モンテーニュ随想録

ESSAIS DE MONTAIGNE

モンテーニュの知恵

関根秀雄




※(ローマ数字1、1-13-21)


 モンテーニュの『随想録』を理解する上に、先ず第一に知っていなければならないことは、彼がどのように相対主義者であったかということであろう。私は次に様々な場合をあげて、彼がいかなる場合にも常に相対主義者であったこと、それが彼の知恵にも通ずるし、またそれが『随想録』の愛すべきパラドクスともなっていることを、示そうと思う。

 先ず第一に彼が個人主義を説いている場合について考えて見よう。まったくモンテーニュの「我」(moi)は最も有名であり、彼こそ自己について語った最初の著者であると従来一般にも信じられているし、また彼自らもその『随想録』のあちこちに、自分こそこの本の内容なのだとか、他にこれという主題もないからわたしは自己を唯一最大の主題としたので、唯この点でこそ自分の著作は天下に唯一つのものなのだとか、称している。だが文学史家の解説だとか選文集の中に抜萃ばっすいされた断片的文章だとかではなしに、『随想録』の全三巻を通読し熟読した上で気がついて見ると、果してモンテーニュは言われるように徹底した個人主義者であったろうか? 伝説化されているようなエゴイストであったろうか? 『随想録』の中には彼の「我」以外のものが案外色々と豊かに含まれていはしないか? その両方を、彼が得意とする天秤ばかりにかけて見たら、一体どっちがさがるだろうか?――こう考えて見ると、事は決して簡単に割りきれないのである。

 もっとも、謎につつまれているのはモンテーニュとその著作ばかりではあるまい。およそ大思想家大芸術家と呼ばれる程の人ともなれば、誰でもそう簡単に割り切れるものではない。例えばラブレにしても久しいこと荒唐無稽なであったのだし、『メモワール』の著者サン・シモンにしても、唯宮中席次ばかりやかましく言いたてる封建貴族の末裔まつえいとばかりきめつけてしまうわけにはゆくまい。後世の学者たちの間に様々な異論をまきおこさずにはやまないということほど、その作者にとって光栄千万なことはないのだというようなことを、ヴァレリーもどこかで言っていた。性格学の専門家であるコルマン博士(Dr. L. Corman)なども、「一般に天才人は、明確に限定された何かの性格類型の枠内に(dans un type caract※(アキュートアクセント付きE小文字)rologique nettement d※(アキュートアクセント付きE小文字)fini)はめこむことが出来る場合の方がむしろ例外的である」と言っている。モンテーニュなどは特にそう思われる。自己の観察分析にあれ程綿密で熱心だったモンテーニュ自ら、おのれの性格を、気鬱性(humeur m※(アキュートアクセント付きE小文字)lancolique)であると共に癇癪もち(chol※(アキュートアクセント付きE小文字)rique)でもあると認めている。それにこれらの人々は、いずれもその感想その意見を、教科書や学術論文におけるように、明確に、理路整然とばかりは、述べていない。むしろさりげなく、様々な観察や経験の間に、ほのめかしたり洩らしたりしているのである。
 まったくモンテーニュという人は、独自の思想体系を編み出して一学派の創始者になろうとか、新しい宗教を宣布してその開祖になろうとか、少しも考えたことがなかった。彼ははじめ、ただ自分自身のために、その日その日の観察なり感想なりを記しつけて、気ばらしとも楽しみともしたにすぎないのであるし、特に自分の moi をその研究思索の出発点としたのであるから、やがては一般読者をも意識するようになり、さらにはその moi を踏み越えてはるかに遠い所まで達したにせよ、後世の個人主義者たちが、彼を自分たちの開祖と仰ぎ先駆者と認めたことは、きわめて当然のことと言わねばなるまい。事実、彼の作品は、「その著者と質を同じくする書物」(livre consubstantiel ※(グレーブアクセント付きA小文字) son auteur)といわれる程に、そこにはきわめて豊かな感受性を持った著者が、世のあらゆる問題にふれてはそれに敏感に反応する時々刻々の姿をのぞかせているのであるから、すなわちそれは教科書でもなければ学術論文でもないのであるから、――むしろそれは日付こそなけれ彼の内観内省の日記(journal intime)とでも言うべきものなのであるから、――当然モンテーニュは、世の常の著者のように三段論法の枠にはまる必要はなかったので、そこには分類だの整頓だのが本来あろう筈はないのである。だがしかし、さればと言って、それは決して混沌でも撞着でもない。やっぱりそこには一本筋がとおっている。一体それはどういう筋であろうか? それは彼の相対主義(relativisme)とでも言うべきものである。それは中庸であり公平であり良識である。たとえば、彼はいつも真実の探求と実生活に対する勧告との間に、はっきりとけじめをつけている。真理の探求ということにかけては彼はいつも radical であってとことんまでゆかねば気がすまない。すこぶる大胆で奔放である。ところが、さて人に勧告をする段になると、彼は決して度をはずすことがない。常に慎重であり賢明である。このことはモンテーニュの思想を理解する上に、先ず第一に忘れられてはならない肝心なことの一つだと思う。よしんば彼のうちに個人主義者と社会主義者とが共存するにしても、革新家と保守家とが並存するにしても、それらは混沌として並存するのではなく、秩序を以て共に在るのである。絶対というものを絶対にもたず、絶対は本来人間には到底つかまえられないものだという彼の相対主義が首肯されるならば、いうところの「モンテーニュの矛盾」(contradiction de Montaigne)は、もはや彼の思想の欠陥ではなくて、かえってモンテーニュの知恵として理解されるのである。

※(ローマ数字2、1-13-22)


 それにもう一つ、『随想録』を理解する上に忘れられてならないことは、モンテーニュは逆説が大層お好きであり、『随想録』の基調をなすものはそのパラドクスであるということである。それは「読者に」と題する唯の一頁にも満たない彼の序文を見ただけでも、十二分に理解される。彼は先ず、この本はまったく嘘いつわりのない、正直一途の書物なのだと言明してから、自分はこれを唯自分のため、自分の親族朋友のためだけに書いたのだという。こんなつまらん本のために貴重な時間をつぶされるのはおやめになった方がよいと言って、最初から読者大衆に向って「では、さようなら」※(始め二重山括弧、1-1-52)adieu donc!※(終わり二重山括弧、1-1-53)と言う。うそいつわりのない本だと言うからには、読者大衆を目ざして書かれた本ではないのだと言うこともうそではない筈である。この二つの真実は、一方を立てれば一方が立たない。まさしくそこには逆説の響きがあり、内部の矛盾を露呈している。だが、この逆説の意味を本当に理解し、又その面白さを味わい取るのでなければ、この『随想録』という本の読者たる資格はない。実際我々は本文を読みすすめてゆくと、彼が読者大衆に向って語りかけていることは明白であって、そこには一抹の疑いもありえない。だが同時に、著者は少しも一般大衆に媚びへつらってはいない。モンテーニュは独立独歩、自由気儘に言いたいことを言っているのであって、読者の気に入ろうが入るまいが少しもかまってはいないのだ。だから、彼が読者を無視していることも真実なのである。一見嘘を言っているようであって、真実以上のことを言っているのである。こういうのを本当のパラドクスと言うのだ。このことを一九六三年の第一回国際モンテーニュ学会で、オランダのライデン大学の学長たるセム・ドレスデン教授は「モンテーニュの逆説的正確(pr※(アキュートアクセント付きE小文字)cision paradoxale de Montaigne)」と題する講演の中で述べている。「『随想録』の雰囲気は逆説調である」※(始め二重山括弧、1-1-52)le climat des Essais est paradoxal※(終わり二重山括弧、1-1-53)と言った教授の言葉は、確かにモンテーニュの思想を解明する上に、忘れられてはならぬ第二の鍵であると思う。
 まったくこの逆説趣味はモンテーニュが持って生れた好みなのである。ちょうど碁や将棋が好きだというように、彼は逆説を言うのが、洒落や警句を吐くのと同様に、いかにも面白くて愉快でたまらない、といった風である。物事を正面きってアカデミックに論証することは、すべてのスコラ学がきらいな彼にとっては、むしろ野暮臭くてできないのである。あの有名な「レーモン・スボン弁護」という堂々たる長篇にしても、それはフランス王国第一級の貴婦人のために書き始められたのであり、しかも信仰という敬虔な重大な問題を論じたものであるが、やはりそこには逆説もあれば反語もある。いわんやその他の諸章となると、それがしの貴婦人に献呈されたものであっても、いつも気ばらしのために、楽しみ慰みとして書かれている。『随想録』という本はそんな不まじめな本なのかと言われるかも知れないが、まじめな内容を持っていればいるだけ、そこに逆説や冗談があることは少しも妨げとはならず、むしろ読者を疲労から救うことにも役立つ。とにかく、モンテーニュが本気で言っているのではなく冗談に言っていることまでくそまじめに取りあげるのは、畢竟ひっきょう洒落のわからぬ野暮な男ということになる。彼自らあるところでこんな告白をしている。

