モンテーニュ随想録

ESSAIS DE MONTAIGNE

第二巻

ミシェル・エーケム・ド・モンテーニュ Michel Eyquem de Montaigne

関根秀雄訳




第一章 我々の行為の定めなさについて



 この章は第一巻第一章と、初版『随想録』においてはその最終章である第二巻第三十七章との、両極を結んでいるように見える。三章ともいずれも人間が変化してやまないことを述べている。

 (a)一人の人間の伝記をかこうとしている人たちが、何よりも当惑を感じさせられるのは、その人のいろいろな行為を洩れなく書きつらねながら、しかもそれらの間に連絡をつけて、その全体をいかにも一人の人の一生らしく示さねばならないときである。まったく人間の行為の一つ一つはいつも不思議に矛盾していて、とても同じお店から出た物とは考えられないのである。若いマリウスは、或る時はマルス〔軍の神〕の息子となり、或る時はウェヌス〔愛と美の女神〕の息子となった。法王ボニファキウス八世は、狐のようにその職につき、獅子のようにこれを行い、ついに犬のように死んだという。また誰が信じようか。あの残酷の標本ともいうべきネロまでが、或る日、例のように家来から、一人の罪人の死刑の宣告に署名をしてくれと言われると、「おお字などを学ばなければよかった!」と嘆息したとは。それほどまでに、人ただ一人を死刑に処することが、彼の心を悲しませたとは。だがこういう実例は、いたるところに充ちみちている。いやそれどころか、人は誰でもそういう例を、いくらでもかき集めることができるくらいなのであるから、わたしは時々分別ある人たちまでが、この種の断片を取り合せて、それらを一つに継合せようと無理をしておられるのを見ると、何だかおかしな気がする。だって心の定まらないことこそ、我々の天性の最も普通でまた顕著な欠陥なのであるから。その証拠には、狂言作者プブリウスの次の句は誰一人知らぬものはあるまい。

変更しえざる意見は悪しき意見なり。
(プブリウス・スュルス)

* モラリスト、人物評論家、史論家などを含めて言っている。
 (b)一人の人間をその人の一生の最も普通な言行によって判断するのには、多少理由がある。けれども我々の気分や思想は本来不安定なものであるから、わたしはしばしばこう思った。いくらえらい著者だって我々を常にかわりのない不動なものに作り上げようとがんばるのは間違いであると。彼らは或る一般的な様子をとりあげ、この姿を基にして一人の人間のすべての行為を分類し解釈してゆく。そして十分にそれらのつじつまを合わせることができないと、それをその人の隠しだて猫かぶりのせいにしてしまう。アウグストゥスは彼らの手におえなかった。まったくこの人においては、その一生を通じてきわめて多様な行為が甚だ顕著に・唐突に・また不断に・交替したので、最も大胆な批評家の独断をも免れ、そっくりそのまま、未決定のままに残されたのであった。わたしには、人間の恒常性を信じることが何よりもむつかしく、かえってその不常性の方が容易に信じられるのである。人間を細部において(c)個々別々に(b)判断するひとこそ、最もしばしば真実を言いあてるであろう。
 (a)古代全体を通じて、自分の生活をしっかりした一定の方針に従わせた者を、十二人選抜するということはなかなか容易でないが、そのように生きることこそ知恵の主要な目的なのである。まったく古人〔セネカ〕が言ったように、知恵ということをただの一語のうちに含めるならば、そしてただ一つの規則に我々の生活上のすべての規則を一括するならば、「それはいつも同一のことを欲しつづけ避けつづけること」だ。申し添えるまでもないが(とその人も言っているが)、「それは心の持ち方が正しい場合に限るのであって、もしそうでない時には、一定の考えを貫くことは不可能である」。実際わたしはかつて学んだことがある。「不徳とは不規則にすぎず、節度の欠如にすぎない。したがってそれに恒常性を結びつけることは不可能である」と。また、これはデモステネスの言葉だそうだが、こんなのがある。つまり、「すべての徳性の始まりは熟慮熟考であり、その完成は心がわりしないことである」と。もし我々が熟慮によって一定の道をとるならば、我々は最も美しい道をとることになろう。ところが、誰ひとりそうは考えなかった。

彼は嘗て望みたるものを早くも捨て、
今捨てたるばかりのものを再び欲す。
彼は常に動揺し、その人生は絶えざる矛盾。
(ホラティウス)

 我々の普通のゆき方は、身を機会の風の運ぶのに委せて、右に左に、上に下に、ただただ欲望の赴くところにこれ従うことである。我々が自分の欲する事柄を考えているのは、これを望んでいるその瞬間だけで、あとはまるで置かれた場所によってその身の色を変えるというあの動物のように変る。たった今企画したばかりのことを我々はじきに変える。そうかと思うと、すぐまたもとのことにもどる。要するにそれは動揺と不定にすぎないのである。

我々はあたかもあやつり人形の如く、外なる糸に操らる。
(ホラティウス)

 我々は自分で行くのではない。運ばれてゆくのだ。まるで水に浮いた物のように、波が怒っているか静かであるかによって、或いは静かに或いは荒々しく。

   (b)我らは見るにあらずや。
人はその欲するものの何なるやを知らざるに絶えず求めつつあるを。
何処にその重荷を卸さんかと、その場所を捜しつつあるを。
(ルクレティウス)

 (a)われわれは日ごとにちがった思いをもち、我々の心持はお天気とともに変る。

人々の思いは変る。ユピテルが
彼らにふり注ぐその光線のごとく。
(ホメロス)

 (c)我々は相反するさまざまな意見の間に漂っている。我々は何一つ自由に・何一つ絶対的に・何一ついつも変らずに・意欲してはいない。
 (a)頭の中にしっかりした規律と組織とをうちたてているらしい人においては、その全生涯を通じて、到るところに一様にして変らない思いと、もろもろの所業を貫く厳たる秩序と関連とが、光り輝いているのを我々は見るであろう。
 (c)エンペドクレスは、アグリゲントゥムの住民の間に、彼らがある時はまるで明日は死ななければならないかのように快楽に耽るかと思うと、またある時はまるで永久に死ぬことがないかのように建設にいそしむという、矛盾を認めた。
 (a)その説明はきわめて容易である。例えば小カトーの場合がそうであるが、そのキーの一つを押したものはすべてのキーを押したことになる。つまりそれは甚だよく共鳴する諸音の調和と同じことで、どこを押しても調和の乱れることはないのである。ところが我々の場合は違う。いくつもの行為があれば、それだけの個別的判断が必要になる。一番確かなのは、わたしの考えでは、それらをその前後の事情に結びつけて考えることであって、それ以上遠くにその原因をたずねたり、あまりにかけ離れた結論をそれから引き出したりはしないがよい。
* 三行さかのぼり「光り輝いているのを我々は見るであろう」につづく。(c)の二行がこの連絡を不明にしている。このような場合はしばしばある。
 哀れにもわが国が戦乱の巷と化したときのことであるが、わたしはこういう話をきいた。当時わたしがいた所のきわめて近くで、一人の娘がその家に泊った無頼な兵士の暴行を避けようとして高い窓から身を投げた。それでも彼女は死ななかった。そこで更にその初志を貫くために、ナイフでのどを突こうとしたが、こんどは人に妨げられて果さず、ただそのためにかなりひどい傷を負ったばかりであった。彼女自ら告白するところによれば、兵士はただ懇願と贈物とをもって迫っただけだったのだが、しまいには手ごめにされそうでこわかったのだそうである。いかにもその言葉といいその態度といいまたその血潮といい、彼女の徳性を示してあまりがあり、さながら第二のルクレティアともいうべきだった。だがこれは後にきいた話だが、本当に彼女は、その以前にもその以後にも、そんなに近より難い女子おなごではなかったのである。物語にもあるではないか。「男振りもよく優しくもあるのに、本望をとげなかったからといって、すぐに相手の娘を、純潔でおかし難いと早合点してはいけない。それは決して、驢馬ひき**は望みなしという意味ではない」と。
* ローマの貴婦人、美貌貞淑、人の凌辱をうけ夫に復讐を頼んで自殺したと伝えらる。
** ※(始め二重山括弧、1-1-52)病人は一度であきらめろ。健康者は二度あたって見ろ。色男なら三度まではよろしい。坊主は四、五遍口説かねばなるまい。六、七遍となると、普通の人間としては厚かましすぎる。それは驢馬ひきのすることだ※(終わり二重山括弧、1-1-53)という恋の掟があるそうだ。cf. Villey: Les Sources des Essais. p.172. またマルグリット王妃の『ヘプタメロン』第二日の第二十話にも驢馬ひきの話が出てくる。
 アンティゴノスはその兵卒の一人を、その豪勇の故に深く寵愛せられたが、或るとき侍医たちに向って、「彼は長らく内臓の病に苦しんでいる。手当をしてとらせよ」とお命じになった。ところが病気が治ってからというもの、彼がもとのように勇ましく戦いに赴かないことを知られて、「一体誰がお前をそんな臆病者に変えたのか」とお尋ねになった。「恐れながらそれは陛下でございます」と彼は答えた。「あれほどの病を直していただきましたによって、今では命が惜しゅうなりました」と。ルクルスの兵卒は、敵のために丸裸にされたので、その腹いせに敵に対して目覚ましい働きをした。彼がこのように立派に恥をそそいだのを見て、ルクルスは大いに感じ入り、言葉を尽して、

卑怯者をもふるい立たせん言葉をもちいて、
(ホラティウス)

彼を或る困難な事に当らせようとした。ところが、「誰か身ぐるみ剥がれた哀れな兵士をみつけてこれに当て給え」と彼は答えて、

無知なる男なりしかど、彼は答えき。
「その財布を奪われし者こそ、そこに行かんずらん」と。
(ホラティウス)

断然、自らそこに行くことを拒絶した。
 (c)或る本の中に、「マホメットが、その近衛の隊長であったシャサンがハンガリア人のためにその隊列を押し破られるのを黙って見ていたばかりか自ら戦いに臨んで卑怯の振舞をしたのを見て、口をきわめてこれを罵ったところ、彼シャサンは、それには一言も答えず、そのまま憤然として、ただ独り剣をふりかざして、おりから進み出でた敵のただ中に切りこんだきり、姿はたちまちに見えなくなった」と書いてあるのを読んだが、恐らくそれは申し開きではなくて気がわりであり、かれ性来の勇気ではなくて一時の腹立ちまぎれにすぎなかったろう。
 (a)昨日まであんなに勇ましかったものが今日はこんなにまで腰抜けであるのを見ても、あやしんではいけない。怒りか、必要か、仲間か、酒か、或いはまたラッパの音かが、彼の腹のなかに勇気をふきこんだのであった。それは理性によって鍛えられた勇気ではない。今言ったようないろいろの情況によって固められた勇気である。あべこべの情況によってたちまちに別の物になりおわっても、いっこう不思議はないのである。
 (c)こうした我々の間によく見られる矛盾変化はきわめてすらすらと行われるので、或る人々はあたかも我々に二つの霊魂があるかのように思い、また他の人々はあたかも二つの威力が我らにつきまとって、それぞれ思い思いに、一つは善に、もう一つは悪にと、我々を運んで行くかのように考える。こういう急激な変化は、とうていただ一つの主体には結びつかないからである。
 (b)ただそのときの風の吹きまわしがその方向にわたしを動かすだけではない。わたし自らがまた自分の態度の不安定によってわたしを動かしわたしを乱している。注意して自分を見つめるものは、自分を二度と同じ状態の中に見出すことはない。わたしは自分の霊魂に、わたしがそれをどちらがわに向かせるかによって、或るときはある一つの表情を、或る時はもう一つの表情を与える。わたしが自分についていろいろに語るのは、自分をいろいろに見るからである。ちょっとした向きによって、ちょっとした恰好によって、さまざまの矛盾した姿がそこに見出される。恥ずかしげでまた厚かましい、(c)清らかでいてまたみだらな、(b)おしゃべりでまたむっつり屋の、鈍感でまた過敏な、鋭敏でまた愚鈍な、気むつかしくまたお目出たい、嘘つきでまた正直な、(c)学者らしくまた無学らしい、気前よくまたけちんぼの、そしてまた浪費者でもある、(b)そのどの姿をも、この身をちょっとひねるにつれて、わたしは幾分かずつ自分のうちに見出すのである。誰でも自分を注意ぶかくみると、みな自分のうちに、いや自分の判断の中にさえ、こういう変化と食いちがいを見出すのである。わたしはわたし自らについて、完全に、単一に、決定的に、混りけなく、ただの一語では何一つ言うことができない。「ディスティングオ」〔Distinguo:区別して論ずれば……〕は、わたしの論理学の中で最もよく使われる言葉である。
 (a)わたしはいつも良いことは良くいう主義であるけれども、そして良くありうることは良い方に解釈する主義であるけれども、それにしても我々の天性はじつに奇妙で、我々は不徳によって善行をさせられることさえしばしばある。もっとも善行だってただ意図からばかり判断されはしなかったのである。だから、勇ましい行為をしたからといって必ずしも勇敢な人物だとは言えない。ほんとうの勇者は、つねに、あらゆる機会において、勇者であろう。もしその徳行が常習的なものであるならば、単なる突発的なものでないならば、その人はすべての出来事に対していつも同じように落ちつき払っているであろう。独りのときも大勢のときも、道場においても戦場においても、変りはあるまい。まったく人は何と言おうとも、路上の勇と戦場の勇とは一つのもので二つのものではないのである。そのような勇士であれば、戦場で傷の痛みに堪えるように床の上でも病苦に堪えるであろう。死を家においても合戦においても一様に恐れないであろう。我々は同一の人間が、さきには勇敢に城壁の爆破孔におどりこみ、後には訴訟に敗れたとか息子が死んだとかいって女のように嘆き悲しむのを、見ることはないであろう。
 (c)人が不名誉をおそれながら貧乏に対しては平気でいる時、髯剃たちの剃刀かみそり前ではびくびくしていながら、敵の白刃に対しては勇猛である時、その行いはほめるべきだが、その人はほめることができない。
* barbier は、髯剃兼理髪師である上に、かつては外科医をも兼ねていた。だから、ここに言う剃刀 rasoir は同時にメスでもある。G※(アキュートアクセント付きE小文字)n※(アキュートアクセント付きE小文字)ral Michaud の註によると、一七八九年まで、バルビエは傷の手当をしたものだという。
 多くのギリシア人は、キケロの言うところによると、敵を正視するに堪えないが病気に対しては平気でいる。キンブリやケルティベリの民はまったくあべこべである。※(始め二重山括弧、1-1-52)総じて確乎たる原理より出でざるものは安定ならず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (b)アレクサンドロスほどの勇気は、その種のものとしては最大のもので、他に比類を見ない。だが、それはその一種類においてだけのことであって、いかなる場合にも充実した・普遍的な・ものであったとは言えない。(c)それはほんとうに比類のないものではあるけれど、やはりその汚点しみをもっている。(b)だから、御存知のとおり、部下の者どもが自分を殺そうとたくらんでいるのではないかという、ごくわずかな疑いをいだくとあんなにも狼狽して、その詮議のためにあれほど激しい・見さかいのない・不正を敢えてしたばかりでなく、あんなにも恐怖して、もって生れた理性までも転倒させてしまった。彼の心にあんなに深く浸みこんでいた迷信にしたって、いくらか臆病なおもむきを帯びている。(c)また彼がクレイトスを殺害した時のあの度はずれの懺悔ざんげなどもまた、彼の気分の不同を証してあまりがある。
 (a)我々の行為はいろいろなもののはぎ合せに過ぎない。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)彼らは快楽を侮りつつも苦痛において弱く、光栄を蔑視しつつも誹謗の前に挫折す※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)我々は嘘の旗印をかかげて名誉を得ようとする。だが徳は、ただそれ自体のためにのみ追求されることを欲しているから、ときに他の動機から徳の仮面をかぶると、早速我々の面上からそれを剥ぎ取る。それは色鮮やかな強い染料であって、霊魂がひとたびこれにそまれば、その色は霊魂の一部を剥ぎとらぬかぎり抜けないのである。だから一人の人間を判断するには、長く丹念にその跡をつけなければならない。もしもそこに、恒常性が自らの基礎の上にたち、(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)熟慮してえらばれたる一筋の道の中に※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)(a)がんばっているのでなければ、もしさまざまの事情が彼の歩調を(いや彼の道筋を、だって、歩調は変えたっていいのである。それは当然、早くなったり遅くなったりしてよいのである)、変えているならば、うっちゃっておくがよい。そんなやつは、わがトールボット**の格言にあるように、風に吹かれて消えうせるであろう。
* 「嘘の旗印をかかげて……」というのは、戦争の場合に友軍の旗を用いて敵をあざむき、卑怯な勝利をうる場合のイメージであって、あたかも宗教戦争のまっ最中で、年がら年中そうした勝ち負けばかり見ていたモンテーニュには、きわめて自然な比喩である。「名誉」というのもここでは当然「戦勝の名誉」功名手柄のことである。「徳」というのも、当時の慣用では、特に「力」「強さ」「我慢」「勇気」「武徳」をさしているので、このパラグラフは専ら乱世に処する人間の心構えについての思索である。
** Talbot. イギリスの大将。なぜ「わが」と記しているのか。この人がリモージュ人の末であるからか、それともこの人の人格がモンテーニュの理想にかなっているからか。
 古人〔セネカ〕も言っているが、我々は運のまにまに生きているのだから、運が我々の上にあんなに勢力をふるうのも不思議ではない。その生活のすべてを挙げて一定の目的に向うべく慣らさなかったものには、個々の行為を按配処理することはできない。その頭の中に全体の形をつかんでいないものには、部分部分を整理することはできない。何を描くのかわからないものには、たくさんの絵具が一体何の役に立とう? 誰一人として自分の生活に一定の計画をたててはいない。我々は我々の生活を一部一部ずつしか思案しない。射手はまず何を射るべきかを知らねばならない。その上で、その目標に、手を、弓を、弦を、矢を、そして射方を、かなわせなければならないのだ。我々の企ては、目的目標がないために、はずれる。いかなる風も、目指す港をもたない者にとっては何の役にも立たない。或る人はソフォクレスの悲劇の一篇を見ただけで彼の息子の訴えをしりぞけ、「お前の父は家事を処理する力がある」と断定したが、わたしはこの人の判断にくみすることができない。
 (c)またミレトス人の国を改革するために送られたパロス人の推測は、彼らが引出した結論の根拠とするには十分だとは思われない。彼らはかの島をおとずれるとすぐ、まず畠が良く耕され・農家が良く治められ・ている点に目をつけた。そしてそれらの家の主人の名を記録しておき、後に市中に市民の総会を招集するや、以上の家長たちを指名して、新しい行政官・裁判官・とした。よく家を治めるものは必ずよく国を治めるであろうと判断したのであった。
 (a)我々はみなもろもろの断片からなっている。しかもその構造は甚だ雑然としてちぐはぐであるから、各断片は各瞬間ごとにそれぞれ思い思いのことをやる。だからある時の我々とまた別のある時の我々との間には、我々と他人との間におけるほどの相違が生じる。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)思え、常に同一の人たることの甚だむつかしきことを※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(a)野心は人々に勇気をも節制をも度量をも、いや正義をさえも、教えることができるのだから、そして貪欲は今までうす暗がりの中でなすこともなく暮してきた商家の手代の心の中に、運を波風と怒れる海神にまかせ、小舟にさおさして家郷をあとに遠く乗り出そうという決心を植えつけることができるばかりか、彼に分別をも慎重をも教えるのだから、またウェヌスさえがなお修業中の若者どもに決心と大胆を与えるのだから、いや、まだ母親の膝にすがっている乙女の優しい心までも強くするのだから、

(b)ウェヌスに導かれてうら若き乙女は、
ひそかに眠れる番人の間を通りぬけ、
ただ独り、闇夜を、愛人の許に急ぐ。
(ティブルス)

(a)単に我々の外部にあらわれた動作だけから我々を判断するのは、冷静な分別ある人のなすべきことではない。必ずわれわれの内部まで深く探りを入れなければならない。そしてどのような動機でそれが動くのかを見なければならない。けれども、これは危険を伴う高尚な業であるから、これにたずさわる人々はもっと少数であってほしいと思う。
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第二章 酩酊について



 この章も次の章も、初期のエッセーと考えられるが、最も初期(一五七一―七二)のものよりはやや遅れて書かれたのではないかと想像される。というのは、この章では既に第一巻第十四、十九、二十一章等に見られるストア的態度とは反対の、極めて人間的な哲学への転向が感じられるからである。

 (a)この世は多様で相違したものばかりである。もろもろの不徳は、それらがすべて不徳である点においては、いずれも同じである。おそらくこういうふうに、ストア学者たちも考えているらしい。だがそれらの不徳も、なるほど等しく不徳であるかも知れないが、決して等しい不徳ではない。その限界を百歩越えた者が、

その向うにもそのこちらにも、正道の一線は見出されず、
(ホラティウス)

ただ十歩だけしか越えない者より、その性質がより悪くないとは、とうてい信じられないのである。神の物を冒涜ぼうとくすることが、我々の畠のキャベツを一つ盗むことより、より悪くないとは信じられないのである。

いな、理性はついに承服しえず。
隣人の畠より柔らかき玉菜を盗む罪と
夜深く神殿を荒す罪と相ひとしとは。
(ホラティウス)

そこには確かに相違があるが、そのほかどんなことにだって相違はあるのだ。
 (b)罪の種類と程度とを混同しては危険である。そうなった日には、人殺しや謀叛むほん人や暴君などは得をしすぎる。彼らが、「誰それは怠け者だ・淫乱だ・信心が足りない」などと言って、自分の良心を安心させているのは正しくない。人はみな仲間の罪を重くして自分の罪を軽くする。教育者までが、しばしば罪悪の序列をまちがえているようにわたしには思われる。
 (c)ソクラテスが「知恵の主要な務めは善悪を識別することにある」と言ったように、我々は(我々の中の最良の者すら不徳をまぬがれないのだから)、学問についても同じように、「もろもろの不徳を弁別するのがその主要な務めである」と言わなければならない。まったくこの識別が極めて正確に行われないかぎり、徳人と悪人とはまじり合って、いつまでもけじめがつかないのである。
 (a)さて酩酊は、とりわけ粗暴野蛮な不徳の一つであるように思う。ほかの場合には、精神がより多く関与している。いや、こういうと少し語弊を伴うが、中には何かしら高尚なところのある不徳もある。知識の混入した不徳もあれば、勉強・勇気・慎重・熟練・精緻のまじった不徳もある。ところが酩酊にいたっては、全然肉体的下界的な不徳である。だから今日最も野蛮な国民はといえば、この不徳を尊重する国民だけである。他のもろもろの不徳は悟性を変質させるのだが、この不徳にいたっては悟性をくつがえし(b)肉体を麻痺させる。

酒の力が我らの内に深くとおるとき、
腕は重く脚はよろめき舌はもつれ、
心は乱れ眼はうつろとなり、
その果ては叫喚、嘔吐、口論となる。
(ルクレティウス)

* ドイツ人を指す。モンテーニュは『随想録』を通じて三度ドイツ人に言及しているが、常にその過飲、粗暴、残忍について語っている(一の二十六、二の二、および十一)。
 (c)人間最悪の状態は、自分を見失い自分を押えられなくなった時である。
 (a)それでこのこと(酩酊)についてはいろいろなことが言われているが、特にこんなことを言ったものがある。「ちょうど樽の中の沸き立つぶどうの汁が、底にあるものをみな上に持ち上げるように、酒はむやみとこれを飲んだ男の腹の底から、そこに最も深くかくしている事柄を溢れ出させる」と。

(b)汝がうれしき酒こそ
賢者をしてそのうれいを忘れしめ
その秘めたる思いを吐露せしむ。
(ホラティウス)

(a)ヨセフスは敵方から派遣された或る使節にうんと酒を飲ませ、とうとうそれに泥をはかせたことを物語っている。ところがアウグストゥスはトラキアを征服したルキウス・ピソにその知っている最大の秘密を漏らしたけれども、またティベリウスもコッススにその計画をすべて明かしたけれども、いずれも裏をかかれはしなかった。この二人は共に大酒のみで、しばしば酔いつぶれて元老院からかつがれて帰ったのであるが。

脈管はいつものごとく、
昨日飲みたる酒もてふくれいたりき。
(ウェルギリウス)

(c)また或る人が、水ばかり飲んでいたカシウスに対してと同じように、あのキンベルにも(この人はよく酔っぱらったけれども)、カエサル殺害の企てを打ちあけたところ、キンベルは上機嫌で、「よし来た。おれは酒には降参するが、暴君には降参しないぞ」と返答した。(a)我々もわが国にいるドイツ人たち**が酒に酔っぱらって、その出身地や言葉や身分などをさらけ出すのをよく見かける。

(b)彼らは食べ酔いて、よろめけども、吃れども、
彼らを打ちまかすは容易にあらず。
(ユウェナリス)

* Flavius Josephus(ou Flave Josephe). ギリシアの歴史家(紀元三七年生)。Guerre des Juifs, Antiquit※(アキュートアクセント付きE小文字)s Judaiques, Autobiographie 等の著がある。特にその自叙伝がモンテーニュの興味をひいたのだろうと思われるが、果してそうかどうかは確証がない。
** 宗教戦争の際、フランスに入りこんだ外国傭兵中、ドイツ人の数は相当多数であった。彼らはプロテスタント側の軍隊の中に沢山まじっていた。
 (c)わたしは次のような話を、いろいろな歴史の本の中に読んだのでなかったら、こんなにも深い殆ど死人同様の酔っぱらいがあることを、決して信じはしなかったであろう。それはアッタロスがあのパウサニアスを、彼にしたたか恥をかかしてやろうとして晩餐に招いた時のことである(このパウサニアスは後にこのことを根にもってマケドニア王フィリッポスを殺したが、この王様はさまざまな性質によって、さすがはエパメイノンダスの許で親しくその教育をうけた人だけあると、皆にほめられた人である)。かれアッタロスはパウサニアスにしたたかに酒をのましたので、パウサニアスは知覚を失ってその美しい体を、まるで夜の女の体かなにかのように、驢馬ひきやその他大勢のみだらな奴僕たちのなすがままに委せたという。
 またわたしは、日頃非常に尊敬している或る婦人からこんな話も聞いた。ボルドーにほど近い、ちょうどその婦人の家のあるカストルのほとりに、一人の後家の百姓女が住んでいた。それは身持がよいので評判の女であったが、ふと妊娠のきざしを感じたので、近所の女たちに向って、「あたしはこの節まるで妊娠でもしたようよ。亭主もいないのにねえ」と言った。ところが日に日にそうした疑念をおこす機会は増すばかりで、いよいよ疑う余地もなくなったので、とうとうお寺の坊さんに打ちあけ、誰でもいい正直にそのことを認めるならば、自分はこれをゆるすばかりでなく、もしよかったらその男と結婚してもよいと言った。彼女の家の若い作男は、これをきくなりにわかに力を得て、自分こそ或る祭の日、おかみさんが酒をしたたかに飲んで、炉辺にぐっすりとしどけない姿で寝こんでいるのを見て、そっと彼女の目を覚まさずに思いをとげたのだと白状した。
 二人は今でも一緒に暮している。
 (a)古人がこの酩酊という不徳をさほどに激しく非難しなかったことは確かである。多くの哲学者たちの著作さえ、これについて語るところは甚だ寛大である。ストア学者までがそうで、中には「時々は禁をやぶってうんと飲むがよい。酔って心をゆるめるがよい」などと勧めているものさえある。

(b)聞くならく、この崇高なる戦いにおいてもまた、その昔、
かのソクラテスは棕櫚の葉をかちえたりという。
(プセウド・ガルス)

 (c)人を検察し懲戒するのがお役目のあの(a)カトーも、飲みすぎるといって非難された。

(b)人はまた語りき。大カトーもまた、
その力を強めんために酒を用いたりと。
(ホラティウス)

(a)キュロスはあれほど評判の高い王様であったが、自分が弟のアルタクセルクセスよりも人に好かれるのは他でもない。自分の方が遙かによく飲むことを知っているからだと申された。また、最もよく統治されている国々においても、この酒の飲みくらべは大いに行われた。わたしはパリの名医シルウィウスが話すのを聞いたことがあるが、我々の胃の働きがだれないようにするには、月に一回ずつこの飲みすぎによって胃の腑を目ざまし、これが麻痺しないように刺激するのがよいそうだ。
* 当時高名な医学者。一五五〇年、コレージュ・ロワイヤルの教授となる。モンテーニュはパリ遊学時代にこの人の講義をきいた。拙著『モンテーニュとその時代』第二部第三章一八八頁参照。
 (b)それから或る人の書いたものによると、ペルシア人は酒を飲んだ後にその最も重要な問題を討議したという。
 (a)わたしの嗜好と体質とは、わたしの理性以上にこの不徳の敵である。まったくわたしは、とかく自分の所信を古代諸家の説の権威に従わせがちであるばかりでなく、本心からこの不徳を卑しい愚かなものと思っているが、でもこれを、他のいろいろな不徳に較べてみると、まだまだ罪の少ない無害なものだと思っているのである。他の不徳はほとんどみな、もっと直接に一般社会を害しているからである。それに人のいうように、我々は何かを犠牲にしなければ快楽をうることはできないのだとすれば、この酔っぱらいなどというものは、他の不徳にくらべれば我々の良心を損うことが少ない方だと思うし、またこの楽しみにひたるには特別むつかしい準備もいらないのである。こういう考えも、決してばかにすべきではないと思う。
 (c)お位も高くお年も召されたさるお方は、ある時わたしに向って、年をとった今もなお自分にのこっている楽しみは三つあると仰せられ、その中の一つに、このお酒の楽しみを数えられた。けれどもその方の楽しまれようは間違っていた。お酒についてのああいうむつかしい好みややかましい選択などは、やめなければならない。もしも君の楽しみをただうまく飲むことにおくならば、君は時々まずく飲む悲しみにあわないわけにゆくまい。もっと鈍い・もっとゆるやかな・味覚をもたなければならない。愉快な飲み手であるためには、そんなに敏感な舌を持ってはならない。ドイツ人はどんな酒でも、ほとんど同じように喜んで飲む。彼らの目的は、味わうことにはなくてただ飲むことにある。彼らの方がずっと安あがりでよい。彼らの快楽はずっと豊富でしかもずっと手近にある。また、フランス流に二度の食事の時だけ、控え目に健康を気にしておそるおそる飲むのでは、余りに神の恵みを局限することになる。もっとしばしばもっと時間をかけて飲まねばならない。古人はこのことに夜々を徹し、またしばしばこれに日々を加えた。だから我々は、もっと幅ひろいもっと強い飲み方に慣れるべきだ。わたしはこんな人を見たことがある。それはわたしが若い頃お目にかかった大貴族で、気宇宏大な・目ざましい手がらをおたてになった・お方であるが、難なく、日常の食事の間に、まず五ロットを下らないお酒を召しあがった。しかもそのテーブルを離れる時には、いよいよ頭脳明敏になっておられたから、我々の持説はまったく顔色なしだった。快楽は我々が一生を通じて最も大事にしたく思うものであるから、それにはもっと多くの時間をささげてしかるべきである。よろしく商家の手代や職人たちのように、酒を飲むいかなる機会をものがさないように、この欲望をいつも心のうちにいだくように、しなければならない。我々は日ごとに飲食の楽しみを縮小してゆくように思われるが、我々の家においても、わたしの少年時代を思い出して見ると、昔は朝食や間食や夜食が今日よりはずっとしばしば、ずっと日常普通になされたように思う。これは我々がいくらかでも改善改悛に向っているからであろうか。いや、どういたしまして。むしろ我々は、我々の父たちよりもより一そう淫蕩の方に走るからである。この飲酒と淫蕩の二つは、それぞれ力をつくして妨げあっている。一方漁色が我々の胃を弱めると、一方粗食が我々を恋の営みに対してますます巧者にますます柔弱にするのである。
* 五ロットは今日の二十リットルに当る。
 わたしが父から聞いた・彼の時代の純潔さに関する・物語は驚嘆に値する。父こそ、そういう物語をするのに恰好の人だった。彼はその教養によっても、その天性によっても、婦人がたとのおつき合いにきわめてふさわしい人だった。彼は言葉少なに・しかし巧みに・話をした。そしてその間に俗書・ことにスペインの書物・の中の美しい辞句などをさしはさむのであった。スペインの本の中では、特に『マルクス・アウレリウス**』とよばれるものが彼の愛読書であった。その態度はやさしく謙遜であるとともに、一種の重々しさをもたたえていた。馬上のときも徒歩のときも、その容姿服装の上品端正のために、特別の身だしなみを怠らなかった。約束を重んずることは驚くばかりで、一般に律儀綿密、ずぼらどころか小心翼々の方であった。小柄であったわりに精力は満ちあふれ、体格はがっちりとして均整がとれていた。顔は愛嬌があって幾分浅ぐろい方。貴族にふさわしい運動なら何でも巧みで優れていた。わたしは鉛を流し込んだ棒を何本も見たことがあるが、人の言うところによると、父はそれでもって、棒や石を投げたりまたは剣術を使ったりするときのために、日頃その腕を鍛えたのだということである。また底に鉛を仕込んだ靴も見たが、これも身軽に跳んだり走ったりするための稽古に用いたものだという。一足いっそく飛びについても、彼は小さな奇跡をいくつか人々の記憶にのこした。わたしは彼が六十を越してから、我々の運動をあざ笑って、羽根入りの着物を着たまんま馬にとび乗ったり・親ゆびをついてテーブルの一隅を飛びこえたり・するところを見たし、その部屋にあがる時などには階段を三つ四つひとまたぎにしないことはなかったくらいである。さて、前の話にたちもどると、父の語ったところでは、当時は一州じゅうをさがしたって、いやしくも身分のある婦人で悪い評判をたてられる者などは、ほとんどなかったものだそうな。彼はほんの少しもあやしまれるようなことのない貞淑な婦人たちとの・特に彼自ら経験した・世にもまれなる親交ぶりについていろいろと物語られた。ご自分についても、結婚まではまったく純潔な童子であったと、神にかけて断言された。でも彼はずいぶん長いこと山の彼方の戦争に参加されたのであって、それについては自筆の日記***をわれわれに残された。そこには戦争中人々の上に・また彼自らの上に・おこった出来事が逐一記載されている。
* ラテン語の書籍に対して近代語の書物を総称して俗書と言った。
** アントニオ・ド・ゲヴァラ(Antonio de Guevara, ou Antoine de Guevare)の著 Livre dor※(アキュートアクセント付きE小文字) de Marc Aur※(グレーブアクセント付きE小文字)le のこと。マルクス・アウレリウス皇帝の史実にもとづく歴史小説。
*** これは現在残っていない。
 それで彼はかなり年をとってから、一五二八年に――三十三歳で――イタリアからの帰りに結婚した。さて、我々の徳利に帰ろう
* 「本題にかえろう」の意味、我々の「閑話休題」にあたる。中世フランスの笑劇『代言人パトラン』Avocat Pathelin の中で、「我々の羊にかえろう」とあるのをもじったもの。ここではラシャの話ではなくて酔っぱらいの話であるから、「我々の徳利」と言ったのである。
 (a)老年ともなれば万事思うにまかせず、何かのささえ・慰め・を必要とするものであるから、わたしにもこの酒をのみたいという欲望が生れてくるのも当りまえのことであろう。まったくこれこそ年の流れが一つ一つ我々から奪い去る快楽のうちで、ほとんど最後まで残るものであろう。自然の熱は(元気な若者どもが言うとおり)、まず足におこる。この熱は少年たちをかけまわらせる。次にそれは中程の位置まで昇って来て、そこに長いあいだ根をはり、そこに、わたしの考えでは、肉体的生活における唯一つの本当の快楽を生ぜしめる。(c)ほかの快楽はこれに較べればみな鈍いものである。(a)おしまいに、ちょうど立ちのぼる湯気みたいに、それはのどに達して、そこに最後の滞留をする。
 (b)けれども、どうして人は飲む楽しみを渇きがとまった後までも延ばそうとするのか、どうして人為的で自然に反する欲望を想像の中にね上げるのか、わたしには解らない。わたしの胃はそこまでは行くまい。それは必要上とるものを片づけるだけで、もう相当に参っているのだ。(c)わたしの体質は、物を食べた後だけ飲物を要求する。従ってわたしは、ほとんどつねに、最後に一番たくさんひっかける。アナカルシスはギリシア人が食事の終る頃に、始めよりはずっと大きな盃の数を重ねるのを見て驚いたが、それはドイツ人がそうするのと同じ理由からであるように思う。ドイツ人も、食事がすんでから飲みっくらを始めるのである。
 プラトンは少年たちに十八歳までは酒を用いることを禁じ、また四十歳までは酔うことを禁じた。けれども四十を越えた者には、宜しくこれを楽しむべし、汝らの饗宴に大いにディオニュシオスの感化をみなぎらすべし、と命じた(まったくこのディオニュシオスこそは、壮年の男に陽気さを与え・老人に若さをよみがえらせ・あたかも火が鉄をとろかすように人間さまざまの煩悩を柔らげる・よき神なのである)。そしてその法律の中では、そういう酒を飲む集まりを(ただそこに人々を抑制し規正する一座の頭さえあるなら)、有益なものと認めている。酔いは人々の本性を試験するのに最もよい確実な方法であるとともに、年齢のすすんだ人々に舞踏と音楽を楽しむ元気を与えるのに適しているからであるが、この舞踏と音楽とはいくら有益なものであっても、年をとった人にはしらふではなかなかやる気になれないのである。また、酒は霊魂には中庸を・肉体には健康を・与えるとも言っている。だが、一部分カルタゴ人から借りた次のような制限も、また彼の意にかなった。すなわち、「遠征においてはこれを節せよ。司法官行政官はその職を行い公務をとるに際してこれを慎しめ。昼間を飲酒に費やしてはいけない。昼間は他のもろもろの業に捧げらるべきものである。子供を作ろうとする晩もまた酒を用いてはならない」というのである。
 伝えるところによれば、哲学者スティルポンは老いの重荷に堪えかね、生のままの酒を飲んでわざと終りを急いだという。同様の原因が(ただしこれはその人自らの意図によるものではなかったが)、哲学者アルケシラウスの老い衰えた力をおし殺した。
 (a)だが(これは古くからの面白い問題だが)、果して賢者の霊魂ともあろうものが、酒の力に降参するものだろうか。

酒は鍛え上げたる知恵を打ち負かすや
(ホラティウス)

* モンテーニュはこの句に、※(始め二重山括弧、1-1-52)否、打ち負かさず※(終わり二重山括弧、1-1-53)という反語的意味をもたせて、次に「このように余りにも自分を買いかぶるから……」Cette bonne opinion que nous avons de nous とつづける。
 このように余りにも自分を買いかぶるから、何事にかけてもわれわれは空威張りがしていられるのだ! 世の中で最も整った霊魂でさえ、しっかりとその足を踏まえ、自分の弱さのために宙に浮かないようになるには、並大抵のことではすまされないのである。一生の内のただの一瞬間でも泰然自若としていそうな霊魂は、千に一つもない。いやその持って生れた性状コンディションのままで、果して霊魂はいつかそのような状態に達することができるものか。それはすこぶるあやしいものである。けれども霊魂がいつもその生れつきのままにとどまって変らないようになれば、それだけでそれは最後の完成に達したものと言わねばならない。つまり、それは何物も霊魂を妨げないならば、という意味だが、たくさんの出来事がとかくこの邪魔をしがちなのだ。あの偉大な詩人ルクレティウスがいくら哲学しても気張っても駄目である。嫉妬の酒をのまされて気が狂ったではないか。中風にかかれば、ソクラテスだって荷かつぎ人足だって、同じように痴呆ぼけるのではあるまいか。或る人々は病にうちまかされて自分の名まで忘れたし、或る人たちは小さな傷のためにその判断をくつがえされた。いくら賢明ぶったところで、畢竟それは人間一匹である。これほど弱い・これほど哀れな・またこれほど無価値な・ものがあるだろうか。人間の知恵は、とうてい我々の生れつきの分際コンディションをどうにもなし得ないのである。

(b)故に我ら恐ろしき時は、
全身蒼白となり冷汗をかき、
舌はもつれ声はつまり眼はくらみ耳はなり、
手足は力を失いてついに倒るるなり。
(ルクレティウス)

 (a)人間は不意をつかれれば、目をしばたたかずにはいられない。絶壁のほとりに立てば、(c)まるで少年のように(a)震えずにはいられない。(c)自然は我々の理性もストア的徳性もどうにもしようのない・それによって自然自らの権威を示すことができる・こうした軽微な徴候を取っておいて、人間にその死すべき運命と、その弱さとを教えたかったのだ。(a)人はこわくなればあおくなり、恥ずかしければ赤くなる。激しい疝痛にしめつけられれば泣く。絶望の叫びによってではなくても、少なくとも力なくかすれた声でもって泣く。

人間界のことは一つとして彼に無関係にあらざるなり
(テレンティウス)

詩人たちは(c)万事を思いのままに造り上げるが、(a)さすがに涙だけはその英雄から取り上げずにいる。

かく、彼は涙ながらに物語りて、
ともづなをとき船出せり。
(ウェルギリウス)

人間はそのもろもろの傾向を抑制するだけでせい一杯である。まったく、それらをとり除くなどということは出来ないことなのである。人間の行為についての優れた申分のない審判者であった我々のプルタルコスでさえ、ブルートゥスとトルクワトゥスとが自分の子供たちを殺すのを見たとき**には、「徳性は果してそこまで及びうるものであろうか。ことによるとこれらの人物は、むしろ何かほかの情念のために動かされていたのではあるまいか」と疑った。すべての行為は普通の限界を越えると、とかく忌わしい解釈をこうむりがちである。なぜなら、我々の感覚は、それより上のものにも、それより下のものにも、適しないからである。
* このテレンティウスの句の本来の意味は、※(始め二重山括弧、1-1-52)わたしは人間である。だから人間に関することは、一つとしてわたしにはよそごとでない※(終わり二重山括弧、1-1-53)というのであるが、モンテーニュはここで、「人間は人間界の吉凶禍福、すべての出来ごとの影響を受ける」という意味に取っているのである。モンテーニュはよく古人の句をその原意によらず、このようにもじって自分の意味をもたせて引用することがしばしばあった。『随想録』第一巻第二十六章の中で自らそのように告白している。二三二頁終りから六行目参照。
** 前者は自分の二人の息子が国法を犯したので極刑に処し、後者は息子が自分の命にそむいて敵と戦ったと言ってこれを殺した。
 (c)あのはっきりと自尊を提唱する方の学派は、しばらくおこう。けれども最も柔弱だと言われる学派**においてさえ、かのメトロドロスの・※(始め二重山括弧、1-1-52)余は汝の機先を制したり、運命よ。余は汝が余の許に入り来らんとするすべての路を塞ぎたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)という・高慢な語句***を聞く時に、またアナクサルコスが、キュプロスの暴君ニコクレオンの命令によって石臼に入れられ、鉄槌でうち叩かれながら、「打てよ。くじけよ。貴様がうつのはアナクサルコスではない。その皮殻からであるぞよ」といいつづけたのを聞く時に、また(a)わが殉教者たちが炎々たる猛火の中にあって暴君によびかけ、「こちら側はほどよく焦げたぞ。切って食らえ。もうすっかり焼けたぞ。今度は裏がえして焼け」と叫ぶのを聞くときに、なおまたヨセフス****の著書の中でかの少年が、食いいるやっとこにその肉をさかれ、アンティオコスの大針に突きさされながら、なおしっかりと落ちついた声をあげて彼に挑み、「暴君よ。むだに暇をつぶすなよ。これこのとおりおれは平気でいるぞ。貴様はしきりと威嚇したが、その苦痛その責苦はいったいどこにあるか。貴様にはこれだけしかできんのか。おれは貴様の残酷を少しも感じないのに、貴様はおれの手ごわさに苛立いらだっている。卑怯者、よわ虫! 貴様は降参している。おれはいよいよ力をえてゆく。おれをうならせて見い。かがませて見い。おれを降参させて見い。できるか。佞臣ねいしんどもや獄卒どもをはげませ。みんな気を失ってなすところを知らないではないか。彼らに武器をかせ。けしかけよ」と言うのを聞くときには、――まったく我々は白状せずにはいられない、これらの霊魂の内には、それは神聖な霊魂なのかもしれないけれど、やはり一種の狂気狂乱があると。我々はあのストア的豪語※(始め二重山括弧、1-1-52)われ快楽に身を忘れんよりはむしろ狂乱にこの身を忘れん※(終わり二重山括弧、1-1-53)(c)アンティステネスの語*****(a)にゆき合うとき、セクティウスが「自分は快楽に身を貫かれるよりは苦痛に貫かれたい」と言ったとき、エピクロスが痛風によってくすぐられようと企てたとき、そして健康と安静とをしりぞけ心の歓喜によって病苦にうちかとうとしたとき、またそれほど苦しくない苦痛を軽蔑し、そのような苦痛と格闘することをあざけり、もっともっと強い鋭い・いかにも彼にふさわしい・苦痛を欲求したとき、

彼はかの弱き獣を侮りて、われから、
猛き猪と獅子との山より出で来らんことを祈れり。
(ウェルギリウス)

誰が、これらを、心がその常の宿りからはみ出たためと、判断しないだろうか。我々の霊魂はその常の席にあるかぎり、とうていこのような高い所に達することはできない。我々の霊魂はその席を離れて高くあがらねばならない。霊魂は興奮してその人を、後で彼自ら自分のしわざに仰天するほどに遠いところに、つれ去らねばならない。戦場での手柄もそうである。戦闘の白熱は、しばしば勇敢な兵士たちに極めて危険な瀬戸を越えさせる。彼らはふとわれに帰ると、自分が真先に仰天するのである。詩人たちも同様である。彼らは往々にして自分自身の著作に驚嘆する。そして、どこを通って自分がそんなに高いところに上りえたかをわきまえないのである。これまた人が詩人たちの間の狂熱とよびなすものである。そこでプラトンが「冷静な人間は詩の門扉をたたいても無駄だ」と言うと、アリストテレスの方でも「優秀な霊魂で狂気の混入を免れたものはない」と言っている。いやすべての飛躍は、いかにほめるべきものであっても、我々特有の判断理性を超過しているかぎり、それを狂気と呼ぶのが当然である。なぜならば、知恵とは我々の霊魂を整然と操作することであり、それを節度均衡をもって導き、かつそれについて責任を負うことであるからだ。
* ストア学派。
** エピクロス学派。
*** この句はメトロドロスが自己の論文中に引いたキケロの句であるが、モンテーニュはこれをメトロドロスの句と思っているのである。
**** 前出フラウィウス・ヨセフスの著『マカバイオス論』Trait※(アキュートアクセント付きE小文字) des Macchab※(アキュートアクセント付きE小文字)es 第八章を、すこぶる自由にパラフレーズしている。マカバイオス〔マカベ〕はアンティオコス王の時、モーゼの法を守りとおして暴君の迫害を蒙った七人兄弟の名。旧約外典「マカベ後書」参照。
***** モンテーニュは、このアンティステネスの語をまず自らフランス訳してかかげ、次に((c)アンティステネスの語)と註した後、ギリシア語原文を付加している。訳書ではわざとその重複をさけた。
 (c)プラトンは次のように論じている。「予言の性能は我々の上にある。我々がこれを行うときは、我々が我々の外にあることを要する。我々の分別が、睡眠なり何かの病なりによってくらまされるとか、或いは天来の恍惚によってその席よりも高い所にさらわれてゆくとか、することを要する」と。
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第三章 ケア島の習慣



 ケア島 l’※(サーカムフレックスアクセント付きI小文字)le de C※(アキュートアクセント付きE小文字)a またはケオス島 C※(アキュートアクセント付きE小文字)os というのはエーゲ海の中の島である。モンテーニュは、何か大胆なカトリックの教義にふれるような問題を論じる時には、いつも章の冒頭か最初の数頁の中にいかにも敬虔な章句を書きつけるのであるが(一の五十七、三の二等参照)、この章ではもっぱら自殺の是非を考え、やがて自殺を肯定するに先んじて、どうやら公平な科学的アンケートみたいなものを並べている。ルソーはこの章の中から自殺に対する是非の論拠をいろいろと借用している。『新エロイーズ』二の一、二参照。

 (a)もし世間の人が言うように哲学するとは疑うことであるとすれば、わたしのようによしなきことを詮索したり気まぐれな思いに耽ったりするのは、なおさら疑うことであると言えよう。まったく質問をしたり議論をしたりすることは生徒がすることで、解決するのは先生のお役目なのである。わたしの先生とは、有無をいわせずに我々を支配し・人間どもの空虚な論争の上に位する・あの権威ある神意である。
 フィリッポスが兵をひきいてペロポンネソスに入った時のことである。或る人がダミダスに向って、「ラケダイモン人は、かれフィリッポスの前に許しを乞わないかぎり、おそらくつらい目にあわねばなるまい」と言ったところ、「臆病者よ」とダミダスは答えた。「死をすら少しも恐れぬ者どもにとって、何が一体つらいことでありえよう」と。また或る人がアギスに向って、「どうしたら人は自由に生きることができるか」ときいたところ、「ただ死を無視しさえすればいいのさ」と答えた。この二つの答えおよび幾多のこれに類する言葉は、いずれもみな、「ただ死が我々にやって来るときには我慢してこれを待て」と教えているだけではない。何かそれ以上の意味をもっていることは明らかである。まったくこの世には、死その物よりももっと堪え難い出来事が沢山あるのである。例えばアンティゴノスに捕えられて奴隷に売られたラケダイモンの少年を見るがいい。主人から何か卑しい勤めを強いられるや、「やがてお前は、誰を買ったかを思い知るであろう。自由をこんなにも手近に持ちながら、奴隷になるのはこの身の恥だ」と言うかと思うと、高い窓から身を投げた。アンティパトロスがラケダイモンの人たちを、何か自分の要求に従わせようとしてきびしく威嚇すると、彼らは、「死よりもさらに辛いことをもって我々を威嚇するならば、我々はもっと喜んで死ぬであろう」と答えた。(c)またフィリッポスが彼らに向って、お前たちのすべての企てを妨げるつもりだと書き送ると、彼らは答えて、「何だと? 我々の死までも妨げるつもりか」と言った。(a)それは、「賢者は生きねばならないだけ生きる。生きられるだけ生きはしない」という意味である。「自然から我々が受けた最も有難い賜物、おかげで我々がどんな場合にも人間の境遇に不平を言わないですむその賜物は、いやになったらいつでも勝手にこの世を退出できることだ」という意味である。自然は人生への入口を唯一つしか指定しなかったが、出口の方は幾千となくこれを教えた。(b)我々は生きるべき場所を持たない場合はあり得るが、死ぬべき場所にこと欠くことは決してない。それはボイオカトゥスがローマ人に答えたとおりである。
 (a)なぜ君はこの世について不平をいうのか。この世は君を引きとめはしない。苦しみながら生きているのは君自らの卑怯のせいだ。死ぬにはただそうと心をきめさえすればよいのである。

死はいたる処にあり。賢き神がかく欲し給いたれば。
人より生命を奪い得る人はあまたあれど、
なんぴとも人より死を奪うこと能わず。
死にいたる道は千すじあればなり。
(セネカ)

しかもそれは何か一つの病にだけきく薬ではない。死はすべての苦痛に対する万能薬である。それは甚だ安全な港であって、決してこわがられるようなものではない。いや、しばしばさがし求められるものである。自ら結末をつけても、これをつけてもらっても、自分からその日を走り迎えても、またその自然に来るのを待っても、どっちでも同じことである。その日はどこから来たって、それはやはりその日である。糸はどこできれようと、それはそこで完成したのだ。そこが糸の端なのだ。最も自ら欲した死こそ、最も美しい死である。生は他者の意志による。死は我々自身の意志による。他のいかなる場合においてよりも、死に臨んでこそ、最も我々自らの意志に従わねばならない。評判なんか、このような企てに関係はない。そんなことを念頭におくのは愚の骨頂である。もし我々に死の自由がないならば、生きるということはむしろ屈従である。治療は普通、生命をけずりけずり行われる。切る。やく。四肢を切断する。食物を吐かせる。血液をとる。そこをもう一歩ゆくと、完全になおっている。腕の静脈を刺させるくらいなら、なぜ同じように頸動脈をきらせないのか。ひどい病気になればなるほど荒療治がいる。文法家セルウィウスは持病の痛風に対して、毒を用いてその脚を殺す以上によい考えを知らなかった。(c)脚よ、いくらでも痛風でいるがよい。痛くさえなければ! (a)いよいよ生が死よりも辛くなるようなその時は、神様がちゃんと我々にながのおいとまを下さるのである。
 (c)苦しみ悩みに降参するのは弱虫だが、それらを飼っておくのは馬鹿である。
 ストア学者は言っている。「なお幸福の只中にありながら、よい潮時に人生に別れを告げるのが、賢者から見れば、自然にかなった生き方なのである。愚者にとっては、みじめな有様になり果てながら、世間の人々が自然にかなっているという状態の中にある限り人生にしがみついているのが、自然にかなった生き方なのである」と。
 わたしがわたしのものを持ち去るとき、自分で自分の巾着をちょん切るとき、わたしは窃盗取締令をみだすことにはなるまい。自分の森に火をつけても放火犯人にされる心配はあるまい。それと同じことで、わたしは自分で自分の命を奪っても、人殺しの罪には問われないのである。
 ヘゲシアスは言った。生き方と同じこと、死に方もまた、我々の選択によるべきものだと。
 またディオゲネスは、永いこと水腫病になやんでいる哲学者のスペウシッポスが輿こしに乗せられてやって来て、「御機嫌よう! ディオゲネス」と呼びかけるや、これに答えて、「君には御機嫌ようと言わずにおこう。君はそのとおり生きるのに苦しんでいる」と言った。
 ほんとうに、それから間もなくスペウシッポスは、そういう苦しい生き方がいやになって自殺をした。
 (a)この説に対しては異議が出ずにはすまない。まったく多くの人たちはこう信じているのである。「我々はこの世の宿りを、我々をここに入れたものの特命がない限り捨てることはできない。いや、神様は我々をここに、ただ我々のためばかりでなく御自らの栄光と他人への奉仕とのために送ったのであるから、神様の方からこそおいとまは出るのである。我々の方から勝手にひまをとるべきではない。(c)我々は我々のために生れたのではなくて、我々の国のために生れたのである。だから法律は我々に対して損害賠償を求め、我々を殺人の罪に問う。(a)でなければ、自らの職責をないがしろにするものとして、我々はこの世でもあの世でも罰せられる」と。

見よ、かしこに悲しげにうずくまれる人々を。
そは罪なきに、われと己れの身を殺し、
光をいといて、自らその心を地獄に投げ入れたるなり。
(ウェルギリウス)

我々をつないでいる鎖を断ち切るよりはこれをこすり切る方に、はるかに多くの我慢がいる。カトーよりもレグルスの方が、より多くの意志の堅さを示している。我々の歩みをいそがすのは無分別であり気短かである。勢いのよい勇気は、どんな出来事に対しても背を向けはしない。苦難や苦痛をその食物として求める。暴君の威嚇や拷問責苦やまた獄卒こそ、かえって勇気をかきたてる。

あたかもアルギズスの暗き森の中なる樫の樹のごとし。
人はむざんにも斧をふるってこれを斬る。
されど、斬り傷つけらるる度ごとにそれは、
かえって新たな力を養いてゆく。
(ホラティウス)

また或る人が言ったとおりである。

勇気とは、父よ、君思い給うが如く、
決して生を恐れることにはあらで、
敵に向いて背を見せざることなり。
(セネカ)

逆境にありて死をあなどるは易し。
静かにその不幸を堪え忍ぶものこそ更に強し。
(マルティアリス)

頑丈なお墓の下の穴のなかに逃げこんで運命の攻撃を避けるのは、卑怯がさせる業であって決して勇気がすることではない。徳はどんな暴風雨に出あっても、決してその道をすてず、その歩みを止めない。

天柱砕けおちて勇気をうつとも、
かれはすこしもそれを恐れざるべし。
(ホラティウス)

最も普通には、他のいろいろな不運を避けようとして我々は死へとさそわれる。いや、ときには死を避けようとして死に赴く。

(c)敢えて問う、死をおそるるがために死するとは愚かならずや。
(マルティアリス)

(a)例えば、絶壁の恐ろしさに自分からそこに飛びこむものもあるではないか。

将来の不幸の恐ろしさに多くの人々は、
最も大いなる危険にその身を投じたり。
真に勇猛なる人は危険に遭遇すれば、
これに挑みかかることをうるのみならず、
能う時はこれを避けることをも知るものなり。
(ルカヌス)

死の恐怖はついに人々をして
生命と光明とをいとわしむ。
すなわち彼らは、絶望の余りわれから死に赴く。
しかも、絶望の原因が、その死の恐怖にあるを悟らず。
(ルクレティウス)

(c)プラトンはその『法律』の中で、公の裁判に強制されたのでもなく、運命が課する何かの悲惨な避けようのない出来事のためでもなく、また堪えがたい恥辱のためでもなく、ただ意気地のない・びくびくした・よわい心をもっているばかりに、その最も近く最も親しい友すなわち自己から、あらかじめ定められた生命の流れを取上げた者には、よろしく屈辱的な墓を与えるべきだと説いている。(a)また、人生を蔑視する説もわらうべきである。だって結局、それが我々の存在であり、我々のすべてではないか。もっと高貴なもっと豊富な存在を持っているものは我々の存在をけなすのもよいが、我々が我々自らを蔑視し我々自らをおろそかにするのは自然に反している。自ら憎み自らさげすむのは、人間にだけあって他の生物には見られない一種独特の病である。我々が本来あるところのものとは別のものになろうと願うのも、また空なる夢である。そのようなことを欲望しても、とうてい我々はそこまで手がとどかない。そういう欲望は、それ自体が矛盾し撞着しているからだ。人間の身で天使になりたいと願うものは、よしなりえたところで自分のために何の得もしない。そのために少しもえらくはならない。だって、自分がいなくなってしまったら、いったい誰がこの改善を喜ぶのか。感じるのか。

(b)まことに、彼の上に不幸が到来せんためには、
まず彼がその時なお生きてあるを要す。
(ルクレティウス)

(a)安全・無痛・無感覚・現世の苦悩の消滅などを、死という値段で買いとってみたところで、それらは我々に何らの喜びももたらさない。もはや平和を享楽することのできないものは、戦争を避けてもむだである。安息を味わうだけの力のない者は、苦悩をさけたって何にもならない。
 第一の〔自殺肯定〕説に賛成する人々の間でも、次の点については大きな疑問があった。すなわち、「一体いかなる機会をもって、人が自殺の決心をするのに十分正当なものと見なすか。どんなのを彼らのいわゆる※(始め二重山括弧、1-1-52)道理ある退出※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ディオゲネス・ラエルティオス)とするか」ということであった。まったく彼らは、「我々は大して強い原因によってこの世に結びつけられているのではないから、しばしば微々たる原因のためにも死ななければならないのだ」と言っているけれども、それにしても何かの尺度がなければならないのである。実際気まぐれな筋のとおらない心持もあるもので、それが単に個々の人間のみならず、国民全体を自殺させたことさえあるのである。わたしはさきにこれに関する実例をいろいろ挙げたが、なおその他に、我々はミレトスの乙女たちについて次のような物語を知っている。彼女たちは一斉に気がふれて、われがちに首をくくって死んだ。それでとうとう役人は、「今後そのように首をくくる女があったら、これを丸裸にし、首なるその紐をとって、市中をひきまわせ」と命じ、やっとのことでこのおそろしい流行をとどめたということである。テリュキオンがクレオメネスに向って、「今や戦局は君のためによくないから自殺しなさい。このまえ戦争にやぶれたときに、君は最も名誉ある死を避けたのであるから、こんどこそはその次に名誉あるこの死をとり逃してはいけない。決して勝者のためにあさましい死や生を強いられないようにせよ」と説いたところ、クレオメネスはスパルタ的ストア的な心意気をもって、かえってその忠告こそ卑怯な女々しいものとしてしりぞけ、「そんなことは、しようと思えばいつでもできることだ。ほんのちょっぴりでも希望が残っている限り自殺などすべきではない。生きることの方が時には忍耐であり勇気である。わたしは自分の死さえが国のために役立つように、それがあくまで名誉と徳との行為であるようにと望む」と言った。テリュキオンはその場で自己の所信をつらぬいて自殺した。クレオメネスも後には同じく自殺をとげたけれども、それは運命を最後の一点まで試みつくしてからのことであった。すべての不幸が死んでまで避けたいほどの代物ではないのである。
* 第一巻第十四章。
 いやそれに、人間界の物事は絶えず目まぐるしく変化するものであるから、いったいどの辺で希望に見切りをつけたらよいのか。これを判断するのはなかなか容易なことではない。

(b)剣士は敗れて砂上にたおるるもなお生を希望す。
群衆が敵意をこめたる親指もて彼をおびやかすとも。
(ペンタディウス)

(a)古い諺に「人間は生きている限り万事に希望をもってよい」とある。「成程そうだが」とセネカはこれに答えている。「どうしてわたしは、『運命は生きている人のためにどんな事でもすることができる』ということの方を考えて、『運命は死ぬことを知るものの上には何事もなしえない』ということを考えないでいられようか」と。御承知のとおりヨセフスは全民衆にそむかれて、きわめて明白なしかもきわめて切迫した危険におちいった。どう考えてもそこにはいかなる方策もありようがなかった。けれどもこの瀬戸ぎわに、自ら言うところによれば、友の一人から自決を勧められたのであるが、なお希望をすてなかったことが大変彼に幸いした。まったく運命はあらゆる人間の理性を越えて情況を一変させ、彼につつがなくその難をのがれえさせたのである。ところがカッシウスも、ブルートゥスも、まだその時がこないのに早まって自殺したばかりに、あたら、彼らがそれまで守って来たローマの自由の最後の一片を失った。(c)わたしは兎が一ぺん犬の歯にかまれながら、ついにのがれて走り去るのを幾度も見た。※(始め二重山括弧、1-1-52)或る時は刑吏先立ちて罪人生きながらえたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
* 前出、ヨセフス。二の二、四一九頁の註*および四二七頁の註****参照。この物語は彼の『自叙伝』の中にある。

(b)往々にしていとも気紛れなる「時」の手が
こわれはてたる定命を縫い繕いたり。
往々にして運命はそのかつて倒したる人たちを
再びたすけ起して安らかなる所に連れ行けり。
(ウェルギリウス)

 (a)プリニウスは言った。「人が自殺によって避ける権利のある病気はただ三種しかない。その中で一番苦しいのは膀胱ぼうこうの石のために小便がつまる時である」と。(c)セネカは、「それはただ長く霊魂の働きをかき乱す病気だけである」と言った。
* モンテーニュが一五七七年四十四歳の時にはじめてこの病気の初兆を感じてから一生苦しい思いをしたことは、第二巻第三十七章の解説や註に述べるとおりであるが、ここに彼の自殺肯定ないし賛美が、専らこの病気と乱世の苦労とから生れたことがよくわかる。この病気については白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」の中の諸註、およびその索引「モンテーニュの病気」の項によって参照せられたい。旅に出た頃はモンテーニュもかなりこの病気になれて来ているが、旅中しばしばきわめて丹念に自己の病状を記録している。
 (a)より悪い死を避けるためには自分から勝手に死んでもよいはずだと、説くものもある。(c)アエトリア人の長ダモクリトスはとらわれの身となりローマに連れてゆかれたが、或る晩闇にまぎれて脱走することができた。けれども番人に追いつめられてあわや再び捕えられようとしたとき、自ら刀を抜いてその身につきたてた。
 アンティノオスとテオドトスとは彼らの都エペイロスがローマ人のためにいよいよ危殆に瀕したとき、人民に向ってみな一せいに自殺しようではないかと勧めた。けれども降伏しようとの意見の方が強かったので、彼ら二人は身を挺して敵陣におどり込み、捨身になってひたすら敵を切りまくりながら死んだ。ゴゾ島が数年前トルコ人に襲われたとき、一人のシチリア人は嫁入り前の二人の美しい娘をもっていたが、自ら手を下してまずその二人を殺し、ついで娘たちの死をきいて駈けつけた母をも殺した。それからいしゆみと火縄銃とを持って町の中に飛び出し、まず最初の二発で彼の戸口に攻めよせたトルコ人の最初の二人を殺し、つづいて剣を抜いて敵の中に躍りこんだ。彼はたちまちに敵の重囲に陥り、その身はついに滅多切りにされたが、このようにしてその身内をもまた自分をも、奴隷の境遇から免れさせたのである。
 (a)ユダヤの女たちはその子供たちに割礼を施してから、アンティオコスの残酷を避けて子供たちもろとも谷に身を投げた。わたしは或る人からこんな話もきいた。ある身分のある人が牢獄につながれた時のこと、近親の人たちは彼が必ず死刑になるであろうことを聞き、そのような死の恥辱を避けさせようと、彼の許に一人の僧を遣わして次のように言わせた。「あなたが解放される最上の方法は、これこれの聖人にこれこれの願をおかけになることです。そして八日の間、どんなに身体が疲れ衰えても、まったく食をお絶ちなさい」と。その人はそれを信じて、はからずも自分の生命と危険とから解放された。スクリボニアはその甥リボに、処刑を待つよりはむしろ自分から死ぬ方がよいとすすめ、彼に告げて言った。「自分の生命を保存しておいて三、四日の後にこれを取りに来る者どもの手に渡すのは、わざわざ他人に花をもたせるようなものだ。自分の血をとっておいてこれを敵に御馳走するのは、結局敵に仕えることである」と。
 聖書の中にはこんな話がある。神の掟に従うものを迫害したあのニカノールは、その徳のためにユダヤ人の父とたたえられた善良な老人ラシアスを捕えようと、これに壮士たちを送った。この善良な人は、既にその鉄扉をやかれ、敵が彼を捕えようと近く迫り、もはやどうにもしようがないと悟るや、よこしまな人たちの手におち犬のようにしいたげられてその高い身分を恥ずかしめるよりは、むしろ勇ましく死のうと決心し、われとわがやいばに伏した。けれども急いだために刺す手が急所をはずれたので、走りよって石垣のてっぺんから敵軍のまんなか目がけて飛びおりた。敵がす早く身をかわしたので、そのどいたところに真っさかさまにどうと落ちたが、それでもまだかすかに息がかよっていることを感ずると、さらに勇気をふるいおこし、血にまみれてたくさんの傷を負っているのに、つと立ち上ったかと思うと、見るまに群がる敵のあいだをかけ抜けて、ついに嶮しい岩の根元までたどりついた。そこでいよいよ力もつきはてたので、その傷口の一つから、両手にわれとわが臓腑をひっつかみ、ひきちぎり、それを追って来る者どもの上に投げかけ投げかけ、彼らの上に神の罰が下るようにと叫びながらこときれた。
* 旧約外典「マカベ後書」第十四章。
 良心に対して加えられる暴力のうち最も避けねばならないのは、思うに婦人の貞操に対して加えられるそれであろう。なぜなら、そこには多少の肉体的快楽が自然に混入してくるからである。実際そのために抵抗が十分完全であることはできかねるし、その暴力の方にも多少は愛情もまじっているように思われるのである。ペラギアとソフロニアとは二人ながら聖女の列に連なっているが、前者は兵士たちの暴行を避けるために母や姉妹もろともに河の中に身を投げ、後者もまた皇帝マクセンティウスの暴行を避けるために自殺した。(c)教会史は、暴君が良心に対してたくらんださまざまな凌辱に対して死をもって自らをまもった信心のあつい婦人たちの、そういう実例を数多く尊げにかかげている。
 (a)現代の博学な一人の著作家、しかもパリの一著作家が、今日の婦人たちに向って、そのような絶望的な恐ろしい決心をとるよりはむしろ別の方法をとるようにと説いてくれたことは、おそらく将来我々の名誉となるであろう。ただ残念に思うことは、彼が思いきってその物語の中に、わたしがかつてトゥールーズにおいて数人の兵士にもてあそばれた或る婦人から聞いたまことに心憎い言葉を、書き添えなかったことである。「ほんとに有難いことでした」とその婦人は言ったのである。「少なくとも一生に一度、あたしは罪**なしにたんのうすることが出来たのですもの」と。
* Henri Estienne: Apologie pour H※(アキュートアクセント付きE小文字)rodote にこの説が述べられているらしい。
** キリスト教では、性交を淫縦の罪といって七大罪の一つに数えている。だがこの婦人は遭難によって性感をえたのであるから、罪を犯したことにはならないと考えたので、モンテーニュも、つまらぬことを苦に病んで自殺などするよりは、この婦人のさばけた考え方を見習うがよいと言っているのである。――なおモンテーニュが常に婦人の味方であったことは至るところにあらわれているが、特に第三巻第五章「ウェルギリウスの詩句について」には彼の恋愛、性愛ないし婦人の貞操等の諸問題が深い愛情をもって語られている。ここに「おそらく将来我々の名誉となることであろう」と「パリの一著作家」について書いているが、彼モンテーニュもまた、キリスト教の封建的貞操観から婦人の立場を擁護した最初の一人として後世から感謝されてよいであろう。
 実にあのような野蛮な行いは、やさしいフランス婦人に似合しくはない。だからお蔭様であの良い勧告が公にされてからは、我々の悪風も著しく改まった。善良なマロの規則によれば、それをしながら「いやぁよう!」と言いさえすればよいのである。
* 「やさしき笑みに伴うやさしき nenny こそいかに女らしいことか」という意味を、詩人クレマン・マロ Marot が歌っているのを指す。― Undoulx nenny, avec un doulx sourire, Est tant honneste! il vous fault apprendre. ― Marot: De ouy et nenny.
 歴史には、いろいろな方法でその苦しい生を死と取り代えた人々の実例が充満している。
 (b)ルキウス・アルンティウスは、彼の言いぐさによると、未来と過去とを避けるために自殺した。
 (c)グラニウス・シルウァヌスとスタティウス・プロクシムスとは、ネロにゆるされてから後に自殺した。あんな悪虐無道な人間のお慈悲で生きたくなかったからか。それとも、またもう一ぺん赦免を乞うために苦労したくなかったからか。というのはネロは疑いぶかい男で、よく正しい人々に対する讒訴ざんそを真に受けたからである。
 女王トミュリスの息子スパルガピゼスは、キュロスのために捕虜となったが、キュロスからその縄を解いてもらうと、さっそく有難やとばかり自殺してしまった。つまりその与えられた自由を、縄目にかかったという恥をそそぐよりほかに用いたいとは思わなかったのである。
 王クセルクセスに代ってエイオンの太守であったボゲスは、キモンの率いるアテナイの軍勢に囲まれたとき、自分のものは少しも取り上げられず安全にアジアに帰ることのできる講和を拒絶した。主君からおあずかりした数多の兵卒よりも生きながらえることに堪えられなかったからである。そして最後までその城を守った末、いよいよ食べるものもなくなると、まず第一に、金をはじめ敵の分捕品になりそうなあらゆるものをストリュモン河に投げこんだ。それから薪をうず高くつませこれに火をつけ、妻や子や妾や下僕たちを一人一人首をしめてはその上に投じ、最後に自分もまたそこに飛びこんで死んだ。
 インドの大名ニナチエトゥエンは、ポルトガルの太守が何の理由もなく彼がマラッカにおいて有する職権を奪い、これをカンパルの王に与えようと決意したことを、ふと風の便りに聞き及ぶと、ひそかに次のような決心をした。彼は円柱をたくさんたてた上に幅狭く奥行の深い桟敷をしつらえ、さまざまな花やこうでこれを立派に敷き飾らせた。それから、自らは高価な宝石をちりばめた金襴の服をまとい、街に出、階段を踏んで、その桟敷の上に昇った。その一角には、すでに火をつけた香木の薪がつまれていたのである。人々は、この常ならぬ準備はいったい何のためだろうと駆けつけた。ニナチエトゥエンは、面上に堅い決意と憤りとをたたえながらこう説明した。「ポルトガル国はわたしに負うところがすこぶる多い。わたしは最も忠実に自分の職責を果した。わたしは他人のために、名誉が生命よりも遙かに重いことを、しばしば剣を手にして教え示した。だから、自分のためにはなおさら同じ努力を惜しむことはできない。わたしの運命は、将に与えられようとする侮辱に抵抗すべき手段を、すべてわたしに拒んでいるとはいえ、少なくともわたしの心は、わたしにそういう侮辱を感じさせないよう、人々の物笑いのたねとならないよう、自分よりも劣る者どもを勝たせないよう、命じている」。こう言って、自ら火の中に身を投げた。
 (b)スカウルスの妻セクスティリアとラベオの妻パクセアとは、いずれもその夫に、その身にせまる危険を避けるようすすめるために、それは自分たちには何のかかわりもないことであったが、ただただ夫をいとしいと思うばかりに、いよいよその危険がさし迫ると、進んで自らの命をささげ、良人のためにお手本を示すとともに、その道連れとなった。この二婦人が夫のためにしたことを、コッケイウス・ネルウァはその祖国のためにした。効果の方は及ばなかったが、愛情に至っては同じことであった。この偉大な法律家は、健康において、富において、世評において、皇帝の信任において、花やぎ栄えていたのだから、ただただローマの国の哀れむべき状態に対する同情のほかには、自殺などする理由は少しもなかったのである。アウグストゥスの親友であったフルウィウスの妻の死のしおらしさには、まったく何一つ足りないものはなかった。アウグストゥスは、さきにそっとフルウィウスに明かした重大な秘密を彼が他に漏らしたことを悟り、或る朝彼にゆきあうと甚だいやな顔をした。フルウィウスは絶望に満ちて自分の家にもどった。そしてうちしおれてその妻に向い、「こんな不幸にあったからには、自分で命を絶つつもりだ」と語った。彼女は率直に言った。「まったくごもっともなことでございます。私のおしゃべりはずいぶんたびたび御経験なさいましたのに、あなたは少しも御用心なさいませんでした。さあ、お放し下さい。私はお先に参ります」。ただこう言うが早いか、少しもためらわずに剣をその身につきたてた。
 (c)ウィビウス・ウィリウスは、その都市〔カプア〕がローマ人に包囲され、これを救うことも、彼らの許しをえることも、もはや望めないことを悟り、元老院の最後の評議にのぞんでさまざまの方策を提案した末、最も立派な方法は結局己れ自らの手によって運命を免れることであると結論した。「そうすれば敵はかえって我々を尊ぶであろう。ハンニバルはいかに忠実な友だちを捨てたかを自ら悟るであろう」と言った。そして自分の説に賛成する人々をわが家に設けた宴会に招き、十分に御馳走を食べてから、もろ共に、やがて自分に供せられようとしているものを飲もうとした。「この飲料こそは」と彼は言った。「我々の肉体を責苦から、我々の霊魂を侮辱から、我々の耳や目を敗者が残忍な・執念ぶかい・勝者より受けなければならないたくさんの恥ずかしめから、解放するであろう。わたしは、我々が息絶えようとするときに、我々をわたしの家の前に積みあげた薪の上に投げ入れるよう、特におおぜいの人を頼んである」。かなり多くの人々がこの気高けだかい決意に賛成したけれども、これにならう者は甚だ少なかった。ただ二十七人の元老が彼に従った。すなわち、酒をあおって不吉な思いをしばらく忘れようと努めたのち、ついにその毒の入った一皿によってその宴を閉じた。それから、抱き合って自分たちの国の不幸を嘆き合った後、或る者はその家に隠れ、或る者は残りとどまってウィビウスと共に火の中に葬られた。そしていずれも長いこと苦しんで死んだ。酒の気が血管の中に残っていて毒の効目ききめを遅らせたからである。したがって、そういう幾人かの人々は、やがて一時間ばかりしてから、敵がカプアの城に攻め入るのを見なければならなかった(城はその翌日奪われた)。つまり、そのような高価を払ってまでうまいとした悲惨にやはり出あったのであった。この都市のもう一人の市民タウレア・ユベリウスは、執政フルウィウスが二百二十五人の元老を恥ずかしい死にあわせて帰って来ると、毅然として彼の名を呼びその袖をひかえて、「さあこのわたしをも、皆の者と同じように虐殺するよう命ぜよ。そしてお前は、自分よりも強い男を殺したと威張るがよい」と言った。フルウィウスは彼を気ちがいと罵ったが(それにちょうどその時フルウィウスは、彼の処刑の非道をとがめるローマ政府の手紙をうけとり、もはやその腕を揮うことがかなわなかったので)、ユベリウスはつづけて言った。「わが国は奪われわが友たちは死んだから、そして手ずから妻や子をその滅亡の悲しみにあわすまいとして殺したから、もはやわたしは同胞と同じように死ぬだけではすまない。さあ徳の力をかりて、この厭わしい生に復讐しよう」こういってかくし持っていた剣を抜くやその胸につき立て、執政の足下にばったりと倒れた。
 (b)アレクサンドロスがインドの一都市を包囲した時のことである。城内の者どもはいよいよ逃れるに道なきを知るや、せめてはアレクサンドロスに勝利の喜びを与えまいと堅く決心した。そして敵将の情けをうけることをいさぎよしとせず、こぞって都市もろともに焼かれた。そこで再び戦争となった。すなわち、敵は彼らを救おうと争い、彼らは自らを殺そうと争ったのだ。彼らは人が命を助かろうとして取るあらゆる方法を、自らの死を確かにするためにとったのである。
 (c)スペインの都市アスタパは、その城壁や防備が弱く、とうていローマ人を防ぐにたらないので、市内の住民はその家具や財宝を広場にうず高くつみ上げ、その上に妻や子供たちを坐らせ、まわりを木ぎれをはじめいろいろ燃えやすいものでかこみ、ただ五十人の若者を彼らの決心を実行させるために城内に残した上、こぞって外へ討って出たが、やはり勝利をえられないので、互いに誓いあったとおり自害した。先の五十人は城内のあちこちに残っていたすべての生きた男を殺し、かの家財の山に火を放ったのち自分たちもまたここにとびこみ、この尊い自由を、苦しく恥ずかしい状態の中に終らせず、むしろ無感覚の状態の中に終らせた。そしてその敵どもに、もし運命がそう欲したならば、優にその勇気によって彼らからその勝利を奪いかえすことすらできたろうことを、思い知らせた。現にそのとき彼らの敵の勝利は、もう無駄な・忌わしい・いやそれどころか致命的な・ものにされていたのであった。まったく、火炎の中にとけて流れる黄金の光に目のくらんだ者どもはこぞってそこに集まり、後からおしよせる大勢のために後退りすることもできず、煙にむせび身を焦して、ついにその命を失ったのである。アビュドスの民たちも、王フィリッポスに攻められて、同様の決心をした。けれどもこの時はことがあまりにも切迫しており、王は敵の計画がいともあわただしく実施されるのを目の前に見て恐ろしくなったので(家具財宝は早くも手あたり次第に焼かれたり沈められたりしかけたので)、あわててその兵をおさめ、アビュドス人をゆっくり死なしてやるために三日間の暇を与えた。彼らはその三日間を流血と殺戮とでみたしたが、それには敵の残酷さもかないそうもなく見えた。そして己れに勝つ力のある者は、ただの一人も命を全うしはしなかった。人民がこのような決意をとった実例はなお数限りなくあるが、それはことが一斉に行われるだけ、それだけ恐ろしく思われるので、実際はかえってそれが別々に行われる場合にくらべれば、そう感心するほどのことではないのである。一人一人の理性ではなしえないことも、一緒になればなしとげられる。大勢の熱誠が各個の判断を奪うからである。
 (b)ティベリウスの時代には、おめおめと死刑の執行を待つ受刑者は、財産を没収され埋葬を禁じられた。刑に先んじて自決するものは埋葬もしてもらえたし遺言することもゆるされた。
 (a)けれども人は、何かもっと大きな幸いを希望するためにも死を願うことがある。聖パウロは言った。「われキリストと共にあらんために身まからんことを願う」と。また、「誰かこのいましめよりわれを救うぞ」とも。クレオンブロトス・アンブラキアはプラトンの『パイドン』を読んでから、来世にあこがれる心が切になって、ほかに何の理由もないのに海に身を投げた。(c)そこで、我々がしばしば熱烈な希望をもって・またしばしば冷静な判断が命ずるままに・赴くこの自殺を、絶望と呼ぶことがどれほど不適当であるかが明らかになる。(a)スワッソンの司教ジャック・デュ・シャステルは、聖ルイに従って海外の旅に出たが、王とその軍隊とが、宗教上の問題が未だ解決されていないのにこぞってフランスに帰ろうとするのを見て、自分はむしろ天国にゆこうと決心した。そして友達に別れを告げ、ただ一人、皆の見ている前で敵陣に飛びこみ、その身を八つ裂きにされて死んだ。
 (c)これはあの新世界の一王国における話だが、みんなの尊崇する偶像がすばらしく大きな車に乗せられて群衆の間をひきまわされる、そのおごそかな行列の行われる日には、自分の生きた肉をそいでこれに捧げる者が沢山見られるばかりでなく、また広場のまん中にひれ伏してその身を車のわだちの下に敷きくじかせ、死んで聖者とうたわれ人に尊ばれようと乞い願う者も、少なからず見られる。
 あの剣を振りかざして死んだ前述の司教は、これらの民にくらべていかにも勇ましいが、その信心にいたってはかえって少ないのだ。戦闘の方に半分気をとられていたのだから。
 (a)自殺がどんな場合に適正であるかを規定した国家がある。むかしわがマルセーユ市には、毒人参にんじんで作った毒薬が公費をもって備えられていて、自らその死を早めようとするものの用に供せられた。ただしそれには、予め当市の元老院ともいうべき六百人会議が自殺希望者の理由を承認することを必要とした。公の許可もなく法定の理由にもよらないで勝手に自分に手をかけることは許されていなかった。
 こういう法律はなおよそにもあった。セクストゥス・ポンペイウスはアジアに赴く途中、ネグロポントスのケア島を通った。たまたま彼がここにいた間に、彼のお供をした者の一人が語っているように、こんなことが起った。すなわち、或る大きな権力をもった一人の婦人が、その人民たちに向い、なぜ自ら死を決意するにいたったかを述べてから、ポンペイウスをかえりみて、「なにとぞ私の死をいよいよえあらしめるため、最期の場にお立ち会い下さい」と願い出たのである。そこで彼はその場にのぞみその大いに得意とする雄弁を揮い、いやじゅんじゅんと事のわけを説き聞かせて、ひたすら彼女の意をひるがえさせようと試みたが、どうしてもきかないので、とうとう、その思いどおりにさせることにした。彼女はそれまで九十年の間心身ともにきわめて幸福に暮して来たのであるが、その日はいつもよりも美々しく飾った床の上に横たわり、片肘をついてこう言った。「おおセクストゥス・ポンペイウスよ。神々は、というよりむしろ、私がこれから行って会おうとしている人々ではなくこの世に残してゆこうとする人々は、あなたが私の生きている間は相談相手に、そしていまはまた私の死の立会人となって下さったことを、きっとあなたに感謝して下さいますでしょう! 私はと言えば、今まで、いつも運命のやさしい顔ばかり見て参りましたが、余りに長生きを望みすぎて終いにそのおそろしい顔を見ることになってはいやでございますから、今こそ幸福な終りによって私の残った命にお別れをつげようと思うのでございます。二人の娘と沢山の孫たちを残して」。こう言い終ってから、身内の者に和合と平和とを説き教え、彼らにその財産を分け与え、家の守りの神々を長女に伝え、いよいよ落ちついた手先で毒をたたえた盃を取り上げた。そして、メルクリウスに願をかけ、「こい願わくはあの世のどこか幸いな席に私をばお導きください」と言って、勢いよくその毒をあおった。さてそれから、並みいる人々に向って毒のめぐり工合を、その体の各部が一つ一つ冷たくなってゆく順序を、一々物語り、ついに毒がいよいよ心臓と腸にまで達したのを知ると、その娘を呼び、自分のために最後のお勤めをさせ、そのまぶたじてもらった。
 プリニウスは極北の或る国について、こんな話をしている。「そこでは風が心地よく暖かなので、生命は一般に住民各自の意志によらなければ終らないのであるが、しまいに人々は生きることに疲れ飽きてしまうから、一定の高齢に達すると、通例、最後の御馳走を食べたのち、特にこの用にあてられている高い岩の上から海に飛びこむ」と。
 (b)堪え難い苦痛とあさましい死とは、自殺への誘いとして最もゆるされるべきものであるようにわたしには思われる
* モンテーニュは、はじめ自殺の批評をしているようであったが、いつの間にか自殺の賛美、ではないまでも、これの擁護に傾いているように見える。実際自殺は彼の天性の傾向と全く相反するけれども、理知的には一時彼の思想をかなりに強くひきつけたものらしい。一時は、ただこれ一つが解脱の方便とも考えられたようである。なおこの項は、原罪・贖罪・の思想をモンテーニュが信じていないこと、また来世の報いをも信じないこと、などと共に考えるべきであると思う。拙著『モンテーニュを語る』一一九―一二二頁参照。「旅日記」中、一五八一年八月二十五日、デラ・ヴィラ温泉滞在時の記述の中にも、なおこの自殺肯定の考えが残っていることも注目すべきであろう。白水社版『モンテーニュ全集』第四巻二二六頁とそれに対する註参照。
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第四章 用事は明日



(a)わたしはわがすべてのフランス作家の中で、とくにジャック・アミヨに棕櫚の枝を与えるが、これは至当なことと思う。それはたんに用語文章が素朴清純な点で他のすべての作家にまさっているからでも、あのように長い労作に決して倦まなかったからでも、またその学識が深くてあんなに見ごとにあの読みづらい困難な作品を翻訳しおおせたからでもない(まったく、彼の翻訳については何とでもおっしゃるがよろしい。わたしにはギリシア語はまるでわからないのだ。だがわたしは彼の訳文のいたるところに、きわめて美しい・きわめて首尾一貫した・一つの意味を見出すから、確かに彼は原著者の真の思想を理解しているに違いないし、また、長い間の親交によって、自分の霊魂のうちにプルタルコスの霊魂がおよそどのようなものであるかを鮮やかに印象しているから、少なくとも彼はプルタルコスにもとりプルタルコスにたがう何事をも付けたしはしなかったと、思うのである)。むしろわたしは、彼がああいう貴い・適切な・書物を選び出して、これを祖国への贈物とした**ことを、特に有難くおもうのである。わたしたちのような無知な人間は、この本によって泥んこの中から救い上げられなかったなら、それこそ救われる日はなかったろう。つまり彼のお蔭で、わたしたちも、今こうして、どうやら語ったり書いたりできるのである。御婦人がたもこういう翻訳があればこそ、学校の先生に向って物が言えるのである。それはわたしたちの愛読書である。もしこのお爺さんが現に生きているならば、わたしは彼に、クセノフォンを同じように訳してもらいたいと思う。この方がプルタルコスよりは易しいし、それだけ彼のような老人にはふさわしい仕事である。それに何となく(なるほど彼はきわめて巧みに難所を突破してはいるけれども)彼の文体は、彼が自由に思いのままに駈けめぐるときに、いっそう伸び伸びとしているように思われるからである。
* これは謙遜であるが、モンテーニュがギリシアの作家を大抵ラテン語訳でよんだことも事実である。後出第三巻第五章一〇一二頁註**参照。
** このパラグラフは、翻訳事業ないし翻訳家に対する実にゆきとどいた批評であると思うが、特にモンテーニュが翻訳の一国文化におよぼす感化をきわめてよく見抜いている点に注意したい。ここでもモンテーニュが単なる個人主義者、隠遁趣味の人でなく、文芸をも(宗教と共に)社会的政治的立場から見ていることがわかる。
 わたしは今しがた、プルタルコスが自分について語っている所で、ちょうどこんな話を読んだところである。ルスティクスはローマにおけるプルタルコスの或る日の講義に出ていたが、たまたま皇帝からの手紙をうけとったのに、講義が終るまで遠慮してこれをあけて見なかった。並みいる人々はこれを見て(とプルタルコスは書いているのだが)、この人物の落ちつきを大へんほめ賛えたというのである。ほんとうに、話がちょうど好奇心に及んでいたときであったから、そしてこの好奇心というやつは、何事にまれ新奇のことをむさぼり知ろうとするもので、とかく我々をして甚だぶしつけにも、眼前の何事をもなげすてて新来の人と語らせるものであるから、またあらゆるつつしみを打ちわすれ、場所柄をも省みずに、いそいで手紙の封を切らせるものであるから、プルタルコスがここにルスティクスの落ちつきをほめたのは当をえている。なおその上に師の演説を妨げまいとしたその礼儀をも一緒にほめてやってもよかったろう。けれどもわたしは、ここで彼の慎重さをほめることができるかどうか疑わしく思う。まったく、不意に・しかも皇帝から・手紙をうけた場合に、それを読むことをおくらせては、或いは重大な結果を招いたかも知れないのである。
 好奇心と正反対の不徳は無頓着である。(b)わたしも生れつき明らかにこの傾向を持っている。だが(a)この点にかけては、わたし以上にずいぶん極端な人たちがたくさんいる。彼らは三日も四日も、もらった手紙をポケットに入れたまま、開封もしないで持ち歩いている。
 (b)わたしは人から託された手紙ばかりではない。ふとした偶然によって手に入った手紙だって、決して開封したことがない。えらい人の傍にいて、ふと彼の読んでいる重大な手紙の内容を知ってしまった時などは、甚だ気がとがめる。わたしくらいせんさくぎらいで、ひとのことに無関心なものはちょっとないであろう。
 (a)我々の父たちの時代に、ムシュ・ド・ブティエールはすんでのことにトリノの城を失いそうになった。というのは、折から身分ある人々と晩餐を共にしていたので、彼が司令であるこの都市に対して仕組まれつつあった謀反むほんの知らせを読むのを延ばしたからである。いや同じプルタルコスは、ユリウス・カエサルもまた、その謀反のともがらのために倒れた当日、元老院への道すがら渡された書類を読んだならば、一命が助かったであろうと書いている。またテーバイの主アルキアスについても、こんな話を書いている。「その晩彼は、あのペロピダスが彼を殺してその国を再び自由にしようとする企てがまさに実行されようとする前に、アテナイ人であるもう一人のアルキアスから、謀反の計略を逐一書き記した手紙を受取った。ところがこの封書は、ちょうど彼が夕食を食べている最中に渡されたので、『用事は明日』と言って開封をのばした。それ以来この語はギリシアではことわざとなった」と。
 賢明な人が他人のために、例えばルスティクスのように同席の人々に失礼をしまいとして、或いは、もう一つの大切な要件を中絶しないために、自分にもたらされた知らせをきくのをのばすことはよいと思う。けれども自分の都合のために、また自分一人の快楽のために、その人が公職を持つ人であればなおさらのこと、自分の食事や眠りを妨げまいとしてそうすることは、許すべからざることである。昔ローマには、テーブルの一番上の席に執政席とよばれる席があった。それはその席に坐る人に用があって来る人々が、誰でも自由に・妨げられずに・近寄れるようにと、特に設けられていたのである。これを見ると、彼らが食事中であっても、ほかの用事にたずさわることをあえて避けなかったことがわかる。
 けれども、いろいろに言われはするが、人間の諸行為のうちに、もっぱら理性にもとづいて確実な規則をおしたてることは容易でない。やはりそこには運命がその権力を保っている。
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第五章 良心について



 (a)或る日旅をしながら、弟のシユール・ド・ラ・ブルッスとわたしとは、おりから内乱のうちつづく頃であったが、一人の立派な貴族と道連れになった。我々とは反対の党派に属する人であったが、わたしは少しもそうと知らなかった。まったく彼は、さあらぬていに装っていたからである。実際こんどの戦争で一番困ったことは、敵も味方も全く入りまじっていて、言葉の上でも風体の上でも、少しも区別のつけようがないことである。いずれも同じ法律習慣風俗の下に育って来たのであるから、そこに混同混乱を避けることはなかなかむつかしい。だからわたしとしても、自分が知られていない地方では、味方の軍勢に出あうことすらいささか心配であった。わざわざ名前を名乗らねばならぬのもいやだし、うっかりするともっとひどい目にもあわねばならぬからである。(b)わたしも昔そういう目にあったことがある。まったくこの種の行違いのために、兵卒や馬などを失ったのみならず、だいじな小姓までも惨殺されたのである。それはイタリア生れの貴族の少年で、わたしが目をかけて養育して来た者であったが、そんなことで大きな希望にみちたうるわしい少年があたら命を失ったのであった。(a)ところがわたしが道連れになったくだんの貴族は、ひどくそういう目にあうことを恐れており、馬にのった人々に出あうごとに、また王にくみするもろもろの都市を過ぎるごとに、ほとんど生きた色がなかったから、ついにわたしは、これは良心が彼にあぶないぞあぶないぞと警告しているせいだなと見てとった。実際この哀れな男は、人の眼が彼の仮面を通し、彼の外套の胸の十字を貫いて、彼の心の底なる秘密の意図を読み取りはしないかと心配しているらしかった。それほどに、良心の力というものは恐ろしいものなのだ。良心は我々のうちにあるものを、洩らし・あばき・たたき出す。見ている人があろうがなかろうが、いやおうなしに我々に泥を吐かせる。

刑吏の冷たき心もて、見えざる鞭をうち振りつつ。
(ユウェナリス)

 次の物語はよく子供たちが語るところである。パエオニア人ベッススは、ふざけて雀の巣をたたきおとし、これを殺したのを咎められると、「それにはわけがあるんだ。これらの小鳥どもは、わたしのことを親ごろしよなどと、ありもせぬことをさえずってやめないからだ」と言った。この父殺しのことは、それまでは誰も知らないかくれたことであったのだが、良心が怒って、何食わぬ顔をしている当の下手人にとうとう泥を吐かせたのである。
 ヘシオドスは、プラトンの「罰は罪のすぐあとから来る」という語を訂正した。まったく彼は、「罰と罪とは同時に生れる」と言ったのである。罰を待つ者はすでにこれを受けている。そして罰に値することをした者は必ず心にこれを待つ。よこしまな心はその人を呵責する。

悪はこれをなしたる者に帰る。
(アウルス・ゲリウスの引いた諺)

それは黄蜂がひとを刺し傷つけながら、それ以上に自分を傷つけるようなものである。まったく黄蜂は、その時その針を失うだけでなく、永遠にその力を失うのである。

彼らは、その生命を、その与えし傷の中にのこす。
(ウェルギリウス)

はんみょう〔斑猫〕という虫は、体内に自分の毒に抵抗する一種の毒消しを持っている。これはまったく自然の抵抗である。同様に、人も不徳を楽しむようになると、しぜんと心の奥に、何かそれに対抗する不快感が生ずる。そしてさまざまの苦しい思いが、寝ても覚めても我々を苦しめる。

(b)まことに、多くの人々は、夜の夢に、
或いはまた病の床に、うなされつつ、
それまで現われざりし罪を洩らすなり。
(ルクレティウス)

 (a)アポロドロスは、スキュティア人に皮膚をはがれ釜で煮られる夢を見たが、その夢の中で彼の心は、「自分こそこれらの苦痛の原因である」とつぶやいていたという。エピクロスの言うとおり、どんな隠れ家も悪人の役には立たない。彼らは隠れていても安心ができないからである。良心が彼らの悪を彼ら自らに暴露するからである。

罪人の第一の刑罰は、
自己の良心にゆるされざることなり。
(ユウェナリス)

 良心は恐怖をもって我々をみたすとともに、またよく安心と確信とをもって我々をみたす。(b)現にわたしは、自分がさまざまな危険の中を、ほかのひとよりもしっかりした足どりで歩いてこられたのは、心中ひそかに自分の意志を理解し、自分の企ての潔白を信じていたからだと、言うことができる。

(a)良心の語るところの如何により、
人の心は、或いは希望に・或いは恐怖に・満たさる。
(オウィディウス)

その例は無数にあるが、同一人物における次の三つの例を挙げればたりよう。
 スキピオは或る日、ローマ市民の前で或る重大な罪を告発されたが、いたずらに弁解したり裁判官にへつらったりせずに、「君たちが人々を裁判する権力を持っているのはわたしのお蔭だと思うが、そのわたしの首をはねるつもりだとは、いかにも君たちにふさわしいことだね」と言った。また或る時は、一護民官が彼を弾劾だんがいしたのに対して、少しも自分の立場を弁解しようとはせず、ただ一言こう答えた。「さあ、わが市民たちよ。神々の御前に行って、かつて今日と同じような日に、神々がわたしをカルタゴ人に勝たして下さったことを感謝しようではないか」と。そう言って神殿にむかって歩き出すと、その場にいた人々はこぞって、当の弾劾者までが、彼の後ろに従った。それからペティリウスがカトーにそそのかされてこのスキピオに、アンティオキア州で使われた金額の計算を求めると、彼はわざわざ元老院におもむき、上衣の下から出納帳をとり出し、収支は偽りなくこれに記入してあると言った。けれどもそれを裁判所書記に委ねよと要求された時には、そのような恥辱は甘受することができないと言って、断然これを拒絶し、元老たちの面前で、自らそれをずたずたに引き裂いた。良心の麻痺した人間にこういう確信を装うことができるとは、とうてい信じられない。(c)彼はティトゥス・リウィウスも言ったとおり、天性あまりにも大らかな心・あまりにも高い運命になれた心・を持っていたために、罪を犯すことも身を屈して己れの無罪を証明することも、二つながらできなかったのである。
 (a)拷問とは実に危険な思いつきである。それは真実のためしではなくて、むしろただ忍耐のためしであるかのように見える。(c)拷問に堪えることができる者も、これに堪えることができない者も、同じように真実をかくす。(a)まったく、どうして苦痛が、わたしにありのままを告白させるであろうか。かえって有りもせぬことを言わせはしないだろうか。いや逆に、告訴されるようなことをしなかったものも我慢づよくこれらの拷問に堪えることであろうが、どうして真に罪を犯したものが堪えないといえようか。助命という立派な御褒美がいただけるのだもの。このような方法が発明されたのは、良心の力がいかにつよいものかということが、よくよく考えられた末のことだと思う。まったく罪人においては、良心こそ拷問を助けて彼にその罪を告白させるように、また彼の強情を弱めるように思われるが、また一方潔白な者の心を拷問に対して強くするようにも思われるのである。だが正直に言えば、拷問というものは不確実と危険とに充満した方法である
* この当時は、裁判と拷問とはむしろ不可分のものであったので、Villers-Cotterets の布令(一五三九)以来はそれが公々然として認められ、世人は少しもそれをあやしまなかったのである。そういう時代に、モンテーニュがこのような意見を述べていることは、実に注目せねばならないのである。それは、彼がいかに旧習にとらわれなかったか、またその所信に対していかに勇敢であったかを、遺憾なく示している。フランスで拷問の廃止せられたのが漸く一七八〇年であったことを考えると、彼はまさに二世紀先を歩んでいたことになる。なお第三巻第十一章参照。
 (b)このような責苦をまぬがれるためには、人は何をいわないであろうか。また何をしないであろうか。

(c)苦痛は、罪なき者に、心にもなき嘘をつかす。
(プブリウス・シルス)

 そこで裁判官が、人を無実の罪のために死なすまいとしてこれに拷問を加え、かえって彼を無実の罪と拷問との両方で死なせる結果になる。(b)何千何万の人々は、拷問の苦しみから免れるために、さまざまなうその告白をでっちあげた。そのうちの一人にわたしはフィロタスをかぞえる。アレクサンドロスが彼のために提起した訴訟の事情と彼がこうむった拷問の進行とをあわせ考えると、どうも彼は心にもない自白をしたのに違いない。
 (a)しかし、それはともあれ、それは、(c)と世間では言っている、(a)弱い人間が発明し得た最小の悪である。
* 一五八〇年には、モンテーニュは拷問を非難しながら、なおその必要性を認めていた。だから「最小の悪」とはまだ書かずに、「最もよいもの」と書いている。弱い人間の発明したものとしては、これでも最上のものだとしているのである。そして一五八二年にもわずかにこれを訂正して「最小の悪である」とだけ書いた。ところがここに見る一五八八年以後の加筆によると、更に彼の論調は硬化している。「……(c)と世間では言っている」と書き加えているのは、それは世俗の意見であって、モンテーニュ自らは「最小悪」どころか、「最大悪」と考えていることを明らかにしている。
 (c)だが、それにしてもずいぶんと非人間的なずいぶんと無益なことを発明したものだと、わたしは思う! 多くの国民はギリシア人やローマ人から野蛮人と呼ばれながら、この点においてはかえって彼らほどに野蛮でなく、その罪状が確かでない人を拷問したり切りこまざいたりすることの方を凶暴残酷だと考えている。彼に君たちの無知をどうすることができる? 理由なくしてその人を殺すまいとて、殺す以上の苦しみをこれに与える君たちは不正でないか。そうさ、不正だとも。見たまえ、幾たび人々が、刑罰よりも苦しいこの拷問にあうくらいなら、理由はなくても死ぬ方がましだと思ったかを。いやまったく、拷問はしばしばあまりにも苛酷で、刑罰に先んじて刑罰を実施したではないか。わたしは次の話の出どころを知らないが、それは我々の裁判がいかに良心を重んずるかを正確に物語っている。或る村の女がきわめて厳正な軍司令官の前に出頭して、一人の兵卒が彼女の子供たちから、彼女が子供たちのためにとやっと残して置いた少しばかりの雑炊を奪った由を訴えた。ちょうどその軍隊が付近一帯の諸村を荒したときであった。ところが証拠は一つもなかった。将軍はその女に、「よく自分のいうことを考えて見よ。もしいつわりならばお前の方が罰せられるぞ」と念をおした後、なお女が言いはるのを見て、ついにその兵士の腹を断ち割って、ことの真偽を明らかにした。そして女の正しさが認められた。これこそ裁判のかがみである。
*「彼」とは被告を指し「君たち」とは裁判官によびかけたのである。即ち裁判官の無知(証拠不十分その他から来る)は被告の責任であろうか。それは裁判官の方の責任で、被告側からはどうしてやることもできないことである。だから、裁判官の側に事実の真相がわからぬからと言って、裁判官が被告を苦しめるのは明らかに不正だ、というのである。正義を司るはずの裁判官が、このような不正義を敢えてしていいかと、詰問しているのである。モンテーニュは十六年間裁判官をしたが、最後まで職業ずれのしなかった良心の人である。
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第六章 鍛練について



 モンテーニュはこの章のなかで、「我々は霊魂を鍛練することによってあらゆる苦難に対して備えることができる。ただ死だけは前もって実地に経験しておくというわけにゆかない。だがそれにしても気絶失神というような経験は幾分か役に立つようだ」と言って、自分が落馬して気を失った時のことを細かに述べている。いつ頃書かれたものかははっきりわからないが、だいたい一五七三年ないし四年あたりだろうということになっている。従ってストア主義の色が依然として相当こいが、早くも彼の moi が登場して来ている。恐らくこの頃を起点として彼の自己を観察し描写する傾向はだんだんと強まり、その結果自分の柄に合わないストア主義からようやく離れて、自然哲学ないしエピクロス主義へとますます心をひかれてゆくのであろう。後年の気分転換の説(三の四)、人相について(三の十二)なども、この章の延長、いわば帰結であろう。なお、この章における一五八八年以後の加筆において、彼はみずから描く企てに対して弁明をしている。あたかも、「モンテーニュのみずから描こうという愚かな企て(sot projet)!」と叫ぶパスカルに対して、予め答えているかにみえる。だが、パスカルを始めアルノーやニコル等の頑固で無理解なポール・ロワイヤリストたちの誹謗(彼らはモンテーニュを非紳士 malhonn※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)te homme と断じた)に、小気味よく一矢を報いたのはヴォルテールである。「モンテーニュがあのように率直にみずから描こうとしたのは、人を魅する企て(charmant projet)だ! だって彼は人間性を描いているのだから。むしろニコルやマルブランシュやパスカルがモンテーニュをけなそうとするのこそ哀れむべき企て(pauvre projet)だ! アンリ三世時代の田舎貴族〔すなわちモンテーニュ〕は、無知の世紀における学者であり狂信者の間の哲人であって、自己の名のもとに我々人間の欠点と痴態とを描いているのだ。それは永遠に愛せらるべき人間(un homme qui sera toujours aim※(アキュートアクセント付きE小文字))である」(Voltaire: Remarques sur les Pense'es de Pascal)と言っている。実際、モンテーニュが常に率直かつ赤裸々にその欠点をも失敗をも描いている点こそ、他のモラリストにおいてはとうてい見られない特徴であって、むしろ『随想録』最大の魅力をなすものであろう。本章は前出一の十九、一の二十につながっている。

 (a)推理と教育とは、我々がとかく信用したがるものであるが、我々を実践にまでつれてゆくほど力あるものではない。どうしても我々は、そのうえさらに経験に訴えて、我々の霊魂を我々が欲するように錬成しなければならない。でないと霊魂は、いよいよ実行という瀬戸ぎわになって、きっと動きがとれないことであろう。だから哲学者たちの間でも、何とか特別に優れた境地に達しようと意欲した者は、隠れて静かに苛酷な運命を待機しているだけでは満足しなかった。そんなことでは、いざという場合何もかもが始めてであり未経験であって、運命との戦いに負けることはわかっている。だから、彼らは自分から運命にぶつかって行った。わざといろいろな困難の試練の前に挺身した。或る者は財宝をすててわざと貧窮のうちにその身を鍛えた。或る者は勤労と厳しい苦行の生活を求めて苦痛と労働とにその身を練った。また或る人たちは、その身体の最も大切な部分、例えば目だとか生殖の器官だとかを取ってすてた。あまりに快適あまりに甘美なそれらの使用が、堅固な自分の霊魂をも軟弱にしてしまうことを恐れたからだ。けれども死に対しては(これこそ我々がなしとげねばならぬ最大の仕事であるが)、鍛練は少しも我々の助けとはならない。習慣と経験とによって、苦痛・恥辱・貧乏・その他これに類するもろもろの不運に対して自己を鍛えることはできるけれども、死に至っては、我々はこれをただの一度しか試みることができない。いよいよこれに直面する時、われわれは誰でもみなただの小僧である。
 古代には時間の使い方にきわめてすぐれた人々がいた。彼らは死にのぞんでさえ死をなめ味わおうと試み、心を張りつめてこの生から死への推移がどんなものであるかを見とどけようとした。けれども彼らは、ついにその報告をするために戻っては来なかったのである。

一たび死の冷たき平安を感ずるや、
なんぴともついに目覚むることなかりき。
(ルクレティウス)

 ローマの貴族カニウス・ユリウスは、きわめて大胆沈着な人であったが、あのカリグラというならずもののために死刑に処せられたとき、さまざまの驚嘆すべき証拠によってその決心のほどを示したが、いよいよ首斬役人の手にかかろうとした時、彼の友である一哲学者が、「どうだカニウス、いま君の霊魂は、どんな状態にあるか。何をしているか。いま君は、どんな思いの内にあるか」とたずねたのに対して、「いまやいよいよ用意はととのい、ありったけの力をもって張りきっているよ。果してぼくはこの迅速な死の瞬間に、何か霊魂の移転とでもいうべきものを知覚することが出来るかどうか、果して霊魂は自己の遊離を多少とも感ずるかどうか、それを一つ試してやろうと張り切っている。少しでも何かを知覚しえたら、後で、できれば戻ってきて、みんなに知らせてやりたいと思っているところだよ」と答えた。この人は死に至るまで哲学したのみならず、死そのものの内においてまで哲学している。何という落ちつきであろう。何という気高い心であろう。自分の死を自らの教訓にしようとしているとは! このような一大事に直面してまで、なおほかのことを考えるだけの余裕をもっていたとは!

(b)かれは死に面してすらもなおその心を失わざりき。
(ルカヌス)

 (a)けれども、我々を死に馴らし・或る程度それを経験させる・方法も、幾らかはあるように思う。我々は死の経験を持つことができる。完全な経験は望めないまでも、少なくとも、我々に全く無用ではなく・我々を幾分なりとも強くし落ちつかせる・くらいの経験は持つことができる。死にとどくことはできないが、これに近寄ることはできる。これを認めることはできる。我々はその城内までふみこむことはできぬにしても、少なくともそこまでの道を見たり歩いたりすることはできよう。睡眠は死に似ているから、自分の睡眠をよく観察せよと教えるのも、決して道理のないことではない。
 (c)いかに容易に、我々は覚醒から睡眠へと移行するか。いかに平気で、我々は光と自己の知覚を失うか
* 我々は眠りに入る時痛くもかゆくもない。むしろいい気持である。死もまた、「明るさと自己の知覚を失う」点において睡眠とちがいがない。
 ひょっとすると、我々からあらゆる行動とあらゆる感覚をうばう睡眠という働きは、いかにも無用な・また自然に反した・ことのように思われるかも知れないが、実はこれによって、始めて自然が我々を生と死との両方のために作ったことを、教えられるのである。我々は生きているうちから、その後にわれわれを待っている永遠の状態を教えられるからこそ、あらかじめそれになれることもできるし、その恐ろしさを取り除くこともできるのである。
 (a)けれども何か急激な出来事のために気絶状態に陥り、ためにすべての感覚を失った経験のある者こそ、最もまぢかに死の、真の・ありのままの・姿を見た人だと、わたしは考える。まったく、その生から死へと移行する瞬間にしても、何かそこに苦痛か不快でもあるのではないかなどと、少しも恐れるには及ばないのである。なぜなら、我々は余裕がなければ何の感情も持ちえないからである。我々が苦痛を感じるには時間がいるわけだが、死に際してはその時間がきわめて短くあわただしいから、死はどうしたって感じられないものでなければならない。我々が怖がらねばならないのは、その接近であって、この接近ならば、我々にもそれを経験することができるのである。
 多くの物事は、実際にこれを見るときより、心の中でこれを想像しているときの方が、大きく見える。わたしは生涯の大部分を完全な健康のうちに過した。いや、それは完全どころか、元気溌剌たるものであった。そういう元気と歓喜とに満ちみちていた頃は、病気のことを考えると恐ろしくてたまらなかったが、はからずもそれを経験するに至ったときには、かえってその苦痛を、かつて恐れていた割合には緩慢なものに感じたのであった。
 (b)わたしはしょっちゅうこんなことを経験する。雨風の吹き荒れる夜など、ひとり心よい部屋の中で温まっていると、いま野辺をゆく人たちはどうであろうかと胸をいためる。だが自らそこに出て行って見れば、べつに、どこかよそにありたいなどとは思いもしない。
 (a)いつも一つ部屋の内にとじ籠っていなければいけないというただそのことだけでも、わたしには堪え難いことに思われていた。ところが、わたしはいつの間にか感動と混乱と衰弱とに充満して、一週間も一月も閉じこもって暮すのに慣れてしまった。そして気がついてみると、むかし健康なときにはずいぶんと病人たちをあわれに思ったものであったが、さていよいよ自ら病人になってみると、それほどまでに自分をあわれに思ってはいない。やはりわたしの取越苦労が、事の本質を半分近くもせり上げていたのだと思う。願わくは死もまた同じことであってくれればよいが! それはそれほどの準備をととのえ・それほどの救援を呼び集めて・その衝撃を支えねばならないほどの代物ではなくてくれればよいが! だがどんな場合でも、我々は心の準備をしすぎてわるい理由はない。
 我々の三回目の乱の頃だったか、それとも二回目の頃だったか(わたしはそれを確かには覚えていないが)、或る日のこと、わたしは家から一里ばかりのところに散歩に出かけた。あたかもフランスの内乱のまん真中にいたわけであるが、なに大丈夫と思ったし、わたしの隠居所のほんの近くだからと思ったので、よい方の馬でなくても足りようと思い、乗心地はしごくよいが余りたくましくない方の馬に乗って出かけた。ところが帰り途に、その馬を全くそれにふさわしくない役にたてねばならない事件が突発した。というのは、わたしの従者の一人でたけの高い頑丈な男が、口の固くて逞しい軍馬の・しかも若くて癇の強いやつに・乗っていたが、勇ましいところを見せようと思ったか、仲間の連中をおい越して、まっしぐらにわたしの行く手にかけよせた。そして巨像が倒れるように、ちっぽけなわたしと小馬の上におっかぶさり、あっと思う間に、その勢いと重みとでわたしをおし潰してしまった。わたしは馬もろともまっ逆さまにほうり出された。馬は目をまわしてぶっ倒れるし、わたしも、十二、三歩かなたに、死んだようになって、あおのけさまにほうり出された。顔はすりむいて傷だらけ、持っていた剣は十歩以上も向うにほうり出し、帯もずたずたにぶち切られたまま、まったく切株同然、知覚を失って動けなかった。これが、わたしが今までに経験したただ一回の気絶である。わたしと一緒にいたものは、わたしを生きかえらせようとできるだけの手を尽したが、いよいよこと切れたものと思い込み、皆してわたしを抱きかかえ、大そう骨をおって、そこからフランス里程で約半里ばかり〔約四キロ半〕ばかりはなれたわたしの家へかつぎこんだ。途中で、さよう、たっぷり二時間余りも死人と思われていたのだが、やがてわたしは身動きをし、息をし始めた。まったくずいぶん多量の血液が胃の腑の中に流れ込んだので、それをもどすために自然と胃に反動しゃくりが生じたためであった。皆はわたしを立たせた。わたしはそこでどろどろの血ばかり桶一杯も吐き出した。それからも、道々、幾度も同じように吐かねばならなかった。そのようにしてようやくわたしは少しばかり生気を回復したが、それは少しずつで長い時間がかかったから、わたしの最初の感覚は、生きているというよりはむしろ死んでいる感じの方に近かったのである。
* ユグノーの乱即ち宗教戦争のこと。第二回か第三回かというと、一五六七―七〇年の頃のことである。

(b)心は、なおその覚醒を疑いつつ、
茫然としていまだ定まらざりき。
(タッソー)

 (a)この・わたしの霊魂のうちに強く刻みつけられた・死の記憶は、わたしに死の姿やその観念をきわめて自然に近いものに見せ、わたしをかなり死と仲よくさせた。物が見え出した時も、その視覚は甚だぼうっとした・弱い・力のないもので、わたしはただわずかに光だけしか見わけなかった。

あたかも夢うつつの境にありて
眼をひらきてはまた閉ずる人のごとくに。
(タッソー)

 霊魂のはたらきは、肉体のそれが回復するにつれて、だんだんにもどってくる。わたしは自分がすっかり血にまみれているのを見た。まったくわたしの上衣は、もどした血でしみだらけになっていたのである。わたしにもどって来た第一の思いは、「火縄銃で頭をやられたんだな」ということであった(ほんとうに、はっと思ったあの瞬間、わたしは周囲に数発の銃声を聞いたからである)。それはもう自分の生命が、ただわずかに唇のさきに引っかかっているにすぎないような感じだった。わたしはじっと目をとじて、その生命を唇から外にふき出そうとしているかのごとく、そのままとろとろとなって行ってしまいそうな楽な気分であった。それはわずかにわが霊魂の表面を行きつもどりつする思いであって、他のもろもろの知覚と同様にとろんとぼんやりしたものであった。いや本当に、それは少しも悲痛を含まないばかりでなく、むしろ、うとうとと眠りにひきこまれようとする者の感じる・あの心地よささえ交った・ものであった。
 わたしはあの末期まつごの苦悶の中に弱り衰える人々もまた、これと同じ状態にあるのだと思う。彼らは重い苦痛にもだえているのだとか、辛い思いにかきくれているのだとかいう風に考えて、彼らを痛ましがるのは理由のないことだと思う。わたしは始終次のように考えていた。それは多くの人々の意見に反するし、またエチエンヌ・ド・ラ・ボエシの意見にさえ反しているが。すなわち、「或いは長い間の病気に・或いは卒中や癲癇の急激な発作に・圧倒されて、

(b)しばしば、人は、病に打ち負かされ、
あたかも雷にうたれしがごとく我々の前に打ち伏す。
彼は、泡をふき、うめき、かつ打ち震う。
たわ言を言い、身をこわばらせ、またもがき、
吐く息もまたたえだえなり。
(ルクレティウス)

(a)或いは頭に傷ついたりして、ああやって臨終も間近く仰臥昏睡している人々を見ていると、彼らがうめいたり・時には鋭い息を吐いたり・するのを聞いていると、何やらそこにはなお多少の知覚が残っているらしいしるしも目につくし、また多少は彼らの肉体が動くけはいも見えはするけれども、その時はもう彼らの霊魂と肉体とはとうに眠りにつき土に帰しているのだ」と考えていたのである。

(b)彼はなお生きてはあれど、自らにその覚えなし。
(オウィディウス)

(a)つまり、手足があれほどに麻痺し、感覚もあれほどに衰弱しながら、霊魂が内部でなお自己を意識するだけの力を保っているとは、とうてい信ずることができなかったのである。彼らは思い苦しむだけの理性も、自分の今の悲惨な状態を判断し感知するだけの理性も、持ってはいないのだから、大して憐れむにはたらないのだと考えていたのである。
 (b)このわたしも、自分の霊魂がしみじみと悲哀を感じながら、しかもそれを洩らすことができないというような、堪えがたく恐ろしい状態に自らおちいることがあろうとはとうてい思われない。例えば舌を切られて刑場に送られる人たちのような(この種の死においては、黙って何も言わずに死ぬのこそ、もしそれが泰然自若たる面もちでなされるならば、最もふさわしい死に方であろうと思うけれど)、或いはまた、この頃のあの鬼畜のような兵士たちの手中におち・払おうにも払えぬ法外な身の代金を払えとありとあらゆる残忍非道な責苦をうけながら・しかもその思いやその悲惨を訴える道のない境遇におかれている・あの可哀そうな囚人たちのような、ああいう目に自らあおうとは決して思わない。
 (a)詩人たちは、このように長びく死に苦しみ悶えている人々をお救いになる神々を想像した。

われは教えられたる旨に従い、
地獄の神にこの髪を供えて汝を救わん。
(ウェルギリウス)

我々が彼らの耳元で一所懸命に叫んだりはげましたりして、無理に彼らからもぎとる短い声や切れ切れの答え、或いはまた、我々の願いに何やら賛成するように見える身動きなどは、決して彼らが生きているしるしではない。少なくとも完全な生命のしるしではない。よく我々はうつらうつらしながら、すっかり寝こむ前に、やはり夢見るように自分の周囲の事柄を感ずることがある。ぼんやりとはっきりしない・霊魂のふちまでしか達しないような・聴覚で、人の話を聞いていることがある。我々はその言葉尻をとらえて返事もするが、それはただの偶然であって意味はないことである。
 さて、今では、自ら実際にこれを経験したのであるから、わたしはこれまでの自分の死に関する判断が正しいことを少しも疑わない。まったく、第一に、すっかり気を失っておりながら、わたしは自分の上衣の胸をはだけようとしきりに爪で掻きむしっていたのであるが(その時はよろいをきていなかったからである)、しかし頭の中には、少しも傷をしているような感じはなかったのである。実際我々には我々の命令から発したのではない運動が沢山あるのである。

(b)死せる指、打ち震えて、剣をつかみたり。
(ウェルギリウス)

(a)ころぶ人々はあっという間に腕を突き出す。これは自然の衝動であって、それによって我々の体の各部は互いに助け合うのである。(b)我々の理性とは離れた運動をするのである。

聞くならく、大鎌をつけたる戦車は、
いと速やかに人の手足を切断するが故に、
斬られたる人は心にいまだ痛みを覚えざるに、
早くも手足は落ちて地にまろびたり。
(ルクレティウス)

(a)あの時も、胃があの凝結した血でいっぱいになったので、手がしぜんとそこにいったのである。ちょうど、我々の意志は掻いてはいけないというのに、往々にして手がひとりでにかゆい所にとどいてしまうように。沢山の動物は、また人間でさえも、死んでから後に筋肉をひきつらせ動かすことがある。人々は経験によって、しばしば意志の許可がないのに動き出し・たったりねたりする・器官があることを知っている。ところでわずかに我々の表面だけにしか感じられないこの種の感覚は、まだまだ我々のものとは言えない。それらが我々のものであるためには、我々の心身全体がそこに関与していなければならない。我々が眠っている間に手足に感ずるような痛みは、我々のものではないのである。
 わたしが早くもわたしの落馬の知らせが伝わって上を下への騒ぎをしている我家に近づいた時、そして家族のたれかれがこのような場合にありがちな叫びをもってわたしを出迎えた時、わたしはこれらの人々の問いに二こと三こと答えたばかりでなく、後で聞くと、妻があがりさがりの多い歩きにくい路に難渋しているのを見て、馬に乗せてやるようにとの指図までもしたそうな。こういう考慮は、いかにもめた霊魂から発したもののように見えるけれども、わたしはその時少しも醒めてはいなかったのである。それはうつろな・もやのような・思いで、ただ耳や目の刺激によって生れたにすぎず、決してわたしの内部から生じたものではなかった。だからわたしは、何処から来たのか、何処へゆくのか、知らなかったし、人から何か問われても、それを判断したり考えたりすることができなかった。それは、いずれも感覚がいわば習慣的に・ひとりで・作り出すところの意味のない行為なのである。それにつれて霊魂がうみ出したものも、まだぼうっとした夢のうちにあって、もろもろの感覚のぼんやりした印象に、きわめてかすかに触れられただけ・いわばめ潤おされただけ・のものにすぎなかった。そうした間わたしの容態は、ほんとうに、はなはだ平穏なものであった。わたしは自分のためにも他人のためにも悲しくなかった。それは極度の衰弱で少しも苦痛はなかった。わたしは自分の家を見ながらそうと知らなかった。ただ寝かせられた時には、その休息に限りない安楽を感じた。まったく、それまでわたしは、下僕しもべたちのためにがむしゃらにひっぱりまわされていたのであった。可哀そうに彼らの方でも、長いそして甚だ悪い道を、わたしをかついで歩くのにずいぶんと難渋したのであった。いや、彼らもへとへとになっては、二度も三度も互いに肩がわりをしたくらいなのである。人はむやみと薬をすすめたが、わたしは一つも飲まなかった。頭に致命傷を負っているものと、思いこんでいたからである。そのままったら、それこそ嘘ではない、ほんとに幸福な死であったろう。まったく理性の衰弱は、わたしが物事を判断するのを妨げてくれたし、肉体の衰弱は、わたしに何事をも感知させないでくれたのである。わたしはきわめてそうっと、きわめて静かに、きわめて楽に、なされるままに委せていた。これくらい苦しくないことを、わたしはほかに知らないくらいである。ふと正気にかえり力を取り戻すと、

(b)ついにわれ意識をとりもどすや、
(オウィディウス)

(a)(それは二、三時間たった後のことであったが)、急に痛みを感じ出した。落馬した時に手足をくじいていたからである。その後の二晩三晩というものは、ずいぶんと苦しかった。またもう一ぺん死ぬのか、しかも前よりも辛い死に方をするのか、と思った程であった。今でもそのときの打身のあとが痛むことがある。ここにわたしがどうしても言い忘れたくないことは、最後にやっと思い出すことができたのがこの事件の顛末てんまつであったということである。わたしは自分がどこへ行ったのか、どこからの帰りなのか、いったい、それは何時頃のことであったのか、などのことを、幾度も皆に繰りかえしてもらった後に、やっとのことで事の顛末が了解できたのである。どんなふうにわたしが転落したかについては、その原因となった者のためを思って、皆はそれをわたしに隠した。そして別様に言いつくろった。けれども、しばらく後に、つまり翌日になって、ふとわたしのかすかな記憶が半ば開き、あの馬がわたしに飛びかかって来るのを認めたその瞬間の自分の状態を思い出したが(まったくわたしはその馬をかかとのところに見て、とっさに、死ぬな! と思ったのであるが、この思いはあまりに急であって、恐怖の念などの生ずる暇はなかったのである)、その時始めて、わたしは一閃の電光がはっとわたしの霊魂を打ったかのように、そして、あたかもあの世から帰って来たかのように、感じたのである。
 こんなつまらない出来事をお話しても、ほとんど何のたしにもならないであろうが、わたしはそれからだいじなことを学びとったのである。まったく、正直のところ、死になれ親しむためにはこれに接近するより仕方がないということを、このとき始めてさとったのである。さてプリニウスが言うとおり、各人に自己をつぶさに見きわめるだけの能力がありさえすれば、自分こそその人にとってすこぶるよい教材なのである。ここにあるのはわたしの学説ではない。わたしの研究なのである。他人のための教訓ではない。自分のための教訓なのである。
* この考えは後年変る。第一巻第二十章の解説および拙著『モンテーニュを語る』一六九―一七二頁参照。
 (c)だが、わたしがそれを人に伝えても、悪く思わないでほしい。わたしの役に立つことは、ひょっとすると他人様ひとさまのお役に立つこともある。それにわたしは、何一つ損いはしない。わたしはただ自分のものを使っているだけだ。わたしが馬鹿をしたって、それはわたしの損になるだけで、他人様に御損はかけないのである。まったくそれはわたし独りのうちに終りをとげる馬鹿であって、少しも後に影響をのこしはしないのである。我々はこういう道を歩んだらしい古人を、ただの二、三人しか聞き知らない。しかも、果してそれがわたしと全く同じ流儀であったかどうか、わからない。ただその名前だけしか知らないのだから。その後なんぴとも彼らの足跡に従わなかった。我々の精神のようなあんな放浪的な歩みを追いかけたり、そのかくれた隅々にたちこめる雲霧くもきりを見とおしたり、その運動の機微な様態を一々捕捉したりするのは、苦しい仕事である。案外に苦しい仕事である。だがそれは新奇な風変りな楽しみでもあって、これを始めるといつしか我々は世間普通の仕事から手を引きたくなる。最も重んぜられるお役目までもすてたくなる**。数年前から、わたしはただ自分だけを思索の目標とし、ただ自分だけを検査し研究している。何かほかのことを研究しても、それはすぐにわたしのうえに・いやもっと正しくいえばわたしのうちに・あてはめてみるためである。もしまたわたしが、この研究のうちに学びえた事柄を(他の較べものにならぬほど無用な研究についてよくなされるように)、公表しても、決して間違ったことをしているとは思わない。もっともわたしはそれによって得た進歩に大して満足はしていないけれど。実際その困難さにおいても、その有用さにおいても、自己の描写にかなう描写はない。それに広場に出るには、髪もとかさなければならないし、身づくろいもしなければならないのである。ところで、わたしは絶えず身なりに注意する。わたしは絶えず自らを描くから。習慣は自己について語ることを悪いとする。そして自己の話をする場合にはいつもこれに自慢が伴いがちなのをきらって、執拗にこれを禁止する。
* この考えは後出三の二において詳論される。
** 事実モンテーニュは、サン・ブリス会談の時、カトリーヌ・ド・メディシスから、後にはアンリ四世から、歴とした顧問官に就任するよう求められたが断っている。『モンテーニュとその時代』第七部第一章―第五章参照。
 それでは子供の鼻をふいてやらねばならないからといって、鼻までもいでしまうのと同じことになる。

あやまちを恐れすぎてかえって罪を犯すことあり。
(ホラティウス)

わたしはこのようなやり方には益よりも害の方が多いと思う。人々の前で自己について語るのは必然的に自惚うぬぼれであるということが真実だとしても、わたしは、わたしの一般的方針に従えば、この病的な癖を発表するという行為を、やめるわけにゆかない。現にその癖はわたしの内部にあるのだから。いや、この過ちを隠すわけにもゆかない。わたしはそれをたんに犯しているだけではなく公表もしているのだから。とにかくわたしの思っているとおりを言わせてもらうなら、多くのものが酔っぱらうからといって酒を悪いとするあの習慣も間違っている。人は善いものでなければ乱用するはずがない。だからあの規則も、ただ凡俗の人の過ちを防ぐ掟にすぎないと思う。それは子牛の手綱である。そんなものには、あれほど崇高に自己について語っている聖人たちは勿論のこと、哲学者たちも神学者たちも抑制されはしない。わたしだってそうだ。ほとんど哲学者でも神学者でもないけれど。彼らはことさらに自己について書かないにしても、少なくとも機会が彼らをそこに誘うときは、決して衆人環視の前に飛び出すことをためらわない。そもそも何を、ソクラテスは自己以上に長々と論じたか。そもそも何に、彼は弟子たちの対話を導いたか。何よりもしばしば彼ら自らについて語らせたではないか。彼らの書物の中の教訓についてではなく、彼らの心の本質と動きとについて語らせたではないか。我々は神に、また懺悔聴聞僧に、信心ぶかく告白するし、我々の隣人たち**は大勢の前でこれをする。「でもぼくたちは、ただ自分の悪口を言うだけですよ」と人は答えるだろう。そうだ。だからこそ我々は、何もかも言うことになるのである。まったく、我々の徳行そのものすら過ちにおちやすく、後悔の種ともなるのだ。わたしの職業わたしの専門は生きることである。それをわたしが理解し・経験し・実践する・ままに語ることを禁ずる者は、建築師に向っても、自分によらず隣人によって、自分の研究によらず他人のそれによって、建物について語るよう命ずるがよい。自分で自分の価値を公表するのが傲慢だというなら、なぜキケロはホルテンシウスの雄弁を、ホルテンシウスはキケロのそれを、推奨しないのか***。恐らく人々は、わたしが仕事や行為によって、つまり単に言葉によってではなく、わたしを示すことを求めているのだろう。わたしは主としてわたしの思想を描くのであるが、もともとこれは定った形のないもので、とうてい行為という形をとることはできないのである。声という風のようなものの中にこれを吹き込むのが、せいぜいである。最も賢明で敬虔な人々は、すべて目に立つ行為をさけて生活した。行為は、わたしについてよりもむしろ運命について、より多く語るであろう。行為はそれ自らの役目は示すが、推量的に・すこぶるいい加減に・でなければ、わたしの役目を示してはくれない。つまりそれは、ただわたしの部分々々を示す標本にすぎない。わたしはわたしの全体を示すのである。それはひと目で血管も筋もけんも、それぞれがありありとあるべき場所にみられるスケレトス****である。咳という行為はわたしの一部を提示する。青い顔とか動悸とかはもう一つの部分を提示する。しかもいずれもあやふやにである。ところがわたしが書くのはわたしの挙動ではない。それはわたしであり、わたしの本質である。わたしは「自分を評価するには慎重でなければならない。またそれを示すにも同様に良心的でなければならない。それが低くても高くても、公平に示さなければならない」と信じている。もしもわたしが善良にまた賢明に、或いはほぼそのように、わたしに見えるならば、わたしはそう大声で言いたてるであろう。自分について控え目に語るということは、愚昧であって謙遜ではない。ありのままより以下で満足するのは、アリストテレスによれば卑怯であり臆病である。いかなる徳も虚偽に助けられることはないし、真実は決して誤謬の材料とはならない。自分について実際以上のことを言うのは、必ずしも自惚れ傲慢ではなく、往々にして愚昧である。自分の有りのままにひどく得意になり、そのために度はずれの自愛に落ちるのこそ、わたしの考えでは、この不徳〔すなわち自惚れ〕の本体なのである。この不徳をいやす最上の医薬は、自己について語ることを禁ずることによって自己について考えることまでも禁ずる人々が命ずるところとは、正反対を行うことである。高慢は思想の内にある。舌はきわめて僅かしかそれにあずかることができない。自分にかまけることは、ひとり悦に入っているように彼らには見えるし、自分と繁く交わることは、あまりにも自分を愛することのように見られる。なるほどそれは、そうかも知れない。けれどもこの極端は、ただ浅薄にしか自分を試さない人々、仕事の方を第一にして自分を省みるのを二の次にする人々、自分にかまけることを夢を見ているとか怠けているとかいい、自分を養い築くことをスペインに城を築くことと考える人々、つまり自分のことを第三者のこと・自分にかかわりのないこと・と考える人々、においてのみ生れる。
* 子牛は驢馬と同様に暗愚なるものをいう(Jeanroy 註)。手綱は、ここでは規則・掟の意味(Radouant 註)であろう。規則や掟は、聖人にはもちろん自分にも用はないというのであろうが、同時にまた、手綱をつけてみたところで子牛は馬のように御せるものでもない。すなわち、凡俗にとってもそれは無駄な無効なものだ、という意味にもなる。Radouant は、その両方の意味でこの bride ※(グレーブアクセント付きA小文字) veaux の句が面白いという。
** 隣人とはプロテスタントを指している。
*** この仮定はあまり適切だとは思われない。キケロの虚栄はよく非難される。キケロは『ブルートゥス』の中でホルテンシウスをほめたが、結局やはり自慢になっている。
**** Skeletos 人体をその皮膚をむいて乾かし標本としたもの。
 もし誰かが自分より下を見て自分の知識に陶酔するならば、宜しく彼をして眼をあげ過ぎ去った世紀を望ましめるべきである。彼はそこに自分を足元にさえ寄せつけぬほどの人々が何千というほどもいるのを見て、そのつのを垂れるだろう。もし彼が自分の武勇に多少でも自惚れて威張るようならば、彼に二人のスキピオ・あれほど多くの軍士たち・あれほど多くの国民一般・の日常を想い起させるべきである。彼はそれらの人々にとても追いつけないことをさとるだろう。自らどんな特徴をもっていても、それと共にいろいろな欠陥弱点が自分の中に存することを知るならば、そして結局人間の本性のむなしさを悟るならば、とうてい威張るわけにはゆかないであろう。
 ただソクラテスだけは、彼の神の掟である「汝自らを知れ」という掟をほんとうに噛みしめかみわけたから、そしてこの研究によって自分を蔑視するにいたったから、独り賢者の称にふさわしいものと認められた。こんなふうに自分自らをよく知っているものは、よろしく大胆に自らの口によって自分を人に知らせるべきである。
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第七章 名誉的褒賞について



 (a)アウグストゥス・カエサル〔ローマ皇帝アウグストゥス〕の伝記を書いている人たちは、彼の軍紀について述べながらこんなことに注目している。「賜物たまものにかけては、これに値する者に対してすこぶる気前がよかったが、それだけに純然たる名誉的褒賞の方は、これを与えるのに大へん控え目であった」と。だが彼自身は、まだ一ぺんも戦場に出ないうちから、その伯父〔ユリウス・カエサル〕よりあらゆる軍功上の褒賞を与えられていた。まったく人の徳を尊びこれに報いるために、空虚な実質の伴わない或る種の徽章きしょうを設けることは結構な思いつきであって、現に世界の大部分の国において認められている。例えば月桂樹やかしわ桃金嬢てんにんかの冠、或る様式の衣服、輿こしにのって町をゆくとか夜松明たいまつをもたせて歩くとかいう特権、公の集会における或る特別の座席、或る称呼称号を戴き紋章の上に或る特別の印をつける特権、といったようなものがそれであって、その慣例は諸国民の考えによりいろいろな形で採用されて今日に及んでいる。
 我々の間にも、またわが隣国の人々の間にも、いろいろな勲章があるが、いずれももっぱら徳を尊びこれに報いるために制定されたものである。ほんとうに、稀に見る優れた人々の真価を認め、彼らを国民の負担にも帝王の出費にもならない褒賞を以て満足させる方法をもつということは、結構で有益な習わしである。それに、それは古代にもたくさん例のあることだし、我々の間にも古くから見ることのできたことであって、身分ある人々が利得の伴う褒賞よりも、かえってそういう褒賞の方をほしがったということは、理由のないことではなく、むしろはなはだ当然なことと思われる。もしも単に名誉的であるべき褒賞に、それとは別の特典や財宝などをまじえるならば、この混合は世間の尊敬を増加させず、かえってそれを低下させる。サン・ミシェル勲章は久しく我々の間で尊ばれたが、他のいかなる特典ともかかわりをもたないことをもって、その最大の特典としたのであった。だから昔はいかなる官職よりも、この勲章が最も貴族たちのほしがり重んずるところであり、またいかなる身分にも増して、多くの尊敬尊重を与えられたものであった。徳は、本来、純粋に徳だけのための褒賞、利益よりも光栄ある褒賞に、あこがれるからである。まったく正直のところ、ほかの賜物はとうていこのように尊くは取扱われないのである。なぜなら、それらは他のいろいろな場合にも与えられるからである。人は下僕の忠勤・飛脚の精励・舞踊・曲乗り・小ばなし・その他もっと下等な奉仕に対しても財宝をもって報いる。いや不徳さえ、おべっかや、とりもちや、裏切りさえ、財宝でもって報いられるではないか。徳がこんなありふれた報酬をほしがらないで、全くそれ自身に特有な・最も高尚な・報酬をほしがるのは驚くに足らない。アウグストゥスが前者よりも後者の方を甚だしく出し惜しんだのはもっともなことである。なぜなら、名誉という特権は、その本質がもっぱら得がたいということの中にあるからである。徳もまた同様である。

何人をも悪人と見ざる人の目に、
そも誰が善人として映らんや。
(マルティアリス)

われわれは人を推薦するのに、この人は子供の教育に熱心だなどとは言わない。それはどんなに正しいことであるにしても、当りまえの話だからだ。(c)大きな森に入れば大きな樹も特別珍しいことはないのである。(a)スパルタの市民は、誰一人として自分の勇気を誇りはしなかった。まったくそれは、彼らの国では誰しもがもつ徳であったのだ。忠節や財宝の蔑視なども、同様に少しも自慢しなかった。いかに偉大な徳でも、すでに習慣となってしまっている徳の上には、褒賞はおりないのである。いや、あたり前になっているものをも果して徳と呼びうるかどうか、それさえわたしはいささか疑問に思うのである。
* 一四六九年ルイ十一世が制定した騎士団員の帯びる首飾勲章。フランソワ二世時代までは大いに重んぜられたが、シャルル九世アンリ三世の頃に、その人選進級等が安易になり、世の信を失いはじめた。人これを Collier ※(グレーブアクセント付きA小文字) toutes b※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)tes(あらゆる畜生の首輪)とまで言ったそうである。b※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)tes は犬猫等の「畜生」を意味すると共に「馬鹿」をも意味する。たまたまこの勲章が首にかけられるものだったので、そのようにもじられたのである。
 つまりこれらの名誉的褒賞は、ただ僅かな人々にだけしか享受されていないということよりほかに尊重されるわけを持たないのであるから、それらをなくしてしまおうと思うなら、それらをふんだんに振りまきさえすればよいのである。こんにちはサン・ミシェル勲章に値する人々が昔より沢山いるのかも知れないが、それにしてもその値打をおとすには及ばなかった。実際多くの者がそれに値するようになるのはわけのない話である。徳のうち武勇くらい容易に広まるものはないからである。だが別にもう一つ、真の・完全な・そして哲学的な・徳がある。哲学的とはどういうことか別に説明はしないが(わたしはこの言葉を普通の意味で使うのだ)、それは武徳よりもずっと偉大な・ずっと充実した・徳であって、我々に打ってかかるあらゆる出来事をひとしく蔑視する強く堅い心のことである。それはいつも平等一様で変らない。我々の徳などは、この徳のきわめてわずかな反映にすぎないのである。伝統や教育や模範や習慣は、いま言った武徳の養成には、思うままの影響を与えることができる。また容易にそれを普及することもできる。このことは、わが国の内乱**においてえた経験によって容易に首肯できる。(b)いや誰かが今日我々を糾合し、わが全民衆をあげて何か共通の企図に打ちこませることができたら、我々の昔ながらの武名は再び輝くであろう。(a)たしかに昔は、勲章の授与がただ武徳の考察のみによってなされはしなかった。それはもっと高いところを目指していた。決して勇敢な兵士への報いではなくて、名高い大将への報いであった。服従する道を知っているというだけでは、あのような尊い褒賞は受けられなかった。昔はもっと広い軍事上の経験が、武人としてもつべき偉大な諸特質の大部分を包含した経験が、必要とされていた。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)兵士の力量と大将のそれとは同じからざればなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。(a)なおその上、その人がそういう栄誉にふさわしい家柄のものであることも必要とされていた。とにかく今日は昔にくらべてより多くの人々がそれに値しているとしても、こう惜しげもなく与えられるべきものではないと、わたしは言いたいのである。実際、このように有用な制度の効用をつい先頃のように永遠に失うくらいならば***、それに値するすべての人にそれを贈与しないと非難される方がむしろよかったろう。心の高い人はたくさんの人々と共通の褒美などを授けられて有難がりはしない。いや今日では、この褒賞に値しない者どもほどそれを蔑視する風を装い、それが不当にばらまかれることのために、本来ならばただ自分たちだけに限られるべきこの勲章が安っぽくせられたことを苦々しく思う人々と、肩を並べている。
* モンテーニュは、ここに武人の徳以外に普通人や文民の勇気、戦時の勇気のほかに平時の勇気をも考えている。彼自ら軍人が好きで(拙著『モンテーニュを語る』八三―八四頁参照)、勲章も(年金などを伴わないという意味で)きらいではなかったが、しかし俗人が勲章を有難がったり見せびらかしたりするのとはちがっていたようである。それらのことは、この章を読んだだけでもほぼ想像される。
** ユグノーの乱。この時代には商人も百姓も武器をふりまわし、本職の貴族以上に勇猛であったことをいうのであろう。
*** 前頁註*参照。サン・ミシェル勲章がみだりに寵臣たちに与えられ、「馬鹿の首輪」と評判されるようになったこと。
 ところで、ひとまず現在の勲章を全廃し、急ぎ改めて同様の習慣を復活し尊重させようと期待するのは、当今のような放縦で病的な時節には適当な企てとは考えられない。やがてこんどの勲章も、制定と同時に、前の勲章を破滅させたばかりのあの同じ不都合になやまされることとなろう。この新しい勲章の授与規定は、これに権威を与えようというならば、きわめて厳重に守られなければなるまい。ところが今日のように乱れた時節には、手綱を厳しくひき締めることができない。それに新勲章が珍重せられるには、まずもって前の勲章が忘れられること、それがかつてこうむった軽蔑が人々の記憶から消えることが必要である**
* こんどの勲章というのは、一五七八年アンリ三世が創制した精霊勲章 ordre de Saint-Esprit のことである。これまたほんとうに Brant※(サーカムフレックスアクセント付きO小文字)me の書いているところによると、濫授の結果モンテーニュがここで心配しているとおりになったらしい。
** モンテーニュが純然たる哲学者なら、賞勲の制度を全面的に否定し、特に勲章談義に一章をささげはしなかったであろう。彼は心が政治家であるので、凡俗の信仰をも、名誉欲をも、無視しないのである。
 さてここで、武勇に関する考察をし、この徳が他の諸徳と異なることについて、多少の議論をなすことは、あながち不適当ではないであろう。けれどもプルタルコスがしばしばこの事に論及しているから、いまさら彼が言ったことのうけ売りをしても仕方があるまい。ただわが国民が武勇を、価値という語から来ているその名がこれを示すように、諸徳の第一に推していること、また、我々の習慣によると、「大いに価値ある人」とか「有徳の人」とかいうときは、朝廷を始め貴族社会の用法では、結局ローマの習慣と同じく「武勇の士」の意味に他ならないということは、考察されるに値すると思う。まったく徳**という一般的称呼は、ローマ人のあいだでは「力」という語から出ているのである。フランス貴族の特性、その唯一の・本質的な・特性は軍職である***。人間のあいだにまず第一に認められた徳、始めて彼らの或るものどもを他のものよりも優れたものとした徳が、この武徳であったということはいかにもまことらしい。実にこれによって強く勇気ある者が弱い者の主となり、特別の地位と名声とを獲得したのであって、そのために今でも、彼等に対しては特に上品高尚な言葉づかいがまもられているのである。或いはまた、彼らは甚だ好戦的であったから、諸徳のうち最も彼らに親しみのあるこの徳を尊び、これに最高の位を与えたのかも知れない。それと全く同様に、我々は、婦人の純潔を熱望し、これに対してあのように切なる気遣いをする余り、「よき婦人」「正しき婦人」「貞淑有徳の婦人」という語を、結局「純潔な婦人」の意味にしてしまった。まるで彼女たちにただこの義務だけを負わせれば、他のもろもろの義務はどうでもいい、としているかのようである。他のすべての過ちは大目に見て、この種の過ちだけは絶対にしないようにと求めているかのようである。
* プルタルコスの著書は Amyot の翻訳によって当時ひろく読まれていたのである。
** 徳という語の根本的な意味は、勇気、気魄、武徳である。
*** モンテーニュの軍職礼賛は所々によまれるが(索引「軍職」の項参照)、それは彼が殺戮を好んだからではない。そこには別に、いかにも彼らしい理由があった。拙著『モンテーニュを語る』八二―八四頁を参照せられたい。それに当時のフランス社会では、一般に剣の貴族が聖職者や法官貴族の上位にあった。帯剣貴族の家柄では、長男は必ず武人となり、法官や聖職者として高位につくのは二、三男のことと相場がきまっていた。モンテーニュ家、エーケム家がその好適例を示している。『モンテーニュとその時代』第一部第三章―第五章参照。
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第八章 父の子供に対する愛情について
    マダム・デスティサックにささぐ



 この章は一五五七年以後一五八〇年に至る間に書かれたものであろう。初期のエッセーに見られる書籍的な傾向が稀薄になって、大いに個性的な傾向を濃くしている。ことに書き出しの頁の中に、みずから描く企てを、自己の独創性として自ら明らかに意識しているところに、注目すべきであろう。恐らくこの時期にモンテーニュは、第一巻第二章から第一巻第二十章に至る諸篇の特徴をなしていた非個性的傾向を脱却して、一五八〇年の序文に述べているような態度方針をしっかりと把握したのであろう。同じ頃に書かれた第二巻第十章、第二巻第十七章等にも同じ傾向が明らかに認められる。
 この章はモンテーニュ生来の温かい人間愛がしみじみと感ぜられる最も美しいエッセーの一つであるが、なかでもこの章の終りに読まれる猛将軍モンリュックの告白は、後年セヴィニェ夫人に※(始め二重山括弧、1-1-52)涙なしには読むことができない※(終わり二重山括弧、1-1-53)といわせたものであって、わが国の儒教と武士道との間で大人になった多くの世の親たちの胸にも、しみじみと迫るものがあろうと思う。なお私はこの章全体を、師範学校教育によって練成された厳格な先生たちにも読み味わっていただきたいと思っている。
 この章が献呈されたマダム・デスティサック Mme Louise d’Estissac はモンテーニュと非常に親しかった婦人で、一五六〇年にルイ・デスティサックと結婚し、一男一女をえたが、六五年、二十五歳で夫と死別。先夫人の遺児が二人あったため、相続問題が紛糾し、その後四十年間解決に苦労した。当章最初のパラグラフに述べられているとおりである。『モンテーニュとその時代』三九六―四〇〇頁参照。

 (a)夫人よ。めずらしさと・新しさとは、いつも物事に値打をつけましたが、まったく私もこの二つのものが救ってくれないなら、とうていこの愚かな企てを、わが名を恥ずかしめることなしに、全うすることはできますまい。けれども私の企てはきわめて風変りなもので、一般の習慣から甚だかけ離れた顔付をしておりますから、或いはかえって大目に見てもらえるかも知れません。ほんとうに、メランコリックな或る気分が、従って私の生れつきの気質には甚だ反した或る気分が、数年前私が入りこんだ孤独の生活の哀愁からかもし出されて、始めて私の頭の中にこの物を書いて見ようという気まぐれを生ぜしめたのです。そして他に何一つ材料というものを持ち合せなかったので、私自らが私の前にまかり出てその論拠とも主題ともなったのでした。それは乱暴で・とっぴな・企て(c)から生れた、類を絶する天下に唯一つの書物(a)です。ですからこの仕事の中には、奇異ということのほかに注意に値するものは何もありません。まったくこんなつまらぬ卑賤な主題には、世の最も優れた工匠といえども、皆に重んぜられるような趣を添えることはとうていできなかったでしょう。さて夫人よ。私はここに自分の肖像を有りのままに描かねばならないのですから、もしここに私があなたの真価に日頃ささげている敬いの心を言い表わさなかったら、私はこの本の重大な特徴を忘れたことになりましょう。それにあなたのさまざまの良い特質のうち、あなたがお子たちに示されました愛情こそは第一に数えあげるべき特質の一つでありますから、そのことは是非ともこの章の始めに申しておきたいと思います。夫君のムシュ・デスティサックが幾歳の時にあなたを寡婦として残してゆかれたか。御身分の同じフランス貴婦人のたれかれに対すると等しく、その後あなたにもいかに高貴なご縁組が申込まれたか。またいかに堅固な御心をもって、あんなに長い年月、しかもあんなに辛い困難を通じて、フランスのあちこちであなたを苦しめた・いな今もなおあなたを取巻いている・お子様たちのいろいろな問題を、一身に引受けかつ処理せられたか。ただあなたの御分別または御幸運だけによって、いかに立派にそれらの問題を解決あそばされたか。そうした事情を知ったものは、容易に私とともに申すでしょう。「我々は今日、夫人におけるそれよりも著しい母性愛を見たことがない」と。夫人よ。私は母性愛がこのように立派に用いられたのを見て神を讃えるものです。まったく御子息ムシュ・デスティサックはいかにも末頼もしくお見受け致します故、御成人のあかつきは必ず良き息子として服従と感謝とをあなたに捧げられるであろうことは、少しも疑いございません。けれども彼はまだお小さくて、あなたから数多くお受けになったこの上なく大きな恩愛をお認めになることが今はまだおできになりません故、私はこの書物が、やがて私が口と言葉とでそれを申上げることもできなくなるであろう時、いつか彼の手の中に落ち、彼がその中の次のような私の証言をまったくそのとおりだとお思いになるよう、祈るものでございます。それは、もし神慮にかなうならば、彼自らお感じになるであろうところのもろもろの有難い事実によって、いよいよはっきりと彼に証明されることでございましょう。私の証言とは要するに「フランスにおいては、およそムシュ・デスティサックほど多くを母御に負うジャンティヨム〔貴族〕はないであろう。彼は将来そう自らお認めになる時にこそ、彼の善と徳とを、最も確かに示し給うであろう」ということです。
* sotte entreprise すなわち essais を書こうという企て。なお第一巻第八章、第一巻第五十章等参照。
 もし何か真に自然的な法則のようなものがあるとすれば、換言すれば、動物および我々に普遍的に見られ・恒久的に刻みつけられている・何か本能のようなものがあるとすれば(そこには異論がないではないが)、それは、私の考えでは、第一に各動物が自己を保存し・自己を害するものを避け・ようとしてとる心遣い、その次には親がその生みの子に注ぐ愛情、であるということができます。そして自然はこの愛情を、自分の機構の中の、次々の時代を引きついでゆくような諸部分〔後継者たち〕を拡充し前進させようとして、我々に勧めたように見えますから、逆に子から父に対する愛情がさほど大きくなくても驚くにたりません。
 (c)それにアリストテレス流に考えれば次のように申すこともできます。すなわち、「誰かに慈善をなす者は、自分が愛せられている以上にその人を愛している。恩をほどこす者は、これを受ける者よりも深く愛している。すべての工匠は自分の作品を、その作品から(かりに作品に感情があるとして)愛せられるであろうより以上に、深く愛している。我々にとって貴重なのは存在であり、存在は動作と行為の中にあるのだから。だから各自は、或る意味においてその作品の中にある。慈善をなす者は美しく尊い行為をするのであり、受ける者はただ有効な行為をするにすぎない。ところで有効な行為は尊い行為よりずっと愛らしくない。尊い行為は、これを行った者に変らぬ喜びを提供するから、安定しており恒久的である。有効な行為はじきに消え失せる。その記憶はさほどに鮮やかなものでもうれしいものでもない。物事は我々に苦労をかければかけるだけ、それだけ我々に貴いものだ。ところが取るよりは与える方がずっと困難なのである」と。
 (a)神様は我々に多少推理の能力を賦与せられ、我々が動物のようにおめおめと一般的法則に盲従することがないよう、むしろ判断と意志の自由とによってこれに臨むように、して下さったのですから、我々は単なる自然の権威にも少しは譲らねばならないが、むざむざとこれに運び去られてはなりません。ただ理性だけが我々のもろもろの傾向を指導してゆかねばならないのです。この私は、我々の判断の仲介なしに我々のうちに生れ出るあのもろもろの傾向に対して、至って鈍感でございます。例えば、私が今お話しかけている事柄についてもそうなのです。よく人は、その心に何の動きもあらわれず・その体にも少しも可愛いと思わせるような風情をあらわさない・生れたばかりの赤ん坊を抱っこしたりいたしますが、私にはああいう感情はどうも理解できません。(c)それで私は、彼らが私の身近において養育されることを欲しなかったのです**(a)正常な真の愛情は、我々が彼らを知るにしたがって、発生し増大すべきものでございます。そしてその時は、彼らがこれに価するならば、われわれは、自然的傾向と理性との両方から彼らを真に父らしい愛情をもって愛さねばなりませんし、彼らがそれに値しなくても、やはり理性に服して、自然の力に逆らっても、彼らを正しく判断しなければなりません。ところが事実はきわめてしばしばその逆なのです。最も普通に、我々は子供たちの足踏みや小児らしい遊びや無邪気さにはひどく感動しますが、後に彼らの大人らしくなった行為に対してはかえって無関心なのです。まるで彼らを我々のひまつぶしに、(c)人としてではなく猿のように、(a)愛しているようなものです。ある人は子供たちの小さい時代にはきわめて気前よく玩具を買って与えたのに、彼らが成人してからは、ごく小さな出費にさえもけちけちしました。いやそれどころか、そろそろ我々が世間から引退せねばならない頃になって、子供たちの方が世間からちやほやされ出すと、それが妬ましく思われるのか、我々はますます子供たちに対してけちになるように思われます。(c)出て行ってくれと言わんばかりに(a)彼らが我々の後ろから追っかけて来るのはほんとにいやなものです。しかしそうなることが心配でたまらないなら、正直のところ自然万物の理法の上から、子供たちは我々の存在や生命を犯さないでは絶対に在ることも生きることもできないのですから、始めから我々は親父になんぞなろうとしなければよかったのです。
* ここに理性に関するモンテーニュの意向が明瞭に見られる。即ち、人間は動物と共通点をもつけれども、この理性によって自然的本能を制してゆく所に人間の価値があるとしている。それに理性も彼によれば、人間がとくに自然から賦与された特性なのであるから、少しも彼の持論たる自然に従うことと矛盾しないのである。これらの点は彼の思想の重要な点である。後に第二巻第十二章でも、理性を攻撃しているように見える条に出あうけれども、それとも決して矛盾してはいないのである。
** 彼自らかくさずに言っているように、彼は自分の子供をみな里子に出している。しかし彼自身、その父ピエールのあれほど可愛い子であったのに、やはり里子に出されているところを見ると、これは当時一般の習慣であったらしい。ここに述べているモンテーニュの理由を過重視してはならない。私の『モンテーニュを語る』二五頁、および二九頁参照。
 私に言わせれば、子供たちがそれ相当の年になっているのに財産もわかちあたえず、家事むきのことにもあずからせようとしないのは、そして我々自らの安楽を減らしてこれを子供たちの方にまわさないのは、残酷で不正なことです。だって後をつがせるために子どもを産んだのではありませんか。衰えはてて半死の状態にある年老いた父が、炉辺にうずくまりながらその沢山の子供たちの出世と生活とにあてられるべき財産を自分一人で享楽し、一方子供たちはその資力がないために公の職につくことも人々と交わることもできず、あたらその盛りの年をすごしているなどは、最も不正なことです。そのために彼らは、絶望のあまりその手段を選ばず、どんなに不正な道によってでも自分の必要を満たそうとせざるを得ません。現に私は、沢山の名家の子弟が大変盗みに耽って、どんな懲戒もこれをやめさせることができなかったのを見ました。私はその一人を知っています。一門みなれっきとした方々ばかりですが、私は一度、きわめて温厚な紳士であらせられるその兄君の御依頼によって、御意見を申上げたことがございました。彼は至ってざっくばらんに、「自分は始め父が厳しくてけちであることからこの汚行に堕したのであるが、今ではそれにあまりに慣れてしまってどうにもやめることができないのだ」と白状せられました。彼はそのとき大勢の人々とともに或る貴婦人の許に拝謁に行かれ、そこでその貴婦人の指輪を盗んで捕まったのでございました。これにつけて思い出されるのは、私がかつて聞いたことのあるもう一人の或る紳士のことでございます。その人は、若い時分からこのいみじき技術にすっかり習熟してしまったので、後に自分の財産を思うままにできるようになってからも、もうこれっきり不正はやめようと決心はしながら、やはり自分のほしい物の並んでいる店のわきなどを通ったりすると、結局あとから代金を送りとどけてやらねばならないのはわかっているのに、どうしても盗まずにはいられなかったということです。それから余りにそれに熟達して、始めから返却するつもりのものを、同じすり仲間からさえ盗み取る者も、沢山見たことがあります。(b)私はガスコーニュ生れですが、しかしこれくらい私に了解のゆかない不徳はありません。私はそれを、むしろどちらかというと性分からにくんでいるので、理性によって咎めているのではないのです。私はただ心の中だけでも、誰かから何かとってやろうなどとは思ったこともございません。(a)このガスコーニュという地方は、ほんとうにフランスの国のどの部分よりいささか多くこの点で非難されております。でも我々は、こんにち幾たびとなく、他の諸地方の名家の子弟でも、さまざまな恐ろしい窃盗の罪状が明らかになり、お上の手に捕われたのを見たことがあります。この悪習については、私は或る程度、その父親たちの不徳の方に責任を帰すべきではないかと考えます。
 なるほど人は、或る悟性のすぐれた殿様が言われたことをもって私に答えます。「自分が財産を握って離さないのは、もっぱら家族のものから敬い慕われるためで、ほかの何のためでもないのである。年齢は他のすべての力を自分から奪い去ったから、今やこれだけが、家庭の中で自分の権威を維持し皆の者から侮蔑をうけずにすむための、ただ一つ自分に残された薬なのである」((c)誠に老いばかりではありません、すべて弱さこそ、アリストテレスの申すとおり、人を吝嗇りんしょくにおとし入れるもとなのです)(a)と。それもそうでしょうけれど、そんな薬よりもその薬を必要とする病その物の発生の方をまずさけなければなりません。父が子供たちの愛情を、ただ彼らが自分の扶養を仰がねばならないということによって、わずかにつなぎとめているのだとすれば、それこそ実に哀れむべき父です。そんなのははたして愛情と呼べるでしょうか。父たるものは自分の徳性と能力とによって尊敬されなければなりません。その慈愛とその心持のやさしさとによって愛せられねばなりません。貴重な物は灰となってもその価値をたもちます。尊い人々の遺骨や遺物を我々は尊重し礼拝して来ました。いかなる老齢も、生涯を名誉の内にすごして来た人においては、それほど衰えしなびたものとはならず、必ず尊敬されるものです。殊にその子供たちには大切にされるものです。彼ら子供たちの霊魂は、あらかじめ、理性によって、その義務を守るようにしつけておかねばなりません。必要や欲求や、暴力や強制によって、それを強いてはならないのです。

愛情によるよりも力によりて、
より堅固なる権威を保ち得るが如く考えるものは、
思うに、大いに誤れるものなり。
(テレンティウス)

 (b)私は、おさない者の霊魂を名誉と自由とに向って育成しようという教育のなかには、ほんの少しの暴力もあってはならないと思います。厳格とか拘束とかの中には何かしら屈辱的なものがございます。私は理性により・思慮により・また巧妙によって・なし得ないことが、暴力などによってなされようとは思いません。私はそういうふうに育てられました。私は幼年時代を通じて、ただの二度しかむちを受けなかったそうでございます。しかもそれさえごくそっとであったと申します。私も自分の子供たちに対して、同じようにしてやるつもりでございましたが、いずれも乳飲児の頃に死んでしまいました。レオノールは、この不運を免れた唯一人の娘ですが、六歳に達するまで、いやそれ以上になりますまで、しつけのためにも、子供らしい過失のこらしめのためにも(彼女の母は寛大でございましたから、それがやすやすとできたのですが)、言葉以外の、しかもきわめてやさしい言葉以外の、何ものをも加えられなかったのでございます。私のこの理想が効を奏しなかったとしても、そこには別に食ってかかるべき原因がいろいろとあるからであって、私の教育法を非難するにはあたらないのです。私はあくまでそれを正しく自然なものであると信じております。男の子に対してであったなら、なおさらこの方法を尊重したでしょう。男の子は一層屈従がきらいに生れついており、一層自由な境遇におかるべきものです。私は彼らの心を自由独立の精神をもってふくらますことを望んだでしょう。私は鞭をつかうことの中には、霊魂をさらに卑怯にし・さらに意地悪く頑固にする・こと以外に、何らの効果も認めたことがございません。
* これはモンテーニュがギュイエンヌ学院にあがる前のことであろう。学院では体罰は厳禁されていたから。前出一の二十六参照。
 (a)我々は子供たちから愛せられたいなら、彼らから我々の死を願う動機を取除きたいなら――こんな恐ろしい願いをいだかせる動機は、決して正しくも許されるべきでもありませんけれども、(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)罪悪は一つとして正しき考えより生るることなし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)――(a)我々にできうる限りのものを、相当に彼らの生活のために与えてやりましょう。それにはあまり若いうちに結婚してはいけません。我々の年齢が彼らのそれとほとんど一緒になってしまいますから。まったくこの不都合は、我々をいろいろの大きな困難にあわせます。もっとも私はこのことを、もっぱら何もせずにぶらぶら暮している・いわゆる利子食いをしている・貴族にむかって申すのです。まったく、働いて暮す他の方面の人たちにとっては、大勢の子供と一緒に暮すことはかえって生計を楽にいたします。それはそれだけ多く金を得る道具をもつことになるのです。
 (b)私は三十三歳で結婚しましたが、アリストテレスの申したという三十五歳説に賛成するものです。(c)プラトンは三十にならないうちに結婚してはいけないと言っておりますが、もっとも千万にも、五十五歳を越えてなお結婚のいとなみをする人々を嘲っております。そしてそういう老人の子供は養育に値しないとしております。
 タレスは結婚に最も正しい限界を与えました。彼は若かったころ結婚をせよと迫る母に向って「まだ早うござる」と答え、年をとってからは「もう遅うござる」と答えました。すべていやな事柄には適当な時機というものはないと申さねばなりますまい。
* 結婚を欲しない者は結婚をしなくてもよい、というのがモンテーニュの持説であるらしい。しかし、結婚というものを軽蔑してもいないのである。ここでも哲学者としての考えと、良識人としての考えとが撞着する。索引「結婚」の項参照。
 (a)昔のゴール人は二十歳以前に女に接していることを大変わるいことと考えていました。そして、特に戦争に対して身を鍛えようとする人々には、かなりの年になるまで童貞を守るようにすすめました。勇気は婦女との交わりによって、弱まり、かつわきにそらされるからです。

されどその時、若き妻と交わり、
子供らを得ていとも喜び、彼は
父たり夫たる情の内に、その勇気を弱くしたり。
(タッソー)

 (c)ギリシアの歴史は、タラスのイコス、クリュソン、アスティロス、ディオポンポス、その他の人々について、彼らはオリュンピア競技や角力すもうやその他の運動のためにその体を強健に維持しようとし、その念願をすてないかぎり、あらゆるウェヌスの営みを絶ったと、記しております。
 テュニスの王ムレアセスは、皇帝カルル五世が復位させたお方であるが、その父を回想するごとに、しばしば婦女と交わったからといって彼を非難し、彼を愚図・弱虫・子供製造人・と呼びました。
* テュニス王ムレイ・ハッサン Muley Hassan, roi de Tunis のこと。モンテーニュは、第一巻第五十五章の終りに、すでにこの人について述べている。死んだ父というのはその父マホメットで、三十四人の子供があったという。
 (b)スペイン領インドの或る地方では、男に四十歳をすぎなければ結婚することを許しませんでした。そのくせ十歳の少女にはそれをゆるしました。
 (a)三十五歳の御領主様ジャンティヨムが二十歳になる若様に家を譲るのは早すぎます。まだ彼自ら、遠征の旅においても君侯の朝廷においても、はたらきを示すことができるからです。彼にはまだそのお金が必要です。勿論それは分配もしなければならないが、それはひとのために自分を忘れない程度にとどめなければなりません。すなわち、そのような人々にこそ、世の父親たちが常に口にするあの言葉、「わしは寝る時でなければ着物を脱がないぞ」という言葉がそっくり役に立つでしょう。
* ジャンティヨムについては第一巻第二十六章二三〇頁の註参照。
 けれども年齢と病苦に打ちひしがれ、衰弱と不健康のために世間の人々とふつうに交際することができなくなった父親が、いたずらに山なす富をいだいているのは、その身のためにも身内の人々のためにも悪いことです。もし彼が賢明ならば、いい加減に着物を脱いで寝たいと望んでもよい頃です。何もシャツ一枚にならずともよいが温かい寝衣ねまきくらいにはなったらよいのです。ほかの贅沢は彼にはもうどうしようもないのですから、みんな自然の命によってそれらが属すべき者どもに進上してしまったらよいのです。自然がそれを彼に禁じているのですから、若いものにその使用を委ねるのが当然です。そうしないのは、意地悪と嫉妬のせいにきまっています。皇帝カルル五世の最も立派な行為は、(c)彼が身分を同じくする古人の或る人々にならって、(a)「着物が重くて邪魔になる時は、理性が我々にこれを脱ぎすてよと勧告しつつあるのだ。足もとが危なくなってきたのは、寝よと命ぜられているのだ」と悟ったことでした。彼は昔のように輝かしく政務を処理するだけの力も気魄も衰えたのを感ずるや、富をも位をも権力をもさっさと息子に譲ってしまいました。

分別してほどよき時節に汝が老いたる馬を捨てよ。
あえぎ倒れて人の物笑いの種となることを欲せざるならば。
(ホラティウス)

 早くから自分を認識することができず、年齢が自然に霊魂にも肉体にも、私の考えでは同じ程度に(もしかすると霊魂の方に少し余計かも知れませんが)、もたらすところの衰弱と極度の退化とを、自ら悟らないという欠点は、世の多くの偉人たちにその評判を失わせました。私は偉大な権威をもたれるお歴々が、その昔全盛の時代には私のごとき者までが承り知っている程の腕前を示されたのに、後にすっかりその評判を失われたのを、現に親しく見聞きいたしております。もっと早くから、もはや負うにたえなくなった文武の職をなげうち、引退して悠々自適なさればよかったのに、彼らの名誉のためにまことに惜しまれてなりません。私はむかし、奥様をなくされた、高齢の(もっとも老いてなお盛んなお方ではありましたが)、ある貴族のお邸によく出入り致しておりましたが、この方はお嫁入り前の多くの娘御たちと、すでにもう世に出てよい年頃の令息を一人、もっておられましたので、何かとおん物いりも多く、御来客も少なくなかったのですが、それが彼にはどうも面白くありませんでした。ただ倹約がしたいからばかりではなく、やはりお年のせいで、既に若い我々とは全くちがった暮し方をしておられたからです。或る日私は、例によってすこし大胆にこう申し上げました。「もうそろそろ若いおかたがたに席をお譲りになる方がよろしゅうございますよ。御本邸は令息におゆずりになって、近くの御領地に隠退なさる方がよろしゅうございますよ(まったくこの老人は唯そのお邸だけしか住みよいちゃんとした御家をもってはおられなかったのです)。そうなされば誰もそこまであなたの平穏な生活のお邪魔に参るものはございますまい。そうでもなさらなければ、こんなにお子様がおいでになるのですから、とうていうるさいことを避けることはかないませんよ」と。その後彼は私の意見をおいれになり、御満足を得られました。
 もっとも、あとから取消しのできないようなそんな窮屈な約束によって譲れと申すのではありません。私もようやくこの役目を果すべき年頃に達しましたから、やがて家屋財産の享有を子供たちに委ねるつもりですけれど、必要な場合には自由にあとから取消しもできるようにする考えです。私はやがてそれらの管理を彼らに委ねるでしょう。それはもう我々老人にとっては楽でなくなるでしょうから。その代り、家事全般にわたる権威は好きな間じゅう私のものにして置くつもりです。私はつねに、こう考えて来たからです。「老いたる父親にとっては、自ら進んで家事の管理を子供たちに委ね、しかも命のつづく限り自分の経験から生ずる教示と意見とを彼らのために提供しつつ、自ら彼らの行状を牽制することもできれば、また自分の相続者たちの手を用いて自分の家の古来の名誉や格式を高めることもできるし、そうすることによって彼らの将来の行動についても十分の希望を抱くこともできるという風なのこそ、大きな満足であるにちがいない」と。いやそのためならば、私も子供たちと同居を避けようとは思いますまい。むしろはたから彼らのゆく手を照らしてもやり、年相応に彼らの楽しみや喜びをも相共にたのしみたいと思います。彼らと一緒に暮さないにしても(私はわが老年の気むずかしさや年来の持病のために、彼らの団欒を妨げずにはすみますまいし、私がその時に守るべき生活法や摂養法をも彼らのためにまげないわけにはゆきますまいから)、せめて屋敷うちの一隅にいて、彼らのそばで暮したいものです。最も威張ってではなく、最も安楽に。数年前に会ったあのポワチエの聖ヒラリウス僧院長のようには暮したくございません。彼はその憂鬱症のためにほんとうの孤独の生活をしておられました。私が彼の室を訪れました時は、二十二年来一歩も外に出たことがないと言われたほどでした。そのくせ立居振舞は自由達者で、ただすこしばかり胃の工合がわるいくらいのものでした。やっと週に一ぺんくらいは来訪者を引見せられましたが、そのほかはいつもただ独り部屋の中にとじ籠ったきりで、一日にただ一回下僕が食事を持って来るだけ、それもただ黙って入って来て黙って出てゆくというふうなのです。彼の仕事と申せば、室内を歩きまわることと何かの本を読むことでした(まったく彼は相当文学のたしなみがおありでした)。そしてひたすらこんなふうにして死にたいと願っておられましたので、やがて間もなくそのように御他界になられました。私なら、なごやかな交わりによって、子供たちの心の中に私に対する強い愛情と自然な好意とを養うことに、努めるでしょう。これは、相手が生れつきよい性質の子供たちなら、容易にえられることです。まったく、もしそれが(c)現代がわんさと産み出している(a)狂暴なけだものであるなら話は別です。それはそのつもりで憎み避けねばならないのでございます。私は(c)子供たちに「パパ」という呼び方を禁じ、まるで自然が我々に十分の権威を賦与しなかったかのように他人行儀な呼び方のほうを、かえって敬意がこもったものとして押しつける、あの習慣がきらいです。(c)我々は神を全能な父と呼びながら、子供たちが我々を父とよぶことをさげすみます。(a)年たけた子供たちに父となれ親しむことを禁じ、彼らに対してことさらに尊大冷淡な態度を装い、それで彼らの畏敬と服従とを得ようとするなども、また不正で馬鹿げたことであります。まったくそれは、甚だ効果のない狂言で、父を子供たちにとって厭わしいものに、いやなお悪いことには、滑稽なものに、するばかりです。彼らは若さと力とをその手の中に持っております。したがって追風と世間の愛顧とを背負っております。ですからすでにその心臓にも血管にも血の気をもたない人間の・威丈高な・暴君ぶった・顔つきを、嘲りをもって迎えます。麻畑の案山子かかしくらいにしか考えません。私は、私をこわがらせることができるにしても、やはり私を愛させる方を好みます。
* 大革命以前は、貴族の家庭では、子は父を monsieur と呼び、今日のように tu で呼び合うことはなかったのである。モンテーニュも、それは本当の私信ではなく書物のはじめの献呈文ではあったが、その父への手紙を monseigneur で始めている。
 (b)老年にはずいぶんいろいろな欠陥があり不能があって、とかく人の侮蔑をこうむりがちなものですから、それが収め得る最良の利得と申せば、まず家族の者からうける愛情くらいのものです。威張ることや恐れさすことはもうその武器ではないのです。私は、その若い時にきわめて我儘わがまま一徹であった一老人にあったことがあります。ようやく初老に達したばかりの頃でしたが、彼は最も健康に毎日を送っていましたけれど、打つ・噛む・どなる・というありさま(c)まことにフランス第一の怒りっぽい主人(b)でした。彼は用心や警戒のために心をなやましていました。しかし、何もかもが家族のものの仕組んだ狂言の一こまとなるにすぎませんでした。彼がその鍵を巾着に入れて眼玉よりも大切にしていた間に、穀物倉も酒蔵も、いやその財布までが、みな他人どもによってまんまと利用されていたのです。一方彼が貯金と粗食とに満足している間に、皆は、家中のあっちこっちで、ふしだらの仕放題。賭博はする、浪費はする。そして、彼の無益な怒りと用心との蔭口をたたいては打ち興ずるばかりでした。みなが彼に対して歩哨に立ちます。ひょっと誰か卑しい下男などが彼にやさしく親切にでもしようものなら、彼はたちまちに気をまわしました。まったく年をとると誰でも疑い深くなるものです。おお幾たび彼は私に向って、家族のものどもの取締りや、また彼らより受ける几帳面な服従や敬礼について誇ったことでしたろう! なんと明らかにその家事を見とおしていられたことでしょう!

