モンテーニュ随想録

ESSAIS DE MONTAIGNE

第三巻

ミシェル・エーケム・ド・モンテーニュ Michel Eyquem de Montaigne

関根秀雄訳




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 一五八八年の新版『随想録』の扉には、その標題の下に第三巻一冊と既刊二冊への増補六〇〇項が増加されたと印刷されているが、この書きおろしの第三巻は、結局、一五八二年版の余白に書き込まれた前記増補分の延長ないし溢流とも言うべきもので、そこに特に新しい提論はないようである。けれどもやはりそこには、進歩とか特徴とか言うべきものが確かに認められる。まったく著者モンテーニュは、今や紋章だの勲章だの、王室伺候だとか市長だとかいう肩書などを、いつの間にかきれいさっぱりと脱ぎ捨てて、フランスのジャンティヨムからソクラテス流の世界の市民になり変っている。一五八八年版の表紙には肩書きが取れてただモンターニュの領主と書かれている。そして彼はその書斎における読書執筆と彼のいわゆる夢想とをいよいよ自己の本領と自覚し、著作者エッセイストたることに徹している。従来はいささか消極的であった自己弁護も、今や全く積極的な自己表出となり、大胆に自己の根本思想を布衍し解明することに没頭している。その上さらに、自己を読者に知らせることから、読者をして読者自らを知らしめ、読者自らをして世界や宇宙に眼を注がしめることに、その重点を移してゆく。つまりモンテーニュの自己モワは、この時、彼自らにとっても読者にとっても、己れ自らと世界とを知らせる、いわば顕微鏡とも望遠鏡ともなる光学機械、モラリスト・エッセイストという彼の本職にとって最も大切な道具となるのである。三の六「馬車について」の章なり三の九「すべて空なること」の章なりは、いずれも一の二十三、二十七、三十一、二の二十二章の延長であるとしても、何とそれは堂々として確信に満ちていることであろう。こういうところに第三巻時代のモンテーニュの面影が見られる。


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第一章 実利と誠実について



 この章以下の十三章は、全部『随想録』の一五八八年版に新たに加えられた部分であって、従来は、モンテーニュが四カ年にわたる市長職をおわって再びふるさとの城館に起きふしするようになった一五八五年の暮あたりから一五八八年の始めに至る間に、ほぼ継続して、大体配列されている順に書かれたもの(ヴィレの説)と信じられていたが、最近の研究によると(一九五三―五四年 Revue d’Histoire Litt※(アキュートアクセント付きE小文字)raire 誌所載 Roger Trinquet: Du nouveau dans la biographie de Montaigne 参照)、これら十三章は、一五八五年六月から翌八六年の七月に至る間と、一五八七年二、三月頃から翌八八年の二月に至る間との、二つの時期にわかれて執筆されたことになり、その中間に約六、七カ月の中止期がある。モンテーニュがペストに追われて城館をあとに、家族を引き連れて諸所を放浪したのは、従来一五八五年秋冬の頃と推定されていたが、このモンテーニュ一生の中の最も苦難の多かった時期は、実際には一五八六年九月から八七年三月頃のことであったと思われる。この時期のことについては後出第十二章の始めの解説にゆずる。また巻末年表参照。とにかくモンテーニュは、市長をやめてから一五八八年まで、この七カ月ばかりの時期をのぞけば、前後二十五カ月ばかりの間、比較的平穏に執筆の時間をもったわけであるが、一五八四年に王弟アンジュー公が死んで以来、思いもかけずプロテスタント側の最高指導者であるアンリ・ド・ナヴァールが王位継承者になったので、フランスの政界はいよいよ紛糾した。特に西南部のボルドー方面は内乱がますます激しくなったから、モンテーニュは退職したとはいえ全然政治問題に無関係ではありえず、国王アンリ三世と、神聖同盟派のアンリ・ド・ギュイズと、かねて関係の深いアンリ・ド・ナヴァールと、いわゆる三人のアンリの間を奔走して、その調停に誠意を傾けた。そういう経験がこの章および第三巻第十章において、モンテーニュに「個人は混乱した社会の唯中でどのようにその良心を守りとおすことができるか」という問題を論じさせたのである。すなわちこの章では、モンテーニュも一方ではマキアヴェリと同様に政治と道徳とは別ものであると考えながら、なおかつ誠意信実はいかなる乱世においてもその徳を発揮するものであるとし、政治においても道徳を無視してはならないと言っている。しかし何と言っても政治組織、政治生活の中には不徳の介在は避けがたいものであるから、モンテーニュ自らはせいぜい調停者として働くくらいにとどまり、あまり政治の世界に深入りしたがらない。政治はもっと大胆なふとっぱらの人間に委せ、自分はやはりあくまでも自分の良心を清潔に保ちたいと思う。
 だがこの告白は必ずしも彼自らに厳守されない。彼もまた自分の良心なり節操なりをけがさない範囲においては、相当積極的に政治的活動をする。もちろん第三巻においてもモンテーニュの個人主義は弱まるどころか、益々自分の体験を語り、自分を描き、自分を大切にするように説いているが(三の十)、一般社会に関する問題、政治の問題にふれることが、前二巻に比して著しく多くなっている。これはモンテーニュが、『随想録』という文筆活動をも自分の政治活動の一部と意識すること――これが自分の政治に関与するべく与えられた、或いは残された、一方法であると意識すること――が、いよいよ強くなった証拠とも考えられる。モンテーニュは自分について語ることがますます詳しくなるが、同時に人類一般に働きかけようとの意志も、益々強く、明瞭になる。
 標題 De l’utile et de l’honn※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)te とは、「有用なことと公正なこと」損得と正邪のいずれを優先すべきかというような意味で、それは第二のパラグラフ(「誰にとっても」……以下)の中に、実例と共に明らかにされる。

 (b)誰でもばかを言うことは免れない。困るのはそれを念入りにやられることである。

あわれこの人、一大努力を以て一大愚論を吐く。
(テレンティウス)

だがわたしはちがう。わたしのはいかにも愚論らしくうっかり唇をもれるのである。だからはなはだ始末がいい。少しでも困ればあっさり捨てる。つまりわたしは、愚論は愚論として買いもし売りもするのである。わたしが紙に向って語るのは、出あいがしらの人に向って語るのと同じことだ。それが嘘でないことは、次に読まれるとおりである。
 誰にとっても、不信不実は憎むべきものであるに違いない。皇帝ティベリウスはあれほどの損をしてまで、それをしりぞけたではないか。ドイツから、「もしご異議さえなければ、アリミニウスを毒殺してさしあげよう」といってよこしたとき(これはローマ人のもった最大の強敵で、かつてウァルスの率いるローマ軍をひどい目にあわせたことがあり、ただこの人ひとりのために、ローマの支配はこの地方においてその発展を妨げられていたのである)、彼はこう答えた。「ローマの民は、敵に復讐ふくしゅうするとき、いつもまっこう正面からぶつかった。計略によってこっそりやるようなことはしたことがない」と。彼は実利をすてて誠実を取ったのである。「あれは食わせ者だよ」と言われれば、なるほどそれはそうかも知れない。彼のような地位にある人たちには、ああしたことは少しも珍しいことではないのだ。だが徳の告白は、これを憎む者の口からもれたものであっても、やはり重視すべきだと思う。それは真実が、さしもの彼にああいう告白をさせたのであるから。またこの告白を本気で実行する気はなかったにしても、これによって自分の表面だけでも掩い飾ろうとしたのであるから。
 我々の組織は、公私いずれの場合においても、つねに不完全に満ち満ちている。けれども自然のうちには、何一つとして無用なものはない。無用なことさえも無用ではない。この宇宙に忍びこんだもので、そこに適当な席を占めていないものは、ただの一つもないのである。我々の存在は、もろもろの病的特質で固められている。野心・嫉妬・そねみ・復讐・迷信・絶望なども、まったくそれが自然にかなっているかのような顔で我々のうちに宿っている。そうした有様は動物の中にもそっくり認められるくらいである。残酷というきわめて不自然な不徳までも授かりものなのだ。まったく同情の気持を十分にもっていながら、我々は他人の苦悩を見ると、心の底に、何とも言いようのない・甘いような苦いような・意地の悪い快感を覚えるのである。子供たちまでがそれを感ずるのである。

風すさび波たける海岸に立ちて、
ひとの舟の沖合にて難破するを見るは楽し。
(ルクレティウス)

*「にくけいくらうべきが故に之をり、うるしは用うべきが故に之をく。人は皆有用の用を知りて無用の用を知ることし」(『荘子』「人間世篇」最終の説話)。
 これらの諸特質の種子を人間の中から取り除くならば、我々の生命の根本的性質をも破壊することになろう。同様にどんな国家にも、たんに下賤であるだけでなく不徳であって、なおかつ必要とされる職務がある。不徳はそこにそのところを与えられ、我々相互のつながりに役立っている。ちょうど毒が我々の健康の保全に用いられるようなものである。それらの職務が我々に必要なものであり、またそれらが一般にも必要であるということから、それら本来の悪い特質が相殺され、従って許されるものになるとすれば、そういう役目は最も気の強い・最も物におじない・市民たちに、大いにやってもらうべきである。彼らは自国の安泰のために自分の生命をなげうったあの古人のように、よろこんで自分の名誉と良心とを犠牲にする。だが、我々みたいな意気地なしは、もっと容易な・危険の少ない・役にまわろう。公益のためには、裏切ることも嘘をつくことも、(c)また人殺しも、(b)必要である。だがこういうお役目は、我々よりも柔順で融通のきく人たちの方にお願いしよう。
 実にわたしは、裁判官たちが詐術を用いたり、恩恵や赦免をいつわり約したりして、罪人にその犯行を白状させようとするのを見て、すなわち彼らまでが詐欺や破廉恥をあえてするのを見て、しばしば憤りに堪えなかった。むしろそれとはちがった・わたし流儀の・手段を用いる方が、正義〔裁判〕のためにも、よくこの方法を用いたあのプラトンのためにも、よいであろう。あれはよこしまな正義〔裁判〕である。正義は、他から傷つけられることよりも、こうやって自分で自分を傷つけることの方が多いと思う。わたしはつい先頃、ある人に向ってこう答えた。「わたしは一個人のために帝王を裏切ることはとてもできない。帝王のために一個人を裏切ることさえ辛いのである。わたしは人を欺くことがきらいなばかりではない。人にまちがって買いかぶられることさえ、きらいなのである。嘘やまちがいの材料や機会にされることさえ、いやなのである」と。
* モンテーニュはどんな目的(正義・裁判)のためであろうと、誰(帝王や主君)のためであろうと、人が詐欺的手段を用いることをゆるさない。自ら裏切りや詐欺を働かないことはもちろんだが、自分が他人の詐欺や裏切りの機縁になったり嘘やまちがいの材料になったりするのさえ悲しいのである。だから彼は人から買いかぶられることさえきらう。
 わたしはこんにち我々を四分五裂の状態においている諸党諸派の間に立って、いささか王侯がたの調停をしなければならなかったときも、彼らに勘ちがいをされたり買いかぶられたりしないように、つとめて用心をした。その道の人々は、できるだけ自分を掩いかくす。そしてできるだけ中立であるかのような、できるだけ同じ意見であるかのような顔をして、まかり出る。だがわたしは、自分の意見をできるだけ鮮明にし、できるだけわたしらしい態度で出てゆく。なんと甘っちょろい素人くさい調停者だろう! 自分に不忠である位ならむしろ事が成就しないことをのぞむというのだから! ところがこんにちまでのところ、万事はなはだ好運で(まったく正直のところ、ここでは運が最も主要な役を勤めるのである)、わたしほど疑われず・わたしほど可愛がられ親しまれながら・橋渡しをした者は、ちょっとないのである。わたしのやり方はあけっぱなしで、初対面の時から相手に気に入られ、容易にその信をかちえてしまう。素朴とまじり気のない真実とは、どんな時代においても時宜にかない受けいれられる。それに、自由率直な言動も、少しも自分の損得など考えずに働く人々の場合には、疑いを受けたり嫌われたりすることはほとんどない。そういう人たちは、あのヒュペレイデスが、その言葉の辛辣なのをアテナイ人から咎められた時にした答を、そっくりそのまま用いることができるのである。つまり、「諸君よ、ただわたしが無遠慮だということだけを考えず、むしろわたしが何らの報酬も要求せず、少しも自分の仕事を有利にしようなどとは思わないからこそ、ただ無遠慮なのだと考えて下さい」と言えばいいのだ。わたしの無遠慮もまた、その臆面のなさによって、そこに隠しだてがありはしないかとの嫌疑を容易に一掃してくれた(わたしはどんな言いづらいことでも容赦なくいってのけたから、人のいないところでもそれ以上の悪口はいいようがないと見えたのだろう)。いやそれは見るからに二心なく、いかにもざっくばらんに思われるからである。わたしは行動しながら、働くこと以外に何の果実も期待しない。そこに遠大な計画や後日の結果などを付け加えない。それぞれの行為がそれぞれするだけのことをする。あとは成るようになればよいのだ。
* 三人のアンリ、すなわち国王 Henri ※(ローマ数字3、1-13-23), 神聖同盟派の頭目 Henri de Guise, 革新教徒の頭目 Henri de Navarre の間に立って、モンテーニュはしばしば調停をした。解説及び年表参照。
 それに、わたしは、えらい人たちに対して愛憎いずれの感情にも駆られないし、わたしの意志は私怨にも私恩にも縛られない。(c)わたしは我々の王侯を、単に法的な・市民としての・愛をもって見る。それは私の利害によって盛んにもならなければ衰えもしない。この点わたしは自分に満足している。(b)一般的な公正な動機にも、適度に・熱狂せずに・でなければ、拘束されない。わたしはあの、心の底までも窮屈にする抵当契約には引きずり込まれない。怒りや憎悪は正義の義務を越えている。それらは、単なる理性によっては十分にその義務を果しえない人々にだけ、役立つ感情である。すべて適法公平な意図は、それ自体穏和中正なものであって、そうでなければ謀反をひめた不法なものになってしまう。そう思うからわたしは、常に頭を高くし、顔をも心をもあけひろげて歩きまわるのである。
* 一般的な公正な動機に対しても過度になったり熱狂的になったりせず、常に節制と中庸を失わないという意味である。彼も一方では、「人間は狂った状態においてでなければなんら偉大な業をなしとげることがない」と知っているのだが、しかし彼は飽くまで実際家であり平凡人である。まったく、文字どおりに「身命を賭し」たり「粉骨砕身」したりしなければならぬ事柄というものは、落ちついて考えて見ればそうざらにあるものではないのである。
 正直のところ(わたしはこう白状することを恐れない)、わたしもまた必要があれば、あのお婆さんが企てたように、一本の蝋燭を聖ミシェルに、もう一本をその竜に、ささげないとも限らない。わたしは正しい党派に、火あぶり台のところまでついて行くであろう。だが、できるならその一歩手前までにしておく**。モンテーニュの邸も社会の破滅とともに崩れ落ちるがよい、それが必要ならば。だがそれに及ばないなら、邸が助かることを運命に感謝するであろう。わたしはわたしの義務がゆるす限り、自分の家の保全に努めるつもりである。あのアッティクスも、正義の側、すなわち負けた方の側にくみしはしたが、それでもその節制によって、世をあげての難船のなかで、すなわちあれほどの政変革命を通じて、よくその身を全うしたではないか。
* 聖ミシェル像は、いつも足の下に竜をふまえている。一老婆は、聖ミシェルに蝋燭を奉ってから、ふとこの竜に他日復讐されては大変だと思いつき、あわてて竜にもお蝋燭を奉献した、という話がある。いつどっちの党派が天下をとるかわからないから。
** ※(始め二重山括弧、1-1-52)Je suivray le bon parti jusques au feu, mais exclusivement si je puis.※(終わり二重山括弧、1-1-53)モンテーニュは自分の支持する党派に、あくまでついていく。火あぶり台までもついていく。ただし出来れば exclusivement(すなわち火まで、ただし火を含まず、その一歩手前まで)、で御免をこうむりたい、というのである。
 彼のような私人にとっては、ことは比較的容易である。いやわたしだって、頼まれもしないのにあの種の仕事に自分から関与しようという野心を持たなくても、当然ゆるされてよいと思っている。だが、自分の国の混乱に臨み、公衆の分裂を前にしながら、その感情を動かすことも傾けることもなく、どっちつかずでぐらついているのは、決して美しいことだとも正しいことだとも思わない。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)そは中正の道を取ることにあらずして、いかなる道をも取らざることなり。そは形勢を観望して、運めでたきかたにつかんとするものなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。
* ここでもモンテーニュの懐疑説が純粋のピュロン説でないことがわかる。彼がよく公私の生活を識別し、みずから愛国者として積極的な行動に出たこともしばしばあることは、彼の伝記が語るとおりである。
 それは隣りの国の事件に対してならば許されよう。スュラクサイの僭主せんしゅゲロンは、蛮民がギリシア人に攻めかかったとき、今申したように、いずれに味方すべきかを決定しなかった。すなわちデルフォイに貢物みつぎものを携えた一人の使臣を滞留させ、運がいずれの側に幸いするかを見さだめて、時を移さず勝った方と手を握る機会を逃さないようにと、命じたのである。だが自国内の事件に関してそのようなことをすれば、一種の裏切り行為となるだろう。この場合は是非とも(b)断乎たる決心によってその態度をきめなければならないのだ。だが全然ことに関与しないことも、何の公職もなく何ら司令の義務もない人においては、他国の戦争に参加しないのと同様に、許されてよいことだと思う(もっともこの弁解はわたしにはあてはまらないが)。わが国の法律は、外国との戦争に対しては、それに参加したくない者が参加しないことを許しているのであるから。けれども、一身をあげて事件に参加せねばならない人々〔王臣ないし軍人〕だって、秩序と節制とをもってそれにのぞめば、暴風はただその頭の上を吹きすぎるだけで、何の損傷もこうむらないですむのである。さきのオルレアンの司教モルヴィリエ殿について、我々がこんな風にしてもらいたいと希望したのは間違いだったのであろうか。わたしはこんにち、内乱にのぞんで雄々しい働きを示している人々の中にも、その性質がきわめて温和平静であって、天がいかに恐ろしい変異を下すとも泰然として動かないだろうと思われる幾人かを、知っている。わたしは王侯に対していきり立つのはもっぱら王侯であるべきだと思う。あまりにも不釣合な喧嘩にあえて立ち向うあの威勢のよい連中を見るとおかしくなる。まったく我々は、自分の名誉のために自分の義務に従って公然と勇ましく王侯に立ち向うとき、彼と私の争いをしているのではないのである。この場合王侯は、このような人物を好まないにしても、それ以上に、彼に一目おく。特に法律のため旧制度擁護のための争いである場合には、私の目的のためにその国を乱している王侯たちまでが、そのような擁護者を、尊敬はしないまでも容赦するのが常である**
* ジャン・ド・モルヴィリエ。一五六八年宰相となり、カトー・カンブレジの条約やトレントの宗教会議に関与した人だが、世間ではもっぱら優柔不断で決断がないと取沙汰した。しかしモンテーニュの方は、むしろ行きすぎないようにと、願ったのである。温和と節制を以てしても、公人としての義務は果せると信ずるからである。
** これはモンテーニュ自らの政治上の主義を述べているものと考えられる。自分はアンリ三世のために働いているのでもアンリ・ド・ナヴァールのためにしているのでもない。正義のために、国家人民のために働いているのだという、自分の心事を述べているのであろう。「私の目的のためにその国を乱している王侯たち」とは、神聖同盟派の人々を指しているのであろう。
 しかし私利私情から生れる胸の中の苛立たしさ激しさは、決して(我々が日常呼びならわしているように)義務と呼んではならない。二心ある・よこしまな・行為は決して勇気と呼んではならない。人々はその邪悪と乱暴とに向う心を熱心と名づけている。つまり彼らを奮い立たせているのは大義名分ではなくて私利私欲だからである。彼らが戦争をあおり立てているのは、それが正義であるからではなくてそれが戦争であるからだ。
 我々が互いに敵である人たちの間に立って協調的に・公平に・ふるまったとしても、いっこう差支えないのである。いつも均等な感情でのぞみえないまでも(まったく人の感情は時によって程度を異にするのである)、少なくとも中正な感情をもってお臨みなさい。一方の人たちにだけ片よってそのいいなり次第になってはいけないのだ。また彼らのほどほどの愛顧で満足しなければいけない。そこに魚をとろうとはせず、ただ濁流の中を泳ぐだけで満足なされよ。
 もう一つの態度、すなわち全力をつくしてこっちにもあっちにも奉仕するというのは、良心を欠いているというよりはむしろ思慮を欠いていると言った方がよい。その一方のために、やはり君をちやほやしているもう一方を裏切ってごらん。前者も、この次にはおれの方が裏切られる番だと、さとらずにはいまい。彼は君を邪悪な人間だと思う。そのつもりで君のいうことを聞き、君を利用し、君の不信を自分のために利用する。まったく二心ある人間は、利用するつもりになればなかなか役に立つものだ。だが、こっちもなるたけ利用されないように用心しなければならない。
 わたしはどっちの人にも、いつかまたもう一方に対して僅かに語調を変えるくらいで言いうることでなければ、いわないのである。どっちつかずの事柄、知れきった事柄、あるいは両方に役立つ事柄でなければ、伝えないのである。そこにはわざわざ彼らを欺くほどの利益はないのである。黙っていろと言って明かされた事柄は、そっと胸に秘めておく。けれども、内証のことはできるだけ伺わないことにしている。王侯がたの秘密なんて、これをどうしようもない人間にとっては、迷惑千万な預り物と言わねばならない。わたしはよくこんな取引をする。「あまり私に打ちあけたもうな。その代り私の申上げることは思い切ってご信用ください」と。それでもわたしは、いつも思いの外に多くのことを洩れ承ったのである。
 (c)こっちが打ちあければ、むこうも胸を開いて語る。ちょうど酒や恋と同じである。
 (b)フィリッピデスは、「わたしの財宝の何を譲ろうか」といったリュシマコスに、こういう賢明な返答をした。「何なりとも。ただし君の秘密だけは御免だよ」と。人は誰でも何か仕事をたのまれながらその奥底を隠されたり、その背後にある若干の意味を明かされないと、機嫌を悪くするようだ。だがわたしは、人がわたしにさせようとするそのこと以上に何もいってくれなくてもいい。かえって事情を知りすぎて、言おうとすることが言えなかったりしては困るのである。よし詐欺の道具に使われるにしても、せめてわたしの良心だけは清らかにしておきたい。わたしは、「謀反むほんをあかしても安心な男」といわれるほどの忠実なしもべにはなりたくない。自分に不忠な者が主人に対して不忠でも、それは大目に見てやらなければならない。
 ところが王侯がたは、半分の人間は受け容れて下さらぬ。そして制限や制約のある奉仕をおきらいになる。これには全く閉口する。でもわたしは、正直に自分の奉仕の限界を彼らに告げる。まったく奴隷になるくらいなら、ただ理性だけに奴隷でありたい。いやそれにだって、奴隷にはなり切れそうにないけれど。(c)それに彼らもわるい。一個の自由な人間に向って、彼ら自らが育て上げたり買ったりした者に対するように、またその運命が特に明らかに彼らの運命に結びついている者に対するように、絶対の服従や奉仕を要求するのは間違っている。(b)法律はわたしから大きな困難を除いてくれた。法律はわたしのために、わたしのくみすべき党派を選び、わたしの仕えるべき一人の主人を見つけてくれた。他の権威他の拘束は、どれも皆法律の権威拘束の中に包括され局限されねばならないのだ。だからわたしの感情がわたしを別の方向〔宗教改革〕につれてゆくことがあっても、わたしはすぐさまその方の人と手を結ぶつもりはない。意志と欲望とはただ自分の法規に従えばよいのであるが、行動の方は国家が規定する法律に従わねばならないからである
* この句もモンテーニュの宗教上政治上の態度をかなりによく説明してくれると思う。心にはいかなる信仰いかなる哲学をいだいていても、行動の上では国法に従うというのがこの人の態度であったと察せられる。
 すべてこうしたわたしのやり口は、世間一般の仕方とはかなり喰違っている。これは大きな効果を生み出すものでも永くつづけられるものでもないであろう。我々の間では、正直だけでは何一つできないのだ。猫をかぶらなくては商談もできないし、嘘をつかわなくては談判もできないのだ。だから、公務にたずさわることはどうしてもわたしの性に合わないのである。職分上取らねばならぬ公務を、わたしはできる限りわたしの流儀のやり方で果した。若い頃、人はわたしを耳まで公務の中に漬けた。そして成功した。だが、わたしはさっさとそこをぬけ出した。それから後は、公務にたずさわることをしばしば回避した。稀にそれを受けても、決して自ら求めはしなかった。いつも野心に背を向けてきたのである。だが、そうやって後向きにぐんぐんとのしてゆく漕手こぎてとはわけが違うのである。もっともわたしがそうした舟に乗込まなかったのは、そうと決心した結果ではなくて、むしろわたしの好い運のためであった。まったく、わたしの趣味にさほどに反せず・またわたしの能力にもっともふさわしい・幾筋かの道もあったのである。もしも運命が、それらの道によって、昔わたしを公務にと導き、また世間の信用へと案内したならば、おそらくわたしも、わたしの思想上の理由をふみ越えて、そうした運命の導くがままに赴いたかも知れないのである。
* 年齢制限免除により、若くしてコンセイエになったことを指す。
 こう言うと早速わたしの言葉をさえぎって、「お前は日頃率直だとか単純だとか正直だとか言うが、それはみんな技巧策略だ。お人好しではなくて用心、自然ではなくて巧知、運がよいのではなくて勘がよいのだ」と口を揃えて言う人がいるが、それはわたしにとってはむしろ名誉なことで、少しもそれによって名誉を傷つけられたとは考えない。けれどもほんとうに、それはわたしの策略をあまりに買いかぶっているのだ。もうすこし詳しくわたしの行動を審査してもらいたい。その上でなお、「なるほど自分たちの学派には、お前みたいに自然に振舞うことをゆるす規則はない。あんなに曲折が多く多様な道筋を通じて、お前みたいにいつも変らず、しじゅう自由気ままな態度で押しとおすことをゆるす規則はない。いくら注意を払っても工夫をこらしても、とてもお前のその自由率直にはかなわない」と告白しないですむようなら、そのときにこそ始めてわたしはかぶとを脱ぐことにしよう。真理への道はただ一筋である。一身上の利益や自分のたずさわっている仕事のための便益に通ずる道は二重であり、不同であり、偶然である。わたしはしばしば曲げられた・人為的な・わがまま勝手が行われるのを見たけれども、それは最もしばしば効を奏しなかった。それはいつもアイソポスの驢馬ろばを思わせる。彼は小犬とせりあって、甘えて主人の肩に両足をかけたのであるが、犬の方はたくさんの愛撫をうけたのに、可哀そうに驢馬ろばの方は、同じ仕草のために倍数の鞭笞むちしもとをくらったのであった。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)我らに最も似合うことは、最も我らのままにあることなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)わたしは欺瞞ぎまんからその位をうばおうとは思わない。それは世間を誤り解することとなろう。わたしも欺瞞がしばしば有効に役立っているのを、それが人間の大部分の職業を支持し養っているのを、知っている。世には適法な不徳があるのだ。あたかも良い・或いはゆるすべき・行為でありながら、適法でないものがいくらもあるように。
* これはマキアヴェリストに対する反論。「君たちは僕(モンテーニュ)を策略家だという。それはむしろ僕にとっては光栄千万だが、今すぐその断定には承服しかねる。もう一度よく考えてから物を言ってもらいたい。そうすれば、策略にかけては自分たちの方がうわてであることを、君たちは自ら認めないわけにゆくまい」というのである。
 自然で普遍的な正義そのものは、もう一つの(c)特殊な・国家の・(b)我々の行政上の必要にしばられた・正義とは別様に、それよりも高貴に、規定されている。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)我らは真正の権利・完全なる正義・の確実な模範を知らず。我らはただ僅かにその影を模倣するのみなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)それで賢者ダンダミスは、ソクラテス、ピュタゴラス、ディオゲネスの一生の物語を聞くと、彼らを「他のすべての点においては偉大な人物であるが、あまり法律に服従しすぎた」と判断した。つまり法律をあまり擁護しすぎると、かえって真の徳義がはなはだしく本来の力を失うからである。そして、たんに法律に許可せられてではなく、むしろそそのかされて、たくさんの悪業がなされるからである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)元老院の決議および人民投票によりて犯されたる罪あり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)わたしは一般の言葉遣いに従って有益な事柄と正しい事柄とを区別するが、そうすると、たんに有益であるだけでなく必要でさえある或る自然の行為までも、不正不潔と呼ばざるを得ないことになる。
 だが我々の裏切りの話を続けよう。トラキアの王位を望む者が二人、互いにその権利を主張して譲らなかった。ローマの皇帝ティベリウスは彼らが武器に訴えることを妨げた。ところがその一方は、会見によって友誼的和解をとげるように装って、相手を自分の家の御馳走によび、これを牢に入れ殺してしまった。正義に訴えて考えれば、ローマ人はこの非行の報復をなすべきであったろう。けれども普通の方法ではそれをなしとげることが困難であった。そこで彼らは、戦争も危険もなく合法的にはなしえないことを、裏切りによって行おうと企てた。彼らは誠実な仕方ではなしえないことを、有利な仕方でなしとげようとした。それにはポンポニウス・フラックスという者が適任と認められた。この男は、嘘の約束と保証をして相手を自分の網の中に引き入れ、約束した名誉と恩恵とを与えるどころか、その手足を縛ってこれをローマに送った。このように裏切者の裏をかいたことはまことに珍しい。まったく、裏切者はひどく疑いぶかいから、彼らが得意とする策略によって彼らの鼻をあかすことはむつかしいのである。その証拠には、我々もつい先頃、そのためににがい経験**をなめたではないか。
* トラキア王レメタルセスのあとを、その弟コチスとその息子レスクポリスとが争った。
** 一五八八年にカトリーヌ・ド・メディシスとアンリ・ド・ギュイズとの間に行われた見せかけの和解を指しているのではあるまいか。
 なりたければポンポニウス・フラックスになって見るがよい。なりたい者は相当にたくさんあろう。だがわたしにおいては、言葉も真心も他の部分と同様に、みな国家という一つの体の一部をなしている。それらの最良の働きは、公に奉仕することである。わたしはこのことを第一の前提としている。けれども、もしわたしが、「裁判官となって訴訟をさばけ」と命ぜられるならば「そのようなことはさっぱり不案内で」と答えるであろうように、また「開墾者の監督をやれ」といわれれば「わたしはもう少し気のきいたことができるはずだ」と答えるであろうように、もし誰かが、何か重大な奉仕のためにわたしに嘘をつかせ裏切りをさせ心にもない誓言をさせようとするならば、それが暗殺や毒殺を目指してはいなくたって、わたしはいうであろう。「わたしは泥棒をするくらいなら、むしろ漕役の方にまわしてもらおう」と。まったく名誉を重んずる者は、かつてラケダイモン人がいったように語ることができるのである。すなわち彼らはアンティパトロスに負けていよいよ講和の場にのぞむと、「君たちは我々にいくらでも重く苦しい荷を負わすことができる。けれども恥ずかしい不正な事柄をいようとしても到底むだであろう」と答えたのである。人はみなあのエジプトの王たちがその裁判官たちに荘厳に宣誓させたこと、すなわち、「いかなる王の命令があろうとも決しておのが良心はいつわるまい」ということを、自らに向って誓うべきである。今いったような無理な言いつけの中には、恥と罪とが歴然と現われている。ああいう命令を課する者は、君に罪をなすりつけているのだ。よく彼のいうところを理解して見れば、ひっきょう彼は君に重荷と苦悶とを授けているのだ。君の働きによって世間の事情が良くなれば、それだけ君の胸のうちは苦しくなる。君がそれに成功すれば、それだけ君は損をする。それに、君にそれを命じた当人が君を罰することも珍しくはなかろうし、またひょっとするとその方がかえって正義らしく見られることすらあるであろう。(c)不信不実もある場合はゆるされる。だがそれは、ただ不実を罰し不信の裏をかく場合だけにかぎるのである。
* ガリー船を漕がせる刑罰・苦役。
 (b)裏切りは、わざわざそれを命令したその人によって退けられたことがあるだけでなく、罰せられたことも少なくない。ファブリキウスがピュロスの侍医を処刑したことを知らないものはないだろう。ところがまたこんな話もある。或る人は自ら裏切りを命じておきながら、これを遂行した家来をひどく罰し、「自分はそれほど狂暴な権力をふるおうとは思わない。それほど卑屈な服従を求めはしない」といった。
* ファブリキウスがピュロスと戦ったとき、ピュロスの侍医はファブリキウスに向って、「ピュロスを殺して戦いを終えよ」と進言した。ファブリキウスはこの侍医を縛ってピュロスの許に送った。
 ロシアのヤロペルク公はポーランド王ボレスラスを裏切ろうとしてハンガリアの一貴族を手なずけ、これに「お前が自らポーランド王をなきものにしてくれるか、さもなくばロシア人の方でこれに何か重大な危害を与えうるような便宜を与えてくれ」と頼んだ。そこでこの男はきわめて巧みに立ち回り、従前以上に王の信任をえ、まずその顧問、しかもその最も忠実な顧問になりすましてから、いよいよその特権を利用し、また主君の留守の間をねらって、とうとう〔ポーランドの〕富裕な大都市ヴィスリチュカをロシア人に売った。それでこの都はロシア人のためにすっかり掠奪された上に焼きはらわれ、たんにその老若男女の住民ばかりでなく、彼の計略によっておびきよせられた近郷の貴族たちまでが、そこで命をおとしたのである。かくてヤロペルクは、そのいわれがないでもない敵愾心てきがいしんと怒りとを満足させられたけれども(まったく彼はボレスラスからさきに同じような侮辱を与えられたのである)、さていよいよこの裏切りの結果に飽きて見ると、その醜悪な点ばかりがまざまざと想い出され、今はもうそれを情念に曇らされていない健全な目で見るようになり、非常な後悔と嫌悪とを感じ、とうとうその実行者の目をえぐり舌を抜き、その恥ずかしい部分を切断させた。
 アンティゴノスは銀楯隊の老兵どもを説きふせて、自らの敵であり彼らの総大将であるエウメネスを売らせた。けれども彼らからこれを受け取りこれを殺してしまうと、みずから神に代ってそのような憎むべき大罪を罰してやろうと思い、彼らを地方長官の手にわたし、どんな方法によってでもよいから彼らに酷刑を加えるよう厳命した。そのために、彼らの数はおびただしいものであったけれども、それ以来そのなかの誰一人、マケドニアの空を見たものはなかったといわれる。裏切りの命令がよく行われただけに、それだけ彼は、そのことを悪い罰すべきものと判断したのである。
 (c)その主人プブリウス・スルピキウスの隠れ家をあかした奴隷は、ス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラの解放令が約束するところに従って自由の身になった。けれども国法の命ずるところに従って、せっかく自由の身となったのにそのままタルペイウスの岩の上から突き落された。これはまず報酬の入った財布を首にかけてやってから、そのひもで首をしめたようなものである。まずもって第二の特別の約束を果しておいて、次に第一の一般的な約束を全うしたわけである。マホメット二世は弟の威勢が盛んになることを恐れ、彼を亡きものにしようと、その国の習慣に従って家来の一人にそのことを託した。この者は、彼の口中に水をしたたかに注ぎこんで窒息させた。後に王はこの殺害の罪をつぐなうために、その下手人を死んだ弟の母にわたした(二人は腹ちがいの兄弟であったから)。母は彼のいる前で殺害者の胸をさき、そこに手をつっこみ、まだ熱い彼の心臓をつかみ出して、これを犬に喰わせた。我々の王クロヴィスはカンナクルの三人の下僕を、彼らがその主人を自分に売ってから後に絞め殺した。彼らにそれをさせたのは彼自身であったくせに。
 (b)やくざな者どもでさえ、何か不徳な行為から得をしてしまった後に、いわばその罪滅ぼし良心のつぐないとして、自分の身を少しも危うくすることなしに何かの善行と正義のしるしをそれに縫いあわせることができるならば、はなはだしあわせなのである。
 (c)それに彼らは、そういう恐ろしい罪悪の実施者を、あたかも自分たちに向ってその非を責める人のように見るのである。だからこそこれらの者を殺して、そういう悪だくみの認知と証拠とを抹殺しようと努めるのである。
 (b)ところで万々一、人が、そういう最後の自棄的な方策が世間には必要であることを否定しないで、君の裏切りに報いるところがあったとしても、その人だってしんからの不信な人でない限り、やはり君を呪われた憎むべき人間と思わずにはいない。そして君が裏切ったその人以上に、君を裏切者と考えるのである。まったく彼は君のよこしまな心を、君自身の手によってためしたので、そこには否認も抗議もありえないのである。それでも彼は君をそこに使用する。ちょうど堕落した人間を死刑の執行に使用するのと同じことで、この役ははなはだけがらわしいものではあるが、また有用でもあるのである。こういう役目は、それ自体醜悪である上に、その人の良心を腐敗させる。セイヤヌスの娘は処女であったので、ローマにおける裁判上のある形式のために死刑に処することができなかったから、その刑を執行するために刑吏をして首をしめる前にけがさしめた。この刑吏は、その手のみならず、その霊までも、公用のために奴隷としたのである。
 (c)アムラト一世は、太子が自分に対して企てた謀反と父殺しを手伝った家来どもの刑罰を、いやが上にも苛酷なものにしようと、彼らの最も近い肉親にその刑の執行を手伝わせた。その中の幾人かが、「他人の親殺しを手伝ったという無実の罪をきせられる方が、自ら親殺しをあえてして正義〔裁判〕に奉仕するよりはまだましだ」と考えたのは、はなはだ正しいと思う。だが我々の時代に或る要塞が攻囲をうけた際、馬鹿者どもがただ自分の命が助かりたさに、その僚友の首をしめることに賛成するのを見た時は、わたしは彼らを、首をしめられる者よりも一そう可哀そうな奴だと思った。いい伝えによると、むかしリトアニア人の帝王ヴィトルドは、「罪人は自分に与えられた死刑の布告を、自らおのれの手によって執行すべし」という法を立てたというが、罪とがのない第三者が殺人の役目を強いられるのはおかしなことであると考えたからだ。
 (b)帝王は、国家の要請する緊急な事情のため、何か唐突かつ意外な出来事のために、その誓約をひるがえさなければならないときには、いいかえればその平常の義務にはずれなければならない時には、この必要を神のむちと考えなければならない。それは決して不徳ではないが(まったく彼は、より強くより広い別の理由のために自分ひとりの理由を譲ったのである)、それはたしかに不運なことであるには違いない。だからわたしは、「ではそれに対してどのような方法があるか」というある人の問いに対して、こう答えたのである。「仕方がない。もし帝王が真にこの両極の間に板ばさみになったのであれば、そうするよりほかはない((c)※(始め二重山括弧、1-1-52)ゆめここに宣誓違反の口実を求むることなかれ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ))。(b)けれども、それはやむをえずなされたことではあろうが、それが少しも遺憾の念なくなされたのであれば、そうすることが彼に少しも心苦しく感ぜられなかったのであれば、やっぱりそれは彼の良心が腐っている証拠である」と。
 (c)もしここにきわめて良心的な帝王があって、「どんな治療に用いるにしても、そのような荒療治はふさわしくあるまい」と考えたとしても、わたしはこの王に対する尊敬を少しも減らしはしまい。そのために彼は身を滅ぼしても、それは許すべくまた正しいことであったといわねばなるまい。我々は万能ではないのだ。どっち道、我々は、しばしば我々の船の保護を、ただただ天の引きまわしにゆだねなければならないのだ。天こそ我々の最後の港である。世の帝王にとって、天の命に従うくらい公正な辛抱我慢がほかにあろうか。自分の良心と名誉とを犠牲にしなければなしえない事柄くらい、帝王にとってなすにしのびないことがまたとあろうか。この良心と名誉とこそは、彼自らの安泰よりも、また人民の安泰よりも、彼にとって大事なことなのではあるまいか。腕を組んで虚心に神の助けを呼びながら、彼は善良なる神が清く正しい者にその非凡な助力をおしまれるはずはない、と思ってはならないのだろうか
* ここにこの一章の眼目、モンテーニュの政治論の究極を、見なければなるまい。彼は政治と道徳とを混同しない。彼は本来ポジティヴィストであるから、そのマキアヴェリスムに対する論難の仕方は、当時一般の道徳家とはちがっていたのであるが、しかし、結局はマキアヴェリスムを排撃している。すなわち、帝王は宜しくその権謀術数に勿体らしい理屈をつけることをやめ、もっぱら神意をたずね、自分の良心に訴えて、政治をすべきだ、というのがモンテーニュの結論である。ただ当時のヴァロワ王朝の政策は明らかにマキアヴェリスム支持であり、カトリーヌ・ド・メディシスは聖バルテルミの殺戮を司令し、アンリ三世みずからアンリ・ド・ギュイズを暗殺させるという時代であったから、モンテーニュの論調にはいつも相当の用心深さがうかがわれたのであるが、この項を書いたのは一五八八―九二年、すなわちアンリ三世死後のことであるから、ようやくここにはっきりした結論を述べるに至ったものと考えられる。マキアヴェリスム批判については前出、第二巻第十七章参照。
 (b)以上に述べた話は危険な実例であり、我々の自然の法規の稀な病的な例外である。我々もこれに譲歩しなければならないが、それは大きな節制と用心とをもってしなければならない。私の利益は、どんな場合もこのような我々の良心に対する無理を正当化することはできない。公の利益のためならばよいが、それもその公益がはなはだ明白で、かつはなはだ重大なものである場合に限る。
 (c)ティモレオンは、暴君を殺したその手がまさに兄弟である自分の手であったことを思って涙を流したために、その勲功の非道を責められずにすんだ。実際、あのように兄弟の義務を犠牲にしてまでも公の利益を守らねばならなかったことが、彼の良心を刺激したのは当然である。元老院も彼の行いによって救われながら、なおすらすらとはこの功績を判定しかね、二派の全然相反する意見にわかれたのであった。ところがちょうどそのとき、スュラクサイ人が使をよこして、コリント人の援助を求め、自分たちの都を昔の隆昌にかえし、シチリアの地を圧制する多くの暴君を一掃してくれるような大将を一人貸してくれといって来たので、さっそく元老院はティモレオンを呼びよせ、彼がその任を立派に果すか否かによって、祖国の解放者たる名誉を与えるか兄の殺害者として処罰するかを決定する、とあらためて申しきかせた上、彼をそのスュラクサイに派遣した。しかしこの気まぐれな結論もまた、あの特異な行為の重大さと、それが前例となる場合の危険を考えれば、多少じょすべきものがある。実際、直ちにその判定をすることを避け、これを別の第三者の考察によって決しようとしたのはよかった。ところで、ティモレオンのこの旅さきにおける働きは、やがて彼の立場を明瞭にした。それほど彼は、様々の点においてその力量と徳性とを示したのである。またこの高貴な任務には多くの困難があったにもかかわらず、彼が首尾よくそれをなしとげたのは、ひとえにこの人の行為を釈明してやろうと思召された神々のたまものであるとも、思われるのである。
* 第一巻第三十八章の最後のパラグラフ参照。
 このティモレオンの意図はゆるされるべきである、人を殺すという意図も時にゆるされることがあるとするならば。けれども国家の収入の増加に役立つからというような理屈は――それはわたしがこれから物語ろうとするあのいまわしい結論をなすためにローマ元老院の口実になったのであるが――、とうていあれほどの不正を擁護するには足りないのである。ある幾つかの都市は、ルキウス・ス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラの努力の結果、元老院の布告および許可により、金を払って再びその自由を獲得した。ところが後に再びそのことが問題になると、元老院はかつての約束を無視してそれらの都市から従前どおり税をとることにきめ、しかもかつてそれらの都市の自由と引きかえに受けとった金は返さなかったのである。内乱はしばしば次のような忌わしい事件をひき起す。例えば我々の方が昔と考えがかわってくると、かつて我々の党派を信じた人たちを処罰する。同じお役人が、自分の変説の罪を、これを夢にも知らない者に負わせる。先生が、従順だと言ってその弟子を鞭うち、案内者が、自分についてくる盲人を叱りつける。何という恐ろしい正義の姿であろう! 哲学の規則の中にも嘘のものもあればいい加減なものもある。私の利益を良心よりも重く見させるために哲学が我々に示す次のような事例は、いくら人々がそこにこじつけられた情状を酌量して見ても、十分な重味を持たないのである。泥棒が君をとらえ、幾ら幾らの金額を支払うという約束をさせた上、君を放したとする。「いくら正しい人間でも、一度彼らの手のうちから脱したら、正直に金を支払わないでもよい」というのは間違っている。とんでもないことだ。恐怖がわたしに一ぺんそう決心させた以上、恐怖がなくなってからもわたしは約束どおりにしなければならない。わたしにはその意志がないのに、唯恐怖がわたしの舌を強いただけであったにしても、あくまでわたしは約束を守らなければならない。わたしは恐怖のためにうっかり思わぬことを口ばしったのであっても、やはり約束したことは守るように心がけた。そういうことにしなければ、我々は第三者が我々の誓約について持つ正当な権利を、だんだんとくずしてゆくことになるであろう。※(始め二重山括弧、1-1-52)かくては正義の人も暴力の前には屈することあるがごとし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。ただ一つだけ例外がある。すなわち、約束したことそれ自体がよこしまな不正なことである場合には、ただ私の利益だけのためでも、約束を守らなくてもゆるされる。まったく、徳の権利は契約の権利に優先しなければならないのである
* モンテーニュは第三巻第十二章に、ある森の中で敵に襲われ、身の代金を強要された経験を物語っている。その時の彼の態度は、ここに述べている彼の考えが口先だけでないことを証明している。
 (b)わたしはかつて〔二の三十六〕、エパメイノンダスを優れた人物の第一位においた。わたしはこの言葉をひるがえさない。どこまで彼は自分の個人的義務を重んじたか。彼はあくまでそれを重んじて、みずからうちまかした敵をも決して殺さなかった。彼はその祖国を自由にするという最も貴い善行のためにすら、裁判の形式によらなければ暴君をもその共犯者をもあえて殺すまいと心がけた。いや、戦場で敵側にあるおのれの友人や恩人に出会ってこれを助けなかった者は、それがいかに忠誠な市民であってもそれを悪人と判断したのである。これこそ豊かな霊魂の人と言うべきである。彼は人間の最も粗暴な行為に、慈悲の心を合体させた。実にそれは、哲学の塾に見出される最もデリケートな霊魂であった。あれほどに大胆な、そして苦痛や死や貧に対して我慢強い心をやわらげて、あれほど優しい慈悲深い性質にしたのは、そもそも自然であるかまた修業であるか。刀や血を見るとすさまじい勢いを示す彼は、彼以外にかなう者のなかった強国をうちやぶるために出かけたが、その激戦の最中にも恩人や友人に出あうとこれをかわした。実にこの人こそ、最もふさわしく最もよく戦争を指導した人である。彼は戦争が最も白熱するとき、すなわち狂暴と殺戮さつりくとでそれが最も沸き立つときに、それに優しさのくつわを含ませたではないか。ああいう野蛮な行為にいくらかでも正義の姿をもたせることができるとは誠に不思議であるが、エパメイノンダスのような豪胆の人であって始めて、よくそこに最も柔軟な最も純潔な優にやさしい心根を加味することができるのである。いや、ある人はマメルティニーの人たちに向って、「法規は武装した者には適用されない」といい、ある人はある部落の民に対して、「法律のときと戦争のときとは二つである」と言い、また第三の人は、「武器の響は法律の声を聞くのを妨げる」と言ったが、このエパメイノンダスにいたっては、礼儀礼節の声さえ聞きもらしはしなかった。彼は出陣に際してミューズの女神たちに犠牲を献ずる習慣を、その敵ラケダイモンの人たちから借りて、この女神たちの優しさと陽気さによって戦争の狂暴残酷をやわらげようとさえしたではないか。
 すでにこのように偉大な先生もあることだから、(c)敵に対してさえ決してしてはならない何事かがあり、(b)公共の利益といえども私の利益を無視して、すべての人にすべてを強要してはならないということを、あえて認めようではないか。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)私権の想出は公法の争いの中にもなお残りとどまればなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。

(b)いかなる人の権勢も、
友誼にもとることを正しとすることあたわず。
(オウィディウス)

いや正しい人から見れば、(c)その王のため、(b)公共のため、また法律のためだからといって、どんなことでもすることが許されてはいないのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)祖国に対する義務は他のすべての義務を免除せず。むしろ祖国は、まず国民がその親達に対して義務をはたすべく命ぜざるべからず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)これこそこんにちの人にふさわしい教訓である。我々はあの鋼鉄の板で我々の心までも硬くするには及ばない。我々の肩さえ硬くできればそれでたくさんなのだ。我々のペンはインキの中につければ十分なので、血の中につけるには及ばないのだ。友愛や私の義務や約束や近親のよしみを、公の福祉、法規への服従のために軽視することが、偉大な心まれなる徳の結果であるというなら、我々はほんとうにこういいわけをすれば足りる。「そんなのはエパメイノンダスの偉大な心の中にも宿りえない偉大ですよ」と。
 わたしは、この人とはちがって、度をはずれたあのカエサルがすすめる狂暴な激励をきらう。

戦の続かん限り、
何ごとを見るも心を動かすべからず。
目の前に親達の姿を見るとも、
刀をふるってその尊き顔を斬れ。
(ルカヌス)

血に渇き不信に凝り固った、しんから邪悪な人たちから、こういうもっともらしい口実を取り上げよう。こういう途方もないはめをはずした正義は捨てて、もっと人間らしいお手本を真似よう。時勢と実例の力は恐ろしいものである。内乱の際のキンナに対する会戦において、ポンペイウスの一人の兵士は、はからずも敵方にあった兄弟を殺すと、恥ずかしさと悲しさのあまりその場で自殺した。ところがそれから数年の後、この同じ国民のもう一つの内乱の時、ある兵士は自分の兄弟を殺したと言って、その大将に恩賞を要求した。
 ある一つの行為を、ただそれが有益であるからというだけで、正しく美しい行為だとするのは間違った論法である。有用なことにはみなが従わねばならぬ、(c)有益なことは誰に取っても正しいことである、(b)と結論するのも間違っている。

(c)すべてのことがすべての人に一様に適するものにあらず。
(プロペルティウス)

(b)人間関係の中で最も必要で有用なものは何かといえば結婚であろう。けれども聖人の勧告は、その反対の決心の方を正しいものとし、最も尊厳な職分の人々に結婚をさせない。そういえば我々は最もやくざな馬を種馬にする。
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第二章 後悔について



 この章は「四十年来、わたしはもうまったく、語るのにも書くのにも、それ〔ラテン語〕を用いたことがない」(九四二頁)と書いているところからおして(彼がギュイエンヌ学校を卒業したのは一五四六年であるから)、大体一五八六年頃に書かれたものと思われる。
 この章のおもな興味は、彼のみずから描く理由が最も明瞭に説かれているところにあろう。一五八〇年の序文や第二巻第十八章「嘘について」などで見ると、「親戚朋友」のために彼特有の性癖などを書きとめるのが著者の目的であったらしいが、ここではむしろすべての読者の役に立つような、もっと一般性のある、自分の性格の分析指摘に努めているようである。すなわち彼は、各人はみなそれぞれに「人間の本性を完全に身にそなえている」との認識に立っているのだ。つまり、彼がその哲学の根拠としている自然は各個人のうちにその枝葉をひろげているので、われわれのうちにはわれわれの個性となる何か特異なものもある代りにまた普遍的なものもあって、おのおのの経験は相互に役にたてることができると考えるのである。それから、従来彼は人間の思想感情が常に動揺変化してやまないことを語っているが(一の一、二の一および三十七)、ここではそういう変化の底にも何かしら持続的恒久的なものがあることを発見しているようである。すなわち彼はもう明らかにセプティックではなくなっている。今ではヒューマニストとしてのはっきりした信念の上に立って、すこぶる大胆にその道徳観を述べている。その道徳観の根本には「女を見て色情を起すものは……」という福音書のモラルにも劣らない清洌厳正なものが感じとられるばかりでなく、われわれはここに、神の観念ないし模範とは全然きり離された純然たる人間的モラルのよりどころを教えられる。神だとか天皇だとか法律だとか世間の眼だとかいうようなものによらない道徳、理性主義者でも科学者でもいだき得る道徳、ひいては民主主義国民がその基本的人権と共に誇りをもっていだきうる、真のモラルのあり方を教えられる。モンテーニュの道徳が従来いささかルーズであるように伝えられているのは、おそらく彼が肉体生活の面を軽視しなかったためであろうが、これは現代人にとってはもはやまったく問題とならない。むしろかえって儒教やキリスト教の超人的ないし非人間的道徳観にさんざん悩まされた我々にとっては、魅力でもあり救いでもある。彼は本来徹底したヒューマニストであって、ときには人間の愚かさをも卑しさをも悲惨さをも十分に認めるが、それでもなお人間の尊さを見おとすことが決してなかった。それで彼は、パスカルがあのようなペシミストになったのに、依然としてオプティミストでありえたのである(それはモンテーニュが生れながらによき天性をめぐまれていたせいでもあるが)。前者がすべてを天に向って乞い求めながら終生不幸で苦悶を脱しなかったのに対し、モンテーニュがすべてを自分に求めるだけでかくも愉快に幸福に一生を終ったことを、我々はここに特筆せざるを得ない。要するに彼のモラルは、人間が人間のままで、すなわち神も聖寵もなしに、清く正しくかつ幸福に生きられることを教えたのであって、これこそ現代人の求める道徳ではあるまいか。神秘的キリスト教の道徳観のうちに教育された人は別として、今日ではモンテーニュの道徳こそ人間としてもちうる限りの最も清洌なものであることに異議をさしはさむ者はないであろう。

 (b)他の人たちは人間を造る。わたしはそれを描く。しかもきわめて出来のわるい一個人の似姿を表わす。それを新たに造り直すのであれば、わたしは本当にそれをまったく別のものにするであろう。だがもう追っつかない。さて、わたしの描線はいろいろに変ってはいるが、決してごまかしてはいない。世界は永遠の動揺にすぎない。万物はそこで絶えず動いているのだ。大地も、コーカサスの岩山も、エジプトのピラミッドも。しかも一般の動きと自分だけの動きとをもって動いているのだ。恒常不変と言っても幾らか緩慢な動きにすぎない。わたしはわたしの対象モデルが固定できない。それは生れつきの酔っぱらいみたいに、よろよろふらふらと歩いて行く。わたしはそれを、ふとそれに心をとめるその瞬間に、そのあるがままの姿において捉える。わたしは本体※(始め二重山括弧、1-1-52)※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)tre※(終わり二重山括弧、1-1-53)を描かない。推移※(始め二重山括弧、1-1-52)passage※(終わり二重山括弧、1-1-53)を描く。一年ごとの推移でも人々のいう七年ごとの推移でもなく、毎日・毎瞬・の推移を描くのだ。わたしは叙述をその時機に適合させなければならない。わたしはやがて変るだろう。偶然に変るのみならず故意に変ることもあろう。わたしの叙述は、種々様々な変り易い偶然事と、定めない・いな時には相反する・空想との記録なのである。それはわたし自らが変るからであろうか。それとも物事を別の事情、別の考察の下にとらえるからだろうか。とにかくわたしは時と場合で随分矛盾したことをいうらしいが、デマデスがいったように真実は決してこれをまげないのである。もしわたしの霊魂ががっちりと立って動かないものならば、わたしは自分を試さないであろう。自分を決める**であろう。だがわたしの霊魂は依然として修業と試練の中にある。
* 自分自身。彼の「モワ」。モンテーニュは、自分を自分の絵の対象とし、自分をモデルとして描いている。
** いろいろに変えて描かず、はっきりと、決定的な姿・かたち・に描くであろう……の意。
 わたしは低い・輝きのない・生活をお目にかける。かまうことはない。結局それは同じことになる。道徳哲学は、平民の私の生活の中からも、それよりずっと高貴な生活の中からも、まったく同じように引出される。人間はそれぞれ人間の本性を完全に身にそなえているのだ
* ※(始め二重山括弧、1-1-52)Chaque homme porte la forme enti※(グレーブアクセント付きE小文字)re de l’humaine condition.※(終わり二重山括弧、1-1-53)直訳すれば「各人は人間性の完全な型を帯びている」。l’humaine condition とは「人の人としてあるさま」、「人たる限り誰もが持っている性質状態」の意味。万人共通の一般的人間性をいう。すなわち「人間は死すべきもの」であるとか、「動揺してやまぬもの」であるとかがそれである。forme enti※(グレーブアクセント付きE小文字)re とは完全無欠の典型(モデル)の意味に従来考えられているが、或る人はこれをアリストテレスの哲学の術語であって、すべての人間において同一である「本質」essence の意味だという。専門家の間では「質料」mati※(グレーブアクセント付きE小文字)re に対置される語として、「形相」と訳されている。いずれにしても、「人間を知るには聖人君子というような特別なモデルを見るに及ばない。平凡な熊公八公の生活の中からも道徳哲学は引出される。自分の平凡な生活を描いて見せるのもそのためだ」というのである。
 (c)世の著作者たちは、何かの特別な・外的な・特徴によって自分を人々に伝えている。わたしこそ始めて、わたしの全体によって、つまり文法家とか詩人とか法律家とかとしてではなく、ミシェル・ド・モンテーニュとして、自分を伝えるのである。もし世の人たちが、わたしがあまりに自分について語るといって嘆くならば、わたしは彼らが自分を考えることさえしないのをうらみとする。
 (b)けれども日常このように引込み思案なわたしが、自分を公表して人々に知らせようと望むのはおかしくはないであろうか。また、外見や形式があれほどに尊重推奨される世間に向って、生地のままの・単純な・しかもきわめて微力な・天性の結果をご披露するのは、果してもっともなことであろうか。学問も技芸もなしに書物を作ろうとするのは、いわば石なくして石垣を築くようなものではあるまいか。音楽家の幻想は芸術によって導かれる。わたしの妄想は偶然によって導かれる。だがわたしも次の理由でちゃんと規則にかなっている。すなわち、なんぴともいまだかつてその専門の主題を、わたしがここでわたしの主題についてしたほど徹底的には、論じたこともなかったし、知ってもいなかったから。つまりこの主題にかけてはわたしこそ天下第一の物知りであるから。(c)第二に、いまだかつてなんぴとも、自分の主題にわたしほど深く徹しはしなかったし、その各部分やその結末をわたしほど細心に批判しはしなかったから。そして(b)その著作において目ざした目的に、わたしほど的確に・十分に・到達しはしなかったから。わたしは自分の著作を完成するためには、ただそこに忠実さを適用しさえすれば足りるのだが、その忠実さは、ちゃんと、最も真率純粋に、ここにある。わたしは本当のことをいう。いい飽きるほどにではないが、いおうと思っただけは言っている。そして年をとるに従って、それを益々思い切っていう。まったく習慣も、わたしのような老人にはおしゃべりの自由と、自分について物語るぶしつけとを許すようである。ここにはわたしがしばしばよそで見るようなこと、すなわち、作者と作品とが食いちがうようなことは起らない。「つき合って見るとあんなにも立派な人が、こんなにも愚劣な書物を書いたのか。またこんな高尚な書物が、あんなつまらぬ者の手から生れたのか」などといわれる恐れはまったくないのである。
 (c)平凡なことばかりいう男がめずらしい書物を書いたといえば、彼の器量と見えるものもどこからかの借り物であって、彼自らのものではないことを意味する。物知りもあらゆるものを知ってはいない。けれども、器量人は何事にかけても器量人である。知らないことにかけても器量人である。
 (b)ここではわたしとわたしの書物とは、両方が同じ歩調でゆく。よそでは人が、著作を作者ときりはなしてほめたりくさしたりすることもできるが、ここではそうはゆかない。作者にふれることは著作にもふれるからである。作者を知らないで著作を判断する者は、わたしに損をさせる以上に御自身損をなさることであろう。著作だけでなく、作者までも知っていただけるならば、わたしは完全に満足するであろう。分別ある御仁ばかりでなく世間一般のかたがたも、その称賛の中に「彼にもう少し学問があったならそれを利用することもできたであろうに」とか、「もう少し記憶にめぐまれていたらよかったのに」とか申し添えて下さるなら、それこそ望外のしあわせである。
 ここにわたしは、わたしがしばしば次のようにいうのを、すなわち、「わたしは後悔することが稀である」とか(c)「わたしの良心はみずからに満足している。それが天使の・もしくは馬の・良心であることにではなく、一人の人間の良心であることに」とか(b)言うのを、おゆるし願う。そしてそれに、相変らず次の繰返し句をつけ加えたい。それはお世辞の繰返し句ではなく、純真な・心からの卑下の・繰返し句で、すなわち「わたしは尋ねる者・らない者・として語っているのだ。決定をするときもただ一般の適法な信仰にもとづいてするのだ」というのである。わたしは決して教えない。ただ物語るのである
* この項の説明は九四四頁―九四五頁あたりに出て来る。キリスト教の悔い改めが形式的で意味なきを指摘するのがこの章の目的。
 人々の反感をそそらない不徳、完全な判断を持った人たちに告発されない不徳は、本当の不徳ではない。まったく、不徳というものは、きわめて明瞭な醜悪と不都合とをもっているのである。だから、「不徳は主として愚と無知とから造り出される」という人こそ、おそらく正しいであろう。人がそれと意識しながらもそれを憎まないでいられるなどということは、とても考えられないことである。(c)悪意はみずからの毒素の大部分を吸い込んで、みずからその毒にあたる。(b)不徳は肉の中の潰瘍かいようのように、心の中に後悔を残す。そのために、心は自らをかきむしり血にまみれる。まったく理性は、他のもろもろの悲哀や苦痛を消す代りに、かえって悔恨の悲痛を生むのである。しかもこの悲痛は、内部から生れるだけに余計辛いのである。ちょうど熱病の寒さ熱さが、外部から来る寒暑よりも辛いのと同じことである。わたしはたんに理性と自然とが非とする不徳だけでなく、人間の意見が作りあげたそれらをも(それぞれ程度は違おうが)、すべて不徳と見なすのである。よしそれが誤った考え方にもとづく意見であっても、法規と習慣とがそれを支持しているかぎり、それが不徳とするものはやはり不徳と見なさざるを得ないのである。
 同様に、善行ボンテ〔徳ないし親切〕にして、よく生れついた天性を喜ばさないものはない。実にそこには、善を行うという何かしらうれしい気持があって、我々の心のなかをよろこばすのである。そこには良心の満足に伴う一種の高貴な誇りがあるのである。何のはばかるところもなく平然として不徳な行いをしている人は、少しもびくびくせずにそれができているのかも知れないが、到底善行に伴うあの楽しさと満足とをもつことはできない。あんなに腐敗した当世の悪風にも自分は決して染まってはいないぞと感ずることは、決して小さな喜びではないのである。いや、「人はわたしの霊魂の奥底まで見すかしても、わたしには人を悲しませたり傷つけたりした罪も、人を恨んだりねたんだりした罪も、法にもとって世をそこなった罪も、改革騒乱に関与した罪も、またたんに約束をたがえた罪さえも、ないことを知るであろう。いや、当世のルーズな風潮が世の人に何を許し何を教えたにしても、ただわたしだけは、未だかつてフランス人の財宝にも財布にも手をかけたことがなく、戦時にも平時にもただ自分の金だけで生活した。金も払わずに他人の労働を利用するようなことはついぞ決してしなかった」と、心の底で言いうることは、すばらしいことだ。こうした良心の証言こそまことに喜ばしい。こういう自然な喜びこそ、我々にとって大きな賜物であり、決して我々に欠けることのない唯一の報いである。
 徳行の報いを他人の賞賛の上に築き上げようとするのは、あまりにも不確実な基礎を選ぶことである。(c)特に当世のように人心腐敗して無知な時代にあっては、民衆の好評はむしろ有害である。何がほむべきものであるかをしらべることを、そもそも君は誰にゆだねるのか。死んでもわたしは、毎日世間の人たちが自画自賛しているあのような型の善人にはなりたくない。※(始め二重山括弧、1-1-52)昨日の不徳は今日の習わしとなれり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。わたしの友人の誰彼は、ときに心を開いてわたしを叱責しようと企てた。それは彼らの発意によることもあれば、わたしの求めによることもあった。いわばそれは一種の奉仕であって、よくできた霊魂にとっては、たんにそれが有益であるからばかりでなく、またそれが甘美であることによっても、友愛がなすすべての奉仕を越えたものである。わたしはそれを、常に礼儀と感謝との両腕を大きくひろげて受け入れた。けれども、こんにち正直にいうならば、わたしは彼らの非難や賞賛の中に、しばしばたくさんの見当ちがいを見出した。むしろ彼らのいわゆる善行に従わず、彼らのいわゆる悪いことをした方が、よかったろうと思うくらいである。(b)特に我々のように自分だけにしか見られない隠れた生活を営む者は、模範を自分の内部に設け、これによって自分の行為を批判しなければならない。これによってときには自分を愛撫しときには自分を叱責しなければならない。わたしは自分を裁判するのに、自分の法律と自分の法廷とをもっている。そして、よそに訴えるよりもそこに訴える。勿論わたしは、他人によっても自分の行為を抑制するが、これを拡張するにはただ自分だけによる。君が卑怯残忍な男であるか忠誠敬虔な男であるかを知るのはただ君だけである。他人には君は見えない。彼らは不確かな推量によって察するだけである。彼らには君の技巧は見えても、君の本性は見えないのである。だから、彼らの宣告は気にしないで、君自らの宣告をきくほうがよい。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)君みずからの裁判にこそ訴うべけれ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。※(始め二重山括弧、1-1-52)徳不徳に対するおのれの良心こそ尊し。それをおきて何物もなし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (b)だが、「後悔は罪悪のすぐ後からやって来る」とよくいわれるが、それは完全によろわれている罪悪、すなわち我々のうちにまるで自分の棲家すみかにいるようにがんばっている罪悪には、あてはまらないようである。不意に我々に現われる不徳、我々が熱情にかられて犯す不徳は、これを咎めこれに逆らうことができる。けれども長い間の習慣によって、強硬な意志の中にしっかりと根をおろしいかりをおろしている不徳にいたっては、とうてい逆うことはできないのである。後悔はけっきょく、我々の意志の取消し、我々の思想の反駁にすぎず、ただ我々を右に左に引きまわすだけである。或る男には、過去の徳と節制までも後悔させたことすらある。

何故に若かりし日、今日の如くに思わざりし?
何故に今日わが頬は、昨日の紅顔にかえらざる?
(ホラティウス)

 独りでいるときまで秩序を失わない生活こそ稀代の得がたい生活である。人は誰でも狂言に加わり、舞台の上で紳士淑女を演ずることができる。だが、すべてが我々にゆるされすべてが隠れて見えない内部において、その胸の中において、規則にかなっていることこそ肝腎なのだ。これに近い段階とは、自分の家において、自分の日常の行為において、すなわち誰に気兼ねもいらない行為、何らの思惑も何らの技巧も交っていない行為において、規則ただしくあることである。だからビアスは、すぐれた家庭の状態を描いてこういった。「よい家庭の主人は、ただ独り家にいるときも他人の眼を意識せず、家の外にいて法律と世間の批評とを恐れるときと、まったく同様にあらねばならない」と。またユリウス・ドゥルススが、「三千エキュ下さればお邸がこれまでのようにお隣りからのぞかれないようにして差上げましょう」といった職人たちに向って、「六千エキュくれてやるから、皆が四方八方からのぞき込めるようにしてくれ」といったのは、誠に立派な言葉だと思う。人がアゲシラオスの日常について尊敬をもって語るところによれば、彼は旅に出るといつも寺院に泊って、人民および神々に、その私の行為を示したということだ。或るものは世間からはすばらしい人物と思われているが、妻や下僕は彼の中にこれといって別に変ったものも見なかった。家内の者どもから賞賛された人たちはきわめて少ない。
 (c)なんぴとも、自分の家においてばかりでなく、自分の郷里においても、予言者でなかった。これは歴史が実証するところであるが、つまらない事柄にかけても同様である。実際次の卑近な実例の中にも、偉大な人たちの場合がそっくり見られるのである。わがガスコーニュの土地では、皆がわたしの著作が公にされたのを見ておかしがっている。わたしに関する世間の評判は、わたしの家から遠く離れれば離れるほど高まった。ギュイエンヌ州ではわたしの方から印刷屋に払うのだが、よそでは向うから金をくれる。こうした事実をたのんで、生きてこの世にいる間は隠れて暮し、死んでいなくなってから世に重んぜられようと望む人々も出て来るのだ。だがわたしは、死後の評判なんかほしくはない。わたしは世間から分前を得ようと思えばこそ、世間に打っても出るのだ。死んでしまったら、後は世間がどう言おうとかまいはしない。
 (b)人々は公の儀式から帰ってくる人を、感嘆しながらその門口まで送ってくる。と、その人は官服とともにお役目をぬぐ。そこで彼は、さきに高く昇っただけそれだけ低く下に落ちる。その家の内はと見れば、何もかも乱脈で下卑ている。そこに規律がある場合も、こういう卑近な私の行為の中にそれを見出すのには、よほど鋭敏な特別の判断がいるのである。それに秩序というものは映えない目立たぬ徳である。爆破孔にとびこむとか、使節の大任を果すとか、人民を治めるとかいうことは、目ざましい行為である。小言をいったり笑ったり、売ったり買ったり、愛したり憎んだり、穏やかにまたふさわしく家族のものや自分みずからと語ったり、ふしだらもせずまた自分をいつわることもないというのは、それこそかえって稀有で困難な事柄だが、しかしいっこう見映えはしない。だから隠遁の生活は、何といっても、世間的な諸生活同様の・否それ以上の・辛い骨の折れる義務を背負っているのだ。(c)私人は、アリストテレスのいうように、官にある者ども以上に徳に対して困難で崇高な奉仕をしているのだ。(b)我々が異常な場合に備えるのは、良心のためではなくむしろ栄誉のためである。(c)だが栄誉にいたる一番の近道は、我々が栄誉のためにするところを良心のためにすることであろう。(b)だから、アレクサンドロスがその舞台の上で演じて見せる勇猛心は、どうもあのソクラテスがその低く隠れた行いにおいて示したそれに、はるかに及ばないように思う。わたしは、ソクラテスをアレクサンドロスの位置において見ることは容易にできるが、アレクサンドロスをソクラテスの位置において見ることは到底できない。前者に向って「何ができるか」と問うならば、「世界を従えること」と、答えるだろう。同じように後者に問うならば、「人間の生活をその持って生れた本性にふさわしくすること」と、この人は答えるであろう。この方がより一般的で重んずべき正しい学問である。霊魂の価は高く行くことにはなく、秩序正しく行くことにある。
* この規律 r※(グレーブアクセント付きE小文字)glement という語は、前々のパラグラフの中に規則にかなっているr※(アキュートアクセント付きE小文字)gl※(アキュートアクセント付きE小文字) とあるのをうけている。そして一行目に秩序 ordre という語が出てくる。この ordre, r※(グレーブアクセント付きE小文字)gle, r※(グレーブアクセント付きE小文字)glement, r※(アキュートアクセント付きE小文字)gler(規整する・ととのえる)等の語は、いずれもモンテーニュの理想を示した語で、彼は突発的な手柄、偉業をほめない。それよりも理性にかなった・いつも変動のない・整然たる生活をほめるのである。
 (c)偉大な霊魂は、偉大な身分のうちに見いだされず、中くらいの身分のうちに見出される。我々を内面において判断し試みる人々は、我々の公的行為の輝きを大して尊重せず、そんなものは泥深い所からほとばしり出たしかも細い走り水にすぎない、と見ている。ところが同じ場合に、我々をあの勇ましげな外観によって判断する人々は、我々の内心までもそれと同様に勇ましいものと結論する。そして自分たちのと同じ平凡な性能が、自分たちの眼の及ばないあのびっくりするような性能と、相並んで存在することを知らない。それで我々は、デモンに奇怪な形相ぎょうそうを与えるのである。だから誰でも、チムールには釣り上った眉、大きな鼻の穴、恐ろしい顔つき、度外れた身の丈を与えないではいられないのだ。だが、結局それは、人が彼の雷名を聞いて想像に見た姿にすぎないのである。もしだれかがわたしをエラスムスに引き合わしてくれたら、わたしは彼がその下僕や宿のおかみさんに言ったことまでも、ことごとく金言格言と思わないではいられなかったろう。我々にはその態度や才能によっていかにもえらそうに見える大統領などよりも、その便器に・否その妻に・またがっている職人さんを想像する方が、ずっと柄にあっている。どうもああいう高いところにお坐りになる方々は、我々みたいな下品な生活はなさらないようである。
 (b)不徳な人々も何か外からの衝動をうければしばしば善い行いをすることがあるように、有徳な人々もまた悪い行いをすることがある。だからかれらを、その落ちついた状態にあるときに、たまにはそういうこともあるとすればかれらの霊魂がその家に在る時に、判断しなければならない。少なくとも彼らの霊魂が、比較的うちくつろいで生れながらの態度に近くあるときに、判断しなければならない。生れつきの傾向は教育によって助成され強化されるけれども、変えられたり抑えられたりすることはあんまりない。今日ではいろいろの天性が自分に反対の躾をうけながらもそれを突抜けて、あるいは徳へあるいは不徳へとれて行った。

されば野獣、その生れし森林を忘れて、
幽閉のうちに人に馴れ、その恐ろしき姿を失うも、
一滴の血、彼らの唇の上に落つることあれば、
その狂暴なる天性たちまちによみがえりて、
恐れおののく飼主をその爪牙そうがにかく。
(ルカヌス)

こういう先天的な性質は根絶されない。ただおおいかくされるだけである。ラテン語はわたしにとっていわば生れつきの言葉である。それはフランス語以上によくわかる。だが四十年来、わたしはもうまったく、語るのにも書くのにも、それを用いたことがない。ところがそれにもかかわらず、突然に極度の感動におちいったときには(わたしは今までに二、三回そういう目にあった。その一度は、父がまったく健やかでありながら突然気を失って、わたしの腕に倒れかかったときである)、わたしはいつも、腹の底から、まず第一にラテンの言葉を発したのである。(c)天性が長い間の習慣にもかかわらず、突然せきをきってほとばしり出たのである。(b)このようなことは他の人々にもしばしば見られる。
 こんにち新しい考え方によって世の風潮を矯正しようと努めた人たちは、表面に現われた不徳は改革したが、本質的な不徳の方はそっくりそのままにしている。まさかそれを増長させる気ではあるまいが、どうやらそのおそれがないでもない。この気ままな外面的改革の方が労少なくして効果が多いから、人はとかくこれだけやってのけ、ほかの善行はしないですます。つまりそうやって、安価に、内部に深く巣食っている生れながらの幾多の不徳を満足させるのである。ほんの少し、我々がめいめい経験するところを見てごらん。誰でも、少しく己れ自らに耳をかたむけるならば、自分のうちに独自の性分、主導的な性分があって、教育や自分の本性に反するもろもろの情欲の嵐と抗争しているところを発見しないものはない。だがわたしは、ほとんどゆすぶられている感じはしない。あたかもどっしりと重い物のように、ほとんど常に自分の席に坐っている。わたしの許にいないまでも、常にそのごく近くにいる。わたしの放縦ほうしょうも、わたしをひどく遠くにはつれて行かない。そこには何も極端な奇怪なものがない。実際わたしは、すぐ健康で元気な自分にかえる。
 真に現代人に共通な悪弊として非難すべきことは、彼らの隠退生活さえもが腐敗と汚濁に満ち満ちていること、彼らの贖罪しょくざいの観念までが混迷しており、彼らの悔悛までが彼らの罪過そのものとほとんど同じに病み腐っていることである。或る人たちは、或いは生れつきの執着によりあるいは長い間の習慣によって不徳に貼り付いているために、今ではもうその醜悪を感じなくなっている。また別の人たちにおいては(わたしも同じお仲間だが)、不徳を重たく感じてはいるが、快楽やその他の理由をもってその埋め合せをつけている。ある代償を得てそれを許しそれに耽っている。いよいよもって不徳卑怯なやり口だが、もしかすると我々は、その罪と快楽との間にあまりにも大きな重さのちがいを想像するのではないか。すなわちそれで、目的のためには手段をえらばずとでもいうように、そんなに大きな快楽があるのなら、少しくらいの罪過は当然かんべんしてもらえそうなものだと、思っているのではないか。っぱらいのような、ほんの出来ごころで、罪というにはあまりにもささやかな快楽ばかりでなく、婦人との接触のように、罪の行使そのものの中にある快楽までも、同じように考えているのではあるまいか。この場合は、誘惑がとても激しくて、ときにはとても我慢ができないものだと、皆がいう。
 ついこの間わたしは、身内の者の領地であるアルマニャックにいた折のことだが、皆の者が「ぬすっと」とよびなす百姓にあった。彼は次のようにその一生を物語った。すなわち、彼は乞食の子と生れ、地道な働きでパンを得るくらいではとても貧乏を免れることはできないと思ったので、とうとう泥棒になる決心をしたのだった。そして若い間じゅう、安全にこの職業を行ったが、それは強い体力のお蔭だった。まったく彼は、他人の田畠から作物を刈り取ることを専門としていたのだが、ずいぶん遠いところから、しかも一人の男がとても一晩のうちに背負ってゆけそうにないほどのものを、盗んで来たのである。それに、人に与える損害を均等に分散するよう心掛けていたから、その損害はひとりひとりにはさほどにひどくなかったのである。その男は今ではもういい年であるが、百姓あがりとしては相当な金持になっている。みんな泥棒稼業のお蔭であると自ら正直に白状している。そして言うには、「だから、こうしたかせぎのために神様の罰があたらないように、わたしは毎日、かつて自分が盗んだ者の相続者に恩恵をもって報いようと心がけている。もし自分一代でそれを全うしえない場合は(まったくそれは一ぺんにはできない仕事である)、その与えた損害の額に応じて(それはただ彼だけが知ることであるが)、自分の相続者に弁済させるつもりでいる」と。嘘かまことか知らないが、とにかくこの告白によって見れば、この男は窃盗を不正な行為と見、これを憎悪してはいるのだが、しかし貧乏ほどにはこれを憎んでいないのである。盗んだことについてはきわめて単純に後悔しているが、貧乏がそれによって埋め合され補償される限り、大して後悔はしないのである。これは誠に不思議な話で、我々を不徳に合体させ・我々の悟性までもこれに慣らす・あの習慣のせいとも言えないし、また我々の霊魂を急襲的に攪乱し盲目にするところの・我々を判断もろとも一挙に不徳の権力下に突きおとすところの・あの情念の突風ともちがうのである。
 わたしはわたしの行うところを、いつも全身をあげて行う。全身ひと塊りとなって進む。わたしの理性にかくれて見えないような挙動はほとんどしない。一つとしてわたしのすべての部分の賛同によって導かれないものはない。そこには分裂もなければ内訌もないのである。だからわたしの判断は、わたしの一挙一動の受ける罪科あるいは賞賛をそっくり引きうける。そしてその一度引き受けた罪科は、それを何時までも受け続ける。まったくわたしの判断は、その誕生以来ほとんど一様で変らない。同じ傾向、同じ道程、同じ力を持ちつづけている。そして一般的意見にかけては、わたしは少年時代からいつも自分の居なければならない場所にとどまっている
* これは第一巻の解説以来訳者のしばしば述べてきたことを支持する。モンテーニュは人間を波のように変りやすいものとはいっているが、彼自身そう無定見で始終動揺していたわけでは決してない。根本的な意見は前後を通じて自らここにいっているように変ってはいない。
 中には急激迅速になされる罪がある。それはここでは論じまい。けれどもそれとはちがって、熟考に熟考を重ねた上いく度も反復される罪、あるいはその人の体質から来る罪、(c)また職業から来る罪、(b)にしても、それらを有する者の理性や意識が、絶えずそのように意欲するのでなければ、そう長い間同一の心の中に居すわっているとは考えられない。だから一定の時機に至って後悔をしたからと言って、それは自慢にはならない。そんな後悔を到底わたしは本気にはできない。
 (c)わたしはピュタゴラス派の、「人間は神々の像に近づいてその託宣をきくとき別の霊魂をとる」という説にはくみしない。ただしそれが、「人間の霊魂もそのときだけはよそゆきのもの・別のもの・とならざるをえない」という意味ならよい。人間の霊魂はもともとそのようなお勤めにふさわしい清浄潔白なものではないのだから。
 (b)人々はあのストア派の教訓のまるで正反対を行っている。なるほどその教訓は自分の中に認めるところの不完全と不徳とを正せとは命じているが、それを悲しみくやむことはむしろ禁じているのだ。ところがこんにちの人々は、心の中にさもさも大きな遺憾と悔恨とをいだいているかのように見せかけているばかりで、改良改善の実はもちろんのこと、中止中絶をすら示しはしない。まったく病をおろさない限り、それは治癒ではないのである。悔悟の重みが天秤皿にかかるならば、一方罪の重みはしぜんと軽くなるであろう。およそ信心くらい真似しやすい特質はまたとあるまい。行状と生活とをそれにかなわせないですむものなら。信仰の本質は微妙幽玄であるが、その外観の方は容易で壮麗である。
 わたしについていえば、全体として別人になりたいと願うことはあろう。わたしというもの全体をくさしきらうこともあろう。わたしの全体が改革されるよう、わたしの天性の弱さが許されるようにと、神に哀願することもあろう。けれどもそれを後悔と呼んではならないと思う。自分が天使でもカトーでもないことを不満に思うことは後悔とはいえまい。わたしの行為は、わたしの本質に従いわたしの天賦に相応している。それ以上のことはわたしにはできない。実際「後悔」という語は、我々の力の及ばない事柄には本当はあてはまらないのだ。さよう、むしろそれは「遺憾」というべきなのだ。わたしは自分のよりも遙かに高く遙かに整った数限りない天性を想像する。けれどもそうしたからとてわたしの性能がよくはならない。わたしの腕や心にしても、他人の強い心や腕を想いいだいたからといって、それだけ強くはならないではないか。もし我々の振舞いよりも高貴な振舞いを想像し願うことが、自分の振舞いに対する後悔をうむならば、我々は我々の最も罪のない行為をすら悔いなければならないだろう。なぜなら我々は、より優れた資性においてはそれらがさらに大きな完全さと品位とをもって果されるであろうと判断し、我々もまたあのようにしたいと願うであろうから。今老年に達して自分の若かった頃の行状をかえりみると、わたしは一般に、わたし相応の秩序に従って生きて来たと思う。あれがわたしのせい一杯のがんばりである。自慢ではないが、同様の場合にあえば、今でもわたしは同じように振舞うであろう。わたしは黒ぶちではなく、全身まっ黒なのである。わたしは浅薄な・いい加減な・礼式の・後悔を知らない。ほんとの後悔なら、わたしがそれを口にする前に、それは四方八方からわたしを突くはずである。神様が深くまたあまねくわたしのうちを見とおされるように、わたしの腹わたを締め苦しめるはずである。
 仕事の上では、やり方がまずくてわたしは幾多の幸運を取り逃がした。だがわたしの考えの方は、決して見当はずれでなく、いつもその時の事情にかなっていた。その流儀といえば、いつも一番容易で安全な道を選ぶということである。いま昔とった決断をふり返ってみても、わたしはよくも自分の主義を守って、それぞれの問題の性質に応じて、賢明な進退をしたものだと思う。これから千年たったとて、同じような場合に出あえばやはり同じようにすることであろう。わたしは現在から見てそれがどうだというのではない。ただあのように決断したその時に、それがどうであったかと言っているのである。
 (c)どんな決心も、それが効果をあげるかあげないかは、時の運である。情勢や事件は絶えず変動するからである。わたしも今までに幾度か重大な失敗をやったが、それはよい判断を欠いたからではなく、よい運を欠いたからである。我々のたずさわる物事には、秘密な・そして予知しがたい・部分がある。特に人間の天性の中には、黙った・あらわれない・ときにはその所有者にさえ知られない・ただ思いがけぬ機会に目を覚ましあらわれる・もろもろの性質がある。わたしの知恵にそれが洞察しえず予言できなかったからとて、わたしは少しもわたしの知恵を不満には思わない。わたしの知恵の働きがその限界をでず、結果がわたしを打ち負かしたのだ。(b)結果がわたしが退けた決心の方にくみしても、それはどうにも仕方がない。わたしは自分に食ってはかからない。わたしの運は責めても、わたしのしたことはとがめない。つまりそれは「後悔」とはいわれないのである。
 フォキオンは、アテナイ人に或る意見を与えたが聞かれなかった。しかしことは彼の予想に反して隆昌に向ったので、ある人が彼に、「どうだフォキオン、ことがこうもうまくいったのを満足に思うかね」とたずねたところ、「いかにもこうなったのは満足だ。だがあのようにいったことを、わたしは少しも後悔していないよ」と答えた。わたしの友達がわたしに意見を乞うことがあれば、わたしは自由にはっきりとそれをいう。大概の人々がするように、「物事は運次第だ。わたしの考えに反する事態も生じよう。そうなると皆はわたしの意見を責めるにちがいない」などと心配はしない。そんなことは私の知ったことではない。まったくそれは責める方が間違っているのだ。ただわたしは、友人としてこの務めを拒んではならないと思えばこそ言うのである。
 (c)わたしは自分の過失すなわち不運について、自分以外の者にも食ってかかる必要はない。まったく、わたしが他人の意見を用いることは、礼儀による場合を除けばごく稀なのである。専門的な知識や実際についての知識を必要とする場合は別であるが、ただ判断さえ用いればよい事柄に関しては、他人の理由はわたしを支持するには役立つけれども、わたしを翻意させることはほとんどない。わたしは他人の理由を、すべて有難く謹んで承る。けれどもわたしが覚えている限り、今日にいたるまで自分の理由だけしか信ずることがなかった。わたしに言わせれば、わたしの意志を引きまわすのは蠅とアトムだけである。わたしは自分の意見もたいして重んじないが、他人の意見も同じようにあまり重んじないのである。運命が公平にわたしに報いてくれる。わたしは人の意見もきかないが、自分の意見を人に押しつけることは更に少ない。わたしが意見を乞われることははなはだ少ないが、それが信じられることはなおさら少ない。公私何れの企てにしても、わたしの意見によって立て直されたり引込められたりしたものがあったとは思われない。運命によっていくらかわたしの意見に引きつけられた人々も、やがて間もなく全然別の考え方に引きずりまわされることが多かった。わたしは自分の休息の権利を自分の権勢の権利と同様に大事に考える者であるから、むしろそうである方がありがたい。人がわたしをほったらかしてくれるのは、わたしの流儀にかなっている。わたしの流儀とは、全然わたしのうちに隠居安住することである。他人の問題から解放され彼らの面倒を見てやらないですむのはまことに有難いことである。
 (b)何事に限らず、すんでしまった以上は、それがどのようであったにせよ、わたしはほとんどくやまない。まったく、「それは始めからそうなるべきであったのだ」という考えが、わたしを苦悩から解放するのである。見たまえ。物事はみな宇宙の大きな流れにただよい、ストア派のいわゆる諸原因の連鎖の中に巻きこまれているではないか。君の思想は、願って見ても想って見ても、物事の一点をだに動かすことができないではないか。万物の秩序がひっくり返らない限り、過去や未来が、ひっくり返らない限り、どうにもならないことではないか。
 それにわたしは、年齢のせいで時折いだくあの後悔を憎む。むかし「年とったおかげで肉欲から解き放たれた。有難いことだ」といった人があるが、わたしはそれとはちがった考えでいる。不能がどんな恵みを与えるにもせよ、とてもわたしは不能にむかって感謝する気にはなれない。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)神意みこころ神業みわざとは決して矛盾することあるまじ。されば不能がめでたきものの中に数えらるるはことわりならず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クインティリアヌス)。(b)我々の欲望は年をとると稀になる。深い飽満があとで我々を捉える。そうしたことの中には少しも良心の働きは見られない。それは悲観と衰弱とが、よわよわしいカタル性の徳を我々に刻みつけているだけのことである。我々はあまり完全に自然の変更に身をまかせて、我々の判断までも鈍らせてしまってはいけないのだ。昔わたしは、青春と快楽とのために逸楽の底にひそむ不徳の顔を見のがしはしなかったが、現在もまた、年齢のせいで嫌気を感ずるようにはなったけれども、それでも不徳の中にかくれた逸楽の顔を見のがすことはない。今はもうそこにはいないけれども、わたしはそれを、あたかもなおそこにあるかのように判断する。(c)強く・注意深く・ゆすぶって見ると、(b)わたしの理性は、わたしが最も奔放であった年頃に持っていたそれと同じなのである。ただそれが、おそらくわたしが年をとっただけ、それだけ衰え鈍っているだけである。(c)またそれは、今わたしの肉体的健康を害しないために、わたしがこの快楽にはまり込むことをさまたげるけれども、わたしの精神的健康のためには、今も昔どおりそれを禁じたりはしないであろう。(b)わたしの理性が隊列の外にあるところを見れば、わたしはそれが昔よりも勇壮であるとは思わない。ただわたしの感ずる誘惑があまりにも衰え弱っているので、今ではもう理性が強くそれに抵抗するまでもないのである。わたしはただ手を伸ばすだけで誘惑をうち払うことができるのである。だがもう一度この理性の前に、昔の淫欲を立ちむかわせて見たらどうだろう。理性にはもう、昔のようにこれに反抗するだけの力はないのではあるまいか。それは少しも昔とちがった独自の判断をしている様子も見えないかわりに、少しも新たな知恵を示してもいない。だから、回復期のように見えても、それは呪われた回復期なのである。
* 病気の回復期には一種の清涼感がある。老人の理性も、ようやく色欲物欲を解脱してちょっと道徳的に善くなったように見えても、要するにそれは病後の清涼みたいなもので、決して若いときのそれより改善されてはいないというのである。それで、呪われた回復期、呪縛にかかって手も足も出ない回復期 convalescence mal※(アキュートアクセント付きE小文字)fici※(アキュートアクセント付きE小文字)e だというのであろう。
 (c)病気のおかげで理性の健康を得るなどとは、何というなさけない療治であろう! 我々が健康になるのは我々の不幸のおかげであってはならない。それは我々の理性が幸福な状態にある結果でなければならない。いじめて見ても悲しませて見ても、人はわたしに何もさせることはできない。ただそういう責苦を呪わせるだけである。そんなのはむちで打たれなければ目も覚めないような人たちにふさわしい方法である。わたしの理性は健康なときほど元気に働く。それは快楽を消化するときより苦痛を消化するときの方が、むしろよそに気をとられて本来の働きをわすれる。朗らかな天気の日には物が一層はっきりと見える。健康の方が病気よりも、より張り切って・より有益に・わたしに忠告する。わたしは健康のただ中にあった時代に、できるだけわが改善と整頓との方向に進んだ。老いさらばえた自分の悲惨と不幸との方が、健康で元気溌剌としていたわたしの全盛時代よりも好もしいと思わねばならぬなら、またわたしがわたしの在ったことによってでなく、わたしが在ることをやめたことによって、尊敬されなければならないとすれば、それは恥ずかしくまたねたましいことである。わたしの考えでは人間の至福は幸福な生にあって、決してアンティステネスがいったように幸福な死にあるのではない。わたしはろくでなしの首と胴体に哲学者の尻尾をくっつけた怪物になろうとは期待しなかった。またこのけちな端っこが、わたしの生活の最も美しく最も完全で最も長かった部分を取消したり打ちけしたりしてくれるようにとも期待しなかった。わたしは自分の全部を一様に示したいと思う。もしもう一度生きなければならないならば、わたしは今まで生きて来たとおりに再び生きるであろう。わたしは過去もくやまなければ将来も恐れない。いや、もし思い違いでないならば、わたしは内も外も並行して生きて来た。わたしの肉体的状態が常にその時期相応のコースをとったことこそ、わたしが自分の運命に対して持つ主なる感謝の一つである。わたしはわが若葉を見、花を見、果実を見、今や冬枯を見ている。誠に幸いである。だってそれこそ自然なことなのだから。わたしは今、すこぶる心静かに現在の病苦に堪えている。なぜなら、それはその来るべき季節に来たのだから。それはわが過去の生活の長い幸福をいよいよなつかしく思いおこさせるから。
 同様にわたしの知恵も、結局両方の時期を通じて同じ背丈であるのかも知れない。だがどうも昔の方がずっと多く手柄をたてたし、今よりもずっと優雅であったし、若々しく元気で自然のままであったと思う。ところが今はそうではない、この通り、かがまった不機嫌な苦労なものになってしまった。だから今さらわたしは、あの時偶ときたまの苦しい改心などをしようとは思わない。
 (b)〔本当の改心は〕神様が我々を心の底から動かすのでなければならない。我々の良心が我々の理性の強化によって自分で自分を改善するのでなければならない。我々の欲望の衰弱によってであってはならない。快楽は老人のただれかすんだ目にはそう見えても、決してそれ自体色がうすれてもあせてもいないのである。人は節制をそれ自体のために、またそれを我々に命じたまう神様への畏敬のために、愛さなければならない。純潔もまたそうである。カタルが我々に与えるところのそれ、またわたしが疝痛せんつうのおかげでもっているところのそれは、純潔でもなければ節制でもない。人がもし快楽を見ないならば、それを知らないならば、その魅惑をも魅力をも・その最も人をひきつけるところの美をも・見も知りもしないならば、それを蔑視しそれを抑圧しているといって威張ってはいけない。わたしはその美しさもその力も両方とも知っている。わたしこそこの問題を論ずる資格がある。けれども年をとると、我々の霊魂は若い時よりもずっと厭わしい病気や不完全にかかりやすいように思う。わたしは若いときからそう言っていた。当時人はわたしのあごの下を見てあざ笑った。わたしは灰色のひげがわたしの顎に信用を添えている今日、再びそう言う。我々の気むずかしさや、現世の事柄に対する嫌悪を、我々は知恵と呼んでいる。けれども正直にいえば、我々はさほどに不徳を脱してはいない。ただそれらをとり代えているだけである。しかもわたしの考えでは、より悪い不徳ととり代えているのだ。愚かなよぼよぼの虚勢、くどくどしい繰言、あの針を含んだ非社交的な気分、取越苦労、自ら使うことのできない財宝をばかばかしく大切にすることなどはいうまでもなく、わたしはそこに、より以上の嫉妬と不正と邪念とを見出すのである。老いは我々の顔よりも心にしわをつける。いや、老いて酸味とかびとを帯びない霊魂は見たことがない**。少なくともきわめて稀である。人間は心身の両方をもって成長し衰退するのである。
* 本章に説かれているモラルは、はなはだ古代的異教的であるので、モンテーニュはここにそれを幾分緩和しようとして「神様」をもってくる。そして、「真の後悔には神の参加がなくてはならない」という。だが彼のモラルの根底に依然として良心の自治があるのはもちろんである。ここではむしろ相手の武器、キリスト教徒固有の道具を、借りているのではないか。結局この「神」は、「良心」を刺激しふるいたたせる手段にすぎないように見える。或いは、日頃「神よ神よ」という連中の後悔に対する批判のようにもとれる。
** これには例外がある。モンテーニュその人がその一つである。
 (c)ソクラテスの知恵や彼の処刑に関するいろいろな事情を見ると、わたしは彼がいわば相手の裏をかいて、わざと自分から死に赴いたのではないかと考えたくなる。彼はその時すでに七十歳で、ようやくその精神の輝かしい働きも萎靡いびしようとし、いつもの明敏さもようやく曇りかけていたのであるから。
 (b)いかなる変化を、老いは毎日、わたしのたくさんの知人の上に行いつつあることか! それは強い病であって、自然に、知らない間に、我々に食い入る。それが我々にになわせる不完全さを避けるためには、少なくともその進行の度を弱めるためには、たくさんの勉強と大きな注意とが必要である。わたしはみずから、どんなに堀をほりめぐらしても、老いが一歩一歩とわたしに向って押しよせて来るのをどうしようもない。わたしはできるだけ支える。けれども、結局それがどこへわたしを押していくのかは、知る由もないのである。最後すえはどのようになるにしても、わたしは世の人が、どのような所からわたしが落ちるであろうかを見てくれれば、それで満足である
* 最後は勿論死であるが、その直前までモンテーニュはいかなる心身の状態で生活をつづけるか、それを彼みずから記録しつづける。すなわちモンテーニュはその最後の瞬間まで自分を essayer してゆければそれでよいとするのである。この章の書き出しのパラグラフとここは立派な照応を示している。
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第三章 三つの交わりについて



 モンテーニュは自分の経験から出発して会話・社交・友愛というような問題を検討した上、教養あり実力ある紳士との交わり、美しい淑女との交わり、また古今の良書との交わりについて述べる。すなわち我々は、ここにまず彼の理想とするオネトム honn※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)te homme がどんなものであるか、またどのような女性を彼は理想としているかを知る。理想の紳士については、第三巻第十二章に描かれたソクラテスの姿と第一巻第二十六章に描かれたアルキビアデスの姿とを参照されれば、一そうよくわかるであろう。要するにそれは、第十七世紀のオネトムとはかなりその趣を異にしている。すなわちそれは、近隣の人々と狩猟や建築や訴訟などについて話し合うばかりでなく、更に出入りの大工や植木屋とも親しむほどの人でなければならないのである。その点、彼の理想ははなはだ平民的である。それらの諸例を彼はプラトンやエピクロスから得ているのだが、この理想は、彼が第三巻第十三章に自ら述べているところを信ずれば、彼が幼少の時代、洗礼をうけた年頃から、ずっと近隣の百姓たちと親しくしていたことの結果でもあろう。なお彼は、一生を通じて幾多の婦人たちと交遊があった。彼の大きな章の四つがいずれもマルグリット・ド・ヴァロワを始め身分の高い婦人たちに献呈されているのでもわかる。その女性観は、第三巻第五章における所論と併せよむことによって、いっそう完全に把握されよう。この章では詩が婦人の読物として最もふさわしいといい、婦人の能力をほめているのか見くびっているのかわからないようないい方をしているが、第三巻第五章になると彼は断然男女を同列においている。また会話交遊の規則に関しては後出第三巻第八章「話合いの作法について」を、良書に関しては第二巻第十章「書物について」を、オネトムの教育については第一巻第二十六章「子供の教育について」を併せよまれたい。なお当章には、生かじりの学識と身についた教養との区別など、学問教育に関する問題も論ぜられている。

 (b)あまりつよく自分の気分や気質に執着してはいけない。我々にとって一番肝心かなめの力は、いろいろな習慣に順応できるということである。唯一つの生き方にいやおうなしに拘束されているのは、「在る」のであって「生きる」のではない。最も立派な霊魂とは最も柔軟で変通自在な霊魂である。
 (c)ここに大カトーの尊い証拠がある。※(始め二重山括弧、1-1-52)彼の心はいかなる業にも等しく適応し得るほど柔軟なりき。されば彼何を企つるも、人みな彼がもっぱらそのために生れ出でたるもののごとくに思いたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。
 (b)わたしの流儀にわたしを仕込むことはわたしの勝手であるにしても、それに執着して後日それから離れることができなくなってもよいと思うほどに、立派な流儀というものはありはしない。人生とは不同な・不規則な・いろいろな形をとるところの・運動である。絶えず自分につき従うこと、いやあまりに自分の傾向にへばりついて少しもこれからはなれることが出来ず・少しもこれを曲げることができない・ようなのは、決して自分の友であることではない。まして自分の主人であることではない。むしろ自分の奴隷であることである。わたしが今更こういうことをいうのは、わたしみずからが容易に自分の霊魂の執拗さから抜け出ることができないからである。つまりわたしの霊魂が、通例何に関係してもこれに没頭せずにはおられないから、また緊張して全部を挙げてでなければ何一つできないからである。わたしの霊魂はどんな些細な主題を与えられても、とかくそれを大きく引伸ばすから、結局全力を傾けて取っ掛らないではいられなくなるのである。であるから、わたしの霊魂が何もしないでいることは、わたしにとって苦しいこと、いやわたしの健康を害することなのである。大多数の精神は自分を元気づけ働かすために外的な材料を必要とするのだが、わたしの精神はむしろ自分を落ちつけ休ませるためにそれを必要とする。※(始め二重山括弧、1-1-52)勤労によりて閑居の不徳を避けざるべからず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。まったく、わたしの精神が最も骨折るところの・その最も重しとするところの・研究は、独りで自分を研究することである。(c)読書は、彼〔わたしの精神〕にとっては、むしろ彼をそういう研究からそらす仕事の一つである。(b)彼〔わたしの精神〕に何か一つの思想が浮ぶと、彼は急に活気づき、縦横にその力を発揮し、ある時はその働きを力に向わせ、ある時はそれを整頓と優美とにむかわせ、(c)自分自身をととのえ、抑え、強くする。(b)彼〔わたしの精神〕は、みずから自分の性能を喚起するだけの力を持っている。自然は彼〔わたしの精神〕にもやはり彼の役に立つような彼の材料、創意や判断を示すに足るだけの彼の主題を、十分に与えたのである。
* モンテーニュは何事にも集中没頭できない、不徹底な、非活動的な、冷淡な、怠け者であるかのような伝説の主人公となっているが、以上の数行は正しく彼を理解する上に読み落してはならないことである。
 (c)瞑想は、自分を試みてから力一杯にそれを用いるすべを知る者にとっては、真剣な充実した研究である。わたしはわたしの霊魂にいろんな物を詰めこむよりは、それを鍛える方が好きだ。
 自分の思想と語りあうことほど、それが宿る霊魂次第で、頼りない業ともなれば力強い業ともなるものはない。最も偉大な霊魂は、それを自分の天職とする。※(始め二重山括弧、1-1-52)それらの霊魂にとりて生きることはすなわち考うることなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 自然もまた特別にこの業に目をかけた。これほど我々が長くたずさわることのできるもの、またこれほど容易にこれほど日常に我々が没頭しうるものはないではないか。それはアリストテレスによれば神々の営みであって、そこから神々の幸福も我々の幸福も生れ出るのである。特に、読書は、わたしがさまざまな問題によってわたしの推理を喚起することに、わたしの記憶力ではなしにわたしの判断を働かすことに、役立っている。
 (b)だから力も何もこもらないただの会話は、ほとんどわたしの注意を引くことがない。しとやかさや美しさが、重味や深味と同様に、またそれ以上に、わたしをみたし捉えることは事実である。しかし右のいずれでもない会話においてはわたしは居睡りをするから、それにはわたしの注意のうわべだけしか貸さないから、わたしはそういう下らないくどくどしい言葉やそらぞらしいお世辞の言葉などをきいていると、往々にして子供にさえ笑われそうなばかげた寝言やたわ言をいったり答えたりする。あるいはいよいよつまらなそうに、また無礼にも、執拗な沈黙を守ったりする。わたしには、わたしをわたしのうちに引籠らせる・ぼんやりと夢みるような・癖がある。また幾多の普通平凡な事柄を、ばかみたいに、また子供みたいに、わたしは知らないのである。実にこの二つの特質・ぼんやりと無知と・のおかげで、わたしもまたいつの間にか、世間の誰彼と同じように、ばかばかしい五、六篇の逸話の主人公に祭り上げられてしまったのである
* 前註に言ったように、モンテーニュの周囲には幾多の伝説があって、彼の真正の姿を歪曲している。彼の伝記は、彼が辛抱強い学者であり著作家であると共に、誠実で熱心な行動人であったことを証明している。
 さてわたしの話を続ければ、こういう気むずかしい性格であるために、わたしは人々との交遊においてなかなかやかましやである。わたしは、人々を一粒選りにしないではいられないし、また皆と行動をともにするのをおっくうがる。だが我々は庶民と共に暮し、彼らと交渉をもつ。もし彼らとの交際が厭わしいならば、また下等平凡な霊魂と折り合うことをさげすむならば、凡俗な霊魂は往々にして最も鋭敏な霊魂と同様に整っているのだから((c)一般の無知と折り合わない知恵はすべて妙味がない)、(b)我々はもう、自分の事柄にも他人の事柄にも、かかわり合わないことにしなければならない。だって公私いずれの事柄も、こういう人々があって始めて片がつくのだから。我々の霊魂の最もくつろいだ最も自然な態度こそ、最も立派な態度なのだ。最も無理のない仕事こそ、最もよい仕事なのだ。ああ知恵は、これによってその欲望を自分の力に相応させる者のために、いかによい奉仕をすることであろう! これくらい有用な学問はないのである。「各々その力に応じて」とは、ソクラテスがしばしば繰り返した好みの句であり、はなはだ含蓄のある言葉である。我々の欲望は、最も容易な手近な物事にむけなければならない。わたしの運命がわたしを結びつけた・そしてそれがなくてはわたしが生きていかれぬ・数千の人々と仲たがいをしてまで、わたしとは身分のちがう一人二人にかじりついたり、わたしにはとても手のとどかない物をむやみに欲しがったりするようなことは、愚かな心根ではなかろうか。どんなきびしさもいらだたしさも嫌うわたしの悠長な気風は、容易にわたしから人の嫉妬や怨恨を防いでくれよう。愛されることにおいて、とはあえていわぬが、決して憎まれないことにおいて、誰もわたしにはかなわなかった。けれどもわたしの交際の冷淡さは、当然わたしから多くの人々の親切を奪った。彼らがわたしの冷淡を別のもっと悪い意味に解したのは、無理もないことである。
 わたしは稀な床しい友愛をえ、またそれを長もちさせることが、はなはだ上手である。なぜならわたしは、自分の趣味にかなう交友を大きな饑餓きがの心をもってとらえるからである。わたしは一向専念にそれに向って突き進むから、容易にそれと結びつき、わが目指すものに感銘を与えずにはおかないのである。わたしはしばしばそれに成功して見せた。だが普通の友愛にかけては、わたしはむしろへたで冷淡である。まったくわたしは、生れつき帆に一杯の追風をうけなければ動き出さないのである。それにわたしの運命は、若い時分からわたしをただ一つの完全な友愛に慣れ親しませて、正直のところある程度までわたしに平凡な友愛を忌みきらわせたばかりでなく、友愛はあの古人〔プルタルコス〕がいったように、一匹飼うべきものでたくさん飼うべきものではないということを、深くわたしの心に刻みつけていたのである。しかもわたしは生れつき、自分を半分だけ・そして修正して・伝えるのが苦労である。あの数ばかり多くて不完全な交友関係においてはどうしても守らねばならない・あの屈従的な・また疑いぶかい・用心をするのが、わたしにはとても苦手なのである。ところがこんにちは、特にこれが要求される。今や危険をおかして言うか・いつわって言うか・するより他には、うっかり噂話もできない御時世なのである。
* ラ・ボエシのみならず彼は幾多のよき友人にめぐまれていた。彼の隠棲は隠者の庵ではなく、教養ある紳士淑女のサロンでもあった。彼はルソーのような孤独なる散歩者ではなく、相当な社交人であり座談の面白い人であった。
 だがいうまでもなく、わたしみたいに自分の生活の安楽ということを(もちろん本質的安楽のことであるが)究極の目的としている者は、こういう気むずかしいデリケートな気分をペストのように避けなければならない。わたしは数階建ての霊魂、すなわち緊張することも打ちくつろぐこともできる霊魂、運命にどこへ連れていかれてもそこ**に安住できる霊魂、おとなりの御主人と建築・狩猟・訴訟・などについて語りあうことができるのみならず出入りの大工や植木屋とさえ喜んで話のできる霊魂を、たたえたい。わたしは自分のお供の中の最も卑しい者にまで慣れ、自分の供回りに打ちまじって談笑することのできる人々を、羨ましく思う。
* ※(始め二重山括弧、1-1-52)une ※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)me ※(グレーブアクセント付きA小文字) divers ※(アキュートアクセント付きE小文字)tages※(終わり二重山括弧、1-1-53)地下室もあれば三階四階もある人間、ときには地下室にもおりられるし、ときには屋上にも昇ることのできる人間、ということで、少し位があがるとすぐお高くとまって、下の者に威張りちらす人間の反対である。モンテーニュは大ブルジョアで、王臣ですらあったが、このように気分はなかなか平民的である。
** 言いかえれば、「随所に主となる」ということであるが、これは後出第三巻第十二章(一二一一頁)にも、ホラティウスの句に託して述べられている。※(始め二重山括弧、1-1-52)嵐いずこの岸辺にわれを吹き寄すとも、われはそこの客とならん※(終わり二重山括弧、1-1-53)
 (c)「召使に対しては常に主人らしい言葉で話せ。下男下女いずれに対しても冗談をいうな、馴々なれなれしくするな」というプラトンの考えは我が意を得ない。まったく以上に述べた理由を別にしても、こういう運命の特権をあまりにふりまわすことは、非人間的で正しくない。主従の間にそんなに懸隔をおかない家風こそ、最も公平であるとわたしは思う。
 (b)他の人々は精神を高くあげ高ぶらせようと骨を折る。わたしはそれを低く下げ平伏させようとする。それが悪くなるのは、ただひろがるときだけである。

汝はアイアコスの系図やイリアン城下の戦いを語れど、
キオス酒一樽の価いくばくにして、
誰が風呂を焚き、誰が、いつ、わがために宿をかし、
また、ペリグニの寒さを忘れしむるかを言わず。
(ホラティウス)

だから、ちょうどラケダイモン人が戦争にでると、その武勇が無鉄砲や狂暴になることを恐れ、節制と微妙な笛の調べとを用いてそれをやわらげなければならなかったように(これに反して、他のすべての国民は、かえって強く鋭い音や声を用いて兵士たちの勇気をいやがうえにもあおり立てたのであるが)、我々もまた、一般の流儀には反するけれども、やはり精神の使用に際しては、多くの場合翼よりはおもりを、熱心興奮よりはむしろ冷たさと静かさとを、必要とすると思う。特に物のわからぬ人々の間で独りわかったようなふりをしたり、いつも大げさな物言いをしたり、※(始め二重山括弧、1-1-52)小楊枝こようじの先でつつくような※(終わり二重山括弧、1-1-53)(原文イタリア語)ややこしい物言いをしたりするのは、はなはだ愚かなことであると思う。むしろ相手の人たちによって調子をさげなければならない。時には無知も装わなければならない。誇張と技巧とはしまっておきなさい。普通の場合は秩序さえ失わなければ足りるのである。それに、もし相手が欲するならば、地べたをもはいなさい。
* ※(始め二重山括弧、1-1-52)Il n’est vicieux qu’en extension.※(終わり二重山括弧、1-1-53)精神は、それを引き下げても悪くはならない。変質しない。ただそれをあまりに拡大分散するときだけ、稀薄になり、無力になる。
 学者たちはよくこの石につまずく。彼らはいつもその博学をひけらかし、いたる所に書物をかつぎ出す。彼らはこのごろ、その学問や書物を婦人たちのお部屋や耳にじゃんじゃん注ぎこんだので、今では彼女たちも、その実質はとらえ得なかったがその真似だけはする。あらゆる問題あらゆる事柄に、それがどんな卑近なことであっても、彼女たちはいつも新奇な学者ぶったいい方や書き方をする。

かくの如くに彼女たちは、その恐れをもその怒りをも、
その憂いやをもその喜びをも、あらゆる心の秘密を言い現わす。
いな、その恋の告白さえも学者もどきなり。
(ユウェナリス)

そして、行きあう誰を証人に立ててもすむべき事柄のために、ことごとしくもプラトンや聖トマスを引き合いにだす。彼女たちの霊魂の中まで達することができなかった学説は、ただ彼女たちの舌のさきに残った。よく生れついた婦人たちは、もしわたしの言葉を信じて下さるならば、ただ女性に特有な天与の資質を発揮なさるだけで満足なされるであろう。世の婦人たちは、借り物の美の下にその本来の美をおおいかくしている。借りた光で輝こうとして自分の輝きをおしかくすのは、まことに愚かなことである。彼女たちは技巧の下にうずもれている。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)全身紅・おしろい・にまみれたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)これは彼女たちがみずからを知らないからである。世に女ほど美しいものはない。ところが彼女たちは、かえって技巧の方を尊重しお化粧ばかりする。一体彼女たちは何が不足なのか。愛され敬われて生きればよいはずである。そのためには、彼女たちは十分に持ち十分に知っている。ただ彼女たちのうちにある性能を、少し呼び覚ましあおりさえすれば足りるのである。わたしは彼女たちが、修辞学や法律学や論理学や、その他これに類する・彼女たちの必要に対しては何の役にもたたない・いろいろな薬味薬種をひねくっているのを見ると、ふとこんな疑いがおこる。「けっきょく男たちの方が、そういう種類のことで彼女たちを牛耳ぎゅうじろうという下心から、ああいうことを勧めているのではなかろうか」と。まったくこんな風に考えるよりほかに、彼女たちを弁護する方法があるだろうか。彼女たちは我々のご厄介なんかにならずに、ご自分の眼の色を陽気にも・いかめしくも・やさしくも・することができれば、その「いやぁよう!」につれなさをも・ためらいをも・好意をも・按排あんばいすることができれば十分なのだ。そして、言いよる人の言葉が註解者なしで理解できればそれで十分なのだ。これだけの学問さえあれば、先生たちをも学校をも、心のままに指図し従えることができるのである。だがしかし、彼女たちが何事にかけてもわれわれ男たちに譲歩することをいやがるならば、そしてただ好奇心から書物を読みたいというのならば、詩こそ彼女たちの要望にふさわしい慰みである。それは気紛れで・こまかな・お化粧された・おしゃべりの・芸術で、その面白さといいその美しさといい、彼女たちにそっくりである。彼女たちはまた、歴史の中からも様々な利益をうけられるがよい。哲学の中では、その処世上に役立つ部分から、我々の性質性格を判断し・我々の裏切りを予防し・自分の軽率な欲望を調整し・自分の我儘を抑制し・人生の喜びを長くする・ように、またしとやかに雇人の不実や夫の放蕩や己れの老衰凋落のやるせなさなどに堪えられるように、自分たちを鍛練してくれるような論説を選びとられるがよい。学問の中でわたしが婦人たちにお勧めするものは、せいぜいこれ位である。
 世には閉じこもって出ない・独りぽっちな・生れつきの人々がある。だがわたしの本性は、何もかもさらけ出すことにむいている。わたしは全く見かけっきりのあけすけな男で、生れながら社交向き友愛向きにできているのである。わたしは孤独を愛しそれを説きすすめるが、それはただわたしの思想と感情とを自分に向けるためである。わたしの歩みを局限するためではなくて、わたしの欲望と心配とを制限するためである。ひとのために心を労することをきらい、屈従と束縛とを死ぬほど憎むからである。(c)人間が多いのを避けるのではなくて雑用がふえるのを避けるのである。(b)場所が寂しいと、本当に、わたしの心はかえって外に向って伸び広がる。ただ一人でいると、とかく国家の問題や宇宙のことなどを考えてしまう。ルーヴル宮や群衆の中にいると、わたしは自分の殻の中に閉じこもる。群衆は外に出ようとするわたしを押し返す。実際、礼儀正しく畏れかしこんでいなければならない場所にいるときほど、狂おしく・遠慮なく・独りで自分を思うことはないのである。我々の狂愚はわたしを笑わせない。笑わすのは我々の小ざかしさである。性格上わたしは賑やかな宮廷がきらいではない。わたしは一生の一部をそこに送った。ただそれが間を置いてであり、わたしの気のむいたときだけならば、おえら方の間にまじって愉快に振舞うこともできるのである。けれども先にお話したあの柔弱な考え方が、いや応なしにわたしを孤独に結びつける。自分の家においてさえ、家人も大勢おり・客の出入りもはなはだ多い・この家の真中にいながら、わたしは孤独である。わたしはここでいろいろな人にあったけれど、わたしが心から語りたいと思う相手はまれである。それでわたしは、わたしのために、また人々のために、類のない自由を保有している。わたしの家には挨拶とか接待とか見送りとかいうような、我々の礼法が命ずる窮屈なことは一切ない(おお、これほど屈従的な厄介な作法がまたとあるかしらん!)。各人はここで思いのままに振舞う。あるいは独り自分の思いにふける。わたしの方でも黙っている。夢みている。自分のうちに立てこもっている。あえてお客様がたの邪魔をしないで。
 わたしが親交を求める人々は、世間で「上品で有能な人」と呼ばれる人々である。これらの人々の面影は、わたしに他の人たちをきらわせる。だがよく考えて見ると、それは我々の間で最も稀な人々、我々がもっぱら自然に負うところの人々である。この交わりの目的は、ただ親密になり、往き来をし、語りあうことである。つまり霊魂の鍛練のためで、その他には何の果実も期待されないのだ。こうした同士の会話では、主題は何でもよいのである。そこに重味がなかろうと、深味がなかろうと、どうでもよいのである。優雅と適切さとがいつもそこにあるからだ。すべてがそこでは成熟した変らない判断の色を帯びているし、好意と率直と喜悦と友愛とをまじえているからだ。代承相続指定の問題や王政の問題に関してばかり、我々の精神はその美と力とを示すのではない。打ちとけた歓談においても示すのである。わたしはこういう仲間を、その沈黙微笑のうちにさえ感じとる。いや多分、評議の席においてよりも食卓において、かえってよく彼らを発見するのである。ヒッポマコスが「良い力士はただその道を歩いているところを見るだけでわかる」と言ったのは正しい。よし学問が我々の歓談の中に顔を出すことがあっても少しもさまたげない。それはいつものように尊大な傲慢ないとわしいものではなくなり、かえって介添えらしいつつましやかなものになるからだ。我々はそうやってただ時を過そうとするだけである。教訓が受けたいときは、我々はそれをそれがあるところに求めに行くだろう。だが今のところは学問よ、どうかそちらの方から我々のところまで降りて来て下さい。まったく学問は有用な・持ちたい・ものではあるが、それにしてもせっぱつまれば、そんなものはまったくなしですますことができるのではないか、そんなものはなくても目的を達することができるのではないか、とわたしは考えるのである。よく生れついた上に人々との交際の間で練磨された霊魂は、ひとりで十分愉快なものになれる。学芸とは、そのような霊魂が産み出すものを記録したものにほかならない。
* ※(始め二重山括弧、1-1-52)honnestes et habiles.※(終わり二重山括弧、1-1-53)ヴィレの註によれば、honneste=distingu※(アキュートアクセント付きE小文字), de bon ton; habile=capable. エチケットも心得ているがそれがただの形式でなく誠実味があり、学問の素養もあるが実際の仕事もできる人。これがモンテーニュの理想の男性である。学問はあるが、粗野で非社交的で、世間の役に立たないようなのよりは、お百姓の方が彼はすきなのである。第一巻第二十五章、二十六章、第三巻第八章等を参照されたい。なお拙著『モンテーニュを語る』の第三章に、ジャンティヨムとオネトムとの定義をしてあるから参照されたい。
 また(c)美しい(b)貞淑な婦人との交わりも、わたしにとってうれしい交わりである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)我らもまたこの道に確かなる眼を持てばなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)霊魂はここに前に述べた交わりにおけるほどの楽しみはうけないけれども、肉体的感覚がここには大いにあずかって、この交わりを、わたしの考えでは、前述のそれと等しいとまでは言えないがほぼそれに近いものにする。けれどもこれはいささか用心のいる交わりで、わたしのような肉体の力に引ずられがちな者は特に用心を要する。わたしは若いとき、これがためにひどい目にあった。そして、詩人たちが節制も判断もなくこれに誘われてゆく人々に起るといっているあの物狂おしさを、いやというほど経験した。実にこの鞭打ちこそ、その後わたしのために訓戒となったのである。

カフェレウスの暗礁を免れて帰れるギリシアの舟子たちは、
何時までもエウボイアの海にその帆をそむけたり。
(オウィディウス)