 誰でもばかを言うことは免れない。困るのはそれを念入りにやられることである。……だがわたしはちがう。わたしのはいかにも愚論らしくうっかり唇をもれるのである。だからはなはだ始末がいい。少しでも困ればあっさり捨てる。つまりわたしは、愚論は愚論として買いもし売りもするのである。(第三巻第一章、以下三の一のように略述)

 要するに、モンテーニュは年がら年じゅうふざけているわけではないが、どんな問題に対しても常に心のゆとりを失わないのである。問題が重大であればあるだけ、あわてて結論をつけたり、それを人におしつけたりしないのである。いつも四方八方から問題に照明を与えて、巧みに読者を自分の結論に向って歩ませようというのである。彼がいつも宙ぶらりんではっきりと割り切らないのは、彼に決断がないからではなく、物事をその表面の付帯的な事象によって速断しまいとするからであって、矛盾した様々な事柄を面白おかしく並べたてながら、物事の本質核心にふれさせようと思えばこそである。相対主義は彼の思想の深さであり、独断論や狂信に対抗する彼の信念であるし、逆説や冗談は、彼が最も抽象的な事柄をさえ常にイメージを通じて語ったことと共に、彼が単なるイデオロギーの遵奉者ではなくて、大きな芸術家詩人であったこと、思想の達人であったことの、最もいちじるしい証拠である。

※(ローマ数字3、1-13-23)


 第一巻第三十六章「着物を着る習慣について」という章の中で、モンテーニュはその頃新世界からつれてこられた野蛮人たちの裸姿を見てびっくりし、始めはいかにも哲学者らしく、いたくまじめに、次のように考えたり書いたりしている。

……この節は大分寒くなったので、わたしはふと考えてみた。あの近頃発見された諸民族の裸で歩きまわる習慣は、インド人やモール人の場合と同じく、気候が暑いために余儀なく生じたならわしなのか、それとも裸形らぎょうこそ人間本来の姿なのであろうか、と。この天が下なるよろずの物は、聖書にあるとおり、ひとしく同じ掟に従うべきものなのであるから、分別ある人々はこのような問題を考察するに当っても(そこでは自然の法則と人間の法則とは区別せらるべきであると思うが)、やはり、絶対インチキのありえない宇宙全体の秩序に、訴えるのを常とした。ところで、我々を除くすべてのものは、その生命を保つために網だの針だのをちゃんと備えているのに、我々ばかりが不完全な貧弱な状態の下に産み出され、他物の助けなしには自己を保存してゆくことができない有様だということは、まったく信じられないことである。だからわたしはこう考える。「禽獣草木、その他生きとし生けるものが、みな生れながらに気候の暴威をふせぐに十分なる外皮を備えているように、……我々ももともとはそうであったのだが、人工の光をもって太陽の光を消すものがあるように、我々もまた借りた能力を以て我々固有の能力を無くしてしまったのである」と。いや、不可能でないことを不可能にしてくれたのも習慣だということは、わかりきったことだ。まったく着物というものを知らないあの諸民族の中にも、我々の気候と同じ気候の下におかれているものだってあるのである。それに我々の最もデリケートな部分は常にむき出しになっているではないか。(c)眼・口・鼻・耳はみなむき出しではないか。わが百姓たちは、わが祖先と同様、胸や腹までまる出しにしている。(a)我々はスカートやズボンをはくように生れついたにしても、自然が季節の暴威にさらされる部分をいくらか厚い皮で武装してくれていることも、疑ってはならない。現に我々の指の先や足の裏などはそんなふうになっているではないか。(一の三十六)

 ところが突然そのすぐあとに、こんなことを書きたしている。

 (a)誰やらが、我々の乞食の一人が真冬にシャツ一枚で、あの耳までてんの毛皮にくるまっている人と同じように上機嫌なのを見て、どうしてお前にはそんな我慢ができるのかときいて見た。すると、「だって旦那」と彼は答えた。「お前様だってお顔は風に吹きっさらしだ。わっしゃ体ぜんたいが顔なんです」と。イタリア人は、確かあのフィレンツェ公のお抱えであった道化について、こんな話を伝えている。御主人が、「そんな姿でどうしてお前は寒くないのか。わしはこうしていてさえ寒くて堪らないが」と仰せられると、その男は、「ではこうなされませ。わたくしはあるったけの着物を着ておりますゆえ、殿様も御所持の御衣裳をことごとくお召しなされませ。わたくしと同様寒さにおたえになれましょう」と答えたという。(一の三十六)

 こういう軽妙な面白いエッセー(随筆)の中に、ぜひ野蛮人の世界に行って住みたいという、例えば十八世紀のルソーの弟子たちがいだいたような、あこがれや熱望と同じものを期待してはいけない。モンテーニュはこの章の始めに書いているように、ようやく寒くなりかけた晩秋だか初冬だかの一日、ふと野蛮人の裸姿を見て、このようにただその機知を思う存分に発揮して、いわばひとり悦に入っているのだ。これは彼の気ばらし、筆のすさびなのだ。エッセー(essai)という彼の書物の標題となったフランス語には、もっとつきつめた真剣な意味もあるにはあるが(一の五十参照)、一方にはこのような軽い遊びの気分もふくまれていたのである。だからエッセーを随想録と呼ぶことをわたしは敢てはばからない。それはエッセーの字義ではないので、この本の著者の生い立ちや性癖、またこの本をつつんでいる雰囲気などの凡てを籠めての訳語なのだ。
 もちろん前にも言ったとおり、モンテーニュは年がら年じゅうふざけているのではない。何でもしゃれのめしておしまいにするのではない。時にはまじめに勧告もするし、徹底した議論もする。例えば第一巻第四十九章「古代の習慣について」を読むといい。そこでは長々と流行について論じ、そのばかばかしい行きすぎ、度はずれの趣味をこきおろしているが、モンテーニュその人は、決して服装だとか流行だとかに無関心ではないのだ。やはり父の趣味を受けついで、白か黒の服でなければ着たくないとか、「ボタンをはずし前をはだけて歩き回る」ようなだらしのないなりは出来ないとかいうことを、前にあげた第一巻第三十六章の中にもはっきりと書いている。そこには案外おしゃれで見え坊な、また至極几帳面でお行儀のよい、ぼっちゃん育ちのミシェルがいるわけである。つまり一方には徹底した大胆な放言もあえてする辛辣しんらつな文明批評家たるモンテーニュがいるかと思うと、また一方には風がわりな度はずれた風体も行動もしまいとする常識家モンテーニュもいるのである。だから野蛮な自然状態への復帰が彼の理想では決してない。彼はやはり社会人で、社交ずきな紳士なのだ。第一巻第二十八章「友愛について」の章の中には、こんな句が読みとられる。「およそ友交(soci※(アキュートアクセント付きE小文字)t※(アキュートアクセント付きE小文字))くらい自然がひたすらに我々にすすめたものはないであろう」と。つまり社会生活をすることこそ、人間に最もふさわしいのだと、彼は心から思っているのだ。彼は厭世家厭人家でもなければ、世捨人でも象牙の塔の住人でもないのだ。俗物とは一緒になれないにしても、紳士淑女との交際は大いに望んでいるのである。いわんや『ミザントロープ』の主人公のように、砂漠に逃避したいなどとは夢にも考えていない。これは「三つの交わりについて」(三の三)の章においても、「孤独について」(一の三十九)の章においてさえ、明らかである。
 こうしたモンテーニュの相対主義と逆説趣味とは『随想録』の到るところに見いだされる。同じく野蛮人や原始社会に対するあこがれのようなものが読みとられる第一巻第三十一章、有名な「カンニバルについて」の章をもう一つ読んで見よう。

