『少年作法規範』であったが、父ピエールは、礼法よりもモラルの方を重んじたので、ミシェルが礼儀作法を学んだのは、一五五〇―五四年、パリ遊学時代、特にジャン・ド・モレルのサロンにおいてであろう。おしゃれやエレガンスと共にそこで学んだのであろう。いずれにせよ、モンテーニュは形式より精神を重んじている。
** この章も決してつまらぬ章とはいえない。交際を永続させるには相互の礼譲がなくてはならぬし、無作法がすぎれば喧嘩別れをもたらす。モンテーニュはこういう人心の機微をわきまえている。
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第十四章 幸不幸の味わいは大部分我々がそれについて持つ考え方の如何によること



 この章は、第一巻第二十章などと同様に一五七二年ごろに書かれたモンテーニュ初期の随想で、哲学的ストア的随想と呼ばれるものの一つである。引用や借用の語句実例が多く、やがて個性を豊かにたたえる後年のエッセーにくらべるとすこぶる書籍的で、のちに彼自らをして「外国(人)のにおいがする」(三の五)と言わしめたものの一つであるが、そのかわり、この頃のモンテーニュの哲学的態度、換言すれば理性や緊張した意志の力を信頼し、人生のもろもろの出来事、苦痛や死などを克服するために、たえず思索し瞑想している彼の姿を、よくあらわしている。だがこのストア主義は深刻なものではなく、相当茫漠としているし、加筆(b)の部分には、彼みずからの経験がながながと述べられているし、更に加筆(c)においては、本章の主意をまったく否定してはいないが、もはや意志の緊張や困難な徳に訴えるよりも良識の指示するところに従って、自然の命令におとなしく服従しようという、自然哲学が述べられる。しかもそれは初期の態度の鮮明なテキストとはなはだしい矛盾を示さないように、控え目に述べられている。この死ならびに苦痛に対する後年の心境は、やがて「気分の転換について」(三の四)や「人相について」(三の十二)の章において、いよいよ力強く言い現わされる。富裕に関する考察にいたっては、これこそほかからの借りものではなくて彼自らの経験がもとになっているだけに、本章のなかで最も興味が深い部分であろう。しかしこの恬淡てんたんぶりは決して彼生来のものではなく、やはり後得のものであろう。「旅日記」を見てもモンテーニュは案外金銭に関して几帳面である。これらの点については拙著『モンテーニュとその時代』第四部第五部や白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」のところどころを参照せられたい。

 (a)人間は(古代ギリシアの格言が言っているとおり)、物事それ自体によってではなく、彼らがこれに関していだいているところの考えによって苦しめられている。もしこの説をどんな場合にも真実であると証明することができるならば、それは我々人間本来の悲惨な境遇を慰める上で立派な根拠となるだろう。まったく、もし不幸がただ我々の判断をとおして始めて我々の中に入って来るのだとすれば、それを無視することも幸いに転ずることも我々の思いのままになるはずだと思う。もし物事が我々の思いのままになるのならば、どうして我々はそれらを支配しないのか。どうして我々のとくになるようにそれらを按排あんばいしないのか。もし我々が不幸とか苦痛とか呼びなすものが、それ自体不幸でも苦痛でもなく、ただ我々の想像がそういう性質をそれにあたえているのだとすれば、その性質を変えることは我々にできる。そうして我々に自由な選択ができ、何者にも拘束されないというならば、自分に最もつらい側に立って頑張るなんて、いかにも愚かな話である。病気や貧困や侮りに、すっぱい・いやな・味を与えるのも、我々がそれらに善い味を与えようとすれば与えることもできるのだとすれば、そして、運命は我々に素材を提供するだけでこれに形を与えるのは我々なのだとすれば、これまたいかにも愚かな話である。ところで、この我々が悪と呼ぶものは本来悪でないということ、また少なくとも、それはそのようなものであるにもせよ、それに別様の味わいや顔つきを与えることもできるのだということは(まったくこれは一つことになるが)、果してほんとうに証明できるものだろうか。
 もし我々が恐れるそれらの事柄の根源であるその本質が、それ自体の権威をもって我々の中に宿るというのなら、それはすべての人において同様な形で宿るだろう。まったく、人間はすべて一つの種に属しており、多少の差こそあれ、思惟し判断するために同じ道具器官を持っているのである。しかるに我々のそれらの物事に対していだく考えがまちまちであるということは、明らかに、それらが我々の同意をえて始めて我々の中に入って来るのだということを示している。或る人はおそらく、それらをその真の本質のままに自分の内に宿すであろう。けれども他の幾千の人たちは、それらに実際とはちがった・あべこべの・本質を与えている。
 我々は死と貧と苦とを、我々のおもな相手・かたき・と思っている。
 ところで、或る人たちが「恐ろしいものの中で最も恐ろしいもの」と呼んでいるこの死を、他の人たちが「この世の苦労を免れる唯一の港だ」とか、「自然の至上善だ」とか、「我々の自由の唯一のささえだ」とか、「あらゆる不幸に対し誰にもたちまちにきく薬方だ」とか呼んでいるのを、知らない者はないじゃないか。いや、一方がおののき恐れつつこれを待つかと思えば、もう一方は生よりもやすやすとこれに堪えているのだ。
 (b)これなる人は、

死よ。ゆめ臆病者よりその生をうばうなかれ。
死はただ徳高き者への賜物でのみあれかし。
(ルカヌス)

と、死が誰に向っても優しいことを嘆いている。
 (c)ところで次のような輝かしい勇気はしばらくおこう。例えば、テオドロスが自分を殺そうと脅かしたリュシマコスに向って、「斑猫はんみょう〔体内に猛毒をもつ昆虫〕の毒力にもまけない程の一大打撃を食らわせてくれい!」と答えたとか、大部分の哲学者たちが、わざと自らの死を進んで取ったり、あるいはそれを催促したり援助したりしたとかいう話は、やめておこう。
 (a)庶民の間にも、死の前につれてゆかれて、しかもただの死ではなく時には恥とつらい責苦さえもまじっている死の前につれ出されて、あるいは強情我慢により、あるいは天性の単純さによって、まことに泰然自若、少しも平生の有様を変えなかった者どもがたくさんいる! 彼らは、家事を始末し、あとの事を友に委ね、歌をうたい、説教をし、群衆に向って話しかけ、いや時には冗談をさえそれに交え、あるいは知人のために乾杯するなど、ソクラテスにもなかなか劣りはしなかった。或る男は首吊り場に引かれてゆく道々、「これこれの町は通らないでくれ。そこには古い借りがあるから、商人に首根っこを押えられる危険がある」と言った。もう一人の奴は首斬役人に向って、「どうか俺ののどにさわらないでくれ。笑いたくなるといけない。それほど俺はくすぐったがり屋なんだ」と言った。またもう一人は、「今夜お前は主と共に晩餐をするだろう」と彼に約束した教誨師にむかって、「じゃあ、おめえが行くといい。俺の方は目下精進のまっ最中だからな」と答えた。もう一人は、水をくれと言ってから、首斬りが先に一口飲んだのを見ると、「その後はご免じゃ、かさ〔ばい毒〕がうつるわい」と言った。あのピカルディ人の話は誰でも知っている。彼が首吊台の段に足をかけた時、人が女をつれて来て彼にすすめ、これと結婚する気なら命は助けてやろうと言ったところ(わが国の法律はときどきこんなことを許したのである)、しばらくじっと女を眺めていたが、彼女がびっこなのを見て、「吊ってくれ、吊ってくれ、女はびっこじゃ」と言った。またこんな話もある。デンマークでのことだが、或る打ち首になるべき男は、いよいよ断頭台に登ったとき、今のと同じ条件を持ちかけられると、娘のほっぺたがたるんでおり鼻がいやにとんがっていると言って、これをことわったという。またトゥールーズの或る下僕は、異端の故に訴えられると、自分の信仰の正当なことを主張するために、自分の主人すなわち自分と一緒に囚われた若い大学生と同じ信仰を披瀝した。そして、主人だってまちがうことがあると信じさせられるよりは死ぬ方がましだと言った。アラスの町の人々について我々が読むところによると、仏王ルイ十一世がこの町を奪い取った時、人民の間には、国王万歳を唱えるよりも首を吊られる方を好んだものが、おびただしくあったということである。
 (c)ナルシンガ王国では、今でも僧侶の妻は、その死んだ夫と共に生き埋めにされる。その他の女たちは、夫の葬礼に際して、生きながら焼かれる。いずれもこわがることなく、むしろうれしそうに。それから、御他界になった王様のお体が焼かれる時には、その妻妾寵童から官人使丁の末にいたるまで、すべて、上下こぞって、いかにも喜ばしげにその身を同じ火中に投じ、その君に殉ずる。あたかも主君の死の道づれになるのを光栄とでも考えているかのように。
 (a)それから道化という心卑しいともがらの間にも、そのおどけを死に臨んでさえ捨てようとしなかった者がある。執行人からいよいよ踏台をはらわれようとしたその男は、十八番の「あとは野となれ山となれ!」を絶叫した。またもう一人は、いよいよ臨終という時、煖炉の前の藁床の上にねかされていたが、「どこがお苦しいか」と医者がたずねると、「椅子と煖炉との間が苦しゅうござる」と答えた。また坊さんが最後の抹油を施そうと、病気のために曲げちぢこめた彼の足をさぐると、「それはすねのはしっこにござります」と言った。「さあ御許に参られるのじゃ。支度をさっしゃれ」と勧めると、「一体誰がゆくのさ」ととぼける。「そなたこそ、やがてゆかれるのじゃ。御召しがあり次第に」と答えると、「それは明日の晩にお願いしたいものじゃ」と答える。「余計なことを言わずと、ただ神様におすがり申せ。もう間もなくじゃ」と言うと、「そんなことなら俺が独りでお願いするわい。その方がましじゃわ」と言い返した。
 先頃の我々のミラノの戦いでは、あまりにも奪取と奪還が繰り返されたので、人民はそのような運命の転変のあわただしさに堪えきれず、深く決死の覚悟をかためた。わたしが父から聞いたところによると、一週間に自分からその身を殺した家長たちが、ゆうに二十五人を数えたほどであったという。これにつけて思い出されるのは、クサントスの町に起った出来事である。ブルートゥスに攻囲されたこの町の人々は、男も女も、また子供たちも、こぞって狂ったように死を願った。彼らは我々が死を避けようと努めるのと同じいきおいで生を避けようと努めたので、まったく手の施しようがなく、ブルートゥスも、そのごく少数を救いえたにすぎなかった。
 (c)どんな思想もたやすくこれをまげることはできない。人は命にかけてそれをまもる。ペルシア戦争の時にギリシアが誓いかつ守った、あの堂々たる誓約の第一箇条は、「我々の法をペルシアの法にかえるくらいならば、むしろ生を死にかえよう」ということだった。いかに多くの人々が、あのギリシアとトルコとの戦いの時、割礼をうけて邪教に従うことを拒み、いかに苛酷な死を甘受したか。だがこのくらいのことはどんな宗教も平気でやってのける事柄である。
 カスティリャの王たちがユダヤ人をその領土から放逐するや、ポルトガル王ジョアンは一人あて八エキュで彼らが自分の領内に避難することをゆるした。「約束の日が来たらすぐに退去すること」という条件で。だがその代り王の方でも、その時は彼らのためにアフリカ行の船を仕立ててやる約束をした。その日が来た。「その日がすぎても命令に従わないものは永く奴隷とする」とは、かねて布告されていたことであったが、彼らに提供された船の数はごく少なかった。しかもこれに乗り込むことができたものも、船子どものために散々に虐待された。彼らはいろいろな侮辱を加えられたばかりか、海の上を前に後にと散々に漕ぎまわされたために、しまいにはもって来た食料もたべつくし、高い金で、長いこと、船子どもから食料を買わねばならないというわけで、やっと岸におろされた時は、何れも皆シャツ一枚というひどい有様だった。やがてこういう顛末が風のたよりにとりのこされた人たちに伝わると、その大部分は奴隷に落ちる決心をした。或る者どもは改宗をした風を装った。やがてエマヌエルが王位につくと、始めは彼らを解放したが、後にその考えを変え、特に彼らの渡航のために三つの港を指定し、或る期間内に国外に退去するよう布告した。つまりこの王は(と現代における最も優れたローマ史の専門家オゾリオ司教が言っている)、始め彼らに自由をゆるしてやったにもかかわらず、結局彼らをキリスト教に改宗させることができなかったので、今はただ、さきの同胞と同様に船子どもの掠奪に身を委せるつらさや、今まで大きな富をいだいて住みなれた土地を去って見も知らぬ異郷におもむかねばならぬつらさを思いしらせて、何とか彼らを改宗させようと、望んだのであった。ところがこの希望は見ごとにはずれ、彼らがみな渡航の決心をしたのを見ると、王は始めに約束した三つの港の中の二つを閉鎖した。そうすれば、渡航の永びくことやこれに伴ういろいろな不便を考えて、少なくとも彼らの幾人かはその決心を飜すであろう、いやむしろ、こうして彼らをすべて一カ所にまとめておけば、予定の事柄を実行するのにもすこぶる便利であろう、と考えたからである。その予定というのはほかでもない。王は、十四歳未満の幼な子を父母の手から奪い、親たちの眼も言葉も届かないところに連れてゆき、そこで我々の宗教を教え込んでやろうと思ったのであった。伝えられるところによると、その結果は恐ろしい光景となって現われたそうである。親子の間の自然の情愛や、旧来の信仰に対する熱情が、この乱暴な命令に抵抗したからだ。いたるところに、われとわが命を絶つ父と母とを見た。いや、もっと恐ろしかったのは、わが子可愛さいとしさの余りにこれを井戸に投げ入れ、そうやってまで命令を免れさせたことである。でも、あらかじめ約束された期限がきれると、やはり彼らはやむなくもとの奴隷にかえった。或る者はとうとうキリスト教徒になることはなったが、これらの人たちの・いや彼らユダヤ人の・信仰を、それから百年もたった今日といえども、心から本気にするポルトガル人はほとんどないのである。長い月日と習慣とは他のいかなる強制にもまして力ある勧告者であるとはいえ。キケロは言った。※(始め二重山括弧、1-1-52)我が大将達のみならず、雑兵の末にいたるまで、こぞって確実なる死におもむきしこと、そも幾度なりしぞや※(終わり二重山括弧、1-1-53)
* ユダヤ人の信仰うすきを責めているのではない。人は他人の信仰をかえようとして強請しても無駄であるというのである。自分の信仰だけを守っていればよい、というのが、このパラグラフの真意である。モンテーニュは、ルーテル派、カルヴァン派の折伏精神を非とし、自分はあくまでカトリックだと言いたいのである。
 (b)わたしはわたしの親しい友人の一人が、まこと愛慕の情をもって、ひたすらに死に赴くのを見た。その情は、わたしの力ではとうてい打ち倒すことのできないさまざまな論拠につちかわれて、彼の心の底に深くその根をおろしていた。だから栄光を帯びた死がひとたび彼の前に立ち現われると、すぐさま、別に何という理由もないのに、激しく切に死に餓えていたかのごとく、その前に身を投じた。
 (a)我々の時代にも、人々が、いやこどもさえもが、ごくささいな不快を苦にして自殺した例はいくらもある。古人はこれについて、こう言っている。「卑怯者がその隠れ家として選んだものまでこわがるなら、われわれにとってこわくないものは一つもあるまい」と。こんにちよりも人々がもっと幸福だった時代に、平然として死んだとか死を待ったとか、または、ただこの世の苦しみを免れたいためばかりでなく、或いは単に生きるのに飽きあきしたとか、或いはより良い境遇をよそに得ようとか望んで、自ら進んで死を求めたとかいうような、貴賤男女あらゆる宗派の人々の名前を、ここによみ上げるような愚をわたしは決してしないだろう。まったく、そういう人たちは数限りないのだから、死を恐れた者を数え上げる方がずっと気がきいていよう。
 ただ一つだけ申すことにしよう。哲人ピュロンは、或る大嵐の日にたまたま舟に乗り合せたが、自分の周囲で最も恐れ騒いでいる人々に向って、同じく船の中にあって少しもこの暴風雨に気をとられていない一頭の豚を指し示して、人々をはげました。ということは結局、こう我々は言わねばならないことになるのではあるまいか。すなわち「我々があんなに珍重するところの・そして我々が万物の霊長たるゆえんのものとして有難がるところの・その理性という特権は、畢竟ひっきょう我々が自ら苦しむために授かったのか。物事の知識が一体何の役にたとう? もしこれがあるためにかえってこれがなければけられる平静を失うのだとすれば。そして、もしそれが我々をピュロンの豚よりもみじめなものにするのだとすれば。せっかく我々は最大の幸福のために知性を授けられたのに、どうしてこれを自己を滅ぼすために用いるのか。何だって、人は、おのれの道具方便をそれぞれの利益安楽のために用いるようにとのぞんでいる自然の意図・宇宙万物の秩序・に逆らうのか」と。
* モンテーニュは、ここではまだピュロン説を支持していない。むしろそれを疑っている。彼はこのとき、なお純然たるストア学者であって、哲学が死を蔑視する上に有効であることを確信している。次のパラグラフはこのストア主義に対するピュロン説の反駁である。
「なるほどね」と人はわたしに言うであろう。「なるほど君の掟も死については役立つかもしれない。だが貧乏についてはどういうことになるかね? 苦痛についてはどういうことになるのかね? (c)アリスティッポスやヒエロニュモスや(a)大部分の賢人たちは、これを最大の悪と見なしたではないか。それを口先では否定していた人たちも、行為の上ではこれを肯定したではないか」と。ポセイドニオスが激烈な病に苦しみ悶えているところにポンペイウスが訪ねて来て、「これは悪い時に哲学の教えを聞きに参りました」と詫びたところ、「いやとんでもない。わしはそれほど苦痛に参ってはおらんよ。いつものとおり哲学を講ずることができるよ」とポセイドニオスは答えるや、早速苦痛の蔑視という問題について滔々とうとうとやり出した。けれども、その間も苦痛はその役目を演じており、絶えず彼を折檻していた。それで彼はこう叫んだ。「なかなかやるな、苦痛よ。だが苦痛は悪なりとは、どうあっても言わないぞ」と。この話は人々がよく引合いに出すものであるが、果してそれは、彼が苦痛を蔑視したことの証拠となっているか。それはただ言葉の上の論議にすぎない。もしこの時これらの刺激が全く彼を動かしていないとすれば、なぜ彼は講演をとぎらせたのか。なぜ苦痛を悪と呼ばないと、さもえらそうに言っているのか**
* 「汝モンテーニュのストア学説」の意味である。「哲学は死を克服する」という説を指している。
** 以上のようにモンテーニュはピュロン説者の言いそうな抗議を仮想して、次に自らの考えをのべる。
 だが、こういうことはただ想像だけの問題ではないのだ。そのほかに我々は判断をも働かせているので、その時は確実な知識がその役を承っているのだ。我々の感覚こそすべての審判者なのだ。

もしここに感覚が頼むに足らずとせば、
全理性もまたむなしからん。
(ルクレティウス)

 我々は我々の皮膚に、鞭の打撃をくすぐったいと思わせることができるか。我々の味覚に蘆薈ろかいを銘酒グラーヴのように思わせることができるか。こうなると、ピュロンの豚も、我々の仲間なのだ。なるほど彼は死の前では恐れないが、これを鞭うてば鳴きもするし苦しみもする。日の下なる生きとし生ける者は、苦痛にあえば震えるという自然の一般的な習性を、まげることはできない。樹木でさえ、これを傷つければうめくように思われる。ところが死は、ただ一瞬間のことであるから、ただ思考によってしか感じられない。

それは過ぎたるか、或いはまさに来らんとするもの。
その内には現在的なる何ものもなし。
(ラ・ボエシ)

死そのものは死の待望ほどに苦しからず。
(オウィディウス)

 百千の動物、百千の人間は、あなやと思う間もなく死んでしまう。いやまったく、我々が死において、もっぱら恐ろしいと言っているのは、いつもその前ぶれをする苦痛なのだ。
 (c)だがある教父の言ったことが本当だとすれば、※(始め二重山括弧、1-1-52)死はその後に来るものによってのみ不幸なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(聖アウグスティヌス)なのだが、それよりか、「先にゆくものも後に来るものも、共に死の属性ではない」と言う方が真に近いように思われる。我々の弁解は嘘である。いや、わたしの経験では、やっぱり死を想うことが堪えがたいからこそ、いっそう苦痛が堪えがたいものになるのだ。苦痛が死をもっておどかすからこそ、我々は苦痛を二倍にもつらく感ずるのだ。けれども理性がかくも唐突な、かくも不可避な、かくも非感覚的なものを恐れるのは卑怯だとあまりにくさすものだから、やむをえず我々は、もう一方の幾分か許してもらえそうな口実をとることになるのである。
* 「死を恐れるのは、これに伴う苦痛のせいだ」「死がこわいのではなくて苦痛がいやなのだ」という弁解は嘘であり口実にすぎぬ。
 ただ苦しいだけで他に危険のないすべての病気を、我々は危険のない病気と呼ぶ。歯の痛みや足腰の痛みは、どんなに痛くても命取りではないから、誰もこれを病気の中に数えないではないか。だが、まあよい。ここでは一応、我々は死の中に主として苦痛を見るのであるということにしておこう。
 (a)例えば貧乏にしても、ただそれが飢えや渇きや暑さや寒さや不眠などによって我々を苦痛の腕のうちに投ずればこそ恐れられるので、その他には、何もこわいところはないのである。
 そこで、ただ苦痛だけを問題にしよう。わたしもまた、それが人生最悪の不幸であるとすることに賛成する。喜んで賛成する。まったくわたしは、今までのところは、有難いことに、あまり苦痛とは御縁がなくているけれども、それを最も忌み嫌い、それを最も避けたがる男なのである。だが、我々は、これを絶滅することはできなくても、これを忍耐によって軽減することができる。肉体はこれによってかき乱されても、霊魂と理性とは良い状態のうちに保つことができる。
 いや、そうでなかったら、誰が我々の間で、徳や勇気や我慢や太っ腹や覚悟を、重んじたであろうか。もしいどむべき苦痛がなくなってしまったら、それらは一体どこにその役目を演ずるであろうか。※(始め二重山括弧、1-1-52)徳は危険に飢えつつあり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。もし堅い地上に寝たり、物の具に身をかためて南の国の暑さに堪えたり、馬や驢馬を殺して飢えをしのいだり、その身を切り開かれ骨の間の弾丸たまを抜かれたり、さらに縫ったり焼いたり消息子を入れられたりするのに堪える必要がないならば、いったい何によって我々は凡俗にまさろうとしてまさることができるか。苦痛を避けるどころの話ではない。賢人たちはこう言っている。「同じように立派な行為のうちもっとも苦痛を多く蔵するものこそ、特にしたいと願われる行為である」と。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)我々の幸福は軽佻の伴侶たる歓楽嬉戯の中にあらず、むしろ悲痛の中にいながら我慢してそれに堪えるにあり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)だからこそ、我々の父たちは、「戦争の危険の中に武力によってえた征服は、狡知によって安全の中になされるそれに及ばない」などということを、ついに承服することができなかったのである。

徳はこれを行うに難ければ益々楽し。
(ルカヌス)

 それに次のことは我々を慰めるにちがいない。すなわち、本来苦痛は、激しければ短く長ければ軽いのだ。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)それ激しければすなわち短く、長ければすなわち軽し※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)君がそれをひどく感ずる時は、そう長くそれを感ずることはあるまい。それは自己を終らせるか君を終らせるだろう。どっちにしても同じことになる。(c)君にそれが背負い切れなければ、それが君を背負ってゆくだろう。※(始め二重山括弧、1-1-52)思いおこせ。死は大いなる苦痛を終らせることを。小さき苦痛ははなはだ間歇かんけつ的なることを。しかして我らは、大きくも小さくもなき苦痛にはよく勝つことを。されば軽ければ我らはそれを負うにたえん。堪え難ければ、劇場を出てゆくがごとく人生を退出し、その苦しみを免れうべし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (a)我々が苦痛をそのように堪えがたく思うのは、我々が我々のおもなる満足を霊魂のうちに求めるのに慣れていないからである。(c)霊魂に十分に頼らないからである。霊魂こそ、我々の境遇や行為の唯一至上の主人であるのに。肉体は、程度の差こそあれ、一つの歩み方、一つのありようしか持たない。霊魂の方はいろいろな形にかわり得る。そして自分に、それがどんなものにしろ、とにかく自分の支配に、肉体の感覚やその他外界の出来事を従わせる。だから、まず霊魂を研究し調査し、そこにその全能な弾力をよびさまさなければならない。理屈も命令も暴力も、霊魂の傾向選択には、とうてい抵抗しえないのである。霊魂が思いのままになしうるところの幾千のあり方の中から、我々の安静と存続とに最も適する一つをそれに許すならば、我々はたちどころにあらゆる危害からまもられるばかりでなく、ときには危害や災難からも愛撫されたりへつらわれたりする。
 霊魂はどんなものをも無差別に利用する。まちがった思想も夢のような考えも、彼にはりっぱに役に立つ。いずれも、我々をまもり我々を満足させる忠実な素材となるのである。
 我々の苦楽を鋭くするのは我々の精神の鋭利さであるということは見やすいことだ。畜類は、その精神を鼻輪の下につながせておき、その自由自然な諸感覚の方は肉体に委せきっている。したがって、それらの感覚はどの獣においてもほとんど一様である。それは同じような彼らの動作によってもわかる。もし我々も我々の諸器官において、当然それらに属している権能を妨害しないならば、我々はもっと幸福であろうと信ぜられるし、自然はそれらの器官に、快楽に対しても苦痛に対してもそれぞれ最も中正な度合いを与えたとも信ぜられる。いや、自然は中正ならざるを得ないのである。それは平等一般なのであるから。けれども我々はすでにこの自然の掟をふり切って、我儘勝手な我々の空想に身をまかせてしまっているのだから、せめてそうした空想を最も愉快な方向に向けるように努めようではないか。
 プラトンは我々が苦痛と快楽とに余りにとらわれすぎていることを心配している。それではあまりにも霊魂を肉体に縛りつけることになると言うのである。だがわたしはむしろ反対だ。両方をひき離すことこそ心配なのである。
 (a)ちょうど敵が我々の逃げるのを見るとますますたけり立つように、苦痛もまた我々がその前に震えるのを見るといよいよ威張る。苦痛は、それに抵抗する者の前には、案外やさしい条件で降伏するであろう。是非ともそれに対して対抗し威張らなければならない。退けば退くほど、恐ろしい破滅をわが身の上に招きよせることになる。(c)肉体は力を籠めて立ち向う場合はそれだけ堅固であるが、霊魂もそれと同じである。
 (a)だが実例に移ろう。この方が、わたしのように脚の弱い人間が追いかけるのにふさわしい獲物である。そうした実例を見れば、我々にも、苦痛はちょうどそのはめられる台のいかんによって光ったり光らなかったりする宝石みたいなものであるということや、それはわれわれがこれに与えるだけの場所しか取らないものだということが、わかるであろう。※(始め二重山括弧、1-1-52)苦しと思えば思う程、彼らの苦しみはいやまさりき※(終わり二重山括弧、1-1-53)と聖アウグスティヌスは言っている。我々は外科医のメスの一突きを、戦いたけなわな時の十太刀以上にも感じる。分娩ぶんべんの苦しみは、医者にも神様にさえも大きな苦しみと見なされており、また我々がああいう物々しさをもってやっとすますものであるが、それを上下を通じて一向に気にとめない国民がある。ラケダイモンの婦人たちのことはしばらくおく。だが、わが歩兵どもの間に立ちまじるスイスの女たちをごらん。ラケダイモンの婦人たちとどれ程のちがいがあるか。ただその夫の後を小走りについてゆく彼女たちは、つい昨日までその腹にかかえていた赤ん坊を、今日はもうその胸に抱いているというだけのことだ。それから、我々の間にちょいちょい見受けられるあの醜いなりのジプシーの女たちは、もよりの河に行って産んだばかりの赤ん坊を自分で洗い、自分もそこで水浴をする。
* 獲物というと獲たものという風に日本語の慣用は解釈させるが、フランス語の慣用では狩猟の目的物という意味にとられる。すなわちここでは、「虎や猪などのような大物」でなく、「自分のような弱虫の手にもおえる獲物、せいぜい兎か鴨ぐらいのもの」を想像させる。推理論証はむつかしくて手におえないから、自分は哲学者ではないのだから、これから実例をならべようというのである。
 (c)毎日こっそりと子供を身ごもったりおろしたりするあのいたずら娘ばかりではない。ローマの貴族サビヌスの貞淑な夫人なども、他人に迷惑をかけまいとして、じぶん独りで、人手を借りずに、いや声も立てなければうめき声ももらさないで、立派にふた児を産みおとした。(a)ラケダイモンの名もない一少年は、狐を一匹ごまかしたが、それをマントの下におし隠して、発見されまいと、腹を噛まれても我慢した(まったく彼らが盗みそこねて恥をかくのを恐れることは、我々が刑を恐れる以上であった)。またもう一人の少年は、犠牲いけにえの前に香をたいたとき火がその袖の中に落ちたが、儀式をさわがすまいとしてそのままその身を骨まで焼かせた。いやたくさんの少年たちが、ただその国の教育が課する徳の試しのために、やっと七歳になるかならずで、少しも顔色を変えることなく、死に到るまで鞭うたれるのに堪えたのである。(c)またキケロは彼らが敵味方にわかれて相戦うのを見たが、打ったり蹴ったり噛んだりしながら、気を失って倒れても、いっかな参ったとは言わなかったといっている。※(始め二重山括弧、1-1-52)習慣はとうてい自然に勝ちえざるべし。けだし、自然は無敵なればなり。されど我々は、軟弱・享楽・無為・怠惰・放縦等によりて我々の気魄を腐らせたり。我々はあやまれる考えと悪しき習慣とによりてそれを軟化させおわれり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (a)人はみなあのスカエウォラの物語を知っている。彼は、敵の大将を殺そうと思ってその陣屋に忍び込んだが、惜しくもこれを討ちもらしたので、もっと変ったはかりごとを用い、もう一遍やり直しをして祖国を救おうと思い、目ざす敵王ポルセナに向って、ただ自分の計画を明かしたばかりでなく、味方には自分と同じような・自分と志を同じくする・ローマ人がたくさんいる旨を言いそえた。そして、自分がどのような者であるかを示すためにまっかな炭火を持って来させ、そこに自分の腕が焦げ焼けるのを平気で眺めていたので、とうとう敵の方がこわくなり、命じてその炭火を除かせた。何と言ったらよかろうか、その身を切り開かれながら書見をやめようともしなかったあの人のことを。それからまた、いくら拷問を加えられても頑固にそれをあざ笑って譲らず、彼を引きすえていた刑吏のいら立った残酷の方が、また、あとからあとからと加えられた責苦の工夫の方が、とうとうかぶとをぬいだというあの人のことを。だがそれは哲学者であったと申されるか。では次の例はどうか。カエサルの一剣優がその傷をさぐられ、切り開かれながら、依然として笑いながら堪えたことを何と見られるか。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)単なる一介の剣優といえども、呻き声をあげ顔色を変えることなきにあらずや。向き合える時は勿論倒れんとする時にさえ、卑怯の振舞いを見せしことなきにあらずや。そのとどめを刺されんずる時にさえ、その喉をそむくるを見しことありや※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
* 以上二つの話は何れもセネカの「書簡」にあるのだが、二人の哲学者の名前は出ていない。
 (a)婦人たちも仲間に入れよう。誰かパリにおいて、ただ新しい皮膚のみずみずしい色香をえたいばかりに、顔の皮をむかせた女の話を聞かなかったか。その声をよりやんわりとなまめかしくしたいために、あるいは歯並びをもっと整えたいために、丈夫なすこやかな歯をむざむざと抜かせた女たちもいる。このような苦痛蔑視の実例は、いかにたくさん見られることか。どんなことが、彼女らにできなかろう? どんなことを彼女らは恐れよう? 少しでもその美しさを増す望みさえあるならば。

(b)その白髪を抜き、その皮を剥がせて、
みめ美わしからんと憂身うきみをやつす女あり。
(ティブルス)

 (a)わたしは、砂や灰を飲み、ほどよく胃を害することにつとめ、わざと青白い顔色になろうとするものを見たことがある。すっかりスペイン風の姿になるためには、大きなめ木を肉に食い入らんばかりに脇腹にあてがい、緊めたり膨らませたり、どんな苦しさに彼女らは堪えないか。堪えるとも! そのために死ぬことさえもあるというのに!
 (c)わざとおのれの身に傷をつけて自分の言葉に偽りのないことを信じさせるのは、現代の多くの国民の間で至極普通なことである。我々の王〔アンリ三世〕は、その著しい実例をいくつか物語っていられる。かつてポーランドにおいて、彼おん自らのためにそのようなことが行われたのを御覧になったのであるから。けれどもわたしは、それがフランスでもたれかれに真似されたのを知っているばかりでなく、一人の少女が、その熱烈な約束とその変らぬ心の証しとして、髪にさしていたピンを引き抜き、これをしっかりと、五度も六度も、その腕に突きさし、そのためにほんとうに皮膚がやぶれて血潮のほとばしるのを見たことがある。トルコ人はその女のために、わが身に大きなきずをつける。そして、その痕が残るようにと、すぐその上に火をのせ、信じられないほど長い間それを消さずにおく。やがて血が止って瘢痕が残るように。これを実見した人たちは、わたしにその話を書いてよこし、かつそれをほんとうのことだと断言した。しかし、十アスペルも出せば、その腕や股にずいぶん深い疵をつけるものが、彼らの仲間にはいつでも見つかるのである。
* 一五九五年版には「ピカルディの一少女」となっている。そうすると、これはグルネ嬢のことではないかと推測される。拙著『モンテーニュとその時代』第七部第四章五九一頁参照。
 (a)うれしいことに、証人は、それを必要とする時には、いくらでも出て来る。まったくキリスト教徒はそういう実例をふんだんにわれわれに提供しているのである。実に我々の聖なる指導者〔キリスト〕にならい奉って、信心から十字架を負おうとした者はおびただしくあった。我々は、大いに信ずるに足りる実見者の伝えるところによって知っている。聖ルイ王が、年老いてその懺悔僧からゆるしをえられるまで、苦行用の毛襦袢をお脱ぎにならなかったことを。また金曜日ごとに、とくにそのために箱に入れて帯びていられた五条の鉄鎖をもって、その牧師をしておん肩をうたしめられたことを。我々の最後のギュイエンヌ公、この公領**をとうとう英仏両王家にお譲りになったあのエレオノールの父君ギヨームも、その晩年の十年ないし十二年の間、苦行のためとて僧衣の下に始終鉄の鎧を着ておられた。アンジュー侯フールクは、はるばるとエルサレムまでおいでになり、おん首に縄をまとい、主の御墓の前にひざまずき、下僕の二人をして御身を鞭うたしめられた。けれどもそれは昔だけの話ではない。今でも聖金曜日には、所々方々で多くの善男善女が、肉がやぶれて骨の現われるまで、その身を鞭うたせているではないか。わたしもそれはしばしば見たけれども、ちっとも感動はしなかった。きくところによれば(まったく彼らは覆面をしてゆくのである)、中にはお金を貰って、それで他人の信心を請け負う者もいるということだけれど、苦痛の蔑視もここまで来ると、信心の欲求の方が金銭の欲求よりもずっと強いものだと知っているだけに、ほとほと感心させられる***
* ジョアンヴィル。『聖ルイ伝』の著者。
** ギュイエンヌ州、すなわち旧アキタニア。
*** 信心のためならまだわかる。信心の刺激は貪欲のそれよりも一層つよいものだから。ただ、金ほしさにこれ程の苦痛をしのぶということは、モンテーニュをほとほと感心させたのである。前出の女たちが美のために歯を抜かせたりする話と同様に。なお白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」の中にこの種の苦行者の行列を見た記事がある。「旅日記」索引「苦行会員」の項参照。
 (c)クイントゥス・マクシムスは執政であるその息子を、マルクス・カトーは奉行に任命されたその息子を、またルキウス・パウルスは二、三日の間に二人の息子を、いずれも少しも悲しみの色を帯びない平気な顔付で埋葬した。わたしはこのあいだ或る人について、「あの人は神の裁きを失敗におわらしたよ」と冗談を言った。だって、三人の立派な息子の急死がただ一日の内に、どうやら恐ろしい鞭の一撃として、彼の許に知らされたらしいのに、もうすこしで彼は、それを神様の恵みのように受けとろうとしたのである。いやわたしも、それは里子の頃のことではあるが、子供を二人か三人失ったことがある**。惜しいと思わないではなかったが、少なくとも嘆き悲しむことはしなかった。でも、これくらい人間の心を深くつくものも、そう滅多にないのである。なおこの他にも、世の人がひとしく悲しむことであって、しかもそれがこの身に降りかかろうとも、ほとんど平気でいられるであろうと思う事柄がある。実際わたしは、そのあるものがわたしの許に到来した時、とうとうそれを無視してしまったが、それは世間の人たちがはなはだこわがるものなんで、そのことだけはさすがのわたしも、赤面せずに威張って皆に披露する気にはなれないのである***※(始め二重山括弧、1-1-52)これをもって之を見れば、悲哀は物の本性より来るにあらずして、人々の考え方より来るものなりと知らざるべからず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
* トランス侯ガストン・ド・フォワがその三人の息子ギュルソン伯、フレ伯、トランス殿をモンクラボの戦闘で一時に失ったことを、モンテーニュはその「家事録」に、一五八七年七月二十六日の日付で記載している。
** この告白がもとで、モンテーニュは子供に対して冷淡であったと非難されるが、そのすぐ後に、「これくらい深く人の心をつくものはない」と言っていることを読みおとすことはできない。
*** この句はモンテーニュ夫妻の間柄について或る種の想像をゆるす。年表一五六九年の項参照。また『モンテーニュとその時代』第四部第二章参照。
 (b)人間の考えというものは大胆で限りのない、一つの強力な性能ちからである。かつて誰が、アレクサンドロスやカエサルが心配や困難を求めた時ほどの飢え渇きをもって、安穏と安泰とを願ったことがあるか。シタルケスの父テレスはよく言ったものである。「戦争をしていない時は、自分と馬丁との間に何の相違もないと思う」と。
 (c)執政のカトーがスペインの或る都市の治安を確保しようとして、住民たちに武器を帯びることを禁じたところ、ただそれだけのために大勢のものが自殺した。それは※(始め二重山括弧、1-1-52)武器なくしては生きるも甲斐なしと考える勇猛なる民※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)であったから。(b)我々は知っている。いかに多くの人々が、自分の家でその近親にとりまかれながら営む静穏な生活のたのしさを避けて、わざわざ人住まぬ広野の恐ろしさを追い求めているかを。また、自ら卑賤に身をおとし世を捨て、かえってそういう生活を心から請い求めているものさえ随分たくさんあることを。つい先頃ミラノでみまかられた枢機官ボロメオは、その爵位やその巨万の富や、またイタリアの天地やその若さなどから考えれば、いかにも享楽の巷へ誘われがちであったかと思われるが、彼はそういう境遇にありながらも己れを持することがきわめて厳格で、夏冬その衣をかえなかったし、寝るにもただ藁屑を敷くばかり、公務の余暇にはただ跪いて勉強ばかりしていられた。ごく僅かの水とパンとが書物の傍におかれるだけ。実際、食べるものといえばただそればかりで、暇という暇はみな勉強のために用いられたのである。それからまた、噂をたてられるだけでも多くの人々がぞっとするコキュに、わざと自分からなり果て、金を巻上げたり立身のたよりをえたりした男も、わたしは知っている。視覚は我々の感覚の中で最も必要なものではないにしても、少なくとも最も楽しいものである。だが、我々の器官の中で最も快適で有用なものといえば、生殖に役立つところのそれであろうと思う。ところが多くの人たちは、それを、ただあまりにも快適だという理由だけで、非常に忌み嫌った。そしてその価値のためにかえってそれを排斥した。自分で自分の眼をえぐった者は、眼に対して同様の考えを抱いたのである。
* 細君に不行跡をされて知らずにいる二本棒の亭主のことをコキュという。ここでは、わざと細君をおとりにして間男から金をまきあげる亭主のことを言っている。
 (c)大多数の最も健康な人たちは、子だくさんであることを大きな幸福と考えているが、わたしはほかの幾人かの人々とともに、それがないことを、同じく幸福だと考えている。
 いや、誰かがタレスに向って「なぜ結婚しないのか」と聞いたとき、彼は「子孫をのこすことを好まないから」と答えている。
 我々の考え方が物事に価値をつけるのだということは、われわれが多くの場合それらのものそれ自体を評価しようとして見るのではなく、むしろそれらを我々との関係において見ようとしていることによってわかる。いや我々は、それらの性質をも効用をも考えてはいない。ただそれらを得るためにはどれ程の犠牲費用を要するかということばかり考えている。あたかもそれがそれらの物の本質の一部ででもあるかのように。そしてそれらの物において、それらが我々にもたらすものではなしに、かえって我々がそれに投ずるところのものを、価値と呼んでいる。そこでわたしは、我々が出費にかけて甚だけちであるわけを理解する。出費はそれが辛ければつらい程、役に立たねばならぬと思っている。我々の考えは、決してその出費がそれだけの役に立たずに終ることを黙ってはいない。買値が金剛石に折紙をつける。困難が徳行に、苦行が信心に、苦さが薬に、値うちをつける。
 (b)誰かが清貧になろうと思ってお金を海に投げ入れる。かと思うとたくさんの人々がその同じ海を、その中からお宝を釣りあげようとかきまわしている。エピクロスは言っている。「富むということは重荷をおろすことではなくて、それを取りかえることである」と。真実、吝嗇りんしょくを生むのは赤貧ではなく、むしろ富裕である。わたしはこの事をめぐって、自分の経験を語ろうと思う。
 わたしは、少年時代を終えてから、三とおりの境遇のうちに生きて来た。第一期はほぼ二十年ばかり続いたが、わたしはその間を、元手といえば不時の収入の外にはなく、ひたすら他人の指導と援助とに頼って過した。きちんとした勘定もしなければ予算も立てなかった。すべてを運命のなすがままにまかせていたから、わたしはそれだけ愉快に、それだけ心配せずにお金を使った。その頃くらいよい時代はなかった。友人たちの財布の紐が締まるのを見るようなことは、一度もなかった。わたしは他のどんな義務よりも、返済の時をたがえない義務をきびしく自分に課していたからだ。皆はその期日を幾度となく延ばしてくれた。わたしが一所懸命に彼らを満足させようと努めていることがわかるからだった。つまりわたしは、ちびちびと、いわばけち臭く、どうやら義務を果したというわけである。わたしは生れつき支払うことにいくらかの快味を感ずる。ちょうど自分の肩からいやな重荷をおろすような・また奴隷の衣を脱ぐような・気がするからである。いや、正しいことをして人を満足させるというところに、わたしの心をくすぐる若干の満足があるからである。だが、値切ったり駈け引きをしたりしなければならないような支払いだけは別である。まったく、そういう役目を任せる人が見つからないと、恥ずかしいこと、ふとどきなことだが、わたしはそれをできるだけ延ばすことにしているのである。わたしの性格といい弁舌といい、全然相容れないあのいがみ合いがいやだからだ。およそ値切ることくらいわたしのきらいなことはない。それは純然たるぺてんと厚かましさとの取引である。一時間にわたる口論とかけひきとの末に、双方ともが、ただの五銭の修正で、約束をも誓言をもすてて顧みない。それでわたしは、借金をしてはいつも損ばかりしていた。まったく、面と向って要求する勇気がないので、わたしはいつも運を手紙に委せていたが、この手紙というやつは、大して骨を折ってはくれない。いやかえって相手の拒絶に手を貸すのである。わたしは借金のやり繰りを、あげて天の星にお委せしていた。この頃の方が後にこれを自分の用心と分別とに委せた頃よりずっと愉快で、ずっと自由だった。
 世帯持ちの上手な人たちの大多数は、このような不確かな状態で暮すことをとんでもない事と考えている。そして第一に、世間の大部分の人たちがそんな風に暮しているとは知らないでいる。だが、いかに多くの名門の人たちが、その確実なものを何もかも放棄してかえりみずにいることか。いや毎日、彼らはそうやって、王様がたや・運命の・ひいきの風むきを追っかけているではないか。カエサルはその財産をすりへらした上さらに万金の負債をした。カエサルになりたいために。また、いかに多くの商人どもが、その商法の手始めに、親代々の田畑を売りとばして、はるばるその金をインドまで捨てに行ったか。

逆巻く波をおかして!
(カトゥルス)

 当今のような信心ひでりの時代にも、なお我々の間には何千という学寮があり、多くの人たちが、そこで食べるのに必要なものをただ毎日天の恵みにまちつつ、愉快な生活を営んでいる。第二に彼ら〔世帯持ちの上手な人たち〕は、自分たちが土台にしているその確実が、偶然そのものにも劣らぬほど不確実で偶然なものであることを、さとらずにいる。わたしは貧窮を、年収二千エキュの彼方にも、あたかもそれがわたしの真向いにあるのと同じように、ちかぢかと見る。まったくわたしは、運命がどのように我々の富裕を通じて貧乏への通り路をあけるかを、知っているからである。(c)巨富と赤貧との間にはしばしば何らの中間状態がないからである。

富はガラスの器のごとし。よく輝きまたよく破損す。
(プブリウス・シルス)

 (b)またそれが我々のあらゆる防禦と堤防とをひっくり返すだけの力を持っていることばかりでなく、窮乏がいろいろな理由によって、財産のある者の許にも少しもそれのない者の許にも、同じように始終宿っていることを、知っているからである。いや、多分窮乏は、それがただひとりある時の方が、それが富裕と共にあるときよりも、かえって堪えやすいものだということもわたしは知っているのである。(c)富裕は収入からよりも整頓から来る。※(始め二重山括弧、1-1-52)人はそれぞれその富の作り手なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(サルスティウス)。(b)いや落ちつかぬ・がつがつした・いそがしそうな・金持は、ただの貧乏人よりもみじめなように思われる。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)財宝の中にある貧乏は貧困の最も苦しきものなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
 最もえらい最も富んだ王侯たちも、貧乏したとなるとたいていは極度の窮迫におちいる。まったく、貧乏がもとで暴君となり、その臣下の財産の不当な簒奪者になることくらい、きわまれる窮迫はなかろうじゃないか。
 (b)わたしの第二の暮し方は、お金をためることであった。わたしはこの事に専念して、やがてわたしの身分としては相当な貯蓄をした。わたしは日常の費用から余しえたお金以外に財産があろうとは思わなかったし、いかにそれが分明なものでも、まだ希望されるだけで本当に手の中に入らないお金なんか、当てになるとは考えなかったからである。まったく、よくわたしは言ったものだ。「もしやこれこれの災難に出あったらどうなることであろう」と。そして、さんざんそういうつまらない取越苦労をしたあげく、今申したような僅かの臍繰へそくり金でもってあらゆる不幸に備えようと、いよいよ心をくだくのであった。いや、「不幸の数は限りないものだぞ」と説く人があると、「そのすべてにでなくとも、そのどれか・その幾つか・に備えるのだ」と、返答することさえできたのだった。それには、苦しい心遣いもしないではいられなかった。(c)わたしはそのことを秘密にしていた。自分自身についてはあんなにあけすけに喋るこのわたしが、自分のお金のことになると、人なみに嘘ばかり言っていた。世間の人たちはみな、富んでいるくせにいかにも貧しいようなことを言い、貧しければかえって富んでいるふりをする。そして、自分の持っている金高は何も正直に言うには及ばないと、おのれの良心に言いきかせている。何とわらうべくまた恥ずべき用心だろう。(b)旅に出て見たら、これだけあれば十分と思われたことは一ぺんもなかった。いや余計に金を持って出れば、またそれだけの心配があった。ある時は道中の安全が案ぜられ、ある時は行李を引いてゆく者の忠誠が気がかりだった。わたしはこの行李を、わたしの知人たちも皆そう言うが、始終眼の前に見ていなければ安心ができなかった。そうかといって、千両箱を家に残しておけばおくで、何とまた疑いと心配とが絶えないことか。しかもなお困ったことに、それは人に打ちあけられない心配なのである。わたしは始終そっちの方に気をとられていた。(c)結局、金を得ることより金を守ることの方に、より多くの苦労があるのであった。(b)今言ったほどの心配はしなかったとしても、少なくともそれをしまいとするのに苦労した。その有難味に至っては、ほとんど、いな全く、わたしは得なかった。(c)いくら元手の方は殖えていっても、出費となればつらさに変りはなかったのである。(b)まったく、ビオンの言ったとおり、髪の毛の多い者も、人に毛を抜かれれば、禿げた者と同じように怒るものだ。いや、君がお金をためることに慣れ、或るお金の山に気をとられるようになったら最後、それはもう君の役には立たなくなる。(c)君は到底それを突き崩す気にはなれないだろう。(b)それは、御想像のとおり、ちょっとでもこれに触れれば忽ちにして崩れ去る建物である。それに手をつけるためには、いよいよ窮迫が君ののどを締めあげるようにならなければならない。いやわたしだって、以前には、ずっと楽な気持で、ずっといやがりもせずに、衣類を質に入れたり馬を売ったりしていたくせに、かえってこの時期には、かくし持ったるあの大切な財布の口を、なかなかゆるめようとはしなかったのである。けれども危険なのは、人が容易にこの欲望に対して一定の限度を与えることができないこと((c)この限度というものは、よいと信じられる事柄の中では特に見出し難いのである)、(b)倹約というものは適当な程度で打切ることができないことである。人はだんだんとこのお金の山を大きくし、一つ一つその数をふやしてゆく。そしてしまいには、浅ましくも自分自身の財産を享楽することをやめ、それをそっくりしまっておいて、ただの一銭も使うまいとするようになる。
 (c)こうしたわけから、しぜん、富裕な都市の大門や城壁の護衛にあたるのは、最もお金にゆたかな人たちということになる。お金持というものは、わたしから考えると、だれもみなけちん坊である。
 プラトンは、肉体的ないし人間的幸福を、「健やかさ、美しさ、力、富」という風に分類した。そして、「富は、知恵の光に照らされると、盲目どころか千里眼である」と言っている。
 (b)小ディオニュシオスは、これに関して味なことをやった。彼は或る人から、彼に仕えるスュラクサイ人の一人が地中にお宝を埋めたことをきくと、その男に、早速それを持って来るように命じた。男は一応命に従ったが、そっとその一部分を隠しておき、やがてそれを持って他市に走った。ところがそこでは、それまでのお金をためる欲望をなくしてしまい、ずっとゆとりのある暮し方を始めた。それを聞くとディオニュシオスは、さきに召しあげたお宝を返してやり、「やっとお前にもお金の使い方がわかったようだから、喜んでこれを返してつかわす」と言った。
 わたしもそんな状態で数年を過した。が、なんというよい守神か知らないが、有難いことにも、わたしをちょうどそのスュラクサイ人のように、そういう状態から外に投げ出してくれた。そして、わたしにそれまでの貯蓄をそっくり投げ出させた。或る大がかりの旅の面白さがそれまでの愚かな考え方をけっとばしたのだ。そこでわたしは、ふたたび(わたしは感じたままに言うが)、確かにそれまでよりはずっと愉快で・ずっと整った・第三の生活状態に立ちかえった。つまり支出も収入も共に自然にまかせるようになったのである。出費が先になることもあれば、入金の方が先になることもある。が、その一方だけということはほとんどない。今、わたしはまったくその日暮しで、目の前の・毎日の・入り用をみたすだけのものがあればそれで満足している。だって、非常の場合を考えたら、世界中の金を積んだところで、まだ足りないだろう。(c)いや、「運命が、そのうち、十分にかれ〔運命〕に敵対する武器を我々に提供してくれるだろう」などと期待するのは馬鹿げている。我々の武器をもってこそ運命を倒さなければならないのだ。偶然がかしてくれるような武器はどたん場で我々を裏切るだろう。(b)わたしが金を積むのは、ただそのうち何かにそれを使ってやろうと思えばこそである。土地なんかを買うためではない。(c)そんなものにわたしは用はない。(b)むしろ愉快を買いたいからである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)得んとの欲望を持たざるは富なり。買わんとの欲望を持たざるは収入なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)わたしは財産がなくなることを大して恐れもしないし、それが増加することをあえて願いもしない。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)富の果実は豊穣、豊穣の標準は満足なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)いやわたしは、こうした改心が自然にけちになりがちな年頃に、わが身の上に到来したために、老人どもにきわめて有りがちなこの病、あらゆる人間の狂気の中で最もわらうべき狂気を、どうやら払いおとすことができたことを、大いに喜んでいるところである。
 (c)フェラウラスは貧富両様の運命を経過する間に、財宝が増加したからといって、飲んだり食ったり眠ったりその妻を抱いたりする欲望が増加するわけではないことを知り、また一方、わたしとおなじように理財のわずらわしさをいよいよ重くその肩に感じたので、自分の忠実な友で常に富の追及に余念のない或る貧しい青年を喜ばそうと決心した。そして莫大なその全家産だけでなく、気の良いその主人キュロスからの恩恵だの戦争だののおかげで、なお日々に増量しつつある分までも一緒に、これに贈った。だが同時に、彼はその青年に、自分を賓客とし友人としてねんごろに扶養する義務を負わせた。その後二人は、そのようにして、両方ともが同じようにそれぞれの境遇の変化に満足して、きわめて幸福に余生を終った。これこそわたしが心から真似して見たいと思うことである。
 いや、わたしの知っている或る年老いた司教の境涯をこそ、わたしは大いにほめたい。彼はきわめて奇麗さっぱりと、その財布を、その収入をも支出をも、召使のあるいは甲にあるいは乙にとあずけてしまわれたので、ご自分は全く御客様のように、世帯向の苦労は少しも知らないで、いとも静かに、ながくながく余生を保たれたのである。他人の善意を信ずるということは、その人自らの善意をあかしする小さくない証拠である。だから、神様は喜んでそういうことをお助け下さる。実際、彼の場合にしても、わたしは彼の家ほど立派にまた常に変りなく整頓されている家を見たことがない。自分の欲求をそういう正しい程度に整えているために、自らは心配もせず窮屈な思いもしないで、しかも何の不如意も感じない人、財産が集まろうと散ろうと少しも気にならず、そんなことよりもずっとふさわしい・静かな・しかも自分の心にかなった・別の業に打ちこんでいられる人こそ、何とも幸福ではないか。
 (b)だから、富裕と窮乏とは、各自の考え方次第なのだ。そして富だって、栄光や健康と等しく、それを所持する者がそれに貸すだけの美と愉快とを持つにすぎないのである。(c)各人は、それぞれの考え方次第で、幸福でもあり不幸でもある。人が見て幸福だとおもう人ではなしに、自分で本当に幸福だと思う者こそ、満足しているのだ。いやここでは、ただそう思う心だけがその本質と真実とを与えられるのだ。
 運命は我々を幸福にも不幸にもしない。ただその材料と種子とを我々に提供するだけである。それらを、それらよりも強力な我々の霊魂が、自分のすきなように、こねかえすのである。これが我々の霊魂の状態を幸福にしたり不幸にしたりする・唯一の・おもな・原因なのである。
 (b)外からつけ加えた物は、内部組織の色と味とを帯びる。それは、着物がそれ自体の温かさをもって我々を温かにするのではなく、我々の体温をもって我々を温かくするのと同じことである。着物はこの体温をおおい保つだけのもので、もしそれで冷たい物体を包むならば、それは同様にその冷たさを保つ役にたつであろう。そのようにして氷や雪は保存される。
 (a)本当に怠け者には勉強が・酒飲みにとっては禁酒が・責苦となるのと同様に、贅沢者には粗食が苛責であり、ひ弱でものぐさな男には労働が拷問である。これは他の何事についても同じことである。物事はそれ自体、そんなに苦痛でも困難でもないので、むしろ我々の弱さ意気地なさが、万事をそのようにしてしまうのである。高尚偉大な物事を判断するには同じく高尚偉大な心がいる。そうでないと、我々はこれに我々の不徳をなすりつけてしまう。真直ぐなかいも水の中では曲って見える。ただ物を見るだけではいけない。どういう風にそれを見るかが肝心である。
 そこでだ! 人間は死を蔑視せよ・苦痛に堪えよ・といろいろに教えさとす哲理があれほどたくさんあるのに、どうして我々は、その中から自分たちのためになるようなやつを取り上げようとはしないのか。いやさ、あれほどたくさんの思想がそのことを他の人たちには得心させたのに、何だってわれわれは、その中で最も自分の気質に適するものを取って自分に適用しないのか。病気を根絶するために思いきって強烈な瀉下剤をのむことができないというなら、せめて病気を軽くするために緩和な下剤くらい用いたらどうだ。(b)※(始め二重山括弧、1-1-52)我らは快楽においても苦痛においても、女々めめしく弱し。しかも、柔弱の中にとろけ腐りたれば、蜂にさされたるのみにて泣きわめく……。万事は自制を学ぶにあり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)それにいくら苦痛の激しさと人間の弱さとを極言したところで、とうてい哲学からのがれるわけにはゆかない。まったくせっぱつまれば、哲学はきっと開きなおって、次のような負かすことのできない返答をあえてするであろう。「窮迫ネセシテの中に生きることはつらいけれども、少なくとも窮迫ネセシテの中に生きることは必ずしも必然ネセシテではない」と。
 (c)どんな人も長く不幸であることはない。その人のせいでなければ。
 死にも生にも堪える勇気がなく、抵抗することも避けることも望まない男は、一体どうしてくれたらよいのか
* これは最も晩年の加筆分であるが、やはり彼は、明らかにピュロン説をしりぞけている。すなわち、どっちつかずの懐疑論者は始末におえないと吐き出すように言っている。
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第十五章 みだりに一つのとりでを固守する者は罰せられる



 (a)勇気にも他の諸々もろもろの徳と同じくその限度がある。それをふみ越えると、人は不徳におちいる。つまりよくその限界をわきまえないと、とかく勇気から無鉄砲・強情・狂乱にとおもむきがちである。じっさいそれらの境界に臨んで正しい選択をすることは容易なことではないからである。こういう考えから、「兵法上とうてい守り切れない一つの砦を頑固にまもる者は罰すべきで、死刑をもってしてもいいくらいだ」という、我々の戦時の習慣は生れたのである。そうでなかったら、罰せられないのをよいことにして、鳥小屋みたいなちっぽけな砦までが、大軍を阻止せずには済まされないことになろう。総元帥モンモランシー殿は、パヴィア攻囲の際、ティティノ河を渡って郊外サン・タントワヌにたむろすべき命をうけていたが、橋の向うの或る塔が頑強に抵抗して邪魔になるので、遂にこれに砲撃を加え塔内の者をことごとく絞首刑にした。それからまた、後にアルプスを越えた遠征の際にも、太子様に従い、ヴィラノ城を奪取したが、城内のものを、ただ大将と旗手だけを残して、ことごとく狂暴な兵士たちに虐殺させたばかりでなく、その二人をも最後に絞首刑にした。やはり同じ理由によってである。大将マルタン・デュ・ベレもまた、同じ地方のトリノの太守であったとき、城砦を奪取するとすぐに、兵士たちをことごとく虐殺させたのち、同じく大将サン・ボニを絞罪にした。けれども、城が強い弱いの判定は攻める方の兵力と比較してなされる。まったく誰かが二挺の銃に対して頑張るのは正当であるにしても、ひとりで三十門の砲に対抗するのはめちゃと言わねばならぬ。だから、勝ちに乗じた王様の御威光や、その評判や、世間のこれに払う尊敬などまでが勘定に入る場合は、いくらか味方を買いかぶる危険がある。そして同じように、誰も彼もが自分および味方の兵力を過大視し、自分たちに楯つくに足るものは何一つないかのように思いこみ、その運のつづく限り、抵抗にあういたるところに、その匕首あいくちを突き出す、というようなこともおこる。これは昔東洋の君主たちが用い・今なおその後継者たちが用いている・あの傲慢不遜で野蛮な命令の充満した勧告や挑戦の文の中に読まれるとおりである。
 (c)それからポルトガル人がインド征服のついでに通った地方には、「王自らあるいはその副将によって討ち負かされた敵に対しては、身代金や助命の交渉などに応ずる必要はない」ということを、一般の・侵すべからざる・規則としている国々があった。
 (b)だからできるだけ、勝ちほこった武装せる敵の裁判官の手にはかからないよう、特に用心が必要である。
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第十六章 卑怯の処罰について



 (a)わたしはかつて、武将のほまれ甚だ高いさる王様が、「心底卑怯だからといってその兵士を死刑に処してはならぬ」と主張されるのを聞いたことがある。その時王様は、食卓についておられたが、ブローニュを敵の手に渡したというかどで死刑に処せられたヴェルヴァン殿の訴訟のお話をあそばされた。
 まったく、我々の弱さから来る過失と我々の悪意から来るそれとの間に大きな区別をするのはもっともなことである。実際、後の場合には、我々は故意に自然から賦与されている理性の掟にさからっているのであるが、前の場合には、その同じ自然が我々をそういう不完全無能力に委せたのであるから、むしろその罪は自然に転嫁することもできそうに思われるのである。だから多くの人々は、「人は我々が良心に反してなしたことに対してだけ、我々を責めることができるのだ」と考えた。じっさい、異端者や不信者に首きりの刑を適用する人々の考え方は、一部分この規則の上に立っている。「代言人や裁判官は証拠不十分のために誤審をしても責任を問われない」とする意見もまた、同じである。
 けれども卑怯なふるまいは、確かに恥ずかしさ不面目によってこれを罰するのが最も普通な方法である。そして聞くところによれば、この規定は立法家カロンダスによって始めて実施されたもので、彼以前にはギリシアの法律は戦場から逃げ帰った者どもを死をもって罰していたのであるが、彼が始めてそのような手合にはただ女の着物を着せ三日間町の広場に坐らせることとし、彼らがそれに恥辱を感じて再び勇気を振いおこすよう、もう一度お国の役に立つよう、期待したのだということである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)徒らに彼の血を流すよりは、それを彼の頬にのぼらしめよ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(テルトゥリアヌス)。(a)ローマの法律もむかしは脱走兵を死刑にしていたらしい。まったく、アミアヌス・マルケリヌスは語っている。皇帝ユリアヌスは、パルティア人攻撃の際に敵にうしろを見せた部下の兵士十人を罰するに、まずその官位を剥いでから、「古法に従って」(と彼は言っている)これに死を賜わったと。けれども他の場合には、同じ罪を犯した他の兵士たちを罰するのに、ただ彼らに重荷をしょわせて捕虜たちの仲間に入れただけであった。(c)カンナエから逃げ帰った兵士たちに対し・また同じ戦争においてグナエウス・フルウィウスと共に敗走した者どもに対して・ローマの民が与えた酷刑も、死刑にまでは到らなかった。
 けれども恥ずかしさが彼らを破れかぶれにし、味方に対してただ冷淡にするのみならず、かえって敵たらしめることも恐れなければならない。
 (a)我々の父たちの時代に、かつて元帥シャティヨン殿の軍の副将であったフランジェ殿は、元帥シャバーヌ殿の命によりリード殿に代ってフォンタラビアの太守に補せられたが、この城をスペイン人の手に渡したので、貴族たる位をうばわれ、彼もその子孫ももろともに、納貢のうこうの義務を負う・帯刀の権のない・ただの平民におとされた。そしてこの残酷な判決は、リヨンにおいて実施された。それからのち、ナッソー伯がギュイズ城に攻め入った時も、そこに居残っていた貴族たちは、ことごとく同様の罰を受けた。いやそのまた後にも、そういう目にあった者は他にもなおたくさんある。
 けれども、あらゆる普通の度をこえた・あまりにひどい・あまりに著しい・無知あるいは卑怯があったら、それは悪意悪心の十分な証拠と見なしてそれ相応にこれを処刑するのが当然であろう。
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第十七章 或る使臣たちの態度



 (a)わたしは旅に出ると、いつも他人ひととの交際から(それこそ最良の学校の一つなのであるから)常に何事かを学びとろうと思うので、それぞれが最も得意とする事柄に関してわたしの話し相手になるような人たちを、伴いゆくことにしている。

風を論ずるは船頭、農事を語るは農夫、負傷を語るは戦士、
しかして、羊の群れにつきて語るは羊飼。
(プロペルティウス)

 ところが世間は最もしばしばあべこべで、人はそれぞれ自分の職業よりもかえって他人のそれについて話すのである。そうすればそれだけ新たな評判がえられると思っているのだ。アルキダモスがペリアンドロスに、彼が名医のほまれをすててへぼ詩人のそれを得ようとしたのを咎めているのは、そのよい証拠である。
 (c)見たまえ、カエサルがその橋梁兵器を建造する工夫を説明するためにいかに長々と語ったかを。そしてその代りに、専門の役目について・武勇や兵略について・語る場合にはいかにその言葉をつつしんだかを。
 彼の数々の手柄は彼が優れた大将であることを十分に語っている。そこで彼は、優れた技師であるといういわば専門外の才能の方を人に知らせたかったのである。或る法学を専門とする人は、つい先頃、彼の専門の書を始めその他いろいろの書物の備わった或る文庫の参観に連れてゆかれたが、そこには少しも語り出す機会を見出さなかった。ところが、文庫の螺旋階段のきわに置かれてあったバリケードを見かけると、いきなり立ちどまって、堂々と講釈を始めた。それはたくさんの将兵たちが毎日目にしながら、一向に注意もしなければあやしみもしなかった物であった。
 大ディオニュシオスは、その生れにふさわしく、はなはだ偉大な武将であった。けれども、もっぱら詩によって己れをあらわそうと努めていた。だが詩なんかまるでわかってはいなかった。

(a)のろき牛、くらを負わんとし、馬、すきを牽かんことを願う。
(ホラティウス)

 (c)こんな風では、おまえたちも、これといって何一つしでかすことはあるまい。
 (a)だから、建築家も画家も靴屋も、その他誰でも、それぞれの専門に追いやらなければいけない。それで、そういう考えから、歴史の本を読むに当っては、それはあらゆる人々の物するところであるから、わたしはその作者が誰であるかを考えるようになった。もしそれが文学を職とする以外には何もしない人であれば、わたしはそこにもっぱら文章や語り方を学ぶ。もしそれが医者であるならば、その気候や・王侯の健康体質や・怪我や病気・について述べているところを、特に信用する。もし法律家であるならばもろもろの権利に関する論議・諸般の法令・国家の組織・その他それに類する事柄を、神学者ならば宗教界の諸事件・宗門上の検閲や・赦免ないし結婚のことを、朝臣ならば故実や儀式を、武人ならばその道のことども、特に彼らが親しく行った功名手柄の物語を、使臣ならばいろいろな工作や交渉や権謀術数のことなど、そしてそれらをどのように行ったかなどを、それぞれ学びとることにしている。
 そういう理由から、他の人のであったなら気をとめずに見すごしたであろうことを、わたしはそれらの事柄にかけてきわめて通じておられるランジェ殿の記録の中では特に重視した。というのは、そのランジェ殿は、皇帝カルル五世が、ローマの法王庁で、わが国の使臣たるマコンの司教やデュ・ヴェリ殿を前にして堂々たる演説をなされたことや、そこにいろいろと我々を侮辱する言辞をまじえられたこと、なかでも、「もしわたしの将卒および臣下が、忠節ないし武芸においてフランス王に仕えるそれらと異なるところがないというなら、直ちにわたしは首に縄をまとってフランス王の膝下に憐れみを乞うであろう」とまで豪語したこと(このことについてはかなり確信があったらしく、彼はその後も、その一生を通じて二、三べん、同じ言葉を吐いたことがある)、それからまた、「それぞれシャツ一枚になり、剣と首とで舟の中で勝負をしよう」とわが王様に挑んだこと、などを物語ったのち、更につづけて、「前記のわが使臣たちは、これらの事柄を王に報告するに当ってその大部分をいつわったのみならず、以上の二箇条は全然申上げなかった」と付け加えているからである。さてわたしは、使臣たるものがその主君に対してなさねばならぬ報告を、しかもかような人物より発し・かように大勢の人の中で言われた・かほどに重大なことがらの報告を、せずにすますこともその人の自由であったということは、ずいぶんと不思議なことだと思った。わたしには、「家来たる者の務めは物事をそれが起ったままに全部報告することにある。命令し判断し選択する自由はただ主君の手の中にあるべきだ」と思われる。まったく、「主君が真実をまちがって取りはしないか。それが彼を悪い決心に導きはしないか」と恐れて、彼の前にそれを変えたり隠したりすることは、そして長い間彼に彼自身の問題を全く知らせずにおくというのは、どう考えてもそれは、命令を与える者の方に属することであって、命令を受けるもののなすべきことではなく、後見人や学校の先生がするところであって、たんにその権能においてのみならず、その熟慮とか知恵とかにおいても、とうてい自ら及ばないと考えなければならない者のなすべきことではないのである。とにかくわたしならば、そんな風に仕えられたくはない。身のまわりのごく些細な事柄に関してさえ。
 (c)とかく我々は、何かの口実を構えて、命令を免れ支配権を侵害したがる。誰でもみなそのように自由と権威とにあこがれるのがむしろ自然らしいから、上に立つものとしては、仕える者の単純素朴な服従くらい、有難く思わなければならないものはないと思う。
 おそれかしこんで服従をするのでなく、えりごのみの服従をするのでは、司令権の侵害である。そこでプブリウス・クラッススは、ローマ人から五つの幸いを兼ね有するとうたわれた人だが、かつて執政としてアジアに在った時、ギリシア人の一技師にむかって、自分がさきにアテナイで見た船の二本の帆檣ほばしらの内の大きい方を持って来て自分の工夫した或る種の砲撃器に取付けるよう命じたところ、その技師は、これは自分の専門だというので、あえて違った選択をした。つまりむしろ小さい方が、彼の技術上の理由によればより適当だと言って、持って来たのであった。クラッススは一応その男の言分を我慢して聞いてから、あとで彼をしたたかに鞭うたせた。つまり、作品のこうむる損害よりも規律がこうむる損害の方を重く見たからである。
 だが一方、このように窮屈な服従は、明確に規定された命令に対してだけ望まれることだと、考えることもできよう。使臣たるものの役目はもっと自由なもので、それはいろいろな場合に臨んで、もっぱら彼ら自らの意向にしたがうのである。彼らは単に主君の意志を代行するだけではなく、自己の意見によってそれを作り上げもするのである。わたしは現在司令にたずさわる人々が、王の訓令の辞句に拘泥して、そのすぐ目の前にある好機を捉えなかったとて咎められているのを、見たことがある。
 なお悟性ある人たちは、ペルシアの諸王がその大使や司令官の職権を甚だしく拘束し、ごく些細なことに関しても一々命令を仰がねばならぬようにしているのを非難している。そのようにして時日を遷延することは、あのようにだだっぴろい国においては、その国務の上に著しい損害を与えるからである。
 それからかのクラッススは、或る専門家にあてて手紙を書き、自らその帆檣をいかなる用途にあてるつもりであるかを報じたが、これは自己の決意を述べるとともに相手にも意見を述べさせようとしたのではあるまいか。
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第十八章 恐怖について



(a)余りのおそろしさに、われ、髪はさか立ち、声は喉につかえたりき。
(ウェルギリウス)

 わたしは、みんなが言うようにえらい生理学者ではない。いったいどんな動機によって恐怖が我々の内部で働くのか、わたしにはとんとわからない。だがとにかく、それは不思議な感情で、お医者さんたちも、「これほど我々に理性の平衡を失わせる感情はない」と言っている。ほんとうにわたしは、恐怖のために正気をなくした人たちをたくさん見た。いや、最も沈着な人にさえ、確かに恐怖は、その発作が続く間じゅう、ひどい眩惑を起させるのである。俗衆はしばらくおく。彼らはよく恐怖のために、経帷子きょうかたびらにくるまって墓の中から出て来る御先祖さまを見たり、狼人〔夜間狼の姿でさまよい歩く魔法使〕や妖精や妖怪の姿を見たりする。だが兵士たちの間でさえ、そこには恐怖がしのびこむ余地はないはずだのに、幾たびそれが羊の群れを鎧を着た軍勢に・葦や竹の影を槍や刀をかついだ武士もののふに・味方を敵に・白十字を赤十字に・変えたことか。
 ブールボン殿がローマの城を乗っ取ったとき、ボルゴ・サン・ピエトロを守っていた一人の旗手は、最初の警報にすっかりおびえて、旗をかついだまま城壁のわれ目から外に飛び出し、城内さして逃げ込むつもりで、敵陣めがけてまっしぐらに駈けだした。そこで、ブールボン殿の軍勢がこれを見て、それ城内の者どもが討って出たぞとばかりそのまん前に立ちふさがるに及んで、始めてはっと我に帰り、くるりと後ろをむくや一目散、既にもう三百歩ばかりも野外に進み出ていたのだが、出て来た同じわれ目から城内へとかけこんだ。ところがサン・ポールの城がビュール侯とルー殿によって我々から奪われた時には、大将ジュイルの旗手にとって、事はそううまくはこばなかった。まったく恐怖のためにすっかり度を失った彼は、旗をかついだまま銃眼から城外に飛び出し、攻撃軍のために滅多切りにあったのである。またもう一つ同じ籠城において思い出されるのは、恐怖が一貴族の心を余りにも強く締め・捉え・冷やした結果、彼はそのために、かすり傷一つなかったのに、城壁の割れ目からころげおちて死んだことである。
 (b)同様な恐怖は時に大勢の人々全体をとらえる。ゲルマニクスがドイツ人と交えた会戦の一つにおいては、二個の大部隊が、驚きのあまり二つの逆の方向につっぱしり、お互いの陣所があべこべになってしまった。
 (a)時に恐怖は、前の二つの場合に見るように我々のかかとに翼をつけるが、時には皇帝テオフィルスについて書かれているように、我々の足を釘づけにしこれにかせをはかせる。彼はアガレノス人と戦ってやぶれた時、茫然自失して※(始め二重山括弧、1-1-52)救いをも恐れるまでに恐怖して※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クイントゥス・クルティウス)逃げる決心もつかなかった。そこで、とうとう、味方のおもだった大将の一人であったマヌエルが、深い眠りから呼びさますように彼をゆすぶり動かして、「わたくしについてお出でにならねばお命を頂きまするぞ。捕虜となったうえ帝国をおなくしになるくらいならば、むしろおん命を失われる方がましでござりまするぞ」と言った。
 (c)恐怖がその最大の偉力を示すのは、それがさきに我々の義務と名誉とからうばった勇気を、いよいよの際に再び我々の手にかえすその時である。ローマ人が執政センプロニウスの指揮の下にハンニバルの軍と戦って敗れたあの最初の戦闘に際して、一万に余る歩兵の一隊は、はじめ非常に恐怖を覚えたが、卑怯の振舞いをしようにも他に道のないことを知るや、猛然として敵の真唯中に割って入り、めざましい努力をもってこれを突き破り、大いにカルタゴ人を殺戮した。こうして彼らは、恥ずかしい遁走を、光栄ある勝利のために払うのと同じ代価を支払って、手に入れることになったのである。恐怖こそわたしが最も恐怖するものである。
 またそれこそ、苦しさつらさにおいて他のどんな出来事をも越えるものである。
 そもそも、ポンペイウスの船の中に在って、あの恐ろしい殺害を眼のあたりに見た彼の友人たちの感動以上に、激しい・また当然な・感動がまたとあろうか。けれども、ますます自分たちを追っかけて来るエジプトぶねの恐ろしさは、さしもの感動をおし殺した。彼らはひたすら、水夫たちが全力を尽しかいにまかせて逃げるよう、これを促したてることにのみ専念した。そしてついにテュロスに着きほっと安心するに及んで、始めてその思いを彼らの損失の上に注ぐことができたのである。そこで始めて、それまでもう一つの強い感情が一時抑圧していた嘆きと涙とに、思うさまかきくれることができたのである。

恐怖はその時わが心よりすべての知恵を追い出せり。
(エンニウス)

 戦争に出て十分にもまれて来た人たちなら、まだ傷がいえず血がかわかなくても、あくる日再びこれを攻撃につれて出られるけれども、何か敵のおっかなさをしたたかに思い知らされた者どもには、もはや敵をまともに見させることすら出来ないだろう。財産を失いはしないか、異境に送られはしないか、奴隷におとされはしないか、と安き心もない者どもは、飲食も睡眠をも失って不断の苦悶の中に暮すが、貧乏人や亡命者や奴隷たちの方は、しばしば普通の人たちと同様に面白たのしく暮している。いや、恐怖の刺激に堪えきれないで、首を吊ったり河に身を投げたりする人たちがあんなに多いところを見ると、恐怖というものが死よりもずっと堪え難い、いやなものであることがよくわかるのである。
 ギリシア人はもう一つ別種の恐怖を認めているが、それは我々の判断の誤りから来るのではなく、彼らの言うところでは、何らこれといった原因もなく、ただ天来の衝動によって来るものだそうな。しばしば人民全体が、また軍隊全体が、それに捉われる。カルタゴに不思議な荒廃をもたらしたのもそれであった。人はただ叫喚とおびえた声のみを耳にした。住民たちが警報をきいたかのように戸外に飛び出し、互いに打ちあい傷つけあい殺しあうありさまは、まるで敵が彼らの都市に攻め入りでもしたようだった。何もかもが混乱と喧騒のうちにおち、ついに祈祷と犠牲とをもって彼らが神の怒りを鎮めるに及んでやっと終った。彼らはこれを「パンの神の恐怖」と呼んでいる。
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第十九章 我々の幸不幸は死んでから後でなければ断定してはならないこと



(a)人は常に最後の日を待たざるべからず。
なんぴともその死その葬いの未だ到らざるに、
幸福なりと言わるるをえず。
(オウィディウス)

 子供たちでも、このことについての王クロイソスのお話は知っている。この人はキュロスに捕えられて死刑を宣告されたが、いよいよその場にのぞむと、「おおソロンよソロン!」と叫んだ。このことがキュロスに伝えられ、その意味を問われると、彼はこうキュロスに説明した。「今こそ自分は、昔ソロンから与えられた訓戒がうそでなかったことを、しみじみ思いしるからだ。彼はよくこう言った。『人間は運命からどんなにやさしい顔を向けられても、その生涯の最後の日を通りすぎるまでは、自ら幸福だなどと思うわけにゆかない。人間界のことがらは不確実で変りやすく、きわめて軽い動きによって全くあべこべの状態に転ずるものだから』と」。まったく、だからこそ、アゲシラオスも、「ペルシア王は幸福だ。まだ若いのにあのような強国の主となったから」と言った者に向って、「成程そうだが、プリアモスだってあの年頃には不幸ではなかった」と言ったのである。かつては、あの偉大なアレクサンドロスの後継者であるマケドニアの諸王の中にも、後にローマの町で指物師や書記になったものがあったし、シケリアの暴君たちの中からもコリントスで学校教師になったものがあった。世界の大半を征服し三軍を叱咤した大将も、やがてエジプト王の無頼な役人の前に哀れむべき哀訴者となり下った。つまりただ五、六カ月を生きのびたばかりに、あの偉大なポンペイウスさえこれ程の憂目を見たのである。また我々の父たちの時代には、あの第十世ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァが、それは長い間全イタリアをゆり動かした人だが、あのとおりロッシュにおいて牢死なされた。しかもそれは、十年間もそこで最大の不運をなめられた末のことである。(c)キリスト教界最大の王様の未亡人で最もみめ美わしかった女王様〔メアリ・ステュアート〕も、ついこのごろ獄卒の手にかかって死なれたではないか。(a)いやそういう実例は幾千となくある。まったく、あたかも暴風雨がわざと我々の高くそびえたった建物に突っかかるように、高いところには下界の権勢をねたむ精霊がさまよっているのではないかと思われる。

思うに人間の権勢を憎む隠れたる力ありて、
美わしき執政杖と無慈悲なる斧とをふみにじり翻弄するが如し。
(ルクレティウス)

 いや、運命は時に、我々が永い一生を通じて築きあげた物をも一瞬の中にぶちこわす力あることを示さんがために、特に我々の一生の最後の日を狙っているかのように思われる。そして我々がラベリウスにならって※(始め二重山括弧、1-1-52)げにわれはこの一日をながらえすぎたり!※(終わり二重山括弧、1-1-53)と叫ばないではいられないようにするのだ。
 こんな風にソロンの有難い勧告が解釈されるのは当然である。けれどもそれは哲学者のことであるから、そして哲学者たちにとっては運命の寵愛や憎悪なんぞは幸不幸の数にはいらないのだから、いや権勢や栄達なんかはほとんどどうなってもかまわない事柄なんだから、どうしてもソロンは、それよりはずっと先の方を見ていたんだと思う。「我々の一生の幸福は、良く生れついた精神こころの平静と満足と、よくしつけられた霊魂たましいの堅固と安泰とによるのであるから、人がその芝居の最後の幕、おそらくは最もむつかしかろうと思われるその幕を演じ終ってからでなければ、はやまってその人に与えられるべきものではない」という意味で言ったのだと思う。ほかの場合にはいつも仮面がありがちである。つまり、あの哲学上の堂々たる理論が我々においてただの見かけ倒しであることもあれば、またもろもろの出来事が深く我々の肺腑をつかないで、平気な顔をしている余裕を我々に許していることもある。けれども、この我々が死と相対する最後の役割においては、もはやまったくごまかしがきかない。はっきりしたフランス語を話さなければならない。つぼの底にある正真正銘の物を示さなければならない。

この時初めて真実の言葉我らの胸中よりほとばしり出で、仮面おちて真相あらわる。
(ルクレティウス)

 こういうわけだから、この最後の瞬間においてこそ、我々の一生のあらゆる他の行為は試みためされなければならないのである。それは肝心な日である。他のすべての日々を裁く日である。それは、古人の言ったとおり、わたしの過去のすべての年々を裁くべき日である。わたしはわたしの研学の結果の審査〔エッセー〕を死に委ねる。その時こそ、わたしの議論がただわたしの口先だけのものか、それとも心の底からのものか、わかるであろう
* モンテーニュはさきにラ・ボエシの従容たる死を目の当りにした。この期のエッセーの中には常に亡き友の姿があらわれる。此章は次章の自然のプレリュードである。
 (b)わたしはたくさんの人たちが、その死によって、その全生涯に、あるいは良いあるいは悪い評判を与えるのを見た。ポンペイウスの義父スキピオは良い死に方をして、彼がそれまでにこうむった悪評をつぐなった。エパメイノンダスは、カブリアスとイフィクラテスと彼自らの三人のうち誰を一番えらいとするかと尋ねられて、「三人が死んでしまってからでなければそいつはきめられない」と言った。まことに彼の名誉ある偉大な最期を見ずに彼を評価するならば、彼において多くのものを逸することになるだろう。神様はそうなされたかったからこそそうなされたのだろうが、わたしの若かった頃にも、その生活のきたなさにおいてわたしが知っている限りの最も憎むべき・また最も卑しまれてよい筈の・三人の者が、それぞれおちついた・そしていろいろな点において完全と言いたいほどにしっかりした・死に方をしたことがある。
 (c)なかには勇ましい幸運な死もある。わたしはそういう死が、或る人において目ざましい出世の綱を、しかもその伸びゆく花の盛りに、ふっつりと切ったのを見たことがあるが、その最期はいかにも壮麗であって、わたしの考えでは、彼の高邁こうまいな企てもとうていこの中絶の気高さには及ばなかったと思う。彼は未だその目指す所まで行かないのに、その希望し意欲した以上に立派にまた輝かしく、そこに達した。いやその生涯の望みであったところの権力と名声とを、その死によって先んじ取ったのである
* 多分これはラ・ボエシのことであろうとする説(アルマンゴー)もあるが、わたしはむしろ、一五八八年ブロワにおいて非業の死をとげたアンリ・ド・ギュイズに対する哀悼の言葉とするトランケの説にくみする。これはモンテーニュの「家事録」における記載とも照応する。拙著『モンテーニュとその時代』第七部第三章五六八頁参照。
 (b)他人の一生を判断するに当っては、いつもわたしはその終りがどんな風であったかを見る。また、わたしの一生の主要な研究は、わたしの終りをよくあらせたいため、すなわち、おだやかに静かにあらせたいためである。
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第二十章 哲学するのはいかに死すべきかを学ぶためであること



 当章は、ラ・ボエシの臨終の様子を父に報告した書簡の自然の延長とみることが出来る(白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「書簡集」書簡2参照)。それはモンテーニュが最もストア的であった時期と言えよう。モンテーニュはこの章のなかで、「十五日ばかり前に三十九歳になった」と述べているから、これこそ確実に一五七二年に書かれたものである。「死はわれわれの周囲のたれかれの上にほとんど毎日のように見られるきわめて日常平凡な事実であるのに、大多数の人間は努めてその死を想うことを避ける。だが、そうしていれば恐ろしい死にあわないですむか。そうはゆくまい。だからむしろ逆を行って、われわれは日常死を瞑想し、死とふだんからなれ親しんでおくにかぎる……」こうモンテーニュは提唱する。それは畢竟、他のもろもろの艱難かんなん苦労に対するのと同様に、死に対しても敢然とぶつかってゆこうという、いわゆるストア的態度である。「なるほど恐ろしい死がいよいよ眼前に立ちはだかる時は、そんなふだんの準備は物の役に立たないかも知れないが、少なくともその瞬間が到来するまでは、とにかくそうすることによって平穏に暮してゆけるかも知れない。それだけでも決して悪くはあるまい。それに自然は毎時毎瞬少しずつわれわれの生命をこわしてゆくから、老い衰えていよいよ死ぬ時にはそう大して苦しくも悲しくもないであろう」。こうモンテーニュは考える。ここでも博引旁証、まさしく「書籍的」「非個性的」といわれる初期のエッセーの特徴を遺憾なく示している。――なおこのストア主義、セネカへの傾倒は、彼の一時的心酔、時代の英雄に対する束の間のあこがれであって、一五八六年までは少しずつ緩和されながらもほぼそのままに継続するが、このとき以来モンテーニュは、死に対して全然反対の態度をとるようになる。ここでは「人生行路の目的は死である」と言うが、一五八八年には「死は生の目的 but ではない、単に末端 bout だ」(三の十二)としゃれのめす。ここでは死を全然想わない俗人を「獣みたいな愚鈍」(brutale stupidit※(アキュートアクセント付きE小文字))「畜生のような無頓着」(cette nonchalance bestiale)と嘲っているが、一五八八年のエッセーにおいては、かえってこの無頓着こそ哲学の極致であると考える。そして「気分転換」(三の四)の法を提唱する。この点に関しては、特に後出「人相について」(三の十二)の章を対比せられたい。――なおモンテーニュにおけるこのストア的傾向は、もとより彼の天性に由来するものではないが、また一方、あまりにそれを彼の読書にのみ付会すべきではなかろう。むしろ彼にその種の読書をさせた当時の険悪な世相やラ・ボエシとの交遊の影響をこそ重視すべきであろう。拙著『モンテーニュとその時代』索引「モンテーニュの思想的態度」の項参照。

 (a)キケロは、「哲学するとは死に備えることに他ならぬ」と言った。つまり研究や瞑想は、いわば我々の霊魂を我々の外部に引き出し、これを肉体と別にはたらかすことで、結局死のけいこか予行演習みたいなものだからである。あるいはまた、世の知恵や究理は、畢竟ひっきょう、死をまったく恐れないよう我々に教えるという、その一点に帰着するからである。本当に理性は、ふざけているのでないとすれば、もっぱら我々の満足を目指しているのでなければならない。その努力は、要するに、我々を幸福に暮させること、聖書(「伝道の書」三の二十二)に言ってあるとおり楽しく暮させることを、目指しているのでなければならない。その用いる方法はまちまちであるけれども、世上もろもろの学説は、畢竟、そこに、(c)快楽こそ我々の目的であるということに、(a)帰着する。そうでなければ、人ははじめっからそれらの所説を追っ払うだろう。まったく、我々の苦しみと悩みとを目的とするような所説に、誰が耳を傾けよう。
 (c)哲学諸派の紛争はこの場合言葉の争いである。※(始め二重山括弧、1-1-52)かかる枝葉の議論はく疾く終らん※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。そこにはあまりにも頑固と執拗とがありすぎて、この聖なる職にはふさわしくない。だが人間は、どんな人物を演ずるにしても、必ず一緒に自己を演ずる。彼らは何というにしても、徳を行う場合でさえ、人々の目指す最後の目標は快楽ヴォリュプテなのだ。わたしは彼らがあんなに忌み嫌うこの言葉をもって、彼らの耳を打ってやりたい。いや、この言葉が何か至上の愉快至極の満足を意味するとすれば、それは他の何物のお蔭であるよりも、第一に徳のお蔭なのである。この快楽は、元気で強く逞しく雄々しくあればあるだけ、いよいよ本当に快楽的なのである。いや徳にこそ、「愉楽プレジール」といういっそう親しみやすく・いっそう優しくて自然な・名を与えるべきであろう。決して我々がこれに名づけている「力」という名であってはなるまい。よしもう一つのもっと下等な快楽が、万一この「愉楽」という美名に値するにしても、これをそれに専有させてはならない。ただ共有させるだけにとどめねばならない。この下等な快楽はいろいろな不都合や邪魔のために、徳にくらべてずっと不純であると思う。その味がより短く・より移ろい易く・崩れ易い・のみならず、そこにはやはり不眠と断食と労苦があり、また汗と血とがある。いやその上に、特に種々様々な身を切るような苦悩があり、更にはなはだ重苦しい飽満さえもつきまとうから、それは苦行も同然である。「これらの不都合こそその甘美に刺激を添え香味を加える。ちょうど自然界において、万物みなその反対のものによって活気を与えられるのと同様である」などと考えるのは、とんでもない間違いである。また、「我々が徳におもむこうとする時にも、やはり同様の支障や困難がそれを圧迫し、それを厳粛な近づき難いものにする」などと言うのも大間違いである。むしろ「徳においてはそれらの支障困難が、かえって快楽以上に、徳が我々に得させるところの・神々しい・完全な・喜びを貴くし鋭くしまた高くする」と言う方がずっと当っている。その楽しさとつらさとを秤にかけてくらべようとする者などは、実に徳に親しむのにはなはだ値しないやからである。いや、徳の美しさも有難さも知らないやからと言わねばならない。「徳の探求は難渋であるがその享有は愉快である」などと教えるのは、「徳は常に不快である」と言うのとどう違うか。まったく、どんな人間的方法がかつて徳の享有にまで到達しえたか。最も完全な人々は、これにあこがれこれに近づこうとするだけで満足し、あえてこれを所有しようとはしなかった。そうだ、彼らは間違っている。我々の知っているすべての快楽は、これを追求することそのことが愉快なのだ。企てはそれが目指す物事の性質を帯びる。まったく、それは結果の大きな部分でありこれと同質のものなのである。徳の内に輝く至幸至福は、それに連なるあらゆる棟々、そのあらゆる小路小路に充満して、表門から裏門にまで及ぶ。ところで、この徳の主要な恵みは死の蔑視であって、これこそ、我々の人生に物柔らかな静穏を与え、我々に人生の清らかな快い味わいを与えるもので、実にこれが無くては、他のもろもろの快楽もその影を消すのである。
* ラテン語の virtus は vis すなわち力という語から出ている。ゆえに、フランス語の vertu という語も、身心両面における・困難を克服する強い力、努力、の意味を持っている。だがモンテーニュは、ここに((c)の加筆において)徳は楽しいものだという。――モンテーニュの「徳」に関する考え方は時期によって色々変っている。索引によって、あちこち対照せられたい。後出第一巻第二十六章、二二一頁の註**参照。
 (a)だからもろもろの規則は、すべてこの一箇条に帰着するのである。なるほど他の諸規則もまた、みな一致して、結局は我々に、苦痛や貧困やその他人生が免れえないいろいろな出来事を無視させようとするものではあるが、それぞれの熱の入れ方は一様でないのである。おそらくそういう出来事が何れも死ほどに必然的でないためであろうし(大部分の人は貧乏の味を知らずに一生を終るし、またある人たちは苦痛や病気の感じを知らずに終る。楽人クセフィロスなどは百六歳まで完全な健康の中に生きた)、他のあらゆる不都合は、いよいよ極まれば、死によって何時でもぴたりと結末をつけて貰うことができるせいでもあろう。ところが、死にいたっては不可避である。
* 本章最初のパラグラフ「哲学するとは死に備えることに他ならぬ」に照応する。

(b)我らはみな同じ方向に押し流さる。
早かれおそかれ、うちゆるる運命の壺の中より、
我らの札こぼれ落つるや、
われらはみなカロンの舟にのせられて、
永遠の死へと運ばれゆくなり。
(ホラティウス)

 (a)したがって、ひとたび死が我々に恐怖となるならば、それは絶えまのない責苦の種子となり、我々はどうしてもゆるしてはもらえない。(c)死の出て来ない場所はないのだから、我々が怪しい里にいるかのように、始終右に左に気を配るのも当りまえである。※(始め二重山括弧、1-1-52)そはタンタロスの巌のごとく、常に我らの頭上にあり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)我が国の高等法院はしばしば犯人たちをその犯行の現場に連れもどして処刑するが、彼らをその途すがら、立派な家々の立ち並ぶ中を引きまわしてごらん。彼らにできるだけの御馳走をしてやってごらん。

(b)シケリアの佳肴かこう
彼らにはうまからず。
鳥のさえずりも琴の調べも、
彼等の眠りをさそわず。
(ホラティウス)

(a)彼らがそれらを楽しむと、君たちは思うか。彼らの旅の究極の目的が、しょっちゅう目の前にぶらさがっていて、彼らのためにこれらもろもろの愉快の味わいを、まずいものに変えてしまうとは思わないか。

(b)彼は道を問い、日をかぞえ、その命を里程もて計る。
おのれを待つ死刑に絶えずその心を悩ましめつつ。
(クラウディアヌス)

 (a)人生行路の目的〔終点〕は死である。これは我々が必ず目指さざるを得ない目標である。もし死が我々を恐れさせるならば、どうして我々はうち震えずに一歩を前に進めることができるか。庶民の持薬はそれを考えないことである。けれども何という獣みたいな愚鈍によって、彼はああもひどい盲目になり切れるのか。そういう奴はろばの背にうしろまえに乗っけてやり、その尻尾しっぽを手綱にして行かせなければならない。

驢馬はよく尻込みするものなれば。
(ルクレティウス)