何も知らざるは彼のみなり。
(テレンティウス)

 私は彼ほど主人の権力を保持するのにふさわしい、先天的および後天的諸特質を持つことのできた人を知りません。それなのに子どものようにつまずき倒れたのです。だからこそ私は、同様の場合をたくさん知っていますが、特に彼をそれらの代表として選んだのです
* モンテーニュ邸近くに住むガストン・ド・フォワのことであるといわれる。
 (c)彼はそのようにして得をしたか。或いは別様にした方がよかったか。それこそスコラ学の問題の好材料でございましょう。目の前では万事が彼に譲ります。人もまた、彼の権威に思うままの振舞をゆるし、決してこれに逆らおうとは致しません。彼の欲するがままに彼を信じ彼を恐れ彼を敬い奉ります。下男に向って出てゆけとどなりますと、下男はさっそく行李をからげて帰ってゆきます。だが、それはただ彼の前を去っただけの話です。老人の足はすこぶる遅く、その感覚はすこぶる鈍うございますから、下男は彼に見つけられずに、一年も、依然としてその同じ家の内に住みかつ勤めるでございましょう。そして時分はよしと思う頃、誰かから「これからは心を入れかえてお仕え致します」というたくさんの約束に充満した哀訴嘆願の手紙を、はるばると書いてよこさせます。そこで殿の御勘気は解けるのです。殿が何かむつかしい条件でも持出されるとか、お手紙でも書かれたら? そんなものは握りつぶします。そしてほどへて、どうも仰せのとおり運ばなかったとか、とうとう返事が来なかったとか、よい加減な申訳はいくらでも見付かります。よそから来た手紙は一つとしてじかに彼の手に入ることはありませんから、彼が知って都合がよいと思われるようなものだけしか彼の眼にはふれないのです。万一彼がそれらの手紙をおさえることがあっても、いつも誰かに読んでもらう習慣になっていますから、人はその場で勝手なことを読み上げてしまいます。そしていつでも、「誰それがお詫びを申して参りました」と申し上げるのですが、じつは、その男、同じ手紙の中でさんざんに主人を罵っているのです。結局彼は、その家事を、彼の悲しみをも怒りをもおこさせぬように、最も彼を満足させるように、取りつくろわれた形をとおしてだけ見るのです。私はその形こそかわれ、かなり多くの家庭の管理が、長い間かわらずに・全く同様なやりくちで・持続せられているのを見てまいりました。
 (b)夫に同調しないのは妻たちの癖でございます。(c)彼女たちは両手にあらゆる口実をつかまえて夫に反対いたします。出まかせの言いわけが彼女たちには完全無欠の弁明として役立つのです。私は或る細君がその夫から大金を盗んだのを見ましたが、その聴聞僧に懺悔したところによりますと、それは「もっと沢山の施しをしたいために」でした。たんと御信用なさいまし、この敬虔な御寄付を! どんな行いも、夫が同意したものであっては十分な権威がないかのように思っているのでしょう。彼女たちは、夫の同意を、或いはわるがしこく或いは乱暴に・つまりいつも不正不当に・奪い取ったのでなければ、その行いに風情も権威もないと思っているのです。只今のお話にあったように、(b)相手が哀れな老人であり、しかも事が子供に関することででもあろうものなら、さっそくこの名目をふりかざして、意気揚々とその欲望を遂げるのです。(c)そして今お話した下僕たちと同様に、まんまと御主人の支配権命令権を独占してしまいます。(b)もし子供たちがすでに成人した今を盛りの男の子ででもあれば、母子はさっそく、或いは威嚇により、或いは懐柔によって、家令をも家扶をも、皆従えてしまいます。妻も息子もないものは、なかなかこのような不幸におちいることはありませんが、その代りもっと悲惨なあさましい目にあいます。(c)大カトーは当時すでに、「下僕が多ければそれだけの敵がある」と申しました。ただ彼の時代と我々の時代とはその清さの程度がかなり違うので、「妻があり子があり下僕があればそれだけの敵がある」と警告しなかったのではありますまいか。(b)先が見えず無知であって容易に人にだまされるという有難い恵みは、老衰期には大変役にたちます。うっかりはむかったら一体どうなるでしょう。特に当節は、我々の紛争を裁決する裁判官までが、総じて子供の味方でありまた利害関係人なのでございます。
 (c)或いは私もこの〔家族の〕欺瞞を見おとしているかも知れませんが、少なくとも私自身はなはだあざむかれやすい男だということは見落しておりません〔この哀れな老年時代を友の手に委ねうる人は、三倍も四倍も幸福な人です〕。我々は、一人の友人がいかに貴いものか、そしてどれほどあの民法上の関係とは違ったものであるか、いかに繰り返してもたりないでしょう。動物の間に見るその姿すら何と清らかなこと! 私はそれを最も敬虔な心をもって尊敬いたします。
* この〔 〕内の句はボルドー本の中では横線によって抹消されているが、その線の引き方がモンテーニュの手らしくないといわれるので、ここに掲げたのである。
 私はひとに欺かれることはあっても、私自身に欺かれることはございません。つまり私にそれを予防するだけの力があるとも信じないし、またそういう力を得ようとあえて脳漿をしぼりもしないのです。私はあのような裏切りにあわないために自分のふところに逃げ込みます。ただし戦々兢々と心配してではございません。むしろ心気転換を決意してでございます。私は誰かひとさまのお身の上が語られるのを聞きましても、いつまでもその人の方に気をとられてはおりません。すぐに眼を自分の上にむけ、さてこの自分はどんなふうかと省みるのでございます。彼に関することはみな私にかかわることです。彼に生じた事柄は私のために警告となり、その方面にむけて私の眼をさましてくれます。毎日毎時、我々は他人について、むしろ自分自身について言ったらいっそうふさわしかったろうにと思われるような事柄を口にしておりますが、我々の考察を外部にひろげるのと同じように内部に向けることは知らないのです。
 それで多くの著者たちも、このようにして、自分たちの主張の擁護をやりそこなっています。ひたすらその打とうとする相手の主張に向ってかけより、むしろ自分に投げ返される方がふさわしい矢を、敵に向って射かけている有様です。
 (a)故モンリュック元帥殿は御子息を失われた時(それはマデール島で亡くなられた方で、本当に勇敢な、大いにその将来を期待された武人であられたのですが)、いろいろな事を悔まれた中に、特に、ついぞ一ぺんも自分の息子に対して本心を打ち開けたことがなかったこと、そして、あさはかにも父親ぶった威厳を維持しようとするあまり、しじゅうこわい顔ばかりしていたために、少しもわが子の心持にふれてこれを理解する喜びをもたなかったばかりか、心の中では十分彼に対して深い愛情を抱いていたのに、また彼の徳に対してもふさわしい判断をもっていたのに、ついにそれを彼に知らせてやる機会までも永遠に失ったことはいかにも悲しい、それは腸をたたれるような思いである、としみじみ述懐せられました。そして「可哀そうにこの子は」と彼は申されました。「わたしの軽侮に満ちたこわい顔だけしか見ずにしまった。そして、――父には自分を愛することも自分の価値を認めることもできないのだ――と思いこんだまま逝ってしまった。いったい誰に告げようとて、わたしは心のなかの彼に対する深い愛情を胸の中にたたみこんでいたのか。わたしの心の中を知って心から喜び心から感謝してくれたであろう者は、当の息子ではなかったろうか。わたしはこのつまらぬ外見を失うまいと、自分をおさえにおさえて来た。そのために彼と語り合う喜びも、そして彼の愛情も、もろともに失ってしまった。彼はきわめて冷やかな愛情だけしかわたしにくれることができなかった。彼はわたしからきびしさのほかには何も与えられず、ただただ暴君のような振舞だけしか見せられなかった」と。私はこの嘆きを誠にもっとも千万なものと思います。まったく私が余りにも確かな経験によって知りましたとおり、愛する者を失った者にとっては、「わたしは彼らに何ものをも語り忘れなかった。わたしと彼らとは完全に理解し合っていた」と意識することにまさる慰めはないのです。
* ブレーズ・ド・モンリュック Blaise de Montluc. 当時勇名をうたわれた猛将軍の一人。そのプロテスタントに対する弾圧も残酷さで有名であったし、すこぶる好色でよく敵側の婦女を犯しもした。息子が戦死したのは一五六六年のことである。モンテーニュに言わせると残酷は臆病を母とするのだが、モンリュックは勇猛で且つ残酷であった。将軍が死んだのは一五七七年すなわちこの章は一五七七年以後に書かれたものであることがわかる。
 (b)私はできる限り家の者どもにうちあけます。進んで自分の感情や判断をありのままに説明してやります。彼等に対してばかりではなく、誰に向ってもそう致します。私は少しでも早く私自らを人に開き示そうとします。善い方にせよ悪い方にせよ、どっちにしても間違われてはいやだからです。
 (a)我々の先祖ゴール人の間にはいろいろ特殊な習慣がありましたが、その中に、カエサルのいうところによると、こんなのがありました。すなわち、子供たちはいよいよ武器を帯びる年頃にならなければ父の前に出なかったし、父と共に人々の前に出ることも敢えてしなかったのです。あたかも彼らは、そのときこそ父がその子供を近づけこれに親しむ時だと考えているかのようでありました。
 私はなお当代の或る父親たちの間に、もう一つまちがった考えがあるのを知りました。彼らはその長い生涯を通じて子供たちにその生れながら当然うけられるはずの財産を分け与えなかったばかりか、その死後もなお自分の全財産に関してその管理の全権をそっくり妻の方にゆだね、彼女たちが思いのままにすることを許しております。現に私が知っている・わが王国の最高の官の一つにあらせられた・或る殿様は、当然年金五万エキュを得られるという期待をいだかれながら、五十を越えてなお不如意と負債との中になくなられました。その母君が非常な高齢でありながら、これまた八十歳近くまで生きられた父君の遺言によって、なおその全財産を握っていられたからです。これはどう考えても理屈に合わないように思われます
* モンテーニュが相続問題についてこのように言うのは、彼自らの経験があったからであろう。『モンテーニュとその時代』第四部第一章三五〇頁参照。
 (b)けれども万事うまく行っているのに、わざわざ大きな持参金の重みで自分を尻にしくような妻を求めるのは、その人にとってあまり得にはなりません。およそこれくらいほかからの借金にもましてその家に破滅をもたらすものはないのです。私の先祖たちはみな一様にそういう意見でございましたので結局仕合せでした。私もまたそうです。(c)けれども、富んだ妻は御しがたいもの威張るものときめてかかり、一概にこれをしりぞけるのも間違いです。そんなつまらない臆測のために若干の現実的利益をなくすにも及びません。無分別な妻にとっては、甲の理由を踏みこえるのも乙の理由を踏みこえるのも、同じようにわけはないのです。彼女たちは最も悪いことをした時が最もうれしいのです。不正は彼女たちを誘惑します。あたかもよい妻がその徳行の誉れに誘われるように。むしろ富んだ女ほどかえって善良なものです。それは美人であればあるほど、よく・立派に・純潔を守るのと同じことです。
 (a)子供たちが法の命ずるところに従って自ら財産の管理ができる年齢に達するまでは、万事母たちの管理に委ねるのは当然なことです。けれども、そういう年齢に達しさえすれば子供たちの方が、一般的にかよわい女である妻よりも多くの知恵と能力とを持つであろうと期待できないとすれば、それはその父の育て方が甚だなっていなかったということになります。けれどもまた母親を子供の意のままに委せるのも、ほんとうに、いよいよ自然に反することでしょう。とにかく彼女たちの家柄や年齢に応じて、その体面を維持してゆくにたるだけのものは、十分に彼女たちに与えなければなりません。貧困は、女性たちの方にこそ、男性たちにとってよりも、さらに不似合で堪えがたいものだからでございます。この重荷は母よりもむしろ子どもの方に負わせるべきでございます。
 (c)一般に遺産分配の最も健全な方法は、その国の習慣に従って分配することであろうと思います。法律はこの問題を我々よりはよく考えています。我々自ら向う見ずな選択をして失敗するよりは、むしろ法律の選択に委せて失敗する方がまだましです。我々の財産は真に我々のものではございません。それは我々に関係なく、民法の掟によって特定の相続者にあてられているからです。それから、我々はそれを越えて多少の自由はもっていますけれども、誰かから運命がすでにその人のものとしているもの・一般的な法律がその人に与えようとするもの・を取り上げるのには、そのほかに重大な・誰が見てももっともな・理由根拠がなければならないと思います。この自由を我々の私的な・つまらない・気まぐれの道具とするのは、理に反する自由の悪用であると思います。有難いことに、私は運がよく、私を誘惑して私の愛情を一般的な法律の規定の外にそらすような機会にはあわずにすみました。私は長いこと親切を尽しても結局暇つぶしに終りそうな人々を知っております。ふとした一ことを曲げて取られたら最後、十年の功も一朝にして消えてしまいます。あの臨終の際にいあわせてうまく彼らの御機嫌をとり結んだ者こそ果報者です。近くなされた行為が結局勝つのです。最もよい奉仕・最も度々の奉仕・は忘れられて、ただただ、最も近い現在の奉仕が効くのです。それらの人々は遺言書をまるでりんごかむちのように心得、これによって相続権ある者の各々の行為をほめたり罰したりするのです。それはのちのちまで最も重大な影響を及ぼすものです。そう気まぐれにいじくられてはたまりません。賢者はそれを理性と一般の風習に照らしてきめ、きめたら最後絶対に変えは致しません。
 我々はこの男子の代襲相続を少し重視しすぎています。そしてこっけいにも我々の名を永遠にしようといたします。また子供時代の才知は当てにならないものであるのに、われわれはこれによって将来を推測しすぎます。私が兄弟じゅうでのみならず、私の郷国くにのすべての子供の中で、学芸の修業にかけても体力の修業にかけても、最も遅くて鈍く、最もぐずであきっぽかったからといって、私を長男の位置からどかそうとするなら、それは恐らく不正なことと申されましょう**。よくあることですが下らない予言などを真にうけて、普通の順位をかえるなどは、正気の沙汰ではありません。もし人々がこの規則を無視し・運命がきめた相続者の選択をしなおす・ことができるとすれば、むしろ何か著しい大きな身体的奇形とかやしがたい頑固な障害とかを考慮してする方が、遙かに理由あるものと認められます。我々のように美を重大視する者にとっては、それらこそ甚だ重大な欠陥でありますから。
* substitution masculine. 女子に相続させると、これが他に嫁するとき財産をその方に持ってゆくからである。
** この辺に、モンテーニュがエーケム家一族の人々の眼に、日頃どのように評価されていたかがよく察せられる。母親の眼にも近隣農家の人々にも、ミシェルは決して頼もしい相続人とは見えなかったのである。
 プラトンの中の立法者とその市民との間の面白い対話は、このくだりに箔をつけてくれるでしょう。「どうして」と市民たちは、その終末が近いのを悟ると、申しました。「どうして我々は我々のものを、我々の欲する人のために処理することができないのか。おお神よ。なんという残酷なことか。どのように身うちの者どもが、我々が病気のとき・老いたとき・また我々の用事において・我々に仕えてくれたかに応じて、或いは多く或いは少なく、思いのままに、彼らに与えることが許されぬとは!」これに対して立法者はこう答えています。「やがて必ず死なねばならぬわが友よ。デルフォイの神殿の銘にあるように、きみたち自らを知ること、またきみたちに属するものを知ることは、ともにむつかしい。わたしは立法者として、きみたち自らもきみたちのものではなく、きみたちのけ楽しむものもきみたちのものではないと主張する。きみたちの財産もきみたち自らも、きみたちの過去及び未来の家族に属している。しかしそれ以上に公衆に、きみたちの家族もきみたちの財産も属しているのだ。だから万一きみたちの老後に、或いは病床に、誰かへつらいを言う者が現われるとか、或いはきみたちに何かの情念が起るとかして、きみたちに不当な遺言を勧めるようなことがあっても、わたしは必ずきみたちをそれから守ってあげる。けれどもわたしは、都市一般の利益と君たちの家族のそれとを二つとも重んじながら法律をたてるであろう。そして個人の便益は一般の便益の前にゆずらなければならないことを、正当のことと感じさせるであろう。静かに、喜んで、人間たる以上は必ずゆかねばならぬ所にゆきなさい。物事を常に差別せずに見るわたし、できるだけ一般ということに心をくばるわたしこそ、きみたちが残してゆく物を始末することができるのだ」。
 さて私の話に立ちもどると、(a)どうも私には、どういうわけか知りませんが、女というものは、あの母として天から与えられる支配力を別にすれば、いかなる場合にも決して男を支配すべきではないように思われます。ただし、いわば熱にでも浮かされたような心持で自分から進んで女の足もとにひれ伏した男どもをらしめる場合は、別でございます。けれどもこれは、いま我々がお話をしているお婆さんたちには全くかかわりのないことです。実にこの考え方が妥当であればこそわれわれは、「女子はフランスの王冠を継承することを得ず」という、あのなんぴとの眼にもふれたことのない法文を制定し、喜んでこれを遵奉しているのです。いや世界中どこの国に参りましても、この法規が、それを権威づけるもっともらしい理由によって、わが国におけると同じように厳守せられていないところは、まずありません。けれども運命は、それを特にある国々において重んぜしめました。我々の財産の分配を女たちの判断にまかせ、相続者の順位を彼女たちの選択にまかせるのは危険です。彼女たちの選択はいつも公正を欠き気まぐれです。まったく、彼女たちが妊娠しているときにいだく・あの途方もない・欲望や病的な嗜好は、ふだんも彼女たちの心の内にいだかれているのです。御覧なさい。総じて彼女たちは、最もひ弱な不出来な子供たちを溺愛しています。でなければ、もしそんなのがある場合は、まだ彼女たちの首にぶらさがっているような坊やの方を偏愛しています。まったく、本当に値打のあるものを選抜するだけの推理の力がまるでないから、彼女たちはとかく自然の印象がひとり幅をきかすところへと誘われてゆくだけなのです。まるで自分の子供を、それが自分の乳房にぶらさがっている間だけしか認めない動物と同じことです。
 それにこの人間自然の愛情も、一般に大そう権威あるものとされていますが、その実、はなはだ根拠の弱いものであることは、経験上容易にわかります。きわめてわずかな金をくれてやって、我々は母親たちの腕から彼女たち自らの子供をひき離し、その代りに我々の子供を彼女たちに育てさせています。そうしておいて、我々は彼女たちに、その子供たちを、我々だったらとうてい自分の子供をあずける気にならないようなみすぼらしい乳母に、すなわち山羊やぎみたいなものに、委ねさせています。そして彼女たちの子供がどんなに危険な状態になろうと自らこれに授乳することを禁ずるばかりでなく、これを介抱することすら禁じて、もっぱら我々の子供の養育に専念させています。しかも御覧なさい。彼女たちの大部分には、間もなく習慣によって、自然の愛情よりも更に激しい・変態の・愛情が生ずるではありませんか。そして自分の子供よりもあずかった子供の保育の方にかえって心を砕くではありませんか。それから私がいま山羊の話を致しましたのは、私どもの周囲では、村の女たちが自分の乳房でその子を養うことができなくなると、さっそく山羊の御厄介になるのが常だからです。いま私が家で使っている二人の従僕も、人の乳はただの八日しか吸わなかったのです。これらの山羊はすぐになれて人間の子供に乳を含ませるばかりでなく、彼らが泣くとすぐその声をききつけて駈けつけて参ります。別の子供をつれて来ればこれを拒みます。子供の方でも他の山羊では厭がって吸いません。私は先日こんな子供を見ました。彼は自分の山羊を取りあげられたところ(それは彼の父が近所から借りて来たものだったからですが)、代りにあてがわれた山羊にはどうしてもなつきませんでした。そして確かに餓えがもとで死んでしまいました。動物もまた、我々と同様に、容易に自然の愛情を変え腐らせます。
 (c)ヘロドトスはリュビアの或る地方についてこんなことを語っております。そこでは人がたれかれの差別なく女と交わりますが、子供の方では漸く歩けるようになればよくその父を見分け、いくら男たちが大勢いても、自然の傾向に導かれて最初からその歩みを自分の父の方に向けるそうです。でもそこにはしばしば間違いが起ることだろうと思います。
 (a)さて、「我々が子供たちを愛するのは、自分が産み出したものだからだ。それだからこそ我々は彼らを、もう一つの我々と呼ぶのだ」というあの単純きわまる理由をよく考えてみますと、どうも確かにもう一つ、我々から生れ出たものでしかも子供に劣らず大切なものがあるように思います。まったく我々が霊魂によって産み出すもの、我々の精神・我々の感情や才能・が産み出すものは、それこそ、我々の肉体的器官よりもいっそう高貴な器官から生れるものですから、いっそう我々のものでございます。これらのものを産み出す場合、我々は父であると同時に母でございます。この種の子供たちこそ、我々にとってはずっと大切なものなのです。もしそれらが何か良いところを持っていれば、いよいよ多くの名誉をもたらすものでございます。まったく我々のもう一方の子供たちのもつ価値は、我々のものであるよりはずっと彼ら自らのものです。我々がそれにあずかる部分はごく僅かなものです。ところが後に述べた子供においては、そのすべての美すべての風情および価値がそっくりそのまま我々のものです。だからそれらこそ、もう一方のものより、もっとはっきりと我々を表現し、我々を物語るのです。
 (c)プラトンはなおも申しました。「こちらの方は不死の子供である。彼らはその父たちをも不死にする。いや、神にさえする。リュクルゴス、ソロン、ミノスなどの場合がそうである」と。
 (a)ところで歴史の書物は、この、父の子供に対する普通の愛情の実例に充満していますから、その間から今申したような特殊な愛情の実例を幾つか捜し出すことも、私には不相応だと思われませんでした。
 (c)トリッカの善良な司教ヘリオドロスと申す人は、その娘を失うよりも、あれほど人に尊ばれる司教職の位と収入と信心とを失う方を好んだのでした。その娘は、今でもなお甚だ愛らしい姿をとどめていますが、なるほど聖職者の娘にしては余りに念入りにやさしく・否余りになまめかしく・化粧されているようです。
* その著『テアゲネスとカリクレイアの物語』Th※(アキュートアクセント付きE小文字)ag※(グレーブアクセント付きE小文字)ne et Charicl※(アキュートアクセント付きE小文字)eHistoire Ethiopique ともいう)を指す。これは余りになまめかしい物語なので、著者はこの本を焼くか司教職をすてるか、二者択一を迫られ、ついに司教職を棒にふったと伝えられている。この本はアミヨの訳によってモンテーニュの時代、相当によまれたらしい。
 (a)昔ローマにラビエヌスという者がおりました。徳も位もともに高い人物でしたが、数あるその特質の中でも殊にあらゆる文学の才に優れていました。たしかそれは、ガリア征伐の際カエサルの下にあった大将の筆頭であり・後に大ポンペイウスの側に走り輝かしい勲功をたて・ついにカエサルによってスペインに追われた・あの偉大なラビエヌスの息子であったと信じます。さて、今私がお話をしかけたそのラビエヌスは、身辺に彼の徳をねたむものを沢山にもっておりました。そしてありそうなことでございますが、当時の諸皇帝の寵臣たちは、彼の自主独立の精神と、彼の暴政に対する親ゆずりの敵意とを、非常に憎んでいたのです。ですから彼が書いた文章や書物などもこのような気魄で染められていたものと信ぜられます。彼のかたきどもは彼をローマの法廷に訴え、ついに彼がすでに公にしていたもろもろの著作を焼くよう宣告させました。このように著書や研究までも死をもって罰するという新しい刑罰は、その後もローマにおいて他のいろいろな人の上につづけられましたが、それは実にこの時が最初だったのです。残酷の方便材料がまだまだたりなかったのでしょう。我々は自然があらゆる情感と苦痛とを免れさせているものにまでも、例えば評判とか我々の精神の創作とかいうものにまでも、このような酷刑を科したのです。肉体的刑罰を、ミューズの教えや規律にまでも加えないではいられなかったのです。ところでそのラビエヌスは、この損失に堪えることができませんでした。この大切な生みの子よりも自分の方が生き残ることに、堪えられませんでした。彼は生きながらその身を先祖の墓の下に運び入れさせ、そこで一度に自殺と自葬の思いをとげました。これほど激しい父の愛情を他にお見せすることは困難です。カッシウス・セウェルスはえらい雄弁家で彼の親友でしたが、ラビエヌスの書籍がやかれるのを見るとこう叫びました。「同じ宣告によって作者をも一緒にやき殺すべきだ。なぜなら彼はその記憶の中にそれらの書籍が含んでいるものを持ちつづけているのだから」と。
 (b)同様の出来事が、ブルートゥス及びカッシウスをその著の中でほめたかどで告訴された、あのグレムティウス・コルドゥスの上にも起りました。あの卑劣な・意気地のない・腐敗した・そしてティベリウスよりも悪い主人にふさわしい・元老院は、彼の書いたものを火刑にしたのですが、彼の方は自分の書いた物と死をともにすることを喜び、食を絶って自殺致しました。
 (a)善良なルカヌスはあの卑劣なネロに裁判されましたが、いよいよその最期にのぞんで、死ぬために自ら医者に命じて切断させた腕の脈管からすでに大部分の血液が流れ去り、冷えが早くも手足の末端に来て、やがてその心臓の近くにも及んだとき、その記憶の中にたもっていた最後のものはファルサロスの戦いを歌った自分の本の中のある詩句であって、彼はその数行を口ずさんでいました。そしてその最後の句を口にしたまま死にました。これこそ、彼のその子供たちに対する優しい父としての暇乞いでなくて何でありましょう。いかにもそれは、我々が死に際して子供に与える暇乞いや抱擁に似ているではありませんか。またそれは、あの臨終の際に我々に、一生の中で最も愛したところのものを思い出させる、あの自然の情のあらわれでなくて何でありましょう。
 エピクロスは、死に臨んで疝痛の激しさに苦しめられながらも、自分がこの世に残した教説の美しさをもって大きな慰めとしたと申すことですが、もし彼に子供があったとして、それらが皆立派に成人したとしても、果して彼はそれらの子供たちから、彼が自分で書いたその豊かな書物から得たほどの満足を受けたでしょうか。また、もし悪く生れついた愚かな子供をのこすか愚劣な書物をのこすか、その一つを選ばねばならなかったとすれば、彼はむしろ(彼のみではない、すべて彼のような才能ゆたかな人物は)、後の不幸よりも前の不幸の方を選びはしなかったでしょうか。例えば聖アウグスティヌスも、もしキリスト教のためにかほどに貴い貢献をしたその著作を埋めようか、それとも、仮に彼に子供があったとして、その子供の方を埋めようか、と言われたとして、もしも子供を埋める方を選ばなかったとしたら、彼も恐らくは不信心のそしりを免れないでしょう。
 (b)いや私に致しましても、妻との接触からよりもミューズとの接触から申分のない立派な子供を一人産み出す方を、好まないとも限りません
* この句から、モンテーニュは子供を愛さなかったと断定してはいけない。これは例のパラドクスである。むしろこの章全体の中に、父の子に対する愛情のこまやかさを読み取らねばならない。他の章節においても(二の十一、十八、三の十、十二、十三、等)それは十分に感じとられる。時に冷淡らしく見えることがあっても、それはことさらに自分の涙もろさをおさえている場合であるように思われる。或いは死児の年をかぞえる愚かな親たちを慰めはげますためでもあったように思われる。
 (c)ここに御覧のとおりのこの子供に、私は与えられるだけのものを、さっぱりと、思いきりよく、やってしまいました。それは皆さんがお作りになったお子さまがたにいろいろお与えになるのとまったく同じです。私が彼に与えたあの僅かな財産は、今ではもう私の心のままになりません。彼の方が私のもう覚えていない沢山の事を知っていることもあります。私の方ではとうになくしてしまっているものを、彼の方がちゃんと持っていることもあって、何か入用があると、私の方からまるで人にかりにゆくように、彼のもとに借用に出なければならないこともあります。
* 自分の霊魂が産み出した子供、すなわち『随想録』。
 私の方が彼よりは賢明だとしても彼は私よりもゆたかなのです。
 (a)いやしくも詩に心を傾ける者で、ローマ第一の美丈夫の父であるよりも『アエネイス』の父であることの方を喜びとしないものはほとんどありません。後者を失うよりは前者を失うことの方が忍び易いと言わないものはほとんどないのです。(c)まったくアリストテレスの言うところによれば、あらゆる工匠のうち、詩人がいちばん自分の作品を恋慕するのです。(a)私は信じかねます。かねてエパメイノンダスは他日その父の誉れとなるべき二人の娘を(というのは彼がラケダイモン人をうち負かした二つの崇高な勝利のことですが)、永く後世にのこすのだとあれほどきばっていたのに、ついにそれらをギリシアで最も可憐な乙女二人と交換することに賛成したということを。また、アレクサンドロスとカエサルとが、その後つぎの子供たちを持つ喜びのために(いかにそれが完全無比の子供でありえたかは知らないが)、敢えてその輝かしい武功のほまれを奪われようと願ったということも信じられません。まして私は大いに疑います。フェイディアスが、いや誰かほかの優れた彫刻家であったか忘れましたが、彼の自然の子供の長寿長命を、彼が巧みをこらし長い間の研究と労作とによって完成することのできた立派な彫刻に対してと同じ程度に、こい願ったということを。それから、ときに父たちをその娘の愛に・母たちをその息子の愛に・燃えたたせるあの不徳な激しい情熱に至っては、これまたもう一つの親子関係の間にも同じように見出されます。それはピグマリオンの話をきいてもわかります。彼は絶世の美人の像をきざんだが、この自分の作品に対して狂おしい恋に身を焦しましたので、ついに神々もその心根をあわれみ、その像に命をふき入れてつかわされたと、言い伝えられております。

彼その指を象牙に触れたるに
その硬さ失われて柔らかくなりぬ。
(オウィディウス)
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第九章 パルティア人の武器について



 (a)当世貴族の悪風は、いよいよ最後のどたん場にならなければ武器を取らず、少しでも危険が遠のいたと見ると忽ちに武器を捨てるということで、そこには柔弱の気風が十分に見られるばかりでなく、ためにいろいろと思わぬ混乱が発生する。まったく、すわ敵よという間ぎわになってからそれぞれがおめいて己れの武器にかけよるので、一方ではなおよろいひももしめ終らぬというのに早くもその戦友は討たれているという始末である。我々の父たちはかぶとや槍や籠手こてなどは郎党にもたせたが、その他の武器はその日の勤務が全く終らなければ決して置かなかった。今日我々の隊伍は、荷物と従僕とのために混雑して不整頓の状を呈している。従僕は主人の武器をあずかっているので、主人の傍を離れることができないからである。
 (c)ティトゥス・リウィウスは我々の祖先について語った。※(始め二重山括弧、1-1-52)全く疲労に堪える力なく、彼らの肩はその武器を荷なうに堪えざりき※(終わり二重山括弧、1-1-53)と。
 (a)幾多の国民は、昔はもちろん、今でもなお、鎧を着ずに戦争に行く。或いは防御の役に立たないような着物で出征する。

(b)彼らはその頭部をよろうにコルクの皮をもってせり。
(ウェルギリウス)

アレクサンドロスは最も危険をおそれぬ大将で、鎧など着ることははなはだ稀であった。(a)我々の間にも、そんなものは馬鹿にして着ないものがあるが、決してそのために不覚を取ることはない。甲を着なかったために殺された者もいくらかあるけれども、かえって武器が邪魔になって、つまり、それが重かったり、それが何かのはずみに自分を傷つけたりして、命をとられたものの数もまた、決して少なくないのである。まったく正直のところ、我々の武器の重さや厚みなどを考えてみると、どうも我々は自分を守ることにばかり努めているように見える。(c)いや、これに守られているというよりもこれをしょわされているという恰好である。(a)それは実に窮屈なもので、こんな重荷はただ背負って歩くだけで相当くたびれてしまう。まるで我々は武器と武器とのぶつけ合いだけで戦っているみたいである。まるで武器は我々を保護してくれないのに、我々の方には武器をかばってやらねばならない義務でもあるかのようである。
 (b)タキトゥスは、我々の祖先であるゴールの戦士たちがひたすら自らを守ろうとしてこのような武装をした結果、傷つけられることも・進んで敵を傷つけることも・ころんだら最後起き上ることさえ・できずにいる有様を、面白おかしく描いている。ルクルスはティグラネス軍の戦線に控えたメディアの兵士たちが、いかにも重たげに窮屈そうに鎧を着て、あたかも鉄の牢にでもはいっているかのような姿を見て、これを負かすことは易しいものだと考えた。そして先んじて彼らを攻撃し、勝利をえた。
 (a)また今日ではわが銃士たちが重宝されているから、やがてこれに対して味方を掩護する何かの発明がなされるであろうと思う。例えば古人がその象に運ばせたそれのような一種の稜堡りょうほの中にはいって、戦場に引いてゆかれるようなことになるだろうと思う。
 こういう考え方はスキピオ・アエミリアヌスの考え方とは大分ちがっている。この人は或る城をかこんだとき、部下の兵士たちが、城内の者どもが打って出そうな場所の堀の水の中にわなを仕かけたのを見て、きびしくこれを叱責し、「攻め手の方はもっぱら攻め入ることを考えねばならぬ。自ら襲われることを考えてはならない」と言った。(c)このような備えが攻め手の用心に少しでも油断を与えては大変だと考えたのは、もっともなことである。
 (b)彼はまたその美しい楯を自慢した若者に向ってはこう言った。「おお、いかにも立派な楯じゃ。だがローマの武士は、左手よりも右手の方に多くの自信をもたねばならぬぞ」と。
 (a)さて、我々が甲冑を着て重たがるのは単に習慣である。

わがここにうたう二人の軍士は、
背には鎧を着、頭にはをいただけり。
夜も昼も、彼この城に入りしその日より
一刻もその武具を脱ぎしことなかりき。
彼は常の衣のごとくそれをやすやすと着こなしたり。
(アリオスト)

 (c)皇帝カラカラは隙間なく身を鎧い、徒歩で、その大軍を率いながら、山野をかけめぐった。
 (a)ローマの歩兵はただに冑と剣と楯とを帯びたばかりではない(まったく武具なんかは、キケロが言ったように、それらを背負うのにきわめて慣れていたから、手足も同然、すこしも邪魔にはならなかったのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)まことに兵士たちの武具はその四肢と異なるところなかりき※(終わり二重山括弧、1-1-53))。(a)それとともに十五日分の食料や、とりでを作るための杭を幾本も、携えて行ったのである。(b)その重さは六十ポンドに達した。マリウスの兵隊の如きは、それほどの荷を背負いながら五時間に五里をゆくように、急ぐ時には六里もとばせるように、訓練されていた。(a)彼らの軍紀は我々の軍紀より遙かに厳正であった。従ってそれは大いに異なった結果をあらわした。それについてはこんな驚嘆すべき話がある。すなわち、或るラケダイモンの兵士は遠征の途中、屋根の下に宿っているところを見つかって叱責されたというのである。彼らは苦難に対して十分に鍛えられていたから、どんな天気の場合にも青天井ならぬ屋根の下にあるのを恥としたのである。(c)若きスキピオ・アエミリアヌスは、スペインにおいてその軍をたて直したとき、その兵士たちに向って、「立ったままで食らえ。煮焼したものは食らうな」と命令した。(a)とうてい我々は、我々の兵士をこんな待遇で遠くへ連れてゆくわけにはゆかないであろう。
 それに、ローマの戦乱の間に人となったマルケリヌスは、丹念にパルティア人の帯びていた武器のことを特記している。それは彼らの武器がローマ人のとはよほど異なっていたからである。「彼らは」と彼は言う。「小さな羽のように織りなされた鎧を着ていた。それは彼らの体の運動を妨げなかったばかりでなく非常に堅固であったから、我々の槍はそれに当るとはね返った」(これは我々の祖先が大いに使いなれていたうろこあみの鎧のことである)。また別のところではこう言う。「彼らは強く逞しく・厚い革をきた・馬を持っていた。そして彼ら自らは、頑丈な鉄の板で頭のてっぺんから足の先までを隙間なく鎧っていた。その鉄板は巧みに組み立てられていて、関節のところでまがるようになっていた。さながらそれはくろがねの人であった。まったく彼らは、その頭部にきっちりとはまり・その顔かたちをありのままに現わした・一種のを持っていたから、彼らが見るための・眼のところにあたる・二つの小さな穴とか、或いはまた彼らが辛うじて息を吸い入れる鼻のところの割れ目とかによらなければ、彼らをたおす術はなかったのである」と。

(b)屈伸自在の金属の鎧は
その包む四肢の生命を帯びるにや、
遠くこれを望むに驚くべし、
あたかも黒鉄くろがねの人像歩むがごとく、
鎧が生きたる軍士と化したるがごとし。
馬もまた、同様によろいたり。
首には重き冑を戴き、
腹にも鎧をつけたるまま、
悠然として進退せり。
(クラウディアヌス)

 (a)この描写こそ、隙間なく鎧を着たフランス武士の装いによく似ているではないか。
 プルタルコスの言うところによれば、デメトリオスは自分のために、また彼に次ぐ第一の武士アルキノスのために、いずれも重さ百二十斤の大鎧を造らせた。普通の鎧はせいぜい六十斤位のものにすぎないのであるが
* モンテーニュは日頃、フランス貴族の特性、その唯一の本質的な特性は軍職にあると信じ、自らジャンティヨムたることにいささか誇りも持っていたのであるが、今や現実はそうでなくなった。むしろ軍人らしくない貴族が幅をきかせている。モンテーニュはここに、淡々と古今の武器の比較をしながら、腐敗堕落した当世を慨嘆し、偉人に充満していた古代への憧憬と感歎の情を吐露している。
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第十章 書物について



 この章は一五七九年か八年に書かれたものと推定されるが、すでにまったく個性的なエッセーになっている。彼はその知的趣味を通じて遺憾なく自己を描いている。この章の興味はここに書かれている事柄ではなくて、その趣味判断を通じてうかがわれるモンテーニュその人の姿である。そこには彼の根本思想を見出す鍵すらかくれている。だが彼がウェルギリウス、ルクレティウス、カトゥルス、ホラティウスについて述べている判断も正しい。その点で彼は近世のいわゆる印象批評家の先駆をなしていると言えるであろう。

 (a)たしかにわたしは、その道の大家たちが、すでにずっと立派に、ずっと正確に論じている事柄について語りだすことがしばしばある。だが、わたしがここにお目にかけるのは、もっぱらわたしのもって生れた能力のためし essai なのであって、けっしてわたしが後に得た能力〔学問知識〕の試しではないのだ。だから自分の無知をうっかり人に見られても、たいして困りもしないのである。まったく自分の意見について人に対して責任をもつなんてことは、とてもわたしにはできっこないのだ。自分に対してさえその責任は持てないし、自分もそれに満足してはいないのだ。学問がお求めになりたいなら、それが宿っている所をおあさりなさい。学問知識くらいわたしの自慢できないものはないのだから。これらはわたしの幻想である。これによってわたしは、物事を知らせようと努めているのではなく、わたしを知らせようとしているのである。いつかは物事がわたしに知られることもあろう。いや昔は、わたしもいろいろと知っていたものだ。それは運命が、わたしをそれらが明らかにされる場所に連れて行ってくれたからだ。だが今ではもう何一つ覚えていない。
 (c)いやわたしは、多少は本も読んだ男であるが、てんで覚えていることのできない男なのである。
 (a)だからわたしは、いかなる確実をも保証しない。ただ、今のところどれほどまでの知識を持っているかを、お知らせするだけなのである。どうかどんなことが書いてあるかに期待をかけず、わたしがそれをどんなふうに取扱っているかに注意して下さい。
 (c)どうかわたしが、わたしの借用しているもののなかに、果して自分の主題に重きを加えるにたるだけのものを選びえているかを、見て下さい。まったくわたしは、或いは自分の言葉の弱さにより或いは自分の判断の弱さによって、自分一人ではうまく言えないことを、他人に言ってもらっているのだ。だがその借用の数は問題にせず、その重さを重要視している。もし数の多いことによってそれらに価値をつけようと思ったのなら、わたしはこの二倍もしょい込んだであろう。それらはみな、でないまでもほとんどみな、きわめて有名な古代の名であるから、わたしがそれを誰と言うまでもなく、かなり明らかに推察されると思う。わたしはそれらもろもろの理由と創意とを自分の畠の中に移し植えて、わたし自身の理由創意と混ぜ合せているが、その時もまた、わざとその作者の名をあげるのを略したこともある。それはあらゆる書物が・特に現存の人々により俗語で書かれた新しい書物が・こうむる、あの早まり行きすぎた批評をおさえるためである。この俗語の書物はとかく有象無象の批評をあびがちであるし、またその思想や主張までが凡俗なもののように取扱われがちである。わたしはみんなが、わたしの鼻先をねらってプルタルコスの鼻に一はじき食らわしてみろ、わたしのつもりでうっかりセネカに悪口でもあびせてみるがいい、と思っている。わたしの力弱さはこういう大きな信用の下にかくさねばならないのであるが、誰でもいい、このお化粧をひんむいてほしいものだと思う。つまり、明晰な判断により、ただ論旨の力と美とを見わけることによって、借りものとわたしのものとを区別してほしいということだ。まったく、記憶がわるくていつも国の名別にそれらをよりわけることもできないこのわたしでさえ、自分の力を量ってみれば、自分の畠がそこにかれているような立派な花を咲かすことはとうていできそうもないことを、そしてわたしの土地に成った果実はとうていそれらのものに及びもつかないであろうことを、ちゃんと認識できるのである**
* モンテーニュは以上三つの理由によって、いつも引用句に一々作者の名を添えることをしなかったのであろう。だから、本訳書においては、後世の諸版或いは英訳本にならって、一応括弧内にそれを示すことにしたが、その出典は一々註しなかった。「国の名別」とは、出典がギリシアかラテンかという区別を意味する。また俗語というのは、ラテン・ギリシア両語が学者の言葉であるのに対して、フランス語をさしている。
** 要するにモンテーニュが古人の句を引用するのは、第一に自分の意見所論を支持強調し、或いはこれにはくをつけ勿体もったいをつけるため、第二に、これは自分だけの考えではなくすでに古人も言っていることだと、自分の責任を回避するため、いわば避雷針ないしカムフラージュの役目をさせるため、第三には危険な或いはエロチックな、いずれにしても余りはっきり言っては差しさわりのある事柄を婉曲に代弁させるため、第四にはユマニストとしての古人尊重或いは尚古趣味から、であった。だから引用の中に案外重大なその章の眼目ないし結論がかくれていることもあれば、単なる本文の反覆にすぎないこともある。モンテーニュのフランス文と渾然一つになっているのもあれば、とってつけたようにつぎ木されたものもある。或いはモンテーニュの文章の自然の流れを阻害し徒らに文章を混乱させている所もあるし、それがかえってカムフラージュになっている場合もある。自然にそういう結果になったと思われる所もあれば、わざとやってるのかなと思われる場合もある。
 (a)ただ次のようであるなら、というのはもしもわたし自らが五里霧中にさ迷っているなら、もしもわたしの理屈が空虚で間違っているのに自ら少しも悟らず、人からそれを指摘されてもなお悟ることができないようなら、それこそわたしの責任である。まったく、過失はとかく自分の眼にとまらぬものではあるが、人から指摘されてもそれらが見えないようなら、それはやはり判断が健全でない証拠である。学問と真理とは判断がなくとも我々のうちに宿ることができるが、判断もまた学問や真理がなくともわれわれのうちに宿ることができる。それどころか無知の自覚こそ、判断の最も立派な最も確かな証拠であると思う。わたしは運命よりほかに、わたしの項目パラグラフをあんばいしてくれる参謀をもたない。夢想が心に浮ぶがままに、わたしはそれらを積み重ねる。それらは、或るときは一ぺんに群がって出て来る。或るときは連綿として相ついで出て来る。わたしは皆さんに、わたしのもって生れたいつもの足取りを、あのとおり千鳥足ではあるが、見てもらいたいと思っている。わたしは自分を、そのときの気分のままに赴かせている。それにこれらは、知らないことがゆるされない事柄でもないし、口から出まかせに・はばかりなく・語っていけない事柄でもないのである。
* sergent de bande. 一定の作戦計画によって部隊を各所に配置する人、つまり参謀 sergent de bataille のことである。
 それはわたしだってもっと完全に物事を理解したいが、しかしあんなに高価な代償は払いたくない。わたしの企ては余生を静かにすごすことにある。いまさら苦労を重ねようとは思わない。そのためにわたしが頭を悩まそうとまで思うほどのものは、何一つない。そんなことは、学問のためにだって、その学問がどんなに高価なものだからといって、わたしは御免こうむる。わたしが書物をあさるのは、ただそこにまじめな遊びかたによって、少しばかりの楽しみを見つけようとするからにすぎない。また研究もするけれども、わたしはそこにただいかにして己れみずからを知るべきかを論ずる学問、よく死によく生きる道を教える学問だけを、求めているのである。

(b)これこそ、わが馬のせ向う目標なれ。
(プロペルティウス)

 (a)本を読んでいてふとむつかしい問題にぶつかっても、わたしはそのためにいつまでも爪を噛んではいない。一ぺんか二へん攻めてみてだめならば、あとはそのままほったらかすことにしている。
 (b)いつまでそこに突っ立っていたところで、ますます途方にくれるばかり、時間を失うばかりである。まったくわたしは気が早くせっかちなのだ。第一の攻撃でわたしにわからぬことは、執着すればするほどわからなくなる。わたしは気がはずまなければ何一つしない。長びくこと(c)や過度の緊張(b)は、わたしの判断をくらくらさせ、悲しくし、疲らせる。(c)わたしの鑑識はそのために混乱し分散する。(b)わたしは自分の判断をよびもどしゆすぶって、それを正気にかえさなければならない。ちょうど赤地の錦を鑑別するときに、少し離して、ちらちらと、何度にもわたって、布地全体の上に眼をはせよ、と言われるのと同じことである
* 以上のモンテーニュの告白は、前出一の十の終りの部分と共に、モンテーニュの本質、その根本思想を明らかにするのに役立つ。また後出三の十において、「意志を節約する」というが、それは学問においても政治においても、虚静恬淡ノンシャランスを説く老荘の思想に通ずるものをもっている。
 (a)一つの本がいやになると、わたしはもう一つの本を取り上げる。そしてただすることがなくて退屈でたまらないときだけ読書にふける。新刊書にはあんまり飛びつかない。どうも古典の方が充実しており堅実でもあるように思われるからである。ギリシア語の書物にもあんまり飛びつかない。だってわたしの判断は、子供や初心者なみの理解**なんかでは満足できないからだ。
* これはてらいでも何でもない。正直な告白である。彼がその隠棲時代にさえ政治的活動をやめなかったことは、巻頭の解説でも巻末の年表でも指摘したとおりである。
** ギリシア語はモンテーニュにとって余り得意ではなかったらしい。ときにギリシア原文も引用したし、書斎の天井にもギリシア語を銘記したが、ギリシア作家はたいていラテン訳によって読んだのである。ラテン語の方は彼にとって母語同然であったから(一の二十六参照)。なおモンテーニュは、プルタルコスから最も大きな感化をうけたが、彼はこのプルタルコスを、アミヨのフランス語訳で読んだ。やはり生半可なギリシア語によらずに、信用ある人のフランス訳で読んだのである。前出二の四参照。
 ただ面白いだけの書物の中では、近代のものとしてはボッカチオの『デカメロン』とラブレと、これをも同じ近代人の中に数えねばならぬならば通称ジャン・スゴンの詩集『接吻**』とは、時間をつぶすだけのことがあるものと思う。『アマディス』をはじめこれに類する書物にいたっては、少年時代のわたしを引きつけるだけの信用をさえ持たなかった。わたしはなお、大胆に、いや向う見ずに、こう言いたい。「このわたしの年老いて鈍感になった霊魂は、もう、あのアリオストだけではなく、あの優れたオウィディウスにさえ、くすぐられなくなってしまった。昔はわたしの心を奪った彼の流暢も奇想も、今ではもうほとんどわたしをとらえることがなくなった」と。
* ボッカチオはともかく、ラブレ Rabelais をただ単に「面白いだけの書物」として挙げているのは、もとより故意であろう。
** 『接吻』Basia はラテン語の詩集であるが、著者はオランダ生れの詩人で本名 Jean-Everaerts ラテン名を Secundus と言った。フランスでは Jean Second で通っていた(一五一一―一五三六)。
 わたしは何事に関しても自由に自分の意見を述べる。恐らくわたしの力量を越えている事柄、どう考えてもわたしの権限内にはない事柄についてさえも。私のそうした意見もまた、わたしの視力の程度を示すためのものであって、それらの事柄の寸法を規定するためのものではない。プラトンの『アクシオコス』を、あれほどの著者のものとしては、いかにも力ない作品だなとわたしがあきたらなく思うときも、わたしの判断がそう確信しているわけではない。わたしの判断は、あんなにたくさんの・(c)古人の・(a)名だたる・判断の権威に楯つくほど、愚かではない。(c)むしろそれらを自分の師匠とも先生とも心得、それらの人たちと一緒ならば間違ってもよいくらいに思っているのだ。(a)それ〔わたしの判断〕はむしろ自分を責める。そして物事の底に徹することができずにただ表面にとどまっていたことや物事を誤まった光の下に見ていたことについて、自分の非を認める。それは、ただてんやわんやにおちいらないですめば、それで満足する。自分の力弱さについては、自ら進んでこれを認め、そう白状する。わたしの判断は、その理解によってとらえたもろもろの現象に公正な解釈を加えようと考える。だがそのとらえた現象がまた茫漠として捉えどころがない。イソップの寓話の大部分は、沢山の意義と含蓄とを持っている。それらを訓話のたねにしようとする人々は、いかにもその寓話にぴったりの何かの見解を選び出すけれども、それは皮相で幼稚な見解にすぎない場合が多い。もっと生きた・もっと本質的で内面的な・見解が別にあるはずだが、彼らはそこまで徹底できなかった。わたしもまたその例にもれないのである。
 だがもう一度書物の話をつづけると、詩の方ではウェルギリウス、ルクレティウス、カトゥルス、ホラティウスが、ずばぬけて最前列を占めているように、いつもわたしには思われた。特にウェルギリウスがその『田園詩』において群を抜いている。これこそ詩の最も完全な作品だと思う。これにくらべるとあの『アエネイス』の中には、もし作者にその暇があったならば恐らく幾回かの推敲を加えたであろうと思われるふしぶしがあるのを、人は容易に認めることができる。(b)だから『アエネイス』の中では、その第五冊が最も完全なものに思われる。(a)わたしはまたルカヌスを愛し、好んでこれに親しむ。それは彼の文体のためにではなく、彼特有の価値のため、彼の意見判断の真実性のためである。名人テレンティウスについていうならば、彼はラテン語の優婉・優雅を持っていて、霊魂の動きや我々人間の気質性格のさまざまをさながら生きているように描いている点において、すばらしいと思う。(c)わたしは人間の一挙手一投足にあうごとに、いつも、彼の描写を回想させられる。(a)わたしは幾度読みかえしても、そこに何か新たな美しさと趣とを見出さずにはいられないのである。ウェルギリウスに近い時代の人々は、誰だかが彼とルクレティウスとを比べたことを嘆いた。それは本当に不釣合な比較であるとわたしも考えるが、ルクレティウスの詩の美しい箇所に引きつけられるときには、ただ不釣合だとばかり信じているわけにもいられないように思われる。ウェルギリウス時代の人々はこの比較にさえ憤慨したくらいだから、今日彼にアリオストを比較する人々の野蛮人のような愚かさについては、果して何と言うであろう。いや、アリオスト自ら何と言うであろうか。

おお粗野にして趣味なき世紀よ。
(カトゥルス)

わたしはこう考える。古代の人々はルクレティウスをウェルギリウスに比べることに対してよりも、むしろプラウトゥスをテレンティウスになぞらえることをこそ(後者〔テレンティウス〕の方がずっとよくその紳士らしさを感ぜしめる)、いっそう慨嘆すべきではなかったかと。テレンティウスの方が尊重され、愛好されるのには、(c)ローマにおける雄弁の父〔キケロ〕が、彼を、その仲間の中でただ彼ひとりだけを、しばしば口にしたことが大いにあずかっている。それはまたローマの詩人たちの第一の判断者と言われたホラティウスが、プラウトゥスの方をこっぴどくこきおろしたためでもあった。(a)わたしはしばしば、現今喜劇の創作にたずさわる人々が(例えばこれにかなり長じているイタリア人などが)、テレンティウスやプラウトゥスの喜劇から三つ四つの主題を借りてまんまと自分の喜劇の一つを作り上げていることを思い浮べた。彼らはただ一篇の喜劇の中に、ボッカチオの物語の五つ六つを詰めこんでいる。彼らがそのように沢山の材料を一度にしょいこむのはなぜかというと、彼らには自分みずからの風趣だけで持ちこたえてゆくだけの自信がないからである。そこで彼らは何かよりかかるものを見つけなければならない。ところが自分のものには我々を引きとめるに足るだけのものがないから、ひとの物語によって我々をひきとめようとするのである。わが作者〔テレンティウス〕においてはまったく反対である。彼の表現の完全にして善美なるを見れば、我々は彼に主題の面白さを要求することを忘れてしまう。彼の婉にして優なる趣がいたるところで我々を引きとめる。彼はどこもかしこも面白いから、

清らかなることさながらに澄める流れのごとし。
(ホラティウス)

そして、彼自らの優雅な趣をもって我々の心を充たすから、我々は筋の面白さなんか忘れてしまうのである。
 わたしはこの同じ考え方を、もっと押しひろめたい。わたしの見るところでは、古代のすぐれた詩人たちは、たんにスペインふうやペトラルカ流の気紛れな誇張は勿論のこと、後世のすべての詩作の飾りとなっている・ずっとおとなしくつつましやかな・あの警句をさえ、あえて模倣しようとはしなかった。けれどもよい批評家である限り、これらの古人にこのような特質が欠けていたと見る者は一人もない。みんなカトゥルスのエピグラムに見られるむらのない艶やかさや、あの常に変らない花のような優しさ美しさの方を、マルティアリスがそのエピグラムの終りに含ませた諷刺とくらべて、比較にならないほど高く評価する。実にこれと同じ理由で、わたしはいましがた言ったのである。ちょうどマルティアリスが自らについて言ったとおりに、※(始め二重山括弧、1-1-52)彼は多くの努力をなすに及ばざりき。彼においては主題が機知の代りをなしいたれば※(終わり二重山括弧、1-1-53)と。さきにあげた人たちは、感動もせず興奮もせずにかなりよく自分の想いを表現する。彼らはどこへ行っても自然に笑いがこみあげて来る。わざと自分をくすぐる必要はないのである。後に述べた人々の方は、外部の助けを必要としている。機知がたりないだけ、それだけ話や筋がいるのである。(b)彼らは馬にのる。徒歩でゆくことができないからだ。(a)ちょうど我々の舞踏会において、舞踏を教えるのを商売としている卑しい身分の人たちが、わが貴族たちの上品な態度を真似ることができないもんだから、あぶなっかしいとんぼ返りや、その他いろいろと軽業師まがいのめずらしい運動なんかをして、認めてもらおうと努めているのと同じことである。(b)また婦人たちにとっても、いろいろな身振りやしなを作って見せることのできる舞踊の方が、恰好をとるのにやりやすい。かえって、ただ自然の足どりで進み・天性の姿態とその平常の愛嬌とを示しさえすればよい・あの儀礼的舞踊の方が、はるかにむつかしいのである。(a)なおわたしは見たことがある。優秀な道化役者は普通の着物を着、あたりまえの顔つきをして、ただその芸によって我々に十二分の娯楽を与えた。ところが、それほどの腕に達しない駈け出しの者どもは、顔を真白に塗り、色々な扮装をし、妙な腰つき野蛮なしかめ面までもしなければ、我々を笑わせることができないのであった。このわたしの考え方は、『アエネイス』と『オルランド・フリオソ』とを比較する場合に、他のどんな場合よりも明瞭になる。見たまえ。前者は羽ばたきをしてたつと、その目ざすかたへ一路はるかに、悠々と飛んでゆくではないか。しかるに後者は、その翼が遠く飛ぶのに堪えないことをあやぶみ、あたかも板から板へとび渡るように、物語から物語へと転々している。息が切れ力が尽きることを恐れて、ちょいと飛んだかと思うともうそこにおり立っている。

かれの試みる飛行は短し。
(ウェルギリウス)

 以上がこの種の著作家の中でわたしの最もすきな人たちである。
 わたしのもう一つの読書、楽しみの中にいくらか効果のまじる読書、わたしがそれによって自分の考えや気質を調整することを学ぶところの読書、つまりそういう点でわたしに役立っている書物は何かというと、それはまず、フランス語訳ができて以来はプルタルコス、次にセネカである。この二つはいずれも極めてよくわたしの気性にかなっている。というのは、わたしのそこに学ぼうとする事柄がそこではそれぞれ断片的に論ぜられていて、わたしにとってにが手である継続的研究を強要されないからだ。プルタルコスの『小品集』と、セネカの『書簡』とは(後者はセネカの書物の中で最も美しく最も有益なものであるが)、共にそういうふうな書物である。それらに取りかかるのには別に大きな決心もいらないし、また勝手なところで本をおけばよいのだ。まったく各断片相互の間には何の連絡もないのである。この二人は、その有益で真実な意見の大部分において一致している。それに運命は、彼らをほとんど同じ世紀に生れさせ、二人をそれぞれ二人のローマ皇帝の教育係とし、二人ともども外国から渡来させ、そろって二人に富と権力を与えた。彼らの教訓は哲学の精髄で、しかも単純適切に説かれている。プルタルコスの方は一様でむらがなく、セネカの方はいろいろさまざまである。後者は、労苦し緊張して、徳をば柔弱と恐怖と不徳な欲望とに対して鍛えようとしている。前者はそれほどにこれらの不徳の影響を重視せず、むしろこれらのためにその足を早めたり楯をかまえたりするのを大人気なく思っているようだ。プルタルコスはものしずかな・典雅な社会にもかなうような・プラトン流の意見をもっている。セネカの方はストア的かつエピクロス的な意見をもっている。後者の意見は前者のそれに比して一般の習慣からいささか遠ざかってはいるが、それだけわたしの考えではいっそう個人的生活に適しいっそう堅固である。セネカの書いたものを見ると、彼はいささか当時の皇帝たちの暴虐に遠慮しているふうが見える(まったく、彼がカエサルの高邁な殺戮者たちの立場をけなしているのは、確かに強いられた判断のためであるとわたしは信ずるのである)。プルタルコスはどこまでも自由である。セネカは警句と機知に充満しており、プルタルコスは事実に満ちている。前者はより多く人をあおり人を動かす。後者は読者をますます満足させ、より多く読者に報いる。(b)後者は我々を導き、前者は我々を駆り立てる。
 (a)キケロについて言えば、彼の著作の中でわたしの企てに役立ちうるのは、哲学・特に道徳哲学・を論じたものである。だが思いきって本当のことを白状すれば(まったく、一度無作法のさくを越えると、あとはもう自制がきかなくなるのである)、彼の書きぶりは何だか退屈に思われる。何をよんでもいつも同じように退屈である。まったく序文や定義や分類や語原の詮索が彼の著作の大部分を占めていて、その生きた精髄ともいうべきものは長々しい虚飾の下に息もたえだえである。わたしは彼を読むのに一時間を費やしても(それすらわたしにとってはかなりの辛抱だが)、そしてそこでどんな栄養を吸収し得たかとあとで思い返してみても、多くの場合ただそこにかぜを見出すばかりである。まったく彼は、彼の問題に役立つだけの論証をも、わたしが求める核心にしっくりあてはまる理由をも、まだ示し得ていないのである。わたしはただ、もっと賢明になりたいだけなのだから、より学者に・より雄弁に・なりたいのではないのだから、ああいう論理学者的な・アリストテレス流の・順序はおよそわたしにはふさわしくない。むしろ結論から始めてもらいたいくらいである。死とは何か快楽とは何かは、もうわかりきっている。いまさらぐずぐず、そんなことの詮議はしてくれるな。わたしは一息に求めているのだ。死や快楽の圧迫に抵抗する道を教えてくれる・本当の・しっかりとした・理由をこそ求めているのだ。そのためには、文法上のややこしい技巧も、言葉と論証との巧妙な組み合せも、何の役にも立ちはしない。わたしは単刀直入一気に疑問の核心をつくような議論が欲しいのだ。彼のは壺の周囲をうろつくだけで終っている。そんなのも学校や弁護士席や説教壇にはよろしい。そういう場所では、我々は居眠りをする暇がある。うとうとと十五分くらいやったって、問題の糸口を再び見つけるのに後れはしない。是が非でも裁判官を言いくるめるには、そういうふうに語る必要があるし、子供たちや俗人どもに対してもそうである。(c)これらの手合にはありたけのことを並べたてて、どれが反応するかをためさねばならない。(a)わたしは人がわたしの注意を引くために手間ひまをかけるのを、またわがお布令役人のように「よっく承れ!」を五十ぺんも繰りかえすのを、欲しない。ローマ人は神を拝する時※(始め二重山括弧、1-1-52)Hoc age.※(終わり二重山括弧、1-1-53)〔心せよ〕といった。(c)我々の宗教では※(始め二重山括弧、1-1-52)Sursum corda.※(終わり二重山括弧、1-1-53)〔汝ら心を清くせよ〕と言う。(a)わたしから見れば、いずれもなくもがなの言葉である。わたしは家を出る時からちゃんとその心がまえでいる。薬味もソースもいらないのである。わたしは肉を生のまんまでちゃんと食べる。あのアペリティフや前菜などは、わたしの食欲をそそらないで反対にげんなりさせてしまう。
* 王の布告を宣布する役人は、四辻に立ってまずラッパを吹いてから、このように※(始め二重山括弧、1-1-52)Or oyez!※(終わり二重山括弧、1-1-53)と叫んだのである。
 (c)このように、あのプラトンの対話をさえ、くどくどしくて余りにもその内容をおしつぶしてしまっていると言ったり、あれほど沢山の立派な事柄を言いうる人物がこんな下らない・前置きばかり長々しい・問答のために時間を空費したのは惜しいことだなどとこぼしたりする、わたしの大胆不敵な放言は、放縦な時代のせいだとしておゆるしいただけるだろうか。いやそれよりも、これはわたしの無知のせいで、わたしには彼の用語の美わしさがまるでわからないからだと申した方が、いっそう大目に見ていただけるであろう。
 わたしは一般に、もろもろの学問を活用した書物を求めているので、それらを創始する書物には用がない。
 (a)一番始めに挙げた二人〔プルタルコスとセネカ〕、それからプリニウス、およびこれらの人々に類する人たちは、決して※(始め二重山括弧、1-1-52)心せよ※(終わり二重山括弧、1-1-53)をやらない。彼らは、自分からそれに気がつくような人々だけを、相手にしようと思っている。たまにそれをやることがあっても、それはなかみのある※(始め二重山括弧、1-1-52)心せよ※(終わり二重山括弧、1-1-53)であって、別にちゃんとした内容をもっている。
 わたしはまた、よくキケロの「書簡」※(始め二重山括弧、1-1-52)アッティクスに与える※(終わり二重山括弧、1-1-53)を読む。彼の時代の歴史や事件に関して広い情報を与えられるからばかりではなく、むしろここに彼のひめたる思想を見出しうるからである。まったくわたしは、ほかでも言ったことがあるように、わが著者たちの霊魂と正直な判断とを切に知りたがっているのである。なるほど彼らの才能の方は、彼らが世間の舞台の上にひろげて見せるその文章の外観によって判断してもよいが、決してそんなもので彼らの心性や人間を判断してはいけない。わたしはブルートゥスが徳について書いた書物が失われたことを幾度となく惜しんだ。まったく、実践にたけた者から理論を学ぶことは心持のよいことである。けれども説教と説教者とは別物なのであるから、わたしはブルートゥスを彼自身の中に見ることもすきだが、プルタルコスの中に見ることはいっそう好きである。わたしは、彼が戦争開始の朝その軍隊の前で述べた演説よりも、むしろその前日天幕の中で親しい友の誰かれと交わした談話の方を、彼が広場や元老院のただ中で語ったことよりも、その書斎や居間で洩らしたことの方を、正確に知りたいのである。
 キケロに関してはわたしは一般の判断に賛成する。まったく学問以外に彼の心の中には別に優れたところはなかったのである。彼は、彼のようにでっぷりした快活な人たちが大抵そうであるように、たしかに天性きわめて善良な市民であったけれども、怠惰なところも大それた虚栄心をも正直のところ多分にもっていた。いや実に、わたしは彼が自分の詩作を公表されるに値すると考えたことについて、どう言って彼のために申訳してやったらよいかを知らないのである。下手な詩を作るということは大きな欠陥ではないけれども、それらの駄作が自分の光輝ある名にどれほど値しないかということを悟らなかったのは、つまり彼に判断が欠けていた証拠なのである。だがその雄弁の方は、絶対に類を絶している。この点では後世彼と肩をならべるものはないであろうと思う。
 小キケロはその名だけしか父に似なかったが、アジアを統治していた頃のこと、或る日、彼のテーブルに見知らぬ人たちが大勢坐っていた。ケスティウスも人々に交ってその末席に坐っていた。えらい人の振舞のテーブルには、よくこんなふうに人々が割り込んだのである。キケロは気がついて、下僕の一人にあれは誰かときいた。下僕はさっそくその名を告げたのだが、彼は何か考えごとでもしているかのように、そしてその答えられた名前をわすれてしまったかのように、その後二たび三たび同じことをききかえした。下僕は幾度も同じことを繰りかえさないですむように、何か特別の事柄と結びつけてわからせてあげようと思いついて、「あれこそ」とその男は言った。「御父君の御雄弁を、自分の弁舌と比較して大して尊びもしなかったという評判のある、あのケスティウスめにございます」。キケロはこれを聞くと急に腹を立て、可哀そうに、このケスティウスを捕えよと命じ、自分の面前でしたたかに鞭うたせた。さりとは場所柄もわきまえぬあるじ殿ではある。
 すべての点を考量した末、なおこのキケロの雄弁を比類ないものと評価した人々の間にも、やはりそこに多少の欠点を挙げるのを忘れなかった者がある。例えば彼の友であった大ブルートゥスも、それは「へなへなの腰のくじけた」雄弁じゃ、と言った。彼よりやや後れて出た雄弁家たちもまた、彼がその章句の終りにあの長い拍子を置くのに意をもちい過ぎたことを非難し、また、彼がそこにしばしば用いた※(始め二重山括弧、1-1-52)esse videatur※(終わり二重山括弧、1-1-53)〔ものの如し〕という語を指摘した。わたしはもっと短い短長格をなす拍子の方がすきだ。けれども彼は、ときに、稀にではあるが、そこにすこぶるあらあらしい韻律を交えている。わたしも次の句を聞いて、成程これは耳ざわりだと思った。※(始め二重山括弧、1-1-52)Ego ver※(グレーブアクセント付きO小文字) me minus diu senem esse mallem, quam esse senem, antequam essem.※(終わり二重山括弧、1-1-53)※(始め二重山括弧、1-1-52)いまだ老年にいたらざるに老いんよりは、老年期のより短かからんこそ望ましけれ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)〕。
 歴史家はわたしにとって右手の球である。彼らは面白くてやさしい。と同時に、(c)わたしが知ろうと努めている人間一般が、そこに他のどんな場所におけるよりも、生々と・完全に・現われている。人間の内面生活の変化と真相とが、総体的にも部分的にも、そこに現われている。人間全体を構成する要素がさまざまであり、それをおびやかす出来事もまたさまざまであることが、そこにあらわれている。(a)ところで伝記を書く人々は、事件よりも意図に、外面に現われる事柄よりも内面より発する事柄の方に、より多くの関心をもっているから、いよいよもってわたしにふさわしい。だから、何ごとにかけてもプルタルコスこそはわが党の士である。ラエルティオス**が十二人ばかりもいないのも、彼がもっと広く知られ・(c)もっとよく了解され・(a)ていないのも、大変悲しい。まったく、これら世界の大教育者たちの運命や生活もまた、種々雑多な彼らの学説思想に劣らず、わたしが興味深く考察するところなのである。
* ポーム(jeu de paume=tennis)の用語である。右手に飛んで来る球は打ちかえしやすい。下手が得意とするところの球である。
** ディオゲネス・ラエルティオス Diog※(グレーブアクセント付きE小文字)ne Laerce. ギリシアの伝記家。その著『有名なる諸哲学者の生涯、学説および思想』のラテン訳は、モンテーニュの愛読書であったらしい。解説批評はなく、たださまざまな挿話的事実を満載した書物で、モンテーニュはしばしばそれらを借用している。
 こういう見地から歴史の研究をするには、あらゆる著者のものを、古人のものであろうと現代人のものであろうと、外国人のだろうとフランス人のだろうと、ひもといて、彼らがさまざまに論じているもろもろの事柄を学ばねばならない。けれども、カエサルこそ特に研究に値するように思う。たんに歴史を識るためばかりでなく彼その人を知るためにも。それほど彼の完全と優秀とは他のすべての人を抜いているのである(すべてというとサルスティウスまでがその中に含まれることになるわけだが)。本当に、わたしはこの著者を読むときには、ただの人間の手になった著作を読むときとはちがった敬意を以て読むのである。或るときは、彼の行為・彼の偉大さのしのばれる奇跡・によって彼自身を考察しながら、或るときは、キケロが言ったようにすべての歴史家にまさっているのみならず・(c)多分(a)そのキケロにさえもまさっていたと思われる・用語の清純にしてなんぴとの模倣をもゆるさぬ完璧に感じながらよむのである。実際敵について語るときでも彼の判断はあんなに正直であったから、彼が自分の悪い動機とよこしまな野心のけがらわしさとを偽りの色で掩いかくそうとしたという唯一点を除けば、彼が自己を語ることに余りに遠慮がちであったと非難するよりほかには、何も文句のつけようはないとわたしは思う。まったく、これほどの偉業は、彼がその著の中に自分で言った以上のことを身をもっておこなったのでなかったならば、とうてい成しとげられはしなかったに違いないのである。
 わたしはきわめて単純な・でなければ真に優秀な・歴史家がすきである。単純な歴史家は、そこに何か自分のものをつけ加えるだけの力がない。ただ丹念克明に自分の耳や目にふれるものを全部拾い上げて、すべてを正直にえり好みせずに書き記すだけであるから、真実の識別に対して少しも我々の判断を拘束しない。例えば善良なるフロワサールが特にそうである。彼はその企てを進めるに当ってきわめて正直素朴であった。何か一つ過ちをおかせばすぐにこれを認め、それと気がつくとすぐその場所で訂正したほどである。そして世上に伝えられるさまざまな流言もそのままに示し、人からきいたいろいろな風聞も洩れなく語っている。これこそ掘り出されたまま少しも手の加えられてない資料であって、各人はそれぞれ自己の悟性に応じてそれを利用することができるのである。一方、真に優秀な歴史家は、知られるに値する事柄を選択するだけの力があるし、二つの風聞のうち、より真実らしい方を選抜するすべを知っているし、君主たちの境遇や性格から彼らの意中を推論して、彼らにいかにもふさわしい言葉を吐かせる。このような歴史家が、断乎として我々の所信を自分のそれに従わせようとするのは当然なことである。だがこのようなことは、まったく誰にもできることではないのである。以上どっちにもはいらぬ歴史家たち(これが一番普通な連中であるが)、これらの人々こそ何もかもめちゃくちゃにしてしまう。彼らは物を噛みくだいてくれたがる。彼らは勝手に断定する。従って歴史を自分の気まぐれに従わせる。まったく、一度判断が或る一方に傾くと、人はどうしても叙述をその方へその方へと曲げずにはいられなくなるのである。彼らは知られるに値する事柄を選ぼうと企てる。そして、それよりももっと我々に教えるところが多いかもしれない或る言葉ある私的な行為などを、しばしばかくしてしまう。自分が理解しない事柄は信じられないこととして省いてしまう。いや、ことによると、或る事柄なんかはうまいラテン語或いはフランス語で言い表わせないからといって省いてしまうのである。もちろん大胆にその雄弁と推理とをならべたててもいいし、自分の思うとおりに断定するのもよい。だが同時に、後に我々が判断するだけの余地を残しておいてほしい。その短縮やその選択によって、資料その物を変更したり、あんばいしたりしないでほしい。いや、それを、もとの寸法どおりにして、そっくりそのまま返してもらいたい。
 最もしばしば、とくに近い諸世紀においては、人はただ、その人がうまく話すかどうかだけを考えて、この歴史を書く人々を俗衆の中から選んでいる。まるでそこに文法でも学ぶ気でいるかのように! だから彼らが(だって彼らはただそのために傭われたのであるから、ただおしゃべりだけが彼らの売りものなのであるから)、専らこの部分にだけ気をつかうのも当然な話である。こうして彼らは、美辞麗句をつらねながら、町々の四辻で拾い上げた風聞でもって、つづれの錦を織りあげてくださるのである。だがよい歴史とは、自ら事件を司令した人々、或いはその司令にあずかった人々、(c)或いは少なくとも運よくそれに似かよった事件を解決したことのある人々、(a)によって書かれたものばかりである。ギリシア及びローマの歴史はほとんどすべてがそうである。まったく、多くの目撃者が同一題材について書いたから(この時代には偉大な人格と該博な学識とが一般に相伴っていたから)、もし誤りがあっても、それはごく軽いものか、とくにはなはだ疑わしい事件だけに限られていた。戦争について語る医者から、また帝王の意向を論ずる貧書生から、人は何を期待することができようか。どれほどローマ人がこの点に関して慎重であったかを示そうと思うならば、ただ次の例をあげればたりる。すなわちアシニウス・ポリオは、カエサルの歴史の中にさえ若干の間違いを見出して、その原因を、「彼も軍のすべての場所に目を配ることができなかったから、しばしば十分に確かめていない事柄を彼に報告する個人個人の言葉を本当にしたから、或いはその留守中に副将軍たちが行った事柄を十分詳しく問いたださなかったから、である」と言っている。人はこの実例によって、いかにこの真実を探索するということがむつかしいものであるかを悟ることができる。実際、裁判所の訊問のように、それぞれの証人をつきあわせ、それぞれの事件の細部に関する双方の抗議も聞いてみる、という方法でもとらない限り、例えば或る戦闘についてこれを自ら指揮した人の知識も信ずることができないし、それに参加した兵士たちの身辺に起った出来事についての彼らの話も信ずることができないことになる。ほんとうに、我々が我々の諸事件についてもっている知識だって、それ以上にあやしいものである。だがこのことは、すでにボダンによって遺憾なく論ぜられているし、その論旨は以上のわたしの考えと同じである。
* ジャン・ボダンの著『歴史上の事実の真否を容易に知る方法』J. Bodini: Methodus ad facilem historiarum cognitionem を指す。
 わたしはいささか自分の記憶の裏切りや不足に備えるために(わたしの忘れっぽいことは非常なもので、数年前に丹念に読んでいろいろ書き入れまでもした書物を、近頃出た・始めてよむ・書物のつもりで再び取り上げることさえ一度ならずあるほどなので)、暫く前から各冊の終りに(これは一度きりしか読もうと思わぬ書物についての話であるが)、これを読み終った年月と、これに関するあらましの判断とを、書き入れるのが癖になった。せめて自分がよみながら見てとった著者の面影とその人の思想の大体とを、後に再び思い出すたよりにしようと思ったからだ。わたしはここにこれらの註記の幾つかを転載しようと思う。
 次のはわたしが十年ばかり前に、わがグイッチャルディーニの中に書き込んだものである(まったくわたしの読む書物がどこの国語で語っていても、わたしはそれらについて自国語で語るのである)。「彼は周到な史伝家である。人は彼から、正確にその時代のもろもろの事件の真相を知ることができると思う。それに多くの場合、彼自らその役者であり、しかもそこに名誉ある役を演じたのである。彼が憎悪や依ひいきや虚栄のために事実を変えたふうは少しもない。それは彼が多くのえらい人々、特に自分を引き立て要職につけてくれた人々、例えば法王クレメンス七世などに与えた自由な判断などによって証せられる。その最も得意とするらしく思われる部分、それは彼の余談と議論とであるが、そこにはなかなかすぐれたもの・また警句にとんだもの・がある。けれども彼はそこにあまりにもりすぎている。まったく何一つ言い落すまいと思ったために、あのとおりこみ入った・広い・ほとんど無限といってよい・主題に向うと、冗漫になり、退屈になり、いささかスコラ学的なおしゃべりを感じさせた。わたしはまたこういうことも感じた。彼はあれほど多くの人々と事実とを判断し、あれほどの行動と意中とを判断したのに、ただの一ぺんもそれらを道徳や宗教や良心に帰したことがなかった。あたかもこれらのものが全然この世から跡を絶っていたかのように。すべての行為について、それ自体がいかに立派に見えても、彼は必ずその原因を何かの不徳な動機・何かの利得・にこじつけた。彼が判断しているこれらの数限りない行為の中に、道理の道に従って生み出されたものが何一つなかったということは、とうてい考えられないことである。どんな腐敗堕落であろうと、その感染から免れた者がただの一人もないというほど普遍的に、人々を把握してしまうなんてことは、とうていありっこない。そう思うと、むしろ彼の嗜好の方に多少不徳の傾きがあったのではあるまいか、それは自分の心で他人を判断したからではなかったか、とちょっと心配になる」。
* イタリアの政治家で歴史家 Franco Guicciardini の Dell’ Historia d’Italia.
 わたしのフィリップ・ド・コミーヌには、こう書き入れてある。「人はここに物柔らかな・心地よい・自然簡素な・言葉づかいと、自己を語るにも虚栄なく他人を語るにも作為や羨望のない・著者の誠実が明白に輝いている・純粋な叙述と、何か結構な才能というよりもむしろ熱意と真実とにともなわれた彼の評論と勧告とを、見出すであろう。またいたるところに、生れのよい・偉大な事件の間に養われた・彼の人となりを示す権威と威厳とを見出すであろう」。
 ムシュ・デュ・ベレの記録には次のような書入れがある。「物事がそれらをいかに指導すべきかを経験した人々によって書かれているのを見ることは常に愉快である。けれどもこの二人の貴族においては、昔の歴史家、すなわち、聖ルイの腹心であったシール・ド・ジョアンヴィルや、シャルルマーニュの大法官エジナールや、さらに記憶に新たなものとしてはフィリップ・ド・コミーヌなどに輝いている、あの率直自由な書き振りが大いに欠けていることは明白であって、とうてい否定することができない。これは歴史というよりはむしろ皇帝カルル五世の非難に対して王フランソワを弁護した本である。わたしは彼らが事実の大筋に関して何か変更を加えているのではないかなどとは考えたくない。しかし事件の判断をしばしば理性に反しても我々に都合がよいように曲げたり、自分たちの主君の生涯におけるいかがわしい事柄はすべてこれを省略したりするようなことは、彼らの常套手段であった。たとえば、ムシュ・ド・モンモランシーやムシュ・ド・ブリオン**が不興を蒙って引退したことなどははぶかれている。それどころかマダム・デスタンプの名前さえ見出されない。かくれた行為は隠したっていい。けれども万人周知の事柄、公然の・そしてあれほど重大な影響を引きおこした・事柄を黙殺しているということは、許しがたいあやまちである。要するに、フランソワ王および当時の諸事件について完全な知識が得たいなら、わたしを信じて、是非ほかの書物に当るがよい。この記録の中にも何か得るところがあるとすれば、それはむしろこれらのジャンティヨム〔紳士〕が自ら参加した戦争あるいは軍功に関する事細かな叙述である。或いは当時の幾人かの王族たちのかくれた言行である。それからランジェ侯によって行われたいろいろな交渉の顛末である。そこには知るに値する事実や凡庸ならざる考察が充満している」。
* m※(アキュートアクセント付きE小文字)moires de Monsieur du Bellay とモンテーニュは書いているが、次の行に「この二人の貴族」とあるとおり、Martin du Bellay と Guillaume du Bellay という兄弟によって書かれた記録のことである。
** 二人ともフランソワ一世の不興をこうむった人。特に後者は、次の行にモンテーニュが名指しているフランソワ一世の愛人マダム・デスタンプの庇護を受けて、やっと命が助かったといわれている。
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第十一章 残酷について



 この章もまたはなはだ愛すべきエッセーである。ドナルド・フレームによれば、一五七八―一五八〇年に近く書かれたものらしく、ここに来るとさすがにモンテーニュは自分の流儀をすっかり手に入れている。まず標題に示された主題からはわざとはずれた問題から始めて、いつのまにか巧みにその主題に接近してゆく。しかもそこにはなんらプランらしいものが感じられない。そしていたる所に自分の回想や経験や判断が、はばかることなく述べられている。
 この章では二つの問題が取り扱われている。一つは徳、もう一つが残酷である。彼の徳に関する考え方はようやく初期のエッセーに見られるストア的なところを失って、ここではよほど人間的なものになっている。カトーの高い徳も、ほめているような顔をしてけなしている。モンテーニュは徳に関してその時々でいろいろに言っているが、彼のほんとうの結論は、この章の最後や、第三巻第十三章「経験について」において見られる。
 とにかくこの章のなかには、モンテーニュの極端な感じ易さ、涙もろさ、そして深い慈悲心がよみとられる。動物ばかりでなく植物に対してまで、彼は同情を寄せる。拷問や死刑に対して我慢がならなかったのも当然である。だがその極刑に対する明白な非難は、当時としては決して尋常普通のことではなかったことを、一言ことわっておきたい。法王庁でさえ拷問や残酷な刑罰を容認していた時代のことゆえ、彼がこれを真向正面から非難したのはほんとうに特筆してよいことなのである。この問題については第二巻第五章、第二巻第二十七章をもあわせてよむべきである。拙著『モンテーニュを語る』一九四頁参照。彼は弱者に対して頗る涙もろかっただけ、それだけ横暴と非道に対して強かったのである。

 (a)どうも徳というものは、我々のうちに生れる善にむかう傾向とは別の物で、それよりもずっと高貴なもののように思われる。おのずから規則にかなう・よく生れついた・人々は、徳ある人々と同じ道をゆき、その行為の中に徳ある人々と同じ姿を示す。けれども徳という言葉には、幸運な素質のために楽に静かに理性に向って導かれてゆくというのよりは、何かしらもっと偉大な・もっと積極的な・響きがある。生来温厚の君子であるために人の侮蔑を何とも感じない人もまた、はなはだ立派なほむべきことをしているのであろうが、恨み骨髄に徹しながら理性を武器としてよく切なる復讐の念を抑える人、大きな煩悶の後についにこれを制御する人こそ、確かに前者にまさるであろう。前者は善行、後者が徳行であろう。前の行為は善と呼ばれ、後の行為が徳とよばれるべきであろう。まったく徳という名称は、必ず困難と抵抗とを前提としているように思われるのである。いや、それは何か相手になるものがなくては行われないように思われるのである。恐らくそういうわけで、我らは神を善良・強大・寛仁・公平とは呼ぶけれども、有徳とは呼ばないのである。つまり、神のはたらきは全く自然で努力を要しないものだからである。哲学者の中には、たんにストア学者ばかりでなくエピクロス学者の中にも、――こうストア学者の方をエピクロス学者より先にあげたのは、かりに一般の意見に従ったまでで、ほんとうは間違っている。(c)或る人がアルケシラオスに向って、「多くの人々は君の学派を去ってエピクロス学派に走ったが、誰もその逆をいったためしがない」と非難したのに対し、「なるほどそのとおりじゃ。しかし雄鶏から去勢鶏きんぬきどりは相当にできるが、去勢鶏から雄鶏は絶対できないぞ」と、当意即妙の返答をしたというのはどういう意味であるにしても。(a)まったく正直のところ、学説規則の堅固厳正に関してもエピクロス派はすこしもストア派に負けはしないのである。いや一人のストア学者は、仲間の論客どもがエピクロスを打ち負かして功を誇ろうとし、わざと彼の言葉を曲解したり、或いは文法の規則を楯にとってことさらに彼の性格や習慣の中にあるのとは違った意味や信念をこじつけたりすることによって、彼エピクロスに彼が全然思ったこともないようなことを言わせている事実を正直に認めた上、こんなことを言ったくらいである。「自分はいろいろ考えた末、彼らの道をあまりにも気高く近づき難く思ったので、エピクロス学者になるのをやめたのである」と。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)まことに快楽を愛する者と言われたる人々は、実は名誉と公平とを愛する者にして、あらゆる徳を愛しまた行う人々なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。――(a)繰り返して言うが、ストア学者の中にもエピクロス学者の中にも、「規則にかない・ひたすら徳を行おうとする・おちついた霊魂を持っただけでは足りない。我々の決意と推理とを運命のあらゆる責苦の上に超然とさせるだけではたりない。進んでそれらをあらゆる機会を求めて試練にあわせなければならない」と判断したものが沢山ある。彼らは進んで悲痛と窮乏と侮蔑とを求め、それらを征服しながら心を鍛練しようとするのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)徳は困難にあいてますます加わる※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(a)これこそ第三派の人であるエパメイノンダスが、きわめて正当な道を経て運命が彼の手の中に授けた富をしりぞけながら(彼の言葉どおり言えば)、貧乏と渡り合おうとした理由の一つであって、彼は事実そのとおり、常に赤貧のうちに身を持したのである。ソクラテスは更に辛い勘忍我慢をしていたと思う。妻の意地わるを、自分の修養の具と見てこれに堪えたのだから。まさしくこれは真剣勝負にひとしい試練である。メテルスは多くのローマの元老の中でただ一人、その徳の力によって、ローマの護民官サトゥルニヌスが暴力で平民のために不正な法を通過させようとするのに、対抗しようと企てた。そしてそのために、サトゥルニヌスがあらかじめ反抗者に対して定めた斬首の刑に処せられた。いよいよその最期にのぞんだとき、彼は自分を広場につれてゆく者どもに向ってこう言った。「悪を行うのは余りに容易でまた卑劣である。少しも危険のない場合に善を行うのは平凡である。けれども危険があろうともかまわずに善を行うのは、それこそ有徳の人のみが行う務めである」と。このメテルスの言葉こそ、わたしが実証しようとするところ、すなわち、「徳はたやすさを伴侶とすることをこばむ」ということ、「天性の良い傾向がその整然たる歩みを進めるあの容易で安楽でなだらかな道は決して真の徳ではない」ということを、甚だ明瞭に我々に教えている。徳は嶮岨な道を求める。或るときはメテルスの徳のように、運命が好んで徳のきびしい行路をはばもうとする外部の困難と戦おうと望み、或るときは我々人間につきものの放埓ほうらつな欲望や不完全がもたらす内部の困難と戦おうと望む。
* 第一巻第二十六章で、モンテーニュは一見これと矛盾する考えを徳についてのべている。すなわち徳の実践は徹頭徹尾愉快でなければならないと言った。しかし、アルマンゴー Armaingaud によれば、これは、モンテーニュの師とするエピクロスその人においてと同じことなのであって、必ずしもモンテーニュの矛盾ではなく、前後を通じてモンテーニュは常にエピクロスの弟子として語っているのだという。モンテーニュ自らエピクロス説をここに述べているように解釈していることは、確かに注目すべきであろう。なお索引「徳」の項をも参照せられたい。
 わたしはここまできわめて楽々と書いてきた。だがここまで論じて来たら、ふとこんな考えが胸に浮んだ。「ソクラテスの霊魂はわたしの知っている限りにおいて最も完全なものであるが、この筆法でゆくと結局大して推称するほどのこともない霊魂になってしまうのではあるまいか」と。まったくわたしはこの人物のうちに、不徳な欲念のいかなる暗躍をも思い見ることができないのである。彼の徳の跡を見ると、わたしはそこにいかなる邪魔も拘束もあったとは想像できない。わたしは彼の理性があまりにも強力であって、不徳な欲望にはただ生れ出ることをさえ許さなかったのを知っている。彼の徳のようなああいう高い徳に対しては、わたしは何ものをも対抗させることができない。わたしには彼の徳が勝ち誇った歩調で、堂々と、悠揚迫らず、何らの障害にも遇わずに濶歩するさまが、目に見えるように思われる。もし徳が反対の欲望を克服することによって始めて輝くのだとすれば、「それは不徳の助力を欠いてはありえないのだ。それが尊ばれ重んぜられるのは不徳のおかげなのだ」ということになるのか。そうだとすると、あの高尚なエピクロス的快楽なるものはどうなるか。それは徳をその膝の上であんなに甘やかしているではないか。恥辱・熱病・貧窮・死・拷問を玩具として与えながら、徳をそこで遊ばせているではないか。もしわたしが、完全な徳は悲痛と戦いよくこれに堪えるところにあり、心の平衡を失わずに痛風の苦しみに堪えるところにあるとするならば、もしわたしが、艱難辛苦を徳のために必須のものとするならば、あの苦痛をたんに蔑視するだけでなくこれを楽しみ、強い疝痛をもくすぐったいと感ずるほどの高度に達した徳は、いったいどうなるのか。エピクロス学派の人たちが確立した徳は、実際そのようなものであったではないか。彼らの間の多くのものは、自らの行為によって明瞭にそれを証拠立てたではないか。またその他の沢山の人々が彼らの学説の教えるところを実際において凌駕したのを、わたしは見た。例えば小カトーがそれである。わたしは彼がそのはらわたを引きちぎって死ぬのを見るとき、ただ彼の霊魂がその時まったく混乱や恐怖から免れていたと信ずるだけでは、満足ができない。彼はストア学派の規則が命ずる態度の中に、ただ泰然として動ずる色なく自己を持しただけだとは、信ずることができない。どうもこの人の徳の中には、それだけにとどまるにはあまりに多くの快活と元気とがあったように思う。わたしは確信する。彼はこのような高貴な行為の中に快楽喜悦を感じていたのだということを。彼はその時、彼の一生の他のいずれの時よりも愉快そうであったということを。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)彼は死すべき理由を見出しえたることを喜びてこの世を去れり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)わたしは深くこのことを信ずるが故に、彼があのように立派な勲功をたてる機会が自分からうばわれることを、果して欲したかどうかを疑わしく思う。だから、彼が自らの幸福よりも公衆の幸福の方を愛する善意の人であったという事実がわたしを制止しないならば、わたしは容易に、「彼は、運命が彼の徳をあのような貴い試練にあわせたことを、あの兇盗カエサルに幸いして彼に祖国古来の自由を蹂躪じゅうりんさせたことを、よろこんだ」という説に引込まれるであろう。彼の行為を見ると、彼の霊魂の中には何かしらわたしにはわからない喜びがあったように思われる。自分の企ての高貴さを考えて、彼は或る特別非常の快楽と男らしい歓喜とに興奮していたように思われる。

(b)彼は自ら死をえらびていよいよ誇り高かりき。
(ホラティウス)

(a)或る人たちが俗な女々しい考えで判断したように、決して光栄の希望みたいなものに刺激されていたのではなかったのである。まったくそんな考えは、あのように高潔で気高くまた強い心を動かすにはあまりにも下賤である。むしろ、ことそれ自体の中にある美しさに、刺激されていたのである。彼はことの動機をちゃんとつかんでいたから(これは我々にはできないことだが)、ことそのことを、我々には及ばないほど明らかに、残すところなく、見ぬいていたのである。
 (c)哲学は次のように判断してわたしを喜ばせた。「あのように立派な行為も、カトー以外のものの生涯に宿ったなら、さぞ不似合なことであったろう。ただ彼の生涯に宿りえて始めてああいう立派な終りをとげたのである」と。だから、彼がその息子に向っても、また彼に伴った元老たちに向っても、お前たちは別様に振舞えと命じたのは正しかった。※(始め二重山括弧、1-1-52)カトーは自然より容易に信じがたき気魄をけたる上に、これを不断の努力により鍛練しつつ、常にその所信を堅持したり。暴君を仰がんよりはむしろ死を選びたるもまたむべなりと言うべし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 死は常にその人の生と同様でなければならない。我々は死に臨むも別人にはならない。わたしはいつも死を生によって解釈する。そして人が強そうに見える死を物語っても、それが弱い生に関連していれば、わたしはそれを弱い・その生に似合った・原因から生れたものと思う。
 (a)カトーがこのように悠然として死んだこと、彼がその霊魂の力によってこんなにも平気でいられたことは、果して彼の徳の輝きを幾分なりとも暗くするであろうか。いや、ほんの少しでもその頭脳を真の哲学の色に染めたことのある者なら、どうしてあのソクラテスが、牢に入れられたり、鉄鎖につながれたり、死刑の宣告をうけたりした事件において、ただ恐怖と興奮とから放たれていただけだと想像することで満足ができようか。どうして彼においてはただ剛毅我慢があったばかりでなく(そんなことは彼には日常普通のことであった)、その上になお、何かしら新たな満足と笑みあふれる喜びとが彼の最後の言行の中にあったことを認めないでいられようか。(c)彼は鉄鎖がはずされるとその脚をなでて喜びにうち震えたというが、そこにもまた、今こそ過去の苦難を脱していよいよ未来の事柄を知ることができるのだという心中の喜びがあらわれてはいないだろうか。(a)カトーよ、ゆるしてくれ。御身の死は、より悲愴なより緊張したものであった。けれどもソクラテスの死には、なぜかはしらないが、より美しいものがある。
 (c)アリスティッポスは、この人の死を嘆いたものどもに向って、「むしろわたしはこのような死を与えられたい!」と言った。
 (a)人はこの二人の人物およびその模倣者たち(まったく今の二人のような人物は空前絶後であろう。あとはつまり二人の模倣者にすぎないのだ)の霊魂の中には、徳に対するきわめて完全な習慣があって、徳がまったく彼らの性格素質になりきっている。それはもう苦労な徳でもなければ理性の命令でもない。それをまもるのに霊魂は緊張するまでもないのである。それは彼らの霊魂の本質そのものであり、その自然普通の歩みである。彼らは豊かで立派な天性を与えられた上に、哲学の掟を長い間実行することによって、霊魂をあのようになしえたのである。そこには我々の心の中に起る不徳の情念などが入りこむすきがない。彼らの霊魂の強い力は、邪念が頭をもたげようとするより早く、それをおさえつけてしまうのである。
 さて気高い神々しい決心によって誘惑の発生を妨げること、つね日頃徳を養っておいて不徳の芽の萌え出ることさえ許さないことは、すでに発生してしまった不徳の生長を懸命におしとどめること、すでに一ぺん情欲の興奮に身をまかせてから、あわててその進行を妨げその勢いを克服しようと防ぎ戦うことよりも、遙かに立派である。またこの第二の行いだって、単に順良な・生れつき放蕩や不徳がきらいな・天性をいだいていることに較べたら、それは遙かに立派なことであって、それはわたしが少しも疑わないところである。まったくこの第三の・最後にあげた・ゆき方は、人を無罪にはするが有徳にはしない。人に悪行を免れさせはするが善行をさせるにはたりない。それにこういう性分は不完全や弱体に頗る近いもので、わたしはいかに両方の境界を識別したらよいか知らないのである。だから「いい人」とか「罪のない人」とか呼ぶだけでも、或る程度侮蔑を含んだ呼び方になる。わたしは純潔・質素・節制というようないろいろな徳が、肉体的無力からも生じうることを知っている。危険の前に平気でいること(果してこれを勇気といえるかどうか知らないが)、死を無視すること、不運に対する我慢は、そのような出来事を正しく判断することができず、それらをそのあるがままに理解しえないことからも、来ることがある。否そういう場合の方が多いのである。理解の不足と暗愚とは、時にそういうふうに徳行の偽造をする。実際わたしは、人がその咎められて然るべき点について、かえってほめられているところをしばしば見たことがある。イタリアの或る殿様は、或るときわたしの前で、ご自分の国をくさしてこんなことを言われた。「われわれイタリア人の抜け目がなくのみ込みのよいことは非常なもので、その身にふりかかろうとする危険を逸早く予見するから、しばしばわれわれが戦争において、まだ危険とはきまらないうちから早くも己れの安全を策することがあるのを見ても、決して不思議に思ってはいけない。貴国人やスペイン人はわれわれほど明敏でないから、とかく先へ先へと出すぎる。危険が目の前にせまり、手がこれにふれなければ、いっかな恐れない。そしていよいよとなれば、やっぱりわれわれ同様度を失う。ところがドイツ人やスイス人となると諸君よりもいっそう粗野無知であって、容易なことでは気がつかない。したたかに打ちのめされて始めてはっと気がつくくらいのものである」と。これは恐らくただの冗談にすぎなかったろう。けれども戦争という商売では、駈け出しの小僧ほどしばしば危険に身を投ずるというのが、本当のところであって、一ぺんひどい目にあって、そこで始めて無分別ができなくなるのである。

(b)知らずや。初陣の功名にあこがるる心が、
いかに無分別なる業をなしとぐるかを。
(ウェルギリウス)

(a)だから、或る一個の行為を判断する時には、どうしてもいろいろな事情と共にその行為を産み出したその人全体を考えなければならない。それから後に始めてその徳不徳をきめるべきである。
 一言わたし自身についていうならば、(b)ときどきわたしの友人たちは、わたしが何気なくしたことをわたしの慎重さであるかのように言ったり、わたしの思慮判断のせいであることを勇気忍耐のせいであるとしたり、よく見当ちがいの肩書をかぶせては、わたしに得をさせたり損をさせたりして御座るが、要するに、(a)わたしは徳行が習慣的になされるというあの第一の・完全な・段階に達するには、どうしてまだなかなかなのであって、その二段目にさえ達したあかしもまずないのである。わたしは自分に迫るいろいろな欲望を抑えようと骨を折ったためしがない。わたしの徳はいわば偶発的な偶然の徳であって、徳というよりはむしろ無邪気なのである。生れつきもっと奔放な性質であったなら、わたしはもっと哀れな仕儀と相成ったのではあるまいか。まったくわたしは、情欲がいくら勢いのよわい場合でも、それを押えつけようなどと心の中で抵抗を試みたことはほとんどないのである。わたしは自分のはらの中に喧嘩だの葛藤だのを飼っておくことができない。だからわたしは沢山の不徳を持たずにいるけれども、少しもわたし自らに向って有難うをいうことはできないのである。

わが体には小さき難点なきにあらねど、
おおむね美しく整いたるがごとく、
わが天性もまた、おおむね清廉にして、
ただささやかなる欠点を僅かに持つのみなれど、
(ホラティウス)

わたしはそれを、わたしの理性によりもむしろわたしの運命に負うている。運命はわたしを、廉潔のきこえ高い家系から、きわめて善良な父から、生れさせた。だが、果して父の性格が幾らかわたしのうちに流れ込んだのであるか、或いは一家の人々の模範やわたしが少年時代に受けたよい教育が、知らず知らずの間にわたしをそのように作り上げたのであるか、それともまた、別の理由からわたしがこのように生れついたのか、

(b)天秤宮てんびんきゅうか、恐ろしき天蝎宮てんかつきゅうか、はた
ヘスペリアの海に君臨する磨羯宮まかつきゅうか、
わが生るるときわれを支配したるは
(ホラティウス)

(a)わたしは知らないが、ともかく、不徳の大部分を、わたしは先天的におそれきらっている。(c)アンティステネスが最良の修業はと聞かれて、「おぼえたる悪を忘れよ」と言った答も、やはり同じ考え方から来ているように思われる。(a)再びいうが、わたしは大部分の不徳を、持ち前の・生れつきの・信念をもっておそれきらっているのである。だからこそ、わたしは乳飲児時代から不徳についていだいている本能や印象を今に至るまで失わないので、その後のいかなる機会もついにそれらを変えることができなかったのである。いやわたしの理屈さえ、それを変えることはできなかった。わたしの理屈は何かにつけてとかく常道からそれる奴だから、わたしを駆って、この自然の傾向がわたしに憎ませる行為をも、させようとすればさせることもできたであろうに。
* いかなる星の下にうまれたかによって、人間の一生の運命がわかると当時の人々は考えていた。星占い、天宮占(domification)が一つの学問として成立したわけである。勿論モンテーニュはそんなものを信じていなかったが、当時の一般はそれを信じていたのである。後出六六二頁註***参照。
 (b)いかにも奇怪な言辞を弄するようであるが、とにかくこのような次第で、いろいろな事柄にかけてわたしは、わたしの思想におけるよりも、わたしの品行の方に、より多くの規律を見出す。わたしの欲望の方がかえってわたしの理性ほどには放埓でないのである。
 (c)アリスティッポスは快楽と富を擁護するはなはだ大胆な説をたてたために、哲学はこぞって彼に反対した。だが彼の行状はどうかと見ると、暴君ディオニュシオスが三人の美しい娘をつれて来て選択をせよといったとき、「わたしは三人とも皆ほしい。パリスは中から一人を選んで失敗した」と答え、一ぺんは女どもを皆自分の宿に連れかえったが、そのまま一指も触れずに送りかえした。彼の下僕が沢山の銀貨を背負ってさも重たそうについて来るのを見ると、「そんなに重ければあけて捨ててしまいなさい」と命じたこともある。
* トロヤ王プリアモスの第二子、ユノーとミネルウァとウェヌスの三女神の中で、ウェヌスを美しいと言ったがために、それがトロヤ戦争の発端となった。
 またエピクロスも、その教義こそ不敬でも柔弱でもあったが、日常の生活は甚だ敬虔勤勉なものであった。彼はその友に向って、「自分は黒パンと水ばかりを用いているが、ときどき御馳走が食べたくなるから、少しばかりチーズを送ってくれないか」と書いている。「ほんとうに善良であるためには、規則や理性や模範にしばられない・隠れた・自然の・普遍的な・特質によって善良でなければならない」というのが真実ではなかろうか。
 (a)わたしがはまりこんでいる放埓は、有難いことに最も悪質のものではない。わたしはそれらを、それぞれの軽重に従って、自分でちゃんと処罰した。まったくわたしの判断は、それらのために決して腐らされてはいないのである。むしろそれは、他人の放埓よりもわたしの放埓の方をより厳しく責め立てるのである。だが、それでおしまい。まったくわたしは、結局放埓に対して大した抵抗もせず、おとなしく天秤の傾くがままに身を委せるのである。ただ僅かに放埓を調整し他の不徳がそこにまじるのを妨げるだけなのである。実際、うっかりするとさまざまの不徳は、互いに支え合いつながり合って増長する。わたしは自分のいろいろな不徳をそれぞれ切り離して、それらをできるだけ独りぽっちに孤立させた。

   (b)われは
わが罪をそれ以上に深くせざりき。
(ユウェナリス)

(a)まったく、ストア学者の所説を見ると、「賢者は行うときには、そのすべての徳を挙げて行う。ただその行為の性質によって、或る一つの徳が最も著しく現われるだけである」と言っている(この説に対しては、人間の肉体もそれとよく似ているということが、或る程度役に立つかもしれない。たとえば、怒りという行為にしても、すべての体液がこれを助長しなければ行われない。唯怒りが中で一番優勢だというにすぎない)。だがもしそのことから、「罪人が一つの罪を犯すときは、そのすべての不徳によってするのである」という同様の結論をも彼らが引出そうとするなら、わたしはそう単純には彼らの言うところを受け入れない。いや彼らの言うところをわたしは理解できないのである。実際にはその反対を感じているから。(c)それはきわどい詭弁であって本質をはずれている。哲学はよくこんな詭弁にひっかかる。
* 古代の医家ヒポクラテスの説によると、人間の体内には四種の液が流れている。血液、黒胆液、粘液、胆液がそれである。人間の気質は、右四種の液のいずれが多くあるかによって、多血質、気鬱質、粘液質、胆汁質というふうにわかれる。そしてすべての感情は、以上四液のさまざまな混合の間から生れるという。
 わたしはいくつかの不徳についてゆく。けれどもそれ以外のいろいろな不徳は、聖者がなされるようにそれらを避ける。
 逍遙学派の人たちもまた、この〔ストア学者のいう〕不徳の間の解くことのできない連繋を否定している。アリストテレスも、「賢明公正な人でも放埓で無節制であることがある」と言っている。
 (a)ソクラテスは自分の人相の上に或る不徳への傾向を認めた人々に向って、「なるほどそれこそわたしの生れつきの傾向なのであるが、わたしは訓練によってそれを矯正したのだ」と言った。
 (c)また哲学者スティルポンの親友たちは常にこう言っていた。「スティルポンの奴は生れつき酒と女が好きであったが、修業のすえどっちもよく我慢するようになった」と。
 (a)わたしはわたしの良いところを、ソクラテスとは反対に、わが生れつきの運に負っている。わたしはそれを、規則や教訓やその他の修業によって得たのではない。(b)わたしのうちにある無罪は天賦のものである。そこには努力もほとんどないし、技巧もまったくない。(a)わたしはもろもろの不徳の中で、最もはげしく残酷を憎む。性分によっても判断によっても、これこそたくさんの不徳のうちの最たるものとしてこれをにくむ。だがそれは、柔弱といってもよいくらいだ。わたしは雄鶏をくびるのを見ても不快を感じないではいられないし、兎がわたしの犬の牙の間でうめくのを聞いても我慢ができない。狩猟というものはもともと強烈な快楽なのではあるけれども。
* 狩猟は古来王侯貴族の趣味娯楽の第一位におされるもので、モンテーニュも貴族の片割れであるし、体も強壮であったから、若い時分はよく狩に出かけたらしく、後年アンリ・ド・ナヴァールがモンテーニュの邸に一泊したときも、接待の意味もあったろうが、翌日所領の森林に特に鹿を放って、ナヴァール王と共に狩をした。しかし、元来感情のこまやかな人であったから、そのうちにここに述べられているような経験をして、今言ったような交際上の必要でもない限り、無益な殺生はしなくなったらしい。まったく惻隠憐憫の情をゆたかにもったモンテーニュには、この狩猟という趣味は「強烈な快楽」にすぎたのである。恐らく海軍士官ピエール・ロチが「私の最後の狩猟」にのべているような感懐をもったのではないかと想像される。
 肉欲と戦わねばならない人たちは好んで次のような理由をあげ、それが甚だ不徳で理性にもとるものであることを示そうとする。すなわち、「肉欲が最もその力をたくましくするときは、我々はまったくそれにおさえられてしまって、理性はその足元にも近寄ることができない」といって、我々が婦人に接するときの経験を例にとる。その際には、

肉体が早くも快感にかられて、
ウェヌスまさに女の畠に種子をかんとする時、
(ルクレティウス)

快楽が我々を我々の外に遠くひっさらってゆき、肉欲の中に溶けしなびた我々の理性はとうていその役目を果すことができないかのように、思われるからである。わたしは、それとはちがった場合もありうることを知っている。人がもし欲するならば、その瞬間においてさえ霊魂を別の考えに向けることも、ときにはできるのを知っている。けれどもそうするには、よほど周到な注意をもって霊魂を緊張させなければならないのである。またわたしは、この快楽の威力を制御することができるのも知っている。(c)現にわたしにも十分そのおぼえがある。だからわたしは、ウェヌスを、わたしよりも純潔な多くの人々が証言するほどに、仮借なき女神であるとは少しも思わなかった。(a)或る人が永く求めていた情人とゆっくり水入らずで幾晩も過しながら、ただ接吻と単なる触れ合いだけで満足しようと言うかねての約束を守り通したという話を、わたしも、ナヴァールの女王があの『エプタメロン』(これはこの種の書物の中では面白いものである)の物語の一つにおいて言っておられるように、決して奇跡だとも至難の業だとも思わないのである。我慢がむつかしい例としては、むしろ狩猟の方が、かえって適切である(快味こそとても及ばないが、恍惚感や意表をつく喜びはかえって狩猟の方に多くある)と思うし、長い捜索の末、突然獲物が我々の少しも予期しない場所に現われ出るときなどには、我々の理性は周章狼狽して、とっさに用意をしたり緊張したりする余裕など全くなくしてしまう。この不意の衝撃とわっという叫喚とは、実につよく我々の心を打つから、この種の狩猟を愛する者にとっては、そういう瞬間に考えをよそにむけることは甚だむつかしい。だから詩人たちは、ディアナをクピドーの炬火や矢に勝たしたのだ。

誰かこの楽しみの中に
恋の憂き思いを忘れざる?
(ホラティウス)

 さてまたわたしの話に立ち戻れば、わたしは他人の悲しみに対して甚だ涙もろく、じきに貰い泣きをしてしまうが、そうかといってどんな理由ででも泣くというわけではない。(c)涙くらいわたしの涙を誘うものはない。真実の涙だけではない。どんな涙でも、いつわりの涙でも絵にかかれた涙でも、わたしの涙をさそう。(a)死者の方はあんまり可哀そうに思わない。むしろうらやましくなる。けれども死にかけている人を見ていると可哀そうでたまらない。野蛮人が死者の体を焼いて食べることは何とも思わないが、生きている人間を拷問苛責する人たちを見るとむっとする。刑の執行でさえ、いかにそれが当然であろうと、わたしは眼をすえてそれを見ることができない。或る人はユリウス・カエサルの寛仁を証拠立てるにあたって、こう言っている。「彼は復讐するときも寛大であった。かつて自分を捕えて身代金をしぼり取った海賊どもを、うむを言わさず降参させた時、かねて十字架にかけるぞと彼らをおどしてあったので、そのとおり十字架にかけはしたが、それは彼らの首をしめさせてから後であった。秘書フィロモンは彼を毒害しようとしたが、彼はこの者を罰するのにも、ただ単なる死を与える以上の酷刑を科さなかった」と。このように自分に仇した者どもをただの死によって罰したことを、寛仁の一つの証拠として敢えてあげているそのラテンの歴史家**とはいったい誰か。それはわざと言わずにおくが、その人が当時ローマの暴君たちの用い慣わしていた厭うべくまた恐ろしい残酷の実例に、深く心を打たれていたということは容易に想像できるのである。
* モンテーニュが時々もらす、一見冷淡な利己主義者らしく見える片言隻語を、これらの句は訂正して余りがある。この章にはいたるところに、モンテーニュの物に感じやすい性向がうかがい見られる。
** 『カエサル伝』の著者スエトニウス。
 わたしにとっては、いくら司直の手によって行われるにしても、単純な死以上のものはすべてただの残酷としか思われない。人々の霊魂を良き状態において天に送ろうと務めねばならない我々キリスト教徒にとっては、特にそう思われる。こういうお務めは、堪えがたい責苦によって霊魂をかき乱したりしたら、とうてい果せないのである**
* 単純な死 la mort simple というのは特別の責苦を加えず、一思いに殺す死刑のことを言うらしく、第二巻第二十七章「臆病は残酷の母」という章にも同じ語句、同じ思想が見られる。八二四頁参照。
** このパラグラフは、一五八一年にローマ庁から削除を命ぜられたが、その後の版でいっこうに削除されていない。アルマンゴーはこれをもモンテーニュの確信と大胆との証拠の一つとしている。
 (c)先頃、捕虜になった或る兵士が、その閉じこめられていた塔の上から、前の広場に大工たちが大勢やって来て足場を組み始め、人々もまた追々に集まって来るのを見て、てっきりこれは自分が処刑されるのだと考え、絶望の極、ほかに自殺する道具もないので、ふと見つけ出した荷車のさびた古釘を取り上げ、これで咽笛のあたりを二突き思いきって突いたが、それでも自分の命が小ゆるぎもしないのを見て、さらにまたその腹を一突きし、気を失ってその場に倒れた。それをちょうど見回りに来た獄卒が発見し、彼を正気にかえらせた。そしてこときれる前にというので、その場で「斬首の事」という彼の宣告をよみきかせた。男はこれを聞くと大いに喜び、始めには飲まないと頑張った葡萄酒を飲んだ。そして裁判官に向って、刑の思いがけなく寛大なのを感謝し、「自分が自殺を決意したのはなにかもっとむごい・もっと苦しい・刑にあいはしないかと恐れたからで、広場の準備を見ていよいよこわくなり……もっと堪えがたい刑をこうして免れようとしたのである」と語った。
* ここの箇所、ボルドー本では余白の最下端に当り、製本師の截断によって読めなくなっている。グルネ嬢の一五九五年版はこの挿話を完全に補綴しているが、その代りこのパラグラフは全体にわたってボルドー本のテキストと大分異なったものになっている。それで欠字のままにしておいた。
 (a)わたしは、これらの峻厳な見せしめも、結局は人民にその義務を守らせるためなのであろうから、それはむしろ罪人の死屍の上に行うように勧めたい。まったく、それらの死体が墓場を与えられずに、煮られたり八つ裂きにされたりするのを見ることは、生身に与えられる責苦とほとんど同様に、凡俗の者どもにとってはつらく思われるであろう。だがそれは、当人にとっては殆ど、いやまったく、何でもないのだ。(c)それは神様がおっしゃるとおりなのだ。※(始め二重山括弧、1-1-52)肉体を殺してその後に何をもなしえざる者どもを恐るることなかれ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(「ルカによる福音書」十二の四)とあるとおりなのだ。ただ詩人たちは、それをいやに恐ろしげに描いている。描写の方が死その物よりもずっと恐ろしい。

おお、半ば焼かれし王の屍は白骨もあらわに、
黒き血にまみれつつ、泥土の中を曳かれ行けり。
(キケロ)

 (a)わたしは或る日ローマで、泥坊として隠れもないカテナをこれから処刑しようというところにゆきあわせた。役人が彼の首を締めても、見物人は一向平気であった。ところがいよいよその死屍を八つ裂きにするだんになって、刑吏がこれに一太刀斬りつけると、たちまちに哀号と叫喚とがむらがり起った。恐らく人々は、自分自身の感覚をこの死肉の上に移したのであろう
* このパラグラフは勿論モンテーニュがイタリア旅行から帰って後に出た一五八二年版に始めて読まれるもので、白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」にはこの日の光景が詳細に述べられている。一五八一年一月十一日の項参照。
 (b)このようにむごたらしい極刑はぬけがらの上に加えるべきもので、決してなま身に加えるべきものではないのである。だからほぼ同様の場合に、アルタクセルクセスはペルシアの古い法律の苛酷なのを緩和し、諸侯が職務上の過ちをおかしても、これをそれまでのようにむちうたしめず、ただその衣服を剥ぎとって、それを身代りとして鞭うつように命じたのである。またその髪の毛を抜かしめず、ただその高帽を剥ぎとるように命じたのである。
 (c)エジプト人は甚だ信心深い人民だが、造りものの・または絵にかいた・豚を犠牲とすれば、それで十分神慮を和らげうるものと考えていた。あれほど現実的な実体であるところの神様を、絵だの雛型だのでごまかそうとは、なんという大それた思いつきだろう。
 (a)今わたしは、わが国の宗教戦争が産み出した乱脈のおかげで、この〔残酷という〕不徳の信じがたい実例が充ち満てる時期に生きている。我々が毎日経験しつつあるものほど極端なものは、古代の歴史の中にもなかなか見つからないのである。けれどもこのことは、わたしを少しも残酷に慣らしはしなかった。それをほんとうに眼のあたり見るまでは、ただ人殺しの快楽のために人殺しをしようとするほどの、ばけもののような人間が居ようとはほとんど信ずることができなかった。恨みもなければ得もいかないのに、ただ苦悶しつつ死んでゆく人たちの哀れな身振りや涙声やうめき声を面白がって見物したいばかりに、他人の手足を切りこまざいたり、前代未聞の拷問法や新式の人殺し法を案出するためにその知恵をぐ人間があろうなどとは思わなかった。まったくそれこそ、残酷の及びうる極端である。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)憤怒のためにもあらず、恐怖のためにもあらで、ただ人の死ぬるを見る喜びのために人を殺す人ありとは※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
* アンボワズの謀叛むほんがあらわれて捕えられた人が処刑されている絵だの、アンヌ・デュ・ブールがパリの市庁の前で火刑にあう絵だのを見ると、建物の窓には面白そうに眺めている見物人が一杯で、中には婦人の姿さえ見える。また当時の歴史家ド・トゥ De Thou の書いている所によれば、聖バルテルミー祭の殺戮の後、新教徒の頭目コリニーの死体はひどい目にあわされたというし、この時に捕縛されたブリックモーとかカヴァーニュとかいう人たちが市庁前で処刑された時は、太后カトリーヌ・ド・メディシスやシャルル九世は窓のカーテンをすかしてその恐ろしい光景を眺めていたとか、特にナヴァール王にそれを見よとしきりにすすめたとか、いうことである。そういう人たちをモンテーニュはここで「ばけもののような霊魂」les ※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)mes monstrueuses と言ったのである。それらの人々は monstres というよりほかに形容の仕方がなかったのであろう。
 (a)わたしなどは、抵抗する力もなければ・すこしも我々に危害を加えることのない・無邪気な生き物を追いかけたり殺したりするのを見るだけでも、不快でたまらなかった。鹿は息が切れ力つきて、もうどうにもならなくなると、追い迫る我々の前にひれ伏して、目に涙をためて助命をこうことがよくあるが、

(b)血にまみれし彼は、悲しき声をしぼりて、
さながらに助命を乞うもののごとくなり。
(ウェルギリウス)

(a)それはいつも、わたしには不快で見るにたえない光景と思われた。
 (b)わたしは、たまに生き物を捕えることがあっても必ず後で放してやる。ピュタゴラスは猟師や鳥刺しから生き物を買いとってはこれを放してやった。

(a)鋼鉄が始めて色どられしは、
まことに動物の血によりてなりき。
(オウィディウス)

 生れつき生き物の血を見ることの好きな人々は、生れつき残酷な性質であることを証明している。
 (b)ローマでは皆が動物の殺戮を見物するのに慣れてしまうと、こんどは人々および剣士の血を見てよろこぶようになった。自然はもしかすると、自然みずから、人間に何か残忍非道な本能を賦与しているのではあるまいか。一人として生きものがじゃれたわむれるのを見てよろこぶものはない。誰ひとり彼らが噛みあい引裂きあうのを見てよろこばない者はない。
 (a)わたしの生き物に対するこの同情をばかにしないでほしい。神学までが彼等に対して若干の好意を注ぐようにと我々に命じている。実際、同一の主人が人間をも動物をもひとしく自分の臣下として同じこの宮殿のうちに宿らせたことや、動物もまた我々と同じく彼の家族の一員であることを考えるならば、神学が動物に対する多少の尊重と愛情とを我々に命じているのは当然なことである。ピュタゴラスはエジプト人から輪廻りんねの説を借りたのであるが、この説はその後多くの国民に信ぜられた。特に我がドルイドたちに採用された。
* 古代ゴール(ガリア)人の神官。

霊魂は決して死ぬことなし。ただ、
常に古き宿りを捨てて新しきに移る。
(オウィディウス)

我々の祖先ガリア人の宗教は、「霊魂は永遠であって絶えずうごめいており、一つの体から他の体へと移る」と説いたばかりでなく、この考えの上にさらに神の公正という観念をまじえていた。まったく彼らの言うところによると、神は霊魂が何のなにがしのもとにあった間どんなふうであったかにより、或いはもっと苦しい・或いはそれほどでない・つまり前の状態にふさわしい・別の体にいって宿れ、と命ずるのである。

(b)神は諸霊を、物いわざる動物の体内に入れる。
むごき霊は熊の中に、盗人の霊は狼の中に、詐欺の霊は狐の中に。
かくして、長年の間、さまざまな形を取らせたる後、
それらを忘却の河の中に入れて清め、
ついに再びこれを人間の形にかえす。
(クラウディアヌス)

(a)もしそれが勇猛であったならば獅子の体内に、みだらであったならば豚の体内に、臆病であったならば鹿または兎の体内に、意地悪であったならば狐の体内に、宿らせたのである。そんなふうにしてしまいに霊魂は、この刑罰によって清められ再び誰か別の人間の形を取るにいたるのである。

われ自ら思いおこす。かつてトロヤの戦いの時、
自らがパントゥスの子エウフォルボスなりしことを。
(オウィディウス)

 こういう我々と動物との間の因縁を、わたしは余り重視しない。また多くの国民、特に最も古く最も高尚であった国民が、ただに動物をその伴侶としただけでなく、これに不相応な高位を与え、或るときはこれを彼らの神々が寵愛するものと考えて人間以上に尊敬し、また或る国民になると、それらの動物以外には神も神性も認めなかったが、わたしはそれも本気にしない。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)野蛮人は動物よりもろもろの利益を引き出すが故にこれを神とあがむるなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。

(b)ある所にてはわにをあがめ、
ある所にては蛇を喰いて肥えたるイビス鳥を拝む。
ここには、祭壇の上に、大いなる尾をたれし猿の黄金像あり、
またかしこにては、人魚を祭る。
或いはまた、犬が市民礼拝の的となれるところあり。
(ユウェナリス)

(a)いやプルタルコスがこの誤謬に対して与えている解釈こそ、すこぶる当を得ているばかりでなく彼ら動物にとってはいよいよ名誉である。まったく彼が言うとおり、エジプト人が崇拝したのは猫とか牛とか(例えば)ではなかったので、これらの動物を通じて神力の何かの象徴をあがめたのである。牛においては忍耐と有益とを、猫においては敏捷を、(c)でなければ我々の隣人ブルゴーニュ人やドイツ全土の人々のように、そのとうてい閉じこめられてはいない性分を、すなわち自由を、(a)あがめたのである((c)彼らはこの自由を数ある神力のどれよりも愛しあがめたのである)。(a)その他みな大体こんなふうに説明されるのである。けれども最も穏健な諸説の間に、我々と動物との密接な類似を示し、或いはまた、どの程度まで動物が我々の最も大きな特権をわかちもっているか・いかに彼らを我々に較べることがもっともであるか・を示そうと努めている論説に出あうと、わたしはほんとうに我々の自惚うぬぼれの多くを引っこめる。そしていさぎよく、他の被造物の上に我々がひとりほしいままにするあの空想の王権を御辞退する
* モンテーニュは人間を万物の霊長とは考えない。人間をすべての動物と同列において考える。これは彼の思想の中心をなすもので、次の章で改めて雄大に論ぜられる。すなわちモンテーニュはこの章の終りで、あらかじめ次の章の準備をしているように見える。
 かりにこういう解釈はすべて間違っているにしても、そこには我々を単に生命と感情とを有する動物に対してばかりでなく、非情の草木に対しても結びつける或る種の敬意と、またそういう人間一般の持つべき義務とが、こもっている。我々は人間どうしお互いに正義でなければならない。また慈愛と慈悲とを、それらを受けることができる他の被造物たちに対して注がなければならない。彼らと我々との間にはいくらかの交渉がある。したがってお互いに多少の義務がある。(c)わたしは言うことをはばからない。わたしには生れつき頗る子供じみた情のもろさがあって、どんなに都合のわるい時でも、自分の犬からこびを呈せられたり愛撫を求められたりすると、どうにもそれを拒むことができないということを。(b)トルコ人は動物のための養育院や病院を持っている。(a)ローマ人は公の費用で鵞鳥を養っていたが、それはこの鳥の警戒によって彼らの「カピトール」が救われたからである。アテナイ人はその「ヘカトンペドン」と呼ぶ寺院の建立のために働いた騾馬を解放、いたるところ邪魔をせずに草を食べることが出来るように命じた。
* カピトールすなわちカピトリウム。ローマ七丘の一つ。その上にユピテルとユノーの神殿があった。ゴール人がローマに侵入した時、この神殿にささげられていた鵞鳥が啼いたために、敵の来襲がいち早くローマ人に知られ、ローマは無事にまもられた。
 (c)アグリゲントゥムの民は、そのかわいがっていた動物を厳かに埋葬するのを一般の習わしとした。何か稀な手柄をたてた馬、役にたった畜犬や家禽は勿論のこと、ただその子供たちを遊ばせただけの小鳥や犬までもねんごろに葬った。彼らは他の何事においても常に壮麗を好んだが、以上の目的のために建てられた墓もまたすこぶる豪華で多数あり、数世紀を経た今日に至るまで厳然として残っている。
 エジプト人は狼や熊やわにや犬や猫が死ぬと、彼らを神聖な場所に葬り、その遺骸に香をたき、しかも彼らのために喪に服した。
 (a)キモンは、オリュンピア競技において三度も自分に桂冠を得させてくれた牝馬たちのために、荘厳な墓をたてた。大クサンティッポスは、その犬を或る海岸のつき出たところに埋めた。それは今でも「犬の墓岬」と呼ばれている。それからプルタルコスは、長いこと自分の用に立った牛をわずかの利得のために人手にわたし、それが屠殺所につれてゆかれるところを見て、いささか気が咎めたと自ら言っている。
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第十二章 レーモン・スボン弁護



 この章は『随想録』中最大の雄篇で、初版『随想録』においてはその四分の一を、一五八八年版においてはその六分の一を占めている。それは一息に書きあげられたものではなく、いろいろな時期に書かれた幾多の断片が或る時期に、多分ナヴァール王妃マルグリット・ド・ヴァロワが王太后カトリーヌに伴われてネラックの朝廷に帰って来た一五七八年頃に――年表および後出六五八頁註参照――集大成せられたのではないかと言われている。その重要な断片は、いずれも初期のエッセー(一五七二年のエッセー)の傾向をとどめていない。それにその最も重要な部分、すなわちセクストゥス・エンピリクス Sextus Empiricus の影響下に最もはっきりしたピュロン説を述べている部分は、彼が有名な銅牌を鋳させたという一五七六年(本章六二三頁参照)に書かれたに違いなかろう。すなわち、この年より以前に書かれたらしい部分もなくはないがそれは僅かで、この章の大部分は一五七七年前後に書かれたものであろうということになる。
 さて、レーモン・スボン Raymond Sebon(d)〔また Sabiende, Sabieude, Sebeyde, Sibiude などとも書かれている〕については、あまり詳しくは知られていない。その生年月日もわからないし、多分バルセロナ生れということも確かではなかろうし、スペイン人であったということも確証があるわけではない。ただトゥールーズで医学及び神学を講じ、一四三六年四月二十九日にその地で死んだことだけは確かである。一四三四年から三六年にかけて『被造物ないし自然の書』Liber creaturarum, seu Naturae と題して三三〇章を書いたのを、後に人が『自然神学、別名もろもろの被造物の書』Theologia naturalis, sive Liber creaturarum と名づけ、一四八七年オランダでこれを公刊した。この書がおよそどのような書物であるか、どうしてモンテーニュがこの書の弁護を試みることになったか。それはこの章の冒頭の頁でもほぼ想像せられるところであるが、なお巻末の年表、わたくしの『モンテーニュとその時代』第三部第三章B三二一―三四〇頁をも併せ見られたい。とにかくこの雄大な一章の中にはモンテーニュの哲学、彼の宗教思想、彼の政治上の態度などを解釈する上の、重大な鍵がひそんでいるように思われる。
 第一に、この章は果して純然たる神学論であろうか。それは「レーモン・スボン弁護」と名づけられているが、果してただこの神学者の神学説を弁護するだけのものであろうか。彼はここにむしろスボンの説とは別の、彼独特の思想を述べているのではあるまいか。スボンは人間をもろもろの存在の最上位におき、万物はただ人間に奉仕するために存するかのように考えているが、モンテーニュは人間を自然界における他のすべての禽獣草木と同等の位に引きさげている。スボンは信仰を理性の上に押し立てようとするが、モンテーニュの方は人間の理性を否定する。少なくとも形而上の問題にかけてはこれを絶対に頼むべからざるものとし、理知の世界と信仰の世界との間に一線を劃する。要するに、後に言う(後出六五八頁)ように、一五七八年にナヴァール王妃から、彼女の信仰をネラックにおけるプロテスタント側神学者たちからまもるように頼まれたのは事実であるが、またその故にこの章は王妃に献呈されているのであるが、しかしモンテーニュの真意は、どうもカトリックという一宗派を守っているようには思われない。むしろ新旧両教徒間の高遠な神学論をいわば雲の上からひきおろして、良識ある一般人の手中に委ね、カトリック教のうそと、プロテスタンチスムのうそとを、こもごも一般人にわからせようとしたのではないか。神学説はいずれも推量にすぎず、いずれも真理ではない。『随想録』の他の部分においてもそうであるが、特にこの章の中には、そっくりそのまま受けとりえないモンテーニュの告白がたくさん含まれている。
 またモンテーニュはこの章のなかに懐疑論者の言説を盛んに引用しているので、従来彼はしばしばピュロンの徒と見なされたが、その懐疑主義はむしろ科学的な「方法としての疑い」であって、いわゆるピュロン説ではない。有名な※(始め二重山括弧、1-1-52)わたしは何を知るか?※(終わり二重山括弧、1-1-53)という彼の標語も、かえって政治上宗教上において両派の中間に絶対に公平中正であろうとする彼の積極的な努力の、基礎ないし出発点と見るべきであろう。それは決してニヒリスチックな懐疑論の標語ではなく、むしろ彼の積極的な信念の表出である。いわば彼は、これを契機として消極より積極へ、思索より行動へと、転向したのである。このきわめて謙遜な標語の上に、旧来のスコラ学に代る近代的科学主義をおしたてるとともに、カトリシスムをもプロテスタンチスムをも越えた一種の自然教をうちたてたのである。モンテーニュがここに言う神 Dieu は、中国人のいわゆる天、ないし天命の思想に通じ、それは「運命」の同意語となっている。またその「自然」は、老子の「道」、浄土教の「自然法爾」と同じように解される。唯、この一章だけによってモンテーニュの宗教を規定すべきではない。事実彼は、モラルの上では以後ますます人間性の本然に徹して良心の自治に向おうとするし、やがて政治上では穏健中正な自由主義を力強く実践するに至る。そういう意味でこの章は、モンテーニュの根本思想を把握するために、特に精読を要する重要な章である。モンテーニュ自らもこの章を最も重視しているように見える。だからそれは『随想録』全三巻の中央におかれているのだ。
 まったく『随想録』全三巻を一応通読した者がもう一度改めてこの一章をよみ返して見ると、まずこの章以後には何一つ新規の問題は提出されなかったこと、そしてこの章において最も真剣にまた最も用心ぶかく説きすすめられている「死」「習慣」「自然」「宗教」「学問」等々の諸問題は、いずれも皆すでにこの章以前に一度はふれられたものばかりであることに気がつくのである。そう考えると、一見何らの秩序もなく束ねられたように見える全部で一〇七篇に及ぶ大小さまざまのエッセーの配置には、並々ならぬ著者の考慮が払われていることがわかる。この当時としてはいずれもすこぶるデリケートな諸問題が、陰影の多い・含みのある・用心深い文章で、きわめて巧妙に論じられているこの章の底意を掴むには、第一第二両巻においては「習慣のこと及びみだりに現行の法規をかえてはならないこと」「自惚れについて」「幸不幸の味わいは大部分我々がそれについて持つ考え方の如何によること」「真偽の判断を我々人間の知恵にゆだねるのはとんでもないこと」「祈りについて」「信仰の自由について」の諸章を、第三巻では「後悔について」「ウェルギリウスの詩句について」「馬車について」「人相について」「経験について」などの章を、あわせて読むことが必要である。特にここで注意しておきたいのは、モンテーニュの懐疑思想は決してセクスツス・エンピリクスに依って初めて誘発されたのではなく、ずっと古くから、パリ遊学時代にヴィコメルカルトの講義に接したころから、抱かれていたものだということである。拙著『モンテーニュとその時代』第二部第三章二〇九頁、第四部第五章四四二―四四四頁参照。それから前出一の五十六「祈りについて」の章は、当時盛名を馳せていたロンサールの影響を多分に受けているということである。ピエール・ミシェルは、ロンサールの宗教上の態度とモンテーニュのそれとが一致することをあげ、この二人において、信仰 foi と理性 raison との分離が、同様に截然としない点を指摘している。
 なおパスカルの『パンセ』がこの一章に負うところが頗る多いことをも、忘れてはなるまい。サント・ブーヴもエミール・ファゲも、「パンセの中でバイブルから来たのでないものはすべてモンテーニュから来ている」と言ったことは、最もよくこの間の事情を伝えている。けれどもパスカルは結局――有名な『ムシュ・ド・サシとの対話』においてはさすがによくモンテーニュの人物を見抜いてはいるが、――この章の真意を十分に理解したとは言えない。パスカルは彼を本当の懐疑論者と解したのであるが、そうでないことは先に述べたとおりである。この章の興味は、少なくとも今日の日本人にとっては、これがキリスト教の弁護論としてよりも、むしろ寛容と社会の平和とひろい人類愛との提唱として、読みとられる点にあると思う。
 この章は全体が唯一つの大きなブロックをなしていて、著者はそこに何らの区分も設けていない。けれども、幾分なりとも読者の理解を容易にするために、全体を幾つかに分割して、一章の構造を示そうという試みは、近世の諸学者によってすでに幾度かなされている。Cf. P. Villey: ※(アキュートアクセント付きE小文字)d. des Essais. t. ※(ローマ数字2、1-13-22) (1922), p.146; ―― G. Lanson: les Essais de Montaigne, ※(アキュートアクセント付きE小文字)tude et analyse (1930), p.130; ―― J. Plattard: Montaigne et son temps (1933), p.188; ―― H. Janssen: Montaigne fid※(アキュートアクセント付きE小文字)iste(1930), fin du volume. 訳者は、ポルトー P. Porteau がプラッタールにならってその単行の「レーモン・スボン弁護」のテキストに施した分節を踏襲した。ただ、モンテーニュ自らがそうしたトランジションを改行によってすら示さなかったというのは、単なる偶然とも無頓着とも思われないので、訳者もなるたけ目立たないように、単に行間に間隙を設けるだけにとどめ、別に註の中に各部に対する簡単な仮題を示した。

 (a)まことに学問は、甚だ有用で偉大な性能である。これを軽蔑する者どもはおのれの愚かさを証して余りがある。だがしかし、わたしは或る人たちのように、ああ極端に学識の価値を重んじてはいないのである。たとえば哲学者ヘリルスなどは、そこに至上の善が宿っているとし、そこに我々を賢明幸福にする力があると信じているが、それほどまでにわたしは信じていないのである。また或る人たちは、「学問はもろもろの徳の母であり、不徳はすべて無学の所産である」というが、そうもわたしは信じていないのである。たといそれが真実であるとしても、それには長い説明をつけなければならない。わたしの家は長いこと学者たちに向って開かれていた。そして彼らによく知られていた。まったく父は、この家を五十年以上にわたって治めたが、国王フランソワ一世が新たな熱意をもって文学を愛好し、これを尊重されたのに刺激されて、大きな心づかいと費用とをもちいて博学な人々との交わりを求めた。まるで彼らを何か特別に神の知恵でも受けて来た聖者のように迎え、彼らの格言や論説をまるで託宣のように拝承した。いや、彼らを判断する力がなかっただけに、その態度は敬虔きわまりないものであった。まったく彼は、彼の祖先と同じく、少しも文学の知識を持たなかったのである。わたしはどうかというと、勿論彼らを愛してはいるけれど、あがめてはいない。
* 『モンテーニュとその時代』第二部第一章一二三頁参照。
 それらの学者の一人ピエール・ビュネルは、当時博学の聞えすこぶる高かった人で、数日のあいだ他の学者たちと共に父の家に足をとめたが、出発にのぞんで、『レーモン・ド・スボン先生著、自然神学、別名もろもろの被造物の書』と題する一冊の本を父に贈った。イタリア語とスペイン語とは父にとって親しみのあるものであったし、この書物はラテン風の語尾を交えたスペイン語で書かれているので、父がほんの僅かな助けを借りればこれから利益を受けることができると思い、これこそ今日のような時節には最も有用適切な書物であるといって、これを父にすすめたのである。というのは、当時はちょうどルターの新説がようやく信用を得、方々でわが古来の信仰をゆるがし始めた折であったからだ。ビュネルはこの問題に関して甚だ正しい意見を持っていた。彼はこういう病のきざしがやがて容易に憎むべき無神論にかわるであろうことを、理性のはたらきによってちゃんと見抜いていた。まったく俗人どもは、物事をそれ自体によって判断する能力をもたないから、そしてとかく運と外観とに引きずられがちだから、一たび自分たちがそれまで絶大の尊敬をもっていだいていた意見を、たとえば自己の救いに関する意見などを、蔑視したり検閲したりする大胆をゆるされると、また一たび彼らの宗教の何かの箇条が疑われだし秤にかけられるようになると、忽ちにその信仰の他のすべての部分までも、もろともに、やすやすと、同じ不確実の中に投げ入れてしまうのだ。つまりそれらの部分までが、ゆり動かされた部分と同様に、彼らの心の中で何の権威も根拠も持たなくなるのである。そして、それまで法の権威ないし旧慣の尊敬によって認めていたあらゆる通念を、まるで暴君のかせかなにかのようにかなぐり捨ててしまう。

(b)人はかつて余りにも恐れたるものを、
さも忌々しげに踏みにじる。
(ルクレティウス)

(a)もうこれからは、自分の判断をさしはさみ・その特別の承認を与えた・ものでなければ何一つ受けいれまいと決心して。
* レーモン・スボンは自らその序文の中で、この章は学問の素養のない人も容易に理解できることを詳説している。『モンテーニュとその時代』第三部第三章B.三二一頁以下参照。
 さて、父は死ぬ数日前、ふと、ごたごたと積み重ねられた他の書類の下からこの書物を見つけ出し、わたしに向ってそれをフランス語に移しかえるように命じられた。このような著者のものを翻訳することは容易である。まず内容だけを表現すればよいからである。けれども言葉の優麗に力をそそいでいる著者のものは、これを訳そうと企てるのは、(c)特により力弱い国語に訳そうとするのは、(a)危険である。それはわたしにとって、全く思いもよらない珍しい仕事であった。けれども幸いその時はひまであったし、この類いなくやさしい父の命令に逆らうことはとうていできなかったから、わたしは力をつくしてなんとかそれをやりとげた。父は非常に喜んだ。そしてその印行を命じた。これは彼の死後に実行せられた
* モンテーニュがここに自分の『自然神学』の翻訳について述べていることは、彼の訳書の巻頭にかかげられている父に宛てた献呈文の内容と一致しているけれども、到底すなおにそのまま信ずるわけにゆかない。この『自然神学』は、その分量から言ってもそう短時間で訳了されるわけはないし、モンテーニュは父からこの書を示されるまでもなく、一五六五年以前からこの書の存在に注意を払っていたと信ぜられる根拠が、本章そのものの中にすらかくれている(次の頁のトゥルネブスに関する記述を見よ)。モンテーニュ訳『自然神学』は印刷の日付一五六八年十二月三十日として、一五六九年早々にパリの書店から出版されたというのが事実である。現在はアルマンゴーの『モンテーニュ全集』の中におさめられている。
 わたしはこの著者の思想を立派だと思った。その本の構成にはちゃんと筋道がとおっているし、その意図には敬虔な心情が満ちみちていると思った。多くの人々が熱心にこれを読んでおられるから、わけても御婦人方が御熱心だから(われわれは御婦人方には特に奉仕せねばならないから)、わたしはしばしば彼女たちの味方になって、その愛読の書物から、世間がこれにあびせる二つの主な抗議を取り除いてさしあげないではいられなかった。著者の目的は大胆で勇敢である。まったく彼は、人間的および自然的のいろいろな理由によって、キリスト教のすべての箇条を、無神論者に対して確立し証明しようと企てているのである。この事に関しては、正直のところ、わたしは彼をなかなか堅固でまたすこぶる上手であると思う。わたしはこの種の論証において、彼以上によくすることが可能であるとは考えない。実際、彼と肩をならべられるものは一人もなかったと信ずる。この著作は、その名がほとんど知られていない著者の手になったものとしてはあまりにも豊富・あまりにも立派・に思われるので(我々がこの著者について知るところは、ただ彼が約二百年前にトゥールーズにおいて医学を講じていた一スペイン人であるということだけなので)、わたしはかつて、何でもよく知っているあのアドリアヌス・トゥルネブスに、この本をどう考えられるかと尋ねて見た。彼が答えて言われるには、「これは聖トマス・アクイナスより抜かれた若干の精髄ではないかと思う。というのもじっさい、無限の博識と嘆賞すべき綿密さとに満ちたこのトマスのような人でなければ、とてもこれほどの思想を産むことはできまいから」と。それはともかく、誰がその原著者創始者であるにしても(実際もっと大きな理由がないかぎりスボンからこの本の著者という肩書を奪うのは不当である)、とにかくスボンは、たくさんの立派な特質を兼ねそなえた・きわめて有能な・人物であった。
* Adrien Turn※(グレーブアクセント付きE小文字)be, または Tournebeuf, ラテンふうには Turnebus と書かれる。当時のユマニスト。この人は一五六五年に死んでいるから、モンテーニュが『自然神学』を知ったのはそれ以前であることがわかる。前出一の二十五註参照。
 世の人が彼の著作についてする第一の非難は、「キリスト教徒が人間的理由によってその信仰を支持しようとするのはかえって損である。信仰はただ信心と聖寵に基づく特殊の霊感とによってのみいだかれるべきだ」ということである。この抗議の中にはいくぶん信心の熱意が含まれているように見える。だから我々は、それだけより多くの優しさと敬いとをもって、この抗議を提出する人々にお答えすべく努めなければならない。そういう役目は、誰か神学に通じておられるお方にこそ、よりふさわしかろう。その知識の全くない自分などのするべきことではあるまい。
* フランソワ・ド・フォワ=カンダルのこと。後出六六〇頁註参照。
 だがわたしはこう判断している。「かくも神々しくかくも崇高な・そしてかくも遙かに人間の英知を凌駕りょうがする・事柄、例えば、やさしい神様が何とか我々にわからせてやりたいとお思いになっているあの真理のようなものは、これを心に思いいだきこれを我々の内に宿すことができるためには、是非とも神様がその特別な御寵愛をもって我々をお助け下さらねばならない」と。そして、ただ単に人間的な方便だけでは、到底そのような事柄を成就するにはたらないと信じている。いや、もし人間的方便にそれができるものなら、古代の稀な・優秀な・そしてあれほどに天与の力をゆたかに恵まれていた・人々は、その推理によってこの知識に到達することが十分できたはずである。我々の宗旨の高い神秘を熱烈に・確実に・抱きしめられるのは、ただ信仰だけなのである。とはいえそれは、「神様が我々にお与えになった自然的人間的道具を我々の信仰のために用いるのは甚だほむべき企てである」ということを否定するものでは決してない。むしろそれこそ、我々がそれらの道具に与えうる最も尊い役目なのであり、また、あらゆる研究と思考とを用いてその信仰の真理を美しく広く大きくしようとすることくらい、キリスト教徒にとってふさわしい業も企てもないということを、決して疑ってはならないのだ。我々は精神と霊魂とをもって神に仕えるだけでは足りない。さらに肉体的尊敬をも捧げなくてはならないのだ。我々は手足や身振りやその他の品物までも用いて、神を尊ぶ。それと同じにしなければならない。つまり我々の信仰に、我々のうちにあるすべての理性を伴わしめなければならない。ただいつも、「信仰は人間が作ったものだ」とか・「人間の努力や推理はこのように超自然的な神的な学問にまでも達することができる」とか・考えないだけの慎みを忘れてはならない、ということなのだ。
 もしこの学問が不可思議な滲透によって我々のうちにしみ入るのでなければ、またもし、それが我々の理性によってのみではなくもろもろの人間的方便によってもそこにしみ入るものだとすれば、それは我々のもとであれほどの品位と光輝とをもちはしない。まったく、だからこそわたしは、我々がこの学問を、ただそういう経路によってのみ享有することを恐れるのである。もし我々が熱き信仰の仲介によって神につながれるならば、もし我々が神に、我々によってではなく彼によって、つながれるならば、もし我々が神的な根拠根底を持つならば、もろもろの人間界の出来事はあのように我々をゆり動かす力を持ちはしないだろう。我々のとりでは、そんな弱い砲撃に降参するようなことはあるまい。革新を好く心や、王侯の圧迫や、一党一派の繁昌や、世論のむちゃくちゃな気まぐれな変化などは、我々の信仰をゆるがし変える力をもたないであろう。我々は自分の信仰を、新しい論拠論説の思うがままに攪乱させてはおかないだろう。いかなる美辞麗句の説得にも負かされはしないだろう。我々はこれらの波を、不屈な堅い決心をもってふせぎ支えるであろう。

あたかも大いなるいわおが、うち当る波を踏まえ、
四方より寄せ来る波を蹴散らすがごとく。
(ウェルギリウス)

