この章は第一巻第一章と、初版『随想録』においてはその最終章である第二巻第三十七章との、両極を結んでいるように見える。三章ともいずれも人間が変化してやまないことを述べている。
(a)一人の人間の伝記をかこうとしている人たち*が、何よりも当惑を感じさせられるのは、その人のいろいろな行為を洩れなく書きつらねながら、しかもそれらの間に連絡をつけて、その全体をいかにも一人の人の一生らしく示さねばならないときである。まったく人間の行為の一つ一つはいつも不思議に矛盾していて、とても同じお店から出た物とは考えられないのである。若いマリウスは、或る時はマルス〔軍の神〕の息子となり、或る時はウェヌス〔愛と美の女神〕の息子となった。法王ボニファキウス八世は、狐のようにその職につき、獅子のようにこれを行い、ついに犬のように死んだという。また誰が信じようか。あの残酷の標本ともいうべきネロまでが、或る日、例のように家来から、一人の罪人の死刑の宣告に署名をしてくれと言われると、「おお字などを学ばなければよかった!」と嘆息したとは。それほどまでに、人ただ一人を死刑に処することが、彼の心を悲しませたとは。だがこういう実例は、いたるところに充ちみちている。いやそれどころか、人は誰でもそういう例を、いくらでもかき集めることができるくらいなのであるから、わたしは時々分別ある人たちまでが、この種の断片を取り合せて、それらを一つに継合せようと無理をしておられるのを見ると、何だかおかしな気がする。だって心の定まらないことこそ、我々の天性の最も普通でまた顕著な欠陥なのであるから。その証拠には、狂言作者プブリウスの次の句は誰一人知らぬものはあるまい。
変更しえざる意見は悪しき意見なり。
(プブリウス・スュルス)
* モラリスト、人物評論家、史論家などを含めて言っている。
(a)古代全体を通じて、自分の生活をしっかりした一定の方針に従わせた者を、十二人選抜するということはなかなか容易でないが、そのように生きることこそ知恵の主要な目的なのである。まったく古人〔セネカ〕が言ったように、知恵ということをただの一語のうちに含めるならば、そしてただ一つの規則に我々の生活上のすべての規則を一括するならば、「それはいつも同一のことを欲しつづけ避けつづけること」だ。申し添えるまでもないが(とその人も言っているが)、「それは心の持ち方が正しい場合に限るのであって、もしそうでない時には、一定の考えを貫くことは不可能である」。実際わたしはかつて学んだことがある。「不徳とは不規則にすぎず、節度の欠如にすぎない。したがってそれに恒常性を結びつけることは不可能である」と。また、これはデモステネスの言葉だそうだが、こんなのがある。つまり、「すべての徳性の始まりは熟慮熟考であり、その完成は心がわりしないことである」と。もし我々が熟慮によって一定の道をとるならば、我々は最も美しい道をとることになろう。ところが、誰ひとりそうは考えなかった。
彼は嘗て望みたるものを早くも捨て、
今捨てたるばかりのものを再び欲す。
彼は常に動揺し、その人生は絶えざる矛盾。
今捨てたるばかりのものを再び欲す。
彼は常に動揺し、その人生は絶えざる矛盾。
(ホラティウス)
我々の普通のゆき方は、身を機会の風の運ぶのに委せて、右に左に、上に下に、ただただ欲望の赴くところにこれ従うことである。我々が自分の欲する事柄を考えているのは、これを望んでいるその瞬間だけで、あとはまるで置かれた場所によってその身の色を変えるというあの動物のように変る。たった今企画したばかりのことを我々はじきに変える。そうかと思うと、すぐまたもとのことにもどる。要するにそれは動揺と不定にすぎないのである。
我々はあたかもあやつり人形の如く、外なる糸に操らる。
(ホラティウス)
我々は自分で行くのではない。運ばれてゆくのだ。まるで水に浮いた物のように、波が怒っているか静かであるかによって、或いは静かに或いは荒々しく。
(b)我らは見るにあらずや。
人はその欲するものの何なるやを知らざるに絶えず求めつつあるを。
何処にその重荷を卸さんかと、その場所を捜しつつあるを。
人はその欲するものの何なるやを知らざるに絶えず求めつつあるを。
何処にその重荷を卸さんかと、その場所を捜しつつあるを。
(ルクレティウス)
(a)われわれは日ごとにちがった思いをもち、我々の心持はお天気とともに変る。
人々の思いは変る。ユピテルが
彼らにふり注ぐその光線のごとく。
彼らにふり注ぐその光線のごとく。
(ホメロス)
(c)我々は相反するさまざまな意見の間に漂っている。我々は何一つ自由に・何一つ絶対的に・何一ついつも変らずに・意欲してはいない。
(a)頭の中にしっかりした規律と組織とをうちたてているらしい人においては、その全生涯を通じて、到るところに一様にして変らない思いと、もろもろの所業を貫く厳たる秩序と関連とが、光り輝いているのを我々は見るであろう。
(c)エンペドクレスは、アグリゲントゥムの住民の間に、彼らがある時はまるで明日は死ななければならないかのように快楽に耽るかと思うと、またある時はまるで永久に死ぬことがないかのように建設にいそしむという、矛盾を認めた。
(a)その説明*はきわめて容易である。例えば小カトーの場合がそうであるが、その
* 三行さかのぼり「光り輝いているのを我々は見るであろう」につづく。(c)の二行がこの連絡を不明にしている。このような場合はしばしばある。
* ローマの貴婦人、美貌貞淑、人の凌辱をうけ夫に復讐を頼んで自殺したと伝えらる。
** 病人は一度であきらめろ。健康者は二度あたって見ろ。色男なら三度まではよろしい。坊主は四、五遍口説かねばなるまい。六、七遍となると、普通の人間としては厚かましすぎる。それは驢馬ひきのすることだという恋の掟があるそうだ。cf. Villey: Les Sources des Essais. p.172. またマルグリット王妃の『ヘプタメロン』第二日の第二十話にも驢馬ひきの話が出てくる。
卑怯者をもふるい立たせん言葉をもちいて、
(ホラティウス)
彼を或る困難な事に当らせようとした。ところが、「誰か身ぐるみ剥がれた哀れな兵士をみつけてこれに当て給え」と彼は答えて、
無知なる男なりしかど、彼は答えき。
「その財布を奪われし者こそ、そこに行かんずらん」と。
「その財布を奪われし者こそ、そこに行かんずらん」と。
(ホラティウス)
断然、自らそこに行くことを拒絶した。
(c)或る本の中に、「マホメットが、その近衛の隊長であったシャサンがハンガリア人のためにその隊列を押し破られるのを黙って見ていたばかりか自ら戦いに臨んで卑怯の振舞をしたのを見て、口をきわめてこれを罵ったところ、彼シャサンは、それには一言も答えず、そのまま憤然として、ただ独り剣をふりかざして、おりから進み出でた敵のただ中に切りこんだきり、姿はたちまちに見えなくなった」と書いてあるのを読んだが、恐らくそれは申し開きではなくて気がわりであり、かれ性来の勇気ではなくて一時の腹立ちまぎれにすぎなかったろう。
(a)昨日まであんなに勇ましかったものが今日はこんなにまで腰抜けであるのを見ても、あやしんではいけない。怒りか、必要か、仲間か、酒か、或いはまたラッパの音かが、彼の腹のなかに勇気をふきこんだのであった。それは理性によって鍛えられた勇気ではない。今言ったようないろいろの情況によって固められた勇気である。あべこべの情況によってたちまちに別の物になりおわっても、いっこう不思議はないのである。
(c)こうした我々の間によく見られる矛盾変化はきわめてすらすらと行われるので、或る人々はあたかも我々に二つの霊魂があるかのように思い、また他の人々はあたかも二つの威力が我らにつきまとって、それぞれ思い思いに、一つは善に、もう一つは悪にと、我々を運んで行くかのように考える。こういう急激な変化は、とうていただ一つの主体には結びつかないからである。
(b)ただそのときの風の吹きまわしがその方向にわたしを動かすだけではない。わたし自らがまた自分の態度の不安定によってわたしを動かしわたしを乱している。注意して自分を見つめるものは、自分を二度と同じ状態の中に見出すことはない。わたしは自分の霊魂に、わたしがそれをどちらがわに向かせるかによって、或るときはある一つの表情を、或る時はもう一つの表情を与える。わたしが自分についていろいろに語るのは、自分をいろいろに見るからである。ちょっとした向きによって、ちょっとした恰好によって、さまざまの矛盾した姿がそこに見出される。恥ずかしげでまた厚かましい、(c)清らかでいてまた
(a)わたしはいつも良いことは良くいう主義であるけれども、そして良くありうることは良い方に解釈する主義であるけれども、それにしても我々の天性はじつに奇妙で、我々は不徳によって善行をさせられることさえしばしばある。もっとも善行だってただ意図からばかり判断されはしなかったのである。だから、勇ましい行為をしたからといって必ずしも勇敢な人物だとは言えない。ほんとうの勇者は、つねに、あらゆる機会において、勇者であろう。もしその徳行が常習的なものであるならば、単なる突発的なものでないならば、その人はすべての出来事に対していつも同じように落ちつき払っているであろう。独りのときも大勢のときも、道場においても戦場においても、変りはあるまい。まったく人は何と言おうとも、路上の勇と戦場の勇とは一つのもので二つのものではないのである。そのような勇士であれば、戦場で傷の痛みに堪えるように床の上でも病苦に堪えるであろう。死を家においても合戦においても一様に恐れないであろう。我々は同一の人間が、さきには勇敢に城壁の爆破孔におどりこみ、後には訴訟に敗れたとか息子が死んだとかいって女のように嘆き悲しむのを、見ることはないであろう。
(c)人が不名誉をおそれながら貧乏に対しては平気でいる時、髯剃たちの
* barbier は、髯剃兼理髪師である上に、かつては外科医をも兼ねていた。だから、ここに言う剃刀 rasoir は同時にメスでもある。Gnral Michaud の註によると、一七八九年まで、バルビエは傷の手当をしたものだという。
(b)アレクサンドロスほどの勇気は、その種のものとしては最大のもので、他に比類を見ない。だが、それはその一種類においてだけのことであって、いかなる場合にも充実した・普遍的な・ものであったとは言えない。(c)それはほんとうに比類のないものではあるけれど、やはりその
(a)我々の行為はいろいろなもののはぎ合せに過ぎない。(c)彼らは快楽を侮りつつも苦痛において弱く、光栄を蔑視しつつも誹謗の前に挫折す(キケロ)。(a)我々は嘘の旗印をかかげて*名誉を得ようとする。だが徳は、ただそれ自体のためにのみ追求されることを欲しているから、ときに他の動機から徳の仮面をかぶると、早速我々の面上からそれを剥ぎ取る。それは色鮮やかな強い染料であって、霊魂がひとたびこれにそまれば、その色は霊魂の一部を剥ぎとらぬかぎり抜けないのである。だから一人の人間を判断するには、長く丹念にその跡をつけなければならない。もしもそこに、恒常性が自らの基礎の上にたち、(c)熟慮してえらばれたる一筋の道の中に(キケロ)(a)がんばっているのでなければ、もしさまざまの事情が彼の歩調を(いや彼の道筋を、だって、歩調は変えたっていいのである。それは当然、早くなったり遅くなったりしてよいのである)、変えているならば、うっちゃっておくがよい。そんなやつは、わがトールボット**の格言にあるように、風に吹かれて消えうせるであろう。
* 「嘘の旗印をかかげて……」というのは、戦争の場合に友軍の旗を用いて敵をあざむき、卑怯な勝利をうる場合のイメージであって、あたかも宗教戦争のまっ最中で、年がら年中そうした勝ち負けばかり見ていたモンテーニュには、きわめて自然な比喩である。「名誉」というのもここでは当然「戦勝の名誉」功名手柄のことである。「徳」というのも、当時の慣用では、特に「力」「強さ」「我慢」「勇気」「武徳」をさしているので、このパラグラフは専ら乱世に処する人間の心構えについての思索である。
** Talbot. イギリスの大将。なぜ「わが」と記しているのか。この人がリモージュ人の末であるからか、それともこの人の人格がモンテーニュの理想にかなっているからか。
(c)またミレトス人の国を改革するために送られたパロス人の推測は、彼らが引出した結論の根拠とするには十分だとは思われない。彼らはかの島をおとずれるとすぐ、まず畠が良く耕され・農家が良く治められ・ている点に目をつけた。そしてそれらの家の主人の名を記録しておき、後に市中に市民の総会を招集するや、以上の家長たちを指名して、新しい行政官・裁判官・とした。よく家を治めるものは必ずよく国を治めるであろうと判断したのであった。
(a)我々はみなもろもろの断片からなっている。しかもその構造は甚だ雑然としてちぐはぐであるから、各断片は各瞬間ごとにそれぞれ思い思いのことをやる。だからある時の我々とまた別のある時の我々との間には、我々と他人との間におけるほどの相違が生じる。(c)思え、常に同一の人たることの甚だむつかしきことを(セネカ)。(a)野心は人々に勇気をも節制をも度量をも、いや正義をさえも、教えることができるのだから、そして貪欲は今までうす暗がりの中でなすこともなく暮してきた商家の手代の心の中に、運を波風と怒れる海神にまかせ、小舟に
(b)ウェヌスに導かれてうら若き乙女は、
ひそかに眠れる番人の間を通りぬけ、
ただ独り、闇夜を、愛人の許に急ぐ。
ひそかに眠れる番人の間を通りぬけ、
ただ独り、闇夜を、愛人の許に急ぐ。
(ティブルス)
(a)単に我々の外部にあらわれた動作だけから我々を判断するのは、冷静な分別ある人のなすべきことではない。必ずわれわれの内部まで深く探りを入れなければならない。そしてどのような動機でそれが動くのかを見なければならない。けれども、これは危険を伴う高尚な業であるから、これにたずさわる人々はもっと少数であってほしいと思う。
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この章も次の章も、初期のエッセーと考えられるが、最も初期(一五七一―七二)のものよりはやや遅れて書かれたのではないかと想像される。というのは、この章では既に第一巻第十四、十九、二十一章等に見られるストア的態度とは反対の、極めて人間的な哲学への転向が感じられるからである。
(a)この世は多様で相違したものばかりである。もろもろの不徳は、それらがすべて不徳である点においては、いずれも同じである。おそらくこういうふうに、ストア学者たちも考えているらしい。だがそれらの不徳も、なるほど等しく不徳であるかも知れないが、決して等しい不徳ではない。その限界を百歩越えた者が、
その向うにもそのこちらにも、正道の一線は見出されず、
(ホラティウス)
ただ十歩だけしか越えない者より、その性質がより悪くないとは、とうてい信じられないのである。神の物を
いな、理性はついに承服しえず。
隣人の畠より柔らかき玉菜を盗む罪と
夜深く神殿を荒す罪と相ひとしとは。
隣人の畠より柔らかき玉菜を盗む罪と
夜深く神殿を荒す罪と相ひとしとは。
(ホラティウス)
そこには確かに相違があるが、そのほかどんなことにだって相違はあるのだ。
(b)罪の種類と程度とを混同しては危険である。そうなった日には、人殺しや
(c)ソクラテスが「知恵の主要な務めは善悪を識別することにある」と言ったように、我々は(我々の中の最良の者すら不徳をまぬがれないのだから)、学問についても同じように、「もろもろの不徳を弁別するのがその主要な務めである」と言わなければならない。まったくこの識別が極めて正確に行われないかぎり、徳人と悪人とはまじり合って、いつまでもけじめがつかないのである。
(a)さて酩酊は、とりわけ粗暴野蛮な不徳の一つであるように思う。ほかの場合には、精神がより多く関与している。いや、こういうと少し語弊を伴うが、中には何かしら高尚なところのある不徳もある。知識の混入した不徳もあれば、勉強・勇気・慎重・熟練・精緻のまじった不徳もある。ところが酩酊にいたっては、全然肉体的下界的な不徳である。だから今日最も野蛮な国民はといえば、この不徳を尊重する国民*だけである。他のもろもろの不徳は悟性を変質させるのだが、この不徳にいたっては悟性をくつがえし(b)肉体を麻痺させる。
酒の力が我らの内に深くとおるとき、
腕は重く脚はよろめき舌はもつれ、
心は乱れ眼はうつろとなり、
その果ては叫喚、嘔吐、口論となる。
腕は重く脚はよろめき舌はもつれ、
心は乱れ眼はうつろとなり、
その果ては叫喚、嘔吐、口論となる。
(ルクレティウス)
* ドイツ人を指す。モンテーニュは『随想録』を通じて三度ドイツ人に言及しているが、常にその過飲、粗暴、残忍について語っている(一の二十六、二の二、および十一)。
(a)それでこのこと(酩酊)についてはいろいろなことが言われているが、特にこんなことを言ったものがある。「ちょうど樽の中の沸き立つぶどうの汁が、底にあるものをみな上に持ち上げるように、酒はむやみとこれを飲んだ男の腹の底から、そこに最も深くかくしている事柄を溢れ出させる」と。
(b)汝がうれしき酒こそ
賢者をしてその愁 いを忘れしめ
その秘めたる思いを吐露せしむ。
賢者をしてその
その秘めたる思いを吐露せしむ。
(ホラティウス)
(a)ヨセフス*は敵方から派遣された或る使節にうんと酒を飲ませ、とうとうそれに泥をはかせたことを物語っている。ところがアウグストゥスはトラキアを征服したルキウス・ピソにその知っている最大の秘密を漏らしたけれども、またティベリウスもコッススにその計画をすべて明かしたけれども、いずれも裏をかかれはしなかった。この二人は共に大酒のみで、しばしば酔いつぶれて元老院からかつがれて帰ったのであるが。
脈管はいつものごとく、
昨日飲みたる酒もてふくれいたりき。
昨日飲みたる酒もてふくれいたりき。
(ウェルギリウス)
(c)また或る人が、水ばかり飲んでいたカシウスに対してと同じように、あのキンベルにも(この人はよく酔っぱらったけれども)、カエサル殺害の企てを打ちあけたところ、キンベルは上機嫌で、「よし来た。おれは酒には降参するが、暴君には降参しないぞ」と返答した。(a)我々もわが国にいるドイツ人たち**が酒に酔っぱらって、その出身地や言葉や身分などをさらけ出すのをよく見かける。
(b)彼らは食べ酔いて、よろめけども、吃れども、
彼らを打ちまかすは容易にあらず。
彼らを打ちまかすは容易にあらず。
(ユウェナリス)
* Flavius Josephus(ou Flave Josephe). ギリシアの歴史家(紀元三七年生)。Guerre des Juifs, Antiquits Judaiques, Autobiographie 等の著がある。特にその自叙伝がモンテーニュの興味をひいたのだろうと思われるが、果してそうかどうかは確証がない。
** 宗教戦争の際、フランスに入りこんだ外国傭兵中、ドイツ人の数は相当多数であった。彼らはプロテスタント側の軍隊の中に沢山まじっていた。
またわたしは、日頃非常に尊敬している或る婦人からこんな話も聞いた。ボルドーにほど近い、ちょうどその婦人の家のあるカストルのほとりに、一人の後家の百姓女が住んでいた。それは身持がよいので評判の女であったが、ふと妊娠のきざしを感じたので、近所の女たちに向って、「あたしはこの節まるで妊娠でもしたようよ。亭主もいないのにねえ」と言った。ところが日に日にそうした疑念をおこす機会は増すばかりで、いよいよ疑う余地もなくなったので、とうとうお寺の坊さんに打ちあけ、誰でもいい正直にそのことを認めるならば、自分はこれをゆるすばかりでなく、もしよかったらその男と結婚してもよいと言った。彼女の家の若い作男は、これをきくなりにわかに力を得て、自分こそ或る祭の日、おかみさんが酒をしたたかに飲んで、炉辺にぐっすりとしどけない姿で寝こんでいるのを見て、そっと彼女の目を覚まさずに思いをとげたのだと白状した。
二人は今でも一緒に暮している。
(a)古人がこの酩酊という不徳をさほどに激しく非難しなかったことは確かである。多くの哲学者たちの著作さえ、これについて語るところは甚だ寛大である。ストア学者までがそうで、中には「時々は禁をやぶってうんと飲むがよい。酔って心をゆるめるがよい」などと勧めているものさえある。
(b)聞くならく、この崇高なる戦いにおいてもまた、その昔、
かのソクラテスは棕櫚の葉をかちえたりという。
かのソクラテスは棕櫚の葉をかちえたりという。
(プセウド・ガルス)
(c)人を検察し懲戒するのがお役目のあの(a)カトーも、飲みすぎるといって非難された。
(b)人はまた語りき。大カトーもまた、
その力を強めんために酒を用いたりと。
その力を強めんために酒を用いたりと。
(ホラティウス)
(a)キュロスはあれほど評判の高い王様であったが、自分が弟のアルタクセルクセスよりも人に好かれるのは他でもない。自分の方が遙かによく飲むことを知っているからだと申された。また、最もよく統治されている国々においても、この酒の飲みくらべは大いに行われた。わたしはパリの名医シルウィウス*が話すのを聞いたことがあるが、我々の胃の働きがだれないようにするには、月に一回ずつこの飲みすぎによって胃の腑を目ざまし、これが麻痺しないように刺激するのがよいそうだ。
* 当時高名な医学者。一五五〇年、コレージュ・ロワイヤルの教授となる。モンテーニュはパリ遊学時代にこの人の講義をきいた。拙著『モンテーニュとその時代』第二部第三章一八八頁参照。
(a)わたしの嗜好と体質とは、わたしの理性以上にこの不徳の敵である。まったくわたしは、とかく自分の所信を古代諸家の説の権威に従わせがちであるばかりでなく、本心からこの不徳を卑しい愚かなものと思っているが、でもこれを、他のいろいろな不徳に較べてみると、まだまだ罪の少ない無害なものだと思っているのである。他の不徳はほとんどみな、もっと直接に一般社会を害しているからである。それに人のいうように、我々は何かを犠牲にしなければ快楽をうることはできないのだとすれば、この酔っぱらいなどというものは、他の不徳にくらべれば我々の良心を損うことが少ない方だと思うし、またこの楽しみにひたるには特別むつかしい準備もいらないのである。こういう考えも、決してばかにすべきではないと思う。
(c)お位も高くお年も召されたさるお方は、ある時わたしに向って、年をとった今もなお自分にのこっている楽しみは三つあると仰せられ、その中の一つに、このお酒の楽しみを数えられた。けれどもその方の楽しまれようは間違っていた。お酒についてのああいうむつかしい好みややかましい選択などは、やめなければならない。もしも君の楽しみをただうまく飲むことにおくならば、君は時々まずく飲む悲しみにあわないわけにゆくまい。もっと鈍い・もっとゆるやかな・味覚をもたなければならない。愉快な飲み手であるためには、そんなに敏感な舌を持ってはならない。ドイツ人はどんな酒でも、ほとんど同じように喜んで飲む。彼らの目的は、味わうことにはなくてただ飲むことにある。彼らの方がずっと安あがりでよい。彼らの快楽はずっと豊富でしかもずっと手近にある。また、フランス流に二度の食事の時だけ、控え目に健康を気にしておそるおそる飲むのでは、余りに神の恵みを局限することになる。もっとしばしばもっと時間をかけて飲まねばならない。古人はこのことに夜々を徹し、またしばしばこれに日々を加えた。だから我々は、もっと幅ひろいもっと強い飲み方に慣れるべきだ。わたしはこんな人を見たことがある。それはわたしが若い頃お目にかかった大貴族で、気宇宏大な・目ざましい手がらをおたてになった・お方であるが、難なく、日常の食事の間に、まず五ロット*を下らないお酒を召しあがった。しかもそのテーブルを離れる時には、いよいよ頭脳明敏になっておられたから、我々の持説はまったく顔色なしだった。快楽は我々が一生を通じて最も大事にしたく思うものであるから、それにはもっと多くの時間をささげてしかるべきである。よろしく商家の手代や職人たちのように、酒を飲むいかなる機会をものがさないように、この欲望をいつも心のうちにいだくように、しなければならない。我々は日ごとに飲食の楽しみを縮小してゆくように思われるが、我々の家においても、わたしの少年時代を思い出して見ると、昔は朝食や間食や夜食が今日よりはずっとしばしば、ずっと日常普通になされたように思う。これは我々がいくらかでも改善改悛に向っているからであろうか。いや、どういたしまして。むしろ我々は、我々の父たちよりもより一そう淫蕩の方に走るからである。この飲酒と淫蕩の二つは、それぞれ力をつくして妨げあっている。一方漁色が我々の胃を弱めると、一方粗食が我々を恋の営みに対してますます巧者にますます柔弱にするのである。
* 五ロットは今日の二十リットルに当る。
* ラテン語の書籍に対して近代語の書物を総称して俗書と言った。
** アントニオ・ド・ゲヴァラ(Antonio de Guevara, ou Antoine de Guevare)の著 Livre dor de Marc Aurle のこと。マルクス・アウレリウス皇帝の史実にもとづく歴史小説。
*** これは現在残っていない。
* 「本題にかえろう」の意味、我々の「閑話休題」にあたる。中世フランスの笑劇『代言人パトラン』Avocat Pathelin の中で、「我々の羊にかえろう」とあるのをもじったもの。ここではラシャの話ではなくて酔っぱらいの話であるから、「我々の徳利」と言ったのである。
(b)けれども、どうして人は飲む楽しみを渇きがとまった後までも延ばそうとするのか、どうして人為的で自然に反する欲望を想像の中に
プラトンは少年たちに十八歳までは酒を用いることを禁じ、また四十歳までは酔うことを禁じた。けれども四十を越えた者には、宜しくこれを楽しむべし、汝らの饗宴に大いにディオニュシオスの感化をみなぎらすべし、と命じた(まったくこのディオニュシオスこそは、壮年の男に陽気さを与え・老人に若さをよみがえらせ・あたかも火が鉄をとろかすように人間さまざまの煩悩を柔らげる・よき神なのである)。そしてその法律の中では、そういう酒を飲む集まりを(ただそこに人々を抑制し規正する一座の頭さえあるなら)、有益なものと認めている。酔いは人々の本性を試験するのに最もよい確実な方法であるとともに、年齢のすすんだ人々に舞踏と音楽を楽しむ元気を与えるのに適しているからであるが、この舞踏と音楽とはいくら有益なものであっても、年をとった人にはしらふではなかなかやる気になれないのである。また、酒は霊魂には中庸を・肉体には健康を・与えるとも言っている。だが、一部分カルタゴ人から借りた次のような制限も、また彼の意にかなった。すなわち、「遠征においてはこれを節せよ。司法官行政官はその職を行い公務をとるに際してこれを慎しめ。昼間を飲酒に費やしてはいけない。昼間は他のもろもろの業に捧げらるべきものである。子供を作ろうとする晩もまた酒を用いてはならない」というのである。
伝えるところによれば、哲学者スティルポンは老いの重荷に堪えかね、生のままの酒を飲んでわざと終りを急いだという。同様の原因が(ただしこれはその人自らの意図によるものではなかったが)、哲学者アルケシラウスの老い衰えた力をおし殺した。
(a)だが(これは古くからの面白い問題だが)、果して賢者の霊魂ともあろうものが、酒の力に降参するものだろうか。
酒は鍛え上げたる知恵を打ち負かすや*。
(ホラティウス)
* モンテーニュはこの句に、否、打ち負かさずという反語的意味をもたせて、次に「このように余りにも自分を買いかぶるから……」Cette bonne opinion que nous avons de nous とつづける。
(b)故に我ら恐ろしき時は、
全身蒼白となり冷汗をかき、
舌はもつれ声はつまり眼はくらみ耳はなり、
手足は力を失いてついに倒るるなり。
全身蒼白となり冷汗をかき、
舌はもつれ声はつまり眼はくらみ耳はなり、
手足は力を失いてついに倒るるなり。
(ルクレティウス)
(a)人間は不意をつかれれば、目をしばたたかずにはいられない。絶壁のほとりに立てば、(c)まるで少年のように(a)震えずにはいられない。(c)自然は我々の理性もストア的徳性もどうにもしようのない・それによって自然自らの権威を示すことができる・こうした軽微な徴候を取っておいて、人間にその死すべき運命と、その弱さとを教えたかったのだ。(a)人はこわくなればあおくなり、恥ずかしければ赤くなる。激しい疝痛にしめつけられれば泣く。絶望の叫びによってではなくても、少なくとも力なくかすれた声でもって泣く。
人間界のことは一つとして彼に無関係にあらざるなり*。
(テレンティウス)
詩人たちは(c)万事を思いのままに造り上げるが、(a)さすがに涙だけはその英雄から取り上げずにいる。
かく、彼は涙ながらに物語りて、
ともづなをとき船出せり。
ともづなをとき船出せり。
(ウェルギリウス)
人間はそのもろもろの傾向を抑制するだけでせい一杯である。まったく、それらをとり除くなどということは出来ないことなのである。人間の行為についての優れた申分のない審判者であった我々のプルタルコスでさえ、ブルートゥスとトルクワトゥスとが自分の子供たちを殺すのを見たとき**には、「徳性は果してそこまで及びうるものであろうか。ことによるとこれらの人物は、むしろ何かほかの情念のために動かされていたのではあるまいか」と疑った。すべての行為は普通の限界を越えると、とかく忌わしい解釈をこうむりがちである。なぜなら、我々の感覚は、それより上のものにも、それより下のものにも、適しないからである。
* このテレンティウスの句の本来の意味は、わたしは人間である。だから人間に関することは、一つとしてわたしにはよそごとでないというのであるが、モンテーニュはここで、「人間は人間界の吉凶禍福、すべての出来ごとの影響を受ける」という意味に取っているのである。モンテーニュはよく古人の句をその原意によらず、このようにもじって自分の意味をもたせて引用することがしばしばあった。『随想録』第一巻第二十六章の中で自らそのように告白している。二三二頁終りから六行目参照。
** 前者は自分の二人の息子が国法を犯したので極刑に処し、後者は息子が自分の命にそむいて敵と戦ったと言ってこれを殺した。
彼はかの弱き獣を侮りて、われから、
猛き猪と獅子との山より出で来らんことを祈れり。
猛き猪と獅子との山より出で来らんことを祈れり。
(ウェルギリウス)
誰が、これらを、心がその常の宿りからはみ出たためと、判断しないだろうか。我々の霊魂はその常の席にあるかぎり、とうていこのような高い所に達することはできない。我々の霊魂はその席を離れて高くあがらねばならない。霊魂は興奮してその人を、後で彼自ら自分のしわざに仰天するほどに遠いところに、つれ去らねばならない。戦場での手柄もそうである。戦闘の白熱は、しばしば勇敢な兵士たちに極めて危険な瀬戸を越えさせる。彼らはふとわれに帰ると、自分が真先に仰天するのである。詩人たちも同様である。彼らは往々にして自分自身の著作に驚嘆する。そして、どこを通って自分がそんなに高いところに上りえたかをわきまえないのである。これまた人が詩人たちの間の狂熱とよびなすものである。そこでプラトンが「冷静な人間は詩の門扉をたたいても無駄だ」と言うと、アリストテレスの方でも「優秀な霊魂で狂気の混入を免れたものはない」と言っている。いやすべての飛躍は、いかにほめるべきものであっても、我々特有の判断理性を超過しているかぎり、それを狂気と呼ぶのが当然である。なぜならば、知恵とは我々の霊魂を整然と操作することであり、それを節度均衡をもって導き、かつそれについて責任を負うことであるからだ。
* ストア学派。
** エピクロス学派。
*** この句はメトロドロスが自己の論文中に引いたキケロの句であるが、モンテーニュはこれをメトロドロスの句と思っているのである。
**** 前出フラウィウス・ヨセフスの著『マカバイオス論』Trait des Macchabes 第八章を、すこぶる自由にパラフレーズしている。マカバイオス〔マカベ〕はアンティオコス王の時、モーゼの法を守りとおして暴君の迫害を蒙った七人兄弟の名。旧約外典「マカベ後書」参照。
***** モンテーニュは、このアンティステネスの語をまず自らフランス訳してかかげ、次に((c)アンティステネスの語)と註した後、ギリシア語原文を付加している。訳書ではわざとその重複をさけた。
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ケア島 l’le de Ca またはケオス島 Cos というのはエーゲ海の中の島である。モンテーニュは、何か大胆なカトリックの教義にふれるような問題を論じる時には、いつも章の冒頭か最初の数頁の中にいかにも敬虔な章句を書きつけるのであるが(一の五十七、三の二等参照)、この章ではもっぱら自殺の是非を考え、やがて自殺を肯定するに先んじて、どうやら公平な科学的アンケートみたいなものを並べている。ルソーはこの章の中から自殺に対する是非の論拠をいろいろと借用している。『新エロイーズ』二の一、二参照。
(a)もし世間の人が言うように哲学するとは疑うことであるとすれば、わたしのようによしなきことを詮索したり気まぐれな思いに耽ったりするのは、なおさら疑うことであると言えよう。まったく質問をしたり議論をしたりすることは生徒がすることで、解決するのは先生のお役目なのである。わたしの先生とは、有無をいわせずに我々を支配し・人間どもの空虚な論争の上に位する・あの権威ある神意である。
フィリッポスが兵をひきいてペロポンネソスに入った時のことである。或る人がダミダスに向って、「ラケダイモン人は、かれフィリッポスの前に許しを乞わないかぎり、おそらくつらい目にあわねばなるまい」と言ったところ、「臆病者よ」とダミダスは答えた。「死をすら少しも恐れぬ者どもにとって、何が一体つらいことでありえよう」と。また或る人がアギスに向って、「どうしたら人は自由に生きることができるか」ときいたところ、「ただ死を無視しさえすればいいのさ」と答えた。この二つの答えおよび幾多のこれに類する言葉は、いずれもみな、「ただ死が我々にやって来るときには我慢してこれを待て」と教えているだけではない。何かそれ以上の意味をもっていることは明らかである。まったくこの世には、死その物よりももっと堪え難い出来事が沢山あるのである。例えばアンティゴノスに捕えられて奴隷に売られたラケダイモンの少年を見るがいい。主人から何か卑しい勤めを強いられるや、「やがてお前は、誰を買ったかを思い知るであろう。自由をこんなにも手近に持ちながら、奴隷になるのはこの身の恥だ」と言うかと思うと、高い窓から身を投げた。アンティパトロスがラケダイモンの人たちを、何か自分の要求に従わせようとしてきびしく威嚇すると、彼らは、「死よりもさらに辛いことをもって我々を威嚇するならば、我々はもっと喜んで死ぬであろう」と答えた。(c)またフィリッポスが彼らに向って、お前たちのすべての企てを妨げるつもりだと書き送ると、彼らは答えて、「何だと? 我々の死までも妨げるつもりか」と言った。(a)それは、「賢者は生きねばならないだけ生きる。生きられるだけ生きはしない」という意味である。「自然から我々が受けた最も有難い賜物、おかげで我々がどんな場合にも人間の境遇に不平を言わないですむその賜物は、いやになったらいつでも勝手にこの世を退出できることだ」という意味である。自然は人生への入口を唯一つしか指定しなかったが、出口の方は幾千となくこれを教えた。(b)我々は生きるべき場所を持たない場合はあり得るが、死ぬべき場所にこと欠くことは決してない。それはボイオカトゥスがローマ人に答えたとおりである。
(a)なぜ君はこの世について不平をいうのか。この世は君を引きとめはしない。苦しみながら生きているのは君自らの卑怯のせいだ。死ぬにはただそうと心をきめさえすればよいのである。
死はいたる処にあり。賢き神がかく欲し給いたれば。
人より生命を奪い得る人はあまたあれど、
なんぴとも人より死を奪うこと能わず。
死にいたる道は千すじあればなり。
人より生命を奪い得る人はあまたあれど、
なんぴとも人より死を奪うこと能わず。
死にいたる道は千すじあればなり。
(セネカ)
しかもそれは何か一つの病にだけきく薬ではない。死はすべての苦痛に対する万能薬である。それは甚だ安全な港であって、決してこわがられるようなものではない。いや、しばしばさがし求められるものである。自ら結末をつけても、これをつけてもらっても、自分からその日を走り迎えても、またその自然に来るのを待っても、どっちでも同じことである。その日はどこから来たって、それはやはりその日である。糸はどこできれようと、それはそこで完成したのだ。そこが糸の端なのだ。最も自ら欲した死こそ、最も美しい死である。生は他者の意志による。死は我々自身の意志による。他のいかなる場合においてよりも、死に臨んでこそ、最も我々自らの意志に従わねばならない。評判なんか、このような企てに関係はない。そんなことを念頭におくのは愚の骨頂である。もし我々に死の自由がないならば、生きるということはむしろ屈従である。治療は普通、生命をけずりけずり行われる。切る。やく。四肢を切断する。食物を吐かせる。血液をとる。そこをもう一歩ゆくと、完全になおっている。腕の静脈を刺させるくらいなら、なぜ同じように頸動脈をきらせないのか。ひどい病気になればなるほど荒療治がいる。文法家セルウィウスは持病の痛風に対して、毒を用いてその脚を殺す以上によい考えを知らなかった。(c)脚よ、いくらでも痛風でいるがよい。痛くさえなければ! (a)いよいよ生が死よりも辛くなるようなその時は、神様がちゃんと我々に
(c)苦しみ悩みに降参するのは弱虫だが、それらを飼っておくのは馬鹿である。
ストア学者は言っている。「なお幸福の只中にありながら、よい潮時に人生に別れを告げるのが、賢者から見れば、自然にかなった生き方なのである。愚者にとっては、みじめな有様になり果てながら、世間の人々が自然にかなっているという状態の中にある限り人生にしがみついているのが、自然にかなった生き方なのである」と。
わたしがわたしのものを持ち去るとき、自分で自分の巾着をちょん切るとき、わたしは窃盗取締令をみだすことにはなるまい。自分の森に火をつけても放火犯人にされる心配はあるまい。それと同じことで、わたしは自分で自分の命を奪っても、人殺しの罪には問われないのである。
ヘゲシアスは言った。生き方と同じこと、死に方もまた、我々の選択によるべきものだと。
またディオゲネスは、永いこと水腫病になやんでいる哲学者のスペウシッポスが
ほんとうに、それから間もなくスペウシッポスは、そういう苦しい生き方がいやになって自殺をした。
(a)この説に対しては異議が出ずにはすまない。まったく多くの人たちはこう信じているのである。「我々はこの世の宿りを、我々をここに入れたものの特命がない限り捨てることはできない。いや、神様は我々をここに、ただ我々のためばかりでなく御自らの栄光と他人への奉仕とのために送ったのであるから、神様の方からこそおいとまは出るのである。我々の方から勝手にひまをとるべきではない。(c)我々は我々のために生れたのではなくて、我々の国のために生れたのである。だから法律は我々に対して損害賠償を求め、我々を殺人の罪に問う。(a)でなければ、自らの職責をないがしろにするものとして、我々はこの世でもあの世でも罰せられる」と。
見よ、かしこに悲しげにうずくまれる人々を。
そは罪なきに、われと己れの身を殺し、
光をいといて、自らその心を地獄に投げ入れたるなり。
そは罪なきに、われと己れの身を殺し、
光をいといて、自らその心を地獄に投げ入れたるなり。
(ウェルギリウス)
我々をつないでいる鎖を断ち切るよりはこれをこすり切る方に、はるかに多くの我慢がいる。カトーよりもレグルスの方が、より多くの意志の堅さを示している。我々の歩みをいそがすのは無分別であり気短かである。勢いのよい勇気は、どんな出来事に対しても背を向けはしない。苦難や苦痛をその食物として求める。暴君の威嚇や拷問責苦やまた獄卒こそ、かえって勇気をかきたてる。
あたかもアルギズスの暗き森の中なる樫の樹のごとし。
人はむざんにも斧をふるってこれを斬る。
されど、斬り傷つけらるる度ごとにそれは、
かえって新たな力を養いてゆく。
人はむざんにも斧をふるってこれを斬る。
されど、斬り傷つけらるる度ごとにそれは、
かえって新たな力を養いてゆく。
(ホラティウス)
また或る人が言ったとおりである。
勇気とは、父よ、君思い給うが如く、
決して生を恐れることにはあらで、
敵に向いて背を見せざることなり。
決して生を恐れることにはあらで、
敵に向いて背を見せざることなり。
(セネカ)
逆境にありて死をあなどるは易し。
静かにその不幸を堪え忍ぶものこそ更に強し。
静かにその不幸を堪え忍ぶものこそ更に強し。
(マルティアリス)
頑丈なお墓の下の穴のなかに逃げこんで運命の攻撃を避けるのは、卑怯がさせる業であって決して勇気がすることではない。徳はどんな暴風雨に出あっても、決してその道をすてず、その歩みを止めない。
天柱砕けおちて勇気をうつとも、
かれはすこしもそれを恐れざるべし。
かれはすこしもそれを恐れざるべし。
(ホラティウス)
最も普通には、他のいろいろな不運を避けようとして我々は死へとさそわれる。いや、ときには死を避けようとして死に赴く。
(c)敢えて問う、死をおそるるがために死するとは愚かならずや。
(マルティアリス)
(a)例えば、絶壁の恐ろしさに自分からそこに飛びこむものもあるではないか。
将来の不幸の恐ろしさに多くの人々は、
最も大いなる危険にその身を投じたり。
真に勇猛なる人は危険に遭遇すれば、
これに挑みかかることをうるのみならず、
能う時はこれを避けることをも知るものなり。
最も大いなる危険にその身を投じたり。
真に勇猛なる人は危険に遭遇すれば、
これに挑みかかることをうるのみならず、
能う時はこれを避けることをも知るものなり。
(ルカヌス)
死の恐怖はついに人々をして
生命と光明とを厭 わしむ。
すなわち彼らは、絶望の余りわれから死に赴く。
しかも、絶望の原因が、その死の恐怖にあるを悟らず。
生命と光明とを
すなわち彼らは、絶望の余りわれから死に赴く。
しかも、絶望の原因が、その死の恐怖にあるを悟らず。
(ルクレティウス)
(c)プラトンはその『法律』の中で、公の裁判に強制されたのでもなく、運命が課する何かの悲惨な避けようのない出来事のためでもなく、また堪えがたい恥辱のためでもなく、ただ意気地のない・びくびくした・よわい心をもっているばかりに、その最も近く最も親しい友すなわち自己から、あらかじめ定められた生命の流れを取上げた者には、よろしく屈辱的な墓を与えるべきだと説いている。(a)また、人生を蔑視する説もわらうべきである。だって結局、それが我々の存在であり、我々のすべてではないか。もっと高貴なもっと豊富な存在を持っているものは我々の存在をけなすのもよいが、我々が我々自らを蔑視し我々自らをおろそかにするのは自然に反している。自ら憎み自らさげすむのは、人間にだけあって他の生物には見られない一種独特の病である。我々が本来あるところのものとは別のものになろうと願うのも、また空なる夢である。そのようなことを欲望しても、とうてい我々はそこまで手がとどかない。そういう欲望は、それ自体が矛盾し撞着しているからだ。人間の身で天使になりたいと願うものは、よしなりえたところで自分のために何の得もしない。そのために少しもえらくはならない。だって、自分がいなくなってしまったら、いったい誰がこの改善を喜ぶのか。感じるのか。
(b)まことに、彼の上に不幸が到来せんためには、
まず彼がその時なお生きてあるを要す。
まず彼がその時なお生きてあるを要す。
(ルクレティウス)
(a)安全・無痛・無感覚・現世の苦悩の消滅などを、死という値段で買いとってみたところで、それらは我々に何らの喜びももたらさない。もはや平和を享楽することのできないものは、戦争を避けてもむだである。安息を味わうだけの力のない者は、苦悩をさけたって何にもならない。
第一の〔自殺肯定〕説に賛成する人々の間でも、次の点については大きな疑問があった。すなわち、「一体いかなる機会をもって、人が自殺の決心をするのに十分正当なものと見なすか。どんなのを彼らのいわゆる道理ある退出(ディオゲネス・ラエルティオス)とするか」ということであった。まったく彼らは、「我々は大して強い原因によってこの世に結びつけられているのではないから、しばしば微々たる原因のためにも死ななければならないのだ」と言っているけれども、それにしても何かの尺度がなければならないのである。実際気まぐれな筋のとおらない心持もあるもので、それが単に個々の人間のみならず、国民全体を自殺させたことさえあるのである。わたしはさきに*これに関する実例をいろいろ挙げたが、なおその他に、我々はミレトスの乙女たちについて次のような物語を知っている。彼女たちは一斉に気がふれて、われがちに首をくくって死んだ。それでとうとう役人は、「今後そのように首をくくる女があったら、これを丸裸にし、首なるその紐をとって、市中をひきまわせ」と命じ、やっとのことでこのおそろしい流行をとどめたということである。テリュキオンがクレオメネスに向って、「今や戦局は君のためによくないから自殺しなさい。このまえ戦争にやぶれたときに、君は最も名誉ある死を避けたのであるから、こんどこそはその次に名誉あるこの死をとり逃してはいけない。決して勝者のためにあさましい死や生を強いられないようにせよ」と説いたところ、クレオメネスはスパルタ的ストア的な心意気をもって、かえってその忠告こそ卑怯な女々しいものとしてしりぞけ、「そんなことは、しようと思えばいつでもできることだ。ほんのちょっぴりでも希望が残っている限り自殺などすべきではない。生きることの方が時には忍耐であり勇気である。わたしは自分の死さえが国のために役立つように、それがあくまで名誉と徳との行為であるようにと望む」と言った。テリュキオンはその場で自己の所信をつらぬいて自殺した。クレオメネスも後には同じく自殺をとげたけれども、それは運命を最後の一点まで試みつくしてからのことであった。すべての不幸が死んでまで避けたいほどの代物ではないのである。
* 第一巻第十四章。
(b)剣士は敗れて砂上にたおるるもなお生を希望す。
群衆が敵意をこめたる親指もて彼をおびやかすとも。
群衆が敵意をこめたる親指もて彼をおびやかすとも。
(ペンタディウス)
(a)古い諺に「人間は生きている限り万事に希望をもってよい」とある。「成程そうだが」とセネカはこれに答えている。「どうしてわたしは、『運命は生きている人のためにどんな事でもすることができる』ということの方を考えて、『運命は死ぬことを知るものの上には何事もなしえない』ということを考えないでいられようか」と。御承知のとおりヨセフス*は全民衆にそむかれて、きわめて明白なしかもきわめて切迫した危険におちいった。どう考えてもそこにはいかなる方策もありようがなかった。けれどもこの瀬戸ぎわに、自ら言うところによれば、友の一人から自決を勧められたのであるが、なお希望をすてなかったことが大変彼に幸いした。まったく運命はあらゆる人間の理性を越えて情況を一変させ、彼につつがなくその難をのがれえさせたのである。ところがカッシウスも、ブルートゥスも、まだその時がこないのに早まって自殺したばかりに、あたら、彼らがそれまで守って来たローマの自由の最後の一片を失った。(c)わたしは兎が一ぺん犬の歯にかまれながら、ついにのがれて走り去るのを幾度も見た。或る時は刑吏先立ちて罪人生きながらえたり(セネカ)。
* 前出、ヨセフス。二の二、四一九頁の註*および四二七頁の註****参照。この物語は彼の『自叙伝』の中にある。
(b)往々にしていとも気紛れなる「時」の手が
こわれはてたる定命を縫い繕いたり。
往々にして運命はそのかつて倒したる人たちを
再びたすけ起して安らかなる所に連れ行けり。
こわれはてたる定命を縫い繕いたり。
往々にして運命はそのかつて倒したる人たちを
再びたすけ起して安らかなる所に連れ行けり。
(ウェルギリウス)
(a)プリニウスは言った。「人が自殺によって避ける権利のある病気はただ三種しかない。その中で一番苦しいのは
* モンテーニュが一五七七年四十四歳の時にはじめてこの病気の初兆を感じてから一生苦しい思いをしたことは、第二巻第三十七章の解説や註に述べるとおりであるが、ここに彼の自殺肯定ないし賛美が、専らこの病気と乱世の苦労とから生れたことがよくわかる。この病気については白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」の中の諸註、およびその索引「モンテーニュの病気」の項によって参照せられたい。旅に出た頃はモンテーニュもかなりこの病気になれて来ているが、旅中しばしばきわめて丹念に自己の病状を記録している。
アンティノオスとテオドトスとは彼らの都エペイロスがローマ人のためにいよいよ危殆に瀕したとき、人民に向ってみな一せいに自殺しようではないかと勧めた。けれども降伏しようとの意見の方が強かったので、彼ら二人は身を挺して敵陣におどり込み、捨身になってひたすら敵を切りまくりながら死んだ。ゴゾ島が数年前トルコ人に襲われたとき、一人のシチリア人は嫁入り前の二人の美しい娘をもっていたが、自ら手を下してまずその二人を殺し、ついで娘たちの死をきいて駈けつけた母をも殺した。それから
(a)ユダヤの女たちはその子供たちに割礼を施してから、アンティオコスの残酷を避けて子供たちもろとも谷に身を投げた。わたしは或る人からこんな話もきいた。ある身分のある人が牢獄につながれた時のこと、近親の人たちは彼が必ず死刑になるであろうことを聞き、そのような死の恥辱を避けさせようと、彼の許に一人の僧を遣わして次のように言わせた。「あなたが解放される最上の方法は、これこれの聖人にこれこれの願をおかけになることです。そして八日の間、どんなに身体が疲れ衰えても、まったく食をお絶ちなさい」と。その人はそれを信じて、はからずも自分の生命と危険とから解放された。スクリボニアはその甥リボに、処刑を待つよりはむしろ自分から死ぬ方がよいとすすめ、彼に告げて言った。「自分の生命を保存しておいて三、四日の後にこれを取りに来る者どもの手に渡すのは、わざわざ他人に花をもたせるようなものだ。自分の血をとっておいてこれを敵に御馳走するのは、結局敵に仕えることである」と。
聖書*の中にはこんな話がある。神の掟に従うものを迫害したあのニカノールは、その徳のためにユダヤ人の父とたたえられた善良な老人ラシアスを捕えようと、これに壮士たちを送った。この善良な人は、既にその鉄扉をやかれ、敵が彼を捕えようと近く迫り、もはやどうにもしようがないと悟るや、
* 旧約外典「マカベ後書」第十四章。
(a)現代の博学な一人の著作家*、しかもパリの一著作家が、今日の婦人たちに向って、そのような絶望的な恐ろしい決心をとるよりはむしろ別の方法をとるようにと説いてくれたことは、おそらく将来我々の名誉となるであろう。ただ残念に思うことは、彼が思いきってその物語の中に、わたしがかつてトゥールーズにおいて数人の兵士に
* Henri Estienne: Apologie pour Hrodote にこの説が述べられているらしい。
** キリスト教では、性交を淫縦の罪といって七大罪の一つに数えている。だがこの婦人は遭難によって性感をえたのであるから、罪を犯したことにはならないと考えたので、モンテーニュも、つまらぬことを苦に病んで自殺などするよりは、この婦人のさばけた考え方を見習うがよいと言っているのである。――なおモンテーニュが常に婦人の味方であったことは至るところにあらわれているが、特に第三巻第五章「ウェルギリウスの詩句について」には彼の恋愛、性愛ないし婦人の貞操等の諸問題が深い愛情をもって語られている。ここに「おそらく将来我々の名誉となることであろう」と「パリの一著作家」について書いているが、彼モンテーニュもまた、キリスト教の封建的貞操観から婦人の立場を擁護した最初の一人として後世から感謝されてよいであろう。
* 「やさしき笑みに伴うやさしき nenny こそいかに女らしいことか」という意味を、詩人クレマン・マロ Marot が歌っているのを指す。― Undoulx nenny, avec un doulx sourire, Est tant honneste! il vous fault apprendre. ― Marot: De ouy et nenny.
(b)ルキウス・アルンティウスは、彼の言いぐさによると、未来と過去とを避けるために自殺した。
(c)グラニウス・シルウァヌスとスタティウス・プロクシムスとは、ネロにゆるされてから後に自殺した。あんな悪虐無道な人間のお慈悲で生きたくなかったからか。それとも、またもう一ぺん赦免を乞うために苦労したくなかったからか。というのはネロは疑いぶかい男で、よく正しい人々に対する
女王トミュリスの息子スパルガピゼスは、キュロスのために捕虜となったが、キュロスからその縄を解いてもらうと、さっそく有難やとばかり自殺してしまった。つまりその与えられた自由を、縄目にかかったという恥をそそぐよりほかに用いたいとは思わなかったのである。
王クセルクセスに代ってエイオンの太守であったボゲスは、キモンの率いるアテナイの軍勢に囲まれたとき、自分のものは少しも取り上げられず安全にアジアに帰ることのできる講和を拒絶した。主君からおあずかりした数多の兵卒よりも生きながらえることに堪えられなかったからである。そして最後までその城を守った末、いよいよ食べるものもなくなると、まず第一に、金をはじめ敵の分捕品になりそうなあらゆるものをストリュモン河に投げこんだ。それから薪をうず高くつませこれに火をつけ、妻や子や妾や下僕たちを一人一人首をしめてはその上に投じ、最後に自分もまたそこに飛びこんで死んだ。
インドの大名ニナチエトゥエンは、ポルトガルの太守が何の理由もなく彼がマラッカにおいて有する職権を奪い、これをカンパルの王に与えようと決意したことを、ふと風の便りに聞き及ぶと、ひそかに次のような決心をした。彼は円柱をたくさんたてた上に幅狭く奥行の深い桟敷をしつらえ、さまざまな花や
(b)スカウルスの妻セクスティリアとラベオの妻パクセアとは、いずれもその夫に、その身にせまる危険を避けるようすすめるために、それは自分たちには何のかかわりもないことであったが、ただただ夫をいとしいと思うばかりに、いよいよその危険がさし迫ると、進んで自らの命をささげ、良人のためにお手本を示すとともに、その道連れとなった。この二婦人が夫のためにしたことを、コッケイウス・ネルウァはその祖国のためにした。効果の方は及ばなかったが、愛情に至っては同じことであった。この偉大な法律家は、健康において、富において、世評において、皇帝の信任において、花やぎ栄えていたのだから、ただただローマの国の哀れむべき状態に対する同情のほかには、自殺などする理由は少しもなかったのである。アウグストゥスの親友であったフルウィウスの妻の死のしおらしさには、まったく何一つ足りないものはなかった。アウグストゥスは、さきにそっとフルウィウスに明かした重大な秘密を彼が他に漏らしたことを悟り、或る朝彼にゆきあうと甚だいやな顔をした。フルウィウスは絶望に満ちて自分の家にもどった。そしてうちしおれてその妻に向い、「こんな不幸にあったからには、自分で命を絶つつもりだ」と語った。彼女は率直に言った。「まったくごもっともなことでございます。私のおしゃべりはずいぶんたびたび御経験なさいましたのに、あなたは少しも御用心なさいませんでした。さあ、お放し下さい。私はお先に参ります」。ただこう言うが早いか、少しもためらわずに剣をその身につきたてた。
(c)ウィビウス・ウィリウスは、その都市〔カプア〕がローマ人に包囲され、これを救うことも、彼らの許しをえることも、もはや望めないことを悟り、元老院の最後の評議にのぞんでさまざまの方策を提案した末、最も立派な方法は結局己れ自らの手によって運命を免れることであると結論した。「そうすれば敵はかえって我々を尊ぶであろう。ハンニバルはいかに忠実な友だちを捨てたかを自ら悟るであろう」と言った。そして自分の説に賛成する人々をわが家に設けた宴会に招き、十分に御馳走を食べてから、もろ共に、やがて自分に供せられようとしているものを飲もうとした。「この飲料こそは」と彼は言った。「我々の肉体を責苦から、我々の霊魂を侮辱から、我々の耳や目を敗者が残忍な・執念ぶかい・勝者より受けなければならないたくさんの恥ずかしめから、解放するであろう。わたしは、我々が息絶えようとするときに、我々をわたしの家の前に積みあげた薪の上に投げ入れるよう、特におおぜいの人を頼んである」。かなり多くの人々がこの
(b)アレクサンドロスがインドの一都市を包囲した時のことである。城内の者どもはいよいよ逃れるに道なきを知るや、せめてはアレクサンドロスに勝利の喜びを与えまいと堅く決心した。そして敵将の情けをうけることをいさぎよしとせず、こぞって都市もろともに焼かれた。そこで再び戦争となった。すなわち、敵は彼らを救おうと争い、彼らは自らを殺そうと争ったのだ。彼らは人が命を助かろうとして取るあらゆる方法を、自らの死を確かにするためにとったのである。
(c)スペインの都市アスタパは、その城壁や防備が弱く、とうていローマ人を防ぐにたらないので、市内の住民はその家具や財宝を広場にうず高くつみ上げ、その上に妻や子供たちを坐らせ、まわりを木ぎれをはじめいろいろ燃えやすいものでかこみ、ただ五十人の若者を彼らの決心を実行させるために城内に残した上、こぞって外へ討って出たが、やはり勝利をえられないので、互いに誓いあったとおり自害した。先の五十人は城内のあちこちに残っていたすべての生きた男を殺し、かの家財の山に火を放ったのち自分たちもまたここにとびこみ、この尊い自由を、苦しく恥ずかしい状態の中に終らせず、むしろ無感覚の状態の中に終らせた。そしてその敵どもに、もし運命がそう欲したならば、優にその勇気によって彼らからその勝利を奪いかえすことすらできたろうことを、思い知らせた。現にそのとき彼らの敵の勝利は、もう無駄な・忌わしい・いやそれどころか致命的な・ものにされていたのであった。まったく、火炎の中にとけて流れる黄金の光に目のくらんだ者どもはこぞってそこに集まり、後からおしよせる大勢のために後退りすることもできず、煙にむせび身を焦して、ついにその命を失ったのである。アビュドスの民たちも、王フィリッポスに攻められて、同様の決心をした。けれどもこの時はことがあまりにも切迫しており、王は敵の計画がいともあわただしく実施されるのを目の前に見て恐ろしくなったので(家具財宝は早くも手あたり次第に焼かれたり沈められたりしかけたので)、あわててその兵をおさめ、アビュドス人をゆっくり死なしてやるために三日間の暇を与えた。彼らはその三日間を流血と殺戮とでみたしたが、それには敵の残酷さもかないそうもなく見えた。そして己れに勝つ力のある者は、ただの一人も命を全うしはしなかった。人民がこのような決意をとった実例はなお数限りなくあるが、それはことが一斉に行われるだけ、それだけ恐ろしく思われるので、実際はかえってそれが別々に行われる場合にくらべれば、そう感心するほどのことではないのである。一人一人の理性ではなしえないことも、一緒になればなしとげられる。大勢の熱誠が各個の判断を奪うからである。
(b)ティベリウスの時代には、おめおめと死刑の執行を待つ受刑者は、財産を没収され埋葬を禁じられた。刑に先んじて自決するものは埋葬もしてもらえたし遺言することもゆるされた。
(a)けれども人は、何かもっと大きな幸いを希望するためにも死を願うことがある。聖パウロは言った。「われキリストと共にあらんために身まからんことを願う」と。また、「誰かこの
(c)これはあの新世界の一王国における話だが、みんなの尊崇する偶像がすばらしく大きな車に乗せられて群衆の間をひきまわされる、そのおごそかな行列の行われる日には、自分の生きた肉をそいでこれに捧げる者が沢山見られるばかりでなく、また広場のまん中にひれ伏してその身を車のわだちの下に敷き
あの剣を振りかざして死んだ前述の司教は、これらの民にくらべていかにも勇ましいが、その信心にいたってはかえって少ないのだ。戦闘の方に半分気をとられていたのだから。
(a)自殺がどんな場合に適正であるかを規定した国家がある。むかしわがマルセーユ市には、毒
こういう法律はなおよそにもあった。セクストゥス・ポンペイウスはアジアに赴く途中、ネグロポントスのケア島を通った。たまたま彼がここにいた間に、彼のお供をした者の一人が語っているように、こんなことが起った。すなわち、或る大きな権力をもった一人の婦人が、その人民たちに向い、なぜ自ら死を決意するにいたったかを述べてから、ポンペイウスをかえりみて、「なにとぞ私の死をいよいよ
プリニウスは極北の或る国について、こんな話をしている。「そこでは風が心地よく暖かなので、生命は一般に住民各自の意志によらなければ終らないのであるが、しまいに人々は生きることに疲れ飽きてしまうから、一定の高齢に達すると、通例、最後の御馳走を食べたのち、特にこの用にあてられている高い岩の上から海に飛びこむ」と。
(b)堪え難い苦痛とあさましい死とは、自殺への誘いとして最もゆるされるべきものであるようにわたしには思われる*。
* モンテーニュは、はじめ自殺の批評をしているようであったが、いつの間にか自殺の賛美、ではないまでも、これの擁護に傾いているように見える。実際自殺は彼の天性の傾向と全く相反するけれども、理知的には一時彼の思想をかなりに強くひきつけたものらしい。一時は、ただこれ一つが解脱の方便とも考えられたようである。なおこの項は、原罪・贖罪・の思想をモンテーニュが信じていないこと、また来世の報いをも信じないこと、などと共に考えるべきであると思う。拙著『モンテーニュを語る』一一九―一二二頁参照。「旅日記」中、一五八一年八月二十五日、デラ・ヴィラ温泉滞在時の記述の中にも、なおこの自殺肯定の考えが残っていることも注目すべきであろう。白水社版『モンテーニュ全集』第四巻二二六頁とそれに対する註参照。
(a)わたしはわがすべてのフランス作家の中で、とくにジャック・アミヨに棕櫚の枝を与えるが、これは至当なことと思う。それはたんに用語文章が素朴清純な点で他のすべての作家にまさっているからでも、あのように長い労作に決して倦まなかったからでも、またその学識が深くてあんなに見ごとにあの読みづらい困難な作品を翻訳しおおせたからでもない(まったく、彼の翻訳については何とでもおっしゃるがよろしい。わたしにはギリシア語はまるでわからないのだ*。だがわたしは彼の訳文のいたるところに、きわめて美しい・きわめて首尾一貫した・一つの意味を見出すから、確かに彼は原著者の真の思想を理解しているに違いないし、また、長い間の親交によって、自分の霊魂のうちにプルタルコスの霊魂がおよそどのようなものであるかを鮮やかに印象しているから、少なくとも彼はプルタルコスにもとりプルタルコスにたがう何事をも付けたしはしなかったと、思うのである)。むしろわたしは、彼がああいう貴い・適切な・書物を選び出して、これを祖国への贈物とした**ことを、特に有難くおもうのである。わたしたちのような無知な人間は、この本によって泥んこの中から救い上げられなかったなら、それこそ救われる日はなかったろう。つまり彼のお蔭で、わたしたちも、今こうして、どうやら語ったり書いたりできるのである。御婦人がたもこういう翻訳があればこそ、学校の先生に向って物が言えるのである。それはわたしたちの愛読書である。もしこのお爺さんが現に生きているならば、わたしは彼に、クセノフォンを同じように訳してもらいたいと思う。この方がプルタルコスよりは易しいし、それだけ彼のような老人にはふさわしい仕事である。それに何となく(なるほど彼はきわめて巧みに難所を突破してはいるけれども)彼の文体は、彼が自由に思いのままに駈けめぐるときに、いっそう伸び伸びとしているように思われるからである。
* これは謙遜であるが、モンテーニュがギリシアの作家を大抵ラテン語訳でよんだことも事実である。後出第三巻第五章一〇一二頁註**参照。
** このパラグラフは、翻訳事業ないし翻訳家に対する実にゆきとどいた批評であると思うが、特にモンテーニュが翻訳の一国文化におよぼす感化をきわめてよく見抜いている点に注意したい。ここでもモンテーニュが単なる個人主義者、隠遁趣味の人でなく、文芸をも(宗教と共に)社会的政治的立場から見ていることがわかる。
好奇心と正反対の不徳は無頓着である。(b)わたしも生れつき明らかにこの傾向を持っている。だが(a)この点にかけては、わたし以上にずいぶん極端な人たちがたくさんいる。彼らは三日も四日も、もらった手紙をポケットに入れたまま、開封もしないで持ち歩いている。
(b)わたしは人から託された手紙ばかりではない。ふとした偶然によって手に入った手紙だって、決して開封したことがない。えらい人の傍にいて、ふと彼の読んでいる重大な手紙の内容を知ってしまった時などは、甚だ気がとがめる。わたしくらいせんさくぎらいで、ひとのことに無関心なものはちょっとないであろう。
(a)我々の父たちの時代に、ムシュ・ド・ブティエールはすんでのことにトリノの城を失いそうになった。というのは、折から身分ある人々と晩餐を共にしていたので、彼が司令であるこの都市に対して仕組まれつつあった
賢明な人が他人のために、例えばルスティクスのように同席の人々に失礼をしまいとして、或いは、もう一つの大切な要件を中絶しないために、自分にもたらされた知らせをきくのをのばすことはよいと思う。けれども自分の都合のために、また自分一人の快楽のために、その人が公職を持つ人であればなおさらのこと、自分の食事や眠りを妨げまいとしてそうすることは、許すべからざることである。昔ローマには、テーブルの一番上の席に執政席とよばれる席があった。それはその席に坐る人に用があって来る人々が、誰でも自由に・妨げられずに・近寄れるようにと、特に設けられていたのである。これを見ると、彼らが食事中であっても、ほかの用事にたずさわることをあえて避けなかったことがわかる。
けれども、いろいろに言われはするが、人間の諸行為のうちに、もっぱら理性にもとづいて確実な規則をおしたてることは容易でない。やはりそこには運命がその権力を保っている。
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(a)或る日旅をしながら、弟のシユール・ド・ラ・ブルッスとわたしとは、おりから内乱のうちつづく頃であったが、一人の立派な貴族と道連れになった。我々とは反対の党派に属する人であったが、わたしは少しもそうと知らなかった。まったく彼は、さあらぬていに装っていたからである。実際こんどの戦争で一番困ったことは、敵も味方も全く入りまじっていて、言葉の上でも風体の上でも、少しも区別のつけようがないことである。いずれも同じ法律習慣風俗の下に育って来たのであるから、そこに混同混乱を避けることはなかなかむつかしい。だからわたしとしても、自分が知られていない地方では、味方の軍勢に出あうことすらいささか心配であった。わざわざ名前を名乗らねばならぬのもいやだし、うっかりするともっとひどい目にもあわねばならぬからである。(b)わたしも昔そういう目にあったことがある。まったくこの種の行違いのために、兵卒や馬などを失ったのみならず、だいじな小姓までも惨殺されたのである。それはイタリア生れの貴族の少年で、わたしが目をかけて養育して来た者であったが、そんなことで大きな希望にみちたうるわしい少年があたら命を失ったのであった。(a)ところがわたしが道連れになったくだんの貴族は、ひどくそういう目にあうことを恐れており、馬にのった人々に出あうごとに、また王にくみするもろもろの都市を過ぎるごとに、ほとんど生きた色がなかったから、ついにわたしは、これは良心が彼にあぶないぞあぶないぞと警告しているせいだなと見てとった。実際この哀れな男は、人の眼が彼の仮面を通し、彼の外套の胸の十字を貫いて、彼の心の底なる秘密の意図を読み取りはしないかと心配しているらしかった。それほどに、良心の力というものは恐ろしいものなのだ。良心は我々のうちにあるものを、洩らし・あばき・たたき出す。見ている人があろうがなかろうが、いやおうなしに我々に泥を吐かせる。
刑吏の冷たき心もて、見えざる鞭をうち振りつつ。
(ユウェナリス)
次の物語はよく子供たちが語るところである。パエオニア人ベッススは、ふざけて雀の巣をたたきおとし、これを殺したのを咎められると、「それにはわけがあるんだ。これらの小鳥どもは、わたしのことを親ごろしよなどと、ありもせぬことをさえずってやめないからだ」と言った。この父殺しのことは、それまでは誰も知らないかくれたことであったのだが、良心が怒って、何食わぬ顔をしている当の下手人にとうとう泥を吐かせたのである。
ヘシオドスは、プラトンの「罰は罪のすぐあとから来る」という語を訂正した。まったく彼は、「罰と罪とは同時に生れる」と言ったのである。罰を待つ者はすでにこれを受けている。そして罰に値することをした者は必ず心にこれを待つ。よこしまな心はその人を呵責する。
悪はこれをなしたる者に帰る。
(アウルス・ゲリウスの引いた諺)
それは黄蜂がひとを刺し傷つけながら、それ以上に自分を傷つけるようなものである。まったく黄蜂は、その時その針を失うだけでなく、永遠にその力を失うのである。
彼らは、その生命を、その与えし傷の中にのこす。
(ウェルギリウス)
はんみょう〔斑猫〕という虫は、体内に自分の毒に抵抗する一種の毒消しを持っている。これはまったく自然の抵抗である。同様に、人も不徳を楽しむようになると、しぜんと心の奥に、何かそれに対抗する不快感が生ずる。そしてさまざまの苦しい思いが、寝ても覚めても我々を苦しめる。
(b)まことに、多くの人々は、夜の夢に、
或いはまた病の床に、うなされつつ、
それまで現われざりし罪を洩らすなり。
或いはまた病の床に、うなされつつ、
それまで現われざりし罪を洩らすなり。
(ルクレティウス)
(a)アポロドロスは、スキュティア人に皮膚をはがれ釜で煮られる夢を見たが、その夢の中で彼の心は、「自分こそこれらの苦痛の原因である」とつぶやいていたという。エピクロスの言うとおり、どんな隠れ家も悪人の役には立たない。彼らは隠れていても安心ができないからである。良心が彼らの悪を彼ら自らに暴露するからである。
罪人の第一の刑罰は、
自己の良心に赦 されざることなり。
自己の良心に
(ユウェナリス)
良心は恐怖をもって我々をみたすとともに、またよく安心と確信とをもって我々をみたす。(b)現にわたしは、自分がさまざまな危険の中を、ほかのひとよりもしっかりした足どりで歩いてこられたのは、心中ひそかに自分の意志を理解し、自分の企ての潔白を信じていたからだと、言うことができる。
(a)良心の語るところの如何により、
人の心は、或いは希望に・或いは恐怖に・満たさる。
人の心は、或いは希望に・或いは恐怖に・満たさる。
(オウィディウス)
その例は無数にあるが、同一人物における次の三つの例を挙げればたりよう。
スキピオは或る日、ローマ市民の前で或る重大な罪を告発されたが、いたずらに弁解したり裁判官にへつらったりせずに、「君たちが人々を裁判する権力を持っているのはわたしのお蔭だと思うが、そのわたしの首をはねるつもりだとは、いかにも君たちにふさわしいことだね」と言った。また或る時は、一護民官が彼を
(a)拷問とは実に危険な思いつきである。それは真実のためしではなくて、むしろただ忍耐のためしであるかのように見える。(c)拷問に堪えることができる者も、これに堪えることができない者も、同じように真実をかくす。(a)まったく、どうして苦痛が、わたしにありのままを告白させるであろうか。かえって有りもせぬことを言わせはしないだろうか。いや逆に、告訴されるようなことをしなかったものも我慢づよくこれらの拷問に堪えることであろうが、どうして真に罪を犯したものが堪えないといえようか。助命という立派な御褒美がいただけるのだもの。このような方法が発明されたのは、良心の力がいかにつよいものかということが、よくよく考えられた末のことだと思う。まったく罪人においては、良心こそ拷問を助けて彼にその罪を告白させるように、また彼の強情を弱めるように思われるが、また一方潔白な者の心を拷問に対して強くするようにも思われるのである。だが正直に言えば、拷問というものは不確実と危険とに充満した方法である*。
* この当時は、裁判と拷問とはむしろ不可分のものであったので、Villers-Cotterets の布令(一五三九)以来はそれが公々然として認められ、世人は少しもそれをあやしまなかったのである。そういう時代に、モンテーニュがこのような意見を述べていることは、実に注目せねばならないのである。それは、彼がいかに旧習にとらわれなかったか、またその所信に対していかに勇敢であったかを、遺憾なく示している。フランスで拷問の廃止せられたのが漸く一七八〇年であったことを考えると、彼はまさに二世紀先を歩んでいたことになる。なお第三巻第十一章参照。
(c)苦痛は、罪なき者に、心にもなき嘘をつかす。
(プブリウス・シルス)
そこで裁判官が、人を無実の罪のために死なすまいとしてこれに拷問を加え、かえって彼を無実の罪と拷問との両方で死なせる結果になる。(b)何千何万の人々は、拷問の苦しみから免れるために、さまざまなうその告白をでっちあげた。そのうちの一人にわたしはフィロタスをかぞえる。アレクサンドロスが彼のために提起した訴訟の事情と彼がこうむった拷問の進行とをあわせ考えると、どうも彼は心にもない自白をしたのに違いない。
(a)しかし、それはともあれ、それは、(c)と世間では言っている、(a)弱い人間が発明し得た最小の悪*である。
* 一五八〇年には、モンテーニュは拷問を非難しながら、なおその必要性を認めていた。だから「最小の悪」とはまだ書かずに、「最もよいもの」と書いている。弱い人間の発明したものとしては、これでも最上のものだとしているのである。そして一五八二年にもわずかにこれを訂正して「最小の悪である」とだけ書いた。ところがここに見る一五八八年以後の加筆によると、更に彼の論調は硬化している。「……(c)と世間では言っている」と書き加えているのは、それは世俗の意見であって、モンテーニュ自らは「最小悪」どころか、「最大悪」と考えていることを明らかにしている。
*「彼」とは被告を指し「君たち」とは裁判官によびかけたのである。即ち裁判官の無知(証拠不十分その他から来る)は被告の責任であろうか。それは裁判官の方の責任で、被告側からはどうしてやることもできないことである。だから、裁判官の側に事実の真相がわからぬからと言って、裁判官が被告を苦しめるのは明らかに不正だ、というのである。正義を司るはずの裁判官が、このような不正義を敢えてしていいかと、詰問しているのである。モンテーニュは十六年間裁判官をしたが、最後まで職業ずれのしなかった良心の人である。
モンテーニュはこの章のなかで、「我々は霊魂を鍛練することによってあらゆる苦難に対して備えることができる。ただ死だけは前もって実地に経験しておくというわけにゆかない。だがそれにしても気絶失神というような経験は幾分か役に立つようだ」と言って、自分が落馬して気を失った時のことを細かに述べている。いつ頃書かれたものかははっきりわからないが、だいたい一五七三年ないし四年あたりだろうということになっている。従ってストア主義の色が依然として相当こいが、早くも彼の moi が登場して来ている。恐らくこの頃を起点として彼の自己を観察し描写する傾向はだんだんと強まり、その結果自分の柄に合わないストア主義からようやく離れて、自然哲学ないしエピクロス主義へとますます心をひかれてゆくのであろう。後年の気分転換の説(三の四)、人相について(三の十二)なども、この章の延長、いわば帰結であろう。なお、この章における一五八八年以後の加筆において、彼はみずから描く企てに対して弁明をしている。あたかも、「モンテーニュのみずから描こうという愚かな企て(sot projet)!」と叫ぶパスカルに対して、予め答えているかにみえる。だが、パスカルを始めアルノーやニコル等の頑固で無理解なポール・ロワイヤリストたちの誹謗(彼らはモンテーニュを非紳士 malhonnte homme と断じた)に、小気味よく一矢を報いたのはヴォルテールである。「モンテーニュがあのように率直にみずから描こうとしたのは、人を魅する企て(charmant projet)だ! だって彼は人間性を描いているのだから。むしろニコルやマルブランシュやパスカルがモンテーニュをけなそうとするのこそ哀れむべき企て(pauvre projet)だ! アンリ三世時代の田舎貴族〔すなわちモンテーニュ〕は、無知の世紀における学者であり狂信者の間の哲人であって、自己の名のもとに我々人間の欠点と痴態とを描いているのだ。それは永遠に愛せらるべき人間(un homme qui sera toujours aim)である」(Voltaire: Remarques sur les Pense'es de Pascal)と言っている。実際、モンテーニュが常に率直かつ赤裸々にその欠点をも失敗をも描いている点こそ、他のモラリストにおいてはとうてい見られない特徴であって、むしろ『随想録』最大の魅力をなすものであろう。本章は前出一の十九、一の二十につながっている。
(a)推理と教育とは、我々がとかく信用したがるものであるが、我々を実践にまでつれてゆくほど力あるものではない。どうしても我々は、そのうえさらに経験に訴えて、我々の霊魂を我々が欲するように錬成しなければならない。でないと霊魂は、いよいよ実行という瀬戸ぎわになって、きっと動きがとれないことであろう。だから哲学者たちの間でも、何とか特別に優れた境地に達しようと意欲した者は、隠れて静かに苛酷な運命を待機しているだけでは満足しなかった。そんなことでは、いざという場合何もかもが始めてであり未経験であって、運命との戦いに負けることはわかっている。だから、彼らは自分から運命にぶつかって行った。わざといろいろな困難の試練の前に挺身した。或る者は財宝をすててわざと貧窮のうちにその身を鍛えた。或る者は勤労と厳しい苦行の生活を求めて苦痛と労働とにその身を練った。また或る人たちは、その身体の最も大切な部分、例えば目だとか生殖の器官だとかを取ってすてた。あまりに快適あまりに甘美なそれらの使用が、堅固な自分の霊魂をも軟弱にしてしまうことを恐れたからだ。けれども死に対しては(これこそ我々がなしとげねばならぬ最大の仕事であるが)、鍛練は少しも我々の助けとはならない。習慣と経験とによって、苦痛・恥辱・貧乏・その他これに類するもろもろの不運に対して自己を鍛えることはできるけれども、死に至っては、我々はこれをただの一度しか試みることができない。いよいよこれに直面する時、われわれは誰でもみなただの小僧である。
古代には時間の使い方にきわめてすぐれた人々がいた。彼らは死にのぞんでさえ死をなめ味わおうと試み、心を張りつめてこの生から死への推移がどんなものであるかを見とどけようとした。けれども彼らは、ついにその報告をするために戻っては来なかったのである。
一たび死の冷たき平安を感ずるや、
なんぴともついに目覚むることなかりき。
なんぴともついに目覚むることなかりき。
(ルクレティウス)
ローマの貴族カニウス・ユリウスは、きわめて大胆沈着な人であったが、あのカリグラというならずもののために死刑に処せられたとき、さまざまの驚嘆すべき証拠によってその決心のほどを示したが、いよいよ首斬役人の手にかかろうとした時、彼の友である一哲学者が、「どうだカニウス、いま君の霊魂は、どんな状態にあるか。何をしているか。いま君は、どんな思いの内にあるか」とたずねたのに対して、「いまやいよいよ用意はととのい、ありったけの力をもって張りきっているよ。果してぼくはこの迅速な死の瞬間に、何か霊魂の移転とでもいうべきものを知覚することが出来るかどうか、果して霊魂は自己の遊離を多少とも感ずるかどうか、それを一つ試してやろうと張り切っている。少しでも何かを知覚しえたら、後で、できれば戻ってきて、みんなに知らせてやりたいと思っているところだよ」と答えた。この人は死に至るまで哲学したのみならず、死そのものの内においてまで哲学している。何という落ちつきであろう。何という気高い心であろう。自分の死を自らの教訓にしようとしているとは! このような一大事に直面してまで、なおほかのことを考えるだけの余裕をもっていたとは!