そのすべての思いをこれ〔女性との交際〕がために傾けつくし、狂暴な・やみ難い・情熱をもってこれに走るのは、正気の沙汰ではない。けれどもまた、愛情もなく責任も感ぜず、狂言でもやっているくらいな気でこれに手を出し、ある年頃には誰もするというお定まりの一役を演ずるということは、すなわち、ただ口先だけでこれをするということは、実に、当人の安全には相違ないが卑怯千万な振舞である。それは、危険を恐れてその名誉をもその利益をもその快楽をも、捨ててかえりみない者のすることである。まったくそのような交際からは、立派な霊魂を動かしたりまた満たしたりするような果実がとうてい期待できないことは確かである。人は本当にけ楽しもうと望むならば、本気にそれを欲望しなければならない。というのも、たとえ運命が不当に男たちの狂言に幸いすることがあっても、実際そういうこともしばしばおこるのであるが、女というものは、たとえどんな醜女しこめに生れついても、まったく自惚うぬぼれを持たないことはないのだから。(c)あるいは自分の年頃から、あるいは自分の笑い方から、あるいは自分の挙動から、何かの自惚れをもたされずにはいないのである。まったく、どこもかしこも美しい女もないかわり、どこもかしこも醜い女もないのである。だから別に何の取り柄もないバラモンの娘たちは、広告屋の呼び声に応じて人々が多く集まってくると、広場に出ていってその婚姻の器を示し、これでもなお夫をうるに足らないかどうかと、試みるのである。
 (b)だから最初の男の愛の誓いに、ころりと参らぬ女は一人もないのである。さて、こんにちの男たちが一般普通に行うこの種の裏切りから、すでに経験が我々に示しているとおりの結果が生じたのはむしろ当然である。すなわち婦人たちは、独り独りでも、相結束してでも、そろって我々を回避するようになった。あるいはまた、彼女たちの方でも我々が教えた実例にならって同じ狂言に参加し、熱情なく・親切なく・愛なく・この取引に応ずるようになった。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)熱愛せらるることなければ、熱愛することもまたなくなりぬ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(タキトゥス)。つまりプラトンにおけるリュシアスが教えるところに従って、女たちは、「男たちが自分たちを愛することが少なければ、それだけ利益のために・ご都合のために・この身を委せてもよい」と考えたわけである。
 (b)それは狂言と同じことになる。見物人が、役者と同じだけ、またそれ以上に、それを面白がることになる。
 わたしはクピドーのないウェヌスも、子孫のない母性も知らない。それは互いにその本質を貸し合い与え合う事柄である。だから以上のような詐欺は結局これを行う者にはねかえる。彼はここに苦労をしない代りまた一文の得もしない。ウェヌスを神とあがめた人々は、その主要な美を無形の精神的なものと見たのであるが、今の連中が求めるところのウェヌスは、人間的でないどころか動物的でさえもない。動物だってウェヌスをこれほど低い・これほど下界的な・ものにはしたがらないのだ! 我々は想像と欲望とが、しばしば肉体よりも先にかれら動物を興奮させるのを見る。雌も雄も多数の中から愛情にもとづく選択をし、互いに永く相愛して変らないのを見る。老いのためにその肉体の力を失った者さえ、なお愛に身をふるわせ・いななき・もだえる。我々は彼らが事前には希望と熱情とにみち、また肉体が事終った後にも、なお甘美な回想に酔っているのを見る。ある動物などは事が終ると意気揚々として誇り、疲労飽満の間にも勝利の凱歌をあげている。ただ肉体の自然的必要を満たすだけならば、ああいう念の入った支度をして他人をわずらわすには及ばない。それは野蛮下等な飢えに供える食物ではないのである
* 婦人との交わりを指す。モンテーニュはここに人間の恋愛のあるべきようを教えている。ここでも彼がドンファンではなかったことがわかる。後出第五章の解説参照。
 わたしは実際より好く見られようとは少しも思わない人間であるから、次に若いときの失策を一つ御披露しよう。ただ(c)健康を害する(b)危険を思ったからばかりではなく((c)実際わたしもうっかり油断して、軽微な前触れには過ぎなかったが二度ばかりひっかかったことがあるのだ)、(b)なお軽蔑の念もあったから、わたしはあまり皆が金銭で買うところの交わりには身を委せたことがない。困難と欲望により、また多少の栄誉によって、恋の喜びをいやが上にも強くしようと思ったからである。わたしは皇帝ティベリウスの流儀がすきだった。彼はその恋愛において、他のどんな特質よりも女のつつましさと高貴さとを求めた。またあの遊女フロラの心意気を好んだ。彼女は独裁官・執政官・司法官より下の者にはその身を委せず、ひそかに情人たちの高位を喜びとした。実際真珠や錦襴きんらんやまた肩書や供まわりも、幾分かはこのよろこびをたすけるものである。それにわたしは、大いに精神を重んじた。ただしそれは、肉体に関して何も申分のないときの話である。まったく正直に答えるなら、この二つの美の内どちらかがどうしても取り上げられなければならない場合には、わたしはむしろ精神の美の方を思い切ることであろう。このほうは、もっと立派な物事の中に用いられるのである。だが恋愛となると、それはもっぱら視覚と触覚とに訴えられるのであるから、優雅な精神はなくともことは足りるが、優雅な肉体がなくてはどうにもならない。実に美こそは婦人がたのほんとうの優越である。(c)美はいかにも女性らしいものであるから、われわれ男性の美も、それは幾分女性美とはちがうはずなのだが、やはりその極致は、子供のような、ひげのない、女性の美と混同されている。聞くところによるとトルコ皇帝の朝廷では、美の資格でこれに仕える者は限りなくあるが、いくら長くても二十二歳が限度でお暇が出るという。
 (b)理性・知恵・および友愛の務めは、男子においての方がすぐれている。だから男子が公共の事務をつかさどるのである。
 以上二つの〔紳士および淑女との〕交わりは偶然によって生じ、他人に依存するものである。一方は稀であるから退屈なこともあるし、もう一方は年をとると色あせてしまう。従って両方とも、わたしの一生の要求をみたすには足りなかった。第三の・書物との・交わりは、それよりずっと確実でまたずっと我々のものである。ほかのいろいろな長所はこれを前二者にゆずるけれども、これはその奉仕が常恒不変で得易いことをもってその持前とする。それは常にわたしが行くところにしたがい、いたるところでわたしに侍する。老齢においても孤独の中においてもわたしを慰める。物憂ものうい退屈の重荷を軽くしてくれるばかりでなく、わたしの気持を悪くする仲間から始終わたしを救ってくれる。苦痛の鋒先ほこさきをも、それが極度の・支配的な・ものでない限り、鈍らせてくれる。いとわしい物思いから気を転ずるには、わたしはただ書物に赴きさえすればよいのである。書物はそういう物思いからやすやすとわたしを救い出し、わたしをかばってくれる。しかもわたしがそれらを求めるのは、ただほかの楽しみ、より現実的な・よりきびきびした・より自然的な・楽しみをもたないときだけだと知っても、少しもいやな顔をしない。いつでも同じ顔でわたしを迎えてくれる。
 諺にいうとおり、その馬をうしろに従えてゆく者は、徒歩でゆくからといって自慢にはならない。ナポリおよびシチリアの王たりし我々のジャックも、たくましく若く健やかであるのに、灰色の羅紗の寝衣をき、同じ帽子をかぶり、下等な羽根枕をし、釣台の上にねて、国じゅうをかついでゆかせたが、そのすぐ後には輿こしだの乗馬だの、家来やらお供やらを、たくさんに従えていた。こんなのはやはりなまぬるい・あやしげな・厳格の標本である。「その袖の中に特効薬をかくしている病人は同情するに足らない」。このようなはなはだ真実なる格言を経験したり実践したりするところに、わたしが読書から得る最大の収穫があるのである。実際わたしはあんまり書物を利用していない。全然その味を知らない者とほとんどかわりがない。わたしはちょうど守銭奴がそのお宝をたのしむように、読もうと思えばいつでも読めるんだと思って満足している。わたしの霊魂はこんな所有権だけでけっこう満足しているのだ。わたしは戦争のときも平和なときも、書物を持たないで旅することはない。けれどもそれを開かないで、幾日も、いや、幾月も、たつことがある。「そのうち読もう」「明日は読もう」いや、「いつか気がむいたら」とわたしは思う。その間に時は走りすぎる。でも別にわたしはくやまない。まったく、「書物は常にわたしの傍にある。欲するときにはいつでもわたしを楽しませてくれる」と考え、またいかに書物がわたしの生活の助けとなるかを認めると、わたしは言葉ではいえない安心安堵を感ずるのである。それこそ人生の旅路を行くのに、わたしが見出しえた最良の糧である。だからわたしは、分別ある人々でありながら書物を持たないものを見ると可哀そうになる。わたしは〔旅に出ると〕むしろ他のあらゆる種類の慰みの方を、どんな軽微なものでも受入れるが、それは読書の楽しみが〔家にかえれば〕いつでも得られることを知っているからである。
 家にいると、かなりしばしば、わたしは書斎に引籠る。そこからは、書見をしながら家じゅうが手に取るように見える。わたしは入口のちょうど真上にいて、目の下に菜畠も鶏小屋も中庭も、またわが家の大部分の部屋の中までも見渡せる。そこでわたしは、あるときにはこの本を、またあるときには別の本を、というふうに、これという順序もなくあてもなく、あれこれと拾い読みをする。あるときは夢想し、あるときは歩きまわりながら、ここにあるような夢想を書きつけたり口授したりする。
* 原本には un peu plus souvent と書いてある。旅行中、戦争中は、前述のように本を携えていただけであまり読まないが、それにくらべて家にいるときは、かなりしばしば書斎の人となるというのである。
 (c)書斎は塔の三階にある。一階はわたしのシャペル、二階は寝室とその次の間で、わたしはよくここに寝る。独りでいたくて。その上には、大きな衣裳部屋がある。それはむかし家じゅうで一番無用な場所であった。そこにわたしは、わが一生の大部分の日々と、一日中の大部分の時間を、すごすのである。夜は決してそこにいない。その隣りにちょっとしゃれた小部屋がある。冬はここに火を入れることができ、窓の眺めもはなはだ面白い。もし費用も面倒もいとわないならば(もっともこの面倒がきらいで、わたしはあらゆる仕事をなげうったのだが)、わたしはこの両側に、同じ平面に長さ百歩、幅十二歩の歩廊を容易につけたすことができるだろう。ほかの目的のために築かれた高い石塀が、ちょうどもってこいの高さに聳えているから。隠居所にはいつも散歩場がほしい。わたしの思想は坐らせておいたら眠ってしまう。わたしの精神は脚がこれをゆすぶらない限り進まない。書物なしで研究する人々は皆そんな風である。書斎は円形で、平らなのはわたしの読書机と椅子が置かれるところだけである。他の壁はぐるりとわたしを取り巻いているから、それにそって五段にならべてある蔵書はすべて一目に見渡される。三つの窓からは豊かな広々とした景色が望まれ、部屋のまん中には直径十六歩ばかりの空間がある。冬になると、継続的にここにいることが少なくなる。まったくわたしの家はその名の示す通り小山の上にあって、中でもこの部屋が一番風当りがひどいのである。この部屋が好きなのも、いささか登るのに骨が折れ、またかけはなれているからで、それはわたしのためには運動になってよいし、有象無象を遠ざけるにもまた都合がよいのである。こここそわたしのお城である。わたしはここをわが絶対の支配下に置こうと努めている。是非ともこの一角だけは、妻や子や世間との共同生活から隔離しようと努めている。ほかへ行ったら、どこへ行っても、わたしの権威はただ言葉の上だけで、実力のほどはすこぶるあやしいものである。だがわたしから見れば、自分の家に、自分になり切れるところ、ひたすら自分に仕えうるところ、自分のかくれるところを持たない者こそ可哀そうなやつだ! 野心はその礼賛者に実に結構な御返礼をした。彼らをまるで市場の真中の立像のように、大勢の前にさらしものにしてしまった!※(始め二重山括弧、1-1-52)偉大なる運は偉大なる隷従なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。はばかりまでが彼らにとってはかくれ家ではないのだ**。わたしはお坊さんたちが営む厳格な生活の内で(これは実際にわたしが彼らの教団のあるものにおいて見るところであるが)、しじゅう人々と一緒にいること、何をするにしても大勢の人の中でしなければならないことを、宗規として守るくらい、辛いことはあるまいと思った。だからある意味では、しじゅう一人でいることの方が、決して一人にはなり得ないことより、かえって堪えやすいことだと思う。
* モンテーニュという姓は山という意味である。現代語 montagne は、当時 montaigne と綴られ、モンターニュと発音された。
** 第一巻第四十二章では、王様が二十人ばかりの者に見守られて便器にまたがる有様を嘲笑している。
一八三六年におけるモンテーニュ邸平面図
モンテーニュの塔の各階平面図
 (b)もし誰かが「ミューズの神々をただの暇つぶしやおもちゃにするのはこの女神たちの品位を落すものだ」という者があるなら、その人は、快楽や遊びやひまつぶしがいかに価値のあるものであるかを、わたしのようには知らないのである。わたしから見れば、ほかの目的こそすべてわらうべきものだといいたいくらいだ。わたしはただその日その日を送っている。そしてまことに申訳ないが、ただただわたしのためにだけ生きている。それ以上のことをわたしは目指していないのである。わたしは若いころ見せびらかしに学問をした。その後はいささか賢くなろうと学問した。今はただ気晴らしのためにだけする。決して何かを学ぼうとしてではない。わたしも昔は(c)ただ自分の必要をみたすためばかりでなく、更に進んで(b)壁の飾りにしようと、この種の道具を集めたがる虚栄と浪費の癖を持っていたが、もうそんなことはとうの昔にやめにした。
* ※(始め二重山括弧、1-1-52)cette sorte de meuble※(終わり二重山括弧、1-1-53)書籍を指している。書物を単なるアクセサリか骨董品のように買いあつめる集書家のあることを諷している。
 書物は、これを選択することを知る人々にとっては、いろいろ愉快な特質を持っている。だが苦痛のない楽しみはない。読書の楽しみもまた、ご多分に洩れず、純粋無雑ではない。それにはそれの不都合がある。しかもなかなか大きな不都合がある。霊魂はそこで鍛えられるけれども、肉体の方は(わたしはこれをも同じように大切にすることを忘れなかった)その間活動をせず、やがて弱り衰える。わたしの知る限りでは、わたしにとってこれくらい有害な・わたしのような老齢の者にとってこれくらい避くべき・過度はないと思う。
 以上が、わたしが特に好きな三つのなぐさみである。世間への義理にからまれてやむをえずに行うなぐさみについては、何もいわずにおく。
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第四章 気分の転換について



 かつて一五七二年頃のモンテーニュは、不幸や苦痛に会ったら、まっこう正面から、堂々とそれに打ってかかれとすすめた(一の十四、十九、二十等)。またそれらにぶつかってから急にあわてないですむように、あらかじめそれに備えをしておけといった。すなわちそれらに日頃なれ親しむこと、または哲学することによって、それらは恐ろしくも何ともなくなるというのだった。いわばそれは「あらかじめ備える法」m※(アキュートアクセント付きE小文字)thode de pr※(アキュートアクセント付きE小文字)paration である。ところが今モンテーニュは、ひたすらそれらを正視しまいとする。むしろ過去の喜びを回想したり将来の楽しみを空想したり、つまり他に眼と心とを転ずることによって、われわれは苦痛も不幸も感じないでいられるのだというのである。これは「敵をかわす法」であり、「気分転換に訴える法」m※(アキュートアクセント付きE小文字)thode de diversion とも言えるものであって、第三巻第十章や十二章などにも更に繰返し説かれる。だがこれは結局エピクロス説の適用でもあるから、これを「エピクロス法」m※(アキュートアクセント付きE小文字)thode ※(アキュートアクセント付きE小文字)picurienne とよび、かつてのあらかじめ備える法は「ストア法」m※(アキュートアクセント付きE小文字)thode sto※(ダイエレシス付きI小文字)cienne とよぶこともできる。とにかくモンテーニュは、空の空なる人間にとって、これが最も、否、ただ一つの、ふさわしい方法だと考えるのである。

 (b)わたしはむかし、本当に悲しんでおられる或る御婦人をお慰めする役目をおおせつかったことがある。わざわざ「本当に」などといったのは、ご婦人方の悲嘆は、大部分作りごと・お体裁エチケット・であるからだ。

女の胸の中には涙、なみなみと
あらかじめ常にためられありて、
流れずる機会を待てるがごとし。
(ユウェナリス)

こういう激情にまっこう正面から反対するのは、まずいやり口である。反対は女たちを刺激して、彼女たちをますます深く悲哀の中に引き入れるからである。言い負かそうとすれば、悲しみは負けまいとして、いよいよひどくなる。そういうことは我々の何でもないふだんの話の間でもよくあることだ。漫然と言いすてた事柄にしても、ふと人から反対されると、急にわたしはむきになって、それを固執してゆずらない。わたしが重要視する事柄であれば、なおさらのことである。それにこの方法に訴えると、療治が最初っから手荒になる。だが医者の病人に対する最初の応対は、やさしく快活でなければならない。いまだかつて、醜い気むずかしい顔つきの医者が効を奏したためしはないのである。だから、かえって最初は彼女たちの愁嘆を助長し、多少はこれに対して同感と許容とを示さなければならない。君はまずこういう馴合いによって、療治をさらに押し進められるだけの信用をかちえておいてから、そっと感付かれないように、彼女たちの治癒に適当した・より堅固な・論説にうつるがよい。
 ところがわたしは、ひたすらわたしに目を注いでいる周囲の人々を驚かしてやろうとばかり思ったから、いきなりその傷口に膏薬を塗ろうとした。だがやって見てわたしは、早速、「これはまずい手を打った。これでは人を納得させることはできっこない」と、気がついた。わたしの説得は、あまりに鋭くまたあまりにそっけなかった。あまりにも唐突だった。あるいはあまりにがむしゃらだった。そこでわたしは、しばらくの間彼女の悲痛を押し殺すことに骨折った末、やがて強力な幾多の理由を並べてそれをいやそうなどと努めることはやめにした。考えて見れば、もともと自分にはそんな理由なんかないのだから。いやむしろ、別の方法でより良く目的を達することができると考えたからだ。(c)また哲学が教えているさまざまの慰め方を選ぼうともしなかった。例えばクレアンテスのように「人が嘆くことは不幸ではない」とも、逍遙学派の人々のように「それは軽い不幸である」とも、クリュシッポスのように「これを嘆くのは正しい行いでもほむべき行いでもない」とも、いわなかった。またわたしの流儀により近いエピクロスの説をとって、「思いを悲しい事柄から面白い事柄の上に移せ」とも、キケロのように「これらもろもろの説をすべて備え持っていて、時に応じてあれこれと用いるがよい」ともいわなかった。(b)ただそうっと我々の話題をそらし、少しずつ話題を最も近い主題からやがて追々にかけ離れた主題へと、彼女がわたしの話に引き込まれてくるにしたがってだんだんと転じて行きながら、わたしは、気づかれないように彼女からその悲痛な思いをかすめ取った。そして彼女を、わたしが対坐している限り、すっかり落ちついたよい態度の中においた。つまりわたしは気分転換の法を採ったのである。わたしの後に同じ勤めに当った人々は、彼女のうちに何らの軽快も見出さなかった。まったくわたしは、悲しみの根におのをあてはしなかったのである。
 (c)たしかわたしは既にほかのところ〔二の二十三〕で、群集に適用されたある種の気分転換法に触れたことがあったと思う。軍人がこれを利用したことは、例えばペリクレスがペロポンネソスの戦いにおいて、またほかの人々がいろいろな場合において、敵の軍勢を自分たちの国からよそにそらそうとしてこれを用いたことは、歴史にその例がたくさんある。
 (b)ヒンベルクール殿がおのれをはじめ部下の人々をリエージュ市において救った計略は、誠に巧みなものであった。彼はこの城を囲んだブルゴーニュ公の命をうけ、市民がさきに同意した講和条件の実行を監視すべく城内に入ったのであったが、市民はこれに対抗するため夜中に会合し、さきの日の同意に反対して、大勢の者は今その手中にある敵の商議者の許に押し寄せようと決心した。ヒンベルクール殿は、それらの人々の第一の波が彼の宿舎に押し寄せてくるという噂をきくと、さっそく二人の市民に(市民の幾人かは彼の許にいあわせたので)、彼がとっさの間に思いついたずっと温和な新しい条件を持たせて、会議の場所に派遣した。この二人は最初のあらしをおさえた。いきり立った暴徒は市庁にとって返し、二人の報告をきき、これを討議したのである。だが討議は短かった。第二のあらしが第一のに劣らぬ勢いで巻きおこった。そこで彼はさっそくまた四人の同様な調停者を派遣し、こんどこそ市民がまったく満足しそうな一そう有利な提言をなさしめた。そのために人民は、またもや評議場に逆もどりした。要するにこのようにちびりちびりと時刻を引延ばしながら、市民の狂暴をわきにそらし、これを無駄な評議の中に分裂させ、ついにはこれを鎮静して、どうやら暁に達したのであるが、このようにあけがたまでもちこたえることこそ、彼の主な目的であったのである。
 次の物語もまた同じ部類に入る。アタランタというすぐれて美しくきわめて身軽な少女は、大勢の求婚者の追求を免れるために彼らに向って、「競走をしてあたしに追いつく者があったらききましょう。だが負けたら必ず命をすてるんですよ」と宣言した。そういう賞品のためならば死ぬこともあえていとわないといって、あたらこの残酷な賭事のために命を失う者が決して少なくなかった。ヒッポメネスも皆にならっていよいよその運を試みることになったので、この恋愛の熱情を守り給うという女神に願をかけ助けを乞うた。女神はこの願いをきき入れ、彼に三つの金のりんごを与え、その用い方を教えた。いよいよ競走場が開かれた。ヒッポメネスは愛人がその後ろに追い迫るのを感ずるや、いかにも過失によるかのように、そのりんごを一つ落した。娘はりんごの美しさに気を取られて、案のじょう道をそれてこれを拾った。

少女はいと驚きて輝ける果実を見、
その走りをとどめて、足下にまろべる金塊を拾えり。
(オウィディウス)

 そんなふうにいよいよ追い越されそうになると、彼は更に第二第三のりんごを落したので、少女はその都度路をそれ心を他に転じたから、ついに競走の勝利は彼に帰した。
 医者はカタルを取り除くことができないと、それをわき道にそらせ、かつ、それをさほどに危険でない部位に誘致する。これは霊魂の病に対してもまた適用される、最も普通な療法であると思う。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)人は時々霊魂を他の趣味、他の関心、他の心配、他の仕事へとふりむくる必要あり。時には霊魂にその場所をかえしむる必要あり。あたかも治癒の道なき病人を転地せしむるがごとし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)霊魂の病気は直接に倒すことがむつかしい。霊魂にはその突撃を支えることも打ちかえすこともできない。ただ受け流しそらすよりほかに仕方がない。
 もう一方の教訓にいたっては、あまりに高くあまりに困難である。純粋に一つことに専心し、それを熟考し判断するということは、第一級の人たちにして始めてできることである。平気な顔をして死に接近し、これとなれ親しみ、これとたわむれるのは、ただ独りソクラテスだけにできることである。彼は決して問題の外部に慰めを求めない。死もまた彼から見れば自然の・どうでもよい・出来事なのである。彼はこれをまともに見すえ、他に眼をそらさずにこれを待った。ヘゲシアスの弟子たちは彼の立派な講演に感激し、食を絶って自ら死んだが、(c)そしてその数は、王プトレマイオスがそういう殺人的講義をつづけることを彼に禁じたくらい多かったのだが、(b)それらの人々も、決して死それ自体を考察してはいない。判断してはいない。彼らがその思想をこらしたのは、死そのものについてではなく、ある別の存在〔来世〕を追求し目指したのである。燃えるような信心に満ちて火焙ひあぶり台の上であえなき最期をとげる憐れな人々は、そのすべての感覚をできる限り信仰に集中し、耳はこれを人が彼らに与える教えに傾け、眼と手とはこれを天のかなたに向け、口は声高らかに祈りを唱えながら、激しい・たゆまざる・興奮の中に、実にその苦難にふさわしい・ほむべき・行為をなしとげる。人は彼らの信心をたたえなければならないが、厳密にいえばその勇気をほめてはならない。彼らは直接取っ組むことを避ける。死からその考えをそらす。ちょうど子供にメスを刺す間じゅうこれをあやすように。わたしは彼らのある者が、ふとその周囲になされつつあるあの恐ろしい死刑の支度に眼がふれるや、たちまちに度を失い、狂おしくその思いをよそに転ずるところを見たことがある。人は恐ろしい谷を渡る者に向って、「眼をつぶれ」とか「わきを見ていなさい」とか言いつける。
 (c)スブリウス・フラウィウスは、ネロの命令で命をとられることになったが、しかも仲間の大将ニゲルの手によって処刑されることになったが、いよいよ刑場に引かれて行ったとき、ニゲルが彼のために掘らせておいた墓穴の無恰好なのを見ると、居合せた兵士どもをふり返って、「これさえが軍紀にかなっておらぬわ」といった。そして「頭をしっかりと上げい」とはげましたニゲルに向って、「お前こそしっかりと打ちおろせ」といった。彼の言葉はあたった。まったくニゲルの腕はぶるぶるふるえて幾度もやりなおさなければならなかった。このフラウィウスこそは、確かにその思いを、直接かつ真っすぐに、主題の上に注いでいたと思う。
 (b)剣をふるって混戦の中に死ぬ者は、そのとき死を思索してはいない。それを感じても考えてもいない。乱闘のただ中に、彼はただ無我夢中である。これはわたしの知っているある武士の話だが、あるとき決闘の場でつまずき倒れ、敵から九つか十も突き刺されたなと思うと、並みいる人々が口々に、「臨終の祈りをせよ」と彼に向って叫んだそうな。その人は後にわたしにこう話した。「なるほどそうした声は耳にきこえたが、少しも自分の心を動かさなかった。ただ夢中で押し返し、復讐してやろうということばかり考えていた」と。彼はこの決闘でとうとう相手を殺してしまった。
 (c)L・シラヌスに彼の死刑を知らせに行った者は、結局彼に貢献したことになった。というのは、「もとより死ぬ覚悟は十分できているが、ただ悪人どもの手にはかからぬぞ」と返答したので、その使の者はいきなり手下の兵士ともろ共に、飛びかかって彼に縄をうとうとしたところ、シラヌスは身に寸鉄もおびていないのに、げんこと足とで頑強に抵抗したので、やっさもっさと互いにもみ合ううちに、とうとう彼を死なせてしまったからである。おかげでシラヌスは、長いこと自分のために準備されている死を待たねばならないその苦しさを、とっさの憤激の中に吹っとばすことができたのである。
 (b)我々は常に別のことを考えている。よりよい生の希望が我々をとどめ我々を支えている。我々の子供たちがえらくなるだろうとか、我々の名前が将来栄光に輝こうとか、やがてこの世の苦患くげんからのがれられようとか、また、我々の死をたくらむ者どもがやがては報いを受けるだろうとかいうような希望が、我々をとどめ支えている。

もしも正しき神々ましますならば、
なんじ、ディドーの名をよびつつ波間に滅びん。
われ冥府にありてその便りをきかん。
(ウェルギリウス)

 (c)クセノフォンはかんむりをきて犠牲をささげている最中に、息子グリュロスがマンティネアの戦で死んだという知らせを受けた。これを聞くとかっとして彼はその冠を地にたたきつけたが、つづく言葉によってその死に方がはなはだ立派であったことをきくと、冠を拾って再びそれをいただいた。
 (b)エピクロスでさえ、その晩年には、自分の著作が永遠に残って世の人の役に立つだろうことを思い自ら慰めた。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)いかに困難なる事も、栄光これに伴う時は堪え忍ばる※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。だから同じ傷・同じ苦労が、クセノフォンのいうとおり、大将と一兵卒とにとって同じ重さではないのである。エパメイノンダスは依然として勝利が自分の側にあるときいて、いよいよ歓喜してその死をうけた。※(始め二重山括弧、1-1-52)これこそ最も大いなる悲痛をも慰め和らぐるものなれ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)その他これに類するいろいろな事情が、我々をいつわり慰め、我々の気を物その物の考察から転じそらすのである。
 (c)哲学の論証さえがそうである。しじゅう問題の横つらをかすめて核心にはふれずにゆく。わずかにその表皮うわつらをなでてゆくに過ぎない。哲学中第一の学派・他の諸学派を支配する学派・の第一人者であるあの偉大なゼノンは、死についてこういった。「どんな悪も尊ぶべきものではない。ところが死は尊ぶべきものである。故に死は悪ではない」と。酔っぱらいについてはこういった。「誰も酔いどれにその秘密をあかさない。各人はこれを賢者にあかす。故に賢者はよっぱらわないであろう」と。これは果して的を射ているだろうか。わたしはこういうすぐれた霊魂すら、人間共通の運を免れ難いのだと思いたい。彼らはあんなに完全な人間なのだが、やっぱり愚かしくも人間なのである。
 (b)復讐は甘美な感情である。それは我々の心に深くうえつけられた自然の感情である。わたしにはまったくその経験がないけれども、それがよくわかる。つい先頃ある若殿に復讐を思いとどまらせようとしたときも、わたしは「右の頬を打たれたら左の頬をこれにお向けなさいませ。それが慈悲の務めでございます」などとはいわなかった。また詩がこの情念のせいにしているところの悲惨な出来事を語りきかせようともしなかった。ただその情念はそのままそっとしておいて、ひたすら彼に反対の想念の美しさを味わわせようと骨折った。すなわち、寛恕と慈悲とをもってすればどれほどの名誉と衆望と同情とを収めることができるかを語り、彼を名誉心へとむけかえたのであった。正にこのようにこそなすべきである
* これは一五八七年十月二十日、アンリ・ド・ナヴァールがクートラの戦に勝った翌日、モンテーニュ邸を訪れた時の話であろうと推定される。ナヴァール王はこの時、アンリ・ド・ギュイズおよびアンリ三世に対して憤懣やる方なき思いであったろうが、それきり軍を進めなかった。これこそモンテーニュの寛容慈悲の政策の現われであって、この時から二年後にナヴァール王がアンリ四世となって後、モンテーニュが王に奉った書簡の中にもそれはよみとられる。白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「書簡」37参照。
「恋の思いがあまりにやみ難い時はそれを散らせよ」とよく言うが、これはもっともなことである。まったく、わたし自らしばしばこの方法を試みて、そのききめを知ったのである。恋心はこれをいろいろな欲望の中に分散するがよい。何か一つくらいはほかの欲望を支配するような欲望があってもよいが、それが君を支配し圧倒しないためには、それを分散させることによってその力をめ、それが伸びるのをさまたげるがよい。

おん身最も激しき欲望に駆り立てらるる時は、
(ペルシウス)

何にてもあれ、目前の物に向ってそれを注げ。
(ルクレティウス)

しかもそれはなるたけ早いがよい。一度その欲望にとっつかまってからでは、それをするのになかなか骨が折れるから。

新しき傷をもて古き傷を消さざるべからず。
新しき気まぐれの恋もて古き恋を忘れざるべからず。
(ルクレティウス)

 わたしは昔、持前の性分のために、強烈な悲哀に見舞われたことがある。しかもそれは強烈である以上に正当な悲哀であった。もしもわたしがただ自分の力に頼っただけであったなら、おそらくはそこにおしつぶされてしまったであろう。わたしはそれを忘れるために猛烈な気分転換を必要としたので、わざと、故意に、また若さも手伝って、恋をあさった。恋はわたしを慰めた。友を失った悲しみからわたしを救った。ほかの場合でも常に同じことである。何か堪えがたい思いが自分をとらえる場合、わたしはそれを抑えるよりは変える方が近道だと思う。わたしは反対の思いを持って来ることができないまでも、ちがった思いでそれに代える。変化はいつも気持を軽くし・溶かし・散らすものだ。苦しい思いを打ち倒すことができなければ、わたしはそれから逃げる。そして逃げながら、道をかえ跡をくらます。場所と仕事と伴侶とを変えながら、ほかの業・他の思い・の群れにまぎれこみ、そこにわたしの足跡を絶ち、隠れおおせる。
* ラ・ボエシ La Bo※(ダイエレシス付きE小文字)tie と死別した時の経験。第一巻第二章註および第一巻第二十八章、白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「書簡」2等参照。
 自然は我々のうつり気を利用して同じ手を使う。まったく時間は、自然が我々の情念の至上の医者として我々に与えたものであるが、この時間が偉効を奏するのは、主としてそれが我々の想念に、後から後からといろいろな事柄を提供し、最初の感情がどんなに強いものでも、容易にそれをもみ消してしまうからである。賢者はその友を、死して二十五年の後もなおただ一年後のように、ありありと思い浮べる。(c)エピクロスによれば、その情は少しも変らないのだ。まったく彼は、この悲痛は予期していたからといって、長い年月をへたからといって、少しも軽減せられるものではない、と考えているのである。(b)だがこの感情にしても、中にたくさんいろいろな思想が入り込めば、やはりしまいには衰え弱るのである。
 世間の評判の向きをかえるために、アルキビアデスはその美しい犬の耳と尾とを切って町に放した。つまり、これを庶民のおしゃべりの種に提供して、ほかの行為に触れさせまいとしたのである。わたしはまた、世間の取沙汰や邪推をそらし、口やかましい人たちをはぐらかすために、女たちが嘘の愛情によって本当の愛情をおおいかくすのを見たことがある。しかし何とかいうご婦人は、真似事をしているうちに本気になってしまい、とうとう本当の・始めの・愛情を捨てて、にせの愛情に走るにいたった。わたしはそれを見て、女のそういう狂言を許してこれで安心とすましている男たちこそ、けっきょく馬鹿を見るのだと知った。この替え玉にされた色男は、おおびらな歓待とやさしい言葉とをほしいままにするのだから、けっきょくは君に取ってかわり、かえって君の方をにせ者にしおおせぬとしたら、それはよくよくの愚図であると言わねばならない。(c)これこそ他人にはかせる靴を裁ち縫いすること、御苦労様な話である。
 (b)つまらないことが我々の気をまぎらしそらせる。つまらないことが我々の心を捉えているのだから。我々はほとんど物をまるごと、それ一つだけを見ない。我々の心をうつのは些細な事情とうわべの形とである。肝腎の物のぬけがらである。

そはあたかも、夏、せみが残す脱けがらのごときものよ。
(ルクレティウス)

プルタルコスでさえその死んだ娘を、その幼いころのおませのゆえにいたんだ。ある別れ・ある行為・あるやさしいそぶり・ある遺言・などの思い出が我々を悲しませる。カエサルの服は全ローマを混乱させた。彼の死報が伝わった時はさほどでもなかったのに。声のひびきさえ、永く耳に残って我々を悲しませる。「おいたわしい御主人様!」「わが大切な友よ!」「ああおなつかしい父上!」「可愛い娘よ!」というような繰り言がわたしの胸を刺す時も、よくよく考えて見ると、それはただ単なる言葉と声の嘆きである。語句と抑揚とはわたしを傷つける。ちょうど牧師の感嘆句がその教え以上にしばしばその聴衆を動かすように。また我々のために殺される動物の悲しそうな声が我々をうつように。そのくせわたしは、自分の今の悲痛の、その本質も知らなければ、その核心にも徹してはいないのである。

これらの刺激によりて悲しみはおのずから高まる。
(ルカヌス)

これらこそ我々の悲哀の基礎なのである。
* カエサルの葬式の時、アントニウスがカエサルが遭難した時の血染めの服を群集に示したために、民衆が興奮して反徒の家々を襲ったこと。
 (c)わたしの腎石じんせきはしつこいやつで、特に尿道に引っかかると、往々にして三日にも四日にもわたる長い小便づまりに、わたしをおいこむ。そして死の中に相当奥深くまでわたしを押しこむから、今さら死を避けたいと希望するのはむしろ狂気の沙汰であろう。いっそ死んでしまいたいと願う方が、その半死半生の苦しさのほどを思えば、かえって理屈にかなうであろう。小便がつまって死ぬようにと、その罪人たちのさおをめくくらせたあの大慈大悲の皇帝様〔ティベリウス〕は、さすが拷問学の大先生ではあった。わたしはそのような場合いつも考えた。「わたしの思想は何というささいな原因目的のために、わたしに命を惜しませるのか。わたしの霊魂は何とちっぽけな理由によって、あの世へのお引越しをこんなにも重大なことと思うのか。そんなにも重大な事のまっただなかにあって、我々はいかにつまらない考えにかまけているのか」と。犬のこと馬のこと書物のこと盃のこと、何一つとして死に瀕したわたしの心にかからぬものはない。ほかの人々においてはその遠大な野心、その財産、その学問であるが、それにしてもやっぱりばかげた話である。わたしは死を、これを概念的に見ていた時分は、生命の終極として平気で眺めていた。わたしは死を概念的には制御する。だが個別的には、死の方がわたしをおびやかす。下僕の涙、形見の分与、それと知られる手の感触、平凡な慰めの言葉、いずれもわたしを感動させ感傷的にする。
 (b)同じように、物語の中の愁嘆もまた我々の心をかき乱すのである。ウェルギリウスやカトゥルスに物語られたディドーやアリアドネの哀別離苦は、彼らの実在を信じない者までも感動させる。(c)あれを読んで少しも感動しないのは頑固な人の場合であって、ポレモンなどは奇跡だといわれている。だがこの人は、狂犬に噛まれてそのふくらはぎをもってゆかれた時だって、顔の色一つかえなかったそうな。(b)実際いかなる知恵者も、架空の物語がこれほどまでに強く深い悲哀を感じさせるその真の原因を、理性の判断だけで理解するには至っていない。それが、みずからそこに居あわせて、眼がこれを見・耳がこれをきく・時の、その悲哀にもいやまさるほどであるのはなぜであろう。この目と耳の方は、ただ架空の出来事だけでは動かされないというのに。
 もろもろの学芸さえが我々の生れつきの愚かさを利用するのは、果してもっともなことであろうか。修辞学の教えるところによれば、演説家はその弁論というお芝居において、われとわが音声やにせの感動に興奮しなければならない。その模擬する感情にだまされなければならない。その演ずる手品によって本当の心の底からの悲哀をまずもって自分の心につぎこみ、更にそれを彼以上に事件に関係の浅い審査員の胸にまでかよわせなければならない。ちょうどお葬式に悲哀を添えるために雇われる人々のように、彼らはその涙を、その悲嘆をさえ、切り売りし、量り売りする。まったく、彼らはただ形だけ感動のていを装うのであるが、しかし、その態度をその場にふさわしく慣らしていく内に、往々にしてしんそこから感激し、本当の哀愁を覚えるということもあるのである。
 わたしは彼の多くの友人たちに交って、ムシュ・ド・グラモンの遺体を、彼が殺されたラ・フェールのお城からソワソンへとお送りしたことがある。道中至るところゆきあう人民たちは、ただ我々の葬送の儀容を見ただけで涙を禁じえないようであった。まったく故人の名前すら、そこでは知られていなかったのである。
 (c)クインティリアヌスのいうところによると、彼は役者たちがあまりに愁嘆の役に熱中した結果、家に帰ってまで泣くのをやめなかったのを見たそうだ。また彼自身もあるとき、他人にある感動を起させようとしてあまり一所懸命になったために、自分までが涙を誘われたのみならず、真に悲痛にうちひしがれた者のように顔色までまっさおになったということである。
 (b)我々の山ぞいのある地方では、妻たちは僧マルタンのように一人で二役をやる。まったく彼女たちは、一方で死んだ夫がやさしく親切であったことを回想して哀悼の情を深くするかと思うと、また一方では夫の欠点の数々をかき集めて公表する。まるでそうやっていささか自ら慰め、憐憫から軽蔑へと気を転じようとするかのようだ。(c)彼女たちは我々よりはるかに気がきいている。我々はちょっとした知り人が死んでも、さっそくこれに嘘の賛辞を捧げようと努める。その人が眼の前からいなくなると、たちまちに彼を、かつて眼の前で見た頃に思ったのとはまったく別の人に仕立てあげようと努める。これではまるで、哀悼とは未知の事実を伝えることであるかのようである。あるいは、涙は我々の悟性を洗ってこれを明らかにするためにあるかのようである。わたしは今から、わたしがそれに価するからというのではなく、もはや死んだやつだからというので、他人様がお与え下さるであろうところの有難い証言は、あらかじめお断わり申しておく。
* この僧は、伝えるところによると、ミサの際に問答両方を一人でやったという。
 (b)誰にでもいいからきいてごらん。「何のために君はこの攻囲に参加するのか?」と。彼は答えるであろう。「先例にならって皆とともに君侯に対する服従の誠をいたすのだ。何の利得も望むものではない。栄誉なんかは、どうせわたしのような名もない者には大したこともあるまいと承知している。わたしはここに恩も恨みもない」と。けれども見たまえ、その翌日のうって変った彼の有様を。彼は突貫の戦列に加わり、怒りで顔をまっかにしている。これは、うち合う刀や槍の閃き、うち出す大砲の火炎や爆音、それに陣太鼓の響きなどが、彼の脈管の内にきのうにかわる敵愾心てきがいしんをつぎこんだからである。「つまらない原因!」と君はいうだろう。だがどんな原因がいるというのか。我々の霊魂を動かすにはどんな原因もいりはしない。実体も何もない夢想が、それを指導しそれを駆りたてるのだ。ふとスペインに城を築こうと思いつくと、わたしの想像はそこにくさぐさの安楽や愉快をでっち上げ、それによってわたしの霊魂は現実にくすぐられ楽しまされる。いくたび我々はそのようなはかない影のために、あるいは怒りをもってあるいは悲しみをもって、我々の精神をかき乱したか。幾たび空な感情に没入して、霊魂をも肉体をも二つながら変らせたか。(c)いかなる驚き・喜び・当惑・の表情を、夢想は我々の顔の上に生じさせるか。いかにそれは手足を動かし声をたかぶらせるか。この人はただ一人でありながら、大勢の人々と談話している幻想にとりつかれているのではあるまいか。それとも心の中のデモンにでも責められているのであろうか。(b)まあ君自身にきいて見たまえ。こんなに変化するものがどこにあるか。自然のうちに、我々以外にこんなに虚無によってはぐくまれ支配されるものが果してあるか
* 前出一の一、二の十二、二の三十七等参照。「おお人間とは何という卑しい・またあさましい・ものであろう! その人間性より上にあがらない限りは!」(二の十二末尾)。人間はこのようにむなしいもの。このむなしさを憎めるものこそ真の人間、至人と言うべきか。
 カンビュセスは、睡眠中にその弟がペルシア王となる夢をみたばかりに、これを殺させた。彼が心から愛し・常に信頼し切って・いたその弟を。メッセニア人の王アリストデモスは、自分の犬の意味のないうなり声を凶兆と思って自殺した。それから王ミダスも、何か不愉快な夢を見て心を乱しこれまた同じように自殺した。ただ一睡の夢のためにその生命をすてるのは、自分の生命が何であるかを正しく評価したものというべきである。
 だがしかし、我々の霊魂が肉体の悲惨に勝ち・その無力にうち勝ち・それがあらゆる危害変化をこうむることに勝った・言葉をききたまえ。真に霊魂はこう高唱する権利がある。

おお、不幸にもプロメテウスに作られたる最初の土くれよ。
いかに軽率に、それは作りなされたるよ!
彼は、これを作るに当りて、形体は考えたれど心のことは考えざりき。
むしろ心をこそ先に作るべかりしなり
(プロペルティウス)

* 神話によれば、プロメテウスは、まず土塊をもって人間を作り、それから天の火をもってこれに生命を賦与した。
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第五章 ウェルギリウスの詩句について



 モンテーニュはこの章の中で、まず自分の老境について語り、もうこの年になれば万事あけすけに語ってもよかろうといって、ウェルギリウスの恋愛詩の批評から、転じて性愛、結婚、恋愛というようなかなり機微な問題にふれる。かつてその初期のエッセーにおいては(例えば第一巻第十四章などを後年の加筆のない最初の状態において読むとよくわかるが)、彼もあるスコラスティックな順序を追ったこともあったのだが、ここでは実に自由自在な漫談漫筆の至芸を見せている。一体『随想録』は第一巻第一章から順々に読まなくても十分に味わえる書物であるが、今述べたような彼の散歩気分がかもし出す独特な魅力に至っては、やはり、少なくとも全一章を通読する者にでなければ与えられないであろう。この章は「馬車について」(三の六)の章とともに随筆文学の傑作である。
 しかしこの章は世に伝えられるような好色文学では決してない。モンテーニュは従来エピキュリアンで恋愛においてすこぶる放縦であったかのように伝説されているが、この章の底を流れている道徳的なものは、そのような俗説を是正してあまりがあろう。彼はレアリストであってロンサール流の女性礼賛者ではなかったから、従来あまり女性に愛せられてはいないようであるが、およそ彼くらい女性の生理と心理とをこもごも理解して、よく彼女たちの立場を擁護したものは古今を通じて稀であろう。また彼くらい恋愛において敬虔かつ清純であったものも少ないであろう。この酸いも甘いも噛みわけた老人の性愛論は、トルストイのそれのような窮屈なものではなく、はるかに近代的で自由なものであるけれども、それでいて少しも淑女に眉をひそめさせるところがない。ある種の不幸な女性には感涙をさえ催させるであろう。要するにこの章は、愉快でまた厳粛な恋愛論であり、性教育論であり、同時にまた男女同権論でもある。

 (b)有益な思索は充実して来れば来るほど、それだけ邪魔な高価なものになる。不徳・死・貧乏・病気は厳粛な主題で、我々にとって重荷となる。どうしても我々は、苦痛を支えこれを克服する術を教えこまれた・いやよく生きよく信ずるための掟を教えこまれた・霊魂を持たなければならないし、しばしば霊魂をそういう貴い研究の中で目覚まし練磨しなければならないけれども、そういうことは、尋常普通な霊魂のためには、休みをおいて、節制をもって、行われなければならない。普通の霊魂はあまり不断に緊張していると気が変になってしまう。
 わたしは若い頃、自分に義務を守らせるために、自分を戒めたり励ましたりする必要があった。歓喜と健康とは、人のいうとおり、そういう真面目で賢明な思索とはあまりうまが合わないのである。だがわたしは、今やまったく別の状態にある。老年の諸状態は、いやというほどわたしに忠告している。わたしを分別くさくし、わたしに説教している。わたしは快活の過度から、それよりもさらに忌むべき厳格の過度におちた。だからわたしは、今ではわざと自分を少し放縦の方に赴かせる。そして時々、霊魂をふざけた・若々しい・思いにむけ、そこで遊ばせる。わたしはこの頃、あまりに落ちつきすぎ、重厚になりすぎ、老熟しすぎている。年齢が毎日、冷静と節度とをわたしに向って教える。この肉体が不規則を避けまた恐れている。今こそ肉体の方が、精神を矯正に向って導く番になった。それが代って教導する番になった。しかもより荒々しく厳しく。肉体は寝ても覚めても、ただの一時間も、死と忍耐と悔悛とをわたしに説ききかさずにはいない。わたしは今、かつて快楽をこばんだように、節制をこばんでいる。節制はわたしをあまりにも後ろの方に、いや無感覚にまで、引きもどす。ところでわたしは、どのようになりと自分の主人でありたい。知恵もまたその過度を持つ。そして狂愚に劣らず節制を必要とする。だから苦痛がわたしに許すあいまあいまには、わたしが慎重のあまり、ひからびて沈みきってしまわないよう、

わが心が常にその苦にのみかまけてあらざるよう、
(オウィディウス)

わたしはごくそっと、自分の眼を、自分の前の・風だった雲ゆきのあやしい・空から転じそらす。有難いことにわたしは恐怖なくそれを眺めているが、もちろん努力と研究とを要しないわけではない。それでわたしは、今は昔となった若い頃の回想に耽る。

わが心はその失いしものを欲望し、
ひたすらそのかき立つる過去の想像にひたる。
(ペトロニウス)

 少年にはその前を見させよ。老人にはうしろを見させよ。これこそヤヌスの二重の顔が意味するところではなかったか。年齢よ、わたしを引張ってゆきたいなら引張ってゆけ。ただし後ろに。わたしの眼に、このすんでしまった良い季節を認めることができる限り、ときどきわたしは眼をそこにふりむける。よしそれをわたしの血脈の中に永くとめおくことができないにしても、せめてそのイメージだけでも記憶の中からなくしてしまいたくない。

過去の生活を楽しみ得ることは、
二度生きることにほかならず。
(マルティアリス)

 (c)プラトンは老人たちに向って、若者どもの競技・舞踊・遊戯の場にのぞんで、もはや自分のうちにはない肉体のしなやかさと美しさとを他人の中に楽しむように、またそういう花のような時代の恩寵をその記憶の中に思いおこすように、命じている。そしてかれら老人たちが、これらの娯楽において最も自分たちを・しかもその最も多人数を・よろこばせた若者に、勝利の誉れを与えるように望んでいる
* モンテーニュは自らこのプラトンの勧告を実行した。「旅日記」の記述がそれを証明している。彼はデラ・ヴィラの温泉に滞在中、舞踏会を主催し、自ら若い踊り手に賞品を与えたりしている。
 (b)昔わたしは、重々しい陰気な日々を特別非常のものとして印づけていた。ところが今ではそれらがわたしの日常となり、明るい麗らかな日々の方が非常特別のものとなった。わたしはやがて少しも苦痛のない折を、特別の恵みとしてよろこぶようになるのだ。いくら自分をくすぐって見ても、今ではもうこのむさい体から、ひからびた笑いさえもぎとることはできない。ただ空想と夢想の中ではしゃいでみるばかりである。けっきょく、計略によって老年の悲哀をごまかすだけである。なるほどそこには、夢による以外の別の薬が必要であろう。だが人工はどうしても自然の敵ではない。皆がするように人生の不愉快を引き伸ばしたり、早くから迎えたりすることは愚の骨頂である。わたしは老いるに先立って老いるよりは、むしろ老いの期間をもっと短くしたい。わたしは自分が出あうことのできる最も小さな快楽の機会までも逃がさない。わたしだって慎ましい・力ある・輝かしい・いろいろな種類の快楽があることは、うわさに聞いて知っている。けれどもそういうひとさまの意見は、わたしにそれらを欲求させるだけの力を、わたしの上に及ぼさないのである。(c)わたしはそんな壮大な・壮麗な・豪華な・快楽はのぞまない。むしろ甘美・容易・かつ手近な快楽の方を願う。※(始め二重山括弧、1-1-52)我らは自然より遠ざかりて、何事にかけても良き案内者ならざる民衆にならうなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
 (b)わたしの哲学は行動の中にある。自然な・現在の・実践の中にある。思想の中にはほとんどない。わたしは、はしばみの実や独楽こまの遊びに打ち興じたいと思う。

国家の安寧こそ第一、民衆の喝采はその後!
(エンニウス)

 快楽はほとんど野心のない特質である。それは評判の価値を自分に加えないでも、自分独りで相当豊富であると考えているし、かえって片蔭にあることを好む。ぶどう酒やソースの味をかれこれいうような若者があったら、鞭うちをくらわすべきであろう。このぶどう酒やソースの味ほど、わたしに解らなかった・またわたしの重んじなかった・ものはないのである。ところが今ではそれがわかる。こうなったことをわたしは大いに恥ずかしく思うが、さて今さらどうしよう? わたしをそこに押しやっている動機を思うと、いよいよ恥ずかしさと悲しさを覚えるばかりである。
 夢想したり無駄口をたたいたりするのはわれわれ老人のすることで、評判や高い位を目ざして一所懸命になるのは若い人々のことである。彼らはこれから世間に出て信用を得るのであるが、我々はもう帰り道なのだ。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)彼らには太刀あり、馬あり、槍あり、棍棒あり、庭球あり、水泳あり、競走あり。われら老人には、かくも数ある競技のうち、たださいころとかるたとがあるばかりなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)法律までが我々に隠居を命ずる。わたしは、自分の年齢に追いつめられて至りついたこの哀れな状態を慰めるためには、ちょうど子供に対するようにそれにおもちゃでもあてがうよりほかに仕方がない。つまり我々はもう一ぺん子供に帰るのである。いや知恵も痴呆も、この老年の悲惨の中に、かわるがわるわたしを助け支えるのは、なかなか骨のおれることだろう。

汝の知恵に少しばかりの狂気を交えよ。
(ホラティウス)

 わたしは同様に最も小さな刺激をも避ける。いや、昔はわたしに引掻き傷も与えなかったほどの刺激が、今ではわたしを突きとおすのだ。ようやくわたしの習慣は、とかく病気のことに気をとられがちになった。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)かよわき肉体には最も軽き刺激も堪えがたきものなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。

(b)病める霊魂はいかなる苦しみにも堪え得ず。
(オウィディウス)

 わたしはいつも苦しみ痛みに対して感じやすくデリケートであった。今ではますます敏感になり、どこもかしこも感じやすくなっている。

きわめてかすかなる力も、
すでにひび入れる器を砕くに十分なり。
(オウィディウス)

なるほどわたしの判断は、自然がわたしに受けよと命じている不快不幸に、わたしが反抗したり憤慨したりすることを妨げはするけれども、それを感覚することまでも妨げはしない。わたしは世界を隅から隅へと、楽しく快活な平穏のまる一年を尋ねて歩きたいものだ。わたしは生きそして楽しむより外に、何の目的もないのだから。どんよりした無感覚な平穏ならわたしにもかなりあるけれど、それはわたしを麻酔させる。そんなのでは有難くない。もしも田園にまたは町なかに、フランスにまたは外国に、家におちついている人であろうと旅行ずきの人であろうと、その人にわたしの性格が気に入り、その人の気持もまたわたしに嬉しいような、そういう誰かが、あるいはそういう何かよいお仲間が、あるならば、ただ手のひらを鳴らしてくれればよい。わたしは肉も骨もあるエッセー〔すなわち『随想録』の著者其人〕を彼らに進上に行くであろう。
 老いから立ち直ろうというのは精神の特権であるから、わたしはできるだけ精神に向ってそのように努めよと勧める。できるならばあの枯木の上の宿り木のように、なお芽をふき花を咲かせよと勧める。だがわたしは、精神は裏切者ではないかと恐れる。精神は肉体ときわめて仲よしであるから、肉体が難渋しているのを見ると、いつもわたしをふりすてて肉体の赴くがままにつき従う。だからわたしは、精神だけにび彼とだけ仲よくなってもだめなのである。精神にこの肉体との親交をすてさせ、彼にだけセネカやカトゥルスをすすめても、美人たちや豪華な舞踏をすすめても、だめなのである。相棒の肉体が疝痛をおこすと精神までが疝気になるらしい。精神に特有な諸作用すら、そうなるともうおき上ることができないのである。それは明らかに風邪をひいたみたいである。肉体の方に同時に元気がない限り、精神の働きもさっぱりだめなのである。
 (c)我々の先生たちが我々の精神の異常な向上飛躍の原因を求めるにあたって、それを神がかりや、愛や戦争の苛烈や、詩や酒に帰するばかりで、少しもそこに健康のもち分を認めないのは間違っている。むかしは青春の力と平静な心とが、湧き立つばかりの・力のあふれた・充実した・悠然たる・健康を、時折わたしに提供したものだ。この快活という火は精神の中に、我々の生れつきの能力をこえたあざやかな明るい閃光を点じ、最も熱狂した・とはいえないまでも最も溌剌たる・元気をみちびき入れる。ましてやそれとはあべこべの状態が、わたしの精神を圧迫固定してあべこべの結果を生ぜしめても、それは少しも不思議ではないのである。

(b)精神はいかなる仕事にも身を入れず、肉体と共に衰う。
(プセウド・ガルス)

しかもなおわたしの精神は、「おれはこの肉体とのなれ合いに、通例一般の人々において見られるほどには縛られていないのだから、有難く思え」という。果してそのとおりかどうかわたしは知らないが、少なくとも我々の休戦の間は、苦痛や艱難かんなんを我々の交わりから遠くに追っぱらおうではないか。

老人よ、できうる限り、その額のしわをのばせ。
(ホラティウス)

※(始め二重山括弧、1-1-52)戯れによりて悲哀を和らぐるはよきことなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(シドニウス・アポリナリス)。わたしは快活でおだやかな知恵を愛し、激しい厳粛な生活を避ける。いかめしそうな顔付はどれもあてにはならないから。

(c)暗き顔せる悲しげなる不遜よ。
(ブカナン)
(b)この悲しげなる人々もまたその淫楽をもてり。
(マルティアリス)

 (c)わたしは心からプラトンを信ずる。彼は「心持が穏やかであるか気むずかしいかは、霊魂の善さ悪さを推定させる上に大きな根拠となる」といった。ソクラテスはいつも変らぬ顔をしていたが、それは晴ればれしたにこやかな面もちで、人に笑顔を見せたことのなかった老人クラッススのような変らぬ顔ではなかったのである。
 (b)徳はたのしい快活な特質である。
 (c)わたしはよく承知している。眉をひそめてわたしの書き物を放縦だというであろう人々のうち、彼ら自身の思想の放縦さに一層眉をひそめないでいられるであろう者の、すこぶる少ないことを。わたしは彼らの心にはかなっているのだけれども、彼らの目にはさわりとなるのだ。
 プラトンの書物の方だけを非難し、彼がパイドロスやディオンやステラやアルケアナッサなどと関係があったらしいことなどは黙って問題にしないというのは、なるほど筋がとおっている。※(始め二重山括弧、1-1-52)考えて恥ずかしからぬ事柄は、これを言うこともまた恥ずるにおよばず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(出所不詳)。
 (b)わたしは愉快な生活の上を素通りして、不幸につかまえられ養われている・あの気むずかしく陰気な・精神を憎む。それはまるで拭い磨かれた物体にはとまることができないので、凸凹の・ざらざらした・場所にとまって休む蠅みたいだ。いや悪い血ばかり吸うひるみたいだ。
 それにわたしは、自分があえてすることはすべてこれをあえていうよう自分に命じ、公表しえない思想その物を嫌っている。わたしの行為行状の最も悪いものも、これをあえていわないことの醜く卑怯であることにくらべたら、そう醜いとは思われない。誰でも告白するときには慎ましやかだが、人はその行為においてこそそうあらねばならないのだ。あやまちを犯す大胆さは、それを告白する大胆さによって、ある程度補償もされるし牽制もされる。(c)すべてをいわねばならぬと思えば、黙っていなければならないようなことは、しないように努めるだろう。どうか、わたしのこの極度の開けっ放しを見て、世の人々が、あの我々の不完全から発する臆病なうわべだけの徳を乗りこえて、自由に物を言うようになりますように! わたしは放縦のそしりをうけても、ぜひ人々を理性のところまでひっぱってゆきたい! 自分の不徳をいい出すには、それを見かつ究めなければならない。それを他人に向って隠す人々は、通例それを自分にも隠している。いや自らそれを見る限りそれが十分に隠されているとは信じえないので、彼らはそれを自分自身の良心に対して隠しいつわるのである。※(始め二重山括弧、1-1-52)何が故になんぴとも、その不徳を白状せざるや。いまだその不徳の奴隷なればなり。夢を語るには覚むるを要す※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。肉体の病気は時と共にだんだん明瞭になる。風邪だ・くじいたのだ・といっているうちに、やがて痛風だとわかる。霊魂の病気は高じるに従って不明になる。最もひどい病人が最もそれを感じない。だから我々は、しばしば容赦のない手先で、それらを明るい所に出して調べて見なければならない。それらを我々の胸の底から引きずり出して、ひろげて見なければならない。善行におけると同様に、悪行においても、告白はただそれだけでしばしば帳消しとなる。果して過失の中に、我々の告白の義務を免除するほどの醜悪があるであろうか。
 (b)わたしは何食わぬ顔をしていることがとても苦しい。だから他人から秘密を明かされることを避ける。知っていることを知らないとは、とてもいいきれないからである。わたしはそれを黙っていることはできるけれども、それを否定することになると、努力と不快なしにはできないのである。本当に秘密を守るためには、そのように生れついていなければならない。義理だけでは足りない。君侯に奉仕するには秘密が守れるだけでは足りない。その上さらに嘘つきでなければならない。ミレトスのタレスに向って、姦通をしたことを正式に否定すべきや否やを問うた者が、もしもわたしに向って聞いたのであったら、わたしはこれに、決して否定すべきではないと答えたであろう。まったく、虚偽は姦淫よりももっと悪いことだと、わたしは思うのである。ところがタレスは全く別様に勧告した。つまり小さい罪をもって大きい罪をつぐなうために、断然否定せよとすすめたのである。けれどもこの勧告は、二つの不徳の一つを選択させることにはならないで、むしろ一つの不徳にさらにもう一つの不徳を加えることになった。
 ここでついでに言っておくが、良心ある人にとっては、不徳の罪滅しに何かの難事を課せられることは幾分か気やすめになるのであるが、二つの不徳のいずれかを選べといわれるときは非常に苦しいことになるのである。例えばオリゲネスをごらん。彼は偶像を拝するか、それとも彼の前に連れてこられた卑しいエティオピアの大男の不自然な肉欲の餌食となるか、ときかれてとうとう偶像を拝した。人はそれを不徳であると言った。だがこの頃、一回のミサでよりも十人の男で良心の呵責を受ける方がいいと、我々にプロテストする婦人たちも、おそらく彼女たちの間違った信仰によれば、間違ってはいないであろう。
* これはカトリック教のミサに列することを拒んだプロテスタントの一婦人の話であるが、モンテーニュは宗教上のまじめな問題についてもよくこのような冗談をいった。しかしこれは、自らカトリックとしてプロテスタントにいやがらせをいったのではなく、むしろ何れの派の宗規をも超越した冗談と考えるべきであろう。
 このように自分の間違いを公表するのはぶしつけであるとしても、それが模範となり習慣となるような危険は大してない。まったくアリストンのいったとおり、人々の最も恐れる風は彼らを暴露する風なのである。だがむしろ我々の行いをおおいかくしているあの笑うべきぼろはまくってやる方がよい。人々はその良心を女郎屋にやっておいて、そのうわべだけをいかめしそうにつくろっている。詐欺や人殺しまでが、礼節の掟と一時もはなれず、そこに彼らの義務を結びつけている。だが、不正な人間が失礼の何のと文句をいう資格はない。(c)よこしまな人間がぶしつけを咎める資格はない。悪人が必ずしもばかでなく、端正さが彼の不徳を隠しているのは困ったことだ。こういう化粧張りはただ、保存せられ磨かれるに値する・立派なしっかりした・壁面にのみふさわしい。
 (b)こっそりとささやかれる我々の懺悔ざんげの仕方を非とする新教徒に味方することになるが、わたしは公衆の前で敬虔にまた純粋にざんげする。聖アウグスティヌス、オリゲネス、ヒッポクラテスは、自分の考えの誤りを公表した。わたしはその上にわたしの行いの誤りまでも公表する。わたしはわたしを知らしめようと飢えている。だが、どれほど知ってくれるかが問題ではない。ただほんとうのことを知ってくれるかどうかが問題なのである。いやもっと正確にいうなら、わたしは何にも飢えてはいないのである。ただふとわたしの名をきき知った人々に誤解されるのを、死ぬほど恐れているだけなのである。
 万事を名誉と栄光とのためにする者よ。仮面をして世間に出、そのありのままの自分を人々の認識から隠して、一体どんな得をしていると思っているのか。せむしに向って「まあいい姿だこと」とほめてごらん。彼はこれを侮蔑だと思うに違いない。もし君が臆病であるなら、しかも人が君を勇ましい人よとたたえるならば、それは果して君のことであろうか。否、君を別の人と取り違えているのだ。むしろそれよりは、自分はお供の小者の一人にすぎないのに、人々の敬礼をうけて主人公になった気になり、得々然としている男の方がまだいくらか可愛いと思う。マケドニアの王アルケラオスは、ある路地を通りかかると誰かに水を浴びせられた。お供の者どもはその粗忽そこつ者を罰すべきだと主張した。「まあそういうな」と王はいった。「彼はわしに水をかけたのではない。彼が憎いと思っている者の上にかけたのだよ」。(c)ソクラテスは、「あなたの悪口をいっている者がある」と告げた者に向っていった。「いや、そうではない。わたしの内には彼らがいうようなことは何一つない」と。(b)わたしだって、誰かに「よい水先案内者よ」とか、「きわめてつつましい人よ」とか、「きわめて純潔な人よ」とかほめられたって、決してそれを有難がりはしまい。同様に「詐欺よ、泥棒よ、酔いどれよ」といわれたって、別に侮辱されたとも思うまい。自らを知らない者は見当違いの賞賛をしゃぶって喜ぶことができる。だがわたしはちがう。わたしは自分を腹の底まで知りぬいている。自分に属するものをよく知っている。そんなにほめられないでも、もっとよく知って貰えさえすれば、それで十分。(c)人はわたしを賢者と思って下さるかも知れないが、わたしはこんな程度の知恵なんか、ばかも同然だと考えている。
* モンテーニュはいわゆる純潔な人とはいえない。彼はそれを知っている。だが彼は世間でいう純潔というものの真相を知っており、特に独自の道徳観をもっているから、世間から背徳者といわれても平気なのである。
 (b)わたしは自分のエッセー〔随想〕が、婦人たちにただ共有の道具かお客間の家具くらいに、取扱われているのにはうんざりする。この章こそはわたしを、彼女たちの私室の家具とするだろう。わたしは彼女たちと少し内緒のおつき合いがして見たい。おおっぴらのおつき合いでは味も香りもない。いよいよお別れとなると、いつも以上に、後にのこすものに対して特別の感情をもやす。わたしはいよいよこの世の楽しみに最後の暇乞いをする。これこそ我々の最後の抱擁である。だがわたしの本題にかえろう。
 あんなに自然で必要で正当な生殖行為が、人間にとって一体どうだというのか。何だって恥ずかしがらずに、それについて語ることをあえてしないのか。なぜそれを厳粛な談話から除外するのか。我々は大胆にも「殺す、盗む、裏切る」と口にする癖に、なぜあのことだけは歯の間でなければいわないのか。それを言葉の中に吐き出しさえしなければ、それだけその考えをおし広げてもよいというのか。
 (c)まったく最も稀に用いられる言葉、最も稀に書かれ最も口にされることの少ない言葉が、最もよく最も広く識られているのは、おかしなことである。どんな年齢どんな性格の人でも、パンと同様にこれを知らないものはない。この二つは、表明されることなく、音もなく形もなく、人々の心に刻まれている。またそれは黙秘の保護の下に置かれている行為であって、そこからそれを引離すことは、よしそれを告発し裁判するためでも罪悪であると考えるのも、面白いことである。我々は婉曲えんきょくな色どられた言葉をもってでなければ、それを鞭うつことさえあえてしない。裁判がそれを見それに触れることすら不正だとするまでに、それが呪われているということは、罪人にとってはもっけの幸いである。その有罪宣告のきびしさのおかげで、縛られもしなければ殺されもしないんだ! それは書物の場合と同様なのではあるまいか。書物は禁止を食うとますます売れますます評判になる。わたしはここに、「はにかみは少年のためには飾りとなるが、老年のためには叱責となる」といったアリストテレスの言葉を、そのまま借りようと思う。
 (b)次の句は古代の学者たちが教えるところだが、わたしはこの古代の学者の方が近代の学者より好きなのである((c)その徳はより偉大に・その不徳はより小さく・思われるから)。

(b)あまりにウェヌスを避けこれと戦う者は、
あまりにこれを追うものと等しく敗る。
(アミヨ仏訳、プルタルコス)

女神よ。おん身独りこの世をつかさどる。
おん身なくては、何物も日の光りを見ず。
何物も、楽しからず、やさしからず。
(ルクレティウス)

 誰が一体パラスやミューズの神たちをウェヌスと仲たがいさせ、彼女たちをクピドーに対して冷淡にすることができたのかしらないが、わたしは、これくらいお互いに気の合った・またこれくらい持ちつもたれつする・神々を知らないのである。もしミューズたちより恋慕の思いを取り上げるならば、彼女たちの持つ最も美しい話題と彼女たちの著作の最も気高い内容とを、彼女たちから奪うことになるであろう。またクピドーに詩と交際しこれに奉仕することを禁ずるならば、その最良の武器を鈍らせることになるであろう。そうやって人は、情交と愛情との男神と、人情と公正とを守る女神たちとに、忘恩の不徳をしょわせている。
 わたしはこの男神の侍従職を免ぜられてからまだあまり久しくないから、彼の威勢のほどをなお十分に記憶している。

われはなおわが過去の炎の跡を認む。
(ウェルギリウス)

今もなお身うちに幾らか情熱の余炎が残っている。

ねがわくはこの余熱、わが生涯の冬に至るまで、
われをば見すてざらんことを。
(セクンドゥス・通称ジャン・スゴン)

わたしは全くひからびて、けだるくはなったけれど、まだ幾らかこの過去の熱情のほとぼりを感じる。

かくアエゲウムの海は、
北の風南の風吹きおさまるも、
決して直ちに静まることなく、
その後久しく波立ち吠ゆ。
(トルクアト・タッソー)

 けれどもわたしがそこに覚った限りでは、この神の威勢は、詩に描写せられているときの方が、その実際よりも一そう旺盛である。

詩句には指ありてくすぐる。
(ユウェナリス)

詩に描かれたクピドーの姿は、クピドーそのものより何かしら一そうエロチックな風情を帯びている。す裸で・生身の・息せわしいウェヌスもまた、次のウェルギリウスに描かれたウェヌスほどに美しくはない。

かく彼女は言いぬ。しかも彼なおためらいければ、
女神は雪のごときかいなをのべて彼をかきいだき、
その甘き抱擁をもて彼をあおりたり。
忽ちに彼は、常の炎を感じたり。
彼がよく味わい知れる熱き思い骨髄にとおり、
うちふるう骨の末の末までも徹りたり。
さながら雷鳴りて稲妻雲間に走るが如く。
………………………かく言いて、
彼はウェヌスに彼女が待てる抱擁を与え、
新妻の胸に伏して快き眠りを得たり。
(ウェルギリウス)

 わたしがここで考えさせられたのは、彼の描いているウェヌスが妻たるウェヌスとしては少し興奮しすぎているということである。この慎ましい交わりにおいては、欲望はそんなに狂暴なものではない。それはずっと弱く鈍いものだ。恋愛は、人が恋愛以外のものによって結ばれることを嫌う。そして、例えば結婚のような別の名目のもとに結ばれる性交には、ごくいい加減にあずかるにすぎない。そこでは当然親族関係や財産などが、淑やかさや美しさと同様あるいはそれ以上に、重んぜられるのである。何といっても人は自分のために結婚するのではない。子孫のこと家族のことを、同等に・あるいはより多く・考えて結婚するのだ。結婚生活の幸不幸は、我々自身を超えて、はるかに遠く子々孫々にまで影響するのだ。だからわたしは、結婚を自分の手によらずむしろ第三者の手によって、自分の分別によらず他人の分別によって、とりきめるあの仕方を好ましく思う。そのようにして成った結婚は、徹頭徹尾恋愛結婚とは別のものである! それに、この尊く聖なる結合に、放縦な恋愛の旺盛さ狂暴さを用いようとするのは、すでに他の章でいったと思うが、一種の近親相姦にことならない。人はアリストテレスがいうように、つつしんでまじめにその妻に接しなければならない。あまりに好色的に彼女をくすぐって、快楽が彼女を理性のらち外におし出すようなことがあってはいけないから。彼は良心のためにこう言ったのだが、医者たちは健康のためにいう。「あまりに熱した・淫らな・執拗な・快楽は、精液を変質させ懐妊を妨げる」と。彼らはまたこうもいう。「性交は疲らすものであり、それがその本性なのであるから、これに適当な・産み出すだけの・熱を満たすには、稀に、著しい間隔をおいて、行わなければならない」と。

彼女飢え渇きてウェヌスのたまものを捉え、
これを胎内深くうけ入れるために。
(ウェルギリウス)

わたしは美と愛欲とによって営まれる結婚ほど、たちまちにして破綻を来たす結婚を見たことがない。結婚にはもっと堅固で変ることのない根底がなければならない。そして慎重にそこに臨まなければならない。あの沸きたつ歓喜はそこに何らの価値ももたない。
* 第一巻第三十章「節制について」の章の始め。
 結婚に恋愛をつけ加えてこれを尊くしたつもりでいる者は、徳を重んずるつもりで「貴族たることすなわち徳にほかならず」と称する者と、どうやら同じことをしているのである。それらは多少関係のある事柄ではあるが、そこにはまたたくさんの相違がある。それらの名前や肩書を混合してはいけない。それらはかえって双方のためによくない。貴族たることは一つの立派な資格であって、それが重んぜられるのは当然である。けれどもそれは他に依拠するところの資格であり、不徳なつまらない人間の上にも授かることがあるのだから、徳よりははるかに低く評価されるべきものである。それは(これでも徳と呼びうるとすれば)、人間がつくった・人目につく・徳である。時と運とに依拠する徳、地方々々によっていろいろな形をとる徳、生きている時だけでやがて死ぬる徳、ナイル河のように源のない徳、系図によって大勢に共有される徳、承けついだり真似されたりする徳、こじつけられる徳、しかもきわめてあやふやな根拠によってこじつけられる徳である。学問・力・善・美・富などほかの性質はみな伝達され交易される。だがこの貴族たる資格は、その人ひとりに用いられるだけで、ほかの人の役にはまるで立たない。ある人が、我々の王様の一人に対して、同じ役目をほしがる二人の競争者の選択をお願い申した。一人は貴族で他は全くそうでなかった。ところが王様は、「貴族たると否とを問わず、どっちか実力あるものの方をとれ。ただその力量が全く同じならば、その時は貴族たる身分を重んぜよ」と仰せられた。これこそ貴族の地位を正当に認めたものというべきである。アンティゴノスはある未知の若者が、武勇の士で・その時他界したばかりの・父の職を継ぎたいと願い出たのに向って、「わが友よ。この種の恵与においては、わたしは部下の身分などは念頭におかない。その武勇の方を重視する」といった。
* 第一巻第四十六章「名前について」参照。
 (c)ほんとに、貴族たちはスパルタ諸王の諸役人みたいに取扱われてはならない。彼らのもとではラッパ吹き・ヴァイオリン弾き・料理人・等の役目が皆その子供たちに引きつがれた。彼らは何一つ知らなくても、その道の最も経験ある者よりも優先権をもった。カルカッタの人々は貴族を人間以上の種族だとした。結婚は彼らに禁ぜられ、軍職以外の職業はみな彼らに禁ぜられた。妾なら持ちたいだけ持つことができ、女の方もまた好きなだけ恋人を持つことができ、お互いに嫉妬なんかはしないのだが、自分たちとちがう階級のものと交わることは、重大な許され難い罪悪と見なされている。いや、通りすがりにさわられただけでも身が汚れると思っている。そして、その貴さがそのために大いに損傷されるとして、ただあまりに近寄りすぎただけの者まで殺してしまう。だから身分の低い者は歩きながら叫ばなければならない。ちょうどヴェネツィアのゴンドラ漕ぎが町の角で衝突をさけるために呼ばわるように。貴族たちの方でも、あちらに避けよこっちにゆけと彼らに命ずる。そうやって一方はその永遠なりとする恥辱を避け、一方はその確実な死を免れる。いかなる時の継続も、いかなる君侯の恩寵も、いかなる功、いかなる徳、いかなる富も、平民の子を貴族にすることはできない。このことをますます助長しているのは、職業を異にする者の間では結婚が許されないという習慣である。例えば靴屋に生れた娘は大工と結婚することができない。また親たちはその子供たちに、親代々の職業を仕込むべく余儀なくされている。決して他の職業を仕込むことは許されない。それで彼らの身分の懸隔がいつまでも保たれ、永く同じ職業が相続されるのである。
 (b)よい結婚は、もしそれがあるとすれば、恋愛を伴い・その諸性質を帯びる・ことを拒み、友愛の諸性質を模倣しようと努める。それは生命の甘美な結合で、そこには変らぬ愛と・信頼と・数限りない有用で堅固な相互の奉仕および義務と・がみちみちている。どんな婦人でも、

神によってその選べる男に合わされて
(カトゥルス)

一度この味をなめた者は、その良人の情婦愛人に代ることを欲しないであろう。夫の愛情の中に妻として宿る方が、彼女の地位ははるかに尊くまた安全で堅固なのである。男がよそで浮気をする時に、彼に向ってきいて見るがよい。「恥が来るならどっちに来る方がいいか。妻にか。愛人にか。どっちの不運が最も悲しいか。どっちにより多くの誉れを願うか」と。健全な結婚においては、この質問は何らのためらいをもひき起さないのである。よい結婚が滅多に見られないことは、それがいかに貴重で重大なものであるかの証拠である。うまくそれに成功するならば、我々の社会にこれほど結構なものはないのである。我々はこれなしにすますことはできないのに、だんだんとその品格をさげてゆく。そこでちょうど鳥籠の前で見られるようなことが起る。つまり籠の外の鳥どもは中に入ろうとばたばたやるし、中にいるやつらはどうにかして外に出ようとばたばたやるのである。(c)ソクラテスは妻をめとる方がよいか全くこれを持たない方がよいかと問われて、「どっちにしても人は後悔するだろう」と答えた。(b)それは※(始め二重山括弧、1-1-52)人間は人間にとって※(終わり二重山括弧、1-1-53)或いは※(始め二重山括弧、1-1-52)※(終わり二重山括弧、1-1-53)であるか※(始め二重山括弧、1-1-52)※(終わり二重山括弧、1-1-53)であるかという言葉がきわめてよくあてはまる関係である。それを築き上げるにはたくさんの特質の出会いが必要である。こんにちではかえって単純な下層の人々の間によい結婚が見出される。彼らの間では享楽や好奇心や退屈などが、それを乱すこと比較的に少ないからである。例えばわたしのようにどんな拘束をもきらう放縦な性格は、結婚にはあまり適していない。

この鎖を首にまとわで生きんことこそ、
われには更にうれしからん。
(プセウド・ガルス)

 わたしの本心に従うなら、わたしはたとい望まれても、知恵そのものとさえ結婚することは避けるであろう。だが何といっても始まらない。世間一般の慣習が我々を引きずってゆく。わたしの行為の大部分は先例にならってなされるので、自らの選択によってではない。とにかくわたしは、自発的に結婚をしたのではなく、みんなにそこへ引張ってゆかれたのである。外部的動機によってそこに連れてゆかれたのである。まったく、単に都合の悪い事柄ばかりではない、どんなに醜悪な・邪悪な・また避けたい・事柄だって、何かの事態事情によっては、どうやら我慢のなるものとならないとも限らないのである。それほど人間の態度というものはあやふやなものなのだ。いや実際、当時のわたしは、それを経験し終った今日より、ずっと気がなく・ずっといやいや・そこに運ばれたのである。だが、人はわたしを放縦だと思っているけれど、本当にわたしは、自ら約束したり希望したりした以上に夫婦間の義務を厳守した。わなにかかってからじたばたしたってはじまらない。自分の自由は十分大切にしなければならないが、一度約束に従ったからには、どうしても共通の義務に服しなければならない。少なくともそう努めなければならない。ちゃんとこの契りを結んでおきながら、憎悪と軽蔑とをもってこれにのぞむのは、不正かつ不都合なことといわなければならない。また、まるで神聖なご託宣のように婦人仲間で手から手へとわたされている、

主人に対するように夫に仕えよ。
裏切者に対するように彼に用心せよ。
(フランスの格言)

というあの有難い規則も、「夫に対するには、敵意と不信とをこめた・堅苦しい・敬意をもってせよ」という挑戦の叫びみたいなものであって、やはりむつかしい・不当な・規則といわなければならない。わたしはあまりにも意気地なしだから、そんなあぶない真似はできない。正直のところ、わたしはまだ、正不正を混同し・自分の欲望に適しないすべての秩序規則を嘲笑する・ほどの巧妙精密の極致には、到達していないのである。迷信がきらいだからといって、わたしはすぐに無宗教の中に投じはしない。常にその義務を果さないまでも、少なくとも常にその義務を愛しかつ認めなければならない。(c)結婚をしながら結婚の義務を守らないのは裏切りである。(b)更に先へ進もう。
 ウェルギリウスはきわめて仲のよい結婚の姿を描いているけれども、そこには十分の貞節がない。彼は、「恋愛の偉力に降参しながら、しかも結婚に対していくらかの義務を保留することも、できなくはない」と言おうとしたのか。「結婚を全く破棄することなくそれを傷つけてもよい」と言おうとしたのか。(c)主人の金をごまかす下男も、必ずしも主人を憎んではいない。(b)美貌・好機・宿命(まったく宿命もまたこれにあずかるのだ)・が

我らの衣服の隠せるかの器官にも宿命あり。
汝いかに雄々しき一物を持てりとも、
天の星汝に幸いせずんば甲斐なからん。
(ユウェナリス)

女をあるよその男に結びつけても、それは恐らくそう完全にではあるまいから、あとにもいくらかの関係がのこり、なおその女が夫ともつながっていることもありうる。結婚と恋愛とは一つになれない・別々の・二つの道である。また女がある人物に降参し、しかもこれと結婚することを欲しないこともある。それは男の身分のためばかりではない。その人柄のためにもそういうことがあるのだ。いた女と結婚してあとで後悔しなかった男は少ない。(c)いや、それは神々の世界でも見られる。ユピテルははじめ好き心から通い交わったその妻といかに仲悪く暮したか。これこそことわざにいうところの「籠の中に糞をすればあとでこれを頭にいただかねばならぬ」たぐいである。
 (b)わたしは近頃、ある高貴なかたのご家庭で、恥ずべきことけがらわしいことだが、恋愛が結婚によってけろりと忘れ去られるのを見た。元来この二つは全然別の考えに立っている。それなのに我々は少しも矛盾を感ぜずに、この二つの・別々の・相反する・事柄を愛するのだ。イソクラテスは、「アテナイ市は恋人のように愛せられた」といった。皆はここに散歩に来ること・閑をつぶしにくること・を愛したが、誰もこれと結婚するほどには、すなわちここに来て住むほどには、これを愛しなかったからである。わたしは世の夫たちが、ただ自分たちが妻に対して後暗いことをしているというだけで、彼女たちを憎んでいるのを見て情けなく思った。少なくとも我々の方の罪のために、彼女たちに対する愛情をへらしてはならないのである。むしろ後悔と同情とによって、彼女たちが我々に一そう可愛いくならなければならぬはずである。
 それらは目的を異にするが、ウェルギリウスも言うとおり、どうやら、提携しうるものではある。結婚の方は有用・公正・名誉・変らぬ愛・をその分け前としてもつ。その快楽は淡々たるものであるがより普遍的である。恋愛はただ一つの快楽の上にたつ。しかもその快楽は、本当に、より挑発的で強烈である。そして困難によってあおられる。そこには刺激が必要である。矢と炎との刺激がなくなれば、それはもう恋愛ではない。婦人たちが惜しみなく与えることは結婚においては過剰となり、愛情と欲望のほこ先を鈍らせる。(c)この不都合を避けるためには、リュクルゴスとプラトンがその法律の中に、わざわざどんな規定を設けているかを見られるがよい。
 (b)婦人たちは、世に行われている生活上の規則を拒んだって、少しも悪くはない。それは男どもが彼女たちに相談なしに作り上げたものであるから。彼女たちと我々との間には自然に陰謀や喧嘩がある。我々と彼女たちとの最も親密な抱擁すら、なお雨風にみちみちている。しかるに、ウェルギリウスの説によると、我々は婦人たちを不当に取扱っている。我々は、恋愛行為においては、女の方が男よりもはるかに能力があり熱烈であることを知っているくせに。始めは男であり後には女になって、

よく両性の快楽を知っていた
(オウィディウス)

あの古代の神官が、ちゃんとそう証言しているのも知っているくせに。それにまた彼女たちみずからの口からも、この道の達者として有名なローマのある皇帝〔プロクルス〕およびある皇后〔メッサリナ〕が、それぞれの時代にこれに関して与えた証拠も聞いているのだ(彼は一晩のうちに、そのとりことなったサルマティアの処女十人のつぼみを散らした。ところが彼女の方は、事実一晩の中に、その欲望・その好み・に従って、相手をかえつつ二十五回も行った)。

彼女は疲れて退きしが、なおも肉欲に燃えつつ、
いまだ男に飽きしにはあらざりき。
(ユウェナリス)

またカタロニアにはこんな裁判があったことも知っている。ある婦人が夫のあまりに執拗なのに困って、訴え出た。――わたしの考えでは、そのことが厭だったのではないと思う(まったくわたしは、信仰以外のことでは奇跡を信じないのである)。むしろそういう口実の下に、夫婦関係の根本をなすまさにこの行為においてこそ、夫の妻に対する横暴を制限し牽制し、そうして夫の気むずかしさ意地悪さが妻をしいたげる以上に、ウェヌスのやさしさや恵みまでも踏みにじるということを示そうとしたのだと思う。――この訴えに対して夫は、それはまことに畜生のような変態的な男であったが、「自分は精進日でさえ十回以下では我慢ができないのだ」と答えた。そこにアラゴンの女王のあの有名な宣告が下った。つまり、この優しい女王は、慎重審議の末、正当な結婚において守られるべき節制の模範・規則・を永遠に確立するものとして、その正当な必然的な限界を一日六回と規定したのである。彼女のことばによると、「こうして女性の要求欲望を大いに抑制して、実行し易い・従って永遠不変の・規則をたてた」のだそうな。これに対して医者たちは騒ぎたてる。「女性の欲望は、果してそういう程度まで認めてよいものだろうか。なぜなら彼女たちの理性、彼女たちの知恵、彼女たちの徳は、すべてそれとの関係の下にきめられるのだから」と。彼らは我々の欲望に関する判断がまちまちであること、(c)法律万能派の頭目ソロンが、この夫婦の交わりを決して失敗させないために、月にただ三回としたこと(b)などを、考えているのであろう。とまれこれだけのことを信じまた講釈しながら、われわれ男どもは、節制を婦人たちだけが負うべき務めとして強要する。しかも極刑をふりかざして!
 実にこれ程やみがたい欲情はないのに、我々は彼女たちだけがそれに抵抗することを望んでいる。「それは普通の不徳とはちがう。それは不信心・親殺し・よりもさらに憎みきらうべき不徳だ」という。そのくせ、われわれ男たちがこれにおちいるのは、責めも咎めもしない。われわれ男性でさえ、これを克服しようと試みたことのあるものは、いろいろな方法道具を用いても、肉体を苦しめ弱め冷やすことがどんなに困難であるか、いやどんなに不可能であるかを、十分に告白している。それなのに我々は、婦人たちが健やかでたくましく肥えふとっていて、しかも同時に純潔であることを望んでいる。すなわち熱くして冷たいことを欲している。まったく、結婚は婦人たちの燃え上るのを抑えるためにあるのだと我々はいうけれど、それは我々の習俗の下にあってはほとんど彼女たちに清涼をもたらしはしないのである。彼女たちが若くて精力のわき立つ男を夫としても、夫の方はその精力をむしろよそにひろげて誇りとするだけであろう。

貞節を守れ。然らずんば法廷にゆかん。
わらわは汝の男根に千金を払いたり。バッススよ。
そはもはや汝のものならず。売りたるからは。
(マルティアリス)

(c)哲学者ポレモンがその妻によって法廷に引き出されたのは当然である。なぜなら彼は、ならない畠にいって、なる畠にくべき種子を蒔いたからである。(b)もしまたそれとちがって老衰した者を夫としたら、彼女たちこそ結婚しながらむすめや後家よりも損な身の上だ。我々は、彼女たちが身近に男を一人持っていると、大いに満足させられているもののように思う。ちょうどローマ人が巫女みこクラウディア・ラエタを、カリグラがこれに近づいたからといって直ちに犯されたと信じたように。だがそれはただ近づいただけの話であることが、後に証明されたではないか。むしろ事実は反対で、彼女たちは満足どころかいたずらに欲望をあおられるばかりである。とにかくどんな男とでも接触し一緒にいるということは、独りおかれれば平静であるべきその熱情を呼び覚ますからである。いや、恐らくそうやって自分たちの純潔をいっそう価値あるものとするためであったろうと思われるが、ポーランド王ボレスラスとその妃キンゲとは、合意の上で、婚姻の当夜一緒に寝ながら、純潔を誓いあった。そしてゆるしゆるされた夫婦でありながら、ついにその誓いを立て通した。
 我々は彼女たちを、子供時代から恋愛のいとなみにそなえて育て上げる。その立居振舞、その装い、その習いごと、その言葉づかい等、すべての教育はこの恋愛が目あてである。御付きの女教師は、彼女たちに絶えず恋愛をいとうようにおしえながら、恋愛の姿ばかり刻みつけている。わたしの娘は(子供といえばこの娘一人であるが)、今ちょうど法律が最もませた者に結婚を許す年頃になっている。彼女はおそい・ひ弱な・おとなしい・たちである上に、母親の仕込みによっても箱入りに育って来たから、まだやっと子供時代のあどけなさがぬけたばかりである。彼女はわたしの前でフランス語の本を読んでいた。ふとぶな fouteau という語が出て来た。誰でも知っている木の名前である。彼女の教育にあたっている婦人は、少々つっけんどんに彼女をさえぎった。そしてこの良くないくだりを飛ばして読ませた。わたしは彼女のなすがままにまかせ、女たちの掟を乱さなかった。まったくわたしは、女の教育には少しも口ばしを入れないことにしているのである。女の世界には不思議な習慣がある。それは女たちに任せておかねばならぬ。けれどもわたしの考えに間違いがないなら、わたしの娘は六カ月の間二十人の下男と遊ばせておいたって、この罪深い言葉の意味や使い方や、またその発音がひきおこすすべての結果を、その頭の中に刻みつけはしなかっただろう。かえってこの生まじめな老婦人の叱責と禁止の方がつよい印象をあたえたことと思う。
* fouteau「ぶな」という樹の名が、当時の俗語では女性生殖器を意味したのだそうである。

ませたる娘たちは
イオニアの踊りを学ぶことを喜び
そのために四肢を疲らす。
彼女はそのいとけなき頃より
みだらなる恋を夢みる。
(ホラティウス)

婦人たちに少しお行儀を忘れさせ、自由勝手なおしゃべりをさせてごらん。我々はこの知識に関する限り、彼女たちにくらべたらまるで子供である。彼女たちが我々男性の追求や我々の台詞せりふなどを真似して語るところを聞いていてごらん。我々が彼女たちに教えることは、何一つとして我々から教えられるまでもなく、とうの昔に彼女たちが知りまた理解していることばかりであることがわかる。(c)それはプラトンが言ったように、彼女たちが前世において放蕩な男子であったからであろうか。(b)わたしの耳はある日のこと、少しも気づかれずに彼女たちだけの話を立ち聞きできる場所にゆき合わせた。どうしてそれを言っていけないだろうか? わたしはその時ひそかにいった。「おお聖母さまよ! いまさら我々は、アマディスの言葉やボッカチオやアレチーノの書物を研究して通人ぶろうとしたって始まらない。まったくそれは暇つぶしだ」と。どんな言葉、どんな事柄、どんな方法も、彼女たちが我々の書物以上に知らないものはない。それは彼女たちの血管の中に生れ出る知識なのだ。

ウェヌスみずから彼女たちに教えしもの。
(ウェルギリウス)

自然・青春・健康・等のよい教師たちが、絶えず彼女たちの心の中に吹き入れる知識なのだ。彼女たちはこれを学ぶまでもなく、彼女たちみずからこれを生むのである。

白き鳩もその他いかなる淫らなる鳥も、
その情欲に身を委ぬる女たちほど、
たえず口ばしを合わせて喜ぶものはなかりき。
(カトゥルス)

 もしも彼女たちの欲望のこうした生れつきの激しさを、彼女たちに恐怖や婦徳を吹きこんで何とか牽制しなかったなら、それこそ我々はあか恥をかかされたろう。世間の動きは、すべてこの男女の結合に帰着する。それは至る所にひそんでいるものであり、万物の目指す中心である。今もなお、古代ローマの賢者たちが恋愛のために作った法規や、またソクラテスが遊女に教えた教訓などを見ることができる。

よく絹の蒲団の枕辺に見出さるるあの小冊子が、
時にストア学者の著わせるものなることあり。
(ホラティウス)

ゼノンはそのもろもろの規則の中に、つぼみを破る時のひろげ方や揺すり方までも規定している。(c)哲学者ストラトンの『肉の交わり』という標題はどういう意味を持っていたか。テオフラストスは、一つは『愛する人』、もう一つは『愛について』とそれぞれ名づけた著作の中で、いったい何を論じていたか。アリスティッポスは『古代の快楽』という書物の中に何を論じたか。プラトンが当時における最も大胆な恋愛を、あれほど長々とまた鮮やかに描いているのはいったい何のためか。それから、デメトリオス・ファレラの『愛人について』という本や、ヘラクレイデス・ポントスの『クリニアスまたの名いられた愛人』は? アンティステネスの『子を設ける法または結婚』、また同じ著者の『主人または愛人』は? アリストンの『愛の遊戯』という本は? クレアンテスの一つは『愛』といい、も一つは『愛の術』という本は? スファエロスの『恋愛問答』は? クリュシッポスの『ユピテルとユノーの物語』というどうにも我慢がならないほどに淫らな書物や、その他彼の五十通の煽情的な『書簡』は? それらはいったい何を説こうとするのか。まったく、エピクロス派に属する哲学者の著作については、あえて問うまでもないのである。(b)昔は五十柱の神々がこの務めに従っていた。いやある国においては、参詣に来る者の淫欲をしずめるために神殿の中に享楽用の少年少女が囲ってあり、いよいよ礼拝をする前に彼らを享楽するのがその儀式の一部となっていた。
* (c)の加筆をさかのぼり九行前につづく。すなわち前出ゼノンの規則を指す。
 (c)※(始め二重山括弧、1-1-52)淫欲は節欲に必要なり。あたかも火災の火によりて消さるるがごとし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(出所不詳)。
 (b)世界の大部分において、我々の体のこの部分は神とあがめられていた。同じ地方において、ある者はその部分の皮をむいてその一片を、他の者はその精液を、奉献した。また別の地方では、若い男たちは公衆の面前でその部分に穴をあけ、その肉と皮の間を幾カ所もさいてそこにくしを刺した。しかも我慢できるだけ長く太い串を刺した。そして後にその串を燃して彼らの神々に奉った。この無残な苦痛の刺激に気を失うような者があれば、それは弱い汚れた者と見なされたのである。よそでは、最も聖なる役人はこの部分によって認められあがめられた。そして色々な儀式において、その模型が色々な神の祭のためにいともおごそかに運ばれた。
 エジプトの貴婦人たちは神バッコスの祭に列するとき、各自の力に応じて大きく重くまたすこぶる精巧に形造られたその模型を一つ、首にぶら下げた。それに彼女たちのあがめる神の像は、その部分が五体の他の部分に比して特に大きく作られていた。
 ここの近在では、既婚の婦人たちは頭巾でもって額のところにその模形を作り、これから受ける快楽を光栄とする。その代り後家になると、それを後にまわして髪の中におし隠す。
 ローマでは最も賢明な既婚の婦人たちが、神プリアポスに花環を献ずる名誉を与えられていた。そして神像の最も浄からざる部分の上に、人は結婚にのぞむ処女たちをすわらせた。それに、こんにちでも多少これに似た信心が残っているのを、わたしは少なからず見たように思う。我々の父たちのズボンの(今でもそれはわがスイス傭兵がはいているが)、あの笑うべき形はいったい何を意味したものか。我々がこんにち我々の半ズボンの下に、我々の一物をありありと、いな、しばしばもっとわるいことには、実物以上に大きく、誇示するのはいったい何のためか。
 (c)この種の服はより良い・より正直な・時代に、人々を欺かないために、各人が公然とかつ勇敢にその実力のほどを示すために、作られたものであるとわたしは信じたい。もっとも単純な民族は今でもなお、ある程度その部分をありのままに示す服をもっている。当時の人は、職人の力量をそれによって知ったのである。こんにち腕や足の大きさを見てこれをはかるのと同じことだ。
 (b)わたしが若かった頃、人の眼を汚さないためだと言って、その大きな都市の中にあるたくさんの美しい古代の彫像を去勢したあの謹直な御仁は、(c)古代の同様に謹直な男の意見に従ったのであるが、

公衆の目前に裸像を並べたつるは乱倫のもとなり。
(エンニウス)

(b)いっそ「純潔の女神**」の祭においては男の形をしたものすべてがご禁制であったように、馬をも驢馬ろばをもいやしまいには自然までも去勢しないことには、何にもならないことを悟るべきであった。

何となれば、地上に生けるもの
人々も、野獣も、また家畜も、
水に住む魚も、空とぶもろもろの鳥も、
皆、ことごとく、恋に狂えばなり。
(ウェルギリウス)

* カルヴァンだとも法王パウロ三世或いは四世だとも言われる。
** ローマ婦人が、bona dea とよびなす純潔の神。ミショーによれば C※(アキュートアクセント付きE小文字)r※(グレーブアクセント付きE小文字)s.
 (c)神々は(とプラトンはいう)、我々にいうことをきかない我儘わがままな器官をもたせた。それはまるで狂暴な動物のように、その激しい欲望の力によってすべてを自分に屈服させようとする。同様に婦人たちにも、食いしん坊の・あくことを知らない・動物が宿っている。もし人が適当なときにこれに食べものを与えないと、待ちきれないで暴れ出す。そしてその怒りを彼女たちの五体の隅々まで吹きこみ、血のめぐりを妨げ、呼吸を止め、様々な病をひき起し、いよいよ皆がその渇きあこがれる果実を吸い、それをもって胎内を奥の奥までうるおさなければおさまらない。
 (b)さてさきの立法家は、早くから彼女たちに急所をありのままに知らせる方が、これを彼女たちの熱した奔放な想像にまかせるより、おそらくはるかに清潔で効果もあるであろうことを、悟るべきであった。本当のものの代りに彼女たちは、欲望と期待とによって三倍も大きなものを想像する。(c)わたしの知っているある男は、自分のその部分を、彼女たちのもっとも真剣な使用にあてるにはまだ早すぎるときに露出して、失敗した。
* 前出「謹直な御仁」、立像を去勢させた男を指す。
 (b)子供たちが御殿の通路や階段に書き散らすあのでっかい落書は、なんと有害なことであろう。あのために婦人たちは、我々の自然の能力について悲惨な誤解をいだくことになる。(c)プラトンが、よい制度を有する他の諸国にならって、男も女も老いたるも若きも、わが体操場の中にはみな裸で出て来いと命じたのは、実にこのためではなかったろうか。(b)インドの女たちは裸の男を見なれているから、少なくともその目の感覚は冷淡である。(c)あの大ペグー王国の婦人たちは、帯の下に前の裂けた布きれ以外には何一つその身を掩うものを持たない。しかもそれがきわめて幅狭いので、いくらしとやかに礼儀正しく努めても、ひと足毎に何もかも見えてしまう。彼女たちはこれをもって、男たちを自分たちの方に引きよせ、その国民がもっぱら溺れる男色から彼らを引きもどすために、考え出したものであるというけれども、彼女たちはこのために得をするよりもかえって損をしているといえるであろう。饑餓の感覚は、ご馳走をまだ見ないうちの方が、少なくとも散々見てしまった後よりも、はるかに旺盛なものだといえるであろう。(b)だからリウィアは、行いのよい女にとって裸の男は人形も同然だと、いったのである。(c)ラケダイモンの婦人は人妻になっても、我々の娘たちよりもおぼこであったが、それは毎日その国の若い男たちが裸で武技を練るのを見ていたからである。彼女たち自身も、歩くときに太股があらわれてもあまり気にしなかった。プラトンが言ったように、長いスカートヴェルテュガードによらないでもヴェルテュによって十分に掩われていると考えたからである。けれども聖アウグスティヌスが挙げている人々は、裸体に非常な誘惑力を認めている。なぜなら彼らは、「最後の審判の日に女たちはやはり再び女として復活するのだろうか、むしろ男に生れかわるのではあるまいか、そうでないとすれば、せっかく聖なる状態になっても再び男性を誘惑することになろう」などと心配しているのだから。
 (b)とにかく皆して女たちを誘惑する。あらゆる手段をもっていどむ。我々は絶えず彼女たちの想像をあおり立て刺激する。そうしておいて、ほらはらんだと騒ぎ立てる。真実を告白しよう。われわれ男は、誰一人、自分の不徳から来る恥よりも、女房の不徳から来るそれの方を、恐れないものはないのである。自分自身の良心よりも、かわいい女房の良心の方に(何という感心な慈悲心だろう!)、気をくばらないものはないのである。女房に浮気をされるくらいならば、むしろ自分が泥棒となり涜神とくしん者となることの方を、いや女房が人殺しとなり異端者になることの方を、好まないものはないのである。
 いや婦人たちも退屈と快楽のまん中でこんなにつらいお留守番をさせられる位なら、むしろ裁判官になってうんと私腹をこやしたいであろう。戦争に行って功名手柄もたてたいであろう。だが彼女たちは、商人も法律家も兵士も、皆その本職をわすれて色ごとにいそしまないものはないことを、また荷担人足や靴屋が労働と飢えとにへとへとに疲れていながらも、なおこの業にいそしまないものはないことを、知らないのかしら。

アカエメネスの財宝をも、
ゆたかなフリュギアの王ミュグドンの
あらゆる富をも、また、
富めるアラビアの家々をも、
汝はリキニアの髪一筋と取換えるにあらずや。
然るに彼女は、今、汝のかぐわしき唇を前に、
怒りをよそおいて、その、
汝以上に欲する接吻を、避けんとはすなり。
(ホラティウス)

 (c)何という不公平な諸々の不徳の評価であろう! 男も女も、淫猥よりももっと有害で不自然な幾多の醜行をすることができるのだが、我々はそれらもろもろの不徳を、自然によってではなく我々の利害によって、作り上げたり評価したりするので、このように不公平な結果になるのである。我々の苛酷な法規は、女たちがこの不徳にふけることを、この不徳の本質以上に悪い不徳なものとみなし、それをその原因よりもさらに悪い結果におもむかせる。(b)果してカエサルやアレクサンドロスの働きは、我々流儀のしつけをされ、輝かしい社交場裡につれて行かれ、たくさんのけがらわしい手本を見せつけられ、無数の・絶えまない・執拗な・追求にあいながら、よくその身を完うした若く美しい一婦人の操守より、その辛さ苦しさにおいてまさっているであろうか。この無行為ノン・フェール〔この自然行為をしないこと〕ほど困難危険が多く、これほど積極的な行為はない。わたしは一生よろいを着とおす方が、処女たることよりはやさしいと思う。いや童貞の誓いこそ、すべての誓いの中で最も高貴である。それこそ最も困難なことであるから。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)悪魔の偉力は腰にあり※(終わり二重山括弧、1-1-53)と、聖ヒエロニムスは言った。
 (b)実に我々は、人間の義務の中で最も困難な骨の折れるものを婦人たちにゆずった。そしてその光栄を彼女たちにゆだねている。これが彼女たちにとって、あくまでもそれを固守しようという不思議な刺激となっているのに違いない。これこそ、彼女たちがわれわれ男性に向って挑戦し、我々が彼女たちに向って日頃威張るところの、あの根もない勇気や徳行の評判を踏みつけて見せるのに、この上もない材料なのである。彼女たちはこれさえ失わないように気をつけるなら、そのお蔭でますます尊ばれるのみならずますます愛せられるであろうことに、気がつくであろう。色男は、たとい拒絶されたとしても、それがはにかみの拒絶であって選択上の拒絶でない限り、決してその追求をすてはしない。我々は誓っても、おどしても、また嘆いても、だめである。それはみんな嘘で、我々はそれだけ余計に彼女たちを愛しているのである。堅そうでいて手きびしくも無愛想でもない女くらい、われわれを引きつけるものはないからである。憎悪軽蔑の前にねばるのは愚かであり卑怯である。けれども感謝の意志をまじえている・有徳な・堅固な・決心と張り合うのは、気高い霊魂がすることである。彼女たちだってある程度まで我々の奉仕を認め、上品に、我々を決して無視してはいないことを、我々に感じさせることがある。
 (c)まったく、あの婦人たちに対して、「男たちが君たちをあがめるからこれをいとえ。男たちが君たちを愛するからこれを憎め」と命ずる掟は、ただそのむつかしさからいっても実に残酷である。どうして彼女たちは、そのつつしみを忘れない限り、男の申出や懇願に耳をかしてはいけないのか。なぜ人はそれらの言葉の中に、何かしらみだらな響きが籠っているように思うのか。我々の時代の一女王はうまいことを言われた。「こういう接近を拒絶するのはその人の弱さの証拠で、かえって自分の乗じやすさを告白するようなものである。誘惑されたことのない婦人はその純潔を誇ることはできない」と。
 (b)貞淑の限界は決してそんなに窮屈なものではない。それはずっとゆるやかなもので、いくらかはいわば罪にならずにゆるめることができるものなのである。その境目のところには、どっちともつかぬ・中立で自由な・区域がいくらもある。そこを狩りたてて、力ずくでその隅・その突きあたり・まで突込んだからって、自慢にはならない。ただ運がよかったというだけの話である。勝利の価値は困難の度によってはかられる。君の奉仕と真価とがいったいどんな印象を彼女の心にあたえたかを知りたければ、それを彼女の性格によってはかりなさい。ある婦人はもっと与えることができそうなのにそれほどに与えない。だが恵与の有難味は、まったく与えるものの意志に由来するのだ。そのほかの事情などは、いずれも皆意味のない・死んだ・偶然の・ものである。ほんの少しでも、与えるということはその人にとってつらいのである。ほかの女がそのすべてを与えるよりもつらいのである。もし何かにおいて稀少が評価のもとになるとすれば、それはこのことにおいてこそである。何だこれっぱかりと見てはならない。いかに少数の者がこれを得たかを思わなければならない。貨幣の価値は刻印とその鋳造の場所によってちがう。
 男の恨みと無分別とは、不満のあまり何を言いふらすかわからないけれども、やはりいつかは徳と真実とが勝利をとりもどす。わたしは長い間その評判を不当に害されていた婦人たちが、ただただ彼女たちの忍耐によって、別に何らの努力も策略も用いずに、ついに人々のあまねき賞賛の中に立ち直ったのを見たことがある。皆が後悔して、かつてうっかり信じたことを取消すからである。娘時代にはいささか怪しまれたにかかわらず、いま彼女たちは貞淑の誉れ高い婦人たちの第一列を占めている。ある人がプラトンに向って、「皆があなたの悪口をいっていますよ」と言った。すると彼は答えた。「いわせておきなさい。わたしは彼らがやがてその言葉をひるがえさねばならぬように生きるだろう」と。神を恐れる心とあれほど稀な光栄がえられるということが、彼女たちにその身を守らせるのにちがいないのだが、当世紀の腐敗もまた彼女たちにそれを余儀なくさせている。もしもわたしが女だったら、自分の評判をああいう危険な人たちの手に委ねるくらいなら、むしろ思いきってどんなことでもしてやろうと、思うにちがいない。わたしの若い頃は、恋を得たことを語る喜びは(この喜びはその甘さにおいて恋そのものの喜びにいささかも劣るまい)、ただ忠実な無二の友をもつ人々にだけしか許されていなかった。それなのにこんにちでは、どの会合会食の席でも、もっぱら婦人たちから人しれず内緒で可愛がられたという自慢ばなしでもちきりである。実際、あのしおらしい心根を、恩知らずの・無節制な・そして飽くまで浮気な・男たちの猥談のたねにさせて平気でいるのは、あまりにも卑劣下品なことといわなければならない。
 我々がもろもろの不徳に対してあんなにも飽くなき不当な憤りを注ぐのは、人間の霊魂をおかすもっとも空虚でもっとも狂暴な病、すなわち嫉妬のためである。

何故に他人の炬火きょかより火を借りることをとがめ給うや。
炬火の火はそのために少しも衰うることあらざるに。
(オウィディウス)

 この嫉妬とその姉妹であるそねみとは、何れも人間の迷いの中で最も愚劣なものであるように見える。後者については、わたしはほとんど語ることができない。この感情は人が最も強烈に描くところであるけれども、一ぺんもわたしの許に来て下さったためしがない。前者の方は、わたしもそれを知っている。少なくとも面識くらいはある。動物だって嫉妬はする。牧人クラスティスがある牝山羊に恋慕したところ、その牡はクラスティスの睡っている間に、嫉妬のあまり彼の頭に自分の頭をうちつけて、これを粉砕した。我々は或る野蛮な国民を真似して、この狂熱の度をたかめた。最も教育のある国民も、それにおかされた。これは当然なことであるが、決してそのために逆上して度を失うには至らなかった。

いかなる間夫まぶも、本夫の剣にさされて、
ステュクスの水をその血もて染めしことなかりき。
(セクンドゥス・通称ジャン・スゴン)

ルクルス、カエサル、ポンペイウス、アントニウスその他たくさんの勇士はその妻を寝取られたが、これを知っても騒ぎをおこさなかった。その時代には唯一人、レピドゥスという馬鹿者が嫉妬に悩んで死んだだけである。

運あしく汝見あらわさるるならば、
人、汝の足を取りて扉の外に引きずり出さん。
而して汝は、ぼらの餌食、赤蕪あかかぶのこやしにあてられん。
(カトゥルス)

いや我々の詩人が描いたところによると、ウルカヌスはその友の一人が自分の妻〔ウェヌス〕と一緒に寝ているところを見つけたとき、ただ二人に恥をかかせるだけで満足した。

さればあまりおごそかならざる神々の一人〔ウルカヌス〕は言いき。
「われも時にはかかる恥ずかしき目にもあわまほし」と。
(オウィディウス)

そして、その妻からやさしい愛撫を受ける時は、やはり夢中になることをやめなかった。むしろそんなことのために妻から自分の愛情を疑われるのがいやだったからだ。

何故にかくも遠くに、理由を求め給うや。
女神よ、われにかけたる信頼は今はそもいずこにあるや。
(ウェルギリウス)

それどころか妻の方でも、自分がうんだ私生児のために彼に向って願った。

母なれば息子アエネアスのために武器を賜えと願えり。
(ウェルギリウス)

それは気前よく与えられた。そしてウルカヌスはアエネアスについて気高くも語っている。

勇士のためには武器を作らざるべからず。
(ウェルギリウス)

まったく人間も顔負けするほどの人情ではないか。こんな極端な親切は、やはり神々にまかせておく方がいい。

さればよ、人と神とをくらぶるは正しからず。
(カトゥルス)

子供の混淆こんこうということは、(c)最も厳格な立法者たちさえ、それぞれの国家においてこれを命令し奨励しているばかりでなく、(b)婦人たちの間でもこれはまったく問題にされない。なぜか知らないが、かえって彼女等のもとにあっては、嫉妬の感情の方が根強く見られるのだ。

神々の女王たるユノーさえも、しばしば
夫の遠ざかりに心さわがすことありき。
(カトゥルス)

嫉妬は、これらの弱い・無抵抗な・可哀そうな・霊魂を把握するとき、いかに無残にそれを引きずりまわしこづきまわすことか、誠に目もあてられない。それは愛情のような顔をして女心に忍び込むのであるが、一たび彼女たちの霊魂をとらえてしまうと、かつては親愛の基礎であったものが一つ一つ激しい怨恨の基礎と代わる。(c)それは精神の病気の中で、一番つまらぬ原因のために起り、一番つける薬のない病気である。(b)夫の徳・健康・手腕・声価は、みな彼女たちの怨恨や狂暴の口火となる。

恋の恨みほど執念深きものはあらじ。
(プロペルティウス)

この熱病は、彼女たちが別にもっている善美なるものを、すべて醜悪にし腐らせる。いや嫉妬深い女においては、彼女がいかに純潔で世帯上手であっても、その言うことなすことことごとく、何かとげとげした不愉快なものを感じさせずにはいない。それは一種の狂乱であって、彼女たちをその目指すところとはまったく反対の極端に押しやる。ローマのオクタウィウスという者について面白い話がある。彼はポンティア・ポストゥミアとともに寝てから、その楽しさが忘れられず、いよいよその愛情をつのらせ、執拗に結婚を迫った。だが何といっても承知しないので、この激しい恋は、彼を最も激しい憎悪の行為に駆り立てた。すなわち女を殺してしまったのである。もう一つの恋愛病である嫉妬も同じことで、そのもっとも普通な徴候は、やはり内心の憎悪・陰謀・謀反である。

人は知る。女の一念のいかに恐ろしきかを。
(ウェルギリウス)

いや、これは親愛の仮面の下にかくれていなければならないだけ、それだけ深く内攻する狂気である。
 ところで貞潔の義務ははなはだ広い範囲に及ぶ。我々が婦人たちに抑制してほしいと思うのはその意志であろうか。だが意志はすこぶる柔軟で活発なものである。またすこぶる迅速なものであるから、なかなか抑えられるものではない。どうだろう、夢想が時に彼女たちを深みに誘いこんで、彼女たちにそれを打消すことができなくなったとしたら? 淫欲からその身をまもることは彼女たちにはできない。おそらく貞潔その物にもできまい、貞潔だって女性なのだから。もし彼女たちの意志だけが我々の問題であるとするならば、一体我々はどんなことになる? 我々は眼も舌も返上し、ただからだ一つで飛んでいって、相手えらばず迎えてくれるどんな女の腕の中にでも抱かれようと、ひしめきあうことになるのではあるまいか。
* フランス語では貞潔 chastet※(アキュートアクセント付きE小文字) は女性名詞である。
 (c)スキュティアの女たちはその奴隷や戦争で得た捕虜の眼をくり抜いて、一そう気楽に、一そう見られずに、彼らを享楽した。
 (b)おお、機会さえとらえることができたら、もうしめたもの! もし恋愛における第一箇条はと問われるならば、「時機を捉えること」とわたしは答えるであろう。第二箇条も然り。第三箇条またしかり。それは万能の鍵である。わたしはしばしば運が悪かったが、時には自分にやるだけの勇気がなかったからでもある。この意気地なさをわらう男があっても、どうか神様、彼にばちをお当てにならないで下さい! 当世においては恋にも図々しさが必要なのです。それを今の若い人たちは、熱情のさせる業と弁解する。でも、婦人たちも、少し注意してごらんになれば、それがむしろ無視から来ていることを、見抜かれるであろう。わたしは小心翼々として失礼をおそれていた。いやわたしは、常に愛する人を尊敬するのである。それにこの取引においては、もしそこから尊敬を取りのぞくならば、そのいろつやもまた消えてなくなるのである。わたしはこのことに関して、人がいくらかおぼこであり、臆病であることを、また下僕のようであることを欲する。わたしは全然そのとおりではないにしても、やはりいくらかあのプルタルコスが物語っている「愚かな恥じらい」みたいなものを持っている。それでわたしは一生を通じて始終損をしたり苦しんだりした。それはわたしの根本の性格には甚だ似合わない特質であるが、われわれ人間はみな矛盾と撞着のかたまりなのではなかろうか。わたしはひとから断わられるときも、自分が断わるときと同じように伏眼になる。実際他人にいやな思いをさせるのは自分にとってもつらいことだから、恥ずかしくてはっきりとは答えられないような事柄について、誰かの意中をどうしても確かめなければならない場合は、仕方なしにおずおずと控え目におたずねする。だが、ことわたし自身に関する場合は((c)ホメロスは「貧乏人にとって恥じらいは愚かなる徳なり」と、もっともなことを言ったけれども)、(b)わたしは通例誰か人をたのんで、わたしの代りに赤面してもらっている。そして、そういうむつかしいことをわたしにさせようとなさる人たちから逃げまわっている。だから結局、わたしは頼まれごとをお断わりするだけの力はもたないのだが、ときにはわたしもお断わりする意志をもったと同じことになる。
 だから、彼女たちが(c)そんなに切な・(b)そんなに自然な・欲望をおさえようと努めるのは、ばかげている。いや、彼女たちがあんなに処女らしい・あんなに冷やかな・意志を持っているかのように誇るのを聞くと、わたしはわらってやる。それではあまりに尻込みしすぎる。もしそれが歯の抜けた老いぼれ婆さんだとか、あるいは若くても乾からびた肺病娘ででもあるならば、全然信用はできないまでも、少なくともそういうだけの理由はある。けれどもなおピンピン動いて・息をしている・女たちは、そんなことをいったら損である。軽率な弁解はかえって正体を暴露するからだ。例えばわたしの近所に住む一貴族は、かねて不能の疑いをかけられていたが、

一物はつねになえ垂れて、
ついぞ下着の真中を持ち上げしことなかりき。
(カトゥルス)

結婚三、四日目に、その評判を打消そうと大胆千万にも、昨日の晩は二十ぺんもやったとふれ歩いた。それが基で、後に彼は全然無知であることを認めさせられ、結局その結婚も解消させられることになった。それと同じことで、女たちも冷たさを誇ったところで何にもならない。まったく抵抗の努力がないところには、我慢もなければ徳もないのである。「そうよ、その通りよ。でも容易には降参はしませんわ」とこそ申さるべきである。聖者たちでさえそう申されている。もちろんこれは、本心から自分の冷たさと無感覚とを誇りとし・真面目な顔でそれが信じられることを欲する・婦人たちについての話である。まったく、それがわざとらしい顔でなされ、目つきがその言葉を裏切っている場合、また反対の意味にとられる彼女たち専門の隠語を用いて言われる場合は、それはそれでけっこう。でもわたしは天真爛漫を大いに礼賛する者だから、このことだけはどうしてもだめである。もしその率直が全く無邪気で子供らしいものでないならば、やはり良家の子女としてふさわしくない。恋愛にも不似合である。それはたちまちに厚かましくなる。彼女たちの変装仮面はただ愚か者を欺くにすぎない。嘘もここでは名誉の地位を占める。それは我々を裏門から真理へと導くまわり路である。もし我々に彼女たちの心を拘束することができないとすれば、我々は彼女たちの何を拘束しようとするか。行いをか? だが行いの中にはまったく外からうかがい知れないものがたくさんあって、貞潔はそれらによって汚されることがありうる。

しばしば女は人なきところにてそのなさんとすることをなす。
(マルティアリス)

じっさい、我々が最も恐れない行為こそ、おそらく最も恐るべき行為であろう。彼女たちの声なき罪こそ、最悪の罪である。

かえって無邪気なる売春婦の方がゆるさる。
(マルティアリス)

 (c)不潔なことをしなくても、それどころか彼女たちがまったく知らない間に、彼女たちに純潔を失わせる行為もある。※(始め二重山括弧、1-1-52)時に産婆は少女の処女性をさぐらんとて、あるいは悪意により、あるいはそのつたなさにより、あるいはまた偶然のはずみによりて、その処女性を失わしむることあり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(聖アウグスティヌス)。ある娘は、自ら処女なりや否やをさぐって処女を破り、ある娘はとんだりはねたりしているうちにこれを失った。
 (b)我々はとうてい彼女たちにさせたくない行為を、一々はっきりと規定するわけにはゆくまい。どうしても我々の掟を概括的な不確かな言葉で表現するにとどめねばならない。我々が彼女たちの純潔について抱いている考えがすでにわらうべきものなのである。まったく、わたしの知っているもっとも極端な例の中に、まずファウヌスの妻ファトゥアがあるが、彼女は結婚して後はどんな男性にもその顔を見せなかった。それからヒエロンの妻であるが、これは夫の口の臭さを感じなかった。というのは、すべての男がそういうものだと考えていたからだ。我々を満足させるには、彼女たちが無感覚な女・姿をかくす女・にならなければならないとみえる。
 さて、この義務を判断する要点は主として意志にあることを告白しよう。中にはこの種の災難にあいながら、妻を叱りもはずかしめもしなかったばかりか、彼女に不思議な恩義を感じ、かつその徳を称えながら我慢した夫もあった。ある女は日頃命よりも貞操を大切にしていたのに、夫の命を救うためににっくい仇敵の狂暴な欲望にそれをけがした。つまり夫のために、自分のためには到底なすまじきことをなしたのである。ここはこれらの実例を列挙すべき場所ではない。それらはこのような照明の下に描き出されるにはあまりにも気高く立派である。それらはもっと崇高な席に坐らせるために取っておこう。
 (c)だがそれほどの輝きのない平凡な実例ならば、ただただその夫の役にたとうとして、しかも彼らの明らかな命令や周旋によって、人に身をまかせる女など、毎日のように見られるではないか。いやむかしも、アルゴスのファウリウスは、自分の野心をとげるために妻をフィリッポス王に捧げた。まったく同じことを、あのガルバは礼儀上、行ったのである。というのはマエケナスをその酒宴に招いたとき、妻がそのお客と目くばせし合うのを見てとると、わざと床の中にもぐり込み、熟睡したふりをして、二人のなれ合いを助けた。しかもそれをかなり上機嫌で白状した。まったく、ちょうどその時一人の下僕が図々しくもテーブルの上のご馳走に手をかけるのを見ると、彼はこれに向って叫んだのである。「わからないか。馬鹿者め! わたしはただマエケナスのために眠っているんだぞ!」と。
 (b)ある女は身持ちこそ放縦であるが、かえって取りすました外観のもとに進退する女よりも、ずっと清らかな意志をもっている。もの心もつかない頃に童貞の誓いを立てたことをくやんでいる女もあるかと思えば、同じく西東もわきまえぬ頃から邪淫に身をささげたのを心から悔いているものもある。父母の不徳がその原因であることもあるし、貧困のせいであることもあるが、ことに貧乏こそ無慈悲な勧誘者である。東インドにおいては貞潔が殊のほか重視されているけれども、それでもなお習慣は、既婚婦人が自分に一頭の象を贈る者に身をまかせることを許している。しかもそのことが、自分はそれほどに高い価値に認められたのだという若干のほこりをもって行われる。
 (c)哲学者のパイドンは、良い家柄に生れたが、その国エリスを奪われてからは、その若い美しさの続く間、金を払ってほしがる者のためにこれを売り、糊口のたよりとした。またソロンは人のいうところによると、法律によって女が生活の必要のためにその純潔を売ることを許した、ギリシア最初の人であった。けれどもヘロドトスによれば、この習慣は彼以前にも、たくさんの国々において許されていたのである。
 (b)それにまた、嫉妬からあんなに心を苦しめて、一体何の得るところがあるのか。まったく、いくらこの感情がもっとも千万なものであるにもせよ、それが我々のためになるかどうかを考えることも、必要なのである。自分の工夫で彼女たちを拘束し得ると考える者が、一体どこにいるか。

女の部屋に鍵をかけ、人をしてこれを監視せしめよ。
されど、そも誰がその番人をば監視するにや。
女はさかし。まず番人より始めん。
(ユウェナリス)

こんにちのようなこざかしい時代に、そもいかなる便宜が彼女たちに欠けていようぞ?
 好奇心は何事にかけても有害であるが、このような場合には有毒である。医薬の用いようのない・いじればいじるほど悪化し昂進するばかりの・病気を、せんさくするなんて愚かなことだ。その恥はもっぱら嫉妬のために増大して、いよいよ明るみに出るばかりである。その復讐は我々をいやさないで、ただ子供たちを傷つけるばかりである。こんな曖昧なことの証拠さがしをしていた日には、君はひからびて死んでしまうだろう。今日その目的を達しえた連中は、いかにみじめな有様でそこにたどりついたか。告げ手が薬と介抱とを同時にそこに差出さないならば、それは有害な知らせである。それは隠しだて以上に、短刀で一突き食らわすに値する。その対策にうき身をやつす者は、これを知らずにいる者と同じく人から馬鹿にされる。女房を寝とられた印は拭いようのないもの、一度つけられたらそのしみは永久にぬけない。処罰は罪そのもの以上に、そのしみをはっきりさせる。我々の個人的な不幸をわざわざ物蔭と疑いの下から引きずり出して、これを悲劇の舞台の上ではやし立てたら、それこそ見ものだ。噂に上りさえしなければ痛くも何ともない不幸なのに。まったく「よい妻」とか「よい夫婦仲」とかは、真にそうあるもののことではなく、人の噂に上らないもののことなのである。なんとかこの不愉快で・何の役にもたたない・知識を避ける工夫をしなければいけない。だからローマの人々は旅から帰り着くとき、妻たちの不意を襲わないためにまずもって下僕を家につかわし、自分たちの帰りを彼女たちに知らせるのを常とした。また同じ理由から、ある国民は坊さんが婚礼の日に花嫁の処女を破ることを認めたのである。つまり花婿がその最初の交わりに際して、果して彼女が処女として来たか・他の恋愛によってすでに汚されて来たか・を疑ったり詮索したりしないためである。
「それでも世間は噂をします」。大丈夫! わたしはたくさんの紳士が、紳士らしく、少しも醜態でなく、コキュであるのを知っている。そういう紳士は、そのために同情こそされるが、決して尊敬を失うことはない。ねがわくはあなたの徳があなたの不幸を窒息させ、正しい人々がそういう機会を呪い、あなたを傷つける者がそう考えるだけで、おののきふるえるようになりますように! それに、もっとも卑しい者からもっとも偉大な人にいたるまで、誰がこの種の噂のたねにならないであろうか。

百軍を叱咤せる大将も、
汝よりすべての点においてすぐれたるその人も
(ルクレティウス)

あれほど多くの紳士たちがあなたの目の前で、ああしておなじ蔭口を叩かれているのを見たら、君もまた君のいない場所では容赦されないのだと思い知るがよい。「でも御婦人がたまでが一緒になっておわらいになるのはね」と言われるのか。実際当今は、平和な・仲のいい・夫婦ほど、婦人たちのあざけりの的となるのである。(c)君たちはそれぞれ誰かをコキュにする。ところが自然は補償と循環においてまったく一視同仁なのだ**(b)この種の不幸もたび重なると、それほど辛いものではなくなるらしく、やがて当りまえのことになってしまう。
* cocu 細君の不義を知らずにいるお人よしの亭主をさす。モンテーニュその人もまた、この種のオネトムの一人であったのではないかと思われるふしがある。さわぎ立てずにコキュたることに堪えたオネトムだったのではないかと思われる感想が、エッセーのあちこちに見られるように思う(二の八、三の五、三の九など)。
** 因果はめぐりめぐって、友人の不幸をふれて歩いた男も、やがてみずからコキュになる。
何とそれはやりきれない思いであろう! それは人に言えない感情なやみなのだ。

つれなき運命はこれらの嘆きに敢えて耳をかさず。
(カトゥルス)

まったくいかなる友に君はこの悲しみを打ち明ける気になれるか。彼はそれをわらわないまでも、決してそれをきいて一緒に嘆き悲しんではくれないのである。
 (c)結婚のにがさはその甘さとともに、賢者はこれをかくして言わない。じっさい結婚にはいろいろ困る事柄がたくさんあるが、わたしのようにおしゃべりな男にとっては次のことが一番困る。すなわちこのことについては、知っていることでも感づいていることでも、いっさいこれを人に洩らしてはならず、これを洩らすのは通例ぶしつけで有害なことと見做されていることである。
 (b)婦人たちに嫉妬がきらいになるように、いま述べたような勧告を与えても、それは結局時間つぶしになろう。彼女たちの本質は邪推と自惚れと好奇心の中にひたりきっているのだから、正当な方法で彼女たちを矯正できると期待してはならない。彼女たちもしばしばこの病〔嫉妬〕をおろして一種の健康にたちかえることがあるが、それはかつての病気その物よりも一そう恐ろしいことである。まったく、おまじないの中には苦悩をおろすのにそれを別の人に移さなければならないとするものがあるが、それと同じことで、彼女たちが嫉妬しなくなったと思って安心していると、そっくりそれを夫にうつしてしまっていることが多い。けれども正直にいって、女たちからうける害の中で、彼女らの嫉妬くらい堪え難いものはないと思う。それは女たちの諸性質の中でもっとも危険なものである。彼女たちの体の中では、頭が一番危険な部分だからである。ピッタコスはいった。「人にはそれぞれの不満がある。自分のは妻の悪い頭である。これさえなければ自分はすべての点で幸福だと思う」と。これはきわめて重い不幸であって、そのために彼のような正しく賢明で勇猛な人物さえ、その生活状態が全く別様になるのを感じたのである。ましてや我々みたいな小人ばらは、どうしてよいやら途方にくれるばかりである。
* 妻のヒステリーが治まって、やれやれと思っていると、妻の方は勝手に浮気をしている。一種の健康状態と見えたのは、妻の浮気であって、こんどは夫の方が、同じ嫉妬の病をうつされるという順序である。
 (c)マルセーユの元老院が女房の嵐を免れるために自殺の許可を仰ぐ者の請願をれたのは当然であった。まったくそれは体ごと取り除かなければ取り除かれない病気であって、これは、二つながらむつかしいことではあるが、逃避あるいは忍耐のほかに、効きそうな薬はないのである。
 (b)よい結婚は盲目の妻と聾唖の夫との間に結ばれるといった男は、よくその辺の事情を心得ていたのだと思う。
 また我々が彼女たちに課する非常に苛酷な束縛が、我々の目的に反する二つの結果を招来しないように注意しようではないか。すなわちそれが、追いかける方をますます興奮させたり、婦人たちをますます降参しやすくさせたりすることにならないようにしようではないか。まったく第一の点について言うと、我々が城砦とりでの価値を高めることは、同時に征服の価値と欲望とを高めることになるのである。ウェヌス自らではなかったか、法律に周旋をさせてあんなにずるくその品物の値をせり上げたのは。つまり想像と稀少とによって値打でもつけなければ、それはとんとつまらぬ快楽であるということを、ウェヌス自ら知っていたのである。要するにそれはいずれもただの豚肉であって、フラミニウスを招いた主人がいったように、ただソースによって味がかわるだけなのである。クピドーは不逞ふていな神である。彼は信心や正義と戦うのを慰みとしている。彼の偉力が他のいろいろな偉力をおさえつけ、他の諸々の規則がすべて彼の規則のもとに降伏することこそ、彼の自慢なのである。

彼は常に道ならぬことをなす機会をもとむ。
(オウィディウス)

 それから第二の点に関しては、もし我々が婦人たちの天性を尊重して、コキュになることをさほどに恐れないならば、かえってコキュになることが少なくてすむのではないか。まったく禁止はかえって彼女たちを刺激し誘惑するのである。

われら欲すれば、彼女らは拒む。われら拒めば、彼女らはもとむ。
(テレンティウス)

彼女たちは許されたる道を取るを恥とす。
(ルカヌス)

我々はメッサリナの場合において、この上もないよい説明を見出すことであろう。彼女は始め、よくあるとおり、かくれて不義をした。けれども夫が鈍感でことがあまりにも易々と行われるので、それまでのやり口が急にいやになった。彼女はおおびらで恋に耽った。いい寄る男たちの名も隠さなければ、人の見ている前で彼らといちゃつき、彼らを鍾愛した。彼女は夫が少しは感じてくれればよいと思っていたのである。ところが頓馬とんまは、それほどにされても目が覚めず、妻に対してあまりにも寛大であって、まるで彼女の不義を公然とゆるしているように見えたから、彼女の楽しみには味もなければ張りもなかった。そこで彼女は何をしたか。現に健康でぴんぴんしている皇帝の妃でありながら、世界の舞台たるローマで、しかも真昼間、公の祭典の真最中に、久しく前からなれ合っていたシリウスと、夫が都の外に出向いた留守の日に、結婚したのである。彼女は夫の無頓着を通じて貞潔の道をゆこうとしたのではなかろうか。あるいはまたその嫉妬心によって自分の欲望をかき立ててくれるような別の夫を、(c)彼女を抑えて彼女を興奮させてくれるような別の夫を、(b)求めたのではなかろうか。けれども、彼女がぶつかった最初の困難は同時に最後のものとなった。さしもの鈍物が卒然としてさめた。人はしばしばこういう眠ったような鈍感な人間にかかって、もっともひどい目にあう。わたしはこの極度の堪忍がいよいよその緒を切ると、最も苛烈な復讐となって現われるのを実際に見たことがある。まったく突如として引火する時、憤怒はその第一発にあらゆる力をこめて爆発するのである。