 もしこの神の光がいくらかでも我々にとどいていれば、それは我々のいたる所に輝き出るであろう。たんに我々の言葉のみならず我々の行為もまた、その輝きを帯びるであろう。我々から発するすべてのものは、この高貴な光明に照り映えて見られるであろう。我々は次のことを恥じねばなるまい。人間的諸学派においては、その学説がいかに困難奇妙なことを主張していても、いやしくもそれにくみするほどの者は、その行動と生活とを何らかの形においてそれにかなわせないことはないのに、ひとりキリスト教徒だけが、あのように神々しい天よりの教えを奉じながら、僅かにその言葉によってのみ、それと知られるに過ぎないということを。
 (b)その証拠が御覧になりたいか。それなら我々の行状をマホメット教徒や異教徒のそれにくらべてみられるがよい。あなたがたは依然としてつねに下位にある。我々の宗旨の優れていることを考えれば、我々こそ、大きな較べることのできない距離へだたりをもって、いと高きところに輝いていなければならないのに。いや、こう言われるようでなければなるまい。「彼らはそんなに正しく・そんなにやさしく・そんなに善良であるか。では、彼らはキリスト教徒である」と。(c)その他の外観は、いずれもすべての宗教に共通している。希望も信頼も奇跡も儀式も悔悟も殉教も。我々の真理の特徴は、もっぱら我々の徳でなければなるまい。それこそ最も天上的な最も得難い特徴であるとともに、また真理の最もふさわしい所産なのだ。(b)だから、あのキリスト教徒となったタタール王が、リヨンに来て法王のおみ足に接吻し、彼がかねて我々の行状のなかに見出そうと望んでいた神聖をそこに眼のあたり見ようと企てた際、わが善王聖ルイは、かえって我々のおごった生活がせっかくの聖なる信仰にいや気をおこさせるようなことがあってはならないと、極力彼に思いとまらせようとなされたが、それは誠にごもっともなことであった。もっともその後、ほかの者には全く正反対の事態が生じたこともある。その人は、同じ目的のためにローマに赴き、そこに当時の僧俗の堕落を見ると、かえって我々の宗旨を信ずることがいよいよ深くなった。それはどうしてかというと、我々の宗旨がそのような腐敗の中にあり、そのような不徳な者の手の中に握られていながら、なおかつその品位と光輝とを保っているのは、よほど多くの神性と力とを持っているからにちがいないと、その人が考えたからであった。
 (a)※(始め二重山括弧、1-1-52)もし我らに芥種子からしだねほどの信仰だにあらば、よく山を移しえん※(終わり二重山括弧、1-1-53)と聖句はいう。我々の諸行為も、もし神に導かれ伴われるならば、単に人間的でのみはなくなるだろう。それらは我々の信仰のように、何かしら奇跡的なものを持つであろう。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)徳と幸福とを学び知る最も近き路は信仰なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クインティリアヌス)。
 或る人々は、自ら信じてもいないことを、信じているかのように人々に思いこませる。もう一方の人々は、この方がいっそう多数であるが、信とは何かさえ本当にはわかってもいないくせに、信じているように自分自身に思いこませている。
 (a)また我々は、目下わが国を圧迫しつつある戦乱において、敵味方の勝ち負けが、一般普通の戦争におけると同じように定めなく変動するのを見て不思議がっているが、それは我々が、そこに我々のもの以外には何ものをも持ってゆかないからである。両派の一方における正義は、そこにお飾り・口実・としてあるにすぎない。なるほどそれはよくそこに引合に出されてはいるが、決してそこに容れられても・宿っても・合体しても・いないのである。それはそこに、代言人の舌端にあるようにはあっても、訴人そにんの心底にあるようにはないのである。神様はその特別の援助を、信仰と宗教とにはお貸し下さらねばならないが、我々の情欲にお貸しになる義理は少しもない。そこでは人間の方が指導者になって宗教をこき使っているのだ。むしろその正反対でなければなるまいに。
 (c)よく注意してみ給え。我々は宗教を、われわれの手で引きずり回しているのではあるまいか。ちょうど蝋で形を取るときのように、あんなに真っすぐで固い型の中から、あんなに多くの正反対の形を引出しているのではあるまいか。いったいいつ、このようなことが、今日のフランスにおけるよりもなお顕著に見られたことがあったか。宗教を右にとる者も左にとる者も、それを黒いという者も白いという者も、いずれも判でおしたように、その激しい野心にみちた企てのために宗教を利用している。そこに、過激で不正な点であんなにも似通ったゆき方で、行動している。それを見ると、我々は、我々の生活の指導と法則とのりどころとなるべき事柄に関して、彼らの説くところが著しくちがうことを、なんとも不思議な信じ難いことと思わないではいられない。同じ学校同じ訓練からだとしても、どうしてこれほどまでに一様な行状が生れ出ることがありえようか。
 見たまえ。いかに恐ろしい厚かましさをもって、我々は宗教上の諸理由を手玉にとっているか。いかに不敬不遜に、運命があの国家の暴風の中に我々の立場を変えるたびごとに、それらを捨てたり拾ったりしたか。想い出したまえ。あの「臣民は、宗教擁護のためにその君主に背き、これと戦うことをゆるされるや否や」という重大問題が、つい去年のこと、そもいかなる人々の口によって肯定されて一つの宗派の支壁となったか、また否定されていかなる一派の支壁となったか。また耳をすまして聞いてみたまえ。今はいったいどちらの側から肯定の声否定の叫びがあがっているか。また武器がそのいずれの説のためにいっそう音高く鳴っているか。また我々は、真理にも我々の必要のかせを負わせねばならないと説く人々を、焼き殺している。いやフランスは、そう説くことよりもさらに悪いことを、どんなに多く行っているか!
* カトリック教徒は、従来理由の何たるを問わず、正当な国王に背くことは不当だとして、プロテスタントをおさえて来た。ところが一五八九年にアンリ三世が殺されて、プロテスタント出のアンリ・ド・ナヴァールが王位継承者として認められると、俄然変説してこの新しい王(アンリ四世)を殺そうとした。
 (a)本当のところを白状しよう。われらの軍隊の中から(王様の正規の中正な軍隊の中からでもいい)、先ずただひたすらに宗教を愛する熱意からこれに加わったものをえり出し、次に、ただ国法の擁護あるいは君侯への忠勤だけを目指して勤めているものをえらび出して見たまえ。唯それだけではとうてい一小隊を作りあげるにもたりないであろう。我国の内戦において同じ意志同じ歩調を守ったものがあんなにも少ないのは何のせいか。彼らが或るときは並足でゆくかと思うと或るときは駈足で飛ばすのは何のせいか。また同じ人物が、或るときはその激烈により、或るときはその冷淡と優柔とによって、事態を悪化させているのは何のせいか。これは、彼らがめいめいの・その時々の・考え方に引きまわされ、その変化に従って動揺するからでなくて何であろう。
 (c)わたしにははっきりとわかる。我々は信心のために、ただ我々の情欲をそそる勤行だけしか捧げようとはしていない。まったくわれわれキリスト教徒の敵愾心てきがいしんくらいすばらしいものはない。我々の熱心は、我々が怨恨・残忍・野心・吝嗇りんしょく・悪口・謀反むほんに向う傾向を助長するときにはめざましい働きをするが、好意・親切・節度に向っては、ある稀な気質がいわば奇跡的に我々の熱心をそこに導かない限り、天翔あまがけることはおろか歩むことすらしないのである。
 我々の宗教は、もろもろの不徳を根絶させるためにつくられた。ところが、かえってそれらをかばい・養い・あおっている。
 (a)決して(よく言われるように)神様に籾殻もみがらを供えてはいけない。もし我々がほんとうに神様を信じているならば、深い信仰からではなく単純素朴な信心によってでも神様を信じているならば(いや、こんなことを言うのは省みて大いに恥ずかしいことであるが)、もしもわが善男善女の一人のように、何かの物語を信ずるようにでも神様を信じかつ知っているならば、我々は神様を、彼のうちに輝く限りない善と美とのために、他の何物にも増して愛するであろう。少なくともそれは我々の愛情の中で、富や快楽や栄誉やわが友人たちと同じ列を占めているであろう。
* これは諺である。実の入った米穀の代りに籾殻を供えて神様をごまかしてはいけない、という意味である。
 (c)我々のうちの最も善良な者は、その隣人・その親・その主人・に礼を欠くまいとひたすら恐れるくせに、神に対して不敬を働くことを一向に恐れない。いくら何でも、一方に我々の不徳な快楽の一つを想いながら、他方には同じような認識と信念の中に不朽の光栄を思いいだいて、前者を後者と交換するほど浅はかな心の者がいるだろうか。ところが我々は、しばしば純粋な侮蔑をもって後者をすてる。まったく、別にどんな好みが我々を涜神につれてゆくだろうか。たぶん冒涜の好みそのもの以外にはないであろう。
 哲学者アンティステネスはオルフェウスの秘義を授けられるとき、僧が彼に、「この宗旨に身を捧げるものは、死後において永遠無比の楽しみを受けるに違いない」と言うと、「ではなぜあなた自ら死なないのか」と言った。
 ディオゲネスは、例によってもっとぶっきらぼうに(もっともそれは我々の問題からははずれるが)、やはり同じように自分の宗派に帰依きえして後の世の安楽を得よと彼に向って説教した僧にむかって、こう答えた。「では、『アゲシラオスもエパメイノンダスも、あれほどの偉人であったが不幸におちいるであろう。そして牛馬同然のお前は、ただ僧であるという理由だけで幸福を受けるであろう』と信じなければならんというのかね」と。
 (a)永遠の幸福に関するこれらの大きな約束を、我々がもし哲学的論証と同じように権威あるものとして受けいれることができるなら、我々は死をこのように恐れはしないだろう。

(b)その時人は、もはや己れの身の分解を嘆かざるべし。
 むしろ喜びてこの世を去り、その死骸を残すべし。
 あたかも蛇その皮をぬぎ、鹿その古き角を捨つるがごとく。
(ルクレティウス)

 (a)むしろ我々はこういうであろう。「早くこの身が分解されてイエス・キリストの許に参りたいものだ」と。霊魂不滅に関するプラトンの論説の力は、その弟子の幾人かを死にまで押して行った。彼らは師から与えられた希望を一日も早く実現したかったのである。
 すべてこうしたことは、我々が我々の宗教をただ自分流に解釈し、ただ我々の手によってのみ受けいれていることの、はなはだ明らかな証拠である。いや、これでは他の諸宗教の受けいれられ方と、少しも違うところがないのである。我々はキリスト教の行われている国に生れあわせた。そして或いはその古さを、或いはこれを説く人の権威を、重んじる。或いはこの宗教の不信者に与える脅威を恐れ、或いはその約束につき従う。なるほどこれらの考察も我々の信仰に用いらるべきではあるが、あくまでそれは補助的なものでなければならない。そんなものは人間的な繋りにすぎない。これでは他の地方に生れ他の証人に接したら、我々は同じ約束と威嚇とによって、同じように反対の信仰を刻みつけられることであろう。
 (b)我々はペリゴール人ないしドイツ人であると同じ資格でキリスト教徒なのである
* モンテーニュはあんなに敬虔な口調で語り出したけれども、霊魂の不滅とか来世の至福とかに関する教えが、哲学の論証のように万人の承服するところとはなり難いこと、その証拠には天国にあこがれて自殺をする坊さんは出て来ないばかりか、それを罪悪と説くような始末で、彼らの所説はけっきょく人間がでっち上げた仮説にすぎないと考える。そしてキリスト教徒とかマホメット教徒とかいうのは、フランス人、アラビア人というのと大してかわりはないのだと言う。「坊主どもは嘘をついている。それを真にうけるのはおめでたすぎる」と、モンテーニュはひそかに言おうとしている。ここにふと書きこまれた(b)の一行は、ちらりとそういうモンテーニュの真意を(宗教とはひっきょうこうしたものだということを)洩らしているのではないか。
 (a)それからプラトンは、「いかに頑固な無神論者といえども、切迫した危険にあいながら神の威力を認めさせられなかったものはほとんどない」と言ったが、そんなのはいくら沢山いたって、真のキリスト教徒とは何のかかわりもない。人間的な誘いによって与えられるのは、この世きりの人間的な宗教のことである。卑怯ないくじのない心が我々のうちに植えつける信仰なんて、一体どんな信仰なのだろう。(c)その信条を、ただこれを信じないと言うだけの勇気がないから信ずるなんて、おかしな信仰だ! (a)臆病とか狼狽とかいうような不徳な感情が、果して我々の霊魂の中に、何か整ったものを産み出すことができるだろうか。
 (c)「彼ら無神論者は」とプラトンは言う。「理性の判断に訴えて、地獄およびあの世の刑罰に関する物語をうそだと断言する。けれどもそういうことを経験する機会が、老衰または病気が彼らを死に近寄せるころになって目の前にさし迫ると、やはりそういう未来の境遇が恐ろしく思われ、それまでとはちがった信仰をいだくようになる」と。そして、そういう印象は人間の心をおびえさせるからとて、彼はその法律の中で、そのような威嚇を含んだすべての教えや、神々がやがて人間に対して何かの苦痛を与えるだろうなどというような説を、禁じている(もっとも、そういう苦痛におちいることが最大の幸福に転ずるとか・何か医薬的効果をもつとか・いう場合だけは例外としている)。またビオンについてはこんな話が伝わっている。「彼はテオドロスの無神論にかぶれて久しく信心家連中を笑っていたが、自ら死に見舞われると忽ちにして最も極端な迷信に堕した。まるで神々がビオンの運不運に応じて引込んだり現われたりしたかのようであった」と。
 プラトンとこれらの実例とは、我々が或いは愛によって或いは強いられて、神の信仰に導かれることを結論しようとする。無神論なるものは、人間の精神がいかに高慢な・度をはずした・ものであるにしても、そこに植えつけるのになかなか骨のおれる・いわば不自然で奇怪な・意見であるのだが、自分こそ俗人とはちがった・世を改革しようという・意見をいだいているぞとの虚栄と自負とから、体裁上この説を披瀝ひれきして見せる者も相当にある。そういう連中は、かなりに気が狂ってはいるが、しかしそれほど気が強くもないので、この説を自分の良心の中に確立してはいないのである。もしその胸元に白刃をつきつけるならば、やはり天に向って合掌しないではいられないであろう。そして、恐怖と病気とが、移り気な気分から生じたこの奔放な熱情を冷ますときには、やはり本心に立ち帰って、きわめておとなしく一般の信仰と実践とに従うであろう。ほんとうに消化された学説と、あの浅薄な感銘とは、それぞれ別の物である。後者は片輪な精神の錯乱から生ずるものであるから、心の中を、むちゃくちゃに、あてどもなく泳ぎまわる。わざと骨折って悪人になろうとするのは、何というなさけない・おろかな・ともがらであろう!
 (b)異教の誤謬と、我々の聖なる真理に対する無知とは、プラトンという偉大な霊魂を(と言ってもそれはただ人間的に偉大であったと言うだけの話だが)、さらにもう一つの・似たような・まちがいにおとし入れた。すなわち彼は、「子供と年よりとは宗教をうけ入れやすい」といったのであるが、それではまるで、宗教が我々の弱さから生れ、その弱さからその信用を得ているもののようではないか
* これほど宗教というものは根拠のないものだと言おうとするのか。それともプラトンのような異教徒には真の宗教はわからないので、真の宗教は別にあると言うつもりなのか。大分あやしくなって来たように感じられはしないか。
 (a)我々の判断と我々の意志とを結びつけるもの、我々の霊魂を我々の創造者にぴったりと接触させるものは、その秘密と力とを、我々の考察・我々の理性および感情・からではなしに、神の超自然的な抱擁の中から得られるところのものでなければなるまい。従ってそれはただ神の権威・その恩寵・という一つの形、一つの顔、一つの輝きだけしか持たないはずである。ところで我々の心情と霊魂とは共に信仰に支配されているから、信仰が我々の他のあらゆる性能をも、それぞれの力に相応して自己の企図に利用するのは当然である。それにまた、この世界全体が、あの偉大な建築師の手の跡を何もとどめていないとは信じられないし、この世の事々物々に、それらを造り出した工匠たくみと何かの関係のあるどんな形も宿っていないということも信じられない。造物主はこれらの高尚な作品の中に、その神々しい跡をのこした。我々がこれを発見しえないとすれば、それはひとえに我々の無力のせいである。誠に彼自らが言うとおり、彼はその目には見えない働きを、見られるものによって我々に示している。スボンはこの大切な研究に精進した。そして、世界のいかなる部分も、その作者の意に反してはいないことを我々に示している。宇宙がこぞって我々の信仰にくみしないと考えることは、それは神の慈愛を正しく受けとらないことであろう。天や地やもろもろの元素、我々の身体及び霊魂、その他何もかも、みなそれにくみしている。我々はただそれらをいかに用いるかを考えればよいのだ。すべてのものが我々に教えている。ただ我々にそれらを理解する力がありさえすればよいのだ。(b)まったく、この世界ははなはだ聖なる殿堂であって、人間はそこに、死すべきものの手によって作られた神像ではなく・神様のおぼしめしが我々に感覚できるようにして下さっている・もろもろの神の像を、すなわち太陽や星辰や水陸を、いずれもみな神を会得させるものとしてこれを仰ぎ見るために、招じ入れられているのである。(a)「我々の眼に見えない神の御業は」と聖パウロは言った。「その造りたまえるものによってその永遠の知恵とその神性とを考える時、世界の創造の中にはっきりとあらわれている」(「ローマ人への手紙」一の十九―二十)。

神は地上のものの天を見ることをいとわず、
絶えず天を我らの頭上に回転させつつ、
あらゆる形相の下に我らに現わる。
神は我らに自らを示し、我らのうちに自らを印す。
彼はおのれ自らの知られ、神の法の悟られんことを欲すればなり。
(マニリウス)

 ところで、我々人間の理性や推理は、重くて産む力のない素材のようなもので、聖寵がそのかたである。聖寵こそ、それらに形と価値とを与えるのである。ちょうど、ソクラテスやカトーの徳行が、その目的をもたなかったために、また万物の真の造り主への愛と服従とを目指さなかったために、つまり神を知らなかったために、結局むだな役に立たないもので終ったように、我々の思想推理もまた同様なのである。これらは或る形体をもってはいるが、いずれも渾沌たる塊であって、信仰と神の恩寵とがこれに加わらないかぎり、趣もなければ輝きもない。たまたま信仰がスボンの諸論拠を染め輝かすことになって、はじめてそれらは堅固なものになった。それらは、初心者が神の認識へ門出するにあたって、その最初の道案内となることができる。初心者をある程度まで陶冶して、聖寵がうけられるようにしてくれる。じつにこの聖寵によって、我々の信仰は後に大成されるのである。わたしは、文学の素養が深いあるえらい方を知っているが、「自分はスボンの諸論拠を介して無信仰の誤謬から立ちかえった」と告白された。いや、それらの論拠からあの信仰の装飾やその援助や承認を取り除いても、またそれらを不信心という恐れ嫌うべき暗黒におちた人々を反駁するための単なる人間的思想だと考えても、それらはやはり堅固であって、人がそれらに対抗せしめうる同質の他のいかなる論拠にも負けはしない。だから我々は、我々の相手に向って言うことができるであろう。

「よりよき論拠があらば出し給え。然らずんば降参せよ。
(ホラティウス)

我々の証拠の力に降参せよ。でなければ別に証拠をお出し。或いは何か別の主題に関してより良く組みたてられた証拠をお見せ」と。
 わたしは気がつかないうちに、いつの間にかスボンの書物があびせられている第二の抗議に半分答えてしまった。これに対してもいつか彼のために弁じてやろうと、かねて思っていたからである。
 ある人々は、彼のいろいろな論拠が力弱く彼の欲するところを実証するのにふさわしくないと言い、手軽にそれらを打ち倒そうと企てている。こうした連中は、いささか荒っぽくやっつけなければならない。まったくこの方が前の連中よりもずっと危険であり、ずっと根性がわるいのである。(c)人は他人の書いたものの意味を、とかく自分が心の中に予めいだいている意見につごうよいようにこじつけたがるが、無神論者もすべての著者を無神論に帰納していい気になっている。これはおのれの毒をもって害なき物質をけがすにひとしい。(a)これらの人々はあるかたよった判断を持っているので、スボンの理論を味わい得ないのである。それに、純然たる人間的武器をもって勝手に我々の宗教を攻撃させておけば彼らはひどく威勢がいいが、我々の宗教が権威と威令とに満ちた荘厳の中にあるときは、あえてこれを攻撃しようともしない。わたしがこういう狂熱を冷やしてやるために取る手段、それに一番ふさわしいと思う手段は、人間の自負と傲慢とをもみくちゃにし、踏みにじってやることである。彼らに、人間のはかなく空虚であることを思い知らせることである。彼らの手から理性というちっぽけな武器をもぎとることである。彼らを荘厳な神様の前に畏れかしこんで低頭平身させることである。学問も知恵も、この神様ただひとりのものである。自分について何かの価値を認めうるのも、ただこの神様のおかげである。ただこの神様から我々は、我々に若干の価値をつけるものを、かすめ取っているにすぎない。

けだし神はおのれ以外のものが自ら高しとすることを欲せざればなり。
(ヘロドトス)

 (c)この高慢を打ち倒そう。これこそ、よこしまな精神がふるう横暴の第一の基礎となるものである。※(始め二重山括弧、1-1-52)神は傲慢なる者に逆らいて、謙遜なる者に恩寵を給う※(終わり二重山括弧、1-1-53)(聖ペトロ)。「英知はあらゆる神々のなかにあるが、極めて僅かな人々の中にしかない」とプラトンは言った。
 (a)さて、しかしながら、我々のはかない・こわれやすい・諸道具も、我々の神聖な信仰には極めて似合ったものであって、それらは本来朽ちやすく壊れやすい物事の上に用いられるときには、これほどぴったり・これほどしっかり・あてはまるものはないくらいに思われる。このことはキリスト教徒にとって大きな慰めである。さあこれから、人間にはスボンの理由よりもさらに強い理由をもつことができるかどうか、いや、論拠と推理とによって何かの確実性に到達することができるものかどうか、考えてみよう。
 (c)まったく聖アウグスティヌスはこれらの人々を反駁しながら、もっとも千万にも、彼らが我々人間の理性が証明することのできなかった我々の信仰の幾箇条かをうそだと考えるのは、不正であると非難した。そして我々の理性にはとうていその性質と原因とを測り得ない事柄がたくさんあり得るしまた実際にあったということを示すために、人がこいつはまるでわからんと白状するところの、しかし誰でもが知っている・疑うことのできない・ある種の実験をかつぎ出したのである。しかも、それを他のあらゆる物事におけると同様に、すこぶる綿密巧妙なやり方でしたのであった。だが我々は、それよりもさらに突込んで彼らに教えてやらなければならない。彼らの理性の微力を確信させるためには、わざわざ稀な例を求めるまでもないことを。そしてまた、理性は極めてへまな明盲であるから、それにとって十分に明瞭だといえるような、そんな平明容易なものは何処にでもあるものじゃないということを。理性にとっては困難も容易も区別がないということを。あらゆるものが一様に、いや自然がこぞって、理性の判決や調停なんかは御免だと言っていることを。
 (a)そもそも真理は、我々に向って現世の哲学を避けよと説く時、いったい何を我々に説いているのか。我々の知恵が神の前では狂愚にすぎないこと、あらゆるくうなものの中で最も空なものは人間であること、自分の知をたのむ人間はいまだ知の何たるやを知らないものであること、人間は何物でもないのに何物かのように考えるのは自らいつわり自らあざむくものであることを、あんなにもしばしば我々に教えこむとき、そもそも何を説いているのか。聖霊から発したこれらの格言は、わたしが支持しようとすることを極めて明白に力強く表明しているのだから、心から畏れかしこみその権威に従おうとする人々に対しては、何もわたしから別の証拠を持ち出す必要はないであろう。だが今申したあの傲慢な人々は、自分が痛い思いをしてもむちうたれることをのぞみ、「自分たちの理性はそれ自らによってでなければ打ち倒されてはならない」とがんばっている
* ここでこの章の序論ともいうべき部分が終り、いよいよ本論に入る。次の部分すなわち第一部は、「自然界またはすべての被造物の間における人間の地位」とでも仮に名づけることができよう。もっぱらプルタルコスから資料を得ている。
 だから今のところ、ほかの助けを持たない・ただ自分の武器だけでもってよろわれている・そしてそのすべての栄誉、力、存在の基礎であるところの聖寵をも神の認識をも全く持たない・人間ただひとりを考えてみよう。彼はあの堂々とした装いの中に、そもそもどれほどの堅固さを持っているのだろうか。彼がその推理の力によって、一体どれだけの根拠の上に、自らそれによって万物の上にありとするあの偉大なさまざまの長所を築いたのかを、わたしに分らせてほしいものだ! また、あの青空の感嘆すべき運動や、我々の頭の上をあれほど悠々ところがってゆくあの火の玉の永遠の光明や、あの果てしのない大海の恐ろしい動揺などは、彼の都合や彼の御用のために作られ、その後数千年にわたって継続しているのだと、一体何が彼に信じさせたのか。こんな哀れなちっぽけな被造物が、わずかに自分の主人にさえもなれず始終万物におびやかされどおしでいながら、自ら称して宇宙の主人だ帝王だなどということほどばかばかしいことが、どうして信じられようか。彼には宇宙の最も小さい部分すら知ることができないじゃないか。これを司令するどころではないじゃないか。それから、この広い建物の中で、その美しさ・その整頓・を認識する力があるのは自分ひとりだ、その建築者の徳をたたえること・世界の収入と支出との帳づけをすること・ができるのは自分ひとりだ、などとひどく彼は自慢するが、そもそも誰からこの特権を授かったのか。どうかその御立派なおえらいお役目の任命書おすみつきを見せていただきたい。
 (c)それはただ賢者へのご褒美として与えられたのか。そんなら普通の人間には殆ど関係がないことだ。それとも狂った者、よこしまな者までが、そういう特別の恩寵に値するのか。世界の一番悪い部分でありながら、他のあらゆるものよりも重んぜられるに値するとはいったいどういうわけか。
 こんなことを我々は信じうるか。※(始め二重山括弧、1-1-52)そもそも誰のために世界はつくられたりというべきか。それは恐らく理性を用いる生きもののためなるべし。げに神々と人々とこそ、すべての生きもののうち最も完全なるものなればなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)と言った人を。我々はこの組み合せのたけだけしさを、いくら笑っても笑いたりないであろう。
 (a)だが哀れな人間よ。お前は自分のうちに、そのような恩寵に値する何を一体持っているのか。もろもろの天体のあの変らない生命・それらの美しさ・それらの偉大さ・それらの整然たる規則に従って一瞬も休むことのない運動・を考えたら、

頭上はるかに、広大なる蒼穹を仰ぎ見るとき、
そこに諸星燦然と光り輝くを望むとき、
またわれら、月と太陽の運行を思うとき、
(ルクレティウス)

これらの天体が、ただに我々の生命や我々の運命の転変の上にばかりでなく、

誠に神は人間の行為と生命とを
かの星辰に従わせたり。
(マニリウス)

我々の傾向・理性・意志・の上にさえ偉大な支配を及ぼしていることを考えたら、これらを我々の理性が教え示すとおりに、その勢力のまにまに支配し・押し動かし・ていることを考えたら、

我らは知る。かく我らより遠くにある星が、
隠れたる法則に従いて人を支配することを。
全宇宙が整然として周期的に運動することを。
運命の転変もまた天体の定まれる配置によることを。
(マニリウス)

人一人だけでなく、王一人だけでなく、王国も帝国も、この下界全体が、ちょっとした天体の動きで動き出すことを見たら、

微々たる運動のもたらす結果のいかに偉大なることよ!
王者をさえ動かすこの力のいかに偉大なることよ!
(マニリウス)

もしも我々の徳も不徳も、我々の才能も学識も、またこうやって我々が天体の力に関して働かしている推理も、彼らと我々の比較そのものも、みな、我々の理性が判断するとおり、かれら天体の力により・そのお蔭によって・生ずるのだとすれば、

一人が恋に燃え海を渡りてトロヤを滅ぼせば、
他の一人は運命によりて法律を編むべく命ぜられたり。
ここに子ありて父を殺せば、かしこに親ありて子を殺し、
また兄弟あい争いあい殺すものあり。
この殺し合いの責めを負うは我らにはあらず。
彼らを駆ってかくのごとくすべてをくつがえさせ、
われとわが身を罪しわが身を裂かしむるは
運命なり。……かく運命についてわが語るもまた、
同じく運命のなさしむることよ。
(マニリウス)

もしも我々がもつこの一片の理性さえ、我々はこれを天の配分によって得るのだとすれば、どうして我々は己れを天にくらべることができようか。どうして天の精髄とその真相とを我々の学識に委せておけようか。我々がこれらの天体の中に見るものは、すべて我々をびっくり仰天させる。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)かくも広大なる建物のために、そもいか程の努力と道具と工匠とが用いられしことぞ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)なぜ我々はそれらの天体に霊魂と生命と理性とがないというのか。何かそこに、動きもなければ感覚もない、何か愚鈍みたいなものを、認めたとでもいうのか。我々は服従という関係以外に、それらとは何らの交渉も持たないくせに。(c)我々は人間以外にはどんな被造物の中にも、合理的な霊魂の作用を認めたことがないというのか。とんでもない! 我々は太陽に似た何物かを見たことがあるか。そういう物は一つも見たことがなければ、それは存在しないことになるのか。類似のものが他になければ太陽の運動も存在しなくなるのか。もし我々が見たことのないものは存在しないのだとすれば、我々の知識は恐ろしく狭いものになる。※(始め二重山括弧、1-1-52)かくまでに我らの精神の限界は狭し※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)月を天における地球だと見たり、(c)アナクサゴラスのようにそこに山や谷を夢想したり、(a)プラトンやプルタルコスのようにそこに人間の住居を建てたり、そこに我々のすみよい植民地を作ったり、また我々の地球を光り輝く星であると言ったりするのは、空なる人間の夢ではあるまいか。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)人間は本来あまたの欠点を有すれども、そのうち最も恐るべきものは精神の盲目なり。そは我らを迷わすのみならず、われらにその迷いそのものを愛せしむ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。※(始め二重山括弧、1-1-52)変質しやすき肉体は霊魂を鈍重にす。その粗悪なる外包の中に、霊魂をその思考する働きにおいて無力にす※(終わり二重山括弧、1-1-53)(経外典「知恵の書」)。
 (a)自惚うぬぼれは我々の持って生れた病である。すべての被造物の中で最もみじめでもろいものといえば人間であるのに、それが同時にもっとも傲慢なのである。人間はここに、世界の泥んこ・うんこ・のまん中に住んでいることを、また宇宙における最も悪い最も活気のない低い部分に・天空からもっともかけ離れた下層の宿りに・三つの世界の中でもっとも悪い世界に住む動物どもと一緒に・こうして釘づけにされていることを、自ら感じもし見もしておりながら、しかも想像によって月のかさのそのまた上に突っ立ち、天をその足の下に踏んまえている気分でいる。いやそれどころかそれと同じ空なる想像によって、彼はその身を神にくらべ、その身に神の性質をさずけ、独りえらそうに他の被造物の群から離れ、その同類同胞たる動物に分け前をくれてやり、これくらいならばと思うほどのほんの僅かな能力を彼らにわかち与えているのである。彼はその英知の力により、どのようにして動物の内部のかくれた働きを認識するというのか。どんなふうに彼らと我々とを比較して、彼らをばかだと結論するのか。
* 空界、水界、陸界。
 (c)わたしが猫とたわむれているとき、猫のほうこそわたしを相手にひまつぶしをしているのではあるまいか。プラトンはサトゥルヌス治下の黄金時代を描写しているところで、当時の人間の主要な長所をいくつか数えた中に、動物との交遊まじわりを挙げているが、実に当時の人間は、彼らに尋ねまた教えられつつ、彼らの各々の真の性質や差異を知って、はなはだ完全な英知と知恵とを得たばかりでなく、我々よりも遙かに幸福な生活をしたのである。動物に関して人間がいかに非礼であるか。そのもっともよい証拠をあげてみようか。この偉大な著者はこう述べている。「自然が彼らにさまざまな恰好の身体を与えたのは何のためか。それは大部分、当時人々がこれを基にしてよく行った占いの用に供するだけのためである」と。
 (a)動物と我々との相互の理解を妨げているあの欠点は、なぜ彼らにばかりあって我々にはないのか。お互いに全くわかり合わないのは果してどっちの罪であろうか。それはどっちとも言えない。まったく彼らが我々を理解しないばかりでなく、我々も彼らを理解しないではないか。我々が彼らを畜生ベートと評価するのと同じ理由によって、彼らも我々を馬鹿ベートと評価することができるわけである。我々が彼らを理解しなくても、それは大して驚くにはあたらない。我々はバスク人をもトログロディット人をも理解しないのである。もっとも、動物の言うことがわかると威張った人たちもいる。例えばアポロニウス・ティアネウス、(b)メラムプス、テレイシアス、タレスというような人たち(a)のように。(b)いやそんなわけであるから、宇宙学者のいうところによれば犬をその王とあがめる国民もあるということだから、きっとそれらの人間は犬の声や身振りにはっきりした解釈をほどこしているに違いない。(a)我々はお互いの間にある類似の方に注意しなければならない。我々は彼らの意味のまず半分くらいを理解し、動物の方でも大体同じ程度に我々の意味を理解する。彼らは我々にへつらい、我々をおどし、我々に求める。我々もまた彼らに向って同じことをしている。
 それに、彼ら同士の間にも十分完全な意思の疏通があること、ただに同種類のもの同士ばかりでなく異種類のもの同士もまた相互に理解し合っていることは、きわめて明白である。

(b)言葉を知らざる家畜も、最もおそろしき野獣も、
或いは恐れ或いは悲しみ或いは喜ぶに従いて、
それぞれ異なれる叫び声を発す。
(ルクレティウス)

(a)犬の或る吠え方の中に、馬はそこに怒りがあると知る。別の吠え方をきいても、すこしも恐れない。声をもたない動物においてさえ、その互いに奉仕し合っているところを見れば、我々は容易に、何か別の意思疏通の方法があることを推論できる。(c)彼らの挙動は話もすれば相談もする。

(b)それは、さながら幼き子らの、
舌がまわらず手真似にて物言うに似たり。
(ルクレティウス)

(a)どうして嘘なものか。ちょうど我々の唖者が、手真似でもって議論もすれば論証もするし、物語もしてきかせるのと同じことである。わたしは唖者がよくこのことに慣れていて、自分の考えをわからせるのに少しも不自由しないのを見たことがある。恋人たちは互いに眼で怒ったり、仲直りしたり、求めたり、感謝したり、約束したり、何から何までしめし合わす。

沈黙の内にさえ、
願いと約束とあり。
(タッソー)

 (c)手ではどうだろう。我々は、求める。約束する。招く。追う。おどかす。頼む。願う。否定する。問う。たたえる。数える。告白する。悔いる。恐れる。恥じる。疑う。教える。命令する。すすめる。はげます。誓う。証明する。咎める。罰する。ゆるす。ののしる。さげすむ。あなどる。恨む。へつらう。喝采する。祝福する。謙遜する。嘲弄する。妥協する。紹介する。激賞する。慶賀する。喜ぶ。悲しむ。打ち沈む。がっかりする。やけになる。あきれる。感嘆する。黙する。このとおり何だって言える。その多種多様なこと、決して舌に劣るものではない。頭では、招く。追い返す。承認する。否認する。とり消す。歓迎する。尊ぶ。あがめる。軽蔑する。問う。敬遠する。はしゃぐ。涙ぐむ。愛撫する。服従する。挑む。はげます。おびやかす。保証する。問う。では眉では? また肩では? やはり同じことである。むしろ物を言わない身振りというものはないのである。この身ぶりこそ稽古せずにわかる言葉、万人共通の言葉であって、その多様にして別種の言葉に優る有様を見れば、これこそ、かえって人間特有の言葉と判断されてよい。我々が特別の必要に迫られてとっさの間に用いるそれや、指頭のアルファベットや身振りの文法や、これらのものが基になって始めて実施表現されるいろいろな学問、それから、プリニウスが語るところの・身ぶりのほかに言葉を知らない・民族のことなどには、ここではふれない。
 (b)アブデラ市の一使節は、スパルタ王アギスに長いこと語った後、彼に向ってきいた。「どうですか、陛下。どんなお答を、私は帰って我々の市民たちに申し伝えましょうか」――「わたしが一言も口をはさまないで、おまえが言いたいことをおまえが言いたいだけ言わせた、と言いなさい」。これこそ意味深長でしかも明白な無言の雄弁ではあるまいか。
 (a)それに、いかなる種類の我々の才能が、動物の行為の中に認められないというのか。およそ蜜蜂の国家ほど、秩序ただしく、さまざまな官位官職があり、しかもあれほど変りなく維持されている国家があるだろうか。あれほど整然たる職業職分の配置が、理性も知恵もなしに行われると考えることができようか。

これらの特徴やこれらの事例によりて
或る人は論証したり。「蜜蜂は
神の英知と天地の気とを受けたり」と。
(ウェルギリウス)

つばめは春がかえって来ると我々の家のすみずみをさぐるが、たくさんの場所の中から彼らが住むのに最も工合のいい場所を、果して判断せずに探すのであろうか。識別せずに選ぶのであろうか。また鳥の巣のあの立派なすばらしい構造を見たまえ。彼らは円い形より四角い形を・直角よりも鈍角を・用いるが、果してそれらの性質と効果とを知らずにそうするのであろうか。彼らは水と粘土とをかわるがわる取りにゆくが、果して固いものも湿らせれば軟らかになるという判断なしにしているのであろうか。彼らはその御殿をこけや羽毛で敷きつめるが、そうしておけばひなのやわらかい手足もずっと楽で痛くないであろうと考えないでしているのであろうか。彼らは雨もよいの風が吹けば身をひそめ、東にむけてその住いをつくるが、それらの風のさまざまな性質を知らないでしているのであろうか。ある風が他の風より体によいということを考えずにしているのであろうか。なぜ蜘蛛くもはその巣の一箇所をこまかくし、他の箇所をあらくするのか。ある時はある編み方を用い、ある時は他の編み方を用いるのか。決心も熟考も結論もなしにしているのだろうか。我々は彼らの仕事の大部分において、いかに動物が我々より優れているか、いかに我々の技術が彼らを真似して及ばないかを、相当に認めている。しかるに我々は、我々の仕事の方がずっとまずいのに、あえて自分たちはここにこんなにもさまざまな能力を尽していると言う。我々の霊魂はそこにあらゆる力を注いでいると言う。なぜ我々は、彼らにもそれだけのことを認めてやらないのか。なぜ我々は、我々が自然によりまた学芸によってなしとげるすべてを凌ぐほどの彼らの作品を、ただ何かしらの・自然的・本能的・傾向のせいにばかりしてしまうのか。我々はそうすることによって、彼らに我々を凌ぐ大きな優越を与えてしまう。実際自然は、母の優しさによって、いわば手を取るようにして、彼らを彼らの生活のあらゆる活動と快適とに導いてゆくのに、かえって我々の方は運命と偶然とに委ねられ、ただ学芸によって我々の存続に必要なものを求めさせられているばかりか、いかなる教育によってもまたいかに精神を緊張させても、動物の天賦の巧妙さに到達することが許されずにいるではないか。結局、彼らの獣的暗愚の方が、いかなる安楽においても我々のいわゆる神的英知がなし得るすべてを越えている、ということになるではないか。
 本当にこう考えれば、我々が自然をはなはだ不公平な継母と呼ぶのは正しいかも知れない! だが決してそんなことはない。この世の機構はそんなに混沌として乱脈ではない。自然はそれが造ったすべての物を一様に抱擁している。この世のいかなる物といえども、その存在に必要なすべての方便を、自然から十二分に与えられていないものはない。まったく世間の人はこう言って嘆く(彼らの意見は実にめちゃくちゃで、ある時は自分を雲井の上にあげるかと思うと、たちまちにこれを奈落の底におとす)。「我々こそ、しばりくくられて、その身を掩うのにほかの者の皮よりほかには何ひとつなく、裸の大地の上に丸裸で、投げ出されている唯一つの動物である。ところが他の被造物にいたっては、自然はそれらに、殻やさやや皮や毛や細毛やとげや革や羽毛や翼や鱗や毛皮や糸やを、それぞれの必要に応じて着せている。爪や歯や角のような攻めたり守ったりする道具までも与えている。また彼らに適する技能を、つまり泳いだり走ったり飛んだり歌ったりすることまでも教えている。しかるに人間は、学ばなければ歩くことも話すことも食べることもできない。ただ泣くことよりほかにはなんにもできない」と。

(b)狂える波によりて岸辺に打ちつけられし水夫の如く、
人の子は母の胎内より世の明るみの中へ、
自然によりて荒々しく押し出されし時より、
言葉も知らず生きる便りも持たで、
あわれや裸にて地上に横たわれり。
彼はその生れし場所を、
泣き叫ぶ声もて満たしき。
その泣くやむべなり。不幸なる者よ。
汝には生涯苦しむべきものあまたあり。
しかるにもろもろの動物は、
大いなるも小さきも、
また猛獣の子も、難なくい育つ。
からからと鳴る玩具も、乳母の優しき言葉も用なし。
四季折々の着物もいらず。
武器も、高き壁も、彼らの室を守るに要なし。
何となれば、大地とたゆまざる自然とは、
豊かに彼らの欲するものを与うればなり。
(ルクレティウス)

(a)だが、このように嘆くのはまちがっている。この世のなかにはもっと大きな平等があり、もっと一様な類似がある。我々の皮膚も彼らのそれと同様に、十分天気の侵害に対して抵抗力を備えている。その証拠には、沢山の民族が今なお全く衣服の使用を知らないではないか。(b)我々の祖先ガリア人も、ほとんど衣服を着なかった。我が隣人のアイルランド人も、あんなに寒い空の下にありながら裸である。(a)けれども我々は、自分自身を省みる方がずっとよくわかる。まったく、我々が好んで吹きさらしに出している身体の部分は、いずれも皆それに堪えられるようになっているではないか。顔、足、手、すね、肩、頭、いずれも習慣の命ずるがままになって平気ではないか。まったく、我々の内に弱くて寒さをいとわねばならないような部分があるとすれば、それはその中で消化が行われるところの胴体でなければならないが、我々の祖先はその部分をもさらけ出していた。いやわが貴婦人たちも、あんなにか弱く優しいけれども、ときにはおへそのところまで出して歩く。子供を帯でしめたりおしめでくるむことも不必要である。ラケダイモンの母たちを見給え。その子供たちを少しもくくったりくるんだりせずに、四肢の運動を全く自由にさせながらそだてていた。泣くのも我々に限ったことではなく、大部分の動物に共通して見られることである。いや、その生れ出てから長いことうめいたり鳴いたりするのが見られないものはほとんどないのである。これこそ、彼らが自らその内にありと感じるそのひ弱さに、甚だふさわしい姿態である。食べるという習性に至っては、我々にも彼らにも、自然に、教えられずに、存在する。

(b)動物はみな己れの力と要求とを知ればなり。
(ルクレティウス)

(a)誰が疑うか、子供がひとりで食べられるようになると、自分で食べ物をさがすすべまでも知るようになることを。大地もまた、これに何らの耕作と人為とを施さないでも、よく子供の要求に適うだけのものを産み出して彼に提供する。そしてすべての季節においてとはいえないが、それは動物に対しても同じことで、その証拠に、ありやその他の動物だって、稔りのない季節のために食べ物を貯えているではないか。あの・我々がこのごろ発見した・苦労しないでも天然の食物と飲料とがきわめて豊かに恵まれているという・諸民族は、パンばかりが我々の食べ物ではないこと、耕作しないでもかつては我々の母であった自然が、我々に必要なすべてを豊かに与えていたこと、いやそれどころか(それはさもあるべきことだが)、我々がここに人為を交え始めた今日よりもかえって豊富に与えていたことを、教えてくれた。

大地はそのはじめ死すべきもののために、
ひとりにて豊かなる稔り・多くのぶどう・を産み出したり。
ひとりの力にて人間に甘き果実と肥えたる草とを与えたり。
今それらは、すべて我々が労苦してようやくにしてうるところ。
我らは、わが牛とわが小作人の力とをこのために使いつくす。
(ルクレティウス)

これは、我々の旺盛で止めどのない欲望が、それを満足させようとて我々が考え出すあらゆる工夫を凌駕するからである。
 武器にいたっては、我々は他の大部分の動物よりも、天賦の武器をより多く持ち、より多様な四肢の運動を持ち、そして生れながらに、何ら学ぶことなく、それらからより多くの効果を得ている。裸で戦うように訓練されている者どもは、あのとおり我々が出あうのと同様な危険に向って突進する。たとい或る幾つかの動物がこの点において我々を越えているにしても、我々は他のいろいろな動物にくらべればよりまさっている。いや、後天的方便によって身体を強固にし保護する工夫にしても、我々はそれを本能ないし自然の教えによって得るのである。その証拠には、象はその牙をとぎすまして戦闘の用に備える(まったく、象はこの用に供する特別の牙を持っているが、ふだんはそれを大切にしていて、決して別のことには用いないのである)。牡牛は戦闘に出るとき、その身のまわりにちりほこりを舞いたてる。いのししはその牙をとぐ。マングースもいよいよわにと取っ組むときには、その身のまわりをちょうどよろいを着るように、よくこねかえした泥ですっかり塗り固める。我々が木や鉄をもって身をよろうのも、やはり自然なことであると、なぜ我々は言わないのか。
 言葉にいたっては、それがもし自然のものでないとすれば、必要不可欠なものでないことは確実である。けれども子供は、孤独のただ中にあらゆる交通を絶って育て上げても(それはなかなか行いにくい実験ではあるが)、恐らく何か別種の言葉を用いてその思いを表出するであろうと思う。いや、自然が他のたくさんの動物に与えたこの方便を、我々人間にだけ拒んだとはとうてい信じられない。まったく、我々は彼らがその声を用いて、訴えたり・喜んだり・互いに助けを呼び合ったり・愛に誘ったり・するのを見るが、この性能こそ言葉でなくて何であろうか。(b)どうして彼らは互いに話し合わぬであろうか。彼らはちゃんと我々に話す。我々も彼らに話す。我々は我々の犬たちにいろいろなふうに話しかけるではないか。彼らも一々それに答えるではないか。我々は彼らに、鳥や豚や牛や馬に対するのとは別の言葉・別の呼び声・をもって語る。いや、相手のいかんにしたがって、我々は用語をかえるのである。

(a)かくて彼らの黒き一群を見るに、
蟻どもは互いにその額をよせて、
そのはかりごとやその獲物につきて語り合えるがごとし。
(ダンテ)

 ラクタンティウスは、動物には言葉だけでなく笑いさえあると考えているようだ。それに我々の間に見られる・地方地方による・言葉の相違は、同種類の動物の間にも認められる。アリストテレスはこれに関して、場所の情況によって山鶉やまうずらのなき声がいろいろであることを挙げている。

(b)多くの鳥は天候によりてその鳴きかたを変う。
中には季節に伴いてそれを変うるものあり。
(ルクレティウス)

(a)けれども、さっきの唯独りおかれた子供が果してどんな言葉を用いるか。それは、今のところわかっていない。それについて臆測的に言われていることは、あまり本当らしく思われないのである。もし誰かがさっきの意見に反対して、「生れながらの聾はまったく口をきかないではないか」と言うならば、わたしはこう答える。「それはただ彼らが耳を経て言葉の教育を受けられなかったからばかりではない。むしろそれは、彼らが持たない聴覚と、話をする感覚との間に、相互の関係があり、両者が互いに自然的連繋によって結ばれているからである。つまり我々は、我々が話すところのことを、まずもって我々自らに話さねばならず、それを自分の耳の内に響かせなければならず、それからでなければそれをひとの耳に送ることができないからである」と。
 以上のような事柄をくどくどと申し述べたのは、人間的な事柄に関しても動物と人間との間にはこのような類似があることを認め、両方を一つ仲間に入れたいからである。我々は我々以外の物より、上でもなければ下でもない。あめが下なるすべての物は、賢者(「伝道の書」)の言うとおり、同じ法則同じ運命にこれ従うのだ。

(b)万物は運命の避けがたき糸にあやつらる。
(ルクレティウス)

(a)そこには若干の相違がある。序列があり段位がある。だがいずれも同じ自然の姿の下にある。

(b)万物はそれぞれに特有なる法則に従えども、
なおかつ自然がこれに課したる序列を堅く守る。
(ルクレティウス)

(a)どうしても人間を、こういう一つの機構の内部にとじこめて、その垣根を飛び越えないようにさせなければならない。実際この哀れなやつは、とてもその外に踏み出すどころではないのだ。彼はそこに窮屈に閉じこめられ、自分と同じような他の被造物と同じ義務を負わされ、何の特権もなければ真の本質的な優れたところも持たず、平々凡々たる境遇に置かれているのだ。彼が思想や想像によって自分に与えている優秀性などは、形もなければ味もない。仮に彼が言うとおりに、すべての動物の中で彼ひとりがそういう自由な想像と奔放な思考とを持っていて、そのおかげで、あること・あらざること・彼の欲すること・真および偽・を思いいだくことができるのだとしても、それこそ彼があまりにも価高く買わされた優越であって、ほとんど栄誉とするにたりないものである。まったく、主としてそこから、彼を攻め囲むもろもろの悪の泉、すなわち、罪・病・迷い・煩悶・絶望は、流れ出るのである。
 そこでわたしは、わたしの問題にたちかえっていうのである。動物は、我々人間が選択と工夫とによって行うのと同じ業を、自然の傾向に強制されて行うのだという考えは全く真らしくない、と。我々は、同じ所業からは同じ性能を結論しなければならない。したがって、我々が働くときに用いるあの推理、あの筋道も、いろいろな動物が用いるそれと同じものであると告白しなければならない。なぜ我々は、彼らにおいてだけ、あの自然的強制を想像するのか。我々は少しもそういう結果を感じないのに。それに、自然から与えられた・さからうことのできない・天性に導かれて正しく行動させられる方が、気まぐれな偶発的な自由によって正しく行動するのより、ずっと名誉であり、ずっと神に近いのである。いや、我々の進退の手綱は、我々にまかせるより自然にゆだねる方がずっと確かなのだ。何の根拠もない自惚れから、我々は自分の才能を、自然のたまものとはしないで自分の力のせいにする方を好む。そして自然の諸善の方は他の動物に贈って自らはそれを辞退し、その代り、後に得た諸善によって自分を尊く高くしようとしている。ずいぶんばかな話だと思う。まったくわたしは、全然自分の・持って生れた・美質グラースをも、修業によってこれから捜し求めようと思う美質グラースと同様に、珍重するつもりである。我々としては、神や自然に寵愛せられること以上の立派な推薦を得ることは、とうていできないのである**
* 自然の諸善 biens naturels とは人が天から与えられる、すなわち生れながらにしてもつ、種々の善のことで、具体的にいうと健康や美や頭脳の明晰などがそのうちに数えられる。平たくいえばいずれも自然の恵みである。それに対して後に得た諸善 biens acquis というのは、種々の学術技能などをさす。蓄積される富もまたこのうちに入る。
** ここでは学問理性を否定しているように見えるが、また他方には、本能に従うよりは自己の自由選択に従うのが人間の人間たるところだとしている章節が到るところにある。索引「理性」の項参照。
 だから、トラキアの住民が氷の張った河の上を渡ろうと企てるときに使用する・すなわち案内役として放してやる・あの狐が、水際に行って氷に近くその耳をよせ、下を流れる水の音が遠くにきこえるか近くにきこえるかと耳をすまし、まずそうやって氷が厚いか薄いかを確かめてから後に始めて退いたり進んだりするのを見て、我々がこう判断するのはまちがっているであろうか。「彼の頭の中には我々のと同じ推理の働きが行われているのだ。彼はその自然的感覚から、『音をたてるものは動いている。動いているものは固まっていない。固まっていないものは流動体である。流動体のものは重さに堪えない』と推理し結論するのだ」と。まったく、それをただ聴覚が鋭いからであるとし、理性と推理とをそこに認めないのは、それこそ空想であって、我々の思想のなかにはとうてい入ることができない。動物が我々の企らみからその身を守るために用いるいろいろな詭計や工夫の類いもまた、同じように考えなければならないのである。
 またもし、「我々は彼らをつかまえることができる。思いのままに彼らをこき使うことができる」ということから、幾らかの優越をほころうとするならば、それは我々が我々相互の間でもち合っている優越と少しもかわりはない。我々は同じように我々の奴隷をこき使っている。(b)いやクリマキデスと呼ばれたのは、シリアで四つんばいになって貴婦人が車に乗るときにその踏み台・階段・の役を勤めた女たちではなかったか。(a)また自由な人々も、その大部分は、きわめてささやかな安楽のために、その生命をも存在をも他人の権勢に委ねている。(c)トラキア人の妻妾たちは、われこそ選ばれて夫の墓前で殺されたいと申出る。(a)かつて暴君どもが、その身を捧げて悔いない崇拝者にこと欠いたためしがあるか。中には「おれが生きている間だけでなく死んでから後もおれに従え」とまで言ったやつさえあったではないか。
 (b)全軍の兵卒はそんなふうにその大将に従う。あのたおれるまでやる剣客たちの厳格なじゅくには、つぎのような誓約がある。「我々は誓う。鎖で繋がれ、火でかれ、鞭で打たれ、剣で殺されることもいとわず、正式の剣客がその主君のために堪えるすべてに堪え、最も敬虔に、身心二つながらこれを我々の主君に捧げる」。

いざわが頭を焼き、
わが体を剣もて貫き、
わが背を鞭もて裂きたまえ。
(ティブルス)

それは真剣な誓約であった。しかもある年のごときは、この誓約に加わって命を失うものが万をもって数えられた。
 (c)スキュティア人はその王を埋葬するとき、御遺骸の前で、最も御寵愛をこうむったお妾をはじめとし、お酌とりの少年、楯持ち、侍従、部屋付の下僕しもべ、料理人を、締め殺すのを常とした。そしてその祥月命日しょうつきめいにちには、五十頭の馬とこれに乗った五十人の小姓を殺したうえ、さらにその背骨にそってのどもとまでくしをさし、しかもそれらを麗々と御陵の周囲に立てまわすことになっていた。
 (a)我々に仕える者どもは、もっと安価に命をすてる。しかもそれは、飼鳥や馬や犬どもにも及ばない程度の御寵愛にむくいるために。
 (c)これらの鳥獣を安楽にするためには、いかなる心くばりをも我々は辞しない。いかに身分の卑しい奴隷でさえもその主人のためにしたがらないような事柄を、王侯がたすら自分が愛する畜生のためともなれば、喜んで遊ばされるようである。
 ディオゲネスは、その両親が自分を奴隷の境遇から買いもどそうと苦心しているのを見て、「親たちは気が狂っている。わたしを抱え養っている者こそ、わたしの奴隷である」と言った。生き物を飼っている人たちもまた、彼らを飼っているというよりは、むしろ彼らに飼われているのだと、悟らなければならない。
 (a)それに動物には、我々よりもずっと高尚なところがある。というのは、意気地なく一方の獅子がもう一方の獅子に、一方の馬がもう一方の馬に、隷従するようなことは決してないからである。我々が動物狩りに出かけるように、虎や獅子も同じく人間狩りにやって来る。また彼ら同士の間でも同じことをやり合っている。つまり犬は兎を、かますはうぐいを、燕はせみを、はやぶさつぐみまたは雲雀ひばりを、追っかけている。

(b)鶴は野のあちこちに見出したる
蛇やとかげをもってその雛を養う。
ユピテルにつかうる高貴なる鳥〔わし〕は、
森林の中に野兎や山羊を狩り立つ。
(ユウェナリス)

 我々は我々の犬や鳥と、艱難辛苦を分つとともに狩猟の果実をもわかち合う。また、トラキアの国アンフィポリスの上の方では、猟師と荒鷲とが、その獲物を等分にわけ合う。それからマイオティスの湖のほとりでは、漁夫が正直にその獲物の半分を狼どもに与えないと、彼らは直ちに漁夫の網を引き裂く。
 (a)それから、我々が力よりもむしろ詭計によって行う狩猟(例えば罠だの糸と針だのによるそれ)を有するように、動物の間にも同じようなものが見られる。アリストテレスが言うところによると、烏賊いかはそのくびから糸のように長い腸を出し、ずるずると遠くにのばしておいてから、その欲するときにこれを引きよせる。何か小さな魚が近づくのを見つけると、自分は泥や砂の中にかくれてこの腸の端を噛ませ、そして少しずつそれを引きよせて、いよいよ小魚が手近に来ると、いきなり飛びかかってこれを捕える。
 力という点では、世に人間ほど多くの危険にさらされている動物はない。鯨や象やわになど、ただ独りでよくたくさんの人間を倒す諸動物を挙げるまでもない。しらみにはス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラに執政の職をむなしくさせるだけの力がある。偉大な勝ちほこった将軍の勇気や生命だって、ちっぽけな虫けらの朝飯である。
 なぜ我々は言うのか。「生活や病気の治癒に役立つものを識別したり、大黄だいおう軒荵のきしのぶの効能を知ることは、学芸と理性とにもとづく人間特有の学問知識である」と。だが、そう言いながら我々は、カンディア島の山羊が矢に射られると、たくさんの草の中から白蘚はくせんをさがし出してその傷をいやそうとするのを見るとき、亀が蛇を呑むと直ぐに花薄荷マヨラナを求めて下しをかけるのを見るとき、また竜が茴香ういきょうをもってその眼をみがき明らかにするのを、こうのとりが海の水を用いて自ら灌腸をするのを、象が自分の体やその友の体からばかりでなくまたその主人の体から(例えばアレクサンドロスに打ち負かされた王ポロスの体から)、戦闘中にうけたほこや槍を引きぬくのを、しかもなるたけ痛くないようにと、我々にもできないくらいに巧みに抜きとるのを見るときに、なぜそれを同じように彼らの学問知恵といわないのか。まったく彼らをくさすために、「彼らはただ自然の教示と支配とによってこれを知るだけだ」と言いたてることは、けっして彼らから学問知恵の肩書をうばうことにはならないのである。いやそれどころか、彼らの側にこそ当然学問知恵のお株をゆずることになり、あんなにも確実でまちがいのない自然という大先生の名誉を、いやが上にも輝かすことになるのである。
 クリュシッポスは、他のあらゆる事柄においてはいかなる哲学者にもまして動物の性情を侮蔑的に判断したが、犬がそのはぐれた主人を捜しながら、あるいは逃げて行った獲物を追いかけながら、ある三叉みつまたの辻に出ると、順次に第一の路、第二の路と歩いて見て、三筋の路の二つを確かめていよいよそこに自分の求めるものがないと知ると、断然ためらうことなく第三の路に飛びこんだのを見ては、さすがにこう告白せざるを得なかった。「この犬はつぎのような推理を行ったのである。『わたしはこの三つまたの辻まで主人について来た。どうしても彼は三つの路のどれかに行ったに違いない。第一の路でも第二の路でもない。だからどうしたってこの路を通ったに違いない』と。そして、この推理結論によって確信をえたればこそ、第三の路についてはもはや嗅いでも見なければさぐっても見ず、ただ理性の力におされてそこに飛びこんでいったのである」と。この純然たる弁証家ふうのやり口、このように命題を分析したり比較したり、その各部を十分に列挙したりしたことは、犬がこれを自得したのだとしても、またトレビゾンドから学んだのだとしても、どっちにしてもえらいものではないか。
* ジョルジュ・ド・トレビゾンド、十三世紀フランスの文法学者、論理学者。その著は十六世紀に教科書としてよく読まれた(ギルボ註)。またはビザンチンの学者、トラペゾンティオス。ビザンチン帝国没落の際イタリアに亡命した。十五世紀の人(ポルトー註)。
 しかしながら動物たちは、我々のように教育されることも不可能ではないのである。つぐみ、からす、かささぎ、おうむ等に、我々は言葉を仕込む。それに、我々があんなに容易に、彼らのあのとおりあつかいよい流暢な声や息を利用して、相当数の語句を彼らに仕込むことができるという事実は、彼らがうちに理性を持っている証拠であって、この理性をもてばこそ、彼らもあんなに訓練しやすく、また自ら物を学びたがるのである。皆さんは見あきておいでになると思うが、軽業師たちはその犬どもにずいぶんいろいろな猿真似を仕込んでいる。彼らの犬は主人の出す音を聞いて、唯一つの調子をも踏みはずさずに舞踏をする。命ぜられた言葉のままに、いろいろな運動跳躍をする。けれどもわたしがそれ以上に見て感心するのは、もっともそれはかなりありふれたことだが、盲人たちが野やまたは町で用いるところのあの犬どもの行動である。わたしは見た。どんなふうに彼らがいつも施しを与えられる戸口の前に立ちどまるかを。どうやって彼らが駅馬車や荷車にぶつかることを避けさせるかを。ただ自分たちのことだけを考えれば、なお通るのに十分の余地があるときでも、彼らはそうするのである。わたしはこんな犬も見たことがある。それは町の溝に沿ってゆくとき、わざわざ平坦な道をあけておいて、自分は悪い道の方を歩き、主人が溝に落ちないようにした。どうして人はこの犬に、「ただ主人の安全を考えることがお前の役目だぞ。自分の不便を忍んでも主人に仕えなければならないぞ」と理解させることができたのか。またどうして彼は、これこれの道は自分には十分広いけれども、盲人にとってはそうでないということを知っていたのか。すべてそれらのことは、推理と理性とがなくても理解されるであろうか。
 プルタルコスが父ウェスパシアヌス皇帝と共にローマのマルケルス劇場で見たといっている、あの犬の話も忘れてはならない。その犬というのは、数個の場面と数人の人物とからなる或る狂言を演ずる一人の興業師に飼われていて、自分もまたその狂言の中に一役持っていたのである。いろいろなことをしなければならなかったが、特にある薬を飲んで死んだ男を、少しのあいだ真似しなければならなかった。すなわち、その薬になずらえたパンを呑みこむと、間もなくその犬は、あたかも体がしびれるかのようによろめき震え出した。そして終いには死んだもののように倒れ伏し、かたくなって、その狂言の筋書どおりに、あちこちと引きずりまわされた。それから、いよいよもうよしと思うと、まるで深い眠りからさめたかのように、まずかすかにその体を動かし始めたが、ついに首をもたげてあちこちと見まわし、並みいるすべての人々を驚かせた。
 スーサの王様のお庭には、幾つもの桶が結びつけられた大きな水み車(ちょうどラングドック地方にたくさん見られるような)を回してそこに水をまくために、幾頭かの牛が飼われていて、それぞれ日に百回転ずつその車を回すことになっていた。彼らはこの数に非常によく慣れていて、いかに無理をしてもただの一回転さえ余計に回させることはできなかった。お務めを終るとぴたりとやめた。我々は百までの勘定をおぼえないうちに青年になってしまうし、数の観念の全くない民族をも我々はついこのあいだ発見したばかりだというのに。
 教えられる方よりも教える方に、ずっと多くの推理があるのである。ところであのデモクリトスが、「大部分の学芸は動物が我々に教えたのだ。例えば蜘蛛くもが織りかつ縫うことを、つばめが家を造ることを、白鳥及び鶯が音楽を、幾多の動物がかれらを真似て医療を行うことを、教えたのだ」と判断し立証したことはしばらくおき、アリストテレスも、「鶯はその雛を仕込むのに時間と労力とを費やす。だから、我々が籠の中で育てた・まるで親鳥の教授を受けたことのない・鶯は、十分にその歌の優美さを発揮しない」と言っている。(b)我々はこれによって、鶯の歌は訓練と研究によって上達するのだと、判断することができる。それに野育ちのものの間でさえ、その歌は同一でない。おのおのがそれぞれその力に応じてそれを修得したのだから。いや、彼らはその修業にすこぶる熱心で一所懸命に競争するから、ときには負けた方が、声がつづかぬというよりはむしろ息が尽きて、倒れることさえあるくらいである。ごく若いのは考え考え口ずさむ。やがてある節まわしを真似しはじめる。つまり弟子はその師匠が教えるのを聞いて、大きな注意をもってこれを真似るのである。かわるがわる両方が黙る。よく聞いていると間違ったところを直している。何やら先生が叱っていることもある。「わたしは昔(とアリウスは言っている)、一匹の象が各々の脚に一つずつシンバルをつけ、もう一つをその鼻先につけてうち振ると、他のすべての象がその音につれて、楽器の導くがままに、ちゃんと調子にあわせて、或いは飛び或いは伏し、円形を造って舞ったのを見たことがある。そして、この調和をきくのは楽しみであった」と。(a)ローマの見世物小屋では、人の歌い声にあわせて、いろいろな型や複雑な調子や間拍子をもった・非常におぼえるのにむつかしい・踊りをするように仕込まれた象を、いつでも見ることができた。それらの中には、ひとりでいるときも教えられた芸を思い出し、主人から叱られたり打たれたりしないように一所懸命稽古をしているのもあった。
 だが、つぎのかささぎの話は、プルタルコス自ら証人に立ってくれるが、不思議な話である。その鵲はローマのある理髪師に飼われていたが、驚くべく巧みにその耳にすることすべてを口真似していた。ある日どこかのラッパ隊がやって来て、この店の前に立止って長いあいだ吹きならしたことがあった。ところがそれっきり、あくる日まる一日というもの、その鵲は、黙って・憂鬱そうに・考えこんでしまったので、見る人はみなふしぎに思った。そして、きっとラッパの音が彼をびっくりさせたのであろう、耳ばかりでなく声までもつぶしてしまったのであろう、と考えた。けれども終いに、それは深い工夫であり沈潜であって、これらのラッパの音をどう真似したものかと、彼は心を砕き声を練り整えていたのだとわかった。彼の第一声は、完全にラッパの音調抑揚を真似たものであった。そして、この新たに習いおぼえた節のために、従来言うことのできたすべてを軽蔑して言わなくなってしまった。
 わたしはまた、もう一つ、これもまた同じプルタルコスがある船のなかで見たという、ある犬の話を忘れずに申上げたいと思う(まったく順序からいえば、確かにこの方をむしろ先にすべきであったと思うが、わたしは、ここばかりではない、わたしの著作の他の部分においても、こうした事例の順序などはあまり気にしないのである)。その犬は、瓶の中の油をなめようとして、瓶の口が狭くて舌の先がとどかないのに困っていたが、やがて小石をさがしにゆき、それらを瓶の中におとし、とうとう油を瓶の口にとどかせて、これをなめた。これなどは、すこぶる緻密な精神の働きでなくて何であろう。蛮地の烏も、飲もうとする水にとどかないと、同じことをするそうである。
* 北部アフリカ地方を、当時 barbarie 蛮地、蛮域とよんでいた。
 この行為は多少、象についてそれらの国の王ユバが語ったところに似ている。すなわち象狩りの人々の詭計のために、象の一匹が、予め用意されていた・そして草むらで掩いかくされていた・深い落し穴におちたとき、友の象たちは急いでここに沢山の石や木ぎれを投げ入れ、彼がそこから脱出する助けをしたというのである。けれどもこの動物は、その他いろいろな点で人間的な才能を示しているから、経験が教えるところをこうやって一つ一つ挙げてゆけば、わたしは容易に「或る動物と或る人との間の差異よりも、或る一人の人と他の一人の人との差異の方がむしろ大きい」という日頃の持論(第一巻第四十二章参照)を、勝たせることができるだろう。シリアの一私人の家に仕える象使いの男は、食事ごとに象に与えるべき飼料の半分をくすねていた。ある日のこと、主人がふと自分で餌を与えてみようと思って、象のかいば桶の中に彼に与えるべき正しい分量をついでやった。象はかの象使いを横目でにらみながら、鼻の先でその餌を二つにわけ、今までの悪事を露顕させてしまった。またある象は、象使いが自分の餌の中にそのかさをふやすために石ころを入れるのを知って、あるとき象使いが午食ひるめしのために煮物をしている所に立寄り、鍋の中を砂で一杯にした。以上は特別な事例であるが、すべての人が見、すべての人が知っているとおり、東の国から連れて来られたすべての軍隊において、その威力の一つはこの象どもにあったのである。人は彼らから、今日我々が大砲から得るよりも、くらべものにならないほど大きな効果を得ていたのである。大砲はいわば、正規軍において象の代りをするものである(これは古代史を知っている者が容易に認めるところである)。

(b)これらの象の祖先はカルタゴ人ハンニバルや、
わがローマの大将たちや、
またエピルスの王に仕えたり。
彼らはその背に歩兵をのせ
騎兵隊のごとくに駈けめぐれり。
(ユウェナリス)

(a)確かに人は、心からこれらの動物の忠実と理知とを信じたればこそ、彼らに前衛を委ねたのに違いない。彼らの体躯はあのとおり大きく重いのだから、ちょっとでも立ち止ろうものなら、またちょっとでも恐怖にうたれて頭を味方の方に向けようものなら、それこそ万事おしまいではないか。我々の間ではよく起ることだが、彼らが味方の部隊に向って駈けよせたなどという話は、まず聞いたことがない。人は戦闘において、彼らに簡単な機動部隊を受けもたせたばかりでなく、いろいろな部署を幾つも受けもたせた。(b)ちょうど、スペイン人が新たにインドを征服するに当って犬どもにそれをさせたように。彼らは犬どもに給与を払い、分捕品もわけてやった。犬の方でも器用と判断とをつくして勝利を追求確保し、場合に応じて或いは攻め或いは退き、味方と敵との区別をするとともに、熱烈に勇猛に働いた。
 (a)我々は普通の事柄より見なれない事柄を嘆賞し尊重する。いやそうでなければ、わたしだってこんなに長たらしい記録なんかはしなかったろう。まったくわたしの考えでは、人がもし、我々がふだん我々の間に生きる諸動物についてその生態をくわしく観察するならば、同じように驚嘆すべき事柄はいくらでも目につくのであって、何も外国や他の世紀にそれを採集にゆくまでもないのである。(c)いつも同じ自然がその道を歩いているのである。その現在の状態を十分に判断できる者は、それから確実にあらゆる未来とあらゆる過去とを結論することができるであろう。(a)わたしはかつて我々の間に海路を経て遠い国から連れて来られた人々を見たことがあるが、我々には彼らの言葉がすこしもわからなかったし、それに彼らの習慣は、その風態といい服装といい、まったく我々のそれらからはかけ離れていたので、誰一人彼らを野蛮だと見ない者はなかった。彼らがフランス語も知らなければ、我々の接吻の礼も身をくねらせる御辞儀も進退の作法も知らないで、ただおし黙っているのを見て、これを暗愚のせいにしない者はなかった。だがはたして人類は、必ず我々の方ばかりをお手本にしなければならないのであろうか。
 我々は自分たちに奇妙に思われることはすべてくさす。また理解されないこともけなす。それは御承知のとおり我々が動物に対して判断を加える場合によく起ることである。彼らも我々の性質に似寄ったものを沢山に持っているから、そういう性質から、我々は比較によって多少の推測を引出すことができる。けれども彼らに特有の性質ということになると、我々にはてんで何もわからないのである。馬、犬、牛、羊、鳥、その他我々とともに生活する動物の大部分は、我々の声をききわけその声のまにまに引きまわされる。クラッススの八目鰻やつめうなぎもその例にもれず、彼が呼ぶと寄って来た。アレトゥサの泉水に住む鰻もそうである。(c)またわたしは方々の溜池で、中の魚が餌をやる人々のきまった呼び声に応じて泳ぎよって来るのを見たことがある。

(a)彼らはそれぞれに名をもち、各々
主人の呼び声に応じて泳ぎよりき。
(マルティアリス)

この程度のことなら、われわれにも判断がつく。我々にはまた、象が多少宗教心らしいものを持っていることも理解できる。なぜなら、彼らが幾度もその身を洗い清めた後、我々が腕をさしのべるようにその鼻を高くさしあげ、眼には昇る朝日をうち拝みながら、一日の内のある時刻に、全く自発的に、誰に教えられたのでも命ぜられたのでもなく、長く瞑想静観にひたるのを見るからである。けれども、他の諸動物にこれに類するものが少しも見られないからといって、彼らを無宗教であるとは断言できないし、我々の眼に留らないことはどうにも解釈のしようがないのである。我々が哲学者クレアンテスの認めたつぎの行為の中に何事かを悟るのは、それが我々の行為と似ているからである。「見ると」とクレアンテスは言っている。「ありどもが一匹の蟻の死体をかついで、彼らの巣からもう一つの巣の方へと出かけてゆく。するとその中からまた沢山の蟻が出て来て、さも彼らと談判するかのように彼らを迎えた。そして、ややしばらく一緒にいた後、はじめの蟻どもは、恐らくその同胞と相談をするためだろう、再び自分の巣に戻って行った。そして、談判がむつかしいと見えて二、三回そういう往復を重ねた末、ついに後に現われ出た蟻どもが前の蟻どもに、自分たちの穴から、死体の身代金のつもりであろう、みみずを一匹持って来てわたすと、はじめの蟻どもは、死体を相手にのこしたまま、そのみみずを背負って自分たちの穴に帰っていった」。以上がクレアンテスの与えた解釈であるが、これは声のない動物でもやはり相互に意志の交流を行っていること、我々がこれにあずかり得ないのは我々の欠点であること、我々がそれについて勝手な判断をするのは、だから、愚かな話であること、を証して余りがある。
 さて動物は、なおこの他にもいろいろ我々の能力を遙かに凌ぐ行為をし出かす。我々は模倣によってこれに達することができないばかりか、想像によってこれを思いいだくことすらできないのである。多くの人が信ずるところによると、アントニウスがアウグストゥスと戦って破れたあの最後の大海戦において、彼が乗っていた旗艦は、疾走の最中に、ローマ人がレモラとよぶ小さな魚によって動けなくなった。この魚には、それにぶつかるすべての船をとめるという特別の性能があったからだ。また皇帝カリグラが大船隊をひきいてロマニアの海岸を漕いで行ったときも、彼の乗っていた船だけが、やはりこの魚によってぴたりと止められた。彼はそれが船底にへばりついているのを捕えさせた。そんなちっぽけな動物が、ただその口で彼の兵船に吸いついただけで(まったくそれは貝殻をしょった小さな魚なのである)、波をも風をもあらゆるかいの力をもとどめ得たということが、いかにもいまいましかったからである。ところがそれが船内に持ってこられたのを見てまたも驚いた。まったく無理のない話である。それはもう、外にあったときのような力をまるで持っていなかったからである。キュジコスの一市民は、むかし針鼠はりねずみの習性を研究して天気予報の名人という評判を得た。この針鼠というやつは、その穴のいろいろな場所に、いろいろな風にむかい、沢山の穴をうがっていて、風がやがて吹いて来そうなのを知ると、その方角の穴をふさぐからである。つまりその男はそこに目をつけて、これからどっちの風が吹くかをはっきりと市民たちに予言したのである。カメレオンは自分がいる場所の色を取る。けれども章魚たこは、或いは敵を避けるために、或いは求めるものを得るために、その場合場合によって自分の欲する色を取る。カメレオンにおけるは受け身の変化であり、章魚におけるは働きかけの変化である。我々も恐怖・憤怒・羞恥などの感情によって多少は色を変える。例えば顔の色をかえる。けれどもそれは、カメレオンにおけるように受け身の働きである。黄疸おうだんには我々を黄色にする力が確かにあるが、それは我々の思いどおりになるわけではない。さて、我々が他の動物において認めるこれらの働きは、我々の性能よりはずっとえらいもので、彼らには、我々には秘められた何かずっと優秀な能力があることを証している。どうも彼らは、なおこの他にも、(c)その存在が少しも我々にうかがい知られぬ(a)いろいろな性能を持っているらしい。
 昔のいろいろな予言の中で、最も古くて確かなのは、鳥の飛び方から引き出されるそれであった。世に、これほどのもの、これほどすばらしいものが、果してあるだろうか。人はあの規則正しい翼の動かし方から将来の事柄を予言するのであるが、この鳥の翼は、きっと何か特別優れた力に導かれて、このように高尚な働きを示すのに違いない。まったく、こういう偉大な結果を何か自然の本能みたいなもののせいにして、これを提示する者の英知や同意や理性を考慮に入れないのは、浅薄な解釈である。それは明らかに誤った考え方である。その証拠には、痺鯰しびれなまずはこんな性質を持っている。彼はただこれに触れるものの四肢をしびれさせるばかりではない。投網や地曳網を通じて、これらを持ち扱う人の手先にまで、重いしびれを感じさせるのである。いやそれどころか、人の言うところでは、それに上から水を注ぐと、人はその水を通じて、痺れの感触が手もとまでさかのぼってくるのを感ずると言う。この力は不可思議であるが、痺鯰にとっては無益ではない。彼はこれを意識して用いる。つまり、求める餌を捕えようとすると、彼はまず泥の下に身をかくし、その上を泳ぎまわるほかの魚どもが、そのひやりとした痺れを感じて彼の権力下に落ちるのを待つ。鶴、燕、その他の渡り鳥も季節に応じてその住まいを変えるから、彼らが自分の予測的性能を意識して、それを実用に供していることがかなりよくわかる。猟師たちは我々に断言する。「幾匹かの子犬の中から最良のものとして残しておくべきものを選び出すには、ただ母犬に自ら選ばせればよい。つまりその小屋の中から子犬どもを運び出して見せて、彼女が一番先に運び帰るものが常に最良のものであろう。或いはまた、犬小屋の四方から火をつける真似をして見せ、彼女が第一に救い出そうとするのが最良のものであろう」と。してみると彼女たちは、我々が持たない予知の習性を持っているのか、或いは我々のとは異なった・より強力な・子供らに関する判断力をもっているものらしい。
 動物の生れ方・殖え方・食べ方・動き方・働き方・生き方・死に方は、我々のそれらとあんなにもよく似ているのだから、我々が何でもかでも彼らのうちのもろもろの動機から切り離して、これを彼らの性質よりもすぐれた我々の性質に結びつけてしまうのは、どう考えても我々の理性の判断から出たものとはいえない。我々の健康の規則として、医者たちは我々に動物の生き方在り方を手本にせよと教える。まったく、つぎの諺はつねに人口に膾炙かいしゃしている。

脚と頭とを温かにし、
いつも畜生のようにお暮し。
(フランスの諺)

 生殖は自然的行為の主要なもので、我々の四肢の配置はそれを行うのに最も都合よくできている。けれども医者は、動物の姿態に習うことを一番効果的だとして我々に命じている。

女みごもるに最もふさわしき姿態は、
四足獣のそれなりと人は言う。
胸低く腰高ければ種子おのずから達すればなり。
(ルクレティウス)

そして婦人が勝手にそこに交えた、あのぶしつけな・厚かましい・挙動を有害だとしてくさし、動物の牝の、もっとおとなしく・落ちついた・仕方にならえという。

女が快感にあおられてする嬌態は
妊娠の妨げをなすものなり。
女はかくしてすきをしてうねはずせしめ、
種子をいたずらに外にこぼれさす。
(ルクレティウス)

 もし受けた恩をその人に返すことが正義であるとすれば、その恩人に仕え・これを愛し・これを守って・これを脅やかす外敵を追い傷つける・動物は、ただそれらの点においてだけでなく、その子供たちに財産をわけるに当ってはなはだ公平に平等を守るという点でも、かなり我々の正義に似たところを見せている。友愛にいたっては、人間のそれとは較べものにならぬほど強くて変らないものを持っている。王リュシマコスの犬ヒルカヌスは、その主人が死んだとき、いつまでもその枕べを去らず、飲もうとも食おうともしなかった。そして主人の死骸が焼かれるという日には、駈けて来てその火の中に飛びこみ焼け死んだ。ピュロスという人の犬もまたそうだった。まったくこの犬もまた、主人が死んでからずっとその寝台の下を去らず、死骸が運ばれるときには諸共にかついでゆかれ、ついに同じ火に焼かれて死んだのである。ある種の愛の傾向が、ときに理性の同意がないのに我々のうちに生れ出ることがあるが、それは他の人々が共感と呼びなす偶然の気まぐれから生ずる愛情であって、動物もまた我々と同じようにそれを持っている。馬同士がいやに仲よくなってしまって、彼らを別々に暮させたり・旅をさせたり・するのに世話がやけて困ることがある。我々がよく見ることだが、彼らは仲間のある毛色にほれこむ。我々がある種の容貌に迷うように。彼らはそういう毛色にぶつかると、いかにも喜ばしげに、こぼれるばかりの愛嬌を示しながらそこにかけよる。そして他のものをいといきらう。動物にも我々と同じようにその恋愛において好き嫌いがあり、どうやらその牝を選ぶらしい。彼らにもまた、極度の・とうてい融和できない・嫉妬やそねみなどがないではない。
 欲望には、飲食のように自然で必要なものもあれば、雌との交わりのように、自然ではあるが必ずしも必要でないものもあり、またまったく自然でも必要でもないものもある。この最後の部類に、人間の欲望のほとんど全部がぞくしていて、それらはすべて余計な人為的なものである。まったく、自然がどんなに僅かなもので満足しているか、どんなに僅かなものだけを我々に欲望させているか、それは不思議なくらいである。我らの料理法も、自然の法規とは何の関係もない。ストア学者は言っている。人一人は自ら養うのに日にオリーヴが一つあればたりると。我々のぶどう酒の甘美も自然が教えたものではなく、恋愛の欲望に我々がつけ加えるおまけもまたそうである。

自然は権力ある執政の娘を必要とせず。
(ホラティウス)

これら自然に由来せぬ欲望は、幸福に関する無知とまちがった考えとが我々の間に注ぎこんだものであるが、それは大変な数にのぼるので、ついに自然な欲望のほとんど全部を駆逐するに至った。それは一つの都市の中に異人の数があまり多くなると、ついに土着の住民を追い出したり、彼らが昔から持っている権力権威をことごとくうばいとって、それらを跡形もなく消滅させてしまったりするのと、少しも異なるところはない。動物は我々よりもずっと規則にかなっている。そして、より多くの節制をもって、自然が万物に課した限界の中にとどまっている。けれども、我々の放埓ほうらつに少しの類似も持たないというほど、きちょうめんにやっているわけでもない。だから、狂暴な欲望が人間を駆って動物の愛に走らせることがあるのと全く同様に、動物もまた、ときにわれわれ人間を恋慕することがあるし、また異種の動物同士の不自然な愛情に耽ることもある。アレクサンドリア市における若い花売娘の愛を、文法家アリストファネスと争った象はその一例で、彼は熱烈な求愛者としての奉仕において少しもアリストファネスにまけていなかった。まったく彼は、果物を売っている市場の傍を通っては鼻の先でその幾つかを取りあげ、それらを娘にささげた。彼はできる限り彼女を見失うまいとしたし、ときには鼻の先を彼女の襟あきから懐ろにさし入れてその乳房をさぐった。人々はまた、娘に恋した竜の話や、アソーポス市の少年に恋した鵞鳥の話や、また漂泊の女歌手グラウキアの下僕となった牡羊の話をするし、狂気のように女たちを追いまわす猿などは、我々が毎日目にするところである。それからある動物の雄は、同性愛に溺れるではないか。オピアノスやその他の人々は、いくつかの例を挙げて動物もその婚姻関係において父母を尊んでいることを物語っているが、経験は往々にして我々にその反対の事実を見せる。

牝牛はその父に身をまかせて恥じず、
牝馬もまたその父と交わる。
牡山羊はその子たる牝山羊とつる
鳥はその産みたる鳥と交わる。
(オウィディウス)

 わる知恵にかけてはどうか。哲人タレスの騾馬のそれほど顕著なものはあるまい。そいつは塩を背負って川を渡る途中、たまたまつまずいてしょっていた袋をしたたかに濡らした。気がついて見ると、おかげで塩はとけ荷はおそろしく軽くなっている。それ以来彼は、川に行きあうごとに必ず荷をしょったまま水の中につかった。しまいに主人がその悪意を見抜き、これに毛糸をしょわせた。そこで計略もあてがはずれたので、それからは詭計を用いなくなった。なかには我々の欲深の姿を、そっくりそのままに示しているやつも沢山ある。まったく見ていると、彼らは非常な注意を以て物を手当りしだいにかすめとり大切にしまっておく。別段それを何の役に立てるわけでもないのに。
 家政に関しても、彼らは我々より優れている。それはただ将来のために貯蓄をするという遠いおもんぱかりにおいてだけではない。彼らはそれに必要ないろいろな学識を沢山にもっている。蟻どもは穀粒などがびてすえてくるのを見ると、腐らせては大変だというのでそれらを穴蔵の外にひろげ、風をあて、さぼし、乾かす。けれども彼らが麦粒をかじるときの用心用意にいたっては、人間のいかなる深謀熟慮をもはるかに凌駕している。麦粒はいつまでも乾燥したままそっくりしてはいないから、いややがて軟らかくなり乳のように溶けて、しまいにはそこから芽を出すようになるものだから、彼らは麦粒が苗になり、その性質を失い、彼らの餌として貯蔵するにたらなくなるのを恐れて、それが芽となって出る部分をあらかじめちょっぴりかじっておく。
 戦争にいたっては人間の行動のうち最も勇壮なものであるが、はたして我々は、これを以て何かの優秀の根拠にしようとする気なのか、それとも反対に、人間の弱さと不完全との証拠にしようとする気なのか、知りたいものだ。まったく正直のところ、お互いに打ち合い殺し合い、自分の種族を滅亡させる学問などは、これをもたない畜生どもを口惜しがらせるにたるものではないと思う。

(b)いつ獅子は、己れより弱き獅子の命を奪いたるや。
いかなる森にて、猪、より強き猪の牙の下に息絶えしや。
(ユウェナリス)

(a)けれども彼ら全部がそれを知らないのではない。例えば蜜蜂の激しい合戦で、敵味方の大将があいうつ壮観を見たまえ。

二女王の間にしばしば激しき争いおこる。
思え、そのとき、両軍の士気いかにあがり、
戦いいかに白熱するかを。
(ウェルギリウス)

わたしはこの神々しい描写を見るごとに、そこに人間の無能と虚栄とが描かれているな、と思わないことはない。まったく、我々がそのこわさ恐ろしさにきもをひやす・あの物すごい・戦場の混乱や、あの音響と叫喚とのあらしや、

(b)刀槍の光天に閃き
銅砲の光野面にあふれ、
つわ者の足下に大地は鳴り
おめき叫ぶ声山々にこだます。
(ルクレティウス)

(a)あんなにおおぜいの狂暴で勇猛な鎧武者よろいむしゃから成るあのいかめしい隊列や、またそれらがいかにつまらない機会によって騒ぎ立ち、いかに軽微な機会によって終りをつげるか、などを考えるとおかしくなる。

聞くならく、かのパリスの恋こそ、
ギリシアの国と蛮民との間に、
激しき争いを巻き起したるなれ。
(ホラティウス)

全アジアはただパリスの邪淫のために戦争に突きいり、崩壊滅亡した。一人の男のそねみや恨みや快楽や夫婦の間の嫉妬なんかは、二人のにしん売りの女に引っ掻きっこをさせるにもたらない原因だが、それがあの大騒動の中心であり動機なのである。その主動者でも原因でもあったところの人々の言うところを本当にしようか。かつてあったもっとも偉大な・もっとも勝ちほこった・そして・もっとも強大な皇帝は一体何といったか。彼は地上または海上において交えた沢山の苦戦、彼と運命を共にした五十万の人の血と命、彼の企図のために使い果された二カ国の力と富とを、きわめておかしく、きわめて気のきいた言葉で、わらいのめしているではないか。

アントニウスがグラフュラに接吻したりとて、
フルウィア来りてわれに「接吻くちづけせよ!」と言いぬ。
「フルウィアよ、いかでかわれ、おん身に接吻せん?
そはアントニウスの罪にしてわが知るところならず。
マンニウスわれに迫ればとて、いかで、
われ彼を抱かん。否!」
「愛せよ! しからずんば戦わん!」と重ねてフルウィアは言えり。
よし、さらば戦わん! 男根こそ、生命よりもまされり!
らっぱ手よ、吹きならせ!
(皇帝アウグストゥス)〔マルティアリスによる〕

(私は平気で遠慮なしに、いつものラテン語を使用致します。あなたはさきにそれをおゆるし下さいましたから)。
* モンテーニュがこの「弁護」の章を献呈した相手の貴婦人を指す。それが誰であるかはかなり問題になったが、今ではナヴァール王妃マルグリット・ド・ヴァロワ Marguerite de Valois(アンリ四世の最初の妻)ということに決定している。この章の解説および巻末の年表、私の『モンテーニュとその時代』第四部第四章四一九―四二七頁等参照。献呈の辞はずっと後(六五八頁)に出て来る。なお、モンテーニュのこの弁解は何のためであろう。貴婦人に向ってラテン語を引用することが衒学的であることを詫びるのであろうか。それとも、ここに引用されているマルティアリスの句が猥褻わいせつであることを詫びるのであろうか。
 さて、さまざまな形と運動とを持ち・天地を脅威するかに見える・あの大軍団も、

(b)冬再び帰り来てオリオンそこに浸るとき、
リビアの海に千波万波の立ちさわぐがごとく、
夏来りて、若き太陽に燃ゆる麦の穂の、
或はヘルムスの・或はリビアの・野にそよぐがごとく、
楯は戞々かつかつと鳴り踏まるる大地は震動す。
(ウェルギリウス)

(a)あまたのひじとあまたの頭とを持つあの恐ろしい怪物も、畢竟ひっきょう、弱く惨めで哀れな人間なのだ。いきり立ち騒ぎたてる蟻の群、

野づらを進む黒き一隊、
(ウェルギリウス)

にすぎないのだ。一吹きのむかい風、飛び立つ一群の烏の叫び、一匹の馬のつまずき、ふと飛んですぎる一羽の鷲、夢、声、人影、朝霧、いずれもその怪物を地上に転倒させるに十分である。その顔にただ一筋の日光をあてよ。彼はたちどころに溶けてなくなる。風が起ってその眼にわずかな砂を吹きつけようか。ウェルギリウスの歌った蜜蜂の場合のように、我々の旗もちも軍隊もことごとく、いや陣頭にあの大ポンペイウスを戴いていても、たちまちにして崩れ果てるであろう。まったくこのいみじき武器でもってセルトリウスがイスパニアでやっつけたのは、他ならぬこの大ポンペイウスであったらしいのである。(b)この武器は、他の人々にもまた利用された。例えばアンティゴノスに対してエウメネスに、クラッススに対してスレナスに、利用された。

(a)この大いなる怒り、この恐ろしき戦いも、
ただ僅かなる砂ほこりによりて静められき。
(ウェルギリウス)

 (c)後ろから我々の蜂どもでもよい、おっぱなして見たまえ。これまた大軍を潰走させるだけの力と勇気とを示すであろう。なお記憶に新たなところでは、ポルトガル人がクシアティムの領内にあるタムリ市を囲んだときのこと、市民たちは、その豊かに持っている蜂の巣を城壁の上高く運び上げた。そして、これに火をはなち巣の中の蜂を非常な勢いで敵に向って飛ばせたので、敵はこの攻撃・その針の痛さ・に堪えかねて潰走した。じつにこの前代未聞の援兵によって、彼らの都市の勝利と自由とは保たれたのであった。しかも幸運なことには、戦いが終るとそれらの蜂は、ただの一匹も失われずに帰って来たのであった。
 (a)皇帝の霊魂も靴屋の霊魂も、同じ鋳型で鋳られたものである。彼らは王侯の諸行為の重大さを見て、それらもまた何か同じように重大な原因から産み出されたかのように思いこんでいるが、とんでもないことだ。彼らもまたその運動において、まったく我々と同じばねによって押されたり引張られたりしているのである。我々が隣の人と喧嘩するのと同じ理由で、王侯は互いに戦いをかまえる。我々に下男をぶんなぐらせるのと同じ理由が、ふとある王様の心のうちにおこって、彼に全一州を攻め滅ぼさせる。
(b)彼らも我々と同様に軽々しく意欲するのであるが、そのなすところはより大きい。(a)同じ欲望が、だにシロン**と象とを動かしているのだ。
* この句は一七九二年に革命家の新聞 Journal des sans-culottes の標語にされた。
** Ciron 後にパスカルのパンセの中にも出て来る。従来「だに」と訳されているが、チーズや穀粉や砂糖の中などに生ずる極微なるうじ虫。
 忠義に関してはどうか。世に人間より不忠な動物はないのである。我々の歴史の本は、幾多の犬がひたすらその死んだ主人の仇敵の跡をおいかけたことを物語っている。王ピュロスは一匹の犬が死人の番をしているのに出あい、その上その犬がこの役をすることすでに三日であると聞き、まず死体を埋葬するようにと命じた後、その犬を連れて帰った。さてある日のこと、ピュロスがその軍隊の大閲兵式に臨むと、その犬は、ふと旧主人を殺した者どもを認めて大いに吠えたけり、怒りの形相すさまじく彼らめがけて飛びかかった。そして、この挙動をきっかけとし、ついに旧主の仇討に成功した。というのは、間もなくそれは司直の手によって行われたからである。賢者ヘシオドスの犬もまた、これと同じことをした。ナウパクトスのガニストルの息子たちが自分の主人をあやめた当の下手人であることを確証したのだから。またある犬はアテナイのとある神殿を守っていたが、不敬な盗賊がそこから最も立派な宝物を盗み出そうとするのを見ると、せいいっぱいに吠えたてた。けれども宮守たちがなかなか目をさまさなかったので、自ら盗人の跡をつけた。やがて夜が明けたので、すこし離れたところに坐って、盗人から片時も目を離さずに見張っていた。彼が食物をくれても食べようとしなかった。そのくせ、道でゆきあう他の人々に対しては尾をふって甘え、彼らの手からは食べ物を貰って食べた。盗人がとどまって眠ろうとすれば、彼もまた一緒に同じ場所にとどまった。この犬の評判はやがて宮守たちの耳に達したので、彼らは犬の毛色をたよりに情報を求めつつ、この跡を追った。そしてとうとうクロミヨン市で彼及び盗人をみつけ出し、もろ共にアテナイ市に連れかえった。盗人はそこで罰せられた。裁判官はこの犬の忠節をほめ、人民からは彼を養うべき麦数斤を献上させ、神官に対しては長くこれを愛育するように命じた。プルタルコスは、この話を彼の時代に本当にあったことだと証言している。
 感謝に関しては(まったく我々は、こんにちこそ特にこの言葉を大切にする必要があると思うのである)、つぎの実例を一つ挙げれば十分であろう。それは、アピオンが自ら目撃した事実として物語っているものである。ある日のこと(と彼はいっている)、ローマで、人民のために、もろもろの外国の獣との・特に体の法外に大きな獅子との・格闘会が催されたが、なかでも一頭の獅子が、その獰猛な態度により、また四肢が逞しく強そうでえ声も高く恐ろしげなところから、特に人々の目を集めていた。そのとき、これらの猛獣と戦うための奴隷が幾人も人々の前に引き出されたが、その中にダキアのアンドロドスといって、執政の高い位にある一人のローマ貴族に仕えている者があった。くだんの獅子は遠くからこの者を認めると、さも驚きあきれたように、まずひたとその歩みをとめた。それから、あたかもお互いに認識し合おうとするかのように、いかにもおとなしく静かに、そっと彼に近づいた。そうやっていよいよ彼だということを確かにすると、ちょうど主人にびる犬のように尾をふり出した。そして、恐怖のために縮み上っているその可哀そうな男の手や股をなめずり出した。アンドロドスも、そうした獅子の愛撫のためにやっと正気にかえり、気を静めてじっと見ているうちに、やがてとうとう思い出した。まったく、彼らが互いに撫であい喜びあう有様は、よそ目にも誠にたのしいものであった。人々はこれを見て歓喜の叫びをあげた。皇帝もその奴隷を召しよせられ、この不思議な出来事のわけをお尋ねになった。彼はつぎのようなめずらしい感ずべき物語を申上げた。
「主人が」と彼は言った。「かつてアフリカに地方総督であったとき、私は毎日のようにむごく打ちたたかれますので、そのつらさに堪えかねてとうとう彼の許をのがれ去りました。そして、その地方においてあれほどの威勢を持っていた主人から安全に身を隠すためには、まずさびしいところ・人影のない砂ばかりの地方・に逃れるのが一番近道だと考えました。もし命をつなぐ方法がなくなったならば、その時は、どうにでもして自ら死ぬまでだと、心に思い定めたからでございます。太陽は昼にかかりますと申しようもなく激しくなり、暑さはいよいよ堪えようもありませんので、とある片蔭に、人の近づきにくいほら穴があるのを見つけ中にかくれました。すると間もなくこの獅子が立ち現われたのでございます。傷つき血にまみれた片足を引きずって、その痛さにうめき啼きながら。彼がやって来ましたとき、私は大いに恐れました。けれども、彼の方では、私が彼の住いの片隅に小さくなっているのを見て、ごく静かに私の傍に来て、その傷ついた足を差出し、まるで助けを乞うかのようにそれを私に示したのでございます。私はそこにささっていた大きなとげを抜いてやりました。そして、やや彼に慣れてきましたので、傷口をおして、つまっていた汚物を取り除き、できるだけ奇麗に拭いきよめてやりました。彼はやがてこうして痛みが軽くなり楽になってきますと、そのまま、足を私の両手にあずけたまま、眠ってしまいました。それ以来彼と私とは、まる三年の間、その同じ穴の中で同じ食物をわけ合って暮したのでございます。まったく、彼が狩に出て獲物を殺しますと、その一番よいところを私に持って来てくれました。私はそれを、火がありませんから天日に焼いては食べました。そのうち長い間に、私もこの野蛮な動物的な生活にあきて参りましたので、獅子がいつものように狩に出ている間に、そっとそこを立ち出ました。そして三日目に兵士に捕えられ、アフリカから当市の、まえの主人の許につれ戻されました。主人は立ちどころに私に死刑を言い渡し、このように獣に食わせようとしたのでございます。さて私の考えるところでは、獅子の方もその後ほどなく人の手につかまえられたのでございましょう。今はこうして、かつて私のために傷をなおしてもらった恵みに報いようと思ったのでございます」。
 以上はアンドロドスが皇帝に物語ったところであるが、それはまた人民にもつぎつぎに語り伝えられた。それでみんなが哀れがって彼のために命乞いをしたので、彼はついに自由の身とされ刑をも許された。そして、人民の決議によってその獅子を贈られた。それ以来(とアピオンはいう)、アンドロドスが細い紐をつけてその獅子を曳きながら、ローマの居酒屋をめぐり歩いて銭をもらい、獅子が人々から与えられた花でその身を掩われるさまが見られた。そして行きあう人々は口々に、「これこそ人を養った獅子よ。これこそ獅子をやした人よ」と言った。
 (b)我々はしばしば愛する動物を失って泣くが、彼らもまた我々を失ってなく。

次に来れるは彼の愛馬アエトンなりき。
そはその身に飾りをつけず、
滝のごとき涙もてその顔をうるおせり。
(ウェルギリウス)

我々の民族のあるものは妻を共有し、ある民族は各自の妻をもっているが、動物の間でもやはりそうではないか。しかもそこには、我々の結婚よりも良くたもたれた結婚が見られはしないか。
 (a)彼らが相結び相助けるためにお互いの間に作っている連盟結社などはどうか。牛・豚・その他の動物について見てみると、その中の一頭が危害をこうむると、その叫びをきいて全群が救助に馳せ参じ、力を合わせて彼を防衛している。スカールという魚は、漁夫の釣針を呑みこむと、同類がどっと彼の周囲におしよせその糸を切る。万一その一つが網にかかると、仲間のものどもは彼に外部からその尾を貸し、中の奴は一所懸命にそれに食いつく。大勢はそうやって彼を網の外に引張り出してしまう。似鯉にごいは、仲間の一つがつかまると、その糸を自分たちの背中にあてがい、のこぎりのように歯形のついた背鰭せびれでそれをひき切る。
* 原文には l’escore とあるが、le score の誤り。熱帯魚の一種。武鯛。
 我々人間が生きてゆくためにお互いにしあっている特別の義務奉仕にいたっては、これまた同様な実例が彼等の間にもたくさん見られる。人々の断言するところによれば、鯨は進む時には必ず沙魚はぜに似た小魚を先に立ててゆくそうである。それでその小魚はガイドとよばれ、鯨はちょうど大船が舵一つに操られるように、やすやすとこれに操られながらいつもその後についてゆく。その代り、他のすべての物は、生き物といわず船といわず、皆この怪魚のおそろしい口の中に吸いこまれたら最後、たちまちにその腹を肥やしてしまうのに、この小魚ばかりは鯨の口中に安全に入りこんでそのまま眠る。その眠っている間は鯨も動かないが、彼が飛び出すや、さっそくその後についてゆく。どうかしたはずみにこれにはぐれると、鯨はあちこちと迷い歩き、往々にしてあたかも舵なき船のごとく岩にぶつかる。これはプルタルコスがアンティキュラ島において実際に見たことなのである。同じような提携は、鷦鷯みそさざいという小鳥と鰐との間にもある。鷦鷯はこの大きな動物に対して見張りの役をしている。そして彼の敵マングースが彼を襲おうと近づくと、彼が眠ったままやられては大変と、飛んで行ってその歌と口ばしとで彼を目覚まし、危険を告げる。その代り鷦鷯は、この怪獣の食べ残しで生きている。鰐は彼を親しげにその口中に迎え入れ、あごの中・歯の間・を勝手につつかせ、そこに残っている食物の残りかすを拾わせる。その口を閉じようと思うときは、彼をおしつぶしたり傷つけたりしないように、まず少しずつこれを狭めて、外に出ろと教える。真珠母といわれる貝もまた、貝番とそのようにして一緒に暮す。貝番というのはえびに似た小動物で、真珠母に対して門衛門番の役をするものである。つねに半ば開いているその入口に坐り込んで、何か自分たちが捕えるにたるような小魚の入って来るのを待つ。まったく、何かの魚が真珠母の中に入ったと見ると、自分も急いで中に飛び込み、真珠母の肉をつついてその殻を閉じさせる。それから、ふたり仲よく奥に閉じこめた餌をたべる。
 まぐろの暮し方を見ると、不思議にも彼が数学の三科を知っていることが認められる。星学については、それを人間に教えているくらいである。まったく彼らは、冬至に出あったその場所にとどまって、次の春分が来るまではそこを動かないのである。そういうわけで、アリストテレスまでが進んでこの学問を鮪に譲っている。幾何学や算術も巧いもんだ。彼らはいつもその隊伍を正立方体に作る。そして、全等形の六面をもってとじ囲まれた立方陣を作る。それから、前衛も後衛も、同じ幅の方形の序列をもって泳ぐ。だから、その一面を見て数えるならば、全員の数を勘定することも容易である。何となれば、深さは幅に、幅は高さに、等しいからである。
* 数学はむかし算術・幾何・星学の三科を含み、或いは音楽を加えて四科となることもあった。
 気宇の高大ということでは、あのインドから王アレクサンドロスに送られた大犬の事跡において、最も顕著にその実例を見ることができる。人は最初、その前に鹿を出してこれと戦わせようとした。次に猪を、それから熊を出した。彼はそれらに眼もくれず、坐ったまま動こうともしなかった。けれども獅子を見ると、すぐに立ちあがった。これこそ始めてわが敵とするにたるといわんばかりに。
 (b)悔悟や過失の認識については、人は或る象の場合をあげる。彼は憤りに駆られて自分の飼養係を殺してしまったが、やがてそれをいたみ悲しんだ末、ふっつりと食を絶ってついに死んだそうな。
 (a)慈悲の深さについては、人はある虎の話をあげる。虎といえば畜生のなかで最も無残なやつだが、その虎は、山羊の子を与えられても、二日間ひもじいのを我慢して敢えてこれに危害を加えようとせず、三日目には自分の閉じこめられていたおりをこわしてほかの食物を捜しに行った。つまり、自分になれ親しむ・お客さんのような・小山羊に食ってかかりたくなかったのである。
 それから、交際の間に出来あがる親密和合のおきてにいたってはどうか。我々が猫・犬・兎・などを一緒に馴らすのは日常普通のことである。けれども海を、とくにシチリアの海を、航行する人々が、かわせみの性質について実際に学んだことこそ、あらゆる人間の想像を超えている。一体いかなる種類の動物について、かつて自然がこれほどまでに出生分娩を尊んだことがあったか。まったく詩人たちはちゃんと言っている。デロス島は、以前はただよえる浮島であったが、ラトナの出産のために動かない陸地にされたのだと。だが神様は、かわせみがその子を産む間を通じて(それはちょうど一年中で一番日の短い冬至の頃に当るが)、大海全体をぎ静まらせ平らかにして、波も風も雨も起させなかったのである。そして、かわせみが持つこの特権のおかげで、我々は冬の最中に、七日七夜、危険なく航海をすることができるのである。彼らの雌どもは、自分の雄以外の雄をみとめず、終生これに侍してこれを捨てることがない。雄が老いかがまると、これを肩に負い、あちらこちらに連れゆき、死にいたるまでこれに仕える。けれども、いかに才能ある人も、今までのところ、まだかわせみがその子のために巣をつくるときに用いる、あの立派な建築術を学びとることはできなかった。いやその材料を推測することさえもできなかった。プルタルコスは、それを沢山眼にも見たし手にも取ったが、こう考えている。「それは何かの魚の骨を一緒に組み合せたものであろう。それらをあるいは横にあるいは縦に組み、さらにその角々すみずみをとって丸くし、ついにいつでも漕ぎ出せるような舟の形にしたものであろう」と。それからかわせみは、これを作り上げてしまうと波うち際に持ってゆく。そこで、ごく軽く波にうたせながら、そのよく結び合されていない箇処を修理し、その骨組の波にうたれて崩れこわれそうな所を補強することを学ぶ。反対によく結合されていれば、波にうたれているうちにますます堅固になり、石でうっても金槌かなづちでたたいても、よっぽど骨を折らなければ壊すことができないくらいになる。それに最も感嘆すべきことは、内側の丸味の釣合恰好である。まったく、それはこれを造った鳥の体以外のものははいれないように、しっくりと造られているのである。まったく、他のものはどうしても中にはいることができないのである。海の水さえ入り得ないほどに、ぴったりと閉っているのである。以上は、この建造物に関する最も明瞭な叙述で、しかも確実な書物から借用したものであるが、それにしてもまだ、この建築の秘密を十分我々に明らかにしてはいないように思う。さて、この我々が模倣することも理解することもできない事柄を我々の下位に置き・それらを侮蔑的に解釈しよう・とする考えは、そもいかなる虚栄から出て来るのであろうか。
 さらにもう少し先まで、我々と動物との間の照合比較をおし進めてみようか。我々の霊魂は、自分の思い抱くすべてのことを自分の標準で考え、自分の許に生ずるすべてのものから死すべき肉体的な性質を除外し、自分の親しむに値すると考える事物からその腐敗しやすい性質を脱却させ、それらから、まるで余計な厭うべき衣服をぬぐかのように、厚み・長さ・深さ・重さ・色・匂い・ざらざら・なめらか・堅さ・軟らかさ・など感触しうるすべての偶有性アクシダンを捨てさせて、それらをみな不滅で精神的な自己の性質にかなわせる。例えば、わたしが霊魂のうちにもつローマやパリ、わたしが想像するパリ。わたしはそれを、大きさもなく位置もなく、石も漆喰も木材もなしに、想像し理解する。そして実にこういうことこそ、人間の特権なりと誇るのであるが、そんな特権ならば、それは動物にも明らかに認められるように思われる。まったく、ラッパの響や鉄砲の音や戦闘などになれた馬は、その寝わらの上に横たわり眠りながら、まるで戦場にいるときのように、武者ぶるいするではないか。確かに彼はその霊魂の中で、音もしないのに陣太鼓の響をきき、武器も兵隊もないのに大軍を見ているのである。

まことに逞しき駒が眠りつつ、
その四肢を地上に横たえつつ、
汗し、あえぎ、その筋を張りて
さながら競争に賞を争うが如くするを見ん。
(ルクレティウス)

猟犬は眠っていながら、息をはずませ尾をのばし脚をふるわせて、さながら野に兎をおうような風をすることがあるが、そのとき彼が夢に見るのは毛もなく骨もない兎なのである。

しばしば猟犬は安らかなる眠りの中に
急に四肢を動かし声をあげ、
喘ぐことあたかも獣を追う時のごとし。
時には覚めてもなお、鹿の幻影の
逃げゆくを追ってひたすらに走る。
幻影消えて、始めて彼は、己れにかえるなり。
(ルクレティウス)

 番犬もまたしばしば夢を見ながらうなる。そのうちに本当に吠え出し、はっと目を覚ます。誰か怪しい者が来たのを見たかのように。この・彼の霊魂が見る・怪しい者もまた、霊的な・さわれない・形もなく色もなく存在もしない・人間なのである。

我らが飼える愛らしくもまた忠実なる犬は、
瞼に重きうたた寐を払いのけて、あたかも
怪しき顔を見しかのごとく吠ゆることあり。
(ルクレティウス)

 肉体の美しさについては、その論を進める前に、まずもって我々がその定義について一致した考えをもっているかどうかを、知らねばなるまい。我々は、美とは本質的にまた一般的に何であるかということを、ほとんど知らないというのが本当らしい。現に我々は、我々人間の美しさに対してあれほどまちまちな模型を与えているではないか。(c)これに関してもし何か自然な規定でもあるならば、皆がそろってそれを認めるであろう。火の熱さと同様に。ところが我々は、美の模型を勝手気ままに想像する。

(b)ベルガエにおいて佳しとせらるる顔色は、
ローマにおいては醜しとせらる。
(プロペルティウス)

(a)インド人は、唇が厚くふくれ・鼻が低く大きな・日に焼けて黒い・美人を描いている。(b)そして鼻の障子には大きな金の輪をはめこみ、それを口の所までぶらさげている。それから下唇にも宝石をちりばめた大きな輪を幾つもつけさせるので、それは顎まで垂れさがっている。そうやって歯を歯ぐきまで露出するのが粋だとされている。ペルーにおいては、最も大きな耳が最も美しい耳とされる。だから、彼らは人為的にできるだけそれをひろげる。(c)こんにちなお生きているある旅行家は、「かつて東洋の一国において、この耳を大きくしてこれに重い宝石をさげることが非常に流行するのを見た。わたしはいつも袖をまくらず、そのまま耳たぶにあけられた穴の中に腕を通すことができたほどである」と申された。(b)ある所には丹念に歯を黒く染め・白い歯を見るのを厭う・国民がある。またよそではそれを赤く染めている。(c)女が頭をって奇麗になったと思うのは、バスクにおいてばかりではない。よそにも相当あるのである。しかもそれが、プリニウスの言うとおり、幾多の寒い地方にもあるのである。(b)メキシコの女は、額の狭いことを美人の特徴の一つに数える。そして体の他の部分の毛を皆剃ってしまうのに、額の毛だけは取っておき、骨折ってこれを濃くする。また乳房の大きいことを大いに尊ぶ。肩越しに子供に乳を含ませることができるようにと望むほどである。(a)我々は、むしろ醜女の方をそのように描き示すであろう。イタリア人はぼってりと肥えた女を美人とし、スペイン人はひからびて痩せたのを美人とする。また、わが国においては、ある者は色の白いのを、ある者は浅黒いのを、美しいとする。ある者は楚々そそとしてしなやかなのを、ある者はがっちりと逞しいのを、このむ。ある者は愛嬌があっておとなしいのを求め、ある者はかえってつんとして威厳があるのを好む。(c)それは、一方でプラトンが美における好みを丸顔に寄せれば、エピクロスの仲間はピラミッド型または四角型の方に好みをよせて、神様のお顔を丸顔におとすことに堪えなかったのと同じことである。
 (a)だが、それはともあれ、自然は我々に、この美という点においてもその他の諸点においても、その一般の法則を越えた特権なんぞ与えてはいないのである。いや、我々がとっくり自分を判断するならば、よしある動物がこの点で我々ほどに恵まれていないとしても、我々以上に恵まれているものもまた、ほかに沢山あるのだということがわかるであろう。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)多くの動物は美において我らにまされり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。我々と同じく地上に生きる動物の中にだって、それは沢山ある。まったく、海の中の動物にいたっては(その形はしばらく問うまい。それは我々の形とはとうてい比較ができないほどちがっている)、色合や、清らかさや、つややかさや、しなやかさにおいて、とうてい我々の比ではない。また空の動物にも、我々はすべての性質において、かなわないのである。(a)また詩人たちは、我々の古里である天を仰いでつねに直立して行くことをもって、我々の特権だとたたえているが、

ほかのけだものはおもてを伏せて地上をはうに、
神は人に額を高く上げさせ
天を仰ぎ星に眼を注ぐよう命じたり。
(オウィディウス)

それはいかにも詩人らしい特権である。だって、その眼を天にむけたっきりの小動物だってほかに沢山あるではないか。駱駝らくだや駝鳥の頸にいたっては、我々のそれよりもさらに高く直立しているではないか。
 (c)どんな動物が、顔を高く持たないか。それを前にむけていないか。我々と同じく向うを見ているではないか。そして、その正常の姿勢においては、人と同じくらいに天と地とを見ているではないか。
 いや、我々の身体を構成するどの特質も、プラトンやキケロの書物で見ると、一つとしていろいろな動物に役立っていないものはないのである。
 (a)我々に最もよく似ている動物は、仲間じゅうで一番醜く一番下等なやつである。まったく、その外観や顔つきからいえば、それは猿なのである。

(c)猿は最も醜き動物なれど、
いかに我らには似たることよ。
(エンニウス)

 (a)体内の諸器官からいえば、それは豚なのである。実にわたしは、まっ裸の人間を思い浮べるとき、特に美により多くあずかっていると思われる女性においてさえ、そのさまざまな欠陥やその自然に縛られていること不完全なことを想像すると、我々こそは他のいかなる動物よりも、より多くこの身を掩うべき理由を持っていることに気がつく。そう思うと我々が、この点で我々よりも恵まれている動物からいろいろと借用し、彼らの美をもって自分を飾り、彼らの抜け殻や毛や羽や皮や糸などの下に身を隠すことも、大目に見てもらわなければならないのである。
 それに、われわれはそういう欠陥のために、同類にまでいやがられる唯一の動物であるということ、自然的行為を行うのに同胞の目までも忍ばねばならないただ一つの動物であるということに、注意しよう。誠にこの道の達人が、「色情を抑えるにはその求める肉体を余すところなく見よ」と言ったこと、また、「恋慕の情をさますには、ただその愛するものをまじまじと見さえすればよい」と言ったことは、これまた考察に値する事柄である。

或る人は女の秘めたる処をあらわに見て、
まさに起れる興奮のにわかにさめゆくを感じたり。
(オウィディウス)

もっともこの秘法は、どうやら少々気むずかしい・ひねくれた・気分から生れたもののようだが、それにしても、我々がなれあい知りあうにしたがって互いにあきて来るという事実は、我々の不完全を最もよく示している。(b)わが婦人たちが、いよいよ奇麗にお化粧をすますまで我々が化粧部屋に入ることをあんなに厳しく拒むのも、はにかみのせいというよりはむしろ用心策略なのである。

(a)わが美人たちもこれを知らざるにあらず。さればこそ、
その引きよせんとする人その愛せられんと思う人々に
その生活のあらゆる裏面をばかくさんと苦心するなれ。
(ルクレティウス)

しかるに沢山の動物においては、彼らの物は一つとして我々が愛しないものはなく、我々の感覚をよろこばさないものはないのである。さればこそ彼らの排泄はいせつ物からさえ、我々は御馳走ばかりでなく、最も貴重な装身具や香料までも作り出すのである。
 こういう議論は、ただ我々のうちの平凡な人々にだけ関するもので、決して、往々にして我らの間に見かける・肉体という下界的なヴェールに包まれながらも星のように輝いている・あの神々しい超自然的な・特別の美人までも、そこに含めようとするほど不敬なものではないのである。
 それに、我々と動物とはそれぞれどんな割合において自然の恵みを受けているかというに、正直のところ、彼らの受ける分の方がずっとまさっているのである。我々は、人間の能力が自ら責任を持ちえない想像的幻想的なもろもろの善、将来の・未だ存在していない・もろもろの善を、自分たちの持分としている。或いはまた、我々の考えが勝手にでっちあげたもろもろの善、例えば理性とか学問とか名誉とかいうようなものを、自分たちの持分としている。そして動物たちの方に、手に取り・手に触れうる・本質的な諸善、例えば平和・休息・安全・無罪・健康というようなものを委ねている。ところがこの健康こそ、自然が我々に与えた最も美しく最も豊かな贈り物なのだ。だから哲学が、ストア哲学さえが、あえて言うのである。「ヘラクレイトスとフェレキュデスとは、もし彼らの知恵を健康と取り代えることができ、もしこの取引によって一人は水腫病から・一人は虱瘍病〔しらみ症〕から・救われることができたなら、二人ともうまいことをしたことになるわけだが」と。でもこう言っているうちは、彼ら哲学者たちも、まだまだ知恵に大きな価を与えているのだ。それを健康と比較しているのだから。ところが同じく彼らに言われたもう一つの言葉においては、そうでない。すなわち彼らは、「もし魔女キルケがオデュッセウスに二つの飲み物、一つは愚者を賢くするもの・もう一つは賢者を愚かにするもの・を差出したならば、きっとオデュッセウスは、キルケによって人間である自分の姿を獣の姿にかえられることを承知するよりは、むしろ〔人の姿のまま〕ばかになる飲物の方を取ったにちがいない」と言っているから。また、「知恵そのものさえも彼に向って、『わたしをすてよ。わたしをおいてゆけ。わたしを驢馬の顔や姿の下に宿すよりは』と告げたであろう」とも言っているから。一体これはどうしたことだ? 哲学者ともある者がこの偉大にして神々しい知恵を、この肉体的下界的ヴェールのために捨てるとは? それでは、我々が獣に優るのは、もはや理性によってでもなければ、推理によってでもなく、また霊魂によってでもなくなる。それは我々の美、我々の美しい肌の色、我々の四肢の美しい釣合によることになり、このためには我々の英知をも知恵をも、何もかも捨てなければならなくなる。
 でもわたしは、この正直率直な告白をもっともだと思う。じつに彼らは、我々があんなに誇りとしているこれらの特質が、畢竟ひっきょう空なる想像にすぎないことを、認めたのである。だから、よし動物がもろもろの徳や知識や、またストア的の知恵や能力をもとうとも、それは依然として動物のものであろう。したがって、邪悪で無分別な・憐れむべき・人間には、較べられもしないのであろう。(c)要するに、すべて我々が在るようでない者は、一文の価値もないものである。そこで神様までが自分にはくをつけるためには、やがて申上げるとおり、まずもって人間に似なければならないのである。こう考えてくると、(a)我々が自分を他の動物よりも重んじ、彼らの境遇や仲間から遠ざかるのは、けっして真の理性によってではなく、ばかな自惚うぬぼれと片意地とによってであること明白である。

 だが、話をもとに戻すと、我らは無定見、不決断、不確実、悲観、迷信、未来のことがら、特に死後のことに関する不安、野心、欲ばり、嫉妬、怨恨、無軌道で狂暴で抑え難いもろもろの欲望、戦争、虚偽、不信、中傷、好奇心などを、我々の分として頂いている。思えば我々は、我々が誇りとするあの立派な推理、あの判断し認識する能力を、実にばかばかしく高く買わされたものだ。だってその代償として、我々はあの数限りない情欲に、絶え間なく苦しめられなければならないのだから。(b)せいぜい我々は、あのソクラテスみたいに、「自然は動物に対してその性的快楽に季節と限界とを規定しているが、我々にはいかなる時間いかなる機会にもそれを自由にさせている」ということを、さもすばらしい特権であるかのごとくにうれしがるくらいが関の山であろう。
 (c)※(始め二重山括弧、1-1-52)酒が病人に薬となることはまれなり。むしろ害をなすこと多し。されば、あてにならぬ効果を望みて、病人を明白なる危険にあわせんよりは、むしろ全く酒を与えざるにしかじ。これと同様に、自然は、我々が理性と名づくるかの思考・洞察・発明などの力を、かく気前よく我らに与えんよりは、全くこれを与えざりしが、恐らく人類のために良かりしならん。まこと、小数の者こそその益をうけたれども、大多数の者はかえってその害に苦しめばなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (a)あんなにたくさんの物事を理解したということは、ウァロやアリストテレスにいったいどれほどの果実を与えたというのか。果して彼らはそのために人間の不幸をまぬかれ得たか。荷担人足に襲いかかる幾多の災厄を彼らは免れ得たか。論理学のために痛風がいくぶんか軽くなったか。どうしてこの病気の原因になる体液が自分の身体の節々に宿るのかを知っただけ、それだけそれを感ずることが少なくなったか。ある民族が死を喜んで受けることを知ったために、自分は死と仲よしになることができたか。ある地方では女が共有されていることを知ったために、自分は女房を寝とられてもすましていられるか。どういたしまして! 彼らは知識においての第一位を、一人はローマ人の間で、もう一人はギリシア人の間で、しかも学問の最も花咲ける時代において占めはしたが、さりとてその生涯に何か特別に優れたところがあったようには、ついぞ聞いたことがない。それどころかアリストテレスは、その生涯におけるあの隠れもない汚点を、なかなかに拭いきれないのである。
* いろいろな伝説がある。若い頃破戒無惨であったとか、アテナイ人がマケドニアのフィリッポス王と戦ったときスパイをしたとか。ただし、いずれも実証されてはいない。
 (b)はたして星の学問や文法を知っている者には、快楽と健康とがそれだけ甘いであろうか。

文学の素養なければ男根立たざるや。
(ホラティウス)

恥と貧乏とが幾分か厭わしくないであろうか。

君おそらくは病苦と老衰とを免るべし。
憂いをも悲しみをも覚えざるべし。
長き命と好き運とをもち給うべし。
(ユウェナリス)

とは果して本当だろうか。現代においても、わたしは大学の先生たちよりもかえって幸福そうに見える職人や百姓たちをたくさん見たことがあるが、こういう人たちにこそわたしはあやかりたい。学問は、わたしの考えでは、人生に必要ないろいろなものの間にあって、ちょうど光栄や高位や高官や、(c)いや、せいぜい、美とか富とか、(a)そのほか確かに人生に役立ちはするが、遠くの方から・現実的にではなくむしろ想像によって・それに役立っている、もろもろの特質と同じ程度の席を、占めているにすぎないと思う。
 (c)我々は我々の共同体において、鶴や蟻などが彼らの共同体において必要とする以上の、生活上の義務や規則や法律を必要とはしない。だがそれにしても、彼ら動物は学問なんかないけれども、あのとおりきわめて整った生活をしている。人間も賢明ならば、物ごとの真価を、それらが自分の生活に有用であるか適当であるかによって、判断するであろう。
 (a)もし我々を我々の行為行動によって評価するならば、学者の間によりもむしろ無学な者の間に、より多くの優れた者が見出されるであろう。もちろんそれは、もろもろの徳行において優れた者という意味である。あの古代ローマの方が、自分で自分を滅ぼしたローマよりも、平和の時も戦争の時も、より多くの有徳者をもっていたように思う。他の点は両方全く同じであったにしても、少なくとも清廉と潔白とは、どうしても古代ローマの方に多いであろう。まったく、それらは不思議に単純と共に在るのである。
 だがわたしはここにこの論を打切る。それはわたしを思わぬ遠い所に連れて行きそうだから。ただもう一言、「正しい人を造るのはただ謙遜と服従とである」とだけは言っておきたい。それぞれの義務が何であるかを、それぞれの人の判断にまかしてはいけない。それは彼に命令すべきものであって、彼に勝手に選択させるべきものではない。そうしておかないと、我々の理性や意見は無力で限りなく雑多であるから、しまいには、エピクロスが言ったように、我々は共食いをしなければならないような義務をでっち上げることになるであろう。神が人間に与えた最初の法規は、絶対服従の法規であった。それは簡単明瞭な命令であって、人間はそれに対して何も知ったり論じたりするには及ばなかった。(c)なぜなら、服従こそは天にまします至上至仁なるものを認める理性ある霊魂の、第一の義務であるからだ。服従と譲歩からはあらゆる徳が生れ、高慢からはあらゆる罪悪が生れる。(b)ところがこれに反して、悪魔の側から人間性の上に来た最初の誘惑、その最初の毒は、彼が学問知識について我々に向って約束した※(始め二重山括弧、1-1-52)汝らは善と悪とを知りて神のごとくなるべし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(創世記)という言葉によって、我々の間にしみこんだ。(c)またセイレネスたちは、ホメロスによると、オデュッセウスをだますために、そして彼を自分たちの危険な湖に引き入れるために、彼に学問を贈り物としたのである。(a)人間の病は、「おれは知っているぞ」という思いあがりである。だからこそ、無学ということが信仰と服従とにふさわしい性質として、我々の宗教によってあんなにも推奨されているのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)空しき虚言なる哲学を以て誰にも欺かれざるよう注意せよ。そは人間の伝えと世の小学とに由るものなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(「コロサイ人への手紙」二の八)。
 (a)至上の幸福は霊魂と肉体の安静のうちにありとする点では、すべての派のすべての哲学者が一般的に一致している。(b)だが、その安静はいったいどこにあるというのか。

(a)要するにただユピテルのみ賢者の上にあり。
彼は、富みかつ自由、尊くかつ美わしく、
常に健康に輝きて王者の内の王者なり。
ただときに鼻かぜをひき給うことあるのみ。
(ホラティウス)

自然は我々の悲惨で貧弱な状態を慰めるために、ただ一つ自惚れだけを我々に賦与したというのが、どうやら本当のように思われる。これはエピクテトスが、「人間は自分の意見をふりまわすことの外に、何一つ真に自分のものを持っていない」と申しているとおりである。我々はただ風と煙だけを賦与されているにすぎないのである。(b)神々は、哲学者のいうとおり、本質において健康をもち、理解において病を持っている。人間は逆に、想像によってその幸福を持ち、本質において不幸を持っている。(a)我々が我々の想像の力を自慢したのはもっともであった。まったく、我々の幸福はただ夢想の中にだけあるのである。聞き給え、この哀れなあさましい動物の高言を。「世に(とキケロは言う)、人文学にたずさわることくらい愉快なことはない。この人文学とは、それを通じて我々が、数限りなき物事を、広大無辺な自然を、下界にいながら天界までも、またもろもろの土地およびもろもろの海をも、開き示される学問のことである。この人文学こそは、我々に宗教と節制と大きな勇気とを教えてくれ、また我々の霊魂を暗やみの中から引き上げて、高い・低い・最初の・最後の・また中間の・すべての物事を見せてくれたのである。それこそ我々に、幸福に生きるたよりを提供し、不快なく苦痛なく一生をおえる道を教えているのである」と。まるでこの人は、永遠にして全能なる神様の性質について語っているみたいではないか。だが実際においては、幾千という何も知らない村のおかみさんたちの方が、彼の生涯よりもずっと一様な・ずっと平穏な・ずっと落ちついた・一生を送ったのである。

おお偉大なメンミウスよ。げに彼**こそは神なりき。
始めて人々が知恵と呼びなす生活の規則を教え、
始めて我らを動揺と暗黒とより救いて、
平安と光明とに導き入れたるは彼なりき。
(ルクレティウス)

いかにも壮麗な言葉である。だが、きわめて小さな出来事が、こう書いたルクレティウスその人の分別を、みすぼらしい羊飼のそれよりも憐れむべき状態にほうりこんだ。この神のような大先生もその神々しい知恵も、その時には何の役にも立たなかったのである***。同じく厚かましいのは、(c)「わたしはまさにあらゆる事柄について語ろうとする」というデモクリトスの緒言と、アリストテレスが我々人間にもたせた「死する神々」というばかな肩書と、(a)「ディオンは神と同じく有徳であった」というクリュシッポスの判断である。またわがセネカは(その言葉どおりに言うと)、「わたしに生を与えたのは神であるが、それをよく生きるのは自分の力である」と信じていた。(c)それはもう一人の言ったこと、※(始め二重山括弧、1-1-52)我らが我らの徳を誇るは当然なり。もしこれが神より得たるものにして自ら得たるものにあらざるならば、人はかくまでに誇りとすることなかるべし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)と一致する。次の語もまたセネカが言ったことである。「賢者は神と同じ勇気をもっているが、人間としての弱さのうちにおいてである。だから人間は神以上である」。(a)こういう大それた言葉に出会うのはしょっちゅうである。我々の間に、自分が神に比べられるのを見て機嫌をわるくするものは一人だっていない。その代り、他の動物の序列に低められるのを見ようものなら、それこそひどく怒る。それくらい我々は、我々の創造者のためよりも自分のために夢中になっている。
* C. Memmius Gemmellus. ローマの護民官。人文学雄弁学の造詣が深かった。ルクレティウスはその詩をこの人にささげている。
** エピクロスをさしている。
*** ルクレティウスは、かくエピクロスを師としたけれども、妻妾より毒を飲まされたときは、その理性を失って自ら命を絶ったと言われる。
 けれどもこのような愚かしい虚栄は、蹴とばしてしまわなければならない。このような誤った考え方の笑うべき基礎は、思いきり強くゆすぶらなければならない。自分にいくらかでも方便も力もあると考える限り、人間は決してそのしゅに負うところのものを認識しないであろう。やっぱり諺にいうとおり、自分の卵を雌鶏と見るだろう。どうしても彼をシャツ一枚にしてしまわなければならない。
* 自分の持つものを過大に見積ること。あてにならぬことを頼みすぎること。すべての卵が雌鶏になるとは限らぬから。
 人間の哲学が実際に効果をあげたいくつかの著明な例をならべてみよう。
 ポセイドニオスは、とても苦しい病に攻めたてられたので、腕をよじり歯を喰いしばらないではいられなかったが、「いくら攻めてもだめだぞ。どうあってもおれは苦しいとは言わないぞ」と苦痛に向って叫び、あっぱれ苦痛を嘲笑したつもりでいた。彼はわたしの下男と同様の苦痛を感じているのだが、どうやらその舌だけはその学派の掟に従わせて威張っているのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)結局事実において降参するくらいならば、何もわざわざ言葉において威張って見するまでもあらざりしに※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 アルケシラオスは痛風で寝ていた。そこへカルネアデスが訪ねて来て、がっかりして帰りかけると、これを呼びとめて、その足と胸とを示しつつ、「足の痛みはここまではとどかぬ」と言った。この人の方がいくらか上出来である。まったく、彼は苦しみを感じてこれから脱れようとはしたが、その苦しみのために彼の心は打ちのめされ弱ってはいなかったのである。前者はがんとして我慢しているが、どうやらそれは本当の我慢ではなく、言葉の上の我慢にすぎないのではあるまいか。それから、ヘラクレアのディオニュシオスも、眼の激しい痛みに襲われると、とうとうあのストア学的我慢を捨てないわけにゆかなかった。
 (a)だが学問は、彼等がいうところを実際に示し、我々に追い迫るもろもろの不幸の激しさ辛さをやわらげ・やっつけ・てくれる場合にも、果してどれほどのことをしているか。無知がもっと純粋に・またもっと明白に・やってくれることと、どれだけちがうか。哲学者ピュロンは、海の上で大嵐の危険にあったとき、一緒にいた人々に、同船の豚がその大嵐を目の前に見て少しも恐れず平気でいるのを、真似するようにすすめただけだった。哲学は自分の掟で間にあわなくなると、力士や騾馬曳らばひきをお手本にせよと言う。御承知のとおり彼らは、死や苦痛やその他もろもろの不幸に対して、我々よりも鈍感であり、また我々以上に堅固である。それは、そのように生れつき、自然的習慣によってひとりでにそれに準備されたからであって、ただ学問によってだけでは、とてもそうはゆかないのである。人が幼な児の柔らかい五体を、または馬のそれを、我々の体よりもやすやすと切開できるのは、彼らの無知のせいでなくて何であろう。ただ単なる想像の力が、いかに多くの人間を病人にしてしまったか。我々はしじゅう、彼らがその神経でだけ感ずる病気をいやすために、血を取らせたり灌腸かんちょうをさせたり薬をのませたりするのを見る。ほんとの病気がないときには、学問がそれ独特の病気を我々に貸す。「これこれの顔色をしているから自分は何かカタル性炎症を起すのではないか。こういう暑い季節には何か熱病にかかるかも知れないぞ。わたしの左手の生命線がこれこのとおり切れているところを見ると、やがて間もなく何か大病にでもとりつかれるのであろう」という工合である。いや、しまいには健康そのものにまで、真向から文句をつける。「このような若々しい歓喜と精力とが、いつまでも同じ状態にとどまるわけがない。血をとり力をそがなければならない。それらが逆に作用したら大変だ」と。このような想像に引きまわされている人間の生活を、その自然の欲望の導くがままにまかせ、いっこう学問にも占いにもよらず、物事をただ現在の感じで量る、例えば百姓などの生活と較べてみたまえ。後者は病気のときでなければ痛がらないのに、しばしば前者は、腎臓に石ができる前からそれを心にもっている。まるで病気になってから苦しんだのでは間にあわないかのように、想像によって苦痛の先回りをし、自分からそれを走り迎える。
 わたしが医学について言うところは、そのまま一般的にすべての学問にあてはまる。そこから、「至上の幸福は我々の判断の力弱さを認識するところに宿る」という、もろもろの哲学者の昔からの考えは生れたのである。わたしの無知は、わたしに危惧の機会と同じ程度に希望の機会を与える。わたしの健康法といえば、他人の行った実例とか・わたしがよそで同様の場合に見た結果とか・より他にはないのであるが、わたしはそのあらゆる種類を見出すから、中で最も自分に都合のよいものを採用する。わたしは両腕をひらいて、自由な・充実した・完全な・健康を迎え、わが欲望を鋭くしてそれを享楽させる。今ではそういう健康が、わたしにとって昔のように普通でなくなり、だんだんと稀になったから、なおさらのことそのようにするのである。今までとちがった窮屈な生活様式がもたらす苦味によって、健康の平安と甘味とを乱すようなことはしないのである。動物を見ていると、いかに我々の精神の動揺が我々に病気を持ち来たすかがよくわかる。
 (c)ブラジルの土人について伝えられるところによると、彼らは老衰によってでなければ死なないそうであるが、そしてそれは、彼らの風土が澄んで穏やかであるせいだといわれるが、わたしはむしろ、彼らの霊魂が穏やかに澄んでいて、あらゆる激情や物思いや骨の折れるいやな仕事などから全く放たれているせいであると思う。彼らは文学なく、法律なく、王様もなければ、どんな宗教もなく、実に羨ましい単純と無知との内に毎日を送っているのである。
 (a)それから、これは我々が経験によって知っているところだが、最も粗野で愚鈍な者が、恋の営みにおいて最も強く最ももてるということ、それから、しばしば騾馬曳きの恋が、やさ男のそれよりも女の気に入るということは、そもそもどこから来るのか。後者においては霊魂の動揺が肉体の力を乱し・くじき・疲らす・からではあるまいか。
 いや霊魂の動揺は、肉体だけでなくいつも霊魂その物をも疲らせ乱すのである。その鋭敏その軽捷けいしょうほど、つまりそれ自らの力ほど、いつも霊魂を狂わせこれをマニアの中に投げ入れるものはないのである。(b)最も緻密ちみつな狂気は、最も緻密な知恵からでなくてどこから来るか。あたかも大きな友情から大きな怨恨が生れ、旺盛な健康から死に至る病が生れるように、我々の霊魂の稀で盛んな活動から、最も著しい最も度をはずしたマニアが生ずる。一方から一方に移るには、ただ糸巻をちょっとひねりさえすればたりる。(a)分別を失った人々の行為を見なさい。狂気が我々の霊魂の最も旺盛な働きと、いかによく手をつないでいることか。自由な霊魂の元気のいい高まりや至上非凡な徳の結果と狂気との間の限界が、いかにかすかなものであるかは誰でも知っている。プラトンはメランコリックな人々が最も教えやすく優れていると言ったが、またこのくらい狂気に傾きやすい人々もないのである。それ自らの力と敏捷とによって破滅した精神は数限りなくある。最も正格で最も巧妙な・また古来他のいかなるイタリア詩人も及ばなかったほどあの古代の純粋な詩風をうけついだ・一詩人**が、ついこの頃、自分の興奮歓喜のためにいかなる飛躍をしたことか。ついにその身を傷つけたあの溌剌を、ついに彼を盲目にしたあの光明を、ついに彼から理性を奪った正確で緊張したあの理性の明敏を、彼を愚昧に導いた熱心でむことのない学問の探求を、ついに彼から心身の働きを奪った霊魂の働きに対するあの稀有なる適性を、彼は日頃、感謝していなかったのであろうか。わたしは彼が己れ自らに死におくれ、己れ自らをもその作品をも忘れはてて、目もあてられない有様でフェララにいたのを見ては、気の毒に思う以上に悲しくなった***。彼は、自分の作品が訂正も加えられず乱雑な形のままで公刊されたのを眼の前に見ながら、何も知らないのである。
* ただの糸巻ではない。楽器の糸巻。cheville. すなわち絃を張るためのねじ。これをちょっとひねるだけで全然ちがった音調が出ること。
** タッソー Torquato Tasso を指す。この詩人は一五七九―八六年フェララの病院に幽閉されていた。
*** これは当然イタリア旅行中のことと察せられるが(このパラグラフは一五八二年版に始めてよまれるものである)、「旅日記」の中では一言もタッソーを見舞ったことにはふれていない。
 君たちは、人が健康なのを望まれるか。人が正気なのを、堅固な態度にあるのを、望まれるか。そんなら、彼に暗黒と無為と鈍重の着物をきせなさい。(c)我々は、賢明になるためにはまず馬鹿にならなければならない。自分を導くためにはまず盲目にならなければならない。
 (a)もっとも、「苦痛や不幸に対して冷静であり鈍感であるという利便は、それだけ幸福及び快楽の享受に対しても彼らの感覚を鈍らせ弱くするという不便を後ろに伴っている」といわれれば、なるほどそれに違いないが、しかし、我々の本性はまことにみじめなもので、恐れ避けることはできても、なかなかけ楽しむことはできず、この上ない快楽は、軽い痛みとひとしく、我々には感じられないのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)人間は快楽を感ずること少なく、苦痛を感ずること多し※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。(a)我々は最も小さな病気も感ずるくせに、完全な健康は少しもこれを感じないのである。

          我らは、
極めて小さき擦り傷にも敏感なるに、
完全なる健康のうちにあるを感ぜず。
肋膜炎をも痛風をも持たざるを喜べども、
我らは健康にして強壮なることを意識せず。
(ラ・ボエシ)

 我々の安楽とは苦痛がないことに他ならない。だからこそ、快楽を最も重んずべしとする哲学の一派は、さらに進んで、それをただ一つ無痛の中にありとしたのである。少しも苦しみを持たないということは、人がのぞみうる最大の幸福である。(c)エンニウスが、

苦痛を全く持たざるこそ、おびただしき幸福を持つことなり。
(エンニウス)

と言ったとおりである。(a)まったく、ある種の快楽の中で出あう・そして単なる健康や無痛の上に我々を引き上げるように思われる・あのくすぐるような刺激も、あの、積極的で・動的で・そしてなぜかしら焼くような噛むような感じのある・快楽だって、畢竟ひっきょう、ただ無痛をその究極の目的としているにすぎない。我らを駆って女との接触に赴かせる欲望だって、やっぱり強烈な欲望がもたらすところの苦痛を逃れようと努めているにすぎない。その欲望を飽かしめて平静に立ち帰り、その熱をおとそうと望んでいるにすぎない。いずれの快楽も皆そうである。
* モンテーニュの新造語 notre bien estre. よく存在すること、よき在り方、したがって健康幸福の意味。これが後に純然たる名詞となって残った。※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)tre mal がその反対で苦しき存在、悪しき在り方、病態、不幸の意。
 そこでわたしは言うのである。もし単純が我々を無苦痛に導くとすれば、それは同時に、我々を我々の本性にふさわしい最も幸福な状態へと導くものであると。
 (c)だがしかし、この単純無知を、全然感覚のないほど鈍いものと想像してはいけない。まったく、クラントルがエピクロスの無痛を、それがもし苦痛の接近も発生も全然ない深い所に置かれているのだとしたら御辞退する、と言ったのは至極もっともであった。わたしは、そういう無痛を少しもほめない。それは可能でもなければ願わしいものでもない。わたしは病気でないことに満足する。けれども、もし病気であるなら、そうであることをわたしは知りたい。また、焼いたり切ったりされる時にはそれを感じたい。本当に、苦痛の知覚を根絶するならば、同時に快楽の知覚もとり除かれ、結局は人間存在が否定されるであろう。※(始め二重山括弧、1-1-52)この無痛は高き価によらざればあがない得ず。すなわち、霊魂の蒙昧と肉体の麻痺とによらずんばあがないえず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 苦は人間にとってやがて楽となる。苦痛必ずしも避けるに及ばないし、快楽必ずしも追うにたらない。
 (a)じつに無学にとって光栄至極なことは、学問までが、いよいよ我々を苦難の重圧に対してきたえることができなくなると、再び我々を無学の腕の間になげかえすことである。学問も結局はそういうふうに折れて出て、我々が無学の膝の上にのがれ、その庇護にすがって、運命の打撃と危害とを避けようとするのを、大目に見ないわけにゆかなくなる。まったく学問が我々に教えて、「(c)お前たちの考えをお前たちにまつわる不幸からひきはなし、失われた快楽をもってそれを満たせ。(a)現在の苦難を慰めるためには、過去の幸福の想い出を利用せよ。お前たちを苦しめる者に対抗するには、消え去った満足の助けを借りよ」と言うのは、畢竟何を意味するのか。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)エピクロスの言うところによれば、悲痛を軽減するには、よろしくその思想をあらゆる悲しき思いより放ちて、快き想い出のうちにひたるべし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)それはつまり「いよいよ力が及ばなくなったら計略を用いよう。体力も腕も及ばなくなったら軽業と脚とを用いよう」と言う意味ではなかろうか。まったく、たんに哲学者ばかりではない、ただ重厚だというだけの人にとっても、現に彼が高熱のために堪え難い渇きを感じているとき、これにギリシア酒の甘さを想いださせることは、一体いかなる益をもたらすだろうか。(b)むしろ彼の容態を悪化させるばかりであろう。

過去の幸福の思い出は現在の不幸を倍にす。
(ダンテ)

(a)哲学が与えるところのもう一つの勧告、「記憶の中にただ過去の幸福だけを保存し、我々が苦しんだ不快はここから抹殺せよ」というのも、また同じ性質のものである。まるで我々には忘却学 la science de l’oubli が思いのままになるかのようだ。(c)こんな勧告はますます我々の器量をさげるばかりだ。

過去の苦難の思い出は甘し。
(キケロ)

(a)哲学はわたしの手に武器を貸してわたしに運命を克服させるべきだのに、またわたしの心臓を鍛えてあらゆる人間の敵を踏みにじらせるべきだのに、どうしてこんなにも柔弱になりさがり、このように卑怯な笑うべき術策を弄しつつ、わたしを逃げかくれさせるのか。まったく、記憶は我々に、我々が選ぶものを提示せず、自分の気に入ったものを提示する。いや何事にまれ、忘れようとする欲望ほど、物事を深く我々の記憶の中に刻みつけるものはない。我々の霊魂に何かを忘れよ忘れよとすすめることこそ、それをそこに永く刻みつける一番うまい方法なのである。(c)実際、※(始め二重山括弧、1-1-52)我らの不幸を永遠の忘却の中に沈め、我らの繁栄のこころよき思い出を保存するは、我らの心持しだいなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)というのは嘘である。かえって、※(始め二重山括弧、1-1-52)われはわが記憶せんとは思わざることをのみ思い出し、忘れ果てんと思うことを忘れえず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)と言うのこそ本当である。(a)そもそもあの勧告は誰が言い出したものか。それは(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)ただ独り己れこそ賢者なりとあえて言いたる人〔エピクロス〕※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)、

(a)その天才によりて人類の上にありし人、
太陽諸星の光を消したる如く万人の誉れを奪いし人、
(ルクレティウス)

のものなのだ。記憶をからっぽにすることこそ、無学へのほんとうの道ではないか。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)無学は我らの不幸に対してききめ甚だ少なき薬にすぎず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(a)たくさんの同じような教訓を我々は知っているが、それらによって人は、強力な理性も力足らざる時には、俗衆からいいかげんな理屈を借りることをも、それらが我々を満足させ慰めることに役立つ限り、ゆるしているのである。人々は、傷をやすことができない時には、それを眠らせ柔らげるだけで満足する。彼らはあえて否定しないだろうとわたしは思う。多少判断が病弱であるために、かえって愉快平穏に過すことのできる一種の生活状態があるならば、そしてそこにいくらかの秩序と恒常とを加え得るとするならば、喜んでそれに甘んずるであろうことを。

われまず酒を飲み花を散らさんと思う。
よしや人、狂人とわれを見んとも。
(ホラティウス)

 リュカスと意見を同じくする哲学者はいくらもあるであろう。この人は甚だ品行方正であって、うちの者に対してもよその人に対しても少しもその務めを怠ることなく、有害な事柄を巧みに避けながら静かな家庭に暮していたが、ふとしたことから気が狂って、その胸の中に一つの夢想をやきつけてしまった。というのも、自分がしじゅう劇場にあって、遊戯や見世物や世にも面白い喜劇などを見ているかのように、思いこんでしまったのである。ところが医者たちによってこの病的な気分からいやされると、彼はさっそく彼らを訴え、もう一度あの甘美な想像の世界にもどしてくれと迫った。

おお、おん身らわれを殺せり、友らよ、と彼は言いき。
われをば癒やさでわれより幸福を奪いて。
わが心をたのします甘き夢をばわれより奪いて。
(ホラティウス)

ピュトドロスの息子トラシラオスの夢想もこれに似ている。彼はペイライエウスの港を舟出して、彼の国にやって来る船舶を、みな自分のために働いているものと思いこんでいた。そしてその航海のつつがなさを我がことのように喜び、嬉々としてそれらの船舶を迎えていた。ところが弟のクリトーが彼を正気に立ち帰らせると、彼はあの歓喜に満ち・あらゆる心配ごとを忘れて暮した・むかしの境遇を惜しんだ。それは次のギリシアの古い句に、「あんまり明敏でないもののもとに多くの幸福がある」とあるとおりである。

深く考えざるところに最も快適なる生活あり。
(ソフォクレス)

また「伝道の書」(一の十八)に、「それ知恵多ければいきどおり多し、知識を増すものは憂いを増す」とあるとおりである。
 哲学が一般的に賛成しているところのその掟、哲学があらゆる急場にのぞんで出すあの最後の処方箋、「いよいよ堪えがたい生活には終止符をうて」という掟、すなわち、(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)人生は楽しきや。さらば我慢せよ。楽しからざるや。さらばいつにても退出せよ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
※(始め二重山括弧、1-1-52)苦痛汝を刺すや、汝を裂くや。汝もし裸身にして防ぐに道なくば、のどを差し出せ。もしまたウルカヌスの武器もて、即ち勇気もて、よろわれてあるならば、戦え※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。それから、あのギリシアの会食者が用いる言葉、※(始め二重山括弧、1-1-52)飲め。しからずば、去れ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)(これはよくBをVに代えるガスコーニュ人に言わせる方が、キケロの言葉そのままで聞くよりむしろふさわしくひびく)。
* Aut bibat, aut abeat というキケロの句は、bibat(飲め)を vivat(生きよ)と直した方が、かえってよくあてはまる、というのである。

(a)汝もしよく生くるすべを知らざるならば
これを知れるものに汝の席をゆずれ。
汝は、よく遊び・食い・飲みたり。今や去るの時ぞ。
去らずんば若者たちより笑われ、かつ追われん。
(ホラティウス)

などの語は、いずれも哲学の無力を告白したものでなくて何であろう。ただたんに「無学のもとに行ってこれに隠れよ」というだけに止まらず、「暗愚にゆけ、無感覚にゆけ、無存在にゆけ」という勧めでなくて何であろう。

デモクリトスは、老いいよいよ至りて、
記憶をはじめ諸能力の衰えを感ずるや
進んで己れの首を運命にゆだねたり。
(ルクレティウス)

これはアンティステネスが、「理解するための良識を備えよ。でなければ首をくくるためのひもを備えよ」と言ったのと同じことである。またクリュシッポスが詩人テュルタイオスの

徳に赴け、しからずんば死に赴け。
(アミヨ仏訳、プルタルコス)

という句を引いて述べたのと同じことである。
 (c)それからクラテスは、「恋は餓えによっていやされなければ時によっていやされる。この二つをともに欲しないものは絞首用縄くびりなわによっていやされる」と言った。
 (b)セネカとプルタルコスとが口をきわめて推奨しているあのセクスティウスは、あらゆる物事を打ちすてて哲学の研究に没頭したが、その研究の進み方があまりに遅く暇がかかるのを見て、海に身を投げようと決心した。つまり、知識がえられないので死へと急いだのである。この問題に関する箴言しんげんは、次のとおりである。「万一どうにも手のうちようがないほどの大きな不幸がふりかかろうとも、港は近くにある。いや、人は沈もうとする舟から逃れるように、自分の体から逃れ出ることができる。まったく愚か者がその体に執着するのは、死ぬのがこわいからで生きていたいからではない」。
 (a)生活は、単純さによってますます愉快になるように、またそのために、ますます純潔なよいものになる。それは今しがた申したとおりである。単純な者や無学な者は、聖パウロが言ったとおり、昇って天国を得る。それなのに我々は、身に知識をかかえながら地獄の淵におちる。わたしは、あからさまに学識や文学の敵であったウァレンティニアヌスやリキニウスのことは問題にしまい(この二人は共にローマの皇帝であるが、学識や文学をもってすべての国家の害毒であるとした)。またマホメットにも言及しまい(この人は、(c)わたしが聞いたところでは、(a)その弟子たちに学問を禁じた)。だが、あの偉大なリュクルゴスの実例とその権威とは、大いに重んじられなければならない。いやこのラケダイモンという神々こうごうしい国が、そこには文学の教授も演習も全くなかったのに、今なお徳行と幸福とにおいてかくも大きな・かくも驚嘆すべき・かくも永く衰えしぼまない・敬慕をうけているということこそ、大いに重視されなければならない。我々の父たちの時代にスペイン人によって発見された、あの新世界から帰って来た人々は、そこに住む諸民族が、法官も法律も持たないのに、かえって、人民よりも法官が多く・事件よりも法令の方が多い・わが国の人間よりも、どれほど法にかない・どれほど整った・生活をしているかを、証言することができる。

彼らの手と懐中には、催告と請求、
調書、憲章、委任状がみちあふれ、
その大いなる鞄には註解判例が詰りたり。
あわれやそのために、人民は市中にありて安きをえず。
公証人や代言人や検事などのともがらが、
或いは前に或いは後ろに、また右と左とに、あるが故なり。
(アリオスト)

かつてローマの一元老は、その堕落した時代についてこう言った。「我々の祖先は、口にはにらのにおいをさせたが、腹の中は良心という麝香じゃこうでかおっていた。しかるに今の人間は、外にばかり香水をかおらせて、内にはもろもろの不徳のにおいを籠らせている」と。つまりわたしが考えるに、「いまの人間はたくさんの学識才能をもちながら、すこぶる誠実の徳に欠けている」という意味である。粗野・無知・単純・朴訥ぼくとつはいつも純潔と共にいる。好奇心と小器用と知識とは、うしろに悪念を従えている。謙遜と畏敬と服従と親切とは(いずれも人間社会の保全の上に重要な特質であるが)、無心な・従順な・ほとんど自負というもののない・霊魂を必要とする。
 キリスト教徒たちは、いかに好奇心が人間における生れつきの根原的な悪であるかを、とりわけよく知っている。知恵と学問とを増大しようとする欲望こそ、人類堕落の第一歩であった。この道によって、人間は永遠の地獄へと滑りおちたのである。自尊は彼の滅亡であり腐敗である。自尊こそは彼を普通の道から外に投げ出し、彼に革新の企てを抱かせ、また永罰の道に踏み迷っている一群の長となることや、虚偽と誤謬との教師になることの方を、おとなしく他人の手によって真直な踏み固められた道へと導かれながら真理の門に入ることよりも、好ませたのである。おそらくはこのことを、※(始め二重山括弧、1-1-52)迷信は自尊に従う。あたかも子の父に従うがごとし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ストベウス)というギリシアの古言は、意味するのであろう。
 (c)おお自惚うぬぼれよ! いかにお前は我々を害するか。ソクラテスは知恵の神が自分に賢者の名を与えたと聞くや、びっくりした。そして自分をくまなくしらべ探したが、その神託に何の根拠も見出さなかった。彼は自分のように正義・節制・勇気・知識・を備えている人々、自分よりも雄弁で・美しくて・また国のためになる・人々をほかにいくらも知っていたのである。それで結局こう結論した。「わたしは他人より少しもすぐれてはいない。自らすぐれているとは思っていないことによってだけ、どうやらやっと賢者であるにすぎない。わたしの神様は、自ら学問があり知恵があると思うことを、人間特有の愚であると考えておられる。わたしの最上の学説は無知の説であり、わたしの最上の知恵は単純である」と。
* 以上で第一部が終って、次に第二部「理性の批判」が始まる。但し原書では改行もせずにつづけている。モンテーニュは専らキケロの諸論文、聖アウグスティヌスの『神国論』、コルネイユ・アグリッパ Henri-Corneille Agrippa の『学問の不確実にして空なること』De incertitudine et vanitate scientiarum et artium atque excellentia verbi dei declamatio などからいろいろかりている。
 (a)聖書の言葉は、我々の中の自ら高く評価しているものを、哀れむべき者よと呼んでいる。※(始め二重山括弧、1-1-52)汝らは塵なり。灰なり。汝ら何をか誇りとするや※(終わり二重山括弧、1-1-53)と。また別のところでは、※(始め二重山括弧、1-1-52)神は人をさながら影のごとくに作りたり。日かげうつりてその影消ゆる時、これをば誰か判断しえん※(終わり二重山括弧、1-1-53)という。誠に、我々は何物でもないのである。我々の力で神の高さをおしはかろうとしても、それはとても及ぶことではない。我々の創造者がお作りになったもののうち、我々の最も解し難いものこそ、最も彼のしるしを帯び、最も彼にふさわしいものである、と言えるくらいである。実にキリスト教徒にとっては、信じえないことに出合うのが、信ずる一つの機会なのである。それは人間の理性に反しているだけ、それだけ天理にかなっているのである。(b)天理にかなっているなら、それはもはや奇跡ではあるまい。何かのお手本にかなっているなら、それはもはや特異なことではなかろう。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)人は神を理解せんと努めざることによりてかえって神を知る※(終わり二重山括弧、1-1-53)と聖アウグスティヌスは言っている。またタキトゥスは、※(始め二重山括弧、1-1-52)神々の業はこれを詮議せず、これを信仰する方がいっそう敬虔なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)と言っている。
 またプラトンは、「神や世界や万物の第一原因を余りに執念深く詮索することには、多少不敬の罪が含まれている」と考えている。
※(始め二重山括弧、1-1-52)誠にこの宇宙の父を知ることは困難なり。よしこれを知りたりとて、これを俗人に示すは不敬なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)とキケロは言っている
* これらの所論から、人はモンテーニュの信仰をフィデイスムと呼ぶ。ロンサールの立場と全く同一である。
 (a)よく我々はいう。力だとか、真理だとか、正義だとか。それは偉大な何者かを意味する言葉である。だがこの何者かを、我々はどのようにしても見ることができないし、また思い抱くことすらできない。(b)我々は、

滅ぶる言葉に不滅なるものを託して、
(ルクレティウス)

言う。「神は恐れる。神は怒る。神は愛する」などと。だがそのような感動は、すべて、我々のと同じ形では神の中に宿りえないし、我々もまたそれを、神における形どおりには想像することができない。(a)神を知り御業を解するものはただ神ひとりである。
 (c)それに神は、伏して地上にある我々に降り臨ませ給わんがために、御業を我々の言葉のうちに示しておられるが、それはいずれもぴったりとは適合しない。知恵という言葉がどうして神に適合し得よう。それは善悪の選択ということであるが、いかなる悪も神にはかかわりないではないか。何だって理性といい英知というのか。それは我々が暗いものを通じて明らかなものに至るために用いるものであるが、神には暗い何ものもないではないか。正義とは各自に彼に属するものを与えることで、人間同士の共同生活のために生じたものであるが、どうしてそれが神の中にありえよう。何? 節度はどうかって? それは肉体的快楽を抑制することであるが、そんなものは神様のどこにもありはしない。悲痛・骨折り・危険・に堪える勇気もまた神の性ではない。この三つのものは全く神様のおそばに近づくことはないのだから。だからこそアリストテレスは、「神には徳もなく不徳もない」と言うのである。
※(始め二重山括弧、1-1-52)神は愛をも怒りをもいだかず。これらの情念は、ただ弱きものにのみあり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロに引かれたエピクロスの言葉)。
 (a)我々がどの程度真理の認識にあずかっているにしても、それは我々固有の力によってではない。神はこのことを、彼が俗人の間から選んだ・最も単純無学な・証人たちによって我々に教えられた。そうやって我々に、その感嘆すべき秘密がどんなものであるかを悟らせようとあそばされたのだ。つまり我々の信仰は、我々が自ら得たものではなく、他の者から恵まれた純然たる贈り物なのである。我々の宗教は、決して推理によりまたは我々の悟性によって得られたものではなく、他の権威命令によって与えられたものなのである。それには、我々の判断の弱さの方がその強さよりも、我々のもうの方が我々のめいよりも、かえって多くあずかっているのである。我々は我々の学問の仲介によるよりもむしろ我々の無学を介して、この神の知恵を知るのである。我々が持って生れた下界的手段であの超自然的天界的なる知識をいだきえないのは、驚くにたらない。我々のものの中では、ただ従順と服従とだけをそれにささげよう。まったく、聖書に書き記されているではないか。「わたしは知者の知恵を滅ぼし賢い者の賢さを空しくしよう。知者は何処どこにいるか。学者は何処にいるか。この世の論者は何処にいるか。神はこの世の知恵を愚かになし給うたではないか。まったく、世間の人はその知恵によって神を認めなかったから、神は宣教の愚かさによって信ずる者を救うこととなされたのである」(「コリント人への第一の手紙」一の十九―二十一)。
 だからわたしは、「そもそも人間にはその求めるところを見出すだけの力があるかどうか。かほどの世紀を通じて彼がここに行った詮索は、何かの新しい力何かの固い真理をもって、彼を富ましたかどうか」を見なければならない。
 わたしは人間がもし正直に語るならば、わたしに向ってこう告白するであろうと信ずる。「自分があんなに長い間の探求から得たものといえば、畢竟、自分の弱さを認識することを学んだことに尽きる」と。生れつき我々のうちにある無知を、我々は長い間の研究によってやっと確信し確証した。ほんとうに学んだ人々には、あの麦の穂に起ることが起った。それは空っぽであるかぎりますます頭をあげてそそり立つ。けれどもいよいよ熟して穀粒で満ちふくれてくると、だんだんへりくだってその頭を低くする。同様にあらゆるものを試み測った人々は、あれほどの知識の山・あれほどのさまざまな事象の蓄積・の中に、何一つ確実なものを見出さなかったから、ただただ空虚のみを見出したから、ついにその不遜をすててその生れながらの性質を認めるに至った。
 (c)だからウェレイウスは、コッタとキケロに向って、「君たちはフィロンから、何も学ばなかったことを学んだだけだ」といって咎めたのである。
 七賢の一人フェレキュデスは、死に臨んでタレスに書き送って言った。「わたしは家の者どもに、わたしを埋葬し終ったら、わたしの遺稿類を君のところに持ってゆくようにと、命じておいた。もしそれらが君を始め他の賢者たちを満足させるならば、それらを公にしてくれ。でなければ捨ててしまってほしい。それらはわたし自らを満足させるほど確実なものを少しも含んでいない。なおわたしは、真理を知ったとも、これに近づいたとも、公言しない。わたしは物事を開き見てはいるが発見してはいない」と。
(a)それまでに存在した最も賢明な人ソクラテスに向って、ある人があなたはどういうことを知っておいでになるのかと問うたところ、「それはわたしが何一つ知ってはいないということだけです」と答えた。これは、「我々の知っていることの最大部分は、知らずにいることの最小部分」という諺を、換言すれば、「我々が知っていると思っているそのことさえも、我々の無知の一部、しかもその極めて小さな一部である」ということを、証明しているのである。
 (c)「我々は物事を夢想において知っているが、真実においては知らずにいる」とプラトンは言っている。
※(始め二重山括弧、1-1-52)ほとんどすべての古人は言えり。「人は何事をも知覚しえず。理解しえず。また知識しえず。我らの感覚には限りがあり、我々の精神は弱く、我々の一生は余りにも短し」と※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (a)キケロといえばその価値のすべてを知識に負う人であるが、この人でさえ、ウァレリウスの言うところによれば、晩年には学問を尊重しなくなったそうだ。(c)そして、その文学にたずさわりつつある間も、何れの派の拘束もうけず、自分に本当らしく思われることに従い、ある時は一派に、ある時は他派にくみし、常にアカデメイア派の疑いの下にがんばっていた。
※(始め二重山括弧、1-1-52)われは語るべし。されど、何事をも断定せざるべし。われすべてを尋ね求めん。されど最もしばしば疑い、己れ自らを信ぜざるべし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (a)もしもわたしが、人間をその普通の様態において・大ざっぱに・考察しようとするなら、わたしは勝つにきまっている。だがそれでは真理を、ただ票の重みによってではなく・数によって・判断するという、人間特有のずるい方法に訴えて勝ったというだけのことであろう。俗衆を例にとることはやめよう。

そは覚めてなお眠れるがごとく
生きてなお死せるがごとし。
(ルクレティウス)

彼らはすこしも自分を感ぜず、自分を判断せず、天与の性能の大部分を無為に委せている。わたしは人間を、その最も高い状態において把握したい。彼を、少数のすぐれた選ばれた人々の間で考察しよう。立派な・特別な・天賦の力を与えられているうえに、刻苦精励ますますそれを研磨鍛練し、さらにそれを、それが達しうるかぎりの最高の知恵にまで高めたところの、そういう少数の人々の間で考察しよう。彼らはその霊魂をあらゆる面から陶冶し、これにふさわしいあらゆる外部的援助をもってこれを支持強化し、これがために都合がよいようにと世界の内外から借りて来たすべてをもってこれを飾り富ました。実に彼らにこそ、最高度の人間性が宿っているのである。彼らは世を、制度と法令とによって整えた。学問芸術によってこれをおしえた上、さらに彼らの賞賛すべき徳行の実例をもってこれを教えた。わたしはただこれらの人々だけを、これらの人々の証言と実践とだけを、参考にしよう。彼らがどこまでゆき、どんな結論に止まっているかを、しらべて見よう。これらの集団の中にも、我々はいろいろの病弊欠点を見るであろうが、それらはいずれも、世の人が勇敢に自分のものと白状することのできる種類のものであろう。
 何かを探し求める者は、結局「ああ見つかった」とか、「どうも見つからない」とか、「自分はなおさがすのだ」とかいうところまでゆく。哲学はすべてこの三類に分たれる。その目的は真理・知識・確実・を求めるにある。逍遙学派・エピクロス派・ストア派・等々は、それらを見つけたと考えた。これらの人々は、我々がもつもろもろの知識を証明した。それらを確実な学識として取扱った。クレイトマコス、カルネアデス、およびアカデメイア派の人々はその探究を断念し、真理はとうてい我々の手段によってはつかみえないものと判断した。これらの人々の結論は、人間の弱さと無知である。この派は最も大きな感化をのこし最も高貴な帰依者をえた。
 ピュロンその他のスケプティック〔懐疑論者〕ないしエペシスト〔判断中止論者〕たちは(c)――その教説は、多くの古人がホメロス、七賢、アルキロコス、エウリピデスに端を発したとするもので、またゼノン、デモクリトス、クセノファネスもそれに結びつけられている。――(a)自分たちはまだ真理を探究しつつあるのだという。これらの人たちは、真理を見出しえたとする人々を非常に誤っていると判断し、また、人間の力はとうてい真理に到達しえないと断言する第二の段階の人々にも、余りに大胆な虚栄があると判断する。まったく、こういうふうに我々の能力の限界をきめ、事物の困難を認識し判断することは、偉大な・きわまれる・知識であって、果してそんなことが人間にできるだろうかと、彼らは疑っているのである。