(b)かれは死に面してすらもなおその心を失わざりき。
(ルカヌス)
(a)けれども、我々を死に馴らし・或る程度それを経験させる・方法も、幾らかはあるように思う。我々は死の経験を持つことができる。完全な経験は望めないまでも、少なくとも、我々に全く無用ではなく・我々を幾分なりとも強くし落ちつかせる・くらいの経験は持つことができる。死にとどくことはできないが、これに近寄ることはできる。これを認めることはできる。我々はその城内までふみこむことはできぬにしても、少なくともそこまでの道を見たり歩いたりすることはできよう。睡眠は死に似ているから、自分の睡眠をよく観察せよと教えるのも、決して道理のないことではない。
(c)いかに容易に、我々は覚醒から睡眠へと移行するか。いかに平気で、我々は光と自己の知覚を失うか*。
* 我々は眠りに入る時痛くもかゆくもない。むしろいい気持である。死もまた、「明るさと自己の知覚を失う」点において睡眠とちがいがない。
(a)けれども何か急激な出来事のために気絶状態に陥り、ためにすべての感覚を失った経験のある者こそ、最もまぢかに死の、真の・ありのままの・姿を見た人だと、わたしは考える。まったく、その生から死へと移行する瞬間にしても、何かそこに苦痛か不快でもあるのではないかなどと、少しも恐れるには及ばないのである。なぜなら、我々は余裕がなければ何の感情も持ちえないからである。我々が苦痛を感じるには時間がいるわけだが、死に際してはその時間がきわめて短くあわただしいから、死はどうしたって感じられないものでなければならない。我々が怖がらねばならないのは、その接近であって、この接近ならば、我々にもそれを経験することができるのである。
多くの物事は、実際にこれを見るときより、心の中でこれを想像しているときの方が、大きく見える。わたしは生涯の大部分を完全な健康のうちに過した。いや、それは完全どころか、元気溌剌たるものであった。そういう元気と歓喜とに満ちみちていた頃は、病気のことを考えると恐ろしくてたまらなかったが、はからずもそれを経験するに至ったときには、かえってその苦痛を、かつて恐れていた割合には緩慢なものに感じたのであった。
(b)わたしはしょっちゅうこんなことを経験する。雨風の吹き荒れる夜など、ひとり心よい部屋の中で温まっていると、いま野辺をゆく人たちはどうであろうかと胸をいためる。だが自らそこに出て行って見れば、べつに、どこかよそにありたいなどとは思いもしない。
(a)いつも一つ部屋の内にとじ籠っていなければいけないというただそのことだけでも、わたしには堪え難いことに思われていた。ところが、わたしはいつの間にか感動と混乱と衰弱とに充満して、一週間も一月も閉じこもって暮すのに慣れてしまった。そして気がついてみると、むかし健康なときにはずいぶんと病人たちをあわれに思ったものであったが、さていよいよ自ら病人になってみると、それほどまでに自分をあわれに思ってはいない。やはりわたしの取越苦労が、事の本質を半分近くもせり上げていたのだと思う。願わくは死もまた同じことであってくれればよいが! それはそれほどの準備をととのえ・それほどの救援を呼び集めて・その衝撃を支えねばならないほどの代物ではなくてくれればよいが! だがどんな場合でも、我々は心の準備をしすぎてわるい理由はない。
我々の三回目の乱*の頃だったか、それとも二回目の頃だったか(わたしはそれを確かには覚えていないが)、或る日のこと、わたしは家から一里ばかりのところに散歩に出かけた。あたかもフランスの内乱のまん真中にいたわけであるが、なに大丈夫と思ったし、わたしの隠居所のほんの近くだからと思ったので、よい方の馬でなくても足りようと思い、乗心地はしごくよいが余りたくましくない方の馬に乗って出かけた。ところが帰り途に、その馬を全くそれにふさわしくない役にたてねばならない事件が突発した。というのは、わたしの従者の一人でたけの高い頑丈な男が、口の固くて逞しい軍馬の・しかも若くて癇の強いやつに・乗っていたが、勇ましいところを見せようと思ったか、仲間の連中をおい越して、まっしぐらにわたしの行く手にかけよせた。そして巨像が倒れるように、ちっぽけなわたしと小馬の上におっかぶさり、あっと思う間に、その勢いと重みとでわたしをおし潰してしまった。わたしは馬もろともまっ逆さまにほうり出された。馬は目をまわしてぶっ倒れるし、わたしも、十二、三歩かなたに、死んだようになって、あおのけさまにほうり出された。顔はすりむいて傷だらけ、持っていた剣は十歩以上も向うにほうり出し、帯もずたずたにぶち切られたまま、まったく切株同然、知覚を失って動けなかった。これが、わたしが今までに経験したただ一回の気絶である。わたしと一緒にいたものは、わたしを生きかえらせようとできるだけの手を尽したが、いよいよこと切れたものと思い込み、皆してわたしを抱きかかえ、大そう骨をおって、そこからフランス里程で約半里ばかり〔約四キロ半〕ばかりはなれたわたしの家へかつぎこんだ。途中で、さよう、たっぷり二時間余りも死人と思われていたのだが、やがてわたしは身動きをし、息をし始めた。まったくずいぶん多量の血液が胃の腑の中に流れ込んだので、それをもどすために自然と胃に
* ユグノーの乱即ち宗教戦争のこと。第二回か第三回かというと、一五六七―七〇年の頃のことである。
(b)心は、なおその覚醒を疑いつつ、
茫然としていまだ定まらざりき。
茫然としていまだ定まらざりき。
(タッソー)
(a)この・わたしの霊魂のうちに強く刻みつけられた・死の記憶は、わたしに死の姿やその観念をきわめて自然に近いものに見せ、わたしをかなり死と仲よくさせた。物が見え出した時も、その視覚は甚だぼうっとした・弱い・力のないもので、わたしはただわずかに光だけしか見わけなかった。
あたかも夢うつつの境にありて
眼をひらきてはまた閉ずる人のごとくに。
眼をひらきてはまた閉ずる人のごとくに。
(タッソー)
霊魂のはたらきは、肉体のそれが回復するにつれて、だんだんにもどってくる。わたしは自分がすっかり血にまみれているのを見た。まったくわたしの上衣は、もどした血でしみだらけになっていたのである。わたしにもどって来た第一の思いは、「火縄銃で頭をやられたんだな」ということであった(ほんとうに、はっと思ったあの瞬間、わたしは周囲に数発の銃声を聞いたからである)。それはもう自分の生命が、ただわずかに唇のさきに引っかかっているにすぎないような感じだった。わたしはじっと目をとじて、その生命を唇から外にふき出そうとしているかのごとく、そのままとろとろとなって行ってしまいそうな楽な気分であった。それはわずかにわが霊魂の表面を行きつもどりつする思いであって、他のもろもろの知覚と同様にとろんとぼんやりしたものであった。いや本当に、それは少しも悲痛を含まないばかりでなく、むしろ、うとうとと眠りにひきこまれようとする者の感じる・あの心地よささえ交った・ものであった。
わたしはあの
(b)しばしば、人は、病に打ち負かされ、
あたかも雷にうたれしがごとく我々の前に打ち伏す。
彼は、泡をふき、うめき、かつ打ち震う。
たわ言を言い、身をこわばらせ、またもがき、
吐く息もまたたえだえなり。
あたかも雷にうたれしがごとく我々の前に打ち伏す。
彼は、泡をふき、うめき、かつ打ち震う。
たわ言を言い、身をこわばらせ、またもがき、
吐く息もまたたえだえなり。
(ルクレティウス)
(a)或いは頭に傷ついたりして、ああやって臨終も間近く仰臥昏睡している人々を見ていると、彼らがうめいたり・時には鋭い息を吐いたり・するのを聞いていると、何やらそこにはなお多少の知覚が残っているらしいしるしも目につくし、また多少は彼らの肉体が動くけはいも見えはするけれども、その時はもう彼らの霊魂と肉体とはとうに眠りにつき土に帰しているのだ」と考えていたのである。
(b)彼はなお生きてはあれど、自らにその覚えなし。
(オウィディウス)
(a)つまり、手足があれほどに麻痺し、感覚もあれほどに衰弱しながら、霊魂が内部でなお自己を意識するだけの力を保っているとは、とうてい信ずることができなかったのである。彼らは思い苦しむだけの理性も、自分の今の悲惨な状態を判断し感知するだけの理性も、持ってはいないのだから、大して憐れむにはたらないのだと考えていたのである。
(b)このわたしも、自分の霊魂がしみじみと悲哀を感じながら、しかもそれを洩らすことができないというような、堪えがたく恐ろしい状態に自らおちいることがあろうとはとうてい思われない。例えば舌を切られて刑場に送られる人たちのような(この種の死においては、黙って何も言わずに死ぬのこそ、もしそれが泰然自若たる面もちでなされるならば、最もふさわしい死に方であろうと思うけれど)、或いはまた、この頃のあの鬼畜のような兵士たちの手中におち・払おうにも払えぬ法外な身の代金を払えとありとあらゆる残忍非道な責苦をうけながら・しかもその思いやその悲惨を訴える道のない境遇におかれている・あの可哀そうな囚人たちのような、ああいう目に自らあおうとは決して思わない。
(a)詩人たちは、このように長びく死に苦しみ悶えている人々をお救いになる神々を想像した。
われは教えられたる旨に従い、
地獄の神にこの髪を供えて汝を救わん。
地獄の神にこの髪を供えて汝を救わん。
(ウェルギリウス)
我々が彼らの耳元で一所懸命に叫んだりはげましたりして、無理に彼らからもぎとる短い声や切れ切れの答え、或いはまた、我々の願いに何やら賛成するように見える身動きなどは、決して彼らが生きているしるしではない。少なくとも完全な生命のしるしではない。よく我々はうつらうつらしながら、すっかり寝こむ前に、やはり夢見るように自分の周囲の事柄を感ずることがある。ぼんやりとはっきりしない・霊魂のふちまでしか達しないような・聴覚で、人の話を聞いていることがある。我々はその言葉尻をとらえて返事もするが、それはただの偶然であって意味はないことである。
さて、今では、自ら実際にこれを経験したのであるから、わたしはこれまでの自分の死に関する判断が正しいことを少しも疑わない。まったく、第一に、すっかり気を失っておりながら、わたしは自分の上衣の胸をはだけようとしきりに爪で掻きむしっていたのであるが(その時は
(b)死せる指、打ち震えて、剣をつかみたり。
(ウェルギリウス)
(a)ころぶ人々はあっという間に腕を突き出す。これは自然の衝動であって、それによって我々の体の各部は互いに助け合うのである。(b)我々の理性とは離れた運動をするのである。
聞くならく、大鎌をつけたる戦車は、
いと速やかに人の手足を切断するが故に、
斬られたる人は心にいまだ痛みを覚えざるに、
早くも手足は落ちて地にまろびたり。
いと速やかに人の手足を切断するが故に、
斬られたる人は心にいまだ痛みを覚えざるに、
早くも手足は落ちて地にまろびたり。
(ルクレティウス)
(a)あの時も、胃があの凝結した血でいっぱいになったので、手がしぜんとそこにいったのである。ちょうど、我々の意志は掻いてはいけないというのに、往々にして手がひとりでにかゆい所にとどいてしまうように。沢山の動物は、また人間でさえも、死んでから後に筋肉をひきつらせ動かすことがある。人々は経験によって、しばしば意志の許可がないのに動き出し・たったりねたりする・器官があることを知っている。ところでわずかに我々の表面だけにしか感じられないこの種の感覚は、まだまだ我々のものとは言えない。それらが我々のものであるためには、我々の心身全体がそこに関与していなければならない。我々が眠っている間に手足に感ずるような痛みは、我々のものではないのである。
わたしが早くもわたしの落馬の知らせが伝わって上を下への騒ぎをしている我家に近づいた時、そして家族のたれかれがこのような場合にありがちな叫びをもってわたしを出迎えた時、わたしはこれらの人々の問いに二こと三こと答えたばかりでなく、後で聞くと、妻があがりさがりの多い歩きにくい路に難渋しているのを見て、馬に乗せてやるようにとの指図までもしたそうな。こういう考慮は、いかにも
(b)ついにわれ意識をとりもどすや、
(オウィディウス)
(a)(それは二、三時間たった後のことであったが)、急に痛みを感じ出した。落馬した時に手足をくじいていたからである。その後の二晩三晩というものは、ずいぶんと苦しかった。またもう一ぺん死ぬのか、しかも前よりも辛い死に方をするのか、と思った程であった。今でもそのときの打身のあとが痛むことがある。ここにわたしがどうしても言い忘れたくないことは、最後にやっと思い出すことができたのがこの事件の
こんなつまらない出来事をお話しても、ほとんど何のたしにもならないであろうが、わたしはそれからだいじなことを学びとったのである。まったく、正直のところ、死になれ親しむためにはこれに接近するより仕方がないということを*、このとき始めてさとったのである。さてプリニウスが言うとおり、各人に自己をつぶさに見きわめるだけの能力がありさえすれば、自分こそその人にとってすこぶるよい教材なのである。ここにあるのはわたしの学説ではない。わたしの研究なのである。他人のための教訓ではない。自分のための教訓なのである。
* この考えは後年変る。第一巻第二十章の解説および拙著『モンテーニュを語る』一六九―一七二頁参照。
* この考えは後出三の二において詳論される。
** 事実モンテーニュは、サン・ブリス会談の時、カトリーヌ・ド・メディシスから、後にはアンリ四世から、歴とした顧問官に就任するよう求められたが断っている。『モンテーニュとその時代』第七部第一章―第五章参照。
(ホラティウス)
わたしはこのようなやり方には益よりも害の方が多いと思う。人々の前で自己について語るのは必然的に
* 子牛は驢馬と同様に暗愚なるものをいう(Jeanroy 註)。手綱は、ここでは規則・掟の意味(Radouant 註)であろう。規則や掟は、聖人にはもちろん自分にも用はないというのであろうが、同時にまた、手綱をつけてみたところで子牛は馬のように御せるものでもない。すなわち、凡俗にとってもそれは無駄な無効なものだ、という意味にもなる。Radouant は、その両方の意味でこの bride veaux の句が面白いという。
** 隣人とはプロテスタントを指している。
*** この仮定はあまり適切だとは思われない。キケロの虚栄はよく非難される。キケロは『ブルートゥス』の中でホルテンシウスをほめたが、結局やはり自慢になっている。
**** Skeletos 人体をその皮膚をむいて乾かし標本としたもの。
ただソクラテスだけは、彼の神の掟である「汝自らを知れ」という掟をほんとうに噛みしめかみわけたから、そしてこの研究によって自分を蔑視するにいたったから、独り賢者の称にふさわしいものと認められた。こんなふうに自分自らをよく知っているものは、よろしく大胆に自らの口によって自分を人に知らせるべきである。
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(a)アウグストゥス・カエサル〔ローマ皇帝アウグストゥス〕の伝記を書いている人たちは、彼の軍紀について述べながらこんなことに注目している。「
我々の間にも、またわが隣国の人々の間にも、いろいろな勲章があるが、いずれももっぱら徳を尊びこれに報いるために制定されたものである。ほんとうに、稀に見る優れた人々の真価を認め、彼らを国民の負担にも帝王の出費にもならない褒賞を以て満足させる方法をもつということは、結構で有益な習わしである。それに、それは古代にもたくさん例のあることだし、我々の間にも古くから見ることのできたことであって、身分ある人々が利得の伴う褒賞よりも、かえってそういう褒賞の方をほしがったということは、理由のないことではなく、むしろはなはだ当然なことと思われる。もしも単に名誉的であるべき褒賞に、それとは別の特典や財宝などをまじえるならば、この混合は世間の尊敬を増加させず、かえってそれを低下させる。サン・ミシェル勲章*は久しく我々の間で尊ばれたが、他のいかなる特典ともかかわりをもたないことをもって、その最大の特典としたのであった。だから昔はいかなる官職よりも、この勲章が最も貴族たちのほしがり重んずるところであり、またいかなる身分にも増して、多くの尊敬尊重を与えられたものであった。徳は、本来、純粋に徳だけのための褒賞、利益よりも光栄ある褒賞に、あこがれるからである。まったく正直のところ、ほかの賜物はとうていこのように尊くは取扱われないのである。なぜなら、それらは他のいろいろな場合にも与えられるからである。人は下僕の忠勤・飛脚の精励・舞踊・曲乗り・小ばなし・その他もっと下等な奉仕に対しても財宝をもって報いる。いや不徳さえ、おべっかや、とりもちや、裏切りさえ、財宝でもって報いられるではないか。徳がこんなありふれた報酬をほしがらないで、全くそれ自身に特有な・最も高尚な・報酬をほしがるのは驚くに足らない。アウグストゥスが前者よりも後者の方を甚だしく出し惜しんだのはもっともなことである。なぜなら、名誉という特権は、その本質がもっぱら得がたいということの中にあるからである。徳もまた同様である。
何人をも悪人と見ざる人の目に、
そも誰が善人として映らんや。
そも誰が善人として映らんや。
(マルティアリス)
われわれは人を推薦するのに、この人は子供の教育に熱心だなどとは言わない。それはどんなに正しいことであるにしても、当りまえの話だからだ。(c)大きな森に入れば大きな樹も特別珍しいことはないのである。(a)スパルタの市民は、誰一人として自分の勇気を誇りはしなかった。まったくそれは、彼らの国では誰しもがもつ徳であったのだ。忠節や財宝の蔑視なども、同様に少しも自慢しなかった。いかに偉大な徳でも、すでに習慣となってしまっている徳の上には、褒賞はおりないのである。いや、あたり前になっているものをも果して徳と呼びうるかどうか、それさえわたしはいささか疑問に思うのである。
* 一四六九年ルイ十一世が制定した騎士団員の帯びる首飾勲章。フランソワ二世時代までは大いに重んぜられたが、シャルル九世アンリ三世の頃に、その人選進級等が安易になり、世の信を失いはじめた。人これを Collier toutes btes(あらゆる畜生の首輪)とまで言ったそうである。btes は犬猫等の「畜生」を意味すると共に「馬鹿」をも意味する。たまたまこの勲章が首にかけられるものだったので、そのようにもじられたのである。
* モンテーニュは、ここに武人の徳以外に普通人や文民の勇気、戦時の勇気のほかに平時の勇気をも考えている。彼自ら軍人が好きで(拙著『モンテーニュを語る』八三―八四頁参照)、勲章も(年金などを伴わないという意味で)きらいではなかったが、しかし俗人が勲章を有難がったり見せびらかしたりするのとはちがっていたようである。それらのことは、この章を読んだだけでもほぼ想像される。
** ユグノーの乱。この時代には商人も百姓も武器をふりまわし、本職の貴族以上に勇猛であったことをいうのであろう。
*** 前頁註*参照。サン・ミシェル勲章がみだりに寵臣たちに与えられ、「馬鹿の首輪」と評判されるようになったこと。
* こんどの勲章というのは、一五七八年アンリ三世が創制した精霊勲章 ordre de Saint-Esprit のことである。これまたほんとうに Brantme の書いているところによると、濫授の結果モンテーニュがここで心配しているとおりになったらしい。
** モンテーニュが純然たる哲学者なら、賞勲の制度を全面的に否定し、特に勲章談義に一章をささげはしなかったであろう。彼は心が政治家であるので、凡俗の信仰をも、名誉欲をも、無視しないのである。
* プルタルコスの著書は Amyot の翻訳によって当時ひろく読まれていたのである。
** 徳という語の根本的な意味は、勇気、気魄、武徳である。
*** モンテーニュの軍職礼賛は所々によまれるが(索引「軍職」の項参照)、それは彼が殺戮を好んだからではない。そこには別に、いかにも彼らしい理由があった。拙著『モンテーニュを語る』八二―八四頁を参照せられたい。それに当時のフランス社会では、一般に剣の貴族が聖職者や法官貴族の上位にあった。帯剣貴族の家柄では、長男は必ず武人となり、法官や聖職者として高位につくのは二、三男のことと相場がきまっていた。モンテーニュ家、エーケム家がその好適例を示している。『モンテーニュとその時代』第一部第三章―第五章参照。
この章は一五五七年以後一五八〇年に至る間に書かれたものであろう。初期のエッセーに見られる書籍的な傾向が稀薄になって、大いに個性的な傾向を濃くしている。ことに書き出しの頁の中に、みずから描く企てを、自己の独創性として自ら明らかに意識しているところに、注目すべきであろう。恐らくこの時期にモンテーニュは、第一巻第二章から第一巻第二十章に至る諸篇の特徴をなしていた非個性的傾向を脱却して、一五八〇年の序文に述べているような態度方針をしっかりと把握したのであろう。同じ頃に書かれた第二巻第十章、第二巻第十七章等にも同じ傾向が明らかに認められる。
この章はモンテーニュ生来の温かい人間愛がしみじみと感ぜられる最も美しいエッセーの一つであるが、なかでもこの章の終りに読まれる猛将軍モンリュックの告白は、後年セヴィニェ夫人に涙なしには読むことができないといわせたものであって、わが国の儒教と武士道との間で大人になった多くの世の親たちの胸にも、しみじみと迫るものがあろうと思う。なお私はこの章全体を、師範学校教育によって練成された厳格な先生たちにも読み味わっていただきたいと思っている。
この章が献呈されたマダム・デスティサック Mme Louise d’Estissac はモンテーニュと非常に親しかった婦人で、一五六〇年にルイ・デスティサックと結婚し、一男一女をえたが、六五年、二十五歳で夫と死別。先夫人の遺児が二人あったため、相続問題が紛糾し、その後四十年間解決に苦労した。当章最初のパラグラフに述べられているとおりである。『モンテーニュとその時代』三九六―四〇〇頁参照。
この章はモンテーニュ生来の温かい人間愛がしみじみと感ぜられる最も美しいエッセーの一つであるが、なかでもこの章の終りに読まれる猛将軍モンリュックの告白は、後年セヴィニェ夫人に涙なしには読むことができないといわせたものであって、わが国の儒教と武士道との間で大人になった多くの世の親たちの胸にも、しみじみと迫るものがあろうと思う。なお私はこの章全体を、師範学校教育によって練成された厳格な先生たちにも読み味わっていただきたいと思っている。
この章が献呈されたマダム・デスティサック Mme Louise d’Estissac はモンテーニュと非常に親しかった婦人で、一五六〇年にルイ・デスティサックと結婚し、一男一女をえたが、六五年、二十五歳で夫と死別。先夫人の遺児が二人あったため、相続問題が紛糾し、その後四十年間解決に苦労した。当章最初のパラグラフに述べられているとおりである。『モンテーニュとその時代』三九六―四〇〇頁参照。
(a)夫人よ。めずらしさと・新しさとは、いつも物事に値打をつけましたが、まったく私もこの二つのものが救ってくれないなら、とうていこの愚かな企て*を、わが名を恥ずかしめることなしに、全うすることはできますまい。けれども私の企てはきわめて風変りなもので、一般の習慣から甚だかけ離れた顔付をしておりますから、或いはかえって大目に見てもらえるかも知れません。ほんとうに、メランコリックな或る気分が、従って私の生れつきの気質には甚だ反した或る気分が、数年前私が入りこんだ孤独の生活の哀愁からかもし出されて、始めて私の頭の中にこの物を書いて見ようという気まぐれを生ぜしめたのです。そして他に何一つ材料というものを持ち合せなかったので、私自らが私の前にまかり出てその論拠とも主題ともなったのでした。それは乱暴で・とっぴな・企て(c)から生れた、類を絶する天下に唯一つの書物(a)です。ですからこの仕事の中には、奇異ということのほかに注意に値するものは何もありません。まったくこんなつまらぬ卑賤な主題には、世の最も優れた工匠といえども、皆に重んぜられるような趣を添えることはとうていできなかったでしょう。さて夫人よ。私はここに自分の肖像を有りのままに描かねばならないのですから、もしここに私があなたの真価に日頃ささげている敬いの心を言い表わさなかったら、私はこの本の重大な特徴を忘れたことになりましょう。それにあなたのさまざまの良い特質のうち、あなたがお子たちに示されました愛情こそは第一に数えあげるべき特質の一つでありますから、そのことは是非ともこの章の始めに申しておきたいと思います。夫君のムシュ・デスティサックが幾歳の時にあなたを寡婦として残してゆかれたか。御身分の同じフランス貴婦人のたれかれに対すると等しく、その後あなたにもいかに高貴なご縁組が申込まれたか。またいかに堅固な御心をもって、あんなに長い年月、しかもあんなに辛い困難を通じて、フランスのあちこちであなたを苦しめた・いな今もなおあなたを取巻いている・お子様たちのいろいろな問題を、一身に引受けかつ処理せられたか。ただあなたの御分別または御幸運だけによって、いかに立派にそれらの問題を解決あそばされたか。そうした事情を知ったものは、容易に私とともに申すでしょう。「我々は今日、夫人におけるそれよりも著しい母性愛を見たことがない」と。夫人よ。私は母性愛がこのように立派に用いられたのを見て神を讃えるものです。まったく御子息ムシュ・デスティサックはいかにも末頼もしくお見受け致します故、御成人のあかつきは必ず良き息子として服従と感謝とをあなたに捧げられるであろうことは、少しも疑いございません。けれども彼はまだお小さくて、あなたから数多くお受けになったこの上なく大きな恩愛をお認めになることが今はまだおできになりません故、私はこの書物が、やがて私が口と言葉とでそれを申上げることもできなくなるであろう時、いつか彼の手の中に落ち、彼がその中の次のような私の証言をまったくそのとおりだとお思いになるよう、祈るものでございます。それは、もし神慮にかなうならば、彼自らお感じになるであろうところのもろもろの有難い事実によって、いよいよはっきりと彼に証明されることでございましょう。私の証言とは要するに「フランスにおいては、およそムシュ・デスティサックほど多くを母御に負うジャンティヨム〔貴族〕はないであろう。彼は将来そう自らお認めになる時にこそ、彼の善と徳とを、最も確かに示し給うであろう」ということです。
* sotte entreprise すなわち essais を書こうという企て。なお第一巻第八章、第一巻第五十章等参照。
(c)それにアリストテレス流に考えれば次のように申すこともできます。すなわち、「誰かに慈善をなす者は、自分が愛せられている以上にその人を愛している。恩をほどこす者は、これを受ける者よりも深く愛している。すべての工匠は自分の作品を、その作品から(かりに作品に感情があるとして)愛せられるであろうより以上に、深く愛している。我々にとって貴重なのは存在であり、存在は動作と行為の中にあるのだから。だから各自は、或る意味においてその作品の中にある。慈善をなす者は美しく尊い行為をするのであり、受ける者はただ有効な行為をするにすぎない。ところで有効な行為は尊い行為よりずっと愛らしくない。尊い行為は、これを行った者に変らぬ喜びを提供するから、安定しており恒久的である。有効な行為はじきに消え失せる。その記憶はさほどに鮮やかなものでもうれしいものでもない。物事は我々に苦労をかければかけるだけ、それだけ我々に貴いものだ。ところが取るよりは与える方がずっと困難なのである」と。
(a)神様は我々に多少推理の能力を賦与せられ、我々が動物のようにおめおめと一般的法則に盲従することがないよう、むしろ判断と意志の自由とによってこれに臨むように、して下さったのですから、我々は単なる自然の権威にも少しは譲らねばならないが、むざむざとこれに運び去られてはなりません。ただ理性だけが我々のもろもろの傾向を指導してゆかねばならない*のです。この私は、我々の判断の仲介なしに我々のうちに生れ出るあのもろもろの傾向に対して、至って鈍感でございます。例えば、私が今お話しかけている事柄についてもそうなのです。よく人は、その心に何の動きもあらわれず・その体にも少しも可愛いと思わせるような風情をあらわさない・生れたばかりの赤ん坊を抱っこしたりいたしますが、私にはああいう感情はどうも理解できません。(c)それで私は、彼らが私の身近において養育されることを欲しなかったのです**。(a)正常な真の愛情は、我々が彼らを知るにしたがって、発生し増大すべきものでございます。そしてその時は、彼らがこれに価するならば、われわれは、自然的傾向と理性との両方から彼らを真に父らしい愛情をもって愛さねばなりませんし、彼らがそれに値しなくても、やはり理性に服して、自然の力に逆らっても、彼らを正しく判断しなければなりません。ところが事実はきわめてしばしばその逆なのです。最も普通に、我々は子供たちの足踏みや小児らしい遊びや無邪気さにはひどく感動しますが、後に彼らの大人らしくなった行為に対してはかえって無関心なのです。まるで彼らを我々のひまつぶしに、(c)人としてではなく猿のように、(a)愛しているようなものです。ある人は子供たちの小さい時代にはきわめて気前よく玩具を買って与えたのに、彼らが成人してからは、ごく小さな出費にさえもけちけちしました。いやそれどころか、そろそろ我々が世間から引退せねばならない頃になって、子供たちの方が世間からちやほやされ出すと、それが妬ましく思われるのか、我々はますます子供たちに対してけちになるように思われます。(c)出て行ってくれと言わんばかりに(a)彼らが我々の後ろから追っかけて来るのはほんとにいやなものです。しかしそうなることが心配でたまらないなら、正直のところ自然万物の理法の上から、子供たちは我々の存在や生命を犯さないでは絶対に在ることも生きることもできないのですから、始めから我々は親父になんぞなろうとしなければよかったのです。
* ここに理性に関するモンテーニュの意向が明瞭に見られる。即ち、人間は動物と共通点をもつけれども、この理性によって自然的本能を制してゆく所に人間の価値があるとしている。それに理性も彼によれば、人間がとくに自然から賦与された特性なのであるから、少しも彼の持論たる自然に従うことと矛盾しないのである。これらの点は彼の思想の重要な点である。後に第二巻第十二章でも、理性を攻撃しているように見える条に出あうけれども、それとも決して矛盾してはいないのである。
** 彼自らかくさずに言っているように、彼は自分の子供をみな里子に出している。しかし彼自身、その父ピエールのあれほど可愛い子であったのに、やはり里子に出されているところを見ると、これは当時一般の習慣であったらしい。ここに述べているモンテーニュの理由を過重視してはならない。私の『モンテーニュを語る』二五頁、および二九頁参照。
なるほど人は、或る悟性のすぐれた殿様が言われたことをもって私に答えます。「自分が財産を握って離さないのは、もっぱら家族のものから敬い慕われるためで、ほかの何のためでもないのである。年齢は他のすべての力を自分から奪い去ったから、今やこれだけが、家庭の中で自分の権威を維持し皆の者から侮蔑をうけずにすむための、ただ一つ自分に残された薬なのである」((c)誠に老いばかりではありません、すべて弱さこそ、アリストテレスの申すとおり、人を
愛情によるよりも力によりて、
より堅固なる権威を保ち得るが如く考えるものは、
思うに、大いに誤れるものなり。
より堅固なる権威を保ち得るが如く考えるものは、
思うに、大いに誤れるものなり。
(テレンティウス)
(b)私は、おさない者の霊魂を名誉と自由とに向って育成しようという教育のなかには、ほんの少しの暴力もあってはならないと思います。厳格とか拘束とかの中には何かしら屈辱的なものがございます。私は理性により・思慮により・また巧妙によって・なし得ないことが、暴力などによってなされようとは思いません。私はそういうふうに育てられました。私は幼年時代を通じて、ただの二度しか
* これはモンテーニュがギュイエンヌ学院にあがる前のことであろう。学院では体罰は厳禁されていたから。前出一の二十六参照。
(b)私は三十三歳で結婚しましたが、アリストテレスの申したという三十五歳説に賛成するものです。(c)プラトンは三十にならないうちに結婚してはいけないと言っておりますが、もっとも千万にも、五十五歳を越えてなお結婚のいとなみをする人々を嘲っております。そしてそういう老人の子供は養育に値しないとしております。
タレスは結婚に最も正しい限界を与えました。彼は若かったころ結婚をせよと迫る母に向って「まだ早うござる」と答え、年をとってからは「もう遅うござる」と答えました。すべていやな事柄には適当な時機というものはない*と申さねばなりますまい。
* 結婚を欲しない者は結婚をしなくてもよい、というのがモンテーニュの持説であるらしい。しかし、結婚というものを軽蔑してもいないのである。ここでも哲学者としての考えと、良識人としての考えとが撞着する。索引「結婚」の項参照。
されどその時、若き妻と交わり、
子供らを得ていとも喜び、彼は
父たり夫たる情の内に、その勇気を弱くしたり。
子供らを得ていとも喜び、彼は
父たり夫たる情の内に、その勇気を弱くしたり。
(タッソー)
(c)ギリシアの歴史は、タラスのイコス、クリュソン、アスティロス、ディオポンポス、その他の人々について、彼らはオリュンピア競技や
テュニスの王ムレアセス*は、皇帝カルル五世が復位させたお方であるが、その父を回想するごとに、しばしば婦女と交わったからといって彼を非難し、彼を愚図・弱虫・子供製造人・と呼びました。
* テュニス王ムレイ・ハッサン Muley Hassan, roi de Tunis のこと。モンテーニュは、第一巻第五十五章の終りに、すでにこの人について述べている。死んだ父というのはその父マホメットで、三十四人の子供があったという。
(a)三十五歳の
* ジャンティヨムについては第一巻第二十六章二三〇頁の註参照。
分別してほどよき時節に汝が老いたる馬を捨てよ。
あえぎ倒れて人の物笑いの種となることを欲せざるならば。
あえぎ倒れて人の物笑いの種となることを欲せざるならば。
(ホラティウス)
早くから自分を認識することができず、年齢が自然に霊魂にも肉体にも、私の考えでは同じ程度に(もしかすると霊魂の方に少し余計かも知れませんが)、もたらすところの衰弱と極度の退化とを、自ら悟らないという欠点は、世の多くの偉人たちにその評判を失わせました。私は偉大な権威をもたれるお歴々が、その昔全盛の時代には私のごとき者までが承り知っている程の腕前を示されたのに、後にすっかりその評判を失われたのを、現に親しく見聞きいたしております。もっと早くから、もはや負うにたえなくなった文武の職をなげうち、引退して悠々自適なさればよかったのに、彼らの名誉のためにまことに惜しまれてなりません。私はむかし、奥様をなくされた、高齢の(もっとも老いてなお盛んなお方ではありましたが)、ある貴族のお邸によく出入り致しておりましたが、この方はお嫁入り前の多くの娘御たちと、すでにもう世に出てよい年頃の令息を一人、もっておられましたので、何かとおん物いりも多く、御来客も少なくなかったのですが、それが彼にはどうも面白くありませんでした。ただ倹約がしたいからばかりではなく、やはりお年のせいで、既に若い我々とは全くちがった暮し方をしておられたからです。或る日私は、例によってすこし大胆にこう申し上げました。「もうそろそろ若いおかたがたに席をお譲りになる方がよろしゅうございますよ。御本邸は令息におゆずりになって、近くの御領地に隠退なさる方がよろしゅうございますよ(まったくこの老人は唯そのお邸だけしか住みよいちゃんとした御家をもってはおられなかったのです)。そうなされば誰もそこまであなたの平穏な生活のお邪魔に参るものはございますまい。そうでもなさらなければ、こんなにお子様がおいでになるのですから、とうていうるさいことを避けることはかないませんよ」と。その後彼は私の意見をおいれになり、御満足を得られました。
もっとも、あとから取消しのできないようなそんな窮屈な約束によって譲れと申すのではありません。私もようやくこの役目を果すべき年頃に達しましたから、やがて家屋財産の享有を子供たちに委ねるつもりですけれど、必要な場合には自由にあとから取消しもできるようにする考えです。私はやがてそれらの管理を彼らに委ねるでしょう。それはもう我々老人にとっては楽でなくなるでしょうから。その代り、家事全般にわたる権威は好きな間じゅう私のものにして置くつもりです。私はつねに、こう考えて来たからです。「老いたる父親にとっては、自ら進んで家事の管理を子供たちに委ね、しかも命のつづく限り自分の経験から生ずる教示と意見とを彼らのために提供しつつ、自ら彼らの行状を牽制することもできれば、また自分の相続者たちの手を用いて自分の家の古来の名誉や格式を高めることもできるし、そうすることによって彼らの将来の行動についても十分の希望を抱くこともできるという風なのこそ、大きな満足であるにちがいない」と。いやそのためならば、私も子供たちと同居を避けようとは思いますまい。むしろはたから彼らのゆく手を照らしてもやり、年相応に彼らの楽しみや喜びをも相共にたのしみたいと思います。彼らと一緒に暮さないにしても(私はわが老年の気むずかしさや年来の持病のために、彼らの団欒を妨げずにはすみますまいし、私がその時に守るべき生活法や摂養法をも彼らのためにまげないわけにはゆきますまいから)、せめて屋敷うちの一隅にいて、彼らのそばで暮したいものです。最も威張ってではなく、最も安楽に。数年前に会ったあのポワチエの聖ヒラリウス僧院長のようには暮したくございません。彼はその憂鬱症のためにほんとうの孤独の生活をしておられました。私が彼の室を訪れました時は、二十二年来一歩も外に出たことがないと言われたほどでした。そのくせ立居振舞は自由達者で、ただすこしばかり胃の工合がわるいくらいのものでした。やっと週に一ぺんくらいは来訪者を引見せられましたが、そのほかはいつもただ独り部屋の中にとじ籠ったきりで、一日にただ一回下僕が食事を持って来るだけ、それもただ黙って入って来て黙って出てゆくというふうなのです。彼の仕事と申せば、室内を歩きまわることと何かの本を読むことでした(まったく彼は相当文学のたしなみがおありでした)。そしてひたすらこんなふうにして死にたいと願っておられましたので、やがて間もなくそのように御他界になられました。私なら、なごやかな交わりによって、子供たちの心の中に私に対する強い愛情と自然な好意とを養うことに、努めるでしょう。これは、相手が生れつきよい性質の子供たちなら、容易にえられることです。まったく、もしそれが(c)現代がわんさと産み出している(a)狂暴なけだものであるなら話は別です。それはそのつもりで憎み避けねばならないのでございます。私は(c)子供たちに「
* 大革命以前は、貴族の家庭では、子は父を monsieur と呼び、今日のように tu で呼び合うことはなかったのである。モンテーニュも、それは本当の私信ではなく書物のはじめの献呈文ではあったが、その父への手紙を monseigneur で始めている。
何も知らざるは彼のみなり。
(テレンティウス)
私は彼ほど主人の権力を保持するのにふさわしい、先天的および後天的諸特質を持つことのできた人を知りません。それなのに子どものように
* モンテーニュ邸近くに住むガストン・ド・フォワのことであるといわれる。
(b)夫に同調しないのは妻たちの癖でございます。(c)彼女たちは両手にあらゆる口実をつかまえて夫に反対いたします。出まかせの言いわけが彼女たちには完全無欠の弁明として役立つのです。私は或る細君がその夫から大金を盗んだのを見ましたが、その聴聞僧に懺悔したところによりますと、それは「もっと沢山の施しをしたいために」でした。たんと御信用なさいまし、この敬虔な御寄付を! どんな行いも、夫が同意したものであっては十分な権威がないかのように思っているのでしょう。彼女たちは、夫の同意を、或いはわるがしこく或いは乱暴に・つまりいつも不正不当に・奪い取ったのでなければ、その行いに風情も権威もないと思っているのです。只今のお話にあったように、(b)相手が哀れな老人であり、しかも事が子供に関することででもあろうものなら、さっそくこの名目をふりかざして、意気揚々とその欲望を遂げるのです。(c)そして今お話した下僕たちと同様に、まんまと御主人の支配権命令権を独占してしまいます。(b)もし子供たちがすでに成人した今を盛りの男の子ででもあれば、母子はさっそく、或いは威嚇により、或いは懐柔によって、家令をも家扶をも、皆従えてしまいます。妻も息子もないものは、なかなかこのような不幸におちいることはありませんが、その代りもっと悲惨なあさましい目にあいます。(c)大カトーは当時すでに、「下僕が多ければそれだけの敵がある」と申しました。ただ彼の時代と我々の時代とはその清さの程度がかなり違うので、「妻があり子があり下僕があればそれだけの敵がある」と警告しなかったのではありますまいか。(b)先が見えず無知であって容易に人にだまされるという有難い恵みは、老衰期には大変役にたちます。うっかりはむかったら一体どうなるでしょう。特に当節は、我々の紛争を裁決する裁判官までが、総じて子供の味方でありまた利害関係人なのでございます。
(c)或いは私もこの〔家族の〕欺瞞を見おとしているかも知れませんが、少なくとも私自身はなはだ
* この〔 〕内の句はボルドー本の中では横線によって抹消されているが、その線の引き方がモンテーニュの手らしくないといわれるので、ここに掲げたのである。
それで多くの著者たちも、このようにして、自分たちの主張の擁護をやりそこなっています。ひたすらその打とうとする相手の主張に向ってかけより、むしろ自分に投げ返される方がふさわしい矢を、敵に向って射かけている有様です。
(a)故モンリュック元帥殿*は御子息を失われた時(それはマデール島で亡くなられた方で、本当に勇敢な、大いにその将来を期待された武人であられたのですが)、いろいろな事を悔まれた中に、特に、ついぞ一ぺんも自分の息子に対して本心を打ち開けたことがなかったこと、そして、あさはかにも父親ぶった威厳を維持しようとするあまり、しじゅうこわい顔ばかりしていたために、少しもわが子の心持にふれてこれを理解する喜びをもたなかったばかりか、心の中では十分彼に対して深い愛情を抱いていたのに、また彼の徳に対してもふさわしい判断をもっていたのに、ついにそれを彼に知らせてやる機会までも永遠に失ったことはいかにも悲しい、それは腸をたたれるような思いである、としみじみ述懐せられました。そして「可哀そうにこの子は」と彼は申されました。「わたしの軽侮に満ちたこわい顔だけしか見ずにしまった。そして、――父には自分を愛することも自分の価値を認めることもできないのだ――と思いこんだまま逝ってしまった。いったい誰に告げようとて、わたしは心のなかの彼に対する深い愛情を胸の中にたたみこんでいたのか。わたしの心の中を知って心から喜び心から感謝してくれたであろう者は、当の息子ではなかったろうか。わたしはこのつまらぬ外見を失うまいと、自分をおさえにおさえて来た。そのために彼と語り合う喜びも、そして彼の愛情も、もろともに失ってしまった。彼はきわめて冷やかな愛情だけしかわたしにくれることができなかった。彼はわたしからきびしさのほかには何も与えられず、ただただ暴君のような振舞だけしか見せられなかった」と。私はこの嘆きを誠にもっとも千万なものと思います。まったく私が余りにも確かな経験によって知りましたとおり、愛する者を失った者にとっては、「わたしは彼らに何ものをも語り忘れなかった。わたしと彼らとは完全に理解し合っていた」と意識することにまさる慰めはないのです。
* ブレーズ・ド・モンリュック Blaise de Montluc. 当時勇名をうたわれた猛将軍の一人。そのプロテスタントに対する弾圧も残酷さで有名であったし、すこぶる好色でよく敵側の婦女を犯しもした。息子が戦死したのは一五六六年のことである。モンテーニュに言わせると残酷は臆病を母とするのだが、モンリュックは勇猛で且つ残酷であった。将軍が死んだのは一五七七年すなわちこの章は一五七七年以後に書かれたものであることがわかる。
(a)我々の先祖ゴール人の間にはいろいろ特殊な習慣がありましたが、その中に、カエサルのいうところによると、こんなのがありました。すなわち、子供たちはいよいよ武器を帯びる年頃にならなければ父の前に出なかったし、父と共に人々の前に出ることも敢えてしなかったのです。あたかも彼らは、そのときこそ父がその子供を近づけこれに親しむ時だと考えているかのようでありました。
私はなお当代の或る父親たちの間に、もう一つまちがった考えがあるのを知りました。彼らはその長い生涯を通じて子供たちにその生れながら当然うけられるはずの財産を分け与えなかったばかりか、その死後もなお自分の全財産に関してその管理の全権をそっくり妻の方にゆだね、彼女たちが思いのままにすることを許しております。現に私が知っている・わが王国の最高の官の一つにあらせられた・或る殿様は、当然年金五万エキュを得られるという期待をいだかれながら、五十を越えてなお不如意と負債との中になくなられました。その母君が非常な高齢でありながら、これまた八十歳近くまで生きられた父君の遺言によって、なおその全財産を握っていられたからです。これはどう考えても理屈に合わないように思われます*。
* モンテーニュが相続問題についてこのように言うのは、彼自らの経験があったからであろう。『モンテーニュとその時代』第四部第一章三五〇頁参照。
(a)子供たちが法の命ずるところに従って自ら財産の管理ができる年齢に達するまでは、万事母たちの管理に委ねるのは当然なことです。けれども、そういう年齢に達しさえすれば子供たちの方が、一般的にかよわい女である妻よりも多くの知恵と能力とを持つであろうと期待できないとすれば、それはその父の育て方が甚だなっていなかったということになります。けれどもまた母親を子供の意のままに委せるのも、ほんとうに、いよいよ自然に反することでしょう。とにかく彼女たちの家柄や年齢に応じて、その体面を維持してゆくにたるだけのものは、十分に彼女たちに与えなければなりません。貧困は、女性たちの方にこそ、男性たちにとってよりも、さらに不似合で堪えがたいものだからでございます。この重荷は母よりもむしろ子どもの方に負わせるべきでございます。
(c)一般に遺産分配の最も健全な方法は、その国の習慣に従って分配することであろうと思います。法律はこの問題を我々よりはよく考えています。我々自ら向う見ずな選択をして失敗するよりは、むしろ法律の選択に委せて失敗する方がまだましです。我々の財産は真に我々のものではございません。それは我々に関係なく、民法の掟によって特定の相続者にあてられているからです。それから、我々はそれを越えて多少の自由はもっていますけれども、誰かから運命がすでにその人のものとしているもの・一般的な法律がその人に与えようとするもの・を取り上げるのには、そのほかに重大な・誰が見てももっともな・理由根拠がなければならないと思います。この自由を我々の私的な・つまらない・気まぐれの道具とするのは、理に反する自由の悪用であると思います。有難いことに、私は運がよく、私を誘惑して私の愛情を一般的な法律の規定の外にそらすような機会にはあわずにすみました。私は長いこと親切を尽しても結局暇つぶしに終りそうな人々を知っております。ふとした一
我々はこの男子の代襲相続*を少し重視しすぎています。そしてこっけいにも我々の名を永遠にしようといたします。また子供時代の才知は当てにならないものであるのに、われわれはこれによって将来を推測しすぎます。私が兄弟じゅうでのみならず、私の
* substitution masculine. 女子に相続させると、これが他に嫁するとき財産をその方に持ってゆくからである。
** この辺に、モンテーニュがエーケム家一族の人々の眼に、日頃どのように評価されていたかがよく察せられる。母親の眼にも近隣農家の人々にも、ミシェルは決して頼もしい相続人とは見えなかったのである。
さて私の話に立ちもどると、(a)どうも私には、どういうわけか知りませんが、女というものは、あの母として天から与えられる支配力を別にすれば、いかなる場合にも決して男を支配すべきではないように思われます。ただし、いわば熱にでも浮かされたような心持で自分から進んで女の足もとにひれ伏した男どもを
それにこの人間自然の愛情も、一般に大そう権威あるものとされていますが、その実、はなはだ根拠の弱いものであることは、経験上容易にわかります。きわめてわずかな金をくれてやって、我々は母親たちの腕から彼女たち自らの子供をひき離し、その代りに我々の子供を彼女たちに育てさせています。そうしておいて、我々は彼女たちに、その子供たちを、我々だったらとうてい自分の子供をあずける気にならないようなみすぼらしい乳母に、すなわち
(c)ヘロドトスはリュビアの或る地方についてこんなことを語っております。そこでは人がたれかれの差別なく女と交わりますが、子供の方では漸く歩けるようになればよくその父を見分け、いくら男たちが大勢いても、自然の傾向に導かれて最初からその歩みを自分の父の方に向けるそうです。でもそこにはしばしば間違いが起ることだろうと思います。
(a)さて、「我々が子供たちを愛するのは、自分が産み出したものだからだ。それだからこそ我々は彼らを、もう一つの我々と呼ぶのだ」というあの単純きわまる理由をよく考えてみますと、どうも確かにもう一つ、我々から生れ出たものでしかも子供に劣らず大切なものがあるように思います。まったく我々が霊魂によって産み出すもの、我々の精神・我々の感情や才能・が産み出すものは、それこそ、我々の肉体的器官よりもいっそう高貴な器官から生れるものですから、いっそう我々のものでございます。これらのものを産み出す場合、我々は父であると同時に母でございます。この種の子供たちこそ、我々にとってはずっと大切なものなのです。もしそれらが何か良いところを持っていれば、いよいよ多くの名誉をもたらすものでございます。まったく我々のもう一方の子供たちのもつ価値は、我々のものであるよりはずっと彼ら自らのものです。我々がそれにあずかる部分はごく僅かなものです。ところが後に述べた子供においては、そのすべての美すべての風情および価値がそっくりそのまま我々のものです。だからそれらこそ、もう一方のものより、もっとはっきりと我々を表現し、我々を物語るのです。
(c)プラトンはなおも申しました。「こちらの方は不死の子供である。彼らはその父たちをも不死にする。いや、神にさえする。リュクルゴス、ソロン、ミノスなどの場合がそうである」と。
(a)ところで歴史の書物は、この、父の子供に対する普通の愛情の実例に充満していますから、その間から今申したような特殊な愛情の実例を幾つか捜し出すことも、私には不相応だと思われませんでした。
(c)トリッカの善良な司教ヘリオドロスと申す人は、その娘*を失うよりも、あれほど人に尊ばれる司教職の位と収入と信心とを失う方を好んだのでした。その娘は、今でもなお甚だ愛らしい姿をとどめていますが、なるほど聖職者の娘にしては余りに念入りにやさしく・否余りになまめかしく・化粧されているようです。
* その著『テアゲネスとカリクレイアの物語』Thagne et Charicle(Histoire Ethiopique ともいう)を指す。これは余りになまめかしい物語なので、著者はこの本を焼くか司教職をすてるか、二者択一を迫られ、ついに司教職を棒にふったと伝えられている。この本はアミヨの訳によってモンテーニュの時代、相当によまれたらしい。
(b)同様の出来事が、ブルートゥス及びカッシウスをその著の中でほめたかどで告訴された、あのグレムティウス・コルドゥスの上にも起りました。あの卑劣な・意気地のない・腐敗した・そしてティベリウスよりも悪い主人にふさわしい・元老院は、彼の書いたものを火刑にしたのですが、彼の方は自分の書いた物と死をともにすることを喜び、食を絶って自殺致しました。
(a)善良なルカヌスはあの卑劣なネロに裁判されましたが、いよいよその最期にのぞんで、死ぬために自ら医者に命じて切断させた腕の脈管からすでに大部分の血液が流れ去り、冷えが早くも手足の末端に来て、やがてその心臓の近くにも及んだとき、その記憶の中にたもっていた最後のものはファルサロスの戦いを歌った自分の本の中のある詩句であって、彼はその数行を口ずさんでいました。そしてその最後の句を口にしたまま死にました。これこそ、彼のその子供たちに対する優しい父としての暇乞いでなくて何でありましょう。いかにもそれは、我々が死に際して子供に与える暇乞いや抱擁に似ているではありませんか。またそれは、あの臨終の際に我々に、一生の中で最も愛したところのものを思い出させる、あの自然の情のあらわれでなくて何でありましょう。
エピクロスは、死に臨んで疝痛の激しさに苦しめられながらも、自分がこの世に残した教説の美しさをもって大きな慰めとしたと申すことですが、もし彼に子供があったとして、それらが皆立派に成人したとしても、果して彼はそれらの子供たちから、彼が自分で書いたその豊かな書物から得たほどの満足を受けたでしょうか。また、もし悪く生れついた愚かな子供をのこすか愚劣な書物をのこすか、その一つを選ばねばならなかったとすれば、彼はむしろ(彼のみではない、すべて彼のような才能ゆたかな人物は)、後の不幸よりも前の不幸の方を選びはしなかったでしょうか。例えば聖アウグスティヌスも、もしキリスト教のためにかほどに貴い貢献をしたその著作を埋めようか、それとも、仮に彼に子供があったとして、その子供の方を埋めようか、と言われたとして、もしも子供を埋める方を選ばなかったとしたら、彼も恐らくは不信心のそしりを免れないでしょう。
(b)いや私に致しましても、妻との接触からよりもミューズとの接触から申分のない立派な子供を一人産み出す方を、好まないとも限りません*。
* この句から、モンテーニュは子供を愛さなかったと断定してはいけない。これは例のパラドクスである。むしろこの章全体の中に、父の子に対する愛情の濃 やかさを読み取らねばならない。他の章節においても(二の十一、十八、三の十、十二、十三、等)それは十分に感じとられる。時に冷淡らしく見えることがあっても、それはことさらに自分の涙もろさをおさえている場合であるように思われる。或いは死児の年をかぞえる愚かな親たちを慰めはげますためでもあったように思われる。
* 自分の霊魂が産み出した子供、すなわち『随想録』。
(a)いやしくも詩に心を傾ける者で、ローマ第一の美丈夫の父であるよりも『アエネイス』の父であることの方を喜びとしないものはほとんどありません。後者を失うよりは前者を失うことの方が忍び易いと言わないものはほとんどないのです。(c)まったくアリストテレスの言うところによれば、あらゆる工匠のうち、詩人がいちばん自分の作品を恋慕するのです。(a)私は信じかねます。かねてエパメイノンダスは他日その父の誉れとなるべき二人の娘を(というのは彼がラケダイモン人をうち負かした二つの崇高な勝利のことですが)、永く後世にのこすのだとあれほどきばっていたのに、ついにそれらをギリシアで最も可憐な乙女二人と交換することに賛成したということを。また、アレクサンドロスとカエサルとが、その後つぎの子供たちを持つ喜びのために(いかにそれが完全無比の子供でありえたかは知らないが)、敢えてその輝かしい武功のほまれを奪われようと願ったということも信じられません。まして私は大いに疑います。フェイディアスが、いや誰かほかの優れた彫刻家であったか忘れましたが、彼の自然の子供の長寿長命を、彼が巧みをこらし長い間の研究と労作とによって完成することのできた立派な彫刻に対してと同じ程度に、こい願ったということを。それから、ときに父たちをその娘の愛に・母たちをその息子の愛に・燃えたたせるあの不徳な激しい情熱に至っては、これまたもう一つの親子関係の間にも同じように見出されます。それはピグマリオンの話をきいてもわかります。彼は絶世の美人の像をきざんだが、この自分の作品に対して狂おしい恋に身を焦しましたので、ついに神々もその心根をあわれみ、その像に命をふき入れてつかわされたと、言い伝えられております。
彼その指を象牙に触れたるに
その硬さ失われて柔らかくなりぬ。
[#改ページ]その硬さ失われて柔らかくなりぬ。
(オウィディウス)
(a)当世貴族の悪風は、いよいよ最後のどたん場にならなければ武器を取らず、少しでも危険が遠のいたと見ると忽ちに武器を捨てるということで、そこには柔弱の気風が十分に見られるばかりでなく、ためにいろいろと思わぬ混乱が発生する。まったく、すわ敵よという間ぎわになってからそれぞれが
(c)ティトゥス・リウィウスは我々の祖先について語った。全く疲労に堪える力なく、彼らの肩はその武器を荷なうに堪えざりきと。
(a)幾多の国民は、昔はもちろん、今でもなお、鎧を着ずに戦争に行く。或いは防御の役に立たないような着物で出征する。
(b)彼らはその頭部を鎧 うに樫 の皮をもってせり。
(ウェルギリウス)
アレクサンドロスは最も危険をおそれぬ大将で、鎧など着ることははなはだ稀であった。(a)我々の間にも、そんなものは馬鹿にして着ないものがあるが、決してそのために不覚を取ることはない。甲を着なかったために殺された者もいくらかあるけれども、かえって武器が邪魔になって、つまり、それが重かったり、それが何かのはずみに自分を傷つけたりして、命をとられたものの数もまた、決して少なくないのである。まったく正直のところ、我々の武器の重さや厚みなどを考えてみると、どうも我々は自分を守ることにばかり努めているように見える。(c)いや、これに守られているというよりもこれをしょわされているという恰好である。(a)それは実に窮屈なもので、こんな重荷はただ背負って歩くだけで相当くたびれてしまう。まるで我々は武器と武器とのぶつけ合いだけで戦っているみたいである。まるで武器は我々を保護してくれないのに、我々の方には武器をかばってやらねばならない義務でもあるかのようである。
(b)タキトゥスは、我々の祖先であるゴールの戦士たちがひたすら自らを守ろうとしてこのような武装をした結果、傷つけられることも・進んで敵を傷つけることも・ころんだら最後起き上ることさえ・できずにいる有様を、面白おかしく描いている。ルクルスはティグラネス軍の戦線に控えたメディアの兵士たちが、いかにも重たげに窮屈そうに鎧を着て、あたかも鉄の牢にでもはいっているかのような姿を見て、これを負かすことは易しいものだと考えた。そして先んじて彼らを攻撃し、勝利をえた。
(a)また今日ではわが銃士たちが重宝されているから、やがてこれに対して味方を掩護する何かの発明がなされるであろうと思う。例えば古人がその象に運ばせたそれのような一種の
こういう考え方はスキピオ・アエミリアヌスの考え方とは大分ちがっている。この人は或る城をかこんだとき、部下の兵士たちが、城内の者どもが打って出そうな場所の堀の水の中にわなを仕かけたのを見て、きびしくこれを叱責し、「攻め手の方はもっぱら攻め入ることを考えねばならぬ。自ら襲われることを考えてはならない」と言った。(c)このような備えが攻め手の用心に少しでも油断を与えては大変だと考えたのは、もっともなことである。
(b)彼はまたその美しい楯を自慢した若者に向ってはこう言った。「おお、いかにも立派な楯じゃ。だがローマの武士は、左手よりも右手の方に多くの自信をもたねばならぬぞ」と。
(a)さて、我々が甲冑を着て重たがるのは単に習慣である。
わがここにうたう二人の軍士は、
背には鎧を着、頭にはをいただけり。
夜も昼も、彼この城に入りしその日より
一刻もその武具を脱ぎしことなかりき。
彼は常の衣のごとくそれをやすやすと着こなしたり。
背には鎧を着、頭にはをいただけり。
夜も昼も、彼この城に入りしその日より
一刻もその武具を脱ぎしことなかりき。
彼は常の衣のごとくそれをやすやすと着こなしたり。
(アリオスト)
(c)皇帝カラカラは隙間なく身を鎧い、徒歩で、その大軍を率いながら、山野をかけめぐった。
(a)ローマの歩兵はただに冑と剣と楯とを帯びたばかりではない(まったく武具なんかは、キケロが言ったように、それらを背負うのにきわめて慣れていたから、手足も同然、すこしも邪魔にはならなかったのである。(c)まことに兵士たちの武具はその四肢と異なるところなかりき)。(a)それとともに十五日分の食料や、
それに、ローマの戦乱の間に人となったマルケリヌスは、丹念にパルティア人の帯びていた武器のことを特記している。それは彼らの武器がローマ人のとはよほど異なっていたからである。「彼らは」と彼は言う。「小さな羽のように織りなされた鎧を着ていた。それは彼らの体の運動を妨げなかったばかりでなく非常に堅固であったから、我々の槍はそれに当るとはね返った」(これは我々の祖先が大いに使いなれていた
(b)屈伸自在の金属の鎧は
その包む四肢の生命を帯びるにや、
遠くこれを望むに驚くべし、
あたかも黒鉄 の人像歩むがごとく、
鎧が生きたる軍士と化したるがごとし。
馬もまた、同様に鎧 いたり。
首には重き冑を戴き、
腹にも鎧をつけたるまま、
悠然として進退せり。
その包む四肢の生命を帯びるにや、
遠くこれを望むに驚くべし、
あたかも
鎧が生きたる軍士と化したるがごとし。
馬もまた、同様に
首には重き冑を戴き、
腹にも鎧をつけたるまま、
悠然として進退せり。
(クラウディアヌス)
(a)この描写こそ、隙間なく鎧を着たフランス武士の装いによく似ているではないか。
プルタルコスの言うところによれば、デメトリオスは自分のために、また彼に次ぐ第一の武士アルキノスのために、いずれも重さ百二十斤の大鎧を造らせた。普通の鎧はせいぜい六十斤位のものにすぎないのであるが*。
* モンテーニュは日頃、フランス貴族の特性、その唯一の本質的な特性は軍職にあると信じ、自らジャンティヨムたることにいささか誇りも持っていたのであるが、今や現実はそうでなくなった。むしろ軍人らしくない貴族が幅をきかせている。モンテーニュはここに、淡々と古今の武器の比較をしながら、腐敗堕落した当世を慨嘆し、偉人に充満していた古代への憧憬と感歎の情を吐露している。
この章は一五七九年か八年に書かれたものと推定されるが、すでにまったく個性的なエッセーになっている。彼はその知的趣味を通じて遺憾なく自己を描いている。この章の興味はここに書かれている事柄ではなくて、その趣味判断を通じてうかがわれるモンテーニュその人の姿である。そこには彼の根本思想を見出す鍵すらかくれている。だが彼がウェルギリウス、ルクレティウス、カトゥルス、ホラティウスについて述べている判断も正しい。その点で彼は近世のいわゆる印象批評家の先駆をなしていると言えるであろう。
(a)たしかにわたしは、その道の大家たちが、すでにずっと立派に、ずっと正確に論じている事柄について語りだすことがしばしばある。だが、わたしがここにお目にかけるのは、もっぱらわたしのもって生れた能力の
(c)いやわたしは、多少は本も読んだ男であるが、てんで覚えていることのできない男なのである。
(a)だからわたしは、いかなる確実をも保証しない。ただ、今のところどれほどまでの知識を持っているかを、お知らせするだけなのである。どうかどんなことが書いてあるかに期待をかけず、わたしがそれをどんなふうに取扱っているかに注意して下さい。
(c)どうかわたしが、わたしの借用しているもののなかに、果して自分の主題に重きを加えるにたるだけのものを選びえているかを、見て下さい。まったくわたしは、或いは自分の言葉の弱さにより或いは自分の判断の弱さによって、自分一人ではうまく言えないことを、他人に言ってもらっているのだ。だがその借用の数は問題にせず、その重さを重要視している。もし数の多いことによってそれらに価値をつけようと思ったのなら、わたしはこの二倍もしょい込んだであろう。それらはみな、でないまでもほとんどみな、きわめて有名な古代の名であるから、わたしがそれを誰と言うまでもなく、かなり明らかに推察されると思う*。わたしはそれらもろもろの理由と創意とを自分の畠の中に移し植えて、わたし自身の理由創意と混ぜ合せているが、その時もまた、わざとその作者の名をあげるのを略したこともある。それはあらゆる書物が・特に現存の人々により俗語で書かれた新しい書物が・こうむる、あの早まり行きすぎた批評をおさえる*ためである。この俗語の書物はとかく有象無象の批評をあびがちであるし、またその思想や主張までが凡俗なもののように取扱われがちである。わたしはみんなが、わたしの鼻先をねらってプルタルコスの鼻に一はじき食らわしてみろ、わたしのつもりでうっかりセネカに悪口でもあびせてみるがいい、と思っている。わたしの力弱さはこういう大きな信用の下にかくさねばならないのであるが、誰でもいい、このお化粧をひんむいてほしいものだと思う。つまり、明晰な判断により、ただ論旨の力と美とを見わけることによって、借りものとわたしのものとを区別してほしいということだ。まったく、記憶がわるくていつも国の名別にそれらをよりわけることもできない*このわたしでさえ、自分の力を量ってみれば、自分の畠がそこに
* モンテーニュは以上三つの理由によって、いつも引用句に一々作者の名を添えることをしなかったのであろう。だから、本訳書においては、後世の諸版或いは英訳本にならって、一応括弧内にそれを示すことにしたが、その出典は一々註しなかった。「国の名別」とは、出典がギリシアかラテンかという区別を意味する。また俗語というのは、ラテン・ギリシア両語が学者の言葉であるのに対して、フランス語をさしている。
** 要するにモンテーニュが古人の句を引用するのは、第一に自分の意見所論を支持強調し、或いはこれに箔 をつけ勿体 をつけるため、第二に、これは自分だけの考えではなくすでに古人も言っていることだと、自分の責任を回避するため、いわば避雷針ないしカムフラージュの役目をさせるため、第三には危険な或いはエロチックな、いずれにしても余りはっきり言っては差しさわりのある事柄を婉曲に代弁させるため、第四にはユマニストとしての古人尊重或いは尚古趣味から、であった。だから引用の中に案外重大なその章の眼目ないし結論がかくれていることもあれば、単なる本文の反覆にすぎないこともある。モンテーニュのフランス文と渾然一つになっているのもあれば、とってつけたようにつぎ木されたものもある。或いはモンテーニュの文章の自然の流れを阻害し徒らに文章を混乱させている所もあるし、それがかえってカムフラージュになっている場合もある。自然にそういう結果になったと思われる所もあれば、わざとやってるのかなと思われる場合もある。
* sergent de bande. 一定の作戦計画によって部隊を各所に配置する人、つまり参謀 sergent de bataille のことである。
(b)これこそ、わが馬の馳 せ向う目標なれ。
(プロペルティウス)
(a)本を読んでいてふとむつかしい問題にぶつかっても、わたしはそのためにいつまでも爪を噛んではいない。一ぺんか二へん攻めてみてだめならば、あとはそのままほったらかすことにしている。
(b)いつまでそこに突っ立っていたところで、ますます途方にくれるばかり、時間を失うばかりである。まったくわたしは気が早くせっかちなのだ。第一の攻撃でわたしにわからぬことは、執着すればするほどわからなくなる。わたしは気がはずまなければ何一つしない。長びくこと(c)や過度の緊張(b)は、わたしの判断をくらくらさせ、悲しくし、疲らせる。(c)わたしの鑑識はそのために混乱し分散する。(b)わたしは自分の判断をよびもどしゆすぶって、それを正気にかえさなければならない。ちょうど赤地の錦を鑑別するときに、少し離して、ちらちらと、何度にもわたって、布地全体の上に眼をはせよ、と言われるのと同じことである*。
* 以上のモンテーニュの告白は、前出一の十の終りの部分と共に、モンテーニュの本質、その根本思想を明らかにするのに役立つ。また後出三の十において、「意志を節約する」というが、それは学問においても政治においても、虚静恬淡 を説く老荘の思想に通ずるものをもっている。
* これは衒 いでも何でもない。正直な告白である。彼がその隠棲時代にさえ政治的活動をやめなかったことは、巻頭の解説でも巻末の年表でも指摘したとおりである。
** ギリシア語はモンテーニュにとって余り得意ではなかったらしい。ときにギリシア原文も引用したし、書斎の天井にもギリシア語を銘記したが、ギリシア作家はたいていラテン訳によって読んだのである。ラテン語の方は彼にとって母語同然であったから(一の二十六参照)。なおモンテーニュは、プルタルコスから最も大きな感化をうけたが、彼はこのプルタルコスを、アミヨのフランス語訳で読んだ。やはり生半可なギリシア語によらずに、信用ある人のフランス訳で読んだのである。前出二の四参照。
* ボッカチオはともかく、ラブレ Rabelais をただ単に「面白いだけの書物」として挙げているのは、もとより故意であろう。
** 『接吻』Basia はラテン語の詩集であるが、著者はオランダ生れの詩人で本名 Jean-Everaerts ラテン名を Secundus と言った。フランスでは Jean Second で通っていた(一五一一―一五三六)。
だがもう一度書物の話をつづけると、詩の方ではウェルギリウス、ルクレティウス、カトゥルス、ホラティウスが、ずばぬけて最前列を占めているように、いつもわたしには思われた。特にウェルギリウスがその『田園詩』において群を抜いている。これこそ詩の最も完全な作品だと思う。これにくらべるとあの『アエネイス』の中には、もし作者にその暇があったならば恐らく幾回かの推敲を加えたであろうと思われるふしぶしがあるのを、人は容易に認めることができる。(b)だから『アエネイス』の中では、その第五冊が最も完全なものに思われる。(a)わたしはまたルカヌスを愛し、好んでこれに親しむ。それは彼の文体のためにではなく、彼特有の価値のため、彼の意見判断の真実性のためである。名人テレンティウスについていうならば、彼はラテン語の優婉・優雅を持っていて、霊魂の動きや我々人間の気質性格のさまざまをさながら生きているように描いている点において、すばらしいと思う。(c)わたしは人間の一挙手一投足にあうごとに、いつも、彼の描写を回想させられる。(a)わたしは幾度読みかえしても、そこに何か新たな美しさと趣とを見出さずにはいられないのである。ウェルギリウスに近い時代の人々は、誰だかが彼とルクレティウスとを比べたことを嘆いた。それは本当に不釣合な比較であるとわたしも考えるが、ルクレティウスの詩の美しい箇所に引きつけられるときには、ただ不釣合だとばかり信じているわけにもいられないように思われる。ウェルギリウス時代の人々はこの比較にさえ憤慨したくらいだから、今日彼にアリオストを比較する人々の野蛮人のような愚かさについては、果して何と言うであろう。いや、アリオスト自ら何と言うであろうか。
おお粗野にして趣味なき世紀よ。
(カトゥルス)
わたしはこう考える。古代の人々はルクレティウスをウェルギリウスに比べることに対してよりも、むしろプラウトゥスをテレンティウスになぞらえることをこそ(後者〔テレンティウス〕の方がずっとよくその紳士らしさを感ぜしめる)、いっそう慨嘆すべきではなかったかと。テレンティウスの方が尊重され、愛好されるのには、(c)ローマにおける雄弁の父〔キケロ〕が、彼を、その仲間の中でただ彼ひとりだけを、しばしば口にしたことが大いにあずかっている。それはまたローマの詩人たちの第一の判断者と言われたホラティウスが、プラウトゥスの方をこっぴどくこきおろしたためでもあった。(a)わたしはしばしば、現今喜劇の創作にたずさわる人々が(例えばこれにかなり長じているイタリア人などが)、テレンティウスやプラウトゥスの喜劇から三つ四つの主題を借りてまんまと自分の喜劇の一つを作り上げていることを思い浮べた。彼らはただ一篇の喜劇の中に、ボッカチオの物語の五つ六つを詰めこんでいる。彼らがそのように沢山の材料を一度にしょいこむのはなぜかというと、彼らには自分みずからの風趣だけで持ちこたえてゆくだけの自信がないからである。そこで彼らは何かよりかかるものを見つけなければならない。ところが自分のものには我々を引きとめるに足るだけのものがないから、ひとの物語によって我々をひきとめようとするのである。わが作者〔テレンティウス〕においてはまったく反対である。彼の表現の完全にして善美なるを見れば、我々は彼に主題の面白さを要求することを忘れてしまう。彼の婉にして優なる趣がいたるところで我々を引きとめる。彼はどこもかしこも面白いから、
清らかなることさながらに澄める流れのごとし。
(ホラティウス)
そして、彼自らの優雅な趣をもって我々の心を充たすから、我々は筋の面白さなんか忘れてしまうのである。
わたしはこの同じ考え方を、もっと押しひろめたい。わたしの見るところでは、古代のすぐれた詩人たちは、たんにスペインふうやペトラルカ流の気紛れな誇張は勿論のこと、後世のすべての詩作の飾りとなっている・ずっとおとなしくつつましやかな・あの警句をさえ、あえて模倣しようとはしなかった。けれどもよい批評家である限り、これらの古人にこのような特質が欠けていたと見る者は一人もない。みんなカトゥルスのエピグラムに見られるむらのない艶やかさや、あの常に変らない花のような優しさ美しさの方を、マルティアリスがそのエピグラムの終りに含ませた諷刺とくらべて、比較にならないほど高く評価する。実にこれと同じ理由で、わたしはいましがた言ったのである。ちょうどマルティアリスが自らについて言ったとおりに、彼は多くの努力をなすに及ばざりき。彼においては主題が機知の代りをなしいたればと。さきにあげた人たちは、感動もせず興奮もせずにかなりよく自分の想いを表現する。彼らはどこへ行っても自然に笑いがこみあげて来る。わざと自分をくすぐる必要はないのである。後に述べた人々の方は、外部の助けを必要としている。機知がたりないだけ、それだけ話や筋がいるのである。(b)彼らは馬にのる。徒歩でゆくことができないからだ。(a)ちょうど我々の舞踏会において、舞踏を教えるのを商売としている卑しい身分の人たちが、わが貴族たちの上品な態度を真似ることができないもんだから、あぶなっかしいとんぼ返りや、その他いろいろと軽業師まがいのめずらしい運動なんかをして、認めてもらおうと努めているのと同じことである。(b)また婦人たちにとっても、いろいろな身振りやしなを作って見せることのできる舞踊の方が、恰好をとるのにやりやすい。かえって、ただ自然の足どりで進み・天性の姿態とその平常の愛嬌とを示しさえすればよい・あの儀礼的舞踊の方が、はるかにむつかしいのである。(a)なおわたしは見たことがある。優秀な道化役者は普通の着物を着、あたりまえの顔つきをして、ただその芸によって我々に十二分の娯楽を与えた。ところが、それほどの腕に達しない駈け出しの者どもは、顔を真白に塗り、色々な扮装をし、妙な腰つき野蛮なしかめ面までもしなければ、我々を笑わせることができないのであった。このわたしの考え方は、『アエネイス』と『オルランド・フリオソ』とを比較する場合に、他のどんな場合よりも明瞭になる。見たまえ。前者は羽ばたきをしてたつと、その目ざすかたへ一路はるかに、悠々と飛んでゆくではないか。しかるに後者は、その翼が遠く飛ぶのに堪えないことをあやぶみ、あたかも板から板へとび渡るように、物語から物語へと転々している。息が切れ力が尽きることを恐れて、ちょいと飛んだかと思うともうそこにおり立っている。
かれの試みる飛行は短し。
(ウェルギリウス)
以上がこの種の著作家の中でわたしの最もすきな人たちである。
わたしのもう一つの読書、楽しみの中にいくらか効果のまじる読書、わたしがそれによって自分の考えや気質を調整することを学ぶところの読書、つまりそういう点でわたしに役立っている書物は何かというと、それはまず、フランス語訳ができて以来はプルタルコス、次にセネカである。この二つはいずれも極めてよくわたしの気性に
(a)キケロについて言えば、彼の著作の中でわたしの企てに役立ちうるのは、哲学・特に道徳哲学・を論じたものである。だが思いきって本当のことを白状すれば(まったく、一度無作法の
* 王の布告を宣布する役人は、四辻に立ってまずラッパを吹いてから、このようにOr oyez!と叫んだのである。
わたしは一般に、もろもろの学問を活用した書物を求めているので、それらを創始する書物には用がない。
(a)一番始めに挙げた二人〔プルタルコスとセネカ〕、それからプリニウス、およびこれらの人々に類する人たちは、決して心せよをやらない。彼らは、自分からそれに気がつくような人々だけを、相手にしようと思っている。たまにそれをやることがあっても、それはなかみのある心せよであって、別にちゃんとした内容をもっている。
わたしはまた、よくキケロの「書簡」アッティクスに与えるを読む。彼の時代の歴史や事件に関して広い情報を与えられるからばかりではなく、むしろここに彼のひめたる思想を見出しうるからである。まったくわたしは、ほかでも言ったことがあるように、わが著者たちの霊魂と正直な判断とを切に知りたがっているのである。なるほど彼らの才能の方は、彼らが世間の舞台の上にひろげて見せるその文章の外観によって判断してもよいが、決してそんなもので彼らの心性や人間を判断してはいけない。わたしはブルートゥスが徳について書いた書物が失われたことを幾度となく惜しんだ。まったく、実践にたけた者から理論を学ぶことは心持のよいことである。けれども説教と説教者とは別物なのであるから、わたしはブルートゥスを彼自身の中に見ることもすきだが、プルタルコスの中に見ることはいっそう好きである。わたしは、彼が戦争開始の朝その軍隊の前で述べた演説よりも、むしろその前日天幕の中で親しい友の誰かれと交わした談話の方を、彼が広場や元老院のただ中で語ったことよりも、その書斎や居間で洩らしたことの方を、正確に知りたいのである。
キケロに関してはわたしは一般の判断に賛成する。まったく学問以外に彼の心の中には別に優れたところはなかったのである。彼は、彼のようにでっぷりした快活な人たちが大抵そうであるように、たしかに天性きわめて善良な市民であったけれども、怠惰なところも大それた虚栄心をも正直のところ多分にもっていた。いや実に、わたしは彼が自分の詩作を公表されるに値すると考えたことについて、どう言って彼のために申訳してやったらよいかを知らないのである。下手な詩を作るということは大きな欠陥ではないけれども、それらの駄作が自分の光輝ある名にどれほど値しないかということを悟らなかったのは、つまり彼に判断が欠けていた証拠なのである。だがその雄弁の方は、絶対に類を絶している。この点では後世彼と肩をならべるものはないであろうと思う。
小キケロはその名だけしか父に似なかったが、アジアを統治していた頃のこと、或る日、彼のテーブルに見知らぬ人たちが大勢坐っていた。ケスティウスも人々に交ってその末席に坐っていた。えらい人の振舞のテーブルには、よくこんなふうに人々が割り込んだのである。キケロは気がついて、下僕の一人にあれは誰かときいた。下僕はさっそくその名を告げたのだが、彼は何か考えごとでもしているかのように、そしてその答えられた名前をわすれてしまったかのように、その後二たび三たび同じことをききかえした。下僕は幾度も同じことを繰りかえさないですむように、何か特別の事柄と結びつけてわからせてあげようと思いついて、「あれこそ」とその男は言った。「御父君の御雄弁を、自分の弁舌と比較して大して尊びもしなかったという評判のある、あのケスティウスめにございます」。キケロはこれを聞くと急に腹を立て、可哀そうに、このケスティウスを捕えよと命じ、自分の面前でしたたかに鞭うたせた。さりとは場所柄もわきまえぬあるじ殿ではある。
すべての点を考量した末、なおこのキケロの雄弁を比類ないものと評価した人々の間にも、やはりそこに多少の欠点を挙げるのを忘れなかった者がある。例えば彼の友であった大ブルートゥスも、それは「へなへなの腰のくじけた」雄弁じゃ、と言った。彼よりやや後れて出た雄弁家たちもまた、彼がその章句の終りにあの長い拍子を置くのに意をもちい過ぎたことを非難し、また、彼がそこにしばしば用いたesse videatur〔ものの如し〕という語を指摘した。わたしはもっと短い短長格をなす拍子の方がすきだ。けれども彼は、ときに、稀にではあるが、そこに
歴史家はわたしにとって右手の球である*。彼らは面白くてやさしい。と同時に、(c)わたしが知ろうと努めている人間一般が、そこに他のどんな場所におけるよりも、生々と・完全に・現われている。人間の内面生活の変化と真相とが、総体的にも部分的にも、そこに現われている。人間全体を構成する要素がさまざまであり、それをおびやかす出来事もまたさまざまであることが、そこにあらわれている。(a)ところで伝記を書く人々は、事件よりも意図に、外面に現われる事柄よりも内面より発する事柄の方に、より多くの関心をもっているから、いよいよもってわたしにふさわしい。だから、何ごとにかけてもプルタルコスこそはわが党の士である。ラエルティオス**が十二人ばかりもいないのも、彼がもっと広く知られ・(c)もっとよく了解され・(a)ていないのも、大変悲しい。まったく、これら世界の大教育者たちの運命や生活もまた、種々雑多な彼らの学説思想に劣らず、わたしが興味深く考察するところなのである。
* ポーム(jeu de paume=tennis)の用語である。右手に飛んで来る球は打ちかえしやすい。下手が得意とするところの球である。
** ディオゲネス・ラエルティオス Diogne Laerce. ギリシアの伝記家。その著『有名なる諸哲学者の生涯、学説および思想』のラテン訳は、モンテーニュの愛読書であったらしい。解説批評はなく、たださまざまな挿話的事実を満載した書物で、モンテーニュはしばしばそれらを借用している。
わたしはきわめて単純な・でなければ真に優秀な・歴史家がすきである。単純な歴史家は、そこに何か自分のものをつけ加えるだけの力がない。ただ丹念克明に自分の耳や目にふれるものを全部拾い上げて、すべてを正直にえり好みせずに書き記すだけであるから、真実の識別に対して少しも我々の判断を拘束しない。例えば善良なるフロワサールが特にそうである。彼はその企てを進めるに当ってきわめて正直素朴であった。何か一つ過ちをおかせばすぐにこれを認め、それと気がつくとすぐその場所で訂正したほどである。そして世上に伝えられるさまざまな流言もそのままに示し、人からきいたいろいろな風聞も洩れなく語っている。これこそ掘り出されたまま少しも手の加えられてない資料であって、各人はそれぞれ自己の悟性に応じてそれを利用することができるのである。一方、真に優秀な歴史家は、知られるに値する事柄を選択するだけの力があるし、二つの風聞のうち、より真実らしい方を選抜するすべを知っているし、君主たちの境遇や性格から彼らの意中を推論して、彼らにいかにもふさわしい言葉を吐かせる。このような歴史家が、断乎として我々の所信を自分のそれに従わせようとするのは当然なことである。だがこのようなことは、まったく誰にもできることではないのである。以上どっちにもはいらぬ歴史家たち(これが一番普通な連中であるが)、これらの人々こそ何もかもめちゃくちゃにしてしまう。彼らは物を噛みくだいてくれたがる。彼らは勝手に断定する。従って歴史を自分の気まぐれに従わせる。まったく、一度判断が或る一方に傾くと、人はどうしても叙述をその方へその方へと曲げずにはいられなくなるのである。彼らは知られるに値する事柄を選ぼうと企てる。そして、それよりももっと我々に教えるところが多いかもしれない或る言葉ある私的な行為などを、しばしばかくしてしまう。自分が理解しない事柄は信じられないこととして省いてしまう。いや、ことによると、或る事柄なんかはうまいラテン語或いはフランス語で言い表わせないからといって省いてしまうのである。もちろん大胆にその雄弁と推理とをならべたててもいいし、自分の思うとおりに断定するのもよい。だが同時に、後に我々が判断するだけの余地を残しておいてほしい。その短縮やその選択によって、資料その物を変更したり、あんばいしたりしないでほしい。いや、それを、もとの寸法どおりにして、そっくりそのまま返してもらいたい。
最もしばしば、とくに近い諸世紀においては、人はただ、その人がうまく話すかどうかだけを考えて、この歴史を書く人々を俗衆の中から選んでいる。まるでそこに文法でも学ぶ気でいるかのように! だから彼らが(だって彼らはただそのために傭われたのであるから、ただお
* ジャン・ボダンの著『歴史上の事実の真否を容易に知る方法』J. Bodini: Methodus ad facilem historiarum cognitionem を指す。
次のはわたしが十年ばかり前に、わがグイッチャルディーニ*の中に書き込んだものである(まったくわたしの読む書物がどこの国語で語っていても、わたしはそれらについて自国語で語るのである)。「彼は周到な史伝家である。人は彼から、正確にその時代のもろもろの事件の真相を知ることができると思う。それに多くの場合、彼自らその役者であり、しかもそこに名誉ある役を演じたのである。彼が憎悪や依ひいきや虚栄のために事実を変えたふうは少しもない。それは彼が多くのえらい人々、特に自分を引き立て要職につけてくれた人々、例えば法王クレメンス七世などに与えた自由な判断などによって証せられる。その最も得意とするらしく思われる部分、それは彼の余談と議論とであるが、そこにはなかなかすぐれたもの・また警句にとんだもの・がある。けれども彼はそこにあまりにも
* イタリアの政治家で歴史家 Franco Guicciardini の Dell’ Historia d’Italia.
