ゴリオ爺さん

Le Pere Goriot

バルザック Honore de Balzac

中島英之訳




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偉大にして高名なジョフロワ=サン=ティレールに献ぐ
その業績と天才への私の歎賞の証として
ド・バルザック


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一 ある下宿館


 ヴォーケ夫人、ド・コンフラン家の生まれの老婦人で、四十年来パリのネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通[1]で賄い付きの下宿をしっかりと営んできた。そこはカルチェ・ラタンとフォーブール・サンマルソーの中間にあった。この下宿はメゾン・ヴォーケの名で知られ、老若男女を問わず等しく受け入れてきた。誹謗中傷がこの立派な施設の品性を傷つける様なことは一度もなかった。その一方で、ここでは三十年来、若い女性の姿はついぞ見かけられなかったし、若者で長く居ついた者もなかったので、ここの住人達はおのずから、この下宿の雰囲気を寂しげなものにしてしまっていた。とはいえ、この物語が始まった一八一九年のことだが、貧しい若い女性も一人、下宿人の中に混じっていた。悲劇が全盛の現代文学では、物語の中で過剰な、あるいは、乱暴な言葉が濫用され過ぎるとの不評をこうむる作品が多いが、私もここでは不評覚悟で、そうした手法を用いる必要がある。この物語は写実的言葉による展開の盛り上がりによるのではなく、衝撃の結末によって、恐らくパリ城壁の内外で人々の涙を誘うことができるだろう。私が敢えて使うこの手法は、しかし、パリ以外でも理解されるだろうか? 疑問は残るが。さてこの物語の舞台となる場所をあれこれと観察し固有色を用いて説明しても、せいぜいモンマルトルの丘からモンルージュの丘に至る辺りの住人くらいにしか共感を得られないだろう。まるで谷間のようなこの地域ときたら、壁土はいつ崩れてもおかしくないし、溝は泥で真っ黒な色をしている。この谷間は本当に苦しみに満ち、喜びはしばしば間違いだったりする。そして恐ろしく差し迫った用事があるのだと言い立てても、感覚が麻痺したようなこの地では新たな興奮を呼び起こすのは容易ではない。しかしながらこの地域では、ここかしこに悲しみが満ち溢れているため、悪徳と美徳の密集地帯が巨大で崇高な存在になっている。想像を絶する惨状に、人々の利己主義や打算も一時停止して、しばらくは同情を寄せることもあろう。しかし、人々が最初に抱いた印象すら、美味しい果実のようにたちまちむさぼり食われて、跡形もなく消えてしまうのがおちなのだ。インドのクリシュナ神像を載せた山車と同じように、パリの華やかな文明を積んだ戦車は、人を踏み潰すことをためらい、しばし停車することはあっても、結局は弱者を粉砕しつつ栄光へ向かって前進を続けるのだ。読者諸兄よ、貴方は戦車に乗る人なのだろうか? そう貴方、この本を真っ白い手に取って、深々とした肱掛椅子に沈みこんで、貴方は言うのです。こいつは面白そうだな、ってね。ゴリオ爺さんの不幸せな秘話を読んだ後、旺盛な食欲で夕食を済ませ、貴方の感覚の鈍さを作家のせいにし、大袈裟な表現に罰金をかけ、詩情を欠くという点で作家を非難する。あー! 察してくれたまえ。このドラマは作り話ではなく小説でもないのです。総て実話で真に迫っているので、誰もが自分の中に、恐らくその心の中に、作中人物の分身を見出すにちがいないのです。
 賄い付き下宿として運営されているこの館はヴォーケ夫人が所有していた。館はネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りの低地にあったが、この場所がラルバレート通り辺りから急な荒れた坂を下った所になるので、馬がここを上がったり下がったりすることは余りなかった。この環境はヴァル・ド・グラスの丸屋根とパンテオンの丸屋根に挟まれた窮屈なこの通りを支配する静けさをもたらしていた。二つの記念碑的丸屋根は近辺に黄ばんだ色を投げかけ、また丸天井は厳しい色調の意匠が凝らされ、全体を暗く包み込むことによって、すっかり周辺の雰囲気を変えてしまっていた。その辺りは、舗道は乾き、溝には泥もなければ水もなく、草は壁の高さにまで伸びている。最も楽天的な人間もここでは他の通行人同様に悲しくなり、馬車の音がここでは騒ぎとなり、家々は軒並み陰鬱で、城壁もまるで牢獄のように感じられる。もしパリっ子がここで道に迷ったとしたら、目にするのは高級下宿屋か学校、悲惨さか倦怠感、老人が死にかけているか、あるいは陽気な若者が仕方なく働いているか、そんな光景だけだろう。パリのどの区域だって、ここほどひどいところはないし、はっきり言って一番知られていない場所なのだ。ネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通は至る所、まるで鈍色の空気に浸ったような街だし、この物語にぴったりはまる唯一の場所なのだ。ここにセピア・カラーや深遠な思想をどんなに一生懸命ほどこしたところで、知性を溢れさせるのはなかなか難しい。ここでは日の光が段々と衰え、案内人の声も妙に空しくこだますので、初めての旅行者はまさにあのカタコンベ[2]に降りてゆく気分にさえなってしまう。そうだ、こんな比較はどうだろうか! ひからびた心臓、それとも、空洞となった頭、貴方にとって見て恐ろしいのはどちらだろう? 私に教えてくれ給え。
 この下宿の正面は小さな庭に面している一方、建物とネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通とは直角をなすかたちとなっていて、館の裏側断面を通から眺めることが出来た。正面入り口の前面に六フィート幅の砂利の空間があり、それと庭に挟まれて砂利の通路が走っていた。通路の脇にはゼラニウム、夾竹桃や柘榴が植わった青や白の陶器の大鉢が並んでいる。この通路には中門を通って入るのだが、その上には表札が掲げられていて、〈メゾン・ヴォーケ〉と書かれ、更にその下には、〈賄い付き高級下宿、男女その他歓迎〉とも書かれている。日中はけたたましく鳴る呼び鈴が取り付けられた透かし戸を通してメゾン・ヴォーケの外に目をやると、道路の反対側にカプチン病院[3]が見え、近所に住む芸術家によって緑の大理石に愛をテーマにした絵が描かれたアーケードを見ることが出来る。引っ込みの奥には絵と着想を同じくしたキューピッドの彫像が立っている。そこに釉薬の剥がれたあとを見ると、象徴好きの者は、パリジャンの愛の神話、業病からの何がしかの回復といった物語を連想するのだった。彫刻の台座の下部には半ば消えかけた記銘があり、それはある時代、パリに入ったヴォルテールの情熱がほとばしるのを見ることが出来たあの一七七七年時代を想起させた。
人なべて知れ
汝の主はキューピッドぞ
彼は主なり かつて主なりき
なお主たるべし
 夜になると透かしが閉じられて見透しは遮られる。小庭は建物正面の幅と同じくらい奥行きがあり、道路の壁と隣家との共同壁に囲まれ、共同壁にはキズタが外套のように生い茂っていたので、隣家は完全に隠されていた。その様はパリの絵画的情景として通行人の目を引いていた。それぞれの壁は果樹棚や葡萄棚に遮られていて、そこで実るひょろ長くて埃っぽい果実はヴォーケ夫人とその下宿人達との会話で毎年関心を集める主題なのである。長い城壁は狭い散歩道に沿って菩提樹の木陰にまで続いている。コンフラン家出のヴォーケ夫人は菩提樹ティユル(tilleul)のことを住人から文法的に注意されたにもかかわらず、あくまでもティユーユ(tieuille)と発音していた。二本の側道の間に朝鮮アザミの四角い花壇があって、その横には紡錐形に刈り込んだ果樹があり、更にまた、カンポ、レタス、あるいはパセリが周りに植わっていた。菩提樹の木陰には緑色の丸テーブルが置かれ、周りは椅子が取り囲んでいた。そこでは、酷暑の日には、会食者達は遠慮なくコーヒーを飲めるのをいいことに、卵を孵えしてしまうような暑さの中を、それを賞味しにやってくるのだった。建物正面は四階からなり、二重勾配屋根を載せていた。そして小さな切り石と塗装でもって、パリのほぼ総ての家屋に卑しい性格を与えているあの黄色い色を施していた。各階に付いている五つの窓には小さな窓ガラスがはまっていて鎧戸が付いている。そのどれもがまちまちに上げ下げされていたので横の線が相互に調和しない印象を与えていた。この家の一階の奥の方には窓が二つあって、装飾的な鉄格子が付いている。建物の裏には約二〇フィートの長さの庭があり、そこに豚、雌鳥、兎などが仲良く暮らしていて、その端っこには倉庫があって材木がしまわれていた。倉庫と台所の窓の間には食糧貯蔵箱が置かれていたが、その下には台所の流しから出た脂染みた水がこぼれ落ちているのだった。この裏庭はネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りに向けて狭い戸口があって、料理女はその汚い場所から悪臭を消すために大量の水を使って、家中のごみを外へ追い出していた。
 当然、高級下宿としての発展を目指して、一階にはいわゆる最高の部屋を備えていた。その部屋は道路側の二つの窓のおかげで明るく、両開きのフランス・ドアから入れるようになっていた。この広間は食堂に通じていて、更に食堂と台所に挟まって階段室があった。木と化粧板の階段の塗装は一部剥げ落ちていた。さて先に述べた最高の広間だが、そこの家具の肱掛椅子や椅子がくすんだ色と輝く色が代わる代わる縞をなしている植物繊維の材料で出来ているのを見ることほど物悲しいものはない。中央にはサンタネ大理石の上に丸テーブルがあって、白い陶磁がこの喫茶室を飾っていたが、今では館内至る所に見られるように、少量の金の縁取りは半ば剥げ落ちているのだった。この部屋はとてもまずく床板が張られたり、内壁面の上方の漆喰もうまく塗られたとは言えない状態だった。館内には仕切り壁が一杯あったが、それらは“テレマック”[4]の主要場面を絵に描いた紙で覆われていたが、そこには古典文学の登場人物が色とりどりに描かれていた。網を張ったガラスの入り口のパネルには、ユリシーズの息子を饗応するカリュプソ[5]を描いた絵が下宿人達の目を引くようになっている。四十年来この絵は若い下宿人達のふざけ気分を刺激してきた。彼らは自身を嘲弄しながらも自分はこの場所にいるよりも優れた人間であると考えるのだったが、貧しさのためにここで夕食をとることを余儀なくされているのだった。石造りの暖炉の前で、この館の人たちは大きな行事でもない限り、火の燃えようが適度なものかどうかをいつも調べていた。模造の古びて閉じ込められたような花でいっぱいの花瓶が二つ飾られ、更に趣味の悪いことに青味がかった大理石の置時計も側に置かれていた。この最高位の部屋は言葉では言えない一種の香りを放っていて、それは下宿屋の香りとでも言うべきものだった。それはこもった様な、カビが生えたような、古びた悪臭の様な匂いだった。それは寒々とさせ、鼻には湿っぽく、服の中にまで染みとおる。そこはかつては皆で夕食をとっていた広間だったという気配が残っている。しかし、そこは仕事場にも事務所にもなり得る部屋でもあるのだ。もしも感冒やその類の病の初期、あるいはもう吐き気を催すほどに進行した時期に、ここの下宿人達、若い者もいれば老人もいたが、が、それぞれに吐き出す病原菌の量を測定する装置が発明されていたとしたら、恐らくこの部屋のひどさが如実に示されたに違いない。ところがである! ありきたりの嫌悪がこの部屋から感じられるのだが、もし貴方がこの部屋を隣接している食堂と比べてみたとしよう。貴方はこの広間をまるで閨房の様に優雅で芳香に満ちていると感じるに違いない。食堂は全部板張りで、かつて何色で塗られていたのか、今では見分けがつかなくなっていたが、その塗装の上には何層もの汚れが染み付いて奇妙な模様を描いている。前面には油染みた食器が並んでいて、その上には切れ込みの深いくすんだ色の水差し、金属の波型模様の入った丸い容れ物があり、縁取りが青くトルネ産の分厚い陶器皿が積み重ねられている。一隅には番号の付いた仕切りのある箱が置かれ、そこには各下宿人のしみが付いたり、あるいはワイン色に染まったりしたナプキンを保管するようになっていた。この手の不滅の家具、至るところで廃棄されつつあるのだが、それがここでは病院における文明の遺跡といった風情で残っているのに出会うのだ。貴方はそこに雨の日にはカプテン僧人形が飛び出す仕掛けの晴雨計や全くひどい完全に食欲を失わしめるような版画が黒いニスにわずかな金をあしらった額縁に収まっているのを目にする。銅版画をはめ込んだ鼈甲色の縁飾りの付いた掛け時計。緑色のストーブ、埃が脂とくっついているアルガン製のキンケ灯、ひどく脂染みた防水布のカバーをかけた長いテーブルは、医学生等が食事をする時だけここを利用できるように登録するという独自の方法をとっている。どこかが欠けた椅子、アフリカハネガヤ製の粗悪品だが衰えを見せず今日ではよく使われている小さな玄関マット、そして木材が焦げてしまう限度調整に失敗して穴が開いているのが惨めたらしい行火。ここの家具がいかに古くて、ひびが入り、腐って、ぐらぐらして、蝕まれていて、障害があって、片目で、使い物にならなくて、期限切れであるかを説明するためには、この物語への興味を大いにそぐ様な叙述が必要だろうけれども、誰もがそれはもう沢山だ、要らないと言い張ることだろう。赤い化粧板はこすれたり色が付いたりして出来た谷でいっぱいになっていた。ついにはそこも詩情のない惨めさだけが支配していた。それは倹約家の内向的な擦り切れた服の惨めさだった。たとえそれがいまだ汚濁というほどでないにしても、しみはいっぱいあった。たとえそれが破れたり、襤褸切れになったりしていなくとも、やがては腐敗し崩れてゆくことだろう。
 この部屋は朝七時頃が一番輝いて見え、ヴォーケ夫人の猫が夫人の先に立って入ってくる。猫は食器棚に飛び乗ると棚の上に載った幾つかの椀に入ったミルクを嗅ぎ、朝のおねだりを始める。やがて寡婦が姿を現す。ヴェール付きの縁なし帽の異様な姿で、其の下には不恰好なかつらの一部が垂れ下がって、彼女はスリッパを引きずって顔をしかめて歩いていた。彼女の顔は年寄り染みて、ぽっちゃりしていて、その真ん中にオウムの嘴のような鼻が突き出していた。むっちりした小さな手をした彼女の姿は教会の鼠の様に丸々として、彼女のブラウスは大きめに作っていたので、だぶだぶで、この部屋がかもし出す不運、あるいは実りなき山っ気などに良く釣り合っていた。そしてヴォーケ夫人はひどく臭いこの部屋の空気を吐き気を催すこともなく吸い込むのだった。秋になると彼女の姿は初霜のように生き生きとなり、彼女の目は皺が寄っていて、そこには踊り子が作る微笑があったと思えば、手形割引業者の苦々しいしかめっ面に表情が移り変わるのだった。つまりは、彼女の容姿は総てこの下宿屋を説明しているのであり、それはあたかもこの下宿屋が彼女という人物を内包しているのと同じようなことなのである。徒刑場と看守は切り離せない、貴方は一方を他方から離しては想像も出来ない。この小柄な女性の肥満した青白さはさながらチフスが病院の発する臭気の結果であるように、彼女の人生が生み出したものだ。彼女のウール織りのペチコートは彼女のお気に入りのスカートからはみ出していた。そのスカートは昔作った服と対になっていたのだが、服の材料に亀裂が入って出来た裂け目から綿が少し顔を出していた。この服が広間や食堂や小庭の概略を語り、料理を知らせ、下宿人達のことを想像させてくれる。彼女さえそこにいれば、ここの光景は完璧になる。年齢五十がらみのヴォーケ夫人は、過去に数々の不運に出会ったことのある女性の総てと共通したものを持っている。彼女はどんよりした目を持っていて、女を最高に高く売りつけるために声を荒げてしまうやり手婆にあるような無邪気さを持っていたが、しかし、自分の境遇を和らげるためなら何だってする女性だった。もし大革命期の王党派で逃亡を続けていたジャルジュあるいはピシュグリョ[6]に彼女が遭遇したとしよう。彼等がやり手婆の商売を密告しようなどとする前に、彼女の方からお先に彼らのことを密告してやるくらいの気構えを彼女は持っていた。とはいえ、彼女は根は良い人だと下宿人達は言っていた。彼等は彼女が愚痴をこぼしたり咳払いしているのを聞いて、彼等と同様に資産のない人だと考えていた。夫のヴォーケ氏とはどんな人だったのだろうか? 彼女は故人については決して語ろうとしなかった。彼はどうして財産を失ったのだろうか? 不運なことがあったと彼女は答えている。彼は彼女に対して素行が悪かった。ひたすら彼女を泣かせるばかりで、この家は生きるために、そしていかなる不運にも同情しないでもよいという権利を彼女に残してくれた。何故なら、と彼女は言う、彼女はこの世で味わうべき不幸という不幸を嘗め尽くしたからである。女家主がちょこちょこと歩く音を聞くと、太っちょの料理女のシルヴィは下宿居住者用の朝食を急いで準備するのだった。
 一般に外部から食事に来る人は夕食のみ契約するのが普通で、それは月三十フランで出来る。この物語が始まった頃、ここの居住者は七人だった。二階にはこの下宿で最高の二つのアパルトマンがあった。ヴォーケ夫人は言うまでもなくその一つに住み、もう一つにはクチュール夫人がいた。彼女はフランス共和国軍の出納役員の寡婦だった。彼女はとても若い女性を一緒に住まわせていて、ヴィクトリーヌ・タイユフェールという名のその娘の母親代わりの役目を果たしていた。この二人の婦人の下宿代は一八〇〇フランに達していた。三階の二つのアパルトマンの一つにはポワレという老人が住み、もう一つには四十歳がらみの年輩の男が住み、その男は黒いかつらをかぶり、もみあげを染めていた。昔は卸商だったというこの男はヴォートランと名乗っていた。四階は四つの部屋があり、その中の二部屋の一つはミショノー嬢というハイミスが借りていた。もう一つには昔麺類の製造業者だったが、いつしかゴリオ爺さんと呼ばれている人が住んでいた。残りの二部屋は言ってみれば渡り鳥向け――ここの学生のように、ゴリオ爺さんやミショノー嬢のように食事代と寝室代のために月々四十五フランしか支払うことが出来ない、そういう人向け――の部屋なのである。しかしヴォ-ケ夫人はそういう人達の存在を余り望まず、もっとましな人がいない時に仕方なく彼等を受け入れているだけなのだった。彼等はパンを食べ過ぎるのだ。ちょうどこの頃、この二部屋のうちの一つは、法律を学ぶためにアングレーム近郊からパリに出てきた一人の若者に賃貸されていた。彼の大家族は彼に年間一二〇〇フランの仕送りをするために長く続く節約を余儀なくされていた。ウージェーヌ・ド・ラスチニャック、彼はそのように名乗っていたが、彼は恵まれない境遇故に逆にあらゆる事物に鍛えられ、若くして親達が自分に寄せる期待を理解し、そして学問で身に付く自分の能力の限界を早くも計算しつつ、社会から真っ先に金銭を搾り取るべく、社会の将来の動きに前もって適応しつつ、良き将来のために準備を怠らないといった、そんな風な若者だった。彼の好奇心旺盛な観察眼、あるいは彼がそれでもってパリのサロンに登場したといわれるところの抜け目のなさ、それらがなければ、この物語は精彩を欠く事になったことだろう。疑いもなく彼の鋭敏な精神と状況の不可解さを何としても解明したいという彼の意志が物語に迫真性を与える力となっている。謎はそれを耐え忍んでいる人によってではなく、それを作り出した人々によって入念に隠されていたのだった。
 四階の上に屋根裏の物置があって、拡張されたところに屋根裏部屋が二部屋あり、クリストフという若い雑役夫と賄い婦で太っちょのシルヴィが寝泊りしていた。七人の下宿居住者の他にヴォーケ夫人は法学部か医学部の学生を平均して八人、そして同じ居住区の住人の二、三人と夕食のみを提供する契約を交わしていた。食堂は夕食時には十八人を収容するが、二十人が坐ることも可能だった。しかし朝は七人の下宿人しかいないので、朝食で皆が集まっていると、家族の食事のような光景が見られるのであった。各人は気楽に降りてきて、人の服装や外見の様子、そして前日の夜に起こったことについて遠慮なく秘かに考察する。そして打ち解けた間柄であるという自信があって、それぞれが思いのままにおしゃべりをするのだった。この七人の下宿人はヴォーケ夫人に甘やかされた子供だった。彼女は天文学者の正確さで下宿代の値段によって彼等に心遣いや保護を少しずつ配分していた。たまたま一つ屋根の下に暮らすことになった雑多な人々が一人の夫人の配慮をありがたく頂いていたというわけである。二階の二人の婦人は毎月一人宛て七十二フランを払うだけだった。この安い下宿代はフォーブール・サンマルセル街なら産院のラ・ブルスや婦人老人ホームのラ・サルペトリエールくらいでしか見られない安さだが、クチュール夫人はそれについて一つの例外を作った、いわく、大なり小なり明白な不幸に会った女性なら、この安い家賃の恩恵を受ける資格があると。
 この下宿屋の内装に見られる嘆かわしい光景は、ここの住人の服装にも見られ同じように荒れ果てた印象を与えるのだった。男達は既にもとの色が分からないようなフロックコートを着て、どこかの街角の隅に転がっていたのを拾ってきたような靴を履き、下着は擦り切れ、心だけは宿っているといった風の服を着ていた。女性達は色あせたり、染め直したり、色落ちしたり、あるいは古いレースを繕ったりした服を着て、使い込んで光沢の出た手袋、すっかり褐色がかってきた襟飾り、そして擦り切れたネッカチーフをつけていた。服装がこんな状態だったので、ほぼ全員が頑丈でがっちりした体格に見え、いかにも人生の嵐と闘ってきたつくりで、その顔は冷淡で厳しく、それでいて、まるで通用停止となったエキュ銀貨のように存在感が薄かった。色褪せた口は貪欲な歯によって武装されていた。ここの下宿人達はすでに終わった劇、あるいは現在進行中の劇を推測させる。しかし、その劇はフットライトに照らされ、絵画の中に描かれたような劇ではなく、生々しくもまた無言の劇、凍りついた劇でありながら心を熱く動かし、なおも続いている劇なのである。
 ハイミスのミショノーは彼女の疲れた目をかばって、緑のタフタの汚らしいサンバイザーを着けていたが、それにくっついている真鍮の輪を見れば、天使も哀れさを感じながら遠のいてしまうように思われた。彼女の縁の細い哀れげなショールは彼女の角張った骨格の、その形のみならず、気難しい性格をも覆い隠しているように見えた。いかなる辛酸がこの娘から女らしい姿態を剥ぎ取ったのだろう? 彼女は綺麗でスタイルが良かったことが分かるのだが、それを奪ったのは悪徳、悲しみ、金銭欲のせい? 彼女は深く愛されすぎた事があったのか、化粧品販売の女だったのか、あるいは何のことはない、娼婦だったのか? 彼女はこれ見よがしの若さで勝ち誇ったことへの償いをしているのだろうか? かつて、その若さには多くの楽しみが押し寄せたものだが、いまや通行人が鼻も引っ掛けない老境に達してしまったのだ。彼女の無表情な視線は人に冷たい印象を与え、しなびて縮んだ姿は人に不安を抱かせる。彼女の声は甲高くて、冬が近づくのに茂みの中で鳴き立てる蝉の声を思わせた。彼女は膀胱カタルに罹っていたある老人の面倒を看てあげていたことがあると言っていた。その老人は子供達から一文無しと思われて見捨てられていたのだ。情熱の作用によって彼女の姿が痛めつけられたとはいえ、まだ確かに生地の白さと繊細さの名残はあって、それを見るといまだ彼女の体にはいくらかの美が保存されていると考えることは可能なのだ。
 ポワレ氏は一種の機械だった。彼が植物園の庭の小道に沿って長い薄い影のように伸びているのをふと見た時、頭には古びた柔らかいひさし帽を被って、手には象牙細工の黄色い丸い杖の柄を握り締め、ほとんどむき出しのキュロットと青い靴下を履いたまるで酔っ払いのようにふらつく足を上手く隠せないまま、フロックコートの裾をだらりとさせ、薄汚れたチョッキや太くて縮み上がったモスリンの胸飾りも、七面鳥を思わせる彼の首を絞めているネクタイといまいちしっくりと合っていない。だから大抵の人はまさかこの影絵のような人物が、かつてはイタリア大通を蝶のように飛び回り、ヤペテの息子、プロメテウスの大胆不敵な血をひく人種[7]に属していようとはと、不思議に思うのだった。どういう作用が彼をこんなにぺしゃんこにすることが出来たのだろう? どんな情熱が、戯画化され、真実とは思えないような球根のような彼の顔を錆色にしてしまったのだろう? 彼に何があったのか? しかし恐らく彼は法務省に雇われていて、彼がいた事務所では高級官僚達が費用明細、親殺しのための黒いヴェールの調達、籠に詰めるおがくず、ナイフのための紐などの勘定書きを発送したりしていたことだろう。恐らく彼は殺害現場の戸口で受付をしていたか、公衆衛生の下級検査官だったのだろう。要するに、この男は我々の社会の巨大な歯車の中で間抜けな役回りを演じてきたと思われ、自分を散々利用してきた相手が誰だかにさえ気づかない、よくいる頓馬なパリジャンで、どの回転軸が、不運とか世の汚物の方向に人を向かわせるのかも勿論分からない。結局こういう男を見ると我々は次のように言うのだ。『まあ彼のような人間もいないと困るんだ』美しいパリは道義的な、あるいは肉体的な苦痛で真っ青になっているこの人物には気づかない。しかしパリは真に大海なのだ。その深さを測ってみ給え、貴方は決してどれほど深いのかを知ることは出来ない。それにざっと目を通したり、それを描写したり出来るものだろうか? 貴方がそれをざっと見て描写するために、いかに細心の注意を払ったとしてもである。この海の探険家がどんなにたくさんいて好奇心に燃えていたとしても、そこでは常に処女地、未知の洞穴、花々、真珠、怪物、前代未聞の事物、文学の世界に飛び込んだ者にすら忘れ去られた物に新たに出っくわすようになっている。メゾン・ヴォーケはその奇妙で醜悪なものの一つなのだ。
 ここに二人の人物がいて、下宿人や常連の大多数の目に対照的な印象を与えている。ヴィクトリーヌ・タイユフェール嬢は病的に色白で若い女性に多い慢性的貧血症に悩まされているように見え、いつも物憂げにしていたり窮屈そうな物腰や貧相でやせっぽちの雰囲気が醸し出す彼女の情景の根底に、一般的にあるような患いを彼女が患っているのではないかと想像されるのだった。それにもかかわらず彼女の顔は老けてはいなくて、彼女の動作も声も活発だった。この若い女の不運なところは小低木が葉の黄色になる時に土壌の合わない所に植え替えられたようなものだった。彼女の顔色は赤褐色、髪はライオンを思わせるブロンド、彼女の細過ぎるほどの胴は現代の詩人が中世の彫刻に見出すような優美さを表現していた。彼女の黒味がかった灰色の目は穏やかさとクリスチャンらしい忍従を表していた。彼女の服装は簡素で安物だったが、若々しい姿態を隠せなかった。書き並べてみると、彼女は結構素敵だということになる。幸いなことに彼女は元々見る人をうっとりさせるような美少女だった。幸福は女の詩であって、女の装いにおける紅白粉のようなものである。もし舞踏会の楽しさが、この青白い顔にばら色の輝きを与え、優雅な人生の穏やかさに満ちて、既に少しこけてきた彼女の頬がまた朱色に染まり、もし愛が彼女の悲しげな目に生気をよみがえらせるならば、ヴィクトリーヌはどんなに綺麗な若い娘とでも張り合うことが出来るだろう。ただ彼女にはもう一度女として生まれ変わらせてくれるものがなかった、おしゃれ用品とか恋文とか。彼女の来歴を辿れば一冊の本の主題を提供してくれるだろう。彼女の父は彼女を認知しない理由があると考え、彼女をそばで暮らさせることを拒絶した。そして年に六〇〇フランしか彼女には与えず、自分の財産をいじって、その全てを息子に相続させるように変えてしまった。彼女の母は彼女のことで絶望して亡くなってしまったが、その遠い親類に当たるクチュール夫人はこの孤児を引き取って、自分の子供のように面倒を看ていたが、残念ながら共和国軍会計委員の寡婦には寡婦資産と年金くらいしか財産がなかった。彼女はいつだって、この哀れな娘を経験もなく資金もないままで世間に放り出して、そのなすがままに任せることも出来たはずだ。善良な夫人はヴィクトリーヌを日曜ごとにミサに、毎月十五日には懺悔に連れて行った。万一のことを考え、この娘を敬虔な女性に育てておこうとしたのだ。彼女がそう考えたのはもっともなことだ。敬虔な気持ちはこの認知されなかった子にある種の将来性を付与し、彼女は父を愛し、毎年のように父を訪れて彼女の母から許しを請う言葉を父にに伝えようと思っていた。しかし彼女は毎年のように父の家の情け容赦もなく閉じられた戸口にぶつかってしまうのだった。彼女の兄は彼女にとって唯一の仲裁者たり得た肉親だったが、この四年間に唯の一度も彼女に会いに来なかった。そして彼女にとっては何の救いももたらされなかった。彼女は父の目を開かせてくれるように、そして彼女の兄の心を動かしてくれるように神に懇願し、彼等を非難することもなく、彼等のために祈りをささげた。クチュール夫人とヴォーケ夫人はこの残酷な振る舞いを形容するのに十分な罵詈雑言を辞書の中にも見出せなかった。彼女達がこの恥知らずな百万長者を呪っている時、ヴィクトリーヌの優しい言葉が聞こえてきた。それは傷ついた森鳩が悲しさであると同時に愛であるところの歌を歌うに似ていた。
 ウージェーヌ・ド・ラスチニャックはいかにも南フランス的な顔の持ち主で、色が白く、髪は黒く、目は青い彼の外観、物腰、習慣的な姿勢は貴族の家の息子であることを示していたが、初等教育がもたらしたものは伝統的な趣味の良さだけだということも分かるのだった。たとえ彼が衣服を大切に扱っていて、普通の日には一年前に買った服を着たまま過ごしてしまうにしても、時にはうって変わって優雅な若者らしい姿で外出することが出来るのだった。普段の彼は古いフロックコートに、粗悪なチョッキ、安物の黒くて色褪せ、学生っぽく下手な結び方をしたネクタイ、それ相応のズボン、そして靴底を張り替えたブーツを履いていた。
 二人の若い男女の登場人物やその他の下宿人の中間の階にヴォートランがいた。彼は四十歳がらみの男で、染めたもみ上げは彼が経てきた年月を感じさせた。彼は人々が一般に次のように言う、そんなタイプの人物だった。『ほらあれが例の男なんだ』彼は広い肩、よく発達した胸板、盛り上がった筋肉、分厚く角張り毛むくじゃらの指が目立つ手を持ち、愛想の良い赤褐色の顔をしていた。彼の容貌は年の割には早く皺が刻まれ、柔軟で人付き合いの良い彼の物腰とは矛盾する冷酷さがそこにうかがわれた。彼の程よい低音は彼の磊落さに上手く調和して決して不快感を与えなかった。彼は愛想が良くて陽気だった。もしどこかの錠が故障したとすると、彼はそれを造作なく取り外して、ありあわせのもので修理し油を注し磨きをかけ再び取り付け、なんだかんだ喋りながら、そんなことをやってしまうのだった。こんなのは良く知ってるんだよとか何とか喋るわけだ。第一に彼は何だって知っていた。船、海、フランス、外国、事業、人間、事件、法律、豪邸、そして牢獄のことまで。もし誰かがひどく嘆いているのを見ると、彼は直ぐに助けを申し出るのだった。彼はヴォーケ夫人や下宿人の誰それに何度か金を貸してやった。しかし彼の恩義を受けた人は、彼にそれを返さないくらいなら、むしろ死んだ方がましだと思ったことだろう。善良そうな様子にもかかわらず、それほどまでに彼の正確に見通す様な、そして断固とした態度に満ちた視線は人に恐れを抱かせた。彼はぺっと唾を吐くことによって、危機に面しても曖昧な態度をとることを避け、決してたじろがない平然とした冷静さを示すのだった。まるで厳しい裁判官のように、彼の目は全ての疑問、全ての良心、全ての感情の奥底まで見通してしまうように思われた。彼の習慣は朝食後外出し、夕食のために戻ってくる、いつもパーティのためにまたいなくなる、そして真夜中くらいに帰宅する、その時は、彼を信頼しているヴォーケ夫人から与えられた合鍵を使うといった具合になっていた。この優遇は彼だけが享受していた。しかもそれだけではなく、彼が未亡人と一番気が合っている時などは、少しお世辞気味に彼女の胴体を抱えるようにして、ママンと呼びかけたりするのだった!この善良な女は彼のこの仕草を何でもないことと考えていたが、実のところヴォートランだけが十分に手が長いので、この重っ苦しい胴体に腕を回すことが出来たのだ。彼の性格の特徴を表しているのは、食後のデザートにしていたグローリアというブランデー入りのコーヒーの分として、気前よく月々十五フランを支払っていたことだった。パリジャンの生活の渦巻きに押し流されている例の若者ほどには軽薄でない人々、あるいは、自分達には直接関係のないことには無関心な老人達は、ヴォートランが彼等に胡散臭い印象を与えたとしても気に留めなかった。彼は周囲の人々の仕事のことを知っているか、推測するくらいは出来ていたが、一方で誰も彼の考えとか仕事のことに立ち入ることは出来なかった。彼は他の人々と自分との間にうわべの人の好さ、いつもの愛想の好さや陽気さを障壁のように置いているのだが、彼の性格のぞっとさせるような深みをしばしば人に垣間見させておくようなところもあった。彼の洒落はしばしばローマの腐敗を痛烈に風刺したユウェナリス[8]に匹敵し、彼はその警句を発することで、法律をないがしろにしたり上流社会を烈しく叩いたり、上流社会の内部矛盾を認めさせたりすることに楽しみを見出しているように思われたが、彼はむしろ、彼がこの国の社会に恨みを抱いているように、そして彼の人生の奥底には何か秘密めいたものが念入りに隠されているものと、人には勝手に考えるに任せていた。
 多分自分では意識しないで、一方の力強さ、あるいは他方のハンサムにひかれて、タイユフェール嬢はこの四十男と若い学生を盗み見たり、ちょっと考えてみたりすることでは適当に割り振っていた。しかし彼等二人とも彼女のことに気づいてはいないようだった。ところが、ある偶然の出来事が彼女の立場を変え、たちまち彼女は金持ちの結婚相手になってしまった。第一にこの手の人々の間では、自分たちのうちの誰かが不運な目に会ったと言ったところで、それが嘘か本当かをわざわざ確かめるために骨を折る者はいないのだ。全てのことには原因と結果がある。ある種の無関心には個々の立場によって生じた疎外感が入り混じっている。彼らの立場では他者の苦痛を和らげる力がないことを自ら知っていて、だから誰もが、せめて弔辞の区切りまではと、へとへとになりながらも我慢して聞いているのだ。よく似たことに、年寄り夫婦の仲ではもう何も話すことなんかない。彼らの間にまだ残っているのは機械的な生活と油を注していない歯車一式の報告くらいのものだ。誰もが盲人が坐っている前の道路をそ知らぬ顔で真っ直ぐに通り過ぎる。不運な身の上話は感動もなく聞く。そして惨めさという問題の解決は死によって達成されると悟るのだが、この悟りが彼等を最も恐ろしい断末魔の苦しみに対しても冷淡にしてしまうのだ。この荒涼とした魂の中で一番幸福だったのはヴォーケ夫人で、この気兼ねのない養護ホームの女王として君臨していた。あの小庭は彼女一人のためにあって、その静けさと冷気、乾気と湿気の大きいことはまるで大草原のようで、快い小さな森のようだった。彼女にとってのみ、この黄色の陰気な館が、その帳場の黴臭さすら、無上の喜びだった。そこの物置も彼女のものだった。彼女はいつも苦労して捕らえた徒刑囚を養ってやっていたが、彼女の威光に対して敬意を払うように要求もしていた。そしてここの貧しい人々は、ここはパリで、彼女の提示した価格で、健康にも良く十分な食事を与えられ、それぞれが主であるアパルトマンを借り受け、優雅で快適とまでは言わないまでも、少なくともまずまず健康的な住居だと思っているのではないだろうか? 彼女が目に余る不正をしたとしても、ここの被害者は文句も言わず、彼女を支持したことだろう。
 ここで何か集まりがあると、当然そこには社会の縮図が現出されるように思われ、事実その様相を呈するのだった。十八人の食卓仲間の中に、どこの学校にも、またどんな社会にもいるような哀れな鼻つまみ者の人間がいた。そのなぶり者に向かって、からかいの言葉が雨のように浴びせられるのだった。二年目の始めに、この人物はウージェーヌ・ド・ラスチニャックにとって、これから更に二年間一緒に過ごさざるを得ないここの人々の中にあって、際立った存在となっていた。この被害者はかつてのイタリア麺製造業者ゴリオ爺さんだった。もし絵描きに筆を持たせたら、この物語の作者同様、彼は絵の中の光を総てこの製麺業者の頭上に降り注がせたことだろう。何かの偶然で軽蔑が半分くらい憎しみになり、哀れみが非難と入り混じり、不運の側面には目もくれずといったことが合わさって、一番年寄りの下宿人を彼等皆で叩きのめすことになったのだろうか? 一体どういう些細なこと、あるいは奇妙なことがあって、人はそれを大目に見て許してみたり、道徳的に許せないとみなしたりするのだろうか? この質問は身近な例の中に社会的不公平を首尾よく指摘している。恐らく自然な人間性に鑑みれば、彼は真に謙虚であったり、自分が弱々しく、冷淡に扱われる故にひどく苦しんでいるのだから、皆で支えてやらなければならない人なのだ。ところが、我々は誰かを、あるいは何かを笑いものにすることで我々の力を証明することがとても好きなのではないのだろうか?凍るような寒さであればあるほど、いたずら小僧は全ての家の戸のベルを鳴らしてみようとしたり、あるいは自分の名前を新しい記念碑に書き込むために背伸びをしたりするものなのだ。
 ゴリオ爺さんは六十九歳になろうかという老人で、職を辞した後、一八一三年にヴォーケ夫人のもとに隠遁してきたのだった。彼は最初に現在クチュール夫人が使っているアパルトマンに入り、入居した当初一二〇〇フランの賃貸料を払っていた。五ルイくらい多かろうと少なかろうと大した問題ではないというような男だったのである。ヴォーケ夫人はこのアパルトマンの三部屋を、家具代の支払いを保証した事前契約によって一新することが出来た。噂では購入された家具は安物で、黄色いキャラコのカーテン、ニス塗りの木をユトレヒトのビロードで被った肱掛椅子、何枚かの難解な絵、場末のキャバレーでも引き取らないような壁紙などから成っていた。恐らく細かいことは気にしない気前の良さから、ゴリオ爺さんは騙されるままになっていたのだろうけれど、その頃の彼は尊敬の念をこめて『ゴリオさん』と呼ばれていた。彼女は彼のことを実務には全く疎いお馬鹿さんくらいに考えていた。ゴリオは衣服が揃っている洋服ダンスを備えていた。その立派な衣類一式は彼が事業から身を引いた時、この卸業者は自分のためになら、幾らでも金を使っていたことをうかがわせた。ヴォーケ夫人はドミオランダ(高級麻布)の十八枚のシャツに感嘆したものだった。しかもそのシャツの高級感は製麺業者がシャツの胸飾りに小さな鎖でつながった二つのピンを無造作に付けていて、しかもそのピンのいずれにも大きなダイヤモンドが嵌め込まれていたので、一段と引き立っていた。普段、彼は明るい青い服を着て、白い木綿のシャツは毎日取り替えていたが、その下で洋梨状に突き出た彼の腹部が揺れ動いて小さな飾りの付いた金の鎖を弾ませるのだった。彼の嗅ぎ煙草入れはやはり金製だったが、中に髪の毛の入ったロケットが入っていて、何か幸運を授かったことと関係があるような趣をそれに与えていた。女家主が彼の女性に対する親切過ぎる点を非難した時も、彼は唇の上に陽気な金持ちらしい微笑を浮かべながら、過失を直すこともなかったし、皆も彼の好きに任せていた。彼の部屋の壁に固定された棚には彼の家事用の銀器がいっぱい置かれていた。寡婦が親切にも荷解きと整頓を手伝ってあげた時、大匙、シチュー用スプーン、テーブルセット、食卓用小瓶、ソース注し、何枚もの皿、鮮紅色のモーニングカップ、そして程度の差はあるが綺麗でかなりの重さになる単品の食器類があって、彼はそれらを処分しようとしないのだった。寡婦の目はこれらの品々を見て輝いているようだった。この品々は彼に家庭生活の崇高さを思い出させた。
「これがねー」彼は一枚の皿と小さな丼鉢を手にとって、ヴォーケ夫人に言ったものだ。その蓋には羽づくろいをする二羽の雉鳩が描かれていた。「私の妻が初めて私にプレゼントしてくれたものなんだ。結婚記念日だったよ、健気な女だった! 彼女は独身時代からの貯金をはたいて買ってくれたんだ。分かってもらえるかね、奥さん? 私はこれを手放すくらいなら、いっそ人の金をちょろまかしてやるよ。ま、その必要もないさ! 私はこのカップにコーヒーを入れて、残りの人生で毎朝味わうことが出来るんだ。私は人から同情されるような身の上じゃあない、私は長年十分に仕事を抱えて稼いできたんだ」
 とうとうヴォーケ夫人はその詮索好きな目でもって、五執政官時代の台帳登録[9]から何となく足し算してみたところ、この素敵なゴリオは大体八千から一万フランの年金収入があるということが分かった。この日を境にコンフラン出のヴォーケ夫人もまた実際は四十八歳のところを、三十九歳としか認めていなかったのだが、どうも考えるところが色々出てきたようだった。ゴリオの目頭の辺りが、きわめて頻繁にそこを拭っているにもかかわらず、変な具合に腫れぼったいことがあっても、彼女は彼のことを感じの良い申し分のない人だと思っていた。第一に彼の肉付きの良い目立ったふくらはぎは彼のがっしりした高い鼻と同様に道徳的に高い性格を感じさせ、それが未亡人を惹きつけ、なおかつ丸くて青白い顔や愚直そうなところが善人であることを確信させた。それはつまり、彼はがっしりした体格の小父さんで、感覚的には惜しみなく機知も見せてくれるということで心身ともに言うことなしの人ということになるのだった。彼の髪は鳩の翼状態だったので、理工科大学の理髪師が毎朝来て、彼の額に先端を五つに分けて垂らすように試みたりして綺麗に整えていた。少し粗野だが、彼はとても隙のない服装をして、金持ち然として煙草を取り、彼がそれを吸い込む様は今日も高級煙草のマクバをいっぱい詰めた嗅ぎ煙草入れを持つことに揺るがぬ自信を持った男そのものだった。だからゴリオ氏が彼女のところに身を落ち着けたその日、ヴォーケ夫人は夜寝る時、まるで薄皮に包まれてあぶり焼きにされるヤマウズラのように身を焦がす思いがした。ヴォーケの名のもとで死ぬよりもゴリオとして生まれ変わりたいという炎のような希望が彼女を虜にしたのだった。彼と結婚し、この下宿屋を売り払い、あの申し分のない資産家と腕を組み合って、町内で名高い貴婦人になり、その辺の貧乏人のために募金活動をし、選ばれた夜会のメンバーや紳士達とは日曜日に小さなパーティを催す。好きな時に芝居に行く、それも桟敷席で。これまでのように下宿人のある者が七月になると彼女にくれていた物書き用の入場券を待つこともない。彼女はパリジェンヌの小さな家政にとっては全く黄金卿のようなことを夢見ていた。彼女はそれまで彼女にはちびちび溜めた金を寄せると四万フランも持っていることを誰にも明かしたことはなかった。彼女は財産面から言って、ゴリオと自分は釣り合う仲間だと確かに考えていた。
「いずれにしたって、私にはいい人がほしいわ!」彼女はベッドに向かって歩きながら一人ごちていた。それはまるであの太っちょのシルヴィが毎朝空しく求めている魅力的な姿を自分自身には保証して見せるといわんばかりであった。
 その日から、およそ三ヶ月間くらい、ヴォーケ未亡人はゴリオ氏の理髪師に取り入って、化粧品のためにかなりの出費をしたが、彼女の館も立派な人が立ち寄るようになると、それにふさわしいある種の礼儀は尽くさなければならないということをその理由にしていた。彼女は彼女のところの下宿人の人的階層を変えてしまおうと深く企んで、今後はあらゆる面で最高に立派な人物でないと受け入れないと高らかに宣言した。外部の人が来ると、彼女はあのパリで一番有名で一番尊敬すべき卸商のゴリオ氏が彼女にそれと認めたような好みを褒めそやした。彼女は頭の中で次のような内容のパンフレットを配ることを考えていた。〈メゾン・ヴォーケ、これこそは最も歴史のある、そして評価の高いラテン区の市民のための下宿館です。ここにはゴブラン谷の快い眺めがあり、当館四階からご覧になれます。そして美しい庭園の小道を行けば菩提樹の木陰に至るのです〉彼女はそれを何となく良い雰囲気で、しかも静寂さに満ちた調子で語るのだった。このパンフレットを見て彼女を訪ねてきたのはランベルメニル伯爵夫人だったが、この三十六歳の婦人は戦場で亡くなった将校の未亡人として、恩給の支給や支払いについての手続きの完了を待っているところだった。ヴォーケ夫人は彼女の食事に気を遣い、客間では六ヶ月近く暖炉の火をおこし続けることさえしていた。そしてパンフレットに書いた約束は非常に良く守ったので、約束したことは進んで実行した。更に伯爵夫人はヴォーケ夫人を親愛な友よと呼びつつこんなことも言った。それは彼女の友人であるところのヴォーメルラン男爵夫人と陸軍大佐ピカソ伯爵の未亡人を紹介してあげようというのだった。この二人はメゾン・ヴォーケに住むよりもっと高くつくマレー地区の高級下宿で晩年を終えようとしているというのだ。この婦人達はまず何と言っても陸軍省が最後まで彼女たちの面等を看てくれるので気楽に過ごせるのだ。「だけどね、お役所だって結局のところ面倒見切れないのよ」と彼女は言うのだった。
 伯爵未亡人は夕食の後、ヴォーケ夫人に誘われて女家主の部屋にやってきて、そこで軽いおしゃべりをして、スグリ酒も頂き、女家主が自分のためにおいていた砂糖菓子も食べた。ランベルメニル夫人は女家主のゴリオに対する見解に大いに同意を示し、女家主の卓越した見解は最初に会ったその日から直ぐに理解できたこと、彼女も彼のことを完璧な男だと考えていることを明かした。
「あーら! 貴女も! 彼は私の目のように澄み切った若々しさを保っていて、そのくせ経験を積んだ人妻でも楽しませてくれるものを持ってるんだわ」女家主は伯爵未亡人に言った。
 伯爵夫人はヴォーケ夫人の服装は本人の思い上がりに調和しないものだと思ったが、それは大目に見てやった。
「貴女は臨戦態勢を整えなきゃならないわ」彼女が言った。
 大分思案した後、二人の未亡人は連れ立ってパレロワイヤルへ行き、庭園内にあるブティック“ギャルリ・ド・ボワ”で羽飾り付き帽子と縁なし帽子を一点ずつ買った。ランベルメニル伯爵夫人は友人を“ラ・プティト・ジョネット”という店へ連れて行き、そこで彼女たちは服とマフラーを一点ずつ選んだ。これだけ弾薬を仕込み、ヴォーケ夫人の軍備が整ってみると、彼女の姿はなぜか完全にレストラン”ブフアラモード”[10]の看板を連想させた。彼女は自身としては最高に上手く変身出来たと思ったが、その時、ランベルメニル伯爵夫人のことを忘れていたことに気づいた。それで、彼女は余り気前の良い方ではなかったが、伯爵夫人に二十フランの帽子を受け取ってくれるように頼んだ。実のところ彼女は伯爵夫人にゴリオの意向を調べる役目を頼んでいて、やがてはゴリオの傍らの部屋に住むことを希望していた。ランベルメニル夫人はこの件に関して、とても親切に準備し、老製麺業者の人となりをはっきりさせた上に、彼女は彼と会って協議することまで成功させた。しかし会ってみて、彼が極端にはにかみ屋で、特に彼女の夫伯爵にならないかという誘いを始めとした彼女自身の希望による企てに対して否定的であることが分かった。そして彼の無作法さには、彼女が憤慨して部屋を出てしまった。
「奥さん」彼女は親愛な友に向かって言った。「貴女はあの男からは何も期待できないわよ! 彼は馬鹿みたいに疑り深いのよ。あれはしみったれで下品で馬鹿、貴女には不愉快な話しか出来ないやつだわ」
 ゴリオ氏とランベルメニル伯爵夫人との間にあったものは、伯爵夫人にとっては、彼と同席することすら堪らないというほどの深い溝だった。翌日、彼女は六ヶ月分の下宿代を払い忘れたまま出て行ってしまった。後にはせいぜい五フランにしかならないような古着が一着放りっぱなしになっていた。ヴォーケ夫人は必死になって行方を捜したが、ランベルメニル伯爵夫人についてのいかなる消息も、パリでは得る事が出来なかった。彼女はこの嘆かわしい事件について、しばしば話していたが、自分の余りにも信じやすい性格を嘆いて見せるのだが、実のところ、彼女は疑り深い雌猫なんかより遥かに疑り深い人間だったのだ。しかし彼女は側近に対しては疑り深いくせに、初対面の誰彼に胸中を打ち明けてしまうという、あの多くの人達のタイプの人であったように思われる。人の精神作用はこのように奇妙なものだが、それが真実なのだ。その根拠を人の心の中に見つけ出すのは簡単だ。恐らく共に暮らしている人達の目には、付き合ったところで何も得るものがない人間のように見える人物が多いものなのだろう。彼等は自分の魂の空虚を隣人にさらしてしまった後、隣人から厳しい価値判断をされてしまったことを秘かに感じ取る。しかし、彼等には周囲からは得られないおべっかが、どうしようもなく必要なように感じられ、あるいは、彼らが持っていない特性を持っているかのように見せたいという欲望に駆られてと言ってもいいだろうが、彼等が一日にして手に入れたものを失うかも知れない危険を冒しても、彼等にとっての外部の人間から尊敬を騙し取るか、それとも、心を奪うか、そのようなことを彼等は期待してしまうのだ! 要するに、この種の人たちは友人とか近親者に恩義があっても、どういう訳か欲得ずくで、冷たい態度を取る事が多い。一方、見知らぬ人から受けた奉仕に御返しをする段になると、彼等は一生懸命に相手に報いようとする、何故ならその時、彼等は自尊心まで満足させることが出来るからなのである。お互いの愛情の範囲が狭ければ狭いほど、愛情は益々薄くなる。付き合いの範囲が拡大すればするほど、彼等は逆に良く世話を焼くようになるものだ。ヴォーケ夫人は疑いもなく、この二つの本性を身に付けていた。すなわち本質的に狭量で見掛け倒し、極言すれば、ひどい性格と言う他はない。
「もし私がその場にいたら」彼女にその話を聞いたヴォートランが言った。「そんな災難が貴女に降りかかることはなかったのに! 私が貴女の周りにこんな法螺吹き女が近づかないように、いつだって眺め回してあげたんだがなあ。私はこういう連中の顔は見れば分かるんだ」
 狭量な人の常として、ヴォーケ夫人は事件のことを繰り返し語る習慣をやめなかった、そしてそれらの原因をいつまでも探ろうともしなかった。彼女は自分の潔癖さから他人を非難することが好きだった。この災難があってから、彼女はあの正直者の製麺業者のことを彼女の不運の原因とみなすようになり、その時以来――彼女は語ったものだ――彼に関しては迷いから目が覚めたのだった。彼女は媚態を作ったり特別交際費を出したりすることが何にもならないと分かると、直ちにこうなったことの理由を言い当てた。彼女はこうして彼女のところの下宿人は既に、彼女の表現によれば、彼らの生活スタイルが出来ていることに気づいた。結局、ゴリオは彼女の彼に対する期待があんなにも健気に空想的に胸の内に秘められていたにもかかわらず、この方面のことには目利きらしい伯爵夫人の自信たっぷりの言葉によれば、あの手の男からはヴォーケ夫人はからっきし得るものがないだろうということだった。彼女はそれだから、かつてのような友情を抱いて近づくことはなくなったというよりも、今ではもう彼を嫌悪して遠ざかってしまったのだった。彼女の憎しみの理由は愛情が絡んだものではなく、彼女の期待が裏切られたことによるものだった。もし人の心が愛情の高みに上ってゆく途上で心の平安を持つことが出来るなら、その心が急に憎悪の感情に凝り固まるようなことは余りない。しかしゴリオ氏は彼女の下宿人だったので、未亡人は傷つけられた自尊心の爆発をとりあえず抑え、ここで味わった失望が引き起こす溜息も我慢し、復讐してやりたいという彼女の欲望を欲しいままにすることも出来なかった。まるで小さな修道院の院長に自尊心を傷つけられても我慢している修道士のようなものだった。心の狭い人は、良かれ悪しかれ、絶え間なく起こる些事によって、どうやら満足を得ているものだ。未亡人は女将特有の悪意を利用して、標的にされた人間に有無を言わせず迫害を仕掛けた。彼女はまず彼女の下宿に余計なものを付け加えるのを削除した。
「更にピクルス、更にアンチョビまで付けるなんて。こんなのは、やり過ぎだわ!」彼女は元の献立に戻すことにした日の朝、シルヴィに言ったものだ。
 ゴリオ氏は食事に関してつましい男だった。彼にあっては、一代で財をなした人間に不可欠の吝嗇がそのまま習慣化していた。彼はスープ、茹で肉、一皿の野菜という取り合わせを一度食して以来、ずっとそれがお気に入りの夕食となってしまった。ヴォーケ夫人にとって、その頃はまだこの下宿人を悩ませることは難しいことで、彼の好みと衝突することなどは全然出来ない相談だった。攻撃するわけにもゆかない男と顔を合わさなければならないことに絶望的気分になってしまった彼女は、彼の評判を落とすことを始めた。そして彼女は同時にゴリオに対する嫌悪感を他の下宿人達にも共有させるように仕向けた。彼等は面白がって彼女の復讐の手伝いをした。その最初の年の暮れ頃になると、未亡人の彼に対する不信感は極度に高まり、この卸商は七〜八千リーヴルもの年金を貰う金持で、立派な銀食器のセットや妾の若い女に劣らぬくらい美しい宝石類を沢山持っているのに、どうして彼女の下宿なんかに住みついているんだろうかという疑問を抱くようになっていた。彼の財産を考えると、彼女に支払う賃貸料なんてずいぶんと少ないものだがと、彼女は自問自答していた。この最初の年、ほぼ年間を通じて、ゴリオは週のうち一日か二日くらいは外で夕食をとっていた。それがいつの間にか、彼が町で夕食をしてくるのはせいぜい月に二回くらいになっていた。下宿人達の小さな集団はゴリオ氏のことには敏感で、ヴォーケ夫人の利害にとても良く調子を合わせることが出来た。というのは下宿人が彼女のところで食事をするための時間帯の設定が次第に煩雑になってくる事に彼女が不満を抱くのではないかと彼等は気が気ではなかったのだ。彼の夕食の微妙な変化は、女家主に刃向かってやろうという意志があるうえに、彼の財産が徐々に減り始めたせいでもあろうと想像された。この小人国魂の実に忌まわしい習慣は自分達と同じ小人国根性を他者の中にまで想定してしまうところにあった。悪いことに、二年目の終わりに、ゴリオ氏は彼が噂話の的にされてきたことを正当化してしまった。彼はヴォーケ夫人に三階に移転することを願い出たうえに、賃貸料も九百フランに下げてくれるように頼んだのだった。彼はとても厳しい経済的必要に迫られていて、冬季でももはや彼の部屋では暖を取らなくなっていた。ヴォーケ夫人は賃貸料の前払いを希望した。ゴリオ氏はそれに同意したが、彼女はその時以来、彼のことをゴリオ爺さんと呼ぶことに決めた。このことは彼の凋落のまさに原因となったのだ。詳しく検証するのは難しい!