彼は全く憤怒の赴くがままに委せたり。
(ウェルギリウス)

彼は妻を殺した。彼女と関係のあった大勢の男を殺した。その責任のない男、彼女がいやがるのを無理にむち打ちながら床に招じたその男までも、殺してしまった。
 ウェルギリウスがウェヌスとウルカヌスについて言ったのと同じことを、ルクレティウスは、ウェヌスとマルスとの人目を忍ぶ享楽について一そうふさわしく言った。

戦いをつかさどる勇猛なる神マルスは汝恋いしさに、
その誇りもすててしばしば汝が胸による。
吐く息も熱く激しく、汝が胸にのしかかりつつ、
彼は、汝の美わしき姿にあかず眺め入る。
正にこの時ぞ、女神よ、汝、美わしき肉体を彼にからめ、
汝のやさしき思いを彼に語り知らするは。
(ルクレティウス)

この※(始め二重山括弧、1-1-52)胸による※(終わり二重山括弧、1-1-53)※(始め二重山括弧、1-1-52)胸にのしかかりつつ※(終わり二重山括弧、1-1-53)※(始め二重山括弧、1-1-52)吐く息も熱く激しく※(終わり二重山括弧、1-1-53)※(始め二重山括弧、1-1-52)雪のごとき腕をのべて彼をかきいだき※(終わり二重山括弧、1-1-53)※(始め二重山括弧、1-1-52)熱き思い骨髄にとおり※(終わり二重山括弧、1-1-53)※(始め二重山括弧、1-1-52)汝の美わしき姿にあかず眺め入る※(終わり二重山括弧、1-1-53)・などの句や、あの可憐な※(始め二重山括弧、1-1-52)新妻の胸に伏して※(終わり二重山括弧、1-1-53)を産んだ気高い※(始め二重山括弧、1-1-52)美わしき肉体を彼にからめ※(終わり二重山括弧、1-1-53)の句などを反芻はんすうすると、後世の比喩や警句などは軽蔑したくなる。これら昔の純朴な人たちには奇抜なしゃれなどはいらなかった。彼らの用語は自然な常に変らぬ生気に充満している。彼らは全身が警句である。ただ尻尾ばかりでなく頭も胸も足も警句である。気ばった何ものもなく弱々しい何ものもない。すべてが同じ調子で進んでゆく。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)彼らの文章は男らしき布地にして、彼らはここに花形を散りばめず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)それは生気のない・ただ無難だというだけの・雄弁ではない。張り切った・充実した・雄弁であって、広く気に入られない代りに、最も力ある精神を満足させ感服させる。それほどに生々とした・またそれほどに深い・これらの立派な表現を見る時、わたしは「よくも言ったな」といわないで、「よくも考えたな」というのである。言葉を高尚雄大にするものは溌剌たる思想である。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)雄弁を成すものは心なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クインティリアヌス)。(b)今の連中は言葉を呼んで判断といい、美辞麗句をば充実した思想という。前掲の描写は、決して手法の熟練によって成ったものではなく、対象を霊魂の中に最も生々と刻みつけたがゆえに成ったものである。ガルスは単純に物語る。単純に思うからである。ホラティウスは皮相な表現では決して満足しない。それは彼を裏切るおそれがあるから。彼は物事をより明瞭に・より深く・見る。彼の精神は自己を表現するために、言葉と比喩との倉庫の中を探りまくり捜しまくるのである。その思想が普通以上だから、言葉も比喩も普通以上にいるのである。プルタルコスは、物事によってラテン語を学んだ**といった。ここでも同じことである。意義が言葉を照らし出し押し出すのである。それはもはや声ではなくて肉であり骨である。(c)それは言う以上の意味を含んでいる。(b)愚かな者も、多少はそれに似た事柄を感ずる。まったくイタリアにいた時、わたしも平凡な会話の中では言いたいだけのことを言ったのであるが、それがむつかしい話であったら、その普通な用法以上には曲げることもめることもできないような言葉に、あえて自分をまかせはしなかったろう。わたしはそこに何か自分のものを託したい***と思う。
* 九八五―九八六頁にあるウェルギリウスの詩句を参照。
** プルタルコスの『デモステネス伝』に、「自分はかなり年たけてから始めてラテンの書物を手にした。だから、すこぶるおかしなことだが、実際言葉によっては物事を学ばなかった。むしろ物事に関する自分の知識が言葉の意味を見出させた」とある。
*** モンテーニュは旅行記のイタリア滞在の部分をイタリア語で書いている。それくらいイタリア語をものにしていながら、彼は正直に次のようにいう。「まじめな問題に関して何か自分の意見らしいものを述べようとする場合には、少しばかりの外国語の力ではどうにもならないから、そういうことはあえてしないのだ」と。またモンテーニュがプルタルコスをギリシア語でよまず、アミヨの仏訳でよんだというのも、同じ考え方からであろう。前出第二巻第四章四四三頁註*参照。
 才知豊かな人々に用いられると、国語はその価値を増す。別にそれを刷新改良するからではない。ただそれを一そう力のあるいろいろな用い方をもって伸ばしたり撓めたりしながら、充実させるからである。彼らはそこに決して新語を加えはしない。ただ在来の語を豊富にし、それらの語の意味と用法に重みと深さを加え、これに従来なかった働きを教える。しかしそれをいずれも慎重巧妙にやる。ところがこういうことは、いかにわずかしかすべての人に恵まれていないことか。それは現世紀におけるたくさんのフランス作家を見るとわかる。彼らは相当に大胆で生意気だから、平凡普通の路を歩もうとはしないが、創意と分別とが不足しているために失敗に終る。そこにはただ奇異のてらい・冷たい場ちがいな擬装・が見られるばかりで、それらは内容を高くするどころか低くしている。彼らにとっては新しさに得意になっていさえすれば、効果などはどうでもよいのである。ある新しい語を用いたいために、彼らは普通の言葉をすてる。かえって後者の方が、しばしばより強く・より逞しい・ことを知らないのである。
 わたしは我々の国語の中に十分な材料を見出すけれども、いささか形態が欠けていると思う。まったく、我々は狩猟や戦争の言葉を借りてどんなことでも言えないことはない。それは気前よく貸してもらえる地所である。それに言葉の形態は、草と同じく、移植することによって善くなり丈夫になるのである。わたしはわが国語を十分に豊富だと思うけれども、十分に(c)柔軟(b)強力であるとは思わない。それはいつも強力な構想の前に倒れる。もし君たちが緊張して進むならば、往々にしてそれが君たちの下に疲労し挫折することを、そして、それで用が足りなくなるとラテン語が援兵に現われ出ることを、またある人々においてはギリシア語までが出て来ることを、君たちは感じることであろう。今しがたわたしがえり出した〔ウェルギリウスやルクレティウスの〕語のあるものについては、我々が本当にその力を認めることはちょっとむつかしい。それは度々の引用のために、その美しさをいささか低下し俗化したからである。ちょうど我々の日常語の中にも優れた言い回しや比喩がよく出てくるけれども、その美しさが年をとったために衰え、その色香があまりに常用されることによってせているのと同じことだ。けれどもそのことは、決してよい鼻をもつ者からその感覚を奪いもしないし、これらの言葉をおそらく始めてこのように輝かしたと思われるあの古代の作家たちの栄光を、少しも消しはしないのである。
 もろもろの学問は物事をあまりに細かに、あまりに人為的で・自然普通の方式とはちがいすぎる・方式で、取扱う。わたしの小姓は恋をしている。恋を知っている。彼にレオネ・エブレオやフィッチーノを読んできかせてごらん。そこには彼のことが、彼の思いと行いとが、語られているのだが、彼にはてんでちんぷんかんである。わたしだってわたしの日常の行動の大部分をアリストテレスの中に見わけることはできない。それらは学校用の特別の着物をきせられているからだ。もちろんそれはそれでよいのかもしれん! だがしかし、もしもわたしが先生なら、彼らが自然を学芸化するだけ、わたしは学芸の方をば自然化するであろう。ベンボ**とエクイコラにはふれずにおこう。
* ※(始め二重山括弧、1-1-52)mon page※(終わり二重山括弧、1-1-53)とはひどく貴族的にきこえる。十七世紀のバルザックはこのモンテーニュの口ぶりがひどく癪にさわったらしい。だが本当に、モンテーニュは「お小姓」などにかしずかれていたのだろうか。彼は第二巻第五章の始めに、イタリア生れの貴族の少年を召使っていたのか、あずかっていたのか、とにかくその少年の急死をいたんでいる。おそらく小姓というのはこの少年のことを指しているのであろう。他に呼びようがなかったのであろう。レオネ・エブレオ Leone Hebr※(アキュートアクセント付きE小文字)o はポルトガル生れのユダヤ教法師で『恋愛問答』の著者、フィッチーノ Ficino は、恋愛の論ぜられているプラトンの『饗宴』の註釈を著わし、別にその仏訳があった。
** Pietro Bembo(1470-1547)その著 Gli Asolani は J.Martin の仏訳によって広くよまれた。― Equicola(1460-1539)その Della Naturad’ Amore もまた一五二五年以来フランスで有名であり、一五八四年には仏訳が出た。
 わたしは物を書く時、書物の助けをかりたり、かつて読んだことを思いだしたりすることを、しないようにする。書物がわたしの考え方に影響するといけないからである。それにまた正直のところ、よい作者たちがあまりにもわたしをおどかし、わたしの勇気をくじいても困るからである。わたしはいつもあの画かきのやり口をまねる。彼は下手くそに鶏を描いてから、その弟子たちに向って、「決しておれの画室に生きた鶏を入らせてはならないぞ」といいつけたのである。
 (c)いやわたしは、自分にいささか光を添えるために、むしろ楽人アンティノニデスの思いつきをまねるであろう。彼は演奏をしなければならないときには、自分の前か後に誰かほかの下手くそな歌手が出るように、あんばいさせたということである。
 (b)けれどもわたしも、プルタルコスとなるとそうやすやすと手離すことができない。彼はきわめて広くまた充実しているので、あらゆる場合に、つまり我々がいかに突拍子もない主題を取上げても、必ず我々の仕事に参画し、気前よくふんだんに、その富と美とを提供してくれるからだ。わたしは彼がその度々の訪問者のために、あんなに略奪されているのを見ると悲しくなる。(c)わたしだって、ちょっと彼を訪れると、そのつど、必ず、そのももの肉とか脇腹のところとかを失敬しないではいられない。
 (b)このわたしの企て〔このエッセーを書くこと〕のためには、この草深い自分の家で書くこともまた、もっけの幸いである。ここには誰一人わたしを助ける者も咎める者もいない。ここで日頃わたしが交わるのは、その口にする「主の祈り」のラテン語さえ理解しない人たちである。フランス語と来ては一そうわからない人たちである。よそでならばわたしはもっと良く書いたであろうが、それだけ著作はわたしらしくなくなったであろう。実際わたしの本の主要な目的、その究極は、正確にわたしらしくあることなのだ。もちろんわたしも、偶発的な誤りは正すであろう。夢中で走り書きをするとき、わたしはさかんにその種の誤りを犯すから。けれどもわたしのうちに常に変らずにある不完全の方は、これを取除いては裏切りとなろう。人がわたしに、否わたしがわたし自身に、「お前の比喩は気がきかないね」「そらガスコーニュなまりが丸出しだよ」「その表現はちとあぶなっかしいぞ」(わたしはフランスの町なかで用いられている言葉を少しも避けない。文法を楯に慣用をくさす人たちの方がどうかしているのだ)「それは学のない者の論法だな」「それは逆説的議論だよ」「そいつはあまりに奇抜すぎる」(c)「お前はよくふざけるが、人はお前がとぼけて言っていることを真面目な議論と取るだろうよ」(b)などというときには、わたしはいつもこう答える。「まったくそうだよ。だがわたしは、知らずに犯した誤りは直すけれど、習慣になっている誤りは直さないことにしているんだ。わたしはいつもそんな風に語るじゃないか。それはわたしそっくりじゃないか。それでいいんだよ。わたしはわたしのしたいようにしたのだ。みんながわたしをわたしの書物の中に、そしてわたしの書物をわたしの中に、認めておられるのだから、それでいいんだ」と。
* モンターニュあたりでは、フランス語よりもガスコーニュの方言が一般に通用する言葉であった。
 ところでわたしは猿みたいな模倣的性質を持っている。むかし詩作にふけった頃(もっともラテン語のものばかりしか作ったことはないのだが)、その詩句はわたしがその頃読んだばかりの詩人の面影をありありと示していた。いやわたしの最初のエッセー〔初期の随想〕だって、そのあるものはいささか異国のにおいがする。(c)パリではわたしも、モンターニュにいるときとは幾分かちがった言葉を話す。(b)誰でもじっと注意して見つめていると、わたしは容易に何か其人のものを印象される。わたしはそれを眺めているうちに、いつしかそれをもらってしまう。愚かな格好、不愉快なしかめ面、わらうべき話しぶりなど。不徳なんか益々そうである。それらはわたしを刺すから、わたしに引っかかって、ふるいおとさなければなかなか落ちないのである。わたしはごらんのとおり、性分によってよりもむしろ模倣によって誓う**のである。
* 一五八八年版以前には、puent un peu l’※(アキュートアクセント付きE小文字)tranger「外国人のにおいがする」とある。書入本には ※(グレーブアクセント付きA小文字) l’※(アキュートアクセント付きE小文字)tranger と改められている。いずれにしても自分のものらしくない、かりもの・つけ焼刃・のような気がしていささか気はずかしい、というのである。だがモンテーニュはそれを消し去ろうともしない。それは今の自分でなくても、あのときの自分なのだという意味で、そのままのこしておく。「自分はうつり変り passage をえがくのだ」(三の二)と言ったのはそれなのである。
** jurer という語は色々な意味にとられるが(例えば罵ること、悪口をいうことも意味するが)、とにかくここに、モンテーニュの一生のうちの意味深い行動の一つとなっている、あの一五六二年パリ高等法院におけるカトリック教信奉宣誓に対する、一つの鍵を見出すべきではないかと思う。巻末所載の年表参照。
 (c)これこそ自らそこなう模倣、王アレクサンドロスがインドのある地方で出あった、あの恐ろしく身の丈が高く力もおそろしく強い猿どもの模倣と同じことだ。彼らは他の方法ではやっつけることが困難であったろうが、何でも見たものの真似をするという傾向があるので、我々はそれを逆用することができた。まったくその土地では、猟師たちが彼らの面前でたくさんのひもを結んで靴をはいて見せたり、妙な輪差わさを頭にまきつけて見せたり、鳥もちを眼になすりこむ真似をして見せたりするようになった。それで可哀そうにこれらの獣は、天性の猿真似のせいでとんでもない目にあった。つまり自分からもちにかかりわなにかかって捕えられたのである。あのわざと人の身振りや言葉を器用に真似する能力は、よく人を喜ばせたり感心させたりするものだが、このわたしのうちにはどこをさがしてもないのである。わたしが自分から誓うときには、それはただ「神かけて」※(始め二重山括弧、1-1-52)Par Dieu※(終わり二重山括弧、1-1-53)である。これこそすべての誓約の中で最も正統のものである。聞くところによると、ソクラテスは犬によって、※(始め二重山括弧、1-1-52)Per canem※(終わり二重山括弧、1-1-53)、ゼノンはこんにちなおイタリア人の用いるところの叫び「カッパリ(ケーパーのつぼみ)によって」※(始め二重山括弧、1-1-52)Per capparim※(終わり二重山括弧、1-1-53)、ピュタゴラスは水と空気によって、誓ったという。
 (b)わたしは知らずしらずこういう表面的な印象をすこぶる受けやすい性だから、三日続けて「陛下」とか「殿下」とかいうと、八日たってもそれが「閣下」・「猊下げいか」の代りに飛び出す。いや、ふと、冗談にふざけていい出したらしいことを、翌日は大まじめでいう。だからわたしは物を書くに当って、すでにさんざん人に取扱われた問題を取り上げることをかえって好まない。人の受け売りばかりしていると思われるのはいやだからだ。どんな問題もわたしにとっては等しく豊かである。一匹の蠅の上にもわたしは問題をつかまえる。はばかりながらわたしが今手に持っている問題だって、決してありふれた浮気な気持から取りあげたものではないのだ! わたしはわたしの好きな問題から始める。まったくすべての問題はお互いにつながっているのである。
* 今自分が論じている恋愛や結婚などの問題にしても、世間流行の好色文学のまねをしているのではない。自分はふと思いついた問題から始めるが(例えばセクスの話にしても)、いずれも人間の問題につながっている、というのである。
 だが、わたしの霊魂にも困る。それはいつもそのもっとも深い夢想を、そのもっとも狂おしい・そしてわたしのもっとも好む・夢想を、不意に、わたしがそれをあんまり求めていない折に、あらわすからである。それらの夢想は、その場で書きとめることができないので、ふっと消えてしまう。馬の上とか、食卓のほとりとか、寝床の中などで。特に馬の上で、わたしは最も自由気ままに自分と語るのである。懸命に語るときには、わたしは少々気むずかしいくらいに、注意と静粛とを要求する。誰かさえぎる者があると、もうあとが出ない。旅では、道の上り下りや曲折さえが、言葉をとぎらせる。それにわたしは、こういう継続的な談話に適した相手をつれずに旅することが多いので、特に旅に出ると、わたしは十分に自分独りと語る暇をもつのである。夢の場合も同じである。夢を見ながらわたしは、その夢をおぼえておこうと思う(まったくわたしはよく夢を見ている夢をみる)。けれども翌日、わたしはその色合をありありと、例えばうれしい夢、悲しい夢、または妙な夢であったなどと、思い浮べるけれど、それ以上のことは、これを見出そうと骨を折れば折るほど、益々これを忘却の中に追いこんでしまう。ふとわたしの心の中に浮び出るあの偶発的な思想も同様で、ただそのぼんやりしたイメージだけしか記憶の中にのこらない。しかも、さんざん探したあとで、たったこれっきりかと、がっかりさせるものくらいしかのこらない。
 そこでいよいよ書物とお別れをし、もっと具体的に通俗的に語るならば、恋とは結局(c)欲しいと思う人を(b)享楽しようとする渇きにほかならない。(c)またウェヌスとは自分の器をからにする快楽にほかならない。いずれもただ不節制ないし無遠慮によって不徳となるにすぎないのだと思う。ソクラテスにとっては恋は美を仲だちとする生殖の欲望である。(b)いやまったく、この快楽の笑うべきくすぐりを、ゼノンやクラティッポスをさえとらえた無分別無鉄砲なばかばかしい興奮を、あの慎みのない狂暴を、最も甘美な恋の極致におけるあの狂暴と残忍で真赤になったあの顔つきを、それからまた、あのような狂おしい行為の中におけるあの謹厳なようでまたうっとりしたような素振りを、(c)いやそこに、我々の享楽と不浄とがまぜこぜになっていることや、(b)至上の歓楽は苦痛と同様にしびれと呻きとを含んでいることなどを、幾度となく考察すると、わたしは(c)プラトンの言うとおり、(b)「人間は神々のおもちゃである」というのは真理だと思う。

いかに残酷なるたわむれなるよ!
(クラウディアヌス)

そして自然が我々の行為のうちのもっとも乱れたものを、もっとも我々に一般的なものとなし、以て我々の間の愚者と賢者とを、いや我々と動物とを、同列においたのは、人間に対する一種の嘲弄あざけりであると思う。もっとも内観的な賢明な人も、この態度の中における彼を想像すると、賢明と瞑想とを装う詐欺師のように思いなされる。それは孔雀くじゃくの誇りを台なしにするそのきたない足である。

笑い戯れつつ真理を言うことが何故にあしきや?
(ホラティウス)

 (c)遊戯をしながらまじめな意見を述べてはならないという者は、ある人がいったように、聖人の像が前かけをしていないとこれを礼拝するのをおそれる者と同じである。
 (b)我々はなるほど動物のように食ったり飲んだりするが、それらの行為は我々の霊魂の働きを妨げるものではない。それらの行為の中でも我々は依然として動物に対する優越を保っている。ところが今申した行為は、他のすべての思想をおのれに屈従させ、その圧制的な権力によってプラトンの中にある神学をも哲学をも、そっくり愚劣なものにしてしまう。しかも彼〔プラトン〕はそれを嘆かない。ほかのことでは君たちはいつも多少の端正さをたもつことができる。ほかのことはすべて礼儀の規則にはまる。だがこのことだけは、不徳な笑うべきものとしてよりほかには考えることができない。ためしに諸君、賢い慎みのあるやりかたを一つ発明してごらん。アレクサンドロスはいった。「自分はもっぱらこのことと睡眠とによって、自分が死すべきものであることを知る。睡眠は我々の霊魂の働きをおさえつけ押し殺す。性交は同様にそれらを吸いとり散らばらす」と。実にそれは、我々の先天的腐敗の印であるばかりでなく、また我々の空虚と不完全との証拠である。
 一方自然は、この欲望にそのもっとも高貴な・有用な・愉快な・働きを結びつけて、我々をそこにいざなうかと思うと、他方これを非礼な不潔なものとして、我々にこれを咎めたり避けさせたり、あるいはこれを恥じたり我慢したりさせている。
 (c)我々が我々を産み出すこの働きを動物的と呼ぶのは、はなはだ乱暴ではあるまいか。
 (b)もろもろの民族は宗教の上で幾多の類似を持っている。例えば犠牲・献燈・焼香・断食・供物・それから特にあの行為を罪悪視すること・において。もろもろの教説がこの点においては皆一致している。あれほど広く行われる包皮割除の習慣を挙げるまでもあるまい。(c)これこそあれの処罰である。(b)我々が人間みたいな愚かなものを作り出すことを咎めるのは、あるいは当然なことであるかもしれない。その行為を恥ずかしい業と呼び、これにあずかる器官を恥ずかしいところと呼ぶのは、もっともであるかもしれない((c)今こそわたしの恥ずかしいところは、文字どおり恥ずかしい・哀れな・ものとなりはてた)。プリニウスが物語っているエッセニア人は、乳母も産衣うぶぎもなく、数世紀を通じてよく外国人の侵略を免れた。侵略者の方がこの純朴な気風を愛して絶えず彼らの仲間に加わったからである。彼らは国を挙げて、女の腕の中にだきこまれるくらいならむしろ種をたやそう、そして一人の男をこね上げるよりはむしろ血統をたやそうと、あえて企てたのである。聞くところによると、ゼノンは一生に一度しか女と交わらなかったそうだ。しかもそれは、あまり執拗に性を蔑視するように見られまいと、礼儀によってしたのだということである。(b)各人は人の生れ出るところを見まいとするくせに、人の死ぬところを見ようとかけつける。(c)人を破壊するために人は光りあまねき広野を求め、人を製造するためには暗く狭い窪地に隠れる。(b)人を作るには隠れ恥じらうことが義務である。人殺しのうまいのがほめたたえられ、そこからもろもろの徳が生れる。産むのは罪であり、殺すのは恵みである。まったくアリストテレスは、その国語のある言い方で、「人に恵みするとは人を殺すことである」といったのである。
 (c)アテナイ人はこの二つの行為を平等に嫌悪するので、デロスの島を清めてアポロンの前に無罪のあかしを立てなければならなかった時は、その領内にすべての埋葬とすべての出産とを、ともどもに禁止した。

(b)※(始め二重山括弧、1-1-52)我らは我ら自らを恥じらう※(終わり二重山括弧、1-1-53)
(テレンティウス)

 (c)我々は我々の存在を不徳と見ている。
 (b)物を食べるとき、その身をかくす民族がある。わたしの知っている或るご婦人は、もっとも身分の高いお方の一人であるが、やはり「咀嚼そしゃくするときの顔は醜いもので、その人の優美を大いにそこなう」というご意見で、お腹をすかして人前に出られることをわざとなされなかった。またわたしの知っているある男は、人の食べているのを見るのも自分が食べているところを見られるのもいやがって、摂取するときも排泄するときと同様に、すべての人の同席をさけた。
 (c)トルコ帝国においては、他人に優れようがために、決してその食事するところを人に見せない人々がたくさん見られる。彼らは週に一ぺんしか食事をしない。自分の顔や手に切り傷をつける。決して誰とも話をしない。こういう狂的な人々はみな、自分の自然をおさえつけることがこれを尊ぶことだと考え、自分を無視しつつ自分を重視したと考え、自分を毀損して自分を改善したと考えているのだ。
 (b)何という奇怪な動物であろう。自ら自分を嫌悪するとは! (c)その快楽をいやがるとは! 不幸に執着して離れないとは!
 (b)中には自分の生活を隠し、

その楽しき家をすてて異境をさすらい
(ウェルギリウス)

それを他人の眼からかくす者がある。健康と元気を自分を害する敵のように避ける者がある。ただたくさんの宗派ばかりではなくたくさんの民族が、自分の誕生を呪い自分の死を祝福している。(c)また太陽をいとい、暗やみを慕う民族もある。
 (b)我々はただ自分を虐待することだけが上手である。これが我々の精神力の真の獲物なのだ。(c)我々の精神は、狂い出すと、こんなにも危険な道具になる!

(b)哀れむべきものよ、おのれの快楽を罪悪視するとは!
(プセウド・ガルス)

 ああ哀れな人間よ。お前はいやおうなしに沢山の不幸を持っている。自ら工夫してそれらを更にふやすまでもあるまい。お前は生れながらにかなり悲惨である。人為によって悲惨にならなくてもよかろう。お前は実在的本質的な醜さを十分に持っている。その上想像によってそれをでっち上げるまでもあるまい。お前は(c)お前の安楽が不快に転じなければ、あまりにも安楽がすぎると思うのか。(b)自然から命ぜられた必然的なつとめはすべて果したというのか。新たな義務をお前みずから設けなければ、自然はお前のところで不足であり手持無沙汰だろうとでも思うのか。お前は自然の普遍的な疑うべからざる法則にもとることは少しも恐れず、部分的な気まぐれな人間の法律にかじりつく。いやそれらが特殊な不確実なそして最も議論のあるものであればあるだけ、お前はますます一所懸命になる。(c)お前が発明した人為的規則、お前の教区の規則に、お前はしめ縛られているが、神の掟・世界の掟・の方は、少しも知らずにすましている。(b)少しこういう見方の実例をさがしてごらん。お前の生活にはそれが充満している。
 先にあげた二人の詩人〔ウェルギリウスおよびルクレティウス〕の詩句は、淫らな事柄をあのとおりつつましく控え目に取扱って、かえってそれを一そうはっきりと照らし出しているように思われる。婦人たちはレースをもってその乳をおおい、僧侶もそれでいろいろの聖なるものを包みかくす。画家はその作品に影をかき添えて、それだけこれに明るさを加える。また太陽や風のあたりは、はねかえって来るときの方が直接来るときよりもひどいといわれる。エジプト人は「お前は外套の下に何を隠し持っているのか」と問われて、賢明にもこう答えた。「何だかお前にわからないように外套の下にかくしてあるのだ」と。だがほかに、見せたいためにかえって隠すものがある。前の二人より開けっ放しの次の詩人のいうところを聞きたまえ。

われ全裸なる彼女をわが体におしあてたり。
(オウィディウス)

この人はわたしを去勢するように思われる。マルティアリスには思うさまウェヌスのスカートをまくらせてやりなさい。とても彼には彼女をくまなくあらわすことはできないであろう。何もかもいう者は我々を飽かせ我々に嫌気をもよおさせる。恐る恐る思いを述べる者は、我々にそこにある以上のものを推察させる。この種の慎ましさにはいくらか裏切りがある。特に前の二人の詩人がしているように、我々の想像に対してああいう美しい道を半分あけて見せるのはそうである。その行為もその描写も、ともに盗みのような趣をもたねばならない。
* モンテーニュが前に引用したウェルギリウスおよびルクレティウスの詩句を指す。すなわち、性交という行為も、またその描写も、以上二詩人に見られるように控え目につつましくあれという意。
 スペイン人やイタリア人の恋は、われわれのにくらべて慎ましく遠慮がちなもの、思わせぶりなとりすましたもので、わたしは好きである。むかし誰であったか忘れたが、鶴のように長いのどをもって、より長く食べる物を味わいたいものだといった人がある。この願いはあの束の間の快楽についてこそふさわしい。特にわたしのような気短かな癖のものにはそう思われる。その速やかに逃げ去るのをとどめ、それをその前序において引伸ばすために、ながし目・うなずき・言葉・手振り・一つ一つが、みな彼らの間では好意のしるしとも受諾のしるしともなっている。焼肉の匂いで食事ができるものなら、それこそえらい倹約ではないか! それはきわめて僅かな実体に多分の燃えるような夢想空想を交えた熱情である。そのようにこれに支払いこれにつかえなければならない。婦人たちには、自分にもったいをつけはくをつけるように、我々の心をとらえごまかすように、教えよう。我々は最初から最後の突撃をする。それは相変らずフランス的性急である。彼女たちにその好意を少しずつつむぎ出し織り広げさせて行くならば、各人は哀れな老年時代に至るまで、自分の腕前取柄に相応して、いくらかほつれた糸の切れ端くらいにはありつくことが出来よう。享楽の中にでなくては享楽を見出さない人、とことんまで勝たなければ勝った気にならない人、獲物がなければ狩猟を楽しまない人、そういう人たちは我々の学派にはいる資格がない。踏み段の数が多ければ多いほど、そのてっぺんには高さと誉れがある。我々はちょうどいろいろな御門や通路を経て、長い趣のある廊下をとおり、幾度も幾度も折れ曲って、壮麗な宮殿の奥に導き入れられるように、恋愛へと連れてゆかれるのを喜ばなければならない。こういう風にされることは、けっきょく我々の得になる。我々はそれだけ長く、そこにとどまることができ、そこで愛することができる。希望も欲望もないならば、もはや進む気がしない。我々の支配と完全な所有とは、婦人たちが限りなく恐れるところである。一度彼女たちが我々の真ごころ・変らない心・の前に降参したら、もう彼女たちの運命はかなりに危険なものになる。真心だとか変らぬ心とかいうものは、稀なつらぬき難い徳である。一朝彼女たちが我々のものとなるや、我々はたちまちに彼女たちに冷たくなる。

我らの情欲満足せらるるや
我らはかつての誓いを反古ほごにす。
(カトゥルス)

 (c)そこでギリシアの若者トラソニデスは、自分の愛の心を愛するあまり、愛人の心を得てからのちも彼女を享楽することを拒み、彼がそれまで誇りとして噛みしめ味わって来たその不安にみちた熱情を、享楽によって鈍らせ・飽かせ・弱らせ・まいとした。
 (b)高価であるということはその食物をおいしくする。考えて見たまえ、わが国に特有な挨拶の形式は、接吻の機会をたやすく与えるために、どんなに接吻のうれしさをなくしたかを。ソクラテスも、「接吻は我々の心を奪うほどきわめて力ある危険なものだ」といったくらいなのに。いくら不愉快なやつでも三人の僧を従えた男には、どうしても唇を許さなければならないなんて、実に不愉快な・いや婦人にとっては失礼千万な・習慣である。

犬のごとき鼻さきに青き鼻汁を凍らせ、
針のごとくこわき髯ある男に口づけせんよりは、
むしろわれ、ももたび彼の尻をこそなめん!
(マルティアリス)

いや我々の方だって、何の得もしはしない。まったく世間の割合からいうと、三人の美人に接吻するのには五十人の醜女に接吻しなければならないことになる。わたしのような老人にとっては、まずい接吻はことの外胃にもたれ、甘い接吻までもまずくしてしまう。
 イタリアでは人々が、売り物の女たちに対してさえ、恋人に対するようにおずおずと振舞う。そしてこう言いわけをしている。「享楽には幾つもの段階がある。我々は彼女たちに奉仕しながら、最も完全な享楽を得ようとするのだ。彼女たちはただ肉体だけを売るので、その意志はお金で買えるものではない。それはあまりにも自由で余りにも彼女のものである」と。つまり自分たちの得ようとするのはその意志であるというわけなので、いかにももっともなことである。まったく奉仕し獲得すべきは意志なのである。わたしは、わたしのものが感情のない肉塊にすぎないと思うと、ぞっとする。そのような狂暴さは、あのプラクシテレスの造った美しいウェヌスの像に恋慕し・行ってこれを汚したという・若者〔エンデュミオン〕のそれに近いと思う。あるいはまた、みずから香をたきこめ、経帷子きょうかたびらに巻いてミイラとした婦人のしかばねに情火を燃やした、あのエジプト人の狂態に近いと思う。これがもととなって、その後エジプトでは、若くて美しい娘や良家の婦人の屍は、これを三日間保管した後でなければ埋葬人の手に委ねてはならないという法律ができたのである。ペリアンドロスにいたっては更に奇怪な振舞をした。彼は夫婦の情愛を(それは前の例にくらべれば正当かつ適法なものではあるが)、その死んだ妻メリッサを享楽するところまでおしすすめた。
 (c)月がその愛人エンデュミオンを他の方法では楽しむことができないとて、これを数カ月の間眠らせて、夢の中でなければ興奮しないこの男の児との楽しみを心ゆくまで享楽したというのは、いかにも月らしい幻奇的な心持だとは言えないだろうか。
 (b)わたしもイタリア人と同じように考える。人が一個の肉体をその賛意がなくその欲望もないのに愛するのは、霊魂も感情もない肉体を愛するのと変りはないと。すべての享楽が一様ではない。弱々しく力のない享楽もある。好意以外のいろいろな原因が婦人たちのこの許しを我々にえさせることもあるのだ。こんなのは愛情の証拠として不十分である。裏切りはそういう場合にも生じうるのだ。女たちはときにただ半分だけしかゆるさないのである。

彼女は犠牲を捧ぐるときのごとく厳かなり。
さながら彼女はそこに在らざる如く、または
ただの石の如くにあらんのみ。
(マルティアリス)

わたしは、その輿こしを貸すよりはかえって腰を貸す方を好む女もあることを知っている。あれによってより他に答えることを知らない女もある。君たちの仲間は、何か他のことのために女どもによろこばれているのか、あるいはただあのことだけのために、ちょうど屈強な馬丁かなにかのように、よろこばれているだけなのか、そこのところを見きわめなければならない。一体どんな資格において、どんな価値で、君たちはちやほやされているのか、

彼女はただ汝にのみ身をまかすにや、
彼女は汝と会う日を白き石もて印しつつ待ちてあるにや、
(カトゥルス)

を知らなければならない。どうだろう。もしかすると、彼女は君のパンをもっと快い想像のソースで食べているのではあるまいか。

汝を彼女はその腕のうちに抱けども
その太息たいそくは彼女の愛する別人のためなり。
(ティブルス)

それどころではない。我々はこの頃、ある男がこの行為を恐ろしい復讐の手段とし、これによって一人の貞淑な婦人を毒殺したのを見たではないか。
 イタリアをよく知っている人たちは、わたしがこの問題に関してあえてほかの国に例を求めなくても、少しも不思議には思われないであろう。まったくこの国民は、この道にかけては世界のほかのあらゆる地方の師匠と呼ばれてもよいのである。彼らのもとには一般的に我国よりも美人が多く醜女は少ない。けれどもたぐい稀なすぐれた美人ということになると、我々はほぼ同列だと考える。機知についてもわたしは同様に判断する。中位の機知は彼らの方がより多く持っている。勿論かの国ではがさつ者は比較にならぬほど稀である。だが特別の・最も高位にある・霊魂となると、我々は少しも彼らに負けない。もしこの比較をさらにおし進めなければならないなら、わたしは武勇について、かえってそれが彼らの間によりも我々の間の方に、一般的かつ自然的に存在するということができるように思う。けれどもそれは、時々彼らの手中においてきわめて充溢した・強力な・ものとなり、我々がそれについてもつ最も大胆な実例をも凌駕りょうがするくらいなのを見るのである。この国の結婚は次のように跛である。というのは、彼らの習慣は、通例女に対してきわめて苛酷な・圧制的な・法規を課していて、外国人との関係は、どんなに浅いものでも、どんなに深いものでも、一様に彼女らの首にかかわることになっているからである。この掟はすべての接近をどうしても本物にしてしまう。いや、どっちにしても同じ勘定になるのだから、彼女たちはさっさと相手をつかまえるのである。(c)そしてひとたびこの障壁をつき破ると、彼女たちは炎々として燃えるのである。※(始め二重山括弧、1-1-52)淫欲はさながらつながれし野獣のごとく、やがて重き鉄鎖を切って奔騰せずんばやまず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。(b)もうすこし彼女たちの手綱をゆるめてやらなければならない。

われかつて見たることあり。一頭の駻馬かんばが、
くつわを噛みきりて稲妻のごとく飛び出したるを。
(オウィディウス)

相手を求める欲望は、いくらか自由にしてやれば弱くなる。
 我々はほとんど同じ目にあっている。彼らは窮屈の極端にあり我々は自由の極端にある。我々の子供たちが由緒ある家庭に入れられて、ちょうど貴族の学校に入れられたようにそこで小姓として養育されるのは、むしろ我国における一つのよい習慣である。いやこういう申出を貴族に対して拒絶することは、非礼であり侮辱であろう。わたしは貴婦人たちがその待女たちに対していっそう厳格な規則を与えようとして(まったく家毎にそれぞれちがった家風があるものだ)、それだけよい結果がえられはしなかったことを知っている。そこには節制がいる。彼女たちの行いの大部分は彼女たち自らの分別に委せなければならない。まったくどんなにしたって、彼女たちをすべての点で拘束することのできる規律はないのである。むしろ、自由な教育を何物をも失わずにすませた少女の方が、窮屈で厳格な学校を無事に終えた少女よりも、ずっと信用ができるということは確かである。
 我々の父たちはその娘たちの態度を、はずかしげな・おずおずした・ものに仕込んだ(でも感情と欲望とに変りはなかったのである)。ところが我々は、彼女たちを物におじないように仕込んでいる。とんでもないことだ。それはサルマティアの婦人たちに対してこそ行うべきことだ。(c)彼女らは戦争に出て自ら手を下して男を一人殺してからでなくては、男と寝ることがゆるされなかったからである。(b)わたしはもうただ耳で話をきかせてもらうだけの権利しか持たない老人だから、ただ彼女たちの相談相手にしてもらえればそれだけで十分だ。これこそ我々老人の特権である。そこでわたしは、(c)我々に対すると同様に、(b)彼女たちに対しても禁欲をすすめる。けれども当世がそれをあまりに敵視するならば、せめて節制節欲をすすめる。(c)まったくアリスティッポスが、彼が娼家に入って来るのを見て顔を赤らめた若者たちに向っていったように、「不徳はそこに入ったきりになることで、そこに入っていくことではない」のである。(b)その良心を不徳から守ろうと思わない女もその名だけは守りなさい。心中はそれに値しないにしても表面だけは崩しなさるな。
 彼女たちがその好意を振りまくのに漸進的で緩慢であるのはよいことだと思う。(c)プラトンはすべての種類の愛において、言いよられた者が容易迅速に降参するのは宜しくないと指摘している。(b)あんなに軽々しく、どさっと、だらしなく落城するのは、食いしん坊のしるしであって、この食いしん坊は、彼女たちがあらゆる技巧を用いて隠さなければならないことである。与えるに当って秩序と節制とをもってするならば、彼女たちはよりよく我々の欲望をだまし、自らのそれを隠すことができる。彼女たちは常に我々の前を逃げるがよい。捕えてもらいたい女たちだってそうだ。そうすればスキュティア人のように、逃げてかえって我々を負かすであろう。実に自然が彼女たちに与えている掟に従えば、欲望するということは彼女たちの特性ではない。彼女たちの役目は受けること従うこと承知することである。だからこそ自然は彼女たちに不断の能力を与え、我々には稀な・不確実な・能力しか与えなかったのである。彼女たちは常にそのときを持っていて、いつでも我々の時に応ずることができるようになっている。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)受身に生れつきたれば※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)いや、自然は我々の欲望が外にあらわれ出ることを欲すると共に、彼女たちの欲望はこれを内部に隠れさせたのである。そして彼女たちには、(c)見せびらかすには適しない(b)単なる受身のものを与えたのである。
 (c)次のような行いは奔放な女武者にまかせなければならない。アレクサンドロスがヒュルカニアを通りかかると、女性軍の女王タレストリスは、逞しい馬にまたがりよい鎧を着た同性のつわもの三百だけを引きつれ、彼女に従う大きな軍隊の残りの部分はこれを近い山々の蔭に残して、彼を出迎えた。そして彼に向って、公然と声高くいった。「あなたの戦勝と武勇のほどを伝え聞いてお目にかかりたく、また我が兵力をおん企ての一助として捧げるために、まかり出ました。それにお見受けすれば、あなたは若く逞しい美丈夫であらせられる。わたくしもまたすべての特質において完全でございますゆえ、ご一緒に寝ましょう。現在における世界一の勇ましい女と世界一の勇ましい男との間から、将来何か偉大でまれなるものが生れ出ますように」と。アレクサンドロスは始めの申出は礼をいって断わった。けれども、彼女の後の要求を成就させるために十三日間そこに逗留した。そしてその間、できるだけ賑やかにそういう勇ましい女王のために宴を張った。
 (b)我々はほとんど何事にかけても、彼女たちの行為の不正な審判者である。ちょうど彼女たちが我々男性の行為についてそうであるように。わたしは真実を告白する。それがわたしに役立つときは勿論、それがわたしを害するときも。あれほどしばしば変心し・あれほど多く男をかえているらしい・あの女神ウェヌスにおいて見られるように、彼女たちをあんなにしばしば変心させ、どんな相手に対してもその愛情を固めさせないのは、まことにいまわしい錯乱の結果といわねばならない。だが恋が強烈でないのは恋の自然に反しており、恋が変りなくつづくのは強烈であるべき恋の自然に反している、ということもまた真実なのだ。いや、このことに驚き叫び、女性におけるこの病気を不自然で信じられないものとして、あれこれとその原因をたずねる人々よ。なぜ君たち男性は見ないのか。いかにしばしば自分たちだって同じ病にかかることを! しかもそれを驚きも怪しみもしないではないか! そこに限度が見られたらかえっておかしなものであろう。それは単に肉体的な熱情ではない。吝嗇りんしょくや野心の中に際限がないとすれば、色欲にだって際限はない筈である。それは飽満した後も消えない。人はそれに対して変らぬ満足や終極を要求することはできない。それはその欲するものを得てから後もなおやまらないのだ。しかもこの心変りは、おそらく彼女たちにおける方が我々におけるよりはいくらか許すべきであろう。彼女たちもまた我々と同様に、男女に通有な変化と新奇とを追う傾向に従ったまでだと、いいたてることができる。そして次には、「殿方とちがって私たちの方はいつも猫を袋ごと買わされておりますもの」とも、いいたてることができる((c)ナポリの女王ジョヴァンナは、その第一の夫アンドレアッソを、みずから絹糸と金の糸とをより合せて作った紐を用いて、自分の窓の鉄格子にかけてくびり殺した。その理由は、結婚のいとなみに際し、彼の器官や精力が、さきに彼女が彼の背格好や美や若さや敏捷さを見ていだいた希望に、十分応ずるところがなく、ひどく幻滅を感じたからというのである)。(b)また彼女たちは能動の方が受動よりもずっと強力であること、だから女子の方では少なくともいつも必要に応じられるようにしているのに、殿方の方はそうでないこと、をいいたてることができよう。(c)それにプラトンは、賢明にもその法律によってこう規定した。すなわち「結婚の適否を決定するためには、審査官が求婚する男子の方はこれを全裸にし、娘の方は帯のところまでを裸にして、検査するがよい」と。(b)我々を試みてから、彼女たちはときに我々をその選びに値しないと見る。

その夫の感覚を呼び覚ますために、
あらゆる手段を用いつくせば、
彼女は断然その楽しみなき床をすつ。
(マルティアリス)

意志がその義務を果すだけでは足りない。衰弱と不能とは当然結婚を破壊する。

処女の帯を解くに一層長じたる強き夫を、
よそにさがし求めざるを得ざるべし。
(カトゥルス)

あたりまえのことではないか。自分の能力に応じて、彼女とて、もっと放縦な・もっと旺盛な・愛の交わりを求めないではいられないのだ。

もしもその甘き営みが遂げられざらんには。
(ウェルギリウス)

けれども我々が好かれなければならない場所に、あとによい評判を残さなければならない場所に、我々の不完全と無力とを運んでゆくのもあまりに図々しくはあるまいか。今ではほんのちょっぴりで足りるのであるから、

ただひとたびにてえおとろう。
(ホラティウス)

ただそれだけのために、わたしは自分が敬い畏れねばならぬ人にいやがられたくはない。

ああ、この五十を越えたる男をおそれ給うな!
(ホラティウス)

 自然はこの年齢をみじめなものにしおおせたら、それで満足すべきである。それを更に笑うべきものにしなくてもよいのである。わたしはそういう老いぼれが、一週に三べん自分を興奮させる一寸ばかりの哀れな精力のために、まるで腹の中に正当な一日量をたっぷりと持っているかのように、同じような激しさで挑みかかり虚勢をはるのを見るのはいやだ。それこそ本当の藁火わらびである。(c)いや、その衝動が消え凍ってどっしりとしているべき時節に、あんなに旺盛にうずき出すのにはあきれる。そういう欲望は花のように美しい若者たちにだけ属すべきものであろう。(b)まあためしに君の年齢を信用して、それに、なお君のうちに相変らず・勇ましく・充実して・残っているその疲れを知らない熱情の助太刀をさせてごらん。道のまん真中で君の熱情などおっぽり出してしまうであろう。むしろそんなものは、思いきって人にゆずってしまいなさい。折檻せっかんの鞭の下にうちふるえる・うぶな何も知らぬ少年に、

紅き色にそめたるインドの象牙のごとく、
薔薇に混りてその強き色をうつす白百合のごとく、
(ウェルギリウス)

顔を赤らめるどこかの少年に、ゆずってしまいなさい。そのあくる朝、前夜の自分の卑怯と図々しさとを知りぬいた、その軽蔑あふれる明眸を、少しの恥じらいもなく平気で見かえすことのできる人は、

言葉なくその眼は咎めたり。
(オウィディウス)

こと多くせわしかった一夜の旺盛な営みのために、彼女たちの眼を重たそうに曇らせた満足と得意とを、ついぞ感じたことがなかった人である。ある女がわたしにあきたそぶりを見せたときも、わたしは決して直ぐには彼女の浮気を咎めなかった。まず、むしろ自然に向って食ってかかるべきではないかと疑って見た。そうだ。自然こそ、わたしを不公平にも非礼にもあしらったのだ。

わが器十分に長く太からざりしとせば
彼女たちがものうげにそれを眺めたるも
故なきにあらず。
(プリアペア)

そしてわたしにきわめて大きな損害を与えたのであった。
 (c)わたしの体の各部分は、いずれも等しくわたしをわたしらしくしている。だがこの部分ほど、特にわたしを男らしくしているものはないのである。
 わたしは読者に対して、全体的にわたしの肖像を示さなければならない。
 わたしが学んだ知恵は、そっくり真理の内に・自由の内に・本質の内に・ある。あの人為的・因習的・地方的・なつまらない規則などは、その真の義務の中に数え入れようともしない。本当の知恵は、全く自然な・変らない・普遍的な・もので、礼儀作法などはその娘ではあるが私生児なのだ
* このパラグラフの意味はこうであろう。「わたしが学びえたところ、悟りえたところでは、知恵というものは口先だけ、文字だけのものではない。それは真実の中に、自由気儘な言行(心の欲するところに従って矩を越えないというような振舞)の中に、形式ではなしに物そのものの中に、ある。世間で重んずるこまごました下らない規則、時代と地方によってちがうような規則などは、知恵の義務の数には入らない。まして礼儀作法などは、知恵の娘としても私生児くらいなものだ」。モンテーニュはここに、「自分のいうことは既成の道徳とはちがうかも知れないが、自分の言うものこそ真の道徳なのだ」と言おうとしているように見える。性道徳に関しても、世間は、形式、外見にこだわるだけで、その蔭に大きな不道徳をあえてしていると言うのである。
 我々はまず本質的な欠点をやっつけてしまって、始めてよく外見的欠点をも片づけることが出来よう。我々はまず本質的欠点の方を平らげてから、もしなお必要ならば外見的欠点に攻め寄せればよいのだ。まったく自然的義務に対する我々の怠慢をとりつくろうために、新しい義務をあとからあとからとひねり出して両方をこんがらかすことは、危険なのである。そのよい証拠には、過失が罪悪であるところでは罪悪がただの過失にすぎず、儀礼の掟がまれでゆるやかな国ではかえって原始的な普通の掟がよく守られているではないか。あの数えきれないたくさんの義務は、我々の注意を窒息させ衰弱させ分散させる。我々は細かな事柄にかまけて、緊急な事柄をなおざりにする。おお、あの浅はかな人たちは、我々の道にくらべていかにたやすくてほめられやすい道をとっていることか! それはごまかしの雲であって、それによって我々は互いにごまかし合い、だましあっているのだ。だが我々は、それによって偉大な審判者に対して少しも借金を払ってはいない。むしろそれを重ねている。その審判者は、我々の恥ずかしいところを隠すぼろをまくりあげ、遠慮容赦なく我々を全身残りなく見る。我々が最も隠す内部のけがらわしさまでも平気で見る。我々の処女のような恥じらいが、一体何の役にたつというのか。そんなしゃらくさい真似をしたって、あの審判者にあの暴露をやめさせることはできるものではない。とにかく人間に、あのようなおずおずした言葉の上の用心をすることの愚かさを覚らせる者は、世間に大きな損失をもたらしはしないであろう。我々の生活は、半分はばかの中に、半分は知恵の中にある。それをただ敬虔にお行儀よくばかり描いて見せる者は、半分以上を後ろにのこしているのだ。わたしはわたしに向って弁解しているのではない。もしわたしが言いわけをしているとすれば、それは言いわけをすることの言いわけで、他のどんなことに対する申しわけでもないであろう。わたしはある種の考え方をもつ人々に向って言いわけをする。そういう人々は我々の側に属する人々よりも数において多いと思うからである。彼らを尊重しながらも(まったくわたしは各人を満足させようと願っているのだ。※(始め二重山括弧、1-1-52)ただひとりにてかくも多様なる習性・思想・意志にかなわんとするは※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)むつかしいことだけれど)、わたしはなおこういうであろう。「わたしが数世紀にわたって認められている権威者をしていわしめている事について、唯わたしばかりを責めてはいけない。またわたしが韻文で書かないからといって、わが国の坊さんたちさえ、しかもその最も高位にある人たちでさえ、現にしていながら許されていることを、わたしにだけ拒むのも不当である」と。ここに二つの例を挙げる。

もしも汝の裂け目がただ一筋の線にあらざるならば、死もいとわじ。
(テオドール・ド・ベーズ)

特に或る友の器、彼女をらわして愛撫されぬ。
(サン・ジュレ)

他にもまだまだたくさんあるではないか。
* ここに引用される詩人のうち、テオドール・ド・ベーズはカルヴァンの後をついで新教の頭目となったし、サン・ジュレの方はフランソワ一世およびアンリ二世の宮廷牧師であった。こういう人たちすら、韻文ではずいぶんわいせつなことを書いているのだから、モンテーニュの散文だけが淫らだと責められる義理はないというのである。
 わたしもつつましさを愛する者で、このようなぶしつけな物いいを選んだのは判断によってではない。自然がわたしのために選んでくれたのである。わたしはこういう言い方をほめはしない。何でも一般の習慣に反することはほめたくないから。でもわたしはそれを大目に見る。特殊の事情と一般の事情とを酌量してその非難を軽くする。
 先へ進もう。同様に、(b)一体どうして君たちは、自分を犠牲にして君たちにやさしくする女たちから、その至上権を取り上げるようなことができるのか。

夜深くひそかに彼女が、
君にそこばくの恵みを与えんとする時、
(カトゥルス)

どうして君たちは、すぐにわが儘と・冷酷と・亭主面をした権威と・をもってこれにのぞむのか。それは自由な契約なのだ。君たちは、自分が自由にふるまいたいのなら、なぜ女たちにも自由をゆるしてやらないのか。(c)好意ずくの事柄に指図などあるべきではない。
 (b)これは世間の慣例に反している。だがわたしが若い時分、この取引を、その性質がゆるす限りほかの契約と同じように正直に、またいくらか公正な形で、履行したことは本当である。またわたしが、女たちに自分が実際感じているだけしか愛情を示さなかったこと、そしてその減退も旺盛も、その発生も興奮もまた弛緩しかんも、みな正直に示したこともまたうそではない。それはいつも一様にやれるものではない。わたしはやたらに約束をしなかったから、いつも約束した以上に、しなければならない以上に、約束を果したと考えている。彼女たちはそこにわたしの義理堅さを見出した。それは彼女たちの浮気に役立ちさえした(勿論それは内緒ごとの話ではない。大びらにときどき繰り返される浮気のことである)。わたしはただ一筋の糸の端によってに過ぎなくても、少しでもつながりの存する限りは、決して彼女たちとの間を絶ったことがない。そしてどんなに彼女たちの方からそういう動機を与えられても、決して軽蔑や憎悪をもって別れたことはない。まったくこの種の親密は、よし最も恥ずかしい契約によって得たものであっても、やはりわたしに多少の親切を命ずるのである。わたしもたまには、彼女たちの策略や見えすいた嘘などにぶつかったときだとか口喧嘩の折々には、憤怒や少々度を過した癇癪かんしゃくを見せたことがある。まったくわたしは、性分の上から急激な興奮にかられやすく、それは軽く短いものなのであるが、しばしばわたしに損をさせたものである。彼女たちがわたしに忌憚きたんなき意見を求めようとしたときには、わたしは遠慮なしに、父のように手きびしい意見を与え、彼女たちの痛いところを突いてやる。もしもわたしが彼女たちに文句をいう余地を与えたとすれば、それはむしろ、わたしが当世の習慣から見るとまれなほど馬鹿々々しく良心的な愛を持っていることについてである。わたしは、人が容易に守らないでもよいといってくれそうな事柄においても約束を重んじた。そういうときには評判をおとすことはないと思って、彼女たちも安心して降参した。勝者にならばなぎ倒されても恥にはならぬと思って、降参した。わたしは彼女たちの名誉をそこなわないために、一再ならず快楽をその絶頂において放棄した。そして理性がそうわたしに命ずる場合には、かえって彼女たちにわたしを傷つける武器を貸したから、彼女たちは素直にわたしの規則に服してさえいれば、彼女たち自らの掟に従うよりはずっと安全に、ずっといかめしく、進退することができたのである。
 (c)わたしはできるかぎり逢引あいびきの危険を自分一身に背負って、彼女たちにはこれを負わせなかった。そして常に最もけんのんな・最も思いがけぬ・時と場所とを選んで逢引した。その方がかえって疑いをかけられることが少ないばかりでなく、わたしの考えでは、かえって目的をとげ易いからである。人々は主として、ここなら人目につきはしまいと思う場所で、見つけられるのである。失敗の心配の少ない事柄ほど、防御も警戒もおろそかになる。人はまさかと思うような事柄を、かえって容易にしてのける。それは困難なために、かえって容易になるからである。
 (b)いまだかつてどんな男も、このわたしほど単刀直入にジェニタルな接触をしはしなかった。こういう愛し方こそかえって規則にかなっているのだが、いかにそれはこんにちの人々にわらわれていることか。そしていかに効果のないものか。わたしはそれを誰よりもよく知っている。だが、わたしは今さらそれを悔みはしないであろう。わたしはもうそこになんの損もしない。

神殿の壁にかけたる絵馬こそ、
わが濡れたる衣服を海神に献げし証拠なれ。
(ホラティウス)

今こそあけすけにこれについて語るときである。だがわたしはおそらく、人に向っては「友よ、君は夢をみている。恋愛はこんにち誠実や正直とはほとんど交渉がないのだ」

もし君それを規則に従わせんとするならば、
そは狂愚と理性とをめあわせんとするに等しからん。
(テレンティウス)

というであろうけれども、もしも逆にわたしがまたやり直すとすれば、やはりきっと同じ道を同じようにゆくことであろう。それがいくら自分にとって実り少なくあろうとも。(c)無能と愚かさとは、ほむべからざる行いにおいては、ほめられてよい。(b)わたしはこの点では、人々の考え方から遠ざかれば遠ざかるほど、いよいよ自分の考えに近づくのである。
 それにわたしは、この取引に全身を引きずり込まれはしなかった。わたしはこれを楽しんだが、そこに自分を忘れはしなかった。わたしは自然から与えられた僅かな分別と判断とを、女たちのためとわたしのために完全に保存した。少しは感動もしたが、決して夢中にはならなかった。良心もまた、それに引きこまれて放埓奔放にまでは及ぶことはあったが、忘恩・裏切り・奸悪・残忍・にまでは決してゆかなかった。わたしはこの不徳の快味を、値をえらばずに買いはしなかった。ただそれに適当した値を払うに止まった。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)いかなる不徳もただそれのみに終ることなし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)わたしは昏々こんこんとして眠ったような倦怠と、あくせくした苦しい活動とを、ほとんど同じ程度にきらう。一つはわたしを刺激し、もう一つはわたしを麻痺させる。わたしは切り傷もかすり傷も、血の出る打撃も血の出ない打撃も、同様にすきである。わたしはこの取引において、わたしがなおそれにふさわしかった頃、この二つの極端の間に中正な節制を見出した。恋は眼覚めた・生々した・そして愉快な・興奮である。わたしはこれに煩わされも悲しまされもしなかったが、これに興奮もしたしこれのために喉をかわかしたこともある。ここで踏みとどまるべきである。恋はただばか者を害するにすぎない。
 ある若者が哲学者パナイティオスに向って、恋をすることは賢者にふさわしいかときいた。「賢者にはふれないでおこう」と彼は答えた。「だが賢者でないお前やわたしは、そういう興奮した激しい気持には陥らないようにしよう。それは我々を他人の奴隷とし、我々をわれわれ自身に軽蔑すべきものにする」と。彼のいうところは真理である。それ自体そのように迅速なものを、その来襲を防ぐだけの力のない霊魂に委ねてはならないのである。「知恵と恋愛とは並びたたない」というアゲシラオスの語を、事実によって打ち倒すだけの力をもった霊魂は、めったにないのである。それはほんとうに、無作法な・恥ずかしい・不正な・暇つぶしであるが、以上に述べたような風にこれを行えば健康によいもので、ぼんやりした精神と肉体とを軽快にするに足りると思う。いやわたしが医者であったなら、わたしのような性分の者に向っては、他のいろいろな処方と同様に、それを喜んで勧めることであろう。その人を呼びさまし、年を取ってもなお元気を保つように、そして老いに捉われることがおそくなるように。我々がなお老いの近郊にあるにすぎない間は、なお脈がうっており、

びんの毛もようやく白くなり初めしばかり、
老いもなお訪れそめしばかりにして
運命の女神ラケシスの手になお糸に余りあり、
脚も確かにして未だ杖の必要もなき、
(ユウェナリス)

間は、我々は今いうような・何か・噛むような・興奮によって、刺激されくすぐられる必要がある。見たまえ、それがどれほどの若さと力と快活とを賢者アナクレオンにかえしたかを。またソクラテスは今のわたし以上に年とっていたが、ある愛する者についてこう言っている。「彼女の肩にわたしの肩をもたせかけ、わたしの頭を彼女のそれに近よせて、もろともに一巻の書に見入るとき、わたしは、正直にいうが、急にわが肩に何か動物に噛まれるような刺激を覚えた。そしてそのむずがゆさはその後五日以上もつづき、わが心の中に不断のむずがゆさが流れ入った」と。ただの接触感が、偶然の・しかも肩だけの・接触感が、年齢のために冷却し涸渇した霊魂を、しかもその謹厳なことにおいてすべての人間の中で第一位にある霊魂を、こんなにもかき乱したのだ! (c)何? どうしてそれがうそなものか! ソクラテスは人間であったのだ。いや彼は、あえて人間以外の者であろうとか・そう見えようとか・欲しなかった人なのである。
 (b)哲学は、そこに適度がある限り、決して自然的快楽を敵としはしない。(c)ただその節制を説くだけで、その回避をすすめてはいない。(b)哲学が極力抵抗するのは、自然以外から来る筋の悪い快楽に対してである。哲学は、肉体のもろもろの欲望が、精神によって増加されてはならないという。そしてじょうずに我々に告げる。(c)「飽満によって我々の飢えを喚起しようと思うな。腹にいれるだけにして、これに詰めこもうとはするな。我々をがつがつさせるすべての享楽を、(b)我々をかわかし飢えさせるすべての飲食を、避けよ」と。同様に恋のためにも、それは命じている。「ただ肉体の欲求を満たすだけの・決して霊魂を興奮させない・相手を選べ。霊魂はそれを自分の本業としないで、ただ単に肉体に従いこれを助けるだけにしなければならない」と。だがわたしがこう考えるのは不当だろうか。「以上の掟はわたしから考えるといささか苛酷にすぎるばかりでなく、なお精力の旺盛な肉体に関するものであって、衰弱した肉体は、弱った胃と同様に、これを技巧によって温めたり支えたりしても、また想像の仲介によってこれに欲望と軽快とを呼びもどしても、それら自体すでになくなっているのであるから大目に見るべきである」と。
* アルマンゴーは、この点ではモンテーニュに賛成していない。彼は本職の医者としての立場から、モンテーニュのこの説を老人のために危険だとしている。
 我々はこういえないであろうか。「この地上の牢獄にある間、我々には何一つ、純粋に肉体的なものも純粋に霊的なものもない。我々が一個の生きた人間を、そのように二つに引き裂くのは不当である。そして我々が快楽の享受に対しても、少なくとも苦痛に対すると同様に、好意的であるのが本当であるように思う」と。苦痛は(例えば)聖者たちの霊魂において、悔い改めのためにこの上はないほど激烈であった。肉体は、霊肉は互いに親類であるという権利によって自然にこれにあずかったが、しかしその原因にはほとんどあずかることができなかった。だから聖者たちは、肉体が単に悩んでいる霊魂にともないこれを助けるくらいでは満足しなかった。彼らは肉体そのものにも惨酷な特別な苦痛を課し、霊と肉とが競争して、辛ければつらいほどそれだけ救いに役立つような苦痛の中に、人間を沈めることを望んだ。
 (c)同じような場合に、すなわち肉体的快楽において、霊魂をそれに対して冷淡にさせたり、霊魂をまるで何か拘束的屈従的な必然や義務にでも従わせるかのように冷却へとひきずってゆかなければならないと言ったりするのは、不当ではあるまいか。むしろ霊魂の方でこそ肉体的快楽を抱き温め、霊魂の方からこそ進んでそこに乗り込んでゆかなければならないのである。支配の役目は霊魂にあるのだから。同様に霊魂に特有な快楽においても、やはりわたしの考えでは霊魂の方が先に立って、その本性がゆるす限り肉体に対してその感覚を鼓吹し注入すべきである。そして、それらの快楽が肉体にとっても甘美有益であるようにと苦心すべきである。肉体が精神を損傷してまでその欲望に従ってはならないというのは、なるほどよく言われるとおり至極もっともであるが、精神もまた肉体を損傷してまでその欲望をとげてはならないというのも、同様にもっともではあるまいか。
 (b)わたしはこのほかに、わたしを生々させる情欲を全然もたない。吝嗇りんしょくや野心や喧嘩訴訟がわたしのように定職のない人たちに対してすることを、恋愛はもっと心持よくわたしにしてくれるであろう。すなわち恋愛こそはわたしに用心や節食や優美や身だしなみをもう一度かえしてくれるであろう。恋愛こそは、老年のしかめつらが、あの醜い哀れむべきしかめつらが、わたしの顔を悪化することがないように、わたしの容貌をもう一度和らげてくれるであろう。(c)再びわたしを健康で賢明な研学に帰らせ、わたしの精神からおのれおよびおのれの使用に関する絶望を取除き、もう一度自分に親しませ、わたしがわたしをもっと尊敬すべく愛すべきものにすることをえさせるであろう。(b)また、このような年齢において、退屈(c)や悪い健康状態(b)が我々に背負わすところのいろいろな厭わしい思想(c)やいろいろなメランコリックな物思い(b)を、わたしから遠のけてくれるだろう。少なくとも夢想の中では自然が見離したその血を再びきたたせてくれるだろう。その破滅に向ってひたすら急いでゆくこの哀れな男のために、その顎を支えその筋肉を伸ばしてくれるだろう。(c)霊魂の精力や元気をもひき立たせてくれるだろう。(b)だがわたしには、この幸福は回復するのに極めてむつかしいものであることがよくわかっている。老衰と長年の使用によって、我々の好みはますますひ弱くむつかしくなっている。我々は、我々の与えるところがいよいよ少なくなるにつれて、いよいよ多くを要求する。我々は最も受諾されるに価しなくなると、最も選り好みをする。自分がそんな風であるのを知ると、ますます臆病になり疑い深くなる。自分の有様と彼女たちのそれとを知ると、何一つとして我々が愛せられることを確証してくれるものはない。わたしはあの元気旺盛な、

その器たくましく立ちてさながら丘の上なる若樹のごとき、
(ホラティウス)

若者たちの間にあるのを恥ずかしく思う。何を好んで我々はそういう溌剌たる人々の中に、自分の悲惨をさらそうとするのか。

いかでか、これらの若き人々、
我らの消えかかれる炬火を見て、
失笑せずにいらるべきか。
(ホラティウス)

 彼らには力もあれば理由もある。彼らに席を譲ろう。我々は唯指をくわえて見ているより仕方がない。
 (c)それに、あの生れたばかりの美の芽ばえは、こんなにこわばった手にはいじくられないし、純然たる物質的手段だけでは得られない。まったく、あの古代の哲学者がその追いまわした少女から色よい返事がえられなかったのを嘲られて、これに答えた通りである。「きみ、ああいう新鮮なチーズは釣針にはかからんよ」。
 (b)何しろそれは交流と交感とを必要とする交わりである。我々がうけるほかの快楽は、性質を異にする報酬によって得ることができるけれども、この快楽ばかりは同種の貨幣によってでなければあがなわれない。(c)誠にこの楽しみにおいては、わたしの与える快楽の方が、わたしが感ずる快楽よりも、わたしの想像こころをずっとやさしくくすぐるのである。(b)ところで、自分は快楽を与えることができないのに、自分ばかりそれを与えられて澄ましていられる人は、少しも高貴なところのない人である。何もかも人のお蔭をこうむろうとする者、人々に厄介ばかりかけながらこれと交際をつづけて得意でいる者は、卑しい霊魂である。紳士たるものが、そうまでしてほしがらねばならないほどの、たえなる美しさ・やさしさ・親しさ・というものはないのである。よし彼女たちがただ憐れみによってのみ我々に親切をつくすことがあるとしても、わたしはそういう施しによって生きるくらいなら、むしろ生きない方がましだと考える。わたしはむしろイタリアで聞いたことがある求愛の言葉をまねて、すなわち「あなた自らのためにわたしにめぐみたまえ」といって、(c)あるいはキュロスが「われを愛するものはわれに従え」と部下を励ました故事にならって、(b)堂々と彼女たちに要求してやりたいものだ。
「君と同じ状態にある女たちに言い寄りなさい。お互いに同じ運命ならことはたやすかろう」と、人はわたしにいうであろうが、おお何とそれはばからしく味気ない馴れ合いであろう!

われは死せる獅子のひげを抜くことを欲せず。
(マルティアリス)

 (c)クセノフォンはメノンに対する抗議非難として、彼がその恋において盛りをすぎた者を相手としたことを挙げた。わたしはむしろ、二人の美しい若者同士の正しくむつまじい契りをただ眼に見るだけの方が、あるいはただそれを心に想い浮べるだけの方が、みずから悲しい不釣合な交わりにおいて劣者の地位にたつよりはずっと愉快だと思う。(b)ああいう異常な欲望は、もっぱら老いてこわばった肉体におぼれた皇帝ガルバに、あるいはまた、

神々よ、願わくはわれに
汝が在りのままの姿を見させよ。
われをして汝の白髪に口づけせしめ、
わが腕に汝の痩せたる肉体を抱かしめよ。
(オウィディウス)

と歌ったあの哀れなあさましい詩人にゆだねる。
 (c)それから最もひどい醜悪の中に、わたしは人為的な不自然な美を数える。ケオスの若者エモネスは、美しい身のかざりによって自然が彼に与えなかった美をかち得られると考え、哲人アルケシラオスの前にまかり出て、「賢者も恋人になれるでしょうか」ときいた。「なれるとも。ただお前のように、ごてごてと飾りたてた美しさに恋することはないがね」と哲人は答えた。正直にそうとみとめている場合、その醜さと老いとは、わたしの考えでは、塗りたて飾りたてたそれらほどに老いぼれても醜くも見えないのである。
 (b)こんなことをいってもいいかしら? 誰かさんに喉をしめられるかも知れないけれど。わたしは、恋愛がいかにもふさわしく・自然に・その時を得ている・と見えるのは、ただ少年時代をやっとすぎたばかりの年頃においてだけだと思うのだが。

波なす髪、いまだ定まらぬ顔だちにて、
若者、多くの乙女たちの群れに交わりいるときは、
最も眼の確かなる者すら、
彼を男の子なりとは見分けざるべし。
(ホラティウス)

 (c)それは美しさについても同じである。
 まったく、ホメロスはそれらの時期を、あごにひげの生え始める頃までのばしたが、プラトンさえそういう場合は稀な花と見たのである。だから詭弁家ディオンが青年期に生え始めるこのうす髯のことを「アリストゲイトンの髯、ハルモディオスの髯」と面白くも呼びなした理由は、きわめて明らかである
 (b)壮年期においてさえ恋はすでに季節はずれだと思う。
 老年期だけがそうなのではない。

何となれば、クピドーは
皮のはげたる樹の枝にはその翼を休めざるが故に。
(ホラティウス)

* アリストゲイトン、ハルモディオスの両人は、髯が生え始めた頃暴君の手を脱した。そのように人は、この年頃ともなれば恋の束縛をときうるだろうという諷刺らしい。モンテーニュみずからは、ゲーテのような老いらくの恋はしなかったらしい。グルネ嬢との関係は、せいぜい前出一〇三三―一〇三四頁に出てくるソクラテスの場合と同じ程度のものであったのではあるまいか。
 (c)またナヴァールの女王マルグリットは、みずから女として女性の特権を大いに延長し、「女は三十歳になったら※(始め二重山括弧、1-1-52)美しい※(終わり二重山括弧、1-1-53)という肩書を※(始め二重山括弧、1-1-52)やさしい※(終わり二重山括弧、1-1-53)というそれに代えるべきである」ときめられた。
 (b)クピドーが我々の一生を支配する期間を短くすればするほど、それだけ我々は価値を増す。彼の姿をごらん。子供で髯がない。彼の塾に入ると人はいかにすべての秩序に逆行するか、知らないものはない。そこでの研究や演習やお作法は無能へ通ずる。そこでは青二才が先生なのだ。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)恋愛は秩序を知らず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(聖ヒエロニムス)。(b)まったく彼の動作は、粗忽そこつと混乱とをまじえているときに益々なまめかしい。過失や行き違いがかえってそれに趣き風情を添える。切実熱烈でさえあればよいので、慎重であろうとなかろうと、ほとんど問題ではないのである。見たまえ。彼がいかによろめき、つまずき、浮かれながらゆくかを。学芸と知恵とをもって導かれるとき、彼は手も足も出ない。彼を毛深いこわばった手にゆだねるとき、その神々しい自由は縛られてしまう。
 それからわたしはしばしば耳にするが、婦人たちはこの交わりを全然精神的に叙述し、そこに感覚のことを考慮するのを軽蔑しておられるようだ。まことにごもっとも千万であるが、わたしをしていわしめるなら、われわれ男性は、しばしば彼女らの精神の弱さを、彼女らの肉体の美しさのために大目に見てやったのに、彼女らの方では、我々の精神がいくら美しくても(しかもそれがどんなに知恵のある完全なものであろうとも)、我々のちょっとでも衰弱した肉体には、ついぞやさしくしてくれたためしがない。どうして婦人たちは誰一人として、あの肉体と精神との高尚な(c)ソクラテス的(b)交換を羨む気にならないのであろうか。(c)なぜその太腿ふとももの値をもって、精神的交歓と哲学的生殖とをあがなおうとはしないのか。それこそ女性がその太腿の値を最も高からしめるゆえんではないか。プラトンはその法律の中に規定している。「戦争において何かめざましい有益な手柄をたてたものは、その遠征中を通じていかに醜くともまた老いていようとも、その欲する女から接吻その他の恋のめぐみを拒絶されてはならない」と。彼がこのように武功の褒美として正当だと認めた事柄は、何か別の功績の褒美としてもまた、正当と認められてよいのではあるまいか。だのに、誰一人として、(b)その同性の友に先んじて、この純潔な恋愛の光栄を得ようと望む女がいないのはなぜか。これくらい「純潔な恋愛」はあるまいのに。

何となれば、いざ戦争とならば、
あたかも炎々たる藁火のように、
その恋はたちまちにして消え失せるが故に。
(ウェルギリウス)

頭の中だけで消えてしまうような不徳は最悪の不徳ではない。
 ふとおしゃべりの波に乗って、ときには猛烈で毒を含んだその波に乗って、わたしの口を洩れて出たこのすばらしい恋愛講義の終りに、

恋人よりひそかにうけしりんご一つ、
ふと乙女の潔きふところよりまろび出でぬ。
あわれや少女、これを広き裳の下に隠し居たるに、
母近よれりと見て、おどろき立ちしとたんに、
あたかも彼女の足もとにころがりいでしなり。
彼女の頬をさっと染めたる紅の色こそ、
遂にその罪をあらわしたれ。
(カトゥルス)

わたしはあえてこう結論する。「男も女も同じ自然の鋳型で作られたのだ。教育と習慣とを別にすれば、その差異は大きなものではない」と。
* モンテーニュはここで男女の平等を信じている。両者の差別をつけたのは教育と習慣で、この二つは従来必ずしも正しかったとは考えていないのである。モンテーニュの精神的娘といわれたグルネ嬢が女権拡張論者であったことと思いくらべると、ここにもモンテーニュの思想の一つの鍵があるように思われる。
 (c)プラトンはその共和国において、男女を無差別に、文武両方のあらゆる研究や演習や官位官職に、たずさわらせた。またアンティステネスは、婦人の徳と男子の徳との間にすべての差別を撤去した。
 (b)一方の性を非難するのは、もう一つの性を弁護するよりもはるかに容易である。これこそ「火かきが十能をわらう」という諺の意味である。
* 火かきとはストーヴの火をつついてこれをかきおこす鉄の棒。自分が黒くすすけているのに、自分の黒いことは棚にあげて、十能を黒いと笑う。日本の諺にもし類似を求めるならば、「目くそ鼻くそをわらう」に当るだろう。
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第六章 馬車について



 この章は最もまとまりのないエッセーで、互いに連絡のない三つの主題がただ並べられてできている。第一の主題は章の標題となった馬車の話で、ヴィレによれば Crinitus: De Honesta disciplina から、第二の主題は円形競技場の話で Justus Lipsius: De Amphitheatro から、第三のは新世界発見の話で Lopez de Gomara: Histoire g※(アキュートアクセント付きE小文字)n※(アキュートアクセント付きE小文字)rale des Indes から、それぞれ借りられている。ここではモンテーニュの構成は自由自在を通りこして、いささか奔放でしまりがない。だがただ一つ共通の問題が全章をつらぬいている。すなわち統治者のおごりないし乱費という問題がそれであるが、モンテーニュは三つの部分を通じて特にその点を強調することなく、むしろそれぞれの場合にそれぞれ特有な瞑想に没頭して、巧みに当時の王朝に対して、はなはださしさわりのあるその根本問題(例えば民主主義思想)をカムフラージュしている。まったくこの「馬車について」の標題も決してこの章の内容を示してはいない。むしろその出発点となった最も重要でない部分を示しているにすぎない。
 この章の中心は、アンリ三世の乱費とその寵臣の贅沢とに対する諷諫、スペイン政府の未開の人民に対するあくなき非道と搾取に対する弾劾、更に進んでは法王を頭にいただくキリスト教国民の風儀が異教徒のそれにまさるとも劣らないほど残忍酷薄であることに対する、ヒューマニストとしての深い憤りにある。だがそれら深刻な問題を、なんと壮麗にして眼もあやなる様々な変化のうちにかくしていることか。くしゃみだとか嘔吐だとか船よいだとか、田舎道を行くほこりまみれの駅馬車だとかいうような卑近な事柄から始めたかと思うと、突如として裸身の乙女がひく壮麗な車に乗って行った古代の帝王の豪華な姿を点出するといった風に、この一篇は一頁毎に読者の意表に出て、しかも我々を完全に魅了する。Edouard Ruel がこの章をベートーヴェンのシンフォニーに比べたのも、この楽聖の曲名が最も簡単であって(例えばハ短調シンフォニーとか、合唱を伴うシンフォニーとかいう風に簡単であって)しかも豊麗な内容を蔵していることにくらべたので、まことにむべなりといわなければならない(cf. Ruel: Du sentiment artistique dans la morale de Montaigne: Fragments et notes)。モンテーニュがモラリストである以上に芸術家であり詩人であることを、この章は最もよくわれわれに感じとらせる。この章もまた前章と共に、随筆文学の傑作である。また Etiemble: Sens et structure dans un essai de Montaigne(C. A. I. E. F., n° 14)も、この章によってモンテーニュの叙述の特質を解明している点で必読の文字である。

 (b)これはきわめて容易に証明のできることであるが、偉大な著作家たちも物事の原因を述べるにあたっては、これこそ本当の原因だと思うそれらばかりでなく、実は本気で信じてはいないそれらまでも、そこに多少の創見と美とがありさえすれば、もろともに使用することをはばかってはいない。それにしても彼らは、巧妙に述べている限り、やはり相当な程度に真実を伝え、また役にも立っているのである。我々にはどれが主たる原因かを確かにすることができないから、我々はたくさんの原因をならべて見て、もしやそれらの間に主要な原因が交っていはしないかと捜して見るのである。

原因をただ一つ挙ぐるのみにては足りず。
数多く挙げよ。その中に正しきもの一つあるらん。
(ルクレティウス)

 そもそも我々がくしゃみをする人たちに向って、「神おん身を祝福せんことを!」と言うのはどういうわけかとおっしゃるのか。我々は三いろのおならをする。下の方から出るのはあまりにも尾籠である。口から出るのは幾分食べ過ぎの叱責を含んでいる。第三のがくしゃみである。ところがこれは頭から出るのだし、何の叱責も含まないから、我々はこれをあのように丁重にお迎えするのだと思う。そいつはこじつけだと笑ってはいけない。それは(嘘か誠か知らないが)、アリストテレスが言ったことだそうな。
 わたしはプルタルコスの中に(この人はわたしが知っている著作家の中で、最もよく、芸術を自然に・判断を知識に・まぜ合わせた人であるが)、航海者に起る吐き気の原因を説明して、これは恐怖から来るのだといい、恐怖がこういう結果を生ぜしめた幾つかの実例を挙げ示しているのを、読んだことがあったように思う。わたしはきわめて吐きやすいたちであるが、この原因がわたしの場合には当てはまらないことを知っている。それは理屈の上で知っているのではなく、有難くない経験によって知っているのである。わざわざ人から聞いたこと、すなわちそれは動物にも起るとか、特に危険などということを全く知らない豚にも起るとかいうことを、挙げるまでもない。またわたしの友人がこれは自分の経験だといってわたしに実証したこと、すなわち、彼がすこぶる吐きやすい性であるにもかかわらず、二、三度大あらしにあって大いに恐怖を感じたときはかえって吐き気を催さなかったこと、(c)例えば※(始め二重山括弧、1-1-52)あまりにも病篤くして危険を思う暇だになかりし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)古人のようであったことなど(b)を、挙げるまでもない。わたしは水の上でも、またほかのどんなところでも、こわいなどと思ったことがないのである(その癖わたしは、当然こわがってもよいような目にかなり度々出あっているのだ。だって死こそは当然恐れてもよいものではないか)。少なくとも取り乱したり目をまわしたりするほどにこわいと思ったことはないのである。恐怖はときどき判断の不足から来る。勇気の不足から来るだけではない。わたしは危険に出あうたびに、常に眼を見開いて見た。自由な健全な眼をもって見た。それに、危惧を感ずるのにも勇気がいる。かつてわたしの勇気は、わたしが他の人々にくらべて秩序整然たる退却をするのに役立った。すなわちそこには(c)危惧がなかったのではないが(b)驚愕と自失とがなかったのである。もちろんおびえてはいたのだが、決してあわてたり取り乱したりはしなかったのだ。
 偉大な人々ともなればそれ以上である。落ちつき払った退却をして見せるだけではなく、勇ましい退却をやる。アルキビアデスが物語っているその戦友ソクラテスの退却の話をしよう。「わたしは(と彼はいう)、わが軍が敗北した後、ソクラテスとラケスとが敗走者の最後の者の中に交っているのを見出し、彼を心静かに・安全に・観察した。まったくわたしはよい馬に乗っており、彼の方は徒歩であったからで、我々はそういう風にして戦いを共にしたのである。わたしはまず、彼がラケスにくらべていかに知恵と果断とを示しているかに気がついた。次に彼の歩き振りが、その日常と少しもかわらず勇ましいのを見た。そのしっかりとして落ちついた眼つきは、彼の周囲に起った事柄を観察判断しているらしく、あるいは味方をあるいは敵をかわるがわる眺めながら、一方はこれを励まし、またもう一方に向っては、『おれの命を奪おうとする者にはこの命と血を高く売りつけるぞ』と言うかのように見えた。そうやって二人は命を全うした。まったく人は、こういう人々には打ってかからないもので、いつもおびえる者どもを追うのである」。これは偉大な大将アルキビアデスの証言であって、我々も日ごろ経験するところであるが、「何とかして危険を免れようという度外れの渇望ほど、我々を危険のうちに投げ入れるものはない」という事実を我々に教えている。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)人は恐るること少なければ危険に逢うこともまた少なし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。(b)わが国の人々が「あの人は死を想っている。予見している」というべき時に、「死を恐れている」というのは間違いである。予見ということは、吉凶いずれに対しても等しく結構な事柄である。危険を考察し判断することは、ある意味でこれに驚愕することの反対なのである。
 わたしはこの恐怖の感情ばかりでなく、他のいかなる激しい感情に対しても、十分に抵抗するだけの力を持ってはいないような気がする。一たびこれに打ち倒されたら、わたしはとうてい無事に起き上ることができないであろう。人がもしわたしの霊魂を倒しおおすならば、これを元どおりに立たせることはとてもできまい。わたしの霊魂は、あまりに強くまた深く、自分を撫でまわしたり突ついたりするから、いつになってもその傷口はふさがり固まることがないであろう。だが有難いことに、いまだかつてどんな病気もわたしの霊魂を狂わせたことがない。攻撃にあうごとに、わたしはせい一杯に武装してそれに対抗する。だから一度引き倒されたら最後、もう施すすべはないのである。わたしは決して二段の構えをしないのである。どこで奔流がわがつつみを切ろうとも、それっきりわたしはおし流されて溺れ死ぬばかりである。(c)エピクロスはいう。「賢者は決して反対の状態に移ることがない」と。わたしはむしろこの格言のほぼ逆を信じている。すなわち、「一度気が狂った者は絶対に賢者にはならないであろう」と。
 (b)神様は衣裳を重ねれば重ねるほど寒さの感じを与え、情念に対して抵抗の構えをすればするほど情念を与える。自然は一方においてはわたしを暴露し、他方においてはわたしをおおった。わたしから力という武器を奪った代りに、不感動性だとか落ちついた・あるいは鈍い・感受性だとかいう武器をくれた。
* 「神様は寒さに応じて衣服を与える」というのが普通の諺である。モンテーニュはそれを裏がえしたのである。
 さてわたしは、馬車や輿こしや舟に長く乗っていられない(若いときはそれが今よりひどかった)。だから市中においても野外においても、乗馬以外の乗物はすべてきらいである。けれども輿の方が馬車よりもさらに堪えられない。そして同じ理由で、水の上の激しい動揺の方が、恐怖の念を生ぜしめるにもかかわらず、静穏な日和ひよりに感ぜられる静かな動きよりも、堪えやすく思う。あのかいが与えるところの軽い動揺は、舟が自分の下にすっとのくような感じを与えるので、なぜかしら頭も胃ももやもやして来る。同様にわたしは、輿にゆられるのにもたえられないのである。帆や水の流れが平らかに我々を運んでゆくとき、あるいは曳船で曳かれてゆくときなどには、この平らな運動は少しもわたしに厭な気持をおこさせない。つまりわたしは断続する動きがいやなのである。それがのろいときは益々いやである。こういうよりほかに述べようがない。医者たちはこの癖をいやすために下腹をタオルでしっかり締めろといった。だがわたしは一ぺんもそれを試みたことがない。わたしは自分で自分のうちにある欠点と戦いこれを制御するのに慣れているからである。
 (c)もしもわたしにこれに関する十分な知識と記憶とがあるならば、ここに戦車の使用に関して歴史が我々に示すところの限りなき変化を物語るのに、あえて時間を惜しまないであろう。それは国民により時代によっていろいろであったが、何れもきわめて有効で戦争には不可欠のものであるとわたしは考える。こんにち我々がその使用を全く忘れてしまったのはむしろ不思議なくらいである。ただわたしは、つい先頃我々の父たちの時代に、ハンガリア人がトルコ人に対してそれをきわめて有効に使用したということだけをいっておこう。それは一台ごとに、たてもち一人・鉄砲うち一人・をのせた上に、弾丸がこめてあって何時でもうてる数列の鉄砲を備えていて、その全体はちょうどオランダ船のように楯で被覆されていた。こういう戦車を彼らハンガリア人は、三千ばかりもその戦線に配置し、まず砲撃がすむと早速それらを敵に向って進め、何よりも先にそれらの鉄砲の一斉射撃を喰わしたのであるが、その効果は決して軽少ではなかった。それを敵の騎兵隊のただ中に突進させてその隊列を破りそこに穴をあけたばかりでなく、進軍に際しては味方の手薄な部分をこれによって側防したり、あるいはまた急いで宿営を設けたときにもこれをその防備に利用したのである。我々の時代にも我々の国境地帯の或る貴族は、ふとっていて手足がきかず・自分の重みに堪える馬もない・というので、戦争のときには以上に述べたような車にのって国内を巡察し、非常にいい工合であった。だがもうこういう戦車の話はやめにしよう。我々の最初の王朝の王様たちは、四頭の牛がひく車にのって国内を巡歴したものである。
 (b)マルクス・アントニウスこそは、音楽を奏する一人の乙女とともに獅子ししが引く車に乗って、ローマに乗り込んだ最初の人であった。その後ヘリオガバルスも、諸神の母キュベレと自称して同様のことをやった。また神バッコスをまねて虎に引かせた車を乗りまわしたこともあった。またあるときは、その車を二匹の鹿に・ある時は四頭の犬に・それからまたあるときは四人の裸形の乙女に・ひかせ、自分もまた丸裸で堂々と乗りまわした。皇帝フィルムスは、その車をすばらしく大きな駝鳥にひかせ、車に乗っているというよりはむしろ空を飛んでいるように思わせた。こういう変った思いつきは、またわたしに次のようにも思わせる。すなわち、「極端な浪費をして自分に勿体もったいをつけはくをおこうとつとめるのは、帝王としては一種の卑怯であり、己れの身分を十分にわきまえない証拠である」と。それは外国においてならばまあよいかも知れないけれど、彼が何とでもなし得る自分の臣民の間においては、むしろ自分の品位からこそ、及びうる限りの最高の名誉を得なければならない。同様に、貴族が自分の家にいるときも折目正しい身なりをしているということは、無駄なことだとわたしは思う。家や、家来や、料理が、十分彼の身分を保証する。
 (c)イソクラテスがその王に与えた次の勧告は理由のないものとは思われない。すなわち、「家具調度においては豪奢であってもよい。それは子々孫々に伝わる永久のものだから。けれどもじきに使用からも記憶からも消えてなくなるような贅沢は、すべてこれを避けるがよい」と。
 (b)わたしは、若い頃、何も他にひけらかす物もなかったから好んでおしゃれをした。そしてそれがよく似合った。だがきれいな着物が泣きたいような人たちもある。我々は我々の諸王がその身のまわりや賜物に関して、すこぶる御質素でいらせられた驚くべき物語をきいているが、それらは皆、その権力においても武力においてもまたご運においても偉大な王様であらせられた。デモステネスは、競技や祭典を壮麗にするために公金を用いるというその都市の法規に極力反対した。むしろ彼はその都市の偉大さが、よく艤装された船舶やよく装備された軍隊の量の中に示されることを望んだのである。
 (c)またテオフラストスが「富」を論じたその著書の中にこれとは反対の意見を述べ、「あの種の出費こそほんとうに巨大な富の果実である」と主張した時、人々がこれを咎めたのは当然である。アリストテレスはこういった。「そんなものはただ最も下層の人民をよろこばす娯楽であって、飽きてしまえばそれっきり忘れられてしまう。そして判断の正しいまじめな人物は、そんなものを尊重できない」と。実際お金を使うのならば、港湾や要塞や城郭や、寺院・病院・学校等の壮麗な建築や、道路の改修などにあてられてこそ、いっそう王者にふさわしいのみならず、いっそう有益で正当で、また永遠であるように思われる。この点において法王グレゴリオ十三世は、こんにちにその尊き名をとどめている。我らの女王カトリーヌも、もし資力が彼女の道楽をとげさせるに十分なら、永くその生れつき気前よく豪奢であったしるしをとどめるであろう。運命が我々の偉大な都パリにおけるポン・ヌフ〔新橋〕の壮麗な建造を中止させ、生きている内にその開通を見ることができるかも知れないという希望をわたしから奪ってしまったのは、何とも残念至極である。
 (b)それに臣民の方では、こういう成功を眼のあたり見ると、さながら自分みずからの富を見せられたような、また自分たちのお金で御馳走をうけているような気分になる。まったく、人民はいつも王者について、ちょうど我々が下男について思うように、こんな風に思うのである。すなわち、「王たちは我々が欲しいと思うものを豊かに我々に与えるように心を砕くべきであるが、決してそこに自分の分け前を主張してはならない」と。だからこそ皇帝ガルバは、晩餐をとりながら一楽人の奏楽を楽しんだ後、その金箱を持って来させ、一握りの金を彼の手にわたしてこういったのである。「これは人民の金ではないぞ。わしの金だぞ」と。とにかく、人民のいい分の正しいことがきわめてしばしばある。実際彼らは、その腹を満たさなければならないものでもって、たんにその眼を楽しませてもらっているにすぎないことが、すこぶる多いのである。恵与さえも王の手の中では真の光輝をあらわさない。むしろ私人の方が恵与をする権利があるのだ。まったく正確に考えると、王という者は何一つ真に自分のものを持たないのである。自分自身すら他人のおかげで生きているのである。
 (c)法令は治める者のためにしかれるのでは決してなく、治められる者のためにしかれるのである。長官が任ぜられるのも、決してその人のためではなくて下々の者のためなのである。医者は病人のためにあるので彼みずからのためにあるのではない。すべての官職は、すべての技術と同様に、自分の外にその目的を持つ。※(始め二重山括弧、1-1-52)いかなる技芸も自己をその目的とせず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (b)だから若い帝王の教育にたずさわる人たちが、その弟子たちに対して恩恵を惜しまぬ徳を養ったといって誇り、彼らに「何物もおしんではいけない。恩恵ほど後日役に立つものはない」などと教えているのは(これこそ当今最も重んぜられている教えではあるが)、主君の利益よりも自分たちの利益を考えているのでなければ、その相手の誰であるかを理解していないのである。自分のふところを少しもいためないで欲するだけの恵与をなし得る人間に、恩恵の徳を養うことはあまりにもやさしいことである。(c)それに、恩恵の価値は賜物たまものの多少によるのではなく、これをする者の資力の度によるのであるから、恩恵はあのような威力ある手によってなされては無意味なものとなる。彼らは恩恵者になる前に乱費者となる。(b)だからこの徳は、他のもろもろの「帝徳」に比較してほとんどほめるに足らないのである。いやこればかりは、暴君ディオニュシオスがいったように、暴政その物とも並び存することを得るものである。わたしはむしろ、次のような古代の農夫の格言を彼に教えてやりたい。※(始め二重山括弧、1-1-52)よき実りを得んとする者は、その手をもってかざるべからず。決してその袋よりこぼすべからず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(プルタルコス)(c)(種子はかなければならない。こぼしてはいけない)(b)と。じっさい帝王は、大勢の人々にその勤務振りに応じて与えなければならないのだから、いやもっとよくいえば払いもどしてやらなければならないのだから、第一に公平で物のわかった支給者でなければならないと、教えてやりたい。帝王の恩恵に節度がないならば、わたしはむしろ彼がけちん坊である方がよいと思う。
 帝徳はもっぱら正義の中に存すると思う。そして正義のすべての部分のうち、恩恵にともなう正義こそ最もよく王の人柄をあらわす。まったくその他の正義はすべて他人の仲介によって行うくせに、この正義だけはいつもみずから行うことにしているからである。無節制な恵与は民心を収攬しゅうらんするのには力の弱い方便である。まったく、それは人々の心を得ることにはならず、かえって彼らの反感を買うだけである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)昨日あまりに多く与えたれば今日はもはやそれ程に与えるを得ず。常に喜びて行いたきことを、永きにわたって行いうるようになしおかざりしは、いかに愚かなることなるぞや※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)しかもそれが功績を尊重せずになされるならば、ただそれを受ける者に恥をかかせるばかりで感謝の念はいだかせない。暴君たちは自分が不正に抜擢重用した者どもの手によって、やがて人民の恨みの血祭りにされた。こういう破廉恥な連中は、その不当に得た財宝の所有を、さきにそれを自分に与えた人を侮辱し憎悪するように見せかけることによって確保することができると考えるからである。またそうやって、一般の判断意見に加わることも出来るからである。
* 例えば、裁判や刑罰などは高等法院に行わせ、王自身は大赦の権だけを保留している。こういう王者の狡猾にモンテーニュはすでに気がついている。ラ・ボエシの「奴隷根性」の所論と一脈相通ずるものがある点に注意すべきであろう。
 過度な恵与をする帝王の臣下は過度の要求をする。彼らはその身をはかるのに理性に訴えないで先例による。実は我々も、しばしば自分の厚かましさに恥じ入ることがある。報酬が我々の奉仕と等量のときは、公正に考えれば我々は報いられ過ぎているのである。だって我々は自然の義務によって、何かを彼に負うているではないか。もし彼が我々の費用の全部を持つならば、彼はその度を過しているのだ。ただ補助してくれれば十分なのである。この過剰がいわゆる恵与だが、これは我々の方から要求すべきものではない。まったく恩恵〔リベラリテ〕という語そのものが、自由勝手〔リベルテ〕という意味をうちに含んでいる。ところが我々の欲ばりには際限がない。貰ったものはもう勘定に入れない。ひたすら将来の恩恵ばかりあてにする。だから帝王は恩恵を施しつつだんだんと衰微していくにつれて、まただんだんと腹心の友を失うのである。
* 君主は、人が選択して奉戴するものではない。我々はその人の国に生れたという偶然によって、彼と君臣のつながりを持つのである。この関係は父と子を結ぶ関係と同じに考えられる。従ってそこには同様の「自然の義務」が生ずるのである。第一巻第二十八章二四八頁参照。
 (c)満たされれば満たされるほど増加するばかりの欲望を、どうして帝王は満足させることができようか。ひたすら得ようとばかり思っている者は、かつて得たもののことはもう忘れている。欲ばりに最も特有な性質は恩知らずである。キュロスの例もこの場合に不適当ではないであろう。それは当今の王様がたにとって、彼らの恵与が果してよく用いられているか・わるく用いられているか・を知る試金石になるであろう。そして、いかにこの皇帝が彼らよりも有効に恵与したかを示すであろう。今いったようなわけからこんにちの王様がたは、けっきょくその未知の臣下から、むかし恩恵を施したことのある臣下からよりもむしろ今まで冷遇した臣下の方から、借金をしなければならなくなっている。したがって彼らからは、ただ名目だけのご用金を受けるばかりなのである。クロイソスはキュロスに向って、その気前のよすぎることを咎めた。そしてもし彼がその手のひらをもう少しすぼめたならば、その財宝がどのくらいの額に上るであろうかを計算して見せた。キュロスはその恩恵のむだでないことを証明したく思った。そして四方八方彼がむかし特に抜擢重用したことのある豪族に向って急使を立て、自分の急を救うためにそれぞれできるだけの金を献ずるよう、そしてあらかじめその金額をいってよこすように頼んだ。やがて皆の明細書がとどけられた。彼の腹心たちはそれぞれ、自分たちがかつてキュロスに恵まれただけを差出すのでは足りないと思い、これに自分の財産を多分に加えたので、全体の金額はけっきょくクロイソスの胸算用をはるかにしのいだ。そこでキュロスは彼にいった。「わたしは他の帝王たちに比べて財宝を愛しないのではない。むしろわたしの方が倹約家なのだ。今こそお前にもわかるだろう。わたしがいかに僅かな元手でこんなに多数の朋友から計量しがたいほどの財宝を得たか。いかに彼らが、義理も人情もない奉公人なんかよりはるかに忠誠な財務官であったか。実際わたしの財産は、他の帝王たちの憎悪や嫉視や軽蔑の的となる金箱の中よりも、はるかにすぐれた場所に保管してあったのだ」と。
 (b)ローマの皇帝たちは次のように言ってその公の競技や演芸などの贅沢について弁解した。すなわち「自分たちの権威はある意味において(少なくとも外観上は)、ローマ国民の意志に基づくのであるが、この国民は常にこの種の催しや豪奢によって懐柔されて来たのだ」と。けれども、こういう習慣を作ったのは、むしろ私人たちの方であった。彼らはもっぱら身銭を切って壮麗な催しをし、その同胞市民をよろこばしたのである。だから統治者たちの方がそれを真似るようになってからは、すっかりその趣がかわってしまった。
 (c)※(始め二重山括弧、1-1-52)金銭をその正当なる所有者より取り上げてこれを外国人に与うるは、決してこれを恵与と考うべからず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。フィリッポスはその子が贈り物によってマケドニア人の心をおさめようと試みたとき、手紙を送って次のようにこれを叱責した。「何ということだ。お前はお前の臣民たちから、彼らの財産の管理人と思われたいのか。彼らの王と思われたくはないのか。臣下の心を得ようと思うならば、徳を施すことによってこれを得よ。お金を施すことによってしてはならない」と。
 (b)けれども闘技場の真中に、枝を張った緑の色濃いたくさんの大木を美しい対照に移し植えて、こんもりと茂った大森林をかたどり、最初の日にはそこに千の駝鳥と千の鹿と千の牝鹿とを放して人民が狩りたてるのにまかせ、次の日には人民の面前で百の大獅子・百の豹・三百の熊・をうち殺し、三日目には皇帝プロブスがしたように三百組の剣闘士をしてたおれるまで戦わせたのは、まことに壮観であった。これらの円形競技場が、その外面は大理石で張りめぐらされ、さまざまの浮彫や立像で飾られており、内部もまたさまざまの稀な飾りつけに照りはえているのを見るのも、また壮観であった。

見よ、これなる劇場のまわりは宝石をもて飾られたり。
見よ、これなる大扉は燦然として金色に輝けり。
(カルプルニウス)

それにその広々とした空間にのぞむ各面には、その最低部から最高部にいたる間、六十ないし八十の・やはり大理石で作られ・その上をクッションで掩われた・階段がしつらえられ、

恥をしるならば去れ、と彼はいいき。
法によりて定められたる百エクェストルを払わざるならば、
騎士のために定められたるこの席を去れかし。
(ユウェナリス)

そこには十万の人がゆっくりと並ぶことができた。競技が行われる底部の土間は、まず第一に、巧みにその口をあけて、さながら洞窟のように、そこから観覧に供せられる動物を吐き出す。つづいて第二には、いつしか深い海と変ってたくさんの海獣を送り出す。それに軍鑑も浮んで海戦の有様を示す。第三には、そこが再び平坦になり乾燥して剣闘士仕合の場となる。そして第四には、朱と蘇合香ストラックスとを砂の代りに敷きつめ、そこにこの限りない群衆のための盛大な宴会を催す。これが一日の最後の幕である。

幾度か我らは見き。土間の一部が沈下して、
そこに開ける谷間より猛獣躍り出で、又、
サフランの樹皮をつけたる黄金の樹々の現わるるを。
ただに円形劇場に森の獣を見しのみならず、
熊の格闘の間に、おっとせいや、
海馬の恐ろしき一群の現われずるをも見たり。
(カルプルニウス)

 あるときはまた、人はここに、様々の果樹や緑したたる樹々に掩われた高い山をそびえさせ、その頂上からはこんこんと泉から溢れ出るように一筋の小川を流れ出させた。あるときはここに大きな船が現われた。その船は独りでに二つに割れ、その横腹から四、五百の闘獣を吐き出したかと見ると、独りでにまた元のように閉って消えうせた。またあるときはこの競技場の底からあまたの噴泉をほとばしらせた。それは限りなく高くあがって、あの大勢の人々の袖をうるおしまたかおらせた。天気の影響を避けるために人々はこの広い場所に、あるときは縫いを施したの天幕を、あるときはまた他の色どりの絹を張りわたした。そしてそれを思いのままにひろげたり引込めたりした。

燃ゆる太陽は円形劇場をやくとはいえ、
ヘルモゲネス現わるるや、人、幕をあけたり。
(マリティアリス)

 あの放たれた獣の狂暴をよけるために見物人の前に張りめぐらされた網もまた金の糸で編まれていた。

網もまたその編まれし金もて輝けり。
(カルプルニウス)

もしこのような豪奢の中にも何か許すべきものがあるとすれば、それは創意と珍しさとが感嘆させるものであって、その浪費ではないのである。
 こうしたつまらない催し事の中にも我々は、いかにこれらの世紀が我々の才知とはちがった才知に豊かであったかを発見する。だがこの種の豊作も自然の他の諸産物のそれと同じことである。あの時代が自然の最盛期であったといってはいけない。我々は決して前にばかりは行かない。むしろさまよう。いや、あちらこちらとめぐりにめぐる。我々はもと来たかたに立ちもどる。どうやら我々の知識は、どっちをむいても足りないのではあるまいか。遠くの方も後ろの方もほとんど見えはしない。我々の知識はきわめて狭くほとんどつづかない。時間においても内容においても短く狭い。

アガメムノン以前にあまたの英雄ありき。
されど我らは彼らに涙をそそがず。
深き闇、それらを我らにかくせばなり。
(ホラティウス)

トロヤの戦、トロヤの壊滅の前にも、
あまたの詩人ありて、他の数々の勲功を歌いき。
(ルクレティウス)

 (c)それからソロンの物語、彼がエジプトの僧侶たちから彼らの国の歴史が古いことや、諸外国の歴史を研究し記録する方法を学んだという物語も、この際しりぞけることのできない証拠であると思う。※(始め二重山括弧、1-1-52)もしも我らに、我らの精神があちこちとさ迷いて、到底その眼をとむべきよりどころもなき茫々ぼうぼうたる地域と世紀とを見極むる力あるならば、我らはこの広大無辺のただ中に数限りなき物事を発見することとなるべし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (b)よし過去について我々に伝えられている事柄のすべてが真実であり、またそれが我々の誰かに知られているにしても、知られずにいる事柄にそれらを比較したら無も同然であろう。そして、我々がそこに存在する間、我々と同じく流転してやまないこの世界の姿については、最も詮索せんさくずきな人たちの知るところさえ、何と狭く小さなものであろう! しばしば偶然によって模範的な重大なものになる個々の出来事についてばかりではなく、大きな国家や民族の移り変りについても、我々がやっと知っている事柄の百倍もの事柄が知られずにいるのである。我々は我々の火砲や印刷術の発明を奇跡だと騒ぎたてたが、世界の他のはしっこにあるシナにおいては、人々は千年も前からそれを用いている。もしも我々が世界について今知らないでいるだけのものをやがて知るようになるならば、おそらく我々は万物が不断に増加変遷しつつあることを悟るであろう。自然から見れば唯一の稀有なものなど一つもないわけだが、我々の知識から見ればいかにもそれがありそうに見える。けれどもこの我々の知識は我々の規則の哀れな根拠にすぎず、とかく我々に物事についてはなはだ間違った姿を示すのである。我々が今日我々自身の無力と堕落とからひき出す論拠によって、世界の堕落と衰微を結論してもだめであるように、

我らの時代には昔の力なく、
地にもまた昔の豊かさなし。
(ルクレティウス)

次に挙げる詩人が、彼の時代の人々がもろもろの芸術において新鮮な創意に満ち満ち、精力あふれるばかりであることから、「世界は今生れたばかりで若々しい」と結論したのもまちがっている。

按ずるに、世界は生れていまだ久しからず。
すべては今生れしばかりなり。
されば現にある芸術は目下進歩の途上にあり。
特に航海術は日一日と進歩しつつあり。
(ルクレティウス)

 我々の世界は近頃もう一つの世界を発見した(誰にこれが世界の一番末の弟であると断言できよう。デモンたちも巫女みこたちも我々も、つい今の今までこの存在を知らずにいたではないか)。それは我々の世界にくらべて小さくもなければ空虚でもなく、同様に五体そろってはいるがほんのぼうやであるから、我々はいまなおそれにそのABCを教えつつあるところである。それは五十年前とはいわずつい昨日まで、文字も重さも長さも衣服も麦もぶどうも知らなかったのである。それは母たる自然の膝の上になお全く裸で、ただ自然の哺育ほいくだけで生きているのである。もし我々の世界の終末説が正しく、あの詩人〔ルクレティウス〕がその世紀を若いと結論することが正しいとすれば、この新世界は我々の世界が全く闇に没したときに始めて明るみに出ることにならなければなるまい。そうなると宇宙は半身不随となろう。一方の足はきかなくなり、もう一方の足はぴんぴんしているということになろう。わたしは大いに恐れる。我々の不随が伝染してこの新世界の衰えと破壊とをはなはだしく早めることになりはしないか、我々の思想芸術をあまりにも高価にそこに売りつけることになりはしないかと。それは幼い世界であった。だが我々は、我々の才能や生れつきの力によって彼をむちうつことも我々の規律に従わせることもしなかった。我々の正義と慈愛によって彼を手なずけることも、我々の寛仁大度によって彼を心服させることもしなかった。そこに住む人たちの返答や彼らとの交渉の大部分は、彼らが生れつきの利発さにおいて又その正しさにおいて、すこしも我々にまけないことを示している。クスコやメキシコにおける諸都市の驚くべき壮麗さといい、その他王様のお庭の中にはすべての樹木・すべての果実・すべての草が普通の庭におけると同じような配置と大きさに従ってすべて黄金で作られていることといい、またそのお部屋の中にも、ご領内に生れるあらゆる海陸の動物が、やはり金で作って並べられていることといい、彼らの石や羽毛や木綿や絵具を用いて作った作品の美しさといい、いずれも、彼らが技芸においてもまた決して我々に劣らないことを示している。けれども信心や、法律の遵奉や、慈悲や恵与や、忠節や率直となると、我々はそれらを彼らほどに持たないために得をし、彼らはその点で我々より優れているためにかえって損をし、売られたり裏切られたりした。大胆や勇気について、苦痛や饑餓や死に対する覚悟我慢について、わたしは彼らの間に見出す幾多の実例を、我々のこちらの世界において記録されている古代の最も有名な実例と、比較することをあえて辞さないであろう。まったく我々は、一方において彼らを征服した連中〔スペイン人〕からは、彼らを欺くがために用いた詭計策略を取り除き、他方において新世界の人々からは、言葉といい宗教といい容貌態度といいまったくちがう髭むじゃの人間〔スペイン人〕が、思いもかけずあれほどに遠い・彼らが人が住むとも思わなかったほど遠い・ところから大きな見知らぬ怪物〔馬〕に乗って攻めよせてくるのを見たときの、その無理からぬ驚きを取り除いた上で、両方をくらべて見なければならないのである。彼らはそれまで馬ばかりでなくすべて人間や貨物をのせるように仕込まれた動物などは、見たことがなかったのだ。一方はぴかぴかした堅い皮を着込み、手には鋭い光る武器を携えた人々であり、一方は鏡や小刀の光を不思議がって金銀や真珠のような立派な宝物と交換しようとした人々、やすやすと我々の甲冑かっちゅうを突き貫くことのできるような知識も器材も持たない人々であったのだ。それに我々の鉄砲や大砲の万雷のような響きも考えに入れなければならない。カエサルだってそれに無経験であったら、彼ら同様びっくり仰天したに違いない。またこのときの相手は、当時やっと木綿の織物を考え出したばかりの一地方の民を除けば、裸の人民であった。武器にしても、せいぜい弓・石・棒・(c)木製の楯・(b)くらいのものだった。彼らはまだ見ぬ珍しい物を見たいという好奇心をもったばかりに、我々の友愛と誠実とをにうけて不覚をとったのである。よろしいか。これだけの差別を取り除いて見たら、あの征服者たちだって、とてもあれほどの勝利を得ることはできなかったであろう。数万の老若男女が、あれほどにおさえ難い熱心さをもって、その神々やその自由を譲るために、あんなにしばしば避けることのできない危険に挺身したのを見るとき、あのように気高い忍耐をもってあらゆる艱難辛苦に堪えたのみならず、あんなに卑怯にも自分たちを欺いたものどもの支配に屈するよりは進んで死を選んだのを見るとき、いやそのある者が、捕虜になると、そのように卑劣な勝ち方をした敵の手から食を与えられるよりは、むしろ飢えて死ぬ道を選んだことなどを見るとき、わたしはあえて予言する。もしも武器・経験・人数において対等な戦いをしたのであったら、それは我々旧世界のものどもにとって、我々の知っている他のどんな戦にも劣らず、いやそれ以上に、ずいぶんと危険な戦争であったであろうと。
 なぜアレクサンドロスの時代に、ギリシア・ローマの時代に、こういう高貴な征服がなされなかったのだろう! どうして、野蛮なところはこれを静かに洗練し・自然が産み出したよい種子はこれをどこまでも守り育てた・であろう手の下に、ただ土地の開墾と都市の美化の上に必要に応じてこちらの芸術を加味するだけでなく、その土地固有の徳の上に更にギリシア・ローマの徳をも加えたであろう手の下に、こういう帝国と民族との一大変動が成就されなかったのだろう! もしかの地で示された我々の最初の行動模範が、これらの人民を徳の賛美と模倣とに導いたならば、そして彼らと我々との間に兄弟のような親愛と理解とを作り立てたならば、それはわが地球全体に対してどんなに大きな向上発展となったことであろう! このようにうぶな・このように知識に飢えた・そして大部分はああいう立派な将来を約束する・人々を世界のために善用することは、どんなに容易なことであったろう! ところが我々は、彼らの無知と無経験とを利用して、まんまと彼らを裏切りと奢りと貪欲とに、あらゆる非道と残忍とに、我々の生活をお手本にして導いてしまった。誰がかつて、通商交易のためにあれほどの高価を支払ったか。ただ真珠と胡椒こしょうの商売のためだけに、あんなに多くの都市がなぎ倒され、あんなに多くの人民が皆殺しにされ、幾千万の人民が剣のさきに貫かれ、世界中で最も美しく富んだ地方がふみにじられたのだ。何という卑しい勝利だろう! いまだかつていかなる野心も、またいかなる国家間の不和も、これほど恐ろしい怨恨、これほど悲惨な不幸に、人々を陥れたことはなかった!
 かの地の鉱山を求めて岸に沿って航海しながら、あるスペイン人たちは、ある肥えた・景色のよい・住む人もきわめて多い・一地方に上陸した。そしてその人民に対してお定まりの布告をした。「我々はカスティリヤの王の命をうけて遠い旅をしてきた平和の民である。我々の王は人の住むところを通じて最も偉大な帝王であって、地上に神を代表しているところの法王から全インドの支配権を与えられたのである。もしお前たちが彼に貢を納めることを承知するなら、きわめてねんごろに待遇されるであろう」と。そして彼らに糧食を要求し、また薬を作るからといって黄金を要求した。そのうえ唯一の神の信仰と我々の宗教が真理であることを教え、多少の威嚇を加味しながら、この信仰を受け入れるように勧告した。ところが彼らの答は次のようであった。「平和の民と仰せられるが、どうもそういう顔つきには見えない。お前さんたちの王様もそのような要求をなされるからには、貧乏で窮迫しておられるに違いない。彼に我々の国土を与えた法王とやらは、おそらく喧嘩ずきな男に違いない。自分の物でもないものを第三者に与えるなんて、畢竟ひっきょうお前さんたちの王さんと従来の所有者とを喧嘩させたいからであろう。食糧品などはくれて進ぜよう。黄金なんて、我々はほとんど所持していない。それは我々が少しも珍重しないものだ。それは我々の生活には無用だからである。我々の願いは、一にかかって幸福に楽しく一生を暮すことにあるのだ。だからお前さんたちの方でそれを発見したら、それが我々の神々に供えられたものでない限り、遠慮なく持って行くがよろしい。唯一の神については、お前さんたちの説くところは面白かったが、我々の宗教も、今まで長い間これほど有難く奉じて来たのであるから、今更変える気は毛頭ない。我々は近親友人以外の者の勧告をきくことに慣れていないのだ。威嚇にいたっては、まだその性質も力量も知らない者を脅すなどは、判断の足らない証拠である。だから、さっさと我々の土地を撤退されるがよい。まったく我々は、武装した外国の人々の宣言だの礼譲だのを、好意的に解するに慣れていないのである。言うとおりにせられぬにおいては、これらの人たちと同じ目にあわせるぞよ!」といって、彼らの都市の周囲にかけられたさらし首を指さした。これがいわゆる幼稚な人民の片言の一例である。しかしそれはともかく、この地でも、またほかのいろいろな土地でも、スペイン人は、その求める品々を見出さなかったので、ほかにいくらかよいものもあったにかかわらず、そこに駐屯もせず戦争もしなかった。こうわたしの人食人たちは証言した。
* 一五六二年モンテーニュはルアンにおいて人食人にあい、その一人と会話した。第一巻第三十一章解説および同章の終りのパラグラフ参照。要するにこの人食人の返答は、モンテーニュの痛烈な社会時評政治批判である。例えば法王がスペイン王に、インド掠奪の公許を与えたということも事実だし、この後につづくいろいろ奇怪な事柄も、当時のヨーロッパ人がそれぞれ実行したことなのである。だがそれ以上に困ったことは、このモンテーニュの社会時評が、今日の政治、宗教、裁判にも、決してあてはまらなくはないということである。
 この新世界における最も偉大な二人の帝王、いや、おそらくは我々の世界につれて来ても最も偉大な王といえるであろうところの二人、王者の中の王者二人を、彼らスペイン人は、最後にとうとうその位から引きおろした。その一人であるペルーの王様は、戦争中捕えられて、とても信じられないほどの莫大な身代金を科せられたが、それをちゃんと支払ったばかりでなく、その返答の中に、その心の素直で情けぶかく我慢強いこと、理性もまた明晰で整っていることを証拠だてた。ところが勝者の方では百三十二万五千五百貫の金塊と、それに下らぬほどの銀その他の物を取上げた上に(それ以来彼らの馬は黄金の蹄鉄をつけたくらいである)、さらにどんな不信をあえてしても、この王様の財宝の残りがおよそどれくらいあるかを知りたくなった。(c)そしてそれを自由に使いたくなった。(b)すなわち人々は、「彼は自由の身となりたくてその諸地方を謀反むほんさせようとしている」という嘘の告訴と証拠とをでっち上げた。そうしておいて、この虚偽をでっち上げた当の人々の御立派な判決によって、彼を公衆の前で首吊りの刑に処した。それでもこれは、その処刑の場所で無理に洗礼をうけさせたから、火焙ひあぶりの刑より一等を減じてやったのだという。実に前代未聞のおそろしい事ではないか。だがしかし、王は顔色をも声音をもかえることなく、いかにも王様らしい堂々たる態度でそれに堪えた。そこで人は、この筋の通らない事柄にびっくり仰天している彼の人民を慰撫するために、さも彼の死を大いにいたむようなふりをし、彼のために壮麗な葬儀を命じた。
 もう一人の方すなわちメキシコ王は、長いあいだ攻囲された自分の城を守り、そこで強情我慢のなしうる限りを示した。それは未だかつていかなる君主も人民も示したことがないほどのものであった。だが不幸にも彼は、王として遇せられるという条件で、その敵スペイン人の手に生け捕られた(だから彼は獄中にあっても、王たる名にふさわしからぬ何事をも示さなかった)。人々はこの戦勝の後にここかしこをくまなく捜索したが、予期したほどの黄金を見出さなかったので、そのありかを明らかにすべくその手の中にある捕虜の上に思いつく限りの苛酷な拷問を加えた。けれども何の得るところもなく、かえって捕虜の勇気の方が彼らの責苦よりも強いので、とうとう彼らは自暴自棄になり、みずからかわした約束に背き、あらゆる人権を蹂躙じゅうりんして、王その人とその朝廷の重臣の一人とを互いに向い合せて拷問にかけた。その廷臣の方はかっかと燃える薪にとりまかれて苦痛に堪えず、ついにしおしおとして主君の方に眼をむけた。彼に向ってもうどうしても堪え得ないことを詫びるかのように。王の方はあたかもその卑怯を叱責するように、居丈高にじっと彼をにらみつけながら、激しくしっかりした声で、ただ次のようにいった。「わたしは浴みをしているか。お前よりも楽をしているか」と。前者は間もなく苦痛にうちまけ、ついにその場で息絶えた。王は半ば焼かれてそこからかつぎ去られたが、それは決して憐れみによってではなかった(まったく、なお掠奪すべき黄金をおさめた器が幾つかかくされているという当てにならない噂のために、人一人を、しかも身分と功績においてあれほどに偉大な王様を、目の前で火あぶりにして平気でいられるほどのむごい霊魂が、かつてどんな憐憫に動かされたことがあろう!)。むしろそれは、王の強情我慢が彼らの残忍をますます卑怯なものに見せたからである。彼らはその後、王が武器によって雄々しくもその長い幽囚と屈従とを脱しようと企てたとき、これを絞殺した。その最期はいかにもこの雄々しい帝王にふさわしいものであった。
 またあるときは、彼らスペイン人は同じ火で一ぺんに四百六十人を生きながら焼いた。うち四百人は庶民、六十人は地方の重だった大名たちであったが、何れもただ戦争のりこであった。我々はこれらの物語をスペイン人自身から聞いたのである。まったく彼らはそれを告白するだけでなく、自慢にしていいふらすのである。だがそれは、果して彼らの正義や宗教に対する熱誠を実証することになるであろうか。実にそれは、そういう聖なる目的にはあまりにも逆行したやり方である。もし我々の信仰をひろめることが目的であったとすれば、それは土地の所有によって広まるものではなく、人心の掌握によって広まるものであるということくらい、彼らだって考えたはずである。そして、戦争が必要とする殺戮だけで十分満足したはずである。その上さらに、平気で、まるで猛獣にでも対するように、至るところで剣と火薬のつづく限り虐殺を重ねるというようなことは、しなかったはずである。ところが彼らスペイン人の隊長たちは、わざと、鉱山やま掘りの仕事をさせるための哀れな奴隷にするだけの人数しか、生かしてはおかなかったのである。だからこれらの隊長の大勢は、せっかく彼らが征服したその場所で、カスティリヤ諸王の命によって死刑になった。そのように王たちが、これらの隊長の残忍を怒ったのはもっとも千万である。彼らはほとんどみな、人々から忌み嫌われたのである。神様がこれらの大掠奪品を、運搬の途中海の中に沈没させたり、彼ら同士の仲間喧嘩の間に散らばらしたのはさすがである。実に彼らの大部分は、その戦勝の果実を少しもうることなく、むなしく異郷の土となったのである。
 けっきょくこの利得が倹約で慎重な帝王の手中においてもなかなか先代諸王の期待にそうまでにいたらず、また人が始めてあの新領土に接近したときに見た豊富な財宝に釣合わなかったのはなぜかというと(まったく随分たくさんのものをとったのだけれども、その期待したところにくらべると、けっきょく何ほどでもなかったのである)、それはかの地では貨幣の使用がまったく知られていないから、つまり彼らの黄金はお飾り物以外には用いられず、例えば強力な王様たちが子々孫々に伝える御道具などになって全部一カ所に集まっていたから、なのである。なるほど彼ら王様たちは始終鉱山から金を掘り出しはしたが、それはただ自分の宮殿や寺院を飾るいろいろな器物や人像を作るためであって、我々の間で金が一般人に使用され取引されているのとはちがうのである。我々は金を様々な形の小片に鋳なおして分散する。我々の王様たちが、その数世紀をかけて見出しえた金のすべてをそうやって山と積み、それをしまいこんで動かさない場合を想像して見たらよいだろう。
* フェリーペ二世。この人は Philippe, le Prudent(El Prudente)と呼びなされた。
 メキシコ王国の人々は、かの地の他の民族にくらべれば、幾分か文明であり芸術家である。だから彼らも、我々と同様に宇宙はその終末に近づいたと判断し、我々がそこにもたらした荒廃をその前兆であるとした。彼らの信ずるところでは、世界の生命は五つの時代、相つぐ五つの太陽の寿齢に分たれる。そのうち四つの太陽はすでにその寿齢を終り、今日照らしているものは第五の太陽である。第一の太陽は、全世界を掩う大洪水のために他のすべての被造物とともに滅びた。第二の太陽は、天が我々の上に落ちすべての生物をおし殺したときに滅びた。それは、彼らのいうところによると、巨人の時代である。彼らはその骨格をスペイン人に示したが、その大きさから推すと、当時の人は身の丈二十ポーム〔一ポームは手の平の幅〕に余ったらしい。第三のは万物を焼き尽した火によって滅びた。第四のはあまたの山々をさえ打ち倒した大あらしによって滅びた。人間はそのつど滅びなかったが、しかし尻尾のない猿に変えられた(あきれるではないか、人間の軽信はどんな教えをも本気にする!)。この第四の太陽が死ぬと、世界は二十五年の間、長い闇の中にあった。その十五年目に、人類を再興する一対の男女が作られた。それから十年後のある日、新しく造られた太陽が現われた。そしてそれ以来、この日を起点として彼らの暦が算えられる。新しい太陽が造られて三日目に、古い神々が死んだ。それから新しい神々が日ごとに生れた。だが、この最後の太陽はどんなにして滅びると彼らは思っているのか。それについては我が著者も何も聞いていない。けれども、この第四の変化の起った年代について彼らがいうところは、約八百年前に(天文学者のいうところによれば)、世界に様々の大変化大革新を生ぜしめた、あの諸天体大会合のときと符合している。
* ゴマラの『インド通史』Lopez de Gomara: Histoire g※(アキュートアクセント付きE小文字)n※(アキュートアクセント付きE小文字)rale des Indes.
 華美壮麗にいたっては(これがきっかけでわたしはこの話を始めたのであるが)、ギリシアもローマもエジプトも、その有用なことにおいて、その建造の困難であったことにおいて、またその壮麗なことにおいて、かのペルーに見られる道路に比較できるような建造物は、ただの一つも持たないのである。この道路は、かの国歴代の諸王が建設したもので、キト市からクスコ市に至る(その間は三百里ある)・一路坦々たる・幅二十五歩の・石をたたんだ大道であって、両側には高い立派な壁があり、それに沿って内側には涸れることのない二条の流れがあり、その岸には彼らがモリとよびなす美しい樹木が植わっている。彼らは山や岩にぶつかるとこれを切り開き平らにし、谷はこれを石とセメントで埋めた。各一日行程の終点には立派なご殿があり、食料や衣服や武器を備え、ここを通過しなければならない旅人および軍隊の用に供している。この工事を評価するに当り、わたしはそれがどんなに困難であったかを考えた。その困難は、かような土地においては非常なものである。彼らは十尺四方に満たない石材は全然用いていないが、その重荷を運搬するにも、腕力に訴えるよりほかに方法を持たなかったのである。足場を組立てる術さえ知らず、建物が高くなるに従ってそれだけ土を盛り、後で再びそれを取りのけるという工夫の外は知らなかったのである。
 馬車の話にもどろう。それの代りに、いやその他すべての乗物の代りに、彼らは人の肩にかつがれて運ばれた。前に話したペルー最後の王様は、その捕えられた日、やはり金の輿こしにのり金の椅子に坐って戦場をかつがれて行った。彼を輿から落そうと(まったく敵は彼を生捕ろうとしたのである)、かつぎ手を一人一人殺すと、他の者どもが競って倒れる者の肩にかわった。幾ら次々にこれらの人々を殺しても王を墜落させることができなかったので、ついにある一人の騎士がおどり出て、彼の胴中をかかえ引きずりおろしたという話である。
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第七章 身分の高い人の不便窮屈について