ムシュ・デュ・ベレの記録*には次のような書入れがある。「物事がそれらをいかに指導すべきかを経験した人々によって書かれているのを見ることは常に愉快である。けれどもこの二人の貴族においては、昔の歴史家、すなわち、聖ルイの腹心であったシール・ド・ジョアンヴィルや、シャルルマーニュの大法官エジナールや、さらに記憶に新たなものとしてはフィリップ・ド・コミーヌなどに輝いている、あの率直自由な書き振りが大いに欠けていることは明白であって、とうてい否定することができない。これは歴史というよりはむしろ皇帝カルル五世の非難に対して王フランソワを弁護した本である。わたしは彼らが事実の大筋に関して何か変更を加えているのではないかなどとは考えたくない。しかし事件の判断をしばしば理性に反しても我々に都合がよいように曲げたり、自分たちの主君の生涯におけるいかがわしい事柄はすべてこれを省略したりするようなことは、彼らの常套手段であった。たとえば、ムシュ・ド・モンモランシーやムシュ・ド・ブリオン**が不興を蒙って引退したことなどははぶかれている。それどころかマダム・デスタンプの名前さえ見出されない。かくれた行為は隠したっていい。けれども万人周知の事柄、公然の・そしてあれほど重大な影響を引きおこした・事柄を黙殺しているということは、許しがたい
* mmoires de Monsieur du Bellay とモンテーニュは書いているが、次の行に「この二人の貴族」とあるとおり、Martin du Bellay と Guillaume du Bellay という兄弟によって書かれた記録のことである。
** 二人ともフランソワ一世の不興をこうむった人。特に後者は、次の行にモンテーニュが名指しているフランソワ一世の愛人マダム・デスタンプの庇護を受けて、やっと命が助かったといわれている。
この章もまたはなはだ愛すべきエッセーである。ドナルド・フレームによれば、一五七八―一五八〇年に近く書かれたものらしく、ここに来るとさすがにモンテーニュは自分の流儀をすっかり手に入れている。まず標題に示された主題からはわざとはずれた問題から始めて、いつのまにか巧みにその主題に接近してゆく。しかもそこにはなんらプランらしいものが感じられない。そしていたる所に自分の回想や経験や判断が、はばかることなく述べられている。
この章では二つの問題が取り扱われている。一つは徳、もう一つが残酷である。彼の徳に関する考え方はようやく初期のエッセーに見られるストア的なところを失って、ここではよほど人間的なものになっている。カトーの高い徳も、ほめているような顔をしてけなしている。モンテーニュは徳に関してその時々でいろいろに言っているが、彼のほんとうの結論は、この章の最後や、第三巻第十三章「経験について」において見られる。
とにかくこの章のなかには、モンテーニュの極端な感じ易さ、涙もろさ、そして深い慈悲心がよみとられる。動物ばかりでなく植物に対してまで、彼は同情を寄せる。拷問や死刑に対して我慢がならなかったのも当然である。だがその極刑に対する明白な非難は、当時としては決して尋常普通のことではなかったことを、一言ことわっておきたい。法王庁でさえ拷問や残酷な刑罰を容認していた時代のことゆえ、彼がこれを真向正面から非難したのはほんとうに特筆してよいことなのである。この問題については第二巻第五章、第二巻第二十七章をもあわせてよむべきである。拙著『モンテーニュを語る』一九四頁参照。彼は弱者に対して頗る涙もろかっただけ、それだけ横暴と非道に対して強かったのである。
この章では二つの問題が取り扱われている。一つは徳、もう一つが残酷である。彼の徳に関する考え方はようやく初期のエッセーに見られるストア的なところを失って、ここではよほど人間的なものになっている。カトーの高い徳も、ほめているような顔をしてけなしている。モンテーニュは徳に関してその時々でいろいろに言っているが、彼のほんとうの結論は、この章の最後や、第三巻第十三章「経験について」において見られる。
とにかくこの章のなかには、モンテーニュの極端な感じ易さ、涙もろさ、そして深い慈悲心がよみとられる。動物ばかりでなく植物に対してまで、彼は同情を寄せる。拷問や死刑に対して我慢がならなかったのも当然である。だがその極刑に対する明白な非難は、当時としては決して尋常普通のことではなかったことを、一言ことわっておきたい。法王庁でさえ拷問や残酷な刑罰を容認していた時代のことゆえ、彼がこれを真向正面から非難したのはほんとうに特筆してよいことなのである。この問題については第二巻第五章、第二巻第二十七章をもあわせてよむべきである。拙著『モンテーニュを語る』一九四頁参照。彼は弱者に対して頗る涙もろかっただけ、それだけ横暴と非道に対して強かったのである。
(a)どうも徳というものは、我々のうちに生れる善にむかう傾向とは別の物で、それよりもずっと高貴なもののように思われる。おのずから規則にかなう・よく生れついた・人々は、徳ある人々と同じ道をゆき、その行為の中に徳ある人々と同じ姿を示す。けれども徳という言葉には、幸運な素質のために楽に静かに理性に向って導かれてゆくというのよりは、何かしらもっと偉大な・もっと積極的な・響きがある。生来温厚の君子であるために人の侮蔑を何とも感じない人もまた、はなはだ立派なほむべきことをしているのであろうが、恨み骨髄に徹しながら理性を武器としてよく切なる復讐の念を抑える人、大きな煩悶の後についにこれを制御する人こそ、確かに前者にまさるであろう。前者は善行、後者が徳行であろう。前の行為は善と呼ばれ、後の行為が徳とよばれるべきであろう。まったく徳という名称は、必ず困難と抵抗とを前提としているように思われるのである。いや、それは何か相手になるものがなくては行われないように思われるのである。恐らくそういうわけで、我らは神を善良・強大・寛仁・公平とは呼ぶけれども、有徳とは呼ばないのである。つまり、神のはたらきは全く自然で努力を要しないものだからである。哲学者の中には、たんにストア学者ばかりでなくエピクロス学者の中にも、――こうストア学者の方をエピクロス学者より先にあげたのは、かりに一般の意見に従ったまでで、ほんとうは間違っている。(c)或る人がアルケシラオスに向って、「多くの人々は君の学派を去ってエピクロス学派に走ったが、誰もその逆をいったためしがない」と非難したのに対し、「なるほどそのとおりじゃ。しかし雄鶏から
* 第一巻第二十六章で、モンテーニュは一見これと矛盾する考えを徳についてのべている。すなわち徳の実践は徹頭徹尾愉快でなければならないと言った。しかし、アルマンゴー Armaingaud によれば、これは、モンテーニュの師とするエピクロスその人においてと同じことなのであって、必ずしもモンテーニュの矛盾ではなく、前後を通じてモンテーニュは常にエピクロスの弟子として語っているのだという。モンテーニュ自らエピクロス説をここに述べているように解釈していることは、確かに注目すべきであろう。なお索引「徳」の項をも参照せられたい。
(b)彼は自ら死をえらびていよいよ誇り高かりき。
(ホラティウス)
(a)或る人たちが俗な女々しい考えで判断したように、決して光栄の希望みたいなものに刺激されていたのではなかったのである。まったくそんな考えは、あのように高潔で気高くまた強い心を動かすにはあまりにも下賤である。むしろ、ことそれ自体の中にある美しさに、刺激されていたのである。彼はことの動機をちゃんとつかんでいたから(これは我々にはできないことだが)、ことそのことを、我々には及ばないほど明らかに、残すところなく、見ぬいていたのである。
(c)哲学は次のように判断してわたしを喜ばせた。「あのように立派な行為も、カトー以外のものの生涯に宿ったなら、さぞ不似合なことであったろう。ただ彼の生涯に宿りえて始めてああいう立派な終りをとげたのである」と。だから、彼がその息子に向っても、また彼に伴った元老たちに向っても、お前たちは別様に振舞えと命じたのは正しかった。カトーは自然より容易に信じがたき気魄を
死は常にその人の生と同様でなければならない。我々は死に臨むも別人にはならない。わたしはいつも死を生によって解釈する。そして人が強そうに見える死を物語っても、それが弱い生に関連していれば、わたしはそれを弱い・その生に似合った・原因から生れたものと思う。
(a)カトーがこのように悠然として死んだこと、彼がその霊魂の力によってこんなにも平気でいられたことは、果して彼の徳の輝きを幾分なりとも暗くするであろうか。いや、ほんの少しでもその頭脳を真の哲学の色に染めたことのある者なら、どうしてあのソクラテスが、牢に入れられたり、鉄鎖につながれたり、死刑の宣告をうけたりした事件において、ただ恐怖と興奮とから放たれていただけだと想像することで満足ができようか。どうして彼においてはただ剛毅我慢があったばかりでなく(そんなことは彼には日常普通のことであった)、その上になお、何かしら新たな満足と笑みあふれる喜びとが彼の最後の言行の中にあったことを認めないでいられようか。(c)彼は鉄鎖がはずされるとその脚をなでて喜びにうち震えたというが、そこにもまた、今こそ過去の苦難を脱していよいよ未来の事柄を知ることができるのだという心中の喜びがあらわれてはいないだろうか。(a)カトーよ、ゆるしてくれ。御身の死は、より悲愴なより緊張したものであった。けれどもソクラテスの死には、なぜかはしらないが、より美しいものがある。
(c)アリスティッポスは、この人の死を嘆いたものどもに向って、「むしろわたしはこのような死を与えられたい!」と言った。
(a)人はこの二人の人物およびその模倣者たち(まったく今の二人のような人物は空前絶後であろう。あとはつまり二人の模倣者にすぎないのだ)の霊魂の中には、徳に対するきわめて完全な習慣があって、徳がまったく彼らの性格素質になりきっている。それはもう苦労な徳でもなければ理性の命令でもない。それをまもるのに霊魂は緊張するまでもないのである。それは彼らの霊魂の本質そのものであり、その自然普通の歩みである。彼らは豊かで立派な天性を与えられた上に、哲学の掟を長い間実行することによって、霊魂をあのようになしえたのである。そこには我々の心の中に起る不徳の情念などが入りこむすきがない。彼らの霊魂の強い力は、邪念が頭をもたげようとするより早く、それをおさえつけてしまうのである。
さて気高い神々しい決心によって誘惑の発生を妨げること、つね日頃徳を養っておいて不徳の芽の萌え出ることさえ許さないことは、すでに発生してしまった不徳の生長を懸命におしとどめること、すでに一ぺん情欲の興奮に身をまかせてから、あわててその進行を妨げその勢いを克服しようと防ぎ戦うことよりも、遙かに立派である。またこの第二の行いだって、単に順良な・生れつき放蕩や不徳がきらいな・天性をいだいていることに較べたら、それは遙かに立派なことであって、それはわたしが少しも疑わないところである。まったくこの第三の・最後にあげた・ゆき方は、人を無罪にはするが有徳にはしない。人に悪行を免れさせはするが善行をさせるにはたりない。それにこういう性分は不完全や弱体に頗る近いもので、わたしはいかに両方の境界を識別したらよいか知らないのである。だから「いい人」とか「罪のない人」とか呼ぶだけでも、或る程度侮蔑を含んだ呼び方になる。わたしは純潔・質素・節制というようないろいろな徳が、肉体的無力からも生じうることを知っている。危険の前に平気でいること(果してこれを勇気といえるかどうか知らないが)、死を無視すること、不運に対する我慢は、そのような出来事を正しく判断することができず、それらをそのあるがままに理解しえないことからも、来ることがある。否そういう場合の方が多いのである。理解の不足と暗愚とは、時にそういうふうに徳行の偽造をする。実際わたしは、人がその咎められて然るべき点について、かえってほめられているところをしばしば見たことがある。イタリアの或る殿様は、或るときわたしの前で、ご自分の国をくさしてこんなことを言われた。「われわれイタリア人の抜け目がなくのみ込みのよいことは非常なもので、その身にふりかかろうとする危険を逸早く予見するから、しばしばわれわれが戦争において、まだ危険とはきまらないうちから早くも己れの安全を策することがあるのを見ても、決して不思議に思ってはいけない。貴国人やスペイン人はわれわれほど明敏でないから、とかく先へ先へと出すぎる。危険が目の前にせまり、手がこれにふれなければ、いっかな恐れない。そしていよいよとなれば、やっぱりわれわれ同様度を失う。ところがドイツ人やスイス人となると諸君よりもいっそう粗野無知であって、容易なことでは気がつかない。したたかに打ちのめされて始めてはっと気がつくくらいのものである」と。これは恐らくただの冗談にすぎなかったろう。けれども戦争という商売では、駈け出しの小僧ほどしばしば危険に身を投ずるというのが、本当のところであって、一ぺんひどい目にあって、そこで始めて無分別ができなくなるのである。
(b)知らずや。初陣の功名にあこがるる心が、
いかに無分別なる業をなしとぐるかを。
いかに無分別なる業をなしとぐるかを。
(ウェルギリウス)
(a)だから、或る一個の行為を判断する時には、どうしてもいろいろな事情と共にその行為を産み出したその人全体を考えなければならない。それから後に始めてその徳不徳をきめるべきである。
一言わたし自身についていうならば、(b)ときどきわたしの友人たちは、わたしが何気なくしたことをわたしの慎重さであるかのように言ったり、わたしの思慮判断のせいであることを勇気忍耐のせいであるとしたり、よく見当ちがいの肩書をかぶせては、わたしに得をさせたり損をさせたりして御座るが、要するに、(a)わたしは徳行が習慣的になされるというあの第一の・完全な・段階に達するには、どうしてまだなかなかなのであって、その二段目にさえ達したあかしもまずないのである。わたしは自分に迫るいろいろな欲望を抑えようと骨を折ったためしがない。わたしの徳はいわば偶発的な偶然の徳であって、徳というよりはむしろ無邪気なのである。生れつきもっと奔放な性質であったなら、わたしはもっと哀れな仕儀と相成ったのではあるまいか。まったくわたしは、情欲がいくら勢いのよわい場合でも、それを押えつけようなどと心の中で抵抗を試みたことはほとんどないのである。わたしは自分の
わが体には小さき難点なきにあらねど、
おおむね美しく整いたるがごとく、
わが天性もまた、おおむね清廉にして、
ただささやかなる欠点を僅かに持つのみなれど、
おおむね美しく整いたるがごとく、
わが天性もまた、おおむね清廉にして、
ただささやかなる欠点を僅かに持つのみなれど、
(ホラティウス)
わたしはそれを、わたしの理性によりもむしろわたしの運命に負うている。運命はわたしを、廉潔のきこえ高い家系から、きわめて善良な父から、生れさせた。だが、果して父の性格が幾らかわたしのうちに流れ込んだのであるか、或いは一家の人々の模範やわたしが少年時代に受けたよい教育が、知らず知らずの間にわたしをそのように作り上げたのであるか、それともまた、別の理由からわたしがこのように生れついたのか、
(b)天秤宮 か、恐ろしき天蝎宮 か、はた
ヘスペリアの海に君臨する磨羯宮 か、
わが生るるときわれを支配したるは*。
ヘスペリアの海に君臨する
わが生るるときわれを支配したるは*。
(ホラティウス)
(a)わたしは知らないが、ともかく、不徳の大部分を、わたしは先天的におそれきらっている。(c)アンティステネスが最良の修業はと聞かれて、「おぼえたる悪を忘れよ」と言った答も、やはり同じ考え方から来ているように思われる。(a)再びいうが、わたしは大部分の不徳を、持ち前の・生れつきの・信念をもっておそれきらっているのである。だからこそ、わたしは乳飲児時代から不徳についていだいている本能や印象を今に至るまで失わないので、その後のいかなる機会もついにそれらを変えることができなかったのである。いやわたしの理屈さえ、それを変えることはできなかった。わたしの理屈は何かにつけてとかく常道からそれる奴だから、わたしを駆って、この自然の傾向がわたしに憎ませる行為をも、させようとすればさせることもできたであろうに。
* いかなる星の下にうまれたかによって、人間の一生の運命がわかると当時の人々は考えていた。星占い、天宮占(domification)が一つの学問として成立したわけである。勿論モンテーニュはそんなものを信じていなかったが、当時の一般はそれを信じていたのである。後出六六二頁註***参照。
(c)アリスティッポスは快楽と富を擁護するはなはだ大胆な説をたてたために、哲学はこぞって彼に反対した。だが彼の行状はどうかと見ると、暴君ディオニュシオスが三人の美しい娘をつれて来て選択をせよといったとき、「わたしは三人とも皆ほしい。パリス*は中から一人を選んで失敗した」と答え、一ぺんは女どもを皆自分の宿に連れかえったが、そのまま一指も触れずに送りかえした。彼の下僕が沢山の銀貨を背負ってさも重たそうについて来るのを見ると、「そんなに重ければあけて捨ててしまいなさい」と命じたこともある。
* トロヤ王プリアモスの第二子、ユノーとミネルウァとウェヌスの三女神の中で、ウェヌスを美しいと言ったがために、それがトロヤ戦争の発端となった。
(a)わたしがはまりこんでいる放埓は、有難いことに最も悪質のものではない。わたしはそれらを、それぞれの軽重に従って、自分でちゃんと処罰した。まったくわたしの判断は、それらのために決して腐らされてはいないのである。むしろそれは、他人の放埓よりもわたしの放埓の方をより厳しく責め立てるのである。だが、それでおしまい。まったくわたしは、結局放埓に対して大した抵抗もせず、おとなしく天秤の傾くがままに身を委せるのである。ただ僅かに放埓を調整し他の不徳がそこにまじるのを妨げるだけなのである。実際、うっかりするとさまざまの不徳は、互いに支え合いつながり合って増長する。わたしは自分のいろいろな不徳をそれぞれ切り離して、それらをできるだけ独りぽっちに孤立させた。
(b)われは
わが罪をそれ以上に深くせざりき。
わが罪をそれ以上に深くせざりき。
(ユウェナリス)
(a)まったく、ストア学者の所説を見ると、「賢者は行うときには、そのすべての徳を挙げて行う。ただその行為の性質によって、或る一つの徳が最も著しく現われるだけである」と言っている(この説に対しては、人間の肉体*もそれとよく似ているということが、或る程度役に立つかもしれない。たとえば、怒りという行為にしても、すべての体液がこれを助長しなければ行われない。唯怒りが中で一番優勢だというにすぎない)。だがもしそのことから、「罪人が一つの罪を犯すときは、そのすべての不徳によってするのである」という同様の結論をも彼らが引出そうとするなら、わたしはそう単純には彼らの言うところを受け入れない。いや彼らの言うところをわたしは理解できないのである。実際にはその反対を感じているから。(c)それはきわどい詭弁であって本質をはずれている。哲学はよくこんな詭弁にひっかかる。
* 古代の医家ヒポクラテスの説によると、人間の体内には四種の液が流れている。血液、黒胆液、粘液、胆液がそれである。人間の気質は、右四種の液のいずれが多くあるかによって、多血質、気鬱質、粘液質、胆汁質というふうにわかれる。そしてすべての感情は、以上四液のさまざまな混合の間から生れるという。
逍遙学派の人たちもまた、この〔ストア学者のいう〕不徳の間の解くことのできない連繋を否定している。アリストテレスも、「賢明公正な人でも放埓で無節制であることがある」と言っている。
(a)ソクラテスは自分の人相の上に或る不徳への傾向を認めた人々に向って、「なるほどそれこそわたしの生れつきの傾向なのであるが、わたしは訓練によってそれを矯正したのだ」と言った。
(c)また哲学者スティルポンの親友たちは常にこう言っていた。「スティルポンの奴は生れつき酒と女が好きであったが、修業のすえどっちもよく我慢するようになった」と。
(a)わたしはわたしの良いところを、ソクラテスとは反対に、わが生れつきの運に負っている。わたしはそれを、規則や教訓やその他の修業によって得たのではない。(b)わたしのうちにある無罪は天賦のものである。そこには努力もほとんどないし、技巧もまったくない。(a)わたしはもろもろの不徳の中で、最もはげしく残酷を憎む。性分によっても判断によっても、これこそたくさんの不徳のうちの最たるものとしてこれをにくむ。だがそれは、柔弱といってもよいくらいだ。わたしは雄鶏を
* 狩猟は古来王侯貴族の趣味娯楽の第一位におされるもので、モンテーニュも貴族の片割れであるし、体も強壮であったから、若い時分はよく狩に出かけたらしく、後年アンリ・ド・ナヴァールがモンテーニュの邸に一泊したときも、接待の意味もあったろうが、翌日所領の森林に特に鹿を放って、ナヴァール王と共に狩をした。しかし、元来感情のこまやかな人であったから、そのうちにここに述べられているような経験をして、今言ったような交際上の必要でもない限り、無益な殺生はしなくなったらしい。まったく惻隠憐憫の情をゆたかにもったモンテーニュには、この狩猟という趣味は「強烈な快楽」にすぎたのである。恐らく海軍士官ピエール・ロチが「私の最後の狩猟」にのべているような感懐をもったのではないかと想像される。
肉体が早くも快感にかられて、
ウェヌスまさに女の畠に種子を蒔 かんとする時、
ウェヌスまさに女の畠に種子を
(ルクレティウス)
快楽が我々を我々の外に遠くひっさらってゆき、肉欲の中に溶けしなびた我々の理性はとうていその役目を果すことができないかのように、思われるからである。わたしは、それとはちがった場合もありうることを知っている。人がもし欲するならば、その瞬間においてさえ霊魂を別の考えに向けることも、ときにはできるのを知っている。けれどもそうするには、よほど周到な注意をもって霊魂を緊張させなければならないのである。またわたしは、この快楽の威力を制御することができるのも知っている。(c)現にわたしにも十分そのおぼえがある。だからわたしは、ウェヌスを、わたしよりも純潔な多くの人々が証言するほどに、仮借なき女神であるとは少しも思わなかった。(a)或る人が永く求めていた情人とゆっくり水入らずで幾晩も過しながら、ただ接吻と単なる触れ合いだけで満足しようと言うかねての約束を守り通したという話を、わたしも、ナヴァールの女王があの『エプタメロン』(これはこの種の書物の中では面白いものである)の物語の一つにおいて言っておられるように、決して奇跡だとも至難の業だとも思わないのである。我慢がむつかしい例としては、むしろ狩猟の方が、かえって適切である(快味こそとても及ばないが、恍惚感や意表をつく喜びはかえって狩猟の方に多くある)と思うし、長い捜索の末、突然獲物が我々の少しも予期しない場所に現われ出るときなどには、我々の理性は周章狼狽して、とっさに用意をしたり緊張したりする余裕など全くなくしてしまう。この不意の衝撃とわっという叫喚とは、実につよく我々の心を打つから、この種の狩猟を愛する者にとっては、そういう瞬間に考えをよそにむけることは甚だむつかしい。だから詩人たちは、ディアナをクピドーの炬火や矢に勝たしたのだ。
誰かこの楽しみの中に
恋の憂き思いを忘れざる?
恋の憂き思いを忘れざる?
(ホラティウス)
さてまたわたしの話に立ち戻れば、わたしは他人の悲しみに対して甚だ涙もろく、じきに貰い泣きをしてしまうが、そうかといってどんな理由ででも泣くというわけではない。(c)涙くらいわたしの涙を誘うものはない。真実の涙だけではない。どんな涙でも、いつわりの涙でも絵にかかれた涙でも、わたしの涙をさそう。(a)死者の方はあんまり可哀そうに思わない。むしろ
* モンテーニュが時々もらす、一見冷淡な利己主義者らしく見える片言隻語を、これらの句は訂正して余りがある。この章にはいたるところに、モンテーニュの物に感じやすい性向がうかがい見られる。
** 『カエサル伝』の著者スエトニウス。
* 単純な死 la mort simple というのは特別の責苦を加えず、一思いに殺す死刑のことを言うらしく、第二巻第二十七章「臆病は残酷の母」という章にも同じ語句、同じ思想が見られる。八二四頁参照。
** このパラグラフは、一五八一年にローマ庁から削除を命ぜられたが、その後の版でいっこうに削除されていない。アルマンゴーはこれをもモンテーニュの確信と大胆との証拠の一つとしている。
* ここの箇所、ボルドー本では余白の最下端に当り、製本師の截断によって読めなくなっている。グルネ嬢の一五九五年版はこの挿話を完全に補綴しているが、その代りこのパラグラフは全体にわたってボルドー本のテキストと大分異なったものになっている。それで欠字のままにしておいた。
おお、半ば焼かれし王の屍は白骨もあらわに、
黒き血にまみれつつ、泥土の中を曳かれ行けり。
黒き血にまみれつつ、泥土の中を曳かれ行けり。
(キケロ)
(a)わたしは或る日ローマで、泥坊として隠れもないカテナをこれから処刑しようというところにゆきあわせた。役人が彼の首を締めても、見物人は一向平気であった。ところがいよいよその死屍を八つ裂きにするだんになって、刑吏がこれに一太刀斬りつけると、たちまちに哀号と叫喚とがむらがり起った。恐らく人々は、自分自身の感覚をこの死肉の上に移したのであろう*。
* このパラグラフは勿論モンテーニュがイタリア旅行から帰って後に出た一五八二年版に始めて読まれるもので、白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」にはこの日の光景が詳細に述べられている。一五八一年一月十一日の項参照。
(c)エジプト人は甚だ信心深い人民だが、造りものの・または絵にかいた・豚を犠牲とすれば、それで十分神慮を和らげうるものと考えていた。あれほど現実的な実体であるところの神様を、絵だの雛型だのでごまかそうとは、なんという大それた思いつきだろう。
(a)今わたしは、わが国の宗教戦争が産み出した乱脈のおかげで、この〔残酷という〕不徳の信じがたい実例が充ち満てる時期に生きている。我々が毎日経験しつつあるものほど極端なものは、古代の歴史の中にもなかなか見つからないのである。けれどもこのことは、わたしを少しも残酷に慣らしはしなかった。それをほんとうに眼のあたり見るまでは、ただ人殺しの快楽のために人殺しをしようとするほどの、ばけもののような人間が居ようとはほとんど信ずることができなかった。恨みもなければ得もいかないのに、ただ苦悶しつつ死んでゆく人たちの哀れな身振りや涙声やうめき声を面白がって見物したい*ばかりに、他人の手足を切りこまざいたり、前代未聞の拷問法や新式の人殺し法を案出するためにその知恵を
* アンボワズの謀叛 があらわれて捕えられた人が処刑されている絵だの、アンヌ・デュ・ブールがパリの市庁の前で火刑にあう絵だのを見ると、建物の窓には面白そうに眺めている見物人が一杯で、中には婦人の姿さえ見える。また当時の歴史家ド・トゥ De Thou の書いている所によれば、聖バルテルミー祭の殺戮の後、新教徒の頭目コリニーの死体はひどい目にあわされたというし、この時に捕縛されたブリックモーとかカヴァーニュとかいう人たちが市庁前で処刑された時は、太后カトリーヌ・ド・メディシスやシャルル九世は窓のカーテンをすかしてその恐ろしい光景を眺めていたとか、特にナヴァール王にそれを見よとしきりにすすめたとか、いうことである。そういう人たちをモンテーニュはここで「ばけもののような霊魂」les mes monstrueuses と言ったのである。それらの人々は monstres というよりほかに形容の仕方がなかったのであろう。
(b)血にまみれし彼は、悲しき声をしぼりて、
さながらに助命を乞うもののごとくなり。
さながらに助命を乞うもののごとくなり。
(ウェルギリウス)
(a)それはいつも、わたしには不快で見るにたえない光景と思われた。
(b)わたしは、たまに生き物を捕えることがあっても必ず後で放してやる。ピュタゴラスは猟師や鳥刺しから生き物を買いとってはこれを放してやった。
(a)鋼鉄が始めて色どられしは、
まことに動物の血によりてなりき。
まことに動物の血によりてなりき。
(オウィディウス)
生れつき生き物の血を見ることの好きな人々は、生れつき残酷な性質であることを証明している。
(b)ローマでは皆が動物の殺戮を見物するのに慣れてしまうと、こんどは人々および剣士の血を見てよろこぶようになった。自然はもしかすると、自然みずから、人間に何か残忍非道な本能を賦与しているのではあるまいか。一人として生きものがじゃれ
(a)わたしの生き物に対するこの同情をばかにしないでほしい。神学までが彼等に対して若干の好意を注ぐようにと我々に命じている。実際、同一の主人が人間をも動物をもひとしく自分の臣下として同じこの宮殿のうちに宿らせたことや、動物もまた我々と同じく彼の家族の一員であることを考えるならば、神学が動物に対する多少の尊重と愛情とを我々に命じているのは当然なことである。ピュタゴラスはエジプト人から
* 古代ゴール(ガリア)人の神官。
霊魂は決して死ぬことなし。ただ、
常に古き宿りを捨てて新しきに移る。
常に古き宿りを捨てて新しきに移る。
(オウィディウス)
我々の祖先ガリア人の宗教は、「霊魂は永遠であって絶えずうごめいており、一つの体から他の体へと移る」と説いたばかりでなく、この考えの上にさらに神の公正という観念をまじえていた。まったく彼らの言うところによると、神は霊魂が何のなにがしのもとにあった間どんなふうであったかにより、或いはもっと苦しい・或いはそれほどでない・つまり前の状態にふさわしい・別の体にいって宿れ、と命ずるのである。
(b)神は諸霊を、物いわざる動物の体内に入れる。
むごき霊は熊の中に、盗人の霊は狼の中に、詐欺の霊は狐の中に。
かくして、長年の間、さまざまな形を取らせたる後、
それらを忘却の河の中に入れて清め、
ついに再びこれを人間の形にかえす。
むごき霊は熊の中に、盗人の霊は狼の中に、詐欺の霊は狐の中に。
かくして、長年の間、さまざまな形を取らせたる後、
それらを忘却の河の中に入れて清め、
ついに再びこれを人間の形にかえす。
(クラウディアヌス)
(a)もしそれが勇猛であったならば獅子の体内に、
われ自ら思いおこす。かつてトロヤの戦いの時、
自らがパントゥスの子エウフォルボスなりしことを。
自らがパントゥスの子エウフォルボスなりしことを。
(オウィディウス)
こういう我々と動物との間の因縁を、わたしは余り重視しない。また多くの国民、特に最も古く最も高尚であった国民が、ただに動物をその伴侶としただけでなく、これに不相応な高位を与え、或るときはこれを彼らの神々が寵愛するものと考えて人間以上に尊敬し、また或る国民になると、それらの動物以外には神も神性も認めなかったが、わたしはそれも本気にしない。(c)野蛮人は動物よりもろもろの利益を引き出すが故にこれを神とあがむるなり(キケロ)。
(b)ある所にては鰐 をあがめ、
ある所にては蛇を喰いて肥えたるイビス鳥を拝む。
ここには、祭壇の上に、大いなる尾をたれし猿の黄金像あり、
またかしこにては、人魚を祭る。
或いはまた、犬が市民礼拝の的となれるところあり。
ある所にては蛇を喰いて肥えたるイビス鳥を拝む。
ここには、祭壇の上に、大いなる尾をたれし猿の黄金像あり、
またかしこにては、人魚を祭る。
或いはまた、犬が市民礼拝の的となれるところあり。
(ユウェナリス)
(a)いやプルタルコスがこの誤謬に対して与えている解釈こそ、
* モンテーニュは人間を万物の霊長とは考えない。人間をすべての動物と同列において考える。これは彼の思想の中心をなすもので、次の章で改めて雄大に論ぜられる。すなわちモンテーニュはこの章の終りで、あらかじめ次の章の準備をしているように見える。
* カピトールすなわちカピトリウム。ローマ七丘の一つ。その上にユピテルとユノーの神殿があった。ゴール人がローマに侵入した時、この神殿にささげられていた鵞鳥が啼いたために、敵の来襲がいち早くローマ人に知られ、ローマは無事にまもられた。
エジプト人は狼や熊や
(a)キモンは、オリュンピア競技において三度も自分に桂冠を得させてくれた牝馬たちのために、荘厳な墓をたてた。大クサンティッポスは、その犬を或る海岸のつき出たところに埋めた。それは今でも「犬の墓岬」と呼ばれている。それからプルタルコスは、長いこと自分の用に立った牛をわずかの利得のために人手にわたし、それが屠殺所につれてゆかれるところを見て、いささか気が咎めたと自ら言っている。
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この章は『随想録』中最大の雄篇で、初版『随想録』においてはその四分の一を、一五八八年版においてはその六分の一を占めている。それは一息に書きあげられたものではなく、いろいろな時期に書かれた幾多の断片が或る時期に、多分ナヴァール王妃マルグリット・ド・ヴァロワが王太后カトリーヌに伴われてネラックの朝廷に帰って来た一五七八年頃に――年表および後出六五八頁註参照――集大成せられたのではないかと言われている。その重要な断片は、いずれも初期のエッセー(一五七二年のエッセー)の傾向をとどめていない。それにその最も重要な部分、すなわちセクストゥス・エンピリクス Sextus Empiricus の影響下に最もはっきりしたピュロン説を述べている部分は、彼が有名な銅牌を鋳させたという一五七六年(本章六二三頁参照)に書かれたに違いなかろう。すなわち、この年より以前に書かれたらしい部分もなくはないがそれは僅かで、この章の大部分は一五七七年前後に書かれたものであろうということになる。
さて、レーモン・スボン Raymond Sebon(d)〔また Sabiende, Sabieude, Sebeyde, Sibiude などとも書かれている〕については、あまり詳しくは知られていない。その生年月日もわからないし、多分バルセロナ生れということも確かではなかろうし、スペイン人であったということも確証があるわけではない。ただトゥールーズで医学及び神学を講じ、一四三六年四月二十九日にその地で死んだことだけは確かである。一四三四年から三六年にかけて『被造物ないし自然の書』Liber creaturarum, seu Naturae と題して三三〇章を書いたのを、後に人が『自然神学、別名もろもろの被造物の書』Theologia naturalis, sive Liber creaturarum と名づけ、一四八七年オランダでこれを公刊した。この書がおよそどのような書物であるか、どうしてモンテーニュがこの書の弁護を試みることになったか。それはこの章の冒頭の頁でもほぼ想像せられるところであるが、なお巻末の年表、わたくしの『モンテーニュとその時代』第三部第三章B三二一―三四〇頁をも併せ見られたい。とにかくこの雄大な一章の中にはモンテーニュの哲学、彼の宗教思想、彼の政治上の態度などを解釈する上の、重大な鍵がひそんでいるように思われる。
第一に、この章は果して純然たる神学論であろうか。それは「レーモン・スボン弁護」と名づけられているが、果してただこの神学者の神学説を弁護するだけのものであろうか。彼はここにむしろスボンの説とは別の、彼独特の思想を述べているのではあるまいか。スボンは人間をもろもろの存在の最上位におき、万物はただ人間に奉仕するために存するかのように考えているが、モンテーニュは人間を自然界における他のすべての禽獣草木と同等の位に引きさげている。スボンは信仰を理性の上に押し立てようとするが、モンテーニュの方は人間の理性を否定する。少なくとも形而上の問題にかけてはこれを絶対に頼むべからざるものとし、理知の世界と信仰の世界との間に一線を劃する。要するに、後に言う(後出六五八頁)ように、一五七八年にナヴァール王妃から、彼女の信仰をネラックにおけるプロテスタント側神学者たちからまもるように頼まれたのは事実であるが、またその故にこの章は王妃に献呈されているのであるが、しかしモンテーニュの真意は、どうもカトリックという一宗派を守っているようには思われない。むしろ新旧両教徒間の高遠な神学論をいわば雲の上からひきおろして、良識ある一般人の手中に委ね、カトリック教のうそと、プロテスタンチスムのうそとを、こもごも一般人にわからせようとしたのではないか。神学説はいずれも推量にすぎず、いずれも真理ではない。『随想録』の他の部分においてもそうであるが、特にこの章の中には、そっくりそのまま受けとりえないモンテーニュの告白がたくさん含まれている。
またモンテーニュはこの章のなかに懐疑論者の言説を盛んに引用しているので、従来彼はしばしばピュロンの徒と見なされたが、その懐疑主義はむしろ科学的な「方法としての疑い」であって、いわゆるピュロン説ではない。有名なわたしは何を知るか?という彼の標語も、かえって政治上宗教上において両派の中間に絶対に公平中正であろうとする彼の積極的な努力の、基礎ないし出発点と見るべきであろう。それは決してニヒリスチックな懐疑論の標語ではなく、むしろ彼の積極的な信念の表出である。いわば彼は、これを契機として消極より積極へ、思索より行動へと、転向したのである。このきわめて謙遜な標語の上に、旧来のスコラ学に代る近代的科学主義をおしたてるとともに、カトリシスムをもプロテスタンチスムをも越えた一種の自然教をうちたてたのである。モンテーニュがここに言う神 Dieu は、中国人のいわゆる天、ないし天命の思想に通じ、それは「運命」の同意語となっている。またその「自然」は、老子の「道」、浄土教の「自然法爾」と同じように解される。唯、この一章だけによってモンテーニュの宗教を規定すべきではない。事実彼は、モラルの上では以後ますます人間性の本然に徹して良心の自治に向おうとするし、やがて政治上では穏健中正な自由主義を力強く実践するに至る。そういう意味でこの章は、モンテーニュの根本思想を把握するために、特に精読を要する重要な章である。モンテーニュ自らもこの章を最も重視しているように見える。だからそれは『随想録』全三巻の中央におかれているのだ。
まったく『随想録』全三巻を一応通読した者がもう一度改めてこの一章をよみ返して見ると、まずこの章以後には何一つ新規の問題は提出されなかったこと、そしてこの章において最も真剣にまた最も用心ぶかく説きすすめられている「死」「習慣」「自然」「宗教」「学問」等々の諸問題は、いずれも皆すでにこの章以前に一度はふれられたものばかりであることに気がつくのである。そう考えると、一見何らの秩序もなく束ねられたように見える全部で一〇七篇に及ぶ大小さまざまのエッセーの配置には、並々ならぬ著者の考慮が払われていることがわかる。この当時としてはいずれも頗 るデリケートな諸問題が、陰影の多い・含みのある・用心深い文章で、きわめて巧妙に論じられているこの章の底意を掴むには、第一第二両巻においては「習慣のこと及びみだりに現行の法規をかえてはならないこと」「自惚れについて」「幸不幸の味わいは大部分我々がそれについて持つ考え方の如何によること」「真偽の判断を我々人間の知恵にゆだねるのはとんでもないこと」「祈りについて」「信仰の自由について」の諸章を、第三巻では「後悔について」「ウェルギリウスの詩句について」「馬車について」「人相について」「経験について」などの章を、あわせて読むことが必要である。特にここで注意しておきたいのは、モンテーニュの懐疑思想は決してセクスツス・エンピリクスに依って初めて誘発されたのではなく、ずっと古くから、パリ遊学時代にヴィコメルカルトの講義に接したころから、抱かれていたものだということである。拙著『モンテーニュとその時代』第二部第三章二〇九頁、第四部第五章四四二―四四四頁参照。それから前出一の五十六「祈りについて」の章は、当時盛名を馳せていたロンサールの影響を多分に受けているということである。ピエール・ミシェルは、ロンサールの宗教上の態度とモンテーニュのそれとが一致することをあげ、この二人において、信仰 foi と理性 raison との分離が、同様に截然としない点を指摘している。
なおパスカルの『パンセ』がこの一章に負うところが頗る多いことをも、忘れてはなるまい。サント・ブーヴもエミール・ファゲも、「パンセの中でバイブルから来たのでないものはすべてモンテーニュから来ている」と言ったことは、最もよくこの間の事情を伝えている。けれどもパスカルは結局――有名な『ムシュ・ド・サシとの対話』においてはさすがによくモンテーニュの人物を見抜いてはいるが、――この章の真意を十分に理解したとは言えない。パスカルは彼を本当の懐疑論者と解したのであるが、そうでないことは先に述べたとおりである。この章の興味は、少なくとも今日の日本人にとっては、これがキリスト教の弁護論としてよりも、むしろ寛容と社会の平和とひろい人類愛との提唱として、読みとられる点にあると思う。
この章は全体が唯一つの大きなブロックをなしていて、著者はそこに何らの区分も設けていない。けれども、幾分なりとも読者の理解を容易にするために、全体を幾つかに分割して、一章の構造を示そうという試みは、近世の諸学者によってすでに幾度かなされている。Cf. P. Villey: d. des Essais. t. (1922), p.146; ―― G. Lanson: les Essais de Montaigne, tude et analyse (1930), p.130; ―― J. Plattard: Montaigne et son temps (1933), p.188; ―― H. Janssen: Montaigne fidiste(1930), fin du volume. 訳者は、ポルトー P. Porteau がプラッタールにならってその単行の「レーモン・スボン弁護」のテキストに施した分節を踏襲した。ただ、モンテーニュ自らがそうしたトランジションを改行によってすら示さなかったというのは、単なる偶然とも無頓着とも思われないので、訳者もなるたけ目立たないように、単に行間に間隙を設けるだけにとどめ、別に註の中に各部に対する簡単な仮題を示した。
さて、レーモン・スボン Raymond Sebon(d)〔また Sabiende, Sabieude, Sebeyde, Sibiude などとも書かれている〕については、あまり詳しくは知られていない。その生年月日もわからないし、多分バルセロナ生れということも確かではなかろうし、スペイン人であったということも確証があるわけではない。ただトゥールーズで医学及び神学を講じ、一四三六年四月二十九日にその地で死んだことだけは確かである。一四三四年から三六年にかけて『被造物ないし自然の書』Liber creaturarum, seu Naturae と題して三三〇章を書いたのを、後に人が『自然神学、別名もろもろの被造物の書』Theologia naturalis, sive Liber creaturarum と名づけ、一四八七年オランダでこれを公刊した。この書がおよそどのような書物であるか、どうしてモンテーニュがこの書の弁護を試みることになったか。それはこの章の冒頭の頁でもほぼ想像せられるところであるが、なお巻末の年表、わたくしの『モンテーニュとその時代』第三部第三章B三二一―三四〇頁をも併せ見られたい。とにかくこの雄大な一章の中にはモンテーニュの哲学、彼の宗教思想、彼の政治上の態度などを解釈する上の、重大な鍵がひそんでいるように思われる。
第一に、この章は果して純然たる神学論であろうか。それは「レーモン・スボン弁護」と名づけられているが、果してただこの神学者の神学説を弁護するだけのものであろうか。彼はここにむしろスボンの説とは別の、彼独特の思想を述べているのではあるまいか。スボンは人間をもろもろの存在の最上位におき、万物はただ人間に奉仕するために存するかのように考えているが、モンテーニュは人間を自然界における他のすべての禽獣草木と同等の位に引きさげている。スボンは信仰を理性の上に押し立てようとするが、モンテーニュの方は人間の理性を否定する。少なくとも形而上の問題にかけてはこれを絶対に頼むべからざるものとし、理知の世界と信仰の世界との間に一線を劃する。要するに、後に言う(後出六五八頁)ように、一五七八年にナヴァール王妃から、彼女の信仰をネラックにおけるプロテスタント側神学者たちからまもるように頼まれたのは事実であるが、またその故にこの章は王妃に献呈されているのであるが、しかしモンテーニュの真意は、どうもカトリックという一宗派を守っているようには思われない。むしろ新旧両教徒間の高遠な神学論をいわば雲の上からひきおろして、良識ある一般人の手中に委ね、カトリック教のうそと、プロテスタンチスムのうそとを、こもごも一般人にわからせようとしたのではないか。神学説はいずれも推量にすぎず、いずれも真理ではない。『随想録』の他の部分においてもそうであるが、特にこの章の中には、そっくりそのまま受けとりえないモンテーニュの告白がたくさん含まれている。
またモンテーニュはこの章のなかに懐疑論者の言説を盛んに引用しているので、従来彼はしばしばピュロンの徒と見なされたが、その懐疑主義はむしろ科学的な「方法としての疑い」であって、いわゆるピュロン説ではない。有名なわたしは何を知るか?という彼の標語も、かえって政治上宗教上において両派の中間に絶対に公平中正であろうとする彼の積極的な努力の、基礎ないし出発点と見るべきであろう。それは決してニヒリスチックな懐疑論の標語ではなく、むしろ彼の積極的な信念の表出である。いわば彼は、これを契機として消極より積極へ、思索より行動へと、転向したのである。このきわめて謙遜な標語の上に、旧来のスコラ学に代る近代的科学主義をおしたてるとともに、カトリシスムをもプロテスタンチスムをも越えた一種の自然教をうちたてたのである。モンテーニュがここに言う神 Dieu は、中国人のいわゆる天、ないし天命の思想に通じ、それは「運命」の同意語となっている。またその「自然」は、老子の「道」、浄土教の「自然法爾」と同じように解される。唯、この一章だけによってモンテーニュの宗教を規定すべきではない。事実彼は、モラルの上では以後ますます人間性の本然に徹して良心の自治に向おうとするし、やがて政治上では穏健中正な自由主義を力強く実践するに至る。そういう意味でこの章は、モンテーニュの根本思想を把握するために、特に精読を要する重要な章である。モンテーニュ自らもこの章を最も重視しているように見える。だからそれは『随想録』全三巻の中央におかれているのだ。
まったく『随想録』全三巻を一応通読した者がもう一度改めてこの一章をよみ返して見ると、まずこの章以後には何一つ新規の問題は提出されなかったこと、そしてこの章において最も真剣にまた最も用心ぶかく説きすすめられている「死」「習慣」「自然」「宗教」「学問」等々の諸問題は、いずれも皆すでにこの章以前に一度はふれられたものばかりであることに気がつくのである。そう考えると、一見何らの秩序もなく束ねられたように見える全部で一〇七篇に及ぶ大小さまざまのエッセーの配置には、並々ならぬ著者の考慮が払われていることがわかる。この当時としてはいずれも
なおパスカルの『パンセ』がこの一章に負うところが頗る多いことをも、忘れてはなるまい。サント・ブーヴもエミール・ファゲも、「パンセの中でバイブルから来たのでないものはすべてモンテーニュから来ている」と言ったことは、最もよくこの間の事情を伝えている。けれどもパスカルは結局――有名な『ムシュ・ド・サシとの対話』においてはさすがによくモンテーニュの人物を見抜いてはいるが、――この章の真意を十分に理解したとは言えない。パスカルは彼を本当の懐疑論者と解したのであるが、そうでないことは先に述べたとおりである。この章の興味は、少なくとも今日の日本人にとっては、これがキリスト教の弁護論としてよりも、むしろ寛容と社会の平和とひろい人類愛との提唱として、読みとられる点にあると思う。
この章は全体が唯一つの大きなブロックをなしていて、著者はそこに何らの区分も設けていない。けれども、幾分なりとも読者の理解を容易にするために、全体を幾つかに分割して、一章の構造を示そうという試みは、近世の諸学者によってすでに幾度かなされている。Cf. P. Villey: d. des Essais. t. (1922), p.146; ―― G. Lanson: les Essais de Montaigne, tude et analyse (1930), p.130; ―― J. Plattard: Montaigne et son temps (1933), p.188; ―― H. Janssen: Montaigne fidiste(1930), fin du volume. 訳者は、ポルトー P. Porteau がプラッタールにならってその単行の「レーモン・スボン弁護」のテキストに施した分節を踏襲した。ただ、モンテーニュ自らがそうしたトランジションを改行によってすら示さなかったというのは、単なる偶然とも無頓着とも思われないので、訳者もなるたけ目立たないように、単に行間に間隙を設けるだけにとどめ、別に註の中に各部に対する簡単な仮題を示した。
(a)まことに学問は、甚だ有用で偉大な性能である。これを軽蔑する者どもはおのれの愚かさを証して余りがある。だがしかし、わたしは或る人たちのように、ああ極端に学識の価値を重んじてはいないのである。たとえば哲学者ヘリルスなどは、そこに至上の善が宿っているとし、そこに我々を賢明幸福にする力があると信じているが、それほどまでにわたしは信じていないのである。また或る人たちは、「学問はもろもろの徳の母であり、不徳はすべて無学の所産である」というが、そうもわたしは信じていないのである。たといそれが真実であるとしても、それには長い説明をつけなければならない。わたしの家は長いこと学者たちに向って開かれていた。そして彼らによく知られていた。まったく父は、この家を五十年以上にわたって治めたが、国王フランソワ一世が新たな熱意をもって文学を愛好し、これを尊重されたのに刺激されて、大きな心づかいと費用とをもちいて博学な人々との交わりを求めた。まるで彼らを何か特別に神の知恵でも受けて来た聖者のように迎え、彼らの格言や論説をまるで託宣のように拝承した。いや、彼らを判断する力がなかっただけに、その態度は敬虔きわまりないものであった*。まったく彼は、彼の祖先と同じく、少しも文学の知識を持たなかったのである。わたしはどうかというと、勿論彼らを愛してはいるけれど、あがめてはいない。
* 『モンテーニュとその時代』第二部第一章一二三頁参照。
(b)人はかつて余りにも恐れたるものを、
さも忌々しげに踏みにじる。
さも忌々しげに踏みにじる。
(ルクレティウス)
(a)もうこれからは、自分の判断をさしはさみ・その特別の承認を与えた・ものでなければ何一つ受けいれまいと決心して。
* レーモン・スボンは自らその序文の中で、この章は学問の素養のない人も容易に理解できることを詳説している。『モンテーニュとその時代』第三部第三章B.三二一頁以下参照。
* モンテーニュがここに自分の『自然神学』の翻訳について述べていることは、彼の訳書の巻頭にかかげられている父に宛てた献呈文の内容と一致しているけれども、到底すなおにそのまま信ずるわけにゆかない。この『自然神学』は、その分量から言ってもそう短時間で訳了されるわけはないし、モンテーニュは父からこの書を示されるまでもなく、一五六五年以前からこの書の存在に注意を払っていたと信ぜられる根拠が、本章そのものの中にすらかくれている(次の頁のトゥルネブスに関する記述を見よ)。モンテーニュ訳『自然神学』は印刷の日付一五六八年十二月三十日として、一五六九年早々にパリの書店から出版されたというのが事実である。現在はアルマンゴーの『モンテーニュ全集』の中におさめられている。
* Adrien Turnbe, または Tournebeuf, ラテンふうには Turnebus と書かれる。当時のユマニスト。この人は一五六五年に死んでいるから、モンテーニュが『自然神学』を知ったのはそれ以前であることがわかる。前出一の二十五註参照。
* フランソワ・ド・フォワ=カンダルのこと。後出六六〇頁註参照。
もしこの学問が不可思議な滲透によって我々のうちにしみ入るのでなければ、またもし、それが我々の理性によってのみではなくもろもろの人間的方便によってもそこにしみ入るものだとすれば、それは我々のもとであれほどの品位と光輝とをもちはしない。まったく、だからこそわたしは、我々がこの学問を、ただそういう経路によってのみ享有することを恐れるのである。もし我々が熱き信仰の仲介によって神につながれるならば、もし我々が神に、我々によってではなく彼によって、つながれるならば、もし我々が神的な根拠根底を持つならば、もろもろの人間界の出来事はあのように我々をゆり動かす力を持ちはしないだろう。我々の
あたかも大いなる巌 が、うち当る波を踏まえ、
四方より寄せ来る波を蹴散らすがごとく。
四方より寄せ来る波を蹴散らすがごとく。
(ウェルギリウス)
もしこの神の光がいくらかでも我々にとどいていれば、それは我々のいたる所に輝き出るであろう。たんに我々の言葉のみならず我々の行為もまた、その輝きを帯びるであろう。我々から発するすべてのものは、この高貴な光明に照り映えて見られるであろう。我々は次のことを恥じねばなるまい。人間的諸学派においては、その学説がいかに困難奇妙なことを主張していても、いやしくもそれにくみするほどの者は、その行動と生活とを何らかの形においてそれにかなわせないことはないのに、ひとりキリスト教徒だけが、あのように神々しい天よりの教えを奉じながら、僅かにその言葉によってのみ、それと知られるに過ぎないということを。
(b)その証拠が御覧になりたいか。それなら我々の行状をマホメット教徒や異教徒のそれにくらべてみられるがよい。あなたがたは依然としてつねに下位にある。我々の宗旨の優れていることを考えれば、我々こそ、大きな較べることのできない
(a)もし我らに
或る人々は、自ら信じてもいないことを、信じているかのように人々に思いこませる。もう一方の人々は、この方がいっそう多数であるが、信とは何かさえ本当にはわかってもいないくせに、信じているように自分自身に思いこませている。
(a)また我々は、目下わが国を圧迫しつつある戦乱において、敵味方の勝ち負けが、一般普通の戦争におけると同じように定めなく変動するのを見て不思議がっているが、それは我々が、そこに我々のもの以外には何ものをも持ってゆかないからである。両派の一方における正義は、そこにお飾り・口実・としてあるにすぎない。なるほどそれはよくそこに引合に出されてはいるが、決してそこに容れられても・宿っても・合体しても・いないのである。それはそこに、代言人の舌端にあるようにはあっても、
(c)よく注意してみ給え。我々は宗教を、われわれの手で引きずり回しているのではあるまいか。ちょうど蝋で形を取るときのように、あんなに真っすぐで固い型の中から、あんなに多くの正反対の形を引出しているのではあるまいか。いったいいつ、このようなことが、今日のフランスにおけるよりもなお顕著に見られたことがあったか。宗教を右にとる者も左にとる者も、それを黒いという者も白いという者も、いずれも判でおしたように、その激しい野心にみちた企てのために宗教を利用している。そこに、過激で不正な点であんなにも似通ったゆき方で、行動している。それを見ると、我々は、我々の生活の指導と法則との
見たまえ。いかに恐ろしい厚かましさをもって、我々は宗教上の諸理由を手玉にとっているか。いかに不敬不遜に、運命があの国家の暴風の中に我々の立場を変えるたびごとに、それらを捨てたり拾ったりしたか。想い出したまえ。あの「臣民は、宗教擁護のためにその君主に背き、これと戦うことをゆるされるや否や」という重大問題が、つい去年のこと、そもいかなる人々の口によって肯定されて一つの宗派の支壁となったか、また否定されていかなる一派の支壁となったか。また耳をすまして聞いてみたまえ。今はいったいどちらの側から肯定の声否定の叫びがあがっているか。また武器がそのいずれの説のためにいっそう音高く鳴っているか*。また我々は、真理にも我々の必要の
* カトリック教徒は、従来理由の何たるを問わず、正当な国王に背くことは不当だとして、プロテスタントをおさえて来た。ところが一五八九年にアンリ三世が殺されて、プロテスタント出のアンリ・ド・ナヴァールが王位継承者として認められると、俄然変説してこの新しい王(アンリ四世)を殺そうとした。
(c)わたしにははっきりとわかる。我々は信心のために、ただ我々の情欲をそそる勤行だけしか捧げようとはしていない。まったくわれわれキリスト教徒の
我々の宗教は、もろもろの不徳を根絶させるためにつくられた。ところが、かえってそれらをかばい・養い・あおっている。
(a)決して(よく言われるように)神様に
* これは諺である。実の入った米穀の代りに籾殻を供えて神様をごまかしてはいけない、という意味である。
哲学者アンティステネスはオルフェウスの秘義を授けられるとき、僧が彼に、「この宗旨に身を捧げるものは、死後において永遠無比の楽しみを受けるに違いない」と言うと、「ではなぜあなた自ら死なないのか」と言った。
ディオゲネスは、例によってもっとぶっきらぼうに(もっともそれは我々の問題からははずれるが)、やはり同じように自分の宗派に
(a)永遠の幸福に関するこれらの大きな約束を、我々がもし哲学的論証と同じように権威あるものとして受けいれることができるなら、我々は死をこのように恐れはしないだろう。
(b)その時人は、もはや己れの身の分解を嘆かざるべし。
むしろ喜びてこの世を去り、その死骸を残すべし。
あたかも蛇その皮をぬぎ、鹿その古き角を捨つるがごとく。
むしろ喜びてこの世を去り、その死骸を残すべし。
あたかも蛇その皮をぬぎ、鹿その古き角を捨つるがごとく。
(ルクレティウス)
(a)むしろ我々はこういうであろう。「早くこの身が分解されてイエス・キリストの許に参りたいものだ」と。霊魂不滅に関するプラトンの論説の力は、その弟子の幾人かを死にまで押して行った。彼らは師から与えられた希望を一日も早く実現したかったのである。
すべてこうしたことは、我々が我々の宗教をただ自分流に解釈し、ただ我々の手によってのみ受けいれていることの、はなはだ明らかな証拠である。いや、これでは他の諸宗教の受けいれられ方と、少しも違うところがないのである。我々はキリスト教の行われている国に生れあわせた。そして或いはその古さを、或いはこれを説く人の権威を、重んじる。或いはこの宗教の不信者に与える脅威を恐れ、或いはその約束につき従う。なるほどこれらの考察も我々の信仰に用いらるべきではあるが、あくまでそれは補助的なものでなければならない。そんなものは人間的な繋りにすぎない。これでは他の地方に生れ他の証人に接したら、我々は同じ約束と威嚇とによって、同じように反対の信仰を刻みつけられることであろう。
(b)我々はペリゴール人ないしドイツ人であると同じ資格でキリスト教徒なのである*。
* モンテーニュはあんなに敬虔な口調で語り出したけれども、霊魂の不滅とか来世の至福とかに関する教えが、哲学の論証のように万人の承服するところとはなり難いこと、その証拠には天国にあこがれて自殺をする坊さんは出て来ないばかりか、それを罪悪と説くような始末で、彼らの所説はけっきょく人間がでっち上げた仮説にすぎないと考える。そしてキリスト教徒とかマホメット教徒とかいうのは、フランス人、アラビア人というのと大してかわりはないのだと言う。「坊主どもは嘘をついている。それを真にうけるのはおめでたすぎる」と、モンテーニュはひそかに言おうとしている。ここにふと書きこまれた(b)の一行は、ちらりとそういうモンテーニュの真意を(宗教とはひっきょうこうしたものだということを)洩らしているのではないか。
(c)「彼ら無神論者は」とプラトンは言う。「理性の判断に訴えて、地獄およびあの世の刑罰に関する物語をうそだと断言する。けれどもそういうことを経験する機会が、老衰または病気が彼らを死に近寄せるころになって目の前にさし迫ると、やはりそういう未来の境遇が恐ろしく思われ、それまでとはちがった信仰をいだくようになる」と。そして、そういう印象は人間の心をおびえさせるからとて、彼はその法律の中で、そのような威嚇を含んだすべての教えや、神々がやがて人間に対して何かの苦痛を与えるだろうなどというような説を、禁じている(もっとも、そういう苦痛におちいることが最大の幸福に転ずるとか・何か医薬的効果をもつとか・いう場合だけは例外としている)。またビオンについてはこんな話が伝わっている。「彼はテオドロスの無神論にかぶれて久しく信心家連中を笑っていたが、自ら死に見舞われると忽ちにして最も極端な迷信に堕した。まるで神々がビオンの運不運に応じて引込んだり現われたりしたかのようであった」と。
プラトンとこれらの実例とは、我々が或いは愛によって或いは強いられて、神の信仰に導かれることを結論しようとする。無神論なるものは、人間の精神がいかに高慢な・度をはずした・ものであるにしても、そこに植えつけるのになかなか骨のおれる・いわば不自然で奇怪な・意見であるのだが、自分こそ俗人とはちがった・世を改革しようという・意見をいだいているぞとの虚栄と自負とから、体裁上この説を
(b)異教の誤謬と、我々の聖なる真理に対する無知とは、プラトンという偉大な霊魂を(と言ってもそれはただ人間的に偉大であったと言うだけの話だが)、さらにもう一つの・似たような・まちがいにおとし入れた。すなわち彼は、「子供と年よりとは宗教をうけ入れやすい」といったのであるが、それではまるで、宗教が我々の弱さから生れ、その弱さからその信用を得ているもののようではないか*。
* これほど宗教というものは根拠のないものだと言おうとするのか。それともプラトンのような異教徒には真の宗教はわからないので、真の宗教は別にあると言うつもりなのか。大分あやしくなって来たように感じられはしないか。
神は地上のものの天を見ることをいとわず、
絶えず天を我らの頭上に回転させつつ、
あらゆる形相の下に我らに現わる。
神は我らに自らを示し、我らのうちに自らを印す。
彼はおのれ自らの知られ、神の法の悟られんことを欲すればなり。
絶えず天を我らの頭上に回転させつつ、
あらゆる形相の下に我らに現わる。
神は我らに自らを示し、我らのうちに自らを印す。
彼はおのれ自らの知られ、神の法の悟られんことを欲すればなり。
(マニリウス)
ところで、我々人間の理性や推理は、重くて産む力のない素材のようなもので、聖寵がその
「よりよき論拠があらば出し給え。然らずんば降参せよ。
(ホラティウス)
我々の証拠の力に降参せよ。でなければ別に証拠をお出し。或いは何か別の主題に関してより良く組みたてられた証拠をお見せ」と。
わたしは気がつかないうちに、いつの間にかスボンの書物があびせられている第二の抗議に半分答えてしまった。これに対してもいつか彼のために弁じてやろうと、かねて思っていたからである。
ある人々は、彼のいろいろな論拠が力弱く彼の欲するところを実証するのにふさわしくないと言い、手軽にそれらを打ち倒そうと企てている。こうした連中は、いささか荒っぽくやっつけなければならない。まったくこの方が前の連中よりもずっと危険であり、ずっと根性がわるいのである。(c)人は他人の書いたものの意味を、とかく自分が心の中に予めいだいている意見につごうよいようにこじつけたがるが、無神論者もすべての著者を無神論に帰納していい気になっている。これはおのれの毒をもって害なき物質をけがすにひとしい。(a)これらの人々はあるかたよった判断を持っているので、スボンの理論を味わい得ないのである。それに、純然たる人間的武器をもって勝手に我々の宗教を攻撃させておけば彼らはひどく威勢がいいが、我々の宗教が権威と威令とに満ちた荘厳の中にあるときは、あえてこれを攻撃しようともしない。わたしがこういう狂熱を冷やしてやるために取る手段、それに一番ふさわしいと思う手段は、人間の自負と傲慢とをもみくちゃにし、踏みにじってやることである。彼らに、人間のはかなく空虚であることを思い知らせることである。彼らの手から理性というちっぽけな武器をもぎとることである。彼らを荘厳な神様の前に畏れかしこんで低頭平身させることである。学問も知恵も、この神様ただひとりのものである。自分について何かの価値を認めうるのも、ただこの神様のおかげである。ただこの神様から我々は、我々に若干の価値をつけるものを、かすめ取っているにすぎない。
けだし神はおのれ以外のものが自ら高しとすることを欲せざればなり。
(ヘロドトス)
(c)この高慢を打ち倒そう。これこそ、よこしまな精神がふるう横暴の第一の基礎となるものである。神は傲慢なる者に逆らいて、謙遜なる者に恩寵を給う(聖ペトロ)。「英知はあらゆる神々のなかにあるが、極めて僅かな人々の中にしかない」とプラトンは言った。
(a)さて、しかしながら、我々のはかない・
(c)まったく聖アウグスティヌスはこれらの人々を反駁しながら、もっとも千万にも、彼らが我々人間の理性が証明することのできなかった我々の信仰の幾箇条かをうそだと考えるのは、不正であると非難した。そして我々の理性にはとうていその性質と原因とを測り得ない事柄がたくさんあり得るしまた実際にあったということを示すために、人がこいつはまるでわからんと白状するところの、しかし誰でもが知っている・疑うことのできない・ある種の実験をかつぎ出したのである。しかも、それを他のあらゆる物事におけると同様に、
(a)そもそも真理は、我々に向って現世の哲学を避けよと説く時、いったい何を我々に説いているのか。我々の知恵が神の前では狂愚にすぎないこと、あらゆる
* ここでこの章の序論ともいうべき部分が終り、いよいよ本論に入る。次の部分すなわち第一部は、「自然界またはすべての被造物の間における人間の地位」とでも仮に名づけることができよう。もっぱらプルタルコスから資料を得ている。
(c)それはただ賢者へのご褒美として与えられたのか。そんなら普通の人間には殆ど関係がないことだ。それとも狂った者、
こんなことを我々は信じうるか。そもそも誰のために世界はつくられたりというべきか。それは恐らく理性を用いる生きもののためなるべし。げに神々と人々とこそ、すべての生きもののうち最も完全なるものなればなり(キケロ)と言った人を。我々はこの組み合せのたけだけしさを、いくら笑っても笑いたりないであろう。
(a)だが哀れな人間よ。お前は自分のうちに、そのような恩寵に値する何を一体持っているのか。もろもろの天体のあの変らない生命・それらの美しさ・それらの偉大さ・それらの整然たる規則に従って一瞬も休むことのない運動・を考えたら、
頭上はるかに、広大なる蒼穹を仰ぎ見るとき、
そこに諸星燦然と光り輝くを望むとき、
またわれら、月と太陽の運行を思うとき、
そこに諸星燦然と光り輝くを望むとき、
またわれら、月と太陽の運行を思うとき、
(ルクレティウス)
これらの天体が、ただに我々の生命や我々の運命の転変の上にばかりでなく、
誠に神は人間の行為と生命とを
かの星辰に従わせたり。
かの星辰に従わせたり。
(マニリウス)
我々の傾向・理性・意志・の上にさえ偉大な支配を及ぼしていることを考えたら、これらを我々の理性が教え示すとおりに、その勢力のまにまに支配し・押し動かし・ていることを考えたら、
我らは知る。かく我らより遠くにある星が、
隠れたる法則に従いて人を支配することを。
全宇宙が整然として周期的に運動することを。
運命の転変もまた天体の定まれる配置によることを。
隠れたる法則に従いて人を支配することを。
全宇宙が整然として周期的に運動することを。
運命の転変もまた天体の定まれる配置によることを。
(マニリウス)
人一人だけでなく、王一人だけでなく、王国も帝国も、この下界全体が、ちょっとした天体の動きで動き出すことを見たら、
微々たる運動のもたらす結果のいかに偉大なることよ!
王者をさえ動かすこの力のいかに偉大なることよ!
王者をさえ動かすこの力のいかに偉大なることよ!