 確かに偽伯爵夫人が言っていたように、ゴリオ爺さんは陰険で口数の少ない男だった。頭が空っぽの人、つまり本当に明け透けで何でも口に出して言ってしまうような人の理論に従えば、自分の仕事について語らない人達というのは、何か良くない事をやっているものなのだそうだ。かつてはあれほど上品だったこの卸商はいまや詐欺師で、女性に慇懃に振舞っていたこの男はもう老い耄れの道化になってしまった。一方で、その頃メゾン・ヴォーケに住むようになったヴォートランの話によると、ゴリオ爺さんは株式市場に出入りしていたのだが、経済用語でよく使われる表現を借りるならば、彼はそこで破綻してしまった。そこで彼は誰か鴨を見つけては金をもっぱら『かすめとって』いたらしい。また時には、彼は一晩かかって一〇フランを思いきって賭けたり、すってみたりする、あのみみっちい博打好きの男なんだといわれ、.またある時は彼が警察の上部と通じるスパイだという人もいた。しかしヴォートランは、そこまでやるほどあの爺さんはひどく悪いとは言えないと主張した。ゴリオ爺さんは、そうは言っても、先の見通しの利かないけちんぼで、宝くじでは大もうけを狙って同じ番号ばかり買う、その手の男だとも言われた。人々はありとある悪事、不名誉、無力さをまったくわけの分からぬ理由をつけて彼の上に被せた。ただし、いかなる下劣さが彼の振る舞い、あるいは悪癖の中にあったにせよ、彼を嫌う気持ちが彼を追い出すまでには至らなかった。何と言っても、彼は下宿代を払っていたのだから。それに、彼女の機嫌が良かったり悪かったりする度に彼を冗談の種にしたり、時にはどんと叩いてみたりして、気分を発散するうえで、彼の存在はなかなか重宝でもあった。もっともらしくて皆に受け入れられる意見はヴォーケ夫人からのものだった。彼女の言うところによれば、とても若々しくて、見るからに健康的で、それでいてその男と一緒にいるととても楽しい思いが出来るというような男は、たいがい変態趣味の放蕩者だということだった。彼女が人を中傷する基準は大体こんなところにあったのだ。彼女の苦い経験によって六ヶ月間は記憶に残ったあの疫病神の伯爵夫人が去ってから何ヶ月か過ぎたある日の朝、彼女はまだ寝ていたが、階段の方からさらさらと衣擦れの音がするのが聞こえ、若くて軽やかな女のものと思われる可愛い足音がゴリオの部屋の方へ急ぐ様子だった。そしてゴリオの部屋のドアは心得たように開かれていた。直ぐにでぶのシルヴィが女将のところへ来て、堅気の女にしては綺麗過ぎる女が、まるで女神のような身なりで現れたと告げた。女は泥も付いていないプリュネル[11]の編み上げ靴を履き、まるで鰻の様に道路から彼女の台所へ忍び入っていて、ゴリオ氏のアパルトマンはどこかと尋ねた。
 ヴォーケ夫人と料理女は漏れてくる声を聞き取ろうと耳をそばだてた。そのかいあって、この訪問中にいかにも優しげに発せられた幾つかの言葉は捉えることが出来た。この訪問はかなり時間がかかった。ゴリオ氏がお相手の婦人を連れ出すのを見て、でぶのシルヴィは直ぐに買い物籠をひっ掴んで、買い物に出かける振りをして、恋のカップルの後をつけた。
 帰ってくると彼女は女主人に言った。「奥様、ゴリオ氏って、なんとまあ金持ちですよ。皆に話題にされるだけのことはありますよ。まあちょっと想像してみてください、奥様、レストラパド通り[12]の隅っこに、素晴らしく綺麗な馬車が止まっていて、彼女はそれに乗って行ったんですよ」
 夕食の時、ヴォーケ夫人はカーテンを引くために立って、太陽の光がゴリオの目にまぶしく当たって、彼が不快な思いをすることのないように気遣った。
「貴方は別嬪さんに愛されておいでなのね、ゴリオさん、太陽まで貴方を追っかけてますよ。癪にさわるったら! でも趣味の良いこと! 彼女ってとても綺麗ね」彼女は彼が受けた訪問に言及して言った。
「あれは私の娘ですよ」彼はある種の誇りをにじませながら言ったが、下宿人達は老人が表面には出さないものの、内に秘めたうぬぼれがあるのを見抜いては楽しんでいた。
 この訪問から一ヶ月経って、ゴリオ氏はまたしてもこの女性の訪問を受けた。彼の娘は初めて来た時、朝の化粧で現れたが、今回は夕食後に来て、しかもこれから社交界へ向かうような身なりをしていた。下宿人達は広間で話し込んでいる最中だったので、彼女の美しい金髪、細い胴をじっくり眺めることが出来た。彼女は優雅で、ゴリオ爺さんの娘というには余りにも美し過ぎるとさえ思われた。
「二人目が来るなんて!」でぶのシルヴィが言った。彼女は前回と同じ女性であると見分けることが出来なかったのだ。
 更に何日か経って、また別の女性しかも背が高くて綺麗で、褐色の肌、黒髪に活き活きとした目を持った女性がゴリオ氏を訪ねて来た。
「三人目だわ!」シルヴィが言った。
 この第二の女性は初めての訪問だったが、やはり朝方に彼女の父に会いに来たと言っていたが、何日か後には、夕方に舞踏会に行くような化粧をして馬車でやってきた。
「また、四人目だわ!」ヴォーケ夫人とでぶのシルヴィが言ったが、この二人はこの背の高い婦人の中に彼女が最初の訪問をした朝に残したあどけない娘の面影は少しも見出すことが出来なかった。
 ゴリオはまだ下宿代として一二〇〇フランを払い続けていた。ヴォーケ夫人は極く自然に、金持ちの男は四人あるいは五人くらいの愛人を持っていて、どういうわけか、そういう男は皆同じように愛人を自分の娘だと言って通してしまうのが実に上手なのだと考えていた。彼女は彼が愛人達をメゾン・ヴォーケに呼び寄せることには一向にかまわなかった。唯、この訪問が彼女に対して払うべき敬意について、下宿人であるこの男が如何に無関心であるかを彼女に知らしめることになった。そこでこの男が住み始めて二年目の始めから、彼女は彼のことをドラ猫爺と呼び始めた。とうとう彼が支払う下宿代が九〇〇フランに下がった時、彼女は例の女性の一人が降りてくるのを見ながら彼に向かって横柄そのものの態度で、彼女のメゾンに対してあんたは一体何をする積もりだと問いただした。ゴリオ爺さんは彼女に、あの女性は彼の長女だと答えた。
「貴方には二十六人も娘だという女性がいるの?」ヴォーケ夫人が辛辣に言った。
「私には娘が二人いるだけですよ」下宿人は以前と同じことを物静かに繰り返したが、いかにも惨めさが与える従順さそのものによって、彼の物腰は落ちぶれた男に相応しい態度となっていた。
三年目が終わろうとする頃、ゴリオ爺さんは四階に上がって、月々の下宿代が四十五フランの部屋に移ることによって、更に出費を切り詰めた。彼は煙草をやめ、鬘師を解雇し、髪粉を塗らなくなった。ゴリオ爺さんが、初めて髪粉を塗らないで現れた時、女家主は彼の髪の色に気がついて、思わず驚きの声を漏らした。それは黴のような薄汚れた緑がかっていた。彼の顔つきは人知れぬ心配事のために、知らぬ間に日々悲しげになっていって、食卓を囲む人達の中で、誰よりも悲嘆に暮れた様子になってしまっていた。もはや何の疑いもなかった。ゴリオ爺さんは年老いた放蕩者で、彼の目は、例の病気なのに熟練した医者の治療を受けず、勝手な薬を使ったために悪くなったのに違いなかった。彼の髪の不快な色も、放蕩とやはり使い続けていた例の薬の影響が出たものだった。爺さんの肉体的、精神的状態が、このいい加減な噂をありそうなことと認めさせた。彼の下着類一式が擦り切れた時、彼はそれまでの素晴らしい麻の下着の代わりにする積りだったのか、安物の木綿の布を買い求めていた。彼のダイヤモンド、金製の煙草入れ、鎖、宝石が一つずつ消えていった。彼はまた紺青の礼服をはじめ豪華な衣類をすべて手放し、その結果、夏も冬もごわごわした栗色のフロックコート、山羊皮のチョッキ、それと羊毛を編んだ灰色のズボンを着通すことになってしまった。彼は見る間に痩せ衰えていった。ふくらはぎの肉が落ちた。彼の体型は、恵まれた資産階級の満足感で、ふっくらとしていたが、痩せて皺くちゃに萎んでしまった。彼の額に皺がより、顎の輪郭がはっきり出てきた。彼がネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通に定住して四年目に入ると、彼はすっかり人が変わってしまった。この善良な六十二歳の製麺業者はかつては四十歳にもなっていないように見え、太って脂ぎった金持ちで、野獣のように元気で、その陽気な物腰は通りすがりの人まで楽しい気分にさせ、その微笑には何ともいえぬ若々しさを感じさせたものだが、それが今では七十歳くらいのぼんやりした、頼りなげな、青白い男になってしまった。彼の青い目はとても活き活きしていたものだが、それも生気のない情もない色に変わってしまったので、すっかり色褪せて、もう涙を流すこともなさそうに見えた。目の縁の赤いのが、まるで血の涙を流したように見えた。ある者は彼をむごたらしく感じ、またある者は彼のことを憐れんだ。医学部の若い学生は、彼の下唇がたるんできたのに気づいて、彼の顔の頂点とそこを結ぶ角度を測ったうえで、彼はクレチン病に侵されているという診断を下した。その際その学生は診察のためゴリオに長時間の苦痛を強いたが、治療を施す意図は最初からなかった。ある夕方、夕食が終わってから、ヴォーケ夫人はいかにも嘲笑的な口調で彼に言ったものだ。「さてさて彼女達、この頃はさっぱり貴方の顔を見においでじゃないわね、どうしたの、娘さん達?」彼が父親であることに疑惑をかけられたゴリオ爺さんは、女家主にまるで鉄棒を突っ込まれたような具合にびくっとした。
「娘達は何度も来てますよ」彼は動揺した声で答えた。
「あー! あー! 貴方っていまだに彼女達としょっちゅう会ってるんだ!」学生達が叫んだ。「ヴラヴォー、ゴリオ爺さん!」
 しかし老人は自分の応答が彼等に言わせた冗談を聞いてはいなかった。彼はまた何か物思いに沈んでいる風で、これをうわべだけ観察した学生達は老人の呆けたような反応を捉えて、それを彼の知性の欠如のせいにした。もし彼等が彼のことを良く知っていたら、彼にこのような肉体的、精神的状態をもたらせた問題に恐らく大いに興味を抱いたに違いない。しかし、彼等がそういう方向に動くほど難しいことはないのだ。ゴリオが本当に製麺業者だったのか、あるいは彼の財産の数字はどれほど大きかったのかを知ることはそれほど難しくはなかっただろうが、もっぱら彼の財産に対して好奇心を掻き立てられた年寄り連中はこの界隈から出てゆこうとしなかったし、まるで岩にしがみついた牡蠣のように、この下宿の中に住みついていた。その他の人々となると、ひとたびネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通から出ると、花の都パリの熱気が、彼等がいつも馬鹿にしている哀れな老人のことなど忘れさせた。この偏狭な頭の持ち主達にとって、またこの無頓着な若者達にとっても、ゴリオ爺さんのお粗末な情けない有様や痴呆染みた物腰は、どう見ても、何らかの財産や能力といったものとは両立し得ないことのように思われた。彼が自分の娘だと言い張る女性達については、誰も彼も、ヴォーケ夫人の意見に賛成していた。彼女は、年配の婦人達が夜会の間中おしゃべりに夢中になっていると、いつもそこへ到達するのが習慣となっている厳しい理論を背景にして言ったものだ。
「たとえゴリオ爺さんが、あのうちへ会いに来た女性達が揃いも揃って豪華に見えたけど、それほどに金持ちの娘を持っているにしても、どうしてうちの下宿になんかいるんだろ、しかも四階にだよ、月に四十五フランの下宿代払ってさ、だったら貧乏ったらしい服装でいるわけないじゃないの」
 この帰納法を否定出来る者は全然いなかった。更に一八一九年の十一月が終わる頃、それはこのドラマに一大転機が訪れた時期でもあったのだが、この下宿の誰もが哀れな老人に対して、ある種の固定観念を持って、じっと眺めていたのだった。彼には娘なんていなかったし、妻だっていなかったはずだ。悪い遊びに耽り過ぎた結果が、彼をナメクジというか、人間の形をした軟体動物にしてしまった。さしずめ、軟体動物科の帽子属に分類したらよいでしょうなと、食事客の常連であった博物館職員が言った。同じ帽子属でも、ポワレはゴリオに比べると、まるで鷲の様で紳士だった。ポワレは話せるし、理詰めだし、人にはちゃんと答えていた。しかし本当のところはポワレだって、彼が話し、理屈を言い、あるいは答えたりしていても、実質的には何も言ってはいなかったのだ。何故なら、彼には他人が言った言葉を繰り返して言う癖があったのだ。とはいえ、彼は会話を盛り上げる役目を果たし、活気があるし、感性に富んでいるようにも見えた。それに引き換え、ゴリオ爺さんときたら、――これも例の博物館職員が言ったのだが――体温計で彼を測ったところで、ナメクジはいつだって零度という有様だったというのだ。
 ウージェーヌ・ド・ラスチニャックは、優れた若者なら当然心得ているべき精神状態の中にあった、というより、困難に直面した時に、彼の一流の人物としての資質が、その片鱗を見せる状況が迫りつつあったというべきだろう。彼のパリ滞在一年目は、法学部で初年度の学位を取るのに大して勉強することもなかったので、パリ的な物の中で特に視覚的な楽しみを存分に味わうことが出来た。しかしながら、もし彼があらゆる劇場の出し物を知り、パリの迷宮の出口を探り、その効用も知り、言葉を学びそして首都ならではの遊びにも慣れ親しむには、学生にしても十分な時間があるとは言えなかった。それにもっと、良いところや悪いところにも足を踏み入れたかったし、面白そうな授業を受けたり、美術館の財産の明細目録も作りたかった。学生というのはまた下らない事がやけに荘厳なことに思えて情熱を燃やすものなのだ。彼には尊敬する人物がいて、それはコレージュ・ド・フランスの教授だったりする。彼はその教授の授業を聴講するレベルに上がりたくて授業料を払うのだ。彼は上等のネクタイを締めて、オペラコミック座の二階回廊席の婦人達の目を意識して立ち現れる。彼は成功裏にこの儀礼を通過することによって、若木の柔らかい白木質を脱ぎ捨て、人生の地平線を遠くに拡げる。そして最後には社会を構成する人間の階層の重なりを理解するのだ。もしも彼が美しい太陽のもとでシャンゼリゼに並ぶ馬車に感嘆することから出発したとしても、社会機構を学んだ彼はたちまちそれらの馬車を羨むことになっていただろう。
 ウージェーヌは大学入学資格を手紙で知らされ、大学入学資格の権利を手に入れた後、休暇旅行に出たが、その時以来、無意識のうちに、こうした事に対する訓練を積んでいた。彼の子供っぽい幻想、田舎の思想は消え去った。彼の修正された英知、彼の高められた野望は、たとえ家族の中にあっても、彼をして真正面から見据えしめるのは、まさしく家の主たる父親の地位だけだった。彼の父、彼の母、二人の弟、二人の妹、それに年金だけが財産という叔母が一人と、これだけの人々がラスチニャック家の小さな土地に住んでいた。この地所からは、およそ三千フランの年収が見込まれていたが、それこそ不確定要素に頼らざるを得ないような数字で、葡萄に関わる全ての産業の生産活動はそれに支配されていた。にもかわらず、彼は毎年自分のために一二〇〇フランの金をそこから引っ張り出すしかなかったのだった。この絶え間のない困窮は、普段彼の目には入ってこなかったが、彼が小さい頃は自分の二人の妹達のことをひたすら綺麗だと思って見ていたものだが、今や彼女達とパリの女性達との間に横たわる違いに嫌でも気づかされてしまうのだった。パリの女は、彼が夢想していた美を体現化して見せてくれた。同時に、彼の肩にかかる大家族の何とも不安定な未来があり、そこでは細心の注意を払っても極めて貧弱な生産しか得られないことは彼も知っていた。果物の搾りかすで作った彼の家族用の飲み物、最後にここに書きとめられないような多くの事情が彼の出世欲を増大させ、他に抜きん出たいという渇望を彼に植え付けた。彼は大人物に近づくに連れて、自分の手柄になること以外は何もしないことを望むようになっていった。しかし彼の精神は極めて南仏的だった。実行の段になると、彼の決心もまた、大海原でどちらにむけて力をこめるのか、あるいは、どの角度に向けてヨットの帆を膨らませるべきかを知らないあの若者達を捉える躊躇によって横面を張られるのだった。たとえ最初はがむしゃらに仕事に飛び込んでゆくにしても、やがては縁故を作ってゆく必要に駆られて、彼は婦人達が社交界にどれくらいの影響力を持っているのかに注意を払うようになった。そして急に社交界に飛び込んでみようと思い巡らせ始めた。そこで庇護者となる婦人をものにする積りだった。婦人たちが、愛に燃え機知に富んだ若い男で精神や愛が優雅な仕種や若々しい美貌によって際立っているような者に不自由しているようであれば、その女達は喜んで彼のものになるのではないのか? このような考えが野原の真ん中で彼を襲った。かつては妹達と陽気に散歩した所だったが、妹達は彼がずいぶん昔とは違ってきたことに気づいていた。彼の叔母のマルシャック婦人はかつて宮廷に仕えていたことがあり、そこで権勢を持っている貴族を何人か知っていた。突然、若い野心家は叔母が実にしばしば彼に話していたことを思い出した。それは社会を支配する多くの動機の一要素として、少なくとも彼をそそのかして高等法律大学を志望させるまでに重要な働きかけをしたことになる。彼は彼女に親戚筋でこれから関係を強められそうなところはどこかと尋ねた。系統樹を揺さぶってみた後、老婦人が下した評価によると、金持ちの親戚筋で利己主義者達の中にあって、最も甥っ子のために力を貸してくれそうなのはボーセアン子爵夫人で、彼を寄せつけないといったことが一番少なそうだということだった。彼女はこの若い夫人宛に古風な手紙を書き、それをウージェーヌに託した。彼が子爵夫人に対して成功を収められるようなら、また別の親戚にも紹介してあげようと叔母はその時に言った。パリに着いて何日か経ってから、ラスチニャックはボーセアン子爵夫人の家へ叔母の手紙を届けに行った。子爵夫人は翌日の舞踏会に招待してくれることで、それに応じてくれた。
 一八一九年十一月の終頃、この高級下宿の一般的な状況は大体このようになっていた。数日経って、ウージェーヌは、ボーセアン夫人の舞踏会に行った後だったが、夜の二時頃帰って来た。失った時間を取り戻そうと健気な学生はダンスをしながら、朝まで勉強をしようと心に誓っていた。こんなに静かな街角を真夜中に通り抜けて行くのは彼にとって初めてのことだった。というのは、上流社会の絢爛豪華を目の当たりにして、彼は言い知れぬエネルギーの魅力に圧倒されてしまっていた。彼はヴォーケ夫人のところでその日は夕食をとらなかった。で、下宿人達は、彼は翌日の夜明けまでは帰って来ないだろうと考えていた。というのは、これまでにも何度か、彼がプラドーでの学生達のお祭り騒ぎやオデオン[13]での舞踏会から、絹の靴下を泥んこにしたうえ舞踏靴が捻じ曲がったような格好で帰って来たことがあったからだ。入り口の錠をかける前に、クリストフは道路を見るためにドアを開けた。ラスチニャックはこの瞬間ぱっと現れて、彼を伴って自分の部屋まで音を立てずに上がることが出来た。クリストフはこんな便宜をよく図ってくれた。ウージェーヌは服を脱ぎ、スリッパを履き、汚らしいフロックコートを羽織り、暖炉の石炭に火をつけ、すばやく勉強の準備にかかった。クリストフもまた彼の大きな短靴でばたばた歩いて、若者が騒々しく準備する音を掻き消してやった。ウージェーヌは法律の中に飛び込む前にしばらくじっと考え込んでいた。彼はその日、ボーセアン子爵夫人がパリのモード界における女王の一人であること、そして彼女の君臨する屋敷はフォーブール・サン・ジェルマン街[14]にあっても最高に心地良い場所であることを初めて知ったのだ。彼女はそもそも、その名前あるいはその財力からして、貴族社会にあって最高権威者であった。マルシャック叔母のおかげで貧乏学生は、この特別の計らいがどんなに大きなものであるかを知らぬままに、この邸に首尾よく受け入れてもらった。このまばゆいばかりのサロンに入ることを認めてもらったということは貴族階級の免許状を貰ったことを意味していた。彼はこの世の中で一番排他的な世界に登場することによって、どこにでも出入りする権利を獲得したのだった。このまぶしいくらいの集会で子爵夫人とはほとんど言葉を交わすことは出来なかったが、ウージェーヌは、このパーティにひしめくパリの女神の群れの中から、この若者を誰よりも深く愛してくれるであろう婦人を一人見つけ出したような気がして、満ち足りた気分だった。アナスタジー・ド・レストー伯爵夫人は、長身で見栄えが良く、パリで最も美しい胴体の持ち主だといわれていた。ちょっと想像してみたまえ、大きな黒い瞳、素晴らしい腕、見事な細い脚、動きの中の情熱。この婦人を評して、ド・ロンクロール侯爵は、純血種の馬のようだといったものだ。この神経の繊細さは、彼女の良さを少しも傷つけるものではなかった。彼女は豊満で丸みを帯びていて、それでいて太り過ぎだとけちをつけられることもなかったのだ。純血種の馬、良血の女性、こうした言い回しは、伊達者達が愛用し始めていて、彼等は、天使とか、アイルランドの詩人オシアン好みの昔の愛に満ちた神話伝説的な表現を使わなくなっていた。しかしラスチニャックにとって、アナスタジー・ド・レストー夫人は、彼が待ち望んでいた女性だった。彼は二回のダンスの彼女のパートナーリストに自分の名前を書き込むことが出来た。最初のコントルダンス[15]の時、彼女に話しかけることが出来た。
「奥さん、今度貴女にお会いするには、どこへ行けばよいのですか?」彼は夫人に強くアピール出来るに違いないと思って、出し抜けに情熱的に言ってみた。
「そうね、森でも、ブフォンでも[16]、私の家でも、どこでも」彼女が答えた。
 そこで、この冒険好きの南フランス人は、いそいそとこの魅力的な伯爵夫人と仲良くなるために、若者として限度いっぱいまで、この女性を独占して踊った。しかし、それはコントルダンス一曲とワルツが一曲だった。その間、彼は、自分がボーセアン夫人の従弟で、この夫人に招待されたこと、そして、この夫人をすごい女性だと思っていること、そして彼女のところに出入りを許されていることを語った。アナスタジーが自分に向かって最後に微笑んだのを見たラスチニャックは、どうしても彼女を訪問しなければいけないと考えた。彼は幸運だったのだが、会った人の中に彼の無知を気に留める人間は一人もいなかった。本来なら肩で風を切る時代の寵児達に混じって、それは致命的な欠点だったのだ。モランクール氏、ロンケロル氏、マクシム・ド・トライユ氏、ド・マルセイ氏、ダジュダ・ピント氏、ヴァンドネス氏等がそこにはいて、それぞれ自己満足の栄光に浸り、そしてまた最高に優美な女性達、すなわち、レディ・ブランドン、ランジェ公爵夫人、ケルガルエ伯爵夫人、セリジー夫人、カリリアーノ伯爵夫人、フェロー伯爵夫人、ランティ夫人、デグルモン侯爵夫人、フィルミアーニ夫人、リストメール侯爵夫人、更には、デスパール侯爵夫人、モーフリニョーズ伯爵夫人、そしてグランリュウ家の女性達のお相手をしていた。ここでまた幸運にも、純朴な学生は偶然モンリヴォー侯爵に出会い、ランジェ公爵夫人[17]の恋人で、子供のように単純なこの将官は、レストー伯爵夫人がエルデ通に住んでいることを彼に教えてくれた。「若くて、上流社会に飢え、女を渇望していて、その自分に向かって、二つの家が門戸を開くのを目にするとは! フォーブール・サンジェルマンのボーセアン子爵夫人の家に足を踏み入れた今、どうしてあの新興勢力が集まる地区ショセ・ダンタン[18]のレストー伯爵夫人の家で、彼女の前に膝をつかずにおこうか! 一連のパリのサロンで、皆の視線の中に飛び込んでやろうじゃないか、で、僕は、自分はとても綺麗な少年だと思っているので、助けてくれたり守ってくれたりする気持ちを抱く女性をきっと見つけ出すぞ! 僕は自分がすごく野心家であることを感じているので、ぴんと張ったロープにだって見事に挑戦して見せてやろう、しかも、僕は決して落ちないという自信にあふれた軽業師として、その上を歩いて渡らねばならない、そして魅惑の女性の胸に、僕の最高の綱渡りを刻み込んでやろうじゃないか!」下宿の部屋に戻り、土くれをかき集めて辛うじて起こした火の傍で、このような取りとめもない考えや気高く着飾った女性の追想に浸り、市民法と貧困の間にありながら、ウージェーヌのように熟考のうちに将来を推し測った者が、あるいは成功への夢で頭の中をいっぱいにした者が他に誰かいただろうか?
 しかし、彼の取りとめもない考えは将来の幸せを激しく欲求していたので、彼はもうレストー夫人が自分の近くにいるような気になっていた。その時だった、まるで大工の聖ヨセフ[19]が出す掛け声にも似た大きな溜息が聞こえた。それは夜の静けさを破り、死にかけている人間のような苦しげな喘ぎを若者の胸に響かせるのだった。彼はそっと戸を開けて廊下に立ったが、その時、ゴリオ爺さんの部屋の戸の下側から一筋の光が漏れ出ているのに気がついた。ウージェーヌは隣室の人が体調でも悪いのかと案じて、目を鍵穴に近づけ部屋の中を覗き込んだ。そして、老人が何かの仕事に没頭している様子が見えたが、なにやらひどく犯罪っぽい印象で、社会に対して尽くす様子には見えず、むしろ夜陰に乗じて自称製麺業者は何か良からぬことを企んでいる様に思われた。ゴリオ爺さんは疑いもなく机の台に張り付いて、金メッキの銀皿とスープ鉢の様な物をひっくり返して置き、豪華な彫刻が施されたこれらの品物の周りをロープで巻いて、地金になるまでに、ものすごい力でねじ切ろうとしているようだった。
「ちくしょう! 何て爺だ!」ラスチニャックは舌打ちしながら、なおも老人の筋肉質の二の腕を見つめていた。老人は例のロープを使って音も立てずに、金メッキされた銀器を小麦粉の生地の様に捏ね回していた。「だが、待てよ、これが泥棒あるいは隠匿行為であるとしよう、が、彼は自分の商売をうんとしっかりするために、馬鹿や弱虫の振りをして、乞食でもして生きてゆこうというんだろうか?」ウージェーヌはそう考えながら立ち上がった。
 学生はもう一度、目を鍵穴にくっつけた。ゴリオ爺さんはロープを解いて銀の塊を掴むと、あらかじめテーブルの上に拡げていた毛布の上にそれを置き、今度はそれを延べ棒のように丸めるため毛布を巻き始めた。そして彼は非常に手際よく作業して仕事を済ませた。
「彼はまた何とヘラクレス並の怪力といわれたポローニャの王アウギュスト[20]のような力持ちじゃないか?」丸めた延べ棒がほとんど作り上げられるのを見て、ラスチニャックは思わずそうつぶやいた。
 ゴリオ爺さんは寂しげに自分の作品を見つめていたが、彼の目から涙が溢れ出た。彼はその明かりのもとで金メッキされた銀器をねじり回していたろうそくを吹き消した。そしてウージェーヌには、溜息をつきながら寝床に入る音が聞こえた。
「やつはきちがいだ」学生はそう思った。
「可哀想な子だ!」ゴリオ爺さんが高い声で言った。
 この言葉を聞いたラスチニャックは、この件に関しては慎重にして沈黙を守ろう、そして無考えに隣人を罰することのないようにしようと思った。彼が部屋に戻った時だった。彼は突然何か訳の分からない物音を聞いた。それは生地の荒い編み上げ靴を履いた何人かの男が階段を登って来る音のようだった。ウージェーヌは耳をそばだてて聞こうとした結果、二人の男の息づかいを交互に聞き分けることが出来た。男達が入った部屋の中からの声も聞こえず、また人の足音もしなかったが、彼はいきなり微かな明かりが三階に灯るのを見た。ヴォートラン氏の部屋だった。
「おや、この高級下宿には、結構、秘密があるんだな!」彼はそう思った。
 彼が階段を数段下りて聞き耳を立てた時、金をジャラジャラさせる音が彼の耳を打った。音もなく戸が開いて二人の男の息づかいがまた聞こえた。そして二人の男が階段を降りてゆくにつれて、次第に物音は小さくなっていった。
「誰かそこにいるの?」ヴォーケ夫人が部屋の窓から叫んだ。
「私ですよ、今帰りました、ヴォーケ・ママ」ヴォートランが太い声で言った。
「変だな! クリストフが錠をかけていたのに」ウージェーヌは自分の部屋に戻りながら、そう思った。このパリで真夜中に起こったことを良く知るためには明日起きてから考えるしかない。
 彼はこの小さな出来事のお陰で、恋への熱烈な思いからさめて、勉強に取り掛かった。しかしゴリオ爺さんに関して、彼のところへ来たのは一体誰だったのかという疑問、更には輝かしい将来を告げる使者のように、彼の前に次から次へと現れるレストー夫人の姿に気が散ってしようがなく、彼はとりあえず寝床に横になった、そして、そのままぐっすりと眠ってしまった。若者が十夜も勉強すると誓ったところで、彼等はそのうちの七夜は眠ってしまうものだ。起きていて勉強するようになるのは二十歳を超えてからだ。
 翌朝パリは深いもやに支配され、それが大きく広がって、すっぽりと辺りを包んでしまったので、誰よりも規則正しい人間ですら時間の感覚を狂わされてしまったにちがいない。仕事の打ち合わせも多くが行き違いとなった。正午の鐘が鳴った時、誰もがまだ八時だと思っていた。既に九時半になっても、ヴォーケ夫人はまだベッドから出てこなかった。クリストフとでぶのシルヴィも遅めに静かにコーヒーを飲んでいた。自分達も下宿人達のために用意された上等のミルクを入れていたので、シルヴィはヴォーケ夫人が不法に一割も高めに費用のかかったコーヒーに気がつかないように、長めの時間をかけてコーヒーを沸かしていた。
「シルヴィ」クリストフが自分の一杯目のコーヒーを入れながら言った。「ヴォートラン氏だけど、彼自身は本当に良い人なんだけど、昨夜は他に二人の男が一緒だったんだ。もし女将がそのことで心配するようなことがあっても、何も言わないで」
「彼から何か貰ってるの?」
「毎月百スー貰ってる。僕にこう言っておく為にね。黙ってろと」
「しみったれていないのは彼ともう一人クチュール夫人くらいで、あとの人達は、お正月でも右手で人にあげた物を、直ぐに左手で取り返そうとするような連中よ」
「それにしたって、連中が何かくれるのか?」クリストフが言った。「みすぼらしい部屋に、百スーの金。この二年は、ゴリオ爺さんときたら、自分の短靴を縫ってるんだぜ。そしてまたけちん坊のポワレだけど、靴墨代を始末してて、古靴にそれを塗るくらいなら、いっそ飲んじまうだって。そしてあの貧乏学生だけど、彼は僕に四十スーくれるんだ。四十スーじゃあ、ブラシも買えない。でもって、今度は僕に彼の古着を売ろうとするんだ。ここはひでえぼろ家だね!」
「でもね!」シルヴィはコーヒーを一杯入れた小さなコップを啜りながら言った。「私達がいるとこは、この辺りじゃ案外良い場所よ。ここにいればいろいろ見られるもの。だけど、例えばごついお父ちゃんのヴォートラン、ねっクリストフ、あんた何か聞いたことあるの?」
「うん、何日か前に道である人にぱったり出会ったことがある。その人が僕に言った。『貴方の所に、がっしりした体格の頬髭が濃くて髪を染めている人なんて、いませんか?』てね、僕はこう言ってやった。『いや旦那さん、うちにいる人は髪は染めてませんよ。とても陽気な人で、髪を染めるような時間はなさそうですよ』てね。僕はこのことをヴォートランさんにも言ったんだ。彼が答えて言うには、『君の答え方は実に上等だ。いいやつだね!いつもその調子で答えといてくれ。自分の弱点を人の目に晒されるくらい嫌なものはないからなあ。それで結婚話が壊れかねないし』」
「おやおや! 私も、市場で、そんな人が上手いこと言って、彼がシャツを脱ぐところを見たかどうかって、私に言わせようとしたのよ。馬鹿々々しいったら! あらっ」
 彼女は話を中断して言った。「ほら十時十五分前だ。ヴァル・ド・グラス陸軍病院の鐘が鳴ってる。まだ誰も起きてこないわ」
「あれ! 彼等はもう出かけてるよ。クチュール夫人と娘さんはサン・テチエンヌ教会[21]での八時からの集会で食事しに行った。ゴリオ爺さんは、何か荷物を持って出かけた。学生さんは十時の授業に行ったけど、帰ってきてない。僕はこの人たちが階段を降りて出て行くのを見たよ。ゴリオ爺さんが持ってるものを見て、僕はびっくりしたよ。それは何だか鉄のように固いものに見えたんだ。一体何してるんだろうね、いい爺さんなのに? 他の連中は彼を散々慰みものにしてるけど、あの人はやっぱりちゃんとした人で、彼等よりずっと値打ちのある人だよ。彼もたいしたものはくれないけど、彼が何度か僕を使いに行かせた所のあの女性達は気前良くチップをくれたし、とても綺麗な服装をしていたよ」
「それって彼が娘だと言ってる、あの娘達でしょ? 一ダースもいるんじゃないの?」
「僕が行ったのは二人っきりだよ、それも間違いなくここへ来た本人だったよ」
「ほら奥さんが起きてきたわ。一騒ぎ始まるわ。仕事を始めなきゃ。あんたはミルクに注意しなさいよ、クリストフ、猫に取られないようにね」
 シルヴィは女将のところへ上がって行った。
「どうなってるの、シルヴィ、ほら十時十五分前だよ。あんたはあたしがぐっすり寝ているのを放っておいてさ! こんなことはもうご免だよ」
「霧のせいですよ、すごい濃霧ですよ」
「だけどもう昼御飯だろ?」
「あー! 奥さんの下宿人達は結構元気ですよ。彼等は皆、ご主人様のところから、とんずらですよ」
「そういうものはちゃんと言ってよ、シルヴィ、女将さんて言うもんでしょ」ヴォーケ夫人が答えた。
「あー! 奥様、貴女のおっしゃるように言いますわ。奥様が何なら十時に朝食しようとお思いなら、大丈夫できますわ。ミショネット嬢とポワロ[22]が、まだ出掛けてないんですよ。館内にいるのは彼等だけなんですよ。そして、彼等がまたよく寝てるんです」
「だけど、シルヴィ、あんたは二人を一緒くたにしちまってるよ、まるで……」
「まるで何ですか?」シルヴィは思わず騒々しく下品な笑いを漏らしながら答えた。「あの二人は一緒になってるんですよ」
「それは変だよ、シルヴィ、どうしてだろう、ヴォートランさんも昨夜はクリストフが差し錠を掛けた後で帰ってきたんだよね?」
「いいえ反対ですよ、奥様。彼はヴォートランさんの声が聞こえたので、戸を開けるために降りていったんです。そして奥様が言ってるのは、この時のことだと……」
「私にカミュソールを持ってきておくれ、それから急いで朝食の具合を見てきておくれ。マトンの残りとジャガイモを使って、それに焼き梨を添えといてね。これだって一つが二リヤール[23]するんだよ」
 しばらくしてヴォーケ夫人が降りてきたが、ちょうどその時、彼女の飼い猫が現れて、ミルクの入ったボールに被せてあった皿をたたいてひっくり返し、あっという間にぴちゃぴちゃとミルクを飲んでしまった。
「この猫ったら!」彼女が叫んだ。猫はぱっと離れたが、直ぐに戻って彼女の脚に体をこすり付けた。「はいはい、この臆病な老いぼれめ!」彼女は猫に声を掛けた。「シルヴィ!シルヴィ!」
「おやおや! どうしたんですか奥様?」
「あんたも見てよ。これ、猫が飲んじまったのよ」
「これはまたクリストフの馬鹿のせいだわ。私が蓋をしておくように言ってたんですけどね。彼どこへ行ったんでしょうね? 奥様、心配要りませんよ。これはゴリオ爺さんのコーヒーに入れるやつです。私はこのミルクを彼のコーヒーに入れます。彼は気がつきませんよ。彼は何にも注意払ったりしないし、食べる物にも同じで全然気がつかないわ」
「彼も一体どこへ行ったの、あのチャンコロが?」ヴォーケ夫人は皿を置きながら言った。
「さあ、どうしたんでしょうね? 彼は変な物を売って、五百フランも儲けているんですよ」
「あたしはすっかり眠ってたよ」
「そのせいか、奥様は今朝、薔薇のように清々しいじゃないですか……」
 この時、呼び鈴が鳴って、ヴォートランがその太い声で歌いながら広間に入ってきた。
私は久しく世界をさまよった
みんなが私を知っている……
「おー! おー! お早うございます、ヴォーケ・ママ」彼は女将を見つけるや、そっと腕の中に抱き寄せながら言った。
「さあ、もうやめて」
「これはご無礼を!」彼が答えて、「はいよ、分かりました、ご機嫌直して下さいな? ほら、私は貴女と一緒に食器を並べようじゃありませんか。あー! 私って気がきくよね?」
ブリュネットでもブロンドでも
口説いちゃえ
愛せよ、恋せよ……
「私はついさっき変なもの見ちまってね」
……出たとこ勝負[24]
「何のことだい?」未亡人が言った。
「ゴリオ爺さんが八時半にドーフィン通の金銀細工商の店にいたんですよ。そこは古い食器とか金モールなどを買い取ってくれるんだけれど、彼はその店に、金メッキした銀食器を良い値で売っていましたよ。あの男は手袋もしないのに、その食器を綺麗に捻じ曲げていたんですよ」
「えっ! 本当かい!」
「本当ですよ。私はロワイヤル運輸で外国から来ている友達一人を道案内してやってから、ここへ戻ってきたんですが、実はゴリオ爺さんに会いたくて待っているんですよ。これには笑える話があってね。彼は例のいわくつきの地区、グレ通に通っていましてね、その通りにある有名な高利貸しの店に彼が入っていったんです。そいつはゴプセックという恐ろしいやつで、自分の父親の骨でもってドミノを作ってしまうというような男なんですよ。ユダヤ人、アラブ人、ギリシャ人、ボヘミアン、まあこいつ等を全部合わせたような男で、人から金を奪うために生まれてきたようなやつです。銀行に入れたやつの金は溜まる一方です」
「ゴリオ爺さんは一体何をしてたんだい?」
「何にも」ヴォートランが答えた。「て言うか彼がやったことは焼け石に水でね。これは馬鹿げた愚か極まることですよ。娘達を愛する余り、破産するなんて、それも……」
「あ、彼だわ!」シルヴィが言った。
「クリストフ、私と一緒に上へ来てくれ」ゴリオ爺さんが叫んだ。
 クリストフはゴリオ爺さんについて行って、また直ぐに降りてきた。
「あんたはどこへ行ってたんだい?」ヴォーケ夫人が使用人に向かって言った。
「ゴリオさんに用事をききに行ってました」
「それは何だい?」ヴォートランが言った。彼は言いながらクリストフの手から一通の手紙を奪い取ると、その表に書いてあるものを読んだ。「〈アナスタジー・ド・レストー伯爵夫人へ〉、で、あんたは行ったのか?」手紙をクリストフに返しながら彼が訊いた。
「エルデ通。私はこれを伯爵夫人以外の人には渡さないように承っていました」
「その中には何が入ってるんだろう?」
 ヴォートランは手紙を日にかざして見ながら言った。「小切手でも入ってるのかな? 違うな」彼は封筒を少しだけ開いた。「約束手形が一枚」彼が叫んだ。「運命の分かれ道だ! 彼は女に親切だ、年甲斐もなく、へえー、老プレイボーイだな」彼はそう言いながら大きな手をクリストフの頭の上に置いたので、クリストフはさいころのようにくるりと一回転した。「君は気前良くチップがもらえるんだろ。」
 食器が一通り並べられ、シルヴィはミルクを温めた。ヴォーケ夫人はストーヴに火をつけた。ヴォートランはそれを手伝いながら、ずっと歌を口ずさんでいた。
私は久しく世界をさまよった
みんなが私の友達だ……
 すっかり準備が出来た時、クチュール夫人とタイユフェール嬢が戻ってきた。
「貴女こんな朝に一体どこへ行ってたの、奥様ったら?」ヴォーケ夫人がクチュール夫人に言った。
「私達はサン・テティエンヌ・デュモンにお祈りに行ってきました。今日はタイユフェールさんのところへ行かなきゃならないでしょ? 可哀想な子、まるで木の葉のように震えて」クチュール夫人は答えながら、入り口にあるストーブの前に坐って短靴をそちらの方に差し出したが、それは臭った。
「貴女も暖まりなさい、ヴィクトリーヌ」ヴォーケ夫人が言った。
「それがいいよ、お嬢さん、神様に貴女のお父さんの心を動かしてくれるようにお願いすることだ」ヴォートランはみなし子に椅子を勧めながら言った。「しかしそれで十分なのではない。貴女には誰かいい友達がいて、貴女のひどい親父さんに自分の行いを恥じるように言ってやらねばならんでしょう。貴女の無作法な親父さんは噂では三百万持ってるくせに、貴女には持参金を出そうとしない。いまどきのちゃんとした娘さんなら持参金は必要だ。」
「可哀想な子、さあ、あんた、貴女の鬼のような親父は好きなように不幸を呼び集めてるんだよ」
 この言葉にヴィクトリーヌの目は涙に濡れ、未亡人はその時、クチュール夫人が彼女に示した合図に気付き言いやんだ。
「私達が彼に会うことだけでも出来たらねえ、私が彼に話すことが出来たらねえ、彼に奥さんの最後の手紙を手渡すことが出来たらねえ。私は郵便を使うようなリスクを敢えてすることもなかったんですよ。彼は私の筆跡を知ってますから……」財務委員の未亡人が答えた。
「おー、罪もなく、不運にも迫害されし女達よ!」ヴォートランが割り込んで叫んだ。「あの劇のせりふは貴女のことを言ってるようだ! これから何日かかっても、私は貴女のこの件にかかずらってゆきますよ。きっと上手くゆく」
「あー! 貴方」ヴィクトリーヌは濡れてきらきらする眼差しをヴォートランに投げかけながら言った。もっとも彼の方は動じる風もなかった。「もし私の父に近づく手立てをご存知でしたら、どうぞ父に言ってやってください。彼が私の母に対して愛情と誇りの気持ちをお持ちならば、それは世俗的なあらゆる富よりもずっと尊いものですと。どうぞ貴方も彼の厳格さを優しく見てあげて下さるように、わたしは神に貴方のことをお祈りします。どうか神の思し召しのままに……」
「私は久しく世界をさまよった」ヴォートランは皮肉っぽい声で歌った。
 この時、ゴリオ、ミショノー嬢、ポワレが恐らくソースの香りに引き寄せられたのだろうか、降りてきた。シルヴィはマトンの残り肉を使って料理をしていた。七人の会食者がお早うの挨拶をしながらテーブルについたその時、十時の鐘が鳴り、道路からは学生の足音が聞こえてきた。
「あら、まあ! ウージェーヌさん」シルヴィが言った。「今日は上流階級の方々とのお食事じゃなかったんですか?」
 学生は下宿人達に挨拶をすると、ゴリオ爺さんの横に坐った。
「たった今、何だか訳の分からない事件に出会ってしまいましたよ」彼は自分でマトンをたっぷり皿に取り、パンの一塊も自分で切り取った。ヴォーケ夫人はいつものように、その大きさを目で測っていた。
「事件だって!」ポワレが言った。
「おいおい! あんたは何だってびっくりなんかするんだ、よくある前置きだろ?」ヴォートランがポワレに言った。「前置きがあるからには中味がしっかりしているはずだ」
 タイユフェール嬢はおずおずとした眼差しで若い学生を見た。
「貴方の事件を私達に話してくださいな」ヴォーケ夫人が尋ねた。
「昨日ですね、僕はボーセアン子爵夫人のところでの舞踏会に行っていました。彼女は僕の従姉で幾つもの絹で包まれたようなアパルトマンからなる豪華な邸宅を持っているのですが、やっと私達を招いて、そこで華麗なパーティを催してくれたってわけです。そこで僕はまるで王様のように楽しく……」
「テレ」ヴォートランが突然話をさえぎった。
「貴方は」ウージェーヌは勢い良く答えた。「一体何をおっしゃってるんですか?」
「私はテレと言ったんだよ、だってさ、ルワテレ(小国の王)の方がルワ(王様)よりもずっと楽しいに違いないからね」
「その通りだね。私もその小さな鳥(ルワテレは本来ミソサザイの意)でいる方が、王様のように気を遣うこともないのでずっと良いや、何故かって……」ポワレは尻馬に乗って言った。
「簡単に言えば」学生はポワレの言葉をさえぎって答えた。「僕は舞踏会に来ていた中で一番綺麗な女と踊ったんです。うっとりするような伯爵夫人で、僕がこれまで見たことがないような感じの良い女性でしたよ。彼女は頭に桃の花を飾り、脇にも最高に綺麗な花を付けていて、その花は自然に良い香りで満たしてくれるんです。だけど、ああ! 貴方に彼女を見せたかったですよ。あの活き々々として踊っていた彼女を絵に描くことなんて出来ませんよ。ところがですね! 今朝、僕はこの素敵な伯爵夫人に出っくわしたんです、九時頃、歩いてましたね、グレ通を。ああ、僕の胸はどきどきしました、そして想像した……」
「そんな所へ彼女は何しに来てたんだ」ヴォートランが突き刺すような眼差しで学生を見ながら言った。「彼女は間違いなくゴプセックの親父、つまり金貸しのところへ行ってたんだな。もし君がパリの女達の胸の内をよーく調べたら、そこで君が見つけるのは恋人よりも、まず金貸しだろうな。君の伯爵夫人はアナスタジー・ド・レストーという名前でエルデ通に住んでいる」
 この名前を聞いた学生はじっとヴォートランを見つめた。ゴリオ爺さんは不意に頭を上げて二人の対話者にきらきらした一方で、不安に満ちた目を向けた。その様子は下宿人達を驚かせた。
「クリストフが行くのは遅過ぎるだろうから、彼女はもうそこに行っているんだろうな」ゴリオは悲しそうに叫んだ。
「私がにらんだ通りだ」ヴォートランは屈み込んでヴォーケ夫人に耳打ちした。
 ゴリオは自分が何を食べているのかにも気づかないで機械的に食事をした。彼がこの時ほど虚けたように我を忘れたようになったことはかつてなかった。
「一体誰が、ヴォートランさん、貴方に彼女の名前を言ったんですか?」ウージェーヌが尋ねた。
「ああ! ほら」ヴォートランが答えた。「ゴリオ爺さんだ。彼がそのことを良く知ってるよ! この私がまたそれを知らないわけないだろう?」
「ゴリオさん」学生が叫んだ。
「えっ! 彼女は昨日もやはり綺麗でしたか?」哀れな老人が言った。
「誰がですか?」
「レストー夫人ですよ」
「貴方見なさいよ、老いぼれのけちん坊が目をあんなに輝かせてさ」ヴォーケ夫人がヴォートランに言った。
「彼はまだ女との関係を続けるのかしら?」ミショノー嬢が声を落として学生に言った。
「あー! そうですね、彼女は恐ろしく綺麗なので」ウージェーヌが答えた。「ゴリオ爺さんときたら、貪るように見てたなあ。もしボーセアン夫人があの場にいなかったら、僕の女神の伯爵夫人が舞踏会の女王になっていただろうな。若い男達は皆彼女のことばかり見ていましたよ。僕は名簿の十二番目に名前が書かれていましたが、彼女はずっとコントルダンスを踊り続けていました。他の女性達の悔しがることといったらなかったですよ。昨日幸せだった女性を一人挙げるとしたら、それはまさしく彼女です。誰でも帆走する三本マストの軍艦、疾駆する馬、踊る女性よりも美しいものはないというのは至極当然です」
「昨日は子爵夫人の邸で栄華を極め」ヴォートランが言った。「今朝は落ちぶれて手形割引屋に駆け込む。パリの女とはこんなもんだ。もし彼女達の夫が彼女達の際限のない贅沢を維持出来なくなったら、彼女達は身を売るんだ。もし彼女達が身を売ることが出来なければ、彼女達は母親の腹を割いて、そこに何か金目の物はないかと探し回る。ついには十万回もの悪事を重ねる。そうさ、そうなんだ!」
 ゴリオ爺さんの顔つきは、学生がしゃべるのを聞いて、まるで晴天の太陽のように輝いていたのだが、ヴォートランのこの冷酷な観察を聞いて暗く沈んでいった。
「えーと! ところで」ヴォーケ夫人が言った。「貴方の事件とやらは何処へ行っちまったの? 貴方は彼女と話したの? 貴方は彼女に法律を専攻しないかと頼まなかったの?」
「彼女は僕に気がつきませんでした」ウージェーヌが答えた。「だけどグレ通で九時にパリで一番綺麗な女性、それも舞踏会から朝方二時に帰宅したはずの女性に出会うなんて、これって変だと思いませんか? この手の事件があるのはパリくらいなものでしょう」
「おい! 結構間の抜けたやつが多いんだな」ヴォートランが叫んだ。
 タイユフェール嬢はほとんどこの話を聞いていなくて、自分がやろうとしている企てのことで頭が一杯だった。クチュール夫人が彼女に着替えにゆくために立つように合図をした。二人の婦人が出てゆく時、ゴリオ爺さんも後に続いた。
「あら! まあ、見ました?」ヴォーケ夫人がヴォートランをはじめ下宿人達に向かって言った。「彼が例の女達のお陰で破滅するのは間違いないわ」
「決して僕には考えられない」学生が叫んだ。「あの美しいレストー伯爵夫人がゴリオ爺さんと関わりのある人だなんて」
「しかし」ヴォートランが彼を遮って言った。「我々は何も君に考えを強要したりはしていないぞ。君はまだ若いから、パリのことを十分に知ってはいないが、そのうち我々が情人と呼んでいるような連中がいることに気がつく……」(この一言にミショノー嬢は探るような目をヴォートランに向けた。耳慣れた響きに人はつい本性を現す反応を示してしまうものなのだ)「おや! おや!」ヴォートランは彼女に向かって射抜くような目を投げかけながら話を中断した。「我々の間にわずかながら情の共感が芽生えましたかな、我々にも?」(ハイミスはまるで彫像に祈りを捧げる尼僧のように目を伏せた)「それではと」彼はまた言い始めた。「この連中はある考えに夢中になっている、そして絶対にそれをやめようとしない。彼等は唯一つの泉から湧く唯一の水しか飲もうとしない、しかもその水はしばしば澱んで腐っている。しかし彼等は水を飲むために彼らの妻をそして彼等の子供を売ってしまうんだ。彼等は自分の魂さえも悪魔に売ってしまう。ある人にとって、この泉は賭け事、株、絵の蒐集、あるいは昆虫の採集、音楽であり、また別の人にとって、それは砂糖菓子を作ってくれる妻であったりする。前者については、君がありとあるこの世の女性を紹介してあげたとしても、彼等はその女性達にはまったく関心を示さないだろう。彼等は自分の情熱を満足させてくれる女性しか欲しくないんだ。ところが、この遂に巡り会ったその女は大抵、彼等を全く愛さない。君の前でも彼等をこき下ろし、彼等には、ほんの僅かな満足をうんと高く売りつけるんだ。さて! それで! 我等の熱中爺さんはもう一直線だ。彼の最後の一枚の毛布も質屋に入れて、これが最後の銀貨を彼女のところに持ってってやろうというところだ。ゴリオ爺さんというのは、こういう人物なんだ。伯爵夫人は彼を利用しているんだ。というのは、彼は口が固いし、それにほら、華やかな社交界には金がかかるしさ! 哀れなお人好しはただ彼女のことばかり考えているんだな。その情熱を除けば、ほらあの通り、彼は獣のような人間に過ぎない。さっきのことになると彼の顔はまるでダイヤモンドのように光り輝くんだ。この秘密が何かを暴くのは難しいことじゃない。彼は今朝、銀器を鋳造品にしたものを運んでいた。そして私は彼がグレ通のゴプセック親父の店に入ってゆくのを見た。どうだい、これで分かっただろ! 戻ってくると彼はレストー伯爵夫人のところへクリストフのボケを使いにやったんだが、やつは我々に手紙の宛先を見せてしまった。そしてその中には約束手形が入っていたんだ。もし伯爵夫人もあの老いぼれ金貸しのところへ行ってたとすると、緊急事態だったことは間違いない。ゴリオ爺さんは親切にも彼女に融通してやってたんだ。その事実を正確に読み取るのに二つの考えを継ぎはぎする必要なんてない。これは君が証明してくれたんだよ、わが青春の学生さん、つまり、君の伯爵夫人が笑ったり踊ったり、すねて見せたり桃の花のバランスをとってみたり、服をつまんでみたりしている間にも、彼女は言ってみれば、苦境に陥っていたわけで、支払いを拒絶された彼女の約手あるいは彼女の愛人の約手のことで頭が一杯だったというわけだ」
「貴方の話を聞いて、僕はどうしても真実を知りたいという気にならされました。明日、僕はレストー夫人の家へ行ってみます」ウージェーヌが叫んだ。
「そうだ」ポワレが言った。「レストー夫人の家へ行くべきだ」
「君は多分そこで、ゴリオのおっさんに会うと思うよ。先生は色事のこってりしたところを味わいたくて、そこへ行くんだ」
「だけど」ウージェーヌは嫌悪感をあらわにしながら言った。「貴方の言い分では、パリは泥沼でもあるんですよね」
「おまけにとんでもない泥沼だ」ヴォートランが答えた。「そこで馬車ごと泥まみれになるのは正直者で、足だけ泥が付くようなのは詐欺師なんだ。君が頓馬でそこらにあるガラクタを盗んだとする、君は裁判所で首枷をはめられて見世物にされてしまう。ところが百万フランを盗んだ場合はどうか? 君はサロンで勇敢な男として注目されるだろう。わが国民は三千万フランもの予算を憲兵隊と裁判所に費やして、このような道徳を維持しているってわけだ。素敵じゃないか!」
「どうして」ヴォーケ夫人が叫んだ。「ゴリオ爺さんは銀製の食器セットを溶かしちゃったんだい?」
「蓋の上に二羽の雉鳩がいるやつでしたか?」ウージェーヌも尋ねた。
「まさにそれだよ」
「彼はまだそれにうんと愛着を持っていました、だから彼が丼鉢と皿を一緒にこねくり回したときは泣いていました。僕はたまたまそれを見たんです」ウージェーヌが言った。
「彼は命と同じくらいあれに愛着を持ってたものね」未亡人が応じた。
「あの男を見てご覧、何とまあ夢中になってることか。あの女は彼の心をくすぐることを良く心得てるよ」
 学生は再び自分の部屋へ上がってしまった。ヴォートランも出かけた。しばらく後で、クチュール夫人とヴィクトリーヌはシルヴィが二人のために手配しに行っていた辻馬車に乗っていった。ポワレはミショノー嬢に腕を貸し、二人は揃って日ざしの良い二時間ばかり、植物園に散歩に出かけた。
「おやー! ほらあの人達夫婦気取りよ」でぶのシルヴィが言った。「あの人達連れ立って出るのは初めてだわ。あの人達って二人ともすっごくカサカサしてるでしょ、だから喧嘩になってごらんなさい、まるでライターのように直ぐに火がつきそうね」
「ミショノー嬢のショールに入っちゃって」ヴォーケ夫人が笑いながら言った。「彼ったら、まるで火口のように燃えそうね」
 夕方四時に帰ってきたゴリオはぼんやりした二つのランプの明かりに照らされたヴィクトリーヌの姿を見た。彼女の目は赤くなっていた。ヴォーケ夫人は彼女が午後にタイユフェール氏を訪問したものの、空しく終わった顛末を聞いてやっていた。自分の娘と老婦人の訪問を嫌がっていながら、タイユフェールは彼女達が遂にやってくるまで放置していて、ただただ釈明する羽目に陥ってしまったのだった。
「ねえ奥さん」クチュール夫人がヴォーケ夫人に言った。「想像出来ます? 彼ったらヴィクトリーヌを坐らせてやることさえしなかったんですよ。彼女はずっと立ったままだったんです。私に対しては、別に腹を立てる様子もなく、とても冷静に、彼の家にまで足を運んだことをいたわってくれました。お嬢さんはと、彼は娘とは言わないの、彼を悩ましてばかりいると自分の心を傷つけるだけですよ、だって! 一年に一回きりなのに、なんて男でしょう! そして、ヴィクトリーヌの母は財産持たずに結婚したんだから、彼女は強く要求するようなことは何もないって言うの。結局、話は全く無益だったので、この娘は可哀想に涙を流すしかなかったの。この娘はそれでも父の足もとに身を投げ出して、思い切って言ったんです。自分は母と同じように主張するわけではないと、そして彼女は彼の意向には何も言わずに従いますと。しかし彼女はまた哀れな死んだ母の遺言をどうか読んで欲しいと彼に頼んで、彼女はその手紙を取り出して彼に渡したの。その時の彼女の言葉は世にも美しいものだったわ。私はこんな言葉を彼女はどこで見つけて持ってきたのか知りませんが、神様が彼女に告げたのかもしれません。何故って、可哀想な娘は霊感に満ちていましたので、私はそれを聞いていると、ひどく泣けてくるのでした。この恐ろしい男がやったことは何だと思いますか? 彼は爪を切ってました。そして哀れなタイユフェール夫人が涙で濡らしたその手紙を手に取ると暖炉の上に放り上げて言いました。『もうたくさん!』彼は彼の手を取って接吻しようとした娘から手を引っ込めて、彼女を再び立たせようとしました。これは余りに酷い行為ではありませんか? 彼の大柄な馬鹿息子が入ってきましたが、妹に挨拶もしません」
「そいつもまた酷いやつなのかね?」ゴリオ爺さんが言った。
「そしてそれから」クチュール夫人は人の好い老人の叫び声を無視して言った。「父親と息子は私に挨拶して緊急の用事があるので失礼したいと言って、立ち去ってしまったの。私達の訪問はこんなだったのよ。少なくとも、彼は自分の娘に会ったんだわ。私には彼がどうして彼女を否定することが出来るのか分からない。彼女は彼と瓜二つなんだもの」
 寄食者達、それも居住者や非居住者が入れ替わり立ち代りやってくる。彼等はおはようの挨拶を交わしたりしながら、パリジャンのある階級の人々に特有のひょうきんさを醸し出す素となっている日常の些事などを心の中で思い浮かべたりしているのである。その基本的要素はある種の愚かしさであり、とりわけ身振りや発音による表現のおかしさが評価されるのである。この一種のスラングは絶え間なく変化してゆく。そこに含まれる冗談も、流行の主流にある期間は決して一ヶ月と持たない。政治的出来事、重罪裁判所における裁判、路上の歌、役者が演じる笑劇、これら全てが、この頭脳的遊戯を連綿と続けてゆくための材料となっていた。その遊戯とは、思想と言語を自在に操り、かつ、それらをラケットでもって軽やかに打ち合うことを意味しているのだ。最近発明されたジオラマは、パノラマより、もっと最高に素晴らしい光線による幻影を見せてくれるものだが、これは多くの画家のアトリエで、冗談で、何でもかでも『何々ラマ』と言ってしまう語呂合わせをはやらせた。メゾン・ヴォーケに若い画家の食客が一人いたおかげで、この何々ラマという流行語はここでも広まっていた。
「おやおや! ポワレさん」博物館員が言った。「サンテラマ(健康のための散歩)はいががでしたか?」と言っておきながら返事を待たず、「奥さん、ご心配なことですね」と彼はクチュール夫人とヴィクトリーヌに向かって言った。
「まだ夕食間に合いますか?」オラース・ビアンションが叫んだ。医学部の学生でラスチニャックの友人だった。「腹ペコで僕の胃はウスケ・アド・タロネス(かかとにまで縮んでしまった)」
「またまた妙にフルワトラマだぞ!」ヴォートランが言った。「またあんたか、ゴリオ爺さん! 何てやつだ! あんたの足が、ストーブの口を完全に塞いじまってるよ」
「ありゃあ! ヴォートランさん」ビアンションが言った。「どうして貴方はフルワトラマなんて言われるんですか? 一箇所間違ってます。フルワドラマ(寒いラマ)と言うべきです」
「いや、そうじゃない」博物館員が言った。「それは君のラテン語にならった規則には適ってる。フルワト・アド・タロネス(かかとまで寒い)だ」
「あー! あー!」
「ほら、ラスチニャック侯爵殿下がお見えだ。世渡り法博士」ビアンションはそう叫ぶと、ウージェーヌの首を抱えて窒息させかねないほど抱きしめた。「おーい、君はどちらにつくんだ、おーい!」
 ミショノー嬢がそっと入ってきて、無言で会食者達に挨拶をすると、三人の婦人達の傍らに席を取った。
「彼女を見ると、僕はいつも震えちゃいますよ。あの蝙蝠婆々にはねえ」ビアンションがミショノー嬢を示しながら、声を落としてヴォートランに言った。「実は僕、骨相学者ガル[25]の提唱する学説を学んでいるんですが、僕は彼女にはユダを示す突起が見られると思います」
「先生はユダのことを良くご存知ですか?」ヴォートランが言った。
「ユダを知らない人っていないでしょう!」ビアンションが答えた。「誓って言いますけど、あのなま白いオールドミスを見ると、僕は簗一本をまるまる食い尽くす蛆虫を連想してしまうんです」
「それだよ、まさにこう言いたいところだろ、君のような若い者は」四十男は頬髭を撫ぜながら言った。
「そしてバラ、彼女はまさにバラ
 つかの間の朝だけ咲いた」[26]
「おやおや! ほらあの名高いスーポラマ(残飯スープ)だ」ポワレは恭しくポタージュを持って入ってきたクリストフを見ながら言った。
「ちょっとごめんなさい、皆さん」ヴォーケ夫人が言った。「スーポシュ(キャベツスープ)が来ましたよ」
 若者達は皆大笑いとなった。
「ポワレをやっつけろ!」
「ポワレレレレレットをやっちまえ!」
「ヴォーケ・ママに2点献上だ」ヴォートランが言った。
「今朝のすごい靄、こんなの見たことある人いますか?」博物館員が言った。
「あれはねえ」ビアンションが言った。「気違いじみていて見たこともないような靄、陰鬱で憂鬱で緑がかっていて息切れする、そうだゴリオ靄だったよ」
「ゴリオラマ」画家が言った。「だってさ、あれじゃあ何にも見えなかったものね」
「そうだ、ガオリオト卿、彼は視力に問題があったんだ」
 人々が出入りする戸口の前のテーブルの端にうつむいて坐っていたゴリオ爺さんが頭を上げた。その時、彼は時々見せる商売人の古い癖を出して、ナプキン越しに、持っていたひとかけらのパンの匂いを嗅いでいたのだった。
「あらまあ!」ヴォーケ夫人が彼に向かって意地悪く叫んだ。その声は、匙や皿の音、更には人々の話し声を抑え込んで響いた。
「貴方、そのパンが気に入らないの?」
「反対ですよ、奥さん」彼が答えた。「このパンはエタンプの小麦粉で作ってます、最高級品です」
「一体、そこで何を見てるんですか?」ウージェーヌが尋ねた。
「白い色をさ、お気に入りの」
