初めてモンテーニュの名を知ったのは大正五年東大仏文研究室におけるエック先生の講義によってであった。聴講者は鈴木信太郎、須川弥作、岸田國士、井汲清治、それに私の五人、当時「仏文はじまって以来の盛況」と言いはやされた。前年は新入生皆無、三年生に山本直文唯一人という時代のことである。私はその名を知っただけでボンヤリしていたが、鈴木君の方は当時刊行中の〈ボルドー市版エセー〉をいつの間にか手に入れ、卒論に「モンテーニュの懐疑思想」を書いてあっぱれ副手となった。
私がモンテーニュにのめり込んだのは何年だったかはっきりしないが、勉強のつもりでアルカン版「エセー」を取り寄せ翻訳にかかったのは大正最後の年だったと記憶するから、私とモンテーニュとの付き合いは今や六十年になんなんとする。だがその間に、「仏蘭西文学史」や「仏語動詞時法考」も書いたし、ラ・ブリュイエールの「人さまざま」やブリア・サヴァランの「美味礼賛」の翻訳もしているから、八十の年に公にした「モンテーニュとその時代」のあとがきに「一生モンテーニュ以外には眼もくれなかった一徹な老人」などと自ら定義したのは、いささか言いすぎたと後悔している。
事実、昭和十年「モンテーニュ随想録」初版以来、二十七年、三十二年、五十七年と、重版の都度全面的に改修をしたし、ほとんど各章に解説や評注を書き加えもしたし、更に五十一年には「モンテーニュとその時代」、五十五年には「モンテーニュ逍遙」と書き続けずにはいられなかったのであるから、ちょうどそのころ「源氏物語」の仏訳者シフェールさんに会った時も、ついまた私は「モンテーニュのほかはさっぱり不案内で」と言ってしまった。だがそこはさすがにシフェールさん「わたしも源氏以外は何も知りません」と答えてくれた。
さて「随想録」初版のはしがきに私はこう書いている。「私が此本の翻訳に志したのはもっぱら自身自家のためであった。生れつき病弱で神経のかぼそい私自身のために、また不治の病患を背負っていわば人生の旅路に行きなやんでいる家族の一人のために、幸福と長寿の道を学ぼうとしたのがそもそもの始まりであった」と。そのひとりはわが稿の完成を待たずに昇天してしまったが、残された私の方は思わざる長寿をめぐまれて、ここにこうして、至極幸福に生きている。ひとえにこれモンテーニュのお陰と言うほかはない。
今ここに有名な「モンテーニュ全集」の編者アルマンゴー医博がいあわせたら「そうだ、それにちがいない」と太鼓判を押してくれただろう。この人は十歳にしてモンテーニュを知り、一九一三年にモンテーニュ学会を創立し、晩年には日本のトゥーリストたちもおそらくご覧になったと思う、あのソルボンヌ前広場にあるモンテーニュ像をパリ市に寄贈した上、九十二歳の高齢で大往生をとげた不朽のモンテーニュ学者であるが、その専門だった衛生学の学会誌に「中年から随想録の愛読者になった人たちは、そうでない人たちより十年や十五年は長生きをしている」と報告している。
顧みると私が「随想録」の翻訳に取りかかったのはまさに満州事変
彼はそれよりさき一五六三年三十歳のとき親友ラ・ボエシと死別して以来、原因不明の、何とも名状しがたい不安な毎日――彼自らただ煙り……暗くわびしい夜と書いている――いわゆる〈実存の不安〉のただ中に暮らしていた。何をする気にもなれず、さりとて何もせずにいればますます居たたまれない気持ちに落ち込んでゆく、そうした気分を、彼は〈無為について〉〈孤独について〉の両章につぶさに述べているが、これはモンテーニュだけのことではなかった。それは古今東西を問わず乱世に生を
これに答えるために、彼らはどうしても「名利にとらわれて静かなるいとまもなく、蟻の如く集まりて東西にいそぎ南北にはしる」世間の俗物と断然交わりを絶って独りになり、〈自分対自分〉の対話に沈潜しないではいられなかった。かくて兼好も長明も淵明も、「森の生活」の著者ソーローもわがモンテーニュも、皆ひとりになることを求めたのであり、中国の戦国時代も、幾多の隠逸の士とその詩文とを生んだのである。
だがまちがえてはいけない。それは決して単なる逃避には終わらなかった。それは積極的な一種独特な生活態度、反体制者の生活の一つの型を生んだ。だからモンテーニュもあの塔の三階にたてこもって閑寂な日々を楽しんでばかりはいなかった。戦争にも参加したし、政治外交の世界では、後年即位早々の国王アンリ四世から、最高顧問として就任するようにとの親書を賜るほどの実力を示したのである。「きけわだつみのこえ」の若き戦士たちも、だから「随想録」をふところに戦場に赴いたし、私もまた戦中戦後を通じて、このモンテーニュの生き方にならって生きながらえて来たのである。
ところで今、八十八年をこの日本という国に生きて、何が一体我々に欠けているかと考えて見ると、それは〈モラル〉だと答えるのに私は
サント・ブーヴはかのフランス大革命で何もかも失ってただ愚痴ばかりこぼしている同胞に向かって、「もう一度
(『朝日新聞』夕刊 一九八三年二月二十一日)