(マニリウス)
もしも我々の徳も不徳も、我々の才能も学識も、またこうやって我々が天体の力に関して働かしている推理も、彼らと我々の比較そのものも、みな、我々の理性が判断するとおり、かれら天体の力により・そのお蔭によって・生ずるのだとすれば、
一人が恋に燃え海を渡りてトロヤを滅ぼせば、
他の一人は運命によりて法律を編むべく命ぜられたり。
ここに子ありて父を殺せば、かしこに親ありて子を殺し、
また兄弟あい争いあい殺すものあり。
この殺し合いの責めを負うは我らにはあらず。
彼らを駆ってかくのごとくすべてをくつがえさせ、
われとわが身を罪しわが身を裂かしむるは
運命なり。……かく運命についてわが語るもまた、
同じく運命のなさしむることよ。
他の一人は運命によりて法律を編むべく命ぜられたり。
ここに子ありて父を殺せば、かしこに親ありて子を殺し、
また兄弟あい争いあい殺すものあり。
この殺し合いの責めを負うは我らにはあらず。
彼らを駆ってかくのごとくすべてをくつがえさせ、
われとわが身を罪しわが身を裂かしむるは
運命なり。……かく運命についてわが語るもまた、
同じく運命のなさしむることよ。
(マニリウス)
もしも我々がもつこの一片の理性さえ、我々はこれを天の配分によって得るのだとすれば、どうして我々は己れを天にくらべることができようか。どうして天の精髄とその真相とを我々の学識に委せておけようか。我々がこれらの天体の中に見るものは、すべて我々をびっくり仰天させる。(c)かくも広大なる建物のために、そもいか程の努力と道具と工匠とが用いられしことぞ(キケロ)。(a)なぜ我々はそれらの天体に霊魂と生命と理性とがないというのか。何かそこに、動きもなければ感覚もない、何か愚鈍みたいなものを、認めたとでもいうのか。我々は服従という関係以外に、それらとは何らの交渉も持たないくせに。(c)我々は人間以外にはどんな被造物の中にも、合理的な霊魂の作用を認めたことがないというのか。とんでもない! 我々は太陽に似た何物かを見たことがあるか。そういう物は一つも見たことがなければ、それは存在しないことになるのか。類似のものが他になければ太陽の運動も存在しなくなるのか。もし我々が見たことのないものは存在しないのだとすれば、我々の知識は恐ろしく狭いものになる。かくまでに我らの精神の限界は狭し(キケロ)。(a)月を天における地球だと見たり、(c)アナクサゴラスのようにそこに山や谷を夢想したり、(a)プラトンやプルタルコスのようにそこに人間の住居を建てたり、そこに我々のすみよい植民地を作ったり、また我々の地球を光り輝く星であると言ったりするのは、空なる人間の夢ではあるまいか。(c)人間は本来あまたの欠点を有すれども、そのうち最も恐るべきものは精神の盲目なり。そは我らを迷わすのみならず、われらにその迷いそのものを愛せしむ(セネカ)。変質しやすき肉体は霊魂を鈍重にす。その粗悪なる外包の中に、霊魂をその思考する働きにおいて無力にす(経外典「知恵の書」)。
(a)
* 空界、水界、陸界。
(a)動物と我々との相互の理解を妨げているあの欠点は、なぜ彼らにばかりあって我々にはないのか。お互いに全くわかり合わないのは果してどっちの罪であろうか。それはどっちとも言えない。まったく彼らが我々を理解しないばかりでなく、我々も彼らを理解しないではないか。我々が彼らを
それに、彼ら同士の間にも十分完全な意思の疏通があること、ただに同種類のもの同士ばかりでなく異種類のもの同士もまた相互に理解し合っていることは、きわめて明白である。
(b)言葉を知らざる家畜も、最もおそろしき野獣も、
或いは恐れ或いは悲しみ或いは喜ぶに従いて、
それぞれ異なれる叫び声を発す。
或いは恐れ或いは悲しみ或いは喜ぶに従いて、
それぞれ異なれる叫び声を発す。
(ルクレティウス)
(a)犬の或る吠え方の中に、馬はそこに怒りがあると知る。別の吠え方をきいても、すこしも恐れない。声をもたない動物においてさえ、その互いに奉仕し合っているところを見れば、我々は容易に、何か別の意思疏通の方法があることを推論できる。(c)彼らの挙動は話もすれば相談もする。
(b)それは、さながら幼き子らの、
舌がまわらず手真似にて物言うに似たり。
舌がまわらず手真似にて物言うに似たり。
(ルクレティウス)
(a)どうして嘘なものか。ちょうど我々の唖者が、手真似でもって議論もすれば論証もするし、物語もしてきかせるのと同じことである。わたしは唖者がよくこのことに慣れていて、自分の考えをわからせるのに少しも不自由しないのを見たことがある。恋人たちは互いに眼で怒ったり、仲直りしたり、求めたり、感謝したり、約束したり、何から何までしめし合わす。
沈黙の内にさえ、
願いと約束とあり。
願いと約束とあり。
(タッソー)
(c)手ではどうだろう。我々は、求める。約束する。招く。追う。おどかす。頼む。願う。否定する。問う。たたえる。数える。告白する。悔いる。恐れる。恥じる。疑う。教える。命令する。すすめる。はげます。誓う。証明する。咎める。罰する。ゆるす。ののしる。さげすむ。あなどる。恨む。へつらう。喝采する。祝福する。謙遜する。嘲弄する。妥協する。紹介する。激賞する。慶賀する。喜ぶ。悲しむ。打ち沈む。がっかりする。やけになる。あきれる。感嘆する。黙する。このとおり何だって言える。その多種多様なこと、決して舌に劣るものではない。頭では、招く。追い返す。承認する。否認する。とり消す。歓迎する。尊ぶ。あがめる。軽蔑する。問う。敬遠する。はしゃぐ。涙ぐむ。愛撫する。服従する。挑む。はげます。おびやかす。保証する。問う。では眉では? また肩では? やはり同じことである。むしろ物を言わない身振りというものはないのである。この身ぶりこそ稽古せずにわかる言葉、万人共通の言葉であって、その多様にして別種の言葉に優る有様を見れば、これこそ、かえって人間特有の言葉と判断されてよい。我々が特別の必要に迫られてとっさの間に用いるそれや、指頭のアルファベットや身振りの文法や、これらのものが基になって始めて実施表現されるいろいろな学問、それから、プリニウスが語るところの・身ぶりのほかに言葉を知らない・民族のことなどには、ここではふれない。
(b)アブデラ市の一使節は、スパルタ王アギスに長いこと語った後、彼に向ってきいた。「どうですか、陛下。どんなお答を、私は帰って我々の市民たちに申し伝えましょうか」――「わたしが一言も口をはさまないで、おまえが言いたいことをおまえが言いたいだけ言わせた、と言いなさい」。これこそ意味深長でしかも明白な無言の雄弁ではあるまいか。
(a)それに、いかなる種類の我々の才能が、動物の行為の中に認められないというのか。およそ蜜蜂の国家ほど、秩序ただしく、さまざまな官位官職があり、しかもあれほど変りなく維持されている国家があるだろうか。あれほど整然たる職業職分の配置が、理性も知恵もなしに行われると考えることができようか。
これらの特徴やこれらの事例によりて
或る人は論証したり。「蜜蜂は
神の英知と天地の気とを受けたり」と。
或る人は論証したり。「蜜蜂は
神の英知と天地の気とを受けたり」と。
(ウェルギリウス)
本当にこう考えれば、我々が自然をはなはだ不公平な継母と呼ぶのは正しいかも知れない! だが決してそんなことはない。この世の機構はそんなに混沌として乱脈ではない。自然はそれが造ったすべての物を一様に抱擁している。この世のいかなる物といえども、その存在に必要なすべての方便を、自然から十二分に与えられていないものはない。まったく世間の人はこう言って嘆く(彼らの意見は実にめちゃくちゃで、ある時は自分を雲井の上にあげるかと思うと、たちまちにこれを奈落の底におとす)。「我々こそ、しばりくくられて、その身を掩うのにほかの者の皮よりほかには何ひとつなく、裸の大地の上に丸裸で、投げ出されている唯一つの動物である。ところが他の被造物にいたっては、自然はそれらに、殻や
(b)狂える波によりて岸辺に打ちつけられし水夫の如く、
人の子は母の胎内より世の明るみの中へ、
自然によりて荒々しく押し出されし時より、
言葉も知らず生きる便りも持たで、
あわれや裸にて地上に横たわれり。
彼はその生れし場所を、
泣き叫ぶ声もて満たしき。
その泣くやむべなり。不幸なる者よ。
汝には生涯苦しむべきものあまたあり。
しかるにもろもろの動物は、
大いなるも小さきも、
また猛獣の子も、難なく生 い育つ。
からからと鳴る玩具も、乳母の優しき言葉も用なし。
四季折々の着物もいらず。
武器も、高き壁も、彼らの室を守るに要なし。
何となれば、大地とたゆまざる自然とは、
豊かに彼らの欲するものを与うればなり。
人の子は母の胎内より世の明るみの中へ、
自然によりて荒々しく押し出されし時より、
言葉も知らず生きる便りも持たで、
あわれや裸にて地上に横たわれり。
彼はその生れし場所を、
泣き叫ぶ声もて満たしき。
その泣くやむべなり。不幸なる者よ。
汝には生涯苦しむべきものあまたあり。
しかるにもろもろの動物は、
大いなるも小さきも、
また猛獣の子も、難なく
からからと鳴る玩具も、乳母の優しき言葉も用なし。
四季折々の着物もいらず。
武器も、高き壁も、彼らの室を守るに要なし。
何となれば、大地とたゆまざる自然とは、
豊かに彼らの欲するものを与うればなり。
(ルクレティウス)
(a)だが、このように嘆くのはまちがっている。この世のなかにはもっと大きな平等があり、もっと一様な類似がある。我々の皮膚も彼らのそれと同様に、十分天気の侵害に対して抵抗力を備えている。その証拠には、沢山の民族が今なお全く衣服の使用を知らないではないか。(b)我々の祖先ガリア人も、ほとんど衣服を着なかった。我が隣人のアイルランド人も、あんなに寒い空の下にありながら裸である。(a)けれども我々は、自分自身を省みる方がずっとよくわかる。まったく、我々が好んで吹きさらしに出している身体の部分は、いずれも皆それに堪えられるようになっているではないか。顔、足、手、
(b)動物はみな己れの力と要求とを知ればなり。
(ルクレティウス)
(a)誰が疑うか、子供がひとりで食べられるようになると、自分で食べ物をさがすすべまでも知るようになることを。大地もまた、これに何らの耕作と人為とを施さないでも、よく子供の要求に適うだけのものを産み出して彼に提供する。そしてすべての季節においてとはいえないが、それは動物に対しても同じことで、その証拠に、
大地はそのはじめ死すべきもののために、
ひとりにて豊かなる稔り・多くのぶどう・を産み出したり。
ひとりの力にて人間に甘き果実と肥えたる草とを与えたり。
今それらは、すべて我々が労苦してようやくにしてうるところ。
我らは、わが牛とわが小作人の力とをこのために使いつくす。
ひとりにて豊かなる稔り・多くのぶどう・を産み出したり。
ひとりの力にて人間に甘き果実と肥えたる草とを与えたり。
今それらは、すべて我々が労苦してようやくにしてうるところ。
我らは、わが牛とわが小作人の力とをこのために使いつくす。
(ルクレティウス)
これは、我々の旺盛で止めどのない欲望が、それを満足させようとて我々が考え出すあらゆる工夫を凌駕するからである。
武器にいたっては、我々は他の大部分の動物よりも、天賦の武器をより多く持ち、より多様な四肢の運動を持ち、そして生れながらに、何ら学ぶことなく、それらからより多くの効果を得ている。裸で戦うように訓練されている者どもは、あのとおり我々が出あうのと同様な危険に向って突進する。たとい或る幾つかの動物がこの点において我々を越えているにしても、我々は他のいろいろな動物にくらべればよりまさっている。いや、後天的方便によって身体を強固にし保護する工夫にしても、我々はそれを本能ないし自然の教えによって得るのである。その証拠には、象はその牙をとぎすまして戦闘の用に備える(まったく、象はこの用に供する特別の牙を持っているが、ふだんはそれを大切にしていて、決して別のことには用いないのである)。牡牛は戦闘に出るとき、その身のまわりに
言葉にいたっては、それがもし自然のものでないとすれば、必要不可欠なものでないことは確実である。けれども子供は、孤独のただ中にあらゆる交通を絶って育て上げても(それはなかなか行いにくい実験ではあるが)、恐らく何か別種の言葉を用いてその思いを表出するであろうと思う。いや、自然が他のたくさんの動物に与えたこの方便を、我々人間にだけ拒んだとはとうてい信じられない。まったく、我々は彼らがその声を用いて、訴えたり・喜んだり・互いに助けを呼び合ったり・愛に誘ったり・するのを見るが、この性能こそ言葉でなくて何であろうか。(b)どうして彼らは互いに話し合わぬであろうか。彼らはちゃんと我々に話す。我々も彼らに話す。我々は我々の犬たちにいろいろなふうに話しかけるではないか。彼らも一々それに答えるではないか。我々は彼らに、鳥や豚や牛や馬に対するのとは別の言葉・別の呼び声・をもって語る。いや、相手のいかんにしたがって、我々は用語をかえるのである。
(a)かくて彼らの黒き一群を見るに、
蟻どもは互いにその額をよせて、
その謀 やその獲物につきて語り合えるがごとし。
蟻どもは互いにその額をよせて、
その
(ダンテ)
ラクタンティウスは、動物には言葉だけでなく笑いさえあると考えているようだ。それに我々の間に見られる・地方地方による・言葉の相違は、同種類の動物の間にも認められる。アリストテレスはこれに関して、場所の情況によって
(b)多くの鳥は天候によりてその鳴きかたを変う。
中には季節に伴いてそれを変うるものあり。
中には季節に伴いてそれを変うるものあり。
(ルクレティウス)
(a)けれども、さっきの唯独りおかれた子供が果してどんな言葉を用いるか。それは、今のところわかっていない。それについて臆測的に言われていることは、あまり本当らしく思われないのである。もし誰かがさっきの意見に反対して、「生れながらの聾はまったく口をきかないではないか」と言うならば、わたしはこう答える。「それはただ彼らが耳を経て言葉の教育を受けられなかったからばかりではない。むしろそれは、彼らが持たない聴覚と、話をする感覚との間に、相互の関係があり、両者が互いに自然的連繋によって結ばれているからである。つまり我々は、我々が話すところのことを、まずもって我々自らに話さねばならず、それを自分の耳の内に響かせなければならず、それからでなければそれをひとの耳に送ることができないからである」と。
以上のような事柄をくどくどと申し述べたのは、人間的な事柄に関しても動物と人間との間にはこのような類似があることを認め、両方を一つ仲間に入れたいからである。我々は我々以外の物より、上でもなければ下でもない。
(b)万物は運命の避けがたき糸にあやつらる。
(ルクレティウス)
(a)そこには若干の相違がある。序列があり段位がある。だがいずれも同じ自然の姿の下にある。
(b)万物はそれぞれに特有なる法則に従えども、
なおかつ自然がこれに課したる序列を堅く守る。
なおかつ自然がこれに課したる序列を堅く守る。
(ルクレティウス)
(a)どうしても人間を、こういう一つの機構の内部にとじこめて、その垣根を飛び越えないようにさせなければならない。実際この哀れなやつは、とてもその外に踏み出すどころではないのだ。彼はそこに窮屈に閉じこめられ、自分と同じような他の被造物と同じ義務を負わされ、何の特権もなければ真の本質的な優れたところも持たず、平々凡々たる境遇に置かれているのだ。彼が思想や想像によって自分に与えている優秀性などは、形もなければ味もない。仮に彼が言うとおりに、すべての動物の中で彼ひとりがそういう自由な想像と奔放な思考とを持っていて、そのおかげで、あること・あらざること・彼の欲すること・真および偽・を思いいだくことができるのだとしても、それこそ彼があまりにも価高く買わされた優越であって、ほとんど栄誉とするにたりないものである。まったく、主としてそこから、彼を攻め囲むもろもろの悪の泉、すなわち、罪・病・迷い・煩悶・絶望は、流れ出るのである。
そこでわたしは、わたしの問題にたちかえっていうのである。動物は、我々人間が選択と工夫とによって行うのと同じ業を、自然の傾向に強制されて行うのだという考えは全く真らしくない、と。我々は、同じ所業からは同じ性能を結論しなければならない。したがって、我々が働くときに用いるあの推理、あの筋道も、いろいろな動物が用いるそれと同じものであると告白しなければならない。なぜ我々は、彼らにおいてだけ、あの自然的強制を想像するのか。我々は少しもそういう結果を感じないのに。それに、自然から与えられた・さからうことのできない・天性に導かれて正しく行動させられる方が、気まぐれな偶発的な自由によって正しく行動するのより、ずっと名誉であり、ずっと神に近いのである。いや、我々の進退の手綱は、我々にまかせるより自然に
* 自然の諸善 biens naturels とは人が天から与えられる、すなわち生れながらにしてもつ、種々の善のことで、具体的にいうと健康や美や頭脳の明晰などがそのうちに数えられる。平たくいえばいずれも自然の恵みである。それに対して後に得た諸善 biens acquis というのは、種々の学術技能などをさす。蓄積される富もまたこのうちに入る。
** ここでは学問理性を否定しているように見えるが、また他方には、本能に従うよりは自己の自由選択に従うのが人間の人間たるところだとしている章節が到るところにある。索引「理性」の項参照。
またもし、「我々は彼らをつかまえることができる。思いのままに彼らをこき使うことができる」ということから、幾らかの優越をほころうとするならば、それは我々が我々相互の間でもち合っている優越と少しもかわりはない。我々は同じように我々の奴隷をこき使っている。(b)いやクリマキデスと呼ばれたのは、シリアで四つんばいになって貴婦人が車に乗るときにその踏み台・階段・の役を勤めた女たちではなかったか。(a)また自由な人々も、その大部分は、きわめてささやかな安楽のために、その生命をも存在をも他人の権勢に委ねている。(c)トラキア人の妻妾たちは、われこそ選ばれて夫の墓前で殺されたいと申出る。(a)かつて暴君どもが、その身を捧げて悔いない崇拝者にこと欠いたためしがあるか。中には「おれが生きている間だけでなく死んでから後もおれに従え」とまで言ったやつさえあったではないか。
(b)全軍の兵卒はそんなふうにその大将に従う。あの
いざわが頭を焼き、
わが体を剣もて貫き、
わが背を鞭もて裂きたまえ。
わが体を剣もて貫き、
わが背を鞭もて裂きたまえ。
(ティブルス)
それは真剣な誓約であった。しかもある年のごときは、この誓約に加わって命を失うものが万をもって数えられた。
(c)スキュティア人はその王を埋葬するとき、御遺骸の前で、最も御寵愛をこうむったお妾をはじめとし、お酌とりの少年、楯持ち、侍従、部屋付の
(a)我々に仕える者どもは、もっと安価に命をすてる。しかもそれは、飼鳥や馬や犬どもにも及ばない程度の御寵愛にむくいるために。
(c)これらの鳥獣を安楽にするためには、いかなる心くばりをも我々は辞しない。いかに身分の卑しい奴隷でさえもその主人のためにしたがらないような事柄を、王侯がたすら自分が愛する畜生のためともなれば、喜んで遊ばされるようである。
ディオゲネスは、その両親が自分を奴隷の境遇から買いもどそうと苦心しているのを見て、「親たちは気が狂っている。わたしを抱え養っている者こそ、わたしの奴隷である」と言った。生き物を飼っている人たちもまた、彼らを飼っているというよりは、むしろ彼らに飼われているのだと、悟らなければならない。
(a)それに動物には、我々よりもずっと高尚なところがある。というのは、意気地なく一方の獅子がもう一方の獅子に、一方の馬がもう一方の馬に、隷従するようなことは決してないからである。我々が動物狩りに出かけるように、虎や獅子も同じく人間狩りにやって来る。また彼ら同士の間でも同じことをやり合っている。つまり犬は兎を、かますはうぐいを、燕は
(b)鶴は野のあちこちに見出したる
蛇やとかげをもってその雛を養う。
ユピテルにつかうる高貴なる鳥〔鷲 〕は、
森林の中に野兎や山羊を狩り立つ。
蛇やとかげをもってその雛を養う。
ユピテルにつかうる高貴なる鳥〔
森林の中に野兎や山羊を狩り立つ。
(ユウェナリス)
我々は我々の犬や鳥と、艱難辛苦を分つとともに狩猟の果実をもわかち合う。また、トラキアの国アンフィポリスの上の方では、猟師と荒鷲とが、その獲物を等分にわけ合う。それからマイオティスの湖のほとりでは、漁夫が正直にその獲物の半分を狼どもに与えないと、彼らは直ちに漁夫の網を引き裂く。
(a)それから、我々が力よりもむしろ詭計によって行う狩猟(例えば罠だの糸と針だのによるそれ)を有するように、動物の間にも同じようなものが見られる。アリストテレスが言うところによると、
力という点では、世に人間ほど多くの危険にさらされている動物はない。鯨や象や
なぜ我々は言うのか。「生活や病気の治癒に役立つものを識別したり、
クリュシッポスは、他のあらゆる事柄においてはいかなる哲学者にもまして動物の性情を侮蔑的に判断したが、犬がそのはぐれた主人を捜しながら、あるいは逃げて行った獲物を追いかけながら、ある
* ジョルジュ・ド・トレビゾンド、十三世紀フランスの文法学者、論理学者。その著は十六世紀に教科書としてよく読まれた(ギルボ註)。またはビザンチンの学者、トラペゾンティオス。ビザンチン帝国没落の際イタリアに亡命した。十五世紀の人(ポルトー註)。
プルタルコスが父ウェスパシアヌス皇帝と共にローマのマルケルス劇場で見たといっている、あの犬の話も忘れてはならない。その犬というのは、数個の場面と数人の人物とからなる或る狂言を演ずる一人の興業師に飼われていて、自分もまたその狂言の中に一役持っていたのである。いろいろなことをしなければならなかったが、特にある薬を飲んで死んだ男を、少しのあいだ真似しなければならなかった。すなわち、その薬になずらえたパンを呑みこむと、間もなくその犬は、あたかも体がしびれるかのようによろめき震え出した。そして終いには死んだもののように倒れ伏し、かたくなって、その狂言の筋書どおりに、あちこちと引きずりまわされた。それから、いよいよもうよしと思うと、まるで深い眠りからさめたかのように、まずかすかにその体を動かし始めたが、ついに首をもたげてあちこちと見まわし、並みいるすべての人々を驚かせた。
スーサの王様のお庭には、幾つもの桶が結びつけられた大きな水み車(ちょうどラングドック地方にたくさん見られるような)を回してそこに水をまくために、幾頭かの牛が飼われていて、それぞれ日に百回転ずつその車を回すことになっていた。彼らはこの数に非常によく慣れていて、いかに無理をしてもただの一回転さえ余計に回させることはできなかった。お務めを終るとぴたりとやめた。我々は百までの勘定をおぼえないうちに青年になってしまうし、数の観念の全くない民族をも我々はついこのあいだ発見したばかりだというのに。
教えられる方よりも教える方に、ずっと多くの推理があるのである。ところであのデモクリトスが、「大部分の学芸は動物が我々に教えたのだ。例えば
だが、つぎの
わたしはまた、もう一つ、これもまた同じプルタルコスがある船のなかで見たという、ある犬の話を忘れずに申上げたいと思う(まったく順序からいえば、確かにこの方をむしろ先にすべきであったと思うが、わたしは、ここばかりではない、わたしの著作の他の部分においても、こうした事例の順序などはあまり気にしないのである)。その犬は、瓶の中の油をなめようとして、瓶の口が狭くて舌の先がとどかないのに困っていたが、やがて小石をさがしにゆき、それらを瓶の中におとし、とうとう油を瓶の口にとどかせて、これをなめた。これなどは、すこぶる緻密な精神の働きでなくて何であろう。蛮地*の烏も、飲もうとする水にとどかないと、同じことをするそうである。
* 北部アフリカ地方を、当時 barbarie 蛮地、蛮域とよんでいた。
(b)これらの象の祖先はカルタゴ人ハンニバルや、
わがローマの大将たちや、
またエピルスの王に仕えたり。
彼らはその背に歩兵をのせ
騎兵隊のごとくに駈けめぐれり。
わがローマの大将たちや、
またエピルスの王に仕えたり。
彼らはその背に歩兵をのせ
騎兵隊のごとくに駈けめぐれり。
(ユウェナリス)
(a)確かに人は、心からこれらの動物の忠実と理知とを信じたればこそ、彼らに前衛を委ねたのに違いない。彼らの体躯はあのとおり大きく重いのだから、ちょっとでも立ち止ろうものなら、またちょっとでも恐怖にうたれて頭を味方の方に向けようものなら、それこそ万事おしまいではないか。我々の間ではよく起ることだが、彼らが味方の部隊に向って駈けよせたなどという話は、まず聞いたことがない。人は戦闘において、彼らに簡単な機動部隊を受けもたせたばかりでなく、いろいろな部署を幾つも受けもたせた。(b)ちょうど、スペイン人が新たにインドを征服するに当って犬どもにそれをさせたように。彼らは犬どもに給与を払い、分捕品もわけてやった。犬の方でも器用と判断とをつくして勝利を追求確保し、場合に応じて或いは攻め或いは退き、味方と敵との区別をするとともに、熱烈に勇猛に働いた。
(a)我々は普通の事柄より見なれない事柄を嘆賞し尊重する。いやそうでなければ、わたしだってこんなに長たらしい記録なんかはしなかったろう。まったくわたしの考えでは、人がもし、我々がふだん我々の間に生きる諸動物についてその生態をくわしく観察するならば、同じように驚嘆すべき事柄はいくらでも目につくのであって、何も外国や他の世紀にそれを採集にゆくまでもないのである。(c)いつも同じ自然がその道を歩いているのである。その現在の状態を十分に判断できる者は、それから確実にあらゆる未来とあらゆる過去とを結論することができるであろう。(a)わたしはかつて我々の間に海路を経て遠い国から連れて来られた人々を見たことがあるが、我々には彼らの言葉がすこしもわからなかったし、それに彼らの習慣は、その風態といい服装といい、まったく我々のそれらからはかけ離れていたので、誰一人彼らを野蛮だと見ない者はなかった。彼らがフランス語も知らなければ、我々の接吻の礼も身をくねらせる御辞儀も進退の作法も知らないで、ただおし黙っているのを見て、これを暗愚のせいにしない者はなかった。だがはたして人類は、必ず我々の方ばかりをお手本にしなければならないのであろうか。
我々は自分たちに奇妙に思われることはすべてくさす。また理解されないこともけなす。それは御承知のとおり我々が動物に対して判断を加える場合によく起ることである。彼らも我々の性質に似寄ったものを沢山に持っているから、そういう性質から、我々は比較によって多少の推測を引出すことができる。けれども彼らに特有の性質ということになると、我々にはてんで何もわからないのである。馬、犬、牛、羊、鳥、その他我々とともに生活する動物の大部分は、我々の声をききわけその声のまにまに引きまわされる。クラッススの
(a)彼らはそれぞれに名をもち、各々
主人の呼び声に応じて泳ぎよりき。
主人の呼び声に応じて泳ぎよりき。
(マルティアリス)
この程度のことなら、われわれにも判断がつく。我々にはまた、象が多少宗教心らしいものを持っていることも理解できる。なぜなら、彼らが幾度もその身を洗い清めた後、我々が腕をさしのべるようにその鼻を高くさしあげ、眼には昇る朝日をうち拝みながら、一日の内のある時刻に、全く自発的に、誰に教えられたのでも命ぜられたのでもなく、長く瞑想静観にひたるのを見るからである。けれども、他の諸動物にこれに類するものが少しも見られないからといって、彼らを無宗教であるとは断言できないし、我々の眼に留らないことはどうにも解釈のしようがないのである。我々が哲学者クレアンテスの認めたつぎの行為の中に何事かを悟るのは、それが我々の行為と似ているからである。「見ると」とクレアンテスは言っている。「
さて動物は、なおこの他にもいろいろ我々の能力を遙かに凌ぐ行為をし出かす。我々は模倣によってこれに達することができないばかりか、想像によってこれを思いいだくことすらできないのである。多くの人が信ずるところによると、アントニウスがアウグストゥスと戦って破れたあの最後の大海戦において、彼が乗っていた旗艦は、疾走の最中に、ローマ人がレモラとよぶ小さな魚によって動けなくなった。この魚には、それにぶつかるすべての船をとめるという特別の性能があったからだ。また皇帝カリグラが大船隊をひきいてロマニアの海岸を漕いで行ったときも、彼の乗っていた船だけが、やはりこの魚によってぴたりと止められた。彼はそれが船底にへばりついているのを捕えさせた。そんなちっぽけな動物が、ただその口で彼の兵船に吸いついただけで(まったくそれは貝殻をしょった小さな魚なのである)、波をも風をもあらゆる
昔のいろいろな予言の中で、最も古くて確かなのは、鳥の飛び方から引き出されるそれであった。世に、これほどのもの、これほどすばらしいものが、果してあるだろうか。人はあの規則正しい翼の動かし方から将来の事柄を予言するのであるが、この鳥の翼は、きっと何か特別優れた力に導かれて、このように高尚な働きを示すのに違いない。まったく、こういう偉大な結果を何か自然の本能みたいなもののせいにして、これを提示する者の英知や同意や理性を考慮に入れないのは、浅薄な解釈である。それは明らかに誤った考え方である。その証拠には、
動物の生れ方・殖え方・食べ方・動き方・働き方・生き方・死に方は、我々のそれらとあんなにもよく似ているのだから、我々が何でもかでも彼らのうちのもろもろの動機から切り離して、これを彼らの性質よりもすぐれた我々の性質に結びつけてしまうのは、どう考えても我々の理性の判断から出たものとはいえない。我々の健康の規則として、医者たちは我々に動物の生き方在り方を手本にせよと教える。まったく、つぎの諺はつねに人口に
脚と頭とを温かにし、
いつも畜生のようにお暮し。
いつも畜生のようにお暮し。
(フランスの諺)
生殖は自然的行為の主要なもので、我々の四肢の配置はそれを行うのに最も都合よくできている。けれども医者は、動物の姿態に習うことを一番効果的だとして我々に命じている。
女みごもるに最もふさわしき姿態は、
四足獣のそれなりと人は言う。
胸低く腰高ければ種子おのずから達すればなり。
四足獣のそれなりと人は言う。
胸低く腰高ければ種子おのずから達すればなり。
(ルクレティウス)
そして婦人が勝手にそこに交えた、あのぶしつけな・厚かましい・挙動を有害だとしてくさし、動物の牝の、もっとおとなしく・落ちついた・仕方にならえという。
女が快感に煽 られてする嬌態は
妊娠の妨げをなすものなり。
女はかくして鋤 をして畝 を逸 せしめ、
種子をいたずらに外にこぼれさす。
妊娠の妨げをなすものなり。
女はかくして
種子をいたずらに外にこぼれさす。
(ルクレティウス)
もし受けた恩をその人に返すことが正義であるとすれば、その恩人に仕え・これを愛し・これを守って・これを脅やかす外敵を追い傷つける・動物は、ただそれらの点においてだけでなく、その子供たちに財産をわけるに当ってはなはだ公平に平等を守るという点でも、かなり我々の正義に似たところを見せている。友愛にいたっては、人間のそれとは較べものにならぬほど強くて変らないものを持っている。王リュシマコスの犬ヒルカヌスは、その主人が死んだとき、いつまでもその枕べを去らず、飲もうとも食おうともしなかった。そして主人の死骸が焼かれるという日には、駈けて来てその火の中に飛びこみ焼け死んだ。ピュロスという人の犬もまたそうだった。まったくこの犬もまた、主人が死んでからずっとその寝台の下を去らず、死骸が運ばれるときには諸共にかついでゆかれ、ついに同じ火に焼かれて死んだのである。ある種の愛の傾向が、ときに理性の同意がないのに我々のうちに生れ出ることがあるが、それは他の人々が共感と呼びなす偶然の気まぐれから生ずる愛情であって、動物もまた我々と同じようにそれを持っている。馬同士がいやに仲よくなってしまって、彼らを別々に暮させたり・旅をさせたり・するのに世話がやけて困ることがある。我々がよく見ることだが、彼らは仲間のある毛色にほれこむ。我々がある種の容貌に迷うように。彼らはそういう毛色にぶつかると、いかにも喜ばしげに、こぼれるばかりの愛嬌を示しながらそこにかけよる。そして他のものを
欲望には、飲食のように自然で必要なものもあれば、雌との交わりのように、自然ではあるが必ずしも必要でないものもあり、またまったく自然でも必要でもないものもある。この最後の部類に、人間の欲望のほとんど全部がぞくしていて、それらはすべて余計な人為的なものである。まったく、自然がどんなに僅かなもので満足しているか、どんなに僅かなものだけを我々に欲望させているか、それは不思議なくらいである。我らの料理法も、自然の法規とは何の関係もない。ストア学者は言っている。人一人は自ら養うのに日にオリーヴが一つあればたりると。我々のぶどう酒の甘美も自然が教えたものではなく、恋愛の欲望に我々がつけ加えるおまけもまたそうである。
自然は権力ある執政の娘を必要とせず。
(ホラティウス)
これら自然に由来せぬ欲望は、幸福に関する無知とまちがった考えとが我々の間に注ぎこんだものであるが、それは大変な数にのぼるので、ついに自然な欲望のほとんど全部を駆逐するに至った。それは一つの都市の中に異人の数があまり多くなると、ついに土着の住民を追い出したり、彼らが昔から持っている権力権威をことごとくうばいとって、それらを跡形もなく消滅させてしまったりするのと、少しも異なるところはない。動物は我々よりもずっと規則にかなっている。そして、より多くの節制をもって、自然が万物に課した限界の中にとどまっている。けれども、我々の
牝牛はその父に身をまかせて恥じず、
牝馬もまたその父と交わる。
牡山羊はその子たる牝山羊と交 み
鳥はその産みたる鳥と交わる。
牝馬もまたその父と交わる。
牡山羊はその子たる牝山羊と
鳥はその産みたる鳥と交わる。
(オウィディウス)
わる知恵にかけてはどうか。哲人タレスの騾馬のそれほど顕著なものはあるまい。そいつは塩を背負って川を渡る途中、たまたま
家政に関しても、彼らは我々より優れている。それはただ将来のために貯蓄をするという遠い
戦争にいたっては人間の行動のうち最も勇壮なものであるが、はたして我々は、これを以て何かの優秀の根拠にしようとする気なのか、それとも反対に、人間の弱さと不完全との証拠にしようとする気なのか、知りたいものだ。まったく正直のところ、お互いに打ち合い殺し合い、自分の種族を滅亡させる学問などは、これをもたない畜生どもを口惜しがらせるにたるものではないと思う。
(b)いつ獅子は、己れより弱き獅子の命を奪いたるや。
いかなる森にて、猪、より強き猪の牙の下に息絶えしや。
いかなる森にて、猪、より強き猪の牙の下に息絶えしや。
(ユウェナリス)
(a)けれども彼ら全部がそれを知らないのではない。例えば蜜蜂の激しい合戦で、敵味方の大将があいうつ壮観を見たまえ。
二女王の間にしばしば激しき争いおこる。
思え、そのとき、両軍の士気いかにあがり、
戦いいかに白熱するかを。
思え、そのとき、両軍の士気いかにあがり、
戦いいかに白熱するかを。
(ウェルギリウス)
わたしはこの神々しい描写を見るごとに、そこに人間の無能と虚栄とが描かれているな、と思わないことはない。まったく、我々がそのこわさ恐ろしさに
(b)刀槍の光天に閃き
銅砲の光野面にあふれ、
つわ者の足下に大地は鳴り
喚 き叫ぶ声山々にこだます。
銅砲の光野面にあふれ、
つわ者の足下に大地は鳴り
(ルクレティウス)
(a)あんなにおおぜいの狂暴で勇猛な
聞くならく、かのパリスの恋こそ、
ギリシアの国と蛮民との間に、
激しき争いを巻き起したるなれ。
ギリシアの国と蛮民との間に、
激しき争いを巻き起したるなれ。
(ホラティウス)
全アジアはただパリスの邪淫のために戦争に突きいり、崩壊滅亡した。一人の男のそねみや恨みや快楽や夫婦の間の嫉妬なんかは、二人の
アントニウスがグラフュラに接吻したりとて、
フルウィア来りてわれに「接吻 せよ!」と言いぬ。
「フルウィアよ、いかでかわれ、おん身に接吻せん?
そはアントニウスの罪にしてわが知るところならず。
マンニウスわれに迫ればとて、いかで、
われ彼を抱かん。否!」
「愛せよ! しからずんば戦わん!」と重ねてフルウィアは言えり。
よし、さらば戦わん! 男根こそ、生命よりもまされり!
らっぱ手よ、吹きならせ!
フルウィア来りてわれに「
「フルウィアよ、いかでかわれ、おん身に接吻せん?
そはアントニウスの罪にしてわが知るところならず。
マンニウスわれに迫ればとて、いかで、
われ彼を抱かん。否!」
「愛せよ! しからずんば戦わん!」と重ねてフルウィアは言えり。
よし、さらば戦わん! 男根こそ、生命よりもまされり!
らっぱ手よ、吹きならせ!
(皇帝アウグストゥス)〔マルティアリスによる〕
(私は平気で遠慮なしに、いつものラテン語を使用致します。あなた*はさきにそれをおゆるし下さいましたから)。
* モンテーニュがこの「弁護」の章を献呈した相手の貴婦人を指す。それが誰であるかはかなり問題になったが、今ではナヴァール王妃マルグリット・ド・ヴァロワ Marguerite de Valois(アンリ四世の最初の妻)ということに決定している。この章の解説および巻末の年表、私の『モンテーニュとその時代』第四部第四章四一九―四二七頁等参照。献呈の辞はずっと後(六五八頁)に出て来る。なお、モンテーニュのこの弁解は何のためであろう。貴婦人に向ってラテン語を引用することが衒学的であることを詫びるのであろうか。それとも、ここに引用されているマルティアリスの句が猥褻 であることを詫びるのであろうか。
(b)冬再び帰り来てオリオンそこに浸るとき、
リビアの海に千波万波の立ちさわぐがごとく、
夏来りて、若き太陽に燃ゆる麦の穂の、
或はヘルムスの・或はリビアの・野にそよぐがごとく、
楯は戞々 と鳴り踏まるる大地は震動す。
リビアの海に千波万波の立ちさわぐがごとく、
夏来りて、若き太陽に燃ゆる麦の穂の、
或はヘルムスの・或はリビアの・野にそよぐがごとく、
楯は
(ウェルギリウス)
(a)あまたの
野づらを進む黒き一隊、
(ウェルギリウス)
にすぎないのだ。一吹きのむかい風、飛び立つ一群の烏の叫び、一匹の馬のつまずき、ふと飛んですぎる一羽の鷲、夢、声、人影、朝霧、いずれもその怪物を地上に転倒させるに十分である。その顔にただ一筋の日光をあてよ。彼はたちどころに溶けてなくなる。風が起ってその眼にわずかな砂を吹きつけようか。ウェルギリウスの歌った蜜蜂の場合のように、我々の旗もちも軍隊もことごとく、いや陣頭にあの大ポンペイウスを戴いていても、たちまちにして崩れ果てるであろう。まったくこのいみじき武器でもってセルトリウスがイスパニアでやっつけたのは、他ならぬこの大ポンペイウスであったらしいのである。(b)この武器は、他の人々にもまた利用された。例えばアンティゴノスに対してエウメネスに、クラッススに対してスレナスに、利用された。
(a)この大いなる怒り、この恐ろしき戦いも、
ただ僅かなる砂ほこりによりて静められき。
ただ僅かなる砂ほこりによりて静められき。
(ウェルギリウス)
(c)後ろから我々の蜂どもでもよい、おっぱなして見たまえ。これまた大軍を潰走させるだけの力と勇気とを示すであろう。なお記憶に新たなところでは、ポルトガル人がクシアティムの領内にあるタムリ市を囲んだときのこと、市民たちは、その豊かに持っている蜂の巣を城壁の上高く運び上げた。そして、これに火をはなち巣の中の蜂を非常な勢いで敵に向って飛ばせたので、敵はこの攻撃・その針の痛さ・に堪えかねて潰走した。じつにこの前代未聞の援兵によって、彼らの都市の勝利と自由とは保たれたのであった。しかも幸運なことには、戦いが終るとそれらの蜂は、ただの一匹も失われずに帰って来たのであった。
(a)皇帝の霊魂も靴屋の霊魂も、同じ鋳型で鋳られた*ものである。彼らは王侯の諸行為の重大さを見て、それらもまた何か同じように重大な原因から産み出されたかのように思いこんでいるが、とんでもないことだ。彼らもまたその運動において、まったく我々と同じばねによって押されたり引張られたりしているのである。我々が隣の人と喧嘩するのと同じ理由で、王侯は互いに戦いをかまえる。我々に下男をぶんなぐらせるのと同じ理由が、ふとある王様の心のうちにおこって、彼に全一州を攻め滅ぼさせる。
(b)彼らも我々と同様に軽々しく意欲するのであるが、そのなすところはより大きい。(a)同じ欲望が、
* この句は一七九二年に革命家の新聞 Journal des sans-culottes の標語にされた。
** Ciron 後にパスカルのパンセの中にも出て来る。従来「だに」と訳されているが、チーズや穀粉や砂糖の中などに生ずる極微なるうじ虫。
感謝に関しては(まったく我々は、こんにちこそ特にこの言葉を大切にする必要があると思うのである)、つぎの実例を一つ挙げれば十分であろう。それは、アピオンが自ら目撃した事実として物語っているものである。ある日のこと(と彼はいっている)、ローマで、人民のために、もろもろの外国の獣との・特に体の法外に大きな獅子との・格闘会が催されたが、なかでも一頭の獅子が、その獰猛な態度により、また四肢が逞しく強そうで
「主人が」と彼は言った。「かつてアフリカに地方総督であったとき、私は毎日のようにむごく打ちたたかれますので、その
以上はアンドロドスが皇帝に物語ったところであるが、それはまた人民にもつぎつぎに語り伝えられた。それでみんなが哀れがって彼のために命乞いをしたので、彼はついに自由の身とされ刑をも許された。そして、人民の決議によってその獅子を贈られた。それ以来(とアピオンはいう)、アンドロドスが細い紐をつけてその獅子を曳きながら、ローマの居酒屋をめぐり歩いて銭をもらい、獅子が人々から与えられた花でその身を掩われるさまが見られた。そして行きあう人々は口々に、「これこそ人を養った獅子よ。これこそ獅子を
(b)我々はしばしば愛する動物を失って泣くが、彼らもまた我々を失ってなく。
次に来れるは彼の愛馬アエトンなりき。
そはその身に飾りをつけず、
滝のごとき涙もてその顔をうるおせり。
そはその身に飾りをつけず、
滝のごとき涙もてその顔をうるおせり。
(ウェルギリウス)
我々の民族のあるものは妻を共有し、ある民族は各自の妻をもっているが、動物の間でもやはりそうではないか。しかもそこには、我々の結婚よりも良くたもたれた結婚が見られはしないか。
(a)彼らが相結び相助けるためにお互いの間に作っている連盟結社などはどうか。牛・豚・その他の動物について見てみると、その中の一頭が危害をこうむると、その叫びをきいて全群が救助に馳せ参じ、力を合わせて彼を防衛している。スカール*という魚は、漁夫の釣針を呑みこむと、同類がどっと彼の周囲におしよせその糸を切る。万一その一つが網にかかると、仲間のものどもは彼に外部からその尾を貸し、中の奴は一所懸命にそれに食いつく。大勢はそうやって彼を網の外に引張り出してしまう。
* 原文には l’escore とあるが、le score の誤り。熱帯魚の一種。武鯛。
* 数学はむかし算術・幾何・星学の三科を含み、或いは音楽を加えて四科となることもあった。
(b)悔悟や過失の認識については、人は或る象の場合をあげる。彼は憤りに駆られて自分の飼養係を殺してしまったが、やがてそれを
(a)慈悲の深さについては、人はある虎の話をあげる。虎といえば畜生のなかで最も無残なやつだが、その虎は、山羊の子を与えられても、二日間ひもじいのを我慢して敢えてこれに危害を加えようとせず、三日目には自分の閉じこめられていた
それから、交際の間に出来あがる親密和合の
さらにもう少し先まで、我々と動物との間の照合比較をおし進めてみようか。我々の霊魂は、自分の思い抱くすべてのことを自分の標準で考え、自分の許に生ずるすべてのものから死すべき肉体的な性質を除外し、自分の親しむに値すると考える事物からその腐敗しやすい性質を脱却させ、それらから、まるで余計な厭うべき衣服をぬぐかのように、厚み・長さ・深さ・重さ・色・匂い・ざらざら・なめらか・堅さ・軟らかさ・など感触しうるすべての
まことに逞しき駒が眠りつつ、
その四肢を地上に横たえつつ、
汗し、喘 ぎ、その筋を張りて
さながら競争に賞を争うが如くするを見ん。
その四肢を地上に横たえつつ、
汗し、
さながら競争に賞を争うが如くするを見ん。
(ルクレティウス)
猟犬は眠っていながら、息をはずませ尾をのばし脚をふるわせて、さながら野に兎をおうような風をすることがあるが、そのとき彼が夢に見るのは毛もなく骨もない兎なのである。
しばしば猟犬は安らかなる眠りの中に
急に四肢を動かし声をあげ、
喘ぐことあたかも獣を追う時のごとし。
時には覚めてもなお、鹿の幻影の
逃げゆくを追ってひたすらに走る。
幻影消えて、始めて彼は、己れにかえるなり。
急に四肢を動かし声をあげ、
喘ぐことあたかも獣を追う時のごとし。
時には覚めてもなお、鹿の幻影の
逃げゆくを追ってひたすらに走る。
幻影消えて、始めて彼は、己れにかえるなり。
(ルクレティウス)
番犬もまたしばしば夢を見ながらうなる。そのうちに本当に吠え出し、はっと目を覚ます。誰か怪しい者が来たのを見たかのように。この・彼の霊魂が見る・怪しい者もまた、霊的な・
我らが飼える愛らしくもまた忠実なる犬は、
瞼に重きうたた寐を払いのけて、あたかも
怪しき顔を見しかのごとく吠ゆることあり。
瞼に重きうたた寐を払いのけて、あたかも
怪しき顔を見しかのごとく吠ゆることあり。
(ルクレティウス)
肉体の美しさについては、その論を進める前に、まずもって我々がその定義について一致した考えをもっているかどうかを、知らねばなるまい。我々は、美とは本質的にまた一般的に何であるかということを、ほとんど知らないというのが本当らしい。現に我々は、我々人間の美しさに対してあれほどまちまちな模型を与えているではないか。(c)これに関してもし何か自然な規定でもあるならば、皆がそろってそれを認めるであろう。火の熱さと同様に。ところが我々は、美の模型を勝手気ままに想像する。
(b)ベルガエにおいて佳しとせらるる顔色は、
ローマにおいては醜しとせらる。
ローマにおいては醜しとせらる。
(プロペルティウス)
(a)インド人は、唇が厚くふくれ・鼻が低く大きな・日に焼けて黒い・美人を描いている。(b)そして鼻の障子には大きな金の輪をはめこみ、それを口の所までぶらさげている。それから下唇にも宝石をちりばめた大きな輪を幾つもつけさせるので、それは顎まで垂れさがっている。そうやって歯を歯ぐきまで露出するのが粋だとされている。ペルーにおいては、最も大きな耳が最も美しい耳とされる。だから、彼らは人為的にできるだけそれをひろげる。(c)こんにちなお生きているある旅行家は、「かつて東洋の一国において、この耳を大きくしてこれに重い宝石をさげることが非常に流行するのを見た。わたしはいつも袖をまくらず、そのまま耳たぶにあけられた穴の中に腕を通すことができたほどである」と申された。(b)ある所には丹念に歯を黒く染め・白い歯を見るのを厭う・国民がある。またよそではそれを赤く染めている。(c)女が頭を
(a)だが、それはともあれ、自然は我々に、この美という点においてもその他の諸点においても、その一般の法則を越えた特権なんぞ与えてはいないのである。いや、我々がとっくり自分を判断するならば、よしある動物がこの点で我々ほどに恵まれていないとしても、我々以上に恵まれているものもまた、ほかに沢山あるのだということがわかるであろう。(c)多くの動物は美において我らにまされり(セネカ)。我々と同じく地上に生きる動物の中にだって、それは沢山ある。まったく、海の中の動物にいたっては(その形はしばらく問うまい。それは我々の形とはとうてい比較ができないほどちがっている)、色合や、清らかさや、つややかさや、しなやかさにおいて、とうてい我々の比ではない。また空の動物にも、我々はすべての性質において、かなわないのである。(a)また詩人たちは、我々の古里である天を仰いでつねに直立して行くことをもって、我々の特権だとたたえているが、
ほかのけだものは面 を伏せて地上をはうに、
神は人に額を高く上げさせ
天を仰ぎ星に眼を注ぐよう命じたり。
神は人に額を高く上げさせ
天を仰ぎ星に眼を注ぐよう命じたり。
(オウィディウス)
それはいかにも詩人らしい特権である。だって、その眼を天にむけたっきりの小動物だってほかに沢山あるではないか。
(c)どんな動物が、顔を高く持たないか。それを前にむけていないか。我々と同じく向うを見ているではないか。そして、その正常の姿勢においては、人と同じくらいに天と地とを見ているではないか。
いや、我々の身体を構成するどの特質も、プラトンやキケロの書物で見ると、一つとしていろいろな動物に役立っていないものはないのである。
(a)我々に最もよく似ている動物は、仲間じゅうで一番醜く一番下等なやつである。まったく、その外観や顔つきからいえば、それは猿なのである。
(c)猿は最も醜き動物なれど、
いかに我らには似たることよ。
いかに我らには似たることよ。
(エンニウス)
(a)体内の諸器官からいえば、それは豚なのである。実にわたしは、まっ裸の人間を思い浮べるとき、特に美により多く
それに、われわれはそういう欠陥のために、同類にまでいやがられる唯一の動物であるということ、自然的行為を行うのに同胞の目までも忍ばねばならないただ一つの動物であるということに、注意しよう。誠にこの道の達人が、「色情を抑えるにはその求める肉体を余すところなく見よ」と言ったこと、また、「恋慕の情をさますには、ただその愛するものをまじまじと見さえすればよい」と言ったことは、これまた考察に値する事柄である。
或る人は女の秘めたる処をあらわに見て、
将 に起れる興奮のにわかにさめゆくを感じたり。
(オウィディウス)
もっともこの秘法は、どうやら少々気むずかしい・ひねくれた・気分から生れたもののようだが、それにしても、我々がなれあい知りあうにしたがって互いにあきて来るという事実は、我々の不完全を最もよく示している。(b)わが婦人たちが、いよいよ奇麗にお化粧をすますまで我々が化粧部屋に入ることをあんなに厳しく拒むのも、はにかみのせいというよりはむしろ用心策略なのである。
(a)わが美人たちもこれを知らざるにあらず。さればこそ、
その引きよせんとする人その愛せられんと思う人々に
その生活のあらゆる裏面をばかくさんと苦心するなれ。
その引きよせんとする人その愛せられんと思う人々に
その生活のあらゆる裏面をばかくさんと苦心するなれ。
(ルクレティウス)
しかるに沢山の動物においては、彼らの物は一つとして我々が愛しないものはなく、我々の感覚をよろこばさないものはないのである。さればこそ彼らの
こういう議論は、ただ我々のうちの平凡な人々にだけ関するもので、決して、往々にして我らの間に見かける・肉体という下界的なヴェールに包まれながらも星のように輝いている・あの神々しい超自然的な・特別の美人までも、そこに含めようとするほど不敬なものではないのである。
それに、我々と動物とはそれぞれどんな割合において自然の恵みを受けているかというに、正直のところ、彼らの受ける分の方がずっとまさっているのである。我々は、人間の能力が自ら責任を持ちえない想像的幻想的なもろもろの善、将来の・未だ存在していない・もろもろの善を、自分たちの持分としている。或いはまた、我々の考えが勝手にでっちあげたもろもろの善、例えば理性とか学問とか名誉とかいうようなものを、自分たちの持分としている。そして動物たちの方に、手に取り・手に触れうる・本質的な諸善、例えば平和・休息・安全・無罪・健康というようなものを委ねている。ところがこの健康こそ、自然が我々に与えた最も美しく最も豊かな贈り物なのだ。だから哲学が、ストア哲学さえが、あえて言うのである。「ヘラクレイトスとフェレキュデスとは、もし彼らの知恵を健康と取り代えることができ、もしこの取引によって一人は水腫病から・一人は虱瘍病〔しらみ症〕から・救われることができたなら、二人ともうまいことをしたことになるわけだが」と。でもこう言っているうちは、彼ら哲学者たちも、まだまだ知恵に大きな価を与えているのだ。それを健康と比較しているのだから。ところが同じく彼らに言われたもう一つの言葉においては、そうでない。すなわち彼らは、「もし魔女キルケがオデュッセウスに二つの飲み物、一つは愚者を賢くするもの・もう一つは賢者を愚かにするもの・を差出したならば、きっとオデュッセウスは、キルケによって人間である自分の姿を獣の姿にかえられることを承知するよりは、むしろ〔人の姿のまま〕ばかになる飲物の方を取ったにちがいない」と言っているから。また、「知恵そのものさえも彼に向って、『わたしをすてよ。わたしをおいてゆけ。わたしを驢馬の顔や姿の下に宿すよりは』と告げたであろう」とも言っているから。一体これはどうしたことだ? 哲学者ともある者がこの偉大にして神々しい知恵を、この肉体的下界的ヴェールのために捨てるとは? それでは、我々が獣に優るのは、もはや理性によってでもなければ、推理によってでもなく、また霊魂によってでもなくなる。それは我々の美、我々の美しい肌の色、我々の四肢の美しい釣合によることになり、このためには我々の英知をも知恵をも、何もかも捨てなければならなくなる。
でもわたしは、この正直率直な告白をもっともだと思う。じつに彼らは、我々があんなに誇りとしているこれらの特質が、
だが、話をもとに戻すと、我らは無定見、不決断、不確実、悲観、迷信、未来のことがら、特に死後のことに関する不安、野心、欲ばり、嫉妬、怨恨、無軌道で狂暴で抑え難いもろもろの欲望、戦争、虚偽、不信、中傷、好奇心などを、我々の分として頂いている。思えば我々は、我々が誇りとするあの立派な推理、あの判断し認識する能力を、実にばかばかしく高く買わされたものだ。だってその代償として、我々はあの数限りない情欲に、絶え間なく苦しめられなければならないのだから。(b)せいぜい我々は、あのソクラテスみたいに、「自然は動物に対してその性的快楽に季節と限界とを規定しているが、我々にはいかなる時間いかなる機会にもそれを自由にさせている」ということを、さもすばらしい特権であるかのごとくにうれしがるくらいが関の山であろう。
(c)酒が病人に薬となることはまれなり。むしろ害をなすこと多し。されば、あてにならぬ効果を望みて、病人を明白なる危険にあわせんよりは、むしろ全く酒を与えざるにしかじ。これと同様に、自然は、我々が理性と名づくるかの思考・洞察・発明などの力を、かく気前よく我らに与えんよりは、全くこれを与えざりしが、恐らく人類のために良かりしならん。まこと、小数の者こそその益をうけたれども、大多数の者はかえってその害に苦しめばなり(キケロ)。
(a)あんなにたくさんの物事を理解したということは、ウァロやアリストテレスにいったいどれほどの果実を与えたというのか。果して彼らはそのために人間の不幸をまぬかれ得たか。荷担人足に襲いかかる幾多の災厄を彼らは免れ得たか。論理学のために痛風がいくぶんか軽くなったか。どうしてこの病気の原因になる体液が自分の身体の節々に宿るのかを知っただけ、それだけそれを感ずることが少なくなったか。ある民族が死を喜んで受けることを知ったために、自分は死と仲よしになることができたか。ある地方では女が共有されていることを知ったために、自分は女房を寝とられてもすましていられるか。どういたしまして! 彼らは知識においての第一位を、一人はローマ人の間で、もう一人はギリシア人の間で、しかも学問の最も花咲ける時代において占めはしたが、さりとてその生涯に何か特別に優れたところがあったようには、ついぞ聞いたことがない。それどころかアリストテレスは、その生涯におけるあの隠れもない汚点を*、なかなかに拭いきれないのである。
* いろいろな伝説がある。若い頃破戒無惨であったとか、アテナイ人がマケドニアのフィリッポス王と戦ったときスパイをしたとか。ただし、いずれも実証されてはいない。
文学の素養なければ男根立たざるや。
(ホラティウス)
恥と貧乏とが幾分か厭わしくないであろうか。
君おそらくは病苦と老衰とを免るべし。
憂いをも悲しみをも覚えざるべし。
長き命と好き運とをもち給うべし。
憂いをも悲しみをも覚えざるべし。
長き命と好き運とをもち給うべし。
(ユウェナリス)
とは果して本当だろうか。現代においても、わたしは大学の先生たちよりもかえって幸福そうに見える職人や百姓たちをたくさん見たことがあるが、こういう人たちにこそわたしはあやかりたい。学問は、わたしの考えでは、人生に必要ないろいろなものの間にあって、ちょうど光栄や高位や高官や、(c)いや、せいぜい、美とか富とか、(a)そのほか確かに人生に役立ちはするが、遠くの方から・現実的にではなくむしろ想像によって・それに役立っている、もろもろの特質と同じ程度の席を、占めているにすぎないと思う。
(c)我々は我々の共同体において、鶴や蟻などが彼らの共同体において必要とする以上の、生活上の義務や規則や法律を必要とはしない。だがそれにしても、彼ら動物は学問なんかないけれども、あのとおりきわめて整った生活をしている。人間も賢明ならば、物ごとの真価を、それらが自分の生活に有用であるか適当であるかによって、判断するであろう。
(a)もし我々を我々の行為行動によって評価するならば、学者の間によりもむしろ無学な者の間に、より多くの優れた者が見出されるであろう。もちろんそれは、もろもろの徳行において優れた者という意味である。あの古代ローマの方が、自分で自分を滅ぼしたローマよりも、平和の時も戦争の時も、より多くの有徳者をもっていたように思う。他の点は両方全く同じであったにしても、少なくとも清廉と潔白とは、どうしても古代ローマの方に多いであろう。まったく、それらは不思議に単純と共に在るのである。
だがわたしはここにこの論を打切る。それはわたしを思わぬ遠い所に連れて行きそうだから。ただもう一言、「正しい人を造るのはただ謙遜と服従とである」とだけは言っておきたい。それぞれの義務が何であるかを、それぞれの人の判断にまかしてはいけない。それは彼に命令すべきものであって、彼に勝手に選択させるべきものではない。そうしておかないと、我々の理性や意見は無力で限りなく雑多であるから、しまいには、エピクロスが言ったように、我々は共食いをしなければならないような義務をでっち上げることになるであろう。神が人間に与えた最初の法規は、絶対服従の法規であった。それは簡単明瞭な命令であって、人間はそれに対して何も知ったり論じたりするには及ばなかった。(c)なぜなら、服従こそは天にまします至上至仁なるものを認める理性ある霊魂の、第一の義務であるからだ。服従と譲歩からはあらゆる徳が生れ、高慢からはあらゆる罪悪が生れる。(b)ところがこれに反して、悪魔の側から人間性の上に来た最初の誘惑、その最初の毒は、彼が学問知識について我々に向って約束した汝らは善と悪とを知りて神のごとくなるべし(創世記)という言葉によって、我々の間にしみこんだ。(c)またセイレネスたちは、ホメロスによると、オデュッセウスをだますために、そして彼を自分たちの危険な湖に引き入れるために、彼に学問を贈り物としたのである。(a)人間の病は、「おれは知っているぞ」という思いあがりである。だからこそ、無学ということが信仰と服従とにふさわしい性質として、我々の宗教によってあんなにも推奨されているのである。(c)空しき虚言なる哲学を以て誰にも欺かれざるよう注意せよ。そは人間の伝えと世の小学とに由るものなり(「コロサイ人への手紙」二の八)。
(a)至上の幸福は霊魂と肉体の安静のうちにありとする点では、すべての派のすべての哲学者が一般的に一致している。(b)だが、その安静はいったいどこにあるというのか。
(a)要するにただユピテルのみ賢者の上にあり。
彼は、富みかつ自由、尊くかつ美わしく、
常に健康に輝きて王者の内の王者なり。
ただときに鼻かぜをひき給うことあるのみ。
彼は、富みかつ自由、尊くかつ美わしく、
常に健康に輝きて王者の内の王者なり。
ただときに鼻かぜをひき給うことあるのみ。
(ホラティウス)
自然は我々の悲惨で貧弱な状態を慰めるために、ただ一つ自惚れだけを我々に賦与したというのが、どうやら本当のように思われる。これはエピクテトスが、「人間は自分の意見をふりまわすことの外に、何一つ真に自分のものを持っていない」と申しているとおりである。我々はただ風と煙だけを賦与されているにすぎないのである。(b)神々は、哲学者のいうとおり、本質において健康をもち、理解において病を持っている。人間は逆に、想像によってその幸福を持ち、本質において不幸を持っている。(a)我々が我々の想像の力を自慢したのはもっともであった。まったく、我々の幸福はただ夢想の中にだけあるのである。聞き給え、この哀れなあさましい動物の高言を。「世に(とキケロは言う)、人文学にたずさわることくらい愉快なことはない。この人文学とは、それを通じて我々が、数限りなき物事を、広大無辺な自然を、下界にいながら天界までも、またもろもろの土地およびもろもろの海をも、開き示される学問のことである。この人文学こそは、我々に宗教と節制と大きな勇気とを教えてくれ、また我々の霊魂を暗やみの中から引き上げて、高い・低い・最初の・最後の・また中間の・すべての物事を見せてくれたのである。それこそ我々に、幸福に生きるたよりを提供し、不快なく苦痛なく一生をおえる道を教えているのである」と。まるでこの人は、永遠にして全能なる神様の性質について語っているみたいではないか。だが実際においては、幾千という何も知らない村のおかみさんたちの方が、彼の生涯よりもずっと一様な・ずっと平穏な・ずっと落ちついた・一生を送ったのである。
おお偉大なメンミウス*よ。げに彼**こそは神なりき。
始めて人々が知恵と呼びなす生活の規則を教え、
始めて我らを動揺と暗黒とより救いて、
平安と光明とに導き入れたるは彼なりき。
始めて人々が知恵と呼びなす生活の規則を教え、
始めて我らを動揺と暗黒とより救いて、
平安と光明とに導き入れたるは彼なりき。
(ルクレティウス)
いかにも壮麗な言葉である。だが、きわめて小さな出来事が、こう書いたルクレティウスその人の分別を、みすぼらしい羊飼のそれよりも憐れむべき状態にほうりこんだ。この神のような大先生もその神々しい知恵も、その時には何の役にも立たなかったのである***。同じく厚かましいのは、(c)「わたしはまさにあらゆる事柄について語ろうとする」というデモクリトスの緒言と、アリストテレスが我々人間にもたせた「死する神々」というばかな肩書と、(a)「ディオンは神と同じく有徳であった」というクリュシッポスの判断である。またわがセネカは(その言葉どおりに言うと)、「わたしに生を与えたのは神であるが、それをよく生きるのは自分の力である」と信じていた。(c)それはもう一人の言ったこと、我らが我らの徳を誇るは当然なり。もしこれが神より得たるものにして自ら得たるものにあらざるならば、人はかくまでに誇りとすることなかるべし(キケロ)と一致する。次の語もまたセネカが言ったことである。「賢者は神と同じ勇気をもっているが、人間としての弱さのうちにおいてである。だから人間は神以上である」。(a)こういう大それた言葉に出会うのはしょっちゅうである。我々の間に、自分が神に比べられるのを見て機嫌をわるくするものは一人だっていない。その代り、他の動物の序列に低められるのを見ようものなら、それこそひどく怒る。それくらい我々は、我々の創造者のためよりも自分のために夢中になっている。
* C. Memmius Gemmellus. ローマの護民官。人文学雄弁学の造詣が深かった。ルクレティウスはその詩をこの人にささげている。
** エピクロスをさしている。
*** ルクレティウスは、かくエピクロスを師としたけれども、妻妾より毒を飲まされたときは、その理性を失って自ら命を絶ったと言われる。
* 自分の持つものを過大に見積ること。あてにならぬことを頼みすぎること。すべての卵が雌鶏になるとは限らぬから。
ポセイドニオスは、とても苦しい病に攻めたてられたので、腕をよじり歯を喰いしばらないではいられなかったが、「いくら攻めてもだめだぞ。どうあってもおれは苦しいとは言わないぞ」と苦痛に向って叫び、あっぱれ苦痛を嘲笑したつもりでいた。彼はわたしの下男と同様の苦痛を感じているのだが、どうやらその舌だけはその学派の掟に従わせて威張っているのである。(c)結局事実において降参するくらいならば、何もわざわざ言葉において威張って見するまでもあらざりしに(キケロ)。
アルケシラオスは痛風で寝ていた。そこへカルネアデスが訪ねて来て、がっかりして帰りかけると、これを呼びとめて、その足と胸とを示しつつ、「足の痛みはここまではとどかぬ」と言った。この人の方がいくらか上出来である。まったく、彼は苦しみを感じてこれから脱れようとはしたが、その苦しみのために彼の心は打ちのめされ弱ってはいなかったのである。前者はがんとして我慢しているが、どうやらそれは本当の我慢ではなく、言葉の上の我慢にすぎないのではあるまいか。それから、ヘラクレアのディオニュシオスも、眼の激しい痛みに襲われると、とうとうあのストア学的我慢を捨てないわけにゆかなかった。
(a)だが学問は、彼等がいうところを実際に示し、我々に追い迫るもろもろの不幸の激しさ辛さをやわらげ・やっつけ・てくれる場合にも、果してどれほどのことをしているか。無知がもっと純粋に・またもっと明白に・やってくれることと、どれだけちがうか。哲学者ピュロンは、海の上で大嵐の危険にあったとき、一緒にいた人々に、同船の豚がその大嵐を目の前に見て少しも恐れず平気でいるのを、真似するようにすすめただけだった。哲学は自分の掟で間にあわなくなると、力士や
わたしが医学について言うところは、そのまま一般的にすべての学問にあてはまる。そこから、「至上の幸福は我々の判断の力弱さを認識するところに宿る」という、もろもろの哲学者の昔からの考えは生れたのである。わたしの無知は、わたしに危惧の機会と同じ程度に希望の機会を与える。わたしの健康法といえば、他人の行った実例とか・わたしがよそで同様の場合に見た結果とか・より他にはないのであるが、わたしはそのあらゆる種類を見出すから、中で最も自分に都合のよいものを採用する。わたしは両腕をひらいて、自由な・充実した・完全な・健康を迎え、わが欲望を鋭くしてそれを享楽させる。今ではそういう健康が、わたしにとって昔のように普通でなくなり、だんだんと稀になったから、なおさらのことそのようにするのである。今までとちがった窮屈な生活様式がもたらす苦味によって、健康の平安と甘味とを乱すようなことはしないのである。動物を見ていると、いかに我々の精神の動揺が我々に病気を持ち来たすかがよくわかる。
(c)ブラジルの土人について伝えられるところによると、彼らは老衰によってでなければ死なないそうであるが、そしてそれは、彼らの風土が澄んで穏やかであるせいだといわれるが、わたしはむしろ、彼らの霊魂が穏やかに澄んでいて、あらゆる激情や物思いや骨の折れるいやな仕事などから全く放たれているせいであると思う。彼らは文学なく、法律なく、王様もなければ、どんな宗教もなく、実に羨ましい単純と無知との内に毎日を送っているのである。
(a)それから、これは我々が経験によって知っているところだが、最も粗野で愚鈍な者が、恋の営みにおいて最も強く最ももてるということ、それから、しばしば騾馬曳きの恋が、やさ男のそれよりも女の気に入るということは、そもそもどこから来るのか。後者においては霊魂の動揺が肉体の力を乱し・
いや霊魂の動揺は、肉体だけでなくいつも霊魂その物をも疲らせ乱すのである。その鋭敏その
* ただの糸巻ではない。楽器の糸巻。cheville. すなわち絃を張るためのねじ。これをちょっとひねるだけで全然ちがった音調が出ること。
** タッソー Torquato Tasso を指す。この詩人は一五七九―八六年フェララの病院に幽閉されていた。
*** これは当然イタリア旅行中のことと察せられるが(このパラグラフは一五八二年版に始めてよまれるものである)、「旅日記」の中では一言もタッソーを見舞ったことにはふれていない。
(a)もっとも、「苦痛や不幸に対して冷静であり鈍感であるという利便は、それだけ幸福及び快楽の享受に対しても彼らの感覚を鈍らせ弱くするという不便を後ろに伴っている」といわれれば、なるほどそれに違いないが、しかし、我々の本性はまことにみじめなもので、恐れ避けることはできても、なかなか
我らは、
極めて小さき擦り傷にも敏感なるに、
完全なる健康のうちにあるを感ぜず。
肋膜炎をも痛風をも持たざるを喜べども、
我らは健康にして強壮なることを意識せず。
極めて小さき擦り傷にも敏感なるに、
完全なる健康のうちにあるを感ぜず。
肋膜炎をも痛風をも持たざるを喜べども、
我らは健康にして強壮なることを意識せず。
(ラ・ボエシ)
我々の安楽*とは苦痛がないことに他ならない。だからこそ、快楽を最も重んずべしとする哲学の一派は、さらに進んで、それをただ一つ無痛の中にありとしたのである。少しも苦しみを持たないということは、人がのぞみうる最大の幸福である。(c)エンニウスが、
苦痛を全く持たざるこそ、おびただしき幸福を持つことなり。
(エンニウス)
と言ったとおりである。(a)まったく、ある種の快楽の中で出あう・そして単なる健康や無痛の上に我々を引き上げるように思われる・あのくすぐるような刺激も、あの、積極的で・動的で・そしてなぜかしら焼くような噛むような感じのある・快楽だって、
* モンテーニュの新造語 notre bien estre. よく存在すること、よき在り方、したがって健康幸福の意味。これが後に純然たる名詞となって残った。tre mal がその反対で苦しき存在、悪しき在り方、病態、不幸の意。
(c)だがしかし、この単純無知を、全然感覚のないほど鈍いものと想像してはいけない。まったく、クラントルがエピクロスの無痛を、それがもし苦痛の接近も発生も全然ない深い所に置かれているのだとしたら御辞退する、と言ったのは至極もっともであった。わたしは、そういう無痛を少しもほめない。それは可能でもなければ願わしいものでもない。わたしは病気でないことに満足する。けれども、もし病気であるなら、そうであることをわたしは知りたい。また、焼いたり切ったりされる時にはそれを感じたい。本当に、苦痛の知覚を根絶するならば、同時に快楽の知覚もとり除かれ、結局は人間存在が否定されるであろう。この無痛は高き価によらざればあがない得ず。すなわち、霊魂の蒙昧と肉体の麻痺とによらずんば
苦は人間にとってやがて楽となる。苦痛必ずしも避けるに及ばないし、快楽必ずしも追うにたらない。
(a)じつに無学にとって光栄至極なことは、学問までが、いよいよ我々を苦難の重圧に対して
過去の幸福の思い出は現在の不幸を倍にす。
(ダンテ)
(a)哲学が与えるところのもう一つの勧告、「記憶の中にただ過去の幸福だけを保存し、我々が苦しんだ不快はここから抹殺せよ」というのも、また同じ性質のものである。まるで我々には忘却学 la science de l’oubli が思いのままになるかのようだ。(c)こんな勧告はますます我々の器量をさげるばかりだ。
過去の苦難の思い出は甘し。
(キケロ)
(a)哲学はわたしの手に武器を貸してわたしに運命を克服させるべきだのに、またわたしの心臓を鍛えてあらゆる人間の敵を踏みにじらせるべきだのに、どうしてこんなにも柔弱になりさがり、このように卑怯な笑うべき術策を弄しつつ、わたしを逃げかくれさせるのか。まったく、記憶は我々に、我々が選ぶものを提示せず、自分の気に入ったものを提示する。いや何事にまれ、忘れようとする欲望ほど、物事を深く我々の記憶の中に刻みつけるものはない。我々の霊魂に何かを忘れよ忘れよとすすめることこそ、それをそこに永く刻みつける一番うまい方法なのである。(c)実際、我らの不幸を永遠の忘却の中に沈め、我らの繁栄のこころよき思い出を保存するは、我らの心持しだいなり(キケロ)というのは嘘である。かえって、われはわが記憶せんとは思わざることをのみ思い出し、忘れ果てんと思うことを忘れえず(キケロ)と言うのこそ本当である。(a)そもそもあの勧告は誰が言い出したものか。それは(c)ただ独り己れこそ賢者なりとあえて言いたる人〔エピクロス〕(キケロ)、
(a)その天才によりて人類の上にありし人、
太陽諸星の光を消したる如く万人の誉れを奪いし人、
太陽諸星の光を消したる如く万人の誉れを奪いし人、
(ルクレティウス)
のものなのだ。記憶をからっぽにすることこそ、無学へのほんとうの道ではないか。(c)無学は我らの不幸に対してききめ甚だ少なき薬にすぎず(セネカ)。(a)たくさんの同じような教訓を我々は知っているが、それらによって人は、強力な理性も力足らざる時には、俗衆からいいかげんな理屈を借りることをも、それらが我々を満足させ慰めることに役立つ限り、ゆるしているのである。人々は、傷を
われまず酒を飲み花を散らさんと思う。
よしや人、狂人とわれを見んとも。
よしや人、狂人とわれを見んとも。
(ホラティウス)
リュカスと意見を同じくする哲学者はいくらもあるであろう。この人は甚だ品行方正であって、うちの者に対してもよその人に対しても少しもその務めを怠ることなく、有害な事柄を巧みに避けながら静かな家庭に暮していたが、ふとしたことから気が狂って、その胸の中に一つの夢想をやきつけてしまった。というのも、自分がしじゅう劇場にあって、遊戯や見世物や世にも面白い喜劇などを見ているかのように、思いこんでしまったのである。ところが医者たちによってこの病的な気分からいやされると、彼はさっそく彼らを訴え、もう一度あの甘美な想像の世界にもどしてくれと迫った。
おお、おん身らわれを殺せり、友らよ、と彼は言いき。
われをば癒やさでわれより幸福を奪いて。
わが心をたのします甘き夢をばわれより奪いて。
われをば癒やさでわれより幸福を奪いて。
わが心をたのします甘き夢をばわれより奪いて。
(ホラティウス)
ピュトドロスの息子トラシラオスの夢想もこれに似ている。彼はペイライエウスの港を舟出して、彼の国にやって来る船舶を、みな自分のために働いているものと思いこんでいた。そしてその航海のつつがなさを我がことのように喜び、嬉々としてそれらの船舶を迎えていた。ところが弟のクリトーが彼を正気に立ち帰らせると、彼はあの歓喜に満ち・あらゆる心配ごとを忘れて暮した・むかしの境遇を惜しんだ。それは次のギリシアの古い句に、「あんまり明敏でないもののもとに多くの幸福がある」とあるとおりである。
深く考えざるところに最も快適なる生活あり。
(ソフォクレス)
また「伝道の書」(一の十八)に、「それ知恵多ければいきどおり多し、知識を増すものは憂いを増す」とあるとおりである。
哲学が一般的に賛成しているところのその掟、哲学があらゆる急場にのぞんで出すあの最後の処方箋、「いよいよ堪えがたい生活には終止符をうて」という掟、すなわち、(c)人生は楽しきや。さらば我慢せよ。楽しからざるや。さらばいつにても退出せよ(セネカ)。
苦痛汝を刺すや、汝を裂くや。汝もし裸身にして防ぐに道なくば、
* Aut bibat, aut abeat というキケロの句は、bibat(飲め)を vivat(生きよ)と直した方が、かえってよくあてはまる、というのである。
(a)汝もしよく生くるすべを知らざるならば
これを知れるものに汝の席をゆずれ。
汝は、よく遊び・食い・飲みたり。今や去るの時ぞ。
去らずんば若者たちより笑われ、かつ追われん。
これを知れるものに汝の席をゆずれ。
汝は、よく遊び・食い・飲みたり。今や去るの時ぞ。
去らずんば若者たちより笑われ、かつ追われん。
(ホラティウス)
などの語は、いずれも哲学の無力を告白したものでなくて何であろう。ただたんに「無学のもとに行ってこれに隠れよ」というだけに止まらず、「暗愚にゆけ、無感覚にゆけ、無存在にゆけ」という勧めでなくて何であろう。
デモクリトスは、老いいよいよ至りて、
記憶をはじめ諸能力の衰えを感ずるや
進んで己れの首を運命にゆだねたり。
記憶をはじめ諸能力の衰えを感ずるや
進んで己れの首を運命にゆだねたり。
(ルクレティウス)
これはアンティステネスが、「理解するための良識を備えよ。でなければ首をくくるための
徳に赴け、しからずんば死に赴け。
(アミヨ仏訳、プルタルコス)
という句を引いて述べたのと同じことである。
(c)それからクラテスは、「恋は餓えによっていやされなければ時によっていやされる。この二つをともに欲しないものは
(b)セネカとプルタルコスとが口をきわめて推奨しているあのセクスティウスは、あらゆる物事を打ちすてて哲学の研究に没頭したが、その研究の進み方があまりに遅く暇がかかるのを見て、海に身を投げようと決心した。つまり、知識がえられないので死へと急いだのである。この問題に関する
(a)生活は、単純さによってますます愉快になるように、またそのために、ますます純潔なよいものになる。それは今しがた申したとおりである。単純な者や無学な者は、聖パウロが言ったとおり、昇って天国を得る。それなのに我々は、身に知識をかかえながら地獄の淵におちる。わたしは、あからさまに学識や文学の敵であったウァレンティニアヌスやリキニウスのことは問題にしまい(この二人は共にローマの皇帝であるが、学識や文学をもってすべての国家の害毒であるとした)。またマホメットにも言及しまい(この人は、(c)わたしが聞いたところでは、(a)その弟子たちに学問を禁じた)。だが、あの偉大なリュクルゴスの実例とその権威とは、大いに重んじられなければならない。いやこのラケダイモンという
彼らの手と懐中には、催告と請求、
調書、憲章、委任状がみちあふれ、
その大いなる鞄には註解判例が詰りたり。
あわれやそのために、人民は市中にありて安きをえず。
公証人や代言人や検事などのともがらが、
或いは前に或いは後ろに、また右と左とに、あるが故なり。
調書、憲章、委任状がみちあふれ、
その大いなる鞄には註解判例が詰りたり。
あわれやそのために、人民は市中にありて安きをえず。
公証人や代言人や検事などのともがらが、
或いは前に或いは後ろに、また右と左とに、あるが故なり。
(アリオスト)
かつてローマの一元老は、その堕落した時代についてこう言った。「我々の祖先は、口には
キリスト教徒たちは、いかに好奇心が人間における生れつきの根原的な悪であるかを、とりわけよく知っている。知恵と学問とを増大しようとする欲望こそ、人類堕落の第一歩であった。この道によって、人間は永遠の地獄へと滑りおちたのである。自尊は彼の滅亡であり腐敗である。自尊こそは彼を普通の道から外に投げ出し、彼に革新の企てを抱かせ、また永罰の道に踏み迷っている一群の長となることや、虚偽と誤謬との教師になることの方を、おとなしく他人の手によって真直な踏み固められた道へと導かれながら真理の門に入ることよりも、好ませたのである。おそらくはこのことを、迷信は自尊に従う。あたかも子の父に従うがごとし(ストベウス)というギリシアの古言は、意味するのであろう。
(c)おお
* 以上で第一部が終って、次に第二部「理性の批判」が始まる。但し原書では改行もせずにつづけている。モンテーニュは専らキケロの諸論文、聖アウグスティヌスの『神国論』、コルネイユ・アグリッパ Henri-Corneille Agrippa の『学問の不確実にして空なること』De incertitudine et vanitate scientiarum et artium atque excellentia verbi dei declamatio などからいろいろかりている。
またプラトンは、「神や世界や万物の第一原因を余りに執念深く詮索することには、多少不敬の罪が含まれている」と考えている。
誠にこの宇宙の父を知ることは困難なり。よしこれを知りたりとて、これを俗人に示すは不敬なりとキケロは言っている*。
* これらの所論から、人はモンテーニュの信仰をフィデイスムと呼ぶ。ロンサールの立場と全く同一である。
滅ぶる言葉に不滅なるものを託して、
(ルクレティウス)
言う。「神は恐れる。神は怒る。神は愛する」などと。だがそのような感動は、すべて、我々のと同じ形では神の中に宿りえないし、我々もまたそれを、神における形どおりには想像することができない。(a)神を知り御業を解するものはただ神ひとりである。
(c)それに神は、伏して地上にある我々に降り臨ませ給わんがために、御業を我々の言葉のうちに示しておられるが、それはいずれもぴったりとは適合しない。知恵という言葉がどうして神に適合し得よう。それは善悪の選択ということであるが、いかなる悪も神にはかかわりないではないか。何だって理性といい英知というのか。それは我々が暗いものを通じて明らかなものに至るために用いるものであるが、神には暗い何ものもないではないか。正義とは各自に彼に属するものを与えることで、人間同士の共同生活のために生じたものであるが、どうしてそれが神の中にありえよう。何? 節度はどうかって? それは肉体的快楽を抑制することであるが、そんなものは神様のどこにもありはしない。悲痛・骨折り・危険・に堪える勇気もまた神の性ではない。この三つのものは全く神様のおそばに近づくことはないのだから。だからこそアリストテレスは、「神には徳もなく不徳もない」と言うのである。
神は愛をも怒りをもいだかず。これらの情念は、ただ弱きものにのみあり(キケロに引かれたエピクロスの言葉)。
(a)我々がどの程度真理の認識にあずかっているにしても、それは我々固有の力によってではない。神はこのことを、彼が俗人の間から選んだ・最も単純無学な・証人たちによって我々に教えられた。そうやって我々に、その感嘆すべき秘密がどんなものであるかを悟らせようとあそばされたのだ。つまり我々の信仰は、我々が自ら得たものではなく、他の者から恵まれた純然たる贈り物なのである。我々の宗教は、決して推理によりまたは我々の悟性によって得られたものではなく、他の権威命令によって与えられたものなのである。それには、我々の判断の弱さの方がその強さよりも、我々の
だからわたしは、「そもそも人間にはその求めるところを見出すだけの力があるかどうか。かほどの世紀を通じて彼がここに行った詮索は、何かの新しい力何かの固い真理をもって、彼を富ましたかどうか」を見なければならない。
わたしは人間がもし正直に語るならば、わたしに向ってこう告白するであろうと信ずる。「自分があんなに長い間の探求から得たものといえば、畢竟、自分の弱さを認識することを学んだことに尽きる」と。生れつき我々のうちにある無知を、我々は長い間の研究によってやっと確信し確証した。ほんとうに学んだ人々には、あの麦の穂に起ることが起った。それは空っぽであるかぎりますます頭をあげてそそり立つ。けれどもいよいよ熟して穀粒で満ちふくれてくると、だんだんへりくだってその頭を低くする。同様にあらゆるものを試み測った人々は、あれほどの知識の山・あれほどのさまざまな事象の蓄積・の中に、何一つ確実なものを見出さなかったから、ただただ空虚のみを見出したから、ついにその不遜をすててその生れながらの性質を認めるに至った。
(c)だからウェレイウスは、コッタとキケロに向って、「君たちはフィロンから、何も学ばなかったことを学んだだけだ」といって咎めたのである。