「鼻を使ってね、だって貴方は匂いを嗅いじまうんだから」ヴォーケ夫人が言った。「貴方ったら、とてもけちくさくなったので、とうとう台所の空気の匂いを嗅ぐだけで、食事を済ませる方法を考え出したんだわ」
「それじゃあ、発明品の特許を取りなさいよ」博物館員が叫んだ。「貴方は一財産作れますよ」
「まあ様子見ましょうよ。彼がそうしてるのは、彼が製麺業者だったということを我々に説得するためなんだから」絵描きが言った。
「貴方の鼻はコルヌイ(蒸気用レトルト)でもあるわけですな?」博物館員が更に尋ねた。
「コル何だって?」ビアンションが尋ねた。
「コル・ヌイ(角笛馬鹿)」
「コル・ヌミューズ(角笛ぶす)」
「コル・ナリン(紅色玉髄)」
「コル・ニシュ(軒蛇腹)」
「コル・ニション(間抜け)」
「コル・ボー(カラス)」
「コル・ナク(象使い)」
「コル・ノラマ」
 この八つの返答が部屋のあちらこちらから矢継ぎ早に束になって返ってきて、いずれもが笑いを誘ったので、哀れなゴリオ爺さんが会食者達をぼんやりと見回した様子は、外国語を理解しようと懸命になっている人のように見えた。
「コル?」彼は自分の横にいたヴォートランに尋ねた。
「コル・オ・ピエ(魚の目)だよ、おっさん!」ヴォートランはそう言うとゴリオ爺さんの頭を帽子の上から軽く叩いて目深に被らせたので、帽子は爺さんの目の上にまで深々と下がってきた。
 哀れな老人は、この突然の攻撃に戸惑って、しばらく動くことも出来ずじっとしていた。クリストフはこの人の好い老人が、、もうスープを終えたものと思って、その皿を運び去った。それでゴリオが帽子を被り直し、匙を持った時、彼はそれでテーブルを叩いてしまった。会食者一同がどっと笑った。
「貴方達は」老人が言った。「悪ふざけが過ぎますよ。そして、もし私に向かって、まだこのような嫌がらせを続けるようなら……」
「おやおや! 何だって言うんだね、父ちゃん?」ヴォートランが言葉を遮って言った。
「そりゃ! 決まってるだろ! あんただって、こんなことをすれば、いつかは酷い目に……」
「地獄行きですかね?」絵描きが言った。「この狭っ苦しく陰気な部屋では大人が子供に意地悪をしてるんだからなあ!」
「さあ、どうですかお嬢さん」ヴォートランがヴィクトリーヌに言った。「貴女はまだ食事をしていない。この父っつあんは、いい加減強情過ぎると思わんかね?」
「みっともない人だわ」クチュール夫人が言った。
「彼にはよく言ってきかせにゃならんな」ヴォートランが言った。
「だけど」ラスチニャックが言った。彼はビアンションの直ぐ隣にいた。「お嬢さんは食事の問題について訴訟を起こせるんじゃないですか。だって彼女は食事してないんですからね。ねえ、ねえ、見てよ、ゴリオ爺さんがヴィクトリーヌ嬢をまだじろじろ見てますよ」
 老人は哀れな少女を見つめていて、食事をとるのを忘れていた。少女の顔立ちには本当の悲しみ、父親を愛しているのに、その父に認知されない子供の悲しみがはっきりと見てとれた。
「あのさ」ウージェーヌは声を落として言った。「僕達はゴリオ爺さんに関して、思い違いをしていたようだね。彼は馬鹿でもなければ無神経な男でもない。彼にガルの骨相学による判断を当てはめてみてくれないか? そして、君がそこで考えついたことを僕に教えてくれ。僕は昨晩、彼が金メッキの銀皿をまるで蝋で出来ているもののように捻じ曲げているのを見たんだ。そしてその時の彼の顔つきから、ただならぬ深い感情がほとばしり出るのを感じたんだ。彼という人間は知る価値もないものと無視してしまおうとしても、僕にとって余りにも不可思議に見えるんだ。そうだともビアンション、君はとてもおかしそうに笑っているけれど、僕は冗談言ってるんじゃないぜ。」
「あの男は医学的に興味があるよ」ビアンションが言った。「分かったよ、お望みなら、彼のことを詳しく分析してみよう」
「いや、彼の頭を触ってみて調べてくれ」
「あー! それじゃ、彼の痴呆は多分伝染性なんだ」
 翌日、ラスチニャックは思い切り綺麗な服を着て、午後三時頃レストー夫人宅へ出かけた。道中で彼は時として若者達の人生を感動でかくも美しく輝かせるあの気違い染みた期待に軽率にも身をゆだねてうっとりとしていた。彼のような若者は障碍も危険も共に察知出来ず、唯々成功した時のことばかり目に浮かべ、ひたすら想像力の働きによって自分の存在を美化するのだが、彼らの気違い染みた欲望の中以外では、はなから実現などあり得ない計画の破綻によって、期待は不運にも裏切られたり、悲しい結末に終わったりするのがよくあるケースなのだ。彼等がウージェーヌほど無知でなくて、逆に内気だったら、社交界というものはもはや耐え難いものになってしまうものなのだ。
 ウージェーヌは泥にまみれないように、万全の注意を払いながら歩を進めていたが、彼は歩きながら、レストー夫人に対して、彼が言うべきことをなおも考えていた。彼は機知を仕込み、想像の中の会話で発する素早い返答を編み出し、繊細な言葉や、老練な政治家タレイランが言いそうなせりふを準備した。そして彼の将来がそれにかかっているような宣言をやってのけ、それによって生じるささやかだが好ましい環境が生まれることを、彼は仮定していた。彼の長靴が泥にまみれた。それに気がついて、彼はやむなく長靴を磨き、パレロワイヤルでパンタロンにブラシをかけなければならなかった。
「もし僕が金持ちだったら」彼は運悪く掴んでしまった使い勝手の悪い三〇スー銀貨[27]を両替しながら思った。「僕だって馬車で行きたいよ、そしたら僕だって、ゆったりして色々考えられるのに」
 彼はとうとうエルデ通に着いた。そしてレストー伯爵夫人の家を訪ねた。いつかは必ず勝者となることを確信している男の冷たい怒りを心に秘めながら、彼は人々の意地悪い視線を受け止めていた。彼等は彼が徒歩で庭を横切って来るのを見ていたし、戸口に馬車が近づいて来る音も聞いていなかった。ここの庭に足を踏み入れたとき痛感させられた自分への劣等感は今浴びせられる視線によって益々強烈に感じられた。ここでは豪奢で粋な二輪馬車につながれた美しい馬が前足で地面を蹴る姿が見られ、そこには遊蕩の存在の華麗さが誇示され、パリの女達の喜び溢れる習慣が仄めかされているのだった。彼は一人で勝手に機嫌を悪くしていた。彼の頭の中の引き出しが開き、彼はそこに一杯詰まった機知を見出せると当てにしていたが、それは勝手に閉じてしまったので、彼は馬鹿になってしまった。召使が訪問者の名前を伝えに伯爵夫人のところへ向かったが、彼女の返事を待ちながら、ウージェーヌは片足を支えにするようにして控えの間のガラス窓の前に立ち、肘をイスパニア錠の上にのせ、何を考えるでもなく庭の方を見ていた。彼には時間が長く感じられた。もし彼が南フランス人独特の粘り強さに恵まれていなければ、彼はさっさと何処かへ行ってしまったことだろう。彼の粘りは図に当たって奇跡を起こした。
「ムッシュー」召使が言った。「奥様は化粧室にいますが、とても忙しくて、私にも返事をくれませんでした。しかし、ムッシューが広間にお越しになるのでしたら、既に一人、来客がおられます。」
 一言でもって、自分の主人を非難したり、裁いたりするこの男の恐ろしい能力に驚嘆しながら、ラスチニャックはこの召使がそこから出て行ったその扉を決然として開いた。それはこの傲慢な召使に彼がこの家の住人の知り合いであることを間違いなく知らしむるためだった。しかし彼は全く思いもかけず小さな部屋に出てしまった。そこにはランプが灯っていて、食器棚が並び、入浴用タオルを暖める機器が置いてあって、その部屋は薄暗い廊下と忍び階段に通じていた。彼は控えの間から聞こえてくる抑えたような笑い声を聞いているうちに心の混乱が頂点に達するのを感じた。
「ムッシュー、広間はこちらでございます」召使がこれ以上ないような嘲笑に似たうわべだけの恭しさで彼に告げた。
 ウージェーヌは大急ぎで、そちらへ向きを変えたので浴槽にぶつかってしまった。しかし彼は非常に上手く帽子を掴んで、すんでのところで浴槽の中にそれを落とさずに済んだ。この時、小さなランプに照らされた長い廊下の奥にある戸が開いた。ラスチニャックは今度はレストー夫人の声とゴリオ爺さんの声、それにキスをする音を聞いた。彼は食堂へ戻り、そこを通り抜け、召使に続いて最初の広間に戻り、窓際に落ち着いた。その時、彼は窓から庭を見渡せることに気がついた。彼は今ここにいるゴリオ爺さんが、本当に彼の知っているゴリオ爺さんであるのか確かめたく思っていた。彼の心臓は異常なまでに高鳴り、彼はヴォートランが言っていた恐ろしい考察を思い起こしていた。召使は広間の戸口のところでウージェーヌを待っていたが、突然、優雅な身なりをした若い男が現れ苛々した様子で言った。
「私は帰るよ、モーリス。伯爵夫人には、私が半時間以上も彼女を待っていたと言ってくれ」
 この傲慢な態度は間違いなく彼に許されているもののようで、彼はイタリアの円舞曲を口ずさみながら、ラスチニャックが佇んでいる窓際の方に向かって歩いてきた。彼は庭を眺める積りだったが、そこで学生風の人物に出会ったのだった。
「しかし伯爵様、もう少し待って頂けたらと思うのでございます。奥様は今、用事を済まされました」モーリスは控え室に戻ってきて、そう言った。
 この時だった、小階段を降りて出てきたゴリオ爺さんが馬車の出入り口となる両開きの大門の前に突然現れた。爺さんは傘を取り出し、それを広げようとしていた。彼は気がつかなかったが、大門は一人の着飾った若者が二輪馬車に乗ってきたのを通すために開いていた。ゴリオ爺さんは轢かれてぺしゃんこにされそうだったが、辛うじて後ろへ飛び下がって難を免れた。傘の布地が馬を驚かして、馬は正面階段の方へ軽く避けながら突き進んだ。この若者は怒りを含んだ様子で目を脇に向けゴリオ爺さんを見ると、彼が出てゆく前に挨拶をした。その挨拶は、例えば人が必要に迫られたとき金貸しに対してするような、あるいは酷く欠陥のある男に対する尊敬を強く要求されてやるような、そうした強制された配慮といった印象の強い挨拶だった。このような挨拶は後で思い返すと、人はそれを恥ずかしく感じるものなのだ。ゴリオ爺さんは人の好さをいっぱいに表し、親しげな様子で軽く挨拶を返した。この出来事はまるで電光のような速さで通り抜けていった。その光景に気を取られて、自分一人だけでいるのではないことをすっかり忘れていたが、ウージェーヌは突然伯爵夫人の声を聞いた。
「あー! マクシム、貴方は行ってしまうのね」彼女が少し口惜しさの混じった非難がましい声音で言った。
 伯爵夫人は二輪馬車が入ってきたことを気にも留めなかった。ラスチニャックが急いで振り向くと、白いカシミアの化粧着を色っぽくまとった伯爵夫人が見えた。結び目が薔薇色でしどけなく髪を結った様子はいかにも朝方のパリ女の姿だった。彼女は香気を漂わせ、彼女は間違いなくたった今入浴したはずで、彼女の美貌は明け透けに言ってしまえば、最も扇情的なものと思われた。彼女の目は濡れていた。我等の主人公の若者の目は全てを読み取る力を持っていた。ちょうど植木が適度の成分を含んだ空気を吸い込むように、この女性が発する光線を受けて彼の精神が彼女に向かって見事に焦点を絞っていた。ウージェーヌは彼女の腕にあえて触れてみるまでもなく、伸びやかなみずみずしさを感じた。彼はカシミアを通して彼女の薔薇色の胴体を見たが、それは軽く半開きになった化粧着が、時としてむき出しのまま放置しているので、彼の視線はおのずからそちらへ向けられるのだった。コルセットの類は伯爵夫人にとって役にも立たないし、帯は彼女の胴体の柔軟さを強調するだけだった。彼女の首は愛へと人を招き、彼女の足は上履きの中でとても綺麗だった。マクシムが彼女の腕を取ってキスしようとした時、ウージェーヌはやっとマクシムの存在に気がつき、伯爵夫人もウージェーヌに気がついた。
「あー! 貴方だったの、ラスチニャックさん、貴方に会うと何だか楽しいわ」機知に富んだ男には敏感に反応出来る様子で彼女が言った。
 マクシムは闖入者を早く立ち退かせたい気持ちを露骨に表しながら、ウージェーヌと伯爵夫人を交互に見やった。『さあさあ! ねえ、この小生意気なやつを戸口まで送って行きたいんだけど、いいんだろ!』このセリフは伯爵夫人アナスタジーがマクシムと呼んだその若い男が無礼にも投げつけた高慢そのもののあからさまで分かりやすい眼差しを翻訳したものである。そして彼女は全く疑うことなく従順な気持ちで女の全ての秘密をこの男に話し、この男の顔色をうかがっているのである。ラスチニャックは烈しい憎しみをこの若い男に対して抱いた。第一にマクシムの美しい金髪と綺麗なカールは彼自身の髪が実にみっともないことを彼に自覚させた。更にマクシムの長靴は精妙かつ清潔だったが、逆に彼のものはといえば、歩く時は気をつけているのだが、いつの間にか薄い泥の痕が付いているのだった。とどめはマクシムが着ていたフロックコートが彼の体に優美に合っていて彼を美しい婦人に相応しい男にしていたのに対してウージェーヌは昼の二時半だというのに黒い夜会服を着込んでいた。このシャラント県出身の機知に富んだ少年は、美神がこのすらりとした長身で明るい瞳を持ち青白い顔色の美男子に優位性を与えるであろうことを察知した。この男は哀れな孤児を破滅に追い込むことだって出来る、そういう人間だった。ウージェーヌの返事を待たずに、レストー夫人はまるで羽ばたきするようにして別の部屋に立ち去ってしまった。彼女の化粧着の裾が閉じたり開いたりして空中にたなびくその様は彼女が蝶になったような印象を与えた。そして、マクシムが彼女についていった。ウージェーヌは怒り狂って、マクシムと伯爵夫人を追った。この三人の人間は大広間の真ん中の暖炉のところで、また向かい合って立っていた。学生は自分がこの不愉快なマクシムの邪魔をしてやろうとしていることを良く心得ていた。しかし、レストー夫人の機嫌を損ねるのではという危険を冒してでも、この二枚目を困らしてやりたいと思った。突然この美男子をボーセアン夫人の舞踏会で見たことを思い出した時、彼はマクシムとレストー夫人の関係を見抜いてしまった。そしてとんでもない愚行をやらせてしまうか、あるいは大成功を収めさせてしまうかする、あの若者特有の大胆さをもって、彼はつぶやくのだった。
「こいつは俺のライバルだ。俺はこいつに勝ちたい。この女たらしめ!」
 彼はマクシム・ド・トライユ伯爵が調子に乗った相手に侮辱されるに任せておいて決闘になると最初の一発でこの男を仕留めたことがあるのを知らなかった。ウージェーヌは器用な狩人ではあったが、射的で二二体中二〇体の人形を射抜いたことは一度もなかった。若い伯爵は暖炉の隅にあるソファーにどっかと坐ると、火箸を手にとって暖炉の火を起こしにかかった。しかしその動きが激しくて不細工だったので、アナスタジーの美しい顔にたちまち困惑の色が広がった。若夫人はウージェーヌの方を向くと、冷たく問い質すような視線を投げかけた。それはまるでこう言いたげだったのだ。『どうして貴方は立ち去らないでいるの? 立派な教育を受けた人なら、直ぐにきっかけを見つけて、お暇の言葉を言ってくれるものなのよ』
 ウージェーヌは心地良げな様子で言った。「奥様、私は早く貴方に会いたくて……」彼はそれだけで言うのをやめた。扉が一つ開いた。二輪馬車で乗りつけた男が突然姿を現した。彼は帽子を被ってなくて、伯爵夫人には挨拶をしないで、ウージェーヌの方を気遣わしげに見た後、マクシムに手を差し出して言った。「こんにちは」それが親密さを感じさせる調子で言われたので、ウージェーヌは酷く驚かされた。田舎から出てきた若者は、社交界の人々にとって三角関係がいかに甘美なものであるかを知らない。
「夫のド・レストーです」伯爵夫人は学生に夫を紹介して言った。
 ウージェーヌは深々と頭を下げた。
「この方は」彼女は続けて、ウージェーヌをレストー伯爵に示しながら言った。「ボーセアン子爵夫人とは、マルシャックの家系の親戚筋に当たられます。そして、この前、彼女が催した舞踏会で、私は彼に出会って楽しませて頂きましたわ」
 マルシャックの家系でボーセアン子爵夫人の親戚! この言葉、それは伯爵夫人が誇張して発したとさえ言えるのだが、邸を取り仕切る女主人としては、自分のもとに選りすぐりの人間しか入れないということを証明してみせたいというある種の自尊心に導かれたものであったが、魔術的な効果をもたらし、伯爵は冷淡で儀式ばった態度を改め、学生に向かって挨拶をしてくれた。
「初めまして」彼が言った。「貴方にお会い出来て嬉しいです」
 マクシム・ド・トライユ伯爵はと言えば、ウージェーヌに不審げな目を向けていたが、急に傲慢な態度を取り下げた。この魔法の杖、名前が持つ絶大な効果のおかげで、南仏人の脳の中の三十もの金庫の蓋が開き、彼はあらかじめ準備していた機知を取り戻した。突然射した明かりが、彼にとってどんよりと曇っていたパリの上流社会の空気の中で彼にはっきりと行く手を示してくれた。メゾン・ヴォーケ、ゴリオ爺さんは今や彼の思考から遠く離れた存在だった。
「私はマルシャックの家系は廃絶されたのかと思ってたんですが、違ってましたか?」レストー伯爵がウージェーヌに言った。
「はい、伯爵」彼は答えた。「私の大叔父、シュヴァリエ・ド・ラスチニャックはマルシャック家の跡取り娘と結婚したんです。彼にはたった一人だけ娘が生まれました。彼女はクラランボール元帥と結婚しました。その元帥がボーセアン夫人の母方の祖父なのです。我々は末子の家系です。私の大叔父、海軍少将でしたが、王家のための軍役で全てを失ってしまったので、我々の家系は益々貧しくなってしまいました。革命政府はインド会社を清算しながら、我々の債権を認めようとしなかったんです」
「貴方の大叔父様はもしや一七八九年以前にル・ヴァンジェール号の指揮をされてましたか?」
「その通りです」
「それなら、彼は私の祖父をご存知のはずです。祖父はル・ワルウィック号の指揮を執っていました。」
 マクシムはレストー夫人の方を見ながら軽く肩を上げ、彼女にこんな風に言いたげだった。『ねえ、彼等があっちで海軍の話に盛り上がるんだったら、我々は消えようぜ』アナスタジーはド・トライユ氏の目配せを読み取った。女性特有のこの驚くべき能力をもって、彼女は微笑の中に言葉を込めて答えた。『いらっしゃい、マクシム。私、貴方にお願いしたいことがありますのよ。こちらのお二人様、どうぞご自由にル・ワルウィックやル・ヴァンジェールの両方で航海を楽しんで下さいな』彼女は立ち上がると、あちらの二人の会話を冷笑する気持ちを込めた合図をマクシムに送り、彼は彼女と共に閨房へ向かった。モノグラナティックという綺麗なドイツ語に厳密に対応するフランス語はないが、敢えて言えば、不義の関係にあるこのカップルが戸口近くまで行った時、伯爵はウージェーヌとの会話を中断した。
「アナスタジー! まあ、ちょっと待ちなさい」彼は冗談っぽい調子で叫んだ。「貴女も知ってるように……」
「私、戻ってきます、戻ってきます」彼女は彼を遮って言った。「ほんの少しの間でいいんです。マクシムに頼むことは直ぐに済みます!」
 彼女は直ぐに戻ってきた。自分の空想の世界に遊ぶことが出来るように、夫の性格を観察するように強いられた妻が全てそうであるように、大事な夫の信頼を失うことのないようにするには、自分はどこまで進んでゆけるのかを見定めるすべを彼女は知っていた。そうした妻達はまた人生におけるつまらない事で夫を刺激するようなことも決してやらない。伯爵夫人は夫の声の調子の変化に気づき、閨房に留まることには何の安全もないことを知ったのだった。この思いがけない不都合はウージェーヌのせいだった。伯爵夫人もまた悔しさをいっぱいににじませ、素振りで学生の方をマクシムに示すのだった。マクシムは思いっきり皮肉をこめて伯爵、その夫人、そしてウージェーヌに向かって言った。「すいません、皆さんお忙しそうなので、私はお邪魔したくありません。失礼します」彼は立ち去った。
「もっと居ろよ、マクシム!」伯爵が叫んだ。
「夕食一緒にしましょう」伯爵夫人はまたもウージェーヌと伯爵を放りっぱなしにして、マクシムを追って大広間に入って行った。そこで二人は暫く一緒に留まっていた。彼等は伯爵がウージェーヌを追っ払ってくれるのを期待していたのだ。ラスチニャックには彼等が突然笑い出したり、話したり、また黙り込んだりするのが代わる代わる聞こえてきた。しかし、茶目っ気のある学生はありったけの機知をレストー氏に対して使って、彼を持ち上げたり、色々な話題に彼を乗せようと試みたりした。それもこれも伯爵夫人にもう一度会いたい、そして彼等とゴリオ爺さんとの関係がどうなっているのかを知りたい一心からだった。この女、明々白々たるマクシムの愛人、この女、夫の正妻でありながら、密かに老製麺業者と繋がりを持っている。彼にとって、この女は謎だらけに見えるのだった。彼はこの秘密を見破り、同時にパリジェンヌの中の最高の華であるこの女性をまるで王のごとく支配出来ないものかという野望に燃えるのだった。
「アナスタジー」伯爵は改めて妻の名を呼んだ。
「行きましょ、私のマクシム」彼女は若者に言った。「仕様がないわ。今晩また……」
「君にお願いしたいんだが、ナジー」彼は彼女の耳に囁いた。「君はあの可愛い若者には来させないようにしてくれないか? 彼の目は君のガウンが半開きになった時、まるで炭火のように燃え上がっていたぜ。彼は君に愛を告白することになる、そして君の名を汚すことになる、そして君は、僕に彼を殺してくれと頼むことになるんだ」
「貴方って頭がおかしいんじゃない、マクシム?」彼女が言った。「あの手の純真な学生って、逆に彼等はちょうどいい避雷針になるんじゃない? 私きっとレストーにあの子に対する嫌悪感を植えつけてやるわ」
 マクシムは大笑いして、伯爵夫人に送られて出て行った。夫人は窓際に立って、彼が馬車に乗るのを眺めた。馬に前足で地面を蹴らせると、彼は鞭を振るった。彼女は大門の扉が閉まるまで戻ってこなかった。
「ねえアナスタジー、想像出来るかね」彼女が戻ってくると伯爵が叫んだ。「彼氏の家族が住み着いてる土地は同じシャラント県の中で六キロと離れてないんだよ、彼氏の大叔父と私の祖父はお互い良く知ってるよ」
「同郷人だと知って嬉しいわ」伯爵夫人はうわの空で答えた。
「貴女が思いも及ばないようなことが、まだあるんですよ」低い声でウージェーヌが言った。
「何ですって?」彼女はびっくりして言った。
「と言いますのは」学生は答えて言った。「僕はたった今、あなたの屋敷からある人が出てゆくのを見たんですが、彼とは同じ下宿で隣り合った部屋に住んでるんですよ、ゴリオ爺さんとはね」
 爺さんという言葉をつけられたこの名前に、火を掻き立てようと、火箸を炉に突っ込んでいた伯爵は、まるで手にやけどでもしたように急に立ち上がった。
「貴方ね、ゴリオ氏と言えんものかね!」彼が叫んだ。
 伯爵夫人は夫のかんしゃく玉が破裂するのを見て、さっと顔が青褪めた、そして次に顔を赤らめ、明らかに困惑の色を浮かべた。彼女は平常心を取り戻そうとするような声音で、うわべは屈託無げな様子で答えた。「私達が誰よりも愛している人ですわ……」彼女は言葉を止め、彼女のピアノを見つめた。彼女の中の何かの空想から目覚めたように彼女が言った。「貴方、音楽はお好きですか?」
「大好きです」ウージェーヌは答えたものの赤くなり、何かとても酷く愚かなことを仕出かしてしまったという思いにうろたえて、どうしてよいのか分からなくなった。
「お歌いになります?」そう叫んで彼女はピアノに向かい、低いC音から高いF音まで、巧みな指使いで実に活き々々とした様子で弾き始めた。「ララララ!」
「いえ、奥様」
 レストー伯爵はそのあたりを行ったり来たりしていた。
「貴方は歌えればきっともてるのに、残念だわ。カーロ、カーロ、カーアーロー、ノン・ドゥビターレ」[28]伯爵夫人が歌った。
 ゴリオ爺さんの名前を口にしたことで、ウージェーヌは魔法の杖を一振りしたことになるのだが、その効果は彼女が先に口にした言葉、すなわちボーセアン夫人の親戚だというあの言葉がもたらした効果とは全く逆のものとなってしまった。彼は好意で骨董愛好家の家に招かれ、そこで不注意に彫像がいっぱい置かれていた棚に手を触れてしまい、くっつきの悪い彫像三、四個の頭を落としてしまったのと、まるで同じような立場に置かれている自分に気がついた。彼はいっそ穴があったら入りたいような気持ちだった。レストー夫人の表情は乾き切って冷淡で、彼女の目はあいにくな学生の目を無関心を装うように避けていた。
「奥様」彼は言った。「どうかレストー様とお話ください。そして私の心からの敬意をお受けください。そして私をお許しください……」
「貴方が来てくださるのなら、いつだって」伯爵夫人はウージェーヌを止める仕草をして大急ぎで言った。「貴方はきっと私達、私は勿論レストー伯爵にとっても何だかこれまでなかったような楽しみを与えてくれそうだわ」
 ウージェーヌは夫妻に対して深々とお辞儀をし、レストー氏に付き添われて部屋を出た。レストー氏はラスチニャックが遠慮するのに構わず、控えの間まで彼を送ってきた。
「やつがまたやって来たら、今後はいつも、奥様も私も、私達はいないと言うんだ」
伯爵が召使のモーリスに言った。
 ウージェーヌが玄関の階段を降りようとした時、彼は雨が降っているのに気がついた。
「そーら」彼は思った。「へまやっちまったな、でもって、その原因も結果も未だに解らねえ、おまけに服も帽子も台無しだ。俺は当分、隅っこにじっとしていて、何をすべきかを見つけ出さなきゃなんない。超有名な裁判官にどうすりゃなれるかだけを考えときゃいいんだ。それが上手くゆけば、俺は社交界にデヴューだ。でもって、そこで上手く立ち回るには幌付二輪馬車が何台か要るし、磨き上げた長靴も要る。まだまだ欠かせない道具がある。金の必要も次々に起こってくるし、六フランで買ったスエードの手袋も、朝は真っ白でも、夜会の頃にはいつも黄色に汚れていたりしてるんだろな、たまんねえ! ヒヒ爺のゴリオ爺さんか、くそっ!」
 彼が大通りの門の下に着いた時、つい今しがた、新婚夫婦を降ろしたばかりの貸し馬車の御者がいた。彼は次の客の指示を主人に訊くよりも、こっそりと闇取引の客を乗せてしまおうと企んでいた。御者は、雨傘もなく黒い服に白いチョッキ、黄色い手袋に泥まみれの長靴といういでたちのウージェーヌを見て、合図を送ってきた。ウージェーヌはここまでの怒りに支配されて、人に耳を貸さない状態になっていた。それはしばしば若者に、偶然ぶつかった深淵をまるで探し求めていた幸運を見出したかのように見誤らせて、その中に益々深くはまり込ませるという心理状態だった。彼は御者の誘いにうなづいて同意した。ポケットの中に二十二スーしかないのに彼は馬車に乗り込んだ。そこにはオレンジの花のかけらと帽子飾りの薄片が散らばっていて、新婚カップルが乗っていた名残をうかがわせていた。
「旦那、どちらへやりましょう?」御者が尋ねてきたが、彼の手袋は既に白いとは言えない状態だった。「勿論、自分で撒いた種なんだから、少なくとも何らかの影響が俺に及んでくるだろう!」ウージェーヌはまだ一人で考えていた。
「ボーセアンの邸へ行ってください」彼は高い声で御者に言った。
「どちらのボーセアンですか?」御者が尋ねた。この絶妙の言葉がウージェーヌを戸惑わせた。この見慣れないきざな男はボーセアンの邸が二ヶ所あることを知らなかったし、むこうでも彼の存在を知らない親類がパリにまだどれくらいいるのかも知らなかった。
「ボーセアン子爵、通りは……」
「ド・グルネル」御者は頭で頷き彼の言葉を遮って言った。「ところがですね、まだ他にもボーセアン伯爵と侯爵の邸があるんですよ。サン・ドミニック通」彼はステップを引き上げながら付け加えて言った。
「僕は知ってますよ」ウージェーヌは憮然として答えた。「今日もまた皆が俺を馬鹿にしやがる!」彼は前の座席に帽子を投げ捨てながら思った。「またまた恥さらしをしては、王様の身代金を払って脱出となるんだろうな。しかし少なくとも、俺は俺のいわゆる従姉のところに、ちゃんとした貴族らしい様子で訪問してやるんだ。ゴリオ爺さんはもう少なくとも一〇フランは俺に使わせやがった。忌々しい爺いめ! そうだ、俺は俺の冒険をボーセアン夫人に話してやろう、多分彼女を笑わせられるだろう。彼女なら、この尻尾のない老いぼれ鼠とあの美しい夫人との罪深い関係の秘密もきっと知っているだろう。あの背徳的で俺にとってはひどく高くつきそうな人妻にぶつかってゆくよりも、従姉に気に入ってもらう方がよさそうだな。あの美しい子爵夫人の名前が、かくも強い影響力を持っているんだから、彼女自身はまだもっと力を揮えるに違いない。そうだ、彼女の助けを借りて俺は高みを目指してやろう。誰だって、天空で何かを獲得しようと思ったら、当然、神のお助けを願うしかないよな!」
 こうした言葉は無数の雑多な考えにもまれて漂ったあげく、ようやく彼が短くまとめた感想だった。彼は降る雨を見ているうちに、いくらか落ち着きと自信を取り戻した。彼は思った。もしまだ残っている大事な百スー貨幣二枚を使ってもいいのなら、彼は喜んでそれで、服、長靴、それに帽子を買い揃えるだろう。彼は御者が「門を開けてください!」と叫ぶのを聞いた時は、何故かこみ上げてくる嬉しさを抑えられなかった。赤に金モールの服の守衛が邸の門の蝶番に向かってぎしぎしと音を立て、それから彼の乗った馬車がポーチの下を通り、庭の方に曲がって、階段の庇の下で停止したのを見ると、ラスチニャックは何か快い満足感を覚えるのだった。赤い刺繍を施された青い幅広外套を着た御者は馬車のステップを降ろした。馬車から降りる時、ウージェーヌは忍び笑いを聞いたが、それは柱廊の下に消えていった。三、四人の召使が早くも俗悪な結婚に使われたこの馬車について冗談を言っていた。その笑い声を聞いた瞬間、学生は自分が乗ってきた馬車とパリでも最高に優美な一台の二輪馬車を引き比べていた。二輪馬車は薔薇の耳飾をしてしっかりとはみを噛んで今にも飛び跳ねそうな二頭の馬にひかれていて、御者も白粉を塗り綺麗なネクタイを締め、まるで馬が逃げ出そうとするのを止めるかのように手綱を握り締めていた。新興ブルジョワ階級地域のショセ・ダンタンではレストー夫人は庭内に二十六歳の青年の美麗な二輪馬車を置いていた。伝統的貴族階級地域のフォーブール・サン・ジェルマンでは大貴族の華やかさが彼を迎えてくれた。そこに停まっている馬車の装備一式は三万フランでも買えるかどうかといったしろものだった。
「あの馬車の持ち主は誰なんだろう?」ウージェーヌはつぶやいた。彼は遅まきながら、一人前の女性で誰とも付き合っていない女とパリで出会うことは極めて難しいことを知った。そして、血縁以外で、この手の女王様を征服することは実に価値の高いものであることも知った。「そうだ! 俺の従姉だって、間違いなくマクシムのような愛人を持っているはずだ」
 彼は真実を悟りぶちのめされた心持で玄関の階段を上った。彼の様子を見ていたのか、ガラス戸が開けられた。彼はそこで櫛を入れてもらったロバのようにきちんとした様子の召使がいるのに出会った。彼が出席したあのパーティはボーセアン邸の一階を占める広い接客用のアパルトマンで催されたのだった。招待を受けてから舞踏会まで間がなかったので、彼は従姉を訪問しておくことが出来ず、彼は未だボーセアン夫人のアパルトマンの奥深くまで立ち入ったことがなかった。それ故に彼は卓越した夫人が、その魂と品性によっておのずから醸し出す極上の優美さを一度はこの目で見ておこうとやってきたのだった。レルトー夫人のサロンが彼に比較する材料を提供していたので、彼の探究心は一段と好奇心を高めていた。四時半には子爵夫人が姿を現した。もう五分早ければ、彼女は自分の従弟の来訪を断っていただろう。ウージェーヌ、そう、彼はパリジェンヌの様々なエチケットを全然知らなかったのだ。ともかくも彼は花でいっぱいの白っぽい色調の大きな階段に導かれ金色の欄干、真紅の絨毯を目にしながらボーセアン夫人の前に辿りついた。がしかし、彼は口伝の伝説、パリのサロンで毎晩のように人々の耳から耳へ語り伝えられるあの移り気な話題の数々を全く知らなかった。子爵夫人はこの三年来、最も高名で最も金持ちのポルトガル人の貴族ダジュダ・ピント侯爵と付き合っていた。それはある種の害のない男女関係で、こうした結びつきをしている二人には大いに魅力があるだけに、彼らには第三者の存在が耐えられないのだ。そしてまたボーセアン子爵自身が、好むと好まざるとに関わらず、こうした身分違いの男女の結びつきに対しても尊重する姿勢を、世間に対する模範として見せていた。彼等の友情が始まった最初の頃、子爵夫人のところへ二時に会うために来た人達は、ダジュダ・ピント侯爵がそこにいるのを見かけることが多かった。ボーセアン夫人は部屋のドアを閉めるわけにもゆかず、それがどうにも不便なことだったので、来た人達をいともよそよそしく通した後は、部屋の蛇腹を一生懸命に見つめるばかりだったので、誰もが自分が彼女にどんなに気詰まりな思いをさせているのかを悟るのだった。パリでボーセアン夫人を二時から四時の間に訪問することは彼女には迷惑だということが知れ渡ると、彼女は完璧な孤独の中にいる自分を発見した。彼女はド・ボーセアン氏やダジュダ・ピント氏と一緒にブフォンあるいはオペラ座へ行った。しかし、ド・ボーセアン氏は心得たもので、潔くいつもポルトガル人を置いて何処かへ行ってしまい、その後二人はそこで落ち着いて過ごせるのだった。ところが、ダジュダ氏は近く結婚することになっていた。彼はロシュフィード家の令嬢と結婚する積りだった。上流社交界にあって、この結婚話をまだ知らない唯一の人物、その人物こそ実はボーセアン夫人だったのだ。彼女の友人のうちの誰かが、このことについて巧みに仄めかしたことはあった。彼女はそれを笑い飛ばした。その友人が彼女の幸せを妬んで、困らせてやろうとしたものだと彼女は考えたのだ。しかしながら、結婚は間もなく公示されることになっていた。ダジュダ氏はこの結婚のことを子爵夫人に知らせるためにやってくるのだが、この気立ての好いポルトガル人は未だに裏切りの言葉を敢えて口にすることが出来ずにいた。何故か? 疑いもなく、ひとかどの婦人に対して、この種の最後通牒を告げるほど難しいことはないのだ。ある種の男は戦場で心臓めがけて刃を突きつけてくるような男と相対している方が、二時間も泣き言を言ったあげく黙り込んで、なおかつ、お望み通りの言葉を待っているような女と対しているより、まだずっと気楽に思えるものなのだ。この時に到ってもまだ、ダジュダ・ピント氏は針の筵の上にいて、何とかしてここから脱け出したいと思っていた。そしてボーセアン夫人は、このニュースをやがて知るだろうと考えていた。彼は彼女に手紙を書き、直に言うより、より易しい方法、つまり文通でもって色恋沙汰のかたをつける積りでいた。子爵の召使がウージェーヌ・ド・ラスチニャック氏の名前を告げた時、それを聞いたダジュダ・ピント侯爵は、嬉しさにぞくぞくしてしまった。ご理解願いたいのは、恋する女は、新しい楽しみを見つけるよりも、往々にしてもっと遥かに賢く疑惑を抱くことに巧みなのだ。だから、彼女がまさに捨てられようという瞬間に立ち至って、彼女は、あのウェルギリウスの使者が、遠くからの風の中に愛を嗅ぎつけた[29]よりも、もっと素早く、侯爵の仕草の中に真意を見抜いたのだった。更にボーセアン夫人は、侯爵の身震いを微かなものだが、心底から恐ろしいものと感じたのだった。ウージェーヌは、誰の家であれ、パリでは決してうかつに人の家に立ち入ってはいけないということを知らなかった。へまなことをして恥をかかないためには、まず、その家の友人のような人から、家の主人の経歴、あるいは妻や子供達のことなども聞き知っておかねばならない。ポーランドでは『あなたの荷車には五頭の牡牛を繋いで引かせなさい』という諺があるそうだが、さしずめ、五人の友人から話を聞いておけば、他人の家のぬかるみに足を取られないですみそうではないか。もしも、このような不運についてフランスではまだ特に範例としてすら挙げられていないとすれば、それは、誹謗中傷が常に圧倒的に流布されるわが国の現状では、それを抑えることは全然無理な話だと我々が思ってしまっているからであろう。ウージェーヌが車に五頭の牛を繋ぐだけの時間すら与えなかったレストー夫人のところで泥沼にはまってしまった後、彼はボーセアン夫人のもとへ立ち寄って、牛飼いの仕事をやり直すしか、どうにも仕様がないのだった。とはいえ、彼はレストー夫人とド・トライユ氏をひどく苛立たせたものだが、ダジュダ氏を窮地から救い出してやったのだった。
「さようなら」このポルトガル人は急いでドアの方へ向かっていたが、ウージェーヌが瀟洒な小さな部屋へ入ってくるのを待っていたかのようだった。そこはグレーとローズ色の控え目な印象だけで豪奢そのものに見える部屋だった。
「だけど今夜は」ボーセアン夫人は振り向いて、侯爵に視線を投げかけながら言った。
「私達、ブフォンには行かないの?」
「私は行けそうもない」彼はドアの把手を掴みながら言った。
 ボーセアン夫人は立ち上がり、彼に傍に来るように呼び戻したが、ウージェーヌのことは気にも留めなかった。ウージェーヌはアラビアのおとぎ話を現実に見ているような、目を見張る富裕の輝きの前に立ちすくみ呆然としていたが、この貴婦人に気づかれもしないで、その面前にいる自分を身の置き場もないように辛く感じるのだった。子爵夫人は右手の人差し指を上げて、可愛い仕草で自分の前の場所を侯爵に指し示した。この様子には情熱がもたらす暴虐的力がこもっていたので、侯爵はドアの把手を放して戻ってきた。ウージェーヌは彼を見て羨望の念を抱かずにはいられなかった。
「ほら」彼は思った。「二人乗りの馬車の男だ! だがパリの女から、見つめられるには、やっぱり前足を蹴上げる様な馬、従僕、そして沢山の金が要るんだろうか?」贅沢の悪魔が彼を蝕んだ。勝ちたいという熱気が彼を捉え、金への渇望の余り彼の喉はからからに渇いた。彼は学期の支払い分の一三〇フランを持っていた。彼の父、彼の母、彼の兄弟、彼の姉妹、彼の叔母、彼等全部の分を合わせても、月に二〇〇フランも使っていなかった。彼の現在の状況とこれからどうしても辿りつかなければならない目標との間の懸隔の激しさに彼は呆然としてしまった。
「どうして」子爵夫人が笑いながら言った。「貴方はイタリア座へ行くことが出来ないのかしら?」
「仕事ですよ! 私はイギリス大使館で夕食することになってるんです」
「貴方、それは断りなさいよ」
 男というやつは嘘をつき始めると、もうどうしようもなく嘘の上にまた嘘を積み重ねていかざるを得なくなるものなのだ。ダジュダ氏もまた笑いながらこう言った。「貴方の命令ですか?」
「そう、その通りよ」
「そりゃまあ、私だってご命令には従いたいですよ」彼は大抵の女なら安心させてしまったであろう綺麗な流し目を送りながら答えた。彼は子爵夫人の手を取ると、それにキスをして出て行った。
 ウージェーヌは手で髪をかきあげ挨拶するために身をよじらせた。ボーセアン夫人が自分に気がついてくれるものと思ったのだ。突然、彼女は駆け出し廊下に飛び出し窓のところへ飛んでいった。そしてダジュダ氏が馬車に乗り込むのを見ていた。彼女は彼の命令する声に耳を澄ませた。そして従僕が御者に命令を繰り返すのを聞いた。ド・ロシュフィード家へと言うのを。この言葉とダジュダが馬車に飛び乗る様子はこの女性にとって閃光と落雷だった。彼女は致命的結果への不安に再び苦しめられていた。上流社会においてはこれ以上に恐ろしい惨事はない。子爵夫人は彼女の寝室へ戻ってくると、机に向かい綺麗な便箋を手に取った。
〈その時〉彼女は書き始めた。〈つまり貴方がロシュフィード家で夕食をとり、イギリス大使館には行かなかったその時から、貴方は私に理由を説明する義務が出来たのです。私は貴方を待っています〉
 彼女の手が痙攣的に震えたためゆがんだ幾つかの文字を修正した後、彼女はCの一文字を記して、娘時代のクレール・ド・ブルゴーニュの署名と知らしむる積りだった。それから呼び鈴を鳴らした。
「ジャック」彼女は直ちにやってきた召使に言った。「貴方は七時半にド・ロシュフィードさんのお宅に行きなさい。貴方はそこでダジュダ侯爵がいるかと尋ねるのよ。もし侯爵様がおられたら、この手紙を彼に届けるように言って、ただし返事は要らないわ。彼がいないようだったら戻ってきなさい、そして私の手紙は持って帰ってきてちょうだい」
「子爵夫人には、お部屋にどなたかが来られてます」
「ああ! 本当ね」彼女はドアを押しながら言った。
 ウージェーヌはとても居心地悪く感じ始めていた。彼はやっと子爵夫人に話しかけられたが、それは彼の心の琴線に触れ、彼の感動を誘う響きを持っていた。「ごめんなさい、貴方、私ちょっと手紙を書いてたものだから。でも、もう貴方のお相手をするわよ」彼女は自分が何を言っているのか分かっていなかった。つまり、彼女が考えていたのはこんなことだった。『あー! 彼ったら、ド・ロシュフィード嬢と結婚したいんだわ。だけど彼ってそんなに好きに出来るの? 今夜にでもその結婚話は壊れるんじゃないかしら、それとも私……だけど明日になれば、そんなこと問題にもなってないでしょうよ』
「ねえさん」ウージェーヌが答えた。
「えっ?」子爵夫人はそう言うと彼の方を見たが、視線にこもった無礼さが学生の心をくじいた。
 ウージェーヌはこの「えっ?」を理解した。今日の午後三時から彼は多くの事を学んできた。だから彼は警戒してかかっていた。
「奥様」彼は顔を赤らめながら言った。彼はためらった、しかし続けて言った。「お許しください。私は沢山の庇護を必要としています。こんな遠縁なのに親切にして頂いて、尚更嬉しく思っております」
 ボーセアン夫人は微笑したが、寂しさは隠せなかった。彼女は自分の周辺に迫っている不幸を既に察していた。
「もし貴女が、私の家族が現在置かれている状況を知って下さったなら」彼は続けて言った。「貴女も恐らく、その名づけ子達の周りにあった邪魔物を吹き払ってやったというあの伝説の妖精の役割を、喜んで引き受けて下さるでしょう」
「あ、そうねえ、坊や」彼女が笑いながら言った。「どうして私が、そんなに貴方の役に立てるの?」
「いや私に分かることでしょうか? 貴女は今では陰に隠れて見えなくなっているものの、かつては本当に財宝のような価値のある絆によって結ばれた親戚筋に当たられる方です。私は貴女に何か言いたくて来たのに、いざ貴女にお目にかかると、それを忘れてしまいました。貴女はパリで唯一私の知り合いと言える人です。あー! 私は貴女に相談に乗ってもらいたいのです。どうか私を、貴女のスカートにすがりつきたいと願い、貴女のためなら死んでもいいと思っている哀れな子供と思って、受け入れてやってください」
「貴方、私のためだったら人一人殺せる?」
「それが二人いたって殺してみせます」
「子供ねー! そうだわ、貴方って子供なんだわ」そう言うと彼女はこみ上げてくる涙を堪えた。「貴方だったら心から愛してくれるでしょうね、貴方なら!」
「おー!」彼はうなづきながら叫んでいた。
 子爵夫人はこの学生の野心的な返答振りに強く惹かれていた。この南仏出の学生は彼が最初の目標としたところには達していた。ド・レストー夫人の青色の閨房、そしてド・ボーセアン夫人の薔薇色の広間を行き来するうちに、彼はパリジャン法の三年分を一気に学んでしまった。それは口に出して言われるわけではないが、広く理解され実施されている高度の法解釈、そしてそれはあらゆる場面で通用するものなのだが、彼はしっかりと心の中に打ち立てた。
「あー! 分かります」ウージェーヌが言った。「私は貴女主催の舞踏会でド・レストー夫人に魅了されました。私は今朝、彼女の家を訪ねてきたのです」
「貴方が押しかけて行って、彼女結構困ってたでしょ」ボーセアン夫人は微笑みながら言った。
「えーと! そうですね、私は間抜けなもんだから、貴女が助けてくださらないと、皆から嫌われるようなことばかりやってしまうでしょうね。私は思うんですが、パリで若い御婦人で綺麗で金持ちで上品で、それでもって決まった相手がいないなんて人に出会うのって、ほんとに難しいですね。だけど私にはそういう人が一人いて、世の中のことを教えてくれることが必要なんです。貴女はそういう人なんです。人生のこととか何でも教えてくれることが出来る人なんです。私は至る所でド・トライユ氏のような人にぶつかるでしょう。そうすると私はまた謎めいた出来事の意味を貴女に尋ねに来て、私が当たり前のようにしてきたことがやってはいけない愚かな行為であるなら、その事を言って下さるようにお願いしたいのです。私はさっき、ある爺さんのことを……」
「ランジェ公爵夫人です」ジャックが学生の言葉を遮って言ったので、彼はひどく苛立ったような仕草をした。
「貴方ね、成功したいんだったら、まず感情を表に出さないことも大事よ」子爵夫人は声を低めて言った。
「あーら! こんにちは、あなた」彼女は立ち上がり、公爵夫人の方へ近づきながら言った。そして彼女はまるで姉妹同士で見せるような優しい心情に溢れた様子で手を差し出した。これに対して公爵夫人の方も、この上なく可愛く甘ったれた様子で応じるのだった。
「やれやれ仲良し二人か」ラスチニャックは思った。「僕はこうなったら二人とも保護者になってもらおう。この婦人達は二人同じような愛情を持っているはずだから、あの婦人だって間違いなく僕に関心を寄せてくれるだろう」
「あなたに会えるなんて一体どういう風の吹き回しなの、アントワネットったら?」ボーセアン夫人が言った。
「そうよ私ダジュダ・ピント氏がド・ロシュフィードさんのお宅へ入って行くのを見たのよ、それで、だったらあなたが一人でお宅にいると思ったのよ」
 ド・ボーセアン夫人は唇を噛む様子もなく、顔を赤らめもせず、その眼差しも変わらなかった。公爵夫人が彼女にとっては致命的なこの言葉を口にした時も彼女の額はつややかに輝いて見えた。
「あなたにお客さんがいらっしゃると知っていたら……」公爵夫人はウージェーヌの方を振り返って付け加えた。
「この方はウージェーヌ・ド・ラスチニャックさんです。私の従弟なの」子爵夫人が言った。「あなたはモンリヴォー侯爵のことで何かお聞きになった?」彼女が続けて言った。「セリジーが昨日私に言ったんだけど、誰も彼を見ていないらしいの、あなたんとこへ今日あたり彼が来たんじゃないの?」
 公爵夫人はド・モンリヴォー氏に捨てられたと言われているのに、彼女の方は狂ったように惚れ込んでいるのだった。この質問は心臓に突き刺さるように感じられて彼女は顔を赤らめて答えた。「彼は昨日エリゼー宮にいたわ」
「お仕事だったのね」
「クララ、あなたきっと知ってるはずなんだけど」公爵夫人は悪意が溢れ出さんばかりの眼差しを投げかけながら切り返した。「明日ダジュダ・ピント氏とド・ロシュフィード嬢のことで公示が出るんでしょ?」
 この一撃は実に手ひどいものだった。子爵夫人は青褪めたが笑いながら答えた。「そんな騒ぎなんて、下らない連中が勝手に楽しんでるだけよ。どうしてポルトガルで一番美しい名前をダジュダ氏がロシュフィード家に持ってゆくのよ? ロシュフィード家ってのは、昨日今日爵位を貰ったばかりの連中じゃない」
「だけど、ベルトが持ってる国債は合わせて二〇万リーヴルに達すると言われてるわよ」
「ダジュダ氏はお金持ち過ぎて、その辺の計算が出来ないのね」
「だけどあなた、ド・ロシュフィード嬢は魅力的だわ」
「そうかもね!」
「とうとう彼は今日あそこで夕食をとる。条件が決まる。私、あなたがこのことを知らなさ過ぎるのが不思議でびっくりしたわ」
「こういう馬鹿々々しいこと、貴方もやっちゃうのかしらね?」ド・ボーセアン夫人がウージェーヌに言った。「この可愛い坊やは、たった今、社交界に投げ入れられたもんだから、彼にはちんぷんかんぷんなのよ、ねえアントワネット、私達が話してることについてはね。彼に悪いからこの話は明日にしましょう。明日よ、いいわね、何もかもきっと正式なことが分かるわ。そして、あなたの言ってることは必ず間違いだと判るはずよ」
 公爵夫人はウージェーヌに視線を向けたが、それは一人の男を頭のてっぺんからつま先まで眺めやって、男をぺしゃんこにして無価値たらしめてしまうような、そんな無礼さに満ちたものだった。
「奥様、私は何も知らないままド・レストー夫人の心にナイフを突き立ててしまいました。何も知らずに……まさに私の過ちでした」
 学生はその天分を遺憾なく発揮して、二人の婦人の情愛溢れる言葉の下に隠された寸鉄人を刺す警句の辛辣さをも暴いてみせた。「貴女は沢山の人とお会いになってこられ、その中には多分、貴女の不幸にも密かに関わっている人間もいるのではないかと心配もなさっているのでしょう。でも他方、自分が人に与えた傷の深さに気づかないまま、人に危害を加えるような輩は、自分を生かす方法も知らない愚かな粗忽者と、皆に軽蔑されるのがおちです」
 ド・ボーセアン夫人は学生に向かって、あの高邁な心の人のみが放つ視線、そこには感謝と尊厳が同時にない混ぜになったあの視線を投げかけたのだった。その眼差しは公爵夫人が来訪者を値踏みする守衛のような一瞥で傷つけた学生の心を優しく慰めてくれた。
「想像出来ますか、私がたった今」ウージェーヌが続けた。「ド・レストー伯爵が私の未熟さを大目に見てくれたことに気づいたんです。何故って」彼は公爵夫人の方に向かって謙虚に、だがいたすらっぽい様子で言った。「これは是非聞いてください、奥様、私はまだ哀れな学生の分際に過ぎません。いかにも孤独で、いかにも貧乏です」
「それは口にしないで、ド・ラスチニャックさん。私達女というのはね、誰も受け入れないその手の人のことなんて絶対に聞きたくもないのよ」
「へえ!」ウージェーヌは驚いてみせた。「私はまだ二十二歳です。年齢の不利をカバーすることを考えないといけませんね。確かに私は今、告解室にいます。しかも、これほど美しい告解室で膝まづくことなんて他にはないでしょう。ここでは私達は他所でなら咎めたであろうような罪を犯してしまうことでしょう」
 公爵夫人はこの信仰心の薄い議論に冷淡だったので、子爵夫人に悪趣味な話を止めさせようと持ちかけるところだった。「この方の話って……」
 ド・ボーセアン夫人は従弟のことを、そして公爵夫人のことをいかにもおかしそうに笑い始めた。
「彼はこのために来たんだわ、あなた、つまり良い趣味を教え込んでくれる女性教師を探しに来たってわけよ」
「公爵夫人の奥様」ウージェーヌは言った。「私達を魅了するものの秘密を学ぼうと望むのは自然なことではないでしょうか?」彼は自分で感じていた。「ちっ! 俺って、彼女達にお上手ばかり言って、これじゃ、美容師と全然同じじゃないか」
「でもド・レストー夫人って、私思うんだけれど、ド・トライユ氏とは付き合い始めたばかりでしょ」公爵夫人が言った。
「私はそれについては何も知りません、奥様」学生が答えた。「そのため私は軽率にも、彼等二人の間に飛び込んでしまったのです。最後には私はあの御主人と何とか理解し合えるようになりました。あの夫人にとって、私というものがある瞬間ずいぶん厄介な存在になっていたと思います。それは私が彼等に向かって、とんでもないことを言い出したからです。私がそこへ行く前に、ある人物が忍び階段から出てゆくのを見たのですが、その男のことを知っていると彼等に言ったのです。しかも、その男は廊下の突き当たりで伯爵夫人を抱いたりもしていたんです」
「それって誰なの?」二人の婦人が同時に尋ねた。
「一ヶ月二ルイでサン・マルソー街の奥に、この貧乏学生の私と同じように住んでいる老人ですよ。本当に不幸せな人で、皆に馬鹿にされて、僕達は彼のことをゴリオ爺さんて呼んでるんです」
「あらまあ、貴方みたいなまるで子供にまで」子爵夫人が叫んだ。「ド・レストー夫人はゴリオのお嬢さんの一人なのよ」
「製麺業者とかの娘ね」公爵夫人も言った。「卑しい身分の娘が、ケーキ屋の娘が申し込みをしたのと同じ日に、自分も結婚の申し込みをしたのよ。あなたもあの事覚えてるかしら、クララ? 王様がこのことを最初に茶化したのよ、それは小麦粉にちなんだことで何かラテン語で上手い言葉で。民衆から、ねえどう言ったかしら? 民衆から……」
「エユスデム・ファリナエ(素は同じ小麦粉)」ウージェーヌが言った。
「そっ、それよ!」公爵夫人が言った。
「あー! 彼は彼女の父だったのか」学生は恐ろしげな身振りをして言った。
「その通りよ。あのお爺さんには二人の娘さんがいて、彼はその二人にはもう夢中なのよ。だけど二人とも彼に対してはほとんど知らん顔してるんだわ」
「次女はあれじゃない?」子爵夫人はド・ランジェ夫人を見ながら言った。「ドイツ風の名前の銀行家と結婚したのね、ド・ニュシンゲン男爵とか言ったかしら? 彼女はデルフィーヌとか言うんだったわね? 金髪の娘でオペラ座の近くに家があるのね、そしてブフォンにも来てるんだけど、とても高い声で笑って目立ってる娘じゃなかった?」
 公爵夫人は笑って、こう言った。「だけど貴方、私、貴方には感心してしまうわ。貴方って、どうしてあの人にそんなに一生懸命に関わってるの? アナスタジー嬢に粉まみれになるまで付き合うんなら、レストーのように心底惚れ込んでしまわなきゃね、あー! 彼もそのうち小麦粉まみれの商売人に嫌気がさすでしょうね! 彼女はド・トライユ氏の掌のうちにあるんだけれど、続かないでしょうよ」
「彼女達はその父親に知らん顔をしている」ウージェーヌが繰り返した。
「まあ! そうね、彼女達の父親、あの父親、父親ってやつ」子爵夫人が答えた。「あの優しい父親が彼女達にあげちゃったって噂よ、それぞれに五十万とか六十万フランをね。娘達に良い結婚をさせて幸せをつかまえさせてやるためよ。そして彼自身には年利八千から一万リーヴルまでの年金しか残してないの、それというのも娘達はずっと彼の娘でいてくれると思っていたし、彼は二人の娘達にとって存在し続け、彼が愛され優遇される二軒の家があるものと思い込んでいたのよ。二年もすると娘の婿達は彼等の社交界から、彼のことを最低に惨めったらしい人間のように追っ払うようになったんだわ……」
 ウージェーヌの目に数滴の涙が溢れ出した。彼は家族への純粋で聖なる思いを今更ながら新たにし、一方で若者らしい思考の魅力に未だ支配されていた。そして彼はパリ文明の戦場に足を踏み入れてまだ最初の日々を過ごしただけだった。真の感動が互いの心を揺さぶり、三人は一瞬黙って互いに見つめあった。
「あー! 本当に」ランジェ公爵夫人が言った。「そうね、これは恐ろしい話だわ。それなのに私達は毎日のようにこんなことを見てるんだわ。これって何か理由があるのかしら? ねえ教えてよ、あなた、このお婿さんとかのこと一度でも考えたことあって? お婿さんという人種ね、この人種の男のために私達女は育てられる、あなたや私もね、綺麗な可愛い女の子ってやつよ、この娘に家族は千本もの絆を結びつける、この娘は十七年もの間、多分、家族にとって喜びでしょうし、家族の無垢の魂の象徴でもあると、ラマルティーヌ[30]ならそう言うことでしょう、そのくせやがて彼女は手に負えない嫌な女になっちゃうのよね。この男が我々から彼女をひとたび連れ去ってしまうと、彼はその愛をまるで斧のように振り回して、天使の様な心で彼女が家族と深く結ばれていたあの感情の全てを断ち切ってしまおうとするのよ。昨日は我が娘は完全に我々家族のものだった、そして、我々もまた完全に彼女のものだった。ところが翌朝になると、彼女は我々の敵となってしまう。こんな悲劇が毎日のように起こっているのを、我々は知らないなんて言える? 言えないわよね。こちらでは嫁が義父に向かって最低の無礼を働いている、しかも義父はその息子のために全ての犠牲を払ったというのによ。最も酷いのは、婿が義理の母親を追い出すってやつ。私は何が一体この社会の中で今日の悲劇を生む原因になっているのか訊きたいわ。だけど、結婚後の些細な茶番劇までは言わないけど、婿をテーマにした劇は恐ろしいものよ。私にはあの老製麺業者に起こったことがはっきりと分かったわ。私はあのフォリオのことを覚えているような気がする」
「ゴリオです、奥様」
「そう、あのモリオは革命の時、彼の地区の委員長だったんだわ。彼はあの有名な食料不足の内情を良く知っていたのよ、それであの時に自分が仕入れた値の十倍もの値をつけて小麦粉を売ったんだわ。それから彼は財を築き始めたのよ。私の祖母の家の執事が彼に大変な量の食糧を売ったの。このゴリオは間違いなくあの手の連中と同じように公安委員会に[31]属していたんだわ。私が覚えているのは、私の祖母は小麦を供出したおかげで、どこにでも通用する住民カードを手に入れたようなものなので、グランヴィリエでは完全に安全に過ごせるんだって執事が言ってたことよ。とにかくよ! このロリオ、彼は小麦を首切り人達に売りまくったんだけど、唯一つだけの情熱を持っていただけなの。彼は自分の娘達を溺愛してたって言われてるわね。彼は上の娘をレストー家へ嫁がせ、もう一人の娘はド・ニュシンゲン男爵にくっつけることが出来たの。これは大金持ちの銀行家で王党派の人よ。貴方よく分かるでしょ、帝政下で二人のお婿さんにとって、この九十三年時代[32]の老人を迎え入れることは、そんなに嫌でもなかったのよ。それはブゥオナパルトとも上手くやってゆくのに役立ったのでね。だけどブルボン王朝が復活すると、この親父はド・レストー氏には邪魔になってくるし、銀行家にとっても更に困った存在になってしまったの。娘達は多分ずっと父親を愛していたんだけれど、ここで二股をかけることにしたんだわ、父親と夫にね。彼女達は家に誰もいない時にゴリオに来させたの。彼女達はそれを優しさを見せるいい機会だと思っていたのね。『パパ、いらっしゃい、私達嬉しいわ、だって、私達には誰もいないのよ!』とか何とか。私はね、本当の愛とは慧眼であって英知だと思うの。だからこの哀れな九十三年爺の心はすっかり傷ついていたんだわ。彼は娘達が彼のことを恥じていることに気づいていた。彼女達が夫を愛するならば、彼は婿達にとって障害になることも。だから彼はみずから身を引くしかなかったの。彼は犠牲を払ってきた、何故なら父親だったから。彼は自分で離れていったの。娘達が満足しているのを見ると、彼は自分が上手くやったなと思えるのね。父親と子供がこの小さな罪で共犯者になってたのよ。こんなことって、私達、どこででも見るわね。このドリオ爺さんていう人、自分の娘達のサロンでも、汚れた油のしみのようなものだったのかしらね? 彼はそこで邪魔になっているのではないかと心配になってきたの。この親父に起こったことは、たとえば、飛び切り綺麗な女性が、一番好きな男と一緒になった場合にだって起こり得るのよ。どういうのかって言うと、彼女が彼を愛し過ぎて、うんざりさせてしまったら、彼は姿をくらましちゃう、卑怯にも逃げ出しちゃうのよ。人の感情なんて、みんなそんなものよ。私達の心というのは言ってみれば宝庫なのよ。だから、それを一遍に空にしてしまうと、それは貴方の破滅よ。私達が、すっかり明からさまに晒け出してしまえるのは、せいぜい一つの感情だけで、それも、何の不安も抱かずに打ち明けられるたった一人の人にのみ、そうすることが許されるのよ。私達のテーマのこの親父は総てを与えてしまったわね。彼は二十年間にわたって、心の総てを、彼の愛を、与え尽くしたの。彼は一日にして、彼の財産も与えてしまったの。レモンは十分に搾り切られ、彼の娘達は、その皮だけを道端に捨てて立ち去ったのよ」
「世の中って汚いものね」子爵夫人はショールの端をいじくりながら、目を上げることもなく言った。というのは、ランジェ夫人が彼女に向かってこの話をした時、語ったその言葉が、彼女をひどく傷つけたからだった。
「汚らしいですって! いいえ」公爵夫人が答えた。「当たり前に言ってるのよ、それだけだわ。私があなたにこんな風に話すのは、私は世の中で騙されやすい人間ではないことを言いたいためよ。私はあなたと同じように考えてるわ」彼女は子爵夫人の手を握り締めながら言った。「世の中は泥沼よ、高見の見物とゆきたいものね」彼女は立ち上がり、ボーセアン夫人の額にキスすると、こう言った。「今のあなたって、とても綺麗だわ、ねえ、これまで見たことがないくらい美しい顔色だわ」それから彼女は従弟といわれる若者に軽く頭を下げて出て行った。
「ゴリオ爺さんて、偉いんだ!」ウージェーヌは夜中に銀メッキの皿を折曲げていた彼を見たことを思い出しながら言った。ボーセアン夫人は聞いていなかった。彼女は物思いにふけっていた。どのくらい沈黙のときが流れただろうか。哀れな学生は何かばつの悪さがあって、どうしてよいのか分からず、出てもゆけず留まってもおれず、話すことも適わなかった。
「世の中って汚らしくて意地悪だわ」子爵夫人がやっと口を開いた。「何か不幸があると、直ぐにそのことは友達に分かっちゃうのね、それでまた直ぐに、私にそれを話に来るんだから、しかも、私の心を短刀で刺すようにしてねちねち調べるんだから、そして、私の間抜けぶりにたまげて見せるのね。そう言えば前々から皮肉とか冷笑とかがあったわ! あー! 私は防げたはずなのに」彼女はかつてそうであった大貴族の婦人らしく頭を上げた。誇り高いその両眼がきらきらと輝いていた。彼女はウージェーヌに気がついて言った。「あー! 貴方いらしたのね」