 わたしが長いあいだ手もとに召使った男に、我々の時代に発見されたあの新世界の、ヴィルガニョンが上陸して南極フランスと名づけた地方に、十年とか十二年とか住んでいたというものがあったが……
 ……その男というのは単純粗野な男であったが、このような性質はいつわりのない証言をするのに適している。なるほど気のきいた人たちは、より綿密により多くの物事を見るけれども、とかくそれに註釈をつけたがる。いや、自分の解釈に箔をつけ、これを人に信じさせたいので、いくらか話を変えないではおられない。……
 さて本題に立ちもどるに、わたしが聞いたところだと、かの民族の間には少しも野蛮なところはないと思う。ただみんなが自分の習慣にないことを野蛮と呼ぶだけの話なのだ。本当に我々は、自分の住む国の思想習慣の実際ないし理想のほかには、真理および道理の標準をもっていないようである。あそこにもやはり完全な宗教、完全な政体、完全なもろもろの制度習慣がある。なるほど彼らは野生である。ちょうど我々が、自然が独りで・いつもの歩みの間に・産み出した果実を野生と呼ぶのと同じ意味では。だが本当は、我々が人為によって変更し一般の秩序から除外したものをこそ、野蛮と呼ぶべきであろう。……(a)芸術の方が我々の偉大な力強い母たる自然よりも尊ばれるということは道理に反している。……
 (a)だから新大陸の住民は、人知の陶冶をこうむることがほとんどなく、彼らの原始の素朴さになおはなはだ近くあるがために、あんなにも野蛮に見えるのである。自然の法則が、人間の法律にほとんど毒せられずに、今なお彼らを支配している。しかも、それがあんなに純粋に保存されている……まったく、我々がこれらの民族において実見したものは、詩が黄金時代を美化して描いているその絵巻よりも、詩が人間の理想的な幸福状態として想像するその創意ものがたりよりも、遙かにすぐれているばかりでなく、哲学の理想や憧憬をさえも凌駕しているのである。……わたしはプラトンに教えてやりたい。「この国には、全くいかなる種類の取引もない。文学の知識もなければ数の観念もない。役人という言葉もなければ統治者という言葉もない。人に仕えるという習慣もなければ貧富の差別もない。契約も相続も分配もない。楽しい仕事はあっても苦しい労役はない。長幼の序などはなく人はみな平等である。着物も農作物も金物もない。酒も麦も用いない。うそ・裏切・隠しごと・吝嗇・そねみ・悪口・勘弁かんべんなどを意味する言葉は、未だかつて聞かれたことがない」と。さすがのプラトンもこれを聴いたら、いかにその理想の国が、この完全さに遠く及ばないかを知って驚くことであろう。(一の三十一)

 モンテーニュはこう説いた後、ほとんど三、四頁にわたって、野蛮人の生活状態を事こまかに語る。「まる一日舞踏して暮す」などと、いかにもうらやましそうに書いてはいるが、結局これら野蛮人たちをたねにして、自分たち文明人社会のうるささ、窮屈さ、そして不合理さを嘆いているだけなのだ。野蛮人の生活は古人の生活と共に、彼を習慣の考察へと導いてゆく。すなわちこの野蛮礼讃は、結局彼の習慣論のプレリュードにすぎないのである。「どこに向って行こうにも、わたしは何かしら習慣の柵を押し破らないわけにはいかない。それほど入念に習慣はあらゆる我々の通路をふさいでいる」と、彼は第一巻第三十六章のはじめに書いている。そしてその結論は、「習慣というものは、本当に乱暴で陰険な女教師なのである」(一の二十三)ということに帰する。
 このように『随想録』の著者にとっては、習慣は横暴で理不尽なものであるばかりでなく、それら習慣同士互いに矛盾撞着するものなのであって、そのさまざまな実例は『随想録』の到る所に充満している。だがモンテーニュはそういう習慣を一切憎み避けるわけでは決してない。ここにも彼の相対主義が、彼の冗談や皮肉と共にあらわれる。そしてやがてその習慣の尊重から、彼の保守主義が生れるのである。

 (b)わたしは、人間の想像の中に、どこかで公然と行われている習慣とまるで暗合することのないような・従って我々の理性に全然支持されないような・そんな突拍子もない考えは、一つとして浮び上ることはないと思う。或る民族の間では、人は……そのあがめる人を決して見ない。また或る所では、王様が痰をお吐きになる時は、その朝廷で一番王様の寵を受けているご婦人がこれに手を差伸べる。また別の国では、一番位の高い人がひざまずいて王様の汚物を布巾の中に受ける。(一の二十三)

 つまりどんな奇怪な習慣にも、それ相応な理由があるらしいと、モンテーニュは言うのである。そして、さらに面白い挿話がつづく。

……或るフランスの貴族はいつも手鼻をかんだ。これは我々の作法がはなはだ厭うところである。そこで彼はその申訳に(それは当意即妙をもって有名な人であったが)、わたしにこう問いかえした。「そもいかなる特権があってこの穢ない排泄物は、我々をしてこれをうけるのに奇麗なハンカチーフを用意せしめるのか。しかもそれを包んでだいじに懐ろにしまっておけとは何たることか。その方がずっときたならしく、気味がわるい。むしろほかの排泄物と同じように、どこへなりと吐き捨てたらよい」と。わたしは彼の言うことも一理なきにあらずと思った。実際習慣が我々からそれが奇怪だという感覚を奪ったのであって、もしそれがよその国のこととして語られたなら、我々もまたきわめてきたならしいと思うに違いないのである。(一の二十三)

 モンテーニュはまた、良心もまた自然からではなく習慣から生れるのだと考える。

 良心の掟は自然から生れると言われるが、むしろそれは習慣から生れる。めいめいは、その周囲で認められている思想習慣をおなかの中で尊重しているから、それからはずれると悔いを感ぜざるを得ないし、それを守れば必ず皆から称えられるのである。(一の二十三)

 いやモンテーニュにとっては、良心までが人によってさまざまなので、これまた相対的なものなのである。理性にしても学問にしても、決して絶対的なものではないのだ。だから人は、学者であればあるだけ、賢明であればあるだけ、盲信せず断定しないのである。――と彼は言う。

……ほんとうに学んだ人々には、あの麦の穂に起ることが起った。それは空っぽであるかぎりますます頭をあげてそそり立つ。けれどもいよいよ熟して穀粒で満ちふくれてくると、だんだんへりくだってその頭を低くする。同様にあらゆるものを試み測った人々は、あれほどの知識の山・あれほどのさまざまな事象の蓄積・の中に、何一つ確実なものを見出さなかったから、ただただ空虚のみを見出したから、ついにその不遜をすててその生れながらの性質を認めるに至った。(二の十二)

 モンテーニュはいつも学芸、学識、哲学を自然に対置する。そしてそれらを自然にはるかに及ばないものと考える。彼は自然に由来するものでなければその価値を認めない、いわゆるナチュリスト(naturiste)である。

……哲学は自分の掟で間にあわなくなると、力士や騾馬曳らばひきをお手本にせよと言う。御承知のとおり彼らは、死や苦痛やその他もろもろの不幸に対して、我々よりも鈍感であり、また我々以上に堅固である。それは、そのように生れつき、自然的習慣によってひとりでにそれに準備されたからであって、ただ学問によってだけでは、とてもそうはゆかないのである。……ほんとの病気がないときには、学問がそれ独特の病気を我々に貸す。「これこれの顔色をしているから自分は何かカタル性炎症を起すのではないか。こういう暑い季節には何か熱病にかかるかも知れないぞ……」という工合である。いや、しまいには健康そのものにまで、真向から文句をつける。「このような若々しい歓喜と精力とが、いつまでも同じ状態にとどまるわけがない。血をとり力をそがなければならない。それらが逆に作用したら大変だ」と。このような想像に引きまわされている人間の生活を、その自然の欲望の導くがままにまかせ、いっこう学問にも占いにもよらず、物事をただ現在の感じで量る、例えば百姓などの生活と較べてみたまえ。後者は病気のときでなければ痛がらないのに、しばしば前者は、腎臓に石ができる前からそれを心にもっている。まるで病気になってから苦しんだのでは間にあわないかのように、想像によって苦痛の先回りをし、自分からそれを走り迎える。……
 いや霊魂の動揺は、肉体だけでなくいつも霊魂その物をも疲らせ乱すのである。その鋭敏その軽捷けいしょうほど、つまりそれ自らの力ほど、いつも霊魂を狂わせこれをマニアの中に投げ入れるものはないのである。(b)最も緻密ちみつな狂気は、最も緻密な知恵からでなくてどこから来るか。(二の十二)

 但しここでもモンテーニュは相対主義者である。このように一般的には人間とその学問理性を嘲罵するが、一人々々の人についてはその人格その仕事を、正しく評価尊重することを忘れない。ホメロス、アレクサンドロス、エパメイノンダス、小カトー、ラ・ボエシ、元帥モンモランシー等の人物を讃えることを忘れない。「レーモン・スボン弁護」の章の冒頭にも、「まことに学問は、甚だ有用で偉大な性能である。これを軽蔑する者どもはおのれの愚かさを証して余りがある」といっているし、第三巻第八章「話合いの作法について」の中でも、「わたしも知識を、これを持っている人々と同様に愛し尊ぶ。それは正しく用いられるなら、人間の最も高貴で強力な後天的能力である」とも言っている。
 このように、モンテーニュはどんな問題についても相対主義者であった。個人主義者としてもまたそうであった。決してそれは絶対的な徹底した個人主義ではなかった。そこに彼の特徴があり、それが彼の知恵となっている。

※(ローマ数字4、1-13-24)