 この章は第三巻の中ではめずらしくささやかな小品であるが、それはかえって、単純素朴なつつましい生活を礼賛するこの章の主旨にふさわしい。けれども上層階級の無能や朝臣の奴隷根性を憎む心、しっとりとしたつつましい私人の徳の賛美などは、モンテーニュの性格の最も根本的な特質であって、著者のそうした超俗的な・独立自主の・風貌はここに遺憾なく読みとられる。

 (b)どうせ我々には及びもつかないのだから、腹いせにその悪口を言ってやろう。だがどんなことについても、その欠点を見つけ出すということは、それ全体をそしることではない。どんな物にも欠点はある。どんなに美わしく願わしい物の中にもあるのである。一般に身分の高い人は、さがりたくなれば何時でもさがれるという・またどうやら上下いずれの境遇をもえらべるという・争われない特典を持っている。まったく、人はてっぺんから一ぺんに落ちはしないし、それに少しばかりおりたってどん底まではなかなかとどかぬ御身分だって少なくはないのである。どうも我々は、高い身分をあまりにたたえすぎるようである。そして、これを蔑視したり自分からこれを辞退したりした人々を見聞きすると、そうした決心をまたあまりにもほめすぎるようである。その本質はそう明らかに有難いものではないから、人がこれを拒んだとて別に不思議はないのである。わたしは困苦に堪えるのにはきわめて骨がおれると思うが、中位の身分に満足して高い位を逃避するのにはほとんど苦労はいらないと思う。それはわたしのような愚か者にも大した努力なしに到達できる徳であるように思われる。こういう拒否に伴う光栄までも重んぜられる方々は、そもそもどんなご苦労をあそばしていられるのか。むしろその拒否の中には、高貴な身分を欲望し享楽することよりも、かえって多分に野心が忍びこんでいるのではあるまいか。野心は間道を通る時に最もよくその思いをとげるものだと言うではないか。
 わたしはわたしの心を忍耐のためにとぎ、欲望のためにはこれを鈍らす。わたしだって人なみに願いごとはもっている。自分の願いには、やはり人なみに我儘勝手をゆるす。だがしかし、わたしはついぞ帝国や、王位や、あの人に号令するほどの高位顕官を願ったことはない。わたしはそういう方向には眼をむけない。わたしはあまりにも自分を愛している。向上出世を思うことはあっても、それはつつましく、である。勇気においても・知恵においても健康においても美においてもまた富においても、いかにもわたしらしく控え目におずおずと増加成長を思うにすぎない。かえって、あのような評判やあのように強大な権威などは、わたしの想像を圧しつぶしてしまう。だから誰かさんとは正反対で、おそらくわたしは、パリにおける第一の人たるよりはむしろペリグウにおける第二第三の人である方をよろこぶであろう。正直のところ、少なくとも、パリにおける第一の職にいるよりはかえって三番目ぐらいが望ましい。わたしは門番という下等なでくの坊と押問答することも望まない代り、群衆が土下座してわたしのお通り道を開けるようにとも思わない。わたしは自分の生れによっても好みによっても、中位の身分にならされている。(c)だから見られるとおり、わたしは毎日の生活においても何かの企てにおいても、生れながらに神様からきめられた運命の階段を、一段だって昇ろうなどとは、ついぞ願わなかったのである。自然の規定は、どれも同様に正しく守りやすい。
* ユリウス・カエサルを指す。彼は、ローマにおける第二の人であるより、田舎町ででも第一人者でありたいといった(プルタルコス『カエサル伝』)。
 (b)わたしの霊魂はこんなにも意気地なしであるから、わたしは好運というものを、その高さによって計らないでその得やすさによって計る。
 (c)けれども、わたしの心は十分に大きくない代りに、それだけあけっぴろげである。そしてわたしに、大胆にその弱さを公表せよと命じている。もし誰かがわたしに向って、一方に美丈夫で・物知りで・健康で・明哲で・もろもろの安楽を豊かにたのしみ・静かなまったく彼だけの生活を営み・その霊魂は死や迷信や悲痛やそのほか人間の免れがたいいろいろな拘束に対して備えられており・最後には戦争において武器を手にしたまま祖国のまもりのために死んだ・という、あのルキウス・トリウス・バルブスという一人の武士の生涯を示し、また他方に、誰も知らない者のないほどに高名なマルクス・レグルスの生涯とその驚嘆すべき最期とを置いて、両方を比較せよといわれるならば、すなわち名もなく位もない一生と、人のかがみとうたわれた輝かしい一生とを比較せよといわれるならば、わたしはキケロが実際これについていったところをいうであろう。キケロのようにはうまくいえないにしても。だがこの二つの生涯をわたしの生涯にくらべなければならないならば、わたしはまたこういうであろう。「前者はわたしの力にも適したところであり、またわたしが常に自分の力に相応させているわたしの理想にもかなうところであるが、後者にいたっては、わたしにはとても及びもつかない。後者はただ仰ぎ尊ぶより仕方がないが、前者にはわたしも修業すれば容易に達しうるであろう」と。
* キケロはもちろん後者レグルスをたたえたのであるが、後段に述べるところによっても、モンテーニュの生涯そのものによっても、かれモンテーニュの理想は、むしろ前者トリウス・バルブスにあったことは勿論である。
 さてまた後もどりして、この世における高い位の話をしよう。
 (b)わたしは支配が(与えるにしても受けるにしても)、嫌いである。(c)オタネスはペルシアの王位を継承する権利のあった七人の内の一人であったが、わたしもまた喜んでしそうな決心をした。すなわち、選挙によってあるいは抽選によって王位にのぼりうるその権利を、あえてその競争者たちにゆずり、その代りに、彼およびその一族が古法の支配を除くすべての支配のそとに生きることを、古法にもとらない限りのすべての自由を享受することを、こい願った。つまり支配することも支配されることも共にいやだったのである。
 (b)世の中で最もつらいむつかしい職業は、わたしの考えではふさわしく王たることである。わたしは彼らの過失に対して一般よりも寛大である。彼らの職責の恐ろしく重いことを考えるからで、それは実に驚くに足りる。あのように際限のない権力を持っていて節度を守るということはむつかしいことだ。だがしかし、天性のあまり優秀でない人々にとっては、ああいう高い位に置かれることは徳行に対するふしぎな励ましとなる。一度そこに坐ればどんな善をしても記録され語り伝えられないことはないからである。どんなに小さな善行を行ってもたくさんの人々の上に影響するからである。またその才能は説教家のそれと同様にもっぱら人民の上に施されるのであるが、これは欺きやすく・満たしやすい・不確かな審判者だからである。じっさい我々が正直な判断を下しうる事柄というものは、はなはだ少ない。大なり小なり何か特殊な利害関係をもたない事柄というものはないからである。上位と下位、支配と服従との間には、自然にそねみといさかいとが生じ、両者は永遠に相争わざるをえないのである。わたしはそれぞれが主張する権利のどっちも信じない。決定はこれを理性にゆだねよう。理性こそ、我々がよくこれを使いこなすならば、曲げられない冷静な判断をする。わたしはつい一月ばかり前に、この問題について議論しあっているスコットランド人の二著を通読した。民主主義者は王をば車ひきにも劣るものとした。尊王主義者は彼をその至上の大権において神より幾ひろも上においている。
 さて高位の不便窮屈ということは、ふとした動機がもとでわたしがここに取り上げることになったのだが、それはこういうことなのである。およそ人間同士の交際においては、我々が、あるいは肉体あるいは精神の働きの上で、お互いに名誉や功績を張り合ってする力試しぐらい面白いものはあるまいのに、至尊の高位にあるお方は、本当にはそれにあずかることができないということである。わたしはあまりに尊敬が過ぎるとかえって王侯を侮蔑し傷つける結果になると思ったことが、ほんとうに度々あったように思う。まったくわたしも少年のころに、角力すもうの相手がわたしをむきになってたおすには足らないと見て、わざと本気でかかって来ないのを限りなく不愉快に思ったことがあるが、それが王侯がたにとっては毎日始終のことなのである。みんなは殿様を相手に本気にやっては悪いと考えているのだ。殿様がたが少しでも勝利にあこがれている様子に見えようものなら、それを彼らに貸し与えようと努めない者はない。彼らの光栄を傷つけるよりは自分のそれをすてることの方を好まない者はない。人はただ彼らの顔をたてるのに必要な努力だけしかしないのである。合戦の場において、そもそも彼ら王様方はどれだけの働きをするか。家来が皆して彼らにかわって戦っているだけなのである。彼らはむしろ、あの神通力と不思議な武器とをもって仕合や戦闘にのぞんだ昔々の遊歴の騎士みたいに見受けられる。ブリッソンはアレクサンドロスと競走をしたが、わざと負けた。アレクサンドロスはこれを叱りつけたが、むしろむちうたしめてしかるべきであった。これにちなんでカルネアデスはこんなことをいった。「王侯の子どもは、馬術以外には何一つ本当に習得しない。ほかの稽古においては、いつも皆が彼らに負けてやり彼らに勝をゆずるからである。だが馬という奴はおべっかをつかうことも知らないし朝臣でもないから、王様のお子様だろうが人夫の伜だろうが見さかいなく振りおとす」と。ホメロスはあのなまめかしく優しい女神ウェヌスがトロヤの戦いで傷をこうむることを承認したが、これは彼女に勇気と大胆とを賦与するためにはやむを得なかったからで、これらの特質は危険を免除されている者にはとうてい持ち合わされないのである。人が神々に、怒ったり・恐れたり・逃げたり・互いに嫉妬したり・愁嘆したり・恋愛したりさせるのは、人間界の諸徳をもって彼らをいやが上にも貴くするためで、これらの諸徳は、以上の諸欠点があればこそ我々の間に養われるのである。危険や困難にあずからない者は、危険の多い諸行為に伴う名誉や快味を要求する権利はない。何が起っても万事が君に畏れ服するというような権力を持つとは、実はなさけないことなのである。君の運命〔身分〕は、親交親睦を君から余りにも遠くにしりぞける。君を余りにも独りぽっちにする。このようにやすやすと少しも抵抗にあわずにすべて思いどおりになし得るという力は、あらゆる快楽の敵である。それは滑るのであって行くのではない。眠るのであって生きるのではない。全能の人間を想像して見たまえ。それこそ世にも哀れなものである。彼は腰を低くして、ひたすら妨害と抵抗との施しを乞わずにはいられまい。人間の本性と幸福とは不如意の中に存する。
* 「ふとした動機」というのは何であったか。アルマンゴーの推定によれば、一五八五年アンリ・ド・ナヴァールがクートラで勝利をえた前後、彼がグラモン未亡人との間の恋愛に、ややもすれば国事を忘れがちであったことに対する、人々の憂慮を指すものであろうということである。その根拠には一五八五年一月十八日マティニョン元帥宛のモンテーニュの書簡があげられる。白水社版『モンテーニュ全集』第四巻所載「書簡」21およびその解説参照。
 王侯の良い特質は滅びて無くなった。まったく、それらはただ比較によって感ぜられるにすぎないのに、人はそれらを比較の外に置くからである。彼らはあのように絶えまなく紋切型の賞賛を聞かされているから、真の賞賛というものをほとんど知らない。臣下の一番愚かな者を相手とする場合にも、これに勝つたよりをまったく持たないのである。「だってあれは王様だからね」といえば、「わざと負けてやったのさ」という意味に十分なるらしい。この王という肩書は、他の本当の特質をみんな殺してしまう。これらの特質は、みな王たることの中に埋れてしまう。王は王たることに直接関係をもちこれに役立つ行為、彼らの職務上の行為だけしか、誇ることを許されない。王であることは実にたいしたことであるから、彼はただ王であるだけである。彼をつつんでいるこのつけたりの光輝は彼を隠し、彼を我々の眼から奪う。我々の視線はこの強いまぶしい光に遮られて、そこで折れて飛び散ってしまう。元老院はティベリウスのために雄弁賞を命じた。彼はこれをことわった。彼は真に自分が雄弁であるにしても、そういう自由の無視せられた判断をよろこぶことはできないと考えたからである。
 人は王侯にあらゆる名誉の優越をゆずるとともに、それだけ彼らの欠点や不徳を助長し許容する。人はそれらを賞賛するばかりでなく模倣する。アレクサンドロスのお供たちは、みな主人を真似して首をかしげていた。ディオニュシオスにへつらう連中は彼の目の前で互いにぶつかり合い、足下にあるものを蹴飛ばしたりうち倒したりした。「我々もわが君と同じく眼が悪うございまして……」といわんばかりに。脱腸もまたときに主君の愛顧を得るに役立った。わたしはわざと聾をよそおう人たちを見たことがあるが、プルタルコスは朝臣どもが、わが君はお妃を憎ませられるからと、自分の愛する妻を離別するのを見たそうである。それどころではない。淫蕩もまた重んぜられた。すべての乱行、例えば背信も悪口も残忍も、また異端も、いや迷信も無信仰も惰弱も、もっと悪いことまで(それがあるとすれば)、重んぜられた。そういう真似は、ミトリダテスのおべっか使いどもが、主君は名医の誉れを望んでおられるからと、自分たちの体を彼が切ったり焼いたりするのに委せたのよりも、一そう危険である。まったくある人たちに至っては、より貴い・より微妙な・部分すなわち自分の霊魂までも、主君の焼灼しょうしゃくに委ねたのである。
 だが最初の問題によってこの章を結ぶとしよう。皇帝ハドリアヌスが哲学者ファウォリヌスと、ある語の解釈について議論したとき、ファウォリヌスはさっさと勝利を皇帝にゆずった。彼の友だちが彼に向ってこれを咎めたところ、彼は答えた。「冗談いっちゃあいけない。皇帝は僕よりも学者でないと言うのかね。皇帝は三十軍団に長たるお方なんだぜ」と。アウグストゥスがアシニウス・ポリオをそしる詩をものした。「わたしは黙っていよう」とポリオはいった。「追放の権力がある人とはり合うのは賢明でない」。二人とももっともである。まったくディオニュシオスは詩においてフィロクセノスに並び得ず、文章においてプラトンと並び得ないので、一方は石を負う刑に処し、もう一方はアエギナ島に奴隷に売った。
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第八章 話合いの作法について



 この章はいわゆるオネトム honn※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)te homme(前出三の三、九五七頁註参照)が社交上守らなければならない規則、特に避けなければならない箇条々々についてもっぱら述べている。このように全章を一つの主題で貫いているのは、モンテーニュのエッセーとしてはめずらしい方である。
 だがこの章は標題 l’art de conf※(アキュートアクセント付きE小文字)rer が示すように、単なる社交会話の技術 l’art de converser を説いているだけではなく、議論・論証の術 l’art d’argumenter, de raisonner をも説いているのである。conf※(アキュートアクセント付きE小文字)rer という語にはこういう二つの意味が含まれている。モンテーニュはここにいよいよ随筆家としての芸術性を発揮し、その座談はまことに流暢平易であるが、その根底にはやはり著者のがっちりした理性主義が横たわっていて、いわゆるインチキな衒学者をこき下すこと実に痛快をきわめながら、真の学問の在り方を説き、真理に到達する誤りなき方法の発見に努めている。「わたしの理性は折れ曲るように仕込まれていない。そうしつけられているのはこの膝だけである」というのは、決して単なるオネトムの言葉ではない。真理のためにはどんな権威の前にも屈しないという烈々たる学者としての気魄がそこに感じられる。パスカルはモンテーニュから常にいろいろなことを教えられながら、あまり『随想録』の著者をよく言っていないが、この章にはさすがに感心させられたものと見え、その※(始め二重山括弧、1-1-52)幾何学の精神※(終わり二重山括弧、1-1-53)に関する小論文の中で※(始め二重山括弧、1-1-52)incomparable auteur de l’art de conf※(アキュートアクセント付きE小文字)rer※(終わり二重山括弧、1-1-53)(比類なき議論術の著者)といって彼をほめている。
 ところでわれわれは民主主義国民となってから、自分を披瀝したり主張したりする機会が急に多くなったが、それらの場合に処する礼儀作法も討論の方法もまったく知らないように見える。この点においてわれわれはまだまったく野人であって、まだまだ文明人の域にほど遠い感がある。われわれはいわゆる社交生活においてのみならず、家庭会議においても学校の自治会においても国会においても、またいうところの「団交」においても、ひとしく次に述べられているくらいの会話ないし議論の仕方は守らなければなるまい。そういう意味で、この章は特にわれわれにとって貴重な頁であると思う。

 (b)ある人たちを他の人たちへの見せしめのために処罰するというのが、我々の裁判のしきたりである。
 (c)彼らをただあやまちをしたからといって処罰するのは、プラトンもいったとおり愚の骨頂であろう。まったく、してしまったことは取り返しようがないのである。むしろそれは、彼らに二度と再び同じ過ちをさせないため・また他の人たちを同じ目にあわせないため・にするのである。
 (b)人を絞首刑にしたってその人は直らない。その人によって他の人々を直すのである。わたしも同様にする。わたしの誤りはもはや身にしみついた・なおしようのない・ものになっている。けれどもわたしは、オネトムたちが模範を示して世を益するのと同じように、わたしを避くべき例として示すことによって、おそらく人を益するであろう。

見よ、アルピウスの子がいかに窮乏し、
またバルスがいかに貧乏したるかを。
そは、我らに遺産を粗末にすなとの
こよなき手本なり。
(ホラティウス)

わたしの欠点を人々の前に公表し告発すれば、誰かがその恐るべきことを学ぶであろう。わたしがわたしのうちに最も高く評価している諸特質は、わたしを推賞しないでわたしを告発すればこそ、いよいよもって尊ばれるのである。だからわたしは、とかく自分の告発に立ちもどり、そこに足をとめる。だが詮ずるところ、自分について語る者はいつも損をする。自責は常に信じられ、自賛は決して信じられない
* この句の意味はおそらくこうであろう。「モンテーニュが自分のうちに最も尊重している特質といえば、記憶のよさでも、学識の広さでも、弁舌の巧みさでもなく、理性の明徹、判断の正当さであろう。そうした特質は、自画自賛をせず、むしろ自分を告発し、自分を責める。それでこそいよいよその人の判断理性は立派なものなのだ。そう思って益々モンテーニュは、断然理性を自己批判のために用いる。だが世間的評判をえるには、これでは損である。世間では、自画自賛が案外軽率に信じられ、謙遜な正しい自己批判は、その人をただ欠点だらけの人と思いこますだけである」。事実モンテーニュは、みずから語り、しかも謙遜に語ったために、非常に損をしている。モンテーニュに関するあまり芳しくない伝説の半分はここから生れている。
 わたしはならうよりも逆らうことによって・従うよりも避けることによって・学んだが、世にはわたしと同じ性向の人もかなりあるらしい。大カトーもこの種の修業をさして、賢者の愚者に学ぶところは愚者の賢者に学ぶところよりも多いといったのである。またパウサニアスが物語るところによると、あの古代の琴弾きは、その弟子たちをお向うに住むまずい楽人の調べをききにやっては、そこに不調和と狂った拍子とのいかに憎むべきかを学ばせたという。残酷の恐ろしさはわたしを寛容におしやった。それは寛容のいかなる模範よりも有効であった。馬の上手はわたしの姿勢を直さない。かえって弁護士やヴェネツィア人の下手な乗馬姿の方がためになる。そして悪い言葉づかいの方が、よい言葉づかいよりもかえってよくわたしの言葉づかいを改める。毎日、誰かのばかげた態度がわたしに警告する。ちくりとする物の方が快いものよりも胸を突き心をさます。現代は協和によってよりも不和によって、似ようと思わせるよりも異なろうと思わせることによって、逆方向に我々をめ直すことができるだけである。わたしはよい模範によって学んだことがほとんどないから悪いお手本を用いるが、これによって教えられることはしょっちゅうである。(c)わたしは不機嫌な人を見るごとに、それだけ自分は愉快な人になろうと努めた。柔弱な人を見るとそれだけしっかりした人になろうと努め、激しい人を見ればそれだけ穏やかになろうと努めた。だがけっきょく、それはわたしにとって遂げがたい望みであった。
 (b)我々の精神を鍛練する最も有効で最も自然な方法は、わたしの信ずるところでは対話会談コンフェランスである。わたしはそれをすることを、人生のほかのどんな行為をすることよりも愉快に思う。だから今もしどちらかを選ばなければならないとすれば、わたしはきっと耳や舌よりもむしろ眼を失うことに賛成するであろう。アテナイ人は、それからローマ人も、その学校において大いにこの話し方の実習を重んじた。現在ではイタリア人が多少その跡をとどめており、それから大きな益を受けている。それは我々の理解を彼らのそれと比較して見るとわかる。書物の研究は活気のない業であって少しも人を興奮させないが、会話討論の方は教えるとともに鍛練する。もしもわたしが気魄ある強硬な相手と議論をするならば、彼はわたしの両脇に迫り右ひだりを突き、彼の思想はわたしの思想を突きとばす。嫉妬や見えや負けん気は、わたしをわたし自身よりも高く押し上げる。まったく討論において皆の意見が一致したらそれこそ退屈千万である。
 我々の精神が、強力な統制ある精神と交わることによって強められる代りに、下等で弱々しい精神と絶えず交際することによってどれほど損害をこうむるかは、口では言えない。これほど蔓延しやすい伝染はないのである。わたしは度々の経験によって、その一尺がどれほどに値するかを知っている。わたしは抗議したり議論したりすることが好きであるけれども、それは少数の人々を相手に、ただ自分だけのためにするのである。まったくえらい人々の見世物になり、競ってその機知とおしゃべりの陳列をするなどは、節操ある人間には甚だふさわしくない仕事であると思う。
* アンリ三世の弟アランソン公は、よく朝廷付の学者たちを集め、哲学道徳に関する討論をさせ、その口角泡をとばすのを見るのがすきであったと言われる。モンテーニュはしばしば中央およびナヴァール王の宮廷などに出入して、そういう朝臣的学者ないし御用学者の議論のあさましさをつぶさに見聞きしていたのであろう。
 暗愚は悪い素質である。けれどもこれに堪えることができず、わたしにもよくそういうことがあるが、これを悲しみ煩うのもまた一つの病であって、その堪えがたさにおいては、大して暗愚そのものに劣らない。これこそわたしが今、自分について責めようと思う事柄である。
 わたしはすこぶる自由に気がねなく議論や討論に加わる。なぜなら、わたしのうちには、意見というやつが入りこんで深い根をおろすに適した地盤がまったくないからである。どんな問題もわたしを驚かさず、どんな信仰もわたしを傷つけない。いくらそれがわたしの信仰に反していても平気である。どんなつまらない・またどんなに度外れた・思想も、人間の精神が産んだものとしてふさわしいと思われないものはないのである。我々の判断に判決の権利を与えないわれわれ懐疑論者は、平然として相反する諸説をうち眺める。そして、それらに判断は貸さないけれども耳の方は気軽にかしてやる。天秤皿の一方が全然からっぽのときは、わたしはそこにどこかの婆さんのたわいのない夢なりと載せて、もう一方の皿をふわふわさせて見る。いやわたしは、自分が奇数の方を受けいれても、金曜日より木曜日の方を選んでも、食卓で十三人目にすわるより十二人目または十四人目になる方を好んでも、旅に出て兎がわたしの途を横ぎるのを見るより同じ方向に走り去るのを見て喜んでも、靴をはくときに右より左を先に出しても、悪くはないと思うのである。すべて我々の周囲で信じられるそういう種類の愚かな夢も、少なくとも一応聞くだけの値打はある。わたしにとってそれらはただ無よりもましだというにすぎないが、とにかく無よりはましなのである。それに素人のその場限りの意見にしても、はかりにかけて見れば全然無ではないのである。いやそこまで折れて出ない人は、おそらく迷信という不徳を避けようとして頑固という不徳におちいるのである。
 だからあべこべの判断も、わたしを傷つけもしなければ怒らせもしない。ただわたしを目覚ましわたしを鍛えるだけである。我々はとかく人の訂正をいやがるが、それはむしろ進んで迎えるべきであろう。とくにそれがおしつけがましい教訓の形でなしに、討論とか話合いとかの形で来るときには、そうすべきだと思う。人は反対に出あうごとに、はたしてそれが正当かどうかを見ないで、正しかろうが間違っていようが、どうやってそれを切抜けようかとばかりあせる。我々はそれにむかって腕をひろげないで爪をつき出す。わたしは友達から「馬鹿野郎! 寝ぼけるない!」と、乱暴に突っかかられても我慢するであろう。わたしは紳士たちの間で、皆が勇敢に所信を述べ、言葉と思想とが並び行くことをこのむ。我々は上品丁寧な言葉の響きに欺かれないように我々の耳を鍛えなければならない。わたしは強くて男らしい親交をこのむ。恋愛が血の出るまで咬み引掻くことを誇りとするように、わたしは厳しく力強い関係を誇りとする友愛がすきである。
 (c)討論というものは、喧嘩じみていないならば、ただお上品で巧妙であるだけならば、衝突を恐れてその歩みが窮屈ならば、十分に力強く雄々しいものとはいい難い。※(始め二重山括弧、1-1-52)まことに反駁なきところ討論なし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (b)人がわたしに逆らうとき、わたしの注意は覚めるが、わたしの怒りは燃えない。わたしは、わたしに逆らいわたしを教える者の方に進み出る。真理をまもることこそ、敵味方に共通した立場でなければならない。敵はいったい何と答えるであろうか。怒りの感情がすでに彼の判断をくらましている。興奮が理性に先んじてそれを押えている。いっそのこと、我々の勝ち負けに金を賭け、負けた方にはお金を出させることにしたらよいであろう。そうすれば我々は自分の負けを意識するし、下男はわたしに向っていうことができよう。「旦那さんは無学で頑固だったから、去年は百エキュを二十ぺんもとられなすった」と。
 わたしは、真理をどんな手の中に見出しても歓迎し愛撫する。喜んでそれに降伏する。それが近づいてくるのを認めれば、遙か彼方からそれにむかってわたしの折られた剣を捧げる。(c)そして、人があまりに横柄おうへいに威張った面構えでのさばり出ない限り、人がわたしの書物に加える非難にも一肩入れる。いや修正のためというよりはむしろ礼儀のために、しばしば文章を改めもした。そのように気がるにゆずることによって、人の正直な忠告をねぎらいまた励ますことが好きだからである。さよう、それがわたしの損になっても。だが現代の人々をこの心境に導くのはなかなか容易でない。彼らは訂正する勇気をもたない。叱正に堪えるだけの勇気をもたないからである。それでいてお互いに面と向うと、常に取りつくろった物言いをしている。わたしはただ正しく判断され認識されることを大きな喜びとするのであるから、ほめられてもくさされてもどっちでもかまわないのだ。わたしの思想それ自身がきわめてしばしば反対し合いけなし合っているくらいであるから、他人がそれをしてくれても結局わたしにとっては同じことなのだ。わたしは原則として、他人の叱責に対してもただ自分の欲するだけの権威しか与えないのだから。だがわたしだって、あまりに高姿勢な男とは絶交する。例えばわたしの知っているある男なんかは、自分の忠告が容れられないと不平をいい、人が彼の言葉に従わないとそれを無礼だと考える。ソクラテスが常ににこにことして、彼の論説に対する他人の反駁をきいたのは、彼の力量の然らしめるところといいうるであろう。いや、どうせ勝利は彼の側に帰するに違いないので、彼はそれらの反対を新たな光栄の資料として受け入れたのだともいい得るであろう。だがふつうはその反対で、敵が我々より優れていてこっちをばかにしているという考えくらい、反駁に対して我々の感情を微妙にするものはないのである。だが理屈から言っても、当然弱い者の方こそ喜んで人の叱正を受け入れるべきで、それによって始めて弱者も立ちなおり改まることができるのだとおもう。(b)わたしは本当に、わたしを恐れる者との交際よりもわたしに打ってかかる人々との交際を求めている。我々を賞賛し我々の前にゆずる人々を相手にすることは、無味有害な愉快たのしみである。アンティステネスはその子供たちに向って、決して自分をほめてくれる人々に感謝したり満足したりしてはならないといった。わたしは火の出るような論戦のまっただ中において、相手の力強い理由の下にいさぎよく平伏しながら自分に勝つことの方を誇りとする。それは弱い敵に勝った満足にはるかにまさるよろこびである。
 要するにわたしは、堂々と真正面からやってくる攻撃ならば、どんなにそれが微弱なものでも、ごもっともと受け入れる。けれども無茶苦茶な攻撃には、とうてい我慢ができない。内容などはどうでもよい。どの意見もわたしにとっては一様なのだ。どっちが勝とうと大したちがいはないのである。討論の進め方が秩序をもってなされるならば、日がな一日、心静かにわたしは反論するであろう。(c)わたしが求めているのは力や巧みではなくて、むしろこの秩序なのだ。秩序は毎日羊飼いや店やの小僧の喧嘩の中には見られるのに、ついぞ我々の間には見られない。彼らも脱線はするが、それは悪口雑言においてである。しかもそれは我々だってやることである。それに彼らの喧嘩と癇癪とは、彼らをその題目からそらさない。彼らの論旨は依然としてその道をゆく。彼らは争って口を開く。互いに待たない。だが、少なくともお互いにわかり合っている。わたしから見れば、適切に答えるものこそ常によい返答者なのである。(b)けれども論争がこんがらかってくると、わたしは内容をはなれ、むっとして慎みをわすれ、つい形式に拘泥こうでいする。そして頑固な・意地の悪い・圧制的な・論調に転ずる。わたしは後になって赤面せざるを得ない。
 (c)ばかを相手にまじめに議論することはできない。ああいう向う見ずの先生にかかっては、わたしの判断ばかりかわたしの良心までも腐ってしまう。
 我々の論争もまた、他の言葉の上の罪と同様に禁止処罰されてしかるべきであろう。それらは常に怒りによって指導されているのだ。どんな不徳を呼びさまし積み重ねずにいよう! 我々の喧嘩は始めは論拠理由が相手であるが、やがては人が相手である。我々が論争を学ぶのは、ただ反駁したいがためである。そして各々が反対したり反対されたりしているから、けっきょく論争の結果は真理を失いほろぼすことになってしまう。それでプラトンはその共和国において、この演習を無能な・素質の悪い・人たちに禁じている。
 (b)君は歩く力もなければ歩きようも知らない者を道連れに、真実を求めに旅立ってどうするつもりか。ときにしばらく主題を離れてこれを論ずる方法を見出そうとするのは、決して主題に不忠実なことではないのだ。方法といっても、それは人為的なスコラ学的方法のことではない。すこやかな悟性から来る自然な方法のことである。とにかく最後はどうなると思う? 一人は東にゆき一人は西に赴く。いずれも本筋を見失い、それをたくさんの脇道に追いこむ。一時間のあらしがおさまるとき、彼らはもう何を求めているのかをわすれている。一人はしも手に、一人はかみ手に、また一人はよこ手にある。ある者は一つの言葉一つの比較に拘泥している。ある者はもう敵の論拠を覚えていない。それほど、自分の理屈にはまりこんでいる。ただただ自分の説にばかり従おうとし、少しも君の説には従おうとしない。ある者は自分の腰の弱さを知り、何もかも恐れ何もかも斥け、始めから主題をごちゃごちゃにしている。(c)あるいはいよいよ討論が高潮して来ると、急にすねて黙り込んでしまう。それは威張って軽蔑を装っているのか、それともばかに謙遜らしいふりをして喧嘩を避けているのか、そもそもどっちであろう。(b)ある者はただ打ちおろしさえすれば得意で、自分がどんなに隙だらけでも平気である。ある者は自分の言葉を重んじ、それらをまるで論拠と同じに考えている。またある者は、ただそこに自分の声量だけをたのみにしている。自分自身に反する結論をするものがあるかと思うと、役にもたたぬ前置きや枝葉末節によって人の耳を聾するものがある。(c)そうかと思うといたずらに悪口雑言をまきちらしてドイツ流の喧嘩を売り、せっかく自分を取っちめてくれる頭のいい人との会話や交際から逃げ出そうとする者もある。(b)この最後の者は、道理などはまるでわからないのであるが、その論法の弁証法的結論によって、そのスコラ学の公式によって、君を手も足も出ないようにする。
 さて、誰がいったい、我々の学問の用い方を見て、学問不信におちいらずにいられようか。誰がいったいそんなものから、(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)何ものをも癒すことなき文字※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)から、(b)人生のためになるような何か堅実な効果がひき出されるものかどうかと、疑わずにいられようか。誰が論理学の中に悟性を養い得たか。その美しい約束のものはいったいどこにあるのか。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)よりよく生きんためにもあらず、よりよく推理せんためにもあらず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)果してにしん売りの女の喧嘩の中には、論理学を職とする人々の公開の論争における以上に、多くの曖昧さがあるだろうか。わたしは自分の伜には、雄弁術の塾においてよりもむしろ居酒屋において、話し方を学ばせたいと思う。試みに一人の文学士をつかまえて、これと議論して見るがいい。どうして彼は、いかにも学士さまらしい優越を感じさせないのか。女どもや我々のような無知な者どもにも、さすがは論拠が確かだ、秩序も美しいと、感嘆させないのか。なぜ、思うように我々を納得させないのか。学識においても技術においてもあんなに優れたお人が、なぜその議論の中に、悪口やすっぱぬきや激怒を交えるのか。その角帽を、そのガウンを、そのラテン語を、脱がしてごらん。彼に生かじりのアリストテレスで我々の耳をおどかすことをやめさせてごらん。それは我々の一人と少しも変りはない。いや我々以下である。彼らがいとも巧みに言葉を組み合せたりほどいたりして我々をたぶらかすところを見ていると、まるで手品使いのように思われる。その鮮やかな手際てぎわは我々の感覚を圧倒するけれども、少しも我々の確信をゆるがさない。この手品を除けば、彼らが行うことはごく平凡下等なことである。彼らは我々より物識りではあっても、我々にまけない能無しである。
 わたしも知識を、これを持っている人々と同様に愛し尊ぶ。それは正しく用いられるなら、人間の最も高貴で強力な後天的能力である。だが、それをもって自分の根本的能力の土台とする人々、自分の悟性を自分の記憶に結びつけて考えようとする人々、(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)他人の蔭に隠れんとする人々※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)、(b)書物によらなければ何一つできない人々(この種の人々は数限りなくあるが)、そういう人々における知識を、わたしは忌憚なくいえば、かえって暗愚より少し余計に憎む。わが国においては、特にこんにちにおいては、学説はかなり財布をつくろうけれども、霊魂を繕うことは稀である。学説は愚鈍な霊魂の中にはいると、まるでなまの不消化な肉の塊のように、そこにつかえふさがる。鋭敏な霊魂に出あうと、それをますます純化し・澄明にし・精緻にし・たあげく、最後にはそれを摩滅してしまう。学問はよいものとも悪いものともいえまい。よく生れついた霊魂にははなはだ有益な道具となるが、そうでない霊魂には有毒有害な道具となる。いやむしろ、それははなはだ大切に用いられるべきもので、低い価でそれを得させてはならないのである。ある手においては王笏おうこつであり、またある手においては狂笏きょうこつである。だが先へゆこう。
* 狂笏すなわち marotte とは、狂言の中の王様が持って出る小道具で、王者の象徴たる笏をもじったもの。一本の棒の先に種々な色どりの鈴のついた頭巾をかぶった人の首がついている。辞書を見ると画がある。すなわち学問知識は、或る人においては偉大な力を発揮するが、或る人に持たれるとその人を狂気にするというのである。
 いったいどんな勝利を君は期待するのか。敵に「お前はとてもおれに勝つことはできないぞ」と思い知らせるより大きな勝利はありっこないのである。君が意見によって勝った時は真理が勝ったのである。議論の順序と運び方によって勝ったときは君が勝ったのである。(c)わたしの考えでは、プラトンにおいてもクセノフォンにおいても、ソクラテスはむしろ対話者のために議論しているのであって、その主題のために議論しているのではない。エウテュデモスやプロタゴラスに彼ら自らの愚を思い知らせるためであって、彼らの弁論術の非論理を悟らせるためではない。彼は手当り次第問題をとらえる。その問題を解明することよりも一そう有益な目的を持っているからである。つまりその指導鍛練しようとするもろもろの精神を明哲にしてやることを目的としているからである。(b)掻き立て狩り立てるのがまさしく我々の標的ジビエである。その狩り立て方がまずくて無法では、とうていゆるされるものではない。だが、獲物ジビエをつかまえそこねても、それはまた別の問題である。まったく我々は真理を捜索するために生れてはいるが、それを捕捉することはもっと大きな威力の持ち主に属しているのだ。真理はデモクリトスがいったように谷底深く隠れてはいない。むしろ限りなく高いところ、神の知識の中にそびえているのである。(c)世界はただ探索の学校にすぎない。(b)誰がよく的にあてるかではなく、誰が最も見事に競技するかである。本当をいう者も、嘘をいう者と等しく、ばかをして見せることがある。まったく我々は、言う内容マチエールにではなく、言う言い方マニエールに、かまけているのである。わたしは本質にも形態にも、またアルキビアデスが教えたように事件にも弁護士にも、同等に注目する性分である。
 (c)実際わたしは、毎日いろいろな人の本を読んで暮しているが、彼らの学識には注意しない。そこに求めているのは彼らのやり方であって主題ではない。同様にわたしは、有名な学者との交際を求めるが、それは彼に物を教えてもらうためではなく、ただその人を知りたいからである。
 (b)誰でも本当のことをいうことはできる。けれども整然と賢く巧みにいうことは、ごく僅かな人々にしかできない。だからわたしは、無知からくる誤りには少しも腹が立たない。腹が立つのは、わけの分らぬ言い草である。わたしは相手の者どもの言い分の無理無法なのに腹が立って、自分に有利な取引をいくつもぶちこわした。わたしはわたしの使っている者どもの過失には、年に一ぺんもおこりはしない。だが彼らの申し立てがあまりに愚劣頑固であり、その申し訳があまりにも頓馬でばかばかしいから、つい毎日のように怒鳴るのである。彼らは人のいうことも、その理由も理解せず、始終同じ返答をする。まったく癇癪がおきる。わたしだって妙な理屈をこねられさえしなければ、何も痛痒は感じない。だからわたしは、召使どもの不徳とは容易に和解するくせに、彼らの図々しさ・頑固さ・愚劣さ・とは決して折合わない。怠けたければ怠けるがよい。いざとなればやってのけるだけの力さえあるならば。君は彼らが進んでしてくれればと望んでいるが、切株からはろくなものは期待できないし取れもしないのである。
 ところでどうだろう、もしかするとわたしもまた、物事をそれらがあるのとは別様に見てはいないか。どうもこれは有りそうなことだ。だからわたしは自分の癇癪を咎める。まず第一に、癇癪というものはそれをおこす理由がある者においてもそうでない者においても、等しく不徳であると考える。まったく、それはいつも、自分と違う流儀を容れることのできない暴君流の気むずかしさなのである。それにまた正直のところ、世間の人のばかに一々憤慨して癇癪を起すことくらい、大きなばか・不断のばか・もなければ、それほどとんでもないばかもあるまいと考える。まったくそれは、もっぱら我々を我々みずからに食ってかからせるのである。それであの古代の哲学者ヘラクレイトスは、己れみずからを眺めている間じゅう涙のかわく暇がなかった。(c)七賢の一人であるミュソンはティモン的・デモクリトス的・性格の人であったが、何をいったい独りで笑っているのかときかれると、「この独りでおかしがっているそのことがおかしいのだ」と答えた。
 (b)いかに多くのばかを、わたしは毎日言ったり答えたりしていることか。自分でさえそう思う。ましてひと様の目には、おそらくそれがいっそうたびたびに見えることであろう。(c)わたしは笑いをかみ殺すが、ひと様はどう遊ばされることやら。要するに、生きている人々の間で生きなければならないのだ。自分たちに関係のないどうなろうとよいようなことを気にしていてはいけないのだ。少なくともそれに心を乱されてはいけないのだ。(b)だがしかし、何だって我々は、肉体的に不具畸形である人に行きあっても大して驚かないのに、精神的に狂った人に出あうと癇癪を起さずにいられないのか。この間違った怒りは、相手の欠陥のせいではなくてそうと判断する者のせいなのである。常に次のプラトンの語を口ずさもう。(c)「わたしが誰かを不健康だと思うのは、わたしみずからが不健康だからではないか」。(b)「わたしみずからが間違っているのではないか。わたしの警告はわたしの上にはねかえって来ることはないか」と。いかにも賢い・神々しい・言葉である。これこそ人間に最も普遍的で共通した誤りを鞭うっている。(c)我々が互いに浴びせ合う非難ばかりではない。議論の内容に関して我々があげる理由にしても論拠にしても、通例みな我々みずからにも向ければむけられる。そして我々は自分の武器に突きさされる。これについて古代は、重大な実例をかなりたくさんわたしに残した。(b)誰がいったことか知らないが、こんなうまい警句がある。

人はそれぞれおのれのくそを匂いよしと言う。
(エラスムス俚諺集)

 (c)我々には後ろのものは見ることができない。日に百ぺんも、我々は隣人のことで我々みずからをわらっている。かえって自分のうちに一そう明瞭に存在する欠点を、他人の中に憎んでいる。そして厚かましくも、おろかしくも、それらにあきれ返っている。わたしはついきのうも、悟性ある高貴な生れの一人物が、もう一人の貴族が半分以上は嘘である自分の血統や縁組について、自慢たらたら同席の人々をうんざりさせている醜態を、いかにも痛快に嘲笑していられるのを見ることができた(自分の身分が疑わしく確かでない者ほど、とかくこのような愚かしい話に落ちるのである)。だがそのわらったご当人も、もしも自分を省みたならば、妻の家柄をふりまわしひけらかす自分が、同じように無分別であり鼻つまみであることに、お気がつかれたことであろう。おお、そういえば、妻が夫の威光を笠に着るのも、何とまた鼻もちならぬ思いあがりであろう! 若しその夫たちがラテン語のわかる人たちであるなら、こういっておやり。

いざ、彼女一人にて狂い足りずば、
皆して彼女の狂気をあおりたてん。
(テレンティウス)

わたしは、「みずから清くないものは人を咎めてはならない」というのではない。だって、それでは咎め得るものは一人もなくなるだろう。「同種の罪を持つ者は」とさえもいうのではない。ただ我々の判断が、問題の人を咎めながらも、なお内部的裁判によって我々自らをも仮借することがないように、というだけなのである。自分の中の一つの不徳も除き得ない者が、それにもかかわらず他人におけるそれをとり除こうと努めるのは、よしその方が自分におけるものほど悪性でも頑固でもなくたって、とにかくそれは慈悲の行為である。せっかくこちらの過失を警告してくれたものに向って、「それはお前にもあるではないか」などと答えるのは、当を得たものとは思われない。それはなぜか。それにしてもその警告は真実であり有益であるからだ。我々がよい鼻を持っているなら、我々の汚物は、我々のものであればあるだけ、臭くなければならない。だからソクラテスは次のように主張する。「自分・息子・および他人が、それぞれ何か乱暴と不正の罪をおかしていると知ったら、まず第一に自分が進んで裁判所の判決を仰ぎ、自分の罪を清めるために刑吏の手を借りたいと嘆願すべく、その次に息子のため、最後には他人のためにも、同じようになすべきである」と。この教訓はいささか高きにすぎるとしても、少なくとも自分だけでも、率先して自分の良心の処罰を乞うべきである。
 (b)感覚は我々固有の・最初の・裁判者であるが、それは物事をただ外部の出来事によってだけ判定する。だから我々の社会生活のすべての部分に、あのように始終・またあまねく・表面的な儀礼やお体裁がまじっているのは、少しもあやしむに足りない。むしろ諸制度の中の最良最有効な部分はそこにあるのだとさえ言えるくらいだ。我々の相手はいつも人間であるが、その性状はすこぶる物質的である。だから近年、我々のためにきわめて静観的な・非物質的な・宗教生活をおし立てようとした人たち〔プロテスタント〕も、「そういう宗教は、それ自体によってよりも、一党一派の標識・名目・道具・として我々の間にがんばるのでなければ、けっきょくわれわれの手のうちから溶けて流れ出てしまうだろう」と考える人々が出て来たからって、驚くことはない。討論においてもそうである。話す人の重々しさ、その衣服や身分は、しばしば空虚な言葉に信用を加える。あんなに皆から服従され恐れられている人物が、腹の底になんら人民とちがった能力を持っていないなどとは、あんなにたくさんの官職を与えられいかにもえらそうに尊大に振舞っている人物が、それを遠くの方から拝んでいる・誰一人使い手のない・ただの人間より一向有能でないなどとは、とうてい信じられないのである。ただ言葉だけではない、そのしかめ面までが、これらの人々においては勿体もったいらしく見えあがめられる。皆がそこに何かしらものものしい・もっともらしい・解釈を加えようと努めるからである。彼らの方からわざわざ平凡な談話に仲間入りをなされても、皆が賞賛とか尊敬とか以外のものをつきつけるならば、彼らはその経験をふりかざして君たちを威圧し、「わしはこういうことを聞いた、見た、おこなった」という。君たちはすぐそういう実例におしつぶされるが、わたしは彼らに向ってこう言いたい。「一人の外科医者が経験から得た成果といえば、おおぜいの患者を手当したという自慢話でもなければ、四人のペスト患者・三人の痛風患者・を癒したという回顧談でもない。それは以上のような経験から、彼がその判断の基になるものを引き出すことができた、ということでなければならない。そのために医術を施すことにいよいよ慎重になった、ということを、我々に悟らせるのでなければならない」と。(c)諸楽器の合奏においてもそうである。そこに人は琵琶と琴と笛を個々に聞かないで、それら各音の集積でも結果でもある一つの調和全体を聞く。(b)もし旅行や職務が彼らを改善したとすれば、彼らの悟性の所産がそれを外に示さなければならない。経験を数え立てるだけでは足りない。それらを評価し整頓し、それらを消化し蒸溜して、そこからそれらが内に蔵するもろもろの理由と結論とをひき出さなければならない。未だかつて今日ほど多くの記録家が出たことはない。彼らの所説を聞くことはやはりよいことである。有益なことである。まったく彼らはその記憶の倉庫から、立派な・ほむべき・教訓をうんとこさ我々に提供している。それらは、じっさい、大いに人生に寄与するものである。けれども今、我々はそれを求めているのではない。それらの記述者蒐集者自身が、はたしてたたえるべき人であるかどうかを、求めているのである。
 わたしはどんな種類の暴力もきらいである。言葉の上のそれも行いの上のそれも。いつもわたしは、感覚を通じて我々の判断を欺くあのつまらない事情に抵抗する。そして、あの特別にえらい御身分の方がたを物蔭からのぞいて見ては、彼らもまた大概はあたり前の人間にすぎないことを知った。

げに常識はかかる高位の人々にはいと稀なり。
(ユウェナリス)

おそらく人は、彼らが企てれば企てるほど、出しゃばれば出しゃばるほど、それだけ彼らを尊重もせず認めもしなくなるであろう。彼らはそのしょっている荷にふさわしくないからである。荷物よりもそれを荷なう者の方に、より多くの力量がなければならない。その力を出しきらなかった者は、まだそれ以上に力があるのではないか、最後まで力を出したのかどうかを、君の推量にのこすが、その重荷の下にへたばった者は、その力の程度、その肩の弱さを暴露する。だから人は学者たちの間に、愚劣な人々をあんなにもたくさん発見するのだ。その方をより多く発見するのだ。彼らもまたあんな重荷さえしょわなかったら、りっぱに、よい百姓・よい商人・よい職人・になれただろうのに。彼らの持って生れた力はちょうどその位に相応していたのである。学問というものはえらく重たいものなのだ。彼らはその下におしつぶされてしまう。こういう高貴な強力なものを並べたり配ったりするほど、それを使って自分の役に立てるほど、彼らの才能には力もなければ巧みさもないのである。学問は強力な天性の中においてのみ力を発揮する。ところがそういう天性ははなはだ稀ときている。(c)「弱い天性は哲学をもてあそんでその品位を汚す」とソクラテスはいった。哲学は、悪い器に盛られると、無益にも有害にも見える。(b)見たまえ、いかに彼らが悪くなり気ちがいになるかを。

宛も、そは、人の真似する猿のごとし。
子供、たわむれに、これに錦繍きんしゅうをまとわしむるに、
彼は、その尻と背とを掩うことを知らず。
そは、僅かに一月の間、人の玩弄する所となるにすぎず。
(クラウディアヌス)

 同様に、我々を指揮し統治する人々、世界をその手の中に握っている人々は、ただ普通の悟性を持ち・我々にできることができる・というだけでは十分でない。彼らは我々よりずっと上にいるのでなければ、我々よりずっと下にいるのである。彼らはより多く約束するのだから、それだけ多く義務があるのである。沈黙は彼らにとって尊厳荘重の態度であるばかりでなく、しばしば有利慎重な態度である。まったくメガビュゾスは、アペレスをその仕事場に訪れたとき、長いこと一言もいわなかったが、やがて彼の作品について批評を始めると、アペレスから次のような手きびしい抗議を食った。「あなたが黙っていた間は、首飾りや豪華な服装のために、何やらえらそうに見うけられたが、今あなたが語るのを聞くと、うちの弟子どもだってあなたを軽蔑せずにはいられませぬわい」と。あのものものしい服飾やあの偉大な身分が、彼が平民と同様に無知であることを、絵について見当ちがいの批評をすることを、アペレスは許さなかったのである。彼は何もいわずに、あの見かけ倒しのえらさをまもっていればよかったのである。こんにち、いかに多くのばかものどものために、冷やかな・むっつりした・顔つきが、まるで知恵や能力みたいに役立っていることか!
 高位顕職はいつも必ず、実力によってよりも運命によって与えられる。だがそれについて王様がたに食ってかかるのは、多くの場合まちがっている。何の才覚もない彼らがあれだけの選抜をしたのはむしろ感嘆すべきことである。

(c)帝王第一の徳は臣民を知るの明にあり。
(マルティアリス)

(b)まったく自然は彼らに、あんなに多ぜいの人々を見渡して、その中からもっとも優秀なものを識別し・我々の腹の底までも見ぬく・だけの眼力を、与えはしなかったのである。だがそこまで目がとどかなければ、我々の意志や我々の最良の価値など知るよしもないわけである。きっと彼らは我々を、推量と手さぐりとで・血統や財産や学説や人民の声などをたよりに・選択するのに違いないが、そんなものはきわめて薄弱な根拠でしかない。誰かがわれわれを公正に判断し・人々を理性によって選抜し・得る方法を発見するならば、その人はただそれだけで、完全な一国家を造るであろう。
「でも王様はこれこれの大事を見ごとになしとげられたではないか」とおっしゃるのか。なるほどそうも言えることは言えるが、ただそれだけでは足りないのだ。まったく、「結果で意図を判断してはいけない」という格言もまた正しいのである。(c)カルタゴ人はその大将たちの誤った意見を、それが後に好運な結果によって埋め合わされた場合でも処罰した。またローマの民は、非常に役にたった大勝利に対してさえ、それが大将の指揮よろしきを得た結果ではないとの理由で、しばしば凱旋式を挙げることを拒んだ。(b)これは世間の有様を見ていてよく気がつくことだが、いつも運命は、何事にかけてもできないことがないことを示すために、おまけに我々の自惚うぬぼれを打ち倒すのがいたくお好きであるために、まさかばか者どもを賢くするわけにはゆかないものだから、ひたすら彼らを徳ある人々との競争に勝たせている。そして、ますます自分の勢力圏内にある物事を成功させようと努めている。だからこそ、毎日見られるとおり、我々の間の最も平凡な人たちが、公私のはなはだ重大な仕事をどうやら処理してゆけるのである。いや、ペルシア王の重臣セイラムネスは「あなたの計画はきわめて賢明なのに、どうしてお仕事の方はあんなに不首尾に終るのであろうか」と驚いている人々に答えて、「わたしはただわたしの計画の主宰者なのだよ。仕事の成功不成功は運命の方の縄ばりだからね」といったそうだが、あの連中もまた、同じように答え得るのである。もっとも逆の意味で。世間の事柄は大部分独りでに成されるのである。

運命は独りその道をゆく。
(ウェルギリウス)

結果はしばしば、はなはだまずい指導をも正当化する。我々の関与などはほとんど仕きたりにすぎず、普通一般には習慣や先例の方が理性よりも尊重されるのである。事件のすばらしさに驚いて、わたしはかつて、これを遂行した人々に向ってその動機と目的とを尋ねたことがあるが、わたしはすこぶる平凡な意見しかきかされなかった。それに最も平凡な使いふるされた意見は、おそらく見かけはわるいが実行するには最も確実で便利なのである。
* ceux-ci「あの連中」というのは、前出「我々の間の最も平凡な人たち」をうけて、当時の無能な顕官たちを指すのであろう。「逆の意味で」というのは、それらの顕官たちの計画すなわち政治が、セイラムネスの場合とは逆に、無茶苦茶であるにもかかわらず、運命のおかげでどうにかぼろを出さずにいることをいうのであろう。プルタルコスによるとセイラムネスは「運命および王様の縄ばり」と答えている。モンテーニュはわざとそこまでいわないが、これはアミヨ訳のプルタルコス『英雄伝』のアミヨの序文の中には引用されているから、読者の方では言われないでも十分わかったのであろう。
 とにかく最も平凡な理由が最も堅固であり、最も低くゆるんだ理由・最もありふれた理由・が最もよく実際に役立つのだとしたら、一体どういうことになる? 御前会議の権威を保つためには、下々の者がそれに参加して第一の柵から奥の方をのぞき見る必要はないのである。会議の評判を維持してゆこうと思うならば、それが信用ずくで・一団として・崇められるようにしておかなければならない。わたしは物を思案する時、まず問題をざっとあらがきし、それをその最初の一瞥によって簡単に考察する**。仕事の最も肝要な点は、これを天に委ねるのが常である。

残るところはこれを神々に委す。
(ホラティウス)

* ※(グレーブアクセント付きA小文字) cr※(アキュートアクセント付きE小文字)dit.「信用ずくで」というのは「権威によって」「権威を無条件に信用して」の意味で、「判断理性に訴えて」の反対を意味する。「一団として」というのも、王や議員を各個に批判しては欠点だらけであるから、「会議」全体をいかにも権威あるものとして見なければならぬ、というのである。
** 自分がことにのぞんでいかに進退し処理すべきかを考えるときは、まず大体の構想を描き、最初に出来た案をまず簡単に検討する。あとは運を天にまかせる。
 幸と不幸とは、わたしの考えでは、二つの至上の権力である。人間の知恵に運命の役目が果せると考えるのはおろかである。原因と結果とを二つながらつかみ・自分の手で自分の仕事を進めている・と自負する者の企てははずれる。殊に戦争の計画においてそうである。いまだかつて、現在よく我々の間で見られるほどの周到な軍事上の用心がなされたことはない。そんなに中途で倒れることがこわいのであろうか。せめてこの芝居の最後の破局までは生きながらえたいのであろうか。
 それだけではない。我々の知恵と思案でさえ、やはり大部分は偶然の指導に従うのだといわなければならない。わたしの意志と理性とは、時には一つの風で、時にはもう一つの風で、吹き流される。そしてその運動は、しばしばわたし無しにその向きをかえるのである。わたしの理性は、その日その日の・その時折の・衝動をもっている。

霊魂の状態は絶えず変化す。
そが様々なる情欲に駆りたてらるることは、
あたかも風に吹かるる浮雲のごとし。
(ウェルギリウス)

 見たまえ。都市において最も権勢のある者は誰か。最もその仕事に成功している者は誰か。それは通例最も無能な者どもである。女や子供や馬鹿が、最も能力のある君主たちと肩をならべて大国を支配することもあった。(c)そしてトゥキュディデスのいうとおり、利巧者より間抜けの方がうまくやってのけるのである。(b)ところが我々は、彼らの好運の結果を彼らの知恵に帰する。

(c)人の成り上るは、ただただ運命のおかげなり。
しかるに人々は、その知恵をほめたたう。
(プラトゥス)

 (b)そこでわたしは断言する。どう考えて見ても、結果は我々の価値や能力の証拠とするには足りないものだと。
 ところでわたしは、「それは高位にへのぼった者を見さえすればわかる」と、うっかり口をすべらすところだった。だって、三日前には彼をつまらない男と思っていたのに、いつの間にか我々の心の中には偉大な者・才能ある者・の姿が忍び込んでいるではないか。そして、彼の供まわりや評判が増加しただけ彼の実力も増加したかのように思い込んでいるではないか。我々は彼を判断するのにその価値によらず、ちょうど算え札のようにその席次によって判断する。運勢一転して、再び彼が群衆の間に落ちてそれと一緒になると、急に皆は驚いて、一体どんな原因が彼をああいう高いところにひっぱり上げたのであったかといぶかる。「これがあの人か」と人はいう。「あの地位にいたときにもこれだけの能しかなかったのか。どうして王侯がたはこんなくだらない奴らにご満足なされたのか。我々はほんとうにおえらいお方にお仕えしていたものだわい」と。これこそわたしが、いまの時代にしばしば眼にする光景である。そうだ。人が舞台の上で扮して見せるえらい人の仮装さえ、ある程度までは我々を動かし我々を欺くのだ。わたしが王様がたにおいて感心するのは、彼らを拝む者が大勢であることだ。我々は彼らの前に頭をさげ腰を折らなければならない。ただし判断だけは彼らの意のままにはならぬ。わたしの理性は折れ曲るように仕込まれて**いない。そうしつけられているのはこの膝だけである。
* 当時は計算の場合にこの算え札を用いた。それは、アバック abaque〔砂盤〕という数字や幾何の図形などをかくために砂をまいた板の上におかれ、そのおかれる場所によっていろいろな価値を与えられた。
** 若いころからモンテーニュは、朝廷に出入りして身分の高い人々と交際ができるように、礼儀作法を仕込まれた。彼はみずから、「しようと思えばその師匠だってできるくらいだ」と言っている。だから彼は王侯貴族の前に出れば、膝をまげおじぎをするだけの礼儀は心得ている。だが、理性はそのように教育されていない。それは物事をいつも正しく判断して誤らないように仕込まれている。だから王侯の前に出ても、理性だけは決してまげないのである。
 メランティオスはディオニュシオスの悲劇について所感を問われたとき、「わたしには何が何だかわからなかった。それは徒らに言葉多くしてぼやけていた」と答えた。同様にえらい人たちの演説を判断する人々も、大部分はこう言わなければなるまい。「わたしには彼の論旨がまったくわからなかった。それほどまでにそれは荘重と尊厳と偉大とによってぼやけていた」と。
 アンティステネスは、ある日アテナイ人にすすめて、驢馬をも馬と同様に、田地の耕作に用いるよう布令したらよかろうといった。すると、ある人が答えて、「この動物はそういう勤めのために生れてはいない」というと、「でも同じことだよ」と彼はおし返していった。「ただお前たちがそう命令すればいいのだ。だってお前たちが戦争の指揮を委ねているあの最も無知無能の者どもですら、ただその用にあてさえすればたちまち立派な大将になってしまうではないか」と。
 これによく似ているのは、方々の国民の習慣である。彼らは自分たちの間から選び出した王様を聖者の列に加え、これを尊敬するだけでは満足せずこれをおがむ。メキシコの人民は、王の祝聖式が終ると、もうそれっきり、彼の顔をまともに見ることさえしなくなる。いやそれどころではない。まるで彼を王位につけたことによって彼を神となしえたかのように考え、彼に自分たちの宗教法律自由を支持すること・勇敢正義慈悲の人たること・を誓わせるばかりでなく、さらに太陽にその常の輝きの中を歩ませ・雲に適当な時に雨を降らさせ・川に常にその河床を流れさせ・地にはその人民に必要なすべてを産み出させ・るということまで誓わせるのである。
 わたしはこういう一般のやり方には反対で、才能が高貴な運に伴われたり民衆の尊敬に取巻かれたりしているのを見ると、かえってそれをうたがう。我々は買いかぶってはいけない。絶対の権力によって、その都合のよいときだけ語り、その欲する問題だけを選び、勝手にその言葉をとぎらせたり変えたりすること、あるいは畏敬恐懼にふるえている人々の前でかぶりをふること一つ、微笑一つ、あるいは沈黙一つで、他人の抗議をまぬかれたりすることなどが、およそどんなにやさしいことであるかを、勘定に入れなければならない。
 ある凄い御身分のお方は、そのテーブルのそばで何気なく語られるあるささいな問題に、ふとその御意見をさしはさまれ、平気でこんなふうに仰せられた。「これこれこのとおりに言わないであろう者は、おそらく嘘つきか物知らずでなければならない」と。仕方がない。その哲学的論鋒をどこまでも押し通すがよい。短刀を手にして
* ここに「哲学的」というのは反語であろう。むしろ「理屈の立たない独断的独善的なおまえの意見を、押し通すなら押しとおすがよい」というのである。「剣をふりかざし権威をかさに着ていい張るならば、どんな反駁もかないっこない。自分も黙って承認する」というのである。いわば「長いものには巻かれろ」という捨て台詞ぜりふで、モンテーニュも、こういう手合にあっては、さじをなげるより仕方がなかったのである。「凄い御身分のお方」homme de monstrueuse fortune というのは、王の血縁をでもいうのか、或いは成上りの寵臣をでもいうのであろうか。
 ここにもう一つ、わたしに大いに役立っている警告がある。それは、「討論や話合いにおいて、これはうまいなと思われる語句を、ことごとく、そっくりそのまま、真に受けてはならない」ということである。大部分の人々は借り物の才能で富んでいる。誰だってふと警句や即妙の答えや格言を吐くことがあるし、その意味もわからぬくせに、ただやたらとそれを振りまわす者もいる。(c)人がその借り物をすべて永く保っているものでないことは、おそらくわたし自身の例によっても証明されるだろう。(b)どれほどの美と真理とをその借りものの受け売りが含んでいるにもせよ、いつも簡単にそれに降参してはならない。まっこうからそれにうってかかるか、さもなければその意味がわからないような顔をしてひとまず退却しておき、あとで、おもむろに、四方八方から、それがどういう経路でその人の心の中に入り込んだのかを、さぐり出してやらねばならない。うっかりすると、こっちから進んで敵の剣尖に突きささったり、こっちから敵の打撃に力を加えてやったりすることになる。わたしはむかし、試合でせっぱ詰った場合によく反撃を用いたが、それはわたしが企図し予期する以上に敵を刺しつらぬいた。わたしはそれをただのしっぺい返しとしてやっただけであるが、相手は案外に深手を負った。同様に強力な人と論戦するときには、わたしはわざと敵の結論の先回りをし、彼のために説明の労をはぶいてやり、そのまだ生れたばかりの・なお不完全な・思想の機先を制しようと努める(彼の悟性に秩序があり適切であるときは、それが遙か向うからわたしに警告を与え、わたしを脅威するからである)。だがさきに申したような連中に対しては、まったく逆をゆく。すなわち彼らから説明がないうちは、何事もこっちからは解釈をしないこと・余計な推量をしないこと・にしている。もし彼らが大まかな言葉で「これは良い、それはよくない」と判断するならば、そして偶然にいい当てるならば、運命が彼らの代りにいいあてたのではないかと、考えて見るがよろしい。
 (c)もう少し彼らの意見を細かくはっきりと説明させて見たまえ。なぜかね、どうしてかねと。わたしが日ごろお目にかかる、ああいう大まかな判断はまるきり意味がない。それは群をなし隊をなす大衆に向って挨拶をする人たちである。一人一人を本当に知っている人たちは、個々別々にその名を呼んで挨拶をするものだが、そうすることが、彼らにとっては剣呑なことなのである。だからわたしは、毎日というよりそれ以上にしばしば見たのである。根底のあやしい人々が、何かの書物を読みその美しい章節を指摘して自分の才をてらおうとすると、かえって見当ちがいな賞賛をし、そのために著者の優秀さを我々に教えないで、ただ自分たちみずからの無知を暴露するだけにおわることを。ウェルギリウスの一頁全部をきき終って、「すばらしいなあ!」と感嘆するのは安全である。ずるい連中はそうやって逃げる。けれども、その作品を一行一行批評しようと企てることや、また目のきいた特別の判断で、優れた作家はどういうところでその持前以上の力を発揮するかを、一語一語、一句一句、また創意の一つ一つをはかりにかけながら示すことなどは、まずやめておきなさい。※(始め二重山括弧、1-1-52)ただに各人の言葉を吟味するにとどまらず、その意見をも、またその意見の根拠をも、検査せざるべからず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。わたしは毎日、愚かな人たちが愚かでない言葉を吐くのを聞く。(b)彼らもまたなかなかうまいことをいう。だが、果してどこまで彼らにそれがわかっているのかを知ろう。どこから彼らがそれを借りてきたのかを見よう。我々は彼らがそういう立派な言葉、そういう立派な論拠を用いるのを手伝ってやっているが、それらは彼らのものになりきっていない。ただ借りて持っているにすぎない。彼らがふとしたはずみに、そしてこっそりと、それを言い出すと、さっそく我々の方でそれに信用と価値とをつけてやる。君は彼らに手を貸してやる。だがそれが何になる? 彼らは少しも君に感謝しないばかりか、そのためにますますばかになる。彼らを助けてやらずに独り歩きをさせてごらん。彼らは今の材料を、まるで火傷やけどをこわがる人々のように扱うであろう。彼らはあえてその位置をも向きをも変えないし、その意味を深くきわめもしない。ちょっとでもそれをゆすぶって見たまえ。それはころりと彼らの手から落ちる。それはいかにも力ある美しいものであるのに、彼らはそれをひろおうともしない。それは折角の名刀なのだが、つかがわるくて使いこなせないのである。いかにたびたび、わたしはそういう経験をしたことであろう? ところが、君がふと彼らに知恵を貸し・力を添え・てやろうものなら、彼らはさっそく君の解釈のよいところをひったくる。「それこそわたしのいおうとした意味ですよ。……それこそそっくりわたしの考えです。わたしがそういわなかったのは、ついその言葉が見つからなかったからなんです」という。横面をはり飛ばしてやるがよい。こういう生意気なばか者をこらしめるには、意地の悪い方法もあえて辞するには及ばない。(c)ヘゲシアスの「憎んでも咎めてもいけない。ただ教えてやれ」という意見は、よそでは正しい。しかしここでは、(b)助けおこしてやっても何のかいもなく・むしろそうすれば益々つけあがるような・人間を助けたりおこしたりするのは、不正でもあり無慈悲でもある。わたしはむしろ、もっともっと彼らを泥んこの中であがくがままにしておきたい。そうしたら、ひょっとすると、彼らもしまいには眼がさめるかも知れないのだ。
* 前出一〇八一頁の「借り物の格言をふりまわす人たち」を指す。
 愚かさと無分別とは、一片の忠告などによってなおるものではない。(c)だから我々はこの種の矯正については、そっくりあのキュロスが、いよいよ戦争というときにその軍を鼓舞激励するよう彼に迫った人に答えたとおりに、こういうことができるであろう。「人間はよい訓示一つでさっそく勇敢な軍人になるものではない。人がよい歌を聞いたからとてすぐに上手にはならないのと同じことである」と。それには前々から、長い・根気のよい・教育によって、修業がなされなければならないのだ。
* ここにモンテーニュが第一巻に長文の教育論をかいた理由があり、また『随想録』全体が一般成人読者のための精神改造の書として書かれていることがわかる。
 (b)我々はこの心づかいを、このまざるしつけと教育とを、近親の者に対しては是非しなければならないが、人さえ見れば誰彼のわかちなくこれにお説教をし、あう人ごとにその無知無能をやかましく言うのは、わたしのはなはだきらいな習慣である。わたしは二人きりの会話においてさえほとんどお説教をしない。そういうくどい・先生ぶった・教訓におちそうになると、むしろふっつりと話をやめてしまう。(c)わたしの気質は、書くにも、語るにも、初心者を教えるようにはできていないのである。(b)まして大勢の前で・あるいは第三者の間で・いわれる事柄に対しては、いくらそれらがいんちきで不合理だと判断されても、わたしは決して、言葉にもそぶりにも反対を示さない。それにばかの中でも、およそばかの独りよがりくらいやりきれないものはない。少しでも理性ある人間には、とても自画自讃など出来るはずがないのである。
 知恵は君にみずから満足しみずから信ずることを禁じ、君を常に不満と危惧を抱いたまま去らせるのに、一方頑固と無謀とが、その主人たちに愉快と確信とを満喫させるというのは不幸なことである。いつも戦闘から光栄と歓喜とに満ちて帰還し、人々に軽侮の眼をなげかけるのは、最も無能な者にきまっている。しかも、あの傲慢不遜な言葉と嬉しそうな顔付とは、最もしばしば居あわせた人々の目に彼らをえらそうに見せる。見物衆の方は通例力なく無能であって、真の優越を正しく批判し識別することができないのだ。(c)自説を固執しこれに熱中するのは、ばかの最も確かな証拠である。およそ確信があり・物に動ぜず・横柄であり・瞑想的で・荘重で・謹厳であること、驢馬にまさるものがまたとあろうか。
 (b)我々はこの討論会話と題する章の中に、あの友達同士が互いにふざけ・はしゃぎ・ながら、ひやかしたり・からかったり・するおりに、快活と親密とがおのずから彼らの間に招じ入れる辛辣な応酬の類までも、含めてはいけないだろうか。これこそ、生れつき陽気なわたしにかなりふさわしい業である。それは前に述べた話合いほど緊張した・まじめな・ものではないが、やはりそれ相応に鋭敏と技巧を要するものであって、(c)リュクルゴスも考えたように、決して無益なものでもないのである。(b)わたしはその際、機知よりも自由を用い、創意よりも幸運をめぐまれるが、我慢においてこそわたしは完全である。まったくわたしは、ただ苛酷であるのみならず非礼でもあるしっぺい返しを、顔色もかえずに耐え忍ぶのである。そして、人の攻撃をこうむって即座にさかねじを食らわすだけのものを持合せないときは、力無い・だれた・いささか執拗に類する・抗弁をもってむやみに敵の鋭鋒を追いかけるような愚はしないで、わたしは黙って受け流す。一おう機嫌よく降参しておいて、やがて折を見てかたきをとる。商人だって始終儲けてばかりはいない。だのに多くの人たちは、かなわなくなると顔色や声までも変える。そして執念深い怒りによって、かたきをとるどころか自分の弱さと焦慮とを二つながら暴露する。こうしたじょうだんの間に、ときに我々は、お互いの欠点の隠れた絃をはじく。それは、まじめなときには我々が相手の機嫌を損ずることなしに手をふれることのできないものである。そうやってはじめて我々は、有益に相互の欠点を告げ合うことができるのである。
 このほかにフランス式の非礼野蛮な腕くらべもあるが、わたしはこれが大きらいである。わたしは柔らかい感じやすい皮膚を持っているのだ。わたしはわたしの一生のうちに、国王の血をうけた親王様がお二人までも、これがもとで地下の人となられたのを見たのである。(c)遊戯をしているうちに喧嘩になるなどは下の下である。
* アルマンゴーの註によると、一五四九年に遊戯競技中に死んだ Duc d’Enghien と、同様にして一五五九年に死んだ Henri ※(ローマ数字2、1-13-22) とをさすらしい。
 (b)それからわたしは、誰かを判断しようとするときには、「どれほどまであなたはご自分に満足していられるか、どこまでご自分の演説や作品に満足していられるか」と、直接その人にきくことにしている。わたしは次のようなずるい弁解はききたくない。「わたしはそれをほんのなぐさみにやって見たのだ。

そは今し鉄床かなとこの上より取上げしばかりの未成品。
(オウィディウス)

わたしはそれにただの一時間もかけはしなかった。それっきり打ちすててあったものだ」。「なるほど」とわたしは答えよう。「ではそれらのものについては問いますまい。だがその代り、別にあなたの全貌を示すもの、あなたがそれによって評価されたいと望まれるものを、何か一つ見せて下さい」と。そして問おう。「あなたの作品のうち、何を最も立派だとお思いか。この部分か、それともあの部分か、文章か、内容か、創意か、判断か、それとも学識か」と。まったく毎日のように、わたしは人が自分の作品をも、他人のそれと同様に判断しそこなうのを見るのである。そこに感情がまじるからばかりではない。やはりそれを認識し弁別するだけの能力をもたないからである。作品はそれ特有の力および運を持っていて、作者を彼の創意や知識以上に補佐することもあるし、作者以上の力を示すこともある。わたしはどうかといえば、他人の作品の価値よりも自分の作品のそれの方が、一そうよくわからない。だから『随想録』を、あるときは高く・あるときは低く・評価する。それはきわめて不同であやふやである。
* モリエールの『ミザントロープ』の有名な sonnet の場は、明らかにこのモンテーニュの一節から生れたものと考えられる。
 その内容によって有益な書物もたくさんあるが、著者は少しもそのために世の賞賛を博してはいない。よい書物もたくさんあるのだが、それはよい仕事と同じく、その作者にむしろ恥を与えている。わたしは我々の宴会や我々の衣裳の様子などを書くであろう。しかもはなはだまずく書くであろう。わたしの若い頃に出た勅令や世間に出ている王侯の書簡なども公表するであろう。何とかいう良書の要約も書くであろう(良書の要約はどれもこれも、皆愚劣な要約であるが)。そして当の良書の方はいつか滅びてしまうだろう。その他、同じようなことを色々と書くだろう。後世はこのような編著から類のない利益を引き出すことだろう。だがこのわたしは、いったいどんな名誉を与えられることやら。それにはよっぽど運がよくなくてはならない。有名な書物は大体みなこんなことになるのである。
 わたしは数年前フィリップ・ド・コミーヌを読んだが、それはきわめてすぐれた著作家である。わたしはそこに「主人があとで正しくお前に報い得ないほどの過度の奉仕を彼にしないようにせよ」とあるのを読んで、なるほどと感心した。だが、その警句はほむべきであったが、彼の方はほめるにあたらなかった。つい先頃わたしは、タキトゥスの中に、※(始め二重山括弧、1-1-52)恵与を与えらるることは、それに報い得る限りにおいてうれし。しからざる場合、そはかえっていとわしきものとなる※(終わり二重山括弧、1-1-53)(タキトゥス)とあるのにぶつかったからである。(c)それからセネカは力強くこういっている。※(始め二重山括弧、1-1-52)報いえざることを恥とする者は、報いざるべからざる人をもつことを欲せず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。クイントゥス・キケロの方はもっと卑屈な見方をしている。※(始め二重山括弧、1-1-52)とうてい報いえじと思う者は、ついに人の友たるをえざるべし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(Q・キケロ)。
 (b)主題の性質によっては、人はその主題にかけて著者の博覧強記を知ることはできる。けれども、その人のうちにあるもっともその人らしい・もっとも立派な・特質、すなわち彼の霊魂の力とその美しさとを判断するためには、まず彼のものとそうでないものとを識別しなければならない。そして彼のものでない部分においては、そこにどのくらい彼の選択・按排・修飾が加えられているかを考慮しなければならない。もし、よくあることだが、彼が内容を人に借りた上に、その形態を改悪していたとすればどうしたらよかろうか。われわれ書物に縁の薄い者は、はたと当惑する。つまり、ある新しい詩人のなかで何か美しい創意に出あっても、ある説教者のなかに何かしっかりした根拠を見出しても、うっかり彼らをほめることはできない。まずもって誰か物識りをつかまえて、真にその部分が彼らみずからのものであるか、それとも人からの借り物であるかを、教えてもらわなければならないのだ。それまでは、用心してわたしは何も言わない。
 わたしはこのほど、タキトゥスの歴史を一気に通読した(これはわたしにはめずらしいことである。二十年来わたしは一時間とつづけて書見に没頭したことがない)。それは、その人みずからの力量により・またその人の大勢の兄弟の間に常に変りなく見られる才能と仁慈とのために・ひろくフランス国民の尊敬をうけている一人の殿様から勧められてのことであった。わたしはタキト ゥスほど公の事件の記録の中に、あんなに個人個人の性格や傾向に関する考察を交えている著者があることを知らない。(c)だがわたしは、彼とはむしろ反対**に考えている。すなわち、「彼はあらゆる点においてきわめて異常極端な当時の帝王たちの生涯を・わけても彼らの残忍性がその臣下の間に生ぜしめた幾多の特異な行為を・特に記録させられたのであるから、普通に合戦や世間の動乱などについて書かされる場合よりは、ずっと考究し叙述するのに手ごたえも興味もある問題を持ったわけだ」と。だから、彼があの美しい死〔ソクラテスやセネカの死〕をかけ足で述べ、その種の話が数多くなりまた詳細にわたることを恐れはばかったかのような傾きがあるのを見て、わたしはしばしば、彼の書き方はまだまだ足りなかったと思うのである。
* ギュルソン伯ルイ・ド・フォワ、或いはその兄弟の誰かであろうと考えられる。
** タキトゥスは残忍な事実を語っていることについて言訳しているのであるが、モンテーニュはかえって彼が異常なる心理を描写していることを喜んでいる。そして暴君の犠牲となったセネカやソクラテスのような人々が死にのぞんだときの有様などを「もっと詳しく論じてくれてもよかった。少しも遠慮するには及ばなかった」といっているのである。
 (b)このような歴史こそ最も有益である。国家の興亡の方は運命の指導に従うのであるが、個人の動きの方は我々みずからの指導に従うのだ。タキトゥスの歴史は事実の叙述ではなくむしろその批判で、そこには物語よりも教訓の方が多い。それはただ読むべき書物ではなく、考えてよむべき書物である。それは警句に充満していて、そこには正しいのもあればまちがったのもあるが、とにかくこの本は、世を指導する地位に立つべき人々のための養いとも飾りともなる道徳論政治論の苗床である。彼は常に堅固で強力な理性に導かれながら、いかにも繊細に辛辣に、当時の気取った文体でもって論じている。じっさい当時の人々は、はなはだ誇張が好きなのであった。ものその物の中に繊細や辛辣を見出さないと、それらを言葉から借りたくらいだった。彼の書き振りはいくらかセネカのそれに似ている。ただ彼の方は豊満、セネカの方は鋭敏に思われる。こういう彼の著作は、現在のわが国のように乱れた病的な国に、一そう適切である。往々にしてそれは、我々を描き我々を諷しているのかと思われるくらいである。彼の誠実を疑う者は、かえって何か他の点で彼に不満を持っている者であることを暴露している。彼は健全な意見をいだき、ローマの政界においては正しい党派に属している。ただわたしは、彼がポンペイウスを、この人と同じ時代に生きこの人と交渉を持った正義の人々の意見よりもさらに苛酷に判断したこと、この人を、マリウスやス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラと同列に見てただ彼らほどには露骨でなかったと言ったことを、いささか残念に思う。ポンペイウスが国政をとろうとした意図の中には、野心も、また復讐心も、なくはなかったといわれる。彼の友人たちさえも、勝利が彼を理性の埓外に走らせはしまいかと心配したくらいだ。だが彼は決して、マリウスやス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラほどの狂暴にははしらなかった。彼の一生には、それほどはっきりした残忍非道をもって我々を脅威した事実は、一つもなかったのである。それに、疑わしい事柄を明白な事柄と同等に論じてはならない。だからわたしは、この点ではタキトゥスを信じないのである。彼の叙述が素朴で正直であることは、それが必ずしも彼の判断の結論とぴったり一致していないというまさにそのことによっても、おそらく証明することができるであろう。彼は自分の思う方向に従って判断した。しばしば自分が示している材料を越えたが、その材料の方は、ほんの少しもまげようとはしなかった。彼は法の命ずるところに従ってその時代の宗教を承認したことや、真の宗教を知らなかったことなどを、弁解する必要は少しもない。それは彼の不運であって、彼の咎ではないのである。
 わたしは主として彼の判断を考察したが、そのすべてを理解したわけではない。例えば年をとり病気になったティベリウスは、次のような言葉を元老院に書き送った。「諸君よ。わたしは君たちに何を書くべきか。どのように書くべきか。あるいは何を書かずにおくべきか。よろずの神々から、今日わたしが受けているそれよりももっと悪い死を科せられてもよいから、それを知りたい!」と。なぜタキトゥスはこの語をもって、断然ティベリウスの良心を苦しめる後悔に帰するのか、わたしにはわからない。少なくともじかにその手紙を読んだとき、わたしは決してそのようには解釈しなかった。また彼が「自分はローマにおいてこれこれの尊い職権を行った」といわねばならなかったときに、「これは威張っていうのではないが……」などと弁解がましいことをいったのは、いささか卑怯なようにわたしには思われた。こういうことは彼のような人物においては卑怯である。まったく、自分について素直に語ることをあえてしないということは、いささか勇気が不足している証拠だと思う。気高い不屈な判断を持ち、物を健全確実に判断する人は、自分自身のことをも他の物事と同様に思う存分に引用する。自分についても第三者についてと同様に率直に語る。あの礼儀という俗人の規則は、真理と自由のためにはこれを踏み越えなければならない。(c)わたしはあえて自分について語るだけでなく、あえて自分についてだけ語る。ほかのことについて書いているときは、わたしはさまよっているのだ。自分の主題からそれているのだ。わたしはむやみに自分を愛するものでもないし、それほど自分に執着するものでもないから、自分を、隣人や樹木を見るように、離れて識別したり考察したりすることができる。自分がどの程度まで値するかを見なかったり、自分の目に見える以上のことをいったりするのは、同じく間違いである。我々は我々よりも神の方をより多く愛さなければならないのに、しかも神を知ることがはなはだ少ないのに、神について好き放題に語っている。
 (b)もしタキトゥスの書物が彼の性質について何事かを物語っているとすれば、彼はたしかに真っすぐな勇気ある大人物であったと察せられる。ちっぽけな徳になずむ人ではなくて、哲学的な寛大な徳を抱ける人であったと察せられる。彼がその証言において大胆であったことは、次の例でも見ることができよう。彼は重いたきぎをはこぶ一人の兵士について語りながら、「彼の手は寒さにこわばり、その荷に凍りつき、とうとう腕から離れて、そこに凍えたままへばりついてしまった」といっている。こういう事柄に関しては、わたしはこのように偉大な証人の権威に服することにしている。またタキトゥスは、ウェスパシアヌスが神セラピスの加護の下に、アレクサンドリアにおいて一人の盲の婦人を、その眼に彼の唾液を塗ることによって癒したとか、その他いろいろな奇跡を伝えているが、これはすべてのよい歴史家たちの例にならってその義務に従ったものである。およそよい歴史家たちは重大な事件は漏れなく記録し、風聞や俗説なども公の出来事の一つに数えるのである。彼らの役目は、皆の人が信ずるところを記録するにある。決してそれを整頓することではない。後の役目は、良心の教導を任とする神学者や哲学者に属する。だから彼と同様に偉大な人物であった一歴史家は、はなはだ賢明にもこういった。※(始め二重山括弧、1-1-52)真に余は、これにつきて自ら信ぜざることをも記載せり。何となれば、余はみずから疑わしと思うことは断定することをえず、また伝統が余に教えたることを抹殺すること能わざればなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クイントゥス・クルティウス)。(c)またもう一人の史家は、こういった。※(始め二重山括弧、1-1-52)これらの事柄は断定するにも否定するにも及ばず。……ただ伝統を守れば可なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。じっさい奇跡の信仰がようやく薄らぎかけた時代に筆をとりながら、かれタキトゥスはこういったのである。「あれほど多くの正直な人々が古代に対するあんなに大きな尊敬をもって信じて来た事柄は、一つとして自分の年代記中に記載し支持することを忘れたくない」と。(b)いかにもそのとおりである。よろしく歴史家は、歴史を受けとったとおりに伝えるべきであって、判断によって取捨してはならない。わたしはわたしの取り扱う材料の王様である。それは誰から借りたものでもないが、それにしてもわたしは、それについて全然自分を信じていない。だからわたしは、しばしば自分の機知をひねり出しても見るが、それにも全然自信はない。(c)いくらか気のきいた文句も吐いては見るが、自分ながら首をひねる。(b)だが、それが勝手に流布するままにまかせてある。(c)世間にはそのようなことで名誉をえている人もあるらしい。何もわたしが独りで断定するにもおよぶまい。わたしは立ったり寝たり、前を向いたり後ろをむいたり、右に向いたり左にむいたり、わがあらゆる自然の態度の中にわたしを示す。(b)人々は、その力量においては一様であっても、趣味傾向においては必ずしも一様ではない。
 記憶が大ざっばに、またかなり不確実に、わたしに想い起させるタキトゥスの像は、およそ以上のとおりである。大ざっぱな判断はすべてたるんだ不完全なものである。
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第九章 すべて空なること



 この章は最も興味のあるエッセーの一つで内容はすこぶる豊富であるが、それだけに横道にそれることが多く、矛盾に充満している点でもまた異色を呈している。標題の示すとおり人間の本来空であることがそのおもな主題であろうから、その一つの現われとして彼の放浪癖が物語られているのはよいが、その間に種々様々な余談が挿入されるので、読者はいささか五里霧中の感をいだかされる。
 モンテーニュは昔(例えば第一巻第十四章や第二十章において)、理性や意志の力を信じその上に立ってストア的な道徳を説いたのであったが、今この章においてはそれと正反対に、人間性の空虚が強調せられ、その上に自然に従順なれという彼の哲学がうちたてられている。この自然哲学こそ、この第三巻時代にモンテーニュが到り得た心境であったから、このようにこの章が第三巻の中央に置かれているのであろう。
 旅行も人間性の空虚の一つの現われとしてモンテーニュの内省の資となったのであろう。彼はここにいろいろと旅の経験を語っている。彼の「旅日記」(白水社版『モンテーニュ全集』第四巻所載)をあわせ読むと、この章におけるモンテーニュの姿は、いよいよ鮮やかに浮びあがる。
 余談の中で最もわれわれの注意をひくのは、当時のフランスの悲惨な姿である。それを見てわれわれは、モンテーニュの政治上の保守主義の由来とその深さとを、はかり知ることができよう。それは始め乱世に処するためのただの用心慎重にすぎなかった。始めはただ用心の上から革新的な行動に出ないというまでのことであって、その思想にはなおかなりの自由奔放を許していた(一の二十三、その他)。だがその後ピュロン説を深く検討してゆくうちに、彼の保守主義ははからずも思想的基礎を得た(二の十二)ばかりでなく、この第三巻においてはさらに彼の経験の支柱を得ている。すなわち、あれほど理想家で革新的なものを持っていたモンテーニュがけっきょく保守主義者であった理由の一つは、実に当時の殺伐で陰惨な社会状態そのものであったことを思わなければなるまい。
 右の他にも、自著『随想録』のことや、死に関する考察や、いろいろな余談が出て来るが、こういういわば散歩調の語りぶりは、「空の空なるかな」を主題とするこのエッセーに、かえってますます趣を加えているとも考えられる。

 (b)何もかもが空であるということについて、こんなにも空なることどもを書きつらねるくらい、明らかに空なることはおそらくないであろう。このことについては、むしろ神様があのように神々しくお示し下さったことの方を、悟性ある人々は、注意深く、また絶えず、瞑想すべきであろう。
* 「空の空、空の空なるかな、すべて空なり」(旧約「伝道の書」一の二)。
  「むなしいことのむなしさ、むなしいことのむなしさ、すべてはむなしい」(バルバロ、デル・コル訳、一九六四年)。
 だが、どなたもお察し下さることと思うが、いくらむなしくてもこの一筋の道を、やはりわたしは、世に筆と紙とがあらんかぎり、やすむことなく、努めることなく、たどりゆくことであろう。わたしは行為によってわたしの一生を記録することができない。運命はわたしの行為をあまりにも低く置いた。だからわたしは、思想によってわたしの一生を記録するより仕方がないのである。
 わたしはただそのおなか〔腹〕加減によってその生活を知らせている一人の貴族にあったことがあるが、彼の家へゆくと、七、八日間の便器がずらりと一列に並べてあった。それが彼の研究であり、それが彼の主題であった。他の問題は皆、彼にとって鼻持ちがならないものであった。わたしがここに並べるのは、それにくらべたら幾らか奇麗だが、やはり一人の老人の精神の排泄物であって、あるときは固く・あるときは軟らかく・そしていつも不消化である。だが、一体わたしは何時になったら、どんな問題にぶつかっても常に動揺変化してやむことのないわたしの思想を述べ終るであろうか。だってディオメデスなんか、ただ一つの文法上の問題で六千巻を一ぱいにしたではないか。おしゃべりを始めたら一体どんなものが産み出されることか。ただ舌をもぞもぞさせたり、すべらせたりするだけでも、万巻の書物のあのように恐ろしい重荷となって、人々をその下に圧しつぶしたではないか。ただ言葉だけのために、あんなにも多くの言葉が費やされたのだ。おおピュタゴラスよ、なぜ、こういう言葉のあらしをはらいのけてはくれなかったのか
* ピュタゴラスはそのおしゃべりな弟子に、二年ないし五年の沈黙を課した、という故事がある。
 むかしある人がガルバというものに向って、何もしないでぶらぶら暮していることを非難したところ、「各人はその行為については責めを負わなければならないが、何もしないことについてはその必要はない」と答えた。彼は間違っていた。裁判所は何もせずにいる者をも調べあげてこれを懲戒するのである。
 まして無能で世を益することのない作者に対しては、怠け者や浮浪人に対してと同じように、何か法律の規制があってしかるべきであろう。人はわたしを始め幾多の著作者ものかきを、わが民衆の手のうちから追放したらよかろう。これは冗談ではないのである。むやみと物を書きたがるのは、乱世の一つの兆候であるらしい。一体いかなる時代に我々は、このような内乱になってからのようにたくさん書きまくったことがあったか。いつローマ人は、その滅亡にのぞんだ時ほどにたくさん書きまくったか。それにどこの国でも、人々の精神が精練されたからといって、人々が賢明になるわけでもないし、ああいう閑人の仕事は、各人がその本職をよい加減にしていることから、いやそれをなおざりにすることから、生れるのである。世紀の腐敗は我々各人の寄付によってでき上る。ある者は裏切りを、ある者は不正を、あるいは無信仰を、或いは暴逆を、あるいは吝嗇りんしょくを、或いは残酷を、それぞれの腕に応じて寄進する。それほどの意気地もない者は、ばか・むなしさ・おこたりを献納する。わたしなどはこの部に入る。どうももろもろの害を含んだ事柄が我々を圧迫するこのときこそ、むだな事柄の季節であるらしい。邪悪なことがこんなに横行する時代には、ただ役に立たないことをする位のことは、まあほめてやらなければなるまい。わたしは自分がお咎めをこうむるべき最後の者に属するであろうことを考えて、ひそかにみずから慰めている。人がもっと急を要する連中にかかり合っている間に、わたしは心を改めることができるであろう。まったく大きな害悪が我々を毒しているときに、それらを後まわしにして些細な不都合を追求するというのは、理屈に反することではないかと思われるのである。それに医家フィロティモスも、包帯をして下さいといって指をさし出した男に向い、その顔つきや吐く息から肺臓の膿腫と認めると、「君はいま、爪などにかかりあっているときではないよ」と言ったというではないか。
* 十六世紀のフランスは宗教的政治的パンフレットのたくさん現われた時代、いわば怪文書続出の時代であった。
 だがこれにつけて思出すのは、数年前のことであるが、わたしが今なお特殊の尊敬をもって思い出す一人物が、わが国の苦難の真最中に、ちょうど今と同じように法律もなければ裁判もなく、その職責を行う役人もいないというような際に、服装だか調理だか訴訟だかに関する何かしらつまらない改革意見を公表しようとなされたことである。そんなのはいわば、虐げられた人民にしゃぶらせる玩具である。お上はお前たち人民のことを片時も忘れてはいないのだぞと、思わせようとしただけのことなのだ。あらゆるのろうべき不徳をしほうだいの民衆に向って、ある種の話し振りや舞踏や遊戯などを口やかましく禁止している人々もまた同じことである。立派に熱を出してしまってから、体を洗ったり泥をおとしたりしたって間に合わない。(c)いよいよ一生の一大事に突進しようとするそのときにのぞんで、くしを入れ髪を整えるのは、ただスパルタ人だけがよくすることである。
* ボルドーの高等法院長であったラジュバトンのことだという説と宰相ミシェル・ド・ロピタルだろうという説とある。
 (b)わたしにいたっては、もう一つ、次のようなもっと悪い癖を持っている。というのは、上靴を曲げてはいているときはシャツもマントも曲ったままにしておく。つまり半分改めるということをばかにするのである。わたしは悪い状態のうちにあるときはその悪に熱中する。わたしは絶望して自分を見捨て、自分が堕落に向ってゆくのを黙って見おくる。(c)俗にいう「おのをおとせば柄までもなげる」というやつである。(b)わたしはだんだん悪くなることに執心し、わたしみずからをわたしの心づかいに値するとも思わなくなる。「全き善か全き悪」というわけである。
 わが国家の衰微がわたしの年齢の衰微とたまたま時を同じくしたのはもっけの幸いである。わたしはわたしの若き幸福がそれによって乱されるよりは、むしろわたしの老年の不幸がそれによって増加される方を喜んで我慢する。わたしが不幸にのぞんでもらす言葉は憤りの言葉である。わたしの意気は銷沈しないでふるい立つ。またほかの人たちとはあべこべで、わたしは不運のうちにあるときより、好運のうちにあるときの方がずっと信心深い(これはクセノフォンの教えにかなっているがその理由はちがう)。そして、求めるためよりもむしろ感謝するために、天にやさしい目をむける。わたしは健康がわたしにほほ笑む時は益々それを増進しようと努めるが、一朝それから遠ざかれば、それを取りもどそうとさほどにあせらない。繁栄がわたしには訓育とも教育ともなる。ちょうど不運やむちがほかの人々にそうであるように。(c)善い運は善い心と相容れぬものなのであろう、人間は不幸にあわないと善人にならない。(b)幸福はわたしにとって、節制謙譲への不思議な刺激である。哀訴はわたしをとらえ、威嚇はわたしにそっぽをむかせる。(c)好意はわたしをやさしくし、恐怖はわたしを片意地にする。
* クセノフォンの理由は、「ふだんから神々と親しんでいれば、まさかのときにも驚かないですむ。人間同士の交際助け合いと同じことで、ただ困ったときだけの神だのみは虫がよすぎる」というのである。ところがモンテーニュは、ここに述べているとおりで、幸福を神に謝することはあるが、不幸に際して神にすがろうという気は、毛頭もたないのである。
 (b)人間の性質はいろいろだが、自分のものよりも人のものが気に入り・変動と変化とを愛する・という性質はかなり世間一般である。

天つ日の光我らを喜ばすは、そが
時々刻々にその光を変うるが故なり。
(ペトロニウス)

わたしもまたその仲間である。これとはまったくあべこべに、自分自身に満足し・自分のもっているものを他の何物よりも重んじ・自分の見る形よりも美しいいかなる形をも認めない・人たちは、我々より賢明だとはいえないが、たしかに我々よりは幸福である。わたしは彼らの知恵を少しもうらやましいとは思わないが、彼らの幸福に至っては何とも羨ましい。
 このめずらしいまだ見ぬ物事にあこがれる心こそ、確かにわたしに旅行の望みをいだかせる一助となっているのだが、他のいろいろな事情もまた相当にそれにあずかっている。わたしは好んで家事の支配から遠ざかる。たとえ納屋の中ででも采配をふるうということは、そして家のものどもに服従されるということは、とにかく愉快なものにはちがいないが、それはあまりにも一様で退屈な快さである。それに、そこには必然的に幾多のいやな思いがまじっている。あるときは小作人たちの貧窮や逼迫が、あるときはお隣り同士の喧嘩が、あるときは彼らが君に向ってする横領が、君を苦しめる。

或いはあられふりてぶどうの園を荒し、
或いは麦畠おん身の予想を裏切る。
果樹も、或いは長雨の、或いは日でりの、
或いは寒さの激しかりし害をこうむれり。
(ホラティウス)

それに神様は君の家の管理人が十分に満足するような季節を、半年にやっと一ぺんくらいしか恵まないし、しかもそれがぶどう畠によければ、牧場に害を与えはしないかと心配になる。

或いは燃ゆるが如き太陽にやかれ、
或いは長雨や霜にいためられ、
或いはまた台風に吹き荒さる。
(ルクレティウス)

それにあの昔の人の新調の形のよい靴も、君の足を傷つける。いや、君の家庭に見られるあの整頓した外観を維持するには、どんなに骨が折れ、またどんなに苦労がいるか、それはよその人にはわからないのである。たぶん君は、それに非常な高価を支払っているのである。
* 或るローマ人が妻を離別した。人がこれをなじって、「君は一体何が不足なのか。彼女は清くないか、美しくないか、児を産まないか」と。その人は足を突き出し、その靴を示していった。「これは美しい。よい形だ。しかし、この靴がわたしの足のどこを傷つけるかは、はいたものでなければわからないよ」。――これはモンテーニュ夫妻の間をもらしているのか、一般に世間に見られる夫婦の関係をいっているのか、にわかに断定はできないが、モンテーニュの最初の伝記作者ポール・ボンヌフォンが描いているようには、モンテーニュ夫妻の仲は美しいものでなかったようである。彼の「妻を慰める手紙」なども、かえって一つのカムフラージュであったかも知れない。白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「書簡」解説参照。
 わたしが家事にかまけるようになったのは、ずっと後になってからである。自然がわたしよりも以前に生れさせた人々が、長い間わたしにこの重荷を負わせなかったからである。わたしはすでにそういう事柄よりはもっと自分の性分に合った別の習慣を得てしまっていた。けれどもわたしが見たところでは、家政をとるということは、むつかしい業というよりはむしろ厄介な業なのである。ほかの仕事ができるほどの者には、この仕事はきわめて容易に果されるであろう。もしもわたしが富を得ようと努めるのなら、この道はあまりにもまだるっこく思われることであろう。それならばむしろ王侯に仕えたことであろう。これこそほかの何よりも儲かる商売である。(c)わたしは善いことをするにも悪いことをするにも適しない自分の生活の他の部分にふさわしく、ただ「少しもふやさなかった代りに少しも減らさなかった」という評判を得さえすればたくさんなのだから、また、(b)わたしはただ、その日その日をすごすことだけしか求めていないのであるから、このわたしにも、有難いことに、大して骨は折らないでも、どうやら家事くらいはつとまるのである。
「最悪の場合には急いで浪費を打切って、追いつく貧乏からのがれることにせよ」。これがわたしの覚悟である。そうやってわたしは、いよいよ貧乏に追っつめられる前に、生活改善をやるのである。それにわたしは自分の心の中に、自分の持っているものよりも少ないものでなんとかやりくりする幾つかの段階を設けた。つまりそれで満足する癖をつけたのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)富は収入の額によらず、各人の暮し方によりこれを計れ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)わたしの真の欲求は、わたしの所有のすべてを吸いあげてしまうわけではないから、運命もわたしには歯のたてようがなく、わたしに深手を負わすことができない。
 わたしは家の事にすこぶる無知で冷淡であるが、それでもわたしの存在は大いに家のために役立っている。わたしもこれにたずさわるが、それはいやいやである。それにわたしの家では、わたしこそ独り、蝋燭を一方の端から後生大事に燃やしているのに、他の一端は少しも倹約されていないのである。
* 「蝋燭を両端から燃やす」という成語がある。浪費するという意味である。モンテーニュはそれをこのように言いかえたのである。自分独り倹約をしても、一方誰かが浪費をするというのである。じっさい彼は、案外金銭勘定に几帳面だった。「旅日記」の記述はいたるところでそれを証している。前出第一巻第十四章の終りの方を併せ読まれたい。
 (c)旅で困るのはただその物いりである。それは大きくてわたしの力を越える。ただ必要なだけの供回りを連れてゆくにとどまらず、恥ずかしくないだけのものを従えてゆくのが癖なので、それだけ日数も縮め回数も減らさなければならなかった。実際わたしは、ただ余ったお金・たまったお金・を旅費にあてたので、そのためによく時期を待ったり延ばしたりしたものである。わたしは遊山の楽しみのために家にいるときの楽しみを犠牲にしたくない。そうでなく両方がお互いに補い助けあうことをのぞむ。
 わたしのこの世におけるおもな望みは、この世を安楽に・わしくではなくむしろのんびりと・送ることにあったから、そういうわたしに、多くの相続者のためにたくさんの富を遺さねばならぬ義務がなかったのは、何といっても運命のめぐみであった。もしわたしのたった一人の相続人が、かつてわたしが十二分に思って頂戴したところのものをもらってもなお十分と思わないならば、それこそとんでもない話である。そういう無分別な者には、少しでも余計にのこしてやろうなどと思うことはない。実際みんなはフォキオンの例にならって、相当なものを子供たちに与えているのだ。彼らが不肖の児でない限り、いずれものこされたもので満足するはずである。決してわたしは、クラテスの所為にはくみしないであろう。彼はその金を、次のような条件で銀行家に託した。「もしこれらの子供たちが愚かであったら、それをやって下さい。利口であったら、世の最も貧しい人たちに分けて上げて下さい」と。これではまるで「ばか息子はお金を使わずにはいられないから、それだけたくさんお金を使ってもよろしい」ということになってしまう。
* 「自分の子どもたちがわたしに似ているなら、わたしが彼らにのこすところは、彼らにとって十分であろう。もし似ていないならば、いくら残しても足りないであろう。この上骨を折って彼らの浪費を助長したくない」とフォキオンはいったのである。
 (b)それはともかく、わたしの不在から生ずる損害は、決して大したものではないように思う。だからわたしにそれに堪えるだけの力があるかぎり、わたしはそれだけのために、この煩わしい家庭生活からしばしわたしを解放してくれるせっかくの機会を、あえて辞退することもないと思う。家庭生活には始終何かうまくゆかないことがある。あるときは甲の家とのかけあい、あるときは乙の家とのそれが、あなたを煩わす。あなたは万事をあまりにくわしく見すぎ、あなたの洞察はここでもやはりあなたをそこなう。わたしは気持を悪くさせられるような機会は逃避し、悪くゆく事柄には知らん顔をする。だがいつもそう逃げてばかりはいられないから、家にいればわたしも何かの不愉快な出来ごとにぶつからずにはいないのである。(c)いや、皆が最もうまく隠すごまかしはわたしが最もよく知るところであるが、中にはその害を少なくするために、一緒になって隠してやらねばならぬごまかしもある。(b)何ともない刺激さ。だがいくら何ともなくても、刺激は刺激なのだ。最も些細な邪魔が最もちくちくする。こまかい文字ほど眼を痛め疲らすように、こまこました事件ほど我々を刺激する。(c)小さな痛みのたくさんは、一つの激しい痛みよりも、どんなに激しい痛みよりも、有害である。(b)こうした家庭内のとげとげは、繁く細かければそれだけ鋭く、また抜き討ちに、我々を噛む。容易に我々の不意を突くからである。
 (c)わたしは哲学者ではない。不幸はその重さ相当にわたしをおしつぶす。その質によってばかりでなく、その形によってわたしにのしかかる。むしろ形による場合の方が多いのだ。わたしは不幸を感受することが普通の人よりも深い。ただ彼らよりよく我慢するだけのことである。とにかくそれは、わたしを傷つけなくても、やはり気にはなるのである。(b)生命はひよわで乱されやすいものである。一ぺん悲哀の方に顔をむけたら最期((c)※(始め二重山括弧、1-1-52)なんぴとも、一度ゆずれば、とうてい己れに逆らいきれざるなり※(終わり二重山括弧、1-1-53))(セネカ)、(b)その原因はいくら馬鹿げたものであっても、わたしはおのずと悲しい気持でいらいらしてくる。その気持はみずからその材料をあとからあとからと寄せ集め積み上げつつ、自分独りでだんだんと増長し昂進してゆく。

一しずく一しずく落つる水、石をうがつ。
(ルクレティウス)

 こういう毎日のぽたりぽたりは、わたしをむしばむ。(c)毎日の不愉快は決してささいなものではない。それは絶え間がなく、またつぐなわれない。殊にそれが四六時ちゅう一緒にいる家族の者共から生ずるときはそうである。
 (b)家業を遠くの方から大まかに眺めていると、わたしはそれについてあまり正確な記憶をもたないせいかも知れないが、どうやらそれは現在自分の胸算用以上に繁昌しているように思う。どうもこの収益は普通以上のようである。このような繁昌はあてにはならない。だがみずからその真唯中にあって、そのあらゆる細部の進行を眼の前に見ていたらどうだろう。

わが心は千々の思いの中に引きさかれて、
(ウェルギリウス)

何もかもが物足りなく、また心配になる。全然家事をうち捨てることはわたしにとってきわめてやさしいが、心を労せずにこれにたずさわるということはすこぶるむつかしい。眼の前の物事ことごとくが身を労するというような境地にあることは、いかにもみじめである。実際わたしは、ひとの家の快楽の方をより楽しんでうけているようである。その方をより純粋に味わっているようである。(c)ディオゲネスがどんな酒が最も好きかときかれて「よその家の酒」と答えたのは、いかにもわが意を得ている。
 (b)父はその生れたモンターニュに建築をするのが好きであった。こうした家事の管理にかけては、万事わたしは彼の模範と掟とに従いたい。そしてわが後継者たちにも、できるだけそれらを守らせたい。父のためにそれ以上のこともできるならば、勿論わたしはそれをしたい。父の意志がなおわたしによって実行され・発揮される・ことを光栄に思う。ほんとうにわたしは、できるかぎり、父と同じように生きねばならない。父はあんなにもやさしかった! 父の意見にそむいてはばちがあたる!
 わたしがわざわざ古い城壁の一部を完成し、たてつけのわるい建物の一部を修理させたのも、実にわたしの満足のためではなくて、むしろ父の遺志に少しでも添おうとしたからである。(c)じっさい、彼が彼の家のなかでちょっと手をつけたままのこしていった立派な計画をうけついで完成しなかった自分の怠慢を、わたしはひそかに責めている。殊に、どうやらわたしがこの家の最後の所有主・これに手を加え得る最後の人・なのではないかと考えると、ますます残念である。(b)まったくわたし一人の傾向からいえば、人がはなはだ面白いものだとする建築の楽しみも、狩猟も、庭作りも、その他いろいろな隠遁生活の快楽も、みなわたしの没頭できないものばかりである。いずれもわたしが敬して遠ざけるもの、その点わたしをわずらわす他のもろもろの思想と同じことである。わたしは強力で博学な思想を持とうとはあえて思わない。むしろ楽な・生活に適応した・それを持ちたいと願っている。(c)思想は役にたつ愉快なものでありさえすれば、それで十分真実で健全だと思う。
 (b)人々はわたしが家政にたずさわる能力がないというと、みんな口々に、「それは家政を軽蔑しているからだ。君が耕作の道具や季節や順序や、どうやって自分の酒が作られるか、どうやって人は接木つぎきするか、あえて知ろうともせず、野菜や果実の名前も形も、自分の食べる食物の作り方も、(c)自分の着る布地の名前も値段も、(b)知ろうとしないのは、もっと高尚な学問に打ちこんでいるからだ」とお追従をいう。わたしはそう聞くとはなはだ悲しくなる。本当にそうだとすれば、それこそばかなことだ。それは自慢になるどころか、むしろ恥ずべきことだ。わたしはよい論理学者であるよりは、よい馬乗りである方がよっぽどいい。

いかなればより有用なる業にたずさわらざる?
などとうなりなりを用いて籠を編まざる?
(ウェルギリウス)

 (c)我々は我々の思想を、一般問題や物事の原因や我々に関係なしに立派に動いている宇宙の運動だとかをもって煩わしている。そして我々の問題やミシェルの方は、ほったらかしている。この方が一般人間よりずっと我々各自に密接な関係があるのに。(b)さてわたしは、大抵いつでも自分の家にじっとしている。何処でよりもここで余生をたのしみたいからだ。

願わくはここにわが晩年を送らんことを!
海陸の旅や、また幾度もの遠征に、われ疲れたれば、
こここそわが最後の泊りとならんことを!
(ホラティウス)

はたしてわたしはこの望みをとげ得るであろうか。わたしはほかにも何かと相続したが、むしろ何にもまして、父が晩年その家事管理の上に注いだあの熱烈な愛をこそ、譲られたかったと思う。彼はその欲望を身分相応にとどめ、自分が持っているものだけで満足することができて、はなはだ幸福であった。政治評論家たちは、わたしのしていることを低俗なつまらないことだと、いくらでもくさすがよろしい。いつかわたしだって、父のように家事の管理に興味が持てるようにならないとも限らないのだ。わたしも、最も貴ぶべき職業は公に奉仕し大勢の人に役立つことであるという意見に賛成する。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)我らが天才や徳行をはじめいろいろな優れたる特質の果実を最もけ楽しむは、それらを同胞と分ちあうときなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)だがわたしは、御免をこうむる、半分は良心から(まったくああいう職業がいかに重大なものであるかを思うと、わたしはまた、自分にはこれにあたるだけの力がないことを覚るのである。(c)プラトンにしても、国政管理のどの点にかけても名人であったが、やはりみずからはこれを行わなかった)。(b)半分はぐうたらから。わたしはあまりあくせくせずにこの世が楽しめれば満足なのだ。どうやら我慢のできる生活、自分にも他人にも厄介でない生活ができさえすれば、それで満足なのだ。
 もしも本当にそういう人さえあったら、およそわたしくらい何もかも第三者の世話や差配に委せきって、のほほんとしているものはないだろう。わたしの現在の願いの一つは、わたしの老年を何不自由なく安楽に過さしてくれそうな婿を一人見つけ出すことであろう。わたしはその人の手に、わたしの財産を運用する全権を委せたい。その人に、わたしのすることの全部を代行してもらい、わたしの儲けるだけのものを代って儲けてもらいたい。その人が本当に感謝し、情愛の籠った誠意をもってやってくれるものならば。だが、どうしよう? 我々は血をわけた子供の忠実ささえ絶えて見られない世の中に生きているのだ。
 旅行中わたしの財布をあずかる者は、それを純粋に所有し、わたしから何の検査もうけない。それにごまかそうと思えば、ちゃんと勘定をあわせてわたしの目をごまかすであろう。だが悪魔でないかぎり、わたしからそういう絶対の信頼をかけられれば、かえって正直にやらざるをえなくなる。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)多くの人々は、欺かれんことを恐れて欺瞞の道を教え、自ら疑いてひとに詐欺を教えたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)わたしが下僕たちに対して安心しているのは、大抵の場合彼らについて何も知らないからである。わたしは不徳を眼のあたり見てからでなければ邪推しない。どっちかといえば若い者を信用するが、それは若い者の方がさほどに悪い実例にそこなわれていないと思うからである。わたしは二カ月の終りに「四百エキュ使いました」といわれる方が、毎晩「三エキュ、五エキュ、七エキュ」とうるさく聞かされるよりはよっぽどよい。だがわたしは、この種の盗みによって大して盗まれもしなかった。本当にわたしは自分の無知を助長する。わたしはわざと、自分のお金に対する知識を幾らか曖昧にしておく。ある程度までは、その金高が不確かであることを、満足にさえ思う。あなたも下僕どもの不忠実ないし無分別を、少しは大目に見てやらなければいけない。全体として我々が自分の用をたすだけのものが残るならば、こういう運命の恵与のお余りともいうべきものは、少しは彼らの思うようにもさせてやろうではないか。(c)それはいわば落穂みたいなものである。要するに、わたしは下僕どもの忠実を買いかぶるわけではないが、彼らの悪事は大目に見るのである。(b)おお、自分のお金を調査し、それを計ったり数えたりいじくりまわしたりしてよろこぶことは、何という下卑たまた馬鹿げた仕事であろう。そこから吝嗇は忍びよるのである。
 わたしは財産を管理するようになってからすでに十八年になるが、今でも証書類に目を通したり・わが家の主要な仕事を監督したり・する気になれないのである。いずれも、どうしてもわたしが知っていなければならぬこと、わたしが処理しなければならないことであったのだが。それは決して、うつろい易いこの世の事柄に対する哲学的侮蔑ではない。わたしはそんな清らかな趣味を持ってはいないし、それらの事柄をも少なくともそれらが値するだけには重んじている。むしろそれは、本当に、いいわけも通らぬ子供じみた怠慢なのである。(c)契約書を読んだり・ほこりまみれの書類を引繰り返したり・するくらいなら、わたしは何でもして見せる。それは自分の用事の奴隷になるようなものだ。いや下手をすると、他人の用事の奴隷にさえなりかねない。世間には給金をもらってそういう奴隷になる者がたくさんいるのだから不思議である。わたしにとっては心配苦労ほど高価なものはないのである。わたしはひたすら、暢気のんきにぶらりぶらりと暮すことばかり考えている。
 (b)確かにわたしは、むしろ人の財産にたよって暮す方に適していたのであるが、悲しいかなそれは義務と屈従とに甘んじない限り望めない。だがしかし、よく考えて見ると、はたしてわたしのような気質・わたしのような身分・にとって、家事や下僕や出入の職人などのために苦労する方が、わたしよりも高い生れで・相当おうようにわたしを引回して下さりそうな・御主人をひとり持つことより、下賤でなく・うるさくなく・辛くないであろうか。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)奴隷状態とは自己を制する力なき・意気地なき・弱き・根性のことなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。クラテスはもっと身をおとした。すなわち下賤と煩瑣はんさな家事から逃れるために、貧乏神の袖の下にとびこんだのである。わたしはそんなことはしたくない(わたしは貧乏が苦痛と同様にきらいである)。けれども、現在のような生活を、それほど目だたぬ・わずらわしくない・生活と取りかえることには大賛成である。
 家にいなければ、わたしはすべてこのような心づかいを免れることができる。そのときは塔全体が崩れおちようとも、今目の前に瓦が一枚落ちたほどにも感じないだろう。わたしの心は離れていればきわめて容易に超然としているが、その場にいる限りぶどう作りの心のように苦労する。(c)手綱のかけ方が曲っているとか・あぶみの力革の先がすねにあたるとか・いうことは、終日わたしを不機嫌にする。(b)わたしは心を不幸に対して高く上げるが、眼の方はそういうわけにゆかない。

いかにせん、感覚を! この諸々の感覚を!
(出所不詳)

 わたしは家にいれば、すべての行き違いの責任者である。大抵の主人たちは(もちろん自分のような中流階級の主人たちのことであるが)、何もかも残りなく番頭に委せてしまうわけにはゆかない。もしそういう人があれば、それはよほど幸福なので、いずれもみな、相当たくさんの用事をかかえている。こうした事情から、わたしは(c)出し抜けにやって来る客人の接待において、いつもいささか無愛想である(まったく、もしかするとわたしは、わたしの愛想によってではなくむしろわたしの家の御馳走によって、たまにはどなた様かをお引きとめしたことがあったかもしれない)。そのためにわたしみずからも、(b)家に友人たちの訪問や会合を迎えて感ずべき快味を、しばしばとり逃がした。貴族のその家におけるもっとも見っともない態度といえば、命じておいたあれこれに一々気を配り、一人の下僕に耳うちするかと思えばまたもう一人の下僕に目配せをすることである。万事は気づかれないように、ふだんの生活そのままに、なされなければならない。だから、客人たちに彼らのために用意した事柄について語るのは、申訳のためにもせよ、また自慢のためにもせよ、いや味だと思う。わたしは整頓と清潔を好む。豊富と同じくらいに、

皿や盃など我が姿を映さんことを
(ホラティウス)

このむ。だからわたしの家では、もっぱら必要なだけを目ざし、飾りたてることはあまりしない。よその家へ行ったら、下僕が喧嘩をしてもお皿が引っくりかえっても、ただにこにこしていればよい。ご主人が料理頭と明日の献立について打合せをしている間は、ただ眠っていればよろしい。
 (c)以上に述べたところはわたし一個の考えであって、一般的にはわたしも、秩序整然とした・平和な・繁昌した・家庭を営むことが、ある種の性質にとってどんなにうれしいことであるかを、無視しようというのではない。また、わたしみずからの誤りや不愉快を、この家事そのことのせいにしようとも思わないし、「各人にとって最も幸福な仕事は、他人に害を及ぼすことなく自分自身の仕事を行うことである」といったあのプラトンに反対しようとも思わないのである。
 (b)旅をしているときは、わたしはただわたしのことと、わたしのお金の使い道だけを、考えればよい。それはただ一つの指図で始末される。お金を溜めるのにはずいぶん多くの特質がいるが、わたしにはてんで見当もつかない。だが使うことにかけては、わたしもいささか心得ている。だから人が眼をまるくするような使い方をする。それこそ本当のお金の使い方というものだ。けれどもそこにあまりに野心的な期待をかけるので、わたしの出しっぷりはそのときどきによって一様でなく不同である。いやそれどころかあるときは極度の浪費となり、あるときは極度の倹約となる。もしそれが大いに人の眼を見はらせ・役に立つ・ようならば無分別に出すし、もしそれが一向にぱっとせず・わたしに向ってほほ笑まない・ようならば、やはり無分別に財布の口をしめる。
 学術であれ自然であれ、どちらにしても、我々は他人との関係において生きているのだというふうに我々に思いこますならば、それは我々を益するよりもかえって害することの方が多い。我々は我々自身の利益は犠牲にしても、一般の意見にかなうような体裁をつくる。我々は我々の本質が我々自体においてまた現実においてどんなふうであるかはあえてかえりみず、かえってそれが公衆の認識においていかがであろうかと心配する。心の幸福や知恵も、ただそれが我々にだけ享受されるのでは、つまり他人の眼にもとまらずその賞賛をこうむらないのでは、なんの効果もないように思う。ある人のふところからは金が勢いよく湧き出ているが、それは地下にくぐって少しも人の目につかない。そうかと思うとある人は、金を薄っぺらな延箔のべはくにしてひらりひらりとふりまいている。その結果、後者にとっては銅貨が金貨に値し、前者にとってはそのあべこべになる。世間は見かけによって用途と価値とを判断するからだ。富をめぐる細かい配慮には、いつも吝嗇のにおいがする。それを分配するときでさえそうで、施しもまたあまりに几帳面で人為的になると、やはりけちくさくなる。だが富というものは、それほどの苦心注意には値しないのである。出費は几帳面にしようとすると窮屈になる。貯蓄とか消費とかはそれ自体善でも悪でもない。それが善悪いずれの色を帯びるかは、我々の意志の打込み方いかんによる。
 わたしをあの漫遊につれ出すもう一つの原因は、わたしがわが国の現在の気風と折り合わないことである。わたしはこの腐敗をも、

何と呼ぶべきか名づけようもなく、
いかなる金属の名をもって呼ぶべきやも知られぬほど
罪悪に充満した・鉄の時代よりもさらに劣れる・時代
(ユウェナリス)

をも、公益のためならば容易にあきらめもするであろうが、わたし個人としては何としてもあきらめきれない。わたし自身は、特にひどい目にあっているのだ。まったくわたしの近所では、あの打ち続く内乱のために、

正と不正とのけじめなき、
(ウェルギリウス)

あのように混沌とした無政府状態の中で、皆がむなしく年をとってしまった。まことにそれは、よくもこれで続いてゆくものよと驚かれるばかりの、ひどい状態である。

人々は武装して田園を耕作す。
人々はただ掠奪物もて生きんことをのみ思う。
(ウェルギリウス)

結局わたしは、こういう我が国の実状を見ているうちに、人間社会というものはどんな目にあっても、あくまで結びあって解けないものであることを知った。人間はどんな状態にほうりこんでも、互いにゆずり合い重なり合って、どうやらそれぞれ落ちつくところにおちつく。例えば、無秩序に袋の中にほうりこまれたごろごろした物体が、互いにうまい工合に組み合い抱き合って、しばしば人為のとうてい及び得ないほどに行儀よく並んでいるのと同じことである。王フィリッポスは最も邪悪で矯正しようのない人々を捜し出して一団となし、これを特に彼らのために建てさせた一都市のうちに住まわせた。悪人の都市ペネロポリスというのがそれであった。思うに彼らは不徳そのものをもって相互の間に政治組織を作り、すみよいととのった社会をたてたのである。
 わたしは一つの行為、三つの行為、または百の行為だけでなく、現在一般的に行われ認められている風習までが、特にその残忍と不誠実において、人倫に反していると思うのであるが、この残忍と不誠実こそ、わたしの考えでは不徳の中で最も悪いやつであるから、どうしてもわたしは、恐怖なしにはこの当世の風習を考えることができない。そして、それを憎むのとほぼ同じ程度に、それに感心する。こういう目にあまる悪事の実践には、誤りや錯乱ばかりでなく、それと同程度に強い精神力もあずかっているのだ。必要は人々を結束させる。この偶然の結束が後に法律という形をとる。まったく、中にはいかなる人間の考えも産み出し得ないほどに野蛮な法律もあったが、それでもプラトンやアリストテレスの法律と同様に、健やかにまた命長く存続したのである。
 まったく、あの学者たちが考え出した理想的な国家組織は、いずれもよく見るとわらうべきもので、実施するに堪えないものである。社会の最良の形態・我々を結束するのに最も便利な規則・に関する、あの物々しくまたながながしい論争は、ただ我々の精神を鍛練するにふさわしいだけである。ちょうどもろもろの学芸の中に、もっぱら喧嘩口論をその本義とし、それ以外にはいかなる生命をも持たない主題がたくさんあるのと同じことだ。そういう絵にかいたような政治機構は、新世界でならば実施もされようが、我々の相手はすでにある習慣にならされた人間なのであって、我々はピュルラやカドモスのように、人間から創造してかかるわけにはゆくまい。我々は何かの方法によって彼らを新しく教育しなおすことはできるにしても、元も子もなくす覚悟でもなければ、彼らをその既得の習癖からひっぺがすことはまずできまい。ある人がソロンに向って、「あなたはアテナイ人のためにあなたができる限りの良い法律を与えたのか」とたずねたところ彼は、「そうだな、彼らの受け行いうるかぎりのよい法律を与えたのさ」と答えた。
* ピュルラおよびその夫デウカリオンは、心美わしかったために世界の洪水を免れてから、ピュルラは女子を、デウカリオンは男子を、それぞれ石を肩越しになげることによって創造した。――カドモスはフェニキア王の息子、ギリシアで自分の臣下を竜にのまれたので、その竜を殺し、その竜の歯で代りの家来を造ったという。
 (c)ウァロも同様に弁解してこう言った。「もしわたしが宗教について書く最初の人であるなら、わたしはわたしが信ずるままをいうであろう。だがもうちゃんとでき上った宗教があるのだから、自然にかなうように言うよりも、むしろ習慣にかなうように言うであろう」と。
* ローマ最大の人文学者。膨大な著作を残し、それは人間思想の全分野に及ぶ。但し、その著書の大半は散逸し、現存するのは、内二書に過ぎない。
 (b)理論の上からではなく事実の上から見て、それぞれの国家にとって最もすぐれた政体とは、それが長くその下に維持されて来た政体のことである。国家の形態とその本質的長所とは習慣に依存する。我々はいつも現在の状態をいとうけれども、民主的国家において少数の統治を望み、専制君主国において別種の政府を求めるのは、まちがいであり、ばかなことであると思う。

その国を、あるがままに、愛せよ。
王国ならば、王制を愛せよ。
一人の物なりとも、大勢の物なりとも、ひとしく己れの国を愛せよ。
汝ここに生れしも神意なればなり。
(ピブラック)