「まだ、いました」彼は情け無さそうに言った。
「そうねえ、ラスチニャックさん、この社交界というものは、せいぜい役立つように利用することね。貴方はその中に飛び込んでゆくお積りのようだから、私お助けする積りよ。貴方は女達の腐敗がどれほど深いかを測り、虚栄に満ちた男達の悲惨の大きさも目の当たりにすることでしょう。私は社交界を描いた本があるとすれば、結構よく読んできた積りなんだけれど、その私にもまだ知らなかったような頁もあったんだわ。今になって私は全てを知ったのよ。より冷静に計算すればするほど、貴方はよりいっそう前へ進めるのよ。情け容赦なく人をぶって御覧なさい、後が心配になるわ。男も女も中継駅ごとに乗り捨てにする郵便馬車のようにお付き合いなさい、そうすれば貴方は遂にはお望み通り頂上に達することが出来るでしょう。ところがね、そこまでいっても貴方に好意を持ってくれる何処かの婦人が貴方の女になってくれない限り、貴方はそれっきりよ。彼女は若くて金持ちで上品でなきゃいけないわ。だけど、もし貴方が本当の感情を抱いたなら、それは宝物として隠しておきなさい。決してそれを感づかれないようになさい、でないと貴方はそれを失くすわよ。それから、貴方は処刑人にもならないこと、でないと貴方が処刑される人間になってしまうわ。もし貴方がまだ本当の愛に出会ったことがないなら、当面は貴方の秘密はしっかりと自分一人で守りなさい! 貴方が心を打ち明けられると十分確信出来る人に出会うまでは、秘密は決して漏らさないこと。まだ存在していないこの真実の愛をあらかじめ担保しておくには、この社交界を信用しないことを貴方は学ぶべきだわ。聞いてねミゲル……(彼女は思わず名前を取り違えたが、それにも気づかなかった)何とも恐ろしいことがあるものねえ、だってあの親父なんて死んだ方がいいなんて思ってるあの二人の娘によって捨てられた父親の話だって、まだましだって言うくらいよ。何が怖いって、それは彼女達の間にある姉妹のライバル意識よ。レストーには貴族の家柄というのがあるの、彼の妻は養女として迎えられた、彼女は贈り物だったのね。一方彼女の妹、金持ちの妹、あの綺麗なデルフィーヌ・ド・ニュシンゲン夫人は金融業者の妻なんだけど、悲しみに沈んでいる。嫉妬心が彼女を虜にしていて、姉とは全く没交渉の状態ね。彼女にとって最早、姉なんていないようなものよ。唯この二人の女も父親を通じてだけ、お互いに合流することがあるのよ。その上、ニュシンゲン夫人ときたら、私のサロンに入るためだったら、サン・ラザール街とグルネル街[33]の間の泥水だって飲み干してもいいくらいに思ってるはずよ。彼女はド・マルセイのハートを射止めたと思って、ド・マルセイの言いなりになったの。ところがド・マルセイはうんざりしちゃったのね。ド・マルセイは彼女のことなんか、ほぼ眼中になかったのよ。もし貴方が仲介して彼女を私のところへ来させてあげれば、貴方は彼女のお気に入りになって、彼女は貴方を熱愛することになるわ。貴方が二番手でもいいのなら、彼女を愛してあげて、でなくても彼女を利用することよ。私は彼女に一度か二度会ったわ、大きな夜会で混雑してる時にね。だけど私が彼女と日中に会ったことは全然なかったわ。私がそのうち彼女に挨拶しとけばそれで済むことだわ。貴方はゴリオ爺さんの名前を言ってしまったばかりに、レストー伯爵夫人の戸口から締め出されたのよ。ね、そうでしょ、貴方はレストー夫人を訪ねて二十回行って御覧なさい、貴方は二十回とも留守だって言われてしまうわ。貴方は出入り禁止ってわけよ。仕様がないわ! じゃあね、ゴリオ爺さんが貴方をデルフィーヌ・ド・ニュシンゲン夫人のそばへ案内してくれるっていうのは、どお? あの綺麗なニュシンゲン夫人なら、貴方にとって格好のお飾りになるわ。男達は彼女に目を引かれてしまうでしょうし、女達は貴方に夢中になるわ。彼女のライバル、彼女の友達、彼女の親友達までもが、彼女から貴方を奪おうとするでしょう。世の中の女は他の女に好かれている男を愛するものなの、ちょうど哀れな市民階級の人が我々の帽子を奪って、我々の物腰態度を手にいれようとするようなものよ。貴方、もてることよ。パリでは、もてるかどうかが大切なの、何をするにもそれが鍵になるのよ。もし女達が貴方を機知と才能に富んだ人だと思ったら、男達も、そうだと信じるようになるの、貴方が敢えて誤りを正さなければね。そしたら貴方は何でも思いのままよ、どんな高貴な場所にも足を踏み入れることが出来るのよ。そして貴方は社交界とは騙される人間と騙す人間の寄り集まりだってことを知るでしょうよ。騙される方にも、また騙す方にも入っちゃ駄目よ。私は貴方がこの迷宮に入って行くに際して、アリアーヌの導きの糸[34]として私の名前を使うことを許すわ。それを汚さないようになさい」彼女は首を曲げて女王の眼差しを学生に放ちつつ言った。「それは真白なままで返してね。もう、行って、私を一人にさせて。私達女はね……私達にもまた、女の戦いが待っているのよ」
「貴女のために地雷を仕掛けるくらいのことなら、喜んでやる男が必要なのではありませんか?」ウージェーヌは彼女を遮って言った。
「さあ! どうかしらね?」彼女が言った。
 彼は自分の胸をドンと叩いて見せて、従姉の微笑に微笑みを返して、部屋を出た。五時だった。ウージェーヌは腹が減っていて、夕食の時間に間に合わないのではないかと心配だった。パリに来て間もないのに、陣地を獲得した幸運があるからこそ、こんな心配もしなければならないのだと彼は感じた。純粋に無意識的なこの喜びで、彼はすっかり物思いにふけっていた。彼の歳の若者というのは軽蔑され傷つけられると、かっとなって、怒り狂い、社会全体に対してこぶしを振り上げ、復讐してやると思いつつも、自分自身にもまた疑いを抱いてしまうものである。ラスチニャックは今のこの瞬間まさにあの言葉に押しつぶされそうになっていた。『貴方は伯爵夫人の戸口から締め出されたのよ』「やるぜ!」彼は心に叫んだ、「例えボーセアン夫人が正しく、俺が出入り禁止を食らっているにしても……俺は……レストー夫人が行く先々のサロンの何処にでも俺はいてやるんだ。俺は武器の使用法を習い、ピストルの撃ち方も習い、俺はあいつを殺す、あのマクシムを! そして金だ!」日頃の思いが口をついて出た。「どうやって、お前はそれを手に入れるんだ?」突然レストー伯爵夫人の邸に満ちていた豪華さが彼の目の前に輝くように見えた。彼はまさにその中で、ゴリオ嬢の一人が愛人となっている豪華絢爛や、金の飾り物、人目につく高価なオブジェ、成金趣味の愚かしい贅沢、囲われた女の浪費振りを既に目にしていた。その目くるめく印象はボーセアンの荘厳な邸の前にあっという間に打ち砕かれてしまった。パリの社交界の上流階級に投げ込まれて、彼の想像力は彼の心の中に無数の悪しき考えを吹き込んだ。彼の頭の中と意識はそれらでいっぱいに膨らんだ。彼は世の中のあるがままを見た。すなわち、法と道徳は富の前には無力である。そして富の中にこそ究極の王者の論拠を見出せるのである。
「ヴォートランが正しい。富こそが美徳だ!」彼はそう思った。
 ネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通へ着くと、彼は急いで自分の部屋に行き、御者に二〇フラン払うためにまた降りてきた。途中でいつもの吐き気を催させる食堂をのぞくと、そこには飼い葉桶の前に並んだ動物のように十八人の会食者がたらふく食べている姿が見えた。この惨めったらしい光景とこの部屋の眺めが彼には恐ろしかった。変化はとても唐突で環境の違いが余りにも際立っていたので、彼に野心的感情を過度に膨らませるなと言っても無理な話だった。一方には優美を極めた社交界が自然に放つ新鮮で魅力的なイメージ、若く活発な姿、最高の美術や豪華さに縁取られ、詩情に溢れた情熱的な頭脳がある。他方には泥で囲まれたような不吉な絵があるかと思えば、人々の顔にも情熱は擦り切れた織り糸と骨組みだけをかろうじてうかがえるに過ぎない。捨てられた女の怒りがボーセアン夫人の口をついて出て来させた教訓、その言葉巧みな教育は彼の記憶の中に刻まれ、そこにある悲惨さも彼に知らしめた。ラスチニャックは富に辿りつくために、二本の堀を平行して掘ることを決意した。学問と愛の双方に賭ける、つまり、知識を極めて博士となる一方で、流行を追って時代の寵児でもありたいと思った。彼はまだまだ子供だった! この二本の堀は、決して合流しない漸近線のようなものだった。
「あんたはえらく暗い顔つきですね、侯爵殿」ヴォートランが彼に、まるで胸に秘めた秘密を探り出そうとするかのような視線を投げつつ声をかけてきた。
「僕は僕のことを侯爵殿と呼ぶような人の冗談には気持ちよく応じる気分じゃあないです」彼は答えた。「ここで本当に侯爵だというんなら、その人は一〇万リーヴルの年金を持っているはずです。ところが、メゾン・ヴォーケを見回しても、皆、間違いなくお金に縁のない人達です」
 ヴォートランはラスチニャックを父性的な、それでいて意地悪な様子で眺めやった。あたかもこう言っているようだった。『がきめ! お前なんかいつだって片付けちまうぜ!』それから彼はこう答えた。「あんたはご機嫌が宜しくないようですな、多分あんたはあの美しいレストー伯爵夫人と上手くゆかなかった、それでですね」
「彼女は僕を締め出した、それというのも、僕が彼女に彼女の父親が我々と同じテーブルで食事をしていると言ったからなんです」ラスチニャックは叫んだ。
 会食者は皆お互いを見つめあった。ゴリオ爺さんは目を伏せ、次いでそれを拭うために横を向いた。
「貴方の煙草が目にしみました」彼は隣の人にそう言った。
「ゴリオ爺さんを怒らせた人は、これからは僕にその言い訳でもしてもらわねばならないでしょうね」ウージェーヌは昔の製麺業者の隣の人を見ながら答えた。「まあ我々全部寄せ集めたよりも彼は偉いんだから。あ、僕はご婦人方のことを言ってるんじゃありませんよ」彼はタイユフェール嬢の方に向かって言った。
 この言葉で話は落ち着いた。ウージェーヌが会食者達に静粛を求める声音で話したからだ。ヴォートランだけは冷やかすような調子で彼に言った。「ゴリオ爺さんのことをあんたが引き受けて、彼について責任ある情報局となる積りなら、剣を上手に使うことやピストルを上手く撃つことを習わなければなりませんよ」
「そうします」ウージェーヌが言った。
「あんたは今日既に戦いを始めたのかね?」
「恐らくね」ラスチニャックが答えた。「しかし、僕のことについては誰にも説明する義務はないですよね。だって僕も他人が夜中にやってることを探ろうなんて思いませんからね」
 ヴォートランはラスチニャックを横目でにらんだ。
「あんたね、操り人形に騙されたくなかったら、すぐさま見世物小屋に入ることだよ。幕の穴から覗いて、何も見えなかったなんてことのないようにな。その話はもうやめよう」彼はむかっ腹を立てそうなウージェーヌを見て付け加えた。「あんたがよければ、我々二人で少し話し合おうじゃないか」
 夕食は暗くて冷たい雰囲気になった。ゴリオ爺さんは学生の言葉によって深い憂愁の中に沈んでしまっていたので、人々の彼に対する思い様が変化したこと、そして若者が非難の声を沈黙させ、彼を守ってあげたことにも気がつかないでいた。
「ゴリオさん」ヴォーケ夫人が声を低めて言った。「近々、伯爵夫人の父親を名乗られるんですか?」
「そして、男爵夫人のもね」ラスチニャックが彼女に応じた。
「彼が考えてるのはそれだけだね」ビアンションがラスチニャックに言った。「僕は彼の頭に注目してるんだ。特徴的な隆起は唯一つだけなんだけど、父性愛ってやつだよ、一種、父性の権化ってとこかな」
 ウージェーヌはとても生真面目だったので、ビアンションの冗談にも笑えなかった。彼はボーセアン夫人の忠告を生かしたいと考えていて、どこでどうやって資金を確保したらよいものか自問自答していた。彼は社交界の大草原を見ていると、それは彼の目にはものすごい速さで沢山の事がいっせいに展開されているように見えて、何か不安にもなってきた。夕食が終わった時、彼と同じように食堂に残っていた人が一人いた。
「お話では、貴方は私の娘に会われたんですか?」ゴリオが彼に感情のこもった声で尋ねた。
 爺さんの声で瞑想から我に返ったウージェーヌは彼の手を取り、ある種の感動をこめて爺さんの顔を見つめた。「貴方は勇敢で実に立派な人物だったんですね。貴方の娘さん達のことは、また後で話しましょう」彼はゴリオ爺さんの返事を聞こうとはしないで、立ち上がり部屋へ戻り、母に次のような手紙を書いた。
〈愛する母さんへ。僕に恵んでくれるためのへそくりを母さんは持っていないかなあ。僕は急いでちょっとした金を作らなければならない立場にあります。僕は一二〇〇フラン要ります、どうしても必要なのです。僕のこのお願いについては父さんには何も言わないで下さい。彼は恐らく反対するでしょう。そして僕はこのお金を手に入れることが出来なければ、僕はすっかり絶望に陥ることになり、僕の頭は燃え狂ってしまうことでしょう。僕の目的は今度会った時に説明します、何故なら僕が今置かれている立場をお母さんに分かってもらうには、大変な量のことを書かねばならないからです。僕は遊んでいたわけではありません、母さん、僕は借金も全然していません。しかし、母さんがこれまで僕に与えてくださったような人生を僕に続けさせてやろうとお考えなら、僕にはこれだけのお金が必要なのです。ところで、僕はボーセアン子爵夫人の家へ出入りするようになり、彼女は僕の面倒を見てくれることになりました。僕は社交界に出なければなりません、しかしながら、恥ずかしくないような手袋を買うにも一スーの金もないのです。僕はパンだけ食べ、水だけ飲み、必要とあらば絶食さえ出来ます。しかし、僕の目の前に道具があって、誰もがその道具を使ってこの国の葡萄畑で働いている、それを黙って通り過ぎるわけにはゆきません。僕にとって今は自分の道を切り開くか、ぬかるみの中に留まっているかの分かれ道にいるのです。僕はあなたが僕にかけて下さった大きな期待のことを知っています。それだけに、早くそれを実現したいと思うのです。お母さん、お持ちの古い宝石類のどれかを売ってもらいたいのです。いつの日か、僕が新しく買って償います。僕は家族の境遇をよく知っているだけに、このような大きな犠牲には感謝してもし切れないと思っています。そして母さんは僕がお願いしたからには、それらを無駄にはしないだろうと考えてくれるものと思っています。そうでなければ、僕なんてとんでもないやつです。どうか僕のこのお願いはやむを得ない必要に迫られた叫びだと聞いてください。我が家の将来は本当にこの援助金にかかっていると言えるでしょう。僕はこれを使ってキャンペーンを始めなければなりません。というのは、パリにおけるこの人生は果てしない戦いだからです。もし金額を満たすためには叔母さんの店でレースを売る以外に方法がなければ彼女に言ってください。僕が彼女のところへ最高に綺麗な品物を送りますから。云々〉
 彼は彼の妹達にも、それぞれに宛てて彼女達の貯金を回して欲しいと頼む手紙を書いた。そして彼女達が兄のためには喜んで払ってやろうという犠牲のことを家族の中ではしゃべらせないで貯金を巻き上げてしまうために、彼は彼女達の若々しい心に特に見事に張られて強く響く名誉心の琴線に触れることで、彼女達の心遣いを引き出すことが出来た。しかしながら、彼はこれらの手紙を書き終えた時、無意識のうちに心がわななくのを感じた。彼は動悸した。彼は震えた。この若き野心家は静寂の中に隠れている彼女達の魂の無垢な気高さを知っていた。彼は二人の妹達にどれほどの苦労をかけるのか、その一方で、それは彼女達にとってどれほどの喜びとなるのかも知っていた。彼女達はどんなに楽しく最愛の兄を葡萄畑の奥に秘密にかくまおうとしているのだろうか。彼の鋭敏な知覚は彼女達が秘密でささやかな宝物を隠し持っていることを探り出していた。そして彼は若い娘達が天才的ないたずらっ子振りを見せながら、彼にこの金を届けるために、生まれて初めての巧妙極まる欺瞞を試みるのを目にした。「姉妹の心は一個の純粋なダイヤモンドだ、測り知れないほどの大きな優しさだ!」彼は思った。彼は手紙を書いたことを恥ずかしく思った。彼女達の祈りは何と力強いのだろう、天に向かっての彼女達の魂の迸りの何と純粋なことだろう! かくも卑しい欲望で彼女達を犠牲にすることが許されようか? 母が全額を送ってやることが出来ないとしたら、彼女はどんなにひどい悲しみに襲われることだろう! 彼女達の美しい気持ち、この恐ろしい犠牲は彼にデルフィーヌ・ド・ニュシンゲンに達するための梯子を提供しようとしていた。家族の聖なる祭壇に撒かれた香料の最後の一粒が、彼の目からどんなに多くの涙を溢れ出させたことだろう。彼は絶望でいっぱいになり、興奮して一人で部屋を歩き回っていた。ゴリオ爺さんがそのような彼を半開きになっていた扉越しに見つけ、入ってきて彼に言った。「どうかされたんですか、貴方?」
「あー! お隣さん、貴方が父親であるように、僕の方は息子であり兄弟でもあるんですね。貴方が伯爵夫人アナスタジーのことをひどく心配なさるのは当然ですよ。彼女はマクシム・ド・トライユとか言う男の恋人ですが、彼は彼女を捨てるでしょう。」
 ゴリオ爺さんは何かを口ごもりながら立ち去ったが、ウージェーヌには彼の言葉にこもる感情が良くつかめなかった。翌日、ラスチニャックは手紙を郵便局に出しに行った。彼は最後まで迷ったが、俺は成功するんだ! と心の中で言いつつ投函した。それは賭博者の言葉、名将の言葉であり、あるいは人を救う以上に多くの人を破滅させた運命論者の言葉でもあった。
 何日か経ってウージェーヌはレストー夫人を訪ねて行ったが、家へ入れてもらえなかった。三回そこへ行ったが、三回とも門は閉ざされていた。彼はマクシム・ド・トライユ伯爵がそこにいないはずの時間を見計らって行ったにもかかわらずだ。子爵夫人が言ったことは正しかった。学生はもう勉強をしなくなった。彼は出席をとられたら返事をするために授業に行った。そして出席の証明が終わると直ぐにずらかった。彼は大部分の学生がとっている理屈に従って行動した。彼は試験を通過する肝心な時だけ勉強をした。彼は二年目、三年目の授業も申し込む決心をし、それから最後に一挙に真剣に法律を学ぼうと思った。彼はそのようにして、十五ヶ月間というもの自由にパリという海を航海する時間を持った。彼はその間、女性との付き合いにふけり、あるいは思わぬ財産も得た。この一週間に彼はボーセアン夫人とは二度会ったが、彼女の家に行くのはダジュダ侯爵の馬車が出て行った後の時間に限っていた。まだ幾日かの間、この華やかな女性、フォーブール・サンジェルマンで誰よりも詩情を誘う人物は勝ち誇っていて、ロシュフィード嬢がダジュダ・ピント侯爵と結婚式を挙げるのを差し止めていた。しかしこの最後の日々に幸せを失うことを恐れる気持ちが何よりも熱く燃え上がったために、破局を早める結果となった。ダジュダ侯爵はロシュフィード家と協調して、この仲違いも仲直りも環境としては幸運だとみなしていた。彼等はボーセアン夫人が今回の結婚という概念になれてしまい、彼女の人生で予想される将来のある時期に芝居の昼興行に行く楽しみを放棄してしまうことを期待していた。意に反して、実に敬虔な約束が毎日繰り返されるのだが、ダジュダ氏は相変わらずコメディを演じてしまい、子爵夫人も敢えて騙され続けているのだった。「潔く窓から飛び降りる代わりに、彼女ったら階段を転がり続けているのよ」彼女の最愛の友であるランジェ公爵夫人はそう言った。しかしながら、この最後の栄光が意外に長く輝き続けたので、子爵夫人はパリに留まり、彼女の若い親戚の面倒を見てやった。彼女はこの若者が持つ一種の強運のようなものに愛着を抱いていたのだ。ウージェーヌは彼女に対しては全霊をあげて忠誠と全面奉仕を誓った。だが彼女の環境に、女達が注ぐいずれの目にも憐れみの色はなく心からの慰めもなかった。仮にある男が彼女達にこの件で優しげな発言をすることはちょっと危険なことだった。
 勝負の舞台を隈なく完全に知っておきたいと思ったので、ニュシンゲン家に接触を試みる前に、ラスチニャックはゴリオ爺さんの人生の過去の事情を探り、確かな情報を集め、何が彼を今日の状態に追い込んだのかを知りたいと思った。
 ジャン・ジョアシン・ゴリオは革命前はごく普通の製麺職人で、熟練し倹約家で、とても独立心が強く、主人の暖簾を買い取りたいと望んでいた。ところが偶然にもこの主人が一七八九年の最初の動乱の犠牲になってしまった。ゴリオはジュシエンヌ通に居を定め、そこは小麦卸市場にも近かった。彼は非常に目端のきく男だったので、この危険な時代に少しでも影響力のある人物となって、自分の商売を守るために居住地区の議長の座に着いた。この周到さは彼が資産を持っていたゆえのことだったが、それは嘘か本当か、あの穀物価格がパリで異常な値上がりとなった時の飢饉以来膨れ上がったものだとされていた。その頃、パン屋の戸口で自殺する人がいたかと思えば、ある人達は冷静に食料品店に行きイタリアのパスタを求めた。この年に市民ゴリオは資本を集中し、それがやがて彼が商売を無類の優越性で進める上で役に立ち、商売は彼に更に莫大な金をもたらした。やがて彼はまずまずの能力の人間には必ず起こるある現象に見舞われた。しかし彼は凡庸さによってかえって救われた。第一に彼の財は金持ちではあっても、さして危険というほどではなかった。短期間だけ知られていたに過ぎないので、彼は人に羨ましがられることはなかった。彼は知力を総て穀物取引に向かって集中しているように見えた。彼の関心事といえば、小麦、小麦粉あるいは飼料、そしてそれらの品質を、あるいは出所を知ること、それらの保管に注意すること、相場を予想すること、収穫が豊作か凶作か予測すること、安値で穀物を手に入れること、シシリーあるいはウクライナから仕入れをすること、等々であった。しかしながらゴリオには助手はいなかった。事業を推し進める彼を見ると、穀物の輸出や輸入についての法律について詳しく説明したり、その基本理念を学んだり、その抜け道を把握したりする様子から、人は彼のことを国家大臣にすらなれるように考えたかもしれない。忍耐強く、行動的で、精力的で、継続性を持ち、商品の発送は迅速だ。彼はまた鷲の目を持ち、常に人の先を越し、総てを予測し、総てを知り、総てを内に秘めていた。着想を得るために外交官のごとく駆け引きし、進み始めると兵卒のごとく一直線だ。彼の専門を離れると、簡素で薄暗い店の戸口のところで彼は暇な時間を過ごし、肩を扉にもたせ掛けていた。彼はそんな時、愚鈍で粗野な職工に戻って、理屈など理解できず、機知に富んだ遊びなどには無感覚で、劇場では眠ってしまう男、ちょうどそう、あの下らないことばかりで力を発揮するパリジャン、あのドリバン父さん[35]のようなものだった。彼等の本質はほとんど総てにおいて似ている。読者よ、貴方が彼等の心の中を見た時、ほとんどの場合、愚鈍さと共に崇高な感情を見出すことになるだろう。崇高と愚鈍、二つの相反する感情が、この製麺業者の心をいっぱいにしていたので、それ以外の感情は消え去っていた。ちょうど穀物取引が彼の頭の中の知性という知性を使い尽くしてしまった状態に似ていた。彼の妻はブリ地方の裕福な農家の一人娘で、彼にとっては宗教的崇敬、言い換えれば限りない愛の対象であった。ゴリオは彼女の中に生来のか弱さと強さ、感じやすさと可愛さを見て、自身の性格とひどく対極的な彼女のそれを称賛せずにはいられなかった。こうした傾向が、男の心の生来の感情だとすれば、相手を保護してやろうといった矜持はいつだって女に有利なように働くのではないだろうか? ここに愛が加わったなら、あの感謝の気持ちが、真摯な魂の中に、何よりも大切な喜びとして存在することになる。そして読者はやがて、精神的に異常なまでの熱狂をつぶさに見ることになるだろう。
 翳りない幸福が七年続いた後、ゴリオは悲しいことに妻を亡くした。彼女は感情の世界以外では、彼のうえに影響力を持ち始めていたところだった。恐らく彼女は自然のように動かないこの男に何等かの変化を与えたことだろう。恐らく彼女は、世間一般の、そして人生の常識を注ぎ込んでくれたはずだった。しかしこの不幸に襲われた後、父性的感情が、ゴリオにあっては狂気と言われるまでに増大した。彼は妻の死によって裏切られた彼の愛を、二人の娘達の上に向け直した。二人は最初のうち、彼の気持ちに十分満足していた。彼のところに自分の娘を後妻として嫁がせたいと思っている卸業者や農家が、彼に持ってくる縁談は輝かしいものに見えたが、彼は男やもめの暮らしを望んだ。彼の義父は彼が話せる唯一の人間だったが、ゴリオの判断は亡くなってしまった妻に対する不誠実をしたくないためなのか、正確なところを知らせて欲しいと彼に望んだ。このような気違い染みた崇高な思いなど理解出来ない穀物取引所の連中は、これを茶化してゴリオに何ともひどいあだ名をつけた。ところが、市場でワインを飲んでいた時、彼をあだ名で呼ぼうと最初に思いついた男は、ある日、製麺業者から肩に猛烈なパンチを食らい、頭から境を接している隣町のオブリン通[36]の道標まで吹っ飛ばされてしまった。ゴリオはなりふり構わぬ献身、猜疑心の強い細やかな愛を娘達に抱いていたが、それらは広く知られていたので、またある日、彼の競争相手の一人が相場の主導権を握るため、ゴリオを市場から撤退させようと思い、彼にデルフィーヌが二輪馬車に衝突されたと告げた。製麺業者は真っ青になり直ぐに市場を後にした。その後数日、彼はこの嘘の通報によって受けた感情の動顛のために病気になってしまった。、彼はこの男の肩にもぶち殺すほどの一撃を加えることはしなかったが、彼を経済的に追い込んで破産させ、力づくで取引所から追い出してしまった。二人の娘に対する教育は当然のことながら常軌を逸していた。六万リーヴルを超える年金を持つ裕福な身の上で、彼自身のためには一二〇〇フランも使わなかったので、ゴリオの幸せは娘達の好き勝手を満足させてやることだった。優れた先生達は、彼女達の才能を開花させるべきだと彼に迫り、それには良い教育が欠かせないと指摘した。彼女達には付き添いの女性も一人いた。彼女達に幸運だったのは、この女性が機知に富み趣味も良かったことだ。彼女達は馬に乗って出かけた。彼女達は馬車も持っていた。彼女達は昔の裕福な領主の奥方のような体験をして暮らした。彼女達は、一番高くつく望みを言いさえすれば、父がいそいそとその望みを叶えてくれる様を見ることが出来るのだった。彼は贈り物に対して、優しい言葉を返してもらうことなど一度もなかった。ゴリオは娘達を天使の列に加えたのだ。当然そこは彼の上方になる。何と哀れな男だろう! 彼の愛は行き過ぎて、ついには彼女達が彼に害悪をもたらす程度にまで達した。娘達が結婚適齢期になると、彼女達は夫を自分の好みで選べると考えた。それぞれが父の財産の二分の一を持参金として持ってゆく積りでいた。アナスタジーはその美貌に惹かれたレストー伯爵に口説かれ、貴族趣味への傾向が強くなり、父の家を出て上流社交界に一目散に突進することになった。デルフィーヌはお金を愛した。彼女はドイツ出身の銀行家で神聖ローマ帝国で男爵の称号を得たニュシンゲンと結婚した。ゴリオは製麺業者のままだった。彼の娘達や婿達は暫くして相変わらずこの商売を続けている彼を見て気を悪くした。もっとも、これだけが彼の人生だったのだ。五年間にわたって、彼等から懇願され続けた末、彼は引退することに同意した。彼の蓄えからの収益と最終年度に上げた収益が生活の糧だった。彼がヴォーケ夫人のところに居を定めたとき、彼女は彼には、年に八千ないし一万リーヴルの年金収入があると見込んでいた。彼がこの下宿に飛び込んできたのは、二人の娘達が夫たちの差し金で、彼を彼女達のもとへ引き取ることを拒絶したばかりか、外見だけでも彼を受け入れることさえしなかった、それを見て絶望感に打ちのめされての結果だった。
 こうした情報はゴリオ爺さんの相談を受けたミュレ氏とかいう人から伝わったもので、この人はゴリオの店を買い取った男だ。ラスチニャックがランジェ公爵夫人から聞いた推測はほぼその通りだと確認された。この不可解で謎に満ちた貴婦人風訪問者に絡む悲劇の導入部のあらましはこのようなものであった。
[#改丁]

二 社交界デビュー


 十二月の最初の週の終頃、ラスチニャックは二通の手紙を受け取った。一通は母からのものであり、もう一通は上の妹からのものだった。これらの馴染みのある文面は、今回ばかりは彼を喜びに震えさせ、また恐ろしさに身震いもさせた。その頼りなげな二枚の紙には人生の停止あるいは彼の希望の消滅が含まれているかもしれなかった。もしも彼が両親の窮状を覚えていて、何らかの恐怖を認めるとすれば、なにごとにつけ両親が徹底的にやってしまうことをとても心配する傾向があることを彼は良く知っていた。母からの手紙からは、そのようなことが改めて読み取れた。
〈愛する子へ、あなたが頼んできたものを送りました。このお金を上手に使いなさい。私はたとえあなたの命がかかったことであれ、二度とこんな巨額のお金を用立てることは出来ません。しかもお父様に申し上げることもなしにですよ、それは私達家族の中の調和を乱すんですよ。私達がこのお金を得るには私達の土地を担保にするしかないんです。私に分かるはずのない計画の価値を判断することは私には出来ません。だけど、私にも打ち明けられないというのは、それは一体どういった性質の計画なんでしょうか? そのための説明に多言は要りません。私達母親にはたった一言あれば十分なのです。その一言が私を訳の分からない苦しみから救ってくれるのです。あなたの手紙が私に何だか憂鬱な印象を与えたことを私は隠すことが出来ません。可愛い息子よ、またどういう気持ちであなたは私の心をこんなに心配させるようなことを書いて寄越したんでしょう。あなたは当然、私に手紙を書きながら、とても悩んだことでしょう。私もあなたの手紙を読んで、こんなにも辛く思っているのですから。これからあなたはどんな仕事に就こうとしてるんですか? あなたの人生、あなたの幸せは、本当の自分と違うように見せたり、稼ぎきれないような大金を使ったり、勉学のための貴重な時間を失わないと入ってゆけないような社交界の人々と交わることとは関係のないことではありませんか? ねえ、ウージェーヌ、どうぞ母の気持ちを察してね。間違った声をいくら聞いたって立派な結果は得られませんよ。忍耐と甘受こそが、あなたのような立場にいる若者にとっての美徳なのです。私はあなたを叱るのではありません。私は私達からの贈り物に苦い味を付けたくありません。私の言うことは先の見えるというよりは、やはり信じ込みやすい母親のそれですね。あなたが何かお礼でも言ってくれるのなら、私には分かってます、貴方がどんなに純粋な心を持っているか、あなたの目的がどんなに素晴らしいか。だから私は何の心配もなく、こう言うことが出来ます。さあ、愛しい子よ、行きなさい! 私は母なるが故に震えています。けれども、あなたのどの歩みにも私達の期待と感謝の気持ちが優しく寄り添っているのです。慎重にね、わが子よ。あなたは一人前の男として賢明でなければなりません。あなたにとって大切な五人の人間の運命はあなたの頭脳にかかっているのです。そうです、私達の運命は総て、あなた次第なのです。ちょうどあなたの幸福が私達の幸福であるように。私達は神様に一生懸命お願いして、あなたの仕事のアドバイスをしてもらうようにするわ。あなたの叔母マルシャックは、この事情の中でこの上もなく親切にしてくれたのよ。彼女はあなたがあなたの手袋について私に話してくれたことをほとんど理解するところまで行ってたのよ。勿論、彼女は長男のあなたが大好きだと笑いながら言ってたわ。私のウージェーヌ、叔母さんを愛さなきゃ駄目よ、私はあなたが成功するまでは、彼女があなたのためにどんなことをやってあげたのかは言わないけれどね。さもないと、彼女の金を掴んだあなたの指は火傷してしまうわよ。あなたはまだ子供だから、分からないだろうけど、思い出の品を失くしてしまうことがどんなに辛いことか! でも私達はあなたのためなら犠牲を払わないでいられるものですか? 彼女はあなたの額にキスすることをあなたに言っとくようにと私に言うの、そして彼女はそのキスによって、いつだって幸福でいられる力をあなたに送りたいと言うのよ。この優しくて素敵な叔母さんは指の痛風がなければ、あなたに手紙を書きたかったといっています。お父様は元気にしてます。一八一九年の収穫は予想以上でした。さようなら、愛する子よ。あなたの妹については何も言わないわ。ロールがあなたに手紙を書いてるから。彼女には家族にあった小さな出来事について、おしゃべりする楽しみを残しておいてあげたいの。あなたの成功を天に祈ります! あー! そうです、成功、私のウージェーヌ、私がもう一度よく考えなければならない、とても鬱陶しい心配があることをあなたは知らせてくれたんだわ。私はそれが貧乏であるということに他ならないことを知っています。子供に与えるに十分な財産を望みながらなのです。がんばってね、さようなら。放っとかないで、手紙出すのよ。母からのキスを送ります。〉
 この手紙を読み終わった時、ウージェーヌは泣いていた。彼はゴリオ爺さんのことを考えた。爺さんは銀食器をひん曲げたり、娘の振り出した為替手形の支払いをするために、それを売ろうとしていたものだ。「お前の母は彼女の宝石をねじ切ったんだ!」彼は思った。「お前の叔母は彼女にとって何か大切な思い出の品を泣きながら売ったに違いないのだ! 何の権利があって、お前がアナスタジーを咎めだて出来ようか? お前はお前の将来に向けての利己主義から、彼女が恋人のためにやったことをそのまま真似ているだけだ! 彼女とお前のどちらがましなんだ?」学生は心の奥底が耐え切れないほどの熱い気持ちで揺さぶられるのを感じた。彼はもう何もかも諦めようと思った。彼はこの金は受け取るまいと思った。彼はあの気高く美しい悔恨を秘かに感じたのだが、誰か他人に判断を仰いだ時、それに価値を見出されることは稀である。そして人々はこの世の裁判官によって有罪とされることを恐れるが、その罪も心に秘めている限りは天上の天使によってやがては無罪放免とされることを知っている。ラスチニャックは妹からの手紙を開いた。その無邪気で優しい文章は彼の心を再び元気づけてくれた。
〈兄さん、あなたの手紙は結構いいタイミングで来たよ。アガサと私は、私達のお金を色々ある使い道の中で何を買ったらいいのか決められずにいたのよ。あなたはスペイン王の家来が主人の時計を逆戻りさせたように、私達二人とも文句のない結論に導いてくれたわ。本当に私達はそれぞれの好みに従って違うものを欲しがるものだから、いつも喧嘩になるのよ、そしてウージェーヌ、私達は私達の欲するものを誰よりもよく知っている人がいることに気がつかないでいたの。アガサは嬉しくて飛び上がったものよ。結局、私達は一日中二人とも気違いみたいだったらしいの、叔母さんの言によるとね、それでお母さんは何か怖い顔して言ったもんだわ。あなた達、一体どうしたの? ってね。もし私達がちょっと怒られたとしても、私達は多分それで余計に気持ちよくなれたと思う。女というものは愛するもののために苦しむことの中に多くの喜びを見出すものなの! 私だけに限れば、喜びの中で夢心地だったけど悲しくもあったの。私はきっと悪い妻になるわ、だって私は浪費し過ぎるもの。私はベルトを二本買っていた、そしてコルセットの紐孔をあけるための可愛らしい錐、その他くだらないもの、その結果、私はあのお金持ちのアガサに比べて少ししかお金がないの。アガサときたら、倹約家で小銭をまるでカササギのようにこつこつ貯めてるわ。彼女は二〇〇フラン持ってるのよ! 私はね、ねえ兄さん、私は三〇エキュ持ってるだけ。私は結構後悔してるのよ。私はベルトを井戸に投げ込んでやりたい気持ちよ、だって、これを着けるごとに私は辛い思いをするに決まってるんですもの。私はあなたから盗ったようなものよ。アガサはやっぱり素敵だわ。彼女は私に言ったの、三五〇フランを私達二人の分として送りましょう! ってね。
 でも、私はあなたに何事もあるがままに話すことには耐えられなかった。あなたの要求に応えるために私達がどんなだったか、あなたが知ってくれたらねえ。私達は私達のピッカピカのお金を取り出した、私達は二人だけで散歩に出かけた、そして大きな通りへ出るや否や、リュフェの方へ駈け出した、そこに行くと私達はそっくり全額を王立運送会社を運営しているグランベール氏に渡しました! 帰り道の私達はまるでツバメのように晴れ晴れとした気持ちだった。これって幸福と呼べるのかもね? とアガサが私に言った。私達はすごく色々なことを話したけれど、あなたにそれを繰り返そうとは思わない、パリジャンさん、みんなあなたにとって、大変過ぎるくらいのことですものね。あー! 兄さん、私達はあなたがとても好き、この言葉に尽きるの。叔母さんの言によると、まだ少女だからって見逃されてるけど、私達は何をするか分からないって、それに黙ってられるので余計に有利だって。お母さんは叔母さんと一緒に秘密めかしてアングレームに出かけたの。そして二人とも、この旅行の高度に政治的目的については、沈黙を守っている。この旅行は長い時間相談の末、やっと決まったんだけど、私達はその会議から締め出されてた。男爵も同様よ。ラスチニャック国は、いまや猜疑心で満ち溢れている。モスリンの服には、王女達が陛下のために刺繍した透かしの花がちりばめられたわ。女王はそこから先、更に秘密めかして仕上げにかかっているわ。生地の残りは少なくて、もう色々とは作れない。作るといえば、ヴェルティーユ側[37]の土塀はやめて垣根を作ることになったの。私達民衆は果物や果樹棚を失うことになるけど、私達の垣根は向こうから来る人に対して結構綺麗に見えるんではないかしら。我が家の推定相続人が、ハンカチを欲しがってるようだけど、その望みは叶えられると思うわ。マルシャックの上流階級の老婦人が、彼女の財宝やトランクの中を探し回った時、ポンペイアとヘルキュラムのお導きがあったのかしら、彼女自身あるとは思ってなかったようなオランダ製のとても美しい布地を一枚見つけたの。そこで、皇女のアガサとロールは女王の命令に従って、糸と針、それにいつもならちょっと赤ぎれている彼女達の手を提供させてもらいました。二人の若き王子、ドン・アンリとドン・ガブリエルは、相変わらず悪い習慣が直らず、葡萄ジャムを大食いし、姉さん達を怒らせ、何も理解しようとせず、鳥を巣から取り出すのに夢中になったり、この国の法律に違反して騒ぎ立てたり、細いこん棒を作るために柳の木を切ったりしている。教皇大使、ま、普通に言えば主任司祭様だけど、彼は二人がいつまでも教則本の聖なる法規を放っておいて、中身のない遊びの法規に熱中するようなら、彼等を破門にすると脅すの。さようなら、兄さん、文字なんて決して沢山の願望を実現して、あなたを幸福に導くことなんかないわ、そして沢山の愛を満たすこともないわ。いつか兄さんがこちらへ来る時は、もっと沢山のことを私達に話してくださるわね! 兄さんは私には何でも話してくれるわ、だって私が年上の妹ですもの。叔母はあなたが社交界で成功を収めたことについては、私達を疑心暗鬼のままで放ったらかしてるの。
あの高貴な夫人の話はされるけれど
それ以外は何にも仰せでない[38]
 私達には分かってる! ねえ、ウージェーヌ、なんなら私達はハンカチなしで過ごしたっていいし、あなたのシャツを作ってもいいのよ。このことについて早めに返事頂戴ね。もしあなたが直ぐに綺麗に仕立てられたワイシャツが要るのなら、私達は今から直ぐにそれに取り掛からなければならないわ。それから、パリのファションで私達の知らないことがあったら、私達にその見本を送ってね、特にカフスなどについてね。さよなら、さよなら! 私はあなたの額を左から抱きしめるわ、そのこめかみのところは私が独り占めにしてるんだから。後の手紙はアガサに譲るわ、、彼女は私があなたに書いたのは絶対読まないと約束してるの。だけどしっかり見届けたいので、私は彼女があなたに書いているそばにずっといる積り。
あなたを愛する妹 ロール・ド・ラスチニャック〉
「おー! そうだとも」ウージェーヌは思った。「そうさ、何をおいても財産だ! 大金はたいても、これほどの献身には応えられない。僕は彼女達みんなをきっと幸福にしてみせる。一五五〇フラン!」彼は一呼吸おいて考えた。「一フラン、一フランがみんなの苦労の賜物だ! ロールの言うとおりだ、女性の視点だ! 僕は部厚い布地のシャツしか持ってないからな。男の幸福を願う若い娘というのは盗人並みに策を弄するものだな。自分のことには無頓着なくせに、僕のことになると実によく考え抜いて、彼女はまるで天空の天使のようだ、地上の罪悪がどんなに汚いかも知らずにそれを許してくれるあの天使だ」
 社交界は今や彼のものだった! 既に仕立て屋は呼び出され、服を合わせ、すっかり彼に魅了されていた。ド・トライユ氏を見た時、ラスチニャックは若者の人生の上に仕立て屋が及ぼす影響というものを理解した。ああ! ここの両極の間には中間的存在はないのだ。仕立て屋とは、死を招きかねない敵か、あるいは請求書を受け取ることと引き換えに得られる友人か、そのどちらかなのだ。ウージェーヌは彼が行った仕立て屋で一人の職人に出会った。彼は仕事の中に人物を育て上げる意義を見出し、自分を若者の現在と未来をつなぐ一本の糸だとみなしたのだった。ラスチニャックもまたこの男に頼って運を切り開いたことを認めている。それも例によってあの「いずれ彼は出世する男だ」という言葉がものを言ったのだった。「僕は彼の仕立ててくれた二本のパンタロンのお陰で、それぞれ二万リーヴルの年金を持参金に持たせた二つの結婚をさせることが出来た」彼は後に振り返ってそう語っていた。
 一五〇〇フランの現金と好きなだけ作れる服! この瞬間、貧しい南仏青年の心には一点何の曇りもなかった。彼は昼食のために下へ降りていったが、まとまった金を手に入れた若者が抱くあの訳の分からない浮き浮きした気分が彼を満たしていた。学生は金を手に入れた瞬間、彼は自身で途方もない柱を打ち立て、それに寄りかかっていた。彼は以前よりしっかり歩ける。何をやるにもしっかりした根拠を感じ取れた。彼は広い真っ直ぐな視野を持ち、彼の動きは人に影響を与えた。前日までの卑下して臆病だった彼なら虐めを受けていただろう。一夜明ければ、彼は相手が首相であろうと一撃を与えかねない存在となった。彼の中に途轍もない現象が起こったのだ。彼の望みは何でもかない、彼はでたらめに欲し、彼は陽気で気前がよく開放的だ。つい最近まで翼がなかったこの鳥はついに完全な翼を身につけたのだった。この学生はそれまでは金がなかったので、わずかばかりの楽しみをしゃぶることしか出来なかった。それはまるで犬が危険を冒してまで骨を盗むのに似ていた。彼はそれをがりがり噛んで、骨の髄までしゃぶって、また走り去る、そんな哀れな存在だった。いや全く、今やこの若者はポケットの中の束の間の金貨を動かしては喜びを味わっていた。彼は金貨を詳しく調べては悦に入り、天空でブランコでもしているような気分だった。彼は最早、悲惨という言葉がいかなるものを意味していたか理解出来なかった。パリは完全に彼の手の内に入った。何もかもが輝き、きらめき燃え上がる人生の一時期! 喜ばしさが力となって、誰もが人を利用したり、女を利用したりもしないあの一時期! 借金や人生の悩みすら、かえって楽しみを増大させてくれるあの一時期! まだセーヌ左岸に足しげく通うこともなく、サンジャック通からサンペール通[39]の間の学生街にいた彼はそもそも人生とはいかなるものかを知らなかった!「あー! パリの女達がここに僕がいるのを知っていればなあ!」ラスチニャックはヴォーケ夫人が出してくれる一個一リアルの焼き梨をほおばりながら思った。「今頃は彼女達が僕を愛してくれてるはずなんだが」この時、王立運送の配達員が格子戸の呼び鈴を鳴らしてから食堂に入ってきた。彼はウージェーヌ・ド・ラスチニャック様宛てに届いたものと告げて二個の包みを差し出し、署名してもらうための受け取りを一枚取り出した。ラスチニャックはその時、彼に向けられたヴォートランの見透かすような視線に、まるで鞭で打たれたような衝撃を受けた。
「あんたは武器の勉強や射撃のための講習に金を使わにゃならんな」この男は彼に言った。
「軍資金を積んだガリオン船が来たんだわ」ヴォーケ夫人が荷物を見ながら言った。
 ミショノー嬢は自分の渇望を見透かされるのを恐れて、お金の袋に目を向けないようにしていた。
「貴方は良いお母様をお持ちなのね」クチュール夫人が言った。
「この方は良いお母様をお持ちだ」ポワレが繰り返した。
「そうだよ、お母さんは血の出るような金を出してくれたんだね」ヴォートランが言った。「あんたは当分、好き放題に遊べるわけだ。それで、社交界に出て、持参金付きの娘を見つけて、そしてまず第一に摘むべき花の伯爵夫人とダンスをする。だがな、兄さん、私のことを忘れちゃならんぞ、射撃の名手のことをな」
 ヴォートランは敵を狙う人の恰好をして見せた。ラスチニャックは荷物配達人にチップをやりたくて、ポケットの中を探ったが一銭もなかった。ヴォートランが自分のポケットから二〇スーを取り出して配達人に投げてやった。
「あんたにはいい銀行が付いているよ」彼は学生を見ながら言った。
 ラスチニャックは彼に礼を言わざるを得なかったが、とげとげしい言葉が交わされたあの日、つまりボーセアン夫人のところから戻ってきたあの時以来、この男は彼にとって我慢のならない存在となっていた。ウージェーヌとヴォートランは、同席した時は静かに相対していた。そして互いに観察し合っていた。学生は空しく自問自答していた。疑いもなく、思想はそれが理解される力に正比例して他人の上に自己投影する。そして今ヴォートランの思想は、まるで迫撃砲の発射の誘導計算の数学的法則にも比肩されるような正確無比の法則でもって、それを送り込まれた頭脳に強烈な印象を与えようとしていた。攻撃の多様さがまた効果的だった。たとえば一見穏やかなタイプの戦略がある。それは相手の内部に思想として留まり、やがて相手の心を内側から荒廃させる。またうって変わって、堅固な要塞に守られた頭脳を備えて厳しい対決姿勢を示すこともある。そんな時、相手の意志は分厚い城壁を前にした大砲の弾のように砕け落ちてしまう。まだある、ぶよぶよふわふわと掴みどころのない構えもある。それにかかると、相手の思想は角面堡の柔らかい土に吸い込まれた弾丸のように死んでしまうのだった。ラスチニャックはちょっとしたショックで爆発する火薬を詰め込んだような、そうした頭を持っていた。彼はまさに若い盛りだったので、こうした思想の投影や無意識裡に我々の心を掻き乱す多くの奇怪な現象を生み出す感情の伝染に対しては極めて抵抗力が弱かった。一方で天性の優れた眼力に恵まれていた彼は道徳的にはしっかりした見解を持ち続けていた。彼の中には相反する特性が存在し、それぞれが驚くべき許容範囲と柔軟性を持っていて、我々はフェンシングの上級者が胴鎧の総ての切れ目を巧みに捉えるのを見て感嘆させられるところのあの突きと引きの柔軟さを彼の中に見ることが出来るのだった。この一ヶ月来、ヴォートランは何かにつけてウージェーヌの失敗だけでなく性格についてまで盛んに論じていたのだ。彼の欠点について、社交界について、そして人々が彼に期待して増大してゆく欲求の達成具合について。彼の性格については、南フランス人特有の活発さが認められていた。それは困難なことも解決するために真っ直ぐに向かってゆく類のものであり、ロワール以北の人間が何かにつけて不確定な状態に留まっていたりするのを許せない、そういったものなのだった。その性格とは、北の人間からすれば欠点と呼びたいようなものなのだ。何故なら、北方人にとって、この性格が南仏出のミュラ[40]が富を築く原動力になったにせよ、それは一方でミュラに死を招く原因ともなったからである。このことから次のことが結論づけられるだろう。すなわち、南フランス人で北方人の狡猾さとロワール以南の大胆さを併せ持つことが出来るなら、その男こそ完璧で、スエーデン王[41]の地位をすら保つことが出来るだろう。ラスチニャックはこの男が一体、友なのかそれとも敵なのか分からないままで、ヴォートランから大砲のような砲火を浴び続けることには耐えられなかった。絶えずこの風変わりな人物は彼の情熱に入り込み、彼の心を読むように思えた。一方でヴォートランのことについては何もかも上手い具合に閉じられていて、彼は何か深みがあってぐらぐらしない、あの知恵者で総てを見て、それでいて何も語らないスフィンクスのように見えた。ポケットがいっぱいなのを触って確認して、ウージェーヌは反乱を起こした。
「貴方のお帰りを楽しみに待たせてもらいますよ」彼はヴォートランに言った。ヴォートランはコーヒーの最後の一飲みを味わってから出てゆこうとしているところだった。
「何故だね」四十男はそう聞き返し、縁の広い帽子をかぶり、鉄製の杖を手に取った。彼はそれを時々くるくる回していたが、まるで四人の強盗に襲われても平ちゃらという男のような仕草だった。
「僕は貴方からお借りしている金をお返ししたいんです」ラスチニャックが答えた。彼は一つの包みを素早くあけ、ヴォーケ夫人に一四〇フランを支払った。
「貸し借りなしが友情の素って言いますよね」彼は未亡人に言った。「僕は大晦日まではこれで支払い済みですからね。すいません、この百スーを細かくしてもらえませんか」
「友情の素とは貸し借りなしのことなり」ポワレがヴォートランを見ながら繰り返した。
「これ、さっきの二〇スーです」ラスチニャックは鬘をつけた謎めいた男にコインを一枚差し出した。
「あんたが私に何か借りを作るのを嫌がっているように見えるんだがな?」ヴォートランは若者の心を見透かすような視線を突き刺しながら叫んだ。彼のからかうような破廉恥な薄笑いは、これまでにも幾度もウージェーヌの腹立たしい気持ちを爆発させかけたものだった。
「まあ……そうですね」学生は答えると、二個の荷物を手に掴むと部屋に戻るべく立ち上がった。
 ヴォートランはサロンへ続くドアから出て行った。学生は階段の昇り口へ行けるドアに向かおうとしていた。
「お分かりかな、ド・ラスチニャッコラマ侯爵殿、あんたが私に言ったことは実は無礼なんだよ」ヴォートランがその時、サロンのドアを烈しく叩きながら学生に近づいて言った。学生の方は冷然と彼を見つめた。
 ラスチニャックは食堂のドアを閉め、ヴォートランと一緒に階段の昇り口の方へ歩いていった。食堂と台所を仕切る四角い空間には庭に向かって開け放たれたドアがあって、その上部は長い窓ガラスがはまっていて鉄製の格子で守られていた。そこに急に台所から現れたシルヴィの目の前で学生が言った。「ヴォートランさん、僕は侯爵ではありません。そして僕はラスチニャッコラマでもありません」
「あの人達けんかしてるわ」ミショノー嬢が無関心な様子で言った。
「けんかだ!」ポワレが繰り返した。
「そうじゃないでしょ」ヴォーケ夫人は銀貨を撫でながら言った。
「でもあの人達、あそこで菩提樹の下に歩いてゆくわ」ヴィクトリーヌ嬢が叫んで、庭を見るために立ち上がった。「可哀想に、あの若い方の方がやはり正しいわ」
「部屋に戻りましょ、あなた」クチュール夫人が言った。「あんなごたごたは見ないことよ」
 クチュール夫人とヴィクトリーヌが立ち上がった時、彼女達は戸口で太ったシルヴィが通路を塞いでいるのにぶつかった。
「どうして行っちゃうんですか?」彼女が言った。「ヴォートランさんはウージェーヌさんにこう言ったんですよ。話し合おう!って。それから彼の腕を掴んで、それから二人はあそこまで歩いて、チョウセンアザミのところまで行ってるんですよ」
 この時ヴォートランが現れた。「ヴォーケ夫人」彼は笑いながら言った。「何も心配しないで下さい。私は菩提樹の下でピストルの具合を確かめに行ったんですよ」
「おー! 貴方」手を合わせながらヴィクトリーヌが言った。「どうして貴方はウージェーヌさんを殺そうなんてお思いなんですか?」
 ヴォートランは二歩ばかり後ずさりすると、ヴィクトリーヌをまじまじと見つめた。「物語は更に面白くなりそうですな」彼が冷やかすような声音で叫んだので、哀れな娘は顔を赤らめた。「彼は結構品が良い、そうだよな、あの若者はな?」彼は続けた。「貴女は私にあることを思いつかせたよ。私はあなた達二人に幸運を授けたいものだよ。可愛いお嬢さん」
 クチュール夫人は生徒の手を取って引っ張って行きながら耳もとで言った。「まあ、ヴィクトリーヌ、今朝のあなたは本当にどうかしてるわね」
「この家でピストルを撃ったりしたら、あたしが承知しないからね」ヴォーケ夫人が言った。「ご近所さんを怖がらせたり、こんな時間に警察を呼ぶようなことをするんじゃないよ!」
「さあ静かに、ヴォーケ母さん」ヴォートランが答えた。「さあ、さあ、そうっと、射撃場に行こう」彼はラスチニャックの傍に行き、親しげに腕を掴んだ。
「私があんたに、三十五歩離れたところから撃っても、五回続けてスペードのエースを撃ち抜けることを証明して見せたところで」彼が言った。「それによって、あんたが怖気づくことはあるまい。あんたは私に対していくらか怒りっぽくなっているようだが、それではあんたは馬鹿な奴等と同じように自殺行為をしてしまうことになるんだぜ」
「貴方は尻込みしてるんだ」ウージェーヌが言った。
「私をかっかさせるな」ヴォートランが答えた。「今朝は荒れてるんだ、あそこへ行って座ろうぜ」彼は緑色の椅子に座りながら言った。「ここなら誰にも聞こえない。私はあんたに話があるんだ。あんたは感じのよい若者だ、私は喧嘩したくないんだ。私はあんたが好きだ、不死の誓い……じゃねえ! ヴォートランの誓いさ。何故あんたを私が好くか、それを話そうじゃないか。今あんたを待ちうけながら、私はあんたのことを、まるで自分がこさえたかのように、すっかり分かってしまったんだ。それはこれから証明しよう。あんたの袋をあそこに置くといいよ」彼は丸テーブルを指し示しながら言った。
 ラスチニャックは自分のお宝をテーブルの上に置くと、好奇心に捕らわれて坐った。、彼を殺すと言った後、まるで彼の保護者のように振舞うこの男の態度の中で、突然起こった変化が、彼の心を好奇心でいっぱいにした。
「あんたは私が何者なのか、私が何をしてきたのか、または私が何をしているのか、結構知りたがっているんじゃないかな」ヴォートランが切り出した。「あんたはちょっと知りたがり過ぎるんだよな、まあいい、落ち着こうぜ。あんたは他人のことに首を突っ込み過ぎだぜ! さて私の話はこれからだ。まず聞いてくれ、あんたの言い分はそれからだ。さあ、私のこれまでの人生はほんの数語で言い表せる。私は誰だ? ヴォートラン。私は何をしているか? 好きなことをしている。言うほどのことはない。私の性格をあんたは知りたいかね? 私は自分の味方になる人、あるいは私の心に何か語りかけてくれる人に対しては良い人間だ。そういう人達には、どんなことだって許してしまうんだ。その人達は、私のことを足が折れるくらいに思いっきり蹴ることだって出来るんだ。それでも私はその人達に、『覚えてろよ!』『けしからん畜生め!』なんてことは言わない。私は私を悩ませるような奴等や私の気に入らない奴等には、まるで悪魔のように意地悪なんだ。だから、あんたが、この男はいつだって人一人をこんな具合に簡単に殺してしまう恐れがあるということを知っておくのもいいだろう!」そう言うと彼は唾を吐いた。「私は唯、どうしても必要とあれば、邪魔者はきちんと消そうと、全力をあげるだけだよ。私はあんた達の言うところの芸術家のようなものだ。私はベンヴヌト・セリーニ[42]の回想録を読んだよ。あんたも私にぴったりの本だと思うだろう、しかもイタリア語なんだよ!私はあの男がすごいお調子者で神を模倣していることを理解したんだ。神とは我々をでたらめに殺すかと思えば、美が存在するならば、どこであろうとそれを愛されるんだ。それならばだ、たった一人であらゆる人間と対立しながらも幸運を掴む、これ以上賭けるに値する勝負があるだろうか? 私はあんた達の混乱した社会を現実的に立て直すことも、よく考えたものだよ。なあ、決闘なんてのは、子供染みた遊びだ、下らんよ。二人の男がいれば、どちらか一人は消えてゆかにゃならん。それを偶然に任せてしまうのは馬鹿らしい。決闘するか? 表か裏か? ほらね、二つに一つの割に合わん勝負だ。私は五発の弾丸をぶっ続けでスペードのエースに命中させてやる。撃ち込んだ弾丸の上に新しい弾丸を撃ち込む、しかも三十五歩離れたところからだぜ! もしこの才能に恵まれていると、我々は相手の男に勝てるとうぬぼれてしまう。ところがどっこい! 私は相手に二十歩まで近づいたんだよ、で、私は失敗した。相手は生まれてから一度もピストルを使ったことがなかった。いいかね!」この不思議な男はそう言うと驚いたことにチョッキを脱ぎ、熊の背中のように胸毛の生えた胸をむき出したが、その黄褐色の毛に覆われたものは恐怖と入り混じった不快感を催させた。「その青二才は私の体毛まで焦がしちまったんだ」彼はラスチニャックの指を自分の胸のところにある穴の上に置きながら付け加えた。
「だが、そのときの私はまだ子供だった、今のあんたの年頃だった、二十一歳だったな。私もやっぱりいろんなことを考えていた、女への愛だとか、色々なくだらないことだ、あんたがまさにその混乱に巻き込まれようとしていることどもだ。私達は戦おうと言ってたんじゃなかったのか? あんたが私を殺したっておかしくないんだ。ちょっと考えてみろよ。私が墓に埋められる、それであんたはどうなる? ずらからなきゃならん、スイスへ行くか、パパの金を食いつぶすか、ところがパパは殆ど金がないときてる。よく考えろよ、私があんたの今いる立場を明らかにしてやる。しかし、私がやろうとしているのは、優越した人間としての選択だ。私はこの世の様々な経験を積んだ後、自らが進む道は、たった二つしかないという見解を持つに至ったんだ。すなわち、盲目的従属か、または革命だ。私は誰にも従わない、はっきりしてるだろ? あんたはどうすべきか、もうご存知かな、自分に従うか、何処かの群れに向かうか? 一〇〇万、しかも手っ取り早く欲しい。それが駄目なら、我々の貧しい思考力では万事休すだ。セーヌ川に飛び込んで土佐衛門になってサン・クルーに張った網[43]に引っかかるくらいがおちだ。ところでこの一〇〇万だが、私はあんたにあげてもいいんだぜ」彼はウージェーヌを見つめて一呼吸おいた。「あー! あんたはこの優しいパパ・ヴォートランに、ちっとは愛想良くしなくっちゃ。今の言葉を聞いたあんたの様子は、若い娘が『じゃあ、今晩に』と言われた時のようだったぜ。で、その娘は身づくろいをして、ミルクを飲んだ猫のように舌なめずりするんだ。幸運あれ。さてと! 我々二人組の今後だ! まずは、あんたの財政だ、若者のな。我々は田舎にパパ、ママ、大叔母、二人の妹(十八歳と十七歳だ)、二人の弟(十五歳と十歳)が待っている。さあこの乗組員の点検だ。叔母さんは妹達の教育をした。牧師が二人の弟にラテン語を教えてきた。家では白パンより、茹で栗を良く食べ、パパは半ズボンを大事に使っているし、ママは冬服と夏服をやっと一着ずつ持っているし、妹達は自分で縫えるものは自分で作っている。私は何でも知っている、南フランスにいたことがあるんでな。あんたの田舎の状況はそんなところだ。勿論皆があんたに毎年一二〇〇フランの仕送りをして、小さな地所からの収穫は三〇〇〇フランにも満たないことを考慮しての話だ。この田舎の家は料理女一人と下僕一人を抱えている。我々は体裁は重んじなければならん、パパは男爵だからな。一方、こちらはどうかと言えば、我々は野心に燃えている。我々にはしっかり繋ぎとめておきたいボーセアン家がある、が、我々はそこへ歩いて行っている。我々は金が欲しいが、びた一文もない。我々はヴォーケ・ママのごった煮を食べているが、我々はフォーブール・サン・ジェルマンの豪華な晩餐を愛している。我々は粗末なベッドに寝ながら豪壮な邸宅を夢見ている! 私はあんたの野望を非難しない。野心を持つことは良いことだ、が、ねえ君、誰もがそんな風になれるもんじゃない。女達に、どんな男が良いか聞いてみろ、野心家だって言うだろうよ。野心家は他の男達よりもずっと腰が強く、血は鉄分が多く、心は熱いという。そして女というのは、自分が男に強い影響を与えていると感じる時に、とても幸福で綺麗でいられるらしいのだ。だから女は途轍もない力を持つ男を好むようになる。たとえその男に自分が壊されてしまうような危険を冒してもだ。私はあんたの欲望というやつを十分に調べた。その上で、あんたに質問したいことがある。その質問というのはこれだ。我々は飢えた狼だ。我々の子供達の歯も鋭い。さあどうやって、家族に鍋いっぱいの食糧を供給するかだ?