 モンテーニュは一五七〇年に、ボルドー高等法院における評定官コンセイエの職を、友人フロリモン・ド・レーモンにゆずって故郷の城館に引退した。当時モンテーニュはまだ三十八歳の働きざかり、体は丈夫だし、野心もまた決して消え去ってはいなかった。どうして急に隠居なんかする気になったのであろう。それについて、本人は何もはっきりとは書きのこしていない。ただ有名な、あの気取ったラテン文の帰去来辞(白水社版『モンテーニュ全集』第三巻付録参照)の中には、「朝廷の屈従と公職の重荷に疲れて」と言っているが、それはむしろ彼のユマニスト好みの、筆のすさびにすぎないのではあるまいか。今日では当時の歴史が段々と明らかになって来たから、モンテーニュ引退の動機をあれこれと推測することも出来なくはないけれども、結局それは推測推定なのであって直接的な資料は何もないのであるから、ここではそれにふれずにおこう。このことについては、すでに拙著『モンテーニュ伝』(白水社)でも『モンテーニュを語る』(角川新書)でもそれぞれふれたことだし、また別に書く機会もあろうと思うから、ここではただ、彼の隠棲いんせい後の生活が実際にどのようなものであったかを顧みるだけにとどめよう。それだけのことなら、直接『随想録』そのものの中に読みとることができるのである。
 第一に思い出されるのは、第三巻第三章「三つの交わりについて」の章における彼の書斎の叙述である。それは今もペリゴールの一角に見られるとおり、塔の三階のまるい形をした部屋である。彼が机をすえてすわったうしろの、煖炉が切りこまれた壁面だけが平らで、あとの壁は五段の書架を支えて弧をなして彼をとりまいていた。だから、彼は机にすわったまま、一千冊におよぶ蔵書の一切を一目に見わたすことができたのである。子供の頃は教室で先生の眼をぬすみ、こっそりオウィディウスなどを読みふけり、長じてはいよいよ本式のユマニストになった彼のことであるから、十七年にわたる勤務から放たれて故郷の家に帰った時、まず第一にしたことが読書三昧の生活であったろうことは、想像に難くない。だが誤解してはいけない。彼の読書ぶりは至極悠々たるものであって、彼がいたる所でこきおろしている学者ぶった様子や厭人家や世捨人などの影はみじんもなかった。彼自ら、次のように書いている。

……実際わたしはあんまり書物を利用していない。全然その味を知らない者とほとんどかわりがない。わたしはちょうど守銭奴がそのお宝をたのしむように、読もうと思えばいつでも読めるんだと思って満足している。わたしの霊魂はこんな所有権だけでけっこう満足しているのだ。わたしは戦争のときも平和なときも、書物を持たないで旅することはない。けれどもそれを開かないで、幾日も、いや、幾月も、たつことがある。「そのうち読もう」「明日は読もう」いや、「いつか気がむいたら」とわたしは思う。その間に時は走りすぎる。でも別にわたしはくやまない。まったく、「書物は常にわたしの傍にある。欲するときにはいつでもわたしを楽しませてくれる」と考え、またいかに書物がわたしの生活の助けとなるかを認めると、わたしは言葉ではいえない安心安堵を感ずるのである。それこそ人生の旅路を行くのに、わたしが見出しえた最良の糧である。だからわたしは、分別ある人々でありながら書物を持たないものを見ると可哀そうになる。わたしは〔旅に出ると〕むしろ他のあらゆる種類の慰みの方を、どんな軽微なものでも受入れるが、それは読書の楽しみが〔家にかえれば〕いつでも得られることを知っているからである。
 家にいると、かなりしばしば、わたしは書斎に引籠る。そこからは、書見をしながら家じゅうが手に取るように見える。わたしは入口のちょうど真上にいて、目の下に菜畠も鶏小屋も中庭も、またわが家の大部分の部屋の中までも見渡せる。そこでわたしは、あるときにはこの本を、またあるときには別の本を、というふうに、これという順序もなくあてもなく、あれこれと拾い読みをする。あるときは夢想し、あるときは歩きまわりながら、ここにあるような夢想を書きつけたり口授したりする。(三の三)

 こういうモンテーニュの隠棲は、決して人間ぎらいや世捨人のかくれ家ではない。このような俗塵逃避、孤独礼讃は、むしろフランスの国民性に根ざすものであろう。フランス気質の底には、自分ひとりお高くとまろうとする高踏性と、皆と一緒ににぎやかにやろうという社交性とが、奇妙に仲よく同居している(たとえば、エレンブルグ『ふらんすノート』など参照)。モンテーニュの場合もまた、その一例なのではなかろうか。彼は同じ第三巻第三章の中にこう言っている。

 世には閉じこもって出ない・独りぽっちな・生れつきの人々がある。だがわたしの本性は、何もかもさらけ出すことにむいている。わたしは全く見かけっきりのあけすけな男で、生れながら社交向き友愛向きにできているのである。わたしは孤独を愛しそれを説きすすめるが、それはただわたしの思想と感情とを自分に向けるためである。わたしの歩みを局限するためではなくて、わたしの欲望と心配とを制限するためである。ひとのために心を労することをきらい、屈従と束縛とを死ぬほど憎むからである。(c)人間が多いのを避けるのではなくて雑用がふえるのを避けるのである。(b)場所が寂しいと、本当に、わたしの心はかえって外に向って伸び広がる。ただ一人でいると、とかく国家の問題や宇宙のことなどを考えてしまう。ルーヴル宮や群衆の中にいると、わたしは自分の殻の中に閉じこもる。群衆は外に出ようとするわたしを押し返す。(三の三)

 モンテーニュは大勢の人の中にいて、ちょうどいい話相手がいない時には、ここに言っている通り自分の殻にとじこもる。だが彼は、こう自ら書いている。

性格上わたしは賑やかな宮廷がきらいではない。わたしは一生の一部をそこに送った。ただそれが間を置いてであり、わたしの気のむいたときだけならば、おえら方の間にまじって愉快に振舞うこともできるのである。(三の三)

 こういうところを読んでみると、彼の「モワ」なるものは結局彼が到るところにつれてあるく一人の腹心の友、気のおけない友達みたいなものなのではあるまいか。この「我」は彼を彼の気に入るような好もしい人物にひき合せる役目もするし、時には気にくわぬいやな奴ばらを追っぱらう役目もする。だが彼は、本当は友達がほしいのだ。彼はその点、やっぱりフランス人なのである。「どんな楽しみも、それを伝える相手がなくては味もそっけもない」(三の九)と彼は言う。第二巻第十五章「我々の欲望は困難にあうと増加すること」という章の中でみると、彼はその門にかんぬきをかけさせたことがなく、それはいつも扉をたたく誰にむかっても開かれていた。「備えといえば昔かたぎの丁寧な門番が一人いるきりである。しかも、門を守るためにではなく、むしろこれをいともしとやかに礼儀正しくおし開くためにである」と、彼自らいっている。
 このようなモンテーニュの「我」は、はなはだ天真爛漫で、少しもパスカルの言うように、唾棄すべきもの(ha※(ダイエレシス付きI小文字)ssable)には見えない。むしろそれは良心的で合理的で、ヴォルテールの言うように魅力的(charmant)ですらある。それは当時も今日も、モンテーニュに沢山の友を得させた。しかし『随想録』の中にはもう一つ別の鉱脈がある。この愛すべき個人主義の中に、静かにしとやかに落ちついてすわっているこの「我」だけが、モンテーニュの究極だと思ってはいけない。だってそうではないか。一つの社会が何を目ざして進んだらよいのか途方に暮れているのを目の前にして、この「我」がのほほんとすましていられるわけはないではないか。
 彼はまず人間一般を、あるいは哲学者を、一からげにしてふるいにかけた。だがその次には夫子自らをも槍玉にあげる。彼は自分の優柔不断だの、怠け癖だの、色好みだのを俎上にのぼせ、それらをさんざんにこきおろしながら、かえってそこに自分の「我」をはっきりとつかみ、一個人としての、私人としての人間をつかんだ。そしてそれを思う存分にからかいはじめるから、パスカルの目にはそれが唾棄すべきものに見えたので、それは無理もないことだ。実際モンテーニュはそれを唾棄すべきものどころかそれ以下のものに、n※(アキュートアクセント付きE小文字)ant 即ちくうの空なるもの、にしてしまった。パスカルにおいては、「人間は自然の中で最もよわい一本の葦にすぎない」のだが、それでもそれは「考える葦」であった。だからパスカルの人間はまだ品位というものを持っている。ところがモンテーニュの方は、この最後のよりどころまでけっとばしてしまう。自我も、個も、結局「伝道の書」に言える通り「風」の如きものになってしまう。「レーモン・スボン弁護」の章を読んでゆくと、そういう感じをしみじみといだかせられる。
 実際モンテーニュは、ここで人間と動物との間に最も皮肉な数々の比較を行うが、そのどれひとつをとって見ても、人間にとって不名誉でないものはない。「こんな哀れなちっぽけな被造物」が(とモンテーニュは人間をこきおろす)、わずかに自分の主人にさえなれぬくせに「宇宙の主人だ帝王だなどということほどばかばかしいことが、どうして信じられようか」。もしも人間にそんな自讃が許されるとすれば、鵞鳥のひよっこが次のように言って威張っても、我々にそれを笑う権利はまったくないであろう。