善良なピブラック殿はこんなふうに言っている。我々は最近この人を失ったが、それはきわめて心のやさしい人で、考え方もきわめて健全であったし、心持もおだやかな人であった。我々はまた同じ年にフォワ殿**を失ったが、この二人を失ったことは、わが王朝にとっては重大な損失であった。今日わがフランスに、陛下の顧問として忠誠と才能との点でこれら二人のガスコーニュ人と肩をならべられる人が、はたしてあとに何人残っているであろうか。二人はそれぞれ別様に立派な人物であって、特に今のような時代には稀に見る立派な人たちであった。それにしても今のような時代に、いったい誰が、我々の腐敗と嵐とにこんなにも釣合わない二つの霊魂を、おくだしになったのであろうか。
* ピブラックは新教徒であったのにサン・バルテルミ殺戮を弁護したので、仲間の評判をひどく悪くしたが、元来言行ともに自由主義的な、ものわかりのよい人物であった。だからモンテーニュとも一生仲よく交わったので、ここに善良なとモンテーニュが特にいっているのも、世間の非難に対していささか彼をかばったものであろう(この人の死んだのは一五八四年)。
** ポール・ド・フォワは、トゥールーズの司教でカトリック派であったが、すこぶる寛容な人であったため、一時バスティーユに投ぜられたこともある。ピブラックとは陣営を異にする人であったが、この寛容という点において相通ずるものがあり、共にモンテーニュの友たるにふさわしい人物であった。白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」※(ローマ数字7、1-13-27)20参照。それにモンテーニュが、何れの党派宗派にもこだわらずに、断を下している点に注意したい。
 およそ革新くらい国家を苦しめるものはない。変更だけでも不正と圧制とを産み出すに十分なのである。どこかの一部分がはずれたら、つっかえ棒をかうがよろしい。万物に自然な変化腐敗が、我々をあまりに我々の根源から遠ざけないように、それに抵抗するがよろしい。けれども、あのように大きな塊を鋳直し・あのように大きな建物の基礎を取りかえよう・と企てるのは、(c)垢をおとそうとして模様を消し、(b)個々の欠点を償おうとして全体の混乱をきたし、病を癒そうとして病人を殺すもののすることである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)そは政体を変えんとするにあらで、破壊せんと望むものなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)世の中はなかなか直りにくいものである。人々は自分を圧迫するものに対してあまりにも我慢ができないので、ひたすらその圧迫から免れようとばかりあせり、それにはどんな代償がいるかを考えない。我々はたくさんの実例によって、社会はふつう、直されてかえって悪くなることを知っている。現在の苦痛をおろしただけでは治癒とはいえない。その容態が全体的に改まるのでなければ何にもならない。
 (c)外科医の目的は悪い肉を死なせることではない。それはただ彼の治療の道程にすぎない。彼はその向うを見ている。そこに自然の肉を再生させ・患部をそれがあるべき状態にかえす・ことを目指している。ただ自分を苦しめるものを取り除こうとばかりする者は、それっきり行きづまる。まったく、苦のあとには必ず楽が来るとは限らないのだ。またもう一つの苦が来ることもあるし、前よりもっとひどい苦がくることすらあるのである。現にカエサルの殺戮者たちはそういう目にあった。彼らは国家をあのような苦境におとし入れ、後にみずからそれを悔いなければならなかった。それ以来こんにちにいたるまで、多くの国民に同じことが起った。わたしと時代を同じくするフランス人こそ、いやというほどよくそれを知っている。大きな変革は、いずれも国家を揺り動かし、これを混乱におとしいれる。
 まっすぐに療治を目指し・しかも事前に熟考する・者は、たいていは手を下す勇気を失うであろう。パクウィウス・カラウィウスは、この方法の弊害を顕著な実例によってため直した。彼の同市民が彼らの役人たちに謀反むほんしたときのことである。彼はカプア市における最も権威ある人物であったが、ある日一策を案じ、元老たちを公邸に幽閉した。そして人民を広場に集め、これに向っていうには、「今こそ君たちを長らく圧迫して来た圧制者どもに、思う存分復讐のできる時が来た。彼らは今いずれも身一つで、武器を奪われてわたしの手の中にある」と。そして彼の意見は、「まず彼ら元老たちを、抽選順に一人一人引張り出そう。一人一人にその罪を宣告し、即座にこれを宣告どおりに処刑しよう。その代り同時に諸君は、その職をつぐべき有徳の士を指名し、一日も元老の椅子を空席にしないようにする義務がある」というのだった。さていよいよ一人の元老の名が呼び上げられると、たちまちこれに対する不満の声が四方に起った。「わかった」とパクウィウスはいった。「その者は退職させなさい。それは悪い奴だ。さあ良い者をもってこれに代えよう」。たちまちにして一座はしんとなった。皆は選択に困ったのである。まず最も厚かましい者が出て来て自分が欲する者の名を呼ぶと、その者を拒けようとする声が相和していよいよ高くあがった。人々はその者を斥ける正当な理由とたくさんの欠点を見出したのである。こういう食いちがった気分は段々と高じてゆき、第二第三の元老とゆくにしたがって事態はますます紛糾した。免職に対しては皆が同意したが、後任の選挙となると異論が百出した。そしてついにこういう無益な騒ぎにあき果て、一人去り、二人去り、いつしか皆が会場から姿を消した。いずれもその心の中に、「最も古くからよく知られている悪は、新しい未経験の悪よりいつも堪えやすいものだ」という結論を抱いて去ったのである。
 (b)いくら我々がいとも浅ましく立ち騒いでいるからといって(まったく我々は何をしなかったであろうか)、

ああ、我らの傷痕と我らの罪悪、
兄弟相争う我らの内乱は、
いずれも恥をもって我らをみたす。
狂暴なる世紀の児は何事の前にかためらいし?
我らの暴挙は何事をか仮借したる?
我らの若者の汚さざりし神殿いずくにありや。
(ホラティウス)

わたしは直ちに結論しようとは思わない。

健康の女神サルスなりとも、
到底この家族を救うことあたわじ。
(テレンティウス)

おそらく我々は、まだ我々の最後の時期にあるのではなかろう。国家の存続はどうも我々の理解の及ばないことであるらしい。(c)人間社会というものは、プラトンもいったように、強力にして崩壊し難いものなのである。それはしばしば、内部の致命的病弊にもかかわらず、不公正な法律の害悪にもかかわらず、暴政にもかかわらず、また役人どもの専横と無知・民衆の奔放と反乱・にもかかわらず、存続する。
 (b)我々はどんな身分に置かれても、自分を自分より上にある者にくらべ、より良い暮しをする者に眼をそそぐ。だが自分より下にある者の方に自分をくらべようではないか。そうすればどんなに悪い星のもとにいる者も、自ら慰めるに足るたくさんの実例を見出さないことはないのである。(c)我々が我々の先に立つものを見てよろこばず、かえってあとに従うものを見てよろこぶのは、我々の悪いくせである。(b)だからソロンもいったとおり、もし誰かがみんなの苦労を積んで一山にしたところで、誰一人、この一山の苦労を他の人々と公平に分割して、自分もその持ち分をいさぎよく背負おうなどと、考える者はないのである。やはり元々どおり、自分は自分の分だけを持ち帰る方がよいと、考えない者はないのである。我々の国家は病んでいる。だが、これよりもっとひどい病気の国家もあったのだが、それで死にはしなかった。神々は我々を手玉にとっているのだ。こづきまわしているのだ。

神々は我ら人間を手まりとす。
(プラウトゥス)

 天はローマという国に、将来生れでるあらゆる国家の模範となるべき運命を賦与した。この国は自分の内に、一つの国家が出あうあらゆる変化や出来事を蔵している。平和な時戦乱の時に生じうる限りのこと、すなわち色々な幸と不幸とをあわせ蔵している。いかなる国家も、この国がかつてこうむり・そして堪えた・あの騒乱の跡をかえりみれば、少しも自国の現状に絶望することはいらないのである。領土の拡大が一国家の健康を示すとすれば(わたしは全然この説にくみしない。(c)ニコクレスに向って「領地の広い君主を羨みたもうな。父祖伝来の領土をよく統治する君主の方を羨みたまえ」と教えたイソクラテスこそ、我が意を得ている)、(b)ローマはその最も病める時に最も健康であった。その最悪の状態にあったときこそ、その最も幸福な時であった。その初代の諸皇帝の下には、ほとんどいかなる国家的様相をも認めることができない。それこそ人が想像し得る限りの、最も恐ろしい最も暗澹たる混乱であった。けれどもローマはそれに堪え、そこに存続した。当時ローマは、その領内にこぢんまりした一君主国を維持していたのではない。極めて相違し・きわめてかけ離れ・きわめて非友交的な・統治のゆき届かない・無理に征服した・たくさんの国々を維持していたのである。

   運命はいずれの国にも、
海と陸との主たるローマの民に
仕返しをなすたよりを与えざりき。
(ルカヌス)

ゆれるもの必ずしも倒れない。あのように大きな全体の骨組は、幾本もの釘で保たれている。それはその古さにさえ支えられている。例えば古い建物が長い年月によってその基礎を奪われ、セメントも土も剥げおちながら、ただ自分の重みだけでながらえ立っているようなものである。

今やそはかたき根によりて立てるにあらず。
ただ己れの重みによりて立てるなり。
(ルカヌス)

 それに、ただ壕や側堡だけを偵察するのは正しい方法とは言えない。お城の堅固さを判断するには、どこから敵がこれに接近し得るか、攻め手がどんな状態にあるか、を見なければならない。船だってただ自分の重味だけでは、外部から強い力を受けなければ、沈むことはほとんどないのである。ところで、眼を四方八方にくばって見よう。すべてが我々の周囲で崩れつつある。キリスト教国であるなしにかかわらず、我々が知っているすべての大国に眼を注いで見たまえ。到るところに変化と破滅のきざしが明白なことを認められるであろう。

彼らにもまた同じ病あり。
同じ嵐は彼らをも脅かせり。
(ウェルギリウス)

占星学者どもはさもえらそうに一大異変の近いことを予告しているが、これくらい容易なことはあるまい。彼らの予言していることは、眼のまえにあって手に触れることのできる事柄である。何もわざわざ天まで行かなくてもすむことなのである。
 我々は全世界がこんなふうに災難とその脅威とに充満していることから、ただ慰めをひき出すだけでは足りない。さらに進んで、我々の国家の存続に対し、いくらかの希望をもたねばならない。なぜかというと、当然のことだが、万物の倒れるところ、何一つ倒れはしないからである。万人に共通の病気は各個にとっては健康であり、どこの国も似たり寄ったりであるということは、いずれも崩壊しないということである。わたしはこう考えて少しも絶望しない。かえってそこに逃げ道があるように思う。

おそらくいずれかの神我らを憐れみて、
我らに最初の状態を返したまわらん。
(ホラティウス)

ひょっとすると神様は、肉体が長い重い病のために浄められて前よりもよい状態になるように、国家もまたよくなれかしとのぞんでおられるのではないだろうか。そうした病気が重篤であればあるだけ、それがさきに奪った健康よりも一そう完全な・一そう清浄な・健康を返して下さるおつもりなのではなかろうか。
 わたしの心を最も重くするのは、ふと我々の病気のいろいろな兆候を数えて見ると、中には自然から来るもの・天から我々に送られてくるもの・全然天に専属するもの・などもたくさんにあって、その数は我々人間の放埓や無分別などがもたらすものにくらべて、決して少なくないということである。(c)何だか天の星さえが、「お前たちはすでにもう普通の限界以上に長生きしたのだぞ」と宣言しているかのように思われる。それにもう一つわたしの心を重くするのは、我々に最も近く迫っている災害が、がっちりとまとまった一つの集団の中の変化ではなくて、むしろそういう集団の分裂分解であるということで、これこそ我々が最も心配するところなのである。
 (b)それにしてもわたしはここにこのような取りとめのない空想を書きつけながら、じぶんの記憶の裏切りを恐れている。もしかするとわたしは、一つことを二度も記録しはしなかったであろうか。わたしは自分のかいたものをよみかえすことが嫌いである。だからよくよくでなければ一度もらしてしまったことは、あとから決してなおさないのである。ところでわたしは、ここに何一つ新知識は持ち込んでいない。ありふれた考えばかりである。いずれも多分何べんとなくいだいたことのあるものばかりであるから、どこかにもう記載してありはしないか、それがちょっと心配である。反復はどこにあっても退屈なもの。ホメロスの中にあってさえそうであるが、表面的で一時的な現象にすぎないような事柄においては、反復は退屈どころか有害である。わたしは有用な事柄に関してさえ、セネカのようにくどくいうのはきらいである。(c)問題ごとに、一々一般論の場合に用いられる原理や仮定を長々と繰り返したり・普遍共通の論拠や理由をいつも事新しく並べたてたり・するかれのストア塾の習慣はきらいである。(b)わたしの記憶力は、無慈悲にも、毎日ますます衰えてゆく。

あたかものど渇きて
レテなる眠りの水を飲みたるがごとく。
(ホラティウス)

これからも(だって有難いことに、今までのところはまだそれほどに失策はしていないのである)、ほかの人たちのように言おうとする事柄をあらかじめ考える時間や機会を得ようなどとはしないで、わたしはやはり準備を避けなければなるまい。下手な予定をたててそれにしばられては大変だ。予定に拘束されたり、わたしの記憶みたいな、あんなやくざな道具にたよったりしていたら、ますますわたしはうろうろしなければなるまい。
* ここにいわれていることは一見事実と相違するようであるが、この第三巻の現われたのは一五八八年のことであり、モンテーニュの訂正の多くは一五八八年以後になされたのだということを思うべきであろう。
 わたしは次の物語をよむと、腹をたてずにはいられない。それはわたしの心の底からの怒りなのだ。リュンケテスは、アレクサンドロスに対して謀反を企てていると告訴された。彼は例によってその申し開きをするために軍隊の前に引き出されたが、胸の中に練りにねった演説を用意していたので、恐る恐る、どもりながら、二こと三こと語り出した。ところがその記憶をたどればたどるほど、しどろもどろになったので、彼は返す言葉のないものと見なされ、その最も近くにいた兵士たちの槍の穂先にかけられ、あえなき最期をとげた。彼のためらいと沈黙とを、彼ら兵士どもは自白のしるしと取ったのである。彼らにいわせれば、リュンケテスは牢の中であれほど多くの準備の暇をもったのであるから、記憶がわるいせいだとは考えられず、やはり良心が彼の舌をしばり彼の力をうばったのであると、思ったのだという。なるほどもっともな言い分である。場所や聴衆や人々の期待などは、ただ単に雄弁をふるおうと望むだけの場合でも、その人を立ちすくませる。まして自分の命にかかわる演説において、人ははたしてどれほどのことをいうことができよう?
 わたしなどは、「これこれのことは是非いわなければ……」と思っていると、ますますなにもいえなくなってしまう。わたしは全面的に記憶にだけ訴えると、あまりにその上によっかかることになり、結局それをおしつぶしてしまう。また記憶の方では、余りの重荷に目をまわしてしまうのである。わたしは記憶に頼れば頼るほど、わたしみずからの外に脱け出し、しまいには自分の態度も保てなくなる。それで、いつだったかは、そういう記憶のとりこになっている自分の醜態をあらわすまいとして、えらい苦労をした。だがわたしの目的は、むしろ漫然と語りながら、深い無頓着と、いわばその時にのぞんで生れ出る・偶然の・不用意の・心の動きとを、示すにある。上手にいおうとして準備して来たなと見られるくらいなら、むしろとりとめのない話をする方がよいと思う。演説の準備をするなどということは、わけてもわたしのような職分の者には似合わしくない。(c)それに多くを記憶することのできない者にはあまりにも大きな拘束となる。準備をしているから、さぞかしうまくゆくだろうと思っても、それ程の効果があがるものではない。人はしばしば物々しく胴衣**を着て出ながら、マントをひっかけたときほどにも跳ばないのである。ばかな話だ。
* 彼は武人をもって任じていた。金儲けを目的とするいろいろな商売より、軍職をもっぱら名誉の保持者・擁護者くらいに考えていたらしい。彼は剣の貴族、ジャンティヨム・デペ gentilhomme d’※(アキュートアクセント付きE小文字)p※(アキュートアクセント付きE小文字)e というものをはなはだ理想化して、それにあこがれていたのである。決して、戦争や殺戮が好きであったからではない。拙著『モンテーニュを語る』八一―八五頁参照。
** プルポワン、男子の平常の服、やがて武人の常服となる。第一巻第四十九章の註を見よ。
※(始め二重山括弧、1-1-52)人に喜ばれんとする者にとりては、大いなる期待をかけられることほど損のゆくことはあらず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)雄弁家クリオに関しては、こんなことが書きのこされている。「彼はよく自分の演説を三つあるいは四つの部分に分けるとか、論拠理由を幾つ列挙するとか前置きしたが、大抵の場合そのどれかを忘れるとか、それを一つ二つ余計につけ加えるとかいう結果になった」と。わたしは常にそういう失策をしないように用心した。そうした約束予定がきらいだからである。ただ自分の記憶があてにならないからばかりでなく、そういうやり方はあまりに学者めくからである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)武人はより素朴にあらまほし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クインティリアヌス)。(b)だがもう大丈夫。わたしはその後、晴れの場所で演説をする役目は引受けないことにきめたから。まったく、自分の書いたものを読みながら話すということは不自然なばかりでなく、天性その身ぶりなどで話に多少の風情を加えることのできる人間に取っては大変損なのである。またそのときそのときの思いつきをたのみにおっぱじめることも、なおさらしないつもりだ。わたしの思いつきはきわめて遅鈍であって、とても急場のそして重大な必要には応じかねるからだ。
 読者よ。どうかこのようなその時折りの筆のすさびを、さらに続けさせて下さい。そしてわたしの肖像の描き残しに、この第三の延長**を書き足すことを許して下さい。わたしは追加するが訂正はしない。その第一の理由は、一たん自分の著作を世間に抵当として入れた以上、もうそういうことをする権利は当然ないと考えるからである。もしそれができるのなら、別により好い本を書いてほしい。一度売った著作を変えてはいけない。そういう人たちからは、彼らが死んでしまってからでなければ何一つ買ってはならないだろう。彼らは出す前によく考えるがよいのだ。誰も急がせてはいないじゃないか。
* 一般に何の準備も予定もなく漫然とかかれている『随想録』そのものを指すようでもあるが、特に第一巻第二巻に気まぐれに加えられた(b)の部分を指しているようでもある。
** 以上に対して特に第三巻をなす(b)の書きおろしの部分を第三の延長と言ったのだろう。
 (c)わたしの書物は常に一つである。ただ本屋が版を新たにするごとに、買手がまったく空手からてで帰ってゆかないように、わたしはあえて(もともとそれはつぎ目のまずい寄木細工にすぎないのだから)、いくらか余計な補填用木片を差し加えることにしている。それは単なるつけたりであって、決して最初の版を非とするものではなく、ただちょっとした小細工を加えることによって相継ぐ諸版にいくらかかわった価値を付けるだけである。だがそのために、とかくそこには、いくらか時代の上の食い違いが混入することにはなろう。わたしの挿話はここと思う場所に臨機応変に割り込むのであって、必ずしも時代順によってはいないからである。
 (b)第二に、わたしの場合、変えてかえって損をするのではないかと恐れるからである。わたしの理解は必ずしも前進しない。後じさりすることだってあるからである。わたしは自分の考えを、それが第二第三のものであるからといって、最初のもの以上に信用はしない。つまり現在の考えも過去の考えも同じようにいい加減なものなのだ。我々は往々にして、自分を訂正するに当っても他人を訂正するときと同様にばかをする。(c)わたしの最初の公刊は一五八〇年であった。それから長い年月を通じてわたしは老いを加えたが、賢明に向っては、実に、ほんのちょっぴりも進みはしなかった。現在のわたしとちょっと前のわたしとは、まったく二つである。だがどっちが良いかというと、わたしには何ともいえないのである。我々がただ改善に向ってだけ進むものだとすれば、老人の姿たるや颯爽さっそうたるものであろう。だが実際は、よろよろ・うろうろ・した、ぶざまな酔いどれの歩みである。いや、風のまにまにうちなびく葦のそよぎである。
 アンティオコスは始めアカデメイア派を強く支持する論文を書いたが、老年に及んではまったく反対の立場をとった。二つのいずれに従っても、結局アンティオコスに従うことになるのではあるまいか。人間の諸説の疑うべきことを立証した後、再びその確実を立証しようとするのは、ひっきょう確実を立証することにはならず、不確実を立証することになりはしまいか。いや、「さらにもう一つの生を与えられても、自分は依然としてまたまた動揺しそうである。今より良くはならず、ただ別様になるだけであろう」と約束することになりはしまいか。
 (b)世間の歓迎はわたしを思ったよりはいくらか大胆にしたが、わたしが一番心配するのは、げんなりさせることである。わたしは当世のある学者のように、あきあきさせるよりはむしろいらいらさせてやりたいと思う。賞賛は誰から与えられても、何のために与えられても、常にうれしい。けれどもそれを正当によろこぶためには、その原因をつまびらかにしていなければならない。不完全そのものにも、まったく取柄がないわけではない。凡俗の人々の尊重は、たいてい見当ちがいである。いやこんにちでは、わたしのこの眼がまちがっていなければ、最も悪い書物こそ最も世間の評判をかちえているのである。本当にわたしは、わたしのささやかな努力をよくわかって下さった紳士がたに、御礼申上げる。文章上の欠点が最もよくあらわれるのは、何といってもそれ自体何らの価値も持たない事柄においてである。どうか読者よ、他人の気紛れや不注意のためにここにまぎれこんだ欠点については、わたしを咎めないで下さい。それぞれの手、それぞれの職人が、その間違いを加えるのである。わたしは綴字法にも句読法にも口ばしを入れない。どっちもわたしの専門ではない**からである。ただ綴字の方は旧法によるようにといいつけるだけである。彼らが全然意味をわからなくしてしまう場合も、わたしはそれをあまり苦にしない。だって、少なくともわたしがその責任を問われることはないのだから。だが、彼らがよくやるように嘘の意味をもってこれに代える場合は、そしてわたしを彼らの考えに向けかえる場合は、まったくお手あげである。でもその文章がわたしらしい力をもたないときは、必ず誰か具眼の士がそれをわたしのものではないと言って下さるに違いない。いかにわたしが骨惜しみをするか・いかにわたしが自己流にこりかたまっているか・をご承知の方々は、容易にわかって下さるであろう。そのような子供じみた間違いを訂正するためにこれらのエッセーをしぶしぶ読みかえすくらいなら、わたしがむしろ別にそれだけのエッセーを新たに書きおろすであろうことを。
* 印刷工や校正者の恣意ないし粗漏のために生じる欠点。
** 当時メーグレ、バイフ等の人々は表音綴字法を提唱し、モンテーニュも一時これに賛同し、後々まで私的な文章にはその影響をのこしているが、著書の印刷に際しては、ここに述べているとおり、当時最も一般的であった伝統的綴字法によったのである。旧綴字法に従うというのは、特に語原を尊重せよというのではなく、ただ当時の一般習慣に従うというだけのことで、自分はその方の専門家ではないから、印刷のことは印刷屋にまかせておくという考え方である。
 だからわたしは今しがたいったのである。「わたしはこのように銅よりも鉄よりもさらに劣った金属の山のまんまんなかにいるのだから、わたしとはちがった気分と意見とを持ち・それらによって一つの団結をつくり・他のどんな団体をも忌避する・人たち**と親しくすることもできないし、またよしんばどんなことをしても許され・もはやお上からひどく睨まれることもなくなったためにいよいよ放縦の限りをつくしている・人たち***と仲間になったとしても、やはり危険でなくはないのだ」と。わたしのおちいりそうな一々の場合をすべて挙げて見ると、わが国の人の中でおよそこのわたしくらい、法をまもるのに苦しい立場にあるものはないのである。法律書生****のいわゆる「利益の見込なく損失確実なる」者はないのである。(c)実際或る人々などは、その熱心と厳格とをすこぶる自慢にしているが、ちゃんと秤にかけて見れば、わたしほどひどい目にあってはいないのである。
* モンテーニュは先に(一一〇一頁)ユウェナリスの句を引いて、自分の時代、宗教戦争の時代を「どんな金属の名で呼んでよいかわからない時代、鉄の時代よりもさらに劣った時代」といった。「今しがた……」というのは、それを指している。
** 新教派の宗団を指す。
*** 新教徒征伐の旗をかかげれば、どんな悪事をしてもゆるされる一派〔神聖同盟〕に属しても、やはりモンテーニュのような中立主義者・自由主義者は絶対安全とはいえなかったのだ。
**** モンテーニュは、黙って法廷用語を諸処に用いているが、ここではわざわざ「法律書生の言うように」と断っている。法律書生というのは、弁護士の書生、裁判所の下級書記などを指すので、とかく六法全書をふりまわしたがる手合のことである。
 (b)いつも出入りが自由で・きわめて近づきやすく・誰に対しても親切な・家として(まったくわたしは、自分の家を戦争の道具なんかにする気にはなったことがない。戦争はしても、なるたけわたしたちの住居から遠ざかったところで参戦したのである)、わたしの家が相当近所の人々から愛情をもって見られたのは当然で、いわば「糞堆の上なる」わたしにたてつくことは、はなはだ困難だったのであろう。わたしはわたしの家がこんなに長いあいだ嵐の下にありながら、近辺はあれほどの変化と混乱とをこうむったのにかかわらず、今なお流血と掠奪とにけがされずにいるということは、世の手本となるすばらしい傑作であると思う。まったく正直にいえば、わたしのようなたちの人間は、それがいつも変らない形をしているのなら、どんな危険でも逃げおおせたことであろうが、相反する党派の侵入とわたしをめぐる運命の転変とは、今までのところ当地方の人々の心を意気地なくするどころか激昂させ、ますますわたしに克服し難い危険と困難とを負わせるのである。わたしは免れている**、けれどもそれがむしろ運命のおかげ、またわたしの用心のおかげであって、正義のおかげでないのは不愉快である。わたしが法律の保護の外におかれ、それとは別のものの庇護の下にあるのは不愉快である。こうした事態であるから、わたしは半分以上他人のお蔭で生きているのだ。これは借金をしているようで心苦しい。わたしは自分の安全が、わたしが法令を尊重し自由率直であることを承認される身分高い人々のご好意やお慈悲のお蔭であることを欲しないし、また先祖の人たちやわたし自身の温和な性情のせいであるというのもいやなのである***。だって、もしわたしがそうでなかったら、一体どうなるのか。わたしの振舞やわたしの率直な交際が、わたしの隣人や親類などを義理でしばっているのだとしたら、何とまた不快千万なことであろう。彼ら****がわたしを生かしておくということで、やっと義理を果すことができるというのは! そしてこう言うことができるというのは! (c)「我々はあたりの教会をことごとくふみにじりぶっ壊したのだから、あの男が自分の家の礼拝堂でそのお勤めをつづける位のことは大目に見てやるのさ。(b)彼は万一の場合には我々の妻や牛をかくまってもくれるのだから、その代りに彼の生命と財産には手をつけずにおいてやるのさ」と。久しい以前からわたしの家は、その同胞の財布の総預かり人であったというアテナイ人リュクルゴスの受けた賞賛のおすそわけに預っているのだ。
* 「その糞堆の上にあれば強い」という諺がある。それは雄鶏について言ったもので、ひろく「自分の縄ばりの内にあれば強い」という意味になる。
** これを書いた翌一五八六年、彼の家もついに兵達の略奪にあう。
*** われわれ至らないものは、自分が幸福でさえあれば、その幸福が何のおかげであろうとあえて問わない。他人の犠牲においてであろうと平気でいる。モンテーニュは社会全般に正義がおこなわれ、すべてのものが残りなくその正義に守られ、誰にも個人的恩義など感じないで、大威張りで、当然のこととして、幸福がうけたいというのである。そうでなくすべてが義理人情で支配されている時代を、彼は残酷だと感じるのである。
**** ここに「彼ら」というのは、彼の近隣にすむ大名や親類やまた百姓たちで新教を奉ずる人たち、しかも彼に愛情や恩義があるために、モンテーニュの礼拝堂をぶっこわしたり彼の命をとったりせずにいる人たちをさす。
 ところでわたしは、「我々は権利権限によって生きなければならない。(c)報恩や(b)恵みによって生かして貰うのではいけない」と信じている。いかに多くの正義の士が、人のお蔭で生命を助かるよりはむしろそれを失うことを望んだか! わたしはあらゆる種類の義務に服することを避けるが、わけても名誉の義務に縛られることを避ける。わたしは他人から与えられるものほど・そのために報恩という名目で自分の意志を抵当に入れなければならないものほど・高価なものはないと思う。むしろ売物の奉仕を受ける方がよい。わたしは本気でこう思っている、「後者に対してはただ金だけやればすむ。前者にはわたし自身を捧げなければならない」と。徳義の掟によってわたしをしばる束縛は、民法上の拘束が課する束縛よりも、はるかに窮屈で重いように思われる。わたしから見ると、公証人の縛り方のほうが、わたしの縛り方よりも、ずっとやんわりしている。わたしの良心が、最も素朴な信頼をかけられるときに、最も責任を感ずるのは、当然ではあるまいか。ほかの場合には、わたしの良心は何の負い目も感じない。だってわたしの良心は人から何も借りていないではないか。わたしなんかあてにしても仕方がない。むしろわたし以外にかけた信頼、わたし以外から得た保証を、あてになさるがよい。わたしは自分の言葉を破るくらいなら、むしろ牢獄の壁を破り・法規を破る・方がずっとよいと思う。(c)わたしは約束を守るのにきちょうめんで、ばか正直ともいいたいくらいである。だからどんな事柄に関してでも、約束はいつも不確かに条件付にしておく。わたしは大して重大でもない約束を、「自分の規則はどこまでも守らねばならぬ」と考えることによって重大なものにしてしまう。自分の規則を立てとおそうとすればするほど、わたしは窮屈になる。さよう、全然わたしの・つまり実行しようとしまいと勝手であるところの・企てにおいても、一度そのことを人に語ると、とたんにわたしはそれを自分に厳命したように思う。企ての内容を人に知らせることは、その履行を自分に対して予約することであると思う。わたしは「あのことを言ったときはあのことを約束したんだ」という気になる。だからわたしは、自分の企てをあまり吹聴しない。
 (b)わたしみずからわたしに与える宣告は、裁判官たちのそれよりも峻烈である。彼らはただ普通の義務に照らしてわたしを処罰するだけであるが、わたしの良心の縛り方はもっと強く厳しい。わたしみずからが進んでそこに赴かないならば、人が無理にでも引きずっていこうとするそういう義務には、わたしはただぐずぐずと従うだけである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)正しき行為は、それがすすんでなされてこそ、はじめて正し※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)もし行為にいくらかでも自由の輝きが伴わないならば、それは美しくも尊くもない。

義務が命ずるところも、
わが意志欲せざれば行わず。
(テレンティウス)

だが万やむを得ない場合には、わたしも意志をまげゆずることを好む。※(始め二重山括弧、1-1-52)何となれば、義務はこれに従う者のためにあるにあらず、これを命ずる者のためにあるものなればなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ワレリウス・マクシムス)。わたしは不正におちいるまでにこの流儀にしたがう人々を知っている。彼らは返すのではなくて与えるのである。払うのではなくてまえがしするのである。そのくせ、真に恩義のある人に対しては、すこぶるけちに報いるのである。わたしはそこまではゆかないが、そのごく近くまではゆく。
 わたしは一日も早く義理の重荷をおろしそれから解き放たれたいと願っているので、あるいは先天的に・あるいは後天的に・いくらか愛情をもたねばならない人々から、忘恩・侮辱・失礼・の仕打ちを受けることを、時にかえって有難いことと考える。こういう彼らの罪過を言いたてて、彼らに対するこっちの負いめを帳消しにすることもできるからである。わたしは彼らに向って、世間の約束にしたがい外見上の礼は依然としてつくしているけれども、(c)かつて愛情によってしたことを今はただ正義のためにすればよいというのは、そして、(b)内なるわたしの意志の注意と心づかいとを少しでも軽くできるというのは、ただそれだけで大きな節約だと考えている。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)はやる馬の手綱を控うるがごとく、友愛の最初の発露はこれをおさうる方が賢明なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。わたしの内なる意志は、こうと思いつめると、なかなかせっかちである。少なくとも、何事にかかわらずせくことのきらいな人間にとっては、どうもそういうふうに感じられるのである。それに、以上のような節約ができるということは、わたしに関係ある人々の欠点についていささかわたしを慰めるのにも役立つ。わたしはそれだけ彼らの有難味が減るのを悲しくは思うけれども、それにしてもわたしの彼らに対する心遣いと義務とをいくらか節約することができるからである。わたしはその子が白癬頭しらくもあたまであるとか佝僂病くるびょうであるとかのために彼をあまり愛しない親たちを、その子が心の悪い者であるばかりではなくただ不運な不具の生れであるために彼をあんまり可愛がらぬ親たちを、無理もないと思う(神様からして、彼の自然的価値をそれだけ割引いたのだから)。ただその冷淡の中に節度と中正とがありさえすればよいのである。わたしにとっては、近親であるということはその人の欠点を軽減しない。むしろそれを重大にする。
 要するにわたしの考えるところでは、恩恵と謝恩の意識は機微ではなはだ有用なものではあるが、今までのところ、およそこのわたしくらい、それを超越して自由な者はないと思う。わたしの負い目は、一般の人々が等しく生れながらに負うところの恩義である。その他の恩義は、わたしは誰よりも奇麗さっぱりとそれを脱却している。

権力ある人々の賜物たまもの
われは求めず。
(ウェルギリウス)

王侯は、(c)わたしから何も奪わないなら、わたしに多くを与えているのである。(b)わたしに少しも害を加えないなら、わたしにかなりの恩を施しているのである。わたしが彼らに求めるところはただそれだけである。わたしの所有するものがすべてみな神様から直接にたまわったものであり、わたしの負い目がただただ神様だけに対してであるということは、何という有難い仕合せであろう! (c)わたしは日夜神の聖なる慈悲にすがって、どうしてもお返しせずにはすまぬ程の大恩を誰に対しても感じないですむようにと、どんなに願っていることであろう! わたしをこんなに遠くまでつれて来てくれた運のよい自由気ままよ。願わくはその終りを完うせんことを!
 (b)わたしは誰に対しても、これと言って特別な要求をもたないように努めている。
 (c)※(始め二重山括弧、1-1-52)わがすべての希望はわが内にあり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(テレンティウス)。(b)これは誰にでも独りでできることであるが、神様のお蔭でがつがつした自然的必要をあまり感じない人々は、一そう容易にこれができる。誰か他人に頼ってくらすということは、すこぶる憐れむべきあぶなっかしいことである。我々自身こそ我々が頼るのに最も妥当安全な相手であるのに、我々はただそれだけでは十分に安心がならなかった。わたしはわたし以外にはわたしのものを何一つ持たない。しかもその所有すら、一部は不完全であやふやである。わたしは(c)勇気のうちにわたしを鍛える。勇気こそ最も頼るべき力であるから。それからまた運命のうちに(b)わたしを鍛える。よそですべてがわたしを見すてるときには、そこにこそ、自分を満足させるだけのものを見出そうと思うから。
 (c)エリスの人ヒッピアスはただ、いよいよの場合に、他のすべての友をはなれてミューズの膝の上で愉快に日を送ることができるようにするためだけに、学問をしたのではなかった。また、運がこれを命ずるとき、自分みずからだけで満足し、外界から来るすべての快楽をいさぎよくふりすてることができるよう自分の霊魂に教えるためにだけ、哲学の知識を養ったのでもなかった。彼はそのほか料理も理髪もみずからやり、衣服・履物はきもの・指輪にいたるまでみずから造ることを学んで、できる限り、自分のうちに自分の基礎をおき、いっさい外からの援助を免れようとまで、一所懸命つとめたのである。
 (b)人はかえって人から借りた金の方を、より自由に・より楽しく・享楽する。だがそれは、窮乏のために余儀なくされてではない場合のことであり、自分の意志のうえでも自分の運命の上でも、他人の金なんかあてにしないでもすむだけの、気力もあれば資力もある場合のことである。
 (c)わたしはわたしをよく知っている。だが誰のどんなに純粋な恵与でも、またいかに利益を超越した歓待でも、もし窮乏のきわみ受けざるを得ないでうけたのであれば、きっとそれらを何の風情もない・横柄な・むしろ叱責の色を帯びた・ものに思わざるを得ないだろうと思う。与えるということは、野心と特権とを含んでいるが、受けるということもまた、屈従のしるしである。その証拠に、チムールがバヤズィトに贈り物をしたとき、バヤズィトは喧嘩腰でこれを拒絶した。またスュレイマン皇帝からカルカッタの皇帝に献ぜられた贈り物も、後者をひどく憤慨させた。彼は「自分も自分の先代たちも、かつてそんなものを受けたためしはない。施しはこっちがすることだ」と、荒々しくそれを突返したのみならず、わざわざこのためにやって来た使臣たちを、土牢にぶちこんでしまった。
 アリストテレスのいうところによると、テティスがユピテルにびたとき、ラケダイモンびとがアテナイびとにへつらったとき、彼らは、自分たちがかつて彼らに恩恵を与えたことを想い出させないようにした。それは相手にとってはいやなことだから。かえって自分たちが彼らから恩恵をこうむったことの方を思い出させた。わたしは誰彼の差別なくなれなれしくしてそのお蔭をこうむる人をよく見受けるが、もし彼らがどれほどに賢明な人々にとって義理の窮屈さが重荷になるかを考えるならば、うっかりそのようなまねはできないはずである。なるほど義理もときによってはお金で返済されようが、全く消えてなくなることは決してないのである。
 自分の自由を縦横無尽に行使することを好むものにとって、それは何よりもつらい束縛である。わたしの知人たちは、わたしより身分の高い人もまた低い人も、皆いっせいに、わたしほど人の世話になりたがらぬ人間は見たことがないと認めている。わたしがその点で近代のすべての実例を凌駕していても、決して不思議ではない。わたしの性格のいろいろな部分が、こぞってそれを助けているからである。例えば、生れつきわたしは少々高慢である。人から拒絶されるのが大嫌いである。自分の欲望計画は控え目で、事務を処理することはいっさい下手、特に自分で大切にしている性質といえば、無精・気まま・ときている。すべてそれやこれやのために、わたしは自分以外の者にたよることも、逆に彼からたよられることも、ともに死ぬほどきらいになった。わたしはどんなかりそめの場合にもどんな重大な場合にも、他人の恩恵にあずかる前にまずもって一所懸命それなしにすます工夫をする。友達から第三者に頼んでくれとせがまれると、わたしは妙に迷惑がる。実際わたしに負い目ある者をその際に使ってやって、彼のわたしに対する義理を棒引きにしてやるのも業腹だし、わたしが今まで少しも世話をしたことのない者に頼みこんだために、友達のためとはいえ、以後その者から恩をきせられるのもまっぴらである。こういうことさえなければ、それからもう一つ、めんどうで気苦労な事柄を要求されることさえなければ(まったくわたしは、断然あらゆる心遣いに戦いを宣してしまったのであるから)、わたしは誰の要求にも至極おとなしく応ずる。(b)だがわたしは、与えようと努めるより、受けることの方をより一そう避けたのである。(c)それに与える方が、アリストテレスのいうとおり、ずっとらくである。(b)わたしの身分は他人に施しをすることを、十分にはわたしにゆるさなかったが、そういうやっとの思いでした恵与さえ、ごくわずかな感謝をもたらしたにすぎなかった。もし運命がわたしを人々の間で何かの地位を占めるように生れさせたならば、わたしはひたすら人々から愛せられるようにと努めたであろう。決して恐れられたり感心されたりすることを望みはしなかったろう。もっと露骨に言ってしまえば、わたしは得をすることと喜ばれることとを両方ともにねらったであろう(c)キュロスは、はなはだ賢明にも(そしてこれは、はなはだすぐれた武将であるとともに最もすぐれた哲学者でもあったあのクセノフォンの口を通じて**であるが)、そのやさしさや慈善をその勇気や征服よりもはるかに尊んだ。それから初代のスキピオも、人からえらく思われようと思ったときは、いつも柔和と慈悲とを、その豪胆と勝利以上に、重んじた。そして常に次のようにいって自慢をした。「わたしは敵からも味方からも等しく愛せられた」と。
* このようなモンテーニュの天性を読みとることを忘れてはならない。第二巻第八章「父の子供に対する愛情について」の章においても同じ心持を述べている。四七七頁参照。
** クセノフォンの一著はキュロスの一万人の退却の話『アパナシュ』、もう一つはキュロスの伝記『キロペディア』。
 (b)そこでわたしはこう言いたい。「わたしもそのように誰かから何かの恩義を受けなければならないとすれば、それは今わたしがお話したような理由、すなわちこの浅ましい戦乱の世の掟にいやおうなしに押しつけられた理由よりは、もっと正当な理由からでなければならない。それに、わたしの生命財産をすべて助けてもらったというような、そんな大きな負い目は負いたくない。それはわたしを押しつぶす」と。
* 前出、一一一三―一一一四頁参照。モンテーニュは、すでにのべたように、このときまで祖先以来彼の家が郷党に与えた親切のおかげで、どうやら戦禍を免れている。しかしこの乱世に、なお今後も自分を完全に保存しようと考えたら、どれほど人に恩を施してもきりがないだろう。しかも、そういう一身一家の保全のために縛られるのは、他人のために縛られるのと同様に、モンテーニュにとっては重荷なのである。それで彼は運を天に委せるのである。
 わたしは自分の家にいながら、幾たびとなく、今夜こそは人に裏切られなぐり殺されるのではないかと思いながら、せめてこわいと思う間もなく一と思いに死なせてほしいと運命に願いながら、枕についた。そして、主の祈りをしてから、

ああこの美しく耕されたる我らの田園も、ついに、
神をおそれぬ荒武者たちに踏みにじられんとす!
(ウェルギリウス)

と嘆息した。どうして嘆かないでいられよう? ここはわたしが生れたところ、わたしの祖先の大多数が生れた土地である。彼らはここにその愛情をそそぎ、地名をとってその名前**とした。我々は我々が慣れるすべてのものに対して鈍感になる。じっさい、今日の・我々のこのように悲惨な・境遇においては、慣れこそは、まことに有難い自然の賜物であった。それはもろもろの不幸の責苦に対して我々の感覚を眠らせる。国内の戦争は遠征よりずっとつらい。我々はめいめい自分の家にいながら用心を怠ることができないからだ。

何たる悲しみぞや。門と壁ともて生命を守らざるを得ざること!
いかに防備を固くするもその心安からざること!
(オウィディウス)

平和な家庭におりながら、しょっちゅうびくびくしていなければならないとは、この上もない悲惨である。わたしの住むこの地方は、いつもわが国の内乱の、最初の・そして最後の・戦場である。ここでは、いまだかつて、平和の完全な姿を見たことがない。

平和のうちにありてさえ、人々は常に戦いの噂におびえいたり。
(オウィディウス)

運命が平和をうち破るたびごとに、
ここは戦争の通路となれり。運命よ、
むしろ焼くが如き東洋の空にわれを送れよかし!
むしろ凍れる大熊星の下をさまよわしめよ!
(ルカヌス)

* 史実によるとモンテーニュの祖先は、大抵ボルドーおよびその付近で生れた。彼以前にモンターニュで生れたのは彼の父だけである。そうすると、モンテーニュのこの叙述は虚偽となるが、それははたして彼の虚栄にのみ帰すべきであろうか。なおいまだ封建的な習慣の多分にあった十六世紀においては、モンテーニュも、特にああいう政治的な活動をするためには、やはりこの種のカムフラージュも、する必要があったのであろう。『モンテーニュとその時代』第一部第一章参照。
** モンテーニュの祖先はエーケムと言った。モンテーニュという地名を名のるに至ったのは十六世紀になってからである。巻頭の解説と巻末年表を参照。
 わたしはときに、こうした考えを克服する力を、無頓着と無感覚の中に求める。この二つもまたある程度まで我々を不屈な決心へと導いてくれる。わたしはしばしばいくらかの喜びをもって、命取りの危険を想像し、それを待ちもうけることがある。わたしは、それを考察もせず認識もせずに、無我夢中で頭から先に死の中にもぐり込む。まるでそれは声もなく真暗な穴のように、一ぺんにわたしを呑み込んでしまう。そして瞬く間に、無味無痛に充満した強力な睡魔ねむけの下にわたしを圧しつぶしてしまう。だがこの種の迅速で急激な死のうちにわたしが予見するその究極は、わたしをおそれ惑わさないでかえってわたしを慰める。(c)人はいう。「生は長いからとて最良とはいえないように、死は長くないのが最良と言えよう」と。(b)わたしは死んでから後のことは心配しない。むしろ死ぬその瞬間をうまくやってやろうと思っている。ただこの嵐の中に小さくなってうずくまってさえいれば、それはやがて迅速な目にもとまらぬ攻撃をもってわたしの目をくらまし、恐ろしい勢いでわたしをさらって行ってくれるに違いない。
 それからもしある植木屋さんたちがいうように、薔薇ばらすみれは、その近くににらねぎが植わっていると地中の悪臭はすべてその方に吸いよせられるために、いよいよ香り高く生えてくるものだとすれば、同様にあの腐敗した性質の人々も、わたしの住む地方のすべての毒気を吸い取って、それだけその近接によってこのわたしを浄化してくれ、結局わたしの丸損にならないですむとよいのだが! もちろんそうはゆくまい。だが、そこから何か得る所がないでもないと思う。善はそれが稀であればますます美しく、ますます人を引きつけるし、いろいろな邪魔はその人のうちに善を行う志をいよいよ堅固にするし、敵愾心と名誉心とはそれをますます燃え上がらせるではないか。
 (c)泥棒どもは、こっちが何もしない限り、特にわたしに対して敵意をもちはしない。わたしの方でも同じことだ。でなければ、あまりにも多くの人をわたしは憎まなければなるまい。同じ心根がいろいろな身分の下に宿っている。いたるところに同じ惨酷・不信・盗みがある。いや、法律の蔭に、よりずるく・より安全に・より目立たずに・在るやつは、一そう悪いやつである。わたしは明白な不正を陰険な不正ほどには、戦争の不正を平和の不正ほどには、憎まない。我々の熱病はある一個の肉体を襲ったが大してそれを損わなかった。そこには火があってぱっと燃え上ったが、音が大きいと害の方はかえって少ないものである。
* 宗教戦争を指す。「ある一個の肉体」とは祖国フランスをさす。
 (b)わたしはわたしの旅の理由を問う者に向って、通例こう答える。「何を避けてするのかはわかっているが、何を求めてするのかは自分にもわからない」と。人がもし、「外国人たちの間にも同じように健康は稀である。彼らの風儀は我々の風儀より優れてはいない」というならば、わたしは答える。「第一に、そいつはちょっと信じられない。

かくまでに我らの間にはくさぐさの罪あり。
(ウェルギリウス)

第二に、悪い状態を善悪不明の状態とかえることは、やはり得である。また他人の不幸は、我々の不幸ほどには我々を刺さないだろう」と。
 わたしは次の事を申し忘れたくない。すなわち、「こうは言ってもわたしはフランスに対して決しておこっているのではない。況んやパリに至ってはやさしい眼で見ずにはいられない」ということを。この都は、少年の頃から、わたしの心をとらえている。いや、結構な物事はすべてそうなるものであるが、その後他の美しい都市を見れば見るほど、いよいよこの都の美しさはわたしの心をとらえ、その思慕を募らせるようになった。わたしはこの都それ自体がすきなのだ。祭典などで外からごてごてと加えられた飾りなどのない、そのありのままの姿がすきなのである。わたしはしんからパリがすきなのだ。そのいぼやしみまでがすきなのだ。わたしはこの偉大な都市によって始めてフランス人なのだ。それはここに住む人々の数において偉大であり、そのすばらしい位置を占めていることにおいても偉大であるが、特に娯楽の多種多様において比類なく偉大である。まことにフランスの光栄であり、世界の最も高尚な装飾の一つである。神よ、我々の分裂抗争**をこの都から追いはらい給え! 全一でさえあれば、この都はすべての暴力に対して守られるであろう。わたしはあえてこの都に告げる。すべての党派のうちで最も悪いのは、お前を不和におとしいれようとする一派であると。いや、わたしがこの都のために***恐れるのは、この都自体のほかにはない。実にこの都のためにわたしが恐れるのは、この国の残りの部分に対してわたしが恐れるものとまったく同じものである。この都が存する限り、わたしは最後の息を引取る隠棲の場所を欠かないであろう。この都さえ残れば、わたしは他のいかなる隠れ家をもあえて惜しまないであろう。
* モンテーニュは十五歳のとき始めてパリを見た。当時はまだフランスの統一は完成されていなかったが、それでもすでにパリは一国の首都たる面目を備えていた。朝臣、商人、見物の旅人の出入により、また租税によって、フランスの金は皆パリを通過する。朝廷や、商工業に従事する新興ブルジョワ階級、兵隊、外国人等がそこに賑やかな生活をしているのを見て、モンテーニュは地方の都市では感じられなかったものを感じさせられた。一国の首都たる感覚は当時の方がかえって今日よりも新鮮であっただけに、それだけ強くモンテーニュに感ぜられたのであろう。
** 一五六二年モンテーニュが第二回のパリ訪問をしたときはすでに宗教戦争が始まっていた。それからこの第三巻が現われた一五八八年までの間に、都合四回(一五六八、七〇、七四、八〇年)彼はパリに上ったが、そのつどそこで目撃したのがこの「分裂抗争」であった。すなわち、アンリ三世とアンリ・ド・ギュイズとアンリ・ド・ナヴァールと、この三人のアンリの三つ巴の抗争であった。一五八八年夏のパリの騒動は最もはなはだしく、ここにのべられたモンテーニュの希望は見ごとにふみにじられた。巻末年表参照。
*** パリをほろぼすものはパリ市民である。フランスをほろぼすものも、分裂抗争するフランス国民である。この都のためにも、この国のためにも、同じ程度にモンテーニュは、分裂抗争の禍害を恐れる。そして何よりも平和を欲する。世界をほろぼすものもまたこの分裂抗争であることを、われわれ二十世紀人もわすれているようだ。
 ソクラテスがそういったからではなく、本当にそう思っているから言うのだが(そこには多少の誇張もないことはあるまいが)、わたしはすべての人をわが同国人と思っている。そしてポーランド人をもフランス人と同様に抱く。つまり同国のよしみの方を世界を同じくする誼みの次に置くのである。わたしは生れ故郷の味わいにあんまり恋々れんれんとしていない。まったく新たな・まったく自分だけの・知合いも、あの隣り同士の縁からただ偶然に生じた・同郷の・知合いも、わたしには同じように尊く思われる。だが我々が自分で得た純なる友愛は、通例、郷土や血肉の縁によって結ばれる友愛よりもつよい。自然は我々を、自由な何の束縛もないものとして産み出したのに、我々はどこかの地域にとじこもる。例えばペルシアの王様たちなどは、コアスペスの河の水のほかは飲むまいと自分で自分を束縛し、愚かしくも他のすべての河の水をも飲用し得る権利をみずからすてた。そして世界の残りの部分をことごとく砂漠に見なしてしまった。
* 第一巻第二十六章「子供の教育について」の章の中でも、モンテーニュは同じ考えを述べている。
 (c)ソクラテスはその最期にのぞんで、追放の宣告を死刑の宣告よりも苛酷なものと考えたが、たぶんわたしはそう考えるほどにおとろえもしまいし自分の国に執着もしないであろうと思う。こういう聖賢の生涯の中には幾多のお手本が見出されるが、わたしはそれを尊敬はするが、それにあこがれはしない。いや、中にはあまりにも高尚非凡で敬うことすらできないのがある。ああいうお手本は心に思い抱くことすらできないからである。あのソクラテスの気持は、世界を自分の町と考えた人としては、ずいぶんと気弱な話である。しんじつ彼は遍歴することを軽蔑して、ほとんど一歩もアッティカの土地からそとにふみ出したことがなかった。彼が彼の命を買いもどそうとする友人たちの金を惜しんだこと、法律があんなにも腐敗していた時代にありながら、なお法律に逆らうことをいさぎよしとせず、他人の斡旋によって出獄することを承知しなかったことなどは、一体どう考えたらよいのだろうか。これらの例は、わたしにとっては第一の部類、すなわちどうやら敬うことだけはできる部類にはいる。だがこの同じ人物においてわたしが見出し得るほかの例は、第二の部類にはいる。すなわちそういう稀な実例の多くは、わたしの実行力を凌駕しているのだ。いや、あるものにいたってはわたしの判断力をさえ凌駕している。
 (b)これらの理由〔一一二一頁〕を別にしても、旅はためになる修業だと思う。霊魂はここで未知新奇な物ごとに出あい、不断の鍛練を受ける。だからしばしばいったとおり、わたしは人生を学ばせるには、絶えず多くの人々の様々な生活(c)思想習慣(b)を見させて、我々人間の性質は不断に変化してやまないものであるということを悟らせるのが、何よりもよい修業ではないかと思うのである。肉体はそこでひまでもなければせわしくもない。この程よい運動は肉体に元気をつける。わたしは疝気せんき持ちではあるけれども、八時間も十時間も、降りたいとも思わず疲れもしないで、

老人の力と健康とが許す以上に、
(ウェルギリウス)

馬に乗っていられる。どんな季節もわたしに敵ではない。ただかんかん照りつける太陽のはげしい暑さにはかなわない。まったく日傘は、古代ローマ以来イタリアにおいて用いられているが、腕に重いばかりで少しも頭を軽くしてはくれない。(c)ペルシア人たちがあんなに古く、奢りがようやく生れたか生れぬあの時分に、クセノフォンが語っているように、思いのままに涼しい風や日蔭を作ったというのは、そもそもどのような巧みによったものやら知りたいものだ。(b)わたしは家鴨あひるみたいに雨と泥とがすきである。風土の変化は少しもわたしに影響しない。どこの空もわたしには一つである。わたしは自分で自分のうちに生み出す内部の変化にいじめられるばかりであるが、そういうことは旅さきではあまり起らない。
 わたしはなかなか動き出さない。だがいよいよ旅立ったら何処まででもゆく。わたしには小さな旅も大きな旅もおっくうである。ただ一日近所の人を訪問するにしても本当の旅に出るにしても、準備は同じようにおっくうだ。わたしはスペインふうに一息に旅をすることを覚えた。その方が一日が長くて合理的なのである。それで暑さが激しい頃は、日没から日の出まで夜の間に旅をする。これと違って途中で騒々しく・取急いで・食事をするという旅の仕方は、特に日の短い頃は不都合である。わたしの馬は夜の方がかえって元気だ。わたしと一緒に最初の一日を堪えた馬は、決してへたばることがなかった。わたしは至るところで水をくれる。ただその水をこなすだけの道のりがなお残っているかどうかに注意する。わたしの寝坊は供の者どもに、出発前にゆっくりと朝食をする暇を与える。わたしは食事がいくらおそくなってもこまらない。食欲は食べているうちに出てくるので、他に出て来ようはない。わたしは食卓につかなければまるで飢えを感じない。
* 中世紀の食事は朝九時と夕五時と二食であり、モンテーニュの時代には朝食はおくれて十一時頃であったらしい。
 ある人たちは、わたしが女房もちで年も取っているのに、相変らず旅を楽しんでいるのを嘆いている。だがそれは間違っている。家族の者が主人がいなくてもやってゆけるようにしたときこそ、すでに家の内を十分に整頓してもう元の形を崩すことがないようになったときこそ、かえって家をあけるのによいのである。あまり忠実でない・我々の要求に対してまだ注意も不足な・留守番に家をあずけて遠出をする方が、ずっと軽率というものである。
 女に取って最も有用な学問・最も尊い仕事・は家政の学問である。けちな女はよく見かけるけれど、世帯上手な女ははなはだ少ない。だがこれこそ女の主要な特質で、人は何よりも先ずこれを求めなければならない。我々の家をつぶすか救うかの唯一つの持参金みたいなものだ。(c)まあ黙っておきき。経験がわたしに教えたところによって、わたしは既婚の婦人に対しては他のどんな徳よりも家政の徳を求めるのだ。(b)わたしは家を留守にして家事の一切を妻に委ね、存分にこの徳を発揮させてやる。わたしは多くの家庭で、こんな場面を見ると腹がたつ。旦那様が面倒な仕事がうまくゆかないで、不機嫌で・がっかりして・お昼ころ家に戻ってくると、奥様はまだお化粧部屋でおつくりに夢中である。これは女王様のなさることだ。いや、それだってどうかと思う。妻のお化粧三昧が我々の汗と労苦によって維持されるというのは、見っともない・不正な・ことである。(c)おそらく誰にも、わたしの財産をこのわたしほどに円滑に・静かに・また自由に・使用することができるようには、とうていなれないであろう。(b)夫が材料を提供すれば、自然さえも妻がこれに形体を与えることを欲している。
* 夫婦の生理関係と一緒に経済生活における両者の分担状態を考えているのであろう。夫が金を得て帰れば、妻がこれを承けて利殖し整理すべきは、受胎分娩の理とひとしく自然の命ずるところであるというのであろう。
 夫婦間の愛情の義務がこの不在によってそこなわれるように考える人もあるけれど、わたしはそうは思わない。かえって夫婦の仲というものは、あんまりしょっちゅう一緒にいると冷却するものだ。むしろしつこさによってそこなわれるものだ。知らない女はすべて我々にしとやかに見える。いや、人はそれぞれ経験によって、しょっちゅう顔を見合ってばかりいると、ときどき別れたり会ったりして感ずるその喜びは、想像することすらできないものだということをさとる。(c)これらの中絶はわたしの心を家族の者に対する新たな愛をもって満たし、自分の家の住み心地をいよいよ嬉しいものにする。わたしは家にかえれば旅を思い、旅に出れば家をなつかしむ。(b)わたしは、愛情というものはながい腕を持っていて、よく世界の一方の隅ともう一方の隅とをつなぐものだということを知っている。特に夫婦間の愛情がそうで、そこには絶えず奉仕の交換があって、それらが義理と想い出を呼びさます。ストア学者はうまいことをいっている。「賢者の間にはきわめて親密なつながりがあるから、一人がフランスでご馳走をたべると、その友はエジプトにいてたんのうする。一人がどこででもそっとその指をあげれば、この世のすべての賢者はその助力を感ずる」と。所有するとか享受するとかいうことは主として想像がすることである。(c)想像は、そのこれから尋ね求めようとするものを、我々の手が容易にとどくものよりも一そう熱心に・一そう不断に・かき抱く。毎日していることを考えてもわかる。君は友人がそばにいるときはかえって彼のいることを忘れているではないか。彼が側にいれば君の注意はゆるみ、君の考えは、しょっちゅう、あらゆる機会に、勝手に彼とはかけ離れたことを考えるではないか。
 (b)遠いローマにいながら、わたしは自分の家とそこに残したいろいろの物を管理する。わたしは自分の家の塀や樹木やまた年金がふえたり減ったりするのを、家にいるときと同じように、すぐ眼の前に見る。

わが眼の前に絶えずわが家のさま浮び
またわが別れ来し土地の姿浮ぶ。
(オウィディウス)

 もし我々が我々の手に触れるものだけを享受するのならば、お金が金箱に入ってしまったらそれっきりだ! 子供たちが狩りに出たらそれっきりだ! 我々は彼らがもっと近くにあることをのぞむが、では、庭先にいたら、それは遠いのか。半日がかりのところに行ったらどう? また十里さきだったら? それは、遠いのか近いのか。もしそれが近いというなら、十一里、十二里、十三里だったら? そんなふうに一歩また一歩と進んで見たまえ。ほんとうにその夫に向って、何歩が「近い」の終りであるか、何歩から「遠い」が始まるのか、それを言える女房があったら、ご亭主をその境目さかいめでとっつかまえるがよかろう。

一切の紛争を避けるがために、歩数を言え。
然らずんば、われ汝が許す自由を用うべし。
あたかも馬の尻尾を一筋一筋抜きゆくが如く、
われ一、また一畝と削りゆきて、
遂には汝に何ものも残らざるようにし、
以て汝をわが論法に降参させむ。
(ホラティウス)

いや女たちは、思いきって哲学の助けを呼ぶがよかろう。だが、その哲学にだって文句を言う人があるかもしれない。哲学とて多と少と・長と短と・軽と重と・近と遠とを結ぶひもの、どっちの端も見ないのだから。その発端をも末端をも認めないし、真中をはなはだ不確かに判断するだけなのだから。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)自然は我々に物ごとの限界を知ることをゆるさず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)彼女たちは死んだ夫に対してさえ、なお妻であり愛人であるのではないか。彼らはこの世の果てどころか、もう別の世界に行ってしまったのに。我々は、もう死んでしまったものをも、まだ生れ出ないものをも、この世にいなくなった者までも抱擁する。我々は結婚するときに、我々が見る何とかいう小さな生物のように、(c)または呪縛じゅばくにかかったカレンティの民のように、犬みたいに、(b)始終くっついていようとは約束しなかった。(c)いや奥さんというものは、そう物ほしげにご亭主の前のところばかり見つめていてはいけない。そんなふうだから、必要な場合にも彼の後ろデリエールを見ることができないのだ。
* デンマークのカレンティという町の者は、不義の交わりをすると神の呪縛によってそのまま離れられなくなると信じていた。
 (b)だが、奥さんたちの嘆きの原因を明らかにするには、ここに、彼女たちの気持をきわめてよく描出したあの詩人の言葉こそ、一ばんふさわしいのではあるまいか。

おん身の帰りおそからんか、おん身の妻は想像す。
「かの人、恋するにや、恋せられつつあるにや
酒をや飲める? 浮かれてやある?
われここにかくも嘆き悲しみてあるに!」と。
(テレンティウス)

 あるいは、反対したり反抗したりすることが、ただそれだけで彼女らを楽しませ満足させるのではあるまいか。ただ君たちを窮屈にしさえすれば、それだけで気がすむのではあるまいか。
 真の友愛においては(わたしはそのエキスパートであるが)、わたしは友を自分に引寄せるより、むしろ自分を友に与える。わたしは彼がわたしによくしてくれることよりも、わたしの方が彼によくしてやることを好むだけでなく、彼がわたしによりも彼みずからの方によくしてくれる方がいい。彼が彼自身によくしているときこそ、彼は最もわたしによくしているのである。だから、もし来ないことが彼にとって愉快だとか、ためになるとかいうのならば、その方が、彼がそこにいてくれるのよりも、ずっとわたしには嬉しいのである。それにお互いに通信をする道のある限り、それは本当の不在ではないのである。わたしは昔、我々が互いに遠く離れていることから利益と喜びとを得た。ラ・ボエシとわたしとは、相離れることによって、いよいよ生命の享受を充実し拡張した。彼はわたしのために、わたしは彼のために、生き、楽しみ、見た。しかも彼がすぐそこにいるときと同様に十分に。我々が一緒にいたときは、一方は何もしなかった。我々はまったく一つとなっていたからである。お互いに離れていると、我々の意志の結合はより豊富になった。肉体がそばにあることを渇望してやまないことは、その人たちの霊魂の享受力が弱いことをいささか暴露している。
 人はわたしに「年寄りの癖に」というけれども、それはあべこべで、むしろ若い者こそ一般の意見に服従し、他人のために自分をおさえるべきである。若い者は人々をも自分をも二つながらに満足させることができるが、我々老人は自分たちを満足させるだけでせい一杯である。自然の楽しみがだんだん我々から失われてゆくに従って、我々は人為の楽しみによって自分を支えてゆこうではないか。若い者がその快楽を追うのを大目に見・老人がこれを求めるのを禁止する・のは正しくない。(c)若い時、わたしは自分の陽気な感情を慎重に抑制した。年をとった今は、むしろ我儘をしてわたしの沈みがちな心持をときほぐすのだ。それにプラトンの法律は、四十ないし五十に達しないうちに遍歴をすることを禁じている。つまり遍歴を一そう有益な得るところの多いものにしようとしたのであった。同じ法律の第二条が六十歳以後の遍歴を禁じているのは、ますます賛成だ。――(b)「でもそんなお年で、あなたはそんな遠くからとても生きてはお帰りになれまい」――帰れなければどうだというのだ? わたしが旅を企てるのは、帰ってくるためでも是非目的地まで行くためでもない。ただ動きまわるのが面白い間、動きまわろうというだけのことなのだ。(c)いや歩かんがために歩くのだ。利得を追い兎を追いかける者は走っているのではない。人取り遊びをする者、駈けっこをする者こそ、ほんとうに走っているのである。
* 思いのままの生活をすること、特にここでは勝手に出て歩くこと、旅行癖を指す。
 (b)わたしの旅程はどこで区切ってもいい。それは大きな希望の上に立ってはいない。その日その日が旅の終りなのだ。いや我が人生の旅も同じようになされてきた。だがわたしは、かなり遠いところも見て来た。時にはそこにもっとひきとめてもらいたいと思うこともあった。そう思ってもいいではないか。クリュシッポス、クレアンテス、ディオゲネス、ゼノン、アンティパトロスなど、最もしかつめらしい学派の賢者たちさえも、別に何の不足もないのに、ただ変った土地に行って見たいというだけで自分の国をすてたではないか。実にわたしの遍歴の最大のうらみは、自分の気に入ったところがあったらそこに居を定めるという決心をもって出てゆかれないこと、やはり世間一般の考えに従って帰って来なければならないことである。
 もし生れ故郷以外の土地で死ぬことをおそれるなら、家族の者どもから離れて死ぬのはつらかろうなどと考えるなら、わたしはフランスから外に一歩も踏み出さないであろう。わが教区の外に出ることをすら、こわがらずにはいられまい。わたしも、死がわたしの喉を、わたしの腰を、絶えずちくちくとさすのを感ずる。でも、わたしはいっぷう変った男である。どこで死んでも同じことだと思っている。だがしかし、もし選択しなければならないならば、おそらくわたしはベッドの上よりも馬の上を、わが家の外の・家族から離れた・場所の方を、とるであろう。愛する者どもに暇乞いをするのは、慰めであるよりもはらわたをちぎられる思いである。わたしはあえてこの社交上の義務を忘れたいものだ。まったく友愛の義務の中で、これこそただ一つの不愉快である。だからあの大切な永遠の別れを告げることも忘れたい。成程みんなに取り囲まれて逝くことには、いくらかの喜びがあるかも知れないが、そこにはまた数えきれない辛い思いがある。わたしはこうした連中に取りまかれたきわめてみじめな瀕死の人をたくさんに見た。ああいう取りまきは彼らを息づまらせる。彼らを静かに死なしてやることが義務に反すること、愛情親切の不足のしるしとされているので、ある者は彼らの眼を、ある者は彼らの耳を、またある者は彼らの口を、苦しめる。感覚こころをも手足をも、人は少しも容赦しない。愛する者の嘆き悲しむのを聞けば、彼らの心は憐れみの情をもってしめつけられるし、誰かさんのそらぞらしいうその愁嘆をきけば、おそらく憤りをもってその心は張り裂けんばかりであろう。いつも涙もろかった者は、弱って来ればますます涙もろくなる。こういう最期にのぞんでは、なおさら彼のために彼の感情にふさわしい・優しい・手をさし伸べて、ちょうどそのうずく場所をさすってやらなければならない。でなければ、まったく手をふれない方がよい。我々がこの世に生れ出るのにサージュ・ファンム〔産婆〕を必要とするならば、この世をまかり出る時には誰かもっともっとサージュ〔賢明〕な男を必要とする。そういう人をこそ、すなわち真の友をこそ、そういう場合のために我々は万金をもってあがなうべきであろう**
* フランス語では、産婆のことを sage femme 直訳すれば「賢明な女」という。未開の社会では多少一般より知識才能ある婦人が産婆をしたからであろう。
** ここにもモンテーニュの友愛の回想がある。一の二十八参照。
 わたしは何ものにも助けられず・何ものにも乱されないで・ただ自力で自分を固めている・あの高邁な心境にはまったく達したことがない。わたしはもっと低い段階にいる。わたしはこの死という関門を、おっかなびっくりではなしに、いとも巧妙に、するりとくぐり抜けてやろうと努めている。わたしはこの行為の中で、自分の沈着を証拠だてたり誇示したりしようなどとは、少しも思わない。そんなことをしていったい誰のためになるのか。そのときは、わたしが評判からうける権利も、それから与えられる利益も、みんなおしまいなのだ。わたしはしっとりと落ち着いた・静かな・独りの・まったく自分だけの・わたしの隠遁の生涯にふさわしい・死に方さえできればそれでよい。これは遺言もできずに死んでゆく者・もっとも近親の者に眼をとじて貰えずに死ぬ者・を不幸だと考えたローマの迷信には反しているが、わたしは他人を慰めるまでもなく、自分を慰めるのにせわしない。このときになって新しい思いを持ち込んでくれなくても、自分の頭は相当いろいろな考えでいっぱいである。他人から借りるまでもなく、わたしは思いめぐらすべき材料をいくらも持っている。この役割は大勢で演ぜらるべきものではなく、独りで演ぜらるべきものである。家の者どもに取り囲まれて、生きよう、そして笑おう。知らない人たちに取り囲まれて、死のう、顔をしかめよう。お金さえ払えば、君の顔の向きをかえ君の脚をさすってくれる者、君の欲するだけしか君の邪魔をしない者、そして常に冷静な顔を君にむけ、君に思うがままに思いかつ嘆かせる者は、どこにでも見つかる。
 わたしは毎日推理に訴えて、我々が自分の不幸によって愛する人たちの同情や悲嘆をかきたてようとする・あの子供じみた非人間的な・心持をすてる。我々はよく、自分たちの不幸を誇張して彼らの涙をそそろうとする。そして、人が我慢づよくその不運に堪えることをほめ讃えるくせに、一朝我々が不幸におちいると、我々の近親たちが同じように我慢づよいことを咎める。彼らが我々の不幸に同情するだけでは満足せず、泣き悲しまないことには満足しない。だが喜びはこれを広めるべきであるが、悲しみはできるだけこれを限るべきである。(c)理由もないのに同情を強いる者は、いよいよその理由が生ずるときには同情してもらえないであろう。始終泣言をいっていると、結局どんな場合にも同情してはもらえまい。始終哀れっぽいふうをしているので、誰も哀れがってはくれないからである。生きながら死人をよそおう者は、死にかかっていてもなお生きているように思われがちである。わたしは、「お顔色もよろしい、お脈も正しい」といわれて機嫌をわるくする者を、見たことがある。その全快をさとられまいと、わざと笑いをおさえる者も、見たことがある。また同情が得られないからと健康を憎む者さえ、見たことがある。しかも困ったことに、それは女どもではなかったのである。
* 前にも註したが、モンテーニュはよく「理性によって」「推理によって」※(始め二重山括弧、1-1-52)par discours※(終わり二重山括弧、1-1-53)という。彼は天性によって※(始め二重山括弧、1-1-52)par nature※(終わり二重山括弧、1-1-53)はむしろ感情的な人なのであるが、つとめて理性主義者であろうとしている。いわばこれがモンテーニュの修養であり鍛練なのである。
 (b)わたしは自分の病気を、せいぜいありのままに述べる。縁起のわるい言葉やわざとらしい嘆声などを発しないようにする。付添う人の、愉快な顔つきではないまでも、少なくとも落ちついた態度こそ、賢明な病人の枕もとにふさわしい。自分が反対の状態の中にあるからといって、賢明な病人は決して健康と喧嘩なんかしない。他人の中にでも、力強い完全な健康を見てよろこび、少なくともそのお相伴をすることを好む。みずから奈落に沈んでゆくのを感じながらも、決して現世の思想を放棄せず、普通の会話を避けもしない。わたしは健康のときに病気を研究しておこうと思う。いよいよ病気がそこにやって来るときは、想像の助けをかりないでも、その印象はかなりに現実的である。我々は我々が企てる旅を、ずっと前から準備し、決心をしておく。いよいよ馬に乗らなければならない時には、その時を周囲の者に提供し、それを彼らのために延長する。
 わたしは自分の日常を公表することに、思わぬ利益があるのを感ずる。それはある程度わたしに規則として役立つからである。わたしはときどき、わが自叙伝を裏切ってはならないぞと考える。この公の告白は、わたしに、今までの道を踏みはずさないように、わたしがみずから描いた諸性質を裏切らないように命じる。それらは概して、現代の邪念にみち不健全な判断が言いたてる程にゆがんでも曲ってもいないのである。わたしの日常は一様単純であるから、表面上はいかにも解釈が容易そうに見えるが、その流儀がいささか世間一般と変っているので、まことに悪口を言われるのにもってこいである。だがわたしは、公平にわたしを批評しようとする者のためには、すすんで自らの欠点を吹聴し白状しているのだから、わたしに食ってかかるべきたよりを、しかも、十分たんのうするほどに、提供しているつもりである。何も空に食ってかかるまでもないのである。もしわたしが自ら先に立って自分を告発し暴露することにかまけているのが、さも故意に評者の鋭鋒をはぐらかすためであるかのように思われるとすれば、彼が誇大誇張の権利を主張するのも当然である(攻撃は公正を越えてそれ特有の権利をもっている)。わたしがわたしの中にその根を示したばかりの不徳を、見上げるような大木に拡大するのも、またわたしのうちに厳存する不徳だけでなく、ただわたしをおびやかそうとしているにすぎぬ不徳までも、攻撃のたねに利用しようとするのも、当り前のことである。いかにもそれらは、質においても数においても有害な不徳である。どうかそれらを使ってうんとこさわたしをぶんなぐって下さい。
 (c)わたしはいさぎよく、哲学者ディオンの例にならいたい。アンティゴノスが彼をその家系の上のことで非難しようとしたときのことである。彼はいきなりその言葉をさえぎって言った。「わたしは屠殺者として烙印をおされた一人の奴隷と・彼がその身分が低いからというのでやっと結婚できた一人の淫売婦と・の間に生れた子である。二人とも何か悪いことをして処刑された。一人の雄弁家が可愛らしいといって幼少のわたしを買い取り、死にのぞんでその全財産をわたしにのこした。それをもってわたしはこのアテナイ市に来て、哲学に没頭したのである。歴史家はわたしに関してわざわざ資料をお探しになるには及ばない。わたしはありのままを彼らに告げよう」と。おうような・とらわれない・告白は、非難の鉾先ほこさきを鈍らし、攻撃の刃をうばう。
* ギリシアの著作家(前三世紀)、哲学者。『列伝』『奇行集』等があったと伝えられるが現存しない。
 (b)それはともかく、結局わたしは、不当にくさされたこともしばしばあったが、不当にほめられたこともまた同じようにしばしばあったと思う。そういえば、少年時代からわたしは、格式席次において、本当より下に坐らされることよりも上に坐らせられることの方が多かったようである。
 (c)わたしはこうした序列が正しく守られるか、さもなくばかえって無視される国に生れればよかった。ここでは、人々の間でどっちが先に進むとか・誰が上席に坐るとか・いう特権について言い争いが三語を越えると、必ず狼藉になる。わたしはあのうるさい争いを避けるためなら、譲ることもまた越えることも一向かまわない。だからいつもわたしは、わたしの上席権を羨む者には誰にでもそれを譲ってやった。
 (b)わたしは自分に関して記述することから、さきに述べたような得をしているが、そのほかになおこんな得もしたいものだと思っている。すなわち、わたしの気分が万々一わたしの生きている間にどこぞの君子人オネトムのお気にかなうようなことになるなら、ぜひわたしの所まで来ていただきたい、と。わたしはそういうお方のために随分色々と準備してあるのだ。まったく、長い間の親交が何年もかかって彼に得させるであろうところのすべてを、彼はこの記録の中に、ただの三日で、しかもかえって正確・確実に、ごらんになれるのであるから。(c)何という奇妙な思いつきだろう? わたしは誰にもいいたくないたくさんの事柄を、読者に向っていうのである。そしてわたしの最も秘密な知識や思想に関しては、わたしに最も忠実な友人たちをさえ本屋の店頭に追いやるのである。

我らは、心の最も隠れたる部分を、人々の検査にゆだぬ。
(ペルシウス)

 (b)もしもわたしが、このように確かな証拠によって、この人こそはわたしと気のあう人だと知るならば、わたしはきっと、千里をも遠しとせずにその人を尋ねてゆくであろう。まったく、気の合った愉快な交際の味わいというものは、いくら高く買っても惜しくはないと思う。おお、友ほど良いものはない! 古の格言に、「友を持つことは水火の二元を持つこと以上に必要でまたうれしいことだ」とあるのは実に真理である!
 さてわたしの話に立ちもどるに、遠くで独り死ぬるということは、だからたいしていやなことではない。(c)まったく我々は、この死ほどに不快でも気味悪くもない自然の行為をするときでさえ、人のいないところに身をかくすのを義務と心得ているではないか。(b)ましてや長の年月としつき、衰えの日々を病床にながらえている人々などは、おそらくその悲惨をもって家族全体を悩まそうと願ってはならないであろう。(c)だからインド人は、ある地方では、そういう必然におちそうな者を殺すことをかえって正義と考え、またある地方では、そういう人がただ独りぽっちで思うがままに生きながらえることを許した。(b)そういう人たちは、しまいにはきっと皆にうとまれ嫌われるようになる。世の常の義務はどうしてもそこまではとどかないのだ。結局君たちは君たちの最上の友達に、いやおうなしに残酷を教えるだけである。長い間には妻をも子をも、もはや君たちの苦悩に少しも同情を催さないほどに冷酷なものにしてしまう。わたしの疝痛せんつううめきも、今ではもう誰をも驚かさない。だから我々は、彼らとの交際から多少の喜びは得られるにしても(それはいつも得られるものではない。境遇の相違は誰に対してもとかく軽蔑や羨望を生ぜしめるものだから)、幾つになっても彼らとの交際を乱用するのは、少し虫がよすぎはしないだろうか。彼らがわたしのために一所懸命に我慢するのを見れば見るほど、わたしは彼らの苦労を気の毒に思う。我々は他人によりかかることは許されるが、全身の重みを彼によせかけて、彼をもろともに押倒すことは許されない(例えば幼な子の首を絞めさせ、その血で自分の病気を直そうとした者がある。あるいはうら若い乙女を差出させて、夜、彼女たちによってその冷えた手足を温め、彼女たちのかぐわしき息を自分の重苦しい太息に交わらせた者もある**)。わたしはこのような老衰期に達したら、特にヴェネツィア***を隠棲の場所として自分にすすめよう。
* ルイ十一世とか法王インノケンティウス八世とかがこういうことをしたと伝えられている。
** たぶん旧約「列王紀」中にあるダビデのことであろうと思われる。
*** モンテーニュは「旅日記」に見られる通り一五八一年四月ヴェネツィアを訪れている。
 (c)老朽は独りで負うべき特質である。わたしは極端なほど社交的なのだが、この頃、人々の目の前から自分の浅ましさをひっ込め、自分独りでそれをいだいていることは、いわば亀の子のように自分の甲羅こうらの中にせぐくまって物思いにふけっていることは、当然なことであると思う。わたしは今、淡白な気分で人々に対することを学んでいる。そこに執着があっては、ああいうけわしい関所を越えるのに邪魔になろう。今こそ仲間に背を向けるべきときなのである。
 (b)――でもそんなに遠い旅に出たら、いつかあばら屋の一間に哀れなその身をよこたえ、あらゆる不自由をなめられることであろう。――と人はいう。だが必要欠くべからざるものの大部分を、わたしはこの身に帯びている。それに我々は、運命に見込まれたら最期、それを避ける術はないのである。わたしは病気になっても、常とかわった物は何一ついらない。自然がわたしにおいてなしえないことを、丸薬にして貰おうなどとは少しも思わない。わたしの熱・わたしをうちのめす病気・のごく初期に、まだまだ完全でほとんど健康の隣りにあるうちから、わたしはキリスト教徒の最後のお勤めをして神様のおゆるしをえ、それだけ自由に身軽になる。それだけ病を征服したような気になれるからだ。公証人やその勧告などは、医者以上にいらない。ぴんぴんしていてもとてもできそうにない家事の整理が、病人のわたしにどうしてできよう? わたしがこの世の最後の奉仕としてしておきたいと思うことは、常日頃なされている。それをわたしは、ただの一日だって延ばそうとは思わない。だからもし何事もそこになされていないとすれば、それは取りもなおさず疑いがわたしにその選択をためらわせたか(まったく時には選択をしないことこそよく選択することなのである)、さもなくば全然わたしが何事もしたいと思わなかったからである。
* 遺言、かたみ分け等の事柄をさす。
 わたしはわたしの書物を、僅かの人たちのため・僅かの年月のため・に書いている。もしその内容が永く伝えられるべきものであったら、もっとしっかりした言葉にそれを託すべきであったろう。わがフランス語がこんにちまで不断の変化を経て来たことをかえり見れば、現在の形が今から五十年たった後も同じように用いられるようにと、どうして希望することができよう? (c)それは毎日我々の手のうちから流れいで、わたしの時代になってからでも半分は変った。それは現在完全であると我々はいう。各時代はそれぞれ同じことを、そのときの言葉についていっている。だがわたしは、それがあのようにちっともじっとしていず常に形を変えているのを見て、とてもそのとおりには信ずることができない。ただよい有用な書物だけが幾らかそれを自分とともに存続させる。そしてこの言葉の信用はわが国家とその運命を共にするであろう。
* ラテン語を指す。ラテン語はすでに死語となっているから、もはや進化の流れにただよい刻々の変化をこうむるようなことがない。それで、しっかりした言葉というのである。フランス語はモンテーニュにとって現代語である。だからその変化を当然として覚悟している。しかも自著に対する自負をもっている。
 (b)だからわたしは、ここにいろいろ私的なことを挿入することを少しもはばからない。それらはこんにち生きている人々の間にその用を終えるものであり、また普通の人々よりはいささか深くそれらを味わわれるであろう幾人かの人の、特別の知識を必要とするものなのである。とにかくわたしは(世間には死者の記憶をとやかくあげつらう人たちがたくさんいるが)、そういう人たちに、「彼はこういうふうに判断し生活した。彼はこういうふうに願っていた。彼が臨終の際に口がきけたらこう言ったろう。あれをあたえたろう。おれこそ誰よりもよく彼を知っていた」なんて言ってもらいたくないのである。さてわたしは、ひと様に失礼になるといけないから、ここにわたしの傾向や感情をそっとほのめかしているだけなのだけれど、それらをもっとよく知りたいといわれる方には、もっと自由にもっと遠慮なく、口でじかに申上げたいと思っている。だがそれにしても、人はこの記録の中にも、少し注意してごらんになれば、わたしがすべてを言っていることを、いやすべてをさし示していることを、おさとりになるだろう。口に出して言えないことは、指でさし示しているつもりである。

おん身の如く明敏なる人には言葉短くて足りなん。
あとはおん身自ら悟り給わん。
(ルクレティウス)

わたしは自分を少しも曖昧にしていない。余すところなく示している。だから、もしわたしについて語らなければならない場合には、是非とも正直公平にやってほしい。よしそれがわたしを尊ぶためであっても、このわたしをわたしが現にあるのとは別様に描く者があるなら、わたしはそれを打消すためによろこんであの世からもどって来るだろう。現に生きている人々についてさえ、人はいつも彼らが真にあるのとは別様に語っているような気がする。実際わたしが全力をつくしてわが亡き友**を擁護しなかったら、彼は散々に引きちぎられ、たくさんの矛盾した姿に造り変えられてしまったろう。
* モンテーニュは自分に対する誤解曲解をただすためでなければ、当時のあの乱れたフランスに戻ってくる気は毛頭ないのであろう。「あの世」はモンテーニュにとって天国ではないにしても、それは無苦痛の世界であろうから、訂正ということさえなければ、もちろんこの世に帰って来たくはなかろう。そこで「よろこんで」の意味が本当につかめる。
** ラ・ボエシ La Bo※(ダイエレシス付きE小文字)tie. 巻末年表、第一巻第二十八、第二十九章の解説および註、白水社版『モンテーニュ全集』第一巻付録一の解説参照。
 わたしはわたしの数々の気弱な気分を物語った最後にもう一つここで白状すれば、わたしは旅に出て宿をとると、果して自分はここで気楽に病臥したり死んだりすることができるだろうか、と考えないことはないのである。わたしは同宿者にわずらわされぬ・物音のしない・きたなくも煙たくもなく息づまりもしないような・家に泊りたいと思っている。わたしはこういうつまらない状況によって、死の機嫌をとろうとつとめる。いや、もっと正確にいえば、他のすべての邪魔ものをふりほどいて、ただ死にだけ専念できるようになろうと努めるのである。死は他に何らの添荷がなくてもわたしには相当重たいであろうから。わたしは死もまたわが生涯の無事安楽を分ち持つようにと願っている。死は生の大きな・いや重要な・一断片である。今後わたしは、この断片が過去と矛盾しないようにと、希望している。
 死はどれも同じように安楽な形をしているが、各人の考え次第でいろいろにちがった性質をとる。自然的な死の中では、衰弱麻痺から来るそれがいちばん楽だと思われる。急激な死の中では、物に圧しつぶされて死ぬのより高い所から落ちて死ぬ方が、鉄砲でうたれるよりは剣で突きさされる方が、苦しかろうと想像される。だからわたしは、カトーのように剣をつきたてるよりはむしろソクラテスのように毒を仰ぐだろう。結局それは一つであるにしても、わたしの想像は、燃える炉の中に身を投げるのと、浅い堀江に身を投げるのとでは、やはり生と死くらいのちがいを感ずるのである。(c)それほどまでに愚かしくも、我々の恐怖は結果よりも方法の方を重視するのである。(b)それはただの一瞬に過ぎないがきわめて重大な一瞬であるから、わたしはこれを、わたしの思うように通過するためなら、喜んでこれにわたしの一生のたくさんの日数をささげるであろう。
 各人の想像は死の酸味を、あるいは多量にあるいは少量に見出すのであるから、各人はいろいろな死に方の中でいくらか選択ができるのであるから、ここでさらに一歩をすすめて、まったく不快の伴わない死に方を見出すように努めようではないか。我々はアントニウスとクレオパトラのもとに集まった「一緒に死のう会員」のように、死をもっとたのしいものにすることはできないものであろうか。哲学や宗教が産み出す・壮烈な・人のかがみとなるような・努力はしばらくおく。だがつまらない人間の間にも、ローマのペトロニウスとかティゲリヌス**とかのように、自決をうながされると、遊惰柔弱な準備によって、その死をいわば麻酔させた者もあった。彼らは遊女や飲み友達に取りまかれていつものように遊蕩三昧に耽っている間に、こっそりと死を忍び込ませたのである。慰藉いしゃの言葉もなければ、遺言の表示もなく、えらそうに覚悟のほどをてらうこともなければ、また自分たちの未来の境遇について演説することもなかった。ただただ遊戯と酒宴と道化と平凡な世間話と、それから音楽と恋の歌との間に、死んだのである。我々はもう少しお行儀のよい態度でこの決心をまねることはできないものであろうか。愚人むきの死・賢人むきの死・があるのだから、両方の中間にある者にふさわしい死に方をさがし出そうではないか。(c)わたしの想像はわたしに、その安楽な・そして願わしい(どうせ一度は死ぬのだから)・姿を、二つ三つおしえてくれる。
* 『プルタルコス英雄伝』「アントニウス伝」の中に、こういう結社の話が出て来る。会員は歓楽の裡に暮しつつ死ぬ日を待ったという。
** 両人とも暴君ネロの寵臣であった。
 ローマの暴君たちは、罪人にその死に方を選ばせるのを、まるで生命を与えることみたいに考えていた。けれどもテオフラストスは、きわめてやさしく・謙遜で・またきわめて賢明な・哲学者であったが、理性のためにあえて次のようにいわずにはいられなかった。それはキケロによってラテン語になされた。

我らの一生を支配するは運命にして知恵にあらず。
(キケロ)

いかに運命は、わたしがやすやすと死んでゆく手伝いをしてくれていることであろう! 運命はわたしの生命を、今ではもう、誰にとっても必要でも邪魔でもない状態に、おいてくれている。こういう境遇は、わたしが一生のどんな時期にも喜んで受けたところであろうが、いよいよわたしが身のまわりを片づけ行李をひっくくる今日このときこそ、いつにもましてありがたい。死んでも自分は誰にも喜びも悲しみも感じさせないのだということは、まことに大きな喜びである。運命は実に巧みな埋めあわせをする。すなわち、わたしの死からいくらかの物質的果実を期待できる者は、同時にまたある物質的損失をこうむる。死はしばしば、他の人たちにつらければ我々にもつらく、他の人たちの損失であればそれだけ我々の損失となる。いや、ときにはそれ以上に我々の大損となる。
 (b)わたしは旅宿に前にのべたような快適は求めるが、豪華や豊富は求めない。むしろそれをきらう。だが、ある単純な清潔さはほしい。それはあまり技巧をこらしていないところに、かえってしばしば見出される。そして自然はそれにいかにも自然な風情を与えて、それをますます尊くしている。※(始め二重山括弧、1-1-52)豊富にはあらねど清潔なる食膳※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ノニウス)。※(始め二重山括弧、1-1-52)贅沢よりも機知のみちたる食事※(終わり二重山括弧、1-1-53)(コルネリウス・ネポス)。
 それから道中で急にこの最期に出あうことも、用務をおびて冬のまっ最中にグリゾン地方を旅する人たちにはよく起る。だがわたしは、多くの場合楽しみのために旅をするのであるから、そんな不幸なことにはならない。右の道がいやになれば左にゆく。馬に乗るのが大儀な場合は逗留する。そんなふうにやっているから、わたしはほんとうにどこへ行っても、家にいるのと同様の安楽を味わわないことはない。本当にわたしは、むだは常にむだであると思うし、心づくしや豊富の中にも窮屈を見出す。何かをあとに見残したら? さっそくあともどりする。それだってわたしの旅程である。わたしはまったく確定した線は引かない。直線も曲線も引かないのである。わざわざ行って見ても言われたようなものを見出さなかったら?他人の判断が自分のと一致しないことも、確かにそれが間違いだと思われることも、たびたび起るが、わたしは少しもむだ足をしたとは思わない。わたしは人のいっていたことが間ちがっていたと悟ればそれでよいのである。
 わたしの体質は順応的であり、わたしの趣味は普通で一般紳士と変りはない。国々の間のそれぞれ異なる風習は、ただわたしに変化の面白さを味わわせるだけでさわりとはならない。どこの習慣にもそれぞれの理由がある。皿はすずであろうと木であろうと土であろうと、肉は煮込んであろうと焼いてあろうと、バターであろうとくるみ油であろうとオリーヴ油であろうと、熱かろうと冷たかろうと、どうでもよい。いやそれが気にならなすぎて、老いたる今は、この好ききらいのないのがかえって恨みである。むしろ気むずかしさや好ききらいが、わたしの意地きたなさをおさえてくれたら、ときにはわたしの胃の腑を軽くしてくれたら、と思うほどである。(c)わたしが昔フランスの外にあったとき、そして人がわたしに対する礼儀から「フランスふうにして差上げましょうか」と尋ねたとき、わたしはそれをわらって、やはり外国人の最もたてこんでいる食卓についた。
 (b)わたしはわが国の人々があの愚かな感情に溺れて、自分たちのと異なる習慣に食ってかかるのを見ると恥ずかしくなる。彼らは一歩自分の村を踏み出すと、まるで人間世界からしめ出されたような気持になるらしい。どこへ行っても、自分の習慣になずみ、よその習慣をけぎらいする。ハンガリーで一人の同国人に出逢おうものなら、彼らはその偶然を狂喜する。さっそく一緒になって、目の前の野蛮な風俗をくさしにかかる。だって、野蛮だろうじゃないか。それはフランスふうではないんだから。でも、わる口をいうためにしろ、そうした外国の習慣が眼についた人たちは、まだ利口な部なのである。大部分の人たちは、出かけたかと思うと、もう帰って来る。彼らは無言の・心を外にあらわさない・用心ぶかさでその身をよろい、ひたすら外国の空気に感染しまいと旅をしている。
 これにつけて思い出されるのは、同じようなことが、ときどき、わが国の若い朝臣の誰彼の間にも認められるということである。彼らは自分たちと同じ身分の人々にのみ親しみ、我々をまるで別世界の人間のように軽蔑や憐れみをもって見る。彼らから宮廷の秘密に関する話を取り上げて見たまえ。水を離れた魚のようなもので、彼らもまた我々が彼らの眼にそう見えるように、やはり馬鹿に見え、やま出しに見える。「オネトム〔紳士〕とは兼ねそなえた人である」とは、うまいことをいったものである。
* ※(始め二重山括弧、1-1-52)Un honn※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)te homme, c’est un homme m※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)l※(アキュートアクセント付きE小文字).※(終わり二重山括弧、1-1-53)一つの専門にかたよらないで、広い教養を兼ねそなえた人こそ、オネトムであると考えるのであろう。
 あべこべにわたしは、我々の風習にあきあきして遍歴をするので、決してシチリアでガスコーニュ人にめぐりあいたいからではないのだ(彼らは家に帰れば沢山いる)。わたしはむしろギリシア人を、いやペルシア人を、さがしているのだ。わたしは彼らに近寄り彼らを考察する。それがわたしの目指す目的仕事なのだ。それにわたしは、我々の習慣とするに価しないような習慣には、ほとんどあったことがないようだ。おっと失敬。まったくわたしは、ほとんど自分の家の風見車を見失ったことがなかったっけ。
* これもモンテーニュの反語である。彼はローマまでも遠出をした。ただローマまで行ったくらいでは、モンテーニュは大して旅をした気にならなかったのだろう。世界はもっと大きいことを彼は十分意識しているのだろう。
 それに君が道中で出あう偶然の道連れは、たいてい愉快よりは不快を与えるものである。わたしは彼らと少しも親しまない。老いがわたしを我がままにし、わたしをある程度まで世間一般の風習から遠ざけがちなきょうこの頃は、ますますそうである。君が他人のために迷惑するか、他人が君のために迷惑するかである。どっちの不都合も不愉快であるが、どっちかといえば、かえってあとの方がわたしにはずっとつらく思われる。しっかりした分別をもち・君と性の合った・一人の紳士が立現われて、喜んで君の道づれになってくれるなら、それは滅多にないことであるが、それこそはかり知れない満足を与える。わたしはわたしのすべての旅において、そのような人物にはまったくめぐりあわなかった。だがそういう道づれがほしいなら、むしろ家を出るときからこれを選択して連れてゆくべきである。どんな愉快なこともこれを分けあう相手がなくては、わたしにとって味気ない。何か愉快な思いが胸に浮び上るたびに、わたしは分けあう友もないのにただ一人でそれを産み出したことを、悲しく思わないことはない。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)人われに、これは胸に秘めよ、人にはもらすな、とて知恵を授くるならば、われはこれをしりぞけん※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。もう一人の者はさらに高い調子でいった。※(始め二重山括弧、1-1-52)ここに一人の賢者ありて、何一つ足らざる物なく、知るに値するすべてのことを心静かに瞑想し研究することをうる境遇にあるも、孤独にして交わる者一人だになしとせば、彼はやがて世を捨つるならん※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)アルキュタスの意見はすこぶる我が意を得ている。いくら天に在ってあの偉大な神々しい天体の間を逍遙することができたとしても、ただ一人の友さえ伴いえないとすれば、さぞかしそれはわびしいことであろう。
 けれども退屈なつまらない人間と同道するくらいならば、やはり独りの方がましである。アリスティッポスは、どこへ行っても外国人として暮すことがすきだった。

もしも運命われに思いのままなる一生をゆるすならば、
(ウェルギリウス)

わたしはそれをくらの上で送りたいと思う。

天つ日の照りつける所、
雲多く霜ふる所、と
次々に経めぐることを喜びつつ。
(ホラティウス)

「君はもっと楽なひまつぶしを知らないのか。何がいったい不足なのか。君の家は景色のよい健康な土地にあるではないか。設備も十分だし、広さだって十分以上ではないか。(c)おそれ多くも王様さえ、大勢のお供をつれて一度ならずお泊りになったではないか。(b)君の家は、なるほど格式においてこそ沢山の家々を上に持つが、整っているという点ではむしろ下の方に沢山の家々を持つではないか。何か君をいら立たせる・なみなみならぬ・忍びがたい・地方的感情でもあるというのか。

何がおん身の心の中に隠れいて、
おん身を蝕み疲らすにや。
(エンニウス)

いったいどこへ行ったら、君は邪魔をされずわずらわされずにいられると思うのか。※(始め二重山括弧、1-1-52)運命のたまものはいまだかつて純一なりしことなし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(Q・クルティウス)。つまり君を妨げているのは、ただ君みずからだけなのだ。君が至るところ君についてゆく限り、君は至るところで嘆息することであろう。まったくこの世では、満足はただ獣のような心か神のような心でなければえられないのである。そんなにいい境遇にいながらなお満足をもたない者が、いったいどこにそれを見出す気でいるのか。幾千の人々にとっては、君のいるような境遇こそ、実にその希望の窮極ではないか。ただ君みずからを改めなさい。まったく自分を改めることにおいて君は全能であるが、運命に対してはただ忍耐をもって当るよりほかはないのである」。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)理性のもたらす安静以外に真の安静なるものなし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
* 一五八四年、一五八七年の両回、アンリ・ド・ナヴァール(後のアンリ四世)はモンテーニュ邸に泊った。巻末年表、および『モンテーニュとその時代』第六部第五章五一四頁、第七部第二章五五一頁を参照されたい。
 (b)わたしはこの訓戒をもっともだと思う。本当にそのとおりだと思う。だが、そんならただ一言、「賢明であれ」と言ってくれた方が、もっと早くてすんだだろうし、もっと適切であったろう。でもそういう決心は知恵の向う側にある。それこそ知恵が造り出し産み出すものである。それはやせ衰えた哀れな病人に向って「喜びたのしめ」と呼びかける医者と同じことだ。「健康であれ」と勧告する方がまだ幾らか気がきいている。わたしは低級な人間にすぎない。「お前はお前のものをもって、すなわち理性をもって、満足せよ」というのは、疑う余地のない・理解し易い・有益な教訓である。だがその実行は、わたしにはもちろん最も賢明な人にも、なかなかできないことである。それは皆がよくいう言葉だが、その範囲は恐ろしく広い。それは何から何まで包括している。物事は何でもこのとおり議論し修正して見る必要がある。
 わたしにはよくわかる。この旅行の楽しみは、それを文字どおりにとれば、〔人の心の〕不安動揺を証拠だてているものだということが。しかもこの不安動揺は、我々人間の、主要な・支配的な・特質なのである。さよう、わたしは白状する。わたしは夢の中にも願いの内にも、ちゃんとつかまっておられるようなものは何一つ見ないのである。ただ変化だけがわたしを満足させる。いや何かがわたしを満足させるとすれば、せいぜい多様を楽しむことくらいなものである。旅に出ると、「わたしはどこでとどまろうといっこうかまわない。どこへ行っても愉快に気晴らしができる」という考えが、わたしを満足させるのである。わたしは私的生活が好きである。まったくわたしがそれを好むのはわたしの選択からであって、決してわたしが公的生活に適しないからではない。公の生活だって、恐らく同じくらいに、わたしの性格にかなっているのである。わたしは判断と理性の自由選択によって、(c)個人的な義理は少しもなく、(b)陛下に仕えているのであるから、また他の党派に容れられず迎えられないために止むなく陛下に仕えているのでもないのだから、それだけ愉快に御奉公ができるのである。一事は万事。わたしは必然が切ってくれた肉片はきらいである。どんな安楽でも、ただそれ一つしかないと思うと、のどにつかえる。

われ一方のかいもて波をうち
なお一つの櫂もて岸の砂をうたん。
(プロペルティウス)

ただ一筋の綱はとてもわたしをつなぎとめるに足らない。――その〔旅の〕楽しみの中にもくうなものがある、といわれるのか――だが一体どこに空でないものがある? あの美しい掟も空なら、知恵全体もまた空である。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)主は知者たちの論議のむなしきことを知りたまう※(終わり二重山括弧、1-1-53)(「コリント人への第一の手紙」三の二十)。(b)あの精緻な議論にしてもただ説教に役立つばかりである。それは我々を、重荷をつけたままであの世へ送り込もうとする演説である。人生は物質と肉体の動きである。その本質において不完全・不規則な・行動である。わたしはそうした人生にふさわしく人生に奉仕しようと努めているのだ。

人はそれぞれその運にこれ従う。
(ウェルギリウス)

 (c)※(始め二重山括弧、1-1-52)我らは宇宙の法則に違背せざるよう進退せざるべからず。されどこれにかなう限り我ら固有の傾向にも従わざるべからず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (b)どんな人間も永くはそこに安住していられないような、そんな高尚な哲学上の格言がいったい何になる? 我々が享楽することも我慢することもできないような、そんな規則がいったい何になる? わたしがしばしば見るところでは、よく人は我々に人生の理想の姿を教え示すが、示す方も聞く方もそれについてゆけるとは思っていないし、それにならいたいとさえ思ってはいない。裁判官はたったいま姦夫かんぷに対する宣告文を書いたその紙の一枚をぬすんで、その同僚の細君にあてて恋文を書く。(c)君がいま不義の交わりをしたばかりのその女は、直ぐそのあとで、しかも君のいる前で、自分の仲よしの女が犯した同様の罪を、ポルキアよりもきびしくとがめるであろう。(b)またある裁判官は、自分では過失とさえ見なさない罪悪のために、多くの人々を死刑にする。わたしは若かったころ、一人の紳士**が、片手で人々にきわめて美しく淫らな詩を示し、同時にもう一方の手では、人々が久しい以前からもう十分御馳走に相成っている宗教改革論の最も戦闘的なものをさし出すのを見た。
* ポルキアはウチカのカトーの娘、夫ブルートゥスの敗戦と戦死をきくと自決した。しかも刃物が見つからないので、真赤な炭火を飲みくだしたという。
** テオドール・ド・ベーズだろうという説と、マルク・アントワーヌ・ミュレだろうという説とある。
 人間とはこんなものである。法律や規則にはその道をゆかせ、自分は自分で別の道をとる。それはただ世の中が乱れているからばかりではなく、我々がしばしばあべこべの意見や判断をもつからである。例えば何か哲学上の論文が読まれるのを聴いてごらん。その創意、その雄弁、その適切さ、いずれも君の精神を打ち君を感動させる。だがそこには、何一つ君の心の奥底をくすぐったり突いたりするものがない。著者は心底に向って話しかけていないからだ。そうだ。それに違いない。だからこそアリストンはいったのである。「水浴だって勉強だって、それがあかをおとし清潔にするのでなければ何の効果もありはしない」と。人は表面のことに暇をつぶしてもよい。だがそれは、まずその心髄をき出してから後のことである。我々はまず御酒ごしゅをいただいてから後に、始めて酒杯おさかずきの彫刻や造型を鑑賞するではないか。
 古代哲学のどこの塾に行って見ても、同一の著者が節欲の規則を公表するとともに恋愛や遊蕩についても書いている。(c)実際クセノフォンは、クリニアスの膝にもたれてアリスティッポスの説く快楽を非難する一文を草した。(b)それは奇跡的な回心が大波のように彼らをゆすぶったからではない。むしろソロンが、あるときは彼自身として、あるときは立法者として、自分を描いているのと同じようなものである。この人は、あるときは衆人のために、あるときは自分のために、語ったのである。そして自分のためには、おのれの健康の堅固完全なことを確信して、自由で自然な規則を採用したのである。

自信なき病人たちは名医の手当を受けらるべし。
(ユウェナリス)

(c)アンティステネスは賢者に対しては、恋をすることも・その適当と思うことを一々法規に照らさず思うがままに行うことも・許した。つまり賢者は法規以上に優れた意見をもち、徳をより深く知っているからである。彼の弟子ディオゲネスは、「心の乱れには理性をもって・運命には自信をもって・法規には自然をもって・あたれ」といった。
 (b)胃弱の人には、窮屈な人為的な養生法が必要である。(c)良い胃をもった人は、ただその自然の食欲が命ずるところに従う。(b)我々の医者たちがそうである。みずからはメロンを食い冷たい酒を飲みながら、病人には果物のジュースとパンかゆばかり食わせる。
 遊女ライスはいった。「どんな御本、どんな知恵、どんな哲学をおもちなのか知りませんけど、あの方たちもほかの方がたと同じくらいたびたびお見えになりますわ」と。我々はもともと放縦でとかく我々にゆるされた範囲の外に逸脱しがちだから、人はしばしば普遍的理性が命ずる以上に我々の生活の規則を窮屈にしたのだ。

一人としてみずかららちを越えたりと考うる者なし。
(ユウェナリス)

 もう少し命令と服従との間に釣合いがあってほしいものである。とうてい及びもつかない目標をかかげるのは不当だと思う。どんなに正しい人にしても、その行為思想のすべてを法規に照らして審査したら、一生に十ぺんくらい絞首刑をまぬかれないだろう。そうだ、それらの人までしめ殺してしまったら、それこそ大変な損害、大きな不正となることであろう。

オルスよ、意に介し給うな。
彼氏または彼女がいかようにその肌を用いるとも。
(マルティアリス)

 ところがある男は、とうてい有徳の人とほめられるに価しないのに、(c)哲学のむちにうたれてもきわめて当然であるのに、(b)全然法規に触れずにすんでしまう。それほどにこの関係は混沌として不同である。我々は神からみた正しい人であるにはすこぶる遠い。我々から見た正しい人であることさえできないであろう。人間の知恵は、そのみずから規定した義務についぞ到達したことがなかった。もしそれに到達するとしても、さらにそれ以上の義務を規定して、相変らずそれにあこがれそれを追いかけるであろう。それほど我々の生れつきは確定的なものがきらいなのである。(c)人間は自分みずからに、必然的にあやまちにおちるように命じている。自分の義務を自分以外の人を標準にして規定するのはあまり怜悧でない。始めから誰にもできないとわかりきっている事柄を、一体誰のために規定するのだろう? 人間が自分に不可能なことをしないのは、果して彼の不正といえるだろうか。法律は我々にできないことを命じておいて、我々にそれができないと告訴する。
 (b)最悪の場合、行いはこう・言うことはこう・と二道かけるあのゆがめられた自由も、ただものごとを語る人たちには許されるにしても、わたしのように自分について語る人々にはとうていゆるされようがない。わたしは足の運びとペンの運びとを一つにしなければならない。社会人としての生活は他の人々の生活と釣合いをたもたなければならない。カトーの徳はその時代一般の程度を越えて強かった。実際こんなのは、多くの人の支配にあずかる人、一般の人々のために奉仕すべき人にあっては、不正な・とはいえまいが少なくとも空な・時代に適しない・正義であったといってよかろう。(c)わたしの生活でさえ、それはこんにち一般の暮し方とほとんど違わないのであるが、やはりわたしを当世の人たちに、相当風変りな・親しみにくい・男と思わせている。わたしが自分の出入りする社会からこのようにきらわれているのは、はたしてゆえなきことであるかどうかは知らないけれども、わたしみずからがその社会からきらわれている以上にその社会をきらっているというなら、そのことに文句をいうのは確かにゆえなきことであろう。それくらいのことは、わたしも十分承知している。
 (b)政治が必要とする徳は、たくさんのひだや隅や曲節をもち、人間の弱さとも手をつないでゆける・混りもののある人為的な徳であって、真直な・はっきりした・変らない・純粋無垢の・徳ではない。年代記は今日にいたるまで、わが国の王様のある者が、あまりにも一筋にその懺悔ざんげ僧の良心的勧告に従いすぎたことを、とがめている。国務を取りしきるにはもっと大胆な掟に従わねばならない。

あくまで潔白でありたき者は
よろしく朝廷を去るべきなり。
(ルカヌス)

* ある註者は多分シャルル八世のことだろうと言っている。この王はルシヨン州をアラゴン王に返還した。それはざんげ僧の懇請に従ったのだとも、イタリアに侵入するに当りスペインの中立を確保するためであったとも言われている。
 わたしもむかし公務を処理するに当って、わたしがもって生れたままの・またわたしが子供のときに教えられたとおりの・あらけずりの・一本な・磨かれてないというよりは汚されてない・そして今でもわたしが私的生活においては便利に(c)とはいえないまでも少なくとも安全に(b)使用しつづけている・処世観、処世術を、適用しようと試みたことがある。だがそんなのはいわば一年生の・見習小僧の・徳である。わたしはそれらが公務には役に立たぬ・危険な・ものであることを覚った。群衆の中を行く者は、道を曲げなければならない。ひじをすぼめなければならない。退いたり進んだりしなければならない。いや行き合う物によっては本道をはずれなければならないことすらある。自分にばかり従ってはいられない。むしろ他人に従って生きなければならない。自分の望むところによらず、人から望まれるところに従って生きなければならない。時期に従い・人々に従い・問題に従って・生きなければならないのだ。
 (c)プラトンはいった。「世のけがれに染まることなく無事に国政を処理しおおす者があれば、それこそまったく奇跡である」と。また言った。「わたしはかつて門下の一哲学者をある国の長に推したことがあるが、それは決してアテナイのような腐敗した国家のためではなかった」と。ましてわが国のようなものを考えてはいなかったので、こういう国家に対しては賢者もさじをなげるであろう。例えば草を見てもわかる。その性質にはなはだ適しない土地に移し植えると、地味をおのれに適するように変えないで、むしろ自分の方がそれに順応するではないか。
 (b)わたしは、どうしてもそういう仕事に完全に自分を慣れさせなければならないとすれば、おのれ自身をそのために大いに変化変更しなければなるまいと思う。だが、それができるとしても(だって時間とその気がありさえすれば何だってできないことはあるまい)、わたしはそれを欲しないであろう。ほんのちょっぴりやって見ただけで、わたしはすっかりこの仕事がいやになった。ときには心の中に、野心への誘惑が燃え上りそうになるのを感じはするけれども、わたしは頑としてそれに抵抗する。

されどカトゥルスよ、最後まで抵抗せよ。
(カトゥルス)

わたしは人から公務にさそわれることはほとんどないし、みずからそこに赴くこともほとんどない。(c)自由と無為、これこそわたしの主要な特質であって、いずれも公職には正反対な特質である。
 (b)我々は人々の諸性能を識別することを知らない。それらの領分や限界は、識別することが困難でまた微妙である。個人生活において有能であるから公職についてもいくらか才能を示すだろう、と結論するのは間違っている。ある男はよく自分を導くが、必ずしもよく他人を導かない。(c)また「エッセー」を書くもの〔物事を審査検討する者即ちモンテーニュのような評論家〕必ずしも実績は挙げないであろう。(b)ある男は城を攻めることに巧みであるが野戦はへたかもしれない。ある男は一人を相手によく論ずるけれども、公衆の前や王侯の前ではよく論じえないかも知れぬ。いやことによると、ある一つのことをよくするということは、むしろほかのことをなしえないという証拠なのであって、その余のことではないのであろう。(c)わたしは高い精神が低い事柄に適しないのは、低い精神が高い事柄に適しないのと同じことだと思っている。あのソクラテスが、その部族の投票を数えてこれを会議に報告することができなかったために、アテナイ人の間に嘲りの種子をいたということは、果してうそだろうか。ほんとうにわたしはこの人の完全を日頃あんなにも尊敬しているのだから、今の話がわたしの主要な欠点を弁護するすばらしいお手本になってくれてもよさそうに思う。
* これをモンテーニュの政治活動に即して考えるとき、そこにはかなりの誇張あるいは謙遜があると言わざるを得ない。
 (b)我々の能力はこまかな断片に細分されている。わたしの能力はまるで幅がなく、従ってその細片の数もほんのわずかである。サトゥルニヌスは自分に総指揮を委ねた人々に向って、「友らよ、君たちはよい隊長を失って悪い総司令を得た」といった。当今のような病める時代に、世間のために純真な徳を行っていると自慢する者は、徳とはいかなるものであるかをわきまえていないのだ。道徳が腐敗すると道徳観もまた腐敗するからだろう(ほんとうに、彼らが徳を描写するところを聞いていてごらん。彼等の大部分がおのれの振舞いを自慢し、手前勝手な規則を作り上げているのを聞いていてごらん。徳を描かないで純粋な不正と不徳とを描いているから。しかもそのようなインチキな徳を君侯の教育にも使っているから)。徳とは何かを若しわきまえているとすれば、自慢などするのはけしからんことだ。口では何というにしても、事実彼はその良心に反することをたくさんしているのだから。もしセネカが同じような場合に自分のした経験について正直に語っているのだとすれば、わたしは喜んで彼の言うところを信ずるであろう。いかにも、ああいうせっぱつまったときにあらわれる最も尊ぶべき徳のしるしと言えば、率直に自他の過失を認めること、悪への傾向を認めつつ出来るだけそれを阻止すること、いやいやこの傾きに従いながら少しでも良い方にむかおうと望み願うこと、である。
* 第二巻第三十二章八四七―八四八頁参照。
こんにちわれわれフランス人はごらんのような分裂抗争のただ中にあって、それぞれ自分の主義をまもるのに懸命になっているが、その中の最もすぐれた人たちまでが、変装と欺瞞ぎまんとを用いている。もし本当に素直に書くものがいると、それこそ不遜であり不徳であるとされる。最も正しい党派だってやはり一つの蝕まれた体の一部であるが、そういう体の中の比較的病におかされていない部分は、やはり健康とよばれる。まったくそうよばれてさしつかえないのだ。我々の特質は、ただ比較の上でそれぞれの名称を与えられるのだから。同様に国民の徳も、その国その時代に照らして評価される。わたしはクセノフォンの中に、アゲシラオスに対してそういう賛辞が見られないのを残念に思う。この人はかつて戦争を交えたことのある隣国の君主から領内を通過させてくれと乞われると、さっそくその乞いを容れてペロポネソスの中を通らせてやった。そして旧敵をその手のうちに捕えていながら、これを投獄もしなければ毒殺もしなかった。いやそれどころか、きわめて丁寧にこれを迎え少しの危害も加えなかった。なるほど当時の気風から見れば、これは何でもないことであったろう。だがよその国・ほかの時代・では、このような寛仁大度の振舞いは必ず特筆大書されるであろう。またわが国の馬鹿な書生どもはこれをせせら笑うであろう。これくらいスパルタの徳とフランスのそれとはかけはなれているのである。
 我々の間にも有徳の人がないではないが、それは我々の標準によってである。おのれの日常生活を時流を越えた規則のうちに規定した人は、自分からその規則を曲げてゆるやかにするか、あるいは(この方がわたしの勧めるところであるが)、隠居して我々との関係を絶つがよい。われわれと一緒にいて一体彼は何の得るところがあろう?