 彼があんなにしばしば落し穴にはまっても、少しも不思議はない。こういう連中は、死という名をきくだけでふるえ上る。そしてたいがいの者は、悪魔の名をきいたように十字を切る。また、遺言書の中にはその死という字が出て来るから、彼らはいよいよ医者から最後の宣告を与えられない限り、いっかなそれに手をつけようとはしない。だから、いよいよ苦痛と恐怖との間にはさまるとき、彼らはいったいどんな良い判断をもってその大切な遺言書をねあげるか。神様こそよく御承知である。
 (b)この死という綴音は余りにも荒っぽく人々の耳にあたるから、そしてその響はいかにも気味がわるいから、ローマ人はこれを和らげることを、すなわち婉曲語法の中にそれを緩和することを、考えついた。「彼は死んだ」と言う代りに、「彼は生きることをやめた」「生き終った」などと彼らは言った。「生きる」という言葉でさえあれば、「生き終った」でも気がすんだのである。我々はそれを真似て「ありしジャン殿」と言うのである。
* モンテーニュはこの feu すなわち「故」という語を、qui fut から来たものと考えたらしい。すなわち「故ジャン殿」を「亡きジャン殿」といわずに「ありしジャン殿」というと、考えたのである。
 (a)おそらく諺に言うように、「日延べはお金に値する」からだろう。わたしは一五三三年の(現在では一年をジャンヴィエから**始めるから)、二月の末日、十一時と正午との間に生れた。わたしはいまちょうど三十九歳を越して十五日にしかならない。わたしはまだこのさき、少なくともこれくらいの年月は生きねばなるまい。その間じゅう、絶えずそんなに遠い先のことを思いわずらうのは馬鹿げていよう。だが、いかにせん。老いたるも若きも同じようにこの世を去るのだ。(c)ひょいとここにやって来たように、ひょいとここを去らぬものはない。(a)それに、どんなに年をとり腰がまがっても、メトセラ***の齢に達しないかぎり、体内になお二十年の寿命があると考えない者はない。それに、お前は何という哀れな馬鹿者ぞ。そもそも誰がお前の命の期限をきめたのか。お前は医者の言うところを根拠にする。だがむしろ事実と経験とを見るがよい。万物と共通の運によって、お前はすでに久しく特別の恩寵によって生きているのだ。お前はすでに人生普通の期限を通り越しているのだ。嘘だと思うなら、お前の知り人のうち幾人が、お前の年まで至らないで死んで行ったか、数えて見るがいい。その方がむしろ多いではないか。また功名によってその一生を尊くした人々のなかからも、同じように書き出して見るがいい。三十五歳前に死んだものの方が、これを越して逝ったものよりも多いと、わたしは断言できる。キリストの人としての御一生を例に取り奉ることは、この際最も妥当であるが、またおいたわしい限りでもある。彼は三十三歳をもって終らせられた。ただの人として最も偉大であったアレクサンドロスもまた、同じ年で死んだのである。
* 「返済期の延期は借手の得になる」という意味。すなわちここでは、死の考えをなるたけ後に延ばすことを指して言ったのである。
** 一五六三年に janvier(ヤヌスの月)をもって年の始めとした。それ以前は復活祭を年の始めとしていたのである。従って一五六三年のヤヌスの月(ジャンヴィエ)は一五六四年の一月となった。故に、旧暦でいえば、モンテーニュの生れたのは一五三二年の最終日ということになり、新暦では三三年二月となるのである。
*** メトセラは九百六十九歳の齢をえたと、聖書にある。
 死はいったい幾通りの方法で我々をおそうか。

瞬間毎にふりかかるその危険を
人は一々予見する能わず。
(ホラティウス)

 熱病や肋膜炎の話はしばらくおき、ブルターニュ公ともあるお方が、わたしの隣人法王クレメンスのリヨン御入城の際に、群衆におしつぶされて死なれようなどとは、いったい誰が予想したか。お前は我々の王様のお一人が御遊戯の最中に死なれたのを見なかったか。またその御先祖の一人は豚に突きあたられて亡くなられたではないか。アイスキュロスは家の下敷になって死ぬぞと脅かされてから、始終野天に暮したが駄目だった。とうとう空をかける鷲の爪先から落ちて来た亀の甲羅にあたって死んだ。或る者はぶどうの種子のために、或る皇帝は髪をくしけずりながら得た傷のために、アエミリウス・レピドゥスは入口のしきいに足をぶつけたために、それからアウフィディウスは会議室に入ろうとしてその扉にぶつかったために、死んだ。いや、女のまたの間で、長官コルネリウス・ガルス、ローマ警備軍の将ティゲリヌス、マントヴァ侯グイ・ド・ゴンザガの息ルドヴィコ、それからなお困ったことにはプラトン学者のスペウシッポス、それからわが法王様のお一人は、お亡くなりになられた。可哀そうに裁判官のベビウスは相手に八日間の執行猶予を与えたところ、その間に自分の命の方の期限がきれて死んでしまった。また医者のガイウス・ユリウスは病人の眼の治療をしている間に、急に死に襲われて自分の方が眼をつぶらされた。私事をもあえてこれに加えるならば、わたしの弟の一人カピテーヌ・サン・マルタン(二十三歳**)は、すでにその勇気を認められていたが、或る時ポームの遊戯中に右の耳の少し上のところに球があたった。表面にはかすり傷も打ち傷も見えなかったし、そのために坐りもしなければ休みもしなかったが、それから五、六時間たって卒中で死んだ。やはり球にあたったせいである。こんな実例は、あんなにしばしば、あんなにつねづね、我々の眼前に見られるのだもの、どうして人は、死という考えから解放されることができようか。どうして死が終始我々ののどもとをおさえていることを思わないでおられようか。
* アンリ二世が野試合の最中槍で目をつかれて死んだのは、一五五九年で、モンテーニュはこの事件の前後に朝廷にいたと推定される。年表一五五九年六月三十日の項参照。
** サン・マルタンの領主、アルノー・エーケム(一五四一―六九)のことであるから、本当は二十三歳ではなく二十八歳になる。この青年とモンテーニュ夫人との間に情交があったことについては、『モンテーニュとその時代』第四部第二章参照。
 お前たちは言うかも知れない。「それはどんな風にこようとかまうものか。苦にしなけりゃいいんだ」と。わたしもそう思う。そして、どんな方法でなりと死の襲撃が避けられるものなら、こうしの皮をかぶることだっていい。わたしはあえてそれを拒みはしない。まったくわたしは、安楽にすごせさえすればそれでよいのだ。だからわたしは、自分がとりうる最上の方法をとる。それがどんなに不名誉な自慢にならない方法であろうと、かまわないのだ。

われ賢くして苦しまんよりは
むしろ愚か者よとあざけられん。
願わくは誤謬われを幸いにし、
わが眼をばくらまさんことを!
(ホラティウス)

 だがしかし、それでことがすむと考えたら、それこそ気ちがい沙汰。人々は往ったり来たり、飛んだり跳ねたり。死からは何の便りもない。この世は春だ。だが一たび死が、あるいは彼ら自らの上に、あるいはその妻や子や友に、突如として、不意に、やって来てごらん。どんなに彼らは苦悶し号泣し狂乱し絶望するか。こんなに気をおとし、こんなに変り果て、こんなに気を失った者を、お前たちはかつて見たことがあるか。どうしても早くからそれに備えなければならない。あの畜生のような無頓着は、かりに分別ある人の脳裏に宿ることがあるにしても(そんなことは全くありえないことだとわたしは思うのだが)、うっかりそんな商品を買ったら我々はひどい目にあう。もしそれが避けられる敵であるなら、卑怯という武器を借りることも、わたしはすすめるだろう。だがそうはゆかないのだから、(b)それはお前たちを、逃げ腰の臆病者であってもまた立派な勇士であっても、同じように捉えるのだから、

(a)そは、逃げ走る者どもをも追いかけ、
  意気地なき若者の
  ひかがみをも背中そびらをも仮借せず。
(ホラティウス)

(b)いかに堅固な鉄のよろいもお前たちをまもらないのだから、

いかに用心して黒鉄くろかね青銅からかねにその身を鎧うとも
 死はまんまと首級をその中より引っこ抜く。
(プロペルティウス)

(a)むしろ、しっかりと足を踏まえてこの敵を受けとめることを、いやこれを打ち倒すことを、学ぼうではないか。そして、まず彼からその我々に対する最大の強みをうばい取るために、全然普通のとはあべこべの道を取ろうではないか。彼から怪異を取り除いて、彼となれ親しもうではないか。何よりもしばしば死を念頭におこうではないか。常にそればかりを、しかもそのすべての形相ぎょうそうにおいて、心の中に想いみようではないか。馬がつまずいても、瓦が落ちて来ても、ピンがちくりと一つささっても、さっそく反芻しようではないか。「どうだろう。もしもこれが死であったら?」と。そうやって、そこに自己を鍛練しようではないか。祝い事、楽しみ事の最中にも、常に我々の境遇を想い出させるあの繰返しを歌おうではないか。あまりに歓楽に夢中になって、そういう我々の歓喜がどんな風に死の前にさらされているか、どんなにたびたび死がこの歓楽につかみかかろうとするかを、うっかり忘れないようにしようではないか。そのようにエジプトの人たちはしたのである。彼らはその宴会の最中に、珍味佳肴の間に、死者のミイラをもって来させて、会食者たちへの警めとしたのである。

毎日はいつも汝がための最後の日なりと考えよ。
さすれば思わぬ今日を儲け得て喜ぶことをえん。
(ホラティウス)

どこで死が我々を待っているかわからない。だからいたるところでこれを待とうではないか。死の準備は自由の準備となる。死を学びえた者は奴隷であることをわすれたのである。いかに死すべきかを知れば、我々はあらゆる隷従と拘束とから解放される。(c)生命の剥奪が少しも不幸でないことを悟りえた者にとっては、この世に何の不幸もない。(a)パウルス・アエミリウスは、彼のとりことなったあの哀れむべきマケドニア王が、「戦勝式に引っぱってゆくことだけは勘弁してもらいたい」と使の者に言わせたのに対して、「そんな願いはおのれ自らに向ってするがよい」と答えた。
 本当にどんな事にかけても、自然が多少とも手を貸さないならば、技術や工夫は一歩も前進することがむつかしい。わたしはうまれつきふさぎ屋メランコリックではないが夢想家ソンジュールなのである。昔から死の想像ほど、しょっちゅうわたしの心を離れなかったものはないのである。わたしが若くて最も奔放であった頃、

(b)わがよわい、花盛りにして、春をたのしめる頃
(カトゥルス)

(a)女たちに取りまかれて遊びに耽っているわたしを見て、或る男は、「独りひそかに嫉妬にでも悩んでいるのではないか、あるいは何か希望の遂げ難いのをはかなんでいるのではないか」などと想像したが、その時わたしは、その数日前に、やはり同じような宴会のかえるさに、わたしと同じように夢心地と恋ごころと楽しい時のこととで頭を一杯にしているところを、突然高熱と死とにおそわれた或る男のことを思い浮べ、自分にもまた同じ運命がさし迫っているかのように、考えていたのであった。

(b)やがて現在はすぎ去りて、ついにこれを呼びもどすすべなからん。
(ルクレティウス)

 (a)もっともそういうことを考えていたからと言って、わたしは特別に眉をひそめてはいなかった。もちろんわれわれは、最初からそういう想像の刺激を感じないというわけにはゆかない。けれども人は、しょっちゅうそれをいじくりまわし復誦していると、必ずいつともなしにそれになれてしまう。でなければわたしだって不断の恐怖と焦慮の中にいたであろう。まったくわたしほど、自分の命を疑ったものもなければ、わたしほど、自分の寿命に自信のなかった者もない。わたしは今まですこぶる旺盛な・ほとんどとぎれたことのない・健康をうけ楽しんでは来たが、その健康も長命の希望を長くはしないし、そのかわり病気もまたそれをちぢめはしない。毎時毎瞬「まあよかった」と思っている。(c)そして絶えず繰り返している。「いつか起りうることは今日もまた起りうる」と。(a)ほんとに偶然や危険は、ほとんど、いや少しも、我々を我々の最期に近寄せはしないのである。もし我々が、最も我々をおびやかしているように思われる或る事件がなくたって、なおその他に、幾千万の事件が我々の頭上に臨んでいるのだと考えれば、我々は元気であろうと熱があろうと、海の上にいようと家のなかにいようと、戦っていようと休んでいようと、最期はいつも我がかたわらにありと悟るだろう。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)なんぴともその隣人より命もろきことなし。なんぴとも彼よりその明日を確かにはせず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(a)死ぬ前に是非ともこれだけはしなければとなると、どんなに暇があっても不足に思われるだろう、よしんばそれがただの一時間ですむ仕事だとしても。或る人がこの間わたしの雑記帳をくって、そこに、わたしが死後にして欲しいと思っている或る事柄が書きつけてあるのを見つけ出した。わたしはその人にありのまんま、こう説明してやった。「その時わたしは、家から一里しか離れていず、しかも健康で元気であったのだが、急いでそれを書きつけたんだよ。家まで無事に帰れるかどうかがふと不安になったのでね」と。(c)わたしは、こういう自分の考えを、胸の奥底で、たえず温めかかえているから、ほぼ自分にできる程度にはあらゆる場合に対して用意ができている。だから、いつ何時なんどき死におそわれようとわたしは別に驚くこともあるまい。
 (a)われわれは、できることなら、いつでも出かけられるばかりにちゃんと靴をはいていなければならない。そして特にその時は、ただもう自分の用事よりほかには何もすることがないようにしておかなければならない。

(b)いかなれば我らは、かくも短き一生に、
かくも多くを企つるにや。
(ホラティウス)

 (a)まったくその時ともなれば、別に追加をするまでもなく、我々には相当たくさんの用事があるのだ。或る者は、死そのことよりも、死が花々しい勝利のまさに成ろうとしている所を中断すると言って嘆く。或る者は、その娘をとつがせる前に、あるいはその子供の教育を片づける前に、この世を去らねばならないのを悲しむ。或る者は妻との同棲を、或る者は息子とのそれを、自己の存在の主要な幸福ででもあるかのごとく、惜しがる。
 (c)御蔭さまでわたしは、この時にそなえて、こんな心持になっている。すなわち御意のままに、いつでも身まかることができるようになっている。もはやこの世に何の未練もない。ただし、生命いのちだけは別。それを失うことが、ふとわたしの心を重くしないとも限るまい。わたしはすべてのきずなを絶っている。わたしのおさらばは、それぞれの人にもう半分はすませてある。まだなのはただわたしとのおさらばだけである。未だかつてなんぴとも、わたしが志したほどに、純粋に、十分に、この世を去る用意をしたものもなければ、わたしほど広く世間との繋りを絶ち切ったものもない。

彼らは言う。「おお不幸なるかな不幸なるかな。
ただ一日の厄日こそ、人生のすべての喜びをわれより奪う」と。
(ルクレティウス)

(a)いや、建築師は言う。

わが業絶たれたり。
高き壁いまだ成らざるに。
(ウェルギリウス)

そんな大がかりな仕事を企ててはいけない。少なくとも、是非ともこれを仕上げようというほどの熱意をもってかかってはいけない。我々はただ働くために生れたのである。

願わくは死よ、わが働きつつある真最中に来らんことを。
(オウィディウス)

 わたしは人が働くことを、(c)人ができるだけ人生の務めを長くのばすことを、(a)のぞむ。そして死が、わたしがそれに無頓着で、いわんやわたしの菜園の未完成であることなどにはなおさら無頓着で、ただせっせと白菜を植えている真最中に、到来することをのぞむ。わたしは或る人がこんな死に方をしたのを見たことがある。その人は末期に臨んで、運命が彼の書きつつあった歴史の連続を、我々の王の十五代目だか十六代目だかのところで断ち切ったことを、嘆いてやまなかった。

(b)人は言うを忘れたり。
これらの幸福を惜しむ心もまた、
やがてその人と共に朽ち果つべきを。
(ルクレティウス)

 (a)こういう卑俗で有害な心持から、我々は抜け出さなければいけない。人が墓地を寺院の隣に・町の最も人通りの多い場所に・置いて、リュクルゴスの言うところに従えば、下々のものや女子供を、死人を見てもこわがらぬように慣らしたように、そうやって絶えず骨や墓や葬いを目の前に見させることによって我々に人間の境遇を悟らせたように、

(b)かつては殺傷が宴会の席を賑わし、
更に剣優の残酷なる演技がそれに加わりき。
彼らはしばしば盃盤の真中に倒れ、
その血が食卓を色どることもしばしばなりき。
(シリウス・イタリクス)

(c)またエジプトびとがその宴会の終りに、「飲めよ、たのしめよ。死ねばお前もまたこのとおりだぞ」と誰かに呼ばわらせながら、死の大きな絵図を一座の者に見させたように、(a)わたしもまた、ただ心の中でそれを思うだけでなく、口先でもしょっちゅう死を云々するのを習いとした。実際、人々の死にぎわほど、すなわち人はどんな言葉・どんな顔つき・どんな態度・で死に臨んだかということほど、わたしが聞きたがることはないのである。歴史の中でも、わたしはそういう部分に一番深い注意を払っている。(c)これはわたしが挿入する実例の上にもあらわれているし、わたしがこの種の材料を特に愛好していることの上にも現われている。もしわたしが著作家ならば、わたしはさまざまな死を、それに註釈をつけて、記録するだろう。人々に死に方を教える者は、すなわち彼らに生き方を教えるであろう。
 ディカイアルコスはそういう標題の本を書いたが、それは別の・さほどに有用でない・目的のものであった。
 (a)人はわたしに言うであろう。「事実はとても想像以上だよ。どんなに立派な構えだって、そのに及べば何の役にも立ちはしないよ」と。何とでも言うがよい。あらかじめ考えるということは確かに大きな利益をもたらすのだ。それに少なくとも、その直前までは泰然自若として押してゆけるんだから、決してそれはつまらぬことではないのだ。いやそれだけではない。自然までがたすけてくれる。激励してくれる。もしそれが急激な死ならば、我々はこれを恐れる暇をもたないし、緩慢であれば、わたしはだんだんと病気のうちに入り込むにつれて、しぜんといくらかずつ生をあなどるようになっている。わたしは熱のある時よりも健康な時の方が、この死の決心をこなすのにずっと骨が折れると思っている。わたしは今、ようやく人生の効用と快味とを忘れ始め、それほどにこの世の楽しみに執着しなくなっているから、それだけでも、昔よりは遙かにおびえない眼をもって死を見ている。このことは、わたしにこう希望させる。こうしてだんだんと生から遠ざかり死に近づくなら、それだけ容易に生と死の交換に応ずることもできるだろうと。わたしは他のたくさんの場合にも、かのカエサルの言ったことを、すなわち、物事は往々近くで見るよりも遠くから望む方がかえって大きく見えるものだということを、経験したが、それと同じように、わたしはかえってすこやかな時の方が、病気にかかっている時よりも、ずっと病気を恐ろしく思っていたことに気がついた。達者でいる時は、快楽と体力とがもう一つの状態をはなはだそれとかけ離れたものに思わせるものだから、わたしは想像によってそれらの不快を倍にも大きくし、本当にそれらを肩にして見る時よりもずっと重苦しいものに、想像する。死もまたそんな風であってくれればよいと思う。
 (b)こうして我々を毎日少しずつ変化衰弱させながら、いかに自然が我々の消滅と衰弱との感覚を我々にかくしているかをよく見ようではないか。一個の老人に、彼が若かった頃の精力の一体どれ程が、その過去の生命の一体どれ程が、残っているか。

ああ、老人たちに残れる命のいかばかり微かなるよ。
(マクシミアヌス)

 (c)カエサルは、今は老いさらばえた昔の警護の武士が、或るとき彼を道に迎えて、死を賜わりたい旨願い出たところ、つくづくとそのよぼよぼの姿をうち眺めながら、わらってこう答えた。「お前はそれでもまだ生きているつもりでいるのかね」と。(b)もし一ぺんにそうした状態に陥るならば、とても我々はそのようなはげしい変化に堪えられないであろう。ところが自然は我々の手を取って、なだらかなほとんど感じられないような坂道を、少しずつ一段一段とみちびいて来て、ついにこの哀れむべき状態の中に我々をころがし込み、これに慣らすのだ。だからこそ我々は、青春が我々の内に滅びる時も、この方が本当に、深く考えて見れば、弱りはてた生命の全き死よりも、老衰の果ての死よりも、はるかに辛い死であるのに、少しも動揺を感じないのである。なぜなら、苦しい存在から無存在への跳び降りは、花咲きて妙なる存在から苦しく悲しい存在への跳び降りほどには、ずしんとこたえないからである。
 (a)物体は、折れ曲っておれば、それだけ重荷をささえる力がよわい。我々の霊魂もまたそうである。どうしてもそれをすっくと立ちあがらせ、その強敵にあたらせなければならない。まったく霊魂は、この敵を恐れる限りとうてい落ちついていることはできないが、ひとたびこれに対して覚悟ができれば(もっともそれはいわば人間わざを凌駕することであるが)、そうなれば、もう、不安も苦悶も、恐怖も、一抹の不快も、ここには宿ることができないぞ、と威張ることができるのである。

(b)何物も彼の堅き心をゆるがさざりき。
暴君のいかれるまなこも、
アドリアの海をゆるがす雨かぜも、
雷火を投ぐるユピテルのかいなも。
(ホラティウス)

(a)このような霊魂はよくその邪念や情欲を支配する。赤貧や恥辱や窮乏や、その他あらゆる運命の障害を支配する。われわれは、一所懸命に、こういうすぐれた力を養おうではないか。ここに始めて真実至上の自由がある。この自由こそ、暴力と不正とに抵抗する力、牢獄と鉄鎖とをあなどる力を、我々に与える。

「手と足とを鎖もてしばり、
われ汝を、残忍非道の獄卒に渡そうぞ」
「われもし願うなれば、立ちどころに神来りてわれを救いたまわん」
思うにこれ、「われ喜びて死なん」とのこころなるべし。
げに死こそは万事の終りなり。
(ホラティウス)

 我々の宗教は、この生の蔑視以上に確実な人間的根拠をもったことがない。ただ理性だけが我々に生を蔑視せよと教えるのではない。まったく、なくなったとしても惜しくも何ともない物を失うのが何だってこわいのか。それに、どうせ我々は種々様々の死におびやかされているのだから、それらのすべてをこわがる方が、かえってその一つに突っかかるより、ずっと苦しくはないだろうか。
 (c)いつやって来ようとかまうものか、それはどうせ避けられないものなのだから。或る人がソクラテスに、「三十僭主せんしゅがあなたを死刑にした」と告げたところ彼は、「そして自然が彼らを死刑にした」と答えた。
 何という愚かなことであろう。いかなる苦痛も絶えてない境に入ることを悲しむとは!
 我々の出生が万物の出生を我々にもたらしたように、我々の死は万物の死をもたらすであろう。だからこれから百年の後に我々が生きていないであろうことを悲しむのは、百年前に我々が生きていなかったことを嘆くのと同じくばかげている。死は別の生の始まりである。だから我々は泣いたのである。だからこの世に入るのが苦しかったのである。だからこの世に入るとき我々は古いヴェールをかなぐりすてたのである。
* 「死ノ後ハ則チソノ前ナリ。生ノ前ハ即チ死ノ後ナリ」(西郷南洲『孟子講義』)。
 すべてただ一度きりのことは苦しくありえない。あれほど束の間のことをあんなに長い間こわがるのは道理だろうか。長い生涯も短い生涯も死んでしまえば全く一つである。まったく、もはや無いものの中に長い短いはないのである。アリストテレスは言ったが、ヒュパニスの河辺にはただ一日しか生きない小さな虫がいる。あしたの八時に死ぬのは若死である。ゆうべの五時に死ぬのは老衰して死ぬのである。こんな僅かの時の長い短いを幸だとか不幸だとか考えるのを見て、我々のうちに笑わない者がいるだろうか。我々の生涯の長い短いだって、これを永遠にくらべるならば、いや、山や河や星や樹や、またある種の動物にくらべるならば、やはりおかしくなくはないのである。
* 「殀寿ハ弐ツナラズ」(『孟子』「尽心篇上」)。
(a)自然もまた我々に生を蔑視せよとせまる。自然は言う。「この世をば、お前たちがここに入って来た時のように、出てゆけ。お前たちがかつて感動なく恐怖なく死から生へととび越えたその同じ渡りを、今また生から死へと再びせよ。お前たちの死は宇宙の秩序を組み立てる諸々の部分の一つである。それは世界の生命の一片である。
* 前頁十行目「ただ理性だけが」につながる。次の(c)の加筆がこのつながりをわかりにくくしている。生の蔑視を教えるのは理性や哲学ばかりではなく、自然もまた同様に教えるのである。

(b)人々はその生命を次から次へとわたす。あたかも、競争者がその炬火を次々にわたすがごとし。
(ルクレティウス)

 (a)わたしはお前たちだけのために万物のこの美わしい組織を変えるわけにはゆかない。死はお前たちの創造の条件であり、お前たちの一部なのである。お前たちは畢竟お前たち自身を避けているのだ。お前たちが今うけつつあるそのお前たちの存在は、等分に生と死とに属している。お前たちの誕生の第一日は、お前たちを生に導くと共にまた死に導く第一歩なのである。

我々の第一時は、我々に生を与えながら、早くも生をこわす。
(セネカ)

生るるは死するの始めなり。終末は誕生の結果なり。
(マニリウス)

 (c)お前たちは生きれば生きるだけ、お前たちの生を減らす。それだけ生の損になるのである。お前たちの生命の不断の営みは、つまり死の建設なのである。お前たちは生の中にある限り死の中にある。まったく、お前たちがもう生の中にいない時は、すでにお前たちは死を越えているのである。
 あるいは、この方が望みだとあれば、お前たちが生きてから後に死ぬことにしてもいい。その代り、生きている間じゅうお前たちは瀕死人である。そして死は、死人に対してよりも瀕死人に対して、いっそうひどくぶつかる。いっそう勢い鋭く・いっそう本気に・ぶつかる。
 (b)もしお前たちが人生から利得したのならば、すでに飽きているだろう。満足して立ち去るがよい。

いかなれば満腹したる陪食者のごとくに人生をば去らざる?
(ルクレティウス)

もし人生を利用することができなかったのならば、それがお前たちに無益のものであったのならば、それを失うことが何であろう。更にながらえてまたどうしようというのか。

何のために毎日を更に重ねんとはする?
明日もまた昨日のごとく空しく消ゆべきに。
(ルクレティウス)

 (c)人生はそれ自体善でも悪でもない。それはお前たちのあんばい次第で、善の舞台とも悪の舞台ともなる。
 (a)それにお前たちは、一日を生きたならば、すべてを見たのである。一日はもろもろの日に等しい。別の光、別の闇はない。あの日、あの月、あの星、あの配列、それらはお前たちの祖先が楽しんだものであって、またお前たちの子々孫々を慰めるものである。

(c)あれこそ我らの父たちが見つるものよ。
あれこそ我らの子孫が見んずるものよ。
(マニリウス)

 (a)そして、いくらまずくいっても、わたしの喜劇のすべての場面の配置や変化は、ただ一年をもって完結するのである。お前たちはわたしの四季の移りかわりに注目したことがあるか。それは世界の少年期・青年期・壮年期・老年期にあたる。世界はその演技を終った。もはや、同じことをくりかえすよりほかにすべを知らない。それはいつまで見ても同じだろう。
* 「へんじてかたちり。かたちへんじてせいり。またへんじてく。とも春秋冬夏しゅんじゅうとうか四時しいじこうすなり」(『荘子』「至楽篇」)。

(b)我らは同じ輪の中をめぐりてこれをずることなし。
(ルクレティウス)

年はおのれがわだちの上をめぐりにめぐる。
(ウェルギリウス)

 (a)わたしはこれ以上に新規なひまつぶしを、お前たちのために作り出そうとは思わない。

われはこの上さらに汝らをたのしますべきすべを知らず。
そはいつまで見るも同じなるべし。
(ルクレティウス)

他の人々のために席をゆずるがよい。かつてお前たちがこれを譲られたように。
 (c)平等は公正の第一の要素である。誰も、万物がひとしく含まれる所に含まれるのを、怒るわけにゆかない。(a)だからお前たちは長生きをしてもむだである。お前たちが死んでいなければならない時間を、そのために少しでも短くすることはできないのである。それは何にもならないことだ。やはりお前たちは、お前たちがこわがるあの状態の中に、ちょうど乳母の胸に死んだ場合と同様に長い間いなければなるまい。

思うがままに長生せよ、数百歳までも。
されど死は常に永遠なり。
(ルクレティウス)

 (b)だがしかし、わたしはお前たちを、何らの不満もないような状態に置いてやろう。

知らざるや、汝、死が、
汝の死んで横たわるをなげくべく、
もう一人の汝が生き残るをゆるさざるを。
(ルクレティウス)

お前たちがそんなに惜しがる生命を、もう願いもしないであろうような状態にしてやろう。

その時人は、その身をもその命をも思うことなし。
その時はわれらに、己れをいたむ心だになし。
(ルクレティウス)

死は無よりもなお恐れるに足らないものだ。もしも世に、何か無にさえも及ばないものがあるとすれば。

無にもなお及ばざるもの世にありとせば、
死こそは、その無よりもなお恐ろしからぬものよ。
(ルクレティウス)

 (c)それは、お前たちが生きていようと、死んでいようとお前たちにかかわりのないものである。生きている時はお前たちはあるのだから。死んだ時はお前たちはもうないのだから。
 (a)なんぴともその時がこないで死ぬことはない。お前たちがあとに残す時間は、お前たちの誕生前の年月と等しく、もともとお前たちのものではなかったのだ。(b)二つながらお前たちにはかかわりのないものなのである。

想い見よ、まことに、我らの前にありし数世紀は、
我らにとりて全くなかりしも同然なることを。
(ルクレティウス)

 (a)どこでお前たちの命が終っても、それはそこで全部なのだ。(c)人生の利益は、その長さにはなく、その用い方にある。或る者は長く生きはしたがほとんど生きなかった。お前たちがこの世にある間は、ただ生きることに意を用いよ。お前たちが十分に生きたかどうかは、かかってお前たちの意志にある。年数にはない。(a)お前たちは絶えずそこに向って歩みながら、決してそこにゆき着く日がないと考えていたか。(c)それに果てしない道というものはないのである。(a)だがしかし、道連れはお前たちを慰めることができる。見よ、世の人はこぞってお前たちと同じ道をゆくではないか。

(b)汝の一生が終る時、万物もともに死して汝に従うなり。
(ルクレティウス)

 (a)万物はお前たちの舞を舞うではないか。世にお前たちと共に老いないものがあるか。幾千の人、幾千の動物、その他幾千の被造物が、お前たちが死ぬのと同じ瞬間に死ぬのである。

夜は日につぎ暁は夕べにつながりて絶えざれども
呱々ここの声と葬いの鐘のとの相交わることなく
明け暮れし日夜はただ一つだになし。
(ルクレティウス)

 (c)何だってお前たちは尻込みするのか。どうせ引きかえすことはできないのに。お前たちはかなりたくさんの人たちが、死んで(すなわちそのために不幸を免れ得て)かえって仕合せであったのを見たことがある。だが、死んで不仕合せだった者を見たことはあるか。そうだ、お前たちが自分によっても他人によっても経験しなかったことを一概に悪いものにしてしまうのは、あんまり単純すぎる。なぜお前は、わたしと運命とに向って不平を言うのか。果してわたしたちはお前を苦しめているか。そもそも、お前がわたしたちを支配するのか、それともわたしたちがお前を支配するのか。お前の年齢は終らないでもお前の生命は終る。小男も、大男も、ひとしく一人前の人間なのである。
 人間も、その一生も、物指ものさしでは計られない。ケイロンは、時および継続の神であり自分の父でもあるサトゥルヌスから不死がどんなものであるかを聞いて、不死をことわった。想像して見るがいい。本当に、永遠の生命は人間にとって、わたしがこれに与えた生命よりもどんなに堪え難くまた苦しいものであろうかを。もしお前たちに死というものがなかったならば、なぜそれを与えてはくれなかったかと、お前たちは絶えずわたしを呪うであろう。わたしはわざと死に若干の苦味を与えた。それは、死を享受することの喜ばしさを知って、お前たちが度をこえて余りに強欲に死にたがるのを妨げるためである。生も避けず死も厭わないというあの中庸の中にお前たちをおきたかったからこそ(これこそわたしがお前たちに望むところなので)、わたしは一方を甘すぎないように、もう一方をにがすぎないようにあんばいしたのである。
 わたしは、お前たちの中の第一の賢人タレスに、生死はどうでもよいことだと教えた。だから、『では何故にそなたは死なないのか』ときいた者に、彼は、はなはだ賢明にも、『それはどっちでもよいことだから』と答えたのである。
 水や土や火やその他わたしのこの建物を作りなす各物質は、お前の生の道具でも死の道具でもない。なぜお前は最後の日をおそれるのか。その日は、他のもろもろの日以上に、お前の死に協力しはしない。最後の一歩が疲労を作るのではない。ただそれを宣告するだけである。もろもろの日は死に向ってゆき、最後の日がいよいよこれに達するのである」。
* この」は一四三頁八行目の「この世をば、……に対応する。この母たる自然の教訓の中に、「お前」と「お前たち」とが混合するときがあるが、それは同じ(c)の加筆でも、全部が同時期に書かれたものではなかったためであろう。大体 vous をもって書いているが、ときに tu, ta 等がまじっている。
 (a)以上が我々の母たる自然のやさしい教訓である。ところで、わたしはしばしば考えた。「一体どういうわけで、戦争においては、死の面相が、自分においてこれを見ても、他人の上にこれを見ても、とにかく家の中でこれに逢う時ほどにこわくはないのか。それがこわかった日には、たちどころに医者と泣虫の大軍が出来あがってしまうだろう。それから死は常に一つなのに、どうして田舎者や身分の低い人々の方にずっと多くの沈着が見られるのか」と。わたしはほんとうにこう信じている。「我々が死をとりまくあの恐ろしげな顔付や道具立てこそ、死そのもの以上に我々をこわがらすのである」と。だって、それは打って変った暮しぶりではないか。母や妻や子供たちの泣声、おどろきあわてた人々の弔問、詰めている大勢の青ざめ泣きぬれた召使たち、日のささぬ部屋、火影ゆらめく蝋燭、医者と僧侶のとりかこんだ枕辺。要するに、我々のまわりはおそろしげなものばかりだ。これではもう、土の中に埋められたも同然である。子供たちはお面をかぶった者を見れば、それが友達だって恐ろしがるが、我々もそれと同じなのだ。物からも人からも、仮面を取らねばならない。取って見ればその下には、ついこのあいだ下男や下女のたれかれがこわがらずに通過した、その同じ死を見るだけであろう。そういう物々しい支度をする暇もなく死ねたら我々はどんなに幸福だろう
* 若い頃のモンテーニュは、死とは急激に来るものと思っていたが(一の五十七)、やがて自ら疝痛にしばしば襲われるようになってからは、死とはゆっくりと近づいてくるものと考えるようになった。死は生と相対するものではなく、生の延長、生の一部分として意識されて来たのである。それは老いかつ病めるものが徐々に迎える死であるから、緊張した努力の対象とはならなくなる。こういう変化は、思想のエヴォリュシオンと言うよりは、むしろ年齢と共に自然に体得されたもの、自然の経過成り行きと言うべきだろう。
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第二十一章 想像の力について



 この章もまた一五七二年に書かれたものらしく、これを最初の形において読むと(すなわち(b)(c)等の添加を飛ばして読むと)、まったく「書籍的」「非個性的」であって、モンテーニュみずからの思想判断経験というようなものはほとんど含まれていない。むしろ当時一般に le※(セディラ付きC小文字)ons と呼ばれて流行した奇事異聞集と余り選ぶところがない。だが後年結婚初夜における性交妨害、いわゆる呪縛の話がきっかけとなって、面白い著者の経験談が加わるにいたって、大きな興味をそそるようになる。要するにこの章は、「疑心暗鬼ヲ生ズ」とか「心頭滅却スレバ火モマタ涼シ」とか「病ハ気カラ」とか言うような人心の機微にふれるさまざまな面白い挿話をいろいろ含んでいるし、モンテーニュの実証主義者、科学者らしい面影も到るところに見られるし、特に終りの方には彼の近代的な歴史観も見られたりして、誠に充実した一章である。また本章全体を(a)(b)(c)三つのテキストを通じて読んで見ると、『随想録』の最初と、それがその後どのように生長したかという径路が、きわめてよくわかる。

 (a)※(始め二重山括弧、1-1-52)強き想像は事件を創造す※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)と学者たちは言っているが、わたしもまた想像の力がはなはだ大きいことを痛感する一人である。(c)誰でもそれにぶつかられるのだが、それに打ち倒されるのはそのうちの幾人かである。想像の印象はわたしを突き刺すから、わたしの対策はそれを避けることで、それに抵抗することではない。わたしは健康で陽気な人たちにだけとり囲まれて暮したいと思う。他人ひとの苦しみを見ているとこっちの体も苦しくなってくる。わたしの感覚はしばしば第三者の感覚を貰った。たえず咳をする者はわたしの肺臓と喉元のどもととをむずむずさせる。わたしは病気見舞がきらいである。それが義理のある人の場合は、わたしがさほどに気にかけていない・さほどに大切に思っていない・人の場合よりも、いっそういやである。わたしはいらぬ詮索をしては病気を得、それを自分に植えつけてしまう。わたしは想像が、それをほしいままにし・それをたくましくする・人々に、熱病や死を与えても、決しておかしいとは思わない。シモン・トマは当代の名医であった。わたしは或る日、さる肺病の金持の老人の許で、この老人と養生の方法についていろいろと論じ合っている彼に出あったことがあるが、彼はその時〔わたしをかえり見ながら〕病人に向ってこう言われた。「その一つの方法は何とかしてこの人にお友達になって貰うことである。そして、目にはこの人の生々した顔色を眺め、心にはこの人の若さから溢れ出る歓喜にみちた力を想像し、すべての感覚をこの人のあられるようなはなやかな状態をもって満たされるがよい。そうすれば御容態もやがて持ちなおすであろう」と。だがこの大先生も、「その代りこの人の健康はだんだんと悪くなるだろう」と言うのを忘れていた。(a)ガルス・ウィビウスは、狂気の本質とそのもろもろの発作とを理解しようと余りに思いつめたために、自分の判断をその常の座から逸脱させ、とうとうこれを旧に復することができなくなった。どうやらこの人は、余りに知恵がありすぎて気ちがいになられたに相違ない。中には、恐怖の余り刑吏の手を待たないで死んだものもある。或る者などは、これに赦免状を読ましてやろうとその目隠しを取って見ると、かわいそうに、ただ自分の想像にうちのめされて、首斬り台の上ですでに死んでかたくなっていた。我々はただ想像に掻き立てられて、大汗を流したり、ぶるぶる震えたり、青くなったり、赤くなったりする。そしてただ想像にゆすぶられて、羽根蒲団の中に仰臥しながら全身に戦慄を感じたり、時にはそのままこときれることすらある。また血の沸き立った青年は、熟睡しながらひどく興奮して、夢の中でその慾情をみたすことがある。

しばしば遂げたりとの幻想のもとに、
彼らは精液を洩らし寝衣をけがす。
(ルクレティウス)

 それから、寝る時には何ともなかったのに夜中に頭に角がはえたなどいう話は別に事新しくもないけれども、イタリア王キップスの事跡はやはり特筆するに足りるものである。彼は昼間熱心に闘牛を見物し、夜はよもすがら頭の上に角をいただいた夢を見たせいで、とうとう想像の力によってほんとうに額の真中に角をはやしたというのである。強い悲しみはクロイソスの息子に、自然が彼に拒んだ声を与えた。またアンティオコスは、その心にストラトニケの美しさをあまりに深く刻みこんだために熱を出した。プリニウスは、ルキウス・コッシティウスがその結婚の日に女から男に変じたのを、見たと言っている。ポンタノ及びその他の人々も、近世においてイタリアにおこった同様の変身を物語っている。それから、彼およびその母の切なる祈願によって、

イフィスは男となりて娘なりし日の誓いを果したり。
(オウィディウス)

 (b)ヴィトリ・ル・フランソワを通過した時、わたしはその堅信礼の時にスワソンの司祭からジェルマンと名づけられた男に会うことができたが、彼は二十二の年まではマリと呼ばれて、土地の人たちから娘と思われていたのである。わたしの会った時は、髯むじゃな爺さんで独り身だった。彼自ら言うところでは、飛ぼうと思ってちょっとばかりふんばったら、とたんに男のものが出たんだそうな。今でもその地方の娘たちの間には歌が一つ残っていて、それによって、マリ・ジェルマンのように男になるといけないからお転婆をしないようにと、互いに戒めあっている。こういう出来事がしばしばおこるのは別に珍しいことでも何でもない。まったく、想像がよくこのような事をしでかすのは、想像がこのことにしょっちゅう・しつこく・からみつくからなのである。度々そういう考えやそういう切なる欲望に堕ちこまないようにするには、むしろこの男のものを、娘たちの体にくっつけっきりにしてしまう方がましである。
 (a)或る人たちは、あのダゴベール王および聖フランチェスコの傷痕を想像の力のせいにする。また同じ原因で身体がいまいる場所から離れることもよくあるというし、ケルススの物語っているところのある僧は、しばしば恍惚無我の境に入り、その体は長いこと無呼吸無感覚でいたという。(c)聖アウグスティヌスのあげているもう一人の僧は、ただ人の泣き悲しむ声をきくだけで忽ちに気を失って卒倒し、独りでによみがえるまでは、ゆすぶろうと怒鳴ろうと、つねろうと焼鏝やきごてをあてようと、まったく感じなかった。あとで聞いて見ると、なるほど声はきこえるにはきこえたが、遙か遠くから来るもののようだったと言い、その時始めて自分のやけどや切傷に気がついた。それが自己の感覚をいつわる痩せ我慢でなかったことは、そのあいだ脈も呼吸もとまっていたことでよくわかる。
* ダゴベール王はレプラにかかったが、某所の聖水で患部をこすって癒え、そのあとにはただ傷痕のみをのこしたという。また聖フランチェスコは、或る時聖なる恍惚状態におちたところ、キリストが現われ、同時にキリストと同じく四肢に釘をうたれたと感じたそうだが、覚めて見たらそこに傷痕が残っていたという。
 (a)奇跡や幻覚や呪縛やその他いろいろなふしぎを信ずる原因は、主として凡俗の人の比較的柔らかな霊魂にむかって働きかける、あの強力な想像であるらしい。彼らは強い信仰をたたきこまれているから、見ないものまでも見たように思うのである。
 わたしはまた、あのおかしなリエゾン〔糸縛〕も(我々の仲間はよほどこれにしばられているものと見え、寄るとさわるとこの話ばかりしている)、大抵は恐怖心配のせいだと信じている。まったく、わたしはこういう事実を経験して知っているのである。或る人が、それはわたしが我が身同様に責任をもつことのできる人、少しも不能の疑いのかけようのない人、魔法などにもかかるはずのほとんどない人であったが、その友達の一人が折もあろうに最も肝心なときに不思議な性交不能に陥ったという話をきいたため、自ら同様の場合に臨むや、ふとその話を思いだしてひどく想像を刺激され、とうとう自分までが同じ運命に陥ってしまった。(c)そして、それからというもの、これに陥るのが癖になってしまった。その失敗の回想がいよいよ彼を苦しめ悩ましたからである。だが彼は、遂に他の夢想によってこの夢想をいやすことができた。というのは、自ら事前にこの癖を告白することによって、その心の緊張を軽くしたからである。つまりその不能をいわば予期させることにより、それだけ自分の責任を小さくすることができたからである。彼はこのようにして、その考えが解きほぐされその体も常態に復して、そこで始めて試み、捉え、そして相手の意表に出ることもできるにいたって、始めて、さっぱりと、このわずらいから癒された。
* 一五八〇―八八年版には liaison des mariages と書いている。すなわち所謂※(始め二重山括弧、1-1-52)Nouement d’aiguillette※(終わり二重山括弧、1-1-53)(呪縛)のこと。すなわち、結婚妨害のおまじないで、当時はこういうことが本気で信じられたものらしい。
 一ぺん行うことのできた相手に対しては、本当の衰弱によるのでない限り、もう決して不能になることはない。
 (a)この不幸が心配されるのは、ただ我々の心が欲望と尊敬とでひどく緊張する場合だけである。特に思いもうけぬ好機が急にやって来る場合には、人はこの障害から立ち直ることができない。わたしの知っている或る者は、よそでたんのうしかけた体をそっくり持って来て(c)この激しい昂奮を眠らせることに(a)成功した。(c)また年のせいで精力がやや衰えるに従ってかえって不能でなくなった者もある。それからもう一人の者には、その友人がこれをよけるききめあらたかなおまじないを教えて安心させたことが役立った。ここにその顛末を正直にお話しする方がよかろう。それはわたしがきわめて親しくしている・大層家柄のよい・某伯爵が、或る美しい姫君**と結婚される折のことであった。その姫君は或る者に想いをかけられており、その当人がその日の宴会にも出てくるというので、友人一同は大いに心配した。中でも花婿の近親の一老婦人は(それはこの結婚の司会者で・しかもこれをその邸内で行おうという・お仲人であったが)、かの魔法を心配して、その旨をわたしにお漏らしになった。わたしは万事自分にお委せ下さるようお願いした。幸いわたしは、自分の手箱の中に、様々の天体の形が刻まれた小さな金の薄板を一ひら持っていた。それは頭蓋の上にぴたりと載せておれば日射病や頭痛がよけられるという有難いもので、なるほどそうするのに都合がよいように、ちょうど顎の下で結べるようなリボンが縫いつけられていた。いかにもわたしが次にお話ししようとしている手品に用いるには恰好のものであった。昔ジャック・ペルティエ***が、こんな奇妙な物をくれたことがあったので、わたしはふとこいつを一つ役に立ててやろうと思いついたのである。そこで伯爵にこう言った。「あなたもあるいはたれかれのように、あの不祥事にわれるかも知れません。あなたのためにこれを来たそうとしているものどももあるのですから。でも、かまわずに行っておやすみなさい。私が親身の力をお貸ししますよ。次第によっては、奇跡も演じて御覧に入れましょう。それも私の思いのままなのです。ただあなたの名誉にかけて、絶対に秘密はお洩らしになってはいけませんよ。もしまずいことにおなりでしたら、ただ夜更けに下僕しもべがお夜食を持って参りますから、これこれの合図をして下さい」と。彼は心も耳も大いに驚かされていたから、とうとう気にしていた障害に陥られ、いよいよわたしに合図をなさった。わたしはそこでこう言った。「我々を追い払うようなふりをして起きていらっしゃい。そして、ふざけて私の寝衣ねまきを取ってお召しなさい(我々はよく似たせい恰好だった)。そしてそのまま次のようなおまじないをおやりなさい。つまり、我々が室の外に出てしまったら、おかわやに下りられ、これこれの呪文を三遍唱えながら、これこれの型をなさるのです。そして三度呪文を唱える間に、私がおわたしするリボンを巻きつけ、その先についている金牌きんぱいをうまくお腰にあてがい、刻まれた形象が、これこれの場所にあたるようになさるのです。それからリボンを、ほどけないように、位置もずれないように、しっかりと締めたら、もう安心です。帰ってもう一度やってごらんなさい。ただ、私の寝衣をお床の上にかけ、お二人を掩いかくすようにすることをお忘れにならないでね」と。こうした猿芝居が、おまじないの眼目なのである。我々は、そういう奇妙な方法をきくと、それが何か秘密の学問から出たものででもあるかのように思わざるをえないからである。その取りとめのなさこそ、おまじないにもったいをつけるので、とにかくわたしの護符が、そうして日射病よけというよりはウェヌスのお守りとなり、けないでいたことは確かである。わたしにこのような・わたしの天性からはすこぶる遠い・行為をさせたのは、ふとしたただの好奇心であった。元来わたしは小細工やごまかしの敵である。それはこの時たまたまわが手にかかって、お慰みとなったばかりでなくお役にも立ったけれど、本来わたしは詭計は大きらいなのだ。その行為は悪いことではないが、その経路はよろしくない。
* モンテーニュの学校時代の友人ルイ・ド・フォワ。
** 前者と恋仲であったディアーヌ・ド・フォワ=カンダル。後出第一巻第二十六章の冒頭解説参照。
*** ジャック・ペルティエ・デュ・マン Jacques Pelletier du Mans 医者、数学者、ユマニスト、表音式綴字法の提唱者の一人、詩人。一五七二―一五七三年ボルドーの「ギュイエンヌ学院」の校長をした。この頃しばしばモンテーニュ邸を訪れたらしい。
 エジプト王アマシスは、はなはだ美しいギリシア娘ラオディケと結婚した。ところが彼は、何処へ行っても女にもてたのに、どうしても妻を享楽することができなかったので、これは何か妖術のなす業だろうと考えて、あわや彼女を殺そうとした。だがラオディケの方では、これは何か心の迷いから起ったことだろうと思い、王に信心をすすめた。そこで彼がウェヌスに祈願をしたところ、奉献犠牲をしたその夜から、いともあらたかに直ってしまった。
 さて、女たちが顔をしかめ、怒ったり拒んだりするようなそぶりで我々を迎えるのはいけない。それではきつけておいてからたたき消すみたいなものである。ピュタゴラスの嫁は言った。「女が男と寝るときにはズロースと一緒に恥じらいをも脱がねばなりません。そしてスカートをはいたら再び恥じらいを取りもどさねばなりません」と。(a)攻め手の心は、重ねていろいろな驚きにかき乱されると、たちまちにうろたえてしまう。一ぺん想像のためにこの恥をなめさせられた者は(そういう目にあわされるのは、ただ始めての交合の時だけである。この時は情熱が最も沸き立つものであるし、またこの最初の契りにおいては最もその失敗をおそれるからである)、その始めの失敗を気に病むから、いつまでも同じ失敗をくりかえす。
 (c)結婚した者は、時は十分にあるのだから、まだだと思ったらことを急いではいけない。試みてもいけない。むしろ昂奮熱狂にみちた初夜の交わりは、不面目ながらまあやめた方がよい。もっと打ちとけた・もっと落ちついた・やがての楽しみをまつ方が、最初の拒みに驚かされ絶望して永い不幸におちいるよりはずっとましである。この癖のある者はすっかり抱き合う前に、ちょいちょい、そして幾度にも、興奮して執拗とならない程度に軽く挑み試み、いよいよ大丈夫という確信をえなければならない。自分の器官が性来従順であることを知っている者は、ただ自分の想像にたぶらかされないように気をつければよい。
 人がこの器官の気随気儘をせめるのはもっともなことだ。それは用のない時にいやにうるさく出しゃばるかと思うと、困ったことに最も用のある時に意気沮喪している。そしてきわめて強硬に我々の意志と抗争し、我々の心や手の勧誘にすこぶる頑固に抵抗する。けれどももし、人がこの器官の反逆を難詰し・それを理由に彼を処断し・ようとするのに対して、この器官からの弁護を依頼されることでもあれば、おそらくわたしは、「彼の友だちである我々の諸器官が、彼の作用が重要で快いのを羨みねたんで、この喧嘩を吹っかけたのではないか。そして結束して世間を彼の敵側にたたせ、自分たちに共通な欠点を、意地悪くも彼一人に転嫁しようとしているのではあるまいか」と、まず疑ってみるであろう。まったくよく考えていただきたい。我々の肉体の諸器官の中で、しばしばその作用を我々の意志に対して拒まないものが、しばしばそれを我々の意志に反して行わないものが、ただの一つだってあるだろうか。それらの器官にはそれぞれ固有の感情があって、我々の賛否には関係なく自己を目覚ましたり眠らせたりしているのである。しょっちゅう我々の顔面の勝手な動きは、我々が秘密にしているないしょの思いを暴露し、我々を人々の前に裏切り示すではないか。かの器官を昂奮させるあの同じ原因は、我々がしらないうちに心臓をも肺臓をも脈をも昂奮させる。かわいらしいきれいな物を見れば、いつしらず我々の体じゅうに情熱の炎がひろがるからである。我々の意志の承諾ばかりでなく、我々の思考の承諾すらもえないで、あるいは高ぶりあるいは静まるのは、ただこれらの筋肉や脈管だけであるか。我々は、自分の髪の逆立つことを、我々の皮膚が欲望や危惧によって打ちふるえることを、とめることができない。手はしばしば我々が少しも持ってゆこうと思わない所に向って伸びる。いよいよとなると、舌はもつれ声は喉にからまる。揚げ物にする物がなくて、むしろ食欲を抑えたいと思う時だって、飲食の欲は、それに服従するもろもろの器官を動かさずにはいない。それはあのもう一つの欲望と少しもまさり劣りはない。いや時をえらばず勝手に我々を放棄することも変りがない。お腹の中を空にする器官も、我々の意見を越えまたこれに反して、それ特有の収縮開閉をする。腎臓を空にする器官も同様である。我々の意志が全能であることの証拠として、聖アウグスティヌスは、そのお尻に思うがままのおならをさせた人を見たと言ったが、それからその註解者のヴィヴェスは、更にこれを裏書して、読み上げる歌の調子にあわせておならをするという当時の人の実例をもう一つ挙げたが、いずれもこの器官の絶対従順を支持するには足りない。まったくこの器官こそ、通例、最も無遠慮で最も時をわきまえないのである。それにわたしは、殊の外に騒々しくて手におえないお尻を知っている。それは四十年間その持主に絶えず休みなしにおならをさせ、とうとうその人を死にまでつれて行った。
 けれども我々の意志くらい(我々はこの意志の権利をまもるためにこういう非難を提出するのだが)、乱暴で言うことをきかないかどで、最も我々が反逆者よ反抗者よと呼んで然るべきものはないのではないか。意志は、我々がこう欲してほしいと思うことをいつも欲するか。我々が彼に欲するなと命ずることをたまには欲しないことがあるか。否。明らかに我々の損になるようなことをさえ欲するではないか。それはまた我々の理性の結論に導かれてゆくか。否。そこで結局、わたしは我が依頼人殿のためにこう言うであろう。「以上の事実によって、この件は共同訴訟人の一人と不可離不可分のものであると思われるのに、皆してただ彼一人を相手どっている点を、しかも双方の事情を考えるに到底被告ひとりに転嫁することのできない論難攻撃を彼一人に加えている点を、なにとぞ御考慮願いたい」と。これで告発者たちの私怨と違法とは明々白々である。だがそれはともかく、弁護人と裁判官とが下らない討論をしたり宣告をしたりしている間も、自然はやはりその歩みをやめないであろう。自然がこの器官に多少の特権を与えたって、それはむしろ当然である。この器官こそ、死すべきものに唯一つ不死の業をなさしめるのであるから。だから、生殖はソクラテスにとって神の業であった。そして恋愛は不死の欲求であり、それ自ら不死のデーモンであった。
 (a)或る人はおそらくこの想像のおかげで瘰癧るいれきをわが国におとしてゆくのに、その道連れは再びこれをスペインに持ってかえる。だから、この種の事柄にかけては、いつも人はあらかじめ心の用意を求めるのだ。なぜ医者たちはあのようにすぐにも直してやるような嘘をつき、前もって患者たちの信頼をえようとするのかというと、それは彼らの煎じ薬の無効を想像の力によって補強するために他ならない。彼らはこの道の或る大先生が、お薬を見ただけでその作用を受けたものが数多くあったと、彼らのために書き残しているのを、ちゃんと御承知なのだ。
* フランソワ一世のマドリッド幽閉以来、瘰癧にかかったスペイン人たちの間には、フランス王に撫でてもらうと治るという迷信が行われた。そのために大勢のスペイン人がフランスにやって来た。
 それに、想像が色々とこうした気まぐれな働きをするということは、父が使っていた或る薬剤師の話すことをきくに及んで、いよいよ合点がいった。それは正直なスイスの男であったが、スイス人といえばほとんど嘘いつわりを知らない国民である。彼は以前、結石病をもった病身のトゥールーズの商人に長く使われていたのであるが、患者はしばしば灌腸を必要とし、時折の容態に応じていろいろな薬を医者に処方させた。それらの薬が運び込まれると、彼はいつもの順序を一つ一つはぶかずにやらせた。しばしば薬が熱過ぎはしないかと自分でさわって見たりした。それからいよいよ仰むけにねる。そこですべての処置が施されるのだが、ただ薬の注入だけはなされない。こうしたいわば御儀式万端をすませて薬剤師は退去する。でも病人はそれでけっこう楽になり、まるで本当に灌腸をしてもらったように、本当に注入をうけた者と同じ効果を感じたのである。医者はその効果が十分でないと認めると、同じことを二度も三度も繰り返させたそうである。わが証人が断言するところによると、病人の細君は時々費用を倹約するために(まったく病人は本当の灌腸をうけたつもりで払っていたのである)、ただのぬるま湯でやらせて見たが、そういうごまかしはすぐにばれ、結局それでは駄目だということになって、やっぱり始めのやり方に戻ったそうだ。
 ある婦人は、ふとパンと一緒にピンを呑み込んだと思うと、そののどに堪えがたい痛みを感じてうめき苦しんだ。そこにピンがひっかかっているような気がしたのである。けれども外から見たところ腫れてもいなければ何の別状もないものだから、或る気のきいた男が、これはきっと呑み込む時にパンのかけらか何かが喉にひっかかったのを、ピンを呑んだかのように思いこんでいるに違いないと判断し、まず吐かせておいてから、手早くそこにねじまげたピンを投げ込んだ。婦人は、「それ出た!」と言われると、たちまちに痛みの消えるのを感じた。わたしはこんなことを知っている。或る殿様が、お歴々方を自分のお邸に招待せられてからやがて三、四日もたったころ、面白半分に(まったくそのような事実は全然なかったのである)、「この間はみんなに猫のパイを御馳走してやった」とご自慢になった。と、それを聞くなり、お客様の一人だった或るお姫様は、すっかりこわくなり、急に吐き気を催し、高熱を発し、ついに薬石効なくみまかられた。動物でさえ、我々と同様に、想像の影響をこうむる。例えば犬にしても、主人を失うと悲しさの余り死にいたることがある。我々は、犬が夢の中で吠えたり身をもだえたりするのを、また馬が夢を見ていなないたりあばれたりするのを、目撃する。
 しかし以上の事柄はすべて、精神と肉体とが密接な関係をもっていて互いにその運命を分ち合う事実に帰することができる。けれども、想像がただその人の肉体の上だけでなく、ときには他の人の肉体の上にまで影響を及ぼすというのは、これはまた別の問題である。まったく、或る一つの肉体がその病気を、例えばペストや疱瘡や眼病などを、隣りの人にうつすように、

病める眼を見ればその眼もまた病む。
多くの病は、かくの如くにして人より人へとうつる。
(オウィディウス)

激しくゆり動かされた想像こころもまた矢を射だして、他の物を傷つけることがある。古代の人々が、スキュティアにおける或る婦人たちについて信じていたところによると、彼女たちは誰かに対してはげしい憤りを発する時は、ただ一にらみで相手を殺したという。亀や駝鳥は、ただ眼でにらむだけでその卵をかえす。これは彼らの眼が或る種の放射能をもっている証拠である。また魔法使いにいたっては、毒のある恐ろしい眼をもっていると言われている。

何者の眼とも知らず、わがやさしき羊をいざなえり。
(ウェルギリウス)

この魔法使いというやつは、わたしにはとうてい信じられない。だが、婦人たちがそのおなかの中の子供たちの体に彼女たちの想像の痕をつけることは、経験上我々がよく見るところである。黒い子を産んだ女などはその一例である。また、ボヘミア王であり皇帝であるカルルのおん前に、ピサ付近の産れで全身に毛の深く生えた娘が連れて来られたことがあるが、その母の言うところによると、その寝台のかたわらにかけられた洗礼者聖ヨハネの像のために、こんな娘を懐胎したのだそうな。動物の中にも同じようなことがある。例えばあのヤコブの羊や、それから山の中で雪のために白くなる山うずらや兎などが、その証拠である。この間は、わたしの家でもこんなことがあった。一匹の猫が樹の高いところにいる鳥を狙っていたが、双方瞳をこらしてしばらくのあいだ睨めっこをしているうちに、とうとう鳥の方が死んだようになって猫の両足の間におちた。自らの想像によって気を失ったのだろうか、それとも猫の方にある何かの牽引力に引きよせられたのだろうか。鷹狩りの好きな人々は、さる鷹匠が、「おれは空を飛ぶとんびをじっと見すえていると、ただこの眼力がんりき一つでそれを地面近く引きよせることができる」と豪語するのを聞いたことがあろう。実際そのとおりするそうである。人の話では。というのは、わたしは、わたしが借りるお話の真偽を、その原作者の責任に帰するからである。
 (b)論説の方はわたしのものであるが、これは理性の証言によって立っているので、経験の証言によっているのではない。実例の方は皆さんがいくらでもつけ加えてくださればよい。現在それを一つもおもち合せでなくても、それは捜せばいくらもあるものだとお考えにならなければいけない。事件は数多くあり、その種類もいろいろありうるのだから。
* discours すなわち th※(アキュートアクセント付きE小文字)orie, conclusion の意味である。
 (c)もしわたしの説明が不適当だというなら、誰かわたしに代ってもっと適切な説明をして下さればよい。
 だから、わたしが我々の考えや行いについて論じているこの研究の中には、お話めいた証拠も、それがありそうに思われる限り、真実の証拠と同様にとり入れてある。それらは、あるいはローマであるいはパリで、あるいはジャンにあるいはピエールに、起ったにしろ起らなかったにしろ、やはり人間の能力の一面なのであって、それをわたしは、それらのお話によって教えられ、かつ得るところもあるからである。わたしはそれを見て、それが影であろうと本物であろうと、等しくそれから益をうける。そして、もろもろの物語がしばしばもっているいろいろな教訓の中で、わたしは最も稀で記憶すべきものをとって、わたしの役にたてる。世に作者は多いが、彼らの目的はみな事件を物語ることである。わたしの目的は、果してそこまでゆくかどうかわからないが、むしろ起りうる事柄について語ることであろう。学校では、全く類似の事柄がないときでも、それらを仮想することが当然のこととして許されている。だが、わたしはそんなことはしない。そこへゆくとわたしはすこぶる小心翼々で、どんな歴史家にもまして事実に忠実である。わたしがここに述べている実例の中でも、わたしはなされた・または言われた・と聞いた事柄は、最も小さなつまらない事情にいたるまで、あえて変えることをしなかった。無知のために事実と相違したことを言うことはあるかも知れないが、わたしの良心コンシアンスはただの一事をも捏造しない。わたしの知識シアンスの方はどうだか知らないが。この問題については、わたしは時々考えこんでしまう。「神学者だとか、哲学者だとか、その他すぐれた・緻密な・良心と慎重とをもっている・人々にとって、歴史を書くことは果してふさわしいことかどうか」と。だって、どうして彼らは俗衆の保証をそのまま人に保証することができようか。どうして自分の知らない人々の思想に責任をもち、彼らの推測を現金のように人に与えることができようか。幾人もの人々によってなされた事柄については、よしそれらが彼らの眼前でなされたにしても、厳正な審判者の前では証言をすることをはばかるであろう。世には彼らがあえてその意図について十分に責任をもてるような、そんなに親しい人物などは一人もいないからである。わたしは、現在のことを書くよりは過去のことを書く方が、まだ危険が少ないと思う。なぜなら、書き手はただ人が保証している真実を借りて来て物語ればよいのだから。或る人々は、わたしに現代の諸事件を書くようにすすめる。彼らは、わたしが誰よりも感情に損われることの少ない眼をもってそれらを見ているとか、偶然にもわたしがいろいろな党派の棟梁と親しくしていることから、それらを最も間近に見ているだろうとか、思うらしい。だが彼らは言ってくれないのである、サルスティウスの名誉のためにわたしがそんなあぶないことはあえてしないであろうとは。またわたしが責任、根気、忍耐の敵であり、長物語くらいわたしの文体に不むきなものはないとも言ってはくれない。わたしは息がつづかないので非常にたびたび休む。碌すっぽ構文もできなければ敷衍ふえんもできない。子供以上に、ごくありふれた事柄を言いあらわす語句さえも、知らないのだから。だからわたしは、材料を自分の力相応にあんばいして、ただ自分に表現できることだけしか言おうとは企てないのである。かりに何かわたしを引張ってゆくような事柄があったとしても、わたしは到底最後までついてはゆけないだろう。それから、わたしの自由がすこぶる奔放で、自分の考えどおりに、また理屈一点ばりに、適法でない・咎むべき・判断をさえ公にするであろうとも、彼らは言ってくれない。プルタルコスなら自分の著作について多分こんなふうに言ったであろう。「自分のあげる実例が何から何まで真実であるとすれば、それは他人ひとさまの手柄である。ただそれらが後の世の人々のためになり、また我々を徳へと導く燈明となっているとすれば、この方は自分の手柄である」と。昔の物語は、ああであってもこうであっても、お医者のくれる薬のような危険はない。
* ローマの政治家、歴史家、当時の現代史家。
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第二十二章 一方の得は一方の損



 (a)アテナイ人デマデスは、その町の埋葬用諸用品の販売を業とする一人の男を、「あまりに利益をむさぼりすぎる。しかもその利得は多くの人々の死がなくては生じえないものだ」と言って処罰した。この裁きは間違っていたと思う。なぜなら、どんな利得だって他人の損失とならないものはないし、そんな風に考えるとすべての利得を処罰しなければならなくなるからだ。
 商人が栄えるのはただ若者の乱費のためだし、百姓が栄えるのはただ麦が高いためだし、建築家が栄えるのは家が倒れるため、裁判官が栄えるのは世に喧嘩訴訟がたえないためである。聖職者の名誉とお仕事だって、我々の死と不徳から生ずるのだ。「医者は健康がきらいで、その友人が健康であることさえよろこばない。軍人は平和がきらいで、自分の町の平和をさえよろこばない」と古代ギリシアの喜劇作者は言ったが、その他何でもそんなわけである。いや、なお悪いことには、皆さんがそれぞれ心の底をさぐってごらんになるとわかるが、我々の内心の願いは、大部分、他人に損をさせながら生れ且つ育っているのである。
 そう考えているうち、ふとわたしは、自然がこの点においても、その一般的方針にそむいていないことに気がついた。まったく博物学者は、物の出生・成長・繁殖はそれぞれ他の物の変化腐敗であると説いているのである。

まことに物その形と性質とを変えるとき、
前にありしものの死のあらざることなし。
(ルクレティウス)
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第二十三章 習慣のこと及びみだりに現行の法規をかえてはならないこと



 この章のなかにも奇事異聞集の傾向が多分に含まれている。なにしろ古代が研究されアメリカ大陸や東インドなどへの航路が発見された時代のことである。歴史家も旅行家もモラリストも、こぞって中世以来の人間観を修正しようと、各地各時代の奇異奇怪な風習の実例を集め出したのは当然である。モンテーニュもまた、すでに註したとおり、その例に洩れなかった。だがモンテーニュはただそうした実例を集めるだけでは満足せず、更にそれらを比較しまた批判もしている。すなわちこの章の意義は、それがモンテーニュの道徳論ないし政治論に対する、いわば序論をなしているところにある。ここにはモンテーニュの二つの思想が述べられている。一、「習慣の力は恐ろしいものでわれわれの理性をも盲にする。しばしばわれわれは盲目的に習慣の奴隷となっている」(ここからやがて、道徳や法律は絶対的なものではないという彼の革新的論説が生れる)。二、「われわれの習慣はそのように根拠薄弱なものであるが、それにしても賢者は習慣を尊重する」(これが彼の道徳上政治上の保守主義を生む)。以上二つの考えはやがて第二巻第十二章において再び取りあげられ、いよいよ花々しく展開される。我々はそこにこの章においてすでに挙げられている実例が再び挙げられ註釈されて、いわゆるモンテーニュの懐疑主義の礎の一つとなっているのを見る。そして遙かに第三巻第一章「実利と誠実について」における堂々たる彼の政治論に発展する。すなわちそういうモンテーニュの思想展開の発足点として、この章は特に意義が深い。だがここに特に注意しなければならないのは、とかく頑固な保守主義者がこれらの諸章を浅薄に解釈して、モンテーニュを自分の仲間ででもあるかのように誤り信ずることである。だが彼は一方で習慣を、特に陋習を、思いきって真理や理性に照らして批判している。人間が勝手にでっちあげた法令を自然の法則につき合わせているばかりでなく、各国各時代の思い思いの政治を、全世界に通じる、いわば神の政治と対比することさえもした。のちに出て来る「カンニバルについて」(一の三十一)の章や第二巻最終章「父子の類似について」などには、モンテスキューやディドロやルソーを想わせる民主主義的、社会主義的傾向さえ読みとられる。われわれはこれらのことを、決して読みおとしてはならないであろう。なお習慣の問題はモンテーニュがいろいろな時期にしばしばふれたことであるが(一の三十一、一の三十六、一の四十九、二の十二、二の二十七、三の十三)、その意見は前後を通じてこの章の所論とほとんど変っていない。

 (a)或る百姓の女が、子牛をその生れ落ちから撫でたりかかえたりすることを覚え、ずっとそれをつづけているうちに遂にそれが習慣となって、しまいには子牛が大牛になってからもなおそれを抱いて歩いたという話があるが、始めてこの話を作り上げた人は、きわめてよく習慣の力のほどをわきまえていたのだと思われる。まったく習慣というものは、本当に乱暴で陰険な女教師なのである。それは少しずつ、そっと、我々のうちにその権力の根を植えつける。けれども、始めこそそんなに優しくつつましやかだが、一たび時の力をかりてそれを植えつけてしまうと、たちまちに怖ろしい・暴君のような・顔をあらわす。そうなると、我々はもう、目を上げてこれを見る自由すらなくなしてしまう。われわれは、しょっちゅう習慣が自然の法則をねじまげるのを見る。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)習慣は万物の強力なる指導者なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(プリニウス)。
 (a)そこでわたしは、(c)プラトンの『国家』にある洞窟の話を本当だと思う。(a)きわめてしばしば習慣の権威の前に医学上の理論規則を捨てる医者があるというのも、本当だと思う。それからまた、習慣によって自分の胃を毒を容れるのに慣らしたという王様の話も、アルベール・ル・グランののべている蜘蛛くもを常食とするのに慣れた娘の話も、本当だと思う。
* プラトンの『国家』(七)によれば、地獄に一つの洞窟があって、死者はみな、次の世の暮し方に関する命令をうけるまで、しばらくそこに留まる。ところが、再び地上にかえってその好む職業に従うことをゆるされる時は、誰もみな例外なく前世の職業を再びとる。
 (b)それから、あの新インドといわれる世界〔当時新発見のアメリカ大陸〕には幾多の大民族がいろいろな気候の下に住んでいるが、いずれも蜘蛛を常食とし、これを貯蔵していた。いや、いなごやありやとかげやこうもりなどと共にこれを飼育していた。そして食糧が欠乏すると、蟇蛙が一匹六エキュで売買された。彼らはそれらを煮焼し、いろいろなソースをかけて食べる。また、中には我々が用いる鳥獣の肉やその他の食品を、かえって命取りの毒物と心得ている民族もあった。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)大なるかな習慣の力。猟人は雪中に夜を明かし、山の太陽にその身を焼く。拳闘家は敵の手甲でうたるるも、呻き声だに立つることなし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 これらの実例は外国の話エトランジェではあるが決して奇異なことエトランジュではない。それは我々がよく経験することだが、いかに習慣が我々の感覚を鈍らすかを考えて見ればわかることだ。わざわざナイルの滝の近くに住む人たちの話を借りて来るまでもない。また哲学者たちの天の音楽に関する説を受売りして、「もろもろの天体はいずれも固いもので、ころがりながら互いに軽く触れ合うから、何とも言えない調和した音を出す。そしてその調子の変化につれて、もろもろの星は種々様々の舞を舞うのである。だが、おしなべてこの世の生き物の耳は、エジプト人のそれのように、この音の継続のために鈍っているから、それは随分と大きな音なのだが、それと知覚することができずにいる」などと申上げるまでもあるまい。かじ屋や粉ひきや甲冑よろい師なども、我々のようにその音に驚いていた日には、到底その業に堪えられないだろう。わたしの匂い皮の胴衣はわたしの鼻にも匂うけれども、三日続けて着ているとただあたりの人に匂うばかりである。それよりもなお不思議なのは、習慣は長いあいだの中絶があっても、それが一たび我々の感覚の上に与えた印象の結果は、何時までも残しとどめるということである。それは、鐘楼の近くに住む人々が経験するとおりである。わたしはうちで塔の中に**住んでいるが、そこでは毎日明け暮れに、大きな鐘がアヴェ・マリアを打ちならす。その響きは塔をうちゆるがさんばかりである。始めのうちはとてもたまらないと思ったが、やがて間もなく慣れてしまった。今ではもうそれを聞いてもやかましくないし、ときには眠りが覚めないことすらある。
* 『随想録』の中にはこの種の地口 jeu de mots がかなり沢山ある。一々訳出できないが、時折それをルビに表示してみた。estranger と estrange とは発音が似ていて意義にちがいがある。
** 後出第三巻第三章に、モンテーニュの住んでいた塔の詳しい叙述がある。これは道徳的な父ピエールの感化であろう。更にさかのぼればエラスムスの精神の結果であろう。
 プラトンは、或る子供がくるみ遊びをしているのを見てこれを叱った。子供は、「小さなことをやかましく言わないでよ」と口答えした。プラトンは押し返して、「習慣は決して小さなことではないぞ」と言った。
 わたしは、我々の最も大きな不徳は我々の最も幼い時代からの癖にほかならず、我々の主要な教育は乳母の手の中にあると思う。子供がひよこの首をひねったり犬や猫を傷つけて面白がったりするのを見ることは、母親のなぐさみになっているし、或る父などは、愚かな話だが、息子が無抵抗な百姓や下僕をしいたげるのを見るとそれを雄々しい心の前兆だと考え、意地悪いはかりごとを構えてその友達をだますのを見ては、こいつなかなか利口だわいなどと考えている。とんでもないこと、それこそ残酷・暴虐・裏切りの種子であり根なのである。それらはそこから芽を出し、やがて勢いよく伸びてゆく。そして習慣の手の中でますますその勢いを張る。いや、これらの忌わしい傾向を年がゆかないから・ささいなことだから・といって大目にみるのこそ、はなはだ危険な教育なのである。第一に、それは自然の言葉である。その声は細ければ細いだけ、それだけ純で強いのである。第二に、ごまかしの醜さはお金とピンとによって少しもちがわないのである。それはごまかしの本質による。わたしはこう結論する方がずっと正しいと思う。「彼はピンをごまかすのだ。どうしてお金をごまかさないであろうか」と。しかるに人々はこう結論する。「それはピンだからだ。よもやお金をごまかすことはあるまい」と。子供たちには、不徳はそれが不徳であるから憎むのだと、ねんごろに教えこまなければならない。何よりもその本来の醜さを思い知らせなければならない。そうすれば、我々は不徳を、たんに行いにおいて避けるのみならず、特に心において嫌うようになる。それがどんな仮面をかぶっていようとも、それを心に思うことがすでに彼らにとって忌わしいことでなければならない。実際、わたしは子供の頃からいつも明るい表街道を通るように教えられたので、従って子供同士の遊戯の中でさえこすいことずるいことをやるのが嫌いだったので、――まったく子供の遊戯は遊戯ではないと知らなければならない。それらは彼らにとって最も真剣な行為であるとして判断しなければならない。――今もって、わたしはどんなささいな遊戯に関してでも、心の底から、自然に、特に努めないでも、ごまかすということに対して、極度の反撥を感じないではいられないのである。わたしは二銭銅貨を賭ける時も二百円金貨を賭ける時も、また、妻や娘を相手の、勝っても負けてもどうでもよい場合も、本気の勝負をする場合も、同じようにカルタをめくり、同じように勘定をする。いつどんな場合でも、わたし自らの眼がちゃんとわたしを監視している。これほどきびしくわたしを監視する眼もなければ、これほどわたしが畏れる眼もないのである
* 後出第三巻第二章「後悔について」の章の中では、こう言っている。「わたしは自己を裁判するために、自分の法律と自分の法廷をもっている。そして、よそに訴えるよりもまずそこに訴える……」。
 (a)これはわたしがつい先頃自分の家で見たことだが、生れつき腕のないナント生れの一人の小男は、その足に、本来ならばその手がするべき役目をみっちり仕込み、かえって足本来の役目は、本当に半分以上忘れさせていた。それに、彼は足のことを手と呼びなし、それで庖丁を使う。ピストルに玉をこめてぶっ放つ。針に糸を通して縫う。字も書く。帽子を取る。髪をすく。カルタを切りさいをふる。まことにその足を扱うこと誰よりも器用である。わたしは彼に金をやったが(まったく彼はこういう芸を見せて生活しているのである)、彼はそれを、我々が手でおし頂くように、足をもって押し頂いた。わたしはまだ子供のころに、こんな男も見たことがある。彼は両手がないので、その首根っこをまげて、両柄もろつかの剣や片鎌の槍を扱ったり、それを空に投げ上げたり受け止めたり、また懐剣を投げたり、フランスの馬車屋と同じようにうまく鞭をならしたりしてみせた。
 けれども習慣の力が一そうよく認められるのは、それが我々の霊魂の中に不思議な印象を刻みつける場合である。霊魂の中では習慣が肉体におけるほどに多くの抵抗にあわないからである。実際習慣は、我々の判断や信仰の中で、どんなことでもできないことはないのである。ずいぶんと奇妙な考えを(あれ程の堂々たる大国やあれ程の能ある人物までが迷わされた、あのもろもろの宗教がおしえる大嘘はしばらくおく。まったくこうした部門は我々人間の理性の埓外にあるのだから、神様の恩寵によってこれに関する特別の知識を賦与されていない者は、よしこれに迷ったからといってもまだ許されてよいと思う。だがそれ以外にも)、ずいぶんと奇怪千万な考えを、習慣はあちこちの地方に、まるで法律のようにおしたててしまったではないか。(c)次のような古人の叫びは甚だもっともである。※(始め二重山括弧、1-1-52)自然の秘密を研究することをもって任とする自然学者が、習慣の奴隷となりさがれる人々の間に真理の証拠を求めんとするは、何たる恥辱ぞや※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
* 形而上の問題に関しては、モンテーニュは常に不可知論の立場をとる。しかしその他の方面では、彼は理性主義者・実証主義者・科学者の立場をとり、旧来の習慣を検討し、そのヒューマニズムに反するものはこれを廃しまたは改めようと努力する。彼は懐疑主義者ではなく、学問を信じ進歩を信じた人である。
 (b)わたしは、人間の想像の中に、どこかで公然と行われている習慣とまるで暗合することのないような・従って我々の理性に全然支持されないような・そんな突拍子もない考えは、一つとして浮び上ることはないと思う。或る民族の間では、人はその挨拶しようとする相手に背中を向ける。そしてそのあがめる人を決して見ない。また或る所では、王様が痰をお吐きになる時は、その朝廷で一番王様の寵を受けているご婦人がこれに手を差伸べる。また別の国では、一番位の高い人がひざまずいて王様の汚物を布巾の中に受ける。
 (c)ここに一つお話をさしはさもう。或るフランスの貴族はいつも手鼻をかんだ。これは我々の作法がはなはだ厭うところである。そこで彼はその申訳に(それは当意即妙をもって有名な人であったが)、わたしにこう問いかえした。「そもいかなる特権があってこの穢ない排泄物は、我々をしてこれをうけるのに奇麗なハンカチーフを用意せしめるのか。しかもそれを包んでだいじに懐ろにしまっておけとは何たることか。その方がずっときたならしく、気味がわるい。むしろほかの排泄物と同じように、どこへなりと吐き捨てたらよい」と。わたしは彼の言うことも一理なきにあらずと思った。実際習慣が我々からそれが奇怪だという感覚を奪ったのであって、もしそれがよその国のこととして語られたなら、我々もまたきわめてきたならしいと思うに違いないのである。
 奇跡は我々の自然に関する無知から生ずるので、自然の本質から生ずるのではない。慣れは我々の判断の眼を眠らせる。野蛮人が我々にとって不思議なら、我々もまた野蛮人にとって同じように不思議なのであって、彼らのみが特に不思議がられる理由をもっているのではない。このことは、もしめいめいがそれらのめずらしい実例をあれこれと見まわしたのち、自分自身の場合を省みて、公平に両者を比較することができるならば、誰しもが認めるところであろうと思う。人間の理性は、それらがどんな形のものであろうと、我々のあらゆる思想習慣がほとんど同じような割合でぶちこまれている染料のようなもので、材質においても限りなく、色合においても限りないものなのである。前の話にもどると、(b)或る民族の間では、その王妃と王子とを除いてはなんぴとも仲介なしに王様と話をすることがない。また同じ一つの種族の中では、処女はその恥ずかしいところを人目にさらすのに、結婚した婦人はこれを注意深く包み隠す。よそで行われている次のような習慣は、これと多少の関係がある。というのは、貞操がそこでは、ただ結婚生活のためにのみ重んぜられているのであるから、処女の方は気随気ままの振舞ができるし、懐妊しても特殊の薬を用いて、人の目の前でおろすこともできるのである。またよそでは、結婚するのが商人であれば、その祝いに招かれたすべての商人が、花婿よりも先に花嫁とねる。そしてその数が多ければ多いほど、花嫁はその忍耐と能力とをほめ称えられる。役人が結婚する場合も同じこと、貴族でも誰でも同様である。ただ百姓とか、ごく卑賤のものの場合だけが違う。まったくその場合は、ことに当るのは領主なのである。だが、みんなはその際、結婚中は貞淑であれと、厳重に勧めることを忘れないのである。ある国では男娼が公然と認められており、男同士の結婚すら行われている。また或る国では、妻たちは夫たちと一緒に戦争にゆく。戦闘に参加するのみならず司令にさえたずさわる。或るところでは、鼻や唇や頬や足の指に環をおびるのみならず、乳首やしりにまでどっしりと重たい黄金の棒をぶら下げる。或るところでは、物を食べながら指先を股や陰嚢や足の裏で拭く。或るところでは、子供が相続者ではなくて兄弟や甥たちが相続する。またよそでは、王位を継ぐ場合のほかは、ただ甥たちだけが相続する。或る国では、財産の共有が厳守されていて、その取締りのために数人の高官がおり、各人の要求に応じて耕地やその収穫を配分する広い任務をもっている。或る国では、こどもの死を泣き老人の死をよろこぶ。或る国では、十人も十二人も、みな一緒に、それぞれの妻を抱いて寝る。或るところでは、急激な死によって夫を失った人妻は再婚をゆるされるが、そうでない後家は結婚ができない。或るところでは、女をきわめて邪悪なものとし、女の子が生れればこれを殺す。そして女の必要が生ずると、隣りの国からこれを買って来る。或る国では、夫は何らの理由もあげずに妻を離別することができ、妻の方からはどんな理由があってもそれができない。或るところでは、夫は妻を、子がない場合には売ることができる。或る国では、死者の死骸を焼き、ついでこれをかゆ状になるまでく。そしてこれに酒を交えて飲む。或る国では、最も願わしい葬礼は犬に食われることであり、よそではそれが鳥に食われることである。或る国では、幸福な霊魂はもろもろの幸福がそなわった楽土で、自由気ままの生活をすると信ずる。そして、それが我々のきくあの木魂こだまの主であると言う。或る国では、人々が水中で戦い、泳ぎながら弓を引いてあやまることがない。或る国では、臣従のしるしとして肩を上げ首を垂れねばならない。そして王の宮殿に入る時は靴を脱がねばならない。或る国では、修道女たちを守る宦官かんがんは彼女たちから恋慕されることがないように鼻と唇を切りとられる。そして僧侶たちは、その目をえぐり取って自己の守護神に近づきその託宣をきく。或る国では、各人その好むところのものを神とする。猟師は獅子なり狐なりを、漁夫は何かの魚を。そして、人間の行為・感情の一つ一つをもって偶像を作る。太陽・月・地球は彼らの主要な神々である。誓いの型は、日輪を睨んで大地を踏まえることである。またそこでは、獣肉魚肉を生のまま食べる。(c)或る国では、重大な誓いをする時はその国で最もほめ称えられた偉人の墓を手でさわってその名を呼ぶ。或る国では、王が新春の贈り物として諸侯臣下に賜わるものは火である。これを携えた使者が到着すると、旧年の火は家中いたるところで消される。そしてその新しい火を、更にそれらの侯伯に仕える庶民が、それぞれ頂戴に出なければならない。これを怠れば不敬の罪に問われる。或る国では、王が神に身をささげようと退位すると(彼らはよくこれをする)、その直接の後継者は、いやでも同じ挙に出なければならない。そして王権は第三の後継者にゆく。或る国では、国内の事情に応じてその政体をいろいろに変える。それがよいとなると王をも廃する。そして、代って古老に政治をさせる。また時によるとそれを民衆の手にゆだねる。或る国では、男も女も割礼を受け、同じように洗礼をうける。或る国では、兵士が一回ないし数回の戦闘において敵の首級を都合七つ王の前にもってくれば、貴族に列せられる。(b)或る国では、人々が霊魂も死滅するというきわめて稀な野蛮な信念の下に生きている。或る国では、女がうめかず恐れずに分娩する。(c)或る国では、女たちが両脚に銅の脛当すねあてをつけている。もししらみに噛まれると、これを噛み潰して勇気の程を示さねばならない。そして王が望まれるならば、先ず王にその処女を捧げてからでなければあえて結婚しようともしない。(b)或る国では、挨拶をするのにまず指を地につけてからこれを空に向って上げる。或る国では、男は荷物を頭の上に載せ、女はこれを肩にのせて行く。女は立って小便をし、男の方がしゃがんでする。或る国では、人は友情のしるしにその血を贈る。そして、あたかも神の前にするように、その尊敬したいと思う人の前に香をたく。或る国では、四親等までにとどまらず、もっと遠い関係でも、同族結婚はゆるされない。或る国では、子供は四年間里子にやられる。それはしばしば十二年にも及ぶ。そしてその同じ国では、生れたその日のうちに子に乳を含ませると死をもたらすと考えられている。或る国では、父が男の子の懲罰を担当し、母は女の子の折檻に当る。そしてその刑罰は、子供らを逆さに吊してこれをいぶすのである。或る国では女に割礼を施す。或る国ではあらゆる草を食う。ただ彼らが臭いと思う草を避けるだけである。或る国ではすべてが開け放しである。家々は、どんなに美しくまた富んだ家でも、戸も窓もしめない。蓋のある箱さえも持たない。その代り泥棒はよその国の倍だけ罰せられる。或る国では、猿のように虱を歯でかみ潰す。これを爪でつぶすのを見ることを大変いやがる。或る国では、全一生を通じて髪の毛も爪も切らない。また或る国では、右手の爪だけしか切らない。左手のそれは伊達だてにこれを蓄える。(c)或る国では、右半身の毛を伸びるがままに委せておき、左半身の毛は奇麗に剃ってしまう。そして、互いに隣同士の州で、一方では前髪を、他方では後ろ髪を蓄える。そしてそれぞれ反対側の髪は剃ってしまう。(b)或る国では、父はその子供を、夫はその妻を、金を払う客を楽しますために貸す。或る国では、母をはらませても咎められず、父がその娘と、またその息子と、交わっても咎められない。(c)或る国では、酒盛りをする場合に互いにその子供を貸し合う。
 (a)ここでは人が、人間の肉をもって常食とするかと思うと、あそこでは、或る年に達した父を殺すのが孝行とされている。またよそでは、父がその子のまだ母の胎内にあるうちから、これは捨てよ殺せよ、これは養い育てよ、と命ずる。よそでは、老いた夫はその妻を若い者に貸しその用に供する。よそでは、妻が共有せられ、それが罪ともならない。或る国では、その接した男の数だけの毛糸もしくは絹糸の玉を裳につけ、名誉のしるしとする位である。更にまた習慣は、女だけの国家をも作ったではないか。彼女らの手に武器をとらせ、彼女らに軍隊を組織させ、また戦争さえもさせたではないか。また哲学が総がかりになっても最も賢明な頭脳に植えつけることができなかったことを、習慣は独りの力で最も粗野な俗衆に教え込んだではないか。現に我々は知っているのである。その上下を通じて、死が蔑視されるばかりか喜び祝われている国さえ、幾らもあったことを。七歳の少年が死ぬまで顔色をかえずに、鞭の苦痛に堪えた国もあったことを。富がはなはだ軽視されていて、最も賤しい男さえ黄金の一杯に入った財布を拾おうともしない国もあったことを。否そればかりではない。あらゆる食料に富みながら、パンとせりと水とを最も普通な・最もうまい・食餌とする地方さえあったことを。
 (b)習慣はまた、あのケオス島において、七百年もの長い間、いかなる妻もいかなる娘もその徳を傷つけたためしが一つもなかったという奇跡を、現わしたではないか。
 (a)要するに、わたしの考えるところでは、世に習慣のなさざるもの、なし得ざるものは、一つとしてないのである。だから、ピンダロスがこれを呼んで「世界をべる女王女帝」と言ったと伝えられているのも、もっともなことである。
 (c)或る男は、父をなぐりつけているところを人に見とがめられて答えるには、「これはわが家の習わしなのだ。わたしの父はこのようにわたしの祖父を打った。わたしの祖父はこのようにわたしの曽祖父を打った。だから」とその息子を指さし、「この子も、やがて今のわたしの年頃ともなれば同じようにわたしを打つであろう」と言った。
 また父の方も町なかを引き回され小突きまわされながら或る門のところまで来ると、いきなり「とまれ!」とどなった。まったく、彼はその父をそこまでしか引いて来なかったし、これが、彼らの家で子供たちがその父に対して加える習わしになっていた、いわば家伝の虐待の限界であったのだ。アリストテレスによれば、病気によってばかりでなく習慣によってもまた、女はしばしばその髪をむしり、その爪を噛み、炭や土を食べる。また、自然によっても習慣によっても、男は男と交わる。
 良心の掟は自然から生れると言われるが、むしろそれは習慣から生れる。めいめいは、その周囲で認められている思想習慣をおなかの中で尊重しているから、それからはずれると悔いを感ぜざるを得ないし、それを守れば必ず皆から称えられるのである。
 (b)昔クレタの人たちは、誰かを呪詛しようとするときには、「かの者を悪しき習慣にひき入れ給え」と神々に祈った。
 (a)けれども、習慣の威力の第一の結果は、習慣が我々をしっかりと握ってはなさないことであって、そのためにその把握から自己を取りもどし、自己に立ち帰り、その命令を理知に照らして判断することなどは、もはやほとんどできなくなっている。ほんとうに、我々は母親の乳と共にもろもろの習慣を呑みこむのであるから、そして世界の姿は習慣という状態において始めて我々の眼に映るのであるから、いわば我々はこのような歩みに従うという条件つきで生れて来たようなものである。そして、現に我々の周囲で信用を博しているところの・そして我々の父たちの種によって我々の霊魂の内に浸みこんでいるところの・あの共通の思想が、いかにも一般的自然的な思想であるかのように思われるのである。
 (c)そういうわけで、習慣の埓外にあるものは理性の埓外にあるものと、信ぜられるようになる。だがそう考えることが、最もしばしばいかに不合理千万であるかは、神様が御承知である。もしも自己を研究している我々が会得したように、みんなが格言を耳にするごとに、すぐにそれがどんな点で自分の身にあてはまるかを考えるならば、いずれもそれが単にうまい言葉であるだけでなく、いつも愚かな自分の判断に対する一大痛棒であることを悟るであろう。ところが人は、真理の忠告と教訓とを庶民にだけ与えられたものと考え、少しも自分のためとは考えない。それらを自分の日常生活の上には適用しないで、ただその記憶の中にしまっておくだけだ。まことに愚かな・まことに無益な・ことだと思う。再び習慣の力にもどろう。
 自由と自治とのうちに生い育った人民は、他の政体をみんな奇怪な自然に反するものと考える。君主制にならされた人たちもまた同様である。運命が彼らにいかに変革の便宜を与えても、いな彼らが非常な困難の末にようやく或る君主の束縛を脱しえたその時でさえも、彼らは再び同じ苦労を重ねて、またもや別の君主をかつぎあげる。心底から君主制を呪う気にはなれないのである。
 (a)ダレイオスが或るギリシア人たちに向って、「幾らやったらお前たちはインドの習慣にならって死んだ父を食うかね」とたずねたところ(まったくこれが彼らインド人の作法であって、彼らは、自分たちの体よりもよい霊廟を父たちのために与えることはできないと、考えていたのである)、「どんなお宝を賜わりましょうともそんなことはできませぬ」と答えた。けれども同じようにインド人たちに向って、彼らの作法をすててギリシアのそれを取り、その父たちの遺骸を焼くようにと説き勧めたところ、彼らはいっそうびっくり仰天したのである。誰でも皆そんなものである。習慣は我々に物事の真実の姿をかくすからである。

       はじめて見れば
いかに偉大にして嘆賞すべきものなりとも、
慣るれば人、さのみにこれに驚かず。
(ルクレティウス)

 かつてわたしは、我々の掟の一つで、我々の周囲からかなり遠く離れた所でまで厳守されていた或る掟の一つを、擁護しなければならないことがあったが、ただよくやるように法律や先例の力にばかりたよってこれを守らせるのがいやであったから、どこまでも溯ってその起源を尋ねてみたところ、その根拠があまりにも薄弱なので、わたしはそれをあくまで人にいねばならぬ立場にあったのだが、どうしてもそれを嫌悪せずにはおられなかった。
* おそらくこれは、年若き評定官時代のことであろう。彼は本式に法律の勉強をしていなかったから、却って問題ごとに一々根本的に問題の本質を考えざるをえなかったのであろう。
 (c)次の方法こそ、プラトンが当時の不自然な恋愛を駆逐するための、至上第一の方法と考えたものであった。すなわち、世論にこれを排斥させること、詩人を始めすべての人々にこれを悪く言わせること、というのがそれであった。実際この方法によって、最もきれいな娘も父の恋を、最もみめ美わしい兄弟さえも姉妹の恋を、そそらないようになったのである。つまりテュエステスやオイディプスやマカレウスの物語が、その歌の面白さでもって、この有益な信念を少年子女の軟らかい頭の中に浸みこませたからである。
 まことに純潔は一つの美徳である。それが有益なものであることも十分わかっている。けれども、これを自然に準拠して論じたり擁護したりすることは甚だむつかしい。むしろ習慣や法規によってする方がやさしい。物事の根本的普遍的な理由は、詮索がむつかしいのである。だから、我々の先生たちも、ちょっとその表面をさわってみるだけで素通りしてしまう。でなければ、単に触れることさえもしないで、はじめから習慣の袖の下に飛びこみ、そこに安価な得意と勝利とを貪る。あくまであの根源〔すなわち自然〕の中によりどころを得ようと執着する人々にいたっては、なおさら失敗する。そして野蛮な意見におちる。例えば、クリュシッポスのごときは、その著書の至るところに、自分はどんな不倫な交わりをも問題にしないと放言している。(a)あの習慣から来る強力な偏見を脱け出ようと思う者は、何の疑いももたれずに確信されているたくさんの事柄が、ただただそれらに伴う慣例の白髯と皺とに支えられているにすぎないのを見るであろう。けれども、一たびこの仮面をひんむいてことを真理と理性との前に引き出して見ると、それまでの自分の判断がいわばひっくりかえったみたいに感ずるであろうが、そのかわり、前よりもずっと確かな基礎を得たような感じがするであろう。わたしはそのとき、その人に向って問うてみたいと思う。「早い話、国民が未だかつて聞いたこともない法規に従うことを余儀なくされており、結婚・贈与・遺言・売買等あらゆる日常の問題において、その国の言葉では書かれたことも布告されたこともないために国民がそれを知ろうにも知る由のないそれらの法規に縛られて、いやでも公証人や弁護士にお金をはらって何とかしてもらわねばならないということくらい、べらぼうな話がありますかい」と。(c)これは、「人民の商売は自由無税にしてたくさん儲けさせよ。喧嘩訴訟には莫大な税金を課して金がかかるようにせよ」と王に向って進言した、あのイソクラテスの名論によるのではもとよりない。むしろ道理までも売買し、法規までも商品なみに取扱おうとする、奇怪千万な意見によるものである。(a)わたしは次のことを偶然に向って感謝しなければならない。わが歴史家の言うところによれば、シャルルマーニュが我々にローマ帝国の法律をおしつけようとしたときに第一にこれに反対した者は、わたしの生国ガスコーニュの一貴族であったということを。現に次のような国があったとしたらどうであろう。そこでは、習慣によって合法的に裁判官の職が売買され、裁判が現金払いでなければ行われず、法的に、裁判がこれに支払う金を持たない者には拒絶される。そして、この商品〔すなわち裁判〕が非常に重んぜられる結果、一国のうちに訴訟をつかさどる人々からなる第四の身分が、僧侶・貴族・庶民という旧来の三つの身分のほかにできあがる。この第四の身分は法令を把握し我々の生命財産に関する至上権をもつから、貴族とは別個の一団体となる。したがってその国には二つの法律、すなわち名誉の法と正義の法とを生じ、多くの場合にそれらが全くぶつかりあう(それで前者が侮辱をうけてがまんしている者を厳重に罰すると、後者はあえて復讐を企てる者を厳罰に処する)。武人の義務によると侮辱を忍ぶ者は名誉と貴族の位をうばわれるし、市民としての義務によると仇を討つものは首をはねられる(その名誉の上に加えられた非礼に報いようとして法に訴えると、自らの名誉をけがすものと見なされるし、法によらずに直接行動にでると、こんどは法によって罰せられる)。そしてこんなにまでに相異なる二つの階級が、やはりただ一人のお頭を戴き、一方は平和を一方は戦争をつかさどる。一方は利得を守り一方は名誉を戴く。一方は学問を一方は武勇を、一方は言葉を一方は行為を、一方は正義を一方は勇気を、一方は道理を一方は力を、一方は長い衣を一方は短い衣を、持つ。これくらい恐ろしいことがまたとあろうか。
* 一五八八年の Etats g※(アキュートアクセント付きE小文字)n※(アキュートアクセント付きE小文字)raux(国会)には、高等法院は本当にこの第四身分として出席した。モンテーニュのこの仮説はとうとう事実となったのである。
 着物のようなどうでもよいものでも、これをその真の目的に照らして考えて見ると(着物は本来身体の保護と安楽とを目的とするもので、そこからそれ特有の優美と便利とが生れるはずなのだが)、ずいぶんと奇怪に思われるものがある。中でも我々のあの角帽〔神学博士のかぶりもの〕、あの贅沢な飾りのついた・わが婦人たちの頭から垂れ下る・襞をとったビロードの・長いしっぽ、それから無用なことにも、我々が口にするのもはばかる器官の形をそっくりそのまま外に示す・あの我々自慢の・ズボンなど。だが、さればと言って、分別のある人はこういう一般の風俗に従う習わしにそむきはしない。むしろあべこべであって、総じて風がわりな独特な身なりは、狂気からか、何かためにしようとする魂胆から、生ずることが多く、真の理性から来るのではないように思われる。いや、賢者はその霊魂を俗衆から離して、これを自分の内に引込め、これを自由にし、これに物ごとを自由に判断する力を持たせなければならないけれども、外観の方は、一般に認められている形態にそのまま従わせなければならないと思う。国家社会は我々の思想なんか問題にはしない。そのかわり、それ以外の物、例えば我々の行為、我々の勤労、我々の財貨、我々の生活は、皆これを国家社会の用に供し、一般の考え方に従わせなければならないのである。例えばあの正しく偉大であったソクラテスが、裁判官にそむくことによって自らの生命を全うしようとはあえてしなかったように。しかもはなはだ不義不正な裁判官にすらそむくことをあえてしなかったように。まったく、各人がその住む国の法に従うことこそ、規則の中の規則、諸法を統べるところの法なのである。