「人は何事をも知らず」と信ずる者は、
人がかく断定しうるだけ知っているやいなやさえも知らざるなり。
(ルクレティウス)

 自らを知り自らを判断し自らをけなすところの無知は、完全な無知ではない。それが完全であるためには、それが自らを知らないことを要する。だからピュロン学者の主張は、動揺し・疑惑し・探索し・何事をも確信せず・何事にも責任をもたない・ということになる。霊魂の三つの働き、想像・意欲・同意・のうち、前の二つを彼らは許容するが、最後のものは、そのままどっちつかずに、曖昧にしておく。ほんのちょっぴりも、どっちの側にも傾かず従わないのだ。
 (c)ゼノンは、霊魂の働きの分け方に関する自分の考えを、手つきによって示している。伸ばしひろげた手はまことらしさ、半ば閉じ指を少しかがめた手は同意、閉じた手は理解、左手でこの閉じた拳を握るときには知識であるとした。
 (a)さて、彼ら〔ピュロン学者〕の判断の、こういう真直で・曲らない・すべての物を順応もせず賛成もせずに受け容れる・態度は、彼らをそのアタラクシア〔恬静てんせい〕に導く。このアタラクシアというのは、平和な落ちついた生活状態のことで、彼らは我々が物事に関して持っているつもりでいる意見なり知識なりに影響されて受ける動揺に、全くわずらわされないのである(実にこうした心の動揺から、疑心、吝嗇りんしょく、そねみ、飽くことのない欲望、野心、高慢、迷信、革新ずき、謀反むほん、反抗、頑固、その他肉体的苦痛の大部分は、生れ出るのである)。いや彼らはそのために、自説になずむ心からさえも放たれている。まったく、彼らはすこぶる物柔らかに論議している。彼らは、論争中、反駁を恐れない。彼らが「重いものは落ちる」と言うときに、人がもしそれをそのままに信ずるならば、彼らは甚だ悲しむであろう。いや、彼らは人の反対を求める。彼らの目的とする疑惑と判断中止とを生み出すために。彼らが彼らの命題を提出するのは、ただ、彼らから見て我々が信じ切っていると思われる意見を、打ちたたくためにすぎない。もし我々が彼らの説を採るならば、彼らはさらにその反対説を支持するであろう。彼らにとっては、どの説も同じことなのである。彼らはそこに何等の選択もしない。もし君たちが「雪は黒い」と言うなら、彼らは逆に「白い」と論証する。もし「白くも黒くもない」と言うならば、「白くて黒い」とがんばる。もし君たちが確かな判断によって、「われらはそれについて何も知らない」というなら、彼らは「君たちはそれをよく知っている」と言い張る。いやもし明確な言い方で、「われらはそれを疑っている」とでも断言しようものなら、彼らは「君たちはちっとも疑ってはいない」とか、「君たちには君たちが疑っていることを断定する力はない」などと理屈をつける。そして、それ自体をゆすぶる・こういう極度の・疑いによって、彼ら同士種々様々な学説をもって互いにわかれる。それらの学説は、疑惑と無知とを認めることにおいては同じであったが、その説き方は全く個々別々であったから。
 (b)なぜ彼らには疑うことが許されないのか。彼らも言っているが、独断家の間では、あるいは緑といいあるいは黄ということが許されているではないか。肯定せよとか否定せよとかいって提示しうる事柄の中に、どっちとも言えないと考えることのゆるされぬものが果してあるだろうか。いやほかの人々は、あるいはその国の習慣により、あるいは両親の教育により、あるいはまた(例えば暴風みたいな)偶然によって、判断も選択もなく、いやしばしば分別も生れ出ない年頃から、しかじかの教説に、あるいはストア派にあるいはエピクロス派に、さらってゆかれ、それに身売りし、隷従し、へばりついて、まるで命の綱にでもしがみついているみたいになっているのに(c)――※(始め二重山括弧、1-1-52)彼らはさながら暴風に吹き寄せられて岩角にしがみつくがごとく、手あたりしだいの学説にしがみつく※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)のに――(b)なぜこれらの人々には、その自由を維持することが、物事を何等の服従なしに考察することが、同様にゆるされないのか。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)何ものも彼らの判断の自主性を妨げざるだけ、それだけ彼らは自由なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。他の人々を束縛している必然から脱却しているというのは、それだけでも優れていることではあるまいか。(b)むしろ宙ぶらりんでいる方が、人間の妄想が生み出したあれほどの誤謬の中にはまり込んでいるよりも、ましではあるまいか。その所信を懸案にしておくほうが、あの二手ふたてにわかれて叛乱と喧嘩とをこととする仲間に入るよりも、ましではあるまいか。(c)さあわたしは何を選ぼうか。「どれでもお好きなものを。ただし選ぶだけはえらんで下さい!」実にばかげた返答であるが、これがあらゆる独断論の到着するところなのだ。おかげで我々は、知らないことを知らないと言うことが許されないのだ。(b)どんなに有名な党派だって、絶対安全になる日はないであろう。それを擁護するには、いつまでも幾百という反対党を攻撃しなければならないだろう。いっそこの混戦の外に立つ方がよくはあるまいか。君たちには、君たちの名誉や生命にかじりつくのと同じように、アリストテレスの霊魂不滅に関する信念に恋着することが、そしてこれに関してプラトンの説を否定することが、ゆるされている。しかるに、なぜ彼らにはこれを疑うことが許されないのか? (c)パナイティオスにとっては、あのストア学者たちがあえて少しも疑わない腸卜ちょうぼく夢占ゆめうらない・託宣・予言・に関してその判断を決定せずにおくことがゆるされているのに、そしてこの人には、彼がその師から学んだ事柄、彼がその帰依者その教師として属するところの学派の人々がこぞって肯定している事柄においても、あえて疑うことがゆるされているのに、なぜ、賢者ともあろうものが、すべてのことについて彼と同じように疑うことをあえてしてはいけないのか。(b)判断をするのが子供であれば、彼には何が何やら解っていない。それが学者であれば、先入説に捉われている。彼ら〔ピュロン学者〕は、自分をかばおうという心遣いから放たれているから、論戦においてすばらしい優越を維持した。彼らは人に打たれることを何とも思わない。こっちが他を打ちさえすればよいのである。そしてすべてのものを自分の役にたてる。彼らが勝てば君たちの論が倒れる。君たちが勝てば彼らの説が倒れる。彼らが負ければ彼らが身をもって人間の無知を証明することになり、君たちが負ければ君たちがそれを証明することになる。彼らが「何事も知られず」と自ら証明しうればもちろん結構、証明しえなくても同様に結構。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)けだし、同じ事柄の中に賛否両方の理由を見出さば、彼らがその判断を懸案となすことはいっそう容易なればなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 それに彼らは、「なぜ一つの事が嘘であるか」という理由の方が、「なぜそれがまことであるか」という理由よりも、遙かに見出しやすいと明言する。「ないこと」の方が「あること」より、「信じないこと」の方が「信ずること」より、その理由が遙かに見出しやすいと明言する。
 (a)彼らの言い方はこんな風である。「わたしは何事をもきめない」「それは、こうでもなくああでもない。あるいは、それでもなければ、これでもない」「わたしはそれを全く理解しない」「外観はどこでも同じである」「賛成することも反対することも同様に可能である」(c)まことらしく見えるもので嘘らしく見えないものはない」(a)彼らの格言はエペコー [#無気記号付きε、U+1F10、598-10]π※(鋭アクセント付きε、1-11-49)χω すなわち「わたしは宙ぶらりんで動かない」である。これこそ彼らの繰り返し句である。前記の諸句もそうで、結局は同じ意味である。その究極は、純粋完全な判断の中止見合せである。彼らは探求し論議するには理性を用いるが、決定し選抜するにはそれを用いない。いつでも無知を告白すること、いかなる機会においても勾配なく傾斜のない判断をもつこと、それがわかればピュロニスムもわかるのである。わたしがこの思想をこんなに入念に叙述するのは、多くの人々がそれを解りにくいというからである。いやこの派の著者たちまでが、それをやや曖昧にまちまちに表現しているからである。
* これらの諸句はいずれもモンテーニュの書斎(現存)の天井や壁にギリシア語で記されている。
 生活上の行為を見ると、彼らもそこでは一般の方式に従っている。自然の諸傾向、もろもろの情念の衝動や強制、法律および習慣の約束、学芸上の伝統などに順応している。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)神は我らがこれらの物事を知ることを欲せず、ただそれらを使用することをのみ欲したればなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)彼らは、自分たちの日常の行為をこれらの事柄の導くがままにし、少しもそこに意見判断を加えない。だからわたしは、いま言ったことに、ピュロンについて言い伝えられているところのことを、合致させることができなくなる。人々は彼を無気力なぐずぐずした男として描いている。野蛮な非社交的な生活をしていて・車がやって来ても避けようとせず・ゆく手の谷にはかまわずに踏みこむし・法律に順応することもこばむ・そういう風な人間として描いている。だがそれは、彼の教説の誇張である。彼は石や切株になろうと思ったことはなかった。彼は思考し推理し・あらゆる自然の快楽を享受し・その肉体的精神的両方面の諸器官を正しく働かせ用いる・生きた人間になろうと思っただけである。人間が支配し規定し真理をおしたてようとして横領した・架空の・想像の・虚偽の・特権を、彼はただ正直に辞退しただけなのである。
 (c)それにまた、いかなる学派といえどもその賢者に対して、彼がいろいろの・理解も認識も承服もされない・事柄に従うことを、彼が生きようとしているかぎり、許さないわけにはゆかないのである。そして彼の方も、一たび海の旅に出れば、その企てがはたして自分に役立つかどうかは知らないけれども、とにかく皆に従う。「船もよいし、パイロットもなれているし、季節もよい」という皆の意見に従う。それは単に蓋然的な事情にすぎないけれども、とにかくそれに従って行かざるを得ないのである。その中に明白な矛盾がないかぎり、外観を信じて連れてゆかれざるを得ないのである。彼は肉体をもち霊魂をもっている。もろもろの感覚は彼を押し、精神は彼を動かす。彼は自分の中にあの特別な判断の基準はもたないけれども、また、あのしんによく似たというものもありうるから、うっかり自分の賛意をもらしてはならないと気がついてはいるけれども、それでもやはりその日常の職務は十分に、愉快に、処理してゆく。世には知識よりもむしろ推量の上に立っていると自白する学芸が、つまり真と偽とを決定しないでただ外見にしたがってゆく学芸が、いくらもあるではないか。それに彼らの言うとおり、真も偽もあるし、またそれを尋ねるだけの力も我々には備わっているが、それを試金石にあてて決定する力はないのである。我々は何の詮索もせず世界の秩序にしたがって逆らわない方が、ずっとよくなれるのである。偏見に縛られていない霊魂は、平安に向ってぐんぐん接近してゆく。自分の裁判者を判断したり検査したりする人々は、本当に裁判者に服従しているとは言えない。宗教の掟に対しても国家の掟に対しても単純な好奇心のない精神の方が、あの神様や人間の原因を監視したり教えたりする人々より、どんなに導きやすいか知れない!
 (a)人間の考え出した学説の中に、このピュロニスムほど真実らしさと有効さとを含んだものはない。この説が推称するのは、裸でからっぽな人間である。それは自ら生れつきの弱さを認めていて・天から自分にない何かの力をうけるのにふさわしい・そして人間の学問にわずらわされず・それだけ神の学問を自分の中に宿らせるのにふさわしい・そういう人間である。自分の判断をむなしくしてそれだけ信仰に席をゆずる人間、(c)不信者でもなく(a)一般の習慣に逆らうどんなドグマもたてない人間、謙遜で従順で教えやすく熱心で、異端をはなはだしく敵視し、したがって誤ったもろもろの宗派が持って来た空虚不敬な所説には少しもくみしない人間である。(b)それは、神の指がここに印づけようとするどんな形をも受けようと待っている白紙である。我々は、神にたより神にすがろうとすればするほど、自己をすてようとすればするほど、それだけよくなる。(a)「伝道の書」はいう。※(始め二重山括弧、1-1-52)物事を、日ごと日ごと、そが汝の眼汝の舌に見られ味わわるるままに、よき方に取れ。その他のことは、汝の知識のそとにあるものなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)と。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)主は人々の思いの空しきことを知り給う※(終わり二重山括弧、1-1-53)(「詩篇」九十四の十一)。
 (a)こんなふうに、哲学の三つの主要な学派の中、その二つは明白に懐疑と無知とを告白している。そして第三のドグマティストたちの一派においても、大部分のものはただえらそうに見られたいばっかりに、いかにも確信ありげな顔をして見せたにすぎないのだということが、容易に暴露される。彼らは、我々のために何かを確実にしてくれようと考えたのではなく、むしろこの真理の探求において、自分たちがどこまで行ったかを、我々に示そうとしたのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)学者たちはこれを知れるにあらず。ただこれを推量せるのみなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(出処不詳)。
 ティマイオスは、世界・神々・人間・について知っていることをソクラテスに教えなければならなかったとき、「お互いに一人の人間対一人の人間として話し合おうではないか。わたしは、わたしの理由が誰かの理由と同じくらいにもっともらしくあればそれで十分なのだ。まったく、確実な理由はわたしの手にもなければ誰の手にもないのだ」と言った。これをまねして彼の渇仰者かつごうしゃの一人は、つぎのように言った。※(始め二重山括弧、1-1-52)われはわが考えをでき得るかぎり説明せん。されどピュティアのアポロン神のごとく確実なることは言わざるべし。われは弱き人間なれば、ただ推量によりて真らしきことを言うのみなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)と。しかもそれは、死の蔑視というごく自然な誰にもわかりやすい問題についてであった。ほかの場所でも同じことを、プラトンの言葉そのものをもって次のように言いあらわしている。※(始め二重山括弧、1-1-52)神の性質や世界の始まりについて推理しつつ、われ自ら目指す目的に到達しえざることありとも、決して驚き給うことなかれ。まことに、語るところのわれも、判断するところの御身も、ともに人間なることを忘るべからざるなり。もしわれの言うところに多少なりとも真らしさがあるならば、以て満足し給うべきなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)と。
 (a)アリストテレスは、つねにたくさんの異説とたくさんの異なった信仰とを我々の前に積み上げて、これに自分の説を引きくらべ、いかに自分が群を抜いているか、いかに真らしさに接近しているかを示した。まったく、真理は他人の権威や証言によっては決して判断されないのである。(c)いや、だからこそエピクロスは、用心して彼の本の中に他人の意見や言葉を引用することを避けたのである。(a)アリストテレスはドグマティストの王様である。だがその彼から、我々は多くを知れば知るほどいよいよ疑いの機会を増すものだと、教えられる。見給え、彼はことさらに濃い解きがたい暗闇の中にしばしば包まれていて、どれが彼の意見なのかさっぱり見分けがつかないではないか。これまた結局、肯定的な形式の下に表わされた一つのピュロニスムである。
 (c)キケロが抗議しているのを聞いてごらん。彼は自分の思想によって他人の思想を説明している。※(始め二重山括弧、1-1-52)我らがそれぞれの問題について思い思いに考えることを知らんとする人々は、まことにその好奇心強きに過ぐ。見よ、かのすべてを批判し何事をも決定せざる哲学上の原理は、ソクラテスに始められ、アルケシラオスにねられ、カルネアデスにかためられて、今もなお花さきてあり。我らは、「いかなる真理の中にもかならず一部の虚妄あり。両者はきわめて相似たるものにして、その混合の中には明確なる判断をゆるすいかなる標準も存在せず」という人々に組す※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)と。
 (b)なぜ、アリストテレスばかりでなく大部分の哲学者は、むつかしさをてらったのか。要するに空虚な主題に勿体をつけるため、我々の精神の好奇心にああいう肉のついていない・うつろな骨片をかみしゃぶらせることによってこれをはぐらかすため、にほかならない。(c)クレイトマコスはカルネアデスの書物を読んで、著者がどんな意見の人であるかをついに知りえなかったと、断言した。(b)エピクロスはそのためにその書物の中に平易を避け、ヘラクレイトスもまたそのために、スコテイノス σκοτειν※[#重アクセント付きο、U+1F78、601-4]※(ギリシア小文字ファイナルSIGMA、1-6-57)〔暗やみ〕という綽名あだなまで貰ったのである。むつかしさとは、(c)学者たちが手品師のように、その学芸の空なることを示すまいとして使う(b)一種の貨幣である。愚かな人間はまんまと掴まされる。

実にその言葉の晦渋によりてヘラクレイトスは、
無知なる人々の賞賛をえたり。愚か者は実に、
謎のごとき言葉にかくされたる思想をのみほめ称う。
(ルクレティウス)

 (c)キケロはその友のたれかれが、つねに天文学や法律学や弁証学や幾何学のために、これらの学芸が価する以上に時間を費やしていること、そしてそのために彼らがもっと大切な尊い日常の義務をわすれていることを、とがめている。キュレネ派の哲学者もまた、自然学や弁証学を軽蔑した。ゼノンはその『国家』の巻頭に、自由科の学芸をすべて無用だと宣言した。
 (a)クリュシッポスは、プラトンやアリストテレスが論理学について書いたものを見るや、あれはただ道楽のために書かれたものだと言い、彼等があんな下らない問題を本気で書いたとはついに信ずることができなかった。(c)プルタルコスは同じことを形而上学について言った。(a)エピクロスもまた修辞学・文法学(c)・詩・数学・それから自然学をのぞくすべての学問(a)について、同じことを言ったらしい。いやソクラテスにいたっては、道徳や人生を論ずる学問だけをのぞいて、すべての学問について同じことを言った。(c)何事について尋ねられても、必ず、まずもって質問者にその過去および現在の生活の状況を語らせ、それを検査し判断するのを常とした。それ以外の修業はみな第二義的で余計なものと考えたからである。
※(始め二重山括弧、1-1-52)われはこれを学びし者の徳を少しも増加することなかりしこれらの学問にかかずらわず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(サルスティウス)。(a)学芸の大部分は、このように学者たちにまで軽蔑された。けれども彼らは、そういうなんの役にも立たない・実のない・事柄の中に精神を鍛練するのを、必ずしも不適当だとは考えなかった。
 それに、ある者はプラトンをドグマティストと言い、他の者は懐疑家と言った。さらに他の者は、彼をある事柄においてはドグマティストで、ある事柄においては懐疑家であると見なした。
 (c)その対話の指導者として、ソクラテスは常に問いを設けては議論を誘発してゆくが、決して結論せず解答も与えない。そして「反駁する学よりほかに学を有せず」と称した。学者たちの元祖であるホメロスは、哲学上のすべての学派にひとしく基礎を与えたが、それは、我々がどこを通ってゆこうと問題ではないのだということを示すものであった。プラトンからは十の異なった学派が生れたといわれている。それにわたしが考えても、彼の教えくらいふらふらしていて何一つ断定しない教えは嘗てなかったのである。ソクラテスは言った。「サージュ・ファム〔産婆〕は他人にお産をさせることをその役目として、自らは産む役目を捨てる。
 わたしもまた、神々からサージュ・オム〔賢人〕の称を与えられたから、雄々しい精神的な愛**において、自らは子を産む能力をいさぎよくすてた。ただ生もうとするものにわが助力を貸し与え、その性器を開き、その産道にあぶらし、その分娩を容易にし、生れた児を判別し、これに命名し、これを養育し、これを丈夫にし、これに産衣うぶぎをきせ、これに割礼を施すだけで満足した。つまりわたしは自分の知恵を他人の危急存亡の際に役立てるだけだ」と。
* フランスでは産婆のことを sage femme〔賢い女〕という。sage とは expert, habile の意味であろう。Godefroy の辞書に m※(グレーブアクセント付きE小文字)re sage=sage femme とあるのを見ると、かなり古くからの称であろう。ソクラテスが sage homme といわれたのは homme sage の意味であったに相違ないが、彼自らはその母が sage femme であったことを想起し、自分を精神上の助産士と見たのであろう。他にそういう意味に用いた人があるかどうか知らないが、Bescherelle a※(サーカムフレックスアクセント付きI小文字)n※(アキュートアクセント付きE小文字) の辞書には、sage-homme の項目があり、モンテーニュのこの節を引いている。
** モンテーニュ自らも、自己の著述『随想録』を精神的な子供と考えている。第二巻第三十七章参照。
 (a)あの第三の種類に属する著者たちの大部分もまた、そう**である。(b)それは、古人がアナクサゴラスやデモクリトスやパルメニデスやクセノファネスなんかの書物について認めたとおりである。(a)彼らは肝心なところは曖昧な書きぶりをしており、ところどころに独断的な調子を交えてはいるけれども、教えようというよりはむしろ問おうとしている。こういう傾向は、(c)セネカにおいても(a)プルタルコスにおいても、ひとしく見られはしないか。(c)よく注意して見ると、ある時は賛成するように、ある時は反対するように、実に彼らはいろいろに言うではないか。法学者たちを協調させようとする者は、まずもって彼らを彼ら自らと協調させなければならないのである。
* 独断論者をさす。前述五九九頁最終行に「哲学の三つの主要な学派の中、その二つは明白に懐疑と無知とを告白している。そして第三のドグマティストたち……」とあるのに照応する。
** プラトンと同様に、独断家とも懐疑家とも両様にいわれる。前述六〇一頁最終行にさかのぼる。
 プラトンはことさらに、この問答によって哲学する方式を好んだもののように思われる。つまり彼自身の多面的で変化にとんだ思想は、これをいろいろな人の口を通じて言わせる方がいっそうふさわしいと考えたからであろう。
 問題を色々な立場から論ずることは、それらを一定の立場から論ずるのと同様に結構なことである。いやいっそう結構なことである。つまりその方が、より豊富な・より有益な・論じ方だからである。我々法官に例をとろう。判決は独断的決定的言論の極致である。だがしかし、我々の高等法院が人民に示す最も模範的な判決は、主としてこれを実施する人々の才能によって、人民に法の尊厳を知らせることを目的とするものであるが、判決の美は決してその結論から生ずるものではない。結論は判事たちが毎日していることであって、それはどの判事がしても同じである。判決の美はむしろ、法律上の問題がゆるす限りのさまざまの相反する論拠を活溌に論議することから生ずるのである。
 また哲学者同士の非難攻撃が行われる最も広い場所は、彼ら各自の矛盾撞着の中にある。彼らはみな、こういう矛盾撞着の中に、あるいはわざと(人間の精神がどんな問題をめぐっても動揺して定まらないことを示すために)、あるいは知らぬ間に(どんな問題も煩瑣で不可解なるがために)、おちこんでいるからである。
 (a)「足がすべってつかまりどころのない場所では、我々の所信を言わずにおこう」という〔プルタルコスの〕繰返し句は、いったい何を意味するのか。まったくエウリピデスがいったように、

神のなし給うことがらは、
われらをしてさまざまに迷わしむ。
(プルタルコス仏訳)

(b)エンペドクレスの繰返し句も同じことだ。彼は、神がかりになり真理まけがしたかのように、その著の中にしばしば次のような句をまき散らした。「我々は何物も感じない、何物も見えない。万物は我々にとって幽玄であって、我々が『これは何である』と断言できるようなものは一つもない」と。(c)いずれも、※(始め二重山括弧、1-1-52)人間の思想には力なし。彼らの予知・彼らの発見・は共に不確実なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(「知恵の書」〔旧約外典〕九の十四)という神の言葉に帰する。(a)捕獲の望みをすてた者がなお狩猟の楽しみをすてないのを見ても、それをおかしいと思ってはならない。研究はそれ自体が面白い仕事なのである。それは、ストア学者たちがさまざまの快楽と共に精神を働かすことから生ずる快楽までも禁じ、そこに節制を要求したほど、(c)余りに多く知ろうとすることを不節制のうちに数えたほど、(a)面白い仕事なのであるから。
 (a)デモクリトスはその食卓で蜜の香りがする無花果いちじくを食べると、さっそく心の中で、「この常ならぬ香りはどこから来たか」と詮索をはじめた。そしてそれを明らかにするために、つとテーブルをはなれてその無花果が摘まれた場所を見に行こうとした。女中は主人が席を立った理由を聞くと笑って答えた。「お気になさるには及びません。前に蜜の入っていた器に入れておいたからでございます」と。彼は女中が自分からこの詮索の機会をとりあげ、好奇心の材料をうばったのを怒って、彼女にいった。「出て行け。お前はわたしに不快を与えた。わたしはやはりその原因を自然のものとして探求するつもりだ」と。(c)そして、ついにうその・仮想の・事実について若干のまことしやかな理由をこじつけた。(a)この有名な大哲学者の逸話は、このような・我々には到底得る望みのない事柄をも追求させずにはおかぬ・研究欲があることを、極めて明らかに物語っている。プルタルコスは、或る人について、同じようなことを物語っている。その人は自ら詮索をする喜びを失うまいとして、自分が疑っている事柄を人から明らかにされることを欲しなかったという。それから飲んで渇きをいやす時の喜びを失うまいとして、医者から熱の渇きをいやされることを欲しなかったという人の話もしている。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)何も学ばざるよりは、用なきことにても学ぶにしかず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
 しばしばどれをとって食べてもただおいしいだけのことがあるように、いや我々が摂取するおいしいものすべてが必ずしも滋養のある健康にいいものとは限らないように、我々の精神が学問の中からひき出すものもまた、それが滋養ある保健的なものでないにしても、やはり愉快であることに変りはないのである。
 (b)彼らはこんなふうにいう。「自然の考察は我々の精神に格好な食餌である。それは我々を高め大きくする。我々に、下品で地上的なものを、高尚で天上的なものと比較することによって軽蔑させる。幽玄偉大な物事の詮索は、ただそこから畏敬の心と・それについて断定することの恐ろしさと・だけしか与えられない者にとっても、はなはだ面白いことである」と。これは彼らが言った言葉そのままである。こういう病的な好奇心の空虚な姿は、彼らが勿体ぶってしばしば口にする・次のもう一つの・実例の中に、いよいよ明白に見て取られる。すなわちエウドクソスは神々に向って、「たちまちに焼かれても苦しゅうございません。どうか一度太陽をま近に見させて下さい。その形、その大きさ、その美しさを、理解させて下さい」と祈願した。つまりその生命と引きかえに一つの知識が得たいと、その使用と所持とがたちまちにして取りあげられるのがわかっているのに、願ったというのである。そして、この束の間の知識のために、その既に得た・また将来得ることのできる・すべての知識を失うことさえ、あえて辞さなかったというのである。
 (a)わたしはエピクロスやプラトンやピュタゴラスが、彼らのアトムやイデアやノンブルを、我々に現金として与えたとは、容易に信じられない。彼らは、こういう不確かな疑う余地のある事柄の上にその信仰箇条をおし立てようとするほど、愚かではない。だが、これらの偉大な人々は、それぞれ、こういう暗黒で無知な世界の中にあって、ともかくもなにがしかの光明をもちきたそうと努めたのである。とにかくその霊魂を、少なくとも面白くて機微な姿に見えそうな諸説を考え出すことに用いたのである。(c)よしそれは間ちがっていようとも、とにかく諸々の反対説に対抗出来さえすればよかったのである。※(始め二重山括弧、1-1-52)これらの学説は、哲学者各自の精神がでっちあげたるものにして、ひろく学界の承認をえたるものにあらず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(a)ある古えの人は、その判断においては大して哲学を重視してもいないのに、なおかつそれを職としているのを咎められると、「いや、これこそ真に哲学することなのである」と答えた。彼らはすべてを考察しすべてをはかりにかけようとした。そしてこの業を、我々のうちにある生れつきの好奇心にふさわしいものと考えた。幾多の事柄を、彼らは公共社会の必要に応じて書いた。彼らの宗教論などがそれである。こう考えると、彼らがその国の法律や習慣の遵守の中に混乱を引き起すまいとして、世間一般の意見をあえて洗いたてようともしなかったのはもっともなことである。
 (c)プラトンもこの神秘をかなりあけすけに論じている。まったく、自分の意見を述べる場合には、彼は何一つ確実には規定していないのである。立法者として書いている場合は、威圧的で断定的な文体を借りているが、やはりそこに、その最も空想的な創意を大胆に交えている。そういう創意は、彼自らに信じさせるには滑稽であるが、民衆に信じさせるには有効なものであるし、いかに我々が、どんな教説をもたやすく受け入れるか、なかんずく荒唐無稽な教説をも受け入れるかを、きわめてよく心得ているからである。
 そういうわけで彼は、その法律において、詩はそこに語られている物語の筋が何か有用な目的をもつものでなければ、人前で歌ってはならないと大いにいましめているくせに、一方では、どんな幻想も人間の精神にそれを印象することは極めて容易なのであるから、それが無用有害な虚構でなく有益な虚構であるかぎり、これを与えないのはよくないとも言っている。その『国家』の中では、人々の利益のためにはしばしば彼らを欺く必要があると、きわめて率直に述べている。さまざまな学派の中で、一方の学派はもっぱら真理を追い、もう一方の学派は有用を追ったことを、我々は容易に区別することができる。後者は有用であるというのでますます信用をえたが、それは当然である。我々の目に最も真実であると見える事柄が、往々にして我々の人生に最も有用なものと思われないのは、われわれの本性が悲惨である証拠なのである。最も大胆な諸学派、エピクロス派・ピュロン派・新アカデメイア派までが、結局は民法に従うことを余儀なくされている。
* こういうところにも、モンテーニュの宗教に対する態度がよくあらわれている。後出第二巻第十六章にも、同じような意見が行間によみとられる。この態度は詐偽でもペテンでもない。むしろ賢者の態度、少なくとも為政者としての理性的な態度といえよう。これはキリスト教国民によりも、伊藤仁斎や本居宣長をもつわれわれ日本人の方に、よりよく理解されることであろうと思う。拙著『モンテーニュ伝』二一六―二一八頁参照。
 (a)なおこのほかにも、彼らがああでもない、こうでもないと議論した問題がいろいろあり、彼らそれぞれは、正しいか誤っているか知らないが、とにかく何とかそれらに恰好をつけようと骨を折っている。まったく彼らの目には、論ずるのがはばかられるような、それほど奥ふかくかくされたものは何一つなかったから、彼らはしばしばより所のない・ばかげた・推量をも、せずにはいられなかったのである。もとより彼らは、それらを土台にしようとか・その上に何かの真理をおし立てようとか・は考えていない。ただ自分たちの研究の足がかりにしようとしているにすぎないのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)彼らは確実に到達せんと思いたるにはあらで、むしろ困難なる問題によりて自己の精神を練らんとしたるもののごとし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(出処不詳)。
 (a)いやこういうふうにでも考えなければ、あのとおり優れた・ほめたたえるべき・霊魂によって生み出されたもろもろの意見が、あんなにも不定であり、まちまちであり、また空虚であることを、我々はなんと言って弁護したらよいかわからない。まったく早い話が、我々の推量や類推によって神様を臆測しようとしたり、我々の能力や我々の規則によって神様を・また世界を・規定して見たり、神様が我々人間に天分としてちょっぴりわけて下さった・あのちっぽけな玩具みたいな・才能をつかって神性をはずかしめたりするくらい、つまらないことがあるだろうか。いくら我々の眼を神様の栄光輝く玉座までとどかすことができないからと言って、神を我々の腐敗・我々の悲惨に・まで引きおろそうとするくらい、むなしいことがまたとあるだろうか。
 宗教に関する人間古来のすべての意見の中で、わたしに最も真らしく・最も許されるように・思われるのは、神様を、よろずの物・よろずの善・よろずの完全・の根源であり保持者であって、いかなる形・いかなる名・いかなる仕方・によって人間が捧げる尊敬をも、ひとしくお受けくだされる、一つの理解しえざる偉力なり、と認める考えである

(c)全能なユピテルは天地の父母、
諸王諸神の父母。
(ウァレリウス・ソラヌス)

* この辺から、モンテーニュの理神論ないし汎神論が読まれる。拙著『モンテーニュ伝』二一〇―二一八頁参照。しかもつねに伝統的宗教の形式を見失うまいとしている。ここには宣長の葬式の話や仁斎の逸話などが自然に想起される。さまざまの異教的分子をとりいれながら、伝統的キリスト教徒であろうとするところに、そして宗教的寛容を自他のために持するところに、西欧人にはめずらしい融通無礙なモンテーニュの性格の一つがあると見られよう。
 こういう熱烈な信仰は、いたるところ天から優しい眼をもって見られた。いずれの国家も国民の信心から利益をえた。無信心の人々やその行為は、いたるところでそれにふさわしい報いをうけたからである。異教徒の歴史を見ると、彼らの作り話のような宗教の中にも、品位と秩序と正義と、また彼らを利し彼らを教えるために用いられる奇跡や託宣が存在するが、恐らくこれは、神がその御慈悲によってこのような現世的な恩恵をお用いになり、天与の理性が我々の空想した誤れる神像を通じて我々に与えた・あのように粗雑千万な・神に関する知識のひよわい萌芽をも、守り育てようと遊ばされるからであろう。
 人間がその創意をもってでっち上げた神の像といえば、それはたんに誤っているばかりではない。不敬で神をみするものである。
 (a)それで聖パウロは、アテナイで行われているすべての宗教のうち、隠れて見えない神にささげた彼らアテナイ人の信仰が、最もゆるされるべきものとお考えになった。
 (c)哲学者の中ではピュタゴラスがもっともよく真理を描いた。彼はこう判断した。「この第一原因・この存在の中の存在・に関する知識は、定義しようにも規定しようにも説明のできないものでなければならない。それは、我々各自がそれぞれの能力にしたがって完全の概念を段々に拡大しつつ行った、その努力の究極にほかならない」と。けれどもヌマは、人民の信心をこういう考え方にかなわせ、彼らをきまった目標のない・少しも物的なものの混りこまない・純然たる心的宗教に結びつけようと企てたが、まったく徒労に終った。つまり人間の精神は、こういうぼんやりした無形の思想の唯中をさ迷いつつ己れを維持してゆくことができないからである。どうしてもその思想を、自分に似た明確な形にかためないではいられないからである。そんなふうにして神の尊厳は、我々のためにいわば肉体的限界の中に閉じこめられてしまった。そして神の超自然的で天上的な秘蹟さえも、我々人間の下界的性質の痕跡をつけられ、神への崇拝さえも、知覚される儀式や言葉で示される。まったく、信ずるのも祈るのも人間なのである。この問題に関して用いられる他の論拠はしばらく別として、わたしは、十字架やあのお痛わしい御受難の像や、我々の寺院における装飾や儀式や、我々の胸の中の信心にふさわしい歌声や、その他もろもろの感覚の興奮などが、きわめて有効で敬虔な情熱をもって民衆の霊魂を燃え立たせないとは、とうてい信ずることができないのである。
* ヌマは伝説によると古代ローマ二代目の王である。この人の宗教政策に関するモンテーニュの意見は、勿論当時の新教批判であるが、ただそれだけにとどまってはいない。けっきょく人間は一般的に、何かセンシブルな形にしなければ形而上の問題は理解しえない、把握できないというのであって、言いかえれば、神というものは、人間にはとうていわからない、つかまえられないものだ、ということをにおわせている。「信ずるのも祈るのも人間なのである」とはずいぶん大胆な言明ではないか。それは絶対的不可知論、とりようによっては無神論とも思われる。ピエール・ミシェルも「フィデイスムからデイスムへ、デイスムからアテイスムに転向することは容易であり、不可避である」と言っている。それでモンテーニュは最後にえらく敬虔な文字をつらねてカムフラージュをしている。これがモンテーニュのいつもの手である。中にはこの最後の数行を、シャトーブリアン流のモンテーニュの美意識であり、信仰であるという学者もあるが(モンテーニュの芸術家的感受性ないし嗜好は否定できないが)、やはり先行の文章の方に重点をおかなければなるまい。
 (a)人間が形を与えた神々の中では(世界じゅう盲ばかりなので必要がそういうことを要求したのであろうが)、わたしは太陽を崇拝する人々に最も喜んでくみしたろうと思う。

普遍の光、世界の眼。もしも神
眼を持つとせば、太陽はその輝ける眼よ。
それは万物に命を与え我らを助け守る。
またこの世にて人々のなすもろもろの業を見まもる。
この美しく大いなる太陽こそは、その
十二の家を出で入りて四季を作りなす。
太陽は誰も知るかの徳をもって宇宙をみたし、
その眼の一閃は、我らが前に雲をはらう。
世界の精、世界の霊、燃えさかりつつ
ただ一日の歩みに、天界を一周す。
無限に大きく、円く、行き行きてとどまらず、
そは、その下に、全世界を見おろす。
休みなく、しかも安らか。止ることなく、しかも静か。
自然の長子、毎日の父よ。
(ロンサール)

 なぜなら、このような偉大さと美しさとを別にしても、太陽こそは我々が、この世で我々から最も遠くに見出すものだからであり、したがってそれは最も知られていないものであるから、人々がこれを賛美し礼拝するに至ったのもゆるされるべきことである。
 (c)タレスはこういう問題を探究した最初の人であるが、神とは水をもって万物を造った精霊であるといった。アナクシマンドロスは、神々とはときどき死んではまた生れるもので、それは数限りなき世界そのものであると考えた。アナクシメネスは空気こそ神であって、それは生み出されたもの、広大にして常に動揺していると考えた。アナクサゴラスは、始めて万物の形態および状況を、ある無限な精霊の力と理性とに指導されていると考えた。アルクマイオンは太陽と月と星と霊魂とに、神性を与えた。ピュタゴラスは神を、万物の本質の中に遍在する一つの精神で、我々の霊魂もまたこれから分れ出たものだと考えた。パルメニデスはこれを、光り輝く炎によって天をとりかこみ、世界を支持する輪であると考えた。エンペドクレスは、万物がそれによってなるところの四元素が神々であると言った。プロタゴラスは、神々があるかないか、何が神々であるかは、何とも言えないと言った。デモクリトスは、ある時はもろもろの星辰とその回転を、ある時はこれらの現象を生み出すところの自然を、それにまた我々の知識や知性を、神々であるとした。プラトンはその所信を、いろいろに言いふらしている。その『ティマイオス』においては、世界の父は名づけることができえないと言った。『法律』においては、その存在を詮索してはならないと言った。またそれらの書物の別の場所では、世界や天空やもろもろの天体や大地や我々の霊魂を神であるとし、なおその上に、各々の国において古来神として崇められているところの神々までも受け入れた。クセノフォンの伝えるところによれば、ソクラテスの学説もまた同じように混沌としている。すなわち、ある時は神の形状を問うてはならないと言い、ある時は太陽が神である・霊魂が神である・と言い、あるいは神はただ一つしかないと言い、あるいは数多くあるとも言ったのである。プラトンの甥スペウシッポスは、神をもって万物を支配する力であり、その力は生けるものであるとした。アリストテレスは、あるときは精神・あるときは世界・と言い、あるときはこの世界に別の主を与え、あるときは天の熱をもって神であるとした。クセノクラテスは神を八つ数えた。その五つまでは遊星の名をもって数えられ、第六の神はすべての恒星から成り、各個はいわばその手足であった。第七の神と第八の神は太陽と月であった。ヘラクレイデス・ポントスはただただ諸説の間に迷い、ついに神とは感情なく変幻極まりないものであるとし、更にそれは天と地とであるとも言った。テオフラストスも、同じように心定まらず、いろいろな思想の間をさ迷い、世界の支配権を、あるときは悟性に、あるときは天に、あるときはもろもろの星に、もたせた。ストラトンは、生み増しまた減らす力のある・形もなく感情もない・自然こそ神であると言った。ゼノンは、神とは善を命じ悪を禁ずる自然の法で、その法は生き物であるとし、従来のユピテル、ユノー、ウェスタ等の神々を抹殺した。アポロニアのディオゲネスは、神は空気であるとした。クセノファネスは神を、見たり聴いたりはするけれども息をせず・人間性とは何ら共通のものがない・まるいもの、とした。アリストンは神の形状を理解されないものとし、それには感覚がなく、それが生物かどうかについては知らないと言った。クレアンテスは、あるときは理性、あるときは世界、あるときは自然の霊、あるときは万物をおおい包むところの至上の熱であるとした。ゼノンの聴講者ペルセウスは、「人間の生活に何か顕著な寄与をしたもの、及び有用な事物その物が神とよばれた」と信じた。クリュシッポスは、以上にのべたような意見のすべてを雑然とよせ集めて、さまざまな形の神々を想像したが、不朽にされた人間までもその中に加えた。ディアゴラスおよびテオドロスは、断然神々の存在を否定した。エピクロスは、神々を光があり透明であって空気をとおすもの、あたかも二つの城の間にあるように天界と地界の間に位し、決して打撃を受けることがないもの、人のような顔と手足を備えたもの、しかもその手足は彼等に何の用をもなさないもの、とした。

われは常に神々ありと考えたり。またかく考えん。
されど、神々が人間のことにかかずらうとは
信ぜざるべし。
(エンニウス)

 いくらでも君の哲学を信用なさるがよい。われこそはお菓子の中の豆を切りあてたぞとお威張りなさるがいい。あんなにたくさんの哲学的頭脳がこのとおりけんけんごうごうと騒ぎ立てているのもお耳にははいらないと見える! だがわたしは、世の人の考え方の混沌として定まらないのをこうやって眺めているうちに、いつかしらわたしの習慣思想とちがう習慣思想が、わたしの気に逆らわないでかえってわたしを教えるようになり、また両方を比較しているうちに威張るよりはへりくだる気持が起るようになった。いや、特に神の御手から来た選択以外の選択は、すべてたいしたこともないようにわたしには思われる。人々の奇怪な・自然的に反する・生活振りは言うまでもない。世界の諸政府もまた、この神の問題となると、諸学派に劣らず互いに意見を異にしている。これを見ると我々は、運命でさえ我々の理性ほどには多様でも変りやすくもなく、またそれほどに盲目でも軽率でもないということが、わかるのである。
 (a)最も知られていないものこそ、最も神とせられるのに適している。であるから、古代の人々がしたように我々をもって神とすることは、いかに我々の推理の力が弱いとはいえ、余りにも度をこえている。わたしはむしろ、蛇や犬や牛を礼拝する人々の方にくみしたであろう。なぜなら、それらの天性や本質の方が我々にはいっそう知られていないからである。だから我々が、これらの動物について勝手なことを想像し、これらに非常な性能を持たせる方が、まだ幾らかゆるしてもらえると思うのである。しかし我々の性質をもって(我々はその不完全なことをよく知っているはずだのに)神々を作り上げるにいたっては、彼らに欲望や憤怒や復讐心ふくしゅうしんをあたえ、結婚や生殖や分娩を行わせ、恋ごころや嫉妬心をいだかせ、我々と同じ手足や骨、熱病や快楽、(c)死や葬り、(a)を与えるにいたっては、どう考えても人間の悟性のひどい酩酊から発するものといわなければならない。

(b)それらは余りに神の性から遠く、
それらは余りに神々にふさわしからず。
(ルクレティウス)

(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)人は神々の姿や年齢や衣服や装飾を知れり。その系図やその結婚やその親族など、我々が神について知れるところは、すべて人間の不具不完全を範とせり。何となれば、人は神々の心にも我々と同じ迷妄満ちみち、神々もまた情欲と悲嘆と憤怒とに悩み給うがごとく取沙汰するにあらずや※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。ただに誠実や徳や廉潔や協和や自由や勝利や信心ばかりでなく、快楽や欺瞞や死やそねみや老いや貧困や(a)恐怖や熱や不運など、我々のもろく弱い生命がこうむるさまざまな不幸までも神性と見るに至っては、まったく驚くのほかはない。

(b)何すれぞ神殿に我々の悪しき習性をまつるや。
 おお、天をわすれ地に向ってかがめる人々よ!
(ペルシウス)

 (c)エジプト人は「何人なんぴとも自分たちの神セラピスとイシスがかつて人間であったことを口外してはならない。おかしたものはしばり首にする」と言ったが、まことに出すぎた用心であった。かえってそのために、誰一人そうであったことを知らないものはなくなった。また、その口に指をあてた彼らの像は、ウァロの言うところによると、「われらがもと人間の出なることは黙っておれ。それが知れると必ず人々の信心がなくなるぞ」という、僧官たちに対する秘密の命令を意味するものなのだそうな。
 (a)人間はあれほどに自分を神様にくらべたがっていたのだから、キケロの言うとおり神の諸性を自分に引きよせ、それらを下界にひきおろし、自分たちの腐敗と悲惨とを天に上せなかったのは、まだゆるすべきであったかも知れない。だがよく考えてみると、人間はいつも同じ思いあがりから、この両方をちゃんぽんに行ったのである。
 哲学者たちが彼らの神々の階級を詮索し、彼らの縁つづきや職掌や偉力などを識別するのにせわしないところを見ると、彼らが本気でものを言っているとはどうしても信じられない。プラトンが、プルトンの果樹園の有様や、我々の肉体が崩れてから後になお我々を待っている肉体的な楽しみや苦しみを事細かに述べ、それらを一々我々がこの世において持っている感情に照らし合せているのを見ると、

隠れたる小径彼らをかくし、
ミルトの森彼らをめぐる。
死もついに彼らの憂いを除かざりき。
(ウェルギリウス)

マホメットがその信者たちに、敷物がしかれ・金銀宝石にかざられ・たぐいまれなる美女やめずらしいお酒やご馳走に満ちみちた・楽園を約束するのを見ると、わたしにはすぐぴんと来る。「この曲者くせものめ! 我々の愚かさにつけ入り、我々人間の欲望にふさわしいこのような教説や約束で我々を誘惑する気だな!」ということが。(c)ところがわれわれキリスト教徒の中にさえ、同じ誤謬におちこみ、復活の後にあらゆる俗界的な愉快の伴う・地界的・現世的な・生があるかのように思いこんでいるものがいる。(a)一体それは本当だろうか。あのプラトンともあろうものが、あれほど天界的な思想を持ち・あれほどしげく神と往来した・ために、今でもなお神聖の称を失わないあのプラトンさえも、人間というこの哀れむべき被造物が何かしらあの理解を越えた威力のようなものをその身に備えていると考えたのか? また我々のたよりない理解力にして、またかなりにたくましい我々の感覚の力にしてもが、あの永遠の幸福だとか苦痛だとかを分ちもつことができるなどと、本気で信じていたのか? もしそうだとすれば、我々は人間の理性の名において、つぎのように彼に言ってやらなければなるまい。――もしもあなたが来世において我々に約束するところの快楽が、わたしがこの世においてすでに感じたことのあるそれであるとするなら、それは何ら無限と共通したものを持ってはいない。わたしが天からうけた五感のすべてが歓喜に充満するとしても、またこの心がその希望し欲望しうる限りの満足に捉えられるとしても、およそそれがどれほどのものであるかを、我々は知っている。それはやはり大したものではあるまい。何かしらわたしのものがある限り、そこに神のものはないのである。もしもそれが我々の現在の境遇にもありうるところのものと別物ではないとするならば、それは重んじられるにたりないのである。(c)死すべきもののもつ満足はすべて死すべきものである。(a)我々の親や子や友人たちとの再会が、もしあの世において我々を感動させ満足させることがありうるならば、そしてもし我々がなおこういう種類の快楽に執着するならば、我々はやっぱり地上的な限界ある安楽の中にあるのである。あの高い・神々こうごうしい・約束の偉大さとても、我々には真にそれらしく思いいだくことができない。どうやらある程度まで想像しうるというにすぎない。それらの約束を真にそれららしく思いいだくためには、どうしてもそれらを、想像しえない・言説しえない・理解しえない・ものとして、想像しなければならない。(c)我々の哀れむべき経験が知っているような約束とは全く別のものに(a)想像しなければならない。聖パウロは言った。※(始め二重山括弧、1-1-52)神がそのやからに約せる幸福は、目これを見るをえず、心これを思うをえず※(終わり二重山括弧、1-1-53)と。もし我々にそれができるようにするために、我々の本質を(プラトンよ、あなたが言ったように、あなたの浄化作用によって)改め変えるにしても、それは極めて深く極めて普遍な変化でなければならないから、そうなると自然学が教えるとおり、それはもはや我々ではなくなってしまうであろう。

(b)乱軍のうちに戦いしはヘクトルなりき。
されどアキレウスの馬に曳きずられしは、
もはやこのヘクトルにはあらざりき。
(オウィディウス)

(a)そのような報いをうけるのは何かほかの物であろう。

(b)変化あるところ分解あり死あり。
そのとき各部分は相離れてその形消ゆ。
(ルクレティウス)

(a)まったくピュタゴラスの輪廻りんね説、すなわち彼が想像している霊魂転居の説によって、現在カエサルの霊魂を宿している獅子は、かつてカエサルを動かしたすべての情念を有すると、我々は考えられるか。(c)獅子すなわちカエサルなり、と考えられるか。もしそれがなおカエサルであるとすれば、プラトンに対してこの説を反駁し、「そうだとすると、息子がめす騾馬らばになったその母にまたがることも生じようし、その他同様のばかばかしい事柄がおこるだろう」ととがめる者こそ、正しいと言わねばなるまい。また、(a)同じ種類の動物同士の間に行われる転生においても、新来者は先行者と別物ではないと、我々は考えることができるか。鳳凰フェニックスの死体から蛆虫うじむしが生れ、それからさらに別の鳳凰が生れる、ということだが、この第二の鳳凰が第一のものと別のものでないと、いったい誰が考えるか。我々の絹を作り出す蚕は死んだようになってひからびてしまうかと思うと、その同じ体から一羽の蛾が生れ、その蛾からまた一匹の蚕が生れる。これも始めの蚕と同じものだと言ったらおかしなことになる。一度在ることを止めたものはもはや無い**のである。

我らの死後に、時我らの亡骸なきがらを集め、
それを材料として今日と同じ形のものを再び造り成し、
これに生命の光を返すことよしありとするも、
想出の糸一度び絶えたる上は何にかはせん。
(ルクレティウス)

* モンテーニュは表面プラトンとマホメットを敵としているように見えるが、ここにはっきりと、キリスト教徒の霊魂不滅説と楽園思想を目標にしていることがわかる。
** ここに(六一一―六一五頁)モンテーニュの霊魂不滅に関する真意が読みとられる。第一巻第三章にも、セネカの句を引いて※(始め二重山括弧、1-1-52)お前は死んでから後にどこに行くかを知りたいか。――物がまだ生れなかった前の処にゆくのだ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(六四頁)と言っている。すなわち彼の霊魂不滅説は、キリスト教風ではなくて、汎神論的或いは進化論的である。なお第一巻第二十章(一四二―一四三頁)第一巻第三十九章(三一七頁)参照。
 それからプラトンよ、あなたは別の場所で、「来世の報いを受け取るのは人間の霊的部分のみである」と言っているが、これまたいっこう本当らしくない。

(b)眼は、眼窩がんかより抜きだされ、
体の他の部分より離さるれば、
もはや何物をも視るあたわず。
(ルクレティウス)

(a)まったくそうなったら、もう人間でもなければ我々でもないであろう。したがってあの世の報いは誰がうけるのか。まったく我々は二つの主要な部分からなっているが、その分離は我々の本質の死滅にほかならない。

(b)その時生命の流れ断絶して、
肉体の感覚はその働きをうしなう。
(ルクレティウス)

(a)人間は死んでその四肢を蛆虫に噛まれるとき、地がそれらを腐らすとき、痛がり苦しがるとは誰も言わない。

そは我らに関係なし。何となれば、我らは
霊と肉との融合によりて存在すなればなり。――
(ルクレティウス)

* 六一二頁最後から八行目「もしもあなたが……」に始まるモンテーニュのプラトンに対する抗議はここで終る。
 それに一体いかなる正義に基づいて、神々は死者の生きていた間の善行徳行を認め、これに報いることができるのか。まったく、人間の行為を指導し作り出したのは神々自身ではないか。また、どうして神々は人間の不徳な行為を怒ったりそれに復讐したりするのか。人間をそのようなあやまちの多い性質に生みつけたのは神々自身ではないか。ほんのちょっぴりそうおのぞみになったならば、我々に過ちを避けさせることもできたわけではないか。エピクロスもまた大いに人間の理性を発揮しながら、これくらいのことはプラトンに向って言いかえしたであろうと思う。(c)彼はよく次のような言葉をふりかざして自説を守ったということであるから。「自ら死ぬべき性質をもちながら、不死の性質について何か確かなことを言おうというのは、始めから不可能なことなのだ」と。(a)人間の理性はいたる所で踏み迷ってばかりいるが、神の事柄にかかずらうときは特にそれが甚だしい。それは誰よりも我々自らが最もはっきりと感ずることではないか。まったく我々は、理性に確実で誤りのない基準を与えたけれども、そしてその歩みを神様から賜わった真理の聖燈によって照らしてはいるけれども、やはり我々は、毎日のように、その理性が少しでも平常の小みちからそれ、教会に教え示された大道から離れると、たちまちにその目標を失いそのかじを失って、もろもろの人間の意見が狂瀾きょうらんのように湧き立つ大海原の上をながれ漂うのを見るのである。人間の理性は一朝あの一般共通の大道を見失うと、たちまちにして幾千という小みちの間にふみまようのである。
 人間はそのあるところのものでしかありえず、その力相応のことだけしか思想しえない。(b)ただ人間でしかない者どもが、神々についてまた半神について、語ったり論じたりしようと企てるのは、プルタルコスの言ったとおり、音楽を知らない者が歌う人々を判断したがったり、まるで軍隊に行ったことのない者が武器や戦争について論じたがったり、要するに、専門外の学芸の結果を何かのごく僅かな推量によって理解しようとするのにも増した、最も大きな自惚うぬぼれである。(a)古代の人々は、わたしの信ずるところによると、神様を人間になぞらえ、これに人間の性能を賦与し、これに人間の機知(c)や最も恥ずかしい欲望(a)を与えるのを、いささか神の偉大さを尊ぶゆえんであると思い込み、これに我々のたべる食物を供え、(c)我々の楽しむ舞踊や道化や狂言を奉納し、(a)我々と同じ衣服をきせ、我々と同じ住いに住まわせ、香をたき音楽を奏し、花づなや花束をささげた。(c)そして神を我々の不徳な情欲になじませるために、非人間的な復讐をもって神の正義におもねり、彼によって造られ保存されているものを破壊散乱して彼を喜ばせ(例えばティベリウス・センプロニウスはウルカヌスに供物として、自分がサルディニアで敵から奪った沢山の分捕り物を、パウルス・アエミリウスはマケドニアでの分捕りをマルスおよびミネルウァのために、それぞれ焼きすてさせた。またアレクサンドロスはインド洋にいたるや、テティスのために沢山の大きな黄金の器を海に投げこんだ)、そのうえ、その祭壇を、たんに罪もない動物の生命ばかりでなく、また人間の生命をもって満たした。(a)これは、沢山の国々、なかでもわが国が、しょっちゅう行っていたことである。いや、全くこういうことを試みなかった国は、ただの一つもないとわたしは信じている。

(b)アエネアスはスルモの息子なる四人の若者と、
ウフェンスの岸に生い育てる四人の軍士を捉え、
生きながらこれをパラスの霊に捧げたり。
(ウェルギリウス)

 (c)ゲタエ人たちは自らを不死だと信じている。彼らの死は、彼らの神ザルモクシスへの道にすぎないのである。五年ごとに彼らはこの神の許にその仲間の誰かを送り、その代りにもろもろの必要な物を乞い求める。この代表者はくじによって選ばれる。そして、まずこれにその使命を宣告した後にこれを派遣する。その派遣の仕方がまことに変っている。すなわち、これに立会う者の中の三人がそれぞれやりを上向きに立てて待つと、他の者どもが彼を力いっぱいその上にほうり上げる。もし彼が急所を貫かれて即死すれば、彼らは神様の御加護疑いなしと信じて喜ぶ。はずれるとその男をよこしまで憎むべきものであるとし、さらに同じようにして別の男を神の許に送る。
 クセルクセスの母アメストリスは、年をとってから、ペルシアの名家の子弟十四人を一ぺんに生き埋めにした。それはその国の宗教に従って、地下に住む何とかいう神様を喜ばすためであった。
 今日でもなおテミスティタンの偶像は、幼な子の血で練り固められる。幼く純な魂を犠牲としなければお喜びにならないのだ。つまり正義が罪なき者の血に渇いているというわけである。

宗教はこれほどに多くの罪を勧めたり!
(ルクレティウス)

 (b)カルタゴ人は、自分の子どもをサトゥルヌスの神に捧げた。自分に子どもがないと、ひとの子どもを買った。しかもその父と母とは、さも愉快な満足そうな顔をしてこの儀式に列しなければならなかった。(a)我々の悲しみで神の慈愛を買おうとは、まことに不思議な考えであった。またラケダイモン人を見たまえ。彼らは若い少年を拷問して彼らの神であるディアナにびようとし、しばしば死にいたるまでこれをむちうたせた。建築師に報いるのに、かれが建てた建物を破壊させたり、罪のない者を処刑して罪ある者がうけるべき苦痛を免除しようとしたりすることは、これまたまことに狂暴な心根であった。哀れなイフィゲニアをアウリスの港において血祭りにあげて、ギリシア軍の犯した罪が神の前に許されるようにと願ったのも、

(b)この清らかにして不幸なる乙女はその結婚のときに、
父の罪ある手によりていけにえとなされたり。
(ルクレティウス)

(c)ローマの国に神のめぐみがあらたかであるようにと、あのデキウス父子の美しく清い二つの霊魂を、最も結束の堅い敵軍の中に飛び込ませたのも、いずれ劣らぬ狂暴な気持である。
※(始め二重山括弧、1-1-52)かくのごとき正義の人の生命ととり換うるにあらずんばローマの民をゆるさじとは、いかに不正なる神々ぞや!※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)それに、罪人がその欲するように・その欲するときに・鞭うたれようというのも、やはり間違っている。それは審判者の方できめることである。(b)審判者は自分が命ずる刑罰でなければ刑罰とは思わないだろう。(c)罰を受ける者の気に入るようなものは刑罰とは見なされないし、神罰は、神の正義をあらわし我々にとって懲戒となるためには、我々の完全な不同意を前提とする。
 (b)またサモスの暴君ポリクラテスの考えもおかしなものであった。彼は自分の長い幸福の流れを中断してその埋め合せをしようと考え、彼が持っている最も貴重な宝玉を海の中に投げこんだ。こうしてこのあらかじめ仕組んだ不幸によって、自分もまた運命の転変に服しているつもりでいた。(c)ところが運命の方ではそういう彼の愚かさをわらって、その同じ宝玉をある魚の腹中におさめ再び彼の手もとにかえした。(a)それからまた、(c)キュベレに仕える祭司たちやバッコスの巫女みこたちや、こんにちではあのマホメット教徒なども、その予言者を喜ばすために、わざと自分で顔や胸や四肢に切り傷をつけるが、それは一体何の役にたつのか。(a)罪とがは意志の中にあるので、(c)胸や眼や生殖器や肥満や(a)肩やのどにあるのではない。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)彼らの錯乱し昏迷せる心は実にかくの如し。彼らは人間の到底なしえざる残虐によりて、おぞましくも神慮を和らげえたりと考う※(終わり二重山括弧、1-1-53)(聖アウグスティヌス)。
 この我々が自然から与えられた身体は、ただ我々のために役立てるばかりでなく、神および他の人々のためにも役立てなければならない。わざとこれを破損するのは、たとえどんな口実の下にもせよ、自殺をしたりするのと同様に正しくない。鈍重で奴隷的な肉体的諸機能を虐待し麻痺させて、霊魂にそれらを理性に従って導く心配りをさせまいとするなどは、大きな卑怯背信であると思う。
※(始め二重山括弧、1-1-52)神慮を和らげつつありと信ずる人々よ。神々は何を怒り給うとおぼさるるか。人々は王侯の快楽のために去勢されたれど、何人もその主人よりもはや男たるなかれと命ぜられしとき、自らの手により自らを去勢せるものあらざりき※(終わり二重山括弧、1-1-53)(聖アウグスティヌス)。
 (a)このとおり彼ら古代の人々は、あまたの悪い行為でその宗教を満たしていた。

宗教はしばしば罪業深き行為を教えたり。
(ルクレティウス)

 ところでわれわれ人間のものは、どんなにして見たところで、これを神性とならべたり較べたりすることはできない。そんなことをすればするだけ神性に不完全のしみをつけるだけである。あの無限の美や力や善が、どうして我々みたいな下賤なものと照合されたり比較されたりするのに堪えられようか。それは神の偉大に極度の損害を与えずにはいないのである。
 (c)※(始め二重山括弧、1-1-52)神の弱きところは人よりも強く、神の愚かなるところは人よりも賢し※(終わり二重山括弧、1-1-53)(「コリント人への第一の手紙」一の二十五)。
 哲学者スティルポンは、「神々は我々の尊敬と犠牲とを喜ぶだろうか」と問われたとき、「大きな声を出すな。それについて語りたいなら物蔭で語ろう」と答えた。
 (a)しかるに我々は神に限界を与え、彼の偉力を我々の理性によってとり囲んでいる(わたしは哲学の許しをえて、我々の空想夢想をもここに理性とよぶのである。その哲学は、「愚かなものもまたよこしまなものも、理性によってその狂気を表すが、それは各個特別製の理性によるのだ」と言っているから)。我々は神を、我々をも・我々の知識をも・造り給える神を、我々の悟性の空虚な力弱い妄想に従わせようとする。何一つ無から造られるものはないから、神もまた物質なくしては世界を造ることがおできにならなかったろうって? 何を言うのだ! 神は我々の手の中に、彼の偉力の鍵を、その最後のばね〔発条〕を、お渡しになったか。我々の学識の限界をあえて突破しまいとなさったか。おお人間よ! 仮にお前が神の働きの幾つかの痕跡をこの下界に認めえたとしても、お前は神がこの御業〔即ち天地創造〕の中に、彼の能力のすべてを用い、あらゆる彼の思想と観念とを用いた、と考えるのか。お前はお前が宿っているこの小さな牢獄の秩序と支配とだけしか見てはいない。それすら真に見ているかどうか。神の御力はこの世界をこえて無限を支配している。ちっぽけなこの世界は全体に比べれば無にひとしい。

天も地も海も、それらすべてをあわせても、
広大なる宇宙にくらべれば無にひとし。
(ルクレティウス)

お前がたてにとるのは町村の法であって、お前は宇宙の法がどんなものであるかを知らない。お前はお前のことにかまけておれ。神にかかずらってはいけない。神はお前の同僚でも、同胞でも、友達でもない。彼がどういうふうにお前にあらわれ給うとも、それはお前のようにちっぽけになりさがるためでも、お前などに能力を検査しておもらいになるためでも、ないのである。人間の体は雲の上にあがることはできない。これがお前の運命である。太陽は一刻も止ることなく日常の軌道を歩む。海と陸との境は相交わることができない。水は動いて固まらない。壁は割れ目がないかぎり、固体が通りぬけることをゆるさない。人間は炎の中で命を保つことはできない。身をもって天や地やその他たくさんの異なった場所に同時にあることはできない。じつにお前のために神はこのような規則をお造りになったのである。お前こそそれらにしばられる。神はキリスト教徒に、その欲し給うたときには、それらすべての規則を超越せられたことを、証拠だてておみせになった。ほんとうに、彼のような全能なものが、どうしてその力をある程度に限るであろうか。誰のためにその特権をすてるであろうか。お前の理性は、お前に世界の多数を信じさせるとき、他のいかなる場合におけるよりも多くの真実らしさと根拠とをもっている。

(b)地球、太陽、月、海、その他すべての存在は、
決して唯一つにはあらずして、その数限りなし。
(ルクレティウス)

(a)昔の最も有名な学者たちは、いずれもそれを信じたし、我々〔キリスト教徒〕の間にも、人間的理性の明証によって、どうしてもそれを信じないわけにゆかなかった人々が相当ある。なぜなら、我々の見るこの建物のうちには、何一つとして単独なものはないからである。

(b)何ものもその種のうちの唯一のものにあらず。
一つとしてただ独りにて生れ育つものなし。
(ルクレティウス)

(a)そしてすべてのエスペス〔種〕はいくつかの数にふえるからである。だから神が、この作品〔我らの住む世界〕だけを同類なく作り成したということは、またこの形体の材料が、ただこの一個においてことごとく使いつくされたということは、本当らしく思われない。

(b)さればわれ、くり返し言う。
われわれの世界と同質のものより成れる幾多の世界、
天の雲に抱かれてここかしこにありと。
(ルクレティウス)

(a)殊にそれが生き物だとすればなおさらのことで、その運動はそう信じさせるに十分である。(c)だからプラトンもこれを断言したし、われわれの間の大勢のものが、或いはこれを確認し、或いはあえてこれを否定せずに、いるのである。同様に、「天や星やその他世界のもろもろの部分は、肉体と霊魂とからなる被造物であって、その構成から言えば滅びるものであるが、造物主の決意から言えば滅びないものだ」という古代の説もまた、同様に否定できない。(a)さて、(c)デモクリトスや(a)エピクロスやほとんどすべての哲学者が考えたようにたくさんの世界があるとすれば、はたして我々の世界を支配する原理法則が、同様に他の諸世界をも支配しているのであろうか。恐らくそれらは別の形・別の組織・をもっていることであろう。(c)エピクロスはそれらの世界を、相似ているともまた相異なるとも考えている。(a)我々は我々のこの世界においてさえ、ただ場所のへだたりだけのために限りない相違や変化があることを知っている。我々の父たちの発見したあの新領土には、麦もぶどう酒もなく、わが国の動物のどれも見られない。すべてがそこでは違っている。(c)また過去の時代においても、世界のいかに多くの部分がバッコスをもケレスをも〔酒を造ることも穀物を育てることも〕知らなかったかを、考えてごらん。(a)プリニウス(c)とヘロドトス(a)の言葉を信ずるならば、ある地方には、我々とはてんで似たところのないいろいろな人種がいるのである。
 (b)また人間とも動物とも、どっちとも言えない曖昧な形のものがある。ある地方では、人間が頭をもたず、眼や口を胸の真中につけて生れてくる。ある地方では男女両性である。ある地方では四つんばいで歩いている。ある地方では額に一つ眼を持つだけで、その頭は我々の頭によりもむしろ犬の頭に似ている。ある地方では、下半身が魚であって水の中に暮している。ある地方では、女が五歳で分娩し八歳までしか生きない。ある地方では頭や額の皮が非常に硬く、刃物もこれにささらないで、かえって曲ってしまうくらいである。ある地方では男が髭を持たない。(c)火を知らず用いもしない民族もあれば、黒い精液をもらす民族もある。
 (b)何だって? しぜんに狼に変り牝馬に変りやがて再び人間になるものもあるって? いや、(a)プルタルコスが言うように、インドのある地方には口のない人々が住み、ある種の匂いをかいで生きているということがはたして本当だとすれば、いかに多くの我々の叙述がまちがっていることか。そうなると人間は笑う動物ではなくなるし、おそらく、理性ある動物とも社会生活のできる動物とも言えなくなるだろう。我々の体内の組織**の機構や原理も、大部分見当はずれということになろう。
* 人間とは笑う動物であるとか、理性を有するとか、社会的であるとかいうような叙述。
** 医者の説明する内臓の位置、それを基にした医学などを指しているのであろうか。
 それに我々の知っている事柄の中には、我々が自然から取り出し規定したあの立派な規則に反する事柄が、いかにたくさんあることか? しかも我々は、神様までもそれに結びつけようと企てる! いかに多くの事柄を、我々は奇跡だ不自然だと呼んでいることか。(c)それは到るところ各人・各民族・それぞれの無知の度に応じてなされている。(a)いかに多くの秘密な理性だの第五元素だのを我々は見出すか。まったく自然に従ってゆくというのは、我々にとっては、結局、我々の英知の及びうるかぎり、我々の目のとどくかぎり、我々の英知に従ってゆく、ということにすぎないのである。つまり、その向うにあるのは奇怪であり無秩序なのである。ところでこう考えると、最も賢明な最も能ある者にとっては、すべてが奇怪であろう。まったくそういう人々は、その人間的理性によって、こう確信しているのである。「人間の理性はいかなる足場も基礎も持たないから、ただ(c)雪が白いかどうかを断言できないばかりでなく(実際アナクサゴラスは雪は黒いと言っている)、何物かがあるか、何物もないか、知識があるか、無知があるか(メトロドロス・キオスは、人間にはそれが言えないと言った)、(a)我々は生きているかどうか、を断言することさえできない」と。その証拠に、エウリピデスは疑っている。我々の現に生きているこの生が生なのか、我々が死と呼びなすものが真の生なのか、

我らの生ける生が生なりや。
我らが死と呼ぶものこそ生なりや。
(エウリピデス)

と。(b)それも無理のないことである。まったく、なぜ我々は、永遠の夜の限りない流れの中の唯の一閃いっせんにすぎないこの瞬間を、我々の永久で自然な本性のあんなにも短い中絶を、存在とは名づけるのか。(c)死がこの瞬間の前をも後をもずっと占めているのに。いやその瞬間の大部分をさえ占めているのに。(b)ほかの人たちは、「そこにはまったく動きがない。何一つ動かない」と断言している。(c)例えばメリッソスの弟子たちなどが(まったく世界がただ一つしかないとすれば、自転運動も、ある場所より他の場所への移転運動も、プラトンが証明するように、彼には何の役にもたたないのである)。(b)また、「自然界には繁殖も腐敗もない」とも断言している。
 (c)プロタゴラスは言っている。「自然の中には疑いのほかに何ものもない。人は何事に関しても同様に抗議することができる。いや、人は何事についても抗議しうるというそのことすら、抗議することができる」と。ナウシファネスは言っている。「有るように見えるもののうち一つとして無以上のものはない。不確実以外に確実なるものはない」と。パルメニデスは、「見えるもののうち、何ものも普遍には存在しない。ただ『一』しか存在しない」と。ゼノンは、「その『一』さえ存在しない。何ものも存在しない」と。
「もし『一』があるならば、それは或る他の中にあるのか、あるいは自らの中にあるのか、どちらかであろう。ある他の中にあるのだとすれば、それは二つである。自らの中にあるにしても、やはり二つである。含むものと含まれるものとの二つである」。これらの学説によると、宇宙は、あるいはうその・あるいは空虚な・影にすぎない。
 (a)わたしにはつねにこう思われた。「一人のキリスト教徒にとっては、『神は死ぬことができない。神はその言葉をひるがえすことができない。神にはあれができない、これができない』などという言い方は、不遜と不敬とにみちて聞える」と。わたしには、こんなふうに御力みちからを我々の言葉の規則の下などに幽閉するのが良いこととは思われないのだ。いや、これらの命題の中にはにもと思われることもないではないが、それはもっと敬虔に言い現わすべきであろう。
 我々の言葉もまた、人間われわれのものであるかぎり、その欠点弱点をもっている。この世の紛議の動機は、大部分が言葉づかいに発している。我々の訴訟はただただ法律解釈の争いから生れ、大部分の戦争はわれわれが君主間の協定や講和条約を明晰に書き現わせなかったことから生れている。いかに多くの争論を、しかもいかに重大な争論を、Hoc というただ一綴りに関する疑義が巻き起したことか。(b)論理学そのものが最も明瞭なものとして提示するであろう命題を取ろう。もし君たちが「今日は好い天気だ」と言うならば、そして君たちが本当のことを言っているのだとすれば、それは好いお天気なのである。これくらい確実な話形はあるまい。ところが、同じ話形が我々を欺くことがある。そのうそでない証拠を見せようか。もし君たちが「わたしは嘘をついている」と言うならば、そして君たちが本当を言っているのだとすれば、君たちは嘘を言っているのである。この話形の、技術、理由、および結論の力は、前のと同じである。だがここで、我々は何が何やらわからなくなる。(a)私の見るところ、ピュロン学派の哲学者たちは、彼らの一般概念をどのような言葉にも言い現わしえずにいる。まったく彼らには何か新式の用語ことばがなくてはなるまい。我々の用語ことばは、すべて肯定的な命題から成りたっているが、これは彼らにとって全く禁物なのである。つまり「わたしは疑う」と彼らがいうと、人はさっそく彼らの喉元をおさえ、「少なくとも君たちは君たち自ら疑いつつあるというそのことを、確信しているではないか」とやっつける。そこで彼らは、つぎのような医学的比喩の中に逃げこまなければならなくなった。実際そうでもしなければ、彼らの心持はとうてい説明できないのであろう。すなわち彼らは言うのである。「我々が『わたしは知らない』または『わたしは疑う』というとき、この命題は自分とともにあらゆる物を運び去るのである。ちょうど大黄という薬が、悪い体液を体外に流し出すとともに自分自らもまた流れ去るのと、寸分の違いもないのである」と。
* カトリックとプロテスタントが※(始め二重山括弧、1-1-52)Hoc est corpus meum※(終わり二重山括弧、1-1-53)という語の解釈から、いわゆる transsubstantiation(化体)に関する論争をしたこと。
 (b)この思想は、「わたしは何を知っているか?」という疑問形によって一そう確実に理解される。それでわたしは、この句を一個の天秤に銘としてつけている**
* この句を以てモンテーニュの思想の究極とし、これを彼のピュロン説の表出と見ることは当らない。モンテーニュはここで哲学上宗教上の独断論を排するためにしばらくピュロン説をとるけれども、その必要がなくなれば早速巧みにピュロン説をすて去る。つまり彼の疑いはむしろ科学者の「方法としての疑い」で、デカルトのコギトに通ずるものである。またバリエール Pierre Barri※(グレーブアクセント付きE小文字)re はこの標語を、政治上宗教上において両派の間に絶対に公平中立であろうとする努力の表示であるとしている。エドモン・ジャルーは、モンテーニュがセプティックであるという意味は、彼が何事においても狂信的ではなかったという意味だと書いている。ヴォルテールもアナトール・フランスも、寛容の使徒として狂信的であったし、ルソーも自由の旗手として狂信的であったが、モンテーニュはその寛容精神において、決して狂信的ではなかったと言うのである。とにかくモンテーニュは、友情や良心や、正義や好意や約束や、また情欲に対する理性の力などを信ずる人であったことを、忘れてはならない。「わたしは何を知っているか」は、ギリシア語 [#無気記号付きε、U+1F10、623-21]π※(鋭アクセント付きε、1-11-49)χω に対するモンテーニュ自身のフランス語訳である。『モンテーニュとその時代』第四部第五章四四二頁参照。
** モンテーニュは一五七六年に天秤とこの標語をギリシア語で打ち出したメダイユをつくらせている。なおこの句は書斎の天井にも記されて残っている。
 メダイユには、中央に平衡を得たる天秤、周囲に一五七六年という数字、その時のモンテーニュの年齢を示す43という数字が打ち出されている。裏面中央に紋章、それをめぐりサン・ミシェル首飾勲章と姓名 Michel Seigneur de Montaigne が刻まれている。実物は現存モンテーニュ城館の現住者 Mme Malher-Besse の所蔵、他には同型蝋の複製がペリグーの博物館に見られるのみである。
 (a)見たまえ、いかに人々がこの種の不敬にみちた言い方を利用しているかを。現在わが宗教界に行われている論争においても、余りに敵を追い詰めると、彼らは君たちに向って、しゃあしゃあとしてこう返答するであろう。「神様だって御体を、天国と地上とに、つまり同時にいろいろな場所に、置くことはおできにならない」なんて。またあの嘲笑家プリニウスも、いかによくそれを利用していることか。「少なくとも」と彼は言った。「神もすべてをなすことができないのだと知ることは、人間にとって少なからぬ慰めである。まったく、神は死のうと思っても自殺することができない。それができるのは、われわれが人間として授かった最大の恵みである。神は死すべきものを不死にすることができないし、死者をよみがえらせることもできない。また、生きてしまった者を生きなかったようにすることもできなければ、名誉を得た人をそれを得なかったようにすることもできない。神も過去に対しては、忘却という力よりほかには何の力も持たないのだ」と。そして、こういう、人と神との比較に、さらに面白い実例を加えるつもりで、「神は十の二倍を二十でなくすることもできない」と付け加えた。実にこういうことを彼は言ったのだが、これこそキリスト教徒たるものの口にしてはならないことである。ところが、人々はかえってこういう不遜千万な言葉をさがし出して、神様を自分の尺度で推しはかろうとしているように見える。

明日ユピテル大空を、
黒雲もておおいかくすとも、
明るき太陽もて輝かすとも、
一たびありしものをなかりしようになすことを得ず。
一たび時が運び去れるものを、
変え改むることあたわず。
(ホラティウス)

 我々が、過去および未来の限りない幾世紀も、神の眼には一瞬にすぎないとか、神の慈悲、知恵、力は、神の本質と同じものであるとかいうとき、我々の言葉はそれを言うけれども、我々の知性はそれを少しも理解していない。にもかかわらず我々の傲慢は、神性を我々のふるいにかけようとする。実にそこから、世の人々が捉われる迷夢と誤謬とが生れ出るのである。そこで、自分の重さとはあれほどかけ離れたものを、自分の小さな天秤てんびんにかけたりするのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)人間は、あやまりていと小さき成功をかち得るや、たちまちに思いあがること、まことにおどろくに堪えたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(プリニウス)。
 エピクロスが「真に善良幸福な存在はただ神にだけ属する」「賢人も結局神の影・神の似姿・をおびているにすぎない」と言ったからといって、ストア学者たちは、いかに横柄に彼に剣突けんつくを食らわしているか。(a)人々はいかに小生意気に神を宿命にしばりつけたか(いやしくもキリスト教徒の名をいただくかぎり、どうか誰もこのような過ちを再び犯さないでもらいたい)。タレス、プラトン、ピュタゴラスにいたっては、神を必然の奴隷とした。このように自分の眼をもって神を見ようという生意気な心は、われわれキリスト教徒の中の偉大なる一人物に、神様に肉体的形体を与えることを、あえてさせるにいたった。(b)いや、それこそ、我々が毎日もろもろの重大事件を、一々神様のせいにしてしまう原因なのである。我々にとって重大な事件は神にも重大なものであるかのように思い、神はそういう事件を、我々にとって軽く・或いは普通に・経過する出来事より、ずっと身を入れて・ずっと注意深く・ごらんになるかのように思う。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)神は大事にたずさわり小事を軽んず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。その例をおきかせすれば、理由は自然におわかりになろう。※(始め二重山括弧、1-1-52)王もまた政治上の些細なことには関係せられず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
* un grand personnage des nostres. 初代キリスト教の教父でキリスト教のアポロジーを書いたテルトゥリアヌス Tertullianus(160-222)を指す。
 まるで神様にとって、帝国をゆるがすことが大事であって、木の葉をふるわすことが小事ででもあるかのようだ。彼の摂理が、戦争の結果を左右する時には、のみをぴょんと一はねさせるときとは別様に働くかのようだ。だが彼の支配の手は、同じ精神同じ力同じ秩序をもって、すべての物事の上に加えられる。我々の利害はそこに少しも影響せず、我々の行動我々の方策は、そこに全く関与しない。
※(始め二重山括弧、1-1-52)神は大事をなすに当りてかくの如く偉大なる工匠なるが、小事に臨みてもまた同様に偉大なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(聖アウグスティヌス)。我々の傲慢は、つねに我々に、つぎのような涜神的な比較をあえてさせる。「ストラトンは我々の仕事が我々にとって重荷であるからといって、ちょうど神官たちにそうするように、神々からすべての義務を免除した。そして自然に万物を生ませ、保全させ、その力と運動とによって世界の各部分を建てさせ、人間から神の裁きの恐れをとり除いた。※(始め二重山括弧、1-1-52)幸福にして永遠なる存在は、自ら何らの苦痛をももたず、従ってこれを何人にも与えず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。自然は、同様の事物の間には同様の関係があることを欲する。だから死すべきものが無数にあることは、死なないものもまた無数にあることを教える。殺したり毒したりする者がかぎりなくあることは、保全し利益するものもまた同じ数だけあることを予想させる。神々の霊魂が、舌もなく目もなく耳もないのに、それぞれお互いの間で他の霊魂が感ずるところを感じまた我々の思想をも判断するように、人々の霊魂もまた、睡眠または何かの恍惚こうこつによって肉体から解放されて自由になると、その肉体とともにあるときには見えない事柄までも、推察し予言し洞見する」と。
 (a)人々は、聖パウロが言っているように、自ら知者だと称しながら愚者となり、朽ちることのない神の栄光を朽ちなければならない人間の像に似せた(「ローマ人への第一の手紙」二十二の三)。
 (b)ここで少し、古人の祭祀上の手品を見てごらん。壮麗な埋葬の儀式の後、火がピラミッドのてっぺんに起ってまさに死者の床に及ぼうとすると、人々はすかさずたかを一羽放つのを例とした。鷹は空高く舞い上り、霊魂が天国に入ったことを示すのである。我々は、この鷹がその背の上に、そうやって神となった霊魂を乗せて天に向って飛んでゆくところをうち出したメダイユを、たくさんもっている。特にあの貞淑な夫人ファウスティナの古銭は誰でも知っている。そこには鷹が神となった霊魂を背にのせて天に向って飛んでゆく絵が刻まれている。我々が自らの猿知恵と工夫をつくして己れ自らを欺くのは、実にあさましい限りである。

彼らは自ら考え出したることに恐怖す。
(ルカヌス)

ちょうど子供たちが、自分で友達の顔に墨を塗りこくっておきながら、その顔を見ておびえるように。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)己れの想像の奴隷となれる人間ほど世に哀れなるものあらんや※(終わり二重山括弧、1-1-53)(出処不詳)。ほんとうに、我々を作った者を尊ぶのと我々の作った者を尊ぶのとでは、大へんなちがいである。(b)アウグストゥスは、ユピテルよりも多くの神殿を献ぜられ、それだけ多くの礼拝をうけ、それだけ多くその奇跡を信じられた。タスス島の人民は、彼らがアゲシラオスからこうむった恩恵に報いようと、彼の許に来て彼を聖列に加えた旨を告げた。「皆さんは」とアゲシラオスはそれらの人々に向って言った。「誰でも神にしたいと思うその人を、神に祭り上げる権能をお持ちなのですか。では試みに、まず皆さんの内の誰か一人を神にしてごらん。その上で、(c)その者がどれだけ幸福になったかを見とどけたうえで、(b)わたしはあなたがたの申出にお礼を言いましょう」。
* 皇帝マルクス・アウレリウスの妻であるが、「貞淑な」とあるのは反語である。
 (c)人間は実に狂っている。虫けら一匹造れもしないくせに、神々を何ダースもでっち上げる。
 トリスメギストスがわれわれ人間の才能を讃めるところをきいてごらん。こう言っている。「賞賛すべきもろもろの事柄のうち最も賞賛すべきことは、人間が神を見出しこれを造ることができたということである」と。(b)次に哲学の塾〔学派〕そのものの諸論拠を見てみよう。

ただ独り、神々を知り天の偉力を知りえし・
あるいはそれらを知ることの不可能を悟りえし・
(ルカヌス)

その哲学派の論拠は、つぎのとおりである。「もし神ありとすればそれは生き物である。生き物であるとすれば感覚をもつ。感覚をもつとすれば堕落を免れない。もし肉体がないとすれば霊魂もない。従って行為もない。もし肉体があるとすれば滅びるものである」。何と無敵の論拠ではないか。(c)「我々には世界を造り上げるほどの能力はない。だから、何か我々よりも優れたものがあって、世界を造ったに違いない」。「我々自らをこの宇宙における最も完全なものと思いこむのは、愚かな傲慢であろう。とすれば、何かしら別に、より優れたものがある。それが神である」。「あなたたちは豪奢壮麗な邸宅を見るとき、誰がその主人かを知らなくても、それが鼠のために作られているとは言わないであろう。今ここに我々は天の宮殿のこんなにも神々しい造りを見て、きっとこれは我々よりも偉大などなた様かのお住居であると思わずにいられるか」。「最も高い所にいる者が常に最も尊いものではあるまいか。しかるに我々は低いところにいる」。「何者も、霊魂がなく理性がなければ、理性のある生きものを作り出すことはできない。世界は我々を造る。だからそこには霊魂と理性とがある」。「我々の各部分は我々より小さい。我々は世界の部分である。だから世界は知恵と理性とを備えている。しかも我々よりもずっと豊かに」。「大きな支配をすることはすばらしいことである。だから世界の支配は誰か好運なものに属する」。「天体は我々に害をしない。だからそれらは善意にみちている」。(b)「我々は食物を必要とする。だから神々もこれを必要とする。そして下界よりあがる蒸気を召上る」。(c)「この世の諸善は神にとって諸善ではない。だから、それは我々にとっても善ではない」。「害したり害されたりすることは共に不完全の証拠である。だから神を恐れるなどは狂気の沙汰である」。「神は本来善である。人は努力によって善である。それだけ人の方が上である」。「神の知恵と人間の知恵との間には、前者が永遠であるということよりほかに差別はない。ところがこの継続ということは知恵と何等の関係もない。だから神と我々とは同輩である」。(b)「我々は生命と理性と自由とをもち、善と慈悲と公正とを重んじている。だからこれらの特質は神にもある」。要するに建てるにしても倒すにしても、神の諸性質は、人間によって、自分になぞらえて、作り上げられているのである。何という雛形、何という模型であろう! 人間の諸特質を、すきなだけ引き伸ばそう、高めよう、大きくしよう! ふくらめ、哀れな人間よ、もっと、もっと、もっと!

張り裂くるとも及ばじ! と彼は言いぬ。
(ホラティウス)

 (c)※(始め二重山括弧、1-1-52)げに人々は、そのとうてい想い見ることを得ざる神を想い見るとき、おのれ自らを見るのみにて神をば見ず。その像をば神にくらべずおのれ自らに較べつつあり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(聖アウグスティヌス)。
 (b)自然界の事柄においては、結果は半分しかその原因を示していない。では、あの原因〔神・万物の造り主〕はどうか。それは自然の秩序の上にある。その本性は余りに高く、余りに遠く、余りに秀でていて、とうてい我々の結論の縄がそれを縛りくくることをゆるさない。そこに到達するのは我々の力によってではない。今ここにある道はあまりにも低い。我々はセニのみねにいようと海の底にいようと、ひとしく天から遠いのである。うそだと思うなら、お得意の観象儀アストロラブで測ってごらん。人々は神に婦人との肉の交わりまでさせている。その回数や、その生ませた子の数まで明らかにする! サトゥルニヌスの妻パウリナはローマの誉れ高い淑女であったが、神セラピスと寝ているつもりでいたら、何としたことか! その神殿に仕える僧侶たちのペテンにかかって、自分にほれこんでいる男の腕の中にいた。(c)ウァロは最も緻密で博学なローマの作家であったが、その神学の書物の中にこんなことを書いている。「ヘラクレスの堂守りは、一方の手で自分のために・もう一方の手でヘラクレスのために・さいをふって、奉献の食物と処女とをこの神と争った。勝てば供物をうばい負ければ自ら身銭を切った。ある時、彼は負けてその食とその女とを支払った。女の名はラウレンティナといった。彼女は夜、この神ヘラクレスをその腕の中に見た。しかも神は彼女に言った。『明日お前が出あう最初の男が、天に代ってお前の価を払うだろう』と。それは富める若者タルンティウスという者で、彼女を家につれて帰り、やがてこれを相続者とした。女もまたさきの神を喜ばそうと思って、ローマの民をその相続者とした。それで彼女は、人々から神としての礼をつくされたのだ」と。あのプラトンが父方母方のいずれにおいても神々の出であり、一族共通の祖先は同じネプトゥヌスであったというだけではまだたりないかのように、アテナイにおいては次のようなことがさもまことしやかに信じられていた。「アリストンは美しいペリクティオネを享楽しようとして得なかった。やがて夢にアポロンが現われて、彼女が分娩を終るまでけがすなかれ触れることなかれと彼に告げた。このアリストンとペリクティオネとがプラトンの父母である」と。歴史を見ると、神々によって哀れな人間どもの意志に反してなされたこのような姦通が、いかに多くあることか。またいかに多くの夫たちが、神童をもったばかりに、かくも不当にその名誉を傷つけられたことか。
 マホメット教の中には、アラビア人の信仰によって、かなりたくさんの魔法使がある。それは神々しくも処女の胎内から生れ出た・精霊的な・父のない・子どもであって、彼らの言葉において、そういう意味を含んだ特別の名をもっている。
* 魔法使メルリンは中世の円卓物語に出て来る。悪魔に誘惑された修道女の生んだ子ということになっている。ここにモンテーニュは何食わぬ顔で以上のように書いているが、マホメット教こそいい面の皮、どこの国のいかなる宗教のことを語っているのかは、言わずと知れている。これは処女マリアの子イエス・キリストを暗示している。
 (b)どうしても我々が注意しなければならないのは、各々の被造物にとって自分の存在より大切で貴いものはないということである((c)獅子や鷲や海豚いるかは、何ものをも自分の種族より高くは評価しないのである)。(b)そして各々のものは、他のすべてのものの特質をいつも自分自らの特質に引き較べるということである。なるほど我々は、この自分の特質を伸ばしたり縮めたりすることはできようが、それでおしまいである。まったく、こういう比較・こういう標準・のほかには、我々の想像は及ぶことができないし、何ものをも別様には推量ができないのである。結局その限界を一歩も外にふみ出すことはできないのである。(c)そこから、つぎのような古人の結論も出てくるのである。「すべての形態の中で最も美しいのは人間のそれである。だから神は人間の形をしている。誰でも徳がなくては幸福であることはできないし、徳は理性がなくては存在しえない。そしていかなる理性も人の形以外には宿りえない。だから神は人の形を着ている」と。
※(始め二重山括弧、1-1-52)人、神を思うとき、これを人の形のもとに思い浮ぶるは、我々の心に深く根ざしたる習慣によりてなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (b)さればこそクセノファネスは戯れて言ったのである。「もしも動物どもが神々をね上げるならば(どうも彼らもその神々を作り上げるらしいのだ)、きっと自分たちと同じ姿にそれを捏ね上げ、我々みたいに自画自賛するにちがいない」と。まったく、どうして鵞鳥の子はこう言わないであろうか。「宇宙のすべての部分は俺のためにできている。大地は俺が歩むために、太陽は俺を照らすために、星はその威力を俺に及ぼすためにある。俺は風からこれこれの利益をうけ、水からもこれこれの便利を受けている。俺くらいあの丸天井からめぐみ深く見られているものはない。俺は自然の寵児である。人間だって俺を養い、俺を宿し、俺に仕えているではないか。彼が種をまかせ粉をかせるのも俺のためである。彼は俺を食うけれども、同時に彼はその同類たる人間をも食っている。それに、俺だって蛆虫うじむしを食う。人間を殺し・人間を食べる・その蛆虫を」と。鶴だって同じように言うにちがいない。いやもっとえらそうに言いたてるにちがいない。彼は自由自在に大空を飛びまわることができるし、あの高く美しい世界をわがものにしているから。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)かくまでに自然は寛大にして、万物のかく自愛することをゆるすなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (b)さてそこで、同じ理屈でゆくと、運命も我々のため、世界もまた我々のためである。電光も雷鳴も我々のためである。造物主ももろもろの被造物もみなわれわれ人間のためである。われわれ人間こそ、天地間の万物が目ざす目的目標である。哲学が二千年以上も昔から天界の事情について記録してきたところを見てごらん。神々は人間のためでなければ働きもしなければ語りもしなかった。哲学に言わせれば、神々は人間以外の事に心をくばったり仕事したりすることはなかったのである。時に神々は戦争し、我々に刃向うかと見れば、

大地の児ティタンは猛々しくも
老いたるサトゥルヌスの宮居を震わせたるが、
ヘラクレスのためについに打ち負けたり。
(ホラティウス)

時にはまた、我々の喧嘩に加勢したり(c)我々がたびたび彼らの喧嘩に加勢した恩に報いたりも(b)した。

ネプトゥヌスその威力ある三叉みつまたほこをもて
トロヤの城壁と基礎とをゆすぶり、
この市全体を転覆せしむれば、
遙かかなたに慈悲なきユノー現われ、
スカエア門をば乗っ取りたり。
(ウェルギリウス)

(c)カウノスの民は彼ら自らの神々の支配を侵されまいと、その祭の日には武器を背に負ってその近郊に打って出て、剣を揮って空をここかしこと斬りまくり、自分の領内から異国の神々を追いはらった。(b)神々の威力は、我々の必要に応じて区分されている。ある神は馬をいやし、ある神は人をいやす。(c)あるいはペストを、(b)あるいは白癬しらくもを、あるいは咳を、(c)あるいは皮膚病のある種を、あるいは別種のそれを(※(始め二重山括弧、1-1-52)かくまでに人の迷信は、神々をきわめて些細なる業にまで引き入れたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス))、いやす。(b)あるいはぶどうを育て、あるいはにらをはびこらす。あるいは淫楽を助け、あるいは商売を守る((c)各商売にそれぞれの神がある)。(b)ある神はその領分と信用とを国の東にもち、ある神は西で信ぜられる。

かしこにてはユノーの武器あがめられ、
ここではその車尊ばる。
(ウェルギリウス)

(c)おお聖なるアポロンよ、世界の真中に住むアポロンよ。
(キケロ)

アテナイ人はパラスを、クレタはディアナを、レムノスはウルカヌスを、
スパルタとペロポンネソスのミュケナイとはユノーを、崇む。
マエナラの山には松をかぶれるパンの神まつられ、
マルスはラティウムにおいて拝せらる。
(オウィディウス)

(b)ある神は、ただ一つの村里あるいはただ一つの家しか領しない。(c)ある神は一人すまい、ある神は自ら好んで、あるいは余儀なく、他の神と同居する。

孫の宮居祖父のそれと共にせられたり。
(オウィディウス)

(b)中にはきわめてちっぽけで平凡で(まったくその数は三万六千の多数にのぼる)、その五つないし六つを一緒にしなければ麦の穂一つ作りえないというような神々もある。それでも皆それぞれの名を持っている。(c)戸には三つの神々がある。すなわち板のそれ、蝶番ちょうつがいのそれ、しきいのそれ。子供には四つの神々、すなわちおむつ・飲み物・食べ物・乳・の守護神がある。ある神々は確実だが、ある神々は疑わしく不確かである。またある神々はなお天国に容れられない。

我々はなお、それらを天の誉れに値すと認めざれば、
仮に地上に境をあたえてこれに住まわせん。
(オウィディウス)

自然学者の神もあれば、詩人の神もあり、法律家の神もある。ある神々は神と人との中間にあって、神と人との仲介調停をしている。中にはある中位の小さな礼拝しか受けていないのもある。その役目肩書もさまざまで、善いのもあれば悪いのもある。(b)老いてよぼよぼの神々もあれば、死ぬ神々もある。まったくクリュシッポスの言うところによると、世の終りの大変動のときには、ただユピテル一人を除いて、すべての神々はみな死滅しなければならないのだそうな。(c)人間は神と自分との間に、たくさんの面白い交際をつくり出している。だって、人間は神と同国人ではないか。

ユピテルの揺りかごクレタ。
(オウィディウス)

 この問題に関しては、大司祭スカエウォラと大神学者ウァロとが、当時つぎのように我々に向って弁明している。「庶民が真実の事柄をたくさん知らず、かえって嘘のことの方を多く信ずるのは、むしろ必要なことなのだ」と。※(始め二重山括弧、1-1-52)人が真理を探求するは彼の解脱げだつのためにほかならざれば、彼が欺かれ居ることもまた彼がためなりと信ぜん※(終わり二重山括弧、1-1-53)(聖アウグスティヌス)。
 (b)人間の眼は、自分が知っている形態によってでなければ、物事を識別することができない。(c)いや我々は、あの不幸なファエトンが人間のかよわい手で父の馬の手綱をさばこうとしたために、どんなにひどい目にあったかを忘れている。我々の精神もまたその向う見ずによって、同様な深みにおちいり、同じように気を失い、同じようにその身をそこなっている。(b)もしも君たちが哲学者たちに向って、「天と太陽とは何からできているか」と問うならば、彼らは何と答えるか。ただ「鉄で」とか、(c)アナクサゴラスのように「石で」とか、(b)われわれが用いるこれこれの布でとか、答えるにすぎない。(c)ゼノンに向って「自然とは何か」とたずねれば、彼は答える。「一種の火、一定の法式によって物を産み出す工匠たくみのような火だ」と。(b)これこそ真実と確実とにおいて他のいかなる学にも優れていると自称する学〔幾何学〕の把持者、アルキメデスは言う。「太陽とは炎々として燃える鉄でできた神である」と。幾何学的実証の美と・その動かし難い必然と・から生れた、なんと見事な想像ではないか。だがこの幾何学的実証もさほどに動かし難い(c)また有用な(b)ものではないとみえ、(c)ソクラテスは、「幾何学は売ったり買ったりする土地が測れる程度に知っておけば沢山だ」と言った。(b)その道の有名な博士であったポリュアイノスも、エピクロスの無憂園の甘い果実を味わい得てから後は、あのような幾何学的証明を虚偽にみちみちていると言って軽蔑した。
* ファエトンは父アポロンの太陽の車を御しようとして力がたりなかったため大混乱をおこし、ユピテルの罰をうけた。
 (c)ソクラテスは、クセノフォンによると、古代の人々から誰よりも天界および神々の事柄に明るいと思われていたアナクサゴラスの説をきいて、「あの男は頭が狂っている。誰でも自分の手にあまる事柄を余り詮索するとあのとおりだ」と言った。アナクサゴラスは、「太陽は燃える石である」と言ったとき、石が火の中で輝くものではないことに気がつかなかった。いやなお悪いことには、石が火の中では焼けてなくなってしまうものだということを知らなかった。また彼は太陽と火とを同じものにしているが、火はその照らすものを黒くしないこと、我々は火を直視しうること、火は草木を枯らすこと、を忘れているのだ。じつにソクラテスの意見によれば、またわたしもそれと同意見であるが、まったく天を判断しないことこそ、最も賢明にこれを判断したことになるのである。
 プラトンは、『ティマイオス』においてダイモン〔精霊〕について語らなければならなかったとき、こう言った。「それは我々の力を超えた企てである。このことについては、自らダイモンから生れ出たと言っているあの古人たちを信じなければならない。神の子らを信じないと言うことは不合理である。たとい彼らの言葉が厳とした・必然的で真らしい・理由に基づいていないにしても、彼らはこれこそ親しく見聞きした事実であると保証しているのだから」と。
 (a)ところでどうだろう。人間界自然界の事柄に関する知識にかけて、我々はも少し明るいであろうか。
 わらうべき企てではあるまいか。我々自ら告白して我々の知識がとうてい及ばないとしている事柄に対して、わざわざ別の個体を造りあげ、自ら創案した偽りの形態をそれらに貸すということは。例えば遊星の運動について我々は何と言っているか。まったく我々の精神はとうていそこまではとどかないし、その本来の動作を想像することもできないものだから、我々はそれらに、我々の運動と同じ鈍重で有形的な物的動因をもたせているではないか。

舵棒は金、大きな車の※(「車+罔」、第3水準1-92-45)たがも金、
そのは銀。
(オウィディウス)

 君たちはいうかも知れない。「むかしむかし御者や大工や塗師があって、あの高いところに行き、さまざまな運動をする機械を据えつけたのである。(c)そしてさまざまな色をしたもろもろの天体のからくりの車や、あやつりの縄を、プラトンの言うように、必然の紡錘ぼうすいのまわりに配置したのである」と。

(b)世界は大いなる殿堂なり。
それぞれ別々の五つの地帯これをめぐり、
十二の星をちりばめたる道、斜めにこれを貫き、
二頭の馬を先立てたる月の車、この道をゆく。
(ウァロ)

いずれもみな夢である。熱にうかされた狂気である。どうして自然は、いつか一度そのふところをあけて、その運動の機構と有様とを、ありのままに我々に覗かせてはくれないのだろうか。我々の眼を開けてはくれないのだろうか。おお神様! そのとき、いかなる誤謬と勘違いとを、我々は我々の哀れな学問の中に見出すことであろう! (c)もし我々の学問がただの一事でもありのままに正しく捉えていたなら、このわたしもかぶとをぬぐ。だがそれにしても、やっぱりわたしは何事も知らずに、ただ自分の無知を何よりもよく知っただけで、この世を去ることであろう。
 わたしはプラトンの中に、「自然は謎の詩に他ならない」という神々しい句を読んだことがあったが、それは恐らく、「自然は、我々の推量をそそるかのようなさまざまな偽りの光が限りなくそこに洩れ輝くところの、混沌とした一面の絵画である」という意味ではあるまいか。
※(始め二重山括弧、1-1-52)すべてこれらは、もっとも厚き闇に掩われたり。いかなる精神も、この天と地との闇を見透かすことあたわじ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 まったく哲学は詭弁的な詩にすぎない。あの古代の著者たちも、いったいどこからそのすべての権威を借りているか。詩人たちからではないか。それに最初の哲学者たちは、彼ら自ら詩人であって、哲学を韻文で論じたものだ。プラトンも脈絡まとまりのない詩人にすぎない。ティモンが嘲って、彼を「奇跡でっちあげの名人」と呼んだくらいだ。
 (a)ちょうど女たちが、生れつきの歯が脱けると象牙製の歯を用いるように、また本当の色香を失うと代りに何か別の物でそれをね上げるように、あるいはまたラシャやフェルトでももをふくらませたり、綿を使って肥満を真似て見たり、人眼もはばからずに嘘の借りものの美をもってお化粧をしたりするように、学問もまた全く同じことをしている((b)いや我々の法律までが、人の言うところによると、法の擬制フィクションというものをもっていて、その上にその裁判の真実をおし立てるそうな)。(a)学問は、自らこれは作りごとであるぞと言いながら、いろいろな事柄を、まるで現金のように、公理のように、我々におしつける。まったく、天文学が諸星の運行を説明する時に用いる・あの同心異心の・周転円にしても、それこそ自分がその問題について発明しえた最良のものででもあるかのように、我々におしつけるのである。そのように他のどんな問題についても、哲学は在るところのもの・またはその信ずるところのもの・ではなしに、そのでっちあげたもの・いささか真らしく高尚に見えるもの・を、我々につきつける。(c)プラトンは、我々の肉体および動物の状態を論じてこう言った。「いま言ったことは真実であると、もしこれについて御託宣の保証でも得られるのならば、我々もまたそう断言することだろう。だが我々はただ、これは我々の言いえた最も本当らしいことであると、断言するにとどめる」と。
 (a)哲学がその綱だの機械だの車輪だのを送るのは、ただ天に向ってだけではないのである。哲学が我々自らにつき・我々の組織について・言っているところを少し考えてみよう。哲学者たちはもろもろの天体の間におけると同じ逆行と動揺と接近と後退と回転とを、この哀れなちっぽけな人間の体の中にまでねあげたのである。ほんとうに、そうやって彼らが人体を小世界と呼んだのはもっともである。そう呼んだほどに、彼らはそれを建造するのにいろいろな材料といろいろな形体とを用いたのであった。彼らが人間において見るところの運動・我々が我々自身の内に感ずるいろいろな機能性能・を説明するために、彼らはいかに多くの部分に我々の霊魂を分けたか。いかに多くの場所にそれを配置したか。自然で自明な序列階級以外のいかに多くの序列階級の中に、この哀れな人間を配分したか。いかに多くの職掌職務の中に、彼を分類したか。彼らはこの哀れな人間を、あたかも一国家のように想像している。それは彼らの手につかまれ・自由にあやつられる・ものである。彼らはそれを、それぞれの思うがままに、分解し排列し集合し組立てる絶大な権力を許されているのである。にもかかわらず、彼らはなおそれを把握してはいない。現実においてはもちろんのこと、夢想の内においてさえ、彼らはそれを調律しえないでいるのだから、その構成はいかにも雄大ではあるが、そして、どうやらたくさんのうその・想像上の・各部をもってそれは編曲されてはいるが、何か妙な拍子・変な響き・が、そこから漏れ聞えてこないわけにはゆかないのである。(c)それに彼らを大目に見ることは間違っている。まったく絵描きたちであってごらん。彼らが天や地や海や山や離れ小島などを描くときには、幾分なりともそれらの片影を描きえていれば我々は勘弁する。いや、それらは我々の知らない天地のことであるから、いい加減な影・形・でも我々は満足してしまう。けれども、我々がよく知っている何かをありのままに写生するときには、我々はあくまでその輪郭や色合が完全正確に表わされていることを、彼ら絵描きたちに要求するではないか。それができなければ彼らを軽蔑するではないか。
* 哲学者の人間に関する説明を、下手な音楽家の作曲あるいは楽器いじりに比較しているのである。
 (a)わたしはあのミレトスの少女に感謝する。彼女は哲人タレスが絶えず大空の観測に熱中し、しょっちゅう高いところばかり眺めているのを見て、彼がつまずいて倒れるよう通り路に物をおき、まず足もとの物を片づけてから雲間のものに思いを致すべきであることを、思い知らせた。この少女が、天よりも自分のことをお考えなさいよと、彼に勧告したのはあっぱれである。(c)まったくデモクリトスがキケロの口を借りて言ったように、

なんぴともその足もとを見ず、いたずらに大空のことのみ詮議するなり。
(キケロ)

(a)だが我々の分際では、我々が手の中に持っているものさえ、天の星と同様我々から遠くにあり、それと同じように高い雲の上にあって、とうてい認識しようもないのである。(c)それで、プラトンの中でソクラテスはこう言っているのだ。「哲学にたずさわる誰に対しても、人はかの少女がタレスに与えた『あなたは少しも自分の足下を見ない』という非難をくりかえすことができる」と。まったくどの哲学者も、その隣りの人のすることを知らないのである。いや自分のすることさえ知らないのである。彼らは二人ながら自分たちが何ものであるかを、人間なのか動物なのかも、知らないのである。
 (a)かのスボンの諸理由を余りに弱いとする人々、知らないものは一つもないという人々、世界を支配する人々、何でもかんでも、つまり、

海をべ四季をととのえるものは何か。
星の運行は自力によるにや他力によるにや。
何故に月の輪はみつればやがて欠くるにや。
いかにして宇宙の調和は万物の不和より生ずるにや。
(ホラティウス)

までも知りつくしている人々は、いつか一ぺんでもその書物にとりまかれながら、自分自身の存在を認識することがいかに困難であるかを測って見ることがなかったのか。我々にはちゃんとわかる。指が動き足が動くのが。ある部分は我々の同意がないのに自ら動き、ある部分は我々の命によって始めて動く。ある観念は赤い顔を生み、ある観念は青い顔をさせる。ある種の想像はただ脾臓ひぞうにだけ働くのに、ある種のそれは脳髄に働く。ある想像は我々に笑いをおこさせ、他の想像は涙を催させる。またあるものは我々のすべての感覚を驚かせ、我々の手足の運動までも停止する。(c)ある目的に向っては胃が興奮するし、ある他の目的に向ってはもっと下の方の器官が興奮する。みんなわかる。(a)けれどもどうして精神的印象が堅固な物体の中にああも深く侵入するのか、またあのような驚くべきもろもろの器官は互いにどんな関連関係をもっているのか。こういうことは、ついにわれわれにはわからなかった。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)すべてこれらの事柄は人間の理性が明らかになし得ざることにして、つねに自然の荘厳なる姿のうちに隠れたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)とプリニウスは言っている。また聖アウグスティヌスは、※(始め二重山括弧、1-1-52)肉体と霊魂との合一は、人知をもって知ることをえざる不思議なり。しかもこの合一こそ人間その者なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)と言った。(a)しかも人はそれを疑ってもみない。まったく人々の意見は、まるで宗教か法律のように、古来の信念に従って、権威により信用に基づいて、受けいれられるのである。人は一般に信じられていることを呪文のように受け入れる。そういう真理を、その論拠証拠の建物道具いっさいと共に、そっくりそのまま受けいれる。あたかもそれらが堅固な一体をなすかのように。そしてそれっきり、ゆすぶってもみなければ調べてもみないのである。それどころか、各人は、争ってこの受け入れた信念を、彼の理性のできる限りをつくして、いよいよ塗り固めるのである。この理性というやつは、どんな型にも合わせて使いこなせる重宝なお道具なのである。だから世間は馬鹿と嘘とでこり固まっている。人がいっこう物事を疑わないでいられるのは、一般の意見を少しもためして見ないからである。人は誤りや弱点が横たわるその根もとは掘りあらためない。ただその枝葉についてだけ論議する。人はそれが真実かどうかを問わないで、ただそれがああ解釈されたか、こう解釈されたかと問う。人はガレノス**が何か価値あることを言ったかどうかと問わずに、彼はこう言ったか、ああ言ったかと問う。じつに我々の判断の自由をはばむこういう拘束が、我々の信念をはばむこういう圧制が、学校にまで・学芸にまで・及んだのはまことに当然であった。スコラ学の神様はアリストテレスである。人は彼の掟を論議することを畏れはばかっている。スパルタ人がリュクルゴスの掟に対するように。彼の学説は我々にとって厳かな法規の役をなしている。それだって、恐らく、どんな学説とも同じように間違ってもいようのに。なぜわたしは、プラトンの「イデア」をもエピクロスの「アトム」をも、レウキッポスとデモクリトスの「充満(プレヌス)と空虚(ウァクウム)」をも、タレスの「水」をもアナクシマンドロスの「限界なきもの(アペイロン)」をも、ディオゲネスの「空気」をもピュタゴラスの「数(ノンブル)と対立(シンメトリ)」をも、パルメニデスの「無限」もムサイオスの「一」も、アポロドロスの「水と火」も、アナクサゴラスの「同質素(パルチ・シミレール)」も、エンペドクレスの「憎と愛」も、ヘラクレイトスの「火」も、そのほか、あの人間ご自慢の理性がその確実と透徹とによってそれが関与するすべての物の中に作り出すところの、ああいう混沌として限りないもろもろの意見法則の中のどれ一つをも、容易には受け入れないであろうのに、アリストテレスがもろもろの自然物の原素に関して述べた意見の方は受け入れるのか。わたしにはわけがわからない。彼はそれらの原素を質料と形相と欠如(プリヴァシオン)という三つの分子で構成しているけれど、虚無(イナニテ)その物をもって万物発生の原因とするほど空なことがあるだろうか。欠如(プリヴァシオン)は一つの消極的概念である。一体どんな考えから、彼はこれをもって、存在するところの諸物の原因とすることができたのだろう。だがこのことは、論理学の演習としてでなければ敢えてゆすぶられないであろう。そこでは、何一つ疑おうとして論議しはしない。ただこの学派の創始者を他派の抗議から護らんがためにのみ論議する。つまり彼の権威をまもるのが究極の目的で、それを越えた詮索は許されないのである***
* これはレーモン・スボンの自然神学をもふくめて古来の神学説に対する批評である。いくら理路整然と説きすすめられていても、カトリック神学にしろ、プロテスタント神学にしろ、すべての観念論のむなしいことを、モンテーニュは指摘するのである。
** ギリシアの有名な医者 Galenus のこと。医学および哲学に関する著書がたくさんある。
*** モンテーニュは一五四六―四八年、ボルドーの人文学部の学生時代、このアリストテレスの講義を聴いてたちまちにアリストテレス嫌いになり、爾来、いたるところでこの哲学者をからかっている。『モンテーニュとその時代』第二部一六二―一六八頁参照。モンテーニュの懐疑主義はこの時代から発している。
 容認された基礎の上に自分の欲する説を組立てることはきわめて容易である。まったくこの最初の規則に従ってゆけば、建物の残りの諸部分は少しも矛盾することなく、容易に組みたてられるのである。こういう道程によって、我々は我々の理由を根底あるものと見、確信をもって論をすすめる。まったく我々の先生たちは、我々の信用の中に、やがては彼が欲するように結論するに必要なだけの地盤を、あらかじめ獲得しておく。ちょうど幾何学者が公理を用いるように。一度それに協賛を与えたらおしまいだ。我々は西に東に引き回され、思いのままの方角につれてゆかれる。その仮定を信ぜられた者は、誰でも我々の主となり神となる。その人は、その基礎の地盤を広やかにゆったり取るから、それを足場に、欲するなら高い雲の上にまでも、我々を昇らせることができるであろう。学問とのこういう交渉交際の間に、我々はピュタゴラスの、「各専門家はそれぞれの道において信ぜられなければならない」という言葉を、現金のように思いこんだ。論理学者は語の意義に関して文法家を信頼する。修辞学者は論証の仕方を論理学者から借りる。詩人は音楽家から拍子を、幾何学者は数学者から比例を借りる。形而上学者は自然学の推測を基礎にする。まったくどの学問も、皆それぞれ前もって仮定された原理をもっていて、人間の判断はそれによって四方八方から抑制されるのである。うっかり根本の誤りが囲われているこの柵をひっくりかえそうとでもしようものなら、彼らはさっそくつぎの格言をかつぎ出す。「原理プランシプを否定する者を相手として議論してはいけない」と。
* 「容認された基礎」とは「公理」(postulat)のことである。
 ところがこの原理なるものは、人間のもとには在りえないのである。神がそれら〔原理〕をかれらに啓示しなかったとすれば。啓示をのぞいては、始まりも、真中も、終りも、みんな夢、みんな煙にすぎない。仮定によってかかってくる者どもに対しては、こっちから逆に、現在論じているその公理をも、仮定にしてやらなければならない。まったく、人間の仮定や命題は、理性がその間に区別をつけないかぎり、どれもこれも同じ権威をもつのである。だからそれらすべてを、一様に天秤にかけなければならない。まず第一に一般的な仮定を。つぎに我らを押しつぶそうとする仮定を。(c)確実の印象こそ、愚かさと極度の不確実との確かな証拠である。いやプラトンのいわゆるフィロドクソス〔愛説者〕ほど、愚かで哲学に遠い者はないのである。(a)はたして、火は熱いか雪は白いか、我々の知っているものの中に、はたして硬いものがあるか軟らかいものがあるかを知らなければならない。昔の物語にあるような、例えば熱さを疑う者に向っては火の中に入って見ろと言い、氷は冷たくないという者に向ってはその中に浸って見ろというような、ああいう答えにいたっては、哲学者の言葉として甚だふさわしくない。もし彼らが我々を自然の状態に放任し、外部の印象を我々の感覚に感ずるがまま受けさせるのなら、また我々を我々の生れながらの天性によって調整されている単純な欲望に従わせるのなら、あのように語るのもあるいはもっともかもしれない。けれども、彼らから我々は、世界の審判者となるように教えられたのである。彼らからこそ我々は、「人間の理性こそ、大空の内外にあるあらゆるものの一般的検閲者で、万物を抱擁し万事を成就するものである。これがなくては何物も認識されず理解せられない」という思想を与えられたのである。今のような答えは、むしろアリストテレスの原理も与えられず、自然学という名前すら知らずに、静かで平和な長寿の楽しみをうけている、あのカンニバル〔人食人〕の間でこそふさわしかろう。こういう答えこそ、おそらく、彼ら哲学者たちがその理性および創意から借りて来ようとするすべての答えよりも、はるかに優れた・はるかに堅固な・ものであろう。こういう答えならば、我々ばかりでなくすべての動物、自然律の単純な司令を受けて生きているどんなものにも、できるであろう。ところが、彼ら哲学者たちはこれをかえりみなかった。彼らはわたしに、「それは真実である。あなたはそれをそのように見かつ感じておらるるが故に」などと言ってはならない。彼らは言わなければならないのだ。わたしがいま感じていると思っていることを、わたしがはたして本当に感じているのかどうかを。もしもわたしがそれを感じているとすれば、つづいて、なぜわたしがそれを感ずるのか、どんなふうに・そして何を・感じているのかを、言わなければならないのだ。冷熱の名称を、根源を、その他それに関連するあらゆる問題を、働きかけるもの・受け蒙るもの・の諸特質を、言ってくれなければならないのだ。でなければ彼らは、理性の道によらなければ何事をも認容しないというその職を、捨てなければならない。理性は彼らがすべての種類のためしに用いる試金石である。けれどもそれは、まことに誤謬と欠陥とにみちた試金石なのである。
* フィロゾフが「愛知者」であるのに対し、フィロドクソスは「学説を愛する者」のこと。プラトン自らの定義によれば、「基礎不確実な諸説を鵜呑みにする者、語句の末に拘泥してゆずらない者、事物の表面だけしか見ない者」とある。
 一体何によって我々は理性をためそうとするのか。理性それ自身による以上によい方法が果してあるだろうか。自分について語る理性を信じていけないとすれば、ほとんどそれは他物を判断することのできないものであろう。もし理性が何事かを知っているとすれば、それはせいぜい自分とその住み家とであろう。理性は霊魂の中にあり、霊魂の部分ないし結果である。まったく真実の・本質的な・理性は(この名を我々は不当に盗んでいる)、神のふところに宿っているのである。それこそ、理性の宿り、理性の隠れ家である。理性は、神様が我々にその光りをいくらか見せてやろうと思召されるときに、そこからこそ発するのである。ちょうどパラスがその父の頭から出てきてこの世界にその身を現わしたように。
* アテーネともいうギリシアの神。ローマではミネルウァという。ユピテルを父としメティスを母とする。その生れる前に、ユピテルは地の神ゲア G※(アキュートアクセント付きE小文字)a のすすめに従って母をのみこんだ。それでアテーネはユピテルの頭から全身武装し、大きなときの声をあげて飛び出した。(神話)
 ところで、人間の理性は、自分および霊魂について我々に何を教えたか。(c)ただし我々がここで知りたいのは、ほとんどすべての哲学が天体や原子もこれにあずかっているとする、あの一般の霊魂についてではない。またタレスが磁石の考察に促されて、普通に無生物とせらるるものにさえもあるとした、あの霊魂についてでもない。それは我々に属し・我々が最もよく知らねばならぬところの・その霊魂についてである。

(b)人は霊魂の性質について知るところなし。
そは肉体と共に生れたるや。それとも、
肉体が生れたる時これに入れられしにや。
そは死によって我々と共に滅びるや。
或いは独り暗き地獄、空虚なる国に赴くや。
或いはまた、神のために、他の獣の体内に入れらるるや。
(ルクレティウス)

(a)クラテスおよびディカイアルコスには、「霊魂なんてものはありっこない。ただ物体は自然の運動につれてああして動いているのだ」と理性は教えた。プラトンには、「それは自ら動くところの実体である」と教えた。タレスには「休むことのない一つの自然」と教えた。アスクレピアデスには「もろもろの感覚の働き」と教え、ヘシオドスおよびアナクシマンドロスには「土と水とからできたもの」と、パルメニデスには「土と火とからできたもの」と、エンペドクレスには「血でできたもの」と、教えた。

彼はその血なる霊魂を吐き出したり。
(ウェルギリウス)

ポセイドニオス、クレアンテス、ガレノスには、「一つの熱ないし熱のある性質」と教えた。

霊魂には火の力あり。而してその源は天に発す。
(ウェルギリウス)

ヒッポクラテスには「肉体にみなぎる精気」と、ウァロには「口から入り、肺臓で温められ、心臓で調節され、全身にあふれる空気」と、ゼノンには「四原素の精髄」と、ヘラクレイデス・ポントスには「光」と、クセノクラテスおよびエジプト人には「動く数(ノンブル・モビル)」と、カルデア人には「定形なき一つの徳」と、教えた。

(b)物体の中には一種の精気みなぎる。
ギリシア人はこれを呼んで調和と言えり。
(ルクレティウス)

(a)アリストテレスを忘れまい。「自然に物体を動かすもの。わたしはこれをエンテレケイアと名づける」と彼は言った。例によって冷たい創意だ。まったく彼は、霊魂の本体についても根源についても性質についても語らないで、ただその結果を認めているだけである。ラクタンティウス、セネカ、およびドグマティストの中のすぐれた人々は、「これは自分たちには解らない事柄だ」と白状した。(c)そして例によって長々と諸説を並べたてた後キケロは、※(始め二重山括弧、1-1-52)これらの諸説のうちいずれが真実なりやは、いずれかの神これを裁き給わん※(終わり二重山括弧、1-1-53)と言った。(a)「わたしはわたし自らによって、いかに神の不可解であるかを知る」と聖ベルナールは言った。「なぜなら、わたしはわたし自身の諸部分を自ら理解することができないからである」と。(c)ヘラクレイトスは「すべての存在は霊魂と精霊ダイモンとにみちている」と考えたが、また一方で、「人は霊魂の認識に向って、それにとどくほど近寄ることはできない。それほどにその本質は深いから」と主張した。
 (a)霊魂の在りかに関してもまた、以上にまけないほどたくさんの異論異説がある。ヒッポクラテスおよびヒエロフィロスは、それを脳室の中においている。デモクリトスおよびアリストテレスは、身体のいたる所にあるという。

(b)しばしば人は言うなり。「健康は肉体に属す」と。
されど、健康は健康なる人の一部にはあらざるなり。
(ルクレティウス)

(a)エピクロスはそれを胸にあるという。

(b)恐怖のおののきを覚ゆるはここなり。
喜びの感動を覚ゆるもまたここなり。
(ルクレティウス)

(a)ストア学者たちは心臓の周囲および内部に、エラシストラトスは頭蓋の皮膚にへばりついて、エンペドクレスは血液の中にとけて、あるという。モーゼもまたそう考えた。だから「動物の血を食べてはいけない。そこには彼らの霊魂がくっついている」と禁じたのであった。ガレノスは身体の各部がそれぞれの霊魂をもつと考えた。ストラトンはそれを眉の間に宿らせた。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)霊魂の形やその住みかについては、知ろうとさえすべきにあらず※(終わり二重山括弧、1-1-53)とキケロは言った。わたしはわざと、この人の言葉をそっくりそのまま借用する。せっかくの雄弁をことさら言い変えるにも及ぶまいではないか。それに彼の創意の材料を盗んだところであまり得にもならない。彼の創意は余りたんとはないし、あまり堅固でもないし、ほとんど誰でもが知っていることばかりだから。(a)けれどもクリュシッポスがその派の他の人たちと共に、霊魂を心臓のほとりにあると論証した時の理由は忘れられてはならない。「なぜなら」と彼はいう。「我々が何事かを断言しようと思うときは胸に手をおくからである。またわたしという意味のエゴー [#無気記号付きε、U+1F10、642-10]γ※[#鋭アクセント付きω、U+1F7D、642-10] という語を発音しようとするときも、下顎を胸の方に下げるからである」。こういうくだりを見ると、さしもの大家も案外たわいのないものであることがわかる。まったく、これらの考察はそれ自体きわめて軽率であるばかりでなく、最後のものにいたっては、ただギリシア人に対して、君たちは霊魂を胸に持っていると証拠立てているだけである。人間の判断は、いくら緊張したものでも、ときにはうっかり眠りこける。
 (c)なぜ我々は思い切って言わないのか。人間的知恵の父であるあのストア学者たちは、すでに気がついているではないか。「倒れた石の下じきになった人間の霊魂は、まるでわなにかかった鼠のように、その重荷をどけることができず、長いこと出よう出ようと苦しみもがいている」と。
 ある人はこう信じている。「世界は、始め造られた時は純潔のうちにあったのに、自らの罪によってその純潔から堕落した精霊に対して、罰として形体を与えるがために作られたもので、第一の創造は、非肉体的なものであったのである。そして、それらの精霊は、その霊性から離れることの多少によって、あるいは重いあるいは軽い肉体を着せられるのである。それで、あんなにたくさんの被造物がそれぞれ種々様々な姿をしているのである」と。だがそうだとすると、罰として太陽という形体を与えられた精霊は、よほど稀な・特別な・変形をしたのだな、ということになる。我々の詮索の究極は、いずれもこうしたてんやわんやになってしまう。ちょうどプルタルコスが諸国の歴史の始源について言っているように、「それは地図と同じことである。よく知られた国々も、そのはては沼沢や奥深い林や荒涼たる無人の地域に占められている」のである。そういうわけで、もっとも大雑把ざっぱなもっとも子供らしい妄想は、かえって好奇と自負の心に没入して最高最深の物事ばかり論ずる人々の方に、より多く見出されることになる。学問の始まりと終りとは、同じ愚かさの中で一つになる。プラトンがその詩的な空想にのって雲のうえ高く雄飛するところを見たまえ。その神々の用語を使いまくるところを見たまえ。(a)その時「人間とは翼のない二本足の動物である」と定義して、彼はいったい何を考えていたか。彼をからかってやろうと待ちかまえている人々にまんまと嘲笑の機会を提供してしまったのである。まったく彼らはきんぬき鶏の毛をむしりとって、「これこそプラトンの人間よ」と呼び歩いたのである。
 ではエピクロス学者たちはどうか。彼らははじめ何とも単純にこんなふうに考えていた。「我々がいうところのアトムこそ世界を造ったので、このアトムとは若干の重みがあって自然に下方に向う物体である」と。ところが、やがてその敵側から、「その定義によると、君たちのアトムなるものは、その落下がそのように垂直であるかぎり、ただ到るところに平行線を産み出すだけで、とうてい互いに接触合体することができないわけだね」と突込まれた。そこで彼らは、後にその落下に斜めの・偶然の・運動を持たせなければならなくなり、さらに彼らのアトムに曲った鉤形かぎがたの尾をもたせ、互いにもつれ合うことができるようにしなければならなかった。
 (c)またそのときにさえ、つぎのような別の考えをもって彼らを追求する者があって、少なからず彼らをてこずらせたではないか。すなわち、「もしアトムが偶然にそんなにたくさんの形を作り出したのだとすれば、なぜそれらは相接して、時に家だの靴だのを作り出すようにならなかったのか。なぜ人は、同様に、数限りないギリシア文字を一つのところにぶちまけておけば、やがてそれらが『イリアス』の名文をも作り出すことになろうと信じないのか」と突込まれたのである。「理性の働きをもつものは」とゼノンは言った。「それをもたないものより優れている。世界より優れたものはない。故に世界は理性の働きを持つ」と。コッタは同じ論拠をもって、世界を数学者だと言った。またつぎのような別の・しかしやはりゼノンの・論拠によって、すなわち「全体は部分より大である。我々は知恵の働きをもちまた世界の一部でもある。故に世界は知恵者である」という論拠によって、世界を音楽家・オルガン演奏者とした。
 (a)哲学者たちが自分たちの学説や学派のちがいからお互いに浴びせ合った非難を見ると、同じような実例がいくらでも見られる。それらは論拠が誤っているだけではなくすこぶるたわいのないもので、とうてい支持されるに堪えず、論者の無知と愚劣とを暴露してあまりあるものである。(c)人間の知恵の、山ほどもある頓馬ぶりを手ぎわよくたばねて見せてくれる者があったら、それこそ拍手喝采に値するであろう。
 わたしはそれらを寄せ集めて、一つの見せものとしてお目にかけたい。それはある見方をもってすると、健全で控え目な諸説に劣らず、十分に考えるに値するものである。(a)これによって我々は、人間について、その分別について、その理性について、どのように考えるべきかを、よく考えて見よう。まったくそれで見ると、ああいう偉大な人物たち、人間の能力をあれほどまでに高めた人たちにおいてさえ、あのように明白な・あのように大きな・欠点が見てとられるのである。わたしはむしろ、「彼らは学問を、気まぐれに、おもちゃみたいにいろいろに、取扱った。理性をつまらぬ道具のようにこき使った。あらゆる創意と思想とを、引締った創意だろうがだらけた思想だろうが、けじめなく人にすすめた」と信じたい。あの、人間を鶏なみに定義したプラトンその人も、別のところではソクラテスにならってこう言っている。「わたしは本当に人間とはなんであるかを知らない。それは同じように認識の困難な世界の一部をなすものである」と。このように雑多で一定しない諸説によって、彼らは我々を、黙って、いわば手を取って、「自分たち哲学者の意見は不定である」という結論へと導いてゆく。彼らはいつも、自分たちの意見をむき出しに示さないのを得意にしている。彼らはそれを、あるときは詩的な物語の蔭に、あるときは何かほかの仮面の下に、隠した。まったく我々は不完全であるために、早い話が、なまの肉はつねに我々の胃の腑に適しないと言って、それを乾したり腐らせたりしなければ食べないのである。彼らもまた同様にする。すなわち、しばしばその正直な意見と判断とを、一般の使用に適するようにわざと曖昧にする。(c)そしてそれらを歪曲する。(a)彼らは、人間の理性の無力と無知とを明白に表現したがらない。(c)子供たちをこわがらせないために。(a)だが、混沌として定まらぬ何かの学問の外観のかげに、それらをかなりに暴露している。
 (b)わたしはイタリアにいた頃、イタリア語をしゃべるのに苦労しているある人に向って、こう勧めてやった。「別にしゃれたことを言おうというのでなく、ただ思うことを相手にわからせようというだけならば、何でもいい一番先に口をついて出る言葉を、ラテン語でもフランス語でもスペイン語でもガスコーニュ語でもいいから、使うがよい。ただそれにイタリア風の語尾をつけさえすれば、きっとこの国のどこかの方言にぶつかる。トスカナのでなければローマの・ヴェネツィアのでなければピエモンテかナポリの・方言にぶつかる。ずいぶんいろいろな形の方言があるが、そのどれかに必ずかなう」と。わたしは哲学についても、同じことを言おうと思う。哲学はあれほど多くのいろいろな顔形をもち、またあれほど沢山のことを言ったから、我々の夢幻夢想はことごとくそこにふくまれているのである。人間の思想は、善くも、悪くも、哲学の中にない何事をも思いいだくことはできないのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)人はいかなる哲学者にも言われざりしほどに不条理なることを言うあたわず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)そこでわたしは、ますます気ままに自分の幻想を人々の前で駈けまわらせるのである。なぜなら、それはわたしのうちから祖師なしに生れ出たものであるけれども、必ず何とかいう古人の思想と似たところをもっているにちがいないと思うからである。いや、やがて誰かが、「なるほどあれから取ったのだな!」と言ってくれるに違いないからである。
 (c)わたしの思想行動ムルスは生れつきである。わたしはそれらを造り上げるのに、いかなる学派の助けも求めなかった。だが、それらは何とも力弱いものではあるが、ふとそれらを皆に話してやりたいと思ったとき、そしてそれらをいささか体裁よく人前に示すために理論や実例でそれを支持しなければならなくなったとき、わたしは偶然にもそれらがいろいろな哲学上の理論や実例に酷似しているのを知って、自分ながらびっくりした。わたしの生活がどんな流儀に属するかは、それを実践してしまってから後に始めて知ったのである。
 よう! 新型の哲学者! ついぞ瞑想をしたことのない・ひょっこりでき上った・哲学者よ!
 (a)再び霊魂の問題に立ちもどるに、プラトンが理性を脳に・怒りを心臓に・色情を肝臓に・置いたのは、むしろ霊魂の運動を説明するためであって、一つの身体を幾つもの肢体に分つように霊魂を分割分類しようと思ったからではない、というのがどうやら本当らしい。いや哲学者の諸説の中でもっとも本当らしいのは、霊魂は一つであるという説であって、それは常に、自らの性能によって推理し・追憶し・理解し・判断し・欲望すると共に、身体のもろもろの器官を借りてはその他のあらゆる働きを行うのだという(あたかも船乗りがその経験に従って、あるいは帆綱を張ったり緩めたり、あるいは帆桁ほげたをあげ、あるいは櫂をうごかしつつ、ただ一つの力によってもろもろの行動をべつつ舟をすすめるのと同じである)。それから、霊魂は脳に宿っているという説がある。これは、この部分に負傷その他の事故がおこると、直ちに霊魂の諸性能に故障がおこるのでわかる。霊魂が脳から発して全身を貫流するというのも、おかしくはない。

(c)太陽は移りながら常に天の中道をそれず。
しかもその光もて万物を照らす。
(クラウディアヌス)

(a)それはちょうど、太陽が天から外にその光と偉力とを伸べひろげながら、それで世界をみたしているのに似ているという。

霊魂のほかの部分はあまねく全身をめぐりて、
高き英知の命令に従って動く。
(ルクレティウス)

 ある人たちは言った。「ある一つの大きな全体のような、ある一つの総体的霊魂があり、個々の霊魂はそこから引き出され、また再びそこに帰る。常にあの普遍的なものと相交わりながら」と。

まことに神は至る所に遍在す。
大地にも、海原にも、大空にも。
家畜も野獣も人間も、すべてはその生れ出るとき、
神より幾許いくばくかの生命を享けきたり、
生き終れば、分解して再び彼にかえる。
天上天下、死はいずこにもなし。
(ウェルギリウス)

またある人々は言った。「個々の霊魂はこの総体的霊魂にまつわりついているだけだ」と。ある人たちは「それらはみな神の本質から生れる」と言い、ある人たちは「天使によって火と空気とで作られる」と言った。ある者は「太古に生れた」と言い、ある者は「必要あるその度ごとに生れる」と言い、ある者は、「月から下りて来てまた再びこれに帰る」と言った。古人は一般にこう考えた。「それらは父から子へと、あたかも他のすべての自然物と同じように産みふやされたものである。それは子がその父に似ることで論証される。

汝が父の徳は、生命と共に、汝に譲られたり。
(出所不詳)

勇気ある子は勇壮な父より生る。
(ホラティウス)

人は、ただに身体の特徴ばかりでなく、気分や、気質や、霊魂の傾向の類似までが、父から子へと伝わることを知っている。

何故に、獅子はその猛き性を子に伝うるや、
何故に、狐はそのわる知恵を父より受けつぐや、
何故に、鹿はその逃げ走る本能と、
その足を早くする恐怖とを、うけ伝うるや。
けだし、それぞれの種の結果によりて、
霊魂の特質もまた、身体のそれと共に、
父から子へと遺伝すればなり。
(ルクレティウス)

そこに神の正義があり、父のあやまちはその子において罰せられる。なぜなら、父の不徳は伝染によってある程度子供らの霊魂の中に跡づけられるし、父の放埓な意志はその子どもたちに影響するからである」と。それからまた、こうも考えられた。「もし霊魂が自然の伝承以外の道をへて来るのだとすれば、もしそれらが何か肉体の外にある別のものであるとすれば、それらは、それらに固有な、思考し推理し追憶する特性によって、自らの最初の存在を記憶していなければならない」と。

(b)もし霊魂が生るるに際して体内に入るものとせば、
何故に、我らは過去の生活を想い出すことあたわざるや。
何故に、我らは前の行為を記憶し居らざるや。
(ルクレティウス)

(a)まったく我々の霊魂の性質が、ほんとうに我々の欲する通りのものであるとすれば、それらは生れ出たままの単純と純粋の中にあったときから既に、なかなかの物知りであったと思わねばならないのである。従ってそれらは、そこに入る以前には肉体という牢獄を免れていたのであるから、それを脱したとき既に、我々がこのようにありたいと望むとおりのものであったに違いないのである。そしてそういう知恵を、プラトンが「我々の学び覚えるところは、前の世に我々が知ったことの想起にすぎない」と言ったように、肉体の中に入ってからもなお想い出さねばならないはずである。だがこれは誰しもが経験上嘘だと主張できることである。なぜなら、第一に、我々は人から習ったことだけしか想い出さないからである。もし記憶が正直にその役目を果すならば、記憶は我々が後に学んだこと以外のことをも、少なくとも暗示くらいはするはずだからである。第二に、我々の霊魂が純粋な状態にあったとき、既に知っていたところのものは、それこそ真実の知識であったのだから、その神らしい英知によって、物事をそれらのあるがままにただしく知っていたはずなのである。ところが現在、我々の霊魂は、虚偽でも不徳でも、教えられれば何でも黙って受け入れる! そこにその想起を用いることができないでいる! つまりこれは、そのような形象や概念がかつて一度もそこに宿ったことがない証拠である。「肉体という牢獄は、霊魂が生れながらに持っている諸性能を、そこでそれらが全然消滅したほどに息づまらせてしまった」という説にいたっては、第一に、あのもう一つの信仰、すなわち、「霊魂の力は極めて偉大であり、人々がこの世で感ずる霊魂の作用は極めてすばらしいものであるから、どうしても霊魂には、あの神性と、過去における悠久と将来における不朽とが、なければならない」という信仰に反する。

(b)誠にもし霊魂の性能大いに変えられて
まったく過去の追憶を失い尽せりとせば、
その状態は死とほとんど異ならぬものなるべし。
(ルクレティウス)

 (a)それに、ここでこそ、この我々のもとにおいてこそ、ほかならぬこの現世においてこそ、霊魂の力と働きとは考察されなければならないのである。そのほかの完全はいくらあっても、霊魂にとって何のたしにもならない。実にその現世における状態についてこそ、霊魂はその悠久不死を報いられ支払われなければならないのであり、ただ人間の一生についてだけ、霊魂は責任がもてるのである。霊魂からその手段と力とを切りはなし、霊魂からその武器を剥ぎ取ったうえ、それが捕えられて牢獄の中にいた時期、それが病み衰えていた時期、それが強制拘束されていたらしい時期に基づいてそれを判断し、それに無限永劫の刑罰を与えるのは、不公平であろう。また、あんなに短い時期、恐らくただの一、二時間にすぎない・いかに悪くいっても百年くらいの(それだって悠久にくらべれば一瞬時にすぎない)・短い時期の考察に拘泥こうでいし、そういう中間の一時期を基にして霊魂の全存在を決定的に審査判決してしまうのも、不公平であろう。このように短い生涯から永遠の酬いをその応報としてひき出すというのは、不正な不均衡というべきであろう。
 (c)プラトンはこの不都合からのがれるために、「未来の報酬は人間の生存年数に従って百年以内に限られるべきである」とした。われわれキリスト教徒の中にもそういう期限をつけた者がかなりある。
 (a)それで哲学者たちは、「霊魂の発生と生存とは、共に人間界の事柄と共通の条件に従うものである」と判断した。これはエピクロスおよびデモクリトスの所説によるのであるが、この説が当時最も広く受け容れられたのは、つぎのような立派な理由によってであった。すなわち、「人は霊魂が、肉体がこれを受け入れるのに堪えるようになって始めて、それが発生するのを見るし、その力が肉体の力に伴って伸びてゆくのを見るし、またそれが幼い時には弱く、時と共にようやくその力をまし、成熟するかと思うとやがて老衰し、ついには朽ち果てることを認める」からであった。

我らは感ず。霊魂が肉体と共に生れ、
これと共に伸び、またこれと共に滅ぶるを。
(ルクレティウス)

まったく彼らの認める通り、霊魂というものはさまざまの情念をいだくことができ、多くの苦しい感動に揺り動かされる。そのために疲労と苦痛におちいり、変化変質することもあれば、興奮・倦怠・無気力・におちいることもあり、また胃の腑や足と同じように病気にもなれば怪我もする。

(b)我らは知る。霊魂は病める肉体のごとく、
薬によりていやさるることを。
(ルクレティウス)

(a)酒のためには麻痺し混乱するし、病気の熱に浮かされると平静を失う。ある薬を用いると昏睡に陥るし、またある薬によっては覚醒させられる。

(b)霊魂もまたその性質は肉体的ならざるべからず。
そは肉体の変化変調のために乱さるればなり。
(ルクレティウス)

(a)また霊魂は、病犬のただひと噛みのために狂乱してそのすべての性能を失う。どんなに堅固な理性も、どんな知恵も、どんな徳も、どんな哲学的決意も、どんなに張りつめた気魄も、とうてい、これらの事件の支配から霊魂を免れさせることはできない。ちっぽけな番犬のよだれがソクラテスの手のひらに注がれると、それはさしもの彼の知恵をも、あれほど偉大で整然としていた彼の思想をも、ことごとくゆすぶり動かして、それまでの彼の知識をただ一ぺんに跡形もなくしてしまった。

(b)霊魂のもろもろの性能はこの毒によりて、
乱され、分たれ、くつがえされたり。
(ルクレティウス)

(a)この毒は、これほどの霊魂の中ですら、なお四歳の子どものそれにおけるがごとく、何の抵抗にもあわなかった。この毒は、さしもの哲学をさえ(それはあれほど彼の身についていたのに)狂乱させることができた。それどころか、あのカトーなども、それは死や運命の首根っこをもおさえ得たほどの男であったのに、ひとたび狂犬からうつされて医者のいわゆる狂水病にかかると、たちまちに恐怖にうちひしがれ、鏡や水をさえ見ることができなくなった。

(b)病は五体をめぐりて霊魂を責め苦しめたり。
あたかも強風海のうしおを湧き立たするがごとく。
(ルクレティウス)

 (a)ところで、この点について、哲学はたしかに他のすべての出来事に堪えさせるために人を武装した。あるいは忍耐をもって、あるいは、忍耐があまりに得がたい場合には、全然感覚を脱却するという、一つの決してはずれることのない便法をもって。けれどもそれは、自分を失わない・力の溢れた・推理と熟考ができる・霊魂にかぎって役立つ方法である。それは哲学者においてさえ、その霊魂が愚者のそれのようにあわてふためいて、どうしてよいかわからなくなるような、そういう場合に臨んでは何の役にも立たないのである。そういうことは、いろいろな機会によく起る。例えば何かの激烈な情念のために、霊魂が自分のうちに猛烈な混乱を生じさせることもあるし、身体のどこかの怪我だとか胃の痙攣だとかが、我々を眩暈めまいや気絶に投げいれることもある。

(b)しばしば肉体の病のため霊魂は錯乱す。
その時、痴呆状態とうわごとと交々現わる。
時には昏睡、精神を永遠の眠りの中に投じ、
おのずからまなこはふさがり首はうなだる。
(ルクレティウス)

(a)哲学者たちは、どうもこのいとにはほとんど触れなかったように思う。
 (c)いや、同じように大事なもう一つの点にもふれなかった。彼らはつねにつぎのような両刀論法ディレンマをつかって、我々の死ななければならない身の上を慰めようとしている。つまり、「霊魂は死ぬべきものか死なないものかいずれかである。もし死ぬべきものならば、やがて苦痛がなくなるであろう。もし死なないものであるならば、それはだんだんに良くなるであろう」と。彼らは決してもう一つの枝、「もしだんだんと悪くなったらどうするか」ということにはふれないで、あの世の刑罰のおそろしさは詩人たちに委せている。彼らはこういうずるい手を打つ。以上は彼らの論説の中でしばしばわたしの目につく二つの黙殺オミッションである。わたしは再び始めの黙殺オミッションに立ちもどろう。
* 人間の霊魂がさまざまな事柄の影響をうけて理性も知恵も失うということ、哲学もまた無力であることについて、哲学者は余りふれていない(六五〇頁終りから十行目)。これが第一のオミッション。そこでモンテーニュは、この(c)のテキストによってもう一つそういう哀れな人間の霊魂について、哲学者の言い忘れていることを補足しようとしたのである。
 (a)こういう霊魂は、かくもゆるぎなくかくも変ることのないストア学的至高善の有難味を忘れている。我々の自慢の知恵も、こうなると降参してかぶとを脱がなければならない。それに彼らは、空虚な人間的理性からして、死ぬもの・死なないもの・という、あんなに相異なった二つの要素を混合したり組み合せたりすることは、とうてい思いもよらぬことと考えていた。

何たる愚かさぞや! 死すべきものと死せざるものとを結び合わせんとは!
いかでかこの二つ、相和して同じようなる役目をばなすことをえん!
けだし世にこれほど相異なり相反するものはあらざればなり。
死するものと死せざるものとを合わするは、
合わせんとするものを一陣の狂風に委ぬるにひとし。
(ルクレティウス)

それどころか、霊魂もまた、肉体のように死の中に引きずりこまれると考えていた。

(b)霊魂は肉体とともに年齢の重荷の下にくずおる。
(ルクレティウス)

(c)このことは、ゼノンによれば、眠っている間のことを想像するとかなりよくわかる。まったく彼は、睡眠を霊魂と肉体との虚脱であると考えているのである。※(始め二重山括弧、1-1-52)彼は睡眠の中に霊魂の萎縮し衰弱することを信じたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)そこで、誰かある人の霊魂の強い力がいよいよという最期においてもなお維持されているのを見ると、彼らはそれを病気それぞれの特異性のせいにしていた。実際我々はよく見かける。人間がこのような最期のときに至っても、何か一つの感覚を(あるいは聴覚を・あるいは嗅覚を・)少しの変りもなく保っているのを。いや、どんな器官も完全で強力なままに残らないほど、それほど全体的に衰弱するということは、かえって見られないのである。

(b)頭には少しの痛みも感ぜざるに
脚の病めることあるがごとし。
(ルクレティウス)

 我々の判断の眼と真理との関係は、ちょうどみみずくの眼と輝きわたる太陽の光との関係にひとしい。これはアリストテレスが言ったことであるが、このようにぱっと明るい光と、このようにひどい盲目とをくらべる以上に、この関係をよく人にわからせる道があるであろうか。
 (a)まったくこれとは反対の霊魂不滅説は、(c)これをキケロは、少なくともいろいろな書物の証するところによれば、トゥルス王の時代にフェレキュデス・スュロスによってはじめて伝えられたものであると言っているが(他の人々は、この説を始めて言いだしたのはタレスであるとし、また別の人々はこれをさらにほかの人たちに帰するのであるが)、(a)これこそ人間の学問のうちでもっとも多くの留保と疑問とをもって論ぜられる部分である。もっとも頑固なドグマティストたちも、さすがにこの点に関しては、仕方なくアカデメイア派の曖昧の中にその身を隠す。なんぴとも、アリストテレスがこの問題をどう決定したかを知っていない。(c)また一般に、すべての古人がどう決定したのかも知っていない。彼らはこの問題を、いずれもあやふやな信念をもっていじくりまわしているにすぎないのだ。※(始め二重山括弧、1-1-52)そはきわめてうれしきことなり。されど、そは単なる約束にして確かなる証明にはあらざるなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(a)彼は意味むつかしくわかりにくい言葉の雲にかくれ、その帰依者たちに、彼の判断についても問題そのものについても、勝手に論議することをゆるした。二つの事柄が彼らに霊魂不滅の説を肯定させた。一つは、「霊魂不滅ということがなければ、もう光栄という空ろな希望をいだかせるたよりもなくなるだろう」ということで、これは世間で驚くべき信用を博している考え方である。もう一つは、(c)プラトンも言ったように、(a)はなはだ有益な意見であって、「不徳はたとい人間の裁きのぼんやりとしてあやふやな眼はのがれても、神の正義からはのがれることができない。神は罪人が死んでしまってからもなおその不徳を追求する」というのである。
 (c)人間はその存在を伸ばそうと極度に心を砕き、そのためにありとあらゆる手段を尽している。肉体の保存のためには墳墓を営み、姓名の保存のためには光栄を求めている。
 人間は自分の運命に堪えてゆくことができず、あらゆる思案をこらして自分を建て直そうとし、その創意によって自分につっかえ棒をかおうとした。霊魂は混沌として力弱く、とうてい独りでは立っていられないので、あちらこちらと、いたるところに慰めと希望と根拠とを尋ね歩き、そういう外部的情況にすがりたよる。そして、その創意がつくり出したそれらのものがいかに取りとめのないくうなものであっても、それらにたよっている。この方が自分にだけすがっているよりはずっと安心だと考えている。
 (a)けれども、我々の精神が不死であるという・このきわめて正当自明な・信念に最も執着した人々も、とうとうそれを彼ら人間の力によっては確証できずにしまったということは、何とも不思議である。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)そは求める者の夢にして、教える者の夢にあらず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)とある古人は言った。(a)人間はこういう証拠によって、彼が独りで見出す真理も、やはり運命と偶然とのお蔭なのだという事実を認めることができる。なぜなら真理が彼の手の中におちるときでさえも、彼はこれを把握するすべを知らず、彼の理性はこれを利用する力を持たないからである。我々自らの推理と才能とによって作り出された物ごとは、本当のものも嘘のものも、みな不確実で議論をまぬがれない。実に我々の不遜を罰するため、我々の悲惨と無能とを思い知らせるためにこそ、神はいにしえのバベルの塔の混乱を生じさせたのであった。我々が神の助力なしに企てること、我々が聖寵のともし火によらないで見ることは、すべて空虚と狂愚にすぎない。真理の精髄は同形で常に変らないものだが、運命がこれを我々に把握させると、我々はそれをさえ我々の無力によって腐敗堕落させてしまう。人間自身はどんな道をとっても、神はいつも彼を同じような混乱に到達させる。その有様は、神がニムロデの不遜をこらし・自分のピラミッドを建てようという彼の虚栄の計画を挫折させ・た時の、あの公正な罰によってまざまざと我々に示されている。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)われは賢者の賢さをほろぼし、知者の知恵をそこなわん※(終わり二重山括弧、1-1-53)(「コリント人への第一の手紙」一―十九)。(a)神がそれによってこの仕事を混乱させた、あの言葉・なまり・の雑多こそは、とりもなおさず人間の学問の確立という、我々人間の無益な企てにともなって、これを紛糾させる、あの意見や理由の無限永劫の不和衝突を暗示するものにほかならない。(c)だがこの紛糾も有益なのだ。もし我々に一粒の知識だにあるならば、誰がいったい我々を抑えるであろうか。かの聖人はいたくわたしを喜ばせた。※(始め二重山括弧、1-1-52)我らに何が有用なりやという知識が闇にかくされてあるは、我らに謙譲の徳を教え、我らの傲慢を抑えんがためなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(聖アウグスティヌス)。こういう神の抑制がなかったなら、我々は我々の盲目と暗愚とを、いかなる傲慢不遜にまでもって行くか知れたものではない。
* ニムロデはカルデア(バビロニア)の王。カルデアには昔から未完のままに立っているピラミッドがあったらしく、その国の人々はこれをバベルの塔と信じていた。
 (a)しかしわたしの問題にたちもどると、我々がかくまでに気高い信仰の真理を知りうるのは、ただ神ひとりの・ただその聖寵の恵みだけの・おかげであると考えるのは、誠にもっとも千万である。なぜなら、ただ神の恩恵によってのみ、我々は不死という果実を受けるのであり、この果実は、ただ永遠の幸福の享受の中にだけあるのだから。
 (c)正直に白状すれば、霊魂が不滅であることを我々に告げたのはただ神ひとりであり、ただ信仰だけである。まったくこの教えは、自然からのものでも我々の理性からのものでもないのである。いや、この神よりの賜物〔霊魂不滅の信仰〕を捨てて、自分の本質と力量とを、内においても外においても、くわしく試みためす者、遠慮会釈なく人間のありのままを見る者は、そこに死と下界以外の匂いを感じさせるいかなる特性をも能力をも、見出さないであろう。神に多く与えれば与えるだけ、多く負えば負うだけ、多く返せば返すだけ、それだけ多く、我々はキリスト教徒らしくなるのである。
* 見出すのは、ただ人間のはかない・滅びやすい・下界的特性能力のみであろう。
 あのストア派の哲学者は、霊魂不滅の説を民衆の声の偶然の賛同から生れたものだと言っているが、むしろそれは神から頂戴したのだという方がよくはなかったか。※(始め二重山括弧、1-1-52)我ら霊魂の不死を論ずるとき、地獄の神々を恐れ尊ぶ人々の一致せる賛同を得たりというは、我らにとりて決して小さき論拠にあらず。我はこの公衆の信を利用す※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
 (a)さてこの問題に関する人間的根拠の薄弱さは、彼らがこの種の論説の終りに付加した・我々の不死とはどんな状態のものであるかを説明しようとした・荒唐無稽な事柄の中に明白に認められる。(c)ストア学者たちはしばらくおこう。――※(始め二重山括弧、1-1-52)彼らは我らに、からすに対するのと同じように長き命を賦与したり。我らの霊魂は長く生くべけれど、永遠なるにはあらず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)――彼らは霊魂にこの世を越えたもう一つの生を与えているが、それは限られた生である。(a)最も普遍的に信ぜられている説、そして今日にいたるまで方々に伝わっている説は、ピュタゴラスがその創唱者であるといわれるもので(本当は彼がその最初の発明者ではないのだが、それは彼の賛意の権威によって多くの信用と尊重とをかちえたので、一般にそういわれるのである)、それは、「霊魂は我々を離れると、一つの肉体から他の肉体へ、獅子から馬へ、馬から王へと、転々と絶えずその宿りを変えつつゆく」というものである。
 (c)そして彼自らは、かつてアエタリデスであったこと、つぎにはエウフォルボスであったこと、それからヘルモンティモスであったこと、ついにはピュロスからピュタゴラスに移ったこと、をみな覚えていると言った。つまり二百六年間にわたって自分を記憶していたのである。ある人々はつけ加えて、「これらの霊魂はときに天に上り、ときにまた再び降りてくる」と言った。

おお父よ、まことなりや、霊魂ここより天に上り、
更に再び重き身体を受けて地に降るとは。
何ゆえにこれらの不幸なる者どもは、
かくも激しく生をこい願うや。
(ウェルギリウス)

 オリゲネスによると、霊魂は永遠に良い状態と悪い状態との間を往復する。ウァロが物語っている説によると、四百四十年の周期をもって霊魂はその最初の肉体にもどる。クリュシッポスは、限定されていない或る期間の後にそうなると言う。プラトンは、この霊魂が定められた運命によって限りなく移り変りをするという信仰を、ピンダロスやその他の古代の詩から得たと言っているが、霊魂のこの世における生活が有期的なものにすぎなかったように、そのもう一つの世で受ける褒美も刑罰もまた、有期的なものにすぎないということから、こう結論した。「霊魂は、そのいくたびとない旅で往復し・また滞在した・天国や地獄やまたこの世の事柄について、めずらしい知識をもっている。これが霊魂の回想の内容である」と。
 他の場所では、霊魂の経過をつぎのように叙述している。「良く生きた者は指定された星の世界にゆく。悪く生きた者は女に生れ変る。それでもりないときは、さらにその不徳な性格にふさわしい性質の獣にかえられる。そしてその刑罰は、彼が理性の力によって彼の中にある野卑劣等な性質を脱却し、自然の素直な性質にかえらないかぎりやむことはない」と。
* プラトンの『ティマイオス』をさしている。前のパラグラフに言っていることは、『メムノン』の中に言われたことであるのに対して「他の場所では」という。
 (a)けれどもわたしは、この一つの肉体から他の肉体への転生に関してエピクロス学派の人々がなす抗議を忘れたくない。それはなかなか面白い。彼らは問う。「もしも死にゆくものの群れが生れ来るもののそれより大きくなった場合には、どういうふうに秩序が保たれるか。だって、その宿りを失った霊魂たちは、この新しいれものにわれこそは一番に納まろうと、ひしめき合うであろうから」と。また問う。「霊魂たちは一つの宿りが彼らのために空くのを待つ間、いったいどこにどうしてその時を過すのか」と。また反対に、「もし死ぬ動物よりも生れる動物の方が多いならば、肉体どもは彼らの霊魂の侵入を待つ間にわるい状態になるだろう。そして、それらの或るものは生きものにならない内に死ぬようなことにもなるだろう」とも言っている。

霊魂が、動物の交接と分娩とを、今か今かと
見張りつつありと想像するは、おかしきことなり。
不死の霊魂が、逸早くこれに入らんとして、死すべき肉体を、
相争うかと考うるは、さらに愚かなることなり。
(ルクレティウス)

ある人々は死者の体の中に霊魂をとっつかまえ、それによって蛇や毛虫やその他我々の四肢の腐敗から・あるいは我々の灰の中からさえ・わくと言われる蛆虫うじむしに生命を与えた。ある人々は霊魂を死ぬ部分と死なない部分とに分けている。他の人たちは、霊魂を肉体的なものとしながら、また不死のものともしている。またある人々は、知恵も知識もない不死のものとしている。また刑死人の霊魂からは悪魔が生れると言ったものもある((c)われわれキリスト教徒のある人たちもそう判断した)。(a)ところがプルタルコスは、救われた霊魂からは神々が生れると考えている。まったくこの著者は、他の場合にはいつも疑いを含んだ曖昧な言い方をしているのに、このことだけは極めてはっきりと断言しているのである。「どうしても(と彼は言う)、自然にかない神の公正にかなった有徳な人々の霊魂は、人間から聖者になり、聖者から半神になり、そして半神から、贖罪しょくざいの犠牲をしたものとして完全に清められた後、あらゆる感受性あらゆる可死性から免れて、いかなる布令によるのでもなく、真実に、いかにも真らしい理由によって、完全な神となり、はなはだ幸福で光栄ある終りを完うすると、確信しないではいられない」と。だが哲学者仲間ではもっとも控え目でおとなしいこのプルタルコスが、この問題に関していっそう大胆に論争しその奇想を物語るところが見たいといわれるなら、わたしはその人に「月について」および「ソクラテスのダイモンについて」の彼の論を読むようにおすすめする。そこでは他のどんな場所におけるよりも明白に、哲学の神秘は詩のそれと同じ不思議をたくさんに持っているものだということがよみとられる。人間の悟性は万物をあまり究極まで測り知ろうと望むとかえってこんがらかるからで、それはちょうど、我々が人生の長い道程に疲れはてて再び幼な児みたいになるようなものである。以上が、人間の学問の中から霊魂について我々が引き出したところの立派で確実な教えである。
 人間の学問が肉体的諸器官について教えることの中にも、無分別な独断はけっして少なくない。中から一つ二つの実例を拾ってみることにしよう。まったくそうでもしなければ、我々はあの医学的誤謬の茫漠たる海原のまん真中で途方にくれてしまうであろう。せめて「どんな物質をもって人間は互いに作り作られるのか」という問題についてだけでも、人々の意見は一致しているかどうか調べて見よう。(c)まったく人間の最初の発生については、ことが極めて古い大昔のことでもあるから、そこに人間の悟性が昏迷するのも、少しも不思議ではないのである。自然学者アルケシラオスは(ソクラテスはその弟子で、アリストクセノスによるとそのお気に入りの少年だったのだが)、人間も動物もみな地熱から生ずる乳状の粘土から作られたものだと言った。(a)ピュタゴラスは、我々の種子〔精液〕は我々の最上の血液のうわずみであると言っている。プラトンはそれを脊髄が流れ出たものであるとし、背骨が一番先に性交の疲労を感ずるということでそれを証明している。アルクマイオンはそれを脳髄の一部だとしている。そしてその嘘でないことは、このことを極度に行う者が眩暈めまいを感ずることでわかると言っている。デモクリトスは、それをからだ全体からしぼり出される実質であると言っている。エピクロスは霊魂と肉体とから出てくるものだと言い、アリストテレスは血液の養分の中から分泌され、最後に我々のマンブル〔男根〕の中にめぐって来るものだと言っている。ある人々は、生殖器の熱により煮沸純化された血液であると言っているが、これは、甚だしく力を入れると、ときに鮮血を漏らすことがあるという事実から判断した結果である。この最後の説に最も真らしさがあるように思われるが、果してこのように限りない渾沌の中から何かの真らしさが引出されるのであろうか。では、この種子がどうしてその結果を現わすに至るかという問題についてはどうなのか。ここでもやっぱり、ずいぶん沢山の異説がある。アリストテレスおよびデモクリトスは主張する。「女にはまったくスペルムがない。ただ快楽と興奮との熱のために一種の汗を出すだけで、それは生殖の上に何の役にも立たない」と。ところがガレノスとその弟子たちは言う。「でも両方の種子が会合しなければ生殖は行われない」と。見たまえ。女はいったい何カ月の後にその実を結ぶかという問題についても、医者や哲学者や法学者や神学者が入り乱れて、婦人たちと喧嘩しているではないか。このわたしはわたし自らの実例によって、妊娠の期間を十一カ月とする者にくみする。世界はこういう経験の上にうち立てられる。どんなに学問のないおかみさんたちでも、こうした論争についてならば、その意見を述べることができないものはない。だが我々野郎どもは、それについてもとうてい意見が一致しないであろう。
* モンテーニュは母の胎内に十一カ月いたと信じていた。
 これだけ言えば、人間が肉体的部分においても精神的部分においても、自分を知っていないことは十分に証明される。我々は人間を人間自らに突合せ、いや彼の理性を彼の理性に突合せて、理性が人間についてどれだけ教えているかを見ようとした。わたしは理性が、いかに少ししか自分を理解していないかをかなりよく示しえたように思う。
 (c)いや、自分を理解しないものが、一体何を理解することができよう? ※(始め二重山括弧、1-1-52)己れの寸法を知らざる者が、いかでか他物の寸法を取りえんや※(終わり二重山括弧、1-1-53)(プリニウス)。
 ほんとにプロタゴラスは馬鹿なことを言ったものだ。ついに自分の寸法さえ計りきれなかった人間を「万物の尺度」だなんて。人間でなしに誰かほかの被造物がこの特権をもったのでは、かれの自尊心が承知しないのであろう。だが人間はそれ自体においてあのとおり矛盾しているし、一つの判断が絶えず他の判断をひっくりかえしているのだから、この手前味噌はただ物笑いの種でしかなかった。結局我々はいや応なしに、度器はかり compas と測度者はかりて compasseur との・両方の・無力を結論させられてしまった。
 タレスが「人間を知ることは人間にとって甚だ困難である」と言うとき、彼は結局、他のどんな物を知ることも、人間にとって不可能であることを教えているのである。