七賢の一人フェレキュデスは、死に臨んでタレスに書き送って言った。「わたしは家の者どもに、わたしを埋葬し終ったら、わたしの遺稿類を君のところに持ってゆくようにと、命じておいた。もしそれらが君を始め他の賢者たちを満足させるならば、それらを公にしてくれ。でなければ捨ててしまってほしい。それらはわたし自らを満足させるほど確実なものを少しも含んでいない。なおわたしは、真理を知ったとも、これに近づいたとも、公言しない。わたしは物事を開き見てはいるが発見してはいない」と。
(a)それまでに存在した最も賢明な人ソクラテスに向って、ある人があなたはどういうことを知っておいでになるのかと問うたところ、「それはわたしが何一つ知ってはいないということだけです」と答えた。これは、「我々の知っていることの最大部分は、知らずにいることの最小部分」という諺を、換言すれば、「我々が知っていると思っているそのことさえも、我々の無知の一部、しかもその極めて小さな一部である」ということを、証明しているのである。
(c)「我々は物事を夢想において知っているが、真実においては知らずにいる」とプラトンは言っている。
ほとんどすべての古人は言えり。「人は何事をも知覚しえず。理解しえず。また知識しえず。我らの感覚には限りがあり、我々の精神は弱く、我々の一生は余りにも短し」と(キケロ)。
(a)キケロといえばその価値のすべてを知識に負う人であるが、この人でさえ、ウァレリウスの言うところによれば、晩年には学問を尊重しなくなったそうだ。(c)そして、その文学にたずさわりつつある間も、何れの派の拘束もうけず、自分に本当らしく思われることに従い、ある時は一派に、ある時は他派にくみし、常にアカデメイア派の疑いの下にがんばっていた。
われは語るべし。されど、何事をも断定せざるべし。われすべてを尋ね求めん。されど最もしばしば疑い、己れ自らを信ぜざるべし(キケロ)。
(a)もしもわたしが、人間をその普通の様態において・大ざっぱに・考察しようとするなら、わたしは勝つにきまっている。だがそれでは真理を、ただ票の重みによってではなく・数によって・判断するという、人間特有のずるい方法に訴えて勝ったというだけのことであろう。俗衆を例にとることはやめよう。
そは覚めてなお眠れるがごとく
生きてなお死せるがごとし。
生きてなお死せるがごとし。
(ルクレティウス)
彼らはすこしも自分を感ぜず、自分を判断せず、天与の性能の大部分を無為に委せている。わたしは人間を、その最も高い状態において把握したい。彼を、少数のすぐれた選ばれた人々の間で考察しよう。立派な・特別な・天賦の力を与えられているうえに、刻苦精励ますますそれを研磨鍛練し、さらにそれを、それが達しうるかぎりの最高の知恵にまで高めたところの、そういう少数の人々の間で考察しよう。彼らはその霊魂をあらゆる面から陶冶し、これにふさわしいあらゆる外部的援助をもってこれを支持強化し、これがために都合がよいようにと世界の内外から借りて来たすべてをもってこれを飾り富ました。実に彼らにこそ、最高度の人間性が宿っているのである。彼らは世を、制度と法令とによって整えた。学問芸術によってこれをおしえた上、さらに彼らの賞賛すべき徳行の実例をもってこれを教えた。わたしはただこれらの人々だけを、これらの人々の証言と実践とだけを、参考にしよう。彼らがどこまでゆき、どんな結論に止まっているかを、しらべて見よう。これらの集団の中にも、我々はいろいろの病弊欠点を見るであろうが、それらはいずれも、世の人が勇敢に自分のものと白状することのできる種類のものであろう。
何かを探し求める者は、結局「ああ見つかった」とか、「どうも見つからない」とか、「自分はなおさがすのだ」とかいうところまでゆく。哲学はすべてこの三類に分たれる。その目的は真理・知識・確実・を求めるにある。逍遙学派・エピクロス派・ストア派・等々は、それらを見つけたと考えた。これらの人々は、我々がもつもろもろの知識を証明した。それらを確実な学識として取扱った。クレイトマコス、カルネアデス、およびアカデメイア派の人々はその探究を断念し、真理はとうてい我々の手段によってはつかみえないものと判断した。これらの人々の結論は、人間の弱さと無知である。この派は最も大きな感化をのこし最も高貴な帰依者をえた。
ピュロンその他のスケプティック〔懐疑論者〕ないしエペシスト〔判断中止論者〕たちは(c)――その教説は、多くの古人がホメロス、七賢、アルキロコス、エウリピデスに端を発したとするもので、またゼノン、デモクリトス、クセノファネスもそれに結びつけられている。――(a)自分たちはまだ真理を探究しつつあるのだという。これらの人たちは、真理を見出しえたとする人々を非常に誤っていると判断し、また、人間の力はとうてい真理に到達しえないと断言する第二の段階の人々にも、余りに大胆な虚栄があると判断する。まったく、こういうふうに我々の能力の限界をきめ、事物の困難を認識し判断することは、偉大な・きわまれる・知識であって、果してそんなことが人間にできるだろうかと、彼らは疑っているのである。
「人は何事をも知らず」と信ずる者は、
人がかく断定しうるだけ知っているやいなやさえも知らざるなり。
人がかく断定しうるだけ知っているやいなやさえも知らざるなり。
(ルクレティウス)
自らを知り自らを判断し自らをけなすところの無知は、完全な無知ではない。それが完全であるためには、それが自らを知らないことを要する。だからピュロン学者の主張は、動揺し・疑惑し・探索し・何事をも確信せず・何事にも責任をもたない・ということになる。霊魂の三つの働き、想像・意欲・同意・の
(c)ゼノンは、霊魂の働きの分け方に関する自分の考えを、手つきによって示している。伸ばしひろげた手は
(a)さて、彼ら〔ピュロン学者〕の判断の、こういう真直で・曲らない・すべての物を順応もせず賛成もせずに受け容れる・態度は、彼らをそのアタラクシア〔
(b)なぜ彼らには疑うことが許されないのか。彼らも言っているが、独断家の間では、あるいは緑といいあるいは黄ということが許されているではないか。肯定せよとか否定せよとかいって提示しうる事柄の中に、どっちとも言えないと考えることのゆるされぬものが果してあるだろうか。いやほかの人々は、あるいはその国の習慣により、あるいは両親の教育により、あるいはまた(例えば暴風みたいな)偶然によって、判断も選択もなく、いやしばしば分別も生れ出ない年頃から、しかじかの教説に、あるいはストア派にあるいはエピクロス派に、さらってゆかれ、それに身売りし、隷従し、へばりついて、まるで命の綱にでもしがみついているみたいになっているのに(c)――彼らはさながら暴風に吹き寄せられて岩角にしがみつくがごとく、手あたりしだいの学説にしがみつく(キケロ)のに――(b)なぜこれらの人々には、その自由を維持することが、物事を何等の服従なしに考察することが、同様にゆるされないのか。(c)何ものも彼らの判断の自主性を妨げざるだけ、それだけ彼らは自由なり(キケロ)。他の人々を束縛している必然から脱却しているというのは、それだけでも優れていることではあるまいか。(b)むしろ宙ぶらりんでいる方が、人間の妄想が生み出したあれほどの誤謬の中にはまり込んでいるよりも、ましではあるまいか。その所信を懸案にしておくほうが、あの
それに彼らは、「なぜ一つの事が嘘であるか」という理由の方が、「なぜそれがまことであるか」という理由よりも、遙かに見出しやすいと明言する。「ないこと」の方が「あること」より、「信じないこと」の方が「信ずること」より、その理由が遙かに見出しやすいと明言する。
(a)彼らの言い方はこんな風である。「わたしは何事をもきめない」「それは、こうでもなくああでもない。あるいは、それでもなければ、これでもない」「わたしはそれを全く理解しない」「外観はどこでも同じである」「賛成することも反対することも同様に可能である」(c)「
* これらの諸句はいずれもモンテーニュの書斎(現存)の天井や壁にギリシア語で記されている。
(c)それにまた、いかなる学派といえどもその賢者に対して、彼がいろいろの・理解も認識も承服もされない・事柄に従うことを、彼が生きようとしているかぎり、許さないわけにはゆかないのである。そして彼の方も、一たび海の旅に出れば、その企てがはたして自分に役立つかどうかは知らないけれども、とにかく皆に従う。「船もよいし、パイロットもなれているし、季節もよい」という皆の意見に従う。それは単に蓋然的な事情にすぎないけれども、とにかくそれに従って行かざるを得ないのである。その中に明白な矛盾がないかぎり、外観を信じて連れてゆかれざるを得ないのである。彼は肉体をもち霊魂をもっている。もろもろの感覚は彼を押し、精神は彼を動かす。彼は自分の中にあの特別な判断の基準はもたないけれども、また、あの
(a)人間の考え出した学説の中に、このピュロニスムほど真実らしさと有効さとを含んだものはない。この説が推称するのは、裸でからっぽな人間である。それは自ら生れつきの弱さを認めていて・天から自分にない何かの力をうけるのにふさわしい・そして人間の学問にわずらわされず・それだけ神の学問を自分の中に宿らせるのにふさわしい・そういう人間である。自分の判断をむなしくしてそれだけ信仰に席をゆずる人間、(c)不信者でもなく(a)一般の習慣に逆らうどんなドグマもたてない人間、謙遜で従順で教えやすく熱心で、異端をはなはだしく敵視し、したがって誤ったもろもろの宗派が持って来た空虚不敬な所説には少しもくみしない人間である。(b)それは、神の指がここに印づけようとするどんな形をも受けようと待っている白紙である。我々は、神にたより神にすがろうとすればするほど、自己をすてようとすればするほど、それだけよくなる。(a)「伝道の書」はいう。物事を、日ごと日ごと、そが汝の眼汝の舌に見られ味わわるるままに、よき方に取れ。その他のことは、汝の知識のそとにあるものなりと。(c)主は人々の思いの空しきことを知り給う(「詩篇」九十四の十一)。
(a)こんなふうに、哲学の三つの主要な学派の中、その二つは明白に懐疑と無知とを告白している。そして第三のドグマティストたちの一派においても、大部分のものはただえらそうに見られたいばっかりに、いかにも確信ありげな顔をして見せたにすぎないのだということが、容易に暴露される。彼らは、我々のために何かを確実にしてくれようと考えたのではなく、むしろこの真理の探求において、自分たちがどこまで行ったかを、我々に示そうとしたのである。(c)学者たちはこれを知れるにあらず。ただこれを推量せるのみなり(出処不詳)。
ティマイオスは、世界・神々・人間・について知っていることをソクラテスに教えなければならなかったとき、「お互いに一人の人間対一人の人間として話し合おうではないか。わたしは、わたしの理由が誰かの理由と同じくらいに
(a)アリストテレスは、つねにたくさんの異説とたくさんの異なった信仰とを我々の前に積み上げて、これに自分の説を引きくらべ、いかに自分が群を抜いているか、いかに真らしさに接近しているかを示した。まったく、真理は他人の権威や証言によっては決して判断されないのである。(c)いや、だからこそエピクロスは、用心して彼の本の中に他人の意見や言葉を引用することを避けたのである。(a)アリストテレスはドグマティストの王様である。だがその彼から、我々は多くを知れば知るほどいよいよ疑いの機会を増すものだと、教えられる。見給え、彼はことさらに濃い解きがたい暗闇の中にしばしば包まれていて、どれが彼の意見なのかさっぱり見分けがつかないではないか。これまた結局、肯定的な形式の下に表わされた一つのピュロニスムである。
(c)キケロが抗議しているのを聞いてごらん。彼は自分の思想によって他人の思想を説明している。我らがそれぞれの問題について思い思いに考えることを知らんとする人々は、まことにその好奇心強きに過ぐ。見よ、かのすべてを批判し何事をも決定せざる哲学上の原理は、ソクラテスに始められ、アルケシラオスにねられ、カルネアデスにかためられて、今もなお花さきてあり。我らは、「いかなる真理の中にもかならず一部の虚妄あり。両者はきわめて相似たるものにして、その混合の中には明確なる判断をゆるすいかなる標準も存在せず」という人々に組す(キケロ)と。
(b)なぜ、アリストテレスばかりでなく大部分の哲学者は、むつかしさをてらったのか。要するに空虚な主題に勿体をつけるため、我々の精神の好奇心にああいう肉のついていない・うつろな骨片をかみしゃぶらせることによってこれをはぐらかすため、にほかならない。(c)クレイトマコスはカルネアデスの書物を読んで、著者がどんな意見の人であるかをついに知りえなかったと、断言した。(b)エピクロスはそのためにその書物の中に平易を避け、ヘラクレイトスもまたそのために、スコテイノス σκοτειν※[#重アクセント付きο、U+1F78、601-4]〔暗やみ〕という
実にその言葉の晦渋によりてヘラクレイトスは、
無知なる人々の賞賛をえたり。愚か者は実に、
謎のごとき言葉にかくされたる思想をのみほめ称う。
無知なる人々の賞賛をえたり。愚か者は実に、
謎のごとき言葉にかくされたる思想をのみほめ称う。
(ルクレティウス)
(c)キケロはその友のたれかれが、つねに天文学や法律学や弁証学や幾何学のために、これらの学芸が価する以上に時間を費やしていること、そしてそのために彼らがもっと大切な尊い日常の義務をわすれていることを、とがめている。キュレネ派の哲学者もまた、自然学や弁証学を軽蔑した。ゼノンはその『国家』の巻頭に、自由科の学芸をすべて無用だと宣言した。
(a)クリュシッポスは、プラトンやアリストテレスが論理学について書いたものを見るや、あれはただ道楽のために書かれたものだと言い、彼等があんな下らない問題を本気で書いたとはついに信ずることができなかった。(c)プルタルコスは同じことを形而上学について言った。(a)エピクロスもまた修辞学・文法学(c)・詩・数学・それから自然学をのぞくすべての学問(a)について、同じことを言ったらしい。いやソクラテスにいたっては、道徳や人生を論ずる学問だけをのぞいて、すべての学問について同じことを言った。(c)何事について尋ねられても、必ず、まずもって質問者にその過去および現在の生活の状況を語らせ、それを検査し判断するのを常とした。それ以外の修業はみな第二義的で余計なものと考えたからである。
われはこれを学びし者の徳を少しも増加することなかりしこれらの学問にかかずらわず(サルスティウス)。(a)学芸の大部分は、このように学者たちにまで軽蔑された。けれども彼らは、そういうなんの役にも立たない・実のない・事柄の中に精神を鍛練するのを、必ずしも不適当だとは考えなかった。
それに、ある者はプラトンをドグマティストと言い、他の者は懐疑家と言った。さらに他の者は、彼をある事柄においてはドグマティストで、ある事柄においては懐疑家であると見なした。
(c)その対話の指導者として、ソクラテスは常に問いを設けては議論を誘発してゆくが、決して結論せず解答も与えない。そして「反駁する学よりほかに学を有せず」と称した。学者たちの元祖であるホメロスは、哲学上のすべての学派にひとしく基礎を与えたが、それは、我々がどこを通ってゆこうと問題ではないのだということを示すものであった。プラトンからは十の異なった学派が生れたといわれている。それにわたしが考えても、彼の教えくらいふらふらしていて何一つ断定しない教えは嘗てなかったのである。ソクラテスは言った。「サージュ・ファム*〔産婆〕は他人にお産をさせることをその役目として、自らは産む役目を捨てる。
わたしもまた、神々からサージュ・オム〔賢人〕の称を与えられたから、雄々しい精神的な愛**において、自らは子を産む能力をいさぎよくすてた。ただ生もうとするものにわが助力を貸し与え、その性器を開き、その産道にあぶらし、その分娩を容易にし、生れた児を判別し、これに命名し、これを養育し、これを丈夫にし、これに
* フランスでは産婆のことを sage femme〔賢い女〕という。sage とは expert, habile の意味であろう。Godefroy の辞書に mre sage=sage femme とあるのを見ると、かなり古くからの称であろう。ソクラテスが sage homme といわれたのは homme sage の意味であったに相違ないが、彼自らはその母が sage femme であったことを想起し、自分を精神上の助産士と見たのであろう。他にそういう意味に用いた人があるかどうか知らないが、Bescherelle an の辞書には、sage-homme の項目があり、モンテーニュのこの節を引いている。
** モンテーニュ自らも、自己の著述『随想録』を精神的な子供と考えている。第二巻第三十七章参照。
* 独断論者をさす。前述五九九頁最終行に「哲学の三つの主要な学派の中、その二つは明白に懐疑と無知とを告白している。そして第三のドグマティストたち……」とあるのに照応する。
** プラトンと同様に、独断家とも懐疑家とも両様にいわれる。前述六〇一頁最終行にさかのぼる。
問題を色々な立場から論ずることは、それらを一定の立場から論ずるのと同様に結構なことである。いやいっそう結構なことである。つまりその方が、より豊富な・より有益な・論じ方だからである。我々法官に例をとろう。判決は独断的決定的言論の極致である。だがしかし、我々の高等法院が人民に示す最も模範的な判決は、主としてこれを実施する人々の才能によって、人民に法の尊厳を知らせることを目的とするものであるが、判決の美は決してその結論から生ずるものではない。結論は判事たちが毎日していることであって、それはどの判事がしても同じである。判決の美はむしろ、法律上の問題がゆるす限りのさまざまの相反する論拠を活溌に論議することから生ずるのである。
また哲学者同士の非難攻撃が行われる最も広い場所は、彼ら各自の矛盾撞着の中にある。彼らはみな、こういう矛盾撞着の中に、あるいはわざと(人間の精神がどんな問題をめぐっても動揺して定まらないことを示すために)、あるいは知らぬ間に(どんな問題も煩瑣で不可解なるがために)、おちこんでいるからである。
(a)「足がすべってつかまりどころのない場所では、我々の所信を言わずにおこう」という〔プルタルコスの〕繰返し句は、いったい何を意味するのか。まったくエウリピデスがいったように、
神のなし給うことがらは、
われらをしてさまざまに迷わしむ。
われらをしてさまざまに迷わしむ。
(プルタルコス仏訳)
(b)エンペドクレスの繰返し句も同じことだ。彼は、神がかりになり真理まけがしたかのように、その著の中にしばしば次のような句をまき散らした。「我々は何物も感じない、何物も見えない。万物は我々にとって幽玄であって、我々が『これは何である』と断言できるようなものは一つもない」と。(c)いずれも、人間の思想には力なし。彼らの予知・彼らの発見・は共に不確実なり(「知恵の書」〔旧約外典〕九の十四)という神の言葉に帰する。(a)捕獲の望みをすてた者がなお狩猟の楽しみをすてないのを見ても、それをおかしいと思ってはならない。研究はそれ自体が面白い仕事なのである。それは、ストア学者たちがさまざまの快楽と共に精神を働かすことから生ずる快楽までも禁じ、そこに節制を要求したほど、(c)余りに多く知ろうとすることを不節制のうちに数えたほど、(a)面白い仕事なのであるから。
(a)デモクリトスはその食卓で蜜の香りがする
しばしばどれをとって食べてもただおいしいだけのことがあるように、いや我々が摂取するおいしいものすべてが必ずしも滋養のある健康にいいものとは限らないように、我々の精神が学問の中からひき出すものもまた、それが滋養ある保健的なものでないにしても、やはり愉快であることに変りはないのである。
(b)彼らはこんなふうにいう。「自然の考察は我々の精神に格好な食餌である。それは我々を高め大きくする。我々に、下品で地上的なものを、高尚で天上的なものと比較することによって軽蔑させる。幽玄偉大な物事の詮索は、ただそこから畏敬の心と・それについて断定することの恐ろしさと・だけしか与えられない者にとっても、はなはだ面白いことである」と。これは彼らが言った言葉そのままである。こういう病的な好奇心の空虚な姿は、彼らが勿体ぶってしばしば口にする・次のもう一つの・実例の中に、いよいよ明白に見て取られる。すなわちエウドクソスは神々に向って、「たちまちに焼かれても苦しゅうございません。どうか一度太陽をま近に見させて下さい。その形、その大きさ、その美しさを、理解させて下さい」と祈願した。つまりその生命と引きかえに一つの知識が得たいと、その使用と所持とがたちまちにして取りあげられるのがわかっているのに、願ったというのである。そして、この束の間の知識のために、その既に得た・また将来得ることのできる・すべての知識を失うことさえ、あえて辞さなかったというのである。
(a)わたしはエピクロスやプラトンやピュタゴラスが、彼らのアトムやイデアやノンブルを、我々に現金として与えたとは、容易に信じられない。彼らは、こういう不確かな疑う余地のある事柄の上にその信仰箇条をおし立てようとするほど、愚かではない。だが、これらの偉大な人々は、それぞれ、こういう暗黒で無知な世界の中にあって、ともかくもなにがしかの光明をもちきたそうと努めたのである。とにかくその霊魂を、少なくとも面白くて機微な姿に見えそうな諸説を考え出すことに用いたのである。(c)よしそれは間ちがっていようとも、とにかく諸々の反対説に対抗出来さえすればよかったのである。これらの学説は、哲学者各自の精神がでっちあげたるものにして、ひろく学界の承認をえたるものにあらず(セネカ)。(a)ある古えの人は、その判断においては大して哲学を重視してもいないのに、なおかつそれを職としているのを咎められると、「いや、これこそ真に哲学することなのである」と答えた。彼らはすべてを考察しすべてを
(c)プラトンもこの神秘をかなりあけすけに論じている。まったく、自分の意見を述べる場合には、彼は何一つ確実には規定していないのである。立法者として書いている場合は、威圧的で断定的な文体を借りているが、やはりそこに、その最も空想的な創意を大胆に交えている。そういう創意は、彼自らに信じさせるには滑稽であるが、民衆に信じさせるには有効なものであるし、いかに我々が、どんな教説をもたやすく受け入れるか、なかんずく荒唐無稽な教説をも受け入れるかを、きわめてよく心得ているからである。
そういうわけで彼は、その法律において、詩はそこに語られている物語の筋が何か有用な目的をもつものでなければ、人前で歌ってはならないと大いにいましめているくせに、一方では、どんな幻想も人間の精神にそれを印象することは極めて容易なのであるから、それが無用有害な虚構でなく有益な虚構であるかぎり、これを与えないのはよくないとも言っている。その『国家』の中では、人々の利益のためにはしばしば彼らを欺く必要があると、きわめて率直に述べている*。さまざまな学派の中で、一方の学派はもっぱら真理を追い、もう一方の学派は有用を追ったことを、我々は容易に区別することができる。後者は有用であるというのでますます信用をえたが、それは当然である。我々の目に最も真実であると見える事柄が、往々にして我々の人生に最も有用なものと思われないのは、われわれの本性が悲惨である証拠なのである。最も大胆な諸学派、エピクロス派・ピュロン派・新アカデメイア派までが、結局は民法に従うことを余儀なくされている。
* こういうところにも、モンテーニュの宗教に対する態度がよくあらわれている。後出第二巻第十六章にも、同じような意見が行間によみとられる。この態度は詐偽でもペテンでもない。むしろ賢者の態度、少なくとも為政者としての理性的な態度といえよう。これはキリスト教国民によりも、伊藤仁斎や本居宣長をもつわれわれ日本人の方に、よりよく理解されることであろうと思う。拙著『モンテーニュ伝』二一六―二一八頁参照。
(a)いやこういうふうにでも考えなければ、あのとおり優れた・ほめたたえるべき・霊魂によって生み出されたもろもろの意見が、あんなにも不定であり、まちまちであり、また空虚であることを、我々はなんと言って弁護したらよいかわからない。まったく早い話が、我々の推量や類推によって神様を臆測しようとしたり、我々の能力や我々の規則によって神様を・また世界を・規定して見たり、神様が我々人間に天分としてちょっぴりわけて下さった・あのちっぽけな玩具みたいな・才能をつかって神性を
宗教に関する人間古来のすべての意見の中で、わたしに最も真らしく・最も許されるように・思われるのは、神様を、よろずの物・よろずの善・よろずの完全・の根源であり保持者であって、いかなる形・いかなる名・いかなる仕方・によって人間が捧げる尊敬をも、ひとしくお受けくだされる、一つの理解しえざる偉力なり、と認める考えである*。
(c)全能なユピテルは天地の父母、
諸王諸神の父母。
諸王諸神の父母。
(ウァレリウス・ソラヌス)
* この辺から、モンテーニュの理神論ないし汎神論が読まれる。拙著『モンテーニュ伝』二一〇―二一八頁参照。しかもつねに伝統的宗教の形式を見失うまいとしている。ここには宣長の葬式の話や仁斎の逸話などが自然に想起される。さまざまの異教的分子をとりいれながら、伝統的キリスト教徒であろうとするところに、そして宗教的寛容を自他のために持するところに、西欧人にはめずらしい融通無礙なモンテーニュの性格の一つがあると見られよう。
人間がその創意をもってでっち上げた神の像といえば、それはたんに誤っているばかりではない。不敬で神を
(a)それで聖パウロは、アテナイで行われているすべての宗教のうち、隠れて見えない神にささげた彼らアテナイ人の信仰が、最もゆるされるべきものとお考えになった。
(c)哲学者の中ではピュタゴラスがもっともよく真理を描いた。彼はこう判断した。「この第一原因・この存在の中の存在・に関する知識は、定義しようにも規定しようにも説明のできないものでなければならない。それは、我々各自がそれぞれの能力にしたがって完全の概念を段々に拡大しつつ行った、その努力の究極にほかならない」と。けれどもヌマ*は、人民の信心をこういう考え方にかなわせ、彼らをきまった目標のない・少しも物的なものの混りこまない・純然たる心的宗教に結びつけようと企てたが、まったく徒労に終った。つまり人間の精神は、こういうぼんやりした無形の思想の唯中をさ迷いつつ己れを維持してゆくことができないからである。どうしてもその思想を、自分に似た明確な形にかためないではいられないからである。そんなふうにして神の尊厳は、我々のためにいわば肉体的限界の中に閉じこめられてしまった。そして神の超自然的で天上的な秘蹟さえも、我々人間の下界的性質の痕跡をつけられ、神への崇拝さえも、知覚される儀式や言葉で示される。まったく、信ずるのも祈るのも人間なのである。この問題に関して用いられる他の論拠はしばらく別として、わたしは、十字架やあのお痛わしい御受難の像や、我々の寺院における装飾や儀式や、我々の胸の中の信心にふさわしい歌声や、その他もろもろの感覚の興奮などが、きわめて有効で敬虔な情熱をもって民衆の霊魂を燃え立たせないとは、とうてい信ずることができないのである。
* ヌマは伝説によると古代ローマ二代目の王である。この人の宗教政策に関するモンテーニュの意見は、勿論当時の新教批判であるが、ただそれだけにとどまってはいない。けっきょく人間は一般的に、何かセンシブルな形にしなければ形而上の問題は理解しえない、把握できないというのであって、言いかえれば、神というものは、人間にはとうていわからない、つかまえられないものだ、ということをにおわせている。「信ずるのも祈るのも人間なのである」とはずいぶん大胆な言明ではないか。それは絶対的不可知論、とりようによっては無神論とも思われる。ピエール・ミシェルも「フィデイスムからデイスムへ、デイスムからアテイスムに転向することは容易であり、不可避である」と言っている。それでモンテーニュは最後にえらく敬虔な文字をつらねてカムフラージュをしている。これがモンテーニュのいつもの手である。中にはこの最後の数行を、シャトーブリアン流のモンテーニュの美意識であり、信仰であるという学者もあるが(モンテーニュの芸術家的感受性ないし嗜好は否定できないが)、やはり先行の文章の方に重点をおかなければなるまい。
普遍の光、世界の眼。もしも神
眼を持つとせば、太陽はその輝ける眼よ。
それは万物に命を与え我らを助け守る。
またこの世にて人々のなすもろもろの業を見まもる。
この美しく大いなる太陽こそは、その
十二の家を出で入りて四季を作りなす。
太陽は誰も知るかの徳をもって宇宙をみたし、
その眼の一閃は、我らが前に雲をはらう。
世界の精、世界の霊、燃えさかりつつ
ただ一日の歩みに、天界を一周す。
無限に大きく、円く、行き行きてとどまらず、
そは、その下に、全世界を見おろす。
休みなく、しかも安らか。止ることなく、しかも静か。
自然の長子、毎日の父よ。
眼を持つとせば、太陽はその輝ける眼よ。
それは万物に命を与え我らを助け守る。
またこの世にて人々のなすもろもろの業を見まもる。
この美しく大いなる太陽こそは、その
十二の家を出で入りて四季を作りなす。
太陽は誰も知るかの徳をもって宇宙をみたし、
その眼の一閃は、我らが前に雲をはらう。
世界の精、世界の霊、燃えさかりつつ
ただ一日の歩みに、天界を一周す。
無限に大きく、円く、行き行きてとどまらず、
そは、その下に、全世界を見おろす。
休みなく、しかも安らか。止ることなく、しかも静か。
自然の長子、毎日の父よ。
(ロンサール)
なぜなら、このような偉大さと美しさとを別にしても、太陽こそは我々が、この世で我々から最も遠くに見出すものだからであり、したがってそれは最も知られていないものであるから、人々がこれを賛美し礼拝するに至ったのもゆるされるべきことである。
(c)タレスはこういう問題を探究した最初の人であるが、神とは水をもって万物を造った精霊であるといった。アナクシマンドロスは、神々とはときどき死んではまた生れるもので、それは数限りなき世界そのものであると考えた。アナクシメネスは空気こそ神であって、それは生み出されたもの、広大にして常に動揺していると考えた。アナクサゴラスは、始めて万物の形態および状況を、ある無限な精霊の力と理性とに指導されていると考えた。アルクマイオンは太陽と月と星と霊魂とに、神性を与えた。ピュタゴラスは神を、万物の本質の中に遍在する一つの精神で、我々の霊魂もまたこれから分れ出たものだと考えた。パルメニデスはこれを、光り輝く炎によって天をとりかこみ、世界を支持する輪であると考えた。エンペドクレスは、万物がそれによってなるところの四元素が神々であると言った。プロタゴラスは、神々があるかないか、何が神々であるかは、何とも言えないと言った。デモクリトスは、ある時はもろもろの星辰とその回転を、ある時はこれらの現象を生み出すところの自然を、それにまた我々の知識や知性を、神々であるとした。プラトンはその所信を、いろいろに言いふらしている。その『ティマイオス』においては、世界の父は名づけることができえないと言った。『法律』においては、その存在を詮索してはならないと言った。またそれらの書物の別の場所では、世界や天空やもろもろの天体や大地や我々の霊魂を神であるとし、なおその上に、各々の国において古来神として崇められているところの神々までも受け入れた。クセノフォンの伝えるところによれば、ソクラテスの学説もまた同じように混沌としている。すなわち、ある時は神の形状を問うてはならないと言い、ある時は太陽が神である・霊魂が神である・と言い、あるいは神はただ一つしかないと言い、あるいは数多くあるとも言ったのである。プラトンの甥スペウシッポスは、神をもって万物を支配する力であり、その力は生けるものであるとした。アリストテレスは、あるときは精神・あるときは世界・と言い、あるときはこの世界に別の主を与え、あるときは天の熱をもって神であるとした。クセノクラテスは神を八つ数えた。その五つまでは遊星の名をもって数えられ、第六の神はすべての恒星から成り、各個はいわばその手足であった。第七の神と第八の神は太陽と月であった。ヘラクレイデス・ポントスはただただ諸説の間に迷い、ついに神とは感情なく変幻極まりないものであるとし、更にそれは天と地とであるとも言った。テオフラストスも、同じように心定まらず、いろいろな思想の間をさ迷い、世界の支配権を、あるときは悟性に、あるときは天に、あるときはもろもろの星に、もたせた。ストラトンは、生み増しまた減らす力のある・形もなく感情もない・自然こそ神であると言った。ゼノンは、神とは善を命じ悪を禁ずる自然の法で、その法は生き物であるとし、従来のユピテル、ユノー、ウェスタ等の神々を抹殺した。アポロニアのディオゲネスは、神は空気であるとした。クセノファネスは神を、見たり聴いたりはするけれども息をせず・人間性とは何ら共通のものがない・まるいもの、とした。アリストンは神の形状を理解されないものとし、それには感覚がなく、それが生物かどうかについては知らないと言った。クレアンテスは、あるときは理性、あるときは世界、あるときは自然の霊、あるときは万物をおおい包むところの至上の熱であるとした。ゼノンの聴講者ペルセウスは、「人間の生活に何か顕著な寄与をしたもの、及び有用な事物その物が神とよばれた」と信じた。クリュシッポスは、以上にのべたような意見のすべてを雑然とよせ集めて、さまざまな形の神々を想像したが、不朽にされた人間までもその中に加えた。ディアゴラスおよびテオドロスは、断然神々の存在を否定した。エピクロスは、神々を光があり透明であって空気をとおすもの、あたかも二つの城の間にあるように天界と地界の間に位し、決して打撃を受けることがないもの、人のような顔と手足を備えたもの、しかもその手足は彼等に何の用をもなさないもの、とした。
われは常に神々ありと考えたり。またかく考えん。
されど、神々が人間のことにかかずらうとは
信ぜざるべし。
されど、神々が人間のことにかかずらうとは
信ぜざるべし。
(エンニウス)
いくらでも君の哲学を信用なさるがよい。われこそはお菓子の中の豆を切りあてたぞとお威張りなさるがいい。あんなにたくさんの哲学的頭脳がこのとおりけんけんごうごうと騒ぎ立てているのもお耳にははいらないと見える! だがわたしは、世の人の考え方の混沌として定まらないのをこうやって眺めているうちに、いつかしらわたしの習慣思想とちがう習慣思想が、わたしの気に逆らわないでかえってわたしを教えるようになり、また両方を比較しているうちに威張るよりはへりくだる気持が起るようになった。いや、特に神の御手から来た選択以外の選択は、すべてたいしたこともないようにわたしには思われる。人々の奇怪な・自然的に反する・生活振りは言うまでもない。世界の諸政府もまた、この神の問題となると、諸学派に劣らず互いに意見を異にしている。これを見ると我々は、運命でさえ我々の理性ほどには多様でも変りやすくもなく、またそれほどに盲目でも軽率でもないということが、わかるのである。
(a)最も知られていないものこそ、最も神とせられるのに適している。であるから、古代の人々がしたように我々をもって神とすることは、いかに我々の推理の力が弱いとはいえ、余りにも度をこえている。わたしはむしろ、蛇や犬や牛を礼拝する人々の方にくみしたであろう。なぜなら、それらの天性や本質の方が我々にはいっそう知られていないからである。だから我々が、これらの動物について勝手なことを想像し、これらに非常な性能を持たせる方が、まだ幾らかゆるしてもらえると思うのである。しかし我々の性質をもって(我々はその不完全なことをよく知っているはずだのに)神々を作り上げるにいたっては、彼らに欲望や憤怒や
(b)それらは余りに神の性から遠く、
それらは余りに神々にふさわしからず。
それらは余りに神々にふさわしからず。
(ルクレティウス)
(c)人は神々の姿や年齢や衣服や装飾を知れり。その系図やその結婚やその親族など、我々が神について知れるところは、すべて人間の不具不完全を範とせり。何となれば、人は神々の心にも我々と同じ迷妄満ちみち、神々もまた情欲と悲嘆と憤怒とに悩み給うがごとく取沙汰するにあらずや(キケロ)。ただに誠実や徳や廉潔や協和や自由や勝利や信心ばかりでなく、快楽や欺瞞や死やそねみや老いや貧困や(a)恐怖や熱や不運など、我々の
(b)何すれぞ神殿に我々の悪しき習性をまつるや。
おお、天をわすれ地に向ってかがめる人々よ!
おお、天をわすれ地に向ってかがめる人々よ!
(ペルシウス)
(c)エジプト人は「
(a)人間はあれほどに自分を神様にくらべたがっていたのだから、キケロの言うとおり神の諸性を自分に引きよせ、それらを下界にひきおろし、自分たちの腐敗と悲惨とを天に上せなかったのは、まだゆるすべきであったかも知れない。だがよく考えてみると、人間はいつも同じ思いあがりから、この両方をちゃんぽんに行ったのである。
哲学者たちが彼らの神々の階級を詮索し、彼らの縁つづきや職掌や偉力などを識別するのにせわしないところを見ると、彼らが本気でものを言っているとはどうしても信じられない。プラトンが、プルトンの果樹園の有様や、我々の肉体が崩れてから後になお我々を待っている肉体的な楽しみや苦しみを事細かに述べ、それらを一々我々がこの世において持っている感情に照らし合せているのを見ると、
隠れたる小径彼らをかくし、
ミルトの森彼らをめぐる。
死もついに彼らの憂いを除かざりき。
ミルトの森彼らをめぐる。
死もついに彼らの憂いを除かざりき。
(ウェルギリウス)
マホメットがその信者たちに、敷物がしかれ・金銀宝石にかざられ・たぐいまれなる美女やめずらしいお酒やご馳走に満ちみちた・楽園を約束するのを見ると、わたしにはすぐぴんと来る。「この
(b)乱軍のうちに戦いしはヘクトルなりき。
されどアキレウスの馬に曳きずられしは、
もはやこのヘクトルにはあらざりき。
されどアキレウスの馬に曳きずられしは、
もはやこのヘクトルにはあらざりき。
(オウィディウス)
(a)そのような報いをうけるのは何かほかの物であろう。
(b)変化あるところ分解あり死あり。
そのとき各部分は相離れてその形消ゆ。
そのとき各部分は相離れてその形消ゆ。
(ルクレティウス)
(a)まったくピュタゴラスの
我らの死後に、時我らの亡骸 を集め、
それを材料として今日と同じ形のものを再び造り成し、
これに生命の光を返すことよしありとするも、
想出の糸一度び絶えたる上は何にかはせん。
それを材料として今日と同じ形のものを再び造り成し、
これに生命の光を返すことよしありとするも、
想出の糸一度び絶えたる上は何にかはせん。
(ルクレティウス)
* モンテーニュは表面プラトンとマホメットを敵としているように見えるが、ここにはっきりと、キリスト教徒の霊魂不滅説と楽園思想を目標にしていることがわかる。
** ここに(六一一―六一五頁)モンテーニュの霊魂不滅に関する真意が読みとられる。第一巻第三章にも、セネカの句を引いてお前は死んでから後にどこに行くかを知りたいか。――物がまだ生れなかった前の処にゆくのだ(六四頁)と言っている。すなわち彼の霊魂不滅説は、キリスト教風ではなくて、汎神論的或いは進化論的である。なお第一巻第二十章(一四二―一四三頁)第一巻第三十九章(三一七頁)参照。
(b)眼は、眼窩 より抜きだされ、
体の他の部分より離さるれば、
もはや何物をも視るあたわず。
体の他の部分より離さるれば、
もはや何物をも視るあたわず。
(ルクレティウス)
(a)まったくそうなったら、もう人間でもなければ我々でもないであろう。したがってあの世の報いは誰がうけるのか。まったく我々は二つの主要な部分からなっているが、その分離は我々の本質の死滅にほかならない。
(b)その時生命の流れ断絶して、
肉体の感覚はその働きをうしなう。
肉体の感覚はその働きをうしなう。
(ルクレティウス)
(a)人間は死んでその四肢を蛆虫に噛まれるとき、地がそれらを腐らすとき、痛がり苦しがるとは誰も言わない。
そは我らに関係なし。何となれば、我らは
霊と肉との融合によりて存在すなればなり。――*
霊と肉との融合によりて存在すなればなり。――*
(ルクレティウス)
* 六一二頁最後から八行目「もしもあなたが……」に始まるモンテーニュのプラトンに対する抗議はここで終る。
人間はそのあるところのものでしかありえず、その力相応のことだけしか思想しえない。(b)ただ人間でしかない者どもが、神々についてまた半神について、語ったり論じたりしようと企てるのは、プルタルコスの言ったとおり、音楽を知らない者が歌う人々を判断したがったり、まるで軍隊に行ったことのない者が武器や戦争について論じたがったり、要するに、専門外の学芸の結果を何かのごく僅かな推量によって理解しようとするのにも増した、最も大きな
(b)アエネアスはスルモの息子なる四人の若者と、
ウフェンスの岸に生い育てる四人の軍士を捉え、
生きながらこれをパラスの霊に捧げたり。
ウフェンスの岸に生い育てる四人の軍士を捉え、
生きながらこれをパラスの霊に捧げたり。
(ウェルギリウス)
(c)ゲタエ人たちは自らを不死だと信じている。彼らの死は、彼らの神ザルモクシスへの道にすぎないのである。五年ごとに彼らはこの神の許にその仲間の誰かを送り、その代りにもろもろの必要な物を乞い求める。この代表者はくじによって選ばれる。そして、まずこれにその使命を宣告した後にこれを派遣する。その派遣の仕方がまことに変っている。すなわち、これに立会う者の中の三人がそれぞれ
クセルクセスの母アメストリスは、年をとってから、ペルシアの名家の子弟十四人を一ぺんに生き埋めにした。それはその国の宗教に従って、地下に住む何とかいう神様を喜ばすためであった。
今日でもなおテミスティタンの偶像は、幼な子の血で練り固められる。幼く純な魂を犠牲としなければお喜びにならないのだ。つまり正義が罪なき者の血に渇いているというわけである。
宗教はこれほどに多くの罪を勧めたり!
(ルクレティウス)
(b)カルタゴ人は、自分の子どもをサトゥルヌスの神に捧げた。自分に子どもがないと、ひとの子どもを買った。しかもその父と母とは、さも愉快な満足そうな顔をしてこの儀式に列しなければならなかった。(a)我々の悲しみで神の慈愛を買おうとは、まことに不思議な考えであった。またラケダイモン人を見たまえ。彼らは若い少年を拷問して彼らの神であるディアナに
(b)この清らかにして不幸なる乙女はその結婚のときに、
父の罪ある手によりていけにえとなされたり。
父の罪ある手によりていけにえとなされたり。
(ルクレティウス)
(c)ローマの国に神のめぐみがあらたかであるようにと、あのデキウス父子の美しく清い二つの霊魂を、最も結束の堅い敵軍の中に飛び込ませたのも、いずれ劣らぬ狂暴な気持である。
かくのごとき正義の人の生命ととり換うるにあらずんばローマの民を
(b)またサモスの暴君ポリクラテスの考えもおかしなものであった。彼は自分の長い幸福の流れを中断してその埋め合せをしようと考え、彼が持っている最も貴重な宝玉を海の中に投げこんだ。こうしてこのあらかじめ仕組んだ不幸によって、自分もまた運命の転変に服しているつもりでいた。(c)ところが運命の方ではそういう彼の愚かさをわらって、その同じ宝玉をある魚の腹中におさめ再び彼の手もとにかえした。(a)それからまた、(c)キュベレに仕える祭司たちやバッコスの
この我々が自然から与えられた身体は、ただ我々のために役立てるばかりでなく、神および他の人々のためにも役立てなければならない。わざとこれを破損するのは、たとえどんな口実の下にもせよ、自殺をしたりするのと同様に正しくない。鈍重で奴隷的な肉体的諸機能を虐待し麻痺させて、霊魂にそれらを理性に従って導く心配りをさせまいとするなどは、大きな卑怯背信であると思う。
神慮を和らげつつありと信ずる人々よ。神々は何を怒り給うとおぼさるるか。人々は王侯の快楽のために去勢されたれど、何人もその主人よりもはや男たるなかれと命ぜられしとき、自らの手により自らを去勢せるものあらざりき(聖アウグスティヌス)。
(a)このとおり彼ら古代の人々は、あまたの悪い行為でその宗教を満たしていた。
宗教はしばしば罪業深き行為を教えたり。
(ルクレティウス)
ところでわれわれ人間のものは、どんなにして見たところで、これを神性とならべたり較べたりすることはできない。そんなことをすればするだけ神性に不完全のしみをつけるだけである。あの無限の美や力や善が、どうして我々みたいな下賤なものと照合されたり比較されたりするのに堪えられようか。それは神の偉大に極度の損害を与えずにはいないのである。
(c)神の弱きところは人よりも強く、神の愚かなるところは人よりも賢し(「コリント人への第一の手紙」一の二十五)。
哲学者スティルポンは、「神々は我々の尊敬と犠牲とを喜ぶだろうか」と問われたとき、「大きな声を出すな。それについて語りたいなら物蔭で語ろう」と答えた。
(a)しかるに我々は神に限界を与え、彼の偉力を我々の理性によってとり囲んでいる(わたしは哲学の許しをえて、我々の空想夢想をもここに理性とよぶのである。その哲学は、「愚かなものもまた
天も地も海も、それらすべてをあわせても、
広大なる宇宙にくらべれば無にひとし。
広大なる宇宙にくらべれば無にひとし。
(ルクレティウス)
お前が
(b)地球、太陽、月、海、その他すべての存在は、
決して唯一つにはあらずして、その数限りなし。
決して唯一つにはあらずして、その数限りなし。
(ルクレティウス)
(a)昔の最も有名な学者たちは、いずれもそれを信じたし、我々〔キリスト教徒〕の間にも、人間的理性の明証によって、どうしてもそれを信じないわけにゆかなかった人々が相当ある。なぜなら、我々の見るこの建物のうちには、何一つとして単独なものはないからである。
(b)何ものもその種のうちの唯一のものにあらず。
一つとしてただ独りにて生れ育つものなし。
一つとしてただ独りにて生れ育つものなし。
(ルクレティウス)
(a)そしてすべてのエスペス〔種〕はいくつかの数にふえるからである。だから神が、この作品〔我らの住む世界〕だけを同類なく作り成したということは、またこの形体の材料が、ただこの一個においてことごとく使いつくされたということは、本当らしく思われない。
(b)さればわれ、くり返し言う。
われわれの世界と同質のものより成れる幾多の世界、
天の雲に抱かれてここかしこにありと。
われわれの世界と同質のものより成れる幾多の世界、
天の雲に抱かれてここかしこにありと。
(ルクレティウス)
(a)殊にそれが生き物だとすればなおさらのことで、その運動はそう信じさせるに十分である。(c)だからプラトンもこれを断言したし、われわれの間の大勢のものが、或いはこれを確認し、或いはあえてこれを否定せずに、いるのである。同様に、「天や星やその他世界のもろもろの部分は、肉体と霊魂とからなる被造物であって、その構成から言えば滅びるものであるが、造物主の決意から言えば滅びないものだ」という古代の説もまた、同様に否定できない。(a)さて、(c)デモクリトスや(a)エピクロスやほとんどすべての哲学者が考えたようにたくさんの世界があるとすれば、はたして我々の世界を支配する原理法則が、同様に他の諸世界をも支配しているのであろうか。恐らくそれらは別の形・別の組織・をもっていることであろう。(c)エピクロスはそれらの世界を、相似ているともまた相異なるとも考えている。(a)我々は我々のこの世界においてさえ、ただ場所のへだたりだけのために限りない相違や変化があることを知っている。我々の父たちの発見したあの新領土には、麦もぶどう酒もなく、わが国の動物のどれも見られない。すべてがそこでは違っている。(c)また過去の時代においても、世界のいかに多くの部分がバッコスをもケレスをも〔酒を造ることも穀物を育てることも〕知らなかったかを、考えてごらん。(a)プリニウス(c)とヘロドトス(a)の言葉を信ずるならば、ある地方には、我々とはてんで似たところのないいろいろな人種がいるのである。
(b)また人間とも動物とも、どっちとも言えない曖昧な形のものがある。ある地方では、人間が頭をもたず、眼や口を胸の真中につけて生れてくる。ある地方では男女両性である。ある地方では四つんばいで歩いている。ある地方では額に一つ眼を持つだけで、その頭は我々の頭によりもむしろ犬の頭に似ている。ある地方では、下半身が魚であって水の中に暮している。ある地方では、女が五歳で分娩し八歳までしか生きない。ある地方では頭や額の皮が非常に硬く、刃物もこれにささらないで、かえって曲ってしまうくらいである。ある地方では男が髭を持たない。(c)火を知らず用いもしない民族もあれば、黒い精液をもらす民族もある。
(b)何だって? しぜんに狼に変り牝馬に変りやがて再び人間になるものもあるって? いや、(a)プルタルコスが言うように、インドのある地方には口のない人々が住み、ある種の匂いをかいで生きているということがはたして本当だとすれば、いかに多くの我々の叙述*がまちがっていることか。そうなると人間は笑う動物ではなくなるし、おそらく、理性ある動物とも社会生活のできる動物とも言えなくなるだろう。我々の体内の組織**の機構や原理も、大部分見当はずれということになろう。
* 人間とは笑う動物であるとか、理性を有するとか、社会的であるとかいうような叙述。
** 医者の説明する内臓の位置、それを基にした医学などを指しているのであろうか。
我らの生ける生が生なりや。
我らが死と呼ぶものこそ生なりや。
我らが死と呼ぶものこそ生なりや。
(エウリピデス)
と。(b)それも無理のないことである。まったく、なぜ我々は、永遠の夜の限りない流れの中の唯の
(c)プロタゴラスは言っている。「自然の中には疑いのほかに何ものもない。人は何事に関しても同様に抗議することができる。いや、人は何事についても抗議しうるというそのことすら、抗議することができる」と。ナウシファネスは言っている。「有るように見えるもののうち一つとして無以上のものはない。不確実以外に確実なるものはない」と。パルメニデスは、「見えるもののうち、何ものも普遍には存在しない。ただ『一』しか存在しない」と。ゼノンは、「その『一』さえ存在しない。何ものも存在しない」と。
「もし『一』があるならば、それは或る他の中にあるのか、あるいは自らの中にあるのか、どちらかであろう。ある他の中にあるのだとすれば、それは二つである。自らの中にあるにしても、やはり二つである。含むものと含まれるものとの二つである」。これらの学説によると、宇宙は、あるいはうその・あるいは空虚な・影にすぎない。
(a)わたしにはつねにこう思われた。「一人のキリスト教徒にとっては、『神は死ぬことができない。神はその言葉をひるがえすことができない。神にはあれができない、これができない』などという言い方は、不遜と不敬とにみちて聞える」と。わたしには、こんなふうに
我々の言葉もまた、
* カトリックとプロテスタントがHoc est corpus meumという語の解釈から、いわゆる transsubstantiation(化体)に関する論争をしたこと。
* この句を以てモンテーニュの思想の究極とし、これを彼のピュロン説の表出と見ることは当らない。モンテーニュはここで哲学上宗教上の独断論を排するためにしばらくピュロン説をとるけれども、その必要がなくなれば早速巧みにピュロン説をすて去る。つまり彼の疑いはむしろ科学者の「方法としての疑い」で、デカルトのコギトに通ずるものである。またバリエール Pierre Barrire はこの標語を、政治上宗教上において両派の間に絶対に公平中立であろうとする努力の表示であるとしている。エドモン・ジャルーは、モンテーニュがセプティックであるという意味は、彼が何事においても狂信的ではなかったという意味だと書いている。ヴォルテールもアナトール・フランスも、寛容の使徒として狂信的であったし、ルソーも自由の旗手として狂信的であったが、モンテーニュはその寛容精神において、決して狂信的ではなかったと言うのである。とにかくモンテーニュは、友情や良心や、正義や好意や約束や、また情欲に対する理性の力などを信ずる人であったことを、忘れてはならない。「わたしは何を知っているか」は、ギリシア語 ※[#無気記号付きε、U+1F10、623-21]πχω に対するモンテーニュ自身のフランス語訳である。『モンテーニュとその時代』第四部第五章四四二頁参照。
** モンテーニュは一五七六年に天秤とこの標語をギリシア語で打ち出したメダイユをつくらせている。なおこの句は書斎の天井にも記されて残っている。
メダイユには、中央に平衡を得たる天秤、周囲に一五七六年という数字、その時のモンテーニュの年齢を示す43という数字が打ち出されている。裏面中央に紋章、それをめぐりサン・ミシェル首飾勲章と姓名 Michel Seigneur de Montaigne が刻まれている。実物は現存モンテーニュ城館の現住者 Mme Malher-Besse の所蔵、他には同型蝋の複製がペリグーの博物館に見られるのみである。
明日ユピテル大空を、
黒雲もておおいかくすとも、
明るき太陽もて輝かすとも、
一たびありしものをなかりしようになすことを得ず。
一たび時が運び去れるものを、
変え改むることあたわず。
黒雲もておおいかくすとも、
明るき太陽もて輝かすとも、
一たびありしものをなかりしようになすことを得ず。
一たび時が運び去れるものを、
変え改むることあたわず。
(ホラティウス)
我々が、過去および未来の限りない幾世紀も、神の眼には一瞬にすぎないとか、神の慈悲、知恵、力は、神の本質と同じものであるとかいうとき、我々の言葉はそれを言うけれども、我々の知性はそれを少しも理解していない。にもかかわらず我々の傲慢は、神性を我々の
エピクロスが「真に善良幸福な存在はただ神にだけ属する」「賢人も結局神の影・神の似姿・をおびているにすぎない」と言ったからといって、ストア学者たちは、いかに横柄に彼に
* un grand personnage des nostres. 初代キリスト教の教父でキリスト教のアポロジーを書いたテルトゥリアヌス Tertullianus(160-222)を指す。
神は大事をなすに当りてかくの如く偉大なる工匠なるが、小事に臨みてもまた同様に偉大なり(聖アウグスティヌス)。我々の傲慢は、つねに我々に、つぎのような涜神的な比較をあえてさせる。「ストラトンは我々の仕事が我々にとって重荷であるからといって、ちょうど神官たちにそうするように、神々からすべての義務を免除した。そして自然に万物を生ませ、保全させ、その力と運動とによって世界の各部分を建てさせ、人間から神の裁きの恐れをとり除いた。幸福にして永遠なる存在は、自ら何らの苦痛をももたず、従ってこれを何人にも与えず(キケロ)。自然は、同様の事物の間には同様の関係があることを欲する。だから死すべきものが無数にあることは、死なないものもまた無数にあることを教える。殺したり毒したりする者がかぎりなくあることは、保全し利益するものもまた同じ数だけあることを予想させる。神々の霊魂が、舌もなく目もなく耳もないのに、それぞれお互いの間で他の霊魂が感ずるところを感じまた我々の思想をも判断するように、人々の霊魂もまた、睡眠または何かの
(a)人々は、聖パウロが言っているように、自ら知者だと称しながら愚者となり、朽ちることのない神の栄光を朽ちなければならない人間の像に似せた(「ローマ人への第一の手紙」二十二の三)。
(b)ここで少し、古人の祭祀上の手品を見てごらん。壮麗な埋葬の儀式の後、火がピラミッドのてっぺんに起ってまさに死者の床に及ぼうとすると、人々はすかさず
彼らは自ら考え出したることに恐怖す。
(ルカヌス)
ちょうど子供たちが、自分で友達の顔に墨を塗りこくっておきながら、その顔を見ておびえるように。(c)己れの想像の奴隷となれる人間ほど世に哀れなるものあらんや(出処不詳)。ほんとうに、我々を作った者を尊ぶのと我々の作った者を尊ぶのとでは、大へんなちがいである。(b)アウグストゥスは、ユピテルよりも多くの神殿を献ぜられ、それだけ多くの礼拝をうけ、それだけ多くその奇跡を信じられた。タスス島の人民は、彼らがアゲシラオスからこうむった恩恵に報いようと、彼の許に来て彼を聖列に加えた旨を告げた。「皆さんは」とアゲシラオスはそれらの人々に向って言った。「誰でも神にしたいと思うその人を、神に祭り上げる権能をお持ちなのですか。では試みに、まず皆さんの内の誰か一人を神にしてごらん。その上で、(c)その者がどれだけ幸福になったかを見とどけたうえで、(b)わたしはあなたがたの申出にお礼を言いましょう」。
* 皇帝マルクス・アウレリウスの妻であるが、「貞淑な」とあるのは反語である。
トリスメギストスがわれわれ人間の才能を讃めるところをきいてごらん。こう言っている。「賞賛すべきもろもろの事柄のうち最も賞賛すべきことは、人間が神を見出しこれを造ることができたということである」と。(b)次に哲学の塾〔学派〕そのものの諸論拠を見てみよう。
ただ独り、神々を知り天の偉力を知りえし・
あるいはそれらを知ることの不可能を悟りえし・
あるいはそれらを知ることの不可能を悟りえし・
(ルカヌス)
その哲学派の論拠は、つぎのとおりである。「もし神ありとすればそれは生き物である。生き物であるとすれば感覚をもつ。感覚をもつとすれば堕落を免れない。もし肉体がないとすれば霊魂もない。従って行為もない。もし肉体があるとすれば滅びるものである」。何と無敵の論拠ではないか。(c)「我々には世界を造り上げるほどの能力はない。だから、何か我々よりも優れたものがあって、世界を造ったに違いない」。「我々自らをこの宇宙における最も完全なものと思いこむのは、愚かな傲慢であろう。とすれば、何かしら別に、より優れたものがある。それが神である」。「あなたたちは豪奢壮麗な邸宅を見るとき、誰がその主人かを知らなくても、それが鼠のために作られているとは言わないであろう。今ここに我々は天の宮殿のこんなにも神々しい造りを見て、きっとこれは我々よりも偉大などなた様かのお住居であると思わずにいられるか」。「最も高い所にいる者が常に最も尊いものではあるまいか。しかるに我々は低いところにいる」。「何者も、霊魂がなく理性がなければ、理性のある生きものを作り出すことはできない。世界は我々を造る。だからそこには霊魂と理性とがある」。「我々の各部分は我々より小さい。我々は世界の部分である。だから世界は知恵と理性とを備えている。しかも我々よりもずっと豊かに」。「大きな支配をすることはすばらしいことである。だから世界の支配は誰か好運なものに属する」。「天体は我々に害をしない。だからそれらは善意にみちている」。(b)「我々は食物を必要とする。だから神々もこれを必要とする。そして下界よりあがる蒸気を召上る」。(c)「この世の諸善は神にとって諸善ではない。だから、それは我々にとっても善ではない」。「害したり害されたりすることは共に不完全の証拠である。だから神を恐れるなどは狂気の沙汰である」。「神は本来善である。人は努力によって善である。それだけ人の方が上である」。「神の知恵と人間の知恵との間には、前者が永遠であるということよりほかに差別はない。ところがこの継続ということは知恵と何等の関係もない。だから神と我々とは同輩である」。(b)「我々は生命と理性と自由とをもち、善と慈悲と公正とを重んじている。だからこれらの特質は神にもある」。要するに建てるにしても倒すにしても、神の諸性質は、人間によって、自分になぞらえて、作り上げられているのである。何という雛形、何という模型であろう! 人間の諸特質を、すきなだけ引き伸ばそう、高めよう、大きくしよう! ふくらめ、哀れな人間よ、もっと、もっと、もっと!
張り裂くるとも及ばじ! と彼は言いぬ。
(ホラティウス)
(c)げに人々は、そのとうてい想い見ることを得ざる神を想い見るとき、おのれ自らを見るのみにて神をば見ず。その像をば神にくらべずおのれ自らに較べつつあり(聖アウグスティヌス)。
(b)自然界の事柄においては、結果は半分しかその原因を示していない。では、あの原因〔神・万物の造り主〕はどうか。それは自然の秩序の上にある。その本性は余りに高く、余りに遠く、余りに秀でていて、とうてい我々の結論の縄がそれを縛りくくることをゆるさない。そこに到達するのは我々の力によってではない。今ここにある道はあまりにも低い。我々はセニの
マホメット教の中には、アラビア人の信仰によって、かなりたくさんの魔法使がある。それは神々しくも処女の胎内から生れ出た・精霊的な・父のない・子どもであって、彼らの言葉において、そういう意味を含んだ特別の名*をもっている。
* 魔法使メルリンは中世の円卓物語に出て来る。悪魔に誘惑された修道女の生んだ子ということになっている。ここにモンテーニュは何食わぬ顔で以上のように書いているが、マホメット教こそいい面の皮、どこの国のいかなる宗教のことを語っているのかは、言わずと知れている。これは処女マリアの子イエス・キリストを暗示している。
人、神を思うとき、これを人の形のもとに思い浮ぶるは、我々の心に深く根ざしたる習慣によりてなり(キケロ)。
(b)さればこそクセノファネスは戯れて言ったのである。「もしも動物どもが神々を
(b)さてそこで、同じ理屈でゆくと、運命も我々のため、世界もまた我々のためである。電光も雷鳴も我々のためである。造物主ももろもろの被造物もみなわれわれ人間のためである。われわれ人間こそ、天地間の万物が目ざす目的目標である。哲学が二千年以上も昔から天界の事情について記録してきたところを見てごらん。神々は人間のためでなければ働きもしなければ語りもしなかった。哲学に言わせれば、神々は人間以外の事に心をくばったり仕事したりすることはなかったのである。時に神々は戦争し、我々に刃向うかと見れば、
大地の児ティタンは猛々しくも
老いたるサトゥルヌスの宮居を震わせたるが、
ヘラクレスのためについに打ち負けたり。
老いたるサトゥルヌスの宮居を震わせたるが、
ヘラクレスのためについに打ち負けたり。
(ホラティウス)
時にはまた、我々の喧嘩に加勢したり(c)我々がたびたび彼らの喧嘩に加勢した恩に報いたりも(b)した。
ネプトゥヌスその威力ある三叉 の矛 をもて
トロヤの城壁と基礎とをゆすぶり、
この市全体を転覆せしむれば、
遙かかなたに慈悲なきユノー現われ、
スカエア門をば乗っ取りたり。
トロヤの城壁と基礎とをゆすぶり、
この市全体を転覆せしむれば、
遙かかなたに慈悲なきユノー現われ、
スカエア門をば乗っ取りたり。
(ウェルギリウス)
(c)カウノスの民は彼ら自らの神々の支配を侵されまいと、その祭の日には武器を背に負ってその近郊に打って出て、剣を揮って空をここかしこと斬りまくり、自分の領内から異国の神々を追いはらった。(b)神々の威力は、我々の必要に応じて区分されている。ある神は馬をいやし、ある神は人をいやす。(c)あるいはペストを、(b)あるいは
かしこにてはユノーの武器崇 められ、
ここではその車尊ばる。
ここではその車尊ばる。
(ウェルギリウス)
(c)おお聖なるアポロンよ、世界の真中に住むアポロンよ。
(キケロ)
アテナイ人はパラスを、クレタはディアナを、レムノスはウルカヌスを、
スパルタとペロポンネソスのミュケナイとはユノーを、崇む。
マエナラの山には松をかぶれるパンの神まつられ、
マルスはラティウムにおいて拝せらる。
スパルタとペロポンネソスのミュケナイとはユノーを、崇む。
マエナラの山には松をかぶれるパンの神まつられ、
マルスはラティウムにおいて拝せらる。
(オウィディウス)
(b)ある神は、ただ一つの村里あるいはただ一つの家しか領しない。(c)ある神は一人すまい、ある神は自ら好んで、あるいは余儀なく、他の神と同居する。
孫の宮居祖父のそれと共にせられたり。
(オウィディウス)
(b)中にはきわめてちっぽけで平凡で(まったくその数は三万六千の多数にのぼる)、その五つないし六つを一緒にしなければ麦の穂一つ作りえないというような神々もある。それでも皆それぞれの名を持っている。(c)戸には三つの神々がある。すなわち板のそれ、
我々はなお、それらを天の誉れに値すと認めざれば、
仮に地上に境をあたえてこれに住まわせん。
仮に地上に境をあたえてこれに住まわせん。
(オウィディウス)
自然学者の神もあれば、詩人の神もあり、法律家の神もある。ある神々は神と人との中間にあって、神と人との仲介調停をしている。中にはある中位の小さな礼拝しか受けていないのもある。その役目肩書もさまざまで、善いのもあれば悪いのもある。(b)老いてよぼよぼの神々もあれば、死ぬ神々もある。まったくクリュシッポスの言うところによると、世の終りの大変動のときには、ただユピテル一人を除いて、すべての神々はみな死滅しなければならないのだそうな。(c)人間は神と自分との間に、たくさんの面白い交際をつくり出している。だって、人間は神と同国人ではないか。
ユピテルの揺りかごクレタ。
(オウィディウス)
この問題に関しては、大司祭スカエウォラと大神学者ウァロとが、当時つぎのように我々に向って弁明している。「庶民が真実の事柄をたくさん知らず、かえって嘘のことの方を多く信ずるのは、むしろ必要なことなのだ」と。人が真理を探求するは彼の
(b)人間の眼は、自分が知っている形態によってでなければ、物事を識別することができない。(c)いや我々は、あの不幸なファエトン*が人間のかよわい手で父の馬の手綱をさばこうとしたために、どんなにひどい目にあったかを忘れている。我々の精神もまたその向う見ずによって、同様な深みにおちいり、同じように気を失い、同じようにその身をそこなっている。(b)もしも君たちが哲学者たちに向って、「天と太陽とは何からできているか」と問うならば、彼らは何と答えるか。ただ「鉄で」とか、(c)アナクサゴラスのように「石で」とか、(b)われわれが用いるこれこれの布でとか、答えるにすぎない。(c)ゼノンに向って「自然とは何か」とたずねれば、彼は答える。「一種の火、一定の法式によって物を産み出す
* ファエトンは父アポロンの太陽の車を御しようとして力がたりなかったため大混乱をおこし、ユピテルの罰をうけた。
プラトンは、『ティマイオス』においてダイモン〔精霊〕について語らなければならなかったとき、こう言った。「それは我々の力を超えた企てである。このことについては、自らダイモンから生れ出たと言っているあの古人たちを信じなければならない。神の子らを信じないと言うことは不合理である。たとい彼らの言葉が厳とした・必然的で真らしい・理由に基づいていないにしても、彼らはこれこそ親しく見聞きした事実であると保証しているのだから」と。
(a)ところでどうだろう。人間界自然界の事柄に関する知識にかけて、我々はも少し明るいであろうか。
舵棒は金、大きな車の も金、
その輻 は銀。
その
(オウィディウス)
君たちはいうかも知れない。「むかしむかし御者や大工や塗師があって、あの高いところに行き、さまざまな運動をする機械を据えつけたのである。(c)そしてさまざまな色をしたもろもろの天体のからくりの車や、あやつりの縄を、プラトンの言うように、必然の
(b)世界は大いなる殿堂なり。
それぞれ別々の五つの地帯これをめぐり、
十二の星をちりばめたる道、斜めにこれを貫き、
二頭の馬を先立てたる月の車、この道をゆく。
それぞれ別々の五つの地帯これをめぐり、
十二の星をちりばめたる道、斜めにこれを貫き、
二頭の馬を先立てたる月の車、この道をゆく。
(ウァロ)
いずれもみな夢である。熱にうかされた狂気である。どうして自然は、いつか一度そのふところをあけて、その運動の機構と有様とを、ありのままに我々に覗かせてはくれないのだろうか。我々の眼を開けてはくれないのだろうか。おお神様! そのとき、いかなる誤謬と勘違いとを、我々は我々の哀れな学問の中に見出すことであろう! (c)もし我々の学問がただの一事でもありのままに正しく捉えていたなら、このわたしも
わたしはプラトンの中に、「自然は謎の詩に他ならない」という神々しい句を読んだことがあったが、それは恐らく、「自然は、我々の推量をそそるかのようなさまざまな偽りの光が限りなくそこに洩れ輝くところの、混沌とした一面の絵画である」という意味ではあるまいか。
すべてこれらは、もっとも厚き闇に掩われたり。いかなる精神も、この天と地との闇を見透かすことあたわじ(キケロ)。
まったく哲学は詭弁的な詩にすぎない。あの古代の著者たちも、いったいどこからそのすべての権威を借りているか。詩人たちからではないか。それに最初の哲学者たちは、彼ら自ら詩人であって、哲学を韻文で論じたものだ。プラトンも
(a)ちょうど女たちが、生れつきの歯が脱けると象牙製の歯を用いるように、また本当の色香を失うと代りに何か別の物でそれを
(a)哲学がその綱だの機械だの車輪だのを送るのは、ただ天に向ってだけではないのである。哲学が我々自らにつき・我々の組織について・言っているところを少し考えてみよう。哲学者たちはもろもろの天体の間におけると同じ逆行と動揺と接近と後退と回転とを、この哀れなちっぽけな人間の体の中にまで
* 哲学者の人間に関する説明を、下手な音楽家の作曲あるいは楽器いじりに比較しているのである。
なんぴともその足もとを見ず、徒 らに大空のことのみ詮議するなり。
(キケロ)
(a)だが我々の分際では、我々が手の中に持っているものさえ、天の星と同様我々から遠くにあり、それと同じように高い雲の上にあって、とうてい認識しようもないのである。(c)それで、プラトンの中でソクラテスはこう言っているのだ。「哲学にたずさわる誰に対しても、人はかの少女がタレスに与えた『あなたは少しも自分の足下を見ない』という非難をくりかえすことができる」と。まったくどの哲学者も、その隣りの人のすることを知らないのである。いや自分のすることさえ知らないのである。彼らは二人ながら自分たちが何ものであるかを、人間なのか動物なのかも、知らないのである。
(a)かのスボンの諸理由を余りに弱いとする人々、知らないものは一つもないという人々、世界を支配する人々、何でもかんでも、つまり、
海を統 べ四季をととのえるものは何か。
星の運行は自力によるにや他力によるにや。
何故に月の輪はみつればやがて欠くるにや。
いかにして宇宙の調和は万物の不和より生ずるにや。
星の運行は自力によるにや他力によるにや。
何故に月の輪はみつればやがて欠くるにや。
いかにして宇宙の調和は万物の不和より生ずるにや。
(ホラティウス)
までも知りつくしている人々は、いつか一ぺんでもその書物にとりまかれながら、自分自身の存在を認識することがいかに困難であるかを測って見ることがなかったのか。我々にはちゃんとわかる。指が動き足が動くのが。ある部分は我々の同意がないのに自ら動き、ある部分は我々の命によって始めて動く。ある観念は赤い顔を生み、ある観念は青い顔をさせる。ある種の想像はただ
* これはレーモン・スボンの自然神学をもふくめて古来の神学説に対する批評である。いくら理路整然と説きすすめられていても、カトリック神学にしろ、プロテスタント神学にしろ、すべての観念論のむなしいことを、モンテーニュは指摘するのである。
** ギリシアの有名な医者 Galenus のこと。医学および哲学に関する著書がたくさんある。
*** モンテーニュは一五四六―四八年、ボルドーの人文学部の学生時代、このアリストテレスの講義を聴いてたちまちにアリストテレス嫌いになり、爾来、いたるところでこの哲学者をからかっている。『モンテーニュとその時代』第二部一六二―一六八頁参照。モンテーニュの懐疑主義はこの時代から発している。
* 「容認された基礎」とは「公理」(postulat)のことである。
* フィロゾフが「愛知者」であるのに対し、フィロドクソスは「学説を愛する者」のこと。プラトン自らの定義によれば、「基礎不確実な諸説を鵜呑みにする者、語句の末に拘泥してゆずらない者、事物の表面だけしか見ない者」とある。
* アテーネともいうギリシアの神。ローマではミネルウァという。ユピテルを父としメティスを母とする。その生れる前に、ユピテルは地の神ゲア Ga のすすめに従って母をのみこんだ。それでアテーネはユピテルの頭から全身武装し、大きなときの声をあげて飛び出した。(神話)
(b)人は霊魂の性質について知るところなし。
そは肉体と共に生れたるや。それとも、
肉体が生れたる時これに入れられしにや。
そは死によって我々と共に滅びるや。
或いは独り暗き地獄、空虚なる国に赴くや。
或いはまた、神のために、他の獣の体内に入れらるるや。
そは肉体と共に生れたるや。それとも、
肉体が生れたる時これに入れられしにや。
そは死によって我々と共に滅びるや。
或いは独り暗き地獄、空虚なる国に赴くや。
或いはまた、神のために、他の獣の体内に入れらるるや。
(ルクレティウス)
(a)クラテスおよびディカイアルコスには、「霊魂なんてものはありっこない。ただ物体は自然の運動につれてああして動いているのだ」と理性は教えた。プラトンには、「それは自ら動くところの実体である」と教えた。タレスには「休むことのない一つの自然」と教えた。アスクレピアデスには「もろもろの感覚の働き」と教え、ヘシオドスおよびアナクシマンドロスには「土と水とからできたもの」と、パルメニデスには「土と火とからできたもの」と、エンペドクレスには「血でできたもの」と、教えた。
彼はその血なる霊魂を吐き出したり。
(ウェルギリウス)
ポセイドニオス、クレアンテス、ガレノスには、「一つの熱ないし熱のある性質」と教えた。
霊魂には火の力あり。而してその源は天に発す。
(ウェルギリウス)
ヒッポクラテスには「肉体にみなぎる精気」と、ウァロには「口から入り、肺臓で温められ、心臓で調節され、全身にあふれる空気」と、ゼノンには「四原素の精髄」と、ヘラクレイデス・ポントスには「光」と、クセノクラテスおよびエジプト人には「動く数(ノンブル・モビル)」と、カルデア人には「定形なき一つの徳」と、教えた。
(b)物体の中には一種の精気みなぎる。
ギリシア人はこれを呼んで調和と言えり。
ギリシア人はこれを呼んで調和と言えり。
(ルクレティウス)
(a)アリストテレスを忘れまい。「自然に物体を動かすもの。わたしはこれをエンテレケイアと名づける」と彼は言った。例によって冷たい創意だ。まったく彼は、霊魂の本体についても根源についても性質についても語らないで、ただその結果を認めているだけである。ラクタンティウス、セネカ、およびドグマティストの中のすぐれた人々は、「これは自分たちには解らない事柄だ」と白状した。(c)そして例によって長々と諸説を並べたてた後キケロは、これらの諸説のうちいずれが真実なりやは、いずれかの神これを裁き給わんと言った。(a)「わたしはわたし自らによって、いかに神の不可解であるかを知る」と聖ベルナールは言った。「なぜなら、わたしはわたし自身の諸部分を自ら理解することができないからである」と。(c)ヘラクレイトスは「すべての存在は霊魂と
(a)霊魂の在りかに関してもまた、以上にまけないほどたくさんの異論異説がある。ヒッポクラテスおよびヒエロフィロスは、それを脳室の中においている。デモクリトスおよびアリストテレスは、身体のいたる所にあるという。
(b)しばしば人は言うなり。「健康は肉体に属す」と。
されど、健康は健康なる人の一部にはあらざるなり。
されど、健康は健康なる人の一部にはあらざるなり。
(ルクレティウス)
(a)エピクロスはそれを胸にあるという。
(b)恐怖のおののきを覚ゆるはここなり。
喜びの感動を覚ゆるもまたここなり。
喜びの感動を覚ゆるもまたここなり。
(ルクレティウス)
(a)ストア学者たちは心臓の周囲および内部に、エラシストラトスは頭蓋の皮膚にへばりついて、エンペドクレスは血液の中にとけて、あるという。モーゼもまたそう考えた。だから「動物の血を食べてはいけない。そこには彼らの霊魂がくっついている」と禁じたのであった。ガレノスは身体の各部がそれぞれの霊魂をもつと考えた。ストラトンはそれを眉の間に宿らせた。(c)霊魂の形やその住みかについては、知ろうとさえすべきにあらずとキケロは言った。わたしはわざと、この人の言葉をそっくりそのまま借用する。せっかくの雄弁をことさら言い変えるにも及ぶまいではないか。それに彼の創意の材料を盗んだところであまり得にもならない。彼の創意は余りたんとはないし、あまり堅固でもないし、ほとんど誰でもが知っていることばかりだから。(a)けれどもクリュシッポスがその派の他の人たちと共に、霊魂を心臓のほとりにあると論証した時の理由は忘れられてはならない。「なぜなら」と彼はいう。「我々が何事かを断言しようと思うときは胸に手をおくからである。またわたしという意味のエゴー ※[#無気記号付きε、U+1F10、642-10]γ※[#鋭アクセント付きω、U+1F7D、642-10] という語を発音しようとするときも、下顎を胸の方に下げるからである」。こういうくだりを見ると、さしもの大家も案外たわいのないものであることがわかる。まったく、これらの考察はそれ自体きわめて軽率であるばかりでなく、最後のものにいたっては、ただギリシア人に対して、君たちは霊魂を胸に持っていると証拠立てているだけである。人間の判断は、いくら緊張したものでも、ときにはうっかり眠りこける。
(c)なぜ我々は思い切って言わないのか。人間的知恵の父であるあのストア学者たちは、すでに気がついているではないか。「倒れた石の下じきになった人間の霊魂は、まるで
ある人はこう信じている。「世界は、始め造られた時は純潔のうちにあったのに、自らの罪によってその純潔から堕落した精霊に対して、罰として形体を与えるがために作られたもので、第一の創造は、非肉体的なものであったのである。そして、それらの精霊は、その霊性から離れることの多少によって、あるいは重いあるいは軽い肉体を着せられるのである。それで、あんなにたくさんの被造物がそれぞれ種々様々な姿をしているのである」と。だがそうだとすると、罰として太陽という形体を与えられた精霊は、よほど稀な・特別な・変形をしたのだな、ということになる。我々の詮索の究極は、いずれもこうしたてんやわんやになってしまう。ちょうどプルタルコスが諸国の歴史の始源について言っているように、「それは地図と同じことである。よく知られた国々も、そのはては沼沢や奥深い林や荒涼たる無人の地域に占められている」のである。そういうわけで、もっとも大
ではエピクロス学者たちはどうか。彼らははじめ何とも単純にこんなふうに考えていた。「我々がいうところのアトムこそ世界を造ったので、このアトムとは若干の重みがあって自然に下方に向う物体である」と。ところが、やがてその敵側から、「その定義によると、君たちのアトムなるものは、その落下がそのように垂直であるかぎり、ただ到るところに平行線を産み出すだけで、とうてい互いに接触合体することができないわけだね」と突込まれた。そこで彼らは、後にその落下に斜めの・偶然の・運動を持たせなければならなくなり、さらに彼らのアトムに曲った
(c)またそのときにさえ、つぎのような別の考えをもって彼らを追求する者があって、少なからず彼らをてこずらせたではないか。すなわち、「もしアトムが偶然にそんなにたくさんの形を作り出したのだとすれば、なぜそれらは相接して、時に家だの靴だのを作り出すようにならなかったのか。なぜ人は、同様に、数限りないギリシア文字を一つのところにぶちまけておけば、やがてそれらが『イリアス』の名文をも作り出すことになろうと信じないのか」と突込まれたのである。「理性の働きをもつものは」とゼノンは言った。「それをもたないものより優れている。世界より優れたものはない。故に世界は理性の働きを持つ」と。コッタは同じ論拠をもって、世界を数学者だと言った。またつぎのような別の・しかしやはりゼノンの・論拠によって、すなわち「全体は部分より大である。我々は知恵の働きをもちまた世界の一部でもある。故に世界は知恵者である」という論拠によって、世界を音楽家・オルガン演奏者とした。
(a)哲学者たちが自分たちの学説や学派のちがいからお互いに浴びせ合った非難を見ると、同じような実例がいくらでも見られる。それらは論拠が誤っているだけではなく
わたしはそれらを寄せ集めて、一つの見せものとしてお目にかけたい。それはある見方をもってすると、健全で控え目な諸説に劣らず、十分に考えるに値するものである。(a)これによって我々は、人間について、その分別について、その理性について、どのように考えるべきかを、よく考えて見よう。まったくそれで見ると、ああいう偉大な人物たち、人間の能力をあれほどまでに高めた人たちにおいてさえ、あのように明白な・あのように大きな・欠点が見てとられるのである。わたしはむしろ、「彼らは学問を、気まぐれに、おもちゃみたいにいろいろに、取扱った。理性をつまらぬ道具のようにこき使った。あらゆる創意と思想とを、引締った創意だろうがだらけた思想だろうが、けじめなく人にすすめた」と信じたい。あの、人間を鶏なみに定義したプラトンその人も、別のところではソクラテスにならってこう言っている。「わたしは本当に人間とはなんであるかを知らない。それは同じように認識の困難な世界の一部をなすものである」と。このように雑多で一定しない諸説によって、彼らは我々を、黙って、いわば手を取って、「自分たち哲学者の意見は不定である」という結論へと導いてゆく。彼らはいつも、自分たちの意見をむき出しに示さないのを得意にしている。彼らはそれを、あるときは詩的な物語の蔭に、あるときは何かほかの仮面の下に、隠した。まったく我々は不完全であるために、早い話が、なまの肉はつねに我々の胃の腑に適しないと言って、それを乾したり腐らせたりしなければ食べないのである。彼らもまた同様にする。すなわち、しばしばその正直な意見と判断とを、一般の使用に適するようにわざと曖昧にする。(c)そしてそれらを歪曲する。(a)彼らは、人間の理性の無力と無知とを明白に表現したがらない。(c)子供たちをこわがらせないために。(a)だが、混沌として定まらぬ何かの学問の外観のかげに、それらをかなりに暴露している。
(b)わたしはイタリアにいた頃、イタリア語をしゃべるのに苦労しているある人に向って、こう勧めてやった。「別にしゃれたことを言おうというのでなく、ただ思うことを相手にわからせようというだけならば、何でもいい一番先に口をついて出る言葉を、ラテン語でもフランス語でもスペイン語でもガスコーニュ語でもいいから、使うがよい。ただそれにイタリア風の語尾をつけさえすれば、きっとこの国のどこかの方言にぶつかる。トスカナのでなければローマの・ヴェネツィアのでなければピエモンテかナポリの・方言にぶつかる。ずいぶんいろいろな形の方言があるが、そのどれかに必ずかなう」と。わたしは哲学についても、同じことを言おうと思う。哲学はあれほど多くのいろいろな顔形をもち、またあれほど沢山のことを言ったから、我々の夢幻夢想はことごとくそこにふくまれているのである。人間の思想は、善くも、悪くも、哲学の中にない何事をも思いいだくことはできないのである。(c)人はいかなる哲学者にも言われざりしほどに不条理なることを言うあたわず(キケロ)。(b)そこでわたしは、ますます気ままに自分の幻想を人々の前で駈けまわらせるのである。なぜなら、それはわたしのうちから祖師なしに生れ出たものであるけれども、必ず何とかいう古人の思想と似たところをもっているにちがいないと思うからである。いや、やがて誰かが、「なるほどあれから取ったのだな!」と言ってくれるに違いないからである。
(c)わたしの
よう! 新型の哲学者! ついぞ瞑想をしたことのない・ひょっこりでき上った・哲学者よ!