その国の法に従うは美わし。
(クリスパンの『ギリシア格言集』より)

 またこういう考え方もある。つまり、とにもかくにも現在認められている何かの法律を変更することに、果してそれほど明らかな利益があるのかどうか。それは大きな疑問である。これを動かすのはむしろ有害ではあるまいか。なぜなら、一つの政体はいわばいろいろな部分が緊密に結合してでき上った建物のようなもので、全体がその影響を感じないようにその一部分を動かすことは、とうていできないからである。だから、トゥリオン人の立法者は布令して言った。「旧法の一つを廃止しようとする者、あるいは何か新しい法律を設けようとする者は、必ず首に縄をかけて人民の前に出でよ」と。つまり、万一その革新が皆の賛成をえない場合には、立ちどころに首をしめられるように、というのであった。またラケダイモンの立法者は、一生かかって、自分の布令がただの一カ条といえども変更されないという確約を、その市民から得たのである。フリュニスが楽器に加えた二筋の絃をかくも荒々しく断ち切ったというあの民選長官は、楽器がそれによって改良されたかどうか・調和がいっそう完全になったかどうか・などということは、すこしも考えていなかったのである。ただ古式を変更したというだけでこれを斥けるに足りると思ったのである。マルセーユの裁判所に今なお錆びて用に立たぬ一ふりの刀が保存されている意味も同じことである。
 (b)わたしは改革が嫌いである、それがどんな顔をしていても。それは当然のことだと思う。現にわたしは、そのはなはだ有害な結果を幾つも見ているのだ。久しい前から我々に迫っているあの改革も、それは全部をなしとげたわけではないが**、人はこう言っても間違いではないと思う。「それは間接にいろいろなものを産み出した。不幸や破壊をまでも産みだした。そしてそれらは、その後、改革とは別に、改革とは逆方向に、行われている。これでは、改革はまず自分自身を改革してかからなければならない***」と。

ああ、わが放てる矢こそ、われを傷つけたれ。
(オウィディウス)

国家に動揺を与えるものは、いつも真先にその破滅にまき込まれる。(c)攪乱の結果は、かきまわしたものの手に残らない。結局他の漁夫たちのために水を打ち波をあげただけにおわる。(b)堂々たる大きな建物のような我々のこの君主国も、今やいよいよその老齢にのぞみ、この改革のためにその統一と組織とを解体破壊されて、あのような害毒の思いのままなる侵入をこうむりつつある。(c)王者の尊厳は、古人の言ったように、その頂上から中腹まで堕ちるのは容易でないが、中腹からどん底まではまたたく間である。
* 一五八八年版には「二十五年ないし三十年以前から」とあるのを、モンテーニュはボルドー本で「久しい前から」と変更したのである。宗教改革運動のことをさしている。
** 「それは全部をなしとげたわけではないが」とはいささか皮肉である。「まだ批判を下すのは早いかも知れないが……」という意味だが、その害はすでに目にあまるものがあった。モンテーニュは次に断然それを指摘している。
*** 改革は勿論そう意図したわけではあるまいが、いろいろな害毒をうみ出した。その害毒は改革本来の崇高な目的をわすれて行われた。こうなると、何を改革するよりも、「改革はまず自分自身(の悪)を改革してかからなければならない」ことになる。これがモンテーニュの社会時評である。彼は改革がきらいなのではなく、改革を自ら邪魔する似而非えせ革命家をにくむのである。
 けれども、創始者の方を有害な人たちだとすれば、模倣者の方は不徳な人たちと言わねばならない。後の人たちは改革が怖ろしい有害なものであることを十分に知りそれを非難しながら、なおかつその真似をしているのであるから。もし悪い行いの間にも何か名誉の順位みたいなものがあるとすれば、後者は前者に、創始者としての名誉と最初の実行者たりし勇気とを譲らなければならない。
* 創始者とはカルヴァン、ルーテル等の真の宗教改革者を指し、模倣者とはこれにならったカトリック教会内部の革新者、ないし神聖同盟派の人々を指している。
 (b)後につづくもろもろの暴動は、この最初の豊かな源泉の中に、いともたやすく、わが国家を攪乱する幾多の模範をみとっている。人は、この最初の害悪をただすために設けられた我々の法律の中にさえ、あらゆる種類の悪い企てに対する教唆と弁明とを読みとっている。まったく、あのトゥキュディデスが当時の内乱について言っていることが、今こそ我々の上に到来したのである。すなわち、「今しも人は、公然の罪悪を取りつくろうために、いともおだやかな新しい名前をこれに与えて、そのほんとうの名前をごまかしている」のである。しかも、それが、我々の良心と信仰とを改革するためだというのだからあきれる。※(始め二重山括弧、1-1-52)その口実や美わし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(テレンティウス)。けれども改革の口実は、どんなに立派なものでも、はなはだ危険である。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)古来の制度に加えらるる変更は、いずれもみな称賛に値せざるなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。(b)そこで忌憚きたんなく言うならば、わたしにはこう思われる。自分の意見を尊重するあまり、「これを実施するためには世の中の平和をくつがえすのもやむを得ない。内乱が、いや国体の変革が、重大な問題においてたくさんの避け難い不幸をもたらしたり、恐ろしい人心の腐敗をまねくのもやむを得ない。それらを我々自らの国の中に生ぜしめることもやむをえない」などと考えるのは、はなはだしい自惚うぬぼれであり不遜であると。(c)なお疑うべき・なお議論の余地ある・誤りを打ち壊すために、あれほど確実な不徳をすすめるのは、間違ってはいないだろうか。世に自己の良心と自然の認識とに反することよりいまわしい不徳があるであろうか。
 ローマの元老たちは、宗教上の祭祀に関して自己と民衆との間に紛争が生ずるや、あえて次のような逃げ口上を並べた。※(始め二重山括弧、1-1-52)そは神々のことにして、汝らの関することにあらず。神々こそ自己の祭祀のけがさるることなきよう、常に自ら守らせ給うなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)と。これはあのペルシア戦役の時に神託がデルフォイの神官に答えたところとよく似ている。ペルシア人の侵略を恐れて、彼らは、神殿の宝物をいかにすべきか、隠すべきか持ちさるべきか、を神に問うた。ところが神は答えた。「何物も動かすなかれ。ただ己れのことにのみ気をくばれ。我にはわれ自らのことを処理する力あり」と。
 (b)キリスト教は、それがはなはだ正義にかない有益であるというしるしをいろいろもっているが、その最も明瞭なしるしは、国憲の尊重と国体の擁護とを最も厳格に命令している点である。知恵ある神は、この点に関して何という驚嘆すべきお手本を我々にお残しになったことか。神は、人類の永遠の幸福を確立し、死および罪に対して自己の光輝ある勝利を完うしようと念願せられながらも、ひたすら我々の国家的秩序の命ずる所に違背しまいとなされたではないか。そしてその知恵の発展をも、これほど高い目的をもち・これほど世のためになる・その知恵の指導をも、我々の盲目にして不正なる慣習慣例に服せしめ給うたではないか。そのために愛する多くの選ばれた人々の罪なき血が流されることをも忍ばれたではないか。あの尊い果実を実らせるために長い年月の浪費をも忍ばせられたではないか。
 その国の制度法規に従う者の言い分と、それを使用変更しようと企てる者の言い分との間には、大きな差別がある。前者は自らの申訳のために、単純であり従順であり先例を重んじるのだと主張する。つまり、従ってさえいれば悪に堕ちようはずはなく、せいぜい不幸くらいですむからである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)最も光輝ある実例によって固められし古来の法律を、いかで重んぜずしてあるべきや※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 けれどもあのイソクラテスは、「弊害は過度よりもむしろ節度から生ずる」と言っている。(b)後者の立場はずっと苦しい。まったく選択と変更とにたずさわるものは、判断の権威を不当にうばっているのであるから、そのしりぞけようとする事柄の悪い点と、その取り入れようとする事柄のよい点とを、見わけるだけの力がなければならないわけである。(c)次のようなすこぶる平凡な考察こそ、わたしに堅く己れの分を守らせ、今よりも向う見ずであったわたしの青春時代をさえ抑制したのだ。つまり、ああいう重大な学問について責任を負うとか、自分が学んだことのある学問の中の最も容易なものであって、軽率な判断を下しても一向妨げとならないような学問においてさえ、健全な判断に訴えるとなかなか思い切っては言いえないようなことを、ああいう重大な学問においてあえて言うとか、そういう重荷は滅多に肩に負うべきではないという考えが、わたしを押しとどめたのである。だって、公の動かすべからざる制度習慣を動揺する私の心持(私的の理由はただ私的の決定権しかもたない)に従わせようとするのは、また、いかなる国もその民法に対してさえあえて許さないことを神の法の上にまで加えようとするのは、はなはだ不正なことに思われたからである。いや、その民法においても、そこには人間の理知の方が多くあずかるけれども、やはり最後には法律が裁判官を裁くのである。それに、人間の知識はどんなに深くても、それは現行の習慣を説明し応用するのに役立つだけで、決してこれを改革するのに役立ちはしないのだ。たとい神の摂理が時に我々を必然的に拘束している規則の上を行くことがあっても、決してそれは我々をそういう規則から放免するためではない。それは神の手の一撃であって、我々が真似るべきものではなく驚嘆すべきものなのである。それは特別な思召しによる・奇跡に類する・非常の・実例であって、神がその全能の証拠として我々の秩序我々の力を越えてお示しになるものであるから、我々がそれを真似ようなどと試みるのは狂気の沙汰であり不敬の振舞である。それは我々がならってはならない、ただ驚いて眺めるべきものである。それは神が演じたまう役であって、我々が演ずる役ではないのである。
 コッタはうまいことを言っている。※(始め二重山括弧、1-1-52)宗教のことにかけては、われ高僧コルンカニウス、スキピオ、スカエウォラに聞かん。ゼノンやクレアンテスやクリュシッポスには、これを聞くまじ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)と。
 我々の現在の争いの中には、あるいは廃すべき・あるいは復活させるべき・さまざまな問題がある。いずれも重大深遠な問題であるが、両派の理由と根拠とを確実に認識し得たりと自負しうるものが、果して幾人いるだろうか。それは神様が御承知である。数といえば数であるが、そんな数では人を動かすだけの力はない。だが、あの大衆の方はどうか、彼らは一体どこを指してゆくのか。いかなる旗印の下に進もうとするのか。彼らの薬から生ずるものは、効目のない見当ちがいの薬から生ずるものと同じである。それは我々の体内の体液を清めようとしたが、いたずらにそれを紛争によって煽り、たかぶらせ、いらだたせたばかりであって、問題の体液は依然として我々の内に残っている。その薬は弱くて我々の体内を掃除することができず、かえって我々を弱くした。そのために我々は、今更これを吐き出すこともならず、ただただその作用のために、体内に長い苦痛をこうむるばかりである。
* 古代医学は、人間の病気や気分気質を、血液、痰、黄胆液、黒胆液という四つの体液の混合不調によって説明した。
 (a)しかしながら運命はやはりその権威を我々の理性よりも上に保っていて、ときにきわめて急に我々を強要することがあるから、法律も運命の前にはいくらか席を譲ることが必要になる。
 (b)だから乱暴に侵入して来る革新の勢力に抵抗しようとして、あらゆる場合あらゆる事柄にあくまで規則を守りとおそうとするのは、戦場の鍵を握っているその相手というのが、その目的遂行のためには手段を選ばず、自派の利を追うほかには法もなければ秩序もないという手合であるから、いよいよもって危険であり損である(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)不実なる者を信頼することは、これに人を毒するの力を与えるに等し※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)なぜなら、健康状態にある一国の日常の規則は、ああいう非常の事態には備えていないからである。それは一国がその主要な部局のうちに整然と保たれていること、国法が一せいにまもられ服従されていることを、前提としてできているからである。(c)合法的なゆき方は冷静な落ちついた控え目なゆき方である。とうてい自由奔放なゆき方に抵抗することはできない。
* 以上三、四頁の間にモンテーニュはその政治的立場を明らかにしているが、例によってきわめて微妙な述べ方をしている。読者はどこに筆者の真意があるかを察しなければならない。第二巻第十二章「レーモン・スボン弁護」の章ではそれが最も著しいが、モンテーニュは機微な問題を論ずる場合、いつもその結論を普通あるべき場所におかず、よくパラグラフの中間に忍びこませている。要するに彼は新教徒のまきおこした内乱を非難しているけれども、決して強硬なカトリック派を支持してはいない。そして国王には彼らに対して若干の譲歩をするように、すなわち寛容の精神をもってのぞむようにすすめている。彼はミシェル・ド・ロピタルやド・トゥ De Thou などと政見を同じくし、いわゆるポリティーク党 Politiques lib※(アキュートアクセント付きE小文字)raux といわれる政派を支持している。拙著『モンテーニュとその時代』索引により「モンテーニュの政治的態度」「ポリティーク」等の各項参照。
 (a)人も知るとおり、あの二大人物オクタウィウスとカトーとは、一人はス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラの・もう一人はカエサルの・内乱の時に、その国法を曲げてまで祖国を救おうとはせず、その一カ条なりとも動かすことをがえんぜずに、かえって祖国に非常な艱難辛苦をなめさせたということで、今もなお非難されている。まったく、正直のところ、もはや万策つきた最後のどたん場にのぞんでは、おのれの力を量らず何ものも譲るまいとがんばって、かえって乱暴者になにもかも蹂する機会を与えるよりは、むしろちっとばかり頭を下げてこれを叩かせておく方が、恐らく賢明なやり口であろう。そして、法律にはただそのできるだけのことをさせておくくらいがよいであろう。どうせ法律にはその欲するところすべてをすることはできないのだから。そういう考えから、或る人は法を二十四時間眠らせ、或る人はその時にかぎり暦の日を一日だけ延ばし、また或る者は、六月をもって第二の五月としたのである。ラケダイモン人でさえ、それはあれ程に国法を尊ぶ人民であったが、同一人物を二度提督に選ぶべからずという法令を知っていながら、一方事態が切にリュサンドロスの再起を必要とするや、なるほど一応はアラコスを提督とするにはしたが、なおリュサンドロスを水軍総帥としたのであった。また同じ巧知によって、彼らの使臣の一人は、或る布告の変更許可を求めるためにアテナイに遣わされたとき、ペリクレスから「いやしくもひとたび掲げた布告板はこれを取り除くわけにゆかない」と言われると、「ではそれを裏がえしてはどうですか。それなら国法に悖りますまい」と言ったのである。実にプルタルコスがフィロポイメンをほめたのも、またこの点によってであった。この人は生れながらに大将の器であったが、たんに法によって命令することができたのみならず、国家の必要に応じては法そのものにさえ命令することができたのである。
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第二十四章 同じ意図から色々ちがった結果が生れること



 この章は、セネカの「寛仁について」(De Clementia)のなかにアウグストゥスとキンナの話を読んだのが動機で、ふとそれと正反対のギュイズ公の実例が思い出されて出来たものと思われる。セネカの『寛仁論』はモンテーニュがいろいろな時期に繰り返して読んだ本であるから、この随想の時期を確定するわけにはゆかないが、とにかくモンテーニュは以上二つの相反する実例から、われわれの行動においては運命の支配が圧倒的に強いこと、われわれの判断はすこぶる不確実であること、従ってわれわれは飽くまで慎重でなければならないことを学んだので、われわれはここに第二巻第十二章「レーモン・スボン弁護」における彼の懐疑論の萌芽がおもむろに成長しつつあることを感ずる。
 前章で政治上の寛容(トレランス)が詳述された後をうけて、ここに道徳上の寛仁(クレマンス)が語られるのは、例によってなかなか配列の妙をえている。モンテーニュにとって、政治は常にモラルの上にたっている。

 (a)フランス宮中司祭長ジャック・アミヨは、或る日のことわが国の親王様のお一人〔フランソワ・ド・ギュイズ〕の徳をたたえながら(そのお方は御先祖こそ外国の方でいらせられたが、れっきとしたわが国の親王様でいらせられたのだ)、わたしに次のようなお話をなされた。それはわが国における最初の宗教戦争の際、ちょうど我々がルアンの城を囲んだ時のことである。その親王様は、王太后様から御自分の命にかかわる企てがめぐらされている由を告げられたのみならず、特に数度のお手紙によって、その張本人は、かねてからその目的のためにしげしげ親王家にお出入をしている者で、アンジューだかメーヌだかの一貴族であるということまで教えられたが、誰にもそのことをおあかしにならなかった。けれどもその翌日、我々がそこからルアンの砲撃を行おうという聖カトリーヌの山の上を(というのはちょうど我々がルアンの町を取りかこんだ時のことなのである)、前記の宮中司祭長ともう一人の司祭とを従えて巡視しておられると、たまたま太后様から告げられたその貴族の姿をお認めになったので、早速これをお召しになった。その者が御前にまかり出ると、早くもその心騒ぎのために顔の色青ざめ、わなわなと震えているのを御覧になりながら、こう仰せられた。「何々殿よ、あなたはちゃんと、なぜわたしがあなたを呼びとめたのかを察していられる。お顔の色がそれを物語っている。何事もお隠しなさるな。わたしは何もかも知っているのだから、おかくしになってはおためにならない。これこれしかじかのことを(と例の企ての最も秘密な部分をことこまかに指摘して)、よもやご存じないことはあるまい。お命はいただかぬ故、包まずありていに白状せられよ」。かわいそうにその貴族は、もはや逃れるに道のないことを悟ったので(まったく何もかも同志の一人によって王太后様に暴露されていたのである)、ただただ手を合わせて親王様のお慈悲を乞うより仕方なく、いきなり御前にひれ伏そうとすると、親王様はこれを遮り止め、お言葉を続けられるには、「もっとちかくお寄り下さい。わたしがいつかあなたに憂き目を見させたことがありましたかね。私怨をもってあなたがたの一味の誰かを害したことがありましたかね。わたしはあなたを知ってからまだ三週間にもなりません。一体どんな理由に動かされて、あなたはわたしの命をうばおうと企てられるのですか」。その貴族は震える声で答えた。「それは決して個人的な動機からではございません。わが党全体の主張のためでございます。或る人たちがわたくしに向って、どのような方法にてもあれ、あれだけ強力な教敵を亡きものにするのは、最も神慮に叶うゆえんであると、説きすすめたからでございます」「それでは」と親王様はおつづけになった。「どれほどわたしの奉ずる宗教があなたがたの披瀝するそれよりも寛大であるかを見せてあげよう。あなたがたの宗教は、わたしの側から何の侵害もうけていないのに、わたしの言うこともきかずに、わたしを殺せとあなたに命じた。しかるにわたしの宗教は、あなたが理由なくわたしを殺そうと決意したのを知っても、なおあなたを許すようにと、わたしに命じている。さあ、いいから行きなさい。さがりなさい。二度と再びわが前に現われたもうなよ。もしあなたが賢明ならば、今後はことを企てるに当って、もっと信義をわきまえた人々にはかられるがよろしい」と。
* ギュイズ家がロレーヌの出であることを言っている。モンテーニュはこの年の六月パリに居て、高等法院のカトリック教の宣誓に参加したが、そのままパリの朝廷にとどまり、秋、国王に従ってルアンに赴いたのである。ルアンの攻囲は一五六二年のことである。年表参照。
 皇帝アウグストゥスは、ガリアにいた時、ルキウス・キンナが彼に対して陰謀を企てているという確実な情報を耳にした。彼はすぐ復讐を決意し、そのために、翌日、友人たちを会議によび集めた。だがその前の晩を、名門の青年でありポンペイウスの甥にあたるキンナを殺さなければならないことを思って、大きな煩悶の中に明かした。そして、そういう不運をなげきながら、さまざまに思いめぐらした。「ではどうしたらよいのか」と彼は考えた。「いつまでもわたしは恐怖と警戒の中にいなければならないのか。わたしを殺そうとはかる者をのうのうとのさばらせておかねばならないのか。幾多の内乱や遠征や、その他海陸におけるたくさんの戦闘に、ようやく完うして来たこの首をつけねらう者を、そのまま生きてかえらせてよいものか。ようやく世界の平和をうち立てることができたこの自分を、ただ殺そうとするだけではなく血祭りに上げようとまで決意している者を、だまって許しおくべきか」(まったくその陰謀というのは、彼が犠牲を奉ろうとする折をうかがって、彼を殺そうというのであった)。こう言って彼はしばらく黙っていたが、やがてこんどは、ますます声をはげまして、自分を責めはじめた。「こんなに大勢の者どもがお前の死を願っているのに、なぜお前は生きているのか。お前の復讐と残忍とは遂に終るときがないのか。それほどの損失を招いてもお前の生命は保存されるに値するのか」と。妻リウィアは、夫がそのように苦しみ悶えているのを見て、「女の意見もお聞き取りいただけましょうか」と話しかけた。「どうか医者たちが行うことをおやりなさいませ。彼らは常の処方が効を奏しませぬときは、あべこべの薬をこころみまする。あなたは厳格によって、今日まで何の得るところもございませんでした。いくら復讐をあそばしても、レピドゥスはサルウィディエヌスに、ムレナはレピドゥスに、カエピオはムレナに、エグナティウスはカエピオにつづいて謀を企てました。今こそ寛大温和がどんなによい結果をもたらすかを、お試みなさいませ。キンナは覚っております。彼をお許しなさいませ。そうすれば自然とあなたを害することができなくなりましょう。そしてあなたの光栄はいよいよ加わりましょう」と。アウグストゥスは、そこに自分の心持の代弁者を見出して、非常に喜んだ。そして先ず妻に感謝し、またその会議に来るようにと言ってあった友だちに断りをやってから、キンナにただ一人で来るようにと命じた。そして人々に席をはずさせてから、キンナひとりを前に、次のように語り出した。「まず第一にわたしはお前にたのむ。キンナよ。わたしの言うことを静かにきいてくれ。決して途中でわたしの言葉を遮るな。言うことがあるなら、後で、ゆっくりとそれをきくであろう。お前は知っている。キンナよ。わたしは敵の陣営からお前をとりことしたとき、お前はわたしのただの仇敵であるばかりでなく、わたしの生れながらの仇敵であったのにも拘らず、お前を救った。お前の手の中にお前のすべてのたからを与えた。余りにもお前を裕福安楽にしてやったために、勝利者たちの方がかえって敗北者の境遇を羨んだほどである。お前が祭官の職を乞えば、わたしのために善戦した者の子弟にはこれをこばんでも、お前にはこれをゆるした。それほどまでにしてやったのにお前はわたしを殺そうとはかった」。これを聞くとキンナは、露ほどもそのような悪心を抱いてはいないと絶叫したので、「約束を忘れたか。キンナよ。お前はわたしの言葉を遮らないと約束したではないか」と彼は続けた。「そうだ。お前はこれこれの場所で、これこれの日に、これこれの者どもと、これこれの方法によって、わたしを殺そうと謀った」。そう言ってこの言葉をきいて茫然としているキンナを見据えながら、黙っているという約束のためにではなく、良心の呵責のために今は一語も発しえない彼を見すえながら、こうつけ加えた。「何のためにお前はそういうことを企てるのか。皇帝になりたいためか。もしお前が帝位につくことを妨げるのがわたし一人であるなら、実にそれは国家のために不幸なことだ。お前はお前の一家を護ることさえできず、先頃はただ一介の奴隷上りと争って訴訟に敗けたではないか。しかるに何ぞや。お前はカエサルの位をうかがうよりほかには何もなし得ないのか。もしわたし一人がお前の希望を妨げているのならば、わたしはよろこんでカエサルをゆずろう。だが考えても見よ。パウルスが、ファビウスが、コッスス家が、またセルウィリウス家が、果してお前を許すであろうか。単に名のみの貴族ではなくて、真にその武徳をもってその家柄を尊くしているあれほど多くの貴族たちが、果してお前を許すであろうか」そのほかさまざまに語りきかせた後(まったく彼は二時間以上にもわたって語りきかせたのである)、「さあ、ゆけ、キンナ」と彼は言った。「わたしはお前に、謀叛人大逆人であるお前に、生命を与える。かつて敵であったお前に生命を与えたように。願わくは今日この日より、我々の間に友愛が生れ出んことを。我々二人のうち、お前に命を与えたわたしと、これをわたしからうけたお前と、いったいどちらがいっそう誠実であるかを試してみようではないか」。こんな風にしてアウグストゥスはキンナと別れたが、その後まもなく、彼はキンナに執政の職を与えた。なぜ自分からこれを乞い求めないかと咎めながら。そして、それ以来キンナを腹心の友とし、彼独りをその全財産の相続者とした。さて、こういうことがあってから後は(それはアウグストゥス四十歳のときのことであったが)、彼に対する謀叛は全く跡を絶った。そして彼は、この寛仁大度の正しい報いをうけたのである。ところが、さきにお話ししたわが国の親王様に対しては、ことはそのようにならなかった。まったく彼の慈悲は、彼がのちに再び同じような謀叛のわなにかけられるのを、救い得なかったのである。それほどに、人間の知恵分別というものはむなしくはかないものなのである。いや、我々のあらゆる企て・思慮・用心の中にもぐり込んで、運命こそ常にことの結果を左右するのである。
* 一五六三年、ギュイズ公はポルトロ・ド・メレ Poltrot de M※(アキュートアクセント付きE小文字)r※(アキュートアクセント付きE小文字) に暗殺された。アウグストゥスの寛仁は奏功し、ギュイズ公の場合は逆の結果をもたらした。年表参照。
 お医者さんたちがたまに何かよい結果を示すと、我々はこれを運のいい医者だと言う。まるで彼らの学問だけが自分一人では立ってゆけないものであり、医学だけが脆弱ぜいじゃくな基礎の上に立っていて自己の力だけを頼りとするわけにゆかないかのようである。まるでそれだけが運命の助力を借りなくてはその業を完うしえないかのようである。わたしは医術を、悪いものだと言われればそう思うし、良いものだと言われればそうも思う。まったく、お蔭様で、わたしは医術と何のかかわりも持たないので、他の連中とは正にあべこべなのだ。まったくわたしは、ふだんは医術をまったく眼中においていないのだが、いったん病気になるとそれと仲よくなるどころか、ますますそれを憎み怖れだすのである。そして、しきりに薬湯をすすめる者に向ってはこう答えるのである。「少なくとももうちっとわたしが体力と健康とを回復して、その飲用から生ずる作用や危険に幾分なりとも抵抗できるようになるまで待っておくれ」と。わたしは自然がなすままに委せる。そして、自然はその身に爪や牙を備えていて、自らに襲いかかる攻撃を防ぐこともできるし、その組織を維持しこれが崩壊を避けることもできるのだと、始めからきめてかかっている。わたしはむしろ、自然が病気と取っ組みあっているときには、なまじ医薬にたよったりすると自然を助けることにはならないで、かえってその相手たる病気の方に加勢することになりはしないか、かえって自然の足手まといになるのではないか、と恐れている。
 さて、もう一度いうが、それはただ医術においてばかりではない。もっと確実なもろもろの学問においても、運命こそそこに大きな働きをするのである。詩的感興は詩人を駆って彼自身の外に遊ばせるが、これだって彼の好運に帰せざるを得ないではないか。詩人自ら、それが自分の力量を越えていることを白状し、それが自分以外のところから来たこと・それは自分の力ではどうにもなしえないこと・を認めているではないか。演説家たちもまた、彼らをその目指すところよりも遠くまでつれてゆくあの非常な感激昂奮を、自分の力ではどうにもなしえないと言っている。絵画においても同様である。ときに画工の手の内から彼の構想や技倆を越えた線が飛び出して、絵かき自身をびっくりさせることがある。けれども運命は、この種の作品における自己の役割がいかに大きいかを、そこに見られる趣や美しさが単に作者の意図にかかわりなく存在するばかりか、彼に認識されることさえもなく存在するという事実によって、いっそう明瞭に示している。見識ある読者は、しばしば他人の書いたものの中に、作者がここに置きえたと考えている完全さとは全く別個の完全さを発見し、そこにいっそう豊富な意味と風貌とを賦与する。
 作戦計画となると、運命がいかに多分にこれにあずかるか、それは誰でも知っている。我々の熟慮決意の中にだって、たしかに幾分かの偶然と好運とがまじっているのだ。まったく、我々の知恵がなし得るところは、結局大したものではないのであって、知恵は鋭敏であればあるだけ、それだけ自身に弱点を発見するし、それだけ自分が頼りにならなくなる。わたしはス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラと同じ意見である。最も光栄ある軍功もこれをつまびらかに考えて見ると、どうもわたしには、その指揮に当った人々はただ形式的に評定や会議をしたにすぎず、その計画の重要な部分はこれを運命にまかせたのであって、ひたすら運命の援助を信じたればこそ、事ごとに理性の限界を越えることもできたのだと思われる。実際、彼らの慎重熟慮の最中にふと突然の元気と異常な熱狂が生じて、最もしばしば彼らに一番根拠の乏しく見える決心を取らせ、彼らの勇気を途方もなく増大させるのだ。それで古来幾多の名将は、自分の無謀な決心を信用させるために、霊感をこうむったとか前兆を見たとか言って、部下を承服させたのである。
 だから、われわれは、それぞれさまざまな事件や事情がかもし出すいろいろな困難のために、何が最も便利な方法であるかを発見し選択することができず躊躇当惑を感ずる時は、たとえ他の考察は我々にそう勧めなくても、最も確実な方法は、わたしの考えるところでは、誠実と正義とがより多く存する側につくことである。近道がわからないかぎり、真直な路をとるのが一番であると、わたしは思う。例えばわたしが今しがたお話しした二つの例について見ても、人の恨みの的となった者にとって、敵の陰謀をゆるしてやることが他のいかなることよりも尊く美わしいことであったことは、少しも疑いのないことである。なるほど前者は不幸な結果に終ったけれども、それをこの人の立派な意図のせいにしてはならない。よし反対の決意をなされたからと言って、果して彼が運命より課せられたあの最期を免れられたかどうかはわからない。むしろただ、かくも顕著な慈悲のほまれを失われただけのことであろう。
 歴史を見ると、同じ恐怖になやんだ人はたくさんあるが、大部分の者は自分に対して企てられた謀叛に対して、復讐と処刑とをもってこっちからぶつかってゆく道を取った。だがこの方法によって成功したものを、わたしはほとんど見ないのである。多くのローマ皇帝たちがよい証拠である。この種の危険のうちにあるものは、決して自分の力量や用心に多くを期待してはいけないのだ。まったく、最も忠実な友人づらをした敵から自分を護ることがどんなにむつかしいか、また我々にかしずく者どもの秘めたる意思を知ることがどんなにむつかしいか、それは考えてもわかることだ。護衛として外国人を用いたってだめである。始終武装した人々にとり囲まれていたってだめである。おのれの命を軽んずるものがつねに他人のいのちを制するからである。それにこの不断の恐怖は、君侯をしてあらゆる人を疑い恐れしめ、彼にとってたとえようのない責め苦となるにちがいない。
 (b)故にディオンは、カリプスが自分を亡き者にしようとねらっていると聞いたけれども、それ以上に詮索する気にはまったくならなかった。「敵ばかりでなく友だちまでも用心しなければならないような情けない日々を送るくらいなら、むしろ死んだ方がよっぽどましだ」と言って。この気持をアレクサンドロス大王は、さらに明白に、さらに力強く、行為の上に示した。すなわちパルメニオンの手紙によって、その最も寵愛する医者のフィリッポスがダレイオスの銀貨に買収されて彼を毒殺しようとしていることを知ったとき、読めと言ってその手紙をフィリッポスにつきつけるとともに、彼がすすめる飲み薬を一いきに飲みほした。これこそ、友人が自分を殺したいのなら喜んで殺されようという心意気を、示したものではあるまいか。大王は勇敢な行為の最高の模範とされる人であったけれども、わたしは彼の一生の中に、どう考えても、これくらいその気魄を示し・これくらい燦爛たる美しさを示した・行為がほかにあったかどうかを知らないのである。王侯に対してあまりに注意深い用心を勧める者は、彼らの安泰を説くような顔をしながら、その実主人に破滅と恥辱とをすすめる者である。崇高な行為が危険を冒さずになされることはない。わたしの知っている王侯の一人〔ナヴァール王アンリ〕は、(c)天性きわめて雄々しくまた機略にとむ人であったが、(b)「家の子郎党に取りかこまれていらせられよ。旧敵の和解を求める声には耳をかし給うな。独り離れておわし、どのような約束を持ち出されても、そこにどのような利益をごらんになっても、決してご自分より強力な人に身を委せ給うな」と、毎日くどくどしく言い聞かされたので、あたらそのいみじき御運を台なしにされてしまった。(c)ところがもう一人のおかた〔ギュイズ公〕は全く反対の決意を遊ばされたために、思いがけなくその御運を高められた。豪毅は、人々がそれによって誉れをかちえようと願う特質であって、それは、必要があれば、平服の時も武装の時も、家の内においても陣営においても、腕をおろしている時にもこれをふりあげている時にも、いつも同じように輝かしく現われるものだ。(b)あのように細かくゆきとどいた慎重さは、高邁な功業の大敵である。(c)スキピオはスュファクスを味方に引入れるために自分の軍を離れ、新たに征服したばかりでまだ十分に信頼のおけないスペインをそのままにし、ただ二隻の船をしてアフリカに押し渡り、しかも、この敵地において、契約もしなければ人質もとらず、ただただ自分の大勇と武運と高邁な希望の成就とを確信して、この蛮地の王の威勢と、そのまだ確かでない忠誠とに、その身を委ねたのである。※(始め二重山括弧、1-1-52)人を信ずる者は己れもまた信ぜらる※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。
* モンテーニュは永くナヴァール王を大将の器として擁護して来たが、一五八六年のサン・ブリス会談以来、此人を信用しなくなった。そしてかえってアンリ・ド・ギュイズの方を信頼するようになった。拙著『モンテーニュとその時代』第七部第二章五五九頁参照。
 (b)大望をいだき名誉にあこがれる者は、むしろあべこべに、猜疑心に余り捕われないように、むしろこれをきつく控えるように、しなければならない。恐れと疑いとはかえって人の害意を招きよせる。我々の王様の中で最も疑い深かったお方〔ルイ十一世〕も、わざとその生命と自由とを敵の手中に委ね、敵に対して全幅の信頼をよせていることを自らお示しになって始めて敵の信頼をえ、立派に難局を立てなおされた。自分に向って謀叛をおこした配下の軍団に対し、カエサルはただ厳然たる面持と毅然たる言葉のみをもってのぞんだ。そして、自分と自分の運命とを深く信じていたから、これらを叛乱軍の手中に委ねて少しも恐れるところがなかった。

(c)彼は平然たる面持をもて
芝山の上に現われたり。
彼は何物をも恐れざりしかば
恐れらるるに値したり。
(ルカヌス)

 (b)けれども、本当に、こういう強い確信は、死という何もかも終った後になおかつ起りうる最悪の事を想像することすら敢えて恐れぬ人々によってのみ、完全かつ自然に示されるのである。まったく、まだ何となく不確かなあやふやな信念をおっかなびっくり示すのでは、重大な和解をなしとげるのには何の役にも立たないのである。そもそも人の心を得る最良の方法は、こっちから先にそれを信じそれに服することであるが、それはあくまで自由に、いかなる必要にもしばられずに、なされなければならない。少なくともその額からあらゆる心配の色を拭きとり、純粋な信頼を相手に示すのでなければならない。わたしは子供の時分に、或る大都市の司令官であった一人の貴族が、激昂した群衆の渦巻の中にまきこまれるのを見た。彼は叛乱を大事に到らぬ前に鎮めようとして、それまでいたきわめて安全な場所から出て、この暴徒の群れの前に説得にゆこうと決心したのであった。ところが事、志とたがい、彼はむざんにもその場で殺されてしまった。けれども彼の過失は、通例人が彼を想い出して咎めるように、彼がその公館を立ち出でたことではないと思う。むしろそれは、屈服と軟弱の道をとったことにあった。指導せずに追従しながら、叱咤せずに哀訴しながら、暴徒の激昂をしずめようとしたことにあった。思うに、もし彼が厳格ながらしかも温情をたたえ、その身分役柄にふさわしい・自信と信頼にみちた・いかにも軍人らしい威厳を以てのぞんだならば、はるかによい結果をえたことであったろう。少なくとも、もっと名誉ある・恥ずかしくない・終りを遂げたことであったろう。およそ慈悲だとか温情だとかくらい、このようにいきり立った怪物の前に無効なものはない。かれらはむしろ畏敬と恐怖の方をはるかによく感じるであろう。わたしは更に彼に向ってこう責めたい。「身に寸鉄も帯びず平服のまんまで、思いきってあの大波のように押しよせる狂暴な群衆の唯中に飛びこんだのは、あながち無謀のことではなく、むしろ勇敢な振舞であったと思うが、一たびこの挙に出たからには、最後までそれを押しとおすべきで、その態度を中途で放棄してはならなかったのだ。それをあなたは、危険がその身に迫ると、たちまちに鼻先をへし折られたばかりか、ついには始めにとった柔和謙遜の態度を恐怖の態度にかえてしまった。その声と眼とに驚愕と後悔との色を示して逃げかくれようとした。それでかえって敵を煽り、敵を呼びよせることになったのである」と。
* 一五四八年ボルドーの都督ムシュ・ド・モナン Monsieur de Monein の身におこったこと。巻末年表中、一五四六―五〇年の項、および私の『モンテーニュとその時代』一七三頁参照。
 みんなは武装して諸部隊の大閲兵式を行おうと協議していた(それはひそかに復讐をするにはもってこいの場所で、これくらいそれを安全に行い得る場所はないのである)。だが閲兵の大役に当らねばならない幾人か**の人たちにとっては、どうやら望ましくない形勢がかなり顕著にあらわれていた。そこでいろいろ相反する意見が出た。こういうことは、むつかしい・色々と重大な結果を産みそうな・事柄に関しては、よくあることである。わたしの意見は、「何よりもまず謀叛を恐れるような色を少しも見せないこと。頭を高く顔をあげて列の中に加わること。そして何一つ禁止しないで(これが他の人々のもっとも反対するところだったが)、むしろ各隊長から兵士たちに、堂々たる威勢のよい祝砲をぶっ放して参列の諸公に敬意を表するよう、決して硝薬を惜しむことなきよう、伝達させるがよろしい」ということだった。これはその時疑いをかけられていた諸隊に対して信頼の表示となり、それ以来相互の間に有益な信頼を生む結果となった。
* 一五八五年モンテーニュがボルドー市長在職中の事実。巻末の年表、および拙著『モンテーニュとその時代』五一七頁参照。
** マチニョン元帥。モンテーニュの一派。
 (a)ユリウス・カエサルが取った方法こそ、人がそういう場合にのぞんで取りうる最も立派なものであったと思う。彼はまず、寛容と仁愛とによって、その敵から愛せられようと努めた。すなわち、謀叛の企てが明らかになったときも、そんなことは早くから承知していたことだ、とただ言明するだけにとどめた。あとはただ、万事を神々と運命の庇護にまかせて、恐れるところも憂うるところもなく、成るように成るのを待とうという気高い決意をしただけであった。まったくこれこそ、確かに彼が殺された時の心持だったのである。
 (b)一人の外国人が、「おれはスュラクサイの主ディオニュシオスが、うんとこさお金をくれさえすれば、部下の陰謀を最も確実に知りうる方法を教えてやるんだがな」と、方々をふれ歩いた。ディオニュシオスはこれを聞いて早速その者を召しいだし、自分の存命のために最も必要なその方法を教えてくれと言った。外国人はさっそく答えて言った。「別に秘法とてございませぬ。ただわたくしに一タラントンを下しおかれてから、『朕は彼から一つの秘法を学びえたぞ』とおふれなさいませ」と。ディオニュシオスはなるほどとその思いつきに感心して、これに所望の銀六百エキュ〔二十六・六キロに相当する銀貨〕をとらせた。まったく何かよほど有益な教えをえた報いとしてでなければ、ディオニュシオスがこれほどの大金を見ず識らずの男にくれてやろうはずはなかった。そこでこの評判が敵を恐れさせるに役立った。だから王侯が、自分をなきものにしようとの陰謀の密告をうけると早速これを公表して、「自分たちはちゃんと知っているぞ。何を企てようとこのとおりすぐにぎつけてしまうぞ」と人に信じさせるのは、誠に賢明な方法である。(c)アテネ公はさき頃フィレンツェに新政をかれるに当ってさまざまな愚かなことをなされたが、中で最も著しいのは、この国の人民が彼に対して謀叛を企てているということを、その仲間の一人であるマテオ・ディ・モロゾから聞かれると、立ちどころにこの人を殺し、この風聞が広がらないように、市中に彼の善政について不満をいだく者がいることを人に知らせないように、努められたことである。
 (a)わたしは想い出す、むかし或る身分の高いローマ人の話を読んだことがあったのを。その人は三頭執政官の暴政を避けるためにさまざまな詭計を案じ出しては、自分に追い迫る魔の手を幾度となく免れてきたのであったが、或る日のこと彼を捕えよとの命をうけた騎馬の一隊が、彼の隠れている藪のすぐ傍を駆けすぎながら、とうとう彼を見つけなかった。けれども彼の方では、この時ようやく、到るところで絶えず自分をつけねらう倦むことなき追跡からのがれるためにそれまで随分長いこと苦労に苦労を重ねて来たことや、このような生活を今後いくらつづけたところで、ほとんど楽しい生活は期待できないし、何時までもこのような危惧の中に戦々兢々としているくらいなら、いっそのこと、一歩をふみ出した方がどんなにましかわからないと考えたので、自分の方からゆきすぎたその一隊を呼びとめ、その隠れ場をあかして、長い苦難から自分をも彼らをも救おうと、すすんで彼らの残酷にその身をゆだねた。自分から敵の手を招くとはいささかゆきすぎた決意のようであるけれども、策の施しようのない事件を恐れて絶えず不安の中にとどまるよりは、むしろこの決意を取る方がましだとわたしも思う。しかしながら、こういう場合に対する用心準備はいつも不確実と不安とを免れないのであるから、むしろ一大確信をもって、起りうるあらゆる場合に備える方がよい。そして、それらといえども必ずしも起るとは限らないのだと考えて、いささか自ら慰められるがよい
* 此章はモンテーニュのミシェル・ド・ロピタルに献呈した書簡(白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「書簡5」)の延長敷衍と見るべく、ここにモンテーニュは理想的オネトムの像を描き、次の第二十五、第二十六の両章を準備しているように思われる。
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第二十五章 ペダンティスムについて



 この章はヴィレの推定によれば、大体一五七二年と七六年との間に書かれたものである。
 モンテーニュは『随想録』のあちらこちらで盛んに学問をくさしている。この章においてもそうである。だが彼がけなしているのは「嘘の学問」(la fausse science)いわばインチキな非科学的えせ学問(たとえばスコラ学もその一つ)であって、必ずしも一般的絶対的に学問を認めないのではない。彼は別のところで、「わたしも知識を愛しかつ尊ぶ。……それは正しく用いるならば、それこそ人間の最も高尚で強力な後得能力(acquest)である」(三の八)、「およそ知識欲ほど自然な欲望はない。……真理はすこぶる大事なものだから、我々はそこに導かれそうなどんな手だても軽視してはならない」(三の十三)、「学識は、はなはだ有用で偉大な性能である。これを軽蔑する者は自分の愚かさを実証してあまりがある」(二の十二)などと言っている。そしてかえって、思想史・科学史の上に経験的・実証的方法の創始者としてその名をとどめている。だが人間の道徳生活との関係においては、最後まで学問知識を重視しないのである。
 なおついでに『随想録』の三つの時期に準拠して彼の学問知識に関する考えを整理して見ると、大体次のようになると思う。すなわち、最初(一五七六年以前)は、ただ「ペダンティスム」(p※(アキュートアクセント付きE小文字)dantisme=pedantry)、換言すると「嘘の学問」「えせ学問」「見て呉れの学問」を攻撃するだけで、ほんとうの学者には十分の敬意をいだいているのだが、第二巻第十二章「レーモン・スボン弁護」の章(一五七七年前後)の中では、インチキ学者でなくても、あまりに熱心すぎる学者、人間の認識力に過大の信頼をかける者は、いささかこれを嘲笑している風に見える。すなわち、彼は、自己の知識に限界があることを意識した知性でなければ、ほんとうの学問と見ないのではないかと思われる。一五八八年以後になると、いよいよ明らかに人間の実生活からあまりにも超越あるいは遊離した哲学者たちを揶揄嘲笑しており、更にそれ以後の加筆を見ると、「学問知識は※(始め二重山括弧、1-1-52)よく生れついた※(終わり二重山括弧、1-1-53)(bien n※(アキュートアクセント付きE小文字))少数の精神においては有益であるが、俗衆のもとにおいてはむしろその道徳を破壊し実行力をにぶらすばかりだ」という考えを強調し、筆舌を弄するだけで全く実行力を欠く人間は、オネトムの資格を欠く者と考えている。第三巻第十二章「人相について」の章では、いよいよ無知なる者の自然への従順をたたえ、むしろ百姓を模範とせよと説いている。

 (a)わたしは少年の頃、イタリア喜劇の中で学校の先生がいつも馬鹿あつかいをされているのを見、また我々の間でも、先生という呼び方に少しも尊敬の意味がこもっていないのを知り、しばしば悲しく思った。まったく、わたしだって彼らの指導と監督とに委ねられていたのだもの、どうして彼らの評判を気にしないでいられたろうか。わたしは本気で彼らの弁護に努めていた、一般俗衆と判断知識において優れた稀な人々とは、もともとたねが違うんだと言って。まったく両者はお互いに全然相反した行き方をしているのである。だが、「最も洗練された人々こそ、最も彼らを軽蔑する人々であって、その証拠には我が善良なるデュ・ベレすら、

われ何よりも知ったかぶりの先生をきらう

と言っている」と言われると、さすがのわたしも、返す言葉がなかった。
 (b)それにこういう習慣は古くからのものであってプルタルコスも、「ギリシア人とか学徒とかいうことは、ローマ人の間では非難もしくは軽蔑の言葉であった」と言っているのである。
 (a)その後、年をとるにつれて、わたしも皆のいうことがもっとも千万であり、※(始め二重山括弧、1-1-52)最大の物識り必ずしも最大の賢者にあらざる※(終わり二重山括弧、1-1-53)(中世の諺)ことを知った。けれども、どうしてもろもろの知識に富んだ霊魂が、それだけ生々と目ざめたものとはならないのか。どうして粗野凡俗な精神が、これと言って勉強をするでもなしに、そのまんま、世が産み出した最も優れた人々のもつ推理と判断とを内に宿すことができるのか。この点については、わたしは今もなお思い惑っている。
 (b)あんなにたくさん、ひと様の・しかも非常に力のある・はなはだ偉大な・脳みそを受け入れるには、どうしても(と我々の内親王様の第一位にあらせられる或る姫君が、或る人のうわさをなさりながらわたしに申されたとおり)、自分の脳みその方が、ひと様のそれに席をゆずるために、片隅に小さくなってちぢこまらねばならないのだ。
* アンリ・ド・ナヴァールの妃マルグリットのことらしい。モンテーニュはこの女性をネラックでもパリでもよく知っていた。姫君 une fille と言っているのは fille de France 王女の意味であろう。
 (a)できればわたしはこう言いたい。「ちょうど草木が水気が多すぎるとしおれるように、ランプも油が多すぎるとかえって暗いように、精神もあまりに研究しあまりに詰め込まれると、種々雑多な事柄に邪魔されて、自由な働きができなくなる。つまりこの重荷のためにいよいよいじけてうごきがとれなくなるのである」と。だが事実はそうではない。まったく、我々の霊魂は満ちればみちるほど広がるのである。古代の実例を見ると、全くあべこべに、国政の処理に最も堪能な人々、最も偉大な大将、最も優れた政治家は、同時にはなはだ物識りであった。
 では、いっさいの公職から退いた哲学者たちはどうか。正直のところ、彼らもまたしばしば、当時の喜劇作者たちにさんざんに翻弄された。(c)彼らの意見や挙動が彼らをこっけいにしたからである。たとえば彼らに訴訟の理非なり人の行為なりを判断させてみようか。それこそ、待ってました! とばかりにしゃべり出す。だが相変らず、「生命ありや否や、運動ありや否や、人間は牛と別物なりや否や、そもそも能動とは何ぞ受動とは何ぞ、法律裁判とは何とえたいのしれぬしろ物ぞや」なんて詮索ばかりしていて、いったい法官について語っているのかこれに向って語っているのか、とにかく非礼野蛮な大言壮語である。彼らの前でその君侯なり、どこぞの王なりをほめてごらん。いずれも、彼らにとってはただの羊飼なのである。「悠々閑々たること羊飼の如く、専心その獣の乳をしぼりその毛をむしることまた羊飼の如くであるが、その扱い方の乱暴なことは到底ただの羊飼の比ではない」なんどと言う。「誰それは二千アルパンの土地を領有しているからそれだけお偉い方だ」とでも言ってごらん。彼らはふふんと鼻のさきでわらう。全世界をいつも自分の持ちもののように心得ているからだ。おれの家は七代もつづいた金持だと言って、家柄を誇ってごらん。彼らはそんなこと、屁とも思わぬ。広大な自然の姿を見ないとか、我々のおのおのがいかに大勢の祖先をもっているかを知らないとか、あるいは我々の祖先の中には富めるも貧しきもあり、王も下僕もギリシア人も野蛮人もあったのだとか言って、君をあざわらう。そして、よしんば君が本当にヘラクレス五十代の子孫であったにしても、そんな偶然の賜物をありがたがるのはくだらないことだと言う。だからこそ俗衆は、初歩の・誰でもが知っている・事柄さえ知らないやつ、いやに傲慢なやつとして、彼らをさげすんだのだ。だがこのようなプラトンが描いた哲学者たちの姿も、こんにち我々が眼の前に見る哲学者の姿からは甚だとおい。(a)人は昔、彼らを一般の生き方の上にあるもの、公的活動を軽蔑しているもの、高邁で俗を越えた或る種の哲理に準拠する・独特の・真似のできない・生活を営めるもの、として羨んでいた。ところが今では、我々の哲学者たちを、一般の生き方にまでも達していないもの、公職を行う力もないもの、俗人にすら及ばず低く卑しい生活にあえぐものとして、軽蔑しているのだ。
* 以上の似而非哲学者の描写はプラトンの『テアイテトス』からの引用である。

(c)われは行いにおいて卑怯にして唯言葉においてのみ哲学者なる人々を憎む。
(パクヴィウス)

 (a)あの昔の人の尊敬した哲学者たちにいたっては、ほんとに、学識においても偉大であったが、すべての行為において更にいっそう偉大であった。君は人があのスュラクサイの幾何学者について伝えるところを知っているか。彼は「瞑想にばかり耽っていずに、少しはそれを祖国の防衛のために活用したらどうだ」と言われると、立ちどころに恐るべき器械を発明し、あらゆる人知を越えた結果を現わして見せたが、自分ではそんな発明製作を軽蔑し、それをもって自分の学芸の品位を汚すもの、こんな作品は要するに学者の手すさびであり玩具であるに過ぎないと、考えていたと言うことだ。同様に、あの〔昔の〕哲学者たちも、時に実効を示せと迫られると、いつもきわめて空高く雄飛してみせたから、あたかも彼らの心情と霊魂とが、物事の理解によってすばらしく大きく豊かになったように見えた。けれども(c)そのうちの或る人たちは、国政統御の職が無能な人々によって占められているのを見てあとじさりした。そしてクラテスに向って「いつまで哲学せねばならないのか」と尋ねた者は、「ろば追いどもが大軍を指揮するようなことがなくなるまで」という返答を得たのであった。ヘラクレイトスは王位をその弟に譲った。そしてエフェソスの町の人たちが、彼が神殿の前で子供たちと遊びながらひまをつぶしているのを見てこれを咎めたときには、「君たちと一緒になって国政をあんばいするよりは、こうして遊んでいる方がずっとましではないかね」と答えたのである。(a)また他の人たちは、その思想を現世における栄達などよりも遙かに高いところにかけていたから、法官の席をも王の玉座をも低く卑しいと見た。(c)だからエンペドクレスも、アグリゲントゥムの人々から捧げられた王冠を拒絶したのである。(a)タレスは或る時、家政と蓄財に腐心する人を見てこれを咎めたところ、「自分にそれができないからといって、寓話に出てくる狐のような口をきくな」とやり返された。そこで彼は、ふと面白半分にその腕前を見せてやりたくなり、こんどはその知恵を金もうけのために引き下げて商売を始めた。ところがそれは、たった一年の間に、この道の最も老練な者どもが一生かかってもほとんど及び得ないくらいの莫大な富をもたらした。
 (c)アリストテレスが語るところによると、或る人々はタレスとアナクサゴラスと彼らの同類を、最も有用な事柄に十分の注意を注がないので、「知恵はあるが分別のない者」と呼んだそうであるが、わたしにはこういう単語ことば差別ちがいがよくわからないばかりでなく、それはわが大先生たちにとって少しも弁護にならないと思う。いや彼らが低く貧しい境遇に甘んじているのを見ると、我々はむしろ二つの単語ことばを二つながら用いて、「彼らは知恵もなければ分別もない」と言ってもよいと思う。
 (a)わたしはあの最初の理由を捨てる。そして、この悪弊は彼らの学問にたずさわる態度が悪いことに由来するといった方がよいと思う。また我々が教育を受けたああいうやり方では、先生や生徒が、より博識にはなってもより有能にはならないからとて、驚くにはあたらないと思う。本当に、父兄の心遣いと費用とは、ただただ我々の頭の中に学問を詰め込むことばかりをねらっている。判断や徳操に至ってはほとんど問わない。(c)試みにわが国の民衆に向って、道行く一人を指さし「おお学者よ」と呼び、またもう一人を指さして「おお徳人よ」と叫んでごらん。必ず人々は前者の方に眼をむけ敬意を注ぐ。そこでどうしても第三の男が出てきて、「おおこの馬鹿者どもよ!」と叫ばなければならなくなる。(a)我々はよく聞きたがる。「あの人はギリシア語を知ってるのかラテン語を知ってるのか。韻文を書くのか散文を書くのか」と。だが「彼は徳を増したのか知識を増したのか」っていうことは、昔は第一に問われたもんだが、今では一番あとまわしだ。問うべきことは、誰が「最もよく知るひとか」で、「最も多く知るひとか」ではない。
* 学識が多すぎると、どうしても精神の働きが自由でなくなる、という説(一八九頁参照)。
 我々はただ記憶を一杯にしようとばかり励む。そして悟性と良心とはからっぽにしておく。ちょうど鳥たちがときどき穀粒を拾いに出かけ、これを味わわずにくわえて帰ってそのままひよっこに与えるように、我々の先生たちもまた、もろもろの書物の中に知識をあさりにゆき、それをただ唇の先にのっけて帰っては、それをそのままあちこちに吐き散らす。
 (c)なんとも驚いたことに、この愚かさはわたし自らのしていることにそっくりだ。だってわたしがこの本のあちらこちらでしていることは、それとまったく同じではないか。わたしはいろいろな書物の中から、あれこれと自分の気に入る格言を盗んで歩く。だがそれはしまっておくためではない。わたしはそれらをしまっとく箱なんか持ってはいないのである。ただこの本の中に運び込むためなのだ。そこに入ってからも、それらは、正直のところ、元の場所にあったときと同様にわたしのものではないのだ。わたしは信ずる。我々はただ現在の知識のみによって物識りなのである。過去の知識によっても将来の知識によっても物識りとは言われないのだ。
 (a)だが一ばん困ったことは、ああいう先生に育てられる学生やひよっこが、やはりその知識を己れの栄養としてはいないことである。むしろそれが手から手へと渡されて、ただただお飾り物にされ、交際の道具にされ、お話の材料たねにされているだけだということである。まるでそれは計算の道具に使われる以外には全く何の用にも役にも立たないあの贋金にせがねみたいなものである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)彼らは他人に向って語ることは学びたれど、自己に向って語ることは学ばざりき※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。

※(始め二重山括弧、1-1-52)今は議論ことあげする時にあらず、舵とりに心をそそぐべき時よ!※(終わり二重山括弧、1-1-53)
(セネカ)

 自然は自分の指導する物事の中には野蛮な物は何一つないことを示そうとして、最も芸術を教えこまれていない人民の間に、しばしば最も芸術的な作品に負けないほどの気のきいた作品を生れさせた。あのガスコーニュのことわざにある※(始め二重山括弧、1-1-52)吹けよ、うんと吹け。だが指先の方こそ大事だぞ※(終わり二重山括弧、1-1-53)は、何とわたしの所説にぴったりではないか。これはもと牧笛にあわせて作られた歌の一ふしである。
 (a)我々はよく言う。「キケロがこう言った。これはプラトンの心持である。これはアリストテレスの言葉そのものだ」などと。だが我々は、我々自らは、一体どう言うのか、どう判断するのか、またどう行うのか。鸚鵡おうむだって、あれくらいのことなら、ちゃんと言うであろう。このやり口は、わたしにあのローマの金持のことを想い出させる。彼は莫大な金を費やしてもろもろの学芸に堪能な人たちを集めることに心を砕き、始終かれらをその身近に侍らせ、自分が友だちの間で何か議論をせねばならぬようなことが起きると、早速それらの学者たちが自分に代れるように、そして皆がそれぞれの専門に応じて、いつでも自分のために、あるいは議論を、あるいはホメロスの名句を、提供することができるように、備えた。そして、自分はそれらの学者たちの上に位するからというわけで、そうした知識をみな自分のものだと考えていた。「おれの学問はおれの豪華な書庫の中にある」と考えている人たちもまた同じことである。
 (c)わたしの識っている或る先生は、彼の得意とする事柄を尋ねると、必ず本を持ってこさせてからそれを教えてくれる。自分のお尻に疥癬かいせんがあることをおしえてくれるにも、さっそく字引をひろげて、「お尻とは……疥癬とは……」と研究しないではすまないらしい。
 (a)我々は他人の意見と知識を貯め込む。それから? それでお仕舞い。だがそれらを我々のものにしなければいけないのだ。我々はちょうど、火が入用になってお隣りにこれを貰いに行き、そこに美しいたくさんの火を見出すと、もはや火だねを家に持って帰ることは忘れてしまって、そのままそこにあたりこんでしまう、その人に似ている。食い物を腹一杯詰めこんで、一体何になるんだ。それが消化されなければ、それが我々の血や肉にならなければ、それが我々をふとらせ強くしなければ。ルクルスは経験をせずに、ただ兵書の研究だけで、あんなにえらい大将になったのだが、果して我々みたいな研究の仕方をしたんだろうか。
 (b)我々は余りに他人の腕に頼りすぎて、自分自身の力をなくしてしまう。例えばわたしが死の恐怖に対して自分をよろおうとする。早速セネカのご厄介になる。自分のために、また他人のために、何か慰めを得ようとする。こんどはキケロから拝借だ。わたしだって、できればそれを自分の内に求めたであろうに、悲しいかな、わたしはそういう稽古をうけなんだ。わたしはこんな人だのみの・貰い物の・学問は大きらいだ。
 (a)よしんば我々は他人の知識で物識り savant になれるにしても、知恵者 sage には我々自身の知恵によってでなければなれない。

おのれ自らのために賢明ならざる賢者をわれは憎む。
(エウリピデス)

(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)さればこそエンニウスは言えるなり。「知恵者の知恵もまた空しからん。もし彼みずからをさえ益するところなくば」と※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。

 (b)もし彼が貪欲ならば、高慢ならば、
またエウガネアの山羊の如くに女々しからば。
(ユウェナリス)

(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)知恵はこれを得るのみにては足りず。これによりて利するところなかるべからず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 ディオニュシオスは、オデュッセウスの不幸を詮索するのに夢中で自分の不幸を知らずにいる文法家を、その笛の調和にかまけていてその心を調えない音楽家を、正義を説くことにかまけながらこれを行わない雄弁家を、わらった。
 (a)もし我々の霊魂が知恵を得たためにより良い歩調を取らないならば、我々の判断がそのためにより健やかにならないならば、わたしはうちの生徒がテニスの遊戯に時を過す方をむしろ望むであろう。少なくとも体はそのおかげで活溌になるであろうから。十五、六年の月日を費やした後、彼が先生たちの所から帰って来るのをごらん。これくらい物の役に立たないものはない。どれ程のものを持って帰ったかと見れば何のこと、ただラテン語とギリシア語とが彼を前よりも高慢にしただけである。(c)満ちたる霊魂を持って帰るべきを、ただふくらませたそれを持って来ただけである。ただふくらませただけで中はからっぽなのである。
 これらの学士さまたちこそ(彼らの親類であるソフィストについてプラトンが言っているとおり)、すべての人間の中で最も人類を益するはずの人たちである。それなのに彼らは、我々が託したものを、大工や石工のように繕ってくれないばかりかかえって悪くし、しかもこれを悪くしたことの報酬を請求する、まことに天下に類のない人たちである。
 プロタゴラスがその弟子たちに与えた規定、すなわち、「弟子たちは規則書にあるとおり支払うこと。さもなければ神前において、わたしの教育からえた利益をどれほどに尊重しているかを誓言し、それに相応してわたしの労に報いること」という規則は守られたにしても、わたしの先生がたは、わたしが経験したあんな誓言を本当になさっては、きっと当てがはずれることであろう。
 (a)わたしの国ペリゴールの方言は、かれら学者先生をからかって※(始め二重山括弧、1-1-52)Lettreferits※(終わり二重山括弧、1-1-53)と言う。君たちならさしずめ※(始め二重山括弧、1-1-52)Lettre-ferus※(終わり二重山括弧、1-1-53)とでもいうところ。つまり、さまざまの文字でいわばコツン、コツンとたたかれたもの、という意味である。なるほど彼らの頭は、最もしばしば常識にさえもとどいていないようだ。まったく百姓や靴屋をごらん。その知っていることを語りながら単純素朴に彼らの道を歩んでいるのに、あの連中と来ては、彼らの脳の表面をふわふわしているあの知識で高ぶろう威張ろうとばかり思うので、始終よろめきつまずいているではないか。彼らの口からも美しい言葉がもれるけれども、それらを実行するのは誰か別の人たちである。なるほど彼らはガレノス〔ギリシアの医者〕を知っている。だが、少しも病人を知らない。彼らはたくさんの法規を君たちの頭につめこんだ。だがしかし、いまだに訴訟の要点は悟らないのである。彼らは万物の理法を知っている。だがこれを実地に行う者は一体どこにいるんだ?
* f※(アキュートアクセント付きE小文字)rit も f※(アキュートアクセント付きE小文字)ru も f※(アキュートアクセント付きE小文字)rir(=frapper)という動詞の過去分詞であるから、全体を直訳すれば、“Letter struck”(Trechmann はそう訳している)、すなわち「文字でさんざん打ち叩かれた者」「石あたま」の意となる。意訳すれば「文学かぶれ」「学問中毒」か。
 わたしはかつて、うちでわたしの友人の一人が、ただもう面白半分に、そういう学者の一人を相手に、ひねもす議論をたたかわしているところを見た。わたしの友人は時たま彼らの議論に関係のある単語を幾つかまじえるだけで、何の連絡もない・引用句でつぎはぎだらけの・ちんぷんかんな・わけのわからん警句をでっちあげているだけなのだが、相手の方はいつまでもそれにくそまじめな反駁を加えていた。ところが、あにはからんや、それは当時評判の文学者であった。(b)それは立派な教授服を召されるお方であった。

おおふり返って見ようともせざる貴族の子弟よ。
そなたの背にあびせられるあざけりに御用心あれ。
(ペルシウス)

 (a)案外ひろくはびこっているこの種の人々を近く寄って見られるならば、人はきっとわたしのように気がつかれよう。最もしばしば彼らには自分のことも他人のことも解ってはいないこと、そして、かなりいろんなことを覚えてはいるが、判断に至っては全く空っぽであることに。でも、天性がしぜんと彼らの判断を別様に育成した場合もある。例えばアドリアヌス・トゥルネブスをごらん。彼は文学以外を業としなかったが、そして彼こそ、わたしの考えるところでは、この千年来最も偉大な文学者であったのだが、その教授服を着ている以外には、少しも先生然たるところがなかった。多少その外見が宮廷風に洗練されていなかったとしても、そんなことは何でもないことだ。(b)わたしは、心のゆがみよりも衣服のゆがみの方を気にして、そのお辞儀の仕方やその物腰格好やその長靴の上で人を判断しようとする人々がきらいである。(a)まったく内面においては、それは世にも優雅な人であった。わたしはしばしば、彼を、ことさらにその平生とはかけ離れた問題の内に引き入れてみた。彼はそれを、きわめて明らかに、きわめて迅速な理解ときわめて健全な判断とをもって、洞察した。あたかも、軍事や政治以外の職業はついぞしたことがなかったかのように。それこそ、

(b)プロメテウスが最良の泥土を用い、
その特殊の技能をもって作りなせる、
(ユウェナリス)

(a)美しく力ある天性であって、悪い教育を受けても決してそこなわれることがないのである。ところで我々の教育は、我々をそこなわないだけでは足りない。我々を改善しなければならないのである。
* アドリアヌス・トゥルネブス、フランス名アドリアン・テュルネーブ Adrien Turn※(グレーブアクセント付きE小文字)be. 一五一二年フランスのアンドリ Andelys に生れ、一五六五年パリで死ぬ。その間、一五四五年頃、二カ年ばかりトゥールーズ大学で教えたことがあるが、パリにおける教職は前後十八カ年に及んだ。その死んだ時、ランバン Lambin は「ヨーロッパ第一の文学者」を失ったと嘆いた。ロンサールはその弔詩の中で此人の学を底深き大洋にたぐえている。モンテーニュはパリ遊学時代にこの人を知り、その講義に列したばかりでなく、しばしばその家を訪問して大きな感化を受けた。後出二の十二の註、拙著『モンテーニュとその時代』第二部第二章一五九頁参照。
 わが高等法院の中には、法官を採用するに当って、ただ彼らの知識だけを試験するところもあれば、その上さらに何かの事件を裁判させてみて、判断力の試験までもするところがある。後のやり方の方が優れていると思う。知識も判断も共に必要だけれども、そして、それは両方ともなければならないけれども、何といっても、しんじつ、知識の貴さは判断の貴さに及ばないのである。後者は前者がなくてもすむが、前者にはどうしても後者がなくてはならない。まったく、あのギリシアの詩に

悟性なくば博学も何にかはせん。
(ストバイオス『詩文選』より)

とあるとおり、分別がなかったら学問も一体何の役に立つ? どうかわが裁判の正しさのために、これら法曹家たちには、判断と良心とがあの博学とともにありますように! (c)※(始め二重山括弧、1-1-52)人は我々を世のために教育せず、学校のために教育す※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(a)さて、知識を霊魂に着せるのではいけない。これに合体させるのでなくてはならない。知識でこれをゆすぐのではいけない。染め上げるのでなくてはならない。もし知識が霊魂を変えないなら、その不完全な最初の状態を改めないなら、確かに霊魂をそのままにうっちゃっておく方がはるかにましである。知識は危険な剣である。力のない・これを用いる術を知らない・手の中にあるならば、それはかえってその人を妨げ傷つける。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)されば何事も学ばざるにしかじ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
* これは一五五五年頃にモンテーニュが法学士の肩書きもないのに租税法院審議官になりえた、当時の法官採用試験の実状を如実に物語っている。
 (a)おそらくそういうわけで、我々も神学も、婦人たちに多くの学問を要求しないのであろう。またジャン五世の御子ブルターニュ公フランソワも、スコットランド家のイザベル姫との結婚をすすめられたとき、そして彼女がきわめて単純に育てられ、何らの文学的教養がない由を聞かれた時、「かえってその方が好ましい。妻は夫の肌衣と上衣との区別さえ知っていればそれで十分物知りである」と答えたのであろう。
 だから我々の祖先が大して文学を重んじなかったことも、また今もなお文学が我々の王様の御前会議でただ偶然にしか見出されないということも、人がやかましく言うほどに驚いたことではないのである。いや、あの富を得ようとすることが(これがこんにち法学や医学や教育学やまた神学によってまで目ざされる唯一の目的なのであるが)、文学の重んじられない原因だとすれば、文学が今も昔も同じようにみじめな状態にあるのはむしろあたりまえである。だが文学が我々に良く思考することも良く行為することも教えないとすれば、それは何と口おしいことであろう。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)世に博学者出でてより、もはや有徳の人あるを見ず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
 他の学問は、どれも皆、善の意識を持たない者には有害である。けれども、わたしがいましがた求めていた〔なぜ先生たちは世間から馬鹿にされるのかという〕理由は、また次のことにも由来するのではあるまいか。つまりフランスにおける我々の研学はほとんど利得以外の目的を持たないこと、始めから儲け仕事よりも高尚な仕事にむくように生れついた人々が文学にうちこむ場合を除けば、しかもほんのしばらくの間これにうちこむ場合を除けば(というのは文学の面白さがわかる前に書物とは全く縁のない職業にそれてしまうことが多いので)、本式に文学の研究に精進する者というと、もはや多くの場合、ただ身分が低くて、そこに生活の手段を得るより他に道のない者ばかりになってしまうことから来るのではあるまいか。そして、これらの人々の霊魂は、その天性によってもその家庭でうけた教育や模範によってもはなはだしつがわるいから、結局学問の成果を誤り示すことになるのではないか。まったく、学問は光のない霊魂に光を与えることはできない。盲人にさせることはできない。その役目は、霊魂に視力を与えることではなくして、その視力を立たせその視力の歩みを調えてやることである。それには、まずもってその視力が、自ら真直ぐなすねと力ある足とを持っていなければならないのである。学問はまさしく良薬である。けれどもどんなによく効く薬だって、これを容れる器がわるければ変化変質せずに保存されるわけにはゆかない。或るひとははっきりした眼を持ちながら、まともな眼をもっていない。したがって、善を見てもこれに従わず、学問を見ながらこれを利用しない。プラトンの『国家』における第一の掟は、その国民たちにそれぞれの自然〔生れつき〕に応じて職を与えよ、ということである。自然はすべてができ、すべてをする。びっこの人は肉体の運動に適しない。びっこの霊魂は精神の活動に適しない。退化した凡庸な霊魂は哲学に適しない。我々はきたない履物をはいた男を見て、それが履物屋だと、別に驚くこともないと言う。同様に、経験がしばしば教えるところによると、医者は最も不養生であり、神学者はかえって不品行であり、学者は誰よりも無能であるらしい。
* 「他の学問はどれも」Toute autre science というのは、「文学以外の学問、人文学研究以外の研究」という意味、「善の意識を持たない者」とは道徳意識のない者、善悪のけじめのつかない者という意味である。科学を殺人や戦争の具とする者などはさしずめこの部に入る。この句には jeu de mots があって、格言の体をそなえている。※(始め二重山括弧、1-1-52)Toute autre science est dommageable ※(グレーブアクセント付きA小文字) celui qui n’a la science de la bont※(アキュートアクセント付きE小文字).※(終わり二重山括弧、1-1-53)
 アリストン・ケオスは昔こんな正しいことを言った。「哲学者たちは聴衆を毒する。何となれば、大部分の霊魂はそういう教訓を利用するに適していないし、それは善に用いられなければかえって悪に転ずるからである」と。※(始め二重山括弧、1-1-52)アリスティッポスの門よりは蕩児いで、ゼノンの門よりは野人いでたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (a)クセノフォンがペルシア人から学んだあの立派な教育法を見ると、彼らはその子弟に、あたかも他の国民が文学を教えるように、徳を教えていたのである。(c)プラトンによると、世継の王子はこんな風に教育されていたのである。すなわち生れると、婦人の手には委ねられないで、高徳であるために王の身辺で最も重んじられている宦官かんがんたちにあずけられた。彼らは、まず太子の身体を美しくすこやかにするのを務めとした。七歳を越えると乗馬と狩猟とにならした。十四歳に達するとその国で最も賢明な、最も正しい、最も節欲的な、最も武勇な、四人の人の手に委ねた。第一の人は宗教を、第二の人は常に正直であるべきことを、第三の人は淫欲を制すべきことを、第四の人は何物をも恐れてはならないことを、教えたのである。
 (a)なお、ここで大いに考えるに値すると思うのは、あの優れた国、その完全なこと実に驚くばかりのリュクルゴスの国〔ラケダイモンすなわちスパルタ〕においては、子供たちの教育を最も大切なこととしてそれにあれほどの注意を払っていたにも拘らず、またそれはミューズの神々のまします国であったにもかかわらず、学問をひけらかすような風はほとんどなかったということである。あのほこり高い若者たちは徳そのもの以外のかせはすべて軽蔑したから、彼らにはわが国に見られるような学問の先生ではなしに、ただ勇気と慎重と正義の先生を与えなければならなかったのであろう。(c)これこそプラトンがその『法律』のなかでまねた所である。(a)彼らの訓育の仕方は、人間及びその行為をいかに判断するかについて彼らに質問することであった。そして聞かれた方では、或る人あるいは或る事件についてけなしたり褒めたりする場合、その理由を述べなければならなかった。実にこうやって彼らは、判断を鋭利にすると共に正義を学んだのであった。アスティアゲスはクセノフォンの中で、キュロスに向ってその最後の授業のことを話してごらんと言うと、キュロスはこう答えた。「それはこんな風でした。我々の塾において或る丈の高い少年が、短い外套を持っていたので、自分より丈の低い少年にこれを与え、彼からその長い外套をとりあげました。先生が私にこの喧嘩の裁判をさせましたので、私は、『それはそのままにしておけばよい。両方ともそうなってかえって都合がよさそうに見える』と申しましたところ、先生は、『それは間違っている』と私をたしなめられました。まったく、私はただ衣服の適不適ばかり考えていましたが、まず第一に正義にかなわなければならなかったのです。その正義は、なんぴともその所有するものに関して他人の強制をうけてはならないと命じているのです」。こう語ってからキュロスは、ちょうど我々の村々で我々がギリシア語の「我はうつ」τ※[#鋭アクセント付きυ、U+1F7B、199-7]πτω の不定過去第一型を忘れた時みたいに、鞭でうたれたと白状した。わたしの先生だったら、まずもって堂々たる弁証法的演説を聞かせてのちに、始めてご自分の学校がクセノフォンの中の塾に劣らないことを解らせてくれるであろう。ペルシア人たちはそんなまわり道がきらいだった。いや、もろもろの学問はいくら本格的に学んだところで、結局我々に知恵と誠実と果断とを教えてくれるだけなのだから、彼らは一ぺんにその子供らを事実の真唯中に突き入れ、耳学問によらず行為の検討によって、ただに定義や規則をもってでなくむしろ主として実例と実践とによって、練り鍛えながら教育しようと思ったのである。そうやって、それがただ彼らの霊魂の中で一つの学問であるにとどまらず、霊魂の組織となり習慣となることを、これがつけ焼刃でなくて身についた能力となることを、望んだのである。これにちなんで或る人が、アゲシラオスに、何を子供らに学ばせたいお考えかと尋ねたところ、「大人になってもなおさなければならないことを」と答えた。このような教育がああいう驚嘆すべき結果を生んだのは驚くにあたらない。
* クセノフォンの『キュロペディア』Cyrop※(アキュートアクセント付きE小文字)die を指す。アスティアゲスは、この物語の主人公たるキュロスの祖父である。
 聞く所によると、人はギリシアの他の町々に修辞学者や画家や音楽家を求めに行ったが、ラケダイモンには立法者や裁判官や軍司令官を求めに行った。アテナイに行ってはよく語ることを学んだが、ここラケダイモンに来ては善く行うことを学んだ。あちらでは詭弁的論証を切りぬけ・巧みに組み合された言葉の欺瞞をうちくじく・術を学んだが、ここでは快楽の誘惑をのがれ・不屈の勇気を揮って運命と死との脅威をうちくじく・術を学んだ。あちらの人々は弁論に腐心し、こちらの人々は実行に没頭した。あちらでは不断に弁舌が錬磨せられ、ラケダイモンでは不断に霊魂が陶冶された。だからアンティパトロスがこの国の人々に五十人の子供を人質として要求した時、まるで我々のなすところの逆をいって、「むしろその倍数の大人を送ろう」と答えたというのも不思議ではない。それ程までに、彼らは自分の国の教育の損失を重く視たのである。アゲシラオスがクセノフォンに向ってその子供たちをスパルタにやって教育するように勧めたのも、そこで修辞学や弁証学を学ばせるためではなくて、(彼自らの語を借りて言えば)「最も壮麗な学問、すなわち服従し司令する学問」を学ばせるためであった。
 (c)ソクラテスがいつもの流儀であのヒッピアスをからかっているのを見ると、はなはだ愉快である。ヒッピアスは彼に向って語る。「自分は物を教えながらとても儲けた。特にシチリアの或る小さな町々ではしこたま儲けた。だがスパルタではびた一文取れなかった。それは愚昧な人民で、測量も計算も知らぬばかりか、文法をも押韻をも重んぜず、ただただ諸王の交代とか国家の興亡とかいうくだらない話を覚えるのにひまをつぶしている」と。さんざんにしゃべらせたあげく、ソクラテスは、少しずつ彼らの政治形態が世に優れたものであることや、彼らの生活が幸福で徳に適っていることなどを彼に認めさせ、彼の自慢の諸芸がいかに無用の長物であるかというその結論は、これを彼自らにゆだねている。
 もろもろの実例は、この雄々しい国においてもこれに類する他の諸国においても、学芸の研究が人の心を堅固勇壮にしないでかえってこれを柔弱にしていることを、我々に教えている。当今世界で一番強い国と思われるのはトルコであるが、この民もまた武術を尊び文学を軽んずるように教えられている。ローマも、まだ学問を持たなかった時分の方が、ずっと勇敢であったと思う。現代においても、最も好戦的な国民は最も野蛮無知である。スキュティア人、パルティア人、チムールがこれを証明してくれる。ゴート人がギリシアを荒した時、すべての書庫を兵火から救ったのはなぜか。それは彼らの一人が、「この建物はそっくり敵にのこすがよろしい。やがて彼らに武技を忘れさせ、家の中の遊惰なわざに熱中させるのにこれくらい適したものはないのだから」という意見を流布したためであった。我々の王シャルル八世が剣の鞘をはらわずしてナポリ王国およびトスカナの大部分の主となったとき、彼に従っていった諸侯たちは、この征服が予想外に楽であった理由を、イタリアの王侯貴族が強い武士になるより利巧な学者になろうと努めていたことに帰した
* モンテーニュはこの章において、衒学(ペダンティスム)と科学の悪用とを攻撃しながら、一方本当の学問、特に人間の研究、子供の教育の重要性を強調している。最後の数頁においては、いかにも現代人の文弱をなげき、武術を尊重しているような口ぶりであるが、これは例のカムフラージュでもあるし、彼が気質的に三段論法がきらいでパラドクスがすきだからでもある。彼はいつも結論を最後におかない。おいてもそれを裏返しに述べる。本当の結論は、よく人の気がつかないような場所にすべりこませている。
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第二十六章 子供の教育について

ギュルソン伯夫人ディアーヌ・ド・フォア様に


 この章は、ギュルソン伯であるとともにトランス侯でもあったルイ・ド・フォワという貴族の夫人ディアーヌ(前出一の二十一、一五三頁註*、**参照)に献呈されたもので、夫人が当時懐胎していた若様を目あてに書かれたものである。この若い夫婦の結婚の時期(一五七九年三月八日)から推して、この文が書かれたのは一五八〇年の始めごろではないかと思われるが、それはモンテーニュがようやく自らを描こうと考えはじめたころである。この教育論はサドレ Sadolet という枢機官の著書にいろいろな点で似ているという説もあるが、むしろエラスムスの教育方針を基本として育てられたモンテーニュ自らの少年時代の回想から生れたものであることは動かせないと思う。それにサドレ其人も、イタリア派ではあるが、エラスムスの礼讃者であった。またボルドー市には、ギュイエンヌ学院開設以来、エラスムス派の教育者が沢山集まっていた。『モンテーニュとその時代』第三部第一章―第三章参照。
 さてこの教育論は一般人民のために書かれたものではなく、一貴族の若様のために特に選んだ一家庭教師に行わせようという教育案であった。しかしモンテーニュは、その小さいジャンティヨムを一個の人間に仕あげようとしているのであるから、彼の意見は城内に行われる個人教育の枠内にだけ止まってはいない。しばしばそれは、すべての時代すべての階層の子供たちに関連している。そこにはやや極端な、またあまりに独断的なところもないではないが、とにかく健康な合理的な思想の上に立っているもので、やはり今日の教育論の基礎になるものを含んでいる。文明史の著者として有名なフランソワ・ギゾーは、こう言っている。「我々は生徒を、モンテーニュが彼を導いたよりも更に遠くまで導く必要を感じよう。しかし、それにしても、やはりモンテーニュが通った道を通らなければならない。彼はすべてを言いはしなかったが、その言ったことはみな真実である。だから彼を追い越そうとする前に、まず彼のところまで達すべく努めなければならない」と。そういう意味で、われわれ民主主義国家の人民もまた、この貴族教育論に耳を傾けるべきであると思う。それにモンテーニュがここで言っているジャンティヨムは、当時すでに階級上のジャンティヨムを指してはいなかった。それは教養上のジャンティヨムであって、むしろ次の時代十七世紀が理想としたオネトム honn※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)te homme のことであった。拙著『モンテーニュを語る』八一―九〇頁参照。更に今日のわれわれの言葉に言いかえれば、「教養ある視野の広い有能人」のことである。ルソーはその政治論においてもしばしばモンテーニュに負うているが、その教育論においても、その最良の部分をこの章に負うている。

 (a)自分のせがれがせむしであるから・しらくも頭であるから・といって、それをわが子と白状しない父を、私はかつて見たことがございません。でもそれは、彼が親子の情愛のために全く眼がくらんでいるのでない限り、この欠陥に気がつかずにいるせいだとは申せません。それにしてもやはり自分の倅にちがいないからでございます。私も同じことです。この書物が、少年時代にわずかに諸芸のうわっつらをなめたことがあるだけで・そのごく大体の漠然とした表面を捉えているにすぎない・つまり全くフランス式でいろいろなことを少しずつかじってはいるが完全には何一つ知らない・一人の男の夢物語にすぎないことは、私が誰よりもよく承知しております。と申しますのは、つまり私も、医学があり法律があり数学には四つの分科があることを、そしてあらましながらそれらの各々が目指すところを、承知しております(c)また、たぶんもろもろの学芸がこぞって我々の人生に貢献しようと志していることも、知らないわけではございません。(a)けれども、そこをさらに深く掘りさげるとか、(c)近代の学問の帝王たる(a)アリストテレスの研究に苦労するとか、特に何かの学問に執心するとかいうことは、一ぺんもしたことがなかったのでございます。(c)私はどの学芸についても、その最も簡単な輪郭を描くことすらできないのでございます**。いえ、中級の児童で、「おじさんよりは物識りだよ」と言いえない者は一人もいないくらいです。私には彼をその第一課について試験するだけの力さえないのでございます。少なくとも、それをそっくりそのまま試験いたすことはできないのでございます。ですから、「それでも是非」と言われますれば、私はどうもあまり適切ではありませんが、その第一課の中から何か一般的事項に関する問題を引き出し、それについて彼の天賦の判断力を試験するより他に、致しかたがないのでございます。だって、これこそ彼が全く知らない課目で、私にとって彼の課目が皆目わからないのと同様だからでございます。
* モンテーニュは、これらの学問を一五四六―四八年、ボルドーのギュイエンヌ学院で学んだ。『モンテーニュとその時代』第二部第二章参照。
** モンテーニュは特に法官となるための勉強をしたことはないが、唯一五五五年頃、父のすすめに従い、租税法院の審議官となるため、大急ぎで試験勉強をしたことがある。この告白はその時の実際を語っている。
 私はどんな堅い書物とも交わりを結びませんでしたが、プルタルコスとセネカだけは例外で、私はここに、まるでダナウスの娘**たちみたいに、満たしたりこぼしたり致しながら、始終汲んでおります。その内の何かを私はこの書物のうちにいれているわけですが、しかし、私のうちにはほとんど何もいれてはいないのでございます。
* プルタルコスとセネカの学問は、人間如何に生くべきか、如何に死すべきかを教える人間学、倫理学であったから。
** アルゴスの王ダナウスに五十人の娘があり、いずれも結婚の夜、その夫をきらってこれを殺した。その罪により、地獄におち、底のない桶に水を汲まされたという伝説がある。
 (a)歴史、これこそ私の最も好んで読みあさるものです。いえ、詩こそ私が特に愛誦するものでございます。まったくクレアンテスが申しましたとおり、声が笛の細い管を通して押し出されるときはいよいよ強く鋭く響くように、文章もまた、ひとたび詩の韻脚の中に圧搾されますといよいよその勢いを加え、私の心を動かすことがいっそう強いように思われます。私の持って生れた諸能力の方は(それらの、これは試し**なのでございますが)、いずれも重荷に堪えかねているように感じられます。私の理解も、判断も、ただ手探りしながら、よろめきながら、つまずきながら、やっと進むばかりでございます。それで私は、できるだけ前に進み出たと思いましても、ちっとも満足を覚えませんでした。その向うにやはり何やら国らしいものが見えるのでございます。しかもぼんやりと雲・霧のように見えるばかり、はっきりとはけじめもつかないのでございます。ですから、ふと心の中に思い浮ぶすべてのことをそこはかとなく語り出そうと企てながら、またそこに自分の生れながら持っている方法だけを用いながら、ふと(それはよくあることでございますが)善い作者の中に自分の論じようとしているものと同じ主題に運よくめぐりあいますと、――例えばついいまし方もプルタルコスの中に想像の力に関する彼の思索にめぐりあいましたが、――それらの人たちに較べて自分がいかにも力なく弱々しく、いかにも鈍重でまるで眠っているみたいなのを認めて、自分自身を憐れんだり嘲ったりするのでございます。でも私は、自分の意見がしばしば彼らのそれと一致する光栄をもつことを、(c)そして大きなへだたりをおいてではあれ「そうだ、そうだ」と言いながらそのあとに従っていることを、(a)ひそかに誇りとしているのでございます。それからまた、これはほかの人にはないことでございますが、それらの著者たちと自分との間に大きな差異があると自ら知っていることをも、誇りとしているのでございます。そして、それにもかかわらず、私はそのように弱い低い創意をも自らこれを産み出したままに申し述べ、その比較が私に見出させた欠点をも、少しも塗りかくしたりつくろったりは致しません。(c)ああいう人々と肩を並べて進むのには、がっちりとした腰を持っていなければなりません。(a)当世の見さかいのない作者たちは、その一文の値打もない著作の中に、古代の作者たちの章節をそっくりそのまま撒きちらして自分にはくをつけたつもりでおりますが、それはかえってあべこべの結果をきたしております。まったく、あの限りない光彩の相違は、彼ら自身のものにますます青ざめた醜い顔つきを与えております故に、彼らは得をするどころかかえって大きな損をしているのでございます。
* モンテーニュはここに、観念的な学問、形而上学などに専念することは不得手であって、もっと具体的な人間的な学問として歴史を愛し、特に人間の自然の情を歌った詩歌がすきであることを明言している。
** 標題「エッセー」のもつ意味の一つを、ここに推知することができよう。この他、第一巻第十九章、第五十章、第五十四章、第二巻第十章参照。なお拙著『モンテーニュを語る』一二三頁を見よ。なおモンテーニュはここに、他人ひとの学問・学説を問題にしているのではなく、もっぱら自己の天与の諸能力 facult※(アキュートアクセント付きE小文字)s naturelles を研究の対象にするのだという抱負をのべている。
 (c)次に申上げますのは、二つの全くあべこべの考え方でございます。哲学者クリュシッポスはその著書の中に、ただ他の作者たちの幾つかのくだりだけでなく、彼らの著作全体をまじえました。その一つの中にはエウリピデスの『メデイア』をそっくり入れました。それでアポロドロスはこう申したのでございます。「この中から他人の手になる部分を切り取ったら、彼の書物は空白になってしまうだろう」と。ところがエピクロスの方はあべこべでございます。三百巻もの書物をのこしましたが、他人のものはただの一つも引用致しませんでした。
 (a)このあいだ、私はふとそのような一節にぶつかりました。私は、いかにも血の気がなく・肉が落ちて・意味も内容もからっぽで・どうやらフランス語と言えるにすぎない程度の・フランス文を、だらだらと読んで参ったのです。ところが、その長いながい退屈な道の果てに、ひょっくり、気高い・豊かな・天にもとどかんばかりの・一節にゆき逢ったのでございます。もしその坂が緩やかだったら、登りがもうちっと長かったら、あるいは我慢もできたでしょうが、それは全く断崖絶壁で、始めの六語を見ただけで、私は一足飛びに別の世界に飛び上ったのを感じました。そこからは今までいた窪地がいかに低くいかに深かったかが見おろされましたので、私はもう二度と再びそこに下りて行く気がなくなりました。もしも私が私の論説の一つをこういう豊かな分捕品でおおうならば、それはあまりにも私の他の部分のおろかしさを暴露するばかりでございましょう。
 他人のうちに私自身の過失を見つけだすことも、私がよくやりますように他人の過失を私自身のうちに拾い上げることも、ともに矛盾したことではないように思います。過失はそれをいたるところに責め、それからすべての隠れ家を取上げてしまうべきでございます。けれども私は承知しております。いかに大胆に、私自ら、ことあるごとに自分を、わが盗品類と同等にしよう・それらと肩を並べてゆこう・と企てているかを。またあわよくば両者を識別しようとしている批判者の眼を欺いてやりたいという、大それた希望も持っていないではないことを。けれどもこれは、私の並べ方のいかんによることではございますが、同時に私の創意力量のいかんにもよることでございます。それに私は、これら古代の選手たち一般を相手に戦っておるのでも、一騎打ちをやっているのでもございません。幾度にも少しずつ軽い突きを入れようとするだけでございます。どこまでもねばる気はございません。ただちょっとつついて見るだけでございます。腹に思っておるほどには深入りしないのでございます。
 もし私にも彼らと太刀打ちができますなら、あっぱれ私も達人と申せましょう。まったく私は、彼らの手ごわいところばかりを狙って、うってかかっているのでございます。
 ある人々において私が認めましたように、自分の指先までも見えないほどに他人の鎧を着込み、自分の意図を(これは普通の問題に関してなら物識りにとってわけない仕事でございますが)、あちこちから寄せ集めた古人の諸創意のもとに述べるということは、もしそれらを押しかくしていかにも自分の物のように見せかけるのであれば、それは第一に不正で卑怯な業と申さなければなりません。つまりそれは、自分のうちに自分を輝かすべき何物も持たないので、他人の価値によって大きな顔をしようというのですから。第二にそれは、はなはだ愚かな業でございます。それは欺瞞によって無知な俗衆の賞賛をえるだけで満足し、分別ある人々の信用を失うことは何とも思っていないのでございますから。まったく心ある人々は、人から借りた宝石の象眼なんか、鼻の先であしらってしまいます。そういう人々のほめ言葉にこそ、千鈞の重みもあると申すものでございます。この私は、ああいう真似が一番きらいでございます。私は自分の思うところを一層強調するためでなければ、他人の言葉なんか借りは致しません。もっともこれは、始めから編集詩として発表される詩にはかかわりのないことでございます。私は当代においてその極めて巧妙なものを見たことがございますが、中でもカピルプスという名の下になされたのが上手でございました。あながち古人ばかりには限らないのでございます。いずれも機知ある人々で、この編集詩においてばかりでなく、他の方面でも、成功しております。例えば、あの博学と忍耐とが織り込まれている『ポリチカ』の著者リプシウス**などもそうでございます。
* 他詩人の名句を編集して作った詩。その一例としてモンテーニュは次にカピルプスすなわちレリオ・カピルポ(一四九八―一五六〇)というイタリアの詩人の諷刺詩をあげている。フランスでは後にボワローがその『リュトラン』において同じ手法を用い成功している。
** オランダの哲学者ユストゥス・リプシウス。一五八九年以後モンテーニュとの間に文通が始まった。トゥルネブスの死後、モンテーニュは此の人を最も古代文学に通暁した人として尊敬していた。後出二の十二、六八三頁註**参照。
 (a)それはともかく、私ははっきり申上げます。ここに私の申すことがどんなたわごとであろうとも、私は少しもそれらを隠そうとは思いません。画かきが理想的な顔でなしにありのままの私の顔を描いてくれたらしい・あの禿げた・胡麻塩あたまの・私の肖像と、それは同じでございます。まったく、ここにもまた私の思想感情があるのでございます。私はこれらを私の信じているところとしてお示ししているので、決して人の信ずべきところとしてではございません。私はここに、ただ私自身を明らかにしようと目指しているだけでございます。もしも新たな知識が私を変えるならば、おそらくそれは、明日別のものとなるでございましょう。私は人に信じられるだけの権威を持ってはおりません。信じられようとも願いません。他人を教えるには余りにも悪しく学んだと自ら思っておるのですから。
 ところがある人が、私のペダンティスムに関する論説を見てから、このあいだ私のところへ参りまして、もう少し子供の教育という問題を詳述すべきであると申しました。ところで奥様。もし私に幾らかでもそういう問題を論ずる力があるとすれば、やがてあなたのうちから勇ましく生れ出ようとしている若様のためにそれを贈り物とする以上に、それを役に立てることはできますまい(あなたはきわめて大ような御気性ゆえ、きっと最初に男のお子さまをお産みなさるに相違ございません)。まったく、御結婚成立のためにもあれほど骨を折って差上げたのでございますから、それから生れ出るすべてのものの御隆昌御繁栄に関心をもつ権利は、私にも多少あるわけでございますし、またお家の永年の恩顧も、私にあなたに関するすべてのものに名誉あれ幸福あれと願わせる次第でございます。でも正直のところ、私はただ、「人間の学問の中で最も困難で大事なのは、この子供らのしつけと教育とをどうすべきかということである」と申すことより他には、何もわきまえていないのでございます。
 (c)ちょうど農業においてと同じことで、植えつけ以前の仕方はきまりきったもので、植えつけそのこととともに容易でございます。けれども、植えつけたものが根づいてから、これを育ててゆく上には、ずいぶんといろいろなやり方もあり困難もございます。人間も同じことで、これを植えつけるにはほとんど工夫はいりません。けれども一度生れ出でてからは、これを養い育てるのに、こまかな手数や心配の充満したさまざまな心遣いをしなければならないのでございます。
 (a)子供たちの性向の現われは、そういう幼い時期においてはきわめてかすかな・ほとんど人の目につかない・もので、その約束もはなはだ当てにならない・あやしい・ものでございますから、はやくからそこに確定した判断をうちたてることは、困難でございます。
 (b)キモンをごらんなさい。テミストクレスをごらんなさい。その他たくさんの人々を。いかに彼らは子供のころと変ったことでしょう。熊や犬の子は、生れながらにその傾向を示しております。けれども人間は、生れるとすぐに習慣や学説や法規の中にとびこんで、容易に変化しまた変装してしまうのでございます。
 (a)けれども、生れつきの諸傾向を無理にまげることも困難でございます。それで結局、彼らの進路をよく選ばなかったために、しばしば無駄骨をおらされたり、彼らに全くむかない仕事を仕込もうとして多くの歳月を費やしたり、するようなことにもなるのでございます。けれどもこうした困難があるとはいえ、私の考えではやはり彼らを最も良い・最も有益な・事柄に向わせるべきだと思います。そして、彼らの幼い時代の行為の中にみとめられるあの微かな前兆には、余りかかずらってはなりません。(c)プラトンまでが、その『国家』の中で、それらを余りにも重んじ過ぎているようです。
 (a)奥様。学問というものは大きな飾りであり、しかも非常に役に立つ道具でございます。わけてもあなたのような御身分の高いお方々にとってはそうでございます。実際それは、低く卑しい者の手にあっては、とうていほんとうの効用を発揮しは致しません。それは戦争を指導し・人民を統治し・王者や外国人と交わりを結ぶ・のにその力を貸すほうを、弁証法の論をたてたり・控訴の弁護をしたり・丸薬の処方を書いたり・するお手伝いをするよりも、一だんと誇りにしているのでございます。ですから奥様。すでに学問のこういう部分のうま味を味わわれただけでなく・文学の血筋をもうけ継いでおられる・あなたは(まったくご主人伯爵殿とあなたの御本家であるフォワ伯爵家の御先祖たちの書かれたものは、今でも我々の間に残っているではございませんか。伯父君**であるカンダルのフランソワ殿も現に毎日いろいろとものを書いておられますが、これまた数世紀の後まで御一統のお持ちになるこの御性質を伝えることでございましょう)、御子様方の御教育において今申し上げた部分のことはよもやお忘れにはなるまいと存じますから、私はこの点に関してただ一つ、私の世間一般のそれとはあべこべの考えを、申し上げるにとどめようと思います。これこそ、この方面において私があなたのお役に立ち得るすべてでございます。
* 戦争指導、外交、政治等、人文学を基礎とすべき分野を指す。
** エールの司教、フランソワ・ド・フォワ=カンダル。『モンテーニュとその時代』索引参照。
 あなたが若様にどのような教師を選んでお与えになるかによって、若様の教育上のすべての結果はあらかじめきまるのでございますが、その教師の役目は、他にもいろいろと大事な部分を含んでおりますけれども、私はあえてそれらには触れますまい。そこでは私は何のお役にも立ちようがございませんから。また、私があえてその家庭教師のために申し述べようとしているその事柄も、彼がなるほどこれはもっともだと思われる限りにおいて、御信用下さればよいのでございます。そもそも良家の子弟が文学を修めるのは、お金もうけのためでもなければ(まったくそういう卑しい目的はミューズの恩寵にふさわしくございませんし、それはむしろ別種の人に関係することなのでございます)、うわ面を飾るためでもなく、むしろその人自身のため、それでもってその人の内面を飾り富ますためですから、それによって有能の人であろうとするので博識の人であろうとするのではありませんから、私はそういうお弟子さんのために、よくみたされた頭よりもよくできた頭をもてる指導者を選んで差上げるように、もちろん二つともに欲しいことではありますが、知識よりはむしろ人格と判断の方を求められるようにと、望むのでございます。そして、その人が新しい方式によってその役目を果してくれるようにと望むのでございます。
 世の常の教師はのべつに我々の耳に向って叫んでおります。まるでじょうごに水でも流し込むようです。そして、我々の役目と申せば、言われた事柄をただ復誦するだけのことでございます。私は若様の先生に、是非この点を改めてもらいたいと思うのでございます。そして、最初からその預かった子供をその力に応じて独り歩きさせ、物事を独りで吟味し選択し識別するように、ある時はこちらから道を開いてもやれば、ある時は彼自らにこれを開かせもするように、してもらいたいのでございます。私は先生が一人で創案し講釈することを欲しません。やがて弟子が語り出すことに耳を傾けるように望みます。(c)ソクラテスは、またその後にアルケシラオスは、まずもって弟子たちに語らせ、それから彼らに向って語るのを常と致しました。※(始め二重山括弧、1-1-52)最もしばしば教えるものの権威が学ばんとするものを害することあり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。先生は弟子に自分の前を走らせて、その歩調を判断すべきでございます。そして、弟子の力に順応するためにはどこまで自分の調子をさげなければならないかを、判断すべきでございます。この釣合がとれなければすべては台なしです。それで、まずその釣合を見出し、程よくそれに順応してゆけるようになることこそ、教師にとって難事中の難事であると思います。子供の歩調にあわせて弟子を導くことができることこそ、高い・そしてきわめて強い・霊魂にして始めて出来ることなのでございます。私は、下りよりも登りの方が、かえって危なげなしに歩けるのでございます。
 世の先生たちは、ただ仕来たりどおりに、程度といい形態といいあんなにも相違する種々様々な精神を、同じ読本同じ指導法で教育しようと企てておりますが、これでは彼らが、あれだけ大勢の子供たちの中に、自分たちの訓育から多少とも正当な成果を得る者を、やっと二、三人くらいしか見出さなくても、少しも不思議はありません。
 (a)先生は若様に、その教えたことを言葉どおり反復させるだけではたりません。その意義および実質について語らせなければならないのです。そして、その記憶の証拠によってでなくその実生活の証拠によって、彼がどのような利益を得ているかを判断しなければならないのでございます。彼にその学びえたことを四方八方から観察させ、これをできるだけ雑多な問題に適用させて、彼が果してそれをちゃんとこなしているかどうか、よくそれを自分のものとしているかどうかを、(c)プラトンの教育法によってその進歩の度を測りながら、(a)観察しなければならないのでございます。食物を呑みこんだままの有様で吐き出すのは、食滞と不消化の証拠でございます。胃の腑は、もし消化するようにと与えられたものの形状を変えないならば、その務めを果さなかったのでございます。
 (b)我々の霊魂は、他人の考えの欲するところに拘束され、それらの教えの権威に屈服して、ただただ他人を信じて動くのでございます。我々はあんなにも窮屈に縄に従わせられましたから、ついに手ばなしで歩くことができなくなってしまったのでございます。我々の力と自由とは滅んでしまいました。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)彼らはついに彼自らに主たることなし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。私はピサで一人の学識ある人と懇意に致しましたが**、その人は大のアリストテレス宗で、彼の信条の根本は、「すべての堅実な思想・すべての真理・の試金石ないし定規は、それがアリストテレスの学説に適うか否かである。そのほかのものはみな空想であり嘘である。彼こそすべてを見、すべてを言った」というのでございました。こういう彼の意見は、あまりに広くあまりに不当に解釈されたため、彼は、かつて長いあいだ、ローマ庁の糺問をうけ、大そう難儀をあそばしたのでございます。
* 昔は、歩きたての小児のために縄を張り、これにつかまって歩かせたのである。
** ジロラモ・ボロという医者でローマ大学の博士。モンテーニュはこの人から『潮の干満について』という著を贈られ、その他いろいろラテン語でかいた医学書などを見せてもらった。一五八一年七月十四日のことである。白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」索引参照。
 (a)先生は若様に何事もふるいにかけるよう、何事も単なる権威と信用とによって信じこまないよう、おしえなければなりません。アリストテレスの原理も、彼にとって原理であってはなりません。ストア学者やエピクロス学者のそれも、同じことでございます。どうか彼の前にこうしたいろいろな判断の相違をお示し下さるようにお願いいたします。彼はできれば自ら選択をするでしょうし、できなければ疑いの中にとどまるでしょう。(c)確信して疑わないのは馬鹿ばかりでございます。