 (a)あなたは(あなたのために私は、わざわざいつもの習慣に反してこのような長談義を致したのでございますが)、あなたが毎日お学びになっていられる普通の論証法によって、あなたのスボンを支持せられることを、決してためらわれてはなりませぬ。むしろそのようにしてあなたの精神と学問とをお鍛えにならねばなりませぬ。まったく只今ここに用いました剣法は、究極の手段としてでなければお用いになってはなりません。それは死物狂いの一撃でございまして、この場合には敵にその武器を失わせるために自分の武器もすてなければならないのでございます。それは秘伝の奥の手ですから、稀に・控え目に・用いなければなりません。ひとをたおそうとして自分までも危うくするのは、甚だ無謀なことでございます。
* さきに(五六六頁)ちらっとその姿を見せた貴婦人、ナヴァール王妃マルグリット・ド・ヴァロワ。この人は、その夫アンリ・ド・ナヴァールが一五七六年にルーヴル宮を脱出してから、宮中の一室に殆ど監禁同様の状態におかれ、甚ださびしい生活をしていたが、一五七八年に、母太后カトリーヌ・ド・メディシスに伴われて、いよいよギュイエンヌ州にいる夫の許に帰ることになった。このときマルグリットの心中は、喜びと心配とで極めて複雑微妙なものがあった。ルーヴル宮においてはもちろん新教の行事が禁じられていたし、兄アンリ三世に対する気兼もあったからではあるが、孤独のマルグリットはこの間にカトリック教の信仰を篤くし、特にレーモン・スボンの『自然神学』に傾倒してわずかに煩悶を忘れていた。このことは一六二八年に公表されたマルグリット・ド・ヴァロワの『メモワール』の中によまれる。だが、いよいよこれからナヴァール王の許にゆけば、これまでの自分の信仰はどうなるであろう。そこには新教徒の頭目ナヴァール王をとりまいて、カルヴァン教を奉ずる神学者宣教師をはじめ、尖鋭な政治家やジャンティヨムがたくさんいる。彼女の良心のただ一つのよりどころとなっている『自然神学』がそこでさんざんな非難をあびていることは、既に風の便りでも十分に知っている。やがて自分もいやおうなしに新教に改宗させられずにはすむまい。こういう心配が、マルグリットの心にあふれていた。一行がボルドー市に入り、ここに一週間滞在したのは一五七八年の九月の末に近かったが、この時マルグリットは、前年末ナヴァール王室伺候のジャンティヨムになっているモンテーニュに会い、その心配を述べ、助力を懇請し、同時に『自然神学』の弁護を依頼したのではないかといわれる。この推定にはいささか実証の乏しいうらみがあるが、モンテーニュは既にシャルル九世の時フランス王室伺候のジャンティヨムであるし、宰相ミシェル・ド・ロピタルの弟子ともいうべき考えの人としてカトリーヌ・ド・メディシスの信望も篤かったし、またかつてボルドー市長をした人の息子で、地元の人々とは、宗派のいずれを問わず、交わりのひろい人であったから、カトリーヌ、マルグリット両王妃の信頼と依頼をうける資格は十分にあったと思う。――なおほかの場合には献呈の相手たる貴婦人の名が明示されているのに、ここではマルグリットの名が示されていない。おそらくモンテーニュのフランス王室との微妙な関係が余り明瞭になることを、モンテーニュもカトリーヌ・ド・メディシスも、欲しなかったからではなかろうか。『モンテーニュとその時代』第四部第四章参照。
 (b)ゴブリアスのように、かたきを討つためには死んでもよいと思ってはなりません。まったく、ペルシアの一貴族としっかと組み合っているところに、ダレイオスがおっとり刀で駈けつけはしましたが、ゴブリアスを傷つけてはと、打ちおろすのをためらっているのを見るや、そのゴブリアスは叫んだのでございます。「思い切って突け! もろともに刺し貫かれてもかまわん!」と。
 (c)ある時、決闘の武器や条件があまりに命しらずなので、それでは敵も味方もとうてい身を完うし得ようとは思われないというので、それが届出られるとすぐに禁止されたのを、私は見たことがございます。ポルトガル人がインドの海で十四人のトルコ人を生捕った時のこと、そのトルコ人たちは、とらわれの身となるに堪えず、自分たちも、ポルトガル人も、またその船も、もろともに灰にしてしまおうと決心してそれに成功しました。船の釘を互いにこすり合せているうち、ついに火花が一つ、船の中の煙硝だるの上に落ちたのでございます。
 (a)我々はここでもろもろの学問の限界とその最後の囲いを危なく致します。学問においても徳におけるように極端はやはり有害なのでございます。いつも普通の道をおとり下さい。あまりにこまかく綿密であるのは、ちっともよいことではございません。トスカナのことわざに、「あまりに細くなると折れる」とあるのを想い出して下さいませ。私はあなた様に、御意見や御思考においても、日常の御振舞その他においても、節度節制をお勧めいたします。新しいこと変ったことを、お避けになるようお勧めいたします。私はすべて突飛なことがきらいでございます。あなた様は、やんごとなき御身分があなたにもたらす権威により、いやそれよりもいっそうあなたのものなるもろもろの御特質があなたに与えるところの優越によって、ただの一目でどのような人にも命令することがおできになるのですから、この弁護の役目は誰かほかの・文学を職とする・者に与えらるべきでございましたろう。その者は、このスボンの思想を、私とは全然別様に、支持しまた豊富にしたことでございましょう。けれども、あなたがどうしてもなさらねばならないことだけは、以上に相当申上げたつもりでございます。
* レーモン・スボンの弁護をする役目。モンテーニュは前にも(五二九頁)自分は神学者ではない旨を断わっている。なおマルグリット・ド・ヴァロワは、一方モンテーニュにレーモン・スボンの弁護を依頼すると共に、やはり同じ目的で、同じ時期に、フランソワ・ド・フォワ=カンダル Fran※(セディラ付きC小文字)ois de Foix-Candale という有名な司教(archev※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)que d’Aire)にも援助をたのんだ。この人がギリシア語からフランス語に訳したヘルメス・トリスメギストス『ポイマンドレス(牧者)』Le Pimandre de Mercure Trismegiste という本の一五七九年版はマルグリットに献呈され、その文中にはやはり王妃の余りに旺盛な知識欲、理知的な詮索が、異端ないし無神論に彼女を導きはしないかという心配が述べられている。
 エピクロスは法律について、「悪い法律も我々には甚だ必要で、それが全くなかったら人間はしまいに共食いをするようになるだろう」と申しました。(c)プラトンもまた、「法律がなければ我々は野生の獣のように生きるだろう」と大同小異のことを申し、これの証明に努めております。(a)我々の精神は我儘な・危険な・そして無謀な・道具です。これに秩序と節度とをもたせるのは容易なことではありません。そこで御覧なさい。今日では他の人々に越えた何か稀な才能を持ち、何か非凡な精力を持つ人々は、ほとんどすべて奔放な思想と行動とにみちあふれているではありませんか。彼らの間に落ちついた・人づきあいのよい・紳士に出あったらそれこそ奇跡です。人が人間の精神にできるだけ窮屈な柵を与えるのはもっともなことなのです。研究においても、他の場合と同じく、精神にその歩数を教え歩調を整えてやらねばなりませんし、その狩猟の限界も丹念に区切ってやらねばなりません。人は精神を、宗教や法律や習慣や学問や格言や、当世および来世の賞罰をもって、ひかえ縛ります。それでもそれは、奔放放埓にはしり、そうしたあらゆる束縛をのがれている有様です。それはおさえどころ・叩きどころのない・くうな物体です。縛ることもつかまえることもできない・変幻極まりない・異形の物体です。(b)実に、人が自らその案内に信頼しうるような、また一般の意見をこえたその判断の自由の中を無謀に陥らず・節度をもって・泳ぎまわることのできるような、それほど整った・強い・よく生れついた・霊魂というものは、ほとんどありません。霊魂は後見の下におく方がかえって有利です。精神というものは、(c)その持主にとってさえも、(a)それを整然と分別して使うことのできない者にとっては、(b)けんのんな剣です。(c)いや、その眼に足もとだけを見させるように、習慣や法律がそのために指示した道のほかには決してあちこちよそ見をさせないように、目隠しをつけることがこれほど当然に必要とせられる動物は、ほかにはございません。(a)ですからあなた様もまた、どんな道でもよろしい、こういう放縦な自由の中を飛びまわられるよりは、とにかく慣れた道をおたどりになる方がよろしいでしょう。けれどもあの新知識を誇る博士の一人が御前にまかり出て、彼自らの・そしてあなたの・後生を危うくするような生意気なことを企らむ場合には、また毎日あなたの〔諸〕宮廷に蔓延してゆくこの病毒から御自身を守られるためには、この只今の予防剤も、いよいよ最後の土壇場においては、必ずやこの毒が、あなた及びあなたの周囲の人々を侵すのを妨げる**ことで御座いましょう。
* ここに「宮廷」という語が en vos cours と、複数になっている。マルグリット・ド・ヴァロワは Pau, N※(アキュートアクセント付きE小文字)ra※(セディラ付きC小文字) Agen 等の諸所に宮廷をもっていたからである。
** この献呈の詞の中には、モンテーニュの宗教上の態度が相当よく察せられる。宗教と哲学との間に一線を劃していること、伝統尊重の精神、革新(特に内戦流血)の回避、寛容の提唱等を見るべきである。ただし例のカムフラージュがあることも忘れてはならない。モンテーニュは最初マルグリットからレーモン・スボンを弁護するように依頼されたわけだが、六五八頁までのところでは、ごらんの通りスボンがその信仰の根拠とする人間の理性を盛んにこきおろした。だからこの献呈の詞の中で改めてマルグリットに呼びかけ、以上のような論法は非常手段であるから、あなたが新教の宣教師相手にわたり合う場合などに、軽々しく用いてはいけませんと注意しているのである。だが一応そうは言いながら、決して理性を本心からくさしてはいない。スボンと信仰の方は、それらを尊んでいるように見せて、その実余り高く買ってはいないのに、理性の方は最後までこれを尊重する。ただ形而上の問題についてだけ、理性の無力を認め、そこに宗教家の思いあがりをたしなめ、人々を寛容へと導こうとする。そのためならば今後も彼は非常手段をとることをやめようとはしないのである。
 さきにあげた古代の人々の自由奔放な考えは、だから、哲学をはじめ人間的諸学問の中に、意見を異にする幾多の学派を生ぜしめた。それぞれが思い思いの判断選択によってその立場を決したからだ。だが今は、(c)人々が皆一つの道を行く。※(始め二重山括弧、1-1-52)人々は規定されたる或る学説に束縛せられて、己れの認めんとは思わざる事柄さえ擁護せざるを得ぬほどなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)我々は官の権威と命令とによって、もろもろの学芸を学んでいる。(c)だから学校は沢山あっても、唯一つの模範、いつも同じ型にはまった教育しかもたないのだ。(a)人はもはや貨幣の重量や価値は問わないで、ただ世間の承認と流布とがそれに与えている価格のままにそれを受けとっている。人は金位について議論しないで、それがいかに通用するかを論じている。万事が皆このとおりである。人は医学を幾何学と同様に受け容れる。軽業も魔法も呪縛**も、死者との交通も占いも天宮占い***も、また化金石****の笑うべき研究にいたるまで、すべてを異議なく受け入れる。ただただマルスの座は掌の三角の真中に、ウェヌスのそれは親指に、メルクリウスのそれは小指にある、と知りさえすればよいのである。メンサル線*****が人さし指の結節にかかるときは、これ残忍の相、それが中指の下でとぎれており、中央自然線が生命線と同一の場所で角をなすときは、これみじめな死に方をする相、と知りさえすればよいのである。もしまた婦人にあってこの自然線と生命線との間があいていて角をなさぬときは、それを多淫の相であると知りさえすればよいのである。人はこのような知識を持っていれば、どんな社会に顔を出しても、評判と愛顧とをかちえること請合である。きみ自身が何よりもよい証人である。
* 前のパラグラフで女王への言葉と共に「理性の批判」がおわり、ここから第三部「判断力および認識力の批判」が始まる。専らセクストゥス・エンピリクスの『ピュロン主義概要』に拠っている。
** 性交不能におちいらせようとするのろい。第一巻第二十一章の始めに面白い話が出ている(一五一―一五三頁)。
*** 天を十二宮に分けて、これにより占いを行うこと。
**** 化金石 pierre philosophale. 錬金術において人工的に金銀を作り出すための媒介物のこと。
***** 手相学の術語。メンサル線というのは小指の下から人差指の下方に向う線。生命線というのは掌の中央から人さし指と親指との間に向う線。中央線とは人さし指と親指との中間から発して小指と手首との中間に向う線。
 テオフラストスは言った。「人間の認識は感覚によって導かれれば、物の原因をある程度までは判断することができるけれども、いよいよ最後の第一原因のところまで来ると、そこでとまって丸刃になってしまう。それ自らが弱いせいでもあり、問題が困難だからでもあろう」と。「我々の能力は我々をある種の物事の認識にまで導く。その力には限度があり、その限度を越してそれを用いようとするのは無謀である」というのは、まことに中正でおだやかな意見である。こういう意見はほめるべきであって、協調的な人々には採用されているけれども、我々の精神に限度を与えるということは、なかなか容易なことではないのである。我々の精神は奇を好んで倦むことを知らない。五十歩も千歩も同じことで、どこまで行ってもなかなか止ろうとはしない。わたしは一人が失敗したことに他の人が到達したこと、ある世紀に知られなかったことが次の世紀には明らかにされたこと、学問芸術は一挙に鋳造されるのではなくて、ちょうど熊がその児を暇にまかせてなめながら形造るように、少しずつそれをねまわし削りみがく間に、だんだんと作り成されるものであることなどを、経験によって試したから、自分の力だけでは発見しえないことでも、それを測り試すことをやめない。そしてその新たな物質をなでまわし捏ねかえして、またかき回したり温めたりして、わたしの後から来る者が幾分なりとも楽にそれを使えるようにしておく。幾分なりとも柔らかに取り扱いやすいようにしておく。

ヒュメトスの蝋、日にあたりて柔らかくなり、
指さきに捏ねられて百千の形を作り出すごとく。
(オウィディウス)

同様のことを、第二の者も第三の者に対してするであろう。だから、困難は少しもわたしを絶望させるはずがない。わたしの無能も同じことだ。まったく、それはわたしの無能にすぎないのである。人間は、ある物事について有能であるように、どんな事についても有能である。もしあのテオフラストスが言っているように第一原因および原理を知らないと白状するくらいならば、いっそのこと思いきって、彼の知識の残り全部を投げ出すべきだ。もし基礎が彼に欠けているなら、彼の理論は倒れるのだ。議論や詮索は原理のほかに目的も究極も持たない。もしこの終極が彼の追求をとどめないなら、彼は際限のない不決断の中におちこむばかりである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)一つの物解りてほかの物の解らざる道理なし。物にはただ一つの解釈法があるのみなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
* 以下「……不決断の中におちこむ」までの四行は、むしろモンテーニュの皮肉である。カムフラージュである。彼はふだん、第一原因などは知らなくても、眼前の事々物々を正しく判断することだけで満足すべきだと考えている。ここでは、「神様のことを知らなくては何事もわからぬ」となす連中に、ちょっとうれしがらせを言ったまでである。かえって、このパラグラフのはじめの「テオフラストスは言った」……から「わたしの無能にすぎないのである」までが、相対主義者モンテーニュの本音であろう。なお、モンテーニュはこのパラグラフを通じて科学の進歩を信じている。科学は結局、相つぐたくさんの世代の努力研究の積み重ね、その総和であると考えている。
 (a)さて、どうやら真実らしく思われるのは、もし霊魂が何かを知るとすれば、まずもって自分自らを知るであろうということである。また、もし自分以外に何かを知るとすれば、それは何よりも先に、まず自分の肉体、自分自らが入っているさやであろう。こんにちに至るまで医学の神々がわれわれの五臓六腑について議論をやめないところを見ると、

ウルカヌスがトロヤに楯つけば、
アポロンはトロヤに加勢する。
(オウィディウス)

いったい我々は、いつまで彼らの意見が一致するのを待ったらよいのか。我々は真白な雪や重い石よりも、ずっと我々自身に近いのである。もし人間が自分を知らないならば、どうしてその働きや力を知るであろうか。おそらく、何かの真の知識が我々の中に宿るようなことはないのであろう。あるとしてもそれは偶然であろう。いや、いつも同じ道により、同じ仕方方法で、もろもろの誤謬がしょっちゅう我々の霊魂の中に受け入れられているところを見ると、霊魂は、それらを識別するたよりも、真を偽から判別するたよりも、恐らく持ってはいないのである。
 アカデメイア派の人々は、判断に際して多少どちらかに傾くことを許した。そして、「雪が白いということも黒いということも、共に真らしくない」とか、「我々は、自ら投げた石の運動についても第八天体の運動についても、同様に確かではない」とかいうのは、あまりにも無茶であると言った。そしてこういう難解で奇妙な考えを避けるために(ほんとうにこういうことは、よほど骨を折らなければ我々の思想の中に宿ることはできないのである)、一方で「我々は絶対に知ることができない」とか「真理は我々の目のとどかない深い谷の底に埋もれている」とか主張しながら、なお一方では、「これこれの事柄はこれこれの事柄よりも本当らしい」などと言い、自ら判断にのぞむときには、一方の理由よりももう一方の理由の方に傾く自由を受けいれた。つまり判断にあらゆる断定を禁じながら、なおこれだけの選択を許したのである。
 ピュロン学者の意見はもっと大胆で、同時にもっと真実らしい。まったくこのアカデメイア派の傾き、一つの説よりももう一つの説の方に向う傾きは、前の説より後の説の方に、何かよりいっそう明白な真理を認めることでなくて何であろう。もし我々の悟性が真理の形状や輪郭や姿や顔つきを認識することができるとすれば、それは、真理の半分・生れたばかりの不完全な真理の姿・と共に、真理の全体をも立派に見るであろう。彼らアカデメイア派の人々を右よりも左に傾かせるその真らしいところを増していってごらん。天秤を傾かせるその真らしさの量を、百オンス千オンスとだんだんに増していってごらん。終いには天秤が全く決意して、一つの選択を、したがって一つの全き真理を、確定することになるであろう。けれども彼らピュロン学者の方は、「真実」を知らないのだから、どうして「真実らしさ」に従うか。どうして物の「本質」を知らないのに、その「らしさ」を認識するか。我々は、完全に判断することができるか或いは全然それができないか、そのどちらかである。もし我々の知的および感覚的諸性能が根も足もないものならば、もしそれらがただ波や風のようなものにすぎないならば、我々の判断をそれらの働きをするいかなる器官に委ねても、またその器官がどんな真らしさを示すように見えても、ひっきょう何の足しにもならない。そして、我々の悟性の最も確実な・最も幸福な・状態は、結局悟性が、自らを平静に・真直に・曲げずに・動揺なしに・維持する状態であろう。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)真らしき外観と嘘らしき外観のはざまにありて、精神はいずれに賛成すべきかを知らず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (a)物事はその形のままその本質のままに我々の中に宿らない。それ自体の力・その権威・によって我々の中に入って来ない。そのことを我々は十分に知っている。なぜなら、もしもそうでないとすれば、我々はそれらをみな一様に受けとるはずであるから。酒は病人の口にも健康な人の口にも同様に味わわれるはずであるから。その指にあか切れがある者も、その指がこごえている者も、その取り扱う木なり鉄なりの硬さを、ほかの連中と同じように感ずるはずであるから。だから、外界の物はみな我々の思うがままになっているのだ。我々が欲するように我々の中に宿っているのだ。ところで、もし我々の方で何でも物を変え改めずに受け入れるならば、もし人間の把握がかなり有能確実であって、我々自らの方便をもって真理をつかむことができるのならば、これらの方便は万人に共通なものであるから、その真理は一人の手からもう一人の手へと伝わるであろう。そしてあれほど沢山にある物の中にも、普遍的賛同をもって人々に信じられるものが、この世にせめて一つくらいは見出されるであろう。ところがいかなる命題といえども、我々の間で論駁せられないものはなく、論駁されそうでないものもないという事実は、我々の天性の判断が、そのつかんでいるものを真に明瞭にはつかんでいないことを十分に示している。まったくわたしの判断は、そのつかんだものを、私の友の判断に受け入れさせることができないのである。このことは、わたしが、わたし自ら及びすべての人の中にある自然の力とはちがった何かの方便で、それをつかんだ証拠である。
 哲学者同士の間に見られるあの限りない意見の混乱や、物事の認識に関するあの永遠普遍の論争に、ここではふれずにおこう。まったく人間が(最もよく生れついた・最も才能ある・学者たちですら)、いかなる事柄についても決して意見一致しないこと、空が我々の頭の上にあることについてすら一致しないということは、今さら事新しく言うまでもないのである。まったく、万事を疑うものはそのことをすら疑うし、我々に理解の力があることを否定するものは、「我々は空が頭の上にあることを理解していない」というのである。じつにこの二つの意見、疑う説と否定する説こそ、数において断然優勢なのである。
 このように諸説が限りなくてんでんばらばらであることは別にしても、我々の判断が我々自身に与える混乱により、また各人が自らの中に感ずる不確実によって、我々の判断がきわめて不確実な状態にあることは容易にうなずかれる。いかに多様に我々は物事を判断するか。いかにたびたび我々は我々の考えをかえるか。わたしが今日支持することや信じていることを、わたしはいま全幅の信をもって支持しそして信じている。わたしのあらゆる道具あらゆる器官がこの意見をとり、それぞれその力に応じてそれをわたしに保証してくれる。わたしはとうていいかなる真理をも、この意見ほどに力強くは抱懐することも保持することもできないだろう。わたしは全身を挙げてそれに打ち込んでいる。心からそれを信じている。けれどもわたしは、ただの一度ではない、百度も、千度も、いや、毎日、この同じ道具をもって、これと同じ状態において、何か別の考えを抱いたことがありはしなかったか。後にそれを嘘と判断したことがありはしなかったか。少なくとも我々は、賢者になるには自分自身を犠牲にしなければならない。もしもこういう状態の下にわたしがしばしば裏切られたことがあるなら、もしもわたしの試金石がいつでも間違い、わたしの天秤がいつも不同不正であるならば、いかなる確信を、わたしは今度だけ、その考えについて持つことができようか。一人の案内者にそんなにたびたびあざむかれるのは馬鹿なことではないか。しかしながら運命は五百度も我々に場所をかえさせるけれども、そしてそれはあたかも水桶をあけたり満たしたりするように我々の信念の中にあとからあとからとさまざまな意見を注ぎこんだりみ出したりするけれども、やっぱり現在の・最後の・意見が、確実なもの・まちがいないもの・なのである。この意見のためには、財産をも名誉をも、生命をも救いをも、いやすべてを、放棄しなければならないのだ。

   最後の意見は、
先なるそれを滅ぼし、われらの意見を改めしむ。
(ルクレティウス)

 (b)人が何を我々に教えるにしても、我々が何を学ぶにしても、常に与えるのも人であり、受けるのもまた人であることを、いつも思い出さなければなるまい。これを差し出すのも死すべき者の手であり、これを受け容れるのもまた同じく死すべき者の手なのである。天から我々に来るものだけが、人を承服させる権力権威をもち、それだけが真理のしるしを持つのである。だからその真理は、我々自らの眼には見つからないし、我々の方便によっては捉えられない。この神聖で偉大なイマージュは、とてもこんなちっぽけな住居には宿りえないであろう。神様がそのために予めこれを用意して下さらないかぎり。神様がその特別の・超自然的な・恩寵をもってこれを改造し堅固にして下さらないかぎり。
 (a)少なくとも我々の間違いやすい本性をかえりみて、我々は我々の考えを変えるにしても、もっとつつましく控えめにすべきであろう。何を悟性の中に受け入れるにしても、我々はたびたびそこに誤った事柄を受け入れるということ、しかもたびたび狂ったり間違ったりするその同じ道具によってそれをするのだ、ということを想い出すべきであろう。
 ところで、それらの道具が狂ったり間違ったりすることも驚くにあたらない。もともとそれらは、きわめて軽微な機会によって、かしいだり・よじれたり・しやすいものなのだから。我々の理解力や我々の判断や、そして一般に我々の霊魂の諸性能が、肉体の運動および変化に応じてその影響をこうむることは確実であるが、その変化がまたしょっちゅうである。我々は病気のときよりも健康のときに、より目覚めた精神、より敏速な記憶、より力ある思想を持ちはしないか。歓喜と快活の中にある時は、我々の霊魂の前に現われる事柄を、悲哀憂悶の中にある時とは全くちがった顔つきに見てとりはしないか。果してカトゥルスまたはサッフォの詩句が、しわん坊で陰気くさい老人にも、精力旺盛な若者に対するように笑いかけることであろうか。(b)アレクサンドリダスの息子クレオメネスは病気になって、友達からいつもと変った気分・考え・を持っているといってとがめられると、「いかにもそのとおり」と彼は答えた。「今のわたしは健康なときのわたしではない。わたしは変ったのだから、わたしの意見も感情もまた変ったのだ」と。(a)我々の法廷の弁論の際には、つぎのようなことわざが、甘い寛大な気持の裁判官にぶつかった罪人どもについて、よく言われる。GAUDEAT DE BONA FORTUNA!「彼をしてこの好運を享受せしめよ!」と。まったく、判決がときに処罰の方に傾きがちでえらくきびしいかと思うと、やがてずっと寛大になり赦免の方に傾くことがあるのは確かである。自分の家から痛風の痛み・嫉妬・あるいはその下僕が盗みをしたという不愉快な気持・をかかえて来た裁判官があるとすれば、その霊魂には憤りがしみ込んでいるから、判決がその方向に沿って変ることは疑うまでもない。(b)あの厳かなアレオパゴス法院は、訴人たちの姿を見ることがその公正を汚すようなことになってはいけないといって、夜中に裁判をした。(a)空気や空が澄みわたっているというだけでも、我々の気持はかなり変化する。キケロの中でつぎのギリシアの詩句が言っているように。

人々の思いは変る。ユピテルが
彼らにふり注ぐその光線のごとく。
(ホメロス)

我々の判断をくつがえすのは、たんに熱病や飲物や大きな事件ばかりではない。世にも些細な事柄がそれをひっくりかえすのである。いや、我々は自ら気づかないにしても疑ってはいけない。継続的な熱が我々の霊魂を打ち倒すことができるとすれば、隔日熱もまたそれ相当に何かの変化をその上に持ち来たすということを。中風が我々の英知の目を全くくらませしびれさせるとすれば、感冒もまたこれをくらますだろうことを。したがって、我々の判断が正常な状態の中にあるときというのは、生涯の中にただの一時間もあるかないかである。それは我々の肉体がこのように不断に変化をこうむりつつあるし、このように多種多様な発条ばねに動かされているからであって、まったく医者の言うとおり、そのどの一つも狂わないようにしておくのはずいぶんむつかしいことだと思う。
 それにこの病気は、いよいよひどくなって手のくだしようのないものにならないかぎり、そう容易には発見されないのである。なぜなら理性というやつは、ねじくれていようと跛であろうと腰が抜けていようと、嘘とでも誠とでも一緒に歩み続けるからである。だからこそ理性の誤りや狂いを発見することはむつかしいのである。わたしも、各人が自らのうちにね回しているあの見かけばかりの屁理屈をも、やはり理性と呼びなしている。だがこういう理性は、その性質上ただ一つの問題の周囲に百の矛盾した理由を生み出しかねないやつであるから、それは鉛製蝋製の・屈伸自在で・どんな格好にも寸法にもあわせられる・道具みたいなもので、結局我々の能力がどこまでこれを使いこなすかという問題になる。だから裁判官はどんなによい意図を持っているにしても、よほど落ちついて自らの声に耳を傾けないかぎり(わざわざそういうことにひまをつぶす人はほとんどないが)、友情や血縁や美貌や怨恨に動かされる心が、いや、ただにそういう重大な事柄だけではなく、我々に、何となく一方をもう一方より好ませたり、理性の許可なしに、同様な二つの物の中で、いや、同じように捉えどころのない影のようなものの中で、選択をさせたりする、あの気まぐれな本能が、知らずしらず彼の判決の中に依怙贔屓えこひいきを忍びこませ、彼の天秤を傾かせることになるのである。
* モンテーニュが攻撃するのは、このいんちきな理性、似て非なる理性、「見かけばかりの屁理屈」cette apparence de discours で、さきには「よろよろの理性」「さ迷う理性」raison errante とも言っている。
 ところでわたしは、他には大してすることもない者のように、

   大熊星の下に
いかなる王天下を震駭せしめつつありや、
ティリダテス王はそも何を恐れてありや、など、
  一さい関知せざる
(ホラティウス)

者のように、最も綿密に自分ばかりをうかがい見ており、しょっちゅう眼を自分の上にばかり注いでいるが、余りにも自分が空虚で無力なのを知って、何とも言うべき言葉を知らない。わたしの足はすこぶる不安定で坐りがわるい。それは甚だぐらつきやすく倒れそうだし、眼もまたこんなに当てにならない。従ってわたしは、ひもじいときと食事をした後とでは全くの別人である。もし健康がわたしに笑いかけ、麗らかな日が明るくさすならば、わたしはさっそく愛嬌のよい男になる。だが足の指に魚の目が一つでもできようものなら、たちまちにして八の字をよせたにがい顔の近づきがたい男になる。(b)同じ馬の歩みが、あるときは荒く、あるときは楽に、同じ道が今は近く、別のときは遠く、また同じ形が、或いは大いに快く、或いはさほどでもなく、感じられる。(a)今わたしは何でもできるが、その次には何一つできない。現在わたしに快楽であるものが、いつかまたわたしに苦痛となるだろう。わたしのうちにはたくさんの・奔放で・気まぐれな・衝動がおこる。憂鬱な気分がわたしを捉えるかと思うと、こんどは怒りっぽい気分になる。いま悲痛がわたしの内部で独り権力をふるっているかと思うと、そのつぎは歓喜がとってかわる。本を取り上げるとき、わたしはふとあるくだりにすばらしい・わが魂をうつ・美を見出す。しかるにまたの日その同じ箇所に出あうと、こんどはいくらうら・おもて・をひるがえして見ても駄目である。いくらひねくりかえして見ても駄目である。それはわたしにとって見わけのつかない・もやもやした・かたまりにすぎない。
* モンテーニュはここに、自分が循環性体質・気質の者に属し、常にその軽躁期と抑うつ期とのあいだに揺れ動くことを、きわめて正確に観察描写している。ここにモンテーニュの公私の生活が示す様々な矛盾や秘密を解明する鍵がひそんでいるように思う。拙著『モンテーニュとその時代』終章六四四―六五四頁参照。
 (b)自分の書いた物の中にさえ、わたしは必ずしもそれを、はじめて思いついたときの意味そのままに思い出しはしない。かつてわたしの言おうとしたことが、いつの間にかわからなくなっている。そして訂正をしたり、最初の意味を(その方が優れていたのに)忘れてしまって、そこに新しい別の意味をつけたりして、しばしば損をする。わたしはただ往ったり来たりするばかり。わたしの判断はつねに前へばかり進みはしないのである。それは流れ、ただよっている。

   大海原のただ中にて、
狂風にもてあそばるる小舟のごとく。
(カトゥルス)

 幾たびとなく(わたしはよくそういうことをしたがるのだが)、練習のためにも慰みのためにも、自分の意見とは反対の意見を取って来て支持したものだから、わたしの精神はいつしかそっちの方に専念するくせがつき、わたしをすっかりその方に結びつけてしまった。それでわたしは、もう自分の最初の考えの理由が思い出せなくなり、それを全くわすれてしまう。いわばわたしは、何ということもなくわたしが傾く方に、ずるずると引きずられてゆく。自分の重みで運ばれてゆく。
 誰でもわたしのように自分を視つめるならば、それぞれ自分について同じことを言うであろう。説教者たちは知っている。そのしゃべっている間におのずから生れる感動が、ますます彼らの信仰を熱烈にすることを。そして怒ると我々は、ますます自分の主張の擁護に没頭し、冷静な分別を保っているときよりずっと熱心に、ずっと確信して、それを自分の心に刻みつけ抱きしめるものだということを。あなたが何か訴訟の一件をただあっさりとお話しになっただけでは、あなたの代言人はどっちつかずの・あやふやな・ご返答を申しあげる。どっちの側を支持するのも彼には同じことなんだなと、あなたはすぐにおわかりになろう。まずもってお金を払ってごらんなさい。彼はさっそく食いつく。夢中になる。そうやって話に身を入れ熱心になり出すと、そこで始めて、彼の理性も学問も活気をおびてくるのである。たちまちにして明白な疑うことのできない真理が彼の悟性の前にたち現われる。彼はそこに全く新たな光明を見出し、心からそれを信じ、それをそうと思いこむ。いや、法官の圧迫と苛酷とに対する憤慨や、負けじ魂や、その身に迫る危険などから生れ出る熱心とか、或いは名声をかちえようとの下心とかがあったればこそ、あのような男も、火刑をおかしてまで自説が護りとおせたのではあるまいか。もし友人仲間での、何の危険も拘束もない場合であったなら、彼はそのために指の先を焼くことすら敢えてしなかったのではあるまいか。
 (a)我々の霊魂が肉体の情熱から受ける動揺は、霊魂に大きな影響を与える。けれども、霊魂自らの情熱が霊魂に与える影響となるとさらに大きく、霊魂はこれときわめて激しい格闘をする。だから、「霊魂はそれ自らの風に吹かれなければ少しも動揺しないものだ」とか、「それ自らの風にゆりうごかされなければ、風に全く見放された海のまん中の船のようにいつまでも動かないだろう」とか、主張することもおそらくできるであろう。いや、(c)逍遙学派の人々にならって(a)そう主張したって、大して我々の名誉をそこなうことにはなるまい。霊魂の最も立派な働きが、大部分この情熱の衝動から発すること、またそれを必要とすることは、あまねく人の知るところであるから。彼らは言う。「武勇は憤怒の助けがなくては完成されない。

(c)アイアスは常に勇猛なりき。されど、
その怒れるときほど勇猛なりしことはなかりき。
(キケロ)

人は怒っていなければ、よこしまな人々にも仇敵にも十分激しく走りかからない」と。また、「代言人が公正な判決をえたいと思うなら裁判官に怒りを吹きこむがよい」とも言う。欲望がテミストクレスをうごかしデモステネスをうごかした。そして哲学者たちを、研学に・徹夜に・遍歴に・押しやった。我々をも、名誉・学説・健康などすべての有用な目的に引っぱってゆく。そして、不愉快も不満も甘んじて受けるあの霊魂の意気地なさは、良心の底に後悔痛恨を生じさせるのに役立つと共に、神の鞭をも国家がくだす懲罰の鞭をも、当然受けなければならない刑罰と観念させるのに役立つ。(a)同情は寛大な心をそそるのに役立つし、(b)自己を保全し指導する知恵は我々の危惧によって目覚まされる。またいかに多くの美事善行が野心や自惚れによって誘発されることか。(a)とにかく高邁勇壮な徳行にして幾らかの狂気狂乱を伴わざるものは絶対にないのである。これこそエピクロスのともがらに、神は人間界のいざこざには一切かかわりあわないと信じさせた理由の一つではあるまいか。なぜなら、神の御仁慈の結果にしても、情熱によって神の安静をゆりうごかさないかぎり、我々の上に及ぶことはできないからであって、その情熱こそいわば霊魂を徳行に向って導く刺激であり勧誘なのである。(c)それとも、彼らエピクロスのともがらは全然別様に考え、それらの情熱を、あさましくも霊魂の安静をかき乱す暴風のように考えたのか。※(始め二重山括弧、1-1-52)なぎとはさざ波を立つるほどのそよ風さえもなきことを言うが如く、心の静穏とは、いかなる情熱もこれを動かすことなきを指して言うなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (a)いかに相違した分別と理性を、いかに矛盾撞着する思想を、我々のさまざまな情熱は我々に与えることか! これほど不安定で変りやすく・その本質上とかく混乱をこうむりがちな・(c)強いられた借りた歩みでなければ進めない・(a)ものについて、我々はどんな確信を持つことができよう? もし我々の判断が、病気にもただの心の乱れにさえも容易に左右されるとすれば、また狂気や無謀からも物事の印象を受けねばならないとすれば、いかなる確実さを我々は判断に期待することができよう?
 (c)哲学が「人間はわれを忘れて狂暴になり分別を失うときに、その最も偉大な・最も神に近い・業をしでかすものである」と考えるのは、あまりにも大胆にすぎはしまいか。畢竟ひっきょうそれは、「我々は理性の欠如と麻酔とによって良くなる。神々の室に入り・そこに運命の流れを予見する・ための二つの自然の方法は、狂気と睡眠とである」と言うことになる。だが考えてみると、なかなか面白いではないか。実際、情熱が我々の理性の上にもって来る分裂によって我々は有徳となり、興奮または睡眠のもたらす理性の根絶によって我々は予言者や卜者になるのだから。わたしはこう思いついたときほど、よろこんで哲学のいうところを信じたことはなかった。じつに聖なる真理が哲学的精神の中に吹き入れた純粋な感激こそ、彼〔その哲学的精神をもった人〕に、その日頃の持論に反して、「我々の霊魂の静かな状態、落ちついた状態、哲学が霊魂に得させることのできる最も健やかな状態が、けっして霊魂の最上の状態ではない」ことを承認させたのである。我々の覚醒は睡眠よりも眠っている。我々の知恵は我々の狂気ほどには賢明でない。我々の夢の方が我々の推理より値打がある。我々が占め得る最悪の席は我々の内に在る。だが哲学は、こう考えているのではあるまいか。「それにしてもわれわれ人間は、『精神はそれが人間から離れている時はあんなに明敏で偉大で完全であるのに、それが人間の中にある間はあんなにも下界的で無知で混沌としているという声も、畢竟、下界的で無知で混沌としている人間の一部である精神から発した声であるのだから、したがって同様に、信頼のおけない声なのである』と認めるくらいの賢さは持っている」と。
* 以上の言葉も文字どおりにはとれない。「神の室に入る最も自然な方法は睡眠と狂気である」とは言うものの、モンテーニュは決してそういう狂的な信仰をよいとはしていない。だから彼の真意はむしろ「だが哲学は、……」以下にあると思うべきだろう。次の表現はいささか明瞭を欠くようであるが、要するに、「この通り人間はたわいのないものだが、それにしても人間にはその自覚がある。人間は人間の思想以上のものをいだくことは出来ない。神の教えとか何とか言っても、畢竟人間精神のうみ出したものにすぎない。だが、そう認めることはやはり人間の理知の働きで、この働きは立派なものだ。神を知ることは出来なくても、それはむしろ当り前のことで、人間の恥にはならない。形而上の問題は人間には永遠に解きがたい謎であると知るだけで十分なのだ。むしろそこに人間のとりえがある」というのである。
 (a)わたしは(根がだらけたのろい性質なので)、あの激烈な興奮については、――その大部分はいきなりわれわれの霊魂を襲い、それに自省の余裕も与えないものであるが、――大した経験をもっていない。けれどもあの、若い人々の心の中に無為に乗じて生ずると言われる情熱は、ゆっくりと小きざみに大きくなるものだとはいえ、その勢力に抵抗しようと試みたことのある者には、きわめて明らかにそれが我々の判断にまで変化を及ぼすほど強力なものであることがわかる。わたしも昔それを抑圧するためにうんとがんばって見たことがあるのだ(まったくわたしは、とても不徳を勧める者どもにくみするどころではない。むしろ不徳の方でわたしを引きずってゆかないかぎり、ただそれについてゆくことすらしたことがないのである)。わたしはそういう情熱が発生し成長し、わたしの抵抗にもかかわらず増長してゆくのを感じた。いや、しまいには、ちゃんと目もあいて・こうして生きている・このわたしを、それはすっかり把握してしまって、まるで酔っぱらったときのように、わたしは何もかもがいつもとは変って見え出すのを感じた。わたしは明らかに、わたしが恋いこがれている人の取柄が増大するのを、それがわたしの想像の息によってふくらむのを、見た。わたしの困難な企てが容易平坦になり、理性と良心とが後退するのを、見た。けれども、この火がちょうど稲妻のきらめきのように瞬く間に消えてなくなると、たちまちにわたしの霊魂は別の眼、別の状態、別の判断を、取りもどした。むしろよりを戻す困難の方が、大きくて越え難いものに思われた。同じものが、かつて欲望の熱がわたしに与えたのとは全く別の味わいと姿とをもって現われた。さて、どっちの姿が真実に近いのか、ピュロンは何も知らないのである。我々に病気のないときはない。熱病には暑いときと寒いときとがある。燃えるような情熱の作用をうけるかと思うと、我々はふたたびぞっと寒けをもよおす情熱の作用をこうむるのである。
* これはモンテーニュの恋愛経験の告白であるが、それは多くの伝記作者が考えるようにその少年時代、トゥールーズ時代のことではなかろう。むしろパリ遊学時代、独身の法官時代のことであろうと思われる。
 (b)わたしは、前へ乗り出しただけ、再び後へさがるのである。

あたかも海が定期的運動によりて、
或る時はなぎさにおしよせ、泡だちて岩を掩い、
岸辺に遠くひろがるかと思えば、
或る時はまた、その持ち来たりし小石をさらいて、
再び遠く沖の方に帰りゆき、
岸をば干潟となすがごとく。
(ウェルギリウス)

 (a)さてこのように自分の動揺常なきことを認識してから、わたしははからずも少しずつ、自分の意見をあまり変えないように努めるようになり、やがて自分の最初の・もち前の・意見をほとんど変えないようになった。まったく、革新思想の中にどんなにもっともらしさがあるにしても、わたしは容易に変えないのである。取りかえて損をするのもつまらないからだ。それにわたしには選択をするだけの力もないから、むしろ他人の選択に従い、神から授けられた状態の内にがんばるのである。そうでもしなければ、わたしは、しょっちゅうころがってばかりいなければならないであろう。このようにしてわたしは、聖寵のおかげで、我々の世紀が産み出したあんなに沢山の分派支派の中にありながら、少しも心をかき乱されることなく、ひたすらわがキリスト教古来の信仰に頼りつづけている。古人の書物、もちろんそれは充実した立派な書物を指すのであるが、それらは、わたしを誘ってほとんどそれらが欲するところにつれてゆく。そのどれを読んで見ても、いつもそれは最も堅実に見える。順々に読んでゆくと、互いにそれらは矛盾しあっているが、どれもこれもそれぞれ道理をもっているように思われる。優れた人々がこんなにもやすやすと自分の欲するところをまことしやかに見せていること、いや、どんなに奇妙な事柄でもそれらを上手に塗りたてて、わたしみたいな単純な人間をまんまと欺こうと企てているということは、結局彼らの証拠の薄弱なことをはっきりと示している。天と星とは三千年の間動いていた。すべての人はそう信じてきたが、とうとう、(b)サモスのクレアンテスだか、テオフラストスに従えばスュラクサイのニケタスだかが、(a)「むしろ地球の方が(c)その軸を中心とし、黄道帯の斜めの円周に従って(a)動くのである」という説を思いつくにいたった。そして今日ではコペルニクスが、きわめてよくこの学説を基礎づけ、それを甚だ規則正しくすべての天文学上の結論の上に用いている。こうしたことから我々は何を学ぶべきか。それは「二つの内のどっちかということにばかり、我々は気をとられていてはならないぞ」ということでなければならない。ほんとうに今から千年の後、第三の説が現われ出て、以上の二説を二つながらくつがえすことがないとどうして言えよう?

かくのごとく、時は歩みつつ、万物の運命を変う。
かつて尊ばれしもの今やさげすみの内に落ち、
別のもの、それに代りて、さげすみの中よりず。
日ごとに、人々は、ますます新たなるものを求め、
新たなる発見は、あらゆる賞賛を
人々の軽々しくそれを信ずること驚くにたえたり。
(ルクレティウス)

* モンテーニュはかなり若い頃に、すなわち十七、八歳のころ、革新教に傾いたらしいが(一の五十六)、比較的早くそれから立ち直った(一の二十七、三の二)。彼は個々の問題や事件に関して物事をいろいろな角度から見直すから、その都度、その意見(points de vue)を変えることはあったけれども、宗教とか政治に関する根本思想は、前後を通じて変っていない。人間本来の変動性不常恒性によって、また彼の循環性気質によって、彼は捕捉しがたい人とされているが、彼の思想の根底は変らなかった。拙著『モンテーニュとその時代』第二部「モンテーニュの精神形成期」その他各所参照。
 だから何か新しい学説にぶつかった場合、我々がそれに対して疑いをさしはさみ、それが言い出される前にはその反対の説がもてはやされていたのだと考えるのは当然である。いや前の説がこんどの説によってくつがえされたように、将来第三の説が現われ出て同様に第二のものを打ち倒すことも大いにありうるであろう。アリストテレスが言い出した諸原理が信用される以前は、他の諸原理が人間の理性を満足させていたのである。ちょうど彼の諸原理が現在我々を満足させているように。だがこのアリストテレスの原理は、いかなる鑑札をもっているのか。いかなる特権をもっているのか。どうして我々の創意の流れはそこで停止しなければならないのか。どうして彼の諸原理だけが将来いつまでも我々の信用をたもたなければならないのか。いや、そんなことはない。これらのものといえども、その以前に行われた学説と同様に、やがては退位の運を免れないのである。人が新しい論拠をもってわたしを追いつめるとき、わたしの方ではこう考える。「わたしは今それに返答ができないけれども、やがて誰かがそれに答えてくれるであろう」と。まったく、我々が言い破ることのできないすべての真らしいことを信ずるのは、あまりにおめでたすぎる。そういうことでは、一般大衆は、(c)我々は皆この大衆の一人であるが、(a)しょっちゅうその信仰を風見車のようにくるくると向けかえなければならないだろう。まったく彼らの霊魂は柔らかく無抵抗であるから、どうしてもあとから後からと色々な印象をうけ入れなければならなくなり、その最後の印象によってつねに前にある印象は打消されなければならないであろう。自分に力がないと思う者は、例によって「いずれ弁護士と相談の上」と答えなければならない。あるいは、その教えをうけた最も賢明な先生の所にかけつけなければならない。一体いつから医学というものはこの世にあるのか。聞くところによると、パラケルススと呼ばれる近頃やって来た学者は、古来の規則の全体系をすっかりひっくり返し、「今日までのところ医学はただいたずらに人間を殺してばかりいた」と説いているそうである。わたしは彼が容易にそれを実証するであろうと思う。だがわたしの生命を彼の新たな試験に供することは、あまり賢明なことではあるまいと考える。
* この人は有名なスイスの錬金術師で、医学を革新したといわれる。パラケルススという名は、「ケルスス(アウグストゥス時代の名医)をしのぐ者」という意味である。
「一人一人のいうことを信じてはいけない。なぜなら、ひとりひとりはどんなことでも言えるから」と諺にある。
 同様に自然学上において革新を唱道しているある人が、それほど前のことではないが、わたしに向って「すべての古人は風の性質および運動について確かに勘違いをしていた。もしわたしの理論をおききになりたければ、それを最も明瞭に、手にとるようにわからせてあげよう」と申された。わたしは少々我慢をして、なるほどもっともらしさに充満している彼の論拠を聞いてやった後、「それでは」とわたしは聞きかえしてやった。「どうしてテオフラストスの法則に従って航海した者どもが、東を指して出たのに西へ行ったのか。彼らは横にそれたのか、それともあともどりしたのか」と。「それは偶然さ」と彼は答えた。「だがそれにしても彼らは間違っていたのだ」。そこでまたわたしは言ってやった。「わたしはむしろ理論よりも事実の方に従いたいね」と。ところでこの二つ、理論と実際とは、しばしば矛盾するのである。わたしが人から聞いたところによると、幾何学には(これはもろもろの学問の中で確実の最高峰に達したものと自ら考えているが)、経験上の真理をもくつがえすところの・反駁することのできない・証明があるそうだ。例えばジャック・ペルティエは、わたしの家でこんなことを言った。「わたしは、互いに相接するように進んで来た二線が、無限に延長されてもついにぶつかることがない場合があることを知り、これを証明したことがある」と。いやピュロンのともがらにいたっては、経験上の尤らしさを破壊するためでなければ、その論拠や推理を用いないのである。ほんとうに、我々の柔軟な理性が、どこまで彼らの明々白々たる事実を打ち破ろうとする企てに従ったかは、驚くべきものである。まったく彼らは、「我々は動かない。我々は語らない。重さとか熱とかいうものはない」などと証明する。しかも我々が最もまことらしい事実を証明する時と同じように力強く論証する。プトレマイオスは偉大な人物であったが、我々の世界の限界をきめた。古代のすべての哲学者たちは、彼らの認識から漏れる若干の離れ島を除き、世界の広さを測り得たと考えた。コスモグラフィー〔宇宙誌〕という学問や、それに関して皆から認められているもろもろの説を疑ってみるということは、千年前においては「ピュロンすること」であったろう。(b)アンチポード**を容認するなどは異端邪説であった。(a)ところがどうだ。我々の世紀に至って茫漠たる大陸が、一つの島嶼とか一つの地方とかではなく、我々の知っている部分とほとんど同じくらいに広い部分として、発見されたではないか。現代の地理学者は、「今やすべては見出された。すべては見届けられた」と断言することをはばからない。

我らの持つものこそ最も我らの気に入り、
ほかの何物にも増して我らに愛せらる。
(ルクレティウス)

だが待ってくれ。プトレマイオスも昔その理性を基にして間違ったのだから、いま現代の地理学者が世界について言うところを信ずるのは愚かではあるまいか。(c)我々が世界と呼んでいるこの大きな物体は、我々が判断するのとはまったくちがった物であるとする方が、より真らしいのではあるまいか。
* 例えばこの二つの線のうち、一つを双曲線、もう一つを漸近線とすれば、その両方をいくら延長してもぶつかることはない。
** 対蹠点、又は対蹠地、一口に言えば地球の裏側。中世・十六世紀においては、地球を平らなものと考えていたので、対蹠点に人が住んでいるなどと考えることは異端とされた。
 プラトンは、「世界はいろいろにその姿を変える。天と星と太陽とは、ときに我々がそこに見る運動を逆転し、東を西にとりかえる」と言う。エジプトの僧侶たちはヘロドトスに向って、「我々の初代の王からこのかた一万一千年後の今日に至るまでに(と、それら諸王の・それぞれ生きていたときに作られた・画像を示しながら)、太陽は四度その道をかえた。海と陸とは互いに入れかわった。世界の誕生はいつのことか未決定である」と語った。アリストテレスとキケロも同様に言った。また我々〔キリスト教徒〕のうちのある者は、「世界は永遠を貫くものであるが、幾変遷を通じて死んではまた生れる」と、ソロモンやイザヤを証人として言う。これは、「神はかつて、創造しない創造主で無為であったが、世界の創造に手を染めることによってその無為を脱した。従って彼も変化を免れないものである」という反対説を避けるためである。ギリシアの諸学派のうち最も有名な学派は、世界をこう考えていた。「それは自分よりももっと大きなもう一つの神によって作られた神である。一つの物体とその中央に宿る霊魂とからなり・音楽的韻律によってその周辺にひろがる・神聖な・甚だ幸福な・甚だ偉大な・甚だ賢明な・永遠な・神である。その中には他の神々、陸・海・星・があり、それらがまた調和した永遠の運動・神々しい舞踊・をしながら、あるいは出会いあるいは離れ、あるいは隠れあるいは現われ、あるいは前にあるいは後にと、その位置をかえながら支えあっている」と。ヘラクレイトスは、「世界は火で作られている。そして、運命の命令に従っていつかは炎々として燃えつきなければならない。そしてまたいつか再び生れ出る」と言った。また人間について、アプレイオスは言う。※(始め二重山括弧、1-1-52)個々にしては死すべきもの、総体としては永遠のもの※(終わり二重山括弧、1-1-53)と。アレクサンドロスはその母に、エジプトの古廟の中から発見された一エジプト僧の物語を書き送ったが、それはこの国が限りなく古いことを実証しているとともに、他の諸国の誕生と発達をもつたえていた。キケロおよびディオドロスは当時、「カルデア人は四十余万年の昔まで記録している」と言った。アリストテレス、プリニウス、その他の人々は、「ゾロアストレスはプラトンの時代より六千年前の昔に生きていた」と言っている。プラトンは、「サイス市の人々はその八千年の昔にさかのぼる古文書をもっているし、アテナイ市はそのサイス市より千年も前に建てられたものである」と言っている。(b)エピクロスは、「物事はここに我々の見るとおりにあるとともに、他のたくさんの世界においてもまた、全く同じ有様で同じようにある」と言っている。もし彼がさまざまな奇妙な実例を通じて、この西インドという新たな世界と我々の世界とが、過去及び現在において甚だ似かよっていることを眼のあたり見たならば、もっと確信をもって言ったことであろう。
 (c)ほんとうにわたしは、この地上における人間社会の幾変遷について我々が知り得たところを考察しながら、極めて大きな時間空間にへだてられながら、奇怪な俗説や野蛮な風習や信仰の数々が、どうみても我々が天から与えられた理性とは何の関係もありそうには見えないのに互いに符合するのを見て、しばしばびっくりしたのである。もともと人間の精神は奇跡づくりの名人であるが、以上の類似には何かしらさらにいっそう奇怪なところがある。その類似は名前の間にも事件の間にも、その他いろいろなものの間に見出される。(b)まったく、そこ〔西インド地方〕には我々のことなんか全く聞いたことのない国々があるという話であるが、そこでもやはり割礼が重んぜられていた。そこには婦人たちによって男子の助力なしに維持されている大きな国家・社会・があった。そこには我々の断食や肉絶ちが女人の禁制と共に行われていた。そこには我々の十字架がいろいろに尊重されていた。こっちでそれが墓印になっているかと思えば、向うではそれが、特に聖アンドレの十字が、夜の魔をはらうためや魔除けとして子供の枕元などにおかれていた。また別の所では、丈の高い木製の十字架が雨の神様としてあがめられていた。しかもそれはずっと奥地の方にまで見られたのである。人はその土地に、我々の懺悔僧ときわめてよく似たものを見た。司教冠を用いること、坊さんが独身であること、その犠牲とした動物の腸によって占いをすること、(c)食料としてすべての鳥獣魚介をたつこと、(b)坊さんが儀式の際に特殊な・一般にわからない・言葉を用いることまで、すべてそっくりであった。いや、そこにはこんな考えまであった。すなわち、「最初の神は第二の神・つまりその弟・に追われた。我々人間は、造られたときにはすべての幸福をもっていたが、罪を犯して以来それを取り上げられ、その住む国をかえられ、その生れつきの状態を悪くされた。かつて天の洪水の下に沈んだが、その内の少数の家族のみが助かって高い山の洞窟に逃げこみ、その口をふさいで水の浸入をふせぎ、数種の動物と共に中にとじこもった。やがて雨がやんだと思ってまず犬を出してやったところ、汚れずに濡れて帰って来たので、まだ水があんまり引かないことを覚った。その後いろいろな動物をかわるがわる出してやってはそれらが土にまみれて帰って来たのを見て、はじめて洞窟から出た。そしてただ蛇だけが充満した地上において再び繁殖するようになった」などと信じられていたのである。またある所では、最後の審判の日が確信されていた。だから彼らは、スペイン人が墓の中から宝物を掘りだし死者の骨を散らばした時には、「これらの散らばった骨片は容易にもとのように一つになることはできまい」と言ってひどく怒った。彼らはもっぱら物々交換をし、その他の取引はしない。そしてそのための市場をもっている。小人こびとや奇形の人物が王侯の食卓をにぎわしている。彼らの鳥をその性質に応じて、我々の鷹のように狩に用いている。暴君の御用金もある。精巧な造園術もある。舞踊もあり軽業の類いもある。器楽もある。紋章もある。テニスの遊戯もあり、骰子さいころによる遊戯もあって、これに夢中になると往々自分の体やその自由までも賭ける。まじない同然の医術があり、象形文字がある。すべての民の父である・唯一の・最初の人の信仰がある。かつては自然の法則と宗教の儀式を説きながら完全な童貞・断食・苦業の中に人間として生きた後、自然死によらないでこの世から消えてなくなった唯一の神の礼拝がある。巨人の信仰もある。自分たちの飲料をしたたかに飲んで酔っぱらう習慣もある。死者の骸骨や頭蓋で作った色とりどりの宗教的装飾や、僧侶の白衣、聖水、灌水式がある。妻や召使たちは、夫または主人の死に殉じて争って火の中に身を投げ、もろともに埋葬される。長子が全財産を相続し・次子にはただ服従以外に何物をも与えない・法規がある。ある大きな権威ある位につくときには、これにつく者が新しい名をとって従来の名を捨てる習慣がある。生れたばかりの赤子の膝の上に石灰をそそいで、「汝土より生る。また土に帰らん」と唱える習慣もある。また占い者の占術がある。このように我々の宗教の形式が、ただうわべだけにしても、実際にあちらこちらに見られるということは、それが尊く神聖であることを実証する。それはこちら側〔ヨーロッパ〕のすべての異教徒の間に模倣によってある程度浸み込んだばかりでなく、こういう蛮民の中にまで共通な超自然的な霊感によって浸み入ったものと見える。まったく人はそこに煉獄の信仰までも見出したのである。ただその形は違っていた。すなわち我々が火中に投ずる者を、彼らは氷の中に投ずる。そして、もろもろの霊魂は極度の寒冷によって罰せられ清められると考えている。それにこの実例はもう一つの面白い相違を思い出させる。まったくそこには、マホメット教徒やユダヤ教徒のように、男根の末端をめくりその皮を除くことの好きな民族があるかと思えば、これをめくることを大いに畏れる余り、細い紐を用いてそれを大切に結び上げ、ひたすらその末端が外気にふれないようにする民族もあったのである。またこんな相違もあった。すなわち、我々は王を崇めまたお祭をするのに最も清楚な衣服をまとうのに、ある地方においては、王に対して十分の懸隔と服従とを示すために、臣下は最もみすぼらしい衣服をまとって御前に出る。いや、宮殿に入ろうとするときには自分の上等な衣裳の上に何か引きさけた衣をひっかけ、すべてのきらびやかさと飾りとが、ただ王だけにあるようにした。しかし先をつづけよう。
* 六七六頁最後から二行目にさかのぼり、「この西インドという新たな世界」を受ける。なお以下の叙述は、ゴマラのインド史 Gomara: Histoire des Indes からとっている。ここにモンテーニュは古代の信仰もキリスト教も、また野蛮人の宗教も新興宗教も、洗って見れば似たりよったりで、いずれも人間のウソで固めたものであることを示すのである。だが例によって、巧みに避雷針も準備している。この頁六行目に「我々の宗教の形式が、ただうわべだけにしても、実際にあちらこちらに見られるということは、それが尊く神聖であることを実証する」と述べているのがそれである。しかしこれとても、読みようによっては、キリスト教徒のあんなに有難がるいろいろな教義だって、行って見れば野蛮人の間にも発見されるので、ひっきょうキリスト教も人間のデッチ上げたものである、ということをわからせている。それは前出六六六頁二行目の「与えるのも人であり、受けるのもまた人である」という句にもはっきりと表現されている。
 (a)もしも自然がその普通の進化の過程の内に、他のあらゆる物事と同様に、人間の信仰や判断や意見をもいれるとすれば、もしもそれらがその進化をもち、その季節・その生と死・をもつことにおいてキャベツと同じだとすれば、もしも天がその欲するままにそれらをすぶりころばすものとすれば、どんな堂々として変らない権威を、我々はそれらに与えられよう? (b)もしも経験によって我々の存在の様式が空気や気候や我々の生れた土地に依存すること、ただ顔色や身の丈や体格や骨相だけでなく霊魂の諸状態までがそれらに依存すること、を知るならば((c)※(始め二重山括弧、1-1-52)気候は体力に寄与するところあるのみならず、また精神の力にも貢献するものなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)とウェゲティウスは言った)、またアテナイ市を創始した女神がこの市を位置するのに、特に人々を慎重にするのによい風土を選んだとすれば(エジプトの僧侶たちはそうソロンに教えた。※(始め二重山括弧、1-1-52)アテナイの空気は精密なり。故にアテナイ人はその心繊細なりと言わる。テーバイの空気は厚し。故にテーバイ人は粗野にして腕力すぐれたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)と)、(b)つまり果実や動物がその生れる所によって異なるように、人間もまたその生れる所によって、好戦的であり公正であり節制であり従順であるその程度を異にすると言うならば、ここで酒に溺れるものが多ければ、あそこでは盗みに・または淫らに・傾くものが多く、ここでは人が迷信に陥るかと思えば、あそこでは不信に走ることが、(c)ここで自由に赴けば、あそこでは屈従におちいることが、(b)あるいは学問に長じあるいは芸術に巧みに、あるいは粗野にあるいは怜悧に、あるいは従順にあるいは不屈に、あるいは善良にあるいは邪悪に傾くことが、これらのすべてが、ただたんにそれが存在する場所の如何いかんによって、つまりその場所をかえると、草木のように別箇の性向を帯びるとすれば、これこそキュロスが、(c)肥沃な土地は人間を柔弱にし豊饒な土地は人心を不毛にすると言って、(b)ペルシア人にその高峻な国土をすてて他の温和平坦な地方に移住しようとするのを許そうとしなかったゆえんである。もしも我々が何らかの天の感化の下に、あるときは一芸術一学説の・あるときはそれと異なるものの・花さくのを見るならば、ある世紀がある種の性質をもたらして人類をある種の習癖に傾けたのを見るならば、人々の心がある時には力にあふれある時には痩せることが、まるで耕地のようであるのを見るならば、我々が己れの誇りとしようとするあの立派な特質はそもそもどうなるか。一人の賢人でさえ考え違いをすることがあるのだから、百人の人、あまたの民族、否、我々の見るところによると、全人類さえもが、数世紀の間を通じていろいろな点で考え違いをしたのだから、どうして我々は保証することができるのか。「人間はときに考え違いをしないこともある」とか、(c)また「現世紀においては人間は勘違いなどしてはいない」とか。
 (a)我々が無力低能であることの証拠はたくさんあるが、なかでもつぎの点を決して忘れてはならないと思う。すなわち、「欲望によってさえも、人間は自分に必要なものを識別することができない。享受によってはどうか知らないが、想像とか希望とかによってでは、我々は我々の満足に何が必要であるかについて、一致した意見を見出すことができない」ということを。いくら我々の思想に好きなようにったり縫ったりさせたって、それは自分にふさわしいものをただ欲望することすらできないであろう。(c)自己を満足させることすらできないであろう。

(b)我らに避くべきことと願うべきこととを教うるは理性か?
誰かいかなる幸運に恵まれて、
後に悔いざりし企てをばかつて抱きたる?
(ユウェナリス)

(a)だから、(c)ソクラテスは神々にむかって、「わたしに良いと思召すものだけを与えたまえ」とよりほかに求めなかったのだ。またラケダイモン人の祈りは、公の場合も私的な場合も、ただ単に、「よいもの・美わしいものを・与えられますように」とあったのみで、それらのものの選択はすべて神々の御意にゆだねてあったのだ。

(b)我らは妻や子どもを与え賜えと願う。
されど、その子らその妻がいかなる者かは、
神をおきて知るものなし。
(ユウェナリス)

 (a)だからキリスト教徒は、「御心の行われんことを!」と神に請い奉るのだ。詩人たちが王ミダスについて物語ったあの不都合に陥らないために。彼ミダスは、自分の触れるものがことごとく金にかわりますようにと神々に求めた。祈りはきかれた。その酒は金となり、そのパンは金となり、その蒲団の羽根も金となり、そのシャツから上衣類に至るまでことごとく金となった。つまり彼はそのかなえられた欲望の重みの下におしつぶされ、堪えがたい満足を贈られたのである。彼はとうとうその祈りを取り消さねばならなくなった。

富みて哀れなる、この新しき境遇にうち驚き、
彼はひたすらにその富を逃れんことを乞い願い、
その願いてあたえられたる物より目をばそむけたり。
(オウィディウス)

 (b)わたし自らについて言おうか。わたしは若い時、他のいろいろなものとともに、サン・ミシェル勲章を運命にこい求めていた。まったくそれは、当時フランス貴族最高の・そして甚だ稀な・名誉のしるしであったのである。ところが運命はそれをおかしな仕方でわたしにお授けになった。それに届くようにわたしをわたしの席から上げ高めないで、わたしをそれ以上に御優遇くだされ、かえって勲章の方をわたしの肩先まで、いやもっと低いところまで、引きおろしてくださったのである
* 前出二の七参照。
 (c)クレオビスとビトン、トロフォニウスとアガメデスは、それぞれの信心にふさわしい報いを、前の二人はその女神に、後の二人はその男神に、乞い奉ったところ、いずれも賜物として死を与えられた。それくらい、我々に必要なものについての天の意見は、我々の意見と違っているのである。
 (a)神は我々に、富や名誉や生命を、また健康をさえ、我々の損になるようにお与えになることがあるらしい。まったく、我々に愉快なことが必ずしも我々のために有益ではないのである。もし全快の代りに神が我々に死または病気の悪化をお与えになっても、※(始め二重山括弧、1-1-52)汝のむちと汝のつえわれを慰む※(終わり二重山括弧、1-1-53)(詩篇二十三の四)それは神意によってなし給うたのであって、この神意こそ、我々に必要なものを、我々よりずっと確実に御覧になるのである。だから我々は、それをよろこび受けなければならない。きわめて賢く・きわめて優しい・御手よりの賜物として。

(b)君我が意見を問い給うや。さらば申さん。
我らにふさわしきこと、我らがために役立つことをば、
すべて神々の選択に任せたまえ。
人は、人自らのためよりも、神々のために宝なればなり。
(ユウェナリス)

まったく名誉や官職を神々に求めるのは、自分を戦いに・あるいはさいの気紛れに・あるいはその他成り行き結果の不明で疑わしい事柄に・委ね給え、と願うのと同じことなのである。
 (a)およそ人間の至上善の問題についてもち上る争いほど、哲学者たちの間で猛烈なものはない。(c)それがもとで(ウァロの数えるところによると)、二百八十八の学派が生れたのである。
※(始め二重山括弧、1-1-52)ひとたび至上善に関して異論生ずるや、たちまちにして全哲学の上に異論生じたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。

(a)ここに三人の客ありて、おのがじし己れの好める皿を望んで、
相争いて互いにゆずらざるを見るがごとし。
われ何を彼らにすすむべきや。
或いはすすむべからざるや。
某の望むところ御身欲せず。
御身の望むところ他の二人欲せず。
(ホラティウス)

自然も彼らの論争に対して、まさにこのように答えなければなるまい。
 ある人々は「我々の幸福は徳の内にある」と言い、他の人々は「快楽の内にある」と言い、また別の人々は「自然に従うことにある」と言う。ある者は学問の内にあるとし、(c)ある者はまったく苦痛のないことにあるとし、(a)ある者は外観に引きずりまわされないことにあるとした(それにこの思想には、もう一つの(b)古代のピュタゴラスの(a)思想が、すなわち

何事にも驚かざることこそ、ヌマキウスよ、
幸福を与うる唯一無二の道なり。
(ホラティウス)

というピュロン派の結論が、似ているようである)。(c)アリストテレスは、何ものにも驚かないことを気宇宏大のせいにしている。(a)それからアルケシラオスは、判断が不動で中正不偏な状態にあることを幸福であるとし、付和雷同を不徳不幸であるとした。じつに幸福を明確な公理によって定義した点において、彼はピュロニスムからぬけ出ている。ピュロンのともがらは、「至上善はアタラクシアすなわち判断の不動である」と言ってはいるが、それを断言的に言おうとはしていない。むしろ彼らに淵を避け夜風を避けさせるのと同じ心の動きが、ふと彼らにこういう考えをいだかせ、反対の考えを避けさせているだけなのである。
 (b)どんなにわたしは願っていることだろう。どうかわたしの生きているうちに誰かが、いや今なお生きている人の中で一番の物知りで・しかもその精神がきわめて洗練されていて公正な・じつに我がトゥルネブスの兄弟ともいうべき・あのユストゥス・リプシウス**のような人が、その意志と健康とまた十分の暇をもって、われわれ人間の存在や気質に関する古代哲学の諸説、それらの間の論争、各派の信用とその影響、記憶すべく範とすべき出来事において、もろもろの著者およびその弟子たちがいかにその生活と原理とを一致させたか、というようなことを、見られるかぎりにたくさん、本気にそして丹念に、それぞれの分派に区別しながら、一冊の本にまとめてくれればよいのだがと。それこそ立派な有用な著作というべきであろう!
* 前出のアドリアン・テュルネーブス Adrien Turn※(グレーブアクセント付きE小文字)be のこと。五三〇頁註参照。ここではユストゥス・リプシウスとならべてラテンふうに呼んでいる。
** Justus Lipsius ou Juste-Lipse, 1547-1606. ベルギー生れのユマニスト、著書は皆ラテン文で、モンテーニュはこの人の本をいろいろ読み、また文通もした。フランスのカゾーボン Casaubon イタリア生れのスカリジェール Scaliger と共に、十六世紀のユマニストのいわば三羽烏である。モンテーニュがここに述べている希望は、一六〇四年に発表されたジュスト・リプスのストア主義に関する大著の中に実現されている、とミショー将軍は註している。
 (a)それに我々の行為の規則をただ我々自身からのみ引き出すならば、我々はとんでもない混乱に陥ることであろう。まったく、この際我々の理性が我々にあたえる最も真実らしく思われる勧告は、一般に各自はその国の掟に従うべきであるということである。(b)それはソクラテスが神から啓示されて得た(と彼自ら言う)意見と同じである。(a)ところで理性は、これによって一体何を言おうとしているのか。結局「我々の義務は偶然の規則よりほかには何の規則も持たない」ということではあるまいか。真理は同一の普遍的な容貌を持たなければならない。正直や公平にしても、もし人が実体と真の本質とを備えたそれらを知っているならば、けっしてそれらをただ一国一地方の習慣に結びつけはしないであろう。徳がその形を得るのも、インド人やペルシア人の思想の中からではないであろう。世に法律くらい絶えず変動をこうむるものはない。わたしが生れてからでも、わたしは我々の隣人イギリス人の法律が三べんも四へんも変ったのを見た。恒久性がなくても仕方がないと思われている政治的問題に関してばかりではなく、最も重大な問題、すなわち宗教上の問題に関してまでも変ったのであった。それをわたしは恥ずかしいとも悲しいとも思う。それはわたしの地方の人々がむかしきわめて親密な関係にあった国であり、わたしの家にも今もって彼らとの古い姻戚関係の跡が残っているくらいの国だから、なおさらそう感じるのである。
* ギュイエンヌ州は一一五二年から一四五三年まで英国領であった。ただしモンテーニュがイギリス貴族の血を引いているわけでは決してない。拙著『モンテーニュ伝』第一章および同付録(一)「モンテーニュの郷土」、及び『モンテーニュとその時代』第一部第一章参照。
 (c)また我が国フランスにおいても、わたしは、かつては打ち首にあたいしたある事柄が、いまでは法にかなえることとなったのを見た。いや我々は、いまは別箇の信仰をいだいているけれども、定めないいくさの運に従って、いつまた人間および神に対する不敬の罪に問われないともかぎらないのだ。我々の正義が不正の思うがままに蹂され、僅か数年にして全然反対の本質をとるようにならないともかぎらないのだ。
* プロテスタンチスムを指す。フランスにおける新教に対する取扱いは、政策の変化にしたがって或いは違法として咎め排斥され、或いは反対に擁護せられた。それは巻末所収の年表について知られたい。
 どんなふうにあの古代の神〔アポロン〕は、人間の知識があまりにも神の本質に関して無知であることをとがめ、世の宗教がただたんに人間の発明品であり、むしろ社交の道具にすぎないことを教えることができたか。彼はその三脚台の下にひざまずいて教えを乞うた者に向って、「各人の真の信仰は、その在る場所の習慣によって守られている信仰である」と言ったのであるが、他にこれ以上に明瞭な教えがありうるであろうか。おお神よ。我々は我々の至上の造り主のおん恵みに対して、どんなに感謝しても足りないであろう。彼が我々の信仰を、あの右にゆき左にゆく我儘勝手な信心の闇から救い出して、彼の聖なる御言葉の永久的な基礎の上に置いて下さったことは、何と有難いことであろう!
* 「しんとはてんよりくる所以ゆえんなり。自然しぜんにしてうべからず。ゆえ聖人せいじんてんのっとしんたっとび、ぞくとらわれず」(『荘子』「漁夫篇」)。
 (a)ではこのむつかしい問題にあたって、哲学は我々に何と言うであろうか。汝の国の法律に従えと言うであろうか。すなわち一国民・または一君主の・定めない意見の波に乗って行けと言うであろうか。彼らは今後もその内なる情念の変化にともない、正義を色さまざまに塗りたて、姿さまざまにそれを変え改めるだろう。わたしはそんなに変通自在な判断をもつことはできない。なにが善だ! 昨日まではあんなに重んぜられたのに明日はもう捨てて顧みられなくなるなんて! (c)川一筋を隔てればたちまちに罪悪に変ずるなんて!
 なにが真理だ! 山のこちら側だけで真理、向う側の世界では嘘だなんて!
 (a)だが彼らはおかしなことを言う。彼らは法律にいくらかの確実性を与えようとして、「中にはいくつか堅固で不易不動な法律もある。すなわちいわゆる自然法で、それ本来の性質によって人類の間に始めから刻みつけられているものだ」と言う。そしてそれらが、ある者は三つあると言い、ある者は四つあると言い、また、それより多くあげる者も少なくあげる者もある。これまたそれが、他の物ごとと同様に疑わしい証拠である。ところが彼らは何と運がわるいのだろう(まったく不運と言わないで何といおう。あれほどに限りなくある法律のうちただの一つとして、運命(c)や偶然の機会(a)から、あらゆる国民の賛意によって普遍的に受け容れられることを、許されたものはないのである)。彼らは、もう一ぺんいうが、何と不仕合せなんだろう。その選び出した三つないし四つの自然法の中ですら、ただの一つとして、一国民には勿論のこと、ただの数人にさえ、反対されず拒否されなかったものはなかったのである。ところが、彼らがこれこれの法令は自然法だと論証しうるただ一つのまことらしい標識は、賛意の普遍ということ以外にはないのである。まったく、それが真に自然から与えられたものであるなら、我々は確かに一般的な賛成をもってそれに従うにちがいないのである。いやすべての国民のみならずすべての個人は、もし自分をこの法令にそむかせようとする者に出あうならば、必ずやそこに、暴力や強制圧迫を感ずるであろう。論より証拠。そういう誰もが例外なしに賛成する法令なるものが本当にあるのなら、何でもいいから一つ見せてもらいたいものだ。プロタゴラスとアリストンとは、法律の正義性の本質は立法者の権威と意見とのほかにはないとした。これらを別にすれば、「善」とか「正」とかはその意義を失って、可でも不可でもない事柄の空なる呼び名となってしまうと言った。プラトンの中のトラスュマコスは、長上の御都合以外に権利なるものはないと言っている。じつに習慣や法律においてほど、人々がまちまちであることはない。ある事柄がこの国で厭わしいことであるかと思うと、よそではほめられている。例えば、ラケダイモンにおいては盗みの巧みさがほめられたものだ。近親間の婚姻はわが国でこそ打ち首をもって禁ぜられているけれども、よその国では重んぜられている。

きくならく、いずくの国にか、
母はその息子と交わり、父はその娘とあいて、
親子の愛、夫婦の交わりによりてますますこまやかなりと。
(オウィディウス)

子殺し、父殺し、姦通、盗品の取引、あらゆる快楽の自由なことなど、要するにどんな極端なことでも、どこかの国の習慣によって許されていないものはないのである。
 (b)世にいくらかの自然法があることは信じられる。それは他の被造物の間で見られるとおりである。だが我々人間の間ではとうに失われている。あの御立派な人間的理性が、いたるところで支配し命令しようと口ばしをいれるからである。その空虚と不定とによって、物事の外観をいたずらに混乱させるからである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)真に我らのものとては何一つ存せず。余が我らのものと呼びなすはただ人為の産物にすぎず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (a)物事はさまざまな面さまざまな意義を持っている。主としてそのことからさまざまの異説が生れるのである。一国民はある物をある一面から見る。ただそれきりである。他の国民はもう一つの面から見る。
 およそ父親を食うことくらい思っても恐ろしいことはない。だが昔この習慣をもっていた諸民族は、孝心と親愛の情を示すためにそれをしたのである。つまりそうやって、自分の体内に・いわばその心髄の中に・父たちのなきがらと遺骨とを容れることによって、それらを消化吸収して自分の生きた肉の中にいわば復活再生させることによって、祖先のために最も立派な最も貴い霊廟を与えようとしたのである。こういう迷信がしみこんでいる人々にとっては、両親のなきがらを空しく土の中で腐らせ、鳥けだものや蛆虫の餌食とすることがいかに残酷な非行であったか、たやすく想像ができる。
 リュクルゴスは盗みにおいて、その隣人から何かをちょろまかす場合の敏捷・用心・大胆・巧妙・を尊重したのみならず、そのために各人が自分のものをますます大切にするようになるという公衆のうける利益までも考慮した。そしてこの攻防両面にわたる二重の教訓の中から、軍紀のためには(これこそ彼がその国民を導こうとした主要な学問徳目であった)かなりの成果が得られるであろう、それは他人の物をくすねるという不正乱暴をつぐなって余りがあるであろう、と考えた。
 暴君ディオニュシオスは、プラトンに長い・香をたきこめた・金襴緞子どんすの・ペルシア風ローブ〔衣裳〕を贈った。プラトンは、「男と生れついたのに、女の衣裳など着とうはない」と言ってそれを拒けた。ところがアリスティッポスの方はそれを受けた。「どんな服装も純潔な心を腐らすことはできない」と答えて。(c)また友だちが、アリスティッポスに、ディオニュシオスから顔につばを吐きかけられながら大して怒ろうともしないその卑怯を咎めたところ、「漁夫どもは雑魚ざこ一つとるにも頭から足の先まで海の水を浴びるではないか」と答えた。ディオゲネスは折からキャベツを洗っていたが、アリスティッポスが通るのを見て、「お前もキャベツを食って生きる気にさえなれば、何も暴君にこびを売らなくもよかろうに」と言った。アリスティッポスは答えて、「お前も人なかに出て暮す気にさえなるならば、何もキャベツなんか洗わなくてもすむだろうに」と言った。(a)こんなふうに、理性はいろいろな行為にそれぞれもっともらしい理屈をつける。(b)それは二つの手のついた壺で、右からも左からも持つことができる。

おおやさしく住みよき大地よ。汝我らに戦いを告ぐ。
汝の駿馬はために鎧われ、戦い近づけりと我らをおどす。
されど、この勇ましき獣も、始めは百姓の車につけられ、
仲よくくびきの下に歩みしものなり。
平和の希望はなお残れり。
(ウェルギリウス)

 (c)ある人がソロンに向って、息子に死なれたからとて今さら甲斐なき無益な涙など流し給うなと教えたところ、「だから泣くのだ。涙を流してもかいなく無益であればこそいよいよ泣けるのだ」と言った。ソクラテスの妻は、「おお、何たることぞ。これらのよこしまな裁判官たちは、不正にもわが夫を殺そうとする」と言って、いよいよその悲しみを深くしたところ、「では妻よ、わたしが正当に殺される方がよいと言うのか」とソクラテスは言った。
 (a)我々は耳に穴をあけているが、ギリシア人はこれを奴隷の印としたものである。我々は妻と交わるのに身を隠すが、インド人はこれを人の前で行う。スキュティア人はその神殿に異国人をいけにえとしたが、よその国では神殿こそ異国人の避難所である。
* アンリ三世時代には耳飾が流行した。モンテーニュはそれを諷したのである。

(b)各国はその隣国の神を憎む。けだし
各々己れの拝するものをのみ真の神とすればなり。
げに民族の盲目的怒りはここに始まる。
(ユウェナリス)

 (a)わたしはこんな話を聞いたことがある。ある裁判官が、バルトルスとバルドゥスとの間に激しい論争が起って異論百出、収拾がつかなくなったとき、調書の余白に「友のための問題」と書いたというのである。つまり真相が甚だこんがらかっていて定め難いから、こういう場合には、自分が好感のもてそうな方をひいきしてやればよいのだと言ったのであった。だが惜しいことに、この人はいささか知恵がたりなくて、すべての場合に、「友のための問題」とまでは書くことができなかった。こんにちの代言人や裁判官たちは、あらゆる訴訟ごとに当って、それらを自分に都合がよいようにあんばいする口実を、いくらでも見出している。あのようにはてしのない学問、あのようにたくさんの権威ある諸説に準拠しなければならない学問、しかもあのように専断を必要とする学問においては、どうしても判断の甚だしい混乱が生れざるを得ないのである。したがって諸家の意見が幾つかに分れないような、そんな明瞭な訴訟ごとはまずないのである。一法院の判決したところを、もう一つの法院がくつがえす。いや、同じ法院がまたの日にあべこべの判決をすることさえあるのである。これこそわが裁判所の堂々たる権威と光輝とをいたく汚すものであるが、我々はこの種の実例を毎日目にしている。だから人々は容易なことでは判決に服しない。そして同じ訴訟の解決のために、こちらの裁判官からあちらの裁判官へと渡りあるく。
* ともに十四世紀イタリアの法律家。
 徳不徳に関する哲学上の諸説が自由奔放なことにいたっては、わざわざ長談議をする必要もないくらいである。それに、中には(c)考えの浅い人たちには(b)公表するよりも知らさずにおく方がよいと思われる意見だって少なくないのである。アルケシラオスは言った。「淫楽においては、どっちの側から、またどんな路をへて、それがなされたかなどは、大して考えるに及ばないことだ」と。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)淫楽に関しては、自然がこれを要求する場合、そこに血統門閥等は考慮すべきにあらず。ただ美・年齢・容姿に照らしてこれを判断すべきなり、とエピクロスは考えり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。※(始め二重山括弧、1-1-52)清らかなる恋も賢人のなすべきことにあらずとは、ストア学者たちも考えず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。※(始め二重山括弧、1-1-52)いざ、一体幾歳まで人は若者たちを愛しうるかを明らかにせん※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。後の二つのストア学者の言葉、および、これに関してディカイアルコスがプラトンに対してあびせた非難は、最も健全な哲学は、いかに一般の習慣からかけ離れた極端な自由をもゆるしているかを示している。
 (a)法律はその権威を、現にそれが一般に通用していることから得る。法律をその根源にさかのぼって論ずることは危険である。それは我々の河川のように流れてゆく間に大きくなり貴くなる。試みにさかのぼってその源泉まで行ってごらん。それはほとんど見わけ難い小さな湧き水にすぎない。それがだんだん古くなるにつれてあんなに尊大になり強力になるのである。現在威厳と畏怖と尊敬とに充満しているこの名だたる奔流〔すなわち法令規則〕に、最初の動きを与えたむかしむかしの動機をよく見てごらん。それらが余りにも小さな・ささやかな・事柄であるのに驚かれるであろう。だからあの何でも理性に訴えて考える人々、いや何ごとも権威と信用だけでは受入れようとしない人々が、とかく一般の判断から非常にかけ離れた独自の判断をもっているのも、少しも不思議には思われないのである。自然の最初の姿を手本とする人々は、その意見の大部分において一般の道からはずれていても、少しも不思議には思われないのである。実際一つの例を挙げてみれば、彼らの間には我々の結婚の窮屈な制約を認めたものがほとんどいなかった。(c)いや大部分の者は妻を共有し、これに対する義務のないことをのぞんだのである。(a)彼らは我々の礼儀をしりぞけた。クリュシッポスは言った。「哲学者はオリーヴを十二個貰うためなら、パンツをはいていなくても人前で十二回とんぼ返りをするであろう」と。(c)彼はヒッポクリデスがテーブルの上に股をひろげて逆立ちをするところを見たからといって、クリステネスに向って、「このような男にお前の美しい娘アガリスタを与えるな」とはおそらく忠告しなかったろう。
 メトロクレスは、討論の最中に、ついうっかり弟子たちのいる前でおならをした。恥ずかしがって家の中にかくれているところへ、クラテスが訪ねて来た。そして慰めたり理屈をつけたりした末、自分自らの無作法を見せてやると言って、メトロクレスと競争でおならをし合い、とうとう彼にその小心をすてさせた。しかもそのうえに、彼がそれまでくみしていた上品な逍遙学派から彼を引き抜き、それよりも気楽な自分たちのストア学派に入れてしまった。
 我々がお行儀がよいとほめることを、つまり我々が隠れてならば少しも恥ずかしがらずにすることをただ人前でだけあえてしないことを、彼らは馬鹿げたことだと言っていた。そして、自然や習慣や我々の欲望がちゃんと公表してしまっている我々の行為を上品ぶって隠し立てすることを、むしろ不徳であると考えていた。彼らにとっては、ウェヌスの神秘をその神殿の奥から引き出して人々の目の前にさらすことは冒涜であり、この営みをカーテンの外に引き出すのはむしろその価を低くすることであった(羞恥はいわば重みをつけるものであり、隠すことや節制や用心は尊重のしるしなのだから)。快楽が、四辻の真中で群衆の足に踏まれたりその目にけがされたりしないように、徳という仮面を被って甚だ巧みに自己を主張したのも、そのような場所には閨房の威厳も楽しみもないことを残念に思うからであった。それで(a)ある人々は言うのである。「公認の淫売屋を廃することは、この場所に限られるべき淫蕩をいたる所にひろめるばかりでなく、困難は人々を駆り立ててますますこの不徳におもむかせる」と。

かつてはその夫たりしコルウィヌスよ、何とて
今さらアウフィディアの恋人とはなれるか。
彼女がいま、汝の競争者たりしものの妻なればにや。
何故に他の男のものとなれば恋しきや。
お前のものたりし間はかくまでに彼女をいといしに。
(マルティアリス)

この経験はたくさんの実例の中にさまざまな形で述べられている。

おお、カエキリアウスよ。汝の妻が自由なりしときは、
誰一人として彼女に触れんとする者はなかりき。
されど今、汝彼女に番人をつけたるにより、
数多き恋人彼女をめぐる。
まことに汝こそは利巧ものよ!
(マルティアリス)

ある人が、さる哲学者がちょうどそれをやっているところに来あわせて、一体何をしているのかときいたところ、「人間を一人植えているのだ」とすまして答えた。にらを植えているところを見られたほどにも赤くならずに。
 (c)わたしの考えるところでは、あるえらい敬虔な著者が、「この行為はどうしても隠れず恥じずには行われないものであるから、それが犬儒派の人々のあけっぱなしの抱擁において成就せられようとはとうてい考えられない。むしろそれは単にみだらな行為のまねごとにとどまり、その派の所説の無恥厚顔を支持するにすぎないであろう。羞恥が抑え引っ込めたところのものを射出するためには、やはりあとで物蔭をさがさなければなるまい」と言っているのは、あまりにおだやかで上品な説き方であると思う。彼は彼らの放縦さを、十分深く見ていなかったのである。まったくディオゲネスなんかは、人前で手淫をしながら傍にいる人々に向って、「同じように腹をこすって腹が一杯になってくれればよいのだがな」と言ったくらいである。また人々が彼に向って、「なぜ食事をするのに、街の真中などでなく、もっと好い場所を求めないのか」とたずねたら、「だって街の真中で腹が減って来たからさ」と答えた。彼らの学派と交わっていた女哲学者たちは、いたる処で、見さかいもなく、身をもって彼らと交わった。そしてヒッパルキアも、万事規定された慣行には違背しないという約束で、始めてクラテスの仲間に受けいれられたのであった。これらの哲学者たちは、徳に極度の価値を与え、道徳以外のすべての規律をしりぞけた。けれどもあらゆる行為において、彼らの賢人の決定には、至上の権威を、しかも法律に対する以上に、与えていた。そして快楽に対しても、節制と他人の自由を尊重するということ以外には、何らの制限も加えていなかった。
* 聖アウグスティヌスを指す。
 (a)ヘラクレイトスとプロタゴラスとは、酒が病人にはにがく健康な者には甘く思われたり、かいが水の中では曲って見えるのに出して見れば真直であったり、その他いろいろなものが同様に反対の外観をもつことから、つぎのように結論した。「すべてのものは自分の中にこれらの外観の原因をもっている。酒は病人の味覚にひびくある種のにがさを含んでおり、櫂は水の中で曲って見えるようなある種の弯曲を持っている。その他すべてがそうである。つまりすべてがすべての物の中にあり、したがって無は何物の中にもない。まったく、すべてがある所には無もないのである」と。
 この意見は、「人間の精神は、書物の中をさがしさえすれば、或いは真直な・或いはにがい・或いは甘い・或いはまがった・どんな意味でも外観でも、見つけ出せないことはない」という我々の経験を思い出させた。最も明瞭で純粋で完全な言葉の中からも、人はいかに多くの嘘やまちがいを生みだしたか。いかなる邪説が、そこに十分の基礎と証拠とをえてその目的をとげ、自説をおし通さなかったか。だからこそああいうまちがった学説の首唱者たちは、言葉の解釈を基にしたその証拠を決して手放そうとはしないのである。ある高位のお方はその没頭していられた化金石の研究を**、権威をもってわたしに実証しようとして、先頃聖書の章節五、六箇所を引用なされ、自分は良心の荷を軽くするために(それは聖職にたずさわる御方であった)、専らここに基礎を置いたのだと申された。いや本当に、その思いつきはたんに面白いばかりでなく、この結構な学問を擁護するのに特におあつらえむきのものであった!
* フランソワ・ド・フォワ=カンダル Fran※(セディラ付きC小文字)ois de Foix-Candale. 哲学者でもあり理学者でもあり、その邸内には一種の標本室を持っていたといわれる。いわば当時における実験科学者というべき人(前出六六〇頁註、および私の『モンテーニュとその時代』第四部第四章四〇三頁註(2)参照)。
** 前出六六二頁註****を見よ。
 こういう路をへて、予言的物語は人々の間に信用を得てゆく。予言者というものは、人々からわざわざその著書をひもとかれるような、その言葉のあらゆるニュアンスが丹念に詮議されるような、そういう権威を一ぺん得てしまいさえすれば、あとは何を言っても人から有難がられないことはないのである。まさに巫女みこと同じである。まったくそこには沢山の解釈法があるから、器用な精神は、それを真直になり斜めになり眺めることによって、いたるところに自分の立場に都合のよい何かの意味を見出さないことはないのである。
 (c)だから、曖昧模糊もこたる文体が、古来きわめてしばしば用いられているのである! 著者たる者は、自分に後世をひきとめておくだけのことができさえすれば(もっともそれにはその人に才能がなければならないばかりでなく、それと同等またはそれ以上に、その内容が人の好みにかなわなければならないが)、それに、愚かなためでも賢いためでも、とにかく、いくらか曖昧ちぐはぐに言い現わしていさえすれば、あとはどうでもよいのである。たくさんの利巧な人々が、ふるいにかけたりすぶったりして、彼をさまざまに解釈してくれるであろう。ある時は彼のあるがままに、ある時はややゆがめて、ある時は全くあべこべに、いずれにしてもそれは彼のほまれとなるであろう。彼は自分の弟子たちのものによって富んでゆくこととなろう。先生たちが生徒の謝礼によって富んでゆくように。
 (a)こういうことが何の値打もないさまざまの物に値打をつけたのである。こういうことが沢山の書き物を信用させ、そこにあらゆる勝手な内容をつけ加えたのである。つまり同じ物が種々様々な・我々のすきな・形や意義をとるからである。(c)はたしてホメロスは、彼が言ったと人が考えているようなことすべてを、本当に言おうとしたのであろうか。神学者・立法者・兵法家・哲学者など学問にたずさわるあらゆる人々は、それぞれ思い思いにちがった問題を論じていながら、いずれもみな彼に頼り彼に訴えているが、それほど彼はいろいろな姿を見せていたのであろうか。はたして彼は、あらゆる職務・工作・職人・の共通の師であったろうか。あらゆる企てに対する共通の顧問であったろうか。(a)託宣や予言をする必要のあった者は、いずれもみなそこに自分に都合のよい根拠を見出した。ある物知りの人、しかもわたしの友人の一人であるその人は、我々の宗教を支持するために、いかにすばらしいまたいかにたくさんの暗合一致をそこに見出したか、じつに驚かれる。いや、キリスト教こそホメロスの目的であったとする説を、彼は容易にすてることができなかったのである(ほんとうに彼にとっては、ホメロスは当代のたれかれと同様に親しいのである)。(c)そして彼が我々の宗教のよりどころとしたものは、古来たくさんの人々がそれぞれ自分の宗教のよりどころとしたものと同じなのである。
 皆がプラトンをいじくり回しているところをごらん。それぞれ彼を自分にあてはめることを名誉とし、彼を自分の欲する側に味方させる。皆は彼を目下流行のあらゆる新奇の説にひきずりこみ、事態の変転によってはたちまち彼を彼自らに反対させる。皆は自分の目的のために、彼に、彼の時代には適法であった思想までも、我々の世紀においては法に背くものだからといって、捨てさせる。そうしたことは、解釈者の精神が強烈であればあるだけ強烈に行われる。
 (a)ヘラクレイトスと同じ基礎の上に、つまり「万物は人がそこに見出す外観を内に含んでいる」と言う彼のその句の上に、デモクリトスは全然反対の結論をおしたてた。すなわち、「物事は我々がそこに見出す何物をも含んでいない」と言ったのである。そして、蜜が或る人には甘く或る人にはにがいという事実から、蜜は甘くもにがくもないと論証した。ピュロンのともがらなら、「甘いのかにがいのか、甘くもにがくもないのか、または甘くてにがいのか、我々にはわからない」と言うであろう。まったくこの連中は、いつも疑いの最高峰てっぺんに立っている。
 (c)キュレネ派の人々はこう信じていた。「何物も外部からは知覚されない。ただ苦痛や快楽のように内部の接触によって触れられるものだけが知覚される」と。つまり音も色も認めないで、ただそれから我々に来るある感覚だけを認めたのである。そして、「人間はそれ以外にその判断のより所をもたない」と考えていた。プロタゴラスは、「各人にそう見えることが各人にとって真である」と考えていた。エピクロスのともがらは、「物事の認識においても、快楽においても、すべての判断は感覚にある」としている。プラトンは、「真理の判断および真理その物は、意見や感覚には関係なく、精神および思想に属する」と主張した。
 (a)こうした議論は、わたしを感覚の考察に赴かせたが、ここには我々の無知の最も大きな基礎と証拠とがよこたわっている。すべて認識されるものは、疑いなく認識者の性能によって認識される。まったく、判断は判断をする者の働きから来るのだから、彼がこの働きを彼自身の手段意志によってするのは当然である。けっして、我々が物事をその本質の力やその法に従って認識する場合のように、他の拘束によってはしないのである。ところですべての認識は、感覚によって彼らのうちに進み入る。つまり感覚こそ我々の主なのである。

(b)じつにこの道によりて、確信は人の心のうちに、
その精神の殿堂のうちに、はいりゆくなり。
(ルクレティウス)

(a)知識は感覚にはじまって感覚に帰する。結局のところ、もし我々が音・香り・光・味わい・大きさ・重さ・柔らかさ・硬さ・ざらざら・色・つや・幅・深さ・があることを知らないならば、我々は石ころと同様に何も知らないであろう。これらこそ我々の知識の大殿堂の、基礎であり根源である。(c)いやある人々によれば、知識は感覚と別物ではないのである。(a)誰であろうとわたしに感覚の反対を言わせることができるならば、それこそわたしも絶体絶命、その人の前にかぶとをぬぐであろう。感覚こそ人間認識の始めであり終りなのである。

知らずや。真理の認識はまず、
我々がその証言を否定しえざる感覚に始まるを。
そもいずこに感覚よりも信ずべきものありというや。
(ルクレティウス)

いくら感覚の働きを最小限にかぎっても、やはり「感覚の道を通り、感覚の案内によって、我々の学識はすべて入って来るのだ」ということは、認めてやらなければならないであろう。キケロは言っている。「クリュシッポスは感覚の強さと効能とをくさそうと努めたが、かえって心の中にきわめて激しい反対の論拠を生じ、ついにそれをやっつけることができなかった。そこで反対の説を持つカルネアデスは、このときとばかり、クリュシッポス自身の武器・言葉・そのものを用いて彼をうちまかし、彼に向って、『おお哀れな奴よ、お前の力がお前を滅ぼした!』と叫んだのである」と。じつに我々から見ると、「火は温めない。光は照らさない。鉄には重さもなく硬さもない」と説くことくらい、極端な不条理はない。それらの知識はみな、感覚が彼らにもたらしたものであり、人間には確実さにおいて感覚から来るこれらの知識に比べられるほどの、信仰も学問もありはしないのである。
 わたしが感覚に関して第一に考えることは、はたして人間は生れながらにすべての感覚を賦与されているかどうかということである。わたしは沢山の動物が、或いは視覚がなく或いは聴覚がないのに、ともかく完全な生活を営んでいるのを見る。我々においても、やはり何か、一つ・二つ・三つ・あるいはたくさんの・別の感覚が、欠けているのではあるまいか。まったくその中の何かが欠けていても、我々の理性にはその欠如を発見することはできないのである。我々の知覚の最後の限界であることこそ、諸々もろもろの感覚の特権なのである。それらの外には、我々が感覚を発見するのに役立つ何ものもないのである。それどころか、一つの感覚が別の感覚を見出すことすらできないのである。

(b)聴覚が視覚を是正しうるや。
触覚が聴覚を是正しうるや。
味覚は触覚を試みうるや。
嗅覚と視覚とは相互に否定することをうるや。
(ルクレティウス)

(a)それらはいずれも、我らの性能の最後の限界線をなしている。

おのがじし、その特殊の性能をもち、
その独自の力をもつ。
(ルクレティウス)

生れながらの盲人に目が見えないという概念をつかませることは不可能である。彼に視覚を持ちたいと願わせ、その欠如を嘆かせることも不可能である。だから我々は、我々の霊魂が我々のもっている感覚だけで満足していると確信してはいけない。そういう病気欠陥があっても、我々の霊魂にはそれらを知覚するだけの力がないのだから。このような盲人に対しては、いくら言ってきかせても、説明によっても論証によっても比喩によっても、彼の想像の中に、何か光・色・視覚・というようなことを理解させることはできない。そういう感覚をはっきりわからせてやるような何物も、彼の内にはないからである。なるほど人は生れながらの盲人たちが物を見たがっているのを見うけるが、それはけっして彼らがそう願うところのものを理解しているからではない。ただ、自分たちに何かが不足していること、誰もが持っているところの何かを欠いていることを、言い聞かされているからである。(c)彼らはちゃんとそれを名ざす。いや、その結果をも口にする。(a)けれども、彼らはそれが何であるかを知らない。はっきりとも、ぼんやりとも、どうにもそれを理解することができない。
 わたしは生れながら盲目で、少なくとも視覚が何であるかを知らないくらい幼い頃から盲目であったところの、家柄のよい一人の紳士と識り合ったが、彼は何が自分に欠けているかをほとんど理解していないので、我々と同様に視覚に特有な言葉を使用するが、それを彼独特の使い方で使う。人が彼に、彼がその名付親となった幼な児を引き合せたところ、これを両の腕に抱き上げて、「おお綺麗なお子さんだ!」と彼は言った。「見るからにほれぼれする。何という可愛いお顔!」と。彼は我々のたれかれと同じく言うであろう。「この室は眺めがよい。明るいうららかな日がさしている」などと。いや、それどころではない。まったく、我々がよく狩猟やテニスや射的などをやるので、そして彼もそれを聞きかじっているので、自分も同じようにこれにうち興じ、これにたずさわり、あっぱれ我々の仲間入りをしたつもりでいるのである。彼は夢中でこれに打ち興ずるが、ただ耳によってこれを味わうにすぎないのである。彼にもその馬に拍車をくれることのできそうなひろびろとした野原に出たときに、「ほれ兎が……」とでも叫んでみたまえ。やがてまた、「ほれ取れましたぞ!」とでも呼びかけてみたまえ。彼までがとったつもりで得意である。彼もいつか獲物えものをしとめた者の自慢を聞いたことがあるからである。ボールを左手にとり上げ、ラケットで打つ。火縄銃を取っては、あてずっぽうにぶっ放す。そして、家来どもが高すぎたとか横にそれたとか言うのを聞いて満足する。
 もしかすると人類もまた、何かの感覚をもたないために同じような愚をあえてしているのではあるまいか。そしてその欠如のために、物事の外観の大部分が我々にかくされているのではあるまいか。もしかすると、我々にとって自然の作った沢山のものがなかなか理解しにくいのも、それに原因するのではあるまいか。また、我々の能力を凌駕りょうがする動物のいろいろな動作は、我々がもたない何かの感覚の働きによってなされるのではあるまいか。彼ら動物のあるものは、それによって我々の生活よりも充実した・いっそう完全な・生活を営んでいるのではあるまいか。我々は林檎を感じとるのにもほとんどすべての感覚をもってする。我々はそこに赤さ・つや・香り・および甘さを見出す。そのほかにもりんごはいろいろな効能を、例えば乾燥する力とか収斂する力とかを、もっているかも知れないが、我々はそれらに相応する感覚をまるで持っていない。我々がたくさんの物の中に見出すいわゆる不思議な特性、例えば磁石の中にある引鉄性にしても、自然の中にはそれを判断しそれを知覚するいくつかの感覚上の性能があるのに、ただ我々にはそういう性能がないためにああいう種類の物の真の本質が知られずにいるのだというのが、どうやら本当なのではあるまいか。おそらく何か特別の感覚があればこそ、雄鶏は暁と夜なかの時刻がわかるのである。(c)これを告げないではいられないのである。それあればこそ雌鶏めんどりは、あらゆる習慣経験に先立って、はいたかがこわいことを知るのである。そして、それよりももっと大きな鵞鳥がちょうをも孔雀くじゃくをも恐れないのである。それあればこそ雛鳥も、猫が自分たちに対して敵意をもっていること、ただし犬の方は用心するに及ばないことを、学ぶのである。あのやさしい猫撫で声に気をつけろ、あの噛みつくような荒々しい吠え声は心配するに及ばない、と覚るのである。熊蜂、蟻、鼠などは、味わってみないでも常に最良のチーズ・最良の梨・を選ぶことができるのである。(a)鹿、(c)象、蛇(a)は、自分たちの治癒に適するある種の薬草を知るにいたるのである。感覚にして偉大な支配力を持たないもの、その力によって数限りなき知識を持って来ないものはないのである。もし我々が音声や調和についての理解を欠くならば、我々の知識の残る全体に想像もできない混乱を生ずるであろう。まったく、各感覚特有の性能に属するもののほかに、いかにたくさんの根拠と結果と結論とを、我々は各感覚を相互に比較することによって引出すことか! 誰か頭のよい人が、始めっから視覚なしに造られた人間というものを想像して見るとよい。そしてそのような欠陥がどんな無知と混乱とを彼にもたらすか、どんな暗黒と盲目とを我々の霊魂の中にもちきたすか、を研究して見るといい。そこではじめて、何かもう一つの感覚の・いやもしかすると二つまたは三つの感覚の・欠如が(もし我々にそういう欠如があるならば)、真理を認識する上でどんなに重大な影響を我々に与えるものであるかを、人は悟るであろう。我々は一つの真理を、我々の五感に訴えそれらの協力によって作り上げた。だがことによると、むしろ八つないし十の感覚の協同協力が、真理を確実にその本質において知覚するためには必要であったのかも知れないのである。
 人間の知識を否定する諸学派は、もっぱら我々の諸感覚が不確実でひ弱であることをその理由とする。まったく、すべての認識は諸感覚の仲介によって我々のうちに生れるのであるから、もしそれらが我々に報告を誤るならば、もしそれらが外界から我々のもとに運んで来るものを変化させるならば、もしそれらによって我々の霊魂の内に流れ込む光明が途中で暗くなされるならば、我々はもはやたよるところをもたないのである。このような極度の困難から、つぎのような諸思想はすべて生れ出たのである。例えば、「各々の物は自らの内に我々がそこに見出すすべてのものをもっている」とか、「それは我々がそこに見出すと思う何ものをももっていない」とかいうような思想も。またエピクロスの、「太陽もまた我々の視覚が判断するところより大きくはない。

(b)それはともあれ太陽は、
我らの視覚が教える以上に大きからず。
(ルクレティウス)

(a)物体をその近くにいる者に大きく見せ・遠くにある者には小さく見せる・ところの外観は、二つながら真実である」という思想も、

(b)我らは眼に誤りありとは信ぜず。
精神の誤りを眼に転嫁することをやめん。
(ルクレティウス)

(a)それからもっと大胆な、「諸感覚は決して誤ることがない。我々は彼らのいうままにならなければならない。そして我々がそこに見出す差異と矛盾とを許してやるために、よそにその理由をたずねなければならない。いや全く別の嘘や夢をこねあげてもよいから(彼らはそこまで大胆であった)、これらの感覚を咎めてはならない」という思想も。(c)ティマゴラスは断言した。「片眼をおさえてもすがめても、わたしは蝋燭ろうそくの火を決して二つに見なかった。この錯覚は思想の欠陥から来るもので、器官の欠陥から来るのではない」と。エピクロスのともがらにとって(a)あらゆる不合理のうち最も不合理なのは、感覚の力と結果とを否定することである。

諸感覚は決して我らを欺かず。
もし理性が、何故に物近くにあれば角あり
遠くにあれば円く見ゆるかを、説明しえざるならば、
かじ、この二つの現象に、
嘘の解釈にてもよし案じ出して与えんには。
ゆめ、手の中より明証をとり逃すべからず。
ゆめ、最初の所信を捨つべからず。
我々の生命と存続とがよって立つところの、
あらゆる信頼の基礎をくつがえすべからず。
何となれば、感覚を信じて谷を避け、
またその他さまざまの危害を避けざるならば、
たんに合理性のみならず全生命が、
たちどころに崩れ去るべければなり。
(ルクレティウス)

 (c)このやけくその・甚だ非哲学的な・勧告はいったい何を意味するか。ほかでもない。「人間の知識はただ不合理な・無分別な・狂った・理性によって支持されるにすぎないが、それにしても人間は、自分に勿体もったいをつけるためにはそういう理性でも用いる方がよい。いや、自分の必然的な愚劣さを肯定するくらいなら、どんな空想的な薬でもかまわずに用いる方がよい」ということである。何という有難くない真理であろう! 人間は感覚が自分の知識の至上の主であることを妨げることはできないが、しかし、その感覚はいろいろな場合に不確実で誤りに陥りやすいのである。このときこそ我々はどこまでも戦わなければならないのである。そして、いよいよ今みたいに正当な力が尽きたときには、頑固さをも大胆さをもふてぶてしさをもそこに用いなければならないのである。
 (b)エピクロスのともがらが言ったことが真実なら、すなわち「もし感覚の示す外観が嘘であるとすれば我々に知識はない」ということが真実なら、また、ストア学者の言うところ、すなわち「感覚の教える外観は大いに間違いだらけだから、それは我々に何らの知識をも与えない」ということが真実なら、我々は、これら二つの大きな独断的学派にはお気の毒ながら、「世に知識なるものは全くない」と結論するであろう。
 (a)感覚の作用の誤りや不確実に関しては、人それぞれ好きなだけその実例を挙げることができるであろう。それほど、感覚が我々に与える嘘いつわりは日常普通なのである。谷にこだまするときには、後ろの方から来るラッパの音がまるで前の方から来るように聞える。

(b)海の彼方に聳ゆる山々は、
ただ一つに見ゆれどもまことは、
  互いに相へだてて並び立てるなり。
  我ら岸に沿いて舟をやるときは
丘も原もともに向いて走るが如く見ゆ。
  我ら馬を河の中にたつれば、
  或る力ありて我らの馬を、
流れに逆らいて行かせつつあるがごとし。
(ルクレティウス)

(a)人さし指の上に中指をからませておいて、その下に鉄砲玉をいじってごらん。玉がただ一つしかないと言うには、よほど自分に無理をせねばならない。それほど感覚はそれが二つあるように感じさせる。まったく、感覚がしばしば理性を支配し、理性が誤りと知り・そうと判断した・印象までも理性に承認させるということは、しょっちゅう見られることなのである。わたしは触覚を別にする。その作用は最も直接であり最も痛切で実質的である。それはその肉体の上にもたらす苦痛によって、ストア的な立派な決心をさえ、しばしばくつがえした。その霊魂の中に、「疝痛せんつうだって、ほかのすべての病気や苦痛と同じく取るにたらない。賢者がその徳によって得た至幸至福を打ち倒すほどの力なんかあるものか」という持論を、堅い決心をもっていだいていた人にさえ、「腹が痛い!」と叫ばせた。どんなに柔弱な心でも、我々の太鼓やラッパの音をきけばふるい立つ。どんなにかたくなな心でも、微妙な音楽には感動せずにいられない。いかにひねくれた心であっても、あのがらんとして薄暗い我々の寺院の中に立って、さまざまな装飾や儀式を見、我々のオルガンの神々しい調べや我々の歌ごえの荘厳敬虔な調和を聞いては、多少とも尊敬の感情に打たれないではいられない。侮蔑の念をもってここに入った者でさえ、心の中に多少の戦慄・多少の畏怖・を覚え、ついには己れの持説に疑いをいだくのである。
 (b)わたしも、自分をそんなにかたくなだとは思っていない。ホラティウスやカトゥルスの詩句が美しい若い人の口から豊かな声で歌われるのをきけば、やはり冷静ではいられないのである。
 (c)いや、ゼノンが「声は美の花である」と言ったのはもっともであった。人はわたしにこう信じさせようとした。「我々フランス人が誰でも知っているある男は、自分が作った詩句を吟誦してまんまとあなたを感心させたが、それらの詩句も紙の上で見れば耳に聞くほどのものではないのであって、あなたの眼はきっと耳とは正反対の判断をするであろう。それほど朗誦は、うたわれる作品に思うがままの価値と風情とを付け加える力を持っている」と。なるほどそう考えると、フィロクセノスもさほどの気むずかしやではない。彼はある人が彼のある作品を悪い調子で歌うのを聞くや、その人の秘蔵のタイルを踏み砕いて、「わたしはお前のものをこわす。お前はわたしに属するものを穢したから」と言ったそうだが、これは仕方があるまい。
 (a)固い決心で自ら死をえらんだ人たちさえが、その身に向って打ちおろされる太刀を見まいと顔をそむけたというのはそもそも何のためであろう? 自分の健康のために切開や焼灼しょうしゃくの手術を望み、それを命じた者が、その準備や道具や手術を見るに堪えないのはなぜであろう? 見ても見なくても痛さに変りはあるまいに。これこそ、もろもろの感覚が理性の上に大きな権力を及ぼすことを証明するのに格好の例ではあるまいか。我々はあの髪の毛が小姓か下僕からの借り物であると知っても駄目である。「この紅い唇はスペインから来たのだ。あの白さ滑らかさは大洋から来たのだ」と知っても駄目である。やはり視覚は、我々にその人をよ り愛嬌ある可愛らしい人と見させずにはおかない。これくらい理性に反したことはない。まったくそこにはその人のものは少しもないのである。
* 当時の白粉おしろいは貝殻を粉末にして造られたからである。

我々は化粧や着付によりて魅せらる。
金銀宝石が欠点を掩いかくせばなり。
娘そのものはむしろ魅力の一小部分にすぎず。
人は、しばしば、数多き飾りの蔭に、
自分が愛する者を見出すに困難す。
実にこの美しきよそおいの下に、
富める恋人は我らの眼を迷わすなり。
(オウィディウス)

いかに詩人たちは感覚の力を重んじているか。彼らは自分の影に恋慕した狂えるナルシスの姿を描いているではないか。

彼は己れを賞賛せしめたるすべてのものを賞賛す。
しれ者よ! 彼が恋いこがるるは己れ自らなり。
ほむるに自らをほめ、求むるに自らを求め、
自ら点じたる火にその身をこがせり。
(オウィディウス)

またピュグマリオンが自ら造った象牙の像を見て心乱れ、生きた女に対するようにこれに仕えたさまを歌っているではないか。

彼は幾たびとなく彼女に接吻しつつ
その答を得つつあるかに思いなしたり。
彼は彼女をとらえ、抱きしめ、
その指の下に彼女の肉体うち震えるが如く思えり。
否、余りに圧してそこに青き跡の残らんことをさえ
彼は恐れたり。
(オウィディウス)

 試みに一人の哲学者を、目の荒いほそ編の金網籠に入れ、ノートル・ダム・ド・パリの塔のてっぺんからぶらさげてごらん。彼は明白な理性によって、そこから落ちることはとうていありえないと知っているであろうが、自ら非常な高さにあるのを見れば、やはり(彼が屋根屋の職になれていないかぎり)、恐怖戦慄を禁じえないであろう。まったく我々は、鐘楼の回廊に立って平気でいるにはなかなか骨が折れる。それは石造りであっても、外が見透かされるかぎり、やはりこわいのである。中にはそうした場合を考えることさえできない者もある。またこういう二つの塔の間に、我々が十分その上を渡って歩けるほどの幅のはりを一本わたしてみよう。いかに堅固な哲学的知恵を持っていても、我々はその上を、それが地上にあるときのように渡ってゆくだけの勇気は何としても持てない。わたしはしばしばピレネーのこちら側の山の中で経験したのだが(もっともわたしは、そういうことを中ぐらいにしかこわがらない者の部類に入るが)、恐怖することなく、また膝頭やももが打ちふるえることなく、その無限の深さを見おろすことができなかった。そのくせその淵までは、ゆうにわたしの身の丈くらいの距離があって、わざと飛び込まない限り落ちようはずはなかったのである。そこでわたしは、またこういうことに気がついた。すなわち、「谷はいかに深くても、その斜面に一本の樹とか一つの岩石があって多少とも眼を遮りとめるならば、まるでそれが落下の途中で我々がしがみつくたよりにでもなるかのように、幾分か我々に安心を与えるが、何一つ眼を遮るものもないすべすべした崖にのぞんでは、我々はただ見おろすだけで目まいを感ぜずにはいられない」ということに。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)げにこれを望めば、眼と心と、二つながら茫乎たらざるをえず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。(a)これは明らかに視覚の詐欺である。あの有名な哲学者はわれとわが眼をくり抜いて霊魂を視覚から与えられる迷いから解放し、いっそう自由に哲学することを得たのであった。
* デモクリトスを指す。この人のことは既に第一巻第十四章および三十九章に語られている。
 だが、そんなら同時に彼は耳にも栓をするべきであった。(b)テオフラストスはこの耳のことを、我々を乱し変えるほどのはげしい印象を受け入れるから、我々がもつ最も危険な器管であるといった。(a)いや結局、あらゆる他の感覚をも、すなわちその自分という存在をも、その生命をも、絶つべきであった。まったく感覚は、どれもみな我々の理性や霊魂を支配する力をもっているのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)しばしば或る姿、或る声、或る顔が、強く精神をゆり動かすことあり。心配や恐れもまた同じ結果を生ずることあり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)医者の言うところによれば、ある種の楽器の音をきくと、興奮のあまり狂人になる性質の人々もあるそうだ。わたしは、テーブルの下で骨をがりがりかじる音を我慢してきいてはいられないという人々を見たことがある。鉄をこするやすりの激しい鋭い音にいらいらしない人はほとんどあるまい。またすぐ傍でくちゃくちゃ物を咬む音をきいたり、喉や鼻のつまった人の話声をきいたりして、憤りや憎しみにまで興奮する人だってたくさんいる。つねにグラックスにつきそっていて、主人がローマで演説をするときには、その声を和らげたり強くしたりさまざまに加減したというあの笛吹きは、もし音響の調子や性質が聞き手の判断を左右する力をもたないものとすれば、いったい何の役目をしたのであるか。まったくこの判断という立派な能力の堅固さは、大いに礼賛するだけのことがある。それはこれほど微かな息の加減にさえ動かされ変るのだから!
 もろもろの感覚が我々の悟性をひっかけるその同じぺてんに、感覚もまたやがて自らひっかかる。我々の霊魂は、ときどき同じように、感覚に対して復讐をするのである。(c)この二つは、競って嘘をついたり互いにだまし合ったりしている。(a)我々が憤りにかられながら見聞きしたものは、それをありのままに聞き取ってはいないのである。

人はそのとき二つの太陽と二つのテーバイとを見る。
(ウェルギリウス)

我々が愛する者は実際以上に美しく見え、

(b)かくて我らはいたる処に見る。醜き女たちもまた、
熱愛せられて大いなる誉れをうくるを。
(ルクレティウス)

(a)我々のいとうものは実際よりも醜く見える。憂え悶える者にとっては、日の光さえ暗くかげって見える。我々の感覚は、霊魂の情熱のためにたんに変えられるだけでなく、往々にして全く麻痺してしまう。ほかの事に心をうばわれているときには、我々はいかに多くのものを、目のあたりに見ながら認識しないことか。

最も目につく物についてさえ、君は認めたまわん。
心そこにあらざれば、つねに、それらのもの、
無きに等しく、また、はなはだ遠きにあるがごとくなるを。
(ルクレティウス)

どうやら霊魂が感覚の働きを内にひきつけ、抑えつけているように思われる。だから人間は、その内面も外面も、ともに無力と嘘とに充満しているのである。
 (b)我々の生涯を夢にくらべた人々は正しかった。おそらくはその人たち自らが思う以上に。我々が夢を見ているとき、我々の霊魂は生きている。働いている。その全性能を働かせている。目覚めているときと、まさり劣りはないのである。たとえぼんやりとしてではあっても、そこには決して闇夜と真っ昼間との間にあるような相違はないのである。さよう、それは闇夜と物蔭とくらいの相違である。あそこでは霊魂が眠っている。ここでは霊魂がまどろんでいる。ただ程度の差である。どっちにしてもつねに闇、常夜とこよの国〔キメリア〕の闇である。
* ホメロスの詩中にうたわれた死者の国。ポルトー註。
 我々は眠りつつ覚めている。覚めつつ眠っている。わたしは夢の中でそう明らかには見ないけれども、覚めているときだって十分清らかに・曇りなく・見ることはないのである。それに、眠りは深くなると、ときに夢までも眠らせてしまう。けれども我々の覚醒だって、完全に夢想をふき散ずるほどには覚めていない。夢想こそは覚めたる者の夢であり、ただの夢よりもさらに悪い夢である。
 我々の理性と我々の霊魂とは、眠っている間に生れた思想や意見までも受けいれ、我々の夢の中の行動まで昼間の行動に対すると同様の賛意をもって承認するくせに、なぜ我々は疑って見ないのか。「我々の思考、我々の行為も、またもう一つ別の夢なのではあるまいか。我々の覚醒はある種の眠りなのではあるまいか」と
* ここに我々東洋人は『荘子』「斉物論篇」の中の万人関知の一節を想起せざるを得ない。「昔は荘周そうしゅう、夢に胡蝶こちょうれり。栩栩然ひらひらとまいて胡蝶なり。ずからたのしみてこころかなえるかな。しゅうたるをさとらざるなり。俄然にわかにしてめざむれば、遽遽然まぎれもなしゅうなり。周の夢に胡蝶とれるか、胡蝶の夢に周とれるかを知らず」。どうもモンテーニュは、いわゆる万物斉同の理をいつもその考えの底にふまえて色々と言っているように思われるのだが、ここに期せずして同じような詩的表現にめぐり合った。
 (a)たとえ感覚が我々の最初の審判者であるにしても、相談すべきは人間の感覚ばかりではないのである。まったくこの働きにおいては、動物もまた人間と同様の・否それ以上の・権利を持っているのである。確かにある動物は、人間よりも鋭敏な聴覚をもっている。あるものは視覚、あるものは嗅覚、あるものは触覚または味覚の、人間以上に鋭敏なものをもっている。デモクリトスは、「神々と動物とは、人間よりもずっと完全な感覚力をもっている」と言った。ところで、彼らの感覚の結果と我々のそれらとの間の差異は非常なものである。我々の唾液は、我々の傷を清めいやすけれども蛇を殺す。

かくまでに、その差異や大なり。
一方のための養いは一方のための毒となる。
さればしばしば、蛇は人間の唾液にふれてたおれ、
われとおのれが身を噛みつつ死することあり。
(ルクレティウス)

どんな性質を我々は唾液に与えたらよいのか。我々の感覚によって判断すべきか、それとも蛇のそれによってなすべきか。両方の感覚のいずれによって、我々は我々がもとめるその真の本質を検査すべきか。プリニウスの言うところによると、インドには海兎とやらいうものがいて我々を毒するが、我々もまた彼らのためには毒であって、ただちょっと触れただけで彼らを死に到らしめるそうである。いったいどっちが本当に毒なのか。人間の方か、魚のほうか。どっちを我々は信ずべきか。魚が人について感ずるところをか、それとも人が魚について感ずるところをか。(b)ある性質の空気は人間を害するが、少しも牛を害しない。ある空気は牛を害しながら、人間を害しない。二つのうちのどっちが、ほんとうに、本質的に、毒性をもっているのか。(a)黄疸おうだんにかかったものは、すべてのものを黄色っぽく・普通人よりも青白く・見る。

(b)すべてのものが黄疸病みには黄色に見ゆ。
(ルクレティウス)

(a)医者がヒュポスフラグマと呼ぶ病は一種の皮下溢血であるが、これを持つ人々はすべての物を赤く血の色に見る。我々の視覚の作用を変化させるこれらの素質は、ことによると、動物においては一般的に・常時普通に・あるのではあるまいか。まったく、彼らのあるものは我々の黄疸病みのように黄色い眼をしており、また他のあるものは血のように赤い眼をしている。どうもこれらのものには、物の色が我々においてとは別様に見えるらしい。いったいいずれの判断が真実なのであろうか。まったく、物の本質はただ人間にだけ知らされるとはきまっていない。硬さ、白さ、深さ、すっぱさは、動物にも、我々人間におけるように、知覚され、役に立つ。自然はそれらの使用を、我々に与えたように彼らにも与えたのである。眼をほそくして見ると物体が長く伸びて見える。たくさんの動物はそのようにほそい眼をしている。して見ると、そのように長いのが、あるいはこの物体の本当の形であって、我々の目が普通にして見てとる形は、本当のものでないことになる。(b)眼を下から押えつけると、物は我々に二重に見える。

燈火に二つの火影あり、
人に二つの顔二つの姿あり。
(ルクレティウス)

(a)もし我々が何かで耳をふさぐならば、あるいは耳の穴がつまっているならば、物音を常とは変ったように受けいれる。毛だらけの耳をもつ動物、また耳の代りにごく小さな穴をもつにすぎない動物は、したがって我々が聞くようなものを聞かないで、ちがった音を聞きとる。我々はお祭やお芝居で、かがり火の前に何かの色に染めたガラス板をおくと、その場にあるすべての物があるいは緑に・あるいは黄に・あるいは紫に・見えるのを経験する。

(b)これは、柱と横木との間に張りまわされ、
劇場の上にはたはたと風にひらめく、
あの黄色や赤や褐色や色とりどりの幕が、
常になすわざなり。
そは、その下にある舞台をも、また桟敷をも、
元老や貴婦人をも、また神々の像をも、
ことごとくその色に染めなすなり。
(ルクレティウス)

(a)動物の眼もいろいろな色をしているから、おそらく物の外観をその眼と同じ色に見ていることと思う。
 だから感覚の作用を判断するには、我々がまず第一に諸動物と、そのつぎには我々同士の間で、意見が一致していなければならない。ところがこの一致がまるでない。我々はしょっちゅう議論をする。なぜなら、一人は何事をも、ほかの一人とは別様に見・聞き・味わう・からである。いや、感覚が我々にもたらすイメージについてさえ、やはりいろいろな議論が絶えないのである。自然の一般的規則に従って、子供は三十歳の大人とは別様に見・聞き・また味わう。この三十の大人もまた、六十の老人とは別様に感覚する。同じ感覚が、ある者にはぼんやりとして暗く、ある者には明るく鋭い。我々は物事を、我々の本性に応じて、それが我々に思われるように、いろいろに受け取る。ところがこの我々の「思われる」は、甚だ不確実な・頗る議論の余地がある・ものであるから、「我々は『雪は我々に白く見える』と告白することはできるが、『雪はその本質においてほんとうに白い』と実証することには責任がもてない。そしてこの第一段がゆるぎ出すと、世のすべての学問は、必然的に、泡沫うたかたのように消えてなくなる」と言う者が出てきても、もはやちっともめずらしくないのである。それに何としたことか。我々の諸感覚はお互いに妨げあっている! 画面が眼には盛り上って見えるが、いじって見れば平らなようである。麝香じゃこうは快いものなのか、そうでないのか。それは嗅覚をよろこばすけれど、味覚を刺激するではないか。体のある部分に効いて他の部分には害となる薬草や膏薬もある。蜜は舌をよろこばすが、見た目には気持がわるい。あの・紋章学の術語で pennes sans fin と呼ばれる・羽根型の彫りのある指輪を見て、正しくその幅を識別する眼はないのである。自分の指にはめてぐるぐるまわして見てさえ、その一方がだんだん幅広くなり・片方がだんだん狭くとがってゆく・という錯覚に、かからない眼はないのである。だがいじって見れば、同じ幅、どこも同じ幅、に思われるのである。
 (b)むかし、快楽を助長するために物を大きくうつし出す鏡を用い、これから働かそうとする器官が大きく見えて、ますます自分をよろこばすようにと望んだ人たちがあったが、いったい彼らは二つの感覚のどっちを重んじたのか。彼らの器官を思うように太く大きく見せる視覚をか。それともそれをちっぽけなものに感じさせる触覚をか。
 (a)物にこれらのさまざまな性質を貸すのは我々の感覚であって、物の方はかえってそれをただ一つしかもたないのか。例えば我々が食べるパンについてみるに、それはただのパンにすぎないが、我々がこれを摂取すれば、骨となり血となり肉となり毛となりまた爪となる。

(b)食物は我らの体内をめぐるうちに消えて、
全く別のものを産みいだす。
(ルクレティウス)

(a)樹の根が吸い上げる液は幹となり葉となり果実となる。いきはただ一つであるが、これをラッパに吹き込むと様々な音色になる。そこでだ。もう一度いうが、これらの物にさまざまな性質を与えるのは我々の感覚なのか、それともそれらの物が真にそういう性質をもっているのか。だがこういう疑問にぶつかって、我々はそれらの真の本質について一体どのように決定することができようか。それに、病気をしたり・うわ言をいったり・昏睡状態にあったりする場合には、物事が健康な人や賢者やまたは目覚めた者においてとは別様に我々に見えるのであるから、我々の素直な状態、正常な気分もまた、そういう状態に相応した或る在り方を物事に与え、乱れた気分がそうするように物事を自分に順応させてしまうということ、つまり、我々の健康もまた病気と同じく物事にその容貌を与えるということも、本当らしくはないだろうか。(c)どうして節度のある人も、節度のない人と同じように、ものごとに自分にふさわしい形を与え、同じように自分の性格をそこに刻みこまないであろうか。
 酒嫌いは酒にまずさを、健康者はこれにうまさを、渇いている者はこれにあまさを、もたせる。
 (a)さてこうした我々の状態は、自分に物事を順応させ、自分に従って物事を変化させるから、我々はもう物事の真相をほんとうに知ることはできない。まったく何一つとして、我々の感覚によって曲げられたり変えられたりせずに我々のところに達するものはないのである。コンパスや定規の類が狂っているときには、これから割り出されたすべての釣合も、またそれを基にして建てられたすべての建物も、必然的に不完全な・欠陥のある・ものとなる。我々の感覚の不確実は、それが作り出すところのものすべてを不確実にする。

ここに一軒の家を建つるに、もし、
定規に曲りありて正しき角度を与えざれば、
また水準器に少しなりとも狂いあらんには、
必ずすべては曲り傾き
一部は早くも崩れ落ちなんとす。
やがては全部、ただ始めの過ちのために、崩れはてなん。
同様に、我らの判断もまた、ことごとく、
必然的に誤謬のみならん。そは、
すべて、我らの誤れる感覚の所産なればなり。
(ルクレティウス)

 それに誰がこれらの差別を判断することができるか。我々は宗教の争いに際して「いずれの側にも属しない・えこひいきのない・一人の判断者を必要とする」と言うが、そんなものはキリスト教徒の間にありようがない。ここでもそれは同じことである。まったく、老人であれば老人の感情について判断することができない。彼自らその論において一方の当事者であるからだ。若くても同じである。健康でも同じことである。病人も、眠っている者も、覚めている者も、やはり同じである。誰かこれらの性質をすべて免除された者があって、何らの偏見にもとらわれずに、以上のような問題を全く自分に関係のないものとして、判断してくれなければならない。そう考えると、我々には誰か、いまだかつて存在したことのない判断者が必要になってくる。
 我々が物事から受け取る写象を判断するには、我々に判断の器具が一つ必要であろう。その器具を検査するには、証明がいるであろう。その証明を確かめるには、また一つ器具がいるであろう。つまり堂々めぐりできりがない。もろもろの感覚は自ら不確実に充満していて、我々の紛争を片づけることができないのであるから、結局我々は理性に訴えなければならない。ところがいかなる理性も、別にもう一つ理性がなくては確立されないだろう。そこで我々は無限に後退する。我々の想像**は外部にある物事をぴったりと写してはいない。それは諸感覚をとおして抱かれたものだ。しかもそれらの諸感覚は、外物を解釈せずに、ただ自分の印象だけを解釈する。したがって我々の想像・写象は、物から来るのではなく、ただ諸感覚のうける印象から来るのであって、その印象と物そのものとは別ものなのである。だから写象によって判断する人は、物そのものとは別のものによって判断しているのである。また、「諸感覚の印象は外物の性質を類似的に〔写生して〕霊魂に報告しているのだ」と言ったって、霊魂や悟性の方ではどうしてその類似を信ずることができよう。自ら外物とは何の交渉ももたないのだから。ちょうどソクラテスを識らない者が彼の肖像を見て、「これは似ている」とは言えないようなものだ。ところで、それでもなお写象によって判断したいのなら、やってごらん。すべての写象によってするというなら、それは不可能である。まったくそれらはお互いの矛盾撞着によって妨げあっている。これは我々が経験によって見るとおりである。では選び出した幾つかの写象が他の写象を調整することにするか。それには、この選んだ写象をもう一つの選んだ写象で、その第二のものをさらにまた第三のもので、確かめなければならない。したがって、それはいつまでも果てしのないことである。
* 原語 apparences. ポルトーは image と註している。物の外観が感覚を通じてわれわれの心中に投影する写象。すなわち物その物とはちがうから仮象と言ってもよかろう。
** 原語 fantaisie. ポルトーは imagination と註している。想像といってよかろう。感覚の受けたる映像に解釈を加えたもの、したがって想念とか思想、あるいは観念と言ってもよかろうか。
 要するに、我々の存在にも物事の存在にも、何ら恒常的な存在性**はない。我々も、我々の判断も、いや、すべての死すべきものは、いずれも流転してやむことがない。だから、判断者も被判断者もともに不断の動揺変化の中にあるのだから、両方の間に何一つとして確かなものは設定されない。
* 原語 notre ※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)tre, celui des objets.「エートル」という語は「存在」という意味とともに「本体」「本質」の意味をもっている。以下はいよいよこの章の結論。
** 原語 existence.
 我々は存在エートルと何らの交渉かかわりをもたない。なぜなら、人間はみな、つねに発生と死滅との中間にいて、自己に関してただぼんやりした影のような写像アパランスと、不確実でたよりない臆見オピニオンとを、与えているだけだからである。もし万が一にも君が君の思考を、もっぱら人間の本体エートルを捉えたいということに集中するならば、それは水をつかもうとする者と少しもちがわないであろう。まったく、本来流れてとらえ難い物をつかまえようとすればするほど、ますますそのつかまえようとするものを逸することになるのだ。そんな風に万物は一つの変化から他の変化へと推移するから、理性はそこに真の実在を求めるとき、恒久に存続するところの何物もつかまえることができないで失望する。なぜなら、すべては、今ようやく存在に入ろうとしつつあってまだ完全に存在していないか、あるいはまさに生れようとしていながら早くもすでに死に始めつつあるか、どちらかであるからだ。プラトンは言った。「物体はいまだかつて実在性エグジスタンスを持たなかった。ただ誕生だけしかもたなかった」と。(c)つまりホメロスがオケアノスをもって諸神の父とし、テティスをその母としたのは、万物が不断の動揺変化の内にあるゆえんを教えようとしたためであると考えたからで、これは彼自らが言うように、彼以前のすべての哲学者に共通な意見であった。ただ独りパルメニデスだけは万物に運動を否定したが、かれプラトンはこの運動の偉力を重視しているのである。(a)ピュタゴラスは、「すべての物質は流動してとどまることがない」と言った。ストア学者たちは、「現在というものはない。我々が現在とよぶところは未来と過去とのつなぎ目にすぎない」と言った。ヘラクレイトスは、「人間は二度と同じ河に入ったことがない」と言った。(b)エピカルモスは言った。「むかしお金を借りた者は今それを負うていない。前の晩にあす朝食をしに来るようにとよばれた者は、来て見ると今日はもうよばれていない。二人とも、もう同じ彼らではなく、別人となっているからだ」と。(a)また、「死すべき物質は二度と同じ状態にあることを得ない」と。まったくそれは、迅速な変化によって或る時は散らばり或る時は集まり、来るかと見れば去るのである。したがって、生れ始めたものも決して完成した存在には到達しない。つまり、この誕生は完成することがなく、究極にとどいたもののようには停止することがなく、むしろその種子の時代からつねに変化しながら転々として移ってゆくからである。例えば、人間の種子からまず母の胎内に形のない果実を生じ、つぎに胎児の形ができ、いよいよ胎外に出ると乳飲児となり、やがて幼年となり、少年となり、それから青年となり、また中年となり、ついには、よぼよぼの老人となり果てるように。だから、後から来る年代はつねに前の年代を解きくずしてゆく。

(b)実に時は全宇宙の姿を変う。
新たなる状態が必ず古き状態に代り、
何物も同じ姿にしばらくもとどまることなし。
自然は万物を変え改む。
(ルクレティウス)

(a)それに、我々人間は愚かにも一種の死ばかり恐れているが、じつは他のいろいろな死をすでに通過したし、また現に通過しつつある。まったく、ただヘラクレイトスが言ったように、火の死滅は風の発生となり、風の死滅は水の発生となる。それどころか、このことを我々は、もっと明白に、我々自身のうちに見ることができるのである。花やかな壮年時代がようやく移ろい衰えると、老年が訪れる。青春時代が終ると壮年の時代が、少年時代が終ると青年の時代が、赤子の時代が終ると少年時代が到来し、昨日が死んで今日が生れ、今日が死ぬと明日が来る。世には何一つとして留まるものがなく、何一つとしてつねに一つであるものはない。まったくその証拠には、もし我々がつねに同一であるとすれば、どうして今日はこのことをよろこび、明日はまた別のことをよろこぶのであろう。どうして我々は正反対のものを愛したり、憎んだりするのであろう。ほめたりけなしたりするのであろう。どうして同じ思想の中に同じ感情を保持しないで、異なった情念をいだくのであろう。まったく変化もしないのに我々が別種の感情をとるということは本当らしくないのである。そして、変化をこうむるものは、同一のものとして留まらず、同一のものでないならば存在してもいないのである。いやむしろ、全一な存在であっても、つねに他のものから他のものへとなり変りながら、それぞれの存在にすなおに変ってゆくのである。だから自然の感覚もまちがうのである。「在る」とはどういうことかよく知らないために、見えるものを在るものと混同するのである。けれども、それでは何が真に在るところのものであるか。永遠なもの、すなわち、始めもなく終りもないもの、時がそこに何らの変化をももたらさないもの、である。まったく、時とは動くものである。それはあたかも影の形に添うがごとく、流動してやまない物質と共にあらわれ・しばらくも安定せず・恒久でない・ものである。「前・後」「あった・あろう」等の語はそれに属していて、いずれも見ただけで、それが「在るところのもの」でないことをはっきりと示している。まったく未だ存在に達しないもの、すでに存在をやめたものを「在る」というのは、ひどい愚かさ、余りにも明白な嘘であろう。あの「現在」「瞬間」「今」というような、それによって主として我々が「時間」の理解を支持しているらしい数語にいたっては、理性に発見されるとたちどころに破壊される。まったく、理性はすぐにこれを未来と過去とに分ける。それは必然的に二つに分たれるべきものと見ざるをえないのだ。測られるところの自然もまた、これを測るところの時と、ちょうど同じことである。まったく、自然の中にも一つとしてじっとしているもの、恒久なものはないのである。否、そこでは何もかもが、あるいは生れたか、あるいは生れかかりか、あるいは死にかかりか、である。だから唯一の実在者である神について、「彼はあった」とか「彼はあるだろう」とかいうのは罪悪であろう。まったくそのような言葉は、永続することも存在の中にじっとしていることもできないものの変化や推移や変遷を示す言葉なのである。だから、こう結論しなければならない。神独りが在る。決していかなる時の尺度にもよることなく、むしろ恒久不動の・時によっては測定されず・どんな変化をもこうむらない・永遠に従って、存在する。その前には何ものもなく、その後にも何ものもないであろう。何ものも、それより新しくはなく、それよりまぢかでもない。それは現実的に在る「一」で、唯一つの「今」によって「永遠」を満たしている。いや、彼独りをおいて真に在るものはない。「彼はあった」とも「彼はあるであろう」ともいうことはできない。それは始めもなく終りもないものである
* 「我々は存在と……」(七〇九頁三行目)からここに至る三頁にわたる長いパラグラフは、途中「プラトンは言った……」から「……別人となっているからだ」(七〇九頁)および引用句(b)(ルクレティウスの句)(七〇九―七一〇頁)を除き、すべてプルタルコスの所論をアミヨの訳文によってほとんどそっくり借用したものである。次のパラグラフの始めに「ある異教徒」とあるのは、そのプルタルコスを指している。
 ある異教徒のこんなにも敬虔な以上の結論に、わたしはただ、同じく異教徒であるもう一人の証人の言ったつぎの言葉をつけ加えて、わたしに際限なく材料を提供してやみそうもない・この長い退屈な・論を閉じようと思う。その人は言った。「おお人間とは何といういやしい・またあさましい・ものであろう! その人間性より上にあがらない限りは!」と。(c)実に立派な言葉である。そこには有益な願いがこもっている。だがその願いは同じように不合理である。まったく、(a)手のひらよりも大きなものを握ろうとし、腕にあまる大きなものを抱こうとし、また我々の両脚のひろがりが及ばない幅をまたごうと希望することは、不可能でありまた自然に反している。人間が自分より上に・人間性より上に・のぼろうとするのはそれと同様である。まったく人間は、自分の眼をもって見、自分の手をもって握るよりほかに仕方がないのである。ただ神が特別に彼に手をお貸し下さるならば、彼もまたあがるであろう。人間特有な手段を捨てしりぞけ、純粋に天から来る手段によって引き上げ押しあげられながら、あがるであろう。
 (c)この神々しい奇跡的なメタモルフォーズ〔変化〕を実現できるのは、じつに我々のキリスト教的信仰であって、彼**のストア的徳ではない。
* セネカを指す。
** 「彼」とは勿論前出セネカをさす。――モンテーニュはこの結論の中できわめて巧みなカムフラージュをしているが、彼の真意は明白に読みとられる。最初に※(丸1、1-13-1)いかにも感心したようにセネカの句をかかげながら、※(丸2、1-13-2)同時に「人間性より上にあがらない限り」という部分の不合理を指摘している。そうしておきながらまた何食わぬ顔で、※(丸3、1-13-3)「純粋に天から来る手段によって」ひきあげられようとし、(c)の加筆では更にキリスト教の信仰にたよろうという気持をもらしているが、これらはすぐ前の※(丸2、1-13-2)によってあらかじめ打ち倒されている。それに彼がこれまでにながながと述べて来たところも、畢竟キリスト教を含めてすべての宗教が人間精神の所産であるということではなかったか。セネカのストア主義はだめで、キリスト教はよいということに最後はしてあるが、モンテーニュはもともと、キリスト教を純粋に神的天的なものとは考えていないのである。要するにモンテーニュは、ここで神を否定してはいないが、神を余りにも偉大高遠なものにして、われわれ人間には手のとどかない遠い所に追いやってしまった。そういう神は少なくとも一般キリスト教徒の神ではないように思う。だからサント=ブーヴはモンテーニュの神観を、むしろスピノジスム、パンテイスムだと言っている(Sainte-Beuve: Port-Royal, livre ※(ローマ数字3、1-13-23), §※(ローマ数字4、1-13-24))。たしかにモンテーニュの Dieu は Nature とか Fortune とかいう語でおきかえる方がふさわしく思われる。そう言えば、浄土教の阿弥陀仏にしても、それは人格神ではない。やはり「自然法爾」である。『随想録』最後の章(三の十三)の終りでアイソポス(イソップ)の故事をひいた後、平凡な人間が「天使になりそこなって畜生になる」ことを警告しているのを併せよむと、モンテーニュはやはり意識的に、神を人間の手にいじくられない高い所に追いやったのだと思われる。フィデイストたるモンテーニュとしてそれはむしろ当然である。なお、第二巻第十六章(七三〇頁)にも、モンテーニュのキリスト教に関する考えははっきり出ている。また本章の中では、特に、六一五、六二六、六二八、六六五、六七七、六八三の諸頁をもう一度よみ返されるとよい。要するにモンテーニュのキリスト教の正体をつかまえるには、『随想録』の各所を捜索することと共に、モンテーニュの生涯の各事跡、その行動の一々を検討することが必要である。『モンテーニュとその時代』を通覧せられたい。
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第十三章 人の死の判断について



 (a)我々は死にのぞめる人の態度を判断するに当って(それは確かに人間一生の行為の中で最も注目すべきものであるが)、どうしても忘れてはならないことが一つある。それは、「人はなかなか自分がそのに及んでいるとは信じない」ということである。「いよいよこれが自分の最期だ」と悟って死ぬものはほとんどない。いや、この時くらい、嘘つきの希望が我々を迷わすことはないのである。希望は絶えず我々の耳もとに口をよせてささやく。「誰それはずっとひどい病気だったが死ななかったよ。お前はまだそんなに絶望することはない。それにもっと悪い場合だって、神様はたびたび奇跡をお示しになったからね」と。だがそんな風に考えるのは、我々が余りにも自分を買いかぶるからのことだ。何だか、万物ことごとくが、我々の無に帰することを悲しみ、我々の境遇に同情しているかのように思いこんでいる。ほんとうに、我々は眼が混濁して来ると世の中までが同じように混沌として見え、眼が見えなくなると物事その物がなくなったように思い込むのが常なのである。例えば海を行く者と同じことだ。彼らには山も・野も・町も・空も・また大地も、自分たちと一緒に揺れているように見える。

(b)我らが港をこぎずれば、畠も町も後ろにゆく。
(ウェルギリウス)

誰か過去をほめず現在をののしらない老人を見たことがあるか。彼らはみな、自分の悲惨と哀愁とを世の中のせい、人々の考え方のせいにしている。

頭をうち振りつつ老いたる農夫は嘆息す。
彼は今を昔にひきくらべて父祖の幸福をたたえ、
ただただ過ぎにし世の信心深かりしをなつかしむ。
(ルクレティウス)

我々はすべてを自分とともに引きずってゆく。
 (a)そういうわけで我々は、自分の死をいかにも一大事であるかのように考えてしまう。「それはそうやすやすと起るものではない。もろもろの天体のご協議がなくてはおこるものではない」などと考えるようになる。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)多くの神々唯一つの頭をめぐりて立ち騒ぐ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(a)そして自分を高く評価すればする程、いよいよそう考える。(c)「何だって? これ程の知識があれ程の損害をもって失われようというのに、運命の特別の配慮がないという法があるものか。これ程稀な世のかがみともなるべき人物が、ありふれた何の能もない人間と同様にむざむざと殺されてなるものか。他のあんなにたくさんの生命を庇護するところの・他のあんなにたくさんの生命がたよるところの・あんなに多くの人々を使役しあんなにたくさんの職務を果し来たところの・この生命が、ただ自分一人との一結びだけにつながれている生命と区別なく、そんなにやすやすと他界してなるものか」と考える。
* その生死がその人自身に関係するだけで、その人が死んでも生きても他人には何のかかわりもない人……という意味。
 我々は誰一人として、自らが唯一人の人間にすぎないことを十分に悟っていない。
 (a)そこから、カエサルがその船頭にいった言葉、彼をおびやかす大海もそこ退けのあの言葉、が出たのである。

天を信じてイタリアの岸に漕ぎ寄することあたわずば、
舵取りよ、唯わが加護を信じて漕ぎゆけ。
汝おそるるは、汝の乗する人の誰なるやを知らざるがためなり。
暴風吹き荒るるとも恐るることなく、
ただただわが加護を信じて漕ぎゆけ。
(ルカヌス)

また次の言葉もそうである。

その時カエサル心に思いたりき。
かくのごとき最期こそわれにはふさわしと。
さればこそ彼は言いき。
「このカエサルを滅ぼさんには、
神々すらなおこれほどの努力を要するなり。
今こそ彼らは、わだつみの怒りをあつめて、
わが乗るこの小舟に襲いかかるなり」と。
(ルカヌス)

 (b)また「太陽はまる一年のあいだ彼のをその額に帯びていた」という、あの人民たちの夢想もそうである。

カエサル死するや、太陽もまた、
ローマのかなしみを思いやりて、
その輝ける額をば
喪の黒き布もて掩いたり。
(ウェルギリウス)

 その他これに類する幾多の夢想も同じことであるが、世の人は余りにもやすやすとそれらにたぶらかされ、「我々の損失に天もそのおもてをかえる」と考えている。(c)広大無辺の天が人間界のちっぽけな栄誉に気を使うと思っている。※(始め二重山括弧、1-1-52)我ら死する時天の星落つといわるれども、もちろん我々と天との間にかかる深き関係のあるべき理なし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(プリニウス)。
 (a)さて、すでに危険の圏内にありとはいえ、自らはまだ確かにそうと信じていない者において、決心や落ちつきがあるからといって、それを賛えるのは早すぎる。ただそういう態度で死んだというだけでは足りない。本当に覚悟ができて死についたのでなければ何にもならない。ところが大多数の人間は、ただそういう評判を得たいばかりにえらそうな顔をし強がりを言い、まだ生きているうちにその評判を受けようとのぞむ。(c)わたしが見た限りでは、いずれも運命が彼らに落ちついた態度をさせてやったので、けっして彼らの決意がそうさせたのではなかった。(a)いやむかしの、自分から進んで死をえらんだ人々についても、それが急激な死であったか暇のかかった死であったかを、より分けて考えて見なければならない。あの残忍なローマの皇帝は、よくその囚人たちについて、彼らに死を感じさせたいといった。そして誰かが牢屋の中で自殺すると、「ちぇ! 野郎、のがれやがったな!」といまいましがった。つまり責苦によって死を引伸し、それをしみじみと感じさせたかったのである。
* 囚人に死を感じさせたいと言ったのはカリグラ、「野郎、のがれやがったな!」と言ったのはティベリウス。モンテーニュは両方の話を一つにしている。

(b)我らその死体を見たるに、
そは全身傷におおわれながら、
未だ最後の強打を与えられずありき。
前代未聞の残虐によって、人は、
彼の息絶えなんとする命を引伸しつつありしなり。
(ルカヌス)

(a)本当に、健康で何も心配のない時に自殺を決意するのは、さほどにえらいことではない。まだ死と向き合いもしないさきに虚勢を張って見せるなどは、すこぶるわけのない話である。だから柔弱な点で天下第一のヘリオガバルスまでが、最も軟弱な快楽のただ中にあって、どうしてものがれられない場合に楽に死んでゆける方法を思いめぐらしていたのである。すなわち、死が彼の一生のそれまでの部分を無に帰することがないように、特に、そこから身を投げるためにその前面と底部とに金銀宝石をちりばめた板を張った豪華な塔を建てさせたり、首をくくるための金の針金との絹糸とをより合わせた縄をなわせたり、その身に突き立てるための黄金作りの短刀を打たせたり、そしてあおるために碧玉や黄玉の器の中に毒を貯えたりして、彼はそのときの気分次第で、これらもろもろの死に方のどれか一つを選ぼうと考えていたのである。

(b)必要にせまられし勇気をふるいて。
(ルカヌス)

(a)だがこの男なんか、その柔弱な用意から察すると、「じゃあ本当に死んで見ろ」といわれればさっそく尻込みをするにきまっている。だがもっと強い・本当にやるだけの決意をした・者についても、ぜひ我々は(とわたしはあえていう)、それがその結果を感じさせるだけの暇を与えない・ただひと思いの・一撃でありはしなかったかを、見きわめなければならない。まったく、生命が一滴一滴と流れ去るのを見まもりながら、肉体の感覚と霊魂のそれとをともに感じながら、また思いとまる道もなお残されていながら、なおそれでも、不動の決心を失わなかったか、それでもなお、そういう危険な意志に執着していたか、そこを我々は明らかにしなければならないのである。
 カエサルの内乱のとき、ルキウス・ドミティウスはアブルッチの山中で捕えられ、一度は毒をあおいだが、後に早まったことを悔んだ。我々の時代にはこんなこともあった。或る人が死を決意したが、肉がむずがゆくて腕がいうことを聞かず、最初の一突きは十分深く刺さらなかったので、再三再四力をこめてやり直したが、結局深く刀を突き立てることができずにしまった。(c)プラウティウス・シルウァヌスが裁判を受けている間に、祖母のウルグラニアが彼に一ふりの短刀を送った。ところが彼は、それによっても自殺を完うすることができなかったので、更に部下に命じて自分の脈管を切らせた。(b)アルブキラはティベリウスの時代に死を決したが、突く力が余りに弱かったのでとうとう敵のために牢に入れられ、彼らの方式に従って殺されてしまった。大将デモステネスもまた、シチリアにおける敗戦の後やはり同じ目にあった。(c)それからC・フィムブリアは、自分の突き方が弱かったので、下僕に頼んでとどめを刺して貰った。ところが、オストリウスは自分の腕を用いることができなかったが、下僕の手を借りるのをいさぎよしとせず、唯しっかりと真直に剣を持っておれと命じただけで、自分の方から、はずみをつけて、咽喉をその切っさきにぶっつけて自ら貫かれた。(a)それはまったく、口中が鋼鉄のように鍛えられていない限り、噛まずに鵜呑うのみにしなければならないご馳走なのだ。だから皇帝ハドリアヌスは、侍医に命じてその乳首のまわりに輪型をつけさせ、特に自分を殺すように命じておいた男がねらいを誤らぬようにしたのである。だからこそカエサルも、或る人が「どんな死を最も望まれるか」ときいたのに答えて、「最も思いがけない・最も短い・死」といったのである。
 (b)カエサルでさえそういったのだから、わたしがそう思いこんでも意気地なしとはいわれまい。
 (a)短い死こそ、プリニウスのいった通り、人生至上の幸福であるが、人々はそんな風に思うことをいやがる。そのように死についてあれこれと考えることを恐れ、眼を見開いてそれを直視することができないのならば、死に対して覚悟ができているとはいえない。あの刑を受けた者どもが、自分からその最期に馳せむかい、処刑を急がせ促すのも、覚悟ができているからそうするのでは決してない。むしろ死を考える時間を持ちたくないからである。死んでしまうのはいやではないのだ。死ぬのがいやなのである。

われ死してあるを怖るるにあらず、死することをおそるるなり。
(エピカルムス)

この程度の覚悟なら、わたしにだって、経験からいってできそうに思われる。それはちょうど、目をつぶって海や危険の中に飛びこむのと同じである。
 (c)わたしの考えでは、ソクラテスの一生のうち最も輝かしいことは、彼が三十日間その死の宣告を反芻はんすうしたことである。このはなはだ確実な死を待つ期間を通じて、心を動かすこともなく顔色を変えることもなく死を消化したことである。その行動といい言葉といい何れもむしろ平静であって、少しもそういう重大な瞑想によって緊張興奮した様子を見せなかったことである
* モンテーニュはここでソクラテスの勇気をひどくほめているが、第三巻第二章では少し冷淡にあつかっている。なお第二巻第十一章、第三巻第九章、第十二章、第十三章を参照せられたい。
 (a)キケロが書簡を与えたあのポンポニウス・アッティクスは病気にかかると、その婿アグリッパを始め二、三の友を招いてこれらの人々にいった。「わたしは、なおろうとあせっても甲斐なきこと・命を延ばそうとすればするだけ苦しみを長引かせ増すばかりであること・を経験したから、生命をも苦痛をも二つながら断とうと決心した。どうかこの決心に賛成してほしい」と。そして、よし賛成はできなくとも、せめてこの決意をひるがえさせようと、決して無駄な骨を折らないようにと頼んだ。ところが、食をたって自殺しようとしたところ思いがけなく病気がなおってしまった。自決しようとして取った方法が、彼を健康にかえしたのである。医者や友達はこの幸運な出来事を大いによろこび、彼とその喜びを共にしようとしたが、期待はまんまとはずれた。まったく、彼らはこの友の考えをひるがえさせることができなかったのである。彼はいった。「何れにせよ、いつかはこの関門を越えなければならないのだ。折角ここまで来ているものを、わざわざもう一ぺんやりなおすのは御免こうむりたい」と。この人こそゆっくりと死を打ち眺めた末、たんに自らこれを迎える志を捨てなかったのみならず、ますますこれに熱中したのである。まったく彼は、その戦いに入った当初の理由が除かれたのに、更に進んで戦いの結末をつけようと望んだのである。少しも死を恐れないことと死をめ試みようとすることとの間には、まことに遙かなへだたりがある。
* キケロの書簡「アッティクスに与う」Ad Atticum.
 (c)哲学者クレアンテスの物語はこれとそっくりである。彼は歯ぐきがはれて腐っていた。医者たちは彼に絶食をすすめた。二日間何も食べないでいるとすっかり回復したので、医者たちは「もうなおった。いつもの生活に帰ってもよろしい」といった。ところが彼は、この衰弱状態の中にすでに幾分の安楽を味わい知ったので、もう後には退くまいと考え、それまでに相当越えかけていた関門をとうとう越えてしまった。
 (a)トゥリウス・マルケリヌスというローマの一青年は、病気が我慢したいにもできない程に苦しいので、早く命をたってその苦しみから逃れようと思い、医者が「そう早くはゆかないが確かになおる」と約束したにもかかわらず、友達を招いてそのことを相談した。セネカのいうところによると、或る者どもは、卑怯な彼らのしそうなことを彼に勧めた。他の者どもは彼にへつらって、彼の気に入るような意見を述べた。ところが或る一人のストア学者は、彼にこういった。「マルケリヌスよ。何か重大なことでもきめるように、そんなに思いわずらうには及ばない。生きるということは大したことではない。君の下男だって、また動物だって、生きている。けれども、気高く・賢明に・落ちつきはらって・死ぬのはだいじなことだ。考えてごらん。いったいいつから君は同じことを繰り返しているか。食って飲んで寝る。飲んで寝てはまた食う。我々はこの同じ輪の中をぐるぐると回りつづけてやめない。ただ不幸な堪えがたい事柄ばかりではない、生の飽満もまた、死を慕わせるに十分である」と。マルケリヌスには勧告してくれる人はいらなかった。援助してくれる人が欲しかったのである。下僕たちはかかり合いになることを恐れたけれども、その哲学者は彼らにこういってきかせた。「お前たちが疑いをうけるのは、主人の死が自殺か他殺か疑われる場合だけだ。そうでもないのに彼の死を妨げるのは、彼を殺すのと同様に悪いことになるだろう。なぜなら、

その意にそむきて人を救うはこれを殺すこと
(ホラティウス)

であるから」と。そしてマルケリヌスに向っては、「食事が終るとテーブルの上の残り物を給仕した人々に下げるように、我々が一生を終えたら、それまで自分に仕えた人たちに何かを分け与えるのは、べつに不似合なことではあるまい」と告げた。ところでマルケリヌスは、日頃からさっぱりした・気前のよい・男だった。そこでさっそくいくらかの金額を下僕たちに分け与え、これをねぎらった。それに彼には刃物も血もいらなかった。彼はこの世を、逃げ出さずに立ち去ろうと企てた。死をのがれようとはせず、これをためそうと企てた。そして死を瞑想する暇をもつために、彼はあらゆる食物を絶った後、三日目にその身にぬるま湯をそそがせ、少しずつ失神状態に入った。彼の言葉によれば多少の快感もないではなしに。実際、衰弱の果てに生ずるこういう心臓麻痺に陥ったことのある者はいっている。「ちっとも苦しくはない。それどころか幾分よい心持である。ちょうど夢うつつの境にあるように」と。
 以上は何れも、研究され消化された死である。
 それなのに、ただ独りカトーだけがどんな場合にも剛毅のかがみでありえたのは、どうやら彼が好運にも、自ら己れの身に剣をつき立てた時にその手に負傷したためであって、そのために彼は危険の前で意気沮喪するどころかますます軒昂となり、死と対決し・死の喉もとをおさえる・だけの暇を、十分に持つことが出来たからであるらしい。実際、もしもわたしが彼の最も壮烈な態度を描き出せといわれたならば、当時の彫刻家がしているように剣を握った姿ではなしに、むしろ血まみれになってそのはらわたを引き裂いている姿に描いたであろう。まったく後の死に方のほうが、始めのそれよりずっとすさまじいのである。
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第十四章 いかに我々の精神は自縄自縛におちいるか



 標題の原文※(始め二重山括弧、1-1-52)Comme notre esprit s’emp※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)che soi-m※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)me※(終わり二重山括弧、1-1-53)は、一口でいえば、「われわれ人間は、考えれば考える程、物事の決定ができなくなる」という意味である。まったくわれわれの精神の働き自体は、いろいろな方向に働くから、互いに矛盾撞着し自縄自縛におちいって、容易に一つの結論におちつくことができない。モンテーニュはここに、その著しい面白い実例をあげて、すでに「レーモン・スボン弁護」の章でさんざん述べた懐疑論不可知論を補足している。この章の執筆時期は確定されていないが、やはりセクストゥス・エンピリクスを改めて読みなおした一五七六年頃と考えるのが妥当であろう。

 (a)一つの精神が、二つの同じ程度の欲望のちょうどまん真中を、どっちにしようかなとぶらぶらしているところを想像するとおかしくなる。まったくそのとき、何時までたっても決心がつかないであろうことは、疑う余地がないのである。なぜなら好みとか選択とかいうことは、価値の不同を前提とするからだ。もし飲みたい欲望と食べたい欲望とを等量に持ってお酒のびんとハムとの間に坐らされたら、きっとえと渇きの両方のために死ぬよりほかにみちがあるまい。この不都合にこたえるために、ストア学者たちは「どうして我々の霊魂の中に、どっちでもよい二つの物事を選択しようとする気がおこるのか。なぜ沢山の一円エキュ銀貨の中から、他のものをとらずにその中の或る一つを取るのか。それらは何れも皆同じ価ではないか。そこにはその一つを選ばせる何の理由もないではないか」と問われたとき、「こういう霊魂の動揺は不意偶然の外的衝動から来る・常ならぬ・狂った・ものである」と答えた。だがむしろわたしはこういい得ると思う。「我々の前に現われるものは、いかに軽微なものでも何かの差別をもたないことはない。それは視覚の上でも触覚の上でも我々には知覚されないにしても、そこには必ず何か我々を特に引きつけるものがあるのだ」と。同様に一本の紐がそのどの部分も均等に丈夫であると仮定すれば、それが切れるということは絶対にあり得ないのである。だってその場合は、一体どこから切れたらよいのか。同時にすべての部分が切れるということも、実際にはありえないことだ。もし誰かがこれらの問題とともに、「含まれるものは含むものよりも大きい」とか「中心と周辺とは同じ大きさである」とかいうことを確実な証明によって結論したり、二線が絶えず相互に接近して行きながら決して相接することがないことを認めたりする幾何学の諸定理だとか、化金石や円積法のような、すべて理論と実際とがまるで相反するもろもろの場合だとかを併せ考えるならば、恐らくその人こそ、あのプリニウスの※(始め二重山括弧、1-1-52)不確実ほど確実なものはない。人間ほど悲惨で不遜なものはない※(終わり二重山括弧、1-1-53)という大胆な言葉を支持できる何かの論拠を、そこから引き出すことであろう。
* この句はモンテーニュの書斎の天井にも銘記されたもので、「レーモン・スボン弁護」の章のなかに「すべての被造物の中で最もみじめなもろいものといえば人間である……」(五四三頁)とあるのと関連する。
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第十五章 我々の欲望は困難にあうと増加すること