 我々はまず初めに、食ってゆくためには法と取り組まねばならない。これは楽しいことではないし、また、これを知ったところでどうってこともない。しかし、どうしても法を我々に有利なように使わねばならん。そう、重罪裁判所の裁判長に我々の誰かがならねばならんということだ。そのためには、その男はまず弁護士にならねばならない。誰が良いか。肩に前科の焼印を押されている私よりも、ずっと有能な青二才のあんたをそこに連れてくるのさ。それでもって、金持ち連に枕を高くして眠れますよって、安心してもらうんだ。このあんたの役割は結構辛いし、おまけに長い時間がかかる。あんたはまず二年間パリで時期が来るのを待つ。その間、我々の大好きな甘いお菓子は見るだけだ、触っちゃいかんぞ。決して満たされることもなく、いつも欲望し続けることは、とても疲れることだ。あんたが、それほど血の気がなくて、草食系の男の子だったら何も心配することはない。しかし我々はライオンのように血気盛んで、毎日二十回くらいは馬鹿げたことをやらかしている。あんたのような者にとって、この苦しみには負けてしまうかもしれん。糞ったれの地獄で我々が味わう以上に恐ろしいものだろうぜ。まあ、あんたが賢明にも、牛乳でも飲んで、エレジーでも口ずさんで、耐えてくれるように願っておこう。あんたは寛大な人間だが、さすがにこれだけの退屈と喪失感で狂犬のようになってしまっては、司法関係に進むことにはもはや迷いはない。市の検事局に欠員でも出来たら、あんたは検事代理にでも、もぐり込んでしまうんだ。そうすると政府は給与として一〇〇〇フランをよこしてくれる。まあ、肉屋の番犬に肉汁スープをくれてやるようなもんだ。だから、泥棒の背中には、吼えまくってやろう、金持ちのために弁舌しよう、真心のある奴なんてギロチン送りだ。自分にとってまずいことは忘れちまえ! もしあんたが後ろ盾を見つけられない時は、自分の田舎の裁判所に行っちまってもいいんだ。三十歳頃には、まだ法服を捨てていなければ、あんたは、年に一二〇〇フラン稼ぐ判事になっているだろう。あんたが四十代に達する頃には、あんたは製粉業者とかの娘と結婚してるだろう。六千リーヴルくらいの年金持参の金持ちの娘だ。ありがたいこった。一方、検事になりたくて立派な後ろ盾まで見つけた場合は、あんたは三十歳で王立裁判所の検事で一〇〇〇エキュの給料をとっている。そして市長の娘と結婚している。もしあんたが、たとえば新聞が伝えるところの、マニュアルに代わってヴィエール[44]がやろうっていうような、こせこせした下劣な政治にちょっと関わってやろうと言うんだったら、(それも悪くない、ほんの一時ばかり新味は出せるだろう)、何にしてもあんたは四十歳で検事総長だ、そして代議士への道が拓けている。だが心得とけよ、兄さん、我々はちっぽけな良心に汚点を残すことになるだろう。我々は二十年もの間、悩ましい惨めな秘密を抱き、我々の妹達は二十五歳までは結婚出来ないのだ。私は謹んで、あんたに更にまだ知って欲しい事があると言わせてもらう。それはフランスに検事総長というのはたった二十人しかいないということ、そしてあんたのようにその地位を目指している階層には二万人がいること、中には不心得者がいて、その階層から抜け出して出世するためには家族をすら売ったりするのだ。そんなやり方は嫌だと思うんだったら、他のやり方も考えにゃならん。ラスチニャック男爵、弁護士になることがお望みかな? おー! ご立派。十年は苦しまねばならん。毎月一〇〇〇フラン使って、図書室を備え、事務室を持ち、社交界にも出て、訴訟案件をもらうためには、代訴人の服に口づけをして、そいつの邸は舌でなめて掃除せにゃならん。あんたがこうしたやり方をちゃんと出来るなら、私もこれを駄目だとは言わん。だがな、五十歳で年収五万フラン以上という弁護士をパリで五人も見つけられるかね? だめだろ! 良識に従って小っちゃい人間で終わるくらいなら、私はむしろ海賊にでもなった方がましだと思うぜ。第一に、どこでまとまった金を儲けられるってんだ? 気楽な商売ってないもんだな。
 だが私達には女の持参金という資金源があるんだ。結婚したいとは思わんかね? それはあんたには重い岩のような首枷になるだろうな。それに、あんたが金目的の結婚をしたとなると、我々の誇り高い感情は、我々の高貴な気持ちは一体どうなる! この人間社会の慣習に対して、今日にもあんたの反乱を起こしたらいいんだ。世にはびこっているのは、女の目の前で蛇のようにとぐろを巻いたり、姑の足をなめたり、雌豚にすら嫌悪感を起こさせるような卑劣な行為ばかりじゃないか。吐き気がする! だから、あんたが慣習に背いて、少なくとも幸せならそれもいい。しかし、あんたはやがて君の論理で選んだ女と一緒にどぶの底に沈んでいる自分に気がつくだろう。そんなところで女房と喧嘩しているくらいなら、広い世界で男達と戦いたいもんだ。さあ人生の岐路だ。兄さん、道を選ぶんだ。あんたは既に選んでるんだな。あんたは我等の従姉ボーセアン夫人を訪ねたんだった。そして、あんたはそこで贅沢の香りをかいだ。あんたはレストー夫人のところへも行った。ゴリオ爺さんの娘の家だ。そして、あんたはそこでパリジェンヌの香りをかいだ。あの日、戻ってきた時、あんたの顔にはある言葉が書かれていた。で、私はその言葉をはっきり読み取れたよ。『出世するんだ!』ってな。何をおいても出世する。すごいぞ! 私はその時、思ったもんだ。逞しい奴に出会ったなあってな。あんたはこれから金が必要になる。どこでそれを調達する? あんたは妹達に大分犠牲を強いた。男というのは、皆多かれ少なかれ、妹達を騙すもんだよ。彼女達から巻き上げた一五〇〇フラン、神もご照覧あれ! それは一〇〇スーよりも、栗の実を見つける方が遥かに簡単な田舎で集めたものだが、兵隊さんに与えられるのかと思いきや、やくざな兄の手に渡ってしまうのだ。それで、あんたは何をするのかね? あんたは働くのかね? 仕事は、今まさにあんたが考えているようなものも含めて、ある程度の稼ぎは保証してくれる。あんたはそれで、老後にはヴォーケ・ママのところで、ポワレのおっさんの隣くらいにアパルトマンを持てるくらいの蓄えは出来るだろう。早急に財産を作るということは、ちょうど今のあんたのような立場にいる五万人からの若者が、今すぐに何とかしたいと必死になっている問題でもあるわけだ。あんたはこの大勢の中の一人なんだ。あんたが行った努力や闘いに熱中したことを考えてみよう。あんた達は鍋の中に入った蜘蛛のように、交代々々で餌を食べなきゃならんのだ、何故なら五万も良い餌のある場所なんてないからだ。この世で私達がどれだけ苦労して道を拓くかはお分かりだろう? 天才のひらめきか、それとも抜け目なく贈収賄の手でゆくか。とにかくこの人間の集団の中へ入りこまにゃならん、大砲の弾のようにぶち込まれるか、あるいはペスト菌のように滑り込むかだ。正直さなどは何の役にも立たん。人々は天才のやることには従うものだ、人々はそれを憎む、人々はそれを中傷する、何故なら人々はそれを受け入れても分け前に預かることは出来ないからだ。だが、ねばるやつには従うものだ。要するに、泥の下に葬り去ることが出来ない人間の前には皆が膝まづいて愛するものなんだ。贈収賄は大勢を占めている。才能なんてのは稀にしか見られない。だから、贈収賄は世の中にいっぱいいる凡庸な人間にとっては武器となるものだ。そして、あんたもそのことは至るところで嫌というほど感じてるだろう。あんたは、その夫が六千フランの給料をもらっていて、それらは全部食費に消えるというような家庭の主婦が、自分の化粧代に一万フラン以上も使っている、そういう女を何人か見ただろう。あんたは一二〇〇フランの給料の勤め人が堂々と土地を買うのを見るだろう。あんたはフランスの国務大臣の息子の馬車に乗ってロンシャンの中央大通りを走りたくて売春をする女を何人か見るだろう。あんたはあの哀れなお馬鹿のゴリオ爺さんが自分の娘が裏書した為替手形を買い取る破目に追い込まれるのを見ただろう。ところがあの娘の夫は年利五万リーヴルの年金を持ってるんだ。私はあんたに言っておくが、このパリでは地獄のような策謀がめぐらされていて、そんなものにぶつからないでは一歩だって歩けはしないんだ。あんたが生まれて始めて惚れ込む女が出てくるとしよう、その女は金持ちで綺麗で、しかもぴちぴちに若いときている、もう言うことなしだ。そこで私は私の首を賭けてもいいが、こう断言しておこう。あんたがその女と過ごす楽しいはずの家庭は何とスズメバチの巣のような鬱陶しい所なんだ。彼女は何かにつけて規則々々のがんじがらめの理屈を捏ねて夫とは喧嘩ばかりしているってわけだ。私は必要なら、もっと話したっていいんだぜ。愛人、装身具、子供、家政、あるいは虚栄心のための不正取引に関する様々な講義だ。そこには善は殆どない。それは保証してもいい。もうひとついえば、実直な男というのは、一般的に敵になってしまうもんだ。だが、あんたは実直な男とはどんなものと考えるかね? パリでは、実直な男とは、黙っていて仕事の分担を拒絶する、そういうやつのことなんだ。私はあんたに、決して労苦に報われることもなかったのに、至る所で仕事をこなしたと言われている、あの哀れなスパルタの奴隷のことや、神の敬虔な信徒団体を指して言ってるわけではない。確かに彼等は悪徳の中に咲くわずかばかりの善の花だろうけれど、惨めなものだ。私はこの善良な人々の中にさえ繕った表情を見てきた。それはまるで神が最後の審判を欠席するという悪い冗談を我々にやって見せているような気がしたもんだよ。だから、あんたが手っ取り早く金持ちになりたいんだったら、既に金持ちであるか、金持ちに見えるかしなけりゃならんのだ。金持ちになるには、ここで一発大きなことをやってみることだ。それとも、株で日計り商いをやるか、小生がその口だがな。仮にあんたが百の職業を選んだとする、十人の男が早々と成功する、ところがその連中は泥棒をやったお陰で成功出来ただけなんだ。なあ、あんたの決意をしろよ。人生とはこんなもんだよ。それは台所より綺麗だとは言えない、それは台所と同じように臭い。もし不正取引を持ちかけられたら、自らの手を汚す事だって避けられない。ただ自分の手を綺麗に洗うように心得ておくことだ。それが我々の時代の道徳のすべてさ。もし私に社交界のことまで語らせたいなら、それもやってやるぜ、私は社交界のことも知ってるんだからな。あんたは、私がそれを非難すると考えてるんじゃないかな? 全然だよ。どこだって同じなんだよ。道徳家なんて決して何も変えられないんだ。人間とは不完全なものだ。人間は時によって、大なり小なり偽善者になるんだ。で、馬鹿なやつが、いちいち、あの人は品性があるとかないとか言うわけだ。私は大衆が好んでやるようには金持ちを非難しはしない。人間は身分が高かろうと低かろうと、中位だろうと、同じ人間だ。この人間の群れの百万人に十人くらいは調子のいい人間がいて[45]、そいつ等は自分のことを、何物にも縛られない偉いやつだと思っている。法律にも縛られないんだとな。実は私もそういう人間なんだよ。あんたは、もしあんたが優れた人材なら、直線距離を進むんだ、そして頂上を目指すんだ。だが、当然闘いがある、妬み、中傷、凡庸な連中、そして世間との闘いだ。ナポレオンはオーブリー[46]という軍事閣僚と対立したことがあるが、この男は危うくナポレオンを植民地送りにしかかったんだ。よく自分の気持ちを探ることだな! 毎朝起きるごとに前日よりずっと強い意志を持てるようになってるかどうか、よく考えてみな。
 あんたの決意が固まるようなら、私はあんたに一つの提案をする積りだ。誰だって拒まないような提案をな。よく聞くんだ。私、よく見ろ、私はある考えを持っている。私の考えとは、広い領地の中で族長のような生活をやってゆきたいというものだ。十万アルペンの広さだな、まあ言ってみればな、アメリカの南部でな。私はそこで大農園を経営したいんだ。奴隷[47]を使って、私の牛乳、煙草、飲料を売って、上手い具合に百万やそこいらを稼ぐ、まるで君主のように生き、自分の思い通りのことをする、このパリなどでは誰も想像出来ないような生涯をたどるのだ。ところがここでは誰もが漆喰の壁の穴の中に引きこもっている。私は大詩人なんだ。私の詩、私はそれを書くことはしない。私の詩とは行動そのものと感情そのもので出来ているんだ。今現在、私は五万フランの金を持っているが、これではせいぜい四十人くらいの奴隷しか買えない。私には二〇万フランの金が必要なんだ、というのは私の族長的生活という趣味を満足させるためには、二〇〇人の奴隷を買いたいと思ってるんだ。黒ん坊、あんた見たことあるかね? これは育ち盛りの子供でね、だから思い通りの型に作り上げることが出来る。そして王立裁判所の検事が来て、あれやこれやと訊かれる心配もないというわけだ。この不法な稼ぎで、十年もすれば私は三、四百万フランの金を持つことになるだろう。私が成功すると、もう誰も私に向かってこう尋ねることはないだろう。『君は誰だ?』なんてね。私は〈四百万殿〉だ、アメリカ合衆国民だ。私は五十歳になっているだろう、私はまだぼろぼろにはなっていなくて、私は自分の生活スタイルを楽しんでいることだろう。ふむ、ここであんたに頼みがある。もし私があんたに百万の持参金を手に入れさせてやるなら、私には二〇万フランの金を贈ってくれんもんかね? 二〇パーセントの手数料、だろ! これ高過ぎると思うかね? あんたには百万フランの持参金、私には二〇万フランの資本金だ。
 あんたは可愛い奥さんに愛してもらうご身分になるんだ。いったん結婚すると、あんたは心配事とか後悔とかを並べ立てて、十五日間というものはすっかり悲しみに沈んでしまうんだ。ある晩、何となく難しい顔つきをして、あんたは二度のキスの合間に、二〇万フランの借金を申告をする、無論『君が大好きだ!』と言いつづけるんだぞ。この手の喜劇は毎日のように選りすぐりの若者達の間で演じられているんだ。若い女性というものは、彼女の心を掴んだ男の希望に対して、彼女の財布を拒絶したりはしないものだよ。あんたが失敗すると思うか? それはない。そしてあんたは表向きすってしまったあんたの二〇万フランを取り戻す方法を見つけ出すんだ。更にあんたの金とあんたの才覚でもって財を積み上げてゆく、それはあんたが彼女に約束した額をもかなり上回ってゆくことだろう。この作業にあんたは六ヶ月という時間をかけ、ついに幸運をつかむ。それは同時にあんたの可愛い奥さんの幸福であり、パパ・ヴォートランの幸せでもある。あんたの故郷の家族の幸せでもあることは言うまでもない、彼等は薪すら買えず、冬には相変わらず指に息を吹きかけながら震えていることだろう。私があんたに提示したことにも、私があんたに要求したことにも驚くなよ! パリで挙げられた美しい結婚式が六〇あるとすると、そのうちの四七は似たり寄ったりの商取引のきっかけとなっているんだ。公証人事務所がムッシューに強制して……」
「僕がやるべきことは何ですか?」ラスチニャックは我慢出来なくなって、ヴォートランを遮って言った。
「ほとんど何もない」答えながらこの男は釣り糸の先に魚を感じた釣り人が微かに表すのに似た喜びの表情を漏らした。「いいか、よく聞くんだ! 不幸せで惨めな哀れな娘の心はそこを愛で満たすことに飢え切ったスポンジのようなものなんだ。乾き切ったスポンジは僅かな感情をそこに落とすだけで、すぐさま膨れ上がるのさ。孤独と絶望に沈んでいる若い女に言い寄るんだ、しかもその娘はいかにも貧しげなんだが、やがて財産が手に入ることに気付いていない! 馬鹿なこった! それはストレート・フラッシュを手の内に持ってるってこと、宝くじの当たり番号を知ってるってこと、インサイダー情報を知っていて株に投機するってことだ。あんたは基礎杭の上に壊れようもない結婚を打ち立てるんだ。この娘には何百万という金が集まってくる。彼女はそれを小石か何かのように、あんたの足元に投げ出してくれる。『さあこれを取って、貴方! 取って、アドルフ! アルフレッド! 取って、ウージェーヌ!』彼女はこう言うだろう、何故ならアドルフ、アルフレッド、あるいはウージェーヌが彼女に対して賢明にも犠牲的に尽くしてきたことを知っているからだ。ここで私が犠牲と言うのは、例えばレストラン・カドランブルー[48]に彼女とキノコ料理を食べに行くために古着を一着売り払うといったようなことだ。そして、その夜は、そこからアンビキュ・コミック劇場[49]だ。そして彼女にショールを買ってやるためにすることは時計を質に入れることだ。私があんたに愛情を走り書きしてみたり、女を喜ばすための小細工をつべこべ言う必要はなさそうだな。まあ、彼女が遠くにいる時なんぞに、手紙に涙をこぼしたように見せかけるために水の雫をたらしてみるといったことだが、あんたは心の中の隠語を十分に心得ているように見えるのでな。だが、ご存知かな、パリはまるで新世界アメリカの密林と同じようなものなんだ。そこでは野蛮人が二十もの小部族、イリノイ族とかヒューロン族がそれぞれ違った型の狩猟社会を作って生活しているわけだ。あんたは百万フランの狩人ってところだな。捕獲のためには、あんたはトリック、鳥笛、おとりを使うんだ。狩猟には色々なやり方がある。ある種の狩人は持参金狙いだ。また別の狩人は資産整理のチャンスを窺っている。こちらでは選挙人の票を買い、あちらでは手も足も出ない状態で新聞社が最高入札者に売り払われる。獲物袋をいっぱいにして帰ってきた狩人は迎えられ祝福され、良い仲間に受け入れられる。あんたを歓待してくれる土地を正しく評価することによって、あんたは世界中でもどこよりもあんたに好意的なこの町と深く関わってゆくことになる。例えヨーロッパの総ての資本家や高慢ちきな貴族階級が、下品な百万長者を彼らの仲間に加えることを拒否したとしても、パリはその男に手を差し伸べ、彼のパーティには駆けつけ、彼のディナーを食べ、そして彼の恥辱にさえ乾杯するんだ。」
「だけど、何処でそんな娘を見つけるんですか?」ウージェーヌが尋ねた。
「彼女はあんたのいるところ、直ぐ目の前にいる!」
「ヴィクトリーヌ嬢?」
「その通り!」
「えっ! どうして?」
「彼女はもうあんたに惚れとるよ、あんたの可愛いラスチニャック男爵夫人だ!」
「彼女は一文無しです」ウージェーヌはあきれ果てて言った。
「あー! まさにそれだよ。それならもう一言、言っておこう。そしたら総てはっきりするだろう。彼女の父のタイユフェール[50]は老やくざってやつでね、革命の期間に友人の一人を殺したと言われてるんだ。彼は私の仲間の一人でもあったんだ。、独立心の旺盛な男だ。彼は銀行家で、フレデリック・タイユフェール商会の社長だ。彼には息子が一人いて、そいつに自分の財産を残してやろうと思ってるんだ、ただしヴィクトリーヌを犠牲にしてだ。私はああいう不公平は嫌いだな。私はドン・キホーテのように、強い者から弱い者を守ってやるのが好きなんだ。もしも神の御心で、彼から息子を引き離せたら、タイユフェールは娘を引き取ることになるだろう。彼は自分でも知らないぼんくらでも何でもいいから、ともかく相続人を欲しがっている。それに彼はもう子供を作れないことを私は知っている。ヴィクトリーヌは優しくて行儀のいい娘だ。彼女はやがては父親をめろめろにしてしまって、彼は感情に鞭打たれて、ドイツの独楽のようにくるくると彼女の思い通りに回転し始めるだろう! 一方、あんたの愛については忘れるどころじゃない、彼女はあんたのことで頭がいっぱいなんだ、あんたは彼女と結婚するんだ。私の方は神様の役目を務めるさ、幸運の神でありたいものだ。私には一人友達がいて、私はかつてその人の罪を代わりに被ってやったことがあるんだ。彼はロワール軍の大佐だった。そして最近、王党衛兵隊に雇用された。彼は私の意見を聞き、極右王党派になったんだ。これはある考えに固執するという愚かさから脱した生き方なんだ。私からあんたに、もう一つ忠告することがあるとすれば、そうだな、あんたの言葉に固執しないのと同様に、あんたの意見にも固執するなってことだな。人があんたのそれを欲しがるんだったら、そんなの売っちまえ。決して意見を変えないことを自慢するようなやつは、いつだって真っ直ぐに行かねばならないと思い込んでいるやつで、無謬を信じてる馬鹿野郎だ。原理なんてものはないんだ、出来事があるだけだ。法はなくて環境があるだけだ。優れた人間は出来事と環境を結婚させて、それらを操作しやすくするんだ。もし原理と法が固定されているとすると、我々がシャツを着替えるのと同じように民衆がそれを変えることが出来んということだ。人間というのは卑しくも国といわれるものよりもお行儀良くしなければならないってことはないんだ。フランスに全然貢献してこなかったような男が、常に革命に関わっていたという理由で崇め奉られるべき偶像となっている。彼などは軍事博物館の兵器類と一緒に、ラ・ファイエット[51]のラベルでも貼って陳列しときゃいいんだ。一方でウィーン会議でフランスの分割を回避させたタレイラン王子[52]に向かって皆が石を投げつける。ところが王子はくだらない人情なんかは軽蔑しきっているので、大衆からの悪罵をまた相手の顔に投げ返す気もない。我々は彼を王にすべきなのだが、我々は彼に泥をぶつけている。あー! 私はこのようなことをよく知っている、身にしみてな! 私は人間の善行には裏があることを知っている! もう沢山だ。私はいつか、原理を実際に用いる上で私と意見を同じくする人間三人に出会えたら、その時こそゆるぎなき見解を確立出来るんだ。だが、私はまだ長い間待つことになるだろう! 我々は裁判所で三人の裁判官が、ある法案について私と考えが一致するというような場面にはなかなか出会わないものだ。ともかく、さっきの男の話に戻ろう。そいつは、私が言えば、イエス・キリストをもう一度十字架に架けることだってやりかねない人間だ。パパ・ヴォートランの一言だけで、彼は、可哀想な妹にはたったの百スーも送ってやらないような、あのろくでなし野郎に喧嘩を吹っかけようとしているんだ、そして……」ここでヴォートランは立ち上がり、防御の姿勢をとり、次いでフェンシング教師のように突きのポーズをして見せた。
「そして陰では!」彼が付け加えた。
「何と恐ろしいことを!」ウージェーヌが言った。「貴方は冗談を言ってるんですか、ヴォートランさん?」
「まあまあまあ、落ち着いて」この男は答えて、「子供っぽいことを言うなよ。だけども、それであんたの気持ちを軽くすることが出来るなら、怒れよ、むかっ腹立てろよ! あんたの好きに言ってもいいんだぜ、私のことを汚らわしい極悪人でろくでなしで強盗ですとな。ただし、私は詐欺師でもスパイでもない、これだけは忘れないでくれ! それなら私は構わんよ、あんたの分厚い鎧を脱ぐんだ! 私にはよく分かる、あんたの年頃なら、それは本当に当たり前のことなんだ! 私だって、そんなだったぜ! ただな、よく考えてみろよ。あんたもやがては酷い事をするんだ。あんたは何処かの綺麗な女に取り入って金を貰うんだろ。図星だろ!」ヴォートランが言った。「あんたの愛が必ず儲かると確信が持てなくたって、どうしても成功するにはどうするか? 徳ってのは、学生さんよ、公平に配られているようなものじゃない。それを持ってるか、全然持ってないかだ。人は自分の罪を悔いよと教えられる。おまけに改悛の厳しい行いによって罪を償って徳性に至るという結構な道まで用意されている! まあ、あんたをこの社会階層の頂点にまで押し上げてくれそうな人妻を誘惑してみるかね。すると、快楽や利己的利益を追求したありとあらゆる恥知らずな行為が、時にはあからさまに時には物陰でこっそりと行われるのは勿論だが、これは一つの家族の子供達の中に不和の種を投げ込むことにもなる。あんたはこの行為の中に敬虔さ、希望、あるいは慈悲の心を見出すことが出来るかね? どうして可哀想な子供から一夜にして財産の半ばを奪ったような色男にはたった二ヶ月の禁固刑なのに、貧乏人の輩が千フラン紙幣一枚を盗むと加重情状で徒刑場送りにされてしまうんだね?[53] これがあんた達の法律なんだ。法規なんてみんな不条理なんだ。[54]手袋をして古びた言葉を弄する人間が殺人を犯す。そこでは血は流れないが、確かに人が死ぬんだ。一方、強盗はかなてこでもって戸をこじ開ける。二つの対照的な夜の犯罪! 私があんたに提案していることと、あんたがいつか行うこととの間には血が流れるかどうかの差があるだけで、実は同じことなんだ。あんたはあの社交界に何とかしっかりした繋がりを持ちたいと考えている! それじゃあ、人のことは気にするな、そして法の網をかいくぐることの出来るように、網の目を見つけるんだ。大金持ちでこれといった成金の秘訣も見当たらないような人物には秘密があって、それは過去の犯罪が忘れられているのだ。何故なら、その犯罪は実に念入りに行われたからだ」
「待って下さい、ヴォートランさん、貴方が私に自分自身のことまで疑わせようとするなら、私はこれ以上この話を聞きたくありません。たった今、私の感情が高ぶって、もう理性を失いそうです」
「のんびりしなよ、君。私はあんたのことを、もう少し強いのかと思っていたぜ」ヴォートランが言った。「私はあんたにまだ何も話しちゃいないぜ。だがな、致命的な一言は言っちまった」彼はじっと学生を見つめた。「あんたは私の秘密を知ってしまったんだ」
「貴方を拒むほどの若者なら、忘れなければならないことがあるのを知っています」
「あんたは上手いこと言ってくれる、嬉しいぜ。他のやつなら、そうだろ、そこまできちんとはしていないぜ。私があんたのためにしてやろうとしたことを覚えておいてくれ。十五日間待とうじゃないか。これに乗るか降りるかだ」
「この男は何て強靭な頭脳を持っているんだろう!」ラスチニャックはヴォートランが杖を腕に抱えて静かに立ち上がるのを見ながら、そう思った。「彼はボーセアン夫人が体裁よく話した内容を露骨に僕に話したんだ。彼は鉄の爪で僕の心を引き裂いた。何故僕はニュシンゲン夫人のところへ行きたいと思うんだろう? 彼は僕が思いつくや否や、僕の動機を見破っていた。一言で言えば、あの悪党は人や書物が教えてくれるよりももっと沢山のことを道徳について話してくれた。もし家族の思いやりが無理な要求に従ってくれてなかったら、僕はついに妹達に盗みまで働いてしまってたんだろうか?」彼はテーブルの上に包みを投げ出しながら考えていた。彼は坐って、頭をくらくらさせるような考えの中に沈み込んだまま、暫くじっとしていた。「善美に忠実でいよう、崇高な殉教者になるんだ! なあに! 誰だって美徳を信じているんだ。だが徳の高い人って誰だ? 民衆は自由に憧れている。だが、この地球上で自由な民衆って何処にいるんだ? 僕の青春はまだ雲ひとつない空のように青い。偉大で金持ちになりたいと望むなら、嘘をつき、身を屈し這いつくばり、また立ち上がり、おべっかを使い、本心を隠そうと決意したんじゃないのか? 嘘つきや根性曲がりや這いつくばっていた連中の下僕になることに同意したんじゃないのか? 連中の共謀者になるためには、まず連中に尽くさねばならない。やれやれ、駄目だな。僕は気高く清廉な仕事をしたい。僕は昼も夜も働き続けたい。自分の労働以上の富を得てはならない。富を得るとかいうのは最後の方で考えることになるだろう。僕はそんなことよりも、毎日々々寝ている時ですら、邪悪なことなど考えずに過ごすことになるだろう。自分の人生をじっと見つめて、それが一本の百合の花のように純白であるのを見出すことほど素晴らしいことがまたとあろうか? この僕とその人生、僕達はまるで一人の若者とその婚約者のようなものだ。ヴォートランは結婚後十年経ったらどうなるかを僕に考えさせた。くそっ! 頭がぼうっとしてきた。もう何も考えたくない。心に従って行くしかないな」
 ウージェーヌはでぶのシルヴィが仕立て屋の来訪を告げる声で、夢想から我に返った。彼は手に金の入った袋を二つ持って仕立て屋の前に現れたが、この成り行きを密かに喜んでいた。彼は夜の服を試着した時に朝の化粧をやり直していたので、すっかり見違えるほどに容貌が変わっていたのだ。「僕はトライユ氏にも匹敵するんじゃないか」彼はそう思った。「ようやく貴族らしい感じになってきたぞ!」
「ごめん下さい」ゴリオ爺さんがウージェーヌの部屋へ入ってきて言った。「貴方は、私がニュシンゲン夫人の訪問するお屋敷を知っているかどうか、お尋ねになりましたね?」
「はい、そうです!」
「それなら、彼女は次の木曜日にカリリアーノ元帥の邸の舞踏会に行きます。もし貴方もそこへ行かれるなら、私の二人の娘が楽しくやってることや、どんな服装をしていたかとか、要するに何でもいい、私に話して下さいませんか」
「どうして貴方はそんなことまでご存知なんですか、ゴリオ父さん?」ウージェーヌは彼を暖炉のところに坐らせながら言った。
「彼女の小間使いが私に教えてくれたんです。私は娘達の様子はテレーズとコンスタンスに聞いて何でも知ってるんです」彼は嬉しげに答えた。老人はまだとても若い恋人が女主人に気づかれないように彼女との連絡を確保しておく策略を立てて、その幸福に浸っているように見えた。「貴方は娘達に会える、貴方ならきっと!」彼は悲しげな妬みを素朴に表しながら言った。
「そんなの分かりませんよ」ウージェーヌが答えた。「僕はボーセアン夫人のところへ行って、彼女が僕を元帥に紹介してくれるかどうか訊いてみます」
 ウージェーヌはある種の心の内なる喜びを感じながら、今後はその場に相応しい服装をして、ボーセアン夫人の邸へ現れる自分の様子を思い浮かべた。道徳家達は彼の中に心の闇を見たと言うかもしれない。しかし心の闇とは恐ろしく深い思慮の結晶ではなく、個人的利害に絡んだ当てにならない思惑や無意識的動作が意に反して表面化する現象に過ぎない。なお、ここに出てくる予期せぬ出来事、仰々しい長広舌が提出するテーマ、急激な変転はウージェーヌの心理分析を離れて、もっぱら我々の楽しみのために伏線として敷かれていることをご理解願いたい。
 よく着こなし、手袋をはめ、長靴を履いた自分の姿を見たラスチニャックはつい先ほどの高潔な決心を忘れてしまった。若者というものは自らが不正に浸されている時は敢えて良心の鏡に自分を写して見ることをしない。一方で成熟した人はそんな時も自らを眺めるものである。人生の二つの段階のはざまであるそこに、総ての違いが横たわっている。いつの日からか、二人の隣人、ウージェーヌとゴリオ爺さんは良き友人となった。彼等の秘密の友情は、ヴォートランと学生とのそれとは対極的な感情から生み出された心理的な理由に由来していた。大胆な哲学、それは我々の感情が物質界に及ぼす影響を確認することを目指したのだが、当初の目的から言えば副次的産物の方により多くの証拠を見つけ出すことになりそうだ。それは我々と動物の間に存する感情についての類似点というテーマだ。犬が初めての人に対して、自分を可愛がってくれるかくれないかを判断するために、一瞬にして人の性格を見抜く早さに勝る人相学者が果たしているものだろうか? 心が通じ合う、これは誰もがよく使う言い回しだが、どういうことなのだろうか。思うに、原初的言語と派生的言語を弁で仕切るのが好きな連中が、前者でもって哲学的定型表現を組み立てたが、それに反する事実が切り捨てられた派生的言葉の中になお多く存在し続けているということではなかろうか。人は愛されると感じる。感情は総ての事物に刻み込まれ、そして空間の中を移動する。一通の手紙は一個の魂であり、それは繊細な精神が愛の最も豊かな財宝の一つに数えるところの、あの声の忠実な反復なのだ。ゴリオ爺さんの場合、彼の感情は無思慮に高められ、その嗅覚は犬が天性授けられたものの域に達していたので、学生の心の中に芽生えた彼への同情、感嘆の混じった好意、若者らしい共感を嗅ぎ取ったわけである。こうした付き合いが生まれはしたが、まだ二人が打ち明け話をし合うには至らなかった。もしウージェーヌがニュシンゲン夫人との面会を希望したとしても、彼がこの老人を通じて彼女に紹介してもらうというようなことは望めなかった。しかし彼はそうした希望を漏らすことが結構効果的なのではないかと期待していた。ゴリオ爺さんは二人の娘のことについては、言ってみれば公表の認められていること、二人の娘が訪れる日程といったこと以外には彼に話したことがなかった。「ねえ、貴方」翌朝、ゴリオ爺さんが彼に話しかけた。「想像出来ますかね、貴方、レストー夫人が私の名前を呼ぶ時、どんな風に呼ぶのかって? 私の娘は二人とも、私のことをとても愛してくれてるんだよ。私は幸せな父親だ。ただ、私の二人の婿だが、私とは上手くいってないんだ。私は可愛い娘達を私が彼女達の夫と仲違いすることで悩ませたくないんだ。それより私は彼女達とこっそり会うことの方が好きなんだ。この隠し事が私にはたまらなく楽しいんだ。これはいつでも好きな時に娘に会える他の親父達には分かりゃすまい。私はね、他の親父達のやってることが出来ないんだ、分りますか? そこで、天気の良い日、私はシャンゼリゼに出かける、小間使いに私の娘達は出掛けたかどうか尋ねてからだがな……私は道で彼女達を待つんだ、馬車がやってくると私の心臓はどきどきする。私は化粧した彼女達を感嘆して眺める。彼女達は通り過ぎながら小さく微笑んで見せてくれる。すると綺麗な日の光が射して、私はその自然の中に包み込まれるような気がするんだよ。それから、私はそこに留まっている。彼女達がまた戻ってくるはずなんだ。そして私はまた彼女達に会うんだ! 空気が彼女達をいっそう綺麗にする。彼女達は薔薇色だ。私には周りの話し声が聞こえる。ほらあそこに綺麗な人がいる! その声で私の心はまた嬉しさで弾むんだ。あれは私の直系じゃないか? 私は彼女達の馬車を引っ張る馬を愛している、そして私は彼女達の膝の上にいる小犬になりたいと思うんだ。そしたら私は彼女達の喜びを見られるんだ。人それぞれに愛し方というものがある。しかし私のは人に害を及ぼすものではない。なのに何故みんなが私に口出しするんだ? 私は私のやり方で幸せなんだ。私が毎晩、娘達が舞踏会に行くために家を出る時を捉えて会いに行くのは法律違反かね? 私が遅く行ったために『奥様はお出掛けになりました』等と言われた時の私の悲しみはどんなに深かっただろうか。ある晩など、私はナジーに会いたくて夜明けの三時まで待ったものだった。それまで丸二日間というもの、彼女に会ってなかったんだ。私は死ぬほど退屈だった! お願いだから、私には娘達がどんなにいい具合にやってるかだけを話して下さいませんか。彼女達は私にはいっぱいいろんな種類のお土産を持ってこようとするんだ。私はそれをさせんようにしてるんだ。それで言ってやるんだ。『それよりもお前達の財産を守れ!』貴方なら私がどうすべきだと思いますか? 私には何も要らない。本当に、貴方、私は一体何だろう? 聞き分けのない亡霊のようなものかね、魂だけはあちらこちらと娘達の居場所をうろついている。いつか貴方がニュシンゲン夫人に会ったら、二人のうち、どちらが好きか私に言ってくださいね」この善良な男は一瞬の沈黙を置いた後、ウージェーヌを見つめて言った。学生はそろそろ出掛けようとしていた。彼はボーセアン夫人のところへ行くまでの時間にチュイルリーを散歩して過ごそうとしていた。
 この散歩は学生にとって運命的なものとなった。何人かの女性が彼を目に留めた。彼はとてもハンサムで、とても若く、しかもとても趣味の良い上品さを身に付けていた! ほとんど感嘆に近い眼差しが自分に注がれているのに気づくと、彼はもはや妹達のことも落ちぶれた叔母のことも善が掻き立てる嫌悪感のことも考えられなくなっていた。彼の頭の中を、誰か一人の天使をものにするのは簡単じゃないかという悪魔的な考えが走り過ぎるのを彼は見た。あのサタンは多彩な翼を持ち、ルビーを撒き散らし、宮殿の前で黄金に輝く毒舌を吐き、女性達の顔を赤らめさせ、馬鹿を装いながら王位を分裂させてしまう。彼等も元々はごく素朴なものだったのだが……彼はこのパチパチ音を立てる虚栄心に、神の声を聞いた。その美辞麗句は、我々には力の象徴のように思われるものなのだ。ヴォートランの言葉は、それが如何に反世間的なものであったとはいえ、彼の心の中に、処女の思い出の中に刻み込まれた化粧品売りの婆さんのいかにも恥知らずな横顔とその言葉のように、いつまでも残っていた。その婆さんは少女に言ったものだ。「金と愛情はどっさりあるんだよ!」
 何をするでもなく、ぶらぶら散歩した後、ウージェーヌは五時頃にボーセアン夫人の許を訪れたが、そこで彼は恐ろしい衝撃を受けた。若者はそれに対抗するすべを持っていない、それほどの衝撃だった。これまで彼が会った子爵夫人は、貴族の教育によって培われた礼儀正しい優しさや、心地よい優雅さに溢れていた。それらが、彼女の真心から出たものと、全面的に言えないにしてもである。
 彼が入ってゆくと、ボーセアン夫人は無愛想な様子で、彼に向かってぶっきらぼうに言った。「ラスチニャックさん、貴方にお会いすることが出来ないの、とにかく今はね! ちょっと取り込み中なので……」
 他人が見ても、あるいはラスチニャック本人にとっても状況が急変していた。この言葉遣い、仕草、眼差し、声の抑揚が、性格を物語っていたし、またそれは特権階級の習慣そのものだった。彼はビロードの手袋の下に隠されていた鉄の手を認識した。礼儀作法の下に隠された人格や利己主義も、ニスの下にある木質も……要するに彼は〈朕は国家なり〉という王様の羽飾りから発し、最後の貴族の兜の天辺にまで受け継がれた言葉を聞いたのだった。ウージェーヌは彼女の言葉を聞くと、実にあっけなくこの婦人の威厳の前に身を屈したのだった。とても口惜しいことに彼は既に誠意をもって契約書にサインしてしまっていたが、それは夫人にとっては結構な内容で、保護者と被保護者の結びつきは保護者の恣意に任されていた。その中の第一項は、数々の大きな精神活動の中から、完全な平等を抜き取り神に捧げていた。そもそも平等という観念は良く理解されておらず、真実の愛がそうであるように、実在しないに等しいものであった。二人の間の平等は消されてしまっていたというわけである。彼女の慈善的精神が二人をようやく繋ぎとめてくれたのだった。ラスチニャックはカリリアーノ伯爵夫人の舞踏会に行くことを望んでいた。疾風のように総てを嘗め尽くす積りだった。
「奥様」彼は熱のこもった声で言った。「大事なことでなければ、貴女にうるさがられるのに、やっては来ません。もし私にご親切をかけて下さるなら、どうか後でご面会させていただきたく思います。私はお待ちしております」
「あーそうね! 私と夕食をしにいらっしゃい」彼女は先ほどの言葉にきつい印象が入っていたことを少し恐縮しながら言った。この婦人は立派であると同様に本当に善良な人だったのだ。
 この突然の態度変更に喜んだものの、ウージェーヌはそこから立ち去りつつ思った。「這いつくばるんだ、ひたすら耐えるんだ。他の連中ならどうするだろ、もしも最高に素敵な女性が友達との約束を反故にする、そんな瞬間があったとしたら、そして君はそこに古靴のように棄てられるとしたら? 自己中心主義なのか、結局? 確かに彼女の家はお店じゃない、だから僕がそこで彼女に必要なものを頼むのはまちがっていた。ヴォートランが言うとおり、僕は自分で大砲の弾を手に入れなければならない」学生の苦い反省は子爵夫人のところで夕食をしながら約束することが出来た新しい喜びのおかげで、まもなく霧消してしまった。それと同時に、ある運命によって、この時の彼の人生に起こった極めて些細な幾つかの出来事は彼の背中を押して、ある階段の方へ向かわせたのだった。その階段こそ、メゾン・ヴォーケに住む恐るべきスフィンクスの見立てに従えば、まるで戦場のようなところで、彼は殺される前に殺し、騙される前に騙す、そういう人間になってゆくところだと言うのだ。そこでは、彼は良心の壁の前に自分の心を置き、仮面を付け、人間的な情などはものともせず、古代ギリシャのスパルタのように、人知れず財を手に入れ王位に就こうとするようになるだろうと、例のスフィンクス男が言ったのだった。彼が再び子爵夫人の邸に戻ってみると、彼女はこれまでいつも彼に見せてきたようなしとやかな優しさをいっぱいに見せて彼に対してくれた。二人は揃って食堂に入っていった。子爵がそこで夫人を待っていた。そして王政復古以来、誰もが認めているように、食卓の豪華さは最高の水準にまで達していた。ド・ボーセアン氏は何事にも感激しなくなった人の多くがそうであるように、美食以外にはほとんど楽しみがなくなっていた。彼は食道楽に関してはルイ十八世やデスカール公爵[55]の弟子だった。彼の食卓は何と二重の豪華さ――食器の豪華さと中味の豪華さ――を共に提供していたのだった。ウージェーヌはかつてこれほどの光景にお目にかかったことはなかったし、彼にとって父祖伝来の社会的権勢を誇ったこの邸で夕食を食べるのは初めてのことだった。ここの流儀は、かつては帝国の舞踏会の締めくくりに出されていた夜食を最近廃止していた。かつての軍隊は国の内外において、いつ起こってもおかしくない戦闘に備えて、力を蓄えておかねばならない必要があったのだ。ウージェーヌはまだ舞踏会にしか出席したことがなかった。後になって彼を著しく目立たせた平静さは、その頃から彼が心掛け始めたのだが、そのお陰で彼は何にでも馬鹿みたいに仰天するようなことは避けられたのだった。しかし、この彫刻のほどこされた銀食器や豪華な食卓に見られる千にも及ぶ凝った意匠を眺め、音も立てずに行われるサービスに初めて接すると、感嘆を抑えることが出来なかった。燃えるような想像力を持った男にとって、こうしていつも優雅に過ごせる生活よりも、今朝考えたような窮乏生活の方を選ぶことはとても難しいことだった。彼の思考は一瞬、彼をあの高級下宿の方へ連れ戻した。彼はその時、底知れない恐怖のようなものを感じたので、一月にはこの下宿を去ろうと決心した。それは同時に、自分の肩にあの大きな手をかけていたヴォートランから逃れて、どこか適当な住居に移りたいためでもあった。もし我々がパリで無数の形で生じる堕落――表だって見えるものも人知れずにあるものを問わず――を考えてみたとしよう。良識家は次のように自問する、何と言う無分別によって国家はそこに学校を作ったのか、そこに若者達を集めたのか、何とまあそこでは可愛い女性が大事にされるのか、どうして両替商によって見せびらかされた金は彼等の木の椀からは魔術的に消えずに残っているのかと。だが、我々はウージェーヌを一つの例として取り上げてみよう。我々は彼がたまたまほんの少ししか罪を犯していない、それどころか彼は若者にありがちな一寸した違反くらいしかやっていないと認めるとしよう、それで一体何処があの辛抱強く自身と戦い、そしてほとんどいつも勝利していたあのタンタロス[56]と彼を比較出来ると言うのか! とはいえ、彼のパリとの闘いに上手な色付けがなされるなら、我が愛すべき学生は我等の現代文明を最高に劇的な主題として見せてくれるだろう。ボーセアン夫人はウージェーヌに何かしゃべらそうと勧める意味で彼の方を見たが、無駄で、彼は子爵の面前では何故か話し出す気分になれないのだった。
「私を今夜はイタリア座へ連れてってくれるの、あなた?」
「あなたの言うことには喜んで従うよ」子爵はからかい気味に優しく答えた。その微妙さに学生は気付かなかった。「だけど私はヴァリエテ座では、ある人と合流しなけりゃならんのだよ」
「あの女性だわ」彼女はそう思った。
「あなたは今夜はまたダジュダと一緒じゃないのかい?」子爵が尋ねた。
「いいえ」彼女は不機嫌に答えた。
「おや! もしあなたがどうしたって腕を組む相手が要るんだったら、ド・ラスチニャックさんの腕にすがりなさい」
 子爵夫人は微笑みながらウージェーヌを見た。
「それは貴方には結構危険よね」彼女が言った。
「フランスの男は危険を好む、何故ならそこに栄光があるからだと、シャトーブリアン氏が言っています」ラスチニャックはそう答えて頭を下げた。
 それから少し経った時には、彼はボーセアン夫人の横に座って、今流行の劇場に向かって飛ばして行く二輪馬車の中にいた。彼が正面の桟敷席に入ろうとした時、どういう若いツバメだろうと思われたのだろう、彼はこの上なく魅力的な化粧をしていた子爵夫人と共に、総てのオペラグラスが一斉に自分達に向けられているのを感じた。彼は歓喜の中を歩いている気持ちがした。
「貴方は私に話しかけて」ボーセアン夫人が彼に言った。「あっ! 見て、ニュシンゲン夫人がいるわ、私達から三つ目の桟敷よ。彼女の姉とド・トライユ氏は反対側の桟敷だわ」
 こう言いながら子爵夫人はロシュフィード嬢が来ることになっている桟敷席に目をやった。しかしダジュダ氏の姿は見えなかった。彼なら、その姿はとても目立つはずだった。
「彼女は魅力的だ」ニュシンゲン夫人を見た後、ウージェーヌが言った。
「彼女のまつげは色が薄いわね」
「そうですね、だけど何て可愛くて細い胴をしてるんでしょう!」
「彼女の手は丸々してるのよ」
「綺麗な目だ!」
「彼女って面長ね」
「だけど面長の輪郭も品があります」
「あんな席を持つなんて、彼女も幸せだわ。見て、どうしたのかしら、彼女ったらオペラグラスをかざして、また外したわ! ゴリオ家ってのが彼女の行動の総てに現れてしまうのね」子爵夫人がこう言ったので、ウージェーヌはすっかり驚いてしまった。
 確かにボーセアン夫人はその桟敷にオペラグラスを向けながら、ニュシンゲン夫人には注意を払わなくなったようだった。それにもかかわらず彼女はニュシンゲン夫人の動作は見逃してはいなかった。そこの集まりは素晴らしく美しかった。デルフィーヌ・ド・ニュシンゲンはこの若くて美しくて上品なボーセアン夫人の従弟の視線を独り占めにしていることで、ひどく浮き浮きしていた。彼は彼女以外は一切見なかった。
「貴方がそんなに彼女の方ばかり見続けてると、貴方は直ぐにスキャンダルを引き起こしますよ、ド・ラスチニャックさん。その調子で皆の前に身を晒すようでは何事にも成功しないわよ」
「姉さん」ウージェーヌが言った。「貴女は確かにこれまで僕の事を守って下さいました。貴女がこれまで僕に下さった親切をやり遂げてやろうと思って下さるにしても、僕は貴女にちょっとお力添えを頂くだけで結構です。それが僕には十分大きな力となります。僕は今、気持ちが固まりました」
「えっ、もう?」
「はい」
「で、あの女に?」
「僕の心からのお願いです。それ以外のことに聞こえますか?」彼は従姉に射抜くような眼差しを投げかけて言った。「カリリアーノ公爵夫人はベリー公爵夫人と繋がりがあるそうですね」彼は一呼吸おいて続けた。
「僕にご親切を施して下さって、彼女に紹介下さり、月曜日に彼女が開く舞踏会に僕が行けるようにしてやろうとお思いなら、彼女に会って頂きたいのです。そうすると僕はそこでニュシンゲン夫人に出会い、僕の最初の恋の鞘当を始めることになるんです」
「それなら喜んで」彼女が答えた。「貴方がもう彼女に好意を抱いているなら、貴方の恋愛ってすごく上手く行きそうだわ。ほら、ド・マルセイがガラティオーヌ王女の桟敷席にいるでしょ。ニュシンゲン夫人はとても辛い思いをしてるの、彼女は悔しい思いをしてるのよ。女に近づくのに、これ以上良いタイミングはないわ。特に銀行家の奥様にね。ショセダンタンのあの女達はともかく復讐が好きなのよ」
「貴女が彼女と似たような立場だったら、貴女ならどうなさるのですか?」
「私ならね、一人で苦しむわ」
 この時、ダジュダ侯爵がボーセアン夫人の桟敷席に入ってきた。
「私はここで貴女にお会いしたくて、仕事はいい加減で切り上げてきました」彼が言った。「でも、そんなのは犠牲と言うほどのことではないんです」
 子爵夫人の表情の輝きから、ウージェーヌは本物の愛の表情を読み取った。それをパリジェンヌの化粧で飾られた見せ掛けの愛と混同してはならないことも悟った。彼は従姉に感嘆していた。彼は黙って微笑みながら、ダジュダ氏に自分の席を譲った。「あのように人を愛せるなんて、何と気高く、何と高貴な女性なんだろう!」
彼は思った。「なのに、あの男は可愛い子ちゃんが欲しくて、彼女を裏切ろうとしている! どうして彼女を裏切ったり出来るんだ?」彼は心の中に子供らしい烈しい怒りを感じた。彼はむしろボーセアン夫人の足元にくるまっていたかった。彼は鷲が自分の領分の平原でまだ乳飲み子の白い子ヤギをくわえ取るように、悪魔的な力が自分を彼女の胸の中に運び込んで欲しいと願った。彼はこの巨大な美術館の中で、まだ自分の肖像画もなく、面倒をみてくれる女性の擁護者もいない実に屈辱的な存在なのだった。「女性擁護者がいるってことは、ほとんど王位にいるようなもんだ」彼は思った。「それは力の象徴なんだ!」それから彼はニュシンゲン夫人を見た。それはまるで侮辱された男が敵対者を見るような具合だった。子爵夫人は彼の方をもう一度見た時、彼がウィンクをして、精一杯の願いを伝えようとしているのを見た。最初の幕は切って落とされた。
「貴方はニュシンゲン夫人を良くご存知ですか? ラスチニャックさんを彼女にお引き合わせ出来たらと思いますのよ」彼女はダジュダ侯爵に切り出した。
「無論ですよ、この方とお知り合いになれるなら彼女も喜びますよ」侯爵が答えた。
 美貌のポルトガル人は立ち上がると学生の腕を取った。学生はあっという間にニュシンゲン夫人の前に連れて行かれた。
「男爵夫人」侯爵が言った。「私は光栄にもウージェーヌ・ド・ラスチニャック卿を貴女に紹介させて頂きます。ボーセアン子爵夫人のお従弟様でいらっしゃいます。貴女は彼にとても強い印象を与えられたのです。そこで私は彼を憧れの人にもっと近づけてあげて、彼を完璧に幸せにしてあげたいと思ったというわけです。」
 この言葉はある種の冷やかしめいた調子を含んでいて、やや露骨な考えを伝えていたが、それでいて、この女性には結構救いになるものがあって、決して不快感を与えるものではなかった。ニュシンゲン夫人は微笑んで、たった今出て行ったばかりの夫の席をウージェーヌに勧めた。
「私は貴方に私の傍でずっといて欲しいなんて思い切って言うことは出来ませんわ、貴方」彼女は彼に言った。「ボーセアン夫人の傍らにおられる人が、どうしてそこを離れられましょう」
「けれども」ウージェーヌは低い声で彼女に言った。「奥様、たとえ私が従姉の気に入るようにしたいと思っていても、私はどうもあなたの傍に留まってしまう様な気がするんです。侯爵が私達の席においでになるまで、私達は貴女のことや、貴女のお人柄の優れていることをずっと話していたんです」彼の声が高くなった。
 ダジュダ氏が立ち去った。
「本気で貴方は」男爵夫人が尋ねた。「私の傍にいるお積りなの? だって私達知ってるんですよ、レストー夫人がもう話してくれたんですけれど、彼女は貴方にとても会いたがってるんですってね」
「彼女は全くひどいですよ、彼女は私を追い出したんです」
「何ですって?」
「奥様、私はそうなった理由を貴女には誠意を持って話したいと思います。しかし貴女にこのような秘密をお打ち明けするについて、私は貴女が寛大なお気持ちで対して頂けるように心からお願いいたします。私は貴女のお父上の隣の部屋に住んでいるのです。私はレストー夫人が彼の娘さんであることを知らなかったのです。私は軽率にも、悪気はなかったのですが大胆な発言をしてしまい、私は貴女のお姉様である夫人とそのご主人を怒らせてしまったのです。貴女はご存じないかもしれませんが、ランジェ公爵夫人と私の従姉が、どんな風に子供として忘恩きわまる裏切りとこれを捉えているかは想像するに余りあります。私は彼女達にいきさつを話しました。彼女達はそれを聞いて気違いのように笑い転げていました。更に貴女と貴女の姉上を比較した時、ボーセアン夫人は私に貴女のことを遥かに良く言っていました。そして、貴女が私の隣人のゴリオさんに如何に立派に接しておられるかを話してくれたものです。その通り、どうして貴女が彼を愛さないでおられましょうか? 彼は貴女をもう熱愛しているので、私はもう既にそれを嫉妬してしまっているくらいです。今朝だって、私達は貴女のことを二時間も話しこんでいました。そして貴女のお父様は私にとても沢山のことを話されましたが、今夜、従姉と夕食を共にした時、私は彼女に言ってやりました、貴女は美しいに違いないけれど、それ以上に情のある人であると。明らかに私はこの熱烈な賞賛が効くことを期待していたんですが、ボーセアン夫人は私をここへ連れてきてくれました。彼女はいつもの優雅な声で、ここで貴女に会えるはずだと言ってくれました」
「一体どうして貴方は」銀行家夫人が言った。「私のことをそんなによくご存知ですの? もう少ししたら、私達すっかり旧友になってしまいますわね」
「とはいえ、貴女のそばにいて友情などと言えば、少しありきたり過ぎますよ」ラスチニャックが言った。「私は決して貴女の友達なんかになりたくありません」
 この初心者用の紋切り型の愚かな言葉は女達にはいつも魅力的に聞こえ、よほど冷静に聞き取られない限り、そんなに惨めな結果を招くものではない。若者の身振り、強調、そして眼差しは彼等に計算外の価値を与えるのである。ニュシンゲン夫人はラスチニャックに魅力を感じた。それでも、女というものの常として、この学生が言ったと同じような状況で、こんなに感情を露わにして出された誘いには応えられないものだから、彼女は話の方向を変えてみた。
「はい、姉は私達にとって神様のような、あの可哀想な父に向かって、間違った接し方をしています。夫のニュシンゲンも、私が父に会うのは朝だけにするようにとはっきりと言っております。私は父に会いたいので、夫の要求には従っています。でも私はこのことでは長い間、悲しい思いをしてきました。私は泣きました。結婚の後で夫から突然荒々しい言葉を投げつけられたことが、私の家庭の大きな悩みの原因の一つになったのです。パリの家庭の主婦は世間的には一番幸せなように見られていますが、本当は一番不幸せなんだと私は思っています。貴方にこんな風なお話をする私のことを頭が変なんだと、貴方はお考えになることでしょう。でも貴方は父のお知り合いです、ですから、貴方なら私のことを間違った風にお受け取りにはならないでしょう」
「貴女はこれまでに」ウージェーヌが彼女に言った。「貴女と一緒にいたいと、これほど熱くなって望むような人間には決して出会わなかったのでしょう。貴女が求めているものは一体なんですか? 幸せ」彼は彼女の魂にまで届く声音で付け加えて言った。「私はこう思うんです! 女性にとって幸福とは、愛されること、熱愛されること、彼女が自分の望み夢見ていること、悲しみや喜びを総て打ち明けられるような友人を一人持つことです。互いに心を包み隠すことなく自分を見せて、可愛い欠点や美しい性格などをひっくるめて、決して裏切られることを心配する必要もない、そういった友人です。私のことを考えてください。心は忠誠を誓い、いつも熱く燃えていて、若者でしか見出せないものや幻想で溢れていて、貴方の合図があれば即死んでもみせるが、世の中のことはまだ何も知らない、そのうえ知りたくもないという、何故なら彼にとっては貴女が世界なのです。分かって頂けるでしょうか。貴女は私の無邪気さをお笑いになるでしょう。私は田舎の奥から来たばかりで全くの新米です。無垢の心しか知りません。それで私は恋愛などしないでいる積りでした。私は従姉と会うようになりました。彼女は私のために特に心を砕いてくれました。彼女は情熱の中の幾千もの宝物を見抜くことを私に教えてくれました。私はあのシェリュバン[57]のように、総ての婦人達の恋人です。私がその婦人達の中から誰か一人の人にこの身を捧げる日が来るのを待つ間は、私は総ての婦人達の恋人なのです。ご存知のように、私が入って来た時、私は何だかある流れによって、貴女の方に運んでゆかれるような気がしました。私は貴女のことは前からずっと考えていたのです! しかし私が想像していた貴女は今目の前に実際にいらっしゃる貴女ほどには美しくはなかったのです。ボーセアン夫人はあまり貴女の方ばかりを見ないようにって言ってました。彼女は貴女の可愛い赤い唇、貴女の白い肌、貴女の甘美な瞳を見ることが、どんなに魅惑的なことであるかを知らなかったのです。私はまた、貴女に馬鹿なことを話してますね。だけど私の好きなように言わせておいてください」
 このような甘い言葉が喋られるのを聞くほど女達にとって心地よいものはない。こちこちの信心家でも、これには耳を傾ける。特にそれに答える必要もないのなら尚更のことである。こんな調子で始めた後、ラスチニャックはとりとめもなく喋ったが、彼の声には訳もなく粋な雰囲気が漂っているのだった。そしてニュシンゲン夫人は微笑でウージェーヌを勇気づけてくれた。もっとも、彼女はガラテオーヌ王女の桟敷を離れようとしないド・マルセイの方を時々見やっていた。ラスチニャックはニュシンゲン夫人の夫が、彼女を連れて帰るために現れるまで、夫人のそばに留まっていた。
「奥様」ウージェーヌが彼女に言った。「カリリアーノ公爵夫人の舞踏会の前に、貴女にお会い出来れば嬉うございます」
「ヅマ、アナダノゴド、キニイッデマス」ずんぐりしたアルザス人で、その丸っこい体型が油断のならない鋭敏さを語っている男爵が言った。「アナダヲ、カンケイシマズ、セヒキテグタザイ」
「僕の恋愛は上手くいっている。何故なら彼女は僕が彼女に何を言っても気を悪くしていない。僕のこと気に入りましたか? なんてことまで言ったのにさ。僕のお馬ちゃんにはみを付けちゃったから、これからは思いっきり乗り回しちゃうぞー」ウージェーヌはボーセアン夫人の桟敷へ挨拶に向かいながら、そんなことを考えていた。夫人は立ち上がって、ダジュダと一緒に退去するところだった。哀れな学生は先ほどのニュシンゲン男爵夫人が実は放心状態で、ド・マルセイからの手紙を待っていたことを知らなかった。それは人の心を引き裂く決定的な手紙だったのだ。成功と勘違いしていたウージェーヌは幸福そのもので、子爵夫人に従って列柱回廊に向かった。そこではめいめいが自分の馬車の到着を待っていた。
「貴女のお従弟さんはすっかり感じが変わっちゃいましたね」ウージェーヌが彼等のもとを離れた時、ポルトガル人が笑いながら言った。「彼は銀行家夫人に飛びつこうとしています。彼はまるで鰻のように柔軟です。それでね、私は彼が相当なところまで行くのではないかと思ってるんです。貴方はただ彼を連れて来て、ある女が彼の慰めを必要としているような局面で、彼を引き会わせればよかった」
「だけど」ボーセアン夫人が言った。「彼はその女が自分を棄てた男をまだ愛してるかどうかを知っておかねばならないわ」
 学生はイタリア座からヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通へ徒歩で帰りながら、更に楽しい計画を考えていた。彼はレストー夫人が彼を観察する時に払う彼への関心の高さを測ってみた。もし彼が子爵夫人の桟敷にいたら、もしニュシンゲン夫人の桟敷だったら、そうすると、伯爵夫人の家の戸はもはや閉じられてはいるまいと思えてくるのだった。そんな調子で既に四つの主要な知己が――というのは、彼は軍将官並みに楽観的見通しを立てていたので――パリジャンの上流階級の心臓部に彼の知り合いとして確保されたことになっていた。方法についての詳しい説明はないままで、この世の損得の絡んだ複雑な競争において、彼は前もって、自分が機械の中の高い地位にいるためには、そして自分が歯車の動きを止める力を自覚するためには、彼がその機構に執着せざるを得ないことを見抜いていた。「ニュシンゲン夫人が僕を好きになってくれたら、彼女に夫の操縦の仕方を教えてやろう。あの旦那は金融業なんだから、僕があっという間に一財産作るのを手助けしてくれるだろう」彼はそんなに考え深かったわけではないし、状況を解読するに十分な政治的思考もしていなかった。状況を評価し計算することもしなかった。彼の考えは前途に見える微かな雲の下で揺れ動いていた。そして、考えの中にはヴォートランのそれのような厳しさはなかったが、もし良心の呵責の前にそれを置いたとしたら、純粋な善は跡形もなくなっていたことだろう。現代社会は人々のこの手の一連の作業によって蔓延しているこの緩んだ道徳の実状を認めざるを得ない。そしてこの時代には他のどの時代よりも稀にしか真正直な人間、決して悪には屈せず正しい道を僅かに外れることすら罪だと断罪するあの美しい意志の人に出会うことはないのである。実直さの偉大なイメージとして、我々は二つの傑作を評価したい。モリエールのアルセストである。次いで近頃のものでは、ウォルター・スコットの作品からジェニー・ディーンとその父[58]を挙げたい。恐らく作品は正反対だ。一人の世慣れた男、野心家が外面を守りながらも自分の目的を達成するために、悪と紙一重のような行為もやりながら、自分の良心も丸め込んでしまう、そうした紆余曲折を描いた絵は、だからといって美しさに欠けることもなければ、劇的印象が弱いとも言い切れないのではないだろうか。彼女の家の敷居に辿りつくために、ラスチニャックはニュシンゲン夫人に夢中になった。彼女は彼の目に、まるで燕のようにすらりと細く見えた。彼女のうっとりさせるような甘美な眼差し、彼女の膚の繊細で絹のような光沢のある生地の下に、彼は熱い血潮を見るような思いがした。そして彼女の声の魅惑的な響き、彼女のブロンドの髪、彼はこれらの総てを思い返した。そして彼は階段を上りながら血が騒ぐのを感じた。そのせいだろう、彼の陶酔感は更に深まった。学生はゴリオ爺さんの部屋のドアを乱暴にノックした。
「お隣さんよ」彼は言った。「僕はデルフィーヌ夫人に会ってきましたよ」
「どこで?」
「イタリア座で」
「彼女は楽しそうでしたか? とにかく入りなさい」それから爺さんはシャツを着て起きてきて、ドアを開けると直ぐにまたベッドで横になった。「さあ私に彼女のことを話してください」彼が頼んだ。
 ウージェーヌはゴリオ爺さんの部屋に初めて入ったので、ひとしきり彼の娘の化粧を褒め称えた後で、爺さんが住んでいるむさくるしい部屋を見て唖然とせざるを得なかった。窓にはカーテンがなかった。壁に貼り付けられた壁紙は、何箇所かで湿気のため剥がれかけて反り返っていたので、その下の漆喰が煙草の煙で黄色くなっているのが剥き出しのままになっていた。爺さんは粗末なベッドに横たわり、薄っぺらな毛布とヴォーケ夫人の古着に綿を詰め込んだ足掛けだけを引っ掛けていた。窓はじめじめして埃が溜まっていた。窓と向かい合ってローズ材の古びた整理ダンスがあった。中には何かがいっぱい詰め込まれていて、銅製の取っ手は葡萄の若枝のようにカーヴし、木の葉と花の模様があしらわれていた。古い家具の木製棚の上には水差しが洗面器の中に放り込まれていた。そこには髭剃りに必要な物も全部入っていた。そして隅っこには短靴があった。ベッドの枕元には縁飾りも大理石も付いてないナイトテーブルがあった。暖炉の隅には火を焚いた跡もなく、くるみ材の四角いテーブルがあった。ゴリオ爺さんはそこで棒を使って、金メッキした銀の椀を捻じ曲げていたのだった。安物のライティング・ビュローが一つあって、その上に爺さんの帽子が置かれていた。少し傷のある肱掛椅子と他に椅子二脚、これら総てで惨めな調度品を構成していた。ベッドの囲い枠は上部を襤褸切れで結び合わされていたが、汚らしい赤と白の格子縞の布が垂れ下がっていた。ゴリオ爺さんがヴォーケ夫人の下宿でいる状態に比べれば、最低の稼ぎの走り使いの人間でも屋根裏部屋でもう少しましな調度品を揃えているに違いない。この部屋の光景は寒気を催させ心臓を締め付け、さながら牢獄の悲しみに沈んだ住居のように思えた。幸いナイトテーブルの上の蝋燭がウージェーヌの顔を照らした時、そこに表れた表情をゴリオは見ていなかった。爺さんは顎まで毛布を引っ張り上げたままで彼の方を向いた。
「さあ、それで! 貴方はどっちが好きなのかね、レストー夫人かね、それともニュシンゲン夫人かね?」
「僕はデルフィーヌ夫人の方が好きです」学生は答えた。「何故って、彼女の方が貴方をもっとよく愛してるからです」
 この言葉が熱く語られるのを聞くと、爺さんはベッドから手を伸ばしてウージェーヌの手を握った。
「ありがとう、ありがとう」老人は感動して言った。「彼女は私について貴方にどんなことを言ったのかね?」
 学生は男爵夫人の言葉を潤色しながら繰り返した。老人はまるで神の言葉を聞くような様子でそれを聞いた。
「可愛いあの娘! そう、そう、彼女は私を十分に愛してくれてる。だが、彼女が貴方にアナスタジーのことで言ったことをもとにして、彼女の方が好きだとは言わないで欲しい。姉妹二人は嫉妬しあっているんです、お分かりでしょ? これもまた彼女達の優しさの証明とも言えるんです。レストー夫人だって私を十分に愛してくれてるんです。私には分かってる。父親ってものは娘達にとっては、ちょうど神様が我々とともにあるような関係でしてな、父は彼女達の心の奥底にまで入っていって、考えていることを知ってしまうんです。彼女達は二人とも本当に優しいんですよ。あー! もし二人の婿がいいやつだったら、私は幸せ過ぎたでしょうな。この世に完全な幸せなんてあるわけがありません。でもね、私が彼女達の家に出入りしているんだったら、どんなに嬉しいことか。ところが、私は彼女達の声を聞いたり、何処にいるのか知ったり、彼女達が行ったり出掛けたりするのを見るだけなんです。だから私の家に彼女達を迎えるというような時は、私の心は嬉しくて躍り上がってますよ。ところで彼女達のおめかしは良かったですか?」
「はい、しかし、ゴリオさん、一体どうして、貴方の娘さん達のように二人ともしっかりと富を築かれているのに、貴方はまだこのような粗末な住居に留まっておられるんですか?」
「確かに」と彼はうわべは無頓着な様子で言った。「ましなところへ移ったところで、それが私にとって、どれほどのものをもたらすのでしょう? こういうことについて、私は余り貴方に詳しく説明出来るとは思えない。私はほんの少しの言葉でも申し分なくすらすらと話すことが出来んのです。一番肝心なのはそこなんです」彼は胸を叩いて見せて付け加えて言った。「私の人生は、この私は二人の娘のためにあるんです。もし彼女達が楽しげで、彼女達が幸福で、美しく着飾って、彼女達が絨毯の上を歩くのであれば、私がどんな服を着ようが、私がどんな所で寝ようが、どうだっていいことなんです。彼女達が暖かければ私は少しも寒くはないし、彼女達に悩みがなければ私も決して悩みません。私は彼女達が悲しまなければいいのです。貴方が父親になって、子供達が小鳥のようにさえずっているのを見て、貴方も思うことでしょう。こいつらは私から生まれてきたんだ! 貴方はこの小さな子等がそれぞれに貴方の血の一滴一滴を受け継いで美しい花を咲かせているのを感じる、そう、それなんだよ! 貴方は彼等の皮膚に張り付いたように自分を感じ、彼等の歩みに連れてあなた自身も動いていると感じる。彼等の声はあらゆる所で私に答えてくる。悲しい時には、彼女達の眼差しが私の血を固まらせてしまう。ある日、貴方は彼女達の幸せが自分自身のそれよりもずっと大切である事に気付く。私はこの気持ちを貴方に上手く説明出来ないのだが。それは心の内なる動きで、私の心を安らぎで満たしてくれるんだ。つまり私は三人分の人生を生きているんだ。貴方に私のつまらない話をもう少しさせてくれるかね? どうだね! 私がまだ彼女達の父親だった時、私は神を理解していた。神はあらゆる点で全能だ、何故なら創造物は総て神によって生み出されたものだからだ。貴方いいですか、私は私の娘達に対してはいわば神と同じような立場にあったわけですよ。ただし、私は神が世界を愛する以上に娘達を愛していた。何故かと言えば、世界は神のように美しくないし、その一方、私の娘達は私よりもずっと美しい。彼女達は私の魂をしっかりと繋ぎとめてるんだ。それで私には考えがあるんだが、貴方は今晩それが何だか分かると思うよ。神様! ある男が私の可愛いデルフィーヌをまた幸せに戻してくれるだろう。女が本当に愛された時にあるべき姿の彼女に。勿論私は彼女の長靴を磨いてやりたい、彼女のために使い走りもやりたいくらいに思ってますよ。私は彼女の小間使いから、あのド・マルセイ氏が、けちな浮気相手だったことを知らされてますよ。彼は私に首を絞めてしまおうかというくらいの嫉妬心を起こさせました。女の宝石とも言うべきものを、ナイチンゲールのような可愛い声を、そして完全な美しい肢体を愛さないなんて! また彼女は、あの太ったアルザス出の男と結婚してしまうなんて、彼女の目は一体何処を見てたんでしょうね? 娘達二人の婿は愛想のいい綺麗な若者じゃないと駄目だったんだが、結局、彼女達の好き勝手にやった結果がこれなんです」
 ゴリオ爺さんは崇高だった。ウージェーヌは、父性の情熱の火に照らし出されたこんな男の姿をかつて見たことはなかった。注目に値するのは感情が聖水の灌水の力を持っていたことである。一人の人間が如何に粗野であっても、その人間が強い真実の愛情を表明するや否や、その人間は超能力を発散させ顔つきが変わり、身振りが活発になり声音も変化する。しばしば最も愚鈍な人間が情熱の努力のお陰で、思想を語るにおいて最高の雄弁を獲得するに至るのだ。それは言語学的意味においては違うかもしれないが、彼は明晰な頭脳が語るような世界に分け入っているようにさえ思われるのである。今この瞬間、この爺さんの声や身振りの中には偉大な俳優にだけ与えられる表現力があったのだ。まさしく我々の崇高な感情、それは意志の詩ではないのだろうか?