(a)知ることに劣らず疑うことはわれに快し。
(ダンテ)

まったく、クセノフォンやプラトンの思想も、それを自分の推理によって思いいだくならば、それはもう彼らのものではなく、立派にその人自らのものでございましょう。(c)ひとに従う者は何にも従っていない。彼は何も見出さない。いや、何も探してはいないのです。※(始め二重山括弧、1-1-52)我らはいかなる王の下にもなし。各人をして自由に行わしめよ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。少なくとも、彼は自分が知っているということを知っていなければなりません。(a)彼は彼らの考え方を心にしみこませなければいけないので、彼らの原理を知るだけではいけないのです。忘れたければどこにそれを得たかは思いきって忘れてよいのです。その代り、是非、それを自らのものにしなければなりません。真理や道理は、めいめいの共有物でございます。それは先に言った者のものでもなければ、後に言った者のものでもございません。(c)彼も私もそれを同じに解し同じに見る以上、それはプラトンが言ったからでも私が言ったからでもございません。(a)蜜蜂はあちらこちらの花からかすめ取ります。けれども後にこれで蜜を作ります。この蜜はもう立派に彼ら蜜蜂のものでございます。それはもうタチジャコウ草でもマヨラナ草でもないのでございます。同様に、ひとから借りて来た章節を、彼は変形し混合して、それで全く自己の作品、すなわち彼の判断を、作り上げなければなりません。彼の教育、彼の勉学は、ただただこの判断を作るためでございます。
 (c)若様は、他人の助力によって得たすべてのものを隠し、ただそれによって自ら作り上げたものだけをお示しになりますように。盗人や借り手は、彼らの建てたものや買ったものをひけらかしますが、他人から盗んだり借りたりしたものを見せは致しません。あなたは裁判官が受取ったいろいろな進物しんもつをごらんにはならないでしょう。ただ彼らが儲け得た縁組や、その子女のためにかち得た栄位を御覧になるばかりです。何人もその収入を公表致しません。ただこれによって得たものを見せびらかすばかりでございます。
 我々の勉強の利得は、それによって我々がより賢くより良くなることでございます。
 (a)エピカルモスは申しました。「見たり聞いたりするのは悟性である。すべてを活用し、すべてを処理し、行為し、司令し、君臨するのも悟性である。他のものはすべて盲であり、聾であり、霊なきものである」と。まったく我々は、その悟性を卑屈な臆病なものにしております。これに何一つ自らする自由を与えてはいないのです。誰がいったいその弟子にむかって、(b)修辞学や文法学について、(a)キケロの言ったあれこれの格言について、「君はどう思うかね?」と尋ねたでしょうか。人はそれらをそっくりそのまま我々の記憶の中につめ込むばかりです。あたかもその各字各綴りが事の本質をなすという御託宣か何かのように。(c)そらで知るのは知るのではございません。それは教わったことをその記憶の中にしまっておくだけのことです。物事を正しく知っているならば、そのお手本を見ないでも、その原書に眼をむけないでも、人はよくそれを活用します。ただ書物の中でだけやしなわれた学問くらい悲しむべきものがありましょうや! 私はプラトンの意見に従って、そんなものは、飾りとするくらいはよいが、基礎とはしないようにとお願いいたします。プラトンはこう申しているのです。「勇気、信念、真率こそは真の哲学、それ以外のことを目指した・他の・学問はすべて虚飾にすぎない」と。
 (a)ル・パリュエル(ルドヴィコ・パルヴァロ)とかポンペ(ポンペオ・ディアボノ)とかいう現代のすぐれた舞踊家たちだって、ただ自分のするところを見せるだけで、つまり我々は坐らせたまんまで、トンボ返りを教えてくれることはできますまい。ところが、どうでしょう。我々の先生たちは、我々の悟性を少しもゆり動かさずに、これを教育しようとしているのです。(c)我々にその練習をさせることなく、馬とか槍とか、琴とか歌とかを、仕込んでくれる先生はありますまい。ところがあの先生たちは、語ったり判断したりする練習をちっともさせずに、よく語りよく判断することを教えようとしているのです。(a)ところでこれらのことを学ぶのには、我々の眼の前に現われるもろもろの事実こそ、貴重な書物の役をするのでございます。小姓の悪さ、下男の愚かさ、食卓での話、いずれも新鮮な教材なのでございます。
 ですから人々との交わりは、大へんためになるのでございます。異国を訪れることも同様でございます。ただしそれは、わがフランス貴族たちがするように、ただサンタ・ロトンダの周囲が何歩あるとか、リヴィア姫のズロースがどんなに豪奢であるとかを、見て来るためでもなければ、また、ある人たちみたいに、どこそこの廃墟にあるネロの顔はどこそこのメダルに刻まれたそれよりもどれだけ長いとか広いとかを、見て来るためでもございません。むしろ主として、これらの国民の人情や風俗を見てくるため、我々の頭脳を他の国民のそれとこすりあわせながら磨き上げるためでございます。私は若様を幼い頃から遍歴おさせするように望みます。そして最初には、一石二鳥の目的でその国語が最もわが国語とちがう近隣諸邦に、お連れするように望みます。早くからこれを慣らさないと、舌はとうてい異国の言葉に順応できないものでございます。
 それに子供を両親の膝もとで育てるのはよろしくないことです。これはみんなが認める意見でございます。あの自然の情愛は両親を、その最も賢明なものをさえ、あまりにも甘く寛大にするからでございます。彼らにはその子の過失を罰することもできなければ、子供が相当荒っぽく、うっちゃりっ放しに、育てられるのを、黙って見ていることもできないのでございます。彼が汗をかき塵にまみれてお稽古から帰って来たり、(c)熱いものを飲んだり冷たいものを飲んだり、(a)また荒馬に乗っているところや、竹刀しないを持って荒っぽい相手と相打つところや、始めて火縄銃を扱うところなどを、じっと見ているのに堪えられないのでございます。まったく、これは致し方のないことではございますが、その子を立派な人物にしたいと思うなら、決してこういう幼い時代に彼をかばってはならないのでございます。往々にして医者の指図にも逆らわねばならないのでございます。

(b)彼をして野辺に伏し、警急の唯中に生きさしめよ。
(ホラティウス)

 (c)彼の霊魂を鍛えるだけではたりません。その筋肉をも鍛えてやらねばなりません。霊魂は、筋肉の助力をえない時は余りに苦労いたします。独りで二つの役目にあたるのは無理なのでございます。私は自分の霊魂が、きわめて軟弱な・感じ易い・とかく霊魂にばかり頼りたがる・肉体と共にいて、いかに難渋しているかを、いやという程承知しております。そしてしばしば読書の間に、わが師匠たちが、その著書の中で、寛大や勇気の実例としてむしろ皮膚の厚さ骨の堅さのせいではないかと思われる行いをたたえているのに、気がつきます。私はそういう風に生れついた老若男女を、いくらも見たことがございます。彼らは棒でたたかれても、私が爪先ではじかれたほどにも感じないのでございます。ぶたれても、眉一つ、舌一つ、ふるわせはしないのでございます。競技者は忍耐の点で哲人の姿に似ていますが、これも筋肉が強いからで霊魂が強いからではないのです。ところで、労役に堪える習慣とは苦痛に堪える習慣のことでございます。※(始め二重山括弧、1-1-52)労働は苦痛に対してたこを生ぜしむ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。ぜひ若様も稽古の辛さに慣らし、彼が脱臼、疝痛、焼灼しょうしゃくの、いや牢獄や拷問の、苦しさ辛さにも堪えられるようにして差上げなければなりません。まったく後の二つには、彼もまたあうことがないとは申されません。当今のような時代には、それは善人にも悪人にも等しく降りかかる苦難でございます。現に我々はその試練にあっております。法にたてつく人たちのために、心の正しい人々が鞭と縄とで威嚇されております
* モンテーニュは父からうけた教育に感謝しながら、一方では家庭内における個人教育の欠陥を諸々指摘している。
 (a)それから家庭教師の権威は、若様に対して至上のものでなければならないのに、それが往々にして御両親の同席のために阻害されます。その上、その家中かちゅうの人々から注がれる尊敬や、自分の家の権勢資産に関する意識がまた、私の考えるところでは、ああいう年頃においては決して少なからぬ害を与えるのでございます。
 あの人々との交際という学校においては、私はしばしば次のような弊害を認めました。つまり我々は、他人を知ろうとは努めずに、ひたすら自分を他人に示そうと努めたり、自分の商品の売りさばきに急であって、少しも新たな商品を獲ようとはしないということです。言葉少なくひかえ目であることこそは、交際に最もふさわしい資質でございます。若様は、御成業の暁にもご自分の学識をひけらかさず、それをひかえめになさるよう、御前で語られるばかばかしいお話などにも御機嫌を損ねられぬよう、御教育申上げるべきでございます。まったく、自分の好みにあわないものはすべてしりぞけるというのは、礼儀をわきまえぬ執念と申すものでございます。(c)若様は、ただ御自分をめなおされればそれでよいのです。御自分のしたくないことは何でも他人に向って咎めだてをされたり、一般の習俗に逆らわれたりする風がすこしでもあってはなりません。※(始め二重山括弧、1-1-52)人はてらいと高ぶりなくとも賢者たることを得べし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。あの先生然とした非礼な態度はお避けにならなければなりません。いわんやふうがわりな風をしてえらそうに見えようとか、非難と革新とによっていささかその名をうたわれようとかいう、あの子供じみた野心にいたってはなおさらのことです。えらい詩人でなければ破格のしらべは用いないように、偉大卓抜な霊魂でなければ習慣を超越する特権をほしいままにすることはゆるされません。※(始め二重山括弧、1-1-52)ソクラテスとアリスティッポスとが時に習慣を尊重せざりしを見て、我々もまたそのようになし得るものと思うべからず。高邁神のごとき彼らにして、始めてこの自由をゆるされたるなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)若様は、本当に相争うに足るだけの相手がある時でなければみだりに論議したり抗議したりなされぬよう、またそのような場合にもそのすべての方法をお用いにならないよう、ただ最も効果がありそうに思われるものだけをお用いあそばすよう、お教えになって下さい。また適切を・従って簡潔を・第一とし、その論拠の選抜をおまちがいになりませぬように。殊に真理をお認めになったら、それが敵の手の中に現われたにせよ、またふとお考えが変ってご自分のうちに現われたにせよ、いつも即座に武器をすててその前に降参あそばされますよう、お教え下さい。まったく、若様などはお役目を課せられて壇上にお立ちになるようなことはありますまい。欲しないのに人の弁護に立たせられるようなこともございますまい。また、後悔したり自己の非を認めたりする自由を、金銭とひきかえにすてねばならないようなお仕事にたずさわられることもないでございましょう。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)いかなる必然も彼をしてその欲せざる思想の擁護にあたらしむることなし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 もしも若様の御教育係が私の考え方にご賛同くださるならば、どうか若様が国王に対して深い愛慕と大いなる勇気とを捧げる忠誠な奉仕者たらんとする意志を、養成して上げてください。けれども、公の義務によってではなく他の目的から君主に執着したがる心は、かえってこれをさまして差上げるべきでございます。そういう個人的な義理によって我々の自由を傷つける弊害はいろいろたくさんにございますが、なかでも、雇われ買われた人間の判断こそ、最も不完全不自由なものと申すべく、でなければ、不謹慎と忘恩とにけがされていると申さねばなりません。
 宮臣と申すものは、どんな主君についても、ひいき目にでなければ言ったり考えたりする権利も意志も持つことができないのです。もともとたくさんの臣下の中から選ばれて、そのお手許で親しく養い育てられてきたのですから、こうした恩愛と利得とが彼の自由を腐敗し彼の目を眩ますのも、まあ無理もないことでございます。ですから御承知のとおり、これらの人たちの語るところは、通例、一般国民の語るところとは違うのでございます。そして、この事柄に関係する限りほとんど誰にも信用されないのでございます。
 (a)若様の良心と徳性とが、そのお言葉の中に輝きますように・(c)そしてただ理性だけを案内者となさいますように・(a)ありたいものでございます。どうか若様に、自ら御自分の論説の中に誤りを見出すならば、よしそれが人には気づかれないにしても、進んでそれを告白することこそ判断と真率とがうむ結果であり、この判断と真率とこそ若様がお求めになるべき主要な資質であることを、(c)反抗し食いさがることは、ありふれた・もっと低い・霊魂にありがちな特質であり、昂奮の最中においてさえ、考え直し自己を訂正し誤れる論拠は潔くこれをすてることこそ、稀な・強い・そして哲学者らしい・特質であることを、(a)わからせてあげてください。
 皆が一緒にいる時は、いたるところに眼をお注ぎになるよう、教えてあげて下さい。まったく、上席は通例かえって無能な人々によって占められておりまして、身分の尊さが才能とともにあることはほとんどないのでございます。私はかつてテーブルの上座の方で、人々がただ壁懸けの美わしさやマルヴァシア酒の甘さなどについて語り合っている間に、はるかに末席の方では、あまたの機知輝く言葉が空しく聞き流されているのを見たことがございます。若様は百姓であれ石工であれ旅人であれ、その人それぞれの力量を測り知らなければなりません。どうかすべての者を働かせ、それぞれをその専門に応じて利用していただきたい。まったく、万事がお家のために役立つのでございます。他人の愚かさ弱ささえ、彼には教訓となりますように。各人の天性や様子を検討する間に、おのずから良い性質を羨む心と悪い天性をあなどる心とが、生れ出ることでございましょう。
 どうか若様のお心の中に、どんな物事でも研究せずにいられないという正しい好奇心を養ってあげて下さい。彼はその周囲にあるすべてのめずらしいものを御覧になるべきでございます。建物も、泉水も、人間も、古戦場も、カエサルやシャルルマーニュの足跡も。

(b)何処に氷とざし、いずこに熱砂まい立ち
またいかなる風がイタリアに舟を送るによろしきや。
(プロペルティウス)

 (a)こちらの帝王またあちらの帝王の、ご性格や資源や同盟なども、御研究になるべきでございます。それらは学んできわめて面白く・また知っていて甚だ役に立つ・事柄でございます。
 この人々との交際ということのうちに、私はただ書物の中でのみ記憶されて生きているにすぎない人々をも含めたい、しかも最も大切な人たちとして含めたい、と思います。若様は歴史の本を通して、今よりよかった時代の偉大な人々と交わりを結ばれるがよろしい。それは無駄な研究だと思われる方もあるかも知れませんが、また或る人から見ればそれこそ量りしられぬ結果をもたらすものなのです。(c)それはプラトンの申すところによれば、ラケダイモン人がただ一つその専門とした研究でございました。(a)若様もこういうご研究の中に、例えばプルタルコスの『英雄伝』をおよみになる間に、無限の利益をえられることでございましょう。けれどもわが指導者は、自分の職務が何であるかを忘れてはなりません。その教え子に、(c)カルタゴ破滅の日付よりもハンニバルとスキピオの心情を、(a)マルケルスがどこで死んだかと申すことよりも彼がそこで死んだことがなぜ彼の義務にかなわなかったかと申すことを、教えなければなりません。もろもろの史実を覚え込ますよりそれらを判断することをお教え申上げて下さい。(c)それこそ私の考えるところでは、もろもろの科目の中で我々の精神が、或いは浅く或いは深く、極めていろいろな程度で、打ち込むことができる科目だと思います。私はティトゥス・リウィウスのうちに、他の人が読みえなかった色々の事柄を読み取りました。プルタルコスにいたっては、私がそこに読み得た以外に、いや、ひょっとすると作者自身がそこに置いた以外に、更にたくさんの事柄をそこに読み取ったのでございます。ある者にとってはそれは単なる文法上の研究でございますが、ある者にとっては哲学的分析でありまして、それによって我々の天性の最も難解な部分が明らかにされるのでございます。(a)プルタルコスの中には、学ぶ価値が大いにある長文の論説がたくさんございます。まったく私の考えでは、彼こそこの道の大家でございます。けれども中には、彼がただわずかに触れたばかりの論説もまた幾千となくあるのでございます。すなわち彼は、ただその志がある者にその行くべき道を指さし示しているだけなので、しばしばただ問題の核心に一突き触れるだけで満足しているのでございます。そのような章は、ぜひこれを抜き出して衆人の眼のつく所に置かねばなりません。(b)例えば「アジアの民は否というただ一ことを発言できないために一人に屈従した」というあの一語。おそらくそれこそ、ラ・ボエシにその「奴隷根性」という題目とこれを書く機会とを与えたのでした。(a)彼がある一人の人間の一生の中から、大した意味もなさそうに思われるきわめてつまらない一つの行為または一言を、ああして抜き出すことが、ただそれだけで一つの論説なのです。悟性ある人たちがこんなにも簡潔を愛しているということは、残念なことです。たしかに彼らの名声はそのためにますます高まりますが、それだけ我々は損をするのです。プルタルコスは、我々が彼の博識よりも彼の判断をたたえる方を望んでいます。我々を飽きさせるよりも我々に物足りなさを残そうとしています。彼は良い事柄においてさえ言いすぎというものがあるのを、知っていたのでございます。かのアレクサンドリダスが、良いけれどもあまりに長々しい言葉を民選長官たちに対して述べ立てた者を、もっとも千万にも、「おお外国人よ。お前の言うところはもっともだが、その言い方はふさわしくない」とお叱りになられたのを、知っていたのでございます。(c)体の痩せた男は綿を着て体を大きく見せます。萎びた内容をもつ者は言葉でもってそれをふくらますのでございます。
* Etienne de La Bo※(ダイエレシス付きE小文字)tie. 後出第二十八章、その註、また白水社版『モンテーニュ全集』第一巻付録、及び私の『モンテーニュを語る』六一頁参照。
 (a)人間の判断は、繁く世間と交わることから、あのすばらしい明晰を養われるのです。我々はいずれも自分の殻のうちに閉じこもっております。視界は狭くて鼻の長さを越えません。人がソクラテスに向って「どこの者か」と尋ねましたところ、「アテナイの者」とは答えないで「世界の者」と答えました。彼は普通の人より広く豊かな思想をいだいておりましたので、宇宙を抱くことあたかもその町の如く、その知友その交際その愛情を全人類に及ぼしていたのでございます。足元ばかり見ている我々のようではなかったのでございます。私の村でぶどうの樹が霜げると、神父さんはこれを人間に対する神の怒りであると論証し、すでに人食人カンニバルはそのために飢え渇いているのだと判断いたします。またわが国の内乱を見て、「地球はまさに崩れおちようとしている。審判の日が目のまえに迫っている」と叫ばない者はございません。もっともっと浅ましい事柄が今までにもたくさん見られたことや、世界の諸所方々が相変らず太平を謳っていることなどには、少しもお気がつかれないのでございます。(b)私から見れば、今度の内乱などは天下ご免で大した罰もこうむらずにおりますから、ずいぶんと穏やかな戦争だわいと感心しているくらいでございます。(a)頭の上にあられがふりかかると、人は全半球が暴風雨の中にあるように思い込みます。さればこそあのサヴォア人は、「あのフランス王のばかめ、もう少しうまく立ちまわったなら、わが公爵様の執事くらいにはなれたであろうに」などと申したのでございます。彼には自分の主人の権勢よりえらいものを想い見ることができなかったのでございます。(c)我々もまた、みな、知らず識らずこの誤りにおちております。しかもこの誤りこそ、実に重大な結果と弊害とをもたらすのでございます。(a)けれども中には、あたかも絵の中にこれを見るように、わが母たる自然の偉大な姿を、その完全な荘厳のままに、想い見る者もございます。そういう自然の顔の上に、あのように普遍で絶え間のない変化を見おとさない者もございます。その自然の唯中に、己れ一個のみならず王国全体をも、ほそい一本の針の先でぽつんと一つ突いた痕くらいに見る者もございます。そういう人だけが、物事をその正しい大きさにおいて測り知るのでございます。
 この大きな世界こそ(それをある人たちは、一つの種の下にたくさんの族があるように、まだまだたくさんあるのだと考えておりますが)、我々が自己を正しく知るために覗き込むべき鏡でございます。要するに私は、これこそ若様の教科書であれかしと望むのでございます。あんなに多くの意見、学派、判断、学説、法律および習慣のあることこそ、我々にわが国のそれらを正しく判断することを教えるのでございます。そして我々の判断に、その不完全さと本来の微力とを認識するよう教えるのでございます。それは決してなまやさしい修業ではございません。これほど多くの国家の興亡や国運の盛衰を見れば、我々は決して自国の運命に驚いてはならないことを教えられます。あんなに多くの名前あんなに多くの勝利と征服とが空しく忘却の下にうずもれていることを思うと、ただ十人の騎馬武者を生捕ったとか・陥落して始めてその存在の知られるような小さな城を乗取ったとか・いうくらいのことで、己れの名を永遠にのこそうなどと希望するのはばかばかしくなります。外国の諸儀式のいかめしさ立派さ、諸方の朝廷ならびに権勢家の途方もない豪奢ぶりは我々の眼を鍛えて、目をしばたたくことなくわが国のそれらに対することを得させます。我々よりさきに数千万の人間が地下に埋められていることを想えば、あの世にそういう良い交わりを結びにゆくことは少しも恐れるに及ばないという元気も出て参ります。その他何ごとも同様でございます。
 (c)人生はピュタゴラスが申したとおり、大勢のひとが群がり集まるオリュンピア競技の大会場そっくりでございます。ある人々はここで優勝の誉れを得ようと懸命の努力を致します。また他の人々は一儲けしようとここにさまざまの商品を運んで参ります。中にはまた(決してこれは一番割の悪い連中ではございません)、もっぱらそれらの事柄がどのように・また何のために・そこで行われるのかをうち眺め、そこで他の人々の生活を観察しつつ自分の生活を判断し調整しよう、ということより他に、何も考えない者どももございます。
 (a)もろもろの実例さえあれば、それらにあらゆる哲学上の最も有益な理論を、適当にあてはめることができましょう。実にこの哲学にこそ、人間の行為はすべて、試金石にこすりあわせるように、こすり合わされなければならないのでございます。どうか若様に申上げて下さい。

     (b)彼が望みうるは何事なりや、
かくも得がたき金銭はそも何に役立つや、
そもいかなる程度に祖国と家族とに自己を捧ぐべきや、
神はそも何を我々になせと望ませらるるや、
神の命ずるこの世の務めは何なりや、
我々は何者なるや、また何のために生をうけたりや。
(ペルシウス)

(a)知るとは何か知らぬとは何か。学問の目的は何であるべきか。勇気節度正義とは何であるか。野心と吝嗇りんしょく、隷従と臣従、我儘と自由との間には、一体いかなるちがいがあるのか。どんな標識によって人は本当の堅固な満足を識別するか。どこまで死や悲痛や恥辱を恐るべきか。

(b)いかにして苦痛を避けまたこれに堪うべきや。
(ウェルギリウス)

どんな原動力が我々を動かすのか。何が我々のうちのあんなに雑多な衝動の原因であるのか。まったく、若様の悟性を養成するための第一の論説は、彼の行いと分別とを調える論説、彼に彼自らを知らせ彼によく死しよく活きる道を学ばせる論説、でなければなりません(c)自由科の諸芸**の中でも、真に我々を自由にする学芸からまず始めようではございませんか。
* 以上にモンテーニュは哲学の定義をしている。それは我々二十世紀人がこの語に与えている意味とはかなりちがう。それはむしろ世道人心に関する思索、いわばモラリストの検討の対象となる諸々の問題を包括している。
** Arts lib※(アキュートアクセント付きE小文字)raux(=liberal arts). 自由民にふさわしい学問技芸の意。当時は文法、修辞、弁証、算術、幾何、天文、音楽等の諸学科を、総括的にこう呼んだのである。
 それら自由科の諸芸は、いずれもそれ相応に、人生の何たるかを教え、人生をいかに生きるべきかを教えるのに役立っております。学芸以外のものでも、皆、何かの形で、人生に貢献しないものはありません。けれどもまず、直接また専ら、それに役立つ学芸を、選ぶことにいたしましょう。
 もし我々が真に人生に必要な領分をその正しい自然の範囲に限ることを知れば、今日行われている学問の大部分がいっこう我々の役に立っていないことがわかるでございましょう。現に我々に役立っている学問の内部にさえ、はなはだ役に立たない広がりや窪地があることもわかるでございましょう。そういう部分は、そっとふれずにおく方がよいでしょう。そして、ソクラテスの教示に従って、我々の研究を、こういう余り役に立たない領域においては、或る程度にとどめる方がよろしいでしょう。

 (a)まず第一に賢人たるべくつとめよ。
これを後日に遷延せんとする者は、
河の水乾くを待ちて渡らんとする村人のごとし。
河は永遠に流れ流れてやまざるべし。
(ホラティウス)

最もばかばかしいのは、我々の子供たちに

(b)双魚宮や燃ゆる獅子座の運勢はいかに。
ヘスペリアの海をくぐる山羊座の運勢はいかに。
(プロペルティウス)

(a)星の学問や第八天体の運行を教えることを先にし、彼ら自らの進退を教えることを後まわしにすることでございます。

プレイアデス座に何の用かあらん。
牛飼い座に何の用かあらん。
(アナクレオン)

 (c)アナクシメネスはピュタゴラスに書き送って、「死や隷従が依然としてわが眼の前にあるのに、どうして星の秘密などにかかりあっておられようぞ」と申しました(おりしもペルシアの諸王が彼の国にたいして戦備をととのえつつあったからでございます)。我々はみなこんな風に申さなければなりません。「野心や吝嗇や向う見ずや迷信に攻められながら、その他さまざまな命の敵を自己の体内に持ちながら、どうしてわたしは天体の動きなどに思いを馳せていられようか」と。
 (a)まずもって若様に、彼をより賢く・より良く・するに役立つ事柄をお教えしておいて、それから後に、論理学・物理学・幾何学・修辞学の大体をお教え下さい。その時はすでに判断力ができておられますから、その選ばれる学芸をやがて立派にやりとげられましょう。お稽古は、時には談話により時には書物によっておすすめ下さい。ある時はそういう彼の教育の目的にふさわしい書物をそっくり若様に提出せられるがよろしく、ある時はその精髄実質をよく噛み砕いて与えられるがよろしい。またもし先生ご自身があまり書物との交わりがなく、書物の中に立派な論説が見つけられない場合には、その目ざす目的を達するために誰か文学者を一人、助手としてつけたらよいのでございます。この人は必要に応じて必要な教材をえらび出し、これを若様の御用に供するでございましょう。こういうお稽古の方がガザ流のそれよりも遙かに容易で自然であることは、誰も疑うことはできません。あのやり方には困難で不快な規則が、いや、がらんどうで中身のない言葉が、あるばかりで、手がかりになるものもなければ精神を呼びさます何ものもございません。しかし今申すやり方でゆけば、霊魂はその噛むべきもの、その食べるべきものを、見出します。こうしてえられる果実の方が比べものにならぬほど大きく、しかも、かえって早く熟するのでございます**
* 十五世紀の学者で、アリストテレスを註し、またギリシア文典を著わした。
** Montaigne psychologue et p※(アキュートアクセント付きE小文字)dagogue の著者 J. Chateau が言うように、人間が人間らしく生きるということは、常に折に学することだとすれば、モラルに関する論議はすべて哲学と名づけることが出来よう。モンテーニュにとっては嘘つきの話をすることも、勇気の話をすることも、すべて哲学なのである。
 当世においては万事がそんな工合で、哲学が悟性ある人々においてまで空虚な名ばかりのものにすぎず、(c)評判の上でも実際においても(a)何等の効用も価値も持っていないということは、まことにおかしなことでございます。しかしそれは、あの例の詭弁が、哲学の入口をふさいでいるからであると信じます。哲学を子供たちに、近づき難い・八の字をよせた・恐ろしい・しかめっ面に描いて見せるのは、大変わるいことでございます。いったい誰があの青白い・いやらしい・仮面をこれにかぶらせたのか。世にこれくらい陽気で快活で面白いものはないのでございます。いや、これくらいふざけたものはないとさえ、言いたいくらいでございます。それはただ歓楽と楽しい生活ばかり説いております。悲しそうな沈んだ面持は、哲学がそこに宿っていないことを示しております。文法家デメトリウスはデルフォイの神殿において、膝をまじえて坐っている哲学者たちの一団にあい、こう申しました。「これはわたしの見まちがいになるかも知れないが、諸君のかくも物静かな、かくも楽しげな様子を見ると、どうも諸君は深遠な哲理を語り合っているのではなさそうだな」と。すると、彼らの一人であるメガラのヘラクレオンはこう答えました。「自分の学問について語りながら眉をひそめずにいられないのは、バルロー〔われ投ぐ〕の未来形にはラムダが二つあるかどうか、比較級のケイロン〔より悪し〕、ベルチオン〔より良し〕、最上級のケイリストン〔最も悪し〕、ベルチストン〔最も良し〕は何から転化して来たか、などと詮索する連中ばかりだよ。しかし哲学上の論説の方は、これを論ずる人々を常に陽気にし歓喜させるのだ。決して憂い悲しませるようなことはないよ」と。

(b)病める肉体の中にかくされた心の悩みは、
その喜びとひとしく色にず。
顔こそはこれらさまざまの感情を反映す。
(ユウェナリス)

(a)哲学を宿す霊魂は、そのすこやかさによって、きっと肉体をも健やかにいたします。きっとその心の安らぎとくつろぎとを外にまでも輝かします。きっとその鋳型にあわせて外容を作り上げます。従って、優雅な威厳と、活発で嬉しげなものごし、満ち足りて喜びの溢れるような顔つきをもって、その外容をかざるに違いありません。(c)知恵の最も鮮明な標識は、つねに変らぬ喜色でございます。その状態は、月の上にあるもののように、つねに清く澄んでおります。(a)バロッコとバラリプトンが、その手下をあのように泥だらけすすだらけにするのでありまして、それは哲学の罪ではございません。人々は哲学を又聞きにしか知ってはいないのでございます。なぜって! 哲学は霊魂の暴風を晴らすのを、また仮想的な周転円なぞによらないで自然な可触的な諸理由によって、餓えた者や病める者に笑うことを教えるのを、職としているのでございます。(c)それは徳を目的としていますが、その徳は学校が教えるように、けわしい凸凹の近づき難い山のてっぺんに立ってはいません。ひとたびそれに近づいた者は、むしろそれは豊かな花咲く野辺のただなかにあって、そこから万物を眼の下に見ていると信じております。しかも人は、その在りかさえ知るならば、木蔭涼しく緑の草の敷きつめられた花の香かぐわしい路をたどって、愉快に、天国への坂道はこうもあろうかと思われるばかりに楽で滑らかなだらだら坂を経て、そこに到りつくことができるのでございます。世の人々は、自然を案内者とし・好運と快楽とを道づれとする・この徳を、至上の・美しい・勇ましい・愛嬌ある・優しくして同時に強い・この徳を、不機嫌と不愉快と危惧と拘束とは相容れることのない・それらを公然の敵とする・この徳を、これまで足しげく訪れなかったために、いかにも彼ら自らの力弱さにふさわしく、とうとう、悲しげな・ぶっそうな・不機嫌な・脅すような・陰気な・あのように愚かな姿をでっちあげ、それを人里離れたいばらだらけの岩山の上に、人々をおどろかす幽霊のようにつったててしまった**のでございます。
* いずれもスコラ学者や論理学者が用いた術語。
** モンテーニュの徳に関する考え方は時期によって変っていると言われる。だがこの章の書かれた時(すなわち一五八〇年頃)、すでに徳を楽しいものと考えている。このパラグラフの終りの部分は(c)によって標示されるとおり晩年の加筆であるが、パラグラフの最初(a)の部分にもすでに同じエピクロス的な考えが現われている。一方第二巻第十一章には努力のない所に徳はないと述べているが、この章も大体一五八〇年頃に書かれている。第二巻第十一章の解説、同章書出しの句およびその註を参照せられたい。
 私のおすすめする先生は、その教え子の心を、徳に対して敬意と同量の・否それ以上の・愛慕をもって満たさなければならないことを、承知しておりますから、「詩人たちは通俗な考え方に追従しているのである」と、若様に告げることができるでございましょう。そして、神々はパラス〔軍の神〕の室に参る時よりもウェヌス〔愛の神〕の室に通う時にかえって多くの汗をかかせるのだということを、彼にとっくり会得させることができるでございましょう。そして、若様がそろそろ物の哀れをお知りになる頃ともならば、その愛人としてはブラダマントとかアンジェリカとかをすすめられるがよろしゅうございます。純真な・活発な・勇気ある・お転婆ではないが雄々しい・美人を、柔弱な・気障な・華奢きゃしゃな・人為的な・美人と並べ、一方は男に装わせこれに輝くかぶとをかぶらせ、一方は小娘に装わせこれに真珠をちりばめた帽子をかぶらせて見せ、もし若様があのフリュギアの女々めめしい牧人**とは全くちがった選択をなされたなら、彼の愛をも雄々しいと判断せられるがよろしい。それからまた、真の徳が尊ばれるゆえんはその実践が容易・有益・愉快であって、徳は、子供も大人も、単純な者も利巧な者も、ひとしくこれを行うことができるほど、困難から遠いところにあるのだという新説をも、教えていただきとうございます。節度こそ徳を得る道具であって、努力ではございません。徳の最初の寵児であったソクラテスは、わざとその努力を捨てて、徳が自然に楽に成長してゆくのに従ったのでございます。徳はもろもろの人間的快楽を養う母でございます。徳はそれらの快楽を適正なものにすることによって、それらを確実で清らかなものに致します。それらを節制することによって、それらを香りと味わいの中に保ちます。徳はその斥ける快楽はこれを断ち切らせ、我々をその是認する快楽に向って励まします。そして自然が欲するところの快楽のすべてを豊かに我々にのこします。そして母のように、つまり食べすぎにならぬ程度に、十分我々を満足させます(まさか、なんぼ何でも、酒飲みを酩酊の前に・大食家を飽満の前に・道楽者を倦怠の前に・とどめるところの摂生を、快楽の敵だなどと申すものはおりますまい)。世の常の幸福が徳に欠けているのは、徳がこれを避けているから、これを自ら断っているからで、その代り別の・全く独特な・もはやあんなにふわふわした転びやすいものではない・幸福を、自ら作り上げております。それは、富むことも強くあることも博識であることもできます。麝香じゃこうしとねに横臥することもできます。それは生を愛します。美をも名誉をも健康をも愛します。けれどもその独特の務めは、これらの善きものを適度に用い得るようになるということです。また平気でそれを捨て得るということです。すなわち、それは、つらい務めと言うよりはむしろ気高い務めで、これがないと生命の流れはいたるところで不自然になり混乱し変形するのでございます。そして人が、えたりとそこに、あの暗礁や荊棘いばらや怪物を付け加えることになるのでございます。もしもお弟子がはなはだ異常な性質であって、愉快な旅の物語や賢者の言葉を聞かされるよりも空想的な物語を聞きたがるとか、その友達の若い情熱を勇みたたせる陣太鼓の音をきくとかえって自分ひとり手品師の太鼓の方に誘われてゆくとか、または勝負から塵にまみれて意気揚々と引きあげるよりもテニスや舞踏から賞品をもらって帰る方を喜ぶとかいうふうならば、どうにも仕様がございません。さっさと先生に(見ている人さえなければ)縊り殺してもらうとか、あるいは、どこぞの都市の菓子屋の丁稚でっちにでも住みこませるとか、するより他はございません。公爵のおん曹子だってかまいは致しません。プラトンの掟には「子供は彼らの父の資力によらず、彼ら自らの心の資質によって、職につけなければならぬ」とありますから。
* アリオストの『オルランド・フリオソ』中の人物。
** 牧人パリスはユノーとパラスとウェヌスのうち、ウェヌスを最も美なりとした。
 (a)哲学は我々に生きることを教える学問であるのに、そして、子供時代もまたその他の諸時代と同じく哲学に学ぶべきものを持っているのに、どうして人は子供にそれを教えないのでしょう?
* モンテーニュが哲学と呼ぶのは、勿論、すでに読んで来たとおり、道徳哲学のことで、高遠な形而上学ではない。後者は「ペダンティスムについて」の章以来むしろ彼の排するところである。すなわちモンテーニュは、ここで子供たちに、早くから道徳的判断、善悪のけじめを、つけさせようというのである。いわば早期道徳教育の提唱、その方法の考究で、エラスムスの教育論に由来する。

(b)粘土はなお軟らかく湿りてあり。
疾く疾く轆轤にかけてそれを形作れ。
(ペルシウス)

 (a)人が我々に生きることを教える時、人生はすでに過ぎ去っております。多くの学生は、梅毒にかかってしまってから、やっとのことで節制を教えるアリストテレスの教訓にたどりつくのです。(c)キケロは申しました。「二人前の生を生きようとも、わざわざ暇をつぶして抒情詩人などの研究は致すまい」と。だが私は、かの詭弁家どもこそ更にあさましくも一層無用なやからであると思うのでございます。
 今日の子供はもっともっと忙しいのでございます。学校生活に捧げられるのは彼の生涯の最初の十五、六年だけで、残りはことごとく活動に捧げなければならないのでございます。かほどに短い時間は、是非とも学ばねばならないことのために用いようではありませんか。(a)それは確かにまちがっております。弁証学みたいな、あんなむつかしくややこしい理屈は、みんなおやめにして下さい。あんなもので我々の一生は良くなりっこございません。むしろ哲学の単純な論説をおとり下さい。それらをうまく選んで研究することにして下さい。それらはボッカチオの物語なんかより解りやすうございます。どんな子供でも、母の胸から離れる頃にはそれがわかります。読み書きを習うよりもずっと楽にできます。哲学は老朽した年寄りのための論説とともに、生れたての少年のための論説をも持っております。
 私はプルタルコスと同意見でございます。アリストテレスはその偉大な弟子アレクサンドロスに三段論法のたて方や幾何学の定理なんかのために時間をつぶすようなことはあまりさせないで、むしろ大胆・武勇・寛大・節度および何物をも恐れない度胸に関して貴い教訓を学ばせたのでございます。そして、これだけの軍需品を与えると、まだ少年の彼に、わずか三万の歩兵・四千の騎兵・四万二千エキュの軍費をもたせて、全世界の征服にむかって門出させたのでございます。他のもろもろの学芸をも、プルタルコスの申すところによれば、アレクサンドロスは尊重しておりました。それらの高尚で優美なことを賞賛してもおりました。しかし、そこに愉快を感じはしたけれど、それらを専門にやってみようという気にはなかなかならなかったのでございます。

(b)老いたるも若きも、ここに生活の基準を学びて、
頭に霜をいただく時のために備えよ。
(ペルシウス)

 (c)これはエピクロスがそのメニケウスに与えた手紙の始めに、「最も若い者も哲学することを避けるな。最も老いたる者もこれにあきるな」と言っているのと同じ意味でございます。そうしない者に限って、今はまだ幸福に生きる季節ではないとか、いやもうそういう時代は過ぎちゃったとか、申すようでございます。
 (a)とにかくこのような教育のために、私は若様を幽閉しとうございません。彼を狂暴な学校教師のメランコリックな気質にまかせたくございません。彼をよその子供たちと同様に、毎日十四、五時間も、まるで荷担ぎかなにかのように苦役させぬいて、その精神を腐らせたくはございません。(c)たとい彼が多少孤独を求めるメランコリックな性質であって、自分から異常な熱心さをもって書物の研究に没頭するのであっても、それを助長するのはやはりよろしくないと思います。それは人々を社交や会話に不向きにし、彼らを立派な職務にそむかせます。それに、飽くなき知識欲のためにばかになった人間を、いかにたくさん、私は今の世の中に見たことでございましょう。カルネアデスはあんまり学問に夢中になったために、髪を調え爪を切る暇までも失いました。(a)また、若様の大ような御性格を他の者の非礼野蛮をもってそこないたくございません。「フランス流の知恵」と申すことは、むかしは早く現われて長く続かない知恵をさす言葉でございました。本当に今日でも、フランスの子供たちほどききわけのよいものはないのでございます。けれども、彼らはいつも我々の期待を裏切ります。大人になったところを見ると、そこにはもう少しも優れたところが認められないのでございます。私は彼らの送りこまれる学校が、我が国にたくさんあるあの学校が、彼らをあのように気のきかない者にしてしまうのだと、悟性ある人々が主張されるのを、聞いたことがございます。
 若様のためには、お部屋もお庭も、食卓も寝台も、独りでいることも大勢と一緒にいることも、朝も晩も、すべての時間が一つであり、すべての場所が勉強部屋でありましょう。まったく、判断と行いとを練成するものとして若様の主要な学課となるべき哲学は、このように万事に関与する特権をもっているのでございます。雄弁家イソクラテスは、ある宴会の席上でその専門について語るよう求められるや、「今はわたしがよくするところの事にふさわしい時ではない。今の折にふさわしいことは、わたしがよくするところの事ではない」と答えたので、人々はげにもと感心したと申します。まったく、笑い興じたりご馳走を食べたりするために集まった人々に向って、演説をしたり修辞学の議論などをするのは、あまりにも不調和な取り合せでございましょう。これは他のすべての学問についても、同じように言いうるでございましょう。しかし哲学だけは例外でございまして、それが人間を論じ人間の義務や職務を論ずる部分においては、それが語るところは愉快ですから、宴会の場合にも遊戯の場合にも、決してしりぞけられるべきものではありますまい。これはあらゆる賢者たちに共通した意見でございます。またプラトンが哲学をその宴会に招じた時、いかにそれがその場所と時とにふさわしく、並みいる人々をもてなしたかは、御承知のとおりでございますが、しかもそこには、最も高尚で有効な思索がかくれていたのでございます。

そは富みたる者にも貧しきものにも等しく有益なり。
これを軽んずれば老いたるも若きも等しく悔いあらん。
(ホラティウス)

こんな風に致せば、きっと若様は、他の少年たちのようにぼんやりしてはいらっしゃらないでしょう。それどころか、我々が散歩をする時は、その踏む歩数がよし三倍も余計になろうとも、どこか命ぜられた道をいやいや歩かされるときほどに我々を疲れさせないように、我々の授業もまた、時と場所とを定めず、いわば臨機応変に、そして我々の生活と関連させて行われるならば、すらすらと苦もなく運ばれることでございましょう。遊戯や運動さえ、立派に勉強の一部となるべきでございます。競走・仕合・(c)音楽・(a)舞踊・狩猟・乗馬・撃剣、いずれもそうならなければなりません。私は外部の端正さや礼儀作法(c)や立居振舞(a)が、霊魂と同時に作り上げられることを望みます。霊魂を鍛えるのでも身体を練るのでもなく、一人の人間を鍛練するのでございます。決してそれを二つにしてはならないのです。そしてプラトンの申すとおり、一方を取って他方を忘れることなく、両方を同時に、同じ梶棒につけられた二頭の馬のように、指導しなければならないのでございます。(c)しかも、彼の言うところをきくと、彼はむしろ身体の鍛練の方に、より多くの時と心遣いとを寄せているのではないでしょうか。「精神はそれに伴って鍛えらるべきもので、その逆ではない〔精神教育を先にすべきではない〕」と考えているのではないでしょうか。
 (a)なおこの教育は、厳しい中にもやさしさをこめて、行われなければなりません。現在行われているような風ではいけないのでございます。人は子供たちを文学へと導かずに、実際、ただ威嚇と折檻とのみを彼らに与えているではありませんか。どうか暴力と強制とを廃して下さい。これほど、良く生れついた天性を堕落し萎靡いびさせるものはないと思います。若様が恥辱や刑罰を恐れられるようにと望まれるならば、決して彼をそれらに対して無感覚にしてはなりません。汗や寒さや風や太陽や、その他彼が蔑視すべきさまざまの危険に対してこそ、彼を無感覚におしなさい。衣服や寝具や飲食物から安楽贅沢をとり除いて差上げなさい。彼を万事にお慣らしなさい。どうか若様を、にやけた美男子ではなしに、強く逞しい若者に育て上げて下さい。(c)少年の時も、壮年の時も、老人になってからも、いつも私は同じ信念意見**をもっていました。けれども、とりわけ、わが学校の大部分が守っているあの教育方針こそ、しじゅう私を不快に致しました。寛大に過ぎたのだったら、失敗は同じ失敗でも、恐らく我々の損失はよほど軽くてすんだでしょう。それはまったく青春を幽閉する牢獄でございます***。乱暴をしないうちからこれを罰することによって、人は若者たちを乱暴にしております。彼らのお稽古の最中にゆきあわせてごらんなさい。きかれるものは、ただ罰せられた子供たちの叫喚といきりたった先生の怒号ばかりでございましょう。あの柔らかくおどおどした霊魂の中にお稽古に対する欲望を呼び覚まそうというのに、何というやり方でしょう。あんなに恐ろしい顔をして、しかもそのうえ手に鞭を握って、彼らをお稽古に導こうとは、実に不正危険な方式と申さねばなりません。すでにクインティリアヌスがちゃんと注意しているではありませんか。そのような圧制的な権威はかえって危険な結果を引きおこすと。特に懲罰の場合においてそうなのです。血まみれの鞭のきれはしでなしに、花弁や樹の葉が敷かれるならば、彼らの教場はいかにゆかしいところとなることでしょうか。私なら、哲学者スペウシッポスがその塾においてしたように、喜悦と歓喜との・花と美との・女神たちの姿をそこに描かせるでございましょう。利益のあるところには愉快もまたともにあらねばなりません。子供らのためになる食物はこれを甘くし、彼らに害ある食物はこれを苦くせねばなりません。
* une nature bien n※(アキュートアクセント付きE小文字)e. モンテーニュはよく、この「よく生れついた」という言葉を吐く。彼は教育の重大性、可能性をよく認識しているが、いつも人間の天賦の素質を重視している。だから彼の教育論道徳論は異常児や変質者にはあてはまらない。彼は自然の善性を信じているから、世間にはそう突拍子もない悪人などが生れ出るとは思っていないのだろう。先に、「天性どうにもならぬ馬鹿息子は、公爵の若様でもかまわない。くびり殺してしまえ」と言ったのは例のモンテーニュ流の放言だが、腹の中でも大体そんな風に思っているらしい。
** この自然への信頼はモンテーニュの一生を通じていつも変っていない。いろいろな場合にいろいろな形をとって現われる。それに幸いなことに、モンテーニュ自身は、実によい天賦をめぐまれていた。だから彼の道徳論には幾分甘いところがある。
*** この一章は、モンテーニュがギュイエンヌ学院で受けた教育の回想ではない。そこではエラスムスの教育論をもとに、老校長が一切の体罰を厳禁していた。ただし一般世間では暴力教育が横行していたのである。
 プラトンがその『法律』の中で、いかにその都市の若者の娯楽について意を用いているか、いかに彼らの競争・遊戯・歌謡・跳躍・舞踊について詳論しているか、それは実に驚くほどでございます。彼は言っております。それらのものの指導と加護を、古人はアポロ、ミューズ、ミネルウァなどの神々に委ねたと。
 彼はその練武場についてはたくさんの掟を設けて詳論していますが、文学上の諸学科については殆ど何もいわず、ただ音楽のために特に詩を勧めているだけであるように見えます。
 (a)我々の習慣や性格における異常特異なものは、すべて交歓交遊の敵として、(c)奇癖として、(a)避くべきでございます。(c)あの、木蔭では汗をかき日にあたっては震えたというアレクサンドロスの家令デモフォンの体質に、驚かないものがありましょうか。(a)私はかつてリンゴの香りを煙硝の匂い以上にきらう者に逢ったことがございます。二十日はつか鼠をこわがる者、さてはクリームを見たり羽根床をかきまわすのを見たりすると吐気をもよおす者も、見たことがございます。ゲルマニクスなどは、鶏の姿を見てもその声をきいても、我慢ができなかったと申します。おそらくそこには、何か神秘的な特異質があるのでございましょう。けれども、それだってはやくから治そうとしさえすれば、消滅させることができるであろうと存じます。私の食欲は、とうとうしつけのお蔭で(本当にそれには若干の心づかいがなされなくは決してなかったのでございます)、ただビールだけを除いて、人のたべるものなら何でもすき嫌いなく受けつけるようになりました。ですから、我々は体のなお柔軟なうちに、それをあらゆる風習に慣らさなければならないのです。若様がその欲望や意志を思いのままにおさえることができるようにおなりになったら、あとは思いきって、彼をどんな国、どんな社会の人々にも、いや必要によってはどんな無軌道にも過度にもたえられるように、お仕込みにならねばなりません。(c)彼の行動は習慣に従わせなければなりません。(a)彼はどんなことでもおできになると共に、ただ善事のみを好んでなされるようでなければなりません。哲学者たちでさえ、あのカリステネスがその主アレクサンドロスの寵愛を、その酒の相手をするのがいやだといって失ったことを、決してほむべきこととは見ておりません。若様は、その主君と共に笑ったりふざけたりして、お遊びになるがよろしい。私は彼が遊びにおいてさえ、その仲間を精力と辛抱とにおいて凌駕することを望みます。彼が悪をしないのはその力もその才もないからではなく、その意志がないからであることを望みます。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)悪をなすことを欲せざることと、悪をなす術を知らざることとの間には、大いなる相違あり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(a)私はかつて、フランス人一般の例にもれず、やはりあの長夜の酒宴がおきらいな或る殿様に向って、お歴々がおそろいの席上、「あなたはドイツで王様に代って折衝をなさる必要上、いったい幾度くらいお酔いになられましたか」とご挨拶のつもりでお尋ね致したことがございます。そのお方はそれをまじめにおとりなされ、「都合三度ありましたよ」といって、そのおりおりの物語をお聞かせ下さいました。私はビールが飲めないためにこの国との交渉に当っていたく難儀をされた人々を存じております。私はしばしば、きわめて容易にきわめて多様な習慣に順応し、しかもその健康を害することのなかったアルキビアデスの驚くべき天性にふれて、はなはだ感心致しました。彼はある時はペルシア流の豪奢を凌ぎ、ある時はラケダイモン流の厳格質素を越え、またスパルタにあれば最も謹厳に、イオニアにあれば最も遊惰でございました。

アリスティッポスはあらゆる境遇と運命とに従えり。
(ホラティウス)

このように、私はお弟子をしつけたいものだと存じます。

われは称えん。襤褸らんるにも錦繍きんしゅうにも堪えうる人を。
よく運命の転変に堪えて二様の役を完うする人を。
(ホラティウス)

以上が私の意見でございます。(c)これを実行する者こそ、これを暗記する者より、より多く利益をうけたのでございます。その人の行うところはその言うところ、その言うところはその行うところでございます**
* アルキビアデスはソクラテスと共にモンテーニュの理想の人物であった。この名は今後もしばしば出てくるから注意されたい。巻末の索引を利用してあれこれくらべられたい。
** 原文は簡潔で強い。それに対句的な妙味がある。また一種の jeu de mots もある。参考のため特に原文を添える。Voici mes le※(セディラ付きC小文字)ons. Celuil※(グレーブアクセント付きA小文字) a mieux profit※(アキュートアクセント付きE小文字), qui les fait, que qui les sait. Si vous le voyez, vous l’oyez; si vous l’oyez, vous le voyez. 要するにモンテーニュは、自分の意見に従って教育された者は必ず言行一致した紳士となるだろう、と言うのである。一五八八年版には、この句の代りに「そこでは言と行と相並んでゆくのです。まったく実績がこれに伴わなければ精神を説いて何の益がありましょう……」の句があって、この頁終りから五行目の(a)「人は彼の企ての中に……」につづいている。
 プラトンの中で誰かが申しております。「どうか哲学することがたださまざまの物事を学び、もろもろの学芸をあげつらうことに、とどまりませんように」と。
 ※(始め二重山括弧、1-1-52)その言説によらずむしろその実践によって、彼らは最大の学、すなわち良く生きる学に、精進したり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 フリアジア人の君主レオンが、ヘラクレイデス・ポントスに向って、いったいいかなる学問いかなる芸術を職とするのかとたずねたところ、この人は、「わたくしは学問も芸術も知りませんが、哲学者でございます」と答えました。
 或る人がディオゲネスに向って、どうしてそんな無学のくせに哲学などに携わるのかと咎めましたところ、「無学なればこそ哲学にたずさわるのにちょうどよいのだ」と申しました。
 ヘゲシアスが彼に、何か本をよんで下さいと願うと、「おかしなことをいう人だね」と彼は答えました。「あなたはほんとの木になったいちじくを採り、画にかいたいちじくを採りはしない。どうして同様に、本に書かれたのでない・ほんとうの・生きた教訓を求めないのか」と。
 若様はその学課を、口先でべらべら言わないで、黙って実行しなければなりません。それをその行為の中に反覆するようでなければなりません。(a)人は彼の企ての中に思慮があるかどうか、その行状の中に親切と正義とがあるかどうか、(c)その言葉の中に判断と優雅とがあるかどうか、その病気の際に我慢が・その遊戯の際につつしみが・その快楽の際に節度が・あるかどうか、(a)その嗜好の中に(すなわち獣肉魚肉・酒あるいは水・に対し)無頓着があるかどうか、(c)その出納に秩序があるかどうか、※(始め二重山括弧、1-1-52)その知識を学問をてらう道具となさずして真に生活の規準となせりやいなや。己れ自らに従い己れ独特の方針に服することを知れりやいなや※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)を見なければなりません。
 我々の思想の真の鏡は、我々の日々の生活でございます。
 (a)ゼウクシダモスは、「なぜラケダイモン人は武勇の掟を書きものにしなかったか。それを若者たちに暗誦させなかったか」ときいた人に答えて、「それは若者たちを言葉に慣らさないで、行いに慣らそうと思ったからだ」と申しました。十五、六年たった後に、この若様と学校育ちのラテン屋とを比較して御覧なさい。後者は同じ年月を学びながら、ただしゃべることができるだけでございましょう! 世間はただおしゃべりばかりです。言いたいことの言えない人など見たこともございません。むしろ言わでものことを申す人ばかりでございます。ところが、我々の生涯の半分はおしゃべりの修業に費やされるのでございます。我々はいやでも四、五年の間、さまざまの単語を学び、それらを章句に組みたてることをさせられます。それからさらに同じくらいの年月、それらの章句を四つか五つの部分から成る長い文章の中に配置することをさせられます。そしてさらに少なくとも五年の間、こんどはそれを手短かに、何とかうまい工合に、織り交ぜ組み合すことをさせられます。こんな事は、それを専門とする人たちに委せることに致しましょう。
* これは当時の教科過程である。第一「文法学級」(五年)、第二「修辞学級」(五年)、第三「論理学級」(五年)。このあとに「哲学級」(二年)。
 ある日のことオルレアンに参る道すがら、私はあのクレリのむこうの野原の中で、二人の学校教師が、互いに五十歩ばかりを相隔てて、ボルドーに向ってやって来るのに出会いました。遙かそのうしろの方には、一団の人々が主人公を先に立てて、やって来るのが見えました(それは故ラ・ロシュフーコー伯爵殿でございました)。私の供の者の一人が最初にやって来る先生に向って、「うしろからおいでになるお殿様ジャンティヨムはどなた様ですか」と尋ねました。すると先生は、うしろから来る行列を見ていなかったので、自分の友人のことをきかれたものと思い、「あれはお殿様ジャンティヨムではありませんよ。あれは文法学者です。そして、このわたしは論理学者ですよ」と、とんちんかんな返答を致しました。ところで我々は、ここに文法学者でも論理学者でもなしに、むしろあべこべにお殿様ジャンティヨムを育て上げようと努めているのでございますから、彼らには勝手に彼らの暇をつかわせてやりましょう。我々はよそに用があるのです。けれども、我々のお弟子が物事をよく教え込まれてさえいれば、言葉などは後から幾らでもついて参るでございましょう。ついて来ようとしなくても、彼はそれをひっぱって来るでございましょう。私は人々がどうも思うことが言えないと申訳をするのを聞きます。いかにも、おのれの頭の中には立派な事柄が一杯つまっているのだが、話がへたでそれらを明らかに示すことができないのだ、というような顔をしております。だがこれはごまかしでございます。ご承知ですか。わたしがそれらを何だと思っているかを。それらは、何かぼやっとして形のない思想から生ずる影みたいなものなのでございます。彼らは、それらを自己の内部において明晰にすることができず、従って外部に表明することもできずにいるのでございます。つまり、まだ自分に自分がわかっていないのでございます。試みに、彼らが何かを言い出そうとして口ごもるところをご覧なさい。彼らの仕事は分娩ではなくして懐胎であり、彼らはただ未だ形のない泥んこをねているだけなのだと、おわかりになるでございましょう。この私はこう思うのでございます。(c)ソクラテスもそう道破しております。(a)「心の中に命のある・はっきりした・思想をいだいている者は、ベルガモの土語でなりと、唖ならば手真似でなりと、必ずそれを表現するであろう」と。

事理明瞭ならば言葉おのずから従う。
(ホラティウス)

また或る者は、その散文においてもやはり詩的に、※(始め二重山括弧、1-1-52)物事ひとたび精神を把うれば言葉はおのずから相つぐ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(父セネカ)と申しました。(c)もう一人は、※(始め二重山括弧、1-1-52)事物はしりえに言葉を従えたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)と申しました。(a)若様は、奪格も接続詞も名詞も、また文法も、ご存じありません。おつきのしもべもそうですし、市場のにしん売りの女も同様です。しかしもしあなたがご所望なら、皆はあなたがげんなりなさるほどしゃべりまくるでございましょう。そしておそらく、彼らの用語上の規則をちょっぴりとも踏みはずすことはございますまい。フランスの堂々たる学士様にだってひけはとりますまい。若様は修辞学をご存じありません。また、はしがきによっていわゆる「公平な読者**」の好意をかちうる術もご存じありませんし、またそういうことを学ぼうというお気さえもありません。まったくどんな美しい色どりも、単純素朴な一片の真理の光によって容易に消されてしまうのでございます。ああいうしゃらくさいお化粧は、もっと実のある・もっと精の強い・食物を取ることができない俗人どもをごまかすだけのもので、アフェルがタキトゥスの中で非常に明瞭に示しているとおりでございます。サモスの使臣たちは堂々たる長い演説を用意してスパルタ王クレオメネスの許に参り、まず彼を動かして主ポリクラテスに対する戦いをおこさせようと致しました。王は彼らにさんざん言わせておいてから、こう答えました。「冒頭には何とあったやらもう思い出せないし、従って中枢まんなかも覚えてはいない。結論にいたっては断じて不賛成だね」と。なかなかどうしてうまい返答ではございませんか。さすがの口達者どもも二の句がつげなかったということでございます。
* モンテーニュが目ざしているのは専門技術教育ではなくて人格教育、人間の練成である。彼は何を専門とする人にも、特に人を指導する立場に立つ人には、人文学の素養がなくてはならないと考える。これがないと、人間はとかく科学を悪用する。前章に、「人文学の研究以外の学問は、善の意識のないものには有害である」と言っているとおりである。なおジャンティヨムとは本来生れによって貴族階級に属する人のことで、大にしては国王側近の重臣ないし一国一城の主、小にしてはそれら国王や大貴族に仕える一般武士をさす。とにかく、政治上軍事上の指導者たちである。詳しくは私の『モンテーニュを語る』八五―八六頁および『モンテーニュとその時代』事項索引について知られたい。
** Candide lecteur という読者への呼びかけが、十六世紀の書物の序文にしばしば見られる。Candido lectori すなわち「公平な読者」の意味で、日本ではよく「博雅の君子」の叱正を期待するという序文がきまり文句であったのとよく似ている。
 (b)それからこんなお話もございます。アテナイの人々がある大きな建築を指揮するのに、二人の建築師のうちから一人を選ばなければならないことがありました。一人は大いに気負って人々の前に進み出で、あらかじめこの問題について準備してあった大演説をぶち、まんまと市長の賛同を得ました。ところがもう一人はただ三語みこと、「アテナイの諸君よ、彼が述べたとおりを、わたしは行うでしょう」と申しました。
 (a)キケロの雄弁が最高潮に達しますと、人々はみな感嘆いたしましたが、ただ独りカトーだけは「我々の執政はおかしな人だね」と言って笑うばかりでした。前にあろうと後にあろうと、格言警句ならばいつも時節にかなうものでございます。(c)前文にそぐわなくても、また後句と合わなくても、それはそれ自体においてよいのでございます。(a)私は「よき韻はよき詩を成す」と考える人々にくみしません。もし詩人がしたいなら、彼に短い綴りを長くさせましょう。それはどうでもよいことなのです。その創意が面白く、そこに機知と判断とがよくその務めを果しているならば、韻はへたでも、それこそ良い詩人なのでございます。

(b)その趣味やよし。されど韻はつたなし。
(ホラティウス)

(a)ホラティウスは申しました。「彼の作品からその組み合せや韻律をすべてなくなして見よ。

(b)その韻脚を除き、語句の順序をさかしまにせよ。
かくして散らばれる各断片の中にも
おん身はなお詩人を見たまわん。
(ホラティウス)

(a)そうしたからといって彼は少しも本領を失わないであろう。断片すらなお美しいであろう」と。メナンドロスの答もまた同じ意味でございました。約束の日が来ているのに、まだその喜劇に手をつけていないと言って咎められたとき、こう申しました。「それはもうちゃんとでき上っているよ。あとはただそれに韻脚を着せさえすればよいのだ」と。つまり、もうちゃんと心の中に材料内容の整理が終っていたから、あとのことはほとんど気にかけていなかったのでございます。ロンサールとデュ・ベレとがわがフランス詩の地位を高めてこの方、かけ出しの書生っぽまでが彼らの真似ごとをして語を誇張し韻をひねくらずにはいない有様でございます(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)意味よりも響き多し※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(a)俗人の眼には、未だかつて今日ほど詩人の多い時代はないのでございます。けれども、彼らにとって二大詩人の韻律をまねすることはきわめて容易でしたが、一人の豊富な叙述ともう一人の気のきいた創意とをまねすることはさすがにできないのでございます。
* 『荘子』のなかの宋の元君と画者の話(「田子方篇」第六の説話)、梓慶が※(「金+據のつくり」、第4水準2-91-44)を造る話(「達生篇」第九の説話)に、全く同じ考えが認められる。
 しかしながら、もし人が三段論法とかいうややこしい詭弁を弄して、「ハムは水を飲ませる。飲めば渇きがとまる。故にハムは渇きを治す」などと詰めよったら、若様はいったいどうなされたらよろしいか。(c)相手になさらぬがよろしい。返答をするより本気にしない方がはるかに利巧でございます。
 アリスティッポスから、「解けと言ったってどうして解かれよう。こう縛られては手も足も出ないわい」という面白いしっぺい返しを借りて来るがよろしい。或る人がクレアンテスに対して弁証法的詭弁の数々を浴びせると、クリュシッポスはこれに向って、「そんな手品は、子供相手にやるがよい。だが、そんなことで大人の真面目な思索をそらしてはいけない」と申されました。(a)もしこれらの愚かしい詭弁が、(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)これらの錯綜せる詭弁※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)が、(a)若様に嘘をほんとうと思いこますようなら、それこそ危険なことでございます。けれどもそれらがなんの効も奏せずに終り、ただ若様を吹きださせるだけであるなら、それらを気にかけることはいらないのでございます。中にはただ一つの美しい言葉を追いかけるために、本道から八、九丁もわきにそれる愚か者もございます。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)事物のために語句を求むるにあらで、かくかくの語句に適する事物はなきやと主題をはずれてまでそれをさがし歩く※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クインティリアヌス)愚か者もございます。また或る者にいたっては、※(始め二重山括弧、1-1-52)己れの気に入りし言葉が用いたさに、始めには論じようとも思わざりし主題へと引き込まれてゆき※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)ます。私はそれより、名句を自分の本の中に縫いこむためにねじ曲げる方がすきです。自分の話の道筋をまげてまで名句を求めようなどとは思いません。(a)むしろ言葉の方が奉仕し追従すべきでございます。フランス語でおよばないなら、ガスコーニュ弁でゆけばよいのです! 私は事柄が主となり、それらが聞き手の心に充満して、用語などが全く思い出されないようであることを、望みます。私のすきな話し方は、単純素朴な・紙の上でも口の先でも同じ・話し振りです。豊かで・強く・簡単で的確な・話しかたです。(c)みやびやかで弱々しいのよりは、激しくてぶっきらぼうなのが好きでございます。

表現に人を打つものあれば喜ばる。
(ルカヌス)

(a)だらだらしたのよりは、むしろむつかしくて、気取りがなく規則にしばられず、小粒で大胆なのが、好きでございます。つまり各断片が一つ一つまとまっていて、先生じみず、坊さんじみず、弁護士じみず、むしろ昔スエトニウスがユリウス・カエサルの話しぶりを評して言ったように、「軍人風」なのが好きでございます(c)もっとも、なぜ彼をそう評したのか私にはよくわかりませんけれど。
* モンテーニュはここに「話し方」un parler という語を用いているが、以上はモンテーニュの文章上の好みを述べたもので、同時に彼自らの文章の説明にもなっている。彼の文章は時に熱をおびて雄弁調ともなり、時に理路整然として講義調にもなるが、全般的には淡々たる談話調で、そこに彼の文章の(言文一致体の創始者の)特徴と魅力がある。コメディー・フランセーズの俳優などが朗読するところをきくと、十六世紀の古文がよまれているという感じはむしろうすく、いかにも著者の談話清談 causerie をきく思いがある。モンテーニュはラ・ボエシと一心同体と言われるが、こういう文体上の好みにおいてだけは、完全にラ・ボエシと対蹠的である。
 (b)私はわが国の青年たちの間に見られる、あの乱暴な着物の着方をよく真似たものでございます。頭巾を片方の肩にひっかけたり、外套をはすかけにはおったり、靴下をたるませてはいたり、いずれもそういう異国の装いを軽蔑し・あらゆる技巧を無視する・一種の気概の現われでございました。けれども私は、これは話し方の中においてこそふさわしかろうと、思うのでございます。どんなてらいも、特にフランスのように陽気で自由なところでは、朝臣に不似合なのでございます。それに君主国では、貴族はすべて朝臣風に訓育されなければならないのでございますから、我々はいくらか自然・無頓着・に傾くくらいでよいのでございます。
* これは地方からパリに出て来る書生たちの蛮カラ気取りをさして言っているので、一五五〇年頃、モンテーニュのパリ遊学時代の想出であろう。
 (a)私は継ぎ目や縫い目の見える織物はきらいでございます。それは美しい肉体に骨や血脈がかぞえられてはならないのと同じことでございます。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)真理に奉仕する言葉は、単純にして作為なくあるべし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
 ※(始め二重山括弧、1-1-52)あまりに心をこらして語る者は、てらいにおつ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
 我々が雄弁のために主題を忘れる時、雄弁は主題をそこなうものでございます。
 服装の上で何か特別な風変りな風をして人目を引こうとするのは、子供じみたことでございますが、言葉使いの上でも同じことで、ことさらに新奇な言い回しや耳遠い語句などを用いたがるのは、やはりその人の学問をてらう子供じみた野心から来るのでございます。それよりはパリの市場で用いられる言葉ばかりつかって書いて見たいものでございます。文法家アリストファネスにはこのことがまるで分らなかったと見え、エピクロスを読んで、彼の用語の単純なことや、彼の雄弁術の究極がただ言葉の平明にあることを咎めました。話し方は真似ることが容易ですから、たちまちに全民衆につたわりますが、判断や創意の模倣はそう速くは参りません。大部分の読者は、同じような着物を見ますと同じような実体をつかんだように考えますが、それは大変な間違いでございます。体力や気魄はとうてい借りられないものでございます。着物や外套なんかなら、これはいくらでも借りられます。
 しげしげ私の家に出入りされる人たちの大部分は、「エッセー」と同じように語られますが、果して同じように考えていられるのでしょうか。
 (a)アテナイ人は(とプラトンは申しております)、もっぱら話し方の豊富と優美のために心を用いました。ラケダイモンの人々はその簡潔のために、またクレタ島の人々は言葉の豊富のためよりも思想の豊富のために、それぞれ心を砕きました。この後の人々の方がえらいのでございます。ゼノンは言いました。「自分には二種の弟子がある。一つはわたしがフィロログスと呼んでいるもので、ひたすら物事を学ぼうと懸命になっている。これこそわたしの愛弟子まなでしである。もう一つはわたしがロゴフィルスと呼んでいるもので、ただただ言葉づかいにばかり苦心している」と。これは、「能弁は結構なものではない」というのではないが、「それほど結構なものでもない」という意味なのでございます。私は、我々の一生がこんなことに係わり合っているのを、情けなく思います。私はまず第一に、自分の国語を十分に知りとうございます。それから、私がしじゅう往来している隣国の言葉を知りとうございます。ギリシア語とラテン語とは確かに立派な装飾に相違ございませんが、世間はそれをあまりに高く買わされております。私はここに、それを普通よりも安く買う方法をご伝授いたしましょう。これは私自身において試験済みのものでございます。お気に召したらどうぞお用い下さい。
 亡くなりました私の父は、博識で悟性ゆたかな人たちと交わり、ある優れた教育法につき、人としてなしうる限りの調査研究を致しましたので、今申しました世間一般の悪弊をよく承知しておりました。彼はいつも皆からこう言いきかされていたからです。「我々は長い歳月を費やして古語を学ぶが、(c)それは古人にとっては何でもないことなのだが、(a)これこそが、我々が古代のギリシア人やローマ人の霊魂や知識の偉大さに及び得ない唯一の原因なのだ」と。私はそれが唯一つの原因だとは思いません。けれども、とにかく父がそこに見出した第一の対策はこうでした。つまり私を、まだ乳を飲んでいるうちから、まだ片ことも言い出さないうちから、一人のドイツ人の手に委ねたのでございます。その人は後に**有名な医者となってフランスで終りましたが、わが国語を少しも知らない代りに、ラテン語にはきわめて堪能な人でございました。実にこの人が、この、父が特によびよせ・高禄を以て召抱えた・人が、しじゅうその腕に私を抱いていたのでございます。それに、学殖において彼ほどでないのが更に二人おりまして、私の後に従い、彼の手助けを致したのでございます。これらの人々は、私にラテン語以外の言葉を語りませんでした。他の者どもも、父自身を始めとして母も下男も下女も、皆それぞれ私の前では、私と話をするために覚えさせられたラテン語のほかは、一言も話さないように厳命されておりました。めいめいがここに得た効果はすばらしいものでございました。父と母はそのためにかなりたくさんのラテン語を覚え、これをききわけるようになったのみならず、必要に際してはこれを語ることさえできるようになりました。特に私につけられた召使たちもそうでした。要するに、我々は大いにラテン化いたし、そのためにラテン語が四隣の村々にまであふれ出たほどでございます。今でもそこにはいろいろな道具や職業の名がラテン語で残っていて、相かわらず用いられております。当の私にいたっては、六歳を越えても、フランス語もペリゴール弁も、アラビア語同然わかりませんでした。そして、方法なく、教科書なく、文法も規則もなく、鞭もなければまた涙もなく、私は、学校の先生が知っておられるのと寸分ちがわない純正無雑なラテン語を、学び得たのでございます。まったくこれに混入したりこれをゆがめたりする何ものも、もたなかったからでございます。もし試験として学校流に翻訳問題テームを出す場合には、他の子供にはフランス語で問題を出しますが、私には特にまちがったラテン文を出して、これをよいラテン文に直させるほかございませんでした。※(始め二重山括弧、1-1-52)ローマの民会について※(終わり二重山括弧、1-1-53)を書いたニコラ・グルシ、アリストテレスを註したギヨーム・ゲラント、あのスコットランドの大詩人ジョージ・ブカナン、(c)フランスおよびイタリアが当代最大の雄弁家と認めた(b)マルク・アントワヌ・ミュレ(a)などという私の特別教師たちは、いずれも、私が小僧のくせにこの語をあまり自由自在にあやつるので、私に近づくのがこわかったと、しばしば私に語られました。ブカナンにはその後、彼が故ブリサック元帥殿にお仕えしている頃にお目にかかりましたが、その時彼は、「今自分は子供たちの教育について書いているところだが、君の受けた教育をそのお手本にしているよ」と洩らされました。まったく彼は、後にかくも勇敢な働きを示されたあのブリサック伯***の御教育を、お預かりしておられたのでございます****
* これは具体的に言うとグヴェアを始めとするギュイエンヌ学院の教育者たちのことである。以下『モンテーニュとその時代』第二部の諸章参照。
** ホルスタヌスと言って、後にギュイエンヌ学院の上級を教えた。
*** ミュシダンの攻囲戦に出陣、二十六歳で勇敢な戦死をとげた。
**** 以上の回想は細部においてはいささか誇張を交えているが、大体において信憑性がある。『モンテーニュとその時代』第二部の諸章と対比せられたい。
 ギリシア語の方は、私はほとんど全く解らないのですが、父はこれを文法的に、しかし新しいやり方で、つまり娯楽遊戯の形式で、私に仕込もうと企てたのでございます。我々は互いに語尾変化をやりとりしました。ちょうど盤上でのあの遊戯によって算術や幾何を学ぶ人たちのように。まったく父は、私が強いられざる意志によって・私自らの欲求から・学問や義務を味得するように、私の心をきわめて静かにそして自由に、無理や窮屈なく育て上げるように、とすすめておられたのでございます。いや、そうしたすすめを、妄信したと申したいほどでございます。例えば誰やらが、「子供たちを朝急に目覚ますこと、いきなり乱暴に彼らを眠りから引き抜くことは(子供は大人よりずっと深い眠りの中にあるものだから)、彼らの柔らかな脳髄を混乱させる」と言うと、早速、ある楽器をかなでて私を目覚ますことにする、と言うふうでございました。それで私のために、この役をする男のいない時はなかったのでございます**
* 「ギリシア語となるとほとんど全くわからない」quasi du tout point と言うが、本書の中にもギリシア語の引用は幾回もあり、書斎のはりにもギリシアの格言を記させている。つまり相当程度によめたのである。ただラテン語は母語同様であったから、それにくらべれば、こう言うのがモンテーニュとしては当然であったのだろう。ギュイエンヌ学院におけるラテン語教育は完全であったが、ギリシア語のほうはそれほどでもなかったのは事実である。ギリシア哲学は大抵ラテン訳で読み、愛読のプルタルコスもアミヨの訳が出てからはその仏訳で読んだ。あえて原書にしばられなかったところはいかにもモンテーニュらしい。重大な内容の書物をよむには、あやふやな外国語の力によるよりも、しかるべき人の信頼すべき翻訳によってよむ方がよいというのが、モンテーニュの考え方である。だから拙訳初版においては、わざとギリシア名もラテン風に記したのであるが、こんどの新訳においては、いわば時代の要請に従って、厳密にギリシア読みに改めた。むしろ初版のようにしておく方が、私にはモンテーニュらしく思われるのであるが。第二巻第四章参照。
** 一五八〇年版には、「私はそのためのエスピネットの奏者をもっていた」と書いている。エスピネットとは旧式のピアノのことである。
 この実例は、その他の事を推測させるのに十分でございましょう。また、それほどまでにやさしかった父の心遣いと愛情とをたたえるのにも十分でございましょう。父がそれほどまでにゆき届いた教育にふさわしい果実を少しも収穫しなかったとしても、それは決して父のせいではないのでございます。二つの事柄がその原因であったのです。第一に、畠が痩せていてそれに適していなかったからでございます。まったく私は頑丈で完全な健康とともに優しい素直な天性をもってはおりましたけれど、一方かなりに鈍く、弱く、かつぼんやりでございましたから、人は私を無為から引きはなすことができなかったのでございます。遊ばせるためにさえそれができなかったのでございます。眼に見える限りのものはちゃんと視ていました。そして、この鈍い性質の底に、大胆な思想と年に似あわぬませた考えをいだいていました。しかし私の精神はのろうございました。それは、連れてゆかれる所までしかとどきませんでした。理解はおそく創意はよわく、それに何と言っても信じられないほどに記憶力が欠けていたのでございます。こう数えあげて見れば、父がここからめぼしい何物をも引き出しえなかったのも、驚くにあたりません。第二に、病をなおしたい一念に駆られた者がどんな勧めにも従うように、正直な父は明け暮れ心にかかるこの一大事をやり損じては大変と極度に恐れたために、とうとう、鶴みたいに何でも前にゆく者についてゆこうという、あの世間一般の考え方に、ひきずられて行ったのでございます。つまり、自分の周囲に自分がイタリアから持って帰ったあの最初の教育法に賛成してくれた人たちがいなくなると、やはり一般の習慣に従ってしまったからでございます。そして六歳ばかりの時に、私を当時最も隆盛でフランス第一といわれたコレージュ・ド・ギュイエンヌに入れたのでございます。そこでも、父のとった心遣いには何一つ欠けた所はありませんでした。実力のある復習教師を選んではくれましたし、その他私の教育のあらゆる場合にのぞんで実に至れり尽せりでした。彼は私のために、当時の学校の習慣に反する幾多の特別待遇も得てくれたのでございます。しかしそれにしても、それはやはり学校でございました**。私のラテン語はたちまちにして崩れ、その時以来、使用不足のために、私はとうとうその使用を全く忘れるに至りました。そして私の幼い頃の新式の教育も、私には何の役にも立たないでしまったのでございます。ただ最初から二、三学級上に入れて貰ったくらいのものでございます。まったく十三歳で学校を出ましたとき、私はちゃんといわゆる全課程を修了していたのでございますが、さて今日これと言って取りたてて自慢できるような結果は、ほんとうに何一つないのでございます。
* これが後年モンテーニュの懐疑主義、反骨精神となるものである。
** モンテーニュはここで当時の学校教育を批判しているが、この点に関しての所論は、果して正当であろうか。『モンテーニュとその時代』第二部第二章一五七―一六二頁参照。
 私が読書の趣味を覚えたのは、オウィディウスの『メタモルフォセス』〔変形譚〕のいろいろな物語を面白いと思ったからでございます。まったく、七つ八つの頃に、私は他のすべての遊びからのがれては、それを読み耽ったのです。それは、その言葉が私の母語でありまして、私の知っている限り最もやさしい読みものでありましたし、またその内容から言っても、年のゆかない私に最もふさわしいものであったからです。まったく、『湖のランスロ』とか(b)『アマディス』とか(a)『ユオン・ド・ボルドー』とかいったような、一般の少年たちが面白がるいろいろな書物にいたっては、私はその名すら知りませんでしたし、未だにその中味を知らずにいるのでございます。それほど私の教育は厳格だったのです! 私はこのために、他の規定の諸学課をそれだけなおざりに致しました。ところが甚だしあわせなことにも、私は一人の悟性ある人を受持の先生として持つことになりました。彼は私のこの我儘に対してばかりでなく、それに類する他のいろいろな場合にも、上手に眼をつぶってくれたのでございます。まったくそのおかげで、私は一と息にウェルギリウスの『アエネイス』を読み通し、それからテレンティウス、それからプラウトゥス、それからまたイタリア喜劇と、常にその快い内容に魅せられながら、読み抜きました。もし彼がこの勢いをくじくようなばかであったならば、私もまたわが貴族たちのほとんど全部がそうしたように、学校からただ書物への憎悪だけを持ち帰ったことと思います。そこを彼は上手に指導いたしました。見て見ぬふりをすることによって、私の欲望をそそりたてたのでございます。ただかくれてのみそれらの書物を貪り読むことをゆるし、他の規定の勉強をさせる時にはやさしく私に義務を行わせたのでございます。まったく、父が私を托すべき人々のなかに求めた主要な性質は、性格の良さとやさしさであったのです。それに私の性格も、不精と怠惰以外の不徳はもっておりませんでした。危ぶまれたのは私が悪いことをしはしないかということではなくて、私が何事をもしでかすまいということでございました。誰一人として私が悪党になるだろうと予言したものはございませんでしたが、皆してこの子は物の役には立つまいと申しました。人はそこに怠惰を予想したので、邪念を予想したのではなかったのでございます。
 (c)私はよくもそのとおりになったものだと感じます。今私の耳元にぶつぶつきこえる非難はまずこうなのでございます。「怠け者よ。朋友親族に対する務めにも公の務めにも冷淡な者よ。あまりにも自分勝手な者よ」というのでございます。いくら口の悪い奴でも、「なぜ彼は取ったか。なぜ彼は払わなかったか」とは申しません。ただ「なぜ猶予しないか。なぜ施さないか」と申すばかりでございます。
 人が私にそのような義務以上のものを、ただ希望されるだけならば、私はそれをご好意として受け取ります。けれどもみんなが自分のなすべき義務は棚にあげておいて、ただ私にばかり、しかも私がする義務のないことまでも、きびしく要求するのなら、それは不公平というものです。皆が私にそういう強制をすることは、私の行為がもっぱら好意から出ていることを否定し、したがって私に対して当然なすべき感謝を取消すことになります。私が他人からどんな恵与も受けたことがないことを考えたら、この私が進んで行った積極的善行を、もっと高く買ってくれてもよいはずです。いったい私は、人に頼まれていやいや慈善を施すような男ではございません。私は私の財産を、それがもともと私のものであればあるだけ、それだけ自由勝手に処置してよいわけです。けれどももし私が自己の行為を大いに飾りたてたい男であるならば、おそらくこれらの非難を思いきり突っぱねてやることでございましょう。そして誰かさんに向っては、お前さんたちは私の施し方が足りないといって怒っているのではなく、もうちっと出せそうなものだと思って怒っているのだと、教えてやることでございましょう
* 「人が……」に始まるこの一節はエッセーの中で最も曖昧な文の一つである。別様の解釈も可能であろう。これはその中の一解釈である。
 (a)しかしながら私の霊魂は、同時に独りひそかに力強い決意をすること、(c)その認識する物事に関して確実な腹蔵のない判断をすること、(a)を欠きはしませんでした。そしてそれらを、誰にも話さないで独りで消化していたのでございます。いや私の霊魂は、どんなことがあろうと強制や暴力の前にはとうてい降参できなかったであろうと私は本当に信じているのでございます
* モンテーニュは優柔不断、柔弱卑怯の人間のように伝説されているが、ここには少年モンテーニュの、外面はおとなしくおだやかでいて、内部に強い性格をかくしていたことが十分に読みとられる。これは彼の一生を通じて失われなかったことで、後年の政治的活動、乱世に対処せるさまざまの行動の中にも現われる。第三巻第十二章「人相について」の章の終りに語られている二つの逸話などは、その中の一つである。
 (b)ここにもう一つ、あの私の少年時代の特技、すなわち落ちつきはらった顔をして、なだらかな弁舌と身振りとで、思いのままにもろもろの人物を演出しえたということを申し添えましょうか。まったく私は、まだ年もゆかないのに、

年わずかに十二にして、
(ウェルギリウス)

当時我々のコレージュ・ド・ギュイエンヌで盛大に行われた、ブカナンやゲラントやミュレのラテン悲劇に出て、その主要人物を演じたのでございます。このことにかけて我々の校長アンドレアス・グウェアヌス〔アンドレ・ド・グヴェア〕は、彼の職務の他のすべての部分においてと同様に、誰にもくらべようのないフランスで一番えらい校長でございました。そして私は、皆からこの道の名人と見なされていたのでございます。演劇は私が名門の子弟**に対して少しも咎めようと思わない娯楽でございます。私はその後わが国の君侯たちが、おん自ら、古代の君侯のたれかれにならって、上品にまた見事に、これに専念せられるところを拝見いたしたこともございます。
* 当時この学校の教授たちは、毎年学生たちのためにラテン語の戯曲を書くことを義務の一つとされていたのである。それでここに挙げられているユマニスト教授たちは、かわるがわるラテン悲劇を創作したのである。
** こうした言葉の末に、モンテーニュ自ら名門の子弟の一人であるという誇りがほの見えるように感じられる。
 (c)ギリシアにおいては、貴い身分の人々がこれを職とすることさえゆるされておりました。※(始め二重山括弧、1-1-52)彼はその希望を悲劇俳優アリストンに打ち明けたり。そは門地ならびすぐれたる人なりしかど、この職業は少しも彼の尊貴を傷つけざりき。けだし、そはギリシアにおいて少しも恥ずべきものにあらざりければなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。
 (b)まったく私は、こういう娯楽を排斥する人々を、いつもわからず屋だと言ってやりました。また、迎えてしかるべき俳優たちが我々の都市に入ることを禁じ・人民に向ってこういう公の娯楽を禁ずる・やからを、不公平だとして非難しました。よい政府は、厳粛なお祭のためばかりでなく、遊戯演劇のためにも、市民を寄せ集めるのに意を用いております。親和友愛の度はそれによって増すのでございます。それに市民の娯楽として、このように大勢の面前で・役人さえが見ている前で・行われる娯楽ほど、規律ある娯楽を彼らに与えることはできますまい。ですから、役人なり君侯なりが、それぞれの出費で、ときどき慈父のような愛情から人民を楽しませるというのは、理由あることだと存じます。(c)多くの人々の集まる大きな都市に、特にこういう催し事にあてられる場所があったこともまた、理由あることだと存じます。それは悪い秘密な行為を忘れさせます。
 (a)さて私の問題にもどりますに、まず勉学の欲望と興味とを呼びさますことが何よりでございます。そういたしませんと、結局本を背負った驢馬を養うことに終ります。人は徒らに鞭を揮って彼らのポケットに学問をつめこませますが、本当の効果を望むならば、ただ学問を自分の家に宿すばかりではいけません、それをめとらなければならないのでございます
* 以上に読まれたとおり、モンテーニュはこの教育論の中で、弟子の生活上の規則を古代には学んでも、ただの一遍も宗教に訴えることはしていない。そして、批評の精神を養うこと、正しい判断力をもたせることをもって根本にしている。すなわち以上二つの点からモンテーニュは近代の自由思想の先覚者と言い得る。ルソーの教育論の中の実行可能な部分が大抵このモンテーニュから出ていることも忘れることができない。
[#改ページ]