……まったく、どうして鵞鳥の子はこう言わないであろうか。「宇宙のすべての部分は俺のためにできている。大地は俺が歩むために、太陽は俺を照らすために、星はその威力を俺に及ぼすためにある。俺は風からこれこれの利益をうけ、水からもこれこれの便利を受けている。俺くらいあの丸天井からめぐみ深く見られているものはない。俺は自然の寵児である。人間だって俺を養い、俺を宿し、俺に仕えているではないか。彼が種をまかせ粉をかせるのも俺のためである。彼は俺を食うけれども、同時に彼はその同類たる人間をも食っている。それに、俺だって蛆虫うじむしを食う。人間を殺し・人間を食べる・その蛆虫を」と。(二の十二)

 だからモンテーニュは、あの人間の法外な自画自讃、その度しがたい自惚うぬぼれを、人間が生れながらに遺伝によって持っている、いわば先天的な病気なのだという。

 (a)自惚うぬぼれは我々の持って生れた病である。すべての被造物の中で最もみじめでもろいものといえば人間であるのに、それが同時にもっとも傲慢なのである。人間はここに、世界の泥んこ・うんこ・のまん中に住んでいることを、また宇宙における……もっとも悪い世界に住む動物どもと一緒に・こうして釘づけにされていることを、自ら感じもし見もしておりながら、しかも想像によって月のかさのそのまた上に突っ立ち、天をその足の下に踏んまえている気分でいる。いやそれどころかそれと同じ空なる想像によって、彼はその身を神にくらべ、その身に神の性質をさずけ、独りえらそうに他の被造物の群から離れ、その同類同胞たる動物に分け前をくれてやり、これくらいならばと思うほどのほんの僅かな能力を彼らにわかち与えているのである。彼はその英知の力により、どのようにして動物の内部のかくれた働きを認識するというのか。どんなふうに彼らと我々とを比較して、彼らをばかだと結論するのか。(二の十二)

 だがこう言いながらもモンテーニュは、自分もまたそういう生意気な人間の一人であることを決して忘れてはいない。

 (c)わたしが猫とたわむれているとき、猫のほうこそわたしを相手にひまつぶしをしているのではあるまいか。……
 (a)動物と我々との相互の理解を妨げているあの欠点は、なぜ彼らにばかりあって我々にはないのか。お互いに全くわかり合わないのは果してどっちの罪であろうか。それはどっちとも言えない。まったく彼らが我々を理解しないばかりでなく、我々も彼らを理解しないではないか。我々が彼らを畜生ベートと評価するのと同じ理由によって、彼らも我々を馬鹿ベートと評価することができるわけである。我々が彼らを理解しなくても、それは大して驚くにはあたらない。我々はバスク人をもトログロディット人をも理解しないのである。……(a)我々はお互いの間にある類似の方に注意しなければならない。我々は彼らの意味のまず半分くらいを理解し、動物の方でも大体同じ程度に我々の意味を理解する。彼らは我々にへつらい、我々をおどし、我々に求める。我々もまた彼らに向って同じことをしている。
 それに、彼ら同士の間にも十分完全な意思の疎通があること、ただに同種類のもの同士ばかりでなく異種類のもの同士もまた相互に理解し合っていることは、きわめて明白である。(二の十二)

 ここでわれわれはやがてパスカルが取り上げる問題にぶつかる。本当に自然は、動物にはわれわれの持たない本能や性能を賦与し、われわれには彼らの持たない知性を与えたのであろうか。例えば鳥が巣を作る時の勘、クモが巣をあむ時の見とおしとか技術とかいうものを、われわれは賦与されていないので、その代りに我々の方では、我々固有の知性を働かさなければならないのだろうか。モンテーニュは、いま言ったような点では人間は到底動物にかなわないのだと完全にかぶとをぬいで見せながら、やっぱり知性にかけては、知的には、彼らよりすぐれているのだぞと言っているかのように見えなくもないが、むしろそれは単なる嬉しがらせではないだろうか。果せるかな彼は、その次に、動物の間にもやはり精神の働きのようなものが十分に見られること、これこそ人間特有なものだと自慢する推理の働きすら、彼等のもとにも決してなくはないのだと言うことを、実例をあげて示している。ローマの理髪師に飼われていたかささぎの話はその一つである。「トラキアの住民が氷の張った河の上を渡ろうと企てるときに使用する・すなわち案内役として放してやる・あの狐」の話もそうである。はぐれた主人の跡を追っかけた犬が三叉路にさしかかってどのような行動をとったかという話。それから盲導犬の話。この種の実例は「レーモン・スボン弁護」の章の中に文字どおり充満している。

 クリュシッポスは、他のあらゆる事柄においてはいかなる哲学者にもまして動物の性情を侮蔑的に判断したが、犬がそのはぐれた主人を捜しながら、あるいは逃げて行った獲物を追いかけながら、ある三叉みつまたの辻に出ると、順次に第一の路、第二の路と歩いて見て、三筋の路の二つを確かめていよいよそこに自分の求めるものがないと知ると、断然ためらうことなく第三の路に飛びこんだのを見ては、さすがにこう告白せざるを得なかった。「この犬はつぎのような推理を行ったのである。『わたしはこの三つまたの辻まで主人について来た。どうしても彼は三つの路のどれかに行ったに違いない。第一の路でも第二の路でもない。だからどうしたってこの路を通ったに違いない』と。そして、この推理結論によって確信をえたればこそ、第三の路についてはもはや嗅いでも見なければさぐっても見ず、ただ理性の力におされてそこに飛びこんでいったのである」と。(二の十二)

 それどころか動物には正義の観念すら存在する。

 もし受けた恩をその人に返すことが正義であるとすれば、その恩人に仕え・これを愛し・これを守って・これを脅やかす外敵を追い傷つける・動物は、ただそれらの点においてだけでなく、その子供たちに財産をわけるに当ってはなはだ公平に平等を守るという点でも、かなり我々の正義に似たところを見せている。(二の十二)

 動物はおおむねこういうものだと、モンテーニュはわが『昆虫記』の著者ファーブルのように、あるいはラ・フォンテーヌやドーデーやミストラルのように、きわめてにこやかに、詩人のように、楽しげに語っているが、さてひとたび人間のこととなると、がぜんすこぶる辛辣で皮肉な批評家になる。

 (a)皇帝の霊魂も靴屋の霊魂も、同じ鋳型で鋳られたものである。彼らは王侯の諸行為の重大さを見て、それらもまた何か同じように重大な原因から産み出されたかのように思いこんでいるが、とんでもないことだ。彼らもまたその運動において、まったく我々と同じばねによって押されたり引張られたりしているのである。我々が隣の人と喧嘩するのと同じ理由で、王侯は互いに戦いをかまえる。我々に下男をぶんなぐらせるのと同じ理由が、ふとある王様の心のうちにおこって、彼に全一州を攻め滅ぼさせる。(b)彼らも我々と同様に軽々しく意欲するのであるが、そのなすところはより大きい。(a)同じ欲望が、だにシロンと象とを動かしているのだ。(二の十二)
……虱にはス※(小書き片仮名ル、1-6-92)ラに執政の職をむなしくさせるだけの力がある。偉大な勝ちほこった将軍の勇気や生命だって、ちっぽけな虫けらの朝飯である。(二の十二)

 皇帝や王侯ですらこの通りなのだ。われわれただの人間が後生大事にかかえているその個性なんか、その「我」なんか、憎たらしいどころか、空の空であり虚無なのだ。それこそ正に「風」みたいなものなのだ。
 こういう一種のニヒリズム、ピュロン説、ないしは懐疑論にあっては、ふつう社会もなければ個人もなくなる。そこにはただ、人間の営みをすべて衒学げんがくにすぎないと嘲りまじめにとりあげることをしない、高慢で冷やかな、傍観的な人間が残るだけのように思われる。モンテーニュもまたそういう人間になり終ったろうか。
 もしもそうだったとしたら、もしもそういう立場を長く持して放たなかったとしたら、それはやはり一種の衒学、てらいである。それはただ一種消極的なてらい(un p※(アキュートアクセント付きE小文字)dantisme n※(アキュートアクセント付きE小文字)gatif)であったというだけのことで、独断的狂信的な(夫子自らけなしにけなした)もう一つのてらいと変るところはない。幸いにしてモンテーニュという人は、そうなりさがるには余りにも理性主義者であり、モラリストであり、また人間であった。