 本章の中では晩年に加筆せられた最後のパラグラフに最も注意がひかれる。それはフランスに内乱が始まってから「三十年になる」と書かれているところからおせば、一五九〇年頃の加筆であろうと思われるが、よくもこの乱世に堪えて来たという著者の感慨が、われわれの胸にもしみとおる。十六世紀の貴族たち、城館にすむほどの貴族たちは、特にペリゴールのような内乱の絶え間のなかった地方では、皆きそって防備を厳重にしたのであるが、用心のかいもなく政見や信仰を異にする反対派に掠奪されたり殺されたりしたのだった。唯モンテーニュだけは、ここに述べている通り、門にかんぬきをさせなかった。われわれはモンテーニュ時代の宗教戦争よりも一段と複雑で広汎な国際間の争いの渦の中にまきこまれようとしているが、ここでも何かモンテーニュの知恵に深く教えられるものがあるような気がする。後出第三巻第九章における告白と併せてよむべきである。

 (a)「反対の理由を持たない理由は存在しない」と、最も賢明な哲学者たちの一派〔ピュロン派〕はいう。わたしはこの頃、ある古人が生命は蔑視すべきものだということの証拠としてあげる、「どんな幸福も我々に快楽をもたらすことはできない。ただやがて間もなくもってゆかれる快楽があるだけだ」、(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)失いたる悲しみと失わんとの憂いとは、等しく我らの心を損うものなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)(a)という格言をよく噛みしめてみたが、結局それは、「生きる楽しみは、我々が命を失いはしないかと恐れる限り、真に我々に楽しくあろうはずがない」ことをさとらせようとしているのである。だが逆に、こうもいえるであろう。「我々は、この幸福が不確かであると見るからこそ、また、それがやがて奪い去られるだろうと恐れるからこそ、それだけしっかりと、それだけいつくしんで、それを抱きしめるのだ」と。まったく我々は明らかに感ずるのである。火が寒い風にあおられればますます燃えるように、我々の意志もまた、反対にあうとますます激しくなるということを。

(b)もしダナエが青銅の塔の中に幽閉せられざりしならば、
遂にユピテルに児を与えざりしならん。
(オウィディウス)

(a)また容易さからくる飽満ほど我々の快楽を自然にさまたげるものはなく、稀なもの困難なものほどこれを刺激するものはないということを。※(始め二重山括弧、1-1-52)いかなる場合にも快楽は、これを我らより遠ざけんとする危険の度に比例して、増加するものなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。

ガルラよ、われをこばめ。喜悲こもごも到らざれば、
飽満恋の中にあまりにも早く来らん。
(マルティアリス)

 恋愛を持続させるためにリュクルゴスは、「ラケダイモンの夫婦は人目をさけてでなくては交わってはならない。一緒に寝ているところを見られるのは、他人と寝ているのを見られたのと同様に恥辱であろう」と布告した。あいびきの困難、発覚の危険、翌日の恥辱、

秘めたる思いと憂き悩みと、
胸の奥底より洩れいずる吐息と、
(ホラティウス)

それこそソースの効目ききめを増すのである。(c)いかに多くのはなはだ淫らな遊びが、恋愛物語の清くつつましい語りぶりから生れ出たことか。(a)逸楽さえ苦痛によってたかめられようと求める。それは、ひりひりするとき、すりむけるときに、いよいよ甘いのである。遊女フロラは常にいった。「あたしはポンペイウスと寝て、この人に歯のあとをつけなかったことは一度もなかった」と。

彼らはその愛する相手を、
苦しみもがくまで強く抱きしむ。
時にそのやさしき唇の上に、
彼らの歯形を印することあり。
或いは激情おこりて彼女を傷つくることあり。
かくて彼等の狂おしさいよいよ高まる。
(ルクレティウス)

万事この通り。困難は物事に価値を与える。
 (b)アンコナ軍区の者どもは聖ジャック・ド・コンポステル寺**に参詣をしたがり、ガリシアの者どもはノートル・ダム・ド・ロレット寺に参りたがる。リエージュではルッカの温泉をもてはやし、トスカナではスパの温泉をはやし立てる。ローマの撃剣道場にはローマ人の影はほとんどなく、ただフランス人で一杯である。あの大カトーも我々と同じように、彼の妻が彼のものであった間はこれをきらい、彼女がよその男の許に走るとこれを追った。
* ここにはノートル・ダム・ド・ロレット寺がある。モンテーニュもイタリア旅行のときこの御堂に参詣し娘と妻のために献額をした。白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」索引「ロレット」の項参照。
** この寺は遠いガリシアに在る。
 (c)牝馬の匂いをかぐとどうにも押えようのなくなる老いぼれ馬を、わたしはとうとう種馬にやっちまったことがある。容易にやれると、この馬はいつの間にかその牝馬どもにげんなりしたが、でもよその牝馬が始めて彼の柵のわきを通るのをみると、相変らずうるさくいななき、前と同じように昂奮した。
 (a)我々の欲望は、その手元にあるものには眼もくれず、それを飛び越えて自分が持たないものを追いかける。

彼はその手の内にあるものをあなどり、
その手に捉えざりしものを追いかく。
(ホラティウス)

我々に何かを禁ずることは、我々にそれを欲しがらすことになる。

(b)汝もし汝の娘を守ることをやむれば、
彼女はやがてわれに忘れられて帰らん。
(オウィディウス)

(a)それを全く我々にゆだねるということは、我々にそれを無視させることになる。欠乏と豊富とはけっきょく同じ不都合に帰着する。

汝は足りて余りあることを歎き、
われはその乏しく足らざるをかこつ。
(テレンティウス)

欲望と享楽とはひとしく我々を苦しめる。女のいやにかたいのはうとましいものだが、あんまりいいなり次第になられても、正直言って、いっそううとましい。なぜなら、不満や怒りは、我々が欲望する物を尊重することから生れて恋愛を鋭くもし燃えたたせもするが、飽満の方はただ嫌悪を生むばかりだからである。つまりそれは、鈍い・ぼんやりした・力ない・眠ったような・感情にすぎないのである。

(b)もしも女よ、長く情夫おとこを制せんとならば、
すべからく彼につれなくすべし。
(オウィディウス)

恋人たちよ、軽蔑をよそおえ。
さすれば昨日拒める女も、今日は来り媚びん。
(プロペルティウス)

(c)なぜポペアはその美しい顔をかくす工夫をしたのか。それを恋人たちの目にますます美しく思わせようとしたからではなかったか。(a)なぜ人は、女がそれぞれ見せたいと願い・男がそれぞれ見ようと望む・その美しいところどころを、わざわざかかとの下まで覆いかくしてしまったのか。なぜ女たちは、我々の欲望と彼女らのそれとが主として宿るその部分を、あんなにたくさんの邪魔もので上から上へとおおっているのか。また近頃我国の婦人がその脇腹を武装し始めたあのでっかい稜堡りょうほは、いったい何の役をするのか。我々の欲望を刺激するためではないのか。我々を遠ざけると同時に我々を引きつけるためではないのか。

彼女はのがれて柳の蔭に身をかくす。されど、
あらかじめ彼女は見あらわさるることを望めり。
(ウェルギリウス)

(b)時に彼女は狭き裳を用いて、
我らの欲望に障壁を築きたり。
(プロペルティウス)

(a)あの処女のようなはにかみの表情は、いったい何の役に立つのか。あのとり澄ました冷やかさ、あの厳めしく近づき難いそぶり、教える方の我々よりはずっとよく知っているくせにさも知らぬげによそおうことなどは、一体何の役に立つのか。ただただ征服してやろうという我々の欲望を、すべてそうした儀礼と障害とを思いのままに踏みにじってやろうという我々の欲望を、増長させるばかりではあるまいか。まったく、このしおらしさ・しとやかさ・あどけなさ・を乱し狂わせるのは、またあの威張った尊大な態度を我々の熱情の下に降参させるのは、たんに愉快であるのみならず名誉でさえもあるじゃないか。人々はいう。「厳格・貞淑・純潔・節制・を征服することは名誉である」と。実際婦人たちに向ってこれらの性質をすてよと勧める者は、彼女たちをもおのれ自らをも裏切るものである。どうしても我々は、彼女たちの心が恐ろしさにふるえることを、我々の言葉の響きが彼女たちの清い耳をけがすことを、そのために彼女たちが我々をきらい、いやいや我々のしつこい願いに応ずるのだということを、信じなければいけない。どんなに魅力のある美人だって、これだけの仲立ちがなくては可愛がって貰えないのである。イタリアに行ってみたまえ。そこには売物の美人がたくさん、いや最も可愛らしいのさえいるが、彼女たちもまた、好きこのまれるためには、美以外のいろいろの手練手管を用いずにはいられないのだ。だがしかし正直のところ、何をしたところでどうせ売り物買い物なのだから、その魅力はやはり微弱である。ちょうど我々が、徳に関しても、二つの同じ行為のうち、より多くの障害と危険とがあるものの方を、より美しく高いものと考えるのと同じである。
* 当時鯨の骨を用いてスカートを大きくひろげることがはやった。いわゆる vertugadin のことである。古画によくみるとおり、内部に人一人かくれられた位。仇敵に追われたある貴族(duc de Montmorency)が、貴婦人(Louise de Montagnard)の慈悲でその中にかくまわれ、一命を全うしたという話まである。その形はカトリーヌ・ド・メディシスの肖像などを見てもわかる。
 神の聖なる教会を、我々が見るように、ああいう混乱と暴風とにかき乱させておくのも、つまりはそういう対照によって敬虔な魂をよびさまし、長い間の安泰になれて為すこともなく眠ったようになっている霊魂に活を入れようとの、神の摂理の一つのはたらきなのである。もし我々が正道を踏みはずしたたくさんの人々からこうむった損失と、我々がこの闘争のために息を吹きかえし熱心と力とをよみがえらせたことからえた利得とを、ここにくらべてみるならば、おそらく、利得が少しも損害を越さなかったとはいえないのではあるまいか。
 我々は結婚の結び目を、それをほどく方便を全く除いてしまうことによって、それだけ堅く結びつけたと考えた。だが拘束の結びが堅くなっただけ、それだけ意志と愛情との結びはゆるゆるになったのである。本当はむしろあべこべである。ローマにおいて結婚を幾久しく清らかで安泰なものにしたのは、欲すればいつでもこれを破棄できるという自由であった。彼らは妻を失うことがあるかもしれないので、それだけ深く妻を愛したのである。そして離婚の自由を十分に持ちながら、五百年以上の間たれ一人それを行使したものはなかったのである。

許されたるものには、魅力なし。
禁ぜられたるものは、欲望をそそる。
(オウィディウス)

このことに結びつけられるかと思われるのは、ある古代の人の所説である。それによると、「刑罰は不徳を鈍らせるよりもかえって鋭くする。(b)決して善いことをしようという心を生み出さないで(善行はむしろ理性と鍛練とが産みだすのである)、ただ悪を行うところを見られまいとする気持を産み出すだけだ」というのである。

かくて人、悪を根絶しえたりと信ずれども、
あにはからんや、そはかえって蔓延す。
(ルティリウス)

(a)わたしはこの説が正しいかどうか知らない。だがわたしは経験によって、いまだかつて刑罰によって社会があらためられたためしがないことを知っている。風紀秩序は、むしろ別の方法によって保たれるものである。
 (c)ギリシアの歴史にのっているところによると、スキュティアの隣りに住むアルギッパイオイ人たちは、人を打ちこらす鞭も棍棒もなしに暮していた。だが誰一人彼らを攻めにゆこうとは企てなかったばかりでなく、誰でもこの国に逃げこんだ者は、彼らの徳性と敬虔な生活のお蔭で、必ずその命を完うした。誰一人この者に指一本ふれなかった。よその部落で紛争がおきると、みな彼らに調停をたのんだ。
 (b)ある民族のもとでは、花園や菜畠のかこいが木綿の綱でできているが、この方が我が国の堀や塀よりもずっと安全堅固である。
 (c)※(始め二重山括弧、1-1-52)錠前は泥棒を引きよせ、押入強盗は戸締りなき家に侵入することなし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。恐らく他にもいろいろ理由があったろうが、入りやすいということこそ、わたしの家を我が国の内乱の乱暴から護ったのであろう。防備は攻撃をひきよせ、疑心は害意を起させる。わたしはあらかじめ兵士どもの計画をくじいた。つまり彼らから、彼らの手柄に武勲という輝きを添えそうなあらゆる機会と材料とを奪ったからで、この武士のほまれということこそ、とかく侵略の名目とも弁解ともなりがちなのである。正義が滅びつきた時代には、勇敢になされた事柄は何でもかでも名誉ある行為となるが、わたしは兵士どもに、わたしの家みたいなものを乗っ取ることはかえって卑怯陋劣な仕業になるぞと思わせているのだ。それは戸をたたく誰に対しても閉されていない。備えといえば昔かたぎの丁寧な門番が一人いるきりである。しかも、門を守るためにではなく、むしろこれをいともしとやかに礼儀正しくおし開くためにである。わたしは天の星が与えてくれるそれのほかには、番人も見回みまわりももっていない。ジャンティヨム〔貴族〕が防備をもっているぞと誇示するのは、それが十全でない限りまちがっている。一方にすきがあるものは、四方八方すきだらけである。我々の父たちは、国境に要塞を設けようなどとは夢にも考えなかった。我々の家を攻撃したり不意打ちをしたりする手段は(大砲だの軍隊だのは別にしての話であるが)、毎日、防備の手段をしのいで増すばかりである。一般に人間の知恵は、この方向にますます尖鋭になってゆく。侵入は誰にでもできるが、防禦の方はそうはゆかない。それはただ金持だけにできることである。わたしの家もそれが建てられた時代相応の防備はもっていたが、わたしはその上に何ものも加えなかった。だって、その堅固さがわが身を損うことになっては大変じゃないか。それに、やがて平和な時節がくれば、再び防備をとりのぞかなければなるまい。自分の邸にもどれなくなる危険もある。いや、いくら防備をしたからとて絶対に安心してはいられないのだ。まったく内乱の場合には、おのれの下僕が恐ろしい反対党のまわし者であることもあるのだ。それに宗教が口実となる場合には、親子兄弟でさえ、正義の仮面をかぶっていて、油断もすきもならないのである。公費が我々の家の守備隊まで養ってはくれまい。それではお国が破産してしまう。無理に我が家を守ろうとすれば、我々自らが破産するか・それよりなお不都合なまた不正なことに人民までも破産させるか・二つに一つである。どっちかといえば、わたしが破産する方がまだいくらかましであろう。それにご自分がやられてごらんなさい。友達さえが、同情をするどころか、やれ不用心・手ぬかり・であったとか、やれ本職の武略に無知であったとか油断をしたとかいって、あなたがたを責めることであろう。防備されたたくさんの家々がやられたことを思い、わたしのこの家が残っていることを思うと、それらの家々は守られていたためにかえって失われたのではないかと疑いたくなる。防備は攻撃者の欲望をそそり、これに口実を与える。どんな警備もみな戦争の相をそなえている。それが神様の思召しなら、誰でも勝手にわたしの家に攻め入るがよい。だが、自分から敵を招こうとは思わない。ここはわたしが戦乱をさけるいこいの家である。わたしはこの一隅を、世をあげての暴風からまもろうと努める。ちょうどもう一つの片隅をわたしの心の中にとってあるように。我々の戦乱はいくらその形を変えてきても、その徒党を倍加してきても、よろしい。わたしは断じてここを動かない! あれほどたくさんの家々が武装されている中に、わたしと同じ身分のもので、自分の家の守護をただ天にだけ委ねているのは、フランス広しといえども、恐らくはこのわたし独りであろう。いや、わたしは、まだ銀のさじ一本・所領証書一枚・かくしたことがないのだ。わたしは中途半端なこわがりかたや助かりかたはしたくない。もし十分な感謝が神の加護をもたらすものだとすれば、加護は最後までわたしの上につづくであろう。そうはならないにしても、わたしはやはり、わたしの存続を特筆するにたるほど生きながらえた。だって、考えて見ると、もうたっぷり三十年になる。
* モンテーニュは、よく臆病者として伝えられているが、以上の叙述で見ると、その度胸はなかなかたいしたものである。国際間にも本当に文明とか信義とかがあるならば、無防備の平和もまた空想ではないだろう。ここに「三十年になる」と書いているのは、宗教戦争の始まった「ヴァッシーの殺戮」(一五六二)からここに三十年、よくもながらえてきたものだという感慨である。この項は一五九〇年頃の加筆である。
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第十六章 栄誉について



 われわれは本章とその次に続く二章とを通じて、モンテーニュが序文に述べていることが強調され、詳説されているのを見る。彼が世間の小うるさい非難などは少しも意に介せず、野心や自惚をも超越して、ただあくまでも自分の良心に忠実であろうとしている毅然たる姿、また悠然たる態度を見る。三章とも一五七八―八〇年代に属するエッセーである。ここに「栄誉」※(始め二重山括弧、1-1-52)gloire※(終わり二重山括弧、1-1-53)とあるのは、むしろ現世的な栄華栄誉の意味、“fausse gloire” の意味であろう。

 (a)名と物とは別ものである。名とは物を指し示す言葉である。名は物の一部でも実質でもない。それは、物につけ加えられた無縁のもの、物の外部にあるものである。
 神はそれ自身十全であり完全の極致であるから、内部においては増加も増大もされることはできないが、その名は、我々が神の外に示したまう御業に加える賛美によって、増加増大されることができる。そのほめ言葉は、これを神の内に合体させることができないから(そこには善の増加はありえないから)、我々はこれを、神の外にあってしかもその最も近くにあるその名の上に加える。そういうわけで、栄光栄誉はただ神ひとりに属する。それを我々のために求め歩くくらい道理にはずれたことはない。まったく我々は内部において貧乏この上なしであるから、そして我々の本質は不完全で不断の改善を要するものであるから、そのほうにこそ我々は勤め励まなければならないのである。我々はからっぽ・がらんどうである。我々をみたすものは風や言葉であってはならない。我々を改善するためにはもっと実のある実質が必要である。えた男がご馳走よりも美しい衣裳をほしがるならば、それは甚だ愚かなことであろう。先ず最も急を要することから片づけてかからねばならない。我々の日常の祈りにいうとおり、※(始め二重山括弧、1-1-52)いと高きところには栄光神にあれ。地上には人々に平安あれ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(「ルカ」二の十四)。我々は美・健康・知恵・徳などのような、本質的な性質に乏しい。外面の飾りは、まず必要不可欠の物事を調えてから後に、始めてこれを求めるべきである。神学はこのことを十分に・またいっそう適切に・論じている。だがわたしは、それにはあまり通じていない。
* このパラグラフはレーモン・スボンの『自然神学』の所論をかりたものであるといわれる。だがモンテーニュは、ここでも最後に、自分は神学には縁が遠いと言っている。
 クリュシッポスとディオゲネスとは、栄誉の蔑視すべきことを教えた最初のまたもっとも強硬な著者であった。いずれも、「あらゆる快楽の中で、他人の賞賛からくる快楽ほど危険で避くべきものはない」といった。本当に、我々がその裏切りによってきわめて大きな損害をこうむっていることは、幾多の経験が教える通りである。およそへつらいくらい王侯を毒することはなはだしいものはないし、またこれほどやすやすと邪悪な者どもに王侯の信用をかちえさせるものもない。また婦人たちを甘やかしほめそやすことほど、彼女たちの純潔を腐らすに都合がよく、また常に用いられる手段はない。
 (b)セイレネスがオデュッセウスをたぶらかそうとして用いた第一の魔法も、この種のものである。

来れよ、われらに! おお、はなはだほむべきオデュッセウスよ。
ギリシアが国の花と誇れる誉れの人よ。
(仏訳 ホメロス)

 (a)いま申した二人の哲学者はよくいっていた。「すべてこの世の栄誉は、理性ある人が、これを得ようと指一本伸ばすにも値しないものだ」と。

(b)いかに大いなるも、栄誉がただ栄誉たるに過ぎざるならば、何にかはせん。
(ユウェナリス)

(a)わたしはただ栄誉その物だけについていっているのである。まったくそれは、往々にしてそれを願わしいものと思わせるにたる様々な便益をうしろに従えている。それは我々に人の親切を得させてくれるし、人の悪口や乱暴などからかなりよく我々をかばってくれる。
 それはまたエピクロスの主要な教訓の一つでもあった。まったく、あの「隠れて暮せ」というこの派の教訓も、公共の職務や交際にかかずらうことを禁ずるものであるから、これまた必然的に栄誉の蔑視を前提としている。まったく栄誉とは、我々があらわに示す行為に対して世間が与える称賛にほかならないのである。我々に「隠れて暮せ。ただ自分だけを大切にせよ」と命ずる人や、我々が人に知られるのを好まない人は、我々が人にあがめられたり尊ばれたりすることは、なおさらいやがるのである。だからエピクロスはイドメネウスに向って、「人々の蔑視が君に何か他の偶発的不都合を与えそうなのを避けるためでなければ、決して世間一般の意見や評判によって自分の行為を加減してはならない」と勧めている。
 こういう意見は、いかにも真実でまた合理的だと、わたしは思う。けれども我々人間は、なぜか知らないが我々自身の中で二重である。そのために我々は、自分の信ずるところを信ぜず、自分の非とするところから全く抜けきることができない。エピクロスの最後の言葉を見よう。彼が死にのぞんでいった言葉を。それはあのような哲学者にふさわしく偉大であるが、しかしそこにも、いくらか自分の名前を重んじているようなところがある。彼がわざわざ自分の掟によってけなしたその心持がほの見える。次にあげるのは、彼が息を引き取る少し前に口授した手紙である。

ヘルマコス殿へ
エピクロス より
「わたしは今、わたしの幸福な日、いよいよわたしの一生の最後の日をすごしながら、この手紙を書いているのだが、膀胱ぼうこうと腸の痛みはいよいよ加わって、もうこれ以上の苦しみがあろうとは思われない。しかしわたしが考えたり論じたりしたことを想い出すと心うれしく、さしもの苦痛もどうやら忘れていられる。さて汝ヘルマコスよ、幼い頃からわたしと哲学とにそそいだのと同じ愛によって、願わくはあのメトロドロスの子どもたちの面倒を見てやってくれたまえ」
* エピクロスの弟子にして友、彼より先に死んだ。
 彼の手紙はこれだけである。実際わたしがここに、「彼が自分の始めて唱えた学説のことを思って心中によろこびを感ずるといっているのは、やはりある意味において彼もそこから死後の評判を得ようと希望していたからだ」と解釈せざるを得ないのは、むしろ彼の遺言状のためであって、その中で彼は、彼の後継者アミノマコスおよびティモクラテスが、彼の誕生日を記念するために毎年の正月にはヘルマコスの命ずるとおりの費用を支出するよう、また毎月の二十日には、彼が親しんだ哲学者たちが彼およびメトロドロスの追憶のために会を催すその会費をも負担するようにと、望んでいるからである。
 カルネアデスは反対意見の頭目であった。つまり、「栄光はそれ自体願わしいものなので、ちょうど我々が子孫を少しも意識せず子孫から何のよろこびも受けないのに、なお彼等のことを思うのと同様である」と主張した。この説はたちまちに、ひろく一般に信奉されるようになった。我々の傾向に最も適応した諸説は、いつもこのように歓迎されるのである。(c)アリストテレスは栄誉に、外在の諸幸福の中の第一位を与えている。ただ二つの悪い極端として、過度にこれを求めることと過度にこれを避けることとを、もろともにしりぞけるようすすめている。(a)もしキケロがこの問題について書いている書物がこんにち残っているなら、我々はそこに彼の長広舌をきかされたことであろう。まったくこの男は、この名誉欲なるものに眼がくらんでいたから、もう少しずうずうしかったら、きっと、世の多くの人々が落ちいったその極端の中に自分からとびこんで、「徳すらも常にそのうしろに従う名誉があってこそ願わしい」くらいのことは、言ってのけたであろう。

隠れたる徳行は、隠れたる怠惰と
ほとんどえらぶところなし。
(ホラティウス)

だがこれほど間違った考えはあるまい。わたしはこんな考えが、いやしくも哲学者とよばれるほどの人の悟性の中に入ることができたのを嘆かずにはいられない。
 もしそれが真理であるとすれば、人はただ公衆の前でだけ有徳であればすむことになる。そして徳の真のすみ家である霊魂の働きなんかは整える必要がなくなって、ただ腹の底を人に知られないようにしさえすればよいことになってしまう。
 (c)それではただ巧妙に悪事をすればよいことになりはしないか。カルネアデスはいう。「あいつ死んでくれれば助かるのにとお前が思っているその人が、何も知らずに坐ろうとする場所に蛇が隠されていることを知っていながら、それを彼に知らしてやらないとすれば、お前は邪悪な行いをしているのである。しかもお前の行為を知っているのはただお前独りなのだから、それはますます邪悪である」と。もしも我々が善行の規準を我々自身にとらないならば、もしも罰せられないことすなわち正義であるとするならば、いかに様々な悪行に毎日我々はこの身をゆだねることであろう。S・ペドゥケウスのしたこと、すなわちC・プロティウスがないしょで彼にあずけた財産を正直に返却したということは、わたしもまたしばしばやったことで大してほめる程のことでもないと思うが、それだけに彼がもしその友の信に背いたなら、それは実に憎みても余りあることであると思う。だからこんにち人々に、P・セクスティリウス・ルフスの話を思い出させることは、はなはだ有益だと思う。この人は、法律に反しないばかりでなく、むしろこれにかなってさえいたある遺産を、自分の良心に反して相続したことを、キケロに咎められているのである。またM・クラッススとQ・ホルテンシウスとは、その権勢を見こまれて、ある外国人から偽の遺言書の相続人の一人となり、それぞれ一定額の遺留分を受けたらどうかと勧められると、自らその偽造には関係していないというだけで良心を満足させ、そこから若干の利益を受けることはあえてこれをこばまなかった**。告発者も証人もなく、また法にも触れていなければ大丈夫だと考えたのであるが、※(始め二重山括弧、1-1-52)思え、神いまして之を見そなわすを。すなわち我らの言葉もて言えば、良心こそ之を見まもりてあることを※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
* ファディウス・ガルスという大金持が娘に全遺産をゆずりたいと思っていたが、法律が女子の相続しうる額をきめているので、ルフスを法定相続人とした。そしてその全相続財産を娘に与えるようにという条件をつけた。ところがルフスは、法律のゆるす金額をガルスの娘に与えただけで、残りを自分のものにした。これは法律には少しもふれないが、約束にはそむいている。
** 詐欺師たちがバルブスという大金持のにせの遺言書をギリシアからローマにもって来た。だがその相続を一層容易にするために、当時ローマで有力であったクラッススとホルテンシウスに共同相続者になってくれとたのんだ。二人は遺言書がにせであることを知っていたが、その申入れを承諾した。
 (a)徳は、それが尊ばれるゆえんを栄誉の中から得ているのだとすれば、それははなはだ空虚な頼りないものである。徳に独立の地位を保たせようとしても、これを運命の支配から引き離そうとしても、むだであろう。だって、評判くらい偶然なものはないじゃないか。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)実に運命は万物を支配す。一方には光明を・一方には暗影を・投げかくれども、そは物の真価によりてするにあらず、唯その気まぐれによりてなすなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(サルスティウス)。(a)行為を人に知らせたり見させたりするのは、純然たる運命の仕業である。
 (c)我々に栄誉を与えるのは、向うみずな運命である。わたしはきわめてしばしば、栄光が真価に先立って歩くのをみた。しばしば、真価を遙かに追い越してゆくのをみた。始めて栄光を影のごとしと悟った者は、当人がいおうとした以上に、うまく言いえていると思う。この二つはいずれもきわめて空虚なものである。
 影もまた時々その実体より先を歩く。しかもときには実体よりもはるかに長大である。
 (a)貴族たちに向って、武勇の中にただ名誉だけを求めるように、(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)あたかも勇名のほかに勇気なきかのごとく※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)、(a)教える者は、結局、「人が見ていない時には決して危険を冒すな。常に自分の武勇を語り伝える目撃者のあるなしに注意せよ」と教えるだけに終ってはいないか。人目につかなくてもよいことを行うべき機会はたくさんあるのだ。いかに多くの一つ一つの手柄が、合戦のどさくさの中に埋もれていることであろう。むしろこのような混戦のただ中で他人の所業をじろじろと眺めていたような人間は、何の働きもしなかったやつであって、結局戦友の働きを証拠だてながら自分の意気地なしを暴露しているのだ。
 (c)※(始め二重山括弧、1-1-52)真に賢明にして偉大なる霊魂は、人間が第一の目的とする名誉をば、栄誉の中に置かずして徳行の中に置く※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。わたしが一生をかけて得たいと思う栄誉とは、つまり、一生を静かに生きとげるということである。メトロドロスやアルケシラオスやアリスティッポスのように静かに、というのではない。ただわたし相応に静かに、というのである。哲学は誰にもむく静かに生きる道を発見するには至らなかったから、各人めいめいにそれを求めればよいのだ!
 (a)カエサルとアレクサンドロスとは、その限りなく大きな評判を、運命以外の何に負っているか。だがその運命は、いかに多くの人々をその出世の門出において倒したことか。彼らの名を我々は少しも知らないが、もしも彼らの不幸な運命が彼らの雄図をその当初において阻止しなかったならば、彼らもまたカエサルやアレクサンドロスと同じ勇気をあらわしたことであろう! あんなに多くの・あんなに極まれる・危険の中で、わたしがかつて読んだ覚えでは、カエサルはただの一度も傷をうけなかった。ところが幾千の人々は、彼が越えた危険(c)の最小のもの(a)よりもさらに小さい危険にあって死んだのである。数限りない功業も、見る人がなければ、わずかにその一つさえ、実を結ぶに至らないで空しく埋もれなければならない。人はいつでも突破口のてっぺんや隊伍の先頭に、つまりその大将の目につくところに、ちょうど舞台に立つ人のように、在りはしないのだ。むしろ垣根の蔭や堀の間で襲われるのである。小さなとりで一つのためにも命を賭けねばならない。一つの納屋の中からただ四人の名もない銃士を引っぱり出さなければならないこともある。必要の場合には、自分だけ部隊から離れて、ひとりでことを行わねばならないのだ。だからよく注意してみると、経験上もっとも目に立たない場合が、もっとも危険な場合であることがわかる。そして我々の時代におこった戦争においても、立派な名誉ある場所においてよりは、むしろ軽微な余り重要でない小ぜり合いにおいて、何処かの小さなとりでなどを争うような場合において、かえって多くの立派な人物が失われたのである。
 (c)人目につかずに死ぬのは犬死だと考える者は、その死を輝かすどころか、自分からその一生を闇に葬ることになる。そうやって命を賭けるべき正当な機会をみすみす取り逃がしてしまうからだ。実際正しい機会は何れもみな十分に輝かしいものだ。各人の良心がそれらのために十分に喇叭らっぱを吹くからである。※(始め二重山括弧、1-1-52)我らの栄光とは我らの良心のあかしすることこれなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(「コリント人への第二の手紙」一の十二)。
 (a)唯やがて人に知られるであろうからといって・知られればそれだけ重んじられるであろうからといって・善を行う人、自分の徳が人々に知られる場合でなければ善を行おうとはしない人、そういう人は大きな期待をかけるに足らない人である。

われは信ず。オルランドは、なおその冬の間にも、
かずかずの語り伝うべき業をば行いたまいたることを。
されど、そは今日まで余りにも隠れて知られざれば
われそれらを物語らずとて深くな咎めたまいそ。
まことにオルランドは、たかき手柄を、
語る暇もなきほどに次々に重ねたまえり。
彼の功績といわるるは、たまたまそれを見る人ありて、
始めて世の人々に伝えられたるもののみなり。
(アリオスト)

戦争にゆくのはその人の義務のためでなければならない。そしてそこに期待すべきは、どんなに隠れた善行に対しても、有徳な想念に対してさえも、もれなく与えられる報酬でなければならない。すなわち、それは真に整った良心が善を行うことによって自分のうちに感得する満足にほかならない。勇猛であるのも自分自身のためでなければならない。自分の心を、運命の攻撃に対して、がっちりと微動さえしないような構えにするためでなければならない。

(b)徳は何ものにもくもらされず、
純粋無雑の尊重の光によりて輝く。
民衆の定めなき意向に従いて、
執政の斧を取りまた捨つることなし。
(ホラティウス)

(a)我々の霊魂がその役割を演ずるのは、人に見せるためであってはならない。我々のもとにおいて・我々の眼以外の誰の眼もとどかない内部において・であってこそ、霊魂は死の恐怖からも・悲痛からも恥辱からも・我々をかばってくれるのである。子供や友だちや財産が失われる場合に対しても、我々を守ってくれるのである。そして好機が到来すれば、戦争の危険の前にも我々をつれてゆくのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)給与のためならで徳に伴う名誉のために※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)こういう利益こそは、人から与えられるひいき目な判断にすぎない名誉や栄光などより、はるかに大きな・はるかに乞い願うに足る・ものである。
 (b)一エーカーの土地を測量するのにも、全国から十二人の人を選ばなければならない。ところが我々の傾向や我々の行為の判断は、難事中の難事・大事中の大事・であるのに、我々はこれを無知と不正と無定見との母である多数愚民の声に委ねている。(c)一人の賢者の生命を気ちがいどもの判断にかけることは道理だろうか。
※(始め二重山括弧、1-1-52)一人一人のときはこれを蔑視するに、それが集合するを見れば忽ちにこれを重んずるとは、何たる不合理ぞや※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (b)彼らに好かれようと目ざしたものは決して好かれたためしがない。それは無形な・つかみどころのない・目標である。
 (c)※(始め二重山括弧、1-1-52)民衆の意見ほどとるにたらぬものはなし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。
 デメトリオスは人民の声について面白いことをいった。「その上の方から出るやつも、その下の方から出るやつも、真平ご免だ」と。
 あのキケロに至っては、さらに皮肉なことをいった。※(始め二重山括弧、1-1-52)物事はそれ自体恥ずかしきものにあらざるも、一たび多数の賞賛をうるときは、何やら恥ずかしきものにならざるを得ず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)と。
 (b)どんな手だてもどんなに柔軟な精神も、これほど道をしらぬ・これほど狂った・案内人に、我々の歩みをつき従わせることはできまい。愚劣な風聞や風評がいたずらに吹きすさむこの混沌の中に、道らしい道は一つとしてみつけることはできない。こんなにふらふらとただよっている目標を目ざすことはやめよう。始終かわらずに理性のあとに従おう。世間の称賛はついて来たければそっちからついてくるがよい。称賛は全く偶然によるものであるから、それが偶然以外の道から来ることを決して期待してはならない。わたしはただ真直ぐだからというだけでは真直ぐな道を取らないかも知れないが、経験上けっきょくそれがいつも一番有効な道であると認めればそれに従うであろう。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)神の有難き摂理によりて、最も正しきことは最も人に役立つものなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クインティリアヌス)。(b)古代の舟乗りは大あらしに出あうと、ネプトゥヌスに向ってこういったものである。「おお神よ。わたくしを救うも失うも何とぞ御意のままに。しかしわたくしは、とにかく舵を真直ぐに持ちつづけます」と。わたしは今までに、たくさんの融通のきく・二またかけた・どっちつかずの・人々、誰が見てもわたしよりは用心深い社交家として疑われなかったそれらの人々が、わたしの方はこの通り助かっているのに、かえって失敗するところを目のあたりみた。

計略もまた失敗することあるを見ておかしかりき。
(オウィディウス)

 (c)パウルス・アエミリウスは、彼の名をかがやかしたマケドニアの遠征に出かける時、ローマの全人民を前にして、自分の留守中、自分の行動については特に言葉を慎むようにと注意した。まったくほしいままなる判断を許すことは、大事に対してどれほど大きなさわりとなるか計りしれないのである。まして反抗と非難にみちみちた民衆の声の前に、ファビウスのような毅然たる態度がとれない場合はなおさらである。この人は、好評と民意とを迎えてその職を悪く行うくらいならば、むしろ自分の権威が愚民の専横に蹂躙じゅうりんされることを欲したのである。
 (b)ほめられていると思えば何となくよい気持になるのは自然だけれども、我々はあまりにもそれに誘われすぎる。

われは讃め言葉を嫌わず、われも木石にあらざれば。
されど、「ブラヴォ! いかな!」と言われることが、
徳の目ざす目的なりとは信ぜざるなり。
(ペルシウス)

 (a)わたしは、自分が他人の思わくの中でどんなであるかをあまり気にしないくせに、わたし自身のうちでどのようであるかをひどく気にする。わたしは借り物によってではなく、自分のものによって豊かでありたい。よその人たちはただ事件や外観ばかりみる。ひとは誰でも内心恐怖と心配とで一杯でも、外に向ってはすずしい顔をすることができる。人々にはわたしの心はみえない。ただわたしの顔だけしか見えないのだ。人が戦争中に見られる偽善をくさすのはもっともである。まったく慣れた男にとっては、うまく危険をかわし、内心びくびくしながらいかめしい顔をすることは、きわめてやさしいのである。独りの場合に危険にぶつかる機会を避ける方法はいくらでもあるから、我々はいよいよ危険な場所に引きこまれなければならない時までに、ゆうに千べんくらいは人を欺くことができるであろう。いやそのいよいよの場合でさえ、我々はそこに巻き込まれながらも、なおもう一ぺん、うちふるえる霊魂を内におしかくしながら、まんまと取りすました顔つきと落ちついた言葉とをもってごまかすことができるであろう。(c)実際、もしあのプラトンの指輪を与えられるならば、――それを指にはめて石の方を掌の内にまわせば、たちまちにその姿が見えなくなるという、あの指輪を与えられるならば、――大抵の人々はそのもっとも姿を現わすべき時に身をかくすであろう。そして、どうしてもどっしりした態度を示さなければならない、そんなにも尊い地位におかれたことを心ひそかにくやむであろう。

へつらいを喜び、そしりを恐るる者は誰か。
そは不正の人にあらずんば嘘つきならん。
(ホラティウス)

こういうわけだから、人々の外観についてなされるこれらの判断は、みなはなはだ不確実な疑わしいものである。そして各人にとって、自分自身ほど確実な証人はないのである。
 例えば戦争の場合に、我々はずいぶんたくさんの兵卒を連れてゆくが、これらの人たちこそ我々の栄誉の下ごしらえをする人々ではあるまいか。おおうものもない塹壕の中に毅然として立つ大将も、果して、彼に先んじて彼のために進路をひらき・一日五スーの給与のためにその身をもって彼の身をかばう・あの五十人の哀れな先鋒の兵士たちがした以上のことをしているであろうか。

(b)騒然たるローマの処断に服することなかれ。
またその評価の誤りを正さんと努むることなかれ。
すなわち、汝自らの外に汝を求むることなかれ。
(ペルシウス)

(a)我々は、我々の名を広く多くの人々の口の端にのぼせることをもって、我々の名を大にすることだと考えている。我々の名がそこでよい評判を得、そのお蔭で我々の名がひろまり得をするようにと欲している。売名もここまではかんべんがなるであろう。だがこの病が高じてくると、しまいにはみんながどんなことをしてでも評判されようと骨折るようになる。トログス・ポンペイウスはヘロストラトゥスについて、ティトゥス・リウィウスはマンリウス・カピトリヌスについて、それぞれ「その評判が善いことよりも大きいことを欲した」といったが、この悪弊は今や世間普通である。我々はただ人に語られようとのみ苦心し、どのように語られるかは、あえてかえりみない。我々の名がただ人々の口さきに評判されさえすれば足りるとし、それがどんなふうに伝えられようとおかまいなしである。どうも、名が知られているということは、いわば自分の生命を他人の手の内にあずけておくようなものではあるまいか。わたしは、「わたしは唯わたしのところにのみある」と信じている。そして友達の認識の中に宿っている・もう一つの・わたしの生命の方は、(c)それを裸にしてただそれ自体においてながめると、(a)わたしはそれの果実と享受とをただくうで気まぐれな評判を通して感じているにすぎないことをさとる。まして死んでしまった日には、わたしがそれらから受けるところはいよいよますます少ないであろう。(c)いや、その時は、ときによって偶然それに伴うことのある真正の利益の享受までも、一挙に失うであろう。(a)そうなるともう、わたしはその評判を把握するたよりを持たないであろうし、評判の方もわたしまで到達する道を失うであろう。まったく、わたしの名前が評判を得るようにと期待してみても、第一わたしは、十分にわたしのものである名前を持っていないのだ。わたしが持っている二つの名前の中、その一つはわたしの家族全体に共通のものである。いや、他の幾多の家族にさえも共通している。パリとモンペリエにそれぞれモンターニュと名乗る一族がある。またブルターニュとサントンジュにはラ・モンターニュと名乗る一族がある。このラというただ一綴りのあるなしは、お互いの血筋をこんがらからせ、わたしが彼らの栄光にあずかったり、彼らの方がうっかりするとわたしの恥辱のとばっちりをこうむったりすることになろう。それに、わたしの家は昔エーケムという苗字をもっていたが、この苗字がまたイギリスの著名な一家と関係がある。わたしのもう一つの名**にいたっては、これを持とうと思う者が誰でも持てるものである。そうすると多分わたしは、わたしの代りにどこかの人足に名誉を与えることになるであろう。それから、よしわたしがわたしだけの特別の名前をもったところで、一たびわたしがいなくなったら、それは一体何を標示することができるか。ないものをそれは標示し愛護することができるだろうか。

(b)わが墓石は、ためにわが枯骨の上に軽くならんか。
後の世の人々われをたたえるならば、
わが幸運なる枯骨より、たましいより、墓石より、
美わしき花咲きずるならんか。
(ペルシウス)

(a)しかし、このことは別の所***ですでに語った。
* この苗字がイギリス系統のものでなく、古くからギュイエンヌ地方に存在したものであることは、わたしの著書『モンテーニュ伝』中にのべた通りである。なお、モンテーニュはここに「昔……」と書いているが、このエーケムを名乗ることは、その父ピエールの時代までつづいたので、むしろモンテーニュ〔正しく発音するとモンターニュ〕を名乗るようになったのは(すなわちこのエーケムという苗字をすてたのは)、ミシェルその人なので、決して「昔」のことではないのである。これは、モンテーニュが虚栄について書きながら、自ら虚栄家だとわらわれるゆえんである。だがアルマンゴーも、ここでは強いてモンテーニュの小さなヴァニテを弁護していない。むしろ当時なお政界に出ようという野心が全くなくはなかったことから許容できることとして、それを率直に認めている。第三巻第九章参照。
** ミシェルという洗礼名のこと。
*** 第一巻第四十六章。
 要するに、一つの合戦を通じて一万の人間が不具にされたり殺されたりしても、後の世の語り草になるのは十五人そこそこである。運命がそこに何か卓抜な偉大さとか或いは何か重大な結果とかを結びつけたのでなければ、一つの隠れた行為があらわされることは決してないので、それは一介の銃士の場合ばかりではなく立派な大将の場合でも同じことである。まったく一人・二人・または十人・の敵を殺すこと、勇ましく死に挺身するということは、成程当人にとっては相当なことである。全力を挙げてこれに赴くのであるから。けれども世間からみれば、それは余りにもありふれたこと、毎日のようにみられることで、それが顕著な結果を生ずるためにはそれが余程たくさんになければならないのだから、我々はあれくらいのことから特別の尊敬を期待することは到底できないのである。

(b)そは幾千の人々に起る平凡事なり。
しかも偶然のどさくさより生ずる珍しからぬ出来事なり。
(ユウェナリス)

(a)一千五百年来、このフランスにおいて武器を手にして死んだ幾万の勇士のうち、我々にその名の知られているものは百人とないのである。ただに大将たちの記憶だけではない、合戦や勝利のそれさえも埋もれてしまった。
 (c)世界の半分以上の出来事は、記録されないためによそには伝わらず、やがてそのまま消えてしまう。
 もしそれらの未知の出来事が手に入るなら、わたしはそれらをもって、楽々と今までいろいろな模範として知られている出来事と取り代えてしまうであろう。
 (a)ああ何としたことか。あのローマ人やギリシア人の間にさえ、あれ程の作者、あれ程の目撃者があり、またあれ程の稀有崇高な功業があったのに、こんなに少ししか我々まで伝わっていないとは!

(b)僅かなる風辛うじて彼らの勲功を
我らのもとに吹きおくるのみ。
(ウェルギリウス)

(a)もし今から百年の後に、人々が大ざっぱにでも、我々の時代にこのフランスに内乱があったことをおぼえているなら、それこそ大出来である。
 (b)ラケダイモンの人々は、いよいよ戦争を始める時に、ミューズたちに犠牲を供えて、自分たちの働きが立派に堂々と記録されるようにと祈るのを常とした。というのは、目ざましい働きがよい目撃者をえて長く後世に伝えられることは、ひとえに神の・なみなみならぬ・加護によるものだと思ったからである。
 (a)我々は、火縄銃の玉を一つ喰らう毎に、危険の一つにのぞむ毎に、ひょっこり一人の記録家が現われ出で、それを歴史に書きとめてくれるとでも考えるのか。いやかりに、その上さらに百人の記録家が出てきてそれを書きしるすとしたところで、その記録は唯の三日しかながらえないだろう。そして誰の目にも触れずに終るだろう。我々は古人の書いた物の千分の一も持っていない。それらに生命を与えるのは運命であって、生命の長い短いはただ運命の愛顧のいかんによるのである。(c)だから我々の持っている古書は一番不出来なものではあるまいかと、疑ってみることもゆるされる。あとのものは見たことがないのだから。(a)人はそんな下らない事柄をたねに歴史を書きはしない。そこに書いてもらうには、一帝国または一王国を征服したほどの大将であらねばならぬ。カエサルのように、常に劣った軍勢をもって五十二回の激戦に勝ったものでなければならぬ。一万の勇卒と幾多の勇将が、彼に従って勇敢に戦い勇猛に戦死した。しかも彼らの名は、彼等の妻や子が生きている間だけしかつづかなかった。

(b)彼らの栄光影くらく彼らを忘れしめつ。
(ウェルギリウス)

(a)我々が現にその立派な行いを目撃した人々でさえ、彼らがそこを去って三カ月あるいは三カ年もたてば、かつてそんな人はいたことがなかったかのように、もう誰一人として彼らのことを語るものはない。誰でもよい、正しい標準をもって、いったいどんな人々の・どんな働きの・栄光が真に歴史にとどめられるに値するかを考えてごらん。我々の世紀には、少しでもその権利を主張しうる程の勲功なり人物なりは、きわめてわずかしかないことがおわかりになろう。我々はいかにたくさんの勇士たちが自分の評判より死におくれたのを見たことか。かわいそうに彼らは、その若い時分にきわめて正当に獲得した名誉・光栄・が目のあたりに消えうせるのを見て、嘆かねばならなかったのである。それなのに我々は、なおこのくうな・はかない・たった三年の生命のために、我々のほんとうの本質的な生命を失おうとするのか。永遠の死の中にまき込まれようとするのか。賢者は、このように重大な企てのためには、何かもっと立派な・もっと正しい・目標をおく。
 (c)※(始め二重山括弧、1-1-52)善行の報いはこれを成就したりということなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
※(始め二重山括弧、1-1-52)奉仕の果実は奉仕そのことなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (a)絵かきその他の芸術家にとっては、また修辞家や文法家にとっても、その作品によって名をえようと努めることは、或いは許されてよいことかも知れない。けれども徳行にいたっては、それ自体がはなはだ高貴なものなのだから、それに特有な価値の外には報いなどを求めるべきではない。まして、それを空虚な人間の判断の中に求めるべきではない。
 けれども万一この間違った考え方が、人々にその義務を守らせることになって少しでも世を益することになるならば、(b)そして、万一民衆がそのために徳に対して目をさまさせられるならば、また王侯がたも、人々がトラヤヌスの記憶を賛えてネロのそれを呪うのを見て深く心をうごかされるならば、この極悪人の名がかつてはあれ程まで人に恐れられたのに、今ではどんな学童によっても散々に呪われそしられているのをみて心を動かされるならば、(a)この間違った考えも、思いきってはびこるがよい。人はできるだけ、それを我々の間に養い育てるがよい。
 (c)それでプラトンも、彼の市民たちを有徳にするためにあらゆる物事を利用し、彼らに向って民衆の評判や賞賛をも蔑視しないようにすすめている。そして、「何かの神来の霊感によって、悪人でさえが、しばしば言葉についても行いについても、そのよしあしを正しく識別することがある」といっている。この人およびその先生のソクラテスは、人間の力の足りないあらゆる場合に、きわめて巧妙かつ大胆に、神の業・神の啓示・を借りてくる名人であった。※(始め二重山括弧、1-1-52)あたかもその戯曲の結末をつけ難き時に、神の助けを借りる悲劇詩人のごとく※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 おそらくそのために、ティモンは彼をそしって、「奇跡つくりの名人」と呼んだのであろう。
 (a)人間はその器量不足のために、良い貨幣だけでは満足しないのだから、贋金にせがねもまぜて使うがよい。この方法はあらゆる立法家によって実行された。どんな国家にも空虚な儀礼や嘘のいい伝えが多少とも混入していないことはなく、かえってそれが人民に義務を守らせる役に立っている。実にそのために、大部分の国家が、物語めいた・そして超自然的神秘に充満した・それぞれの建国創業の物語をもっているのである。それがいんちきなもろもろの宗教に信用を与え、それらを悟性ある人々にまで愛用させたのである。そのためにヌマとセルトリウスとは、その人民たちの信をますます深くさせようとして、前者は魔女エゲリアが、後者はその白い鹿が、それぞれ自分たちの尋ねる神意を神々の許から運んで来るのだというばかばかしい考えを、人民に吹き込んだのである。
 (c)なお、ヌマは今いった女神の加護をいいたててその法律に権威をもたせたが、バクトリア人およびペルシア人の立法者だったゾロアストレスは、神オロマジスの名をもってその法律に権威をつけた。エジプト人の立法者トリスメギストスは神メルキュール〔メルクリウス〕の名によって、スキュティア人の立法者ザモルクシスはウェスタの名によって、カルキス人の立法者カロンダスはサトゥルヌスの名によって、カンディア人の立法者ミノスはユピテルの名によって、ラケダイモン人の立法者リュクルゴスはアポロンの名によって、アテナイ人の立法者ドラコンおよびソロンはミネルヴァの名によって、それぞれの法律にもったいをつけた。それでどこの国家もその頭に神をいただく。他の多くの国の神は嘘であるが、モーゼがエジプトを出たユダヤの民に与えた神だけは、本当の神である
* モンテーニュはここでも、神がモーゼに与えた天啓を信じているのではない。むしろモーゼもまた為政者としてヌマやセルトリウスと同じ方法をとったのだと言っているのである。
 (a)ベドゥイン人の宗教は、ジョアンヴィル卿がいっている通り、「その主君のために死んだ者の霊は、次の世においてより幸福な・より立派な・より堅固な・肉体に行って宿る」と特に教えていた。そのために、彼らはいよいよますます生命の危険を恐れなかった。

(b)これらの兵士は熱烈にして刀剣をおそれず、
その霊魂は死をも軽んじたり。
やがて再び返し与えらるる生命を惜しむは、
彼らにとりては卑怯と考えられしなり。
(ルカヌス)

(a)これこそ、嘘であるかも知れないが、はなはだ有益な信仰である。どの国民も、それぞれこのような実例をたくさんもっている。しかしこの問題は、また別に論ずる価値があるであろう**
* B※(アキュートアクセント付きE小文字)douans. 北アフリカおよびアラビアの砂漠地方に漂泊するアラビア人。
** ここに述べられている問題は前出第二巻第十二章の所論と共に理解すべきであろう。モンテーニュは為政者としての立場から、この種の宗教をいずれも否定しないのである。
 なおもう一言わたしの最初の問題についてつけ加えるならば、わたしは婦人たちに、その当然の義務を名誉と呼ぶこともお勧めしない。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)普通の言い方によれば、世の人々が名誉と呼びなすもののみが名誉と呼ばるるなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。彼女たちの義務こそ心髄であり、名誉の方は外皮にすぎない。(a)また、彼女たちが拒否のいいわけにこの語を用いることもお勧めしない。まったく彼女たちの意向・欲望・意志・は何れも名誉とは何の関係もない事柄であって、少しも外に現われないものであるから、それだけに外に現われる行為よりもいっそう整っていなければならないものと、わたしは始めから考えているのである。

ただ掟を恐れて拒む女はやがて従う。
(オウィディウス)

神の前・良心の中・では、それを欲望するのもそれを実行するのも、罪の大きさに変りはないであろう。それに、それはそれ自体隠れた秘密の行為である。彼女たちがそのどれか一つを他人の認識からかくすのは容易であろう。もし彼女たちが別にその義務を尊敬せず・また純潔そのものを愛するのでなければ、名誉はただ他人に知られるか知られないかによってきまるだけであろう。
 (c)名誉を重んずる女性は誰でも、その良心を失うよりはむしろその名誉を失う方を好む。
* honneur は一般に名誉・面目を意味するが、婦人においては殊に貞操純潔を意味する。
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第十七章 自惚れについて



 この章は初版の序文が書かれた一五八〇年に最も近い頃に書かれたエッセーの一つで、恐らく前章に引き続いて書かれたものであろう。ここには同じ時期に属する第一巻第二十六章や第二巻第八章、第二巻第十章におけるように、序文に述べられているみずからを描こうとする意図がいよいよはっきり見て取られる。すなわち我々はここに、モンテーニュの霊肉両面の自画像を見るのである。「自惚うぬぼれ」すなわち「我々が自分の価値について抱くあまりに良すぎる意見」ということを端緒として、彼はいわゆる自省 examen de conscience をする。どのくらい自分が自惚れの強い男であるかを反省する。しかもそれらの間に綴られている彼の告白ないし打開け話は、じつに赤裸で正直でしかも少しも悪びれたところがない。ここに『随想録』はいよいよその魅力を発揮する。この章頭の一頁などは、モリエールのアルセストでも言いそうな言葉ではないか。モンテーニュはアルセストの円熟した姿である。
 なおマキアヴェリに関する批評および彼の政治観については第三巻第一章を併せよまれたい。

 (a)ここにもう一つ別種の栄誉がある。我々が自分の価値について抱くあまりに良すぎる意見がそれである。それは我々が自分を甘やかす無分別な愛情であって、我々を我々自身に、実際とはちがって見せる。ちょうど恋愛の情念がそのいつくしむ人にもろもろの美や愛嬌を貸し、恋に迷った者に、狂った判断によってその愛する人を、それがあるとは別様に・実際よりも完全に・思わせるのと同じである。
* モンテーニュは前章において「栄誉」について語った。栄誉は彼にとってはひっきょう「虚栄」・「虚名」・彼自ら定義するところによれば「我々があらわに示す行為に対して世間が与える賞賛」であった。すなわち“fausse gloire”に過ぎなかった。――この章はその延長として、「我々が自分の価値について抱くあまりに良すぎる意見」すなわち自尊・自惚れ・高慢 orgueil, pr※(アキュートアクセント付きE小文字)somption について語ろうとする。そして最後には、愈々それが増長して、他人の価値を少しも認めず・ただ自分だけが偉いように思う・思い上り、自己過信、唯我独尊に及ぶ。モンテーニュは、そういう広い意味を※(始め二重山括弧、1-1-52)gloire※(終わり二重山括弧、1-1-53)の一語のうちにこめている。ここに※(始め二重山括弧、1-1-52)une autre gloire※(終わり二重山括弧、1-1-53)とあることによって、前章の標題もまた、すでに orgueil, pr※(アキュートアクセント付きE小文字)somption に通ずる「虚栄」の意味を含んでいたことがわかる。
 だがしかし、わたしはこうしたあやまちを恐れるあまり、自分を見くびったり自分を実際以下に思いこんだりしてはいけないと思う。判断はどんな場合にもその権利を保持しなければならない。人が自分に関しても他人に関しても、真理が彼の前に示すところをありのままに見るのは当然なことである。もしカエサルならば、断然おれは世界で最もえらい大将だと自ら思うべきである。我々は礼儀礼儀で暮している。礼儀に引きずられて物事の本質を忘れている。枝葉にかかずらい根もとをほったらかしている。我々は御婦人方に、御自身があそばすのを少しも恐れない事柄を、ただ耳にするだけで赤くなるように教えてしまった。我々は我々のからだの一部をその名のままに呼ぶことをはばかる。しかもこれをあらゆる淫楽の用に供することは恐れない。礼儀は法律でさえゆるしている自然な事柄まで、言葉にいい表わしてはいけないと言う。我々はだまってそれに従う。だが理性が我々に、法律にはずれた悪い行いをしてはいけないといっても、誰一人としてこれに従う者はない。わたしはいま、礼儀の掟にしばられて動きがとれない。まったく礼儀は、自分について良く語ることも悪しく語ることも、ともに許さないのである。だがまあ今日は、その問題はそっとしておこう。
 それが好運なのか悪運なのかは知らないが、とにかく運によって一生をある高い位のうちにすごさせてもらった人々は、その公の働きによって自分がどんな人間であるかを示すことができる。けれども運命がただ大ぜいの中でだけ働かせた人々、(c)自分で語らない限り誰も語ってはくれないであろう人々は、(a)自分のことを知りたがっている人々に向って、ルキリウスのように自分について大胆に語っても許さるべきだと思う。

彼は、あらゆる己れの秘密を、
仲のよき友だちにあかすがごとく書物に託したり。
うれしきにつけ悲しきにつけ
彼にはその本心を語るべき友なかりしなり。
されば彼の全生涯は、
献額の中に見らるるごとくそこに描かれたり。
(ホラティウス)

 そのルキリウスは、紙の上にその行為と思想とを託し、自らを自ら感ずるがままにそこに描いたのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)ルティリウスも、スカウルスも、ために少しもその信と敬とを失うことなかりき※(終わり二重山括弧、1-1-53)(タキトゥス)。
 (a)そこで思い出して見ると、わたしはごく幼い時分から、何かしらえらそうにお高くとまった身ぶりそぶりをすると、よくいわれたものだが、このことについては、わたしはまず次のように申したい。「我々が、自分では知覚することも認識することもできないほどに深く身にしみこんでいる、そのような独特の性格なり性癖なりをもっていたって、一向さしつかえないではないか」と。それに体は、そういう生れつきの傾向から、我々が知らないうちに、我々のゆるしもえないのに、容易にそのような日常の癖を貰ってしまうのである。あのアレクサンドロスに頭をちょっと片方に傾けさせたのも、自分の美貌を意識した一種の気どりであったし、アルキビアデスがおっとりとした含み声で物を言ったのも、また同じことであった。ユリウス・カエサルはよく一本の指で頭を掻いたが、これは苦労性の人の態度である。それからキケロはよく鼻をひくひくさせたらしいが、これは人をこばかにした性分を示すものである。こういった挙動は、いずれも当人に知覚されずに起りうる。もっとも中には作為的なものもある。これは今わたしが話しているものとはちがうものであって、例えば挨拶やお辞儀などの類いである。人はこれによって、最もしばしば謙遜礼節の誉れを不当にかちえる。(c)人は虚栄のために謙遜であることがある。(b)わたしはかなり脱帽の礼を安売りする。特に夏は。お辞儀をされれば必ず御答礼をする。自分のうちの奉公人でない限り、どんな身分の人に対しても脱帽するのだ。だがわたしの知っている親王様がたに対しては、もう少しそれを惜しまれるように、もう少し適当にそれを分かち与えられるように、お願いしたい。まったくああ惜しげもなく振りまかれたのでは、脱帽もしまいにききめがなくなる。それは、その気持がこもっていないならば、何の効果もないのである。(a)度をはずした態度の中では、皇帝コンスタンティウスの尊大ぶりを忘れまい。彼は公衆の前でいつも首を真直ぐにしていた。右にも、左にも、それをふり向けもしなければ曲げもしなかった。わきからご挨拶申上げる者どもに一顧も与えられなかった。お馬車がゆれても決して不動の姿勢をくずされず、人々の前では唾を吐くことも鼻をかむことも顔を拭くことすらも、あそばされなかった。
 わたしはむかし人がわたしの内に認めたあの身振りが、はたして今述べた第一の部類〔無意識になされるもの〕に属するものか、それともこれはありそうなことだが、本当にわたしがこのから威張りという不徳に対して何か噂通りの隠れた性向をもっていたのか、どっちであるか知らない。それに体の動きについては、わたしは責任がもてないのである。だが霊魂の動きについては、わたしはここに、自らそれについて感ずるところを正直に言おうとおもう。
 このから威張りには二つの部分がある。すなわち自分をあまりに重く見ることと、他人を十分に重んじないこととである。ところで第一の部分については、(c)まずもって次のような事柄を考えに入れておいていただかなければならないと思う。それは、わたしが何か自分の霊魂の誤りに圧迫されているということ、そして、それをわたしは、不正なものとして・それ以上に執念ぶかいものとして・自らいやがっているということである。わたしはそういう心持を直そうと努めている。だがそれを根治することはできない。ではそれはどんなことかというと、わたしは自分の所有しているものの真の価を、自分でそれをもっているためにかえって値引きして見がちであるということである。そして他人のもの・自分にないもの・わたしのものでないもの・であると、その価を高く見つもるということである。こういう癖はきわめて広範囲に認められる。例えば絶対の支配権を持っているものだから、世間の亭主たちはその妻たちを、多くの父たちはその子供たちを、それぞれ誤った蔑視をもって見ている。わたしも同じような二つの仕事を見ると、とかく自分の仕事の方を悪く見がちなのだ。ひたすら自分を進歩させ改善しようとする熱情がわたしの判断を混乱させ、わたしに自分に満足することを許さないからではなく、むしろ、自分がその支配者であるという唯それだけのことで、自己が把握し・支配し・ているものに対する蔑視を産みだすからである。遠い昔の政体や風俗がわたしの心を引く。また昔の言葉なども同じで、わたしはラテン語がその品位によってわたしに買いかぶられていること、その点自分もまた子どもや俗人とちがわないことに気がついている。隣りの人の暮しや邸や馬は、同じ価値でありながら、唯それが自分のものでないだけで、自分のよりはよく思われる。それにわたしは、自分の事柄についてはなはだ無知である。わたしは皆がそれぞれ自分について確信と希望とをもっているのに感心しているが、わたしにはわたしが知っていると言えるもの・これこそすることができると責任のもてるもの・がほとんど一つもないのである。わたしは事前にととのった・ちゃんと目録にあがった・わたしの手段というものを全くもたない。むしろ、事後に始めてそれを教えられるのである。わたしは自分についても、あらゆる他の物事についてと同じ位にあやふやである。だから何か一つの仕事においてひょっと人さまにほめられるようなことをしでかしても、わたしはそれを、わたしの力量によりもわたしの運の方に、帰することになるのである。わたしは何事もみな偶然にまかせて、おそるおそる企てているのだから。同様に(a)わたしは、いつもこんな風に思っている。つまり、古代の人々が人間一般に関していだいていたもろもろの意見のうち、わたしが最も喜んで懐抱し執着するのは、われわれ人間を最も軽蔑し・見くだし・無視する・意見なのだ。哲学は我々の自惚れと虚栄とをやっつける時ほど、そして正直に自分の不確実と無力と無知とを認識する時ほど、たのもしく立派に見えることはない。個人の場合にも公の場合にも、最も間違った意見を産み出し育てる母は、人間が自分について抱くところのあまりにすぎる意見であるように思われる。水星の周転円にまたがって下界を見おろしている人々、(c)天をそのように遙かかなたにうち眺めている人々(a)は、大道のいんちき歯医者そっくりに見える。まったくわたしは研究をしつつある間に(それは人間を主題とするものだが)、諸家の判断がきわめてまちまちであること、むつかしい問題が次から次へとつながってまるで深い迷路のようであること、知恵者ぞろいの学校においてさえこれほどの雑多と不確実とが存在すること、などを知っては、察してもくれようが(だってこれらの面々は、彼ら自身についても、また絶えず彼らの眼前にあり・彼らの内にある・自分の本性その物についても、その認識を決定することができなかったではないか。彼ら自らが動かしている物がどうして動くのかも知らなければ、彼ら自ら把握し操作する機械を我々の前に分析叙述することもできないではないか)、どうして彼らのナイル河の干満の原因に関する所論などを真に受ける気になれようか。もろもろの物事を知ろうとする欲求は「人に授けられた苦しい業」であると、聖書もいっている。
* 「伝道の書」第一。
 けれどもわたし一個の話に立ちもどるに、おそらく他のなんぴとも、わたしのように自分を低く評価することはむつかしかろう。いや他のなんぴとも、わたしをわたしのように低く評価することはむつかしかろうと思う。
 (c)わたしは自分を普通平凡な人間だと思っている。ただそう思っていることだけが人とちがうところである。わたしは最も低級で平凡な欠点をもっているが、わたしはそれを隠しもしなければ申訳もしない。わたしはただ自分の価値を知っていることだけを、自分の値打ちだと思っている。
 よし幾らかの虚栄があるとしても、それはわたしの天性から漏れて出てわたしの浅いところを流れているものであって、わたしの判断の眼にとまるほどの実体をもってはいないのである。
 わたしはそれを浴びてはいるが、それに染まってはいないのである。
 (a)まったく正直のところ、精神の作品に至っては、わたしを満足させるようなものはどんな形においても、ついぞ一ぺんもわたしから生れ出たことがないのである。他人の賞賛もわたしを満足させないのである。わたしの好みはこっていてむずかし屋である。特に自分に対してやかましいのである。わたしは絶えず自分についての評価を変える。そしていたるところで、無力のために自分が動揺し挫折するのを感ずる。わたしは自分の判断を満足させるような自分のものを、何一つもっていない。わたしの眼はかなり明らかで正しいが、さていよいよとなるとぼんやりする。それは詩に対してわたしが最もはっきりと経験するところである。わたしは限りなく詩を愛する。かなりよく他人の作品にも通じている。けれども正直のところ、自ら手をつけて見るとまるで子供である。わたしは自分に我慢ができない。人はよそでならばどこで馬鹿をしてもよろしいが、ただ詩においてだけはいけない。

神々も人々も、詩を記す円柱も、
敢えて詩人の凡庸なることを許さず。
(ホラティウス)

願わくはこの格言が、わが国のあらゆる印刷屋の軒さきにかかげられて、わんさわんさと押しかけるへぼ詩人諸氏の御入来を謝絶せんことを。

へぼ詩人ほど自信強きはなし。
(マルティアリス)

 (c)どうして我々の間には次のような人民がいないのであろうか。大ディオニュシオスは自分のもののうちで何よりもその詩作を尊重した。オリュンピアの競技の季節になると、壮麗ならびなき戦車と共に詩人楽人をここに送り、自分の詩を豪華な錦の天幕や旗とともに提出させた。いよいよその詩が披露されると、その発声がいかにも巧妙であったため、始めのうちはいささか人民の注意をひいたが、やがてその詩そのものの冗慢愚劣なことがわかってくると、人民はまずこれを軽蔑した。さらにその判断をいらいらさせられると、こんどは憤然として怒り、走りかかって彼の旗や天幕をことごとく引き裂いた。それに、彼の戦車さえ何らの功を立てなかったばかりか、彼の家来どもをのせた船もシチリアに帰りつかず、途中で暴風にあい、タラスの切り岸に乗りあげたと知ると、人々は、これは神々が、自分たちと同様に、彼のへたくそな詩にお怒りになったためであると確信した。いや、その難船から辛うじて助かった水夫たちまでが、この人民の意見に和したのである。
 彼の死を予言した託宣もまた、ある意味においてこの人民の意見を裏書きしたかに思われた。その句には、「ディオニュシオスは、彼よりも優れたものを征服し終ろうとする時、自らの最期に近づくだろう」とあった。それを彼は、兵力において味方を越えるカルタゴ人のことと解釈した。それで彼らと戦うときには、しばしばその勝利を避けたり我慢したりして、この予言の意味にあてはまるまいと努めた。けれども彼の解釈は間違っていた。まったく神は、彼が「レナエアの祭」と名づける一篇の悲劇をもって自分よりも優れたアテナイの悲劇詩人たちと争い、運よく、また不当に、これに勝ったその時を、目ざしておられたのである。この勝利の後、とつぜん彼は他界した。いや、半分はそれをあまりに喜びすぎたために死んだのであった。
 (a)わたしが書いたものの中にもどうやら許してもらえそうなものもないではないと思うが、それだって、決してそれ自体ほんとうに許してもらえるものではないので、ただほかの・世間の信用を博している・もっとまずいものと比較しての話にすぎない。わたしは自分の仕事に喜びと満足とを感じていられる幸福な人々が羨ましい。まったく、自惚れこそ自分に愉快を与える楽な方法なのである。その愉快はその人自身から引き出されるのだから。(c)ことに彼らの自信のうちにいささかの粘りづよさがあるならば申分なしである。わたしの知っている或る詩人は、上手な人たちからも下手な人たちからも、衆人の前でも私室の中でも、また天からも地からも、一様に「お前はまるで詩を解しない」と叱られている。ところが何といわれても、自ら測ったその身のたけを、ほんの少しもつめようとはしないのである。性こりもなく、また作る。またひねくる。またがんばる。それを支持するのはただ彼独りであるだけに、彼の意見はそれだけ強固である。(a)わたしの作品にいたっては、どうしてわたしに笑いかけるどころではない。見直せば見直すほど、ますますわたしをうんざりさせるばかりである。

(b)われおのれの書物を読みかえす時、自らこれを書きたるを恥ず。
何となればそこには、自己の判断に訴えてさえ、
抹殺に値することが、あまたあればなり。
(オウィディウス)

 (a)わたしは常に心の中に、一つのイデ〔観念〕・ある混沌としたイマージュ〔心像〕・をもっている。それは実際にわたしが作り出した形よりも優れた形を、いわば夢の中のもののようにぼんやりとわたしに示しているが、わたしにはそれをとらえることも利用することもできない。それに、そのイデ〔観念〕そのものが中程度のものにすぎない。それでわたしは、あの古代の豊富偉大な霊魂の所産は、わたしの想像と願いとの究極をさえ遙かに凌いでいると結論する。彼らの述作はたんにわたしを満足させるばかりではない。驚嘆させる。わたしはそれらの美を鑑賞する。それを究極までではないとしても、少なくともそれを自らは望むことができないのだとわかるまで、深く見きわめる。何事を企てるにしても、わたしはプルタルコスがある人についていったように、美の女神たちに犠牲を供えてその加護を乞うのである。

   もし何ものかが
人々の感覚を喜ばしたのしますとすれば、
すべてそはやさしき美の女神たちの賜なり。
(出所不詳)

ところが女神たちはいつもわたしを見すてる。すべてはわたしにおいて粗野であり、そこには愛らしさ美しさが欠けている。わたしは物事を、それが価する以上に見せかけるすべを知らず、わたしの文体は少しも内容を助成しない。だからわたしには、力ある内容が、多くの把握力をもち・それ自ら輝くところの・内容が入用なのだ。(c)平凡なやや陽気な内容をとり上げるのは、あの世間のひとたちのように、もったいぶった・悲しげな・知恵が好きでないわたし自らに従うため、わたし自らを快活にするためであって、わたしの文章を快活にするためではない。わたしの文章はむしろ厳粛な内容にふさわしい(もっともこのような混沌として秩序のない話し振りや、通俗な素人しろうと臭い言いまわしや、定義も分類も結論もないアマファニウスやラビリウス流の乱雑な述べ方などは、文章とはいえないかも知れないが)。(a)わたしは気に入ることも喜ばすこともくすぐることも知らない。世界一おもしろい物語も、わたしの手にかかるとひからびてつやをなくしてしまう。わたしはただきまじめに語るすべを知るだけである。わたしの友達の誰かれにおいて見受けるように、初対面の人をも巧みにあやなし、一座全体に息もつがせず、またいろいろなお話をして王侯がたの御耳を疲らせることなく楽しませる、というような、ああいう才は全く持ち合せない。彼らには話のたねが尽きるということがない。彼らは何でもかでも手当り次第にとり上げて、これをその相手の気質や力量に応じて使いこなすという天才を持っているからである。(b)王侯がたは大抵固い議論がおきらいだし、わたしの方は作り話をするのがきらいときている。(a)とっさの最もやさしい説明が一般に最もよく受け入れられるが、わたしにはそれができない。(c)可哀そうに俗受けのしない弁士なのだ。何事についても、わたしはいつも自分の知っている最後のことをいう。キケロは、「哲学の論文において最もむつかしい部分は序論である」と考えたが、そういうことなら、わたしは結論の方に先ずとりかかる。
 (a)だがしかし、我々は絃をあらゆる調子にあわせなければならない。しかも最も鋭い音は、一曲の中で甚だ稀にしか聞かれないものである。少なくとも、空虚な問題を取扱うのにも重大な問題を支持するのにも、同じだけの腕がいる。ときには物事を浅く取扱わねばならず、ときにはこれを深く掘りさげなければならない。わたしは大部分の人々が、物事を一番うえの表皮によってしか思い見ないために、あのような低位にとどまっているのを知り抜いている。けれどもまた一流の大先生が、(c)クセノフォンやプラトンが、(a)しばしばわざとくだけて、この低級な・平俗な・文体で物事を論述していること、しかもいつものように優雅な趣を失わないでいることをも、承知している。
 それに、わたしの言葉には少しもやさしく滑らかなところがない。それはぶっきらぼうで、(c)とっつきにくい。(a)言葉のあつかいが自由奔放だからである。実際そんなのがわたしは好きなのである。(c)これは、わたしの判断によってではなく、わたしの好みによってである。(a)けれどもわたしだって、時にはあまりに行きすぎることがあるのに気がついている。あまりに技巧を避けたがって、別の難解におちいることもあるのに気がついている。

われ簡潔ならんとして、
曖昧におちいれり。
(ホラティウス)

 (c)プラトンはいった。「長い短いは文章の価値を奪ったり与えたりする特質ではない」と。
 (a)わたしがこれとちがった、むらのない・一様な・整った・文体をまねようとしたって、とうてい達し得ないであろう。それから、サルスティウスの歯ぎれのよいきびきびした調子の方がわたしの気質にはかなうけれども、それにしてもカエサルの方がさらに偉大でいっそう真似のできないものだと、わたしは思う。また、わたしの好みはわたしにセネカの話振りをまねさせるけれども、やはりプルタルコスのそれを一そう尊ばずにはいられない。することにおいてと同じく、言うことにおいても、わたしはただ単純に自分の生れつきの性分に従う。恐らくそれで、わたしは書くことよりはしゃべることの方がうまいのである。身振り手振りは言葉を生き生きさせる。特にわたしのように動かされやすく激しやすい人間においてはそうである。せい恰好・顔つき・声音・衣服・態度は、むだ話のようなそれ自体何ら実のない事柄にも、いくらかの値うちをつける。メッサラはタキトゥスの中で、当時流行したある身幅の狭い衣服と、弁士たちが話をする場所の椅子の並べようとが、彼らの雄弁をさまたげている事情を嘆いている。
 わたしのフランス語は、わたしの地もとの野蛮のために、発音やその他の点でなまっている。わたしは、こちら側〔ロワール河南〕の者で、はっきりとそのお国訛りを感じさせない・そして生粋のフランス人の耳にさわらない・者を、ついぞ見たことがない。けれどもそれは、わたしがわがペリゴール弁にきわめてよく通じているからというわけではない。まったくわたしは、この方言をドイツ語と同様、用いてはいないのである。いや、それはわたしの眼中にないのである。(c)それはわたしの周囲の諸方言、数え上げればポワトゥ弁、サントンジュ弁、アングモワ弁、リモージュ弁、オーヴェルニュ弁などと同様に、ぐずぐず・だらだらした・張りのない・言葉である。(a)われわれの所よりはずっと高みの山寄りの方に、素朴な・簡潔な・含蓄のあるガスコーニュ弁がある。こいつはなかなか美しい。本当にそれは、わたしのきいたどこの方言よりも雄々しい・武張った・言葉である。(c)フランス語が優美繊細豊富である分だけ、この方はきびきびと力強く的確である。
 (a)ラテン語にいたってはわたしが母語として与えられたものであるが、しばらく使わずにいた間にすらすらと語ることができなくなってしまった。(c)さよう、書くことすらできなくなった。昔はその道の名人といわれたものだが(a)この方面においていかにわたしが大したものでないかは、これでおわかりになろう。
* 第一巻第二十六章「子供の教育について」の章参照。
 美は人々との交際においてきわめて大切な特質である。それはお互いが仲よくなる第一のたよりであって、どんなに野蛮で無愛想な人間でもまるきりその魅力にうたれないものはないのである。肉体は我々の存在の大きな部分であって、そこに重要な役割をもっている。それで体の恰好や釣合が重要視されるのは当然である。我々の主要なこれら二つの部分を引離し、霊と肉とを別々にしたがる人々は間違っている。あべこべに両者は結び合わせなければならない。霊魂には片隅に引込んだり・独りぽつねんと構えたり・肉体を無視したり・放棄したり・なぞするように命じないで(それにそんなことをいったって、いくらか猫かぶりでもしないことには、到底それはできっこないのである)、かえって肉体に結びつき、これを抱擁し、これを愛し、これを助け、これを制し、これに勧告し、これが迷いかけたらこれを常道に引き戻すよう、要するにこれと結婚しこれの夫となるように、命じなければならない。そうやって両方の成果がちぐはぐな食いちがったものとならず、調和一致したものとなるようにしむけなければならない。キリスト教徒はこの結合について特別の教訓をうけている。まったく彼らは知っているのだ。神の裁きはこの霊と肉との融合提携を承認し給うばかりでなく、さらに進んで肉体の方も永遠の報いをうけることができるものと考えておられることを。また神様は人間の霊肉両面のはたらきをみそなわし、それが全体として、その功罪に応じて、あるいは罰をあるいは賞を受けられるようにしておられるということを。
 (c)逍遙学派はすべての学派のなかで最も社交的であるが、以上両面の合致による幸福をやしない、これをもろともにたのしもうと心がけることをもって、ただ一つ賢者にふさわしいこととし、他の諸学派がこの融合について十分に考慮せず、徒らに派をかまえて、あるいは肉体をのみ重んじ、あるいは霊魂にのみ傾いて、何れも同じ誤りにおちいったことをとがめている。彼らが人間を主題としながら人間をうとんじたり、一般に自然をその案内者と認めながら自然を遠ざけたりしたことをとがめている。
 (a)人間同士の間の最初の区別、その間の優劣を決定した第一の標準は、どうやら誰が美しさにおいてもっとも優れているかということであったらしい。

   (b)土地の分配は、その昔、
美と力と知恵とに応じてなされたり。そは
美と力とが当時最も重んぜられたればなり。
(ルクレティウス)

(a)ところでわたしの背たけは中ぐらいより少し低い。この欠点はたんに醜いというだけでなく損である。役目があり人を司令しなければならない者には特に損である。つまり押し出しの立派さ、堂々たる体格の与える権威が、そこにはないからである。
 (c)C・マリウスは身のたけ六尺に達しない兵士をあえて採用しなかった。『宮臣論』がその理想とする貴族のために高すぎず低すぎない普通の背たけを欲し、すべてうしろ指をさされるような特異性をしりぞけたのはもっとも千万である。だがひとしくこの中庸をはずれるなら、むしろ大きすぎるよりは小さめなのがよいなどとは、武人に対しては望みたくない。
* イタリア人カスティリヨーネ Balthazar Castiglioneの 著 Il Cortesianole Courtisan)のこと。当時三種の仏訳が出てフランス人にも愛読された。
 小さい男は、アリストテレスがいったように、なるほど可愛らしくはあるが美しくはない。偉大な霊魂も偉大な行いの内に感ぜられる。美もまた大きくたけの高い肉体の中に感ぜられる。
 (a)エティオピア人およびインド人は、アリストテレスのいうところによると、その王様や役人たちを選ぶに当って、その人の美貌と背たけとを重んじたそうな。それはもっともなことである。まったく一隊の先頭に丈ゆたかに威風堂々たる大将が歩むのを見れば、これに従う者には尊敬の念がわき、これに刃向う者は恐怖を感ずるのである。

(b)第一列にトゥルヌス剣を取って進めり。
 体躯堂々としてそのかしら、周囲のすべての者の上にありき。
(ウェルギリウス)

 神々しい・天にまします・われらの偉大なる王〔キリスト〕も(そのすべての点がくわしい注意と敬虔の情とをもって注目されなければならないが)、肉体的にもきわめてすぐれておられたと伝えられる。※(始め二重山括弧、1-1-52)人の子の中にて最も美わしかりき※(終わり二重山括弧、1-1-53)(「詩篇」)。
 (c)またプラトンは、彼の共和国の保持者たちに対して節制や勇気とともに美があることを願った。
 (a)大勢の家来の真中で「殿様はいずれに?」などと問いかけられるのは、いや、髯剃ひげそりや秘書などが受けた敬礼のおあまりをやっと頂戴するなんて、とてもしゃくにさわる。可哀そうにフィロポイメンはそういう目にあった。部隊に先んじて彼のおいでを待ちうけている旅籠はたご屋に第一番に到着したところ、女主人は彼を知らなかったし、見ると風采はなはだ上らぬ男なので、「女どもがフィロポイメンをもてなすために水をんだり火をおこしたりしているから、そっちへ行って手伝いなさい」といいつけた。やがてお供の侍たちが来て見ると、大将がこの花々しいお役目にいそしんでいるので(まったく彼はいいつけに違背しなかったのである)、驚いてそのわけをきいた。「わたしはわたしの醜さの罰をうけているのだ」と彼は答えた。ほかの美しさは女どものものである。背たけの美しさがただ一つ男子の美しさである。背たけが小さい場合は、いかにその額が高く広くても、眼が澄んでいてやさしくても、鼻の形がほどよくても、耳も口も共に小さくても、歯並びがよく白くても、栗皮色の髯がやわらかく密に生えていようとも、髪の毛が巻いていようとも、頭が程よく丸やかであろうとも、皮膚の色が瑞々みずみずしく顔つきが愛くるしくても、体に臭みがなく四肢の釣合が整っていようとも、とうてい美丈夫とはいえないのである。
 わたしはそれに強い頑丈な体を持っている。顔は太ってはいないが張りがある。気質は(b)陽気と陰気との中間にあって、中ぐらいの(a)血気と熱情をたたえている。

わが脚と胸とは毛に掩われたり。
(マルティアリス)

健康はかなり年をとるまで強くさかんで(b)病気に乱されることは稀であった。わたしはむかしそんな風であった。まったくそれは今のわたしの姿ではないのだ。いまのわたしは、もうとうに四十の坂を越して老いの小道にさしかかっている。

(b)いつとなく体力も気力も失われて、
我らは年と共に老い衰う。
(ルクレティウス)

(a)これから後のわたしは、もはや半分の存在にすぎないだろう。もはやわたしではなくなるだろう。わたしは毎日自分自身から抜け出し逃げ去る。

我々の幸福は、一つ一つ、
る年ごとに我らを抜け去るなり。
(ホラティウス)

* 彼が結石病の初の発作を感じたのは四十五歳の時であったらしい。後出第三十七章参照。
 巧みさと身軽さとを、わたしは少しも示したことがない。そのくせ大へん身軽な・しかも高齢にいたるまですばしこさを失わなかった・人の子なのである。父はすべての力わざにおいて、自分に肩をならべうる同じ身分の者をほとんど見出さなかったが、このわたしは、わたしをしのがぬ者を唯の一人も見出さない。ただ駈けっこだけが例外で、そこではわたしもどうやら中くらいの部にはいれた。音楽となると、声の方でも(わたしの声は音楽にはなはだ不向きにできている)楽器の方でも、人は何一つわたしに教えこむことができなかった。舞踊においても、テニスにおいても、角力においても、わたしはごくごく平凡な力量しか養いえなかった。水泳・撃剣・跳躍・ときてはまるでだめ。手先もはなはだ不器用で、ただ自分のためにすら書くことができない。だからわたしは、自分の書きなぐったことを骨折って読みわけるよりは、むしろ新規に書き直す方がすきなくらいである。(c)読むことだってちっともうまくはない。聴き手にとって聞きづらいことはよく承知している。でなけりゃあっぱれ学者なのに。(a)わたしは手紙にきちんと封をすることもできなければ、ついぞペンがけずれたためしもないし、ご馳走によばれても何一つめぼしいやつを切り取ることができない。(c)馬にくらをおくことも、たかを拳にのせて放すことも、犬や鳥に話しかけることも、できやしない。
 (a)わたしの体の性質は、要するに霊魂の性質ときわめてよく釣合っている。そこには何一つ敏捷なものがない。ただ張り切ったたくましい精力があるだけである。わたしはよく苦労に堪える。けれどもそれだって、自分から進んでその気になるときにかぎる。わたしの欲望がわたしをそこに連れてゆく間だけのことだ。

仕事のよろこびは苦労を忘れしむ。
(ホラティウス)

そうでない場合、何かの快感にそそのかされない場合、わたしの純粋で自由な意志とは別のものに案内され導かれる場合は、からきし駄目である。まったくわたしは、「健康と命とのため以外に、(c)わたしがほんとに辛抱しようと思う程のもの、(a)精神の苦痛や束縛を払ってまで買おうと思うものはない」くらいに思っているのである。

(b)この代価にては決して、タグスの河が
砂とともに海へ海へと押し流すすべての金も、
われはりせず。
(ユウェナリス)

(c)わたしはきわめて不精・きわめてわがまま・である。それは性分のせいでもありわざとでもある。わたしは心づかいを供出するくらいなら、同じようによろこんで血を供出するだろう
* 以上の告白は、特に前頁最後の一節に述べられていることなどは、かなり事実と相違している。例えば字がまずいということなども、ボルドー本の書き入れを見れば、モンテーニュがここにいうとおりではないことがわかる。少なくとも誇張されている。おそらく彼は、下らない事柄のために引張り出されて、自分の自由を拘束されることを予防しているのであろう。
 (a)わたしはまったく自分本位の・自己流に振舞うことに慣れた・霊魂をもっている。今日にいたるまで強いられた上役も主人ももったことがないから、わたしは思うがまま先へ進んだ。しかも勝手な歩きつきで歩いた。それはわたしを柔弱にし、他人に仕えることができないものにした。ただ自分にしか役立たないものにした。それに自分のためには、この物ぐさな・不精な・何一つしようとしない・性分も、強いて矯める必要がなかった。まったくわたしは、生れおちから相当な資産を持っていて、この程度にとどまっておればよいのだという理由を持っていたから、またそういう風に考えるだけの分別ももっていたから、何物をもさがし求めず、また何物をも取らなかったのである。

北よりきたる追い風わが帆をふくらまさざりしかど、
南よりの向い風のわが進路を妨ぐることもなかりき。
力・知恵・美・徳・身分・財産において
われは先に立つものの最後なれど、
後にしたがうものの先頭にあるなり。
(ホラティウス)

わたしはることを知る能力だけしか欲しくなかった。(c)だがそれは霊魂を調節することにほかならず、よく考えて見ると、どんな境遇にあっても同様に得がたい能力である。それはむしろ我々の経験によると、豊富の中よりかえって窮乏の中に、より容易に見出されるものである。恐らく他のもろもろの情欲がそうであるように、財宝に対する饑餓もまた、その欠乏によってよりもその使用によって、いよいよその度を増すからであろう。また節制という徳の方が、忍耐のそれよりも稀だからであろう。(a)わたしはただ神様が気前よくわたしの手の中に委ね給う幸福を静かに享受する能力だけしか欲しくなかった。(c)いやな(a)いかなる種類の骨折りも、わたしは味わったことがない。わたしはほとんど、自分の仕事だけしかいじくったことがない。(c)いや何かほかのことをいじくったことがあったにしても、それは唯わたしの好きな時に・わたしの欲する仕方において・処理するという条件においてであった。ただわたしを信用している人と・わたしをよく知りぬいてわたしをせきたてない人々に・頼まれたときだけであった。まったく、眼ききはね馬や息の弱い馬をも何かの用に立てるものである。
 (a)わたしは、少年時代においてさえ自由気ままに育てられ、きびしい躾を全く受けなかった。それやこれやでわたしの性格は、気の弱い・あれこれと気をつかうことにたえられない・ものになってしまった。わたしはわたしの損失やわたしに関係のある心配ごとさえ、隠しておいてもらいたいと思うほどである。わたしは自分の支出の部に、わたしが無頓着のありたけをつくすために生ずる出費、

主人の眼をもれて
盗人のふところを肥やす余分の金
(ホラティウス)

まで見込んでおく。わたしは自分の持ち金の勘定を知らずにいたい。そうしていれば自分の損失もそう正確に感じないですむ。(b)わたしは自分とともに暮す人々にむかって、愛情がなくなってわたしに親切をつくすことができなくなったら、どうかよいうわべをつくろってでもわたしを欺いてくれるようにと、たのんでいる。(a)わたしは、我々がとうてい免れることができない・どうにもならない・出来事のいとわしさに、一つ一つたえるだけの堅固な心はもたないから、また始終緊張してもろもろの雑務を整理してゆくこともできないから、わたしは「全く運命に委せ切って万事を最もわるく考えよう。そしてその最悪を静かに辛抱してこらえよう」という考えを、一所懸命に腹の底に養っている。実に唯この一事に、わたしははげんでいる。唯この目的にむかってわがすべての思索を進めている。
 (b)危険に面しては、わたしは「どうやってこれを免れようか」とは考えないで、「これを免れるということがいかにつまらないことであるか」と考える。そのままじっとしていたら一体どんなことになるだろう? 事件の方を操作することはできないから、わたしはわたし自らを操作する。向うから折れて出なければ、こっちから折れてでる。わたしには、運命をかわしてこれからのがれたり・或いはこれを制御したり・或いは慎重に物事をわが思う壺にと導いたり・するような手腕はあまりない。それに、そういうことのために必要な苦労心配に堪えるだけの忍耐となると、なおさら持ちあわせない。いや、わたしにとって一番苦しい状態は、おしよせるいろいろな事柄の間に中ぶらりんでいること、恐怖と希望との中間にそわそわしていることである。思案するということは、もっとも軽微な事柄についてでさえ、わたしには面倒くさい。わたしの精神は、迷いと思案とからさまざまな動揺衝撃をうける時の方が、ずっと当惑を感ずる。それよりは、いずれにせよ運がきまってしまって、どっちかに腹がきまると、ずっと気が楽になる。情欲でわたしの睡眠がかき乱されたことはほとんどないけれども、思案はその最も小さいものでさえわたしの眠りを乱す。たとえば道を往く時、わたしはいつもその坂になった滑りやすい道端をさけ、泥だらけで、もぐり込みそうでもいい、それより下には落ちっこのない真中にふみこみ、そこに安心を求める。それと同じで、わたしは純粋な不幸を愛する。それはもう、不確かな埋めあわせなどを約束してわたしを苦しめ悩ますことがない。一と押しにわたしを苦難のまっ唯中に突っこんでくれる。

(c)不確かなる不幸こそ、かえって我らを苦しむ。
(セネカ)

(b)いよいよ事件が到来すれば、わたしは雄々しくそれに当るが、そこにゆくまではまるで子供である。落下の恐れは落下そのものよりも、一層わたしをおののかせる。そんな取越苦労は一文の足しにもならない。けちん坊はその情念のために、貧乏人以上に損をする。やきもちやきはコキュ以上にお気の毒である。それから黙ってぶどうを盗まれている方が、これを法廷で争うより、往々にして損が少ないのである。一番下の段がいちばん安全である。そこは恒常の座席である。君もそこに居れば、ただ君自らだけしかいらない。恒常はそこに全く自己だけによって坐っている。あの誰知らぬものもない貴族の話には、幾らか哲学的な風がありはしないか。その人は青春時代を遊蕩児として送った後、かなり年たけてから結婚したが、大のおしゃべり、大の口わるだった。それまでいかにしばしば、細君の不義を、知らぬが仏の亭主どもを、さらし者にしたかを思い出したので、こんどは自分が同じ恥をかかされまいと、わざと金さえ出せば誰でもこれを求めうる社会に妻を求めてこれと結婚し、「お早う、パンパン!」「こんにちは、コキュ!」とやる約束をした。そして自分の家に来る誰かれをつかまえて、きわめてしばしばまたおおびらに、その計画を話してきかせた。そのために彼はかえって悪口屋の蔭口を封じ、その非難の舌鋒を鈍らした。
 (a)野心に至っては、それは自惚れの隣人、いやむしろその娘であるが、わたしを出世させるには、運命がやって来てわたしの手首をとっつかまえなければならなかった。まったく、当てにならない希望のためにこの身を労したり、世間の信用をかちえようと努める者がその門出に当って出あわねばならないいろいろな困難の前に、このわたしまでが身をかがめるなんて、まっぴらご免だ。

(b)われはあだなる希望のために現金を支払わじ。
(テレンティウス)

 わたしはわたしが現に見るもの・現に握っているもの・に執着する。そして港からあまり遠ざからない。

右のかいは水をうち左の櫂は岸辺をうつ。
(プロペルティウス)

 それに、人は先ずもって自己のものを危くしてかからなければ、なかなかああいう高位に達することはない。そこで、わたしはこう考えるのである。「もしこの自分の持っているものが自分の生れ育った境遇を維持するのに足りるならば、これを増加しようという不確実な希望のために、せっかく握っているものを手離すなんてことはばかげている」と。運命から、その足をおくべき足だまり・平穏な生活をおしたてるべき頼り・をこばまれている人間は、自分の持っているものを危険にさらしても、それは仕方がない。なにしろ必要が彼を金さがしに追いたてるんだから。

(c)不幸の内にありては危険なる決意も取らざるをえず。
(セネカ)

(b)実際わたしは、一家の名誉を負い、自ら悪いことをしないかぎり貧乏におちいる心配のない者よりも、次男坊が、その法定相続分を風に委せる方を、むしろ大目に見る。
 (a)わたしは過去の時代のよい友人たちの勧告のおかげで、この欲望を脱却し・平然と澄ましかえっていられる・最も近くて最も楽な道をちゃんと見出した。

戦塵にまみれることなく安穏の境涯をたのしめる人の如く。
(ホラティウス)

それに自分でも、自分の力が大事をなすに足りないことが、よくわかるからである。また、「フランス人はお猿さんみたいだ。木のてっぺん目がけて枝から枝へとよじ登る。一番高い枝に達するまでは登ることをやめない。そしていよいよそこにたどりつくと、そこでお尻を出している」といった、故宰相オリヴィエの言葉をも思い出すからである。

(b)身に不相応なる重荷を頭にのせ、ついに堪えずして、
膝を屈し、志をひるがえすは、恥ずかし。
(プロペルティウス)

 (a)わたしの内にある、難癖のつけようがない諸々の特質さえ、思えば当世には無用のものである。わたしの心持のやさしさも、人は卑怯気弱と言っているらしい。誠実や良心も、小心だとか潔癖だとか思われているらしく、率直や自主性に至っては、うるさいとか無分別だとか乱暴だとか思われているらしい。不幸も何かの役に立つものだ。はなはだ腐敗した時代に生れるのも損ではない。まったくあたりの者と比較されて、みなさんも安価に有徳の誉れをかちえられるではないか。こんにちではただ父を殺したり神を冒涜したくらいでは、やはり正しい人であり誉れの人なのである。

(b)もし汝の友がかつて汝の財布をあずかりしことを否定せず、
その古き財布を、そのまま汝に返すならば、
そは驚くべき誠実にして歴史に書きとどむるに値す。
よろしく若き子羊を殺してこれをほめたたえるべきなり。
(ユウェナリス)

 いまだかつて今日ほど、またわが国においてほど、王侯がたがその仁慈と公正とに対して大きくて確実な報いを期待しうることはなかった。どなたでも、真先にこの方法によって人民の愛と信とをかち得ようと決心あそばされるお方こそ、仲間の王侯がたを出し抜かれるであろうことを、わたしは確信してうたがわない。暴力も何事かをなすことはあるが、常に何事をもなしとげるものではない。
 (c)商人も職人も田舎回りの裁判官も、あのとおり武勇や兵学にかけて貴族たちにひけをとってはいない。戦闘においても決闘においても、堂々と戦っている。いざ戦争ともなれば都城を攻めもし守りもする。こういう群衆の中にあっては、王侯もその重んじられるゆえんをおしつぶされてしまう。どうしてもかれは、その仁愛と誠実と献身と節制と、とくに公正によって、輝かなければならない。ところがそういう特徴は、今は何処どこへ行ったのやら、めったに見つからない。ただ人民の心をとらえることによってのみ、はじめて王侯はその欲するところを行いうるのだというのに。まったく前述の諸特質ほど人民の心をよろこばすものはないのである**。それらの特質ほど人民にとって有難いものはないのだから。

※(始め二重山括弧、1-1-52)仁愛ほど民心をとらえるものなし※(終わり二重山括弧、1-1-53)
(キケロ)

* モンテーニュはここに旧来の貴族よりも一般人民のもとに勇気その他の徳が存在することを認め、王侯の反省をうながしている。モンテーニュの人民に対する好意的な感情は、第二巻第二十九章、第三巻第一章、第三巻第十二章等にもよみとられる。
** ここにはモンテーニュのマキアヴェリ批判の片鱗が見られる。彼は、政治が道徳上の規律や神学上の理論から割出されるものではなく、現実の事態から生れるものであることは十分に認識していながら、やはり仁愛とか誠実とかいう道徳力もまた、れっきとした事実であることを見落してはいない。マキアヴェリがこの事実を無視していることを、彼はひそかに不満としている。第三巻第一章参照。
 (a)このような現代人のだれかれと比較したら、わたしだって自分を偉大な・稀有な・人間と思いこんだであろう。だがわたしは過去のある世紀の人々と比較して、自分を取るに足らない平凡な人間だと思っている。実際昔は、特別にもっと強力な特質が伴っていない限り、復讐において穏和であり・侮蔑に対しても激昂せず・約束は堅く守るし・二心なく・変心せず・自分の所信を他人の意志やそのときの事情などのためにまげない・というだけでは、至極あたりまえの人間とされたのであった。わたしは自分の信念をねじまげて事態に奉仕するよりは、むしろ事態の方が折れて出るのを待つであろう。まったく、近頃ひどく世間で重んじられている見せかけとか猫被ねこかぶりとかいう新しい徳に至っては、わたしが最もにくむところである。あらゆる不徳のうちこれ程その人の心の卑劣を証拠だてるものはないと思う。仮面の蔭に姿を変え身をかくして行こうとし、そのありのままの姿をあえて示すことをしないのは、まことに卑怯卑屈な心根である。そうやって今日の人間は裏切りの修業をする。(b)嘘をいうのになれたから、彼らは約束をたがえても一向気にならない。(a)心の高潔な人は決してその考えをいつわるはずがない。彼はその心底までも見て貰おうと望む。(c)そこではすべてが良い。少なくともそこではすべてが人間的である。
 アリストテレスは、公然と憎みまた愛すること、きわめて率直に判断しまた語ること、そして真実のためには他人の賞賛や非難を気にしないことをもって、高潔な人間の務めであるとした。
 (a)アポロニオスは、嘘をつくのは奴隷のすること、真実をいうのは自由民のすることだといった。
 (b)この真実こそ、徳の第一の・そして基礎的な・要素である。真実はそれ自体のために愛さなくてはならない。こうすることを余儀なくされているから・こうするのが得だから・といって本当のことをいう者、あるいは誰にもかかわりがないからといって平気で嘘をいう者は、十分に正直な人とはいえない。わたしの霊魂は、その性分から嘘をつくことをさける。嘘を心に思うことさえきらいである。
 ときにふと嘘が出ると、わたしは心の奥で恥かしく思い、刺すような後悔を感じる。だが時にはわたしも、つい嘘をいってしまう。いろいろな動機が不意にわたしをあわてさせるからである。
 (a)常にすべてをいう必要はない。まったくそんなことをしたら馬鹿をみる。けれどもいいだす以上は、心に考えている通りにいわなければならない。そうしないのは邪悪である。絶えず仮面をかぶり変装することから人々はどんな便益を期待しているのか知らないが、けっきょく真実をいう時でさえ人に信じられなくなるだけの話ではあるまいか。そうやって一ぺんや二へんは人を欺くことができる。けれども自分の心を外に現わさないことを自慢にし、我々の王公の誰かがいったように、「もし着ているシャツがわれらの意図をあずかり知るならこれを火中に投じよう」(これはもと古人メテルス・マケドニクスのいった言葉である)とか、「本心を隠すことができないような者は統治などできるものではない」とか、えらそうな口をきくことは、ただ自分たちと親しまねばならぬはずの人々に、「彼らのいうことはみんな嘘いつわりだぞ」と警戒させるだけである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)人はその誠実を失うならば、利巧なれば利巧なるほど、かえって人にうとまれ疑わるるものなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)たとえばティベリウスのように「外面はいつも自分の内部とはちがっているのだ」と公言する者の顔つきや言葉にまで欺される者がもしあるとすれば、それこそ非常なお人よしだ。それにそういう連中は、人々との交わりにおいていったいどのようにあしらわれるであろうか。何一つ本気で聞けるようなことはいわないのだから。
* シャルル八世の言葉として伝わっている。
 (b)真実に対して不忠実な者は、嘘に対してもまた不忠実である。
 (c)こんにち帝王の義務を規定するに当って、ただ彼の政策の成功だけを重く見て彼の誠実や良心の方は二の次にした人々の言うところも、たった一ぺん約束をたがえたおかげで運よくその政治の基礎を固めることができた帝王には、いくらかもっともに思われたことであろう。だがことはそううまくばかり運ぶものではない。人はしばしば同じような事態に出あう。その一生の中には、講和をしたり条約を結んだりせねばならぬことは、一度や二度ではすまないのである。利益が彼ら帝王を第一の不信にさそったのであるが(政治にはほとんど常にこの利益というやつが介入する。あらゆる他の悪事にもそれが伴うように。不敬も殺人も謀叛むほんも内通も、必ず何かの利益が目的で企てられるのである)、この第一の利益は、やがてつぎつぎに無限の損害を持ちきたす。さきに約束を守らなかったというので、人はそういう帝王をあらゆる友交の外に・あらゆる商議の外に・しめ出してしまうからだ。オットマン族といえば約束を少しも重んじない民族であるが、彼らの皇帝スュレイマンでさえ、わたしの幼少のころ、軍をひきいてオトラントに入城したとき、メルクリノ・デ・グラティナレをはじめカストロの住民たちが、降伏してから後もなお最初の約束に反して牢に入れられているのを知り、その釈放を命じた。そして、「この地方に対しては他にも大きな企てをいろいろといだいているのだから、そういう不信の行為は現在多少の役にたつように見えても、将来に対して不信不評を買い、限りない損害のもととなるであろう」といった。
* マキアヴェリ一派の人々をさす。
 (a)ところでこのわたしは、おべっか使いや猫かぶりであるよりは、むしろうるさいぶしつけなやつと思われるほうがすきである。
 (b)なるほどわたしのように人の思惑おもわくなどはてんで考えず、自分を丸出しにして平気でいることには、多少傲慢と頑固とがまじっているかも知れない。どうもわたしは、おとなしくしているべき場所で少しわがままをしすぎるようである。うやうやしくしていなければならない場合にかえっていきりたつようである。また技巧を知らないために、つい自分の天性にひきずられるままになることもあるらしい。自分の家でやっている気随気ままな言葉や態度をそのままお歴々がたの前にさらけ出しては、どんなにそれが失礼になるかをわたしだってよく承知している。けれどもわたしは、もともとそういうふうに出来ているばかりでなく、ちっとも気転がきかないから、とっさの問いをそらすことも・わきみちに身をかわすことも・また真実をまげることも・できないし、記憶力も不十分なので、そのまげた真実を覚えていることもできなければ、それを押し通すだけの確信ももちろんないのである。いや弱いからこそ、わたしは威張って見せるのである。だからわたしは、性分によっても推理によっても、正直一途にいつも考えているまんまをいうことにしている。ことの成りゆきは運命にまかせて。
 (c)アリスティッポスは、自分が哲学からえた主要な果実は、誰にでも自由にうちあけて話ができることであるといった。
 (a)記憶というものはすばらしく重宝な道具である。それがないと判断もその務めを行うのに、はなはだ骨が折れる。ところがその記憶がわたしには全く欠けている。人が何かわたしに申入れようと思えば、それをすこしずつ分けていわなければならない。まったく、たくさんのいろいろな項目を含む申入れにお答えすることは、わたしの力に及ばないのである。わたしは手帳なしでは御用を承ることができない。また何か重大な言葉を述べなければならない場合、それが長くて一息でいえない時は、(c)いやな(a)なさけないことではあるが、いやでも自分のいわねばならぬ事柄を(c)一語一語(a)暗記しなければならない。そうでもしなければ恰好もつかないし、また自分の記憶が何かいたずらをしはしないかと、恐ろしくて安心ができないのである。(c)ところがこの方法がまた、わたしにとっては同様にむつかしい。三行暗記するのに三時間もかかる。それから自分の作った文章だと、自由勝手に順序をかえたり語を取り換えたりして絶えず内容を変化させるので、いよいよそれを覚えるのが容易でない。(a)ところで、わたしが記憶をあてにしなければしないだけ、記憶はますますこんがらかる。むしろそれはまぐれ当りに役に立つ。わたしはそれを気長にそれとなく誘い出さねばならない。まったくせっつけばせっつくほど、それはうろたえるばかりなのだ。実際、一ぺんよろめき出したらおしまいである。探れば探る程こんがらかる。それはその気がむいた時だけわたしに役立つ。決してわたしの欲する時には役立ってくれない。わたしが記憶のうちに感ずるところを、わたしは他のいろいろな事柄の中にも感ずる。わたしは命令や義務や束縛をさける。わたしがたやすく自然に行う事柄も、それをきびしい命令によって是非ともするようにと自分に命ずると、どうしてもそれができなくなってしまう。肉体の方もそうで、一種特別な自由と権限とをもっているあのマンブルも、それを強制すると、ぜひ働いてもらわなければならないかんじんな時と場合に、かえってわたしにむかって服従をこばむ。そういう窮屈な圧制的な差出口さしでぐちは、彼のお気にさわるからである。彼は恐怖だか不満だかのために、しょげてしなびてしまうのである。(b)かつて、酒をすすめられて応じないと野蛮非礼だといわれる或る席にのぞみ、わたしはそこで完全な自由をゆるされていたにもかかわらず、その国の慣わしに従って、同席の御婦人がたのためによいお相手になろうとつとめたことがある。ところが気味のよいことには、自分の習慣や性分以上に努めなければならないぞという無理強いと意気込みとがわたしののどに栓をって、とうとう唯の一滴も飲めなかった。そして自分の食事のためにさえ飲まずにしまった。つまり、今夜はたくさん酒を飲まなければならんぞと思っただけで、げんなりして飲みたくなくなったのである。(a)こういうことは、最も旺盛な想像力をもった人々において特にいちじるしい。だがこれは自然なことであって、全然そういう感じのない人というものはないはずである。死刑に処せられたある弓の名人が、もしその技芸のめざましさを見せるならば一命を助けてやろうと申しわたされたところ、彼はそれを試みることをこばんだ。射損じまいというあまりに強い心の緊張がその手もとを狂わすことを恐れたからだ。また命が助かるどころか、弓にかけては名人よとうたわれたその評判までも失うことを惜しんだからでもある。人は他のことを考えていれば、その散歩する道の上でいつも同じ歩数同じ距離を歩むのに、ほとんど一寸もあやまたないであろう。けれどもこれを計り数えようと注意してやると、かえって、いつも自然にまたは偶然にわけなくしてのけていることが、ことさらに企てるとなると到底正確にゆかないものだということを、さとるであろう。
 わたしの図書室リブレリーは田舎の図書室としては立派なほうで、わたしの家の一隅にある。何かそこへ行ってしらべて見よう、また書いて見ようと思う事柄がふと心にうかぶと、ただ中庭をとおる間にもそれを取り逃がしてしまうおそれがあるので、わたしはそれを誰かに覚えていてもらわなければならない。うっかり話の途中で、ほんのちょっとでも脇道へそれようものなら、きまってわたしは本筋を忘れてしまうのだ。それでわたしは、物事を命ずる際には努めて自分をおさえ、余計なことを言わぬようにしているのである。自分の召使たちをさえ、わたしはその役目なりその生地なりの名によって呼ばねばならない。まったく一々名前を覚えることは、わたしにとってはなかなか容易でないのである。(b)わたしはよく、それが三綴りであるとか、その響きがあらっぽいとか、何という字で終っているとか始まっているとか、いい出す。(a)いやもし長生きをするならば、わたしもまたたれかさんのように、自分の名まで忘れてしまわないともかぎらない。(b)メッサラ・コルウィヌスは、二年のあいだ記憶というものを露ほどももたなかった。(c)ジョルジュ・ド・トレビゾンドもそうであったそうな。(b)で、わが身をかえり見て、わたしは彼らのそういう生活がどんなものであったか、また、記憶というものがなくなってもなお何かの楽しみをもって生きつづけることができるものかどうか、などとしばしば考え込む。いや、さらに突込んで考えると、記憶の欠如は、もしそれが絶対完全なものであったら、霊魂の働きのすべてを奪うのではないかと心配になる。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)記憶はただに哲学をのみ包蔵するにあらず、生活上のすべての学芸や習慣をも包蔵するものなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。

(a)われ、ひび割れし甕の如く、ここかしこより流れず。
(テレンティウス)

わたしは(c)三時間前に(a)与えたばかりの・また教えられたばかりの・(c)(a)言葉を忘れたことも一度や二度ではない。(c)キケロは何というにしても、財布をどこにしまったかまで忘れたことがある。わたしは物を、特に大切にしまい込んでは、かえってなくしてしまう。(a)実に記憶こそ、学問知識の入れものでありさやである。それが今言ったようにやくざなんだから、あんまりわたしがものを知らなくても、大して苦情はいえないのである。わたしは漠然と、もろもろの学芸の名称とそれらが何を論じているかを知っているが、しかしそれ以上には何も知らない。わたしは書物をめくるだけで研究はしない。中にはわたしの心のなかに残るものもあるが、それはもう他人から学んだものだとは思わない。それこそただ一つ、わたしの判断が儲けたもの、それが吸収した推理思索であると思う。著者だの出典だの、辞句やその他の事がらは、すぐに忘れてしまう。
 (b)いや、わたしはえらい物忘れの名人だから、自分が書いたり編んだりしたものまでも同様に忘れてしまう。人は始終わたしにむかってわたしの文章を引用するが、わたしはそれに気がつかない。もし人がそこにわたしが積み重ねた詩句や実話の出どころを知りたがるならば、わたしは返答にこまるであろう。だがしかし、それらは何れも、名家名門から頂いて来たものばかりである。わたしは富んだ・そして貴い・人の手の中から出たものでなければ、それ自体が豊富であるだけでは満足しなかったのである。つまりそこにこそ、権威と道理とが二つながらに備わっているからなのである。(c)わたしの書物が他のもろもろの書物と同じ運命をたどっても、またわたしの記憶が、わたしの書いたものをわたしが読んだものと同様に、またわたしの与えたものをわたしが受けたものと同様に、なくしてしまっても、大して驚くにはあたらない。
 (a)わたしは記憶の欠如以外にも、大いにわたしの無知を助長する欠点をまだ幾らももっている。わたしの才知はのろくて鈍い。ごく僅かの雲もその切先をとどめるに十分で、例えばどんなにやさしい謎を出してやっても、今まで一ぺんもこれを解くことができなかった程である。どんなにまのぬけた小細工でも、わたしを当惑させないものはない。多少でも才知があずかる遊戯、例えばカルタだとか碁・将棋なども、わたしは唯そのほんのあらましだけしか了解しない。わたしの理解力はのろくてこんがらかっている。だが一度とらえたものはよくこれを保持する。そしてこれを保持している間は、はなはだ完全に・しっかりと・胸のおく深く・これを抱きしめる。わたしの眼は健全で遠見がきく。けれども仕事に疲れやすく、じきにぼうっとする。そういうわけで、他人に読んで貰わなければ長く書物に親しむことができない。小プリニウスはこういう経験のない人々に、どんなにこの種の障害が読書にたずさわる者にとって重大なことであるかを教えるであろう。
* 小プリニウスは、その手紙のなかで、伯父プリニウスが、その読書係りの目がわるくてしばしばつかえるのを、叱責したと物語っている。
 どんなにちっぽけな・粗野な・霊魂でも、そこには必ず何か特殊な能力の輝きが見られる。どんなにうずもれ隠れた霊魂でも、そのどこかの端によって現われないものはない。何をやらせても盲目で眠ったような霊魂が、ある特殊な問題にぶつかると急に活気づき、明晰優秀なものになるのは、そもそもどうしてであるか。それは先生方にお尋ねしなければならない。けれども立派な霊魂というものは、普遍的な・すべてに向って開かれ準備されている・ものである。(c)それは教育されていないにしても、少なくとも教育されうる霊魂である。(a)これをわたしは、自分の霊魂をとがめるためにいうのである。まったく微力のためか無頓着のためか(我々の足もとにあり・我々の手の中にあり・人生の習慣しきたりにきわめて密な関係のある・事柄を無頓着に扱うというのは、はなはだわたしの持説とかけ離れてはいるが……)、わたしの霊魂くらい無能で、知らないとは恥ずかしくていえないような平凡な事柄さえ知らないものは、どこにもないのである。わたしはその実例を幾つかお話しなければならない。
 わたしは田園に生れ、のら仕事を見ながら育った。先祖の財産を受けついでからは、家事万端を自らこの手ににぎっている。ところがわたしは、そろばんも筆算もできない。わが国の貨幣も大部分見わけがつかない。また穀粒の区別も知らない。それらが畠に実っている時も納屋に納められている時も、よほど明瞭な差異がない限り、その区別がわからない。自分の畠のキャベツとちしゃとでさえ、ほとんど見わけがつかないのである。家内で一番有用な諸道具の名前さえ知らないばかりでなく、農業上の最もおおまかな理屈も、子供でさえ知っているのに、わかっていない。(b)機械の取扱い、商法や商品に関する知識、果物や酒や食品の名前およびその品質にいたっては、なおさらのことだ。小鳥を飼うことも、馬や犬を療治することも、知らない。(a)いや恥ずかしついでに何もかも隠さず申し上げるが、やっとひと月ばかり前のこと、パンを作る時にパンだねがどんな役をするのか、(c)酒を醗酵させるとは、一体どんなことなのか、(a)知らないことがばれてしまった。昔アテナイに、ひと車のいばらを巧みにほどいて束を作るのを見て、この者は算術ができるに違いないと予言した人がいたそうだが、その人はほんとうに、わたしからは正反対の結論を引き出すであろう。まったくわたしに料理の材料と道具をことごとく取揃えて与えて見ても、わたしは依然として腹をすかせているにきまっている。
* 当時の貨幣制度は今日の如く単純でなかった。各都市がそれぞれの貨幣を持っていたようなわけで、貨幣に関する知識は、なかなか綿密なるを要したのである。
 以上にわたしが白状した事柄をもとに、人はさらに様々な欠陥を想像してわたしに損をさせることもあろう。けれどもどんなわたしを知らせているにしても、わたしをありのままに知らせているかぎり、わたしは成功したのである。だからこのような下劣なつまらない事柄をあえて記録することについても、言いわけはしない。主題が下劣なのだからやむをえない。(c)とがめたければわたしの企てをとがめるがよい。だがわたしのこのやり方はとがめてもらうまい。とにかくひと様の御注意がなくても、わたしはこれらのものがいかに価値のないものであるかを、またわたしの企てのおこがましさを、十分に知っている。わたしの判断が少しも狂っていなければそれでたくさん。これはその判断の試しなのである
* ※(始め二重山括弧、1-1-52)C’est prou que mon jugement ne se defferre poinct, duquel ce sont ici les essais.※(終わり二重山括弧、1-1-53)第一巻第五十章と共に「エッセー」(試し)という標題の意味を明らかにしている。

いかにおん身鼻さとくおわすとも、
アトラスもりすまじき鼻をばもち給うとも、また、
おん身の悪口ラティヌスをば恥じらわせ給うとも、
わがよしなし言につきては、われ自らいう以上に、
悪しざまに罵りたまうことあたわざるべし。
何故なればおん身、くうをば噛み給うや。
噛み且つ飽き足りんには口中に肉片なかるべからず。
君よ、ここに徒らに労し給うなかれ。
むしろ自らほむる者どもの上におん身の毒を吹きかけよ。
われは既に、これが価値なきものなるを自ら知ればなり。
(マルティアリス)

わたしが少しぐらい馬鹿なことを言ったって、ちゃんとその馬鹿さかげんを承知しているのなら、少しも差しつかえはないはずである。いや、自ら承知で間違いをやらかすことこそ、わたしにきわめて普通のことであって、それとちがった間違いかたをすることは、わたしにはまずないといってよい。つまりうっかりやり損うことは決してないのである。だが人がわたしの愚かな行為を、わたしの無謀無考のせいにするのはまだしもよい方だ。わたし自身は、わたしの不徳な行為をも、いつもこの無謀のせいにしないではいられないのであるから。
 ある日わたしはバル・ル・デュックで、人がシチリア王ルネを追慕させるために、この王が自ら描いた肖像を仏王フランソワ二世に献上するところを見たが、われわれだって彼が絵筆をもってしたように、我々のペンをもって自らを描くことをゆるされてもよいではないか。それでわたしは、人前に出すのにははなはだふさわしくない次のようなきずをも書き忘れたくないのである。それは何のことかというと、優柔不断という・世渡りにはなはだ都合のよくない・欠点のことである。どうもわたしは、成功の疑わしい企てにおいてはなかなか決心がつきかねる。
* 一五五九年フランソワ二世は姉のクロード・ド・フランスをローレーヌ公シャルル三世の許に送って行った。モンテーニュはそのお供をしたのである。ルネとは、アンジュー公ルネ。le bon roi Ren※(アキュートアクセント付きE小文字) といわれる。一四一七年、シチリア王となった。文芸の保護者で自ら絵をかいた。

(b)わが心は、然りとも、いなとも、われに答えず。
(ペトラルカ)

 わたしにも一つの意見を支持することはちゃんとできる。ただそれを選び出すことができない。
 (a)人間界の事柄については、どっちの側に傾くにしても我々にそれを確信させる理由がいくらも出てくるものであるから((c)哲学者クリュシッポスもいったではないか。「自分は師ゼノンおよびクレアンテスから唯その学説ドグムだけを学びたいのだ。証拠や理由などは自らこれを十分に出すことができる」と)、(a)わたしはどっちの側に与するにしても、いつも、わたしにそれを支持させるにたるだけの理由とまことらしさとを、十分にかき集める。そうやって疑いと選択の自由とをわたしの許に留保しておき、その上でいよいよ機会が自分を促し立てる時を待つ。そしてその時になっても、本当のことを白状すれば、わたしはよくいわれるように、最もしばしばペンを風にまかせ、自分を運命の御意にゆだねる。つまりきわめて軽微な傾向と事情とがわたしをさらってゆくのである。

心疑いの中にある時は
最も軽き重みこれを右に或いは左に傾かす。
(テレンティウス)

わたしのどっちつかずの判断は、多くの場合に右にも左にもまったく同じように揺れるから、わたしは結局、くじと骰子さいころとにきめてもらいたくなる。そして聖書までが、疑わしい事柄における取捨選択はくじと偶然とに委ねる習慣があったことを伝えているのを見ると、※(始め二重山括弧、1-1-52)くじがマッテアに当りしかば……※(終わり二重山括弧、1-1-53)(「使徒行伝」一の二十六)、いよいよ深く我々人間の弱さを考えないではいられない。(c)人間の理性は両刃もろばの・危険な・剣である。いや、それを最も使いなれていたソクラテスの手の中においてさえ、それは幾つの握りどころをもった棍棒**であったことか。(a)それでわたしは、ただ人のあとについてゆくことだけしかできず、大衆にやすやすと連れてゆかれてしまう。わたしはあえて司令したり誘導したりするほど自分の力を信じていない。わたしは自分の歩く道が他人によって筋引かれているのを見てはなはだ満足である。どうしても不確実な選択の危険をおかさなければならないならば、誰の下にでもいい、わたしとは違って自分の意見に確信をもつ者、(b)わたしのように自分の意見を滑りそうな危なっかしい根拠とは思わないで、(a)それをすっかり自分のものにしている者(b)の下に***、つきたい。でも、わたしはそう軽々しくは意見を変えない****。なぜなら、反対の意見のうちにも同じ弱さを認めるからである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)賛成をする習慣さえ同じく危険なる道の如く思わる※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)特に政治上の事柄の中には、動揺と異議とに委せられた広野がある。
* 第二巻第十二章、六二三頁註参照。
** すなわち「理性は un b※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)ton ※(グレーブアクセント付きA小文字) quant de bouts である」というのは、「どの部分を握って、どの部分で打ったらよいのか、取扱いようのない棍棒である」という意味である。
*** ここにもモンテーニュのカムフラージュが感じとられる。彼自らには意見がなく、他の人々の意見に従ってゆくのが結局気楽でいいように言っているが、なかなかどうして、そうではないであろう。それはすぐ次の句でもわかる。
**** これは見落してはならぬ言葉である。モンテーニュは動揺して定まらぬといわれるけれども、彼にはやはり一つの信念が堅持されていたのである。次の数頁もよくこのことを明示している。

両方の皿に同じ重さが載せられるとき、
はかりはいずれにも上らずまた下らず。
(ティブルス)

たとえばマキアヴェリの論説など、その方面の議論としてはなかなかしっかりしたものだが、それにしてもこれを反駁することは甚だたやすい。いやその反駁者の説だって同じようにわけなく反駁できるのである。あのような論拠に対しては、常に第二訴答・第三訴答・第四訴答をするだけの材料がいくらでもあろう。いや三百代言どもが何とか訴訟に勝とうとして、できるだけ引きのばしたあの際限のない弁論もありうる。

敵我らをうてり。我らもまたこれをうち返せり。
(ホラティウス)

理由というものは経験よりほかにほとんど根拠をもたないし、人間界の出来事はすこぶる雑多で、あらゆる形の限りない実例をわれわれに示すからである。現代のある学者はいった。「我々の暦の中で暑いと書いてある場合に寒いといいたい人は、乾くといってある時に湿るといいたい人は、常に暦のいっていることの逆をいいたい人は、そのどっちかに賭けなければならないにしても、どっち側にくみしようかなどと心配することはいらない。ただしとうてい不確実のありえない場合だけは別で、たとえば降誕祭に酷暑を予言したりヨハネ節に大寒を予言したりすることだけ、しなければよかろう」と。わたしはあの政治上の議論も同じことだと考える。どちら側についてもけっきょく相手と同様の良い手をもつのであって、あまりにもわかりきった明白な原理にさからうようなことさえしなければいいのだ。だからわたしは、政治をする場合には、どんなまずい方法でも、それが相当な年数を経て変らないものであるかぎり、変化動揺よりましでないものはないと思うのである。我々の風儀はきわめて腐敗し、著しい傾き方でだんだん悪い方に傾いている。我々の法律習慣の中にも色々と野蛮奇怪なものがある。だが我々をより良い状態におくことは困難であり、またあの破壊も危険千万であるから、我々の車輪にくさびをってこれを今の程度にとどめることができるなら、わたしは喜んでそれをするであろう。

(b)世にこれほど恥ずべく卑しむべき事例はあるべからず。
(ユウェナリス)

(a)わたしがわが国において見出す最悪のものは、不安定ということである。我々の法律が我々の服装と同じく少しも一定した形を取りえないことである。どんな制度でも、これを不完全だととがめることは、はなはだやさしい。まったくこの世のものはすべて不完全にみちみちている。一国民にその古来の習慣を軽蔑させることも、またはなはだやさしい。これを企ててその目的を達しなかった者はいまだかつてなかった。だがその打ち倒した状態をより良い状態にかえるということになると、たくさんの人々がこれを企てたがどうにも手のうちようがなかったのである。
 (c)わたしは自ら行動するに当ってあまり自分の思慮に訴えない。わたしは好んで世間一般の秩序の導くがままになる。人の命ずるところを命令する者よりも良く行い、いささかもその理由について思いわずらうことのない人々こそ幸福である。天の流転に従って静かに流転する人々こそ幸福である。理屈をこね議論をする人においては、従順も純粋でなく、平静でもない。
 (a)要するに、再びわたし自らに立ちもどると、わたしが自分を何ものかであると認めるただ一つのよりどころは、どんな人も持ち合せないとは思われぬ事柄である。つまりわたしの価値は、平凡な・普通な・誰でもが一様に持っているものなのである。だって、誰がいったい自ら分別を持たないと考えたか。自ら分別をもたぬという考えは、それ自体の中にいくらか矛盾撞着を含んでいるであろう。(c)分別をもたないということは、それが自覚される時には決して存在しない病気である。それは根強い頑固な病気であるが、病人の眼の第一閃はよくそれを貫き退散させる。ちょうど太陽の光線が濃霧をつき破るようなものだ。(a)このことに関しては、自ら咎めることはすなわちゆるされること、であろう。自らを処罰することはすなわち赦免されること、であろう。人足だろうと、名もないただのおかみさんだろうと、それ相応に分別を持っていると考えないものはなかった。我々は容易に他人の中に、勇気・体力・経験・身軽さ・美しさ・などの優越が存在することを認める。だが判断の優越となると、我々はこれを誰にも譲らない。だから他人の中の・単なる生れつきの良識から発している・もろもろの理由は、彼が偶然この方向に目をむけたからこそ見つかったのであって、我々にだってその方面に眼をむけていたら見つかったにちがいないと思っている。学問・文章・その他我々が他人の著作の中に見出すもろもろの特質も、我々のそれらを凌駕していれば我々は容易にそれを認める。けれども悟性の単純な所産となると、各人はそれぞれ自分の中にも全く同様の物を見出しうると考え、それが重大で困難なことだとはなかなか認めない。(c)そこに、よほどの・比べものにならない程の・距離がなければ、そうは認めない。いや認めても、ほんのちょっぴりしか認めない。(a)だからこれは、わたしが推奨と賞賛とをほとんど期待してはならない一種の働きなのである。ほとんど名声を期待することのできない一種の特質なのである
* 「だから……」以下の二行は、モンテーニュが自ら重大な特質だと考えているその「分別」「良識」「判断」「理性」についていっているのである。彼は学問も文章も他人に優れているとは高言しない。だが、判断だけは確かなものだと、いささか自負している。けれども、この「分別」「判断」だけでは世間の評判はかち得られない、と彼はいっている。ただ彼の著作はその「分別」「判断」そのもの、その働きの記録なのであるから、この二行は『随想録』その物にも密接な関係をもつ。次のパラグラフ(c)はそのようなわけで加筆せられたのであろう。要するにモンテーニュにおいては、分別判断の具現が『随想録』なので、両方は一つで二つではないのである。
 (c)それからいったい誰のために君は書くのか。学者たちは書物の批判をその専門としているが、学説の価値より外に何も認めない。我々の精神の中に、博学とか学芸とかいう手法より外に何も認めない。ひょっとスキピオの一人をもう一人のそれと間違えでもしたらそれっきり、もう何をいおうとおしまいである。彼らに従えば、アリストテレスを知らない者は同時に自分自身を知らない者なのである。一方普通平凡な霊魂の方は、高尚流暢な文章の風趣も何も見はしない。ところが以上二種の人々が世間を占めているのである。第三の人々、君が意見を同じくするであろう人々、それ自体調整されている強力な霊魂をもった人々はきわめて少数であるから、当然我々の間に名声も地位ももってはいない。こういう人たちによろこばれようと望んだり努めたりするのは、まず半分は時間つぶしというものだ。
* モンテーニュは第三巻第十三章においてこの間違いをした。おそらく学者側から散々たたかれたのでここにこう書いているのだろう。真理はどっちの人が言ったにしても、真理であることに変りはない、と彼は思っている。だから引用句にしても一々出典を示さなかったのであろうし、一般の読者はそれにこだわることはない。内容さえ捉えればそれでよいのである。
 (a)人々はみないう。「自然がその数々の恵みのうち最も公平にわれわれに分配したのは分別である」と。まったく世にこれを与えられたことに不満をもっている者は唯の一人もいないのである。(c)もっともなことではないか。さらに遠くを見ようとする者はその視界のむこうまでも見るだろう。(a)わたしは正しい・健全な・意見をもっていると思っている。けれども、自分の意見についてそう信じていない者があろうか。わたしが正しく健全な意見をもっていることの一番よい証拠の一つは、わたしが自分をあんまり尊重していないということである。まったくわたしの意見がしっかりしていなかったら、それは容易に、わたしが自分に注ぎかける並はずれた愛にたぶらかされたことであろう。たとえばその愛のほとんどすべてを自己の上に注ぎ、それ以外にはちっとも広げなかったことであろう。わたしは他の人々が限りなく大勢の友人や知合いに・自分たちの光栄や栄達に・分配するところの愛を、すべて一まとめにして、わたしの精神の安静と・わたし自身と・に注いでしまう。よそにこぼれ落ちる愛情は、真にわたしの理性の命令によるものではないのである。

生きること、すこやかなることこそ、わが学問なれ。
(ルクレティウス)

 さてわたしの意見は、わたしの無能を咎める点で限りなく大胆でまた執拗であると思う。本当に、わたしの無能もまた他のいろいろな主題と同様に、わたしの判断力を鍛練するのによい主題である。世の人は常に自分の正面を見る。わたしは眼を内部にかえす。そこにすえてじっとはなさない。みんなは自分の前を見る。わたしは自分の内部を見る。わたしは唯わたしだけが相手なのだ。わたしは絶えずわたしを考察し、わたしを検査し、わたしを吟味する。他の人々は常によそに行く。よく考えて見ればわかることだ。彼らは常に前に進む。

なんぴとも己れ自らの中に下りゆかんとはせず。
(ペルシウス)

 わたしはわたし自身の内をころがる**
* ※(始め二重山括弧、1-1-52)nemo in sese tentat descendere※(終わり二重山括弧、1-1-53)(Persius), この「自らの中におりてゆく」というのは、自己を省察するという意味、introspection をする意味であって、今日の仏語でも同じ意味で descendre dans sa conscience, descendre en soi-m※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)me ということがいわれる。
** ※(始め二重山括弧、1-1-52)Je me roulle en moi-m※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)me.※(終わり二重山括弧、1-1-53)この se roller(=se rouler)という句は、恐らくモンテーニュがペルシウスの句に唆かされて創案した彼独特の表現であろう。すなわち自己を反芻する意味であるが、この方は descendre とちがって、その後一般化したとは考えられない。
 この真を選り分ける能力(それはわたしにおいてほんの僅かなものではあろうが)、それから自分の所信を容易にまげないというわがままな性分を、わたしは主としてわたし自らに負うている。まったくわたしのもつ最も堅固な思想、わたしの根本思想は、いわばわたしと一緒に生れ出たのである。それらは生れつきのもの・全くわたしのもの・である。わたしは始め、それらを生地きじのまんま、手を加えずに、産み出した。その産み出し方は大胆で力強かったが、いささか不明瞭不完全だった。それで後にそれらを、他人の権威によって、古人の健全な論説によって、支持し補強した。わたしは判断において偶然彼らと一致したからである。彼らはわたしのためにそれらの把握を確実にし、それらの享受と所有とをいよいよ完全にしてくれた。
* 前出七七二頁註****の中に説明した句と共に、彼の信念のほどを想わせる句である。彼が動揺常なく見えるのは、彼の霊魂がその向け方によっていろいろな面を見せるだけのことで(第二巻第一章、四一三―四一四頁参照)、根本においては何れも同じ彼の霊魂なのである。
 (b)みんなが精神の敏活によってかちえようとする誉れを、わたしは精神の調整によって得ようと思っている。人が顕著な働きによりまたは何か特殊な能力によって得ようとするそれを、わたしは思想行動の秩序・調和・おだやかさによって得ようと望んでいる(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)もしもここに何か尊ぶべきものありとすれば、それはもろもろの行為がこれを一貫する一定の基準に従えることなり。かくの如きは自らの性格をすてて他人の性格を模倣せんと努むる者にはとうてい見出されざることなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
* ここにモンテーニュの性格がいよいよ明確に語られている。それは第二巻第一章に述べられているように動揺して定まらないものではなく、一つの一貫性をもっていることが、モンテーニュ自らによってはっきりと言われている。
 (a)以上によって、わたしがさきにいった自惚うぬぼれという不徳の第一の部分について、どの程度まで有罪であるかがおわかりになったろう。第二の部分は、他人を十分に尊重しないことにあるといったが、この部分に対しても、わたしは果して同じようにうまく申訳ができるだろうか。まったくわたしは、どんなに辛くてもあるがままにいおうと腹をきめているのである。
 たぶん古人の考え方に絶えず親しんでいることや、あの過去の時代の豊かな霊魂を胸に思っていることが、わたしに他人にも自分にも愛想をつかさせるのであろう。でなければ、本当に我々が、きわめて平凡なものだけしか産み出さない世紀に生きているせいであろう。とにかくわたしは、大きな感嘆に価するものを何一つ知らないのである。またわたしは、人々とあまり親密に交わってはいないから、彼らを十分に判断することができないのだ。それにわたしの身分がわたしに最もしばしば接近させる人々ときては、大部分霊魂の陶冶とうやなどにほとんど関心をもたない連中である。彼らにとっては、最大の幸福は栄誉であり、最大の完全は武勇なのである。他人においても美しいところを見るならば、わたしは喜んでそれをほめそれを尊ぶ。いや、その人に関する自分のそれまでの考えを、せり上げることさえしばしばある。だがわたしが自らゆるす嘘はそこまでである。まったく、わたしには根のない嘘を造り上げることは到底できないのだ。わたしは友達にほめるべきものを見出せば、喜んでその証人に立つ。一尺の価値は喜んで一尺五寸にする。けれども、彼らにその持たない特質を貸すことはできない。また彼らのもつ欠点を公然と弁護することもできない。
 (b)敵に対してだって払うべき尊敬はちゃんと払う。(c)わたしの感情は変るがわたしの判断は変らない。(b)そしてわたしは自分の喧嘩を、これとは全く関係のない他の事情と混同しない。また自分の判断の自由を非常に尊重するから、どんな情念のためにもそれを捨てることは容易にできない。(c)嘘をつけばかえってわたしの方が損をする。わたしに嘘をつかれたその人以上にこっちが損をする。ペルシアの国民が、その激しい戦いをしかけている不倶戴天の敵についても、その武徳が価するだけのことはいつも公平にまた敬虔に語る、あのほむべき立派な習慣は、認められねばならない。
 (a)わたしはいろいろな立派な特質をもっている人々をかなりたくさん知っている。ある者は機知を、ある者は勇気を、ある者は巧妙を、ある者は良心を、ある者は弁舌を、ある者は学識を、ある者はまた何か別のものを、もっている。けれどもすべての点において偉大な人、たくさんのよい性質を一身にあつめている人、或いはそのどれかを驚嘆しないではいられないほど優れた程度に、または我々が尊敬する過去の偉人にもくらべうる程度に、もっている人には、運わるくまだ一ぺんもあったことがない。いや生きている人としてわたしが知り得た最も偉大な人(それは霊魂が生れながらにもっている特質についていうのであるが)、最もよく生れついた人といえば、それはエチエンヌ・ド・ラ・ボエシであった。それはほんとうにみちみちた霊魂・どういう角度から見ても美しい霊魂・であった。古人の面影のある霊魂・もし運命が許したなら学問研究によってその豊富な天性をますます富まし偉大な功績をのこしたであろう霊魂・であった。けれども最も多くの力量ありと誇る人々、文学的職業・書物に関係のある職務・にたずさわる人々においてさえ、普通一般の人々におけると同じような空虚な力弱い判断が見出されるのは一体どうしたわけであろう((c)確かにそういうことがあるのである)。(a)それは、人が彼らに余りに多くを期待するからか。あるいは、彼らにおいては普通の過失でも許しがたいからか。それとも、自ら学問があるという自惚れのために、彼らがいよいよ大胆にしゃべったり出しゃばったりし、そのためにかえって度を失って本性を暴露するに至ったからであろうか。たとえば芸術家が高貴な材料を用いるとき、もしこれを不器用に・その道の規則に反するように・取扱うならば、下等な材料を用いるときよりも一そうその愚を暴露するようなわけであろうか。つまりわれわれが塑像における欠点よりも黄金像における欠点に一そう不愉快になるようなわけであろうか。学者たちもまた、それ自体・その原典においては・立派であるらしい事柄を受売りする時、同じ憂目にあう。まったく彼らは無分別にそれらを借用し、ますます古人の徳をかがやかしながら自己の悟性を貶めている。キケロ、ガレノス、ウルピアヌス、聖ヒエロニムスをいよいよ尊くしながら、自分自らをますますわらうべきものにしている。
 わたしはここで、再び我々の教育の仕方がわるいという論に立ちもどる。それは我々を善人や賢者にすることを目的とせず、物知りにすることを目的とした。その目的は達せられた。徳や知恵を追求し抱擁することを教えないで、唯それらの語の転化と語原とを教えこんだ。我々は徳という語を変化させることはできるが、徳を愛することは知らない。我々は実践と経験とによっては知恵がどんなものかを知らないけれども、言葉の上ではそれを暗記している。我らは隣人についても、その家柄や血縁や縁組の関係を知るだけでは満足せず、進んで彼らを友としようと願い、彼らといくらかでも交際したいと思う。それなのにわが国の教育は、まるで一つの家系の中のいろいろな名字や分家を教えるように徳の定義とその分類とを教えたが、いささかも我々と徳との間に親密なうちとけた交際を生み出させようとは努めなかった。我々の教科書として、最も健全で最も真実な意見にみちた書物ではなしに、最も純粋なギリシア語やラテン語が語られている書籍の方を選んでくれた。そしてその最も華やかな言葉を通じて、我々の思想の中に古代の最も浮薄な気分を注ぎこんだ。よい教育は、判断と行動のし方とを変化せしめる。例えばあのギリシアの若い遊蕩児ポレモンを見たまえ。彼は偶然(c)クセノクラテスの(a)講演をききに行ったが、たんに講師の雄弁博学を認めたばかりでなく、また何やらの立派な事柄を聞きかじって帰ったばかりでなく、もっと目に見える・もっと堅固な・果実を得て帰った。というのはほかでもない。俄然彼の前半生が変化し改善されたのである。誰がいったいわが国の教育からそのような感化をこうむったか。

                汝はよく、
改心せるポレモンがなしたるがごとくなしうるや。
汝が狂気のしるしたるリボンやクッションや襟飾りを捨てうるや。
伝うらく、彼はひそかに首にかけたる花の輪飾りを捨てたり。
精進して道を説きたる師の姿にそれ程までにうたれしなりき。
(ホラティウス)

* 第一巻第二十六章の所論。
 (c)最もばかにしてはならない身分は、その単純さのゆえに一ばん後ろに立たされている人たちのそれであるように、そして彼らのもとに見られる交際の方がずっと正常であるように、わたしには思われる。農夫たちの心持や言葉の方が、一般に我々の哲学者たちのそれよりも、ずっと真の哲学の掟にかない、かつ調っているとわたしは思う※(始め二重山括弧、1-1-52)俗人かえって賢明なり。その知恵度を越えざればなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ラクタンティウス)。
* ここでもまたモンテーニュは学問のない百姓の自然の知恵をたたえているが、ほかの場所、特に第一巻第二十五章、第一巻第三十九章、第三巻第十一章などでは、やはり学問教養のある人の方が、それのない人よりもすぐれていることを認めている。彼は学問文化を蔑視するのではなく、まちがった学問の仕方や、小利口を排斥するだけである。
 (a)わたしがその外観から判断し得た最も注目に値する人々は(まったくわたしの流儀で彼らを判断するには、もっと綿密に彼らを検討しなければならないのである)、戦争の手柄や武徳に関するかぎり、オルレアンで亡くなられたギュイズ公と故ストロッツィ元帥とである。才能があってしかもなみなみならぬ徳を備えた人としては、いずれもフランスの宰相であったオリヴィエとロピタルとである。ラテン詩もまた我々の時代に至って大いに降盛になったように思うが、我々はこの道の名人を沢山もっている。すなわちドラ、ベーズ、ブカナン、ロピタル、モンドレ、トゥルネブスがそれである。フランス詩の名匠たちに至っては、フランス詩を今後決してそこまで達することはあるまいと思われるほどの高さまでのぼらせたと思う。実際、ロンサールとデュ・ベレとは、その優れた部門において、古人の完璧からもそう遠くはないと思う。アドリアヌス・トゥルネブスはその知っていることを、当代の誰よりも、より多くまたより深く、知っていた。かなり過去にさかのぼっても彼ほどの者は稀である。
* フランソワ・ド・ギュイズのことで、第一巻第二十三章にも語られている。ストロッツィ元帥については第二巻第三十四章にも出てくるが、白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」の註をも参照せられたい。トゥルネブスについては前出第二巻第十二章に見たとおりである。
 (b)さきごろかれたアルバ公および我々の元帥ド・モンモランシーの御一生は、いずれも崇高な御一生であった。しかも偶然多くの点において二人は稀なる類似をもっていた。けれども、パリっ子および彼の王の眼の前で、この都のためまたこの王のために、自分の最も近い肉親を敵とし・自分の指揮の下に意気のあがった一軍の先頭に立ち・老躯をひっさげて奮戦した・元帥の死にざまの美しさ輝かしさこそは、実にわたしの時代の最もめざましい事件の一つとして数えるに足りるように思う。
 (c)またラ・ヌー殿が、武装した諸党派があれほどに不正をこととした時代にあって、いつも変らぬ慈愛と、やさしい心情、良心的な柔和をもっていたこともまた同様で、彼は裏切り・非道・掠奪・の学校ともいうべきそうした社会に生きながら、偉大で練達なる武人とし終始された。
 わたしは既にいろいろな場所で、我がゆかりの娘マリ・ド・グルネ・ル・ジャールにわたしがかけている希望を喜んで公表した。ほんとうにこの娘を、わたしは父以上の心をもって愛しているのである。隠棲いんせい孤独の中で、まるでわたし自らの存在の最上の部分の一つのように、大切にしているのである。わたしが目をかけているのはこの世にただこの人だけである。もし青春期がなにかの前兆を与えうるとすれば、この霊魂こそ、他日必ず最も立派なことをなしとげるであろう。わけても、我々がまだどんな女性もそこに到達したという記録をよんだことのない・あのはなはだ聖なる・友愛をも完成するであろう。彼女の性情のまじめで堅実なことは、友愛を成就させるのに既に十分であるし、そのわたしに対する愛情もまた十二分に豊富で、もはや要するにこれ以上何も望むことはない程である。ただわたしとの死別を恐れる心が(彼女がわたしに出あったのはわたしが五十五歳の時であったから)、あまりにひどく彼女を苦しめないようにと、望むだけである。彼女が女でありながら、このような世紀に生きながら、あれ程若くありながら、その郷国にただ独りありながら、わたしの初版『エッセー』に対してあれ程の判断をしたこと、またわたしにあう以前から、ただただその『エッセー』を通じてわたしに対していだいた敬意に基づき、あれ程熱心にわたしを愛し、あれ程永い間わたしを求めていたということは、まことに重視するに足りる一つの事件である。
* fille d’alliance. 血をわけた娘でなく、精神的に結ばれた娘の意味であって、fille adoptive ではない。モンテーニュはかつて La Bo※(ダイエレシス付きE小文字)tie を fr※(グレーブアクセント付きE小文字)re d’alliance と呼んだし、Mlle de Gournay も、モンテーニュの死後、Juste-Lipse を fr※(グレーブアクセント付きE小文字)re d’alliance と呼んだ。こういう称呼は、当時の流行であったといえよう。
 (a)ほかの諸徳は現代においてほとんど、いや全く、通用しなかったが、ただ武勇だけは我が内乱のおかげで一般的になった。いやこの方面にかけては、我々の間にも完全に近い堅固な霊魂が見出される。しかもそれはたくさんあって、特にどれと取り上げていうことができないくらいである。
 以上が、今日までにわたしの知っている・異常な並々ならぬ・偉人の全部である。
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第十八章 嘘について



 この章もまた前章の続きと考えられる。彼はここで自らを描くことについて弁明している。彼は後に第三巻第二章においても弁明するが、その仕方はそれぞれ違う。ここではまだ序文(一五八〇)に書いているように、親族朋友のために自らを描いているのだといっている。そんなつまらない物を印刷させるのは、ただ幾冊かのコピーを造らなければならない手数をはぶくためにすぎないという。だがのちに第三巻第二章(一五八六)では、自分の肖像のなかにも「人間性の完全な姿」が含まれているから、世間一般のためにも役に立つという。すなわちこの章は一五八〇年の序文時代のエッセーとして後出「後悔について」の章と対比して読むべきである。
 なお例によって、標題の「嘘」の問題は章の終りにやっと顔を出す。嘘(厳密にいえば食言)d※(アキュートアクセント付きE小文字)mentir というのは、特に以前に認めたり言明したり約束したりしたことを後日に至って否定することをいうのである。モンテーニュはこの種のうそばかりでなく、すべての種類のうそを極度に憎んだ。ありのまま・率直・であることが彼のいわば身上でありまた魅力でもあることは、序文の解説でも前章の解説でもふれたとおりである。ただそれ程に真実を愛する彼が、実際においてはしばしば『随想録』の各所に矛盾撞着する言葉を洩らしているのはなぜであろうか。恐らくそれは、一つには時代が険悪で当局の圧迫が甚だしく、そういうカムフラージュでもしなければ結局自分の所信を述べることも目的を貫徹することもできなかったからであろう(パリ高等法院の判事だったアンヌ・デュ・ブール Anne du Bourg が結局火あぶりの刑に処せられた事実を、我々はここに想出す必要がある)。それに余りに正直すぎることはかえって徒らに不和喧嘩をまきおこすばかりで、彼の寛容と平和の理想にも反するからであろう。モンテーニュには哲学者と社交家とが混在するといわれるのはそこなのである。仏教家が嘘も方便という通り、聖フランソワ・ド・サルにしても、その『信仰生活への手引』の中で、「一般的には決して真理をまげたりごまかしたりしてはならないが、神様のためにそうすることが是非必要な場合は仕方がない」といっているが、もし少しでもうそに類するものがモンテーニュにもあるとすれば、それは社会の平和・国法の維持・という目的のための方便であったにちがいない。

 (a)それにしても、人はわたしにいうであろう。「その己れ自らを書き物の主題として用いようという企ては、稀にみる有名な人々には許されるべきであろう。彼らの評判は、人々に彼らを知りたいという幾分かの欲望を起させるであろうから」と。確かにそうだ。その通りだとわたしも思う。実際、ただの人を見るためには、職人はその仕事から眼をあげようとさえしないが、えらい有名な人物がどこそこの町においでになるとでも聞こうものなら、仕事場も店もがらあきにするのである。なるほど、自ら人に模倣されるだけのものを持っている者・その生活や意見が人のかがみとなりうる者・でない限り、自己を知らしめるということは誰にとっても不似合である。カエサルやクセノフォンは、彼らの物語を築き固めるだけのものをもっていた。彼らの偉大な行為こそ、その正当で堅固な基礎であった。そう考えると、大王アレクサンドロスの日記とか、アウグストゥス、(c)カトー、(a)※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラ、ブルートゥスなどという人々がそれぞれの行状を書きのこした実録のようなものがないことは、いかにも残念である。ああいう人々の面影は、銅像や石像によってまでも、人が愛慕したり研究したりせずにはいられないのである。
* 一章の最初に「それにしても」とか「それはそうだが」とあるのは唐突な感じを与えるが、それはこの章が前章の継続として書かれているからである。それは同時に、エッセー全体が言文一致調の談話体でかかれていること、それから一般に信ぜられるように、またモンテーニュ自ら言っているように、『随想録』の各章は単なる fagotage(たば)ではなくて、巧みに組み合されたものであるということをも示しているのである。
 このいさめは甚だもっともであるけれども、それがわたしに触れるところはごく僅かである。

われはこれを、ただ僅かにわが友人にのみ、
しかも、彼らより求められたる時にのみ読むにすぎず。
決して至る処、すべての人の前に、読むにはあらず。
しかるに、或いは会議場のただ中にて、
或いは公衆の浴場のただ中にて、
己れの書きたるものを声高らかに読む作者少からず。
(ホラティウス)

わたしはここに、町の四辻や教会堂の唯中や公の広場などにおっ立てるような、そんな像を立てているわけではない。

(b)われはここにわが書ける物を、
針小棒大なる言葉もてふくらまさんとにはあらず。
ただ膝を交えて語らんとはするなり。
(ペルシウス)

(a)それは書斎の片隅に置いて、隣りの人や肉親や友だちなどをよろこばせるためのもので、そういう人たちは、この自画像の中に再びわたしと親しみ交わることができて喜んでくれるであろう。ほかの人たちが自分について語る気をおこしたのは、そこに価値ある・豊富な・主題を見出したからであるが、わたしはあべこべに、自分があまりにも貧弱で痩せっぽちなのを知ったからで、自慢におちいる心配などは毛頭ないのである。
 (c)わたしはよく他人の行為を判断する。だがわたしの行為はあまりにもつまらなくて、ほとんどひとさまの判断のたねにもならない。
 (b)わたしはあまりにも自分のうちに善いことを見出さないから、さすがに自分を語るときには赤面せずにはいられない。
 (a)そのように誰かがわたしの先祖たちの気風や(c)容貌や態度や日常の言葉や(a)運不運などを語り聞かせてくれるなら、わたしの満足はどんなであろうか。どんなに注意してそれをきくであろうか。ほんとうに友人や先輩の肖像までも、(c)彼らの衣服の着方や武器の帯び方なども(a)おかしいといってわらうのは、性質のよくない証拠であろう。(c)わたしは彼らの筆跡や印形や祈祷書や、彼らが用いた特殊の剣などを保存している。父が常にたずさえていた長いむちを、わたしは決してわたしの部屋から追わなかった。
※(始め二重山括弧、1-1-52)父の衣服指輪などは、彼に対する愛情の深ければ深きほど、その子たちによりてなつかしまるるものなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(聖アウグスティヌス)。
 (a)だがわたしの子々孫々がわたしとはちがった趣味をもとうとも、わたしは立派にしかえしをすることができるだろう。まったくその時、わたしは絶対に彼らのことを念頭におかないでいられるが、彼らの方ではそれほどまでにわたしに無関心ではいられないのである。わたしのこの本における世の人々とのつながりも、結局彼らから、自分で書くよりは迅速で容易な、書く道具を借りている、ということだけである**。その代り(c)わたしの方では、おそらく包み紙になって、バタの隅っこが市場で溶けて流れるのを防いであげられることと思っている。

(a)まぐろとオリーヴの包み紙にことかくことなかれかし。
(マルティアリス)

(b)われはしばしばさばのために胸ゆたかなる衣を提供せん。
(カトゥルス)

* ここでもモンテーニュが霊魂の不滅を信じていないことがうかがわれる。彼は子孫たちが自分にどれ程冷淡な態度に出ようとも、あの世に行ってしまえば何も感じないのだから平気なものだというのである。
** 印刷術のお蔭をこうむっている以外に公衆との関係はない、またこの本は自分のもので出来上っているので他からの借りものは一つもない、という意味である。
 (c)また誰一人わたしを読まないにしても、こんなにたくさんの暇な月日を、こんなに有益で愉快な思索に用いたことが、果してわたしにとって単なるひまつぶしにすぎなかったろうか。わたしという原型からこういう肖像かたちを取るに当って、わたしは自分をはっきりと打出すために、きわめてしばしば自分の容姿を整えつくろわなければならなかったから、お蔭で原型はいつの間にか固まり、どうやら独りでにある形をとるようになった。他人のためにわたしを描いている間に、段々とわたしは、自分を始めよりはあざやかな色に染めて行った。わたしがこの本を作ったのではない。むしろこの本がわたしを作ったので、それはその著者と本質を同じくする書物であって、もっぱらわたしに関するもの、わたしの生活の一部をなすものである。決して他の書物のように、他人・第三者・のための内容目的を持ってはいないのである。果してこのように絶えず熱心に自分を研究したことは、ただの時間つぶしであったろうか。まったく、時おりただ観念的に、また口の先だけで、自分をかえりみるだけの人々は、そう完全に自分を検査しても自分に徹してもいないのであるから、自分をもってその研究とし著作とし職業とするところの人々、その誠実と努力とをつくして自分を永遠に記録しようと専念する人々には、とうてい及びもつかないのである。
 最も甘美な快楽は、ほんとうに、深い内部においてこそ味わいつくされるのであって、自分の跡をのこすことを避ける。それは大勢の人の眼を避けるばかりでなく、誰の目をも避けるのである。
 幾たびこの仕事は、わたしをものうい考えからそらしてくれたことか。実際つまらない考えは、すべてもの憂い考えのうちに数えられなければならない。自然は我々に、独りで自分と語り合う能力を十分に賦与した。そして、「我々は自分を一部分社会に負うけれども、その最良の部分はこれを自分に負うのだ」ということを学びとらせるために、しばしばわれわれをこの能力へとさそう。わたしの思想がただ夢想するだけにしても何らかの秩序と目的に従うようにするには、そしてそれが風のまにまに吹き散らされないようにするには、その中に浮び上るたくさんのこまごました断想に一々形を与え、それらを記録するのが一番である。わたしは自分の夢想に耳を傾ける。やがてこれを記録しなければならないからである。幾たびわたしは、ある種の行為を礼儀や理性のために公々然と非難するわけにゆかないのを悲しみ、またいささか世間のためも思わないではなく、ここに腹の底をぶちまけたことであったか。いや実に次のような詩の鞭

目の上にぴしゃり、鼻づらの上にぴしゃり、
小猿サゴンめの背なかにぴしゃり
(マロ)

は、生身の上によりも紙の上にこそ、より深く刻みつけられるのである。それどころかわたしは、自分の書物の飾りとしたり支えとしたりするために、何かよそからもくすね取ることができるのではないかとうかがい見るようになってから、始めて他人ひとの書物に注意深く耳を傾けるようになったのである。
* マロ Marot が、その敵サゴン Sagon に報いた小詩 Fripelipes, valet de Marot, ※(グレーブアクセント付きA小文字) Sagon の中の句。小猿 sagoin は Sagon の名をもじったのである。
 わたしは本を作るためにすこしも勉強をしなかった。けれども本を作ったおかげである程度の勉強をした。もしも、ある時はこの作者をあるときはあの作者を、あるいはその頭をあるいはその脚を、なでたりつねったりすることも、ある程度勉強になるとすれば。わたし自身の意見を作りあげるためには少しも勉強しなかったが、前からできあがっている自分の意見を支持したり支援したりするためにはある程度勉強をした。
 (a)けれどもこんな堕落した時世ときよ時節じせつに、自己について語っている誰を我々は信じられるか。だって、他人について語っている人々の間にさえ(この場合はなおさら嘘をついたって何の得もないのに)、我々が信じうる人はほとんど、いな全く、いないではないか。人心が腐敗している第一の証拠は真実の追放である。まったくピンダロスがいったように、真実であることこそ偉大なる徳の始め、(c)これこそプラトンがその理想国の支配者に要求している第一箇条(a)である。我々の今日の真実は、真にあるとおりのことではなくて、他人に信じてもらえそうなことである。ちょうど我々がほんとのお金ばかりでなく、通用しさえすればにせ金でもそれをお金と呼びなすのとかわりはない。わが国は久しい昔から、嘘つきの国と非難されている。まったく皇帝ウァレンティニアヌス時代の人であるマッシリア〔マルセーユの旧名〕のサルウィアヌスは、「フランス人の間では嘘をつき、嘘の誓いをすることは、不徳ではなくて話の作法である」といっているのである。この証言をもう少しせり上げるならば、「今やこれがフランス人の間の徳である」ということができるだろう。人はこの徳を養い練る。まるで何か名誉ある業にいそしむように。まったく猫かぶりこそ当世紀の最もいちじるしい特徴の一つなのである。
 そこでわたしはしばしば考えた。「なぜ我々は、我々にとってこんなにも普通なこの不徳を叱責されると、他の何事を叱責されるのよりも辛く感ずるのか。なぜ嘘つきと咎められることを、言葉によってなされる最大の侮辱と考えるのか。なぜこのような習慣を後生大事にいつまでも守っているのか」と。だが考えて見ると、我々に最も深く沁みこんでいる欠点だからこそ、我々は最も強くこれを否定するので、これはむしろ自然なことであろう。どうも我々は、世間の非難に憤慨したり興奮したりしていれば、いくらか自分の罪が軽くなるくらいに思うらしい。我々は実際にこの欠点をもっているものだから、表面だけでもそれを咎めて見せたくなるのではあるまいか。
 (b)あるいはこの〔嘘に対する〕叱責が、臆病と卑怯をも一緒に非難しているように思われるからではあるまいか。一ぺんいった言葉をとり消すことくらい、明白な臆病卑怯はないではないか。自分が腹のなかで思っている事柄を言いまぎらすにいたっては、なおさらではないか。
 (a)嘘をつくということは実にいまわしい不徳であって、ある古人はこれをはなはだ恥ずべきこととしてこう言った。「それは神をないがしろにする証拠であるとともに、人々をも恐れる証拠である」と。これほど立派に嘘が恐ろしく憎むべく、また不正であることをいい現わすことは不可能である。まったく、人間の前では卑怯で神の前では乱暴であることくらい、忌わしいことがあろうとは考えられない。我々の相互の理解はただ言葉という道によってのみ達せられるのであるから、約束をやぶる者は社会公衆を裏切るものである。言葉こそ我々の意志や思想が相互に通いあうための唯一の道具であり、我々の霊魂の代弁者である。これを失っては我々はもう手をつなぐことも知り合うこともできない。これが我々をいつわるならば、我々のすべての交わりは絶たれ、人類社会のすべての連帯は解けてしまう
* モンテーニュがいかに虚偽をにくみ真実を愛したかがこれでよくわかる。第一巻第九章にも同じ気持がのべられている。
 (b)新インド〔アメリカ大陸〕のある民族は(この民族の名を挙げて何になろう。それらは既にないのである。まったくそれらの地名もその土地の古来の有様も全然滅び尽したほど、あの前代未聞の征服の及ぼした惨害はひどかったのである)、神々に人の血を捧げたけれども、それはただ舌と耳とからしぼった血ばかりであった。言いもし聞きもした嘘の罪を、そうやってつぐなおうとしたのである。
 (a)あのギリシアの快男子はいった。「子供はお手玉をもてあそび、大人は言葉をもてあそぶ」と。
* リュザンドロス。
 我々が言葉を翻すいろいろなやり方や、これに関する我々の名誉の掟、それらのうつり変りなどについては、わたしもいろいろ知ってはいるが、そのお話は他日に譲ろう。しかしできるならば、一体どんな時代に、あのように確実に言葉を規定し・これに我々の名誉をかける・あの習慣が発生したかを知りたいと思う。まったく、それがギリシア・ローマの昔になかったことは、容易に判断できるのである。いや、わたしはしばしば、彼らが互いに言葉をひるがえし罵り合いながら決闘にまでは及ばなかったのを見て、珍しい不思議なことに思ったのであった。彼らの義務の掟は、我々のそれとはやや行き方を異にしていた。人はカエサルに面と向って、ある時は「盗人よ」とかある時は「酔いどれよ」とか浴びせかけている。我々はいかに自由に、彼らが、つまり両国の最も偉大な大将たちが、互いに悪口を浴びせかけ合ったかを知っている。だが彼らの許では、言葉はただ言葉によって報いられるだけで、決してそれ以上の大事に及ばなかったのである。
* 決闘に対する批判はやがて第二巻第二十七章に出てくる。同章解説参照。
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第十九章 信仰の自由について