第二十七章 真偽の判断を我々人間の知恵にゆだねるのはとんでもないこと



 この章は第一巻第三十二章および第三巻第十一章とくらべて読むことが必要である。これら二つの章には、この章にのべられた意見、特に章の後半にのべられている意見とは、反対の意見が読まれるからである。しかし、この章も十分に注意してよめば、著者の真意がどこにあるかはおのずから明らかである。ここでもモンテーニュは、宗教をもっぱら政治的な観点から見ている。彼は神学者でも哲学者でもなく、政治家なのである。

 (a)我々が容易に物事を信じたり信じさせられたりするのを、単純無知のせいにするのはあながち理由のないことではあるまい。まったくわたしは、昔こんなことを習ったような気がする。「信とは我々の霊魂におされた刻印のようなものである。だから霊魂が柔軟で抵抗が少なければ、それだけ何かをそこに刻みつけることは容易である」と。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)重きものを載すれば必ず天秤皿のさがるごとく、精神もまた明証の前に譲歩す※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。霊魂が空虚でそこに対抗するおもりがなければ、それは容易にどんな説得の下にもさがる。(a)だからこそ、子供や俗衆や女や病人などは、とかく耳に引き回され易いのである。けれどもまた、自分たちに本当らしく思われない事柄をことごとくばかにし、何もかも嘘だとしてしまうのもばかげた自惚うぬぼれである。これは、一般の人たちよりは知恵があると自信する人々にあり勝ちな悪い癖である。わたしも昔はそんな風であった。もどって来る亡霊や、未来の事柄の予言や、呪縛だとか魔法だとか、その他何でも自分の歯のたたない話、

夢、魔の幻影、奇跡、妖女、夜の怪物、
その他テッサリアのさまざまな不思議
(ホラティウス)

などの話を聞くと、そういうばかげた事柄にたぶらかされるたわいのない人たちにそぞろ憐れを催した。だが今となって見れば、自分だって少なくとも同じくらいに憐れまれてよいのであった。それは、その後の経験が何かわたしの最初の信念以上のものを見せてくれたからではない。――もちろんわたしの好奇心が足りなかったせいでもない。――むしろ理性が、「そんなにきっぱりと物を嘘だとかありえないとか断定するのは、僭越千万にも神の御意みこころや我々の母たる自然の偉力の限界を、自分の頭でおしはかることだ。世にそれらの事柄を我々の知恵のものさしでおしはかるくらい馬鹿げたことはない」と、教えてくれたからである。もし我々の理性が及びえないことをことごとく奇怪といい奇跡と呼ぶならば、いかに多くの奇跡奇怪が絶えず我々の眼の前に発生することであろうか。そもそもいかなる雲を通じいかなる模索を経て、我々は現に把握している事物の大部分を認識するに到ったかを考えてみよう。そうすると、きっとそれらの物事から奇異をとり除いてくれるのは学識よりはむしろ習慣であることが、

(b)この大空の姿に我らなれ倦きたれば、
誰一人この光あふるる空間を仰ぎ見るものなし。
(ルクレティウス)

(a)そしてそれらの物事も、もし新たに我々の眼前に現われたら、何か他の珍しい物事と同様に、否それ以上に、信じ難く思われるであろうことが、わかるであろう。

それらの物始めて人々の前に現われ、
突如として彼らの眼を射たりとせよ。
人はそれらを何ものにもくらべ得ざるべし。
そはかつて夢にだに思い見ざりし物なればなり。
(ルクレティウス)

ついぞ河というものを見たことのなかった者は、ゆきあった最初の河を海と考えた。実に我々は、我々の知っている限りにおいて最も大きなものを、自然がその種において作りなした最大のものと判断するのである。

(b)他のより広大なる河にであわざりし者には、
この河、広大ならざるも、広大ならざるを得ず。
樹もまた然り、人もまた然り。
(a)すべてのものについて、各人は、
その見たる最大のものを、巨大という。
(ルクレティウス)

 (c)※(始め二重山括弧、1-1-52)我々の眼が物に慣るれば、我々の心もまた自らこれに慣る。眼はその常に見るものを怪しまず、あえてその因由をたずねんともせず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 物事が珍しいということは、それが偉大であるということ以上に、我々を駆ってその原因をたずねしめる。
 (a)我々はあの限りない自然の偉力を、もっと多くの畏敬の念をもって、もっと自己の無知無能を認識しつつ、判断しなければならない。ほとんど本当とは思えない事柄が、いかにたくさん、信頼するに足る人々によって証拠だてられていることか。それらは、納得できなくても、少なくともそのままにしておかねばならない。まったくそれらを不可能だとしてしまうことは、可能の及びうる限界を知っていると自負することであって、実に大それた自惚れである。(c)もし不可能なことと普通でないこととの間・また自然の秩序に反することとただ人間の常識に反することとの間・に存する差別がよくわかれば、むやみに信ずることもなく軽々しく否定し去ることもなく、人はあのキロンのおしえた「よろず度をすごすな」という掟を守ることとなろう。
 (a)人はフロワサールの中に、フォワ伯がその身はベアルンにありながら、カスティリャ王ジャンのアルジュベロタにおける敗北をそのすぐ翌日に知ったこと、また筆者がそれをどうして知ったかに関していろいろと証拠をあげているのを見て、あるいは笑うかも知れない。また我々の年代記の中に、法王ホノリウスが、王フィリップ・オーギュストが(b)マントで(a)崩ぜられたその日に、国葬を営ませ、イタリア全土にそれを執り行うよう命じたと書いてあるのをよんでも、やはり笑うかも知れない。まったくこれらの証人の権威は、おそらく我々を承服させるだけの力をもっていないであろう。だが、どうであろう。もしもプルタルコスが、古代について幾多の実例を挙げた上に、「自分はドミティアヌスの時代にゲルマニアにおけるアントニウス敗戦の報が、そこから数日の行程にあるローマで敗戦の当日に発表されたこと、そしてそれが皆の人に喧伝されたことを、確かな根拠によって知っている」と言ったとすれば。またカエサルが、「風評が事実に先んじたこともしばしばあった」と言ったとすれば。果して我々は、「これらの単純な人々は、俗人の言うところにまどわされたのだ。我々のように明らかな眼を持たなかったからだ」と言うであろうか。およそプリニウスがいよいよの場合に示した判断くらい、綿密で明瞭で発剌たるものがあったろうか。これくらい空虚から遠いものがあったろうか。彼の知識の優れていたことはしばらくおく。それはわたしのさほどに重んじないところだから。だが、この知識と判断のいずれにおいて、我々は彼を凌いでいるか。それは言わずと知れている。しかるに、極めてちっぽけな生徒までが、プリニウスの言葉を嘘だと言わないものはなく、自然の働きの経過について彼に向って説法しようとあえてしないものはない。
 我々がブーシェの著の中に聖ヒラリウスの御遺骨の奇跡を読むときは、どう言おうとよろしい。彼の信用は大したものではないから、これに抗言するのに遠慮はいらないのである。けれども、すべて同様の物語を一概にしりぞけるのは、はなはだ厚かましいことであると思う。あの大聖人アウグスティヌスは、ミラノにおいて一人の少年が、聖ゲルウァスス及び聖プロタシウスの遺骨に臨んでその視力を回復したこと、カルタゴにおいて一人の婦人が、新たに洗礼をうけたばかりの一人の婦人に十字の印を切ってもらったことによって、そのがんを癒されたこと、その友の一人ヘスペリウスが、聖墓の土くれをもって彼の家を侵した悪霊を追いえたこと、またその土くれがその後お寺にもってゆかれ、更に中風やみを立ちどころにたたせたこと、一人の婦人が、行列の最中にその持っていた花束で聖ステファヌスの遺物箱にふれてからその花束で自分の眼をさすったところ、久しい前から失っていた視力を回復したこと、その他さまざまな奇跡を、いずれも自らその場にのぞんで見たことだと証言している。このことについて、我々はあの聖アウグスティヌスを、また彼が証人としてあげた二人の聖職者アウレリウス及びマクシミヌスを、けなすであろうか。これもまた無知・単純・軽信の結果であろうか。それとも悪意・詐欺と言うべきであろうか。我々の世紀に、あるいは徳性と信心において、あるいは知識・判断・才能において、自らこれらの聖者に比べられると思うほどの厚かましい者が果しているか。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)彼らはその理由を示さざるも、ただその権威によって我々を承服せしむるなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
* 『アキタニア年代記』Les annales d’Aquitaine, par Jean Bouchet.
 (a)我々が理解できないことは何でも軽蔑するというのは、危険千万な思いあがりであって、さっそく途方もない無鉄砲をひきおこすだけではなく、のちのちまでも災いをのこさずにはいないのである。まったく、一度ご立派な悟性に訴えて真偽の限界を決定してしまった後からでも、さきに否定した事柄よりも更に不思議な事柄をどうしても信じなければならないようなことに相成れば、たちまちさきにきめた限界を捨てなければならないのであるから。ところで今日我々の当面している宗教戦争において、我々の良心の中に同じように多くの混乱を生ぜしめると考えられるのは、カトリック教徒がその信仰の一部を放棄することである。彼らは議論の的となった幾箇条かを敵に委ねて、いかにも謙譲と理解とを示したつもりでいる。けれども、そうして譲歩退却することがいかに敵を利するか、いかに敵のほこ先を鋭くするかを悟らないばかりか、彼らが最も軽微なものと見るその幾箇条かが、ときには甚だ重大なものであることを知らずにいる。わが宗門の権威には絶対に服従しなさい。でなければ全くこれを放棄しなさい。我々が宗門に対して負っている服従の分け前をきめるのは、我々のほうではないのである。それに、このことはわたしが自ら経験したことだから断言ができる。わたしも昔は自分勝手に我儘な選り好みをし、外見上幾分とも無用にも奇異にも思われるわが教会の掟の或るものを閑却したが、たまたまその由来を学者にただしてみて、始めてそれらの事柄がいずれもきわめて堅固な根拠をもっていること、そしてそれらを他の掟ほどに尊重しないのは無知と暗愚との結果であることをさとった。なぜ我々は想い出さないのか。我々自らの判断の中にさえいかに多くの矛盾が存在するかを。いかに多くの事柄が昨日は我々の信仰箇条であったのに、今日はただの物語になっているかを。高慢と好奇とは我々の霊魂の二つの禍である。後者は我々をしていたるところに鼻を突っ込ませるし、前者は我々をして何事をも不確実不決定のままにのこさせない
* ここにモンテーニュのカトリシスムへの復帰が認められる。しかしそれは理性主義的宗教復帰というべきであろう。なお、モンテーニュは奇跡に関する意見を二カ所に述べている。一つはこの章で、もう一つは第三巻第十一章である。そして、両章の間には矛盾がある。対比せられたい。私は、エルネスト・アヴェと同様に、モンテーニュの真の意見はむしろ第三巻の方にあるものと考えたい。ここにはただ、彼の信教上の伝統主義と宗教改革論者に対する彼の政治的立場とを、よみとるべきである。
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第二十八章 友愛について



 この章は、モンテーニュが高等法院参議(評定官)であった時の同僚で、彼の上に深い感化を及ぼして早死にした心の友ラ・ボエシ Etienne de La Bo※(ダイエレシス付きE小文字)tie(正しくはラ・ブウェティと発音される)に対する哀切な追憶が生んだ友愛論であると共に、否それ以上に、不遇の裡に早世した偉大な人物ラ・ボエシの頌徳の辞であって、モンテーニュはここに故人の肖像を描いて、腐敗せる同時代人の眼を醒そうとするのである。これは第一巻の中心をなしているばかりでなく、全三巻を通ずるモンテーニュの一貫した精神的姿勢とも言えよう。二人の交遊関係については、私の『モンテーニュとその時代』第三部第三章A、及び白水社版『モンテーニュ全集』第四巻所収「書簡」中モンテーニュがその友の臨終のさまを父に報告した手紙とそれに関する解説について、詳細を知られたい。なお「旅日記」のなかにも、すなわちそれはラ・ボエシと死別して十七年もたった後のことであるが、ふと亡友を想い出して哀悼の情を禁じえなかったことが記されている。この章も、一五七六年前後に書かれたと推定されるから、親友の死後十三年を経て書かれたものである。

 (a)わたしはうちの絵かきが仕事を進めてゆくところを眺めているうち、ふと自分もその真似がしてみたくなった。彼はそれぞれの壁の真中の一番よい場所を選んで、そこに全力を傾けて一つの絵を描く。そして、そのぐるりの空白はグロテスクで埋めてゆく。グロテスクというのは、ただその変化と奇抜とをよろこばれる夢幻的な絵模様のことである。この本もまた、本当に、さまざまな肢体を継ぎ合せた・定形をもたない・偶然のそれを除いては何の釣合も連絡も秩序もない・そのグロテスク、その怪奇な絵模様でなくて何であろう。

そは魚の尾をもてる美女の姿なり。
(ホラティウス)

わたしもこの第二の部分までは、たしかにうちの絵かきに追い着いてゆける。だが、もう一方のよりよい部分においてはとても及ばない。まったくわたしは力量がとぼしく、豊富優麗で芸術にかなった絵はとうてい企ておよばないのである。そこでわたしは、そういう絵を一つ、あのエチエンヌ・ド・ラ・ボエシから借用しようと思いついた。それは私の仕事の残る部分に箔をつけてくれるだろう。それは彼自ら「奴隷根性」と題した論文であるが、この名を知らなかった人たちは、後に「反一人論」という甚だうまい名前をつけた。彼はそれをまだうら若い年頃に、暴君を排する自由をたたえつつ、作文のつもりで書いたのであるが、それは久しい以前から悟性ある人々の手から手に渡り、きわめて大きな当然与えらるべき賞賛を与えられずにはいなかった。まったく、それは高雅でもっとも内容充実したものであった。けれどもこれが彼のなしえた最良のものでは決してない。もし彼が、わたしが彼を識ったあの時分に、すなわち彼がもっと年たけた頃おいに、わたしと同様の企てを抱いてその所感を書きとめたならば、我々はたぐいまれなる・我々を古人の栄誉のすぐ近くにおくような・数々のものを、見ることができたであろう。まったく、特にこの方面の天賦においては、彼に比べられるような者は、ただの一人もわたしは知らないのである。ところが彼のものとして残ったのは、ただこの論と(これはまことに思いがけないことであった。彼は一度この論を手の中から失って後は、遂にそれを見ることなくして終ったはずである)、それから、わが内乱で有名な正月勅令に関する「覚書**」(これはまたたぶん別の場所にその席を与えられるであろう)と、ただ二つだけである。以上が(c)(彼はその臨終の床の上で、苦しい息の下からいともねんごろな言葉をもって、わたしをその蔵書と遺稿との相続者としたのであるが)、(a)彼の遺稿の中からわたしのとりもどしえたすべてであって、その他にはわたしがさきに刊行した彼の著作集***一巻があるだけである。ほんとうにわたしは、特別この論稿に恩愛を感じている。それこそ我々が交わりを結ぶなかだちとなったものだからである****。まったくこの一篇は、わたしが彼にあうずっと以前にわたしに示され、わたしにはじめて彼の名を知らせたものなのである。それがもとで我々の間に友愛が生れ、その友愛は神がこれをおゆるしになった間を通じて、最も完全な形で我々二人の胸にいだかれたのである。これほどの友愛は、確かにいかなる書物の中にも読まれない。いわんや当世の人たちの間などには、そのどんな痕跡も見出されない。実に、このような友愛を作り上げるには多分の偶然を要するから、運命が三世紀に一ぺんなりとそれをこの世にもたらすならば、きわめて有難い仕合せと思わなければならないのである*****
* 原題 Servitude volontaire すなわち「意志の隷従」とは意志の自由 libert※(アキュートアクセント付きE小文字) volontaire と対をなす言葉で、一口に言えば奴隷根性のことである。ラ・ボエシは、「人々は自分の意志を大切にせず、それぞれボスの言いなり次第になる。そのボスはまたその上のボスに自分の意志を隷従させる。そうして一番上に坐る大ボスが、国王であり暴君である。だからわれわれは暴政を非難する前に、自分自身がボスを作らぬことに努めなければならない」というのである。「反一人論」というのは、ピラミッドの頂上にすわる大ボスに反対するという意味である。――このラ・ボエシの小論文は、その後にかいた「正月勅令に関する覚書」と共に、モンテーニュの「エッセー」との間に緊密な関係をもっているように思う。白水社版『モンテーニュ全集』第一巻付録にその全文を掲げた。「作文のつもりで」とは「学生の提出する論文として」、すなわち本当の著作ではないという意味。このモンテーニュの解説は、必ずしもラ・ボエシの弁護ではなく、事実を述べている。「反一人論」は本来全く純理の書であって、これに政治的意義を与えたのは、フランソワ・オットマンであった。
** 「正月勅令」というのは一五六二年に、大都市以外では新教徒が公然と彼らの宗教的集会を持つことを許した勅令である。ラ・ボエシの「覚書」というのは、一国内に二つの宗教の並存をゆるすのは不可なりとする意見書、建白書である。ラ・ボエシもかなりリベラルなところのある人だが、為政者、政治家としてはやはりモンテーニュと同様にこのような意見でいたのである。
*** La m※(アキュートアクセント付きE小文字)nagerie de X※(アキュートアクセント付きE小文字)nophon, Les r※(グレーブアクセント付きE小文字)gles du mariage de Plutarque et des vers fran※(セディラ付きC小文字)ais du feu Et. de La Bo※(ダイエレシス付きE小文字)tie, 1571 Paris. 拙著『モンテーニュとその時代』参照。
**** モンテーニュとラ・ボエシは性格上相当ちがっていたが、何れもユマニストとして自由の夢にあこがれていた点は共通していた。彼らの友愛は、ラ・ボエシの自由の精神、反俗精神がもとで結ばれたと言えるであろう。そして二人の友愛そのものがまた、古代の優雅なストイックな友愛の模倣であった。モンテーニュのラ・ボエシに対する感情の中には、友のストア的な徳に対する尊敬が大部分を占めており、二人相競って、古代の賢人に近づこうと努力したのである。我々から見て二人の友愛が甚だ高踏的に見えるのはそのためである。自然なやさしい友愛感情は、この友愛論の終りの方にわずかに披瀝されるにすぎない。二人の友愛は要するに一種のユマニスム、古代聖賢へのあこがれの表出であったように思われる。
***** 利瑪竇(マテオ・リッチ)の『交友論』には、モンテーニュの影響があったかも知れないと言う。平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』(平凡社、昭四四、全三冊)参照。
 およそ友交ソシエテくらい自然が我々にすすめたものはないであろう。(c)だからアリストテレスは、「すぐれた立法者たちは正義よりも友愛の方に心を用いた」と言っている。(a)ところで、その友交ソシエテの完成の極に達したのがこの友愛アミチエである。(c)まったく、一般に快楽や利得や公私の欲望などがかもし出すもろもろの友交は、それだけ美しくも気高くもないのである。それらは、友愛の中にそれ以外の原因や目的や成果を交えているだけ、それだけ友愛ではないのである。
 あの古人の言った四種類、すなわち、自然が与える友交、社交上の友交、主客間の友交、性交より生ずる友交は、個々にしても一緒にしても、とうてい友愛には比ぶべくもない。
* 自然が与える友交とは親子兄弟間の親しみ。主客間の友交(soci※(アキュートアクセント付きE小文字)t※(アキュートアクセント付きE小文字) hospitali※(グレーブアクセント付きE小文字)re)とは、宿の主人とそこに泊った旅客との間に生ずる情愛であろうか。
 (a)子供たちが父に捧げるのはむしろ尊敬である。友愛は感情の交流から生ずるのであるが、これは父子の間には存在しえない。あまりにも両方がかけ離れているからであり、存在すれば、おそらく自然の義務を害するであろう。まったく父たちの秘めたる思いは、ことごとく子供たちに漏らすわけにはゆかない。そこにあまりに不似合な親しさが醸し出されては困るからだ。また、勧告と叱正とは友愛第一の務めであるが、これまた子どもから父に向ってなされるわけにはゆくまい。或る民族においては、習慣として子が父を殺した。また他の国々では、父が子を殺した。つまりそうやって、ときどき両方の間に生じがちな障害を未然にとり除いたのである。いや自然に則して言えば、子が生きてゆくためには親は滅びなければならないのである。哲学者の中にも、この自然の関係を蔑視したものがある。アリスティッポスはその一人である。或る人が彼に向って、「これらの子供たちはみな君から出たのだから可愛がってやらなければいけない」と注意したところ、いきなり痰を吐いて、「これだって僕から出たものだよ」といった。また「我々はしらみうじだって産み出すではないか」とも言った。また或る哲学者は、プルタルコスから弟との和解を奨められるや、「同じ穴から出たからといって、特に彼を重んじようとは思わんよ」と言った。兄弟という名は、じつに美わしい懐かしい名である。だからこそ、彼とわたしも、この名によって契りあったのだ。けれども、一つの資産を共有したり分配したりしなければならないことや、一方が富めば他方が貧しくなるというようなことは、この兄弟のつながりを驚くほど解きゆるめる。兄弟は、立身出世をするのに同じ道を同じように通らねばならないから、どうしてもたびたび衝突する。それに、あの本当の完全な友愛を醸し出すところの共感や交流が、どうして兄弟の間にあるであろうか。父と子が正反対の性質をもつことがある。兄弟だってそうである。それはわが子でありわが親であるにはちがいない。だがそれにしても、おそろしい男はおそろしい男、悪人は悪人、ばかはばかである。それに、これは法律や自然の義務が命ずる愛情であるだけに、それだけここには、我々の選択や意志の自由が少ないわけである。我々の自由意志の所産の中では、友情友愛ほどそれにふさわしいものはないのである。でもわたしは、父子兄弟の関係においてその極致を経験しなかったわけでは決してない。わたしは世にも稀な良い父、老齢に達してもきわめて寛大であった父をもっていたし、兄弟の和合という点にかけてもまた、わたしの家は親子代々有名で模範的であったのだ

(b)われ自ら、弟に対し慈父の如くなりとて、知られたりき**
(ホラティウス)

* この点はきわめて正確である。トランケの研究は科学的にこの文章を支持実証している。
** モンテーニュの末の弟にベルトラン・ド・マトクロンというのがいた。父が六十四歳の時の子で、モンテーニュとは二十七も年がちがっていた。この弟を彼は全く息子のように愛した。この事実をホラティウスの句を借りてつつましく述べているのであろう。彼のラテンの引用は、凡例の中でも言ったように、実に色々に利用活用されている。
 (a)これに婦人に対する愛情をくらべることは(それは我々の選択から生れるのではあるが)、とうていできないし、またそれを同じ部類に入れることもできない。いかにもその炎は(わたしは白状するが)、

まったくわれみずからも、
恋の悩みにほろ苦き甘味を加えしかの女神に、
識られざりしにはあらざりければ。
(カトゥルス)

よりさかんで、身をこがすが如く、そして烈しい。けれどもそれは、無謀な浮気な動揺常なき炎であり、あるいは起りあるいは静まる熱病の炎であり、我々をただ一箇所においてだけとらえる炎である。友愛の方は、一般的で普遍的な・それに穏やかな・そして常に一様な・温かさであり、常にかわらない落ちついた・いかにも物しずかな・少しも激しく鋭いところのない・温かさである。それに恋愛の方は、逃げるのを追いかける執念ぶかい欲望にすぎない。

寒暑をしのぎ、谷を渡り山を越え、
兎の後を追う猟夫のごとし。
兎が手中にある時はこれを大切にせず、
逃ぐればすなわち※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうこうとしてこれを追う。
(アリオスト)

それは、友愛の範囲内に入ると、すなわち両方の意志が相通ずるようになると、たちまちに消え衰える。享楽はそれを消滅させる。つまりその目的が肉的であって飽満を免れないからである。ところが友愛の方は、欲望されるだけ享楽され、享楽されて始めて高まり広がり増加する。つまり友愛は霊的であり、霊魂は使用によってますます研磨されるからだ。こういう完全な友愛の下位に、あの浮気な感情が、かつてわたしのうちにも席をえたことがある(ここで彼のことを語らないのは、彼自らその詩句の中に十分にそれを告白しているからである)。そのようにこの二つの感情は互いに認知し合いながらわたしのうちに入って来たのであるが、それは相並んででは決してなかった。つまり友愛は高々と翼を張って、恋愛がその遙か下の方からおずおずと忍び寄るのを、さげすみ見おろしながら、わたしのうちに入ったのである。
* 彼とはラ・ボエシを指す。第二十九章およびその註、白水社版『モンテーニュ全集』第一巻付録二参照。
 結婚にいたっては、ただその加入だけが自由になされるにすぎない契約であり(その継続は無理に強いられていて、我々の意志以外のものに依存しているのだから)、また通例別個の諸目的のためになされる契約であるから、往々にしてそこには筋ちがいのもつれがおびただしく混入し、強い情愛のきずなを切り、その流れを乱しがちなのである。ところが友愛の方は、自分自身とより他には何の交渉も関係もない。それに正直にいうと、婦人たちの普通の知恵能力は、この聖なる結合を産み出すあの交誼交情には適していない。婦人たちの霊魂は、あのように固い・あのように永い・結合の圧力に堪えるほどには、堅固でないようである。いや、本当にそんなふうではなく、もし〔結婚においても〕友愛におけるような自由で意志的な親交がうちたてられ、そこに霊魂と霊魂とがあのように完全な楽しみをうけるのみならず、肉体もまたその契約に参加することができるならば、(c)そこに人間が全身全霊をもって引きこまれるならば、(a)友愛がそのためにますます充実せられるであろうことは確かである。けれども、女性は未だかつて一ぺんもそこまで到達したためしがない。(c)そして、古代のもろもろの学派の合意によって、その門に入るのを拒まれている
* モンテーニュはここで婦人をいささか低く見すぎているようであるが、後出第三巻第三章「三つの交わりについて」という章の中では、古今の良書との交わり、紳士との交わりとともに、淑女との交わりをたたえているし、第三巻第五章「ウェルギリウスの詩句について」の中では、はっきり男女の平等を認めていて、決して女性を軽視した人ではない。彼が至るところで女性の悪口をいうのも、むしろ女性を特に男性と区別せず、あまやかすまいと思うからであろう。第三巻第三章、第三巻第五章の本文およびその解説を参照されたい。
 (a)それからまた、あのギリシアふうの放縦も、当然我々の習俗が忌みきらうところである。(c)この場合も、通例、恋人同士の間に、どうしてもあのような年齢の懸隔と務めの上の相違がないわけにはゆかなかったから、やはり我々が求めるような完全な結合和合には、至りえなかったのである。※(始め二重山括弧、1-1-52)そも、この amor amiciti※(リガチャAE小文字) とは何ぞ? 何故にそは醜き青年や美わしき老人に対してはなされざる?※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。まったく、わたしが次のように言っても、それはアカデメイア学派がこの少年愛について述べているところ**と、必ずしも矛盾していないと思う。「いとけない少年の花のような美わしさを見ると、たちまちに愛者の心の中にウェヌスの子によってふきこまれるこの狂熱は(ギリシア人たちはこれらの少年の上に、節制のない・熱情が産み出しうる限りのあらゆる異常な・激しい愛撫を加えてはばからない)、要するにただ外形の美にもとづくもので、性交の偽の姿にすぎない」と。まったく精神に基づくわけはないのである。精神はまだ生れたばかりで、なお隠れて外にあらわれないのだから。まだ萌え出る年にはなっていないのだから。もしこの狂熱が下劣な心をとらえれば、その追求の手段として用いられるのは財宝であった。贈り物であった。立身出世をさせてやるというひいきであった。要するにギリシア人が日頃しりぞける卑しい物品であった。もしそれがもっと高尚な心の中に生ずると、その方法もまた自ずから高尚になった。すなわち宗教を尊び・法律を守り・祖国の幸福のために死ぬ・道を教える哲学的教育、勇気・慎重・正義・の模範であった。つまり愛する方の人は、その肉体はすでになえしなびているので、その霊魂の清い美わしさによって受け容れられようと努め、そういう精神のつながりによってより堅くより永い契りをかわそうと希望したのである。そしてこの追求が時いたってようやく実をむすぶ時には(まったくギリシア人たちは、愛する方の人にはその企てのなかでゆっくりと慎重であるよう要求はしなかったが、愛せられる者の方にはそれを厳格に要求したのである。つまり愛せられる方では、認識し発見することの困難な内部の美を、判断しなければならないからである)、その時には、愛せられる者の心の中に、精神的美の仲だちで、精神というものを理解しようとする欲望が生れるのを常とした。愛せられる者においては精神的の美が大事なのであって、肉体的美の方はどうでもよい第二次的のもので、まさに愛する者の側におけるとは反対であったのだ。だから彼ら〔ギリシア人たち〕は、この愛せられる者の方を愛し、神々もまたこの方を愛していると証言している。そして詩人のアイスキュロスが、アキレウスとパトロクレスとの愛を描くにあたって、なお青春の花の咲き出でようとする年頃にあり・ギリシア第一の美男と言われた・あのアキレウスの方に愛する者の役目を与えたことを、大いに責めている。ギリシア人たちの言うところによると、ひとたびそういう霊肉の合体ができてから、二人のうちの指導的な尊敬される方の側の人がよくその務めを行い相手を制するようになると、そこから公私両面にきわめて有益な果実が産れ出て、この習慣を許容する国の力となり、また、公平と自由との主要な守りともなったということである。ハルモディオスとアリストゲイトンとの愛はそれが有益であった証拠である。さればこそ彼らはこれを神聖なる愛と呼ぶのである。そして、彼らの説に従えば、これを排斥するのは暴戻ぼうれいな君主と卑怯な人民ばかりなのである。要するに思いきってアカデメイアに花をもたせて言うならば、「それは友愛に終る恋愛であった」ということになるのである。これは、ストア学者の恋愛の定義※(始め二重山括弧、1-1-52)恋愛とは、その人の美しさにひかれて、その友愛を願う心なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)というのと一致しないでもない。だがわたしは、これよりもっと公平無私な愛の記述にもどろうと思う。※(始め二重山括弧、1-1-52)人は年たけ性格が完成せられて、始めて友愛の意義を悟ることを得べし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
* 美少年を対象とする同性愛のこと。(c)の加筆の中にモンテーニュ自ら説明している。
** プラトン『饗宴』
 (a)要するに我々が普通に友とか友愛とか呼んでいるものは、何かの機縁ないし便宜のために結ばれた親交にすぎないのであるから、我々の霊魂はただそれらによってのみつながりあっているにすぎない。ところがわたしの言う友愛においては、二つの霊魂は互いにとけ合い渾然こんぜんとして一つになっているから、両方がいかなる点で結ばれているかはもうわからないのである。いくら「なぜ君は彼を愛したのか」と追求されたって、(c)ただ「それは彼であったから」「それはわたしであったから」と答えるより他に、(a)言いようがないと思う。
* この句は始めから対句をなしてはいなかった。「それはわたしであったから」の句は前の句よりずっと後に加えられたものだということである(cf. Bulletin des Amis de Montaigne. 2e s※(アキュートアクセント付きE小文字)rie no. 1. p, 24.)。ボルドー本には両句ともペンで記入されているので、普通の版には(c)の標示の下に一緒に印刷されているのであるが、手跡を注意して見ると、そこには記入時の前後が、その書体変化によって、識別されるという。すなわちこの有名な美しい対句も一挙に書かれたものではなかったのである。
 まったく、わたしのあらゆる推理のむこうに、わたしがあれこれと言いたてることのできる一々の事柄の向うに、この結合の仲だちとなった・何かしら説明のできない・宿命的な・力があるのである。(c)我々は相見る前から、お互いに噂を聞き合いつつ、たずねあっていた。この噂は、理性をもっては考えられないほどの強い影響を、お互いの愛情の上に与えていた。きっとそれは何かしら天の命令みたいなものによってであったと、わたしは信ずる。つまり二人は、お互いの名によって相いだいていたのである。そして、偶然町の大きな祭りの日に、人々の群がり集まる中で始めて相逢うや、すぐ、そのまんま、最も緊密に結びつき知り合い契り合ったので、それ以来、何ものも我々二人にとって、お互い同士ほどに近いものはなくなったのである。彼はラテン語で優れた諷刺詩一篇を書いたが(それは既に公表されている)、彼はそこに、我々相互の理解が瞬く間になったことを、しかもそれがあまりにも迅速にその完全に到達したことを、釈明している。我々の友愛は、あまり長くありそうになかったし、いやきわめて遅く始まったので(まったく我々は二人ながらすでに大人であった**。しかも彼はわたしより少し年上であったのだ)、ぐずぐずしてはいられなかったのである。生ぬるい型通りの友愛などを、真似してはいられなかったのである。あたり前なら、用心ぶかい、長い間の、予備的交際を経なければならないんだけれど。我々の友愛は、それ自体以外に何らの模範ももたず、ただただ自己に拠るばかりである。(a)それは或る一つの考え方ではない。二つの、三つの、四つの、千の考え方でもない。それらすべてのまじりあった何かしら精髄のようなものが、わたしの全意志をとらえ、これを彼の意志の中にもって行って、そこにもぐり込ませ溶かしこんだのである。(c)またその同じものが、彼の全意志をとらえ、同じような渇望と競争心とをもって、これをわたしの意志の中にもって来て、そこにもぐり込ませ溶かしこんだのである。(a)まことにそれはとかしこんだのである。我々は我々めいめいに特有な何ものも、わたしのものも、彼のものも、少しもそこには残していないのだから。
* 前出二四八頁註***参照。
** モンテーニュは時に三十五歳であった。拙著『モンテーニュとその時代』参照。
 ラエリウスがティベリウス・グラックスの処刑の後、なおこの人と気脈を通じていたすべての人々を追跡してやめなかったローマの執政官たちの前で、ふとガイウス・ブロシウス(これはグラックスの第一の友であった)に向って、「どれほど彼のためにつくそうと思ったか」と問うたとき、そして「あらゆることを」と答えられたとき、「何だと? あらゆることだと?」とラエリウスはたたみかけた。「そんなら彼が神殿に火を放てと言ったらどうする?」「決してそんなことを命じはしなかったろう」とブロシウスは言いかえした。ラエリウスはかさねて、「でもそう命じたとしたら?」「従っただろう」とブロシウスは答えた。――さてブロシウスは、よし歴史家が伝えるほどにグラックスの親友であったとしても、こういう大胆な思いきった告白をして、執政官たちを怒らせる必要はなかったろう。またあんな風にグラックスの意志に関する確信をまげたのもよろしくない。しかし、それにしても、彼の返答を反抗的だと言って非難する人たちは、友愛の神秘を十分に理解していないのである。また彼が本当にグラックスの意志を、強い友情と深い理解とによってしっかりとその手の中に握っていたことも、想像できないのである。(c)彼らは市民たる以上に友であったのだ。祖国の友たり敵たる前に、また野心と叛乱との友たる前に、互いに友であったのだ。完全に信頼しあいながら、彼らは互いに、相手の意向の手綱を完全に握っていたのである。だから、徳と理性の指導とに二人の手綱を取って引かせたって(だって、この手綱なしにこの二頭の馬をひくことはとうていできないのであるから)、やはりブロシウスの答は同じことにならざるをえないのである。もし彼らの行為が別々になったら、彼らはもうお互いにも、また彼ら自らに対しても、わたしの考えるような友ではなかったのである。それに(a)この返答は、例えばわたしが、「もし君の意志が君の娘を殺せと命ずるならばこれを殺すか」とわたしに訊ねる人に向って「いかにも」というであろうその返答以上には、ひびかないのである。まったく、そこには娘を殺すことに賛成するという証拠は少しも含まれていないのである。何となれば、わたしは自分の意志を絶対に疑わないからである。また、そういう友の意志もまた、ほとんど疑う余地がないからである。世のあらゆる理屈をもってしても、わたしが自分の友の意向と判断とについてもっているところの確信を奪うことはできない。彼の行為がいかなる顔かたちをもってわたしの前に現われようと、わたしはたちまちにそのかくれた動機を見抜かずにはおくまい。我々の霊魂は全く一つになって歩み、お互いにきわめて熱烈な愛情をもって見合い、おなかの奥までも示し合っていた程であるから、わたしはたんに彼の霊魂を自分の霊魂同様に知ったばかりでなく、きっと自分をわたし自らによりも、かえって彼の方に、よろこんで託したことであろう。
 これと同列に、あの世間一般の友愛を、置いてくれては困る。勿論わたしはそれらをも人並みに知っている。否、その最も完全なものも知っている。(b)けれども、両方の掟を混同することはお勧めしない。それは間違いのもとであるから。世の常の友愛においては、手綱をひかえつつ、用心に用心をして、進まなければならない。結合が全く心配がいらないまでに結ばれていないからである。「やがてまた何時かは憎まなければならないものとしてこれを愛せよ。いずれまた愛さなければならないものとしてこれを憎め」とキロンは言った。こんな掟は、あの至上至高の友愛においては厭うべきものであるが、普通一般の友愛を行う場合には役にたつ。(c)こういう友愛に対しては、宜しくアリストテレスが口癖のように言った「おおわが友だちよ。友はただの一人もない」という言葉を言ってやるべきである。
 (a)あの高貴な交際においては、もう一方の友愛をはぐくむ奉仕や恩恵などは、考慮にすら値しない。それは我々の意志が渾然と一つに溶け合っているからである。まったく、わたしが自分に対してそそぐ友愛は、ストア学者は何と言うにせよ、わたしが必要に応じて自分に与える助力の多少によって少しも増減することがないように、またわたしが自分に対してする奉仕について少しも自分に向って感謝などしないように、ほんとうの友だち同士の結合もまた、それはほんとうに完全無欠なのであるから、二人の間にああいう義理の感情を失わさせてしまう。彼らに恩恵とか義理とか感謝とか懇願とか御礼とかいうような、自他の差別を意味する語を嫌わせるばかりでなく、これを彼らの間から全く駆逐してしまう。意志・思想・財産・妻子・名誉・生命に至るまで、すべては、実際、二人の間では共通なのだから、(c)彼らの一致は、アリストテレスがきわめて適切に定義したとおり、いわば異体同心なのだから、(a)彼らは何物をも貸しあったり与えあったりすることができないのである。さればこそ立法者たちは、結婚を多少なりともこの聖なる結合と似たもののように思うことによってこれを尊くしようとし、夫婦の間に贈与を禁じているのである。つまりその趣旨は、すべてが夫婦各自のものであり、二人の中には何一つとして分割すべきものがないことを教えるにある。もしわたしが語るところの友愛において、一方が他方に贈与することができるとすれば、うける者の方がその友のためにしたことになるであろう。まったく、両方ともが何事をおいても相手のためにつくそうと努めているのだから、この材料と機会とを与えるものの方が相手につくしたことになる。つまり、その友にその最も欲するところを行うという満足を与えることになるから。(c)哲学者ディオゲネスはお金がなくなると、友だちからお金を取りもどそうと言った。貰おうとは言わなかった。(a)次に、それは実際どういうふうに行われるかを示すために、一つ古代の奇妙な実例をお話しよう。
* マテオ・リッチの『交友論』の書き出しは、「吾が友は他にあらず、即ち我の半、乃ち第二の我なり。故に友を見ること当に己の如くすべし。友と我と二身ありと雖も二身のうちその心は一なるのみ」となっている。此人はモンテーニュを読んでいたのであろうか。
 コリントスの人エウダミダスは、シキュオンの人カリクセノスおよびコリントスの人アレテウスという、二人の友をもっていた。彼は貧窮のうちに死にそうになると、二人の友はいずれも富裕だったので、次のように遺言した。「わたしはアレテウスに、わたしの母を養いその晩年を安楽にして下さるように、カリクセノスには、わたしの娘を嫁入りさせ、これにできるだけたくさんの持参金をあたえて下さるよう、遺贈する。両人のうちいずれかが先に歿するときは、その分はそのまま、生き残った者に相続させる」と。始めにこの遺言書をあけて見た人たちは、皆あざわらった。ところが相続者たちは、それをきくなり非常な満足をもって受諾した。そして彼らの一人カリクセノスがその五日後に他界し、いよいよ相続の代理権がアレテウスの手に帰するや、このアレテウスは、エウダミダスの母をねんごろに扶養した上、その財産五タレントのうち二タレント半を自分の娘に、残る二タレント半をエウダミダスの娘に与え、二人の少女を同じ日に嫁入りさせた。
 この実例はまことに申し分がないが、そのただ一つの欠点は、親友が二人いたということである。まったくわたしがいう完全な友愛は不可分なのである。各人は心身の全部を挙げてその友に捧げるのであるから、後にはもう、よそに分与すべき何物も残らないのである。否それどころか、自分が二つなく、三つなく、四つないことを、たくさんの心・たくさんの意志・を持ち合せていてそれらをそっくり当の一人に与えられないことを、悲しんでいるのだ。普通の友愛ならば、これを分割することができる。甲においてはその美を、乙においてはその心だての優しさを、丙においてはその気前の良さを、丁においては慈父のようなその愛情を、戊においては兄のような親しさを、というふうに愛することができる。けれども、霊魂を把握してこれを絶対に支配する友愛となると、それはとうてい二つになることができないのである。(c)もし二人が同時に救いを求めたら、どっちに駈けつけるか。二人が相反する奉仕を要求したら、いずれを先に果すか。一人にきかせたらためになることをもう一人が黙っていろというならば、どうしたらよいか。唯一至上の友愛は、他のすべての義務のいましめを解く。決して他人にはもらすまいと誓った秘密も、わたしはこれを他人ではない者、すなわち自分に他ならない者に洩らしても、背誓のそしりをうけることはない。二つになることからしてすでに大きな不思議である。いわんや三つになることを口にする人たちにいたっては、友愛の高さを知らないのである。類を有する物は無類至上のものとはいえない。だから、わたしが二人の両方を同様に愛することを想像し、わたしが二人を愛すると同程度に彼ら同士が相愛しまたわたしをも愛することを想像するものは、最も純一にして分ちえないものを幾組にも分つ人である。そのただ一つすらこの世では最も見出し難いものであるのに。
 (a)この一点を除けば、先の物語はきわめてよくわたしの言ったところにかなっている。まったくエウダミダスは、二人の友に恩恵を施すつもりで彼ら二人を自分のために使ったのである。彼は二人の友にかれ特有の恵与を、すなわち、彼らに自分に対して慈善をするきっかけを与えるという独特の恵与を、遺贈したのである。だから確かに、友愛の力は、アレテウスの行為の中によりもむしろエウダミダスの行為の中に、ずっと豊かに現われている。要するにこれは、その経験のないものにはとうてい想像のできないことである。(c)実にこの故にこそ、わたしはあの若い兵士のキュロスに対する答を、大いに尊く思うのである。すなわち、その兵士は、「幾ら与えたら、お前は競馬に用いて賞をえたその馬を、わたしに譲るか。王国とならばとりかえるか」と訊ねたキュロスに、「絶対にいやでございます。陛下。しかし一人の友がその代りにえられまするならば、そういう交わりにふさわしい者がもしも見出されまするならば、喜んで手離しましょう」と言ったのである。
「もしも見出されまするならば」とは、なかなかうまいことを言った。まったく、浅い交際に適する人々は容易に見出されるが、お互いが心の奥底から契り合う・何一つ控えかくさない・そういう交際は滅多にないのである。まったくそこでは、すべての動機が完全に純粋で確実であることを要するからである。
 ただある一点によってなりたつ交誼においては、特にその一点を危うくしそうな不完全な点を補ってゆけばよい。わたしの医者や弁護士はどんな宗派に属していようと、それはどうでもよいことだ。そういう問題は、彼らがわたしになすべき友愛の勤めと、何の関係もないのである。またわたしの召使たちとわたしとの間に生ずる主従のよしみについても、同様に考える。だから下男については、わたしは彼が純潔であるかどうかをあまり問わない。ただ勤勉であるかどうかを問う。驢馬引きは博打ばくちうちでもかまわない。ばかでなければよい。料理人は強情でもかまわぬ。腕さえあればよいのだ。だがそうはいうものの、わたしは、別に「皆さん、こうしなければいけませんよ」とさし出口をきいているのではない(そういうことを言う人は他にたくさんいる)。わたしはただ自分のしていることを語っているだけなのである。

これこそわが流儀なり。
君は君の欲するとおりなしたまえ。
(テレンティウス)

テーブルを賑わすためには、考え深い人でなしに面白い人を招く。寝床には善い心根よりも美しい肉体を迎える。議論の仲間には才能ある人を選ぶ。必ずしも廉潔の士でなくともよい。その他おおむね同様にする。
 (a)或る人が、棒切れを股にはさんで子供と一緒に馬ごっこをしているところを、ふと人に見られ、「どうか君がお父さんになるまでは内密にね」とひたすらに頼んだ。その頃ともなればその人の心の中にも同じ情愛が湧きでて、こんな行為をも公平に判断してもらえるだろうと考えたからだ。ちょうどそれと同じに、わたしもまた、わたしの言うことを、そういう経験をしたことのある人々にきいてもらいたいと思う。けれどもそういう友愛が世間一般の習慣といかに隔絶したものであるか、いかに稀なものであるかはよく知っているから、その良い判断者に会えようとは期待していない。まったく、古人がこの主題に関してのこした論説さえ、わたしの抱いている感情に較べるとやはり力ないものに思われるのである。そしてこの問題にかけては、事実が哲学の原理を越えているのである。

われに理性のあらん限り、この世に
良き友に優るものありとは思うまじ。
(ホラティウス)

古人メナンドロスは、どうやら友の亡霊にあうだけは出来たと言ったその人を、「幸福な人よ」と言った。そう言ったのはまことにもっともである。さすがに自らまことの友愛を経験した人だけある。まったく正直のところ、もしもわたしの一生の残りの部分全体を、――神様の御恵みによって、わたしは一生を、あの友を失ったという一事を除けば、大して重い悲しみにもあわず、きわめて心静かに、天から受けた幸福に満足してあえて人をうらやまず、しごく安穏に送ったのであるが、――いや残りどころか、わが一生のすべてを、あの人との甘美な交遊を楽しむべく与えられた四年間にくらべるならば、それはただ煙にすぎない。暗くわびしい夜にすぎない。彼を失ったその日から、

永久に泣くべく永久に祭るべきその日より、
神の御意によりて彼とわれと別れしその日より、
(ウェルギリウス)

わたしはただよわよわと永らえているにすぎない。わたしの前に現われる愉快なことさえわたしを慰めずに、かえって彼の損失を悼む心をいや増しに増す。我々は何をするにも二人でした。わたしは今、彼の分まで横取りしているような気がする。

すべてを分ちあわん友も今やなければ、
われもはや何事も楽しむまじと決心しぬ。
(テレンティウス)

わたしはすでに到るところで二人であるのに慣れきっていたから、今では自分が半分**になってしまったように思う。

(b)思わざるに早くも死到りて
わが魂の半ばを奪い行きたれば
  われ独りとどまりて何をかなさん。
残れる半ばもすでに死せるがごとし。
まこと同じ一日が、二人を諸共に殺したるなり。
(ホラティウス)

(a)何をしても、何を思っても、彼がいないことをなげかぬことはない。彼がわたしと入れかわっても、同じことであろう。まったく、彼は他のすべての才能及び徳性においてわたしを越えること限りなく遠かったように、友愛の義務においても遙かにわたしを越えていたのである。

かかるいとしき人を嘆き悼むに、
何をか恥じん、何をかためらわん。
(ホラティウス)

おおわが兄弟よ。おん身を失いてわれいかに悲しき?
 おん身死しておん身の友愛のたまものたる喜びもまたなし。
わが兄弟よ。おん身去りてわが幸福はすべて失せたり。
 おん身と共に、わが霊もまた墓にうずもれぬ。
おん身なければ、かつては楽しかりし研学も忘れぬ。
 おん身と語る日、おん身の声をきく日、
おん身の姿を再び見る日は、もはや来らざるのか。
 命よりもなお貴かりしわが兄弟よ。
せめてはわれ、永久に、おん身を愛せん。
(カトゥルス)

さあ、少しくこの十六歳の少年の語るのを聴こう***
* モンテーニュとラ・ボエシの交遊期間は、一五五七―六三年とすれば六年であるが、一五五九―六一年の間モンテーニュはパリに滞在し、ラ・ボエシと離れて暮らしたことを考えると、正に四年ということになる。
** 万暦三十三年、即ち一五九五年(『随想録』グルネ嬢版出現の年)、イタリア人ヤソ会士利瑪竇は漢文で『交友論』を著し、後に自らそのイタリア語訳を残した。そこにはアリストテレスの『ニコマコス倫理学』やモンテーニュの『随想録』が援用されている。平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』に詳しいパラレルがなされている(1.二二七―二六四頁)。しかしエッセーの友愛論は、モンテーニュ個人の友愛論であるが、マテオ・リッチのは友愛概論であって、中心がない。両者の間に特定の影響関係があったとはもちろん思われない。むしろそれは、モンテーニュが引用しているキケロやプルタルコスの方から来ていると言えるのかもしれない。けれども『随想録』のほうも、一五八〇、八二、八八年に既に出ていたから、マテオ・リッチが全くモンテーニュを知らなかったとも断定出来ない。
*** 厳密にいうと、十六歳ではなくて二十三歳である。ラ・ボエシが「奴隷根性」すなわち「意志の隷従」を書いたのは彼がトゥールーズの大学に遊学中のことであるから。それをモンテーニュがわざと十六歳と書いたのは慎重のためである。同じ理由から、モンテーニュは始めここに「意志の隷従」の全文を掲げるつもりであったのを取りやめた。次のパラグラフは、その間の事情を説明している。私の白水社版『モンテーニュ全集』においては、第一巻の末尾にその全文を新訳して収録した。
 わたしは後にこの著作が、我が国の政情を(それが果して改良になるかどうかを深くも考えずに)ひたすら攪乱し変革しようと努める人々によって、悪い目的のために公表されたのを見たから、しかも彼らはこれをお手作りの文章の間に交えたから、ここにこれを挿入するといった約束をすてる。そして、著者の記憶が彼の思想や行為を親しく知ることを得なかった人々によって害せられるといけないから、わたしは彼らに実をあかす。すなわち、この主題は彼の青年時代にただ論文をかく稽古につかわれたもので、すでにもろもろの書物のいたるところで論じつくされた陳腐な問題にすぎないのである。当時彼が自分の書いていることを信じていたことは、わたしもまた少しも疑わない。まったく彼は正直な人だったから、戯れにも嘘はつかないのである。それにわたしは承知している。彼がもし選択をゆるされたら、サルラに生れるよりはヴェネツィア共和国に生れたく思ったであろうことを。しかもそれが当然だとさえ、わたしは思うのである。けれども彼は、もう一つの格言を、心の奥底に侵しがたく刻みこんでいた。すなわち、その生れた国の法律に畏れかしこみて服従せよという格言を。未だかつて、彼ほど善良な市民はなかった。彼ほどその国の静穏を愛したものはなかった。彼ほどその時代の変革と革新とを憎んだものはなかった。彼はその才能を、変化革新をますます助長するためよりも、それらを終熄させるための具に用いたに違いない**。彼の精神は、現世紀とは異なった世紀の模範の上に鋳られていた。
* 「奴隷根性」の断片が『フランス人とその隣人たちの目覚ましの鐘』R※(アキュートアクセント付きE小文字)veille-matin des Fran※(セディラ付きC小文字)ais(1574)に、その全文が『シャルル九世治下のフランス国の記録』M※(アキュートアクセント付きE小文字)moires de l’Estat de France sous Charles neuvi※(グレーブアクセント付きE小文字)me(1576)に挿入されたこと、そしていずれの場合にも革新教徒のヴァロワ王朝攻撃の文章と同居していること、を指している。すなわちモンテーニュは、このようにしてこの書が為めにせんとするものに悪用されることを恐れたのである。この本は本来真の自由を教えているので、一党一派に利用されるのは心外である。だからモンテーニュは、ラ・ボエシの自主独立の反俗精神を、別の方法で宣布しようとする。それが『随想録』となったと見ることも出来よう。
** ラ・ボエシの政治的態度については、彼の「正月勅令に関する覚書」の中によまれる。拙著『モンテーニュを語る』六一―六二頁参照。なお第三巻第一章におけるモンテーニュの政治的態度と対照せられたい。
 そこでこのむつかしい著作のかわりに、わたしはもう一つ別の・ただしやはり同じ年頃に作られた・もっと元気で快活な・著作をお目にかけようと思う。
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第二十九章 エチエンヌ・ド・ラ・ボエシの二十九篇の十四行詩

ギッセン伯夫人グラモンさま


 この章は、前章の最後の句が予告しているラ・ボエシの恋愛詩二十九篇を掲げるに当ってのいわば序文であって、一五九五年版を除く以前の諸版には、この後にその二十九篇が挿入されていた。モンテーニュは晩年これを削除して、後によまれるとおり「これらの詩句はよそに見られる」と書き加えたのである。アルマンゴーの想像にしたがえば、当時モンテーニュは、別にラ・ボエシの著作集刊行を予定していたのであろう。
 この章の献呈されているギッセン伯夫人グラモンというのはルーヴィニー伯爵の娘でディアーヌ・ダンドワンといわれた人、一五六七年十二歳で、グラモンおよびギッシュ(=ギッセン)の領主フィリベールの妻となった。非常に美しい婦人で、朝廷では「美しいコリザンド」という名前でもてはやされた。コリザンドというのは当時流行したスペイン小説『アマディス』の中に出てくる美女の名である。夫フィリベールが一五八〇年ラ・フェールの包囲で戦死し、モンテーニュはその遺骸をソワッソンまで送った(白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」解説参照)。夫人はその後アンリ・ド・ナヴァールの熱愛を受け、アンリが王位につくまで長くその愛人として、また賢明な助言者として、心身をささげた。モンテーニュはこの婦人をフィリベールに嫁する以前から知っており、尊敬もし信頼もしていた。アンリ三世とアンリ・ド・ナヴァールとを握手させるためにも、モンテーニュはしばしばこの婦人を利用した。モンテーニュが特にこの人をラ・ボエシの詩の紹介者としてえらんだのは、この人が詩の愛好者であることのほかに、当時カトリック色の濃かった夫人の名によって、ラ・ボエシが新教徒の一味であるように誤解されているのを解こうとしたのであろう。前章の延長としてそのように解釈できるように思う。『モンテーニュとその時代』四〇四―四一一頁その他参照。

 (a)夫人よ。私はここに私のものは一つもお目にかけません。それは皆すでにあなたに差上げてしまったからです。多少残っているものはあっても、そこにはもうお目にかけられるものは一つもないからでございます。しかし次の詩句は、今後いかなる場所に掲げられましょうとも、是非いつもそのはじめにお名前を冠せられ、この偉大なコリザンド・ダンドワンの御推薦の栄を得ますようにと、切に望む次第でございます。この贈り物はいかにもあなたにふさわしいものだと存じます。何となれば、フランスにはあなたほどよく詩を判断し、あなたほどよくこれをお用いになる婦人は、まことに稀だからでございます。またあなたのように、あの・他のもろもろの美とともに天からおうけになった・美しく豊かな調和おこえをもって、詩をいきいきと活かすことのできる婦人も、ほかには全くないからでございます。夫人よ。次の詩句はあなたが愛誦せられるに値します。まったくあなたもまた、これほど創意と風趣とに富み、名人の手になったことを証して余りある詩句は、未だかつてガスコーニュから生れ出たことがなかったという、私の意見に賛成して下さるであろうと思うのでございます。ですから、これが久しい以前に私が御姻戚のフォワ殿の御名の下に**刊行させましたものの残りにすぎないからといって、おきになってはいけません。まったく次の詩句こそ、ほんとうに、ラ・ボエシがもっと若かった頃に物したものだけに、何かしら一層溌剌たる・沸きたつような・ものを持ち、高貴な恋慕の情に燃えているのでございます。このことについては、夫人よ、いつかそっとお耳に入れることにいたしましょう。前に公に致しました詩句の方は、それよりも後に、あたかも彼が求婚の時代に、その妻のために作られたもので、そこにはもう何かしら夫らしい冷静さが感ぜられるのでございます。私は、詩が最も美しいのはその狂おしい乱れた事柄を歌う時である、と信ずるものの一人でございます***

(c)これらの詩句はよそに見られる。

* 当時詩は常に朗詠唱歌せられたのである。
** 一五七二年にモンテーニュが刊行した『ラ・ボエシ著作集』がポール・ド・フォワ伯に献呈されていることを指す。白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「書簡」第二および第六参照。
*** ラ・ボエシは青春時代に詩を愛好し、自らもドルドーニュと呼びなす不思議な女性のために恋愛詩をささげ、郷土のほまれとなっているドルドーニュの河とその恋人とを交互に歌っている。その詩が次に掲げようとして後に削除された二十九篇のソネ sonnets である。それはわれわれから見てあまり面白くないけれども、モンテーニュを含む当時のユマニストたちには相当魅力があったものと思われる。特にモンテーニュはこの詩を掲げることによって、ラ・ボエシの詩人的傾向を強調し、一方「奴隷根性」の作者のアナーキスト的思想をその蔭におしかくそうとしたものと考えられる。モンテーニュは、一五八八年以後、二十九篇のソネを『随想録』の中から削除する気になったのだが、その序文の部分をあえてそのままに残しているのは、ラ・ボエシの評判をまもろうとする気持はかわらなかったからであろう。詩そのものとしてはあまり面白くないが、『随想録』に対する註の意味をもたせて、白水社版『モンテーニュ全集』には第一巻の終りに和訳して付録した。なおラ・ボエシは、後にジロンドと呼ぶ女性とジロンドの河を詠ったが、このジロンドは後にラ・ボエシの夫人となった人のシンボルであった。これが、ポール・ド・フォワに献呈されたもの、モンテーニュが、「夫らしい冷静さが感ぜられる」と評しているのはそれである。
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第三十章 節制について



 この章の書かれた時期は確定できないが、一五八〇年前の比較的初期に属するであろうことは否定できまい。ところがここで、モンテーニュはすでにストア主義者ではない。彼はすでに彼の本領たる中庸の徳をたたえている。この章は、「レーモン・スボン弁護」の章その他とともに、すでにキリスト教徒のファナティスム打倒を目標としているように見える。

 (a)まるで我々の指先に毒でもあるかのように、我々はそれ自体善美な物事を、我々の取扱いによって腐らせる。余りに強烈な欲望をもってこれをいだくと、せっかくの徳が不徳になってしまうこともある。「徳の中には決して過度はない。そこに過度があれば、それはもう徳ではなくなるから」なんていう人たちは、言葉をもてあそんでいるのである。

徳を愛すること余りに度を越ゆる時は、
賢者も奇人と言われ正しき者も不正の者とならん。
(ホラティウス)

あれは哲学者の詭弁というものだ。人は徳を愛しすぎることも、正しい行為において極端に振舞うことも、あるのである。この見方は、「賢きにすぎるな。ほどほどに賢くあれ」という神の声と一致する。
 (c)わたしは或るやんごとなきお方が、普通そういう御身分の方々には見られないほどの御信心振りを示されて、かえってその信心の誉れを損われたのを見たことがある。
* アンリ三世を指すらしい。法王シクスト五世が、フランスの枢機官ド・ジョワイユーズに向って、「貴国の王様は、一貧僧のようにあろうとして、あらゆることをなさった。余はそういう貧僧のようにはなるまいとしてできるだけのことをした」と言ったと伝えられる。また枢機官ドッサ Cardinal d’Ossat の書簡中にも、「この王は、王的生活と同程度あるいはそれ以上に、宗教的生活をした」とある。快楽に対しては節度を守れというだけなら誰でも言うが、モンテーニュは徳も学問も信心も極端になってはいけない、快楽も適度に享楽すべきだと言うのである。
 わたしは天性中庸を得た穏健な人々を愛する。無節制はいくら善に向けられていても、わたしをおこらせないまでもびっくりさせる。それをどう呼んだらよいのか、わたしを困らせる。自分の息子を誰よりも先に訴え出て、彼を打ち殺す最初の石を運んだパウサニアスの母も、その息子が若い元気にまかせて敵陣に突っこみ、ちょっとばかり味方の列の先に出たからといって、それを死刑にした執政ポストゥミウスも、わたしにはそんなに公正だとは思われない。むしろ奇怪に思われる。だからわたしは、そんな野蛮な・そんなに高価な・徳は、すすめたくもないし真似たくもない。
 的を越す射手は、的に達しない射手と同じく、射損じているのである。またわたしの目は、急にまばゆい光の中に出るときは、急にまっ暗闇に入る時と同様に、あたりを弁じないのである。カリクレスはプラトンの中で、哲学の極端は有害であると言い、役に立つ範囲を越えてこれに没頭することを戒めている。また、「それは節制をもって学べば面白く有益であるが、しまいには人を野蛮不徳にし、宗教及び一般の規則をあなどらせ、典雅な交際や人間らしい快楽をば敵視させ、国を治めることも、人を救うことも、自己を救うこともできなくし、いかにも万人のあざけりを受けるにふさわしいものにしてしまう」と言っている。ほんとうだ。まったく深入りすると、哲学は我々の生れつきの自由を拘束し、そのくどくどしい詮索によって、自然がわれわれのために造ってくれた美しい平らかな道から我々をそれさせる。
 (a)我々が妻に情愛を注ぐのはきわめて正当なことである。けれども神学は、これをさえ抑えよ控えよ、という。わたしは昔聖トマスの中で読んだことがあったように思う。なんでも近親結婚の非を説いているところであったが、その数々の理由のなかに、「そのような婦人に対して注ぐ情愛は無節制に陥る危険がある。まったく、夫の愛があるべきとおりに完全無欠であり、その上さらに近親の愛が加わるならば、この増加が、この種の夫に理性の柵を突き破らせることは、疑いない」という理由をあげているのを。
 人間の生活を規制する学問、例えば神学とか哲学とかいうものは、何にでも口ばしを入れる。いかに私的な秘密な行為といえども、それら神学や哲学の認識と支配を免れるものはない。(c)それらの無遠慮を非難する者こそ、物しらずと言わねばならない。男とあそぶときには見たいだけ見させながら、療治を受けるときには恥ずかしがって隠そうとする女どもみたいである。(a)だからわたしは、神学者哲学者にかわって世の亭主どもに教えてやりたい。(c)中にはなお、あまりにもしつこい奴もいるかと思うから。(a)「自分の妻との接触から得る快楽だって、そこに節制がないならば咎められる。不正な交わりにおけると同じく放縦過淫におちる危険があるから」と。(c)初夜の熱情がとかく我々にさせがちなあの厚かましい愛撫にいたっては、妻に対して失礼であるばかりか有害である。はずかしいあられもない行いは少なくとも我々自ら教えたくはないものだ。彼女たちは我々の要求に対して常に十分醒めている。わたしは自然で単純な方法でなければ用いたことがない。
 (a)結婚は神聖で敬虔な関係である。だから、これから得る快楽は、慎みのある・真面目な・多少は威厳もこもった・ものでなければならない。それはある意味ではつつましい・良心にはじない・快楽でなければならない。そしてその主要な目的は生殖にあるから、そういう結果を希望しえない場合、例えば妻が年を過ぎているとか妊娠中であるとかいう場合には、果してこれに抱擁を求めてよいかどうかと疑いをいだいたものもある。(c)それはプラトンの筆法でゆくと殺人なのである。(b)或る人民は、(c)なかんずくマホメット教を奉ずる人民は、(b)妊娠中の妻に接することを忌む。月経中の妻を遠ざける人民もたくさんある。ゼノビアはただ一回しか夫にゆるさなかった。そしてその後は、その懐胎中を通じて夫をして赴くがままにまかせ、分娩を終って始めて再度の交わりをゆるした。これこそ気高い結婚の模範である。
 (c)実にこの快楽に飢え渇いている或る詩人〔ホメロス〕から、プラトンは次の物語を借りて来たのであった。「ユピテルは、或る日、きわめて熱狂的に妻にいどんだ。妻が寝台に上るのも待ちきれず、彼女を床の上におし倒した。そして、その狂おしい享楽のうちに、天上の会議において他の神々と約束したばかりの重大な決心をすっかり忘却して、臆面もなく、『かつて親たちの目をぬすんであれのつぼみを散らしたときと同じようによかったよ』と言った」。
 (a)ペルシアの王たちは、その妻たちをよんで酒宴の相手とした。けれども、いよいよ本当に酒がきいてきて、全く肉欲の赴くがままに従わねばならなくなると、彼女たちをその私室に追いやり、自分たちの無節制な欲望にあずからしめまいとした。そしてその代りに、かような尊敬をはらうにおよばぬ女どもをよばせた。
 (b)すべての快楽すべての恩恵がすべての人々にふさわしくはない。エパメイノンダスが或る素行の修まらない若者を牢にいれた。ペロピダスが、その男のために釈放方を懇請したが、エパメイノンダスはこれをしりぞけた。ところがその若者の女がやって来て同じことを願い出ると、これを聞きとどけた。そして、「これは女には与えてしかるべき恩恵だが、大将にはふさわしくない」と言った。(c)ソフォクレスは執政庁においてペリクレスと同僚であったが、たまたま美しい青年が通るのを見ると、ペリクレスに「おお見たまえ、美しい少年ではないか」と言った。するとペリクレスは、「それは執政でないものの言う言葉だ。執政たるものは、たんにその手のみならず、その眼をも清くせねばならぬ」と言った。
 (a)皇帝アエリウス・ウェルスは、その妃から、他の女たちの愛にいざないゆかれることを怨み責められると、こう答えた。「わたしはむしろ良心の命によってそうするのだ。結婚といえば尊厳なもので、狂暴な淫欲のことではないからね」と。(c)また我が国の昔の宗教書には、夫のあまりに淫らな愛を助長すまいとしてこれと別れた或る夫人の話が、尊げに記されている。(a)要するに、過度になっても無節制に陥っても咎められない・そんな正しい・快楽なんてありっこないのである。
 だが正直に言うと、人間くらい憐れむべき動物はないのではなかろうか。人間には、そのもって生れた性分のために、ただ一つの快楽さえ完全純粋に味わうことはほとんどできない。しかもなお、わざわざ理性によって快楽をおさえつけている。つまり学問と勉強によってその悲惨を増加しなければ、人間の惨めさがまだ足りないものと見える。

(b)我らは自ら運命の悲惨を増加す。
(プロペルティウス)

 (c)人間の知恵は甚だおこがましくも、我々に属している快楽の数や楽しさを制限することにつとめて得々としている。そうかと思うと、また都合よく上手に人為を用いて、我々のためにもろもろの悪を塗りかくし、その感じを和らげている。もしもわたしが一派の長であったなら、もっと自然な別の方法を、つまり真実で・安楽で・清らかな・別の方法をとったであろう。そしておそらく、それを制御できるほどに自分を鍛えたであろう。
 (a)何たることか。我々の精神の医者も肉体の医者も、あたかも互いに結託してでもいるかのように、いじめたり苦しめたりしなければ霊肉いずれの病をも療治する方法はないかのようにいっているのは。徹夜、断食、苦行帯、独り遠くにさすらうこと、終生の僧院暮し、むちしもと、その他さまざまの苦痛が、そのために採用された。しかも、それが本当に苦痛であるように、そこに刺すような苦しさがあるように、按排されているのである。(b)つまりガリオにおけるようなことになっては何にもならないからだ。この人は始めレスボス島に流されたのであるが、やがてローマに、彼がこの島で幸福な毎日を送っていること、刑罰として彼に課せられたことがかえって彼の幸福となっていることが伝えられた。そこでローマ人は考えを変え、彼をその妻の許に呼びかえし、かつその家にとじこもっていることを命じ、いよいよその刑罰を彼につらいものにした。(a)まったく、断食によっていよいよ健康と愉快とを増す者にとっては、また獣肉よりも魚肉の方がうまいという者にとっては、それはもう精進にも苦行にもならないのである。肉体の治療においても、薬を喜び味わって飲む者には、薬が薬にならないのである。苦味と苦痛とは、効きめを生ぜしめる条件なのである。生れつき大黄だいおうを平気で飲む者に、大黄の効きめはない。胃を治すには、胃を刺激するものを用いなければならない。だからここでは、物事はその反対のものによっていやされるという一般の規則が倒れる。ここでは苦が苦をなおすからである。
* キリスト教の精進では、鳥獣の肉は禁ずるが魚肉と卵はゆるされている。
 (b)こういう考えは、もう一つのきわめて古くからある考え、すなわち、あまねくすべての宗教においていだかれている・あの人身御供ひとみごくうによって天地の怒りを鎮めようという・考えと、多少の関係を持っている。(c)我々の父たちの時代にさえ、アムラトは地峡イスム奪取の際、その父の霊のために、六百人のギリシアの若者を血祭りにした。その血が故人の罪業消滅に役立つようにと願ったのである。(b)我々の時代に発見されたあの新世界でも、それはわが国に較べればなお純潔であるのに、この習慣はほとんどいたるところで行われている。すなわち、彼らの偶像はいずれも人の血をもって清められる。そこにはいろいろ恐ろしく残酷な実例もないではない。犠牲者を人は生きながらに焼く。半焼けになったところで彼らを燃えさしの中から引き出し、その心臓と腸とをつかみ取る。他のところでは、女をさえも犠牲とし、生きながらその皮膚を剥ぐ。そして、血の滴るその皮膚をひとに着せ、またその顔にかぶせる。また勇気忍耐の例も少なくはない。まったくこれらの犠牲になる哀れな老若男女は、その数日前に、自分が犠牲となる日の供物を得るために、自分で托鉢たくはつに出る。そしてその日になれば、周囲の者とともに歌いつ踊りつ、自分が殺される場所に向って進むのである。メキシコ王の使者たちは、フェルナンド・コルテスに自分たちの王の威光をわからせようとして、王は三十人の藩侯をもち、その藩侯がそれぞれ十万の兵を招集する力があること、王は天下にその比を見ない壮麗堅固な都城に住んでいること、などを語った末、年に五万の人身を神への犠牲とする旨を付け加えた。実際聞くところによると、この王が近くの大きな国々と戦争をしたのは、自国の若者たちを訓練するためばかりではなく、むしろ主として、捕虜をもって人身御供の人数をまかなおうためであったという。また、別の或る町では、そのフェルナンド・コルテスを歓待するために、一時に五十人の人間を皆殺しにした。それから、こんな話もある。同じ地方の或る民族は、そのコルテスに打ち負かされるや、和睦復交のために使節を送ったが、その使者たちは、こう言って三種の贈り物を彼にささげたそうだ。「殿様よ。ここに五人の奴隷を捧げます。もしあなたが血と肉とを食とする勇猛な神ならば、これを食べて下さい。あとからもなおたくさん連れて参りましょう。もし慈悲の神ならば、ここに香と羽毛がございます。もし人ならば、これなる鳥と果物とをお取り下さい」と。
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第三十一章 カンニバルについて



 カンニバルとは、厳密にいうとアメリカの人食人を指すのであるが、『随想録』の中ではもっとひろく、ペルーとメキシコとを除く新世界のすべての住民を指している。十六世紀には新世界発見にともなって諸種の宇宙誌、航海記等が著わされたから、モンテーニュもよくそれらの書物を読んだらしい。また一五六二年にはルアンにおいて(この章の終りに自ら書いているように)、かの地からつれてこられたアメリカ土人と直接問答もした。とにかくこの章はこうした経験と読書とが基となって、多分一五七七年前後に書かれたものであろう。「レーモン・スボン弁護」の章の重要な部分は一五七六年頃に書かれたのだとすれば、この章はそれよりやや遅れて書かれたものであろう。
「スボン弁護」の章の中では理性およびそれから来るすべてのものの虚しさが実証されたのであるが、この「カンニバル」の章の中ではその理性とか芸術とかいうものに対して自然がいよいよ賞賛せられ、さらに野蛮の賛美にまでも及ぼうとしている。ルソーの『エミール』も、ここに多くのものをんだと言われている。なるほどモンテーニュも、ここでは文明全体を、それが理性の所産であるかぎり、人為的なものとして全面的にけなしているが、これはむしろモンテーニュの一時的昂奮ないし放言であって、他のところではルソーほどに極端ではない。彼の真意は、ただ理性のはなはだしい行きすぎをしりぞけて、理性を伝統のもとに服せしめようとするだけなのである。モンテーニュの理性は純粋理性ではなく、いわば実践理性である。なお、「この国には全くいかなる種類の取引もない。……役人という言葉もなければ統治者という言葉もない」と言う項がほとんどそのままシェイクスピアの『あらし』に引かれているのは有名なことだが、モンテーニュの影響はこのシェイクスピア一人の上にとどまらず、むしろ当時の多くのイギリス戯曲家に及んでいることが、今では明らかになっている。Marston や Webster において特にいちじるしいと言われている。
 だが、それらのことよりも特にわれわれがここで注目したいのは、モンテーニュの深い人間愛である。彼は当時ヨーロッパ人に征服されたアメリカ原住民のことを『随想録』のあちこちで語っているが、彼は常にそれらの罪のない純真な土人にあふれる同情を注ぎ、また文明人の飽くなき搾取と卑怯な欺瞞について憤っている。第三巻第六章「馬車について」の章でも、スペイン人の非道を(当時は宗教上、政治上、フランスとこの国との関係はすこぶる微妙であったにもかかわらず)、敢然として難詰している。それにくらべると、この章の叙述はまだ穏やかな方である。しかしこの章の全体を静かに読んでゆくと、やはりわれわれ文明人は顔があげられない。そしてわれわれ二十世紀の諸制度や国際感情などについても深く考えさせられる。モンテーニュの諷刺の辛辣とその底にひそむ公憤とは、ときにヴォルテールを彷彿せしめるほどである。願わくはこの章とともに第三巻第六章をも併せて読まれたい。読者はそこにモンテーニュの深い慈悲心と、人間のずるさや残酷に対する烈々たる憤りとを、感ぜられるであろう。いずれもラ・ボエシの「奴隷根性」論の延長線上にある。

 (a)王ピュロスがイタリアに入ったときのことである。ローマ人が彼を迎え打とうとさし向けた軍隊の正々堂々たるさまを見てこういった。「いったいこれはどこの野蛮人か知らないが(まったくギリシア人は、すべての外国人をこう呼びなしたのである)、眼のあたり見るこの軍隊の排列には少しも野蛮なところがない」と。ギリシア人は、フラミニウスが自分たちの国に侵入させた軍隊についても、同じことをいった。(c)またフィリッポスも小山の上からプブリウス・スルピキウス・ガルバに率いられてその王国内に侵入して来たローマ軍の陣容が整っているのを望み見て、同じことを言った。(a)だから我々も俗論に捉われないように用心しなければならない。俗論を理性に訴えて判断しなければならない。決してそれを大衆の声によって判断してはならない。
 わたしが長いあいだ手もとに召使った男に、我々の時代に発見されたあの新世界の、ヴィルガニョンが上陸して南極フランスと名づけた地方に、十年とか十二年とか住んでいたというものがあったが、こういう果てしのない地域が発見されたということは、すこぶる重大な事柄であると思う。今後はもうこのような大発見はあるまいと、果してわたしに断言ができるだろうか。今度だって我々よりおえらい方々が、あのとおり見込み違いをなさったのだから。もしかすると我々は、胃の腑はちっぽけなくせに眼玉ばかりでかいのではあるまいか。つまり能力もないのに好奇心ばかり大きいのではあるまいか。我々は何もかもかかえ込むけれども、捉えるものはただ風ばかりである。
* ヴィルガニョン Villegaignon(1510-1571)、フランスの提督、マルト騎士団の騎士。この人の航海に随伴した二人アンドレ・テヴェ Andr※(アキュートアクセント付きE小文字) Th※(アキュートアクセント付きE小文字)vet, ジャン・ド・レリ Jean de L※(アキュートアクセント付きE小文字)ry がこの地方(今日のブラジル)についてそれぞれ報告を書いている。ヴィルガニョンがここに上陸したのは一五五七年のことである。
プラトンは、ソロンがエジプトの国サイスの町の神官から聞いたといって語ったことを、次のようにその本の中に引いている。「昔々あの大洪水よりも前に、ジブラルタル海峡の出口のま正面に、アフリカとアジアとを二つ併せたよりも広大な地域をかかえた、アトランティスという大きな島があった。この国の諸王は、ただこの島を領有しただけでなく、その勢力を深く奥地にまで及ぼし、すでにアフリカはエジプトまで、ヨーロッパはトスカナまでも、領有しておったが、その上さらにアジアまでも足をのばし、黒海の入口にいたる地中海沿岸のすべての民族を従えようと企てた。そしてそのために、スペイン、ガリア、イタリアを突破し、とうとうギリシアに入ったが、そこでアテナイ人に食いとめられた。しかしそれから間もなく、アテナイ人も彼らも、またその島も、もろともにかの大洪水の中に没した」と。このおそろしい大洪水が人間の住む地域に非常な変化をあたえたということは、いかにも真実らしい。例えば伝えるところによると、海がシチリア島をイタリアから、

(b)聞くならく、これらの地はその昔、
唯一つの陸続きなりしかど、或るとき、
激しき地震によって相離れたりと。
(ウェルギリウス)

(a)キュプロス島をシリアから、エウボイア島をボイオティアの陸から、それぞれ切り離したということだ。またよそでは、かつて離れていた陸と陸とを、その間の海峡を土砂で埋めながら結びつけたということである。

かつてはを押すことをえたる不毛の沼沢、
今やすきにすかれて近くの町々を養いつつあり。
(ホラティウス)

だが、あのアトランティスという島が我々の最近発見した新世界そのものだというのは、あまり本当らしく思われない。だってこの島は、ほとんどスペインに接していたのだ。それを洪水が千二百里以上も隔たった今の場所まで引離したということは、ちょっと信じられないではないか。それにすでに近代の航海者たちは、新世界が島ではなくて、むしろ一方東インドに接し、他方南北両極に接する大陸であることを、どうやら発見した様子である。たとえそこに間隔があるにしても、それはごくごく狭い海峡によってであるから、ただそれだけでこれを島とは呼べないであろう。
 (b)これらの諸大陸にも、我々の大陸にも、同じように、(c)或る時は自然な、或る時は(b)急激な、幾変遷があるらしい。現にわがドルドーニュ河が下流に向って右へ右へと押してゆきつつあること、二十年の間にそれが著しく進出してすでにたくさんの建物の礎をさらったことなどを考えると、たしかにこれだって異常な変動であると思う。まったく、この河は始終こんなふうに動いて来たのだとすれば、いやこれから先も同じことだとすれば、世界の形相はやがてすっかり変ってしまうであろう。けれども河というものはしょっちゅう変るものだ。或る時は右に或る時は左に氾濫し、或る時はまた元のまんま流れる。わたしはここに、我々がちゃんとその原因を捉えうる突然の洪水について語っているのではない。メドックの海ぞいのところで、アルサックの領主であるわたしの弟は、自分の領地が、海がその上に吐き出す土砂の下にだんだんと埋もれてゆくのを現に見ている。いくつかの家の棟はまだ見えているが、さしもの彼の領地と穀倉も、もはや非常に痩せた草原になってしまった。土地の者の言うところを聞くと、しばらく前から海がぐんぐん押し寄せて来て、すでにもう四里ばかりの土地を失ったという。この砂は海の先駆である。(c)現に、うねうねと動く大きな砂丘が、半里ばかりも海より先んじて押寄せて来るのが見える。陸地に侵入して来るのが見える。
 (a)もう一つ、人がこんどの新大陸の発見に結びつけたがる古代の証言が、アリストテレスの中にある。果してこの『前代未聞の不思議』という小冊子が彼のものであるかどうか怪しいが、そこにはこんなことが語られている。「或る幾人かのカルタゴ人がジブラルタル海峡を出て大西洋の唯中に漕ぎ出し、長いこと航海を続けたところ、とうとう或る大きく豊かな島が、全島こんもりとした森に掩われ、また広く深い河川にうるおされつつ、あらゆる陸地から遠く離れて横たわっているのを発見した。それ以来彼らをはじめ幾多の人々が、その地の温和でゆたかなのに心をひかれ、妻子を引きつれて続々とそこに移住するようになった。カルタゴの諸侯は、領内が少しずつさびれてゆくのを見て、なんぴともあの島に行ってはならぬ、と死刑をもって厳禁した。そして、それらの新しい移民たちを、その島から追い出した。それは、人の伝えるところによると、彼らが長い歳月の間に大いに繁殖して、しまいにカルタゴ人にとって代り、その国を滅ぼすにいたるだろうと恐れたからである」と。このアリストテレスの物語もまた、わが新世界とは照応しない。
 わたしの許にいたその男というのは単純粗野な男であったが、このような性質はいつわりのない証言をするのに適している。なるほど気のきいた人たちは、より綿密により多くの物事を見るけれども、とかくそれに註釈をつけたがる。いや、自分の解釈に箔をつけ、これを人に信じさせたいので、いくらか話を変えないではおられない。つまり、物事を決してありのままに示さない。必ずそれをひんまげて、自分の眼に映った顔つきをそれにおっかぶせる。そして、自分の判断に重味をつけ、そこに君たちの注意を引くために、とかく素材によけいなものをつけ加え、それを伸ばしたり拡げたりする。だからこの場合には、はなはだ正直な人間か、でなければ、むしろきわめて単純で・虚構の事柄をいかにも誠しやかに見せかけるだけの力のない・人間、少しも自分の考えをもたないくらいの人間、の方がいいのである。うちの男はちょうどそういう男であった。その上彼は、しばしばその旅の間に知り合った水夫や商人などにも会わせてくれた。だからわたしは彼の報告に満足する。なにも宇宙学者の言うことなどきくまでもないのである。
 我々にとっては、それぞれの訪れたところを物語ってくれる地誌学者たちが必要であろう。ところがそれらの人たちは、我々が見たことのないパレスチナを見たということを鼻にかけて、世界の他の部分の様子までも語る権利があるかのように思っている。わたしはめいめいが、その知っていることを、知っているだけ、書いてくれればよいと思う。それはこの問題だけに限らない。どんな問題についても同じことである。まったく、ほかの事にかけては誰でも知っているほどの事柄さえも知らない男が、ある河やある泉の性質についてはいくらか特別な知識経験をもっていることもあり得るのだ。ところがそういう男に限って、その小さな領分を案内するのに自然学汎論を書きたがる。実にこういう悪い癖から、いろいろと大きな不都合がかもし出されるのである。
 さて本題に立ちもどるに、わたしが聞いたところだと、かの民族の間には少しも野蛮なところはないと思う。ただみんなが自分の習慣にないことを野蛮と呼ぶだけの話なのだ。本当に我々は、自分の住む国の思想習慣の実際ないし理想のほかには、真理および道理の標準をもっていないようである。あそこにもやはり完全な宗教、完全な政体、完全なもろもろの制度習慣がある。なるほど彼らは野生である。ちょうど我々が、自然が独りで・いつもの歩みの間に・産み出した果実を野生と呼ぶのと同じ意味では。だが本当は、我々が人為によって変更し一般の秩序から除外したものをこそ、野蛮と呼ぶべきであろう。前者においては、真実な・そしてより有用で自然な・性能特質が、生々と旺盛に存在する。ところがそれらを、我々は後者において悪変し、ただ我々の腐敗した趣味を喜ばすようなものにしてしまった。(c)だがしかし、かの地の少しも栽培の加えられていないもろもろの果実にも、我々の果実に負けない微妙な滋味風味があって、我々の舌にも何ともいえない味わいを感じさせる。(a)芸術の方が我々の偉大な力強い母たる自然よりも尊ばれるということは道理に反している。我々は自然の作品の豊かさと美しさとの上にあまりにも我々の工夫を加えすぎて、かえってそれらを窒息させた。だが、それにもかかわらず、自然の純潔は至るところに輝いて、我々の無用なくだらない作為に大恥をかかせている

(b)つたつちかわざるにますますはびこり、
山桃は人なき里にたわわにみのる。
鳥の歌は、巧みなければ、いよいよ妙なり。
(プロペルティウス)

* ルソーの『エミール』の書出しはまさにこのモンテーニュのパラグラフから発している。
 (a)我々はあらゆる努力をつくしても、とうていちっぽけな小鳥が作り上げるその巣の精巧さと美しさとまたその効用とを、ただ真似をすることすらできないし、みすぼらしい蜘蛛が織りなすあの布を模造することすらもできないのである。(c)万物は、プラトンが言うとおり、自然か運命か技術かによって作られるのであるが、最も美しく偉大な物は前の二つのいずれかによって作られ、一番つまらない不完全な物が最後のものによって作られるのである。
 (a)だから新大陸の住民は、人知の陶冶をこうむることがほとんどなく、彼らの原始の素朴さになおはなはだ近くあるがために、あんなにも野蛮に見えるのである。自然の法則が、人間の法律にほとんど毒せられずに、今なお彼らを支配している。しかも、それがあんなに純粋に保存されているのを見ると、わたしはなぜそれがもっと早く、すなわち我々よりももっとよくそれを判断したであろう人間のいた時代に、知られなかったのかと、ときどき悲しくなる。リュクルゴスとプラトンとがそれを知らなかったのは何とも残念なことである。まったく、我々がこれらの民族において実見したものは、詩が黄金時代を美化して描いているその絵巻よりも、詩が人間の理想的な幸福状態として想像するその創意ものがたりよりも、遙かにすぐれているばかりでなく、哲学の理想や憧憬をさえも凌駕しているのである。人々は我々があそこで実見したようなああいう純粋単純な素朴は、いまだかつて想像することができなかった。また、我々の社会があのように、ほとんど何の人為も人工的鑞接ろうづけもなしに保たれるものだということも、信ずることができなかった。わたしはプラトンに教えてやりたい。「この国には、全くいかなる種類の取引もない。文学の知識もなければ数の観念もない。役人という言葉もなければ統治者という言葉もない。人に仕えるという習慣もなければ貧富の差別もない。契約も相続も分配もない。楽しい仕事はあっても苦しい労役はない。長幼の序などはなく人はみな平等である。着物も農作物も金物もない。酒も麦も用いない。うそ・裏切・隠しごと・吝嗇・そねみ・悪口・勘弁かんべんなどを意味する言葉は、未だかつて聞かれたことがない」と。さすがのプラトンもこれを聴いたら、いかにその理想の国が、この完全さに遠く及ばないかを知って驚くことであろう。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)これこそは今しも神々の御手より出でしばかりの人々※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。

(b)これぞ自然が与えし最初の掟。
(ウェルギリウス)

 (a)それに彼らは、きわめて快適ではなはだ温和な地方に生きている。したがって、わたしが実見者たちからきいたところによると、そこに病人の姿を見ることは非常に稀である。彼らはそこに、年とって足もとがよろよろしたり、眼がただれたり、歯がぬけたり、背中がまがったりしたものを、ただの一人も見なかったと、断言した。彼らは海に沿って住んでいる。陸の方は高くて大きな山々にかこわれ、その間のひろさはほぼ百里ばかりある。我々の見たことのないような魚肉や獣肉をゆたかにめぐまれていて、それらを火にあぶる以外には何らの調理も加えずに食べている。そこに始めて馬を乗り入れた人は、以前に幾度もここに旅して彼らとはすでによく知り合っていたのであるが、馬にのって現われたばかりに彼らをいたく恐怖させ、とうとう彼と識別される前に矢で射殺されてしまった。彼らの建物は大層ほそ長く、二、三百人の人を容れることができる。屋根は大きな樹の皮でかれていて、その一端は地に植えられ、他方は寄りあって棟を造っている。ちょうど我が国の・屋根が地まで伸びて側壁をも兼ねている・あの納屋のようである。彼らは非常に硬質の樹を持っていて、それで物を切る。それで剣も作れば、食物をあぶるときの串も作る。彼らの寝床は木綿の布で、ちょうど我々の船の吊床のように天井に吊されている。めいめいに一つずつ。まったく、妻も夫と別に寝るのである。彼らは朝日とともに起きる。そして起きるとすぐに一日分の食事をとる。まったく、朝食のほかには食事を取らないのである。彼らはその際飲料をとらない。それはスイダスが物語っている東洋の他のある民族が、飲料を食事以外の時にとるのと似ている。彼らは一日に幾回も、しかもその都度したたかに、飲む。その飲料は或る木の根で作られる。我々の薄色の赤ぶどう酒みたいな色をしている。彼らはそれを温めなければ飲まない。この飲料は二、三日しかもたない。ちょっと刺すような味をしている。少しものぼせない。胃にもよろしい。のみなれない者には緩下剤になる。要するに、慣れれば至極結構な飲物なのである。彼らはパンの代りに、何やら・漬けたコエンドロの種子みたいな・白いものを用いる。わたしはそれをなめてみたが、その味は甘くて少々ぼそぼそしている。まる一日舞踏して暮す。若い者どもは弓矢を携えて獣を狩りにゆく。一部の女たちはその間にあの飲料を煮る。これが彼女たちのお勤めなのである。老人の誰かが、毎朝、皆が食事を始める前に家中の者どもにお説教をする。こっちの端から向うの端へと歩きながら。家中を回り終るまで同一の祈りを幾度も繰り返しながら(まったく、それは長さ百歩にあまる建物なのである)。彼が人々にすすめることはただ二つ、「敵に対しては勇しくあれ。妻にはやさしく」ということである。だから彼らは、そのうたう歌の繰り返し句の中に、自分たちのためにあの飲物を温かく味良く用意してくれるのは彼女であると、感謝の心を述べることを忘れない。今では方々で、特にわたしの家にでも来られれば、彼らの寝床だの、彼らの帯だの、彼らが戦いに出る時に用いる木製の剣だの、その手首をまもる同じく木で作ったお籠手こてだの、それからまた、その音で舞踏の際拍子をとるという、一方の端のくられている大きな杖だのが、どんな形をしているか見ることができる。彼らは体じゅうをる。木か石のかみ剃りよりほかに持たない癖に、我々よりずっと奇麗に剃り上げる。彼らは霊魂の永遠を信ずる。神となるに値した霊魂は空のお日様の昇るところに、呪われたのは西の方に、在ると信じている。
* スイダス Suidas. ギリシアの文法家、辞典編者。
 彼らは何やら僧侶兼予言者みたいな者を持っているが、それは山の中に住んでいて人里に出て来ることはきわめて稀である。たまに出て来ると、たくさんの村々が総出で、荘厳な祭典と盛んな集会を催す(各家屋が、さきに述べたように、それぞれ一つの村をなしており、フランス里程で互いに一里くらいずつはなれて在るのである)。予言者は大ぜいの前に立って徳と義務を説く。だが彼らの道徳説は、畢竟ひっきょう、戦いにおける勇気・妻に対する愛・の二箇条を出ない。この予言者は、人々に、未来の出来事や彼らの企ての結果を予言し、あるいは戦争を奨めあるいは避けさせる。しかし、万一ぴったりと当らない場合には、万一その予言したこととちがったことが起る場合には、見つかりしだい八つ裂きにされてもかまわぬ、偽の予言者として罰せられてもかまわぬ、というほどの意気込みでするのである。だから、一ぺん仕損じた者は二度と再び現われることがない。
 (c)占いはこれ神の賜物である。であるから、これを乱用するのは罰すべき欺瞞であるといわねばならない。スキュティア人の間では、占い者が万一やりそこなうと、その手足に鉄の鎖をつけた上、いばらを満載した牛車の上に寝かせて、これをやき殺した。我々人間の知恵能力にまかされている事柄を処理する場合には、そこにどんな術策を用いようと許される。けれどもいま言った人たちにいたっては、我々の知識を越えた非常の能力を確信して我々を欺くのであるから、我々は彼らが約束の実をあげえない場合、その欺瞞の厚かましさについて彼らを罰するのは当然ではあるまいか。
 (a)彼らは、彼らの山々を越えて更に深い奥地に住む諸民族と戦争をする。彼らは素裸でこれに赴く。武器としてはただ弓矢と、我々の猪槍の舌のように先のとがった木製の剣とを、帯びるだけである。彼らの戦闘のねばり強さはまことに驚くべきもので、未だかつて殺戮と流血とに終らなかったためしはない。まったく彼らは、逃げることもこわがることも、まるで知らないのである。めいめい戦勝記念として、自分が殺した敵の首をもって帰り、これを家の入口にかける。捕虜をつかまえて帰ったものは、長いあいだこれを優遇し、思いつく限りの安楽をこれに与えてから、いよいよ知人たちを大勢かり集める。そして、その捕虜の片腕に綱をつけ、(c)傷をこうむるといけないから数歩離れて(a)自らその末端をとり、その友人の最も親しい者に同様にもう一方の腕を取らす。そして二人して、大勢の面前で、剣でもって彼を打ちすえる。それから、皆でその男を火にあぶって食ってしまう。そしてその肉片をその席に来なかった友人たちに贈る。これは人が考えるように、その身の養いとするためではない。そこが古代のスキュティア人と違うところである。ただこうやって最大の復讐をして見せるだけなのである。その証拠には、彼らの敵側にくみしたポルトガル人が彼らを捕虜としたときに別様の殺し方をしたのを見て、――すなわち彼らを帯の所まで土の中に埋め、その上半身におびただしく矢を射かけたうえ首をしめて殺したのを見て、――彼らはこう考えたのである。「これら別の大陸の者どもは、すでにわれわれの近隣にたくさんの不徳を教えていった。諸種の奸計において彼らは遙かにわれわれよりうわ手である。故なくしてこのような復讐を行うはずがない。きっとこれはわれわれが今まで行っているものよりもよほど辛いものであるに違いない」と。そしてそれ以来、彼ら古来の方式をすてて、このポルトガル方式をまねるようになったのである。わたしは、そのような行為の中に恐ろしい野蛮が存するのを認めて悲しむのではない。むしろ、我々がひとの罪を鳴らしながら自分たちの罪に対してあまりにも盲目であることを悲しむのである。死んだ者を食うよりは、生きた人を食う方が、はるかに野蛮であると思う。拷問責苦と称してまだ十分に感覚をもっている肉体を引き裂いたり、これを少しずつあぶったり、これを犬や豚に噛みやぶらせたりする方が(これは我々がただ読んだだけではなく、つい近頃この目に見たことである。しかも長年の仇敵の間においてでなく、隣人同胞の間に、なお困ったことには、信心とか宗教とかいう名目の下に、なされたことである)、すでに死んだ体をあぶって食うよりも、はるかに野蛮だと思う。
 なるほどストア学派の二頭目クリュシッポスとゼノンとは、死人の肉ならこれをどんな用途にあててもよい、これを食餌としてもよい、と考えた。我々の祖先も、昔アレシアにおいてカエサルに囲まれた時、年寄りや女たちや、その他戦争の役に立たないものの死体をもって、籠城の飢えを支えようと決心した。

(b)聞くならくガスコーニュの人たちは、
かかる食餌を用いてその齢をのべたり。
(ユウェナリス)