ここに清廉にして有徳なる人に会わば、
そは正に天下の一大不思議なり。
あたかも双頭の幼児のごとく、
農夫のすきの下に現われたる魚の如く、
またはらめる牡騾馬を見るがごとし。
(ユウェナリス)

人はよかった昔を惜しむことはできるが、現代を回避することはできない。別の役人たちをと願うことはできるが、それにしてもやっぱり現在の役人たちに従わなければならない。いや恐らく、良い役人に従うより悪い役人に従う方がほめてもらえるであろう。この王国古来の法律の姿がなおどこかの隅に輝くかぎり、わたしはそれに従う。万一不幸にも、それらの法律が互いに矛盾しあって、どれを選んだらよいかむずかしい二つの党派を産み出すようなことになったら、わたしのとる道はやはりこのあらしを逃れ避けることであろう。そうしている間に自然がわたしに手を貸してくれるであろう。あるいは戦争の勝負が何とかきめてくれるであろう。カエサルとポンペイウスとの間でならば、わたしもまた旗じるしをはっきりさせたであろう。けれどもその後に来た三人の泥棒の間においては、隠れるか、風を食らって逃げるか、どっちかにしなければならなかったろう。こういうことも、理性がもう導いてくれないときには許されると思う。
* 三頭政治を行ったアントニウス、オクタウィウス、レピドゥス。

汝いずこにさ迷いゆくや。
(ウェルギリウス)

 以上の埋め草は、いささかわたしの問題をはずれている。わたしはさ迷う。だがうっかりさ迷うのではなくて、わざとさ迷うのである。わたしの思想はつながっているのだが、ときにはずっと前の方とつながっている。互いに見かわしているのだが、それは横目で見合っているのである。(c)わたしはかつて、気まぐれな二色のだんだらに染めわけられたプラトンの対話を読んだことがあるが、前半は恋愛を後半は修辞学を論じていた。古人はこういう早がわりをちっとも恐れないのである。むしろこのように風のまにまにころがってゆくことによって、いや風そのものをまねすることによって、一種不可思議な雅趣を示している。(b)わがエッセー各章の標題は必ずしも内容全体をふくんでいない。しばしばその一部をいくらかの特徴によって示しているだけである。例えば(c)「アンドリアの妻」とか「宦官」とかいう標題〔二つともテレンティウスの喜劇の標題〕や、(b)※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラとかキケロとかトルクワトゥスとかいう人**の名前みたいなものである。わたしは詩の躍りはねるようなゆき方がすきだ。(c)詩はプラトンのいうように、飄々ひょうひょうとして軽ろやかな天来のデモニカル芸術である。プルタルコスの中にも、彼がその主題を忘れている諸篇・その論証する当の問題がまったくほかの題目の下におしつぶされてときどきしか顔を出さない諸篇・がある。例えば「ソクラテスのデモン〔精霊〕について***」のゆき方を見たまえ。あの元気のよい跳躍、あの千変万化、おお何たる美しさであろう! それは無頓着・偶然・の風を帯びれば帯びるほどますます美しい! わたしの主題を見失うのは、不注意な読者であってわたしではない。決して不十分ではないいくつかの語が、いかにちぢこまっているにしても、必ずどこかの片隅に見出されるはずである。(b)わたしは遠慮気がねなく、あれやこれやと変化を追う。(c)わたしの文体とわたしの精神とは、同じように放浪をつづける。(b)一そうのばかになりたくないなら、ちょっとばかり狂わなければならない****(c)こう、わが先生たちの掟も、またそのお手本も、教えている。
* 一一四〇頁「わたしは私的生活が好きである」とあるあたりから、前行までの部分をさしている。以下にそのようなエッセーの書き方について弁明をしている。モンテーニュは哲学者である以上に詩人であった。
** ス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラ Sylla の名は silaceus(石黄)から来た。その顔がオークル色をしていたからである。キケロ Cicero の名は cicer から来た。cicer とはエジプト豆のことで、彼の頭にはいぼがあったからだ。また、トルクワトゥス Torquatus は torques(首飾り)から来た。彼はガリアの勇士を打ちまかして、その首飾りを分捕って来たからである。――と伝えられる。
*** 『プルタルコス英雄伝』中の一章の標題。
**** 馬鹿正直にしてひどい目にあわないためには、辻褄のあわないことをいってごまかすことも必要だというのである。――以上いずれもモンテーニュの所論、文章に、矛盾、乱雑、曖昧等々があるという世間の非難に自ら答えたのである。以下の数頁は『随想録』全体の鍵でありまたクレドでもある。
 (b)多くの詩人たちは散文風に力なくだらだらと書いている。けれども古代散文の最もすぐれたものは((c)わたしはそれを詩と区別せずに、この本のあちこちにまきちらしているが)、(b)いたるところ、詩的な生気に溌剌として輝き、詩のような興奮を帯びている。談話言論における優越性は、実にこの詩的な興奮にこそ、歩を譲らなければならない。(c)詩は元来神々の用語である。プラトンはいう。「詩人はミューズの三脚台の上に坐って、その口をついて出るすべてのことを勢い激しく吐き出す。ちょうど噴水の蛇口のように、少しも含みひかえることがない。だからそこからは、色様々な・質もまた相異なる・前後関連しない・事柄がほとばしり出る」と。プラトンみずから大いに詩的である。また学者のいうところによれば、古代の神学も詩である**。最初の哲学もまた詩である。
* この一句は、ボルドー市版を始めすべての版においては、このパラグラフの最後「最初の哲学もまた詩である」の次におかれているが、アルマンゴーは特にここに位置せしめている。ボルドー本写真複製版第九〇六葉欄外書入れ参照。
** モンテーニュが求める哲学はこのようなものであった。西欧のいわゆる思想なるものを彼は執拗に拒んで(ジャン・ビエルメ)、むしろプラトン風の、老荘風の、詩的な哲学を愛する。
 (b)わたしは中身が自ずから人目につくことを欲する。それがどこで別の問題に変るか、どこにその結論があり、どこがその発端か、どこにその続きが再び現われるかということは、しぜんにわかるはずである。弱い耳・うっかりした耳・のために挿入される接続の言葉などでつなぎ合せる必要もなければ、自分で自分の註釈をするにも及ぶまい。眠りながら・あるいはそそくさと・読まれるくらいなら、むしろ読まれない方がましだと思わない者があろうか。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)直ぐにも役立つようなるものは、真に有用なるものにあらず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。もし書物を手に取ることが書物を学ぶことであるならば、見ることが読むことであるならば、さっと目を通すことが理解することであるならば、わたしがあんなに自分を無知だ無知だと言ったのは、どうやら間違っていたようだ。
 (b)わたしは重味によって読者の注意をひき止めることができないのだから、万一わたしの混乱によってそれを引きとめることになるなら、※(始め二重山括弧、1-1-52)それも悪くないね※(終わり二重山括弧、1-1-53)(イタリアの慣用語)。――「なるほどね。だが読者は後でそんな暇つぶしをしたことを悔いるだろうよ」――いかにもそうにちがいないが、読者はやっぱりそうした暇つぶしをすることだろう。それに解りやすいことは何でも軽蔑したがるやつもいる。そういう連中は、わたしのいうことが解らなければ解らないだけわたしを重んずるであろう。曖昧だとかえってわたしの意味を深長だと結論するだろう。だが正直にいうと、わたしはこの曖昧がひどくきらいなのである。だから避けられる限りは、それを避けるつもりである。アリストテレスはどこかで曖昧に言うことを自慢しているが、よくない趣味である。
* モンテーニュは首尾一貫、整然と完結するいわゆる「完全文」(ペリオード)風の文章を好まず、もっと自然で溌剌とした文章を、無秩序と言われても、愛用した。それはミシェルの発想そのものが自由自然の順序に従っているからであろう。彼の思想が三段論法の順序に従って展開せられないからであろう。
 (c)わたしが始めにしたようにあんまりしばしば章を分けると、かえって読者の注意をそれが生れ出るに先んじて挫折するように思われたから、またその注意がこれっぱかしのものに専心し集中するにも当るまいとそのまま消えてなくなりそうにも思われたから、こんどは各章をずっと長くすることにした。つまりそれらは特別の決心と時間とを要求しているのである。この種の仕事においては、人がただの一時間も与えまいとするなら、それは一分一秒も与える気がないのと同然である。何かほかのことをしながら片手間によむのでは、何もよまないのと同然である。それに、もしかすると、わたしには、物事を半分しかいえない・ごたまぜにもまたちぐはぐに言わねばならない・なにか特別なわけもあるのであろう**
* ここにもモンテーニュが読者を意識して書いていることが分る。前出一一〇九頁参照。
** モンテーニュは以上に、自著の中に存在する矛盾と曖昧について、いささか弁明をしているのであるが、その理由は一、プルタルコスの行き方を慕わしく思うため、二、読者の注意を緊張させるため、三、若干の私的理由、の三つになる。アルマンゴーは、特にその最後の理由を最も重大視し、これを乱世に処して自分の身を危くしないために、モンテーニュが故意にしたカムフラージュだとしている(第一巻第四十章、第三巻第十三章にも同じ意味が述べられている)。――要するに、「以上の埋め草は――」に始まりここに至る約二頁は、アルマンゴーの指摘するとおり、『随想録』を解釈する上の重大な鍵の一つであると思う。
 (b)わたしは今しがたこう言おうとしたのである。「あの・人の喜びを奪う理性、あの・人の一生を台なしにする常規を逸した野心、あの・ややこしい学説は、はなはだわたしの気に食わない」と。まったくこんなものが真理を蔵しているのだとすれば、真理はあまりにも高価で不便なものだと思う。わたしはむしろ空なこと・愚かしいこと・でも、もしそれが何かの喜びをわたしにもたらすならば、大いにそれをほめたたえる。そして、わたしの持って生れた傾向におとなしくつき従い、あんまりそれをやかましく圧制しない。
 わたしは方々で崩れ朽ちた家々も見たし、神々の像や人々の像の倒れたのも見た。いずれもはかない人間の姿である。これは真実なのだが、しかし、あんなに偉大で盛んだったローマの廃墟は、幾度見ても驚嘆と尊敬の情をいだかせずにはおかない。古人を大切にすることは我々に課せられた義務である。ところでわたしは幼年時代からそれらの人々の間で育てられた。わたしはわたしの家の歴史を知るずっと前に、ローマの歴史を教わった。わたしはルーヴルを知る前にカピトリウムとその位置とを知っており、セーヌ河よりも先にティベリス河を知っていた。わたしはルクルスやメテルスやスキピオの境遇や運命の方を、わが国のいかなる人のそれよりもずっと深く考えた。彼らはあの世の人である。わたしの父もまたそうで、彼らと同様に完全にあの世の人となっている。彼は十八年前に死んだのだが、千六百年前に他界した彼らと同じだけ、わたしから・この世から・遠くにいる。でもわたしは完全なきわめて強い結合をもって、今もなおこの父に対して追憶と親愛の情をいだきつづけている。
* 白水社版『モンテーニュ全集』「旅日記」の一五八一年一月二十六日の項に、モンテーニュがローマの廃墟を見た時の感想が述べられている。
 さよう、わたしはもって生れた性分から、かえって死者〔彼岸の人〕の方を大切にするのである。彼らはもう自分では何もできない。だからそれだけ余計にわたしの助力を必要としていると、わたしは思う。ここにこそ感謝があり、ここにこそ感謝は輝くのだ。慈善もその報償が期待される場合は、それだけ豊かさを減ずるのである。アルケシラオスは病人(c)クテシビオス(b)を訪れ、その哀れなさまを見ると、彼の枕の下にこっそりと施しのお金をおしこんだ。そしてそれを彼にかくすことによって、感謝の義務までも帳消しにしてやった。かつてわたしの友愛と感謝とに値した人たちは、この世を去っても決してそれらを失いはしなかった。わたしはそれらを、この世になく・何も知らない・彼らに、よりよく・一そう心をこめて・支払った。わたしは自分の友達について、彼らがもはやこれを知るすべをもたない時、より一そうの愛をこめて語るのである。
 さてわたしは、ポンペイウスを擁護しブルートゥスの肩を持つために、たくさんの喧嘩をやった。この友情は、今もなおローマ人とわたしとの間に続いている。今眼の前に見るものさえ、我々はそれらをただ想像によってとらえているにすぎない。今わたしは、自分がもう現代には役に立たないことを知って、再びこの古代にたち帰る。するとそれにすっかり魅せられてしまって、あの自由公正で咲く花のようであった古代ローマの有様が(まったくわたしはローマの誕生時代と老年時代とを愛しないのである)、わたしの心をとらえ、これを感激させる。そうしたわけで、彼らの街路や家屋の有様や、また地球の裏にまでつづくあの深い廃墟は、幾度見ても感慨をそそる。(c)我々が今なお尊敬を禁じえない人々が、その昔しばしば訪れたとか住んだとか伝えられる場所を目のあたり眺める方が、彼らの勲功の物語を聴いたり彼らの書きのこしたものを読んだりするよりも、ずっと強い感動を与えるというのは、そもそも自然なのであろうか、それとも心の迷いであろうか。※(始め二重山括弧、1-1-52)場所が人の思い出を呼びさます力は、かくのごとく偉大なり。殊にこの都においてはその偉力無限なり。なんとなれば、人は一歩を運ぶごとに何かの回想に接すればなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)わたしは彼らの容貌・彼らの姿勢・彼らの衣裳・を考えるのを楽しみとしている。わたしはあの偉大な幾多の名前を口の中で繰りかえしては、それらを耳にひびかせている。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)われはこれらの偉人たちを尊敬し、それらの名を聞くごとに敬礼す※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)そのどこかの部分において偉大で嘆賞すべき事柄は、その普通な部分までがわたしを感心させる。わたしは彼らローマ人たちが談話し散歩しまた食事するところが見たい。ああいう偉人傑士の面影や遺品をおろそかにするのは忘恩といわねばならない。わたしは彼らの生と死とを見たが、その実例は多大の教訓を我々に垂れるものだ。ただ我々にはとてもその真似ができないだけである。
 それから我々がここに見るこのローマもまた、きわめて久しい昔からきわめて多くの名目によってわが王廷に深い関係をもち、我々の愛を受けるに価する。それはこの世にただ一つ見る世界万人の都で、ここに君臨する至高の奉行〔法王〕はよそでも同じく至尊としてあがめられる。それはすべてのキリスト教国の母たる都で、スペイン人もフランス人も、ここを自分の都と思っている。この国の帝王であるにはただキリスト教国の人であればよい。どこの国の人でもよい。地上にこれほど天がその豊かな恵みをたれ、これほどの変らぬ栄えを与えたところはない。その廃墟すらも栄光に輝き壮大である。

(c)その感嘆すべき廃墟によりていよいよ尊し。
(シドニウス・アポリナリス)

 (b)ローマはその墓にまで、帝国の姿・面影・をとどめている。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)ゆえに自然がこの二つなきところにその労作を楽しみたるは明らかなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(プリニウス)。(b)人によっては、こういう空なる楽しさにくすぐられてよい気持になることをみずから咎めいましめるであろう。だが我々の愉快な気持は決して空なるものではないのだ。それはどんなものであるにしても、それが常識ある人を常に変りなく満足させている以上、わたしはどうしてもその人をけなす気にはなれない。
 わたしは今までのところ運命が、わたしに何らの敵意を示さなかったことを、少なくともわたしに堪えられないほどの害は加えたことがないことを、大いに運命かれに感謝している。うるさく邪魔をしないものは静かにほっておくというのが、かれ運命の流儀なのではあるまいか。

我ら求めずにあれば、
神はますます与え給う。
われは無一物なれど、何も願わざる者に
くみせん……
       ……多くを求むる者には、
物ますます足らざらむ。
(ホラティウス)

運命が今後もこんなふうにつづけてくれるなら、わたしははなはだ満ち足りてこの世を去るだろう。

   われは神々にこれ以上に
何事をも乞い求めず。
(ホラティウス)

 だが、ぶっつけるなよ! せっかく港ぐちまで来て、めりめりっとやる船もたくさんあるのだ。
 自分がいなくなってからこの世に何がおころうと、わたしは容易にあきらめる。現在の事柄だけでわたしは相当にいそがしい。

余事はみなこれを運命に委す。
(オウィディウス)

 それに、人間は自分の名と名誉とを継ぐ子供たちによって、強く未来に執着するものだということだが、そういう執着がわたしにはまったくない。子供というものがそんなに願わしいものであるなら、おそらくわたしは、なおさらそれを欲しがってはならないだろう。わたしはわたし自身によって、世間にもこの世にもすでにずいぶんと縛られている。わたしはわたしの存在が真に必要とする事情のために、運命と取っ組むだけでたくさんである。他の事情のためにまで運命のわたしに対する支配を拡げてやるには及ばない。だから子供のないということが、人生をそれだけ不完全な不満足なものにする一つの欠陥であると考えたことは、ただの一ぺんもない。子のない境涯にも、ちゃんとそれ相応の楽しさがある。子供もまた大してほしがるに足らないものの部に入る。善い子供を持つことがきわめて困難なこんにちにおいては、なおさらのことである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)今より後は善良なるものは何一つ生れざるべし。それほどまでに種子は腐りたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(テルトゥリアヌス)。(b)だがしかし、一度子供を得た後にそれを失った人にとって、それが惜しまれるのは当然なことである
* この最後の一行は読みおとしてはならないことである。前出第一巻第十四章(一〇九頁)、第二巻第八章(四八七頁)等におけるモンテーニュの言葉を正しく解釈させるから。彼は決して冷やかな父ではなかった。ここで子供はなくても大した不幸ではないと言っているのも、むしろ子のない親、子を失って悲しんでいる親のために言っているのである。
 わたしにこの家の管理をゆずった人は、ほとんど家にじっとしていることのないわたしの気性を見て、やがてこの家をつぶすであろうと予言した。ところがはずれた。わたしは今でも、かつてこの家に入ったときと同じように暮している。暮しが以前よりいくらかよくなったとはいえないが、俸禄もなければ寺扶持もないのだから、それはしかたがない。
* これは父ピエールがミシェルのパリ遊学が長びくのを心配し、法官職につけた、その頃の父の胸中を見抜いている。
 要するに、運命はわたしに特別ひどい損害も加えなかった代り、恩寵も下さらなかった。わが家における運命の賜物といえば、わたしの代になる百年以上も前からあるものばかりである。わたし一個としては、どんな実在的な恩恵をも、運命の施与に負うてはいない。運命はわたしに名誉的の・名目的の・実体のない・いわば風のような・いくらかの恵みを与えた。しかも、本当に、ねだりもしないのにくれたのである。ところがこっちは、このとおり、まったく物質的な男である。実在でなければ、しかもがっちりした実在でなければ、満足しないのである。あえて告白するならば、欲ばりも野心と同じく許されてよいものだし、苦痛も恥辱と同様に避くべきものだし、健康も学問と同様に・富裕も高位と同様に・願ってよいものだ、と考えているのである。
* 曽祖父ラモンが一四七八年にモンターニュ領を買った。
 運命の空なる恵みのうち、ローマ市民権允許いんきょの大勅書ぐらい、日頃それを夢に描いていたわたしの子供っぽい気分をよろこばしたものはない。法王の御朱印と金文字に飾られたその勅書は、最近わたしがローマに行ったときに授けられた。しかも全然情誼的な恩恵によって授与された。じっさいこの種の勅書は、場合によってそのほめ言葉を加減し、違った文章で書かれるものだから、 そしてわたしも、これを見るまではどんなものかその一例を見たいものだと思っていたくらいだから、わたしのようにつまらぬ好奇心をお持ちの人のために、ここにその全文を書き写そうと思う。
* 「旅日記」を見ると、モンテーニュはこの勅書をうるために相当運動をした。白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」ローマ滞在(二)註(31)参照。しかし、当時一般には相当金も使わねばならなかったのだが、モンテーニュは一文も払っていない。もっぱら法王庁の役人 Filippo Musotti という人の並々ならぬ友情のお蔭でこれを得たらしい。「全然情誼的な恩恵」※(始め二重山括弧、1-1-52)lib※(アキュートアクセント付きE小文字)ralit※(アキュートアクセント付きE小文字) toute gracieuse※(終わり二重山括弧、1-1-53)によって得たというのは、そのことを意味する。ただしこの程度の虚栄は誰でももっていると、同じ日記の中(一四八頁)に述べている。

聖ミシェル勲章の騎士にしてはなはだキリスト教的なる王〔=フランス王〕の王室に伺候するミシェル・ド・モンテーニュ閣下にローマ市民権を与うべきことに関し、ローマ市の保管役オラツィオ・マシモ、マルツィオ・チェキ、アレッサンドロ・ムートが元老院に寄せたる報告に基づき、ローマの元老院および市民は次のごとく布告す。

 徳と位と並び高く、わが共和国のためにつくし、かつこれを尊みたる者、もしくは他日斯くなす力ある者は、古き慣例によりて常に我々の間に歓び喜びて迎えられたることを想い、我らの祖先の模範と権威とを尊重する我らは、このほむべき習慣を模倣し保存する義務ありと信ず。この故をもって、聖ミシェル勲章の騎士にして最もキリスト教的なる王の朝臣なる、きわめてローマの名を欽慕きんぼせらるるミシェル・ド・モンテーニュ閣下は、その官位・その家の誉れ・のために、またその個人的美質のために、ローマ元老院および市民の至上の判断と推薦とによりてローマ市民権を受くるに足る者なれば、ここにローマ元老院および市民は、あらゆる功績に輝き・この高貴なる民の慕うところの・ミシェル・ド・モンテーニュ閣下が彼およびその子々孫々のためにローマ市民として登録せられ、かつローマ市民および貴族として生れ・または優れたる理由のためにかく成りたる・者が享有する、すべての名誉特権を享受せらるることを心から願うものなり。今元老院およびローマ市民は、上記モンテーニュに市民権を授与したりと考うるよりは、彼に対して一つの負債を払いたりと思い、彼がために一の奉仕をなしたりと考うるよりも彼より一つの奉仕を受くるなりと考う。けだし彼はこの市民権を受くることによりてこのローマ市を尊くし輝かすが故なり。記録委員たちは元老院およびローマ市民の秘書によりてなされたる以上の決議を記録にとどめたる上、カピトリウムの文庫にこれを納め、かつ上記の特権証書に当市常用の印璽をおしたり。ローマ創始以来二千三百三十一年、キリスト紀元一千五百八十一年、三月十三日。

聖なるローマ元老院および市民の秘書     オラツィオ・フォスコ
聖なるローマ元老院および市民の秘書     ヴィンチェンツォ・マルトロ

いかなる都市の市民でもないので、わたしは現在未来を通じて最も高貴なこの都市の市民であることを喜ぶ。もしほかの人々もわたしがするように自分を注意して眺めるならば、彼らもまたわたしと同様に自分が虚しさと愚かさとに充満していることを悟るであろう。これを脱却することは、自分を脱却しない限りわたしにはできない。我々はみな誰彼の別なくこの欠点に染まっている。ただこのことをみずから感じている者が幾らかましなのではあるまいか。よくは知らないが……。
 この・自分の内よりも外のものを見たがるという・一般の思想習慣は、確かに処世上に役立った。我々は不満に充満したものである。我々は自分の内には悲惨と空虚しか見ない。我々をがっかりさせないために、自然が我々の眼の働きを外に向わせたのはいかにも当を得ている。我々は流れに従って前へ前へと進むが、流れに逆らって自分の方に後もどりするのは骨のおれる運動である。だから海は、自分の方へおしもどされるときは波だち騒ぐ。皆はいう。「天の動きを見よ。世間を見よ。誰それの喧嘩を見よ。この男の脈搏を見よ。あの男の遺言書を見よ。要するに、いつも上か下か、傍か前か後かを見よ」と。ところが実に逆説的な命令を、昔デルフォイの神は我々に与えた。「お前たちの内を見よ。お前たちを認識せよ。お前たち自身にかかずらえ。よそに費やされるお前たちの精神意志をそれ自体に帰らせよ。お前たちは流れひろがる自己を集め自己を支えよ。人はお前たちを裏切る。追いちらす。お前たちをお前たちから奪いとる。見ずや、この世において、万物はみなその眼を限って内部にむけているのを。その眼を己れみずからを見るためにあけているのを。お前にとって、内も外も等しく空である。だが、空もそのひろがりが少なければ、それだけ空でなくなるのだ。おお、人間よ(とかの神はいう)、お前を除けば、万物はまず自己をきわめる。そして自己の要求に応じて、その労作と欲望とに限界をおく。世に宇宙を抱くお前のように空っぽでがつがつしたものはほかに一つもない。お前は詮索家のくせに何も知らない。支配者のくせに権威がない。要するに道化芝居の役者である」と。
* モンテーニュはこのパラグラフの中で、「汝自らを知れ」といったデルフォイの神の掟を「逆説的」といい、人間が外物にとらわれることを当然だといっている。これもまた反語であろう。彼はときどき、浮薄な読者にこういうウレシガラセをいう。或いはときどきペシミストになってこういう捨てばちもいう。
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第十章 自分の意志を節約すること



 この章はモンテーニュの天性を理解する上に最も貴重な章の一つである。例によってカムフラージュもありパラドクスもあり、また反語や冗談もあるけれども、少し注意して読む者の目には、モンテーニュが生れつきかなり感じやすい人、デリケートな感受性を持って生れた人であったこと、従って相当癖も多く情念もまた旺盛であったのだが、彼はそれらを意志の力と慎重さとによってようやく抑制したのだということがわかるからである。一例をいえば、彼は天性他人のために一肌ぬがずにはいられないのであるが、やがて経験によって、いつもそういう流儀でやっていてはとんでもない目にあわなければならないということを、学ぶにいたったのである。だから彼が、自分は賢者が徳によって行うところを生れつきの性分 complexion によって行うのだといったのは、やはり文字通り信ずるわけにゆかないのである。
 この章の中で特に注意すべき問題は二つある。一つは、個人の公共社会に対して負うべき義務と自分みずからに対してあくまで守りぬくべき義務とに関する彼の考え方、もう一つは彼がみずからの諸情念に対してどのように対処するかということである。第一の問題については、人間はまず何より天賦の諸性能を通じて自分の力を十分に発揮しなければいけないという。これは第三巻時代のモンテーニュの理想なので、ここではもう一度、前出第三巻第一章「実利と誠実について」における所論(実利主義でゆくか良心第一でゆくか)を想い出していただきたい。第二の情念処理の態度に関しては、第一巻第三十九章「孤独について」における所説と対比せられたい。あの頃はあらかじめ備える方法を提唱したのであったが、今は逆に気分転換(三の四)の法を説いている。つまりこの気分転換法の方が、空の空なるわれわれ人間の本性にはよりふさわしいからである。すなわちこの章は前章第三巻第九章の自然の帰結というべきであろう。だから彼は、もう昔のように真に自分に必要不可欠のものだけで満足せよなどとはいわない。みずからも第二の自然である習慣に従って従来の安楽な生活をつづけることを、あえて少しもはばからない。気分転換法こそは、彼の自然哲学の実践である。
 標題の中の「節約する」m※(アキュートアクセント付きE小文字)nager という語は、「浪費する」prodiguer のまさに反対を意味する。すなわち、惜しげもなく・ふんだんに・自分を他人に貸したり与えたりするな、という意味である。けちん坊が金銭を惜しむように、自分を大切にして、できるだけ出し惜しむことにしよう、というのである。次頁に、「他人に自分を貸すことは必要でもあろうが、与えることはやめなければいけない。自分にでなければ与えてはいけない」といっているのが、正にこの標題の意味するところである。

 (b)一般の人にくらべると、わたしはあんまりものに感じない。いや、正確にいうと物にとらわれないのである。まったく人が物に感ずるのは当り前で、ただそれにとらわれさえしなければよいのである。わたしは努力と推理工夫によって、わたしが生れつきかなりな程度にもっているこの無感覚という特権を、さらに強化しようと心がけた。したがって大概のことには没頭したり熱中したりしないのである。わたしの眼ははっきりしているのだが、わたしは大概のものには眼を凝らさない。わたしは感じやすく感動しやすいのだが、理解力や集中力の方は遅鈍であるから、容易に物事に没頭できないのである。できる限りわたしは、自分をあげて自分のために使う。だがこの場合ですら、いつも自分の感情を抑制し、それがあまりにも自分本位にはおちいらないようにと心がける。なぜなら、この自分というやつは、自分のものでありながら他人の思惑どおりになりがちであるし、また自分のいうことよりは運命のいうことの方をよくきくものだからである。だからわたしがあれほど大切に思っている健康にしても、わたしはそれをあまり夢中に乞い求めたり・それに執着しすぎたり・しないように用心しなければならない。そのために病気が我慢できなくなっては困るからだ。(c)人は苦痛をあまりに憎みすぎないよう、快楽をあまりに愛しすぎないよう、両方のまん中で節制しなければならない。だからプラトンは、両方のまん中を通る中道の生活を命じているのだ。
* ここでは無感覚が自分の天賦であるようにいっているが、そうなるとこの章の大部分は理解できなくなる。むしろ次の行に「わたしは感じやすく感動しやすい」といっているところに重点をおきたい。彼の無感動性はむしろ後得のもの、修養によって得たもので、しかもそれはときどきあやしくなる。後出一一七五―一一七六頁の告白によってもこれは明らかである。また前出二の十一(五一八頁)、私の『モンテーニュを語る』三四頁、三八―四〇頁参照。
 (b)けれども、わたしをわたしからそらせてよそに結びつけるあのもろもろの感情に対しては、わたしはそれこそ全力をつくして抵抗する。わたしの持論は、「他人に自分を貸すことはしなければならないが自分以外の者に自分を与えてはいけない」ということである。一時わたしの意志が自分を抵当に入れ自分をささげる気分になったとしても、わたしはそれに長くは堪えないであろう。それほどわたしは、先天的にも後天的にもすこぶる意気地なしなのである。

用務の敵にして、生れながらに無為閑適の友たり。
(オウィディウス)

執拗な論駁が結局敵に勝ちめを与え、わたしの熱心な追求が恥をかくことにでもなったら、おそらくわたしは、くやしくてたまらないだろう。うっかり皆のように誘いに乗ることはあっても、とうていわたしの霊魂は、たくさんの物事をかかえこむ人々につきものの、様々な心配や不安に堪えるだけの力を持たず、この内部の騒ぎのためにたちまちに破裂してしまうだろう。ときどき他人の仕事の始末を押しつけられたこともあるが、わたしはそれを手に取り上げることは約束したけれども、肺や肝の内にまで取り入れようとは約束しなかった。背負いましょうとは約束したけれど、それを胎内にいだきましょうとは約束しなかった。せいぜい心がけようとは約束したけれど、決してそれに心をぶち込もうとは約束しなかった。つまりそれに目をかけはするが、決してそれをかかえ込みはしないのだ。わたしはわたしのおなかの底や血管の内に持つ私的の心配を整理するだけで相当にせわしない。この上さらにひと様の分まで抱え込んで、自分を苦しめるには及ばないのである。わたしは生れながらに持っているわたしの本質的な問題に相当気をとられている。わざわざ他人の問題まで招き寄せるには及ばないのである。「どんなに自分は自分に借りがあるか。どんなに多くの務めを自分に対して果さなければならないか」ということをよく知っている人々は、「お前はお前の許にずいぶんたくさんの用事をもっているのだ。それをなおざりにしてはいけないぞ」という、自然からの・相当充実した・決してゆるがせにはできない・言いつけをよく心得ている。
 人々は自分を貸し出す。彼らの能力はみな彼らのためではなく、彼らをこき使っているその人のためである。借り手の方が自分の家にいるように振舞い、彼ら自身はかえって小さくなっている。こういう一般の気風はわたしの気にくわぬ。何よりも我々の霊魂の自由を大切にしなければならない。正当な場合でなければそれを抵当にしてはならない。その正当な場合というものは、健全な判断に訴えて見ればきわめて稀なのである。見なさい。あの・人のいいなり放題になりつけた・人たちを。彼らは大事につけても小事につけても、自分に関係のあることにつけてもそうでない事につけても、いつも他人の言いなりになっている。彼らは見さかいもなく忙しいところ(c)窮屈なところ(b)に頭をつっこむ。そしてごたごた騒ぎの渦巻の中にいないときは、まるで死んだようである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)彼らはただ事務がほしさに事務をとる※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。ただせわしがりたいために仕事をさがしている。それは行きたいからではなく、むしろじっとしていられないからである。転落する石と少しも選ぶところはない。落ちつくところまでおちなければ、とまることができないのである。いそがしいということが、ある種の人々にとっては才能と貫禄の印なのである。(b)彼らの精神は動きの中にその安息を得ようとする。ちょうど揺りかごの中の赤ん坊のように。自分で自分をしいたげれば、それだけ友人たちのためになるとでも思っているのか知らん。誰もお金は他人に預けないくせに、みんなは時間と生命とを他人に預ける。この二つのものほど、我々が乱費してはばからぬものはないが、この二つに関する限りは、吝嗇りんしょくもまた我々にとって有益なほむべきことであろう。
 わたしの性質はまさにその正反対あべこべである。わたしはわたしのうちに閉じこもる。そして、概して自分の欲望するところをおとなしく欲望する。ほんのわずかに欲望する。自分にかまけ自分を働かすにしても同様に、まれにそして静かに〔それを〕する。彼らはその欲するところ・企てるところ・のすべてをその全意志をもって熱心にするが、この世には足をとられるような深みがたくさんあるから、最も安全であるためにはいささか軽めに・浅く・世を渡るべきである。(c)滑るがよろしい。踏み込んではいけない。(b)快楽だって、深みに入れば苦痛となる。

汝は見せかけの灰をかぶりたる
火の上を歩めるに似たり。
(ホラティウス)

 ボルドー市の参事たちは、わたしを彼らの都市の市長に選んだ。わたしはフランスから遠く離れていたし、そのような考えからは一そう遠く離れていたのに。わたしはまずご辞退した。けれども、王様**のご命令もあることだからお断わりするのはよろしくない、と教えられた。この職は手当もなければ役得もない純然たる名誉職であるだけに、かえって益々光栄あるものと思われているに違いない。任期は二箇年であるが再選によってさらに延長されることもある。ただしそういうことはきわめて稀である。はからずもわたしは再選されたが、それはわたし以前には二度しかなかったことである。数年前にムシュ・ド・ランサック、最近には元帥ムシュ・ド・ビロンが再選されただけである。この元帥の跡をわたしは継いだのである。そして後に同じく元帥ムシュ・ド・マティニョンにわが席をゆずった。こういう高貴な人々と列を同じくすることは何という誇りであろう!

(c)何れも皆よき行政官にしてよき大将なりき。
(ウェルギリウス)

(b)運命はいかにも彼女にふさわしいお膳立てを調えて、彼女なりにわたしの任命に協力してくれたのである。それも決して無駄ではなかった。まったく、アレクサンドロスも、始め彼にコリントスの市民権を贈った当市の使臣たちを軽蔑したが、後に神バッコスもヘルクレスも同様にこの栄誉を贈られているときくに及んで、謹んでそれを受けた。
* 一五八一年八月一日、市参事会が彼を市長に推した時、モンテーニュはルッカの温泉場にいた。九月七日、手紙によって始めてそれを知った。
 巻末年表および白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「旅日記」解説と同九月七日の項参照。
** 市長就任をすすめるアンリ三世の手紙を、モンテーニュは十一月末日、モンターニュの邸にもどってから拝見した。この手紙は Buchon によって発見され、Payen によって公表された。近くはガルニエ版『エッセー』の註の部にもプレイアッド版にも転載されている。
 着任早々わたしは率直に正直に、みずから感じているままを述べて、自分の正体を明らかにした。すなわち記憶力もなければ警戒心もなく、経験もなければ根気もないこと、その代り憎しみもなければ野心もなく、貪欲でも横暴でもないこと、を語って、人々がわたしの勤務から何を期待すべきかをあらかじめ告げ知らせたのである。そして彼らがここにわたしを選び出したのは、ただただ彼らがわたしの死んだ父をよく覚えており、彼の徳をあがめるためであったのだから、わたしははっきりと次のようにいい添えたのである。「かつて私の父は同じこの都に長として市政にあずかっていた頃、君たちの問題・君たちの都市・のために非常にその心を労したが、今また何事かが同じような思いをわたしの心に味わわせるならば、わたしはそれをはなはだ残念に思うだろう」と。わたしはそのとき、わたしの幼い頃の老いたる父の姿を思い出していたのである。彼の心はいたいたしくも、あの世間の騒ぎのためにかき乱されていた。彼はそのずっと前から、老年のために隠居していたのだが、その家庭の穏やかな雰囲気をも、またその家事をも健康をも、まったくうち忘れていた。そして命をそのためにちぢめることを何とも思わず、市民のためにしばしば長い苦しい旅にも出た**。じっさい父はこういう人であった。彼のこういう気分は、持って生れた大慈悲心から発したものであって、これくらいなさけ深い・人民おもいの・人は未だかつてなかったのである。こういう生き方は、他人においてはたたえるが、わたしみずから真似しようとは思わない。実際それには、わたしとして言い分がなくはないのである。父はかねがね、「隣人のためには自分を忘れなければならない。個人は一般にくらべればまったく顧みるに足りない」と言い聞かされておられたのであった。
* 父ピエール・エーケムは、一五五四年八月市長となった。この頃は、度々ボルドー市民が中央から派遣された都督に対して謀反し、そのつど、ボルドー市の従来享有していた諸種の免除特権を取り上げられた。そういう場合に処して、市長ピエールが並々ならぬ苦労をし、尽力をしたことは、記録にも明らかである。時にピエールは五十九歳であった。
** 実際一五五五年にピエールはパリに赴いた。そしてミシェルもこれに従った。このときももっぱら中央政府の感情緩和のために行ったので、ボルドー産銘酒をたくさん馬につけて出かけたという。
 世間の規則や教訓は大体こんなふうに、我々を我々の外におし出し、広場に進出させ、公共社会の役に立てようとする。こう主張する人々は、我々に我々自身のことを忘れさせるのをよいことだと考えたのだ。「我々はあまりにも自分にかまけすぎる。しかもその執着ぶりはあまりにも無遠慮である」と思いこんでいるのである。だからこの目的〔社会・公共〕のためには何でもいうことをはばからなかった。まったく物事をありのままにでなく、それが役立つように説くことは、賢者たちにおいても決してめずらしくないのである。(c)真理は我々の邪魔になるもの、我々の不利になるもの、また我々と相容れないものを持っている。我々はみずから間違わないためには、しばしば自分をあざむかなければならない。自分の目・自分の悟性・を修正し矯正するためには、目もつぶらねばならないし、悟性もこれを鈍らせなければならない。※(始め二重山括弧、1-1-52)判断するは無知のともがらなり。彼らが誤りにおちいらざるためには、しばしば彼らを欺かざるべからず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クインティリアヌス)。(b)彼らが我々に向って、「自分自身より三級も四級も五十級も上の物事を愛せよ」と命ずるとき、彼らは射手のすることをまねしているのである。射手が的にあてようとする時には、的のずっと上の方をねらうからである。曲った棒をまっすぐにするには、これを逆にまげなければならない。
 わたしはパラスの神殿には、ほかのどんな宗教においてもそうだが、普通の人々に見せるための見やすい神秘と、ただ奥義を授けられた者だけに示される・より秘密な・より高い・神秘とがあったと思う。どうもこの後に述べた人々の方に、各人が自分に対して持つべき愛情のほんとうの程度が見出されるらしい。この各人が自分に対して持つべき愛情は、(c)光栄や学問や富やその他これに類するものをまるで自分の体のように最高無限の愛をもって抱擁する、あのあやまった愛情とはちがう。(b)あのつたなどにおいて見られるような、そのまつわりつく壁を腐らせる・柔弱な飽くことを知らない・愛情ともちがうのだ。それは健康な・整った・有益であるとともに愉快な・愛情である。こういう愛情の義務を知ってこれを実践する人は、それこそミューズの室に入る人である。それこそ人間の知恵・我々の幸福・の最高峯に達した人である。こういう人はどの程度まで自分のためにつくさなければならないかを正確に知っているので、他人および世間を自分のために利用するのも自分の勤めであると自覚しているし、またそうするには自分もまた公共社会に対して自分の義務および奉仕をささげなければならないことも知っている。(c)少しも他人のために生きない者は、ほとんど自分のためにも生きていない。※(始め二重山括弧、1-1-52)人は、己れに友たるとき、またすべての人に友たり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)我々の最も肝心な役目は、「各人がそれぞれ自分を指導せよ」ということである。(c)実にそのために我々はこの世にあるのである。(b)みずから正しく生きることを忘れ、他人をそこに指導し教育することによって自分の義務を免除されたと考える者があれば、それこそ大馬鹿であるが、それと同じことで、他人に奉仕するために自分自身が健康に愉快に暮すことを放棄する者は、わたしから考えれば、まちがった・不自然な・決心をしたものというべきである。
 わたしは人がその引受けた職務のために、注意と骨折りと説得と、そして必要な場合には汗をも血をも、拒むことを欲しない。

われみずから、親しきもののためにまた祖国のために、
   いつにても死なん覚悟あり。
(ホラティウス)

だがそれは、いわば一時的な貸付けとしてであって、精神はいつも安静と健康のうちにあらねばならない。精神を活動させずにおけというのではないが、むしゃくしゃした気持や激情におかされずにいてもらいたい。ただふつうに働くだけのことなら、精神にとってたいして苦にはならない。それは眠っている最中でも働いているくらいである。だがそれにしても精神は、控え目にはたらかせないといけない。まったく肉体の方はしょわされる重荷をありのままに受け取るが、精神の方はこれにすき勝手な寸法を与え、これをかさばらせたり重たくしたりして、しばしば損をするからだ。人は同じことを、まちまちの努力、ことなれる意志の緊張をもって行うが、その結果は必ずしも努力緊張の度合によらないのである。まったく、たくさんの人間が毎日戦争のために命を危うくし、争って危険な戦場に赴くけれど、彼らは勝とうと負けようとどっちでもよく、負けたって次の晩の眠りを妨げられるようなことはない。かえってそういう危険は、ただ眼に見るのさえおそろしく、戦場から遠く離れた家の中にとじこもっている誰かさんの方が、戦争の結果が気になってたまらず、そこに血と生命とをかける兵隊さん以上に心をなやましている。わたしは爪の幅ほども自分から離れることなしに公職にたずさわることができた。(c)わたしをわたしから引きはなすことなしに、わたしを他人に与えることができた。
* この句の中に、公益のためには一身を犠牲にすることを拒まない、愛国者モンテーニュの姿を見なければならない。「だが……」以下の句もまた、決して前項を否定するものではない。緩和するものでもない。ただどんな場合にも理性を失わぬこと、より一そう社会のために自分が必要とされる時のために自重自愛すべきことを、勧めているだけである。彼がボルドー市長としてペスト流行の時機に処したその進退のことも、彼がより重き使命を自覚していたことによって、十分に理解首肯されるのである。そしてそれはこの章の言葉と完全に一致している。白水社版『モンテーニュ全集』第四巻「書簡」29の終り、『モンテーニュ伝』二七〇―二七一頁、『モンテーニュを語る』一五七―一六二頁、『モンテーニュとその時代』第六部第七章五二一頁以下参照。

 (b)あの過激な欲望は、これに役立つどころかかえって我々の企ての進行を妨げ、これに逆らいこれをおくらすもろもろの出来事に対して我々をいら立たせ、商議の相手に対しては敵意と疑惑とをいだかせる。我々は物事に捉われ引き回されるとき、決してうまく事をはこぶことがない。

(c)激情は常に悪しき案内者なり。
(スタティウス)

(b)ただその判断と技巧だけしか用いない者の方が、かえって愉快にことを運ぶ。つまり様々の機会の要求に応じて、平気でとぼけたり、そらしたり、また延ばしたりする。的にはずれても悩みも悲しみもしない。さっそく新規まき直しをやる。彼はいつでもしっかりと手綱を握って進む。ところがあの横暴な意図に夢中になっている者には、必ず多くの無謀と不正とが見られるのである。彼はそのやみ難い欲望のために逆上して、たちまちに無謀な振舞いを始める。よほど運がよくない限り、得るところはほとんどない。哲学はおしえている。「受けた侮辱に報いるにはまずもってその怒りを忘れなければならない」と。それはその復讐を小さくさせるためではなく、それだけねらいをたしかにし、それだけ敵に痛い思いをさせるためであって、それにはあの興奮こそかえって邪魔になると考えたからである。(c)怒りは心をかき乱すばかりでなく、しぜんと返報する者の腕を疲らせる。この炎は腕の力を鈍らせ消耗する。(b)せくときも同様である。※(始め二重山括弧、1-1-52)急ぐ者は遅る※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クイントゥス・クルティウス)。あせればあせるほど脚がもつれ、よろめき、つかえる。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)あせる者はころぶ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)例えばわたしの毎日の習慣によって見ても、けちん坊はその根性以上に大きな邪魔ものを持たない。彼は一所懸命になればなるほど、それだけ豊かでなくなるからだ。一般にけちん坊は、気前がよさそうな顔をしている時に、かえってすみやかに富を集める。
 はなはだ心の正しい人で・わたしの友である・一人の貴族は、その仕えていたある王様**のためにあまりに熱烈な愛情と親切とを注いだため、あやうく頭脳の健康をうしなおうとした。ところがその王様はわたしに向って、次のように御自身のことをお洩らしになった。「わたしだって、いろいろな出来事にのぞんでその重さを感ずることは、皆とちがわない。だがどうにも策の施しようのない出来事に対しては、即座に我慢の腹をきめる。そうでない場合は、さっそく必要な対策を命じた後(頭の敏活なこの人はそれがきわめて迅速だった)、静かにその成りゆきを見る」と。ほんとうにわたしは、彼がきわめて重大な危険の多い事件を通じて、はなはだ無頓着な態度を持し、いとも自由に振舞われるところを、眼のあたり見た。彼は好運な時よりも悪い運にのぞんだ時に、一そうその偉大な才能を発揮した。(c)実にその敗戦はその勝利よりも、その不幸はその成功よりも、彼の光栄となっている。
* ナヴァール王の臣ジャック・ド・セギュール。
** アンリ・ド・ナヴァール、後のアンリ四世を指す。この人は、モンテーニュがその政治的理想に合致した人物として、終始支持を惜しまなかった人である。
 (b)見たまえ、空なごくつまらない行為においてさえ、例えば将棋だとかテニスだとかいったような遊戯においてさえ、強烈な欲望をもって熱中し・いらいらして・これに没頭すると、精神も手足もたちまちに無分別無秩序におちいるではないか。その人はひとりでに眼がくらんで自由を失うのである。勝ち負けに対してもっとつつましく振舞う者は、常に自分を失わない。仕合に没頭し熱中する度が少なければ少ないほど、かえってそれを有利確実に導くのである。
 それに我々は霊魂に、あまりにたくさんのものを把握させようとして、かえってその把握をさまたげている。ある物事はただちらりとそれに提示するだけにとどめ、ある物事はそれに結びつけ、ある物事はそれに合体させなければならない。霊魂はどんな物を見ても感じてよいが、ただ自分だけを自分の養いとしなければならない。特に自分に関係のあるもの、特に自分のものとし・自分の本質とする・にふさわしいものを、あらかじめ知っていなければならない。自然の掟は、我々にほんとうに必要なものを我々に教えている。賢者たちは、「自然に従えばなんぴとも貧窮することなく、我意に従えばすべての人が貧窮する」と我々に教えた後、自然から来るところの欲望と、我々の途方もない想像から来るところのそれとの間に、機微な区別を設けて、「その究極が見える欲望は自然のもの、いくら追いかけてもその終極のつかまらないものが我々のもの」としている。財産の貧困は容易にやされるが、霊魂の貧困はとうてい癒やされない。

(c)人間がもし彼に足れるもののみにて満足するならば、
われもまたみずから十分に富めりと思わん。
されど人間はかくの如くならざるがゆえに、
いかに大いなる富を抱くも
われはとうてい満足せざるべし。
(ルキリウス)

 ソクラテスは町の中を、高価な宝石や家具などたくさんの富が花やかに運ばれてゆくのを見て、「いかに多くのものをわたしはちっともほしがらぬことか」といった。(b)メトロドロスは、毎日十二オンスだけのかてで暮した。エピクロスはそれ以下で暮した。メトロクレスは、冬は羊とともにね、夏は寺院の前庭に眠った。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)自然が彼の要求を満したり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。クレアンテスは自分の手で生きた。しかも、「クレアンテスは、もし欲するならば、もう一人のクレアンテスを養い得る」といばった。
 (b)我々の存在を保存するために自然がこれだけは本来必要なものとするところは、あまりにもわずかなものであるから(本当にそれはなんと僅かなものであろう! いかに廉価に我々の生命は維持されることであろう! それはあまりにも僅少で、運命の攻撃にも略取にもかからないくらいだ、とでも言うよりほかにはいいようがない)、何かもう少し余分に許してもらおうではないか。われわれ各自の習慣や身分境遇をも、自然と呼ばせてもらおう。そういう標準で、我々の割当をきめ我々をまかなってもらおう。我々の所有・我々の勘定・をそのへんまで広げさせてもらおう。まったくその辺まで広げてもらえるならば、我々にもいくらか弁解の余地があるように、わたしは思うのである。習慣は第二の自然〔天性〕である。第一の自然にくらべて決して弱いものではない。(c)わたしの習慣にないものは始めからわたしに欠けているのだとわたしは思っている。だから、(b)わたしの久しい昔からの生活状態をはなはだしく局限されるくらいなら、むしろ命を奪われる方がよいと思う。
* 桂川甫周『和蘭学彙』(一八五五―一八五八)に、nature の用例として、「仕癖ハ二番ノ性質ナリ」とある。
 わたしはもう大きな変化に応ずることができない。新たな慣れない生活に飛びこむことができない。膨脹に向うことすらだめである。今はもう別様になる時期ではないのである。だから、何か大きな幸運が今になってわたしの手の中に舞いこむなら、なぜわたしがそれを享楽し得たであろう頃に来てはくれなかったかと悔むであろうし、

それをけ楽しむことを得ざるならば、幸運も何にかはせん。
(ホラティウス)

(c)何か内面的な収穫を得ても、やはり同じように悔むであろう。そんなにおそくオネトム〔達人君子〕になるくらいなら、むしろ全くならない方がよいくらいである。もう生きる命もなくなってから、生きる道を学び得て何になろう。やがて去ってゆくわたしなのだ。世の交わりのためにいささか学び得た知恵らしいものは、いさぎよく後から来る誰にでもお渡ししよう。食事の後の胡椒こしょう。今さらどうしようもない宝なんか、持っていてもしかたがない。頭をなくした者が学問をもらって何になる。運命よ、「その時節にくれたらよかったのに」と当然な恨みを抱かせるような贈物をくれるのは、むしろ侮辱ではないか。不親切ではないか。今さらわたしの手をひきなさるな。わたしはもう歩けないのだ。人間の能力を成すもろもろの特質のうち、忍耐だけあれば我々はもうそれで沢山。肺の腐った歌い手にすぐれたテノールの能力を与え、アラビアの砂漠へ追われた隠遁者に雄弁の能力を与えて、いったい何になるか。(b)落ちるのに技術はいらない。(c)終りは一つ一つの仕事の末端におのずから見出される。わたしの世界は滅び、わたしの流儀はすたれた。わたしはまったく過去のものである。だから過去を正しいとし、それに自分の最期をかなわせようと心がけているのだ。例えば近ごろ法王が命ぜられた十日間の抹殺にしても、わたしにはあまりにもおそく課せられたので、素直にそれに順応できないでいる始末である。わたしは別様に日を数えていた年代に属する。あの古く久しい習慣はわたしを呼びとめ呼びもどす。その点において、わたしは少々異端者であることを余儀なくされている。改革はよし改善であってもわたしにはできないのだ。つまりわたしの考えは、いくら骨折っても、やはり十日先に行ったり後におくれたりするのである。そしてわたしの耳もとで小言をいうのである。「こんな規則はこれからの者がやればいいのさ」と。あの甘美な健康が時おり気まぐれにわたしに戻って来ることがあっても、それは享受させるためではなく哀惜させるためである。わたしはもうそれを宿らせるところをもたない。時はわたしを見すてる。時がなくては何物も所有されない。おお世には、まさにこの世を去ろうとする人々にのみ選挙によって与えられる**やんごとなき官位があるが、どうしてわたしがそれを羨もう? 人はこの職をいかに立派に行わせようかとは考えず、いかにしてその職を行う期間を短くしてやろうかと考えている。その就任のときから、早くもその退任の日をねらっている。
* 一五八二年、法王グレゴリオ十三世が旧暦法を改正、その結果、フランスでは十二月九日から二十日にとんだのである。
** 法王の選挙を諷しているのであろう(ミショー註)。実際、一五八八年から一五九二年にかけて、四人の法王が交代した。シクストゥス五世が五年間在位して一五九〇年に没した後、ウルバヌス七世はたった十一日間、グレゴリウス十四世は十カ月、インノケンティウス九世は二カ月在位した後、一五九一年末に死に、一五九二年にはクレメンス八世が選出されている。
 (b)要するにわたしは、ここにこの男を仕上げようとしているので、それを別の男に仕立て直そうとしているのではない。長い習慣によって、この生き方はわたしの本質に同化し、運命からもらったものはわたしの天性になり変った。
 そこでわたしは、無力なわれわれ人間がこの範囲内に包まれるものをそれぞれ自分のものと考えるのは、大目に見るべきだというのである。だがそれと同時に、この限界を越えては、もはやめちゃくちゃだと、いわざるを得ない。ここまでが我々の主張しうる権利の最大限なのだ。我々が要求と所有とを広げれば広げるほど、我々はますます運命と災難の打撃にあう。我々の欲望の運動場は、もっとも我々に近接した安楽の狭い範囲に局限されなければならない。そしてその走り方は外部に突きぬける直線としないで円形とし、その両端が短い円周を描いたのち再び我々の内部に戻って来るように心がくべきである。そういうあと戻りがない行動、すなわち近くだけを旋回してすぐ自分に戻ってくることの出来ないような行動は、例えば欲ばりや野心家などの・前へ前へと止るところを知らない・直線的の行動と同じく、誤った病的な行動である。
 我々の職業の大部分はいわば狂言である。※(始め二重山括弧、1-1-52)世は挙げて喜劇を演じつつあり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ユストゥス・リプシウス)。我々はまじめに自分の役割を演じなければならないけれども、やはりある人物に扮しているのだということは忘れるべきでない。仮面や外観を以て真の本質としてはならない。他人のものを以て自分のものとしてはならない。我々は皮膚とシャツとを区別することができない。(c)顔に白粉おしろいをつければそれでたくさん、胸まで塗らなくてもよいのである。(b)たずさわるお役目が変るたんびに、新たな顔つきに変貌し・新たな存在に変質する・者がいる。きもやはらわたの中まで役人化する者もいる。またそのお役目を便所にまで引きずってゆく者もいる。こういう手合いには、彼ら自身に対する挨拶と、彼らのお役目・彼らのお供・彼らの驢馬ろば・に対する挨拶との間に、区別があることを覚らせることができない。※(始め二重山括弧、1-1-52)彼らはその高き運命に己れを委せきりて己れの本性を忘れたり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クイントゥス・クルティウス)。彼らは自分の霊魂をふくらませ、その生れつきの理性をその椅子の高さまで押し上げる。市長とモンテーニュとは常に二つで、きわめてはっきりと区別されていた。弁護士だ財務官だと言っても、信用はならない。そういう職業の中にもまた詐欺があることを忘れてはならない。心さえ清潔なら、その職業につきものの不徳や愚劣については責任を負わなくてもよいが、その代りその業務執行を拒んではならない。それはその国の習慣であり、そこにはまた若干の利益もあるのだ。我々は世間によって生きなければならない。そういう世間をそのままに利用しなければならない。だが皇帝の判断は、その帝国の上にあらねばならない。その権力を、外部より来た偶然のものと考えなければならない。そして彼も、独りはなれて自分を享楽することを、知らなければならない。少なくとも熊さん八さん同様に、自分になり切ることができなければならない。
 わたしはあんなに深く・あんなに完全に・自分を入質することはできない。わたしの意志がわたしをある一派に与えるときも、それは決して無理な拘束によってではないから、わたしの理性がそのために害せられることはない。わが国の現在の混乱に際しても、わたしは自分の利害に目をくらまされて、敵方のほむべき特質を見おとすことも、わたしが奉戴する人々のなかの咎むべき特質を見のがすこともなかった。(c)人々は自分の側の事は何でも有難がるが、わたしはわたしの側においてなされる事柄の大部分を、ただ大目に見ることさえしないのである。よい著作はわたしの立場に反することを説いてもその魅力を失いはしない。(b)議論の核心〔信仰の問題〕以外では、いつもわたしは不偏不党・厳正中立・を堅持した。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)戦争が必要とする以上に、余はあえて敵に危害を加えざりき※(終わり二重山括弧、1-1-53)(出所不詳)。(b)こうしたことを、わたしはひそかに喜んでいる。なぜなら、一般の人々があべこべをやって失敗したのを、知っているからである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)理性を用いるすべを知らざる者は、むしろ感情にその身をゆだねよ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)その怒りその恨みを問題のむこうまで延長する人々は(大部分の人々がそうであるように)、そうした感情が問題の外から発していること、むしろ私の動機から発していることを、自ら暴露している。ちょうど腫物はれものがなおったのにまだ熱がとれないでいるのは、その熱がもっと隠れた別の原因を持っていることを示しているのと同じである。(c)つまり彼らは、敵の主張全体に対して怒っているのでもないし、それが万人の利益・国家の利益・をそこなうといって怒っているのでもない。それが彼らの私利私欲を害するから怒っているのである。だからこそ彼らは、個々別々の感情をもって、正義や公の理由を越えて腹を立てているのである。※(始め二重山括弧、1-1-52)彼らは全体を非難することなく、それぞれ自分に関係ある部分のみを非難したりき※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。
* 「カトリック教徒であるという最も肝心な点、自分の基本的立場は別として」という意味である。例によってモンテーニュは用心ぶかい。
 (b)わたしは我々の側が有利であるようにとは欲するが、しかし、そうならなくても決して血迷いはしない。(c)わたしは諸党派のうちの最も健全なものを強く支持するが、特に個人的に・一般的理由を越えて・その他の諸派の敵であると、思われては困る。わたしは次のような誤った論法を断然排斥する。すなわち、「彼は同盟派だ。だってムシュ・ド・ギュイズの風格を賞賛しているではないか」「彼はナヴァール王の活躍に感心している。きっとユグノーであるにちがいない」「彼は王のおん振舞いのこれこれの点を非難している。多分心中に謀反むほんをいだいているのだろう」というような論法を。だからわたしは、お役人に向ってさえ、彼がある書物を、それが当代の最もすぐれた詩人たちの間に一人の異端者の名を載せているからといって非難するのを、もっともであるとはとうとう最後までいわなかったのである。泥棒については、彼が美しい脚をもっている**と言ってはいけないだろうか。また、彼女は夜の女であるからといって、必ず臭くなければならないだろうか。人々が今より賢明だった時代に、ローマ人はさきに宗教および公安の維持者としてマルクス・マンリウスに与えた「カピトリヌスの人」という立派な肩書***を、あとから取り消したか。人は彼が後に国法をまげ王位をうかがったからといって、彼の仁恵と武勇との追憶を禁止したか。また彼の勇気に対して授けられた武将の誉れを取り上げたか。いまの人たちは、代言人が憎いとなると、翌日はもう彼の雄弁までも訥弁とつべんにしてしまう。かつてわたしは別のところで、正義の人々が熱心のあまり同様の過ちにおちたことに言い及んだことがある****。わたしならば断然こういう。「彼のこの行いは悪いが、あの行いは徳にかなっている」と。
* テオドール・ド・ベーズ Th※(アキュートアクセント付きE小文字)odore de B※(グレーブアクセント付きE小文字)ze を指す。モンテーニュはさきに(二の十七において)この詩人の名を挙げているために、法王庁で叱られた。そのとき彼は、「これは自分の真なりと信ずる意見で、断じて間違っていない」と答えた由、そう「旅日記」の中に書いている。そして、後の版においてもその項を抹殺しなかったばかりでなく、重ねてここに、このような数行を書き加えている。『モンテーニュ全集』第四巻索引「旅日記」の部「モンテーニュの旅――法王庁の「随想録」検閲」の項を参照されたい。
** このパラグラフの中にもモンテーニュの理性主義と寛容の精神がよくあらわれている。世界にマッカーシズムが跡をたたない今日、決して陳腐な感想としてよみ去ることが出来ない。
*** マルクス・マンリウス・カピトリヌス。ローマの執政官。ガリヤ侵入に対してローマのカピトリウムの城を守った功績で、この称呼を与えられた。
**** 第二巻第十九章冒頭のパラグラフ。
同様に人々は、前兆が現われたり不幸な出来事が起ったりすると、自分の党派の者どもが皆、それに対して盲目でありぼんやりしていてくれればよいと願い、我々の説得や判断が真相の説明に役立つよりはむしろ我々の欲望の遂行に役立てばよいがと願う。わたしはむしろ反対の極端に落ちそうな気がする。それほどわたしは、自分の欲望に引きまわされるのを恐れているのだ。それにわたしは、自分の願う物事に対しては、少々臆病すぎるくらい用心深いのである。わたしはこの頃、人々がその信仰と希望とを、無分別に、また驚くべくやすやすと、ただ自分たちの親分の気に入ればよい・その役に立ちさえすればよい・と、誤算に誤算を重ねながらも、夢まぼろしに幾度となく欺かれながらも、西に東にと引きまわされて平気でいる、その不思議な有様を目のあたり見た。
 わたしはもう、アポロニオスやマホメットの猿知恵に欺かれた人々にも驚きはしない。
 近頃の人たちの分別理性はすっかり彼らの感情の間で窒息しているのだ。彼らの判断は、今ではもう、ただただ自分たちにほほ笑むもの・自分たちの主義を増長させるもの・だけしか選び出さなくなった。わたしはこのことを、我々の熱狂的な党派の最初のもの〔プロテスタント〕の中に厳然と認めた。だがその後に生れ出た党派〔神聖同盟派〕にいたっては、前者を真似してさらにそれをしのいでいる。それでわたしは、こうしたことは庶民の謬説びゅうせつと切っても切り離せないものであることを悟った。ある一つの謬説が現われると、あたかも一陣の狂風が千波万波を生むように、それをめぐって種々様々な教説がむらがり生ずる。断然それを拒否できる者、一緒にその波に押し流されない者は、仲間はずれになる。だがしかし、いくら正しい党派を弁護するつもりでも、そこに詐欺を用いたりしては、せっかくの正しいその派をも害うことになる。わたしは始終そういうことに反対した。この方法はただ病める頭脳に効果があるだけで、健康な頭脳に対しては、その信心を堅持し不幸な出来事を解釈する・たんにもっと正直であるだけにとどまらずもっと確実な・別の方法があるはずである**
* アポロニオス。一世紀頃のギリシア新ピュタゴラス派の哲学者。魔法を信じ、諸国を巡歴して、多数の信者を持った。キリストと対立したらしい。
** 第一巻第三十二章「神意をおしはかるには慎み深くすべきこと」は、このパラグラフに対する最もよい註釈となる。
 (b)天はいまだかつて、あのカエサルとポンペイウスとのそれのように深刻な不和を見たことがない。また将来も見ないであろう。だがこれらの偉大な霊魂の中には、相手に対する大きな節制があったように思う。彼らは名誉と権威とを相争ったので、決してそのために狂暴で無分別な怨恨に走りはしなかった。そこには悪意も中傷もなかった。彼らの最も激烈な戦いのなかにさえ、なお多少の敬意と好意とが残っていた。だからわたしはこう判断する。もしできたならば、彼らはそれぞれ、自分の方はまけても敵に損害を与えないで事を行いたいと、願ったことであろうと。マリウスとス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラとの争いはいかにこれと異なっていたか。心しなければならない。
 我々はあまり夢中に自分の情念や利益の跡を追ってはならない。わたしは若い頃、恋があまりにもわたしを侵すのを感じ、わざとその進行に抵抗し、その快さに溺れて恋の奴隷となりさがらないようひそかに努めたが、わたしの意志があまりに強い欲望をもって食いつくほかのあらゆる機会においても、わたしは同じように振舞うことにしている。すなわちわたしの意志が自分の酒に溺れ酔いそうだと見ると、わたしはわざとその傾向の反対に傾くのである。そうやってわたしは、あまりにその愉快さに深入りして、血まみれの損害なしには自分の意志を取りもどすことができなくなることを、避けるのである。
 愚鈍であるために物事を半分しか見ない人々は、そのおかげで有害な物事に傷つけられない幸福を享受する。それは精神の潰瘍であるが、それでもどこか健康らしい風をもっている。しかもその健康は、哲学もまったく軽蔑しないものである。だがしかし、我々のよくやることだが、それを知恵と名づけるのは間違っている。だから昔ある人は、冬の真最中にその忍耐を試みようと真裸で雪だるまに抱きついているディオゲネスを、次のようにせせら笑ったのである。すなわちその人は、ディオゲネスがそうやっているところにゆきあわせ、「どうだ? 君はいま寒いかね?」といった。「いや少しも」とディオゲネスは答えた。「では」と彼はつづけた。「なぜそうやってかじりついていることが、難行苦行になるのかね? なぜ人の手本になるのかね?」忍耐の度を計るには、必ず、その人の苦労のほどを知らなければならない。
 けれども、いろいろ思うにまかせぬ出来事や運命の責苦などの深刻さや苛烈さを、十分に感じ取ることのできる人々、それらをそのあるがままの辛さ重さに応じて味わい量るだけの力ある人々は、あらゆる方法をつくして、それらの原因にはまり込まないよう、そういう困難にぶつからないよう、始めから用心しなければならない。王コテュスは何をしたか。彼は人が彼にすすめた贅沢な食器を気前よく買った。けれどもそれは甚だこわれやすいものであったから、すぐさま自分からこれをぶちこわし、その下僕に対して起しがちな憤怒の材料をあらかじめ除いた。(c)同様に、わたしはいつも、わたしのことと他人のこととが混り合うことを避けた。わたしの地所が、近親をはじめこまやかな友情で結ばれている誰彼の地所と、境を接するようには努めなかった。かえってそこには、よく反目や葛藤かっとうが生れるからである。(b)わたしも昔はカルタやさいの一六勝負がすきであったが、もう久しい前からそれをやめた。それはわたしが負けたときにどんなによい顔をつくっても、心中の口惜しさはいかんともなしえないという、ただそれだけの理由からである。名誉を重んずる人は、反対や侮辱を心に深く感ずるに違いないから、(c)その損失を埋め合せ慰めるのに馬鹿なまねもできないから、(b)はっきりしない曖昧な仕事や喧嘩になりそうな議論には、始めから深入りしないようにしなければならない。わたしは陰気な性格と喧嘩好きな人間とを、疫病やみのようにいみきらう。そして公平無私に・興奮せずに・論ずることのできない問題には、義務としてやむをえない場合のほか、口ばしをいれないことにしている。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)中途にてやめるよりは、むしろ始めよりかかり合わざるにしかず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)つまり最も安全なやり方は、あらかじめそのように腹をきめておくことである。
 わたしは勿論、ある賢者たちが別様の道をとったこと、いろいろな問題に関係しつつそれらに深入りすることをあえて恐れなかったことを知っている。これらの人々は自分の力に確信があって、どんな艱難にのぞんでもその力の蔭に身をまもりながら、自分の忍耐力と不幸不運とに角力すもうをとらせたのである。

そは海中に突きいでたる大磐石の如し。
狂暴なる波風に逆らい、
天と地との協力せる威嚇をしのぎ、
泰然として動くことなし。
(ウェルギリウス)

こんなお手本は真似ずにおこう。我々にはとてもそこまで行けないであろう。彼らは彼らの意志をすっかり把握支配している自分の国の破滅をも、落ちついて心を乱すことなく見ていられるのであるが、我々平凡な人間にとって、そいつはあまりにも骨の折れるつらいことなのだ。カトーはこれがために最も高貴な生涯をささげたが、我々のようなちっぽけな人間は、暴風雨を最も遠くから避けなければならない。すなわち忍耐力にたよるのでなく、こわいという感情の方に従わなければならない。打ちこんで来る剣をうち払うことができないなら、それをかわさなければならないのだ。(c)ゼノンはその愛する少年クレモニデスが彼のそばに来て坐ろうとするのを見ると、つと立ち上った。クレアンテスがその理由をたずねたところ、かれは、「わたしはかねてから、医者たちがすべての腫物に対してもっぱら安静を命じ感動を禁じていると聞いている」と答えた。(b)ソクラテスも、「美貌の魅力に降参するな。それと戦え。それに抵抗せよ」とは決していわなかった。「それを避けよ。それが見えないところへ、それに出あわないところへ、逃げてゆけ。遠くから我々をおかす強力な毒を避けるときのように」といったのである。(c)実際彼のすぐれた弟子〔クセノフォン〕は、あの偉大なキュロスの稀なる完全を想像してか、そのありのままを語ってか(わたしの考えではおそらく想像ではなくて見たとおりを語っているのだろうが)、「かれキュロスは自分の力をとうてい彼の捕虜となった・あの有名な・美女パンテアの魅力に堪えないものと見かぎり、この女を監視幽閉する役を、彼ほどの自由をもたないほかの者に委せた」といっている。(b)また聖書も同じように、※(始め二重山括弧、1-1-52)われらを試みにあわせ給うことなかれ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(「マタイ伝」六の十三)といっている。我らは我らの理性が淫欲にうちまかされないようにと祈るのではなく、むしろそれに試みられることすらないように、罪の接近や誘惑に堪えなければならぬような情況に導かれることすらないようにと、祈るのである。我らの良心を静かにしておいて下さい、悪との交わりから完全に免れさせて下さいと、嘆願するのである。
 (c)復讐の情念だとかその他何かのやるせない情念を克服したと称する人たちのいうところも、しばしば真実ではあるが、それはそう語っているときの真実であって、当時の真実ではない。現在彼らが申し立てている誤解の原因は、ひとりでに伸び育って来たものだ。だが昔にさかのぼってそれらのもとの原因にまでたち戻ってごらん。何でそんなつまらぬことが、とわけがわからなくなる。彼らは自分たちのあやまちは古くなっただけそれだけ小さくなったと主張するのか。原因は不正でも結果は正しいと主張するのか。
 (b)わたしのように、悩んだり身を細らせたりすることなく自分の国の栄えを願う者は、それが破滅あるいはそれに劣らぬなさけない状態にひんしているのを見ても、心をいためはするであろうが、気を失いはしないであろう。波や風や舵取りが思いのままに西に東にひきまわす哀れな舟よ!

波や風や舵とりが、それぞれ、
思い思いの方向に引きまわす哀れな船。
(ブカナン)

王侯の寵愛をなくてはならないもののように追い求めない者は、彼らの応対や顔つきが冷淡であろうと彼らの心がしょっちゅう変ろうと、大して苦にはしない。子供たちや名誉などに奴隷みたいに奉仕しない者は、それらを失って後も相かわらず楽しい生活をつづける。もっぱら自分の満足だけのために善いことをする者は、人々が彼の行為をその真価にもとって判断するのを見ても顔色一つ変えはしない。四分の一オンスほどの我慢さえあれば、その位の不快をこらえるにはこと足りる。わたしはこの処方によって良くなった。これによって若いときの感じ易さをきわめて手軽になおしたからで、わたしはそのおかげでたくさんの苦労苦痛を免れることができたように思う。わたしはごく僅かな努力でわたしの感動の最初の動きをとめる。そして問題がどうやらわたしに重くなりそうだと、それに自分が運び去られないうちに、さっさとそれを捨てる。(c)出発を抑えなければ後になって走りをとめることはできない。あらかじめ感動の前に戸を締めなければ、とてもその侵入を食いとめることはできない。始めを抑え得ない者は、けっきょく終りに勝つことはできない。また動揺を支えることができなかった者は、転落をささえることはできないだろう。※(始め二重山括弧、1-1-52)もろもろの情念は一たび理性を離るるや競って増長す。弱き人間は自己の力を過信して知らず知らず海の深みに陥り、遂にその立つところを失う※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)わたしはわたしの懐に吹き入りさらさらと鳴るそよ風を、いち早く暴風雨の前触れと知る。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)心は打ちたおさるるはるか以前に、まずゆるがさる※(終わり二重山括弧、1-1-53)(出所不詳)。

(b)かそかなる風、森のいただきに起り、
あるかなきかの呻き、空にみつる時、
暴風雨近しと水夫たちは知る。
(ウェルギリウス)

 幾たびわたしは自分に対して最も明白な不正をあえてしたことか。だがそれは、わたしのような性分の者には、拷問よりも火刑よりもつらい長い長い心配や醜悪な運動をさせられた末に、さらにひどい不正な扱いを裁判官から受けなければならないのがつらいからである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)人は訴訟を避くるためにできる限りのことをなさざるべからず。まったく己れの権利のいくらかをゆずることは、ただおうようなる振舞としてほむべきのみならず、時にはかえって有利となればなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。もし我々が賢明ならば、むしろこのことを喜び誇るべきであろう。かつてわたしはある大家の御子息が、母君の訴訟にまけられたことを、まるで咳か・熱か・何かしつこい病か・を彼女がおろし得たかのように、はなはだ無邪気に逢う人ごとに喜んでお話しになるのを聞いたことがある。運命がわたしに与えることのできたその恩恵をさえ、すなわち訴訟事などにかけては至上の権力をもっている人々との姻戚知己の関係をさえ、わたしは自分の良心に訴えて、決してひと様の迷惑になるようには利用しないよう、つまりわたしの権利にその正しい力以上の力をふるわせないようにと、大いにつとめた。要するに(b)このように日夜努めたおかげで(こう断言し得ることは何という幸いであろう!)、わたしは今日にいたるまで、まだ一遍も訴訟の経験をもたないのである。その気さえあったら、きわめて正しい名目の下にそれを利用することもしばしばできたのだけれども。いや、ただの喧嘩すらわたしはしたことがないのである。重大な侮辱は受けたことも与えたこともなしに、わたしはやがて長い一生を終ろうとしている。わたしはわたしの名前のほかに、いかなる汚名も悪名も着なかった。誠にたぐい稀なる天寵といわねばならない。
* 自分の正当な権利を主張せず、不正者をあえて裁判所に訴えなかったことをいう。それは、法に訴えて見たところで相手に勝つためには別に相当不正な手段をも弄さねばならなかったからで、それくらいならばむしろ自分には気の毒ながら、自分の正義観をおさえつける方がよいと思ったのである。
 我々人間のあいだの最大の騒動も、ごくつまらない動機と原因とを持っている。先代のブルゴーニュ公はただ車一台の羊の皮の争いからいかに多くの危険にあい給うたか。それからただ一つの指環の刻印が、かつてあの国**がこうむった最も恐ろしい騒動の、第一の主要な原因ではなかったか。まったくポンペイウスもカエサルも、あのマリウスやス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラの後裔末流にすぎないのである。またわたしは我々の時代に、我々の王国の最も賢明なお歴々がたが大いなる儀礼と公共の費用とで会合し・条約を締結する・ところを見たが、その真の決定は畏れ多くも貴婦人室におけるおしゃべりと、たった一人の何とかいう御婦人の意向とによって、きめられたのである。(c)ただ一個のりんごのためにギリシアとアジアとを火と血の中においた詩人***たちは、まことによくこうした事情をわきまえていた。すなわち、(b)試みにここにいる人に向って、「なぜ君はその名誉と生命との運を、刀や槍の穂先に賭けられるのか。この争いの源はそもそもどこにあるのか」とたずねて見たまえ。彼は顔を赤らめずには答えることができない。それくらいその動機はつまらないことなのである。
* 後にシャルル豪胆公 Charles le T※(アキュートアクセント付きE小文字)m※(アキュートアクセント付きE小文字)raire と言われた人のこと。この人は一四七六年スイスと戦ってやぶれ、ついでスイスの同盟者ルネ・ド・ロレーヌと戦って敗れ、ナンシーで戦歿した。ことの起りは、――ブルゴーニュ公の臣ロモン伯が、その領内を一スイス人が無断で羊皮を満載した車をひいて通ったというので、これを押収した。スイス人は怒って大挙伯爵領の一部を占領した。伯がこれをブルゴーニュ公に訴えた。そこで戦争になった。――というわけである。
** ス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラがユグルタの勝利を記念するため、指環にヌミディア王がス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラに引渡される図をほらせたことが、競争相手のマリウスを嫉妬せしめた。――これがローマ帝国内乱の起りであった(『プルタルコス英雄伝』「マリウス篇」)。
*** ユノー、パリス、ウェヌスが互いにただ一つのりんごを争ったことが、トロヤの戦争の起りであった。
 はじめはほんのちょっとの注意で事足りるが、一ぺん乗り込んだら最期、すべての綱がぴんと張る。そうなると、たくさんのずっと困難で重大な手練がいるのである。(c)はいり込むまいとする方が、抜け出ようとするより、どんなにやさしいことか知れない。(b)そこであしの逆をやらなければならない。葦というやつは、はじめに長い真直な茎を出す。けれども後には、まるで疲れて息が続かないかのように、幾つもの太い節を、ちょうど息つぎのように造り出す。つまりもう最初の威勢がなくなった証拠である。それではいけない。むしろ静かに落ちついて始めなければならない。そしてその仕事の最もむつかしい仕上げのときまで、その息とはやる力とをとっておかなければならない。我々は物事をその始めにおいては指導する。思いのままにする。けれども、やがて物事の方にはずみがついてくると、今度は我々の方が物事に導かれ運ばれる。我々はただ引きずられてゆかなければならなくなる。
 (c)だがこう言ったからとて、こういう決意がわたしからすべての困難を取り除いたというのではない。おかげでわたしは自分の諸情念を抑えるのにしばしば苦労せずにすんだというのでもない。情念は必ずしも動機の大小に応じて調節されないし、しばしば急激に飛びこんで来ることすらある。だがそれにしても、この決意からは見ごとな収穫果実が得られる。もっとも、善いことをするにあたって、評判がえられないなら、ほかにどんな果実があっても満足しないという人々は例外である。まったく正直のところ、今申すような効果は、ただ各人が各自において珍重するだけのものなのである。君たちはこの決意によってより多くの満足は得るが、より多く重んぜられはしないのだ。君たちは本舞台に入る前に、問題が人目につく前に、すでに改善されているのであるから。けれどもそれは、たんにこのことに限らず、人生の他のすべての義務においてもそうなのであって、名誉を目指す人々の道は、秩序と理性とを目的とする人々がとる道とは、もともと大いに異なっているのである。
 (b)わたしはよく、無鉄砲にえらい勢いで競走に加わりながら、走っているうちにだんだんと遅れてしまう人々を見受ける。プルタルコスは、「つまらないことを恥ずかしがる悪い癖から、何を要求されても意気地なくずるずると承知してしまう者は、やがてまた、わけもなく前に言ったことを翻し約束に背く」といったが、同様に軽々しく喧嘩を始める者には、また軽々しくそれをやめる癖がある。わたしは容易なことでは喧嘩を始めない代り、一たび怒り心頭に発するときは、それこそ容易にはおさまらない。これは悪い流儀で、やったとなると、やっつけるか・くたばるか・どっちかである。(c)「ぐずぐずと始めよ。されど熱心に続けよ」とビアスはいった。(b)始めに慎重を欠くと、こんどは勇気を欠くことになる。こうなるといよいよ困ったことになる。
 当今の我々の仲直りは、大部分が嘘だらけで恥ずべきものである。我々はただうわべを取りつくろおうとばかり努める。本当の意向は見えすいているのに、それを隠しいつわる。我々は事実を塗りかくすが、みずからそれをどんなふうに・どういう意味で・いったのか、我々はちゃんと知っているのだ。同席した人々もそれを知っているし、我々の仲間もそれを知っている。我々はみんなに自分の方が勝ったのだと吹聴して歩いたのだから。だから我々が自分の腹の底を偽り、ただ和睦したいために嘘の中に逃げ道を捜すのは、我々の率直・我々の高潔な心・を傷つけるばかりである。我々は前にいった嘘を救おうとして我々みずからを偽る。自分たちの行為なり言葉なりには別様の解釈はありえないものか、などと考えてはいけない。君たちみずからの真実の解釈を、どこまでも・いかにそれが苦しくとも・守り通さなければならない。人は君たちの徳と良心とに話しかけるのだ。それは仮面などをかぶせるべきものではない。あの卑しい手段・あの苦肉の策・などは、法廷でのいさかいに委ねようではないか。無分別の後始末をするために毎日用いられるあの弁解やら賠償やらは、無分別そのものよりも醜く思われる。相手にこのような賠償を与えるために自分みずからを害するくらいならば、むしろもう一遍相手を害する方がましだろう。君は憤りに燃えて彼に挑みかかったのに、こんどは冷静な・よりよい・分別をとりもどして、彼をなだめ彼にびようとする。それではせっかく踏みこんでおいて降参したことになる。取り消しの言葉ほど、紳士の徳を傷つける言葉があろうとは思われない。それが権威の強請によってやむなくなされた取り消しである場合は、なおさらのことだと思う。なぜなら、頑張りの方が臆病よりは、まだ幾分かゆるされるからだ。
 諸々の情念はわたしにとって、節制することは困難だけれど、回避することはかえってやさしい。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)これをおさうるよりは、これを心より取り除く方が容易なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(出所不詳)。(b)あの崇高なストア学的無感動に至りえない者は、わたしの・この・愚民的無神経 stupidit※(アキュートアクセント付きE小文字) populaire のふところに逃げこむがよい。ストア学者が徳によってすることを、わたしは性分によってするのになれている。中間の地方は暴風を宿している。哲人と野人が住む両極の地方には、静穏と幸福とがある。

物事の理由を知りえたるものは幸いなるかな。
苛酷なる運命や地獄のアケロンの叫びなど
あらゆる恐怖をふみにじることをうる者も幸いなるかな。
また田園の神々や、パンや、老いたるシルウァヌスや
姉妹のニュンフェーを知るものも幸いなるかな。
(ウェルギリウス)

どんなものでも、生れ出るときは弱く柔らかである。だから、始めには眼を大きくあけなければならない。まったくそのときは、物があまりに小さくてその危険は発見されないが、それが大きくなってからでは、もう手の打ちようがなくなるのである。わたしも一たん野心に押し流されたら、それこそ毎日幾多の障害に出あってそれらを克服するのにずいぶん苦労したであろうが、わたしを野心へと誘う自然的傾向をあらかじめ抑えることは、わたしにとって大して骨は折れなかった。

われ頭を高くあげて遠くより人目を引かんことをおそれしは、
ことわりなきにあらざるなり。
(ホラティウス)

 総じて公的行為というものは、不確かなまちまちな解釈をこうむりがちである。それはあまりにも大勢の人たちに判断されるからである。ある人たちはわたしの市政のとり方についてこう言っている(わたしがここでそれについて一言できるのは仕合せである。述べるに価するだけの仕事をしたからというのではない。ただこういう種類の仕事について、日頃自分がどんなふうに考えているかを、示すことができるからである)。「彼の態度はあまりにも冷淡で不熱心であった」と。いかにも。彼らは真相から全然離れてはいない。わたしはわたしの感情思想を、平穏な状態におこうと努めているのだ。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)天性によりて常に平穏、今や年を加えていよいよ平穏※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クイントゥス・キケロ)。(b)つまり、それらがときには何か強烈深刻な印象をうけてかき乱されることがあっても、それはまったくわたしの意志のあずかり知らないことなのである。だからこの生れつきの優柔不断を、決してわたしの無能の証拠としてはならない(まったく、注意の不足と分別の不足とは別物なのである)。まして、わたしを知る前にもわたしを知った後にも、わたしを喜ばすためにあらゆる手だてをつくしてくれたばかりでなく、わたしの再選に際しては最初の選挙の時以上に骨を折ってくれた市民諸君に対して、感謝を欠き恩義を忘れていると考えてくれては困る。わたしはこれらの市民諸君のために、ありうる限りの幸いを願っているのだ。実際その機会さえあったら、わたしだって彼らのためにはどんな苦労をもおしまなかったであろう。わたしは彼らのために、わたしのためにするのと同様に立ち働いた。彼らは勇敢で度胸のある・それでいてまた服従と規律とを重んずる・指導よろしきを得れば立派に何かの御用に立ちうる・善良な市民たちである。またある人たちは、いっている。「彼の市長職は何ら著しい痕跡をとどめずに終った」とも。有難いことだ! 殆どすべての人たちがやりすぎて困るといわれる時代に、何もしなかったと言って咎められるとは
* 市長としての業績については、巻頭の解説および巻末の年表、白水社版『モンテーニュ全集』第四巻所収の「書簡」のほか、私の著『モンテーニュ伝』『モンテーニュを語る』を通じて知られたい。特にマティニョン元帥にあてたモンテーニュの書簡と、それに対する訳者の解説の中に、非常時における市長の活動が、鮮やかに想像されるであろう。
 わたしは自分の意志に運ばれる場合、踊るようにして働く。けれどもそういう熱心は長続きがしない。わたしにわたし相応の働きをさせたいと思われるならば、何よりも活気と自由が必要とされる問題、直接の・手っ取り早い・しかも幾分危険な・処置を必要とする問題を、持ち出されるがよい。そういうことなら、わたしにも何かできるだろう。しかし回り遠く・ややこしく・骨が折れ・技巧曲折を必要とする・処置が必要な場合は、誰か別の人にお頼みになる方がよろしい。
 重大な職務が必ずしも皆むつかしいものではない。だが、万一重大事が起ったらもう少し骨折って働こうくらいの覚悟は、はばかりながらこのわたしも持っていたのである。まったくわたしだって、今している以上の・したいと思っている以上の・何事かをするだけの力は持っているのだ。わたしは義務がほんとうにわたしに要求した活動は、一つとして忘れなかったつもりである。わたしが容易に忘れたのは、野心が義務の仮面をかぶせてこれと混同する活動である。これは最もしばしば人の耳や目をうばうもので、よく人々を満足させる。彼らを喜ばすのは、事実ではなくて外観だからである。彼らは物音をきかなければ眠っているものと思っている。わたしの性質は騒々しい性質のあべこべである。わたしは騒動を、みずから騒がずにちゃんと止めるであろう。混乱を、みずから取り乱さないで罰するであろう。憤怒や激昂が必要になれば、わたしはただそれを借りて来て自分の顔の上にかぶせるだけである。わたしの気性は鈍い。むしろ愚図の方で激しくはない。わたしは眠っているお役人を咎めない。下の人たちも一緒になって眠りこけているのだから。法律もまた同じように眠っている。このわたしは、目だたない・無言の・なめらかな生涯を(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)卑屈よりも高慢よりも等しく遠き生涯を※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)(b)ほめる。わたしの運命がそうであれと欲しているのだ。わたしは光輝なく雷名なくすごして来た一家、昔からただひたすら正直にあこがれる一家から生れたのだ。
 当世の人々は騒々しさと見せびらかしに慣れ切っているから、好意だとか・謙遜だとか・いつもむらがなく変らない心だとか・いうような、物静かで目だたない特質には感じなくなっている。ざらざらしたものは感じられるが、なめらかなものはいじっても感じられない。病気は感じられるが健康はほとんど、いな全く、感じられない。また我々の気に入る物事は、気にさわるものほどには感じられない。会議室の中でできることをわざわざ広場にもち出して見せたり、前の晩にしておくべきことをまっ昼間にやって見せたり、また同僚にも立派にできることを自分一人でやりたがったりするのは、自分の評判・自分一個の利益・のためであって公益のためではない。そのようにギリシアのある外科医たちはやった。すなわち高い台にあがり通行人の目にも見えるようにして得意の手術を行い、いよいよ多くの定連と患者を引きつけたのである。人々はよい規則も喇叭で吹きたてなければ聴かれないものだと思っている。
* 王様のお布令は、役人が四辻に立って、喇叭をふきならして披露したのである。
 野心は平民どもの不徳ではない。それはなかなか我々ふぜいの手におえる代物ではない。ある人がアレクサンドロスに向って、「父君はあなたのために、治めやすい平和な一大国家をおのこしになるだろう」といったが、この少年は、父の戦勝とその公正な統治をうらやんでいたので、無事安穏な世界の統治をゆずられることなど少しも望んでいなかったらしい。(c)プラトンの中でアルキビアデスは、美しく・富み・尊く・特に博識でいながら・若死することを、そのような境遇の中に永くとどまるよりもかえって望ましいこととしている。(b)このような病気も、あのように強力な・充実した・霊魂においては、おそらく許されるべきであろう。だがあのちっぽけな霊魂が、一事件を正しく判決したとか、都市防衛の司令を完うしたとかいうことで、さもえらくなったかのように思いこみ、いかにも自分の名が広まったつもりでいるのは、その頭をぬきん出ようとしてそれだけ尻尾を出しているようなものだ。そんなちっぽけな手柄は形も命もない。それは第一の口において早くも消えかける。せいぜいこっちの辻から向うの辻へと伝わるくらいのものだ。思い切って息子や下僕しもべに向って自慢するがよい。あの昔の人のように。その人は、自分の自慢をきき自分の価値を認めてくれる者がほかにないので、その下婢をつかまえて威張ったのである。「おおベレッテよ。お前の主人こそはえらいお方だぞ、有能なお方だぞ」と。それでも駄目なら、君は独り言をいえばよろしい。わたしの識っているある法官は、極度の緊張と甚だしい無意味とのこもった大演説をぶった末、会議室から小便所に引きさがり、大真面目で※(始め二重山括弧、1-1-52)主よ。栄光を我らにするなかれ。我らに帰するなかれ。ただみ名にのみ帰したまえ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(詩篇一一五の一)とつぶやいた。誰からも払ってもらえない人は自分の財布からお払いなさい。
 名声はそんなに卑しい値で身を売りはしない。真に名声に値する稀有な模範とすべき行為は、あの無数の日常平凡な行為と、席を共にするに堪えないであろう。城壁のこわれを修繕させたとか、下水の掃除をさせたとかすれば、望みどおり頌徳碑くらいは建てて貰えようが、分別のある人間はそんな真似はしないだろう。評判はすべての善行に従いはしない。必ずそこには困難とめずらしさとが伴っていなければならない。それどころか、ストア学者たちに従えば、ただ単なる敬意だって、徳から生れるすべての行為に与えられるとはきまっていないのだ。彼らは、眼やにだらけの婆さんを享楽しない男には、いくら節制からだとはいえ、ただ満足の意を示すことすら欲しないのである。(c)スキピオ・アフリカヌスの賞賛すべき特質を知っていた人々は、彼が賄賂わいろを受けなかったからといってパナイティオスが彼に与えた光栄を、しりぞけた。そんなことは彼だけではなく、当時の人々皆がうけるべき光栄だと、考えたからである。
 (b)我々はそれぞれ身分相応の楽しみを持っている。おえらい人たちの楽しみを横どりするのはよそう。我々のはもっと自然なものなのだ。そしてより低いところにあるだけそれだけ堅固なものなのである。どうせ良心によって野心をすてることはなかなかできないのだから、せめて野心によってでも野心をしりぞけよう。下劣な・乞食のような・名声名誉のかわきは軽蔑してやろう。我々はそういう渇きあるがために卑しい手段も用い、どんなけがらわしい代価をもいとわず、あらゆる人々の前に低頭し哀願するのだ。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)人が市場にてあがないうる名誉とはそもそもいかなる代物ぞや※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)そのようにして名誉を得るのは不名誉である。真の栄光に値しようとも、いたずらなる栄光にあこがれようとも、両方ともしないことにしよう。有用で潔白なすべての行為を自慢するのは、それらを常ならぬ稀なものであるかのように考える連中のすることである。彼らは、それが彼らに払わせただけの代価を、その価格にしようとするのである。だからある一つの功績が輝かしければ輝かしいほど、わたしはその善さを割引する。それは善いことをしようとしてなされたのではなく、むしろ輝かしいことをしようとしてなされたのではあるまいかと、疑いたくなるからである。棚ざらしのものはすでに半分古道具なのである。何気なく音もなくこれをなす者の手から漏れた行為、どこかの教養ある人が後で物かげから拾いあげ、ただただそれ自体の故に明るみの中に押し出した行為こそ、はるかに奥ゆかしい。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)われは誇示することなく人々の眼より遠くにてなされたる事柄をこそ、一そうほむべきものと思うなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)と、世界一の虚栄家もいっている。
* 棚ざらしすなわち店ざらしになった商品は、中古品の値段で売られる。すなわち半値にさがるのである。
 (b)わたしはただ保守し維持しさえすればよかったのだが、これは地味な目立たぬ事柄である。革新は大きな光を放つけれども当代には禁物だ。我々はこのごろ革新に攻められ通しで、ひたすらこれを防いでいるところなのだ(c)することを差し控えるということは、しばしばすることと同程度に尊いことであるが、ただそれほどに光らないのである。ところがわたしのごく僅かな手柄は、ほとんど皆この部類にはいる。(b)要するにわたしが市長の職にあった間、もろもろの事情がわたしの性分について来てくれた。その点、わたしは事情に向って心から感謝している。主治医の働きを見ようとて、みずから病気になろうと願う者があるだろうか。また自分の腕前を実地に示したいからとて我々がペストにかかることを乞い願うような医者がもしあるとすれば、それこそむちうつべきではあるまいか。わたしはこのボルドーの市政が紊乱びんらん腐敗して、わたしの統治が崇め尊ばれるようにと願うような、そういう不正な・けれどもとかくあり勝ちな・気持は少しもいだいたことがなく、ただ心から市政が容易円滑になされるようにと力をつくした。わたしの施政に伴った秩序と平穏とについてあえてわたしに感謝しようとしない人も、もっぱらわたしの好運に由来する功績だけは何と言っても否定するわけにゆくまい。実際、わたしは、賢明であることと同じくらいに幸福であることを好むように、自分の成功を自分の骨折りに負うよりももっぱら神の恵みに負う方を好むように、生れついているのだ。わたしはさきに、こういう公職にたずさわる能力が自分にないことを、かなりくどくどと公表した。だがわたしはその不能よりも更に悪いものを持っている。というのは、その不能がわたしにとって、ちっともいやでないこと、あくまでみずから企画した生き方にのっとり、ちっともその生き方を直そうとしないことである。わたしはこの職務において決して自分に満足はしていないが、それでもどうやら自分の期待したところまでは到達した。そして、他人に向って約束したところは大いに超過した。まったくわたしは約束を、いつも自分のできることよりも・自分の果そうと希望することよりも・少々内輪にするのである。わたしはそこに害ものこさなければ怨恨のたねものこさなかったと確信している。人に惜しまれたり・慕われたり・しようなどとは、始めからわたしの強く望まなかったことで、これこそ誰よりもこの当人が一番よく知っている。

かかる不思議なる凪を信頼するわれならんや。
いかで静かなる海面・穏やかなる波・の隠せるものを知らざらんや。
(ウェルギリウス)

* モンテーニュはここにはっきりと自分の保守主義を言明しているが、それはいわゆる革新家の行きすぎや公式論に段々愛想をつかしたからである。彼はピンからキリまで保守主義者ではない。次の章に、注目すべき告白がよまれる。一一八四頁参照。
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第十一章 びっこについて



 モンテーニュはこの章のなかで、はたして魔法なるものは存在するかどうかという、うっかりすると酷刑にさえあいかねない、当時の機微かつ重大な問題に関して、秩序整然、すこぶる大胆な意見を述べている。標題はこの章の主題にはまったく関係なく、ただ章の終りに、※(始め二重山括弧、1-1-52)恋の相手はびっこに限る※(終わり二重山括弧、1-1-53)というイタリアのことわざが出て来るからにすぎない。
 この章の意味の深さ・ないしモンテーニュの信念の強さ・を本当に理解するためには、中世以来ようやく下火になっていた魔法の信仰が、この十六世紀末期には、陰惨な宗教戦争の影響のもとに、再び恐ろしい勢で社会を風靡していたことを、想い出さなければならない。ナンシーの一法官が記録しているところによると、一五七七年から九二年までの間に、ただロレーヌ州だけで、魔法を使ったという嫌疑告訴のもとに九百の人命が絶たれたということである。モンテーニュが『随想録』のあちこちで賞賛をおしまなかった有名な学者ジャン・ボダン Jean Bodin さえが、『鬼憑狂』(あるいは『憑依精神病』)D※(アキュートアクセント付きE小文字)monomanie という本を書き、単に魔法使ばかりでなく、魔法を信じない者までも、これを「神を信じないのに等しい者」として、厳罰に処すべしと説いた。法王を始め諸所の法官は、熱心にこの説を支持した。外科医学の大家アンブロワズ・パレ Ambroise Par※(アキュートアクセント付きE小文字) までが、デモンの働きを信じた。そういう時代に、フランスではただ一人モンテーニュだけが、「魔法は存在しない。魔法使はむしろ病人狂人なのであるから、火刑にしないで医療を加えるべきだ」と説き、いわゆる魔法なるものの正体を科学的に暴露したのである。だからわれわれは、時代に先んずる彼の明敏と、勅書をも火刑をもあえて恐れぬ彼の大胆とを、この章のなかに読み取ることを忘れてはなるまい。
 なおこの確信ある魔法否定が、第三巻第十三章における経験的方法への信頼と相まって、第二巻第十二章におけるいわゆるモンテーニュの懐疑主義の真の意義とその帰結とを明らかにしていることも見落してはなるまい。彼は前々章第三巻第九章においても、政治の全般はわれわれの理知を絶するが、個々の問題はわれわれの理性と経験とによって処理することができる、と信じている。この魔法使の問題もまたその個々の問題の一つなのであった。すなわち「レーモン・スボン」の章において形而上の問題・神の問題・に関しては懐疑論者であっても、可触的な経験上の事実については理知の力を確信していたのと、一脈相通ずるところがある。われわれはここに、モンテーニュの懐疑論のポジティヴな面をいよいよしっかりと把握することができる。
 それから、人権並に人命の尊重において、モンテーニュが時代よりも優に二世紀を先んじていたことに注意しよう。この点に関しては、第二巻第五章、第十一章および第二十七章の各章、私の著『モンテーニュを語る』一九三―一九五頁を参照せられたい。

 (b)二、三年前、フランスでは一年が十日だけ短縮された。どんなに多くの変化がこの改革の後に続くことかと思われた。これこそ天と地とを一時にうごかすことではないか。ところが何一つとしてその位置をかえたものはなかった。わたしの近所の人たちは、その種子蒔たねまき刈入れの時期、その商売の潮時、また吉日と厄日とを、相変らず大昔からきめられているとおりの日に準拠している。むかし我々の習慣のうちに何のまちがいも感じられなかったように、今もまたそこに何らの改良も感じられない。それほどいたるところに不確実があり、それほど我々の認識は大ざっぱ(c)で曖昧で愚鈍(b)なのである。世間ではこう取沙汰している。「この改正はアウグストゥスにならって若干年間、ともかくも邪魔で厄介な日である閏日うるうびを切りすてて行って、しまいにこの負債を完全に償却するようにして行ったら(これは上述の改正によっては果されなかった。今もって我々は若干日数を弁済しきれないでいる)、これ程不便な思いをしないでもすんだであろう」と。まったくそのような方法によってでも、若干年数の循環の後にこの特別の日が段々と短縮してゆき、しまいに我々の誤算が二十四時間を越えることがないようにあんばいしさえすれば、やがて同じ結果に達することができたのである。我々は年以外に時の算え方を持たない。幾世紀このかた、世界はそればかり使用している。けれどもこの一年の日数は、一応の計量基準に従ったものでまだ決定的なものではない。むしろ我々は、よその国々ではそれぞれどんな暦を用いているか・それによってどんな慣例が今まで行われて来たか・について、毎日議論をつづけているくらいなのだ。それにある人たちはこんなことをいっている。「天は年を経るごとに萎縮いしゅくして我々の方に近寄って来る。そのために我々にとっては、時間や日や月の長さまでが不確実なものになってくる」と。またプルタルコスはこんなことをいっている。「まだ我々の時代は、天文学が月の運行を規定し得るまでにいたっていない」と。何と我々は過去の出来事を記録するのに格好な状態にあることだろう!
* 一五八二年、フランスはカエサルの制定したユリウス暦を廃し、グレゴリオ暦を採用した。一一六六頁註*参照。
 わたしは今、例によって、人間の理性がいかに自分勝手な曖昧な道具であるかという問題を、ぼんやり考えていたのであるが、わたしが日常見るところでは、人間は物事に当面すると、いつもその実態を求めるよりもその理由を求めることに急である。事実はそっちのけにして、原因を論ずることに没頭する。(c)おかしな原因屋さんよ! 原因の認識は、ただ物事を支配する者にのみ属しているのだ。物事をただ受けいれるだけの我々には属していないのだ。我々は我々の天性に従って物事を完全に使用することはできるが、その根源や本質には徹しないのだ。酒にしたって、その原料の特性を知る人に、よりうまく味わわれるわけではない。むしろあべこべなのだ。肉体も霊魂も、学問上の意見をそこに交えて、この世を享楽する権利を中止したり変えたりする。決定することと知ることとは、与えることと共に、支配者・主権者・に属するのだ。下々の者・服従する者・学ぶ者・に属するのは、享受し享楽することだけである。だがそれはそれとして、習慣の話にもどろう。(b)人々は事実の上をまたいでゆくが、そのくせ丹念にその結果を詮索する。彼らはいつもこんなふうに始める。「どうしてそういうことが起るのか?」と。――「だが事実その通りか?」とこそ、まず第一に問うべきなのだ。我々の理屈は幾百の世界をでっちあげ、その根源と構造とを見出すことができる。理屈にとっては、材料も基礎もいらないのである。理屈にしたい放題をさせてごらん。彼は虚の上にも実の上にも、有を用いても無を用いても、立派に建築するのである。

煙にも形を与えることを得て。
(ペルシウス)

わたしは大抵の場合、「そんなことはないよ」とはっきりいうべきだろうと思う。いやしばしば、そう始めから答えたいのだが、なかなかそうはいい兼ねる。そういうと人々は、「それは弱い精神と無知とから来る逃げ口上だ」とわめき立てるからだ。そこでわたしも始終みんなの仲間入りをして、心の中では全然本当にしていない下らない事柄や物語をも、一緒になって論じないわけにゆかないのだ。それに正直のところ、人が事実として言い出すことをぶっきら棒に否定するのは少々荒っぽく喧嘩じみる。だからたいていの人は、わけても実証することのむつかしい事柄に関しては、あくまでも見たと断言してゆずらない。あるいはとうてい我々が反対することをゆるされない人々を証人としてかつぎ出す。こういう習慣によって、我々はかつて一ぺんも存在したことのないたくさんの事柄の根拠と原因とを知ることになる。だから世間は色々な問題に関して言い合いをするが、敵味方いずれの主張も二つながら嘘なのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)虚と実とは、はなはだ近く相接するが故に、賢者はかかる危険多き隘路にくつを踏み入るべからず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (b)真実と虚偽とは同じ顔つきをしている。姿勢も趣味も歩き方も同じようである。我々は両方を同じ眼で見る。どうも我々は、詐欺をふせぐのに弱気であるばかりでなく、むしろ進んでその詐欺にかかろうと努めているかのように見える。我々は空虚の中にまきこまれるのが好きである。空虚は我々の本質と同じものだからであろう。
 わたしはこんにちたくさんの奇跡の発生を見た。それらは皆生れ出るとたちまちに滅びたけれども、もしそれが相当の年月を生きながらえたならばどんなものになったかということは、予想するに難くない。まったく人は糸口さえ見出すならば、いくらでも糸をたぐり出すことができるのである。そして無から極小にいたる距離は長いが、極小から極大にいたる距離はかえって短いのである。ところが最初にこの不思議の発端に目を驚かした人たちは、その物語を触れ歩くうちにいろいろの反対に出あうので、そのどこが人に得心させにくいところであるかを悟る。そしてその場所を何かの嘘でふさぐ。(c)それに※(始め二重山括弧、1-1-52)流言飛語を喜ぶ先天的傾向によりて※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)、我々は人から借りたものを、これに利子をつけずに・これに我々のものを少しも加えないで・返却するようなことは、生れつき気がとがめてできないのである。まず最初に個人の間違いが大衆の間違いを産むと、こんどは大衆の間違いが個人の間違いを産み出す。(b)こんなふうにして奇跡という建造物は、手から手へとわたる間にいつの間にか堂々たるものになってしまう。だから一番遠い証人が一番近い証人よりもそのことにくわしくなり、一番後に聞いた人の方が一番始めに見た人よりもそれを確信することになる。これは自然のなりゆきである。まったく誰でも何事かを信仰する人は、それを誰かに確信させることをもって慈悲の業と考えるから、この業を成就するためには、自分の話に必要であると認める限りいくらでも自分の創意をつけ加えて、他人の思想の中にあると思う反対や無理解を補うことをあえて辞さない。
 わたしは嘘をつくことをひどく気にするたちであるし、自分のいうことに勿体もったいをつけてそれを人に信じさせようなどとはあまり思わない人間であるが、それでも自分の手の内の問題となると、(c)他人の反対に刺激されるのか、それともわれと我が話の勢いにつり込まれるのか、(b)自分の主題を声や身振りや激しい言葉によって大きくふくらませ、あるいは更に誇大誇張を用いてときにありのままなる真実を害することがないでもないのに気がつく。だがしかしそうはするけれども、誰かがわたしの袖をひかえて赤裸な真実を問う者があれば、わたしは早速わたしの緊張を捨てて、真実をそのまま誇張したり誇大にしたりせずにその人に与える。(c)元気な騒々しい話し振り(わたしのふだんの話しぶりのようなもの)は、とかく興奮して誇大に走りがちである。
 (b)およそ自分の意見をおし広めようとするときほど、人々が一所懸命になることはない。普通の手段で及ばないときは、我々はそれに命令や暴力や剣や火をさし加える。そのために真理の最良の試金石が信者の多数ということに相成ったのはまことに嘆かわしい。大衆の間においては、愚者の方がはるかに賢者の数をしのいでいる。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)あたかも判断の欠如ほど普遍的なることなきかのごとく※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)だが※(始め二重山括弧、1-1-52)愚人の数多きことこそ知恵をいよいよ尊くするものなれ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(聖アウグスティヌス)。(b)一般の意見に逆らって自分の判断を堅持するのは、むつかしいことである。まず単純な人たちが、主題そのものに感心してさっそくそれを信じ込む。その次に、お利巧な人たちが、こんどは証拠の数と古さとにおどかされて信じこむ。わたしはある一人のいうところをきいて信じかねる事柄は、それが百人ともう一人にいわれようとも決して信じないであろう。まして人の意見を年数などによって判断はしないのである
* こうした言葉のはしに、モンテーニュの保守主義、伝統主義の限界と特徴とがはっきり見られる。
 つい先頃のことであるが、我が王侯のお一人が痛風のためにその立派な天性と強い性格とを失われ、言葉と身振りとによって万病をやすという或る坊さんの不可思議な方術を人づてにお聞きになると、すっかりそれを信じこまれて、はるかなる旅路を経てその坊さんを訪ねてゆかれた。そしてその想像力のおかげで、幾時間かの間おみ足の痛みを忘れられたばかりでなく、絶えて久しく遊ばされなかった御歩行をすら遊ばされた。もしも運命が、このような出来事が五つも六つも積みかさなることをゆるしたならば、この奇跡もまたまことしやかに信ぜられるにいたったであろう。だがそういう方術をおこなったのはあまりにも単純でたわいのない男だということがやがて判明したので、わざわざそんな男を処刑するにも及ぶまいということになった。こういう事柄の大部分は、その楽屋をのぞいて見ればおおよそ皆こんなものである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)我らは遠く離れたる物事に感心す※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)だから、我々の眼はしばしば遠くに怪異の姿を見るが、近づいて見ればすべて影も形もない。※(始め二重山括弧、1-1-52)評判はいまだかつて真実と似たることなし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クイントゥス・クルティウス)。
 不思議でならないのは、世間の人たちがあんなにも信じ切っている考えがいかに空なる発端・いかにつまらない原因・から生れ出ているかということである。このことこそ第一に問題の究明をさまたげるものである。つまり我々は、さしもの大評判にふさわしい重大な原因をあれこれと詮索している間に、本当の原因の方を見失ってしまうというわけなのである。それらはあまりにも小さくて、我々の眼にとまらないからである。だから本当にこの種の詮索においては、慎重な・注意深い・緻密な・詮索家、しかも公平無私で・何らの偏見にとらわれない・詮索家が必要とされる。今までのところすべてこの種の奇事・奇跡・は、わたしの前には姿をあらわさない。わたしはこの世に、わたし自身より明らかな怪異も奇跡も見たことがない。人は習慣と時間とによってどんな不思議にも慣れるものだが、わたしは足しげくわたしを訪れ深くわたしを知るにつれて、ますますわたしの異形異風におどろかされ、ますますわたしがわたしにわからなくなる。
 このような不思議を仕出かしたり広めたりすることができるのはもっぱら運命の特権である。おとといわたしは家から二里ばかり離れたある村をとおって、最近とうとうしっぽを出したある奇跡がついこの間まで演ぜられていたというその広場を見たが、そこでは近郷の人々が数カ月にわたって今言った奇跡に夢中になっていたのである。そしてそろそろ近くの国々からも、貴賤男女が群れをなして押しかけて来ようとしていたのであった。ことは土地の一人の若者が、ある晩自分の家でじょうだんに精霊の声を真似たことにはじまる。彼はただ目のあたり人をかついで面白がることよりほかに、何も深いたくらみを持ってはいなかったのである。ところが思いの外うまくいったので、狂言をもうちっとややこしく仕組んでやれと、きわめて愚かな村の娘を一枚これに加えた。そして終いには、もう一人同じ年頃同じ知恵の者を加えて、皆で三人になった。それまで家の中でやっていた説教を人々の前に持ち出した。自分たちは教会の祭壇の下に隠れて夜でなければ語らず、参詣者には一点の燈火をも携えて来ることを禁じた。世間の改宗を勧め・審判の日の恐ろしさを説く・言葉の次に(まったくこういう題目のものものしさ・かしこさ・の下に欺瞞ぎまんは最も容易に行われるのである)、彼らは若干の幻影を用いたが、それは子供の遊びにだってこんな下手なものはあるまいと思われるほど馬鹿げたものだった。だがもし運命がほんの少しでもそこに好意をそそいだならば、このような茶番もどこまで発展するか知れたものではない。可哀そうに奴さんたちはいま牢屋の中にいる。おそらく世間の人の愚かさの報いを、その一身に背負うことになろう。いや或る裁判官が、自己の愚かさのうっぷんを彼らの上に晴らすのではあるまいか。こういうふうに暴露されればことは明瞭である。だが我々の認識を越えた同じようなもろもろの事柄においては、わたしは我々がそれを受けいれもせずまたしりぞけもせずに、判断を差控えるべきだと考える。
 この世の多くの誤りは、(c)いやもっと大胆にいうならばこの世のすべての誤りは、(b)我々が自分の無知を表明することを恐れるように教え込まれていることから、(c)我々が自分の反駁し得ないことは何でも受け容れなければならないと考えることから、(b)生れる。我々はすべての事柄を、独断的に断定的に語る。ローマの習慣では、証人がその目で見たといって供述することも、裁判官がその最も確かな証拠によって判決することも、常に「これこれに思われる」という形式で語られたものである。わたしは本当らしく思われる事柄でも、それを絶対的なもののように押し付けられるといやになってしまう。わたしは我々の物言いの大胆不遜を緩和する「恐らく」・「いわば」・「いくらか」・「の由」・「と思う」・というような言葉がすきだ。だからもし子供たちを教育しなければならなかったら、わたしは彼らにこういう答え方を、(c)断定的でない・尋ねるような答え方を、(b)口癖にさせたであろう。
 「それはどういうことでしょうか。私にはよくわかりません。多分こういうことなのでしょうね。これで正しいのでしょうか」と。そうやって、彼らが六十歳になってもなお書生の風を失わないように、世間でよく見るように十歳で博士の風を示すようなことがないように、教育するであろう。無知から癒されようと思うならば無知を告白しなければならない。(c)美しいイリスはタウマンティスの娘である。驚嘆はすべての哲学の基礎、詮索はその道程、無知はその究極である。(b)ほんとうに名誉と勇気とにおいて少しも知識に劣らない・強力で高尚な・無知がある。(c)そういう無知をいだくには知識をいだくのに劣らぬ知識を要するのである。
* イリスは虹である。その父タウマンティス(正しくはタウマス)はギリシア語で驚嘆を意味する。
 (b)わたしは、少年の頃トゥールーズの高等法院判事コラスが印刷に付した、互いに相手の名をかたる二人の男の不思議な事件**の裁判記録を見たことがあるが、わたしが今なお覚えているのは(ほかのこまかいことは皆忘れてしまったが)、コラスがその有罪と判決した一方の男の詐欺を、我々には勿論、裁判官たる彼自身にもとうていわからない、きわめて玄妙不可思議なものとしているのを見て、それなら彼がその男を絞首刑に処した判決文はあまりにも大胆すぎはしないかと、思ったことである。むしろアテナイの高等法院の判事たちよりも一そう自由巧妙に、「裁判所はこの事件を理解せず」というような判決文の形式をとろうではないか。彼らは彼らが説明できない事件の判決を迫られると、「双方とも百年の後に再び出頭せよ」と宣告したそうである。
* 記録によるとこの裁判は一五六〇年正月のこと故、モンテーニュが二十七歳になろうとしていた時である。
** ガスコーニュの貴族にマルタン・ゲールというものがあり、結婚して間もなく見えなくなったが、やがて彼によく似たアルノー・デュティルという者が現われて、この妻に二人の子を産ませた。ところが或る日、本当のマルタンが帰って来て、デュティルを訴えた。結局デュティルは魔法を使ったのだということになり、死刑に処せられた。――モンテーニュはここに、コラスが当事件の不明の点幾つかを、魔法の使用ということによって説明していることを非難し、同時にひろく魔法なるものの存在を確信する人々の独断を咎める。
 わたしの近所の女魔法使たちは、誰か新たな著者が現われて彼女たちの幻想になにかまことしやかな根拠を与えるたびに、その生命を危うくされる。このような事柄について神のお言葉が我々に与えているいろいろな実例(はなはだ確実な・否むことのできない・実例)を引用し、うまくそれらを我々の現代の出来事に結びつけるには、我々にはその原因も動機もわからない以上、どうしても我々の英知とは別の英知を必要とする。「これは奇跡である。あれも奇跡だ。ただしこの方はそうではない」と断言できるのは、おそらくただ、あのはなはだ強力な証言だけであろう。奇跡についての神様のお言葉は信じなければならない。それは至極当然である。だが我々人間の一人が自分で作った物語に驚いているのを見ても(彼が分別を失っていない限り驚くのはあたりまえである)、それを真にうけてはならない。それは他人に関して語っているのであっても、自分を責めて語っているのであっても、うっかり信用してはならない。
 わたしは愚鈍である。だからむしろ実体的なもの・本当らしいもの・に執着し、※(始め二重山括弧、1-1-52)人間はかえってその理解しえざるものを信仰す※(終わり二重山括弧、1-1-53)(出所不詳)とか※(始め二重山括弧、1-1-52)人間の精神は晦冥かいめいなるものを好んで信仰する傾向あり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(タキトゥス)とかいう古人の非難を避ける。勿論わたしは、皆がおこることは百も承知である。また人は呪うべき酷刑をふりかざして、わたしに疑うことを禁じている。これが近ごろ新式の説得法というものである。だが有難いことに、わたしの信仰は拳固なんぞにびくともするものではない。人はその所信を嘘だとくさす者どもに食ってかかるがよい。だがわたしの方は、そうしたお説をただ「むつかしい。大胆すぎる」というだけである。自分と反対の断定をくさすことはみんなと同じだが、決して、みんなのように威丈高にはやらないのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)これらの事柄は真実らしと言うはよけれども、決してしかりと断定すべからず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)喧嘩腰に・権柄ずくで・自分の議論をうち立てる者は、みずからその理由の薄弱なことを示している。言葉の上の・スコラ学的な・口論の上で見ると、彼らにも反対者と等分の理屈があるらしいが、実際上の結果から見ると、冷静な反対者の方にこそ多くの勝目がある。人間を殺すには明々白々たる証拠がなければならない。我々の生命は、ああいう超自然的な途方もない出来事の担保とするにはあまりにも現実的実質的である。毒薬を盛った魔法使のことは論外とする。あれは人殺しである。最もたちのわるい人殺しである。だがその場合にも、ああいう連中みずからの告白を、そっくり真にうけてはいけないといわれている。まったく彼らがそう自白したにもかかわらず、殺されたはずの人々が案外丈夫でぴんぴんしていた例もあるのである。
* ジャン・ボダン Jean Bodin はその著『鬼憑狂』(『憑依精神病』)の中で、聖書を引用しつつ、「魔法ありや否やを疑うのは、神ありや否やを疑うのに劣らぬ不信である」といい、魔法使を処罰すると共に、魔法の存在を信ぜざる者までも極刑に処した。モンテーニュの方は、魔法使その者は無知蒙昧の徒、或いは精神異常者と見て、これをまじめにとりあげない。ときにはかえって、彼らに対する処置の苛酷なることを非難する。故に、モンテーニュの当面の敵は、前のパラグラフでも「新たな著者が現われて……」などといっている通り、こういう問題をまじめに取上げる学者や裁判官なのである。次のパラグラフに「もう一つの常規を逸した告発」というのは、魔法の存在を信じない合理主義者を告発することの、正気の沙汰でないことを嘆いた言葉である。
 もう一つの常軌を逸した告発については、わたしは進んでこういいたい。「人間はどんなにえらい人でも、人間に関する事柄について信じられればそれで十分なのである。人間の理解の外にある事柄・超自然的な事柄・についてはただ神様がそれをお認め下さったときだけ信じられれば、それでよいのである」と。神様が特に我々の証言のあるものに与え給うたその特権は、決して粗末にしてはならないし、また軽々しく口にすべきものでもない。ところがわたしの耳は、次のようなたくさんの話でたこができている。「三人の者がいついつ彼を東の方に見た。三人のものがその翌日、どこそこで、西の方に、何時ごろ、これこれの装いをした彼を見た」と。じっさい自分で見たって、わたしならそんなことを信じはしないであろう。二人の人間が嘘をついていると考える方が、一人の男が十二時間で東のはてから西のはてへ風に乗って渡ったと考えるより、どんなに自然で本当らしいかわからない。我々の悟性が我々の狂った精神の動揺のためにいささか常軌をはずれたのだという方が、我々の一人が悪霊にのりうつられて、現身うつしみのままほうきにまたがってストーヴの煙突から飛び去ったというより、どんなに自然だかわからない。外部に未知の幻影を捜すことをやめよう。我々はそんなことをしないでも、我々の内部の幻影に絶えずかき乱されているのだ。人はある不思議を信じなくても、それは許されるべきだと思う。少なくとも、ちっとも不可思議ではない検証によってその裏をかくことができるかぎり。だからわたしは聖アウグスティヌスの意見に賛成するのだ。彼は、「証明し難く信ずることの危険な事柄においては、確信に傾くよりはむしろ疑惑に傾く方がよい」といっている。
 数年前わたしはあるやんごとなき君侯〔ロレーヌ公シャルル四世?〕のご領内を通過したが、殿はわたしへの御親切から、そしてわたしの疑いを晴らそうと思召されて、わざわざ御前で、ある特別な場所に幽閉されていたこの種の囚人十人あまりを、そして特にこの業にかけて久しい以前から隠れもなかったいかにも魔法使らしい恐ろしい形相をした老婆までも、見せて下さった。わたしは彼らの証拠や彼らが自然にもらした告白を見もしききもした。その老婆の上にある何かしらかすかなあとまでも見た。そしてできる限り健全な注意をそこに注ぎながら、心ゆくまで尋ねたり語ったりした。わたしは先入観念によって判断をしばられるような男ではない。わたしだったら、結局、本心から、毒人参どくにんじんではなしにむしろ治狂草ヘレボルスの方を処方したことであろう。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)彼らは罪人というよりもむしろ狂人に近かりき※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。(b)裁判所はこういう病に対して正義の府たるにふさわしい懲戒法をもっている。
* 魔法使は、その身体のどこかに、悪魔の爪跡をおびていると信ぜられていた。
 お歴々がたはその時ばかりでなく他の場合にも、しばしばわたしに向っていろいろな反証を挙げられたけれども、一つとしてわたしを承服させるものはなかった。かえって彼らの結論よりはずっと本当らしい別の解釈を許すものばかりであった。本当に、経験や事実にもとづく証拠や理由に至っては、わたしにはとてもほどくすべがない。それには、ほどこうにも全く糸口がない。だからわたしは、アレクサンドロスがその結び目**を切ったようにそれを切断するだけである。要するに、たんなる推量***から一個の人間を生きながらに焼くというのは、その推量をあまりにも高く評価することである。(c)人はいろいろな実例を物語っているが、プラエスタンティウスはその父についてこんな話をしている。すなわち、「完全な眠りよりももっと重たい眠りに陥ったとき、彼は自分が馬になり兵士どもの荷物を運んでいる夢をみた。そして目がさめたらその夢の通りに彼はなっていた」と。魔法使たちもこのように現実的に夢みるのだとしても、夢もときにはこのように事実の形をとることがあるとしても、それにしてもわたしは、我々の意志が法の前でその夢の責任を取らねばならないとは、断じて信じないのである。
* 例えば三人の者がこれこれの怪異を見たと言って言い張る場合、しかもその話が延々としてつづき終ることがない場合、それはこんがらかった毛糸の玉のように、ほどきようがないというのである。
** ゴルディオンのユピテルの神殿に、王ゴルディオンの奉献した車があり、くびきが梶棒に紐で巧みに結ばれていた。託宣は、この結びを解くものはアジアの主となろうといった。アレクサンドロスは試みて能わず、刀でこれを切断した、という故事がある。
*** この句は、裁判官の魔法使に対する判決が独断的であることをとがめた言葉である。「推量」というのは、彼らの根拠が単なる推量の程度を出ていないことをいったので、モンテーニュはむしろそれくらいなら、アレクサンドロスのようにする方がよいと考えているもののように見える。
(b)以上のことを、わたしは裁判官でも王侯の顧問でもない・そういう人々にはとうてい及びもつかないと十分承知している・ただの人として、いうのである。言行いずれの面においても常に世間一般の考え方に従うように生れついたただの人として、いうのである。誰かがわたしのこの寝ごとを買いかぶって、自分の住む村の法規なり意見なり習慣なりをちょっぴりとでもないがしろにするものがあったら、その人はみずから大損をするであろうのみならず、またわたしにも少なからぬ損害を及ぼすことになろう。(c)まったくわたしは、わたしのいうところについて、特にその確実を保証しはしない。ただ、ある時期にはわたしも、確かにそういうことを自分の考えの中に持っていた、混沌として定めない自分の考えの中に持っていた、と承認するだけなのである。わたしは万事雑談のつもりで語っているので、何一つ意見としては述べていない。※(始め二重山括弧、1-1-52)知らざることを知らずというを、余はこれらの人々のごとく恥とはせざるなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)たとい何を言おうと信じてもらえる地位にいたとしても、わたしはあんなに大胆に語りはしないであろう。だから、わたしの勧告を手きびしいとこぼしたあるおえらい方に、わたしはこういって答えたのである。「あなたがひどく一方の側に偏せられるから、わたしは一所懸命にあべこべの方をおすすめするのですが、それはあなたの判断を明らかにするためであって、決してあなたをやりこめるためではございません。神様はあなたの心を把握していられるが、選択はおゆるしになるでしょう」と。わたしはそういう重大な事柄において、ひたすら自分の意見がその指針となるようにと願うほど思いあがってはいない。わたしの運命は、わたしの意見をそんなに力のある・そんなに高尚な・結論に造り上げはしなかった。なるほどわたしもたくさんの癖をもっているばかりでなく、意見も相当に持ってはいるが、もしもわたしにせがれがあったとしたら、わたしはわざと彼にそれらの意見をきらわせるであろう。だって仕方がないではないか。最も真実な思想が、必ずしも人間にとって最も都合のいいものではないのだ。それほど人間という奴は始末のわるいものなのだ
* 「以上のことを……」以下この行に至る間に、モンテーニュは巧みに世間の批評、寛容トレランスを知らない頑固な人々からの非難攻撃をかわしている。そして蔭ながら自分を支持していてくれる好意ある識者に対して、自分を弁護してくれることもできるような余地をのこしている。
 当っているか当っていないか、それはどっちでもいいが、イタリアでは、「びっこの女と寝たことのないものはウェヌスのほんとうのうまさを知らないものだ」ということがことわざになっている。それは、偶然かあるいは何か特別な出来事かが、ずっと昔からこの国民の間にはやらせたもので、男にも女にもあてはまる。まったくアマゾンたちの女王は、彼女にいい寄ったスキュティア人に、※(始め二重山括弧、1-1-52)それを一番よくするのはびっこの男※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ギリシアの諺)と答えたのである。この女天下の国においては、女たちは男たちの支配を脱するために、彼らを子供のうちから、手や足を始め、彼らを彼女たちよりも優位におく肢体を不具にした。そして彼らを、わが国で女にさせているような用にばかりこき使った。わたしなら、「びっこの女の変調子な運動が営みにいくらか変った快味を与えるのではないか、彼女を試みる男にいくらかのくすぐりを与えるのではないか」といったであろう。けれども古代の哲学が次のように断定していることを、わたしはついこの頃になって知った。それは、「びっこの女のはぎももは、そういう欠陥のために受けるべき養分を十分に受け入れられないので、自然その上部にある生殖器がますます充実して旺盛になるのだ」と言っている。或はまた、「この欠陥は運動を妨げるから、そういう欠点をもつ者はその精力を分散させることが少なく、かえってウェヌスの営みに全力が集中するのである」と言った。同じ理由でギリシア人は、「機織はたおり女はとくべつに旺盛だ」といいたてた。すなわち彼女たちは始終家の中で仕事をし、大して体を動かすことがないからであるという。こんな工合に何にでも、我々はこちたき理屈をつけずにはいられないのだ。この機織り女については、わたしはこうもいうことができると思う。「あのような坐り方をしてあのように体をゆすぶる仕事が、彼女たちを興奮させるのだ。貴婦人たちがその馬車の動揺によって刺激をうけるのと同じことだ」と。
 これらの実例はこの章の始めにいったこと、すなわち、「我々のもとでは理屈がしばしば事実の認識に先んずる。そしてその管轄は無限にひろいので、しまいに虚無や非実在の中においてまでその裁判権を行使するのだ」といったわたしの説に、役立ちはしないか。ただに我々の創意がどんな夢想に対しても理屈をつけるのに巧みであるというだけではない。我々の想像もまた、とかくつまらない外観から誤った印象をうけ入れがちなのである。まったく、ただたんに今の諺が古くから広く行われているということに信をおいて、わたしも昔は、ある女の脚が真直でないことからかえって快味を多くうけているものと信じこみ、それを彼女の美点の中に数えこんだくらいである。
 トルクワト・タッソーはフランスとイタリアとを比較して、我々がイタリアの貴族よりも細い脚をしていることを認め、その原因を我々が絶えず馬にのることに帰している。ところがこの同じ原因から、スエトニウスは全然反対の結論をひき出している。まったく彼は反対に、「ゲルマニクスは絶えず馬にのることによってその足を太くした」と述べているのである。およそ我々の悟性くらい柔軟で移り気なものはない。それはテラメネスの靴のようにすべての足にあう。それは二様であり多様であると共に、そのとり扱う材料までが二様であり多様である。「どうかお金を一ドラクマ賜わりたい」と、ある犬儒学派の哲人がアンティゴノスにいった。すると王は、「それは王の賜物としてふさわしくない」といった。「では一タレントを」というと、「それは犬儒学派にふさわしくない」と答えた。

この熱は、新たなる草のために、
地の養いをのぼらせる隠れたる穴を開くか。
或いは、大地をますます硬くして
細き雨、熱き日、北風に凍てし霜に対して、
大地をまもるか。
(ウェルギリウス)

* テラメネスはアテナイの三十僭主の一人である。「テラメネスの靴」というのはローマで二党派の何れにもびる無節操な政客を呼ぶ綽名あだなであった。それは昔、男女何れもはいて出られる男女兼用の舞台用の靴があったことから、出たものらしい。
※(始め二重山括弧、1-1-52)いかなる貨幣にもその裏あり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(イタリアの諺)。それで昔クレイトマコスはいったのである。「カルネアデスが人々に同意賛成を厳禁したことは、すなわち意見や大胆な判断を禁じたということは、正にヘルクレスの十二の業にもまさる大働きであった」と。このカルネアデスの強硬な思想というのは、わたしの考えでは、もともと知識を誇るものどもの不遜から、彼らの法外な傲慢から、生れたものだと思う。アイソポスは他の二人の奴隷とともに売りに出された。買手はその一人に向って、「何ができるか」と問うた。その男はえらく思われようと思って、「これもできる、あれもできる」とすばらしい沢山の約束をした。もう一人の奴隷も、同様の・いやそれ以上の・返答をした。いよいよアイソポスの番が来て「何ができるか」と問われると、彼はいった。「何もできませぬ。前の二人が何もかも言ってしまいました。彼らは何でもやれます」と。同様のことが、哲学者の仲間にも起った。すなわちある者どもが、「人間の精神は何でもできる」といって威張るものだから、他の人々はこれに対する意地と反感とによって、「人間の精神には何もできない」ということになったのだ。一方は無知において、もう一方は知識において、何れも同じ極端を持している、そこで結局、「人間は何事にかけても節制を知らない。いよいよせっぱつまって、もうこれ以上には進めないというところまで行かねば、絶対にとどまることを知らない」ということを、誰も否定できなくなるのである。
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第十二章 人相について



 一五八四年アンリ三世の弟アンジュー公が死んでプロテスタントのアンリ・ド・ナヴァールがフランスの王位継承者となったので、一五八五年にはまたもや宗教戦争が始まった。特にそれはペリゴールのモンテーニュ邸周辺で最も激しく、その上に翌八六年の夏から秋冬の頃にかけては、更にペストの流行と饑饉ききんとがあって、せっかくモンテーニュは公職を退いてひまになったのに、その城館にじっとしていられなくなり、家族を引きつれて、各所の縁故をたよって放浪しなければならなかった。次のエッセーはそういうモンテーニュの一生のうちの最悪の年の、苦しい経験の中から生れた血と涙の文字である。
 この章の興味は、モンテーニュが毎時毎瞬さまざまな出来事と取り組んで自分をためし、不幸や死に対する自分の従来の哲学をためしていることである。目の前では多くの百姓たちがセネカもカトーも知らないのに平然として死んでゆく。あらかじめ備える法などは、すでに(三の四)経験したとおり、いたずらに取越苦労をますだけで、いざとなればすこしも物の役には立たない。そこでいよいよ気分転換法による方が賢明だとさとる。すなわち今モンテーニュが到り得た心境は、哲学者の教えに従って生きることではなく、百姓のように自然に従って生きることである。その模範を古人の間に求めるならば、もはやそれはカトーではなくてソクラテスである。今やモンテーニュの姿は一五七二年のそれとは大分変っている。ストア的な面影がうすれて、彼は純乎たる高い意味でのエピキュリアンになっている。そう気がついて見ると、モンテーニュのこの新しい姿は、ただこの章ばかりでなく、第三巻全体を通じて鮮やかに読み取られる。それは彼の到り得た姿であるとともに、あらゆる外的感化を脱却した彼本来の姿でもあろう。彼はソクラテスからたくさんのものを学んだが、それは主としてエピクロスがソクラテスから学び取ったものにほかならなかったから、モンテーニュはソクラテスの弟子というよりはやはりエピクロスの弟子と見るべきであろう。一五八八年を期し、「生老病死」に対するモンテーニュの思想の変化がある。嘗てそれは瞑想思索の対象であったが、今は専ら肉体体験、現実として捉えられている。

 (b)我々のいだいている意見は、ほとんどみな権威を信用することによって得られたものばかりである。もっともそれは少しも悪いことではない。今日のような無力な時代には、我々は自分が選択することほど恐るべきことはないであろう。あの気高いソクラテスの講説も彼の友人たちによってはるかに我々に伝えられたもので、我々がそれを称賛するのも世の多くの人々の称賛を尊重すればこその話であって、我々みずからの認識によってではない。彼の講説は我々の習慣にかなっていない。今日何か同じようなことが行われても、それを重んずる人々はほとんどないであろう。
* クセノフォンやプラトンを指す。
 我々は尖鋭なもの・技巧で誇張されたもの・でなければ優美と認めない。単純素朴の底にひそむ優美は、我々の眼のようなぼんやりした眼にはとかく見おとされがちである。それらはつつましい隠れた美であるからだ。そういう隠れた光を見出すには、明らかな・はなはだ清らかな・眼がなければならない。それに純朴といえば、我々によれば暗愚の親類ではないか。つまり非難される特質ではないか。ソクラテスはその霊魂を自然普通な動きをもって動かしている。百姓もああいう風にいうし女も同じようにいう。(c)彼は御者や指物師や靴屋や石屋のことでなければついぞ口にしなかった。(b)それは最も平凡な・皆の知り抜いている・行為からひき出された帰納と直喩で、どんな人にでもわかる。我々ならこれほど卑近な比喩の底に、彼の驚嘆すべき思想の気高さと輝きとを見分けはしなかったろう。我々は(c)学説が高くかかげる思想でなければ、みな卑俗なものにしてしまう癖がある。(b)壮麗の中にでなければ豊富を認めないわるい癖がある。我々の世界はただてらいでばかり造られている。人間どもはただ風によってふくらみ、みな風船のようにふわふわしている。ところがソクラテスは、決して空な思想はいだかない。その目的は、現実に・もっと直接に・人生に役立つような事実と教訓とを我々に与えることにあった。

節度を守り、中庸を持し、
自然にしたがう
(ルカヌス)