※(ローマ数字5、1-13-25)


 われわれは、先にもふれたように、モンテーニュの著作の中に、明らかに二つの部分を識別する。例えば探求の部と勧告の部、理論の部と実際の部、弁証論の部分と実際論の部分という風に。モンテーニュみずからも、「自分の著作はディスクール(discours=raisonnement)の部とイストワール(histoire=r※(アキュートアクセント付きE小文字)cit)の部から成っている」と言っているが、わたしはそれを「理論」の部と「勧告」の部といってもよいのではないかと思うのである。
 伝統的にフランスの知識人は、しばしば高遠な好奇心の翼を思いのままにひろげるが、やがて行為の広場に降りたたねばならなくなると、その独自な思想を普通一般の立場から改めて批判する。モンテーニュもそうである。哲学者としての立場はあくまで大事にとっておき、そこでは随分大胆な放言もすれば逆説もならべて、大いにその精神を堪能たんのうさせるが、同時にまた一市民としての立場も忘れない。そこでは彼の感情が、物事をただ理屈でばかり割り切ってしまうことをゆるさないからである。こういう流義には勿論大いに危険がある。けれどもそれは、数世紀を通じて、実際の面で精神が向う見ずなあやまちをおかすことを抑制し、大衆を危険にひきずりこむことをふせいできた。中世にもそういう例がある。『ばら物語』の著者の一人ジャン・ド・マンは「中世紀のヴォルテール」(Gaston Paris)と言われる人で、彼のもとにはわれわれが、これこそ近代人の発明だと思っているものさえ、すでに相当にそろっていた。それは、フィリップ美男ル・ベル王の時代で、ジャンはこの王と親交があり、その庇護をうけたのであったが、王は決してこの詩人哲学者の思想をそのまま政治の面に実現させようとはしなかった。
 わがモンテーニュも一面哲学者であると共に、また為政者であった。だからその同胞同時代人が、賢明なフィリップ四世のような慎重さを持たず、理論をそのまま実行に移して、何もかもひっくりかえしてしまうことのいかに危険であるかを、知っているのである。そして夫子自らも、理論の世界ではあれほどまでにその個を大事にしたのに、ひとたび実際の世界に出ると、案外惜しげもなくその個人主義をすてるのである。それは各人のちっぽけな「我」がそれぞれ己れを主張してまげないところから、自分の眼前にどれほどの混乱と流血との地獄図がくりひろげられているかを、現に見ているからである。彼はその持って生れた涙もろさないし慈悲人情からも、またその学びえた人間尊重の主張即ちヒューマニズムからも、余りにも非人間的な眼前の惨状を見るに忍びなかった。モンテーニュのピュロン説を誤解しまたは過大視する人たちは、彼のような人間にとっては、人間同士がそれぞれの信仰を盾にとって、互いに殺し合い傷つけ合っているさまを見ることは、面白く小気味よいことであったろうなどと言いかねないが、これほど大きな間違いはない。それは『随想録』の随所に感じとられる彼の高貴な感情を無視することである。彼の懐疑論が政治上の寛容の基礎になったことは疑うべくもないが、為政者としての彼は常に必ずしも寛容(tol※(アキュートアクセント付きE小文字)rant)でばかりはなかったということもまた事実である。もちろん哲学者としては絶対中立であったけれども、公民としての・あるいは政治家としての・立場からは、必ずしもそうではなかったのである。寛容が協和平和をもたらす限りにおいてはそれをよしとしたが、寛容であること・無関心であり中立であること・がかえって社会上の混乱と不秩序との原因となる場合には、断然一派に属して、力の政治に与くみすることさえ実際にはあった。そこに彼の思想の限界があったとも言えるし、またそこに彼の知恵があるのだとも言えよう。
* 聖バルテルミ祭の殺戮さつりくに関して一言半句も述べていないこと、市長時代の実力行使の事実、軍職礼讃等々を、われわれはここに思いおこす必要があろう(巻末年表参照)。
 第一巻第二十三章「習慣のこと及びみだりに現行の法規をかえてはならないこと」という章の中に、彼ははっきりと言いきっている。

 (b)わたしは改革が嫌いである、それがどんな顔をしていても。それは当然のことだと思う。現にわたしは、そのはなはだ有害な結果を幾つも見ているのだ。久しい前から我々に迫っているあの改革も、それは全部をなしとげたわけではないが、人はこう言っても間違いではないと思う。「それは間接にいろいろなものを産み出した。不幸や破壊をまでも産みだした。そしてそれらは、その後、改革とは別に、改革とは逆方向に、行われている。これでは、改革はまず自分自身を改革してかからなければならない」と。

ああ、わが放てる矢こそ、われを傷つけたれ。
(オウィディウス)

国家に動揺を与えるものは、いつも真先にその破滅にまき込まれる。(c)攪乱の結果は、かきまわしたものの手に残らない。結局他の漁夫たちのために水を打ち波をあげただけにおわる。(一の二十三)

 ここには今日現在の日本の革新政党のやり口やその思わざる結果に対する評言を読みとることすら出来よう。モンテーニュは、本当は因習打破を望んでいるのだが、いわゆる革命家の運動はかえって逆効果を生み、反動政党を益するような結果にさえなっていることをなげくのである。
 第三巻第二章「後悔について」の中にはこんな意見がある。

……わたしはたんに理性と自然とが非とする不徳だけでなく、人間の意見が作りあげたそれらをも(それぞれ程度は違おうが)、すべて不徳と見なすのである。よしそれが誤った考え方にもとづく意見であっても、法規と習慣とがそれを支持しているかぎり、それが不徳とするものはやはり不徳と見なさざるを得ないのである。(三の二)

 つまりモンテーニュは、哲学的には不徳とするに足らないとしても、法律習慣が不徳とみなすもの、世論の非とするものはやはりわるいことと考えるのであって、モンテーニュはその点、伝統主義者であり、遵法主義者なのである。これが、哲学者としてではない・政治家としての・彼の信念なのである。それは前に「良心の掟は自然から生れると言われるが、むしろそれは習慣から生れる」と言ったことに通じている。だから彼は、「シャルルマーニュが我々にローマ帝国の法律をおしつけようとしたときに第一にこれに反対した者は、わたしの生国ガスコーニュの一貴族であったということを」知って運命に感謝したのである。
 これほどまでに彼は変化変更をきらい、地方の習慣、地方の自治自由を守ろうというのであり、そのためには皇帝の強制に対してすらあえてさからおうというのだから、不消化な中途半端な学説に対しては、彼は得意の懐疑論で対抗する。勿論それは彼がもって生れた平穏無事の好みにもよるのであろうし、当時はまだ一般民衆に「我」の意識が稀薄であり、彼の属する貴族階級がなお社会を指導する力を十分にもっていると信じられた時代でもあったからであろうが、恐らく彼はこの態度を、ソクラテスから学んだ「知恵」であると考えたいのであろうと思う。彼は衣服に関する意見をのべた末に、こう結論する。

……むしろあべこべであって、総じて風がわりな独特な身なりは、狂気からか、何かためにしようとする魂胆から、生ずることが多く、真の理性から来るのではないように思われる。いや、賢者はその霊魂を俗衆から離して、これを自分の内に引込め、これを自由にし、これに物ごとを自由に判断する力を持たせなければならないけれども、外観の方は、一般に認められている形態にそのまま従わせなければならないと思う。国家社会は我々の思想なんか問題にはしない。そのかわり、それ以外の物、例えば我々の行為、我々の勤労、我々の財貨、我々の生活は、皆これを国家社会の用に供し、一般の考え方に従わせなければならないのである。例えばあの正しく偉大であったソクラテスが、裁判官にそむくことによって自らの生命を全うしようとはあえてしなかったように。しかもはなはだ不義不正な裁判官にすらそむくことをあえてしなかったように。まったく、各人がその国の法に従うことこそ、規則の中の規則、諸法を統べるところの法なのである。(一の二十三)

 モンテーニュが、習慣というものはきわめて薄弱な根拠しか持っていないとか、それは時と場所によってまちまちであり、矛盾撞着さえすると散々こきおろしたすえに、このような意見を述べているのを見ると、それは何やら不自然なものに(変節とも臆病とも)、見えもするが、それは一方に、彼の心底にある理性に対する批判とたしかに結びついている。理性は誤謬ごびゅうと欠陥とにみちた試金石であり、それが提供する方便は余り効果的ではないから、われわれは下手へたな真似をするよりは、経験に従う方が利口だと、彼は考えるのである。