「ところで! 貴方は多分、知ったところで残念に思う気持ちはおありにならないでしょう」とウージェーヌが言った。「そのド・マルセイとの関係を断ったというあの話ですが。あの二枚目が彼女と別れて、ガラティオーヌ王女と一緒になるとか。私の方は今晩、まさにデルフィーヌ夫人と恋に落ちたんですからね」
「へえー!」
「はい、僕は彼女にはまんざらでもないようです。僕たちは愛について一時間も話しました。そして僕は明後日の土曜日に彼女に会いに行くことになってます」
「おー! どんなに貴方のことが好きになってしまうか分からんくらいだよ、ねえ、貴方が本当に彼女を好いてくれるんならね。貴方は良い人だ、貴方は彼女を少しも苦しめないだろう。第一、もし貴方が彼女を裏切るなら、私は貴方の首を切ってしまうぞ。女ってのは二股かけたりはしない、そうでしょ? おや! 私は馬鹿なこと言ってますね、ウージェーヌさん。貴方、ここは寒いでしょう。ふむ! 貴方、やはり聞いてるんでしょ、彼女は私のことで何か言ってましたか?」
「何も」ウージェーヌは自身の心の中で思った。「彼女は僕にこう言いましたよ」と彼は大きな声で答えた。「彼女は貴方に娘からの心のこもったキスを送りますって」
「おやすみなさい、お隣さん、よく眠りなさい、そして良い夢を見なさい。私の夢はさっきの言葉で十分だよ。貴方の望みが皆叶えられるよう神様のご加護を! 今夜の貴方は私にとってまるで素敵な天使だよ、貴方は娘の周りの空気まで一緒に私のところへ持って帰ってくれたんだからなぁ」
「可哀想な爺さんだ」ウージェーヌは寝床に就きながら思った。「冷たい心にも響くような何かがあるものなんだが、爺さんの娘ときたら、爺さんのことなんかトルコの王様ほどにも考えていないんだからなあ」
 この会話が交わされて以来、ゴリオ爺さんは隣の部屋で思いがけなく打ち明け話の出来た相手、友人と会うようになった。彼等の間では唯一の話題が決まっていて、その話題でのみ、この老人は相手の男と繋がりを持つことが出来たのであった。情熱は決して間違った計算をしない。ゴリオ爺さんは娘のデルフィーヌに少しだけ近づけたように思えた。ウージェーヌが男爵夫人の愛しい人になるとしたら、彼自身もまた前より良く受け入れられるように思われた。それとは別に爺さんは学生に彼の心配事を打ち明けていた。ニュシンゲン夫人、彼女については彼が日に千回も幸せを願っていたのだが、彼女はいまだに愛の甘い喜びを知らなかった。確かにウージェーヌは爺さんの表現を借りるなら、若者の中で彼がかつて見たこともないほど最高に優しい男だった。そして爺さんは若者に探りを入れて、彼女が既に彼のものになっているかどうかの嬉しいニュースを訊こうとさえした。爺さんはまた隣人に対して日増しに高まる友情を抱き始めた。そしてそれがなければ、この話の結末は明らかに全く違うものになっていたはずだ。
 翌朝、朝食の時、ウージェーヌの横に座ったゴリオ爺さんがウージェーヌを見た時示した彼に対する愛情、爺さんが学生にかけた言葉、そしていつもは石膏の面のような彼の顔つきの変化が下宿人達を驚かせた。ヴォートランは彼等二人だけの会見以来初めて学生に再会し、学生の心の中を何とか読み取ろうとしているようだった。この男の計画のことを思い出して、ウージェーヌは昨夜寝る前に自分の面前に広がる広大な原野の大きさを測り、当然タイユフェール嬢の持参金のことも考えた。そして今まるで高潔そのものの若者が豊かな遺産相続人を見るような様子でタイユフェール嬢の方を見ずにはおられなかった。偶然にも二人の目と目が合った。哀れな少女は最新の服装をしたウージェーヌの恰好の良さに当然気付いていた。二人が交わした一瞥はとてもはっきりしていたので、ラスチニャックは総ての若い女性を襲う漠然とした欲求の対象に自分がなってしまっていることを、そしてその欲求が初めて彼女を魅力的にしていることを疑わなかった。彼にはある叫び声が聞こえた。八〇万フランだぞ! が、突然、彼は前日の記憶の中に再び飛び込んでいた。そして彼のニュシンゲン夫人に対するうわべの情熱は彼の無意識に行う悪しき思考への解毒剤であると考えた。
「昨日、イタリア座にロッシーニのセビリアの理髪師を見に行ったんです。僕はあんなに綺麗な音楽を聴いたのは初めてです」彼が言った。「ああ! イタリア座に桟敷を持ってる人達なんて、羨ましいなあ」
 ゴリオ爺さんはこの言葉を犬が主人の動作を見ているように素早く受け止めた。
「貴方は優雅なご身分なのね」ヴォーケ夫人が言った。「貴方のような人達って、本当に好きなことだけやってられるのね」
「あんたはどうやって戻ってきたんだね?」ヴォートランが尋ねた。
「徒歩です」ウージェーヌが答えた。
「私なら」と誘惑者が応じた。「中途半端な遊びは嫌だね。私はそこへ自分の馬車で行って、自分の桟敷で見たいよ。そしてすんなり帰って来たいよ。総てか無かだ! これが私のモットーだ」
「で、誰が一緒だったの?」ヴォーケ夫人が言った。
「貴方は多分ニュシンゲン夫人に会いに行かれるんでしょう」ウージェーヌは低い声でゴリオ爺さんに言った。「彼女は貴方を迎え入れますよ、きっと両手を拡げて。彼女は私に貴方について細かいことまでいっぱい聞きたがっていたんですよ。私は彼女が私の従姉のボーセアン子爵夫人の邸に迎え入れられるためには、社交界であらゆる努力をされるであろうことを知りました。彼女にきっと言っておいてください、私は彼女をとても愛しています、ですから彼女に満足な結果をもたらすように、いつも彼女のことを思っているってことを」
 ラスチニャックは法科大学へ行くため直ぐに立ち去った。彼はこのおぞましい館には出来るだけ僅かな時間しかいたくなかった。誰でも若い頃は、余りに烈しく希望を抱いた時には、頭が熱に浮かされてしまうものだが、彼もそのせいで、その日はほとんど終日ぶらぶらと過ごしてしまった。リュクサンブール公園[59]で友人のビアンションに出会った時、ヴォートランが言ったことの合理性が、彼に社会生活のことをじっくり考えさせた。
「そんな深刻な顔して、どうしたんだ?」医学部学生は宮殿の前を散歩する積りで彼の腕をつかんで言った。
「僕は悪い考えばかり浮かぶので悩んでるんだ」
「どんな分野で? 悪い考えだったら、直に治るさ」
「どうやって?」
「いっそ、それを実行してみなよ」
「君はそれの大変さを知らないんで、笑ってられるんだ。君、ルソーを読んだかい?」
「読んだよ」
「思い出してくれ。こんな一節があったんだ。その中で彼は読者に質問しているんだ。ある偉いお役人の老人を殺せば遺産が手に入って、金持ちになれると分かっている。その老高官は中国にいるんだが、君はパリにいながらにして、その死を願うだけで殺せるとしたら、君はどうするだろうというのが、ルソーの質問の内容だ」
「そうだよ」
「おい! 分かってんのか?」
「ああ! 僕はその話の三十三番目の高官のところまで進んでるよ」
「冗談言うなよ。さあ、もしも計画が可能で、君はただ頷けばいいだけなんだったら……なら、君はやっちまうのかい?」
「彼は十分に年取ってるの? その高官だけど。しかし、ああ! 若かろうと年寄りだろうと、中風だろうと絶好調だろうと、うん、確かに……まあ、そうだな! やはり駄目だ」
「君は正直なやつだよ、ビアンション。だが、もし君が一人の女を愛して、君の魂の総てを彼女に注ぎ込み始めたとしよう。そして彼女には金がかかり始めるとしよう。いっぱいかかる彼女の化粧代、馬車代、最後に無数の気まぐれ、それをどう思う?」
「だが僕にしてみれば、そんな動機はないんだぜ、それでいて君は僕に同じ土俵で議論しようと言ってるんだよ」
「そうかい! ビアンション、僕は変だよ、治してくれよ。僕には妹が二人いて、二人とも天使の様に綺麗で率直で、僕は彼女達の幸福を願っている。どうやって、これから五年以内に彼女達の持参金としての二〇万フランを稼げばいいんだろう? 人生には時期があって、ね、そうだろ、その時には大きな勝負に賭けるしかないんだ。でね、こつこつと稼ぐ幸せなんていうのはないんだよ」
「だがな、君が出してきた問題は誰だって人生の門出でぶつかることなんだ。ところが君はゴルディアンの結び目[60]を剣でぶった切ろうとしているんだよ。そういう風にやるためには、さあ、君がアレクサンダーでなきゃあな、でないと徒刑場送りだよ。僕はね、田舎で何かちっちゃな事をやれたら幸せだ。僕はそこで親父の後を引き継ぐだけさ。人間の愛情なんてのは小さな世界の中でも広い環境と同じくらい十分に満足させられるものなんだ。ナポレオンも夕食を二回とることはなかったし、愛人だって、カプチン病院のインターンをやっている医学部の学生と同じようなもので、そんなに何人もいたというわけでもない。僕達の幸せは、ねえ、いつだって僕達の足の裏から僕達の後頭部の間にかかっているんだよ。あるいは、一年に百万フランであろうと二千フランであろうと、僕たち個人々々の受け止め方は同じであるかもしれないんだ。結論として僕は中国の老高官には天寿を全うして欲しいと思ってる」
「ありがとう、いいことを聞かせてもらったよ、ビアンション! 僕達はいつだって友達だ」
「それはいいとして」と医学部学生が答えた。「キュヴィエ[61]の授業が終わってから、植物園でミショノー嬢とポワレ氏がベンチに座って男と話しているのを見たんだけど、僕はその男を去年の騒動の時、下院議会の周辺で見た記憶があるんだ。そしてその男が律儀な年金暮らしの市民を装っている警察官だったような印象があるんだ。あのカップルの事は調べときなよ。理由は後で話してやるさ。じゃあな、僕は四時の点呼に返事しに行ってくるよ」
 ウージェーヌが下宿に戻ると、ゴリオ爺さんが彼の帰りを待っていた。
「いいですか」爺さんが言った。「ほら、彼女の手紙だ。ねえ、綺麗な筆跡じゃないか!」
 ウージェーヌは手紙を開封して読んだ。
〈拝啓、父が私に貴方がイタリアの音楽をお好みだと言いました。貴方が私の桟敷席への招待を受けて下さるなら、私にはこの上もない喜びでございます。私達、土曜日にはラ・フォドールとペルグリーニ[62]の歌を楽しみましょう。私は勿論貴方が私の申し出をお断りにはならないものと信じております。ニュシンゲン氏は貴方を私共の宅の格式ばらない夕食にお招きするようにと私に申しております。もし貴方がお受け下さるなら、とても主人を満足させることになるでしょう、と申しますのは、彼は私に同伴して夫婦の義務を果たすような嫌な仕事から解放されるからなのです。お返事の手紙は要りません。いらして下さいな。そして私の挨拶をお受け下さい〉
〈D. de N.〉
「私にもそれを見せて下さい」ウージェーヌが手紙を読み終わった時、爺さんが彼に言った。「貴方は行くんでしょう?」紙の匂いを嗅いだ後、彼は付け加えて言った。「これはいい香りがする! 彼女の指が触れたんだろうな、きっと!」
「女というものはこんな風に男の中に飛び込んでくるもんじゃないんだ」と学生は考えた。「彼女はド・マルセイを取り戻すために僕を利用する積りなんだ。そっちのお手伝いをさせられる悔しさくらいは我慢するさ」
「おやおや!」ゴリオ爺さんが言った。「貴方はまだ何か考えてるんですか?」
 ウージェーヌは虚飾が生み出す妄想がこの瞬間にある種の女達の心を捉えるものであることを理解していなかった。フォーブール・サン・ジェルマンの家の扉を開けるためには銀行家の妻があらゆる犠牲を払う積りであることを彼はまだ知らなかった。この時代には、総ての女性の上にサン・ジェルマン街の社交界に出入りしている女性、言い換えればプチ・シャトーの貴婦人達[63]を評価する風潮が始まっていた。そのような貴婦人の中でも、ボーセアン夫人、その友人のランジェ公爵夫人、そしてモーフリニューズ公爵夫人は第一級の地位を獲得していた。ショセ・ダンタンの女達が自分たちと同じ女性の中の星達がきらめく上流社会に入ろうとする欲望の激しさを知らないのはラスチニャックだけだった。しかし彼の無知が彼には大いに幸いした。お陰で彼は冷静で曖昧さを残していたので、彼女の申し出を受け入れる代わりに条件を付けかねないようにさえ思われた。
「はい、僕は行きます」と彼は答えた。
やはり好奇心が彼をニュシンゲン夫人の家へ向かわせた。一方で、たとえこの女が彼を無視する様な事があっても、多分彼は情熱に導かれて彼女のもとへ向かったことだろう。とはいえ、彼は翌日を、そして出発の時間を辛抱しきれない思いで待ったのだった。若者にとって、彼の最初の情事の時には恐らく彼が初恋の時に感じたのと同じくらいの魅惑があるのだろう。男達は認めようとしないものだが、成功を確信することが幾千もの幸せを生み出してきた。その確信がまた女達を魅力あらしめてきた。一方で、勝利がたやすい時より、困難に見える時に欲望は更に高まるものだ。男の情熱の総ては間違いなくこの二つの理由のどちらか一方により触発され、あるいは持続される。そしてそれが愛の帝国を二分している。おそらくこの分裂は、人がどう言おうと、この社会を覆っている気質についての大きな疑問に対する答えとなるのではなかろうか。もしも鬱病患者にちょっとどぎつい化粧をする必要があったとしよう、恐らくその人が神経質か多血質かにかかわらず、化粧に対する世の反発がうんと強い場合は、彼等はどちらもさっさと手を引いてしまうだろう。言い換えると、悲歌は基本的に不精なところがあり、熱狂的叙情詩は案外苦労性な本質を持っている。自分の化粧をする時、ウージェーヌは彼の小さな幸福をゆっくりと味わったが、若者がそんなことを話すと馬鹿にされるのを恐れて敢えて人には言わなかった。しかし化粧は彼の自尊心をくすぐってくれた。彼は可愛い女性の眼差しが彼の黒い巻き毛の方に流れてゆくのをイメージしながら髪を整えた。彼は子供っぽい気取った様子をしてみた。それはちょうど若い娘が舞踏会に行くために身づくろいする様に似ていた。彼は自分の細い胴体を満足げに眺め、服の皺を伸ばした。「確かに」と彼は思った。「僕より不細工なやつは沢山いる!」それから彼は下宿の住人が皆テーブルに着く時間に下へ降りていった。そこでは彼の優雅な服装が馬鹿騒ぎを起こして、彼は皆から陽気な歓声を受け取ることになった。この高級下宿に独特の生活習慣の特徴は、入念な化粧をするような人がいると、とんでもない騒ぎとなることである。そこでは何か一言理由を言わなければ、新しい服を着る事などついぞ起こらないことなのだった。
「クト、クト、クト、クト」ビアンションが舌を口蓋に当てて鳴らした。ちょうど馬に気合を入れる風だった。
「まさしく公爵様のお出ましね!」ヴォーケ夫人が言った。
「公爵様はコンケート(征服戦)にお出ましだ!」ミショノー嬢が言った。
「コケーリコ(征服)だ!」画家も叫んだ。
「貴方の奥方におめでとう」博物館職員が言った。
「奥様はもうお決まりですか?」ポワレが訊いた。
「結構毛だらけ猫灰だらけ。見上げたもんだよ屋根屋のフンドシ、見下げたもんだよ底まで掘らせる井戸屋の後家さん。上がっちゃいけない小麦の相場、下がっちゃ怖いよ柳のお化け。馬には乗ってみろ人には添ってみろってね」ヴォートランがおどけをまじえた流暢さとペテン師らしいアクセントをつけながら叫び声をあげた。「憎まれっ子世に憚る、ヴァルデグラスにパンテオン、ショセダンタンにサンジェルマン、チャラチャラ流れるセーヌ川、粋な姉ちゃん立小便、買った買ったさあ買った、カッタコト音がするのは若い夫婦の箪笥の菅だよ」[64]
「まあ! あの人は面白いわね」ヴォーケ夫人がクチュール夫人に言った。「あたしはあの人がいると全然退屈しないわ」
 笑いと冗談の只中で、こんな具合に茶化してぺらぺらと交わされた会話がきっかけとなったのか、ウージェーヌはタイユフェール嬢の密かな眼差しを捉えることが出来た。彼女はクチュール夫人に体をかしげ、夫人の耳に何事かを囁いた。
「あら、幌付き二輪馬車が来たわ」シルヴィが言った。
「それじゃあ彼は何処で夕食をとるんだろう?」ビアンションが訊いた。
「ニュシンゲンの邸だろ」
「ゴリオさんの娘さんです」学生が答えた。
 この名前で、視線はかつての製麺業者の上に注がれた。彼はウージェーヌの方をある種の羨望をこめて見つめていた。
 ラスチニャックはサン・ラザール通のあの軽やかな家の一つ、柱が細く、回廊の狭い、パリに面白味を加えたあの家、パリでも屈指の銀行家の家の中にいた。化粧漆喰や階段の踊り場の大理石のモザイクの中にも、高価なものへの探求が満ち溢れていた。彼は装飾がカフェを思わせるようなイタリア風塗装を施した小部屋でニュシンゲン夫人に会った。男爵夫人は物悲しげな様子だった。彼女が悲しみを隠そうとする努力がウージェーヌを強く捉えたので、彼の嬉しい気持ちは完全に消えてしまった。彼は自分の存在で一人の女を楽しげな気分にしてやろうと思っていたが、彼女は絶望し切っていた。この絶望が彼の自尊心を刺し貫いた。
「私はまだまだ奥様の十分な信頼を得る資格を持っておりません」彼は彼女の関心が自分にないことに傷つけられながらも言ってみた。「しかし、出過ぎたことですが、どうか私を信頼して頂きたく思います。私にはどうか率直にお話下さいませ」
「ここにいて下さい」彼女が言った。「もし貴方がいなくなってしまったら、私は一人ぼっちになります。ニュシンゲンは町で夕食をとります。そして私は一人ぼっちは嫌なんです。私は何か気晴らしがしたいんです」
「しかし、どうなさったのですか?」
「貴方にだけはこんなこと話したくなかったんです」と彼女は叫んだ。
「私はそれを知りたい、その上で私はその秘密について何かのお役に立ちたい」
「恐らく! まずは駄目でしょう」と彼女が答えた。「これは家庭内の喧嘩ですから、心の内に秘めておくべきものですわ。一昨日も私、このことは貴方に話さなかったでしょう? 私って、これっぽっちも幸せじゃないんですよ。金の鎖なんて重苦しいだけですよ」
 ここに女がいて、一人の若者に向かって、彼女は不幸せであると話すとしよう。その若者が溌剌とした心の持ち主で服装も良く、しかも彼が一五〇〇フランの自由に使える金をポケットの中に持っていたとしよう。若者はまさにウージェーヌが思ったそのことを当然考え、そしてうぬぼれてしまうのである。
「貴女はこれ以上何をお望みなんですか?」ウージェーヌは答えた。「貴女は美しい、若い、愛されている、金持ちだ」
「私のことは言わないで」彼女は頭を悲しげに振って言った。「私達一緒に差し向かいで夕食をいただきましょう。私達は最高に美しい音色の音楽を聴きに行きましょう。私の好み、貴方と合うかしら?」彼女は答えると立ち上がった。豊かさを極めた優雅なペルシャ模様の入った白いカシミヤの衣装がのぞき見えた。
「私は貴女を完全に私のものにしたいんです」ウージェーヌが言った。「貴女は魅惑的です」
「貴方は鬱陶しい物件を背負い込むことになってよ」彼女は苦渋を含んだ微笑を浮かべながら言った。「ここでは何も貴方に不幸を感じさせない、だけれども、その見かけにかかわらず、私は絶望の中にいるんです。私の悩みごとのためによく眠れないんです。お陰で私はきっと醜くなってしまうわ」
「おー! そんなことはあり得ません」学生が言った。「しかし、私には分からないのですが、献身的な愛ですら癒せないような悩みとは一体何なんですか?」
「あー! もし私が貴方にそれを打ち明けたら、貴方は私から逃げ出してゆくでしょう」彼女が言った。「貴方はもう男性が習慣的にお世辞を言ってくれる、その程度にしか私を愛しては下さらなくなるでしょう。だけど、貴方が本気で私を愛してくださるなら、貴方はひどい絶望の中に落ちてゆくことになるのよ。私が黙っていなければならないこと、お分かりよね。お願い」と彼女は続けた。「話題変えましょうよ。私のアパルトマン見に行きましょう」
「いいえ、ここにいましょう」ウージェーヌはそう答えて、自信を持ってニュシンゲン夫人の手を取った。そしていかにも話好きらしく彼女のそばの暖炉の前に座り続けていた。
 彼女は手を取られるのに任せていたが、やがて強い感動に突き動かされた彼女の手が若者の手の上に押し付けられてきた。
「聞いてください」ラスチニャックが彼女に言った。「もし貴女に悩みがおありなら、それを私に打ち明けてください。私はただ貴女その人を愛していることを貴女に証明して見せたいのです。貴女は私に貴女の苦しみを話し知らしめることにより、私はその苦しみを消すことが出来ます。それが六人の男を殺さねばならないにしてもです。それが出来ないならば、私はここを出て二度と帰ってはきません」
「あらっ!」彼女はある絶望的な考えにとらわれて叫んだ、そして自分の額を叩いた。「私は一瞬、貴方をテストしかけていましたわ」
「そうだ」と彼女は思った。「やってみるしかないわ」彼女は呼び鈴を鳴らした。
「旦那様の馬車に馬は繋いだ?」彼女は従僕に尋ねた。
「はい、奥様」
「私がそれを使います。旦那様には私の馬車を使ってもらうから、それに私の馬を繋いでね。夕食は七時過ぎになりますからね」
「さあ、こちらへどうぞ」彼女がウージェーヌに言った。彼の方はニュシンゲン氏の二人乗り馬車で彼の夫人の横に座っている自分がまるで夢の中にいるように思われた。
「パレロワイヤル、テアトル・フランセのそばにやって」彼女が御者に言った。
 道中の彼女は興奮しているように見えて、ウージェーヌが山ほど質問したのに返事をしようとしなかった。彼は頑固なだんまりで固めたつかみどころのない、この反抗は一体何なのか分からなかった。
「もう少ししたら彼女は何か漏らすだろう」そう彼は考えた。
 馬車が止まった時、学生は既に心の高まりを抑えられないような状況にあったが、男爵夫人が彼の方を見やった時の雰囲気は彼の熱っぽい言葉に沈黙を促すものだった。
「貴方は本当に私を愛してる?」彼女が訊いた。
「はい」彼は不安に捉われているのを押し隠して答えた。
「貴方は私のことを悪くなんて全然考えないわね、例えどんなことを貴方にお願いしてもね?」
「考えません」
「貴方は喜んで私に従ってくれますか?」
「盲目的に従います」
「貴方は賭博場に何回か行ったことがありますか?」彼女はいくらか震えるような声で言った。
「全然」
「あー! ほっとしたわ。貴方は運が良いはずだわ。これ私の財布です。さあこれを持って! 一〇〇フラン入ってます。それが、この幸せな女が持っている総てなのよ。賭博の店に行ってね。私は何処にあるのか知らないけれど、パレロワイヤルにあるとは聞いています。一〇〇フランをルーレットという勝負に賭けて下さいね。そして総てを失くすか、あるいは私のために六千フラン稼いでくれるか。私の悩み事は貴方が戻って来た時に話すわ」
「私には悪魔がついて、私がこれからやろうとしていることについて私が何事も知り尽くしているかのごとく突き動かしてくれることを祈ります。ともかく私は貴女に従います」彼は次のような考えに嬉しくなって言った。『彼女は僕と運命共同体になった。彼女は僕を拒絶することはないだろう』
 ウージェーヌは可愛らしい財布を持って、賭博場の直ぐ隣の服屋に場所を教えてもらって、九番地に向かって走っていった。彼は店に入り帽子を脱がされた。彼は頓着せず中に入り、ルーレットは何処かと訊いた。常連客があきれる中を部屋のボーイが彼を長いテーブルの前に案内した。ウージェーヌには見物人が皆付いて来ていたが、彼は厚かましくも、何処に掛け金を置くべきだろうかと尋ねた。
「もし貴方が一ルイをここにある三十六の数字のうちの一つの数字の上に置いて、それが当たったとする、すると貴方は三十六ルイを得るというわけだ」白髪のかなり年配の人が彼に教えてくれた。
 ウージェーヌは一〇〇フランを自分の年齢の数字、二十一に賭けた。彼は自分で訳が分からないうちに、周囲から驚きの叫び声が上がった。彼は知らないうちに勝っていた。
「さあ、貴方の金を引き上げなさい」老紳士が彼に言った。「ここの博打で二度は勝てませんよ」
 ウージェーヌは老紳士が彼に差し出してくれた熊手をつかんだ。彼は自分の方に三六〇〇フランを引き寄せて、相変わらず勝負のことは何も分からないまま、その金を赤の上に置いた。見物人達は彼が勝負を続けるのを見て、羨望の眼差しで彼を見つめた。ルーレットが回り、彼はまた勝った。そしてディーラーは再び三六〇〇フランを彼の方に押しやった。
「貴方の金は七二〇〇フランになった」彼の耳許で老紳士が言った。「もし貴方が私を信じるなら、ここでやめることです。赤は八回も出てしまっている。もしも貴方が慈悲深い方なら、このアドバイスを受け入れることです。そうして、差し迫った金の必要に迫られている、このかつてのナポレオンの上官だった惨めな男を慰めてやってください」
 ラスチニャックは呆然としているうちに、二〇フラン金貨十枚をこの白髪の男に持っていかれてしまった。しかし彼は七千フランを持って店を出た。それでいて彼は未だに勝負のことについては何も分からず、それでいて自分の幸運にはただ茫然自失の状態だった。
「あーあー! 貴女はなんて所に私を連れてきてしまったんですか」彼は馬車のドアを閉めながら、ニュシンゲン夫人の前に七千フランを差し出して言った。
 デルフィーヌは狂おしく彼を抱き締め、荒々しくキスをした。が、何か冷静さも残っていた。「貴方は私を救って下さったんだわ!」喜びの涙が彼女の頬をつたって流れた。「貴方には何もかもお話しますわ、友達ですもの。貴方はお友達、ですよね? 貴方は私のことを金持ちで豪奢で足りないものは何もないくらいに、あるいは思ってらしたか、あるいは、私は何にも不足していないように見えたかもしれません。ところが意外にも、ニュシンゲンという人は私には一スーたりとも自由に使わせないんですよ。彼は家にかかる総ての経費だけでなく私の馬車、私の桟敷席の費用も全部支払っています。私の化粧費はとても不満足な金額ですが、彼は認めてくれています。でも、彼はとことん計算して私をある種の惨めな境遇に追い込もうとしています。彼の経費削減の要請には本当に腹が立ちます。もしお前が好きなように金を使いたいのなら言ってみろ、その金はお前に売ってやる、と彼は言うのです。そんな惨めな人間は私以外にこの世に二人といないでしょう! 一体どうして、七〇万フランもお金を持っているこの私が、皮を剥がされるままになってるんでしょうか? 誇りがあるから? それとも憤り? 私達が結婚生活を始めた頃、私達はとても若くて、とてもうぶでした! 夫にお金を要求しなければならない時に使う言葉が嫌で、私達は段々会話をしなくなってしまいました。私は敢えて嫌な話をしなかったのです。私は自分の貯金の金を使い、また可哀想な父が私にくれたお金を使いました。そのうち私は借金するようになりました。私にとって結婚は最悪の失望でした。貴方にはとても話せないようなものでした。ニュシンゲンとは別々のアパルトマンを持って、別れて暮らすというやり方以外で生きてゆけと言われたら、私は窓から身を投げるより他はありませんわ。貴方にはそれを分かっていただければ十分です。若妻であった私、宝石や気まぐれな買い物――可哀想に父は私達に何を頼まれても拒絶しない習慣になっていたのです――そうしたもので出来た私の借金のことを夫に言わなければならなくなった時、私はひどい苦しみをなめることになりました。しかし、とうとう私は勇気を出して、それを彼に言ったのです。だって私の財産だって幾らかはあるはずでしょう? ニュシンゲンは逆上して、私が彼を破滅させるだろうと言いました。何てことを言うんでしょうね! 私も穴があったら入りたいくらいですわ。彼は私の持参金を得た分だけ支払ってくれました。けれども、それ以後の私の個人的費用について、彼は一定額の手当てにしようと主張し、私も安らぎを得たかったので、それを甘んじて受けました。以来、私は貴方もご存知のある方の自尊心を満足させられる女でありたいと努めてきたのでした」と彼女は言った。「仮に私が彼に騙されていたとしても、それは彼の性格の高貴さを正しく評価出来なかった私のせいなのです。でも結局のところ、彼は私とはひどい別れ方をしたってことです! 困ってた時にいっぱい金を投げ与えてやった女を男は決して棄てないものよ、普通ならその女をずっと愛し続けるはずじゃない! 貴方って二十一歳の美しい心の持ち主で、貴方って若くて純粋、だから貴方は何だって人妻が男から金を受け取ることが出来るんだろうと、ずっと自問自答していたんでしょう? 何故ですって! そもそも、その人といたら私達女は女の幸せを得られるだろうといった人と組するのって、自然じゃない? 人が互いに総てを捧げあっている時、一体誰がこの全体からみれば切れっ端のようなものまで心配出来るものでしょうか? お金は感情が既に死んでしまった場合にだけ何らかの意味を持つに過ぎません。男と女は生涯を通じて繋がり合ってゆけるのかしら? 私達の誰が、互いに愛し合っていると考えていた最中に別離なんてことを予見できたでしょうか? 貴方は私達の永遠の愛を正当化しますか? それでは、如何にしてはっきりした利害を正当化しますか? 貴方にはこのことで私が今日どんなに悩んでいるかは想像も出来ないと思います。実は今日ニュシンゲンは私に六〇〇〇フランの手当てを与えることを拒絶したのです。そのくせ彼自身はごひいきのオペラ座の娘には、ちょっきりこれだけのお金を月々あげているんですよ。私は自殺したいと思いました。実に気違い染みた考えが私の頭の中を駆け巡りました。ある時は召使の女や小間使いの女のことを羨ましく思ったものです。また父に会いに行こうなんて、馬鹿なことも! アナスタジーと私、二人で彼から搾り取ったのです。私達の可哀想な父は売れるものは何もかも売ってざっと六〇〇〇フランくらいのお金をこさえてくれました。でも、それも空しく私は今頃は絶望的な状態になっていたはずです。貴方は私を恥辱と死の淵から救って下さいました。私は悲しみで頭がどうかしてたんですわ。あー! 貴方、私は貴方にはこんな言い訳をする義務があります。実は私は理屈もなしに貴方の途轍もない強運にすがったのです。貴方が私をここに置いて離れていった時、そして私から貴方の姿が見えなくなった時、私はここから歩いて逃げ出したく思ったのです……どこへ? 私にも分かりません。ほらこれが、パリの人妻の半数が過ごしている人生なの。うわべのきらびやかさ、魂の中の過酷な悩み。私は私が過ごしているよりも、もっと不幸せな人生を強いられている女達を知っています。中には出入り業者に無理に間違った記憶をしてしまうように強いられる人妻もいるのです。そうでない人妻も夫のものを盗むように強いられるのです。前者は一〇〇ルイもする高級カシミアを買ったことを忘れて五〇〇フランの安物で我慢してるなどという嘘が通ると思っているし、後者は五〇〇フランの安物掴まされたのが分からずに夫から一〇〇ルイ盗んで払ってしまう馬鹿女なの。心身ともに貧しい女達がいて子供には断食をさせておきながら、服を一着手に入れるために小銭をかき集めたりするの。私はね、私はこういった欺瞞からは免れています。私にとって、こんなのこそ最悪だわ。夫に自らの支配権を売り渡すようなそういう妻もいるんでしょうけど、私は少なくとも夫に対する自由をまだ確保してるわ! 私はニュシンゲンのお金で生活を賄ってゆきながら、私が尊敬出来る人の胸の上に私の頭をのせて泣くことだって出来るんですもの。あー! 今晩のド・マルセイ氏はもう私のことを自分の女としてみる権利を失っているんだわ」彼女は両手で顔を覆い、涙をウージェーヌに見せないようにした。彼は彼女の体を放して、うっとりと見とれてしまった。彼女は相変わらず気高く美しかった。「感情の中にまでお金を持ち込むなんて恐ろしいことじゃないかしら? 貴方はもう私を愛せないのでは」と彼女が言った。
 この適度に混ぜ合わされた感情が女達を烈しくし、社会の実際の仕組みが女達に加担することを強いる嘘がウージェーヌの気持ちを揺すぶった。悲痛な叫びを上げるこんなに無垢で無防備なこの美しい女性に感嘆して彼は優しい慰めの言葉を語った。
「貴方はこれからさき、私に対して敵対なんかなさらないわね」彼女が言った。「約束して下さい」
「あー奥様! 敵対なんて私には出来ないことです」彼が答えた。
 彼女は彼の腕を取り自分の胸の上に当てた。その動作には感謝と可愛らしさがいっぱい込められていた。「貴方のお陰で私はほら自由で楽しい身分に戻れたわ。私は鉄の腕に押さえ込まれて生きていたの。私は今は簡素な生活がしたいわ。何にも費わずに。私の様子から、貴方には私のことがよくお分かりですよね、ねえ、そうでしょ? これは貴方が持っていて」彼女は紙幣を六枚だけ取りながら言った。「私の心の中では、私は貴方に千エキュ借りていることになるのよ。何故って、私は貴方と儲けを折半にするべきと思ってるんですもの」ウージェーヌはまるで処女のように抵抗した。しかし男爵夫人は彼に言った。「貴方が共謀者になってくれないんなら、私は貴方を私の敵とみなすわよ」彼は金を取った。「これはいざという時のために置いておきましょう」彼が言った。
「ほらまた私を心配させることを言う」彼女は青ざめて叫んだ。「貴方にとって私が何だって言うの。あたしに誓って」と彼女が言った。「二度と賭場には行かないって。神様! あたしね、貴方を堕落させたのは! 私、心配で死にそうだわ」
 彼等は到着した。あの悲惨と豪奢の対比が学生を呆然とさせた。耳の中では不吉なヴォートランの言葉がたった今までこだましていた。
「ここにお座り下さい」彼女は自分の寝室に入り、暖炉の横の二人掛けソファを指しながら言った。「私はこれから、とても難しい手紙を書くつもりよ! 私にアドバイスを下さいな」
「手紙なんて書かないで」ウージェーヌが彼女に言った。「お金を包んで、宛先を書いて、そして小間使いに言って持ってゆかせればいいじゃないですか」
「本当に貴方って素敵な方だわ」と彼女が言った。「あー! そこなのよ、貴方、これこそが育ちの良さとか言われるところのものなんだわ! これって、まさに純粋のボーセアンそのものだわ」彼女は微笑しながら言った。
「彼女は魅力的だ」ウージェーヌは思った、そして段々と強い感情に捉えられていった。彼はこの寝室を眺めた。そこには豪奢な寵姫らしい扇情的優美さが息づいていた。
「ここは貴方のお気に入って?」彼女は小間使いを呼ぶ鈴を鳴らしながら言った。
「テレーズ、これをド・マルセイ氏に届けて下さい。そして彼本人に手渡すんですよ。もし彼が見つからなかったら、手紙を持ち帰ってください」
 テレーズは出掛ける前に、ウージェーヌの方に茶目っ気のある一瞥を投げてよこした。夕食が準備された。ラスチニャックはニュシンゲン夫人に腕を差し出し、彼女は彼を瀟洒きわまる食堂へと導いていった。そこで彼は従姉の邸で感嘆したあの豪華さを再び目にしたのだった。
「イタリア座の公演がある日は」と彼女が言った。「貴方はあたしと夕食を共にするのよ、そしてあたしと同伴するの」
「願わくは、私もそのような甘い生活に慣れ親しんでゆきたいです。しかし私は貧しい学生で、財産といえば、これから作ってゆかねばなりません」
「そんなのは自然に出来ますよ」彼女は笑いながら言った。「だって、総て上手くいってるじゃない。私はこんなに幸せになれるなんて予想しなかったわ」
 不可能を可能によって証明したり、事実を予感によって破壊したりするのは女性の性癖である。ニュシンゲン夫人とラスチニャックがブフォンの彼等の桟敷席に入った時、彼女は満ち足りた様子をしていたので、彼女は美しくなっていた。そこで誰もがちょっとした中傷を始めた。女性というものはそれには無防備であり、またしばしば人々は喜んで、ふしだらをでっち上げるものなのだ。人は初めてパリに来た時、周りの人々が考えていることが全然分からない。そして人々もまたそこで行われていることを全然話さないものなのだ。ウージェーヌは男爵夫人の手を取り、二人は多少上気した感じで言葉を交わし、音楽が与える興奮を分かち合った。彼等にとってこの夕べは陶然とさせる時間だった。彼等は揃って席を立ち、ニュシンゲン夫人はウージェーヌを再びポンヌフまで連れてゆくことを望んだ。ところが、そこへ行く途中ずっと彼女はパレロワイヤルで彼に惜しげもなく与えた熱烈なキスを拒否し続けた。ウージェーヌは彼女のこの気まぐれな態度を非難した。
「あるいは」と彼女が答えた。「それは思いがけなく尽くして頂いたことに対するお礼の気持ちだったと思います。でも今はそれをすると何かの約束になってしまうのだと思います」
「それで貴女は私には何の約束もしたくない、たまりませんね、気分悪いですよ」彼は不機嫌になっていた。彼女は恋人をうっとりさせるあのじれったそうな様子を示しながら、彼のキスを受けるように手を差し出した。彼はその手を取ったものの、とても彼女を満足させられるような状態ではなかった。
「月曜日に、舞踏会でね」彼女が言った。
 徒歩で帰路について、澄んだ月の光の下で、ウージェーヌは真面目な反省に浸っていた。彼は幸福でもあり、同時に不満でもあった。アヴァンチュールは幸いにも、パリで一番可愛くて一番優美な女性――それは彼が望む目的だった――をものに出来そうな結果に至っている。一方、不満なのは彼の蓄財計画が頓挫したことだ。それはまた前々日に彼が没頭していた未解決の思考の現実性を実証する作業でもあった。失敗は我々の主張する力が弱かったからだと我々は非難される。ウージェーヌがパリ生活を楽しめば楽しむほど、彼は無名の貧しい人間の身分に留まっているのが益々嫌になってくるのだった。彼はポケットの中で彼の千フラン紙幣を皺くちゃにしながら、一方で、それを我が物にするための千もの欺瞞に満ちた理由付けを心に抱いていた。とうとう彼はヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通に着いた。そして彼が階段の上の階に来た時、明かりが漏れているのを見つけた。ゴリオ爺さんが部屋の扉を開けたままにしていて、ろうそくも点火されていた。それは爺さんの言葉に従えば、学生が爺さんに彼の娘のことを物語るのを忘れさせないためであった。ウージェーヌは彼には何も隠さなかった。
「しかし」とゴリオ爺さんは烈しい嫉妬に絶望しながら叫んだ。「彼女は私が破産したとは考えてないでしょ。私にはまだ一三〇〇リーヴルの定期収入がある! あー! 彼女は何でここへ来ないんだ! 私は私の株、債券を売って用立ててやったのに。私達は元金を削ることになるが、残ったもので私は終身年金[65]を組む積りだ。どうして貴方は私のところへ来て、私に彼女の窮状を打ち明けてくれなかったんですか、隣同士で? どうして貴方はその僅か一〇〇フランで賭博勝負をしようなんて度胸をお持ちだったんですか? そいつは心を引き裂くようなまねですよ。そうだ、そういうのこそ婿達がやるべきことなんだ! あー! もしやつらを捕らえたら、私はやつらの首を締めてやる。くそったれが! 泣くよ、彼女泣いてましたか?」
「私のチョッキに顔を埋めてね」ウージェーヌが答えた。
「おー! それ渡して下さい」ゴリオ爺さんが言った。「これは! ここに娘の涙が流れたんだ、私の可愛いデルフィーヌの、彼女は小さい時、決して泣かなかったのに! 私が貴方に別のやつを買ってあげますから、これはもう着ないで、私の手に渡して下さい。結婚契約[66]によれば、彼女は自分の財産は享受すべきなんだ。あー! 私は明日にでも代訴人のデルヴィーユを探しに行きたい。私は彼女の財産を投資に当てるように要求する積りだ。私は法律をよく知っている。そして老練な投資家だ。私はまた牙をむいてやる」
「ねえ親父さん、ほら千フランだよ、彼女が二人の勝ち分から、僕に渡そうとした金だよ。これを彼女のためにチョッキの中に入れといてください」
 ゴリオはウージェーヌを見て、手を伸ばして彼の手を握り締めた。その上に老人の涙がこぼれ落ちた。
「貴方は人生で成功される方です」老人が言った。「神は公正だ、ご存知かな? 私は自身が正直な人間だと思っている。そして貴方については、貴方のような人間は実に稀にしかいないということを貴方にはっきりと言うことが出来る。こうなったら、貴方も私の愛する子供の一人になってくださいませんか? さあ、もう寝ましょう。貴方ならぐっすり眠られる。貴方はまだ父親じゃない。彼女は泣いていた、私には分かる、この私は、彼女が苦しんでいる間、のんきにそこらで食事なんかしてたんだ。私はね、私は娘達二人の涙なんか見たくないので、父親を、息子を、そして聖霊をさえ売り飛ばしたっていいくらいに考えているんだよ!」
「誓って言う」ウージェーヌは寝る時、思った。「僕は生涯誠実な人間として過ごすだろう。両親からの激励に忠実であることに喜びがある」
 神は隠密裏に恩恵を与えてくれると信じている人が世の大多数であろう。そこで、ウージェーヌは神を信じた。
 翌日、舞踏会の時間にラスチニャックはボーセアン夫人の邸に行った。彼女は彼をカリリアーノ公爵夫人に引き合わせるために彼を同行させた。彼は元帥夫人から、これ以上ないほど愛想よく迎えられた。そしてこの夫人の邸で彼はニュシンゲン夫人と再会した。デルフィーヌは着飾って皆に気に入られようとしていた。それはウージェーヌにもっと気に入ってもらいたいとの思惑からだったが、彼女は彼からの一瞥を待ちかねていた。しかも彼女は自分の辛抱し切れない気持ちは隠しおおせているものと思っていた。女の感動を見抜ける男にとって、この瞬間というのは何とも言えぬ心地よいものである。彼女の気持ちを待つことを、自分の喜びを粋に隠すことを、自分が起こした懊悩の告白を聞くことを、自分の微笑が晴らしてやった心配する気持ちを、誰かこうした気分を幾度も味わった幸運な男がいるものだろうか? このパーティの間に学生は突然、彼の地位の重要性を推し測ることが出来た。そして彼はボーセアン夫人の従弟であると公認されることによって社交界で一つの地位を得たことを理解した。ニュシンゲン男爵夫人の征服を社交界は既に認めていたが、それは彼の存在に良い立体感を与え、若者達は皆、彼に羨望の眼差しを向けた。何事であれ意表を突く行動力で彼は最高度にうぬぼれを楽しむことが出来た。広間から次の広間へ抜け、人々の群れから群れを訪れる時、彼は自分の幸運が誉めそやされるのを聞いた。夫人達は彼があらゆることで成功するだろうと予言した。デルフィーヌは彼を失うことを恐れて毎晩彼とキスすることを拒絶しないと約束した。実はそれについては前々日から、合意して納得した時にやるような話になっていたのだった。この舞踏会ではラスチニャックは沢山の約束を交わした。彼は従姉によって何人かの婦人に紹介されたが、いずれの婦人も上品さへの強い志向を抱き、彼女達の邸はその快適さで知られていた。彼はパリでも最も偉大で最も美しい世界の中に投げ込まれた自分を感じた。この夜会はそれ故に彼にとっては輝かしいデビューという魅惑によって彩られていた。そして彼は老境に至るまで、折に触れてその夜会のことを思い出すことになるのだ。ちょうど若い娘がそこで勝利した舞踏会のことを覚えているように……翌日、昼食をとりながら下宿人達の前で彼がゴリオ爺さんに成功談を語っていた時だった、ヴォートランはひたすら非情な薄笑いを浮かべていた。
「それで、あんたはどう考えるんだね」と、この残忍な住人が叫んだ。「社交界の寵児となった若者がネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通のメゾン・ヴォーケでくすぶっていられるもんかね? ここは確かにあらゆる点で立派なもんだ。しかしな、それも当世風だというだけのもんだ。ここは裕福だし、広々として綺麗に仕上げられている。それにラスチニャックというお方が仮住まいにしておられる畏れ多い館だ。だが、つまるところ、ここはネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通だ、で、豪華さとは無縁だ。何故なら、そこは純粋に中年親父向けの世界だからだ。君!」ヴォートランは父親が諭すように、あるいは揶揄するような調子で言った。
「もしあんたがパリでいっぱしの人物になりたけりゃ、あんたは三頭の馬と朝の散歩用に軽装二輪馬車、夜のための幌付き四輪馬車が要る。馬車代は合計九千フランだ。あんたは、三千フランを仕立て屋に使うんじゃなかったとか、六百フランを香水屋に、百エキュを靴屋に、百エキュを帽子屋にそれぞれ払ったことを悔やむようでは、あんたの運命もたかが知れたもんだ。洗濯屋への支払いといえば千フランもかかる。流行の先端を行く若者は、身に付けるものについては特に鋭敏であることは欠かせない。これこそ若者に常に試されることだ。そうじゃありませんか? 愛と教会はそれぞれの祭壇に綺麗な布を被せたがる。そして、あんたは一四〇〇〇フラン要るわけだ。私はパリでこの時代に、あんたが博賭で損をしたとかいうことを言う積りはない。誰だってポケットマネーとして、二千フランくらい欲しいと思うのは無理からぬことだ。私もそんな人生を過ごしてきた。いつ金が要るか分からんもんだよ。最重要項目に加えて、三〇〇ルイの飼料代、犬小屋代として一〇〇〇フラン。さあ、君、我々は虎の子の二万五千フランの年収をどうしても確保しなきゃならんのだ。さもないと我々はぬかるみに転倒し、自分自身を軽蔑し、我々の未来、成功、そして女さえも失ってしまうんだ! それに召使と給仕までもな、うっかりこれを忘れるところだったよ! お尋ねしますが、あんたの恋文を持って行ってくれるのはクリストフですかね? 恋文はあんたが今使っている紙に書くんですかね? それはあんたにとって自殺行為だよ。経験豊かな年寄りを信じるもんだよ!」彼は低い声ながら、次第に声音を強めて言った。「それとも、あんたは清貧な屋根裏部屋に押し込まれたままでいいのかね、そして仕事と結婚しちまうか、あるいは誰か他の人の意見を聞くかだな」
 そしてヴォートランはウィンクをして、タイユフェール嬢を横目で見やった。彼の眼差しは、堕落へと誘うため、学生の心の中に彼がばら撒いた魅力たっぷりの理論を思い出させ、また要約して見せるようなものだった。幾日かが過ぎ去った。その間、ラスチニャックは放埓極まる生活をしていた。彼はほとんど毎日ニュシンゲン夫人と夕食を共にし、それから社交界にお供していった。彼は午前三時か四時に帰り、起きるのは正午だった。それから彼は化粧をして、デルフィーヌと森を散歩するために出掛けるのだった。天気が良ければ、彼も惜しみなくそこで自分の時間を使った。彼は時間の価値をまだ知らなかった。また彼はあらゆる教訓を吸収した。また総ての贅沢への誘惑も熱烈に吸収した。そして情熱の中で、雌のナツメヤシの胚の中に、彼の受胎能力の高い種は待ちきれないという勢いで吸い尽くされたのだった。彼は勝つにしろ負けるにしろ、高額な大きな賭け事に興じた。そして、とうとうパリの若者の途方もない生活に馴染んでしまった。彼は最初に儲けた金で、母と妹に一五〇〇フランを返した。途絶えていた可愛いプレゼントも復活させて、一緒に送ってやった。彼はメゾン・ヴォーケを出たいとは言っていたが、まだ一ヶ月のうちの何日分かが残っていた上に、彼はまだどうやってここを抜け出せばよいのかが分からなかった。若者達はほとんどの場合、ちょっと見には説明のつきにくい法則に従うものであるが、実はその理論は彼等の若さそのものに拠ってきているのだ。そしてまた一種の狂乱のようなものに突き動かされて、若者達は快楽に飛びつくのだ。金持ち、貧乏人であることを問わず、彼等は決して彼等の生活に必要なだけの金は持っていない。そのくせ、彼等は彼等の気まぐれを満たすための金をいつも見つけてくるのである。信用貸しで得られるものなら浪費し、即金払いといったものにはいつも渋るのだ。彼等は持つことが出来るものを浪費することで、彼等が持っていないものに対する仕返しをしているように見えるのだ。似たような問題をもっと具体的に提供すると、学生は服よりも帽子の方に遥かに気を遣うものである。売り上げの大きなことが仕立て屋を必然的に大貸主にし、一方で売り上げの少ないことが帽子屋を彼が交渉を余儀なくされた相手の中では、遥かに分からず屋にしてしまった。もし劇場のバルコニー席に坐っている若者が、はっとさせるようなチョッキを着て、綺麗な女性達のオペラグラスの視線を集めたとしても、彼がちゃんと靴下を履いているかどうかは疑わしいのである。靴下屋もまた彼の財布を食い荒らすコクゾウムシなのだ。ラスチニャックはそのような状態であった。ヴォーケ夫人に言わせると、いつも無一文、それでいて虚飾を満たすためにはいつもいっぱい金があって、彼の財布にはさかさまの奇妙に上手くゆく作用があって、最も当たり前の支払いとは妙に調和しないところがあった。この臭い下宿を出てゆくためには、誰に向かって定期的に頭を下げて自分の主張を聞いてもらえばよいのか、彼は知らなかった。残り一ヶ月分の下宿代は女家主に払わなくてもよいのか、そして彼が入るおしゃれなアパルトマンのために家具は買わなくてもよいのか? それは相変わらず出来ない相談だった。ラスチニャックは賭博のための金を如何にしてひねり出すかについてはよく知っていた。彼は行きつけの宝石店では身分不相応に高価な時計や金の鎖を買っていた。やがて彼はそれらを公設質屋に持ち込むのだったが、それらの品物は質草としては威力を発揮してくれた。質屋は若者達を陰で支える控えめな態度の友ともいうべきものだった。ラスチニャックは食事の支払いや住居費用、あるいは優美な生活を更に洗練されたものにするための必須アイテムの購入といったやむを得ない金の必要に迫られた時、別に大胆さや工夫を凝らした手順というものはないのだが、気がつくと彼はそこへ行っているのだった。俗世的必要性、需要を満たすための借金の契約はもはや彼を鼓舞しなかった。この偶然に支配される人生を既に知ってしまった多くの人間同様、彼はブルジョワの目には聖なる存在である債権を安売りすることは最後の瞬間まで待ち、ドラゴナントの統一された用紙の為替手形[67]が出来るまでパン代の支払いをしなかったあのミラボー[68]の様でもあった。この頃ラスチニャックは金を失ってしまって借金生活になっていた。学生はこのような生活をしっかりした資金源もなく続けることは不可能であることを理解し始めていた。しかし、不安定な境遇から漸くここまで辿りついて、依然として何もかもがぴりぴりと辛く彼を苦しめるが、今の生活の過剰なまでの悦楽を捨て去ることは出来ないと彼は感じ、この生活をどうしても続けてゆきたいと彼は願った。彼は財を作るのに偶然を当てにしていたが、それは夢が現実になることを望むような安易な考えだった。そして現実の障害が大きくなってきた。ニュシンゲン夫妻の家庭内の秘密を初めて知ってゆく過程で、彼は愛を財を成すための道具に変えるためには、あらゆる汚辱を飲み干すこと、そして若気の過ちも無罪放免としてくれた高貴なる思想を捨て去ることが必要であることを認めた。この生活、外見的には華やかでも悔恨というサナダムシにひどく蝕まれ、つかの間の喜びは執拗な苦悩によって高い代償を払わせられる。彼はこの生活と結婚した。彼はそこで、ラ・ブリュイエールのぼんやり者に似て、あるいは溝に溜まった汚泥の層のようにただ何となく過ごしていた。しかし、ぼんやり者同様、彼はまだ服を汚しただけだった。
「じゃあ、おい俺達は高級官吏を殺しちゃったのかい?」ある日、ビアンションが食卓を立つ時、彼に言った。
「いや、まだだ」ラスチニャックが答えた。「しかし彼はあえいでるぜ」
 医学部学生はこの言葉を冗談と捉えたが、それは冗談ではなかった。ウージェーヌはこの下宿で食事してかなりになるが、初めて食事中に考え込んだような様子を見せた。デザートのために出てゆく代わりに、彼は食堂に残り、タイユフェール嬢の前に座って、時々意味ありげに彼女の方を見やっていた。何人かの下宿人はまだテーブルに着いていて、ナッツを食べていた。それ以外の人達は始まった議論を続けながら散歩していた。ほとんど毎晩のことで、ある者は会話の中に見つけた興味の度合いに従い、あるいは消化具合でのだるさなども手伝って、それぞれが気の向くままに立ち去ってゆくのだった。冬には食堂が八時より前に完全に空になることは稀だった。八時には四人の女性だけが残っていて、女性であるがためにこの男達の集会の中にあっては沈黙を強いられていたことに対して仕返しをするのだった。ウージェーヌの何事かを思いつめた様子に興味をそそられたヴォートランは食堂に残っていた。しかし彼はまず外出するような様子を示し、いつものようにウージェーヌからは見られないような位置取りをして、彼にはもう出掛けたと思い込ませた。そして下宿人のうちで残っている連中を置いて立ち去る人達と共に出てゆくように見せかけて、彼は狡猾にも応接間に留まっていた。彼は既に学生の心の中を読み取っていて、決定的な兆候を予感していた。ラスチニャックは確かに自分の立場に当惑していた。それは多くの若者が当然経験すべきものだった。可愛いにしろ粋であるにしろ、ニュシンゲン夫人はあらゆる真の情熱の苦悶を通してラスチニャックを合格させた。しかも彼女は彼にパリでは有効な女性の外交術の源泉を示して見せた。ボーセアン夫人の従弟を自分の近くにいさせることで、公の目に自らの立場を危うくした後、彼女は彼が楽しんで過ごす権利を本当に与えてしまうことを躊躇した。一ヶ月にわたって彼女はウージェーヌの神経をじりじりとさせておき、最後に彼女は彼の心を嘗め尽くした。例えば、彼等の愛人関係の最初の頃なら学生は自分の方が主人だと考えたことだろう。ところが今ではニュシンゲン夫人はウージェーヌの中に良きにつけ悪しきにつけパリの若者が持つ二、三の特徴的感情があることを把握し、その感情を支配することによって、この愛人関係の主導権を握るようになっていた。これは彼女の計算のうちだったのだろうか? 違う。女というものは、たとえ彼女が最も不誠実な態度をとっている最中でも常に真実そのものなのだ。というのは、女達は何らかの自然な感情に屈服しているだけだからだ。恐らくデルフィーヌは突然意識しないままで、この若者によって大きな支配権をとらせてもらい、過分なまでの愛情を表明され、彼女はある種の威厳に満ちた感情に従ったまでなのである。その感情が彼女に譲歩をさせ、あるいは譲歩を撤回させ、あるいは譲歩を中断することを楽しませさえする。パリの女性にとって、まさに情熱が彼女を引きつける時、破滅に瀕して躊躇したり自分の行く末を打ち明けようとしている相手の心を彼女が試そうとするのは極めて自然である。ニュシンゲン夫人の総ての希望は彼女の最初の恋人によって裏切られ、彼女がその若いエゴイストに対して抱いた誠意は真価を認められなかった。彼女はもう少し疑り深くても良かったくらいだ。そして今、彼女はウージェーヌのやり方を見て、彼の短時日での成功はうぬぼれにつながってゆくであろうこと、つまり彼等の立場の奇妙さによって、ある種の軽視が引き起こされるであろうことを恐らく認識したようである。彼女は疑いもなく、この年齢の男の前に堂々として見せたいと、そして自分を棄てた男の前で長い間小さくなっていたその後で、新たな若者に対して自分が大きな存在となることを望んでいた。彼女はウージェーヌが彼女がそれまでド・マルセイの女だったことを知っているだけに、まさにそれ故に、ウージェーヌが彼女のことを尻軽女と考えないで欲しいと思った。結局、冷酷非情な貴公子から駆け出しの放蕩者との遊びに、楽しみを格下げすることを甘受した後、彼女は愛の花咲く区域を散歩する甘い喜びをいっぱい味わった。四方の眺めを嘆賞したり、長い間ざわめきに耳を傾けたり、清らかな微風にしばらく優しく撫ぜられるままにいたりすることは、彼女にとっては本当に魅惑の時であった。真の愛は後に不幸な報いを受ける。初めて嘘を知った時の衝撃が、若い女性の心の中の如何に多くの花をなぎ倒してしまうかを、男達が知らないでいる限り、この真逆の現象は残念ながら頻繁に起こり続けるだろう。その理由は何であれ、デルフィーヌはラスチニャックを手玉に取り、そして彼を騙して遊ぶのが好きだった。それは疑いもなく彼女が愛されているのを知っていて、恋人が悲しんでいる時、それを終わらせることも、気高く優しい女が享受すべき楽しみだと受けとめていたので、いつでも彼の心を晴らせる自信もあったからである。自尊心の強いウージェーヌは彼の最初の闘いを敗北に終わらせたくはなかった。そして彼は初めてのサン・ユベール[69]の祭りのための狩で、どうしてもヤマウズラを一羽仕留めたいと望む狩人のように愛の追求にこだわり続けた。彼の不安、彼の傷つけられた自尊心、彼の絶望、嘘であれ真であれ、それらが次第に彼をこの女性に結び付けていった。パリそのものが彼にニュシンゲン夫人を与えた。彼女の傍らにあって、彼は初めて彼女に会ったその日から少しも前進していなかった。愛というよりも損得ずくで時々差し出される女の媚態くらいしか経験しないまま、彼は馬鹿げた熱狂に落ちていった。女達がラスチニャックへの愛を競い、我が身を初物の獲物のように差し出す、そういう季節があったとすれば、彼女達からはまだ青く酸っぱい美味を味わえるのだが、同時にそれは極めて高価につくものであることを彼が学び始めた時期でもあった。時折、一文無しで未来もない自分を見て、彼は良心の声を聞きながらも、富を得る機会について考えてしまうのだった。かつてヴォートランはタイユフェール嬢との結婚によって幸運を掴めることを彼に明確に示してくれたものだ。彼は惨めさが極限にまで達したと感じる瞬間などは、いつの間にか、あの視線でもってしばしば人を恍惚とさせる恐るべきスフィンクスのような男、ヴォートランの策略にそのまま乗ってしまおうかとすら思うことがあった。ポワレとミショノー嬢がそれぞれの部屋へ戻っていった時、ラスチニャックは毛糸で袖を編みながらストーブの前でうつらうつらしているヴォーケ夫人とクチュール夫人の間にいて、他に誰もいないように思ったので、タイユフェール嬢の方を見た。彼の様子には彼女が思わず視線を下げてしまうような愛情がこもっていた。