ことにあった。彼はまた常に一様であって、自分を突飛な行為によってではなく資質によって、その力の及ぶ最高度におし上げた。いやもっと正しくいうならば、彼は何もおし上げはしなかった。むしろ万事をかれ本来の・生れつきの・程度まで引きおろし、それに強敵をも困難をも服従させたのである。まったくカトーにおいては、その行き方が普通の行き方を遙かに越えた緊張したものであることが、きわめて明瞭にみとめられる。その生前の勇ましい勲功を見てもその死に方を見ても、人は常に悍馬かんばにまたがった彼を感ずる。ところがソクラテスの方は地面をかすめている。おとなしやかな普通の調子で最も有益な問題を論じている。そして死に面しても最も困難な障害にのぞんでも、いつも人間普通の生活を営んでいる。
* たかが空高くかけるのとちがって、燕が地上すれすれにとぶこと。モンテーニュが好んでしばしば用いた美しいイメージである。おそらく港町ボルドーにおける少年時代の想い出であろう。
 きわめて幸いなことに、この最も知られるに値し、また最も模範として世間に示されるに値する人は、我々が最も確実に知っている人である。彼はかつてあった最も眼のよく見える人たち〔プラトンとクセノフォン〕によって明瞭にされた。我々が彼に関してもつ証人は、いずれもその忠実な点でもその有能な点でも、驚嘆すべき人たちである。
 彼がその少年のように純粋な思想にかほどの秩序を与え、それを変えたりまげたりすることなしに、それに我々の霊魂の最も美わしい結果を生み出させることができたのは、ほんとに大したことである。彼は高い霊魂をも豊かな霊魂をも示していない。その示すところはただすこやかな霊魂にすぎないのだが、実にそれはぴちぴちした・完全な・健康にかがやく霊魂であった。彼はこういう平凡な自然の原動力によって、こういう平凡普通な思想によって、感動もせず、興奮もせず、たんに最も調節されている・だけでなく最も高尚で力づよい・信念、行為、日常を作りあげたのである。(c)実に彼こそは人間の知恵を、それが空しく時間を浪費していたところの天上から引きおろし、それが最も正当な・最も骨の折れる・最も有用な・働きをなすべき人間界にかえしたのである。(b)見たまえ、彼が裁判官たちの前で弁論しているところを。どんな理由によって、かれが戦争の危険のうちにその勇気をふるい起しているかを。どんな論拠が彼の忍耐を、中傷や暴政や死に対し、また妻のかたくなな頭に対して、鍛え上げたかを。そこには何一つ、技術や学問から借りて来たものはなかった。最も単純な者も、そこに自分の手段、自分の力を認識する。これほど後ろにさがり、これほど低くゆくことは不可能である。彼は人間が自分独りでどれほどのことをなし得るかを示して、人間に大きな貢献をしたのである
* ここにモンテーニュはソクラテスを賞賛しながら、その最も徹底したヒューマニズムを述べている。彼はしばしば最も敬虔なカトリックらしい言葉を吐くけれども、彼は神も聖寵もなしに、人間が独力で立派に生きぬくことを理想としている人間主義者である。サントブーヴが彼を※(始め二重山括弧、1-1-52)nature, sans la gr※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)ce※(終わり二重山括弧、1-1-53)と言ったのもこの意味である。
 我々は誰でも我々が考える以上に豊かである。それだのに人は借りること・求めること・ばかり我々に教える。自分のものよりも他人のものを使用するように我々を仕込む。何事にかけても、人間はその必要を満たす程度にとどまることを知らない。快楽にかけても富にかけても権勢にかけても、自分のかかえ得る以上をかかえこむ。その貪欲どんよくは節制を知らない。わたしが見たところでは、知ろうとする欲望においてもまた全く同様なのである。人間は自分にその能力を遙かに越えた仕事・その必要の範囲を遙かに越えた仕事・をあてがう。(c)知識の効力はその内容のひろさに比例するかのように考えている。※(始め二重山括弧、1-1-52)我らは文学の研究においてもほかのすべての事柄におけるがごとくに不節制なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。タキトゥスは正しい。彼はアグリコラの母が息子のあまりに旺盛な知識欲を抑制したことをほめている。学問は一つのビヤンである。だがこれをしっかりとした眼で眺めると、人間のほかのすべての宝ものビヤンと同様に、やはりそれ特有の空しさと弱さとをたくさんにもっている。いやそれはずいぶんと高くつく宝ものビヤンである。
 その摂取は、ほかのすべての食料飲料のそれよりもはるかにあぶない。まったくほかの場合には、我々は我々の買ったものを、何かのれ物に入れて宿に持ちかえる。そして、そこでそのよし悪しをしらべることもできれば、そのどれほどを・またどんな場合に・用いるべきかを考えることもできる。ところが学問にいたっては、始めから自分の霊魂以外の容れ物に入れることができない。我々はそれを買うと同時に呑み込むのである。そして市場を出るときは、すでにそれがために毒せられているか改められているか、どちらかである。中には我々の養いとならずただ腹にもたれるばかりの学問もある。またある学問にいたっては、我々をいやすと称してかえって我々を毒するのだ。
 (b)わたしはかつてあるところで、人々が信心の上からちょうど童貞や清貧や悔悟を誓うように、無知の誓いを立てているのを見て嬉しく思ったことがある。これまた我々の奔放な欲望を去勢することであり、書物の研究に対して我々をあおるあの淫欲を抑制することであり、「我々は知っているぞ」という誤った考えによって我々をくすぐる、あのいい気な思い上りを心の中から追い出すことである。(c)だから、精神の貧しさをも共に誓うことは、ますます清貧の誓いを完全にすることになる。(b)我々が安楽に暮すのに、学問なんかほとんどいらない。じっさいソクラテスは、学問がむしろ我々の内部にあることを教えている。そしてどうやってそれを自分の中に見出すべきか、どのようにそれを利用すべきかを教えている。我々が生れながらに持っている能力以上の能力は、みなほとんどくうな無くもがなのものばかりである。それが我々の役にも立たず重荷にも邪魔にもならないならば、それこそもっけの幸いというべきである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)健全なる霊魂を造るには多くの学問を必要とせず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)学問は我々の精神の熱病であって、いたずらに我々の精神を混乱と不安のなかに投ずるばかりである。よく考えてみたまえ。君だって、君自身の内に死に対抗する自然の論拠を見出すであろう。それこそ真実の・いよいよの場合に最も役に立つ・論拠なのだ。それこそ一人の百姓を、また全民衆を、哲学者と同様に泰然自若として死なせる立派な論拠なのだ。(c)『トゥスクルム論議』〔キケロの作品〕を読みおわる以前だったら、わたしは今ほど喜ばしげに死ねなかったであろうか。そんなことはないと思う。いやわたしは今いよいよ事にのぞんで、舌の方はいくらか豊かになったような気がするが、心の方はちっとも豊かになってはいないように思う。心は自然がわたしに造ってくれたまんまである。そして死との戦いに対しても平凡普通なゆき方でみずからをまもってゆくだけだ。書物はさほどわたしの精神の鍛練にはならず、ただ文章修業に役立ったくらいのものである(b)学問が自然の不幸に対する我々の新たな防具たらんと努めながら、かえって我々の心の中にそうした不幸の大きいこと重いことを深く刻むだけに終り、何一つそれらに対して我々をかばう理由も理屈も教えなかったとは何たることであろう。(c)これこそ正しく屁理屈というもので、学問はしばしばそれによってきわめていたずらに我々をよび覚ますのだ。見たまえ、著者たちが、最も緊張した最も賢明な著者でさえが、一つの正しい論拠のまわりにいかに多くの・浮薄な・詳しく見ると実体のない・論拠をまき散らしているかを。いずれも我々を瞞着まんちゃくする言葉だけの論拠にすぎない。だがそれはそれで役に立つこともあるのだから、わたしはこれ以上に詮索しようとは思わない。この本の中にもこの種の論拠は借りたり真似たりして方々にある。だが可愛らしさに過ぎないものを力と呼んだり・鋭いだけのものを堅いといったり・または美しいだけのものを良いといったり・しないように、それだけはいくらか用心しなければならない。※(始め二重山括弧、1-1-52)舌に甘きもの必ずしも胃によろしからず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。※(始め二重山括弧、1-1-52)こと機知に関せず霊魂に関するとき※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)、うまいもの必ずしも養いとはならないのである。
* この章の書かれた時期は明確に劃することができないが、一五八五年以後何回かにわたって書かれたものらしい。一五八四年にアンジュー公が死んで、アンリ・ド・ナヴァールが王位を望んで起ち、ここに内乱が勃発した。一五八五年には兵乱はペリゴール州においていよいよはなはだしく、それに饑饉あり、ペストあり、大いにモンテーニュの死に関する思索を刺激したにちがいない。(c)以下の追加は一五八八年以後に属するから、モンテーニュの最も晩年の思想を表出せるものとして、特に注意すべきであろう。そしてこの際もう一度、第一巻第十四、十九、二十章等に述べられている所を想起すべきであろう。ここに、一五七二年のいわゆるストア主義と、この晩年のエピクロス主義とを、両々対比すべきであろう。
 (b)セネカが死に対してみずから備えるためにした努力のあとを見、彼が確乎不動であるために血の汗を流したり、その止まり木から落ちないためにあんなに長いことじたばたしたりしたところを見ると、いささか彼の評判をくさしてやりたくもなるのだが、でも彼は、どうやら死にのぞんではなはだ勇敢にその評判にふさわしい終りをとげることができた。彼があんなに熱烈にあんなにしばしば興奮したことは、(c)彼が本来熱烈な性分であったことを示している。※(始め二重山括弧、1-1-52)強力なる霊魂は、より静かにより落ちつきて語る※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。※(始め二重山括弧、1-1-52)精神と霊魂とはその色を同じくす※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。気の毒ながら彼には、この彼みずからの句を十分にわからせてやらなければならぬ。また(b)ある意味においては、彼がその敵〔死〕に攻めたてられていたことを示してもいる。プルタルコスの態度はもっと侮蔑的な・もっとゆったりした・ものであるから、わたしの考えではそれだけ雄々しく・それだけ人を得心させるに足りる・と思う。つまりわたしは、この人の霊魂の方が、より落ちついた・より規則正しい・趣をもっていたと、容易に信ずることができる。前者は威勢がよくて我々を一どに感奮させ、むしろ我々の感情を突く。後者の方はもっと落ちついていて、不断に我々に教え我々を鍛え、むしろ我々の理性を動かす。(c)前者は我々の判断を一挙に奪い、後者はそれを徐々に従わせる。
 わたしはまた、それよりもっと尊崇されている書物で、それらの著者たちがみずから肉欲の刺激に対して行った抗争の状を描いているものをいくつか見たことがあるが、肉欲の刺激をあまりに切に・あまりに強く・あまりに敵し難いものに・描いているので、我々民衆のかすみたいな人間は、彼らの抵抗に感心するよりも、かえって彼らのこうむる誘惑の奇怪さとしつこさとに、ただただ感心させられるばかりである。
 (b)いったい何のために我々は、このように学問に精進することによってわが身を堅固にしようとするのか。地上を見よう。そこにはあのとおり哀れな人々がへばりついて、わき目もふらずにその業にいそしんでいる、アリストテレスもカトーも模範も格言も知らないで。つまり自然が、そういう人たちに、毎日、我々が学校で一所懸命に研究するそれらよりもずっと純粋で・ずっと堅固な・勇気や忍耐を、ちゃんと実践させているのだ。わたしは日頃彼らの間に、貧乏を何とも思わない者をいかに多く見ることであろう! 死を請い願う者・また恐れず悲しまずに死を通過する者・をいかに多く見ることであろう! そこにわが菜畠をたがやしている男は、つい今朝がた、その親父だか倅だかを埋葬したのだ。彼らが病気を呼びなす名称そのものが、すでにその病気のはげしさを和らげている。肺癆はいろうも彼らにとってはただの咳だし、赤痢は腹くだしだし、肋膜炎は風ひきなのだ。そして彼らはそれらを優しく呼びなすだけ、それだけそれらに堪えている。彼らが日常の仕事を休む時、病はすでに重い。彼らはいよいよ死ぬ時でなければ床につかないのだ。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)この単純にして誰にも近づきやすき徳は、忽ちにしてむつかしく・ややこしき・学問とはなりぬ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
 (b)こんなことをわたしが書いていたのは、我々の内乱の大きな重荷が、数カ月にわたって、ずっしりと、わたしのま上にのしかかった頃のことである。一方で敵**がわたしの門に迫ると、もう一方では泥棒が田畑を荒した。この方が一だんと悪い敵である。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)この敵は戦うに武器を用いず不徳を用う※(終わり二重山括弧、1-1-53)(出所不詳)。(b)わたしは一どきに戦争のあらゆる危害を経験したのである。

右にも左にも恐ろしき敵あらわれ、
危険はいよいよ四方よりわれに迫れり。
(オウィディウス)

何という異常な戦争だろう! 世の常の戦争は外に向ってなされるのであるが、こんどの戦争はまたも自分に向ってなされ、自分の毒をもって自分を噛み自分を害している。それははなはだ悪性で破壊的であるから、他のものとともに自分自身を滅ぼす。そして狂乱の極、自分を分裂させる。我々の見るところでは、この種の戦争は食糧の欠乏とか強力な敵とかによってではなく、むしろ自分自身のために潰滅することの方が多い。さあ戦争、となるとどんな規律も消えてなくなる。それは暴動をしずめようとしてやって来るが、かえって暴動に充満している。反逆を罰しようとしてやって来るが、みずから反逆の模範を示している。法律の擁護に用いられるが、かえってみずからの法律に対して謀反むほんの役割をつとめている。我々は一体どうなるのか。我々をなおそうとする薬が毒を含んでいる。

病は薬によりていやまさりぬ。
(ウェルギリウス)

我らの罪ふかき狂暴によりて
正邪曲直混同せられたれば、
今や神のまもり我らを去れり。
(カトゥルス)

* 同じく(b)の文章であるが、前文とこの文とは時を異にして書かれたことが動詞の時型によって推測される。実際彼の読書と執筆とは、内乱その他の事情のために、このようにしばしば中断されたのである。
** 一五八五年にはテュレンヌがひきいるユグノーの軍隊がモンテーニュ邸の周辺で盛んに乱暴を働いたのである。
 こういう人民全体を襲う病気となると、始めこそ健康な者と病人との区別もつけられるが、こうわが国におけるように長びいてくると、頭のてっぺんから爪の先まで国全体がこれに感染し、どの部分も腐敗墜落を免れない。まったく放縦くらい、がつがつと吸い込まれ・広く深く浸みひろがる・空気はないのである。我々の軍隊はただ外国のセメントでやっと結束を保っているにすぎず、今やフランス人だけで結束かたき忠実な軍団を作ることはとてもできない。何という恥ずかしいことであろう! そこには傭兵たちが見せてくれるだけの軍紀しかない。我々の方は、かえって勝手気儘に振舞っている。隊長の意志に従わず、それぞれの意志に従っている。だから隊長は、敵を押えるよりも味方を治めるのにいそがしい。従い・へつらい・折れて出るのは司令官の方で、いうことをきくのは彼一人っきり。残るすべては、我儘勝手の仕放題である。野心の中にいかに多くの卑怯と臆病とが隠れているか・野心がその目的を達するにはいかに多くの下賤と屈従とが必要であるか・それを目の前に見るのは痛快である。だが天性善良で正義の行いをしようとすればできるたくさんの人々が、毎日この混乱を操縦し司令しつつその身をともに腐敗させてゆくのを見ることは、いかにも悲しい。長い我慢はやがて習慣となり、習慣は同意と模倣とを生む。この世には悪く生れついた霊魂がすでに相当いるのだから、何もこの上善良高潔な霊魂までもそこなうには及ばない。この分でゆくと、運命がせっかくこの国に健康を返してやろうとなされるときには、もはやそれを受くべき人がほとんど残ってはいないであろう。

せめてこの若き英雄**の、
この乱世を救うを妨ぐるなかれ。
(ウェルギリウス)

* 王党の側ではスイス傭兵を、新教徒側ではドイツ兵を使ったのである。
** ウェルギリウスはここに当時二十七歳のアウグストゥスを指したのであるが、モンテーニュは法定の王位継承者アンリ・ド・ナヴァールすなわち未来のアンリ四世を想って、この句を引用しているものと推察される。
 (c)「兵士は敵よりも隊長を恐れねばならぬ」という昔の掟はどうなったか。また、一本のりんごの樹がローマ軍の陣営の中にとりこめられたが、あくる日軍が撤退した跡を見ると、その熟したおいしそうな果実は一つも失われずにその所有者に残されてあったという、あの驚嘆すべき実例は今はどこへいったか。わたしはわが国の青年たちがさほど役にも立たない遍歴や、さほど名誉にもならない習い事などにすべての暇をつぶさないで、その半分はロドス騎士団の騎士である名艦長が指揮する海戦を見学するために、他の半分はトルコの軍隊の規律をみとめるために、それぞれあてたらよかろうにと思う。まったくトルコ軍の規律となると、わが国の軍紀とは大いにちがい、また大いにまさっているのである。一例をあげれば、わが兵士どもは遠征にゆくといよいよ放縦になるのだが、トルコの兵士たちはますますひかえ目に慎み深くなる。なぜかというと、細民に対して危害を加えたり窃盗を働いたりすることは、平時ならただむち打ちをもって罰せられるだけであるが、戦争のときには首を斬られることになるからである。卵一個を徴発してもあらかじめきめられたとおり鞭打ち五十を食うし、その他どんな些細なもの・食料にならないもの・をとっても、立ちどころに串ざしにされたり首をはねられたりするからである。わたしは前代未聞の残忍な征服者といわれるセリムの伝記の中に、彼がエジプトを従えたとき、ダマス市の周囲にあった・おいしい果実の豊かにみのった・すばらしい果樹園が、いずれも開けっぱなしで垣根もめぐらされていなかったのに、少しも兵卒の手にけがされなかったという話を読んで、感心したことがある。
* マルト騎士団よりも前にロドス騎士団なるものがあり、ロドス島にたてこもってトルコ海賊の恐怖の種となっていた。一五二二年にロドス島がトルコ軍にうばわれてから後は、転じてマルタ島によったのでマルト騎士団と呼ばれた。しかし、それでもモンテーニュの時代には、まだロドス騎士団の名でとおっていたのである。
 (b)だが一国の中に、果してこのような劇薬〔革命運動〕によって撲滅しなければならないほどの病気があるだろうか。「ない」とファオニウスはいった。「暴君が一国の主権を奪い取ったときですら、そんな劇薬はいらない」と。(c)プラトンもまた、その国をいやそうとしてその治安をかき乱すことには賛成しない。改革が市民の流血と破滅とをひき起すことを許さない。正しい人の務めは、そういう場合、万事をそのままにしておくこと、ただひたすら神様がこれに非凡なみ手をさし伸べられるように祈念することだとしている。そして、彼の親友ディオンがそういう場合に少々ちがった手を用いたことを怒っているようである。わたしもこの点にかけては、プラトンという人の存在を知る以前からプラトン派であった。だがしかし、この人物は我々キリスト教徒の社会からは絶対にしりぞけられなければならない。彼は当時あのような暗黒の世の中にあったにもかかわらず、心の正しい人であったから、期せずしてキリストのみ光りに深くひたるみ恵みに浴したようではあるが、我々までが彼のような異教徒に教えてもらうのが、ふさわしいことだとは思われない。神様にむかって、人間の協力のまじらない・純然たる神様だけの・救いを乞い奉らないとは、何という不敬なことであろう? わたしはしばしばこんなふうに考える。「ああいう仕事〔革命運動〕にたずさわる人たちがああたくさんになると、中にはあれ程までに物のわからぬ手合がまじりこむのであろうか」と。だって彼らは大まじめで信じているではないか。「今こそ我々は最後最悪の変化をとおってだんだんと改善に向いつつあるのだ。最も確実に堕獄の原因となるようなことをあえてしながら、永遠の幸福を目ざしているのだ。神から授けられた政府や役人や法律をくつがえしながら、その母の四肢をもいで旧敵にくらわせながら、兄弟の心の中に親殺しの執念をふき込みながら、悪魔と狂乱の助けを呼びながら、神のみ言葉の最も聖なる慈悲と正義とのお手伝ができるのだ」と。(b)野心・吝嗇りんしょく・残酷・復讐は、その本来自然にもっている激しさだけではまだ足りないというのか。正義とか信心とかいう輝かしい名目によってそれらを燃やそう、あおりたてようとは! 邪悪が正当なものになり・それが役人の許しを受けて徳の外套を着る・ような世の中ほど、あさましいものがまたとあろうか。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)迷信ほど詐り多きものはなし。そは、神のためという名目が人々の罪悪を掩いかくせばなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。不正の最もひどいものは、プラトンによれば、不正なことが正しいもののように見なされることである。
 (b)おかげで庶民は、このとききわめて大きな損害をこうむった。それはただ現在の損害ばかりではなかった。

それほどまでに我らの田畠は、
残るくまなく荒されたり。
(ウェルギリウス)

未来の損害までもこうむった。生きている者がそこに苦しまねばならなかったばかりでなく、まだ生れ出ない者までが苦しまなければならなかった。庶民は、従ってわたしも、掠奪された。希望までも奪い去られた。末永く生きながらえるための貯えまでも、根こそぎ持っていかれたのだ。

彼らは持ち去るをえぬものはことごとくうちこわしたり。
かれら極悪人の集団は罪なき人々のわら屋に火を放ちたり。
(オウィディウス)

城壁の内側にありてすら安堵の思いなく
郊外は至るところほしいままなる掠奪に委せられたり。
(クラウディアヌス)

* 第二巻第十五章の終り、および第三巻第九章における叙述で見ると、モンテーニュの邸は無防備でいながらよく兵匪の害を免れていることがわかる。第二巻第十五章の追加(c)は一五九〇年ころに書かれたのであるから、この章(b)よりも後である。故に、ここに「従ってわたしも」とあるのは、彼自らが掠奪されたことを指すのではなく、彼の小作人のうけた損害が間接に彼の懐ろに関係して来ることをいっているのであろう。「従ってわたしも」というのは、自分も庶民の一人だというのでは勿論なく、「人民や小作人の労働の上に生活する我々は」というくらいの意味であろう。
 このような打撃の他にわたしはなお別の打撃をこうむった。わたしはこのような病的な時代に穏健中正であるために、いろいろな不幸をこうむった。わたしはあっちからも、こっちからも、こづきまわされた。わたしはギベリニ党にとってはグェルフィ党であり、グェルフィ党から見ればギベリニ党であった。このことをわが詩人の誰かがうまく言い表わしたが、どこで読んだのか忘れてしまった。わたしの家の位置やわたしの近所の人々との親交などは、わたしをある一つの姿に見せ、わたしの生活や行動は、わたしをまた別の姿に見せていた。そのために、決してはっきりした非難**はなされなかった。まったく、どこといって食ってかかるところはなかったのである。わたしは決して法に違背しないのだから、詮議だてをすれば、かえってする方がぼろを出したであろう。だからそれは、口にいわれず潜行的に流布する嫌疑であった。このように混沌とした社会には、そうした嫌疑のたねはいくらでもあるし、嫉妬する者も馬鹿な者もまたたくさんいるのである。(c)いつもわたしは、運命がわたしについて流布させる中傷的な臆測を助長してしまう。妙にわたしは、昔から弁解したり説明したりすることを避けるからである。わたしは自分の良心のために弁解なんかすることは、かえってそれを傷つけることになると考えているのだ。※(始め二重山括弧、1-1-52)最も明白なることが議論によりて不明となることあり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。だからわたしは、わたしの心の中が、まるで皆にわたしに見えるのと同様にはっきりと見えるようにしてやろうと、非難の前に尻ごみをせず、むしろこっちから進みでて、皮肉な・嘲弄的な・告白をやり、ますます非難をあおることになる。さもなくば、返答に値しないものとして全然相手を黙殺することになる。だがこれをあまりに高慢な自信だと見る人々も、これをわたしの立場が根拠薄弱で擁護できないからだと考える人々も、どちらも結局、わたしに対して御不満なのだ。わけてもお歴々方がそうである。そういう方々から見れば、服従しないということは非常な罪なのである。彼らは、自分の正しさを信じて卑下したり哀訴したりしないすべての正しい人に対して、苛酷である。わたしはしばしばこの柱にぶつかった。とにかく当時わたしが出あったような目にあったら、(b)野心家は絶望してみずから首をくくったであろう。守銭奴もまたそうしたであろう。
* ギベリニおよびグェルフィは、共に一一五八年以来ドイツを二分し、次いでイタリアを二分した二政派である。ドイツにおいては、ギベリニは皇帝派、グェルフィは法王派であった。すなわちモンテーニュは、神聖同盟派から見ればアンリ三世派ともナヴァール王派とも見え、プロテスタント側から見ればカトリック派に見られたのであった。
** モンテーニュみずからは家代々の宗旨をまもってカトリック教徒であったが、母と弟妹各一人が新教徒になった。近隣の友人の中には、両派こもごもあった。親交のあったトランス侯はカトリックであり、アンリ・ド・ナヴァールはプロテスタントであった。だから彼はアンティ・カトリックともアンティ・プロテスタントともとれたが、はっきりとはどちらからも敵視されなかった。
 わたしは少しもめこもうという気は持っていない。

われは今日わが持てる物を以て満足せん。
いな、要すれば、更に乏しきを憂えず。
ただわが望むところは、わが余生を、
ただわがためにのみ生きんことなり。
(ホラティウス)

だが、窃盗にしろ強盗にしろ、他人の害意から来る損失に対しては、ほとんど吝嗇の病にかかった男のように、わたしもくやしがる。害意の方が損失そのものより、くらべものにならぬくらいにがい。
 幾千のいろいろな不幸が、一つ一つ、相継いで、わたしをおそった。どかりといちどきにかたまって来たなら、かえって勇ましくそれに堪えたことであろう。わたしは前にも考えたことがある。年をとり困窮して不遇な境遇になった場合、わたしは友だちの間のいったい誰にたよることができるだろうかと。あっちこっち見まわしたあげく、わたしはただ身一つの自分を見出した。まっ直ぐに・あの高いところから・ころげ落ちるには、堅固な・強力な・運のいい・愛情の腕の中に、うけとめて貰わなければならない。だがそんなものは、よしあるにしても稀である。わたしは、わたしのこと、窮境にのぞんでのわたしの始末は、結局わたし自身に委せるのが一番確かだと、悟ったのである。もしも運命の恵みにおいて冷遇されるようなこととなるならば、いよいよますます自分自身の恵みにすがること・ますます自分自身にかまけ一そう自分自身を見まもること・が一番だと、悟ったのである。(c)どんな場合にも人間は、他人の助けにすがって、自分自身の助けにはすがろうともしない。だがこれだけが、もし使いこなせればこれだけが、ただ一つ確実で強固なつえなのである。みんなはよそに・未来に・駈けつける。誰一人として自分自身に到達しなかったからである。(b)そこでわたしはこう結論した。結局これはためになる不幸であると。なぜなら、まず第一に、悪い弟子は理屈でおっつかない場合は鞭を用いてでも、戒告しなければならないからである。(c)ちょうど、曲った木を真直ぐにもどすには火とくさびの力がいるようなものだ。(b)わたしはずいぶん久しい以前から、自分にすがれ・自分以外のものから離脱せよ・と自分に教えている。それにもかかわらず、なお眼をわきに向ける。誰かおえらい人の会釈だとか、その有難いお言葉、そのやさしいお顔が、わたしを誘う。だが、今ではそれらがいかに稀であることよ! しかもそれはどんな意味を帯びていることか! 神のみぞ知ろしめす。それでもわたしは眉をひそめることなく、わたしに世間に出てくるようにとすすめる誘惑に、耳を傾ける。そしてその断わりようは、はなはだぐずぐずで、むしろ説き伏せられるのを待っているかに見える。じっさい、このような言うことをきかない精神には鞭打ちが必要なのである。あの・独りでに割れ・はじけ・ばらばらにこわれる・樽は**、うんと木槌きづちでたたいて、それを締めなければならないのである。第二には、こんどの内乱は一層わるい場合に備えるための鍛練としてわたしに役立つかも知れないから。まったくわたしは、いくら運命の恵みにより、また自分の日常のおかげで、この暴風の最後の犠牲者でありたいと望んだところで、案外その最初の者になるかもしれないのである。つまりこんどの内乱は、前もってわたしに、生活を制限しそれを新しい事態に適合させるように、教えてくれるのだ。真の自由とは自分の上にどんなことでも成し得ることである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)最も力ある人とは自己を統御する人のことなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
* 「これは」は(c)の挿入の句を越えて前にさかのぼる。すなわち、内乱とこれに伴う様々の不幸を指す。これを有益だとする理由の第一は、いよいよ自分に頼るより仕方がないことを教えるから。第二は、これほどの不幸に日頃ならされていれば、最後に来る死もさほどには感じないであろうから。
** ペリゴール地方には、桶やたるの製造業者が多い。ぶどうの実る地方だからであろう。それから来た比喩である。モンテーニュはぶどう園の主人であり、ぶどう酒の商いもさせていた。Ch※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)teau-Yquem という銘酒はそのなごりである。
 (b)普通の平穏な時代には、人はただ、目だたないありふれた出来事に備える。けれどもこの三十年来我々がおかれているこのような混乱の只中にあっては、フランス人というフランス人は、個々としても全体としても、みな、四六時中、おのれの運命が今にも完全に転覆しそうな気がしている。それだけに強い・しっかりした・覚悟を、心にきめてかかることが必要なのだ。運命が我々を遊惰柔弱でもなければ退屈でもない世紀に生きさせてくれたことを、感謝しようではないか。他の方法ではとうてい有名にならなかったかも知れない男も、その不幸によって有名になれるかもしれない。
 (c)わたしは、歴史の中に他の国々におけるこの種の混乱を読むたびに、みずからそういう時代に生れあわせて、より良くそれをうち眺めることができなかったのを、嘆かないこととてはなかった。それほどまでにわたしの好奇心は強いので、こうして我々の総体死というめざましい光景が、その徴候とその容態もろとも、目のあたりに見られるということは、ある意味でわたしを喜ばしている。いや実際、わたしにはその総体死を遅らせることはできないのであるから、こうしてそれに臨みそれに教えられる運命をになったことを、むしろ満足に思うのである。
* 総体死とは、われわれが個々に、家の中で死ぬのに対して、われわれ総体が、全体として、公衆の目の前に死にざまをさらすことを指していったので、一国全体の滅亡という意味であろう。
 同じように我々は、人間の運命の悲惨な顛末が、芝居のそらごと・作りごと・の中にさえ示されるのを、熱心に見たがっている。
 それは耳に聞くだけでは同情が起らないからではない。むしろそういう世にも稀な憐れな出来事は、それを目のあたりに見てますます悲哀の感情をかきたてられることが好きなのである。刺さないものはくすぐりにならない。だからすぐれた歴史家は、おだやかな物語を溜り水やいだ海のように避け、とかく一揆や戦争の話に立ちもどる。よく我々の好みを知っているからである。わたしは自分の国の崩壊を前にしながら、いったいどんなふうにわが一生の半分以上を過したか、いかに僅かしかわが平穏な生活を犠牲にしなかったか、お恥ずかしくて正直には申上げかねる。わたしはもっぱらわたし自身に関係のない事件においては、案外たやすく我慢をする。そして自分を可哀そうに思う場合も、奪われたものの方はあまり考えずに、むしろわたしの内外において無事に残っているものの方を考える。順々に我々にうかがい寄り・我々の周囲の誰彼を一人一人打ち倒している・様々な不幸を、きのうも一つ今日も一つかわしていることを考えると、いくらか心が慰められる。また公の利害に関する問題においては、わたしの感情は一そう広範囲に注がれるから、それだけ緩和されるのである。それに正直なところ、大体※(始め二重山括弧、1-1-52)我らは公の不幸を、ただそれが我らの私の利害に関する範囲内においてのみ感ずるにすぎず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)なのである。それから我々の健康だって最初からご承知の通りのものなのだから、それを失ったからとてさほどに惜しむにもあたらないのである。それは健康とはいうものの、ただこれにつづいた病態にくらべての健康にすぎないのだ。我々はそう高いところからころげ落ちたわけではない。ただ高位高職の人々に行われる腐敗と横領とが、わたしには一番堪えがたく思われる。森の中で盗まれる方が、安全な場所で盗まれるよりはあきらめがつく。それは個々別々にいずれ劣らず腐っている幾多の部分の結合であった。その大部分のものは古い潰瘍でじくじくしており、直る見込みもなければみずから直ろうとも望んでいないのである
* アンリ三世の治世に対する大胆な批評と見られる。「それは」とあるのは、これまで述べて来た当時の腐ったフランス社会をさしている。次のパラグラフに「この崩壊」とあるのは、そういう腐敗し切った社会の壊滅をさしている。
 (b)だからこの崩壊は、ほんとにわたしを元気づけた。落胆させるどころではなかった。それは一にわたしの良心のおかげである。わたしの良心は、ただ静かに自分を持したのみならず、誇りかに自分を持していた。だからわたしは自分に食ってかからねばならないものは何一つなかった。それに、神様は決して人間に純粋の幸いや不幸をお与えにはならないもので、当時わたしの健康はいつも以上によくがんばった。実際わたしは、健康なしでは何もできない代りに、健康をもってわたしにできないことはほとんどないのである。健康はわたしに、わたしのあらゆる底力を振い起させ、もっと深く突き刺さったかも知れない傷をあらかじめうちはらわせた。実際わたしは、自分の忍耐のなかに運命に対する相当ながんばりを持っていること、またわたしを鞍から振いおとすにはよほど大きな衝撃がなければならないことを、痛感したのである。わたしがこういうのは、運命に向って挑戦し・より強力な攻撃を浴びせられ・たいからではない。わたしは運命の下僕である。わたしは彼女に手をさしのべているのだ。運命よ、もういい加減にやめてくれ! おまえも運命の攻撃を感ずるのかって? 感ずるとも。なるほど悲哀におしつぶされ握られている者どもが、なおときどき若干の快楽にでて貰っているように、そしてこっそりほくそえむように、わたしだって自分をおさえて、わたしの日常の生活を静かな・不快な思想を脱却した・ものにすることもできるけれど、しかし時々はやはり、あの不愉快な思いに噛まれる。それらの思いは、わたしがそれらを追い払おう・組み伏せよう・と努めるかぎり、いついつまでもわたしに打ってかかることをやめないからである。
 ここにまた、続いてもう一つ、いよいよ重い苦難がやって来た。わたしは家の内でも外でも、どこのよりも激烈なペストに見まわれた。まったく健康な体ほど重病にかかりがちであるように(なぜなら健康体は重病にでなければ負けないからだ)、はなはだ空気のよい当地方も(それは伝染がごく近くまでやって来てもついぞそれまでは侵入したことのない土地であったが)、一度その毒に侵されると、異常な結果を示したのである。

老いたるも若きも、もろともに墓に運ばれ、
誰ひとりとしてむごきプロセルピナをまぬかれしものはなかりき。
(ホラティウス)

わたしは自分の家を見るのが恐ろしくてたまらないという、おかしな境遇に堪えなければならなかった。家の中にあるすべての物はこれを守る人がいないので、これを欲しいと思う者のとるのに委せられた。わたしはあんなによくお客さまを泊めたのに、家族のための隠れ家を求めるのにたいへん苦労した。放浪の一家ともなれば、友達にも・身内の者にさえ・こわがられ、どこへいっても忌避された。一行のうちの一人の指の先が痛み出したというだけで、さっそく宿りを移さなければならなかった。あらゆる病気がペストと思われ、人はそれが何の病かきまるまで待ってはくれないのだ。なるほど医学の命ずるところによって、こういう危険に接したら四十日間はこの病気を警戒しなければならないというのも結構だが、その代り想像が、その間じゅう思うさまに君をびくびくさせ、君の健康までも熱病にしてしまってもいいと言うのか。
 すべてこうした事柄も、他人の苦労を自分の身に感じないでもすんだならば、そして六カ月にわたってこうした隊商のみじめな隊長を勤めないでもすんだならば、わたしをこんなにまで苦しめはしなかったであろう。まったく、わたしは自分のうちに解毒薬を持っているのだ。覚悟および我慢がそれである。恐怖の念は、これこそこの種の病気において最も心配されるものだが、大してわたしを苦しめはしないのである。またもしわたしが独り身であり、あえて逃げようと思ったなら、わたしはもっと威勢のよい・もっと遠くへの・逃走を試みたことであろう。こういう死に方も、わたしには最悪の死だとは思われない。それは一般に、短い・知覚のない・苦痛のない・そして大勢の者ともろともと思えばあきらめもつく・死なのである。儀式も・哀悼も・枕辺を取り囲む人も・ない死なのである。けれども、近所の人々はといえば、百人に一人も助からなかった。

牧場にも田畠にも、また森の中にも、
見わたす限り人影を見ることなかりき。
(ウェルギリウス)

この地方におけるわたしの最良の収入は小作のあがりであるが、かつて百人の者がわたしのために耕した土地もここ久しく打ちすてられている。
* モンテーニュは、家を離れて、異郷の空に、家族友人の泣き声もきかず、ただ一人で死ぬ気安さを述べている(例えば前出三の九、一一二八―一一二九頁参照)。ペストは伝染病であるから人が寄りつかない。結局これも一人で楽に死ねるから有難いというのである。
 さて、このとき、我々はこれらの人々の淡々たる態度の中に、いかに立派な覚悟の模範を見たことであろう。一般的にみながこの世の煩いをわすれた。この土地の重要な産物であるぶどうの房は、いつまでも枝にぶら下っていた。誰もかれも淡々として、今夜かあすかとその死を待っていた。その顔色といいその声といい、ほとんど恐怖を帯びることなく、まるでこの必然を甘んじて受けているかのように、これは皆がひとしく避けることのできない運命であると達観してでもいるかのように、見えた。そうだ。死は常に一般的で不可避なのだが、その死に対する覚悟は、どんなわずかなことにかかっているか。わずか数時間のちがいでみんな一つところにゆくのだと考えるだけで、我々の死に対する恐怖は一変するのだ。あの人たちを見たまえ。彼らは幼い者も若い者も老いたる者も、みな同じ月のうちにくのだと思って驚きもしなければ悲しみもしない。わたしはある男が、かえって生き残ることを恐ろしい孤独の中におき去りにされるかのように恐れているのを見た。いや、おしなべて彼らにはお墓の心配のほかには何もなかった。ただ彼らは、しかばねが野原に散乱し、たちまちにそこに群がり集る野獣の食うに委せられるのが、見ていられなかっただけである((c)なんと人間の考えはさまざまなのだろう! アレクサンドロスに征服されたあのネオリテス人たちは、わざと死者の体をその森の最も深いところにすてて獣に食わせた。獣の腹の中が彼らの間では最も幸福な墓場と考えられていたのである)。(b)ある者は健やかなうちに早くもその墓穴を掘った。ある者はまだ生きているうちからその内に横たわった。わたしの家の小作人の一人は、死にのぞむや、その手と足とで土を自分の上にかきよせた。より安らかに眠ろうと、夜具でもひきかぶるかのように。(c)これはその気高さにおいて、あのローマの兵士がカンナエの戦争の後にみずから掘った穴に首をつっこみ、みずから埋もれて窒息したのとあまりちがわない。(b)要するに一国全体が実践を通じて、研究によって得られたいかなる決心覚悟にもその堅固さにおいて少しもゆずらないほどの高い階段に、一挙に到達したのである。
 学者の・我々を激励する・教訓は、たいてい実力よりも体裁を・効果よりも装飾を・多分に持っている。我々は自然を捨てた。そしてその学問から学んだことを、自然に向って教えたがる。かつて自然が我々をあんなに幸福にまた安全に導いてくれたことをわすれているのだ。しかも学問は、自然がのこした教訓の痕跡を、また無知のお蔭であのがさつな野人たちの一群の間に今なお残っているごくかすかな自然の面影を、それらをもって自分の弟子たちの堅固と純情と平安との模範とするために、毎日借用にゆくことを余儀なくされているのだ。何というていたらくぞ。学問の弟子たちがあれほどたくさんに立派な知識をかかえながら、この愚者の単純を真似なければならないとは! しかもそれを彼らの最も単純な徳行のうちに真似なければならないとは! またわれわれ知恵ある人間が、動物にまで人生に最も必要大切な事柄に関する最も有用な教えを、例えばいかに我々は生きかつ死ぬべきか・いかに我々の財産を節約すべきか・いかに我々の子供たちを愛育すべきか・いかに正義を維持すべきか・などを、教えてもらわなければならないとは! これこそ人間が病んでいることの又とない証拠である。いや、我々の思いのままにねまわされるあの理性が、しじゅう何か新奇なものを見出しながら、少しも我々の間に自然の明白な痕跡をとどめないとは! まったく人間は、自然を香料屋が油を扱うようにとり扱った。つまり外部からかき集めた様々の論証推理を自然にまぜ合せた。だから自然は、各人にとってそれぞれ変ったものとなり、自然本来の恒常普遍な姿を失ったのである。さればこそ我々は、偏愛や誘惑や様々な意見に迷わされない自然の実証を、動物の許に求めにいかなければならないのである。まったく、彼ら動物といえども、常に必ずしも自然の正道に従っていないことは真実であるが、その正道をはずれることはきわめて僅かであるから、我々は彼らによって容易に自然の足跡を見出すことができるのである。ちょうど人が手綱をとって導くところの馬が、いろいろと跳ねたりあばれたりするけれども、その手綱の伸びる範囲を越えることなく、やはり自分を導く者の歩みに従うようなものである。また馴らした手鷹〔鷹匠の使う鷹〕が、飛びはするけれども、その皮紐の長さを越えないようなものである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)あらかじめ追放と拷問と戦争と病気と水難のことを考えおけ。いかなる不幸にあうとも驚かざるために※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
 (b)こんなにまで念いりに人間がおちいるあらゆる不幸をあらかじめ詮索して、いったい何の役に立つのか。おそらくは決して出あうことあるまじき不幸のためにそんなに苦労し準備して、いったい何の役に立つのか。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)悲痛に会いもやせんと憂うるは、現実の悲痛そのものと同じく人を悲します※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。ただに太刀先ばかりではない。太刀風も太刀音も我々をうつ。また、(b)最も熱に浮かされた者のように(まったくそれは一種の熱なのである)、いつか運命がこの身に鞭を加えることもあろうからと、今から鞭にあたってどうするのか。(c)降誕祭のときに入用だろうからと、聖ヨハネ祭の時〔七月〕から毛皮を着込んでどうするのか。(b)人々はいう。「君の身に起りうる様々の不幸を、特に最もひどい不幸を、進んで経験しておけ。そうやって自分を鍛え、そうやって自分を安心させよ」と。だが最も容易で自然な方法は、それらのことを考えさえもしないことであろう。〔或る人曰く〕「それらの不幸はさっさと来てはくれないであろうし、それらが本当に辛い期間はそう長くは続いてくれまい。どうしても我々の精神がそれらを拡げ伸ばさなければならない。そして前もってそれらと自分が一体となり、それらを身をもって味わっておかなければならない」。これではまるで、それらの不幸はただそのままでは我々の感覚に十分に重くないかのようだ。(c)「いよいよやって来て見ると、どんな不幸も相当に重いものだ(と先生の一人はいう。しかもそれは何とかいう甘い学派の人ではなくて最も厳しい学派の人**がいうのである)。だからその時が来るまではお前を可愛がってやれ。お前が最も信じたいと思う通りに信じていろ。お前の不運を迎えに出てどうするのか。未来の心配によって現在を失ってどうするのか。時が来ればちゃんと哀れな姿になれるのに、今から哀れな姿になってどうするのか」(これは彼の**いった言葉そのままである)。(b)学問はいつも、

憂いの数々によりて人間の精神を研磨しつつ、
(ウェルギリウス)

不幸の寸法を正確に我々に教えるという、すばらしい役目を果しているのだ。不幸の大きさの一部なりとも我々の感覚や認識につかまらないようでは、まったく残念至極である。
* 不幸に対してあらかじめ備えよ、というストア学者の口吻を、皮肉に真似ていったのである。モンテーニュの考えではなくてストア学者の考えである。それで便宜上括弧かっこに入れ、不幸から気をそらすがよいという彼の考えと切り離した。原書には引用符もなく、勿論改行もされず、つづいている。モンテーニュはよくこんな風に、相反する意見をごたごたとならべる。そして他人の意見の間に自分の意見を埋没させている。
** ストア学者セネカ。
 確かに大部分の人にとって、死の準備は死そのもの以上に苦しいことであった。(c)昔こんなうまいことをいった人がある。それはきわめて判断の正しい学者であった。※(始め二重山括弧、1-1-52)我らの感覚は、苦しみを受くることよりも苦しみを想像することによって、より多くおかさる※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クインティリアヌス)。
 死がすぐそこにあるという感じは、ときにそのまま「どうしても避けられないことだからもう逃げかくれしまい」という即座の決心となって、我々を元気づける。むかし多くの剣闘士たちは、始めはおそるおそる戦ったが、後には敵の刃の前にのどを差出し、敵にいどみながら、勇ましく死を飲みくだしたではないか。死の迫って来るのを見つめるには、ゆっくりと落ちついた・したがって容易に得がたい・確信を必要とする。(b)君はいかに死すべきやを知らなくても、なんにも気にすることはない。自然はその場で、十分に、遺憾なく、それを君に教えてくれるであろう。自然はこの役目を、間違いなく君のためにはたすであろう。今更そんなことに気をつかいなさるな。

人々よ、いつ、いずかたより、おん身の死到るやは、
知るによしなきことにこそ。
(プロペルティウス)

突然に不可避の不幸にあうは苦しからず。
長き危惧の中におかるるこそ、かえって苦し。
(プセウド・ガルス)

我々は死の心配によって生を乱し、生の心配によって死を乱している。(c)生は我々を憂鬱にし、死は我々を恐怖させる。(b)我々が備えるのは死に対してではない。それはあまりにもあっけないものである。(c)あとのない・害のない・ただ十五分間の・苦しみのために、特別の格言は無用である。(b)本当をいえば、我々は死の準備に対してこそ備えているのだ。哲学は我々に、「死を常に眼の前に見よ。その時が来る前からこれを予見し考察せよ」と命ずる。そして後から、この予見この思惟が我々の心をいたましめないように、もろもろの掟と注意とを与える。まるで医者たちがその薬とその術とを用いたいばかりに、我々を先ずもって病気の中に投げ入れるのとかわりはない。(c)もし我々が生き方を知らなかったなら、我々によい死に方を教えるのは間ちがっている。その尻尾だけを全体とちがったものにしようとするのは間ちがっている。もし静かに落ちついて生きることができたのならば、我々は同様に静かに落ちついて死ぬことができるであろう。彼らは威張りたいだけ威張るがよい。※(始め二重山括弧、1-1-52)哲学者たちの生涯はすべてこれ死の冥想なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)と。だがわたしの考えでは、なるほど死は生の末端ブーにちがいないが目標ビュではない。生の終極ではあるが決して目的ではない。生それみずからが、生にとってその目標・その仕事でなければならぬ。生の正しい研究とは、生を整え生を導き生に堪えることである。この「いかに生きるべきか」という総括的な肝要な一章は、他にいろいろな義務を含んでいるのであって、「いかに死すべきか」という項目はその内の一つにすぎない。いや我々の危惧がそれを重視しさえしなければ、それは中で最もつまらない項目なのである。
* モンテーニュは死に対して二つの態度をとった。一つは第一巻第十四、十九、二十章に説いているように、死に親しむことであり、もう一つは、第三巻第四章およびこの章におけるように、死を思想し想像することを回避することであった。前の態度を、ヴィレはストア的といい、後の態度をエピクロス的といった。だがアルマンゴーによれば、始めの態度もまたエピクロス説の真諦であるという。
 (b)役に立つこと・素朴な真実であること・によって判断するなら、単純なれとの教えは、学説が教えるその反対説に、さほど負けはしないのである。人間は好みにおいて、力量において、まちまちである。だから、ひとりひとりを、それぞれちがった道によって、その幸福へと導いてやらなければならない。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)嵐いずこの岸辺にわれを吹き寄すとも、われはそこの客とならん※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ホラティウス)。(b)わたしは近所の百姓たちが、「どんな態度・確信・をもってこの最後の一瞬を越えたものだろうか」なんて思いわずらっているのを、見たことがない。自然は彼らに、いよいよ死にのぞんでからでなくては死を思うなと、教えているのだ。しかもその時にのぞんでは、彼らの方が、死それ自体により・またその長い前からの予見によって・二重に苦しめられたアリストテレスよりも、はるかに立派である。それでカエサルは、「最も予想されなかった死が最も幸福な最もらくな死だ」という意見であった。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)いまだその必要もなきに思いわずらうは、必要以上に思い悩むにことならず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。想像の苦しさは我々の好奇心から生ずる。我々は先まわりして自然の命令を牽制しようと思い、いつもこのように自分を窮屈にする。丈夫なくせにわざとまずい食事をし、死の姿に眉をひそめるなどは、ただ博士がただけのあそばすことだ。あたり前の人間は、いよいよとならなければ薬も慰めもいらないのだ。死をただ感覚するとおりにしか考えないのだ。(b)結局我々のいうとおり、俗人の愚鈍と理解の欠如とが彼ら百姓に、現在の苦患に対するあのような我慢と・未来の不吉な事変に対するあのように深い無頓着とを・与えるのではなかろうか。(c)彼らの霊魂は鈍重であるが故に、それだけ動かされたり侵されたりすることが少ないのではあるまいか。(b)そうだとすれば、断然これからは愚鈍学派 ※(アキュートアクセント付きE小文字)cole de b※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)tise を開こう。これこそ学問が我々に約束する最後の果実であって、愚鈍学派こそはきわめて楽に、その弟子たちをそこまでみちびいてゆく。
 我々は自然の単純を説く良い先生たちに事欠きはしないであろう。ソクラテスもその一人であろう。まったくわたしの想い出すところでは、ほぼこういう意味で、彼は彼の生死を決定する裁判官たちに向って語っているのである。「わたしは恐れる。諸君よ。もしもわたしが『どうか死刑にしないでくれ』と嘆願するなら、けっきょく告訴者の思う壺にはまることになるであろうことを。なぜなら、彼らの弾劾は、『かれソクラテスは、人間の上および下にある物事について何か秘密の知識を持っているかのように、いかにもわかったような顔をしていてけしからん』というのだから。だがわたしは、死に親しんだこともそれを検査したこともないし、またその性質を経験した人にあってそれを学んだこともないのである。死を恐れる人たちはすでにそれを知っているものと予想されるが、わたしにいたっては死がどんなものであるかも、あの世にゆくとどんな風であるかも、知ってはいないのである。おそらく死はなんでもないことであろう。あるいは願うべきことであるかも知れない((c)けれども、もしそれが一つの場所から他の場所への移転であるとすれば、すでにあの世に行ったあんなに大勢のえらい人たちと一緒に暮すことは、そしてもう不正な腐敗した裁判官などを相手にしないですむことは、いくらかとくのいくことだと信ぜられる。もしまた我々の存在の寂滅であるとすれば、長い静かな夜に入ることもまた儲けものだ。我々は生きている間に、夢のない静かな深い休息睡眠ほど気持のよいものを感ずることはないのだ)。(b)わたしがこれは悪いことだと知っている事柄、例えば近所の人に迷惑をかけるとか・神にしろ人にしろ我々の上にある者に服従しないとか・いうことは、わたしも注意してこれを避ける。だがよいものか悪いものかわからない事柄は、それを恐れることができないだろう。(c)よしわたしが死んでゆき君たちがこの世にとどまっても、君たちとわたしとどっちが仕合せになるかは、ただ神々のみがみそなわされることだ。だからわたしに関しては、君たちがしたいように命令されるがよい。だが正しい有益な事柄を勧めるわたしのいつもの流儀に従うならば、わたしはあえていう。『わたしの問題をわたし以上に深く洞察する眼をもっているのでない限り、わたしを釈放する方が君たちの良心のためにはよいであろう』と。いや、わたしの過去における公私の行動により・わたしの意向により・また毎日あれほどに大勢の老若の市民がわたしの談話のなかから得ているところの利益により・またわたしが諸君のすべてに進呈している果実によって・判断するならば、君たちはどうしても、貧乏なわたしを公費をもって元老官舎に養うよう命ずるよりほかに、真にわたしの功績に報いることはできないのである。だがそれくらいのことは、しようとすればできるはずである。君たちはごくつまらない理由の下に、この特権を多くの者にゆるしたではないか。わたしが世の人の常にならって君たちに哀訴嘆願しないのを、強情や高慢のせいだと思ってはならない。わたしだって(ホメロスの言ったように木や石から生れ出たのではないのだから)、泣き悲しみながら命乞いにまかり出てくれる友達もあれば身内も持っている。いや君たちの同情をそそるに足る・三人の涙にくれた・子供も持っている。けれどもわたしのような年をして、しかも今こうして拘留されているほどの知恵の評判を得ておりながら、そんな卑怯な姿で君たちの前に膝を屈しては、我々の都市の恥になるだろう。人は何と言って他のアテナイ人たちを評するであろうか。わたしは常にわたしの講演をきく人々に向って、『不潔な行為によってその生命を取り戻してはいけない』とおしえて来た。そしてわが国の戦争のときには、アンピポリスでもポティダイアでもデリオンでも、その他わたしがいた如何いかなる土地でも、いかにわたしが自分の恥によって身の安全を全うしようなどと思わないかを、事実によって示したのである。それにわたしが哀願などしては、それこそ君たちの義務を傷つけ・君たちを醜い行いに誘う・ことにもなるであろう。まったく君たちが聴くべきことはわたしの嘆願ではなくて、公正に基づく・混りもののない・堅固な理由でなければならないのだ。せっかく君たちはそのように振舞うべきことを神々に誓ったのに、わたしが君たちに哀願しては、さも君たちが神々の存在を信ぜず神々をないがしろにしているかのように見えるであろう。いやわたしみずからまでが神々を信じないかのように、神々のおみちびきを信ぜず・自分のことを神々のみ手だけに委せきれず・にいるかのように、不本意ながら思われるだろう。わたしは何もかも神々にお委せしている。神々が事を君たちにもわたしにも一そうふさわしいように処理あそばされるであろうことを確信している。正しい人々は、生きている人も死んでいる人も、少しも神々に対して危惧の念を持ってはいない」と。
 (b)これこそ(c)素朴で健全な・同時に純真でわかりよく・(b)想像も及ばないほどに気高い・(c)あらゆる比類をこえて真実公正な・(b)申立てではあるまいか。しかもそれは、あんなにせっぱつまった場合に言われたのである! (c)ほんとうに彼が、大雄弁家リュシアスが彼のために準備した弁論にたよらず、自らあのような言葉を用いたのは道理ことわりである。リュシアスの弁論は法廷むきの文体で立派に書かれてはいたが、かかる高貴な罪人にはふさわしくないものであった。ソクラテスの口から一言でも哀訴の声がもれたならば、あの壮麗な徳はその最もあらわれるべき時に影をひそめたこととなろう。またどうして彼のように豊富で強力な性質の人が、その身の擁護を学術に委ねたであろうか。その身の最高の試錬にのぞみ、いつも彼の言論を飾る真実と率直を捨て、人から学んだ議論の粉飾をもっておのれを飾ったであろうか。彼がその高潔であった一生の節をまげず、かくまで聖なる人間の姿を汚さなかったことは、そしてその老衰の余生をたった一年延ばさんがためにこの輝かしい最期の不朽の記憶を裏切るにいたらなかったことは、まことに賢明なことであり、いかにも彼にふさわしいことであった。彼の一生は彼独りのものではなく世の手本とせらるべきものであった。彼がそれをつまらなく曖昧のうちに終えてしまったら、それこそ社会国家の損害ではないだろうか。(b)実に彼がおのれの死をこれほど無頓着に軽く考えたということこそ、後世をしてますます彼の死を重んぜしめるもととなった。実際後世はこぞって彼の死をあがめている。また同じ公正の中でも、運命が彼の徳をあらわすために生ぜしめた事柄くらい公正なる公正はないのである。まったくアテナイ人たちは、彼の死の原因をなした人々をはなはだしくみきらい、まるで破門でもされた人々のように彼らを避け、彼らの触れたものをことごとくけがれたものと考えた。誰ひとり浴場で彼らと共にすすがなかった。誰ひとり彼らに挨拶もせねば近寄りもしなかった。ために彼らは、とうとうこの公の憎悪を受くるに堪えず、みずから首をくくって死んだのである。
 もしかすると誰かが、「ソクラテスの言葉の中にはお前の問題に役立つ例がほかにいくらでもあるのに、まずいものを選んだものだ」というかも知れないが、つまりこのソクラテスの所論を、一般人の思想の及ばない高尚なものと判断するかも知れないが、わたしはわざとこれを選んだのだ。まったくわたしは、あべこべに判断するのである。これを素朴で普通人の思想よりずっとうしろに・ずっと低いところに・位するものと信ずるのである。彼は(c)作為のない生れつきの大胆さで、子供のような平気さで、(b)自然の純粋素朴な考えを、(c)無知を、(b)表現しているのだ。まったく、「我々は自然に苦痛を恐れるが、死をそれ自体の故に恐れはしない」という考えは、容易に信ずることができる。死は生とひとしく我々の存在の本質的な一部なのであるから。自然が我々に死の憎悪、死の恐怖を植えつけて、いったい何になろう。むしろ死は、自然のいとなみの継続と推移とを助成する上に、きわめて有益な役目をつとめているではないか。この宇宙においては、死こそ喪失や破壊の役目よりも、かえって出産や増加の役目を果しているではないか。
* モンテーニュはここにソクラテスの意見を高尚な哲学的なものと考えず、誰にも解せられ易い自然的なものと考えている。

くの如くにして宇宙は常に新たなり。
(ルクレティウス)
(c)一つの死より千の生命生る。
(オウィディウス)

 (b)一つの生命の消滅は千の他の生命への渡りである。(c)自然はもろもろの動物に、自分のこととその保存とに心をくばるように教え込んだ。彼らもぶつかったり怪我をしたり、人間にしばられたり打たれたりすることからこうむるいろいろな傷害や、その他彼らの感覚したり経験したりするすべての出来事を、恐れるところまではゆく。けれども我々に殺されることを恐れることはできないし、死を想像したり結論したりする能力も持ってはいないのである。(b)それで「彼ら動物は死を楽しそうに迎えるのみならず(大部分の馬は死にのぞんでいななき、白鳥は死を歌う)、いよいよ困ると進んで死を求める。それは象のたくさんの実例が証明するところである」とまでいわれるのである。
 それはともかく、ここでソクラテスが用いている論証の仕方は、単純さにおいても激しさにおいても同様に賞賛すべきではあるまいか。本当にアリストテレスのように語りカエサルのように生きることはむしろ容易で、ソクラテスのように語ったり生きたりするのは容易なことではない。ここには極度の完全と困難とが宿っている。それは学芸などのとうてい及ぶところではない。ところで我々の性能はそのように訓練されていない。我々は自分の性能を試しても見なければ認識すらもしていない。いたずらに他人の性能を借り着するばかりで、自分の性能はさぼるにまかせている。
 そういえば、誰かがわたしについても同じようにいうかもしれぬ。「彼だってあの本の中に、ただ他人の花を積み重ねているばかりではないか。彼のものといえばそれを束ねるひもばかりではないか」と。いかにもおっしゃるとおりである。そういう借り物の飾りがしょっちゅうわたしにつきまとっていることはたしかである。けれどもわたしとしては、そうしたものがわたしをおおいつくすことを、わたしをかくしてしまうことを、決して望んではいないのだ。それはむしろ逆なのである。わたしはただ自分のものだけを・天然自然に自分に属するものだけを・示そうと願っているのだ。だからもし自分の思いどおりにやったとすれば、わたしは何がどうなろうとも自分独りでしゃべりぬいたことであろう。(c)近頃わたしは時代の思潮・他人の勧告・に従って、わたしの素志・わたしの最初の流儀・には反するけれども、毎日ますます他人のものをしょいこんでいる。どうもわたしには似合わしくないようだが、仕方がない。でも誰かの役には立つだろう。(b)或る男はプラトンやホメロスを引合いに出すが、その実それらを読んだことはないのである。わたしもまた多くの引用を、その根源以外**の場所からとった。勉強もしないし学問もないが、わたしはここでこうして書いていながら、ぐるりと千巻の書物に取りかこまれているから、その気になればすぐにも今いったような大勢のおしゃべり屋から(ふだんはほとんどひもといたこともない面々であるが)、この人相論をちりばめるに足るだけのものは借りられる。どこかのドイツ人の巻頭言くらいもってくれば、わたしを引用句で充満させるのはわけのないことである。実際こんなふうにして、我々はいかにもおいしそうな名誉を求めに出るのである。愚かな人々をだましにゆくのである。
* 版を重ねる毎に引用句のふえたことを意味する。事実、一五八〇年、八二年版には引用句が少ない。大部分のものは第三巻の付加せられた一五八八年以後に増加されたのである。
** 原典から直接に引用されたものの外に、註釈書や格言集の類から、まご引きにされたものが少なくなかったのである。
 (c)こうした陳腐な言葉でこねあげられたものは(多くの人々はこのお蔭でその研究を手軽に片づけるが)、せいぜい平凡な問題にしか役立たない。物知りぶって見せるには役立つが、我々を指導するにはこと足りない。まことにばかばかしい学問の成果で、これこそソクラテスが、あんなにおもしろおかしくエウテュデモスにおいてやっつけたものである。わたしはある著者が、ついぞみずから研究したこともなければ理解したこともない事柄で盛んに書物を製造するところを、見たことがある。彼は学問のある友人のたれかれに、その書物を作りあげるあれやこれやの問題の研究を委ね、自分はただそういう計画をたてたというだけで、わけもわからずにため込んだたきぎの束を自分の工夫で積み上げたというだけで、満足してござる。彼のものといえばせいぜいインキと紙だけである。良心に問うて見れば、それは本を買うことあるいは借りることであって、本を作ることにはならないのである。それは人々に、あの男は本を作るだけの能力があるとは教えないで、むしろ案の定その能力がなかったと知らせるだけのことだ。(b)ある裁判長はわたしのいる前で、その判決の中に二百にあまる他人の所論を引用したと自慢した。(c)皆にそう吹聴しては、せっかくそれまで人から与えられていた栄誉をみずから取消してゆくようなものだ。(b)それはわたしから見れば、そういう問題・そういう人物・にとっては、誠に意気地のない・誠に間違った・自慢であると思う。(c)わたしはずいぶんたくさんの借用をしたが、ただその幾つかを、それぞれ新たな使い道のために変形しながら、盗むことができたのに満足している。「それは本来の意味を理解しなかったせいだ」なんていわれるのはもとより承知で、わざとある特殊の・自己流の・解釈をそれに加え、なるたけただの借り物ではないようにしたのである。(b)みんなはその盗品を並べたて数え上げる。だから法規の上では彼らの方が大目に見られる(c)我々ナチュラリスト**は、創案の名誉の方が、引用の名誉よりも、比べものにならないほど重んぜられるべきものだと考える。
* 世間一般の引用は、その出所が明記されていれば誰からも咎められない。モンテーニュは出所を示さずにしかも彼独特の意味をつけて引用するのでとかく問題にされたのである。本来の意味を理解していないと、古典学者からしばしば叱られたのである。
** 今日ならばポジティヴィストとでもいうところであろうか。観念論者、形而上学者に対する実証論者、借りものの思想家に対して実学者、実際家を意味するらしい。モンテーニュは書物や文字の註釈をするものを著者とは呼ばず、物事について書くのを真の著者だと考える。モンテーニュは自ら後者に属すると考えている。
 (b)もし学識によって語ろうと思ったのなら、わたしはもっと早くから語ったであろう。わたしの勉強時代にもっと近い時代に、才知も記憶ももっと多くあった時代に、書いたであろう。そして書くことを職業にしようと思ったのなら、今のように衰えた精力によりも、この若いときの精力の方に頼ったことであろう。(c)それに、運命がこの著述を仲だちとしてわたしに与えたものと思われるあの優しい好意もまた、もっと好都合な季節にめぐり合せたわけであろう。(b)わたしの識っている二人の人は、何れも学問において人に優れていたが、四十の年に世に出ることを拒み、六十歳になるのを待ったために、わたしの考えでは半分だけ損をした。成熟も未熟と同様にその欠点をもつ。それは一そう始末の悪いやつである。いや老年は、他のどんな業にも適しないようにこの種の業にも適しないのである。自分の老朽を印刷に付する者はよほどどうかしている。そこに、うとまれる者・夢見る者・眠った者・のにおいのしない考えが述べられると思ったら、とんでもないまちがいだ。我々の精神は、老いるにしたがって糞づまりになる。わたしは無知を、壮麗豊富に述べ、知識を、やせて見る影もなく、述べる。(c)後者は、仮にしかも時々、前者は、ことさらにそして主として、述べるのだ。そしてつまらないことでなければ何一つはっきりとは論ぜず、自分が無知であるという知識以外にはどんな知識をも論じない。(b)わたしはわたしの生を描かなければならないので、その全部を見わたすことができる時機を選んだ。残る部分はむしろ死に属するものである。ただわたしの死についてだけは、もしこれに臨んでなお他の人々のようにおしゃべりができるようだったら、多分、わたしもまた、いよいよおさらばをする時にその御報告をするであろう。
* グルネ嬢のモンテーニュに対する敬慕のことを指す。モンテーニュが始めてグルネ嬢に逢ったのは一五八八年モンテーニュ五十五歳、グルネ嬢二十二歳の時である。巻末の年表、第二巻第十七章の終頁、その註等参照。
 ソクラテスはすべての偉大な特質において完全な模範であったが、人々の伝えるようにあのような醜い・彼の霊魂の美しさに似合わしからぬ・姿と顔を持ち合せたということは、いかにもくやしいことである。(c)彼はあんなにも美にあこがれそれを慕っていたのに、自然は彼に対して不正であった。(b)肉体と霊魂とは互いに関係があり相似るものだという考えほど、本当らしいものはない。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)いかなる肉体の中に宿るかということは、霊魂にとりてきわめて重大なることなり。精神を鋭くしたり鈍くしたりする特性は、実にこの肉体より生ずるなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。こう言った人は、四肢の不自然な醜さと奇形とについて語っているのである。けれども我々は、あの一目見て感ずる・主として顔つきの上に宿る・そしてしばしばきわめて小さな原因から我々に嫌悪を催させる・不釣合をも醜さと呼ぶ。それは例えば、顔色とか、あざとか、何かぎごちない態度とか、完全に整った四肢の上に見られる何か説明できない小さな原因から来るのである。ラ・ボエシのはなはだ美しい霊魂を包んだ醜さもまたこの類であった。この表面の醜さは、否応なしに人目につくものではあるが、当人の精神状態にはさほどの害を及ぼさないし、これに対する人々の意見もまた、必ずしも確定してはいない。もう一つの・むしろ奇形と呼ばれる方がふさわしい・醜さになると、それよりはずっと本質的なもので、深く内部にまで影響を及ぼしやすい。つやのよい皮のすべての靴は、とはいえないが、形のよいすべての靴は、内部の足の奇形でないことを示す。
 (b)それでソクラテスも自分の顔の醜さについて、「もし教育によってわたしの霊魂を矯正しなかったら、この醜さはそっくりそのままわたしの霊魂の中にも現われたであろう」といった。(c)けれどもそれは、例によって彼の冗談であったと思う。いまだかつてあのような優秀な霊魂が、自ら成ったためしはない。
 (b)この顔や姿の美しさを、どれほどわたしが尊重するかは、幾度いってもいい足りない。それは力ある有利な特質なのだ。ソクラテスはこれを「束の間の権威」と、(c)プラトンは「自然の特権」と、(b)呼んでいた。実に人の信用を得るうえに、これ以上に力あるものはない。それは人間の交際において第一位におかれる。それは真先に出て来て、大きな権威驚くべき印象をもって我々の判断を魅惑する。(c)フリュネーもまた裳をひろげてその眩ゆい美しさで裁判官たちをとろかさなかったなら、どんなに優れた弁護士の手の中にあっても訴訟にまけたであろう。それに世界の主となったあの三人、キュロス、アレクサンドロス、カエサルも、その偉業を行いながらもこのことを忘れなかった。初代のスキピオもまた忘れなかった。ギリシア語では同一の語が美と善とを包括している。そして聖霊もまた、美しい、といいたい人々を、良い、と呼んでいる。わたしはプラトンが当時流行したものだといってある古代の詩人から引用している歌にならって、この世の仕合せを、健康・美・富・という順にならべたいと思う。アリストテレスは、「美しい人たちに司令の権は属する。またその美しさが神々の姿に近い者があれば、その人たちは神々のようにあがめられなければならない」といった。「なぜ人はより長く・よりしばしば・美しい者を訪れるか」と訊ねた者に対しては、「そのような問いは盲人にのみふさわしい」と答えた。大部分の哲学者、そしてその最も偉大な人たちは、その美と好意との仲だちによって、稽古料を支払い知恵を獲得した。
 (b)下僕においてばかりではない、家畜においてもまた、わたしは美と善とをほとんど同じものに見なしている。だがあの顔の相好、人が人間の内面的特質や我々の将来の運命を論証するときに根拠とするいわゆる人相にいたっては、簡単直截に、美醜の章の中に論じ去られるべきものでは確かにない。それは疫病の流行する時、すべての芳香および清涼の気が必ずしも健康を約束せず、すべて重苦しい空気が必ずしも感染を約束しないのと同様である。婦人たちにあってはその美とその行状とが一致しないと言ってとがめる人もあるが、それはいつも妥当だとはいい切れない。まったく、あんまり端正ではない顔の上に何かしら誠実の相が宿ることもあれば、逆に美しい眉根の間に心ねじけた危険な性質がほの見えることもあるのである。世には何となく頼もしそうな人相もある。じっさい、勝ちほこった敵に取り囲まれるとき、君はふと見知らぬ男たちの間にある一人を選び出して、これに降伏し、これに生命をあずけるであろう。だが、ただ美だけをよりどころにしてそれをしては当てがはずれる。
 顔つきは大して当てにならないものだが、それでも多少は物を言う。だから悪いやつらをむち打たなければならないときには、自然が彼らの額に植えつけた約束を裏切っているやつを、わたしは特にひどくぶんなぐるであろう。つまり善良そうな顔をした悪者を、特に厳しく罰するであろう。だが、どうやら得な面相と損な面相とがあるようだ。じっさい、善良そうな顔とお目出たい顔、厳格な顔と兇暴な顔、意地悪の顔と悲しげな顔、高慢な顔と憂鬱な顔、その他そのように隣りあった特質どうしを識別するのには、確かに相当な技術がいると思う。つんとしているだけでなく感じのわるい美人がある。おだやかな美人もあればそれを通り越してそっけない美人もある。だがこうした点によって将来の出来事を占うことについては、わたしは賛否いずれとも決定せずにおく。
 わたしはほかのところでもいったように、自分一個のためには、「我々は自然に従っていれば間ちがいない。至上の掟は自然に従うことである」という古人の教えを、きわめて単純率直に採用した。わたしはソクラテスのように、理性の力によってわたしの持って生れた性格をため直しはしなかったし、少しも人為的に自分の傾向を妨げはしなかった。わたしは連れて来られたように連れてゆかれる。少しもあらそわない。わたしの主要な二つの部分〔霊と肉〕はうっちゃっておいても静かに仲よく暮している。だがそれはわたしの乳母の乳が、有難いことに中ぐらいに健康温和であったからだ。
 (c)ついでもう一ついい添えれば、世間ではいま、規則の奴隷となり・希望と恐怖との下につながれている・あるスコラ的清廉の見本みたいな奴が、値打以上に買いかぶられて、そんなのばかりが我々の間で幅をきかしているように見受けられる。だがわたしの愛する廉直の士とは、法規と宗教とででっち上げられた人ではなく、ただそれらによって仕上げをされ権威の加わった人のことである。ほかのものの助けをかりないでもみずから立つだけの力ありと感ぜられる人であり、自然にもとらぬすべての人間に刻みつけられている普遍的理性の種子から生れて、自分自身の根をもって生い育った人のことである。実にこの理性こそ、ソクラテスをその悪い傾向から立ち直らせ、彼をその町の支配者たちおよび神々に従順ならしめ、死に際して彼を勇敢ならしめたのである。だがそれは、彼の霊魂が不死であるからではなく、彼が死すべき者であるからであった。ただ宗教的信仰さえあれば、品行がそれに伴わないでも、神の公正を満足させるに十分であるかのように民衆に信じさせることは、すべての国家を危うくする教えであり、巧妙精緻を通り越してはなはだ有害な教えである。経験は我々に、信心と良心との間に大きなへだたりがあることを教えている。
 (b)わたしはその顔だちから見ても、その人に与える印象から見ても、得な顔を持っている。

いや、「持つ」とはもはや言いえず。クレメスよ。
「持ちき」とこそ言うべかりけれ。
(テレンティウス)
ああ、今やおん身は、わがうちに、ただ、
肉おちし骸骨を見るばかりなり。
(プセウド・ガルス)

 それはソクラテスの顔とはあべこべの印象を与える。単にわたしのどっしりした風采や態度を信じただけで、少しもわたしを知らない人々までが、あるいは彼らみずからの問題に関し、あるいはわたしの問題に関して、大いにわたしを信頼したことがしばしばあった。また外国にいっても、わたしはそのために特別稀な好遇を受けた。だが次の二つの経験は、おそらく特に物語るだけの値打があろうと思う。
 或る男がわたしの家とわたしを襲おうと決心した。そのために彼は、わざとたった独りでわたしの門にたどり着き、かなりしつこく入れてくれとせがむのであった。わたしは彼の名を知っていた。それに近所の人でもあり多少は縁つづきにも当るというので、わたしは彼を信用する気になった。そこで門をあけさせた。(c)いつもと同じように。(b)入って来るのを見ると、彼はすっかりおびえたさまで、馬も疲れて息をきらしていた。彼はさもまことしやかに、こんなことをいった。「私は今ここから半里ばかりのところで、敵の一人に襲われました(その男もわたしは知っていた。そして二人の仲の悪いこともかねて聞きおよんでいた)。敵の私を追うことすこぶる急でした。不意のことではあり、数においても敵しがたく、とうとう御当家におすがり申したわけでございます。手下てしたのものどもも、どうなりましたやら、おそらく殺されたか生捕られたことでございましょう」。わたしはすっかりそれを本気にして、彼を励まし・落ちつかせ・元気を回復させることに骨折った。しばらくすると、彼の部下が四人五人と、同じように恐れおののいたさまで立ちあらわれ、やはり入れてくれとせがんだ。そんなふうに、あとからあとからと、立派に武装した兵士どもが、けっきょく二十五人か三十人も、いかにも敵に追われたていを装ってわたしの門に立ったのである。(c)あまりの不思議さに、やっとわたしも疑いをいだき始めた。(b)わたしは自分がどんな時代に生きているのか、またどんなにわたしの家がうらやみのまとになっているかを、知らなくはなかった。それに、わたしの知人が同じような災難にあったためしも、たくさんに承知していた。だが、ここをこのままやり通さなければ、せっかく敵に好感を与えかけたかいもなくなると思ったし、すべてをぶちこわさないかぎりとてものがれる道はないと観念したので、わたしはいつものように、最も自然で単純な道をとった。すなわち「入れてやれ」と命じたのである。――それに、ほんとうにわたしは、生れつきほとんどあやしんだり疑ったりしないのだ。いつも人の言い訳を本気にし、それを最も好意的に解釈するのが癖なのである。わたしは人々を、みな尋常普通の人として受け取り、特別大きな証拠を見せられない限り、あのよこしまな不自然な傾向は、怪物や奇跡と同様に信じないのである。その上わたしは、常に自分を運命にまかせきり・おとなしくその腕に抱かれて運んでゆかれる・男なのである。このことについて、わたしは今までのところ、悔むよりは喜ぶ理由の方を多くもった。そして運命の方がわたし以上に、わたしの問題に対して理解もあれば親切でもあると思った。なるほどわたしの一生の中には、当然、「その処理にはなかなかお骨が折れたろう」とか、「お知恵を要せられたろう」とさえ、いわれてよい事柄もいくらかある。だがそのような行為だって、その三分の一くらいはわたしのものだとしても、実に三分の二はたっぷり運命のものなのである。(c)我々は我々のことを十分に天に委ねず、分をこえて我々の処理をたのみすぎると、とかく失敗するようである。それであんなにしばしば我々の企図は的をはずれるのである。天は我々が、天の知恵の権利を侵蝕してまで、人間の知恵の権利を拡張するのをねたみ、我々がこれを拡大すればするほど、これを縮小する。(b)――兵士どもは馬にまたがったまま庭の中に立った。頭目はわたしと一緒にわたしの室にいた。彼はさきに、部下の消息さえ判明すればさっそく退出せねばならないからといって、その馬をうまやに入れることを欲しなかった。今や企ての鍵は彼の手のうちにある。残るところはただ実行だけであった。後日彼はしばしば語った(まったく彼はこの話をすることをはばからなかった)。わたしの顔付とわたしの率直とが、彼の手の中から裏切りをもぎ取ったのだと。彼は再び馬上の人となった。部下のものどもは頭目がどんな合図をするかと一せいに彼の上に眼を注いでいたが、彼がみすみすその獲物えものをすてて門を出てゆくのをただ茫然として見ていた
* この話は、一五八六年夏の頃のことであったらしい。
 またあるときのことである。折しも我々の軍隊の間に公表されたある休戦を信じて、わたしは異常に不穏な地方を通って旅に出かけた。それが伝わると、たちまちに三つも四つもの騎兵隊が、あっちこっちから立ち現われて、わたしを捕えようとした。とうとう三日目にその一隊がわたしに追いつき、わたしはそこで弓騎兵の一列を従えた覆面の騎士十五ないし二十騎に襲われた。わたしはたちまちに取っつかまり、降参させられ、近くの森の奥につれこまれ、馬からおろされ、行李はあばかれるし、ひつの中はかきまわされるし、金箱は取り上げられるし、馬や馬具などはみな新しい主人たちの間に分配されてしまった。我々は長いことそこの草むらの中で、わたしの身代金について言い争った。恐ろしく高値をふきかけたところを見ると、わたしがどこの誰だか知らないらしかった。彼らはわたしを生かすとか殺すとかで、盛んに言い争った。本当にそのときこそ、たくさんの事情が、さまざまな危険をもってわたしを脅威していたのである

(c)この時こそ、アエネアスよ、勇気と決心とを要する時なりき。
(ウェルギリウス)

(b)わたしはどこまでも休戦をたてにとってゆずらなかった。「折角お前たちが奪いとったものだけはくれてやろう。それだけだって決して馬鹿にはならない。だが身の代などは絶対に払わん!」と。我々は二、三時間もそうやって言い争ったが、とうとう彼らは、わたしをまったく逃走する恐れのないほどよぼよぼの馬にのせ、わたし独りの護送を十五ないし二十名の銃士に委ね、またわたしの部下の者どもは幾組かにわけて残りの銃士たちに委ね、それぞれ別々の道を捕虜として連れてゆくように命じた。ところがそうやってかれこれ二、三町も行ったかと思う頃、

早くもポルクスとカストル**とに祈れるとき、
(カトゥルス)

突然、きわめて思いがけない心変りが彼らをとらえた。わたしは頭目が、言葉を和らげて再びわたしに近づいてくるのを見た。彼は骨を折って、散りぢりになったわたしの衣類などを隊のあちこちから捜し出し、それが見出されるにしたがって、はては金箱までも、そっくりそのまま返してくれた。彼らがわたしに捧げた最良の贈り物は、結局わたしの自由であった。他の物などは、(c)その時は(b)どうでもよかったのである。前もって計画された・そして習慣上正当と見なされている・この種の企て〔休戦中敵地を通過すること〕において(まったくわたしは、始めからわたしの属する党派も目指す行先さえも、公然と彼らに告げたのである)、こういう珍しい心境の変化が、表面に何らの衝動もあらわさず、あのような不思議な後悔をもって、しかもあそこまでいってからおこなわれたその真の原因は、そもそも何であったか。それはわたしに今もってわからないのである。ただ、中でひときわ目立つ一人の男が覆面を脱いでわたしの前に名乗ったが、そのとき彼は幾度も繰り返して、「ここにあなたが釈放されるのは、あなたのお顔と大胆で譲らない物の言いっぷりとが、あなたがこのような脅迫におあいになるにはふさわしくないことを明らかにしたからです」といい、そして「今後拙者が同様の災難に会った場合は、どうか同じようにお願いしたい」とつけ加えた。かく神の慈愛はこの空なる道具***を、わたしを救うがためにお用いになったのかも知れない。その翌日もまた神様は、今の連中が予告してくれたもう一つのさらに悪い待伏せから、わたしを守って下さった。後の場合の男は今もなお生きていて、この事実を物語ってくれる。前の男はつい先ごろ殺された。
* これは一五八八年春の頃、オルレアンに近いヴィルボワの森林中で起ったことだという学者もある。
** 神話によると、カストル、ポルクスの兄弟は、ルシプスの娘をさらったとあるが、モンテーニュはここで、「そのように、誰か自分をこの不幸の中からさらってゆけ。ねがわくは天帝われを召し給え」と祈ったのである。ただそれだけの意味で、モンテーニュは、このカトゥルスの句を引いたものらしい。
*** 人相、容貌を指す。――これは一五八八年二月の出来事である。本書巻末年表一五八八年の項および『モンテーニュを語る』一六四頁参照。
 もし顔がわたしに代って答えないならば、もし人がわたしの眼わたしの声のうちに、わたしに二心のないことを読みとってくれないならば、この通りいつも心に思うことは縦横無尽にいってのけ・物事を大胆に判断する・傍若無人な自由をとってゆずらない・このわたしが、喧嘩にも傷害にもあわないでこんなに長く生きながらえることはなかったろう。この流儀は当然無作法にも見え、また我々の習慣にふさわしくないものとも見えるだろう。だがさすがにこれを、人を傷つける・悪意のある・仕打ちとは誰も判断しなかったし、わたしの無遠慮な言葉に腹を立てた者さえもなかった。あったとすれば、それは直接わたしの口からきいた者ではない。人づてにきく言葉というものは、別の響きばかりでなく別の意味を帯びるからである。それにわたしはなんぴとをも憎まない。いや人に危害を加えることがとても嫌いで、よし道理を守るためであっても、わたしにはそれができないのである。だから機会がわたしに罪人の処刑をさせようとしたときには、わたしはむしろ判決をさけた(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)われ人の罪を犯さざらんことを望むも、犯されたる罪を処刑する勇気さえもなし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ティトゥス・リウィウス)。ある人がアリストテレスに、彼がよこしまな人に対してあまりにも慈悲深いのを咎めたところ、こう答えたそうだ。「本当にわたしはその人に対して慈悲深かった。だが、悪そのものに対してはそうでなかった」と。ふつう裁判は、犯行を恐れるあまりその報復に熱中する。だが、同じことがかえってわたしを冷静にする。第一の人殺しが恐ろしければ、第二の人殺し**がこわくてできない。そして罪人の残忍を憎めば憎むほど、そのあらゆる模倣***を憎まずにはいられない。(b)わたしには(わたしはトランプでいえばクラブのジャックみたいな取るに足らない人間だが)、スパルタ王カリラオスについていわれたことが、すなわち、「彼は善人でありっこない。悪人どもに対してひどく当らないから」ということが、あてはまるかも知れない。だがこうもいえよう。まったくプルタルコスは同じことを、例によって次のように解釈している。すなわち別様に、あべこべに、解釈して、「彼はどうしても善人であるに違いない。悪人に対してさえもやさしいから」と言っている。わたしは、いくら正当な行為でもそれをいやがる人々に向ってするのはいやである。その代り正直にいうと、不正な行為でも、それを喜ぶ人々に対してならば、案外気が咎めずにすることができる。
* 裁判所を欠勤したのか、どんな判決も下さなかったのか、それともまた、法規に反してもあえて死刑の宣告を下さなかったのか。何れの意味にもとれる。
** 第二の人殺しとは、死刑の宣告をすることをいう。
*** 諸種の残酷な刑罰を指す。
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第十三章 経験について



 この章は『随想録』の結論とまでは言えないにしても、少なくともその最後のまとめにはなっている。
 先ずモンテーニュは、ここにいよいよその知的方法を確立し、その真理探求における最後的な態度を明らかにしている。恐らくそこにこの章の中心があるであろう。すなわち、彼は観念が構築し捏造するもろもろの学問を全面的に排斥し、忠実な事実の観察のほかに学問はありえないと断言する。人間の推理がとかくおちいりがちな誤謬迷蒙を補填修正するためには、経験すなわち事実の中に強力な拠点を見出そうと言う。こういう実証主義の精神は、彼においてはかの「レーモン・スボン弁護」の当然の帰結であるが、当時の一般から見れば相当思いきったいわば危険思想であったに違いない。言うまでもなく、それはまだベーコンもデカルトも出ないその前のことである。
 それから、モンテーニュはこの章において自己を描くことがいよいよ精細である。それは往々にして当時の人々の意表に出て、ときに彼らに眉をひそめさせることをさえあったが、これは彼の moi こそ、彼が最も直接に把握し検査しうる事実であると信ずるからであろう。また、すでに第三巻第二章においていっているように、「人間はそれぞれ人間の本性を完全にその身にそなえている」と信ずるゆえに、彼は自己の研究をそのモラルの基礎ないし出発点と考えるからでもある。それに彼の思いきった自叙、ことにその生理の告白は、相当彼の危険思想をカムフラージュするにも役だったであろう。そして最後に、モンテーニュの道徳的態度が、すなわち彼の知恵或いは悟りともいうべきものが(それは第三巻第四、五、九、十、十二章等にすでにくりかえし述べられたものだが)、特にここにきわめて力強く、しかもすこぶるなごやかな美しい調子で述べられている。それは幾度となく読みかえしたくなるおだやかな文章である。

 (b)およそ知識欲くらい自然な欲望はない。我々は我々を知識へつれていってくれそうなあらゆる方便を試みる。道理で追っつかないときは経験に訴える。

(c)先例は我々に行くべき道を示し、
経験はさまざまの試みを重ねて学芸を生む。
(マニリウス)

(b)経験は道理ほどの力もなく重みもないが、真理はきわめて大切なものであるから、我々をそこに連れてゆきそうなどんな方便をも軽んじてはならないのである。道理もたくさんの形を持っていて我々はそのどれによったらよいか迷うのであるが、経験もそれに劣らずいろいろである。我々はもろもろの事件を比較してその類似点から結論をひき出そうとするが、そうした結論は不確実である。事件というものは、いつもどこか相違しているものであるから。実に相違・多様・くらい、物事の外観において普遍的な特質はない。ギリシア人もラテン人も我々も、相似の最も明白な実例として卵をとる。だがその卵の間にさえ相違点を認めて、決して取りちがえなかった人々があった。特にデルフォイにはその名人がいた。(c)彼はたくさんの雌鶏めんどりを飼っていたが、どの卵がどの雌鶏の産んだものであるかを判断することができた。(b)相違は独りでに我々の仕事の中にもぐりこむが、どんな技術も同一に到達することはできない。ペロゼ〔カルタ製作の名人〕だろうが誰だろうが、そのカルタの裏をいくら丹念に磨き込んだってだめである。遊戯者は、それが手から手へと滑っていくのを見るだけで、たちまちにそれと識別する。類似は、相違が物を別に見せるほどには物を一つに見せないのである。(c)自然は、相似ざるものでなければ何一つ作らないようにつとめているのだ。
* デロス島とあるべきところである。モンテーニュはここに Delphes とかいているが、源泉キケロにさかのぼると Delos の人々にこの能力があったと書かれている。
 (b)だから、たくさんの法規を設け法官たちの職務をこと細かに規定することによって、彼らの権力を拘束しようと考えた人の意見は、どうもわたしの気にくわない。その人は、法律法規は作れば作るほど、その解釈も自由に幅広くなるものだということを、知らなかったのだ。また、聖書の明文をかつぎ出すことによって、我々の争論を局限し阻止しようと考える人も、どうかしている。なぜなら我々の精神は、他人の意見を批判する場合にも、自分の意見を陳述する場合に劣らず、少しも拘束されないからである。じっさい、註釈をするときの方が、自説を述べるときほどに、怨恨やとげとげしさが入りこまないなんて思うのは、とんでもないことである。我々にはその間違いであることが実によくわかる。まったくわがフランスには、世界の残りの部分全体におけるよりも、さらに一そう多くの法律がある。エピクロスのすべての世界を規定するにもこれほどはいるまいと思われるほどに、たくさんあるのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)われら嘗て犯罪の多きに苦しみしが、今や法令の多きに苦しむ※(終わり二重山括弧、1-1-53)(タキトゥス)。(b)しかもその上、裁判官たちに勝手な解釈や判決をすることをゆるしたのであるから、これほどに強力な・これほどに気ままな・自由は、未だかつてなかったといわなければならない。我々の立法家は、十万の特殊な事件や事実を選び出し、これに十万の法規を結びつけて、一体どれほど得るところがあったか。この数は、人間の行為が限りなくいろいろであることにくらべたらその何万分の一にも及ばない。いくら我々の条文を増加したって、とても事例の多種多様には応じ切れないであろう。さらにそれを百倍にふやして見たところで、将来の出来事の内のどれかが法文の中に選抜規定されている数百万というたくさんの出来事の中のどれかにきちんとあてはまり、そこにはもういろいろな異なった判断見方を必要とするいかなる特異な事情も絶対になくなるというようなことには、とてもなりっこないのである。絶えず変化してやまない我々の行動と、固定して動かない我々の法律との間には、ほとんど何の関係もない。最も願わしい法律はその条文の数が最も少ないもの、最も単純で一般的なものである。いやそれどころか、我々のようにあんなに多数の法律を持つよりは、むしろ全く持たない方がよいくらいに、わたしは思っている。
* 『ローマ法大全』を編集させた東ローマ皇帝ユスティニアヌス。
 自然は常に、我々がわれわれみずからに与えているものよりもずっと幸福な法律を我々に与えている。詩人たちの黄金時代の叙述がよい証拠であるし、またもろもろの民族が、自然の法律以外には何ももたずに、きわめて幸福に暮しているのを見てもわかる。ある民族は裁判官なんか一人ももたず、何か争いごとが起ると、その山路で行きあう最初の旅人をとらえてこれに仲裁をたのむ。またある民族は、市日に仲間の中の誰かを選び、これにその場であらゆる訴訟を決定させる。こんな風に我々の間でも最も賢明な人々がただその場合々々に目に見るところだけを基にして、先例や後に及ぼす結果などには少しも拘束されずに訴訟を解決することにしたら、どんな危険があるというのか? それぞれの足にその靴がある。王フェルナンドはインドに移民を送るに当り、この新しい世界に訴訟ごとがふえるといけないと、賢明にもここに法学者をただの一人も連れてゆくなと命じた。思うにこの法学なるものは、本来、いがみ合いと分派との母であるからだ。また王がプラトンにくみして、法学者と医者とは国のために悪しき資源であると判断したからである。
 なぜ我々の日常の言葉は、他のどんな用に供せられてもあんなにやさしいのに、契約だとか遺言だとかになるとああも曖昧な・わかりにくい・ものとなるのか。また何をいうにしても書くにしてもあんなに明瞭に物をいう人が、このこととなると曖昧と矛盾とにおちいらないどんな表現をも見出しえないというのは、いったい何故であるか。ほかでもない。この道の王者たちは、特殊な注意をもって荘重な単語を選抜し、巧緻な文章を編もうと心をくだき、各つづりをあまりにも計量し、それぞれの結びめをあまりにも丹念に詮議したため、とうとうごらんのように、ややこしい句形と限りなき句切りのなかに巻きこまれて、出られなくなってしまったのである。それでいよいよ彼らのいうことはどんな規則規格にもあてはまらず、もはやどうにも明確には理解しようのないものになり終ったのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)すべて粉末になるまで分解さるれば識別すること難し※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)子供たちが水銀の塊をある数に分ち並べようと骨折っているところを見たことはないか。これを抑え固めて自分の欲するところに従わせようと努めれば努めるほど、ますますこの高貴な金属のわがままをあおりたてるばかりである。水銀は子供たちの工夫に従わず、まったく勘定できないほど細かくなって分れ散る。これと同じことである。まったく、あのように節をこまかく分てば分つほどますます疑惑を増させるばかり、我々の困難をいよいよ大きく多様にするばかり、いよいよ困難を長びかし散らばらすばかりである。もろもろの問題を散らばしたり、それらをさらに小分けすることによって、人はこの世に不確実と喧嘩とを実らせはびこらせる。(c)ちょうど土地が細かにふるわれ深く耕されるにしたがって、いよいよますます肥えてゆたかになるように。※(始め二重山括弧、1-1-52)困難を産み出すは学説なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クインティリアヌス)。(b)我々はウルピアヌス**によって疑い、バルトルス**およびバルドゥス**によってさらに恐れる***。どうしても諸説のこの限りない異同の痕を消さなければならない。そんなもので自分を飾ったり後世の人の頭をふくらませたりしてはいけない。
* 中世錬金術において、水銀はすべての金属の根元と見做されていた。
** バルトルスもバルドゥスもウルピアヌスも、法文の註釈家として有名。註釈を参照し始めると、疑いはそれからそれへと重なって切りがない。
*** モンテーニュは贈収賄や売官などによる弊害よりも、法規・条文の繁多とその牽強付会から生ずる不正とを恐れている。その方が一層突き止め難く、またそれだけ悪質だと考えるからである。ビュデやラブレーも法文の勝手な解釈から生ずる弊害を論じているが、モンテーニュは、彼自らの長年の法官生活を通じて、その弊害をより一層切実に実感していたと思われる。
 この問題についてはわたしは何もいえないが、それでもこんなに解釈が沢山になってくると真理が分散し破壊されるということだけは、経験でわかる。アリストテレスは理解されるように書いた。もし彼にそれができなかったとすれば、自分自身の思想を論じている彼よりも才能の足りない第三者には、なおさら理解できるわけがなかろう。我々は問題をひろげる。それをゆるめて延ばす。一つの主題を千にする。そして、増加したり分割したりして、またもやエピクロスの無限の原子にもどる。いまだかつて二人の人が同一の物を同様に判断したためしはない。正確に類似する二つの意見を見ることは不可能である。それはただ異なった人々同士においてだけではなく、時を異にすれば同一人においてさえそうである。いつもわたしは、註解者があえて触れようともしなかった点に、かえって疑うべきものを見出すのである。わたしは平坦な土地だとかえってよくつまずく。わたしの知っている馬どもも、平らな道を行く時にかえってしばしばつまずくのである。
 誰でもいうではないか。註釈は疑いと無知とを増加すると。まったく、人間のものであろうと神のものであろうと、人々が熱中する書物で、解釈のためにその難解が取除かれたものは、ただの一冊もないのである。百人目の註解者がその次の人に渡したその原典を見たまえ。それは最初の註解者の見たものよりもずっと取っつきにくく困難なものになっている。いったいいつになったら我々は一致するのであろうか。「この本の解義はもうこれでよい。もう一言もつけ加えるものはない」と。このことは訴訟について見ると一層よくわかる。人は数限りない博士、数限りない判決、そして同様にたくさんの註釈に、法令のような権威を与える。だが、それで少しは我々の解釈癖がおさまったか。そこに平静に向う多少の進歩前進が見られるか。この一群の法令がなおきわめて幼稚であったときより、果して今は代言人や裁判官がすくなくてすむようになったか。いやあべこべに、我々はますます理解をあいまいに・わかりにくく・している。理解はますますたくさんの垣や柵に十重二十重とえはたえと囲まれて眼に見えなくなっている。人々は自分たちの精神の生れつきの病気に気がつかないでいるが、精神は始終ただきょろきょろと捜し歩いてばかりいる。そして絶えずくるくる回ったり、築きあげたりしながらまるで蚕のように、自分の造り上げたものの中にまきこまれて、しまいにはそこで窒息してしまう。※(始め二重山括弧、1-1-52)松脂まつやにの中のはつか鼠※(終わり二重山括弧、1-1-53)(エラスムス)。精神は遠くの方に何かしらぼんやりした光・真理の姿・みたいなものを認めるように思うが、そこへ駈けつけるまでの間にはたくさんの困難が道をふさぎ・たくさんの障害や新たな詮索などが邪魔をする・ので、けっきょく何が何やらわからなくなってしまう。それはあのアイソポスの物語にある犬どもの場合と、あまりちがわない。彼らは海の中に何やら死体のようなものがただよっているのを見たが、なかなかそれに近づけないので、その水を吸って通り路を乾かそうと企て、とうとう息がつまって死んでしまった。(c)クラテスがヘラクレイトスの書物について、「この本の読者はよほど泳ぎが上手でなければならない。でないと著者の学問の深さと重さとのために溺れて死んでしまう」といったのは、ここにそっくりあてはまる。
 (b)我々がこの知識の探求において他人なり我々みずからなりが見出したもので満足するのは、畢竟我々各自が無力だからにほかならない。もっと力のある人は、そんなものでは満足しないであろう。いつになっても、後から来る者のために余地がある。(c)いや我々自身のためにも余地がある。(b)また別の途も残っている。我々の探求に終りはないのだ。我々の終りはあの世にあるのだ。(c)我々の精神が満足するのは、それが狭く小さい証拠である。あるいはそれが疲れている証拠である。高貴な精神は決して自分の中にとどまってはいない。それは常に望んでやまず、自分の力よりも更に遠くを志してゆく。その実力を凌ぎ飛躍をする。それが進みもせず押し出しもしないならば、退きもせずひしめきもしないならば、それは半分しか生きていないのである。精神の追求には究極がない。また定形がない。その食物は(c)驚嘆と探求と(b)曖昧である。これはアポロンの託宣が十分に示すところで、彼はいつも二重に・曖昧に・遠まわしに・我々に語っている。それは我々をたんのうさせないが、我々の心をとらえて離さない。それは不整な・不断の・模範もなく・目的もない・動きである。その空想は互いに力づけ、それからそれへとつながって生れる。

あたかも流るる小川の中に、
水絶ゆることなく相つぎ
永遠の一路を行くが如し。
来る水あれば去る水あり。
これなる水はあれなる水に、
押されつつまた越えつつゆけども、
常に水は水の中を流れゆくなり。
そは常に同じ流れにして
たたうる水は常に新たなり。
(ラ・ボエシ)

我々は物事を解釈するよりも解釈を解釈するのにいそがしく、どんな主題に関する書物よりも書物に関する書物の方がたくさんある。つまり我々は註解の付けっこばかりしている。
 (c)どっちを向いても註解だらけであるが、著者となるといたって稀である。
 当世紀における主要な・最も評判の・学問は、学者どもを解釈する学問ではあるまいか。これがすべての研究の共通かつ最後の究極ではあるまいか。
 我々の学説はそれからそれへと接木つぎきされる。第一の説は第二の説の幹をなし、第二の説が第三の説の幹をなす。そうして我々は、梯子はしごの上にまた梯子をかける。だから一番高いところに昇ったものが、しばしば不相応な名誉を得ることになる。まったく彼はその一つ手前の者の肩の上に、たった一ミリだけ高くなったにすぎないのである。
 (b)思えばわたしも、ずいぶんとたびたび、そしておそらく愚かなことにも、自分の本をわざわざ引きのばしては、それ自体について語らせたことか! (c)そうだ、たしかに愚かなことをした。同じようなことをしている他の著者たちについて、かつてわたしが次のようにいった言葉を、ここに思い出さなければならないだけでも。実際わたしは、むかしこんなことをいったことがあるのだ。「自分の書物にあんなにしばしばながし目を送るというのは、その人たちの心が自分の本のいとしさにふるえている証拠である。いかにさげすんだようにそれを小突きまわして見せたところで、結局それは母親の甘さを粉飾して見せただけの話だ」と。実はこれはアリストテレスのいったことで、彼はみずから尊ぶこととみずからあなどることは、しばしば同じ傲慢から生れ出るのだというのである。まったく今さらいくら申訳をしたって始まらない。すなわち、「この点ではわたしは他の人たちよりも自由を持たなければならないのだ。このとおりわたしは自分についても、自分の書物についても、わたしの他のすべての行為についてと同様に、正確に書いているのであるから、つまり主題が主題なのであるから、これは仕方がないのだ」などと申訳をして見たところで、果してみんなは諒解してくれるかどうか。
 (b)わたしはドイツで実地に見て来たが、ルーテルは自分の所説の中の疑わしい点において、彼みずから聖書の中のむつかしい点について生ぜしめたのと同様の・いやそれ以上の・分派や争論を後の世に残した。我々の議論は言葉の争いである。わたしは問う。「自然とは何か、快楽とは何か、円とは何か、また代承相続とは何か」と。質問は言葉によってなされ、同じく言葉によって答えられる。石は一つの物体である。しかし、「では物体とは何か――実体。――ではその実体とは?」という工合にやっていったら、しまいに答え手は、その辞書のどんづまりまで追いつめられるであろう。それは語と語の取り替えっこである。往々にしてますますわからない語との取り替えっこである。わたしには「それは人である」の方が、「それは動物である」・「死すべきものである」・「理性あるものである」・より、よくわかる。一つの疑いに答えるために、人は三つの疑いをわたす。まるでヒュドラの頭みたいだ。ソクラテスがメノンにむかってたずねた。「徳とは何か」。するとメノンは答えて言った。「男女の徳があり、公人私人の徳があり、少年老年の徳があります」と。そこで「なるほど! なるほど!」とソクラテスは叫んだ。「我々はただ一つの徳を捜していたのに、これはまたたくさんの徳だね」と。我々が一つの問いをかけると、それは蜂の群れのような幾多の反問となって返ってくる。どんな事件もどんな形態も他の事件形態と全然同じではないように、どんな物も他の物とまるきりちがうことはない。(c)自然の配合は実にうまい! もしも我々の顔が相似ていないならば、人間を獣から区別できないであろう。もしもそれが相違していないならば、人と人との区別ができないであろう。(b)すべての物事は何かの類似によって並べられるが、どの例を見ても跛である。だから、経験からひき出される関係はいつも誤りが多くて不完全である。だが人は、どこかの点で比較をし両方をむすびつける。法令もそんな風にして役に立つのである。そんな風に幾分かまげた・無理な・はすな・解釈を施しさえすれば、法令も我々の事件のどれにもあてはまるのである。
* 神話に語られている七頭の蛇。その七頭を一時に斬らねば、斬っても斬っても、新たに一頭を生ずるという。
 各人各個の私の義務に関する倫理上の規則さえ、御承知の通りあんなにも確立し難いのであるから、あれほど大勢の個人を司令する法律が一そう確立し難いのはちっとも不思議ではない。我々を支配するあの裁判の仕方を見たまえ。あれこそ人間が無力であることのよい証拠である。それほどそこには矛盾と誤謬とがあるのだ。我々は裁判の中に、ひいきと苛酷とを見出す。しかもそれがきわめてしばしばであるから、そこに中正が同じようにしばしば見出されるなんてことがありえようか。これこそ裁判の体内および本質の中にひそむ患部であり不正な部分である。今しがたうちの百姓どもがあわててやって来て、わたしに告げたばかりである。「ただいま旦那様の森の中に滅多切りにされた男が一人倒れておりまして、苦しい息の下から『水をくれ、起してくれ』と申しますのを見捨てて参りました」と。なぜ彼らはその男のそばによろうともせず、こうして逃げて帰って来たのか? 彼らのいうところによると、お役人につかまったら大変だからである。よく死体のわきにいあわせたというばかりに連れてゆかれる者もたくさんあるそうである。一たんかかり合いにでもなった日には、彼らには身のあかしを立てるだけの学問もなければお金もないのだ。わたしは彼らに向って言うべき言葉を知らなかった。とにかく彼らがそういう慈悲を示しでもしたら、とんでもない目にあわされたであろうことは確実なのである。
 いかに多くの罪のない人々が、決して裁判官のせいではなしに〔むしろ裁判制度そのもののために〕、むざんにも処刑されたことが、あとになって発見されたか。いや、いかに多くそういう人々が、発見されずにしまったか? わたしの若い頃、こんな事件があった。ある人たちが人を殺したというので死刑ときまった。宣告はまだすまなかったが、少なくともことはすでに決定していたのである。ところがちょうどそのとき、裁判官たちは近くの下級裁判所の役人たちから、別に数人の罪人を逮捕したところ、かれらがすらすらとその殺人事件の犯行を自供したため、事件全体がもはや疑う余地のないほど明白になった由、報告を受けた。そこで皆は、最初のたれそれに対してなされた判決の執行を、中止したものか延期したものかと、評議した。すなわち、それは全く先例のないことであるとか、そういうことで宣告を引っこめては後に悪例をのこすであろうとか、判決は合法的にすんだのだから裁判官は何も後悔するには及ばないとか、さんざん考えたのだが、結局、その哀れな連中は裁判の形式の犠牲にされたのである。フィリッポスであったか誰であったかは、同様の不都合を次のように始末した。彼は断乎たる判決によって、ある男に、相手方に対し莫大な賠償金を支払うよう命令した。ところが間もなく事実が判明して見ると、彼は自分の判決が不正であったことを知った。一方には厳たる事実があり、一方には厳たる司法の形式があった。そこで彼は、一方宣告はそのままにしておき、他方自腹を切って受刑人の損害を賠償してやり、どうやら両方をたてたのである。けれどもこれは賠償のできる事件であった。今いった連中は首をしめられたっきり命をかえしては貰えなかった。(c)犯罪そのものよりもはるかに罪深い処刑を、いかに多くわたしは見たことであろう。
 (b)すべてこうした事柄は、わたしに次のような古代諸家の説を思いおこさせる。曰く「全体として正義を通そうとすると、細部において悪い事をしなければならない。大きな事柄の中に正義を遂げようとすると、小さな事柄の中に不正をなさざるをえない」。曰く「人間の正義は医学にならって作られている。すなわち有効なことはすべて正義で正当なのである」。またストア学者に従うと、「自然さえも、その仕事の大部分において、正義に反することをあえてしている」のである。(c)それにキュレネ学派の人々の説くところによれば、「それ自体正しいものは一つもないので、習慣と法律とが正義を形成するのである」し、テオドロスのともがらのいうところでは、「賢者は盗みも涜神も、もしそれが自分のためになると知れば、どのような逸楽をもみな正しいものにしてしまう」のである。
 (b)まったくこれはどうにもならないことなのである。だからわたしは、結局アルキビアデスと同様に、できるかぎり、わたしを生かすも殺すも勝手にできるような人間の前には、わたしの生命と名誉とがわたしの潔白によりもむしろわたしの弁護士の働きや心遣いの方により多く依存するような場所には、絶対にまかり出ないことにしている。だがよいところも悪いところとともに認めてくれるような裁判所があるなら、是非一度、わたしもそこに立って見たい。そこには心配もある代りに希望もあろう。罰を食わずにいるということは、悪事をしないというだけでは満足できない人間にとっては、決して十分な報いではないのである。我々の裁判所は我々にただその片手しか差出さない。しかもそれは左手である。たれ一人として、これにすがって損をしなかった者はない。
 (c)シナという国の政治と諸芸とは(我々のそれらと何らの交渉もなく、またわれわれもそれらに学んだことがないのであるが)、そのもろもろの部門においてはるかに我々を凌駕している。またその歴史は、いかに世界が我々や古人が考えていたものよりも広大で多様であるかを、我々に教える。そこでは、帝王が地方の政情を視察させるために派遣する役人たちは、悪政を行った官吏を罰するとともに、普通以上に・すなわち職責を完うした上に・さらに善政を行った者どもには純然たる褒美をあたえてこれに報いた。だから人々は、たんに保護して貰うためばかりではなく得るところあらんがために、単に給与を支払われるためにではなく褒賞を与えられるために、彼らの前に出頭する。
 (b)有難いことに、未だかつていかなる裁判官も、裁判官としてわたしに口をきいたことはないのである。わたしの事件に関しても第三者の事件に関しても、刑事事件に関しても民事事件に関しても。わたしはどんな牢獄にも入ったことがない。ただの見物のためにも、入ったことがない。想像は、それを見るだけで、ただ外から見るだけでも、わたしを不愉快にする。わたしはつよく自由にあこがれているから、遠いインドのどこそこには接近するなと禁じられるだけで、やはりある程度の窮屈を感じないではいられまい。ましてどこかに開けた天地を見出す限り、小さくなって暮さなければならないようなところにじっとしてはいないであろう。おお、考えるだにおそろしい! 万が一にも、あんなに大勢の人々の身の上に見るように、わたしもまた国法にたてついたとやらのかどによって、この王国のただ一地方に釘づけにされ、主要なあちこちの都市や朝廷に出入することも・また公道を使用することも・禁ぜられるような境遇**におかれたなら、どんなに堪えがたいことであろうか? もしもわたしの奉ずる法律がわたしの指ただ一本でも拘束しそうになったなら、わたしはさっそく、どこへなりとほかの法律のしかれた国へとんでゆくであろう。我々は今内乱のただ中にあるが、わたしはわが小さな用心の限りをつくして、ひたすらわたしの往来の自由が妨げられないようにと、これつとめている。
* この項は(b)の標示でもわかるように一五八八年以前に書かれたものである。彼はこの年の七月にバスティーユの牢獄に投ぜられた。本書巻末の年表参照。
** 牢獄に幽閉せられること、前科者に科せられる禁足の掟。
 さて法律が信奉されているのは、それらが正しいからではなくて、それらが法律であるからだ。これが法律の権威の不可思議な根拠で、ほかに根拠はないのである。(c)このことくらい法律のためになっているものはない。法律はしばしば愚者によって作られ、よりしばしば平等を憎み公平を欠く人々によって作られる。何れにしても、空にして心定まらぬ人間によって作られているのである。
* パスカルも全く同じ意見を述べている。『パンセ』ブランシュヴィック版三二五番参照。
 およそ法律くらい広くへまな間違いをするものもなければ、またこれほどしょっちゅう間違うものもない。(b)法律は正しいものだからといってこれに従う者は、真に正しい根拠によって従っている者とは言えない。わがフランスの法律は、不整曖昧であるがために、それが適用実施される場合のあの混乱と腐敗とを、いわば助長している。その命ずるところはあのとおり混沌として不定であるから、ある意味では、不服従をも、解釈、実施、遵守における誤謬をも、あらかじめ許しているようなものである。我々は経験からどんな果実を引き出すことができるにしても、我々自身から得る経験、我々に最も卑近な経験、実に我々に我々の欠陥を教えるのに十分だと思われる経験をさえ、このように悪く利用しているようでは、外国の判例から引き出す経験などは、ほとんど我々を教えるに足らないであろう。
* 前出「法律が信奉されているのはそれが正しいからではない」という意見のつづきである。もし正しいからこれに従うというのなら、それはむしろ見当ちがいである、というのである。「法律はそれ自体決して正しいものではない」が、「悪法もまた法なり」というのである。但し、例によっていつも遵法主義でゆけというのではない。モンテーニュが相対主義者であることを忘れてはならない。
 わたしは他のどんな主題よりもおのれみずからを研究する。これがわたしの形而上学であり自然学である。
* 井上哲次郎の訳語では、フィジカル・サイエンス、及び、メタフィジカル・サイエンス。アリストテレスは、学問研究の順序として、始めに自然学、論理学、その後に、哲学、神学、心理学が来るとする。すなわち自然現象の説明から心理現象の説明へと至る。

いかなる方術によりて神は
我らの住むこの世界を統治するにや。
月はいずこより出でいずこに沈むや。
いかにして下弦と上弦と出であいて
月に一度のもちを作るや。
いずこより海を吹く風は起るや。
南東の風はそも何に影響するや。
いかなる水より、たえず、雲は作らるるや。
(プロペルティウス)

(c)いつかこの世界突き崩さるる日は来るや。
(プロペルティウス)

(b)汝ら、自然界の不思議を究めんと
心を砕く者よ、尋ねよ。
(ルカヌス)

 (c)こういう天地万物のただ中に、わたしは何も知らずぽかんとして、ただただ世界の一般的法則のもてあそぶがままになっている。いつかその法則を感ずるであろうとき、わたしはそれを十分に知るであろう。でも、いくらわたしが学問をしても、とうていそれに道を変えさせることはできまい。それはわたしのために変ってはくれまい。変ってくれと希望するのは愚かである。変らせようと苦労するのはいよいよ愚かである。なぜなら、それは必然的に万人に共通した一様なものなのだから。
 舵取りは慈悲深く全能なのであるから、我々は彼の舵のとり方に全然口ばしをいれる必要はないのである。
 哲学者の詮索や瞑想は、我々の好奇心のかてとなるだけである。哲学者たちが我々に自然の掟にかえれというのははなはだもっともなことであるが、その自然の掟は何もあのように崇高な知識がなくてもわかるのである。彼らはそれらの掟を偽造し、自然の顔をあまりにもけばけばしく、あまりにも人為的に塗り立てて我々に示すので、あんなに一様な一つのものから、あんなにもいろいろな肖像が生れることになる。自然は我々に歩くための足をつけてくれたように、生きてゆくための知恵もつけてくれた。それは哲学者が発明したそれのように巧妙な・がっちりした・物々しい・知恵ではないが、いかにも自然にふさわしい楽で健康な知恵である。それは幸いにして素朴に・適正に・換言すれば自然的に・生きることを知っている者においては、哲学者の知恵が約束する以上のことを立派にやってのける。最もすなおにその身を自然に委せるということは、これに最も賢明に身を委せることである。おお無知と無好奇こそはよく作られた頭脳を休めるのに何とらくな・柔らかい・そして健康的な枕であろう!
* 無好奇 incuriosit※(アキュートアクセント付きE小文字) というのはやたらに好奇心をもたぬこと、特に第一原因というような、人間にはとてもわかりっこない問題を詮議だてしないことをいうのである。したがってこの句はすべての知識学問を全面的に否定する懐疑論の表明ではない。ところが従来この句は、「無知と無好奇」の語が「疑い」doute の語におきかえられて、きわめてしばしば引用されている。この点を指摘し大方の注意を喚起したアルマンゴーの労は確かに多とすべきであろう。この種の誤ってなされた引用とパスカルの断定とは(例えばド・サシ氏との対話)、モンテーニュを純粋なピュロン学徒と信ぜしめた原因の最大のものであろう。物事には必ず善悪功罪両面がある。学問にしても美徳にしても同様である。「すべての極端は悪となる。徳も極端になれば不徳となる」とモンテーニュは考える。この無知と無好奇の一句もこのモンテーニュの相対主義の表出であり、彼の思想の根抵となっている。
 (b)わたしは(c)キケロにおいてよりも(b)自分自身のうちに、わたし自らを理解したい。もしもわたしがよい学徒であるなら、わたしが自分についてもつ経験の中に、わたしを賢者にするだけのものを十分に見出すはずである。自分のあのときの怒りが極端であったことや、その興奮がどこまで自分を連れて行ったかを、想い出して見る者の方が、アリストテレスを読む者よりもよくこの激情の醜さを悟り、それに対してより正しい憎悪をいだく。自分の出あった不幸、自分を脅かした不幸、その他自分をある状態からある状態へと動かした・軽微な・もろもろの・動機を想い起す者は、いつの間にか将来の転変に対し・自分の本性の認識に対し・て自分を準備している。カエサルの生涯は我々のために我々の生涯以上の模範を蔵してはいない。つまり皇帝の生涯も庶民の生涯も等しく一つの人生であって、あらゆる人間界の出来事の影響をこうむるのである。ひたすら我々みずからに耳を傾けよう。我々こそ我々に向って、我々がもっぱら必要とする事柄を残りなく語るからである。幾度も幾度も自分自身の判断の誤ったことを想い出しながら、いつまでもそれに対して不信を抱かないというのは馬鹿ではあるまいか。他人の理由によって自分の考えの誤りを悟らされるとき、わたしがそこに学ぶのは彼の新しい所説でもなければ、わたしがただその事だけについて無知であるということでもない(それだけのことなら大した収穫ではない)。そうではなくてむしろ全体的に、自分がひよわであることと自分の悟性がたのむに足らないこととを、学ぶのである。そこから始めて、わたしはわたし全体を改革しなければならないという結論をひき出すのである。ほかのわたしのあらゆる間違いにおいても、わたしは同じようにする。そして、この規則が人生に大いに役だつことを悟る。わたしは個々の問題や相手を、たまたま自分がつまずいた石ころのようには見ない。わたしはいたるところで自分の歩き方に気をつけなければならないことを学び、そしてそれを矯正しようとつとめる。(c)我々はこんなばかなことをいったとか、したとか、気がつくだけでは何にもならない。それは唯それだけのことである。我々は我々が一人のばか者にすぎないことを、学ばなければならないのだ。この方がずっと大きな教訓になる。(b)わたしの記憶が、最も自信のあった時にさえ、あれほどしばしばわたしをつまずかせたということは、決して無駄なことではなかった。今ではいかに記憶がわたしの前で約束をしても断言してもだめである。わたしは耳をおさえてそれを信用しない。何か一つわたしの記憶の証言に反することが出てこようものなら、たちまちにわたしは、自分の意見を保留する。そして、重大な問題にのぞんでは自分の記憶に信頼する気になれないし、他人の問題についても同じことである。もしわたしが記憶の欠如のためにすることを、世間の人たちが信義の欠如から一そうしばしばすることさえないならば、わたしは事実如何の問題に関する限り、常に自分のいうことよりもむしろ他人のいうことの方を本当にするであろう。もし各人が自分を支配するもろもろの情念の結果や状況を、ちょうどわたしが自分のおちいった情念についてしたように眼をこらしてうかがい見るならば、きっとその人は、それらの情念のやがてくるであろうことを予見し、その勢いとその進みとをいささかなりとも前以て緩和するであろう。そういう情念は、必ずしもいきなり我々の襟もとに飛びつくものではない。まずもって前ぶれがありまた順序もあるのだ。

さながら風の最初の息吹きに、
海面うみづらがまず白くなり
やがて少しずつ波立ちて
遂に奈落より星空へと飛びあがるごとく。
(ウェルギリウス)

わたしにおいては判断が主人の座を占めている。少なくとも一所懸命にそうであろうと努めている。わたしの判断はわたしのもろもろの感情をその赴くがままに委せている。憎悪をも愛情をも、またわたしが自分みずからに注ぐところの愛情をも。しかもそれらによって少しも変質されることがない。わたしの判断はわたしの他の諸部分を思うように改善することもできない代り、みずからがそれらのために改悪せられることもない。それは独り離れて勝手にやっている。
「おのれみずからを知れ」という各人への勧告は、きわめて重大な効果をもたらすに違いない。なぜならこの語は、あの学問と光明との神アポロンが、我々に勧めなければならない事柄のすべてを含むものとして、その神殿の正面に刻ませたものであるから。(c)プラトンもまた、知恵はこの掟の実施に他ならないといっているし、ソクラテスも、クセノフォンによると、これをことこまかに実証している。(b)それぞれの学問のむつかしい点や曖昧なことは、その門に入った者でなければわからない。まったく自分の無知に気がつくには、やはりある程度の理知がなければならない。ドアが閉まっていると知るためには、まずこれを押して見なければならない。(c)ここから、「知っている者は尋ねるにおよばない。すでに知っているのだから。知らない者も尋ねてはいけない。尋ねるには何を尋ねるのか知っていなければならないから」というプラトンのややこしい格言が生れたのだ。(b)だからこの自分みずからを知る学問においても、皆があんなに落ちついて満足していること、皆が相当にわかったつもりでいることは、けっきょく皆が何一つわかってはいないことを暴露するものだ。(c)それはクセノフォンの中でソクラテスがエウテュデモスに教えているとおりである。(b)わたしはほかのことは何一つ出来ないが、この自分みずからを知るという学問にかけては、その無限の深味と変化とを知った。したがってわたしの学びえたところといえば、けっきょく「学ばなければならないことがいかに多く残っているか」ということだけである。そのようにしばしば自分の力弱さを認識したからこそ、わたしは控え目であろう・教えられる信仰に対しては従順であろう・また自分の考えを述べるにはいつも冷静に謙遜であろう・という傾向をしぜんと得たのだし、また規律と真理の大敵であるところの・あの独りよがりの・思いあがった・しつこい・喧嘩腰の傲慢を憎むようにもなったのである。彼らが人に教えるところを聴いていて見たまえ。彼らが出まかせの愚にもつかない事柄を述べ立てているところは、まるで宗教家か立法者みたいである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)理解する以前に肯定することほど恥ずべきはなし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)アリスタルコスは、「昔は世にやっと七人の賢者が見つかっただけだが、今や僅かに七人の無知の者があるだけだ」といった。だがこれは、我々が我々の時代について言った方が、一そう当を得ているのではあるまいか。断定と頑固とは、ばかのはっきりした証拠である。この男は一日に百ぺんも砂をなめた。だがあい変らず自信ありげに四股しこを踏んでいる。あれから後に何か新しい霊魂か力ある悟性でも吹きこまれたのだろうか。あのいにしえの大地の息子のように、ころぶごとにその力を倍加したのであろうか。

その疲れたる四肢は母なる大地にふれるごとに、
その力を取りかえしたり。
(ルカヌス)

この手におえない頑固屋は、新しく喧嘩をする度ごとに新しい機知が得られるとでも、考えているのではあるまいか。わたしは経験によって人間の無知を告発するのであるが、これこそわたしの考えでは、世間の人々を教育する最も確かなみちであると思う。彼らがわたしや彼みずからの・あんなつまらない・実例によって、自分たちの無知を結論したくないなら、ソクラテスによってそれを認めるがよい。(c)彼こそは先生の中の先生である。まったく哲人アンティステネスは、その弟子たちに向っていったのである。「君たちも一緒にソクラテスの話を聞きにゆこう。あそこへ行って、わたしも君たちと一緒に弟子となろう」と。そして、「徳は人生を十分幸福にするに足りる。ほかには何事も必要ない」というストア学派の教義を支持しながらも、「ただしソクラテスの力だけは別だよ」とつけ加えたのである。
* ポセイドン(ネプチューン)と大地ガイアとの子であるアンタイオスのこと。人の頭蓋骨で父ポセイドンのために堂を建てようとし、旅人をまちぶせてこれを殺した。ヘラクレスは三度これを大地に投げ倒したが、倒れて地に伏すごとに、母なる大地の力によって蘇らされたという(神話)。
 (b)このように長いこと注意して自分を考察したために、いつしかわたしは他人をもどうやら判断ができるようになった。実際このことほど、わたしが的を外さず・どうにかこうにか・語りうる事柄はほとんどないのである。しばしばわたしは、友人たちの性質を御当人たちよりも正確に識別することがある。わたしは彼らのある者を、わたしの的確な叙述によって驚かし、彼にその性質を警告した。若い頃から自分の生活を他人のそれの中に映して見るように自分を慣らしたので、いつしか人の生活を詮索するのが一つの癖になってしまった。そしてそれをしようと思う時は、自分の周囲のそれに役立つような事柄は、容貌だろうが気質だろうが談話だろうが、ほとんど逸することがない。わたしはすべてを研究する。避けなければならないことも真似なければならないことも研究する。だからわたしは友人たちに接すると、すぐ彼らの表情態度を通して彼らの内部の傾向を発見する。だがそれは、あんなにまちまちで連絡のないその限りなく多様な諸行為を、一定の類別の中に配置するためでもなければ、わたしの分類したものを一々既知の部類等級の内に配分するためでもない。

そこには幾種の部門ありて、それぞれ何と呼ばるるや、
人これを知らず。
(ウェルギリウス)

(c)学者たちは自分たちの諸思想を、もっと類別的に・そしていとも細かに・分類し記録する。だがわたしは物事を何の規則にもよらず、ただ漫然と在来の習慣に従って見るだけであるから、わたしの諸思想もまたただ大ざっぱに・盲滅法に・お見せするばかりである。例えばここでもそうである。(b)わたしは自分の意見を、はなればなれの箇条書にして、一ぺんにまとめてはいうことができない物のように、申し述べる。関係連絡は、我々の霊魂のような平凡普通な霊魂の中には決して見出されない。知恵は一つの堅固な完成した建物であって、各部がそれぞれそのところを占めその特徴をもっている。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)ただ知恵のみは全体がおのれの中におさまりてあり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)わたしは万事先生がたにお任せするが、あんなにこみいった・あんなに細かで不確かな・事柄において、その限りなく変化する顔かたちを類別することが、はたして彼らにはできるのだろうか。我々の動揺をとめて、それをきちんと整頓することができるものなのだろうか。わたしは我々の諸行為を互いに結びつけることをむつかしいことだと思うばかりでなく、その一つ一つを切り離して、それぞれをその主要な何かの特性によって適切に示すことだって、やさしくはないことだと思う。それほど我々の行為は二重三重のいろいろな面を持っているのである。
 (c)人はマケドニア王ペルセウスを見てさもめずらしいことのようにいう。「彼の精神はどんな境遇にも執着せず転々としてあらゆる種類の生活を追い、彼自身にも他人にも彼がどんな人間かわからなかったほど、激しく変りやすい傾向を示していた」と。だがこうしたことはむしろほとんどすべての人にあてはまるのではなかろうか。そして特にこの結論は、ほかにわたしが知っているもう一人の同じ型の人物にこそ、一そうぴったりとあてはまるように思われる。というのは、この人には中間の状態というものがなく、いつも予想することのできない動機によって一方の極端から他の極端へと転ずる。どんな暮し方をしているときにも、そこに驚くべき逆と反対とが含まれていないことがなく、そのいかなる能力にも二つの面があって単一でなかった。だから、いつか誰かが彼の姿を最も真に近く示すことができるとしたら、それは『彼は知られがたきことをもって人に知られようと苦心努力している人であった』ということになろう」。
* これは誰だかわからないが、モンテーニュみずからのことをいっているのではなかろうか。そう考えることがゆるされるなら、この一節もまた、『随想録』における諸種の矛盾に対するモンテーニュの自己弁明とも、彼の思想の相対性に対する一証とも考えられるのではあるまいか。
 (b)自分が率直に判断されるのを聞くためには、きわめて強い耳を持たなければならない。またそれを聞いて食ってかからずにいられる人間はほとんどないのであるから、それを承知であえて我々のために正直にいってくれる人たちは、我々に対して並々ならぬ友愛を示しているのだ。まったく、その人のためをおもって、あえて気にさわることまでもいうのは、それこそ本当の愛というものである。わたしは、よい特質よりも悪い特質の方を多くもっている人を判断するのは、すこぶるむつかしいことだと思っている。(c)プラトンは他人の霊魂を審査しようとする者に対しては、三つの特質を、すなわち学問と好意と大胆とを、要求している。
 (b)むかしある人が、「君は一体どういう仕事にむいていると思うかね」とわたしにたずねられた。その人はわたしがまだ若かったころ、

若き血潮のわれに力を与えつつありし頃、
老いのいまだわが髪に霜をおかざりし頃、
(ウェルギリウス)

わたしを何かに使ってやろうと思召されたのである。――「どれにも向きませぬ」とわたしはお答えした。実際わたしは、「自分を他人の奴隷にするようなことは一切できませぬ」と、いつも申しわけをするのである。けれども、もしそれを欲する主人があったら、彼のために彼の真実をいい・彼の行状を監視する・お役目を引受けたであろう。もちろん漠然とスコラ学的教訓をもっていさめるのではない。そんなことはわたしにはできない(いや、そんなことで改心の実のあがったのを、わたしはかつて見たことがないのだ)。むしろ主人の行状を一つ一つあらゆる機会に観察し、見るがままにその一つ一つを単純率直に判断し、彼が世間一般からどう批評されているかを悟らせ、あえて彼にへつらう者どもの逆をゆこう、というのである。我々だって、王侯があの蛆虫どもに腐らされたように、絶えず人の甘言によって腐らされるならば、その王侯よりもさらに堕落せざるを得ないだろう。あの偉大な王で哲学者だったアレクサンドロスでさえ、おべっか使いにはかなわなかったではないか。わたしもこの諫める方の役目なら、相当な忠実と判断と自由とをもって果しただろう。これは名のない職とすべきであろう。でなければ効果も何もなくなるであろう。それに、これは見境なく誰にでもさせられる役目ではない。まったく真実だって、時を選ばず仕方も選ばずに用いてよいわけはないのである。真実を用いるのはいかにも崇高なことだけれども、そこにはやはりそれ相応に限界があるのである。今のような世の中では、真実を帝王の耳に吹き入れることは、効果がないばかりでなく、かえって害を生ずることも、いや不正になることすら、往々にしてあるのである。だから「公正な諫言は不徳とはならない」とか、「実質上の利益がしばしば形式のために負けるようではいけない」とかいうことは、わたしには信じられない。この職に当るのはおのれの運命に満足している人、

おのれの分を持してそれ以上を願わざる人、
(マルティアリス)