(a)再び霊魂の問題に立ちもどるに、プラトンが理性を脳に・怒りを心臓に・色情を肝臓に・置いたのは、むしろ霊魂の運動を説明するためであって、一つの身体を幾つもの肢体に分つように霊魂を分割分類しようと思ったからではない、というのがどうやら本当らしい。いや哲学者の諸説の中でもっとも本当らしいのは、霊魂は一つであるという説であって、それは常に、自らの性能によって推理し・追憶し・理解し・判断し・欲望すると共に、身体のもろもろの器官を借りてはその他のあらゆる働きを行うのだという(あたかも船乗りがその経験に従って、あるいは帆綱を張ったり緩めたり、あるいは
(c)太陽は移りながら常に天の中道をそれず。
しかもその光もて万物を照らす。
しかもその光もて万物を照らす。
(クラウディアヌス)
(a)それはちょうど、太陽が天から外にその光と偉力とを伸べひろげながら、それで世界をみたしているのに似ているという。
霊魂のほかの部分は遍 く全身をめぐりて、
高き英知の命令に従って動く。
高き英知の命令に従って動く。
(ルクレティウス)
ある人たちは言った。「ある一つの大きな全体のような、ある一つの総体的霊魂があり、個々の霊魂はそこから引き出され、また再びそこに帰る。常にあの普遍的なものと相交わりながら」と。
まことに神は至る所に遍在す。
大地にも、海原にも、大空にも。
家畜も野獣も人間も、すべてはその生れ出るとき、
神より幾許 かの生命を享けきたり、
生き終れば、分解して再び彼にかえる。
天上天下、死はいずこにもなし。
大地にも、海原にも、大空にも。
家畜も野獣も人間も、すべてはその生れ出るとき、
神より
生き終れば、分解して再び彼にかえる。
天上天下、死はいずこにもなし。
(ウェルギリウス)
またある人々は言った。「個々の霊魂はこの総体的霊魂にまつわりついているだけだ」と。ある人たちは「それらはみな神の本質から生れる」と言い、ある人たちは「天使によって火と空気とで作られる」と言った。ある者は「太古に生れた」と言い、ある者は「必要あるその度ごとに生れる」と言い、ある者は、「月から下りて来てまた再びこれに帰る」と言った。古人は一般にこう考えた。「それらは父から子へと、あたかも他のすべての自然物と同じように産みふやされたものである。それは子がその父に似ることで論証される。
汝が父の徳は、生命と共に、汝に譲られたり。
(出所不詳)
勇気ある子は勇壮な父より生る。
(ホラティウス)
人は、ただに身体の特徴ばかりでなく、気分や、気質や、霊魂の傾向の類似までが、父から子へと伝わることを知っている。
何故に、獅子はその猛き性を子に伝うるや、
何故に、狐はそのわる知恵を父より受けつぐや、
何故に、鹿はその逃げ走る本能と、
その足を早くする恐怖とを、うけ伝うるや。
けだし、それぞれの種の結果によりて、
霊魂の特質もまた、身体のそれと共に、
父から子へと遺伝すればなり。
何故に、狐はそのわる知恵を父より受けつぐや、
何故に、鹿はその逃げ走る本能と、
その足を早くする恐怖とを、うけ伝うるや。
けだし、それぞれの種の結果によりて、
霊魂の特質もまた、身体のそれと共に、
父から子へと遺伝すればなり。
(ルクレティウス)
そこに神の正義があり、父の
(b)もし霊魂が生るるに際して体内に入るものとせば、
何故に、我らは過去の生活を想い出すことあたわざるや。
何故に、我らは前の行為を記憶し居らざるや。
何故に、我らは過去の生活を想い出すことあたわざるや。
何故に、我らは前の行為を記憶し居らざるや。
(ルクレティウス)
(a)まったく我々の霊魂の性質が、ほんとうに我々の欲する通りのものであるとすれば、それらは生れ出たままの単純と純粋の中にあったときから既に、なかなかの物知りであったと思わねばならないのである。従ってそれらは、そこに入る以前には肉体という牢獄を免れていたのであるから、それを脱したとき既に、我々がこのようにありたいと望むとおりのものであったに違いないのである。そしてそういう知恵を、プラトンが「我々の学び覚えるところは、前の世に我々が知ったことの想起にすぎない」と言ったように、肉体の中に入ってからもなお想い出さねばならないはずである。だがこれは誰しもが経験上嘘だと主張できることである。なぜなら、第一に、我々は人から習ったことだけしか想い出さないからである。もし記憶が正直にその役目を果すならば、記憶は我々が後に学んだこと以外のことをも、少なくとも暗示くらいはするはずだからである。第二に、我々の霊魂が純粋な状態にあったとき、既に知っていたところのものは、それこそ真実の知識であったのだから、その神らしい英知によって、物事をそれらのあるがままにただしく知っていたはずなのである。ところが現在、我々の霊魂は、虚偽でも不徳でも、教えられれば何でも黙って受け入れる! そこにその想起を用いることができないでいる! つまりこれは、そのような形象や概念がかつて一度もそこに宿ったことがない証拠である。「肉体という牢獄は、霊魂が生れながらに持っている諸性能を、そこでそれらが全然消滅したほどに息づまらせてしまった」という説にいたっては、第一に、あのもう一つの信仰、すなわち、「霊魂の力は極めて偉大であり、人々がこの世で感ずる霊魂の作用は極めてすばらしいものであるから、どうしても霊魂には、あの神性と、過去における悠久と将来における不朽とが、なければならない」という信仰に反する。
(b)誠にもし霊魂の性能大いに変えられて
まったく過去の追憶を失い尽せりとせば、
その状態は死とほとんど異ならぬものなるべし。
まったく過去の追憶を失い尽せりとせば、
その状態は死とほとんど異ならぬものなるべし。
(ルクレティウス)
(a)それに、ここでこそ、この我々の
(c)プラトンはこの不都合からのがれるために、「未来の報酬は人間の生存年数に従って百年以内に限られるべきである」とした。われわれキリスト教徒の中にもそういう期限をつけた者がかなりある。
(a)それで哲学者たちは、「霊魂の発生と生存とは、共に人間界の事柄と共通の条件に従うものである」と判断した。これはエピクロスおよびデモクリトスの所説によるのであるが、この説が当時最も広く受け容れられたのは、つぎのような立派な理由によってであった。すなわち、「人は霊魂が、肉体がこれを受け入れるのに堪えるようになって始めて、それが発生するのを見るし、その力が肉体の力に伴って伸びてゆくのを見るし、またそれが幼い時には弱く、時と共にようやくその力をまし、成熟するかと思うとやがて老衰し、ついには朽ち果てることを認める」からであった。
我らは感ず。霊魂が肉体と共に生れ、
これと共に伸び、またこれと共に滅ぶるを。
これと共に伸び、またこれと共に滅ぶるを。
(ルクレティウス)
まったく彼らの認める通り、霊魂というものはさまざまの情念をいだくことができ、多くの苦しい感動に揺り動かされる。そのために疲労と苦痛におちいり、変化変質することもあれば、興奮・倦怠・無気力・におちいることもあり、また胃の腑や足と同じように病気にもなれば怪我もする。
(b)我らは知る。霊魂は病める肉体のごとく、
薬によりて癒 さるることを。
薬によりて
(ルクレティウス)
(a)酒のためには麻痺し混乱するし、病気の熱に浮かされると平静を失う。ある薬を用いると昏睡に陥るし、またある薬によっては覚醒させられる。
(b)霊魂もまたその性質は肉体的ならざるべからず。
そは肉体の変化変調のために乱さるればなり。
そは肉体の変化変調のために乱さるればなり。
(ルクレティウス)
(a)また霊魂は、病犬のただひと噛みのために狂乱してそのすべての性能を失う。どんなに堅固な理性も、どんな知恵も、どんな徳も、どんな哲学的決意も、どんなに張りつめた気魄も、とうてい、これらの事件の支配から霊魂を免れさせることはできない。ちっぽけな番犬のよだれがソクラテスの手のひらに注がれると、それはさしもの彼の知恵をも、あれほど偉大で整然としていた彼の思想をも、ことごとくゆすぶり動かして、それまでの彼の知識をただ一ぺんに跡形もなくしてしまった。
(b)霊魂のもろもろの性能はこの毒によりて、
乱され、分たれ、くつがえされたり。
乱され、分たれ、くつがえされたり。
(ルクレティウス)
(a)この毒は、これほどの霊魂の中ですら、なお四歳の子どものそれにおけるがごとく、何の抵抗にもあわなかった。この毒は、さしもの哲学をさえ(それはあれほど彼の身についていたのに)狂乱させることができた。それどころか、あのカトーなども、それは死や運命の首根っこをもおさえ得たほどの男であったのに、ひとたび狂犬からうつされて医者のいわゆる狂水病にかかると、たちまちに恐怖にうちひしがれ、鏡や水をさえ見ることができなくなった。
(b)病は五体をめぐりて霊魂を責め苦しめたり。
あたかも強風海の潮 を湧き立たするがごとく。
あたかも強風海の
(ルクレティウス)
(a)ところで、この点について、哲学はたしかに他のすべての出来事に堪えさせるために人を武装した。あるいは忍耐をもって、あるいは、忍耐があまりに得がたい場合には、全然感覚を脱却するという、一つの決してはずれることのない便法をもって。けれどもそれは、自分を失わない・力の溢れた・推理と熟考ができる・霊魂にかぎって役立つ方法である。それは哲学者においてさえ、その霊魂が愚者のそれのようにあわてふためいて、どうしてよいかわからなくなるような、そういう場合に臨んでは何の役にも立たないのである。そういうことは、いろいろな機会によく起る。例えば何かの激烈な情念のために、霊魂が自分のうちに猛烈な混乱を生じさせることもあるし、身体のどこかの怪我だとか胃の痙攣だとかが、我々を
(b)しばしば肉体の病のため霊魂は錯乱す。
その時、痴呆状態とうわごとと交々現わる。
時には昏睡、精神を永遠の眠りの中に投じ、
おのずからまなこはふさがり首はうなだる。
その時、痴呆状態とうわごとと交々現わる。
時には昏睡、精神を永遠の眠りの中に投じ、
おのずからまなこはふさがり首はうなだる。
(ルクレティウス)
(a)哲学者たちは、どうもこの
(c)いや、同じように大事なもう一つの点にもふれなかった。彼らはつねにつぎのような
* 人間の霊魂がさまざまな事柄の影響をうけて理性も知恵も失うということ、哲学もまた無力であることについて、哲学者は余りふれていない(六五〇頁終りから十行目)。これが第一のオミッション。そこでモンテーニュは、この(c)のテキストによってもう一つそういう哀れな人間の霊魂について、哲学者の言い忘れていることを補足しようとしたのである。
何たる愚かさぞや! 死すべきものと死せざるものとを結び合わせんとは!
いかでかこの二つ、相和して同じようなる役目をばなすことをえん!
けだし世にこれほど相異なり相反するものはあらざればなり。
死するものと死せざるものとを合わするは、
合わせんとするものを一陣の狂風に委ぬるにひとし。
いかでかこの二つ、相和して同じようなる役目をばなすことをえん!
けだし世にこれほど相異なり相反するものはあらざればなり。
死するものと死せざるものとを合わするは、
合わせんとするものを一陣の狂風に委ぬるにひとし。
(ルクレティウス)
それどころか、霊魂もまた、肉体のように死の中に引きずりこまれると考えていた。
(b)霊魂は肉体とともに年齢の重荷の下に頽 る。
(ルクレティウス)
(c)このことは、ゼノンによれば、眠っている間のことを想像するとかなりよくわかる。まったく彼は、睡眠を霊魂と肉体との虚脱であると考えているのである。彼は睡眠の中に霊魂の萎縮し衰弱することを信じたり(キケロ)。(a)そこで、誰かある人の霊魂の強い力がいよいよという最期においてもなお維持されているのを見ると、彼らはそれを病気それぞれの特異性のせいにしていた。実際我々はよく見かける。人間がこのような最期のときに至っても、何か一つの感覚を(あるいは聴覚を・あるいは嗅覚を・)少しの変りもなく保っているのを。いや、どんな器官も完全で強力なままに残らないほど、それほど全体的に衰弱するということは、かえって見られないのである。
(b)頭には少しの痛みも感ぜざるに
脚の病めることあるがごとし。
脚の病めることあるがごとし。
(ルクレティウス)
我々の判断の眼と真理との関係は、ちょうどみみずくの眼と輝きわたる太陽の光との関係にひとしい。これはアリストテレスが言ったことであるが、このようにぱっと明るい光と、このようにひどい盲目とをくらべる以上に、この関係をよく人にわからせる道があるであろうか。
(a)まったくこれとは反対の霊魂不滅説は、(c)これをキケロは、少なくともいろいろな書物の証するところによれば、トゥルス王の時代にフェレキュデス・スュロスによってはじめて伝えられたものであると言っているが(他の人々は、この説を始めて言いだしたのはタレスであるとし、また別の人々はこれをさらにほかの人たちに帰するのであるが)、(a)これこそ人間の学問のうちでもっとも多くの留保と疑問とをもって論ぜられる部分である。もっとも頑固なドグマティストたちも、さすがにこの点に関しては、仕方なくアカデメイア派の曖昧の中にその身を隠す。なんぴとも、アリストテレスがこの問題をどう決定したかを知っていない。(c)また一般に、すべての古人がどう決定したのかも知っていない。彼らはこの問題を、いずれもあやふやな信念をもっていじくりまわしているにすぎないのだ。そはきわめてうれしきことなり。されど、そは単なる約束にして確かなる証明にはあらざるなり(セネカ)。(a)彼は意味むつかしくわかりにくい言葉の雲にかくれ、その帰依者たちに、彼の判断についても問題そのものについても、勝手に論議することをゆるした。二つの事柄が彼らに霊魂不滅の説を肯定させた。一つは、「霊魂不滅ということがなければ、もう光栄という空ろな希望をいだかせるたよりもなくなるだろう」ということで、これは世間で驚くべき信用を博している考え方である。もう一つは、(c)プラトンも言ったように、(a)はなはだ有益な意見であって、「不徳はたとい人間の裁きのぼんやりとしてあやふやな眼はのがれても、神の正義からはのがれることができない。神は罪人が死んでしまってからもなおその不徳を追求する」というのである。
(c)人間はその存在を伸ばそうと極度に心を砕き、そのためにありとあらゆる手段を尽している。肉体の保存のためには墳墓を営み、姓名の保存のためには光栄を求めている。
人間は自分の運命に堪えてゆくことができず、あらゆる思案をこらして自分を建て直そうとし、その創意によって自分につっかえ棒をかおうとした。霊魂は混沌として力弱く、とうてい独りでは立っていられないので、あちらこちらと、いたるところに慰めと希望と根拠とを尋ね歩き、そういう外部的情況にすがりたよる。そして、その創意がつくり出したそれらのものがいかに取りとめのない
(a)けれども、我々の精神が不死であるという・このきわめて正当自明な・信念に最も執着した人々も、とうとうそれを彼ら人間の力によっては確証できずにしまったということは、何とも不思議である。(c)そは求める者の夢にして、教える者の夢にあらず(キケロ)とある古人は言った。(a)人間はこういう証拠によって、彼が独りで見出す真理も、やはり運命と偶然とのお蔭なのだという事実を認めることができる。なぜなら真理が彼の手の中におちるときでさえも、彼はこれを把握するすべを知らず、彼の理性はこれを利用する力を持たないからである。我々自らの推理と才能とによって作り出された物ごとは、本当のものも嘘のものも、みな不確実で議論をまぬがれない。実に我々の不遜を罰するため、我々の悲惨と無能とを思い知らせるためにこそ、神は
* ニムロデはカルデア(バビロニア)の王。カルデアには昔から未完のままに立っているピラミッドがあったらしく、その国の人々はこれをバベルの塔と信じていた。
(c)正直に白状すれば、霊魂が不滅であることを我々に告げたのはただ神ひとりであり、ただ信仰だけである。まったくこの教えは、自然からのものでも我々の理性からのものでもないのである。いや、この神よりの賜物〔霊魂不滅の信仰〕を捨てて、自分の本質と力量とを、内においても外においても、くわしく試みためす者、遠慮会釈なく人間のありのままを見る者は、そこに死と下界以外の匂いを感じさせるいかなる特性をも能力をも、見出さないであろう*。神に多く与えれば与えるだけ、多く負えば負うだけ、多く返せば返すだけ、それだけ多く、我々はキリスト教徒らしくなるのである。
* 見出すのは、ただ人間のはかない・滅びやすい・下界的特性能力のみであろう。
(a)さてこの問題に関する人間的根拠の薄弱さは、彼らがこの種の論説の終りに付加した・我々の不死とはどんな状態のものであるかを説明しようとした・荒唐無稽な事柄の中に明白に認められる。(c)ストア学者たちはしばらくおこう。――彼らは我らに、
(c)そして彼自らは、かつてアエタリデスであったこと、つぎにはエウフォルボスであったこと、それからヘルモンティモスであったこと、ついにはピュロスからピュタゴラスに移ったこと、をみな覚えていると言った。つまり二百六年間にわたって自分を記憶していたのである。ある人々はつけ加えて、「これらの霊魂はときに天に上り、ときにまた再び降りてくる」と言った。
おお父よ、まことなりや、霊魂ここより天に上り、
更に再び重き身体を受けて地に降るとは。
何ゆえにこれらの不幸なる者どもは、
かくも激しく生をこい願うや。
更に再び重き身体を受けて地に降るとは。
何ゆえにこれらの不幸なる者どもは、
かくも激しく生をこい願うや。
(ウェルギリウス)
オリゲネスによると、霊魂は永遠に良い状態と悪い状態との間を往復する。ウァロが物語っている説によると、四百四十年の周期をもって霊魂はその最初の肉体にもどる。クリュシッポスは、限定されていない或る期間の後にそうなると言う。プラトンは、この霊魂が定められた運命によって限りなく移り変りをするという信仰を、ピンダロスやその他の古代の詩から得たと言っているが、霊魂のこの世における生活が有期的なものにすぎなかったように、そのもう一つの世で受ける褒美も刑罰もまた、有期的なものにすぎないということから、こう結論した。「霊魂は、そのいくたびとない旅で往復し・また滞在した・天国や地獄やまたこの世の事柄について、めずらしい知識をもっている。これが霊魂の回想の内容である」と。
他の場所*では、霊魂の経過をつぎのように叙述している。「良く生きた者は指定された星の世界にゆく。悪く生きた者は女に生れ変る。それでも
* プラトンの『ティマイオス』をさしている。前のパラグラフに言っていることは、『メムノン』の中に言われたことであるのに対して「他の場所では」という。
霊魂が、動物の交接と分娩とを、今か今かと
見張りつつありと想像するは、おかしきことなり。
不死の霊魂が、逸早くこれに入らんとして、死すべき肉体を、
相争うかと考うるは、さらに愚かなることなり。
見張りつつありと想像するは、おかしきことなり。
不死の霊魂が、逸早くこれに入らんとして、死すべき肉体を、
相争うかと考うるは、さらに愚かなることなり。
(ルクレティウス)
ある人々は死者の体の中に霊魂をとっつかまえ、それによって蛇や毛虫やその他我々の四肢の腐敗から・あるいは我々の灰の中からさえ・わくと言われる
人間の学問が肉体的諸器官について教えることの中にも、無分別な独断はけっして少なくない。中から一つ二つの実例を拾ってみることにしよう。まったくそうでもしなければ、我々はあの医学的誤謬の茫漠たる海原のまん真中で途方にくれてしまうであろう。せめて「どんな物質をもって人間は互いに作り作られるのか」という問題についてだけでも、人々の意見は一致しているかどうか調べて見よう。(c)まったく人間の最初の発生については、ことが極めて古い大昔のことでもあるから、そこに人間の悟性が昏迷するのも、少しも不思議ではないのである。自然学者アルケシラオスは(ソクラテスはその弟子で、アリストクセノスによるとそのお気に入りの少年だったのだが)、人間も動物もみな地熱から生ずる乳状の粘土から作られたものだと言った。(a)ピュタゴラスは、我々の種子〔精液〕は我々の最上の血液のうわずみであると言っている。プラトンはそれを脊髄が流れ出たものであるとし、背骨が一番先に性交の疲労を感ずるということでそれを証明している。アルクマイオンはそれを脳髄の一部だとしている。そしてその嘘でないことは、このことを極度に行う者が
* モンテーニュは母の胎内に十一カ月いたと信じていた。
(c)いや、自分を理解しないものが、一体何を理解することができよう? 己れの寸法を知らざる者が、いかでか他物の寸法を取りえんや(プリニウス)。
ほんとにプロタゴラスは馬鹿なことを言ったものだ。ついに自分の寸法さえ計りきれなかった人間を「万物の尺度」だなんて。人間でなしに誰かほかの被造物がこの特権をもったのでは、かれの自尊心が承知しないのであろう。だが人間はそれ自体においてあのとおり矛盾しているし、一つの判断が絶えず他の判断をひっくりかえしているのだから、この手前味噌はただ物笑いの種でしかなかった。結局我々はいや応なしに、
タレスが「人間を知ることは人間にとって甚だ困難である」と言うとき、彼は結局、他のどんな物を知ることも、人間にとって不可能であることを教えているのである。
(a)あなた*は(あなたのために私は、わざわざいつもの習慣に反してこのような長談義を致したのでございますが)、あなたが毎日お学びになっていられる普通の論証法によって、あなたのスボンを支持せられることを、決してためらわれてはなりませぬ。むしろそのようにしてあなたの精神と学問とをお鍛えにならねばなりませぬ。まったく只今ここに用いました剣法は、究極の手段としてでなければお用いになってはなりません。それは死物狂いの一撃でございまして、この場合には敵にその武器を失わせるために自分の武器もすてなければならないのでございます。それは秘伝の奥の手ですから、稀に・控え目に・用いなければなりません。ひとを
* さきに(五六六頁)ちらっとその姿を見せた貴婦人、ナヴァール王妃マルグリット・ド・ヴァロワ。この人は、その夫アンリ・ド・ナヴァールが一五七六年にルーヴル宮を脱出してから、宮中の一室に殆ど監禁同様の状態におかれ、甚ださびしい生活をしていたが、一五七八年に、母太后カトリーヌ・ド・メディシスに伴われて、いよいよギュイエンヌ州にいる夫の許に帰ることになった。このときマルグリットの心中は、喜びと心配とで極めて複雑微妙なものがあった。ルーヴル宮においてはもちろん新教の行事が禁じられていたし、兄アンリ三世に対する気兼もあったからではあるが、孤独のマルグリットはこの間にカトリック教の信仰を篤くし、特にレーモン・スボンの『自然神学』に傾倒してわずかに煩悶を忘れていた。このことは一六二八年に公表されたマルグリット・ド・ヴァロワの『メモワール』の中によまれる。だが、いよいよこれからナヴァール王の許にゆけば、これまでの自分の信仰はどうなるであろう。そこには新教徒の頭目ナヴァール王をとりまいて、カルヴァン教を奉ずる神学者宣教師をはじめ、尖鋭な政治家やジャンティヨムがたくさんいる。彼女の良心のただ一つのよりどころとなっている『自然神学』がそこでさんざんな非難をあびていることは、既に風の便りでも十分に知っている。やがて自分もいやおうなしに新教に改宗させられずにはすむまい。こういう心配が、マルグリットの心にあふれていた。一行がボルドー市に入り、ここに一週間滞在したのは一五七八年の九月の末に近かったが、この時マルグリットは、前年末ナヴァール王室伺候のジャンティヨムになっているモンテーニュに会い、その心配を述べ、助力を懇請し、同時に『自然神学』の弁護を依頼したのではないかといわれる。この推定にはいささか実証の乏しいうらみがあるが、モンテーニュは既にシャルル九世の時フランス王室伺候のジャンティヨムであるし、宰相ミシェル・ド・ロピタルの弟子ともいうべき考えの人としてカトリーヌ・ド・メディシスの信望も篤かったし、またかつてボルドー市長をした人の息子で、地元の人々とは、宗派のいずれを問わず、交わりのひろい人であったから、カトリーヌ、マルグリット両王妃の信頼と依頼をうける資格は十分にあったと思う。――なおほかの場合には献呈の相手たる貴婦人の名が明示されているのに、ここではマルグリットの名が示されていない。おそらくモンテーニュのフランス王室との微妙な関係が余り明瞭になることを、モンテーニュもカトリーヌ・ド・メディシスも、欲しなかったからではなかろうか。『モンテーニュとその時代』第四部第四章参照。
(c)ある時、決闘の武器や条件があまりに命しらずなので、それでは敵も味方もとうてい身を完うし得ようとは思われないというので、それが届出られるとすぐに禁止されたのを、私は見たことがございます。ポルトガル人がインドの海で十四人のトルコ人を生捕った時のこと、そのトルコ人たちは、とらわれの身となるに堪えず、自分たちも、ポルトガル人も、またその船も、もろともに灰にしてしまおうと決心してそれに成功しました。船の釘を互いにこすり合せているうち、ついに火花が一つ、船の中の煙硝
(a)我々はここでもろもろの学問の限界とその最後の囲いを危なく致します。学問においても徳におけるように極端はやはり有害なのでございます。いつも普通の道をおとり下さい。あまりにこまかく綿密であるのは、ちっともよいことではございません。トスカナの
* レーモン・スボンの弁護をする役目。モンテーニュは前にも(五二九頁)自分は神学者ではない旨を断わっている。なおマルグリット・ド・ヴァロワは、一方モンテーニュにレーモン・スボンの弁護を依頼すると共に、やはり同じ目的で、同じ時期に、フランソワ・ド・フォワ=カンダル Franois de Foix-Candale という有名な司教(archevque d’Aire)にも援助をたのんだ。この人がギリシア語からフランス語に訳したヘルメス・トリスメギストス『ポイマンドレス(牧者)』Le Pimandre de Mercure Trismegiste という本の一五七九年版はマルグリットに献呈され、その文中にはやはり王妃の余りに旺盛な知識欲、理知的な詮索が、異端ないし無神論に彼女を導きはしないかという心配が述べられている。
* ここに「宮廷」という語が en vos cours と、複数になっている。マルグリット・ド・ヴァロワは Pau, Nra Agen 等の諸所に宮廷をもっていたからである。
** この献呈の詞の中には、モンテーニュの宗教上の態度が相当よく察せられる。宗教と哲学との間に一線を劃していること、伝統尊重の精神、革新(特に内戦流血)の回避、寛容の提唱等を見るべきである。ただし例のカムフラージュがあることも忘れてはならない。モンテーニュは最初マルグリットからレーモン・スボンを弁護するように依頼されたわけだが、六五八頁までのところでは、ごらんの通りスボンがその信仰の根拠とする人間の理性を盛んにこきおろした。だからこの献呈の詞の中で改めてマルグリットに呼びかけ、以上のような論法は非常手段であるから、あなたが新教の宣教師相手にわたり合う場合などに、軽々しく用いてはいけませんと注意しているのである。だが一応そうは言いながら、決して理性を本心からくさしてはいない。スボンと信仰の方は、それらを尊んでいるように見せて、その実余り高く買ってはいないのに、理性の方は最後までこれを尊重する。ただ形而上の問題についてだけ、理性の無力を認め、そこに宗教家の思いあがりをたしなめ、人々を寛容へと導こうとする。そのためならば今後も彼は非常手段をとることをやめようとはしないのである。
* 前のパラグラフで女王への言葉と共に「理性の批判」がおわり、ここから第三部「判断力および認識力の批判」が始まる。専らセクストゥス・エンピリクスの『ピュロン主義概要』に拠っている。
** 性交不能におちいらせようとする呪 い。第一巻第二十一章の始めに面白い話が出ている(一五一―一五三頁)。
*** 天を十二宮に分けて、これにより占いを行うこと。
**** 化金石 pierre philosophale. 錬金術において人工的に金銀を作り出すための媒介物のこと。
***** 手相学の術語。メンサル線というのは小指の下から人差指の下方に向う線。生命線というのは掌の中央から人さし指と親指との間に向う線。中央線とは人さし指と親指との中間から発して小指と手首との中間に向う線。
ヒュメトスの蝋、日にあたりて柔らかくなり、
指さきに捏ねられて百千の形を作り出すごとく。
指さきに捏ねられて百千の形を作り出すごとく。
(オウィディウス)
同様のことを、第二の者も第三の者に対してするであろう。だから、困難は少しもわたしを絶望させるはずがない。わたしの無能も同じことだ。まったく、それはわたしの無能にすぎないのである。人間*は、ある物事について有能であるように、どんな事についても有能である。もしあのテオフラストスが言っているように第一原因および原理を知らないと白状するくらいならば、いっそのこと思いきって、彼の知識の残り全部を投げ出すべきだ。もし基礎が彼に欠けているなら、彼の理論は倒れるのだ。議論や詮索は原理のほかに目的も究極も持たない。もしこの終極が彼の追求をとどめないなら、彼は際限のない不決断の中におちこむばかりである。(c)一つの物解りてほかの物の解らざる道理なし。物にはただ一つの解釈法があるのみなり(キケロ)。
* 以下「……不決断の中におちこむ」までの四行は、むしろモンテーニュの皮肉である。カムフラージュである。彼はふだん、第一原因などは知らなくても、眼前の事々物々を正しく判断することだけで満足すべきだと考えている。ここでは、「神様のことを知らなくては何事もわからぬ」となす連中に、ちょっとうれしがらせを言ったまでである。かえって、このパラグラフのはじめの「テオフラストスは言った」……から「わたしの無能にすぎないのである」までが、相対主義者モンテーニュの本音であろう。なお、モンテーニュはこのパラグラフを通じて科学の進歩を信じている。科学は結局、相つぐたくさんの世代の努力研究の積み重ね、その総和であると考えている。
ウルカヌスがトロヤに楯つけば、
アポロンはトロヤに加勢する。
アポロンはトロヤに加勢する。
(オウィディウス)
いったい我々は、いつまで彼らの意見が一致するのを待ったらよいのか。我々は真白な雪や重い石よりも、ずっと我々自身に近いのである。もし人間が自分を知らないならば、どうしてその働きや力を知るであろうか。おそらく、何かの真の知識が我々の中に宿るようなことはないのであろう。あるとしてもそれは偶然であろう。いや、いつも同じ道により、同じ仕方方法で、もろもろの誤謬がしょっちゅう我々の霊魂の中に受け入れられているところを見ると、霊魂は、それらを識別するたよりも、真を偽から判別するたよりも、恐らく持ってはいないのである。
アカデメイア派の人々は、判断に際して多少どちらかに傾くことを許した。そして、「雪が白いということも黒いということも、共に真らしくない」とか、「我々は、自ら投げた石の運動についても第八天体の運動についても、同様に確かではない」とかいうのは、あまりにも無茶であると言った。そしてこういう難解で奇妙な考えを避けるために(ほんとうにこういうことは、よほど骨を折らなければ我々の思想の中に宿ることはできないのである)、一方で「我々は絶対に知ることができない」とか「真理は我々の目のとどかない深い谷の底に埋もれている」とか主張しながら、なお一方では、「これこれの事柄はこれこれの事柄よりも本当らしい」などと言い、自ら判断にのぞむときには、一方の理由よりももう一方の理由の方に傾く自由を受けいれた。つまり判断にあらゆる断定を禁じながら、なおこれだけの選択を許したのである。
ピュロン学者の意見はもっと大胆で、同時にもっと真実らしい。まったくこのアカデメイア派の傾き、一つの説よりももう一つの説の方に向う傾きは、前の説より後の説の方に、何かよりいっそう明白な真理を認めることでなくて何であろう。もし我々の悟性が真理の形状や輪郭や姿や顔つきを認識することができるとすれば、それは、真理の半分・生れたばかりの不完全な真理の姿・と共に、真理の全体をも立派に見るであろう。彼らアカデメイア派の人々を右よりも左に傾かせるその真らしいところを増していってごらん。天秤を傾かせるその真らしさの量を、百オンス千オンスとだんだんに増していってごらん。終いには天秤が全く決意して、一つの選択を、したがって一つの全き真理を、確定することになるであろう。けれども彼らピュロン学者の方は、「真実」を知らないのだから、どうして「真実らしさ」に従うか。どうして物の「本質」を知らないのに、その「らしさ」を認識するか。我々は、完全に判断することができるか或いは全然それができないか、そのどちらかである。もし我々の知的および感覚的諸性能が根も足もないものならば、もしそれらがただ波や風のようなものにすぎないならば、我々の判断をそれらの働きをするいかなる器官に委ねても、またその器官がどんな真らしさを示すように見えても、ひっきょう何の足しにもならない。そして、我々の悟性の最も確実な・最も幸福な・状態は、結局悟性が、自らを平静に・真直に・曲げずに・動揺なしに・維持する状態であろう。(c)真らしき外観と嘘らしき外観の
(a)物事はその形のままその本質のままに我々の中に宿らない。それ自体の力・その権威・によって我々の中に入って来ない。そのことを我々は十分に知っている。なぜなら、もしもそうでないとすれば、我々はそれらをみな一様に受けとるはずであるから。酒は病人の口にも健康な人の口にも同様に味わわれるはずであるから。その指にあか切れがある者も、その指がこごえている者も、その取り扱う木なり鉄なりの硬さを、ほかの連中と同じように感ずるはずであるから。だから、外界の物はみな我々の思うがままになっているのだ。我々が欲するように我々の中に宿っているのだ。ところで、もし我々の方で何でも物を変え改めずに受け入れるならば、もし人間の把握がかなり有能確実であって、我々自らの方便をもって真理をつかむことができるのならば、これらの方便は万人に共通なものであるから、その真理は一人の手からもう一人の手へと伝わるであろう。そしてあれほど沢山にある物の中にも、普遍的賛同をもって人々に信じられるものが、この世にせめて一つくらいは見出されるであろう。ところがいかなる命題といえども、我々の間で論駁せられないものはなく、論駁されそうでないものもないという事実は、我々の天性の判断が、そのつかんでいるものを真に明瞭にはつかんでいないことを十分に示している。まったくわたしの判断は、そのつかんだものを、私の友の判断に受け入れさせることができないのである。このことは、わたしが、わたし自ら及びすべての人の中にある自然の力とはちがった何かの方便で、それをつかんだ証拠である。
哲学者同士の間に見られるあの限りない意見の混乱や、物事の認識に関するあの永遠普遍の論争に、ここではふれずにおこう。まったく人間が(最もよく生れついた・最も才能ある・学者たちですら)、いかなる事柄についても決して意見一致しないこと、空が我々の頭の上にあることについてすら一致しないということは、今さら事新しく言うまでもないのである。まったく、万事を疑うものはそのことをすら疑うし、我々に理解の力があることを否定するものは、「我々は空が頭の上にあることを理解していない」というのである。じつにこの二つの意見、疑う説と否定する説こそ、数において断然優勢なのである。
このように諸説が限りなくてんでんばらばらであることは別にしても、我々の判断が我々自身に与える混乱により、また各人が自らの中に感ずる不確実によって、我々の判断がきわめて不確実な状態にあることは容易にうなずかれる。いかに多様に我々は物事を判断するか。いかにたびたび我々は我々の考えをかえるか。わたしが今日支持することや信じていることを、わたしはいま全幅の信をもって支持しそして信じている。わたしのあらゆる道具あらゆる器官がこの意見をとり、それぞれその力に応じてそれをわたしに保証してくれる。わたしはとうていいかなる真理をも、この意見ほどに力強くは抱懐することも保持することもできないだろう。わたしは全身を挙げてそれに打ち込んでいる。心からそれを信じている。けれどもわたしは、ただの一度ではない、百度も、千度も、いや、毎日、この同じ道具をもって、これと同じ状態において、何か別の考えを抱いたことがありはしなかったか。後にそれを嘘と判断したことがありはしなかったか。少なくとも我々は、賢者になるには自分自身を犠牲にしなければならない。もしもこういう状態の下にわたしがしばしば裏切られたことがあるなら、もしもわたしの試金石がいつでも間違い、わたしの天秤がいつも不同不正であるならば、いかなる確信を、わたしは今度だけ、その考えについて持つことができようか。一人の案内者にそんなにたびたび
最後の意見は、
先なるそれを滅ぼし、われらの意見を改めしむ。
先なるそれを滅ぼし、われらの意見を改めしむ。
(ルクレティウス)
(b)人が何を我々に教えるにしても、我々が何を学ぶにしても、常に与えるのも人であり、受けるのもまた人であることを、いつも思い出さなければなるまい。これを差し出すのも死すべき者の手であり、これを受け容れるのもまた同じく死すべき者の手なのである。天から我々に来るものだけが、人を承服させる権力権威をもち、それだけが真理のしるしを持つのである。だからその真理は、我々自らの眼には見つからないし、我々の方便によっては捉えられない。この神聖で偉大な
(a)少なくとも我々の間違いやすい本性をかえりみて、我々は我々の考えを変えるにしても、もっとつつましく控えめにすべきであろう。何を悟性の中に受け入れるにしても、我々はたびたびそこに誤った事柄を受け入れるということ、しかもたびたび狂ったり間違ったりするその同じ道具によってそれをするのだ、ということを想い出すべきであろう。
ところで、それらの道具が狂ったり間違ったりすることも驚くにあたらない。もともとそれらは、きわめて軽微な機会によって、かしいだり・よじれたり・しやすいものなのだから。我々の理解力や我々の判断や、そして一般に我々の霊魂の諸性能が、肉体の運動および変化に応じてその影響をこうむることは確実であるが、その変化がまたしょっちゅうである。我々は病気のときよりも健康のときに、より目覚めた精神、より敏速な記憶、より力ある思想を持ちはしないか。歓喜と快活の中にある時は、我々の霊魂の前に現われる事柄を、悲哀憂悶の中にある時とは全くちがった顔つきに見てとりはしないか。果してカトゥルスまたはサッフォの詩句が、しわん坊で陰気くさい老人にも、精力旺盛な若者に対するように笑いかけることであろうか。(b)アレクサンドリダスの息子クレオメネスは病気になって、友達からいつもと変った気分・考え・を持っているといって
人々の思いは変る。ユピテルが
彼らにふり注ぐその光線のごとく。
彼らにふり注ぐその光線のごとく。
(ホメロス)
我々の判断をくつがえすのは、たんに熱病や飲物や大きな事件ばかりではない。世にも些細な事柄がそれをひっくりかえすのである。いや、我々は自ら気づかないにしても疑ってはいけない。継続的な熱が我々の霊魂を打ち倒すことができるとすれば、隔日熱もまたそれ相当に何かの変化をその上に持ち来たすということを。中風が我々の英知の目を全く
それにこの病気は、いよいよひどくなって手のくだしようのないものにならないかぎり、そう容易には発見されないのである。なぜなら理性というやつは、ねじくれていようと跛であろうと腰が抜けていようと、嘘とでも誠とでも一緒に歩み続けるからである。だからこそ理性の誤りや狂いを発見することはむつかしいのである。わたしも、各人が自らのうちに
* モンテーニュが攻撃するのは、このいんちきな理性、似て非なる理性、「見かけばかりの屁理屈」cette apparence de discours で、さきには「よろよろの理性」「さ迷う理性」raison errante とも言っている。
大熊星の下に
いかなる王天下を震駭せしめつつありや、
ティリダテス王はそも何を恐れてありや、など、
一さい関知せざる
いかなる王天下を震駭せしめつつありや、
ティリダテス王はそも何を恐れてありや、など、
一さい関知せざる
(ホラティウス)
者のように、最も綿密に自分ばかりをうかがい見ており、しょっちゅう眼を自分の上にばかり注いでいるが、余りにも自分が空虚で無力なのを知って、何とも言うべき言葉を知らない。わたしの足は
* モンテーニュはここに、自分が循環性体質・気質の者に属し、常にその軽躁期と抑うつ期とのあいだに揺れ動くことを、きわめて正確に観察描写している。ここにモンテーニュの公私の生活が示す様々な矛盾や秘密を解明する鍵がひそんでいるように思う。拙著『モンテーニュとその時代』終章六四四―六五四頁参照。
大海原のただ中にて、
狂風にもてあそばるる小舟のごとく。
狂風にもてあそばるる小舟のごとく。
(カトゥルス)
幾たびとなく(わたしはよくそういうことをしたがるのだが)、練習のためにも慰みのためにも、自分の意見とは反対の意見を取って来て支持したものだから、わたしの精神はいつしかそっちの方に専念するくせがつき、わたしをすっかりその方に結びつけてしまった。それでわたしは、もう自分の最初の考えの理由が思い出せなくなり、それを全くわすれてしまう。いわばわたしは、何ということもなくわたしが傾く方に、ずるずると引きずられてゆく。自分の重みで運ばれてゆく。
誰でもわたしのように自分を視つめるならば、それぞれ自分について同じことを言うであろう。説教者たちは知っている。そのしゃべっている間におのずから生れる感動が、ますます彼らの信仰を熱烈にすることを。そして怒ると我々は、ますます自分の主張の擁護に没頭し、冷静な分別を保っているときよりずっと熱心に、ずっと確信して、それを自分の心に刻みつけ抱きしめるものだということを。あなたが何か訴訟の一件をただあっさりとお話しになっただけでは、あなたの代言人はどっちつかずの・あやふやな・ご返答を申しあげる。どっちの側を支持するのも彼には同じことなんだなと、あなたはすぐにおわかりになろう。まずもってお金を払ってごらんなさい。彼はさっそく食いつく。夢中になる。そうやって話に身を入れ熱心になり出すと、そこで始めて、彼の理性も学問も活気をおびてくるのである。たちまちにして明白な疑うことのできない真理が彼の悟性の前にたち現われる。彼はそこに全く新たな光明を見出し、心からそれを信じ、それをそうと思いこむ。いや、法官の圧迫と苛酷とに対する憤慨や、負けじ魂や、その身に迫る危険などから生れ出る熱心とか、或いは名声をかちえようとの下心とかがあったればこそ、あのような男も、火刑をおかしてまで自説が護りとおせたのではあるまいか。もし友人仲間での、何の危険も拘束もない場合であったなら、彼はそのために指の先を焼くことすら敢えてしなかったのではあるまいか。
(a)我々の霊魂が肉体の情熱から受ける動揺は、霊魂に大きな影響を与える。けれども、霊魂自らの情熱が霊魂に与える影響となるとさらに大きく、霊魂はこれときわめて激しい格闘をする。だから、「霊魂はそれ自らの風に吹かれなければ少しも動揺しないものだ」とか、「それ自らの風にゆりうごかされなければ、風に全く見放された海のまん中の船のようにいつまでも動かないだろう」とか、主張することもおそらくできるであろう。いや、(c)逍遙学派の人々にならって(a)そう主張したって、大して我々の名誉を
(c)アイアスは常に勇猛なりき。されど、
その怒れるときほど勇猛なりしことはなかりき。
その怒れるときほど勇猛なりしことはなかりき。
(キケロ)
人は怒っていなければ、
(a)いかに相違した分別と理性を、いかに矛盾撞着する思想を、我々のさまざまな情熱は我々に与えることか! これほど不安定で変りやすく・その本質上とかく混乱をこうむりがちな・(c)強いられた借りた歩みでなければ進めない・(a)ものについて、我々はどんな確信を持つことができよう? もし我々の判断が、病気にもただの心の乱れにさえも容易に左右されるとすれば、また狂気や無謀からも物事の印象を受けねばならないとすれば、いかなる確実さを我々は判断に期待することができよう?
(c)哲学が「人間はわれを忘れて狂暴になり分別を失うときに、その最も偉大な・最も神に近い・業をしでかすものである」と考えるのは、あまりにも大胆にすぎはしまいか。
* 以上の言葉も文字どおりにはとれない。「神の室に入る最も自然な方法は睡眠と狂気である」とは言うものの、モンテーニュは決してそういう狂的な信仰をよいとはしていない。だから彼の真意はむしろ「だが哲学は、……」以下にあると思うべきだろう。次の表現はいささか明瞭を欠くようであるが、要するに、「この通り人間はたわいのないものだが、それにしても人間にはその自覚がある。人間は人間の思想以上のものをいだくことは出来ない。神の教えとか何とか言っても、畢竟人間精神のうみ出したものにすぎない。だが、そう認めることはやはり人間の理知の働きで、この働きは立派なものだ。神を知ることは出来なくても、それはむしろ当り前のことで、人間の恥にはならない。形而上の問題は人間には永遠に解きがたい謎であると知るだけで十分なのだ。むしろそこに人間のとりえがある」というのである。
* これはモンテーニュの恋愛経験の告白であるが、それは多くの伝記作者が考えるようにその少年時代、トゥールーズ時代のことではなかろう。むしろパリ遊学時代、独身の法官時代のことであろうと思われる。
あたかも海が定期的運動によりて、
或る時は渚 におしよせ、泡だちて岩を掩い、
岸辺に遠くひろがるかと思えば、
或る時はまた、その持ち来たりし小石をさらいて、
再び遠く沖の方に帰りゆき、
岸をば干潟となすがごとく。
或る時は
岸辺に遠くひろがるかと思えば、
或る時はまた、その持ち来たりし小石をさらいて、
再び遠く沖の方に帰りゆき、
岸をば干潟となすがごとく。
(ウェルギリウス)
(a)さてこのように自分の動揺常なきことを認識してから、わたしははからずも少しずつ、自分の意見をあまり変えないように努めるようになり、やがて自分の最初の・もち前の・意見をほとんど変えないようになった。まったく、革新思想の中にどんなに
かくのごとく、時は歩みつつ、万物の運命を変う。
かつて尊ばれしもの今やさげすみの内に落ち、
別のもの、それに代りて、さげすみの中より出 ず。
日ごとに、人々は、ますます新たなるものを求め、
新たなる発見は、あらゆる賞賛を得 。
人々の軽々しくそれを信ずること驚くにたえたり。
かつて尊ばれしもの今やさげすみの内に落ち、
別のもの、それに代りて、さげすみの中より
日ごとに、人々は、ますます新たなるものを求め、
新たなる発見は、あらゆる賞賛を
人々の軽々しくそれを信ずること驚くにたえたり。
(ルクレティウス)
* モンテーニュはかなり若い頃に、すなわち十七、八歳のころ、革新教に傾いたらしいが(一の五十六)、比較的早くそれから立ち直った(一の二十七、三の二)。彼は個々の問題や事件に関して物事をいろいろな角度から見直すから、その都度、その意見(points de vue)を変えることはあったけれども、宗教とか政治に関する根本思想は、前後を通じて変っていない。人間本来の変動性不常恒性によって、また彼の循環性気質によって、彼は捕捉しがたい人とされているが、彼の思想の根底は変らなかった。拙著『モンテーニュとその時代』第二部「モンテーニュの精神形成期」その他各所参照。
* この人は有名なスイスの錬金術師で、医学を革新したといわれる。パラケルススという名は、「ケルスス(アウグストゥス時代の名医)をしのぐ者」という意味である。
同様に自然学上において革新を唱道しているある人が、それほど前のことではないが、わたしに向って「すべての古人は風の性質および運動について確かに勘違いをしていた。もしわたしの理論をおききになりたければ、それを最も明瞭に、手にとるようにわからせてあげよう」と申された。わたしは少々我慢をして、なるほど
我らの持つものこそ最も我らの気に入り、
ほかの何物にも増して我らに愛せらる。
ほかの何物にも増して我らに愛せらる。
(ルクレティウス)
だが待ってくれ。プトレマイオスも昔その理性を基にして間違ったのだから、いま現代の地理学者が世界について言うところを信ずるのは愚かではあるまいか。(c)我々が世界と呼んでいるこの大きな物体は、我々が判断するのとはまったくちがった物であるとする方が、より真らしいのではあるまいか。
* 例えばこの二つの線のうち、一つを双曲線、もう一つを漸近線とすれば、その両方をいくら延長してもぶつかることはない。
** 対蹠点、又は対蹠地、一口に言えば地球の裏側。中世・十六世紀においては、地球を平らなものと考えていたので、対蹠点に人が住んでいるなどと考えることは異端とされた。
(c)ほんとうにわたしは、この地上における人間社会の幾変遷について我々が知り得たところを考察しながら、極めて大きな時間空間にへだてられながら、奇怪な俗説や野蛮な風習や信仰の数々が、どうみても我々が天から与えられた理性とは何の関係もありそうには見えないのに互いに符合するのを見て、しばしばびっくりしたのである。もともと人間の精神は奇跡づくりの名人であるが、以上の類似には何かしらさらにいっそう奇怪なところがある。その類似は名前の間にも事件の間にも、その他いろいろなものの間に見出される。(b)まったく、そこ*〔西インド地方〕には我々のことなんか全く聞いたことのない国々があるという話であるが、そこでもやはり割礼が重んぜられていた。そこには婦人たちによって男子の助力なしに維持されている大きな国家・社会・があった。そこには我々の断食や肉絶ちが女人の禁制と共に行われていた。そこには我々の十字架がいろいろに尊重されていた。こっちでそれが墓印になっているかと思えば、向うではそれが、特に聖アンドレの十字が、夜の魔を
* 六七六頁最後から二行目にさかのぼり、「この西インドという新たな世界」を受ける。なお以下の叙述は、ゴマラのインド史 Gomara: Histoire des Indes からとっている。ここにモンテーニュは古代の信仰もキリスト教も、また野蛮人の宗教も新興宗教も、洗って見れば似たりよったりで、いずれも人間のウソで固めたものであることを示すのである。だが例によって、巧みに避雷針も準備している。この頁六行目に「我々の宗教の形式が、ただうわべだけにしても、実際にあちらこちらに見られるということは、それが尊く神聖であることを実証する」と述べているのがそれである。しかしこれとても、読みようによっては、キリスト教徒のあんなに有難がるいろいろな教義だって、行って見れば野蛮人の間にも発見されるので、ひっきょうキリスト教も人間のデッチ上げたものである、ということをわからせている。それは前出六六六頁二行目の「与えるのも人であり、受けるのもまた人である」という句にもはっきりと表現されている。
(a)我々が無力低能であることの証拠はたくさんあるが、なかでもつぎの点を決して忘れてはならないと思う。すなわち、「欲望によってさえも、人間は自分に必要なものを識別することができない。享受によってはどうか知らないが、想像とか希望とかによってでは、我々は我々の満足に何が必要であるかについて、一致した意見を見出すことができない」ということを。いくら我々の思想に好きなように
(b)我らに避くべきことと願うべきこととを教うるは理性か?
誰かいかなる幸運に恵まれて、
後に悔いざりし企てをばかつて抱きたる?
誰かいかなる幸運に恵まれて、
後に悔いざりし企てをばかつて抱きたる?
(ユウェナリス)
(a)だから、(c)ソクラテスは神々にむかって、「わたしに良いと思召すものだけを与えたまえ」とよりほかに求めなかったのだ。またラケダイモン人の祈りは、公の場合も私的な場合も、ただ単に、「よいもの・美わしいものを・与えられますように」とあったのみで、それらのものの選択はすべて神々の御意にゆだねてあったのだ。
(b)我らは妻や子どもを与え賜えと願う。
されど、その子らその妻がいかなる者かは、
神をおきて知るものなし。
されど、その子らその妻がいかなる者かは、
神をおきて知るものなし。
(ユウェナリス)
(a)だからキリスト教徒は、「御心の行われんことを!」と神に請い奉るのだ。詩人たちが王ミダスについて物語ったあの不都合に陥らないために。彼ミダスは、自分の触れるものがことごとく金にかわりますようにと神々に求めた。祈りはきかれた。その酒は金となり、そのパンは金となり、その蒲団の羽根も金となり、そのシャツから上衣類に至るまでことごとく金となった。つまり彼はそのかなえられた欲望の重みの下におしつぶされ、堪えがたい満足を贈られたのである。彼はとうとうその祈りを取り消さねばならなくなった。
富みて哀れなる、この新しき境遇にうち驚き、
彼はひたすらにその富を逃れんことを乞い願い、
その願いてあたえられたる物より目をばそむけたり。
彼はひたすらにその富を逃れんことを乞い願い、
その願いてあたえられたる物より目をばそむけたり。
(オウィディウス)
(b)わたし自らについて言おうか。わたしは若い時、他のいろいろなものとともに、サン・ミシェル勲章を運命にこい求めていた。まったくそれは、当時フランス貴族最高の・そして甚だ稀な・名誉のしるしであったのである。ところが運命はそれをおかしな仕方でわたしにお授けになった。それに届くようにわたしをわたしの席から上げ高めないで、わたしをそれ以上に御優遇くだされ、かえって勲章の方をわたしの肩先まで、いやもっと低いところまで、引きおろしてくださったのである*。
* 前出二の七参照。
(a)神は我々に、富や名誉や生命を、また健康をさえ、我々の損になるようにお与えになることがあるらしい。まったく、我々に愉快なことが必ずしも我々のために有益ではないのである。もし全快の代りに神が我々に死または病気の悪化をお与えになっても、汝のむちと汝のつえわれを慰む(詩篇二十三の四)それは神意によってなし給うたのであって、この神意こそ、我々に必要なものを、我々よりずっと確実に御覧になるのである。だから我々は、それをよろこび受けなければならない。きわめて賢く・きわめて優しい・御手よりの賜物として。
(b)君我が意見を問い給うや。さらば申さん。
我らにふさわしきこと、我らがために役立つことをば、
すべて神々の選択に任せたまえ。
人は、人自らのためよりも、神々のために宝なればなり。
我らにふさわしきこと、我らがために役立つことをば、
すべて神々の選択に任せたまえ。
人は、人自らのためよりも、神々のために宝なればなり。
(ユウェナリス)
まったく名誉や官職を神々に求めるのは、自分を戦いに・あるいは
(a)およそ人間の至上善の問題についてもち上る争いほど、哲学者たちの間で猛烈なものはない。(c)それがもとで(ウァロの数えるところによると)、二百八十八の学派が生れたのである。
ひとたび至上善に関して異論生ずるや、たちまちにして全哲学の上に異論生じたり(キケロ)。
(a)ここに三人の客ありて、おのがじし己れの好める皿を望んで、
相争いて互いにゆずらざるを見るがごとし。
われ何を彼らにすすむべきや。
或いはすすむべからざるや。
某の望むところ御身欲せず。
御身の望むところ他の二人欲せず。
相争いて互いにゆずらざるを見るがごとし。
われ何を彼らにすすむべきや。
或いはすすむべからざるや。
某の望むところ御身欲せず。
御身の望むところ他の二人欲せず。
(ホラティウス)
自然も彼らの論争に対して、まさにこのように答えなければなるまい。
ある人々は「我々の幸福は徳の内にある」と言い、他の人々は「快楽の内にある」と言い、また別の人々は「自然に従うことにある」と言う。ある者は学問の内にあるとし、(c)ある者はまったく苦痛のないことにあるとし、(a)ある者は外観に引きずりまわされないことにあるとした(それにこの思想には、もう一つの(b)古代のピュタゴラスの(a)思想が、すなわち
何事にも驚かざることこそ、ヌマキウスよ、
幸福を与うる唯一無二の道なり。
幸福を与うる唯一無二の道なり。
(ホラティウス)
というピュロン派の結論が、似ているようである)。(c)アリストテレスは、何ものにも驚かないことを気宇宏大のせいにしている。(a)それからアルケシラオスは、判断が不動で中正不偏な状態にあることを幸福であるとし、付和雷同を不徳不幸であるとした。じつに幸福を明確な公理によって定義した点において、彼はピュロニスムからぬけ出ている。ピュロンのともがらは、「至上善はアタラクシアすなわち判断の不動である」と言ってはいるが、それを断言的に言おうとはしていない。むしろ彼らに淵を避け夜風を避けさせるのと同じ心の動きが、ふと彼らにこういう考えをいだかせ、反対の考えを避けさせているだけなのである。
(b)どんなにわたしは願っていることだろう。どうかわたしの生きているうちに誰かが、いや今なお生きている人の中で一番の物知りで・しかもその精神がきわめて洗練されていて公正な・じつに我がトゥルネブス*の兄弟ともいうべき・あのユストゥス・リプシウス**のような人が、その意志と健康とまた十分の暇をもって、われわれ人間の存在や気質に関する古代哲学の諸説、それらの間の論争、各派の信用とその影響、記憶すべく範とすべき出来事において、もろもろの著者およびその弟子たちがいかにその生活と原理とを一致させたか、というようなことを、見られるかぎりにたくさん、本気にそして丹念に、それぞれの分派に区別しながら、一冊の本にまとめてくれればよいのだがと。それこそ立派な有用な著作というべきであろう!
* 前出のアドリアン・テュルネーブス Adrien Turnbe のこと。五三〇頁註参照。ここではユストゥス・リプシウスとならべてラテンふうに呼んでいる。
** Justus Lipsius ou Juste-Lipse, 1547-1606. ベルギー生れのユマニスト、著書は皆ラテン文で、モンテーニュはこの人の本をいろいろ読み、また文通もした。フランスのカゾーボン Casaubon イタリア生れのスカリジェール Scaliger と共に、十六世紀のユマニストのいわば三羽烏である。モンテーニュがここに述べている希望は、一六〇四年に発表されたジュスト・リプスのストア主義に関する大著の中に実現されている、とミショー将軍は註している。
* ギュイエンヌ州は一一五二年から一四五三年まで英国領であった。ただしモンテーニュがイギリス貴族の血を引いているわけでは決してない。拙著『モンテーニュ伝』第一章および同付録(一)「モンテーニュの郷土」、及び『モンテーニュとその時代』第一部第一章参照。
* プロテスタンチスムを指す。フランスにおける新教に対する取扱いは、政策の変化にしたがって或いは違法として咎め排斥され、或いは反対に擁護せられた。それは巻末所収の年表について知られたい。
* 「真 とは天 より受 くる所以 なり。自然 にして易 うべからず。故 に聖人 は天 に法 り真 を貴 び、俗 に拘 れず」(『荘子』「漁夫篇」)。
なにが真理だ! 山のこちら側だけで真理、向う側の世界では嘘だなんて!
(a)だが彼らはおかしなことを言う。彼らは法律にいくらかの確実性を与えようとして、「中にはいくつか堅固で不易不動な法律もある。すなわちいわゆる自然法で、それ本来の性質によって人類の間に始めから刻みつけられているものだ」と言う。そしてそれらが、ある者は三つあると言い、ある者は四つあると言い、また、それより多くあげる者も少なくあげる者もある。これまたそれが、他の物ごとと同様に疑わしい証拠である。ところが彼らは何と運がわるいのだろう(まったく不運と言わないで何といおう。あれほどに限りなくある法律のうちただの一つとして、運命(c)や偶然の機会(a)から、あらゆる国民の賛意によって普遍的に受け容れられることを、許されたものはないのである)。彼らは、もう一ぺんいうが、何と不仕合せなんだろう。その選び出した三つないし四つの自然法の中ですら、ただの一つとして、一国民には勿論のこと、ただの数人にさえ、反対されず拒否されなかったものはなかったのである。ところが、彼らがこれこれの法令は自然法だと論証しうるただ一つのまことらしい標識は、賛意の普遍ということ以外にはないのである。まったく、それが真に自然から与えられたものであるなら、我々は確かに一般的な賛成をもってそれに従うにちがいないのである。いやすべての国民のみならずすべての個人は、もし自分をこの法令にそむかせようとする者に出あうならば、必ずやそこに、暴力や強制圧迫を感ずるであろう。論より証拠。そういう誰もが例外なしに賛成する法令なるものが本当にあるのなら、何でもいいから一つ見せてもらいたいものだ。プロタゴラスとアリストンとは、法律の正義性の本質は立法者の権威と意見とのほかにはないとした。これらを別にすれば、「善」とか「正」とかはその意義を失って、可でも不可でもない事柄の空なる呼び名となってしまうと言った。プラトンの中のトラスュマコスは、長上の御都合以外に権利なるものはないと言っている。じつに習慣や法律においてほど、人々がまちまちであることはない。ある事柄がこの国で厭わしいことであるかと思うと、よそではほめられている。例えば、ラケダイモンにおいては盗みの巧みさがほめられたものだ。近親間の婚姻はわが国でこそ打ち首をもって禁ぜられているけれども、よその国では重んぜられている。
きくならく、いずくの国にか、
母はその息子と交わり、父はその娘とあいて、
親子の愛、夫婦の交わりによりてますます濃 やかなりと。
母はその息子と交わり、父はその娘とあいて、
親子の愛、夫婦の交わりによりてますます
(オウィディウス)
子殺し、父殺し、姦通、盗品の取引、あらゆる快楽の自由なことなど、要するにどんな極端なことでも、どこかの国の習慣によって許されていないものはないのである。
(b)世にいくらかの自然法があることは信じられる。それは他の被造物の間で見られるとおりである。だが我々人間の間ではとうに失われている。あの御立派な人間的理性が、いたるところで支配し命令しようと口ばしをいれるからである。その空虚と不定とによって、物事の外観をいたずらに混乱させるからである。(c)真に我らのものとては何一つ存せず。余が我らのものと呼びなすはただ人為の産物にすぎず(キケロ)。
(a)物事はさまざまな面さまざまな意義を持っている。主としてそのことからさまざまの異説が生れるのである。一国民はある物をある一面から見る。ただそれきりである。他の国民はもう一つの面から見る。
およそ父親を食うことくらい思っても恐ろしいことはない。だが昔この習慣をもっていた諸民族は、孝心と親愛の情を示すためにそれをしたのである。つまりそうやって、自分の体内に・いわばその心髄の中に・父たちのなきがらと遺骨とを容れることによって、それらを消化吸収して自分の生きた肉の中にいわば復活再生させることによって、祖先のために最も立派な最も貴い霊廟を与えようとしたのである。こういう迷信がしみこんでいる人々にとっては、両親のなきがらを空しく土の中で腐らせ、鳥けだものや蛆虫の餌食とすることがいかに残酷な非行であったか、たやすく想像ができる。
リュクルゴスは盗みにおいて、その隣人から何かをちょろまかす場合の敏捷・用心・大胆・巧妙・を尊重したのみならず、そのために各人が自分のものをますます大切にするようになるという公衆のうける利益までも考慮した。そしてこの攻防両面にわたる二重の教訓の中から、軍紀のためには(これこそ彼がその国民を導こうとした主要な学問徳目であった)かなりの成果が得られるであろう、それは他人の物をくすねるという不正乱暴を
暴君ディオニュシオスは、プラトンに長い・香をたきこめた・金襴
おおやさしく住みよき大地よ。汝我らに戦いを告ぐ。
汝の駿馬はために鎧われ、戦い近づけりと我らをおどす。
されど、この勇ましき獣も、始めは百姓の車につけられ、
仲よく軛 の下に歩みしものなり。
平和の希望はなお残れり。
汝の駿馬はために鎧われ、戦い近づけりと我らをおどす。
されど、この勇ましき獣も、始めは百姓の車につけられ、
仲よく
平和の希望はなお残れり。
(ウェルギリウス)
(c)ある人がソロンに向って、息子に死なれたからとて今さら甲斐なき無益な涙など流し給うなと教えたところ、「だから泣くのだ。涙を流してもかいなく無益であればこそいよいよ泣けるのだ」と言った。ソクラテスの妻は、「おお、何たることぞ。これらの
(a)我々は耳に穴*をあけているが、ギリシア人はこれを奴隷の印としたものである。我々は妻と交わるのに身を隠すが、インド人はこれを人の前で行う。スキュティア人はその神殿に異国人をいけにえとしたが、よその国では神殿こそ異国人の避難所である。
* アンリ三世時代には耳飾が流行した。モンテーニュはそれを諷したのである。
(b)各国はその隣国の神を憎む。けだし
各々己れの拝するものをのみ真の神とすればなり。
げに民族の盲目的怒りはここに始まる。
各々己れの拝するものをのみ真の神とすればなり。
げに民族の盲目的怒りはここに始まる。
(ユウェナリス)
(a)わたしはこんな話を聞いたことがある。ある裁判官が、バルトルスとバルドゥス*との間に激しい論争が起って異論百出、収拾がつかなくなったとき、調書の余白に「友のための問題」と書いたというのである。つまり真相が甚だこんがらかっていて定め難いから、こういう場合には、自分が好感のもてそうな方をひいきしてやればよいのだと言ったのであった。だが惜しいことに、この人はいささか知恵がたりなくて、すべての場合に、「友のための問題」とまでは書くことができなかった。こんにちの代言人や裁判官たちは、あらゆる訴訟ごとに当って、それらを自分に都合がよいようにあんばいする口実を、いくらでも見出している。あのようにはてしのない学問、あのようにたくさんの権威ある諸説に準拠しなければならない学問、しかもあのように専断を必要とする学問においては、どうしても判断の甚だしい混乱が生れざるを得ないのである。したがって諸家の意見が幾つかに分れないような、そんな明瞭な訴訟ごとはまずないのである。一法院の判決したところを、もう一つの法院がくつがえす。いや、同じ法院がまたの日にあべこべの判決をすることさえあるのである。これこそわが裁判所の堂々たる権威と光輝とをいたく汚すものであるが、我々はこの種の実例を毎日目にしている。だから人々は容易なことでは判決に服しない。そして同じ訴訟の解決のために、こちらの裁判官からあちらの裁判官へと渡りあるく。
* ともに十四世紀イタリアの法律家。
(a)法律はその権威を、現にそれが一般に通用していることから得る。法律をその根源にさかのぼって論ずることは危険である。それは我々の河川のように流れてゆく間に大きくなり貴くなる。試みに
メトロクレスは、討論の最中に、ついうっかり弟子たちのいる前でおならをした。恥ずかしがって家の中にかくれているところへ、クラテスが訪ねて来た。そして慰めたり理屈をつけたりした末、自分自らの無作法を見せてやると言って、メトロクレスと競争でおならをし合い、とうとう彼にその小心をすてさせた。しかもそのうえに、彼がそれまでくみしていた上品な逍遙学派から彼を引き抜き、それよりも気楽な自分たちのストア学派に入れてしまった。
我々がお行儀がよいとほめることを、つまり我々が隠れてならば少しも恥ずかしがらずにすることをただ人前でだけあえてしないことを、彼らは馬鹿げたことだと言っていた。そして、自然や習慣や我々の欲望がちゃんと公表してしまっている我々の行為を上品ぶって隠し立てすることを、むしろ不徳であると考えていた。彼らにとっては、ウェヌスの神秘をその神殿の奥から引き出して人々の目の前にさらすことは冒涜であり、この営みをカーテンの外に引き出すのはむしろその価を低くすることであった(羞恥はいわば重みをつけるものであり、隠すことや節制や用心は尊重のしるしなのだから)。快楽が、四辻の真中で群衆の足に踏まれたりその目にけがされたりしないように、徳という仮面を被って甚だ巧みに自己を主張したのも、そのような場所には閨房の威厳も楽しみもないことを残念に思うからであった。それで(a)ある人々は言うのである。「公認の淫売屋を廃することは、この場所に限られるべき淫蕩をいたる所にひろめるばかりでなく、困難は人々を駆り立ててますますこの不徳におもむかせる」と。
かつてはその夫たりしコルウィヌスよ、何とて
今さらアウフィディアの恋人とはなれるか。
彼女がいま、汝の競争者たりしものの妻なればにや。
何故に他の男のものとなれば恋しきや。
お前のものたりし間はかくまでに彼女をいといしに。
今さらアウフィディアの恋人とはなれるか。
彼女がいま、汝の競争者たりしものの妻なればにや。
何故に他の男のものとなれば恋しきや。
お前のものたりし間はかくまでに彼女をいといしに。
(マルティアリス)
この経験はたくさんの実例の中にさまざまな形で述べられている。
おお、カエキリアウスよ。汝の妻が自由なりしときは、
誰一人として彼女に触れんとする者はなかりき。
されど今、汝彼女に番人をつけたるにより、
数多き恋人彼女をめぐる。
まことに汝こそは利巧ものよ!
誰一人として彼女に触れんとする者はなかりき。
されど今、汝彼女に番人をつけたるにより、
数多き恋人彼女をめぐる。
まことに汝こそは利巧ものよ!
(マルティアリス)
ある人が、さる哲学者がちょうどそれをやっているところに来あわせて、一体何をしているのかときいたところ、「人間を一人植えているのだ」とすまして答えた。
(c)わたしの考えるところでは、あるえらい敬虔な著者*が、「この行為はどうしても隠れず恥じずには行われないものであるから、それが犬儒派の人々のあけっぱなしの抱擁において成就せられようとはとうてい考えられない。むしろそれは単に
* 聖アウグスティヌスを指す。
この意見は、「人間の精神は、書物の中をさがしさえすれば、或いは真直な・或いはにがい・或いは甘い・或いはまがった・どんな意味でも外観でも、見つけ出せないことはない」という我々の経験を思い出させた。最も明瞭で純粋で完全な言葉の中からも、人はいかに多くの嘘やまちがいを生みだしたか。いかなる邪説が、そこに十分の基礎と証拠とをえてその目的をとげ、自説をおし通さなかったか。だからこそああいうまちがった学説の首唱者たちは、言葉の解釈を基にしたその証拠を決して手放そうとはしないのである。ある高位のお方*はその没頭していられた化金石の研究を**、権威をもってわたしに実証しようとして、先頃聖書の章節五、六箇所を引用なされ、自分は良心の荷を軽くするために(それは聖職にたずさわる御方であった)、専らここに基礎を置いたのだと申された。いや本当に、その思いつきはたんに面白いばかりでなく、この結構な学問を擁護するのに特におあつらえむきのものであった!