(a)お医者さんたちも、我々の保健上のいろいろな用途に、人肉を用いることをはばからない。外用にもしたし内用にもした。けれども裏切りや不信や圧制や残酷など、我々が日常犯している罪悪をも許すような、そんな無茶な意見は、古往今来、いまだかつてなかったことである。
 だから我々は、理性の規則に照らして彼らを野蛮とよぶことはなるほどできるけれども、我々と比較してそういうことはできない。我々の方があらゆる野蛮さにおいて彼らをはるかに越えているのだから。彼らの戦争は徹頭徹尾高潔であって、この人間の病がゆるされる限りの申訳と美しさとをもっている。彼らの間では、戦争はただ一つ徳の尊重ということ以外には、何らの根拠ももたないのである。彼らは新しい土地を征服しようとして戦わない。まったく今なお彼らは、労苦しないでも必要なものは何でも得られるという、自然の豊かさを満喫しているし、その国境を拡張する必要がないほどにゆたかなのである。今でも彼らは、自然の要求が命ずる以外のものは少しも欲望しないという、幸福な状態にあって、結局それ以上のものは彼らには余計なものなのである。彼らは一般に、同年輩の者同士は兄弟と呼び合い、年下のものを子と呼んでいる。そして老人たちは皆のものの父なのである。これらの父たちはその共通の相続者たちのために、このゆたかな財産を共有財産として譲る。それは、自然がもろもろの被造物を産み出すときにそれらに賦与するものと、全然同じものなのだから。隣国の民が山を越えて彼らを攻めに来るとき、そして彼らを打ちまかして去るとき、勝った者の得るところはただ光栄だけである。武勇と徳とにおいて、なお自分の方が上だという優越だけである。まったく、彼らは負けた者の財宝などは大してほしくないのである。彼らはそのまま帰ってゆく。その国には必要なものは何一つ不足していないし、そのうえ自分たちの運命を喜んでうけかつこれに満足するという、偉大な特質をも備えているからだ。こっちが勝っても全く同じことである。その捕虜に対しては、負けたという承認告白を求める以外に何らの賠償も要求しない。けれども捕虜の方もさるもの、百年にただの一人だって、その言葉の上でもその顔つきの上でも、その絶対不敗の勇気を、ほんのちょっぴりたりとも譲るものはない。それくらいならばむしろ死んだ方がよいと考えない者はない。ただの一人だって、助命を乞うよりは殺されて食われてしまう方がよいと望まぬ者はない。彼らはこれらの捕虜を、全然自由にさせておく。それだけ命に未練をもたせてやれると思うからである。そして、やがてきたるべき死の恐ろしさや、その時に加えらるべき責苦のことや、そのためのいろいろな用意のことや、彼らの四肢を切断することや、彼らの体を酒宴の膳に供することなどを、始終語りきかせる。それはみな、ただただ、彼らの口から何かの弱音を吐かそうため、彼らに脱走の欲望をおこさせようためなのである。「やつらをとうとうこわがらしてやった。やつらの勇気を挫いてやった」という優越感をえようためなのである。なるほどよく考えてみると、実にこの一点に真の勝利は存するのである。

(c)敵の霊を制してこれに敗北を告白させるよりほかに、
真正の勝利なし。
(クラウディアヌス)

 ハンガリア人はきわめて戦争の好きな戦士たちであったが、昔は、敵が助命を乞えば、その上これを追わなかった。まったく彼らは、一度この告白をもぎ取りさえすれば、危害も加えなければ身代金もとらないで、敵を逃がしてやったものである。せいぜい、「これからは手向い致しませぬ」という誓約をさせるだけであった。
 (a)我々は敵よりもかなりいろいろな長所をもっているが、それらは借りものの長所であって我々自らのものではない。より強い腕や脛をもつことは人足にんそくの特質であって徳の中には数えられない。敏捷さもまた、命のない・肉体的な・特質である。敵をつまずかせたり日の光で彼らの眼をくらませたりするのは、これは運命の働きである。剣術に堪能であるということも、それはただの技術であり曲芸であって、卑怯な無価値な人間にさえひょっとすると持ち合わされる。男一匹の真価は勇気にある。意気にある。そこに男の真の名誉は宿るのである。武勇とは腕や脛の強さではなくて、気魄の強さである。それは我々の乗馬や武器の価値には存しないで、我々自身の価値に存する。倒れてもその勇気を失わない者は、(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)倒れてもなお、膝行して戦う※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(a)いかに死の危険がその身に迫っても少しも落着きを失わない者、霊魂を天にかえしながらもなお平気で敵を睨みつける者は、降参したといっても我々に降参したのではない、ただ運命に降参したのである。殺されても、負かされたのではないのである。
* モンテーニュはここに死んだラ・ボエシを回想し、真のジャンティヨムの肖像を描いている。
 (b)最も勇敢な人が、ときに最も不運である
* これもまた「一将功なって万骨枯る」の語と共に、ラ・ボエシの不遇夭折を回想している。
 (c)だから、敗けいくさにして勝ち軍に劣らず堂々たるものがある。太陽がその眼に見た最も美しい勝利といわれる、あのサラミス、プラタイアイ、ミュカレ、シチリアの、四つのいずれおとらぬ大勝利も、その光栄のすべてをあわせても、とうてい、あのテルモピュライの谷あいにおける王レオニダス及びその指揮下の戦士の敗戦の光栄にはかなわなかった。
 かつて誰が、名将イスコラスが敗戦に向って突っこんだときのように意気軒昂に、戦勝へと突き進んだか。誰が、イスコラスがその身の破滅をはかった時のように巧みを凝らし心血を注いで、その身の安泰をはかったか。彼はアルカディア人に対して、ペロポネソスの或る細道を守るべく委任されていた。しかしそれを完うすることは、地の利から見ても兵力の差からいってもとうてい不可能であると思ったし、また敵の前に打って出たら最後、そのままそこを動くことができなくなることも明白であったし、それにその任を果しえなかったら、己れの武名にかかわるばかりでなくラケダイモン全体の名誉にもかかわると考えたので、彼は攻防両極のまん中を採って、次のような決心をした。すなわち、隊中の若くて元気なものは祖国の守りにあてるためにこれを送りかえし、自分はそれが失われてもあまり困らない者どもとともに、この細道を固守しよう、そして死を賭して敵にできるだけの損害を与えてやろう、と決心したのである。ことはそのとおりになった。まったく、やがてアルカディア人の重囲に陥るや、さんざんに敵を斬りまくってから、彼及びその部下のものは、ことごとく敵の刃に突きさされて死んだのである。勝者のための凱旋塔がこの時くらい、敗者のためにこそ、かえってふさわしいと思われたことがあったろうか。ほんとうの勝ちはその戦い方にある。その身を全うすることにではない。武徳の誉れも戦いそのもののうちにあり、討ったの討たれたのにあるのではない。
 (a)前の話に立ちもどると、それらの捕虜たちはどのような目にあわされても、どうしてなかなか降参するどころではない。かえってその監禁されている二、三カ月の間を、世にも愉快そうな顔をしてすごすのである。彼らは捕獲者に向って、早く我らを試みにあわせよとせき立てる。彼らに向って、挑む、罵る。その卑怯を咎める。また、幾度自分たちとの戦いに敗れたかを数え立てる。わたしは一人の捕虜が作った歌を一つ持っているが、そこにはこういう一節がある。「みんな思いきってやって来な。そして集まっておれの肉をくらえ。まったくおれの肉をくえば、お前たちは自らの父祖の肉を一緒もろともに食うことになるぞよ。お前たちの先祖の肉こそ、このおれの肉体のかてであったのだぞ」「これらの筋肉、これらの血脈は」となお捕虜は言う。「とりもなおさずお前たちの筋肉と血脈だぞ。哀れにも気の狂った者どもよ。ここにお前たち自らの先祖の肉の髄が、なお残りとどまっているのを認めないか。よくよく味わって見よ。お前たち自らの肉の風味を感ずるであろうぞ」と。少しも野蛮なところがない名文句ではないか。彼らが死につくありさまを描き、そのなぶり殺しにあう時の振舞いを述べたものを見ると、捕虜は自分を殺すものの面上に唾を吐きかけ、はったとこれを睨みつけている。実に彼らは最後の息を終るまで、言葉によりまた態度によって、挑みまた嘲ることをやめないのである。いや、ほんとうに、我々にくらべて、これこそいかにも野蛮な人たちである。まったく、彼らが本式の野蛮人でなければ、我々の方が野蛮人にならなければならない。我々の振舞いと彼らの振舞いとの間には実に非常な隔たりがある。
* この時代には、被告に対して拷問が行われたし、罪人に対してはもちろん残忍な責苦が加えられた。また、新旧両教の間には争いが絶えないで、かの「サン・バルテルミの殺戮」などのような血なまぐさい事件もあった。スペイン人は、この新世界において、そこの住民に非常な圧迫を加えた。これらの事柄を読者は念頭におかれるがよい。なおその上に、我々の二十世紀の現状を反省することも大いに必要であろう。
 この国の男はたくさん妻を持っている。武勇の誉れの高い者ほどたくさんの妻を持っている。彼らの夫婦の間にはこんな珍しい美風がある。すなわち、我々の妻たちがひたすらあだし女の愛情や親切を我々から遠ざけようと骨折るのと同じ程度に、彼らの妻たちはかえってそれらを、自分の夫のために得ようと心を砕くのである。何事よりも夫の名誉を大事と考え、あらゆる心遣いをして、できるだけ多くの女を夫のために得ようとする。つまりそれが夫の徳の証拠になるからである。
 (c)我々の妻たちは、まあ奇跡! とおどろいて叫ぶであろう。だがそれは奇跡でも何でもない。これこそ本当の夫婦の道なのだ。最も高級な夫婦の道なのだ。だから聖書を見ても、レアやラケルやサラやヤコブの妻たちは、いずれも自らの夫にその最も美しい腰元をさし出したとある。またリウィアはつらさを忍んで、アウグストゥスの欲望をたすけた。王ディオタロスの妃ストラトニケは、その召し使っている最もきれいな腰元を夫の用に奉ったばかりでなく、その子供たちを大事に養育し、彼らに父の位を継がせるための助力をした。
 (a)万一、人がすべてこうした事柄を、ただ単に彼らの習慣への屈従によってなされたもの、古来の習慣の重圧の下に何らの推理も判断もなしになされたもの、また、別様の分別ができないほどに暗愚な心を持ったればこそできたもの、と考えてはいけないから、ここに彼らの知能のほどを示す若干の特徴を挙げなければならない。今わたしが読み上げた軍歌の一つのほかに、わたしはもう一つ恋の歌を持っているが、それはこういう意味で始まっている。「蛇よおまち。ちょっとおまち。わたしの妹が、お前の体の色どりをお手本に、わたしのいとしい人への贈り物にと、立派な帯をこしらえてくれるように。いつまでもそのままにあれよ、おまえの美しさよ。おまえのしとやかさが、どの蛇にもまして人みなにすかれるように」。最初の一節はこの歌の繰り返し句になっている。さてわたしは、詩には相当親しんでいるから、こう判断ができる。この詩想には少しも野蛮なところがないばかりでなく、アナクレオンにそっくりである。それに、彼らの言葉はやさしい響きのよい言葉で、ちょっとギリシア語の語尾のようにひびく。
 こういう彼らの中の三人の者が、こちらの悪風に染まることが他日いかに彼らの平和と幸福とをそこなうかを思わず、我々との交際からやがておのれの破滅が生れようとも知らず、わたしの見るところではその破滅はすでに相当進んでいるのに、あさましいことにただ新しいもの見たさの思いに欺かれ、とうとう、フランス見物のため自分たちの静かな天地をすてて、前の王様シャルル九世がそこにおいでの頃、ルアンの町にやって来た。王様は長時間彼らとお話をされた。人は彼らに、我々の習慣、我々の儀式、美わしいこの都の有様を見せた。それから後に、誰かが彼らの意見を求めた。そして何に一番感心したかを知ろうとした。彼らは三つのことを答えた。三番目をわたしは忘れてしまって残念であるが、始めの二つはいまだに覚えている。彼らはこう言った。「第一に不思議千万に思うのは、王様のまわりにいる・武装した・髯面の・たくましげな・大勢の・大男たちが(これは近衛のスイス兵のことを言っているらしい)、一人の少年の前に平身低頭すること、そして誰ひとりこれらの大男の中のたれかを選んでその王と戴かないこと、である。第二には(彼らはお互いに他人のことを半分とよびなす習慣を持っているので)、この国では、一方にあらゆる種類の安楽にみちあふれている者があるかと思うと、それらの人たちの半分が貧と飢えとのために痩せ衰えて、彼らの門前に食を乞うていることである。しかもかくまでに窮迫したこれらの半分が、よくそのような不正を堪え忍んで、もう一方の富める人たちののどをしめようとも、その家に火を放とうともしないのが、何とも不思議でならない」と。
* これは一五六二年の出来事で、シャルル九世は当時十二歳の少年であった。年表参照。
 わたしも彼らの一人ときわめて長い間話をした。けれども通訳はわたしの言葉についてこられなかったし、はなはだ愚かな男でよくわたしの考えがつかめなかったと見え、わたしは何も面白い話が引き出せなかった。ただ、「あなたは仲間の間に長たることから一体どんな特権をうけているか」ときいたところ(まったく彼は酋長であって、わが水夫たちは彼を王さんとよんでいたのである)、「戦争の場合に先頭に立つことだ」と言った。「幾人ばかりを従えてゆくか」ときいたところ、彼はある広さの地面を指さした。つまり、その地面にはいるだけの人数を意味したのであって、それはおよそ四、五千人と察せられた。「では戦争がすむとあなたの権威は全く消滅するのか」と問うたところ、「いや、後になっても、かつて自分が指揮した村落を訪れれば、皆が自分のために森の中に通路をひらいてくれるから、楽々とそこを通ることができる」と言った。
 いずれもみなそう見当がはずれてはいない。だってさ、彼らはまったく股引なんかはいてはいないのだからね
* 我々は当章、或いは第一巻を通じて、三つの肖像を見る。ラ・ボエシ、モンテーニュ、そしてカンニバル。いずれも堕落した当世に容れられぬ有徳の士、古代から十六世紀のフランスに追放されて来た薄命の人たちである。カンニバルこそは当世の汚辱にけがされることなく、生き残れる真の自由人であるとモンテーニュの眼にはうつったのである。
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第三十二章 神意をおしはかるには慎み深くすべきこと



 モンテーニュはすでに第一巻第十一章や第二十七章において占いや予言について考察し、前章においても人間の認識の限界についてふれたが、この章においてはいよいよ人間が第一原因をさぐろうとしてもとうていおよばないことを説き、人間が形而上の問題について勝手な早まった判断を下すことに抗議している。なおよく読んで見ると、その目ざす所がキリスト教徒であること、そして、当時彼らが盛んに行った戦勝祈願や戦勝感謝の行事に対して強い反感をいだいていたことが察せられる。『随想録』は今や時と処を越えた不朽の古典であるが、当時は立派なアクチュアリテをもった辛辣な社会時評であった。

 (a)詐欺がほんとうに幅をきかすところは不可知の世界である。なぜなら第一にそこでは奇怪そのことが信を与えるからである。それに不可知の事柄はまったく我々の普通の推理を越えているので、我々の方は始めからそれをくつがえす方法をもたないからである。(c)だから、プラトンも言っているが、人間の性質を語るときより、かえって神々のそれを語る時の方が、人を承服させやすいのである。つまり聞き手の無知が、隠れた事柄の取扱いに広々とした舞台と絶対の自由とを許すからである。
 (a)そこで最も人にわからない事柄が一番堅く信ぜられることになり、いいかげんな作り話を語る者どもが、例えば、錬金術師、予言者、占星師、手相見、医者、※(始め二重山括弧、1-1-52)その他これに類する者※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ホラティウス)が、最も確信ある人ということになるのである。いや、まだあった。わたしは思いきって、神慮のほどを始終解釈したり批評したりする人々、何か事あるごとにその原因を発見し・御業の解しうべからざる動機を御心の奥にさぐる・ことを職とする一団の人々をも、同じ仲間に加えたい。事件は絶えず変化したり食いちがったりして、彼らを右に左に、西に東に、かけめぐらすにもかかわらず、彼らは相も変らず自分のボールばかり追っかけている。そして一つの筆で白く塗ったり黒く塗ったりしている。
 (b)インドのある人民の間には、こんな賞むべき習わしがある。すなわち、何かの衝突とか会戦とかで負けると、何か不正の行為でもしたかのように、皆して彼らの神である太陽に向って許しを乞う。つまり、自分の不幸を神のみ心によるものとし、自分の判断や推理はその下位においているのである。
 (a)キリスト教徒たるものは、万事を神から来るものと信じ、神の測り難い知恵を肝に銘じつつ、それらをそのまま受け容れればよいのだ。したがって、それらがどんな形のもとに与えられようと、常にそれらをよい意味にとりさえすればよいのだ。けれども、よく世間で見かけることではあるが、我々の企ての好運や成功によって我々の宗教を固めたり支えたりしようとするのは悪いと思う。我々の信仰は他にたくさんの根拠をもっている。なにも出来事によってこれに権威を添えなくてもよいのである。まったく民衆は、こういう・いかにももっともらしく・彼らの好みにかなった・論拠に慣れると、一朝事件が彼らに不利に転ずる場合、その信仰をぐらつかせる危険がある。例えば我々の宗教戦争において、かのロッシュラベイユで勝利をえた新教徒はこの事件をよろこびたたえ、この偶然を自派の宣伝に利用したが、後にモンコントゥール及びジャルナックで悲運に遭遇すると、早速これは厳父の愛児に対する鞭であると弁明した。もちろん、こんなことで皆の人たちを得心させることはできなかった。たちまちに、「やあ、一袋で二袋分のひき賃をせしめるみたいだ。同じ一つの口で温めたり冷ましたりするみたいだ」といいはやされた。むしろ、事実のほんとの原因を語りきかす方がよいのである。我々は二、三カ月前にドン・ファン・デ・オーストリアの指揮の下にトルコ人に対してなされた海戦において、実に立派な勝利をえたのであるが、今まで幾度となく戦っては彼らに負けていたのも思召しであったろう。つまり、みわざを一々我々の天秤にかけるのはこのとおりむつかしいことで、そこには必ず計り減りがある。あの異端説の二巨頭アリウスおよびその法王レオが、時を異にしながらよく似たふしぎな死に方をしたことに理屈をつけ(まったく二人とも、問答の最中にお腹が痛くなり、便所にかけこんで落命したのである)、ああいうあさましい死に方をしたのは神罰であると極論する者は、同じく便所で殺されたヘリオガバルスをも、なるほどそれにつけ加えることができよう。だがそれならば、イレナエウスが同じ運命にあったのはどうしたことか。(c)神は我々に、現世の幸不幸以外に、善人にはなお別の希望があり悪人にはなお別の恐怖があることを教えようと思召され、幸不幸をその幽玄な御意のままにあんばいし給い、我々がそれらを愚かしく利用することができないように遊ばされたのである。だから、人間の理性に基づいて自分の好運を誇るような者どもはどうかしているのだ。我々は一ぺん突けば二度突かれる。聖アウグスティヌスは、その論敵に対してこのことを立派に証拠だてた。それは理性に訴えるよりは記憶に訴えて決せられるべき紛争である。(a)お日様が我々にわけてくださるだけの光で満足しなければならない。目をあげてより多くの光を体内に取り入れようとする者よ。その不遜のむくいとしてその視力を失って驚くまいぞ。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)誰か神の聖慮を知るものあらんや。誰か主の御心の何たるを解せんや※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ソロモンの知恵)。
* これは異端者でも放蕩者でもなく、リヨンの司教で殉教者であった。
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第三十三章 生命をすてても快楽を避けること



 (a)わたしは古人の意見の大部分が、「生きるのに喜びよりも苦しみが多くなったら、死ぬべき時が来たのである。辛い苦しい思いをしながらなお命を保つのは自然の掟にも反することだ」という点で一致するのを見た。それは次の古い格言が言うとおりである。

静かなる生、しからずば、楽しき死。
生命が重荷とならば、死ぬこそよけれ。
不幸の中に生きんよりは生きざるをよしとす。

 けれども、こういう死の蔑視をさらに押し進めて、名誉や富や権勢やその他我々が運命の恩寵と呼びなすものを解脱するためにそれを用いよう、とする考え、あたかもただ理性だけで、この新手の加勢をえないではとうてい我々に以上のものを放棄する気をおこさせるには足りない、とする考えにいたっては、さすがにこれを、ひとに勧めるものも自らこれを行うものも、見たことがなかったが、このほどとうとう次のようなセネカの一節が手に入った。それを見るとセネカは、皇帝の側近において権勢のすこぶる高かったあのルキリウスに向って、その淫蕩で豪奢な生活を変えるよう・現世の野心を捨てて孤独静穏な哲学的生活に入るよう・すすめ、ルキリウスがその困難なわけを幾つかあげると、こういっている。「わたしの考えでは、君はそのような生活を捨てるか、でなければ全然生命を捨てるか、どっちかにしなければならぬ。わたしはどっちでも楽な道をとるようにとすすめているのだ。すなわち、『結びそこねたものはこれをたち切るより解く方がよい。だが、どうしても解くことができない場合にはこれをたち切るがよい』と言っているのだ。どんな臆病者だって、いつまでも落ちそうにぶら下っているよりは、かえってひと思いに落ちたいと望まない者はない」と。わたしはこの勧告を、なるほどこれは厳正なストア学にふさわしいわいと思いそうになった。ところがなお不思議なことに、それはエピクロスから借りたものであった。エピクロスは、イドメネウスにそっくり同じことを書き送っているのである
* モンテーニュの初期におけるストア主義と見られているものも、実はエピクロス説なのだとアルマンゴーは考えている。
 だがしかし、わたしは我々近代人の間にも、いささかこれに類する事柄を見たことがあるように思うが、さすがにそこにはキリスト教的節度があった。ポワチエの司教聖ヒラリウスといえば、アリウス異端説の敵として有名な人であるが、かつてシリアにあった時、その母とともに海のこちらにとどめ置いた一人娘のアブラが、その国のいずれも有名な大名たちから、妻にと懇望せられている由を告げられた。彼女は教養深く・みめ美わしく・富んでもいるし・また花の年頃にあった・からである。父は娘に次のような手紙を(それは今も残っているが)書き送った。「人々がそなたに申出る栄耀栄華に心をひかれるな。父はそなたのために、この旅の空で、彼らよりもずっとすぐれたふさわしい配偶を、彼らとは全く別様の力量と立派さとを持っている夫を、見出した。この男こそ、そなたにすばらしい衣裳と宝石とを贈るであろう」と。聖ヒラリウスの目的は、娘に世間的な快楽にあこがれ耽る心をすてさせ、彼女を挙げて神に捧げようとするにあった。しかし、その一番近い一番確かな道は娘の死であると思われたので、彼は日夜神様に、「どうぞ娘をこの世から御許に召し上げ給え」と祈願した。願いはかなえられた。まったく、彼が帰国の後、ほどなく娘は天に召されたのである。そして父はこれを殊のほかに喜んだのであった。実にこの人こそは、他の誰をも凌いでいると思う。なぜなら、普通の者がいよいよ最後でなければ取らない手段を、彼は最初から用いたのであるから。しかもそれを、ただ一人のまな娘に対して用いたのであるから。けれどもわたしは、この物語の結末をわたしの問題とは関係がないけれども省略したくない。聖ヒラリウスの妻は後にその夫から、娘の死が夫の計画によって起ったものであり、さらにこの世に在るよりもここを去る方がいかに娘にとって幸福であるかを聞かされると、たちどころに天上における永遠の幸福を悟り、自分もまた娘のようにしてほしいと夫に哀願した。そして、神が夫婦の祈りをきき入れて、やがてほどなく彼女をみ許に召し給うたときには、この死もまた、二人から非常な満足をもって迎えられた。
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第三十四章 運命はしばしば理性の道に合流すること



 (a)運命は転変常なきものであるから、どうしてもいろいろとちがった顔かたちで我々の前に現われる。だが正義が次の場合ほどはっきりとあらわれたことがあったろうか。ヴァレンチノ公はコルネットの枢機官アドリアノを毒殺しようと決心し、父である法王アレクサンドロス六世とともにヴァチカンにおける彼のもとで晩餐をすることとし、まず毒酒数本を送りとどけ、料理長にそれを大切に保管するよう命令した。法王はその子に先んじて到着し、飲み物を所望したので、その料理長は、いまの酒を、ただ良い酒であるがために大切にせよと言われたものと考えていたので、早速これを法王にすすめた。また公自らも、ちょうどその間食が始まろうとするところに来合せて、毒酒であろうとは夢にも思わず、もろともに飲んだ。そのために父法王は急死し、息子の方も長いこと病に苦しんだ末、さらに悲惨な最期をとげることになった。
* この「運命」という語がローマの法王庁で問題になったことは有名であるが(私の『モンテーニュ伝』二三八頁、白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」のローマ滞在中の記述、及び本書第五十六章解説及び註参照)、当時一般に fata とか fatum とか書くことは御禁制であったので、世間の利巧な著者たちは、本文には facta と印刷させておいて、後に正誤表の中で facta, lisez fata などとした位であったという。だがモンテーニュは平気でいたる所にこの語を用いている。全三巻を通じて少なくとも三百回は出てくる。後出一の四十七参照。
 ときどき運命は際どいところで我々を翻弄するようである。当時ヴァンドーム殿の旗手であったエストレ侯と、アスコ公の軍に代将たりしリック侯とは、党派を異にしながら、二人ともフングゼル殿の妹御に思いをかけておられたが(これは境を接して住む人たちの間によく起ることである)、とうとうリック侯の方の勝ちとなった。だが、御婚礼の当日、なお困ったことには御寝の直前に、花婿殿はふと花嫁御のために槍のお手なみが見せたくなり、サン・トメールの近くの小競合こぜりあいに出かけてゆかれた。ところがそこではエストレ侯の方がお強くて、まんまと花婿殿を捕虜とりこにしてしまった。こうなっては仕方がない。花嫁御おん自ら、

幾冬の長き宵々が彼らの恋をあかしめる前に、
はやくもその新しき夫の腕の中からもぎとられて、
(カトゥルス)

礼を厚うして、どうぞわが夫をお返し下さいと、願い出なければならないことになった。もちろんエストレ殿はその乞いをお容れになった。昔からフランスの貴族は貴婦人に対して何一つ拒んだことがなかったのだ。
 (c)またこんなのは巧妙な運命とでもいうべきであろうか。ヘレナの子コンスタンティヌスがコンスタンティノポリス帝国を建て、その後数百年を経てヘレナの子コンスタンティヌスが今度はその国を終らせた。
 (a)ときに運命は我々の奇跡と張合ってみる。伝えるところによると、王クロヴィスがアングレームを包囲すると、城壁は神様の恵みによってひとりでに崩れおちた。またブーシエが何かの本から借りて来た話によると、王ロベールがどこやらのお城を包囲されたとき、しかもサン・タニャンの祭典に御臨席になるためオルレアンに赴かれたそのお留守中、ミサのまさにたけなわな頃、ちょうど王がご拝礼をなされたその時に、お城の壁はどうもしないのにひとりでに崩れ落ちたという。わがミラノの戦いの時には運命が全然逆に働いた。まったく、大将レンツォは我々のためにアロナの城を攻囲し、その大きな城壁の下に坑道を掘ったのであるが、そして城壁は一度突然宙に飛び上ったのであるが、しかしそのまま、崩れもせずに、そっくり元の礎の上におちて、籠城軍は少しも損害をこうむらなかったのである。
 ときに運命は医術を行う。フェレスのイアソンは胸部の膿瘍のうようのために医者から見放されたが、どうかして、死によってでもいいから、その苦痛から逃れたいと思い、戦争に出て捨身になって敵のただ中に切り込んだ。ところがちょうどよくその胴なかを傷つけられたので、膿瘍はつぶれて全快した。
 運命は絵の道にかけて画家のプロトゲネスよりも名人ではなかったろうか。この人は衰え疲れた犬を描き上げたとき、他のすべての点では満足したが、犬の口もとのよだれと泡とが思うようにならなかったので、自分の作品が癪にさわりいきなり海綿をとりあげた。そして、それはいろいろな絵具を吸っていたので、全体を塗りつぶすつもりでこれを画面にたたきつけた。ところがどうだろう。運命はちょうどよくそれを犬の口元に持って行った。そして芸術の達しえなかったものを完成した。
 運命はまた、我々の決心を是正したり矯正したりする。イギリスの女王イザベルは、王子に味方し自分の夫に叛くために、軍隊を引きつれて、ジーランドから再び海をわたってその王国にお帰りになる途中、もしその目指す港に到着されたなら、忽ちそこに待受けていた敵のために失われたことであろう。ところが運命は彼女の意に逆らってよそに彼女を吹き送ったために、そこにつつがなく上陸せられた。また犬をめがけてつぶてを打ったところ、はからずもそれを継母にあててこれを殺した古人が、

運命は我々よりも気転あり。
(メナンドロス)

という名句を吐いたのも、むべなるかな。
* フランス王フィリップ・ル・ベルの娘、イギリス王エドワード二世の妃。
 (c)ヒケタスはシチリアのアドラナに滞在中のティモレオンを殺そうと、二人の兵士を手なずけた。二人はティモレオンが犠牲を奉るであろうその時をうかがった。そして群衆の中にまぎれて、お互いに時分はよしと目くばせをすると、もう一人の男が現われて、彼らの一人にまっこうから斬りつけ、これを倒すと一目散に逃げ去った。残った男はこと露顕した・仕損じた・と早合点し祭壇にかけつけ、事実を包まずに申し上げますからどうぞお慈悲を、と嘆願した。そうして謀叛の企てを逐一白状していると、そこへ先の男が人殺しとして捕えられ、人々に引きたてられ群衆にもまれながら、ティモレオンその他のお歴々の前につれて来られた。彼もまたお慈悲を願った。そして、自分はいま父の仇を報じたところであると申し立てた。そして運よくその場に来あわせたひとびとを証人として、事実その父親がかつてレオンティノイにおいて、くだんの男に討たれたことを証明した。人々は彼がその父の仇を報いるとともにシチリア人の父を死から救ってくれた好運をたたえて、これにアッティカ銀十片を与えた。こういう運命にいたっては、筋道がたっている点において、人間の知恵が作りあげた規則を見んごと凌駕している。
 (b)最後にもう一つ。次のような事実の中には、相愛する父子に対する運命の異常なまでの慈悲・恩寵が、はっきりと見られはしないか。イグナティウス父子はローマにおいて三頭政官から追放されると、けなげにもお互いに刺し違えて死のう、そうやって暴君の残虐の裏をかこうと約束した。二人は剣をぬき持って互いに突きあたった。運命は両者の鋒先を導き、両方の傷を同じように致命的なものにした。そしてそのように美わしい二人の友愛をよみし、彼らに互いにその血まみれな剣と腕とを相手の傷口からぬきとって、そのまま強く相抱くことをえさせた。それで刑吏も、一度は二人の首を一緒にはねたのであるが、さすがに二つの屍を永くこのけだかい結合の中にのこし、その胸の傷口を相接するままにして、親しくお互いの血と残りの命とを吸い合わさせたのである。
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第三十五章 我が国の制度の一欠陥について



 (a)死んだわたしの父は、ただ経験と天賦とに助けられただけで、特別学問という学問をしたわけではなかったが、極めて判断のはっきりした人であって、かつてわたしに、こんなことを実施してみたく思ったことがある、と言われたことがある。すなわち諸都市の内に或る一定の場所を指定しておき、何か要求のあるものはそこに出かけて行って、係の役人に自分の希望を書きつけてもらえるようにする。例えば、(c)「真珠売却を希望す」「真珠の出物を望む」(a)「何某、パリにおもむくため道連れを求む」「何某、これこれの能ある下僕一人雇入れたし」「何某、お邸奉公を望む」「何某、徒弟一名雇入れたし」というふうに、皆がそれぞれその要求に応じて、登録できるようにしてみたかった、というのである。なるほどこうしてお互いの希望を告げあう便りができたら、それは人々の社会生活に少なからぬ便益をもたらすことであろう。まったく、始終いろいろな条件が互いに求めあっているのだが、お互いにそれを知らないために、人々は相変らず貧窮をぬけきれずにいるのだ。
* この思いつきは、一六三一年フランス最初の新聞「ガゼット・ド・フランス」によって実現された。
 わたしは、学識においてきわめて優れた二人の人物、すなわち、イタリアのリリウス・グレゴリウス・ジラルドゥス及びドイツのセバスティアヌス・カステリオ**が、人々の目の前で食らうに食なくして死んだという話をきき、我々の時代を実に恥ずかしく思う。だがそうとわかったら、高禄で彼らを召しかかえたであろう人々も、(c)少なくともその場の急を救ったであろう人々も、(a)たくさんあったにちがいないとわたしは信ずる。世はそれほど広く腐敗してはいないのである。現に或る人***の如きは、その父祖から遺された資産を、運命がその享受を彼にゆるす限りの間、何にまれ、一芸一能に秀でた稀有の人物で極度の不幸に沈める人々を貧窮から救うために用いたいものだと、切に願っておられる。少なくとも彼らが常識を欠かない限り満足に思うであろうような待遇を与えようと、望んでおられる。
* Lilius Gregorius Giraldus(1479-1552). 詩人にして考古学者、十六世紀のイタリアで令名をうたわれた人だが、生涯貧乏で晩年特に甚だしかった。モンテーニュはこの人の主著 Historia de diis gentium を蔵していた。
** Castellio(1515-1563). 主として聖書のラテン訳とフランス訳とによって有名である。始めカルヴァンの助力者であったが、やがてその恨みを買い、迫害をうけ、ために陋巷に窮死したと伝えられる。
*** アルマンゴーは、この或る人こそモンテーニュその人であろうと考えている。
 (c)家事の管理において父は几帳面であった。わたしはそれに感心はするが、とうていその真似はできない。というのは、公証人の手を要しないこまかな勘定・支払・取引を記入する家計簿があって、一人の出納掛がその記録を承っていたばかりでなく、父はそれとは別に一冊の日記帳を持っていて、書記の役目をする彼の下僕の一人に、何か目ぼしい事件があると忘れずにそれをつけさせたし、また毎日毎日、家内の出来事までも記入させていたからである。それは、時移って記憶がようやく消えかかる頃に見ると非常に面白いし、また、「かくかくの仕事はいつ始まったか、いつ終ったか。いかなる一行がここに泊ったか。幾日滞在したか。また、我々の旅行や外出、家族の結婚、死、吉凶さまざまの報知、おもだった使用人の異動」といったような事柄について、しばしば我々の困惑を除いてくれるのに甚だ便利である。古い習わしだが、これはめいめいの家で、復活してしかるべきものだと思う。それをかりそめにしたわたしは愚かであったと思う
* モンテーニュ自身も「家事録」Livre de Raison を一冊のこしている。一時アメリカに流れ出たが、今ではボルドー市の図書館に納まっている。それは「ブーテルの歴史暦」と称する当用日記風の一冊で、各頁すなわち各日付の下に、モンテーニュは簡単な記録をした。ナヴァール王が泊ったこと、自分がパリでバスティーユに投獄されたこと、などを書いている。アルマンゴーの『モンテーニュ全集』にはモンテーニュ自ら書いた部分が全部のっているし、その後ジャン・マルシャンによる写真複製版も出ている。拙著『モンテーニュ伝』挿絵、白水社版『モンテーニュ全集』第二巻口絵、『モンテーニュとその時代』書名索引『モンテーニュの家事録』の項参照。
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第三十六章 着物を着る習慣について



 この章はこれに先立つ第三十二、三十四章とともに一五七二年頃のエッセーである。ここには習慣のことが論ぜられているが、これはモンテーニュがいろいろな時期にふれた問題で、その意見は常に大同小異である。第一巻第二十三、四十九章、第二巻第十二章、第三巻第十三章等を併せよまれたい。

 (a)どこに向って行こうにも、わたしは何かしら習慣の柵を押し破らないわけにはゆかない。それほど入念に習慣はあらゆる我々の通路をふさいでいる。この節は大分寒くなったので、わたしはふと考えてみた。あの近頃発見された諸民族の裸で歩きまわる習慣は、インド人やモール人の場合と同じく、気候が暑いために余儀なく生じたならわしなのか、それとも裸形らぎょうこそ人間本来の姿なのであろうか、と。この天が下なるよろずの物は、聖書にあるとおり、ひとしく同じ掟に従うべきものなのであるから、分別ある人々は今のような問題を考察するに当っても(そこでは自然の法則と人間の法則とは区別せらるべきであると思うが)、やはり、絶対インチキのありえない宇宙全体の秩序に、訴えるのを常とした。ところで、我々を除くすべてのものは、その生命を保つために網だの針だのをちゃんと備えているのに、我々ばかりが不完全な貧弱な状態の下に産み出され、他物の助けなしには自己を保存してゆくことができない有様だということは、まったく信じられないことである。だからわたしはこう考える。「禽獣草木、その他生きとし生けるものが、みな生れながらに気候の暴威をふせぐに十分なる外皮を備えているように、

されば、すべてのものは、或いは皮を、或いは毛を、
或いは殻を、或いは甲羅を、或いは樹皮をもて掩われたり。
(ルクレティウス)

我々ももとはそうであったのだが、人工の光をもって太陽の光を消すものがあるように、我々もまた借りた能力を以て我々固有の能力を無くしてしまったのである」と。いや、不可能でないことを不可能にしてくれたのも習慣だということは、わかりきったことだ。まったく着物というものを知らないあの諸民族の中にも、我々の気候と同じ気候の下におかれているものだってあるのである。それに我々の最もデリケートな部分は常にむき出しになっているではないか。(c)眼・口・鼻・耳はみなむき出しではないか。わが百姓たちは、わが祖先と同様、胸や腹までまる出しにしている。(a)我々はスカートやズボンをはくように生れついたにしても、自然が季節の暴威にさらされる部分をいくらか厚い皮で武装してくれていることも、疑ってはならない。現に我々の指の先や足の裏などはそんなふうになっているではないか。
 (c)なぜこういうことがそんなに信じ難く思われるのか。わたしの着物を着た姿とわたしの国の百姓の姿との間には、この百姓の姿とあの自分の皮膚以外に着物というものを持たない人間との間におけるよりも、なお一層のへだたりがあるとわたしは思う。
 いかに多くの人々が、殊にトルコでは、信心のために裸で歩くことか。
 (a)誰やらが、我々の乞食の一人が真冬にシャツ一枚で、あの耳までてんの毛皮にくるまっている人と同じように上機嫌なのを見て、どうしてお前にはそんな我慢ができるのかときいて見た。すると、「だって旦那」と彼は答えた。「お前様だってお顔は風に吹きっさらしだ。わっしゃ体ぜんたいが顔なんです」と。イタリア人は、確かあのフィレンツェ公のお抱えであった道化について、こんな話を伝えている。御主人が、「そんな姿でどうしてお前は寒くないのか。わしはこうしていてさえ寒くて堪らないが」と仰せられると、その男は、「ではこうなされませ。わたくしはあるったけの着物を着ておりますゆえ、殿様も御所持の御衣裳をことごとくお召しなされませ。わたくしと同様寒さにおたえになれましょう」と答えたという。王マッシニッサは老齢にいたるまで、寒かろうが風が吹こうが雨が降ろうが、いくらすすめられても帽子をかぶって歩かなかった。(c)皇帝セウェルスについても同様のことがつたわっている。
 ヘロドトスは言っている。「エジプト人とペルシア人との会戦の際、戦場に横たわっている死体を見たところ、エジプト人の頭がペルシア人のそれよりもはるかに硬いことを、わたしだけでなく皆が認めた。これは、後者が始めは頭巾を、大きくなるとターバンを用いるのに反し、前者は子供の時から髪を剃り無帽でいたからである」と。
 (a)また王アゲシラオスは、老齢に至るまで夏冬同じ着物を着る習慣を守りとおされた。スエトニウスの言うところによると、カエサルは常に陣頭に立って進んだが、多くの場合、無帽はだしで、照る日も降る日もかわることがなかった。ハンニバルについても同様のことが言い伝えられている。

その裸の頭の上に、彼は、
滝のごとき雨と雷霆らいていとを受けたり。
(シリウス・イタリクス)

 (c)久しくそこにいて最近帰って来たばかりの一ヴェネツィア人は書いている。「ペグ王国においては、体の他の部分はこれを掩っているが、男も女もつねにはだしである。乗馬の際もまた同じである」と。
 またプラトンは全身の健康のために、頭も足も自然がここにつけた以外のものをもって掩うな、と切に勧めている。
 (a)ポーランド人がその王としてフランス出の王の次に選んだその人**は、いかにも当世における偉大な君主の一人であるが、ついぞ手袋をはめられたことがなかったし、冬になっても、またどんな天気の日でも、日常その室内で用いていられる帽子を取りかえられたことがなかった。
* アンジュー公 duc d’Anjou 後にフランス王アンリ三世となった人。
** エチエンヌ・バトリ Etienne Bathory
 (b)わたしがボタンをはずし前をはだけて歩き回ることができないように、このへんの百姓どもはきちんとボタンをかけて歩くのは窮屈であろう。ウァロが言うところによると、我々が神々や役人の前で脱帽するよう命ぜられるのは、むしろ我々の健康のため、我々が天候の暴威に堪えられるようにとの思召しであって、決して敬意を強いるためではないそうだ。
 (a)それから、我々は寒さの話をしているのだから、そして我々フランス人は色とりどりの着物を着るのだから(わたしは例外。まったくわたしは父にならって、黒か白でなければほとんど着ることがないのである)、またもう一つ、こんな話をさし加えるとしよう。大将マルタン・デュ・ベレの語るところによると、彼はリュクサンブールに出征した時非常な寒さに遭遇したが、携えて行ったぶどう酒はこれを斧で割って目方で兵士に分配し、兵士もこれを籠に入れて持って歩いたそうな。オウィディウスもまたそれによく似たことをいっている。

酒凍結して容れものの形を保つことあり。
飲む時人はこれを汲まずしてこれを砕く。
(オウィディウス)

 (b)パルス・マエオティス湾の氷は非常なもので、ミトリダテスの代将は、冬足を濡らさないで敵を破ったその同じ場所で、次の夏には再び海戦によって同じ敵をやぶったと言われる。
* アゾフの海。ドン川の黒海にそそぐ所。
 (c)ローマ人はプラケンティアの近くでカルタゴ人と戦い大損害をこうむったが、それは彼らが寒さのためにその血を凍らし手足をかがめて進んだのに対し、ハンニバルの方では陣中いたるところにたくさんの火を与えて兵士をあたためたばかりでなく、各隊に油を配給し、兵士にこれを塗布してしびれた筋肉を伸びやかにさせ、また吹きまくる寒風が毛孔にふき入るのを防がせたからである。
 ギリシア人のバビロニアからの退却は、彼らがそこで遭遇した艱難辛苦によって有名である。次の話もその折のことである。彼らはアルメニアの山中で恐ろしい吹雪に逢い西も東もわからなくなった。そして見る間に雪に降りこめられ、一昼夜の間飲まず食わず、大部分の馬はたおれたし、兵士の間にも死者が続出し、あられや雪の光にうたれて失明したものや、意識は完全にありながら寒さのために四肢の自由を失ったり全身の硬直したものが、たくさんに出た。
 アレクサンドロスは、冬になると果樹を土の中に埋めてその寒さで枯れるのを防ぐ国を見たという。
 (b)着物の話に立ちもどる。メキシコの王様は毎日四度その衣服をかえた。しかも二度と同じものを着なかった。脱ぎすてたものはいつもこれを施しものや褒美として人に与えるのに用いた。同様に壺も皿も、料理場の器具といい食卓のそれといい、二度と再び同じものを用いられなかった。
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第三十七章 小カトーのこと



 小カトーとは大カトーと呼びなされる大伯父カトー(すなわち司直官カトー)に対して、マルクス・ポルキウス・カトーのことをいうので、この章はそのカトーの徳をたたえる五人のラテン詩人の比較論なのであるが、われわれはむしろこの章の冒頭をなすパラグラフの中に、モンテーニュの自由でとらわれない心境、自己を信じながらも決して他人を拘束したり無視したりはしない態度のゆかしさを、読みとるだけで満足すべきであろう。この章は一五七二年頃のエッセーの一つなので、とにかくカトーの高徳をほめる気分をたたえてはいるが、つとに、後年第三巻第三章に述べられるところ、すなわち、「人は自分の気分気質にあまり執着してはいけない。我々最上の知恵はいろいろな習慣に適応しうる点にある。ただ一つの生き方にいや応なしに拘束されているということは、在るのであって生きるのではない」といっているところに、通ずるものをもっている。すなわちここでも、すでに一五七二年頃から、モンテーニュ生来のエピクロス主義が、いわゆるストア主義ないし英雄崇拝的気分の蔭に隠然として存在していることが、証拠だてられるのである。それはともかく、こうした融通自在な態度は、すべての時代を通じて一般の道徳家の間では甚だまれな特質であって、こうしたところにモンテーニュの独特な魅力があるであろう。実際彼の道徳観は、一面はなはだ厳正であって、この人ぐらい清冽な良心をもった人はちょっとないと思われるくらいだが、また一方には、このように凡人には凡人なりに生きる道があることを教えてくれる。人にはそれぞれ個性があり、彼は、背伸びして偉人であろうとするよりは、真の自由人であることをすすめている。モンテーニュはわれわれの師であるよりもむしろ友である。なおこの章の終りにはモンテーニュが詩に対して非凡な鑑識をもっていたことが読みとられる。
 モンテーニュのカトーに対する賞賛は第一巻第四十四章、第二巻第三章および第十三章等に見られるが、第二巻第十一章においてはそれが大分控え目になっており、第二巻第三十六章においてはモンテーニュの賞賛する三人の優れた人物の中にカトーはもう数えられていない。そして第三巻第三章および第十二章においては、ソクラテスがカトーに代っている。

 (a)わたしは自分のものさしで他人を判断するという世間によくある誤りを、まったくもたない。他人には自分と全く違ったものがあることを容易に信ずる。(c)わたしも或る一つの流儀にしばられているとは思うけれども、世の常の人がするようにそれをみんなに強いはしない。そして、幾多のあべこべの生き方のあることを信じもするし、理解もする。いや、一般の人たちとは反対に、我々の間には類似があるということよりも、相違があるということの方が、わたしにはわかりやすい。わたしは人が欲する限り、他人をわたしの流儀や主義に従うことから解放する。そして彼を、単に彼自身において、他とは無関係に、彼を彼自らの模範に照らして考察する。自分は節欲家ではないけれども、フイアン派の僧やカプチン会の修道士たちが節欲家であることを本気で認め、彼らの生き方を是認するのにやぶさかでない。わたしはよく、想像によって彼らの身になってみる。
 だから、彼らがわたしと別様であればあるだけ彼らを愛し彼らを敬う。わたしは切に、人が我々をそれぞれ別々に判断することを願う。このわたしをも、世間一般の型にあわせて判断しないでほしい。
 (a)わたしは自分が弱いからといって、ほめるに値する人々の勇気について、わたしが当然もって然るべき判断意見を少しもかえはしない。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)世には自ら模倣しうと思うことならでは敢えてたたえんとせざる者あり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)下界の泥んこの中をはいまわりながらも、わたしは英雄的な或る人々の及び難い高風を、雲間はるかにみとめることを忘れない。わたしにとっては、正しい判断力をもつことだけで、行為はそこまでゆかなくても、それで十分なのである。いや、この大事な能力を腐敗させずにもっているというだけで、十分なのである。脚に支える力がつきても、しっかりした意志さえ保っているなら、それは何物かである。我々の生きているこの世紀は、少なくとも我が国においてははなはだ堕落した時代であるから、徳の実践はもちろんのこと、その観念さえも欠けている。それは結局、学校でならう箴言しんげんと別物ではないように見える。

(c)徳はただ言葉の内にあるものと彼らは信じたり。
聖なる森も彼らの目にはただの樹木に過ぎず。
(ホラティウス)

※(始め二重山括弧、1-1-52)人々は徳を、よし理解しえずとも、せめて尊ばざるべからざるに※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 それは書斎の柱にかける飾りである。耳にぶらさげる耳輪のように舌の端にぶらさげる飾りである。
 (a)今ではもう徳行は認められない。それらしい顔つきはしていてもその精髄を蔵してはいない。まったく、利益・栄光・恐怖・習慣等の、まるで徳とは無関係の幾多の原因が、我々にそれを産み出すべく促しているのである。そのとき我々が行うところの正義・勇敢・慈悲は、はたから見れば、それらが人々の前にさらす顔つきから見れば、徳と呼ばれることができる。しかしそれらを行う当人の許では、少しも徳ではないのである。そこには別に目ざす目的がある。(c)別の原動力が隠れている(a)ところが徳は、自分によって・ただ自分のために・なされたこと以外には何も認めないのである。
* ラ・ロシュフコーの「格言」はここから発生した。
 (c)ギリシア人がパウサニアスの指揮の下に、マルドニオスとその率いるペルシア兵に勝った、あのポティダイアの大戦の折、戦勝者たちは、いつものとおり互いに武功の栄誉を分ち合ったすえ、とうとうこの戦闘における最大の功績をスパルタの民に帰した。ところがそのスパルタ人は、さすがに徳の優れた判断者であったから、その日の合戦で一番立派な働きをした名誉をいったい誰に与えるべきかをきめる段になると、アリストデモスこそ最も勇敢に挺身したと一斉に認めたのではあるが、ついにこの人には褒美をとらせなかった。なぜかというに、この人のこの時の武勇は、さきにテルモピュライの戦いの折に叱責されたその恥をすすごうとの一念から発したもの、勇敢な死によって過去の恥を償おうという欲念から発したもの、であったからだ。
 それに我々の判断は病んでいて、我々の堕落した風儀に引きずられている。わたしの見るところ、当代の人々の大部分は、いかにも利口ぶって古代の美しい崇高な行為にいやしい解釈を加え、ありもせぬ原因動機をなすりつけて、その栄光を曇らせている。
 (b)えらいものぞよ、わる知恵というやつは! どんな崇高純粋な行為でもいい、出してごらん。わたしはそれに、まことしやかに五十の悪い動機をなすりつけてみせよう。それらに尾ひれをつけようとすると、いかにさまざまな想像が我々の心の底にむらがり起ることか。それは神様が御承知である。(c)世の人が詭弁を弄してさかしらぶるのは、悪意からというよりは、むしろ愚昧のせいというべきである。
 みんながああいう偉大な名前を傷つけようとしてするのと同じ努力、同じ自由を、わたしはよろこんでそれらの名前を高めるためのお手伝いに用いよう。わたしはそれらの稀な面影、もろもろの賢者がこぞって人の手本とえらんだそれらの面影を、いよいよますますあがめ尊ぶことを躊躇ちゅうちょしまい。できる限りの工夫をこらしてそれらを好意的に解釈し、またそのためのよい機会をにがさないようにしよう。けれども、我々の理解の力はなかなか彼らの真価にまでとどきにくいということも、うそではないのだ。徳をできる限り美しく描くということは君子の務めであるから、あのような神聖な行いは、感激してほめすぎたからといって、少しも我々に不似合ではないのである。ところが世間の人たちは反対のことをする。(a)彼らが徳をくさすのは悪意によってである。でなければわたしが今お話したように、自分にできることでなければ信じないというあの悪い癖からである。あるいはまた(わたしはむしろこう思うのだが)、徳の輝きをその有りのままの清さにおいて見るだけの、強い明らかな眼力がないから、そういうふうに訓練された眼をもたないから、である。例えばプルタルコスの言うところによると、当時或る者どもは、小カトーの死を、彼がカエサルに対していだいた恐怖のせいにしたそうである。プルタルコスはこれを憤慨しているがもっとも千万である。いわんやこれをカトーの野心に帰した人たちを見たら、彼はどんなに憤慨したであろうか。それは容易に推測ができる。(c)愚かな人たちよ。カトーはたしかにけだかく正しい、立派な行いをしたのである。悪口は覚悟の前でやったのだ。やんやと言われようためではなかった。(a)実にこの人こそは、どこまで人間の徳と精神力とが達しうるかを示そうとして、自然が選び出した真の模範だったのである。
 けれどもわたしは、ここにこのいくら論じても切りのない問題を論議しようとしているのではない。ただカトーをたたえるラテンの五詩人の名句を互いに競争させて見ようと思うのである。(c)一つには、カトーその人のために。一つには、ついでに彼ら五詩人のために。さて、よく教育された少年は、他に比較して始めの二人は力強さが足りないこと、第三の人は、意気はややあがっているが、あまりに気張りすぎて力負けがしていること、に気がつくに違いない。また第三の人と第四の人との間には、創意の上でなお一、二段の懸隔があることを認め、後者に向って感心のあまり合掌するに違いない。そして最後の人を見ると、それは僅かの間隔をもって第一位にあるのだが、この間隔はいかなる人知をもってしても埋めえないものだと叫んだまま、茫然として心魂をうばわれるであろう。ここに不思議なのは、我々の間には詩を作る人は沢山いるのに、詩を判断し解釈する人はかえって少ないことである。まことに、これを作るのはやさしくこれを識別するのはむつかしい。凡庸なしらべならば、作詩法の原則に照らしてこれを判断することができる。けれども善美なるしらべ、卓抜なるしらべ、神韻縹緲ひょうびょうたるしらべにいたっては、規則や理屈の上にある。しっかりと眼を見すえてその美を識別しようとしても、それは目にとまらない。さながら稲妻のめざましさに異ならぬ。それは我々の判断につかまらない。判断をして恍惚唖然たらしめる。ただそれを透視しうる人がまず感奮し、次にこの人がそれを解釈し吟誦するのを聞いて第三の者が感動する。ちょうど磁石が一本の針をひくのみならず、その針にさらに他の針を引く力を賦与するさまに似ている。これは劇場において一層明らかに見られる。すなわち、ミューズの神々の聖なる霊感は、まず第一に詩人を駆って憤怒に・哀傷に・怨恨にと、彼〔詩人〕を彼女たち〔ミューズ〕の欲するように煽り立ててから、さらにその詩人を通じてこんどは俳優を、その次には俳優を通じて全観衆を、打つのである。正にそれは、我々の針が互いにつながりあったさまに似ている。少年の時分から、詩はそんなふうにしてわたしを貫き通し、わたしを高ぶらせた。けれども、この・わたしに生れながらにして備わった・旺盛な感情は、詩のいろいろな姿によっていろいろに動かされた。いろいろな姿とは、高尚な姿・下賤な姿・という意味ではない(まったくわたしの動かされたのは、いずれもみなその種における最高のものであったのである)。それはむしろ、色とりどりの姿という意味である。すなわち、始めには快活で器用な流暢さに、次には鋭くて高雅な精緻に、最後には熟して・つねにかわらない・力に、動かされたのである。例を挙げれば一層よくわかろう。オウィディウス、ルカヌス、ウェルギリウスの順に、動かされたのである。だが、我が五詩人が競技場で待っている。

(a)カトーは、その生ける間も、かのカエサルよりも偉大なりき。
(マルティアリス)

と第一の者は言う。

カトーは屈せず、死をさえも屈せしめたり。
(マニリウス)

と次の者は言う。そして第三の者はカエサルとポンペイウスとの間の内乱について語りながら、

神々は勝者の側に立ちたれど、カトーは敗者の方にくみしたり。
(ルカヌス)

第四の者はカエサルをたたえて言う。

宇宙はすべて彼の足下にありき。
唯カトーの強き心のみはくだらざりき。
(ホラティウス)

そして最後に唱歌隊長は、その叙述の中に偉大なローマ人の名をあまた連ねた後、こんなふうに結んでいる。

而してこれらに君臨するカトー。
(ウェルギリウス)

* ミシェルが十四、五歳、ギュイエンヌ学院上級の頃をさすのであろう。彼は詩をよく判断したばかりでなく、自ら詩人であったことを看過してはなるまい。それはモンテーニュその人とその作品を理解する上で重要なことである。後出三の三、九五六頁、三の九、一一四七―一一四八頁、及びその註参照。
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第三十八章 いかに我々は同じ事柄を泣いたり笑ったりするか



 (a)我々は歴史をひもといて、アンティゴノスが、その息子がたった今打ち果したばかりの敵王ピュロスの首をさも得意げに自分の前に差し出したのを見て、はなはだ不機嫌になったこと、そしてそれを見るなりさめざめと泣いたこと、それからロレーヌ公ルネもまた、自分が打ち負かしたブルゴーニュ公シャルルの死をいたみ、その埋葬の場に臨んで涙を流したということ、またモンフォール伯が、ともにブルターニュ公領を争った敵のシャルル・ド・ブロワに勝ったそのオーレの戦いで、敵将の遺骸に行きあうや深い悲嘆に沈まれたことなどを読んでも、すぐに

人の心はその秘めたる思いを、
うらはらなる姿の下にかくすものなり。
悲しみはこれをにこやかなる顔の下に、
喜びはこれをかなしげなる姿の下に。
(ペトラルカ)

などと朗詠してはいけない。カエサルの前にポンペイウスの首級が捧げられたとき、彼はあたかもいやな・いとわしい・光景を見たかのように目をそらせたと、歴史は伝えている。この二人はあれほど長い間互いに理解し提携し合って国政をとったのだし、あれほどに運命を共にしたのだし、またあれほど助け合いむつび合った仲なのだから、この態度を全くの虚偽であったと信じてはいけない。例えば或る人が、

彼はこの時、これよりは思いのままに
義父の真情を披瀝ひれきしうるよと喜びつつ、
楽しき心のうちより無理に涙と嘆きとを引き出せり。
(ルカヌス)

などといったように。まったく正直いえば、我々の行為の大部分は仮面・見せかけ・にすぎないのではあるけれども、時には

相続人の涙は仮面せる笑なり。
(プブリウス・シルス)

が真実であることもあるにはあるのだが、それにしてもこのような事柄を判断するに当っては、いかにしばしば我々の霊魂がいろいろさまざまな感情にうごかされるものであるかということも、あわせ考えなければならないのである。いや聞くところによれば、我々の体内にはいろいろな体液が混在していて、我々の体質の如何いかんによってそのうちのどれか一つが主となり、最も日常的に我らの内部を支配しているのだそうであるが、ちょうどそれと同じことで、霊魂のうちにもいろいろな感動があってそれを動かしているのだけれど、やはりそこには特に支配的な一つの感動があるのである。でも、それは絶対的な覇権を握っているわけではないから、我々の霊魂の動揺伸縮により、ときには一番弱い感動がそれにとって代って、しばしの代理を勤めることもないではない。そういう次第だから、きわめて率直に自然のままに行動する子供たちが、しばしば同じ事柄を泣いたり笑ったりするのを、見るばかりではない。我々大人だって、いかに憧れの旅路に上るのであっても、いよいよ身うちの者や友だちと別れる時になれば、さすがに心が打ち震うのをおさえられないのである。涙がこぼれておちないまでも、少なくとも悲しげなおもてを伏せて、あぶみに足をかけるのである。また良家の娘たちは、いかにやさしい恋の炎が心の中に燃えているにしても、これをその婿殿の許に連れゆくには、無理してその母の首からもぎとらなければならないのだ。もっともあの元気な若い衆は

ウェヌスが花嫁たちにはいとわしきにや、
娘達が愚かなる親たちをよろこばさんと
ねやとばりの片蔭に偽りの涙をそそぐにや。
いな、いな、その涙はまことのものならず。
(カトゥルス)

と言ってはいるが……。だから、不倶戴天のかたきが死んだのを見て悲しんだとて、何の不思議もないのである。
 (b)わたしは下男を叱るとき、それこそ真剣に叱りつける。この怒号はほんものであって、はったりではない。だが一度神鳴り様が通っておしまいになれば、もしその時すがられれば、喜んで彼をゆるしてやる。正にたなごころをかえすが如しである。(c)「ばか! 畜生!」とどなりつける時、決してわたしはこの肩書を永遠に彼に縫いつけるつもりはない。そのすぐ後から正直ものよと呼ぶこともあるが、少しも嘘をついている気はしない。どんな特質も純粋かつ全的に我々をくるんではいない。独り言をいうのは狂人の風体かも知れないが、わたしはただの一日といえども、自分のうちで、自分に向って、「ばかくそ!」とどならないことはないのである。だがしかし、この「ばかくそ」がわたしの定義だとは思っておらん。
 (b)わたしが妻に対して或る時は冷淡で或る時はやさしい顔をするのを見て、そのどちらかをいつわりだと思う者があるなら、それはばかである。ネロはその母を溺れ死なせようと送り出しながら、やはりこの親子のわかれに胸のふるえるのを覚え、恐ろしさと憐れみとをこもごも感じたのであった。
 (a)聞くところによると、太陽の光はつづいた一本ではない。むしろ、太陽は新たな光線をあとからあとからときわめて繁く注ぎかけているために、その切れ目が我々の眼に見えないだけの話だという。

(b)光明の豊かなる泉・太陽は、
絶えず新たに生れずる光もて空をひたし、
常に光明の上に光明をそそぎかけつつあり。
(ルクレティウス)

同様に我々の霊魂もまた、そのひらめきを、いろいろに、また眼に見えないように、射出している。
 (c)アルタバノスはふとその甥クセルクセスの、急にその態度を変えたのを見てこれを叱った。この人はギリシアに攻め寄せようとして、まさにヘレスポントスの海を渡ろうとする威武堂々たる自分の軍勢を打ち眺めながら、最初は、こんなにも大勢の軍士がみな自分の指揮下にあることを思い、喜びにふるえいかにもうれしそうな顔つきをしていた。ところがその時、ふと、これだけの生命も百年を待たずして滅びるのだということに気がつき、急に眉をくもらせ、とうとう悲しさの余り涙をながしたのである。
 (a)我々は堅い決心をもって恥をすすごうと千辛万苦した。そしてやっと本望を達して喜んだ。しかも我々は泣く。本望をとげたことを泣くのではない。遺恨に変りはないのである。だが、我々の霊魂はことを別の目で見るのである。ことを別の面から見るのである。まったく、物事はいずれも、いろいろな面・いろいろな姿・をもっている。骨肉の情、旧来の友誼などが、突如として我々の心をとらえ、しばらくの間、その事情に応じて、我々の心を昂奮させる。けれどもその変化は、あまりに急激なために、目にとまらないのである。

(b)人の想いほど、心の動きほど、
世にすみやかなるはあるまじ。
されば、人の心は、世の
何ものにもまさりて移りかわる。
(ルクレティウス)

 (a)それで、そういうわけで、こういう移り変りをすべて一つに見ようとするから、間違うのである。あのティモレオンが練りにねった気高いはかりごとによってやっと成就した殺害を泣いたとき、彼は決して祖国の自由恢復を泣いたのではない。暴君の死を泣いたのでもない。弟の死を泣いたのである。彼の義務の一部は果された。今こそ彼に、その残りの部分を果させてやろうではないか
* このティモレオンの事績は後出第三巻第一章の中に詳しく論評されている。
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第三十九章 孤独について



 このエッセーは、前出第十四章や第二十章などと共に、初期(一五七二―七四)の哲学的随想の一つと見られるが、一五八〇年発表される直前にいくらか修正が加えられたのではないかと思われる節もなくはない。マルセル・フランソンはこれを一五七八―七九年頃に書かれたとしている。ここにモンテーニュは隠遁生活の徳をたたえているのであるが、この脱俗超世ぶりは、一五八〇年以後、例えば加筆(c)や第三巻第十章などにおいて著しく緩和されているから、両方を併せ読む必要がある。なお第二巻第十六章「栄誉について」の章とも対比するならば、モンテーニュの隠棲論の真意を一そうよくつかむことができよう。

 (a)あの孤独生活と活動生活と何れが是か非かという、果てしのない議論はもうやめにしよう。そして、野心家や欲張りどもがそれによって自分の正体を掩おうとする「我々は我々一人のために生れたのではなく公衆のために生れたのだ」というもっともらしい文句については、一つ思いきって現に活躍しつつある諸公にきいて見よう。いや、一つ胸に手をおいて考えてもらおう。むしろ事実はあべこべで、公共のもろもろの職務をはじめ世間のいろいろな苦労は、公の利益の中から私の利益をひき出さんがために争い求められているのではないだろうか。こんにち人が世に出るために用いている悪い手段を見ると、その目的もろくなものではなさそうに察せられる。野心家に向っては、お前たちこそ我々に孤独へのあこがれを与えるのだぞと答えてやろうではないか。だって、交際ソシエテほど、野心が避けたがるものがあるか。わがまま勝手ほど、野心が求めたがるものがあるか。なるほど、到るところに善を行い悪を行うよすがはある。けれども、ビアスが言ったように「悪い部分こそ最も大きな部分だ」という言葉が本当だとすれば、あるいは「伝道の書」がいうところの「千人の中に善人のただ一人すらあらざるなり」が本当だとすれば、

(b)善人はきわめて稀なり。
そは、テーバイの城門・ナイルの河口・の数にだも及ばず。
(ユウェナリス)

(a)感染は群衆の間においてこそ、はなはだ危険である。我々は不徳な者を真似るか・憎むか・しなければならないが、それは二つながら危険である。彼らが大勢だからとて彼らにならうのも、彼らが自分に似ていないからとて彼らを憎むのも、両方ともに危険である。
* 隠遁生活と、公共生活と、何れが是か非かの論は古代にもあったし、キリスト教徒にも論ぜられた。モンテーニュは、もうそんな議論はやめて実証主義でゆこうというのである。実際をこの眼で見ようというのである。
 (c)だが海をゆく商人たちが、同船者のなかに無頼の徒や神をけがす者や邪悪な者がいないようにと用心するのはもっともである。そういう仲間は不運のもとだと考えるからだ。
 だからビアスは戯れて、自分といっしょに大あらしの危険にあって神々の救いを呼んだ者どもに向って、「お黙り! 神々にお前たちがおれと一緒にいることが知れたら大変じゃないか!」と言ったのである。
 またもっと緊迫した例をあげれば、ポルトガル王エマヌエルの代りにインドの副王であったアルブケルケは、海難にあってその運が極まると、いきなり一人の少年をその肩に負った。つまりこうして二人の運命を一緒にするならば、少年の純潔のために自分までも神の加護にあずかり、命が助かるだろうと考えたからである。
 (a)賢者はどこへ行っても満足して生きることができないというのではない。それどころか、ひとり宮臣ばらの間にたち交じって生きることだってできなくはない。だがもし選択がゆるされるなら、彼は自ら言っているとおり彼らの眼をさえも避けるであろう。必要があれば前の境遇にも堪えるであろうが、許されるならば後の方を選ぶであろう。賢者は、なお他人の不徳と争わねばならないうちは、十分に不徳を脱しえたとは考えないのである。
 (b)カロンダスは、悪者の仲間に出入りしていると判明すると、だれでもこれを悪者同様に処罰した。
 (c)およそ人間くらい非社交的でまた社交的なものはない。不徳をなす時は非社交的であるが、その天性は社交的である。
 またアンティステネスは、悪人との交際を咎められると、「でも医者は病人の間に暮しているではないか」と答えたが、そんなことで非難者を承服させ得るとは思えない。だって医者どもは、病人たちの健康に役立ちはするが、自分自身の健康を、絶えず彼らを見、彼らと交わることによって、伝染によって、害しているではないか。
 さて、孤独生活の目的は結局ただ一つ、独りゆったりと・気ままに・暮すことであると思う。ところが人は、必ずしもそういう道をとってはいない。しばしば、さあこれで重荷をおろしたと考えているが、なに、また別の重荷をしょいこんでいる。一家を治めるのにも、一国全体をべるのに劣らない苦労がある。霊魂は何にかかずらっても、そっくりそこにとらわれる。そして、家内の仕事はさほどに重大なものではないけれども、さりとてうるさくないものでもない。それに裁判所の仕事や商用から解き放たれたからといって、我々はこの世の主なわずらいから解き放たれてはいないのである。

き思いを吹き払うは理性と知恵となり。
万里の波濤を見はるかす岸べにはあらず。
(ホラティウス)

野心・貪欲・不安・恐怖および淫欲は、住む里を変えたからとて我々を離れはしないのである。

暗愁は逃ぐる騎手を追いて、その馬の尻にうち乗る。
(ホラティウス)

それらはしばしば僧院の庭や哲学の講堂にまで我々を追いかけて来る。沙漠も洞窟も毛襦袢も断食も、我々をそれらから救いはしない。
* 苦行をする者が着る馬の毛で織ったシャツ。

命とりの矢は脇腹にささりて抜けず。
(ウェルギリウス)

或る人がソクラテスに向って、「誰やらは旅に出たけれど少しも直らなかった」と言ったところ、「さもあろう。彼は自分をかかえたまま飛び出していったからね」といった。

なぜなれば別の太陽の照らす国を求めゆくや。
その国を出たればとて誰かおのれ自らを出でんや。
(ホラティウス)

 もし人が、始めに自分自身とその霊魂とを、霊魂の上にのしかかっている重荷からとき放たないならば、動かせば動かすほど霊魂をおさえつけることになるだろう。だが、船にしたところで、積荷は、じっと落ち着いているかぎり、少しも邪魔はしないのである。病人に転地をさせるのも、当人のためには益よりも害がある。病気は、これを動かせばそれだけ深く入り込む。ちょうど杭が、それをゆすぶり動かせばますます深く突きささって抜けなくなるようなものだ。だから、人々から遠く離れたって足りない。場所を変えたって足りない。どうしても我々は、我々のうちにある凡俗な心境から離れなければならないのだ。自分を浮世から隔離してから、改めて自分を取りかえさなければならないのだ。

(b)「われ鎖を断てり」と君は言わん。されど見よ。
犬は長き努力の末その鎖を断ちたれども、
逃げゆくを見れば首にその長き端切れを垂れたり。
(ペルシウス)

我々も我々の鉄鎖を身ともろともに運んでいる。それでは完全な自由ではない。我々はなお背後にのこしたものをかえりみ、それでもって心を一杯にしている。

心もし不徳より清められずば、
内なる敵をいかでか防ぎうべき?
いかなる憂い、いかなる恐れに、
煩悩の男は、その身を裂かれざる?
誇りやおごりや又憤りが、彼の心に、
いかなる悶えと怠りとをもたらさざる?
(ルクレティウス)

(a)我々の悪は我々の霊魂の中にがんばっている。ところが霊魂は霊魂から脱け出すことができない。

悪は霊魂の中にあり。霊魂はついに霊魂を脱しえず。
(ホラティウス)

であるから、霊魂を連れもどして自分のうちに引っ込めなければならない。それでこそ真の孤独であって、それならば市井や宮廷の真中においても享楽される。だが独り離れてであればいっそうらくに享楽される。
 さて我々は、ただ一人で生きよう・仲間をもつまい・と企てる以上、我々の満足を我々自身によらしめよう。我々を他人に結びつけるあらゆる関係から抜け出よう。ほんとうに独りで生きることができるように・そうやって心静かに生きることができるように・なろう。
 スティルポンは彼の都市の火事からただ身ひとつでのがれた。妻も子も財産もすべてをそこに失って。デメトリオス・ポリオルケテスは、スティルポンがこの祖国の大災害のまっただ中に平気な顔で澄ましているのを見て、「君は何も損害をこうむらなかったのか」ときいた。彼は答えて、「うん。有難いことにおれの物は何一つ失わなんだよ」と言った。(c)それは、哲学者のアンティステネスが、「人間は、いざ難船という時には水上に浮くような・そして一緒に泳いで逃げられるような・そういう糧食を積んで出るに限るね」と冗談を言ったのと、つまり同じ意味である。
 (a)実際悟性ある人は、おのれ自らをもっている限り、何ものも失ってはいないのである。ノラ市が野蛮人たちのために破壊されたとき、そこの司教であったパウリヌスは、すべての物を失い捕虜となったが、神様にこう祈った。「主よ、どうか私がこの損失を感じないようにして下さい。まったく主も知り給うように、彼らはまだ私に属する何物にも手をつけなかったのでございます」と。彼を豊富にした富、彼を善良にした善は、依然として彼のうちに完全だったのである。これでこそ、損害をとうていこうむりえない宝を選んだと言えるのだ。これでこそ、なんぴとも足を踏み入れることのできないところ、我々自身によってでなければ決してばらされないところに、それを隠したと言えるのだ。妻も持たねばならない。子も持たねばならない。財産も持たねばならない。できれば特に健康をもたねばならない。だが我々の幸福は、かかってそこに在るというほどに、それらに執着してはいけない。全く我々の・全く自由独立の・そこに我々のまことの自由と本当の隠遁孤独とを打ちたてるべき・裏座敷を、一つとっておかなければならない。我々はそこで、毎日我々対我々自身の話をしなければならない。どんな交際もどんな外部の交渉も、そこには入りこまないほどの内輪話をしなければならない。妻なく、子なく、財産もなく、供なく、また下僕もないように、談笑しなければならない。そうしていれば、万一何から何までことごとく失せてなくなる時が来ても、それらなしにすますことが別段こと新しく思われないであろう**。我々は自己を反省することのできる霊魂を持っている。それは、自己を友とすることができる。攻めるものも守るものも、受けるものも与えるものも、もっている。だから、この孤独の中で我々はひまで退屈しはしないかなどと心配するのはやめよう。

孤独の中において、汝こそ、汝自らのために世間たれ。
(ティブルス)

* arri※(グレーブアクセント付きE小文字)re-boutique 店舗裏のこと、表通りに面した所は商品を整然と飾りたて、他人を相手とする場所、その裏は誰に気がねもいらない家族の私生活の場所である。この語は実によく町人出身のモンテーニュのお里をあらわしている。拙著『モンテーニュを語る』九四頁参照。
** モンテーニュはここに、随分エゴイストらしいことを言っているが、三一二頁最初のパラグラフに加筆(c)がある。両方を併せよむことが必要である。すなわちこの頁における孤独生活へのあこがれは、それまで十七年間にわたってあくせくと他人のために働いて来たモンテーニュの、引退後間もない頃の感懐として理解すべきであろう。彼は案外ひとがよくて、とかく引張り出され利用されがちな傾向の人であったことを思えば、このような憧れをいだいたのも当然であろう。彼が他人の苦労を見て黙っていられぬ性分であったことは、『随想録』のいたる所によみとられるし、彼のあこがれの隠遁生活もそう長くはつづかず、やがて再び公的生活、政治的活動にもどって行く。これは伝記的研究が証するところである。年表参照。
 (c)徳はアンティステネスの言うように自己だけで満足する。掟がなくても、言葉がなくても、行為がなくても。
 (a)我々が日常行っているもろもろの行為のうち、真に我々に関係のあるものは千に一つもない。猛然として我をわすれ、雨と降る弾丸をおかして、あの崩れかけた城壁をよじ登ろうとしている者をごらん。またここに、体じゅう傷だらけで、飢えて生きた色もないのに、この城門を開くよりはむしろ斃れて後やまんと決心している者をごらん。果して彼らは自分のためにそこにいるのであろうか。おそらく彼らが一ぺんもあったことのない或る人のためにである。いや彼らのことなんか少しも意に介せず、現にその時も安閑として安逸を貪っているその人のためにである。ここにまた、鼻汁だらけ眼やにだらけ垢だらけで、夜半過ぎにその書斎から出てくる男をごらん。果して彼はその書物の間に、「どうしたらより正しい人となることができるか。より満足した・より賢明な・人となることができるか」と求めているのだろうか。どう致しまして。ああやって命をちぢめるだけである。後世にプラウトゥスの押韻やたった一つのラテン語の正しい綴りを教えるだけである。一人として健康と安心と生命とを、評判や光栄と取り換えたがらぬものはないが、この評判や光栄くらい、役に立たないにせ金がまたとあろうか。我々自らの死だけではこわさがたりないのか、我々は妻や子や下僕の死までも背負しょおうとする。自分の用事だけではまだ苦労がたりないのか、隣人や朋友の用事まで貰ってきて自分の頭を悩まし割ろうとする。

何事ぞ、いやしくも人間たるものが、
自分より以上に何事かを愛するとは。
(テレンティウス)

* これは勿論国王をさしている。そして先行の数行は今日の戦争のありのままである。このような頁は他にもたくさん出てくることを思うと、モンテーニュは『随想録』を通じて、ひそかに読者の啓蒙をめざしているのではないか。少なくとも王およびその寵臣に対する彼の批評の中には、すでに十八世紀が胚胎しているように思う。彼が自由思想ないし革命の先駆者といわれる理由はここにある。
 (c)孤独は、あのタレスにならって、その最も活動的ではなばなしい年頃を世間のために捧げた人々にこそ、最も似つかわしく最も理由あるものであるように思う。
 (a)ひとのために暮すのはもうたくさん。せめてこの人生のはしくれは、我々自らのために生きようではないか。我々の思考我々の思案を、我々の方に、我々の安楽の方に、とりもどそうではないか。隠遁を完うするということはなまやさしいことではない。別の企てをそこに加えないでも、それは相当に我々をせわしくする。せっかく神様は我々にお引越の手筈をするだけの暇は下さるのだから、その支度をしようではないか。荷物をからげよう。早くからお友達に暇乞いをすませておこう。我々をよそへ連れて行き・我々自身から遠ざけようとする・あの乱暴な束縛を脱しよう。まずあの強いきずなをほどいておいて、さてそれから、あれもこれも愛するがよい。だが、自分以外の何物とも結婚してはいけない。つまり、「ほかのものを持つのはよいが、それが持ち去られる場合に、我々の一部までが一緒にはぎ取られねばならぬほどに、それにへばりついてはいけない」というのである。この世で一番大切なことは、なんとかして自分になり切るということである。
 (c)今こそ社会とのつながりを絶つべきときである。我々はもうここに何物をも寄与することができないのだから。貸すことのできないものは借りることをよさなければならない。我々の力は出なくなった。これを引っこめて我々のうちにしまおう。友だちとの愛情やつき合いのつとめを翻して自分に向けかえることができるものはそうしなさい。このように老い衰えれば、誰でも他人にとって無用な厄介なうるさいものとなるのだが、自分にとっては、決してうるさいもの・不愉快な無用なもの・とならないように気をつけなさい。自分を愛撫しなさい。いや、殊に自分を指導しなさい。つまり、その理性と良心とを敬いかつ畏れ、それらの前でつまずいて恥をかかないように気をつけなさい。※(始め二重山括弧、1-1-52)実に人己れを敬うこと稀なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クインティリアヌス)。
 ソクラテスは言っている。「若者は学ばねばならぬ。成人は善行にいそしまねばならぬ。老人は文武すべての職より身を退き、何の務めにも拘束されず悠々自適せねばならない」と。
 (a)世にはこういう隠遁の教訓に特に適当した性格がある。理解の遅く鈍い人々、感情思想のデリケートな人々、それから、容易に人に屈従したり使われたりしない人々(わたしも、天性から見ても思想から見ても、こういう仲間に入るのだが)、こういう人々は、すべてを包容しすべてに関係しすべての物事に熱中するところの・すべての機会に自分から身を挺してそれに当ろうとするところの・あの活動的なはりきった霊魂にくらべて、より容易にこの勧告に従うであろう。勿論あの・偶然の・我々の外にある・安楽も、それが我々にとって愉快である限り、利用すべきであるが、それをもって我々の主要な基礎としてはいけない。つまり、それはそうしたものではないのである。理性も自然もそうすることを欲しないのである。なぜ我々は、そういう自然及び理性の掟に逆らってまで、自己の満足を他人の権威に従わせるのか。それから、前もって運命の転変に備え、多くの人々が信心によって・また若干の哲学者たちが理性によって・したように、手の中にある安楽をたち、万事人手を借りず、堅い寝床に伏し、眼をえぐり、財産を河の中に投げいれ、進んで苦痛を求めるというようなことは(前者はこの世で苦しんであの世で安楽を得ようとするのだし、後者ははじめから一番下の段階にいてこれ以上墜落する憂目にあうまいとするのであるが)、いずれにせよ、まことに行きすぎた徳行であるといわねばならない。天性つよ気でしっかりした方の人たちは、その隠遁までも輝かしい模範的なものにするがよい。

われ貧窮の内にある時は僅かのものに満足し、
ただつつましやかなる幸福をひそかに誇る。
されど、一朝運命好転すれば、すなわちいう、
衣食たりて始めて知恵と幸福ありと。
(ホラティウス)

 わたしにとっては、そんなにしないでも、することはかなりたくさんある。わたしは運命の寵愛をうけながら、いつか彼女〔運命〕の不興にあうであろう日のために備えるだけでたくさんだ。安楽の内にいながら、想像の及びうる限り将来の不幸を思い見るだけでたくさんだ。ちょうど我々が馬上試合や模擬戦で武技を練ったり、平和の只中にありながら戦争の稽古をするのと同じことである。
 (c)わたしはあのアルケシラオスが、その境遇がゆるす限り金銀の什器を用いたという話をきいても、彼をそれだけ徳の低い哲人だったとは考えない。いや彼がそれをことさらに捨てないで、それをつつましやかにそして惜し気もなく使用したことに、かえって感心させられる。
 (a)わたしは、自然の要求の最少限度が、およそどの辺にあるかを心得ている。だから、わたしの戸口に立つ哀れな乞食が、わたしよりも愉快そうで健康なのを眺めているうち、自分を彼の立場に置いて見、わたしも彼のような心持になってみようと試みる。そして、そうやってあれやこれやの実例を眺めていると、死や貧乏や軽蔑や病気がすぐそこまで追いかけて来ていることを知っていながら、わたしは容易に、「わたしにさえも及ばない者どもがあんなに堪えていることを恐れなぞするものか」と腹をきめる。まったく、低い悟性の者の方が高い悟性の者よりもよく堪えるとは、信じられない。言いかえれば、理性の力が習慣の力におよばないとは、とうてい信じられないのだ。いや、あの仮の安楽がいかに頼むにたらないかをよく知っているから、それを十分に享楽はしつつも、なおわが至上の大願として、「ねがわくは私をして私自らに満足せしめ給え。私より生れる幸福に満足せしめ給え」と、神に祈ることを忘れない。見たまえ、元気溌剌たる若者でさえ、風邪の時の用意にと、一つまみの丸薬を小箱に入れて持っているではないか。彼らは薬を携帯していると思えばそれだけ風邪を恐れないのである。ああいうふうにしなければならない。いわんや、何かもう少し重大な病気をもっていると思う者は、あの患部を麻酔させる薬を用意していなければならない。
* モンテーニュは、この点に関してはたしかにしばしば意見をかえているようである。しかし結局、彼は理性の限界を認めながらも、やはり理性を信頼しているのである。彼にはどうしても、第一巻第二十五章の始めにのべているように「いろいろの知識に富んだ霊魂」が、「粗野で学問のない人たち」に及ばないとは、信じえないのである。習慣の力のおそろしさを知っていながら、理性ある人間が唯習慣にひきずりまわされていてはならぬ、と思っている。インテリにはインテリだけのことがなくてはならぬ、と彼は思っているのである。これが彼の本心だと思う。私はそれを、モンテーニュの相対主義と呼ぶ。
 こういう生活のために選ぶべき仕事は、苦しくも退屈でもない仕事でなければならない。でないと、せっかくそこに心の平和を求めてきたことが無駄になるだろう。人それぞれの好みにもよることだが、わたしの好みはとうてい家事にはむかない。それが好きな人たちも、節制をもってそれにたずさわらなければならない。

物事を従えよ。物事に従うことなかれ。
(ホラティウス)

 そうでないと、家事の管理も、サルスティウスが言ったとおり、奴隷の仕事になってしまう。中には幾分我慢のできる部分もある。例えば庭いじりがその一つで、クセノフォンの言うところではキュロスもこれを行ったらしい。それに、すっかり家事にかかり切っている人々に見うけられる・あの張り切った・心配に充満した・卑賤な心づかいと、また一方の人々において見られる・すべてをなるがままにまかせておく・あの深い極端な無頓着、

羊らデモクリトスの畠の収穫を食べ荒しおるに
彼の心は、その肉体をいでて、遠く空のかなたに遊びたりき。
(ホラティウス)

との間に、程よい中間も見出されうるのである。
 けれども、小プリニウスがこの孤独ということについてその友コルネリウス・ルフスに与えた勧告を、きこうではないか。彼はこう言っている。「僕は君に勧める。せっかく君はみち足りた隠遁生活をしているのであるから、家事に関する卑俗な雑務はみな下僕たちに委せて、君は専ら文学の研究に傾倒し、そこから全く君のものである何ものかを引き出したまえ」と。つまり、そのようにして令名を得よと勧めたのである。それはキケロが、「わたしは孤独と政務の余暇とを、書き物によって不朽の生命を得るために用いたい」と言ったのと同じ意味であった。
* 『博物誌』をかいた大プリニウスの甥にあたる。

(b)何ごとぞ、
人知らざれば汝が知恵に価なしとは!
(ペルシウス)

 (c)遁世を口にする以上、この世の外を目ざすのが道理であろうと思う。プリニウスとキケロとは、その点、中途半端である。なるほど彼らとて、やがてこの世にいなくなる時のためにはかりごとを立てているわけだが、その企ての果実を、やはりこの世から、自分たちのいなくなるこの世から、得ようとしている。わらうべき矛盾ではないか。来世における神の約束の確実であることを心から信じて、信心から孤独を求めている人たちの考えの方が、はるかに健全でその目的にふさわしい。彼らは慈愛においても威力においても無限なものとして、神を仰いでいる。霊魂は神の許に、その願いを思いのままに飽かしめることが出来る。悲しみも苦痛も、永遠の健康と幸福とをうるために用いられるのだから、結局彼らの利益になっている。死もまた、ああいう完全な状態に入る道程として願い求められている。掟のけわしさも、慣れによって忽ちに平坦にされる。肉欲も、一度これを斥ければそのまま衰え眠ってしまう。まったく習慣と実行ほどこの欲望を維持するものはないのである。そのようにしてこの幸福な永遠の生命来世さえ得られるならば、我々は現世の安楽と幸福とを放棄しても少しも悔いはないはずである。いや、この熱烈な信仰と希望とをもってその霊魂を燃やすことのできる者こそ、孤独の中にあっても、いつも変ることなく、現実的にどんな生活様式も及びえない程に安楽無比の生活を営んでいるのである
* このような節をよむと、モンテーニュが全く不信仰者であったとは思えない。
 (a)だからプリニウスの勧告は、目的からいっても方法からいってもわたしを満足させない。それでは一つの病からいえて又別の病にかかるようなものだ。どんな仕事でも同じことだが、この著作業というやつも、またなかなか苦しく、同じように健康の敵であって、この健康こそまず第一に考えられなければならないと思う。決してこの物を書くことの面白さに、夢中になってはいけない。倹約家・吝嗇家・享楽家・野心家を滅ぼすのも、やはりこの面白さである。賢者たちは、「自己の欲望の裏切りを用心せよ。ほんとうの完全な快楽と、混り物のある・甘味よりは苦味の方が多く混っている・快楽とを識別せよ」と繰り返し我々に教えている。まったく大部分の快楽は、彼らの言うとおり、まず我々をくすぐったり抱いたりしておいて、しまいに我々ののどを締めるのである。ちょうどエジプト人が「フィリスタス」と呼びなしている盗賊どもと同じことである。いや、頭痛が陶酔より前に来れば我々は飲みすぎないように用心するであろうが、快楽という奴は、我々を欺くために一番先にやって来て、しかもその後から来るものを我々にかくすのである。
 書物は面白いものである。しかしこれに読み耽ることから我々の至上の宝ともいうべき陽気さと健康とを失うくらいならば、むしろ始めからこれを捨てようじゃないか。わたしは、読書の効果はとうていこの損失を償うにたらないと考える者の一人である。何かの病気で久しく身の衰えを感じている人々は、しまいに医者のいいなりになる。そして医学にかなうようなある種の生活法を考え出して、ひたすらそれにそむかないようにする。ちょうどそれと同じで、普通の生活にみはてて引き退く者は、こんどの生活こそは理性の掟にかなわせ、思索と推理とによってこれを整頓しなければならない。それがどんな顔つきをしていようとも、どんな種類の労苦にもさよならを済ましていなければならない。そして一般に、肉体と霊魂の平静を妨げる激情をさけなければならない。(b)そして最も自分の心に適した道を選ばなければならない。

人おのおの最も己れの心にかなう道を選べ。
(プロペルティウス)

 (a)家事においても、研学においても、狩猟その他何事においても、快楽の最後の限界まで押してゆくがよろしい。ただし、その向う側には引き込まれないように用心しなければいけない。そこを境として苦味が混ってくるからである。勉強も苦労も、ただ自分が生きてゆく張合を感ずるのに必要なだけに、ただ何もすることがなく退屈で困るというあべこべの不快を避けるためだけに、とどめなければならない。世にはみのりのない、いばら〔荊棘〕だらけの学問がある。それらは大部分俗衆のためにできているのであるから、そんなものは世間に奉仕したい人たちに委せておけばよい。このわたしが愛するのは、ただ面白く易しくてわたしをくすぐる書物か、でなければ、わたしが自分の生と死とを調節するにあたって慰めとも力ともなるような・

われをしてすこやかなる森の中を逍遙せしめ・
賢者と徳人とにふさわしきことを教うる・
(ホラティウス)

書物だけである。賢明な人々は旺盛な霊魂をもっているから、全然精神的な安静を造り上げることができる。だがわたしはふつうの霊魂をもつだけだから、肉体的愉快の助けをかりて自己を支えてゆかなければならない。ところが年齢が、かつてわたしの心に適っていた肉体的愉快を今しがた持って行ってしまったから、わたしは今自分の欲望を、老いたる現在の季節にふさわしい残りの愉快に対して慣らしかつ鋭くする。我々は爪をも歯をも用いて、我々の年齢が一つ一つ我々の手から奪いとってゆく人生の快楽を、引きとめ用いなければならない。

(b)け楽しまん。ただ現在のみが我らのものなり。
やがては汝も、一握りの灰・一つの影・一つの噂とならん。
(ペルシウス)

 (a)ところで、あのプリニウスとキケロが勧める栄誉という目的にいたっては、わたしの考えからはきわめてかけ離れている。隠遁に最も反対な心持と言えば、それは野心なのである。光栄と安静とはとうてい同じ宿に住みえないのである。わたしの見るところでは、あの二人は腕と脚だけしか浮世の外に出していない。その霊魂、その意図は、依然として、今までよりも以上に、浮世につながれている。

(b)老いぼれよ。ただ他人の耳を楽しませるためにのみいそしむや。
(ペルシウス)

 (a)彼らがちょいとばかり引っ込んだのは、もっとよく飛ぼうためであった。いや、もっと勢いよく俗衆のただ中に割り込んでゆくためであった。いかに彼らがわずかのところで金的を射損じているかを御覧に入れようか。二人の哲学者〔エピクロスおよびセネカ〕の意見を、〔このプリニウスおよびキケロの勧告に〕対立させてみよう。二人〔エピクロスとセネカ〕はきわめて相異なる二派に属する哲学者であるが、一人〔エピクロス〕はイドメネウスに、もう一人〔セネカ〕はルキリウスに、いずれも自分の友が俗務や権勢にかかずらうのをやめて、孤独の生活にはいるようにとすすめているのである。「君たちは(と二人はいう)今まで泳ぎながら生きて来た。いいかげんに港にかえってきて死になさい。君たちは始めの半生を光に与えた。残るところはこれを影に与えなさい。その果実を思いすてぬかぎり、仕事を捨てることはできない。だから、名声や栄誉をえようとするあらゆる執心から解脱しなさい。過去の行為の輝きが君たちを照らしすぎ、君たちのほら穴までついて行ったら危険である。他のもろもろの快楽とともに、他人の称賛から来る快楽もこれをすてなさい。君たちの学識や才能のことなどは気にしなさんな。そのために君たちがよりよくなっているとすれば、評判などはどうでもよいのだ。想い出し給え。或る人が、『多くの人々に知られないような学芸のために、そんなに苦心していったいどうする気か?』と聞かれて、『いや僅かの人が知ってくれればそれでたくさん。一人でもたくさん。いや誰にも知られなくたってたくさん』と答えたのを。これこそもっとも千万な返答だ。芝居をするには相棒一人あればたくさんなのだ。いや、君対君自らでたくさんなのだ。大衆をもただの一人とみたまえ。ただ一人をも全大衆とみたまえ。無為と隠遁から光栄をひき出そうとするのは、あまりにも意気地のない野心である。そのほら穴の入口で足あとを消すという獣のようにしなさい。世間が君たちについて語ることなどは、もはや君たちの尋ねるべきことではない。いかにおのれ自らに語りかけるべきかをこそ、尋ねなければならないのだ。君たち自らのうちに引っ込みなさい。しかし、まずもって君たちをそこに迎え入れる用意をしなさい。もし君たちが君たち自らを指導することを知らないならば、君たちを君たち自らに委せるのも愚かなことであろう。孤独の中でも衆人の間でと同じように過つ機縁がある。いよいよ君たちが、自分自身の前で跛はひけないというようなそういう人間になりおおすまでは、君たちがおのれ自らに対して羞恥や畏敬をいだくようになるまでは、(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)汝の心を徳ある人の姿もて満たし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)、(a)常に心の中にカトー、フォキオン、アリスティデスを想い描きなさい。それらの人々の前に出れば、ばかだってその過失を掩うだろう。彼らを君たちの意図の検察官としなさい。君たちの意図が常道をはずれても、彼らに対する畏敬の心はやがてそれをもとにかえすであろう。かくして彼らは、君たちが君たち自らに満足し・君たち以外より何物をも借りず・君たちの霊魂をそれが安堵しうるような確乎不動な思想の中に入れてそういう道の中で鍛える・ように、そして君たちが真の幸福を理解して(ひとはこれを理解すればするほどこれを享楽することができるのである)・命を延ばそうとか名を残そうとか思わず・その境遇に満足する・ように、補導するであろう」と。これこそ、真実の・自然な・哲学が産んだ勧告であって、プリニウスやキケロの哲学のような・これ見よがしの・口先だけの・哲学が教えたところとは大へんちがう
* モンテーニュはこの章の中で隠遁生活の三つの様態を考察した。第一は宗教的隠遁、これに対してはただカトリック教徒としての敬意をささげたまま深くは追及しない。第二はプリニウス―キケロ式隠遁で、モンテーニュはこれの矛盾をわらった。第三がエピクロス―セネカ様式で、これこそ夫子自らのあこがれの隠遁であった。
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第四十章 キケロに関する考察



 この章は前章「孤独について」の後半においてキケロ―小プリニウス対セネカ―エピクロスの比較論がなされているので、その延長として書かれたのであるが、むしろ後年加筆せられた(c)の部分の中に、『随想録』解釈上の重大な鍵がかくれている点に注意すべきであろう。すなわち彼は、『随想録』の言葉づかいに関する世評に答えながら、「それらはそっぽをむいてさらに微妙な意味を響かせている」と言っている。これは第三巻第九章に「わたしには物事を半分しか言えない・またごたまぜにもちぐはぐにも言わねばならない・何か特別なわけがあるのだろう」と言った言葉とともに、我々が読みおとしてはならない重大な言葉である。モンテーニュを保守反動家であると見たり、懐疑論者だと見たり、あるいはその宗教的態度の矛盾や曖昧を咎める人たちは、皆この微妙な響きをききわけない人たちなのではあるまいか。これはアルマンゴー博士が指摘した重要な点である。