 この章の中にモンテーニュが背教者ユリアヌスを賞賛しているのは、当時としては非常に大胆なことと言わねばならない。この点も一五八〇年ローマ庁で叱られたことの一つであるが、彼はその後一向改めていない。

 (a)善良な意図も節度なく行われると、人々をはなはだ不徳な行為に押しやるということは、我々が始終見るところである。こんにちフランスを内乱のちまたと化しているあの論争において、最も良い最も健全な党派といえば、それは疑いもなくこの国旧来の宗教と政体とを維持するそれである。けれどもこれにくみする正しい人々の間にも(じっさいわたしは、それを口実にして私の恨みを晴らそうとしたり・私欲を満足させようとしたり・王侯の恩顧にあずかろうとしたり・する者どものことをいっているのではない。もっぱら自分の宗教に対するほんとうの熱情から・祖国の平和と治安とを維持しようというきよい愛情から・この党派に与する人たちのことをいっているのだ)、実にそういう正しい人々の間にも、熱心のあまり理性のらちを越え、ともすれば不正で・過敏で・しかも大それた・決心をする者が、たくさんに見られる。
 確かに、我々の宗教が法令によってようやく権威を得始めた最初の頃は、たくさんの人々が熱心の余り、あらゆる種類の異教の書物を排斥した。そのために文学者たちは、非常な損失をこうむっている。わたしはこうした乱暴こそ、蛮族の兵火以上に人文を害したと思う。コルネリウス・タキトゥスがそのよい証人である。まったく彼の縁者であった皇帝タキトゥスは、特に命令して世界のあらゆる図書館に彼の書物を備えさせたにもかかわらず、そのうちのただの一冊さえ、我々の信仰に反するつまらぬ五六句のためにこれを破棄しようと願う者どもの、執念深い捜査を免れることはできなかったのである。それにそういう熱心家は、我々キリスト教徒の側に立つすべての皇帝に不当な賞賛を安売りし、我々に敵である皇帝たちの行為は何から何までやっつけた。それは背教者と綽名あだなされた皇帝ユリアヌスにおいて容易に認められるところである。
 ほんとうにこの人は、はなはだ偉大な・たぐい稀なる・人物であった。その霊魂は哲学上の諸論説で色こく染められていて、それらに自分のすべての行為をかなわせることをもって彼は自らの主義としていたからである。実際いかなる種類の徳も、彼によってはなはだ顕著な模範を示されないものはなかった。たとえば純潔という点では(これを彼の全生涯はきわめて明瞭に証拠だてているが)、アレクサンドロスおよびスキピオのそれとよく似た逸話が、彼について書き伝えられている。すなわち、彼は当時なお花の盛りの年頃であったのに(まったく彼は、パルティア人に殺されたときやっと三十一にすぎなかったのである)、たくさんのはなはだ美しい囚われの女の中の、ただ一人をさえ見ようとしなかったといわれている。その正義の人であったことは、わざわざ自分で人民の訴えを聞いたくらいだった。そして、好奇心から彼の前に呼び出される者どもにその奉じている宗教を問いはしたけれども、彼がキリスト教に対してもっている反感は少しもその裁判の公正に影響しなかった。彼は自ら多くの良い法律を設け、前の皇帝たちが取り立てていた賦課の大部分を撤廃した。
 我々はこの人の行為をのあたりに見たという二人のよい歴史家をもつ。その一人であるマルケリヌスは、その歴史のあちこちで、かれユリアヌスが布告を出して、キリスト教徒であるすべての修辞学者文法学者に塾を開き講義をするのを禁じたことを、口をきわめて非難し、彼の行為はできれば後の世の語り草にしたくないものだと付言している。もしユリアヌスが、我々のために何かもっと苛酷なことを行ったのならば、このマルケリヌスは我々の宗旨にはなはだ熱心な男であったから、きっとそれを書きおとしはしなかったであろうと思われる。ユリアヌスはたしかに、キリスト教徒に対して厳しくはあったが、残酷な敵ではなかった。まったく我々の仲間でさえ、彼についてこんな話を物語っている。「ある日のこと彼がカルケドン市の周囲を散歩しているとき、そこの司教マリスが『よこしまなキリストの反逆者よ』と罵ったところ、彼はただ、『哀れなやつよ。お前の眼**が失われたことでも泣くがよい』と答えただけであった。すると司教はさらにおし返して、『お前の不遜なつらがまえが見えないように、わたしから眼を奪いたもうたイエス・キリストに感謝する』といった」と。キリスト教徒にいわせると、そういってかれユリアヌスはいかにも哲学的な忍耐を装ったことになるのであるが、それにしてもこの事実は、彼が我々に対して加えたと言われている残虐行為とは到底結びつけられない。彼は(わがもう一人の証人エウトロピウスがいう通り)、キリスト教の敵ではあったが、そのために人の血を流しはしなかったのである。
* 『ローマ帝国史』Ammianus Marcellinus: Rerum gestarum, lib. ※[#ローマ数字31小文字、789-19].
** この司教は、ただれ目で物がよく見えなかったのである。
 再び彼が正義の人であった話に立ちもどるに、彼がその帝政の始めに、先帝コンスタンティウスの党派に属する人々に弾圧を加えたということ以外には、何一つ非難すべきことはない。彼が質素であったことは、彼が常に兵卒同様の生活をしていたことでわかる。彼は泰平の世にありながら、まるで戦時の窮乏にあらかじめ慣れようとする者のように食事したのである。彼の用心はきわめて周到で、夜を三つないし四つに分ち、その一番短い部分を睡眠にあてたにすぎない。他の部分は、彼自らその軍隊や警備の模様を見回るために、あるいは勉強のために、あてられた。まったく彼はいろいろな長所をもっていたが、中でも文学のすべての部門においてはなはだ優れていたのである。人がアレクサンドロス大王について伝えるところによると、彼はとこについても眠気が彼をその思索と勉強からそらすことを恐れ、その床のわきにたらいをおかせ、一方の手に銅の球を持ち、これを床の外に出していた。つまり眠気がさしてきて彼が握った指をゆるめると、その球が音をたてて盥の中におち、彼の眠りを覚ますようにしたのである。しかし我がユリアヌスの霊魂は、その欲望に対してきわめて緊張しており、特別な禁欲のおかげでほとんど酒気にあてられるようなことがなかったから、そんな工夫をする必要はなかったのである。軍事的素養にかけても、偉大な武将のもつすべての特質においてすばらしく優れていた。だからほとんど全生涯を通じて常に戦争にたずさわった。その大部分はフランスで、我々と共にドイツ人とフランク人を征伐するために、なされたのである。我々は彼ほど多くの危険をおかした者、彼ほどしばしばその実力の程を示した者を知らない。彼の死には、何かしらエパメイノンダスのそれに類するものがある。まったく彼は、矢に貫かれると自らこれを抜こうと努めたのである。矢が鋭くてその手を傷つけ弱らすことがなかったら、おそらくはそれを引き抜いたであろう。彼はそうした状態にありながらも、部下の兵士たちを激励するために、戦場につれて行かれることを絶えず要求した。兵士たちは彼がいなくても、ついに夜が両軍を引きわけるまで、きわめて勇敢に勝負を争った。彼が自分の生命や人間界の事柄に対して一種の軽蔑の情をいだいていたのは、哲学のおかげである。彼は霊魂の不滅を堅く信じていた。
 宗教の事となると、彼は徹頭徹尾まちがっていた。我々の宗教を捨てたので、人彼を呼んで背教者という。けれども、「彼は一ぺんもキリスト教を本気で信じたことはなかった。むしろ法規に従わなければならないので、自ら権力を握るに至るまでそう装っていたのである」という説の方が、本当らしく思われる。彼は自分の奉ずる宗教においてははなはだ迷信的で、彼の時代の人々さえそれをわらったくらいである。いや、もしパルティア人に勝ったならば、彼は犠牲にあてるために世界中の牛の種を絶やしたことであろうなどと、いわれた程なのである。彼はまた占いの学問に溺れ、あらゆる予言に信をおいた。彼は死に際していろいろなことをいったが、中にこんなことがあった。「わたしは神々が不意にわたしを殺そうとしないで、久しい前から最期さいごの場所と日時とを告げ知らしてくれたこと、遊惰柔弱な人々にふさわしい悠長な楽な死に方をさせず、また長い苦しい死に方もさせずに、勝利の最中に、そのはなばなしい栄光の唯中に、このような崇高な死に方をさせてくれたことを、うれしくもまた有難く思う」と。彼はマルクス・ブルートゥスが見たのと同じような幻影を見た。それはガリアにおいて始めて彼をおびやかし、二度目は彼がペルシアにおいてまさに死のうとする時に立ち現われた。
 (c)彼が傷をうけた時にいったと伝えられる・あの「ナザレびと、お前は勝った」とか「満足せよ、ナザレ人」とかいう・言葉も、もしわが二人の証人の信ずるところであったならば、これまた書きおとされるはずがないのである。この二人はいずれも陣中にあって、彼の最後の言動の最も微細なものまでも見たのであるから。現に彼らは、人が彼に付与している他のもろもろの奇跡は、ことごとくこれを記録しているのである。
 (a)さて本題に立ちかえるに、彼は(とマルケリヌスはいっている)、その心の中に久しい以前から邪教をいだいていたのであるが、彼の軍隊が全部キリスト教徒であったので、本心を思い切って外に現わせなかったのである。いよいよその意志を公表しても大丈夫なほどに勢力をえるに及んで、始めて諸神の殿堂を開かせ、あらゆる手段を用いて偶像崇拝の復興につくしたのである。この目的を達するために、コンスタンティノポリスにおいては、人民が分裂したキリスト教会の司祭たちと共にてんでんばらばらであるのを見ると、彼らを自分の宮殿に招き、その内輪の争いをやめるように、そして各派が妨げられず・心配なく・それぞれの宗教に従うように、熱心に勧告した。彼がこういうことをそんなに一所懸命にすすめたのは、そのような自由が、すでに分裂した党派の数をますます増大し、ひいては人民が一致協力して彼に反対したりその団結を強めたりすることを、妨げようと望んだからである。彼はのあたり或るキリスト教徒たちの残酷な行為を見て、「この世に人間くらい人間にとって恐るべき動物はない」と悟ったからである。
 以上はほぼ彼〔マルケリヌス〕の言葉そのままであるが、そこではつぎのことが考察されるに値する。すなわち「皇帝ユリアヌスは、この頃わが国の王侯がたが内乱をしずめようとしてとられた方法と同じ信仰の自由という方法を、かえって内乱をますます煽り立てようがために用いたのである」ということが。人は一方でこういうことができる。「手綱をゆるめて各分派にそれぞれ勝手な意見を支持させるということは、ますます分裂を大きくひろがらせる。そこにはその流布をおさえる法令の禁止も強制も全くなくなるから、それではほとんど手を貸して分派の発展を増長させるようなものである」と。けれどもまた、他方ではこうもいえるだろう。「各分派にそれぞれ勝手な意見を支持させるということは、安易と安楽によってそれらの緊張をゆるくする。従って稀有・新奇・困難・のために鋭くなる鉾先ほこさきを鈍らせることになる」と。だからわたしは、我が王侯がたの御信心の名誉のためにむしろこう信じたい。「王侯がたは思うとおりのことがおできにならなかったので、そのおできになることをさも欲しておられるかのようにお見せになったのである」と。
* この結びの句は、結局一五七六年にでた Trait※(アキュートアクセント付きE小文字) de Beaulieu の弁護であり、ヴァロワ王朝の革新教に対する寛容政策の支持であって、書き出しの句と共に当章を政治家としてのモンテーニュの態度を推察させるに重要な一章としている。ボーリユーの条約というのは、聖バルテルミ祭虐殺事件後、激昂した革新教徒を慰撫するために出されたもので、彼らに信仰の自由をゆるし、どこでも公然と礼拝を行うことを認め、更に彼らを法官に採用することまで許したものである。旧教徒はこれを軟弱政策なりとしていよいよ政府に見きりをつけ、その結果神聖同盟が結成されるに至るのであるが、モンテーニュは故事にことよせて、ひそかにこれを弁護支持している。「ユリアヌスが昔とった措置にも二様の解釈が可能であるように、このアンリ三世の政府の政策にも賛否両論があるだろうが、自分は、王侯がたのキリスト教の信仰篤きことは疑うべくもないのであるから、それはやはり内乱の終熄を望む善意に出たものと信ずる。弾圧政策で内戦をやめさせることは出来ないのだから、この方法で平和を期待するより他に道はないのだ」。これが恐らくこの結びの句の意味であろう。モンテーニュの政治上の意見は、第一巻第二十三章、第二巻第十二章、当章、第三巻第一章等を通じてとらえることが出来る。
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第二十章 我々は何一つ純粋に味わうことがない



 (a)我々は天性微力であるために、物をその自然の純粋無雑な状態のままで用いることができない。四元素は、我々がこれを用いるとき、すでに変質している。金属類にしても同じことである。黄金も、これを我々の用にあてるには、何かまぜ物をしてその品質をおとさなければならない。
* 空気・火・土・水・の四元素。
 (c)アリストンやピュロンやストア学者たちまでが人生の目的とした・あのように単純な・徳も、またキュレネ学派やアリスティッポス流の快楽も、まじりけなしでは我々の役に立たなかった。
 (a)我々がもっている快楽や善にしても、多少なりとも悪と不快とを含まないものはないのである。

(b)快楽の泉よりも何かにがきもの流れ出て、
花敷く床の中にも我らを苦しむ。
(ルクレティウス)

 我々のきわまれる快楽は、いささか呻吟し嘆息しているかのようである。それは、快楽が苦悶のうちに息もたえだえになった姿とでも言おうか。我々は快楽の最高潮に達した姿をえがくときでさえ、病や苦しみに伴う特徴や形容詞を使ってそれを飾る。たとえば、「悩ましく・おとろえて・力なく・うつうつと・思いわずらいモルビデツア」などといったぐあいに。これは苦と楽とが同質・同類・である大きな証拠である。
 (c)深い喜びは陽気であるよりも厳粛である。極まった満足はうれしげであるよりも落ちついている。※(始め二重山括弧、1-1-52)幸福も極まれば重荷となる※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。幸福は我々をむしばむ。
 (a)それはギリシアの古い詩にいうところと同じである。そこには、「神々は我々に与える幸福をすべて我々に売っている」とある。その意味するところは、「神々は一つとして純粋完全な幸福を我々に与えない。みな我々が若干の苦と引きかえに買うものばかりだ」ということである。
 (c)労苦と快楽とは甚だその性質を異にするが、何かしら自然的なつながりによって結ばれている。
 ソクラテスはいっている。「さる神様が苦痛と快楽とを渾然こんぜんと一つにしようと試みたがどうしてもできないので、せめて尻尾だけでも両方をくっつけようと思いついたのだ」と。
 (b)メトロドロスは「悲哀の中には幾ぶん快楽がまじっている」といった。彼はほかの意味でいったのかも知れないが、わたしは「憂鬱な気分に耽ることには多少の意図と同意と満足とがあるのだ」という意味にとる。いやそれどころか、野心さえもそこにはまじることがあると言いたい。憂鬱の膝の上には、我々に笑み・我々におもねる・いくらかの甘さ・うれしさ・がある。世にはこれらをもってその養いとする性格ひとびともあるのではなかろうか。

泣くことにも幾分の快味あり。
(オウィディウス)

 (c)セネカの中でアッタロスという者はこういっている。「なくした友だちの想出は、ちょうど古い酒の中にある苦味のように、

若き奴隷よ、ファレルヌムの古酒を取出で、
その最もにがきをわが盃につげ。
(カトゥルス)

またかすかに酸味のあるりんごのように、我々をよろこばせる」と。
 (b)自然はこの混合をひろげて見せてくれる。画家のいうところによれば、泣顔を描くのに役立つ顔の筋肉の動きやしわは、笑顔を描くのにも役立つそうである。ほんとうに、そのいずれかが描きあげられる以前に画面の進行を見ていてごらん。一体画家はどちらを目指しているのか、わからないだろう。それに、あんまり笑うとしまいには涙が出てくる。
 (c)※(始め二重山括弧、1-1-52)世につぐなわれざる不幸なし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
 願いうる限りの快楽にとりかこまれた人間を想像して見ると、例えば、彼がその極限に達した時の性交の快味と同じような快味に永遠に五体をとらえられたような場合を想像して見ると、彼はその幸福の重荷の下にとろけてしまうのではないか、そのように純粋で・実のある・そしてまたそのように全身にゆきわたる・快楽は、彼にはとうてい背負いきれないのではないか、とわたしは思う。ほんとうに人間は、その唯中にある時はそれを避け、自然にそこからのがれ出ようと急ぐ。まるで足のふみどころなく・そのままもぐり込んでしまいそうな・泥んこ道から、のがれ出ようとするかのように。
 (b)わたしは敬虔な気持で自分にむかって懺悔する時、わたしがいだく最良の善意も不徳の色合を帯びているのを知る。いや、プラトンだってその最も強力な徳の中にあって(わたしもまた、ほかの誰にも劣らないほど、ただに彼のもっとも強力な徳ばかりでなく、そのすべての同じようにすぐれた高い徳をも、心の底から尊崇する者であるが)、もしも思いをひそめて聴いたならば、いや彼は自ら思いをひそめて聴いたのであるから、何かそこに人間的なまじりけのある乱れた調子を、勿論それは彼にだけ感じられるかすかな音ではあったろうが、感じはしなかったろうか? 人間は徹頭徹尾はぎ合せの・まぜ織りの・裂地にすぎない。
 (a)正義の諸法規でさえ、多少の不正が混在することなしには、存在することができない。それでプラトンは、「あえて諸法規からすべての不備不便を除こうと望むのは、七頭の大蛇〔ヒュドラ〕の首をはねようと企てるに等しい」といっている。※(始め二重山括弧、1-1-52)いかに模範的なる処刑も、当人より見れば多少の不法を含まざるはなし。唯それは公衆一般が受くる利益によりて補償せらるるのみ※(終わり二重山括弧、1-1-53)とタキトゥスはいっている。
 (b)同様に公私の生活を営むに当って、我々の精神があまりに純粋明敏にすぎて困ることがあるのも真実である。そういう透徹した明察は、余りに精緻で物事を詮索しすぎるからである。そのような精神は、先例や実際に従わせるために、にぶらせ重くしなければならない。渾沌こんとんとしたこの地上の生活に適応させるために、わざとぼんやり曖昧にしなければならない。だから普通な・さほどに緊張していない・精神の方が、かえって俗事を処理するのには適してもおり上手でもあるのだ。かえって高遠微妙な哲学上の諸説は、実際に当ると物の役に立たないのである。あの鋭敏活溌な霊魂と、あのぬらりくらりとした弁舌とは、我々の交渉を混乱させる。どうしても人間の仕事は、もっと大ざっぱに、もっと浅薄に、取扱わなくてはならない。そしてその大部分を運命の権限に委ねなければならない。物事はそんなに深く・そんなに緻密に・明らかにする必要はないのである。あんなにたくさんのいろいろに矛盾しあった様相をながめていると、まったく何が何やらわからなくなってしまう。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)彼の心は、かく相反する様々の動機を考えつつあるうちに、茫然として暗くなりたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。
 これは古代の人々がシモニデスについていっていることと同じである。なぜなら彼の思想の中には(彼は王ヒエロンの問いをうけて、どうこれに答えようかと数日の間考えつづけていたのであるが)、精密鋭敏な考えがあれやこれやとむらがり生じたために、彼は一体そのどれが最も本当であるのか解らなくなり、ついに真理を求めることをふっつりと思い切ったからである。
 (b)物事のあらゆる情況と結果とを詮索し抱えこむ人は、その選択に当惑する。中くらいの知性は、重大なことをも些細なことをも、同じように処理し解決する。見たまえ、最良の世帯もちはそのやり方をさほどに自慢しない人々であって、それを得々としてしゃべる連中は、最もしばしば何一つしでかさないではないか。わたしは家政万端についてよくしゃべり、かつその説明にはなはだ巧みな男を知っているが、かわいそうに彼は、自分の指の間から十万リーヴルの年金が漏れてこぼれるのに気づかなかった。またある男は、その顧問よりもよく語りよく考慮した。世にこれ程その才知を示したものはなかった。だが実際に当っては、その召使たちのいう通り、全くの別人で、その人とも思われなかった。つまり思惑ちがいというものを全然勘定に入れていなかったのである。
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第二十一章 安逸無為をしりぞける



 (a)皇帝ウェスパシアヌスは、もはや再び再起の望みのない重病にかかられてから後も、やはり国政をごらんになろうとした。そしてお床の中でも、絶えず、せっせと、もろもろの重大案件を始末せられた。そこで侍医が、「御病気にさわります」とお諫め申上げたところ、「皇帝たる者は立ったまま死ななければならぬ」と仰せられた。まことに御立派な・いかにも名君たるにふさわしい・お言葉であると思う。皇帝ハドリアヌスも、後に同じ境遇にのぞまれ同じ言葉をお用いになったが、これこそ人が世の王様たちにしばしば思い起させなければならないことであろう。そうやって、彼らが託されている・こんなに大勢の人民を支配するという・その重大な職務が、決して安閑たる職務ではないことを、肝に銘じてもらわなければならない。またその臣下にしても、自分の君主が卑怯遊惰な楽しみに耽り、ただただ一身の安逸ばかり考えて、臣下の保全にはまるで無関心でいるのを見れば、当然彼のために身命をなげうつのがいやになるであろうことを、君主に悟らせなければなるまい
* これはアンリ三世に対する諷刺だとアルマンゴーは考える。しかも国王はこの文章を読んでいたのに一生モンテーニュを信頼したという。アンリ三世がモンテーニュの著を献上され彼に謝意を述べたのは有名なことだし、モンテーニュの市長就任にもアンリ三世の支持が大いにあずかっていたことは事実であるが、果してこの章を自分への諷諫として読んでいたかどうか。しかしそれはそれとして、モンテーニュが一般的に当時の権力者支配者が無為無策どころか怠惰で贅沢の限りをつくし、それが皆百姓町人の搾取の上にあぐらをかいている事実に対しては義憤を感じ、一方で下層階級の勤勉と徳とをほめているということだけでも、我々を感動させるに十分だと思う。モンテーニュは王臣であったが、このような旺盛な在野精神をいたるところで見せている。
 (c)もし誰かが、「帝王は自分以外の者に戦争を指導させる方がよい」と主張しようとするなら、偶然はその人のために、代将らが帝王に代ってよくその偉業をなしとげた実例ばかりでなく、帝王の臨御が有効であるどころかかえって有害であった実例をさえ、いくらでも提供することであろう。だがいやしくも徳高く勇気ある帝王であるならば、そのような侮辱的な勧告を聴くに堪えないであろう。それは彼の首を、まるで聖人の像のように、その国の繁栄のためにだいじにするかのように見せながら、彼をその位から引きおろすのと同じである。彼の職務はもっぱら軍事を司ることにあるのだから、それは彼を、その職務に関して無能であると宣言するのと同じことだ。わたしの知っているある帝王なら、部下の者どもが自分のために戦っている間安閑として眠っているよりは、むしろ敵に討たれる方を望まれるであろう。その人は部下の者が彼のいない間に何かの手柄をたてるのをさえ、嫉妬なしには見たことがなかった。またセリム一世は、「主君なくして得られた勝利は完全でない」といったが、はなはだもっともなことだと思う。恐らく彼はさらにこういいたかったのであろう。「そのような主君は、唯その命令と計略とを用いただけであるから、勝利の誉れにあずかろうとすることを、その名に対して赤面すべきであろう」と。いや、こういう仕事〔戦争指導〕において名誉となる指図や命令は、ただ現場で・戦闘の唯中で・与えられるそれだけだと考えれば、赤面どころではすまないのである。どんな水先案内も陸に立ってその職を行いはしない。武運のめでたさにかけて世界第一の種族オットマン族の帝王たちは、熱心にこの説を守っている。ところがバヤズィト二世およびその太子は、この説をすてて研究その他屋内の仕事にいそしんだために、彼らの帝国にきわめて大きな恥を与えた。現王アムラト三世も、彼らの例にならって同様の憂目を見ようとしている。わが国のシャルル五世について次のようにいったのは、英王エドワード三世ではなかったか。すなわち「いまだかつてかれほど武器を手にしなかった王はなかったが、また、かれ程わたしをてこずらした王もなかった」と。彼がこれを不思議に思ったのはもっともであった。それは当然の結果ではなくて、ただ偶然の結果にすぎなかったからである。カスティリャおよびポルトガルの王たちが、その安逸をむさぼっている自分たちの御殿から二千里も離れたところで、代理人たちの働きのおかげで東西両インドの君主となったからといって、彼らを好戦的な・雄大な・征服者の中に数えようとする者は、わたし以外に味方をさがすがよい。彼らには、身自らその新領土を享楽しに出かけてゆくだけの勇気さえもなさそうである。
* これは多分、ナヴァール王アンリ、すなわち後のアンリ四世のことであろう。モンテーニュはこの人とよく性が合い、一生を通じて互いに信じ信じられていた。『モンテーニュ伝』『モンテーニュを語る』参照。
 (a)皇帝ユリアヌスは、より以上の〔ウェスパシアヌスやハドリアヌス以上の〕ことをいっていた。「哲学者や勇者は、ただ呼吸するだけではいけない」と。その意味は、「どうしても拒むことのできない肉体の必然的欲求を満たすのは仕方ないが、その他の場合は常に霊魂と肉体とを二つながら、偉大で有徳な立派な事柄のために働かせなければならない」ということである。彼は人の前で痰を吐いたり汗をかいたりするところを見られるのを恥じた(これはラケダイモンの若者たちについて人がいい伝えるところ、またクセノフォンがペルシアの若者たちについていうところと同じである)。というのも、彼は鍛練や不断の労働や粗食が、そのような余剰物を一切干し尽しているべきであると考えたからである。あのセネカが「古代のローマ人はその若者たちを常に直立させていた」といったことも、ここにさしはさんで不似合ではないであろう。「彼らローマ人はその子弟に、坐って学ばなければならない何事をも教えなかった」と、彼はいっている。
 (c)死ぬにしても男らしく役にたって死にたいというのは、立派な願いである。けれどもその実現は、我々のよい決心に基づくよりも、我々のよい運によることの方が多い。たくさんの人々が戦いにのぞんで、「勝とう。でなければ戦いながら死のう」と決意したにもかかわらず、そのいずれをもなし遂げなかった。負傷や牢獄が彼らの志をさまたげ、彼らにおしくもない命を永らえさせたからである。また我々の欲望や知覚までも打ちのめす病気がある。フェズ〔モロッコの旧都〕の王ムレイ・メレクは、先頃ポルトガル王セバスティアンと戦い、三人の王を死なせ・この大国をカスティリャの領土にし・たことによって有名なあの戦争に勝ったのであるが、ポルトガル人が武装して彼の国に攻め入った時から重い病にかかっていた。そして、自ら死を予期しながら、日一日と死にむかって病状が悪くなって行くのを見ていた。だがいまだかつて、より雄々しく・より輝かしく・その力をつくした者はない。彼はひどく衰弱していて、堂々と威儀を正して入陣の式を行うのに堪えられなかった。それは彼らの習慣では非常に壮麗なまた元気あふれるものであったから。それで、その栄誉は弟に譲った。だが、彼が譲ったのはやはり大将としての役目だけであって、その他の必要でまた有用な役目は、ことごとく、はなはだ骨折って、几帳面に、彼自ら行った。体こそ横たえていたけれども、その理性と勇気とは、最後の息を吐くまで、いやある意味ではその後までも、しっかりと立っていた。彼は無謀にも彼の領内に侵入して来た敵を、立派に滅ぼすことができた。だが、ほんの僅か寿命が足りないために、また、彼に代ってこの戦争を指導し・乱れた国内を統率する・者がいなかったために、確実明瞭な戦勝を手の中に握っていながら、一方で血だらけの・いちかばちかの・勝利を求めなければならないのを大いに嘆いた。でも不思議にも永く病躯を保つことができて敵を消耗させ、敵を、それがアフリカ海岸に持っていた海軍および軍港から遠くにおびき出し、とうとう一生の最終の日を特に選んで、あの偉大な合戦にあてたのであった。彼は円陣をはって、ポルトガル勢を四方から取り囲んだ。その円陣は迫るに従ってだんだんにせばまり、彼らをして(彼らは若い勇将をいただいているのではなはだ精鋭ではあったが)、四方八方に眼をくばらなければならないがために、思うように戦うことができないようにしたばかりでなく、負けた後は逃げ去ることさえできないようにした。実際彼らはすべての退路が絶たれたと知るや、同士打ちを始めなければならなくなり(※(始め二重山括弧、1-1-52)打ち合いのためのみならず、あせりて逃れんとするがために、みなみな打ち重なりて倒れたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス))、互いに重なり合って倒れ、そのために勝者に、はなはだ死傷者の多い・はなはだ完全な・勝利をえさせたのであった。死に瀕しながらも、彼はあちこちと必要な場所にその身をかついでゆかせ、行くゆくその将兵を激励した。けれども彼の陣の一角が崩れたときは、彼が剣を手にして馬に乗ろうとするのを誰もおしとどめることができなかった。彼は敵陣に斬って入ろうとあせる。部下のものは、あるいは手綱をひかえ、あるいはあぶみにすがり、あるいは着衣をおさえて、これをとめようとする。この努力が、彼に残っていた僅かな命をおしつぶした。人々は再び彼を横たえた。彼はぴくりとその気絶からさめたが、他のすべての力を失っていたので、自分の死をかくすように命ずるために(これこそ部下の者に絶望をひき起さないように、彼がそのとき取らねばならなかった最も大切な命令であったのだ)、その閉じた口に指をあてて絶命した。これは沈黙を命ずる普通の合図である。誰かかつて、死の中にこんなに長く・こんなに突き入って・生きたものがあるか。誰かかつて、これ程に立ったまま死んだものがあったか。
 勇敢に死に対処する最高の段階、その最も自然な段階とは、死に面して驚き恐れないばかりでなく、平然としてこれに介意せず、自由に死の唯中にまで生命の歩みをすすめることである。壮烈な血なまぐさい死を頭の中にも心の中にも意識し、それをその手の中に握りながら、平気で眠ったり研究したりしたカトーのように
* このパラグラフが、一五七〇年の随想ではなしに、(c)の加筆部分であることに注意したい。すなわちモンテーニュのストイシスムは、この時期に至るまで持続しているのである。
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第二十二章 駅馬について



 (b)わたしは宿場から宿場へと馬を乗り継いで旅することにかけては決して弱い方ではなかった。それはわたしのようにがっちりした背丈の低い男には適した運動なのだ。だがもうやめた。それは長く続けるとひどくこたえるものだから。
 (a)これは今しがた読んだことであるが、王キュロスは恐ろしく広大なその帝国の隅々からもっと容易に情報を手に入れようと思い、まず馬は一日のうちに一息でいったいどれくらい駈け抜くものであるかを調べさせてから、その距離毎に役人を置き、そこへ乗り込んで来る騎手のために、いつでも替え馬が提供できるようにさせたとある。(c)ある人々のいうところによると、馬の早さは鶴が空をとぶ早さにも及ぶそうな。
 (a)カエサルのいうところでは、ルキウス・ウィブルス・ルフスは、あることを急いでポンペイウスに報告しようとして、昼夜兼行、馬を乗りすて乗りついで、彼の許に駈けつけたという。またカエサル自らも、スエトニウスのいうところによると、馬車をやとって一日に百マイルを飛ばせたそうだ。だがそれはおそろしい飛脚ぶりであった。まったく、川が彼の行くてをふさぐ時は泳いでそれらを渡ったというのである。(c)道を変えて橋や浅瀬を求めることをしなかったのである。(a)ティベリウス・ネロはドイツで病気をしている弟ドゥルススにあいにゆく時、駅馬車を三つ乗りついで二十四時間に二百マイルをぶっとばした。
 (c)ローマ人が王アンティオコスに対してしかけた戦いで、T・センプロニウス・グラックスは※(始め二重山括弧、1-1-52)馬を引き継ぎ引き換え、信ずべからざる早さもて、アンフィサよりペラまでただ三日にて到り着きたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)と、ティトゥス・リウィウスはいっている。だがその場所をたどって見ると、それは常設の駅馬であって、特にそのために用意されたものではなかったようだ。
 (b)カエキンナがその家の者どもに便りを送ろうと思って考え出した方法は、もっとずっと早いものだった。彼はつばめたずさえて行き、留守宅へ便りをしようとする時は、あらかじめ家の者と打合せておいた通りに、そのいおうとする事柄を意味する色印をつけて、これをその巣に向って放した。ローマの劇場にゆくと、一家の主たちはそれぞれそのふところに鳩を入れていた。家に残っている者どもに何か知らせたいことがあると、これに手紙を結びつけた。しかもそれはさらに返事を持ち帰るように仕込まれていた。D・ブルートゥスはムティナで包囲された時、これを用いた。その他の人も方々でこれを用いている。
 ペルーでは人々は輿こしに乗り、人々の肩にかつがれて走った。その敏捷なことは驚くばかりで、最初の人足たちは駈けながらその輿を次の人足たちにわたすのにも、少しもその足をとめなかった。
 (c)聞くところによると、トルコ皇帝の飛脚を承っていたヴァラキー人たちは非常に早かった。それは彼らが、途中で行きあう誰からでもその馬をとり上げ、これに自分の疲れた馬をまかせて去ることが許されていたからである。それに疲れないように、幅広の帯で胴なかをきつく締めていたからでもある。
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第二十三章 よい目的に用いられる悪い手段について



 モンテーニュはここに、戦争も殺人もよい目的のためには仕方がないものとして認めているように見えるがそうではない。政治家や支配者がよい目的だと考えていることも、ただの人間として考えて見ると少しもよいことではない。そういうことを我々凡人に考えつかせようとしているところに、この章の意味があろう。医学の発達のためだと言っても、生体を解剖したり無制限に生命を実験の具に供したりすることは人道上ゆるされないし、剛健な気風を養うのだと言って残酷な拳闘だとか狩猟などを奨励するのも大まちがいである。モンテーニュはしばしば武徳や武勇をほめたたえているようであるが、外国の傭兵などを引合に出して、武士道なるものの正体を読者自らに見ぬかせようとしている。小さい章であるが、大きい意味をもっている。第一巻第三十一章、第三巻第六章と共に熟読せられたい。

 (a)森羅万象をべる大自然の機構を見ると、そこにはすばらしい関係照応があって、それが偶然的なものでもなければ、いろいろな主人に支配されているのでもないことがよくわかる。我々の体がもつ病気や容態は国家や政治の中にも見られる。もろもろの王国やもろもろの共和国は、我々と同じように生れ出で、花咲き、また年老いてしぼむ。我々は無用有害な体液の過多になやむ。あるときは良い体液が過剰になり(まったくこれをさえ医者たちは心配するのである。彼らはいう。「我々には一つとして安定なものがないから、あまりに元気旺盛な完全な健康は人為的にこれを弱め抑えなければならない。そうしないと我々の持って生れた性質は、どこにも安定の場所がえられず、自己を改善しようにもその上さらに昇るところもないから、結局混乱の末急にがっくりと後退せざるを得なくなる」と。そしてそういう理由から、運動家たちに対してこの健康の過剰を免れさせるために下剤や※(「月+各」、第3水準1-90-45)しらくを命じている)、ある時は悪い体液の過多になやむ。これが普通諸病の原因となるのである。同じような過多のために国家もまたしばしば病気になる。そこでやはりいろんな下剤が用いられることになった。ある時は非常にたくさんの家族を追放して国民の過剰を緩和した。追われたものはよその国に安住の場所を求めにゆき、その地方の人民に迷惑をかける。こういう風にして我が古代のフランク人は、ドイツの奥地から出てきてガリアの地をうばい、そこから古来の住民を追っ払った。またブレンヌスその他の者の命令の下に、無数の人々が潮のようにイタリアに侵入した。そんなふうにして、ゴート人およびヴァンダル人は、現在ギリシアを領している諸民族と共にその生国をすてて、よそにより広い天地を求めに行ったのである。まったくこのような移動の影響を蒙らなかったところは、世界にやっと二、三カ所くらいなものである。ローマ人もこの方法によってその植民地を設けた。まったく彼らは、自分たちの都市が度外れに膨脹するのを見ると、そこから比較的に必要でない人民を放逐し、彼らをその新たに征服した土地に行って住まわせ、そこの開墾にあたらせたのであった。時にはまた、わざとその敵であるどこかの人民に戦争をしかけた。それはただ腐敗の母であるひまな毎日が、自国の民に何か一そう悪い害をもたらすことを恐れて、彼らを働かせようとしたからばかりではないのである。

(b)我らは長き間の太平により害をこうむる。
柔弱は、戦争以上に、我らを損うこと多し。
(ユウェナリス)

(a)同時に自分たちの共和国にいわば刺※(「月+各」、第3水準1-90-45)療法をほどこし、青年たちのあまりにもさかんな血気をいささか冷却させ、あまりに勢いよく繁茂するこの大木の枝葉を切りすかそうと考えたからである。実にこのために、彼らはむかしカルタゴ人に対して戦争をしかけたのである。
 ブレティニの講和会議において英王エドワード三世は、彼が我々の王と結んだ全面的講和の中に、ただブルターニュ公領との紛争だけは含めることを欲しなかった。それはその国の軍士たちの精力のはけ口をもちたいため、そして、せっかく海のこちら側の戦いに送り出した大勢のイギリス人たちが再び本国に逆流してゆかないためなのであった。これまた我々の王フィリップが喜んでその息子ジャンを海外の戦争に送り出した理由の一つで、つまり彼と共にその軍隊の中にみなぎり溢れていた血気の青年の大勢を、外地に送り出すためであった。
 こんにちでも同じように論ずる者がたくさんいる。彼らは我々の間にあるこのさかんな元気が、どこか隣国との戦争へそれて行ってくれればよいとのぞんでいるのだ。現在我々の体にみちみちているこの有害な体液が、これをよそに向って放流しなければますます我々の体熱をたかぶらせ、けっきょくわが国全体の破滅を来たすであろうと心配しているのだ。ほんとうに外国との戦争は、内乱にくらべればはるかに堪えやすい不幸である。だがわたしは、神様が我々の都合のために他を侵し他と戦うという、そんな不正な企てをよみし給うとは信じない。

(b)おお、ネメシスよ。われをして、
真の持主の損となるべきことを
ゆめ願わしむることなかれ。
(カトゥルス)

 (a)けれどもわれわれ人間は天性無力であるために、しばしばよい目的のために悪い方便を用いる必要に迫られる。リュクルゴスは古今を通じて最も有徳完全な立法者であるが、次のようなはなはだ不正な方法を考え出してその人民に節制を教えた。すなわち彼らの奴隷であったヘイロス人を無理に酔っぱらわせ、その酒のために身も心も忘れはてている有様を目のあたり見せ、スパルタ人たちにこの不徳の末がどんなにおそろしいものであるかを思い知らせようとしたのである。ところがそれよりもなおひどいことをした人たちがいる。彼らはむかし、医者たちが死刑囚を(どんな種類の死刑に処せられた者でも)、生きながらに切りひらいて、そこに我々の内臓をありのままに見、ひいては医学に一そう大きな確実をもたらすことをゆるしたのである。まったく同じく常軌を逸するのなら、肉体の健康のためよりも霊魂の健康のためにそれをゆるす方が、幾分かゆるされてよいのである。例えばローマ人が、あの打ちあい・斬りあい・互いに差しちがえて死ぬ・剣闘士たちの狂暴な有様を目のあたりに示して、人民を、武をたっとび危険や死を蔑視する気風にならしたことの方が、幾分かゆるされてよいのである。

(b)これらの剣闘士たちの狂暴なる業、
これらの若人たちの死、この血を見るの喜びに、
そもこれをおきて何の目的かありえん。
(プルデンティウス)

この習慣は皇帝テオドシウスのときまで続いた。

王よ、汝が治世の誇りとなるべき栄光をとれ。
汝の父が遺したる栄光を相続せよ。
なんぴとをも人々の快楽のために死なしむべからず。
闘技場にはただ獣の血が流れるのを許すにとどめ、
そこに殺人の技が我らの目をけがすことなからしめよ。
(プルデンティウス)

* この項は生体解剖を始め生体を実験材料にする科学者や、拳闘や狩猟等の野蛮な娯楽にふける人たちにとって、反省の好資料となるであろう。勿論モンテーニュは、ここに剣闘士の勇敢をたたえているのではない。「同じく常軌を逸するのなら」とか、「幾分かゆるされる」とかいう語句をよみおとしてはならない。
 (a)誠に、毎日、百・二百・ないし千・組の男子たちが互いに剣を抜き持ち、非常な勇気をふるって斬り合い、一人として弱音を吐いたり・助命を乞うたり・敵にうしろを見せたり・敵の打ちおろす太刀先を避けようと卑怯な振舞をしたり・する者を見ず、むしろ進んでその首をさし伸べ・敵の攻撃の下に挺身す・るのを目のあたり見ることは、人民の教育のためには無上の模範となり、はなはだ大きな結果をもたらしたのである。彼らの中には身にあまたの傷をうけて死のうとするとき、いよいよ最後の息を吐出すために身を横たえるに先だって、観衆に向って「わたしが義務をつくしたことに諸君は満足してくれるか」と尋ねるものがたくさんあった。彼らはたんに勇ましく戦い、そして死ぬだけでなく、いかにもうれしそうにふるまわなければならなかった。もし少しでも死をうけるのをこばむような風が見えようものなら、たちまちにののしりとのろいの声を浴びたのである。
 (b)娘たちまでが彼らを励ました。

つつましき乙女までが一太刀ごとに立ちあがり、
勝者が敵の喉をさすごとに狂喜したり。
倒れたる敗者に向いてはその親指を伏せて、
とく死ねと命じたり。
(プルデンティウス)

 (a)初代のローマ人はこの競技のために罪人を用いたが、後には罪のない奴隷や、このためにその身を売った自由民をさえ用いた。(b)しまいには堂々たる元老だの騎士だの、また婦人さえもが、用いられた。

今や、彼らは、競技の場に死なんとて、その身を売れり。
太平の御代にありながら人はそれぞれの敵を求めたり。
(マニリウス)

これらの戦慄、これらの新しき競技の中に、
武器を扱うになれざる女性さえ現われ出で、
恥じらいもなく男たちの格闘の中にうちまじれり。
(スタティウス)

(a)こんなことはすこぶる奇怪な信じられないことに思われるが、考えて見れば我々もまた毎日、我々の戦争に数千の外国人が交っているのを見て少しも怪しまない。これらの人々もまた、ただお金のために、自分たちには何の関係もない喧嘩のために、その血と命とをかけているのだ。
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第二十四章 ローマの偉大について



 (a)わたしは論ずればきりのないこの主題についてただ一言だけふれたい。あの偉大さに、現代のちっぽけな偉大さを比べる人たちの愚かさを明らかにしたいから。キケロの「親しき書簡」の第七冊には(文法家たちは、もしお望みならば、この「親しき」という形容詞を取りのぞかれてもよい。ほんとうにそれはあまりふさわしくないからである。そして「親しき」の代りに※(始め二重山括弧、1-1-52)親しき者への※(終わり二重山括弧、1-1-53)をもってした人々は、スエトニウスがカエサル伝の中に言っている・「彼には※(始め二重山括弧、1-1-52)親しき者への書簡※(終わり二重山括弧、1-1-53)という一冊がある」という・言葉をもって、その根拠とすることができるのである)、当時ガリアにいたカエサルに宛てて書かれた手紙が一通あるが、その中でキケロは、カエサルが彼に与えた手紙の終りに書いた次の言葉をそのまま記している。それは、「お前がわたしに推挙したマルクス・フリウスの方はガリアの王にしてやろう。またお前が誰か友だちを引立てて貰いたいならば、その者をよこしなさい」というのであるが、当時のカエサルみたいな一介のローマ市民が、もろもろの王国を思いのままにするというようなことは、少しも珍しくなかったのである。まったく彼は、王ディオタロスからその国をとり上げて、これをミトリダテスというペルガムム市の一貴族に与えたこともある。実際彼の伝記を書いている人々は、彼によって売られた他のたくさんの王国を記録している。スエトニウスも、彼は一ぺんに王プトレマイオスから三百六十万エキュを召し上げたといっているが、それはほぼ彼にその国を売った値段であった。

(b)ガラテアも、かかる値段なりき。
ポントスも、また、リュディアも。
(クラウディアヌス)

 マルクス・アントニウスは、「ローマの民の偉大なことは、その取ったものによってよりも、その与えたものによって示されている」といった。(c)だがこの民はアントニウスより約百年前に驚嘆すべき権威をもって数ある国々のうちから或る一国を取った。わたしは全ローマ史を通じて、これくらいローマの信用を高めたものはなかったと思う。アンティオコスはすでに全エジプトを領有しており、なおキュプロスおよびこの帝国に属する他の領土を次々に征服しつつあった。その連戦連勝の途中に、C・ポピリウスが元老の命をうけて彼のもとにやってきた。そしていきなり、「まず第一にここに持って参った手紙をお読み下さらぬうちは」と言って握手することを拒んだ。王がそれを読み終って「よく考えよう」といわれると、ポピリウスは即座にその杖で王の周囲にぐるりと円を描き、「あなたがこの円をおでになる前に、わたくしが元老院にもって帰るお返事をいただきたい」と迫った。アンティオコスは、いきなりそのように性急な命令をつきつけられて驚いたが、しばらく考えてから、「よろしい。元老院が命ずる通りにしよう」と答えた。そこで始めてポピリウスは、ローマの民の友として王に敬礼した。ただ三行の文字にうたれて、これほどの大国を断念し、これまで運よくはこんだ領土の拡張を思いきったとは! 彼が後に元老院に使者を送って、「わたしは元老からの命令を、不死の神々から出たもののようにつつしんで承った」といわせたのは、まことにもっともであった。
 (b)アウグストゥスは戦勝者の権利として手に入れたすべての王国を、それを失った者にかえした。あるいは異国人への贈り物とした。
 (a)またこれにちなんでタキトゥスは、イギリス王コギドゥヌスについて語りながら、健筆をふるってこのローマの限りない威勢のほどを我々に感じさせている。すなわち、こう言っている。「ローマ人は大昔から、自分たちの討ち従えた王たちが、自分たちの権力下にあって彼らそれぞれの王国を領有することを許した。彼ら王たちまでも※(始め二重山括弧、1-1-52)自分の奴隷にするため※(終わり二重山括弧、1-1-53)(タキトゥス)に」と。
 (c)スュレイマンはごらんのとおりホングリア王国およびその他の諸邦を気前よく人に与えたが、これまた同じ考えからしたのであって、彼がよくいったように、「こんなにたくさんの王国、こんなにたくさんの権力に、もうげんなりした」からではなかったのである。
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第二十五章 仮病を使わないこと



 この章の終りの方で、モンテーニュは笑談にまぎらして、ちょっぴりわれわれに一つの教訓を与えている。すなわち、「我々の病気や不幸は大部分われわれの途方もない情欲に由来するので、結局自分がわるいのだ。だからそれらを避けたいなら、つまびらかに自分を観察し反省しなければいけない」と。これは『随想録』の重要なテーマの一つなのであるが、モンテーニュはいつもこのように、押しつけがましいところが少しもなく、そっとわれわれに教えるのである。

 (a)マルティアリスの中に秀逸の部に数えられるエピグラムが一つあるが(まったくそこにはいろいろなのが入りまじっている)、彼はそこでカエリウスの物語を面白おかしく物語っている。そのカエリウスという男は、ローマに出てえらい人たちのご機嫌を奉伺して回ったり・彼らの謁見の式に出たり・彼らのわきにはんべったり・またお供をしたり・するのがいやさに、痛風にかかったふりをした。そしてその申しわけを一そう本当らしくするために、脚に膏薬を塗らせ、それに包帯をし、いかにも痛風病みらしい風態をよそおった。ところが有難や、運命はとうとう彼を本当の痛風病みにしてくださった。

見よ、病を装いて人が得たるところのものを。
カエリウスはもはや痛風を装うに及ばざりき。
(マルティアリス)

 わたしはアッピアノスの何処かで、(c)だったと思うが、(a)似たような物語を読んだことがある。ある男が、ローマの三頭政官の追放から逃れようとして、捜索の役人の眼をくらますためにまずその身なりを変えて隠れたが、ふと思いついてさらに片眼の真似をした。ところが多少自由をとりもどせるようになったので、長い間その眼の上にあてがっていた膏薬をとらせて見ると、彼の視力は、ほんとうに、この仮面の下にすっかり失われていた。眼の働きが長いことこれを用いなかったために、ばかになってしまったのかもしれない。或いはその生きた視力の全部が、片方の眼に移ってしまったのかもしれない。まったく片方の眼をおさえていると、その働きの幾部分かがもう一方の眼に移り、開けている方の眼がますます大きく拡がることは、我々の明らかに感ずるところである。同様に、使わずにおいたということが、包帯や医薬のために生じた熱とあいまって、マルティアリスの痛風病みに、いくらか痛風の気をおびきよせたのであろう。これまたありうることである。
 フロワサールの中に、イギリスの貴公子たちの一隊がフランスに押し渡って、我々フランス人に対し何か手柄を立てるまでは左の眼に包帯をしておこうとちかったという話を読んだことがあるが、わたしは彼らもまた今お話したものどもと同じことになり、彼らにそのような無謀な企てをさせたその愛する女たちの前に帰って行った時には、ほんとの片眼になっていはしなかったかと考えると、時々おかしくなる。
 母親が子供たちに、片眼や・跛や・斜視や・その他いろいろの障害・を真似することを叱るのは、もっともである。まったく、あのように柔軟な体は容易にそういう悪い癖を取り易いのみならず、どういうわけか知らないが運命は我々のたわむれをさっそく本当にしておしまいになるらしいのである。わたしはわざと病気の真似をして、ほんとに病気になってしまった人たちの話をたくさんきいている。
 (c)わたしは馬のときも徒歩のときも、始終、杖か鞭かを手にすることを覚え、今ではそれが全くの伊達だてになり、気取ってそれによりかかる癖になった。多くの人たちは、運命がやがてこの伊達だての振舞いを必要に変ずるだろうとわたしをおどかした。わたしも、わたしが一族の中でいの一番に痛風病みになるであろうことを承認する。
 (a)だがここでもう一つ、盲目に関するかわった話を一つさし加えよう。プリニウスは「眠っている間に盲になった夢を見てあくる朝目をさますと、前には何の病気もなかったのに盲になっていた」という男の話を書いている。すでに別の所で述べたとおり、それには想像の力もまた大いにあずかったにちがいないが、そしてプリニウスも同じ意見のように見受けられるけれども、むしろ肉体がその内部において感じた変調こそ、その男から視力をうばった原因であり、夢のもとになったのだと見る方が、いっそう本当らしい。この肉体の内部に行われた変調の原因は、きっと医者たちには、見出そうとすれば発見できるのであろう。
* 第一巻第二十一章。
 なおもう一つ、セネカがその書簡の一つの中で物語っている似たような話をつけ加えよう。彼はルキリウスに宛ててこんなことを書いている。「君も知ってのとおり、妻の道化女ハルパステは、親ゆずりの厄介者としてぼくの家に留っているのだ。まったく、ぼくの好みからいえばああいうばけ者は大嫌いなのだ。道化をよんで笑いたければ、ぼくはそれを大して遠くに求めるまでもない。おのれ自身をわらえばすむことだ。さてその道化女だが、それがこのほど急に視力を失った。次の話はおかしなことだが、うそではない。というのは、彼女は自分が盲になったことを少しもさとらず、絶えず『この家は暗い』といって、戸外に連れ出してくれるよう、手引きの者にせがんでいるのである。我々はこれを見てわらうけれど、我々だって皆同じことだよ。誰だって、自分が吝嗇りんしょくであるとか貪欲であるとか思っていないのではないか。盲人たちは手引きの者を求めるだけまだましなのだ。我々の方は独りでさまよい歩く。我々はいう。『わたしは野心家ではない。だがローマではそうでなくては生きることはできないのだ。わたしはとくべつ贅沢ではないが、都に住んでいればどうしたってものいりが多いのだ。怒りっぽいのもわたしのせいではない。わたしが今もって安定した生活をもたないのはまだ若いからだよ』なんてね。だが病気を我々の外に求めることはやめよう。それは我々のうちにあるのだ。我々のおなかの中に根をはっているのだ。いや自分が病気なのをさとらずにいることこそ、我々が治るのをますますむつかしくしているのである。早くから手当を始めないなら、どうして後から後からとふえはびこる傷や病を始末できようか。だが我々は哲学というきわめて甘い薬をもっている。まったく、ほかの薬はなおってからでなければその有難味がわからないが、この薬だけは楽しませながら治してくれるのである」。
 以上セネカの言葉である。それは少しわたしを脱線させたが、お蔭でわたしはかえってとくをした。
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第二十六章 親指について



 (a)タキトゥスは物語っている。「野蛮人の王たちの間では、何か堅い約束をするときには互いにその右の手を堅く握り合い、親指と親指とを組み合せるのが作法である。そして強くそれらを圧迫するために血が指先に集まってくると、何か鋭い針のようなものでそれらに傷をつけ、互いにそれらを吸い合った」と。
 医者たちは、「親指は手の指の中で一番大切なもので、そのラテンの語源は※(始め二重山括弧、1-1-52)pollere※(終わり二重山括弧、1-1-53)〔強い、力ある〕から来ている」といっている。ギリシア人はそれを※(始め二重山括弧、1-1-52)※(重アクセント付きα、1-11-38)υτ※[#鋭アクセント付きι、U+1F77、813-6]χειρ※(終わり二重山括弧、1-1-53)〔アンティケイル〕と呼んだが、いわば「もう一つの手」という意味である。それにラテン人もまた、ときどき「親指」という語を「手」の意味に用いている。

それを立たせるにはやさしき声音も、
柔らかき親指の愛撫もいらざりき。
(マルティアリス)

ローマでは、てのひらをとじ親指を下にむけることは満足の意味である。

汝の贔屓ひいきは、両の親指もて汝のわざをたたえん。
(ホラティウス)

これを立てて外側にむけることは不満のしるしである。

人々がその親指を上向けるや、剣士たちは、
彼らにおもねりて、ただひたすらに殺したり。
(ユウェナリス)

 ローマ人は、親指に怪我しているものを戦争から免除した。しっかりと武器を取ることができないからである。アウグストゥスは、二人の若い息子の従軍を免除されようとしてわざと彼らの親指を切ったローマの一騎士から、その財産を没収した。また彼以前にも元老院は、イタリア人の乱〔同盟戦争・前九一―八八〕の時、ガイウス・ウァティエヌスがこの遠征を回避してわざと左手の親指を切ったかどで、これに終身入牢を命じその財産を没収した。
 誰であったかわたしは全く思い出せないが、ある海戦に勝つと早速その負かした敵兵の親指を切らせたものがあるが、こうして彼らから戦う力と漕ぐ力とを奪ったのである。
 (c)アテナイ人はアエギナ人の親指を切って、その海戦術における優越を奪った。
 (b)ラケダイモンでは、学校の先生が児童を罰するのに彼等の親指を噛んだ。
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第二十七章 臆病は残酷の母



 モンテーニュはここでも(前出第二巻第五章、第二巻第十一章、後出第三巻第六章など参照)、残忍殺伐な行為に対して悲しみいきどおっている。しかしわれわれは、当時の人々が一般にそういうことに平気であり、ときにはそれを面白がっていたことを想起しなければならない。例えば高等法院の判事アンヌ・デュ・ブールが異端の故にパリ市庁の前で火あぶりになっている古図を見ても、背後の市庁舎の二階の窓から面白そうに見物している人々の間には、身分ありげな婦人たちの姿さえまじっている。とにかく最も慈悲が深くあるべき法王を始め聖職者が先に立って酷刑を宣し、裁判官もそのお手伝いをして盛んに人を殺した時代である。いわば世をあげて狂っていた中に、ただひとりモンテーニュだけが、こうして、敢然と、『随想録』の中でその非をならしたのである。ただたんに眼をそむけて黙っていたのではなく、はっきりと非難の叫びをあげているのである。余程の慈悲心と確信とまた権威者をおそれぬ大胆とがなければできないことである。
 また本章の始めを読むと、「戦争などにまぎれて残酷な働きをするのは真の武勇を知らない下賤のものども※(始め二重山括弧、1-1-52)cette canaille devulgaire※(終わり二重山括弧、1-1-53)だ」といって人民を非難しているようであるが、むしろそれは逆なのである。第二巻第十一章、第十七章、第二十五章、第三巻第十二章などを併せ読むと、彼は王侯貴族が力のない人民に加える残虐をこそ憤っている。臆病卑怯なのはむしろそれらの貴族どもであって、人民の方はお互いに助け合い、よく弾圧にたえている。モンテーニュはこの後者のためにこそ、前者の非をあれほどに痛撃しているのである。
 それから決闘もまた当時の社会における大きな弊害の一つであった。当時若い貴族は争ってイタリアに赴き、或いはイタリア人を師匠として、剣術を学んだ。モンテーニュの旅行に同行したムシュ・デスティサックその他の貴族もまた、その剣術修業が目的だった。従って、何かというとすぐに「決闘!」ということになるのであって、その取締りには為政者もすこぶる手をやいたらしい。シャルル九世はミシェル・ド・ロピタルの進言によって幾度か禁止の布令を出したし、アンリ四世もそれを繰りかえしたところを見ると、この悪風はなかなかすたれなかったことが明らかである。これは後にリシュリユー時代に厳重な勅令が出てやっと或る程度やんだらしいが(拙訳ラ・ブリュイエール『人さまざまカラクテール』第十三章の三、註(4)参照)、それより後もやはり行われたらしい。

 (a)わたしはしばしば、臆病は残酷の母であるといわれるのを聞いた。
 (b)そして経験により、この意地のわるい非人間的な心のはげしさ・むごたらしさ・は、通例めめしい意気地なさに伴っていることを知った。わたしは最も残酷な人間がつまらない原因のためにじきに涙をこぼすのをいくらも見たことがある。フェライの暴君アレクサンドロスも、劇場で悲劇役者のせりふをじっと聞いていることができなかった。毎日たくさんの人々を無慈悲・残酷・に殺しているものだから、ヘカベーとアンドロマケの不運に涙を流すところを、市民どもから見られたくなかったのである。このようにこれらの人々をあらゆる極端におちいり易くしたのは、むしろ霊魂の弱さではあるまいか。
 (a)武勇は(その効果は抵抗にぶつかって始めてあらわれるので、

闘牛も牛の抵抗なくては面白からず)
(クラウディアヌス)

敵が降参するのを見ればたちどころにおさまる。ところが臆病は、自分も武勇の仲間入りはしたいのだが、第一の強敵にあたる役目には加わりかねたので、もっぱら第二の役目の方をひきうけて血なまぐさい殺し方をする。勝利の後のこの殺戮は、通例下賤な人民や荷物係りの兵隊などによってなされる。実際、下民どもの一揆において前代未聞の残忍が見られるのは、それら下賤のものどもが真の武勇を知らず、そのひじまでも血にそめ、その足下にころがっている死体までも引裂いて、あっぱれ武者振りを示そうとするからである。

(b)狼や熊や、その他卑怯なる畜類は、
死にかかれる敵にまでいどみかかる。
(オウィディウス)

(a)臆病な犬がそうで、家では野獣の皮膚を裂いたり噛んだりするくせに、野に出てはあえてかれらに吠えかかろうともしないのである。どうしてこんにち我々の喧嘩は、いつも死人を出さなければおさまらないのか。我々の先祖は復讐ふくしゅうをするのにも幾つかの段階をもっていたのに、なぜ我々はいきなり最後の手段に訴えるのか。なぜしょっぱなから殺すことばかり口にするのか。臆病のせいでなくて何であろう。皆がよく知っている通り、敵を仕とめるよりもこれに打ち込むことに、これを死なせるよりもこれを降参させることに、かえって多くの勇敢と蔑視とがあるのだ。それに復讐欲は、そうすることによってこそ一そうよく満足させられる。まったく復讐は、ただ相手に思い知らせることを目的とするのである。だから我々は、石や獣に傷つけられても、けっしてそれらに食ってはかからない。それらは我々が復讐したからといって、それを感ずるだけの力さえないからである。むしろ人を殺すということは、彼を我々の攻撃の及ばないところに置いてやることになる。
 (b)例えばビアスが、ある悪いやつに向って「わたしはお前に早晩この罰があたるであろうことを知っているが、それを目のあたり見ることができないのではないかと思うと残念だ」と叫んだように、また、オルコメノス人たちを裏切って悪かったというリュキスコスの後悔の念が、そのために損害をこうむった人々、この後悔を心から喜ぶであろう人々が全く一人もいなくなった頃になってやっと生じたことを、オルコメノス人たちのために気の毒がったのとまったく同じように、せっかく復讐を加えても、それを受ける当人がすでにそれを感じる力を失っていたのでは、何とも気の毒千万なことである。まったく、かたきを討つ方の者は、かたきが思い知った有様を見とどけることに喜びを感じなければならないし、復讐された者の方も、そこにこそ、やるかたなき悔恨の情を感じなければならないのである。
 (a)「いつか思い知らせてくれよう」と我々はいう。だが、敵の頭に一発のピストルをお見舞い申せば、それで彼は思い知るであろうか。とんでもない。注意してみるがよい。彼はたおれながら我々に向ってふくれっ面をする。たんに我々に不満を示すだけではない。思い知るどころか我々を恨んで死ぬのである。(c)むしろ我々は彼に人生最大の恩恵をほどこしているのである。ひと思いに、苦痛なしに死なしてやるのだから。(a)我々の方では追っ手をさけて逃げかくれしているのに、敵の方はいとも安らかに眠っている。殺すということは将来の侮辱を避けるのには役立つが、すでに加えられた侮辱をどうすることもできはしない。(c)それは臆病の行為であって武勇のそれではない。用心の行為であって勇気のそれではない。防禦の行為であって攻撃のそれではない。(a)我々がこれによって復讐の真の目的をうしない、自分の大切な評判を台なしにしていることは明白である。相手を生かしておいてはいつ仕返しを受けるかも知れないと、それがこわくてしたことだとは、誰にもわかることなのである。(c)お前が彼をばらすのは、彼をやっつけるためではなく、お前自身を助けるためなのだ。
 ナルシンガ王国では、そんなずるい方法〔ピストルを使うこと〕は名誉にも何にもなるまい。そこではただ軍人ばかりでなく職人までが、勝負を剣の切っ先によって決する。王は決闘しようとする誰に向っても場所を拒まない。そして、それが身分のある人たちである場合には自らこれに立ち合い、勝った者には黄金の鎖を贈る。けれどもこの鎖を得たいと思う者は、誰でもすでにこれをおびている者と剣を交えてこれを得ることができる。そして仕合の数を重ねるごとに、幾つでもこれをその腕に加えるのだ。
 (a)もし我々が武勇によって常に敵を従え、これを思いのままに支配しようと思うなら、彼が死んだりして我々よりのがれ去ることを大いに悲しむべきであろう。なるほど我々は勝とうと思っているが、立派に勝とうと思うよりは安全に勝とうと思っている。(c)互いの争いのうちに、光栄よりもむしろ結末をもとめている。アシニウス・ポリオも紳士ではあったが、同じ間違いをした一人であった。彼はプランクスに対し誹謗ひぼうの言葉を書きつらね、相手が死ぬのを待ってこれを公表した。それは盲人に向って舌を出し、聾者に向って悪口をいい、知覚のない人間を斬りさいなむようなもので、危険をおかして恨みを晴らすのとは雲泥の相違である。だから誰かが「死人とたたかうのは幽霊ばかりだ」とあてこすったのだ。その書物を非難しようとして著者が死ぬのを待ちかまえている者も、結局自分の無力と偏狭とを告白するようなものではあるまいか。
 ある人がアリストテレスに、君をそしっているものがあると告げた。「いわしておきたまえ。いくらぼくをむちうっても、ぼくにあたりさえしなければいい」とかれはいった。
 (a)我々の祖先は、侮辱に報いるにはまず口頭の打消しをもってし、次に鉄拳による打消しをもってするという風に、順序を追った。彼らはなかなか勇敢で、仇敵の生存を少しも恐れなかった。ところが我々は、かたきが生きている限り恐ろしさに震えている。そうした風は、我々が侮辱を与えた者をも、我々に侮辱を与えた者をも、両方ともに殺そうとつけねらう今日の御立派な慣例の中に、ありありと見られはしないか。
 (b)我々の一対一の果合はたしあいに、第二、第三、第四の人を介添につれてゆく習慣を生ぜしめたのも、やはり一つの卑怯である。昔は決闘であったが、今のは戦闘であり混戦である。始めてこの習慣を作り出した人々は、独りでやるのがこわかったのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)各自己れを信じざりしかば※(終わり二重山括弧、1-1-53)(出典不詳)。
 (b)まったくどんな仲間でも仲間がついているということは、危険に際して自然と我々を気楽にし心強くするのである。昔の人はそこに混乱や不信が行われないために、(c)また勝負の運を見きわめるために、(b)第三者をつれていったのであるが、これらの介添人までが喧嘩に加わる風を生じてからは、介添を頼まれた者は誰でも公平に立会人としてのみ終始することができなくなった。友情がないとか勇気がないとかいわれたくないからである。そのように自分の名誉をまもるのに他人の勇気武力を用いるということは、不正であり卑劣であるばかりでなく、十分に自分を信ずる勇士にとって、自分の運命を介添人のそれとごっちゃにすることは、かえって損であると思う。各人は他人のためにまで危険を冒さなくても、自分のためだけで相当危険な目に出あう。自分の命をまもるために自分自身の勇気に信頼するだけでも、それはなかなか大変なのだ。それほど大切なものを、第三者の手になど委ねられるものではない。まったく、はっきりと反対の約束をしておかないかぎり、それは結局四人の連合勝負である。もし君の介添がたおれるならば、君は当然一人で二人を敵としなければならない。それは詐欺だといえば確かにそうだ。それは、自らは十分に武装して、ただ刀の折れはしだけしかもたない者と戦うようなもの、また自らは健全で、すでに大いに傷ついた者と戦うようなものだから。だがこの特典だって、勝負の運によって得たのだと考えれば、威張ってそれを利用することができる。不釣合や不平等は、ただ合戦が始まる時の状態についてだけ考えられることで、後はすべてを運に任せなければならない。だから二人の介添があえなく打たれて君一人で三人を引受けなければならなくなっても、文句はいえない。わたしだって戦争となれば、味方の誰かと取っ組んでいる一人の敵に、容赦なく一太刀浴びせるであろう。これだって同じ特典である。その結束のいかんによっては、一隊と一隊とが相対するとき(例えば、我がオルレアン公が英王ヘンリーに対して百対百で戦を挑んだときのように、(c)アルゴス人対ラケダイモン人の三百対三百の場合のように、ホラティウス兄弟とクリアティウス兄弟との三対三の場合のように)、(b)両方の側の多数がそれぞれ唯一人のひとのように考えられることもある。だが仲間がいる場合には勝敗の運はいつもまじり合って、何れの側につくかわからないのである。
* Partie li※(アキュートアクセント付きE小文字)e. カルタの用語。四回やればその内三回、三回やれば二回勝たなければ賭金が取れぬという約束の勝負をいう。ひいては決闘の場合にも用いられた。一回で勝負はきまらない。よしんば当の仇敵を倒しても、介添人が出て来る。そうやって何人も倒さなければ、最後の勝利とはならない。だから、味方の介添が先に討たれでもすれば、一人で二人を相手に戦わねばならぬ。
 わたしはこの問題に特に家族の一人として関心が深い。というのは、弟のシユール・ド・マトコロンが、ローマで見も知らぬ一貴族から、喧嘩を売られて困っているといって、助太刀を頼まれたからである。立ちむかってふっと見ると、あにはからんやその相手は、かえって近所で見知り越しの男であった(何だって名誉の掟〔武門の掟〕というやつは、こうもしばしば理性の掟と食いちがうのか、誰か説明してくれぬものだろうか)。だがともかく、弟はその男を片付けてから、二人の主役がまだ無傷で盛んに打ちあっているのを見て、頼まれた男のために助太刀をしたのである。実際この時彼は、ほかにどうすることができたであろうか。彼が助太刀を約束したその男が、運わるく今にも討たれようとしているのを、黙って見ているべきであったろうか。それまでに彼がしたことは、事態にすこしも役立ってはいなかった。勝負はまだきまっていなかったのである。もし君が自ら敵を窮地に追いつめ、これに何か大きな損害を与えたのなら、その時はこれに対して礼をつくすこともできるし、またそうすべきであるが、こと他人の生死に関するとき、君がただの助太刀であって争いが君自らのものでない場合、君はどのようにして礼をつくすことができるか。弟はその頼まれた人をあやうくしてまで、公正と礼儀とにかなうことはできなかったのである。だから彼は、我々の王様のはなはだ迅速厳重な抗議によって、イタリアの牢獄から釈放されたのである。
* 当時フランス貴族がイタリアに剣術修業にゆくことは一種のはやりであったらしく、モンテーニュはそのイタリア旅行の時この弟をつれて行った。だがここにある事件はモンテーニュが帰国して後におこったことらしく、彼の「旅日記」には出ていない。しかし、ブラントーム Brantome の M※(アキュートアクセント付きE小文字)moires touchant les duels の中には、かなり詳細にこの時の話が出ているという。
 何という浅はかな国民であろう。我々は我々の不徳とばかさ加減とを、評判によって世界に流布するだけでは満足せず、わざわざ外国まで出かけて行って、身をもってそれをお目にかける。試みに三人のフランス人を、リビアの沙漠に置いてごらん。ひと月と一緒にいないうちに、噛み合い・引っかき合い・をおっ始める。まるで我々の外遊は、外国人に我々の悲劇のおもしろさをお目にかけるためのお芝居みたいである。いや最もしばしば、えりもえって、我々の不幸を喜び・これを嘲る・国民にお目にかけている!
 我々は剣術を習いにイタリアにゆく。(c)そして、まだ上手にならないうちから真剣を振りまわして一命を失う。(b)だが物を学ぶには順序がある。まず実行に移る前に理論を究めなければなるまい。ところが我々は自分の未熟をさらけ出してあえて恥じない。

若武者の悲しき初陣!
戦いのための残酷なる稽古!
(ウェルギリウス)

 (c)わたしは剣術がその目的とするところになかなか役に立つことをよく知っている(ティトゥス・リウィウスが伝えるところによると、スペインにおいて従兄弟同士の二人の王が決闘をした時、老いたる方が刀法の巧妙と詭計とによって、やすやすと若い方の、がむしゃらな力に勝ったそうだ)。またわたしが経験によって知るところでも、(b)この術を心得ているということは、その人たちの勇気をその生れつきの分量以上に増大した。だがそれは本当の武勇ではない。それは技巧に支持されているのであって、自分以外のものを土台にしているのだから。決闘の名誉はひたすら勇敢であろうとする心の中にあり、技芸を誇ろうとするそれの中にはない。さればこそこの道の名人として聞えたわたしの友人の一人は、自ら決闘をするに当ってはわざと技芸による優越を彼に与えない武器、すなわち、もっぱら運命と沈着とにたよるところの武器を選んで、人が彼の勝利を、彼の武勇によりもその剣術の方に帰することがないように用心したのである。またわたしの幼少の頃は、貴族たちが剣術の上手とうたわれることを、かえって名誉を傷つけるものとして避けたものである。剣術を、ほんとうの生れつきの武勇をひくくする小手先の技芸わざとして、これを学ぶのに人目を避けたものである。

彼らは避けたり払ったり身を交したりするを欲せず。
技巧は彼らの決闘に少しもあずからざりき。
その打ちおろす太刀には虚々実々のたくみなく、
憤怒は彼らよりすべての技芸をのぞきたり。
宙に打ちあう剣の恐ろしき響きを聞け。
そは決して敵の足を払うことなし。
脚は常に地を踏まえ、腕は常に空をきり、
突くも、斬るも、的をはずすことなし。
(タッソー)

 射撃・馬上仕合・隔障仕合・など戦闘を模擬したものが、我々の父たちの稽古であった。それらに比べると、この剣術という稽古はただ私の目的を目ざすにすぎないから、それだけ高貴なところがない。それは我々に法律や正義に反して互いに殺傷することを教え、いろいろな形でいつも有害な結果をかもし出す。むしろ我々の社会を害するのでなく、これを安らかにし・公共の治安と光栄とを目指す・事柄に精進する方が、ずっと我々にふさわしい。
* 中世以来よく行われた馬上仕合、敵味方の間に柵が設けられていて、接戦となる事を妨げるように考案されたもの。
 執政官のプブリウス・ルティリウスは、兵士に技法に則って剣を使うことを教え、技芸と武勇とを結びつけた最初の人であるが、決してそれを私闘のためには使わせなかった。それはローマの民が戦争にのぞむ時のためであった。(c)いわば国民のため市民のための剣術であった。またカエサルがファルサロスの戦の時、部下に対して、特にポンペイウスの兵士たちの顔をねらえと命じた話はいうに及ばず、そのほか沢山の将軍たちも、それぞれその時の事態に応じて、新しい型の武器や、新しい攻撃法や防禦法を、工夫した。(b)だがフィロポイメンは、その自ら長じていた角力すもうを禁じた。つまりこの業の修得に用いられる訓練は、軍人としてしなければならない修業とはちがうからで、彼はただ軍人としての修業にのみ、名誉を重んずる人たちはうちこむべきであると、考えているのである。わたしもまた同感で、この新たな流派において、人がその四肢に仕込んでいるあの早業、青年たちにしきりに稽古させるあの体のひねり方や動かし方は、戦闘の場合には単に無用であるばかりでなく、むしろ邪魔になるし、また有害でもある。
 (c)それにこの頃の人たちは、通例決闘用の特別の剣を用いている。わたしはある貴族が、剣と匕首あいくちとで闘おうといどまれた時、軍装のままで出て行って、それではいけないといわれたのを見たことがある。プラトンの中でラケスが我々のによく似ている剣術の修業に言及して、「わたしは未だかつて剣術の道場から偉大な軍人がただの一人も出たのを見なかった。特にこの術の名人の中からは出たことがない」といったのは、味わうべき言葉である。剣術の名人については、我々の経験も同じことを教えている。とにかく我々は、少なくとも武勇と剣術とは互いに全く関係のない能力であると、いうことができる。だからプラトンはその理想国の少年教育において、アミュコスおよびエペイウスによってもたらされた拳闘術や、アンタイオスおよびケルキュオンによって伝えられた角力術を禁じた。つまりそれらが、若者たちを軍務に一そう適応せしめることを目的とせず、少しもそれに寄与するところがないと思っていたからである。
 (b)だがわたしは、いささか自分の題目からそれてしまった。
 (a)皇帝マウリキウスは夢やいろいろの前兆によって、フォカスという何者とも知れぬ一兵士が自分をつけ狙っていることを告げられたので、その婿フィリッポスに、フォカスとは一体いかなる者かと、その性質や身分や日常の様子などをきいてみた。そしてフィリッポスがいろいろと答えた中に、「彼は卑怯で臆病なやつである」というのを聞くと、即座に、「それでは兇悪残酷なやつに違いない」と結論した。何が暴君たちをあんなにも血にかわかせるのか。それは自分の身の安泰をこい願うからである。彼らの卑怯な心は、自分に危害を加えそうな人々を、いや引っ掻かれるのさえ恐ろしくて女までも、ことごとく根だやしにするよりほかに、安心するすべを知らないからである。

(b)すべてのものを恐るるが故にすべてのものを打つ。
(クラウディアヌス)

* ビザンチンの皇帝 Flavius Mauricius Tiberius.
 (c)最初の残酷はただそれ自体のために行われる。次に、それに対して当然うけなければならない復讐を恐れるから、その恐怖の一つ一つをおし殺すために、あとからあとからと新たな残酷が糸を引いて出てくる。マケドニア王フィリッポスはあんなにしばしばローマの民と面倒をおこした人であるが、自らの命令によって犯された殺戮の恐ろしさにとらわれ、そのいろいろな時に危害を加えたたくさんの家族をどう処置したらよいかさんざん迷った末、とうとう自分が命を奪った者の子供たちをことごとく捕えて毎日毎日その一人ずつを殺し、何とか自分の身の安泰を得ようと決心した。立派な資料はどんな場所にそれを振りまこうと、必ず立派にそのところを得る。それにわたしは論説の重味と有用性の方を、その順序や連絡などよりも重んずるたちだから、ここにいささか脇道にそれるようだが、一つの美しい物語をさしはさむことを恐れてはなるまい。フィリッポスのために処刑された大勢の中に、テッサリア人の王であるヘロディコスという者があった。フィリッポスはこの人を殺してから続いてその二人の婿を殺したが、二人はそれぞれきわめていとけない子をのこした。テオクセナとアルコがその二人の寡婦であった。テオクセナの方はしきりに求婚されたけれども再婚の決心がつきかねた。アルコの方はアエネア人の頭目ポリスと結婚し数人の子を設けたが、やがてなお幼いそれらの子供を残して先立った。テオクセナは甥たちに対する母らしい愛情を禁じえず、ただ彼らを愛育したさにポリスと結婚した。そこに王の命令がとどいた。このけなげな母は、王の残忍とこの美しくあどけない子供たちに対する役人どもの乱暴とにかっとして、「この子供たちを渡すくらいならばわが手にかけて殺そう」といい切った。ポリスは妻の言葉に恐れをなし、ひそかに幼な子たちをアテナイにつれてゆき、誰か忠義な家来どもにかくまわせようと約束した。夫婦はアエネアにおいて年毎に行われるアエネアスの祭礼の日を選び、まずアエネアに行った。昼間は祭礼と公の饗宴とに列し、夜になってからかねて用意の船に乗って海路アテナイに向った。ところが折悪しくむかい風で、あくる日になってもなお乗り出した岸から見えるところにいたものだから、たちまち港の見張りどもに追いかけられた。あやうく追いつかれようという時、ポリスが夢中で舟子どもをせき立てている間に、テオクセナは可愛さ恨めしさに気も狂い、最初の企てにたちもどり、用意の兇器と毒薬とをとり出し、それらを幼な子たちに示しながらこういった。「子供らよ、よくお聞き。今や死がお前たちを守り救うただ一つの道となった。これによって神々はその聖なる裁きをあそばされるであろう。この白刃とこの毒盃とは、お前たちのために神の国を開くであろう。しっかりおし。さてお前、大きい方のわが子よ、しっかりとこの剣をにぎって立派に死ぬのだよ!」と。一方にはこの厳しい母の勧めがあり、一方には敵がそののどもとに迫っているので、子供たちは猛然とそれぞれ自分の手近にある物の方に走りよった。そして半死の状態で海に投ぜられた。テオクセナはこんなに立派にすべての子供たちの安全を守り得たのを誇り、ただちにその夫に抱きついていった。「わが夫よ、さあ子供たちの跡を追いましょう。彼らと同じ墓場に眠りましょう」。そういって抱き合ったまま身を投げた。そこで舟は、その主人をのせずに空しく岸に引きもどされた。(a)暴君たちは、殺すことと、怒りを感じさせることと、その二つを共に行うために、できるだけの知恵をしぼって死を長びかせる方法を考え出した。彼らはその敵が死ぬことを欲するけれども、ゆっくり自分たちの復讐を味わわずに、さっさと死んでゆかれたのではつまらない。そこで大変苦労をする。まったく責苦は激しければ短く終るし、長ければ彼らが欲する程に苦しくないのである。そこで彼らはいろいろな責め道具を工夫して使用する。我々は古代にもその沢山の実例を見る。我々も、気がつかないでいるが、やはりいくらかこの野蛮の痕跡をとどめているのではあるまいか。
 ただの死刑以上のものは、すべてまごうかたなき残酷であると思う。それに我々の裁判所の期待はあてにならない。死ぬことも、首をはねられたり締められたりすることも、少しも恐れずに平気で悪いことをやってのける程の人間が、ちょろちょろ火や・やっとこや・車責め・などを想像することなんかで、果して犯行を思いとどまるだろうか。かえって彼らを自暴自棄に追いやりはしないだろうか。まったく、あるいはしおき車の上に手足を折られ、あるいは昔風に十字架に釘づけにされて、二十四時間も死を待つ者の霊魂は一体どんな状態にあることだろうか。ヨセフスが語るところ**によると、ローマ人がユダヤにおいて戦争をした時、数人のユダヤ人が三日前にはりつけにされた場所を通りかかって、その中に三人の友だちのいるのを認め、彼らをおろす許しを得たという。二人は死んでしまったが、一人は後々までも生きながらえたそうである。
* ※(始め二重山括弧、1-1-52)la mort simple.※(終わり二重山括弧、1-1-53)前出第二巻第十一章にほぼ同一の語句がある〔五一九頁註参照〕。「ただの死」「単純なる死」とは普通の死刑のことで、特別の苦しみを加えて殺す死刑に対してこういったのである。
** 第二巻第二章四一九頁註*参照、ヨセフスの『自叙伝』の終りにある話。
 (c)シャルコンディル〔ギリシアの学者カルコンディラス〕は信用のおける人であるが、当時自分の身のまわりに起った事柄について一篇の記録を残し、その中でマホメットがしばしば行った刑罰を最も残酷な刑罰として物語っている。マホメットはしばしば新月刀の一撃をもって、罪人をその腰とあばらとの間、すなわち、ちょうど横隔膜のところで真二つにさせたので、斬られた者はいわば一時に二つの死を死ぬような目にあった。そしてシャルコンディルの言葉を借りていえば、「人は生命の充満した上下の両半身がそれぞれ苦しがって、その後長いことのたうちまわるのを見た」そうだ。わたしはこのような身うごきの中に、ひどい苦しみの感覚があろうとは思わない。見る目に最もいまわしい刑罰が、必ずしも受けて最も苦しい刑罰であるとは限らない。
 わたしはむしろ、他の歴史家たちが物語るところの・やはりマホメットがエペイロスの諸侯たちに加えたという・刑罰の方を、ずっとむごたらしいと思う。彼は意地わるくも、少しずつ小刻こきざみに、彼らの皮膚をむくよう命じたのである。彼らの生命は、こんなわけで、この苦闘の中に十五日も続いたということだ。
 なおそのほかにこんなのが二つある。クロイソスはその弟パンタレオンのお気に入りの一貴族を捕えさせ、あるラシャ職人の店につれてゆき、毛きの鉄櫛をもって梳きにすかせ掻きにかかせて、とうとう死に致らせた。あのポーランドの農民の頭目ジョルジュ・セシェルは、十字軍の名目の下にいろいろな悪事を働いた男だが、トランスシルバニアの太守に負けて生け捕られ、三日の間裸のまま拷問台の上にくくりつけられ、みんなが思い思いの責苦を加えるのに委せられた。その間じゅうほかの捕虜たちは、飲むものも食うものも与えられなかった。とうとう彼が生きて見ている前で、人は彼の愛する弟ルカに彼の血を飲ませた。可哀そうにジョルジュは、自分と弟と二人の悪事に対する皆の恨みを自分の身ひとつに引受けて、弟の命だけは助けてくれと嘆願したのであったが……。それだけではない。人は彼の最も気に入りの大将二十人に、彼の肉を噛み裂いてのみこませた。そのなきがらとその臓腑は、いよいよ彼が息をひきとるとなべに入れて煮させ、彼の部下の残った者どもに食べさせた。
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第二十八章 何事にもその時あり



 (a)司直官カトーと・自分で自分の命を絶った小カトーと・を比較する人々は、(c)相似た二つの立派な性質を比較する。前者はその立派な性質をいろいろな形で発揮し、軍事上の手柄と国家統治の功のそれぞれにおいてすぐれていた。けれども小カトーの徳は、その盛んなことにおいて、誰の徳と比較することも冒涜と考えられるほどであったばかりでなく、司直官のそれよりもずっと純粋であった。まったく、司直官の徳の中に嫉妬と野心とがなかったと誰がいえよう。彼は仁愛その他の特質において、彼よりも・また当代の誰よりも・すぐれていたスキピオの名誉を、あえて傷つけようとしたではないか。(a)司直官について特に人がほめそやすこと、すなわち、きわめて年をとってから、まるで長い間の渇きをいやそうとするもののように熱心にギリシア語を学び出したということも、彼のために大して名誉だとは思われない。まさにそれは、俗にいう「子供に帰った」だけの話である。何事にもその時がある**。善いことであろうと何であろうと。いやわたしがしょっちゅう言う「天にましますわれらの父よ」にしたって、時にかなわないこともありうるのである。(c)たとえばT・クインティウス・フラミニウスは、大将の身でありながら、いよいよ戦争が始まろうとする時に独り離れて神に祈っているところを人に見られて、その戦に勝ったにもかかわらず、人に悪く言われた。

(b)賢者は徳においてさえ限度をまもる。
(ユウェナリス)

* ウチカのカトー。その曽祖父である司直官(詳しく言えば国勢調査兼風紀取締りの職)カトーを「大カトー」というのに対して「小カトー」という。ファルサリアの戦の後、ウチカを除くアフリカ全土がカエサルのものになった時、敗者となるのをいさぎよしとせず、ウチカで自殺した。
** 「伝道の書」第三章に「天が下の万の事には期あり万の業には時あり」という句がある。モンテーニュは、福音書の弟子であるよりも「伝道の書」の弟子であると言われるが、この句この標題も、たしかに「伝道の書」の回想と考えられる。図書室に記された銘文の中にも「伝道の書」から出たものがいくつもある。白水社版『モンテーニュ全集』第三巻付録参照。
 (a)エウデモニダスはクセノクラテスがきわめて年をとってから学校の勉強にいそしんでいるのを見て、「まだこの人は学んでいるのか。一体いつになったらこの人は知るのであろうか」といった。
 (b)またフィロポイメンは、王プトレマイオスが毎日武術の修業にその身を鍛練したといって彼をほめそやした者に答えて、「彼のような年をした王が今さらそのような修業にいそしむのはほめたことではない。彼はとうにそれを実際に用いているべきであった」といった。
 (a)「若い者は準備せよ。老いたる者はその益をうけよ」と賢者たちはいっている。そして彼らが我々の天性の中に認める最大の不徳は、我々の欲望が絶えず若がえることである。我々はしょっちゅう生活をやり直しているが、我々の研究や欲望は、ときに老年の色を帯びなければなるまい。片足を墓穴に突っこんでいながら、我々の欲望と追求とは止めどなく生れるばかりである。

(b)汝らは死の前日に、
石を刻み家を建てしむ。
しかも己れの墓石のことを思うことなし。
(ホラティウス)

 (c)わたしの企てはもっとも長いものすら、今はべて一年を越えない。わたしはただ生き終えることばかり思っている。あらゆる新規の希望や計画はやめ、わが去る場所ごとに永の別れを告げる。そして日ごとに自分の持っているものを手離す。
※(始め二重山括弧、1-1-52)久しき以前よりわれは失いもせず儲けもせず。われにはなお残れる旅路のために、余りある糧のこれり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。

われは生きたり。運命がわれに与えし行程を今や歩みつくせり。
(ウェルギリウス)

 要するに、老いがわたしのうちに、人生の煩いとなるもろもろの欲望や心配をだんだんに弱め鈍らせていることこそ、わたしが老年の中に見出すただ一つの慰めであって、浮世をわたる心配も、財産や地位や学問や健康や自らに関する心配も、今ではもう何でもなくなった(a)あのカトーは永遠にもくすることを学ばねばならないときに、やっと語ることを学び始めた。
* モンテーニュがこれらの句をかいたのは一五八八―九一年の間であるから、その五十六歳から五十九歳位の間のことである。今から考えると年齢のわりにひどく老人ぶっている感じがする。こんにちは、六十やそこらで、こんなことを言っておられる人があれば、それは達人である以上に好運な人であろう。
 (c)勉強は幾つになってもつづけるがよいが、お稽古ごとは別である。老人のABCとは、また何とばかげたことであろう!

人それぞれにことなれる趣味あれども、
すべての事がすべての年齢に似合うとにはあらず。
(プセウド・ガルス)

 (a)勉強をしなければならないとすれば、人の人たるにふさわしい勉強にいそしもう。そうすればわれわれも、「そのように老い朽ちて、今さら何のための御勉強か」ときかれて、「もう少しましな人間になり、もう少し心安らかにまかりたいから」と答えた人のように、答えることができるであろう。こういう勉強こそ、自分の終りが近いことをさとった小カトーがした勉強であって、ちょうどその頃彼はプラトンの「霊魂の不滅」に関する論を読んでいたのであった。だがそれは、とかく人が信じたがるように、彼がふだんから最後の門出のために十分な準備をしていなかったからでは決してない。悟りも、覚悟も、学問も、彼はプラトンがその書物の中にもっている以上にもっていた。彼の学識と勇気とは、この点に関するかぎり哲学者以上だった。だから彼がああしてあの書物に没頭したのは、自分の死に備えるためではなかった。むしろ、あのような重大な決心をしながらその眠りさえもとぎらせなかったあの人と同じように、彼もまた選択もせず変更もせず、ただいつもの勉強を、その生涯を通ずる他の習慣とともに継続しただけの話なのだ。
 (c)彼は将軍職をことわられたその晩を遊戯に明かした。死ななければならないその晩を読書に過ごした。生命の喪失も職権の喪失も、彼にとっては一つだったのである**
* 司直官カトーのこと。この話は第一巻第四十四章「睡眠について」に出てくる。
** 小カトーの死については第一巻第三十七章、第二巻第十一章にも記述がある。
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第二十九章 徳について



 モンテーニュは徳についてすでにしばしばふれているが、ここでは大体次のように考えている。――徳とは理性と意志の力が情欲や悪癖と戦って勝つことをいうので、この勝利が毎日とはいえないまでも常習的にならなければ本当の徳とはいえない。だから、たまに突発的にめざましい行為をしても、それは徳ではない。また生れつき善良で無意識によい行いをするというのも徳ではなく、それは特にその人の道徳的価値をたかめるものではない。――こう考えるのでモンテーニュは、武人の勇気の外に一般市民の勇気 courage civil のあることを指摘し、この方を一そう尊重する。それはすでに第二巻第七章においても読んだとおりである。
 なおモンテーニュの徳に対する根本的な考え方は、第二巻第十一章の始めによまれるから参照されたい。その他は、索引によってモンテーニュの徳に対するいろいろな考え方、その推移などを理解されたい。

 (a)わたしは経験によって、霊魂の突発的な興奮とその常に変らぬ落ちついた習慣との間には、大きな差別があることを知っている。いや我々にはできないことは一つもないこと、ある人〔セネカ〕が言ったように、神様を凌駕することだってできなくはないことも、よくわかる。なぜなら、自分の力で物に動じなくなることの方が、本来の性質によってそうであるよりはえらいことなのだから。それどころか人間の弱さに神の堅固さをあわせることだって、できるのである。だがしかし、それは突発的にである。なるほどあの昔の英雄たちの生涯の中には、時々我々の生れながらの力をはるかに超えた奇跡的な奇功はなれわざがある。だが本当に、それは奇功なのである。そのように飛びぬけた諸性質で霊魂を染め上げ、それらを日常のいわば生れつきのもののようにすることができようとは、とうてい思われないからだ。我々だって、できそこないの人間にすぎないとはいえ、たまには我々の霊魂を他人の議論や模範によって目ざまし、それをその平生よりもはるかに高いところまで飛びあがらせることはある。けれどもそれは、一種の熱情に吹き上げられたのだ。熱情が我々の霊魂をいわば我々の外にさらって行ったのだ。まったくこの旋風が一たび吹き過ぎてしまうと、我々の霊魂は知らないうちに、独りでにしぼんでしまっている。その最低位までは落ちなくても、少なくとも今しがたのようではなくなっているのである。そうなるともう我々は、すべての機会に、鳥を逃がしてもコップを割っても、ほとんどただの人と同様に騒ぎたてるのである。
 (c)秩序と節制と我慢、この三つを除けばどんなことだって、欠点だらけの人間にもできないことはないと思う。
 (a)だから賢人たちのいうとおり、人一人を適正に判断するには、主として彼のあたりまえな行為を検査し、彼を毎日の生活の中に見てとらなければならないのである。
 ピュロンは無知をもとにしてあのように面白い学説をたてた人であるが、真に哲学者らしいほかの人たちと同様に、その生活をその学説にふさわしくしようと努めた。そして日頃、人間の判断ははなはだ無力で、決心や選択などすることができないほどだと説いていたし、またすべての物事を無差別のものと見て、自分の決心を永久に宙ぶらりんにしておくことを欲していたから、彼はいつもそのような顔つき風体ふうていをしていたと言い伝えられている。何か語り始めると、相手がどこかへ行ってしまっても、話が終るまでは言いやめなかった。歩き出したら最後、どんな邪魔物が現われても、その歩みをとめなかった。ただ友人たちのおかげで崖から落ちたり・荷車にぶつかったり・いろいろな事故にあわないですんだのであった。まったく何事にせよ恐れたり避けたりしたのでは、その持説にそむくことになったであろう。まったく彼の学説は、我々の感覚にさえ選択力も確実性もいっさい認めないのだから。ある時は切開されたり焼灼されたりすることさえ、我慢した。しかも平然として目ばたき一つしなかったそうである。こういう思想に霊魂を一致させようというのは、容易なことではない。ましてそこに行為までも伴わせるとなれば、ますます容易なことではないが、これだって必ずしも不可能ではない。だがあれ程の忍耐とがんばりをもって両方を一致させたすえ、それを日常生活とするにいたったということは、実に、それが普通の習慣とはあんなにもかけ離れた行いにおいてであったことを思うと、ほとんど人間わざとは思われない。だからこそ彼も、ある時家にいて妹と激しい喧嘩をしているところを見つけられ、「そんなことをしては君の無関心説に反するじゃないか」と咎められた時には、さすがに、「何だって? こんな娘っ子までもわたしの規則の証拠にしなければならんのか?」といったのである。また犬を防いでいるところを見られた時には、「完全に人間を脱却することは大へんむつかしい。物事はまず第一に行為によって打破することを務めとしなければならないが、どうしてもだめなら推理推論によってそれに務めればよいのだ」といったのである。
 もうかれこれ七、八年も前のことだが、ここから二里ばかり離れた所にすむあるお百姓が(今でもその男は生きているが)、久しいこと女房の焼きもちに弱りぬいていたが、ある日野良から帰ってくると、いつものとおり金切り声のお出迎えを受けたので、かっとして、いきなりまだ手に持っていたかまをふり上げて、お前を始終やきもきさせるところはと、スッパリと一となぎにして、女房の鼻先にたたきつけたことがある。またこんな話もある。わが国のある若い貴族が、それは好色で旺盛な男だったが、苦心惨憺の末せっかくある美人を口説き落したのに、さていよいよという段になると、こんどは自分の方がぐにゃりとなっちまったので、

今こそ手並を見すべきもの、
臆して男々しく立たざりければ、
(ティブルス)

やけになって家に帰るや、いきなりそれをぶち切って、鮮血のしたたる犠牲をそのまま送りとどけ、自分の非礼のつぐないとした。もしもそれがキュベレに仕える神官たちにおけるように、理性と信心によってなされたのだったら、いったいどのような言葉でそういう崇高な行いをたたえたらいいのだろうか。
* Cyb※(グレーブアクセント付きE小文字)le. ギリシアの女神 Rhea のこと。この神に愛されて童貞を誓った僧官は、誓いを破った場合、その器官を自ら斬って女神に捧げることになっている(神話)。
 つい先頃の話、わたしの家から五里ばかり離れた・ドルドーニュ川の河上の・ベルジュラックで、ある人妻が、前の晩に、生れつき気むずかしいその夫からひどく責めたたかれたので、おのれの命と引きかえに夫の乱暴から逃れようと決心した。そして朝おきると、いつものとおり近所のおかみさんたちと挨拶をかわし、二こと三こと仕事の始末などを頼んでから妹の手を引いて橋の上までつれて行った。そこで、少しもいつもと変った様子を見せず、笑談のようにして暇を告げたかと思うといきなり身を躍らせて河にとびこみ、死んでしまった。この話で特に注意すべきことは、この決心は彼女の頭の中でまる一晩かかって熟したのだということである。
 インドの妻女たちとなると全然ちがう。まったく、夫は大勢の妻を持ち、その寵愛を最も多くうけた妻が夫のあとを追うということが彼らの習わしなので、彼女たちはそれぞれその一生を通じて、われこそはこの特権を得ようと競うのである。彼女たちが夫のために様々な心づくしをささげるのは、ただただその代価として夫の死の道づれにえらばれることを乞い願えばこそである。

(b)炬火が、遂に死者の床に投げらるるや、
髪をふり乱したる妻たちこれをめぐりて、
いずれも夫の死に殉ぜんと競いあう。
この争いより勝ち出できたれる女は、
身をひるがえして燃えさかる火の中にとびこみ、
燃ゆる唇をつけてその夫のしかばねをかき抱く。
(プロペルティウス)

 (c)ある人は、これら東洋の諸国においては、現在でもなおこの習慣が重んぜられており、その妻女たちばかりでなく寵愛をうけた奴隷の女までが、一緒に埋葬されるのを見たと書いている。それは次のような順序でなされるのだそうな。夫が死ぬと、残った妻は、もし欲するならば(もっともそういう者はほとんどないが)、あと始末をするために二、三カ月の猶予を乞うことができる。その日がくるとお嫁入りのときのようにお化粧をし、彼女の言葉によればその夫と寝にゆく時のように、いかにも喜ばしそうな様子で、左手に鏡・右手に矢・をもって馬に乗る。こうして、その友だちや親族に付添われ・喜び祝う群衆に送られながら・しずしずと練り歩いた末、やがて見物人の待っている公の場所に着く。それは大きな広場で、真中にはたきぎのいっぱいはいった墓穴が掘ってあり、これに隣りあって四、五段ばかり高い壇が設けられている。彼女はその上に導かれると、立派な御馳走を供せられる。それがすむと、こんどは踊ったり歌ったりし始める。そして、時分はよしと思われる頃、みずから点火を命ずる。それから段を降り、夫の一番近い肉親の手を取って一緒に近くの河にゆき、自らは素裸になり、宝石や衣服などを友人たちにわかち与え、罪を清めるためであろう、水につかる。それから出ると、長さ十四ひろばかりの黄色の布に身を包み、再び夫の近親者に手を引かれて壇の上に帰り、人々に向って挨拶をし、もし子供があればその養育のことなどをたのむ。普通は墓穴と壇との間に幕が引いてあって、かっかと燃える火を彼女たちの目からさえぎるのであるが、中にはわざとそれを断わって一段とその勇気の程を示す女もある。さて彼女の言葉が終ると、一人の女が進み出て、油のいっぱい入ったつぼを差し出す。彼女はそれをその頭から体ぜんたいに塗る。終ってその残りを火中に投ずるとともに、いきなり身をおどらせて同じ火の中に飛び込む。さっそく人々は彼女の死が手間どらぬように、沢山の薪をその上に投げかける。そこで今までの盛んな喜びはそのまま哀悼にかわる。もしそれほどに身分の高くない人であると、夫の死骸はきめられた場所にかついでゆかれ、そこに坐らされる。やもめはその前にひざまずいてしっかりと彼を抱く。その間にひとは彼らのまわりに壁を築き、その高さが女の肩のところまでとどくと、身内の者の誰かがその後ろにまわって頭をおさえ首をしめる。息が絶えると壁は更に高く盛り上げられ塞がれ、そこに二人は埋葬される。
 (a)この同じ国では、おなじようなことが彼らの裸行者はだかぎょうじゃの間にも見られる。まったく他人の拘束によるのでも、また突発的な気分の興奮によるのでもなく、むしろその信仰箇条の明記するところによって、彼らは或る年齢に近づくにしたがい、また何かの病気のきざしが見え始めると、自ら自分のために火あぶり台をしつらえさせ、その上にきれいに飾った床を作らせる。そして、愉快に友だちや知合いと酒盛りをしてから、堅い決意をもってその床の上に横たわる。そういう慣例があったのである。だからからだに火が燃えついても、手や足を動かしもしない。そのようにして彼らの一人カラノスは、アレクサンドロス大王の大軍を前にして死んだのである。
 (b)いや、このように自らその霊魂を火によって清め、その中にあるすべての死すべきもの地上的なものを焼却してから死ななかった者は、彼らの間では聖者とも幸福な者とも認められなかったのである。
 (a)このような全生涯を通じて変らない日頃の心掛こそ、奇跡というべきである。
 我々のいろいろな議論の中には「運命」に関する議論もまじっている。そして未来の事柄を、いや我々の意志をさえも、確定した避けることのできない必然に結びつけるために、人は今もって次のような昔とかわらない論証に拠っている。「神様はすべての事柄を、これこれこのようになると予見していられるのだから、それらはどうしても、そのようにならなければならないのだ」と。これに対して我々の先生たちはこう答える。「我々がしているように、また神様もしておられるように(まったくすべては神様にとって現在なので、神様は予見しておられるのではなく見ておられるのだ)、何かことが起るのを見ているということは、決してそのことをかく成るべしと強いているのではない。むしろ我々は物事が起るから見ているので、我々が見ているから物事が起るのではない。出来事が知識となるので、知識が出来事となるのではない。我々が起るなと見ていることも起る。けれども起るまいと見ていることも起ることがある。そして神様は、その予知しておられるもろもろの出来事の原因を記録しておられる中に、人が偶然の原因と呼んでいるものをも、また神様が我々の自由におゆだねになった我々の自由意志に基づく原因をも、記録しておられる。そして、我々が過ちを犯そうと欲するであろう故に過ちを犯すであろうことまでも、知っておられる」と。
 さてわたしは、かなりたくさんの人々が、この運命の必然ということでもって仲間のものをはげましているのを見た。まったく、我々の最期が始めから或る一時期に決定しているのだとすれば、敵の銃撃も我々の大胆も、いや我々の遁走も卑怯も、その時期を早めることもおくらすこともできないのである。いかにもこれは立派なお説であるが、果して誰が一体それを実践しているであろうか。いや強烈な信念は必ずそれにふさわしい行為を生み出すものだとすれば、我々がしじゅう口にしているあの信仰は、我々の世紀に至ってよくよく薄っぺらなものになり果てたものと考えざるをえない。そうでなければ、われわれの信仰が実践を蔑視しているために、かくも実行が信仰に伴わないのであろう。
* 新教徒は心に信仰さえあれば、儀式も実践もどうでもよいと考えている。それに対するモンテーニュの諷刺であって、信仰は口先だけの理屈ではなく、徳行の実践こそ大切だと考えるのである。
 それはともかく、同じ〔運命の確定という〕問題に関してシール・ド・ジョアンヴィルは(この人もまた証人として信頼できる人であるが)、あの聖王ルイが聖地においてサラセン人と戦いを交えた時にその間に混っていたベドゥイン人のことを、次のように物語っている。「彼らはその宗教において、めいめいの生きるべき日数が、永遠の昔から避けることのできない予定によって、既定され計算されていると確信しているので、戦争に出るにもトルコ刀をただ一ふり帯びるだけで、ほかには何も着ず、ただその身に白布をまとうだけであった。そして、仲間の誰かに対して怒る時には、その最もひどい罵りの言葉として、『死を恐れてよろいを着るもののようにのろわれよ!』というのを常とする」と。これこそ我々のそれとはまるでちがった信念信仰のしるしである。
 我々の父たちの時代にあの二人のフィレンツェの修道者が示した信仰のしるしも、また同じ部類に入る。彼らは何か神学上の論争をしたあげく、二人ともそれぞれ自説の真実を証明するために、いよいよ広場に出て公衆の面前で火の中を渡ろうということになったが、その準備がすっかりととのい、ことがまさに実行せられようとするその時になって、それはある思いもかけぬ出来事のために中止されたのである。
 (c)あるトルコの若い貴族は、まさに戦いを始めようとするアムラトの軍とフニャディの軍とが向いあっている前で、身をもって目ざましい手柄をたてたが、アムラトから、「お前はまだ若くて経験もないのに(まったくそれは彼の初陣であった)、どうしてあのようにけなげな勇気を発揮することができたか」ときかれると、自分は兎をもって武勇至上の師としていると答えた。「ある日のこと猟に出て」と彼は語った。「わたくしはその穴に眠っている一匹の兎を見ました。二頭の優秀な猟犬を連れてはおりましたけれど、仕損じまいためにはやはり弓を用いる方がよいと思いました。まったく、兎はいかにもよいまとに見えたのでございます。そこでまず矢を射かけました。えびらの中にあった矢を四十までも射かけましたがそれは当るどころか、兎を眼覚しさえもしませんでした。そこで結局猟犬をけしかけたのですが、やはりかいがございませんでした。そこでわたくしは、『兎めはその運命によって守られているのだ。矢も剣も我々の運命の許しがなくてはあたらないのだ。その運命はこれを早めることもおくらすことも我々にはできないのだ』と悟りました」。この物語は同時に、我々の理性がどんな想像にも動かされやすいということを我々に悟らせるのにも役立つであろう。
 年齢も名声も位も学問も高いある人物が、ある不思議な示唆をうけてその信仰上重大な回心をとげられたことをわたしに自慢されたが、それはいかにも奇々怪々な話であるばかりでなく、その結論もまたはなはだあやしげなので、わたしはそれをむしろ反対の意味にとった。彼はそれを奇跡だというのだが、それは別の意味で奇跡だとわたしは思う。
* モンテーニュはこの回心した人物のいう奇跡を、別の意味での奇跡だという。つまりモンテーニュのような人間から考えると、前のパラグラフの終りに言っているように、「我々の理性がどんな想像にも動かされやすい」ということが不思議なので、そういうつまらないことが堂々たる人物の回心の動機となったことこそ奇跡だと考えるのである。
 トルコ人の歴史を書いている人たちのいうところによれば、自分たちの命の長さに対して曲げることのできない宿命的な予定があるという確信は、ひろくトルコ人の間にゆきわたっていて、明らかにそのために彼らは危険の前で落ちついていられるのだという。わたしはある偉大な王公が同じ確信によって高貴な利益を得ておられるのを知っているが、願わくは運命、ながく彼に力を貸さんことを!
* アンリ・ド・ナヴァール、後のアンリ四世が、自己の「傷つかざること」「不死身であること」※(始め二重山括弧、1-1-52)invuln※(アキュートアクセント付きE小文字)rable※(終わり二重山括弧、1-1-53)を信じて危険の前に勇敢であったことを指す。モンテーニュはこの運命論の当否は別にしてとにかくこの人に大きな期待をかけていた。
 (b)我々の記憶する限りでは、あのオランジュ公を殺そうとはかった二人の者の豪胆な行為以上に驚嘆すべきものはない。どうして人は第二の人を奮い立たせ、その友がさきに全力を傾注したにもかかわらず成しとげられなかった難事を遂行させたのか。どうしてこの人に、第一の人の失敗の後をつぎ、しかも同じ武器に頼って、ごく最近に用心の必要を知らされたばかりの・しかも自ら腕力人に優れているのみならず大勢の家来にとりまかれてますます強力な・そして全く彼に忠誠を誓った都市の真唯中のしかも警護の武士に固められた一室の中に頑張っている・あの君侯に、ねらい寄ることをえさせたのか、まことに不思議である。実に彼は、はなはだ確かな腕前と強烈な熱情に動かされた勇気とをもって、ことに当ったのであった。匕首あいくちはピストルよりも敵をたおすのに確実であるが、それは一そうの奮闘と腕力とを要するものだから、それだけにまた、その打撃はそれたり狂ったりしがちである。確かにこの人は生きては帰らぬ決心でやったのに違いない。まったく、人は彼に万一の希望をもたせたかも知れないが、そんな希望は冷静な悟性の中に宿るわけがない。彼の成功の経過を見ると、彼が勇気とともに悟性をも欠かない人物であったことがわかる。ああいう強烈な確信の動機はいろいろでありうる。まったく我々の思想は、その思想それ自体をも、また我々をも、思いのままにするのである。
* オランダ共和国の創立者 Guillaume d’Orange は、一五八二年 Jean de Jaureguy に狙撃されたが助かった。後に一五八四年、Balthazard G※(アキュートアクセント付きE小文字)rard に狙撃され、ついに落命した。
 オルレアンの近くで行われた暗殺は、前の話とは少しも似たところがなかった。そこには力よりも運の方が多分にあった。打撃は運命がそうさせなかったら、決して致命的ではなかったろう。馬上で、しかも遠くから、自分と同じように馬の動きに従って動いている相手をねらいうつなどという企ては、うち損じてもよいが逃げ損じては大変という人間がやることである。結果はそれを実証した。事実、その男は大それたことを敢えてしたという考えのためにすっかり逆上してしまい、どこへ逃げたらよいのか、何と返答をしたらよいのか、全く分別もつかなかったのである。何の必要があって彼はあんなことをしたのか。河を渡って味方の許に走りさえすればよかったのに。これはわたしが、ずっと小さな危険に際してではあるが自ら取ったことのある方法で、いかに渡りが幅広くとも、馬さえ容易に飛び込んでくれれば、そして川下に上りよい岸をあらかじめ見ておきさえすれば、ほとんど仕損ずることはないと思う。あのオランジュ公を撃った方の人は、恐ろしい宣告を読みきかされても平気でいったのである。「覚悟はできている。みんな、わしの我慢にきもをつぶすな」と。
* 一五六三年、ギュイズ公 Fran※(セディラ付きC小文字)ois de Guise がポルトロ・ド・メレ Poltrot de M※(アキュートアクセント付きE小文字)r※(アキュートアクセント付きE小文字) に殺害されたこと。ポルトロ・ド・メレは、オルレアンの城を攻囲中のギュイズ公が宿営に帰ろうとする道に待ち伏せして公を銃撃したのである。
 (c)フェニキアにぞくするアササン人は、マホメット教徒の間できわめて信心堅く風俗純良であると認められている。彼らは極楽にゆく最も確実な方法は、異教を信ずる誰かを殺すことであると信じている。だからそのように有益なことを決行するためには自らのすべての危険を軽んじ、一人または二人で、確実な死と引きかえに、大勢の兵にまもられている敵をアサシネしよう〔殺そう〕と挺身したのである(これがアササン〔アサシネする者=殺人者〕の名の起りである)。そのようにして我がレーモン・ド・トリポリ伯も、その城内において殺されたのである。
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第三十章 奇形児について



 これは小さな一章ではあるが、モンテーニュがいかに時流を抜いていたかを証明するものとして、軽視することのできないものの一つである。既に述べたとおり、当時は一般に“le※(セディラ付きC小文字)ons”と呼ばれる奇事異聞集のようなものが流行した。その代表的なのはブエステュオ Bouaystuau の Histoires Prodigieuses で、それはほぼ我が『今昔物語』の中の宿報霊鬼に関する怪奇談のようなものと思えばよいであろう。そしてそれらの物語の編者は、いずれも皆それらの怪奇を本当の奇跡であると信じ、何かの前兆ないし神の報復であると考えていた。アンブロワズ・パレ Ambroise Par※(アキュートアクセント付きE小文字) と言えば当時の外科医で学者の誉れの高かった人、できるだけ物事を合理的に説明しようと心がけた人であるが、それでもなお※(始め二重山括弧、1-1-52)怪物 monstre は自然の流れの外に生じたもので、最もしばしば何かの不幸の前兆である※(終わり二重山括弧、1-1-53)と考え、特に※(始め二重山括弧、1-1-52)神の怒りの実例※(終わり二重山括弧、1-1-53)“Exemples de l’ire de Dieu”という一章を設けて、その種の実例を集めている(Des Monstres, 1573)。そうした一般的傾向のうちにありながら、モンテーニュはいつも奇跡を否定している。第一巻第二十一章でも、それはむしろ我々自身の想像力の結果で、見えもしないものを見てさわいでいるのだと考え、凡俗の者がとかくおち入りやすい迷いにすぎないと言っている。そして、われわれがそれを超自然だとか奇跡だとか考えるのは、ただ我々の学問では今のところ説明がつかないからであって、決してそれ自体が自然の働きから外れているからではないという。これは今日の奇形学 T※(アキュートアクセント付きE小文字)ratologie の説明と立派に一致している。アナトール・フランスが『エピキュールの園』の中で奇跡について同様の事柄を一そう華麗に述べていても、我々はさほどに驚かなくてもよいが、一五八〇年にモンテーニュがこのような意見を述べているということには驚かなければならない。

 (a)次のお話はただお話だけにしておく。まったくわたしは、これに関する議論はお医者さんにお委せするのである。わたしはついおとといのこと、その父であり叔父でありまた伯母であると自称する二人の男と一人の乳母とが、その奇形を見世物にして幾らかの金を得ようと連れ歩いている一人の子供を見た。その子は、ほかの点では普通の形を備えていて、おなじ年頃の幼な子たちとほぼ同じように、立っちもすれば、あんよもし、またおしゃべりもした。ただ乳母の乳を吸うだけで、外に何も欲しがらなかった。人はわたしの眼の前で何やら口の中に入れて見せたが、ちょっと噛んだばかりで、飲みこまずに吐き出してしまった。その泣き声には確かに何か特異なものがあるように思われた。ちょうど十四カ月で、乳の下のところでもう一人の頭のない子供にくっついていた。その子の方は肛門がふさがっていたが、その他の点では完全であった。まったくその片腕はいくらか短かったけれども、これは二人が生れ出る時に誤って折れたからであった。二人は向い合ってくっついていた。ちょうど小さい子供がやや大きい子供に抱きついているような格好であった。二人がくっつき合っている部面は、かれこれ四本の指をならべた位の広さに過ぎなかったから、この不完全な方の子供をまくり上げると、その下にもう一方の子供のおへそが見られた。つまり二人はお乳とおへその間でくっついていたのである。不完全な子供の方にはおへそが見られなかったが、腹の他の部分は皆備わっていた。そんな風でこの不完全な子供のくっついていない部分、たとえば腕やしりももすねは、一方の子供の前にぶらさがっていて、ちょうどその脚の中頃までとどきそうであった。乳母は、「この子は二つの穴のどっちからも小便をします。もう一方の子の四肢も同じように生きていて動きます。唯少し小さくて細いだけです」と付言した。
 この・唯一つの頭につながった・二つの胴体と数本の手足とは、なるほど王様のためにはわが国のてんでんばらばらな諸党派諸地方をその法令の下にご統率遊ばされるという吉兆を示しているのかも知れないが、結果がそれと逆になるといけないから、それはまあ黙ってきき流した方がよかろう。まったく予言というものは、唯すんだことを予言するだけのものなのだ! (c)※(始め二重山括弧、1-1-52)人はすでに成りし事柄にいくばくの註釈を加えて以て前兆となすなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)エピメニデスなどは逆さに予言をしたといわれている。
 わたしは先頃メドックで、およそ三十歳ばかりになる一人の羊飼いにあったが、生殖器らしいものをまったく持っていなかった。唯三つの穴を持っていて、そこから絶えず水を洩らしている。ひげもあり情欲もあり、女と交わることを求めている。
 (c)我々が奇形と呼ぶものも神から見れば奇形ではない。神様は自らおつくりになった広大な宇宙のなかに、いろいろ・さまざま・な形態をお入れになり、それらを一視同仁に眺めておられる。いや、いま我々を驚かしたこの奇形児にしても、人間の知らない・何かほかの・類似の形体の方に似ているのだと信ずべきであろう。あの全知全能の神様からは、善良普通で規則にかなったもの以外に何も出てはこない。ただ我々にその間の調和と関係とが見えないだけなのである。
※(始め二重山括弧、1-1-52)人はそのしばしば見るところのものには少しも驚かず。その原因を知らざるも平然たり。しかるにその未だかつて一度も見ざりしものに出あうや、人はそれを奇跡という※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 慣例に反して生ずるものを、我々は「反自然」と呼ぶ。しかし何一つとして自然に従っていないものはないのだ。かの普遍的に自然からあたえられている理性よ、願わくは新奇なものの我々にもたらす誤りと驚きとを、我々の中より一掃せんことを。
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第三十一章 怒りについて



 (a)プルタルコスはどんな場合にも人を感心させるが、主として彼が人間の行為を判断する時にそうである。リュクルゴスとヌマとの比較論の中では、子供たちを父親の指導監督に委せることははなはだ馬鹿げているということについて、彼が大そう立派なことを言っているのを読むことができる。(c)我々の国家の大部分は、アリストテレスもいっているとおり、めいめいがまるで巨人キュクロプスのように、狂った・無節制な・気紛れに従って、妻や子どもたちを扱うことを許している。いや、子どもたちの教育を法律に委ねたのはラケダイモン人とクレタ人くらいのものである。(a)国家においては万事が子供たちの教育と体育とにかかっているということは、誰でも皆知っていることだ。それだのに人は全く無分別に、この重大な事を親たちの勝手に委せている。それがどんなにばかで善くない親たちであろうと平気でいる。
 わけても道をとおりながら、ふと怒りで気が狂ったように猛り立った父や母のために引掻かれたり打たれたり傷つけられたりしている子供たちを見かけると、幾たびわたしは彼らの復讐のために、そうした親たちを喜劇に描いてやりたいと思ったかしれない! 見たまえ。彼らの眼は憤怒の火をふきだし

  (b)その心は怒りに燃えて、彼らは、
あたかも支えを失える大岩の断崖より
転がり落つるがごとき勢いもて走りかかれり。
(ユウェナリス)

(ヒッポクラテスがいうところによると、最も危険な病気は人相の変る病気であるそうな)、(a)彼らはわれがねのような・きぬを裂くような・声をして走りかかる。ところが相手は、往々にしてやっと乳母の手を離れたか離れないかの幼な子である。見る見るうちに打ちたたかれてびっこになる。しかも裁判所は知らん顔である。こうしてびっこになり脱臼した手足は、我々の国の手足なのではないのかしらん。

(b)祖国は汝に感謝す。汝は国家に新なる一員を加えたり。
されど汝は、その子を、役立つように育てざるべからず。
或いは耕作に、或いは戦勝に、或いは平和に。
(ユウェナリス)

 (a)怒りほど判断の公平をかき乱す感情はない。誰だって、怒って罪人を処罰するような裁判官を死刑にすることに異議はないであろう。だのに何だって、父親や先生が怒って子供たちをむち打ち罰することを許しておくのか。それは懲戒をとおり越して復讐ではないか。罰は子供たちに対してお薬の代りでなければならない。我々は患者に対して興奮したり怒ったりする医者に我慢ができるであろうか。
 我々もまた正しく行動するには、怒りがおさまるまで雇人たちに向っても手をふり上げてはならないであろう。動悸がして興奮が静まらないうちは、結着を延ばそう。物事は我々が落ちついて冷静になるとき、本当にちがったものに見えるであろう。怒っている時は激情が命ずるのである。激情が語るのである。我々ではない。
 (b)激情を通じて見ると、霧をとおして物を見るように、過失が我々に大きく見える。えている者は食物を用いればよいが、罰を用いようとするものは懲罰に餓え渇いていてはならない。
 (a)それに、落ちつきと分別とをもって行われる罰は、これをうける者がよく承服できるものとなり、彼により多くの効果をあたえる。つまり彼は、憤怒し激昂した人によっては正当に処罰せられたと思わないのである。いやむしろ、主人の常軌を逸した行動や、真赤になった顔つきや、突拍子もない罵りの言葉や、意識しない動揺や狼狽など、すべてを自分の弁解のたねにするのである。

(b)その顔は怒りをもってふくれ、
その脈管には黒き血がみなぎり、
その眼はゴルゴンの眼のごとく怪しく光れり。
(オウィディウス)

(a)スエトニウスが語るところによると、ルキウス・サトゥルニヌスがカエサルに罰せられたとき、その民衆の同情を得るのに最も役立ったのは(サトゥルニヌスはそのとき人民の判断に訴えたのである)、カエサルが裁判にのぞんで示したその敵意と苛酷とであった。
 いうこととおこなうこととは別ものである。説教と説教者とは別々に考えなければならない。近年人々が我々の教会の真理をその牧師たちの不徳によって攻撃しようと試みたのは〔宗教改革運動〕ずるい手であった。我々の教会の真理はよそにその証拠をもつのである。ああいうばかな論じ方では何もかも紛糾させてしまう。品行方正な人も誤った思想をいだくことがあるし、よこしまな人間だって真理を説くことがある。いや心にそれを信じていない人でも、それを説くことができる。言行一致は、確かに一つの立派な調和である。わたしは、議論は実践がこれに伴う時にいよいよその権威と効果とを増すものであることを、否定したくない。エウダミダスもある哲学者が戦争を論じているのを聞き、「それらの所論は立派であるが、論者その人にそういうことができるとは信ぜられない。まったく彼の耳はラッパの響きになれていないのである」といった。またクレオメネスは、ある修辞学者が勇気について演説するのを聞いて大いに笑った。そして一方が怒るとこう答えた。「これを語るものが燕であるならば、わたしは同様に笑うであろう。けれどもそれがわしであるならば、わたしはこれを傾聴するであろう」と。わたしは古人の書いた物を見ても、自分の考えているままをいう者の方が、自分を取りつくろっていう者よりも、はるかに強く我々の心を打つように思う。キケロが自由への愛について語るのを聞き、またブルートゥスがこれについて語るのを聞いてごらん。文章をよんだだけで、ブルートゥスこそ生命と引き換えに自由を買う人であることがわかる。雄弁の父であるキケロに死の蔑視すべきことを論じさせ、またセネカにも同じことを論じさせて見たまえ。キケロはだらだらとして力がない。彼が自ら決心のついていないことを我々に決心させようとしていることが、すぐにわかるだろう。彼は我々に勇気を与えない。彼自らそれをもたないからだ。セネカの方は君たちを力づけ燃えたたせる。わたしはどんな著作を読む場合にも、いや特に徳や義務について論ずる著作をよむ場合には、その著者がどんな人であったかを必ず丹念に調べて見る。
 (b)まったくスパルタの長官たちは行いの治まらない人間が、民衆に向って何やらためになりそうな意見を述べるところを見ると必ず中止を命じ、別に行いの正しい人物を呼んできて、その人に、その人の意見として、同じ意見を述べさせたのである。
 (a)プルタルコスの書物はよくこれを味わうと、著者の人柄が相当によくわかる。わたしには彼の霊魂が底の底までわかるように思う。だがそれにしても、わたしはみんなが彼の生涯について、もうすこし知識をもってほしいと思う。それでわたしは、この章の中で、いささかわき道にはそれるけれども、アウルス・ゲリウスが、彼の性格行状に関するとともに、結局「怒り」というわたしの題目に帰着する、次のような話を書きのこしてくれたことに感謝する。彼が使っていた奴隷の中に、不徳なよくない男でありながらいくらか哲学の教えをききかじっている者があった。何かの過失を犯したためにプルタルコスの命令によって衣服をぎ取られたが、そうしてむちうたれている間、始めのうちは「自分が打たれる理由はない。わたしは何もしなかった」と、大声でわめいていたが、しまいにはむきになって主人プルタルコスに食ってかかり、「お前は自ら威張るほどの哲学者ではない。しばしばお前が、怒るということは醜いことだと説くのをきいた。いや、それについて本まで書いている。それなのに今このように怒って、わたしをこんなにむごたらしく打たせるとは、全く書いていることを裏切っている」と非難した。これに対してプルタルコスは、きわめて冷静にいった。「何だ無作法者。何によってお前は、わたしが怒っていると判断するのか。わたしの顔つき・わたしの声・わたしの顔色・わたしの言葉・などは、幾らかでもわたしが興奮していることをお前に証拠だてるか。わたしは自分の目がいかっているとも、顔が引きつっているとも、恐ろしい声を立てているとも思わない。わたしの顔は赤いか。口に泡を吹いているか。わたしが後悔せねばならぬような言葉がわたしの口からもれたか。わたしは怒りでおののき震えているか。まったく、それらのことこそ、教えてつかわすが、真の憤怒の相というものだぞ」。そういって鞭うっている者をかえりみ、「この者とわたしが議論をしている間も、お前はお前の役目を続けよ」といった。――これがゲリウスの話である。
 タラスのアルキュタス〔ピタゴラス派の哲学者でプラトンの友〕は、総大将の役目を終えて戦争から帰って見ると、家の内はめちゃくちゃになっており、その領地は執事の管理が悪かったために荒れはてていた。そこで執事を呼びつけていった。「とっとと出てゆけ。もしわたしが怒っていなければ、うんとこさ鞭うってやるところだが」と。プラトンも同様に、その奴隷の一人に対してむかむかっとした時、彼を罰する役目をスペウシッポスにたのんだ。つまり自分は怒っているからといって、自ら手を下すことを避けたのである。ラケダイモンのカリルスは、自分に対してあまりに横柄大胆に振舞う奴隷に向って、「覚えていろ! もし怒っていなかったらすぐにも息の根をとめてやるところなのだぞ」といった。
 怒りは自己中心の・独りよがりの・激情である。我々は何か原因をとりちがえて興奮している時には、ちゃんと筋のとおった弁護弁解をされても、真実と無罪とにたいしていきどおりをやめないことがずいぶんある。わたしはこれについて、古代のあるめずらしい例をおぼえている。ピソはほかの点ではきわめて有徳な人物であったが、彼の兵士の一人がただ独りでまぐさ刈りから立ちもどり、一人の僚友をどこへ置きざりにして来たのかを説明することができなかったのに腹をたて、てっきりこれは殺したのにちがいないと考え、即座に彼に死刑を言いわたした。兵士が絞首台に上ると、そこへ迷子になった同僚が帰って来た。全軍は大いに喜び、二人も互いに接吻したり抱きあったりした。やがて首斬役人は、二人をピソの前に連れて来た。一同はピソもまた大いに喜ぶであろうと期待したのである。ところがあべこべであった。まったく間の悪さ口惜しさのために、まだ静まり切らなかった彼の興奮は一だんと高まったのである。そして、中の一人の無罪が判明したものだから、激情はとっさに彼に悪知恵を貸し、一人の無罪者から三人の罪人を造り上げ、結局三人ともに死刑にしてしまった。その理由は、「第一の兵士は、一度出した命令はひっこめることができないから。第二の迷った兵士は、その友の死の原因となったから。第三の首斬役人は、与えられた命令に従わなかったから」というのである。
 (b)頑固な女たちを相手にしなければならなかった人々は、彼女たちの興奮に沈黙冷淡をもって対するとき、そしてあえて彼女たちの怒りをそそるまいと取り合わないとき、どんな狂暴の中に彼女たちを投ずることになるかを経験されたに違いない。雄弁家カエリウスは天性はなはだ怒りっぽい人だった。あるおとなしい・人づき合いのきわめて穏やかな・人が彼の夕食のお相伴をした時のことであるが、この人は相手を怒らせないようにと思って、わざと彼のいうことをことごとく肯定し、一々これに相づちを打った。ところがカエリウスの方では、持前の不機嫌が食ってかかるご馳走がなかなか出ないのに我慢できなくなり、こういった。「後生だから、少しはわたしのいうことにさからって下さいよ。これでは一人で食べるも同然だ」と。女どもも同様で、どなり返して貰いたくてどなるのである。つまり恋愛の規則にならっているのだ。フォキオンは、ひどい毒舌をふるってその演説を乱すものがあると、ただ黙るだけで相手にならず、ゆっくりと相手の怒りがおさまるのを待ち、それから後で、今の邪魔を全く知らないかのような顔をして、再びその演説の先をつづけた。このような無視ほど、辛辣な返答はないのである。
 フランス第一の怒りっぽい人について(これはやはり欠点だけれど、軍人においては幾分ゆるすべきものがある。まったくこの職業の中には、どうにも怒りなしにはすまされない部分が確かにある)、わたしはしばしばいう。「いや、これこそわたしの知っている限り、最も我慢して自分の怒りを抑える人である」と。怒りは彼をあんなに激しく・狂おしく・ゆすぶっているのであるから、

大いなる音たてて青銅の器の下に、
炎、小枝の間より燃え上る時、
水はその熱によって、沸き、たぎり、
泡だちて、遂にはその縁からこぼれ落つ。
こぼれて、己れを妨ぐるものなくなれば、
そはただ黒き煙となりて空に消ゆ。
(ウェルギリウス)

彼はそれを節制するのに、あれでずいぶん骨折って自分を押えているに違いないのである。いやわたしとても、これくらい押えつけるのに努力のいる激情をほかに知らないのである。わたしは知恵にそんなに高い値をつけようとは思わない。わたしは彼がしていることよりも、彼がより悪いことをしまいとして苦労していることの方を、高く買う。
* かつて「フランス第一の乱暴な主人」(二の八)と書かれたのは Gaston de Foix のことであったが、ここに「フランス第一の怒りっぽい人」というのは誰のことか判明しない。ただモンテーニュは、その人が自らその欠点を反省して、常にこれを抑制するのに努めていたことを、買っているのである。全然怒らないということは、人間としてできることではない。次のパラグラフで、喜怒哀楽を行状の上にあらわさないといって誇っている人をあまりほめていないのは、そのためである。鈍感で怒りを催さぬ人よりも、怒りたいところを我慢する人の方に、モンテーニュは徳を認めるのである。
 もう一人の人はわたしに向って、その日常が整然として穏やかであることを誇った。それはほんとうに当世稀に見ることである。だがわたしは彼にこういってやった。「確かにそれは相当な事である。特にあなたのように皆の注目の的となる高い御身分の方にとっては、いつも謙遜の風をもって人に接せられるのはただそれだけでも結構なことであるが、肝心なのは自分の内部を満足させることである。自分の内部で苦しんでいるのでは、決してその身を治めることにはならないと思う」と。わたしはその人が外部に向ってこういう仮面・こういう端正な外観を・維持するために、内々苦労しておられるのでは何にもならないと思ったからである。
 怒りは、これをおし隠すと内攻する。酒屋にいるところを人に見られまいとしてその店の奥深く隠れたデモステネスに対して、「おい、おい、うしろへ退けば退くほど深みにはまるよ」と、ディオゲネスがいったとおりである。わたしはそのように賢人ぶった顔つきをするために心を苦しめるよりは、いくらか時期をはずしても下男の頬げたに一つ食らわしておやりになることをお勧めする。わたしも自分の激情を内攻させるよりは、それを爆発させる方がすきである。それは発散させれば自然と衰える。そのほこ先を自分に向けるよりは、それが外に向って働く方がましである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)そとに現われる病気は比較的軽し。健康らしき外観の下に隠れたる病気こそ最も恐ろし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
 (b)わたしは、わたしの家で怒ることが許されている人たちにこう教えている。第一に、「その怒りを倹約しなさい。あんまり安っぽく振りまいてはいけない」と。まったく、それでは効果も権威もなくなるばかりである。むちゃくちゃにしょっちゅうどなっていると、誰も慣れっこになって本気できかなくなる。たとえば下男が盗みを働いたといって、いくら本気でどなりつけて見ても、てんできき目がない。それはふだんコップの洗い方がわるいとか腰掛の置き方がわるいとかいってどなられた時と、ちっとも変りがないからである。第二には、「決してくうに怒りなさんなよ。お前さんたちの叱責がお前さんたちが叱りつけようと思っているその当人の胸に、ぴんと響くようにやりなさいよ」と。まったくうちの連中ときては、いつも当人が出てくる前からどなりちらし、出て行ったあと一世紀もどなりつづける。

分別を失いて己れ自らに食ってかかる。
(クラウディアヌス)

彼らは自分の影に食ってかかり、このあらしを相手のいないところに吹きつける。誰一人、叱られたとも、耳がいたいとも、思う者はない。ただ何のかかわりもない連中が、ああやかましいと耳を掩うだけの話である。わたしは同様に、喧嘩において相手がいないのに威張ったり暴れたりするのも、よくないと思う。ああいう大言壮語は、これを受け取る本当の相手のために取っておかなくてはならない。

牛もまた、戦いを始めんとする時は、
まず恐ろしき吠え声をあぐ。
しかして怒ってその角を試みるべく、
或いは木の幹にぶつかり、或いは空を切りて、
いたずらに脚下に砂ほこりをまい立たす。
(ウェルギリウス)

 わたしは怒るとなると猛烈に怒る。だができるだけ短く声をおさえて怒る。確かにその迅速さと激しさにおいては自分を制することができないが、でも全然心の平衡を失ってはいないのである。ありったけの罵詈雑言ばりぞうごんをむやみやたらに投げつけたりはしないのである。ちゃんと自分の舌鋒が相手の最も痛いところを突くように、ねらいをつけてやるのである。まったくわたしは、通例舌だけを用いるのである。わたしの下男どもは、小さな場合よりも大きな場合に、かえって難を免れた。小さな場合というやつは不意にわたしを襲う。それに、なお困ったことには、一たび坂にかかったら、何がどしんと突いたのかはもう問題ではなく、とにかくドン底まで滑りおちざるをえないのだ。落下はひとりでに速さを増し勢いを加えてゆく。ところが大きな場合となると、「これだけのことをしたからにはきっと御主人は怒るだろう」と皆が期待する。それだけでわたしの気はおさまる。わたしは、皆の期待の裏をかくのが得意である。わたしの方も大きな場合に対しては、気をひきしめてかかる。それは、「うっかり引き込まれて見ろ、とんでもないことになるぞ」と、わたしを心配させたりおどかしたりするからだ。そこで、容易にわたしは怒りに駆られないよう用心するのである。いや待ち構えていればわたしもなかなか強くなって、そこにいかに激しい原因があっても、この激情の衝動をはねつけることができる。けれども一たびそれにとっつかまれば、その原因がいかに軽微なものであっても、結局それにさらってゆかれる。だからわたしは、わたしと争いをおこしそうな人々には、あらかじめこう約束しておく。「わたしの方が先に怒り出したなと感じたら、間違っていようがもっともであろうが、わたしにいうだけのことをいわせて下さいよ。わたしの方でもそうしますからね」と。暴風はただ怒りと怒りのせり合いから生ずるのである。それらはお互いに生みつ生れつするので、それぞれ別々に生れることはないのである。その一つ一つを勝手に駈けずりまわらせておけばよい。そうすれば我々は常に平和の中にいられる。これは有益な掟であるが実行はすこぶるむつかしい。ときにまた、わたしは本当の衝動は少しももたないのに、家の中を引きしめるために怒りをよそおうこともある。年齢がわたしの気質をだんだん苛立いらだたせるにしたがって、わたしもそれをおさえるのになかなか苦労する。だんだん気むずかしくなりやすく、またそうなっても言訳のできる年輩に進むのだから、できるものならこれからは(わたしは今まで一番怒ることの少ない人の部に入ってはいるが)、なるべく気むずかしくならないように努めることとしよう。
 (a)この論を終るにあたって、もうひとこといおう。アリストテレスは「怒りはときに徳と武勇とのために武器となる」といっている。いかにももっともだと思われる。けれどもこれに反対する人々も面白い返答をしている。すなわち、「なるほどそれは新式の武器だね。まったくほかの武器は、皆我々の方でこれを操作するのだが、怒りという武器は、逆に向うが我々を動かす。我々の手がそれを導くのではなくて、その武器の方が我々の手を導く。それが我々をとるので、我々がそれをとるのではない」と。
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第三十二章 セネカとプルタルコスを弁護する



 プルタルコスとセネカは、ルクレティウスとともに、モンテーニュが最も多く引用し利用した著者である。我々は既に第二巻第四章においてモンテーニュのプルタルコス礼賛の言葉をよんだし、第二巻第十章においてはプルタルコスとセネカを愛読する理由が述べられている。どっちかというと、プルタルコスの方が一層好きであったらしいが、とにかくこの二人の著者から、モンテーニュはその人生哲学を学んでいる。面白いことは、セネカの中にエピクロスの格言をたくさん借りていることである。セネカの思想かと思うとそれがむしろエピクロスのものであったりする。第三巻第三章の叙述を見ると、モンテーニュはもうプルタルコス以外にあまり本を読まないと言っているが、一五八八年以後にも彼は改めてセネカを読みなおしたらしく、その頃もしばしばセネカを引用している。――なおルクレティウスからは、エピクロス流の箴言しんげんや、キリスト教の神学観と対立する自然観などを借りてきている。

 (a)わたしはむかしからこれらの人物と親しくしているのだし、年をとったわたしも、(c)もっぱら彼らのお形見で出来上っているわたしの著書も、(a)彼らの御支援があればこそ存在するのであるから、どうしてもわたしはここにお二人の名誉を護らなければならない。
 まずセネカについていうと、わたしはかつて、いわゆる宗教改革派の人たちが自分の主張をまもるために流布した数千の小冊子の中に(中には器用な人の手になったものもあって、なぜそれがもっと良い目的のために用いられなかったかと惜しまれるものもあったが、その中に)、我々のお痛ましい先王シャルル九世の政治とネロの政治との間にある類似を詳説しようとして、故枢機官ド・ロレーヌとセネカとを比較している一冊を見たことがある。それは、二人がいずれもそれぞれの主君の政府の最高の官にあったという、その運命のみならず、二人の性格や境遇や行状までも似ていると言うのである。これは、あの枢機官殿にとってはまことに名誉千万なことと思う。まったく、わたしだって大いに彼の機知雄弁、彼のあつい信仰と王に対する忠誠とを認める一人ではあるけれども、いや、あのように才能もあれば身分も貴く高い一人の聖職者の存在が、あんなにもめずらしく稀であったばかりでなく、特にそういう人物こそ人民の幸福のために最も必要とされた時代に生れあわせた、彼の好運も認めはするけれども、それにしても彼の才能がセネカの才能に非常に近いとも、彼の徳がセネカの徳ほどに純粋完全であるとも堅固であるとも、決してわたしは考えないのである。
 さてわたしが今いった小冊子は、その目的を達するために、セネカについてはなはだ誹謗ひぼう的な叙述をしている。それらの非難はディオンから出ているのであるが、わたしはこの歴史家の証言を少しも信用しない。まったくこの人は心の定まらぬ人で、ある時はセネカをはなはだ賢明な人であって、ネロの不徳を死ぬほど憎んだ人だというかと思うと、また別の場所では、彼をけちん坊・高利貸・野心家・卑怯者・女好き・食わせもののえせ哲学者・などと口ぎたなく罵っているのだが、セネカの徳はその著作そのものの中にはっきりと現われているし、そこでは以上の非難の何れに対しても(例えば彼が守銭奴だとか乱費家だとかいうことに対しても)、反駁がいたって明瞭になされているから、わたしはディオンの証言などはただの一つも信用しないのである。それにあのような事柄については、ギリシアや外国の歴史家よりもローマの歴史家を信ずる方がはるかに合理的である。ところでタキトゥスとかその他の人々は、みな彼の生についても死についても、非常な尊敬をもって語っている。彼をすべての点においてきわめて優れた有徳な人物として描いている。だからわたしは、ディオンの判断に対しては、誰でもいうように、「かれディオンはローマの事柄についてすこぶる片よった感情をいだいているので、あえてポンペイウスをくさしてユリウス・カエサルの立場を支持し、キケロをけなしてアントニウスの主張をほめているのである」と非難する以外に、何もいおうとは思わない。
 プルタルコスに移ろう。
 ジャン・ボダンは我々の時代のすぐれた著作家であり、現代のつまらぬ文筆業者たちに比べて遙かに多くの判断力を備えておって、真に我々の批判と考察とに値する。わたしはその『歴史の方法』の一節をよむと、彼をかなり思いきったことをいう人だと思う。彼はそこでプルタルコスを無学だとけなしているだけでなく(この点に関してはわたしは彼にいわせておく。この問題〔歴史の方法〕はわたしの専門ではないから)、さらに、「この著者は時々まるきりつくり話みたいな信じられない事柄を書く」(これは彼の文句そのままである)とまで彼を非難しているのである。ただ単に「物事を実際とはちがって書く」といったのであれば、それは重大な非難ではない。まったく我々は、自ら見なかったことは、他人から、その人を信じて、そっくり借用するよりほかに手がないのである。だからわたしは、プルタルコスも自ら承知で、時々同じ物語をいろいろに物語ったのだと思っている。ハンニバルの・過去の三人の名将に関する・判断なども、フラミニヌスの伝においてとピュロスの伝においてとでは、それぞれちがって語られている。けれども「信じられない・あり得べからざる・事柄を現金のように受けとった」と彼を責めるのでは、世界で最も正しい判断をする著者を、判断を欠くと言って責めるのと同じである。ボダンは次のような例を挙げてこう言っている。「例えば、『ラケダイモンの一少年が、その盗んだ子狐に腹じゅうをかきむしられながらこれをその衣の下にかくし、とうとうその盗みを人に知らさずに死んだ』と彼は語っている」と。わたしは第一に、この実例は選びかたがよくないと思う。なぜなら、肉体の力の方はその限界を知ることも制限することも容易であるが、霊魂の働きに限界をつけることは非常に困難であるからだ。この理由から、もしわたしだったら、むしろ肉体の力に関する実例の方を、選んだであろう。実際この方面では、もっと信じ難い話がいくらも物語られている。例えばピュロスについてこんなことが語られている。「彼は自ら痛手を負っていたにもかかわらず、全身すきまなくよろった一人の敵に斬りつけ、脳天から足の先まで物の見事に唐竹割りにした」と。わたしはボダンの挙げた例の中に大して不思議を見出さないし、また、「プルタルコスはよく『人のいうとおり』という言葉をつけ加えて、我々が軽々しくそれを本当にしないようにと警告している」という彼の弁護も承認しない。まったくあのプルタルコスは、古人の権威とか宗教の尊厳とかによって信じられている事柄は別として、それ自体信じえない事柄は、自らそれを信じようとも、人にそれを信じさせようとも、しなかったであろうと思うのである。いや、この「人のいうとおり」という言葉も、それがボダンのいうような目的で用いられているのでないことは、彼自らほかの場所で、このラケダイモンの少年の我慢にちなんで、彼の在世時代にあったもっと信じさせることのむつかしい実例を物語っていることによって、明らかである。たとえばキケロが彼よりも以前に、「わたし自らその場にいた」といって実証している話、すなわち、「我々の時代になっても、少年たちはなお、ディアナの祭壇の前で忍耐の度を試みられる場合、全身血にまみれるまでむちうたれても、泣き声はおろかうめき声さえたてず、なかには喜んで死ぬものさえあった」という話まで、しているのである。それからまたプルタルコスは、他のたくさんの証人とともに、「犠牲をささげる際に、真赤な炭が香をたく少年の袖の中に落ちたが、彼は肉の焼けるにおいによって列座の人々に気づかれるまで、じっと、その片腕がすっかり焼けるのを我慢した」という話さえ物語っているのである。およそ彼らの習慣によれば、盗みをするところを見られることくらい、彼らの評判にかかわり、恥辱と叱責とをこうむらねばならぬことはないのである。わたしはこれらの人物のえらさを身にしみて知っているので、ボダンのようにこの物語を信じえないものとは思わないばかりでなく、稀で異様なものとさえ思わないのである。
 (c)スパルタの歴史はもっと壮烈でもっと稀な幾多の実例にみちみちている。その歴史は、この点において全体が一つの奇跡である。
 (a)マルケリヌスがこの盗みの話にちなんで語っているところによると、それはまだ拷問などというもののなかった時代であったから、この悪事の現場をつかまえても(それはエジプト人の間ではきわめて普通のことであったが)、彼らにその名前をいわせることすらできなかったそうである。
 (b)スペインのある農夫は、奉行ルティウス・ピソを殺害した共犯者として拷問にかけられたとき、責苦を受けながら、友だちに向って叫んだ。「みんな驚き騒がないで、落ちついておれの最期を見とどけてくれ。いくら責められても白状はしないから」と。最初の日はそれきりで終った。翌日また拷問にかけようとして引き出すと、いきなり警護の者の手を強くふりきって、われから壁に頭をぶっつけて自殺した。
 (c)エピカリスはネロの手下どものあくなき残忍にその身をゆだね、彼らの火や鞭打ちや責め道具に堪えながら、自分の謀反についてはまる一日一言も漏らさずにがんばったが、あくる日その四肢をうち砕かれて再び拷問の場所に引き出されると、彼女は着物についていた紐を輪にして椅子の腕木の一方にかけ、そこに首を突込み、体の重みで自らくびれて死んだ。このような死に方をして最初の拷問をはぐらかすだけの勇気をもっていたところを見ると、彼女が一日をながらえてこのような試練を甘受したのはわざとではあるまいか。そうやって自ら我慢のほどを示し、この暴君の鼻をあかすとともに、ほかの人々にも同様の謀反をやらせようとしたのではあるまいか。
 (a)我々の軽騎兵に、この頃の内乱の間に得た経験をきいてみれば、誠にいくじのない我々の時代の唯中にだって、またエジプト人たちにもおとる柔弱なやつらの間にだって、今しがたお話したスパルタの徳にもくらべられるほどの強情我慢の実例はいくらも見出されるであろう。わたしは唯の百姓どもが、その足の裏をじりじりと火であぶられたり、ピストルの打ち金の間で指の先をつぶされたり、または頭の鉢を太い綱で締めつけられて血だらけの眼玉が飛び出す程になったりしながらも、がんとして身代金を出そうとはしなかった者を、いくらも知っている。彼らの一人がもう死んだものと思われて、真裸のまま溝の中にすてられているのに会ったこともあるが、その首は、傷だらけになりなお荒縄がまきついたまま、ふくれ上っていた。彼はその縄の端を馬の尻尾にむすびつけられ、夜どおし引きずりまわされたのであった。胴体はいたるところ剣で突き刺し突きとおされていたが、それはそうやって彼を殺すためではなく、むしろ彼を苦しめこわがらすためであった。ところが彼は、これらの責苦をすべて忍んだのであった。言葉も出ず感覚もなくなるまで堪えたのであった。彼自らの言葉によれば、千の死をもって死のうとも、びた一文約束なんぞするものかと、がんばったのであった(本当に彼の我慢ぶりを見れば、一つの死は確かに完全に通り越していた)。しかもその男は、近郷きって最も富める百姓の一人であったのだ。それどころではない。いかに多くの百姓たちが、他人から借りた信仰・自分には嘘とも本当とも皆目わからない信仰・のために、焼かれたりあぶられたりするのに堪えたことか!
 (b)わたしは何百という女どもに真赤にやけた鉄に噛みつかせることはできても、彼女たちが憤怒のうちに思い抱いた意見を破棄させることはできないのを知っている(まったく評判どおり、ガスコーニュ女の石頭はなかなか大したものなのである)。彼女たちは、ぶたれたり拘束されたりするといよいよたけり立つ。いや「脅してみても、殴りつけてみても、亭主を『しらみ頭』と呼ぶことをやめず、水の中にほうり込まれてあぶあぶしながらも、なお両手をさしあげて、頭の上でしらみをつぶす真似をする」という女房の話をでっち上げた者があるが、それは本当にわれわれが、毎日家内どもの頑固さの中にまざまざと見るところなのだ。まことに頑固は剛毅の妹である。少なくともその硬くゆずらないことにかけては。
 (a)可能と不可能とを、我々の理性でそう信じうるか信じえないかによって判断してはいけない。それは他の場所でもいった通りであるが((c)これはボダンに対していうのではない)、(a)自分の到底信じえないこと(c)または信じたくないこと(a)を、他人が信じようとすることに異議を申立てるのも(これは大多数の人が陥りやすいことであるが)、これまた大きな誤りである。(c)各人は自分こそ自然の典型であるかのように思い、それに照らして他のすべての自然の様態を評価する。自分の行き方にかなわない行き方は、みんな嘘の・人為的な・ものにしてしまう。何という獣! 何という大ばか野郎! (a)わたしはある人々を、わたしよりも遙かに上にあると考えている。特に古人の中には、そういう人々がたくさんいる。わたしは自分の足で彼らについてゆくことができないことを明らかに認めるけれど、それでも眼でもって彼らのあとを追い・彼らをそんなにも高めるところの原動力を判断する・くらいのことはできる。(c)わたしはその同じ原動力が、多少は自分の中にもあることを認める。それは凡愚の人々のきわめて下等なところをも自分の中に認めるのと、まったく同じことである。わたしは彼らの下劣なのに驚きもしなければ、それが自分の中にあることを否定もしないのである。わたしには優れた人々の高くあがろうとしてする働きがよく見える。(a)そして彼らの偉大さに感心する。あのように高くあがるところをまことに美しいと見、せめてそれらを心の中に想い抱く。わたしの力量は及ばないにしても、少なくともわたしの判断は進んでそれらにならおうとする。
* 第一巻第二十七章「真偽の判断を我々人間の知恵にゆだねるのはとんでもないこと」。
 プルタルコスが物語っているまるきりつくりばなしみたいな「信じられない事柄」の一つとして、ボダンが挙げるもう一つの実例は、「アゲシラオスが市民たちの信望を一身にあつめたために民選長官から罰金刑に処せられた」という話である。わたしはそのどの点をボダンが嘘と見るのか知らないが、とにかくプルタルコスはそこに、我々によりも彼の方にずっとよく知られている事柄を物語っているのである。実際ギリシアでは、人々があまりにその市民の意を迎えるということだけのために、罰せられたり追放されたりするようなことも決して珍しくはなかった。貝殻追放や木葉追放はその証拠である。
* アテナイにおいては、その野心を疑われる政治家を投票させ、これを十年間国外に追放した。投票にはかきの殻が用いられたのでこの名がある。また、スュラクサイやコリントにおいては、オリーヴの葉が用いられたのである。
 同じ本の中になおもう一つ、プルタルコスのために無念千万な非難がある。ボダンはそこでこう述べている。「なるほど彼は、公平にローマ人同士・ギリシア人同士・を比較した。けれどもローマ人とギリシア人とを、たとえば(と彼はいう)、デモステネスとキケロ、カトーとアリスティデス、ス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラとリュサンドロス、マルケルスとペロピダス、ポンペイウスとアゲシラオスとを比較する時には、公平でなかった」と。ギリシア人にこんな不釣合な相手を与えたのは、ギリシア人をひいきするからだと考えたわけだ。だがこれこそ、プルタルコスの最も優れた最もほめるべき点を攻撃することである。まったく彼の比較論においては(これこそ彼の著作の最もほめるべき部分、わたしの考えでは彼がはなはだ得意とした部分であるが)、彼の判断の正確さと誠実さとは、決してそれの深味や重味に負けていないのである。彼こそ我々に徳を教える哲学者である。ひとつこれから、彼を、この不公平だとか事実と相違するとかいう非難から、まもってみせよう。
 そもそも何がこういう判断のもととなったのかというと、わたしが考えつく限りでは、我々があのローマ人たちの名前を余りにもまぶしく輝かしいものに思いなしているせいである。まったくデモステネスがあの大きな共和国の執政官・地方総督・出納官〔キケロ〕の栄光に及びえようなどとは、とても我々には考えられないのである。けれどもことの真実に徹し、人々をその人自体において考察するならば(プルタルコスはそこに重きを置いたのであるが)、そして彼らの運よりも彼らの心事や天性や力量をはかりにかけるならば、わたしはボダンとは反対に、キケロや大カトーこそ、その相手〔デモステネスやアリスティデス〕に及ばないと考える。わたしならば、むしろ小カトー対フォキオンの比較を例にとったであろう。まったくこの一対においてなら、ローマ人側に有利な相違懸隔が、いっそうまことらしく認められるであろう。マルケルス、ス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラ、ポンペイウスを見ると、なるほど彼らの軍功は、プルタルコスがこれに比較するギリシア人たちのそれよりも大きく照り輝いている。けれども最も立派な有徳な行為というものは、戦争の場合もその他の場合も、必ずしも最も有名な行為ではない。わたしはしばしば大将の名前が、それ程に値しない他の名前の光の下におしつぶされているのを見る。例えばラビエヌス、ウェンティディウス、テレシヌス、その他たくさんの名前がそれである。実際、問題をこのように見てギリシア人のために苦情をいうとすれば、わたしは、カミルスはテミストクレスに、グラックス兄弟はアギスやクレオメネスに、ヌマはリュクルゴスに、とうてい及びもつかないということができるのではないか。けれどもたくさんの部面をもった事柄を一ぺんに判断しようというのは、おろかなことだ。
 プルタルコスは彼らを比較はするけれども、両方を同等には見ない。かれほどはっきりと、また良心的に、彼らの差別を指摘し得る者はないであろう。ポンペイウスのひきいる軍隊の勝利と戦功と兵力と、それから彼に与えられた凱旋式とを、アゲシラオスのそれらと較べる段になると、「果して」と彼はいった。「クセノフォンだって(仮に彼が生きていたとして)、アゲシラオスに有利に、思うがままを書くことが許されたとしても、この人をポンペイウスに比較することをあえてしたであろうか。いや、しなかったであろう」と。また、リュサンドロスとス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラとの比較に説き及んだときは、「勝利の数においても合戦の危険さにおいても、それは比較にならない。まったくリュサンドロスは、ただ二回の海戦に勝っただけである。云々」といった。けれどもそれは、少しもローマ人の価値をそこなうことにはならない。ただローマ人をギリシア人と対比しただけでは、たといそこにどんな相違懸隔があったにしたって、ローマ人をそこなうことにはならない。いや、プルタルコスは両方を大雑把おおざっぱにくらべてはいないのである。全体としてはどっちをひいきしてもいないのである。彼はいろいろな部面、いろいろな状況を順々に比較し、それらを個々別々に判断しているのだ。だから彼を不公平だと断じたいならば、何か彼の個々の判断を取りあげて論ずるか、でなければ一般的に、「これこれのローマ人とこれこれのギリシア人とを並べたのは間違っている。比較するなら外にもっと釣合った・もっと似つかわしい・ものがあったろうに」というべきだったのである。
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第三十三章 スプリナの話



 この章の終りの方に一五八八年以後に書き加えられたスプリナの徳に関する意見は、やはり同じころ第一巻第三十章の始めに書き加えられた同様の意見と併せてよまれたい。また一五八八年版に述べられている徳に関する意見(三の三、三の十三)とも対比されたい。