* フランソワ・ド・フォワ=カンダル Franois de Foix-Candale. 哲学者でもあり理学者でもあり、その邸内には一種の標本室を持っていたといわれる。いわば当時における実験科学者というべき人(前出六六〇頁註、および私の『モンテーニュとその時代』第四部第四章四〇三頁註(2)参照)。
** 前出六六二頁註****を見よ。
(c)だから、曖昧
(a)こういうことが何の値打もないさまざまの物に値打をつけたのである。こういうことが沢山の書き物を信用させ、そこにあらゆる勝手な内容をつけ加えたのである。つまり同じ物が種々様々な・我々のすきな・形や意義をとるからである。(c)はたしてホメロスは、彼が言ったと人が考えているようなことすべてを、本当に言おうとしたのであろうか。神学者・立法者・兵法家・哲学者など学問にたずさわるあらゆる人々は、それぞれ思い思いにちがった問題を論じていながら、いずれもみな彼に頼り彼に訴えているが、それほど彼はいろいろな姿を見せていたのであろうか。はたして彼は、あらゆる職務・工作・職人・の共通の師であったろうか。あらゆる企てに対する共通の顧問であったろうか。(a)託宣や予言をする必要のあった者は、いずれもみなそこに自分に都合のよい根拠を見出した。ある物知りの人、しかもわたしの友人の一人であるその人は、我々の宗教を支持するために、いかにすばらしいまたいかにたくさんの暗合一致をそこに見出したか、じつに驚かれる。いや、キリスト教こそホメロスの目的であったとする説を、彼は容易にすてることができなかったのである(ほんとうに彼にとっては、ホメロスは当代のたれかれと同様に親しいのである)。(c)そして彼が我々の宗教のよりどころとしたものは、古来たくさんの人々がそれぞれ自分の宗教のよりどころとしたものと同じなのである。
皆がプラトンをいじくり回しているところをごらん。それぞれ彼を自分にあてはめることを名誉とし、彼を自分の欲する側に味方させる。皆は彼を目下流行のあらゆる新奇の説にひきずりこみ、事態の変転によってはたちまち彼を彼自らに反対させる。皆は自分の目的のために、彼に、彼の時代には適法であった思想までも、我々の世紀においては法に背くものだからといって、捨てさせる。そうしたことは、解釈者の精神が強烈であればあるだけ強烈に行われる。
(a)ヘラクレイトスと同じ基礎の上に、つまり「万物は人がそこに見出す外観を内に含んでいる」と言う彼のその句の上に、デモクリトスは全然反対の結論をおしたてた。すなわち、「物事は我々がそこに見出す何物をも含んでいない」と言ったのである。そして、蜜が或る人には甘く或る人にはにがいという事実から、蜜は甘くもにがくもないと論証した。ピュロンのともがらなら、「甘いのかにがいのか、甘くもにがくもないのか、または甘くてにがいのか、我々にはわからない」と言うであろう。まったくこの連中は、いつも疑いの
(c)キュレネ派の人々はこう信じていた。「何物も外部からは知覚されない。ただ苦痛や快楽のように内部の接触によって触れられるものだけが知覚される」と。つまり音も色も認めないで、ただそれから我々に来るある感覚だけを認めたのである。そして、「人間はそれ以外にその判断のより所をもたない」と考えていた。プロタゴラスは、「各人にそう見えることが各人にとって真である」と考えていた。エピクロスのともがらは、「物事の認識においても、快楽においても、すべての判断は感覚にある」としている。プラトンは、「真理の判断および真理その物は、意見や感覚には関係なく、精神および思想に属する」と主張した。
(a)こうした議論は、わたしを感覚の考察に赴かせたが、ここには我々の無知の最も大きな基礎と証拠とがよこたわっている。すべて認識されるものは、疑いなく認識者の性能によって認識される。まったく、判断は判断をする者の働きから来るのだから、彼がこの働きを彼自身の手段意志によってするのは当然である。けっして、我々が物事をその本質の力やその法に従って認識する場合のように、他の拘束によってはしないのである。ところですべての認識は、感覚によって彼らのうちに進み入る。つまり感覚こそ我々の主なのである。
(b)じつにこの道によりて、確信は人の心のうちに、
その精神の殿堂のうちに、入 りゆくなり。
その精神の殿堂のうちに、
(ルクレティウス)
(a)知識は感覚にはじまって感覚に帰する。結局のところ、もし我々が音・香り・光・味わい・大きさ・重さ・柔らかさ・硬さ・ざらざら・色・つや・幅・深さ・があることを知らないならば、我々は石ころと同様に何も知らないであろう。これらこそ我々の知識の大殿堂の、基礎であり根源である。(c)いやある人々によれば、知識は感覚と別物ではないのである。(a)誰であろうとわたしに感覚の反対を言わせることができるならば、それこそわたしも絶体絶命、その人の前にかぶとをぬぐであろう。感覚こそ人間認識の始めであり終りなのである。
知らずや。真理の認識はまず、
我々がその証言を否定しえざる感覚に始まるを。
そもいずこに感覚よりも信ずべきものありというや。
我々がその証言を否定しえざる感覚に始まるを。
そもいずこに感覚よりも信ずべきものありというや。
(ルクレティウス)
いくら感覚の働きを最小限にかぎっても、やはり「感覚の道を通り、感覚の案内によって、我々の学識はすべて入って来るのだ」ということは、認めてやらなければならないであろう。キケロは言っている。「クリュシッポスは感覚の強さと効能とをくさそうと努めたが、かえって心の中にきわめて激しい反対の論拠を生じ、ついにそれをやっつけることができなかった。そこで反対の説を持つカルネアデスは、このときとばかり、クリュシッポス自身の武器・言葉・そのものを用いて彼をうちまかし、彼に向って、『おお哀れな奴よ、お前の力がお前を滅ぼした!』と叫んだのである」と。じつに我々から見ると、「火は温めない。光は照らさない。鉄には重さもなく硬さもない」と説くことくらい、極端な不条理はない。それらの知識はみな、感覚が彼らにもたらしたものであり、人間には確実さにおいて感覚から来るこれらの知識に比べられるほどの、信仰も学問もありはしないのである。
わたしが感覚に関して第一に考えることは、はたして人間は生れながらにすべての感覚を賦与されているかどうかということである。わたしは沢山の動物が、或いは視覚がなく或いは聴覚がないのに、ともかく完全な生活を営んでいるのを見る。我々においても、やはり何か、一つ・二つ・三つ・あるいはたくさんの・別の感覚が、欠けているのではあるまいか。まったくその中の何かが欠けていても、我々の理性にはその欠如を発見することはできないのである。我々の知覚の最後の限界であることこそ、
(b)聴覚が視覚を是正しうるや。
触覚が聴覚を是正しうるや。
味覚は触覚を試みうるや。
嗅覚と視覚とは相互に否定することをうるや。
触覚が聴覚を是正しうるや。
味覚は触覚を試みうるや。
嗅覚と視覚とは相互に否定することをうるや。
(ルクレティウス)
(a)それらはいずれも、我らの性能の最後の限界線をなしている。
おのがじし、その特殊の性能をもち、
その独自の力をもつ。
その独自の力をもつ。
(ルクレティウス)
生れながらの盲人に目が見えないという概念をつかませることは不可能である。彼に視覚を持ちたいと願わせ、その欠如を嘆かせることも不可能である。だから我々は、我々の霊魂が我々のもっている感覚だけで満足していると確信してはいけない。そういう病気欠陥があっても、我々の霊魂にはそれらを知覚するだけの力がないのだから。このような盲人に対しては、いくら言ってきかせても、説明によっても論証によっても比喩によっても、彼の想像の中に、何か光・色・視覚・というようなことを理解させることはできない。そういう感覚をはっきりわからせてやるような何物も、彼の内にはないからである。なるほど人は生れながらの盲人たちが物を見たがっているのを見うけるが、それはけっして彼らがそう願うところのものを理解しているからではない。ただ、自分たちに何かが不足していること、誰もが持っているところの何かを欠いていることを、言い聞かされているからである。(c)彼らはちゃんとそれを名ざす。いや、その結果をも口にする。(a)けれども、彼らはそれが何であるかを知らない。はっきりとも、ぼんやりとも、どうにもそれを理解することができない。
わたしは生れながら盲目で、少なくとも視覚が何であるかを知らないくらい幼い頃から盲目であったところの、家柄のよい一人の紳士と識り合ったが、彼は何が自分に欠けているかをほとんど理解していないので、我々と同様に視覚に特有な言葉を使用するが、それを彼独特の使い方で使う。人が彼に、彼がその名付親となった幼な児を引き合せたところ、これを両の腕に抱き上げて、「おお綺麗なお子さんだ!」と彼は言った。「見るからにほれぼれする。何という可愛いお顔!」と。彼は我々のたれかれと同じく言うであろう。「この室は眺めがよい。明るいうららかな日がさしている」などと。いや、それどころではない。まったく、我々がよく狩猟やテニスや射的などをやるので、そして彼もそれを聞きかじっているので、自分も同じようにこれにうち興じ、これにたずさわり、あっぱれ我々の仲間入りをしたつもりでいるのである。彼は夢中でこれに打ち興ずるが、ただ耳によってこれを味わうにすぎないのである。彼にもその馬に拍車をくれることのできそうなひろびろとした野原に出たときに、「ほれ兎が……」とでも叫んでみたまえ。やがてまた、「ほれ取れましたぞ!」とでも呼びかけてみたまえ。彼までがとったつもりで得意である。彼もいつか
もしかすると人類もまた、何かの感覚をもたないために同じような愚をあえてしているのではあるまいか。そしてその欠如のために、物事の外観の大部分が我々にかくされているのではあるまいか。もしかすると、我々にとって自然の作った沢山のものがなかなか理解しにくいのも、それに原因するのではあるまいか。また、我々の能力を
人間の知識を否定する諸学派は、もっぱら我々の諸感覚が不確実でひ弱であることをその理由とする。まったく、すべての認識は諸感覚の仲介によって我々のうちに生れるのであるから、もしそれらが我々に報告を誤るならば、もしそれらが外界から我々のもとに運んで来るものを変化させるならば、もしそれらによって我々の霊魂の内に流れ込む光明が途中で暗くなされるならば、我々はもはやたよるところをもたないのである。このような極度の困難から、つぎのような諸思想はすべて生れ出たのである。例えば、「各々の物は自らの内に我々がそこに見出すすべてのものをもっている」とか、「それは我々がそこに見出すと思う何ものをももっていない」とかいうような思想も。またエピクロスの、「太陽もまた我々の視覚が判断するところより大きくはない。
(b)それはともあれ太陽は、
我らの視覚が教える以上に大きからず。
我らの視覚が教える以上に大きからず。
(ルクレティウス)
(a)物体をその近くにいる者に大きく見せ・遠くにある者には小さく見せる・ところの外観は、二つながら真実である」という思想も、
(b)我らは眼に誤りありとは信ぜず。
精神の誤りを眼に転嫁することをやめん。
精神の誤りを眼に転嫁することをやめん。
(ルクレティウス)
(a)それからもっと大胆な、「諸感覚は決して誤ることがない。我々は彼らのいうままにならなければならない。そして我々がそこに見出す差異と矛盾とを許してやるために、よそにその理由をたずねなければならない。いや全く別の嘘や夢をこねあげてもよいから(彼らはそこまで大胆であった)、これらの感覚を咎めてはならない」という思想も。(c)ティマゴラスは断言した。「片眼をおさえてもすがめても、わたしは
諸感覚は決して我らを欺かず。
もし理性が、何故に物近くにあれば角あり
遠くにあれば円く見ゆるかを、説明しえざるならば、
如 かじ、この二つの現象に、
嘘の解釈にてもよし案じ出して与えんには。
ゆめ、手の中より明証をとり逃すべからず。
ゆめ、最初の所信を捨つべからず。
我々の生命と存続とがよって立つところの、
あらゆる信頼の基礎をくつがえすべからず。
何となれば、感覚を信じて谷を避け、
またその他さまざまの危害を避けざるならば、
たんに合理性のみならず全生命が、
たちどころに崩れ去るべければなり。
もし理性が、何故に物近くにあれば角あり
遠くにあれば円く見ゆるかを、説明しえざるならば、
嘘の解釈にてもよし案じ出して与えんには。
ゆめ、手の中より明証をとり逃すべからず。
ゆめ、最初の所信を捨つべからず。
我々の生命と存続とがよって立つところの、
あらゆる信頼の基礎をくつがえすべからず。
何となれば、感覚を信じて谷を避け、
またその他さまざまの危害を避けざるならば、
たんに合理性のみならず全生命が、
たちどころに崩れ去るべければなり。
(ルクレティウス)
(c)このやけくその・甚だ非哲学的な・勧告はいったい何を意味するか。ほかでもない。「人間の知識はただ不合理な・無分別な・狂った・理性によって支持されるにすぎないが、それにしても人間は、自分に
(b)エピクロスのともがらが言ったことが真実なら、すなわち「もし感覚の示す外観が嘘であるとすれば我々に知識はない」ということが真実なら、また、ストア学者の言うところ、すなわち「感覚の教える外観は大いに間違いだらけだから、それは我々に何らの知識をも与えない」ということが真実なら、我々は、これら二つの大きな独断的学派にはお気の毒ながら、「世に知識なるものは全くない」と結論するであろう。
(a)感覚の作用の誤りや不確実に関しては、人それぞれ好きなだけその実例を挙げることができるであろう。それほど、感覚が我々に与える嘘いつわりは日常普通なのである。谷にこだまするときには、後ろの方から来るラッパの音がまるで前の方から来るように聞える。
(b)海の彼方に聳ゆる山々は、
ただ一つに見ゆれどもまことは、
互いに相へだてて並び立てるなり。
我ら岸に沿いて舟をやるときは
丘も原も舳 に向いて走るが如く見ゆ。
我ら馬を河の中にたつれば、
或る力ありて我らの馬を、
流れに逆らいて行かせつつあるがごとし。
ただ一つに見ゆれどもまことは、
互いに相へだてて並び立てるなり。
我ら岸に沿いて舟をやるときは
丘も原も
我ら馬を河の中にたつれば、
或る力ありて我らの馬を、
流れに逆らいて行かせつつあるがごとし。
(ルクレティウス)
(a)人さし指の上に中指をからませておいて、その下に鉄砲玉をいじってごらん。玉がただ一つしかないと言うには、よほど自分に無理をせねばならない。それほど感覚はそれが二つあるように感じさせる。まったく、感覚がしばしば理性を支配し、理性が誤りと知り・そうと判断した・印象までも理性に承認させるということは、しょっちゅう見られることなのである。わたしは触覚を別にする。その作用は最も直接であり最も痛切で実質的である。それはその肉体の上にもたらす苦痛によって、ストア的な立派な決心をさえ、しばしばくつがえした。その霊魂の中に、「
(b)わたしも、自分をそんなにかたくなだとは思っていない。ホラティウスやカトゥルスの詩句が美しい若い人の口から豊かな声で歌われるのをきけば、やはり冷静ではいられないのである。
(c)いや、ゼノンが「声は美の花である」と言ったのはもっともであった。人はわたしにこう信じさせようとした。「我々フランス人が誰でも知っているある男は、自分が作った詩句を吟誦してまんまとあなたを感心させたが、それらの詩句も紙の上で見れば耳に聞くほどのものではないのであって、あなたの眼はきっと耳とは正反対の判断をするであろう。それほど朗誦は、うたわれる作品に思うがままの価値と風情とを付け加える力を持っている」と。なるほどそう考えると、フィロクセノスもさほどの気むずかしやではない。彼はある人が彼のある作品を悪い調子で歌うのを聞くや、その人の秘蔵のタイルを踏み砕いて、「わたしはお前のものをこわす。お前はわたしに属するものを穢したから」と言ったそうだが、これは仕方があるまい。
(a)固い決心で自ら死をえらんだ人たちさえが、その身に向って打ちおろされる太刀を見まいと顔をそむけたというのはそもそも何のためであろう? 自分の健康のために切開や
* 当時の白粉 は貝殻を粉末にして造られたからである。
我々は化粧や着付によりて魅せらる。
金銀宝石が欠点を掩いかくせばなり。
娘そのものはむしろ魅力の一小部分にすぎず。
人は、しばしば、数多き飾りの蔭に、
自分が愛する者を見出すに困難す。
実にこの美しき粧 いの下に、
富める恋人は我らの眼を迷わすなり。
金銀宝石が欠点を掩いかくせばなり。
娘そのものはむしろ魅力の一小部分にすぎず。
人は、しばしば、数多き飾りの蔭に、
自分が愛する者を見出すに困難す。
実にこの美しき
富める恋人は我らの眼を迷わすなり。
(オウィディウス)
いかに詩人たちは感覚の力を重んじているか。彼らは自分の影に恋慕した狂えるナルシスの姿を描いているではないか。
彼は己れを賞賛せしめたるすべてのものを賞賛す。
しれ者よ! 彼が恋いこがるるは己れ自らなり。
ほむるに自らをほめ、求むるに自らを求め、
自ら点じたる火にその身をこがせり。
しれ者よ! 彼が恋いこがるるは己れ自らなり。
ほむるに自らをほめ、求むるに自らを求め、
自ら点じたる火にその身をこがせり。
(オウィディウス)
またピュグマリオンが自ら造った象牙の像を見て心乱れ、生きた女に対するようにこれに仕えたさまを歌っているではないか。
彼は幾たびとなく彼女に接吻しつつ
その答を得つつあるかに思いなしたり。
彼は彼女をとらえ、抱きしめ、
その指の下に彼女の肉体うち震えるが如く思えり。
否、余りに圧してそこに青き跡の残らんことをさえ
彼は恐れたり。
その答を得つつあるかに思いなしたり。
彼は彼女をとらえ、抱きしめ、
その指の下に彼女の肉体うち震えるが如く思えり。
否、余りに圧してそこに青き跡の残らんことをさえ
彼は恐れたり。
(オウィディウス)
試みに一人の哲学者を、目の荒いほそ編の金網籠に入れ、ノートル・ダム・ド・パリの塔のてっぺんからぶらさげてごらん。彼は明白な理性によって、そこから落ちることはとうていありえないと知っているであろうが、自ら非常な高さにあるのを見れば、やはり(彼が屋根屋の職になれていないかぎり)、恐怖戦慄を禁じえないであろう。まったく我々は、鐘楼の回廊に立って平気でいるにはなかなか骨が折れる。それは石造りであっても、外が見透かされるかぎり、やはりこわいのである。中にはそうした場合を考えることさえできない者もある。またこういう二つの塔の間に、我々が十分その上を渡って歩けるほどの幅の
* デモクリトスを指す。この人のことは既に第一巻第十四章および三十九章に語られている。
もろもろの感覚が我々の悟性をひっかけるその同じぺてんに、感覚もまたやがて自らひっかかる。我々の霊魂は、ときどき同じように、感覚に対して復讐をするのである。(c)この二つは、競って嘘をついたり互いに
人はそのとき二つの太陽と二つのテーバイとを見る。
(ウェルギリウス)
我々が愛する者は実際以上に美しく見え、
(b)かくて我らはいたる処に見る。醜き女たちもまた、
熱愛せられて大いなる誉れをうくるを。
熱愛せられて大いなる誉れをうくるを。
(ルクレティウス)
(a)我々の
最も目につく物についてさえ、君は認めたまわん。
心そこにあらざれば、つねに、それらのもの、
無きに等しく、また、はなはだ遠きにあるがごとくなるを。
心そこにあらざれば、つねに、それらのもの、
無きに等しく、また、はなはだ遠きにあるがごとくなるを。
(ルクレティウス)
どうやら霊魂が感覚の働きを内にひきつけ、抑えつけているように思われる。だから人間は、その内面も外面も、ともに無力と嘘とに充満しているのである。
(b)我々の生涯を夢にくらべた人々は正しかった。おそらくはその人たち自らが思う以上に。我々が夢を見ているとき、我々の霊魂は生きている。働いている。その全性能を働かせている。目覚めているときと、まさり劣りはないのである。たとえぼんやりとしてではあっても、そこには決して闇夜と真っ昼間との間にあるような相違はないのである。さよう、それは闇夜と物蔭とくらいの相違である。あそこでは霊魂が眠っている。ここでは霊魂がまどろんでいる。ただ程度の差である。どっちにしてもつねに闇、
* ホメロスの詩中にうたわれた死者の国。ポルトー註。
我々の理性と我々の霊魂とは、眠っている間に生れた思想や意見までも受けいれ、我々の夢の中の行動まで昼間の行動に対すると同様の賛意をもって承認するくせに、なぜ我々は疑って見ないのか。「我々の思考、我々の行為も、またもう一つ別の夢なのではあるまいか。我々の覚醒はある種の眠りなのではあるまいか」と*。
* ここに我々東洋人は『荘子』「斉物論篇」の中の万人関知の一節を想起せざるを得ない。「昔は荘周 、夢に胡蝶 と為 れり。栩栩然 とまいて胡蝶なり。自 ずから喩 しみて志 に適 えるかな。周 たるを知 らざるなり。俄然 にして覚 むれば、遽遽然 く周 なり。周の夢に胡蝶と為 れるか、胡蝶の夢に周と為 れるかを知らず」。どうもモンテーニュは、いわゆる万物斉同の理をいつもその考えの底にふまえて色々と言っているように思われるのだが、ここに期せずして同じような詩的表現にめぐり合った。
かくまでに、その差異や大なり。
一方のための養いは一方のための毒となる。
さればしばしば、蛇は人間の唾液にふれてたおれ、
われとおのれが身を噛みつつ死することあり。
一方のための養いは一方のための毒となる。
さればしばしば、蛇は人間の唾液にふれてたおれ、
われとおのれが身を噛みつつ死することあり。
(ルクレティウス)
どんな性質を我々は唾液に与えたらよいのか。我々の感覚によって判断すべきか、それとも蛇のそれによってなすべきか。両方の感覚のいずれによって、我々は我々がもとめるその真の本質を検査すべきか。プリニウスの言うところによると、インドには海兎とやらいうものがいて我々を毒するが、我々もまた彼らのためには毒であって、ただちょっと触れただけで彼らを死に到らしめるそうである。いったいどっちが本当に毒なのか。人間の方か、魚のほうか。どっちを我々は信ずべきか。魚が人について感ずるところをか、それとも人が魚について感ずるところをか。(b)ある性質の空気は人間を害するが、少しも牛を害しない。ある空気は牛を害しながら、人間を害しない。二つのうちのどっちが、ほんとうに、本質的に、毒性をもっているのか。(a)
(b)すべてのものが黄疸病みには黄色に見ゆ。
(ルクレティウス)
(a)医者がヒュポスフラグマと呼ぶ病は一種の皮下溢血であるが、これを持つ人々はすべての物を赤く血の色に見る。我々の視覚の作用を変化させるこれらの素質は、ことによると、動物においては一般的に・常時普通に・あるのではあるまいか。まったく、彼らのあるものは我々の黄疸病みのように黄色い眼をしており、また他のあるものは血のように赤い眼をしている。どうもこれらのものには、物の色が我々においてとは別様に見えるらしい。いったいいずれの判断が真実なのであろうか。まったく、物の本質はただ人間にだけ知らされるとはきまっていない。硬さ、白さ、深さ、すっぱさは、動物にも、我々人間におけるように、知覚され、役に立つ。自然はそれらの使用を、我々に与えたように彼らにも与えたのである。眼をほそくして見ると物体が長く伸びて見える。たくさんの動物はそのようにほそい眼をしている。して見ると、そのように長いのが、あるいはこの物体の本当の形であって、我々の目が普通にして見てとる形は、本当のものでないことになる。(b)眼を下から押えつけると、物は我々に二重に見える。
燈火に二つの火影あり、
人に二つの顔二つの姿あり。
人に二つの顔二つの姿あり。
(ルクレティウス)
(a)もし我々が何かで耳をふさぐならば、あるいは耳の穴がつまっているならば、物音を常とは変ったように受けいれる。毛だらけの耳をもつ動物、また耳の代りにごく小さな穴をもつにすぎない動物は、したがって我々が聞くようなものを聞かないで、ちがった音を聞きとる。我々はお祭やお芝居で、かがり火の前に何かの色に染めたガラス板をおくと、その場にあるすべての物があるいは緑に・あるいは黄に・あるいは紫に・見えるのを経験する。
(b)これは、柱と横木との間に張りまわされ、
劇場の上にはたはたと風にひらめく、
あの黄色や赤や褐色や色とりどりの幕が、
常になすわざなり。
そは、その下にある舞台をも、また桟敷をも、
元老や貴婦人をも、また神々の像をも、
ことごとくその色に染めなすなり。
劇場の上にはたはたと風にひらめく、
あの黄色や赤や褐色や色とりどりの幕が、
常になすわざなり。
そは、その下にある舞台をも、また桟敷をも、
元老や貴婦人をも、また神々の像をも、
ことごとくその色に染めなすなり。
(ルクレティウス)
(a)動物の眼もいろいろな色をしているから、おそらく物の外観をその眼と同じ色に見ていることと思う。
だから感覚の作用を判断するには、我々がまず第一に諸動物と、そのつぎには我々同士の間で、意見が一致していなければならない。ところがこの一致がまるでない。我々はしょっちゅう議論をする。なぜなら、一人は何事をも、ほかの一人とは別様に見・聞き・味わう・からである。いや、感覚が我々にもたらすイメージについてさえ、やはりいろいろな議論が絶えないのである。自然の一般的規則に従って、子供は三十歳の大人とは別様に見・聞き・また味わう。この三十の大人もまた、六十の老人とは別様に感覚する。同じ感覚が、ある者にはぼんやりとして暗く、ある者には明るく鋭い。我々は物事を、我々の本性に応じて、それが我々に思われるように、いろいろに受け取る。ところがこの我々の「思われる」は、甚だ不確実な・頗る議論の余地がある・ものであるから、「我々は『雪は我々に白く見える』と告白することはできるが、『雪はその本質においてほんとうに白い』と実証することには責任がもてない。そしてこの第一段がゆるぎ出すと、世のすべての学問は、必然的に、
(b)むかし、快楽を助長するために物を大きくうつし出す鏡を用い、これから働かそうとする器官が大きく見えて、ますます自分をよろこばすようにと望んだ人たちがあったが、いったい彼らは二つの感覚のどっちを重んじたのか。彼らの器官を思うように太く大きく見せる視覚をか。それともそれをちっぽけなものに感じさせる触覚をか。
(a)物にこれらのさまざまな性質を貸すのは我々の感覚であって、物の方はかえってそれをただ一つしかもたないのか。例えば我々が食べるパンについてみるに、それはただのパンにすぎないが、我々がこれを摂取すれば、骨となり血となり肉となり毛となりまた爪となる。
(b)食物は我らの体内をめぐるうちに消えて、
全く別のものを産みいだす。
全く別のものを産みいだす。
(ルクレティウス)
(a)樹の根が吸い上げる液は幹となり葉となり果実となる。
酒嫌いは酒にまずさを、健康者はこれにうまさを、渇いている者はこれにあまさを、もたせる。
(a)さてこうした我々の状態は、自分に物事を順応させ、自分に従って物事を変化させるから、我々はもう物事の真相をほんとうに知ることはできない。まったく何一つとして、我々の感覚によって曲げられたり変えられたりせずに我々のところに達するものはないのである。コンパスや定規の類が狂っているときには、これから割り出されたすべての釣合も、またそれを基にして建てられたすべての建物も、必然的に不完全な・欠陥のある・ものとなる。我々の感覚の不確実は、それが作り出すところのものすべてを不確実にする。
ここに一軒の家を建つるに、もし、
定規に曲りありて正しき角度を与えざれば、
また水準器に少しなりとも狂いあらんには、
必ずすべては曲り傾き
一部は早くも崩れ落ちなんとす。
やがては全部、ただ始めの過ちのために、崩れはてなん。
同様に、我らの判断もまた、ことごとく、
必然的に誤謬のみならん。そは、
すべて、我らの誤れる感覚の所産なればなり。
定規に曲りありて正しき角度を与えざれば、
また水準器に少しなりとも狂いあらんには、
必ずすべては曲り傾き
一部は早くも崩れ落ちなんとす。
やがては全部、ただ始めの過ちのために、崩れはてなん。
同様に、我らの判断もまた、ことごとく、
必然的に誤謬のみならん。そは、
すべて、我らの誤れる感覚の所産なればなり。
(ルクレティウス)
それに誰がこれらの差別を判断することができるか。我々は宗教の争いに際して「いずれの側にも属しない・えこひいきのない・一人の判断者を必要とする」と言うが、そんなものはキリスト教徒の間にありようがない。ここでもそれは同じことである。まったく、老人であれば老人の感情について判断することができない。彼自らその論において一方の当事者であるからだ。若くても同じである。健康でも同じことである。病人も、眠っている者も、覚めている者も、やはり同じである。誰かこれらの性質をすべて免除された者があって、何らの偏見にもとらわれずに、以上のような問題を全く自分に関係のないものとして、判断してくれなければならない。そう考えると、我々には誰か、いまだかつて存在したことのない判断者が必要になってくる。
我々が物事から受け取る写象*を判断するには、我々に判断の器具が一つ必要であろう。その器具を検査するには、証明がいるであろう。その証明を確かめるには、また一つ器具がいるであろう。つまり堂々めぐりできりがない。もろもろの感覚は自ら不確実に充満していて、我々の紛争を片づけることができないのであるから、結局我々は理性に訴えなければならない。ところがいかなる理性も、別にもう一つ理性がなくては確立されないだろう。そこで我々は無限に後退する。我々の想像**は外部にある物事をぴったりと写してはいない。それは諸感覚をとおして抱かれたものだ。しかもそれらの諸感覚は、外物を解釈せずに、ただ自分の印象だけを解釈する。したがって我々の想像・写象は、物から来るのではなく、ただ諸感覚のうける印象から来るのであって、その印象と物そのものとは別ものなのである。だから写象によって判断する人は、物そのものとは別のものによって判断しているのである。また、「諸感覚の印象は外物の性質を類似的に〔写生して〕霊魂に報告しているのだ」と言ったって、霊魂や悟性の方ではどうしてその類似を信ずることができよう。自ら外物とは何の交渉ももたないのだから。ちょうどソクラテスを識らない者が彼の肖像を見て、「これは似ている」とは言えないようなものだ。ところで、それでもなお写象によって判断したいのなら、やってごらん。すべての写象によってするというなら、それは不可能である。まったくそれらはお互いの矛盾撞着によって妨げあっている。これは我々が経験によって見るとおりである。では選び出した幾つかの写象が他の写象を調整することにするか。それには、この選んだ写象をもう一つの選んだ写象で、その第二のものをさらにまた第三のもので、確かめなければならない。したがって、それはいつまでも果てしのないことである。
* 原語 apparences. ポルトーは image と註している。物の外観が感覚を通じてわれわれの心中に投影する写象。すなわち物その物とはちがうから仮象と言ってもよかろう。
** 原語 fantaisie. ポルトーは imagination と註している。想像といってよかろう。感覚の受けたる映像に解釈を加えたもの、したがって想念とか思想、あるいは観念と言ってもよかろうか。
* 原語 notre tre, celui des objets.「エートル」という語は「存在」という意味とともに「本体」「本質」の意味をもっている。以下はいよいよこの章の結論。
** 原語 existence.
(b)実に時は全宇宙の姿を変う。
新たなる状態が必ず古き状態に代り、
何物も同じ姿にしばらくもとどまることなし。
自然は万物を変え改む。
新たなる状態が必ず古き状態に代り、
何物も同じ姿にしばらくもとどまることなし。
自然は万物を変え改む。
(ルクレティウス)
(a)それに、我々人間は愚かにも一種の死ばかり恐れているが、じつは他のいろいろな死をすでに通過したし、また現に通過しつつある。まったく、ただヘラクレイトスが言ったように、火の死滅は風の発生となり、風の死滅は水の発生となる。それどころか、このことを我々は、もっと明白に、我々自身のうちに見ることができるのである。花やかな壮年時代がようやく移ろい衰えると、老年が訪れる。青春時代が終ると壮年の時代が、少年時代が終ると青年の時代が、赤子の時代が終ると少年時代が到来し、昨日が死んで今日が生れ、今日が死ぬと明日が来る。世には何一つとして留まるものがなく、何一つとしてつねに一つであるものはない。まったくその証拠には、もし我々がつねに同一であるとすれば、どうして今日はこのことをよろこび、明日はまた別のことをよろこぶのであろう。どうして我々は正反対のものを愛したり、憎んだりするのであろう。ほめたりけなしたりするのであろう。どうして同じ思想の中に同じ感情を保持しないで、異なった情念をいだくのであろう。まったく変化もしないのに我々が別種の感情をとるということは本当らしくないのである。そして、変化をこうむるものは、同一のものとして留まらず、同一のものでないならば存在してもいないのである。いやむしろ、全一な存在であっても、つねに他のものから他のものへとなり変りながら、それぞれの存在にすなおに変ってゆくのである。だから自然の感覚もまちがうのである。「在る」とはどういうことかよく知らないために、見えるものを在るものと混同するのである。けれども、それでは何が真に在るところのものであるか。永遠なもの、すなわち、始めもなく終りもないもの、時がそこに何らの変化をももたらさないもの、である。まったく、時とは動くものである。それはあたかも影の形に添うがごとく、流動してやまない物質と共にあらわれ・しばらくも安定せず・恒久でない・ものである。「前・後」「あった・あろう」等の語はそれに属していて、いずれも見ただけで、それが「在るところのもの」でないことをはっきりと示している。まったく未だ存在に達しないもの、すでに存在をやめたものを「在る」というのは、ひどい愚かさ、余りにも明白な嘘であろう。あの「現在」「瞬間」「今」というような、それによって主として我々が「時間」の理解を支持しているらしい数語にいたっては、理性に発見されるとたちどころに破壊される。まったく、理性はすぐにこれを未来と過去とに分ける。それは必然的に二つに分たれるべきものと見ざるをえないのだ。測られるところの自然もまた、これを測るところの時と、ちょうど同じことである。まったく、自然の中にも一つとしてじっとしているもの、恒久なものはないのである。否、そこでは何もかもが、あるいは生れたか、あるいは生れかかりか、あるいは死にかかりか、である。だから唯一の実在者である神について、「彼はあった」とか「彼はあるだろう」とかいうのは罪悪であろう。まったくそのような言葉は、永続することも存在の中にじっとしていることもできないものの変化や推移や変遷を示す言葉なのである。だから、こう結論しなければならない。神独りが在る。決していかなる時の尺度にもよることなく、むしろ恒久不動の・時によっては測定されず・どんな変化をもこうむらない・永遠に従って、存在する。その前には何ものもなく、その後にも何ものもないであろう。何ものも、それより新しくはなく、それよりまぢかでもない。それは現実的に在る「一」で、唯一つの「今」によって「永遠」を満たしている。いや、彼独りをおいて真に在るものはない。「彼はあった」とも「彼はあるであろう」ともいうことはできない。それは始めもなく終りもないものである*。
* 「我々は存在と……」(七〇九頁三行目)からここに至る三頁にわたる長いパラグラフは、途中「プラトンは言った……」から「……別人となっているからだ」(七〇九頁)および引用句(b)(ルクレティウスの句)(七〇九―七一〇頁)を除き、すべてプルタルコスの所論をアミヨの訳文によってほとんどそっくり借用したものである。次のパラグラフの始めに「ある異教徒」とあるのは、そのプルタルコスを指している。
(c)この神々しい奇跡的なメタモルフォーズ〔変化〕を実現できるのは、じつに我々のキリスト教的信仰であって、彼**のストア的徳ではない。
* セネカを指す。
** 「彼」とは勿論前出セネカをさす。――モンテーニュはこの結論の中できわめて巧みなカムフラージュをしているが、彼の真意は明白に読みとられる。最初にいかにも感心したようにセネカの句をかかげながら、同時に「人間性より上にあがらない限り」という部分の不合理を指摘している。そうしておきながらまた何食わぬ顔で、「純粋に天から来る手段によって」ひきあげられようとし、(c)の加筆では更にキリスト教の信仰にたよろうという気持をもらしているが、これらはすぐ前のによってあらかじめ打ち倒されている。それに彼がこれまでにながながと述べて来たところも、畢竟キリスト教を含めてすべての宗教が人間精神の所産であるということではなかったか。セネカのストア主義はだめで、キリスト教はよいということに最後はしてあるが、モンテーニュはもともと、キリスト教を純粋に神的天的なものとは考えていないのである。要するにモンテーニュは、ここで神を否定してはいないが、神を余りにも偉大高遠なものにして、われわれ人間には手のとどかない遠い所に追いやってしまった。そういう神は少なくとも一般キリスト教徒の神ではないように思う。だからサント=ブーヴはモンテーニュの神観を、むしろスピノジスム、パンテイスムだと言っている(Sainte-Beuve: Port-Royal, livre , §)。たしかにモンテーニュの Dieu は Nature とか Fortune とかいう語でおきかえる方がふさわしく思われる。そう言えば、浄土教の阿弥陀仏にしても、それは人格神ではない。やはり「自然法爾」である。『随想録』最後の章(三の十三)の終りでアイソポス(イソップ)の故事をひいた後、平凡な人間が「天使になりそこなって畜生になる」ことを警告しているのを併せよむと、モンテーニュはやはり意識的に、神を人間の手にいじくられない高い所に追いやったのだと思われる。フィデイストたるモンテーニュとしてそれはむしろ当然である。なお、第二巻第十六章(七三〇頁)にも、モンテーニュのキリスト教に関する考えははっきり出ている。また本章の中では、特に、六一五、六二六、六二八、六六五、六七七、六八三の諸頁をもう一度よみ返されるとよい。要するにモンテーニュのキリスト教の正体をつかまえるには、『随想録』の各所を捜索することと共に、モンテーニュの生涯の各事跡、その行動の一々を検討することが必要である。『モンテーニュとその時代』を通覧せられたい。
(a)我々は死にのぞめる人の態度を判断するに当って(それは確かに人間一生の行為の中で最も注目すべきものであるが)、どうしても忘れてはならないことが一つある。それは、「人はなかなか自分がその
(b)我らが港をこぎ出 ずれば、畠も町も後ろにゆく。
(ウェルギリウス)
誰か過去をほめず現在をののしらない老人を見たことがあるか。彼らはみな、自分の悲惨と哀愁とを世の中のせい、人々の考え方のせいにしている。
頭をうち振りつつ老いたる農夫は嘆息す。
彼は今を昔にひきくらべて父祖の幸福をたたえ、
ただただ過ぎにし世の信心深かりしをなつかしむ。
彼は今を昔にひきくらべて父祖の幸福をたたえ、
ただただ過ぎにし世の信心深かりしをなつかしむ。
(ルクレティウス)
我々はすべてを自分とともに引きずってゆく。
(a)そういうわけで我々は、自分の死をいかにも一大事であるかのように考えてしまう。「それはそうやすやすと起るものではない。もろもろの天体のご協議がなくてはおこるものではない」などと考えるようになる。(c)多くの神々唯一つの頭をめぐりて立ち騒ぐ(セネカ)。(a)そして自分を高く評価すればする程、いよいよそう考える。(c)「何だって? これ程の知識があれ程の損害をもって失われようというのに、運命の特別の配慮がないという法があるものか。これ程稀な世の
* その生死がその人自身に関係するだけで、その人が死んでも生きても他人には何のかかわりもない人……という意味。
(a)そこから、カエサルがその船頭にいった言葉、彼をおびやかす大海もそこ退けのあの言葉、が出たのである。
天を信じてイタリアの岸に漕ぎ寄することあたわずば、
舵取りよ、唯わが加護を信じて漕ぎゆけ。
汝おそるるは、汝の乗する人の誰なるやを知らざるがためなり。
暴風吹き荒るるとも恐るることなく、
ただただわが加護を信じて漕ぎゆけ。
舵取りよ、唯わが加護を信じて漕ぎゆけ。
汝おそるるは、汝の乗する人の誰なるやを知らざるがためなり。
暴風吹き荒るるとも恐るることなく、
ただただわが加護を信じて漕ぎゆけ。
(ルカヌス)
また次の言葉もそうである。
その時カエサル心に思いたりき。
かくのごとき最期こそわれにはふさわしと。
さればこそ彼は言いき。
「このカエサルを滅ぼさんには、
神々すらなおこれほどの努力を要するなり。
今こそ彼らは、わだつみの怒りをあつめて、
わが乗るこの小舟に襲いかかるなり」と。
かくのごとき最期こそわれにはふさわしと。
さればこそ彼は言いき。
「このカエサルを滅ぼさんには、
神々すらなおこれほどの努力を要するなり。
今こそ彼らは、わだつみの怒りをあつめて、
わが乗るこの小舟に襲いかかるなり」と。
(ルカヌス)
(b)また「太陽はまる一年のあいだ彼の
カエサル死するや、太陽もまた、
ローマのかなしみを思いやりて、
その輝ける額をば
喪の黒き布もて掩いたり。
ローマのかなしみを思いやりて、
その輝ける額をば
喪の黒き布もて掩いたり。
(ウェルギリウス)
その他これに類する幾多の夢想も同じことであるが、世の人は余りにもやすやすとそれらにたぶらかされ、「我々の損失に天もそのおもてをかえる」と考えている。(c)広大無辺の天が人間界のちっぽけな栄誉に気を使うと思っている。我ら死する時天の星落つといわるれども、もちろん我々と天との間にかかる深き関係のあるべき理なし(プリニウス)。
(a)さて、すでに危険の圏内にありとはいえ、自らはまだ確かにそうと信じていない者において、決心や落ちつきがあるからといって、それを賛えるのは早すぎる。ただそういう態度で死んだというだけでは足りない。本当に覚悟ができて死についたのでなければ何にもならない。ところが大多数の人間は、ただそういう評判を得たいばかりにえらそうな顔をし強がりを言い、まだ生きているうちにその評判を受けようとのぞむ。(c)わたしが見た限りでは、いずれも運命が彼らに落ちついた態度をさせてやったので、けっして彼らの決意がそうさせたのではなかった。(a)いやむかしの、自分から進んで死をえらんだ人々についても、それが急激な死であったか暇のかかった死であったかを、より分けて考えて見なければならない。あの残忍なローマの皇帝*は、よくその囚人たちについて、彼らに死を感じさせたいといった。そして誰かが牢屋の中で自殺すると、「ちぇ! 野郎、のがれやがったな!」といまいましがった。つまり責苦によって死を引伸し、それをしみじみと感じさせたかったのである。
* 囚人に死を感じさせたいと言ったのはカリグラ、「野郎、のがれやがったな!」と言ったのはティベリウス。モンテーニュは両方の話を一つにしている。
(b)我らその死体を見たるに、
そは全身傷におおわれながら、
未だ最後の強打を与えられずありき。
前代未聞の残虐によって、人は、
彼の息絶えなんとする命を引伸しつつありしなり。
そは全身傷におおわれながら、
未だ最後の強打を与えられずありき。
前代未聞の残虐によって、人は、
彼の息絶えなんとする命を引伸しつつありしなり。
(ルカヌス)
(a)本当に、健康で何も心配のない時に自殺を決意するのは、さほどにえらいことではない。まだ死と向き合いもしないさきに虚勢を張って見せるなどは、
(b)必要にせまられし勇気をふるいて。
(ルカヌス)
(a)だがこの男なんか、その柔弱な用意から察すると、「じゃあ本当に死んで見ろ」といわれればさっそく尻込みをするにきまっている。だがもっと強い・本当にやるだけの決意をした・者についても、ぜひ我々は(とわたしはあえていう)、それがその結果を感じさせるだけの暇を与えない・ただひと思いの・一撃でありはしなかったかを、見きわめなければならない。まったく、生命が一滴一滴と流れ去るのを見まもりながら、肉体の感覚と霊魂のそれとをともに感じながら、また思いとまる道もなお残されていながら、なおそれでも、不動の決心を失わなかったか、それでもなお、そういう危険な意志に執着していたか、そこを我々は明らかにしなければならないのである。
カエサルの内乱のとき、ルキウス・ドミティウスはアブルッチの山中で捕えられ、一度は毒をあおいだが、後に早まったことを悔んだ。我々の時代にはこんなこともあった。或る人が死を決意したが、肉がむずがゆくて腕がいうことを聞かず、最初の一突きは十分深く刺さらなかったので、再三再四力をこめてやり直したが、結局深く刀を突き立てることができずにしまった。(c)プラウティウス・シルウァヌスが裁判を受けている間に、祖母のウルグラニアが彼に一ふりの短刀を送った。ところが彼は、それによっても自殺を完うすることができなかったので、更に部下に命じて自分の脈管を切らせた。(b)アルブキラはティベリウスの時代に死を決したが、突く力が余りに弱かったのでとうとう敵のために牢に入れられ、彼らの方式に従って殺されてしまった。大将デモステネスもまた、シチリアにおける敗戦の後やはり同じ目にあった。(c)それからC・フィムブリアは、自分の突き方が弱かったので、下僕に頼んでとどめを刺して貰った。ところが、オストリウスは自分の腕を用いることができなかったが、下僕の手を借りるのをいさぎよしとせず、唯しっかりと真直に剣を持っておれと命じただけで、自分の方から、はずみをつけて、咽喉をその切っさきにぶっつけて自ら貫かれた。(a)それはまったく、口中が鋼鉄のように鍛えられていない限り、噛まずに
(b)カエサルでさえそういったのだから、わたしがそう思いこんでも意気地なしとはいわれまい。
(a)短い死こそ、プリニウスのいった通り、人生至上の幸福であるが、人々はそんな風に思うことをいやがる。そのように死についてあれこれと考えることを恐れ、眼を見開いてそれを直視することができないのならば、死に対して覚悟ができているとはいえない。あの刑を受けた者どもが、自分からその最期に馳せむかい、処刑を急がせ促すのも、覚悟ができているからそうするのでは決してない。むしろ死を考える時間を持ちたくないからである。死んでしまうのはいやではないのだ。死ぬのがいやなのである。
われ死してあるを怖るるにあらず、死することをおそるるなり。
(エピカルムス)
この程度の覚悟なら、わたしにだって、経験からいってできそうに思われる。それはちょうど、目をつぶって海や危険の中に飛びこむのと同じである。
(c)わたしの考えでは、ソクラテスの一生のうち最も輝かしいことは、彼が三十日間その死の宣告を
* モンテーニュはここでソクラテスの勇気をひどくほめているが、第三巻第二章では少し冷淡にあつかっている。なお第二巻第十一章、第三巻第九章、第十二章、第十三章を参照せられたい。
* キケロの書簡「アッティクスに与う」Ad Atticum.
(a)トゥリウス・マルケリヌスというローマの一青年は、病気が我慢したいにもできない程に苦しいので、早く命をたってその苦しみから逃れようと思い、医者が「そう早くはゆかないが確かになおる」と約束したにもかかわらず、友達を招いてそのことを相談した。セネカのいうところによると、或る者どもは、卑怯な彼らのしそうなことを彼に勧めた。他の者どもは彼にへつらって、彼の気に入るような意見を述べた。ところが或る一人のストア学者は、彼にこういった。「マルケリヌスよ。何か重大なことでもきめるように、そんなに思いわずらうには及ばない。生きるということは大したことではない。君の下男だって、また動物だって、生きている。けれども、気高く・賢明に・落ちつきはらって・死ぬのはだいじなことだ。考えてごらん。いったいいつから君は同じことを繰り返しているか。食って飲んで寝る。飲んで寝てはまた食う。我々はこの同じ輪の中をぐるぐると回りつづけてやめない。ただ不幸な堪えがたい事柄ばかりではない、生の飽満もまた、死を慕わせるに十分である」と。マルケリヌスには勧告してくれる人はいらなかった。援助してくれる人が欲しかったのである。下僕たちはかかり合いになることを恐れたけれども、その哲学者は彼らにこういってきかせた。「お前たちが疑いをうけるのは、主人の死が自殺か他殺か疑われる場合だけだ。そうでもないのに彼の死を妨げるのは、彼を殺すのと同様に悪いことになるだろう。なぜなら、
その意にそむきて人を救うはこれを殺すこと
(ホラティウス)
であるから」と。そしてマルケリヌスに向っては、「食事が終るとテーブルの上の残り物を給仕した人々に下げるように、我々が一生を終えたら、それまで自分に仕えた人たちに何かを分け与えるのは、べつに不似合なことではあるまい」と告げた。ところでマルケリヌスは、日頃からさっぱりした・気前のよい・男だった。そこでさっそくいくらかの金額を下僕たちに分け与え、これをねぎらった。それに彼には刃物も血もいらなかった。彼はこの世を、逃げ出さずに立ち去ろうと企てた。死をのがれようとはせず、これをためそうと企てた。そして死を瞑想する暇をもつために、彼はあらゆる食物を絶った後、三日目にその身にぬるま湯をそそがせ、少しずつ失神状態に入った。彼の言葉によれば多少の快感もないではなしに。実際、衰弱の果てに生ずるこういう心臓麻痺に陥ったことのある者はいっている。「ちっとも苦しくはない。それどころか幾分よい心持である。ちょうど夢うつつの境にあるように」と。
以上は何れも、研究され消化された死である。
それなのに、ただ独りカトーだけがどんな場合にも剛毅の
[#改ページ]
標題の原文Comme notre esprit s’empche soi-mmeは、一口でいえば、「われわれ人間は、考えれば考える程、物事の決定ができなくなる」という意味である。まったくわれわれの精神の働き自体は、いろいろな方向に働くから、互いに矛盾撞着し自縄自縛におちいって、容易に一つの結論におちつくことができない。モンテーニュはここに、その著しい面白い実例をあげて、すでに「レーモン・スボン弁護」の章でさんざん述べた懐疑論不可知論を補足している。この章の執筆時期は確定されていないが、やはりセクストゥス・エンピリクスを改めて読みなおした一五七六年頃と考えるのが妥当であろう。
(a)一つの精神が、二つの同じ程度の欲望のちょうどまん真中を、どっちにしようかなとぶらぶらしているところを想像するとおかしくなる。まったくそのとき、何時までたっても決心がつかないであろうことは、疑う余地がないのである。なぜなら好みとか選択とかいうことは、価値の不同を前提とするからだ。もし飲みたい欲望と食べたい欲望とを等量に持ってお酒のびんとハムとの間に坐らされたら、きっと
* この句はモンテーニュの書斎の天井にも銘記されたもので、「レーモン・スボン弁護」の章のなかに「すべての被造物の中で最もみじめな脆 いものといえば人間である……」(五四三頁)とあるのと関連する。
本章の中では晩年に加筆せられた最後のパラグラフに最も注意がひかれる。それはフランスに内乱が始まってから「三十年になる」と書かれているところからおせば、一五九〇年頃の加筆であろうと思われるが、よくもこの乱世に堪えて来たという著者の感慨が、われわれの胸にもしみとおる。十六世紀の貴族たち、城館にすむほどの貴族たちは、特にペリゴールのような内乱の絶え間のなかった地方では、皆きそって防備を厳重にしたのであるが、用心のかいもなく政見や信仰を異にする反対派に掠奪されたり殺されたりしたのだった。唯モンテーニュだけは、ここに述べている通り、門にかんぬきをさせなかった。われわれはモンテーニュ時代の宗教戦争よりも一段と複雑で広汎な国際間の争いの渦の中にまきこまれようとしているが、ここでも何かモンテーニュの知恵に深く教えられるものがあるような気がする。後出第三巻第九章における告白と併せてよむべきである。
(a)「反対の理由を持たない理由は存在しない」と、最も賢明な哲学者たちの一派〔ピュロン派〕はいう。わたしはこの頃、ある古人が生命は蔑視すべきものだということの証拠としてあげる、「どんな幸福も我々に快楽をもたらすことはできない。ただやがて間もなくもってゆかれる快楽があるだけだ」、(c)失いたる悲しみと失わんとの憂いとは、等しく我らの心を損うものなり(セネカ)(a)という格言をよく噛みしめてみたが、結局それは、「生きる楽しみは、我々が命を失いはしないかと恐れる限り、真に我々に楽しくあろうはずがない」ことをさとらせようとしているのである。だが逆に、こうもいえるであろう。「我々は、この幸福が不確かであると見るからこそ、また、それがやがて奪い去られるだろうと恐れるからこそ、それだけしっかりと、それだけいつくしんで、それを抱きしめるのだ」と。まったく我々は明らかに感ずるのである。火が寒い風にあおられればますます燃えるように、我々の意志もまた、反対にあうとますます激しくなるということを。
(b)もしダナエが青銅の塔の中に幽閉せられざりしならば、
遂にユピテルに児を与えざりしならん。
遂にユピテルに児を与えざりしならん。
(オウィディウス)
(a)また容易さからくる飽満ほど我々の快楽を自然にさまたげるものはなく、稀なもの困難なものほどこれを刺激するものはないということを。いかなる場合にも快楽は、これを我らより遠ざけんとする危険の度に比例して、増加するものなり(セネカ)。
ガルラよ、われをこばめ。喜悲こもごも到らざれば、
飽満恋の中にあまりにも早く来らん。
飽満恋の中にあまりにも早く来らん。
(マルティアリス)
恋愛を持続させるためにリュクルゴスは、「ラケダイモンの夫婦は人目をさけてでなくては交わってはならない。一緒に寝ているところを見られるのは、他人と寝ているのを見られたのと同様に恥辱であろう」と布告した。あいびきの困難、発覚の危険、翌日の恥辱、
秘めたる思いと憂き悩みと、
胸の奥底より洩れいずる吐息と、
胸の奥底より洩れいずる吐息と、
(ホラティウス)
それこそソースの
彼らはその愛する相手を、
苦しみもがくまで強く抱きしむ。
時にそのやさしき唇の上に、
彼らの歯形を印することあり。
或いは激情おこりて彼女を傷つくることあり。
かくて彼等の狂おしさいよいよ高まる。
苦しみもがくまで強く抱きしむ。
時にそのやさしき唇の上に、
彼らの歯形を印することあり。
或いは激情おこりて彼女を傷つくることあり。
かくて彼等の狂おしさいよいよ高まる。
(ルクレティウス)
万事この通り。困難は物事に価値を与える。
(b)アンコナ*軍区の者どもは聖ジャック・ド・コンポステル寺**に参詣をしたがり、ガリシアの者どもはノートル・ダム・ド・ロレット寺に参りたがる。リエージュではルッカの温泉をもてはやし、トスカナではスパの温泉をはやし立てる。ローマの撃剣道場にはローマ人の影はほとんどなく、ただフランス人で一杯である。あの大カトーも我々と同じように、彼の妻が彼のものであった間はこれをきらい、彼女がよその男の許に走るとこれを追った。
* ここにはノートル・ダム・ド・ロレット寺がある。モンテーニュもイタリア旅行のときこの御堂に参詣し娘と妻のために献額をした。白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」索引「ロレット」の項参照。
** この寺は遠いガリシアに在る。
(a)我々の欲望は、その手元にあるものには眼もくれず、それを飛び越えて自分が持たないものを追いかける。
彼はその手の内にあるものをあなどり、
その手に捉えざりしものを追いかく。
その手に捉えざりしものを追いかく。
(ホラティウス)
我々に何かを禁ずることは、我々にそれを欲しがらすことになる。
(b)汝もし汝の娘を守ることをやむれば、
彼女はやがてわれに忘れられて帰らん。
彼女はやがてわれに忘れられて帰らん。
(オウィディウス)
(a)それを全く我々に
汝は足りて余りあることを歎き、
われはその乏しく足らざるをかこつ。
われはその乏しく足らざるをかこつ。
(テレンティウス)
欲望と享楽とはひとしく我々を苦しめる。女のいやにかたいのはうとましいものだが、あんまりいいなり次第になられても、正直言って、いっそううとましい。なぜなら、不満や怒りは、我々が欲望する物を尊重することから生れて恋愛を鋭くもし燃えたたせもするが、飽満の方はただ嫌悪を生むばかりだからである。つまりそれは、鈍い・ぼんやりした・力ない・眠ったような・感情にすぎないのである。
(b)もしも女よ、長く情夫 を制せんとならば、
すべからく彼につれなくすべし。
すべからく彼につれなくすべし。
(オウィディウス)
恋人たちよ、軽蔑をよそおえ。
さすれば昨日拒める女も、今日は来り媚びん。
さすれば昨日拒める女も、今日は来り媚びん。
(プロペルティウス)
(c)なぜポペアはその美しい顔をかくす工夫をしたのか。それを恋人たちの目にますます美しく思わせようとしたからではなかったか。(a)なぜ人は、女がそれぞれ見せたいと願い・男がそれぞれ見ようと望む・その美しいところどころを、わざわざ
彼女はのがれて柳の蔭に身をかくす。されど、
あらかじめ彼女は見あらわさるることを望めり。
あらかじめ彼女は見あらわさるることを望めり。
(ウェルギリウス)
(b)時に彼女は狭き裳を用いて、
我らの欲望に障壁を築きたり。
我らの欲望に障壁を築きたり。
(プロペルティウス)
(a)あの処女のようなはにかみの表情は、いったい何の役に立つのか。あのとり澄ました冷やかさ、あの厳めしく近づき難いそぶり、教える方の我々よりはずっとよく知っているくせにさも知らぬげによそおうことなどは、一体何の役に立つのか。ただただ征服してやろうという我々の欲望を、すべてそうした儀礼と障害とを思いのままに踏みにじってやろうという我々の欲望を、増長させるばかりではあるまいか。まったく、このしおらしさ・しとやかさ・あどけなさ・を乱し狂わせるのは、またあの威張った尊大な態度を我々の熱情の下に降参させるのは、たんに愉快であるのみならず名誉でさえもあるじゃないか。人々はいう。「厳格・貞淑・純潔・節制・を征服することは名誉である」と。実際婦人たちに向ってこれらの性質をすてよと勧める者は、彼女たちをもおのれ自らをも裏切るものである。どうしても我々は、彼女たちの心が恐ろしさにふるえることを、我々の言葉の響きが彼女たちの清い耳をけがすことを、そのために彼女たちが我々をきらい、いやいや我々のしつこい願いに応ずるのだということを、信じなければいけない。どんなに魅力のある美人だって、これだけの仲立ちがなくては可愛がって貰えないのである。イタリアに行ってみたまえ。そこには売物の美人がたくさん、いや最も可愛らしいのさえいるが、彼女たちもまた、好きこのまれるためには、美以外のいろいろの手練手管を用いずにはいられないのだ。だがしかし正直のところ、何をしたところでどうせ売り物買い物なのだから、その魅力はやはり微弱である。ちょうど我々が、徳に関しても、二つの同じ行為のうち、より多くの障害と危険とがあるものの方を、より美しく高いものと考えるのと同じである。
* 当時鯨の骨を用いてスカートを大きくひろげることがはやった。いわゆる vertugadin のことである。古画によくみるとおり、内部に人一人かくれられた位。仇敵に追われたある貴族(duc de Montmorency)が、貴婦人(Louise de Montagnard)の慈悲でその中にかくまわれ、一命を全うしたという話まである。その形はカトリーヌ・ド・メディシスの肖像などを見てもわかる。
我々は結婚の結び目を、それをほどく方便を全く除いてしまうことによって、それだけ堅く結びつけたと考えた。だが拘束の結びが堅くなっただけ、それだけ意志と愛情との結びはゆるゆるになったのである。本当はむしろあべこべである。ローマにおいて結婚を幾久しく清らかで安泰なものにしたのは、欲すればいつでもこれを破棄できるという自由であった。彼らは妻を失うことがあるかもしれないので、それだけ深く妻を愛したのである。そして離婚の自由を十分に持ちながら、五百年以上の間たれ一人それを行使したものはなかったのである。
許されたるものには、魅力なし。
禁ぜられたるものは、欲望をそそる。
禁ぜられたるものは、欲望をそそる。
(オウィディウス)
このことに結びつけられるかと思われるのは、ある古代の人の所説である。それによると、「刑罰は不徳を鈍らせるよりもかえって鋭くする。(b)決して善いことをしようという心を生み出さないで(善行はむしろ理性と鍛練とが産みだすのである)、ただ悪を行うところを見られまいとする気持を産み出すだけだ」というのである。
かくて人、悪を根絶しえたりと信ずれども、
豈 はからんや、そはかえって蔓延す。
(ルティリウス)
(a)わたしはこの説が正しいかどうか知らない。だがわたしは経験によって、いまだかつて刑罰によって社会があらためられたためしがないことを知っている。風紀秩序は、むしろ別の方法によって保たれるものである。
(c)ギリシアの歴史にのっているところによると、スキュティアの隣りに住むアルギッパイオイ人たちは、人を打ちこらす鞭も棍棒もなしに暮していた。だが誰一人彼らを攻めにゆこうとは企てなかったばかりでなく、誰でもこの国に逃げこんだ者は、彼らの徳性と敬虔な生活のお蔭で、必ずその命を完うした。誰一人この者に指一本ふれなかった。よその部落で紛争がおきると、みな彼らに調停をたのんだ。
(b)ある民族のもとでは、花園や菜畠のかこいが木綿の綱でできているが、この方が我が国の堀や塀よりもずっと安全堅固である。
(c)錠前は泥棒を引きよせ、押入強盗は戸締りなき家に侵入することなし(セネカ)。恐らく他にもいろいろ理由があったろうが、入りやすいということこそ、わたしの家を我が国の内乱の乱暴から護ったのであろう。防備は攻撃をひきよせ、疑心は害意を起させる。わたしはあらかじめ兵士どもの計画をくじいた。つまり彼らから、彼らの手柄に武勲という輝きを添えそうなあらゆる機会と材料とを奪ったからで、この武士のほまれということこそ、とかく侵略の名目とも弁解ともなりがちなのである。正義が滅びつきた時代には、勇敢になされた事柄は何でもかでも名誉ある行為となるが、わたしは兵士どもに、わたしの家みたいなものを乗っ取ることはかえって卑怯陋劣な仕業になるぞと思わせているのだ。それは戸をたたく誰に対しても閉されていない。備えといえば昔かたぎの丁寧な門番が一人いるきりである。しかも、門を守るためにではなく、むしろこれをいともしとやかに礼儀正しくおし開くためにである。わたしは天の星が与えてくれるそれのほかには、番人も
* モンテーニュは、よく臆病者として伝えられているが、以上の叙述で見ると、その度胸はなかなかたいしたものである。国際間にも本当に文明とか信義とかがあるならば、無防備の平和もまた空想ではないだろう。ここに「三十年になる」と書いているのは、宗教戦争の始まった「ヴァッシーの殺戮」(一五六二)からここに三十年、よくもながらえてきたものだという感慨である。この項は一五九〇年頃の加筆である。
われわれは本章とその次に続く二章とを通じて、モンテーニュが序文に述べていることが強調され、詳説されているのを見る。彼が世間の小うるさい非難などは少しも意に介せず、野心や自惚をも超越して、ただあくまでも自分の良心に忠実であろうとしている毅然たる姿、また悠然たる態度を見る。三章とも一五七八―八〇年代に属するエッセーである。ここに「栄誉」gloireとあるのは、むしろ現世的な栄華栄誉の意味、“fausse gloire” の意味であろう。
(a)名と物とは別ものである。名とは物を指し示す言葉である。名は物の一部でも実質でもない。それは、物につけ加えられた無縁のもの、物の外部にあるものである。
神はそれ自身十全であり完全の極致であるから*、内部においては増加も増大もされることはできないが、その名は、我々が神の外に示したまう御業に加える賛美によって、増加増大されることができる。そのほめ言葉は、これを神の内に合体させることができないから(そこには善の増加はありえないから)、我々はこれを、神の外にあってしかもその最も近くにあるその名の上に加える。そういうわけで、栄光栄誉はただ神ひとりに属する。それを我々のために求め歩くくらい道理にはずれたことはない。まったく我々は内部において貧乏この上なしであるから、そして我々の本質は不完全で不断の改善を要するものであるから、そのほうにこそ我々は勤め励まなければならないのである。我々はからっぽ・がらんどうである。我々をみたすものは風や言葉であってはならない。我々を改善するためにはもっと実のある実質が必要である。
* このパラグラフはレーモン・スボンの『自然神学』の所論をかりたものであるといわれる。だがモンテーニュは、ここでも最後に、自分は神学には縁が遠いと言っている。
(b)セイレネスがオデュッセウスをたぶらかそうとして用いた第一の魔法も、この種のものである。
来れよ、われらに! おお、はなはだほむべきオデュッセウスよ。
ギリシアが国の花と誇れる誉れの人よ。
ギリシアが国の花と誇れる誉れの人よ。
(仏訳 ホメロス)
(a)いま申した二人の哲学者はよくいっていた。「すべてこの世の栄誉は、理性ある人が、これを得ようと指一本伸ばすにも値しないものだ」と。
(b)いかに大いなるも、栄誉がただ栄誉たるに過ぎざるならば、何にかはせん。
(ユウェナリス)
(a)わたしはただ栄誉その物だけについていっているのである。まったくそれは、往々にしてそれを願わしいものと思わせるにたる様々な便益をうしろに従えている。それは我々に人の親切を得させてくれるし、人の悪口や乱暴などからかなりよく我々をかばってくれる。
それはまたエピクロスの主要な教訓の一つでもあった。まったく、あの「隠れて暮せ」というこの派の教訓も、公共の職務や交際にかかずらうことを禁ずるものであるから、これまた必然的に栄誉の蔑視を前提としている。まったく栄誉とは、我々があらわに示す行為に対して世間が与える称賛にほかならないのである。我々に「隠れて暮せ。ただ自分だけを大切にせよ」と命ずる人や、我々が人に知られるのを好まない人は、我々が人にあがめられたり尊ばれたりすることは、なおさらいやがるのである。だからエピクロスはイドメネウスに向って、「人々の蔑視が君に何か他の偶発的不都合を与えそうなのを避けるためでなければ、決して世間一般の意見や評判によって自分の行為を加減してはならない」と勧めている。
こういう意見は、いかにも真実でまた合理的だと、わたしは思う。けれども我々人間は、なぜか知らないが我々自身の中で二重である。そのために我々は、自分の信ずるところを信ぜず、自分の非とするところから全く抜けきることができない。エピクロスの最後の言葉を見よう。彼が死にのぞんでいった言葉を。それはあのような哲学者にふさわしく偉大であるが、しかしそこにも、いくらか自分の名前を重んじているようなところがある。彼がわざわざ自分の掟によってけなしたその心持がほの見える。次にあげるのは、彼が息を引き取る少し前に口授した手紙である。
ヘルマコス殿へ
「わたしは今、わたしの幸福な日、いよいよわたしの一生の最後の日をすごしながら、この手紙を書いているのだが、エピクロス より
* エピクロスの弟子にして友、彼より先に死んだ。
カルネアデスは反対意見の頭目であった。つまり、「栄光はそれ自体願わしいものなので、ちょうど我々が子孫を少しも意識せず子孫から何のよろこびも受けないのに、なお彼等のことを思うのと同様である」と主張した。この説はたちまちに、ひろく一般に信奉されるようになった。我々の傾向に最も適応した諸説は、いつもこのように歓迎されるのである。(c)アリストテレスは栄誉に、外在の諸幸福の中の第一位を与えている。ただ二つの悪い極端として、過度にこれを求めることと過度にこれを避けることとを、もろともにしりぞけるようすすめている。(a)もしキケロがこの問題について書いている書物がこんにち残っているなら、我々はそこに彼の長広舌をきかされたことであろう。まったくこの男は、この名誉欲なるものに眼がくらんでいたから、もう少しずうずうしかったら、きっと、世の多くの人々が落ちいったその極端の中に自分からとびこんで、「徳すらも常にそのうしろに従う名誉があってこそ願わしい」くらいのことは、言ってのけたであろう。
隠れたる徳行は、隠れたる怠惰と
ほとんどえらぶところなし。
ほとんどえらぶところなし。
(ホラティウス)
だがこれほど間違った考えはあるまい。わたしはこんな考えが、いやしくも哲学者とよばれるほどの人の悟性の中に入ることができたのを嘆かずにはいられない。
もしそれが真理であるとすれば、人はただ公衆の前でだけ有徳であればすむことになる。そして徳の真のすみ家である霊魂の働きなんかは整える必要がなくなって、ただ腹の底を人に知られないようにしさえすればよいことになってしまう。
(c)それではただ巧妙に悪事をすればよいことになりはしないか。カルネアデスはいう。「あいつ死んでくれれば助かるのにとお前が思っているその人が、何も知らずに坐ろうとする場所に蛇が隠されていることを知っていながら、それを彼に知らしてやらないとすれば、お前は邪悪な行いをしているのである。しかもお前の行為を知っているのはただお前独りなのだから、それはますます邪悪である」と。もしも我々が善行の規準を我々自身にとらないならば、もしも罰せられないことすなわち正義であるとするならば、いかに様々な悪行に毎日我々はこの身をゆだねることであろう。S・ペドゥケウスのしたこと、すなわちC・プロティウスがないしょで彼にあずけた財産を正直に返却したということは、わたしもまたしばしばやったことで大してほめる程のことでもないと思うが、それだけに彼がもしその友の信に背いたなら、それは実に憎みても余りあることであると思う。だからこんにち人々に、P・セクスティリウス・ルフスの話を思い出させることは、はなはだ有益だと思う。この人は、法律に反しないばかりでなく、むしろこれにかなってさえいたある遺産を、自分の良心に反して相続した*ことを、キケロに咎められているのである。またM・クラッススとQ・ホルテンシウスとは、その権勢を見こまれて、ある外国人から偽の遺言書の相続人の一人となり、それぞれ一定額の遺留分を受けたらどうかと勧められると、自らその偽造には関係していないというだけで良心を満足させ、そこから若干の利益を受けることはあえてこれをこばまなかった**。告発者も証人もなく、また法にも触れていなければ大丈夫だと考えたのであるが、思え、神いまして之を見そなわすを。すなわち我らの言葉もて言えば、良心こそ之を見まもりてあることを(キケロ)。
* ファディウス・ガルスという大金持が娘に全遺産をゆずりたいと思っていたが、法律が女子の相続しうる額をきめているので、ルフスを法定相続人とした。そしてその全相続財産を娘に与えるようにという条件をつけた。ところがルフスは、法律のゆるす金額をガルスの娘に与えただけで、残りを自分のものにした。これは法律には少しもふれないが、約束にはそむいている。
** 詐欺師たちがバルブスという大金持のにせの遺言書をギリシアからローマにもって来た。だがその相続を一層容易にするために、当時ローマで有力であったクラッススとホルテンシウスに共同相続者になってくれとたのんだ。二人は遺言書がにせであることを知っていたが、その申入れを承諾した。
(c)我々に栄誉を与えるのは、向うみずな運命である。わたしはきわめてしばしば、栄光が真価に先立って歩くのをみた。しばしば、真価を遙かに追い越してゆくのをみた。始めて栄光を影のごとしと悟った者は、当人がいおうとした以上に、うまく言いえていると思う。この二つはいずれもきわめて空虚なものである。
影もまた時々その実体より先を歩く。しかもときには実体よりもはるかに長大である。
(a)貴族たちに向って、武勇の中にただ名誉だけを求めるように、(c)あたかも勇名のほかに勇気なきかのごとく(キケロ)、(a)教える者は、結局、「人が見ていない時には決して危険を冒すな。常に自分の武勇を語り伝える目撃者のあるなしに注意せよ」と教えるだけに終ってはいないか。人目につかなくてもよいことを行うべき機会はたくさんあるのだ。いかに多くの一つ一つの手柄が、合戦のどさくさの中に埋もれていることであろう。むしろこのような混戦のただ中で他人の所業をじろじろと眺めていたような人間は、何の働きもしなかったやつであって、結局戦友の働きを証拠だてながら自分の意気地なしを暴露しているのだ。
(c)真に賢明にして偉大なる霊魂は、人間が第一の目的とする名誉をば、栄誉の中に置かずして徳行の中に置く(キケロ)。わたしが一生をかけて得たいと思う栄誉とは、つまり、一生を静かに生きとげるということである。メトロドロスやアルケシラオスやアリスティッポスのように静かに、というのではない。ただわたし相応に静かに、というのである。哲学は誰にもむく静かに生きる道を発見するには至らなかったから、各人めいめいにそれを求めればよいのだ!
(a)カエサルとアレクサンドロスとは、その限りなく大きな評判を、運命以外の何に負っているか。だがその運命は、いかに多くの人々をその出世の門出において倒したことか。彼らの名を我々は少しも知らないが、もしも彼らの不幸な運命が彼らの雄図をその当初において阻止しなかったならば、彼らもまたカエサルやアレクサンドロスと同じ勇気をあらわしたことであろう! あんなに多くの・あんなに極まれる・危険の中で、わたしがかつて読んだ覚えでは、カエサルはただの一度も傷をうけなかった。ところが幾千の人々は、彼が越えた危険(c)の最小のもの(a)よりもさらに小さい危険にあって死んだのである。数限りない功業も、見る人がなければ、わずかにその一つさえ、実を結ぶに至らないで空しく埋もれなければならない。人はいつでも突破口のてっぺんや隊伍の先頭に、つまりその大将の目につくところに、ちょうど舞台に立つ人のように、在りはしないのだ。むしろ垣根の蔭や堀の間で襲われるのである。小さなとりで一つのためにも命を賭けねばならない。一つの納屋の中からただ四人の名もない銃士を引っぱり出さなければならないこともある。必要の場合には、自分だけ部隊から離れて、ひとりでことを行わねばならないのだ。だからよく注意してみると、経験上もっとも目に立たない場合が、もっとも危険な場合であることがわかる。そして我々の時代におこった戦争においても、立派な名誉ある場所においてよりは、むしろ軽微な余り重要でない小ぜり合いにおいて、何処かの小さなとりでなどを争うような場合において、かえって多くの立派な人物が失われたのである。
(c)人目につかずに死ぬのは犬死だと考える者は、その死を輝かすどころか、自分からその一生を闇に葬ることになる。そうやって命を賭けるべき正当な機会をみすみす取り逃がしてしまうからだ。実際正しい機会は何れもみな十分に輝かしいものだ。各人の良心がそれらのために十分に
(a)唯やがて人に知られるであろうからといって・知られればそれだけ重んじられるであろうからといって・善を行う人、自分の徳が人々に知られる場合でなければ善を行おうとはしない人、そういう人は大きな期待をかけるに足らない人である。
われは信ず。オルランドは、なおその冬の間にも、
かずかずの語り伝うべき業をば行いたまいたることを。
されど、そは今日まで余りにも隠れて知られざれば
われそれらを物語らずとて深くな咎めたまいそ。
まことにオルランドは、たかき手柄を、
語る暇もなきほどに次々に重ねたまえり。
彼の功績といわるるは、たまたまそれを見る人ありて、
始めて世の人々に伝えられたるもののみなり。
かずかずの語り伝うべき業をば行いたまいたることを。
されど、そは今日まで余りにも隠れて知られざれば
われそれらを物語らずとて深くな咎めたまいそ。
まことにオルランドは、たかき手柄を、
語る暇もなきほどに次々に重ねたまえり。
彼の功績といわるるは、たまたまそれを見る人ありて、
始めて世の人々に伝えられたるもののみなり。
(アリオスト)
戦争にゆくのはその人の義務のためでなければならない。そしてそこに期待すべきは、どんなに隠れた善行に対しても、有徳な想念に対してさえも、もれなく与えられる報酬でなければならない。すなわち、それは真に整った良心が善を行うことによって自分のうちに感得する満足にほかならない。勇猛であるのも自分自身のためでなければならない。自分の心を、運命の攻撃に対して、がっちりと微動さえしないような構えにするためでなければならない。
(b)徳は何ものにもくもらされず、
純粋無雑の尊重の光によりて輝く。
民衆の定めなき意向に従いて、
執政の斧を取りまた捨つることなし。
純粋無雑の尊重の光によりて輝く。
民衆の定めなき意向に従いて、
執政の斧を取りまた捨つることなし。
(ホラティウス)
(a)我々の霊魂がその役割を演ずるのは、人に見せるためであってはならない。我々のもとにおいて・我々の眼以外の誰の眼もとどかない内部において・であってこそ、霊魂は死の恐怖からも・悲痛からも恥辱からも・我々をかばってくれるのである。子供や友だちや財産が失われる場合に対しても、我々を守ってくれるのである。そして好機が到来すれば、戦争の危険の前にも我々をつれてゆくのである。(c)給与のためならで徳に伴う名誉のために(キケロ)。(a)こういう利益こそは、人から与えられるひいき目な判断にすぎない名誉や栄光などより、はるかに大きな・はるかに乞い願うに足る・ものである。
(b)一エーカーの土地を測量するのにも、全国から十二人の人を選ばなければならない。ところが我々の傾向や我々の行為の判断は、難事中の難事・大事中の大事・であるのに、我々はこれを無知と不正と無定見との母である多数愚民の声に委ねている。(c)一人の賢者の生命を気ちがいどもの判断にかけることは道理だろうか。
一人一人のときはこれを蔑視するに、それが集合するを見れば忽ちにこれを重んずるとは、何たる不合理ぞや(キケロ)。
(b)彼らに好かれようと目ざしたものは決して好かれたためしがない。それは無形な・つかみどころのない・目標である。
(c)民衆の意見ほどとるにたらぬものはなし(ティトゥス・リウィウス)。
デメトリオスは人民の声について面白いことをいった。「その上の方から出るやつも、その下の方から出るやつも、真平ご免だ」と。
あのキケロに至っては、さらに皮肉なことをいった。物事はそれ自体恥ずかしきものにあらざるも、一たび多数の賞賛をうるときは、何やら恥ずかしきものにならざるを得ず(キケロ)と。
(b)どんな手だてもどんなに柔軟な精神も、これほど道をしらぬ・これほど狂った・案内人に、我々の歩みをつき従わせることはできまい。愚劣な風聞や風評が
計略もまた失敗することあるを見ておかしかりき。
(オウィディウス)
(c)パウルス・アエミリウスは、彼の名をかがやかしたマケドニアの遠征に出かける時、ローマの全人民を前にして、自分の留守中、自分の行動については特に言葉を慎むようにと注意した。まったくほしいままなる判断を許すことは、大事に対してどれほど大きなさわりとなるか計りしれないのである。まして反抗と非難にみちみちた民衆の声の前に、ファビウスのような毅然たる態度がとれない場合はなおさらである。この人は、好評と民意とを迎えてその職を悪く行うくらいならば、むしろ自分の権威が愚民の専横に
(b)ほめられていると思えば何となくよい気持になるのは自然だけれども、我々はあまりにもそれに誘われすぎる。
われは讃め言葉を嫌わず、われも木石にあらざれば。
されど、「ブラヴォ!佳 いかな!」と言われることが、
徳の目ざす目的なりとは信ぜざるなり。
されど、「ブラヴォ!
徳の目ざす目的なりとは信ぜざるなり。
(ペルシウス)
(a)わたしは、自分が他人の思わくの中でどんなであるかをあまり気にしないくせに、わたし自身のうちでどのようであるかをひどく気にする。わたしは借り物によってではなく、自分のものによって豊かでありたい。よその人たちはただ事件や外観ばかりみる。ひとは誰でも内心恐怖と心配とで一杯でも、外に向ってはすずしい顔をすることができる。人々にはわたしの心はみえない。ただわたしの顔だけしか見えないのだ。人が戦争中に見られる偽善をくさすのはもっともである。まったく慣れた男にとっては、うまく危険をかわし、内心びくびくしながら
へつらいを喜び、そしりを恐るる者は誰か。
そは不正の人にあらずんば嘘つきならん。
そは不正の人にあらずんば嘘つきならん。
(ホラティウス)
こういうわけだから、人々の外観についてなされるこれらの判断は、みなはなはだ不確実な疑わしいものである。そして各人にとって、自分自身ほど確実な証人はないのである。
例えば戦争の場合に、我々はずいぶんたくさんの兵卒を連れてゆくが、これらの人たちこそ我々の栄誉の下ごしらえをする人々ではあるまいか。
(b)騒然たるローマの処断に服することなかれ。
またその評価の誤りを正さんと努むることなかれ。
すなわち、汝自らの外に汝を求むることなかれ。
またその評価の誤りを正さんと努むることなかれ。
すなわち、汝自らの外に汝を求むることなかれ。
(ペルシウス)
(a)我々は、我々の名を広く多くの人々の口の端にのぼせることをもって、我々の名を大にすることだと考えている。我々の名がそこでよい評判を得、そのお蔭で我々の名がひろまり得をするようにと欲している。売名もここまではかんべんがなるであろう。だがこの病が高じてくると、しまいにはみんながどんなことをしてでも評判されようと骨折るようになる。トログス・ポンペイウスはヘロストラトゥスについて、ティトゥス・リウィウスはマンリウス・カピトリヌスについて、それぞれ「その評判が善いことよりも大きいことを欲した」といったが、この悪弊は今や世間普通である。我々はただ人に語られようとのみ苦心し、どのように語られるかは、あえてかえりみない。我々の名がただ人々の口さきに評判されさえすれば足りるとし、それがどんなふうに伝えられようとおかまいなしである。どうも、名が知られているということは、いわば自分の生命を他人の手の内にあずけておくようなものではあるまいか。わたしは、「わたしは唯わたしのところにのみある」と信じている。そして友達の認識の中に宿っている・もう一つの・わたしの生命の方は、(c)それを裸にしてただそれ自体においてながめると、(a)わたしはそれの果実と享受とをただ
(b)わが墓石は、ためにわが枯骨の上に軽くならんか。
後の世の人々われをたたえるならば、
わが幸運なる枯骨より、たましいより、墓石より、
美わしき花咲き出 ずるならんか。
後の世の人々われをたたえるならば、
わが幸運なる枯骨より、たましいより、墓石より、
美わしき花咲き
(ペルシウス)
(a)しかし、このことは別の所***ですでに語った。
* この苗字がイギリス系統のものでなく、古くからギュイエンヌ地方に存在したものであることは、わたしの著書『モンテーニュ伝』中にのべた通りである。なお、モンテーニュはここに「昔……」と書いているが、このエーケムを名乗ることは、その父ピエールの時代までつづいたので、むしろモンテーニュ〔正しく発音するとモンターニュ〕を名乗るようになったのは(すなわちこのエーケムという苗字をすてたのは)、ミシェルその人なので、決して「昔」のことではないのである。これは、モンテーニュが虚栄について書きながら、自ら虚栄家だとわらわれるゆえんである。だがアルマンゴーも、ここでは強いてモンテーニュの小さなヴァニテを弁護していない。むしろ当時なお政界に出ようという野心が全くなくはなかったことから許容できることとして、それを率直に認めている。第三巻第九章参照。
** ミシェルという洗礼名のこと。
*** 第一巻第四十六章。
(b)そは幾千の人々に起る平凡事なり。
しかも偶然のどさくさより生ずる珍しからぬ出来事なり。
しかも偶然のどさくさより生ずる珍しからぬ出来事なり。
(ユウェナリス)
(a)一千五百年来、このフランスにおいて武器を手にして死んだ幾万の勇士のうち、我々にその名の知られているものは百人とないのである。ただに大将たちの記憶だけではない、合戦や勝利のそれさえも埋もれてしまった。
(c)世界の半分以上の出来事は、記録されないためによそには伝わらず、やがてそのまま消えてしまう。
もしそれらの未知の出来事が手に入るなら、わたしはそれらをもって、楽々と今までいろいろな模範として知られている出来事と取り代えてしまうであろう。
(a)ああ何としたことか。あのローマ人やギリシア人の間にさえ、あれ程の作者、あれ程の目撃者があり、またあれ程の稀有崇高な功業があったのに、こんなに少ししか我々まで伝わっていないとは!