……(b)そこで忌憚きたんなく言うならば、わたしにはこう思われる。自分の意見を尊重するあまり、「これを実施するためには世の中の平和をくつがえすのもやむを得ない。内乱が、いや国体の変革が、重大な問題においてたくさんの避け難い不幸をもたらしたり、恐ろしい人心の腐敗をまねくのもやむを得ない。それらを我々自らの国の中に生ぜしめることもやむをえない」などと考えるのは、はなはだしい自惚うぬぼれであり不遜であると。(c)なお疑うべき・なお議論の余地ある・誤りを打ち壊すために、あれほど確実な不徳をすすめるのは、間違ってはいないだろうか。世に自己の良心と自然の認識とに反することよりいまわしい不徳があるであろうか。(一の二十三)

 こういう国内の混乱を極度に恐れる心の底には、彼の持って生れた平和を愛する気持、平穏無事の好みが横たわっている。われわれ東洋人は、「足ることを知るものは富む」とか「無事自楽心」とかいうが、モンテーニュにもそうした悟りがあり、野心のためにしなくてもいい苦労をすることは愚かなことだと考える。彼のように生れながらに相当の暮しができる者は誰しもそう考える筈であるが、世間は必ずしもそうとはかぎらない。そこで彼は言う。

 (a)野心に至っては、それは自惚れの隣人、いやむしろその娘であるが、わたしを出世させるには、運命がやって来てわたしの手首をとっつかまえなければならなかった。まったく、当てにならない希望のためにこの身を労したり、世間の信用をかちえようと努める者がその門出に当って出あわねばならないいろいろな困難の前に、このわたしまでが身をかがめるなんて、まっぴらご免だ。……わたしはこう考えるのである。「もしこの自分の持っているものが自分の生れ育った境遇を維持するのに足りるならば、これを増加しようという不確実な希望のために、せっかく握っているものを手離すなんてことはばかげている」と。……
 (b)実際わたしは、一家の名誉を負い、自ら悪いことをしないかぎり貧乏におちいる心配のない者よりも、次男坊が、その法定相続分を風に委せる方を、むしろ大目に見る。(二の十七)

 ここには自分の身分に関する自慢のようなものが幾らか感じられて、時に読者の嘲りを買う。もちろん彼は、哲学者としてはそういう家柄のようなものを、空の空なるものの一つとしてくさしているのだが、実生活の面においては、やはり家柄に属する方が彼一個にとって好都合であったばかりでなく、新興貴族階級こそ当時の社会の基盤であり、その安定こそ社会の安定なのだと、信じて疑わなかったのである。思想的理論的には、流行にしろ慣例にしろ、いや法律さえもが、モンテーニュにとって全く意味のないものであったが、しかし実際の世界においては、皆それぞれの意味を持っていることをモンテーニュは承知している。そこには理知的哲学的な根拠は何もあるわけではないが、世間の人たちがなるたけそれらのものに変更を加えまいとしていること、だからこそそれらが長い年月を通じて存続しているのだということ、ただそれだけの事実から、モンテーニュはそれらを重視し尊重することができるのである。それで同じく自然の礼讃をしているにしても、ルソーとは大変ちがって来るのである。ルソーの方は個人を社会から切り離すことによって個人を拡大し高尚にしようとするのであるが、モンテーニュはひたすら個人を公人社会人としての生活に慣れさせようとするのである。だからこう書くのである。

 (b)みんなが精神の敏活によってかちえようとする誉れを、わたしは精神の調整によって得ようと思っている。人が顕著な働きによりまたは何か特殊な能力によって得ようとするそれを、わたしは思想行動の秩序・調和・おだやかさによって得ようと望んでいる。(二の十七)

 後年ルソーは、人間は本来善良なのだが文明によって毒せられ、その善性を失うのだと考え、個人を社会から切り離すことによってその本性を完成させようとしたのであるから、これこそ立派な個人主義であるが、モンテーニュの方はむしろそれとはあべこべに、個人を公人社会人としての生活の中に練成しつつ完成しようというのであるから、それは純粋な個人主義とは言えない。ところがこういう考え方がモンテーニュにおいては常に一貫してあり、いくらでもその例をあげることができる。例えば第二巻第八章、「父の子供に対する愛情について」の終りの方では、遺産の相続とか分割とかいう問題に関連して、プラトンの言葉をかりてこんなことを言っている。

 プラトンの中の立法者とその市民との間の面白い対話は、このくだりに箔をつけてくれるでしょう。「どうして」と市民たちは、その終末が近いのを悟ると申しました。「どうして我々は我々のものを、我々の欲する人のために処理することができないのか。おお神よ。なんという残酷なことか。どのように身うちの者どもが、我々が病気のとき・老いたるとき・また我々の用事において・我々に仕えてくれたかに応じて、或いは多く或いは少なく、思いのままに、彼らに与えることが許されぬとは!」これに対して立法者はこう答えています。「やがて必ず死なねばならぬわが友よ。デルフォイの神殿の銘にあるように、きみたち自らを知ること、またきみたちに属するものを知ることは、ともにむつかしい。わたしは立法者として、きみたち自らもきみたちのものではなく、きみたちのけ楽しむものもきみたちのものではないと主張する。きみたちの財産もきみたち自らも、きみたちの過去及び未来の家族に属している。しかしそれ以上に公衆に、きみたちの家族もきみたちの財産も属しているのだ。だから万一きみたちの老後に、或いは病床に、誰かへつらいを言う者が現われるとか、或いはきみたちに何かの情念が起るとかして、きみたちに不当な遺言を勧めるようなことがあっても、わたしは必ずきみたちをそれから守ってあげる。けれどもわたしは、都市一般の利益と君たちの家族のそれとを二つとも重んじながら法律をたてるであろう。そして個人の便益は一般の便益の前にゆずらなければならないことを、正当のことと感じさせるであろう。静かに、喜んで、人間たる以上は必ずゆかねばならぬ所にゆきなさい。物事を常に差別せずに見るわたし、できるだけ一般ということに心をくばるわたしこそ、きみたちが残してゆく物を始末することができるのだ」と。(二の八)

 実際この立法者プラトンの意見こそモンテーニュの意見なので、それは明らかに個人主義よりは社会主義の方により近くあるのである。ただここでも彼は相対主義者であって、決して全体のために個を犠牲にすることはない。彼は少年を社会の中の一つの歯車にしてしまおうとはしない。ただ一方に、少年の個性を十二分に重んじつつも、彼をやはり公益公道のために練成しようとするのである。有名な「子供の教育について」の章(一の二十六)では、封建的な詰め込み教育をしりぞけ、生徒の自主性を尊重する判断の教育を提唱しているのであるけれども、生徒がそのために余りに自己に執着しすぎて、周囲の者に不愉快な邪魔者にならないようにと心がけている。すなわちここにも、個性の尊重と社交性の必要とが、少しも矛盾することなく並び存するのである。

……若様は、御成業の暁にもご自分の学識をひけらかさず、それをひかえめになさるよう、御前ごぜんで語られるばかばかしいお話などにも御機嫌をそこねられぬよう、御教育申上げるべきでございます。まったく、自分の好みにあわないものはすべてしりぞけるというのは、礼儀をわきまえぬ執念と申すものでございます。(c)若様は、ただ御自分をめなおされればそれでよいのです。御自分のしたくないことは何でも他人に向って咎めだてをされたり、一般の習俗に逆らわれたりする風がすこしでもあってはなりません。※(始め二重山括弧、1-1-52)人はてらいと高ぶりなくとも賢者たることを得べし※(終わり二重山括弧、1-1-53)(セネカ)。あの先生然とした非礼な態度はお避けにならなければなりません。いわんやふうがわりな風をしてえらそうに見えようとか、非難と革新とによっていささかその名をうたわれようとかいう、あの子供じみた野心にいたってはなおさらのことです。えらい詩人でなければ破格のしらべは用いないように、偉大卓抜な霊魂でなければ習慣を超越する特権をほしいままにすることはゆるされません。(一の二十六)

 このように個性を過度に尊重することから子供たちが将来非社交的、反社会的な大人になりはしないかと心配しているかと思うと、彼はまた、当時なお両親たちの側に根強く残っていた封建性の結果をおそれ、子供を無用に圧迫してその個性を殺さぬようにと警告する。

 (b)私は、おさない者の霊魂を名誉と自由とに向って育成しようという教育のなかには、ほんの少しの暴力もあってはならないと思います。厳格とか拘束とかの中には何かしら屈辱的なものがございます。私は理性により・思慮により・また巧妙によって・なし得ないことが、暴力などによってなされようとは思いません。私はそういうふうに育てられました。私は幼年時代を通じて、ただの二度しかむちを受けなかったそうでございます。しかもそれさえごくそっとであったと申します。私も自分の子供たちに対して、同じようにしてやるつもりでございましたが、いずれも乳飲児の頃に死んでしまいました。レオノールは、この不運を免れた唯一人の娘ですが、六歳に達するまで、いやそれ以上になりますまで、しつけのためにも、子供らしい過失のこらしめのためにも(彼女の母は寛大でございましたから、それがやすやすとできたのですが)、言葉以外の、しかもきわめてやさしい言葉以外の、何ものをも加えられなかったのでございます。私のこの理想が効を奏しなかったとしても、そこには別に食ってかかるべき原因がいろいろとあるからであって、私の教育法を非難するにはあたらないのです。私はあくまでそれを正しく自然なものであると信じております。男の子に対してであったなら、なおさらこの方法を尊重したでしょう。男の子は〔女の子にくらべて〕いっそう屈従がきらいに生れついており、いっそう自由な境遇におかれるべきものです。私は彼らの心を自由独立の精神をもってふくらますことを望んだでしょう。私は鞭をつかうことの中には、霊魂をさらに卑怯にし・さらに意地悪く頑固にする・こと以外に、何らの効果も認めたことがございません。(二の八)