 (a)哲学は理性に我々の霊魂を支配し我々の欲望をおさえる至上の権威を与えたとき、決して自分の力を悪用したとは考えなかった。我々の欲望の中では恋愛のかもし出す欲望が最も激しいものと判断する人たちは、その持説として次のようにいっている。「恋愛がかもし出す欲望は肉体にも霊魂にもこびりつき、その人全体がその奴隷になる。健康までがそれらに左右されるほどであって、ときには医術までがその調停にのり出さねばならなくなる」と。
 だが、あべこべに、「肉体が関与するとその欲望はかえって衰え弱まる」ということもできるであろう。まったくこの種の欲望はじきにげんなりするもので、物質的な方法でおさえることもできるのである。多くの人々は、自分の霊魂を、この欲望がそれに与える不断の不安から救おうと思って、高ぶりかわいているその器官の切除切断を行った。またある人々はしばしば冷たい物をそこにあてがって(例えば酢や雪のようなものをあてがって)、その熱と力とをおさえた。我々の祖先のヘールも同じ用にあてられたものである。それは馬の毛を織ったもので、あるものはこれでシャツを作り、あるものはこれを帯にして、その腰をいじめつけたのである。ある宮様がつい先頃のこと、わたしにこんなことをいわれた。「わたしがまだ若かった頃、王フランソワ一世の朝廷でおごそかな式典が行われた時のことだが、みんなが美々しく着かざっているので、ふっと父の形見のヘールを着てみたくなった。だがいかに信心が深かったとはいえ、さすがに夜までは我慢ができず、とうとう途中で脱いでしまったよ。しかもお蔭でその後長いこと病気をした」と。そして更につけ加えて、「どんなにやみがたい青春の熱情でも、この方法でおさえきれないことはあるまいと思う」と申された。だがおそらくその宮様は、その最も痛烈なものをご経験になったのではなかったろう。まったく経験が我々に教えるところによれば、そういう興奮はきわめてしばしば、粗末な・みすぼらしい・衣服の下にも頑張っているのだ。そしてヘール〔苦行シャツ〕は、必ずしもこれをまとう者をヘール〔腰ぬけ〕にはしないのである**。クセノクラテスはもっとひどいことをやった。まったく、弟子たちが彼の我慢のほどをためしてやろうと、彼の寝床の中にライスを、あの有名な美しい遊女のライスを、美の武器・誘惑の方便・として、ただ惚れ薬をもっただけの全くの素裸にして押し込んでおいたところ、彼の方では、日頃の理屈や規則にもかかわらず、さしもに頑固なその肉体があわや謀反を起しそうに感じたので、その謀反に従いかけた器官をばわざと自ら焼いたのであった。ところがその全体が霊魂の中にある情念、たとえば野心とか吝嗇りんしょくとかになると、いっそう理性に世話をやかす。まったく理性は、これらの情念を抑えるにはただ自分の手段に訴えるよりほかに方法がないし、これらの欲望は決してげんなりすることがないのである。それどころか、それは享楽によってますます高まり増すのである。
* ヘール haire はここに説明されているように馬の毛で織ったラシャで、特に苦行に用いられた。
** les haires ne rendent pas toujours h※(グレーブアクセント付きE小文字)res ceux qui les portent. モンテーニュはしばしばこの種の地口を弄して得意である。『随想録』全体を通じて jeu de mots を数えあげたら相当の数にのぼるであろう。
 ユリウス・カエサルの例をただ一つ挙げさえすれば、これら二種類の欲望のあいだの相違は十分に理解される。まったく、未だかつてこの人ほど恋の楽しみに耽ったものはなかった。身だしなみに何かと心をくだいたことはその一つの証拠であって、当時行われた最もみだらな方法まで用いたのである。たとえば、全身の毛を抜かせたり、きわめてめずらしい香料を塗らせなどしたのである。それに彼自らすこぶる美男子であった。肌は白く、身たけはすらりと美しく、頬は豊かで、眼は鳶色でいきいきしていた。もっともそれは、スエトニウスのいうところが本当だとすればである。なぜなら、ローマで見られる彼の像は、何れも、すべての点で、この描写にちっとも似ていないからである。彼は四人も妻をかえたほかに、少年時代にはビテュニア王ニコメデスとの間に情交があったばかりでなく、あの有名なエジプトの女王クレオパトラも彼のために処女を失ったので、その間に生れた可愛い小カエサリオンこそその証拠である。彼はまたマウレタニアの女王ニウノエに、それからローマではセルウィウス・スルピキウスの妻ポストゥミアや、ガビニウスの妻ロリアや、クラッススの妻テルトゥラや、いや大ポンペイウスの妻ムキアにまで言いよった。ローマの歴史家のいうところによれば、ポンペイウスがムキアを離婚した原因はこれであるが、プルタルコスはそんなことは知らなかったと白状している。またクリオ父子は、後にポンペイウスがカエサルの娘と結婚したとき、「自分の妻を寝とった男の婿になったこと、自らアイギストスとよびなしていた男の婿になったこと」を非難した。彼はこんなに多数の女のほかに、なおカトーの妹でかつマルクス・ブルートゥスの母であるセルウィリアを妾にした。人はみな、彼のブルートゥスに注いだ大きな愛はそこから生じたのだと信じている。なぜならブルートゥスは、かれカエサルから生れたらしく見られる時期に生れたから。だからわたしが彼を最もこの種の放縦に身を委せた人・はなはだ好色なたちの人・であったとするのは、当然であろうと思う。けれども野心というもう一つの情念が(これまた同じように彼の心に深くしみこんでいたのであるが)、ふと今申した情念とり合いを始めたかと思うと、たちまちにしてその位を奪ってしまった。
* アガメムノンの妻クリュタイムネストラの情夫。アイギストスとは「山羊の児」という意味らしい。
 (c)これにつけて思い出されるのは、あのコンスタンティノポリスを征服し・遂にギリシアという名前を絶滅させた・マホメットであるが、わたしはこの人ほど、以上二つの情念を均等にもちあわせた者を知らない。彼は色男としても軍人としても、同様に疲れることを知らなかった。けれどもその二つが彼の一生において互いにせり合った場合には、常に戦争熱の方が恋愛の熱を制御した。そして後者は、自然の季節におくれはしたが、彼が大いに老境に入ってもう戦争の重荷に堪えなくなるに及んで、始めて十分にその至上の権威を取り戻したのである。人がこれとは反対の実例として、ナポリ王ラディスラウスについて物語るところは特筆に値する。彼は勇敢で野心的なあっぱれ武将であったが、その野心の究極の目的は、肉欲を満足させ類い稀な美女を享楽することであった。その死もまたそういう志にかなっていた。彼ははなはだ巧みに攻囲を進めて、フィレンツェの都を非常な窮地におとしいれたので、住民がしきりに講和を望むと、かねて聞き及んだ城中第一の美女を自分に引渡すという約束をさせた上で、その囲みを解いた。そこで人々は、いよいよ女を彼にわたし、一市民の私の恥を犠牲にして、その都市全体の滅亡を防がなければならなくなった。女は当時有名な医者の娘であったが、その医者はそういうあさましい運命のもはや避け難いことを知るや、ある気高い企てを決意した。皆が彼の娘を、こんどの新たな愛人の気に入るように様々の飾りや宝石の類いで美々しくよそおわせると、父である彼もまた、その初めての交わりに使わせるために、香りといい作りといい誠に見事なハンカチを娘に与えた。それこそ女たちがこのような場合に決して持ってゆくことを忘れない物であった。ところがこのハンカチには、父がその研究の結果を傾けつくして作った毒がしませてあったから、あの興奮して毛穴の開いた肉にふれると一瞬にして毒をそこに浸みこませたので、熱い汗は冷たい汗にかわり、二人はたがいに抱きあったまま絶命した。再びカエサルの話にもどろう。
 (a)彼はこのように快楽にふけりながらも、自分を偉大にしそうな機会が発生すれば、唯の一分間といえども逸することなく、唯の一歩といえどもそれからはずれることがなかった。この野心という情念は、他のもろもろの情念をそれほどまでに支配していたから、そして彼の霊魂をそれほどまでにしっかりとつかんでいたから、彼を思うがままに引きまわしたのである。この人物が他の点では甚だ偉大であったこと・もろもろのすばらしい特質をもっていたこと・彼が記述しなかった学問はほとんどなかった位あらゆる種類の知識においてすぐれておったこと・などを考えると、わたしはこのことを実に残念に思う。彼は、多くの人々が彼の雄弁をキケロのそれよりも珍重したほどに雄弁であった。彼は自分でも、この特質においてキケロにゆずるところがあるとは少しも思っていなかったろうと、わたしは思う。彼の二篇の「反カトー論」は、もっぱらキケロがその「カトー論」の中に述べているカトー礼賛の向うをはって書いたのである。それにカエサルの霊魂ほど周到な・活溌な・そしてまた辛抱強い・霊魂がかつてあったろうか。いや確かに彼の霊魂は、いろいろの稀な徳の萌芽をもって、つまり生きた・自然の・少しもまげられていない・もろもろの徳の萌芽をもって、光っていた。彼ははなはだ質素で、食物なんかにはすこぶる無頓着であった。オッピウスが語るところによると、ある日食事に招かれて、普通の油でなく医薬用の油が入っているソースを出されたところ、主人に恥をかかせまいとて、しこたまそれを頂戴したということである。またある時は、彼のパン焼きが彼のために特別上等なパンを出したといって、これを鞭うたせた。カトーさえが彼についてはしばしば言ったものだ。「彼こそその国をさびれさせた質素第一の人である」と。だからこの同じカトーがある日彼のことを「酔いどれ」と呼んだのは(そのことの起りはというと、その時は二人とも元老院にいたのであるが、折からそこではカティリナの謀反のことが語られていた。カエサルもその一味ではないかとあやしまれていたのだが、そこへ誰かが、こっそりと彼に手紙を届けてきた。カトーは、これこそ何か一味の者が知らせてよこしたのだろうと睨んで、彼にそれを見せろと強いた。カエサルはますます疑いをかけられてはと思って、仕方なしにそれを渡した。見ると、どうだろう、それはカトーの妹セルウィリアから彼に送られた恋文であった。カトーはこれをよむと、いきなりこれを投げかえして、「取れ、酔いどれ!」といったのである)、それは(わたしはあえていう)、むしろ軽蔑と憤怒との語であって、決してこの不徳を特に叱責してのことではない。ちょうど我々が誰かがしゃくにさわると、口から出まかせの悪口、その者に何の関係もない言葉を、浴びせかけるのと同様である。つけ加えておけば、カトーが彼に叱責したこの不徳〔酔いどれ!〕は、たった今カエサルの中に露顕したもう一つの不徳〔肉欲〕と非常に近い。まったくことわざにいうとおり、「恋の神と酒の神とはいつも仲よし」なのだ。
 (b)けれどもこのわたしにおいては、ウェヌスは酒気のない時にかえって旺盛である。
 (a)彼が自分にはむかった者に対して温和寛大であった実例は限りなくある。わたしは、彼が内乱のなお進行中に示したその種の実例を別にしていうのである。この方〔内乱最中における寛仁〕は、彼がみずからその記録の中にほのめかしているとおり、わざとそうやって敵を懐柔し、あらかじめ自分の未来の支配と勝利とを敵がこわがらないようにと思ってしたことである。だが、これらの実例も、彼の天性の温和を証拠だてるにはなお不十分であるとしても、少なくともこの人物におけるすばらしい信頼と大度とを示すには足りると思う。彼は敵の大軍を一ぺん降参させたのち、そっくりそのまま敵にかえしてやることがしばしばあった。服従の誓いは勿論のこと、今後手むかいはいたしませんという誓いさえもさせなかった。彼は三、四へんポンペイウス側の大将のたれかれを捕えたが、そのたびごとに彼らを放免した。ポンペイウスは、戦争において自分のあとに従わない者はすべて敵だと公言した。ところがカエサルの方は、中立を守って動かない者・積極的に彼に向って武器を取らない者・はすべて友と思うと宣言した。彼の下にあった大将で・のちに彼のもとを去って敵に走った者・に対しては、後からその武器や馬やその他の荷物まで届けてやった。兵力によって奪い取った都市にも、自由にその欲する側に従うことを許し、温和寛仁の記憶を残しとどめる以外に、いかなる部隊をもそこに残さなかった。彼はファルサロスの大会戦の日、「やむをえない場合のほかは、ローマの市民には手をかけるな」と命じた。
 以上のことは、わたしの判断によれば、ずいぶん危険な行為である。我々が現に経験している内乱において、彼と同じように自分の国の旧制度を擁護する人々が、以上の例にならわないのも不思議ではない。ああいうのは非凡な方策であって、これを成功に導くことは、一にカエサルの運と彼の賞賛すべき先見の明とがあってこそできるのである。わたしはこの人のくらべようのない偉大さを考えるとき、勝利の神がついに彼の手をふりきることができなかったこと、あの不正不法な場合においてさえ彼にそむくことができなかったことも、やむをえなかったと思う。
 彼の寛大の話に立ちもどるに、我々は彼の統治時代に、すなわち万事が彼の掌中に帰して・彼がもう仮面をかぶる必要のなくなった・時代に、その純粋な実例をいくらも持っている。カイウス・メンミウスが彼に対してはなはだ辛辣な論文を書いたときも、一応はこれに対してすこぶる痛烈な返答をしたけれども、そのすぐ後に彼を執政官にするための助力をおしまなかった。カイウス・カルウスは彼に対して誹謗ひぼう的な諷刺詩をたくさん書いていたが、友達を介して仲直りをしようとすると、カエサルは自分の方から先に手紙を書いた。それから例のカトゥルスもマムラという名で彼をひどくこき下ろしていたが、悪かったとあやまってくれば、さっそくその日の晩餐に招待した。彼のことを悪しざまにいいふらしている者どもの名を告げられても、公の演説の中でちゃんとそれを知っているぞと宣言するほかには何もしなかった。彼は敵を憎みもしなかったが、なおさらのこと恐れもしなかった。彼の命を奪おうとする謀反の集会があちこちに暴露された時も、ただ布告をもって、ことはすでに発覚したと公表するだけで満足し、別に張本人の追跡などはしなかった。彼が友だちを大切にしたことは、カイウス・オッピウスが彼とともに旅をして病気になった時、唯一つしかなかった宿を彼のために譲って、自らは夜どおし野宿したのでも知られる。また彼が正義の人であったことは、自分が特別に可愛がっていた奴隷があるローマの騎士の妻と寝たのを知ると、誰もこれを訴えたものはなかったのに、これを死刑にしたほどである。未だかつて勝利にのぞんでこれほどの節制をまもり、非運に際してこれほどの我慢をもった人はなかった。
 だがすべてこれらの立派な傾向も、あの野心という恐ろしい情念にあってはたちまちに変えられおさえつけられた。まったく彼も野心のためにはあれ程までに引きまわされたのであるから、野心こそ彼のすべての行為の舵を取ったのだということも、容易に支持することができる。野心のためにあまりにもおうようにあまりにも気前よく与えたので、せっかくこの寛大という徳をもちながら、彼はついに一人の公盗に堕落してしまった。そして、「どんな邪悪無残な人間でも、わたしをえらい者に祭り上げるために骨折ってくれるなら、必ずわたしの権力をもちいて、もっとも尊敬すべき人々と同様に愛護し出世させてやる」という、あのいまわしい・はなはだ不正な・言葉を吐くまでになった。こういう極度の虚栄に酔いしれたればこそ、たけだけしくも彼はその同胞の前で、「この偉大なローマ共和国を形体もなく実体もない一つの名前とした」ことを誇り、「今後わたしの返答はそのまま法律となるだろう」と言ったり、元老諸公が来るのを坐ったまま迎えたばかりか、人から神様のような扱いをうけて平気でいたのである。要するにわたしの考えでは、唯この一つの不徳が、彼の世にもうるわしく豊かな天性を滅ぼし、彼の記憶を正しい人々にとっていとわしいものにしたのである。思うに、彼が自分の光栄を、自分の国の破滅の中に、世界第一の最も強くて花やかな国家ともなるべきその国の滅亡の中に、求めようとしたのが悪かったのである。
 これに反して、偉大な人物でありながらマルクス・アントニウスその他のように、淫欲のために国政の指導を忘れた人たちの例は、いくらも見出すことができるだろう。けれども恋愛と野心とが等量にあって、同じ力をもって相争う場合には、結局野心の方が主導権を握るであろうことをわたしは断然疑わない。
 さて再び始めの話にもどるが、我々の欲望を理性の教えるところによって制御したり・暴力を用いて我々の器官にその義務を守らせたり・した例はたくさんある。けれども、隣りの人のためになろうとして自分に鞭を加える人、ただ自分をくすぐるあの甘い情念や・自分が他人に好かれているのを知って感ずる愉快さや・甲からも乙からも愛され求められていると知って感ずるあの愉快さを・捨ててかえりみないばかりでなく、その原因となっているところの我々の身にそなわった愛嬌までも憎み呪い、我々の美貌までも、他人の心を燃えたたせるもとであるからとして、これを切り傷つける人となると、さすがにその例きわめて稀である。次の話はその中の一つである。トスカナの若者スプリナは、

(b)冠または首輪の飾りとして
黄金にはめこまれし真珠の輝くがごとく、
黄楊つげまたはテレビンの木にはめられし、
象牙の輝くがごとくに、
(ウェルギリウス)

(a)たぐいまれな美貌にめぐまれていたが、そしてその美しさは最も自制力のある眼でさえもその輝きにたえられない程であったが、そのように自分がいたる処にあおりたてる熱情をどうしてやることもできないのを不満に思い、自分に対し、自然から贈られたあれ程の豊かな恵みに対して、まるで他人の過ちに対して喰ってかかるかのように憤り、わざと自分を傷だらけにして、自然があれほど丹念に彼の顔の上に保っていた完全な均斉調和をめったぎりにした。
 (c)これについてどう思うかといわれるならば、わたしはこのような行為は、驚嘆はするけれども尊敬はしない。こういう極端はわたしの主義の敵なのである。なるほどその企ては美しく良心的であるけれども、わたしの意見ではいささか知恵を欠いている。もし彼の醜さが、その後他の人々に軽蔑とか憎悪とかいう罪を犯させるもとになるならば一体どうするつもりか? また世間の人を、そのような稀な行いの栄光を羨んだり・この気分を何か突拍子もない野心かなんかのように曲解してそれをけなしたり・するような罪に、おとし入れるようなことになったらどうする? いったい不徳が働こうにもどうしても働く機会が見出せないというような、そんな姿かたちが果してあるものだろうか。むしろスプリナは、これらの神の賜物を、そのまま模範的な徳行や整った行いの基にしたならば、一そう公正であったとともに一そう栄光に照り輝いたことであろうと思う。
 世間一般の義務をのがれている人々、几帳面で謹直な人間を社会生活において束縛しているあの無数の・いろいろな点で困難の多い・規則をのがれている人々〔僧院に生活する人々〕は、いかに特別の苦業をその身に課しておられるにしても、わたしの考えではつまらぬことをなさるものだと思う。まあそれは正しく生きる苦労を避けようとして死ぬのと同じことである。それでは彼らも、他の報いはうけることもできようが、困難が与える報いだけは到底うけることはあるまいと思う。またむつかしいことといって、自分の役目のあらゆる部分を忠実に履行しながら、同時に世の荒波の唯中に毅然として立つことくらいむつかしいことはないであろう。恐らくは、妻と同棲しながらあらゆる点で申分のないようにその身を持することに比べれば、全然女との関係を絶ちきることの方がずっと楽であろう。人は貧乏の中に気楽に暮すことはわけなくできるが、富裕の中にあって均衡のとれた消費生活をすることはむつかしい。理性にかなった享楽は禁欲よりもつらいものだ。節制の方が我慢よりもずっと骨が折れる**。小スキピオの正しい生き方は幾通りもの様式をもち、ディオゲネスの正しい生き方は一通りしかない。後者は純潔という点では普通の生活を凌駕りょうがしているが、その分、有用で力ある点では前者の稀にみる完成した生活にはかなわないのである。
* これはいわば自殺行為であり、カトリック教の訓えにも反するではないかと言っているのである。
** 節制(すなわち「理性にかなった享楽」)は、全然我慢すること(souffrance)よりも世話がやけ手がかかる(affaireux)、すなわち困難であるという意味。ここにモンテーニュのエピキュリスムが正しく理解される。モンテーニュが享楽家だというのはこの意味においてである。
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第三十四章 ユリウス・カエサルの戦争の仕方についていろいろ気がついたこと



 (a)人が多くの大将について語り伝えているところによれば、彼らはそれぞれ何かの本を虎の巻としていた。たとえば大王アレクサンドロスはホメロスを、(c)スキピオ・アフリカヌスはクセノフォンを、(a)マルクス・ブルートゥスはポリュビオスを、カルル五世はフィリップ・ド・コンミーヌを、という風に。そして噂によれば、今日ではマキアヴェリがなお、よその国では尊重されているということである。けれども、故元帥ストロッツィがカエサルをその師とされたことこそ、確かにもっともよく選んだものというべきである。まったく、まさにこれこそ、真の・至上の・兵学の師として、あらゆる軍人たちの虎の巻でなければならないだろう。それに彼がいかなる雅趣といかなる優美とをもってこの豊富な内容を装飾したかは、知る人ぞ知る。その語り方はきわめて純粋・微妙または完全で・あったから、わたしの感じからいうと、世に、この部門において、カエサルの書物に比べられるものは一つもないのである。
 わたしはここに、わたしの記憶に残っているところの・彼がしたいろいろな戦争に関する独特にしてまた稀な・二、三の事跡を書いておきたい。
 彼の軍隊が、「王ユバに率いられて押寄せて来る敵の軍勢はおびただしい」という風評にいささかおじ気づくと、彼は兵卒どものそうした弱気を叱ったり、「いや敵の兵力は少ないのだ」などとごまかしたりしないで、彼らを安心させ元気づけるために一同を集合させた上、普通の人とは反対の方法をとった。まったく彼は皆にこういったのである。「敵が連れて来る兵力の多い少ないなどは、あえて尋ねるに及ばない。わたしはそれについて、すこぶる確かな情報を得ている」と。そしてクセノフォンの中でキュロスが勧めている忠告に従って、事実よりも、またその軍中に流布していた評判よりも、はるかに大きな数を示したのである。というのは、同じ当てはずれでも、敵が予期したよりも実際において弱いとわかった時は大したことにならないが、評判では弱いと思っていた敵が本当はなかなか強いと知るときは、それこそ大変な結果になるからである。
* クセノフォンの『キュロペディア』
 彼はすべての場合において、兵士どもが大将の計画を批判したり論議したりしないで単純にそれに服従するように訓練し、いよいよ実行というときにならなければその計画をあかさなかった。万一彼らがその中の何ごとかをかぎつけると、立ちどころにその考えを変えてしまい、彼らの意表に出るのを面白がった。そしてしばしばこのために、宿営を或る地に指定しておきながらわざとそこを通り過ぎたり日程を延長したりした。天気が悪く雨もよいの時などには特にそういうことをやった。
 スイス人たちが彼のガリア征討の始めに、使をよこして「どうかローマの領土を通過させてほしい」と申し入れて来た時は、腹の底では兵を用いて彼らを阻止する決心をしていながら、わざとやさしい顔を見せ、返事を数日引きのばし、その間に味方を大ぜいかり集めた。かわいそうにスイス人たちは、彼がいかに自分の時を用いるのに巧みであるかを知らなかったわけである。まったく彼は、「うまい機会をとらえること、そして迅速に行動すること、これこそ大将たるものの至高の特質である」と、幾たびも繰り返している。ほんとうにこの特質は、彼の勲功の中に信じられないほど多分に含まれていた。
 彼は講和をするように見せかけながら敵をかますという点であまり良心的ではなかったが、その兵士たちに武勇以外の徳を要求しなかった点でも、謀反と命令違反以外の不徳はほとんど罰しなかった点でも、やはり良心的ではなかった。勝ちいくさのあとでは、しばしば兵士たちをしばらくの間軍紀上の諸規則から解放し、彼らにあらゆる奔放をゆるした。そのうえ兵士たちは実によく訓練されていたから、いざとなれば身に麝香じゃこうのかおりを帯びていても、たちまちに狂気のように戦場にかけつけた。本当に彼は、兵士たちを美々しく武装させることが好きであった。そして彼らに彫刻のある・金銀を鍍金めっきした・馬具をつけさせた。それらの武具を奪われまいという気が、ますます彼らを防戦の際に勇猛にするよう望んだのである。彼らに言葉をかける時は「友よ」と呼んだ。これは我々が今なお行っているところである。ところが彼の後継者アウグストゥスはそれを改革した。というのは、「カエサルがこういう呼び方をしたのは、それが彼の戦争遂行上必要であったからで、ただ義勇兵の資格で彼の指揮下にあるものどもの心をよろこばそうとしたためである。

(b)ラインの渡りにおいてはカエサルはわが将たりき、
ここローマにおいてはわが友となれり。
罪はその汚す者すべてを平等にすればなり。
(ルカヌス)

(a)だが皇帝・大元帥・という尊い位にある者にとっては、こういうよび方は余りに卑屈すぎる」と思ったのである。そして再び、ただ「兵よ」と呼ぶ習慣を回復した。
 そんなに丁重であるかと思うと、カエサルはまた、彼らを叱るときにはきわめて厳格であった。第九軍団がプラケンティアの近くで謀反をしたとき、まだそのときはポンペイウスが頑張っていたのに、これをひどい目にあわせた上解体した。そして度々の嘆願をきいてから後にやっと許した。彼が謀反をしずめたのは、寛仁によってではなく権威と果断によってであった。
 彼はラインを渡ってゲルマニアに押寄せた時のことを語りながら、「船で軍隊を渡すのはローマの民の名誉にふさわしくないと思ったから、橋をかけさせてこれを踏みとどろかせながら渡った」といっている。彼が驚くべき橋をかけたというのはこのときのことであって、彼はこまかにその構造について述べている。まったく彼は自分のどんな手柄を物語る時でも、こういう手先の仕事において自分がいかに緻密な工夫をこらしたかを物語る時ほど、長々と語ったことはないのである。
 わたしはまた、彼が開戦にのぞんで兵士たちに与える激励を、きわめて重視していることに気がついた。まったく彼は、奇襲を受けたとか急いだとかいうことを示す場合には、いつも軍隊に訓示を与える暇さえなかったと言訳している。あのトゥロニの民との大会戦を前にして、「カエサルは」と自ら書いている。「万事を命令し終ると、部下の者を激励するために、急いで運命の導くところへ駈けつけた。第十軍団に出会ったが、ただ『日頃の勇気を忘れるな。驚きあわてずに勇敢に敵の勢力に抵抗せよ』というより外には、何もいう暇がなかった。そして、敵がすでに迫って矢のとどく所まで来ていたので、即座に開戦の合図をした。さらに他の者どもを励まそうとそこを去ってよそへ行って見ると、彼らは既に敵と取っ組んでいた」。こんな風に彼はそのくだりに書いているのである。ほんとうに、カエサルの弁舌はいろいろな場合に非常に役だった。彼の時代においてさえ彼の雄弁は大いに推賞されたので、彼の軍に従った幾多の人たちは彼の演説を集めていた。そして、そのようにして数巻の書物が編まれ、彼の死後に永く残された。彼の語り方には特殊の趣があった。だから彼に近しかった者は、中でもアウグストゥスは、そこに集録されているものが読まれるのを聞きながら、その一言一句においてまで、彼のものと然らざる部分とを識別した。
 始めて公職をおびてローマを出発したとき、彼は八日もたたないうちにローヌの河についた。その馬車の中では、彼の前に一人または二人の秘書が坐って絶え間なく記録しており、背後には彼の剣を捧持するものが坐っていた。実際ただの旅をするにしたって、人はとても次のような彼の速さには追いつかないだろう。彼は連戦連勝、ガリアを捨ててポンペイウスをブルンディシウムまで追った上、たった十八日でイタリア全土を従え、再びブルンディシウムを経てローマに帰った。ローマから彼はイスパニアの奥地に入り、そこでアフラニウスおよびペトレイウスとの戦に、またマルセーユの長い攻囲に、非常な困難をおかした。それから軍をかえしてマケドニアに入り、ローマ軍をファルサロスにやぶり、さらにポンペイウスを追ってエジプトに渡り、この地を征服した。エジプトからシリアおよびポントスの領土にいたり、ここでファルナケスと戦った。それからさらにアフリカに渡り、そこではスキピオおよびユバを破り、続いてイタリアを通ってイスパニアに帰り、そこでポンペイウスの息子たちを破った。

(b)稲妻いなずまより早く、子らを守る虎よりもはやく。
(ルカヌス)

風に吹かれ雨にたたかれ年月にむしばまれて、
山の頂から崩れ落つる大磐石の、
落ちながら木々をも羊の群れをも人々をも、
皆ことごとくなぎ倒しおし転ばして行くがごとく。
(ウェルギリウス)

 (a)アウァリクムの攻囲について語りながら彼は、「人夫たちを働かせながらそのそばに夜昼立ちつくすのは自分の習慣である」といっている。重大な企てに当っては、いつも自ら偵察した。そして、まずもって自ら踏査したところでなければ、決してその軍隊を通らせなかった。いやスエトニウスの言葉を信ずるならば、イギリスに渡ろうと企てた時は、彼自ら先頭に立って瀬踏みまでしたのである。
 彼は常にいった。「わたしは力ずくでえる勝利よりも、熟慮によってえる勝利の方がすきである」と。だからペトレイウスおよびアフラニウスに対する戦争において、運は彼にきわめて明白な勝利の機会を示したのにこれをしりぞけた。そしていう、「少しは長びいても、あんまり危険な目にあわずに敵を征服する方がいいから」と。
 (b)彼は同じ時に、もう一つすばらしいことをやってのけた。というのは、全軍に向って、別に何の必要もないのに、河を泳いで渡れと命じたのである。

戦いに行くために、その兵士は、
その逃ぐる時には取るまじき道をとれり。
彼は濡れたる体に再び鎧をつけ、
駈けながら河の水にてこごえたるその脚を温めたり。
(ルカヌス)

 (a)何か事を行うに当っては、彼の方がいつもアレクサンドロスよりもひかえ目で考え深かったと、わたしは思う。まったくこのアレクサンドロスという人は、一所懸命に危険をさがし求めているように見える。ちょうど奔流が見さかいもなくそので合うものすべてにぶっつかるように。

(b)ダウノス王国の中を牡牛のように、流れゆくアウフィドゥス河が、
一たび怒れば、恐ろしき洪水もて、肥えたる田畠を浸すがごとく。
(ホラティウス)

(a)だから、アレクサンドロスは花やかな血気盛んな年頃に戦争をしたのだが、カエサルの方はすでに成熟しよわいを重ねてからこれにたずさわったのである。アレクサンドロスは血の気の多い・怒りっぽい・熱烈な・性質であったばかりでなく、さらに酒によってこの気質をあおり立てたが、その酒をカエサルの方は非常にひかえた。けれどもどうしても必要な機会が生じたり、また事態がそれを要求する時には、カエサルほど自分の身を軽んずる者はかつてなかった。
 わたしから見ると、彼の様々な手柄の中には、負けて生恥をさらすよりはむしろいさぎよく死のうという堅い決心が、ひそんでいたように思う。トゥロニの人々に対して行った大会戦のとき、味方の先頭が崩れかけるのを見ると、そのまま彼は、たても持たないで敵の真正面に躍り出た。こんなことは、他の場合にも度々あったのである。部下の者どもが包囲されたと聞くと、変装して敵の間を通りぬけて行き、自分もそこに在ることを示して士気を鼓舞した。きわめて僅かの手勢をもってデュルラキオンへと渡ったが、アントニウスに指揮を委ねておいた残りの軍隊がなかなか後に続かないのを見ると、単身大暴風雨をおかして、再び海を渡ってかえろうとした。そして対岸の諸港も海の全面もポンペイウスの手に握られていたのに、ひそかに抜け出して残りの軍隊を引張ってきた。
 また彼がおこなったたびたびの遠征を見ると、剣呑けんのんせんばんで戦術上のあらゆる理論を越えたものがたくさんあった。まったく、どれほど劣った兵力をもってエジプト王国を従えようと企てたか。それから後でも、味方の軍隊よりも十倍も大きなスキピオやユバの軍隊を攻めようと企てたではないか。このような人たちは、自分の運について何かしらふつうの人間のもたない確信をもっていたのである。
 (b)だから彼は常にいったのである。「大きな企ては実施しなければならない。討議すべきではない」と。
 (a)ファルサロスの戦いの後、自分の軍隊を先にアジアに送っておき、自分だけただ一艘の船にのってヘレスポントスの海峡にさしかかると、ちょうどその沖合で十艘の大きな軍船を率いるルキウス・カッシウスに出あった。彼は相手を待つどころか、勇敢にもこっちからまっしぐらに漕ぎよせ降伏を勧めた。そしてついにやりとげた。八万の防ぎ手が立て籠っているアレクシアの城をどうしても落そうと攻囲を企てた時には、ガリア全体がこぞって彼に攻めかかり、その攻囲を撤去させようと、十万九千の騎兵と二十四万の歩兵とからなる一軍を編成したのであったが、断然その企てを捨てようとはせず、あのような二つの大難事を同時に決行しようとしたのは、何という豪胆、何という命しらずの自信であろう。だが、彼は二つながらにやってのけた。まず城外の敵に対する大戦闘に勝ったかと思うと、やがて程なくその攻囲した敵をも降参させた。ルクルスもまた、王ティグラネスに対してティグラノケルタを攻囲した時、同じように勝ったけれども、両者は到底くらべものにならない。ルクルスが相手にした敵は弱かったから。
 わたしはここにこのアレクシアの攻囲に関して、二つの非常にめずらしい出来事を特記したい。その一つは、ガリア人たちがそこでカエサルを迎え打とうと一斉に集合したが、自分たちの全兵力を計算した後、それが混乱に陥ることを恐れて、評議の結果その大集団から相当な部分を切り離す決意をしたということである。そのようにあまりに兵の数が多いことを恐れたという例は珍しいことである。だがよく考えて見ると、給与の困難を思い、また指揮統率の困難を思えば、軍隊は適度の・ある限度を守った・大きさを持つべきであると考えるのは、もっともなことである。少なくとも、烏合の大軍が何事をもしでかさなかったことを、実例によって証することは容易であろう。
 (c)クセノフォンの中でキュロスが言うところに従えば、敵に勝つもとはただ兵卒の数ではなくて、良い兵卒の数である。しからざる兵卒は、助けとはならないでむしろ邪魔になる。だからバヤズィトは部下のすべての大将の意見にそむき、もっぱら「敵軍はその限りなき多数のためにきっと混乱におちいるだろう」という予想のもとに、断然タメルランに挑んだのである。スカンデルベックはその道にくわしいすこぶる判断の正しい人であったが、常に「力ある大将にとっては、一万ないし二万の忠実な兵士さえあれば、どんな苦戦におちいってもその名声を守るにこと足りるであろう」といった。
 (a)もう一つの話は、戦争の習慣にも理論にも反するように見えるが、謀反したガリアのすべての地方の総大将であったウェルキンゲトリクスが、アレクシアの城に立て籠ろうと決心したことである。まったく一国全体を指揮する者は、いよいよ最後の城に立て籠るよりほかにはもはや全く望みがなくなったというような・それこそ危急存亡の・場合でなければ、決して籠城などすべきではない。むしろ自分に従うすべての軍団を指揮することができるように、自由な場所にいなければならないのである。
 カエサルの話に立ちもどるに、彼の親友オッピウスが証明するように、彼は年とともにますます気ながになり考え深くなった。「あれほどたくさんの戦勝の名誉をそまつにしてはならない。それは唯一つの失敗のために一朝にして失われることがある」と考えたからである。これはよくイタリア人がいうことである。彼らは若い人々に見られるあの無謀な大胆を叱責して、※(始め二重山括弧、1-1-52)bisognosi d’honore※(終わり二重山括弧、1-1-53)「名誉にガツガツしている」という。また「この名誉に大いに餓えかわいているうちは、あらゆる代償を払ってもこれを得ようと努めるのはもっともであるが、すでに十分にこれを得ている者は、決してそういうことをしてはならない」という。この栄光の欲望の中にも、何らかの節度があるに違いない。また他の欲望におけるがごとく、やはりある種の飽満があるに違いない。かなり多くの人々が、そのような経験をもっている。
 カエサルは、古代のローマ人が計略を用いずただ天賦の勇気だけによって勝とうとしたあの潔癖からは、はなはだ遠かった。けれども今日の我々よりは、はるかに多くの良心をもって戦いにのぞんだ。戦勝を得べきあらゆる種類の方法を承認しはしなかった。アリオウィストゥスとの戦いにおいて彼と談判をしているとき、アリオウィストゥスの騎兵たちの過ちがもとで両軍の間に一悶着おきたことがあるが、その騒ぎの最中に、カエサルの立場は敵に対してきわめて有利になったが、不信のそしりをこうむることを恐れて、彼はあえてそれによって勝とうとはしなかった。
 彼は皆の目につくような豪奢な・色あざやかな・装いをして戦いにのぞむのを常とした。
 彼は敵に近づくと、ますます軍紀を厳正にし部下の将兵を監督した。
 古代のギリシア人は、誰かが極度に無能であることを責めようとする時には、「読むことも泳ぐことも知らない」という慣用句を用いるのが常であった。カエサルもまた泳ぎは戦いにきわめて必要であるという意見で、それからたくさんの利益をえた。急を要する時には、途中で出会う河という河を、彼はいつも泳いで渡った。まったく彼は大王アレクサンドロスのように、徒歩で旅をするのが好きだったのである。エジプトにおいて、逃げるためにいやでも小船に乗らなければならなかった時、大勢の者が同じ船にのりこんだためにあぶなく船が沈もうとすると、自ら進んで海の中に飛び込み、そこから二百ひろばかりのところにあった味方の艦隊に泳ぎついた。左の手では手帳を水面高く差し上げ、その口には陣羽織をくわえて。つまり敵にそれらを分捕ぶんどられないためにである。しかもその時、彼はすでに相当年を取っていたのである。
 いまだかつて、部下の兵士たちから、あれ程までに信頼された大将はなかった。彼のあの内乱が始まると、百人隊長たちはそれぞれ金を出し合って、彼のために騎馬武者一人ずつを雇入れて差出そうとしたし、ただの兵卒たちまでが、幾分でも裕福なものは貧乏なものの分をも持つという風にして、とにかく自分たちの費用で、彼のために奉仕することを申し出た。故アミラル・ド・シャティヨン殿は、最近わが国の内乱の際に、同じような人望のあることを示された。まったく、彼の部下のフランス人が、皆で、同じように彼の軍に従っていた外国兵士の給料を、出し合っていたのである。このような熱烈な敬愛の実例は、古い規則を守って昔流儀に進んでゆく者どもの間にはほとんど見られないであろう。
* アミラル・ド・シャティヨンとは Gaspard de Coligny のことで、新教派の頭目である。「外国兵士」というのはドイツからきたプロテスタントの兵士である。「昔流儀に進んでゆく者ども」とはカトリック陣営による人々を指すのであろう。
 (c)感情は理性よりもずっと強く我々を支配する。だからハンニバルに対する戦争の際には、市中のローマ人の気前のよいのにならって、兵隊や隊長までがその給料を辞退した。そしてマルケルスの陣営では、これを受けた連中を「傭兵」とあざけった。
 (a)デュルラキオンの近くで戦いにまけると、カエサルの兵士たちは自分から罰をうけようと彼の前にすすみ出たので、彼の方では叱るどころか、かえって慰めなければならぬ始末であった。彼のある一小隊は、孤軍奮闘してポンペイウスの四箇軍団を四時間あまりも支えた末、とうとう降りしきる矢の下にほとんど全滅した。塹壕ざんごうは百三十万本の矢で一杯になった。スカエウァという一人の兵士はその入口の一つを守っていたが、ひるまずにそこに踏みとどまった。片眼はつぶれ、肩と股とは突き刺され、その楯には二百三十カ所の穴をあけられていた。捕虜となった者も、多くは降参するのをいさぎよしとせず死をえらんだ。グラニウス・ペトロニウスがアフリカでスキピオに捕えられた時、スキピオは彼の戦友たちをみな死刑にしてから、「お前だけは身分高くまた勘定奉行であるが故に助けてやる」と申し送った。ペトロニウスは答えて、「カエサルの部下は生命を他人に与えるのには慣れているが、それを受けるのには慣れていない」といった。そしていきなり自らの手で命を絶った。
 カエサルの部下の人たちの忠節には、実例が数限りなくある。ポンペイウスにそむいてカエサルについた都市サロナに立て籠った人々の示した振舞は忘れてはならない。それは前代未聞の事であった。マルクス・オクタウィウスが彼らをとり囲んでいた。城中では何もかもが極度の窮乏に陥った。大部分の人間が死んだり傷ついたりして人力が欠乏したので、これを補充するためにすべての奴隷を解放した。また軍用に供するために、すべての女の髪の毛を切りそれで縄を作らなければならなかった。それに食糧の欠乏が尋常なものでなかったことは勿論である。だがそれでも、彼らは決して降伏しまいと堅い決心でいたのである。そしてさんざんに攻囲を長びかした後、ようやくオクタウィウスがその企てにうみ、油断をするところを見るや、ある日のこと、正午ごろを選んで、まず女子供を城壁の上に登らせ、さもこともなげに見せかけておいてから、突然非常な勢いで攻囲軍に向って打って出た。第一・第二・第三・第四軍と、ひた押しに押しやぶり、敵をその塹壕のすべてから追い出し、遂にはこれを船の中にまで追い込んでしまった。オクタウィウスさえが、ポンペイウスのいたデュルラキオンまで逃げ帰ったほどだった。わたしはいまだかつて、このように籠城軍が攻城軍を全くうち挫いて遂に戦いに勝ったという実例を、読んだことがない。城から討って出ながら完全なほんとうの戦勝に終ったという実例も全く想い出せない。
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第三十五章 三人の良妻について



 (a)よい女というものは、誰でも知っているように、そうざらにあるものではない。ことに結婚の義務の上では稀である。まったく、結婚はいろいろと厄介な事情が充満した契約であるから、一人の女の意志が変らずに長くこれを守りとおすことはむつかしい。男の方は幾らかよい条件のもとにあるが、それでもなかなか骨が折れる。
 (b)良い結婚の試金石、本当の証拠は、その交わりが継続する長さによる。つまり、それが常になごやかで・誠実で・愉快で・あるかどうかによる。この節ではたいていの場合、女たちはその良い奉仕と激しい愛情とを、夫たちが死んでから後に示そうと取っておく。(c)その時になって、始めてその誠実を示そうと努める。それこそ遅蒔おそまきの時期はずれというものだ! それではかえって、死んでからでなければあたしは夫を愛しません、と告白するようなものである。(b)生前は喧嘩に充満し死後は愛と礼とに充満している。世の父親がその子に愛情をかくすように、彼女たちもまたいつも夫に向って愛情をかくし、いわゆる清らかな敬慕を保とうとする。だがそんなお芝居はわたしの趣味に合わない。いくら、髪をかき乱し胸をかきむしって見せても、だめである。わたしはこっそりと、女中や秘書のところに行ってきいて見る。「二人の仲はどんなでした? どんな風に暮していました?」と。わたしはいつも次の警句を思い出す。※(始め二重山括弧、1-1-52)悲しみ浅きものこそ大げさに泣きわめく※(終わり二重山括弧、1-1-53)(タキトゥス)。彼女らの愁傷顔は生きている者にとってはいやらしく、死んだ者には何の慰めにもならない。我々が生きている間に笑ってくれるなら、我々は妻が我々の死んだ後にも笑うことを喜んでゆるすであろう。(c)なんといまいましいことであろう、わたしが生きている間はわたしの顔につばを吐きかけておきながら、そろそろわたしがいなくなろうとすると、急によりそってわたしの脚をさすろうとは。(b)たとえ夫の死を泣くことにいくらかの名誉があるにしても、それはかつて夫に向って笑った女たちだけのものである。夫が生きているあいだ泣いた女たちよ、夫が死んだら笑いなさい、正直に。なにも隠すにはおよばない。だからあの濡れた眼や哀れっぽい声にはおかまいなさるな。あのおおぎょうなヴェールのかげに、その態度を、その顔色を、その頬のふくらみを、ごらんなさい。そこでは彼女たちもはっきりしたフランス語を語っている。その健康がめきめきと回復してゆかない女は少ないが、この健康にこそ嘘はないのである。あの勿体ぶった態度は、過去を惜しむ心ではなくて未来のためのものである。それは支払いではなくていわば前金なのである。わたしが少年の頃、ある貞淑な甚だ美貌の貴婦人が(それはあるプリンスの未亡人で今もなお生きておられるが)、何であったか我々の掟では未亡人が帯びることを許されていない首飾りをおつけになった。或る人がこれを咎めたところ、「それは私がもう新たな愛を求めていないからです。私には再婚の意志がないからです」と仰せられた。
 まるきり我が国の風習にそむいてもわるいから、わたしはここに、やはり夫の死をめぐってその愛慕の限りをつくした三人の妻を選んで見た。だがそれは当世の流儀とはいささかちがい、きわめて熱烈な、断然命までもなげ出した妻の話なのである。
 (a)小プリニウスはイタリアにあるその家の近くに、恥ずかしいところにできた腫物はれもののために非常に苦しんでいるひとりの友人をもっていた。彼の妻は夫がそんなにも長く病みわずらっているのを見て、「その病気の場所をゆっくりと詳しく見させて下さい。誰よりも率直に、なおる望みがあるかないかを申し上げますから」と申し出た。そして許しを得て丹念に夫の体を調べた末、今は到底なおる望みのないこと、今はただ相当に長く苦しい衰えの生活をつづけるよりほかに道のないことを覚った。そこで最も確実でこの上ないよい療法として自殺を勧めたが、夫がそういう荒療治の前にいささかためらうのを見ると、「夫よ、お疑いあそばすな」と彼女はいった。「あなたを苦しめているその苦しみは、わたくしをも同様に苦しめているのでございます。そして、この同じ苦しみを逃れるために、わたくしもまた同じ療法を取るつもりでございます。わたくしは病気においても、あなたのお供をしましたように、治癒においてもあなたに従いとうございます。少しも恐れることはございません。私どもにこのような苦悩を逃れさせるこの死への渡りには、ただただ愉快があるだけだとお考え下さい。さあ、手に手をとって幸福にあの世に参りましょう」。こういって夫を励ましながら、もろともに海にのぞんだその家の窓から身をなげる決心をした。そして最後まで、生前夫に捧げたのと同じ貞淑な・熱烈な・愛をつづけるために、夫を自分の両腕の中で死なそうと願った。けれどもその腕がはずれること、恐怖と墜落とのために抱擁がゆるみ解けることを恐れて、夫の体を胴のまんなかでしっかりと自分の身にくくりつけた。こうして、夫の生命の平安のために自分の生命を捨てたのである。
 この女は低い階級のものであった。こういう身分の人々の間には、めずらしい立派な行為が見られることも、そう稀ではないのである。

正義、この世を去らんとして、
最後に足をとどめしは彼らの許なり。
(ウェルギリウス)

あとの二人は富貴の婦人である。この種の人々の間に徳の実例が宿ることは非常に稀である
* モンテーニュは幼年期にうけた教育の結果か、当時の人民大衆の生活に同情があり、それに親近感をもっていた。『随想録』の中でも、しばしば、高貴な人々の非行を難詰しながら、下層の人々の方に好意をよせている。後出第三巻第九章では、はっきりと、「よき運と良心とは相容れない。人は不運にのぞまなければ善人にならない」といっている。第二巻第二十九章、第三巻第十二章にも同様な傾向が見られる。モンテーニュは人民の味方である。
 執政官級の人物カエキンナ・パエトゥスの妻アリアは、あのトラセア・パエトゥスといって暴帝ネロの時にその徳を高くたたえられた人の妻である・もう一人のアリアの・母であった。そしてこの婿を通じて、ファンニアには祖母に当った。まったく、これらの男女の名前とその運命との類似は、いろいろな間違いのもとになったのである。さてこの最初のアリアは、夫カエキンナ・パエトゥスがその頭目と仰ぐスクリボニアヌスの敗北の後に、皇帝クラウディウスの部下に生捕られると、夫を捕虜としてローマに連れてゆく人々に向って、どうか自分もその船に乗せてほしいと懇願した。つまりそのほうが、夫のために大勢の給仕をつけるよりは費用もわずらわしさも少なくてすむであろうから、自分一人で夫の部屋の掃除・食事・その他万端の世話をすると言うのであった。だが人々はこれを退けた。すると彼女は、すぐに漁船を一そう借り受けてこれにとび乗り、スクラウォニアからそのまま夫のあとを追った。彼らがローマに着いたある日のこと、皇帝の御前にまかり出ると、スクリボニアヌスの未亡人ユニアは、お互いの運命が似かよっているところから、なれなれしく彼女の傍に近づいたところ、アリアは荒々しくこれを突きのけて言った。「あたしはあなたに何も言いたくない。あなたから何も聞きたくない。スクリボニアヌスは、あなたの膝の上で殺されたのではないか。よくもあなたはおめおめと生きていられるものだ」と。これらの言葉を始めいろいろなそぶりは、彼女の近親のものに、彼女が夫の非運を見るに見かねて自決しようとしていることを感づかせた。そこで彼女の婿のトラセアは、義母が自ら命を絶たないように嘆願してこういった。「もしもわたしがカエキンナの運命と同じ運命に陥るならば、あなたはあなたの娘であるわたしの妻が、やはり同じようにすることを望まれますか」と。「何ですって?」と彼女は答えた。「申すまでもありません。あたしはそう望むでしょう。もしもあたしの娘が、あたしがあたしの夫と共に生きたように、長く久しく・また大へんむつまじく・あなたと共に生きたのであったなら」。これらの答はいよいよ人々の彼女に対する用心を大きくさせ、彼女の行動に対する監視をますます厳重にさせた。ある日のこと彼女は見張りの人々に向って、「どんなになされようともむだなことです。あなたがたはわたくしに、もっと悪い死に方をさせることはできましょうが、わたくしを死なせないように守りとおすことはできませんよ」といったかと思うと、つと坐っていた椅子から立ち上るなり、いきなり傍らの壁に力一杯その頭を打ちつけた。そのために彼女は気を失い、大いに傷ついて、その場にばったりと倒れたが、人々が骨を折って彼女をよみがえらせると、こういった。「今も申したとおりです。何かやさしい自殺の方法をわたくしにお拒みになるならば、わたくしはさらに別の方法を採るでしょう。どんなにむずかしい方法でも」と。この感嘆すべき徳の最後は次のようであった。夫パエトゥスが、残酷な皇帝によって死刑に処せられながら自ら死を決行するだけの勇気を持たないので、ある日のこと、まず夫にこのようにさせたいと思うその勧告にふさわしい論説と激励とを用いてから、ついに夫がおびていた短剣を奪い、これを抜き持ち、その激励の結論として、「パエトゥスよ、このようになさいませ」というよりはやく、先ず自分の胸に致命的な一撃を加え、次にこれをその傷口から抜き取って夫の前に差出し、※(始め二重山括弧、1-1-52)P※(リガチャAE小文字)te non dolet.※(終わり二重山括弧、1-1-53)という・気高い・勇ましい・不朽の・言葉をいうと共に、その生を終った。彼女は、「ほらパエトゥスよ、ちっとも痛くは、ありませんよ」という・きわめて立派な内容をもった・三語だけしかいう暇を持たなかったのである。

純潔なるアリアは、その愛する夫に、
今しおのれの胸より引き抜きし剣を捧げてかくいいぬ。
「信じてたもれわれとわが身に加えしこの打撃、
わらわには少しも痛くあらざりき。
ただそなたがそなたに与えんとするその一撃が、
パエトゥスよ。わらわに痛からんことを恐るるのみ」と。
(マルティアリス)

それは、その原語においては、もっとずっと強い・ずっと深い・意味をもっている。まったく夫の傷と死とは、また自分自らのそれらも、彼女にとっては苦しいどころではなかったのである。彼女自らがその勧め手でありその言い出し手であったのだから。けれども、この高く勇ましい企てを彼女はただただ夫の身の安楽のために行ったのであるから、最後の瞬間にもなお夫のことだけを思っていた。自分の後を追って死ぬ恐怖を、夫から取り除こうということだけを思っていた。パエトゥスは、いきなり、その同じ短剣を自分に突きたてた。きっと、これほど高価で貴重な教訓を必要としたことを、自ら深く恥じたのであろう。
 若くてはなはだ高貴なローマ婦人ポンペイア・パウリナは、すでに非常な高齢になっていたセネカと結婚した。ネロという奴はとんでもない弟子で、師匠たる彼に警吏を送って死刑の宣告をさせたのだが(それは次のようになされたのである。当時のローマの皇帝たちが誰か身分ある人を処刑する時には、まず家来をつかわして何なりと彼が欲するような死を選ばせ、それをこれこれの期限内に決行するようにと申入れるのを常とした。彼らはその期限を、その人に対する怒りの大きさによって、あるいは長くあるいは短く規定し、その期間に身のまわりの始末を十分つけさせることもあれば、わざと期限を短くしてそうすることができないようにすることもあった。そして、もし宣告された者が彼らの命にそむくと、特にそれを専務とする執行者を派遣して、あるいは腕や股の動脈を切らせ、あるいは無理に毒を飲ませたりした。けれども名誉を重んじる者は勿論そんな強制をまたず、自分から自分の医者の手を借りて処決したものである)、セネカは静かな落ちついた面持で使者たちの口上を聞き終ると、遺言をしたためるために用紙を求めた。ところが使者頭がそれをしりぞけたので、彼はその朋友たちの方に向きなおり、こういった。「わたしは皆さんの御厚情に対する感謝のしるしとして別に何ものこすことができないから、せめてわたしの持っている最も美しいもの、すなわち、わたしの考え方と生き方とのイメージをのこしてゆこうと思う。どうかそれを永く記憶の中にとどめておいて、わたしの真率真実な友人であったという光栄をうけられたい」と。そして彼の朋友たちが非常に悲しんでいる有様を見ると、或いは優しい言葉でこれをなぐさめ、或いは声を励ましてこれを叱った。「あの立派な哲学の掟はどこへやったのか」と彼はいった。「我々が長い年月運命の転変に対して備えておいた貯えはどうしたのか。ネロの残忍は今に始まったことではない。母や兄を殺した者から我々は何を期待することができよう。自分を育ててくれた師匠を殺すくらい、いかにも彼のやりそうなことではないか」。こう皆に言ってきかせてから、彼はその妻をかえりみた。そして強く彼女を抱きしめると、彼女は悲痛の重荷に堪えなかったのだろう、気も力も一時に失いつくしたので、彼は、「どうかわたしをいとしいと思うなら、もう少し我慢強くこの不幸に堪えておくれ。今やわたしの研究の結果を、推理や討論によってでなく・事実によって・証明すべき時が来たのだから。わたしは今、死に直面しながら悲しんでいないどころか、確かに喜んでいるのだから」といった上、「だから、愛するものよ」とつけ加えた。「そなたの涙によってこの死をけがしてくれるな。そなたはわたしの名声よりもそなた自らを愛するように見えてはいけない。そなたの悲しみをしずめなさい。そなたはここにわたしとわたしの行いとを知りえたことをもって自ら慰めてほしい。どうか今までのように清く正しい業にいそしみながら余生をおくってほしい」。これをきくとパウリナはやや気をとり直し、きわめて貴い愛情によってその気高い心をふるい立たせながら、「いいえセネカ」とそれに答えた。「わたくしはこのような不幸のただ中に、お供もせずにあなた一人を行かせるにしのびません。あなたの一生の徳高い実例は、わたくしにも良く死ぬる道を十分に教えました。それはうそではございません。あなたとご一緒でなしに、いったいいつ、わたくしはより良く・より清く・より喜んで・死ねましょう。わたくしは必ずあなたとご一緒に参ります」。そこでセネカは、妻のそれほどに気高く輝かしい決心をよろこび、また自分の死後彼女を敵の残酷と気紛れに委せる心配からも救われようとして、「パウリナよ」と彼はいった。「わたしは、そなたがより幸福に生きるのに役立つことを、そなたに教えた。それなのに今、そなたは死の名誉の方を選ぶ。よろしい。わたしは決してそれをそなたにおしむまい。堅固な決心は、我々に共通な最期において全く等しくあるように。しかし美と栄光とは、そなたの方により大きくあるように」。そういい終ると、二人はそれぞれの腕の動脈を同時に切らせた。けれどもセネカの脈管はその老齢と禁欲のために硬化していたので、出血があまりに遅くまた乏しかった。彼は更に股動脈をも切れと命じた。そして加わる苦悶の状態が妻の心を動かすことを恐れ、自らもまた妻の同じように痛ましい姿を見る悲しさから救われたいと、きわめてねんごろに別れをつげた後、自分の体を隣の室に運んでゆかせる許しを妻に乞うた。人はその通りにした。けれども、これ程の切開をしても、なお自分を死なせるのには不十分であったので、その医者スタティウス・アンネウスに命じて毒を盛らせたが、これも功を奏しなかった。まったく、四肢が衰弱し冷却していたために毒も心臓までとどかなかったのである。そこで人は、さらに彼を熱い湯の中に入れた。その時彼はいよいよ最期が近いのを知り、息のつづくかぎり、自分が現在ある状態についてきわめて優れた講話をつづけた。それを彼の秘書は、声のきき取れるかぎり筆記した。彼のこの最後の言葉は、その後長く人々の手の中に尊重された(これが我々まで伝わらなかったのは、実に悲しむべき損失である)。いよいよ死期の迫ったのを感ずると、血に染まった湯をくんで自分の頭にそそぎ、「わたしはこの水を救いの神ユピテルにそそぐ」といった。ネロはすべてこれらの事柄を聞き知ると、ローマ婦人の中で最も身分の高い人々との血縁が深いのみならず・彼が少しも特別の憎悪をもたなかった・このパウリナの死が世間の非難のまととなることを恐れ、急いで人をつかわしてその傷をぬわせた。彼女は既に半ば死んでおり全く知覚を失っていたから、それは彼女の知らぬ間に彼女の家来によってなされた。こうして彼女は心ならずも生き残ったが、その余生ははなはだ清らかなもので、いかにもその徳にふさわしかった。その顔の青白さは、彼女がその傷口からどれ程の生命を流れ出させたかを物語っていた。
 以上がきわめて真実なわたしの三つの物語であるが、わたしはこれらを、我々が世間の人々を喜ばすために勝手にこね上げる物語に劣らず、いみじくもまた哀れ深いものであると思う。そして世の作者たちが、書物の中に幾千となく遭遇するこのような美しい実話の方を選ぼうとはしないのを、かえって不思議に思う。そうした方がずっと骨も折れないし、ずっと楽しくてためになる作もできるだろうのに。まったく、誰でもそれらのものをもって一巻の書物を作ろうと思うならば、その人はそこに何ら自分のものをさし加えるには及ばないであろう。ただ異質の金属を蝋付けするハンダのようなものさえ持っていれば足りるであろう。それさえあればあらゆる種類の事実談を、作品全体が美しくなるように様々に按排配置しながら、結びつけてゆくことができるであろう。大体そのようにしてあのオウィディウスは、あんなにたくさんの異なった物語をつぎ合せて、その『メタモルフォセス』〔変形譚〕を作り成したのである。
 この最後の夫婦においては、なおこういうことが考察されるのに値する。というのは、パウリナは夫いとしさのためにいさぎよくその命をすてようと申し出ているが、夫の方は以前に、その妻いとしさのあまり死ぬ志を翻したことがある、ということである。我々から見ると、この交換の中には十分な釣合がないように見える。けれども彼のストア的な考えかたによれば、妻のために生きながらえたのも、彼女のために死んだのと等しく、やはり彼女のためであったと思う。彼はルキリウスに与えた手紙の一つの中で、ローマで熱病にかかったので、急いで馬車に乗って、妻がとめるのもきかず、田舎の自分の別荘に行ったこと、妻に向って「これは体の熱ではなくて場所の熱だ」と答えたことなどを説明した後、次のように続けた。「彼女は、くれぐれもお体を大切に、といってわたしを出してくれた。ところでわたしは、わたしの生命の内に彼女をも宿していることを知って、ようやく彼女をいつくしむ心でわが身をいつくしむようになった。わたしは老齢がわたしに与えた特権によって、いろいろなことにおいて昔よりも一そう頑固一徹になったけれども、この老いぼれの中にもわたしを力と頼む一つの若い生命があるのだと気がつくと、その特権も消えうせる。わたしは彼女にもっと雄々しくわたしを愛させることができないので、彼女の方がわたしにわたし自身を一そういつくしみ愛させるのである。まったく清い愛情には多少の譲歩をせねばならない。そして、ときには機会が我々を反対の方におしやるけれども、いくら苦しくても、やはり生命は大切にせねばならない。霊魂を歯の間で食い止めなければならない。まったく生の掟は、正しい人々にあっては、『生きたいだけ生きよ』ではなく、『生きねばならぬ間は生きよ』なのである。妻や友のために、嫌な生命であってもながらえようとは考えないで、何でもかんでも死のうというのは、あまりにも意気地がない。家の者がぜひ生きていてほしいという場合には、霊魂はそのように自分に向って厳命しなければならない。時には我々を、我々の愛する人たちに貸さなければならない。我々自らのためには死にたい時も、彼らのために我々の企てを中止しなければならない。他人のためを考えて生に立ちもどるのは、心が偉大である証拠であって、多くの優れた人物が行ったことである。生きたくもない老年を大切にすることは(老年最大の特権は長生きに対して無頓著になり生命をますます大胆に粗末に取扱いうることなのであるから)、そうすることがいとしい誰かにとってうれしく・喜ばしく・また有難いことであるのを意識してであれば、並々ならぬ慈愛の行為である。それで人は、それからはなはだ楽しい報いをうける。まったく、妻にとって自分がきわめて大切なものであり、妻の胸の中では彼女自らよりも大切に考えられているということ程、うれしいことがまたとあろうか。だからわたしのパウリナは、わたしに彼女のことを心配させたのみならず、わたしのことまでも心配させた。いかに平然としてわたしは死ぬことができるかと、考えるだけでは足りなかった。同時に、いかにとり乱して彼女がわたしの死を迎えるであろうかをも考えた。わたしは生きることを余儀なくされた。実際、生きるということはときには大度たいど侠気きょうきなのである」と。これは彼の言葉である。(c)例によって実に立派な言葉である。
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第三十六章 最も秀でたる男性について



 モンテーニュが常に古代の人物を尊敬していることはユマニストの常として異とするに足りないが、彼がその中でどういう人物を特に賞賛しているかを考えることは大切である。ところでそれは、概して思想家であるとともに行動家でもある人物であったように思われる。この章ではまず第一にホメロスを推し、当時のユマニストの誰でもがするように、彼が哲学・科学・宗教・芸術・政治・戦争、その何れにもすぐれていたことをほめているが、後に第二巻第十二章に加えた(b)(c)の追加を見ると、もうそんな万能は信じていない。ただ最大の詩人として尊敬しているだけである。アレクサンドロスに関するモンテーニュの考え方も前後を通じて大分変っている。一五八〇年以前にはプルタルコスの証言によって「人間として最も偉大」な人物と思っていたのだが、一五八七年にクイントゥス・クルティウスを読んでその幾多の欠点を知ってからは、大分その尊敬を割引している(一の一、三の二参照)。だがエパメイノンダスに対する尊敬だけは終始一貫して変らない(三の一、三の十三、および索引参照)。この人は彼のいわゆる「数階建ての霊魂」※(始め二重山括弧、1-1-52)※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)me ※(グレーブアクセント付きA小文字) divers ※(アキュートアクセント付きE小文字)tages※(終わり二重山括弧、1-1-53)(三の三)で、いかなる環境にも主となりうる人として、モンテーニュの理想に最もかなった人なのであった。――なおエパメイノンダスの次にはソクラテスが大好きである。この章が一五八八年以後に書かれたとしたら、多分アレクサンドロスの代りにソクラテスが置かれたのではないかと思う(三の二参照)。
 それはともかく、彼が古人においてほめているのは常にその強い意志の力であることに注意すべきであろう。彼は人間をただ弱いものとばかり見てはいなかったのである。だが一方、彼はその尊敬する偉人を語りながらも、その欠点も決して語りわすれなかった。それは彼が、異常特別な行為などは凡俗な人間にもひょっこりなされることもあるのだとして、少しも重んじていない証拠であって、むしろ彼らがわれわれと同様に欠点の多い人間でいながら、その日常生活をあれほどまでに調整し得ているという点をたたえるのである。先にも註した通り、モンテーニュは欠点を克服する努力のないところに徳を認めないのである。
 なおこの章の標題は、前章「三人の良妻について」につづいて、男性中の最も優秀な第一級の人物を選び論評している。

 (a)「お前の知っている限りの男子の中から選んで見よ」といわれるならば、断然衆にぬきんずる優秀な人物が三人あるように思う。
 その一人はホメロスである。だがそれはアリストテレスとかウァロとかが(ほんのこれはたとえであるが)、多分かれ程には物知りでなかったということではない。ましてやウェルギリウスが、その芸術においてさえ彼には比べることもできなかった、などというのでは決してない。このへんのことは、彼らを両方とも知っておられる皆さんのご判断に委せる。わたしはただウェルギリウスだけしか知らないのだから。ただわたしにわかる限りでは、ミューズの神々さえこのローマの詩人にはかなわないだろうといい得るだけである。

(b)彼はその巧みなる琴の音にあわせて、
アポロンのうたう歌のごとくにたえなる歌をうたえり。
(プロペルティウス)

(a)けれどもこう判断しながらも、なおウェルギリウスはその才能をもっぱらホメロスに負っているのだということ、ホメロスこそ彼の案内者であり師匠なのだということ、『イリアッド』のただの一節があの偉大で神々しい『アエネイス』をうみ出すもととなったのだということを、忘れてはならないであろう。だがわたしは、ただこんな風に考えているだけではない。なおこのほかにも、この人をほとんど人間以上の驚嘆すべき人物であると思わせる、いろいろな事情を考慮に入れているのである。そして本当に、たくさんの神々を造り出し、これをその権威によって人々に信じさせた彼が、彼自ら神の列に昇らなかったということに、わたしはしばしば驚くのである。盲で貧乏だったのに、またもろもろの学問が規則や確実な観察の中に表現される以前の人だったのに、あんなにも多くの学問を知っていたからこそ、後の世の、国をおさめたり・軍を指揮したり・(c)その属する派のいかんにかかわらず(a)宗教や哲学を論述したり・また芸術について語ったりする・人々が、みんな彼をあらゆる知識におけるはなはだ完全な師と仰ぎ、彼の著書をあらゆる種類の才能の苗床のように利用したのである。

正か邪か、有用か無用かを、彼は、
クリュシッポスやクラントルよりもよく我らに言う。
(ホラティウス)

いや、ある人がいったように、

涸れざる泉より吸うが如くに、詩人たちは、
彼の著作におもむいて、ピエリアの水を吸いにき。
(オウィディウス)

またもう一人はいった。

そこにミューズの友たちを加えよ。なかんずく、
ホメロスは、ついに昇りて星辰の群れに伍したり。
(ルクレティウス)

またある人はいった。

その著作こそ尽きざる泉よ。後の世の詩人たちは、
おのれの畠に水そそがんと、そこにみたり。
それはまた滔々とうとうたる大河。後世はこれを百川にわけ、
ただ一人の遺産をわかち受けたり。
(マニリウス)

実に彼は自然の秩序に反して、世にも優れた作品をつくり上げた。というのは、物事はふつう不完全な状態で生れいで、のちに成長するにつれ段々と増大し強固になるのであるが、かれホメロスは、詩その他もろもろの学問の少年期を、一ぺんに成熟させ完成させたからである。そういうわけで、人は彼を最初の詩人にして最後の詩人と呼ぶことができる。すでに古人も、「彼は彼以前に彼が模倣しうる人をもたなかったが、彼以後においてもその模倣者をもたなかった」という賛辞をのこしている。アリストテレスによると、彼の言葉だけが溌剌として生気ある言葉であり、それだけが実質のある語句である。大王アレクサンドロスは、ダレイオスの遺物の間に一つの華麗な手箱を見出すと、それを秘蔵のホメロスを納めるために取っておくように命じ、「この人こそわたしが軍務を処理する時の、最も優れた相談相手であった」と言った。これと同じ理由のために、アレクサンドリダスの息子クレオメネスはいった。「彼こそはラケダイモン人の詩人であった。彼は軍紀の最もすぐれた師範であったから」と。また、「彼こそ人々を決して倦み飽かしたことのない唯ひとりの著者である。彼は読者の眼に常に新たに見えるから。そして常に異なった風情の花を咲かせるから」という・プルタルコスの・いかにも彼らしい・賛辞も、今なおホメロスに対する定評となって残っている。あのアルキビアデスという気ちがいじみた男は、文学を職とする一人の男にホメロスの一冊を求め、彼がそれを持っていないのを知ると、ちょうど祈祷書を持たない我々の僧侶の一人を見出した者のように、その横っつらを張りとばした。クセノファネスは、ある日、スュラクサイの暴君ヒエロンにむかって、貧乏で二人の下僕さえ養いかねる身の上を嘆いたところ、「何だって?」とヒエロンは答えた。「ホメロスはお前よりもはるかに貧乏であるが、その身は死んでもなお万を越える者を養っている」と。(c)パナイティオスがプラトンを呼んで「哲学者中のホメロス」といったのは、最上級の賛辞ではなかったろうか。(a)それに、どんな栄光がホメロスのそれにくらべられるか。およそ彼の名と彼の著作くらい、今なお人々の口にほめたたえられているものはない。トロヤやヘレネやその戦争くらい(それらは恐らく実在しなかったと思うのであるが)、人々に知られまた信じられているものはない。今なおわが国の子供たちは、彼が三千年の昔にこね上げた名前で呼ばれている。誰がヘクトルやアキレウスを知らないか。たんに個々の家々ばかりでなく、大部分の国々が、彼の架空の物語の中に祖先を求めている。トルコ皇帝マホメット二世は、我々の法王ピオ二世に書を送ってこう言われた。「わたしはイタリア人が党を組んでわたしに手向うのを不思議に思う。我々はお互いにトロヤ人の流れをうけているのだから。いや、わたしもまたギリシア人に対してヘクトルのために復讐しようと心掛けているのに、なぜイタリア人はわたしに背いてギリシア人をまもるのか」と。なんと崇高な狂言ではないか。数世紀にわたってもろもろの王や国家や皇帝たちがその人物を演じており、この広大な宇宙全体がその舞台をなしているとは。ギリシアの七つの都市、

スミュルナ、ロドス、コロフォン、サラミス、キオス、アルゴス、アテナイ、
(アウルス・ゲリウス)

は、いずれも、われこそは彼の誕生の地だと争っている。それほどに、彼の生地不明そのことさえが彼に名誉をもたらしたのである。
 もう一人は大王アレクサンドロスである。まったく、考えてもみたまえ。一体いくつのときに彼はその大事を企てたか。どんなに僅かな手段であのような光栄ある企てを成しとげたか。いかなる権威を、彼は、あのような若い時代に、最も経験のある・最も偉大な・部下の大将たちの間にかちえたか。いかに非常な運命の加護のもとに、あれほど多くの・危険の多い・いや無謀なとさえ言いたいくらいの・偉業をなしとげたか。

(b)己れの限りなき野心を妨ぐるすべてを打ち倒しつつ、また
破壊のただなかに己れの血路をひらくを楽しみつつ、
(ルカヌス)

(a)三十三歳で人間が住みうるすべての土地を討ち従え、(b)半生の間に人間がなしうるすべてを果したとは、何という偉大なことであろう。もし彼が正常の寿命をうけ、最後まで絶えずその徳と運とを増大して行ったら、一体どんなことになったろうか。我々はそこに、人間以上の何ものかを想像せずにはいられないのである。(a)その兵士たちにあんなにたくさんの王家をたてさせ、死んでからは世界を彼の下で唯の大将にすぎなかった四人の後継者に分与し、その子々孫々にこの大領土を長く伝えさせて今日に至ったことは、何という偉大なことであろう。それに、彼には数多くの優れた徳があった。(b)正義を重んじ、節度があり、気前がよく、約束に忠実で、部下を愛し、敗者にやさしかった。(a)(まったく彼の行状には、正当な非難は唯の一つも注がれなかったように思われる。(b)なるほど彼の私的行為のあるものは稀で異常であった。けれどもああいう偉大な活動を一々正義の規則によって導くことは不可能である。彼のような人物は、その行為の主な目的によって、おおまかに判断されなければならない。テーバイを破壊し、メナンドロスを殺し、ヘファイスティオンの医者を殺し、あの大勢のペルシアの捕虜を一時に殺し、約束に背いてインド兵の一隊を殺し、またコッサイオイ人をその幼児に至るまで殺したこと等々は、いささか許し難いが、いわばやり過ぎである。まったく、クレイトスを殺したことに対しては、自ら十二分にその罪ほろぼしをしたのであって、この行為は他のすべての行為とともに、彼の性質の善良なことを、いや、それがそれ自体高度に善良な天性の発露であることを、示している。(c)世間の人は実にうまいことを言った。「彼は徳を自然から得、不徳を偶然から得ている」と。(b)彼が少々高慢であり、自分の悪口を聞くことに我慢がなさすぎたこと、ことさらに大きな飼葉桶や武器や馬具などを作ってこれをインドにばらまいたことなどは、彼の年齢や彼の(c)異常な(b)成功に免じて許してやるべきだと思う)。なおその上に、あれほどの武徳、すなわち精励と・先見の明と・忍耐と・厳格と・巧妙と・大度と・果断と・好運とを持っていたことを、あわせ考えるならば(これらの点において彼は、ハンニバルの権威ある言葉を借りて来るまでもなく、確かに男性中の第一人者であった)。(a)彼の体が奇跡ともいいたいまでにたぐいなく美しい立派なものであったこと、(b)その顔がいかにも若々しく照り輝き、しかもその態度がいかにも荘重であったこと、

あたかももろもろの星の中に
ウェヌスが特に愛したる暁の明星が、
大海に身そぎしたる後、そのおごそかなる顔を
天高く示して、夜の霧を払うがごとく、
(ウェルギリウス)

であったこと、(a)その知識才能の優れていたこと、汚れもなければそねみもない純粋無雑なその栄光が偉大で久しかったこと、(b)その死後も長く彼のメダイユが、これを帯びる者に幸運をもたらすと深く信仰されたほどであること、たくさんの歴史家が他の王侯たちの勲功について書いた以上に、たくさんの王侯が彼の勲功について書いたこと、(c)そして今日でもなお、他のすべての物語を軽蔑するマホメット教徒が、特別に彼の物語だけはこれを本気にし尊崇していること、(a)などを併せ考えるならば、人はわたしが彼をカエサルよりも愛するのをもっともだと思うであろう。わたしにこの選択を多少ともためらわせることができたのは、実にこのカエサル独りなのである。(b)カエサルの功績の中には彼自らのものが多く、アレクサンドロスのそれの中には運によるものが多いということも、否定しえないのである。(a)二人はひとしいものをたくさんに持っていたが、カエサルの方が、あるいは幾つかより偉大なるものをもっているかも知れない。
* クレイトスは、アレクサンドロスの乳母の弟で、常に彼の軍に従い、グラニクス渡河の際には彼の生命を救った。ところがある日、クレイトスがアレクサンドロスよりも彼の父の功をほめたので、酔っていたアレクサンドロスは、激怒してこれを殺した。けれども彼は酔いがさめて後悔し、厚くクレイトスの霊を弔ったのみならず、自責の念やみがたく、占者アリスタンドルや哲学者アナクサゴラスの解釈によって、その苦悩を軽くしようと骨折った。
 (b)それはちがった場所から等しく世界を席捲した・二つの火災、二つの洪水であった。

それはいばらと月桂樹とのみちみてる、
乾ける林の両端よりつけられたる火のごとく、
また高き山のいただきより物すごき音たてて
泡だちなだれ落つる奔流のごとく、
途中のあらゆるものをうちこわしたり。
(ウェルギリウス)

だがカエサルの野心は、それ自体はより多くの節制をもっていたのであるが、たまたま自国の破壊・全世界の悪化・といういまわしい事柄に遭遇したために、はなはだ不幸であった。だから(a)わたしは、すべての局面を比較対比して、結局アレクサンドロスの方に傾かざるをえないのである。
 第三の最もすぐれた男は、わたしの考えではエパメイノンダスである。
 栄光についていうと、彼は到底前の二人ほどにはもっていない(だから栄光は物事の本質にかかわりがないというのである)。だが決心勇気の方は(もちろんそれは野心によってがれるそれではなく、知恵と理性とがよく整った霊魂の中に植えつけるそれであるが)、想像しうる限り多分にもっていた。しかもこの徳の実証を、彼は、わたしの考えでは、決してアレクサンドロスやカエサルにも劣らないほど、たくさんに示した。まったく彼の戦場での手柄はあれほどしばしばでもなく、あれほど大きくもなかったが、それらをそのすべての状況とともによく考えて見ると、やはり同じように立派なもので、同じように軍人らしい大胆と能力とを証拠だてている。ギリシア人たちはだれも異議なく、彼をギリシア人の間の第一人者とよぶ名誉を彼に与えた。けれどもギリシア第一であることはそのまま世界第一ということである。彼の知識才能に関しては、「いまだかつてかれ程に知り、かれ程に言葉少ない者はなかった」という古人の判断が、今もって信じられている。(c)まったく、彼はピュタゴラス派の流れを汲んでいた。そして、彼が語ったことを、彼よりもよく語った者はかつてなかったのである。彼はきわめてよく人を納得させる優れた演説者であった。
 (a)けれどもその心性・良心・に至っては、かつて国政の処理にあずかったことのあるすべての人々をはるかに凌駕りょうがしていた。まったくこの第一番に考察されるべき・(c)ただそれだけで本当にわれわれがどんな人間かわかるところの・そしてわたしがこれ一つをもって他のすべての特質に対決させようとするところの・(a)特質において、彼はどんな哲学者にも譲らないのである。ソクラテスにさえも譲らないのである。
 (b)この人において潔白は、この人の身についた・主たる・常にかわらない・決して変質することのない・性質である。これにくらべるとアレクサンドロスにおける潔白は、付随的な・不確実な・ぼんやりした・あやふやな・そして偶然的な・ものである。
 (c)古人はこう判断した。「すべて他の偉大な大将たちは、細かに調べて見ると、それぞれその人を輝かす何か特別な性質を持っている。ただこのエパメイノンダスにおいては、彼の到るところにいつも変りなく一つの充実した徳と才能とがあった。それは人生の凡ての務めにおいて全く申し分のないもので、私のこと公のこと、戦争のこと平和のこと、輝かしくまた偉大に生き或いは死ぬこと、その他何事においても、いつも立派であった」と。まことに、これ程わたしが敬愛の情をもって仰ぎ見る人柄や生涯は全く他にはない。正直のところ、彼の貧しい生活に対する執念は、彼の親友たちによって描かれているとおり、いささか執拗にすぎると思う。いやこの行為だけは、気高く甚だ賞賛に価するものではあるが、いささか極端にすぎて、かりそめにもわたしにそれを真似してみようなどという気は起させない。ただスキピオ・アエミリアヌスだけは、もし人がこれにエパメイノンダスと同じくらいの高い輝ける死に方をさせ、同じように深く広い知識をもたせたならば、あるいはわたしも、いずれを上とすべきか、その選択に迷ったかも知れない。おお、なんという残念なことであろう! 年月が『対比列伝』の中から、ちょうどこの・プルタルコス中のまさに最も崇高なものであったろうと思われる・これら二人の人物の生涯の・比較論を奪い去ったとは! 世界が等しく、一方はギリシア人の第一人・一方はローマ人の第一人・と推すこの二人の人物の比較論を! 論題といい論者といいおしいことをした! 聖者ではないがいわゆる紳士、すなわち普通一般の社交生活を営む・中くらいの身分の・ただの人間としては、この世の人々の間に営まれた最も豊富な生涯・最も願わしい豊かないろいろな特質に飾られた生涯・といえば、それはわたしの考えではけっきょくアルキビアデスのそれである。けれどもエパメイノンダスに関しては、(a)彼がきわめて善良であった証拠として、わたしは彼の考え方の幾つかをここにつけ加えたい。
* スキピオとエパメイノンダスの比較論がかなり古くから散逸して伝わっていないことをモンテーニュは嘆いている。
 (b)彼が自分の全生涯を通じて最もうれしく思ったのは、レウクトラの勝利によって父母を喜ばしたことだったと、彼は自ら語った。あのように栄光かがやく行為をなしとげた・自分のきわめて正当な・喜びよりも、父母の喜びの方を重んじたとは、実に奇特なことである。
 (a)彼は自分の国の自由を回復するためであっても、理由を明らかにしないで人を殺すことが許されるとは考えなかった。だから彼は、テーバイを救おうというその友ペロピダスの企てに対して、あんなにも冷淡であったのだ。また、「戦争中敵方に属する友人に出会うことは避けねばならない。出会っても彼を容赦しなければならない」と考えていた。
 (c)実際、彼がその敵に対してさえも寛仁であったことは、ボイオティア人から疑いをかけられるもととなった。というのは、せっかくラケダイモン人がコリントスに近いモレアの入口において守っていた隘路を奇跡的にうち破ったのに、ただ彼らの真中を突き破って通るだけで満足し、あえて彼らを追うことをしなかったからで、そのために彼は総大将の職を免ぜられたのである。だがこのことは、彼のためには大きな名誉となったけれども、ボイオティア人にとっては恥となった。やがて間もなく、彼らは再び、彼を元の位につけなければならなかったからである。彼らの光栄と安全とが、いかに多く彼に負うかを認めなければならなかったからである。勝利は影が形に従うように常に彼のあとにつき従ったのであった。彼の国の繁栄は、彼とともに生れたように、また彼とともに死んだ
* 『随想録』全体を通じて、モンテーニュが古代の偉人においてどのような特質を賞賛尊重しているかを見ることは、はなはだ必要でまた興味あることである。ただこの章を読んだだけでも、彼の理想の人物が思想の人であるとともに行動の人であったこと、また彼が第一に勇気と徳と強い意志を尊重したことが、よくわかる。
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第三十七章 父子の類似について



 この章はモンテーニュが腎臓結石の最初の発作に見舞われた年の翌年、すなわち一五七九年四十六歳の時に書かれたことは確実で、病苦と、そしてまだ五十にもなっていないのだが、寿命の問題とが、彼に自分を考えさせるとともに、その自己を披瀝させたものと考えられる。すなわち自分の持病のこと、みずからそれをどのように耐えているかということ、どこまで医者および医学を信じているかということ、病気になってからどんなふうに自分の気持が変ってきたかということ、祖先や家族のこと、遺伝のこと、それから自分の闘病の経験、というようなことが順々に語られてゆく間に、彼自らがつぶさに描かれる。そして医学の頼りなさ、その反自然的な療法などに関する省察から、自然への恭順よりほかには道がないことに及び、いよいよ自然哲学の提唱・自然への恭順・がはっきりと述べられる。
 このようにこの章におけるモンテーニュの医者および医術に対する批評はすこぶる辛辣で痛快であるが、われわれはその根底に、彼のきわめて綿密な科学的な観察があることを、見落してはならない。われわれの隣人が科学を信頼せず、軽々しくもかえって神秘的な療法に赴くのとは全然ちがって、彼は理性主義者・科学者である。彼は当時の医者よりは勿論、われわれの或るものにくらべてもずっと科学的である。それは第三巻の最終章「経験について」においていよいよはっきり読まれるし、また彼の「旅日記」を読んでもよくわかる。彼はそこに今日の医者に負けないほどの綿密詳細な病床日記をつけている。すなわち医学の敵であるどころか、彼には医者の素質が多分にあったように思われる。あれほどしばしば医者の悪口をいったのに、後世彼が医者のあいだにたくさんの愛読者、信奉者を持ったのも、偶然ではあるまい。見ようによっては彼こそ実験医学の開祖であったともいえるのではあるまいか。サント・ブーヴを始めアルマンゴー、パイヤン、レオン・ドーデー、サブーロー等、何れもモンテーニュ学者であり医者である。
 だがそれらの事柄よりもさらにわれわれが注意しなければならないのは、この章が一五八〇年版『随想録』の最後の章をなしていること、その終りの方にデュラス夫人 Mme de Duras に対する献呈文がさしはさまれていて、一五八〇年の序文と呼応するように仕組まれていること、そして最後のパラグラフの中には『随想録』全二巻の目的が巧みにかくされていることである。まったく、「人々の意見に最も普遍的な性質といえば、それはそれらが多様であるということである」といって、人々が自分と異なる意見をもつ者に対して寛容でなければならないことをちょっぴり述べているのは、第一巻第一章に「実に人間くらい驚くほど空で・まちまちな・そして変りやすい・ものはない」といって始めたこの『随想録』全体の結論なのであって、これはわれわれが見のがすことのできない言葉である。なおそう考えてくると、すでに幾度かいったことであるが、一見何の順序もなく束ねられているように見えるこの『随想録』も、composition を欠いているどころか、実に巧みに compos※(アキュートアクセント付きE小文字) されており、巻頭の解説にのべたように、始めから明確な一つの公的な目的を目指していることがわかるのである。従来第三巻第十三章は『随想録』最後の章として特に注意されるが、この第二巻第三十七章が一五八〇年版の最後の章であることに注意する人が少ないのは遺憾である。この章に、「神様! どうぞ健康をお与え下さい!」とある句は、第三巻第十三章の最終の句、「ラトナの子アポロンよ。願わくはわれに、……健康なる体と健康なる霊魂とをのこし、」の句と共に、これまたモンテーニュの根本思想の一つを含んでいる。

 (a)ここに十一からげにした色々な断片は、皆わたしが退屈でたまらない時に書いたものばかりで、わが家の外で書いたものは一つもない。つまりこの本は様々な休止間隔をおいて出来上ったのである。いろいろな事情が、ときには数カ月にもわたって、わたしをよそに引きとめることがよくあったから。それにわたしは、最初の考えを第二の考えで訂正しない。(c)そりゃたまには幾らか訂正することもあるが、それだって変化をつけるためであって削除するためではない。(a)わたしはわたしの気持の移り変りが示したいので、各部分をそれが生れ出たときのままで見てもらいたいのである。もっと早くから始めていたなら、そしてわたしの移り変りのあとがわかったら、さぞかし面白かったことと思う。わたしの口授の下に筆記の役を勤めていた一人の下僕は、何か大きな分捕りでもする気で、わたしから幾篇かを、あれこれと盗み取った。だが、やつもわたしが損をしたほどには得をしはしなかったろうと思えば、そう腹もたたない。
 わたしは始めてから七つ八つだけ年をとった。どうやらそれだけの獲物えものがなくはなかった。疝痛**とご懇意になったのも、正にこれらの年月のお蔭である。長く彼ら〔年月〕と交際をつづけていると、何かこういったおみやげを頂戴せずにはすまないのである。ほんとうに彼ら〔年月〕は、その長い間の友人たちに対してしなければならないその他いろいろな贈り物の中から、もうちっと我慢のできそうなやつを選んでくれたらよかったのにと思う。まったく、彼らはえりにえって、わたしが若いころから最も恐れていたものをくれたのである。それはちょうど、老年期に起りうるすべての事のなかで、かねがねわたしが最も心配していた物そのものであった。わたしは幾たびか独りひそかに考えた。「これは余りに来すぎたぞ。こんなに遠道をしていると、しまいには何か不愉快な出来事に巻きこまれるようなまずいことになるぞ」と。かねてからわたしは、もうそろそろおさらばをすべき時であるとか、外科医者が腕なり脚なりを切断しなければならないときにすすめるとおり、命も元気で健康なうちにちょん切るほうがよかろうとか、(c)いい時に命を返上してしまわないと自然はいつもひどい高利を支払わせるものであるとか、(a)よくわかってもいたし明言もした。だがそれはただ口先だけのことであった。わたしはそのとき、支度ができているどころではなかった。だが、この苦しい状態に入ってから十八カ月かそこらの間に、わたしはたちまちに、病苦と妥協することを学んでしまった。今ではもうこの疝痛の生活と仲よしになっている。そこになにがしかの慰めと希望とを見出している。それほど人間というものは、その憐れむべき存在に慣れやすいのだ。命をたもつためには、どんなに辛い生活だろうと甘んじて受けるのだ。
* モンテーニュが『エッセー』を書き始めたのは一五七二年頃といわれる。すなわちこの章は一五八〇年前後、正確にいうと一五七九年に書かれたものである。
** 腎石疝。腎臓結石が輸尿管を通じて排泄される時におこす激烈な疝痛。モンテーニュの父もまたこれをわずらった。次頁末註*参照。

(c)マエケナスのいいぐさを聞きたまえ。

よしわが手や足腰の痛まんとも、
よしわが歯ことごとく抜けて落ちなんとも、
命だに残らば文句はなし。
(セネカ)

 またタメルランがレプラ病みを見つけ次第殺させて、「彼らを苦しみから救ってやるのだ」といったのは、その途方もない残酷をおこがましい慈悲の下におし隠しただけのことだ。まったく彼らのうち、そうやって殺されるよりは三倍もレプラ病みでありたいとこいねがわない者は、ただ一人もなかったのである。
 またストア学者アンティステネスが重病にかかって、「誰かわたしをこの苦しみから救ってくれるものはいないか」と叫んだところ、折から見舞に来たディオゲネスが匕首あいくちを突きつけて、「ここにいる。望みとあればすぐでもよいぞ」といったので、「わたしはこの世からとはいっていない。この苦しみからといっているのだ」といいわけした。
 (a)霊魂をとおって始めて我々にとどく苦痛は、他の多くの人たちを苦しめるほどにわたしを苦しめない。これは一つには理性のお蔭であり(まったく世間の人々は、わたしにとってはどうでもよいたくさんの事柄を、恐ろしいこと・命を賭けても避けるべきこと・と思っている)、もう一つには、わたしが自分に真っ正面からぶつかってこない出来事に対してはすこぶる鈍感な性分だからで、わたしはこの性分を、自然から授かった最も有難いものの一つと思っている。しかし真に実在的な肉体の苦痛となると、わたしはそれをきわめて身にしみて感ずる。だがそれにしても、昔はそれを、わたしの一生の最良の時代を通じて神から与えられたあの幸福な健康と安穏とに甘やかされて、ぼんやりと弱くなった眼で遙か遠くの方に望み見ていたからか、わたしはそれを実際以上に堪えがたいものに想像していた。考えて見れば、ほんとうに、苦しくも何ともないものをむやみとこわがっていたものである。そこでわたしは、我々の霊魂の働きの大部分は、(c)我々のような使い方をすると、(a)生命の安静に役立つよりもかえってこれを乱すものだという確信を、ますます深くする次第である。
* ここに自ら鈍感である※(始め二重山括弧、1-1-52)complexion stupide et insensible.※(終わり二重山括弧、1-1-53)と言っているのを文字通り受けとってよいかどうか、決してそうではないと思う。このパラグラフ全体と後出第三巻第十章の始めのパラグラフとを、われわれは慎重によみとる必要があると思う。
 わたしはすべての病気の中で最も悪いやつ、最も急で・最も苦しく・最も命とりになる・そして最も治りにくいやつと取っ組んでいる。わたしはすでに五、六回も、そのきわめて長い苦しい発作を経験した。けれども、威張るわけではないが、死の恐怖から解脱げだつした霊魂・医学が我々の頭の中にしみこませる脅かしだのその結論や結果だのから解脱した霊魂・を持っていれば、そのような状態の中においてさえ、じっと落ちついていることができるのである。それに苦痛そのものも、胆のすわった人間が狂乱絶望におちいるほど激烈な力をもってはいない。少なくともわたしは、疝痛から次のような利益を期待している。すなわち、「しんから死と馴れ合いこれと仲よしになってやろうと思いながら、わたしが今までどうにもできなかったことを、この疝痛こそは完成してくれるだろう」と。まったく、疝痛がわたしを攻め苦しめれば、それだけ死がこわくなくなるのである。有難いことにわたしは、すでにただ生命によってのみ人生**につながっているにすぎないので、疝痛はこのつながりをも解いてくれよう。どうか神さま、最後に激烈な疝痛がいよいよわたしの我慢を押えつけるかも知れない時、それがあべこべの極端に、すなわち死にあこがれ・死を欲望する・というひとしく不徳なもう一方の極端に、わたしを投げこまないでくださいまし!

死を恐るるなかれ、また之を願うことなかれ。
(マルティアリス)

この二つは、ともに恐るべき情念であるが、前のほうが後のものよりはるかに治しやすい。
* モンテーニュの持病は腎臓結石で、その腎石ないし腎砂が輸尿管、尿道を通って排泄される都度、彼はいわゆる腎石疝に苦しんだので、外科手術が発達せず、鎮痛の方法も幼稚であった当時は、不治の病、最も苦しい病として人に恐れられたものである。その病状の詳細については白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」とその註、および「旅日記」の索引中「モンテーニュの病気」の項を見られたい。
** 生きているということによって人生(生命)につながっているだけであって、何も特別に生命に執着があるわけではない。むしろ精神生活においては、既に人生を解脱している。ただ肉体的に人生とつながっているにすぎない。
 それにわたしは、「苦痛をうけるときには、これに対して平気な顔つき・見くびったような落ちつき払った態度・をとれ」と甚だ厳格に命令するあの掟を、いつも単なる見てくれだと思っていた。ただ物の本質と実質とだけを問題にする哲学が、なぜそういううわべなどにあえてこだわるのか。(c)そんな心づかいは、さっぱりとわれわれの身振りや恰好を重く見る狂言師や修辞学の先生に委せてしまうがよい。むしろ思い切って、苦しい時にはあの口先だけの卑怯はかんべんしてやるがよい。それが心から・胸の奥から・の卑怯でない限り、とがめるには及ぶまい。あのわざとらしい泣き言も、自然が我々の権力外に置いた吐息やすすり泣きや動悸や青い顔と、同じに見なすがよいのである。心に恐怖がなく言葉に絶望がないならば、哲学よ、満足しなさい! 我々は五体をよじろうとかまわないのだ。思想さえまげなければ! 哲学がわれわれを鍛えるのは、我々のためであって、他人のためではない。「このようにあれ」というためであって、「このように見えよ」というためではない。(a)哲学よ、お前が鍛えてやろうと引受けた我々の悟性だけを指導すれば、それでよいのだ。疝痛の攻撃に対しては、霊魂が度を失わないように、それがいつもの歩みをすすめることができるように、助けてやりなさい。苦痛とたたかい・これをうけとめる・よう、決して見苦しくその足下にひれ伏すことがないよう、支えてやりなさい。ただ悪戦苦闘に興奮することはあっても、決してそれに打ちのめされたり打倒されたりすることがないように。(c)ある程度までは、交際も談話もできるように。(a)これ程の極まれる難関にのぞんで、そんなに整った態度をとれと要求するのは残酷である。良い手を持っているんなら、しかめ面をしたところで何でもない。うめいて体が軽くなるものなら呻くがよい。暴れて楽になるものなら、思うさまのたうち回るがよい。猛烈な声をだしてどなると(それは妊婦のお産を助けるという医者もあるくらいだから)、多少でも苦痛が蒸発するような気がするなら、そのために苦痛が紛れるというなら、うんとお怒鳴り。(c)無理にそういう声を出すのは断じておやめ。だが出るのは許そう。エピクロスはその賢者に対して、苦痛に際して怒鳴ることを許したばかりでなく、かえってそれをすすめている。※(始め二重山括弧、1-1-52)拳闘家も手甲もて相手をうつ時は大いに怒号す。そは、声の努力の下に全身緊張して、ますますその打撃に力を加うればなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(a)我々は病苦と戦うだけで相当苦しむのだ。あんな碌でもない規則のために苦労するにはおよばない。このことをわたしは、人がよく見かける・あの病気の攻撃にあって暴れ回る・人たちを、いささかなりとも弁護するためにいうのである。まったく今までのところこのわたしは、彼らよりはいくらかましな態度をもって疝痛の苦しみに堪えて来たのである。だがそれは、そういう外見上の端正を保とうと努力したからではない。まったくわたしは、その種の優越をほとんど問題にしてはいないのである。そういう場合、わたしは苦痛の言いなり次第にこの身をまかせるのである。だがそれは、わたしの苦痛がまださほどに激しくないからであろうか、それともそれに対して、わたしが普通の人以上に我慢強いからであろうか。それはわからない。だがとにかくわたしは、鋭いさし込みがわたしを責めつける時、呻吟もすれば、煩悶もする。でも、決して自分を失うまでにはいたらない。

(c)わめき、うめき、泣き、遂には、
身をふるわせて苦痛の叫びをあぐる
(アッティウス)

人のようにはならない。
* カルタをする時の用語。即ちここでは、苦痛に処する強い勇気をそなえているなら、表面に苦しさをあらわしてもよい、という意味である。
 わたしは苦痛の最もはげしい時に自分を検査して、その都度、自分が他の時と同じように健全に、言うことも考えることも答えることもできるのを知った。だが同じように続けて、というわけにはゆかない、苦痛がわたしを乱しそらすから。皆がわたしを最も打ちのめされていると考え、付添の人たちがわたしをそうっとしておいてくれる時、わたしはしばしば自分の力を試して見る。こっちから、わたしの容態とは最もかけ離れた話をしかけたりする。わたしは一つふんばれば何でもできる。だが長つづきはしない。
 おお、なぜわたしには、あのキケロの中に出てくる夢見る人の精力がないのであろう! 彼は夢に一人の乙女を抱いたと見ると、その石を敷布の中に漏らしていたのである。わたしの石はいやにわたしを女ぎらいにする!
 (a)こういう激しい苦痛のあいまあいまに、(c)わたしの輸尿管がぐったりしてそれほどにわたしをいじめない時には、(a)すぐにわたしはいつもの状態にかえる。わたしの霊魂はただ感覚的・肉体的・に驚きあわてるだけなのだから。これは確かに、わたしがひたすら推理によってそういう出来事に備えてきたおかげである。

  (b)それ以来われにとりては、
いまだ知らざる新たなる苦しみはなくなれり。
われ早くよりあらゆる苦しみをなめ試みたれば、
わが霊魂はすべてに対して備われり。
(ウェルギリウス)

 (a)だがわたしも、弟子入り当初は相当手きびしく試された。急激な変化によって、相当に試された。きわめて安穏で幸福な生活状態から、一ぺんに、それまで想像もしなかった程の最も痛い苦しい状態に突きおとされたのだもの。まったくそれは、それ自体はなはだ恐るべき病気である上に、わたしにおいては普通よりもはるかに激烈な開始をしたのである。それからというもの、発作がきわめてしばしば襲来するから、わたしはほとんどもう完全な健康を感ずることがなくなった。でも今までのところ精神は落ちついた状態を保っているから、これを永く続けてゆければ、わたしは、理性の欠如のために、ありもしない熱や苦しみを自ら作って苦しんでいるほかの多くの人たちよりは、かえってよい生活状態にいられると思う。
 世には思い上りから生れる一種巧妙な謙遜がある。たとえば我々がいろいろな事柄において自分たちの無知を認め、きわめておとなしく、「自然が造った物の間には我々の知覚しえない性質状態がいくらもある。我々にはその原因もその方法も発見する能力はないのだ」などと告白するようなのがそれである。こうやって我々はまずつつましやかに良心的な告白をしておいて、やがていつか何事かをわかったような顔をして物語る時に、人から信じられようと期待しているのだ。我々は何もわざわざ理解困難な奇事奇跡をって歩くには及ばない。我々が日常見ているものの間にも、随分と理解しにくい・奇跡の不可解を凌駕する程の・不思議がいくらもあるように思われる。たとえば我々が生れ出てくるあの精液の一しずくが、ただに父親の肉体的形状の刻印を蔵しているばかりでなく、その思想や傾向の刻印までも秘めているとは、何という奇跡であろう! ほんの僅かなこの一滴、それはどこにそういう無限の形を宿しているのか。
 (b)どんなふうにこれらの類似を、それは運び伝えるのか。その伝わり方は随分思い設けぬ突拍子もないもので、曽孫をその曽祖父に似させ、甥をその伯父に似させる! ローマのレピドゥス一家では、三人も、相ついでではなく、間隔をおいて、同じように一方の眼の上に軟骨をもった者が生れた。テーバイには、家中みんながその生れ落ちから槍の突き傷をもっていた一族があって、その跡のない者は不義の子と見なされた。アリストテレスのいうところによると、ある民族では妻が共有であって、生れた子供は類似によってその父にわたされた。
 (a)わたしがこの結石病の素質を父に負うていることは疑うべくもない。まったく、彼は膀胱ぼうこうの中の大きな石のために、大層苦しんで死んだのである。彼は六十七歳になって始めてその病気に気がついた。それ以前には、腰にも、わき腹にも、またどこにも、それらしいきざしは少しも感じなかった。そして、それまではほとんど病気というものを知らない幸福な健康の中に暮していた。いや、いよいよこの病を得てからも、はなはだ苦しい余生をひきずりながら、なお七年も生きながらえたのである。わたしは彼が病気になる二十五年あるいはそれ以上も前に、彼が最も健康であった時代に、その三人目の子として生れ出たのだ。この病気に対する傾向は、そんなに長い間、そもそもどこにひそんでいたのか。父がこの病気からまだそんなにも遠くあった時代に、それによって彼がわたしを作り出した彼の本質のごく微かな一片は、それ自体どんな風に、後日これほどに大きな刻印を与える素因をかくし持っていたのか。いや、どうしてそれは今もあんなに隠れているのか。だって、わたしが独り四十五年の後になってその影響をうけたばかりで、わたしにはたくさんの兄弟姉妹があり、しかも皆母を同じくしているのに、誰もまだそれを感じてはいないのだ。誰かこの経路を明らかにしてくれるなら、ほかのどんな奇跡の説明に関しても、わたしはそのひとを信じよう。だが、多くの人がするように、事そのことよりも遙かにむつかしい変てこな学説を持ち出されては困る。
 どうかお医者さん方よ。少々わたしのあけすけな物言いをおゆるしいただきたい。まったく、今のと同じ宿命的な遺伝浸透によって、わたしは諸君の学説に対する憎悪と蔑視をも受けついだのだ。つまりわたしの医術に対するこの反感は親譲りだということである。父は七十四まで曽祖父は八十近くまで生きたが、二人ともどんな薬もなめたことがなかった。いや彼らの間では、何でも普通常用ではないものが、みな薬の役をしたのである。医学は実例と経験とから成りたつ。わたしの意見もそうなのだ。して見れば、今いったことだって、きわめて明瞭なきわめて役に立つ経験ではないだろうか。はたして諸君の診療簿の中に、同じ炉ばた同じ屋根の下に生れ・育ち・死んだ・三代の者が、諸君の規則の下でこんなにも長く生きたという実例が見つかるかどうか。諸君はここで、理屈はいざしらず、少なくとも運の方は、わたしの方に味方していることを認めなければならない。ところでお医者さん方の間でも、理屈よりは運の方がずっと功を奏しているのである。決して現在のわたしを、諸君の勝利のために利用してはいけない。こんなに参っているわたしをおどかしてはいけない。それはあまりにも殺生である。それに正直のところ、わたしはわたしの家族の実例によって、たとい長命者は三代きりで終るにしても、すでに諸君に勝っている。人間界の事柄はそんなに不動なものではないのだ。この実験はあともう十八年で二百年続くことになる。まったく一代目は一四〇二年に生れたのである。この経験がそろそろ我々から無くなろうとするのはむしろ当然である。こんにち病がわたしの喉元のどもとをおさえているからといって、わたしを咎めてはいけない。わたしだって四十七歳までは健康に暮したのである。それだけでもう十分ではないか。これがわたしの一生の終りであろうとも、わたしはやはり長命の部に入る。
 わたしの祖先たちは、何か不思議な生れつきの傾向によって医学をきらっていた。まったく、父は薬を見ることすらいやがった。父方の伯父で僧職者であったセニュール・ド・ゴージャックは、生来病身であったにもかかわらず、そのひよわな生命を六十七歳まで継続したが、かつて高いはげしい熱に長いこと苦しんだとき、医者どもから、「どうしても我々の助けを求めようとしないなら(彼らは最もしばしば「妨げ」になる事柄をば「助け」とよぶのである)、死んでしまうぞ」とおどかされた。この恐ろしい宣告には、さすがのおっさんもひどく驚いたが、「では死にましょう」と答えた。ところが神様は、やがてこの予言をふいにしてしまわれた。
 (b)四人兄弟の内の末っ子・しかも非常に間をおいた末っ子・であったシユール・ド・ビュサゲひとりだけが、医学に服従した。たぶん他のもろもろの学芸と関係が深かったせいであろう。まったく彼は、高等法院の参議様であったのだ。ところが結果はすこぶる悪く、外見上最も頑丈な体格をしていたくせに、たった一人シユール・ド・サン・ミシェルをのぞくと、他の誰よりもずっと早く死んでしまった。
 (a)恐らくわたしはこれらの人々から、こういう医学に対する生れつきの反感を受け継いだのであろう。だが唯これだけの理由であったら、わたしもそれを捨てるように努めたであろう。まったく理由なしに我々の内に生ずるこうした偏見は、すべて有害なもので、一種の病気であろうから、あくまでなくさなければならないのである。なるほどわたしもそういう傾向をもって生れたのかも知れないが、推理によってそれを支持し強固にしたればこそ、こんにち持っているこういう意見も確立されたのである。まったく、医薬をその味がにがいからといってしりぞける考え方は、わたしもきらいなのである。そういう考えは容易にわたしの考えと一致しないだろう。健康というものは、最も苦しい焼灼しょうしゃくや切開によっても買いもどすに足りると、わたしは考えている。
 (c)いやエピクロスのいうとおり、快楽も、もしその後に一そう大きな苦痛を伴うならば、避けるべきであり、苦痛も、その後に一そう大きな快楽を伴うならば、求めるべきである。
 (a)実に健康こそ貴重なものである。いやそれこそ、本当に、人がその追求のために、たんに時ばかりでなく、汗をも、労力をも、財宝をも、いや生命をも、用いるに値するただ一つのものだと思う。なぜなら、健康がなければ、生きることも結局我々にとって苦痛となってしまうのだから。快楽も知恵も学問も、そして徳も、健康がなくてはその光を失い消えてなくなる。哲学が我々にその反対を印象させようとして用いた最も堅固な議論に対しては、プラトンが癲癇てんかんあるいは卒中にうたれた姿でも見せてやれば足りよう。そしてこの仮定のプラトンに向って、「さあお前の霊魂の最も高貴で豊富な働きを発揮して見ろ」と言ってやりさえすれば足りる。我々を健康に導く方法だといえば、何だってわたしには辛いとか高価だとか思われない。けれどもわたしは、別に幾らかの理由があるので、ふしぎにこの種の取引にひっかからないのである。わたしはそこにどんな方術もありえないというのではない。自然が造り出したこれほど沢山なものの中に、我々の健康の保持に役立つものが一つもないというのでもない。それはあるにきまっている。
 (b)わたしはよく、ある薬草が汗ばませ、ある薬草がこれをかわかすと聞いている。経験によって、辛大根がおならをさせることもセンナの葉がおなかくだすことも知っている。そういう経験は、身にもいろいろと覚えがある。たとえば羊肉はわたしをふとらせ、酒はわたしをあたためる。だからこそソロンは、「食餌も他の薬草と同様に、餓えの病に対する一つの薬である」といったのである。わたしは我々が万物からえている利益を否定しない。また自然の偉力と豊饒を、またそれが我々の要求をみたしてくれることを、疑いもしない。わたしは敷香魚しすかぎょや燕が自然に従ってきわめて健やかなのをよく承知している。わたしが我々の精神や学芸が考え出したことを排斥するのは、それらのために人々が自然をもその規則をも放棄したからである。そこに節度と限界とを守ることができないからである。
 (c)ちょうど我々が手当り次第に諸法規を練り合せたものや、それらをしばしばきわめて不適当または不正に適用したり実施したりしたものをも正義と呼ぶように、また正義〔裁判や道徳〕を嘲りまた咎める人々も、その高貴な徳をけなそうとするのではなく、唯この聖なる名称の乱用冒涜を責めようとしているだけなのであるように、わたしもまた医学において、その光輝ある名・その目的・その人類を益しようとする抱負・はもちろん尊ぶけれども、こんにちのいわゆる医学なるものは、これを尊びも認めもしないのである。
* モンテーニュが医学を信用しないのは、当時の医学が実験を基礎としていないからである。もし彼が今日生きていたならば、必ず科学的治療をうけたであろう。彼の闘病の態度を見ると、むしろ彼を今日の実験医学の遠い先駆者と見てもよい位である。白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」の解説およびその索引「モンテーニュの病気」の項参照。
 (a)第一に、経験がわたしにこれ〔当時流行のインチキ医学〕を恐れさせる。まったくわたしの知る限りでは、医学の支配下にある人々の一統ほど、病みやすく直りのおそいものはないのである。彼らにおいては健康そのものまでが、養生法の拘束のためにへんなものに変っている。医者たちはただ病気を配下におくだけでは満足せず健康までも病気にして、人間が四季を通じて自分たちの支配から脱することがないようにと心掛けている。いつも変ることなき完全な健康までも、彼らは未来の大病の原因にしてしまうではないか。わたしはしばしば病気になった。わたしは彼らの助けがなくたって、わたしのいろいろな病気が(ほとんどすべての種類をわたしは経験したが)、同じように堪えやすく・同じようにじきになおる・ことを知った。だから決して、病苦の上に更に彼らの薬のにがさを加えようとはしなかった。健康は、これを自由にそっとしておく。わたしはこれに、自分の習慣と快楽以外には、何らの規則も規律も加えない。どんな場所も、わたしにとっては足をとどめるに適している。まったく病気になったからって、健康な時に必要とする安楽以外の安楽はいらないのである。医者がなく薬剤師がなく介抱がないのを、ちっとも苦にしない。どうも多くの人々は、病気そのものよりも、かえって今言ったようなことがらの方を苦にやんでいるらしい。どうだろう? 医者たち自らは、その生涯において幸福長命であろうか。彼らの学問の実効をちょっぴりとでも見せてくれたろうか。
 どんな民族でも、かつて数世紀の長きにわたって、医薬なしで暮さなかったものはない。しかもこの最初の数世紀こそ、最もよい・最も幸福な・世紀だったのである。今でも世界の十分の一は、いまだに医薬を用いていない。限りない民族がそれを知らずにいるが、かえってみんな我々よりも健康に命長く生きている。また我々の間でも、下々しもじもの者は医薬なしに幸福でいる。ローマ人は六百年たってから後に、始めて医薬を受け入れた。しかしそれを試みてから、司直官カトーのすすめによってそれをその都市から追放した。この人は自ら八十五歳まで生きて、いかに容易に医薬なしにすますことができるかを実証し、またその妻を非常な高齢まで生きさせたのである。医薬なしに、ではないが医者なしに、である。まったく、我々の生存のためになるものは何でも医薬と名づけてよいのである。彼はプルタルコスのいうところによれば、たぶん兎肉の常用によって家族の健康を保ったのである。ちょうどアルカディア人が、プリニウスのいうところによれば、牛乳をもって万病をいやしたように。(c)またリュビア人は、ヘロドトスの伝えるところによると、一般に次のような習慣によって稀なる健康をたのしんでいた。すなわち小児が四歳に達すると、頭部およびこめかみの血管を焼いて、彼らの一生に対しすべての炎症の道を断ったのだ。(a)また当地方の村びとたちは、すべての場合に、唯その最も強いぶどう酒にサフランその他の薬味をたくさんぶちこんだものを、飲用するだけである。それらは何れも同じように効くのである。
 いや正直にいうと、あの種々様々な処方も、結局、腹ん中をからっぽにする以外に何の目的も効目ききめもないではないか。それだけのことなら、どんな家伝の薬草にもできることである。
 (b)だがそういう薬草も、果して皆がいうほどに効目があるかどうか。我々の本質はある程度まで糞便の滞留を必要としているのではあるまいか。たとえばぶどう酒が自分の保存のためにかすをもっているように。しばしば我々は、健康な人々が外部的な事故にあって急に嘔吐や下痢をもよおし、事前には少しもその必要を感じなかったのに多量の便を排泄したりすると、それは後に何の効果も残さないばかりでなく、かえって容体が悪い方に向うこともあるではないか。(c)わたしはこの頃、偉大なプラトンから次のように学んだ。「我々が自然に行う三つの方法の中で最後最悪のものが下剤をかけることで、誰も気がふれているのでない限り、いよいよ最後の必要においてでなければそれをしてはならない」と。人はまっこう正面から抵抗すると、病気をますますかき乱したかぶらせる。だからどうしてもその暮し方によって、静かに病気を衰えさせ、それをその終りへと導かなければならない。薬と病との激しいつかみ合いは、必ず我々の損になる。なぜなら、喧嘩は我々の体内で行われるのであるし、薬というものは本来我々の健康の敵であって、混乱に乗じてでなければ我々の領内に入りえないもので、いっこう頼みにならない援軍だからである。少しそっとしておいて見よう。のみやもぐらの面倒も見る大自然の秩序は、かならず人間の面倒も見てくれる。蚤やもぐらと同様に、あせらずに、なされるがままになっていればよいのだ。「はいどう!」と叫んだってむだである。声がかれるばかりで、馬〔大自然の秩序〕は進まない。それはとっつきようもない無慈悲な一つの秩序なのである。我々の恐怖・我々の絶望・は、かえって大自然の気を悪くする。そして彼の救助を促すことにはならないで、おくらせることになる。彼には健康をも病気をも、平等に進ませてやらなければならない義務があるのだ。一方に買収されて他方の権利を侵すようなことはしまい。したら、それこそ秩序が秩序でなくなってしまう。従おう。誓って従おう。大自然の秩序は従う者をみちびく。従わない者は、引きずってでもつれてゆく。その狂気をも医薬をももろともに! むしろかけるなら、君の脳味噌に下剤をかけなさい。それは胃の腑にかけるよりは効目がある。
* 外科的障害。
 (a)ある人が、あるラケダイモン人にむかって、どうしてそんなに長く健やかに生きられたかと尋ねたところ、「医薬を知らなかったため」と答えた。また皇帝ハドリアヌスは死にのぞんで、「大勢の医者どもがわしを殺したのだ!」と叫んだ。
 (b)或るへぼ力士が医者になった。「それはよいことをした。しっかりやりな」とディオゲネスはこれにいった。「今こそお前は、かつてお前を泥まみれにした者を泥まみれにしてやることができよう」と。
 (a)けれども彼ら〔医者ども〕は好運である。(b)ニコクレスの言ったとおり、(a)「彼らの成功は太陽がこれを照らし、彼らの失敗は大地がこれを掩う」。それに彼らは、いろいろな出来事をきわめてうまく利用する道を心得ている。まったく、運命か自然か、あるいはまた何か医術とはまったく無関係の原因が(その数は無限にある)、我々の間に何か良好なおめでたい結果を生じさせると、医学は勝手にそれを自分の手柄にしてしまう。医者の言いつけを守った患者に何か良い結果が生じると、それはみんなお医者さんのお蔭なのである。わたしを・このわたしを・いやしたいろいろな事情、その他医者の助力を乞わないたくさんの人々をいやすさまざまな事情を、彼らはさも自分がしたことのように患者に向って自慢をし、悪い結果が生じると、実にとりとめもない様々な理由を設けて罪を患者になすりつけ、それは全然おれのせいではないと言いはる。そんな理由ならいくらでも見つかる。たとえば、「彼は腕を出した」(b)「彼は馬車の響を聞いた」

いと狭き町のかど
とおり過ぐる馬車の響き。
(ユウェナリス)

(a)「窓の戸をすかせた」「左側を下にして寝た」「何か苦しい思いが頭の中をかすめた」なんて。要するに、一つの言葉、一つの夢、一つの眼差まなざし、何でも彼らには責を免れる恰好の申訳なのである。それどころか時によると、病状の悪化までも利用する。そして、決して失敗することのないもう一つの方法によって、自慢をする。つまり彼らの手当によって病気が進んでも、「この薬を用いなかったらもっと悪くなるところだった」と、我々に思いこませる手もあるのだ。ただの風邪引きを「毎日熱」に悪化させておいて、「わたしたちがいなかったら、あんたは継続熱になやむところだったよ」という。彼らにはまるで仕事をやり損うという心配がない。失敗も転じて成功となるからだ。ほんとうに彼らが病人に向って、「自分たちに好意的な信頼をもて」と要求するのはもっとも千万である。まったく患者の信頼が心からの・従順な・好意的な・信頼でなかったら、ああいう信じ難いことをいつまでも本気にしてはいられないはずである。
 (b)プラトンはうまいことをいった。「自由に嘘がつけるのは医者ばかりである。我々の健康は彼らの約束の嘘のおかげだからである」と。
 (a)アイソポス〔イソップ〕は稀に見る優れた著者であって、彼の情趣をことごとく感得する人はきわめて少ないが、彼は医者どもが、苦痛と恐怖とにうちのめされたかよわい哀れな者どもの上に、暴君のような権威を揮っている有様を、面白おかしく描き出している。まったく彼はこんな風に物語っているのである。ある病人がその医者から「この間の薬を飲んでどんな工合であったか」と問われて、「大そう汗をかきました」と答える。「それはよかった」と医者はいう。その次に「その後の工合はどんなかね?」と問われて、「大そう寒けがして、がたがたふるえました」と病人が答えると、「それはよかった」とまた医者はいう。三度目に、またその後の容態を問われ、「水腫病にかかったように膨れてむくんできました」というと、「それはますます結構だ」と医者はいう。そのあとに病人の友だちの一人がやって来て彼に容態を尋ねると、「そうさね。ずんずんよくなって、これから死ぬところだよ」と答えた。
 むかしエジプトにはもっと正当な法律があった。医者が患者を見る場合、最初の三日間は、万一のことがあっても、すべて患者の責任になるが、三日たった後は、すべてが医者の方の責任になるのであった。まったく、一体どんな理由があって、医者どもの親方アスクレピオスは、ヘレネを死から生へひきもどしたといって雷火に打たれ、

(b)神々の父ユピテルは、ひとりの人間が
地獄の闇より明るきこの世に帰されたるを怒り、
この不思議なる方術の創始者アポロンの息子を、
雷火もて打ちて後地獄の川に投げこみたり。
(ウェルギリウス)

(a)その弟子どもは、あれ程の霊魂を生から死へと送りこみながら許されるのか。
 (b)ある医者がニコクレスにむかって、自分の技術がえらい権威をもっていることを誇った。「成程な」とニコクレスはいった。「あれ程大勢の人を殺しても罰があたらんのだからな」。
 (a)要するに、もしもわたしが彼らの会議の一員であったなら、わたしは医術をもっともっと神聖で神秘的なものにするようすすめたであろう。彼らはかなりうまく始めたのだが、終りはそのわりにうまくゆかなかったから。実際神々や悪魔を自分たちの学問の開祖とし、特別の言葉・特別の文字・を用いたのこそ、うまい始めであったのだ。(c)哲学者はこれについて、「人のために役立とうというのに、わけのわからんようなすすめ方をするのはおかしなことだ」と考えるけれど。※(始め二重山括弧、1-1-52)あたかも医者病人にむかいて、

土より生れて、草むらをはい、
血なくして、家を背負うもの

をとりて食えと教えるがごとし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
* かたつむり。
 (a)まずもって患者の信念が、なおろう・なおる・という希望確信となって先在しなければならないとは、医学における甚だ虫のよい規則であるが、こういう規則は空想的で超自然的などんな学芸にもつきものなのだ。医者たちもこの規則をとってゆずらない。最も無知無学な医者までも、これを信ずる患者にとっては、彼が見知らぬ最も経験ある医者よりも適している、とまで思い込ませるのだ。彼らの薬種の大部分の選び方からして第一、相当に神秘的で神がかっている。たとえば亀の左足、とかげの尿いばり、象の糞、もぐらのきも、白鳩の右の翼の下からとった生血、またわれわれ疝痛せんつう患者に対しては(それほど彼らは我々の弱味につけこんでいんちきをやる)、鼠の糞の粉末。いや、その他これに類する様々な手品は、いずれも堅固な学問というよりは、むしろ魔法使のまじないのようなものだ。そればかりではない。彼らが丸薬の数を奇数に限るとか、これにまぜる薬草を採取するのにある日ある時を指定するとか、それから、プリニウスさえが笑っているところの彼らの物腰恰好のしかつめらしさや物々しさとか、まだいろいろある。それでも彼らは仕損じたと、あえてわたしは言いたい。折角これほどよい創始をしておきながら、彼らはその後、その集会や相談をそれほど敬虔にも秘密にもしなかったからだ。俗人はアスクレピオスの秘密の祭に参列させてはならないように、彼らの会議にも近寄らしてはならなかったのである。まったくこの過ちの結果、彼らの不決断や、彼らの論証・推察・根拠・の薄弱さや、憎悪や嫉妬や自負心に充満した仲間同士のえげつない論争などが、誰の目にもつくようになっては、よほどの盲でないかぎり、我々は彼らに身を委せることをけんのんに感じないわけにはゆかなくなる。医者がその同僚の処方を、そこに何かを削るとか加えるとかしないでそのまま用いるのを見たことがあるか。彼らはそうやって、彼らの学術の正体を暴露する。そこに自分の評判の方を、したがって患者の利益よりも自分の利益の方を、重んじているという事実を暴露する。むかし、ただ一人の医者が一人の患者の治療にあたるようにと規定した、彼らのうちの一人の博士の方がずっと賢明だった。まったく一人の医者がまるで功を奏しなくても、それは唯一人の人間の過失であって、医術そのものに対する非難はそのために増すことがないからである。その代りひょっと彼が成功すれば、それこそ医術の栄光は大したものになるであろう。ところが医者が大勢である場合には、始終みんなして自分たちの商売に傷をつける。彼らはうまくやることより、まずくやることの方が多いからである。彼らはその道の大先生や古代の医学者たちの学説の間に、永遠の不一致が存在するということを心得ているだけで満足すべきであった。それはただ、書物にくわしい人たちだけが知っていることなので、何もわざわざ、今日の医者同士の間でもなお判断が定まらず議論の絶え間がないという事実を、世間の人々のお目にかけるには及ばなかったのである。
 医学上の古人の論争について一つ例を挙げて見ようか。ヒエロフィロスは、万病の根源を体液の中にあるとした。エラシストラトスは、動脈の中の血液にあるとした。アスクレピアデスは、我々の毛穴から流れ込む眼に見えない原子にあるとした。アルクマイオンは、体力の過剰もしくは不足にあるとした。ディオクレスは、肉体諸成分の不均等・および我々が呼吸する空気の性質・にあるとした。ストラトンは、我々が摂取する食料の過多・不消化・および腐敗・にあるとした。ヒッポクラテスはそれを精神にあるとした。それで彼らの友の一人は(それが誰であるかは医者たちの方がよく御承知のはずだが)、「われわれの間で用いられている最も重大な学問、すなわち我々の保健長寿を司る学問は、不幸にして最も不確実な・最も混沌として変化極まりない・ものである」と嘆いた。太陽の高さだとか何か天文学上の計算の端数においてまちがっても、大した危険はないけれども、ここでは、こと我々の全存在に関するのであるから、東西南北さまざまの風にこの身を委せるのは賢明でない。
* プリニウス。
 ペロポンネソスの戦争以前には、この学問に関してこれという変った言い伝えもないが、まずヒッポクラテスが医学を世間の人々に信用させた。この人が確立したものを、クリュシッポスがことごとくくつがえした。その後アリストテレスの孫エラシストラトスが、このクリュシッポスの書いたものをまたことごとくくつがえした。それらの人々の後には経験学者たちが出てきて、この学術の取扱い方において先人たちとは全く異なった道をとった。この経験学者たちの信用がようやくすたれ始めると、ヘロフィロスがまた別種の医術をはやらせたが、それをまたアスクレピアデスが攻撃し破壊した。こんどはテミソンの学説や、それからムサのそれが、またその後ではウェクティウス・ウァレンスのそれが幅をきかせた。この人はメッサリナとの親交によって有名な医者である。医学の帝国はネロの時代にテッサルスの手におちたが、彼は彼以前に信じられていたすべてを廃棄した。この人の学説はマルセーユのクリナスによってくつがえされたが、この人はまたもやすべての医学上の施術を暦表や星の運行に準拠させ、飲食や睡眠を月や水星が欲する時にかなわせたのである。彼の権威はやがて間もなく、同じマルセーユの医者カリヌスによって奪われた。この人はただ古来の医術を攻撃したばかりでなく、広く数世紀前から行われていた温浴の習慣をも攻撃した。彼は人々に冬でさえも冷水浴をさせた。そして病人を小川の自然の流れの中につけた。プリニウスの時代までは、いかなるローマ人もあえて医術を施そうとしなかった。それは外国人やギリシア人たちによって行われた。ちょうどわれわれフランス人の間で、それがラテン語をしゃべる人々によって行われているように。まったくある名医がいったように、我々は我々が理解する医術を容易に信用しないのである。自分でんだ薬草では信用しないのである。我々がグアヤック樹やサルサ根やスクイン根を取りにゆく地方にも医者がいたら、同じように珍奇・稀少・高価・を尊ぶ心から、我々のキャベツやパセリをどんなに珍重することであろうかと思う。まったく、そんなに遠いところから、そんなに長い・そんなに危険な・遍歴をものともせず、やっとのことで採って来たものを、誰があえて軽んずるであろうか。こういう古代の医学の変遷の後にも、我々の時代までにはなお沢山の限りない移り変りがあった。しかも最もしばしば、根本的・全般的・な変更があった。たとえば、現代におけるパラケルススやフィオラヴァンチやアルゲンテリウスがもたらしたような変更があった。まったく、彼らはただ個々の処方を変えているのではなく、人のいうところによれば従来の医者をことごとく無学だとかぺてん師だとかそしりながら、医術の根本機構をそっくり変えているのである。可哀そうに病人どもがいかに途方にくれているか。ご想像にまかせる。
 でも、医者どものやり損いは我々の益にもならないが害にもならない、ということが確実なら、損をする危険におちいることなく、あわよくば得をしてやろうと考えるのは、成程無理からぬ取引かも知れない。
 (b)アイソポス〔イソップ〕はこんな物語をしている。ある人がマウレタニア人の奴隷を一人買ったが、その皮膚の色を一時的のもの・前の主人の虐待によるもの・と考えて、親切に湯に入れてやったり薬を飲ませたりした。ところがそのマウレタニア人は、その渋紙色を少しもいやされなかったばかりか、始めの健康までもなくしてしまったという。
 (a)医者どもがその患者の死の責任を互いになすりつけあっているところを、幾たび我々は見たことであろうか。わたしは数年前に、我々の近所の町々に命取りのはなはだ危険な病気がはやったことを、思い出す。この嵐が無数の人々をさらって通りすぎてから、当地方で最も有名な医者の一人は、このことに関して一冊のパンフレットを公表し、従来医者が※(「月+各」、第3水準1-90-45)しらくを行ってきたのがいけないとして、これこそそのときに生じた損害の主要な原因の一つであると告白した。それに医書に書いてあるところによると、どんな薬でもいくらか有害な分子を含まないものはないのである。じっさい、我々に役立つ薬さえ多少とも我々を害するものだとすれば、全然不適当に用いられた薬にいたっては、いったいどれほど害をなすものであろうか。
 わたしは薬の味の嫌いな人々が、あんなに苦しくてたまらない時に、あんなにいやがりながら無理に薬を飲もうとするのは、よしんばほかには何の害もないとしたって、危険有害な努力であると考える。またそれは、最も安静を要する病人をひどくいじめることにもなると思う。それに、医者たちが普通に病気の原因であるとするもろもろの動機を考えて見ると、それらは極めて微細なものばかりであるから、投薬量のきわめて小さな誤りも、はなはだ大きな害をもたらすことだろうと、わたしは推論することができる。
 ところで医者のまちがいが危険であるとすれば、これはどうも困ったことである。まったく彼がしばしばまちがいをしないようになるのは容易なことではないのである。彼がその見立てをあやまらないためには、ずいぶんたくさんの事柄や状況を考察することが必要なのだ。病人の体質・気質・性格・傾向・行動・思想および感情を知っていなければならない。四囲の状況、土地の性質、空気や天候の状態、天体の位置およびその影響も、心得ていなければならない。病気に関してはその原因・徴候・結果・危機を、薬に関しては重量・効力・産地・形状・新古・用量を、知っていなければならない。そして、これらもろもろの要素をうまく組み合せてそこから完全な調和を産み出すことも、知っていなければならない。そこでほんの少しでも彼がまちがうならば、それだけの要素のうち何か一つでも横にそれようものなら、たちまちにして我々は御陀仏になる。以上の事柄の大部分を知ることがどんなにむつかしいかは、神様のみが御承知だ。まったく、たとえていうなら、それぞれの病は無数の徴候を示すことができるのだから、その病気に特有の徴候はどうしてそれを見出すか。尿の検定についても、医者たちの間には数多くの議論と疑いとがあるではないか。でなければ、病気の見たてについて彼らの間にあのように絶え間なく論争が見られるわけがない。我々は、彼らがしばしばてんと狐とを取りちがえるようなまちがいにおちいるのをどうして許せよう? わたしが病気をしたときも、ちょっとむつかしいことがおきると、三人の医者の意見が一致したことはなかった。わたしは特に自分に関係のある実例を挙げて見たい。最近パリである貴族が、医者の命によって〔結石摘出の〕手術をうけたが、石なんか膀胱からも手のひらからも出なかった。それからこれもパリでの話だが、わたしのきわめて懇意なある司教様が、診察を乞うた医者たちの大部分からしきりに手術をうけよと勧められた。実はわたしまでが、ひとの言葉を信じて、彼にその決意を促したくらいだった。ところが死んでから解剖して見ると、ただの腎臓病にすぎなかった。医者どもは、この病気に関してはいっそう言訳がたたない。それはいわば手で触れ得るものなのだから。そういう次第で、外科学の方が、わたしにははるかに確実であるように思われる。それは見て、その見たものを手で扱うのだから。そこには推察想像の部分が少ないのであるが、内科医の方は、我々の脳髄・肺臓・肝臓・の中がのぞける「子宮鏡」を全く持たないのである。
* 当時膀胱を切開して結石をとり出す截石術師 lithomistes なるものがあったが、彼らは予め掌中に石を握っていて、実際に膀胱中に石が見出されぬときは、「これこのとおり」と掌中の石を示してごまかすようなこともあったといわれる。
 第一医学の約束そのものが信じられない。まったく、しばしば同時に我々を襲うところの・そして互いにほとんど必然的な関係をもつところの(例えば肝臓の熱と胃の腑の冷えというような)・様々の相反する故障にも対処しなければならないので、医者たちはこう説くのである。「その薬の一つは胃を温め、もう一つは肝臓を冷やす。一つは腎臓まで、いや膀胱までも直行して、よそには作用を及ぼさず、その不思議な特性によって、長い曲りくねった道をはるばるとその向けられている場所までゆき、そこでその役目をはたす。一つは脳を乾燥させ、一つは肺をしめす」などと。だが、あんなにたくさんのものを混ぜ合せて一つの薬湯を作り、以上のようないろいろな効能が、それぞれそういう混合の中から分れ出て、それぞれちがった役目に向って進むようにと期待するのは、どうやら夢みたいな話ではないか。わたしはそれらが、その専門を失ったり取りちがえたり・その領分をごちゃごちゃにしたり・しはしないかと、限りなく恐れる。いやこの液体の混合の中で、以上のような性能が互いにさまたげ合い影響し合わないと、誰が想像できよう? いや、それだけではない。この処方の実施はまたもう一人の専門家の手にかからねばならないのだ。もう一ぺん我々はこの人に大事な命を委せなければならないのだ。ああまた何をかいわんや!
* 薬剤師。
 (c)我々が衣服については上衣師うわぎや袴師はかまやとをもち、それぞれがその専門にだけたずさわり・全体を包括する仕立師したてやよりも狭い領分の中で腕をふるう・ことによってますます満足を与えられているように、また食物についても、高貴の方々が一層おいしいご馳走を食べようとして、あつもの師・焼肉師・等別々の職人をもち、これには何もかも一人でやる料理人は到底かなわないというように、我々の医療に関しても、エジプト人が医者という全般的な職業をしりぞけてこの職を細分し、各々の病気・身体の各部・についてそれぞれの専門家を持ったのはもっとも千万であった。まったくそれぞれの病気・それぞれの患部・は、そのためにより適当により間違い少なく治療されたのである。それは特にその箇所だけをくわしく見たからである。ところが我々の医者たちは、万病を手がける者は一病をも癒しえないこと、この小世界といえどもその全般を統治することは容易ではないことを、悟らない。彼らは、熱が出るといけないと赤痢患者の下痢をとめるのをためらったために、とうとう、ありったけの友だち全部をひとからげにしても及ばないほどに大切な大切な一人の友を殺してくれた。彼らは自分の推測を過信して、現前の病症を無視する。そして、胃を害しても脳をなおそうとはしないから、あの混沌として相せめぐいろいろな薬によって、胃も害し脳も悪くする。
* モンテーニュはここでもラ・ボエシを回想している。
 (a)この学術〔医学〕の論拠がまちまちで頼りないことは、他のどんな学術の場合よりも明白である。それはこんな工合である。「通じをよくする物は、疝痛患者に必要である。なぜなら、それらは通路を開き広げて、砂や石が作られるあのねばねばした物質を導き、腎臓の中で固まり積ろうとするものを下にさげるからである。通じをよくする物は、疝痛患者に有害である。なぜなら、それらは通路を開き広げて、尿石のもとになる物質を腎臓の方へみちびくと、腎臓はその本来の傾向に基づき好んでそれを取り込み、そこに流しこまれたものをたくさん滞留させずにはいられないからである。それに万一、そこに何か大きな物体が入ってきて、それを外部に排泄させるために口をあけている細い管を通りぬけることができないと、その物体は今の通じぐすりのためにゆすぶられる。そして、ひょっとその狭い管の中に入り込んでその口でもふさごうものなら、いよいよ確実な・きわめて苦しい・死を招く」等々。
 彼らの指示する養生法も、やはり同じようにいい加減なものだ。「たびたび小便をするがよろしい。なぜなら、経験によると、小便をためておくとこれに滓渣かす沈澱おりを生ずる暇を与え、それはやがて膀胱の中に石を作るもととなる。たびたび小便をしない方がよろしい。なぜなら、小便が引きずってくる重い滓渣かすは、これに強い力を加えなければ到底流れ出ないであろう。たとえば経験上、激しい勢いで流れる奔流は、静かな力のない流れよりも、その通り路をよく掃除するではないか。同様に、しばしば女と交わるのもよろしい。というのは通路を開いて石や砂を誘導するから。いや、それははなはだ悪い。腎臓を興奮させ衰弱させるから。湯にはいるのがよろしい。それは石や砂のたまる場所をゆるめ軟らかにするから。いやそれは悪い。なぜならば、そうやって外部から熱を加えることは、腎臓の中にある物質が煮え・固まり・石化する・ことを助けるから。湯治中の者は夕食を少なくする方がよい。その方が、翌朝摂取しなければならない鉱泉が、空っぽで邪魔物のない胃の腑の中で一そうよく作用するからである。いやむしろ中食を少なくする方がよい。その方が朝飲んだ鉱泉の作用がまだ完了しないうちに、更に胃の腑に消化の負担を与えないですむ。それにこの消化の役目は夜に委ねる方がよいので、その方が、身心ともに絶えず活動している昼よりも、一そうよく消化の働きをするものだから」といった按排である。
* ここから次頁十五行目までは、一五八二年のテキストであることに特に注意されたい。そこには一五八〇年のテキストの残りも含まれているけれども、フランス内地の温泉における経験が、ドイツ・イタリア旅行の経験によって修正されている。白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」の諸所を参照せられたい。
 こんな風に医者どもは、我々の迷惑もかえりみず、あぶなっかしい理屈をこねまわし、かつぎまわっている。
 (b)そのくせ、わたしが同じ程度の屁理屈で反駁し得ないような意見は、どうやらもちあわせていないらしい。
 (a)どうかこれからは、病気にかかっても平気で自分の欲望と自然の教えとに導かれ、万物に共通な運命にその身を委ねている人々を、叱らないでほしい。
 わたしは旅のついでに、キリスト教国の有名な温泉場はほとんど皆見て来た。始めて湯治を試みてからは、もうかれこれ数年になる。まったくわたしは、一般的にも入浴を健康上によいことだと思うし、昔はほとんどすべての民族の間に一般に守られていて・今でもなお多くの地方で守られている・この毎日体を洗うという習慣を失ったがために、我々は健康上少なくない損害をこうむっていると、信ずるものである。それにこんなに五体をあかで掩い、毛穴をあぶらで塞いでおくことが、体にわるくないとはとうてい考えられない。また鉱泉の飲用ということも、有難いことに、第一、少しもわたしの味覚に反しなかった。第二に、それは自然で簡単で、効果はないにしても少なくとも危険がない。その証拠には、無数の・いろいろな種類の・いろいろな体質の・人々が、これを飲もうと集まっているではないか。それに、そこには非常な奇跡的効果も全く認められなかったし、少し入念に事実を調べて見ると、温泉場で皆に信じられているかれこれの効目も評判だけであって(人間はその希望についだまされるのである)、みな根拠がなくうそであることを発見したけれども、しかし、この鉱泉のために悪くなったという人も、ほとんど見られなかった。そしてそれが食欲を進め消化を助け、我々に幾らかの新しい力をもたらすことは、悪意がない限り、誰も否定することができないのである。ただし、非常に体力が衰えていては出かけたところでむだだから、それはわたしもおとめする。鉱泉にはすっかり衰えきった健康を立てなおすほどの力はない。ただ軽度の傾きを支え、ようやくきざし始めた若干の変調に応ずることができるだけである。そこに集まるいろいろな人の仲間に加わるとか・通例温泉をとりまいている美しい景色に誘われて散歩運動をするとか・そういう楽しみをうけられるくらいの元気はもって行かなければ、湯治の効能の最も確かな・最もよい・部分をとりにがすことになる。だからわたしはこれまで、土地柄の快適な・旅宿や食物や集まる客だねもよい・温泉場を選んで足をとめ、湯治をした。たとえばフランスではバニエールの温泉。ドイツとロレーヌの境ではプロンビエールの温泉。スイスではバーデンのそれ。トスカナではルッカのそれ。そして特に※(始め二重山括弧、1-1-52)デラ・ヴィラ※(終わり二重山括弧、1-1-53)のそれ。これはわたしが、最もしばしばまたいろいろな季節に利用した温泉である。
* モンテーニュは外国旅行以前にフランス内地の温泉に入っている。一五七七年にバルボタンの温泉に行ったのが始めであろうか。
 各民族は温泉の利用に関してそれぞれ別々の意見を持っており、これを用いる規定法式は全くちがうが、わたしの経験によれば、結果はいずれもほとんど同じである。飲用はドイツにおいては全く行われていない。どんな病に対しても彼らは入浴し、ほとんど日影を追うようにして、終日蛙みたいにボチャボチャやっている。イタリアでは九日間飲用すると、少なくとも三十日は入浴する。そして、通例その作用を助けるために、鉱泉に他の薬をまぜて飲む。ある所では飲んだ鉱泉の消化を助けるために散歩をせよと命ぜられるかと思うと、またよそでは寝床の上で鉱泉を飲ませ、これを排泄するまでは、そのまま絶えず胃や足を温かにして寝かしておく。ドイツ人は一般に入浴中に乱刺法を行い・吸い玉をかけて放血させる・特別の習慣を持っているし、イタリア人はシャワー・バスをするが、それは幾本もの管でみちびいた温泉を上からそそぎかけるのである。彼らは朝一時間、夕食後一時間、一カ月にわたって、あるいは頭に、あるいは胃に、その他なおそうと思うところに、それをそそぐ。その他、各地方に、それぞれ無数のちがった習慣がある。いや、それぞれの間にはほとんど何らの類似もないという方がよいかも知れない。こういうわけで、わたしが唯一つ採用しているこの医療もまた、それはもっとも人為を含まないものだけれども、やはりこの学術〔医学〕の他の方面に見られる混沌と不確実とを十分に持っている。
 詩人たちは何でもそのいおうと思うことを、普通よりも大げさに面白くいう。次の二つのエピグラムもその証拠である。

医者アルコン昨日ユピテルの像をしたり。
石の身ながら神は医師の偉力を感じたり。
されば今日人は像をその宮居よりかつぎ出し、
神にして石なるにそを地中に葬らんとはすなり。
(アウソニウス)

もう一つ。

昨日アンドラゴラスは楽しげに入浴し、
我々と共に夕食をとりたるに、
今朝しも、人は彼の死してあるを見たり。
ファウスティヌスよ。何故に彼は急死したるや、
君その原因を知らんと望むや。
そは彼夢の中に医師ヘルモクラテスを見たればなり。
(マルティアリス)

 これにちなんで、わたしは二つのお話をしようと思う。
 シャロッスのバロン・ド・コペーヌとわたしとは、我々の山の麓のラオンタンと呼ぶある広い寺領の支配権を共有していた。人がアングルーニュ谷の人たちと呼びなすのはこの地方の住民のことであるが、彼らは特殊な生活をし、特殊な風俗習慣をもっていた。父から子へと伝えられるある特殊の慣例法規の下にあって、伝統の尊重以外の何の拘束もなかったのに、よくそれらを守っていた。この小国は太古以来きわめて幸福な状態の中に続いて来たから、近郷のいかなる裁判官も彼らの紛議を問いただす面倒にあわなかったし、いかなる弁護人もその意見を求められなかったし、またいかなる他人も彼らの喧嘩を取りしずめに出張する必要がなかった。そして誰一人、この地方の者が施しを乞い歩くのを見たものがなかった。彼らは自分たちの純潔な国柄をけがすまいとして、外部との関係交際を避けていた。ところが遂に、人々の語るところによると、彼らの一人が(それは彼らの父たちがなお記憶するところだが)、ふとその心を高尚な野心に刺激され、自分の名をあげ輝かそうと、息子の一人をジャン先生とかピエール先生とかに仕上げたいと思いつくにいたった。そして彼を近くの町に出して字を習わせ、とうとう立派な村の公証人に仕上げた。この男はえらくなったものだから、ようやく古来の習慣を軽蔑し始め、人々に山のこちら側の諸地方の繁栄のさまを教えこんだ。その親友の一人が山羊の角を折られたときくと、早速かれに勧めて、それをたねに王様の裁判官に賠償金をとる訴えをさせた。そしてこれをそもそもの手始めとして、やがて全村を悪化させるようになった。ところがこの腐敗に続いて、直ちに、もう一つ、もっと悪い結果をもたらす腐敗がおこったといわれる。というのは、ある一人の医者が彼らの娘の一人と結婚して、彼らの間に住みつきたくなったのであった。この男は、まず熱病や腫瘍の名前、心臓や肝臓や腸の位置を彼らに教えたが、いずれもそれまで彼らが夢にも知らなかった学問であった。そんなわけで、それまではどんなに辛くても激しくてもあらゆる病気を退散させ得るものと教えられていたあのにらの代りに、咳にも冷え込みにも奇妙な混合薬を用いることが癖になった。そしていよいよ健康ばかりでなく死までも押売りされることになった。彼らは断言している。「この時以来、始めて自分たちは、夜風にあたると頭痛を覚えること、暑い時に水を飲むとあたること、秋風は春の風よりも体にさわること、を知った。彼の薬を用いるようになってからは、それまで知らなかったいろいろな病気にかかるし、総じてむかしの体力が衰えて、寿命が半分も短くなったような気がする」と。これがわたしの第一の話である。
* ピレネー山脈。
 もう一つの話はこうである。それはわたしがまだ腎石にかかる前のこと、多くの人々が、牡山羊の血を、まるで人の命の保護保存のために、世も末になった今日この頃、天から贈られた神のかてででもあるかのように珍重するのを聞き、また良識ある人々までが、いかにもそれを驚歎すべき効目あらたかな薬ででもあるかのように吹聴するのを聞き、わたしも日頃、「他のすべての人に降りかかり得るすべての病気に、わたしだってかからぬ道理はない」と考えていたものだから、健康の唯中にありながら、ふと自分もこの奇跡にあやかりたいという気をおこした。そして、うちでも一頭の牡山羊を飼養するように命じた。まったくその処方に従ってその血をしぼるのは、夏の最も暑い月においてでなければならず、山羊には食欲をすすめる草と白ぶどう酒だけしか食べさせても飲ませてもならなかったのである。わたしは運よく、その山羊が殺されようという日に家に帰った。うちの者は、料理人が山羊の瘤胃の中に、二、三個の大きな球が食物に混ってごろごろしているのを見出したと、いいに来た。わたしは好奇心を起してそれらの臓物類を持って来させ、その大きな厚い皮をかせて見た。すると中から三つの大きなかたまりが出た。軽いこと海綿のようで、内部はがらんどうらしく察せられたが、表面は硬くていろいろの鈍い色がまじり合っていた。一つはまん丸で、ちょうど小さなまりのようであった。他の二つはやや小ぶりで・いびつ・であったが、やがてまん丸になりそうに思われた。これらの畜類の腹をくのになれている人々に尋ねた末、わたしはこれが非常に稀な・変った・場合であることを知った。どうもこれは人間の持つ結石みたいなものであるらしいが、もしそうだとすると、腎石患者が、同じ病気でやがて同じように死のうとする動物の血を飲んで、なおろうなどと考えるのは誠に空なる望みである。まったく、その血液にこの病気が感染せず、その常の効力がそのために変じないとは、到底信じられないではないか。むしろ一つの肉体の中には、他のすべての器官の協力と関係とがないのに生ずるものは一つもないと信ずるべきである。各部分の作用はそれぞれ違うから、何か一つの部分が他の部分よりも多くそれにあずかることはあろうけれども、やはり全体は一団として働いているのである。そう考えると、この牡山羊のすべての部分に幾分結石病的素質があったと信ずる理由が大いにある。わたしがこの実験に好奇心をもったのは、わたしの将来を恐れたからではなかった。むしろ方々の家々でそうするように、このわたしの家でも女どもは人々を救うためにと、このように下らない薬をたくさん積みかさね、五十もの病気にいつも同じ処方を用いているからである。それを彼女たちは自ら試みもせず、唯いくつかのまぐれ当りに出会っては得意になっているからである。
 要するにわたしは医者たちを尊敬はするが、決して神の掟に従って「必要の故に」ではない(まったく人はこのくだりに対抗して、もう一つ、医者にすがったアサ王を咎める予言者**のくだりを、持ち出すのである)。むしろ彼らその人を愛するがためで、それはわたしが彼らの間に、正しい・愛するに足る・人々をたくさんに見たからである。わたしがふくれるのは、彼らその人に対してではなく、彼らの医術に対してである。また彼らが我々の愚かさを利用することも、深くは咎めないのである。まったく、そういうことは何も医者に限らないからである。幾多の職業は、彼らのより貴いのもまた卑しいのも、みな世間がだまされることをもって唯一の根拠としている。わたしは病気の時にちょうどよく医者が来合せれば、やはりこれを招じ入れてその処置を乞う。そして謝礼を払う。温かに着ていろという命令も、もしそうやっている方がよいと思えば、黙ってきく。ねぎでもちしゃでも、何でも彼らの好きなものを、わたしのかゆの中に入れさせる。白い酒を命じようと赤い酒を命じようと、彼らの自由にさせる。そのほか何事によらず、わたしの食欲なり習慣なりにとってどっちでもよいことは、彼らの指図に委せる。
* 旧約外典の中に数えられる Eccl※(アキュートアクセント付きE小文字)siastique, ※[#ローマ数字38小文字、908-12], 1※(始め二重山括弧、1-1-52)Honora medicum propter necessitatem; etenim illum creavit Altissimus.※(終わり二重山括弧、1-1-53)とあるのを指す。杉浦貞次郎は「汝の必要に従いて医者を尊敬すべし。そは、医者は神のたて給いしものなればなり」と訳している。これをモンテーニュは、おそらく「いつか医者の世話にならねばならぬ時が来るから、その時が来る前から、医者は大切にしておかねばならぬ」という意味に解釈し、自分はそれとはちがうと言うのである。
** 「歴代志」下・十六の十二に「アサはその治世の三十九年に足をやみ、その病は激しくなったが、その病のときにも、主を求めないで医者を求めた」とある。つまり、アサ王が、主に万事をお委せしないで、魔法使同様の医者にすがった不明を咎めている。
 もちろん、これでは彼らにとって何にもならないことは、わかっている。なぜなら、にがさとまずさとは、医薬の本質と切り離すことができないものであるからだ。リュクルゴスは病気のスパルタ人たちに酒を飲ました。なぜか。彼らは健康な時には酒を用いることがきらいだからである。わたしの近くに住むある貴族が酒を自分の病気に大変効目のある薬として用いているのも、やはり生れつきおそろしく酒がきらいだからである。
 医者仲間にも、わたしと同じ考えの者が何と沢山いることか。自らのためには医薬を軽蔑してこれを用いず、他人に命ずるのとは全くあべこべの自由気儘な生活をする者が、実にたくさんいる。けっきょくこれは、我々の単純さをきわめて露骨に悪用しているのではあるまいか。まったく彼らだって、その健康と生命とを我々より粗末に思ってはいないのである。自分の学説がうそであることを自ら知っているのでなければ、その行為をもっとその所説にふさわしくしなければならないはずである。
 実に死と苦痛の恐怖、病苦に対する忍耐の欠如、治癒に対する狂的な度外れの渇望こそ、我々をこんなにも盲目にするのである。ただただ意気地がないばかりに、我々はこんなにもやすやすとだまされてしまうのである。
 (c)けれども大部分のものは、医者の世話にはなるけれども、それほどに信用してはいないのである。まったくそれらの人たちだって、我々と同様に不平もいい・悪口もいって・いるではないか。ただ、彼らはしまいに観念してしまうのだ。「だってどうにも仕方がないからな」と。これではまるで、我慢のできないことは、ただそれだけで、我慢しやすいことよりもいくらか効目もあろうから、というのと同じことだ!
* 先に薬は苦いからきくのであると言ったが医者も同じことで、いやいや・仕方なしに・堪えがたきを忍んで・その手にかかるならば、あるいは本来きかぬ医療もきくかもしれない、という意味であろう。
 (a)一たびあわれむべき屈従に引きずり込まれた者は、どんな欺瞞の前にも等しく降参する。図々しくも「お前の病気をなおしてやる」と約束するものが出て来ようものなら、のめのめとその言いなり次第にならないものはない。
 (c)バビロニア人は病人たちを広場にかついで行った。医者はすなわち民衆であったから。通行人はそれぞれ慈悲と礼儀の心から彼らに容態をたずね、各々の経験にもとづいて何かためになる意見を与えることになっていた。我々のすることも大して変りはない。
 (a)どんな無学な女房の呪文であろうとおまじないであろうと、我々はこれを用いないことがない。いやわたしの気分からいえば、どうしても何かの医療をうけなければならないなら、他のどんなものよりもかえってこの種の医療をうけるだろう。なぜなら、少なくともそこには心配になるような害は少しもないから。
 (c)ホメロスやプラトンはエジプト人について、彼ら全部が医者であったといっているが、これはすべての民族についていわれなければならない。だって、誰でも何かの療法を自慢しないものはない。隣のひとが信用しさえすれば、遠慮なくそれを彼の上に施さないものはない。
 (a)この間みんなが寄って話をしているところに、誰やらわたしと同じ疝気やみの男が、合計百幾つという薬種を調合したある種の丸薬ができたという知らせをもってきた。皆は歓声をあげた。そして不思議な慰めを感じた。まったくどんな大岩だって、そんなにたくさんの大砲にうたれてはたまるまいじゃないか。ところがこれをためした者の話によると、一っかけらの石も逃げ出しては下さらなかったそうな。
 わたしは医者たちがその薬の確実を証拠立てるために、彼らがしたという実験をかつぎ出すことについて、なおもう一つ文句をいわないことには、この筆をおくことができない。そもそも薬効の大部分は、いや、わたしの信ずるところによるとその三分の二以上は、薬草の精髄・すなわちその幽玄な特質・の中にあるので、われわれがそれを知る道は使用のほかにないのである。まったく精髄というものは、我々が理性によってはその原因を知りえない一つの特性にほかならないのである。薬効の証拠の中では、彼らがこれこれの悪魔の啓示によって得たと称する証拠なら、わたしは喜んでそれを受けいれる(まったく奇跡とあれば、わたしは決してこれに手を触れないのである)。でなければ、我々が他の目的のためにしばしば用いる物の中から偶然にき出される証拠を、例えば我々が衣服に用いる羊毛の中に偶然かかとの凍傷を癒すある隠れた乾燥性があったとか、我々が食料にする辛大根の中に食欲増進の作用があったとか、そういう証拠を喜んで受けいれる。ガレノスは語っている。「あるレプラ病みが酒を飲んだために癒えたことがあるが、それはその器の中に偶然まむしが入りこんでいたからである」と。我々はこのような実例をきかされると、成程と思う。いかにもそれは真理に導く実験だと思う。だから医者たちがこれこれの動物のするところに導かれて、これこれの実験をしたと言えば信用する。けれどもただ偶然こんな実験をしたとか、偶然以外にこの実験に導くものはなかったとかいわれると、多くの場合わたしはその報告もその経過も本気にしない。わたしは数限りない物・植物や動物や鉱物・の真中に、それらを眺めて立っている人間を想像する。果して彼はその中のどれから彼の実験を始めるか。ふと、まず第一に大鹿の角にとってかかる気になるとしても(それにはよほどの信じ易さが必要であるが)、彼は更に第二段の働きにおいて同様に当惑してしまう。彼の前には沢山の病気や容態が持出されるから、彼の誇る完全な実験が当然到達すべき程度の確実に到達するに先立って、人間の分別は途方にくれてしまう。すなわち、その無数の物の中では大鹿の角が一番きくとか、その無数の病の中では癲癇てんかんに一番きくとか、いろいろな体質の中では黒胆液質の人に適するとか、四季の中では冬用いるがよいとか、いろいろな国民の中ではフランス人に最も適するとか、いろいろな年齢の中では特に老人によいとか、様々な天の変化の中では金星と土星がぶつかる時がよいとか、身体各部の中では特に指によいとか、を発見するその前にもう途方にくれてしまう。そういった事柄に対しては論証にも・推測にも・実例にも・また神の霊感にも・導かれなかったのだから、そしてそれはただ単なる偶然によって導かれただけなのだから、その偶然はきっと規則と方法とをもった・完全に学芸にもとづいた・偶然であったにちがいない。それから、たとえ治癒がなされたにしても、それは病気がちょうどそのなおる時期に達したためではなかったか。これも偶然の結果ではなかったか。その日食べたり・飲んだり・またさわったり・した何か別の物の作用によるのではなかったか。あるいはその祖母さんのお祈りの効目ではなかったか。それらのいずれであったかはどうして決定することができよう? それにこの証明は、よし一ぺんだけは完全になされたとしても、その後幾たびくり返されたか。こういう様々な運命や偶然の長い組紐は、いったい幾たび編みなおされたか。唯一回きりでは、それから一つの規則が結論されるには足りないのである。
 (b)そういう〔実験上効能確実だという〕結論がなされるであろう時も、一体誰によってそれはなされるのか。何百万という人のうち、わざわざ自分の実験などを記録する者は三人くらいしかありはしない。果して運よく、この三人の中の一人が結論を出してくれるであろうか。どうだろう、もしも誰か他のものが、いや他の百人が、反対の実験をしたとしたら? もしも人間のすべての判断推理が我々に知られるならば、ひょっとすると、我々は多少の光明を見るであろう。だが、三人の証人三人の博士が人類を導くということは不合理である。それには全人類が彼らを代表として選んだのでなければなるまい。彼らが(c)明白なる委任によって、(b)我々の代理人として公認されたのでなければなるまい。
(a)デュラス夫人
 夫人よ。先頃お訪ね下さいました折は、ちょうどここまで書いたところでございました。これらのたわ言はやがていつか御手の内にはいることでございましょうから、わたくしはここに、これらがあなたに愛読していただけますならば著者はそれを大いに光栄とするということを、書いておこうと存じます。あなたはここに、私とお話をなさりながらご覧になったのと同じ容貌態度を、そっくりそのまま、再びごらんになることでございましょう。私は、私のふだんのとはどこか変った様子を、なにかもっと上品なもっとすぐれた恰好を、しようとすればすることができるに致しましても、あえてそのようなことは致しますまい。まったく私はこれらの書き物が自然のままの私をあなたのご記憶の中に浮びあがらせるようにと、望むばかりなのでございます。あなたがもったいないほど丁寧にまた敬意をもって、交わり・受け入れ・て下さいましたあのとおりの性格と能力とを、夫人よ、私は私がいなくなってからのち幾年かでも、いや幾日かでも、ながらえ得るような何かしっかりした入れ物の中に(変更を加えられないようにして)、残しておきたいのです。そうしておけば、あなたは私に関する記憶を新たにしたいとお思いになる時は、別に思い出そうとなさらずとも(それらはそんなになさる程のものではございませんが)、いつでもそこにそれらをお見いだしになれるでしょう。私はあなたの友愛をかたじけなく致しました動機となったその特質によって、永くご愛読をえたいと願うのでございます。決して死んでから生きている時以上に人に愛せられ尊ばれようとは思いません。
* マダム・ド・デュラス Mme de Duras はモンテーニュの友でラ・フェールの攻囲中に戦死したフィリベール・ド・グラモンの妹で、先にモンテーニュが第一巻第二十九章を献呈したギッセン伯未亡人コリザンドの義妹になる。夫デュラスはギュイエンヌ州きっての大貴族である。夫人は結婚する前はマルグリット・ド・ヴァロワ、すなわちナヴァール王妃の侍女であり腹心であった。第一巻第二十六章を献呈したディアーヌ・ド・フォワや第二巻第八章を献呈したマダム・デスティサックや、アンリ・ド・ナヴァールの愛人となったコリザンドとともに、モンテーニュが最も親しく交わった貴婦人の一人である。
 (b)ティベリウスの気分はわらうべきでございますが、しかし世間普通でございます。彼は当代の人々に敬われ愛せられようと心がけるよりも、その名声を後世に及ぼすことに心がけたのでございます。
 (c)万一私が後世の賞賛を受けて然るべき人物の一人であると致しましても、それはこちらからお断わり致しましょう。その代り私は前払いにしてもらいましょう。賞賛が、さっさと我が身のまわりにふり積り、長く降るよりも厚くふり、久しく降るよりも豊かにふり、そして、わたしの知覚ともろともにさっさと消えてうせることこそ、それから後はその甘い声音がわたしの耳に触れないでくれることこそ、望ましゅうございます。
 (a)いつでも人々との交わりを捨てようと思い定めている今になって、新たな評判によって人前に出ようとするのは愚かな心根と申すべきでございましょう。私は自ら自分の生活に役立てることのできなかった幸福なんか、少しも重んじてはおりません。私はどんな人間であるにせよ、書物の中だけでなく、よそでもその通りでありとうございます。私の芸術や工夫は、私自身に値打をつけるために用いられたのです。私の研究は私に行うことを教えたので、書くことを教えたのではございません。私は私の生活を作り上げるためにあらゆる努力を注いだのです。これが私の職業・私の仕事・なのです。私は何の製造人でもないように、書物の製造人でもありません。私は私の現在の・本質的な・楽しみに役立てるために幾らかの器量がほしかったので、決して私の相続人のために残してやろうと思ったからではございません。
 (c)才能があるのなら、本当に、それをその生活の中に、その日常の会話の中に、その恋愛や喧嘩をするときに、遊戯に、寝床に、食卓に、その事務の整理や家事の切り盛りの中に、示したらよろしい。それそこにひどいズボンをはいて名著を書いていらっしゃるお方よ。悪いことはいいません。まずあなたのズボンをおつくろいなさい。スパルタ人に向っては、よい軍人であるよりよい修辞学者である方がよいかどうか、きいてごらんなさい。だがわたしにはきくまでもない。わたしはそれよりもよい料理人でありたいと思います、誰もご馳走を作ってくれる者がいない時には。
 (a)夫人よ。とんでもないこと! 私は大きらいです。「あれは物を書くと才人だが、よそでは何の取柄もない愚物だ」などと評判されるのは。そんなに自分の才能の用いどころを誤るよりは、私はむしろ、本の中でも本の外でも、愚物である方がましなのです。ですから私は、これらの愚劣な文字によって何か新たな名誉を得ようなどとは、少しも期待していないのでございます。ただそこに、既にそれから得ている僅かなものを、少しも失っていないならば、それだけで満足でございます。まったく、この死して黙せる肖像は、私の自然の存在から何やかやを取り逃がしているでしょうし、私の最良の状態を写してもいないのです。むしろ最初の溌剌たる元気をすっかり失って、そろそろ凋落に向いつつある状態を示しているのでございます。そろそろ私はたるの底に来ておりますので、すでにもう樽底とおりの匂いが致しております。
 要するに夫人よ。もしも医学の本の著者たちにみちびかれたのでなかったら、あなたを始めとして多くの方々は彼らの方術を信用していらっしゃるのですから、私だってこんなに大胆にその神秘をゆすぶりはしなかったでしょう。私は医者たちがりどころとするのは、二人の古代のラテン人、プリニウスとケルススだけであると信じますが、いつかこれらの人々にお出逢いになるならば、皆さんは彼らが私よりもずっと手きびしく、彼らの医術について語っているのをごらんになるでしょう。私は医術をそっとつねったばかりでございますが、彼ら二人はその首をしめております。なかでもプリニウスは、彼ら医者たちがいよいよその方術が尽きはてると、それまで散々に薬や養生で無益に苦しめた自分の患者たちを、あるいは加持祈祷に・あるいは温泉に・追いやったそのうまい逃げ口上を、せせら笑っているのでございます(お怒りになってはいけません、夫人よ。貴家の保護の下にあり・そのすべてがグラモン家に属している・あのガロンヌ川のこなたの温泉のことを、彼は申しているのではございません)。いや彼らは、更に第三の逃げ口上を知っていて、我々をその身辺から遠ざけ、我々の病気が少しもよくならないといって彼らに加える小言をまんまとそらします。長いこと我々の病気をいじくりまわしておきながら、いよいよ我々をたぶらかす方便が尽きると、「どこぞ変った土地へよい空気を吸いにゆかれるがよい」といった工合。夫人よ、もうこれでたくさんでございます。さらば再び御免をこうむって、あなたとお話をするためにしばらく傍道にそれた私の論をつづけさせていただきましょう。

 確かペリクレスであったと思う。「ご機嫌はどうか」と聞かれると、首と腕とにはりつけた護符を指さして、「これを見たらわかろう」と答えた。つまり「こんな下らないものの助けにすがるまでに、恥ずかしげもなくこんな風をするまでに、成り下ったよ」と、自分が大病人になったことを結論しようとしたのである。わたしだって、自分の生命と健康とを医者たちの勝手な支配にゆだねるあのわらうべき考えに、他日決して降参しないとは断言しない。わたしだっていつかはああいう夢におちいるかも知れない。わたしには将来の我慢は保証できない。けれどもそのときだって、誰かがわたしに「御機嫌はどうだね」と尋ねるならば、わたしもペリクレスと同様に、六ドラクメの阿片をのせた手のひらを示して、「これを見たらおわかりだろう」くらいのことはいえるで あろう。それは激烈な病気をきわめて明白に表示するであろう。その時はわたしの判断も大いに狂っているであろう。もし苦悶と恐怖とがそんなにわたしを打ち負かしていたら、人はそれによって、わたしの霊魂もきわめてはげしい熱にやられていることを結論することができるだろう。
* 鎮痛剤。
 わざわざわたしが、このろくすっぽわかりもしないことを弁論して来たのは、わたしが祖先から受けついだ・我々の医学の薬や処置法やに対する・反感を、少しでも支持強化して、それが単に愚昧乱暴な傾向ではなく、それよりはいくらか根拠のあるものであることを示したいからであった。また、わたしが発作に苦しんでいながら、せっかくの人々の勧めや警告などに対してあんなに強硬なのをごらんになる人たちに、それを唯の頑固と考えて貰いたくないから、いや、誰か意地の悪い人々が出てきて「あれは何かの栄光にそそのかされてのことででもあろう」などと判断してはこまるからである。だって、うちの園丁や騾馬らば曳きなどと共通な行為を自慢にしようとは、まったくえりにえったる野心ではないか。実際わたしは、そんなにふくらんだ・がらん洞の・心を持ってはいないから、健康のような・身もあり髄もある・堅固な一つの快楽を、栄光みたいな・空想的な・風のような・快楽と取りかえっこをするなんてことはしないのだ! 栄光は、エモン四兄弟の栄光さえ、わたしのような考えの男にとっては、やっぱり高価すぎる。それが三回のしたたかな疝痛と取りかえっこでは。神様! どうぞ健康をお与え下さい!
 我らの医術を愛する人々には、やはりそれ相当にもっともな・大きな・強い・理由があるにちがいない。わたしは決してわたしの思想に反する思想を憎みはしない。わたしの判断と他人のそれとの間に大きな食いちがいがあるのを見ても、どうしてどうして、わたしはいきり立つどころではない。人々が自分とは異なる分別を持ち、異なる意見をもつからといって、それらの人々との交際に背を向けるどころではない。むしろ変化こそ自然が採用した最も一般的な流儀なのであるから、(c)それは物体においてよりも精神においてますます多くあるものであるから(なぜなら精神の方こそより柔軟な・より多くの形を与えられ易い・実体なのであるから)、(a)わたしは我々の考えや企てに一致を見たら、かえって珍しいと思うのである。実に、世に二つの同じ意見はなかった。二筋の髪・二粒の穀粒たね・が同じでないように。人々の意見に最も普遍的な性質といえば、それはそれらが多様であるということである。





底本:「モンテーニュ随想録」国書刊行会
   2014(平成26)年2月28日初版第1刷発行
底本の親本:「随想録」新潮社
   1970(昭和45)年1月30日発行
※本文中で出典元の記載がないページ数の表記は、底本でのページ数を表しています。
入力:戸部松実
校正:大久保ゆう、Juki、雪森、富田晶子
2019年9月2日作成
青空文庫収録ファイル:
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●表記について

無気記号付きε、U+1F10    598-10、623-21、642-10
重アクセント付きο、U+1F78    601-4
鋭アクセント付きω、U+1F7D    642-10
ローマ数字31小文字    789-19
鋭アクセント付きι、U+1F77    813-6
ローマ数字38小文字    908-12


●図書カード