中位の身分に生れた人、がよいと思う。なぜかというと、そういう人なら、主人の心を強く深く突いてあたら出世の道を失うまいなどと恐れもしまいし、またみずから中流の境遇にあるために、上下を通じてあらゆる種類の人々と交わることが、比較的容易であろうとも思われるからである。(c)わたしはまたこの職をただ一人に委ねたい。まったくこの率直と親密の特権を大勢の人に与えては、有害な不敬を生み出すこととなろう。勿論わたしはその一人に対しても、特に黙秘の厳守を要求する。
 (b)王が威光を示すために敵の攻撃の前で威張った風をして見せても、我々は彼を信ずることができない。自分自身を改善するために忠義な家来の率直な言葉に堪えるようでなければ信用ができない。諫めの言葉にはただ彼の耳を刺激するだけの力しかないので、残る効果は一にこれを受ける王みずからの手の中にあるのだ。ところで王侯ほど真実率直な戒告を必要とする境遇はあるまい。彼らは公的生活を営む者だから、随分たくさんの見物人の意にかなわなければならないのであるが、通例世間の人たちは、彼の計画を変えさせるようなことは一切いわないから、知らず知らずのうちに人民の恨みを買いがちである。だがそういう機会は、誰かが一口彼らに忠告し、前もって彼らの考えを改めさせていれば、彼らがその快楽をさえ少しも損することなく、避け得られるはずなのである。一般にお気に入りどもは、主人のことよりは自分のことの方を思っている。実際その方が彼らにとって得なのである。なぜなら正直のところ、ほんとうの忠誠の奉仕は、大部分、君主に対してあえてなされる場合、はなはだ骨のおれる・危険の多い・ものとなるからだ。つまりそれには、多くの愛情と率直とのみならず、勇気もまた必要とされるのである。
 要するにわたしがここに書き散らしているこの雑文は、わたしの一生の経験を寄せ集めたものにほかならず、精神の健康のためにはこれを逆用して始めて、いくらか教育上のお手本となる程度のものにすぎない。だが肉体の健康のためなら、わたしほど有効な経験を提供し得る者はあるまい。わたしはそれを学術や世論などによって少しも変えることなく、そっくりとありのままに示しているからである。経験は医学に関してこそ、文字通り「己れの糞堆の上にある」。理論もそこでは経験に百歩をゆずる。ティベリウスはいった。「二十年を生きた者は何が自分に有害か有益かがわからなければならない。医学なんかなしに生きてゆけなければならない」と。(c)だがこれはソクラテスから学んだことであるらしい。そのソクラテスは弟子たちに対して、各自の健康の研究を非常に重要な研究として熱心にすすめた上、「いやしくも悟性ある人間が自分の運動や飲食に注意しながら、自分に有益なことと有害なこととをどんな医者よりもよく識別しえないはずはない」と付言しているから。(b)じっさい医学も、常に経験をその実施上の試金石としていると告白している。だからプラトンが、「ほんとうの医者になろうと思う者は、どうしてもそのなおそうとするすべての病気、その診断しようとするすべての発作症状を、みずから経験しておく必要があろう」といったのも当然である。梅毒がなおせるようになろうと思ったら、みずからそれにかかって見るのも結構だ。本当にわたしも、そういうお医者さんなら信用もしよう。まったくそういう経験のないお医者さんたちは、机の前に坐っていて海や岩や港を描き、そこに模型の船をきわめて安全に航行させる人のように、我々をひきまわす。だがその人を実際にあたらせて見たまえ。手のくだしようがないのである。医者が我々の病症を描写するさまは、ちょうど町のらっぱ吹きが迷子になった馬や犬を捜して、「毛並はこう、たけはこう、耳はこれこれ」と呼び歩くのに似ている。だが、「では、これでしょうか」とつれて来て見せたって、彼に見わけはつかないのである。
* 「自己の糞堆の上に立つ鶏は強い」という諺がある。つまり自分の縄張りのうちに在るという意味。前出第三巻第九章一一一四頁註*参照。
 神も照覧あれ。もしいつか医学がわたしに何なりときき目ある・はっきりした・救助の手をかすならば、それこそわたしも心から叫ぶであろう。

ああ、ついに、われ効き目ある学問に出会えり!
(ホラティウス)

と。肉体をも霊魂をも健康の中に維持してやると約束するこの学術は、実に多くを約束しているが、またこれくらい約束を果さないやつもめったにない。実際こんにち我々の間において、この術を職とする者こそ、他のどんな職人よりも実効を示さないのである。彼らのことをせいぜい負けてやって、「薬をうる人」とはいうこともできようが、「お医者さん」などとは義理にもいえたものではない。
 わたしはかなり長生きをしたから、一体どのような生き方をしてこんなに遠くまでたどりついたかを、お話してもよいであろう。自分も一つそんな暮し方をためして見ようと思われる人のために、わたしはその人のお酌とりのように、あらかじめお毒味をして差上げたことになる。次に思い出されるままにその幾項かをあげて見よう((c)わたしの習慣で、わたしが状況に応じて変えなかったものは一つもないが、中で最もしばしばわたしの眼に強力に見えたもの、そして今日まで最もよくわたしの身についているものがあるから、それらを一つ一つ書きあげて見よう)。(b)わたしの暮し方は、病気のときも健康のときと同様である。同じ床に寝、同じ時間割に従い、同じ食物、また同じ飲物をとる。多少節制をする以外には、なにも特別のことをしない。万事わたしの体力と欲望に応じてするのである。わたしの健康とは、日頃の状態を乱さずに維持することである。ふと病気がわたしをそういう常態から、ちょっぴり一方に押し出すことがあるが、うっかり医者のいうことをまに受けると、こんどは別の方角へ押しやられる。そうなるとわたしの不運と医者の学術との両方のせいで、わたしはまんまと自分の常道からはずれてしまう。わたしが何よりも堅く信ずるところは、「こんなに長い間慣れ親しんで来た習慣によって害をこうむるはずはないであろう」ということである。
 実に習慣こそ我々の生活に、自分の好きな様式を与える。その点で習慣は全能である。ちょうど我々の生れつきを思いのままに変える魔女キルケの酒みたいである。いかに多くの国民が、しかも我々からただ三歩の近くで、我々があの確かに害のある夜露を恐れるのをあざ笑っていることか。いやわが国の舟乗りや百姓もそれを一笑に付している。ドイツ人は毛ぶとんに寝かされると病気になり、イタリア人は羽根蒲団に寝かされると病気になるが、フランス人はカーテン〔寝台の幕〕と火のないところに寝ると病気になる。スペイン人の胃の腑は我々の食事の仕方に堪えられないし、我々の胃の腑はスイス風の飲み方に堪えられない。
* ホメロスの『オデュッセイア』の中に出て来る魔女。魔法の酒をのませてオデュッセウスの部下を豚にかえてしまう。
 あるドイツ人がアウグスブルグで、我々がいつも彼らの置暖炉をけなすのに用いるのと同じ論拠を用いて、我々の壁暖炉の不都合をこきおろしたのはおかしかった。まったく、何といってもあの重苦しい熱さと、あの置暖炉の作られている物質が熱せられて発散する匂いとは、わたしは平気だが慣れない大部分の人々には頭痛をもよおさせる。だが要するに、その熱は一様で・変化なく・まんべんなくゆきわたるし・まぶしくも煙くもないし・壁暖炉のように我々に風を吹きつけることもないが、確かに他の色々な点では、我々のそれともよく似た点を持っている。なぜ我々はローマの建築を真似ないのか。まったく伝えるところによると、昔は火が家の内部でたかれず、戸外で・その家の下部で・たかれたのだそうである。火熱はそこから厚い壁の中にしつらえられ・温められるべき部屋々々を取り囲む・たくさんのパイプをとおって家中にゆきわたったのだそうである。わたしはそれが、セネカのどこであったかに、はっきりと描写されているのを読んだことがある。今申したドイツ人は、わたしが彼の町の住みよさと美しさとをほめるのを聞くと(まったくそれはほめるに価したのであるが)、わたしがやがてそこを去らなければならないのを気の毒がった。そしていろいろな不都合を数えあげたが、そのいの一番にあげたのは、何と、「よそへ行かれたら暖炉のために頭痛がしてお困りになろう」ということであった。彼はかつて誰かがそういう苦情を漏らしたのをきいて、それをわれわれフランス人一般に結びつけたのであるが、彼みずからは自分の家でそれに慣れ切っているために、特別何も感じていなかったのである。火から来る熱は、すべてわたしを弱らせわたしの気を重くする。だがエウエノスは、「火は人生最良の薬味である」といった。わたしはむしろ全然別の方法で寒さをさける。
 我々は樽底になったぶどう酒をきらう。ポルトガルではその方が芳醇であるとされ、王侯のお飲み料となる。要するに各国にはそれぞれたくさんの習慣があるが、それらは何れもよその国の人にはめずらしがられるばかりか、なにか恐ろしい不思議なものにさえ思われるのである。
 印刷された証拠でなければ尊重せず・書物の中に出て来る人物でなければ信用せず・真理も有難い時代のものでなければ信用しない・という連中は、いったいどう扱ったらよいのだろう。(c)我々は愚にもつかない議論でも、これを印刷機にかければ尊重する。(b)こういう人たちにとっては、「わたしはこういうことを読んだ」ということが、「わたしはこういう話を聞いた」ということとは全くちがった重みをもつのである。けれどもわたしは決して人々の口を手よりも信用しないのではないし、人は書く場合も話す場合と同じように出鱈目なものだということも知っているから、それに当世紀をも過去の或る世紀と同じように認めるから、自分の友人をもアウルス・ゲリウスやマクロビウスと同じ程度に引き合いに出す。いや自分の見たことも、彼らが書いたことと同様に引き合いに出す。(c)そして人々が徳について「古ければ古いほど大きいわけではない」と考えたように、真理についても「古いからといってそれだけ賢いわけではない」と考える。(b)わたしはしばしばいうのだが、我々が外国や書物に出てくる模範ばかり追っかけるのはまったくばかなことである。模範の豊富なことは、今日もなおホメロスやプラトンの時代に少しも劣りはしない。ところが何ごとぞ、我々は論旨の真実性よりも引用や受け売りの虚名を求めている! まるで我々の証拠は、我々の村でしじゅう見られる事柄の中から取るよりも、ヴァスコザンやプランタンの店から借りてくる方が効目が多いかのようである。あるいはほんとうに、我々には目の前に発生する事柄を選りわけてそれに物をいわせるだけの才知がないのではないか。これを断乎として判断し・これを模範としてすすめる・だけの才知がないのではないか。まったく我々は自分の証言を信じさせるだけの権威を持たないというが、それはあたらないのである。なぜならわたしの意見では、最も普通な・ありふれた・知れわたった・事柄でも、それらを正しい光の下に見ることができるならば、それらはそのまま自然の最も偉大な奇跡とも、最も驚嘆すべき模範とも、なることができるからである。特に人間の行為に関してはそうなのである。
* いずれも当時有名な印刷家。
 さて習慣というわたしの主題に関して、わたしが書物によって知った実例はしばらくおこう。(c)アリストテレスがアルゴスのアンドロンについて、「彼は一滴も飲まずにリュビアの砂漠を横断した」と語っていることなどはしばらくおこう。(b)それよりもわたしが直接聞いた話、すなわち、いろいろな重い使命を立派になし遂げられたある貴族が、夏の盛りにマドリッドからリスボンまで一滴も飲まずに旅をしたという話の方を、申上げよう。彼は年の割合に丈夫な人であったが、その日常生活においては二、三カ月でもまた一年でも(と彼はわたしにいわれたが)、飲まずにいられるという一事を除いては、何も特別なものは持たないのである。彼だってかわきは感ずるのだが、彼はそれをやりすごすのである。それは独りでに容易におさまる欲望であるといっている。彼もふと気がむけば飲みもするが、それは必要や快楽のためではないのである。
 またこんな人もある。つい先頃のこと、それはフランスにおける最も学識ある人の一人、普通以上の財産を持った人の一人だが、わたしはその人が室の一隅に幕を掛けめぐらして勉強しておられるのにあった。しかも彼の周囲では、下僕どもが遠慮会釈もなくわっわと騒いでいた。彼は、(c)いやセネカもほとんど同じようなことをいっているが、(b)「わたしはこのどんちゃん騒ぎを利用するのだ」と言われた。こういう騒音にうたれると、かえって集中沈潜してその瞑想に没頭することができるらしく、「この人声のあらしは、わたしの思考をますます内部に押しこむ」と言われた。彼はパドゥアに遊学中、久しい間馬車のひびきや人声のやかましい市場のまん中に勉強部屋を持っていたために、いつしか騒音を気にしなくなったばかりでなく、むしろ勉強にそれを必要とするようになったのである。(c)ソクラテスは、どうしてあのやかまし屋の細君の不断の金切声に堪えられるのかしらと驚いているアルキビアデスに答えて、「しじゅう車井戸のきしりを聞き慣れている者と同じことさ」といった。(b)わたしは全然正反対である。わたしの心は感じやすく、とかくよそに気をとられる。独り思い耽っているときは、虫がぶんぶんいうのさえ邪魔になる。
 (c)セネカは若い頃セクスティウスにならって、決して生き物は食うまいと堅く決心し、一年の間、みずからいうところによると、愉快にこれをっていた。だがしまいに、この規律を当時もっぱらそれを唱道していたある新興宗教から借りて来たもののように思われるのがいやさに、ふっつりとその習慣をすてた。と同時に、彼はふんわりとした柔らかい床に寝るなというアッタロスの掟に従い、老年にいたるまで硬い蒲団を常用した。当時の習慣が彼に厳格だと思わせることを、今日の習慣は我々に柔弱だと思わせる。
 (b)うちの小作人の生活とわたしの生活との相違を見なさい。スキュティア人やインド人といえども、これらの小作人ほどにはわたしの能力・わたしの生活・からかけ離れてはいないのである。わたしはかつて幾人かの子供たちを、乞食の生活から引き上げて使ってやったこともあるが、彼らは間もなく、ただ昔の生活にもどりたいばかりに、お膳もお仕着せもすててわたしの許を去った。その後彼らの一人が道におちている貽貝いがいを拾って食べているところに出あったが、脅してもすかしても、彼にその乞食生活の気楽さをすてさせることができなかった。貧乏人も金持と同じくその豪奢と快楽とを持っている。いや聞くところによると位階さえ持っている。こうしたことは、いずれもみな習慣の結果である。習慣はその欲する生活様式に我々をならすことができるだけでなく(だから賢者たちがいうとおり、我々は最良の生活様式をとらねばならないので、慣れればそれは何でもないことなのである)、また我々を変化に応じさせることもできるので、これこそ習慣が教える最も高貴有用なことである。わたしの肉体的特質の最上のものは、物に順応しやすく頑固でないことである。わたしはいくつか独特の・癖になった・陽気な傾向を持っているが、ごく僅かな努力でそれらから離れることができるし、容易に反対の様式に移ることもできる。若い人はその精力を呼び覚すために、それが麻痺してしまわないために、規則を破らなければならない。実に命令や規律で導かれる生活くらい愚かでひ弱なものはないのである。

最も近き里程標まで足を運ぶに、彼は、
出発の時刻をその占星学の本の中にえらぶ。
またこすりたるために目にかゆみを感ずるや
まず星占いの本をひもときてのち目薬を求む。
(ユウェナリス)

悪いことはいわない。ときには極端にも走りなさい。そうしないと、ちょっとした乱暴でへばってしまうし、人とつきあう場合融通のきかない不愉快な人間になってしまう。紳士に最もふさわしくない特性は、あまりに潔癖に或る特殊の生活に拘泥こうでいすることである。潔癖も譲歩し折れ合わない場合には偏狭となる。仲間の誰でもがすることを、無能のためにできないとか、あるいは思い切ってやろうともしないのは、恥ずかしいことだ。そんな手合は台所の番でもしているがよい。それはどんな人においても不似合なことであるが、軍人においては許しがたい不徳となる。軍人たるものは、フィロポイメンがいったように、どんな乱雑不規則な生活にも慣れなければならない。
* 貧乏人 gueux. 乞食や泥棒やならずものなど、社会のドン底生活をするものの総称。今日のパリの apaches に相当する。この社会には昔から選挙による親分があり、これがこの社会の王様である。そしてその下に、いろいろな階級があったのである。
 わたしはできるだけ自由で物にこだわらぬようにとしつけられて来たが、それでも、無頓着のために、年をとるにつれていつの間にかある種の生活様式に執着するようになった(この年齢になると教育も効果がない。ただもう従来の習慣をまもって生きてゆくだけである)。すでに習慣が、しらないうちに、幾つかの事柄にかけては深くその性質をわたしに刻みつけてしまったから、習慣にはずれることをやりすぎと呼んでいるくらいなのだ。じっさい特に努めなければ、日中眠ることも、間食をすることも、朝食をとることも、夕食後相当な間隔((c)例えばたっぷり三時間くらい)(b)をおかなければ床につくことも、眠る前でなければ子供をこしらえることも、立ってそれをすることも、汗になったままでいることも、のままの水や酒を飲むことも、長く帽子なしでいることも、食後に髪を刈らせることも、できない。手袋なしでいるのもシャツなしでいるのと同じくらい不快である。食事がすんだときも朝起きるときも、手を洗わないではいられないし、わたしの寝台には天蓋やカーテンがどうしてもなくてはならないものになった。テーブル・クロースはなしでも食事できるが、ドイツ流では、すなわち真白なナプキンなしでは、はなはだ困る。わたしはナプキンをドイツ人やイタリア人以上によごすし、さじやフォークもあまり用いないのである。かつて王様たちを真似てはやりかけた習慣、すなわち一皿出すごとにナプキンを代える習慣が、続かなかったのを残念に思う。伝えるところによればあの我慢づよい軍人マリウスも、年をとるとともに飲物についてはなはだ気むずかしくなり、かれ特用の盃によらなければ飲まなくなったそうだ。わたしもまたある形の盃を常用するようになった。そしてあり合せの盃で飲むこと、誰にでも酌をさせることを好まなくなった。いかなる金属も酒盃としては好ましくない。何れも透明なものに及ばない。(c)眼にもまたそれ相応に味わわせてやりたい。
* フォークの使用は十六世紀に始まったので、イタリアではすでに上流社会で相当に行われたらしいが、フランスではまだそれほど一般的になっていなかった。朝廷ですらあまり用いられなかったという。つまり十七世紀の終りころまで指で食べる習慣がつづいたので、ナプキンやフィンガー・ボールなどの使用がそれだけ今日より重要であったわけである。
 (b)わたしはたくさんのこういう柔弱さを習慣に負う。ところが自然もまた、別にそれ特有の柔弱さをもたらした。例えば、今では一日に二度のたっぷりした食事をとることが、胃にもたれてできなくなった。二食の一つを全然やめると腹の中にガスを生じ、口中が渇き食欲が狂ってくる。長く夜気にあたることもつらくなった。まったくここ数年来、戦争のために務めが夜通し続くときは(それはよくあることだが)、五、六時間もたつと激しい頭痛にともなって胃がむかむかしてくる。そして暁方までに必ず嘔吐おうとする。他の者どもがみな朝食をしたためにゆくときわたしは眠りにゆく。だが目がさめればもとのようにさっぱりする。わたしはかねて「夜露はただ夜になりかける時におりるだけだ」ときいていた。けれども近年、「夜露は太陽の傾く時・日没前一、二時間の時・が最も危険で、この時刻を自分は注意して避ける。夜中のそれは大したことはない」と深く信じ込んでいるある貴族と、親しく・そして長い間・交わっているうちに、彼の理屈はわからないが、彼の感覚の方はこの節どうやらわかりかけて来たようである。
 それどころではない。物ごとを疑ったり詮索したりすることさえ、我々の想像を刺激して我々を変えてしまう。ふとこうした傾向にはまりこんだら最期、完全にその身を破滅させる。実際多くの貴族たちがお抱えの医者の愚かさのお蔭で、若くてぴんぴんしているのに家の中にばかり引籠っているのを見ると、かわいそうになる。あんなに広く行われている事柄をおっかながって社交生活の楽しみを永遠に失うくらいなら、むしろかぜを引く方がよっぽどよい。(c)何といういやな学問だろう、一日の中の最もたのしい時間を追放するなんて! (b)我々の持っているものはあらゆる手段をつくして守りぬこうではないか。最もしばしば人は頑張ることによって強くなる。そしてついにはその体質をかえてしまう。カエサルは癲癇てんかんを、これを侮りこれに抵抗することによって征服した。最良の規則には服従しなければならないが、その奴隷となってはならない。まさかそれに拘束されたり盲従したりすることによってますます効果のあがる規則なんてものはあるまいから。
* 夜露をおそれること、夜間の外出、夜会に出かけること、などを指すらしい。
 王様も哲学者もうんこをする。それから貴婦人も。公的生活をする者は礼儀を守らなければならないが、わたしは人目につかない私的の生活をする者であるから、自然がゆるすことは何一つ遠慮しない。軍人であることから、ガスコーニュの生れであることからもまた、いくらか失礼を大目に見ていただけよう。そこでわたしは、この行為について次のように言おう。「それは夜中のある一定の時刻にするべきである。そういう癖をわたしのように習慣によってつけなければならない。だがわたしが年をとってからのように、そのために特別楽な場所と椅子を持つような癖はつけてはならない。それをあまりゆっくり楽に行おうと思って、かえっておっくうなものにしてはいけない」と。だが、これは一番きたないお勤めだから、これに対して特別の配慮と清潔とを要求することは、ある意味で許されてよいのではあるまいか。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)天性人間は潔癖にして気むずかしき動物なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。すべての自然的行為の中で、これこそ一番わたしが途中でやめるわけにゆかないものである。(b)わたしは多くの軍人が便通の不規則に閉口しているのを見たが、家の者もわたしも決してきめた時刻をはずさない。すなわち非常に忙しい用事とか病気とかが邪魔をしない限り朝起きぬけにする。
* ガスコーニュ生れの者は、元気、率直、濶達の気性を公認されている。
 だからわたしは前にもいったとおり、病人は彼らが生い育って来たそれまでの生活様式の中に、じっと静かにしているのより安全なことはないと思う。変化はどんなものであっても、驚かし傷つける。栗がペリゴールやルカの生れの人に毒になったり・乳やチーズが山の中で育った人々に毒になったり・するようなことがあるものではない。彼らにそれらを禁ずるのは、変った生活どころか反対の生活を命ずるのに等しい。それは健康者にだって堪えられない変化である。七十歳のブルターニュ人に水ばかり飲ませて見たまえ。船乗りを蒸風呂の中に閉じ込めて見たまえ。バスク生れの下男に歩き回ることを禁じて見たまえ。まるで動くことを禁ずるようなものだ。空気や光までうばうようなものだ。

生くることはかくも高価につくものなりや。
(出所不詳)

人は強いて我らに習慣をすてしむ。
かくて我らは生きんとして生きることをやむ。
空気をも光明をもいとえと強いられたる人々を、
果してなお生けりと人は言いうるや。
(マクシミリアヌス)

医者たちは他に何の益も与えてはくれないが、ただ一つこうやって、すなわち患者たちから少しずつ生命の使用を取り上げて、彼らを早くから死にならして下さるのである。
 わたしは健康のときも病気のときも、いつも欲望の赴くところにつれてゆかれた。わたしは自分の欲望と傾向とに大きな権威を認める。決して苦痛を苦痛によっていやすことを好まない。わたしは病気そのものよりもうるさい医療が大きらいだ。疝痛せんつうに苦しみながらかきを食べる楽しみを我慢することは、一つですむ苦痛を二つにすることである。病苦が右から、規則が左から、我々を苦しめる。どうせあてがはずれるものなら、まず快楽を得ておいてからあてがはずれよう。世間の人はこの逆をする。苦しくないものは有益でないと考え、楽にできることは信用しないのである。わたしの食欲はさまざまな場合に、自分からかなり都合よくわたしの胃の健康に順応した。ソースのぴりっと辛いのが若い時分には好きであったが、やがて胃がそれに堪えなくなると、味覚はひとりでに胃の好みに従った。(c)ぶどう酒は病人に毒である。これはわたしの口が第一番にきらい出したもので、それはどうにも我慢ができない。(b)何にかぎらずわたしが不快をもって受けるものはわたしを害し、渇望と歓喜とをもって受けるものは決してわたしを害しない。わたしはいまだかつて、わたしにとってはなはだ愉快だった行為から害をこうむったことがないのである。それでわたしはいかなる医学上の結論をも、わたしの快楽の前にすこぶる大幅の譲歩をさせた。じっさい若い頃、

クピドーわがまわりをめぐりて
紅き裾をひるがえし踊りたわむれし頃
(カトゥルス)

は、わたしをとらえて離さない欲望に、誰にも負けないくらい奔放にまた無分別にこの身を委ねた。

かくて光栄なき戦いをなしたることなかりき。
(ホラティウス)

だが、突貫によってよりもむしろ持久によって勝った。

思いず、かすかに、われ六度までもなしたることを。
(オウィディウス)

何ともばつのわるいことであるが、それに異例なことでもあるが、わたしはここに、いかにいとけなき年頃に、はじめてこの欲望の奴隷と相成ったかを、正直に白状いたさねばなるまい。それは本当に偶然のことであった。まったく選択したり識り合ったりする年頃よりもずっと以前のことだったのである。わたしはそんなに遠い昔の自分をよく覚えていない。いやわたしの場合はクヮルティラの運命に比べられよう。この女もまたその生娘のころのことを、少しも覚えていないのである。

われ早くよりわき毛を持ち、
早くも生えたる髯は母を驚かしぬ。
(マルティアリス)

* ペトロニウスの『サテュリコン』に出て来る売春婦の名。――モンテーニュはこのラテンの引用句の中に、自分の早熟ぶりを巧みに告白している。それはモンテーニュ村の同じく早熟な百姓の娘が相手であったか、それともボルドーの邸の、母親の小間使ででもあったか。とにかく彼の初恋はこのように散文的であり、少しの感傷もリリスムもない。むしろこれは彼の恋愛史に入らない部分で、彼の本当の初恋は、むしろもっと後、パリ遊学時代(十七〜二十一歳)あたりではなかろうかと推察される。
医者は病人をおそう、あのやみ難い欲望の激しさに負けてその規則を曲げると、いつもかえって成功する。この大きな欲望はそう異常な病的なものとは考えられない。やはりそこには自然があずかっているのだ。それに気分を満足させるということは実に大切なことなのだ! わたしの意見では、この気分というやつはすべてに勝つ。少なくともほかのどんな性能にも勝つ。最も重い最も日常の病気は、我々の気分がひき起す病気である。※(始め二重山括弧、1-1-52)神よ、わたしをわたしからお守り下さい!※(終わり二重山括弧、1-1-53)というスペインの言葉は、いろいろな意味でわたしはすきだ。わたしは病気になると、こうやって満足させてやれるどんな欲望も起らないのを残念に思う。医学も気の病まではなおしてくれないのであろう。今では健やかなときも同じである。わたしはもうあんまり希望もせず欲望もしない。願望までが弱り衰えてしまったとは何ともなさけないことだ。
 医術もそう確定したものではないのだから、我々が何をしようと我々の勝手である。医学も気候により、月の満ち欠けにより、フェルネルによりレスカルによってちがうのだ。よし君のお医者さんが君の眠ることや・お酒や或る種の食品をとること・をよくないといっても、大して気にするにおよばない。彼の意見にくみしない別のお医者さんをいくらでも捜して上げる。医学上の論拠や学説は実に種々雑多で、そこにはいろいろな流儀があるのだ。わたしは直りたい一心から渇いて死んだ哀れな病人を見たことがある。後で別のお医者はそれをわらって、この病人に水を禁ずるなんて最もいけないことだったといった。病人こそ我慢の仕損をしたというものだ。ついこのあいだ医を業とするある男が結石で死んだが、彼はその病を征服するために断食をやったのである。彼の友だちは、この断食がかえって彼を渇かし、彼の腎臓の中の砂を焼き固めたのだといっている。
* フェルネル(一四九七―一五五三)、レスカル或いはスカリジェ(一四八四―一五五八)、共に当時有名な医者。
 わたしは怪我や病気の際には、おしゃべりがほかの不養生と同じくらいにわたしをたかぶらせ害することを知った。声はわたしを疲労させる。まったくわたしの声は高く強いのである。だからわたしはお歴々がたのお耳にそっと重大な事柄をささやかなければならなかったとき、よく彼らをはらはらさせたものだ。次の話は少しわき道にそれるけれど、ここにお話するだけの値打がある。ある人がギリシアのある学校で、ちょうどわたしみたいに高い声で物をいった。すると礼儀作法の先生は、もっと低い声で話すようにといった。「ではどのくらいの高さで話せばよろしいか、一つおきかせ願いたい」とその男は言った。先生はこれをきいて、「相手の耳を考えて調子を決めるんだ」とやり返した。なるほどこれは、「相手にきかせる事柄に応じて語れ」という意味である限りはなはだもっともだと思うが、「相手に聞えさえすればよい」とか、「相手によって声を加減せよ」とかいう意味なら、決してもっともだとは思われないのである。声の調子や抑揚は、多少ともわたしが意味する内容を表現し表出する。だからわたしの方でこそ、自分を表出するためにそれを加減すべきである。教える声、へつらう声、また叱る声がある。わたしは自分の声が相手にとどくばかりでなく、できれば彼を打ち彼を刺すようにと思う。わたしが下男をはげしい鋭い調子で叱るとき、彼が「旦那様、そんなにどならないでもよく聞えますよ」といってくれたら愉快だろう。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)その量によらず、その質によりて、聞えやすき一種の声あり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(クインティリアヌス)。(b)言葉は半ば語る者に属し、半ばは聴く者に属する。聴く方の人は語る人の語気語勢に相応して、それを受け容れる用意をしなければならない。ちょうどテニスの遊びをする者の間で、受ける方の者が投げる方の者の動き方やうち込み方に応じて、後に退いたり・身がまえたり・するのと同じことである。
 経験はまたこんなことも教えてくれた。すなわち我々は我慢が足りないためにも参ってしまうということを。病苦にもその寿命がありその限界がある。(c)またその病気とその健康がある。
 病気の成り立ちは生物の成り立ちにまねて作られている。それには生れたときから定まったその運命がありその命数がある。その進行に逆らって力ずくで無理に病気を短縮しようとすると、かえってそれを延長し倍加する。静めるどころか高ぶらせる。わたしはクラントルと同じ意見である。「執拗に・無やみに・病苦に反抗してもいけないし、意気地なくへこたれてもいけない。ただ、病気の状態と我々の状態とに応じて、自然に病苦それに身をまかせなければいけない(b)人は病気に通り路を開けてやらねばならない。実際わたしは、したいようにさせておけば、病気はそう長くわたしの許にとどまっていないことを知った。従って、世間で頑固でしつこいと言っている病気をも、ただその衰えるに委せて、医術の助けなんかかりずに、むしろその掟に違背して、退治した。いくらか自然のしたいようにさせておこうではないか。自然の方が我々よりその仕事をわきまえている。「だって誰さんはそうやって死んだ」といわれるのか。さよう、君もまた、やっぱり死ぬであろう。この病気でなければ別の病気で。だがいかに多くの者が、医者を三人も侍らせながらやっぱり死んで行ったことか。実例はいろいろなものをいろいろに映す不確実な鏡である。愉快な治療ならお受けなさい。それだけの効果はちゃんとある。(c)薬はおいしくて食欲をそそるものでさえあれば、わたしはその名や色などは問題にしない。快味は効果をもたらす要素の一つである。
* これは近代医学も認めるところだと、医者でモンテーニュ学者であるアルマンゴーがわざわざ註をしている。
 (b)わたしは感冒や痛風の発作や下痢や動悸や頭痛その他の故障が、わたしのうちでだんだんと老いてゆき、やがて自然死をもって死ぬのを待った。それらは皆、わたしがそれらと半分仲よくなった頃には、なくなっていた。挑戦するよりも歓待することによって、かえってそれらは厄払いすることができるのだ。我々は静かに人間の宿命に堪えなければならない。いくら医学がひかえていても、我々は老いるように・衰えるように・病気になるように・できているのだ。これこそメキシコ人がその子供たちに対して第一に教えることである。彼らは母の胎内からとび出したばかりのその子供たちに向って、こういう。「子供よ。お前は堪えるためにこの世に来た。堪えよ。忍べよ。黙せよ」と。誰の身の上にも起り得る事柄が或る者の身の上に起ったからといって、これを嘆くのは正しくない。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)ただ汝にのみ不当なる掟が課せられしならば嘆くべし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)見たまえあの老人を。彼は神に向って、その健康を完全旺盛に保ってくれと、すなわち若がえらせてくれと、祈っている。

愚か者よ、何とて、いたずらに、
かくは子供じみたるがんをばかくるぞ。
(オウィディウス)

気が狂っているのではあるまいか。そんなことは人であるかぎりゆるされないのだ。(c)痛風も腎石じんせきも不消化も、長生きの徴候なのだ。長い旅の間には暑い日も雨の日も風の日もあるのと同じことなのだ。プラトンは医神アスクレピオスが、もうその国の役にも立たなければその職業にも役立たず・強健な子どもを産むのにさえも役立たない・弱り朽ちた肉体の中に生命を持続させるように骨折るだろうとは、信じていない。またそのような骨折りを公正な神の心にかなったものとも、認めていない。病気だろうが何だろうが万事を役に立てようというのこそ神意なのだ。(b)これじいさんや、もうおしまいだよ。人はお前さんをもう一度立ち直らせることはできないだろう。せいぜいおもてを塗りかえるだけ、少しばかりつっかい棒をかうだけのことであろう。(c)いやお前さんのみじめさを幾時間かのばすだけのことであろう。

(b)あたかも傾きかけたる建物に
さまざまの支柱を加うるがごとし。
されどついには、はりも柱もことごとく解けて、
支えもろ共に崩れおちん。
(マクシミリアヌス)

 どうしても避けられない事柄は、何とかしてこれに堪えなければならない。我々の生涯はちょうど世界の調和のように、相反する物事によって、いろいろな調子・すなわちやさしいのと激しいの・鋭いのと弱いの・軽いのと重々しいの・とによって、組み立てられている。音楽家がその中のある調子だけしか好まないならば、いったい何を表現し得るであろう? どうしても、それらをもろともに用いること、それらを調和させることが、できなければならない。我々も同様に、もろもろの善と悪とを、二つながらに用いることができなければならない。両々相まって我々の生命を構成しているのだから。こういう混合がなくては我々の存在はありえず、双方ともに同じくらいに我々の存在に必要なのだ。無理に自然の必然に抵抗するのは、自分の騾馬と蹴合いをしたクテシフォンの狂態を再び演ずることである。
* プルタルコスの「いかに怒りを制すべきか」の中に、子供がかんしゃくをおこすと、見境なく何にでも食ってかかる話と共に、この剣士クテシフォンの話が出てくる。
 わたしは体の調子がわるくてもあまり医者にかからない。連中は、こっちが下手したでに出たとなると急に横柄になり、その予言でもって我々の耳をおどろかすからである。かつてわたしが病気で弱っているところに来合せたときなども、例の独断とその威張りくさった風態とでひどくわたしをおどかした。あるときは「大いに痛むだろう」とおどかしたし、あるときは「近く命が危ないぞ」などとほざきおった。わたしはそのために打ちのめされもせず、うろたえもしなかったけれども、むっとして腹が立った。わたしの判断はそのために乱されも変えられもしなかったが、少なくとも邪魔をされた。そこでいつも喧嘩口論なのである。
 さてわたしは、自分の想像をできるだけ優しくあしらう。できることならそれからすべての苦労と紛争とを取りのけてやりたい。想像はこれをたすけ、これにへつらわねばならない。できればこれをだまかすこともしなければならない。わたしの精神はそういう勤めに適している。それはいたるところに何かしらもっともらしい理由を発見するからだ。もしそれがその説くとおりに説得できるものならば、それはわたしにとって有難い味方となるであろう。
 その例を一つお目にかけようか。わたしの精神はわたしにこんなふうにいうのである。「お前が腎石を持っているのは、お前のために大変よいのだ。お前のようなとした建物には、いくらか割目ひびが入る方がむしろ自然なのだ(今はちょうど、それがこわれ始めるときなのである。これが万人に共通の必然なのだから、どうしてわたしばかりが特別の不思議を望み得よう? わたしもすべての老人がおわされた年貢を、同じように納めなければならない。どうしてもこれ以上安あがりにすますわけにはゆくまい)。同じ年代の人間が最も普通に出会うことにぶつかっただけなのだから、仲間はいくらもいると思ってみずから慰めなければならない(わたしは、同じたちの病気になやむ人たちをいたるところに見る。いやそのお仲間に入ったことは、わたしにとって名誉千万だ。この病気は好んでお歴々がたを襲うものであるから。実際その本質には幾らか高貴で上品なところがある)。この病気に襲われた人々の中で、お前ほど楽にすんだ者はあんまりない。みんなは苦しい養生も我慢し、いやいやながらも毎日薬をのまずにはいられなかったが、お前はまったくお前のよい運のおかげで、そうやっていられる。まったく、お前のはさほどの重症でもないのに、同病になやまれる貴婦人がたが、わざわざエリュンギオンとヘルニア草の入った流行の煎薬せんやくを半分だけわけて下さったときだって、せっかくの御親切だからと二、三服飲んだばかりで、飲みやすい代りに効目もないなどといって、中途でやめてしまったくらいではないか。みんなは砂が容易に、そしてたくさん流れ出るようにと、アスクレピオスにいろいろたくさんの願をかけ、お医者にだって同様にたくさんのお金を払わなければならないというのに、お前はしばしば自然のお蔭でそれを排出したではないか。(c)普通の人々と一緒にいて、お前の端正な態度は少しも乱されない。そして十時間も、健康な人たちと同じくらい長く、小水をこらえることができる。(b)やがてこの病気にかかりはしないかと(わたしの精神は続けていう)、その昔お前がまだこの病気を知らなかった頃、お前はおびえていた。我慢が足りないためにかえって病気をこうじさせているほかの連中の叫喚と絶望とが、お前を恐れさせたのだろう。だがそれは、お前が最もあやまちを犯した器官を責める病気なのだ。お前は良心ある男ではないか。

我らは、ただ、その病いに価せざる時のみ、
苦情をいう権利あり。
(オウィディウス)

まあこの罰の与え方をごらん。ほかの罰にくらべたら、はなはだやさしい・正に慈父の・折檻せっかんである。またそのおそく来てくれたことをも思うがよい。それはお前の一生の・もうどうにも衰え果てて何もできなくなった・季節を不自由にするだけで、お前の若いおりの自由と享楽とを少しも妨げはしなかった。まるで協議の上のことみたいではないか。人々がこの病気についていだく恐怖と同情とは、お前の虚栄の材料となる。なるほどこの虚栄心から、お前の判断は洗われ、お前の理性はいやされているかもしれないが、まだまだお前の友人たちは、お前の性質の中にその若干の痕跡を認めている。『何とも気の強いことだ。何にしてもえらい忍耐だよ』と語られるのを聞けば悪い気はしまい。お前はひや汗をかき、青くなり、赤くなり、がたがた震え、血までも吐き、ひどい痙攣けいれんに苦しみ、ときには大粒の涙をほろほろこぼし、あるいは濃い・黒い・恐ろしい小水を排泄したり、あるいはとんがり・そそり立った・石のために排尿を妨げられて、尿道に突き削られるような痛みを感じたりしながら、いつものとおり同座の人と語りもすれば、時々は召使たちに冗談もいい、真面目な議論に加わりもすれば、その苦痛をさほどでもないといって我慢して見せる。あれほどの饑渇きかつをもって苦痛を請い求め・その徳を練磨した・過去の・人々を、お前も知っているだろう。その光栄ある塾に自然が自分を入れてくれるのだと思えばよい。自分からは決してその門をくぐりはしなかったろう。これは危険な・命にかかわる・病気だというのか。それではどんな病気が危険でなく命にかかわらないというのか。幾つかの病気をより分けて、これは直接命にかかわりがないなどというのは、みな医者どものぺてんである。病気がいきなり死に到達しようと、またこっそりと楽に死に通ずる途へさそい込もうと、どっちでもよいではないか。(c)とにかく、お前は病気だから死ぬのではない。生きているから死ぬのである。死は病気の助けを借りなくたって、立派にお前を殺すのである。いやある者においては、病気がかえって死を遠ざけた。彼らは始終まだ死なぬまだ死なぬと思ったから、それだけ命を長く感じた。それに傷の場合**と同じく、病気をいやし・健康をもたらす・病気***もある。(b)疝気せんきはしばしばお前に負けずに長生きしたがる。ある人々においてはそれが子供の時代から老齢の極まで続いた。もし彼らの方でおさらばをしなかったなら、疝気はさらに彼らにつきまとったであろう。お前たちの方で疝気を殺す方が、疝気がお前たちを殺すより、しばしばである。たとえそれが近づいた死の姿をお前に示すにしても、お前のような老人にとっては、そうやって自分の最期を覚悟させて貰うのは、かえって有難いことではあるまいか。(c)いやなお困ったことには、お前はもうなおる年ではないのである。どうしたって、共通の必然は第一番にお前を呼びつける。(b)疝気がいかに巧みにいかにやさしくお前に人生をいとわせ、お前をこの世から引離すかを考えてごらん。少しも暴君のように屈従を強いはしない。これは老人たちにおいてよく見られるほかのいろいろな病気と違うところで、ほかの老病が絶えず継続的に衰弱と苦痛とで彼らを縛っているのに対し、お前の疝気は間をおいたおりおりの警告教訓を用いるにすぎない。そこには長い中休みがある。まるでお前にその教訓を静かに反芻はんすうし瞑想するたよりを与えているかのようである。お前が勇気ある人として健全に判断し決心する方便を得られるように、それはお前に、お前の境遇をそっくりと、すなわちそのよいところと悪いところとを、もろともに提示する。同じ一日の中に、元気な生活と堪えがたい生活とをかわるがわる提示する。お前は死を抱擁しないまでも、少なくとも月に一遍はそれと握手する。(c)そのお蔭でいよいよお前は、死がいつかおどかさずにお前をとらえるであろうことを、期待することができる。そしてあんなにたびたび渡し場までつれてゆかれたから、例によってまだまだ大丈夫だと思っているうちに、その信念もろともに、ある朝いつの間にか三途の河を渡り切っていることであろうと、期待することもできる。(b)公平に健康と時を分ち合う病気に、少しも苦情をいうことはないではないか」。
* モンテーニュの持病腎石疝については、みずから「旅日記」の中に詳しく病状を記録している。白水社版『モンテーニュ全集』第四巻索引中「モンテーニュの病気」の項を利用されたい。
** 第一巻第三十四章(二八九頁)にその実例があげられている。
*** 淋病患者がチブスにかかり、チブスが癒えると共に淋病も癒えたという話がある。専門家にきくと、脳梅毒患者にマラリヤの熱をおこさせて梅毒をなおす方法もあったという。アルマンゴーは、或る種の皮膚病は、これを治癒消滅させると脳症状が現われ、皮膚病をそのまま再発させておくと、脳症状が消滅するという場合を註の中に挙げている。

 わたしは運命が、このようにしばしば同じ武器をもってわたしに攻めかかることを、運命に感謝している。運命は習慣によってわたしをこの病気に対して訓練陶冶し、それに慣らし鍛える。どうやら今では、どうしてこれをのがれるべきか、ほぼわかってきた。(c)生れつきの記憶をもたないので、わたしは紙で記憶を作りあげる。わたしの病気に何かかわった徴候があらわれると、わたしはそれを書きつけておく。だからこんにちでは、ほとんどあらゆる種類の経験をなめつくしていて、何かの変調におどかされても、さっそくこの乱雑なちっぽけな帳面を、まるで巫女みこの託宣集でも繰るようにめくりさえすれば、かならず自分の過去の経験の中に、何かしらみずから慰めるに足りる良い徴候を見出さぬことがないようになった。(b)習慣もまた、わたしが未来に対しよい希望をもつのに役に立つ。まったくこの結石の流出は随分長いこと継続しているから、「自然はこの程度を変えることはあるまい。いま自分が感じているそれよりも更に悪い変った出来事は起るまい」と信じられるのである。それに、この病気の容態は、活溌で性急なわたしの性分にあながち不似合でもないようである。それはやんわりとやって来るとき、わたしを恐怖させる。そういうときは長びくからである。だがたいていは元気盛んに攻め寄せ、ただ一日か二日の間わたしを極度にゆすぶるだけである。わたしの腎臓は、何の異状もなしに一時代を経過した。変調を生じてからも、やがて一時代を経ようとしている**。悪いことにも好いことと同様にその期限がある。おそらくこの変調もまた、そろそろ終りに近づいているのではあるまいか。年齢がわたしの胃の力を弱めると、消化がそのために不完全になるから、その不消化な物をそのまま腎臓に送る***。そんならなぜ、いつか時期が来て、わたしの腎臓の熱も同様に衰え、粘液を石化することができなくなる日が来ないだろうか。そして自然に何か別の通じの道がつくようなことにならないだろうか。年は確かにわたしのある種の粘液を涸渇させた。なぜ腎砂のもとになるこの排泄物だけが独り涸渇しないだろうか。
* 一五八八年版には「四十年経過した」とある。
** 一五八八年版には「やがて十四年を経ようとしている」とある。
*** これはアンブロワズ・パレの『結石論』の説明である。これをもとに、モンテーニュは次のような楽観的な予測をする。
 それに非常な苦痛の末に石を排出し、それこそあっと言う間に、あんなに自由な・あんなに充実した・健康の光を回復するときの(それは急激にきた鋭い疝痛の最中によく起ることだが)、その急激な変化に比較できる程の心地よさがほかにあるだろうか。何かこの結石の苦痛の中には、あの急激な回復の喜びにふさわしく釣合ったものが含まれているのであろうか。まったく病気の後では健康がいよいよ美しいものに思われるものであるが、思うにそれは、両者があまりにも接近しているために、両方が互いにしのぎをけずってせりあうところを、目のあたり見ることができるからなのではあるまいか。ストア学者たちが、「不徳は徳の値をせり上げるためにこの世に生れた有用なものである」といっているように、我々は「自然が苦痛を我々にあたえたのは、快楽を尊び無痛を一そう有難く思わせるためである」ということができる。いやこの方が一そう理屈にかない穏当な推量であると言えよう。ソクラテスも、その鉄鎖をはずしてもらって、それまでその重みが彼の脚を圧迫していたところに一種のむずがゆい快感を覚えたとき、苦痛と快楽との間には密接な関係があり、両者は必然的な関係で結ばれているように交互にめぐって来るものであると考えて喜んだ。そして名匠アイソポスに向って、「この考えをもとにして一篇の美しい寓話を書いてくれないか」と叫んだ。
 わたしが他の病気において最も悪いことと思うのは、容態がひどくない割合にその直りが悪いことである。すっかり回復するのには一年もかかるし、その間はしじゅう衰弱と不安とに満ちている。もう安全という所にたちもどるまでには、たくさんの危険・たくさんの段階・があって、どうしてなかなか容易なことではない。まず頭巾をとってもらい次にお椀帽をとって貰う前に、いよいよ外の空気やお酒や妻やメロンをゆるされる前に、また何かの悲惨なぶり返しをしないですむならばそれこそ大した仕合せなのだ。わたしの病気は一ぺんにさっぱりするという特権を持っているが、ほかの病気となると、いずれも常に何かの痕跡変化をのこすから、肉体はまた別の病にかかりやすくなる。つまりほかの病気とお互いに手をつないでいるのである。ただ我々に食い入るだけで満足し、さらにその支配をひろげたり・そのお供を引きつれて来たり・しないものは、まず勘弁がなる病気であるが、その通過が何か有益な結果を持って来てくれるにいたっては、それこそやさしい・親切な・御病気様よと申さねばなるまい。わたしはこの疝痛を得てから全くほかの病気にかからなくなった。何だか従前よりも丈夫になったように思う。その後は一ぺんも熱を出したことがない。わたしはこんな理屈をつけている。「わたしはひどい嘔吐を度々するので体内がしぜんに掃除される。一方わたしの食欲不振やわたしの行う異常な断食は、わたしの悪い液体を消化してくれる。そしてその過剰の有害な部分を、自然が石にしておし出してくれる」と。「そいつはあまりにも高価なお薬だ」なんていってはいけない。まったくあの臭い煎薬や、腐蝕剤や、切開や、発汗や、串線かんせん法や、断食や、その他もろもろの治療法はどうだ? その激しさ・しつこさ・に堪えられないで死ぬ人間さえあるではないか。だからわたしは発作に見舞われると、それをそのままお薬と心得る。それがすんでしまうと、それを本当に完全な解放と考える。
 ここにまたもう一つ、わたしの病気には特別な好意がある。というのは、病気がほとんどわたしとは別にその仕事を行い、わたしにその元気さえあるならば、わたしにもわたしの仕事をさせてくれるからである。その最も大きな発作のときでさえ、わたしは十時間も馬上でそれに堪えることができた。ただ我慢だ。他に薬はいらぬことだ。遊びなさい。食べなさい。走りなさい。できるなら、あれもしなさい、これもしなさい。君の道楽は害よりも益をもたらすだろう。梅毒患者にも、痛風病みにも、ヘルニア患者にも、そういってやりなさい。疝気以外の諸病は、もっと全般的に我々を拘束する。まったく別様に我々の行動を妨害し、我々の秩序全体を攪乱し、我々の生活状態をすべて病人くさくする。わたしの病気はただうわ皮をつねるだけで、意志や悟性は我々の思いのままにさせてくれる。舌や足や手もしばらない。むしろ我々を鈍らさないで覚醒させる。霊魂も高い熱にはうちひしがれる。癲癇てんかんにはうちのめされる。激しい頭痛にはやっつけられる。要するに、全身や高尚な諸器官を傷つけるもろもろの病気にあうと、ぼうっとする。だが疝気の場合は平気である。何の影響もこうむらない。もしこうむるならば、それは霊魂自身が悪いのである。みずから裏切り、みずから放棄し、みずから狂ったのである。我々の腎臓の中で焼けあがるあの固い塊が、飲み薬で溶けるなんてことを本気にするのは、ばかばかりである。だから一朝そいつが動き出したら、それに通路を与えるに限る。石の方でもみずから通路を作るであろう。
 なおわたしは、次のような特殊な有難さも認める。つまり、これはほとんど気をまわす余地のない病気だということである。我々はほかの病気にかかると、その原因・容態・進行の不確かなことから、限りなく苦しい不安のうちに投げこまれるが、疝痛の場合にはそれがない。博士の診察や説明を乞うまでもない。それが何の病かどこの病か、感覚が教えてくれる。
 こんなふうに強い弱い様々の論拠によって、わたしはちょうどキケロがその老いの病をまぎらしたように、自分の想像を麻酔させることに、想像の傷口に膏薬こうやくを貼ることに、努めている。明日、その傷口がもっと悪くなったら、明日は明日でまた別のごまかしをやればよかろう。
 (c)以上が決して嘘でない証拠をあげれば、近ごろはまた、ちょっと運動をしてもすぐに腎臓から鮮血が出るという始末であるが、わたしはいっこう平気で、相変らず動きまわることをやめない。若者のような旺盛な元気で、猟犬のあとを追って馬をのりまわしている。そして、さしもの大病も案外ぎょしやすいと思っている。それはただ局部に何となく重苦しい異常を感じさせるだけである。それは何か大きな石がわたしの腎臓の・いやわたしの生命の・本質をすりつぶしているからで、わたしはそれを、今ではもう余計な邪魔な排泄物として、少しずつ漏らしてゆくわけであって、そこには一種の自然な快楽さえ感じられなくはないのである。(b)ところで、何かが崩れてゆくような感じがしたらどうするかって? けっしてわざわざ自分の脈を取ったり尿を検査したりはしないのである。そうやっていやな予測をしてみても仕方がない。苦しくなればすぐにも感ずるのだ。何も想像の苦痛をもって本当の苦痛を引き伸ばすにも及ぶまい。(c)苦しむことを恐れる者は、すでにその恐れることで苦しんでいるのだ。それに自然の機構やその内部の進行を説明しようとする人たちがあやふやで無知であること、彼らの学術の予測があんなにもでたらめであることなどを見れば、自然は我々にはとてもうかがい知られない手段方法を持っているのだと、悟らずにはいられない。その約束の中にも、その脅威の中にも、大きな不確実・変化・曖昧がある。ただ老いだけは別で、これは死が近づいた疑うことのできないしるしであるが、その他の出来事の中には、我々の予測の根拠となるような未来のしるしはほとんど見当らないのである。
 (b)わたしは自分の容態を判断するのに、ただ実感により推理にはよらない。わたしは病気になるとただ我慢して待とうと思うだけで、ほかには何も思わないのだから、推理なんかいらないのだ。それでわたしがどんなに得をしているか。それが知りたければ、別様にする人々、様々の意見や勧告にたよる人々を、見られるがよい。いかにしばしば想像が、実体がないのに彼らを圧迫することか? わたしはしばしばあの危険な発作をまったく切り抜けてから、まるでそれがこれから起ろうとしているかのように医者どもに告げては、面白がった。わたしは彼らの恐ろしい結論を平気で拝聴した。そしてますます神の恵みの深いのに感じ、いよいよ医術の空なることを教えられた。
 およそ活動と用心ほど若者たちに向って奨励すべきことはない。人生はひっきょう運動なのである。ところがわたしはなかなか動き出さない。何をしても遅れがちである。起きるのも、寝るのも、また食事をするのも遅い。七時に起きれば、わたしとしては早起きの方である。うちにいると、十一時前に朝食をすることはなく、六時過ぎなければ晩食をしない。わたしはむかし熱を出したり病気になったりすると、その原因を長い睡眠がわたしにもたらす無精や物ぐさのせいにした。そして朝になってから又寝することをいつも後悔した。(c)プラトンは過度の睡眠を、過度の飲酒以上に悪いものとしている。(b)わたしは固い床に、独りで、妻さえなしに、王様のように、ただいくらかよくくるまって、寝るのがすきだ。湯たんぽは決して入れさせたことがない。けれども年を取ってからは、欲しいときには足と胃とを温めるための毛布を貰う。偉大なスキピオは寝坊だと咎められたが、わたしの考えでは、この人ばかりはほかに難癖のつけようがないので、それが皆の気に入らなかったのだと思う。もしわたしの生活の中に特別な好みがあったとすれば、それは何よりも寝かたについてであるけれども、たいていの場合は、わたしもまた誰彼と同様に、必要の前に譲歩しこれと妥協する。睡眠はわが生涯の一大部分を占めた。この年になっても、なお八、九時間を一いきに眠る。わたしはいまこの怠け癖から抜け出しつつあるが、なかなか具合がよい。たしかにそれだけわたしは良くなった。始めのうちは少し辛いけれども、三日もたてば何でもなくなる。実際、必要に迫られればわたしほど少しの睡眠で我慢できる者は、見たことがない。またわたしほど辛抱強く働く者、わたしほど労役にへこたれない者も、見たことがない。わたしの肉体は落ちついた活動には堪えるけれども、急激なそれには堪えられない。今では激しい汗をかくような運動は避けている。わたしの四肢は熱がはいるまえに疲れてしまう。わたしは一日じゅう立っていられる。また歩いて疲れることがない。けれども舗道の上は、(c)ごく若いときから、(b)馬でなくては行くのを好まなかった。徒歩でゆくと尻っぺたまではねを上げる。それにちっぽけな人間は人目につかないから、人通りのはげしい街路ではとかく小突きまわされがちである。それからても坐っても、脚を座と同じ高さ、あるいはそれよりももっと高くして、休息するのが好きであった。
 およそ軍職くらい愉快な職業はない。その実施されるところを見ても高貴であるし(だってあらゆる徳性のうちで最も力強く気高くさかんなのは勇気ではないか)、その動機からいっても高貴である。自分の国の平和と盛大とを擁護することくらい、公正で一般のためになることはないのである。高貴な・若い・活溌な・大勢の人々と一緒にいること、あのような悲壮な光景を常々目の前に見ること、あの虚飾を交えぬ自由なつき合い、男らしい無遠慮な生活、種々様々な功名手柄、君たちの耳をも心をも引きしめあおり立てるあの軍楽の勇ましい調和、こうした勤務から生ずる名誉、その辛労さえも((c)この辛苦をプラトンはごく軽く見て、その理想国においては婦女子までもそれにあずからしめたほどで)、(b)いずれも皆愉快である。君たちは、これらのことの輝かしさや重大さを悟れば悟るほど、(c)みずから志願して(b)進んで危険な役目につく。そしてその生命がそこに有意義にささげられるとき、諸君は知る。

戦いて死ぬることの美わしさを。
(ウェルギリウス)

あんなに大勢の人々にかかわる共通の危険を恐れ、いろいろな種類の人々があえてすることを敢えてしないというのは、度外れに柔弱卑怯な心のしるしである。皆と一緒だと思えば子供だって決心する。もしもほかの人々が知識において・美において・力において・財産において・君たちをしのぐならば、それは君たちのそとにある諸原因によるものであるから、それらに食ってかかってもよい。だが霊魂の堅固さにおいて彼らに負けているならば、ただ君たち自らに食ってかかるより仕方がない。死は床の上では戦場においてよりも、一そうみじめで・長く・苦しい。熱病やカタルは鉄砲玉と同様に苦しく致命的である。日常生活のいろいろの出来事に勇ましく堪えるように鍛えられている者は、軍人となるのに特に気張る必要は少しもないのである。
* モンテーニュはここで(さきに第二巻第七章においても見られたように)、軍職および軍人をひどく理想化して描いている。彼は当時の戦争の実態や、封建武士、軍人貴族の無教養や虚栄などを、十分に承知しているはずなのに(それらに対する批判は至るところで見られたのに)、時々このような軍職礼讃をしているのはなぜだろうか。我々はここに、彼みずから貴族軍人として国王に仕えている身分であり、友人知己の中には沢山の軍人をもっていたし、一方政治家としての抱負も(野心とはいわぬまでも)持っていたし、何と言っても大革命より二百年も前の時代、しかもフランスの戦国時代に生きていたのだということを、こもごも考え併せるべきではあるまいか。それに、彼にはユマニストとしての夢がありモラリスト的な英雄崇拝もあった。だから彼がここに礼賛しているのは、現実の当時の軍人生活ではなくむしろプルタルコスなどを通じて見た古代の名将の言行であったようだ。かつて「哲学する目的は死に方を学ぶことにある」と考えて生死の意義について深く考えた彼が、やがて有意義な死を賛美するに至り、さらに軍職礼賛にまで発展したものと考えれば、これはやはりモンテーニュにおいて至って自然なことであるようにさえ見える。また或る意味で、これは現実の軍人に言ってきかせたい教訓でもあったろう。だから、一方に高い目的のためにいさぎよく生命をすてる古武士の心意気をたたえながら、また一方に、同様な決心覚悟が庶民の日常生活の中にもあることを指摘することを忘れない。そこに殺戮や勝利の賛美などは少しもない。すなわちモンテーニュは決して戦争ずきではない。前出一の三十一「カンニバルについて」の章の中で、彼は戦争を人間特有の病気だと断言している。この点については『モンテーニュを語る』八一―八五頁参照。――なおモンテーニュみずからどのような戦争をしたかは明瞭でないが、彼が実際に行った軍務というのは、この章の始めに語られているボルドー市の警備とか夜警とかいったようなこと、或いは参謀勤務のようなことであったろう。勇敢な戦闘員であったとはいくらひいき目に見ても思われない。
 (c)※(始め二重山括弧、1-1-52)生きるとは、愛するルキリウスよ、戦うことなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。わたしは疥癬かいせんにかかった覚えが全くない。だが掻くということは、最も甘美な・そしてはなはだ手近な・自然のたまものである。だが直ぐその後から、後悔がうるさくついてくる。わたしはよく耳の中がかゆくなるので、むしろ耳をかきこわして後悔する。
 (b)わたしはほとんど完全と言ってもよいくらいの諸感覚を全部持って生れた。胃の腑も頭脳も、小気味よく丈夫だ。たいていの場合、熱がある間も衰えない。呼吸も同様である。わたしは(c)つい先頃五十を六つ越したばかりであるが(b)この五十という歳を、ある国の人たちは、それも理由のないことではないが、人生のきわめて妥当な終局であるとし、それ以上にながらえることを許さない。然るにわたしは、今もなお時々、消えやすく短いものではあるけれど、かなり完全な若々しさを回復する。それは若い頃の健康無痛とほとんどかわりがない。もちろんそれは精気精力のことではない。そうしたものがその限界を越えて、わたしについて来るようにと望むのは、無理な話である。
* 一五八八年版に「人生五十年と一般に言われる、その五十歳を過ぎた」と書かれている。従ってこの部分は、一五八七年五十四歳の二年後、すなわち一五八九年に加筆されたものと推定される。

わが体にはもはや、雨にぬれつつ
汝が戸口に立ちて待つ力なし。
(ホラティウス)

 わたしの顔が、(c)わたしの眼が、(b)さっそくわたしを暴露してしまう。あらゆるわたしの体の変化はそこから始まり、そこに実際にあるよりはいくらか強めに現われるからで、わたしはしばしばわたしみずからがその原因を感じないうちに、早くも友人たちに憐れみの情をもよおさせる。鏡の姿はわたしを驚かさない。まったく若い時分でさえ、このように冴えない・不吉な・顔色や顔つきを示すことも一再ならずあったが、別に大したことは起らなかったのである。それで当時医者たちは、内部にこうした外部の変化に応ずる何らの原因も見出せないものだから、それをみな気のせいにした。何か隠れた感情が心の内部を蝕んでいるためであるとした。だが彼らは間違っていた。もし肉体が霊魂と同じようにわたし次第でどうにでもなるものなら、我々はもう少し悠々と生きてゆけるであろう。当時わたしの霊魂は、ただに不安を持っていなかったというだけでなく、満足と歓喜とに充満していた。それは、半分はその天性により、半分はその意図によって、いつもそんなふうであったのだ。

わが肉体は霊魂の不安に左右せられず。
(オウィディウス)

 わたしはこういうわたしの霊魂のあり方こそが、幾たびとなくまさに倒れなんとするわたしの肉体を助けおこしたのだと信じている。じっさい肉体はしばしばへたばるが、霊魂の方は常に快活でないまでも少なくとも平静な状態にある。わたしは四、五カ月のあいだ四日熱をわずらって見ちがえるようにやつれたこともあるけれど、精神状態は相変らず平静であったばかりか、むしろ爽快であった。苦痛がわたしの外部にあるならば、衰弱はたいしてわたしを悲しませないのである。わたしはいろいろな肉体上の病人を見る。それらは名をあげるだけでぞっとするが、わたしはそれらを、常に自分の周囲に見るあの限りない激情や精神の錯乱ほどには恐れないのである。わたしはもう走るまいと決心している。どうやら歩けさえすればそれでたくさんである。自然の老衰がわたしの袖をひかえることに苦情はいわない。

アルプスの山中に甲状腺のはれたる人たちを見出すとも誰か驚かん!
(ユウェナリス)

わたしの寿命がかしの木のそれほどに長く完全でないこともくやまない。わたしの想像についても、少しも苦情をいうことはない。わたしは一生を通じて、わたしの眠りの流れを少しでも中断するような思いは、ほとんど持ったことがないからである。なるほど欲望にかかわる思いによって目をまさせられたことはあるが、勿論それはわたしを悲しませはしなかった。わたしはほとんど夢を見ない。見ても大抵は愉快な考えから生ずる・取りとめのない・たわいもない・ことばかり、悲しい夢ではなくてばかばかしい夢である。だからわたしは、夢が我々の傾向の忠実な説明者であるということは本当だと思う。だがそれらを継ぎ合せて解釈するには技術がいる。

(c)人々の一生を占むる事柄、彼らが覚めてあるときに
思うこと見ることすることのすべてが、
彼らの夢の中に現わるるは、驚くに足らず。
(アッティウス)

 プラトンはさらに進んで、「夢の中から将来に対する暗示を引き出すのは知恵の役目である」といっている。わたしにはこういうことはまるで解らないが、絶対的権威者とされるソクラテス、クセノフォン、アリストテレスは、いずれも夢について不思議な経験を物語っている。歴史の語るところによれば、アトランティスの人たちは決して夢を見なかった。また生きているものでなければ食べなかった。このことを言いそえるのは、おそらくこれが、彼らが全く夢を見なかった原因であろうと思うからである。まったくピュタゴラスは、思うような夢を見るためにある種の食品の調理を命じたのである。わたしの夢はおだやかなもので、あばれたり声を出させたりすることはない。わたしはこんにち、いたく夢にうなされる人々をたくさんに見た。哲人テオンは夢をみながら歩きまわった。ペリクレスの下僕は家の屋根やはりの上まで歩いた。
* 古代の人々が西方の楽土と信じていた島。
 (b)わたしは食卓でほとんどえり好みをしない。一番先に出された最も手近のものに手をつける。あれからこれへと味わいあさることをあまり好まない。むやみに品かずの多いのは、人数の多いのと同様ありがたくない。わたしは僅かの品数で容易に満足する。「宴会においては、お客さまがあるお皿に食欲を催しはじめたら、すぐにこれを引き下げて、あとからあとからと別の皿を代りに出さなければならない。そうやって様々な鳥の腿肉でもってお客様を堪能せなかったならば、ただいちじく食い〔鳥の名〕だけが完全に食べられるのに値したというならば、それは哀れむべき御馳走である」というファウォリヌスの説をわたしはしりぞける。わたしはしじゅう塩漬の肉をとる。だがパンの方は塩気のないのがすきだ。それでうちのパン焼きは、当地方の習慣に反して、わたしの食卓に塩気のあるパンをだすことがない。人はわたしが幼少の頃、通例おなじ年頃の子供たちが好む物、すなわち砂糖・ジャム・ビスケットの類をきらうのを、特に矯正しなければならなかった。わたしの家庭教師は、こんなおいしい食品をきらうのは一種のわがままだとわたしを叱った。なるほどそれは対象が何であるにしても、とにかくえり好みに相違ない。少年からその黒パンやベーコンやまたはにらに対する・ある特別な・執拗な・嗜好をとり除くことは、けっきょく彼のすききらいの癖をなおすことになる。中には山うずらを御馳走してやると、牛肉かハムでなければのどを通らぬといって、ひどくつらそうな顔をする者もいる。実にお仕合せな方々である。それこそ贅沢屋の贅沢である。それこそ自分が日常食べなれた物ばかりほしがる安楽な身分の人たちの嗜好である。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)かくしておごれる人は富の倦怠より脱れんとはするなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)ほかの人が御馳走とする物を食べないこと、自分だけ特別の食品をとろうと執心すること、

質素なる皿に盛られし野菜もて食事することを恐るること
(ホラティウス)

は、奢りという不徳の本質である。なるほどこれとはちがって、「その欲望を最も得やすい物に限る方がよい」という説もある。だが是非にとそれに拘泥こうでいすれば、やはりそれは不徳となる。わたしは昔わたしの親戚の一人で、永らく軍艦に乗っていたために、寝るときに普通の寝台を用いたり着ものを脱いだりする習慣を忘れてしまった男を、よく贅沢者と呼んだものである。
* 小鳥の中で最も美味なものであると食通ブリア=サヴァランがその著『美味礼讃』(岩波文庫)の中に、その名の由来と共に詳述している(『美味礼讃』上巻、瞑想第六「ジビエ」の項参照)。
 もしもわたしに男の子供があったら、わたしは彼らのためにわたしと同じ運命を願ったであろう。神様がわたしにお与え下さったやさしい父は(彼がわたしからうけるのはただその慈愛に対するわたしの感謝だけであるが、その感謝たるや実に熱烈なものである)、わたしをまだ揺りかごのうちにいる時分から、領内のある貧しい村に里子に出し、わたしが乳を飲んでいる間じゅう、いやその後までも、わたしをそこにとめ置いて、最も低い最も普通の生活にわたしを慣らして下さったのだ。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)胃腸のよく整いたるは自由の大いなる部分なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)「子供たちを養育する任務は決してみずから負うてはならない。妻にはなおさらのこと委せてはいけない。運命が庶民の間の・自然の・規則の下で、彼らを陶冶するに委せなさい。習慣が彼らを質素と厳格とにならすのに委せなさい。むしろ始めを厳格にし、だんだんと寛大にしてやるがよろしい」。こう考えたほかに、父はなお別のことを目ざしていた。すなわち、「わが子を庶民と結びつけよう。わが子をこの我々の扶助を必要とする境遇の人々と結びつけよう」と思っていたのである。「わが子は彼に向って背を向けている人たちよりも、彼に向って腕をさし伸べている人たちの方にこそ眼をそそぐべきだ」と考えていたのである。実際こうした理由のために、彼は最も卑しい身分の人々をしてわたしを洗礼盤上に支えしめ、そうやってわたしに彼らに対する義理と愛情とをいだかせたのである
* 里子のこと、洗礼のことは当時一般の習慣で、特別の意味はなかったにしても(拙著『モンテーニュ伝』二五頁)モンテーニュが特にこのように書いていることは、決して意味のないことではあるまい。殊に彼が四百年前の人であり、地主の息子であったことを考えると、次のパラグラフとともに、きわめて味わい深いものがあると思う。
 父の企ては決して不成功に終らなかった。わたしはいつも身分の低い人たちのために身を捧げている。一つにはそこにより多くの栄光があるからであり、もう一つはわたしの持って生れた同情心のせいであるが、この同情心こそわたしのうちに無限の力をふるう。わたしは、わたしが我々の内乱において非なりとするであろう党派を、それが隆盛であるならいよいよ厳しく処罰するであろう。だがそれが圧倒されて悲惨な有様にあるのを見るならば、ある程度妥協する気にもなるであろう。スパルタ王の娘と生れ・またその妻となった・キロニス**の美しい心根には、わたしは心から感服する。夫クレオンブロトスがその都市の騒乱に際して彼女の父レオニダスよりも優勢であった間は、彼女はよい娘であった。すなわち勝者にそむき、みじめな姿で配所に送られる父の方にくみした。ところがふと運命が逆転すると、たちまちに運命と共にその意志をかえ、断然その夫につき、破滅が彼をつれてゆくいたるところにしたがった。思うに彼女は、自分が最も必要とされる側・最もその同情を注ぎ得る側・に付こうとしただけなのである。生れつきわたしは、自分に利益をもたらす人々よりも自分を必要とする人々の方についた、あのフラミニウスの真似をしがちである。えらい人たちの前に膝を屈し・身分の低い人たちに対して威張ることを常とした・ピュロスにならう気には、どうしてもなれない。
* ボルドー市版ではここが仮定文として書いてあるが、一五八八年版ではもっとはっきり書かれている。「わたしは我々の内乱において、諸党派中の一党派の主張を非なりとする。だがそれは、その主張が花やかに栄えているときのことである。それが押しつぶされてみじめな様であるのを見ては、わたしもときに或る程度この派の方に加勢した」。アルマンゴーによるまでもなく、これは明らかにモンテーニュのプロテスタントに対する態度を言ったものであろう。主義や立前の上からは、モンテーニュは温和なカトリック派であるが、いくらカトリックであるからといって、あの聖バルテルミの殺戮を目の前に見ては、やはりカトリックを憎みたくなるし、プロテスタントの日頃の主張をもいくらか好意的に見ざるをえなくなるというのである。モンテーニュは、この虐殺を眼のあたり見ながら、エッセーの中にはっきりとその批判をしてはいないが、恐らくここにこう書いている以上には、正面切って言えなかったのであろう。
** 父たるレオニダスも夫たるクレオンブロトスも、共にスパルタ王。
 長い食事はわたしにとって(c)迷惑であり(b)有害である。まったく子供のときからそれが癖になっているのか、ほかにする芸もないからか、わたしは坐っている間じゅう食べるのである。だから自分の家では(c)食事はすこぶる簡素だけれども、(b)アウグストゥスの真似をしていつも皆よりおくれて座につく。ただし彼がほかの者よりも先に食卓を離れたことは真似しない。それどころか食後長く休息するのを、そして皆の話をその仲間入りをせずに黙ってきいているのを好む。まったく胃のふくらんでいるときにしゃべると、疲れて気持が悪くなるからである。その代り食前にどなったり口論をしたりするのは、大変健康によく愉快なことだと思う。(c)昔のギリシア人やローマ人は我々よりも物をわきまえていた。彼らは人生で最も大切な行為である食事のために、何か特別非常の用事が彼らを妨げない限り夜中の最良の数時間をあて、何事によらずそそくさとやる我々とは違ってゆっくりと飲みかつ食べた。そしてこの自然の快楽をより多く享楽もし活用もし、その間にいろいろ有効で愉快な社交的義務をはたした。
 (b)わたしの世話をしなければならない人たちは、わたしに害があると考えるものを、わけなくわたしに禁ずることができるであろう。まったく食物に関しては、眼の前に見さえしなければ、わたしは決してあれを出せとかこれがないとかいわないのである。けれども一たん目の前に出されたら、もういくら我慢を説いたってむだである。だからわたしが断食をしようと思うときは、わたしは晩食をする人たちから離れていなければならず、きめられた軽い食事をきめられた分量だけきちんと出してもらわなければならない。まったく食卓につくと、わたしは自分の決心を忘れてしまうのである。わたしが何か料理に文句をつけ、やり直して来いなどと命ずるときは、必ずそれはわたしの食欲がへっているせいであって、どうしたところで結局手をつけはしないのだと、家の者どもはよく心得ている。少しくらいなまでも、食べられるものは少々なまなのが好きだし、かなりいたんでいても食べられる種類の食品なら、わたしはかえってにおいかけているもののほうが好きである。ある物にいたっては匂いが少々変ったくらいのがいい。一般にわたしが嫌いなのは硬いものである(ほかの点では、わたしの知っている誰にもまけないくらい無頓着であり寛大である)。だからわたしは一般の人々と反対に、魚に関してさえも「これはあまり新しすぎる。しまり過ぎている」ということがよくある。これは決して歯のせいではないので、わたしの歯はいつも完全といいたいほどよかった。ただこの頃になって、やっと年のせいでいささかあやしくなった位のものである。わたしは子供の時から、毎朝および食前食後にナプキンで歯をこするのがくせである。
 神様からなしくずしに命を差引いていただいている人々は御恩寵に浴しているのだ。これこそ老年がもつただ一つの有難さである。最後に来る死はそれだけ軽くて楽であろう。それはもうただ半人ないし四分の一人を殺すだけのことだから。今しがた歯が一本、痛くなく、楽に、ぬけおちた。これがその歯の寿命であったのだ。いや歯ばかりではない。わたしの存在の他のいろいろな部分も、すでに全く死んでいる。そのほかわたしが盛んな時代に最も活溌であり・第一位を占めていた・部分までが、もう半分は死んでいる。こうしてわたしは溶けて、わたしからこぼれてゆく。すでにこんなにまで滑りおちたこの墜落を、なお高いところからの墜落のように思うのは、わたしの分別に訴えて見れば何という愚かさであろう。わたしは愚か者でありたくない。
 (c)ほんとうにわたしは自分の死を考えるとき、それが正常自然なものであろうこと、そして今ではもう、運命に向って不当な愛顧でなければ求めることも願うこともできないのだということを思って、一つの大きな慰めを得ている。人間は、昔はそのからだが大きかったように寿命もまたずっと長かった、と思いこんでいる。だがソロンはそうした古代の人間だけれど、人間の命の極限を七十歳とした。はばかりながらこのわたしも、あれほどまでに・そしてあれほど広く・むかしのあの「アリストン・メトロン〔ギリシア語・最もよい中道〕」を賛美し、中庸の度をもって最も完全な度合と考えて来たのであるから、どうして度はずれの不自然な長命をあえて望もう? 自然の進行に逆らって来るものがすべて不愉快でもそれは仕方がないが、自然に従って来るものはいつも必ず愉快でなければならない。※(始め二重山括弧、1-1-52)自然にかないて来るものは、すべて善のうちに数えらるべし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。だからプラトンはいう。「傷または病がもたらす死は激烈であるが、老いがそろそろと我々を導いてゆく間にふと我々をおそう死は、すべての死の中で最も軽く、ある意味では最も快い死である」と。※(始め二重山括弧、1-1-52)若者より生命を奪うは暴力なり。老人よりこれを奪うは成熟なり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (b)死はいつも我々の生と混り合っている。衰えは死の先駆であって、我々の生長の過程にさえはいりこんでいる。わたしは二十五のときの肖像と三十五のときのそれとを持っているが、その二つを現在のとくらべて見ると、おお、いかにわたしは変ったことか! いかにわたしの現在の姿はそれらの姿からかけ離れていることか! むしろそれはわたしの死ぬ時の姿の方に近いくらいだ! 自然をこんなにまで遠く引っぱって来るのは自然を余りにも悪用することである。これでは自然の方からわれわれの手を振りきって、我々の指導を、我々の目・歯・脚・等々を、すべて我々が日頃すがり求める別の者の援助にまかせ、さよならを言わざるをえなくなる。我々のお伴にはもう飽きあきして、そっくり我々を医術の手にゆだねざるをえなくなる。
* モンテーニュの肖像は、一八三七年に Dr. Payen が報告しているところでは、原画と称せられるもの三、『エッセー』諸版に掲載されている複製画四十が数えられるが(この報告は Panth※(アキュートアクセント付きE小文字)on litt※(アキュートアクセント付きE小文字)raire 版『エッセー』巻頭に転載されている)、ストロフスキーの言うように、それらは大別して二種に帰せられる。一、※(始め二重山括弧、1-1-52)首飾りをしたモンテーニュ※(終わり二重山括弧、1-1-53)といわれるものと、二、※(始め二重山括弧、1-1-52)帽子をかぶったモンテーニュ※(終わり二重山括弧、1-1-53)と言われるものであるが、いずれもモンテーニュ何歳のときの肖像か、それを決定する資料は少なく、また確実ではない。ただ前の絵は、一五七九年頃にかかれた「子供の教育について」の章で著者みずから語っている肖像ではないかと想像される。そうだとすれば、四十六歳ごろの肖像ということになる。どこか病人らしい感じがあるのは、結石発病の後だからであろうか。だがこの絵も果して原画なのか模写なのか不明である。首飾りは彼の誇りとしたサン・ミシェル勲章にちがいないが、左上方にある楯形紋章はモンテーニュの家紋ではないから、この画の信憑性にも多少の疑いがもたれる。また帽子をかぶった方の肖像は、かつてモンテーニュ邸を所有した l’Amiral de Lostende の所蔵で、晩年のモンテーニュの、ストロフスキーに言わせればアンリ四世の手紙を受け取った頃の、風貌だと言われる。すなわち五十七歳前後の姿と思われる。従ってここに述べられている二十五歳および三十五歳のときの肖像は前記のいずれでもなさそうである。右の外に M. d’H※(アキュートアクセント付きE小文字)mery 所蔵の肖像があるが、これは前二者に較べるとかなり若いときの肖像のように思われる。現在、ボルドー市キャンコンス広場に立っている全身像の顔はこれをモデルにしたものと思われる。なおモンテーニュは自分の容貌風姿を、第二巻第十七章「自惚れについて」の章にみずから描いている。
 わたしはメロンをのぞき、サラダも果実もむやみにほしがらない。父はあらゆる種類のソースを嫌われたが、わたしはそのすべてが好きである。食べすぎれば苦しくなるが、わたしはまだ、その本来の性質からどんな食品がわたしに害を及ぼすか、確かなことは知らないのである。それらがわたしにさわるのは満月の時か、新月の時か、秋か春か、これまたよくは知らないのである。我々のうちには常ならぬ・知覚されない・変動がある。まったく一例を挙げれば、辛大根、あれをわたしは始め好きだったが、やがて嫌いになり、今ではまた好きになったのである。いろいろな物について、わたしは自分の胃の腑と嗜好とが、そういう風にいろいろ変っていくのを感じる。わたしの好みは白ぶどう酒から赤ぶどう酒に変り、また再び赤から白へと変った。わたしは魚が好きである。だから精進日がわたしには御馳走の日で、わたしの祝い日はかえって断食の日である。誰かが「魚は肉より消化がよい」といったのは本当だと思う。魚の日に肉を食べるのは気がとがめるように、わたしの嗜好もまた魚と肉とをまぜないように気をつける。両方の差異はずいぶん大きいと思う。
* カトリック教の精進日には、獣肉こそ食べてはならぬが、玉子も魚肉も食べてよいのである。生き物を食べない立前からいえば、肉と魚とは区別がないわけだが、嗜好の上では成程ずいぶん味が違うと、モンテーニュはいささか皮肉をいったつもりであろう。当時のパリで精進日に消費される魚の量は、相当な数に上ったという。
 若い時分から、わたしはよく一食ぬくことがあった。一つにはそうやって翌日の食欲が旺盛であるようにしたのであった。まったく、エピクロスは断食をしたり肉ちをしたりして、彼の快楽が豊富でなくても満足するように慣らしたのだが、わたしはあべこべで、わたしの快楽がますますその豊富さをよろこんで享楽できるように慣らしたのである。また一つには、何かの肉体的または精神的な働きのために精力を温存しようとして、断食したのであった。まったくわたしの肉体と精神とは、満腹によってひどく怠け者になるのである。特にわたしは、あんなに健やかで身軽な女神〔ウェヌス〕と、あのお行儀がわるく・げっぷをする・酒くさい・ずんぐりの男神〔バッコス〕との、おろかな結合が嫌いなのである。またそれは病める胃の腑をやすためでもあった。あるいはまた適当な相手がないためでもあった。まったく、わたしはやはりあのエピクロスのように、何を食べるのかよりも、誰と一緒に食べるのかを、考えるべきであると思うのである。そして、キュロンがほかのお客様が誰々であるかを知らされるまではペリアンドロスの宴会に出席することを約束しようとしなかったことを、ほめるものである。わたしにとっては社交から生れる和やかな味わいほどおいしい御馳走はなく、またそれほど食欲をそそるソースもないのである。
 わたしはもっとゆっくり・もっと少なく・食べるのが、そしてもっと度々に食べるのが、健康的であると思う。だが食欲と饑餓きがとは十分に認めてやりたい。医者に言われるとおり、あんなに制限された・日に三、四回の・情けない食事をもぐもぐやったのでは、ちっともうまくはないだろう。(c)今朝わたしに食欲があるからといって、夕食のときにもなおあると一体誰が保証してくれる? 我々は、わけてもわれわれ老人は、最初の好機をはずすまい。エフェメリードは暦の編集者たちやお医者さんたちにお委せしようじゃないか。(b)わが健康の究極の果実は快楽である。何でもいい手近のすでに覚えのある快楽を、逃さずに掴んでおこう。わたしはああいう断食の掟においてはコンスタンス〔恒常持久**〕を避ける。ある養生法の益を受けようとする者は、それを継続することを避けなければならない。やがて我々はそれに対して無感覚になり、我々の精力はそのために麻痺してしまう。半年もたってごらん。君の胃の腑はそれに慣れっこになってしまう。けっきょく君が得るところといえば、それを自由に使用できなくなること、それをもし別様に使用すればたちまちに体にさわること、くらいなものであろう。
* エフェメリードというのは、われわれの当用日記のような、暦と備忘録とを兼ねたものである。各頁に日付がついていて、その下にその日に行われた歴史上の大事件などが印刷されている。その下のひろい余白に、所有者が何でも書きこめるようになっている。病暦、食餌せん等に使うにも適している。モンテーニュの使用したエフェメリードは白水社版『モンテーニュ全集』第二巻巻頭の口絵第五図に見られるとおりで、「家事録」とも訳されている。要するにここの意味は、これこれの食餌箋に従って養生をすれば、幾日目から何が食べられるというような予定を楽しむ生活をさすのであろう。一五九五年版には、エフェメリードという語の代りに「希望や予測」という二語がおかれている。
** 恒常または我慢持久ということは、モンテーニュが日頃尊びまたすすめる徳目であるが、この食養生に関しては、あえてこれをさけるというのである。その理由は次にのべているとおりである。
 わたしはすねからももに、夏冬とも同じ一重の絹の長靴下をはくだけである。風ひきのときにはやはり人並みにいつもより頭部を温かにくるみ、疝痛のときには腹部を温めたが、わたしの病気はわずか数日のうちにそれに慣れてしまい、やがてこのお定まりの手当を嘲笑あざわらうようになった。わたしはただのナイト・キャップから頭巾にした。一重の帽子から裏付の帽子にかえた。だがわたしの毛皮の上衣だって、いまではもうただの装飾にすぎなくなり、さらに兎の皮とかわしの羽毛とかを加え、頭にはお椀帽でもかぶらないことには、何の役にもたたなくなった。こんな順で行った日には、しまいにはとんでもないことになる。わたしはそんな真似はふっつりやめよう。できれば一番始めまでもどりたいくらいだ。もしまたその上何か別の病気にでもなったら、それこそ今までの養生は役に立たない。慣れっこになっているからだ。そこでまた別の養生法と来る。そんな風にして、窮屈な養生法に拘泥する連中は自分から体をこわしていく。しかもなお迷信的にそれを厳守する。養生の上に養生をし、そのまた上に養生である。まったく際限がない。
 仕事のためにも楽しみのためにも、古代の人々がしたように昼食はやめにして、御馳走を帰宅後休息の時期までのばし、一日を中断しない方がずっと都合がよい。昔はわたしもそうしていた。だが健康のためには、その後経験によって、かえって昼食をした方がよいこと、消化は目のさめているときの方がよく行われることを知った。
 わたしは健康のときも病気のときもあまりかわきを訴えない。病気のときも、渇きを感じない程度にたいてい口中をかわかしておく。ふだんは飲みたくならなければ飲まない。この欲望は食べている間に、しかもかなり食事が進んでから、始めて起る。わたしは普通の人間としては、相当に飲む方である。夏、食事のおいしいときには、キッチリ三杯しか飲まなかったというアウグストゥスの限界を越えるだけでなく、四杯でやめるのは不吉であるとしたデモクリトスの規則を破らないためにも、ほしいときには五杯まではやる。つまり、約四分の三リットルばかり飲む。まったく小さな杯が好みの杯で、わたしはそれをほすのが楽しみなのである。もっともある人たちは、それをお行儀がよくないといって避ける。わたしはぶどう酒をたいてい水で半々に割る。ときには水三分の一に割る。だからわたしの家では、主治医がかつて父に命じ・彼みずからもまた実行し・たという古い習慣によって、わたしの用いる酒はその食膳に供せられる二、三時間前に、前もって台所で割られる。(c)聞くところによればアッティカの王クラナオスが、このように酒を水で割って用いることを案出したのだそうだが、その方がよいかどうかについては、いろいろな議論をきいたことがある。子供は十六ないし十八になるまでは、酒を用いない方がつつましくもあり、体のためにもいいと、わたしは思う。(b)とにかく一般普通の生活法がいちばんよい。すべて特別なことは避けるべきだと思う。ドイツ人がぶどう酒を割って飲むのも、フランス人がぶどう酒を生のまま飲むのも、両方ともいやである。世間の習慣がそういう事柄の規準となる。
 わたしはおどんだ空気をきらい、煙をひどくいやがる(わたしが家に帰って来て一番先におこなった改良は、暖炉と便所であった。この二つは、古い建物では、どこもたいてい劣悪で我慢がならない)。だから、暑い最中に終日もうもうたる砂ほこりの中にいなければならないことを、戦争の辛さの一つに算えないではいられない。わたしは障りなく楽に呼吸ができる。だからかぜを引いても、たいてい肺をやられることもなく、咳にもならずにすんでしまう。
 夏のはげしさの方が、冬のきびしさよりもわたしにはつらい。まったく、暑くてやりきれないばかりでなく(それは寒いのよりも始末がわるい)、日の光が頭をくらくらさせるばかりでなく、わたしの眼がそのまぶしさに堪えられないのである。わたしは現在、まぶしく燃えさかる炉の真正面に坐って食事をすることができない。今よりもよく本を読んだ頃、わたしは紙の白さを弱めるために、よく書物の上に一枚のガラス板をのせた。そうするとよほど楽であった。わたしは今にいたるまで眼鏡の使用を知らない。昔と同様に、また誰にもまけないくらい、遠くが見える。だが正直のところ、日暮れには、わたしもようやく読むのに不自由と疲れを感じ始めた。読書は始終わたしの眼を疲らせたが、夜は特に疲れる。(c)これこそ一歩の後退である。まだほとんど感じられない程度のものだけれども。わたしはさらに一歩、そして二歩より三歩、三歩より四歩と後退してゆくことであろう。その進みはきわめて静かであるから、いよいよ自分の視力の老衰をはっきりと感ずる頃には、もう全くの盲になり果てていることであろう。こうして、地獄の意地わるな女神たちは、いとも巧みに我々の生命をかすめ取るのである。同じように、わたしの耳も段々と遠くなるのではあるまいか。諸君はわたしが相手の声の小さいのを咎めている中に、いつの間にか聴力の半分を失っているであろうことに、やがてお気がつかれよう。霊魂が少しずつ溶けてゆくのをそれに自覚させるには、日頃よほど霊魂を引きしめていなければならない。
* 一五八八年版には「五十四歳の今……」と書いている。
 (b)わたしの歩みは早くかつしっかりしている。わたしの精神とわたしの肉体と、そのどっちが同じところにじっとしていられないのか、わたしにはわからない。その説教の間じゅうわたしの注意を引きとめてそらさない説教家は、きっとわたしの友人である。儀式の場所でも皆は固くなって坐っているのに、婦人たちはそのひとみまでもじっとさせているのに、わたしはわたしの体のどこかの部分が、しじゅう場所がらをわきまえぬ挙動に出るのを、どうにもおさえることができない。坐ってはいるものの、ちっともじっとしていられないのである。(c)哲人クリュシッポスの女中は、うちのご主人はただおみ脚だけしかお酔いにならないと言ったが(まったく彼はどんな姿勢をしていても、始終脚を動かす癖があったのである。そして女中は、お酒がはいるとほかの人たちはみな興奮したのに、彼だけはいつも泰然としているのを見てこういったのである)、そのようにわたしは皆に、少年の頃から、「足に狂気を宿しているみたいだ」とか、「水銀のようにちっともじっとしていない人だ」とか言われたものである。それほどにわたしの足は、どんな場所にいても、しょっちゅうそわそわと、動かないではいられないのである。
* 精神と肉体とどっちが活溌ともいえない。むしろいずれ劣らず健在だというのである。
 (b)わたしのようにがつがつと食べるのは、健康にわるいばかりでなく、また食味をも損するばかりでなく、お行儀がわるい。わたしはしばしば舌を噛む。ときには指を噛む。急ぐからである。ディオゲネスはそういう風にそそくさと食事をする少年にあうと、いきなりその家庭教師の横面をはった。(c)ローマには、歩き方ばかりでなく噛み方をしとやかにするように教える人たちがあった。(b)わたしは急いで食べるために、ゆっくり会話をたのしむゆとりを失う。話というものは、それが適当な面白い手短かなものである限り、まことに結構な卓上の薬味であるのに。
* 先にも註したとおり、十六世紀のフランスでは、フォークの使用ははなはだ稀であった。モンテーニュは、「旅日記」の中に、イタリア上流社会ですでにそれが流行していることを特に記している。一六〇八年イギリスの旅行家 Thomas Coryate は、パリでなおフォークが行われていないことを特記している。
 我々の快楽相互の間にはねたみそねみがある。それぞれは互いに衝突し妨害し合っている。アルキビアデスは御馳走のことに精通した人であったが、食卓から音楽までも排斥した。談話の楽しさがそれによって妨げられるのをきらったからだ。(c)それはプラトンが彼に、「楽人や歌い手を宴会の席に招くのは俗人どもがすることである。彼らは教養ある人々のように有益な議論や愉快な談話をし合って互いに楽しむことを知らないからだ」と教えたからだ。(b)ウァロは宴会にこういうことを要求する。「姿が美しく話すことが面白く、黙り屋でもおしゃべりでもない人たちを集めること。食品や食堂が清潔で趣があること。お天気がよいこと」。(c)本当に結構な宴会というものは並大抵の技術のおよばないもので、その楽しさもまた格別である。偉大な大将たちも偉大な哲学者たちも、決してそれに関する知識をもちそれを催すことを、しりぞけはしなかった。考えて見るとわたしも、そのような宴会を三つ覚えているが、何れも運命がわたしのまだ若い盛りの頃に、しばしばわたしに味わわせてくれた至上のうれしさの一つであった。まったくそのときのお客様たちは、それぞれ肉体も霊魂もともにすぐれた人たちばかりで、いずれも至上の雅致をそこに持ち寄ったのであった。わたしも今のようになっては、もうそういうお仲間にははいれない。
 (b)地面にごくすれすれにいるわたしは、我々に肉体を大切にすることを軽蔑したり目のかたきにしたりするように教える、あの非人間的な知恵を憎む。自然の快楽をいみきらうのは、あまりにそれに執着するのと同様に、不正なことだと、このわたしは考える。(c)クセルクセスは馬鹿者であった。彼はあらゆる人間的快楽に包まれていながら、なおその上に快楽を見つけ出してくれる者には褒美をやるといった。だが自然が見つけてくれた快楽までもお断わりする者は、クセルクセスにまけない馬鹿者だと言わなければならない。(b)快楽は追っても避けてもいけない。ただ受けなければいけない。わたしは今、それらを前よりは幾分豊かにそしてよろこんで受けている。前よりは幾分か進んで生れつきの傾向に引かれてゆく。(c)快楽のはかなさは特に誇張する必要はない。それは十分に感ぜられるし、また十分に明白である。我々の病的な・しんきくさい・精神は、我々にかれみずからをきらわせると共に快楽をもいとわせる**。そのおかげで我々の精神は、飽くことなく・落ちつかず・変りやすい・その本質によって、自分とその受けるところのすべてとを、あるときはちやほやし、あるときは邪魔にするのである。

容器清潔ならざる時は、中なるものもまた腐敗す。
(ホラティウス)

* このイメージは、天馳せる荒鷲でなしに地面すれすれに飛ぶ親しむべき燕の姿に自らなぞらえたのである。
** われわれはノイローゼになると、自己嫌悪におちいると共に快楽をはかないものだなどという。要するに、すべては病的な精神のせいで、そういう容れものに入れられたものは皆、本来の性質を腐敗させるというのである。
 人生の安楽をこんなに熱心に・またこんなに特別に・抱擁して誇りとしているわたしも、今こうやってそれらをくわしくながめて見ると、ほとんどただ風を見出すばかりである。だが今さら何を驚こう? 我々はどこからどこまで風なのである。それに風の方が我々人間よりも賢明なのだ。ざわざわと鳴ったりあばれたりすることが好きだけれども、自分に特有な務めに満足して、あえて自分の性質にあらざる安定や堅固を乞いもとめることがない
* モンテーニュは「福音書」の弟子であるよりは「伝道の書」の弟子である。その「伝道の書」には、「すべては空であって風をとらえるよう」であるということが、繰りかえして述べられている。ただモンテーニュは、みずからその風たることに安んじている。むしろ風たることを愛している。それはかなり東洋的、仏教的な、楽天主義に近いように思われる。
 想像上の純粋な快楽は、同じく想像から来る純粋な苦痛とともに、ある人たちのいうところでは最も大きなもので、クリストラオスの天秤が示すとおりである。これは少しも不思議ではない。想像は思いのままに快楽を作り、勝手にそれらを配分するからである。わたしは毎日その顕著な実例を見る。中には多分うらやむべき実例もあろう。だがこのわたしは、不純でがさつな性分だから、そういう純粋にただ想像だけででき上ったようなものには、全身をあげて食いつくことができない。やはり人間的法則一般的法則の支配する・精神も肉体も共にあずかる・あの現在的な快楽の方に意気地なく引かれてゆく。キュレネ学派の哲学者たちはこう信じている。「苦痛と同様に快楽もまた、肉体的であるときに一そう強烈である。それは二重になるからであり、またこの方がむしろ正当なものだからだ」と。
* 霊魂の幸福と肉体の幸福とを天秤にのせて見れば、断然前者が重いに違いない。後者の皿に海と陸とを加えても、前者の皿はあがるまい。――という風に、クリストラオスは考えたのである。
 世には(c)アリストテレスが言ったように、野蛮蒙昧であるがために(b)快楽をきらう者もいる。だがわたしの知っている連中は、野心の上からそれをきらっている。それならどうして彼らは呼吸することまでもこばまないのか。なぜ自分の息だけで生きないのか。(c)なぜ光明を拒まないのか。だって光は無料ただではないか。それを得るのに工夫も努力もいらないではないか。(b)試みに彼らをただマルス〔戦争の神〕やパラス〔ローマのミネルウァ、技術音楽の神〕やメルクリウス〔雄弁の神〕だけで生活させてごらん。ウェヌスやケレス〔農業の神〕やバッコス〔酒の神〕がなくても生きてゆけるか(c)彼らは奥さんの上に乗っかりながら、円積法を考えようというのではあるまいか。(b)わたしはいやだ。肉体は食卓の前に坐らせながら精神は雲の上に遊ばせよなどと命じられるのは! わたしは精神が食卓に釘づけにされ・そこにおぼれる・ことは欲しないが、精神がそこに集中することを欲する。(c)精神がその上に寝てしまうことは欲しないが、そこに坐ることを欲する。アリスティッポスは、まるで我々が霊魂を持たないかのように、肉体ばかり擁護した。ゼノンは、我々には肉体がないかのように、霊魂ばかりを愛した。両方とも間違っている。人々はいう、「ピュタゴラスは哲学を静観のうちに求め、ソクラテスはそれを生活行為の内に求め、プラトンは両者の中間に中庸の哲学を見出した」と。だがこれは一つのお話である。真の中庸はソクラテスのもとにある。そしてプラトンはピュタゴラス的であるよりはるかにソクラテス的であり、そうする方が彼にずっとふさわしかったのである。
* 彼らだって、明けてもくれても、軍の神様や雄弁の神様にばかり奉仕するわけではあるまい。やはり愛の神様にも穀物の神様にもお酒の神様にも御厄介になるであろう。――という意味。
 (b)わたしは踊るときには踊る。眠るときには眠る。一人で美しい果樹園を散歩するときだってそうだ。わたしはそのうちの幾時間かは、何かほかの出来事に気をとられているかも知れないが、またほかの幾時間かは、やはり散歩に・果樹園に・その静寂のうれしさに・そして自分ひとりに・もどっている。自然は、我々の生存のために我々に課したもろもろの行為が、我々にとって快楽でもあるようにと、さながら慈母のように心を配った。そして我々を理性によってのみならず、欲望によってそこに赴かせる。こういう自然の掟をまげるのは正しくない。
 わたしはあのカエサルやアレクサンドロスがその大事業のまっ最中に、(c)自然的な・したがって必要で正当な・(b)快楽をあのように十分に享楽したのを見ても、決してその魂を弛緩しかんさせたとはいわない。むしろそれを強化したという。彼はつよい気魄によって、あの激しい仕事と骨の折れる思想とを、日常生活の規則に従わせたのであるから。(c)もしも彼らが一方を日常の天職・一方を非常時の天職・と考えていたのだとすれば、彼らこそ賢者であろう。我々は大ばかである。我々はいう。「彼は無為の中にその一生をすごした」「ぼくは今日何もしなかった」――と。冗談ではない。君たちは生きたではないか。それこそ君たちの仕事の根本であるだけでなく、その最も輝かしいものではないか。――「もし大事業をする好機が与えられたなら、ぼくもこの腕前を見せてやったのに」と君はいうが、もし自分の生活を考え導くことができたのなら、それだけで君はあらゆる事業のうちの最も偉大な事業を成しとげたことになる。自然は自分を示し自分を発揮するのに、運命などを必要としない。すべての段階において、幕の裏でも幕がなくても、同じように自分を示す。我々の日常をととのえることこそ我々の務めで、それは書物を作ることでもなければ、戦に勝ち国々を取ることでもない。我々が生きるための秩序と平安とを勝ち得ることである。我々の偉大で光栄ある傑作とは、ふさわしく生きることである。そのほかのことは、統治することも、お金をためることも、家をたてることも、皆、せいぜい附帯的二次的な事柄にすぎない。(b)一人の大将が、そのやがて打ち入ろうとする突破口の真下で、友だちに取りかこまれて食事や談笑にわれを忘れているのをみると、わたしはうれしくなる。(c)いやブルートゥスが、天と地とこぞって彼およびローマの自由をうち滅ぼそうとしている時に、なおかつ夜警の幾時間かを盗み、落ちつき払ってポリュビオスを読んだりその註をしたりしたのを見ると、まことに愉快だ。(b)仕事の重さにおしつぶされて、それをきれいに片づけることもできなければ、それをほうっておくことも再び取り上げることもできないというのは、ちっぽけな人間のすることである。

しばしばわれと苦難を共にしたる勇ましき戦士たちよ。
 今日こそ酒の中に憂いを忘れよ。
明日はまたわれらもろ共に、大海原に漕ぎ出でん。
(ホラティウス)

冗談にいうのか真面目でいうのか、とにかく神学の酒・ソルボンヌの酒・ということが、それから坊さんたちの御馳走ということが、共に美酒佳肴かこうの通り言葉になっている。彼らは朝のうちを有効に・真面目に・彼らの学校のお稽古に使ったのだから、それだけ面白く・楽しく・御馳走をたべるのは当然なことだと思う。それまでの時間はよく使ったぞという自信は、当然食膳に風味を添えるお薬味となる。このように賢者たちは暮した。両カトーにおける・我々を驚かす・あの徳に対する真似のできない努力、あの執拗ともいいたいほどの峻厳な性格ですら、あのようにおとなしく人間性の掟に服従し、ウェヌスやバッコスの掟とも仲よくなれたのである。(c)それは彼らの属する学派の教えにならったのであって、その掟によれば、完全な賢者は自然的快楽の享有においても、人生の他のすべての義務におけるように、通人であり達人でなければならないのである。※(始め二重山括弧、1-1-52)その心賢き者は、その舌もまた鋭敏ならざるべからず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
* 坊さんたちは、僧院の奥でよき酒をかもし、俗人をよそにして独り御馳走をたべる。口さがない俗人どもはこれをうらやみ、「美酒、つよい酒」を「神学の酒」と呼んだ。「ソルボンヌの酒」もまた同じ意味である。ソルボンヌは今は単なる学校であるが、昔は神学研究生の寮であった。
 (b)緊張をといて気さくに人々に接するということは、力強く気高い霊魂にいよいよその尊さを加えるもので、これこそ最もそういう人に似つかわしいことだと思う。エパメイノンダスは町の若者の舞踊に加わり、(c)歌ったりかなでたり、(b)本気でそういうことをするのを、自分の光輝ある戦勝の名誉を汚し品行方正の評判を傷つけるものだとは考えなかった。(c)いかにも神の子だという評判にふさわしい人物であった祖父おおじ(b)スキピオは、いろいろ賞賛すべき働きをしたが、その、子供のように無心に貝殻を拾い集めることに打ち興じたり、浜辺でラエリウスを相手に貝拾いの競争をして遊んだりした有様ほど、彼を慕わしい人にするものはないのである。また天気の悪いときには人間の最も卑俗な行為を喜劇にかいて独りおかしがったり、(c)ハンニバルやアフリカに対する雄大な企てで頭を一杯にしながら、なおシチリアの諸学派を歴訪して哲学の講義に連なって、遂にローマにおける彼の敵に攻撃の口実を与えたり(b)したことほど、彼を慕わしくするものはないのである。またソクラテスにおいても、彼がすっかり老人になってから踊りを習ったり楽器を奏でたりする時間を見出し、それを最もよい時間つぶしと考えたことくらい、注目すべきことはないのである
* モンテーニュの日常生活にも同様の傾向を指摘することが出来る。特に彼の「旅日記」の中には、彼の赤裸々な風貌がうかがい見られる。例えばデラ・ヴィラ温泉滞在中に舞踏会を催したときのことなどを参照せられることを望む。白水社版『モンテーニュ全集』第四巻索引中「モンテーニュの旅」の項を利用されたい。
 この人〔ソクラテス〕はギリシアの大軍を前にして、まる一日ひと晩、何か深遠な思想に心をうばわれ恍惚として立ちつくした。(c)その軍隊の中にはほかに勇士たちが大ぜいいたのに、アルキビアデスが敵に押しまくられて苦境にあると見るや、真先に彼を救おうとかけつけ、身をもって彼をかばい、武器をふるって彼を群衆の手から奪い返した。また、あんなに大ぜいのアテナイの民が、彼と同じように目の前の恥ずべき光景に憤慨していたのに、いよいよテラメネスが三十主の家来どものために刑場につれて行かれようとしたときには、やはり彼が真先に駈け出した。しかもただ二人に従われただけであったが、テラメネス彼みずからの諫止にあうまでは、この大胆不敵な企てを捨てなかった。みずからも思いをかけていた美女に求められながら、とうとう厳格に純潔を守り通したこともある。デリオンの戦いでは馬から落ちたクセノフォンを助けおこした。彼は絶えず軍に従い、裸足はだし(c)氷を踏み、(b)冬も夏も同じ衣服をまとい、僚友の誰よりもよく艱難に堪え、宴会においてもいつも以上には食べなかった。(c)二十七年の間変らぬ態度で、飢えと貧しさと子供の腕白と妻の爪とに堪えた。そして最後は、中傷と圧制と牢獄と鉄鎖と毒に堪えた。(b)けれどもこの人は、人とのつきあいの上から競って酒を飲まなければならないときには、やはり軍中第一番であった。また子供たちとくるみ遊びをすることも、彼らと一緒に竹馬にのって遊ぶことも、あえて辞さなかった。いや喜んでそれをした。まったくすべての行為は、哲学のいうとおり、同じように賢者に似合い、同じように賢者を貴くするのである。こんなことは、ソクラテスにはまだいくらでもある。人はあらゆる場合に完全だった人として、この人の姿を示すことを決して忘れてはならない。(c)純粋で充実した生活の模範というものはきわめて少ない。まったく、毎日のように力ない・不完全な・ただ僅かに或る種の生活に役立つにすぎないような・模範ばかりを示すのは、我々の教育に害がある。それはむしろ我々を後退させる。矯正するよりも腐敗させる。
 (b)世間一般はまちがえている。はじっこを歩くことはやさしいのだ。へりはささえともなれば手引ともなる。かえって大きな広い道の真中をゆく方がむつかしいのである。また学術に従って行くのは自然に従って行くのよりやさしいが、それだけ尊くもなく賞賛にも値しないのである。(c)偉大な霊魂とは、高くあがり前に進む人のことではなくて、むしろ自分を整え自分をおさえ自分を制する人のことである。そういう霊魂は、すべて相当程度のものを偉大とし、卓越した物事よりも中位の物事を愛することによってみずからの高さを示す。(b)いかにも人間らしく・それにふさわしく・振舞うほど、美わしく正しいことはない。いかにこの人生を良く(c)そして自然に(b)生くべきかということほど、むつかしい学問はない。我々の病気のうちで最も恐ろしいのは、我々の生存をないがしろにすることである。自分の霊魂を遠ざけたいと思うなら、肉体の調子がわるいときに、もしできるものなら、思い切ってやって見るがよい。肉体の病気を霊魂にうつさないために。だがそういう場合をのぞき、むしろ逆に、霊魂は肉体を助け護らなければならない。そして肉体とともに自然的快楽にあずかることを拒んではならない。もしそれが賢明な霊魂ならば、過度によって快楽に苦痛が交らぬように節制を加えながら、夫婦のように肉体の自然的快楽をたのしむことを拒んではならない。(c)不節制は快楽を殺す疫病であり、節制は快楽の邪魔ではなくてその薬味である。エウドクソスはそのともがらと共に快楽をもって至上の善であるとし、それにきわめて高い値をつけたが、彼等はいずれも稀な・模範的な・節制によっていともゆかしく物静かにそれを味わった。(b)わたしは自分の霊魂に向って命ずる。「苦痛をも快楽をも、同じように(c)整った・――※(始め二重山括弧、1-1-52)喜びにのぞみて霊魂を拡張するは、悲しみにあいてそれを収縮することとともに、排斥せざるべからず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)――そして同じように(b)落ちついた・眼をもって見よ。ただし快楽の方は愉しく、苦痛の方はまじめに。そしてできる限り苦痛の方は抑制し快楽の方は拡張するように心がけよ」と。(c)幸福を正しい眼で見るということは、そのまま不幸をも正しい眼で見ることになる。苦痛も、そのつつましい初期においては何かしら避けにくいものを持っており、快楽も、その窮極においては何かしら避けなければならないものを持っている。プラトンは両方を同列におき、苦痛と戦うのも、快楽のおさえがたい魅するような誘惑と戦うのも、共に勇気の務めであるとした。それは二つの泉である。どちらから、いつ、またどれほど、汲まなければならないにしても、とにかくそこに汲む者は、国家であれ、人間であれ、また獣であれ、いずれもみな至福をうける。苦痛は医薬として、必要に応じて少しずつ汲むがよい。快楽の泉は渇いたときに、ただ酔っぱらわぬ程度に汲むがよい。快楽と苦痛・愛と憎・とは、子供がまず最初に感ずるものである。やがて理性が生れるときに、もしそれらが理性にかなうならば、それがとりも直さず徳なのである。
 (b)わたしはまったくわたしだけの辞書を一つ持っている。わたしは悪い・不快な・「時**」はこれを通り抜ける。良い「時」はこれをやり過したくない。いつまでもそれを味わいそれにすがりつく。悪い「時」はこれをかけ抜け、良い「時」はそこに滞留しなければならない。passe-temps〔ひまつぶし〕とか passer le temps〔時をすごす〕とかいうあの日常の言葉は、あの慎重な人々の日常をそっくり言い現わしている***。彼らはその一生を流れ去らしめること・それをやり過しそれをかわすこと・「時」が彼らのうちにある間はまるで何かいまわしい厭なものででもあるかのようにそれを無視し回避すること・以上に、良い生き方のあることを知らないのである。だがわたしは、人生がそんなものではないことを知っている。それは大切にすべきもの快適なものであると思っている。わたしが今にぎっているその老朽の極にある人生さえもなお、そうであると思っている。いや、自然は人生を、それにいろいろとあのように有難い趣・風情ふぜいを添えて、我々の手に渡して下さったのであるから、もし人生が我々に重荷となり、また何の益も与えずに我々の手から逃げていくようならば、それこそ我々は自分に向って苦情をいうより仕方がないのである。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)分別なき者の人生は不快にして不安なり。そはいたずらに未来を思いわずらえばなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)だがわたしは、いずれこの人生を未練なく失うことができるように、心の準備をしている。と言っても、それは人生が本来失われるべきものだからであって、決してそれが苦しい厭なものであるからではない。(c)それに死ぬのをいやがらないということは、生きることを楽しむ人々にきわめて似つかわしくはないだろうか。(b)人生を楽しむにはなかなか加減がいる。わたしはほかの人々の倍もそれを楽しんでいるが、まったく享楽の深い浅いは、我々がこれに注ぐ熱意の多少によるのである。特に今では余生がこんなにも短くなっているのを知っているから、せめてわたしはその厚みを増したいと思う。わたしはそれが速やかに逃げ去ろうとするのを、わたしの速やかな把握によってとっつかまえたいと思う。旺盛な使用によってそのあわただしい流失を埋め合せたいと思う。生命の所有が短くなればなるほど、わたしはその所有をますます深くますます十分にしなければならない。
* モンテーニュはこの辞書の中で、passer という語に、次に読まれるような彼独特の意味を与える。
** ※(始め二重山括弧、1-1-52)Je passe le temps quand il est mauvais et incommode.※(終わり二重山括弧、1-1-53) temps は時間をも天気をも意味する。これは普通の辞書と同じである。「悪い時」は同時に「雨の日」でもある。passer は普通にはすごすという意味だが、モンテーニュの辞書では、それ以上に franchir ないし courir の意味であるらしい。雨の日のような時間は、急いでかけぬけ、通り抜けるというのである。よい天気ならば、ゆっくりと陽光を満喫しつつ、そぞろ歩きでもしようというのである。
*** 彼はpasse-temps, passer le temps という語句に特別の解釈を与えた。――自分は、人生がいやなものなら、急いでこれをかけ抜ける。そんなら、passer le temps, passe-temps でよろしい。だが、もし人生がよいものとすれば、駈け抜けてしまっては惜しい。むしろゆっくり、散歩気分でそれを味わいたい。実際自分は、人生をよいものと思っているのだ。どうも世間の人が passe-temps というのはしがたい。――と彼はいう。だが彼はまた考えなおす。――世間の人(彼が皮肉に慎重な〔あるいは賢明な〕と呼ぶ人たち)は、なるほど自分とちがって、始めから人生を悪いものと考えている。そうして見れば、何かほかのことに気をまぎらせつつ、その間に時をして流れ去らしめようとするのも、もっともなことだ。――それで彼は、「成程 passe-temps という語は、彼らの心持をよく言い現わしている」という。
 ほかの人々は満足と繁栄の嬉しさを感ずる。わたしも彼らと同じくそれを感ずるが、通り抜けながら・滑りながら・ではないのである。そうだ、その嬉しさは、究め・味わい・よくよく噛みしめ・なければならないのだ。そうやってそれを我々におゆるしになった者に対してふさわしい感謝を捧げなければならないのだ。人々はもろもろの快楽を、睡眠の快楽と同様に、享楽しながら認識しない。わたしは昔、睡眠さえもがああいう無感覚のうちにわたしから逃げ去らないように、特にわたしがそれをすかし見ることができるように、わたしの眠りをかき乱してもらうことを喜んだ。わたしは自分のどんな満足をも熟考する。その表面うわつらを掻きまわすだけではない。それを深くさぐるのである。そして、ようやく愚痴っぽくなりとかく浮きたたないわたしの理性をはげまして、それを迎え入れさせるのである。そうやって少しでも穏やかな心持になることがあり、そこに何かわたしをくすぐる快楽があるならば、わたしはそれを感覚にだけ私させないで、霊魂にも味わわせてやる。わたしの霊魂をそこに溺れさせようというのではなく、霊魂にもそれを楽しませてやりたいから。そこに自分を忘れさせようというのではなく、そこに自分を見出させてやりたいから。そうやってわたしは、わたしの霊魂にそういう繁昌な状態の内に映った自分の影を見させ、その幸福を尊重もさせ拡充もさせる。ここで始めてわたしの霊魂は測り知る。それがおのれの良心や内部のもろもろの情欲に対して平静な状態でいられることが、どれほど神様のお蔭であるかを。肉体を自然の状態の内に保ち、これに正しく適当にその柔和快適な性能を楽しませていられることが、どれほど神様のお蔭であるかを。まったく神様はその正義の上から時々我々にお加えになるむちの痛さを、有難くもそれらの楽しい性能によって埋めあわせて下さるのだ。またわたしの霊魂が、どちらを見まわして見ても常に穏やかな天がおのれをめぐって在り、どんな欲望も恐怖も疑惑もその雰囲気をかき乱すことなく、(c)過去・未来・現在の(b)いかなる困難もその思いをいたましめることもないという、そういう仕合せな状態におかれていることが、どれほど有難いことであるかを。――このことは、わたしのこの状態と人それぞれの様々な状態とを比較してみれば、きわめてはっきりする。そこでわたしは、運命の風に吹きまくられ自分自身の誤謬に引きずりまわされている人々だの、それから、これはわたしにより近くある人々だが、自分の好運をぼんやりと平気でちょうだいしている人々だのを、いろいろな姿において思い浮べて見る。それこそ本当に自分の「時」をいたずらにすごしている人々である。彼らこそ現在と自分が現在持っているものとを通り越して希望の奴隷となり、幻想が彼らの前にちらつかせる影法師を追っている。

死してのちに舞踏するという幽霊のごとく、
我らの眠れる感覚を欺く夢のごとく、
(ウェルギリウス)

それらの影法師は、追えば追うほど、あたふたと逃げていく。彼らの追求の目的結果は、追求そのことである。ちょうどアレクサンドロスが、「わたしの勤労の目的は、

何かなすべきことの残れる限り未だ何事をもなさざりしかのごとく、
(ルカヌス)

勤労することである」といったのと同じである。
 だからわたしとしては、神様がわたしにお許しくだされたままに人生を愛しそれを楽しむ。わたしはそこに飲食の窮乏がないようになどと願いはしない。(c)それがそこに二倍もあれかしと願うのも、恐らく同様に許されがたい罪であろう。※(始め二重山括弧、1-1-52)賢者はひたすらに自然の富を求む※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。(b)また、あのエピメニデスが自分の食欲を抑えその命をつなぐのに用いたという霊薬を、少しばかり口にするだけで我々の命を保たせてほしいとも、人が無感覚のうちに子供たちを指やかかとから産み出せるようにとも、願いはしない。(c)いや、はばかりながら、もっと多くの快感をもって指からでも踵からでも子供たちを産み出してほしいと思うくらいだ。(b)肉体に欲望も快感もないようにとも願いはしない。それは恩しらずの(c)不正な(b)不平苦情というものだ。わたしは喜んで、(c)そして感謝して、(b)自然がわたしのためにお造り下さったものをうける。それを楽しみそれに満足する。折角の賜物たまものを拒みそれを否定したり歪曲したりするのは、この偉大で全能な贈与者に対して畏れ多い。(c)全く善なる彼が造りなしたものは何もかも善である。※(始め二重山括弧、1-1-52)自然にかなえるものはすべて尊重せらるべきなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。
 (b)わたしは哲学上の諸説のうち、最も堅実なものを最も好んで信奉する。最も堅実な、とは、最も人間らしい・最も我々らしい・という意味である。だからわたしの話は、わたしの日常に相応して低くつつましやかだ。(c)哲学はわたしから見ると、まるで子供みたいなことをいっている。哲学はそり身になってお説教をする。「神のものと地上のものと、合理的なものと不合理なものと、厳と寛と、清と濁とをめあわせるのは無茶な結合である」「快楽は動物的な特質で賢者の味わうに足らないものである」「その美しい花嫁から享受するただ一つの快楽は、秩序に従ってある行為をするのだという良心の満足であって、ちょうど有益な遠乗りをするために長靴をはくのと同じことである」などと。こういう哲学を奉ぜられる方々よ、奥様をお抱きあそばすときは、哲学の講義を聴かれるとき以上に精力も精液もお出しになってはいけませんぞ。もっともこれは哲学の師であり・また我々の師である・ソクラテスがいわれたことではない。彼は肉体的快楽を正しく評価しているが、それ以上に精神的快楽を愛している。この方がいっそう力強い・変ることのない・容易にえられる・変化のある・上品な快楽なのであるから。だが精神的快楽は、彼によれば、決してただ独りではゆかない(彼はそんなに空想家ではない)。ただ先に立って進むだけである。彼にとっては、節制は快楽を緩和するもので、快楽を敵とするものではないのである。
 (b)自然はやさしい案内者である。けれどもただやさしいだけではなく、賢明であり公正である。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)万物の自然に徹して、正確にそれが要求する所を知らざるべからず※(終わり二重山括弧、1-1-53)(キケロ)。(b)わたしは到るところに彼女の足跡をたずねる。実際われわれ人間は、学芸の足跡をもってそれをわからなくしてしまっている。(c)それでアカデメイア派や逍遙学派の至上善も、それはやはり「自然に従って生きる」ことなのだが、限定したり説明したりすることがひどくむつかしくなった。またそれによく似た「自然に賛成する」というストア学者の至上善も同じことになった。(b)ある種の行為を、ただそれらが必然であるというだけでくらい低く見るのは誤りではなかろうか。だから、必然と快楽との結婚をはなはだ似合った結婚であるとする考えを、誰もわたしの頭の中から追い出すことはできないであろう。(c)或る古人がいったように、神々は常にこの必然と組んで事を行うのである。(b)いったい何のために、こんなに密接な・兄弟のような・結びつきをもって一つに組み合わされたものを、むざんにもひき裂くのか。むしろそれを相互の協力によって結びなおそうではないか。どうか精神は鈍重な肉体を生々と目ざましてほしい。肉体の方は軽々しい精神をおさえてこれを落ちつけてほしい。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)霊魂を至上の善としてあがめ、肉体を悪として罰するは、そのじつ、霊を肉的に愛し、肉を肉的に避くる者なり。そは彼が霊をも肉をも人間のむなしさによりて判断し、神の真理によりて判断せざるがためなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(聖アウグスティヌス)。(b)神が我々に与えたもうたこの賜物の中には、我々が心を注ぐに値しないものはただの一つもない。我々は一筋の毛までもこれを重んじなければならない。じっさい人間をその本性に従って導くということは、人間にとって決してかりそめの使命ではないのだ。それは明白で・率直な・(c)はなはだ重大な・(b)使命であって、造り主はこれを本気で・厳粛に・我々に与えたもうたのである。(c)ただ権威だけが、凡庸な悟性を従わせる。そしてそれは、異国語で言い現わされるとますます重んぜられる。そこでここにもう一つ引用しよう。※(始め二重山括弧、1-1-52)せざるべからざる事を、いやいやながら、不平を言い言い行うこと、肉体と霊魂とを左右にわけ、相反する二つの運動の間にさ迷うことは、これこそ愚者の特性にあらずや※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。
 (b)さあ、そこで、試みにきいてごらん。そういう人がしじゅう頭の中で思いめぐらしている事柄はいったい何なのか。そのために彼がおいしい食事を忘れ、養いを取る時間さえも惜んでいるというその事柄とはいったい何なのか。だがわかって見れば、何のことはない。彼の貴い霊魂のかてというのも、けっきょく君たちの食卓の一番まずいおかずにも及ばないのだ(たいていの場合、そのために夜を明かすよりは、思い切って眠ってしまう方がはるかにましなくらいである)。彼の論説にしても意見にしても、君たちのごった煮にさえも及ばないのである。よしそれがアルキメデスを狂喜させたものであっても、何ほどのことがあろう? わたしはここで、熱烈な信仰信心によって神々しい事柄に関し、たゆみなく良心的な瞑想をつづけられるまでに向上遊ばされたあの尊厳なかたがたについては触れない。彼らを我々のような衆愚と一緒にしたり、彼らの神々しい瞑想を我々が没頭する空虚な欲望や妄想などと混同したりするようなことはいたさない。(c)そういう高尚なかたがたは、キリスト教徒の欲望の最終の目的であり最後の究極であると共に、その変らぬ・やむことのない・ただ一つの愉悦でもあるところの、あの永遠のかての享有を、熱烈な希望の力によってあらかじめ得ておられるので、我々がほしがる水のような・雲のような・幸福などは見むきもなさらぬ。そして、感覚的な現世的な養いを求めたり受けたりすることは、さっさと肉体の方に委せておしまいになる。(b)それは、特別なかたがたの御研究である。(c)われわれの間ではわたしがいつも見たことであるが、天上の思想と地下の生活とはきわめて仲よくやっているのだ
* このパラグラフは結局『随想録』最後のしめくくりとして、幸福な一生を送るにはどうしたらよいかを説いたものであるが、例によって甚だ大胆な所信がきわめて巧みにカムフラージュされている。ここに、敬虔なカトリック信者はわれわれ俗人とは別だと言って、一応あがめ奉っているが、次のパラグラフでアイソポスのふざけた話をはさんだ後には、人間でありながら、人間の生活、肉体の生活を軽んずるような奴は、天使になりそこなって畜生道におちいると言い放っている。八八―九二年の加筆を見ると、我々平凡普通の人間の間では、ふしぎと天界的思想と、下界的人間的生活とはいつも仲よくだき合うことが出来るのだと言う。「我々は人間だ、あくまで人間として生きよう」というのがこの章全体の結論である。過度によって快楽に苦味がまじり込まない程度に、人間たる境遇を楽しもうというのが、モンテーニュの幸福論である。
 (b)アイソポスという(c)あの偉い(b)人は、その先生が歩きながら小便いばりするのを見て、「先生すらあのとおり。ぼくたちなどは走りながらうんこをしなければなるまいぞ」といった。時間を大切にしよう。でもそんなにしなくたって、我々にはぶらぶらしている時間や悪用される時間がまだまだたくさん残っている。だのに我々の精神は自分の仕事を行うのに、自分の時間だけでは不足であるかのように、肉体がその要求を満たすに必要とするわずかの時間においてまで、肉体から離れたがる。人々は自分からぬけ出し・人間たることから逃れよう・としたがる。実に愚かな話である。けっきょく天使と化せずしてけだものとなり、高くあがらないで、どしんと落ちるだけのことである。(c)こういう超絶的な気分の人々は、近づき難い絶壁のようにわたしを恐れさせる。実際ソクラテスの一生の中では、その恍惚状態とそのデモンにつかれたときほど、わたしにとって解りかねるものはないし、プラトンにおいては、彼が人々から神と呼ばれるその理由ほど、人間的なものもないのである。(b)我々の学問の中でも、最も高いところにおかれる学問が、かえってわたしには一番下界的なもののように思われる。アレクサンドロスの一生の内でも、彼が自分を不死にしようとする空想ほど、卑しい・あさはかな・ものはないと思う。フィロタスはその返答によって彼を翻弄した。すなわち、彼を神々の間に位せしめたユピテル・アンモンの託宣について、手紙で彼にその喜びを述べてこう言った。「君のためには誠におめでたい。だが、今後人間の尺度を超過し(c)それに満足しなくなっ(b)た人間と生活を共にし、またこれに服従しなければならない人間どもにとっては、とんだ災難である」と。(c)※(始め二重山括弧、1-1-52)汝は神々に服すればこそ、世界を統御するをうるなり※(終わり二重山括弧、1-1-53)(ホラティウス)。
 アテナイ人がポンペイウスの来訪を歓迎してその門に刻んだ可憐な銘こそは、わが意にかなうものだ。

みずから人間に過ぎずと知り給うが故に、
ますますおんみは神というべきなり。
(プルタルコス)

 自分の存在を正しく享楽することができることこそ、絶対の完成であり、いわば神のような完成である。我々がちがった性質状態を求めるのは、自分の性質状態をいかに用いるべきかをわきまえないからであり、自分を抜け出るのは、自分の内部がどんなものであるかを知らないからである。(c)だが我々は竹馬にのったところで何にもならない。まったく、いくら竹馬にのっても、結局は自分の脚で歩かなければならないのである。いや世界で最も高い玉座に登っても、やっぱり自分のお尻の上に坐るだけなのである。
 (b)最も美しい生活は、わたしの信ずるところでは、普通の(c)人間らしい模範に従う生活、秩序のある・しかし(b)奇跡なく突飛なところのない・生活である。ところで老人は、もう少しやさしく取扱われる必要がある。健康と知恵の守り神たるアポロンに、ただし愉快な社交的な知恵を守らせたまうアポロンに、おすがり申そう。

おおラトナの子アポロンよ。願わくはわれに、
わが得たる善福を享受せしめよ。
願わくはわれに、健康なる体と健康なる霊魂とをのこし、
わが老年に恥なく、なお楽しくわが琴をかきならさしめよ。
(ホラティウス)





底本:「モンテーニュ随想録」国書刊行会
   2014(平成26)年2月28日初版第1刷発行
底本の親本:「随想録」新潮社
   1970(昭和45)年1月30日発行
※本文中で出典元の記載がないページ数の表記は、底本でのページ数を表しています。
入力:戸部松実
校正:大久保ゆう、Juki、雪森、富田晶子
2020年2月14日作成
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