(b)僅かなる風辛うじて彼らの勲功を
我らのもとに吹きおくるのみ。
我らのもとに吹きおくるのみ。
(ウェルギリウス)
(a)もし今から百年の後に、人々が大ざっぱにでも、我々の時代にこのフランスに内乱があったことをおぼえているなら、それこそ大出来である。
(b)ラケダイモンの人々は、いよいよ戦争を始める時に、ミューズたちに犠牲を供えて、自分たちの働きが立派に堂々と記録されるようにと祈るのを常とした。というのは、目ざましい働きがよい目撃者をえて長く後世に伝えられることは、ひとえに神の・なみなみならぬ・加護によるものだと思ったからである。
(a)我々は、火縄銃の玉を一つ喰らう毎に、危険の一つにのぞむ毎に、ひょっこり一人の記録家が現われ出で、それを歴史に書きとめてくれるとでも考えるのか。いやかりに、その上さらに百人の記録家が出てきてそれを書きしるすとしたところで、その記録は唯の三日しかながらえないだろう。そして誰の目にも触れずに終るだろう。我々は古人の書いた物の千分の一も持っていない。それらに生命を与えるのは運命であって、生命の長い短いはただ運命の愛顧のいかんによるのである。(c)だから我々の持っている古書は一番不出来なものではあるまいかと、疑ってみることもゆるされる。あとのものは見たことがないのだから。(a)人はそんな下らない事柄をたねに歴史を書きはしない。そこに書いてもらうには、一帝国または一王国を征服したほどの大将であらねばならぬ。カエサルのように、常に劣った軍勢をもって五十二回の激戦に勝ったものでなければならぬ。一万の勇卒と幾多の勇将が、彼に従って勇敢に戦い勇猛に戦死した。しかも彼らの名は、彼等の妻や子が生きている間だけしかつづかなかった。
(b)彼らの栄光影くらく彼らを忘れしめつ。
(ウェルギリウス)
(a)我々が現にその立派な行いを目撃した人々でさえ、彼らがそこを去って三カ月あるいは三カ年もたてば、かつてそんな人はいたことがなかったかのように、もう誰一人として彼らのことを語るものはない。誰でもよい、正しい標準をもって、いったいどんな人々の・どんな働きの・栄光が真に歴史にとどめられるに値するかを考えてごらん。我々の世紀には、少しでもその権利を主張しうる程の勲功なり人物なりは、きわめてわずかしかないことがおわかりになろう。我々はいかにたくさんの勇士たちが自分の評判より死におくれたのを見たことか。かわいそうに彼らは、その若い時分にきわめて正当に獲得した名誉・光栄・が目のあたりに消えうせるのを見て、嘆かねばならなかったのである。それなのに我々は、なおこの
(c)善行の報いはこれを成就したりということなり(セネカ)。
奉仕の果実は奉仕そのことなり(キケロ)。
(a)絵かきその他の芸術家にとっては、また修辞家や文法家にとっても、その作品によって名をえようと努めることは、或いは許されてよいことかも知れない。けれども徳行にいたっては、それ自体がはなはだ高貴なものなのだから、それに特有な価値の外には報いなどを求めるべきではない。まして、それを空虚な人間の判断の中に求めるべきではない。
けれども万一この間違った考え方が、人々にその義務を守らせることになって少しでも世を益することになるならば、(b)そして、万一民衆がそのために徳に対して目をさまさせられるならば、また王侯がたも、人々がトラヤヌスの記憶を賛えてネロのそれを呪うのを見て深く心をうごかされるならば、この極悪人の名がかつてはあれ程まで人に恐れられたのに、今ではどんな学童によっても散々に呪われそしられているのをみて心を動かされるならば、(a)この間違った考えも、思いきってはびこるがよい。人はできるだけ、それを我々の間に養い育てるがよい。
(c)それでプラトンも、彼の市民たちを有徳にするためにあらゆる物事を利用し、彼らに向って民衆の評判や賞賛をも蔑視しないようにすすめている。そして、「何かの神来の霊感によって、悪人でさえが、しばしば言葉についても行いについても、そのよしあしを正しく識別することがある」といっている。この人およびその先生のソクラテスは、人間の力の足りないあらゆる場合に、きわめて巧妙かつ大胆に、神の業・神の啓示・を借りてくる名人であった。あたかもその戯曲の結末をつけ難き時に、神の助けを借りる悲劇詩人のごとく(キケロ)。
おそらくそのために、ティモンは彼をそしって、「奇跡つくりの名人」と呼んだのであろう。
(a)人間はその器量不足のために、良い貨幣だけでは満足しないのだから、
(c)なお、ヌマは今いった女神の加護をいいたててその法律に権威をもたせたが、バクトリア人およびペルシア人の立法者だったゾロアストレスは、神オロマジスの名をもってその法律に権威をつけた。エジプト人の立法者トリスメギストスは神メルキュール〔メルクリウス〕の名によって、スキュティア人の立法者ザモルクシスはウェスタの名によって、カルキス人の立法者カロンダスはサトゥルヌスの名によって、カンディア人の立法者ミノスはユピテルの名によって、ラケダイモン人の立法者リュクルゴスはアポロンの名によって、アテナイ人の立法者ドラコンおよびソロンはミネルヴァの名によって、それぞれの法律にもったいをつけた。それでどこの国家もその頭に神をいただく。他の多くの国の神は嘘であるが、モーゼがエジプトを出たユダヤの民に与えた神だけは、本当の神である*。
* モンテーニュはここでも、神がモーゼに与えた天啓を信じているのではない。むしろモーゼもまた為政者としてヌマやセルトリウスと同じ方法をとったのだと言っているのである。
(b)これらの兵士は熱烈にして刀剣をおそれず、
その霊魂は死をも軽んじたり。
やがて再び返し与えらるる生命を惜しむは、
彼らにとりては卑怯と考えられしなり。
その霊魂は死をも軽んじたり。
やがて再び返し与えらるる生命を惜しむは、
彼らにとりては卑怯と考えられしなり。
(ルカヌス)
(a)これこそ、嘘であるかも知れないが、はなはだ有益な信仰である。どの国民も、それぞれこのような実例をたくさんもっている。しかしこの問題は、また別に論ずる価値があるであろう**。
* Bdouans. 北アフリカおよびアラビアの砂漠地方に漂泊するアラビア人。
** ここに述べられている問題は前出第二巻第十二章の所論と共に理解すべきであろう。モンテーニュは為政者としての立場から、この種の宗教をいずれも否定しないのである。
ただ掟を恐れて拒む女はやがて従う。
(オウィディウス)
神の前・良心の中・では、それを欲望するのもそれを実行するのも、罪の大きさに変りはないであろう。それに、それはそれ自体隠れた秘密の行為である。彼女たちがそのどれか一つを他人の認識からかくすのは容易であろう。もし彼女たちが別にその義務を尊敬せず・また純潔そのものを愛するのでなければ、名誉はただ他人に知られるか知られないかによってきまるだけであろう。
(c)名誉を重んずる女性は誰でも、その良心を失うよりはむしろその名誉を失う方を好む。
* honneur は一般に名誉・面目を意味するが、婦人においては殊に貞操純潔を意味する。
この章は初版の序文が書かれた一五八〇年に最も近い頃に書かれたエッセーの一つで、恐らく前章に引き続いて書かれたものであろう。ここには同じ時期に属する第一巻第二十六章や第二巻第八章、第二巻第十章におけるように、序文に述べられているみずからを描こうとする意図がいよいよはっきり見て取られる。すなわち我々はここに、モンテーニュの霊肉両面の自画像を見るのである。「自惚 れ」すなわち「我々が自分の価値について抱くあまりに良すぎる意見」ということを端緒として、彼はいわゆる自省 examen de conscience をする。どのくらい自分が自惚れの強い男であるかを反省する。しかもそれらの間に綴られている彼の告白ないし打開け話は、じつに赤裸で正直でしかも少しも悪びれたところがない。ここに『随想録』はいよいよその魅力を発揮する。この章頭の一頁などは、モリエールのアルセストでも言いそうな言葉ではないか。モンテーニュはアルセストの円熟した姿である。
なおマキアヴェリに関する批評および彼の政治観については第三巻第一章を併せよまれたい。
なおマキアヴェリに関する批評および彼の政治観については第三巻第一章を併せよまれたい。
(a)ここにもう一つ別種*の栄誉がある。我々が自分の価値について抱くあまりに良すぎる意見がそれである。それは我々が自分を甘やかす無分別な愛情であって、我々を我々自身に、実際とはちがって見せる。ちょうど恋愛の情念がそのいつくしむ人にもろもろの美や愛嬌を貸し、恋に迷った者に、狂った判断によってその愛する人を、それがあるとは別様に・実際よりも完全に・思わせるのと同じである。
* モンテーニュは前章において「栄誉」について語った。栄誉は彼にとってはひっきょう「虚栄」・「虚名」・彼自ら定義するところによれば「我々があらわに示す行為に対して世間が与える賞賛」であった。すなわち“fausse gloire”に過ぎなかった。――この章はその延長として、「我々が自分の価値について抱くあまりに良すぎる意見」すなわち自尊・自惚れ・高慢 orgueil, prsomption について語ろうとする。そして最後には、愈々それが増長して、他人の価値を少しも認めず・ただ自分だけが偉いように思う・思い上り、自己過信、唯我独尊に及ぶ。モンテーニュは、そういう広い意味をgloireの一語のうちにこめている。ここにune autre gloireとあることによって、前章の標題もまた、すでに orgueil, prsomption に通ずる「虚栄」の意味を含んでいたことがわかる。
それが好運なのか悪運なのかは知らないが、とにかく運によって一生をある高い位のうちにすごさせてもらった人々は、その公の働きによって自分がどんな人間であるかを示すことができる。けれども運命がただ大ぜいの中でだけ働かせた人々、(c)自分で語らない限り誰も語ってはくれないであろう人々は、(a)自分のことを知りたがっている人々に向って、ルキリウスのように自分について大胆に語っても許さるべきだと思う。
彼は、あらゆる己れの秘密を、
仲のよき友だちにあかすがごとく書物に託したり。
うれしきにつけ悲しきにつけ
彼にはその本心を語るべき友なかりしなり。
されば彼の全生涯は、
献額の中に見らるるごとくそこに描かれたり。
仲のよき友だちにあかすがごとく書物に託したり。
うれしきにつけ悲しきにつけ
彼にはその本心を語るべき友なかりしなり。
されば彼の全生涯は、
献額の中に見らるるごとくそこに描かれたり。
(ホラティウス)
そのルキリウスは、紙の上にその行為と思想とを託し、自らを自ら感ずるがままにそこに描いたのである。(c)ルティリウスも、スカウルスも、ために少しもその信と敬とを失うことなかりき(タキトゥス)。
(a)そこで思い出して見ると、わたしはごく幼い時分から、何かしらえらそうにお高くとまった身ぶりそぶりをすると、よくいわれたものだが、このことについては、わたしはまず次のように申したい。「我々が、自分では知覚することも認識することもできないほどに深く身にしみこんでいる、そのような独特の性格なり性癖なりをもっていたって、一向さしつかえないではないか」と。それに体は、そういう生れつきの傾向から、我々が知らないうちに、我々のゆるしもえないのに、容易にそのような日常の癖を貰ってしまうのである。あのアレクサンドロスに頭をちょっと片方に傾けさせたのも、自分の美貌を意識した一種の気どりであったし、アルキビアデスがおっとりとした含み声で物を言ったのも、また同じことであった。ユリウス・カエサルはよく一本の指で頭を掻いたが、これは苦労性の人の態度である。それからキケロはよく鼻をひくひくさせたらしいが、これは人をこばかにした性分を示すものである。こういった挙動は、いずれも当人に知覚されずに起りうる。もっとも中には作為的なものもある。これは今わたしが話しているものとはちがうものであって、例えば挨拶やお辞儀などの類いである。人はこれによって、最もしばしば謙遜礼節の誉れを不当にかちえる。(c)人は虚栄のために謙遜であることがある。(b)わたしはかなり脱帽の礼を安売りする。特に夏は。お辞儀をされれば必ず御答礼をする。自分のうちの奉公人でない限り、どんな身分の人に対しても脱帽するのだ。だがわたしの知っている親王様がたに対しては、もう少しそれを惜しまれるように、もう少し適当にそれを分かち与えられるように、お願いしたい。まったくああ惜しげもなく振りまかれたのでは、脱帽もしまいにききめがなくなる。それは、その気持がこもっていないならば、何の効果もないのである。(a)度をはずした態度の中では、皇帝コンスタンティウスの尊大ぶりを忘れまい。彼は公衆の前でいつも首を真直ぐにしていた。右にも、左にも、それをふり向けもしなければ曲げもしなかった。わきからご挨拶申上げる者どもに一顧も与えられなかった。お馬車がゆれても決して不動の姿勢をくずされず、人々の前では唾を吐くことも鼻をかむことも顔を拭くことすらも、あそばされなかった。
わたしはむかし人がわたしの内に認めたあの身振りが、はたして今述べた第一の部類〔無意識になされるもの〕に属するものか、それともこれはありそうなことだが、本当にわたしがこのから威張りという不徳に対して何か噂通りの隠れた性向をもっていたのか、どっちであるか知らない。それに体の動きについては、わたしは責任がもてないのである。だが霊魂の動きについては、わたしはここに、自らそれについて感ずるところを正直に言おうとおもう。
このから威張りには二つの部分がある。すなわち自分をあまりに重く見ることと、他人を十分に重んじないこととである。ところで第一の部分については、(c)まずもって次のような事柄を考えに入れておいていただかなければならないと思う。それは、わたしが何か自分の霊魂の誤りに圧迫されているということ、そして、それをわたしは、不正なものとして・それ以上に執念ぶかいものとして・自らいやがっているということである。わたしはそういう心持を直そうと努めている。だがそれを根治することはできない。ではそれはどんなことかというと、わたしは自分の所有しているものの真の価を、自分でそれをもっているためにかえって値引きして見がちであるということである。そして他人のもの・自分にないもの・わたしのものでないもの・であると、その価を高く見つもるということである。こういう癖はきわめて広範囲に認められる。例えば絶対の支配権を持っているものだから、世間の亭主たちはその妻たちを、多くの父たちはその子供たちを、それぞれ誤った蔑視をもって見ている。わたしも同じような二つの仕事を見ると、とかく自分の仕事の方を悪く見がちなのだ。ひたすら自分を進歩させ改善しようとする熱情がわたしの判断を混乱させ、わたしに自分に満足することを許さないからではなく、むしろ、自分がその支配者であるという唯それだけのことで、自己が把握し・支配し・ているものに対する蔑視を産みだすからである。遠い昔の政体や風俗がわたしの心を引く。また昔の言葉なども同じで、わたしはラテン語がその品位によってわたしに買いかぶられていること、その点自分もまた子どもや俗人とちがわないことに気がついている。隣りの人の暮しや邸や馬は、同じ価値でありながら、唯それが自分のものでないだけで、自分のよりはよく思われる。それにわたしは、自分の事柄についてはなはだ無知である。わたしは皆がそれぞれ自分について確信と希望とをもっているのに感心しているが、わたしにはわたしが知っていると言えるもの・これこそすることができると責任のもてるもの・がほとんど一つもないのである。わたしは事前にととのった・ちゃんと目録にあがった・わたしの手段というものを全くもたない。むしろ、事後に始めてそれを教えられるのである。わたしは自分についても、あらゆる他の物事についてと同じ位にあやふやである。だから何か一つの仕事においてひょっと人さまにほめられるようなことをしでかしても、わたしはそれを、わたしの力量によりもわたしの運の方に、帰することになるのである。わたしは何事もみな偶然にまかせて、おそるおそる企てているのだから。同様に(a)わたしは、いつもこんな風に思っている。つまり、古代の人々が人間一般に関していだいていたもろもろの意見のうち、わたしが最も喜んで懐抱し執着するのは、われわれ人間を最も軽蔑し・見くだし・無視する・意見なのだ。哲学は我々の自惚れと虚栄とをやっつける時ほど、そして正直に自分の不確実と無力と無知とを認識する時ほど、たのもしく立派に見えることはない。個人の場合にも公の場合にも、最も間違った意見を産み出し育てる母は、人間が自分について抱くところのあまりに
* 「伝道の書」第一。
(c)わたしは自分を普通平凡な人間だと思っている。ただそう思っていることだけが人とちがうところである。わたしは最も低級で平凡な欠点をもっているが、わたしはそれを隠しもしなければ申訳もしない。わたしはただ自分の価値を知っていることだけを、自分の値打ちだと思っている。
よし幾らかの虚栄があるとしても、それはわたしの天性から漏れて出てわたしの浅いところを流れているものであって、わたしの判断の眼にとまるほどの実体をもってはいないのである。
わたしはそれを浴びてはいるが、それに染まってはいないのである。
(a)まったく正直のところ、精神の作品に至っては、わたしを満足させるようなものはどんな形においても、ついぞ一ぺんもわたしから生れ出たことがないのである。他人の賞賛もわたしを満足させないのである。わたしの好みはこっていてむずかし屋である。特に自分に対してやかましいのである。わたしは絶えず自分についての評価を変える。そしていたるところで、無力のために自分が動揺し挫折するのを感ずる。わたしは自分の判断を満足させるような自分のものを、何一つもっていない。わたしの眼はかなり明らかで正しいが、さていよいよとなるとぼんやりする。それは詩に対してわたしが最もはっきりと経験するところである。わたしは限りなく詩を愛する。かなりよく他人の作品にも通じている。けれども正直のところ、自ら手をつけて見るとまるで子供である。わたしは自分に我慢ができない。人はよそでならばどこで馬鹿をしてもよろしいが、ただ詩においてだけはいけない。
神々も人々も、詩を記す円柱も、
敢えて詩人の凡庸なることを許さず。
敢えて詩人の凡庸なることを許さず。
(ホラティウス)
願わくはこの格言が、わが国のあらゆる印刷屋の軒さきにかかげられて、わんさわんさと押しかけるへぼ詩人諸氏の御入来を謝絶せんことを。
へぼ詩人ほど自信強きはなし。
(マルティアリス)
(c)どうして我々の間には次のような人民がいないのであろうか。大ディオニュシオスは自分のもののうちで何よりもその詩作を尊重した。オリュンピアの競技の季節になると、壮麗ならびなき戦車と共に詩人楽人をここに送り、自分の詩を豪華な錦の天幕や旗とともに提出させた。いよいよその詩が披露されると、その発声がいかにも巧妙であったため、始めのうちはいささか人民の注意をひいたが、やがてその詩そのものの冗慢愚劣なことがわかってくると、人民はまずこれを軽蔑した。さらにその判断をいらいらさせられると、こんどは憤然として怒り、走りかかって彼の旗や天幕をことごとく引き裂いた。それに、彼の戦車さえ何らの功を立てなかったばかりか、彼の家来どもをのせた船もシチリアに帰りつかず、途中で暴風にあい、タラスの切り岸に乗りあげたと知ると、人々は、これは神々が、自分たちと同様に、彼のへたくそな詩にお怒りになったためであると確信した。いや、その難船から辛うじて助かった水夫たちまでが、この人民の意見に和したのである。
彼の死を予言した託宣もまた、ある意味においてこの人民の意見を裏書きしたかに思われた。その句には、「ディオニュシオスは、彼よりも優れたものを征服し終ろうとする時、自らの最期に近づくだろう」とあった。それを彼は、兵力において味方を越えるカルタゴ人のことと解釈した。それで彼らと戦うときには、しばしばその勝利を避けたり我慢したりして、この予言の意味にあてはまるまいと努めた。けれども彼の解釈は間違っていた。まったく神は、彼が「レナエアの祭」と名づける一篇の悲劇をもって自分よりも優れたアテナイの悲劇詩人たちと争い、運よく、また不当に、これに勝ったその時を、目ざしておられたのである。この勝利の後、とつぜん彼は他界した。いや、半分はそれをあまりに喜びすぎたために死んだのであった。
(a)わたしが書いたものの中にもどうやら許してもらえそうなものもないではないと思うが、それだって、決してそれ自体ほんとうに許してもらえるものではないので、ただほかの・世間の信用を博している・もっとまずいものと比較しての話にすぎない。わたしは自分の仕事に喜びと満足とを感じていられる幸福な人々が羨ましい。まったく、自惚れこそ自分に愉快を与える楽な方法なのである。その愉快はその人自身から引き出されるのだから。(c)ことに彼らの自信のうちにいささかの粘りづよさがあるならば申分なしである。わたしの知っている或る詩人は、上手な人たちからも下手な人たちからも、衆人の前でも私室の中でも、また天からも地からも、一様に「お前はまるで詩を解しない」と叱られている。ところが何といわれても、自ら測ったその身のたけを、ほんの少しもつめようとはしないのである。性こりもなく、また作る。またひねくる。またがんばる。それを支持するのはただ彼独りであるだけに、彼の意見はそれだけ強固である。(a)わたしの作品にいたっては、どうしてわたしに笑いかけるどころではない。見直せば見直すほど、ますますわたしをうんざりさせるばかりである。
(b)われおのれの書物を読みかえす時、自らこれを書きたるを恥ず。
何となればそこには、自己の判断に訴えてさえ、
抹殺に値することが、あまたあればなり。
何となればそこには、自己の判断に訴えてさえ、
抹殺に値することが、あまたあればなり。
(オウィディウス)
(a)わたしは常に心の中に、一つのイデ〔観念〕・ある混沌としたイマージュ〔心像〕・をもっている。それは実際にわたしが作り出した形よりも優れた形を、いわば夢の中のもののようにぼんやりとわたしに示しているが、わたしにはそれをとらえることも利用することもできない。それに、そのイデ〔観念〕そのものが中程度のものにすぎない。それでわたしは、あの古代の豊富偉大な霊魂の所産は、わたしの想像と願いとの究極をさえ遙かに凌いでいると結論する。彼らの述作はたんにわたしを満足させるばかりではない。驚嘆させる。わたしはそれらの美を鑑賞する。それを究極までではないとしても、少なくともそれを自らは望むことができないのだとわかるまで、深く見きわめる。何事を企てるにしても、わたしはプルタルコスがある人についていったように、美の女神たちに犠牲を供えてその加護を乞うのである。
もし何ものかが
人々の感覚を喜ばしたのしますとすれば、
すべてそはやさしき美の女神たちの賜なり。
人々の感覚を喜ばしたのしますとすれば、
すべてそはやさしき美の女神たちの賜なり。
(出所不詳)
ところが女神たちはいつもわたしを見すてる。すべてはわたしにおいて粗野であり、そこには愛らしさ美しさが欠けている。わたしは物事を、それが価する以上に見せかけるすべを知らず、わたしの文体は少しも内容を助成しない。だからわたしには、力ある内容が、多くの把握力をもち・それ自ら輝くところの・内容が入用なのだ。(c)平凡なやや陽気な内容をとり上げるのは、あの世間のひとたちのように、もったいぶった・悲しげな・知恵が好きでないわたし自らに従うため、わたし自らを快活にするためであって、わたしの文章を快活にするためではない。わたしの文章はむしろ厳粛な内容にふさわしい(もっともこのような混沌として秩序のない話し振りや、通俗な
(a)だがしかし、我々は絃をあらゆる調子にあわせなければならない。しかも最も鋭い音は、一曲の中で甚だ稀にしか聞かれないものである。少なくとも、空虚な問題を取扱うのにも重大な問題を支持するのにも、同じだけの腕がいる。ときには物事を浅く取扱わねばならず、ときにはこれを深く掘りさげなければならない。わたしは大部分の人々が、物事を一番うえの表皮によってしか思い見ないために、あのような低位にとどまっているのを知り抜いている。けれどもまた一流の大先生が、(c)クセノフォンやプラトンが、(a)しばしばわざとくだけて、この低級な・平俗な・文体で物事を論述していること、しかもいつものように優雅な趣を失わないでいることをも、承知している。
それに、わたしの言葉には少しもやさしく滑らかなところがない。それはぶっきらぼうで、(c)とっつきにくい。(a)言葉のあつかいが自由奔放だからである。実際そんなのがわたしは好きなのである。(c)これは、わたしの判断によってではなく、わたしの好みによってである。(a)けれどもわたしだって、時にはあまりに行きすぎることがあるのに気がついている。あまりに技巧を避けたがって、別の難解におちいることもあるのに気がついている。
われ簡潔ならんとして、
曖昧におちいれり。
曖昧におちいれり。
(ホラティウス)
(c)プラトンはいった。「長い短いは文章の価値を奪ったり与えたりする特質ではない」と。
(a)わたしがこれとちがった、むらのない・一様な・整った・文体をまねようとしたって、とうてい達し得ないであろう。それから、サルスティウスの歯ぎれのよいきびきびした調子の方がわたしの気質にはかなうけれども、それにしてもカエサルの方がさらに偉大でいっそう真似のできないものだと、わたしは思う。また、わたしの好みはわたしにセネカの話振りをまねさせるけれども、やはりプルタルコスのそれを一そう尊ばずにはいられない。することにおいてと同じく、言うことにおいても、わたしはただ単純に自分の生れつきの性分に従う。恐らくそれで、わたしは書くことよりはしゃべることの方がうまいのである。身振り手振りは言葉を生き生きさせる。特にわたしのように動かされやすく激しやすい人間においてはそうである。せい恰好・顔つき・声音・衣服・態度は、むだ話のようなそれ自体何ら実のない事柄にも、いくらかの値うちをつける。メッサラはタキトゥスの中で、当時流行したある身幅の狭い衣服と、弁士たちが話をする場所の椅子の並べようとが、彼らの雄弁をさまたげている事情を嘆いている。
わたしのフランス語は、わたしの地もとの野蛮のために、発音やその他の点で
(a)ラテン語にいたってはわたしが母語として与えられたものであるが、しばらく使わずにいた間にすらすらと語ることができなくなってしまった。(c)さよう、書くことすらできなくなった。昔はその道の名人といわれたものだが*。(a)この方面においていかにわたしが大したものでないかは、これでおわかりになろう。
* 第一巻第二十六章「子供の教育について」の章参照。
(c)逍遙学派はすべての学派のなかで最も社交的であるが、以上両面の合致による幸福をやしない、これをもろともにたのしもうと心がけることをもって、ただ一つ賢者にふさわしいこととし、他の諸学派がこの融合について十分に考慮せず、徒らに派をかまえて、あるいは肉体をのみ重んじ、あるいは霊魂にのみ傾いて、何れも同じ誤りにおちいったことをとがめている。彼らが人間を主題としながら人間をうとんじたり、一般に自然をその案内者と認めながら自然を遠ざけたりしたことをとがめている。
(a)人間同士の間の最初の区別、その間の優劣を決定した第一の標準は、どうやら誰が美しさにおいてもっとも優れているかということであったらしい。
(b)土地の分配は、その昔、
美と力と知恵とに応じてなされたり。そは
美と力とが当時最も重んぜられたればなり。
美と力と知恵とに応じてなされたり。そは
美と力とが当時最も重んぜられたればなり。
(ルクレティウス)
(a)ところでわたしの背たけは中ぐらいより少し低い。この欠点はたんに醜いというだけでなく損である。役目があり人を司令しなければならない者には特に損である。つまり押し出しの立派さ、堂々たる体格の与える権威が、そこにはないからである。
(c)C・マリウスは身のたけ六尺に達しない兵士をあえて採用しなかった。『宮臣論*』がその理想とする貴族のために高すぎず低すぎない普通の背たけを欲し、すべてうしろ指をさされるような特異性をしりぞけたのはもっとも千万である。だがひとしくこの中庸をはずれるなら、むしろ大きすぎるよりは小さめなのがよいなどとは、武人に対しては望みたくない。
* イタリア人カスティリヨーネ Balthazar Castiglioneの 著 Il Cortesiano(le Courtisan)のこと。当時三種の仏訳が出てフランス人にも愛読された。
(a)エティオピア人およびインド人は、アリストテレスのいうところによると、その王様や役人たちを選ぶに当って、その人の美貌と背たけとを重んじたそうな。それはもっともなことである。まったく一隊の先頭に丈ゆたかに威風堂々たる大将が歩むのを見れば、これに従う者には尊敬の念がわき、これに刃向う者は恐怖を感ずるのである。
(b)第一列にトゥルヌス剣を取って進めり。
体躯堂々としてその頭 、周囲のすべての者の上にありき。
体躯堂々としてその
(ウェルギリウス)
神々しい・天にまします・われらの偉大なる王〔キリスト〕も(そのすべての点がくわしい注意と敬虔の情とをもって注目されなければならないが)、肉体的にもきわめてすぐれておられたと伝えられる。人の子の中にて最も美わしかりき(「詩篇」)。
(c)またプラトンは、彼の共和国の保持者たちに対して節制や勇気とともに美があることを願った。
(a)大勢の家来の真中で「殿様はいずれに?」などと問いかけられるのは、いや、
わたしはそれに強い頑丈な体を持っている。顔は太ってはいないが張りがある。気質は(b)陽気と陰気との中間にあって、中ぐらいの(a)血気と熱情をたたえている。
わが脚と胸とは毛に掩われたり。
(マルティアリス)
健康はかなり年をとるまで強くさかんで*、(b)病気に乱されることは稀であった。わたしはむかしそんな風であった。まったくそれは今のわたしの姿ではないのだ。いまのわたしは、もうとうに四十の坂を越して老いの小道にさしかかっている。
(b)いつとなく体力も気力も失われて、
我らは年と共に老い衰う。
我らは年と共に老い衰う。
(ルクレティウス)
(a)これから後のわたしは、もはや半分の存在にすぎないだろう。もはやわたしではなくなるだろう。わたしは毎日自分自身から抜け出し逃げ去る。
我々の幸福は、一つ一つ、
経 る年ごとに我らを抜け去るなり。
(ホラティウス)
* 彼が結石病の初の発作を感じたのは四十五歳の時であったらしい。後出第三十七章参照。
(a)わたしの体の性質は、要するに霊魂の性質ときわめてよく釣合っている。そこには何一つ敏捷なものがない。ただ張り切ったたくましい精力があるだけである。わたしはよく苦労に堪える。けれどもそれだって、自分から進んでその気になるときにかぎる。わたしの欲望がわたしをそこに連れてゆく間だけのことだ。
仕事のよろこびは苦労を忘れしむ。
(ホラティウス)
そうでない場合、何かの快感にそそのかされない場合、わたしの純粋で自由な意志とは別のものに案内され導かれる場合は、からきし駄目である。まったくわたしは、「健康と命とのため以外に、(c)わたしがほんとに辛抱しようと思う程のもの、(a)精神の苦痛や束縛を払ってまで買おうと思うものはない」くらいに思っているのである。
(b)この代価にては決して、タグスの河が
砂とともに海へ海へと押し流すすべての金も、
われは欲 りせず。
砂とともに海へ海へと押し流すすべての金も、
われは
(ユウェナリス)
(c)わたしはきわめて不精・きわめてわがまま・である。それは性分のせいでもありわざとでもある。わたしは心づかいを供出するくらいなら、同じようによろこんで血を供出するだろう*。
* 以上の告白は、特に前頁最後の一節に述べられていることなどは、かなり事実と相違している。例えば字がまずいということなども、ボルドー本の書き入れを見れば、モンテーニュがここにいうとおりではないことがわかる。少なくとも誇張されている。おそらく彼は、下らない事柄のために引張り出されて、自分の自由を拘束されることを予防しているのであろう。
北より来 る追い風わが帆を脹 まさざりしかど、
南よりの向い風のわが進路を妨ぐることもなかりき。
力・知恵・美・徳・身分・財産において
われは先に立つものの最後なれど、
後にしたがうものの先頭にあるなり。
南よりの向い風のわが進路を妨ぐることもなかりき。
力・知恵・美・徳・身分・財産において
われは先に立つものの最後なれど、
後にしたがうものの先頭にあるなり。
(ホラティウス)
わたしは
(a)わたしは、少年時代においてさえ自由気ままに育てられ、きびしい躾を全く受けなかった。それやこれやでわたしの性格は、気の弱い・あれこれと気をつかうことにたえられない・ものになってしまった。わたしはわたしの損失やわたしに関係のある心配ごとさえ、隠しておいてもらいたいと思うほどである。わたしは自分の支出の部に、わたしが無頓着のありたけをつくすために生ずる出費、
主人の眼をもれて
盗人のふところを肥やす余分の金
盗人のふところを肥やす余分の金
(ホラティウス)
まで見込んでおく。わたしは自分の持ち金の勘定を知らずにいたい。そうしていれば自分の損失もそう正確に感じないですむ。(b)わたしは自分とともに暮す人々にむかって、愛情がなくなってわたしに親切をつくすことができなくなったら、どうかよいうわべをつくろってでもわたしを欺いてくれるようにと、たのんでいる。(a)わたしは、我々がとうてい免れることができない・どうにもならない・出来事のいとわしさに、一つ一つたえるだけの堅固な心はもたないから、また始終緊張してもろもろの雑務を整理してゆくこともできないから、わたしは「全く運命に委せ切って万事を最もわるく考えよう。そしてその最悪を静かに辛抱してこらえよう」という考えを、一所懸命に腹の底に養っている。実に唯この一事に、わたしははげんでいる。唯この目的にむかってわがすべての思索を進めている。
(b)危険に面しては、わたしは「どうやってこれを免れようか」とは考えないで、「これを免れるということがいかにつまらないことであるか」と考える。そのままじっとしていたら一体どんなことになるだろう? 事件の方を操作することはできないから、わたしはわたし自らを操作する。向うから折れて出なければ、こっちから折れてでる。わたしには、運命をかわしてこれからのがれたり・或いはこれを制御したり・或いは慎重に物事をわが思う壺にと導いたり・するような手腕はあまりない。それに、そういうことのために必要な苦労心配に堪えるだけの忍耐となると、なおさら持ちあわせない。いや、わたしにとって一番苦しい状態は、おしよせるいろいろな事柄の間に中ぶらりんでいること、恐怖と希望との中間にそわそわしていることである。思案するということは、もっとも軽微な事柄についてでさえ、わたしには面倒くさい。わたしの精神は、迷いと思案とからさまざまな動揺衝撃をうける時の方が、ずっと当惑を感ずる。それよりは、いずれにせよ運がきまってしまって、どっちかに腹がきまると、ずっと気が楽になる。情欲でわたしの睡眠がかき乱されたことはほとんどないけれども、思案はその最も小さいものでさえわたしの眠りを乱す。たとえば道を往く時、わたしはいつもその坂になった滑りやすい道端をさけ、泥だらけで、もぐり込みそうでもいい、それより下には落ちっこのない真中にふみこみ、そこに安心を求める。それと同じで、わたしは純粋な不幸を愛する。それはもう、不確かな埋めあわせなどを約束してわたしを苦しめ悩ますことがない。一と押しにわたしを苦難のまっ唯中に突っこんでくれる。
(c)不確かなる不幸こそ、かえって我らを苦しむ。
(セネカ)
(b)いよいよ事件が到来すれば、わたしは雄々しくそれに当るが、そこにゆくまではまるで子供である。落下の恐れは落下そのものよりも、一層わたしをおののかせる。そんな取越苦労は一文の足しにもならない。けちん坊はその情念のために、貧乏人以上に損をする。やきもちやきはコキュ以上にお気の毒である。それから黙ってぶどうを盗まれている方が、これを法廷で争うより、往々にして損が少ないのである。一番下の段がいちばん安全である。そこは恒常の座席である。君もそこに居れば、ただ君自らだけしかいらない。恒常はそこに全く自己だけによって坐っている。あの誰知らぬものもない貴族の話には、幾らか哲学的な風がありはしないか。その人は青春時代を遊蕩児として送った後、かなり年たけてから結婚したが、大のおしゃべり、大の口わるだった。それまでいかにしばしば、細君の不義を、知らぬが仏の亭主どもを、さらし者にしたかを思い出したので、こんどは自分が同じ恥をかかされまいと、わざと金さえ出せば誰でもこれを求めうる社会に妻を求めてこれと結婚し、「お早う、パンパン!」「こんにちは、コキュ!」とやる約束をした。そして自分の家に来る誰かれをつかまえて、きわめてしばしばまたおおびらに、その計画を話してきかせた。そのために彼はかえって悪口屋の蔭口を封じ、その非難の舌鋒を鈍らした。
(a)野心に至っては、それは自惚れの隣人、いやむしろその娘であるが、わたしを出世させるには、運命がやって来てわたしの手首をとっつかまえなければならなかった。まったく、当てにならない希望のためにこの身を労したり、世間の信用をかちえようと努める者がその門出に当って出あわねばならないいろいろな困難の前に、このわたしまでが身をかがめるなんて、まっぴらご免だ。
(b)われはあだなる希望のために現金を支払わじ。
(テレンティウス)
わたしはわたしが現に見るもの・現に握っているもの・に執着する。そして港からあまり遠ざからない。
右の櫂 は水をうち左の櫂は岸辺をうつ。
(プロペルティウス)
それに、人は先ずもって自己のものを危くしてかからなければ、なかなかああいう高位に達することはない。そこで、わたしはこう考えるのである。「もしこの自分の持っているものが自分の生れ育った境遇を維持するのに足りるならば、これを増加しようという不確実な希望のために、せっかく握っているものを手離すなんてことはばかげている」と。運命から、その足をおくべき足だまり・平穏な生活をおしたてるべき頼り・をこばまれている人間は、自分の持っているものを危険にさらしても、それは仕方がない。なにしろ必要が彼を金さがしに追いたてるんだから。
(c)不幸の内にありては危険なる決意も取らざるをえず。
(セネカ)
(b)実際わたしは、一家の名誉を負い、自ら悪いことをしないかぎり貧乏におちいる心配のない者よりも、次男坊が、その法定相続分を風に委せる方を、むしろ大目に見る。
(a)わたしは過去の時代のよい友人たちの勧告のおかげで、この欲望を脱却し・平然と澄ましかえっていられる・最も近くて最も楽な道をちゃんと見出した。
戦塵にまみれることなく安穏の境涯をたのしめる人の如く。
(ホラティウス)
それに自分でも、自分の力が大事をなすに足りないことが、よくわかるからである。また、「フランス人はお猿さんみたいだ。木のてっぺん目がけて枝から枝へとよじ登る。一番高い枝に達するまでは登ることをやめない。そしていよいよそこにたどりつくと、そこでお尻を出している」といった、故宰相オリヴィエの言葉をも思い出すからである。
(b)身に不相応なる重荷を頭にのせ、ついに堪えずして、
膝を屈し、志をひるがえすは、恥ずかし。
膝を屈し、志をひるがえすは、恥ずかし。
(プロペルティウス)
(a)わたしの内にある、難癖のつけようがない諸々の特質さえ、思えば当世には無用のものである。わたしの心持のやさしさも、人は卑怯気弱と言っているらしい。誠実や良心も、小心だとか潔癖だとか思われているらしく、率直や自主性に至っては、うるさいとか無分別だとか乱暴だとか思われているらしい。不幸も何かの役に立つものだ。はなはだ腐敗した時代に生れるのも損ではない。まったくあたりの者と比較されて、みなさんも安価に有徳の誉れをかちえられるではないか。こんにちではただ父を殺したり神を冒涜したくらいでは、やはり正しい人であり誉れの人なのである。
(b)もし汝の友がかつて汝の財布をあずかりしことを否定せず、
その古き財布を、そのまま汝に返すならば、
そは驚くべき誠実にして歴史に書きとどむるに値す。
よろしく若き子羊を殺してこれをほめたたえるべきなり。
その古き財布を、そのまま汝に返すならば、
そは驚くべき誠実にして歴史に書きとどむるに値す。
よろしく若き子羊を殺してこれをほめたたえるべきなり。
(ユウェナリス)
いまだかつて今日ほど、またわが国においてほど、王侯がたがその仁慈と公正とに対して大きくて確実な報いを期待しうることはなかった。どなたでも、真先にこの方法によって人民の愛と信とをかち得ようと決心あそばされるお方こそ、仲間の王侯がたを出し抜かれるであろうことを、わたしは確信してうたがわない。暴力も何事かをなすことはあるが、常に何事をもなしとげるものではない。
(c)商人も職人も田舎回りの裁判官も、あのとおり武勇や兵学にかけて貴族たちにひけをとってはいない。戦闘においても決闘においても、堂々と戦っている。いざ戦争ともなれば都城を攻めもし守りもする。こういう群衆の中にあっては、王侯もその重んじられるゆえんをおしつぶされてしまう*。どうしてもかれは、その仁愛と誠実と献身と節制と、とくに公正によって、輝かなければならない。ところがそういう特徴は、今は
仁愛ほど民心をとらえるものなし
(キケロ)
* モンテーニュはここに旧来の貴族よりも一般人民のもとに勇気その他の徳が存在することを認め、王侯の反省をうながしている。モンテーニュの人民に対する好意的な感情は、第二巻第二十九章、第三巻第一章、第三巻第十二章等にもよみとられる。
** ここにはモンテーニュのマキアヴェリ批判の片鱗が見られる。彼は、政治が道徳上の規律や神学上の理論から割出されるものではなく、現実の事態から生れるものであることは十分に認識していながら、やはり仁愛とか誠実とかいう道徳力もまた、れっきとした事実であることを見落してはいない。マキアヴェリがこの事実を無視していることを、彼はひそかに不満としている。第三巻第一章参照。
アリストテレスは、公然と憎みまた愛すること、きわめて率直に判断しまた語ること、そして真実のためには他人の賞賛や非難を気にしないことをもって、高潔な人間の務めであるとした。
(a)アポロニオスは、嘘をつくのは奴隷のすること、真実をいうのは自由民のすることだといった。
(b)この真実こそ、徳の第一の・そして基礎的な・要素である。真実はそれ自体のために愛さなくてはならない。こうすることを余儀なくされているから・こうするのが得だから・といって本当のことをいう者、あるいは誰にもかかわりがないからといって平気で嘘をいう者は、十分に正直な人とはいえない。わたしの霊魂は、その性分から嘘をつくことをさける。嘘を心に思うことさえきらいである。
ときにふと嘘が出ると、わたしは心の奥で恥かしく思い、刺すような後悔を感じる。だが時にはわたしも、つい嘘をいってしまう。いろいろな動機が不意にわたしをあわてさせるからである。
(a)常にすべてをいう必要はない。まったくそんなことをしたら馬鹿をみる。けれどもいいだす以上は、心に考えている通りにいわなければならない。そうしないのは邪悪である。絶えず仮面をかぶり変装することから人々はどんな便益を期待しているのか知らないが、けっきょく真実をいう時でさえ人に信じられなくなるだけの話ではあるまいか。そうやって一ぺんや二へんは人を欺くことができる。けれども自分の心を外に現わさないことを自慢にし、我々の王公の誰か*がいったように、「もし着ているシャツがわれらの意図をあずかり知るならこれを火中に投じよう」(これはもと古人メテルス・マケドニクスのいった言葉である)とか、「本心を隠すことができないような者は統治などできるものではない」とか、えらそうな口をきくことは、ただ自分たちと親しまねばならぬはずの人々に、「彼らのいうことはみんな嘘いつわりだぞ」と警戒させるだけである。(c)人はその誠実を失うならば、利巧なれば利巧なるほど、かえって人にうとまれ疑わるるものなり(キケロ)。(a)たとえばティベリウスのように「外面はいつも自分の内部とはちがっているのだ」と公言する者の顔つきや言葉にまで欺される者がもしあるとすれば、それこそ非常なお人よしだ。それにそういう連中は、人々との交わりにおいていったいどのようにあしらわれるであろうか。何一つ本気で聞けるようなことはいわないのだから。
* シャルル八世の言葉として伝わっている。
(c)こんにち帝王の義務を規定するに当って、ただ彼の政策の成功だけを重く見て彼の誠実や良心の方は二の次にした人々*の言うところも、たった一ぺん約束をたがえたおかげで運よくその政治の基礎を固めることができた帝王には、いくらかもっともに思われたことであろう。だがことはそううまくばかり運ぶものではない。人はしばしば同じような事態に出あう。その一生の中には、講和をしたり条約を結んだりせねばならぬことは、一度や二度ではすまないのである。利益が彼ら帝王を第一の不信にさそったのであるが(政治にはほとんど常にこの利益というやつが介入する。あらゆる他の悪事にもそれが伴うように。不敬も殺人も
* マキアヴェリ一派の人々をさす。
(b)なるほどわたしのように人の
(c)アリスティッポスは、自分が哲学からえた主要な果実は、誰にでも自由にうちあけて話ができることであるといった。
(a)記憶というものはすばらしく重宝な道具である。それがないと判断もその務めを行うのに、はなはだ骨が折れる。ところがその記憶がわたしには全く欠けている。人が何かわたしに申入れようと思えば、それをすこしずつ分けていわなければならない。まったく、たくさんのいろいろな項目を含む申入れにお答えすることは、わたしの力に及ばないのである。わたしは手帳なしでは御用を承ることができない。また何か重大な言葉を述べなければならない場合、それが長くて一息でいえない時は、(c)いやな(a)なさけないことではあるが、いやでも自分のいわねばならぬ事柄を(c)一語一語(a)暗記しなければならない。そうでもしなければ恰好もつかないし、また自分の記憶が何かいたずらをしはしないかと、恐ろしくて安心ができないのである。(c)ところがこの方法がまた、わたしにとっては同様にむつかしい。三行暗記するのに三時間もかかる。それから自分の作った文章だと、自由勝手に順序をかえたり語を取り換えたりして絶えず内容を変化させるので、いよいよそれを覚えるのが容易でない。(a)ところで、わたしが記憶をあてにしなければしないだけ、記憶はますますこんがらかる。むしろそれはまぐれ当りに役に立つ。わたしはそれを気長にそれとなく誘い出さねばならない。まったくせっつけばせっつくほど、それはうろたえるばかりなのだ。実際、一ぺんよろめき出したらおしまいである。探れば探る程こんがらかる。それはその気がむいた時だけわたしに役立つ。決してわたしの欲する時には役立ってくれない。わたしが記憶のうちに感ずるところを、わたしは他のいろいろな事柄の中にも感ずる。わたしは命令や義務や束縛をさける。わたしがたやすく自然に行う事柄も、それをきびしい命令によって是非ともするようにと自分に命ずると、どうしてもそれができなくなってしまう。肉体の方もそうで、一種特別な自由と権限とをもっているあのマンブルも、それを強制すると、ぜひ働いてもらわなければならないかんじんな時と場合に、かえってわたしにむかって服従をこばむ。そういう窮屈な圧制的な
わたしの
(a)われ、ひび割れし甕の如く、ここかしこより流れ出 ず。
(テレンティウス)
わたしは(c)三時間前に(a)与えたばかりの・また教えられたばかりの・(c)合(a)言葉を忘れたことも一度や二度ではない。(c)キケロは何というにしても、財布をどこにしまったかまで忘れたことがある。わたしは物を、特に大切にしまい込んでは、かえってなくしてしまう。(a)実に記憶こそ、学問知識の入れものであり
(b)いや、わたしはえらい物忘れの名人だから、自分が書いたり編んだりしたものまでも同様に忘れてしまう。人は始終わたしにむかってわたしの文章を引用するが、わたしはそれに気がつかない。もし人がそこにわたしが積み重ねた詩句や実話の出どころを知りたがるならば、わたしは返答にこまるであろう。だがしかし、それらは何れも、名家名門から頂いて来たものばかりである。わたしは富んだ・そして貴い・人の手の中から出たものでなければ、それ自体が豊富であるだけでは満足しなかったのである。つまりそこにこそ、権威と道理とが二つながらに備わっているからなのである。(c)わたしの書物が他のもろもろの書物と同じ運命をたどっても、またわたしの記憶が、わたしの書いたものをわたしが読んだものと同様に、またわたしの与えたものをわたしが受けたものと同様に、なくしてしまっても、大して驚くにはあたらない。
(a)わたしは記憶の欠如以外にも、大いにわたしの無知を助長する欠点をまだ幾らももっている。わたしの才知はのろくて鈍い。ごく僅かの雲もその切先をとどめるに十分で、例えばどんなにやさしい謎を出してやっても、今まで一ぺんもこれを解くことができなかった程である。どんなにまのぬけた小細工でも、わたしを当惑させないものはない。多少でも才知があずかる遊戯、例えばカルタだとか碁・将棋なども、わたしは唯そのほんのあらましだけしか了解しない。わたしの理解力はのろくてこんがらかっている。だが一度とらえたものはよくこれを保持する。そしてこれを保持している間は、はなはだ完全に・しっかりと・胸のおく深く・これを抱きしめる。わたしの眼は健全で遠見がきく。けれども仕事に疲れやすく、じきにぼうっとする。そういうわけで、他人に読んで貰わなければ長く書物に親しむことができない。小プリニウスはこういう経験のない人々に、どんなにこの種の障害が読書にたずさわる者にとって重大なこと*であるかを教えるであろう。
* 小プリニウスは、その手紙のなかで、伯父プリニウスが、その読書係りの目がわるくてしばしばつかえるのを、叱責したと物語っている。
わたしは田園に生れ、のら仕事を見ながら育った。先祖の財産を受けついでからは、家事万端を自らこの手ににぎっている。ところがわたしは、そろばんも筆算もできない。わが国の貨幣*も大部分見わけがつかない。また穀粒の区別も知らない。それらが畠に実っている時も納屋に納められている時も、よほど明瞭な差異がない限り、その区別がわからない。自分の畠のキャベツとちしゃとでさえ、ほとんど見わけがつかないのである。家内で一番有用な諸道具の名前さえ知らないばかりでなく、農業上の最もおおまかな理屈も、子供でさえ知っているのに、わかっていない。(b)機械の取扱い、商法や商品に関する知識、果物や酒や食品の名前およびその品質にいたっては、なおさらのことだ。小鳥を飼うことも、馬や犬を療治することも、知らない。(a)いや恥ずかしついでに何もかも隠さず申し上げるが、やっとひと月ばかり前のこと、パンを作る時にパンだねがどんな役をするのか、(c)酒を醗酵させるとは、一体どんなことなのか、(a)知らないことがばれてしまった。昔アテナイに、ひと車のいばらを巧みにほどいて束を作るのを見て、この者は算術ができるに違いないと予言した人がいたそうだが、その人はほんとうに、わたしからは正反対の結論を引き出すであろう。まったくわたしに料理の材料と道具をことごとく取揃えて与えて見ても、わたしは依然として腹をすかせているにきまっている。
* 当時の貨幣制度は今日の如く単純でなかった。各都市がそれぞれの貨幣を持っていたようなわけで、貨幣に関する知識は、なかなか綿密なるを要したのである。
* C’est prou que mon jugement ne se defferre poinct, duquel ce sont ici les essais.第一巻第五十章と共に「エッセー」(試し)という標題の意味を明らかにしている。
いかにおん身鼻さとくおわすとも、
アトラスも欲 りすまじき鼻をばもち給うとも、また、
おん身の悪口ラティヌスをば恥じらわせ給うとも、
わがよしなし言につきては、われ自らいう以上に、
悪しざまに罵りたまうことあたわざるべし。
何故なればおん身、空 をば噛み給うや。
噛み且つ飽き足りんには口中に肉片なかるべからず。
君よ、ここに徒らに労し給うなかれ。
むしろ自らほむる者どもの上におん身の毒を吹きかけよ。
われは既に、これが価値なきものなるを自ら知ればなり。
アトラスも
おん身の悪口ラティヌスをば恥じらわせ給うとも、
わがよしなし言につきては、われ自らいう以上に、
悪しざまに罵りたまうことあたわざるべし。
何故なればおん身、
噛み且つ飽き足りんには口中に肉片なかるべからず。
君よ、ここに徒らに労し給うなかれ。
むしろ自らほむる者どもの上におん身の毒を吹きかけよ。
われは既に、これが価値なきものなるを自ら知ればなり。
(マルティアリス)
わたしが少しぐらい馬鹿なことを言ったって、ちゃんとその馬鹿さかげんを承知しているのなら、少しも差しつかえはないはずである。いや、自ら承知で間違いをやらかすことこそ、わたしにきわめて普通のことであって、それとちがった間違いかたをすることは、わたしにはまずないといってよい。つまりうっかりやり損うことは決してないのである。だが人がわたしの愚かな行為を、わたしの無謀無考のせいにするのはまだしもよい方だ。わたし自身は、わたしの不徳な行為をも、いつもこの無謀のせいにしないではいられないのであるから。
ある日わたしはバル・ル・デュックで、人がシチリア王ルネを追慕させるために、この王が自ら描いた肖像を仏王フランソワ二世に献上するところを見たが*、われわれだって彼が絵筆をもってしたように、我々のペンをもって自らを描くことをゆるされてもよいではないか。それでわたしは、人前に出すのにははなはだふさわしくない次のような
* 一五五九年フランソワ二世は姉のクロード・ド・フランスをローレーヌ公シャルル三世の許に送って行った。モンテーニュはそのお供をしたのである。ルネとは、アンジュー公ルネ。le bon roi Ren といわれる。一四一七年、シチリア王となった。文芸の保護者で自ら絵をかいた。
(b)わが心は、然りとも、いなとも、われに答えず。
(ペトラルカ)
わたしにも一つの意見を支持することはちゃんとできる。ただそれを選び出すことができない。
(a)人間界の事柄については、どっちの側に傾くにしても我々にそれを確信させる理由がいくらも出てくるものであるから((c)哲学者クリュシッポスもいったではないか。「自分は師ゼノンおよびクレアンテスから唯その
心疑いの中にある時は
最も軽き重みこれを右に或いは左に傾かす。
最も軽き重みこれを右に或いは左に傾かす。
(テレンティウス)
わたしのどっちつかずの判断は、多くの場合に右にも左にもまったく同じように揺れる*から、わたしは結局、くじと
* 第二巻第十二章、六二三頁註参照。
** すなわち「理性は un bton quant de bouts である」というのは、「どの部分を握って、どの部分で打ったらよいのか、取扱いようのない棍棒である」という意味である。
*** ここにもモンテーニュのカムフラージュが感じとられる。彼自らには意見がなく、他の人々の意見に従ってゆくのが結局気楽でいいように言っているが、なかなかどうして、そうではないであろう。それはすぐ次の句でもわかる。
**** これは見落してはならぬ言葉である。モンテーニュは動揺して定まらぬといわれるけれども、彼にはやはり一つの信念が堅持されていたのである。次の数頁もよくこのことを明示している。
両方の皿に同じ重さが載せられるとき、
秤 はいずれにも上らずまた下らず。
(ティブルス)
たとえばマキアヴェリの論説など、その方面の議論としてはなかなかしっかりしたものだが、それにしてもこれを反駁することは甚だたやすい。いやその反駁者の説だって同じようにわけなく反駁できるのである。あのような論拠に対しては、常に第二訴答・第三訴答・第四訴答をするだけの材料がいくらでもあろう。いや三百代言どもが何とか訴訟に勝とうとして、できるだけ引きのばしたあの際限のない弁論もありうる。
敵我らをうてり。我らもまたこれをうち返せり。
(ホラティウス)
理由というものは経験よりほかにほとんど根拠をもたないし、人間界の出来事はすこぶる雑多で、あらゆる形の限りない実例をわれわれに示すからである。現代のある学者はいった。「我々の暦の中で暑いと書いてある場合に寒いといいたい人は、乾くといってある時に湿るといいたい人は、常に暦のいっていることの逆をいいたい人は、そのどっちかに賭けなければならないにしても、どっち側にくみしようかなどと心配することはいらない。ただしとうてい不確実のありえない場合だけは別で、たとえば降誕祭に酷暑を予言したりヨハネ節に大寒を予言したりすることだけ、しなければよかろう」と。わたしはあの政治上の議論も同じことだと考える。どちら側についてもけっきょく相手と同様の良い手をもつのであって、あまりにもわかりきった明白な原理にさからうようなことさえしなければいいのだ。だからわたしは、政治をする場合には、どんなまずい方法でも、それが相当な年数を経て変らないものであるかぎり、変化動揺よりましでないものはないと思うのである。我々の風儀はきわめて腐敗し、著しい傾き方でだんだん悪い方に傾いている。我々の法律習慣の中にも色々と野蛮奇怪なものがある。だが我々をより良い状態におくことは困難であり、またあの破壊も危険千万であるから、我々の車輪にくさびを
(b)世にこれほど恥ずべく卑しむべき事例はあるべからず。
(ユウェナリス)
(a)わたしがわが国において見出す最悪のものは、不安定ということである。我々の法律が我々の服装と同じく少しも一定した形を取りえないことである。どんな制度でも、これを不完全だととがめることは、はなはだやさしい。まったくこの世のものはすべて不完全にみちみちている。一国民にその古来の習慣を軽蔑させることも、またはなはだやさしい。これを企ててその目的を達しなかった者はいまだかつてなかった。だがその打ち倒した状態をより良い状態にかえるということになると、たくさんの人々がこれを企てたがどうにも手のうちようがなかったのである。
(c)わたしは自ら行動するに当ってあまり自分の思慮に訴えない。わたしは好んで世間一般の秩序の導くがままになる。人の命ずるところを命令する者よりも良く行い、いささかもその理由について思いわずらうことのない人々こそ幸福である。天の流転に従って静かに流転する人々こそ幸福である。理屈をこね議論をする人においては、従順も純粋でなく、平静でもない。
(a)要するに、再びわたし自らに立ちもどると、わたしが自分を何ものかであると認めるただ一つのよりどころは、どんな人も持ち合せないとは思われぬ事柄である。つまりわたしの価値は、平凡な・普通な・誰でもが一様に持っているものなのである。だって、誰がいったい自ら分別を持たないと考えたか。自ら分別をもたぬという考えは、それ自体の中にいくらか矛盾撞着を含んでいるであろう。(c)分別をもたないということは、それが自覚される時には決して存在しない病気である。それは根強い頑固な病気であるが、病人の眼の第一閃はよくそれを貫き退散させる。ちょうど太陽の光線が濃霧をつき破るようなものだ。(a)このことに関しては、自ら咎めることはすなわちゆるされること、であろう。自らを処罰することはすなわち赦免されること、であろう。人足だろうと、名もないただのおかみさんだろうと、それ相応に分別を持っていると考えないものはなかった。我々は容易に他人の中に、勇気・体力・経験・身軽さ・美しさ・などの優越が存在することを認める。だが判断の優越となると、我々はこれを誰にも譲らない。だから他人の中の・単なる生れつきの良識から発している・もろもろの理由は、彼が偶然この方向に目をむけたからこそ見つかったのであって、我々にだってその方面に眼をむけていたら見つかったにちがいないと思っている。学問・文章・その他我々が他人の著作の中に見出すもろもろの特質も、我々のそれらを凌駕していれば我々は容易にそれを認める。けれども悟性の単純な所産となると、各人はそれぞれ自分の中にも全く同様の物を見出しうると考え、それが重大で困難なことだとはなかなか認めない。(c)そこに、よほどの・比べものにならない程の・距離がなければ、そうは認めない。いや認めても、ほんのちょっぴりしか認めない。(a)だからこれは、わたしが推奨と賞賛とをほとんど期待してはならない一種の働きなのである。ほとんど名声を期待することのできない一種の特質なのである*。
* 「だから……」以下の二行は、モンテーニュが自ら重大な特質だと考えているその「分別」「良識」「判断」「理性」についていっているのである。彼は学問も文章も他人に優れているとは高言しない。だが、判断だけは確かなものだと、いささか自負している。けれども、この「分別」「判断」だけでは世間の評判はかち得られない、と彼はいっている。ただ彼の著作はその「分別」「判断」そのもの、その働きの記録なのであるから、この二行は『随想録』その物にも密接な関係をもつ。次のパラグラフ(c)はそのようなわけで加筆せられたのであろう。要するにモンテーニュにおいては、分別判断の具現が『随想録』なので、両方は一つで二つではないのである。
* モンテーニュは第三巻第十三章においてこの間違いをした。おそらく学者側から散々たたかれたのでここにこう書いているのだろう。真理はどっちの人が言ったにしても、真理であることに変りはない、と彼は思っている。だから引用句にしても一々出典を示さなかったのであろうし、一般の読者はそれにこだわることはない。内容さえ捉えればそれでよいのである。
生きること、すこやかなることこそ、わが学問なれ。
(ルクレティウス)
さてわたしの意見は、わたしの無能を咎める点で限りなく大胆でまた執拗であると思う。本当に、わたしの無能もまた他のいろいろな主題と同様に、わたしの判断力を鍛練するのによい主題である。世の人は常に自分の正面を見る。わたしは眼を内部にかえす。そこにすえてじっとはなさない。みんなは自分の前を見る。わたしは自分の内部を見る。わたしは唯わたしだけが相手なのだ。わたしは絶えずわたしを考察し、わたしを検査し、わたしを吟味する。他の人々は常によそに行く。よく考えて見ればわかることだ。彼らは常に前に進む。
なんぴとも己れ自らの中に下りゆかん*とはせず。
(ペルシウス)
わたしはわたし自身の内をころがる**。
* nemo in sese tentat descendere(Persius), この「自らの中におりてゆく」というのは、自己を省察するという意味、introspection をする意味であって、今日の仏語でも同じ意味で descendre dans sa conscience, descendre en soi-mme ということがいわれる。
** Je me roulle en moi-mme.この se roller(=se rouler)という句は、恐らくモンテーニュがペルシウスの句に唆かされて創案した彼独特の表現であろう。すなわち自己を反芻する意味であるが、この方は descendre とちがって、その後一般化したとは考えられない。
* 前出七七二頁註****の中に説明した句と共に、彼の信念のほどを想わせる句である。彼が動揺常なく見えるのは、彼の霊魂がその向け方によっていろいろな面を見せるだけのことで(第二巻第一章、四一三―四一四頁参照)、根本においては何れも同じ彼の霊魂なのである。
* ここにモンテーニュの性格がいよいよ明確に語られている。それは第二巻第一章に述べられているように動揺して定まらないものではなく、一つの一貫性をもっていることが、モンテーニュ自らによってはっきりと言われている。
たぶん古人の考え方に絶えず親しんでいることや、あの過去の時代の豊かな霊魂を胸に思っていることが、わたしに他人にも自分にも愛想をつかさせるのであろう。でなければ、本当に我々が、きわめて平凡なものだけしか産み出さない世紀に生きているせいであろう。とにかくわたしは、大きな感嘆に価するものを何一つ知らないのである。またわたしは、人々とあまり親密に交わってはいないから、彼らを十分に判断することができないのだ。それにわたしの身分がわたしに最もしばしば接近させる人々ときては、大部分霊魂の
(b)敵に対してだって払うべき尊敬はちゃんと払う。(c)わたしの感情は変るがわたしの判断は変らない。(b)そしてわたしは自分の喧嘩を、これとは全く関係のない他の事情と混同しない。また自分の判断の自由を非常に尊重するから、どんな情念のためにもそれを捨てることは容易にできない。(c)嘘をつけばかえってわたしの方が損をする。わたしに嘘をつかれたその人以上にこっちが損をする。ペルシアの国民が、その激しい戦いをしかけている不倶戴天の敵についても、その武徳が価するだけのことはいつも公平にまた敬虔に語る、あのほむべき立派な習慣は、認められねばならない。
(a)わたしはいろいろな立派な特質をもっている人々をかなりたくさん知っている。ある者は機知を、ある者は勇気を、ある者は巧妙を、ある者は良心を、ある者は弁舌を、ある者は学識を、ある者はまた何か別のものを、もっている。けれどもすべての点において偉大な人、たくさんのよい性質を一身にあつめている人、或いはそのどれかを驚嘆しないではいられないほど優れた程度に、または我々が尊敬する過去の偉人にもくらべうる程度に、もっている人には、運わるくまだ一ぺんもあったことがない。いや生きている人としてわたしが知り得た最も偉大な人(それは霊魂が生れながらにもっている特質についていうのであるが)、最もよく生れついた人といえば、それはエチエンヌ・ド・ラ・ボエシであった。それはほんとうにみちみちた霊魂・どういう角度から見ても美しい霊魂・であった。古人の面影のある霊魂・もし運命が許したなら学問研究によってその豊富な天性をますます富まし偉大な功績をのこしたであろう霊魂・であった。けれども最も多くの力量ありと誇る人々、文学的職業・書物に関係のある職務・にたずさわる人々においてさえ、普通一般の人々におけると同じような空虚な力弱い判断が見出されるのは一体どうしたわけであろう((c)確かにそういうことがあるのである)。(a)それは、人が彼らに余りに多くを期待するからか。あるいは、彼らにおいては普通の過失でも許しがたいからか。それとも、自ら学問があるという自惚れのために、彼らがいよいよ大胆にしゃべったり出しゃばったりし、そのためにかえって度を失って本性を暴露するに至ったからであろうか。たとえば芸術家が高貴な材料を用いるとき、もしこれを不器用に・その道の規則に反するように・取扱うならば、下等な材料を用いるときよりも一そうその愚を暴露するようなわけであろうか。つまりわれわれが塑像における欠点よりも黄金像における欠点に一そう不愉快になるようなわけであろうか。学者たちもまた、それ自体・その原典においては・立派であるらしい事柄を受売りする時、同じ憂目にあう。まったく彼らは無分別にそれらを借用し、ますます古人の徳をかがやかしながら自己の悟性を貶めている。キケロ、ガレノス、ウルピアヌス、聖ヒエロニムスをいよいよ尊くしながら、自分自らをますますわらうべきものにしている。
わたしはここで、再び我々の教育の仕方がわるいという論*に立ちもどる。それは我々を善人や賢者にすることを目的とせず、物知りにすることを目的とした。その目的は達せられた。徳や知恵を追求し抱擁することを教えないで、唯それらの語の転化と語原とを教えこんだ。我々は徳という語を変化させることはできるが、徳を愛することは知らない。我々は実践と経験とによっては知恵がどんなものかを知らないけれども、言葉の上ではそれを暗記している。我らは隣人についても、その家柄や血縁や縁組の関係を知るだけでは満足せず、進んで彼らを友としようと願い、彼らといくらかでも交際したいと思う。それなのにわが国の教育は、まるで一つの家系の中のいろいろな名字や分家を教えるように徳の定義とその分類とを教えたが、いささかも我々と徳との間に親密なうちとけた交際を生み出させようとは努めなかった。我々の教科書として、最も健全で最も真実な意見にみちた書物ではなしに、最も純粋なギリシア語やラテン語が語られている書籍の方を選んでくれた。そしてその最も華やかな言葉を通じて、我々の思想の中に古代の最も浮薄な気分を注ぎこんだ。よい教育は、判断と行動のし方とを変化せしめる。例えばあのギリシアの若い遊蕩児ポレモンを見たまえ。彼は偶然(c)クセノクラテスの(a)講演をききに行ったが、たんに講師の雄弁博学を認めたばかりでなく、また何やらの立派な事柄を聞きかじって帰ったばかりでなく、もっと目に見える・もっと堅固な・果実を得て帰った。というのはほかでもない。俄然彼の前半生が変化し改善されたのである。誰がいったいわが国の教育からそのような感化をこうむったか。
汝はよく、
改心せるポレモンがなしたるがごとくなしうるや。
汝が狂気のしるしたるリボンやクッションや襟飾りを捨てうるや。
伝うらく、彼はひそかに首にかけたる花の輪飾りを捨てたり。
精進して道を説きたる師の姿にそれ程までにうたれしなりき。
改心せるポレモンがなしたるがごとくなしうるや。
汝が狂気のしるしたるリボンやクッションや襟飾りを捨てうるや。
伝うらく、彼はひそかに首にかけたる花の輪飾りを捨てたり。
精進して道を説きたる師の姿にそれ程までにうたれしなりき。
(ホラティウス)
* 第一巻第二十六章の所論。
* ここでもまたモンテーニュは学問のない百姓の自然の知恵をたたえているが、ほかの場所、特に第一巻第二十五章、第一巻第三十九章、第三巻第十一章などでは、やはり学問教養のある人の方が、それのない人よりもすぐれていることを認めている。彼は学問文化を蔑視するのではなく、まちがった学問の仕方や、小利口を排斥するだけである。
* フランソワ・ド・ギュイズのことで、第一巻第二十三章にも語られている。ストロッツィ元帥については第二巻第三十四章にも出てくるが、白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」の註をも参照せられたい。トゥルネブスについては前出第二巻第十二章に見たとおりである。
(c)またラ・ヌー殿が、武装した諸党派があれほどに不正をこととした時代にあって、いつも変らぬ慈愛と、やさしい心情、良心的な柔和をもっていたこともまた同様で、彼は裏切り・非道・掠奪・の学校ともいうべきそうした社会に生きながら、偉大で練達なる武人とし終始された。
わたしは既にいろいろな場所で、我がゆかりの娘*マリ・ド・グルネ・ル・ジャールにわたしがかけている希望を喜んで公表した。ほんとうにこの娘を、わたしは父以上の心をもって愛しているのである。
* fille d’alliance. 血をわけた娘でなく、精神的に結ばれた娘の意味であって、fille adoptive ではない。モンテーニュはかつて La Botie を frre d’alliance と呼んだし、Mlle de Gournay も、モンテーニュの死後、Juste-Lipse を frre d’alliance と呼んだ。こういう称呼は、当時の流行であったといえよう。
以上が、今日までにわたしの知っている・異常な並々ならぬ・偉人の全部である。
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この章もまた前章の続きと考えられる。彼はここで自らを描くことについて弁明している。彼は後に第三巻第二章においても弁明するが、その仕方はそれぞれ違う。ここではまだ序文(一五八〇)に書いているように、親族朋友のために自らを描いているのだといっている。そんなつまらない物を印刷させるのは、ただ幾冊かのコピーを造らなければならない手数をはぶくためにすぎないという。だがのちに第三巻第二章(一五八六)では、自分の肖像のなかにも「人間性の完全な姿」が含まれているから、世間一般のためにも役に立つという。すなわちこの章は一五八〇年の序文時代のエッセーとして後出「後悔について」の章と対比して読むべきである。
なお例によって、標題の「嘘」の問題は章の終りにやっと顔を出す。嘘(厳密にいえば食言)dmentir というのは、特に以前に認めたり言明したり約束したりしたことを後日に至って否定することをいうのである。モンテーニュはこの種のうそばかりでなく、すべての種類のうそを極度に憎んだ。ありのまま・率直・であることが彼のいわば身上でありまた魅力でもあることは、序文の解説でも前章の解説でもふれたとおりである。ただそれ程に真実を愛する彼が、実際においてはしばしば『随想録』の各所に矛盾撞着する言葉を洩らしているのはなぜであろうか。恐らくそれは、一つには時代が険悪で当局の圧迫が甚だしく、そういうカムフラージュでもしなければ結局自分の所信を述べることも目的を貫徹することもできなかったからであろう(パリ高等法院の判事だったアンヌ・デュ・ブール Anne du Bourg が結局火あぶりの刑に処せられた事実を、我々はここに想出す必要がある)。それに余りに正直すぎることはかえって徒らに不和喧嘩をまきおこすばかりで、彼の寛容と平和の理想にも反するからであろう。モンテーニュには哲学者と社交家とが混在するといわれるのはそこなのである。仏教家が嘘も方便という通り、聖フランソワ・ド・サルにしても、その『信仰生活への手引』の中で、「一般的には決して真理をまげたりごまかしたりしてはならないが、神様のためにそうすることが是非必要な場合は仕方がない」といっているが、もし少しでもうそに類するものがモンテーニュにもあるとすれば、それは社会の平和・国法の維持・という目的のための方便であったにちがいない。
なお例によって、標題の「嘘」の問題は章の終りにやっと顔を出す。嘘(厳密にいえば食言)dmentir というのは、特に以前に認めたり言明したり約束したりしたことを後日に至って否定することをいうのである。モンテーニュはこの種のうそばかりでなく、すべての種類のうそを極度に憎んだ。ありのまま・率直・であることが彼のいわば身上でありまた魅力でもあることは、序文の解説でも前章の解説でもふれたとおりである。ただそれ程に真実を愛する彼が、実際においてはしばしば『随想録』の各所に矛盾撞着する言葉を洩らしているのはなぜであろうか。恐らくそれは、一つには時代が険悪で当局の圧迫が甚だしく、そういうカムフラージュでもしなければ結局自分の所信を述べることも目的を貫徹することもできなかったからであろう(パリ高等法院の判事だったアンヌ・デュ・ブール Anne du Bourg が結局火あぶりの刑に処せられた事実を、我々はここに想出す必要がある)。それに余りに正直すぎることはかえって徒らに不和喧嘩をまきおこすばかりで、彼の寛容と平和の理想にも反するからであろう。モンテーニュには哲学者と社交家とが混在するといわれるのはそこなのである。仏教家が嘘も方便という通り、聖フランソワ・ド・サルにしても、その『信仰生活への手引』の中で、「一般的には決して真理をまげたりごまかしたりしてはならないが、神様のためにそうすることが是非必要な場合は仕方がない」といっているが、もし少しでもうそに類するものがモンテーニュにもあるとすれば、それは社会の平和・国法の維持・という目的のための方便であったにちがいない。
(a)それ*にしても、人はわたしにいうであろう。「その己れ自らを書き物の主題として用いようという企ては、稀にみる有名な人々には許されるべきであろう。彼らの評判は、人々に彼らを知りたいという幾分かの欲望を起させるであろうから」と。確かにそうだ。その通りだとわたしも思う。実際、ただの人を見るためには、職人はその仕事から眼をあげようとさえしないが、えらい有名な人物がどこそこの町においでになるとでも聞こうものなら、仕事場も店もがらあきにするのである。なるほど、自ら人に模倣されるだけのものを持っている者・その生活や意見が人の
* 一章の最初に「それにしても」とか「それはそうだが」とあるのは唐突な感じを与えるが、それはこの章が前章の継続として書かれているからである。それは同時に、エッセー全体が言文一致調の談話体でかかれていること、それから一般に信ぜられるように、またモンテーニュ自ら言っているように、『随想録』の各章は単なる fagotage(たば)ではなくて、巧みに組み合されたものであるということをも示しているのである。
われはこれを、ただ僅かにわが友人にのみ、
しかも、彼らより求められたる時にのみ読むにすぎず。
決して至る処、すべての人の前に、読むにはあらず。
しかるに、或いは会議場のただ中にて、
或いは公衆の浴場のただ中にて、
己れの書きたるものを声高らかに読む作者少からず。
しかも、彼らより求められたる時にのみ読むにすぎず。
決して至る処、すべての人の前に、読むにはあらず。
しかるに、或いは会議場のただ中にて、
或いは公衆の浴場のただ中にて、
己れの書きたるものを声高らかに読む作者少からず。
(ホラティウス)
わたしはここに、町の四辻や教会堂の唯中や公の広場などにおっ立てるような、そんな像を立てているわけではない。
(b)われはここにわが書ける物を、
針小棒大なる言葉もてふくらまさんとにはあらず。
ただ膝を交えて語らんとはするなり。
針小棒大なる言葉もてふくらまさんとにはあらず。
ただ膝を交えて語らんとはするなり。
(ペルシウス)
(a)それは書斎の片隅に置いて、隣りの人や肉親や友だちなどをよろこばせるためのもので、そういう人たちは、この自画像の中に再びわたしと親しみ交わることができて喜んでくれるであろう。ほかの人たちが自分について語る気をおこしたのは、そこに価値ある・豊富な・主題を見出したからであるが、わたしはあべこべに、自分があまりにも貧弱で痩せっぽちなのを知ったからで、自慢におちいる心配などは毛頭ないのである。
(c)わたしはよく他人の行為を判断する。だがわたしの行為はあまりにもつまらなくて、ほとんどひとさまの判断のたねにもならない。
(b)わたしはあまりにも自分のうちに善いことを見出さないから、さすがに自分を語るときには赤面せずにはいられない。
(a)そのように誰かがわたしの先祖たちの気風や(c)容貌や態度や日常の言葉や(a)運不運などを語り聞かせてくれるなら、わたしの満足はどんなであろうか。どんなに注意してそれをきくであろうか。ほんとうに友人や先輩の肖像までも、(c)彼らの衣服の着方や武器の帯び方なども(a)おかしいといってわらうのは、性質のよくない証拠であろう。(c)わたしは彼らの筆跡や印形や祈祷書や、彼らが用いた特殊の剣などを保存している。父が常にたずさえていた長い
父の衣服指輪などは、彼に対する愛情の深ければ深きほど、その子たちによりてなつかしまるるものなり(聖アウグスティヌス)。
(a)だがわたしの子々孫々がわたしとはちがった趣味をもとうとも、わたしは立派にしかえしをすることができるだろう。まったくその時、わたしは絶対に彼らのことを念頭におかないでいられるが*、彼らの方ではそれほどまでにわたしに無関心ではいられないのである。わたしのこの本における世の人々とのつながりも、結局彼らから、自分で書くよりは迅速で容易な、書く道具を借りている、ということだけである**。その代り(c)わたしの方では、おそらく包み紙になって、バタの隅っこが市場で溶けて流れるのを防いであげられることと思っている。
(a)まぐろとオリーヴの包み紙にことかくことなかれかし。
(マルティアリス)
(b)われはしばしば鯖 のために胸ゆたかなる衣を提供せん。
(カトゥルス)
* ここでもモンテーニュが霊魂の不滅を信じていないことがうかがわれる。彼は子孫たちが自分にどれ程冷淡な態度に出ようとも、あの世に行ってしまえば何も感じないのだから平気なものだというのである。
** 印刷術のお蔭をこうむっている以外に公衆との関係はない、またこの本は自分のもので出来上っているので他からの借りものは一つもない、という意味である。
最も甘美な快楽は、ほんとうに、深い内部においてこそ味わいつくされるのであって、自分の跡をのこすことを避ける。それは大勢の人の眼を避けるばかりでなく、誰の目をも避けるのである。
幾たびこの仕事は、わたしをものうい考えからそらしてくれたことか。実際つまらない考えは、すべてもの憂い考えのうちに数えられなければならない。自然は我々に、独りで自分と語り合う能力を十分に賦与した。そして、「我々は自分を一部分社会に負うけれども、その最良の部分はこれを自分に負うのだ」ということを学びとらせるために、しばしばわれわれをこの能力へとさそう。わたしの思想がただ夢想するだけにしても何らかの秩序と目的に従うようにするには、そしてそれが風のまにまに吹き散らされないようにするには、その中に浮び上るたくさんのこまごました断想に一々形を与え、それらを記録するのが一番である。わたしは自分の夢想に耳を傾ける。やがてこれを記録しなければならないからである。幾たびわたしは、ある種の行為を礼儀や理性のために公々然と非難するわけにゆかないのを悲しみ、またいささか世間のためも思わないではなく、ここに腹の底をぶちまけたことであったか。いや実に次のような詩の鞭
目の上にぴしゃり、鼻づらの上にぴしゃり、
小猿 めの背なかにぴしゃり*。
(マロ)
は、生身の上によりも紙の上にこそ、より深く刻みつけられるのである。それどころかわたしは、自分の書物の飾りとしたり支えとしたりするために、何かよそからもくすね取ることができるのではないかと
* マロ Marot が、その敵サゴン Sagon に報いた小詩 Fripelipes, valet de Marot, Sagon の中の句。小猿 sagoin は Sagon の名をもじったのである。
(a)けれどもこんな堕落した
そこでわたしはしばしば考えた。「なぜ我々は、我々にとってこんなにも普通なこの不徳を叱責されると、他の何事を叱責されるのよりも辛く感ずるのか。なぜ嘘つきと咎められることを、言葉によってなされる最大の侮辱と考えるのか。なぜこのような習慣を後生大事にいつまでも守っているのか」と。だが考えて見ると、我々に最も深く沁みこんでいる欠点だからこそ、我々は最も強くこれを否定するので、これはむしろ自然なことであろう。どうも我々は、世間の非難に憤慨したり興奮したりしていれば、いくらか自分の罪が軽くなるくらいに思うらしい。我々は実際にこの欠点をもっているものだから、表面だけでもそれを咎めて見せたくなるのではあるまいか。
(b)あるいはこの〔嘘に対する〕叱責が、臆病と卑怯をも一緒に非難しているように思われるからではあるまいか。一ぺんいった言葉をとり消すことくらい、明白な臆病卑怯はないではないか。自分が腹のなかで思っている事柄を言いまぎらすにいたっては、なおさらではないか。
(a)嘘をつくということは実に
* モンテーニュがいかに虚偽をにくみ真実を愛したかがこれでよくわかる。第一巻第九章にも同じ気持がのべられている。
(a)あのギリシアの快男子*はいった。「子供はお手玉をもてあそび、大人は言葉をもてあそぶ」と。
* リュザンドロス。
* 決闘に対する批判はやがて第二巻第二十七章に出てくる。同章解説参照。
この章の中にモンテーニュが背教者ユリアヌスを賞賛しているのは、当時としては非常に大胆なことと言わねばならない。この点も一五八〇年ローマ庁で叱られたことの一つであるが、彼はその後一向改めていない。
(a)善良な意図も節度なく行われると、人々をはなはだ不徳な行為に押しやるということは、我々が始終見るところである。こんにちフランスを内乱のちまたと化しているあの論争において、最も良い最も健全な党派といえば、それは疑いもなくこの国旧来の宗教と政体とを維持するそれである。けれどもこれに
確かに、我々の宗教が法令によってようやく権威を得始めた最初の頃は、たくさんの人々が熱心の余り、あらゆる種類の異教の書物を排斥した。そのために文学者たちは、非常な損失をこうむっている。わたしはこうした乱暴こそ、蛮族の兵火以上に人文を害したと思う。コルネリウス・タキトゥスがそのよい証人である。まったく彼の縁者であった皇帝タキトゥスは、特に命令して世界のあらゆる図書館に彼の書物を備えさせたにもかかわらず、そのうちのただの一冊さえ、我々の信仰に反するつまらぬ五六句のためにこれを破棄しようと願う者どもの、執念深い捜査を免れることはできなかったのである。それにそういう熱心家は、我々キリスト教徒の側に立つすべての皇帝に不当な賞賛を安売りし、我々に敵である皇帝たちの行為は何から何までやっつけた。それは背教者と
ほんとうにこの人は、はなはだ偉大な・たぐい稀なる・人物であった。その霊魂は哲学上の諸論説で色こく染められていて、それらに自分のすべての行為をかなわせることをもって彼は自らの主義としていたからである。実際いかなる種類の徳も、彼によってはなはだ顕著な模範を示されないものはなかった。たとえば純潔という点では(これを彼の全生涯はきわめて明瞭に証拠だてているが)、アレクサンドロスおよびスキピオのそれとよく似た逸話が、彼について書き伝えられている。すなわち、彼は当時なお花の盛りの年頃であったのに(まったく彼は、パルティア人に殺されたときやっと三十一にすぎなかったのである)、たくさんのはなはだ美しい囚われの女の中の、ただ一人をさえ見ようとしなかったといわれている。その正義の人であったことは、わざわざ自分で人民の訴えを聞いたくらいだった。そして、好奇心から彼の前に呼び出される者どもにその奉じている宗教を問いはしたけれども、彼がキリスト教に対してもっている反感は少しもその裁判の公正に影響しなかった。彼は自ら多くの良い法律を設け、前の皇帝たちが取り立てていた賦課の大部分を撤廃した。
我々はこの人の行為を
* 『ローマ帝国史』Ammianus Marcellinus: Rerum gestarum, lib. ※[#ローマ数字31小文字、789-19].
** この司教は、ただれ目で物がよく見えなかったのである。
宗教の事となると、彼は徹頭徹尾まちがっていた。我々の宗教を捨てたので、人彼を呼んで背教者という。けれども、「彼は一ぺんもキリスト教を本気で信じたことはなかった。むしろ法規に従わなければならないので、自ら権力を握るに至るまでそう装っていたのである」という説の方が、本当らしく思われる。彼は自分の奉ずる宗教においてははなはだ迷信的で、彼の時代の人々さえそれをわらったくらいである。いや、もしパルティア人に勝ったならば、彼は犠牲にあてるために世界中の牛の種を絶やしたことであろうなどと、いわれた程なのである。彼はまた占いの学問に溺れ、あらゆる予言に信をおいた。彼は死に際していろいろなことをいったが、中にこんなことがあった。「わたしは神々が不意にわたしを殺そうとしないで、久しい前から
(c)彼が傷をうけた時にいったと伝えられる・あの「ナザレびと、お前は勝った」とか「満足せよ、ナザレ人」とかいう・言葉も、もしわが二人の証人の信ずるところであったならば、これまた書きおとされるはずがないのである。この二人は
(a)さて本題に立ちかえるに、彼は(とマルケリヌスはいっている)、その心の中に久しい以前から邪教を