「もしかして貴方は心配事がおありなんですか、ウージェーヌさん?」一瞬沈黙の後でヴィクトリーヌが彼に尋ねた。
「悩みのない人はいないでしょう!」ラスチニャックが答えた。「もしも、我々、この私達若者が、献身的な愛でもって十分に愛されていると確信出来るなら、その献身に対しては我々は犠牲で報いなければなりません。我々は常に犠牲を払う覚悟でいます。だから多分、我々は決してそれを悔やんだりはしないでしょう」
 タイユフェール嬢は総ての答えを込めた目で彼の方を見た。彼女の思いは余りにもはっきりと読み取れた。
「ああ、お嬢さん、貴女は自分のお気持ちを今日は確認しているとお感じでしょう。だけど、それが決して変わらないとお答えになれるでしょうか?」
 微笑が哀れな娘の唇の上を漂った。まるで彼女の魂から一筋の光が射して、彼女の姿をぱっと輝かせたようだったので、感情のかくも生々しい活動を刺激してしまったことにウージェーヌはたじろいでしまった。
「つまりこうですね! たとえ明日貴女が金持ちで幸福におなりになっても、たとえ大きな財産がそっくり貴女のものになっても、貴女はやはり貧しい若者を愛し続けられるのでしょうか、貴女の不遇の日々に気にかけていただいた若者を?」
 彼女は可愛らしく頭でうなづいた。
「全然運にも恵まれない若者をですか?」
 新たに同意のしぐさ。
「あんた達、そこで何馬鹿なこと言ってんの?」ヴォーケ夫人が叫んだ。
「放っといて下さい」ウージェーヌが答えた。「僕達、盛り上がってるところなんです」
「とすると、ウージェーヌ・ド・ラスチニャック卿とヴィクトリーヌ・タイユフェール嬢との間で婚約が取り交わされそうだってことかな?」突然食堂の入り口に現れたヴォートランが太い声で言った。
「あー! びっくりさせないで」クチュール夫人とヴォーケ夫人が同時に言った。
「僕はもっと悪い選択だってしかねませんよ」ウージェーヌは笑いながら答えた。ヴォートランの声が彼にこれまで抱いたことのないようなひどく残酷な感情を起こさせた。
「貴方達、悪い冗談はやめて!」クチュール夫人が言った。「娘は部屋へ戻ります」
 ヴォーケ夫人は二人の下宿人についていった。彼女達の部屋で過ごすことで、ろうそくと暖炉の火を節約するためだった。ウージェーヌは一人になって、ヴォートランと一対一で向き合っていた。
「私にはあんたの考えがよく分かっているよ」この男は動じることもなく冷静さを保って彼に言った。「だが聞いてくれ! 私は他の人と全く同じように繊細なところがあるんだよ、この私でもね。あんたは今すぐに決めないで欲しいんだ。あんたは普通の状態ではないからな。あんたには借金がある。私はあんたを私のところへ来させるものが情熱とか絶望とかであることを望まない。そうじゃなくて、それは理性であって欲しいんだ。恐らく、あんたには何千エキュという金が要るんだろう。ほら、あんたはそれが欲しいんだろ?」
 この悪魔はポケットの中の財布に手をやり、そこから札を三枚取り出し、学生の目の前でちらちらと見せた。ウージェーヌは実に残酷な立場に立たされていた。彼はダジュダ侯爵とド・トライユ伯爵に賭博で負けた分を口約束で借りていた。彼には返す当てがなかった。それで彼は行く予定をしていたレストー夫人の夜会にも、とても行く気がしなかったのだ。それは儀式ばらない夜会の一つで、そこでは可愛いケーキを食べたり、お茶を飲んだりするのだが、ホィストで六千フランも負けたりすることもあるという夜会だった。
「ヴォートランさん」彼に向かってウージェーヌは痙攣的な震えを辛うじて隠しながら言った。「貴方が僕に打ち明け話をしてくれた後、僕が貴方のお世話になるということは不可能だということは、当然、貴方に理解して頂けるものと思っています」
「おやおや! あんたが私を思いやって、もうちょっと違った風に話してくれたら」と誘惑者が答えた。「あんたは素敵な若者なんだがな、繊細で、ライオンのように烈しく、それでいて若い娘のように優しい。あんたが悪魔への美しい捧げものだったらなあ。私はあんたの若者らしい気質が好きなんだ。まだ二回でも三回でも高度な政治のことを考えてみることだ。そうすれば世の中のことをあるがままに見ることも出来るだろう。そこでは幾らかのちょっとした善行を施すことによって、上流階級の人間は一階後部座席の馬鹿な観客から大喝采を受けて、自分の気まぐれを完全に満足させるってわけだ。二、三日もすれば、あんたは私達のものだ。あー! あんたが私の弟子になりたいと思ってくれたら、私はあんたがなりたいような人間にしてみせる。あんたの希望はたちどころに叶えられるだろう、あんたがどんな目標を立てようとな、名誉、富、女……現代文明の代わりに神々の不死の薬をあんたには処方してやろう。あんたは我々の甘やかされた子供、我がベンジャミン[70]だ。我々はあんた一人にかかりっきりでへとへとになるだろう、それで結構楽しんでいたりするんだ。あんたの邪魔をする者は皆ぺしゃんこにしてやる。もしあんたが、まだためらいを持っているなら、あんたはやはり私のことを悪党と思ってるのかね? やれやれ! まあ、人間なんてものは、あのテュレンヌ元帥[71]にも劣らぬくらい誠実な人だと思われていても、自分が山賊と一緒に悪事を働いているなんて知らぬ間に、ちょっとした悪事に手を染めちまったりするんだな。あんたは私に借りを作りたくないんだ。そうだろ? 何がいけないって言うんだ」ヴォートランは微かに笑みを漏らしながら続けた。「この紙切れを取ってくれ、そしてここには私の名前を書いてくれ」彼は言いながら収入印紙まで取り出していた。「そしてそこには、こうだ。金三千五百フラン受領致しました。但し一年以内に返却致します。それに日付! 利息というのはとても意味がある、それでもってあんたの気持ちのやましさを取り除ける。あんたは私のことをユダと呼んで、それで、恩を受けたとかのこととはおさらばだと思うことが出来るんだ。私はあんたが今日これからでも私のことを軽蔑したってかまわないと思っている。やがて、あんたが私を好きになるのを確信してるんだ。あんたは私の中にあの恐るべき深淵を見出すだろう。あの広大な感情の集積を見るだろう。愚か者はそれを悪徳と呼ぶんだ。しかしあんたは私のことを決して卑劣だとか恩知らずだとかは思わないはずだ。つまり私は将棋の歩でもなければ角でもない。そうではなく、私は飛車なんだ、君!」
「貴方は一体何者なんですか?」ウージェーヌが叫んだ。「貴方は僕を苦悩させるために生まれてきたような人ですね」
「とんでもない。私はただの善良なおじさんさ。私は君がこれからの日々で泥にまみれないように、私が泥まみれになって保護してやりたいと思ってるんだよ。君はこんなに一生懸命の献身を、どうしてだと不思議に思ってるんだろ? そうだな、私はいつの日か、こっそりと君の耳の穴にその訳を話してやろう。私はまず最初に君に社会秩序の整然たる鐘の音と社会機構の動きを示したんだ。だが君には新兵が戦場に出た時のような烈しい恐怖心が起こるはずだ、そして君は、人間とは自らを神聖なる王であると宣言した者達のために死すべく運命付けられた兵士達のようなものだと、当然考えてしまうことだろう。時代はどんどん変わってゆく。かつて人々は勇者と呼ばれる人物に向かって言ったものだ。『ほら一〇〇エキュ渡しますよ。私に代わって、何々某という人物を殺して下さい』そして何かにつけて、ある人間を物陰に葬った後で、人々は平然として食事なんかしていたんだ。今日、私は君に立派な財産を提供しようと言ってるんだ。それには先頭のサインが要るんだが、それによって君は何らの危険を心配しなくともよいんだ。だが、君はためらっている。この世紀とは軟弱なもんだな」
 ウージェーヌは手形にサインして紙幣と交換した。
「さてと! ちょっと待て、理由を話そう」ヴォートランが言った。「私は何ヶ月かここをあけて、アメリカへ向けて発つ積りだ、私の煙草を植えに行きたいんだ。私は君に友情の煙草を送ろう。もし私が金持ちになったら、私は君を援助する。もし私が子供を持たなかったら――ありそうなことだ、私はここで挿し穂によって私に挿し木しようとするほど物好きではないからなあ――それでは! 私は君に私の財産を遺贈しよう。これは男の友情と言ってもいいんじゃないかな? そうさ、私は君が好きだ、私の方はな。私には一つの情熱があってね、誰か他者に献身したいというやつだよ。私は既にその一つはやったんだ。分かるかな、君、私は普通の人間が見ることの出来るよりも、もっと高度な世界を見てきたんだよ。私は行動は手段とみなしている。だから目的以外のものは見ないんだ。一人の人間とは私にとってなんだろう? これ!」彼は親指の爪で自分の歯をこつこつと叩いた。「人間なんてものは総てか無なんだ。ポワレなんて名乗ってみたところで、そんなもの無以下だ。南京虫のように押しつぶしちまえばいいんだ。やつは卑屈で悪臭がする。だが、君なんかを見てると、人間というのは神でもあり得ると思えてくるんだ。それは皮膚に覆われた機械に過ぎない、だがそこは、その中で最高に美しい感情が掻き立てられている劇場でもあるんだ。そこで私は感情を通してのみしか物事を見ない。一つの感情もある種の思想においては世界そのものたり得るんじゃないかな? ゴリオ爺さんを見てみろよ。彼の二人の娘は彼にとっては宇宙そのものだ。彼女達は一筋の道だ。彼は世界の中で、ひたすらそれを頼りに進んでいるんだ。さて! 私のことだが、真実の感情として残った唯一のものは男の友情だ。男に対するな。ピェールとジャフィエだ。これが私の情熱だ。私は“不滅のヴェニス”[72]の劇をほとんど暗誦して覚えている。君はこれまで、あのように本当に勇敢な男に会ったことがあるかね? それは仲間の一人がこう言う時だ。『さあ、遺体を埋葬しよう!』男はその時、一言も言わずに、また、お説教をたれて人をうんざりさせることもせず、黙って仲間について行くんだ。私はといえば、私にはそういうことがあった。私は全部が全部の人に向かって、こういうことを言う積りはない。ただし君は、君は特に優れた人物だ。私も君には何でも話せるし、君は完全に理解してくれる。君は泥沼でいつまでも泥まみれになっている人じゃないし、ここで我々の周りにいる連中のヒキガエルのような人生を過ごす人でもない。さあ! 私の言いたいことはこれだけだ。君は結婚するんだぞ。我々二人で思い切って行こうじゃないか! 私は鋼鉄のように強い、だから決してひるまない、ああそうだとも!」
 ヴォートランは学生を一人にしてやろうとしたのか、彼から否定的な答えが返ってくるのを待たずに出て行った。彼はこの小さな抵抗、人々が自分自身の前で身を飾らずにはおれないこの闘い、それらがあってはじめて彼等は自分達の非難さるべき行為を正当化することが出来ているという心の奥底までよく心得ているように見えた。
「やつが何を望んで何をやろうと、僕がタイユフェール嬢と結婚することは、まずないんだ!」ウージェーヌは思った。彼はこの男と恐怖を感じるような契約を交わしてしまったという想念にとりつかれ、体の中が熱を帯びて気分が悪くなった。同時にこの男の反世間的思想や世の中を包括的に捉える大胆さに目を瞠った。ラスチニャックは落ち着きを取り戻すと、服装を整えて、馬車を呼び、レストー夫人の許を訪れた。何日か前から、夫人はこの若者に対する思いを強めていた。この若者は一歩ごとに上流社会の中心に近づいていて、将来この社会で彼は恐るべき影響力を持つのではないかと見られ始めていた。彼はド・トライユ氏やダジュダ氏に借金を支払った。彼はその日の夜会でウィストをやり、彼が以前負けた分を取り返した。前途があって、大なり小なり運命論者であるような人の多くに似て縁起を担ぐ人間であった彼は、自分が良き道にとどまっている根気へのご褒美を幸運な時期に天から与えられることを望んだ。翌朝、彼は急いでヴォートランにあの為替手形はまだ手許にあるかと訊ねた。あるという返事を貰うや、彼は喜びを隠しきれない様子で、ヴォートランに三〇〇〇フランを返した。
「すべて順調だよ」ヴォートランが彼に言った。
「しかし、僕は貴方の共犯者ではありません」ウージェーヌが言った。
「わかった、わかった」ヴォートランは彼を遮って言った。「あんたは未だに子供っぽいところがあるんだな。あんたは入り口で詰まらんことにこだわってしまってるんだ」
[#改丁]

三 不死身


 その二日後、ポワレとミショノー嬢が植物園の人けのない遊歩道のベンチで日差しを浴びて坐っているのが見られた。そして彼等は医学生の目にある疑いを抱かせたのももっともだと思わせる風貌をした紳士を相手に何事かを話していた。
「マドムワゼル」ゴンデュロー氏が言った。「私には貴女がためらう理由が分かりません。王立警視庁の警視総監閣下は……」
「あー! 王立警視庁の警視総監閣下……」とポワレが繰り返した。
「はい、大臣閣下はまさにこれにかかりっきりなんです」ゴンデュローが答えた。
 ポワレはかつて役人で、疑いもなく市民道徳の体現者、それでいて思想は持たないといった人間だった。こういう男が、ビュフォン通の自称年金生活者の言うことに、いつまでも耳を傾けていることがあり得るなどと思う人が果たしているだろうか? しかもその年金生活者が実直そうな仮面の下から、イェルサレム通の警官[73]の顔を露わにし、警察という言葉まで口にしたこの時点においてである。しかしながら、実はこれ以上自然なことはなかったのだ。ポワレが愚者達の巨大な家族の中で、いかなるタイプの人間であるかということは、やがて誰の目にも明らかになってくるだろう。それは幾人かの観察者には既にマークされていたが、今日に至るまで公表されていなかったのだ。彼は国家公務員だった。彼は公務員階級の一番下位になる第一等級の身分で採用された。この階級の給与はグリーンランドの気候のようにお寒い一二〇〇フランだった。そしてこれが第三等級になると、給与も温暖地帯のように暖まって、三〇〇〇フランから六〇〇〇フランにまで上がってくる。この辺りではしばしば特別手当も出るので、難しいことだが、この環境に順応出来れば花を咲かせることも可能だ。この下っ端人間の身体障害があるかのような偏狭さを最も端的に露出せしめているところの特徴は、一種の機械的、無意識的、本能的な、総ての大臣や大僧正に対する敬意であろう。それは下っ端役人には、ほとんど読み取ることも出来ない署名と大臣閣下殿の五文字が相俟って、バグダッド王が使う“リル・ボンド・カニ”の呪文のごとく魔術的に引き起こされる。そしてそれはまた這いつくばった民衆の目には、神聖な権力を決定的に象徴することになるのだった。教皇がキリスト教徒にとってそうであるように、大臣閣下は公務員の目には、業務処理においてはまるで絶対的正義であるとさえ映るのだった。閣下が放つ輝きは、公務員達の行為、言葉、彼の名のもとに命じられる総ての事の上に伝わるのだった。彼は彼の刺繍編みを総て包括し、彼が命じる行為を総て合法化する。偉大なる彼の名は彼の意図の純粋性、彼の意欲の健全性を保証し、最も受け入れ難い思想への橋渡しともなるものだった。下っ端の連中が興味を持ってやるようなことでなくとも、彼等の大臣閣下が発した言葉を実現するためとあらば、彼等はいそいそと仕事にかかるものなのだ。役所には大臣閣下の武器として、命令を待つ職員達の忠誠が保管されている。いわば、良心を窒息させ、時と共に人を政治機構の中のボルト・ナットにしてしまい、人間性を排除し終わらせるようなシステムが出来ているのだ。ゴンデュロー氏もまた、氏自身は男らしい人として知られているのだが、ポワレを見て即座にその馬鹿げた官僚気質を見抜いていた。そして彼は機械的に神的効果のある、大臣閣下という魔術的言葉を、自分の正体を明かしつつ、ポワレの目を眩ませるその瞬間を逃さず発したのだった。彼の見るところ、ポワレはミショノー嬢の男として、またミショノー嬢はポワレの女のように映っていた。
「閣下と言われるからには、あー! 大臣閣下となると……話は変わってきますな」ポワレが言った。
「貴方、お聞きになりましたね。貴方はこの判断に信頼を置かれているようにお見受けします」偽の年金生活者はミショノー嬢にも注意を払いつつ更に続けた。「さあ、それではと! 閣下は今や非常に確実な証拠を持っておられる。それによると、ヴォートランと称してメゾン・ヴォーケに住んでいる男は、ツーロン徒刑場から逃亡した徒刑囚かと思われ、“不死身”の名で知られている男です」
「あー! 不死身!」ポワレが言った。「そんな名前が似合うなんて、ずいぶんと幸せなやつですね」
「全くです」警官が答えた。「その渾名は、彼がやった全くもって大胆不敵な犯罪行為の中で、彼が決して死ななかったという幸運のお陰で、彼に付けられたんです。あの男は危険なんです、貴方、ご存知ですかな! 彼はとんでもない事をやらかす性質の男です。彼に下された有罪判決は、彼の住む世界で無限の名誉を彼に与える、まさしくそういうものになっているんです……」
「いったいそれは栄誉ある男なんですか?」ポワレが訊ねた。
「彼なりにはね。彼は他人が犯した罪をかぶる事に同意したことがあります。文書偽造罪で、やったのはとても綺麗な若者で彼は非常にこの男を愛していました。若いイタリア人でとても博打好きだった。軍隊に入った時から仲間になったんですが、この若者には軍隊は全く合わなかったようです」
「しかし、警察庁大臣閣下がヴォートラン氏が不死身であることを確信なさっているのに、いったいどうして彼が私を必要としてるんですか?」ミショノー嬢が訊いた。
「あー! そうだ」ポワレが言った。「もし大臣が本当に、貴方が我々のところへお越し下さって言われたように、何らかの確信が……」
「確かな事は言葉ではないんです。ただ臭うんです。貴方も我々の疑問を理解するようになると思います。ジャック・コラン、渾名は不死身、この男は三つの刑務所の囚人達から全面的な信頼を得ていました。これらの囚人達は、彼を彼等の諜報員、そして彼等の銀行に選んだんです。彼はこの方面の商売に専念する事によって莫大な利益を得たんですが、この商売は当然著名人を要したってわけです」
「あー! あー! 分かりますよね、この語呂合わせ、マドムワゼル?」ポワレが言った。「この方は彼のことをマルクな人(著名人)と呼んだんだ、何故なら彼はマルケ(監視)されてるんだからね」
「偽名のヴォートランは」と警官が続けて言った。「徒刑囚諸氏から資金を受け取り、それを投資することもあれば、彼等に代わって保管も請け負った。そして逃亡する者がいれば、逃亡者が自由に使えるように資金を引き出した。また遺言によって家族に委譲された時は家族に、また妻宛に彼が手形を振り出した場合は妻に自由裁量の権利が与えられたんです」
「それぞれの妻にだって! 貴方は彼等の妻達のことまで話そうって言うんですか?」とポワレが指摘した。
「いや違います、貴方。徒刑囚というのは大体、同棲というだけの結婚なので、我々は内縁の妻と言っています」
「てことは、彼等はずっと内縁関係で行くって事ですか?」
「結果としてね」
「さてと!」ポワレが言った。「そろそろ旦那が痺れを切らすんじゃないかと心配ですな。貴方が大臣閣下にお会いになる以上、世の安寧に反して極悪事件を起こすああした輩の反道徳的行為を正道に導く光ともなる博愛的思想の持ち主と思われるのは、まさに貴方です」
「がしかし、政治は未だに彼等の前に美徳の全的な概念を提示することが出来ないのです」
「それはそうでしょう。そうは言っても、旦那さん、待って下さいよ」
「だけど、この人にとにかく話してもらいましょうよ、私の坊や」ミショノー嬢が言った。
「貴女は分かっておられる、マドムワゼル」ゴンデュローが答えた。「政府はある不正事件に手を入れるべきほどの巨大な利権を見つけ出すことが出来たんです。この捜査は非常に高い地位にまで及ぶと見られています。不死身は相当な金額を受け取り、彼の仲間から手に入れた分のみならず、更に“一万人社会”に属する金まで隠匿しているのです」
「一万人の盗賊!」ポワレがおびえて叫んだ。
「いえ、“一万人社会”はある種の高等悪徳商人の組合のようなもんで、そのメンバーは大規模な商売をするんだが、一万フラン以下の儲けの仕事は相手にしないといった手合いなんです。この組合はいつでも重罪院へ行きそうな、我々とかかわりのあるような輩の中でも目立つ存在であるような連中で構成されている。彼等は法規に詳しく、たとえ逮捕されても死刑を適用されるような危険は決して冒さないように心掛けているんです。コランは彼等の信頼を集めている人物であり、また相談相手でもあるんです。彼等の巨大な資金のお陰で、この男は自分用の警察や強い繋がりを拡大することが出来たので、干渉されることのない秘密のヴェールを拡大したのです。一年前から我々は彼の許へスパイを送り込んでいるんですが、我々は未だに彼の手の内を見ることが出来ないでいます。彼の資金と才能が実に途切れることなく、悪を売りさばくこと、犯罪で稼ぐことに寄与し、永遠に社会とは交戦状態である悪の主題を達成するための武器を常に臨戦態勢においておくことを可能にしました。不死身を逮捕し彼の銀行を奪うこと、それは悪を根元から切り倒すことになるんです。更にこの探索は国家的なもの、また高度に政治的なものになるかもしれないので、これの成功のために協力してくれた人には名誉が与えられる余地があるんです。貴方については、ご主人、新しく官公庁に雇用されるか、警察署長の秘書になられるかしても、その職業によって貴方の退職金を貰うことは少しも妨げられはしません」
「だけど、どうしてなんですか」ミショノー嬢が言った。「不死身はお金を持って逃げないんですか?」
「あー! 何処にもスパイがいっぱいいるんです。彼が何処に行こうと、彼が徒刑囚の金を盗んだとあれば、彼は彼を殺すように命じられた男に追い続けられるでしょう。それから金庫というのは、良家のお嬢さん一人を運ぶほど簡単には運べないんです。そのうえ、コランというやつは誰もが思いつくようなことをするのが苦手で、そんなのは自分にとって恥だと思ってるんです」
「旦那さん、おっしゃるとおりです。それでは彼の面目は丸つぶれです」
「その言い方だと、まるで貴方が彼の心を良く読めてた様に聞こえるけど、とてもそうは思えないわ」ミショノー嬢が言った。
「まあまあ! マドムワゼル、私が答えましょう……しかし」彼は彼女の耳にささやいた。「貴女の彼が私の話の邪魔をしないように頼みますよ。でないと我々はいつまでたっても終われませんから。あの年寄りが、人に話を聞いてもらうためには大きな財産でも持っていなけりゃならないんです。不死身、あの男はここへ来る時、実直な男の仮面を被ってきたのです。彼はパリの良き中産階級の人間に変身したんです。彼は正体不明のままで、ある下宿屋に住み始めた。彼は気がきく、本当に! 誰も彼以上に人を気遣うことなど出来なかった。そしてヴォートラン氏はなかなかの尊敬を集め、かなり大きな事業を手がけているものと思われた」
「そりゃそうだろう」ポワレはそう思った。
「警察はもし我々が本物のヴォートランを逮捕する時、パリの商業界や公共の意見を敵にまわしたいとは思っていません。警視総監は足元がぐらついていたし、敵も何人かいた。もしも失敗があったら、彼の後釜を狙っている連中は自由に喚く声やぎゃあぎゃあ叫ぶ声を利用して彼に飛びかかろうとするでしょう。ここはコニャール[74]、あの偽のサンテレーヌ伯爵の事件にならってことを進めることが大切です。我々があの件については適切であったとは言い切れないですがね。それはまた確認すればよろしい!」
「はい、だけど貴方には綺麗な女性スパイが必要ですわ」ミショノー嬢が快活な声で言った。
「不死身は女を近づけないようにしてるんです」警官が答えた。「秘密を教えましょう。彼は女性を愛さないのです」
「だけど、それだと私には余計に分からないのですけど、何故私がこうした件の証言にちょうど良いのでしょうか、私が二千フラン貰って、ある憶測の裏づけのため働くことに同意しなければならないんでしょうか」
「こんな簡単なことはありませんよ」見知らぬ男が言った。「私は貴女に一回の服用量のリキュールが入った小瓶を手渡します。これを飲むと脳出血のような症状が出るんですが全く危険はなくて、それでいて卒中のように見えてしまうんです。この幻覚剤はワインにでもコーヒーにでも同じように溶け込めるんです。貴女は直ぐに件の男をベッドに寝かせ、彼が死にかかっているのかどうか調べるために彼の服を脱がせるのです。そして誰も見ていない時、彼の肩を一発叩いてください、ぴしゃ! すると貴女はそこに文字が浮き出てくるのを見るでしょう」
「しかし、それはちっとも簡単じゃないね、それは」とポワレが言った。
「そこでです! 貴女は承知してくださいますか?」とゴンデュローがハイミスに言った。
「だけれど、貴方」ミショノー嬢が言った。「もしも文字なんて一つも出てこなかった場合ですけど、私は二千フランいただけるんでしょうか?」
「駄目です」
「それじゃ、何か手当てはあるんですか?」
「五〇〇フランは出ます」
「これだけのことをやらしておいて、たったそれだけですか。悪は良心の中でいつまでも悪として居続けることでしょう。そして私は私の良心の痛みに苦しみ続けることになるんですよ、旦那様」
「私ははっきり言いますよ」ポワレが言った。「このマドムワゼルはとても良心的な人なんです。言うまでもなく、とても愛想のいい人なんだが、それのみならずですよ大変たしなみもある方なんです」
「それでは!」とミショノー嬢が言った。「もしそれが不死身だったら、私に三千フラン下さい。そしてもし、それが唯の市民だったら一銭も要りません」
「いいでしょう」ゴンデュローが答えた。「しかし条件は明日やるということです」
「まだご返事出来ません、旦那様、私は告解師に相談しなければなりませんから」
「ずるいですね!」警官は立ち上がりながら言った。「それでは明日。それで、もし貴女が早く私に話したいと思ったら、サンタンヌ通へおいでなさい。そしてサントシャペルの庭のはずれですよ。入り口は丸天井の下に一個あるだけです。ゴンデュローの名前で尋ねてきて下さい」
 ビアンションはキュヴィエ庭園を通って帰ってきて、まったく聞きなれない“不死身”という名前が耳に飛び込んできたので見ると、それが高名な警視庁課長の口から出たものだと分かった。
「どうして決心出来ないんですか。これは三〇〇フランの終身年金になるんですよ」ポワレがミショノー嬢に言った。
「何故ですって?」彼女が答えた。「だって、じっくり考えなきゃならないところですもの。仮にヴォートランさんがその不死身だとしても、それでも彼とは交渉した方がずっと良いのではないかしら。だけど彼にお金を要求するとしても、それは彼に前もって報せてしまうことになるので、そしたら彼はただでずらかってしまうでしょうね。最悪の結果ね」
「彼が前もって報らされるとして」ポワレが答えた。「あの先生は我々に向かって、彼が監視されていたと言わなかったかね? だが貴女、貴女は一銭も儲からないんだよ」
「そもそも」ミショノー嬢は考えた。「私はあの正体不明の男なんて嫌い、あの男! 彼は私に面倒な事しか言わないんだから」
「しかし」とポワレは続けて言った。「貴女はきっと上手くやれるはずだ。あの人はきちんとした身なりをしていたし、とても信頼出来そうに思えたので、彼の言うようにやれば、それは社会から犯罪をなくしてしまおうという遵法精神にのっとった行為だし、とにもかくにも高潔な行為には違いないのではないかな。相手は生まれついての悪党なんだろう。もしかして、あのヴォートランのやつ、我々を皆殺しにしようなんて思ってるんだろうか? まあ何て悪党だ! 我々はその殺戮を防げなければ、いくらかの責任があるだろうな、おまけに我々自身がその最初の犠牲者だときている」
 ミショノー嬢の関心事はポワレの口から一つずつ出てくる言葉から聞くことは出来なかった。まるで締りの悪い噴水の蛇口を通って滲み出てくる水の一滴一滴のようなものだった。ひとたびこの老人が話し始めると、ミショノー嬢が彼を止めない限り、彼は話し続けた。まるで音量を上げた機械のようであった。まず最初の主題に取り掛かった後、彼は自分が入れた余談につられて、主題を全く反対の方向に向けてしまって、結論は出さないままにしておくのだった。メゾン・ヴォーケに着く頃、彼の際限なく続く話は過去のある時期に彼が臨時の召喚状を裁判所から受け取った事件のことに及んでいた。そこから彼の話は裁判所で証人として供述をさせられたという事件に入り込んでいた。それは有名なラグロー氏とモラン夫人[75]の事件で、彼はモラン夫人の嫌疑を晴らすために弁護側の証人として出頭したのだった。
 彼等がメゾン・ヴォーケへ入っていった時、下宿の仲間達は皆、ウージェーヌ・ド・ラスチニャックがタイユフェール嬢となにやら親密な会話にふけっているのに気づき、彼等の興味がもっぱら二人の若者に集中していたので、二人の年取った下宿人が食堂を横切っていった時、このカップルに注意を払う者はいなかった。
「あの二人はめでたしめでたしになりそうね」ミショノー嬢がポワレに言った。「あの人達一生懸命色目使いあって、この八日間、魂を奪われたみたいだわ」
「そうだね」彼が答えた。「彼女もまた有罪になった」
「誰?」
「モラン夫人だ」
「私はヴィクトリーヌ嬢のことを貴方に言ったのよ」ミショノー嬢は割合無頓着な様子でポワレの部屋へ入ってきながら言った。「だのに貴方はモラン夫人のことを答えてるんですもの。一体何ですか、その女の人って?」
「一体どうしてヴィクトリーヌ嬢まで罪があるなんて言うんだい?」ポワレも尋ねた。
「彼女はウージェーヌ・ド・ラスチニャック氏を愛するという罪を犯してしまったわ。そして、それがどんなことになるかも知らずに大胆に前進している。可哀想に何も知らないで!」
 ウージェーヌは午前中ずっとニュシンゲン夫人のお陰で、絶望的気分に陥っていた。彼は内心では完全にヴォートランに身を委ねていた。しかもこの不思議な男が彼に見せた友情の意図するところも、ある種の提携の前途のことを考えたいとも彼は思わなかった。彼が既に一時間前から足を踏み入れている深淵から引き上げてもらうには、タイユフェール嬢と最高に美味しい約束を交わすという奇跡を待つより他はなかった。ヴィクトリーヌは天使の声を聞いたように思った。天国が彼女の前に開けて、メゾン・ヴォーケは夢のように彩られて、装飾もまるで豪華な劇場を思わせるものだった。彼女は愛している。彼女は愛されている。彼女は少なくともそう思っていた! そして、彼女がラスチニャックに会って、この数時間、この下宿のアルゴス[76]のような連中の目を逃れて、彼の話を聞いた時に思ったようなことを、いかなる女性でも同じように思わずにはいられないのではないだろうか? 彼は自身の良心に問い続け、自分が悪を行ってきたことを自覚し、なおも悪を行うことを望みながら、一人の女性の幸運にすがって自身の小さな罪を償おうと考えていたのだ。彼女の目に彼はその絶望感により内面的美しさまでにじませ、彼が心の中に抱く地獄の炎のによって一段と光り輝いて見えるのだった。彼にとって幸運なことに奇跡は起こった。ヴォートランが楽しげに入ってきて、彼の悪魔的な才能の術策によって結びつけた二人の若者達の心を読み取った。しかし彼は太い声でからかうように歌い始めて、二人の楽しい気分を突然乱したのだった。
私のファンシェットはチャーミング
彼女が素直でいる限り[77]
 ヴィクトリーヌは彼女がそれまでの人生で味わった不幸と同じくらいの幸福を抱いたまま、その場から立ち去った。哀れな少女! 手を握られること、彼女の頬がラスチニャックの髪に軽く触れられ、一つの言葉が彼女の直ぐ耳許で言われたものだから、彼女は学生の唇の熱を感じた。彼の震える腕から伝わってくる彼の胴体の圧力、彼女の首筋にされたキス、それらは一緒になって彼の情熱を演出したので、でぶのシルヴィが隣室にいるということが、この輝かしい食堂に彼女が入ってくる恐れを掻き立てていたが、そのことが逆に過去の名高い愛の物語の中で語られた献身の美しい証しよりも、彼の情熱をもっと燃えるような、もっと活き活きとした、もっと魅力的なものに感じさせるのだった。先人達が描いた見事な表現で飾られた女の同意を示すメニューは、毎月十五日には告解をしていた彼女のような敬虔な若い娘に対しては実に罪深い代物だ! この時の彼女は魂の財宝のありったけを与えてしまったが、後の富裕で幸福になった時の彼女なら、このように感情に身を任せて総てを打ち明けるようなことはしなかったに違いない。
「もう成功間違いなしだ」ヴォートランがウージェーヌに言った。「我等の伊達男二人は闘うんだ。総て順調だ。見解の相違は埋めようがなくてね。あの愛すべき鳩君が何を思ったのか私の友人の鷹に決闘を申し込んだんだ。明日、クリニャンクールの角面堡で。八時半にタイユフェール嬢は、彼女の父親の愛と資産を相続することになる。その間、彼女はここにいて、静かにバターつきのパンをコーヒーに浸けて食べてりゃいいんだ。何か変なところあるかね? このタイユフェールの坊やは剣が強くて、また、ポーカーのフォーカードを手に持っているかのようにいつも自信満々のやつなんだ。しかし、彼だって、私の編み出した剣の一撃で切り殺すことが出来る。どうするかって、剣先を急に持ち上げて相手の額を突き刺すんだ。私は君にその突きを見せてやろう、そりゃあ恐ろしいほど良く決まるんだ」
 ラスチニャックはぼんやりした様子で聞いていて、何も答えなかった。この時、ゴリオ爺さん、ビアンション、その他の何人かの下宿人達がやってきた。
「ほら私が君に望んでいた通り」彼に向かってヴォートランが言った。「君は自分のやるべきことは分かってるだろう。いいな、可愛い鷲君! 君は人々を支配するんだ。君は強く、率直で、頑健だ。私は君を買ってるんだ」
 彼はラスチニャックの手をつかもうとした。ラスチニャックは自分の手を勢いよく引っ込めた。そして椅子に青ざめて座りこんでしまった。彼は目の前に血の池を見る思いがした。
「あー! 我々はまだ相変わらず小いちゃな道徳のしみが付いたおしめをつけているようだな」ヴォートランが低い声で言った。「ドリバンの父っあん[78]は三〇〇万フランを持ってるんだぜ。私は彼の財産を知ってるんだ。持参金を見れば、君もまるで結婚衣装のように真っ白になるだろうぜ、自分の目が信じられないくらい真新しい人間になってるんだ」
 ラスチニャックはもはや躊躇しなかった。彼は今晩中にタイユフェール氏のところへ行って、彼の息子になることを報せようと決意した。この時、ヴォートランは去ったが、ゴリオ爺さんが彼の耳にささやいた。「貴方は悲しそうですね、そうでしょう! 私が貴方を陽気にしてあげましょう、私が。いらっしゃい!」そして老製麺業者はランプで彼のネズミ部屋を明るくした。ウージェーヌは好奇心でいっぱいになって、彼について入った。
「貴方の部屋へ行きましょう」爺さんが言った。彼はシルヴィに学生の部屋の鍵を借りて持っていた。「貴方は今朝、彼女が貴方を愛してないと思ったでしょう、どうです!」彼が言った。「彼女は貴方を力づくで追い出した、そして貴方はそれに立腹して、すっかり絶望的になってしまった。馬鹿な娘だ! 彼女は私を待っていたんだ。分かりますか? 私達はアパルトマンの飾り付けの手配を完了させなければならんのです。貴方は三日後にはここを出て、そちらへ移り住むんだから。私を裏切らんで下さい。彼女は貴方を驚かせたがっている。だが私はこれ以上貴方に秘密を隠しておけないんです。貴方はアルトワ通に住む。サンラザール通の直ぐ近くです。そこでの貴方は、まあ王子様ですな。私達は貴方に、まるで花嫁のためのように家具を揃えましたよ。この一ヶ月、私達はずいぶんなことをやりました。これも貴方に何も不満が残らないようにと思ったのでね。私の代訴人は手続きを始めています。娘は年に三万六千フランを手にするでしょう。彼女の持参金に対する利息です。そして私は彼女の八〇万フランを良質の債権に投資するように強く要請する積りです」
 ウージェーヌは黙って歩き回っていた。腕を組んで同じところを行ったり来たりして、彼は自分のみすぼらしい寝室の中ですっかり混乱していた。ゴリオ爺さんは学生が彼に背中を向けている瞬間を捉えて、暖炉の上に赤いモロッコ革に包まれた箱を置いた。箱には金色に彫りこまれたラスチニャック家の紋章があった。
「ねえ」哀れな爺さんが言った。「私はこれに夢中で首までどっぷり浸かってますよ。しかし、こうなんですよ、私は結構エゴイズムで動いていて、私は貴方が住む町を代える事に興味があるんです。貴方は私を拒絶したりされんでしょう、ね、そうでしょ! 例えば私が貴方に何かをお願いしたとしても?」
「貴方は何をお望みなんですか?」
「貴方のアパルトマンの上、六階に寝室が一つあって、それは付属しているんだが、私はそこに入りたいんですがね? 私は年寄りだ。私は娘達を訪ねるにも遠過ぎる。私は貴方に迷惑をかけたくない。ただそこに居たいだけだ。貴方は毎晩彼女のことを私に話してくれるだろう。そんなことが貴方には不愉快になるだろうか、言って下さい? 例えば貴方が帰ってきたとする。私はベッドに入っているので、私は貴方の様子に耳をそばだてている。私は思うんだ。彼はたった今、私の可愛いデルフィーヌに会ってきたんだ。彼は彼女を舞踏会へ連れて行った。彼女は彼のお陰で幸せだ。もし私が病気になったら、それすら私の心に慰めを与えてくれるだろう。それは貴方の帰ってくる音を聞いたり、貴方がまた静かになったり、出て行ったり、貴方には私の娘との沢山の関わりがある! 私がシャンゼリゼに行くにも、そこはほんの直ぐ近くだ。そこで彼女は一日中過ごしている。私は彼女達と毎日会うだろう。その一方で、私は何回か遅刻もする。そして彼女は恐らく貴方のところへ来るでしょう! 私は彼女の声を聞く、私は翌朝には部屋着姿の彼女に会う、彼女はまるで子猫のようにチョコチョコ動き回り、可愛らしく歩く、彼女はこの一ヶ月来、昔の彼女に戻ったみたいです。若い娘らしく、陽気で粋な感じです。彼女の心は今、回復期にあります。彼女が幸福になれたのは貴方のお陰です。あー! 私は貴方には感謝しきれないくらいです。彼女は私にいつも繰り返し言うんです。『パパ、私はとても幸せだわ!』娘達は儀式ばって言う時には『お父様』と言って私の気持ちを冷やすんです。しかし娘達が私をパパと呼んでくれる時には、また小っちゃい頃の彼女達に会っているような気持ちになるんです。彼女達は私に思い出を総て返してくれるんです。私はよほど父親らしい気持ちになれるんです。私は彼女達のことを人間以上のものと思っています!」爺さんは目のあたりをぬぐった。彼は泣いていた。「私があの言葉を聞かなくなってから長いです。おー! そうだ、私が娘のどちらかと並んで歩かなくなってからも、ざっと十年は経ってしまった。彼女の服に体をこすり付けたり、彼女の後に従ったり、彼女と一緒に熱くなったりすることって良いものですよ。結局、私は今朝、デルフィーヌをあらゆるところに連れてゆきましたよ。私は彼女と一緒に何軒かの店を回ったもんです。そして私は彼女を家まで送っていったんです。あー! 私を貴方の傍においてください。いつか貴方は誰か自分に尽くしてくれる人間を必要とするでしょう。私こそ、そこで役に立つのです。あー! あのアルザス人の太っちょがくたばってくれたら、やつの血が逆流して胃が痙攣しちまえばなあ、私の可哀想な娘、彼女も幸せになれるんだがなあ! 貴方はそうすれば私の婿殿になるんだ、貴方は天下晴れて立派な彼女の夫になれるんだ。くそっ! 彼女は何だってこう不幸せなんだ、だってそうだろ、彼女はこの世の喜びなんて何一つ知らないんだから、私は彼女の罪は総て許してしまうんです。正しき神は誰よりも深く愛する父の側に立って当然なんです。彼女は貴方をすごく愛している!」彼は一呼吸おいた後、頭で頷きながら言った。「行く途中ずっと彼女と私は貴方のことを話していたんです。『そうじゃない? お父様、彼っていいでしょ! 彼は良い心の持ち主だわ! 彼は私のこと話してた?』何と彼女は私にずっとそんな調子で話してたんです。アルトワ通からパノラマ道路に至るまで、ずいぶんな量だった! 要するに彼女は自分の心の中にあったものを全部、私の心の中に注いだんです。この幸せな午前中ずっと、私はもう老人という気はしなかったし、心はまるで羽のように軽く感じられました。私は貴方が私に千フランの札を預けたことを言った。おー! 可愛い娘、彼女はそれに感動して涙を流しました。あの暖炉の上に置いてある物は何ですか?」じっとしているラスチニャックを見ていて、どうにも我慢しきれなくなったゴリオ爺さんがとうとう言った。ウージェーヌは全く不意を突かれて呆然として隣人を見た。ヴォートランによって翌日の予定を告げられたあの決闘は、ウージェーヌが描いていた高貴な希望の実現とは激烈な対照をなしていたので、今の彼はまるで悪夢にうなされているような気持さえするのだった。彼は暖炉の方を振り返り、そこに小さな四角い箱を見つけて、それを開いた。そしてその中にブレゲ製の時計が紙に包まれているのを見つけた。その紙の上にはこんな言葉が書かれていた。〈私は貴方にいつも私のことを思っていて欲しいのです、何故なら……
デルフィーヌ〉
 この最後の言葉は疑いもなく彼等の間でそれ以前に起こった場面について言及したものだが、ウージェーヌはほろりとしてしまった。彼の家の紋章は箱の金箔の中にちりばめられていた。この珠玉の作品は本当に長い間の憧れだっただけに、鎖、鍵、細工、デッサンの総てが彼の望みにかなっていた。ゴリオ爺さんはこれ以上ない晴れやかな表情だった。彼は疑いもなく娘からウージェーヌへの贈り物が起こした驚きのどんな小さな効果も、彼女に語って聞かせることを彼女に約束していたに違いない。何故なら彼自身はこうした若者の感動については部外者であって、一緒に感動しているとは見えなかったからだ。彼は既にラスチニャックを愛していた。そしてそれは娘のためであり、また彼自身のためでもあった。
「貴方は今晩彼女に会いに行かれるんでしょう。彼女は貴方を待ってます。太っちょのアルザス男は、お気に入りの踊り子のところで食事します。あーあ! 私の代訴人が奴さんの痛いところをずばりと突いた時は、やつはもう相当面食らってたなあ。やつは娘を偶像のように愛してるとか言ってたんじゃないかな? もしやつが娘に触れたりしたら、私はやつを殺す。私のデルフィーヌに何か……(ここで爺さんは溜息をついた)酷いことを考えると、私は犯罪を犯してしまいそうなんです。しかし、それは殺人ではないんです。やつは豚の体に子牛の頭を載せただけのものですからね。貴方は私がこんなことを言っても面白がって受けとめてくれるのではありませんか?」
「はい、我がゴリオ父さん、貴方がもうご存知のように私は貴方を愛してます……」
「分かってます。貴方は私のことを恥ずかしいなどとは思われていない、貴方はね! 貴方をしっかりと抱かせてください」そして彼は学生を両手で抱き締めた。「貴方は娘をうんと幸せにしてやって下さい。約束ですよ! 貴方、今夜行くんでしょう、そうでしょう?」
「おー、そうです! 私はどうしても延期出来ない用事があって、出かけなければなりません」
「何か私でお役に立つことありませんか?」
「もちろん、あります! 私がニュシンゲン夫人の家へ行ってる間に、親父のタイユフェール氏のところへ行って、夜会で私が彼と一時間話せるように時間をくれるように言っといてもらえませんか? 彼とは野暮用で話さねばならないんです」
「えっ、それは本当ですか、貴方」ゴリオ爺さんは顔色を変えて言った。「貴方は彼の娘に言い寄ってたんではないんですか、下にいる例の下らない連中の話によるんですが? くそっ! 貴方はそれこそが、まさにゴリオの銃眼ともいうべきものだと知らないんですね。そしてもし貴方が私達を騙したとすると、これは一発拳固をお見舞いしなければなりません。おー! そんなことはあり得ない」
「私は貴方に誓います、私はたった一人の女性しか愛さないことを、私はそのことをたった今知ったんです」
「あー、何と言う幸せだ!」ゴリオ爺さんが叫んだ。
「しかし、タイユフェールの息子が明日決闘するそうです。そして私は彼が殺されるだろうと聞いています」
「それが何か貴方に関係あるんですか?」
「勿論、彼に息子を決闘に行かせないようにすべきだと伝えなければなりません……」ウージェーヌは叫んだ。
 この瞬間、彼はヴォートランの声によって遮られた。彼の足音が戸口に近づくのが聞こえ、そこで彼が歌った。
おー、リシャール、おー、私の王!
世界は貴方を見捨てた……[79]
ブルン! ブルン! ブルン! ブルン! ブルン!
私は久しく世界をさまよった
そして誰もが私を知っている……
トラ、ラ、ラ、ラ、ラ……
「皆さん」クリストフが叫んだ。「食事が出来ました。どうぞ食卓へ」
「おや」ヴォートランが言った。「私のボルドー・ワイン一瓶を誰か持っていったな」
「あれは綺麗だと思いますか、あの腕時計ですよ?」ゴリオ爺さんが言った。「彼女は趣味がいいでしょ、そうでしょう!」
 ヴォートラン、ゴリオ爺さん、それにラスチニャックは一緒に降りていった。そして彼等は遅れていったものだから、おのずから食卓では互いに隣り合わせに坐ることになった。ウージェーヌは夕食の間中、ヴォートランの様子に最大の注意を払って見た。ヴォーケ夫人の目にあれほど人好きのするこの男が、それまでには決して見せたことがないようなセンスを披露してくれた。彼は終始才気をきらきらさせて、会食者の皆を元気にしてくれた。その自信と冷静さはウージェーヌを驚嘆させた。
「今日はまた上手い商売で儲かったのかしら?」ヴォーケ夫人が尋ねた。「貴方はずいぶんご機嫌がいいのね」
「私は良い仕事をした後はいつでも陽気だよ」
「お仕事って?」ウージェーヌが訊いた。
「そうだな! うむ。結構な口銭で商品の一部を引き渡すことが出来たんでね。ミショノーさん」と彼はハイミスが彼のことをじっと探るように見ているのをちらと見て言った。「私の姿を見てると何か貴女の気に入らない特徴でもあるんですか、それで貴女はアメリカ人のような目で私を見るんですか? それは言ってくれなきゃ! 私は貴女に気分よくしてもらうためにはそいつを改めるようにしましょう」彼は老役人を横目で見ながら言った。「ポワレ、我々はそんなことで仲違いはしませんよね、どうですか?」
「貴方って実に恰好いいなあ! 貴方はほら吹きヘラクレスのポーズをとっても似合うでしょうね」若い画家がヴォートランに言った。
「確かにそれはいい! もしミショノー嬢がペールラシェーズのヴィーナスのポーズをとってくれるのならの話だが」ヴォートランが答えた。
「で、ポワレは?」とビアンションが言った。
「おー! ポワレはポワレのポーズだ。それは庭のテントウムシだろうな!」ヴォートランが叫んだ。「彼の先祖はポワール(梨)だよ……」
「古くて腐った!」ビアンションが付け加えた。「そういうことなら、貴方は梨とチーズのデザートでくつろげるってわけですね」
「それくらいにして! 馬鹿話は」ヴォーケ夫人が言った。「それで貴方、私達の方へボルドー・ワインを回してくれないかしら、ちょっと瓶の頭が見えたのでね! それはお腹の足しになるし、私達も楽しい気分でいられるからね」
「皆さん」ヴォートランが言った。「会長である奥様が秩序を取り戻すように我々に言って下さった。クチュール夫人とヴィクトリーヌ嬢も我々の滑稽な議論に気を悪くされることもなさそうだ。しかし、ゴリオ爺さんの素朴さを見習おうじゃないか。私は貴方にボルドー・ワインの小瓶を一本差し上げよう。シャトー・ラフィット[80]のワインだ。政治的な話は慎むが、フランス銀行総裁もラフィットだな。おーいチャンコロよ、来てくれ!」彼はまだろうそくを灯けてなかったクリストフの方を見ながら言った。「ここだ、クリストフ! お前は何だって自分の名前が聞こえないんだ? チャンコロめ、飲み物を持ってくるんだ!」
「お持ちしました、旦那様」クリストフが彼に瓶を差し出して言った。
 ウージェーヌとゴリオ爺さんのグラスにワインを注ぎ足した後、二人の隣人が飲んでいる間に、彼はゆっくりと自分のグラスにも少しだけ注いで、それを味わうように飲んだ。が、突然彼が顔をしかめた。
「何だ! 何だ! コルクの臭いがする。これをお前飲んでみろ、クリストフ、それからな、も一度行って、もっと持って来るんだ。右側だったかな? お前知ってるだろう。我々は十六人だ、八本下ろすんだ」
「あなたが気前良くワインをおごってくれるんだから」画家が言った。「私は栗百個分はお支払いしましょう」
「おー! おー!」
「ぶー!」
「ぷるるー!」
 めいめいが発する叫び声が、飾り燭台から花火が打ち上げられるように飛んでいった。
「よーし、ヴォーケのママ、シャンパン二本はママのだったね」ヴォートランが彼女に向かって叫んだ。
「はあ、その通りだわ! あたしのものなら、どうせならこの家のことを言えないの? シャンパン二本! でも、それ一二フランするのよ! あたしはそれだけ稼げないわ、駄目ね! でも、もしウージェーヌさんが、その分払ってくれるんなら、カシスなら、お出し出来ますけどね」
「ほらこれが彼女が言ったカシスだ。カラマツの脂と同じように下剤作用があるんだ」医学部学生が声を落として言った。
「君ちょっと黙っててくれないか、ビアンション」ラスチニャックが叫んだ。「僕は松脂のことを話されるだけで心臓が……あ、はい、シャンパンの件はいいですよ。それは僕が払います」学生は付け加えて言った。
「シルヴィ」ヴォーケ夫人が言った。「ビスケットとショート・ケーキを出して」
「貴女のショート・ケーキはちとでか過ぎますね」ヴォートランが言った。「あれはカビが生えてる。だが、ビスケットの方は頂きましょう」
 ちょうどこの時、ボルドー・ワインは回されていて、会食者達は活気付いて陽気な気分は倍加していた。それは激しい笑いの最中だった。突然何か様々の動物の声のようなものが鳴り響いた。博物館員は思わず恋する猫のにゃーごと泣く声にも似たパリの鳴き声を再生してみたい気を起こした。直ちに八つの声が同時に次のような文句をがなり立てた。「包丁とぉーぎ!」「栗の実ぃの小鳥だよー!」「さあ奥さん、ワッフルはいかが、さあゴーフルだよ!」「陶器の修理ぃー!」「殻から剥きたての牡蠣だよー、牡蠣だよー!」「女房に負けるな、服にも負けるな!」「古着ぃー、古飾りぃー!」「古帽子、売りまーす!」「甘ーい、甘ーい、さくらんぼー!」棕櫚の枝の栄誉は、ビアンションの鼻にかかったアクセントのこの呼び声に与えられた。「傘屋でござーい!」
 やがてこれらの声がうんざりさせるような騒音になり、話題が次々に飛躍する会話になり、ヴォートランがオーケストラの指揮を執る本物のオペラとなった。しかし彼は、既に酩酊状態のウージェーヌとゴリオ爺さんの監視も怠らなかった。この二人は背中を椅子にもたせ掛けて、いつにない混乱を重苦しい様子でじっと見つめていた。彼等は少し飲んだだけだった。この二人は今夜中にやらねばならないことに完全に気を取られていた。しかしながら彼等はまるで立ち上がることも出来ないような気がしていた。ヴォートランは彼等の様子をはたで観察しながら、彼等の顔色の変化を追って、彼等の目が揺れ動き、目を閉じてしまいそうに見えた瞬間を捉え、ラスチニャックの耳許に身をかがめて、こう言った。「おい君、君は君のヴォートラン・パパと戦えるほど、そんなにずる賢くはないんだ。その上、彼は君が馬鹿な真似をするのを放っておくわけにはいかないんだ、とても君が好きなんでね。私がことを決めたからには、私の道を阻めるような強者は神以外にはいないんだ。あー! 君はタイユフェール爺さんに前もって知らせてやるつもりだった。ほとんど小学生並みの間違いをしでかすところだった! かまどは熱い、小麦粉も捏ねられている、パンは木べらにもう乗っている。朝には、我々は焼き上がったパンにかぶりつき、その勢いでパン粉は我々の頭より高く舞い上がるっていうんだ。なのに、我々はパンをかまどに入れるのをやめちまうのかい? いやいや、そうはさせない、全部焼けるだろう! もし君に何か小さな後悔があっても、美味いパンを食っていれば忘れちまうさ。我々がちょっと昼寝でもしている間に、大佐フランシュシニ伯爵が彼の剣先を操って、ミッシェル・タイユフェールの財産相続の件の行方を決めてくれるさ。君にも成り行きが分かるだろう。兄からの財産を相続すると、ヴィクトリーヌは一万五千フランの年金の所有者だ。私が既に聞いた話では、更に母からの相続額が三〇万フラン以上[81]に達する……」
 ウージェーヌは彼の言葉を聞いていたが、返事することが出来なかった。彼はまるで舌が口蓋に張り付いてしまったように感じた。そしてどうにも耐えられないような眠気に襲われた。彼は光の輝く霧を通してテーブルや会食者の姿をやっと見ることが出来るだけだった。やがて物音が静まり、下宿人は一人また一人と去っていった。そしてもう、ヴォーケ夫人、クチュール夫人、ヴィクトリーヌ嬢、ヴォートラン、それにゴリオ爺さんしかいなくなった時、ラスチニャックは何か夢うつつの間に、ヴォーケ夫人が真新しい瓶に置き換えるために、飲み残しのある瓶をつかんでは、それを空にすることに専念しているのに気がついた。
「あー! みんな頭が変なのかしら、ったく若いんだから!」寡婦が言った。
 これがウージェーヌが理解出来た最後の言葉だった。
「こんな茶番劇でも、様になるのはヴォートランさんだけね」シルヴィが言った。「さてと、あら、クリストフったら、轆轤がんなのようないびきをかいてるわ」
「おやすみ、お母ちゃん」ヴォートランが言った。「私は大通りに行って、〈野生の山〉のムッシュ・マーティを大いに堪能してきますよ。〈隠者〉[82]が原作のすごい劇なんですよ。よかったら、例のベリー公とその劇場に同行していた婦人のように、貴女をそこにお連れしますよ」
「ありがとうございます」とクチュール夫人が言った。
「あら、どうして貴女が!」ヴォーケ夫人が叫んだ。「貴女は〈隠者〉から取った劇は見ないと言ってたじゃない。この劇もアタラ・ド・シャトーブリアンの作品で、私達もよく読んだわね。これはとても綺麗な作品なので、菩提樹の木陰で去年の夏なんか、エロディーの身の上のことで、ずいぶんと泣いたものだわ。要するに道徳的な作品で、貴女のところのお嬢さんには影響してしまうんじゃない?」
「私達はお芝居を見に行くことを禁止されてるんです」ヴィクトリーヌが答えた。
「大丈夫、ほら仲間がいる、この人達が」ヴォートランはそう言って、おどけた仕草でゴリオ爺さんやウージェーヌの頭を動かせて見せた。
 学生が楽に眠れるように頭を椅子の上にのせてやった時、彼は歌を口ずさみながら、学生の額に熱烈なキスをした。
おやすみ、私の可愛い恋人!