 (a)これら二組の人々を比較してゆくと、さらにもう一つのことに気がつく。キケロやこのプリニウス**(この男は、わたしの考えでは、少しもその伯父〔大プリニウス〕の性格に似たところがない)の書いたものの中には、彼らの極度に野心的な性質を示す証拠が限りなく見出される。その内の特に著しい一例をあげるならば、これは皆の人がよく知っているところであるが、当時の歴史家たちに対して、自分たちを記録の中に書き忘れないでくれと切望していることである。ところが運命もつむじをまげたか、そういう要求をした彼らの虚栄の方は忘れずに我々にまで伝えながら、彼らのことが記録されているその伝記の方はとうの昔になくなしてしまった。だが彼らの心事の陋劣ろうれつを何にもまして伝えているのは、いずれも身はあのような高位にありながら、下らないおしゃべりの中から何かすぐれた光栄を引出そうとして、その友だちに宛てた私信までもそれに利用したということである。実際彼らは、その送ろうとして時機を失ったいくつかの手紙までも、自分たちの勉強や徹夜をむだにしてはもったいないという、もっともらしい申訳を添えて公表したのであった。そもそも世界に冠たるローマ帝国至高の官・執政の位にありながら、この二人の人がその閑暇を用いて美しい書簡を綴りしたため、それによって母国語に堪能であるとの評判を克ちえようとしたのは、果してふさわしいことであろうか。そういうことを生活の手段としている一介の学校教師といえども、これほどあさましい真似はしないであろう。もしクセノフォンやカエサルの勲功が彼らの雄弁をはるかに凌ぐものでなかったならば、彼らは決して己れの勲功を書きとどめはしなかったろう。彼らはその言葉ではなくその行為を示そうと努めたのである。もし能弁の極致も何か大人物にふさわしい光栄をもたらしうるものとすれば、スキピオやラエリウスだって、その喜劇を始めとしてラテン語の艶麗と甘美とを尽したさまざまの作品の名誉を、アフリカの一奴隷***にゆだねはしなかったろう。まったくこれらの仕事がたしかに彼らのものであることは、その美しく優れていることによって十分に実証されるのみならず、テレンティウス自らもこれを認めている。(b)わたしからこの確信を奪おうとするものがあるのは遺憾千万である。
* 前章後半における、キケロ―プリニウス対セネカ―エピクロスの比較。
** 「このプリニウス」とは伯父である自然学者大プリニウスに対して前章以来論じて来た小プリニウスをさしている。
*** テレンティウス。
 (a)人をその人の身分にふさわしからぬ特質によってほめようとするのは、たとえその特質そのものはほむべきものであっても、やはり一種の侮辱である。また、その人の第一の特質であってはならぬ特質によってほめようとするのも、同じことである。例えば、王を善き画家よ、善き建築家よ、とほめそやすのも、いや、よき射手よ、馬上輪投げの名人よ、などとほめるのだって、そうである。そういう賞賛は、もっと彼にふさわしい特質、すなわち治乱いずれの時を通じても人民を統御することが公正でありまた巧妙であるというような特質と、いっしょに並べたたえられるのでなければ、少しも名誉とはならないのである。そのようになされてこそ、農耕がキュロスに、雄弁と文学の知識がシャルルマーニュに、名誉となるのである。(c)わたしは当代においても(これはたいへん極端な例であるが)、書くことでは自他ともにゆるす人たちが、自分はそういう修業などはしたことがないと言ったり、ことさらに文章をまずくし、きわめて平凡な手法さえ知らないかのように装ったりしているのを、そして人々から練達の人としては珍しいことよと不思議がられているのを、見たことがある。つまり、その人は、もっと高い特質によって自分をあらわそうとしたのである
* モンテーニュは後に結局エッセーの著者たることに徹底するのであるが(拙著『モンテーニュとその時代』終章参照)、長いこと、特に始めのころは、自らジャンティヨムたることを誇りとし、単なる文筆家、売文家、学者たることをいさぎよしとしないような傾向があった。ここに言っていることは、さも他人事のようであるが、少なくともそこに自分をも含めて言っているように思われる。彼が理想とするジャンティヨムは、ただ詩歌管弦の道にたけたる風流優雅な宮廷人ではなく、王政の扶翼者、為政者としての才幹を備えていなければならなかったので、この点で彼はカスティリヨーネの『宮臣論』を抜いていた。このことは、次にマケドニア王フィリッポスの話をしていることでもわかる。その次に(c)の加筆では、はっきりとエッセーの著者の姿をあらわしているではないか。
 (b)デモステネスのお供をして、フィリッポスの朝廷に使いした人たちはみな、この王の美貌で雄弁、しかもよく飲むことをほめた。デモステネスは、「そんなほめ言葉は、王に対してよりも女か弁護士か海綿にふさわしい」といった。
* 海綿は液体をよく吸収するから大酒呑みをさしている。

刃むかう敵には強くあれ。
恐れる敵には優しくあれ。
(ホラティウス)

狩猟や舞踊をよくするということも王者の本職ではない。

或る者は雄弁をふるって訴訟を弁護するがよし。
或る者はコンパスを取りて星の運行を記すがよし。
されど彼は、もっぱら民を治むる道を知るべきなり。
(ウェルギリウス)

 (a)プルタルコスは更に一歩を進めて言う。「さほどに必要でないこういう部分において、これほどまでに卓越しているということは、もっと必要な有効な事柄にむけるべきであった閑暇と勤勉とを誤り用いた証拠であって、かえってその人の徳をそこなうゆえんである」と。実に同じ考えからマケドニア王フィリッポスは、その子のアレクサンドロス大王がある宴会の席上で、名ある音楽家たちにも負けないほどに歌うのを聞くと、「お前はそんなにうまく歌って恥ずかしいとは思わぬか」と言ったのである。また、この同じフィリッポスに向ってある一人の楽人は、さんざん王と音楽についてあげつらった末に、「おそれながら陛下よ。これらの問題について陛下の方が私よりも明るくおなりになったら、それこそ困ったことに相成りまする」と申上げたそうな。
 (b)王たる者はあのイフィクラテスのように答えることができなければならない。「お前はえらく威張っているがいったい何者だ。剣士か弓士か、それとも槍士か」と彼に食ってかかった雄弁家に向って、「わたしはそのいずれでもない。しかしそれらすべてを指揮することのできる者だ」と彼は答えたのである。
 (a)また、アンティステネスは、人がイスメニアスを「並びなき笛の名人であるぞ」とたたえたのを聞いて、「では大した人物ではあるまい」と判断した。
 (c)わたしは人が『エッセー』の言葉づかいについてあげつらっているのを聞いていると、いい加減にやめてくれればいいのにとつくづく思う。あれでは文章をほめているのではなく、むしろ内容をこきおろしているのである。それは遠まわしの批評であるだけに、それだけ針を含んでいる。けれども果して世の多くの著作家たちは、内容においてわたしよりも豊富なものを提供しておいでだろうか。そうは思われない。どのような書きぶりにもせよ、うままずいはしばらく問わず、誰ひとりとして、わたしよりも実のある内容を、少なくともわたしよりたくさんの内容を、その紙の上にばらまいてはおられない。わたしはそれらをもっとたくさんならべようと思えばこそ、その頭だけしか載せないのである。この上更にしっぽまでも加えてごらん、この本は数倍にもふくれあがるであろう。まったく、何の意味もなさそうな物語を、いかにたくさん、わたしは挿入したことであったか。それらの物語は、誰かが少し器用にその皮をむいてゆくならば、そこから限りないエッセーをひき出すであろう。それらの物語にしろ、またあの引用にしろ、いつでもただ実例・権威・ないし装飾の役をしているだけではない。ただわたしの役に立てようとしてだけああいう物語や引用をしたのではない。それらはしばしばわたしの問題以外に、より豊富で・より大胆な・問題の種子を含んでいる。そしてそっぽをむいて、さらに微妙な意味を響かせている。おかげでわたしはより以上のことを言わないですむし、読者の方でもまた、言外にふとわたしの本心をさとることもできるのである。さて再び言語文章の力という問題に帰ると、まずくでなくては何も言いえないのと、巧みに言うのでなければ何も行いえないのとの間に、わたしは大した区別をつけないのである。※(始め二重山括弧、1-1-52)凝りたる飾りは男子にふさわしからず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
* 章頭の解説に述べたように、ここは大層意味の深い一節である。反語的表現の中に、モンテーニュの世評に対する答え、ないし自著の抱負がうかがわれる。
 (a)賢者たちは言っている。「知識のためには哲学がありさえすればよい。実行のためには徳がありさえすればよい。徳こそ一般的にあらゆる段階あらゆる部類にふさわしいものであろう」と。
 後の二人の哲学者〔エピクロス及びセネカ〕においても、多少前の二人〔プリニウス及びキケロ〕に似たところがある。まったく彼らもまた、その友人に与えた手紙に永遠を約束している。だがその仕方がちがう。すなわち、或るよい目的のために他人の虚栄に順応したのである。まったく、こんなふうに彼らはその友だちに告げているのだ。「もし後世に知られよう・よき評判をえよう・との心づかいが、なお君たちを政治に執着させるのならば、そして、そのために我々がすすめる孤独隠遁の生活を厭われるのならば、もうそういう御心配は無用である。我々は相当後世の信用をえているから、我々から手紙をもらっているというだけで、君たちの名前が有名になるであろうことは請合いである。何もわざわざ政治にたずさわらなくてもよろしい」と。それに、こうした区別があったばかりでなく、それは空虚な実のない手紙ではなかった。巧妙に語をえらんでそれらを調子よく響くように積み並べたということよりほかに、なんの取柄もないような手紙ではなかった。それは知恵の堂々たる議論が充満した手紙であった。それをよむと、人はさらに雄弁となるだけでなくさらに賢明になる。よく言う道を教えられるだけでなく、よく行う道をも教えられる。雄弁を羨望させるだけで、他の何事をも羨望させない雄弁なんか、いったい何だ。「キケロの雄弁は完全の極致であるから、ただそれだけで実質となる」と言う人もあるけれど。
* エピクロスはイドメネウスに、セネカはルキリウスに書いた。
 わたしは更に彼〔キケロ〕の雄弁に関する一つの逸話をつけ加えて、彼がどんな性質の人間であったかを明らかにしよう。彼はあるとき公衆の前で語らねばならなかったが、心ゆくばかり準備するには少々時が迫っていた。ところが彼の奴隷の一人であるエロスがやってきて、会が翌日にのびたことを告げた。彼はとても喜んで、この吉報をもたらした褒美だといって、その奴隷に自由を与えた。
 (b)手紙の話が出たついでに、一言いっておきたいのは、「これならお前にも相当なものが書けるだろう」と、よく友だちから言われることである。(c)なるほど、もしその相手さえあったなら、わたしはわが幻想を発表するのに、この形式の方をとろうとしたであろう。だがわたしには、昔とちがって、わたしを引きつけ、わたしを支持し、わたしを向上させるような交際がもうないのである。まったく、たれかれがするように空であげつらうなんてことは、夢の中ででもなければできないし、真面目な問題を論ずるのに、ありもしない名前をでっちあげることもできないのである。詐欺は一切大嫌いだから。わたしだって、誰か力あるやさしい相手をもつならば、大衆のさまざまな顔つきをながめながら書くよりは、ずっと張り切って確信を以て書いたであろう。いやそれで成功しなかったら、それこそわたしは失望したにちがいない。(b)わたしは生来平たい砕けた文体を持っているが、それは全くの我流で公文書などにはむかないのである。わたしの言葉はどんな場合にも、あまりにせっかちで・乱雑で・とぎれとぎれで・風変り・だから。それに、ばか丁寧な言葉の美しい連続にすぎない・あの内容空虚な・礼式文ときてはどうにもならない。わたしには「敬愛」とやら「奉仕」とやらを、ああ長々しく申し述べる能力もなければ趣味もない。わたしは心からそんなふうに思ってはいないのだし、心にもないことを仰々しく申しのべることはきらいなのである。だがこれは、こんにちの習慣からは甚だしくかけ離れている。まったく、未だかつてこれほどまでに挨拶の言葉がけがされ乱用された時代はなかった。いのち・たましい・忠誠・崇拝・しもべ・奴隷というような言葉があまりにふんだんに用いられているものだから、さてほんとうの尊敬の情を表わそうとなると、人々はもうどう言ってよいかわからないのである。
* 『随想録』は、失われた友との対話として生れ、ラ・ボエシの代替物になるわけだが、その過去の友愛に対するあこがれの情は、やがて将来多くの人々の間から誰か一人の生きた友人に出会いたいという欲望に変って行く。後出三の五、九七九頁参照。
 わたしはおべっかつかいに見えるのが死ぬほどいやである。それで自然とそっけない・正直な・むき出しの・言葉づかいになってしまう。そしてわたしを他の点で知らない者には、とかく高慢ちきな男と思われやすい。(c)わたしが最も敬い奉る人々はわたしの最も尊敬しない人たちであって、わが霊魂が大きな喜びをもって赴く人のところでは、ついつつましい態度を忘れてしまう。(b)そして自分の心服している人の前には、甚だむっつりと威張ってまかり出る。(c)いや、最も敬服しているその人の許にはあんまり伺候しない。(b)彼らはわたしの心の中の敬愛をちゃんと読み取っておられるはずだと思うし、わたしの言葉はとうていわたしの心のうちを表出するにたりないとも思うからである。
 (c)お迎えをしたり、お暇乞いをしたり、お礼を申し上げたり、ご挨拶をしたり、ご用を承ったり、その他我々の礼儀作法が命ずるさまざまの口上を述べるのに、わたしぐらい口不調法な者はちょっとないであろう。
 だからわたしも推賞推薦の手紙を頼まれたことがないではないが、それを受け取った人が、おそろしくそっけない手紙もあったもんだと思わないこととてはなかったのである。
 (b)イタリア人はむやみに書簡集を刊行する。わたしはそれをたしか百冊ばかりは持っている。なかでもアンニバレ・カロの手紙が最も優れているように思われる。万一わたしがむかし婦人たちのために書き散らした手紙が、わたしのこの手が本当に熱情に駆られて書いたその時のまんまでそっくり残っているならば、中にはひょっとすると、同じ狂気にうつつを抜かしている呑気な若者どもに見せるにたりるものも幾頁かはあるかも知れない。わたしはいつも急いで手紙をかく。あまりに気がせくので、たまらなく悪筆だけれども、他人の手をわずらわすよりは自分で書く方がすきである。まったく、わたしについてこられるほどの筆達者は到底ないのである。また、わたしは決して書き直さない。わたしは識り合いのお歴々がたを、塗り消しや、折目も余白もない書簡紙に、我慢あそばされるように慣らしてしまった。最も骨を折って書く手紙が、わたしの最も価値のない手紙である。永びきだしたら、それこそ心そこにあらざる証拠である。わたしはよく腹案なしに始める。冒頭の句は第二の句をうむ。当世の手紙は、本文よりも修飾や前置きの方が多くて、中味が乏しい。わたしは一通の手紙を封印したりたたんだりしている暇があるなら二通の手紙を書く方がましだと思い、現にこの役目をいつも他人に委せている次第だから、同じように本文がすんだら、あの敬意をささげたり幸運を祈ったりする長々しい末尾の文句を書き添えることも、誰かに委せてしまいたいものである。いや何か新しい習慣ができて、この煩わしさを取り除いてくれればよいと思う。また、いろいろな位階官職を書き込むことなどもごめんこうむりたい。わたしはそれを書き違えないために、しばしば書くのをすっぽかした。特に司法官や財政官に宛てては。ああしばしば職務が改められては、いろいろな敬称の使いわけはいよいよもってむつかしくなる。それらは高いお金で買われたのだから、取違えたり忘れたりした日には、お咎めなしにすむわけがない。我々が刊行させる書物の表紙にそれらを長々と並べるのも、同様にいやな趣味**だと思う。
* モンテーニュは自ら悪筆と称しているが、ボルドー本の書き入れを見るとなかなか几帳面な行儀のよい字であって、それはむしろ学究的綿密さを思わせる。モンテーニュはいつもこのように謙遜であるから、読む方は文字どおりにとってはいけない。彼は厚かましさがきらいで、自慢も出しゃばりもしなかったために、他の点でも随分損をしている。『サント・ブーヴ選集』(実業之日本社版)中、私が訳した「モンテーニュ」の項及び白水社版『モンテーニュ全集』第二巻の口絵、ボルドー本書き入れ、および「家事録」の記入参照。
** 一五八八年版の『エッセー』を見ると、従来あった著者の肩書が扉紙の上から除かれている。このパラグラフも(b)であって、いわゆる彼の第三巻時代に属する。初版刊行のころは、ジャンティヨムとしての意識が強く、王室伺候という肩書きを刷り込まないのは王室に対する不敬になる位に考えていたようだが、やがて自ら『エッセー』の著者としての使命抱負をはっきりと意識するようになるからである。特に旅行以後の彼はもはやジャンティヨム・フランセではなしに、「世界の市民」の意識へと進んで来ていることが察せられる。
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第四十一章 名誉はなかなか人に譲らないこと



 (a)世にあるもろもろの迷夢のうち最も広く人々にいだかれるのは、評判や栄光にたいする執念である。我々はそれらのために、財宝や安楽や生命や健康というような、実効的で実質的な幸福までもすててかえりみず、ひたすらこの実体もなく捉まえることもできない空しい影、単なる名声を追い求める。

名声は優しき声もて人々を誘えども、
その姿は艶に美わしけれども、そは、
木霊こだまにすぎず、夢にすぎず。否、
そよとの風にも吹き消さるる夢のまた幻よ。
(タッソー)

いや人間にはいろいろと不条理な気分があるものだが、この名誉心こそは、哲学者ですらが最もおそく、最もしぶしぶと、脱却する気分であるらしい。
 (b)これこそ最も頑固執拗な気分である。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)何となれば、そは徳の道に最も深く進みたるものをさえ誘惑すればなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(聖アウグスティヌス)。(b)これくらい理性によってその空しさが明瞭に非難される気持はちょっとないけれど、それは我々の心の中にきわめて深く根をおろしているので、さっぱりとそれを脱却しえたものがかつてあったかどうか、このわたしも知らないくらいである。いくら君たちがそんな気持はもっていないと言ったって、またそう信じたって駄目である。それはそのすぐあとから、君たちの理屈にさからって、君たちの心の奥の奥に、とうてい抵抗しきれないある傾向を生ぜしめる。
 (a)まったくキケロも言っているとおり、この気持を攻撃している人々さえが、そのことを論じている書物の表紙には、自分たちの名が記されることを願っているのである。栄光を軽蔑したということをもって自分の栄光にしようと願っているのである。他の物は何でも交易される。我々は友人が困っていれば、財宝をも生命をも貸してやる。けれども、他人に自分の名誉をゆずったり自分の栄光を贈ったりすることは、あんまり見られない。カトゥルス・ルクタティウスはキンブリ人との戦いで、敵を恐れて逃げる味方の兵士たちを引きとめるのにあらゆる努力を尽した末、ついに自ら遁走者の群れに投じ、臆病者をよそおい、味方の者どもは敵を恐れて逃げたのではなく、ただ大将の後に従ったのだと見せかけた。これは自分の名誉をすてて他人の恥をかばったのである。皇帝カルル五世が一五三七年にプロヴァンスに侵入した時のこと、伝えるところによるとアントニオ・デ・レヴァは、主君がこの遠征を決意したのを見て、これこそ皇帝の大きな栄光であると考えたが、わざと反対を唱えて御意を翻そうとした。それは、この果断の栄光と名誉とをことごとくその主君のものにするためであった。皇帝の知略と明察とが万人の反対を押しきってこの雄々しい企てを決行させたのであると、人に言わせようとしたからであった。つまり自分の名を空しくして皇帝の誉れを高くしたのである。トラキアの使者たちは、ブラシダスの母アルキレオニダがその息子を失って悲しんでいるのを慰めて、「彼のような者は実にたぐい稀である」と称揚したところ、彼女はこの賞賛を私することを拒み、これを公衆に返して、「そう仰せられるな。スパルタには彼よりも更に勇敢な市民が沢山おられます」と言った。クレシの戦いのおり、ウェールズ公はまだきわめてお若かったが前衛を仰せつけられた。つまり、合戦で最も骨の折れるのは前衛であるからだ。彼に従った貴族たちは、いよいよ苦戦に陥るや王エドワードに向って来援を乞うた。すると王はまず王子の模様を尋ねられ、王子がつつがなく馬上にあらせられる由を聞し召されると、「せっかくこれまで持ちこたえてきたものを、今わしが出かけていって彼から勝利の名誉を奪うのはいかにもふびんだ。危険もあろうけれど、やはり勝利はまったく彼のものであらせたい」と仰せられた。そして、自ら赴かれることも援兵を差し遣わされることも欲せられなかった。つまり、御自身がここに赴かれるならば、世の人は必ず、「父王の救援がなかったなら散々の負け軍になったであろう」と言って、その大勝利をただただ王のせいにしてしまうであろうと思われたからである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)つねに、最後の援兵こそ勝利をもたらしたるものと思われがちなればなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。
 (b)ローマでは、多くの人々が、「スキピオの主な勲功はなかばラエリウスに負うている。この人は自分の栄光などは少しも省みず、ひたすらスキピオの偉大と栄光とを大きく輝かそうと努めたのである」と考えていたし、また一般にそう言いなされていた。それからスパルタ王テオポンポスは、或る人が彼に「国家は陛下の統治がお上手であるために安泰である」と言ったのに答えて、「いやむしろ人民の方が服従の道を心得ているがためだ」と申された。
 (c)大貴族の家を継がれた婦人たちが、女性であるにもかかわらず貴族裁判に列席してその意見を述べる権利をもっていたように、僧職にある貴族たちもまた、聖職者であるにもかかわらず戦争において王を助けなければならなかった。その家族や家来にそれをさせるだけでなく、自分でもそれをしなければならなかった。ボーヴェの司教はブヴィーヌの戦いの際、フィリップ・オーギュストに従ってきわめて勇敢に実戦に参加された。けれども何となく、この血腥ちなまぐさい殺伐な行為の結果と栄光とにあずかることがはばかられた。彼はその日自らの手で幾多の敵を組み伏せたが、味方の貴族にあうごとにこれにのどを締めさせたり生け捕りにさせたりして、さすがに自ら手を下すことはなされなかったのである。ソールズベリ伯ウィリアムをも、そのようにしてジャン・ド・ネール殿に与えられたのである。ずいぶんきわどい気やすめもあったもので、彼はまたなぐり殺すことはよくしたが血を流すことは欲せられなかった。それでただ棍棒でばかり戦われた。ある人は、これは近頃のことだが、僧侶に手をかけたといって王様に咎められたところ、断然これを否定した。なるほど彼は、坊さんを足蹴にした上に踏んづけただけであった。
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第四十二章 我々の間にある不平等について



 この章はモンテーニュの思想の上から見ても、民主主義の歴史の上から見ても、重大な意味をもっていると思う。モンテーニュはここに人間のうその偉大(富貴権力による偉大)に対する迷信や幻想をついた末、人間が皆生れながらにして平等であるという事実を読者にわからせているからである。キリスト教を始めもろもろの宗教は、すでに人間が神の前では平等であることを教えているが、それはわれわれが死んでから後の平等だから、われわれが手につかむことのできない、いわば画にかいた平等にすぎない。ところがモンテーニュは、この世のいろいろな差別が皆うそのものであり、一皮はげば、凡ての人間が現に我々の目の前で、みな平等であることを教えるのであるから、まさしくこれは今日の民主主義の第一歩であったといえよう。このかなりラディカルな思想は、テレンティウス、ホラティウス、プルタルコス等々の古代諸家の巧みな引用の下にうまくカムフラージュされているが、ここでもわれわれは『随想録』が当時のインテリにとってきわめて巧妙な精神革命の書であったことを思わせられる。なお当章は後出二の十九「信仰の自由について」、三の七「身分の高い人の不便窮屈について」へとつながる。

 (a)プルタルコスはどこかで、動物仲間には人間同士の間におけるほどの隔たりがないと言っているが、それは霊魂の能力、内部的諸特質についての話である。ほんとうに、わたしが心に想像するエパメイノンダスと、現にわたしが知っている或るひと、すなわちただ普通の分別を備えた或るひと、との隔たりはとても遙かなものであるから、わたしは喜んでプルタルコスの所説を強調したい。そして、ある人とある人との間の隔たりは、ある人とある動物との間の隔たり以上であると言いたい。

(c)ああ、いかなれば、一人は他の一人に、
かくも遙かに優れたるよ。
(テレンティウス)

 いや、人々の精神と精神との間には、天と地とをへだてるほどの段階がある、それほど無数の段階がある、と言いたい。
 (a)けれども人間の評価に関しては一つ不思議でならないことがある。それは、我々人間以外のものは、何でもみな、それ固有の特質によってのみ評価されているということである。我々は、馬を逞しく利巧だからほめるので、

(b)されば我ら馬をほめて言う。
「そは速し。そは人々の喝采の内に、
幾たびも棕櫚の葉をかちえたり」と。
(ユウェナリス)

(a)その付けたる馬具のためにほめはしない。猟犬も足がはやいからほめるので、首輪が美しいからとてほめはしない。鷹をその翼によってほめ、その手綱や鈴によってほめはしない。なぜ同じように、われわれは、人間を彼自らのものによって評価しないのだろう。彼は多数の供まわり、立派な御殿、あのような評判とあのような年金とを持っている。だがそれらはみな彼の周囲にあるもので、彼のうちにあるものではない。君たちは猫を袋入りで買いはしない**。馬を値ぶみする時にも、まずその馬具を取りのけ、それを裸にして眺める。もっともむかし博労が王侯に馬を売る場合にしたように、それに覆いをかけることもあるが、それはむしろ重要でない部分にかけるのである。そうやって毛並みの美しさやお尻の大きさなどに気をとられないように、もっぱら最も有用な部分である脚と眼つきと蹄とをよく検査することができるために、するのである。
* 狩猟に用いる鷹。
** 中味をあらためずに物を買いはしないという諺。

諸王が馬をあがなうときは、常に被覆して審査す。
思うに、往々にしてこれあるが如く、そが、
美わしき首と弱き脚とを持つ馬にして、
買う者の徒らにその姿に魅せられんことを
おそるればなり。
(ホラティウス)

なぜ人間を評価するときに限って、包装のまんま評価するのか。彼は我々に、全く彼のものでない部分だけしか示さない。それによって彼の値うちを判断しうるその肝心な部分はかくしている。君たちが求めるのは剣の価値であってさやの価値ではない。ところが鞘がないと、君たちは恐らくびた一文も払わないだろう。人間は人柄によって判断すべきで、その身なりによって判断すべきではない。古人は、甚だ面白いことを言った。「なぜ彼が丈高く思われるのか、おわかりかね。彼はかかとの高い履物をはいているからよ」と。台座は彫像の高さに入らないのである。人間も竹馬をぬがせて計るがよい。財産や名誉はわきにおいて、シャツ一枚で来させなさい。果して彼は、その職掌にふさわしい健康で敏活な肉体を持っているか。どんな霊魂を持っているか。その魂は美わしいか、有能であるか、それはもろもろの性能を備えているか。それは自分のもので豊かであるか、他人のものによって豊かであるか。運命は見ているだけでそれに手を貸していないか。果してそれは眼を見開いて抜身を待つことができるか、命が口から出てゆこうと咽喉のどから出てゆこうと意に介しないか、果してそれは落ちついているか、顔色を変えないか、満足しているか、これこそ我々が見なければならないことである。これによってこそ、我々の間にある大きな相違を判断しなければならないのである。彼は、

賢明にして自己の主たりや。
貧をも、死をも、鎖をも恐れざるや。
その情欲を抑え、その名誉をあなどるや。
丸くまた滑らかにして、如何なる外物も
これがころがるのを妨ぐることなきや。
いかなる不運もこれをとらえ得ざるや。
(ホラティウス)

こういう人は、王国や公国より五百ひろも高いところにいる。彼自らが彼の帝国であるからだ。

(c)賢者は自己の幸福を作る工匠なり。
(プラウトゥス)

(a)この上彼に、一体何の願うところがあろう。

見ずや、自然はただ、苦痛なき肉体と、
恐れも憂いもなき快活なる霊魂とを、
欲するのみなるを。
(ルクレティウス)

こういう人物に、あの愚劣で卑屈でおちつきなく、絶えずさまざまな情欲のあらしに吹きまくられてふわふわしている・すなわち全然他人にすがりついている・人間どもをくらべてごらん。そこには天地をへだてる以上のへだたりがある。ところが我々は習慣のためにひどい盲目になっているので、そこのところをほとんど、否少しも、考えない。そのくせ、百姓と王様、(c)貴族と平民、役人と並の人、金持と貧乏人(a)を目の前にすると、忽ちそこに大きな相違を見つけだす。言って見れば、それはただほんの少しばかり、はいているズボンが違うだけなのだが……。
 (c)トラキアにおいては、王とその人民との間に面白いまたきわだった区別があった。すなわち王は特別の宗教をもち、臣下の者にはおがむことの許されない王様だけの神メルクリウスをもっていた。そして臣下の神たるマルスやバッコスやディアナを軽蔑していた。
 だがこれも表面上の相違にすぎず、すこしも本質上の差別とはならない。
 (a)まったく、それは役者みたいなもので、たった今舞台の上で太公や皇帝になって威張っていたかと思うと、何時の間にやら見すぼらしい下男や荷担ぎになっているが、この方が彼らの自然本来の身分なのである。皇帝もまた同様で、公衆の前ではその荘厳さが君たちの目をくらますけれども、

(b)その身には黄金のふちどる碧玉を帯び、
また美しき海の色なす衣をば、日々、
ウェヌスの汗に汚しては着換うれども、
(ルクレティウス)

(a)彼をそのカーテンの蔭に見てごらん。それはただの人間にすぎない。ひょっとすると、臣下の最も微賤なものよりもさらに卑しい人間にすぎない。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)後者は内なる幸福をうけ、前者はただ表面の幸福を受く※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
 (a)臆病・迷い・野心・うらみ・ねたみなどに心をかき乱されることも、常の人とかわりはない。

げに、財宝も執政の斧杖も、
金殿の中に思い乱るる
彼の心の憂いを払いつくすには
足らざるなり。
(ホラティウス)

(b)いや、心配と恐怖とが、百万の兵隊に守られた彼の喉もとをおさえている。

恐怖と憂鬱とはその身を去らねども、
武器のひびきも刀槍の光も恐るることなし。
黄金の光をもあえてはばからず、
王侯貴人の許に平然として坐せり。
(ルクレティウス)

(a)熱や頭痛や痛風は特別に彼を容赦するか。老いが彼の肩にのしかかる時、警護の弓士はそれを払いのけてくれるか。死の恐怖が彼をふるわせるとき、宿直とのいの武士がいれば彼の心は安んずるか。嫉妬や出来心に悩むとき、我々の最敬礼は彼を落ちつかせるか。あの金と真珠とをちりばめた天蓋にも、激烈な疝気せんきの苦しみをやわらげる力はないのである。

金襴と猩々緋しょうじょうひしとねの上に横たわるも、
また粗き毛布一片の上に打ち伏すも、
体熱の落つるに遅速なし。
(ルクレティウス)

 大王アレクサンドロスにへつらう者どもは、彼がユピテルの子であることを、彼に信じこませていた。ところがある日のこと、彼は怪我をした。血がその傷口から流れでるのを見やりながら、「どうだ、これを見よ。まさしく人間の鮮血ではないか。ホメロスが神々の傷口から流れださせたものとは物が違うぞ」と彼はいった。詩人ヘルモドロスは、詩を作ってアンティゴノスを太陽の子とたたえた。ところが彼の方では、「わしの便器をあけるものはそうでないことをよく知っている」と言った。要するにいずれもただの人間なのである。だからその人自ら悪く生れついているならば、宇宙に号令する大王となったところで、とうてい別様にはなれないのである。

(b)おとめらよ、彼を争え。
彼が踏む至るところに花よ咲け。
(ペルシウス)

だがもしそれが粗野で愚鈍な霊魂であったら? 快楽だって、幸福だって、精力がなく機知がなくては、感じようがないのである。

物の価はこれを持つ人の心によりて変る。
よく用いる者には福となり、
よく用いざる者には禍となる。
(テレンティウス)

(a)運命の賜物はいずれもみな結構なものであるが、それらを味わうにはやはり感覚がなければならない。我々を幸福にするのは享受であって所持ではないのだ。

病を癒しうれいを払うものは、
家にあらず、領地にもあらず、
また金銀の山にもあらず。
まず、それらの所有者は健康にして、
その幸を享楽しえざるべからず。
もしも利欲と恐怖とに苦しめらるるならば、
家も宝もさながら、
めしいの前の絵のごとく、
痛風病みのための膏薬のごとし。
(ホラティウス)

彼は愚か者である。感覚は鈍くしびれている。風をひいた者がギリシア酒の芳醇を感じえないのと同じこと、馬がその着ている馬具の豪華をさとらないのと同じことだ。(c)同様に、プラトンも申したとおり、健康も美も力も富も、そのほか善とよばれるすべてのものは、正しい者には善であるが、正しくないものには悪である。そして悪の方はそれとはあべこべである。
 (a)それから肉体と精神とが悪い状態にある場合、これらの外部的幸福がいったい何になるか。小さな針の一突きも、心中一抹の憂いも、世界の覇者たる喜びを奪うに十分である。ひとたび痛風の襲うところとなれば、(b)朕だろうが、陛下だろうが、

満身これ金銀
(ティブルス)

であろうが、おしまいである。(a)彼は自ら金殿玉楼のうちにあることも、威勢ならぶ者なき身であることも、うち忘れてしまうではないか。ひとたび怒れば、公爵様だって気ちがい同然、赤くなったり、青くなったり、歯がみをしたりせずにはいられないではないか。ところが、生れつき良識のある君子人であるなら、王たることはその人の幸福にほとんど何もつけ加えはしないのである。

もしも君、よき胃と肺と脚とをもちたまわば、
王の富も、おん身の幸福に、何一つ付け加えざるべし。
(ホラティウス)

彼はそれがいかもの・にせもの・にすぎないことを知っている。そうだ。おそらく彼は、「王杖の重さを知る者は、それが道にころがっているのを見てもあえて拾おうとはしないであろう」と言った王セレウコスの意見にくみするであろう。それは善い王にとって王たることがいかにつらい重荷であるかを言ったものである。ほんとうに、人を治めるということはなまやさしいことではない。おのれ自らを治めるにさえあれほどの困難があるではないか。支配するということは甚だ快いことのように見えはするが、人間の判断力が鈍いことや新奇な疑わしい事柄の識別が困難であることなどを考えると、むしろわたしは、「導くよりは従う方がはるかに楽で楽しい。そしてただ示された道に従うだけ、ただ自分に責任をもつだけですむということは、大へん気が楽でよいことだ」という意見に大賛成である。

(b)国政を自ら行わんよりは、
心静かに服従するにしかず。
(ルクレティウス)

それにキュロスは、「自らその司令する人たちよりもはるかに優れているのでなければ、人を司令する資格はない」と言っている。
* ※(始め二重山括弧、1-1-52)un habile homme et bien n※(アキュートアクセント付きE小文字)※(終わり二重山括弧、1-1-53)生れながら正しい判断を備えている人の意。
 (a)けれどもクセノフォンをよむと、王ヒエロンはそれ以上のことを言っている。「快楽をけ楽しむ時でさえ、王たちは普通人より損な境遇にある。なぜなら、安々とたやすく快楽が享けられるために、彼らは我々のようにその甘辛い刺激が味わえないからである」と。

(b)あまりにも幸福円満なる恋はうとましきもの。
佳肴あまりに多くして胃を疲らすに似たり。
(オウィディウス)

(a)合唱隊の少年たちは大いに音楽をたのしんでいるだろうか。否、むしろ食傷してげんなりしている。宴会・舞踏・仮装行列・野仕合等は、めったにこれを見ない者、しきりにこれを見たがっている者をよろこばすけれども、始終これを見つけているものには面白くも何ともない。女だって、げんなりするほど楽しんでしまえば、少しも欲情をそそらなくなる。喉を渇かすことのない者は飲むたのしさを知らないであろう。曲芸師の茶番は我々をたのしませるが、役者にとっては苦役である。論より証拠、王侯がたの遊ばされるあのお催しをごらん。ああした方々には、たまにあのようにお姿をやつし、人民どもの下等な暮しを真似してごらんになるのが、お嬉しいのである。

変化は貴人たちを喜ばす。
敷物もなく緋のしとねもなきしずが家に、
質素にして清潔なる食物をとらるる時、
彼らも愁眉開くことあり。
(ホラティウス)

(c)世に豊富くらい、うとましくまずいものはない。トルコ皇帝のその後宮におけるように、三百の美女を思うがままに見た日には、どんな欲望だってげんなりするだろう。七千人の鷹匠たかじょうを連れずには狩場に赴いたことがないという彼の先祖のある人にとって、そもそも狩猟はどんなに感ぜられ、どんなに見えたことであろうか。
 (a)それからあの高貴な身分の輝かしさも、可憐なうれしさを味わうには少なからぬ邪魔になると思う。彼らはあまりに照らされすぎ、あまりに人目につきすぎる。
 (b)またなぜか知らないが、特に彼らはその過失を掩いかくすように要求される。まったく、我々の間でならば単なるやりすぎと見られることが、彼らにおいては虐政とか法令の無視とかいうふうに人民から弾劾される。そしてたんに不徳への傾向があると取沙汰されるだけでなく、いかにも公の掟を足下にふみにじって快としているかのように、大仰に言いたてられる。(c)ほんとうにプラトンはその『対話篇ゴルギアス』の中で、「主とは一国においてその欲するところをほしいままに行う者」と定義した。(b)実にこうしたわけで、彼らの不徳を暴露することは往々にして当の不徳そのもの以上に世を毒するのである。誰だって人に監視されるのはいやなのに、彼らはその態度からその思想までも監視される。人民はそれらを判断するのを権利か利益かのように心得ている。それに汚点は高い明るい場所に置かれればそれだけ大きく見える。前額のあざいぼなどは他の場所の刀痕以上に人目につく。
 (a)そういうわけで詩人たちは、ユピテルの幾多の恋を、いずれも彼の本来の姿とは異なった姿の下になされたかのように想像したのである。またたくさんの恋物語を彼にかこつけているが、彼がユピテルらしい尊厳な姿で出て来るものはたった一つしかないように思う。
 それはそうとヒエロンの話に立ちもどろう。彼はまた、自分の領内ではまるで囚人みたいに、自由にあちこち旅することもできないばかりか、何をするにしてもうるさい人々の群れに取り巻かれておらねばならないと言って、いかに王位にあることが窮屈でたまらないかを嘆いている。ほんとうに我々の王様たちが、べちゃくちゃしゃべったり・じろじろと眺めたりする・大勢の他人に取りかこまれて、一人ぽつねんと食事をしているのを見て、わたしはしばしば羨ましさよりは憐れみを催した。
 (b)王アルフォンソは言われた。「驢馬どもの方がこの点においては王よりも結構な身分である。彼らの主人は彼らに勝手に草を食わしておくが、王はそういう自由を自分の家来どもからもゆるしてはもらえないから」と。
 (a)また、分別のある人間の生活にとって、二十人ばかりの人に見守られながら便器にまたがるということが、何かすばらしく仕合せなことであったとは、わたしにはとても考えられない。カサレを奪取したとかシエナを守ったとかで、年金の一万リーヴルも受けているというような人に仕えられることが、人の善い仕事になれた下男にかしずかれるよりも便利であり愉快であろうとは、わたしにはどうしても思われない**
* 前者はブリサック元帥、後者はモンリュック元帥。ともに王室伺候の侍従武官である。
** こういうところにモンテーニュの宮廷生活への失望と自嘲が読まれる。ここに桂冠引退の志の深さが察せられる。
 (b)帝王の優越はまず想像の優越である。どんな身分にも、それぞれ何か帝王らしい趣がある。カエサルは当時フランスにおいて裁判の権を持っていたすべての貴族を小王と呼んでいる。ほんとうに、陛下の称をこそ用いないが、我々の王と肩をならべるものはいくらもいる。それに朝廷から遠く離れた地方に行って、名指していうならば例えばブルターニュなどに行って、そこの領地で多くの下僕にかしずかれつつ隠れ住む封侯を見たまえ。その供まわり、その家来、その諸役人、その日常生活、そのかしずかれ方、その儀容を見たまえ。それからまた、その気宇の高遠なるを見たまえ。これほど王様らしいものはないのである。彼は年に一ぺん国王の噂を聞く。あたかも遠いペルシア王の話でもきくように。そして彼を王と認めるのも、ただその秘書が記録にとどめているところによって、彼と自分との間に多少の古い血縁があるのを知るからにすぎない。本当にわが国の法令はかなり緩やかである。大権の重味がフランス貴族の上にのしかかるのは、その一生を通じてわずかに二度きりである。本式に臣節をつくさなければならないのは、我々の中で特に自分からこれを望む者、そういう勤務によって富みかつ貴からんと望む者だけである。まったく、自分の邸にとじこもってあえて出たがらない者、そして喧嘩訴訟もなく自分の家を治めてゆくことができる者は、ヴェネツィア公と同様に自由なのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)服従を強いられたる者は少なく、多くは自ら服従したるなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
 (a)けれども特にヒエロンが嘆いているのは、人間生活の最も完全で甘美な果実が存する友愛と交際との道が、ことごとく絶たれていることであった。「まったく」と彼は言う。「否応なしにわしのためにその全力をつくさなければならない人間から、わしはいったいどんな愛慕と善意とのしるしを得ることができよう? 彼のうやうやしい言葉づかいも彼のかしこまった礼節も、彼はそれをわしに拒むことができないのだと思うと、どうしてそれを真に受けることができようか。我々が我々を恐れるものから受ける尊敬は真の尊敬ではないのである。それらの尊敬は王位に対して払われているので、わし自らに対してではないのである。

(b)王がうける最大の得は、
いかなる行為も許されざるはなく
賞められざるはなきことなり。
(セネカ)

(a)悪い王も善い王も、憎まれた王も愛せられた王も、いずれも同じように尊敬を受けているではないか。同じ態度同じ儀礼をもって先王は仕えられた。わしの後継者もまた同じであろう。わしの臣下はわしに逆らわないが、それは少しもこまやかな愛情のしるしではない。何だってそんなふうに思うかと言えば、彼らは逆らいたくたって逆らうことができないのだから。誰一人として、わしに対する友愛のためにわしに従うものはない。まったく、あれくらいしか交誼も交感もないところに、友愛の情は結ばれようがないのである。わしの高位はわしを人々との交際の外においた。そこには余りに多くの相違と不釣合とがあるからである。人々は礼儀の上から、習慣の上から、わしに従うのである。いやわしにつき従うのではない。むしろ、自分の財宝をふやそうとしてわしの財宝につき従うのである。彼らがわしのために言うことすること、いずれもみな上べばかりである。彼らの自由はわしの大きな権力によっていたるところで拘束されているから、わしは身のまわりに、蔽い隠されたものより他には何も見ることがない」と。
 ユリアヌス皇帝の朝臣たちは、ある日のこと皇帝の裁判の公平をほめたたえた。「もしこの賞賛が」と皇帝は言われた。「わしがこれと反対のことを行うであろうとき、あえてわしを責め咎めるほどの者の口から出たのならば、わしも心からそれを誇りとするであろうが」と。
 (b)帝王たちがうける真の安楽は、すべて中産の人間の誰しもがもつものと、おなじものである(翼ある馬に乗り、アンブロジア〔神様の召上る不老不死の食〕を食べる者は、ただ神々ばかりである)。彼らは決して、我々と異なる睡眠や欲望をもってはいない。彼らが着る鋼鉄は我々が着るそれより堅くはない。彼らの冠は日をよけ雨をよけるにたりぬ。ディオクレティアヌスは、あれほどに尊敬され、あれほどに運命に幸いせられた王冠をひとたびは戴いたが、やがてこれを思い捨てて私的生活の楽しさの中に隠れた。そしてしばらく後に国運打開の必要が再び彼の復帰を求めた時も、勧誘に来た者どもに答えて、「もし君たちが、わしが自ら植えた樹木の美しく整ったさまや、わしがいたメロンの見事なできばえを見たならば、そのようなことを言いに来ようとはしないであろう」と言った。
 アナカルシスの意見によると、一国の一番幸福な状態は、他のすべての事柄が平等であって、ただ徳ある者ほどあがめられ不徳な者ほど卑しめられるところに、生ずるのである。
 (a)王ピュロスがイタリアに侵入しようと企てたときのこと、その賢明な顧問であったキュネアスは、王にその野心の空なるゆえんをさとらせようとして、彼にたずねた。「陛下よ。いったい何のためにこの一大事を企てられるのですか」と。「イタリアの主となるためさ」と王は言下に答えられた。「それから?」とキュネアスはつづけた。「ガリアとスペインに打ち入るのだ」と王。「してその次は?」「アフリカを従えにゆく。そして、しまいに世界をことごとく従え終ったら、わしは満足して、ゆっくりと余生を楽しもうと思う」。「恐れながら陛下よ」とキュネアスは追求した。「それならばなぜ、ただ今すぐにその境涯におはいりなされませぬ? なぜ即刻、お望みのその境涯におはいりなされませぬ? なぜ二つの境涯の間にそんなに多くの御苦労と危険とをあえてなされます?」

明らかに彼、その欲望を限ることを知らざりしなり。
真の幸福の境を知らざりしなり。
(ルクレティウス)

 わたしはこの場合に最も適切であると思われる次の古句でこの章を結ぼうと思う。※(始め二重山括弧、1-1-52)人は各々その性格によって自らの運命を作る※(終わり二重山括弧、1-1-53)(コルネリウス・ネポス)。
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第四十三章 奢侈取締令について



 十六世紀のフランス朝野は、イタリアの感化を受けて非常に奢侈に流れ、流行はめまぐるしく変遷したので、為政者は国費の国外に流出することを憂えるとともに、人々の社会階級を標示する伝統的服装を保存したかった。それでフランソワ一世よりルイ十四世にいたるまでの間、奢侈を取締る勅令が幾度となく強化せられたのである。このエッセーはそうした事情の下に生れたので、その直接の動機となったのは一五七三年あるいは七七年の布令であったろうと想像される。

 (a)わが国の法令が衣食に関するばかばかしい浪費をただそうとしてとった方法は、その目的に反しているように見える。真にその目的を達しようというなら、人々に黄金だの絹布だのをつまらない無用の物として軽蔑する心をいだかせなければなるまい。ところが我々はかえってその貴さを力説しているではないか。人々にそれらのものを嫌悪させるには、実にまずいやり方である。まったく、「王侯でなければかれいを食べてはならぬ。ビロードや金襴もまとうてはならない」などと言ってそれらを人民に厳禁するのは、結局それらのものを重んずること、いよいよそれらのものをほしがらすことでなくて何であろう。思いきって王侯は、こういう御威光の示し方はおやめになるべきで、他にいくらでもよい方法があるはずである。むしろああいう極端は、王以外の者にこそ許されるべきなのである。もろもろの民族の例を見れば、我々は自分たちの階級を外部的に標示する(これは本当に一国内においてどうしても必要なことであると思う)、より良い方法をいくらでも学ぶことができる。何もそのために今申したような明白な弊害をかもし出さなくてもよいのである。こういうどうでもよいような事柄において、習慣がやすやすと、忽ちのうちに、その権威の根を張ることは、驚くほかはない。アンリ二世ののために、我々が朝廷でラシャを着るようになってまだやっと一年になるかならずであるが、早くも一般に絹が下品なものに思われだしたことは確かである。絹を着ている者を見ると、人はすぐにそれをどこぞの町家のものと思ってしまう。絹は永いこと内科医と外科医の着るものになっていた。そして他の者はみなほとんど同じような服装をしていたが、それでも昔は人々の身分を示す外部的標識が相当にあったものである。
 (b)いかに忽ちに、わが軍隊の間に羚羊かもしかの革や麻織の垢じみた胴衣が珍重されるようになったか。そして、つやつやした豪華な着物が咎められ卑しまれるようになったか。
* Pourpoint. 始めは軍士の服。後には一般男子も着るようになった。首から腰の上までをおおうもので、その下にズボン chausses をはくのが一般男子の服装であった。
 (a)まずもって王様たちからこの種の乱費をやめてごらんなさい。ことはひと月のうちに行われる。勅令も布令もいるものではない。下はみな上にならうからだ。だから法令はあべこべにこう宣言すべきである。「緋と金銀は曲芸師及び遊女以外のすべての者にこれを禁ずる」と。同様の思いつきをもって、ザレウコスはロクリ人の腐敗した風儀をため直した。その布令にはこうあった。「自由な身分の婦人は、酔った場合を除き、腰元一人以上を伴うことを得ない。夜、町の外に出てはいけない。売春婦にあらざる限り、黄金の飾りを帯びることはできない。また錦繍きんしゅうを着てはいけない。男子も、放蕩者にあらざる限り、金の指輪をはめてはいけない。またミレトスの町で作られる織物のような、やわらかい服を着てはならない」と。つまりこうして、こういう恥ずべき例外によって、巧みにその市民たちを軽佻と淫らな楽しみから遠ざけたのである。
 (b)名誉と野心とに訴えて人々を服従に導くのは、はなはだ効果的なやり方であった。我々の王様がたはそういう服装上の改革において何でも出来る。彼らの好みがそのまま法令となるからである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)王侯の行うところ、さながら布令のごとし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クインティリアヌス)。(b)フランス全体は宮廷の規則を標準にする。例えば我々の恥ずかしいところをありありと見せるあのいやなズボン。不格好でしかも武器をあつかうのに不便千万な、あの重くてぶかぶかした胴衣。女のように髪を長くして編むこと。我々が友だちに差出すすべての物に接吻したり、挨拶のしるしにお互いの手に接吻したりする習慣(これは昔ただ王侯に対してのみなされた礼式であった)。また貴族ともあろう者が、畏れ多い席ではまるでただ今かわやから出て参ったといわんばかりに、丸腰でいかにもしどけない姿でいなければならないこと。また我々の父祖の習慣にもこの王国の貴族が古来持っていた特権にも反して、王様方のまわりでは、その王様が何処にいらせられようと、そのはるか遠くの方でさえ、帽子を取っていなければならないこと。それが王様方ならばまだしも、その三親等四親等にすぎないところの実にたくさんいらっしゃるお方々に対してまで、そうしなければならないこと。その他これに類する新規な不都合な習慣の数々。それらはただ王様方の方でこれをきらって下さりさえすれば、立ちどころに消えてなくなるのである。それらは何でもない誤りではあるが、また憂うべき前兆でもある。我々は壁の漆喰しっくいにひびが入るのを見れば家全体の危険を知るのである。
* いわゆる股袋 braguette のついた半ズボン。
 (c)プラトンはその『法律』の中で、若者どもが勝手に服装や挙動や舞踏や稽古や歌謡をあれこれと変えるのを放任しておくことくらい、その国のために有害なことはないと認めている。それは彼らが自分の判断を右から左へかえることであり、ただただ新しさを追い、革新者をあがめることにほかならず、そのために風儀は腐敗し、古来の制度はことごとく蔑視されるようになるからである。どんな事柄においても(全然悪いことにおいては別だが)、変化は恐れられなければならない。季節・風・食物・気風、いずれの変化もそうである。いや法令にしても、神によってとにかく永い継続を許されたものでなければ、つまり何人もその起源を知らず、昔から別様であったためしがないほどのものでなければ、真に信じるには足りないのである。
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第四十四章 睡眠について



 (a)理性は我々に、「常に同じ道をゆけ」とは命ずるが、「常に同じ歩みでゆけ」とは言わない。賢者は人間のもろもろの情念に正道をふみはずすことを許してはならないが、それらにその歩みを速めたり遅らせたりすることを許したって、少しも彼の義務にもとりはしない。何も無感覚な木偶でくの坊みたいに不動の姿勢でつっ立っていなくてもよいのである。徳の化身だからといって、突貫をする時には食事にゆく時よりも、その脈搏はずっとたかまるに違いないのだ。いや彼だって、そういう場合は昂奮し感動するにきまっている。だから、往々偉大な人物が高邁な企図、重大な事件にのぞんで、少しもその平静を失わず、その睡眠の時間さえ常とかわらないのを見ては、やはり稀有なることとして驚かざるを得ないのである。
 大王アレクサンドロスは、あのダリウスに対する激戦が行われようという朝、ぐっすり睡っていてなかなか起きて来ないので、パルメニオンが彼の寝室に入ってゆき枕もとに近づいて、いよいよ出陣の時刻が切迫したと、再び三たび彼の名を呼ばねばならなかった。
 皇帝オトーはいよいよ自害を決意するや、その夜は自ら家事を整理し、金を家来に分配し、自分の身に加えるべき剣を研ぎ終り、今はただその友人たちが安全に退去したかどうかを知るだけになって、はじめて深い深い眠りに落ちた。そのいびきは下僕しもべたちのところまできこえたほどであったという。
 この皇帝の死は、偉大なカトーの死に似た点をたくさん持っている。いま話した点までも似ている。まったく、カトーはいよいよ自決するばかりになると、彼が退去させた元老たちがウティカの港から沖合はるかに漕ぎ去ったという知らせが来るのを待つあいだ深い眠りに入り、そのいびきは隣の部屋にまでもきこえた。そして港の方に出してやった使者が帰って来て彼を呼びさまし、あらしのために元老たちが思うように出帆できずにいる由を告げると、更に第二の使者を出してやり、再び床の中にもぐり込んで、この二度目の使いが帰って来ていよいよ元老たちが出発したことを告げ知らすまで、熟睡したのである。なおこの人が護民官メテルスの陰謀におびやかされたあの大あらしの日の話は、前記アレクサンドロスの場合ともくらべることが出来よう。あのカティリナ謀反むほんの時、メテルスはポンペイウスおよびその軍隊をローマに呼びもどす布告を発しようと言ったが、カトーが独りそれに反対した。そこで二人は元老院において、激論のすえ喧嘩になった。けれども決着は、その翌日公衆の面前でつけられることになった。メテルスの方は、ポンペイウスと気脈を通じていたカエサルと人民との賛助をえた上に、外国の奴隷や命知らずの刺客までも大勢引きつれてその場に乗り込もうとしたが、カトーにいたっては、ただ自分の勇気をたのむだけであった。そこで彼の近親や朋友を始め多くの正しい人たちは大変心配した。中には彼の身にせまった危険を心配し、ひと所に集まって、飲まず食わずで、寝られぬ夜をあかした者もあった。妻や姉妹たちなどは、家の中にとじ籠ってただ泣き嘆くばかりであった。かえって彼の方が皆を元気づけた。そして平常どおり夕食をすますと、やがて寝室に入ったきり、翌朝護民庁の同僚の一人に呼びおこされて喧嘩の場に出かけるまで、ぐっすりと眠った。我々はこの人が真に大胆無比の人であったことをその一生の他の事実によって知っているから、以上のようなことは彼のきわめて高邁な心から発したものであって、彼にとっては全く日常平凡な事にすぎず、少しも気にならなかったのであると、確信をもって断言できるのである。
 アウグストゥスは、シチリアにおいてセクストゥス・ポンペイウスを破ったあの海戦のとき、いよいよ出陣という間際になって、きわめて深く眠りこんでしまったので、同僚が皆して彼を呼びさまし、開戦の合図をさせなければならなかった。このことがもとになって、マルクス・アントニウスから、後にこう非難された。「彼は眼を見開いて味方の軍勢の配置を見る勇気さえなかった。アグリッパが彼に味方の勝利を告げ知らすまで、兵隊の前に立ち現われることさえようしなかった」と。けれども、小マリウスの場合には、もっとまずいことになった(まったく、そのス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラとの戦いの最後の日に、彼はその軍の隊伍を整え開戦の号令をかけた後、ほんの一休みするつもりで木蔭に横になったが、そのままぐっすり寝込んでしまった。そして何も知らずに眼がさめてみると、すでに味方の者どもは負けて逃げてしまっていたのである)。人々はこれを、過度の勉強と睡眠不足のために体力がつづかなかったせいだと言っている。ここで医者たちは説くであろう。「睡眠はそれほど必要なもので、これが不足すると一命にもかかわる」と。まったく確かに我々は聞き及んでいる。人が、ローマにとらわれの身となったマケドニア王ペルセウスを、睡眠を禁ずることによって死にいたらしめたということを。だがプリニウスは、睡眠をとらずに長いあいだ生きた人たちの例をあげている。
 (c)ヘロドトスの書物の中には、半年眠って半年覚めているという民族のことが書いてある。また賢者エピメニデスの伝記作者たちは、彼は五十七年間眠りつづけたと言っている。
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第四十五章 ドルゥの戦いについて



 (a)われわれのドルゥの戦いにはめずらしい事件がたくさんあったが、ギュイズ殿の名声をいささか心よからず思っている人々は、次のように言い立てる。「彼があれほどの軍勢をもちながら、それを停止させ待機させたことは弁解の余地がない。そんなことをしていたからこそ、軍の総大将たるコンネターブル〔ド・モンモランシー〕殿が敵の砲兵にたたきつぶされてしまったのである。敵の背面を突こうと時機を待ったためにあんな大損害をこうむったくらいなら、むしろ思いきってその側面を突いた方がよかったのだ」と。けれども最後の結果が証拠だてたことは別にしても、いやしくも感情をぬきにして論ずる者ならば、容易にこう告白することであろうと思う。「大将の目的はもちろん兵卒各個の目的もまた、終局の勝利を目指さなければならない。個々の出来事は、そこにどのような利益があるにしても、我々をこの肝心な点からそらしてはならない」と。
* 一五六二年、シャルル九世の治下に、モンモランシー元帥およびギュイズ公の率いるカトリック勢が、コリニーおよびコンデ公のひきいるプロテスタントを破った戦い。前章以来、古代の戦争の話ばかりしているので、モンテーニュはここで、自国内の、自ら眼の前に見た戦争の例をあげる。「われわれの」とはそういう意味だろう。
 フィロポイメンはマカニダスとの会戦において、まず機先を制しようとよく訓練された射手大勢から成る一隊をさしむけたところ、敵はまずこれを潰乱させてからまっしぐらにそのあとを追い、勝に乗じてフィロポイメンのいる部隊の側面を駈けすぎた。フィロポイメンの士卒は騒ぎ立ったけれど、彼自らは一歩もその場を動こうとしなかった。味方を救うために敵を遮ろうともしなかった。かえって味方の軍隊が追いまくられふみにじられるのを黙って見すごしていたが、やがてそのうち敵の歩兵隊がまったくその騎兵隊からおきざりにされる頃合を見はからって、始めて敵に打ってかかった。それで敵は、さしものラケダイモン人ではあったけれど、ちょうどさあ勝ったぞとばかりその隊伍を解こうとする時であったので、彼は難なくこれを打ちまかした。そしてそれから後に、いよいよマカニダスの追撃に移った。この場合はギュイズ殿の場合とまことによく似ている。
 (b)アゲシラオスがボイオティア人をうったあの激戦において(それはこれに参加したクセノフォンが「未曽有の激戦」と言っているが)、アゲシラオスは、ボイオティア勢をやりすごしてその背後を突く格好の機運を恵まれながら、そうすればある程度の勝利は確実と見とおしたにもかかわらず、その好機をすてた。それでは武勇ではなくて詭計になると考えたからである。そして、めざましい勇気を揮ってその威武を示そうと、むしろ真正面からぶつかることにした。ところがそこでもまた打ち破られ傷を負ったので、とうとう囲みを切りひらいて、始めにしりぞけた方法をとらなければならなくなった。すなわち、味方の隊を開いて奔流のようなボイオティア勢をやりすごした。そして、彼らがすっかり通りすぎ、さあもう危険を脱したと思ってようやく隊伍を乱してすすむところを見計らって追手をかけ、その側面にうってかかった。だが、それでもなお彼らを潰走せしめるにはいたらなかった。敵は絶えず歯をむき出しながらじりじりと引き退り、とうとう無事に引上げたのである。
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第四十六章 名前について



 (a)いくらいろいろな野菜がまじっていても、全体はサラダという名の中に含まれる。同様にわたしは、いろいろな名前の考察をしながらいろいろな事柄の寄せ鍋をしてみようと思う。
 どこの国にもどういう訳か知らないが、悪い意味にとられる名前がいくつかある。わが国では、ジャン、ギヨーム、ブノワ
* ジャンは中世以来馬鹿・お人好し・の意に用いられ、ギヨームは何の取柄もない平々凡々の男を指し、ブノワは愚直なおめでたい人間をいう。
 一つ、帝王の系図の中には或るきまって用いられる名前があるようだ。例えば、エジプト王のプトレマイオス、イギリス王のヘンリー、フランス王のシャルル、フランドルのボードワン。それからわが古のアキタニアではギヨーム。このギヨームからわがギュイエンヌ州の名は出たのだといわれるが、こいつはへたな地口だ。プラトンの中にだってこんな無理なこじつけはない。
 一つ、次の話はつまらぬことだけれども、珍しいという点で、しかもその目撃者が書いていることなので、記録に値する。イギリス王ヘンリー二世の王子ノルマンディー公のヘンリーがフランスで宴会を催された時のこと、貴族たちの参会するもの殊のほか大勢だったので、慰み半分に名前の類似によって幾組かにわけてみたところ、ギヨームを名乗る第一の組に入る騎士が百十人もあって、ずらっとこの名を記した一つの食卓に並んだ。それも、単なる武士や従士は別にしての話である。
 (b)なるほど客人の名前によってテーブルを分けるのも面白いが、皇帝ゲタがなされたように食品の名の頭文字を考えて献立を作らせるのも妙である。その時はMの字で始まるものを揃えて、まずムートン猪の子マルカッサンメルリュ小海豚マルスワンというふうに、順々に出させたとかいうことである。
 (a)一つ、よい名をもつこと、すなわち信用と評判を得るということは、仕合せなことだと言われる。だが、立派な名前、呼びよい覚えよい名前をもつこともまた本当に仕合せである。まったく王様をはじめお歴々方は、そのためにじきに我々を覚えて下さるし、またなかなかお忘れにならないのである。いや我々だって、召使の中でその名が最もらくに言える者を、よりしばしば呼びもし使いもする。わたしは王アンリ二世が、当ガスコーニュ州出身の武士の名前を、どうしても満足に発音することがおできにならなかったのを知っている。陛下は女王様のある御腰元を、彼女の一門に共通する名前で呼ぶように望まれた。彼女の生家の姓があまりにも呼びにくかったからである。
 (c)だからソクラテスも、子供たちによい名前を与えることは父親の心遣いに値する事柄だとしている。
 (a)一つ、伝えるところによると、ポワチエのノートル・ダーム・ラ・グランド寺の建立の由来はこうである。昔ここに住んでいた一人の若い放蕩者が、遊女を買ってまずその名前をきいたところ、女はマリアと答えた。彼は我々の救い主のおん母たる乙女の・神聖な・この名をきくと、たちまちに神を畏れ敬う心を起し、直ちにその女を追いかえしたのみならず、その後の半生を贖罪しょくざいのためにささげた。それでこの奇跡を記念して、その若者の屋敷跡に、ノートル・ダームを祀る一つのお堂が建てられ、それが後に見るような大伽藍となったのだそうだ。
 (c)右の敬虔な懲戒は、声となり耳にひびいて一遍に男の霊魂にとおったのであった。次に述べるのはまったく同じ種類に属するが、この方はもろもろの感官を通じてだんだんにしみとおったのである。ピュタゴラスは若い人々と一緒にいるうち、それらの若者たちがお祭に熱狂して、さる良家に暴れこもうと企んでいるのを感知したので、琴を弾く女にその調子を変えさせた。そして、荘重な長々格の音楽によって徐々に若者たちの血気をやわらげ、ついにこれをとり鎮めた。
 (a)一つ、後世の人たちはこんな風に言わないであろうか。「むかしのわが国の宗教改革はなかなか気のきいた・細かいところまで行届いた・ものであった。迷信と不徳とを打破し、世界を信心や謙遜や従順や平和などのもろもろの徳性をもって満たしたばかりでなく、更に我々の古い洗礼名、シャルル、ルイ、フランソワ等をやめて、それよりもずっと信仰の感じの深いメトセラ、エゼキエル、マラキ等の名前を普及させた」と。わたしの近くに住んでいるある武士は、今にくらべて昔がよかったことを想い出しては、いつもドン・グリュメダンとか、クェドラガンとか、アジェジランとかいう、いかめしくも立派であった当時の貴族の名前をもち出すことを忘れなかった。ただそれらの響きをきいただけで、彼らが今日のピエールやギヨーやミシェルなんかとは、全然別人であることがわかると言った。
 一つ、わたしはジャック・アミヨが、そのフランス文の一論著を通じてラテン名をそっくりそのままにし、これにフランス語らしいひびきを与えるために何らの変化も加えなかったことをうれしく思う。始めは少々堅苦しく思われたが、彼の『プルタルコス英傑伝』の普及と共に我々は早くもそれに慣れ、今では少しも奇異な感じがなくなった。わたしはしばしばラテン文をもって歴史を書く人たちに向って、我々フランス人の名前はそのままにして置いてくれるよう希望した。まったくヴォドモンをウァレモンタヌスというようなふうに、それらをギリシア風ローマ風に修飾された日には、我々は一体どこの誰の話をしているのか、まるで見当がつかなくなってしまうのである。
* ラブレニーが示すところによると、『随想録』のなかで古人の名前は、古代風に綴られているのが五十八名、フランス化して書かれているのが十七名とのことである。ところが「奴隷根性」においては、逆に、フランス風に書かれているのが五十四名で、古代風のままになっているのが十二名ということである。
 いよいよ我々の漫談を閉じるに当ってもう一つ言うなら、人々をその所領の名によって呼ぶこともいやな習慣である。それはわがフランスにおいて、はなはだ始末の悪い結果を来たしている。世にこれほど系図を混同し不明にするものはないのである。名家の次男はある土地を采地さいちとして与えられ、その土地の名によって知られ、そして敬われる。悪いことをしない限り、この名称をすてることができない。その人が死んで十年もたつと、その土地はまた別の人の手にわたるが、その人もまたそれを自分の名とする。考えてごらん。どの程度まで我々はこの二人を識別することができるか。遠くに例を求めるまでもない。わが王室においても、御分家ができるごとにそれだけ同じ御苗字がふえた。その間に元の幹は我々にわからなくなった。
* 往時系図は樹木の形に書きあらわされたのである。
 (b)この種の変更の中には随分と勝手なことが行われる。今日では誰でも、運よく何かの高位高官に成り上ると、早速新しい・その父の知らない・系譜的肩書をその名にこじつけ、何とかいう高貴な幹に自分を接木つぎきしてしまわない者はないのである。いや御方便なことに、名の知れない家ほど、この偽造にはもってこいなのである。フランスには、王家の流れをくむと自ら称する貴族〔ジャンティヨム〕が、いったいどのくらいいるのだろう。その方がそう自称しない者よりも多いくらいだ。このことはわが友の一人によって、いかにも小気味よく言ってのけられたではないか。あるとき大勢の貴族たちが、二人の殿様のこの種の争いのために集まっていた。なるほどその一人の方は、その肩書からいっても親族関係からいっても、一般貴族よりは幾らか優れた特権をもっておられたのである。ところがその特権のことが問題になるや、いあわせた人たちはいずれも彼に及ばないことを恐れ、ある者はある先祖をあげ、もう一人の者は別の先祖をあげ、ある者はその名の類似をあげ、ある者は紋所の類似をあげ、またある者にいたってはその家に伝わる古い記録をかつぎだした。それで最も小身の武士までが、海の向うの何とかいう王様の曽孫でわたらせられたりした。さて、いよいよ食事となるや、今言ったわたしの友は、あえて席につこうとはせず、畏れかしこんであとじさりしながら、並いる人々に向ってお詫びを申された。「今が今まで、図々しくも私は、皆様方とお友達のように致して参りました。けれども只今、皆様方のいずれも由緒正しい御身分のほどを承りましたから、これからは皆様をそのようにあがめ奉ることに致します。私には諸侯方と肩をならべる資格はないのでございます」と。こう彼はひとまず芝居を打ってから、彼らを盛んにやっつけた。「方々よ、(c)我々の父祖たちの満足したるところをもって満足なされよ。(b)我々が現にあるところのもので満足なされよ。我々は現在の身分をはずかしめさえしなければよいのです。我々の祖先の地位身分を隠すのはよそうじゃありませんか。鉄面皮な連中がとかくでっち上げたがるあんなばかばかしい嘘八百はやめようじゃありませんか」と。
* このモンテーニュの友とはガストン・ド・フォワ。この人はアンリ二世の時代から沢山の領地を持つ大貴族である。
 紋章もまた苗字同様あてにならない。わたしのは空色アジュール台に金の三葉クローバーを散らし、同じ色の獅子の手を、これに赤地グールの爪を配して、横さまに置いたものである。この紋は果して何時まで、ただわたしの家だけのものとしてとどまるであろうか**。養子にゆくものはこれを他家に持ってゆくであろうし、どこかの卑しい男がこれを買って自分の最初の紋章とするかも知れない。まったく、これくらい変更と混雑の多いものはないのである。
* グール gueule というのは紋章用語で赤地のこと。前出アジュール azur は空色をさす。
** モンテーニュは一五七六年に紋章入りメダイユを造らせたが(後出二の十二、六二三頁参照)、今や第三巻時代には、このように紋章の根拠薄弱なことをちゃんと意識している。
 (a)けれどもこの考察は、いきおいわたしをもう一つ別の問題に連れてゆく。少しつまびらかに探ってみよう。そして思いきって、しらべてみよう。あの世間の人が大騒ぎをする光栄とか名声とかいうものはそもそもどんな根拠の上にあるのかを。我々があんなに骨を折って尋ね歩くあの令名を、我々はいったいどこへ据える気か。要するにそれを帯びそれを我が物にするのは、そしてそのお蔭をこうむるのは、ピエールあるいはギヨームなのだ。(c)おお、希望とは何という押しのつよい性能なのか。一瞬の・死すべき・者のうちにありながら、無限や無極や永遠やをわが物にしようというのだから。自然は我々に面白いおもちゃを与えたものである。(a)ところでこのピエールとかギヨームとかはいったい何だ。せんじ詰めればただの一声にすぎないではないか。ただの三、四字にすぎないではないか。第一、それはきわめて変りやすい。だからしまいには、あれほどの勝利のほまれはいったい誰のものなのか、ゲスカンのか、グレスカンのか、それともゲアカンのものであったか、と聞きたくなる。これはルキアノスの、シグマ〔Σ〕がタウ〔Τ〕を訴えた話**よりはずっと重大なことだろう。まったく、

そは唯かりそめの競技の勝負にあらざれば。
(ウェルギリウス)

まじめな事なのである。つまりこれらの文字のいずれが、あの有名なフランスの総元帥によってなされた、あれほどの攻城と会戦と負傷と入牢と王様への忠勤とを、与えられるかという問題なのである。ニコラ・ドニゾ***はひたすら自分の名の綴り方にのみ心をくだき、全然その順序を転倒してアルシノワ伯という名前を造りあげ、これにその詩と絵画との誉れを捧げた。また歴史家のスエトニウスは、ただその名の意味だけをおしみ、父の苗字レニス〔和〕を名乗ることができなくなるや、トランクィルス〔静〕という名を用いて、これにその著作の評判をつがせた。誰が信じよう。あの勇士バヤールの名誉も、ピエール・テラーユの働きから借りたものにすぎない****のだと。アントワーヌ・エスカランも、その航海やその地上海上における勲功を、ことごとくカピタン・プーランやバロン・ド・ラ・ガルドに奪わせて黙っているのだ*****ということを。
* ゲスカンとゲアカンは Bouchet, Annales d’Aquitaine に出て来る形で、Froissart の中では同じ人物がグレスカンとなっているしだいである。M※(アキュートアクセント付きE小文字)nage の言うところによると、この人物の名は十四通りに書かれているということである。
** ルキアノスの『母音の裁判』のなかに出て来る。
*** 十六世紀フランスの画家、詩人。
**** ピエール・テラーユという肝心な名前が今では忘れられて、ただバヤールの騎士で通っていることを指摘したのである。
***** アントワーヌ・エスカランが本名であるが、かえってカピタン・プーラン、バロン・ド・ラ・ガルドという仮の名の方で知られている。
 第二に、それは幾多の人々に共有される三、四字にすぎない。どの系図の中にも、いかに同姓同名の人々がたくさんあることか(c)いろいろな民族、時代、地方を通じて見れば、それは更にたくさんあるではないか。歴史の教えるところによると、三人のソクラテス、五人のプラトン、八人のアリストテレス、七人のクセノフォン、二十人のデメトリオス、同じく二十人のテオドロスがある。なおこの他に、歴史が知らずにいる同名異人がどれほどあるか、想像してみるがよい。(a)わたしの馬丁がポンペ・ル・グラン**と名のることに、何の差支えがある? いやそれよりも、いったいどんな原因動機が、あるいはわたしの死んだ馬丁に、あるいはあのエジプトで首をはねられた人***に、この光栄ある音、この尊い綴字を結びつけ、この二人にその効果をうけさせるのか。

そは果して土中に埋れし枯骨を感激せしむるや。
(ウェルギリウス)

(c)次の二人は、いずれも今なお人々の間で尊敬されているけれども、果してどんな風に感じているか。エパメイノンダスは、我々が口々に彼をたたえるあの光栄ある詩句、

わが勲功ははかりごとによりてラケダイモンの栄光をすら暗うしたり****
(キケロ)

について、どう感じているだろうか。またスキピオ・アフリカヌスは、

太陽がマエオティスの沼の彼方に出でてより
誰ひとり我がいさおしに比すべきいさおしをたてたるものなし。
(キケロ)

の句について、どんな風に感じているだろうか。
* モンテーニュの家来の中にもピエール・エイケムという同姓同名が父以外にも二、三名あって、事実、後世の伝記作者に幾度も人違いをさせている。
** 大王ポンペイウス。
*** クネイウス・ポンペイウス・マグヌスを指す。
**** エパメイノンダスの像の台石に刻まれた詩句。
 生き残った者はこういう言葉のやさしさにくすぐられ、それに嫉妬や羨望の感情をそそられ、漫然とただ想像によって、この自分自身の感覚を死者に移入する。そしてあだなる希望をもって、自分たちもまた、死んだ後になお同様の感覚がうけられるもののように思い込む。とんでもないこと!
 (a)しかし、

この希望がありたればこそ、
ギリシアやローマの大将も、
野蛮人の酋長たちも、奮闘したるなれ。
これありたればこそ、彼らも危険を冒したるなれ。
げにまこと、人は徳によりも誉れの方に渇きてあり!
(ユウェナリス)
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第四十七章 我々の判断の不確実について



(a)善くも悪しくも言いようはあまたあり。
(ホメロス)

ほんとうにいかなる場合にも、たくさんの言い方があり、善くもまた悪くも言い得るものだ〔ギリシア語引用句をモンテーニュが仏訳したもの〕とはよく言ったもんだ。例えば

ハンニバルはローマ人に勝ちたりき。
されどその勝利を利用するすべを知らざりき。
(ペトラルカ)

という意見にくみして、わが国の将士が最近モンコントゥールにおいて最後まで追撃をつづけなかったのは失敗であったと言い立てる者、あるいはスペイン王がサン・カンタンにおいてわが軍に勝ったにも拘らず、戦果をそれ以上に利用する術を知らなかったとてこれをそしる者は、次のように言うこともできるであろう。「この失敗は霊魂がその好運に酔ったことに由来する。心がこれっぱかりの幸福のさきがけに早くも満腹して、それだけのものさえも消化しきれず、いわんやそれをもっと増大しようなどとの欲望をなくしてしまったことに由来する。その両腕は早くも一杯になり、それ以上をかかえこむことができなかったというのでは、運命からああいう幸福を託せられる資格はない。まったく相かわらず敵に逆襲の頼りを与えるようでは、せっかくの勝利が何になろう。負けいくさに心おびえた敵をさえ追跡することをあえてせず、またそれをなしえなかったような者に、どうして我々は、おのれの陣容をたて直し、旧に倍する敵愾心てきがいしんと復讐心とをもって捲土けんど重来する敵軍と、もう一度渡り合えと希望することができよう?

運命がすべてを引きずり行き、すべてが恐怖に追わるる時、
(ルカヌス)

結局、彼にはあれ以上のことは何も期待できないのだ。打ち込みの数で勝負のきまる仕合とはことが違う。敵が倒れない限りますますはげしく切り込まなければならない。戦争を終らせるほどのものでなければ勝利とは言えない。カエサルはオリクム市の近傍で苦戦をしたことがあるが、ポンペイウスの兵士たちをののしって、『もしお前たちの大将が勝利の道を知っていたなら、わたしも危うく負けるところだった』と言った。そして後に攻守そのところをかえたときには、彼はポンペイウスを追うことはなはだ急であった」と。けれども反対に、次のようにいうものはないであろうか。「自分の欲望に限度きりをつけることができないというのは、因業な飽くことを知らぬ精神の結果である。神があらかじめ彼らに与えた限度を彼らに破らせようというのは、神の恩寵を乱用することにほかならない。また、一たん勝利を得たのちに更に危険に身を投ずるというのは、せっかく得た勝利をもういっぺん運命の恣意しいに委ねようとするものである。兵法における最大の知恵の一つは、敵を自暴自棄におとしいれないことである」と。ス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラとマリウスとは社会戦役においてマルシ人を破ったが、なおその残党が自暴自棄になって、猛獣のように彼ら目がけて反撃して来るのを見ると、これをむかえ撃つことに賛成しなかった。フォワ殿も、もし血気にはやってラヴェンナの勝利の残敵をあれほどにきびしく追撃しなかったならば、その勝利を自らの死によって汚すことなくしてすんだであろう。その代りこの人の実例はなお記憶に新たであったため、アンギャン殿はセリゾルにおいて同様の危険からまぬがれた。武器に訴えるより他にのがれる道を失った男に攻めかかるのは危険である。まったく、窮地に立つものはさながら乱暴な女教師となる**のである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)追いつめられしものの反撃ほど恐ろしきはなし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ポルキウス・ラトロ)。
* 紀元前九一―八八年、イタリア人がローマ市民権を得ようとして起した内乱。
** 女教師がヒステリックになって児童を折檻したことの回想であろう。

(b)死を軽んずる者は、やぶるるもなお敵を傷つく。
(ルカヌス)

 (c)だからファラックスは、マンティネア人との戦いに勝ったラケダイモン王を押しとどめて、負けいくさから無傷で逃げかえる多数のアルゴス人をあえて追撃させなかった。むしろ敗戦に苛立った敵の武勇を試すようなことはさせず、彼らを自由に逃げ去らせたのである。(a)アキタニア王クロドミールは戦勝の後に、負けて逃げてゆくブルゴーニュ王ゴンドマールを追撃して、かえってその逆襲を余儀なくした。しかも追うこと余りに執拗であったために、せっかくえた勝利の結果までも失った。まったく彼はそのために戦死したのである。
 同様に兵士は美々しく豊かに武装させるべきか、それともただ必要をみたす程度にとどめるべきか、どっちがよいかという場合にも、前説にくみする者は(セルトリウス、フィロポイメン、ブルートゥス、カエサル等の人々はその部類に入るが)、こう言うであろう。「美々しく装うことは兵士をして常に栄光名誉を思わしめ、戦闘においていっそう頑強ならしめる。鎧かぶとをも親ゆずりの財産同様に敵にわたしてはならないからだ。(c)これが(とクセノフォンも言っている)、アジアの諸民族が、その妻妾をも、その貴重な金銀財宝とともに、戦場につれてゆく理由である」と。(a)ところが一方には、次のような説もでてくる。「兵士たちにはその身を完うしたいというような思いを増さしめず、むしろそれを少なくさせるようにしなければならない。そんな気持をもっていると、彼らは危険をおかすことを二重に恐れるであろう。そのうえ敵の方では、そのような立派な分捕品がえられるとなると、いよいよ勝利をえようという欲望をさかんにする。実際誰でも知っている。しばしばこれが、ローマの軍士をサムニウム人との戦いにおいて非常に勇猛にしたことを」と。(b)アンティオコスは、ローマ人たちに対して用意していた・諸種の装備において華美壮麗な・自分の軍隊をハンニバルに示し、且つたずねた。「ローマ人たちはこの軍隊に満足するであろうか」と。「満足するかと仰せられるか。いくら彼らが貪欲でも、それは疑いござらん」とハンニバルは答えた。(a)リュクルゴスはその部下に対して豪華な武装を禁じたばかりでなく、その打ち負かした敵から掠奪することも禁じた。つまり、彼自ら言ったとおり、軍士の清貧が会戦の他のすべてのことと共に輝くようにと望んだからである。
 攻城戦をはじめ機会が敵と味方とを近づけるもろもろの場合に、常に我々は兵士どもがあらゆる悪口雑言を浴びせて敵に挑むことをゆるしている。いかにもこれは、もっともらしく見えなくはない。まったく兵士たちに、「こんなに敵を侮辱したからには、もはやとうてい和解することも勘弁してもらうこともできないぞ。今はただ勝つよりほかに方法はないぞ」と思わせ、彼らにむだな希望をもたせないようにすることは、決してささいなことではないのである。だが、ウィテリウスはこれでやり損じた。まったく彼はオトーと戦ったとき、敵の兵士どもが長らく戦争に遠ざかり太平無事の生活に慣れており、その武勇の程はとうてい味方に及ばないのを見てとり、終いには口をきわめてその臆病を罵ったり、そのローマにのこした女たちや宴会に心ひかれるだろうなどと嘲ったり、盛んに彼らをからかったために、とうとういかなる激励も及ばないほど彼らの心中に勇気を再生させたのであった。つまり自分から敵をその腕の中に引きよせておきながら、ついにこれを押し返すことができなかったのである。まことに悪口雑言がその人の胸をつくと、始めはただ王様の喧嘩のためにぐずぐずやっていたにすぎなかったのが、急に打って変った熱意をもって自分自身の喧嘩のために本気で戦うようになるのである。
 大将の生存ということが一軍の士気の上にどれほど重大なことであるか、敵の目標もまた従ってこの軍全体が頼りとする人の首の上におかれることなどを考えると、「いよいよ混戦になりそうな時はその姿をやつすべきだ」という古来幾多の名将たちによってとられた意見は、疑う余地がないように思われる。けれどもこれによって生ずる不都合は、これによって避けようとする不都合に、決して劣るものではない。まったく大将が部下の者どもの目の前から消えてなくなってごらん。それまで大将のめざましい働きや存在のために持ちえた勇気は、もろともに消えてなくなる。見慣れた大将の装いや旗印が見えなくなってごらん。「大将は死んだのだ。でなければ、負けるのを見越して逃げたのだ」と判断する。そこで、経験に照らして見ると、そうやって得をした大将もあり、損をした大将もあった。ピュロスがイタリアで執政ラエウィヌスと戦った時に起きた出来事などは、一つで両方の意見を支持する。まったく、自らはデモガクレスの鎧を着、デモガクレスには自分の鎧を着せたおかげで、確かにピュロスは、その生命は完うしたが、その代り危うくその日の戦いに負けそうになったのである。(c)アレクサンドロス、カエサル、ルクルス等は、光り輝く特別な色の豪華な鎧かぶとを着て戦場に臨み、人目をそばだたせることを好んだし、アギス、アゲシラオス、それからあの偉大なギリッポスは、これに反して目だたぬさまに着こなし、大将の装いを帯びずに出陣した。
 (a)ファルサロスの戦いにおいて、ポンペイウスはいろいろな非難を浴びせられたが、なかでもその軍をとどめて敵のきたるを待ったことを咎められた。「なぜなら(わたしはここにプルタルコスの言葉をそのまま借用する。その方がわたしの言葉より優れているから)、それは疾走が最初の衝突に与える激烈な勢いを弱めるばかりでなく、それだけ交戦者相互の意気込みをもくじくからである。実にこの意気込みこそ、彼らが張り切って衝突する時、何にもまして彼らを狂暴・勇猛にするので、この叫喚と疾駆とこそ、彼らの勇気をいやが上にも煽りたてるからだ。まったくあのポンペイウスの処置は、兵士どもの熱血をいわば冷却凝固させてしまったのである」。これがプルタルコスの意見なのであるが、もしもカエサルの方が負けていたらどうであろう。人は次のように言ったであろう。「いやいや最も堅固な態度とは岩のように動かない態度である。だからその進軍の途中で足をとめ、いよいよの場合のためにその力を己れのうちに籠めたくわえる者こそ、昂奮している者や疾走の間に早くもその息のなかばを失う者より、遙かに多くの勝目をもつものである」と。それに軍隊というものは、様々な部隊の集合体であるから、そう昂奮しては整然たる運動をすることができない。どうしても秩序を乱したり失ったりする。そして最も気の早い者は、戦友が助けに来てくれる前に討たれてしまう。(c)あのあさましい・ペルシア人兄弟の・戦いにおいて、ラケダイモンのクレアルコスはキュロス側のギリシア兵を指揮していたが、急がず騒がず、悠々とその兵隊を戦場まで率いて来てから、いよいよ五十歩ばかりのところへ来ると、始めて突貫の号令をかけた。このように走る間の距離を短縮することによって、兵士たちの隊容と呼吸とを乱すまいと望んだのである。兵士自らにも、その射撃器にも、ありったけの激しさを発揮させようとしたのである。(a)中には、このむつかしい問題を次のように解決してその軍隊に示した者もある。「もし敵がお前たちめがけて駈け寄せるときは足を踏みしめて待て。彼らの方で足をとめて待つときは彼らめがけて駈けよれ」と。
 皇帝カルル五世がプロヴァンスに侵入した時、フランソワ王は進んでこれをイタリアに迎え撃つべきか、自国領内にとどまってこれを待つべきか、二つに一つを選ばなければならなかった。もちろん王はこう考えないではなかった。「自国を全く戦乱の外におくことはいかにも有利である。その国力さえ完全であれば、絶えず必要に応じて軍資金をも援兵をも供給することができよう。戦争である以上その一挙手一投足に若干の禍害が伴うことは免れまいが、それが自分の財産に及んではたまらない。それに百姓どもは、味方のものによって田畑が荒されれば、それが敵兵によってなされた時のようにはじっと我慢しない。そこでたちまちに国内に内乱一揆を生ずる。掠奪徴発の自由は自国内ではとうてい許されないが、外地にあっては大いに戦陣の味気なさを慰めるに足るものである。またその給与より他に何の利得も望めない者を、せっかくその妻や住居の近くにいるのに、きびしく勤務の中に拘束することはむつかしい。卓布をかける者がいつも費用をもたねばならない。守るよりは攻める方がずっと愉快である。自分の国の唯中では敗戦の打撃はとてもひどいもので、そのために国全体が崩壊しないことは稀である。恐怖くらい伝染しやすい感情はなく、またこれほど信じられやすく忽ちのうちに流布する感情もない。城内では、城門の方に押し寄せる嵐のようなときの声をきいたり、味方の大将や兵卒たちが色を失い息を切って駈けこんで来るのにあうと、皆が急に悪い決心に移行する危険がある」と。だがそれにも拘らず、王は山の彼方にあった軍隊を呼びもどし、敵を待つ決心をした。まったく彼は、反対にこう考えたのかも知れない。「自分の国の内に味方に囲まれていれば、あらゆる便宜に事欠くはずがない。河川も道路も思いのままだから、金銭にしろ食料にしろ、最も安全に、護衛の必要もなく、運ばれて来るだろう。危険が迫れば迫るほど、臣下はますます慕いよるであろう。頼むべき都城も関所もたくさんにあるから、よい機会をとらえて、思うさま有利な作戦もできるであろう。持久戦をしようと思えば、安全な場所にかくれて敵の凍え死ぬのを待つこともできようし、敵が四面楚歌の内に陥り、身に迫るもろもろの苦難の中に独りでに潰滅するのを見ることもできよう。こうなれば敵の方は、前にも後にもまた右にも左にも、自分に戦いをいどむ者を見るばかりで、病気でも発生すれば、その軍をねぎらうことも補充することもできないばかりか、傷病兵を屋根の下に寝かすことさえもできない。槍の穂先にかけなければ一銭の金も一口の食もえられない。休む暇も息つく暇もない。土地不案内のために伏勢や奇襲を防ぐすべもない。いよいよ敗戦となれば遺骨を拾うすべさえもないであろう」と。それに、両説いずれの側にも実例は乏しくないのである。スキピオは、自分の領土を守ってイタリアで敵と戦うよりは、アフリカに渡って敵地を攻める方がよいと思った。そして勝った。けれども反対にハンニバルの方は、やはり同じ戦いにおいて、外国征服を思いすてて自国の守りにおもむき、失敗した。アテナイ人たちは、国内の敵をそのままにしてシチリアに押し渡ったため、非運にあった。だがスュラクサイの王アガトクレスは、国内の戦争をうっちゃっておいてアフリカに渡り、幸運をえた。そこで当然、我々はこう言うのに慣れてしまった。「決着結果は、わけても戦争においては、大部分が運命による。ところがその運命は、我々の推理や知恵に服従しようとはしない。それは次の詩句にも見られるとおりである」と。

しばしば不用意が成功し、用心かえって我々を欺く。
運命は、必ずしもそれに値するもののみを助けず。
そは、選ぶことなく、或いは甲に或いは乙にくみす。
思うに、我々の上に偉大な力ありて我々を導き、
その掟の下に、すべての死すべきものを把握してあればなり。
(マニリウス)

だがよく考えてみると、我々の企てや決心もまた、同じく運命の配下にあるもののようである。運命**はその混沌不定の中に、我々の推理をも引きずりこんでいるようである。
* 客を迎えるものがご馳走の費用を払わねばならない。敵を領内へ迎えるものは敵のために犠牲を忍ばねばならぬという意味になる。
** 運命ないし偶然の語は、モンテーニュにおいては「自然」「神」「摂理」などの同意語の如く、『随想録』の至るところに現れる。
 (c)プラトンの中でティマイオスは言っている。「我々はふらふらと無考えに推理する。我々の推理もまた、我々自らと同様に、大いに偶然に左右されるからだ」と。
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第四十八章 軍馬について



 (a)さあこれから、文法家になってお目にかけよう。わたしは言葉というものをついぞ本式には学んだことがないのだが。形容詞とは何か、接続詞とは何か、また奪格とは何か、今もって知ってはいないのだが。わたしはローマ人が funales〔綱のついた駒〕または dextrarios〔右手の駒〕と呼びなす馬を持っていたという話を聞いたことがあるようだが、それは右手にすなわち「乗り替え」として引いてゆき、必要に応じて乗りかえたものなので、それが軍用に供する馬を我々が※(始め二重山括弧、1-1-52)destriers※(終わり二重山括弧、1-1-53)と呼ぶそもそもの起りなのである。またわが国の昔の物語の中でも、いつも「伴う」と言う場合に※(始め二重山括弧、1-1-52)adestrer※(終わり二重山括弧、1-1-53)という語が用いられている。ローマ人は、また、手綱もつけなければ鞍も置かず、両々相並べて疾駆させながら、ローマの武士が、もちろん身には鎧かぶとを着、まっしぐらに駈けさせながら、一方から一方へと交互に飛び移ることができるように調教された馬のことを、desultorios equos と呼んでいた。(c)ヌミディアの兵士たちは替えの馬を引いて行って、戦いまさにたけなわならんとする頃これに乗りかえた。※(始め二重山括弧、1-1-52)曲乗りに巧みなる騎手が一つの馬より他の馬へと飛び移るごとく、常に彼らは二頭の馬を連れ行き、しばしばその戦いたけなわなる時に、武装したるまま、疲れたる馬を捨てて一方の馬に飛び乗りたり。彼らの敏捷なることかくの如く、彼らの馬の温順なこともまたかくの如くなりき※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。
 中にはその主人を助けるように、抜身を飛び越えて進むように、攻め寄せるものを蹄にかけ牙にかけるようにと、仕込まれた馬もたくさんあるが、それらは敵よりも味方を傷つけることの方が多い。それにそういう馬は、一度噛みついたら引き離そうと思っても引き離すことができない。結局馬の喧嘩の巻き添えをくわねばならぬことになる。ペルシアの大将アルティビウスはサラミス王オネシルスと一騎打ちになったとき、そのように仕込まれた馬にのっていたためにひどい目にあった。まったくその馬が彼の死因となったのである。馬がオネシルスに食いついている間に、彼はオネシルスの警護の士から両の肩の間を一太刀深く切り込まれたのである。
 だからイタリア人は、「フォルノヴォの戦いに王の御馬は、追い迫る敵を蹄にかけて王を救った。そうでなかったら、王はあえなく討たれ給うたであろう」と言っているが、もしこれが本当だとすれば、それこそ大きな偶然であったと言わねばならない。
 マメルク人は、世界一利巧な軍馬を持っていると誇っている。聞くところによると、それらは天性と訓練とにより、合図や掛声があればすぐに主人が落した槍や刀を口でひろって、混戦の最中にこれを主人に渡すことができた。また敵味方を識別することもできた。
 (a)聞くところによると、カエサルにしても大ポンペイウスにしても、いろいろ優秀な特質を備えていたが、なかんずく馬術に長じていたそうである。カエサルなどは子供の時分から、手綱のない裸馬の背にまたがり、両手を後ろに組んだままそれを疾駆させたという。自然はこのカエサルとアレクサンドロスとをもって兵法における二大驚異たらしめようとしたが、また同時に非凡な武器を二人に賦与したとも言えよう。まったく誰でも知るとおり、アレクサンドロスの乗馬ブケファルスは、その頭、まるで牡牛のそれの如く、主人以外を乗せることを欲せず、彼以外の誰にも制御されず、死後は神に祭られたし、またその名を記念して一つの町がたてられたではないか。カエサルの乗馬にいたっては、前脚は人の脚の如く、蹄は人の指のようであった。やはりカエサル以外の者には御せられず、これを乗せなかった。カエサルはこの馬が死ぬと、その像を造って女神ウェヌスの堂に献じた。
 わたしは馬に乗ったらなかなか下りない。まったくそれは、わたしが健康のときも病気のときも一番心持よく感ずる座席なのである。(c)プラトンは健康のためにこれを勧めている。(a)プリニウスもまた、それは胃のためにもよいと言っている。だからもう少し続けよう。乗りかかった馬だ。
 クセノフォンを読むと、なかに馬を持っている者が徒歩で旅行することを禁ずる掟がある。トログス及びユスティヌスの言うところによると、パルティア人は馬で戦争をするのに慣れていたばかりでなく、その公私のあらゆる用務を、例えば商売も相談も閑談も散歩も、すべてを馬上で行った。そして彼らの間における自由民と奴隷との最も著しい差別は、一方は馬で行き一方は徒歩で行く点にあった。(c)これは王キュロスの時に始められた制度である。
 (a)ローマ史の中には、いよいよ危険が切迫した場合、騎馬の兵士たちに下馬を命じた大将たちの実例が(スエトニウスはカエサルについて特にこのことをあげている)たくさんに見出される。これは兵士たちに遁走の望みを絶たせるためであった。(c)また歩兵戦の効果をいよいよ発揮させたいからでもあった。※(始め二重山括弧、1-1-52)けだしローマ人は特にこの歩兵戦に長じいたればなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)とティトゥス・リウィウスは言っている。
 それはともかく、ローマ人が新たに征服した人民の謀叛むほんをふせぐために第一に用いた注意は、彼らから武器と乗馬とを奪うことであった。だから我々は、しばしばカエサルの戦記の中に読むのである。※(始め二重山括弧、1-1-52)彼は敵に、武器と馬と人質とを差し出すことを命じたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)と。トルコ皇帝は今日でも、その支配下にあるすべての人に、それがキリスト教徒であろうが、ユダヤ教徒であろうが、馬を私有することをゆるさない。
 (a)我々の祖先は、特に英仏戦争時代には、正々堂々たる列伍正しい戦闘をしたが、いつも大部分の時間を徒歩で戦った。名誉や生命のように貴重なものを、彼ら固有の力すなわち体力と気魄以外のものに委ねることを欲しなかったからである。(c)クセノフォンの中でクリュサンテスが何と言っているにしても、(a)君たちは自分の価値と運とを乗馬のそれに結びつけている。馬が傷つき馬が倒れれば、やがて君たち自らも傷つき倒れる。馬が恐怖するか猛りたつかで、君たちは勇猛にもなれば卑怯にもなる。馬が手綱や拍車に従わなければ、直ちに君たちの名誉は危うくされる。だからわたしは、徒歩の戦闘の方が騎馬の戦闘よりも頑強悽絶であったということを、少しもあやしまないのである。

(b)彼らは一度は退くもまた盛り返して戦えり。
負けたるものも勝ちたるものも
いずれも逃ぐることを知らざりければなり。
(ウェルギリウス)