 このような教育方針のもとに育成された彼の子弟は、果してどのような人物になったか、それは容易に想像することができるが、決してモンテーニュそっくりの人ではなかったであろう。というのは、モンテーニュはここに、決して自らを描いているのではなかったからである。むしろ彼は自分がなろうとしてなり切れなかった行動の人を描いているのである。それは心身ともに強健で、そのおかれた境遇に圧倒されることなく、複雑怪奇な人生に勇ましくぶつかっていこうという、そしてしようとすれば何でもできるが、善いことでなければ決してしないという、しっかりしたジャンティヨム(王臣すなわち王政の輔弼者ほひつしゃ)を育成するのが、彼の究極の目的であった。夫子自らは、あのとおり余りにも自己を研究し分析しすぎたために、軍人として政治家として立派にやりとげられるかどうかについていささか自信がもてなかったらしいし、生来淡泊な人で万事をとかくあっさりとあきらめてしまう方であったからこそ、その息子のために、あるいは祖国フランスに主たる国王のために、「こうなってほしい、こうあってほしい」という理想をここに描き示したのであった。モンテーニュはやがてこの理想を現実の人物の中に見出して、その大成に尽力した。それは彼が若い時分から絶えず交わりをつづけて来たアンリ・ド・ナヴァールすなわち後に国王アンリ四世となる人で、この人のように自己を十分に大切にしながら公人としての義務を遂行するのにも卑怯でないというのが、モンテーニュの個人主義の生きた模範であったと言えよう。
 かくモンテーニュの教育論を通じて見られる理想のジャンティヨムは、そのままモンテーニュ自らのありのままの姿ではなかったけれども、しかし彼における※(始め二重山括弧、1-1-52)esprit civique※(終わり二重山括弧、1-1-53)すなわち公共の意識、公民としての自覚が、単なる逃げ口上でも口先だけのものでもなかったことは、『随想録』の到るところに読まれる大胆な言葉や、市長職とそれに続く彼の政治的活動が、実証して余さざるところである。その最もはっきりした証拠は、彼と一心同体であった友人ラ・ボエシとの関係、その有名な「奴隷根性について」の『随想録』における取扱い方のなかにも見られると思う**。モンテーニュはこの友人の形見の論文をその友愛の記念として、最初は第一巻第二十八章「友愛について」のまんなかにすえようとしたのであったが、やがてそれを中止して、代りにもっと快活な恋愛詩「二十九篇の十四行詩」を載せることにした。そしてその理由を次のように述べている。

 わたしは後にこの著作が、我が国の政情を(それが果して改良になるかどうかを深くも考えずに)ひたすら攪乱し変革しようと努める人々によって、悪い目的のために公表されたのを見たから、しかも彼らはこれをお手作りの文章の間に交えたから、ここにこれを挿入するといった約束をすてる。そして、著者の記憶が彼の思想や行為を親しく知ることを得なかった人々によって害せられるといけないから、わたしは彼らに実をあかす。すなわち、この主題は彼の青年時代にただ論文をかく稽古につかわれたもので、すでにもろもろの書物のいたるところで論じつくされた陳腐な問題にすぎないのである。当時彼が自分の書いていることを信じていたことは、わたしもまた少しも疑わない。まったく彼は正直な人だったから、戯れにも嘘はつかないのである。それにわたしは承知している。彼がもし選択をゆるされたら、サルラに生れるよりはヴェネツィア共和国に生れたく思ったであろうことを。しかもそれが当然だとさえ、わたしは思うのである。けれども彼は、もう一つの格言を、心の奥底に侵しがたく刻みこんでいた。すなわち、その生れた国の法律に畏れかしこみて服従せよという格言を。未だかつて、彼ほど善良な市民はなかった。彼ほどその国の静穏を愛したものはなかった。彼ほどその時代の変革と革新とを憎んだものはなかった。彼はその才能を、変化革新をますます助長するためより、それらを終熄させるための具に用いたに違いない。(一の二十八)

さきにモンテーニュは、「賢者はその思想を何ものにも侵されない絶対な自由の中におくけれども、言論や行動の方は常に国家社会への影響を考えた上でする」(一の二十三)と言ったが、彼はそれをこの通り、ラ・ボエシと共に、ラ・ボエシのために、実行しているのである。
* 青山学院大学一般教育部会論集(創刊号)所載論文「Essais の政治性と Montaigne の※(始め二重山括弧、1-1-52)moy※(終わり二重山括弧、1-1-53)について」参照。
** 白水社版『モンテーニュ全集』第一巻、付録一、付録二参照。
 彼がただ書物の中でだけ公民意識を発揮したのでないことは、グリュン(Alphonse Gr※(ダイエレシス付きU小文字)n)からニコライ(Alexandre Nicola※(ダイエレシス付きI小文字))に至るほぼ百年間の伝記的諸研究によって明らかにされているが、ここにただ一つだけ例をあげておこう。モンテーニュの友人で、ラ・フェールの陣で戦死したグラモン伯の夫人は、朝廷では美しきコリザンドとよばれ、その美貌をうたわれた人だが、後にアンリ・ド・ナヴァールの寵愛をうけ、またその賢明な助言者となった。モンテーニュはこの二人の人と、それぞれ別々に、かねてから親しい間柄であったが、両者の間に恋愛関係が生じて後は、特にこの賢明な婦人を通じて、すでにアンリ三世の継承者となっていたアンリ・ド・ナヴァールに対して諸種の政治的献策をしていたようである。リテール(Raymond Ritter)はその『偉大なるコリザンド』(Cette grande Corisande)と題するグラモン夫人伝の中に、未来のアンリ四世の一生のかくれた一こまと共に、モンテーニュの一生の最も美しい場面を明らかにしている。一五八七年秋十月、アンリ・ド・ナヴァールは、クートラの戦いで大勝利をえると、その時戦場でぶんどった敵将ジョワイユーズ公の軍旗を情人コリザンドの膝下にささげようとして急に雲隠れをしたと、従来しばしば語り伝えられているが、リテールによると、ナヴァール王はその時、二日間もわがモンテーニュの城館に泊っているのである**。アンリは一体何のためにモンテーニュ邸を訪れたのか。結局国王アンリ三世との間の調停を彼に依頼するためであったと思われる。その時ナヴァール王が、更にその戦果を拡大してアンリ三世の軍を潰滅させ、フランス国王の権威をおとすことを避けたのは、やがて王位を継承すべき身として最も賢明な出方であり、おそらく日頃のモンテーニュの持論を思い出したからであろう。モンテーニュはその頃烈しい疝痛に苦しんでいたが、どうしてじっとしていられよう。悪路をはるばるギュイエンヌ州の片田舎から首都パリまで馬をとばしたのであった。これが、もっぱらエゴイストと評判されるモンテーニュの真の姿であったことを、忘れるわけにはゆかない。
* Raymond Ritter: Cette grande Corisande, 1936, A. Michel, Paris.
** このことは、モンテーニュの「家事録」の中に、彼自身によって明記されている。拙著『モンテーニュ伝』参照。
 ――個人主義とは結局、「人は人、自分は自分」ということだと考えれば、モンテーニュもその私生活、内面生活においては、たしかに立派に個に徹した人であった。しかし公民としての生活においては必ずしもそうではなかった。必要な場合には、病を押し生命をしてもあえて行うという、信念のもとに行動した人であった。ここでもわたしは、物ごとを論断することのむつかしさを、しみじみと思う。そしてモンテーニュの言った、「わたしには、人間の恒常性を信じることが何よりもむつかしく、かえってその不常性の方が容易に信じられるのである。人間を細部において(c)個々別々に(b)判断するひとこそ、最もしばしば真実を言いあてるであろう」(二の一)という言葉の意味の深さにうたれるのである。





底本:「モンテーニュ随想録」国書刊行会
   2014(平成26)年2月28日初版第1刷発行
底本の親本:「随想録」新潮社
   1970(昭和45)年1月30日発行
入力:戸部松実
校正:大久保ゆう、雪森、富田晶子
2018年12月27日作成
2019年7月16日修正
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