(c)昔の人の合戦を見ると、敵味方とも今よりもよく頑張っている。ところが今では忽ちに敗亡だ。※(始め二重山括弧、1-1-52)最初の叫び声と最初の攻撃とが勝負を決定す※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。(a)このように大きな偶然の協力に訴えなければならない事柄こそ、できる限り我々の実力圏内におかなければならないのである。だからわたしは、最も短い武器、我々が最も責任をもちうる武器を、選択せよと勧めたい。我々の銃口から飛び出す弾丸よりも、しっかりと握った匕首あいくちを頼む方が、はるかにわけがわかると思う。鉄砲には煙硝・燧石ひうちいし撃鉄うちがねなどたくさんの部分がある。そのどれかがちょっとでも狂えば、君たちの運もまた失われる。
 (b)風に運ばれる打撃はちっともあてにならない。

風をして運ばしむる打撃は不確実なり。
刀剣こそ兵士の力なれ。戦いにたけたる民は、
すべてただ剣のみを以て戦う。
(ルカヌス)

 (a)けれどもこの火器のことは、後に古今の武器の比較をする場合に、あらためて詳しく述べることにしよう。その耳を驚かす爆音はしばらくおいても(その後人々はようやくこれに慣れたから)、それはきわめて効果の少ない武器であると思う。わたしはそれがやがて使用されなくなることを期待する。
* 著者は一五八〇年にはこの計画をもっていたのだろうが、ついに実行せずに終った。ただ一五八八年に、次につづく二項を書き添えたにとどまった。
 (c)むかしイタリア人が使用した飛道具はずっと恐ろしいものだった。彼らがファラリカと呼んでいたのは、三尺ばかりの鉄の柄がついた一種の投槍で、鎧かぶとを着た人を突きとおすためのものであった。野戦において手で投げられることもあり、城を防ぎ守るに当っていろいろな機械でうち出されることもあった。柄には松脂まつやにと油とをしませた麻屑が装置されていて、飛んでゆく途中に火がつく。そして人体なり楯なりに突き立つと、その四肢からもその武器からもすべての働きをうばってしまう。だがひとたび接戦となると、やはりそれは攻撃者の方の邪魔になったらしい。そして戦場にはそういう火のついた破片が散らばって、混戦の際は敵味方両方を妨げたらしい。

けたたましき音をたてつつ
いかずちのごとくファラリカはおち来りぬ。
(ウェルギリウス)

 彼らはほかにもいろいろな道具を持っていて、それらの使用に巧みであった。いずれも経験のない我々には信じられないほどのもので、彼らはそれらに我々の硝薬や弾丸の代りをさせていたのである。彼らは非常な力で大槍を投げ、しばしば二枚の楯と鎧をつけた二人の兵士とを串ざしにした。彼らの石弩いしゆみの威力も、その精確さにおいて、その距離において、大槍に劣らなかった。※(始め二重山括弧、1-1-52)彼らは日頃石弩を用いて、海上遠く石を飛ばすことや、遠くより小さき輪をくぐらせることに、習熟しいたれば、よくそれを敵の頭部に命中させたるのみならず、その顔の思うところへあてることさえなしえたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。彼らの砲撃器は、我々の大砲と同じ効果と音響とをもっていた。※(始め二重山括弧、1-1-52)城壁を鳴りはためかす恐ろしき音響に、籠城の士卒は驚きうろたえたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。アジアにおける我々の同族ゴール人は、このあてにならぬ飛道具をきらっていた。彼らはそれよりも勇敢に空手からてで戦うように訓練されていたから。※(始め二重山括弧、1-1-52)大いなる傷口は彼らを怖れしめざりき。彼らはその傷が深からずして広きときは、ますますそれを誇りとせり。されどやじりや石弩のつぶてが表面には僅かな傷を与えしのみにて肉深く食い入るときは、この小さき傷のために死ぬることを怒りかつ恥じ、地上を転反側したりき※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。これは我々が火縄銃を発射する有様にそっくりではないか。
 一万のギリシア兵はその有名な長途の退却の途中、或る民族に遭遇し、その強く大きな弓と恐ろしく長い矢のために非常な損害をこうむった。その矢は拾ってこれをもりのように投げることができるくらい長く、楯と鎧をきた武士とをもろともに串刺しにしたそうだ。ディオニュシオスがスュラクサイにおいて発明したところの、大きな太い矢と恐ろしく大きな石とをきわめて遠くに、非常な勢いでうち出す兵器もまた、わが火砲にきわめてよく似たものであった。
* 「一万人の退却」と言われるもの。紀元前四〇一年、ギリシア人がクナクサの戦いに敗れ、クセノフォンの統率の下に辛うじてギリシアまで逃げかえったことをさす。
 (a)だが神学博士ピエール・ポールとやらいう先生の、騾馬らばにのったおかしな格好も忘れてはならない。モンストルレが物語っているところによると、「彼はいつも女みたいに横乗りをしてパリの市中を歩きまわるのが例であった」という。同じ記録家は別の場所で、「ガスコーニュ人は恐ろしい馬を持っている。それは疾走中に急に向きをかえることができる。これには、フランス人もピカルディ人も、フラマン人もブラバント人も、舌をまいて驚く」と言っている。「そんなのは見なれないことであるから」とは著者自らの言葉である。カエサルはスウェービ族の人々について、「騎馬で行われる合戦において、彼らはしばしば馬から飛び下りて徒歩で戦う。日頃馬をその場を動かぬように訓練してあるからで、その必要が生ずれば忽ちにもとの馬にのる。また彼らの習慣によると、くらあぶみを置くことくらい卑しむべきことはないので、それらを使用する者を軽蔑する。したがって味方の数がいかに少なくても、そのような敵ならば幾らたくさんいようと彼らは少しも恐れない」と語っている。
 (b)わたしは昔、手綱をおっぱなし鞭一本で思いのままに乗れるように仕込んである馬を見て、ひどく感心したことがあるが、そんなことはマッシリア人の間では珍しくなかった。彼らは鞍も手綱もなしにその馬を乗りこなした。

マッシリア人は裸の馬に乗る。
彼らはくつわを知らずただ一本の鞭による。
(ルカヌス)
(c)またヌミディア人は轡なき馬に乗る。
(ウェルギリウス)

※(始め二重山括弧、1-1-52)彼らの轡なき馬は乗りて不快なり。頸かたきのみならず、頭を前方に突き出して歩めばなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。
 (a)王アルフォンソはスペインに革帯騎士団とか飾帯騎士団とかを創設した人であるが、いろいろな規則をたてた中に、「めすおすをとわず騾馬に乗るべからず。犯す者は銀一マルクの罰金に処する」と規定している。わたしはこれをゲヴァラの『書簡集』の中で読んだばかりである。ちなみにこの本を『黄金書簡』などと呼んだ人たちもあるが、わたしの判断は彼らとは全く違う。
 (c)『宮臣論』のいうところによると、以前は武士が騾馬にのると叱られたものだそうな(だがアビシニア人は、その位がだんだんに昇って、彼らの王であるプレートル・ジャンの位に近くなればなるほど、かえって名誉として騾馬にのりたがる)。クセノフォンの言うところによると、アッシリア人は彼らの馬を、常に足かせをしてうまやの中にいれておく。それほど癇がつよく癖がわるいのである。従って、これを引き出して鞍をおくのにもなかなか暇がかかるから、敵に不意をおそわれて不覚をとることがないように、決して壕と壁とをめぐらさない陣に拠ることがない。
* バルタザレ・カスティリヨーネの著(一五二八)。
 クセノフォンが語っているキュロスは馬乗りの大名人で、ほんとうにその馬たちと寝食を共にした。そして何かの運動でこれに一汗かかせた後でなければ、決して食べ物をやらなかった。
 (b)スキュティア人は戦争においていよいよ饑餓に迫られると、軍馬の生血をしぼってこれを飲み、その身の養いとした。

サルマティア人もまた、馬の血を以て養いとしたり。
(マルティアリス)

クレタの人たちはメテルスに包囲されたとき、あらゆる飲料を用いつくしたので、とうとう馬の小便まで用いなければならなかった。
 (c)トルコ人の軍隊が我々の軍隊よりもどうしてあんなに安上りに輸送され給養もされるかを明らかにするために、人々はこう説明している。「それは兵士たちが水と米と挽いた塩漬肉だけで満足するから、各自がそれらの一月分をやすやすと携帯してゆけるから、である。そればかりではない。彼らはダッタン人やモスコヴィ人と同じように、馬の血の飲みかたを知っているからである。彼らは塩を入れてこれを飲む」と。
 (b)あのインドで新たに発見された諸民族は、スペイン人がそこに到着した時、人間をも馬をも、神か獣か知らないが、いずれにせよ、自分たちより余程高貴な存在であろうと考えた。ある民族などは、いよいよ降参して兵たちの前に和睦と赦免を乞うべく、きんやさまざまの食品を携えてまかり出た時には、馬の前にまで同じだけの物を捧げることをわすれなかった。しかも人に対するのと同様の口上までも述べた。馬のいななきを和睦休戦の言葉と考えたからである。
* 当時アメリカのことを西方インドと呼んでいた。後出東方インドというのが我々のいうインドである。
 東方インドにおいては、象にのることがその昔、至高の誉れであった。第二の誉れは四頭立ての馬車にのること、第三の誉れは駱駝にのること、最後の最も低い位は、ただ一頭の馬に乗り或いはこれに引かれてゆくことであった。
 (c)現代人の誰であったか、やはりこの地方において、牛の背に小さな荷鞍をおき、手綱やあぶみまでつけて、いかにも楽しそうにのってゆく人々を見て来たと書いている。
 クイントゥス・ファビウス・マクシムス・ルティリアヌスは、サムニウム人と戦ったとき、その騎兵たちが三回も四回も突貫してなお敵の大隊を突き破ることができないのを見ると、「馬の手綱をはなし力一杯拍車を入れよ」と命令したので、向うところ敵なく、彼らは武器を倒し人を倒して続く歩兵のために進路をひらき、とうとう敵に血みどろな敗北を味わわせた。
 クイントゥス・フルウィウス・フラックスも、ケルティベリ人を攻めるに当って同じように命令した。※(始め二重山括弧、1-1-52)「もし汝ら手綱をはずして敵陣に駈け入るならば、勢い破竹の如くなるべし。これこそしばしばローマ騎兵をして成功せしめ、これに栄誉を得しめたる方法なり」と。ここにおいて兵士たちはいずれも馬の轡をはずして敵陣深く躍りこみ、また引きかえして縦横に駈けめぐりつ、至るところ敵の槍を折り、また多くの人々を殺傷したり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。
 (b)モスコヴィ公はむかしダッタン人たちから使節を送られると、次のような礼をもってこれを迎えなければならなかった。すなわち徒歩で彼らを迎え、馬の乳を盛った器を彼らに捧げなければならなかった(これが彼らダッタン人の最も愛好する飲料であったから)。もしこれを飲む時に幾滴かが馬のたて髪の上にこぼれると、これを舌の先でなめとってやらなければならなかった。ロシアで、皇帝バヤズィトがここに送った軍隊は、恐ろしい大雪になやまされた。降りつむ雪をよけまた寒さを凌ぐために、大勢の者は意を決してその馬を殺し、その腹をさき、それぞれ中にもぐり込んでその体温であたたまった。
 (c)バヤズィトはそのような苦戦も空しく、ついにタメルラン〔チムール〕にまけたので、アラビア産の牝馬にまたがり一目散に遁走した。彼が小川にさしかかった時に、馬に水を飲ませずにすんだらよかったのであるが、それは馬の気勢を非常に弱めさましてしまったので、忽ちに追手に追いつかれてしまった。馬に小便をさせるとその気勢をそぐとよく言われるが、飲ませる方はかえって馬に元気をつけるのではないかと、わたしは思うのだが。
 クロイソスはサルディス市の傍を通ったとき、大そう蛇のたくさんいる草原を見た。軍中の馬は皆うまがってそれをたべた。これが彼の戦いに負ける悪い前兆であったと、ヘロドトスは述べている。
 (b)我々はちゃんとたて髪と耳を備えた馬を「完全馬」※(始め二重山括弧、1-1-52)cheval entier※(終わり二重山括弧、1-1-53)と呼ぶ。完全馬でなければいちに出しても落第である。ラケダイモン人は、シチリアでアテナイ人をやぶり意気揚々としてスュラクサイ市に凱旋したとき、いろいろな強がりを行ったが、特に分捕り馬のたて髪を切らせてこれを誇らかに引きまわした。アレクサンドロスはダハエという人民を征服したが、この民は二人ずつ一頭の馬に乗って戦いにゆくのを常とした。けれどもいよいよ混戦になると一人が馬から飛び下りる。そうして二人がかわるがわる、あるいは徒歩であるいは馬上でたたかった。
 (c)わたしは馬術の巧みさと鮮やかさにおいて、いかなる国民も我々よりまさっているとは思わない。「良い騎士」と言うと、我々の言葉の慣用に従えば、その人の技倆よりも勇気の方を指して言うもののようである。馬を御することに最も練達し腕前の最も確かであざやかな人といえば、わたしが知っている限りでは、わがアンリ二世王の馬の御指南番であったあのカルヌヴァレ殿であったと思う。わたしはかつてこんな男を見たことがあった。まずくらの上に突っ立ったまま馬を走らせる。次にその鞍をおろす。そして帰りに再びこの鞍を拾い、置きなおし、これにまたがる。それらをすべて手綱をはなし馬を疾駆させながらするのである。帽子を落したと見ると、ふり返りざまに幾度もこれを弓で射る。片足を鐙にかけたまま、他の片足を地について、何でも拾って見せる。その他いろいろな軽業をして、この男は食べていたのである。(b)ある人はこの頃コンスタンチノープルで、一頭の馬に乗った二人の男が、疾走中かわるがわる飛びおりたり飛び乗ったりするところを見て来た。またある者は、ただ歯だけを用いて馬に手綱をつけ鞍をおいた。ある者は二頭の馬の鞍の上に片足ずつをおき、もう一人の男をその腕にのせながら、まっしぐらに走らせた。このあとの男は前の男の腕の上に突っ立ち、疾走中に弓を射て的をはずさなかった。また馬の両の脇腹に抜身の新月刀をしばりつけて置いて、鞍の上に逆立ちをしながら馬を走らせたものもたくさんある。わたしの子供の頃であったが、ナポリのスルモナ公は荒馬をさまざまに乗りこなした。彼は(c)その姿勢の安定を示すために(b)膝の下と足の指の下に貨幣をはさんだが、それは釘づけにされたように落ちなかった
* 当章を通じてわれわれは、モンテーニュの軍職礼賛の根拠と意義を知る。それは戦争賛美ではなく、騎士道の美しさを礼賛するのである。彼は武人においてその技術を重んぜず、ただその勇気と徳とに感動するのである。後出二の九「パルティア人の武器について」参照。
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第四十九章 古代の習慣について



 (a)わたしはわが国民が、自分たちの風俗習慣以外には完全の模範も標準ももたないことを、心から勘弁してやろうと思う。まったく、自分たちが子供の時代から親しんできた習慣を無上のものに思うのは、たんに凡俗の人たちだけではなくほとんどすべての人に見られる通弊なのである。彼らがファブリティウスやラエリウスを見てその様子態度を野蛮だと思うのももっともである。いずれも我々のような服装も作法ももっていないのだから。だがわれわれフランス人に特有なあの無定見にも困ったものである。彼らは現代の習慣の権威に、あまりにも欺かれ過ぎくらまされ過ぎる。それが流行だとなると、毎月でもその意見を変更してはばからず、自分自身をああもいろいろに判断して平気でいる。胴衣の胸当を両の乳の間におびていた頃は、やっきになってこれこそ本当の位置だと言いはったのに、それから数年の後に、それがあのとおり股の間までおろされると、早速前の習慣を馬鹿にして、やれおかしいのやれ窮屈のという。今日の着方が忽ちに昨日の着方を排斥させるのだが、その時の彼らの確信はあまりにもかたく、その賛同はあまりにも広く及ぶので、何か狂気のようなものでも発生して、あのように彼らの悟性をひっくりかえすのではないかと言いたくなる。このことにかけては我々の変りようはあまりにもはげしく、世界中のあらゆる裁縫師の工夫もとうてい十分には新型を提供し切れまいと思われるほどであるから、きわめてしばしば、かつて嘲られた型が再び珍重され、それがまたじきに捨てて顧みられなくなるというのも、やむをえないことである。同一の判断がたかだか十五年か二十年の間に、二つから三つの、たんに相異なるというだけではなく全然相反する意見を、まさかと思われる程の軽薄さをもってかわるがわる受け入れるというのも、またやむをえないことである。(c)我々の間の最も賢い人たちまでが、あたらこの矛盾にだまかされ、知らず知らずの間にその内なる眼をも外なる眼をも、もろともにくらまされざるはない有様である。
 (a)わたしはここに、わたしの記憶するさまざまな古代の習慣を(中には我々の習慣と同じものもあるし違ったものもあるが)、並べてみようと思う。このように人間界の物ごとが始終変化してきわまりなきことを考えてみたら、我々もそれらについて今までよりはずっと明※(「析/日」、第3水準1-85-31)にして不動なる判断をもつようになるだろうと思うのである。
 我々のいわゆる「剣とカープで戦う」ことは、ローマ人の間でも行われた。カエサルも、※(始め二重山括弧、1-1-52)彼らはその左手をマントもて掩い、しかる後に剣を抜く※(終わり二重山括弧、1-1-53)と書いている。そしてその時分から、わが国に今でもなお残っている、あの、路上でゆき合う人々を押しとどめてその名を名乗らせ、返答を拒むと悪口雑言して喧嘩を吹っかけるという、悪い習わしがあったことを認めている。
* カープ cape というのは頭巾のついた袖のない短いマントである。
 古人は毎日食前に湯あみをしたが、そして我々が手を清めるくらいに手軽にそれをしたのであるが、始めはただ腕と脚だけしか洗わなかったのである。ところが後には(この習慣は数世紀の間を通じて世界の大部分の国々を風靡したが)、まる裸となって香料をまじえた水で身を清めるようになった。そのためにただの水を浴びるということが質素のしるしとして挙げられたくらいである。きわめておしゃれな人たちは、一日に三、四回も全身に香水をそそいだ。彼らはしばしばあらゆる毛を抜かせた。ちょうどフランスの婦人たちが、しばらく前から額をつくる習慣を得たように。
* 生え際の毛をぬかせて額をひろく見せたのである。当時の貴婦人の像を見るとわかる。

なんじ、胸や脛や腕の毛を除く。
(マルティアリス)

もっとも古人の方はそのための特別の香油を持っていたのであるが。

彼女はその身に除毛膏を塗りたり。
そは乾ける粘土を酢の中にひたせるものなりき。
(マルティアリス)

彼らは柔らかなふとんに寝るのが好きだった。そしてわらぶとんに寝ることを忍耐のしるしとしてあげている。また寝床の上に横たわって食事をした。まず今日のトルコ人と同じような格好で。

その時アエネアスは床の上より次のごとく言えり。
(ウェルギリウス)

それで、伝えるところによると、小カトーはファルサロスの戦い以来、国運がはなはだ振わないのに心をいため、常に坐って食事し、毎日の生活を更にきびしくしたということである。彼らは敬慕の情を示すために、えらい人たちの手に接吻した。友人間においては挨拶として接吻を交わした。ちょうどヴェネツィア人がするように。

最も優しき言葉もてそなたをことほぎつつ、
われそなたに口づけせん。
(オウィディウス)

(c)またえらい人に懇請したり挨拶したりするには、その膝に手をふれた。クラテスと兄弟の哲学者パシクレスは、手を相手の膝にもってゆかずに股間にもっていった。その人が荒々しく彼の手を振りはらうと、「何とせらるる? これもまた膝と同じくそなたのものではないか」といった。
 (a)彼らも我々のように食後に果物をたべた。彼らは海綿でお尻を拭いた(言葉の上のつまらぬ遠慮は御婦人がたにおまかせしよう)。だからスポンギアはラテン語ではみだらな言葉である。で、この海綿は棒の先につけられていた。その証拠にはこんな話がある。「ある男が見物人の前で獣に食わされるために連れてゆかれる途中、用たしにゆきたいと許しを乞うた。だが、別に自殺をしようにもほかに方法がなかったので、この棒と海綿とを喉に突っ込んで自ら窒息した」と。彼らはあれをしてしまうと、香料をしませたネルでさおをふいた。

このネルでそなたのペニスを拭うほかに
まことそなたのために何もなしえじ。
(マルティアリス)

ローマでは四辻ごとに、通行人が小便をするための便器や小桶が備えてあった。

しばしば少年はその夢に、自ら衣をかかげて
この用に備えられたる器に放尿すと見る。
(ルクレティウス)

彼らは食事と食事の間に軽食をとった。夏は酒を冷やすための雪売りがあった。また冬でも、酒の冷たさが足りないからと雪を用いる者があった。えらい人たちはお酌をしたり肉を切ったりする少年を養っていた。それに道化者もいて彼らを面白がらせた。冬は食べ物を、卓上にのせられる焜炉こんろにのせて供した。また持ち運びのできる台所を持っていた。わたしもそれを見たことがあるが、すべての食器がそこにおさめられて彼らのお供をしたのである。

富める人たちよ。これらの佳肴かこうはおん身らのもの。
我らには、移動食膳はふさわしからず。
(マルティアリス)

また夏になると、彼らはしばしば下の部屋に溝をしつらえて、そこにつめたい清水をとおした。そこにはたくさんの生きた魚がいて、主客はあれこれと手取りにしては、めいめいそれを好きなように料理させた。当時も今日のように、魚はえらい人たちにお手ずから料理していただく特権をもっていた。それに、その味は獣の肉よりははるかにうまい。少なくともこのわたしにはそう思われる。けれどもあらゆる種類の豪奢、乱行、淫蕩な思いつき、遊惰、贅沢にかけては、我々もほんとうに彼らに負けないだけのことをやっている。まったく我々の意志は、確かに彼らのそれに劣らず腐っているのである。だが我々の才能の方はとうてい彼らに及ばない。我々の力は、徳においても不徳においても、とうてい彼らにおいつけない。まったく彼らにおいては、徳も不徳も我々のそれとはくらべものにならぬほど強い気魄から発しているのである。霊魂は弱くなればなるほど、それだけ大きな善も大きな悪も、二つながらになしえなくなるのである。
 彼らの間の上席といえば中央である。書く場合も語る場合も、前後は少しも上下の意味を持たないのである。それは彼らの書いたものを見るとはっきりわかる。オッピウスおよびカエサル、ともいえば、カエサルおよびオッピウス、ともいう。わたしとお前でも、お前とわたしでも、どっちでもよいのである。そういえば、わたしはかつてフランス訳のプルタルコスの中でフラミニヌスの伝記を読んだとき、訳者が、アエトリア人とローマ人とが協力して得た戦勝の光栄を相争ったことを語るにあたって、ギリシアの歌の中にアエトリア人の方がローマ人よりも前に挙げられていることを多少重く見ているらしいくだりがあるのに、気がついたことがある。そのフランス文に曖昧なところがないとすれば、どうもそのようにとらないわけにゆかなかった。
 貴婦人たちは蒸し風呂の中で男子をも一緒に引見した。そしてその場で、下男に体をもませたり油を塗らせたりした。

そなたが、全裸にて温浴をするとき、
黒革のふんどししたる奴隷そなたの命を待つ。
(マルティアリス)

彼女たちは一種の粉を身に振りかけてその汗をおさえた。
 昔のゴール人は、シドニウス・アポリナリスの言うところによると、前髪を貯え後頭部を刈り込んでいたが、この風習は、現代の女々しい柔弱な風潮に乗じて、この頃またはやり出した。
 ローマ人は渡し銭を船に乗るなり払った。我々は向うについてから払う。

旅人の金をあつめ、曳船に驢馬をつけるに、
ゆうにひと時はすぐるなり。
(ホラティウス)

 女は寝台の壁ぎわの方に寝たものである。だから人はカエサルのことを、「王ニコメデスの壁ぎわ」※(始め二重山括弧、1-1-52)sponda Regis Nicomedis※(終わり二重山括弧、1-1-53)と呼んだ。
* 壁ぎわ ruelle とは、寝台と壁との間の狭い空間をいう。カエサルは、少年のころ王ニコメデスに可愛がられたから、こう言われたのである。
 (b)彼らは息を切っては酒を飲んだ。また酒を水で割った。

若き奴隷よ。我々の傍を流るる水をみて、
とく、この熱きファレルナの酒を冷ませ。
(ホラティウス)

それから、我々の下男がよくやる・あの人をばかにした・しぐさも昔からあった。

おおヤヌスよ。人、君が背後にまわりて、
角を作らず、驢馬の耳を真似ず。
渇けるアプリアの犬の如くに長き舌を出さず。
(ペルシウス)

アルゴスやローマの貴婦人たちは白い喪服を着た。わが国の婦人たちもそうであった。おそらくこの風習をこそ永くつづけるべきであったと、わたしは思う。
 (a)しかしこういう問題に関しては、堂々たる著書が山ほどある。
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第五十章 デモクリトスとヘラクレイトスについて



 この章がいかなる時期に書かれたかは確かでない。ただおそらく第一巻第八章が書かれた一五七二年頃よりは後であろうと考えられる。そして、ここで始めて essai という語が、本書の標題として考えられたのではないかと思われる。
 今日ではエッセーすなわち随筆というふうに考えられ、モンテーニュがヨーロッパにおける随筆文学の元祖と見られているわけであるが、モンテーニュの時代には、エッセーという語はまだそういうジャンルの名称とはなっていなかった。事実モンテーニュの著作は、すでに読んだ第一巻第八章に述べられているような情況のもとに書き始められたのであるから、『エッセー』は『随想録』にちがいないのであるが、このエッセーという標題は、この章のかかれた頃(おそらく一五七八年前後)より後に思いつかれたものであろう。それが当時どのような意味をもっていたかということを、特にこの一章のなかに読みとっていただきたいと思う。すなわち著者が、ここにもっぱら自分の判断力の試みためし、という意味で essai とか essayer とかいう語を用いているということに、注目していただきたい。同時に、そうした試みの集積は体験経験となるから、第二巻第三十七章や第三巻第十三章などにおいては、そういう意味でも用いられていることを知っていただきたい。「このわたしの雑録は要するにわたしの一生のエッセーを記録したものに他ならぬ」(三の十三)。すなわちモンテーニュの随筆がその根源に理性主義と科学的経験主義をもっていることを、十分に理解していただきたいと思う。もちろん『随想録』の中には花鳥風月(自然)も含まれていなくはないが、少なくともエッセーという語の中にはそういう趣は感じられないのである。『モンテーニュとその時代』第三部第三章、三三一頁参照。
 なお最初のパラグラフの終りの二、三行もまた、文字通りに解すべきではない。前出第四十章の中で自分のエッセーに言及して、「それらはそっぽをむいて微妙な意味を響かせている」と言っているとおり、ここでもわれわれは側面から、この微妙な響きをききわけなければならない。すなわちモンテーニュはピュロン流の懐疑主義者ではなくして理性主義者である。彼はここでも自分の判断すなわち理性を十分に信頼している。しかも最後にはこうして断定をぼかし、いかにも懐疑論者であるようなふりをしている。これは彼の常套手段で、謙遜でも反語でもまたカムフラージュでもあるらしい。特に彼は、好んで形而上の問題の前にこうした態度をとる。彼は、そういう問題に関しては人知の及ばないことを、心底信じているからであり、また同時に、当時の狂信家の執拗な反撃と密告と酷刑とを恐れたからでもあろう。モンテーニュの科学的態度は、すでに読んだところでは「習慣」に関する章によく現われている。それは純然たる実験心理学であった。やがて第二巻第六章においては自分の気絶失神の経験をつぶさに記録するし、第二巻第十二章では人間を動物と同列に置いてこれに科学的観察を加えている。『随想録』全体をとって見ても、それは前後二十年を通じて、著者の思想が著者の身体的状態(病気や欲望や)に伴って変化している有様が克明に記載されている。モンテーニュが最も赤裸に自分を示しているその「旅日記」を見ても、彼は現代の臨床医家のような態度をもって、精密に科学的に、自分の病状の変化を観察し記録している。モンテーニュの『エッセー』は『徒然草』と同じようにして書き始められたものではあるが、両者には本質的にかなりちがうものがあるようにわたしは思う。

 (a)判断は、どんな問題にも適用される道具で、あらゆる場合に関与する。だからわたしは、ここに判断のためをするにあたって、あらゆる機会を利用する。たとえそれがわたしにまるで解らない問題であっても、そのわからぬ問題の上で判断を試して見る。遠くの方から瀬踏みをしながら。その上で、それがわたしの背がたたないほどの深瀬であるとわかれば、わたしは岸にとどまる。いや、こうしてこれから先へは進めないと認識するのも、判断の働きの一つなのである。その最も誇りとする働きの一つでさえあるのだ。ある時は、何か空虚な・とりとめのない・問題について、判断がそれに実体を与えるものを見出すかどうか、その支持となるべきものを見出すかどうかを、試して見る。ある時は高尚な・たびたび論ぜられた・問題に判断をむけてみる。すると、判断はそこに何も特別な発見をしない。道はすでに多くの人たちに踏まれた後で、判断はただ他人の足跡につき従うことができるだけである。そこで、判断は自分に一番よいと思われる路を選び出すのを自分の務めとする。そして、たくさんの小みちの中で、これが或いはあれが、最もよく当っていたと言明する。わたしは運命から手あたりしだいに問題を授かる。どれもこれもわたしには同様に結構であるから。だが、決してそれらの問題の全体を示そうとは企てない。(c)まったく、何に限らず全体はわたしには見えないのである。全体を見せてやるという者だってやっぱり見てはいないのである。それぞれの物がもっているいろいろな部面の中からわたしはただその一つをとって、ある時はこれをなめて見、ある時はこれをさすって見る。ある時はその骨まで噛んでみる。わたしはこれにメスをあてる。できるだけ広く切らずに、できるだけ深く刺してみる。そして、最もしばしば、今まで誰もしたことのない見方によってそれらをとらえることを好む。わたしだって何かの問題を徹底的に論じてみたいと思うこともあるが、わたしは余りにも自分を知りすぎている。ここに一語、あそこに一語と、原典の中からもぎとって来た見本みたいなものを、計画もなく約束もせず、あちこちにまき散らすとき、わたしは決してこれを人に保証しようとは望んでいないし、わたし自身もこれに執着してはいない。変えたければ何時でもこれを変える。いや、懐疑と不確実とに降参することもあるし、わたしの本領である無知に降参することもないではない。
* この節は、モンテーニュが essai, essayer という語に如何なる意義を与えているかを決定すべき重要な箇所であると思う。「力だめし」「こころみ」「ためし」「吟味」等の意味がここではその根本の意味であるように読まれる。日本語でいえば「胆だめし」「力だめし」「ためし算」という場合に用いられる「ためし」である。
 どんな行動も我々を暴露する。(a)ファルサロスの会戦の計画指揮の中に見られるあのカエサルの霊魂は、そののんきな恋愛合戦のやり方の中にもそっくりそのまま見られる。われわれは馬を鑑定する時、その馬場を疾駆するところも見れば、並足でゆく所をも、いやうまやの中にじっとしているところをも、見るのである。
 (c)霊魂の働きの中には、低い働きもたくさんある。そうしたところからも見なければ、霊魂を知り尽すことはできない。いやおそらく、霊魂がその単純な歩みですすむ時の方が、人はよりよくその本質を認識するのである。激情の嵐は、霊魂が高ぶっている時にそれを襲うことが多い。それに霊魂は、それぞれの事柄に己れの全体をもって当り、それに己れ全体を働かす。そして一時に一つ以上の事柄にたずさわることは決してない。また事柄をそれに応じて取扱わず、己れに応じて取扱う。物事は、おそらく、それ自体、その重さ・その長さ・その他いろいろな性質・をもっているのであろうが、霊魂は一ぺんそれらを我々の内部に受け入れると、たちまちにそれら〔諸性質〕を自分の好きなようにかえてしまうのである。死はキケロには恐ろしいこと・カトーには願わしいこと・ソクラテスにはどうでもよいこと・である。健康も良心も権威も知識も富も美も、またそれらの物の反対も、みな入口で今まで着ていた衣をはがれ、霊魂から新しい着物を、その好みの色を、或いは褐色の或いは緑の、或いは明るい或いは暗い、或いはおとなしい或いはけばけばしい、或いは深い或いは浅い、実にとりどりの色をきせられる。それに、それぞれの霊魂にそれぞれの好みがある。まったくもろもろの霊魂は、ものごとの型や寸法にかけて意見を同じくしたことがない。それぞれ〔の霊魂〕がその国における女王なのである。だから物事の外面的性質について、我々はもう〔我々の錯覚についての〕言訳はよそう。こっちはこっちで勝手に考えればよいことである。我々の幸・不幸も、かかってただ我々にある。だから、我々自らに、我々の供物・我々の祈願・をささげよう。運命になんかささげないで。運命は我々の考え方の上に何もなしえないのである。かえって我々の考え方の方が運命を引きまわし、それを自分の鋳型にはめこむのである。どうしてわたしがアレクサンドロスを判断するのに、彼がテーブルによってくだをまきながら飲んでいる時ではいけないのか。いや、彼が将棋をさしている時だってよいではないか。この下らない・子供らしい・勝負事も、彼の精神のどの絃をもふるわせ動かしているのだ(わたしは碁・将棋がきらいでやらない。それは遊びにならないからだ。遊びにしては余りに我々を真剣にするからだ。事もあろうに、あんなことに夢中になるのは恥ずかしいことだ)。アレクサンドロスはその光栄あるインド遠征を画策した時でも、あんなに夢中にはならなかった。また或る人は、人類の救いに関する重大な一節を解明するのにさえ、あんなに苦心惨憺はしなかった。見たまえ。いかに我々の霊魂がこのわらうべき遊戯を大きくふくらますかを。いかにこのために全神経を緊張させるかを。見たまえ、この遊戯の間に、いかに十分に、我々の霊魂が、各自に自己を認識すること、自己を正しく判断することを、可能にしているかを。わたしは他の何をしているときにも、こんなにくまなく自己を認知し触知することはないのである。いかなる激情が、その時我々を煽らないだろうか。怒りあり、口惜しさあり、憎みあり、またどうしても勝とうという野心もある。だがこの場合は、むしろ負けたいという野心の方がゆるされるべきであろう。まったくずばぬけて優秀であるということも、下らない事柄にかけては、名誉ある人にふさわしくはないのだ。わたしがいま将棋を例にして言ったことは、他のどんなことについても言われる。人間のいろいろな部面いろいろな仕事は、それぞれ同じようにその人をあらわし示すのである。
 (a)デモクリトスとヘラクレイトスは二人ながら哲学者であった。前者は人間の本性(humaine condition)を空なるわらうべきものと思っていたから、顔に人をばかにしたような笑いをうかべずには人前に出たことがなかった。ヘラクレイトスの方は、我々のその同じ本性に憐憫同情をいだいていたから、しじゅう悲しそうな顔をして、眼には涙をたたえていた。

(b)彼ら一歩その家の外に踏み出すとき
一人は笑い、一人は涙を浮べたりき。
(ユウェナリス)

 (a)わたしは前者の気分の方が好きである。泣くより笑う方が愉快だからではない。この方が一そう侮蔑的であり、もう一方よりも一そう我々をこきおろすことになるからだ。実際我々は自分の値打を考えて見れば、いくら軽蔑されてもたりないように思われる。愁嘆や同情の方は憐れみながらも多少その物を尊重する気持を交えているが、人が物事を嘲笑するのはそれらを価値なしと見ているからである。わたしは我々を空虚であるからといってそれほど不幸なものとも思わないし、馬鹿だからといってそれほど邪悪なものとも思わない。我々ははかなさに満ちてはおれ、それほど不幸に満ちてはいないし、下賤ではあれ、それほど悲惨なわけでもないのである。だからディオゲネスはその樽をころがしながら、大王アレクサンドロスを鼻の先であしらいながら、我々人間を青蠅か風にふくらんだ風船玉くらいに考えながら、独り面白がっていたので、この方が「人間の憎悪者」と綽名あだなされたティモンよりも、はるかに辛辣な・徹底した・したがってわたしの考えをもってすればはるかに正しい・判断者であったのだ。まったく人は、その憎むところのものに深い執着をもっているのだ。ティモンは我々を呪い、しんから我々の破滅を願い、我々との交際を、邪悪な堕落した者との交際のように、危険だとして避けていた。ディオゲネスの方は、「お前たちと接触したからとて、何の、お前たちなんかにかき乱されるもんか、影響されるもんか」といわんばかりに我々を無視していた。我々の仲間に入らなかったのは、我々との交際を恐れたからではなく、これを軽蔑していたからである。つまり我々を、善悪ともになし得ないものと見くびっていたのである。
 スタティウスがブルートゥスからカエサルに対する陰謀に加わらないかと勧められた時の答もまた、同じ性質のものであった。彼はその計画を正しいとは思ったのだが、人間をばそんなにまで骨を折ってやるだけの価値あるものとは思わなかったのである。(c)これはヘゲシアスの掟にもかなっている。この人は、「賢者は自分のため以外に何事もしてはならない。なぜなら、独り賢者だけが人から何かをしてもらうに値するからである」と言った。またテオドロスの掟にもかなっている。この人は、「賢者がその国の幸いのために己れを危うくするのは正しくない。馬鹿者どものためにその知恵を危険にさらすのは正しくない」と言った。
* モンテーニュはこの考えを後に第三巻第十章で詳説している。
 この我々人間に特有な本性は、笑うべきものであるとともに笑わせるものである。
* Nostre propre et peculiere condition est autant ridicule que risible. この章においては、モンテーニュはかなりペシミストで、またミザントロープでもあるように見える。もちろん彼も、毎日さまざまな犯罪や嘘や裏切やを見せつけられたのであるから、実際このようにペシミストになる日もあったであろう。しかし、パスカルが誤解しているように、モンテーニュは人間の卑小な面だけしか見ず、少しも人間の偉大な面を見なかったと考えるのはまちがっている。この章の所説は、むしろ彼の誇張でありまたパラドクスも放言 boutades もまじっていると見るべきである。例えば第二巻第十七章の終りの頁を読まれるがよい。彼は人間を正しく評価している。古人の中にだけでなく、同時代人の中にも、幾多のすぐれた人間を発見している。ラ・ボエシ、アンリ・ド・ナヴァールを始め、宰相のオリヴィエとかミシェル・ド・ロピタルとか、いろいろ偉大な人物のあることをモンテーニュは知っていた。また百姓の徳をもたたえている。われわれはモンテーニュの人間信頼とヒューマニズムが、これらの観察や体験に支えられていることを見おとしてはならない。なおこの点に関しては前記第二巻第十七章の他、第二巻第十章、第三巻第二章および第十二章を併せ見られたい。
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第五十一章 言葉のむなしさについて



 (a)むかしのある修辞学者は、「自分の専門は小さな事柄を大きそうに見せたり大きく思わせたりすることである」といった。(b)つまり小さな足のために大きな靴を作るのがうまい靴屋さんということになる。(a)スパルタにおいてならば、これは詐欺を職とするものだといって鞭うたれたに違いない。(b)この国の王であったアルキダモスは、あのトゥキュディデスの言葉をきいては驚かずにいられなかったことと思う。王はこの人に向って、「角力すもうではどっちが強いのか。ペリクレスの方か、それともお前か」とお訊ねになったところ、彼は「それはどうともきめかねます。まったく、私がとっ組んで彼を地に投げ倒しましょうとも、彼はなみいる人々に向って自分は倒れはしなかったと言いはり、結局勝ってしまいますから」と答えたからである。まだ婦人たちに仮面をかぶせお化粧をさせる人々の方が害が少ない。まったく、婦人たちをその素顔のままに見なくたって大した損にもならないが、修辞学者の方は、我々の眼ではなしに我々の判断を欺いて、物事の本質までも変え腐らせることをその職としているのだ。クレタやラケダイモンのような・秩序がととのい政治のうまくいっている・国々は、あまり雄弁家を尊重しないのである。
* これは歴史家のトゥキュディデスではなく、ペリクレスの反対党であった貴族派の首領の一人を指している。
 (c)アリストンは賢明にも修辞学を定義して、「人民を納得させる学問」と言った。ソクラテスおよびプラトンは、「欺きへつらう術」と言った。一般的定義としてはこれを否定する人たちも、各自の教訓の中では、いたるところでこれを裏書している。
 マホメット教徒は、これを無用のものとして彼らの子供たちに教えることを禁じている。
 またアテナイ人は、これが彼らの都において甚だ重んぜられたためにいかに世を毒したかを覚り、人の感情を煽り立てるその重要な部分を、序説および結語とともに削除させた。
 (a)それは規律にしたがわない群衆や暴徒を、煽動したり操縦したりするために考え出された道具である。医薬のように、病める国家においてのみ使用される道具である。アテナイやロドスやローマのように、俗衆や無知な者どもが何でも勝手なことをなし得た国々、物事が絶えず嵐にさらされていた国々には、雄弁家がたくさん集まった。本当にこれらの国家においては、雄弁の助けを借りずに衆望を負って立つことができた人物はほとんど見られないのである。ポンペイウス、カエサル、クラッスス、ルクルス、レントゥルス、メテルスは、いずれも自分の雄弁を大きな頼りとして、とうとうあれほどの高位にまでのしあがったのである。それを武器以上に利用したのである。(c)こういうことはより良い時代の思想に反することである。まったく、ルキウス・ウォルムニウスはクイントゥス・ファビウスおよびプブリウス・デキウスが執政に選挙されようとする時、二人のために公衆の前で次のように語った。「これらの人々は戦争のために生れついた人々で、実行にかけては偉いが舌戦にかけてはへたである。つまり真に執政たるべき人々である。利巧で雄弁で博学な人たちは、むしろ都市のために役立つ人で、裁判官として判決をするのにふさわしい」と。
 (a)雄弁がローマで最も花やかだったのは、その政治が最も悪かったときであった。内乱の嵐がそれをかき乱している時であった。ちょうど鋤鍬すきくわのはいらぬだだっ広い野原に雑草が時を得顔に繁茂したようなふうであった。これを見ると、一人の君主をいただく国々は、他の国々ほどこの雄弁を必要としないように思われる。まったく暗愚軽信は庶民のうちに見出されるもので、彼らはそのために、とかく耳に快い美辞麗句に魅せられてしまい、理性の力によって物事の真偽を識別するまでに至らないのであるが、どうもこの軽信は、たった一人の人の中にそうやすやすとは見出されないのだ。それに、この一人の人をよい教育とよい勧告とによってこの害毒からまもることは、かえってやさしいのである。マケドニアやペルシアからは名ある雄弁家は一人も出なかった。
 こんなことを言い出したわけは、ついこの頃、もとの枢機官カラッファに給仕頭としてその死に到るまで仕えた或るイタリア人と語りあったためである。わたしは彼にその職分のことを語らせた。彼は荘重に、もったいぶった態度で、その食味の学について演説をした。まるで神学上の大問題でも論じてきかせるかのように、彼は食欲にもいろいろな差別があることをわからせてくれた。例えば空腹時の食欲、二皿三皿たべた後の食欲、というふうに。また、単にそれを喜ばす方法もあれば、それを呼びさまし盛んにする方法もあるということなど。ソースの作り方についても、まずその総論から始めて、次に各調味料の特質および効果についての各論に入った。四季おりおりのサラダの種類が異なることから、これは温めて出すとか、これは冷やして出すとか、それらを眼に美しく見せるにはどんなふうに盛りつけるとか。そして最後に、それを供する順序に及んだが、そこにもまた立派な堂々たる考察が充満していた。

(b)兎の切り方と雛鳥の切り方とを区別するは、
決してかりそめの事にあらざるなり。
(ユウェナリス)

(a)いやそうした事柄が、みな豊富壮麗な言葉をもって誇張して語られ、一国の政治を論ずる場合に用いられる言葉さえも用いられた。わたしはそのとき、わがテレンティウスを思い出した。

「それはあまりに辛し。これは焦げたり。
これは味わい乏し。これは大いによろし。
この次はこうせよ。忘るるな」。
かくわれは、知れる限りを彼らに教う。
最後に、デメアよ、われは彼らに告ぐ。
「皿をみがくには鏡を見るが如くせよ」と。
(テレンティウス)

とにかくギリシア人さえ、パウルス・アエミリウスがマケドニアから帰って彼らに供した料理の秩序整然としているのを見ては、ひどくこれをほめたたえた。だがわたしは、いま事柄について語っているのではなく言葉について語っているのだ。
 果して皆さんにも同様の御経験がおありかどうか知らないが、わたしはわが国の建築師たちが、透し柱・台輪だいわ・軒蛇腹・はてはコリント式のドリア式のと、いかにも物々しい術語を連発するのをきいていると、どうしてもアポリドンの宮殿を連想せずにはいられない。ところがなに、うちの台所の扉のつまらない部分の話なのである。
* 『アマディス』の中に描かれている善美をつくした宮殿。
 (b)換喩法・隠喩法・直喩法などと、文法上のいろいろな名称が語られるのをきいていてごらん。何か珍しい言いまわしのことか何かのように思われはしないか。だがそれは、皆さんの女中さんたちのおしゃべりの中にも見出される言いまわしのことなのである。
 (a)我が国の官職を、その職務の上に何らの類似もないのに、いやその権威や機能にいたっては到底くらべものにならないのに、ローマ時代の仰山な呼び方で呼ぶこともまた、同じ種類の詐欺である。いやこんな詐欺もある。もっともこれは、わたしの考えでは、やがて我々の時代がいかに活気がなく振わなかったかを証明するのに役立つくらいが落ちであろうと思うが、人は古代が数世紀を通じて僅か一人か二人という大人物に奉った最も輝かしい尊称を、誰彼おかまいなしに、手当り次第に、用いている。プラトンはあまねき同意によって「神の如き」という称をえたのであるから、誰一人これをねたんだものはないが、ついこの頃イタリア人は、自ら一般的に同じ時代のどの民族よりも目ざめた精神とすこやかな理性をもっていると威張っているので、それももっともではあるのだが、とうとうアレティーノにこの称を与えた。なるほど巧妙ではあるがまわりくどくて気まぐれな・あの警句で充満した・一種の大袈裟げさな言いまわしを除いたら、要するにあの雄弁を除いたら、一体あとに何が残るか。わたしはそこに当代の並々の作者を越える何物をも見ないのである。とてもあの古代の「神の如き」人には及びもつかないのである。また我々は大王の称を、普通の人の偉大さを少しも越えない帝王に冠している。
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第五十二章 古人のつましさについて



 (a)アフリカにおけるローマ軍の大将アッティリウス・レグルスは、カルタゴ人に勝って光栄のただ中にあったのに、本国に手紙を送って、全体で僅か七アルパンばかりにしかならない自分の地所の管理を頼んでおいた小作人が農具を奪って逃走したことを訴え、かつ妻子が困っているといけないから帰国してその始末を致したいと、暇を乞うた。そこで元老院は彼の財産を処理すべき者を新たに指名し、これに盗まれたものを補充させ、その上に彼の妻子を国費で扶養するように命令した。
 大カトーは、執政となって、イスパニアから帰ると、船でイタリアに帰ったためについやした旅の費用を、乗馬を売って埋め合せた。またサルディニア総督時代には徒歩で巡視をした。お供といえばただ国の役人一人をつれたきりで、これが彼の官服をも犠牲用の器をも捧げて歩いたのである。それどころかきわめてしばしば自分で行李をかついで歩いた。自分は十エキュ以上する着物を着たことがないとか、一日に一ソル以上市場に払ったことがないとか、自慢した。また田舎にある自分の家は、外側に壁土を上塗りしていない荒壁ばかりだとも、自慢した。スキピオ・アエミリアヌスは、二回の勝利と二回の執政職の後に、ただ七人の下僕を連れただけで地方に使いした。伝えるところによれば、ホメロスはただ一人しか下男を持ったことがなく、プラトンは三人、ストア派の頭ゼノンはただの一人も持たなかったという。
 (b)ティベリウス・グラックスは、国のために任に赴いたとき、ローマ最高の位にある人であったのに、一日にただの五ソル半しか支給されなかった。
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第五十三章 カエサルの一句について



 (a)もし我々が時折自分自身を考察してみるならば、そして他人のあらさがしをしたり・我々の外にある物事を詮索したり・するために用いる時間を我々自らを測量するのに用いるならば、我々は容易に、我々のこの全組織がいかに脆弱ぜいじゃくな各部から成り立っているかに、気づくであろう。どんな物の中にも我々の満足を置くことができないということは、また欲望や想像によってすら自らに入用なものを選択することができないということは、我々が不完全であることの著しい証拠ではあるまいか。そのよい証拠は、いつの世にも、人間の至上の幸福を見出そうという大きな論争が、哲学者の間に絶えないことである。しかもそれは今もなお続いているばかりでなく、また永遠に続くであろう。いつになってもその解決や一致は得られないであろう。

(b)いまだ持たざるものこそ至上のものに見ゆれ。
げに、一たびこれを受くれば、また別のもの現われて、
我らが渇き、ついにやむことなかるべし。
(ルクレティウス)

 (a)何に限らず我々に認識され享受されるものは、どうも我々を満足させない。そして我々はまだ来ないもの、まだ知らないものを、ひたすらに追求する。現在のものが少しも我々を満足させないからである。思うに現在のものが我々を満足させるだけのものをもっていないからではなく、むしろ我々のそれらをつかむつかみ方が、弱くまた狂っているからである。

(b)かれエピクロスは、死すべきものが、ほぼ、
その生存に必要なるものを備えおるを見たり。
また、富と名誉と才知ある子とを持ちつつ、
その心決して平らかならざる人々をも見たり。
すなわち、かれ悟りき。「すべての悪は器より来る。
器わるければ内なるものを腐らす」と。
(ルクレティウス)

 我々の欲望は定めなく不確実である。それは何一つ捉えることができず何一つまともに享受することを知らない。人間はそれを、それらの物事が悪いせいにしてしまって、自分の全く知らない・見たこともない・他の物事にあこがれる。そしてそれらに自分の希望と欲望とをかけ、それらを崇め尊む。まことにカエサルが言うとおりである。※(始め二重山括弧、1-1-52)我々は天賦日常の欠陥によりて、未だ見ざるもの、隠れて知られざるものを、あまりに頼みすぎ、またあまりに恐れすぐ※(終わり二重山括弧、1-1-53)
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第五十四章 つまらぬ小器用について



 (a)人々は時おり、つまらない・何の役にもたたない・小器用小細工によって、世間の評判を得ようとつとめる。例えば詩人たちの中にも、全篇ことごとくを同じ文字ではじまる詩句で作りあげているのがある。むかしギリシアの人たちは卵型・まり型・翼型・斧型の詩なんていうのをでっち上げたが、彼らは詩の拍子を長くしたり短くしたりして、とうとうそのような形を作り上げたのである。アルファベットの諸文字は幾とおりに並べられるかという計算に苦心し・あのプルタルコスの中に見られるような信じえない数を発見した・人の学問なんかも、やはり同じ類いである。なるほどもっともなことよとわたしが感心したのは、粟粒を投げてはこれに針のめどをくぐらせてあやまたないという男を、人から紹介された或る人の意見である。演技が終ってのち、「このようにめずらしい技能に対しては何か御褒美を賜わりたい」と求められると、その人は、はなはだ面白い・いやもっとも千万な・ことをお命じになったのである。「よし。その芸人には粟二、三ミノをとらせなさい。そういう微妙なわざは始終練習させておかねばならないからね」と。まことに、正しいとか役に立つとかいう特質がないのに、ただまれだから・珍しいから・またはむつかしいから・といって物事を推奨するのは、我々の判断の無力を遺憾なく証拠だてるものである。
* ミノは升目の単位。ほぼ三十九リットルに当る。
 ついこの間はわたしの家で、みんなして物の両極を兼ね示す言葉を誰が一番多く捜し出すかに打ち興じた。例えば Sire. これはわが国の最高位にある人・すなわち王・に奉る尊称であるとともに、商人の手代のような卑しい者にも冠せられる称呼**であって、しかも両者の中間にある者に対しては決して用いられない。身分のある婦人たちを人は Dames とよぶ。中流の婦人は Damoiselles である。そして最下級の婦人がまた Dames と呼ばれる。
* 陛下。
** ラ・フォンテーヌの靴屋も Sire Gr※(アキュートアクセント付きE小文字)goire と呼ばれている。
 (b)テーブルにきれをかけることは、王侯のお邸と居酒屋においてのみゆるされる。
 (a)デモクリトスの言ったところによれば、神々と動物とは人間よりも鋭敏な感覚をもっていて、人間は両者の中間に位するのである。ローマの人たちは服喪の日と祝賀の日とに同じ服装をつけた。極度の恐怖と極度の勇壮とが、同様に消化作用をさまたげ、お腹を下すことも確かである。
 (c)ナヴァラ王十二世サンチョは「武者ぶるいのサンチョ」と綽名あだなされたが、これは豪胆が恐怖と同様に我々の四肢をふるわせることを教えている。家来たちが彼に鎧をきせながら彼の皮膚がうちふるえるのを見て、「こんどの危険は大したことはございません。ご安心なさいませ」と言ったのに答えて、「お前たちは誤解している。わたしの筋肉は、やがて勇気に導かれてその欲する場所にのぞむならば、立ち所に鎮まるであろう」と彼は言った。
 (a)不能はウェヌスの営みにおける冷淡や嫌悪から生ずるが、またあまりに激しい欲望や度はずれの熱情からも来る。極度の冷たさと極度の熱さは物を焼き焦がす。アリストテレスの言うところによれば、鉛の地金は、冬の厳しい寒さにあうと、強い熱にあったように溶けて流れる。(c)欲望と飽満とは、快楽の前と後とを苦痛でみたす。(a)暗愚と賢明とは、人間界におけるもろもろの苦難を受ける時の感覚において暗合する。賢者は不幸を制御するし愚者はこれを感じない。いわば、後者は事故のこなたにあり、前者は事故のかなたにあるものだ。賢者の方は物事の性質をよく考量し、それらをあるがままに評価してから、旺盛な気魄をもってそれらを跳び越える。つまり彼らは堅固な霊魂をもっているから、物事を蔑視して足の下に踏まえるのである。こういう霊魂にぶつかっては、さしもの運命の矢も歯がたたず、先が丸くなってはね反らざるをえないのである。普通の・中等度の・人々の状態はこれら両極の中間にある。不幸を識別し、これを感受し、しかもこれに堪えられない人々の状態がそれである。少年と老年とは、脳の働きの弱さにおいて一致する。吝嗇りんしょくと浪費とは、いずれも集め貯えようとする欲望において一致している。
 (b)こういうことも当然言えると思う。(c)世には知識に先行する初歩的アベセデール無知もあれば、知識の後に来るところの博士的ドクトラル無知もある。つまり、知識が第一の無知を破壊すると同時に生み出すところの無知もある、と言えるのかも知れない
* このパラグラフと次の二つのパラグラフが、パスカルのパンセ三二七を生み、更にそれを読んだシャトーブリアンをひどく感激させたことは有名な話である。
 なお、次のパラグラフでは、モンテーニュはすこぶるオーソドックスな敬虔な意見をのべているけれども、彼の真意はむしろその次の(c)の加筆(一五八八―九二)の中にかくれていると思う(彼は自らを「二つの鞍の間に尻を置く」あいの児の仲間にいれている)。それはモンテーニュ最晩年の考えであるとはいえ、それと同じ考えがすでにこの章の最後のパラグラフの最後の四行の中にも含まれていることに注意したい。要するに、モンテーニュ自らもそのエッセーも、まん中の段階に属するものだと自ら認め自ら甘んじている。
 (b)好奇心も教養も比較的に少ない・単純な・人の間からよいキリスト教徒が生れる。彼らは畏敬と従順とによって、単純に信仰しまた宗規に服している。知恵も能力も中くらいの人々の間には、もろもろのまちがった意見がかもし出される。これらの人たちは最初に感じたいかにもまことらしい意味を容れて、我々が旧来の道に停滞しているのを、とかく単純暗愚であるかのように解釈しがちである。そして我々に向って「君たちは勉強が足りないためによくわからないのだ」と言う。知恵のすぐれた人々はずっと落着きもあり明察もあって、別種の善い信仰者となる。これらの人々はたゆまぬ敬虔な研究によって、聖書の中の最も深い微妙な光に達し、我々の宗規の神秘的な神々しい奥義を悟る。けれども、中には第二の段階を経てからこの最高の段階にたどりつく人々もあるのであって、これまた至上の果実と堅信とを得てキリスト教的英知の最高所に達し、そこに慰めと感謝と改まった気持と深い謙遜とをもって、彼らの勝利を享受している。だがしかし、あの、自分たちの過去の誤りに対する世人の疑惑を一掃し、我々の信用を恢復しようとして、ことさらに我々の宗旨の実践に過激極端となり、かえってそれに幾多の激しい非難を招きよせている人々にいたっては、わたしはいま申した人々の列に置こうとは思わない。
 (c)素朴な百姓たちも紳士であるし、哲学者もまた(当世風にいうならばもろもろの有用な学識を身につけた強力明敏なたちの人々も)、紳士である。ただ文字を知らない第一の段階を蔑視しながら、もう一方の高い段階にはとうてい及びえないあいの児たちが(二つのくらの間に尻を置くわたしやその他多くの人々が)、危険で・無能で・うるさい。これらのやからが世を乱すのである。だからこのわたしは、できるだけ最初の座席、自然の座席、にたちもどろうとしている。かつてわたしはそこを立ち去ろうと試みたが、結局だめであった。
 民衆の産んだ純然たる自然的詩歌は技巧を越えた雅致をもっているので、芸術にかなった完全な詩歌の至妙の美にくらべられる。例えばガスコーニュの田園詩や、いかなる学芸も・また文字さえも・知らない民族の間から持ち帰られた歌謡がそれである。両方の中間にある凡庸な詩は、品位もなければ価値もないから、ただ軽蔑されるばかりである。
 (a)けれども一ぺん知恵に道がついてみたら、よくあることだが、なんでもない事柄をそれまで困難な仕事・珍しい問題・と思い込んでいたのに気がついたし、一たび我々の創意に油がのってくると、同じような実例が限りなく、あとからあとからと、見つかるものであることもわかったから、わたしはもう次の一項を追加するくらいのところでやめておこうと思う。「これなるもろもろのエッセーは、よし人々から評価していただけるにしても、わたしの考えでは、おそらく平凡ふつうな精神の人々をも特別優秀な精神の人々をも喜ばさないことに、結局はなるであろう。つまり前者には十分わかってもらえまいし、後者にはあまりにわかり切ったことばかりであろうから。それらはせいぜい中間の境にほそぼそと生きるくらいなものであろう」。
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第五十五章 においについて



 (a)或る人たち(例えばアレクサンドロス大王の如き)については、彼らの汗が何か稀な特別な体質のかげんで馥郁ふくいくたる香りを発散したといわれており、プルタルコスをはじめその他の人々がその原因を詮索している。だが普通の人の体は反対である。その最良の状態は全くにおいをもたないことである。最も清らかな息のかぐわしさだって、少しも我々を刺激する香りがないことに、例えば健やかな子供たちの息のようなものに、及ばない。だからプラウトゥスは言ったのだ。

女のかぐわしさとは全く香らざることなり。
(プラウトゥス)

女の最良のにおいはまったくにおわないことであると。(b)同様に、彼女たちの動作の最良の香りは、それが全く感じられないことだと言われる。(a)だから、人が舶来のにおいをかいでこれを帯びている人々をあやしいと思うのは当然である。何かその方面の先天的欠陥をかくすためではないかと邪推するのも仕方がない。そこで古代の詩人たちの「よい香りはくさい」という警句が生れたのである。

汝は嘲る。コラキヌスよ。我々によき香りなしと。
われはむしろ、よく香るよりは香らざるを好む。
(マルティアリス)

ポストゥムスよ。常によく香るものはくさし。
(マルティアリス)

 (b)けれどもわたしは良い香りに包まれているのが大好きで、悪いにおいをひどく嫌う。悪いにおいは誰よりも遠くから嗅ぎつける。

かくれ伏す猪を嗅ぎ出す犬よりもさとく、
ポリプスよ、
わが鼻は牡牛のにおいと腋臭わきがとを嗅ぎわく。
(ホラティウス)

 (c)最も単純で自然な香りが、わたしには最も愉快に思われる。だがこのたしなみはもっぱら婦人に属する。最も深い野蛮の中にいながら、スキュティアの婦人たちは、水浴をした後にはその地に産する香り高い或る薬を、顔を始め全身になすりつける。そして男に近づくときには、その薬を洗いおとしてつややかにかぐわしくなる。
 (b)どんな香りでも不思議なことに、実によくわたしにまつわりつく。実によくわたしの皮膚はそれが浸みるのに適している。自然が人ににおいを鼻に運ぶ道具を賦与しなかったといって残念がるのは間違っている。まったくにおいはひとりでに運ばれて来るのである。けれどもわたしにおいては、このゆたかなひげが特にその運び役を承る。手袋やハンケチをそれに近づけると、香りは一日中そこにとどまる。髭はわたしがそれまでいた場所を暴露する。青春の密接な接吻、甘い・むさぼるような・飽きることなき・接吻は、むかし、この髭にこびりつき、数時間の後までも消えなかったものである。だがしかし、よく交際の間にうつされる流行病、空気伝染によって生ずる流行病には、わたしはかかりやすくない。我々の時代には市中にも軍隊の中にも色々な流行病があったけれど、わたしはそれらを免れた。(c)書物の伝えるところによると、ソクラテスは度々のペストがアテナイの町を苦しめた間、一度もそこを離れなかったにかかわらず、彼ばかりはついぞそれに冒されなかったという。(b)医者は将来もっと香りを利用することができるのではないかと、わたしは思う。まったくわたしは、香りがわたしを変えること、それらがその性質に応じてわたしの心に影響することを、しばしば認めたのである。それで、きわめて古くから広くすべての民族の宗教において行われている・あの寺院内で香をたくという・思いつきは、そうやって我々の感覚をよろこばせ・刺激し・浄化し、ますます我々を瞑想に誘おうとするものであるという通説を、わたしは承認する。
* モンテーニュは少年時代からセンシュアルな傾向があり、ギュイエンヌ学院上級生時代にこの種の洗礼をうけてから後は、パリ遊学時代、法官時代を通じて恋愛の経験をしばしばした。
 (c)この説の当否を判断するために、わたしも、あのもろもろの食品の風味にあわせて異国の香料を上手にあんばいする料理人の技術を、習っておけばよかった。人は特にテュニスの王様の食膳においてそれに感心したのだが、その王様というのは、我々の時代にカルル皇帝と対面するためにナポリに上陸した人である。その召上り物の間には常にさまざまな薬味がはさまれていた。その贅沢なことは、彼らの流儀に従って調理をするとなると、一羽の孔雀と二羽のきじに百デュカかかったということだし、それらを切っている時にはただその食堂ばかりでなく、宮中のすべてのお部屋が、いや近くの家々にいたるまでが、その馥郁たる香気にみたされ、しかもそれがなかなか消えなかったということだ。
 (b)わたしが宿をとる時の第一の心遣いは、くさい重苦しい空気をさけることである。ヴェネツィアやパリのようなああいう美しい都も、前者においてはその掘割から・後者においてはそのぬかるみから・発散するえたにおいによって、あたらわたしのこれらの都に対していだいている好感情を台なしにする。
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第五十六章 祈りについて



 モンテーニュも若い頃には宗教改革の情熱に多少動かされないでもなかったらしい。『モンテーニュとその時代』第二部第三章二〇七頁参照。この章のなかにも、「もしも何かがわたしの青年時代を誘惑したとすれば、この近頃の企てに伴う危険と困難とに挺身してみたいという野心こそ、その相当大きな部分を占めたかも知れないのであるから」と告白しているし、第一巻第二十七章においては、彼がかつて宗教の実践に当り理性に基づいて或る種の信仰ないし宗規を廃したことがあったと述べている。だが、この祈りの章においては(これが書かれた時期は確定できないが一五七二―八〇年の間であろう)、理性の世界と信仰の世界との間にはっきりと一線を劃し、みずからカトリック教徒として生きていると言明している。この宗教上の態度は、やがて「レーモン・スボン弁護」の章において詳細に述べられるが、一方前出第一巻第二十三章「習慣のこと……」の章の中で、服装に関して述べている感想などをも、ここで想い出すべきであろう。
 なおこの章の論旨はローマ庁において多少問題になった。この間の事情については白水社版『モンテーニュ全集』第四巻所収「旅日記」の中のローマ滞在中の記事および同日記巻頭の解説を見られたい。
 要するにモンテーニュはローマ庁で注意をうけて帰って来てから、すこぶる敬虔な恭順の心を一五八二年版のこの章の冒頭に表明したのであるが、指摘された箇所はその後いっこう訂正も削除もしなかったことは注意すべきであろう。

 (a)わたしはここに混沌としてきまりのつかないもろもろの感想を、ちょうど学校において討論させるためにいろいろと疑わしい問題を発表する人々と同じように提出する。つまりそれは真理を樹立するためではなく、これを探求するためなのである。だからわたしは、それらを、単にわたしの行いや書きものだけでなくわたしの思想までも規定することをお役目とされる方々の御判断に供する。それらが否認せられることも、それらが是認せられることも、わたしにとっては同様に文句のない・ためになる・ことであろう。(c)だって万々一、無知や不注意のために、使徒直伝じきでん・ローマ公認・のカトリック教会の聖規に反するようなことでも言っているとすれば、それは勿論けしからんことであるから。わたしはこの宗旨の中に死につつあり、わたしはこの宗旨の中で生れたのである。(a)であるから、常に法王庁の方々の戒告の権威に服しながらも(それはわたしの上に絶対の力を持っているが)、それでもなおこのように思いきって、あらゆる問題にくちばしをいれずにはいられないのである。例えば次のように**
* 「死につつある」と現在形で書かれている。つまり「生きている」の意味である。モンテーニュは毎日の生活を死への近接と考えるからであろう。誕生のその日から一歩一歩すべての生物は死に向っての前進を始める、というのが彼の持説であったからであろう。それはすでに第二十章で読んだとおりである。次の「この宗旨の中で生れた」という句の意味は、第二巻第十二章に「我々はペリゴール人ないしドイツ人であると同じ資格でキリスト教徒である」と言っているのと同じであろう。
** 以上の一項は、初版にはなく、一五八二年の『エッセー』第二版に付加せられたもの、すなわち、イタリアから帰って来て加筆したものである。従って一五八〇年版のこの章は、次の項をもって始まっているのである。私の『モンテーニュ伝』二三八頁、白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」のローマ滞在中の記事参照。
 わたしの考えは間違っているかも知れないが、とにかくやさしい神様の特別のお情けによって、或る祈りの方式が神様のお口から一語一語教えきかされたのであるから、我々はそれをもっともっと日常に唱え奉るべきではないかと、始終わたしは思っていた。だから、賛成していただけるかどうか知らないが、食事の前後、起きる時寝る時、その他我々が祈りの句を交えるのを常とする一々の行為において、我々キリスト教徒の用いるべき祈りは、常にこの「天にいますわれらの父よ……」であれかしとわたしは思う。(c)それだけを、というのではないが、せめてこれだけは常にわすれずに、と思うのである。(a)教会は我々の教化の必要に応じて、祈りの句を長くしても変化してもよろしい。まったくどの祈りも本質は常に同じであることを、わたしはよく承知しているのである。けれどもあの「主の祈り」には、「これこそ皆が常に口にすべきもの」という特権を与えてしかるべきであった。まったくこの祈りは、必要な事柄のすべてを含み、それがどんな場合にもぴったり当てはまることは確実なのである。(c)これこそわたしが常に用いる唯一の祈りである。わたしはこれを変えることなく繰返している。
 だから、わたしがこれくらいよくおぼえている祈りはないのである。
 (a)わたしは今も、こんなことを心の中で思っていた。「我々があらゆる企てごとにおいて神様にすがろうとする不心得はいったいどこから来るのか。(b)何かの要求にのぞむたびに、我々の微力が誰かの助力を必要とする場合に、いつでも、動機の正不正さえ考慮することなく神様を呼び奉る不心得、また我々がどんな行為どんな状態のうちにあるにしても、それが不徳なものであろうと何であろうとおかまいなしに、み名を呼びみ力にすがろうとするあの不心得は、そもそもどこから来るのか」と。
 (a)神様は確かに、我々の唯一無二の保護者であらせられる。(c)また我々を助けて下さるにはどんなことでもおできになる。(a)だが、このように神様はかたじけなくも我々の父でいらせられるが、やさしく(c)強く(a)いらせられるだけ、それだけ正しくいらせられる。(c)だがその御力をふるい給うよりは、その正義を行い給うことの方が多いのである。(a)そして我々を愛護し給うにも、正義の理に従われ決して我々のわがままには応じられないのである。
 (c)プラトンはその『法律』の中に、神々をなみする信仰として、「神々は全くないとする信」「神々は人事にあずからないとする信」「神々は我々の祈願・供物・犠牲に対して何事をも拒まないとする信」の三つを挙げた。第一の誤りは、彼の意見によれば、一人の人において、その少年時代から老年時代にいたるまでずっと変らずにつづいたことはなかった。しかし後の二つは、変らずにつづく場合もありうる。
 (a)神様の正義と威力とは不可分である。悪い目的のために御力におすがりしたってむだである。我々は神様に祈るその瞬間だけでも、清らかな心を持たなければならない。不徳な感情から離れていなければならない。でなければ、自ら自分がうたれるべき鞭を神様に差し出すことになる。自分の罪を償うことにはならないで、かえってそれを倍加することになる。それはお許しを乞わねばならないそのお方に向って、不敬と怨恨とに充満した感情を捧げることになるからである。だからわたしは、最も常に最もしばしば神様に祈る人々を見ても、その祈りのあとさきの行為がなにか補償悔悛の証拠を示してくれないならば、

(b)もしも夜、姦通を行わんとて、
昼間のみ、隠者の僧帽を戴くだけならば、
(ユウェナリス)

 とうていほめる気にならないのである。
 (c)いや、極悪非道の生活の中に神信心をまじえる人の態度は、ありのままに振舞う人や徹頭徹尾不品行な人の態度よりも、或る意味でずっと非難すべきものであると思う。であるから、毎日、我々の教会は、何か著しい邪念にとらわれている人々に対して、その加入加盟の恵みを拒んでいるのだ。
 (a)我々は習慣で祈っている。いや、もっと正しくいうならば、我々は祈りを読んでいる。いや、発音している。結局それはうわべだけである。
 (b)わたしがにがにがしく思うのは、食前にも食後にもそれぞれ三度も十字を切りながら(この十字をきることはわたしが敬意をもって絶えず、(c)あくびをしながらでも、(b)行うものであるだけに、いよいよもってにがにがしく思うのである)、他のあらゆる時刻にはただただ怨恨と欲張りと不正とをこれ事としている者どもを見ることである。不徳にはその時間を・神様にはその時間を・貸す。まるで埋め合せをしたり差引勘定をしたりしているみたいである。あのように相異なる行動があのように連綿として相接し、両者の境目継ぎ目にさえ何らの断絶とぎれ・何らの変化・も感じられないのは、誠に奇跡である。
 (c)何という不思議な良心であろう。罪悪と審判者とを同じ宿に、あんなに親しくあんなに仲よく同居させて平気でいられるとは? その頭を始終淫欲に支配されている人、しかもそれを神様の眼に甚だいとわしいものと判断している人は、神様にそのことについてお願い申上げるとき、いったいどんな風に言うのであろう。彼は自分を取りもどすが、たちまちにまた堕落する。もしも彼が口にするように、正義の神の御姿が彼の前に立ち現われて、彼の霊魂を打ちこらすならば、その悔悛はよし束の間であっても、その恐怖がしばしば彼の思想を悔悛の中に投げいれるであろう。そして執拗な習性となっている不徳を、忽ちに征服してしまうであろう。一体どう評したらよかろうか。自らそれを死に値すると認めながら、その罪がもたらす利得果実の上にその全生涯を築いている人たちのことを! また、その本質は不徳でありながら許されている職業が、いかにたくさんあることか。いや、或る人などは、「従来の信用と自分の職務に伴う名誉とを失わないために、本当に考えると嘘だと思う宗教を、自分の心にいだいているそれとは全く反対の宗教を、永年の間披瀝ひれきしたり実行したりしてきた」とわたしに白状したが、いったいどのようにしてこんな理屈を、彼はその心の中でこねまわしていたのであろうか。どんな言葉でこれらの連中は、公正な神様とこの問題について語っているのか。彼らの悔悟は目に見え手に触れる賠償の内になければならないのであるから、彼らは神様に対しても人間に対しても、悔悟しているとは言えないはずである。賠償もせず悔悛もせずにお許しを乞うほど、彼らはずうずうしいのだろうか。思うにあの淫楽と信心とを二つながらいだく人々も、結局この便宜上本心の許さない信仰を披瀝し実行する人々と同じである。けれども前者の抜きがたい執念を克服することは、そう容易なことではない。彼らがあんなに急激に意見を変更して我々をごまかすところを見ると、わたしにはどうやら奇跡みたいに思われる。彼らは、どうにもならない内心の苦闘を、ありありと示しているのである。近年、多少とも理知の明るさを持ちながら、なおもカトリック教を信ずるものを見ると、すぐに「あれは仮面をかぶっているのだ」と非難したがる人々がある。いやその人をほめるつもりで、「彼は表むき何と言うにしても、内心は自分たちと同じ程度に新教説をいだいているのだ」と説くものもあるが、何というでたらめな想像であろう。あまりにも自己を信ずることが強く、人が反対の信仰をいだくことをあり得ないときめてしまうのは、ほんとうに困った病である。いや、「ああいう明敏な精神を持った人は、永世の希望や脅威よりも、何かしら現世的な立身出世の方を重んじているのだ」などと思いこむにいたっては、なおさら困った話である。もっともわたしはそう思われても仕方がない。もしも何かがわたしの青年時代を誘惑したとすれば、この近頃の企て〔宗教改革〕に伴う危険と困難とに挺身してみたいという野心こそ、その相当大きな部分を占めたかも知れないのであるから。
 (a)ここに甚だ無理からぬことと思われるのは、教会が、聖霊のダビデに口授した聖歌を、むやみやたらに・見境なく・うたうのを禁じていることである。我々は敬虔な心と畏敬にみちみちた注意とをもってするのでない限り、けっして神様を我々の行為にあずからせてはならないのである。あの歌はあまりに神々しい。それをたんに我々の肺臓を鍛え・我々の耳をよろこばす・ために用いてはもったいない。それは心の底から歌い出されなければならない。舌の先からであってはならない。商家の丁稚でっちなどが、つまらぬ思いに耽りながら、たわむれにこれをうたうことをゆるすのは間違っている。
 (b)また我々の信仰の神聖な奥義が述べられている聖書が、食堂や台所にころがっているということも、実に間違ったことである。(c)それは昔は奥義であったのに、今では暇つぶしであり慰みである。(b)ああいうまじめな尊い研究は、片手間にわいわい言いながらしてはならないのである。それは、特にそれにあてられた・落ちついた・行為としてなされなければならない。必ず我々はその前に、我々のお勤めの前奏ともいうべき※(始め二重山括弧、1-1-52)スルソム・コルダ※(終わり二重山括弧、1-1-53)〔汝ら心を清くせよ〕をつけ加えなければならない。体をも特別の注意と敬虔な心とを示す態度にちゃんと整えてから、始めてそれに臨まなければならないのである。
 (c)それはすべての人の研究ではない。特にそれに身をささげた・特にそれを神様から命ぜられた・幾人かの人々のする研究である。邪悪な者、無知な者は、それをすると益々ますます悪くなる。それは物語るためのお話ではない。敬い・畏れ・あがめる・ための史実である。それを俗語に移して、あっぱれ民衆のためにそれを取り扱いやすくしたと考えている人々は、おかしな人たちだ。そこに書いてあることのすべてがわからないのは、ただたんに言葉のせいであろうか。忌憚きたんなくいうならば、彼らはそうやってほんのちょっぴり民衆を聖書に近づけ、かえって両者を引き離してしまった。全く他人に委せきった純粋な無知の方が、ずっと有効であり聡明であった。この頃の、口先ばかりの・空虚な・知識なんかは、ただ傲慢不遜を産み出すだけである。
 (b)わたしはまためいめいが勝手に、あんなに神々しい大切なお言葉を、あんなにいろいろな国語に翻訳するのは、害あって益のないことと思う。ユダヤ教徒にしろマホメット教徒にしろ、その他どこの人民でも、ほとんどみな、彼らの神秘が始めに思いいだかれたその言葉を熱愛し尊重する。みだりにそれを変更することは禁じられている。誠に無理のないことと思われる。果してバスクやブルターニュには、その国の方言に翻訳された聖書を議定するだけの判断ある者がいるであろうか。カトリック教会にとっても、これほど困難な・そしてまたこれほど重大な・判断はないのである。説教の際にも、その解釈は漠然としており、思い思いであり、まちまちである。また部分的である。したがってそれは原典と同じでないのである。
* 事実一五七一年に、ラ・ロシェルでバスク語の新約聖書が公刊された。
 (c)わがギリシア史家の一人が自分の時代を非難して、「今やキリスト教の秘密は無学な者どもの手に委ねられてちまたにまき散らされている。各人はこれを思いのままに論議することができる。まことに、聖寵によって信心の純粋な神秘をたのしむ我々から見れば、それらの神秘をああいう無知な人民の口さきに汚されるがままにしておくということは、大きな恥辱でなければならない。見なさい。異教徒たちでさえ、ソクラテスやプラトンやその他の賢者に対して、デルフォイの祭官たちにゆだねられた事柄を詮議することを禁じているではないか」と言ったのはもっともである。またこうも言っている。「神学上の問題に関する王侯の争いは、熱い信仰をもって武装されず、憤怒をもって武装されている。この熱い信仰も、整然と節度をもって導かれるときは、神の理性と正義とに通ずるけれども、人間の情欲に導かれるときは怨恨と嫉妬に変り、麦とぶどうを産せずに毒麦といら草とを生ずる」と。また或る者がテオドシウス皇帝に勧告して、「宗論は教会の分離を抑止しない。かえってこれを助長し、邪説を煽り立てる。だから弁証論めいたあらゆる口論はやめさせなければいけない。そして古人によって定められた信仰の規定におとなしく服従させなければいけない」と言ったのももっともである。また皇帝アンドロニコスは、宮中において二人の男が我々の宗教上の大問題の一つに関するロパディウスの言葉について口論し合っているのを見ると、ひどく二人を叱責し、「この上なお続けるならば河の中に投げ入れるぞ」と威嚇した。
* ニケタス Nic※(アキュートアクセント付きE小文字)tas(1150-1216). ビザンティウムの歴史家。「わが」と冠しているのは、古代人でなく近代人たることを意味しているのである。
 今日ではとかく女子供が、年たけて経験ある者に向って、宗教上の法規に関してお説教をする。だがプラトンの法律の第一箇条は、女子供には神の掟の代りとなっている民法上の諸法規の理由を、ただ尋ねることすら禁じている。その代り老人たちには、彼ら同士の間でもまた役人に向ってでも、それについて尋ねることを許したが、なお「若い者や不信者の同席しない場合に限る」と付け加えている。
 或る司教はこんなことを書き残した。「世界のもう一方のはてに、古人がディオコリデスと名づけていた島があり、そこはさまざまの樹木や果実が豊富で、また気候がよく健康によい楽土である。島民はキリスト教徒で教会と祭壇とを持っているが、そこには十字架が飾ってあるだけでほかには何の画像もない。いずれも断食と祭祀とを堅く守り僧に対して貢ぎを忘れない。きわめて純潔で一生にただ一人の女しか知らずにいる。それに自分の運命に満足しきっていて、海の真中に住みながら舟を使用することさえも知らない。またきわめて単純であって、後生大事に宗旨を信じ守りながら、経文のただの一語もわきまえない。これはちょっと信じられないことであるけれども、あれほどに偶像を拝する異教徒にしても、その神々についてはその名前とその姿とを知るにすぎないことを思えば、ちっとも不思議ではない」と。
 エウリピデスの悲劇『メナリッポス』の冒頭には、昔はこうあったのである。

おお、ユピテルよ、おん身についてわれは、
ただおん身の名よりほかに何事をも知らざるなり。
(アミヨ仏訳による)

 (b)わたしはまた現代においても、人が或る書物について、それが少しも神学を交えず全く人間的哲学的であるのを見て慨嘆しているのに出あった。だが、反対に誰かが次のように言っても、あながち理由のないことではあるまい。「神の掟は帝王のように、一人離れてある方が一層よくその位を保つ。それはいたる所において主位にあるべきで、決して補副の地位に立ってはならない。おそらく文法学・修辞学・論理学における実例は、このような聖なる部門からよりも、他の場所から引かれる方がふさわしかろう。芝居狂言その他の見せ物の主題もまたそうである。神の理法はそれだけ別に離して、それに相応した仕方で考える方が一層敬虔である。かえって人間的推理と一緒にしないがよい。こんにちでは神学者があまりに人間的に書くという弊害の方が、人文学者があまりに非神学的に書くというもう一つの弊害よりも、一層多く認められる。哲学は、聖クリュソストモスが言っているように、久しい以前から役にたたない下女はしためのように、神学者の門から追放されている。そして、天の教理という聖宝を納めた至聖所を、入口からそっとのぞいて見る資格さえないものと見なされている。人間の言葉は人間にふさわしい下品な形をもっているから、神の言葉の品位と荘厳とをわがもの顔に用いてはならない」と。わたしはこの人間の言葉に、(c)この※(始め二重山括弧、1-1-52)批准をへない言葉※(終わり二重山括弧、1-1-53)(聖アウグスティヌス)に、(b)運命・宿命・出来事・運不運・神々・その他これに類する語句を、これ相応に語らしめる。
* エッセーの中の「運命」という語の頻出が一五八一年ローマ旅行の際法王庁の注意をうけたのであったが、この(b)「わたしはまた……」に始まる一五八八年の添加は、わずかにそれに対する返答ででもあろうか。事実その後の版においても、著者はその点に関していっこう訂正していないのである。前出第三十四章註参照。
 (c)わたしは人間的な我流の感想を、単に人間的感想として・天意とは別に思いいだかれたものとして・お目にかけるので、決して天意によって規定された・疑いと変更とがゆるされない・感想としてではない。畢竟それは、思念の材料であって信仰の材料ではない。わたしがわたしに従って推理するところであって、神によって信ずるところではない。ちょうど生徒たちがエッセーを出すのと同じことで、自ら教えられようためであって人を教えるためではない。その態度はライック〔俗的〕でクレリカル〔僧的〕ではないが、でもはなはだ敬虔である。
 (b)また、「公然とそれを自分の職とする者以外は、誰でもきわめてひかえ目にでなければ宗教について書いてはならないという掟には、やはりどこか有益で公正なところがあるのではないか」と言う人があるが、それはむしろ当然ではあるまいか。そして恐らくこのわたしまでもそこに含めて、「黙っているがよいぞ」と言ってもよいのではあるまいか。
 (a)人から聞いたところでは、我々と宗旨を異にする人たちでさえ、やはりお互いに神という名を日常の談話の間に使用することをいましめ合っているということである。彼らはそれを間投詞すなわち感嘆詞ふうに用いることを、誓言のためでも比喩のためでも許さない。それをわたしはもっともなことだと思う。どんな場合にみ名を呼び神助を乞うにしても、それは常にまじめに敬虔になされなければならない。
 何でもクセノフォンの中にこんな論文があったように思う。そこで彼は、「我々は神に祈ることをもっと稀にしなければいけない。我々はそう度々我々の霊魂を、祈りをするのにふさわしい・ああいう厳正で敬虔な・状態におくことはできないから。ああいう態度でしなければ、祈りをすることは、たんに無効であるだけでなくむしろ有害である」と教えている。「われらを傷つけた者をわれらゆるしたるごとく、われらをもゆるしたまえ」〔主の祈り〕と我々はいう。だがそれはいったいどういう意味か。復讐や怨恨をすてきった心を神に捧げまつるという意味ではないのか。しかるに我々は神を呼んで我々の悪事に助力させる。(c)神を不正に引きずり込む。

(b)その願うところは、神々を物蔭に招きて、声をひそめて願いうることのみ。
(ペルシウス)

 (a)守銭奴はその財宝のいたずらなる保全のために神に祈る。野心家はその勝利とその欲望成就のために祈る。盗賊は自分の邪悪な企ての実行を邪魔するもろもろの危険困難を乗越えたいと神助を乞い、或いは道行く人をいともやすやすとしめ殺すことができたとて神に感謝する。(c)彼らはこれから梯子はしごをかけ或いは爆破しようとする家の下にうずくまって祈る。その意図と希望とには、いつも残酷と淫乱と貪欲とがみちみちている。

(b)ユピテルの耳にささやかんと思うことを、
スタティウスに語り見よ。彼は叫ばん。
「おおユピテルよ。かかる願いを君きき給うや」と。
言うまでもなし。ユピテルはそれをかなえざるなり。
(ペルシウス)

 (a)ナヴァールの女王マルグリットはある貴公子について(彼女はそのお名前を挙げてはおられないけれども、御身分の高いお方なので大抵想像がつく)、次のようなことを物語っておられる。「彼はパリの一代言人の妻と寝るために媾曳あいびきの場所に足しげく通われたが、路がちょうど或るお寺の境内を通りぬけているので、その往きにも帰りにも、この聖なる場所を通るごとに、いつも御祈祷をお忘れにならなかった」と。彼の心は艶なる思いにみちていたのであるから、どんな事柄の上に彼が神助を乞い奉ったのかは御推察にまかせる。ところが女王は、このことをいみじき信心のしるしとして挙げておられるのである。ただし、「婦人たちは神学上の問題を論ずるに適しない」ということは、ただこの一事のみによっては実証しえないであろう。
 真の祈祷、神と人との敬虔な融合は、その時にのぞみながらもなお悪魔の支配を脱しきれないような不純な霊魂の中には生じえない。不徳な生活を営みながら神助を呼ぶ者は、あたかも裁判の助けを仰ぐ巾着切りや、また嘘を誠と信じさせるために神の名をもち出す者どもと同じである。

   (b)我々は声をひそめて、
罪深き祈りをささやく。
(ルカヌス)

 (a)その神に捧げる秘密の要求を、公然とさらけ出すことのできる人はほとんどない。

神前に恥ずかしげにその祈りをつぶやくをやめて
声高らかにこれを言いうるものは一人だになし。
(ペルシウス)

だからこそピュタゴラスのともがらは、「祈祷は公然と万人に聞かれるようにしなければならない」と言ったのである。つまり人は、次のように不義不正な事柄を祈ってはいけないからだ。

声高く「アポロンよ」と叫びたる後、あたかも
人にきかるるをはばかるかのごとく、彼は声をひそめぬ。
「美しきラウェルナよ、我に詐欺を教えたまえ。
而して我を、正しき人の如くに見えしめたまえ。
罪をば闇に、盗みをば雲に、かくしたまえかし」
(ホラティウス)

* 盗人の守護神。
 (c)神々はオイディプスの不正な願いをかなえてやりながら、厳しくこれを罰した。彼はその子供たちが、それぞれ武器に訴えて誰が父の国を継ぐべきかを彼ら同士の間で決するようにと、神に祈った。その言葉どおりになったために、彼はあんなにも不幸であった。万事わが意の如くなれと願ってはいけない。万事知恵にかなうようにと祈らなければならない。
 (a)本当に我々は、我々の祈りを、(c)まるで呪文のように、(a)あたかも妖術や魔法に神聖な言葉を借り用いる者のように、使用しているかに見える。そして、その効果の源は、その文句の配置・抑揚・順序または我々の身振りにある、と思いこんでいるかのようだ。まったく霊魂には邪念を充満させるだけで、我々は露ほどの悔悟もしなければ新たに神の許しを乞おうともせずに、ただ記憶が我々の舌のさきに貸すところの言葉を神前にお供えしているだけなのである。そして、それだけで罪業がつぐなわれるようにと望んでいるのである。およそ神の掟くらいやさしい・あまい・いつくしみ深い・ものはない。神様は我々のように罪深い憎むべきものをすらお呼びよせになる。いかに我々が卑しく・きたなく・泥にまみれて・いても、いや将来そうなりそうであっても、御手をさしのべて我々をお膝の上に抱き上げてくださる。しかしそれにしても、いやそうであればこそ、我々はいよいよ純良な眼をもって神を仰ぎ見なければならない。なおさら、このみ許しを感謝の姿勢でうけなければならない。そして少なくとも神の掟にすがり奉るその瞬間だけでも、自らの罪過を悲しむ霊魂を、神に背かせようと我々を誘う情欲を敵とする霊魂を、持たなければならないのである。神々も正しい人々も、プラトンのいったとおり、よこしまな者の贈物をうけられることはない。

もし祭壇に触るる手さえ清ければ、
高価なる犠牲をささげずとも、
 ただ麦と塩とを供えるのみにて、
 怒れる氏神をもなだめうべし。
(ホラティウス)
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第五十七章 年齢について



 (a)わたしは我々の・我々人間の・寿命のきめ方を受けいれることができない。賢者たちも、それを一般の意見にくらべるとずっと短く見ているのである。小カトーは、彼の自殺を思いとまらせようとしたものどもに向って、「何をいう? わたしはもう、あまりに早く命をすてると叱られるような年齢でもあるまい」と言った。だが彼はその時四十八歳そこそこであった。彼はこの年齢をさえ、すでに相当年よりだと思っていたのである。そこまで生き永らえる者がいかに少ないかを知っていたからである。ところがどれだけの長さを指すのか知らないが、人間のいわゆる自然の寿命というものは、それよりはもう少し長いものだと思って安心している人々がいる。そう思っているのは勝手だが、いったいどんな特権によって、あんなに沢山の出来事を彼らだけまぬかれることができるのか。我々は、誰でも、人間に生れついた以上、どうしてもそういう出来事をまぬかれるわけにゆかない。我々があえて自ら約束する寿命は、それらによって中断されざるをえない。極度の老齢がもたらす虚脱によって死のうと期待するのは、またこれをもって我々の生命の究極だと思うのは、何たる夢であろう。それは一番たぐい稀な・一番例の少ない・死に方ではないか。我々はこれだけを自然死と呼ぶ。まるで人が墜落して首の骨を折るとか・難船して溺死するとか・ペストや肋膜炎にかかるとか・いうことは、さも自然に反しているかのようだ。また我々の普通の境遇は、我々をこういった不幸なんかにはあわせないものであるかのようだ。だがそんなうまい言葉に好い気になるのはよそう。たぶん一般的な・普通な・普遍な・ことをこそ、自然的と呼ぶべきであろう。老衰して死ぬのは、まれな・特別な・非常な・死である。それだけ他の死にくらべて自然でない死である。それは一番最後に来る死に方である。それは我々から一番遠くにあるだけ、それだけ希望し難い死である。それは我々がその向うには行かないであろうところの・自然の掟が越えてはならぬと命じたところの・境界標にほかならない。だが我々がそこまで永らえられるのは、自然の特別待遇によってである。それは、自然がこの長い道程の中途に散在させたさまざまな困難障害を特にとり除いて、二、三世紀を通じてただ一人の果報者に、特別の思召しをもって与えるところの特赦である。
 そういうわけだから、わたしは我々の現在の年齢は、僅かな人々がようやくに到達する年齢であると見なすべきだと思うのである。なみ大抵のことではなかなかここまでは来られないのであるから、それは我々がかなりに長生きをしていることの証拠になる。それに、我々はもう我々の寿命の真の尺度とすべき普通の限界を越えてしまったのであるから、これ以上生きのびようと望んではならないのである。たくさんの死の機会をすでに免れたのであるから、そこでは多くの人たちがあのとおりつまずき倒れたのであるから、我々は我々を支えているような非常の運命が、すなわち並はずれた運命が、このうえ永くはつづくまいと覚悟しなければならないのである。
 あのような誤った思想をいだくのは法律そのものの罪である。法律は人が二十五歳以前に自己の財産を処理しうることを欲しないが、その歳まで生命を保つことは容易ではあるまい。アウグストゥスは古代ローマの掟から五年をけずり、司法の職にたずさわるには三十歳になっていればよいと言った。セルウィウス・トゥリウスは四十七歳以上の武士に兵役を免じたが、アウグストゥスはそれを四十五歳にひきさげた。人々を五十五歳ないし六十歳以前に隠居させるのは、大した理由がないように思う。わたしはできるだけ我々の在職期間を延長すべきだと思う。公の利益のために。欠陥はむしろあべこべの側にあると思う。つまりもっと早くから我々を職につけないのがいけないのだと思う。このアウグストゥスは十九歳で世界の覇者となった。そのくせ、雨樋あまどいの場所を判断するには三十歳に達することを要すると言っている。
 わたしに言わせれば、我々の霊魂は二十歳にもなれば十分一本だちになっているし、将来の能力をも十分予測させると思う。この歳になってもその力量を明白に予約しなかった霊魂が、後に及んでそれを発揮したためしは未だかつてないのである。天賦の良質と徳性とは、その力とその美しさとを、この時期までに現わさなければ遂に現わすことはないのである。

(b)いばらは萌え出たはじめに刺さなけりゃあ、
ついに刺す時はあるまいぞ。

とドーフィネ地方では言いならわしている。
 (a)わたしが知っている限りでは、人間のあらゆる立派な行為のうち、その種類は何であっても、古代においても近代においても、三十歳前に成されたものの方が、それ以後になされたものより、数えてみると多いと思う。(c)さよう、同一人の一生について見ても、しばしばそうであった。ハンニバルの生涯についても、またその好い相手であったスキピオの生涯についても、断然そう言いうるではないか。
 この二人は、その生涯の美しい半分を、若いときにえた栄光によって生きた。一般の人に較べれば、その後といえども彼らは偉人であったけれども、昔の彼ら自身にくらべれば、少しもえらくはなかったのである。(a)わたし自らもこう確信している。「三十すぎてからは、精神も肉体も増すよりは減じた。進むよりは退いた」と。時間を上手に用いる人々においては、知識経験が年とともに増加するかも知れない。けれども溌、敏捷、がんばり等の・もっと我々本来の・もっと重要で本質的な・諸特質にいたっては、だんだんと色あせ衰えるばかりである。

(b)時の荒々しき攻撃が肉体を弱らせ、
四肢にあふるる力を奪いゆく時、
判断もよろめき、舌ももつれ、
機知もまた消えゆくなり。
(ルクレティウス)

ときには肉体の方が先に老いに降参する。或るときは霊魂の方が先になることもある。現にわたしは、胃の腑や足腰よりも頭脳の方が先に衰えた人たちを相当見た。それは当人にはさほどに感ぜられず・外にもあまり現われない・病であるだけに、かえって危険である。そこで(a)わたしは法律をうらむ。それがおそくまで我々を職にとどまらせることには苦情を言わないが、我々を登用することのあまりにも遅いのは残念に思う。我々の生命の脆弱なことを思い、またいかにそれが多くの自然普通の危険にさらされているかを考えると、人は若いときにあんなに長い年月を、なすこともなく、或いはお稽古ごとの中に、浪費してはならないのではないかと思う。





底本:「モンテーニュ随想録」国書刊行会
   2014(平成26)年2月28日初版第1刷発行
底本の親本:「随想録」新潮社
   1970(昭和45)年1月30日発行
入力:戸部松実
校正:大久保ゆう、Juki、雪森、富田晶子
2019年7月16日作成
青空文庫収録ファイル:
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●表記について

「にんべん+賁」、U+50E8    53-1
鋭アクセント付きυ、U+1F7B    199-7


●図書カード