貴方のそばで私は寝ずの番をします![83]
「私は彼が病気じゃないかと心配なんです」ヴィクトリーヌが言った。
「それじゃ、そばにいて面倒みてあげるのがいい」ヴォートランが答えた。「それは」と彼は彼女の耳許でささやいた。「貴女が従順な妻になるんなら当然の行為なんだ。彼は貴女を熱愛している。この若者はね。そして貴女は彼の可愛い花嫁さんになる。私は貴女にそのことを予言しておく。二人は何処の国に住もうと皆に尊敬され、幸福に暮らし、そして子供も沢山もうける。以上が総ての恋愛小説の完結の仕方だ。さてと、母さん」彼はヴォーケ夫人の方を向いて声をかけ、彼女を抱き締めた。「帽子と伯爵夫人のマフラーに見劣らないようなワンピースを着てきなさい。私は貴女達のために辻馬車を見つけてくる。私が行く」そして彼は歌いながら出て行った。
太陽、太陽、偉大な太陽
あなたはカボチャを熟れさせる
「まあ! ねえ、クチュールの奥様、あの人ったら、あたしを幸せにしてやるって、世間に言いふらす積りよ。さてと」ヴォーケ夫人はそう言うと製麺業者の方を見て、「ほらゴリオ爺さんを忘れるところだったわ。あの老いぼれの爺ときたら、あたしを何処かへ連れていってやろうなんて考えはからっきし持ったことがないんだからねえ。だけど上手いもんで、彼は地の底へ落ちてゆくところさ、ざまみろだよ! いい年をした男が正気を失うなんて、まあなんて下品なんだろう! 貴方は言ったわよね、持っていなければ人は何も失うものはないって。シルヴィ、さあ彼を部屋に連れてっておやり」
 シルヴィは爺さんを腕の下から支えて歩かせた。そして彼を服を着せたまま、まるで荷物を投げるようにベッドの上に投げ出した。
「可哀想に、この若い方」クチュール夫人は彼の目の上にまでかぶさっていたウージェーヌの髪をかき上げてやりながら言った。「彼ってまるで若い女の子のようだわ。彼にはまだ行き過ぎって言うのが、どんなものだか分かってないのね」
「ああ! あたしにはずいぶん沢山話したいことがあるわ。あたしがこの下宿屋を始めて、もう三十一年になるけど」とヴォーケ夫人は言った。「お世話した若い人が何人も、いわゆる卒業をしていったわ。だけどあたしはウージェーヌさんほど優しくて、しかも秀でたところのある人は見たことがないの。彼は寝てる時もハンサムなの? 彼の頭つかんで、貴女の肩の上にのせてみてよ、クチュールの奥様。あら! 彼ったら、ヴィクトリーヌ嬢の肩の上に頭のっけたわ。子供達にとっての神のような存在があるんだわ。まだ少し、彼は頭を椅子の握りの方にも半分のせてるわね。この二人は似合いのカップルになりそうね」
「ねえ奥さん、少し黙っててくれる」クチュール夫人が叫んだ。「貴女喋りすぎよ……」
「へえ!」ヴォーケ夫人が言った。「聞こえてないわよ。さあシルヴィ、あたしの着替え手伝いに来て。あたしこれから大きなコルセットをつけるのよ」
「あら大変! 奥様の大きなコルセットを夕食後直ぐにですって? 奥様」シルヴィが言った。「あっ駄目、貴女を締め上げるんだったら誰か他の人をお探しになったら? 奥様を殺す役目なんて私は真っ平ですよ。うっかりそんなことをすると、奥様、命を落としかねませんよ」
「何でもいいからさ、とにかくヴォートランさんの体面を保ちたいのよ」
「それじゃ奥様、あの人がお好きで後添えにお考えに?」
「さあ行くよ、シルヴィ、ごちゃごちゃ言わないで」寡婦はそう言うと立ち去った。
「あの歳でねえ」料理女はヴィクトリーヌに女主人の方を指し示しながら言った。
 クチュール夫人とその教え子、――その肩に頭をのせたウージェーヌは眠り続けていたのだが――この二人だけが食堂に残っていた。クリストフのいびきが静まり返った館内に響き渡り、子供のように優雅に眠っているウージェーヌの眠りの穏やかさを引き立てて見せた。慈悲深いこの行為は、ヴィクトリーヌに女性的な感情をいっぱいに溢れ出させ、また彼女に罪悪感なしに若い男の心臓を胸をどきどきさせながら、自身の心臓の上に肌身で感じ取らせたものだが、自分にそれを許すことの出来る幸せで、彼女の顔つきは何かしら母性本能の働きによって誇り高くなったように見えた。彼女の心の中に湧き上がった千もの思いを突き破って、ある混沌とした官能の動きが浮かび上がり、若くて純粋な熱気の交換を促した。
「可哀想に、愛しい少女!」クチュール夫人は手を胸に押し当てながら言った。
 老婦人はこの率直で受難の少女を賛嘆していた。少女の姿には幸福の光が降り注ぐのが見えるような気がした。ヴィクトリーヌはあの素朴な中世絵画を思い起こさせるところがあった。それらの絵では芸術家達によって余分な装飾はほとんど排除されていたが、彼等は黄色い色調で姿を描くための静かで誇り高い絵筆の魔術は持ち続けていた。しかもそこでは天空もまた黄金色に映し出されているかのように見えた。
「彼は二杯以上は飲めないわ、母さん」ヴィクトリーヌは自分の指をウージェーヌの髪に通しながら言った。
「だけど、彼が放蕩者だったら、あなた、彼だって他の人と同じようにワインには強いはずだわ。彼の酔いは褒めてあげるべきよ」
 道路に馬車の音が響いた。
「母さん」若い娘が言った。「あれはヴォートランさんね。さあウージェーヌさんを支えて。私、あの人にこうしているところを見られたくないの。彼の言い方は心を傷つけるし、彼の視線はまるで女から服を脱がすかと思われて、とても気分が悪いのよ」
「いいえ」クチュール夫人が答えた。「あなたは間違ってますよ! ヴォートランさんは実直な人だわ、いくらか、死んだクチュールのタイプかもしれない、ぶっきらぼうだけど人が善くて、気難しいけど、いいことを言ってくれる」
 ちょうどこの時、ヴォートランが至極上機嫌で入ってきた。そしてランプの光が柔らかに照らす二人の子供によって構成された絵の様な光景を目にした。
「よーし」彼は腕を組みながら言った。「そうら“ポールとヴィルジニー”[84]を書いたあの善良なベルナダン・ド・サンピエールの美しい頁によって鼓舞されたのか、ともかく、ここにそういった場面が展開している。若さとは実に美しいもんですな、クチュール夫人」彼はウージェーヌをじっと見つめながら言った。「ねえ君、眠るんだ。果報は寝て待てだ。奥さん」彼は寡婦の方に向いて言った。「私がこの若者に惹かれ、私が感動するのは、彼の魂の美しさが彼の姿の美しさとよく調和しているからなんですよ。見て下さい、天使ケルビム[85]が、こちらの天使の肩の上に休んでいるんじゃないですか? 彼は愛されるに相応しい、天使ケルビムです! もしも私が女だったら、私は死んでもいい、いや、そんな馬鹿は嫌だ! 彼のために生きたい。こんな風に彼のことを褒め称えていると、奥さん」彼は声を低くして寡婦の耳許にかがみこみながら言った。「私は神様が彼等をお互いに惹かれあうようにお作りになったんだと、どうしても考えてしまうんですよ。神は上手く隠された方法を知っておられる。神は腎臓や心臓まで検査される」彼は声を高くして叫んだ。「あなた達が一緒になっているのを見ていると、ねえ君達、同じ純粋さと総ての人間的感情によって結ばれているのを見ると、君達が仮にも将来離れ離れになることなどあり得ないと、私は思うんだ。神は正しい。だが」彼は若い娘の方に向かって言った。「私には、どうも貴女の手に繁栄の筋を見たような気がするんだ。私に貴女の手を見させてもらえませんか、ヴィクトリーヌ嬢? 私は手相占いが出来るんだ。私は何度か意外な出来事を言い当てたことがある。さあ、心配は要らない。おー! 何というものを見てしまったんだろう。誠実な男として誓ってもいい、貴女は間もなく、パリで一番の富裕な相続人となる。貴女は貴女が愛する人を幸福で満たすことになるだろう。貴女のお父さんは貴女を自分の傍らへ呼び寄せるだろう。貴女は爵位を持った、若くて美しい、そして貴方に夢中の男と結婚する」
 この時、めかしこんだ寡婦が降りてくる重々しい足音がして、ヴォートランの予言を遮った。
「おや、ヴォーケ・ママだ。星のように綺麗で、人参のように紐で締め回しておられる。それじゃあ息苦しくありませんか?」彼はコルセットの上部へ手を回しながら彼女に言った。「胸の脂肪が大分圧迫されてますな、ママさん。その圧迫で涙されるようなら、そこには感情の爆発がありましょう。しかし、私は骨董屋のように注意深く残骸を拾い集めてあげますよ」
「彼はフランス的な慇懃な言葉を心得ているよ、今さっきのがまさにそれ!」寡婦はクチュール夫人の耳許にかがみこんで言った。
「おやすみ、子供達」ヴォートランはウージェーヌとヴィクトリーヌの方を振り向いて言った。「私は君達のために神の加護を祈る」彼は手を彼等の頭の上に置きながら言った。「本当ですよ、お嬢さん、真正直な男の望むことはそれなりに意味があって、幸運をもたらしてくれるに違いないんだ、神様はお聞き届けになっている」
「おやすみなさい、親愛なる皆様」ヴォーケ夫人が下宿人達に言った。「貴方、信じる」彼女は低い声で付け加えた。「ヴォートランさんがこのあたしのことで何か意向をお持ちだってこと?」
「ふうん! へー!」
「あー! ねえお母さん」ヴィクトリーヌが溜息まじりに自分の手を見ながら言った。「私達が二人だけでいた時、あの真正直なヴォートランさんが本当のことを言ったんです!」
「彼が予言でもしたの? ある事が起こればそれは当たる仕掛けなのよ」老婦人が答えた。「あなたのあの人でなしの兄弟が馬から落ちればいいだけなのよ」
「あー! 母さん」
「ええ! 恐らく敵の不幸を願うことは罪なことだわね」老婦人は続けた。「さてさて、私なら、それに対しては贖罪をしますね。本当に私は心から彼の落馬を悼んで、お花を送りたいと思ってるわ。まあひどい兄弟だったけれどね! 彼は彼の母のために何か尽くしてやることなんてなかった。そのくせ彼は策略をめぐらせて、貴女には母の遺産が全然回されないように自分に都合よく遺産を管理しているのよ。私の従姉はとても立派な財産を持っています。貴女にとって不運なことに、彼は決して契約書の中で彼の財産を提供しようなんてことは考えたこともなかったの」
「私に幸運をもたらすためには誰かが命を落とさなければならないんだったら、それはかえって辛いことだわ」ヴィクトリーヌが言った。「そして幸福になるためには私の兄弟が死ななければならないんだったら、私はむしろこのままここにいる方がましです」
「まあ! あの善良なヴォートランさんが言われるんだから、ね、あなた彼をよく知ってるわよね、信仰心があつくて」クチュール夫人が言った。「私は嬉しいことに最近知ったんだけど、彼は他の人達のように神を信じないっていうんじゃないの。ほかの連中ときたら、神様の話をするにも、まるで悪魔のことを話すのと変わらないくらい、これっぽっちの尊敬の念も込めてないんですからね。それで、どんな声が我々を導いたら神様は気に入って下さるのでしょう、それを誰が知ることが出来るでしょうか?」
 シルヴィに助けてもらって、二人の女はウージェーヌを彼の部屋に運び上げ、ベッドに寝かせた。料理女が彼を楽にするために服を緩めてやった。部屋を出てゆく前に、保護者夫人がこちらに背中を向けていた時、ヴィクトリーヌは犯罪的盗みが彼女にもたらすに違いない幸運の総てを捧げるような気持ちでウージェーヌの額にキスをした。彼女は戻ってきて自分の部屋を眺めた。この数日の幸せを総て集めて、いわば唯一の考えにたどり着いた。それを彼女が長い間じっと見つめてきた絵にした。そしてパリで一番幸せな少女となって眠りについた。ヴォートランはウージェーヌとゴリオ爺さんに麻酔薬の混じったワインを飲ませたが、その供応をしているうちに件の男を亡き者にしてしまおうと心に決めた。ビアンションは半ばほろ酔い加減だったので、ミショノー嬢に“不死身”について訊くのを忘れてしまった。もし彼がこの名前を言っていたら、彼は間違いなくヴォートラン、あるいは彼の本名で言えば徒刑囚の間で最も知られた名前の一つであるジャック・コランの注意力を喚起したに違いない。更に言えば、ミショノー嬢がコランの商取引の公正さに信頼を寄せながらも、彼に危機を予告し夜中に逃走させることがより良い選択であるかどうかを考えた時、彼が彼女を“ペールラシェーズのヴィーナス”と渾名したことが、ミショノー嬢に徒刑囚を売り渡すことを決意させた。彼女はポワレに付き添われて、例の警視庁の男に会うために宴席を抜けてきた。そこはサンタンヌという小路だった。彼女の頭の中では取引する相手はまだゴンデュローという名の高官だった。実際は警視庁課長の彼は彼女を慇懃に迎えた。それから、総てを明確にするための会話が一通り済んだ後、ミショノー嬢は徒刑囚の刻印を判別するために必要な水薬を要求した。サンタンヌ小路の偉大な男は満足そうな身振りをして、彼の事務所机の引き出しの中で小瓶を探した。今まさに警察が一人の男を捕らえようとしているのだが、彼を捕らえる事は単に徒刑囚を捕らえるよりも遥かに重要な意味を含んでいることをミショノー嬢は見抜いた。一生懸命に脳みそを絞ったお陰で、彼女は警察が徒刑囚の裏切り者によってなされた何らかの情報によって、かなり重要な価値のあるものについに手をかける時が迫っていることに期待を寄せているのではないかとの疑いを持った。彼女が彼女の憶測をこの古狸に説明し終わった時、彼は微笑を浮かべ、ハイミスの疑いの方向を変えようとし始めた。
「貴女は間違っています」彼は答えた。「コランは泥棒仲間でかつて存在した中の最も危険なソルボンヌなのです。ただそれだけのことです。仲間の連中はそれをよくわきまえてます。彼は彼等の旗であり支えであり、ついには彼等のボナパルトなのです。彼等はひたすら彼を愛しています。この不思議な人物は、事件の現場に決して自分のトロンシュを残しておきません」
 ミショノー嬢は理解出来なかった。ゴンデュローは彼女に、彼が使った隠語のうちから二語について説明を加えた。ソルボンヌとトロンシュは泥棒独自の効果的な言語表現の中の代表的な二語である。泥棒達、その先達は人間の頭脳を二つの側面から考慮する必要があると感じた。ソルボンヌは活動している人間の頭脳であり指針であり思考でもある。一方、トロンシュは軽蔑語で、頭が切り落とされると、それは如何に無意味なものになってしまうかを説明する意図を含んでいる。
「コランは我々をもてあそんでいます」彼は更に続けて言った。「もしも我々が彼等に遭遇して、彼等がイギリス式に焼きを入れた鋼鉄棒のごとき不撓不屈の連中であるとすれば、彼等を捕らえる際、彼等がちょっとでも反抗を試みるようなら、それは我々にとっては、彼等を殺すための方便になるんです。我々は明日の朝コランを殺すためのある方策を立てています。我々はこれによって、訴訟、警備費用、食費を節約出来る。そしてそのことが社会を浄化するのです。更に言えば、訴訟手続き、証人の召喚、彼等のための手当て、処刑、これ等の事は、我々の社会からあのやくざ者を法的に取り除くための手続きですが、それらをひっくるめると、あなたが手にするであろうところの千エキュを遥かに超える費用がかかるんです。これは時間の節約にもなるんです。“不死身”の太鼓腹に銃剣の見事な突きをくれてやれば、我々は百件くらいの犯罪を防げるし、今にも軽犯罪を犯しそうな小悪党五十人くらいは思いとどまらせることも出来るでしょう。ほらね、警察もよく働いてるでしょう。本物の博愛主義者に言わせると、今話したようなやり方が犯罪を未然に防ぐ唯一の方法なんだそうですよ」
「しかし、それはお国のために、そのように働いてるんでしょう」ポワレが言った。
「さあどうですか」警官が答えた。「貴方は今晩、思慮分別のあることをおっしゃってる。そうです、勿論我々は国のために働いています。それにしては世間は我々に対して結構不公平なんではありませんかな。我々は社会に対して、ずいぶんと知られない大きな仕事をして、お返ししてきたんです。結局、偏見に左右されないのは、非常に優れた人と、ありきたりの思想に染まっていなくて運不運は代わる代わる自分の後からついてくるものと悟っているクリスチャンだけなのでしょうね。パリはパリなのです、お分かりですか? この言葉が私の人生を語ってくれます。さて今日のところは、マドムワゼル、これでお別れしましょう。私は明日、私の部下と一緒に植物園に行っています。クリストフをビュフォン通のゴンデュローの家に差し向けてください。私がいたあの家です。ご主人、私は貴方の御用を伺います。例え貴方がこれまで一度も物を盗まれたことがなくても、貴方が何かを取り戻そうという時は、私に言ってください。私は貴方のお役に立ちます」
「うーん、そうだな!」ポワレはミショノー嬢に言った。「こういう警察の言葉を何か分かりにくくしてしまう馬鹿は多いだろ。でも、この方はとても親切だから、彼が貴女に求めてるのは、まるでボンジュールって言うくらいの簡単なことだよ」

 翌日はメゾン・ヴォーケの歴史の中で途方もない重大な一日として記憶されることになった。その日まで、この穏やかな日々の中で一番目立った出来事といえば、ランベルムスニルという偽伯爵夫人の流星のような出現だった。しかし総てのことはこの偉大な日に起こった大事件の前に色褪せてしまい、その大事件は以後、ヴォーケ夫人の会話における永遠のテーマとなった。まず第一にゴリオとウージェーヌ・ド・ラスチニャックは十一時まで寝ていた。ヴォーケ夫人はゲテ座[86]から真夜中に帰ってきて、翌朝は十時半までベッドの中にいた。クリストフはヴォートランに勧められてワインを飲み干したが、お陰でこの館の今朝の用意はすっかり遅れてしまった。ポワレとミショノー嬢は朝食が遅れたことについて別に不平も言わなかった。ヴィクトリーヌとクチュール夫人について言えば、二人ともたっぷりと朝寝坊をしていた。ヴォートランは八時前に出かけて、ちょうど朝食が始まった時に帰ってきた。そんなわけで、十一時十五分頃にシルヴィとクリストフが朝食の用意が出来たことを告げるために皆の戸を叩いた時、誰も文句を言う者はいなかった。シルヴィと下僕が席を空けていた時、ミショノー嬢が真っ先に降りてきて、ヴォートランのものである銀製の柄付きコップにリキュールを注ぎ入れた。実はそのコップにはヴォートランのコーヒーに入れるクリームが入っていて、他の食器と一緒に湯煎鍋で暖めて置いてあったのだ。ハイミスは彼女の企みを成し遂げるために、この下宿館の台所の習慣を計算に入れていた。七人の下宿人はなかなか集まっては来なかった。ウージェーヌが伸びをしながら皆の最後になって降りてきた時、走り使いの男が彼にニュシンゲン夫人からの手紙を渡した。その手紙には次のような文が書かれていた。
 〈友よ、私は誤った虚栄心も怒りも、貴方に対して持っていません。私は夜中の二時まで貴方をお待ちしておりました。愛する人をお待ちする! こんな刑罰は誰だってもう沢山だと思うことでしょう。私は貴方が初めて本当に愛したのは私だということを存じております。それなのに一体何が起こったんですか? 不安が私を虜にしました。私は私の胸のうちを洗いざらい晒してしまうのが怖かったの、そうでなければ、貴方に起こった幸運だか不運だかを確かめるために貴方の許へ駆けつけてしまっていたでしょう。でも、あんな時間に出掛けるなんて、徒歩であれ馬車であれ、それは気の確かな女に出来ることでしょうか? 私は女であることを不幸だと感じています。私にはっきりとおっしゃって説明して下さい。何故貴方が来られなかったのかを、貴方が父にあの様にお話された後で。私は自分に嫌気してます。でも私は貴方のことは許します。貴方は病気なんですか? 何故離れたままでいるんですか? 優しい言葉を言って下さい。もう直ぐ会えるんでしょ? 貴方が忙しいのなら、一言だけ下されば十分です。言って下さい。直ぐ行くとか、気分が悪いとか。でも、もし貴方の体調が悪いんだったら、父がその事を言いに来るはずなんだけど! 彼は一体どうなっているのかしら?〉
「そうだ、彼はどうなってるんだ?」ウージェーヌはそう叫んで、手紙は読みさしのまま皺くちゃにして、食堂へ飛んでいった。「何時なんだ?」
「十一時半だよ」ヴォートランがコーヒーに砂糖を入れながら言った。
 脱獄囚はウージェーヌに冷たく射すくめるような視線を投げかけた。ある種の卓抜して幻惑的な人間のみが放つことの出来る天賦の才であり、そうした人間は精神病院で凶暴な狂人すらおとなしくさせるといわれている。ウージェーヌの手足が全部震えた。駅馬車の音が道路から聞こえて、タイユフェール家のお仕着せを着た従僕が直ぐにクチュール夫人を認めると、ひどく狼狽した様子で館内に飛び込んできた。
「お嬢様」彼が叫んだ。「貴女の父上が貴女をお呼びです。大変な不幸があったんです。フレデリック様が決闘で倒されたのです。彼は額を剣で刺され、医者は彼を救う事は絶望的だと言っています。彼と最後の別れをするため、何とか時間を割いて下さい。他には彼の知り合いはいないのです」
「若いのに気の毒な!」ヴォートランが叫んだ。「何だって三万フランも年金がある男が、喧嘩なんてやるんだろうなあ? これは間違いなく若気の至りというやつだ」
「貴方!」ウージェーヌが彼に向かって叫んだ。
「おや! 何だね、お偉い坊や?」ヴォートランは彼のコーヒーを静かに飲み終えようとしながら言った。ミショノー嬢が細心の注意を払いながら目で追っている薬の効き目は、やがて誰もがあっと言うような途轍もない出来事を引き起こそうとしていた。「パリでは今朝、決闘があったんじゃないのかね?」
「私が貴女について行きます、ヴィクトリーヌ」クチュール夫人が言った。
 そして二人の女はショールも帽子もなしで急に立ち上がった。立ち去る前に、ヴィクトリーヌは目に涙を浮かべてウージェーヌを見たが、その目はこう語っていた。『私は私達の幸せが涙と引き換えになろうとは考えていませんでした!』
「へえー! こうなると貴方って予言者じゃない、ヴォートランさん?」ヴォーケ夫人が言った。
「そうさ私は何にでもなれるよ」ジャック・コランが言った。
「とにかく奇妙なことばかりね!」ヴォーケ夫人はこの事件についてであろうか、瑣末なことをとりとめもなく喋りだした。「死は予告もなくあたし達を襲うのね、そして、若者達がしばしば老人達より先にこの世を去ってしまう。でも、あたし達は幸せです、このあたし達、女というのは、決闘なんて関係ないし……だけど、あたし達はそれとは別に女としての病とでもいうものを抱えています。それは男が罹らない病です。あたし達は子供を生みます。そして母親という苦労が長いんです! ヴィクトリーヌは何て幸運なんでしょう! 彼女の父は彼女を養子にせざるを得なくなったんだわ」
「ほらみろ!」ヴォートランがウージェーヌを見ながら言った。「昨日彼女は一文無しだった。今朝彼女は何百万というお金持ちだ」
「それじゃ言って下さいよ、ウージェーヌさん」ヴォーケ夫人が叫んだ。「貴方は良い結婚相手を見つけられたのね」
 この釈明要求に、ゴリオ爺さんは学生を見て、その手にくしゃくしゃになった手紙が握られているのに気がついた。
「貴方はまだ放っていたんですか! これは一体どういうことですか? 貴方も他の連中と変わらないんですか?」爺さんが彼に問い質した。
「奥さん、私はヴィクトリーヌ嬢とは決して結婚しません」ウージェーヌがヴォーケ夫人に向かって、恐れと嫌悪の感情を示しながら言ったので、彼の援護者も驚いてしまった。
 ゴリオ爺さんは学生の手をつかむとそれを握り締めた。彼はそれにキスしようとさえした。
「おーおー!」ヴォートランが言った。「イタリアには良いことわざがある。時の経つに連れて!」
「貴方のご返事を待ってますよ」ニュシンゲン夫人の代理人がラスチニャックに言った。
「私は行くとお伝え下さい」
 代理人は立ち去った。ウージェーヌは激しい苛立ちの中にいたので、用心深く振舞うことが出来なかった。「どうしたらいいんだ?」彼は独り言の積りが、大きな声で喋っていた。「何の証拠もない!」
 ヴォートランは微笑をもらし始めた。この時、例の水薬が胃に吸収され効き始めていた。
しかし、この脱獄囚は非常に頑丈だったので立ち上がって、ラスチニャックを見た。そして虚ろな声で言った。「若者よ、果報は寝て待て」
 次の瞬間、彼はその場に倒れ息絶えていた。
「これは一体、神の裁きなのか」ウージェーヌが言った。
「うわっ! 一体彼はどうしたんだ、この気の毒なヴォートランさん?」
「卒中だわ」ミショノー嬢が叫んだ。
「シルヴィ、お行き、あんた、医者を探しに行っといで」寡婦が言った。「あー! ラスチニャックさん、急いでね、ビアンションさんのところへひとっ走りして下さいな。シルヴィはあたしのかかりつけ医のグランレルさんをつかまえられないかもしれないからね」
 ラスチニャックはこのぞっとするような洞窟から離れる口実が出来たので、喜んで走って逃れ出た。
「クリストフ、さあ、薬屋に走って、何か卒中に効くものをもらっといで」
 クリストフが出て行った。
「さて、ゴリオ爺さん、彼を階上の彼の部屋に運び上げるのを手伝ってくれません?」
 ヴォートランは抱えられ何とか階段を通って彼のベッドに寝かされた。
「私がいても貴女の役に立たない。私は娘に会いに行く」ゴリオ氏が言った。
「老いぼれのエゴイスト!」ヴォーケ夫人が叫んだ。「行っちまいな、あたしはあんたが犬ころみたいに死んじまうように祈るよ」
「あの、エーテルがあるかどうか見てもらえませんか」ヴォーケ夫人にミショノー嬢が言った。彼女はポワレに手伝ってもらって、ヴォートランの服を脱がしたところだった。
 ヴォーケ夫人は自分の部屋に降りていったので、ミショノー嬢はそのまま階上の修羅場を支配し続けることになった。
「さあ、それじゃ彼のシャツを脱がして、早くうつ伏せにして! ちょっとは上手くやってよ、私に嫌な裸なんか見させないで、ポワレ、貴方ってまだ赤ん坊みたいに何も出来ない人ね」
ヴォートランはうつ伏せにされた。ミショノー嬢は病人の肩に強い平手打ちを加えた。そうすると、赤く染まったところに二つの決定的な文字が白く浮き出てきた。
「やった、貴女って実に素早く三千フランの特別手当をものにしちまったなあ」ポワレはヴォートランの体を起こしながら叫んだ。その間、ミショノー嬢は彼のシャツを着せていた。「わっ! 彼は重い」ポワレはヴォートランをまた寝かしながら言った。
「黙って。金庫って、あったかしら?」ハイミスは快活に言ったが、その目は壁を突き通すように見つめていた。一方で彼女は激しい渇望を抱きつつ室内のどんな家具も調べつくした。「誰かがこの事務机を開けるとしたら、何らかの口実がいるわね?」彼女が言った。
「それは恐らくまずいだろうな」ポワレが答えた。
「いいえ。盗まれた金よ、皆のものなのよ、もう誰かのものじゃないのよ。でも、もう時間がない」彼女が言った。「ヴォーケの声が聞こえるわ」
「ほら、エーテルよ」ヴォーケ夫人が言った。「まあ言うなれば、大事件の日といえば、それは今日ということになるわね。神様! あそこにいる人は病気になんてならない人です。彼は雛鳥のように無垢なんです」
「雛鳥のように?」ポワレが繰り返した。
「彼の胸はいつもどきどき弾んでいるんです」寡婦はそう言うと、彼の胸の上に自分の手を置いた。
「いつも?」ポワレが驚いて言った。
「彼はとても素敵です」
「貴女そう思う?」ポワレが尋ねた。
「勿論さ! 彼はどうやら眠ってるようだね。シルヴィが医者を探しにいってるよ。ちょっと、ミショノーさん、彼、エーテルをくんくん吸ってるよ! ふうん! 痙攣なのね。脈は大丈夫ね。彼はとても力が強いからね。ほら見て、貴女、お腹の上のうぶげよ。彼、百歳まで生きそうね、この人だけはね! にもかかわらず、彼の鬘はいい具合ね。ほら、ぴったりくっついてるわ。彼はヘアピースもしてるのね。これは彼が赤ら顔だからでしょ。よく言われるけど、赤ら顔の人って、すごくいい人かすごく悪い人か、らしいわ! 彼は勿論いい方よ、どお?」
「いいね、首吊りには」ポワレが言った。
「貴方って人は、可愛い女の人の綺麗なうなじのことを考えてるんでしょ」ミショノー嬢が活き活きとした声で叫んだ。「貴方は、じゃあ、行きなさい、ポワレさん。これは私達がやること、私達女がね。貴方が病気になったら、看てあげるからね、それに、貴方のためになることといえば、あなたはよく散歩することだわ」彼女は更に付け加えた。「ヴォーケ夫人と私は、私達はこの親愛なるヴォートランさんをしっかりとお守りするわ」
 ポワレは静かに不平も言わずに、まるで主人に蹴りを食らった犬のように立ち去った。ラスチニャックは歩いて新鮮な空気を吸いたくてまだ戸外にいた。彼は窒息しそうになっていた。この犯罪は時間を限定して行われていた。彼は出来ることならヴォートランの目覚めを妨げたい気持ちだった。彼はどうなってるだろう? 彼は何をするんだろう? ラスチニャックは共犯者であることに震えた。ヴォートランの冷静さは彼をいっそう不安にした。
「それにしても、ヴォートランが何も言わないまま死んでしまうとすれば?」ラスチニャックは思った。
 彼はリュクサンブールの小道を横切っていった。彼はまるで猟犬の群れに追い詰められているような、そして犬達の吼え声が聞こえるような気がした。
「おーい!」ビアンションが彼に声をかけた。「君はル・ピロットを読んだかい?」
 ル・ピロットは急進的な新聞でティソ氏が編集していたが、これは地方向けに朝刊の数時間後に、今日のニュースをのせた版を出すことにより、地方県において他の新聞よりも二十四時間先んじてニュースを提供していたわけである。
「例の話のことが分かったぞ」コシン病院のインターンが言った。「タイユフェールの息子は古い衛兵のフランシュシーニ伯爵との決闘でやられたんだ。伯爵は彼の額を五.四センチも突き刺したんだ。そして我等のヴィクトリーヌが、パリで一番金持ちの結婚相手になったというわけだ。だろう! 分かってたらなあ? 片方が死んじゃうとは、丁半博打にしたってひどすぎるぜ! それでヴィクトリーヌが君を好意的な目で見ていたっていうのは本当かい、君?」
「黙ってて、ビアンション、僕は彼女とは決して結婚しない。僕には、とても魅力的な女性がいて愛している。彼女にも愛されている。僕は……」
「君がそう言うのは、まるで不実であるのを避けるために一生懸命無駄な努力をしているように見えるんだ。それじゃ、僕にそのタイユフェールとかの財産をふいにしてもいいほどの女性を見せてくれよ」
「悪魔が全部、この僕に付きまとってると言うのかい?」ラスチニャックは叫んだ。
「それじゃ一体誰に付きまとってるんだ? 君はどうかしちゃったのか? ちょっと手を出してごらん」ビアンションが言った。「僕が君の脈をとってやる。君は熱があるぞ」
「じゃあ、ヴォーケの母ちゃんのところへ行こう」ウージェーヌが彼に言った。「あの悪党のヴォートランが倒れて死にそうになってるんだよ」
「あー!」ビアンションはラスチニャックから飛びすさって言った。「君は僕が確認に行きたいと思っていた疑念が根拠のあるものだということを明確にした」
 法学部学生の長い散歩は厳粛だった。彼はある意味で、自分の良心の点検をしていた。彼は動揺し自己を省みた、そして躊躇もした、しかし、彼の誠意はあらゆる試練に耐え抜いた鉄棒のごとく、この不快で恐ろしい内面的討論の末に導き出されたのだった。彼は前日ゴリオ爺さんが彼に告げた秘密を思い出した。彼は彼のために選ばれたダルトワ通のアパルトマンを思い出した、その直ぐ近くにデルフィーヌは住んでいるのだ。彼は彼女からの手紙を取り出し、読み直し、それにキスをした。「今となってはこの愛が僕の頼みの綱だ」彼はそう思った。「この哀れな老人は精神的にずいぶん痛めつけられている。彼は自分の悲しみについては何も言わない。しかし、それを見抜けない者などいるものか! ところで! 僕は彼から父親としての気遣いを受けることになるだろう。僕の方も彼に千もの喜びを返せるだろう。もし彼女が僕を愛してくれたら、彼女はしばしば僕のところへ来て一日中彼の近くで過ごすことになるだろう。あの尊大なレストー伯爵夫人が全くむかつく存在だが彼女なら、父親に守衛のような役をやらせるところだろうな。可愛いデルフィーヌ! 彼女は爺さんにとって一番のお気に入りになるだろうな、勿論彼女はそれだけ愛されるに相応しいんだから。あー! 今晩、僕は何て幸せなんだろう!」彼は時計を取り出し、改めてそれに見とれてしまった。「僕は何もかも上手くいってる! もし僕達がいつも互いに愛し続けることが出来るんだったら、僕たちはお互いに助け合ってゆける。僕はこの考えを受け入れることが出来る。まず第一に僕はそこに辿り着けるだろう。そして絶対に何もかも百倍にして返してやる。それらの関係の中では、犯罪もないし、最も厳しい道徳家の眉をすらひそめさせるようなことは何もない。このような結合をやりおおせる真正直な人間が世の中に何人いると言えるだろうか! 僕達は人を騙さない。僕達を堕落させるものといえば、それは嘘だ。嘘をつくってことは、それは退場することではないのか? 彼女は夫と離れ離れになって久しい。まず最初に僕は彼に言おう、僕自身の口で、あのアルザス人に、彼が再び幸福にしてやることが不可能となったあの女性を僕に譲るように頼むんだ」
 ラスチニャックの心の葛藤は長く続いた。勝利は若者らしい道徳の上に留まるべきであったが、それに反して、彼は抗し難い好奇心でもって引き寄せられるように、そろそろ夜のとばりも下りようという四時半頃に、この下宿は永久に立ち去るのだと彼自身が決意したところだったあのメゾン・ヴォーケのあたりに戻ってきた。彼はヴォートランが死んだのかどうかを知りたいと思っていた。ヴォートランに吐剤を投与する考えをとったビアンションは、ヴォートランが戻したものを自分の所属病院へ送った。それを化学分析にするためだった。ミショノー嬢がそれを捨てるように執拗に望んでいた事は彼のかねてからの疑いを強固なものとした。それに、ヴォートランが余りにも早く回復したので、ビアンションは下宿内で陽気に座をにぎわしていた男に対して何らかの謀議が企てられたのではないかと疑わざるを得なかった。ラスチニャックが帰った時、ヴォートランはもう回復して食堂の暖炉のそばにいた。タイユフェールの息子の決闘のニュースによって、いつもより早く集まってきた下宿人達は事件の詳細と事件がヴィクトリーヌの上に及ぼす影響を知りたくて興味津々で、ゴリオ爺さん以外の皆が再び集まり、この大事件について談笑していた。ウージェーヌが入っていった時、彼の目が平然としたヴォートランの目と出会った。その目は先に彼の心に入り込み、そこで何らかの悪しき琴線を強く弾いたので、彼はそれに対しておののいた。
「これはこれは! お兄さん」脱走中の徒刑囚が言った。「死神は私についてはずっと時期を間違っているんだ。私はあの婦人のお陰で脳出血に打ち勝って生き延びた。この発作は牡牛でも殺してしまうほどのものなんだ」
「あー! 貴方はもう牡牛のように元気に話せるのね」ヴォーケ夫人が叫んだ。
「あんたは私が生きているのを見て残念なんじゃないのか?」ヴォートランはラスチニャックの耳にささやいた。彼はラスチニャックが『この男は何とまあ強いんだ!』と考えてたまげていることを見抜いていた。
「ああ、確かに!」ビアンションが言った。「ミショノーさんが一昨日、不死身っていう渾名の人のことを話してましたね。その名前なんて貴方にぴったりですよ」
 この言葉はヴォートランに雷のような衝撃を与えた。彼は青ざめてよろめいた。彼の磁気を帯びた眼差しが太陽光線のようにミショノー嬢の上に注がれた。この意志の塊のような視線は彼女のひかがみを砕いた。ハイミスは椅子に沈み込んだままでいた。ポワレは彼女とヴォートランの間に立つように素早く前に出てきた。彼女が危機に陥っているのを理解してのことだったが、それは穏やかな仮面の下に隠されていた本性を現した徒刑囚の姿が冷酷無慈悲なものとなったからであった。このドラマの意味するものをまだ何一つ理解していない下宿人達は皆ただびっくりしているばかりだった。この時、人々は何人かの人の足音と兵士が歩道上で響かせる小銃のような物音を聞いた。コランが機械的に窓や壁を見ながら逃げ道を探していたその時、四人の男が広間の入り口に現れた。先頭の男は警視庁課長だった。後の三人は公安局吏員だった。
「法と国王の名において」吏員の一人が言ったが、彼の言葉は驚きのざわめきによってかき消されてしまった。
 やがて静寂が食堂を支配した。下宿人達はこの三人の男に道を開けるために二つに分かれた。三人はいずれも手を脇ポケットに突っ込み、武装用ピストルをしっかり保持していた。憲兵が二人、警官の後に続き広間の出入り口を固め、更に二人の憲兵が現れ、階段へ続く出口を固めた。幾人もの兵士の足音と小銃の音が建物正面に沿った石畳の道にこだましていた。したがって、不死身が逃亡し終せる希望は総て断たれた。誰もが抑えがたい好奇心の目を彼に注いでいた。警視が彼の正面に歩み寄り、頭に荒々しい平手打ちを食わせたので、それは鬘をふっ飛ばし、彼の頭は恐ろしいジャック・コランの頭にすっかり戻ってしまった。れんが色の赤毛で短い髪は、力が悪知恵と混じり合った恐ろしい性格を印象づけ、この頭とこの顔は分厚い胸と釣り合って、あたかも地獄の炎がそれらを照らすかのように煌々と映し出されていた。誰もがヴォートランの全貌を理解した。彼の過去、彼の現在、彼の未来、彼の仮借なき原理、彼の快楽信仰、その思想が彼に反世間的態度を与えたところの闇の王国、彼の行動、あらゆる場面で示された組織力。彼の顔に血が上って目は野性の猫の目のように輝いていた。彼はとても獰猛なエネルギーが現れた動作で飛び上がり、大声で喚き散らしたので、下宿人達は皆恐怖の叫び声をあげた。このライオンの動作と広がった叫び声に応じて、警官達はピストルを取り出した。コランは各軍隊の犬が光に照らされているのを見て危険を察知した。彼は突然、人間としては考えられないような途轍もない力を示したのだった。恐るべき魔術的な光景だった! 彼の顔つきがある現象を呈したのだ。それはあのくすぶった蒸気で満ちた窯、時には山をも持ち上げ、また巨大な氷山もあっという間に溶かしてしまうという、あの湯気の立つ蒸気で満ち溢れた窯以外比べようもないものだった。彼の怒りを冷ました一滴の水は、稲妻のように一瞬ひらめいた思考だった。彼は微笑を浮かべると、自分の鬘に目をやった。
「君が今日来るとは聞いていなかったよ」彼は警視庁課長に言った。そして彼は憲兵に頭で合図しながら手を差し出した。「憲兵殿、私に手錠でも鎖でもかけて下さい。私はここにおられる人達に私が抵抗しなかったことの証人になってもらいます」この火山のような男から噴出して、また元に収まった溶岩と炎、その素早い変化に感嘆の声が上がり広間に響いた。「こいつは君の大手柄だな、お巡りさん」徒刑囚は有名な警視庁課長を見つめながら言った。
「さあ、いいから、服を脱ぐんだ」彼に向かって、サンタンヌ小路の住人が軽蔑感をいっぱいこめて言った。
「何故ですか?」コランが尋ねた。「婦人方もおいでです。私は何も否認しないし、降参しています」
 彼は一呼吸おいて、集まった人々を見つめた。雄弁家がまさにこれから驚くべきことを語ろうとしているかのようだった。
「書き取ってくださいね、ラシャペル・パパ」彼は白髪の小柄な老人に向かって言った。その老人は書類入れから逮捕者の調書を取り出して、テーブルの端に坐っていたのだった。「私はジャック・コランであることを認めます」不死身が言った。「二十年の禁固刑を言い渡されています。そして、私の渾名は盗んだものでないことは、たった今証明したところです。もし私が手を挙げて抵抗していたら」彼は下宿人達に向かって言った。「ここにいる三人のポリ公は、ヴォーケ・ママの家の床の上に私の血を撒き散らして汚してしまうところだったんです。この愚か者達はくっつきあって私に罠をかけました」
 ヴォーケ夫人はこの言葉を聞いて気分が悪くなった。「何てことだい! 口惜しいじゃない。あたしとしたことが、昨日は彼と一緒で幸せな気分に浸っていたなんて」彼女はシルヴィに言った。
「人生哲学的には、ママさんよ」コランが追っかけて言った。「昨日、ゲテ座の私のボックス席に行ったってことをそんなに不運だと思うんですかね?」彼は叫んだ。「貴女は我々よりもマシなんですか? 貴女の心の中にあるよりも、私達が背負っている汚濁の方がまだ綺麗なくらいですよ。貴女は腐敗した社会の無気力なメンバーに過ぎないんですよ。貴女達の中の最高の人間でも、この私には対抗出来ません」彼の目はラスチニャックの上に止まった。コランは彼に優しい微笑を送ったが、それは彼の粗暴な外観とは奇妙な対照をなしていた。
「我々のささやかな契約はまだ生きてるよ、私の天使、君が受けてさえくれたならな! 今だってな! この歌知ってるかい?」彼は歌った。
私のファンシェットはチャーミング
彼女が素直でいる限り
「大丈夫だよ」彼は続けた。「私の取り分は取り戻すさ。怖くて、この私の分をちょろまかすなんて、誰にも出来ないんだ」
 徒刑囚は今、自ら語りかけて、その言行、陽気さから恐怖への急激な変化、途轍もない残忍さ、人懐っこさ、下劣さを突如露わにした。そしてこの男は、一人の人間に過ぎないが、ある種の堕落した国家、または、野蛮でいて論理的、粗野でいてしなやかな民衆の総ての典型を併せ持っていたのだった。一瞬にしてコランは地獄の詩となり、そこには人間らしい感情が溢れ出していた。ただし後悔の念は一切含まれていなかった。彼の眼差しは常に闘いを好みながら失墜した大天使のそれだった。ラスチニャックは彼自身の邪悪な考えを償うかのように、自身が罪に加担していることを認めて、目を伏せていた。
「誰が私を密告したんだ?」コランは恐ろしい目を集まった人達の上に這わせながら言った。そして彼はミショノー嬢の上で目を止めた。「あんただ」彼女に向かって彼が言った。「老いぼれ婆、あんたが私を脳出血にしたんだな。どうやったのか知らんが! 一言で言えば、私は一週間後の今日にでも、あんたの首を鋸で挽くことだって出来る。だが私はあんたを許してやる、クリスチャンだからな。それに、私を売ったやつはあんたじゃない。じゃ誰だ?」彼は司法警察の吏員が彼の洋服箪笥を開け、彼の財産を押収している音を聞きつけて叫んだ。「鳥の巣をやっと見つけた。が、肝心の鳥は昨日飛び立っていたってことだ。私の部屋からは何も見つからんよ。私の商売の種はここなんだ」彼はそう言って、自分の額を叩いた。「私を売ったのは誰か、今、分かったよ。そいつは恐らく詐欺師の“絹糸”だな、だろ? とっつかまえ屋の爺さん?」彼は警視庁課長に言った。「私の部屋の札束は、お暇して出ていったとこだよ。今頃探し回るとはタイミングが良過ぎるくらいだな。からっきしないよスパイ君。ところで“絹糸”だったら、貴方が憲兵隊総がかりでやつを守ろうとしても、十五日以内にやつは墓の中だ。このミショノー嬢ちゃんに貴方は何をあげたんですか?」彼は警察官に尋ねた。「何千エキュもですか? 私はそれ以上に値打ちがありますよ、虫歯のニノン、ボロ着のポンパドール、ペールラシェーズのヴィーナス[87]。もし、あんたが私に前もって知らせてくれていたら、あんたには六千フランやったんだが。あー! あんたはそれは疑うことなかったんだ、年取った肉屋さん、疑ったりしなければ、あんたをひいきしてたのに。そうさ、私はあの不愉快で私をすってんてんにするだけであろう旅を逃れるためには、私はあんたに何だってくれてやったさ」彼は手錠を掛けられながら言った。「あそこの連中はこれから私を引っ張りまわして、うんざりするほどの長い時間を楽しもうって魂胆だ。彼等が私を直ぐに徒刑場に送ってくれたら、オルフェーブル河岸[88]で私のことをじろじろ見る犯罪捜査課の連中が目障りだが、そのうち私は自分の仕事に戻れるんだがなあ。あそこでは、彼等は直ぐさま、ばらばらの心を一つにして彼等の将軍、この立派な不死身を逃すために働き始めるんだ。貴方達の中に、この私のように、貴方の為には何でもやろうと待ち構えている兄弟が一万人もいる、これほどに恵まれた人間はいるか?」彼は誇りに溢れて尋ねた。「ここに良いところがあるんだ」彼は自分の胸を叩きながら言った。「私はこれまでに人を裏切ったことが一度もない! おや、ダボハゼ、あれを見なさい」彼はハイミスに向かって言った。「彼等は私のことを恐ろしげに見ている。だが、あんた、あんたは彼等の心に嫌悪感を起こさせる。せいぜい賞金を集めることだな」彼は一呼吸おいて下宿人達を見回した。「ところで貴方達は一体何を考えてるんだ! 貴方達は一度でも徒刑囚を見たことあるのか? ここに現にいる、コランのようなタイプの徒刑囚は他の人間に比べて卑劣なところのない男だ。そしてその男は反社会的人間が味わう深い幻滅感を打ち破ろうと闘っているのだ。丁度ジャン・ジャック・ルソー[89]が言ったようにだ、そして私は彼の弟子であることを誇りに思っている。要するに、私は政府に対し、沢山ある裁判所、憲兵、予算のことで反対してるだけなんですよ。で、私は揺さぶってみてるわけです」
「何とまあ! 彼は実に見事にデッサンするね」絵描きが言った。
「ねえ、死刑執行人殿の王太子、寡婦の司令塔(徒刑囚達がギロチンに、恐怖の詩に溢れたこの名前をつけた)」彼は警視庁課長の方を振り返って、こう付け加えた。「ねえ、頼むよ、私を売ったやつは”絹糸”なのか! 私は誰か他のやつの仕業を彼に被せたくないんだ。それは正当じゃないからだ」
 この瞬間、コランの部屋の総ての棚を開け、総ての整理をし終わった警官が戻ってきて、捜査隊長に低い声で何やらささやいた。調書は完成した。
「皆さん」コランが下宿人達に向かって言った。「彼等は私を引っ立てて行こうとしています。貴方達は私がここに暮らさせてもらった期間ずっと、私には本当に親切にして下さった。私は感謝申し上げます。さようならと言わせてもらいます。出来ることなら、あなた方にプロヴァンスのイチジクを送らせてもらいます」彼は何歩か歩いたが、振り返って、ラスチニャックの方を見た。「さようなら、ウージェーヌ」彼は優しく寂しげな声で言った。それは彼のぶっきらぼうないつもの話しぶりとは奇妙に対照的に響いた。「もし君が金に困るようなら、私は君の役に立つように私の忠実な友を置いておくぜ」手錠を掛けられていたが、彼は防御の姿勢はとることが出来た。彼は軍隊の長官がやるように点呼を取って号令した。「一、二! それ突きだ。何か困ったことがあったら、そいつのところへ行きなさい。人間でも金でも、君の好きなように使いなさい」
 この特異な人物は彼の最後の言葉の中に思いっきりふざけた調子を込めたので、その意味はラスチニャックと彼自身にしか解らなくなっていた。館内から憲兵、軍人、それに警官達が立ち去った後、女主人のこめかみを酢でこすってやっていたシルヴィは呆然としている下宿人達を見た。
「あらあら! それにしても、彼って良い人だったんだわ」
 この言葉は先ほどの場面によって掻き立てられた感情がそれぞれの人々の上に生み出した魅力と多様性を断ち切る作用を及ぼした。この瞬間、下宿人達はお互いにじろじろ見つめあった後、皆が一斉に目を向けたのは、やせて干からびて冷たくて、まるでミイラのようなミショノー嬢だった。彼女はストーブの横で隠れるようにして目を伏せていた。その様子はまるで彼女が自分の眼差しの表情を隠すためには、ランプの陰も十分の覆いにはならないことを恐れているかのようだった。彼女の姿は彼等にとって、これまで長い間、何故か反発を抱かせるものがあったが、それが突然皆の腑に落ちたように感ぜられた。一人一人の呟きが、完全な音の統合によって全員一致の嫌悪感となって現れ鈍く響いた。ミショノー嬢はそれを聞いて、じっとしていた。ビアンションが口火を切って、隣の人にかがみこんだ。
「あの女が我々と夕食を続けるんだったら、僕は退散します」彼は小声で言った。
 ポワレを除いた誰もが目配せで医学部学生の提案に同意した。学生は全員の同意に意を強くして、古くからの下宿人の方に歩み寄った。
「貴方はミショノー嬢と、とりわけ仲が良いですよね」学生が言った。「彼女に言って下さい。彼女に今直ぐにここから立ち去るべきことを理解させてやってください」
「直ぐにだって?」ポワレが驚いて鸚鵡返しに言った。
 それから彼はハイミスの傍へ行き、何かを彼女の耳許で言った。
「だけど私は下宿代をもう払っています。私は皆と同じように払った分だけここにいます」彼女は下宿人達にマムシのような眼差しを投げつけながら言った。
「それは大したことじゃありません。私達が分担金を出し合って、あなたに払い戻してあげますよ」ラスチニャックが言った。
「コラン支持者様」彼女が蛇のような毒々しい探るような視線を学生に投げかけつつ言った。「見え透いた事を言うのね」
 この言葉に、ウージェーヌはまるでハイミスに飛びかかって、その首を締めんばかりの勢いで飛び上がった。彼女の視線は彼がコランと共犯者であった事を示唆し、その視線は彼の魂にも恐るべき光線を当てたのだ。
「そんなの放っておけ」下宿人達が怒鳴った。ラスチニャックは腕を組んで黙り込んだ。
「ユダ嬢とは、けりをつけて下さいよ」画家がヴォーケ夫人の方を向いて言った。「奥さん、もし貴女がミショノー嬢を追い出さないなら、我々は皆、貴女のバラックから出てゆきます。そしてそこらじゅうで、ここにはスパイと徒刑囚がいるだけだと言いふらしますよ。逆の場合は、我々はこの事件については完全に口をつぐみます。これは結局のところ、最良の社会に達することが出来たのだろうと考えてね。我々は徒刑囚の額に刻印まで打った。そして我々は彼等がパリの小市民に変装することを禁じた。そして彼等が何にでもなれる馬鹿げた笑劇をこれ以上演じることを禁じた」
 この議論の最中にヴォーケ夫人は奇跡的に健康を回復し、姿勢を正し、腕組みをして、目をはっきりと見開いた。涙の痕跡もなかった。
「だけど、ねえ貴方、貴方は一体この家をつぶしてしまいたいの? ヴォートランさんだったらねえ……おー! 悲しい」彼女は中断しながら思った。「あたしは彼のことを正直な男だと考えざるを得ないわ! ほら」彼女は続けた。「空になったアパルトマンが一戸、その上に、貴方達はまだ二戸も空の貸間を私に持たせようって言うのよ、この誰も彼もが住居も落ち着かせようって季節によ」
「皆さん、帽子を手に持って、ソルボンヌへ夕食に出かけましょう、フリコトー[90]で夕食だ」ビアンションが言った。
 ヴォーケ夫人は一瞬にして最も有利な方針を決め、ミショノー嬢のところへ走り寄った。
「さあ可愛いお嬢さん、貴女はまさかあたしの大事な施設が駄目になってしまうのをお望みじゃないでしょう、どうなの? 貴女見たでしょう、何とも言えない大変なことで、あたしはこの人たちに逃げられてしまうのよ。今晩のところは、貴女は自分の部屋に上がっといて」
「ぜーんぜん、ぜーんぜん」下宿人達が怒鳴った。「我々は彼女が今直ぐ出てゆくように言ってるんだ」
「しかし、彼女は夕食を食べてないんだ、この可哀想なお姉さんは」ポワレが哀れげな様子で言った。
「彼女は好きなとこで夕食するんだろ」何人かが叫ぶ声がした。、
「出てゆけ密告者!」
「皆さん」ポワレが叫んだ。彼は愛が雄羊に与えた勇気によって、突然心が最高に昂揚していた。「女性に向かって、言葉に気をつけて下さい」
「密告者に女性も何も関係ないよ」絵描きが言った。
「話題のセクソラマ(女)」
「ポルトラマ(戸外)へ出てゆけ」
「皆さん、これは無作法というもんです。もし人が誰かを追い出そうとするなら、当然やり方があります。私達は家賃を払っている。私達は留まります」ポワレはハンチングをかぶりながら言った。そしてヴォーケ夫人に説教されていたミショノー嬢の脇の椅子に座った。
「聞き分けのないこと!」絵描きがおどけた様子で彼に言った。「つまんないことで聞き分けのない、やれやれ!」
「さあ、貴方達がいなくならないんなら、我々が立ち去りますよ、我々の方がね」ビアンションが言った。
 そして下宿人達は寄り集まって広間の方へ動いていった。
「お姉さん、貴女は一体何をお望みなの?」ヴォーケ夫人が叫んだ。「あたしは破滅よ。貴女はもういられないわ。もう直ぐ暴力沙汰になってしまうわ」
 ミショノー嬢が立ち上がった。
 彼女は立ち去るだろう! 彼女は立ち去らないだろう! 彼女は立ち去るだろう! 彼女は立ち去らないだろう! 二つの言葉が交互に言われ、言葉に含まれた敵意が彼女に襲いかかっていた。女家主と低い声で何らかの規約を確認しあった後、ミショノー嬢はとうとう館からの退出を余儀なくされた。
「私はビュノー夫人のところへゆきます」彼女は脅すような声で言った。
「何処でもお好きなところへいらっしゃい、お嬢さん」ヴォーケ夫人はそう答えたが、この選択の中に残酷な侮辱が含まれているのが分かった。その館こそ彼女がライバル視してきたものであり、結果として、この選択は彼女にとって耐え難いほど嫌なものだった。「ビュノーのところへお行きなさい。あそこじゃ、ヤギに飲ませて元気づけるワインが出るそうよ。それに料理だって、ろくでもないとこから仕入れてるんだから」
 下宿人達は深い沈黙の中で二列に並んだ。ポワレはとても優しげにミショノー嬢を見つめていて、自分が彼女についてゆくべきか留まるべきか決められないままに、あからさまに優柔不断の姿を晒していたので、下宿人達はミショノー嬢と別れられるのも嬉しくて、お互いに顔を見合わせて笑い出した。
「いけ、いけ、ポワレ」絵描きが彼に向かって叫んだ。「それいけ、それ、それ!」
 博物館員は有名な恋歌の冒頭部分を滑稽な調子で歌い始めた。
シリアに向かって発たんとす
若き美貌のデュノワ[91]
「さあ行きなさい。貴方達は行きたくてたまらないんでしょう。トラヒット・スア・ケムク・ウォルプタス」ビアンションが言った。
「蓼食う虫も好き々々、ウェルギリウスの意訳です」家庭教師が言った。
 ミショノー嬢はその男を見ながらポワレの腕を取る様子を見せた。彼はこの誘いに抵抗できず、ハイミスに腕を差し出した。拍手が湧き起こり笑いが爆発した。ブラヴォー、ポワレ! 老いぼれポワレ! アポロン・ポワレ! マルス・ポワレ! 勇者ポワレ!
 この時、使い走りの者が入ってきて、一通の手紙をヴォーケ夫人に渡した。彼女はそれを読んで、そっと椅子の上に置いた。
「まあ雷が落ちて、あたしの家を燃やしちまったてことよ。タイユフェールの息子は三時に死んじまった。あたしは、この可哀想な若者を犠牲にしても、うちにいる婦人達が幸せになれるんだったらいいと願ったんだけど、バチが当たったんだわ。クチュール夫人とヴィクトリーヌが、あたしにまた彼女達の持ち物を送るように言ってきたんだけど、そしてヴィクトリーヌの父と一緒に住もうとしているのよ。タイユフェール氏は娘と一緒に住むことを、更にクチュール夫人を保護してあげることも認めたのよ。四つのアパルトマンが空になるのよ、下宿人が五人も減るのよ!」彼女は座り込んで泣き出しそうになっていた。「不幸があたしに落ちかかってきた」彼女が叫んだ。
 馬車がやって来て停車する音が突然路上に響き渡った。
「まだ何か嫌なことかね」シルヴィが言った。
 ゴリオが突然、顔を輝かせ幸福感が溢れた表情で現れた。それは彼が再生されたと人に信じさせるほどのものだった。
「ゴリオが辻馬車に乗ってきた」下宿人達が言った。「この世の終わりだな」
 爺さんは隅っこでまだ物思いにふけっていたウージェーヌの方に真っ直ぐに近づき、彼の腕をつかんだ。「来なさい」彼はウージェーヌに嬉しそうに言った。
「貴方はまだ何が起こっているか知らないんですか?」ウージェーヌが彼に言った。「ヴォートランは徒刑囚だったんです。彼を捕まえに警察官が来てたんです。そしてタイユフェールの息子は死にました」
「へえ、そうですか! でも、それが私達には、どうってことないでしょ?」ゴリオ爺さんが答えた。「私は娘と夕食をとる。貴方の家でね。聞いてるんですか? 彼女は貴方を待ってるんだ、行きましょう!」
 彼はとても荒々しくラスチニャックの腕を引っ張ったので、学生は無理やり歩かされてしまった。ゴリオの様子はまるで自分の女主人を連れ出すといった風情だった。
「夕食だ」絵描きが叫んだ。
 みなが一斉に椅子を取り食卓についた。
「あらら」でぶのシルヴィが言った。「今日は何もかも駄目だわ。羊肉のシチューが煮え過ぎちゃったわ。ごめんね! ちょっと焦げたの食べてね、仕方がない!」
 ヴォーケ夫人は彼女のテーブルの周りにいた十八人の代わりに、たった十人の人間しかいないのを見ると、一言も言う元気がなかった。しかし皆は彼女を慰めたり明るくさせようと試みた。まず第一に通学生達がヴォートランやその日の出来事について話し合い始めると、彼等はやがて蛇のようにくねくねとした会話に陥ってしまい、決闘、徒刑囚、裁判のことを語り始め、改正すべき法律のことや牢獄のことにまで話は及ぶのだった。それから彼等は気がつくと、ジャック・コランのことを千回も話していて、ヴィクトリーヌや彼女の兄弟のことも話していた。彼等は十のものも二十に話し、ごく普通のものを途轍もない数字のように言った。今日の夕食と前日の夕食との間にあるもの、それは途轍もない変化であった。しかし更に翌日になると、この利己主義な人々はパリの日常の出来事の中にまた新たに恰好の題材を見つけて楽しむことになり、慣れ親しんだのんきさが彼等の気分を支配することとなるのだ。そしてヴォーケ夫人でさえも、でぶのシルヴィの意見を聞くうちに希望のようなものが湧いてきて、静かな気持ちに身を置けるようになっていた。
 その歴史的一日は、その日の晩方にはウージェーヌにとっては最早、夢幻劇のようなものになっていた。彼は性格の強さや頭脳の明晰さにもかかわらず、自分の考えをどう整理すればよいのかわからないままに、駅馬車に乗り、ゴリオ爺さんの横に座っていた。爺さんは話しているうちに、いつにない嬉しさを隠しきれない様子で、感動の余り爺さんの声がまるで夢の中で聞こえるようにウージェーヌの耳に響き渡るのだった。
「今朝の事はもう終わった。私達は三人きりで一緒に夕食です、一緒に! 聞いてるんですか? そうだ、私のデルフィーヌと夕食をしたのは、もう四年も前です。ああ可愛いデルフィーヌ。私は今晩はずっと彼女のそばにいられるんです。私達は今朝から貴方の家にいたんですよ。私は汚い服を着て労務者のように働いたんですよ。私は家具を運ぶのを手伝いました。ああ! 貴方は食事の時、彼女がどんなに優しいか知らないでしょう。彼女はこの私の世話をしてくれるんです。『さあパパ、ほらこれ食べてみて、おいしいわよ』なんてね。それでいて、私はこれを食べられないんです。あー! 私が彼女と幸せに過ごしていた時から何と長い時間が経ってしまったんだろう。だが私達はこれからは昔のように一緒に過ごそうとしているんです!」
「しかし」ウージェーヌが口を挟んだ。「今日という日は本当にとんでもない日でしたね?」
「とんでもない日ですって?」ゴリオ爺さんが答えた。「そうかね、かつてのいつの時代に比べても、世の中、こんなに良くはなかったですね。今はどちらを向いても、道には陽気な人、握手を求める人、抱き合う人しかいないくらいですよ。いつも夕食を娘の家でとっているような幸せな親父が、娘がシェフに注文した可愛らしいディナーなんぞを飲み込むように平らげてるのを私は目の前で見たことがあります、くそっ! あれはカフェ・デ・ザングレ[92]でしたな。しかし、なあに! こっちだって、デルフィーヌのそばなら、アロエの苦汁でも蜂蜜のように甘くなりますよ」
「僕も貴方には昔のような生活が戻ってくると思います」ウージェーヌが言った。
「おい、御者さんよ、もっと走れんかね」ゴリオ爺さんが前のガラスを開けて叫んだ。「ほれ、もっと早く頼むよ。あんたもご存知のあそこへ十分以内にわしを連れてってくれたら百スーやるから、それで一杯やってくれ」この約束を聞いた御者は光のような速さでパリを駆け抜けた。
「この御者は良くないですね」ゴリオ爺さんが言った。
「ところで、一体何処へ連れてってくれるんですか?」ラスチニャックが爺さんに尋ねた。
「貴方の家ですよ」ゴリオ爺さんが答えた。
 馬車はダルトワ通で止まった。爺さんがまず馬車を降りて、寡夫にありがちな浪費癖から、御者に一〇フランを投げ与えた。爺さんは嬉しさの絶頂にあって、身を守るすべを知らなかった。
「行って上がりましょう」彼はラスチニャックにそういうと、中庭を横切って、四階建ての新しくて外観の綺麗なメゾンの裏手にあるアパルトマンの戸口へと彼を案内した。ゴリオ爺さんが呼び鈴を鳴らすまでもなかった。ニュシンゲン夫人の小間使いのテレーズが彼等にドアを開けた。ウージェーヌは若者向きの実に快適なアパルトマンの中に入った。部屋の構成は待合室、小広間、寝室、それに庭を見渡せる書斎からなっていた。小広間の調度品や装飾は、最高の美しさ、最高の上品さといわれるものに比べても遜色のないものだった。彼はろうそくの光の中で、デルフィーヌの姿を認めた。彼女は炉辺の小型ソファから立ち上がり、優しさに溢れた声に抑揚をつけて彼に言った。「どうして貴方を探し回らなきゃならないの、ねえ、このわからずやさん」
 テレーズは出て行った。学生はデルフィーヌを腕の中に抱いた。彼女も激しく抱き締めながら嬉しさに泣いた。沢山の苛立ちが心と頭を疲れ切らせたこの一日の間に彼が見たことと、たった今見たこととの究極的な対比はラスチニャックという人間における鋭敏な神経を決定付ける出発点となったのだ。
「この私には良く分かってる。彼がお前を愛してることをな」ゴリオ爺さんはうんと声をひそめて娘に言った。その時には、ウージェーヌは疲れ切って、ソファーの上に横になっていた。彼は一言も発せられず、また、魔法の杖の最後の一振りがどんな方法で可能となったのかもさっぱり分からなかった。
「さて、それじゃあ見に行きましょう」ニュシンゲン夫人はそう言って彼の手を取り寝室に連れて行った。そこの絨毯、家具、それに様々な小物は彼にはデルフィーヌの寝室をミニチュア化したもののように思われた。
「ベッドがまだないんですね」ラスチニャックが言った。
「はい、貴方」彼女は顔を赤らめつつ言って、彼の腕を取った。
 ウージェーヌは彼女を見た、そして若いながらも、愛する女の心の中の本当の羞恥心の総てを理解した。
「貴女は僕が心から愛し続けてやまない最愛の女性だよ」彼は彼女の耳許で言った。「そうさ、僕達はよく理解し合っているから、あえて言葉に出したんだ。愛が生き生きと真実のものであるほど、それにはヴェールをかけて神秘的でなければならない。僕達の秘密は誰にも明かさないことにしましょう」
「おお! 私はその誰かじゃないよ、私はね」ゴリオ爺さんが少し不満げに言った。
「貴方は勿論僕達と同じですよ、貴方は……」
「ああ! それこそ私が望んだことだ。貴方はこの私には注意を払わなかった、そうでしょ? 私はそこいらに漂っている善良な精霊のように行ったり来たりする。目には見えなくとも、そこにいる事は皆が知っている! おやおや、デルフィネット、ニネット、ドゥデル! 私がこれまで言ってきたことは間違ってるか? 『アルトワ通に綺麗なアパルトマンがある。彼のために二人でそこに家具を備え付けよう』お前はそれを望まなかった。ああ! お前の喜びを作り出すのは私なんだよ。お前の人生を作り出すのと同じようにね。父親というのはいつも与え続けて幸せになれるんだ。与え続ける、これが父親たるものがなすべきことなんだ」
「何ですって?」ウージェーヌが尋ねた。
「そうです、彼女はためらっていた。彼女は下らない噂を立てられるのを恐れていた。まるで世間体のために幸せをふいにしても仕様がないって感じだった。だが、女達は皆、彼女のようになることを夢見てるんだ……」
 ゴリオ爺さんは一人で喋り続けていたが、ニュシンゲン夫人は構わずラスチニャックを書斎に案内した。そこでは、軽く交わすキスの音さえも響き渡ったことだろう。この小部屋はこのアパルトマンの優雅さと上手く調和していた。言うまでもなく、ここには不足な点は何もなかった。
「貴方のご希望に適ったでしょうか?」食卓につくため広間に戻ってきて、彼女が尋ねた。
「はい、良過ぎます、びっくりです! この豪奢、それも完璧な、これは美しい夢の実現だ、若々しく優雅な人生の総ての詩的表現だ。僕はそれを十分過ぎるほど感じるので、感謝しきれないくらいに思っています。しかし、僕はこんなものを貴女から受け取るわけにはゆきません。それに僕はまだ貧乏過ぎて、この……」
「ああ! 貴方はもうあたしに逆らってる」と彼女はちょっとからかう風に威圧的に言って、可愛い仏頂面をして見せた。これは女達が更なる気晴らしに誘い込むために、男の中の几帳面さといったものを嘲笑したくてとる態度なのだ。
 ウージェーヌは、この重大な一日をかけて仰々しく自問していた。そしてヴォートランの逮捕は、彼の前に深淵の深さを示した。彼は危うくそこに転がり落ちそうになっていたのだが、今ようやく、自分の高潔な意識と細やかな心遣いをしっかりと固めることが出来た。その結果、彼は時には寛大な考えでもって、相手の反論が弱いと知りながらも譲歩してやることも出来るようになったのだ。深い悲しみが彼を捉えた。
「どうして!」ニュシンゲン夫人が叫んだ。「貴方は断るお積り? そんな拒絶が何を意味するか、貴方ご存知なの? 貴方は未来を疑っている。貴方は貴方をあたしに結び付けようとはしない。貴方はもしかして、あたしの愛を裏切ってしまうかもしれないと恐れてるの? もし貴方があたしを愛してるのなら、どうして、これっぽっちの些細な贈り物の前で尻込みなさるの? あたしが若い男所帯の家事を調えるのに、どんなに夢中になって没頭したか、貴方が知ってくれたら、貴方は躊躇したりしないはずよ。そしてあたしに御免なさいって言うはずだわ。あたしは貴方のお陰でお金を得たわ。あたしはそれを上手に使ったんだわ、それだけよ。貴方は自分を度量のある人間だと信じてる、だけど貴方はちっぽけな人間よ。貴方はねぇ……もっと沢山聞きたい?」彼女はウージェーヌの情熱的視線を捉えて言った。「それに貴方ったら下らないことを気取ってるのよ。もし貴方があたしのことを全然愛してないなら、ああ! はい、断ってちょうだい。あたしの運命は貴方の言葉にかかってるの。言って下さる? でも父もいるわ。彼にもまた、はっきりと理由を言って」彼女は父の方を振り向き、一呼吸おいて、付け加えて言った。「あたしも私達の名誉に関しては父に劣らず敏感なのよ、信じて下さる?」
 ゴリオ爺さんはこの可愛い喧嘩をアヘンの香りの中で凝固したような微笑を浮かべて、見たり聞いたりしていた。
「要するに! 貴方って人生の入り口にいるのよ」彼女はウージェーヌの手をつかみながら言った。「貴方は大抵の人には乗り越えがたいような障壁を見つけたのね。一人の女の手を開いて覗いてみた、そして尻込みしてる! でも、貴方は成功する。貴方は輝かしい富を築く。成功は貴方の美しい額に記されているわ。あたしが今日貴方に貸したものを、貴方が返せないなんてことあるかしら? 昔は貴婦人達が騎乗槍試合に彼女達の名誉をかけて戦いに行く騎士達に、甲冑、剣、兜、鎖帷子、馬を与えたんじゃなかったかしら? さあそれで! ウージェーヌ、あたしが貴方に差し出しているものは現代の武器よ。何者かになろうという人にとっては必須の道具なのよ。結構なもんだわ、貴方がいらっしゃる屋根裏部屋のことよ。パパの部屋と似たりよったりと言うじゃない? さてと、私達はまだ夕食してなかったっけ? 貴方はあたしを悲しませたいの? さあ答えてくれる?」彼女は彼の手を揺さぶりながら言った。「ああ、パパ、彼の決心助けてあげて! でなきゃ、あたしが出てゆくわ、それで貴方とは二度とお会いしないでしょうね」
「私は貴方に決心してもらう積りですよ」ゴリオ爺さんが夢うつつ状態から醒めて言った。「私達のウージェーヌさん、貴方はユダヤ人から金を借りようとしているんじゃないですか?」
「その通りです」彼が答えた。
「そうですか、待って下さい」爺さんはそう言うと擦り切れた革の汚い紙入れを取り出した。「私がそのユダヤ人に代わってあげましょう。私が請求額を全部支払いました、ほらこれです。貴方はここにあるものについては一銭も払う必要はないんです。そんなに大した金額じゃありません。全部で五千フランちょっとくらいです。私はそれを貴方にお貸しします、私が! 貴方は私を拒絶しないでしょ、私は女じゃないんですから。貴方は私に何かの紙切れに認めを書いてくれたらいい。そして、いつか後で私に返してくれたらいいんです」
 幾筋かの涙が同時にウージェーヌとデルフィーヌの目から流れた。二人は驚きの余り顔を見合わせた。ラスチニャックは爺さんに両手を拡げて抱きついた。
「おや! こりゃ何だ! 貴方は私の子供じゃなかったのかな?」ゴリオが言った。
「だけど父さん、一体どうやってこれを?」ニュシンゲン夫人が尋ねた。
「あー! それだよな問題は」彼が答えた。「私がお前にこの件を自分で片付けるように決心させた時だったが、私はお前がまるで結婚する女のように色々の物を購入するのを見ていたんだ。私はこう思ったものだ。『彼女の家計は大ピンチになるぞ!』代訴人はお前の夫に対して、お前の財産を返させるように訴訟を起こすと、それは半年以上の期間がかかるといっている。それならと、私は額面二七〇〇〇フランの国債を売った。そして私の分として額面一五〇〇〇フランの終身年金を買ったので、私には毎年一二〇〇フランの配当が入ってくる。そして残った金で貴方達の費用は支払った。子供達よ、私はあの階上の部屋で、年に五〇エキュ払って、毎日五〇スーも使えば王子様のように暮らせるさ。それにまだ残っている財産も幾らかある。私は何も使わない。服だって、ほとんど必要ない。ほら、この二週間というもの、私はこんなことを考えては、ほくそ笑んでいたんだ。『あの子達は幸せにやってるんだ!』ってね。おやおや! 君達は幸せじゃないのかい?」
「おー! パパ、パパ!」ニュシンゲン夫人は父親に飛びつきながら叫んだ。父は彼女を膝の上に受けとめた。彼女は接吻で彼を覆い、彼の頬を彼女のブロンドの髪が撫ぜ、彼女の涙が喜びで輝かんばかりのこの老人の顔の上に溢れ落ちた。「大好きなお父様、貴方ってすごい父親だわ! いいえ、この世に貴方のような父親は二人といないわ。ウージェーヌは前から貴方のことがとても好きだったんだから、今はどんなに好きだか分からないくらいよ!」
「だが、お前さん達」ゴリオ爺さんが言った。彼はこの十年来、娘の心臓が彼の心臓のまぢかでどきどきしているのを感じる機会がなかったのだ。「だが、デルフィーヌよ、お前もしかして、私が嬉しさの余り死んでしまうのを望んでるな! 私の哀れな心臓は破裂しそうだ! ウージェーヌさんのところへおゆき。私達はもう十分だろう!」そして老人は自分の娘をとても荒々しく熱狂的に抱き締めたので、娘が言った。「もう! いいかげんにしてよ!」「私はお前に嫌われた!」彼は青ざめて言った。彼は想像を超えた深い悲しみのこもった様子で娘を見つめた。この父性のキリストとも言うべき男の表情を正しく描くためには、あの人類の救世主が人々の救済のために蒙った受難劇を描こうとして、画布の天才達が編み出した様々な画像の中に比較の対象を求めねばなるまい。ゴリオ爺さんは彼の指が余りにも強く握り締めていた彼女のベルトの上にとても優しいキスをした。
「いやいや、私はお前の心を痛めさせるようなことはしていない」彼は彼女に問いかけるように微笑みながら言った。「悲鳴をあげて私の心を掻きむしったのはお前の方だよ」彼は慎重に彼女の耳にキスしながら囁いた。「費用はもっとかかったんだが、彼にはごまかしておかないと悩ませる事になるんでね」
 ウージェーヌは、この男の無限の奉仕を見て、石のように固まってしまった。そして若者独特の信頼から溢れ出たあの素朴な賛嘆を心に刻みつけながら、この男を見つめていた。
「僕はこの立派な贈り物に相応しい人間を目指します」彼は叫んだ。
「あー! あたしのウージェーヌ、たった今貴方が言ってくれたことって、とても素敵だわ」そう言うとニュシンゲン夫人は彼の額にキスをした。
「彼はお前がいるので、タイユフェール嬢と彼女の百万フランを断った」ゴリオ爺さんが言った。「そうだ、彼女は貴方を愛していた、あの少女は……そして彼女の兄が亡くなった。だから彼女は大富豪のような金持ちになったわけだ」
「あー! 何故そんな話をするんですか?」ラスチニャックが叫んだ。
「ウージェーヌ」彼の耳許でデルフィーヌが言った。「私はそのことは本当に申し訳ないと、今晩ずっと思っていたわ。でもね! あたしは貴方を誰よりも愛しますわ、あたしは! いつまでも!」
「ほら、お前が結婚して以来、私にとって、こんな嬉しい日はなかったよ」ゴリオ爺さんが叫んだ。「神はいくらでも好きなだけ私を苦しめりゃあいいんだ、ただ、それがお前に関わることでなければの話だと、私は思っていた。今年の二月のことだった。私は人生において大概そんなに幸せなばかりでいられないものだと思うが、いつになく自分を幸せだと感じられる瞬間があったんだ。フィフィーヌ、私を見てごらん!」彼は娘に向かって言った。「彼女はとても美しい、そうでしょ? そして私は自分に言うんだ。あんたはこれまでに彼女のように綺麗な色をした、そして彼女のように可愛いえくぼのある女性に何人出会ったかね? ないって、まさか? まあいい、この愛すべき女を作ったのは私なんだよ。これからは、ウージェーヌ、貴方のお陰で幸福になって、彼女は何倍も幸せになることだろう。私は地獄にだって行けますよ、お隣さん、もし私の楽園の一部でもお要りなら、私は貴方に差し上げます。さあ食べよう、食べよう」彼は最早自分の言ってることも分からず続けた。「みんな私達のものなんだから」
「何と哀れな父親なんだろう!」
「ああ、お前が知っててくれたらなあ、なあ娘よ」彼は立ち上がり、彼女のところへ行って言った。そして彼女の頭を抱えて三つ編みの真ん中あたりの髪にキスをした。「私に幸せを返してくれるのなんて、お前にとっては実にたやすいもんだがなあ! 何度か私に会いに来ておくれ、私はあの上の階にいる。お前はほんの少し立ち寄ればいいんだ。約束しておくれ、ちょっと!」
「はい、お父様」
「もう一度言っておくれ」
「はい、私の優しいお父様」
「もういい、本当なら、お前に百回でもそれを言わせたいところなんだが。夕食にしよう」
 宵の時間はひどく子供染みた趣向で過ぎていった。ゴリオ爺さんは、この三人の中で相変わらず気違い染みた振る舞いを隠そうとしなかった。彼は娘の脚にキスしようとして身をかがめた。彼は彼女の目の中を長い間見つめ続けた。彼は彼女の衣服に自分の頭をこすりつけた。要するに、彼は飛び切り若く、飛び切り優しい恋人がやるような馬鹿げた行為をやったのだった。
「ご覧になった?」デルフィーヌがウージェーヌに言った。「父が私達と一緒にいる時は、彼の好きなようにさせなきゃならないの。そりゃあ時には邪魔に感じるでしょうけれどね」
 ウージェーヌは既に何度か嫉妬の衝動に駆られたが、彼の忘恩の気持ちを元から押さえ込むような彼女の言葉を非難することは出来なかった。
「それで、いつアパルトマンは出来上がるの?」ウージェーヌは寝室を見回しながら言った。「今夜はここに泊まれないのかい?」
「そうね、でも明日、貴方はあたしと夕食をして」彼女は抜け目のない様子で言った。「明日はイタリア座へ行く日よ」
「私は立見席で観るよ、私はね」ゴリオ爺さんが言った。
 真夜中になった。ニュシンゲン夫人の馬車が待機していた。ゴリオ爺さんと学生はデルフィーヌについておしゃべりしながら、メゾン・ヴォーケに帰ってきた。話しているうちに彼等の熱中度がどんどん高まってきて、ついにはこの二人の荒々しい熱愛者の間には表現の仕方を巡って奇妙な争いすら生まれた。ウージェーヌは何らの私心に汚されることもない父の愛が、その継続性や大きさにおいて、彼自身の愛を圧倒し去っていることを認めざるを得なかった。偶像は父親にとって常に純粋で美しい。そして彼の熱愛は未来と同じく過去のことも総てを糧として膨らんでゆく。彼等はヴォーケ夫人が片隅のストーブのところで、シルヴィとクリストフの間でぽつんとしているのを見つけた。年老いた女家主は、まるでカルタゴが滅亡した時のマリウス[93]のような感じでそこにいた。彼女はシルヴィにつき合わさせて悪いと思いながら、彼女の下宿人として残っている二人の帰りを待っていたのだった。バイロン卿はタッソー[94]のためにこの上なく美しい悲歌を書いていたが、それらの歌もヴォーケ夫人の理解を超えた現実の深さには遠く及ばなかった。
「明日の朝はたった三つだけのコーヒー・カップでいいよ、シルヴィ。そうだね! あたしの家は空っぽだよ、こんな悲しいことないじゃないか? あたしの下宿人がいなくなっちまうなんて、人生ってなんだい? 何にもない。ほら、あの人達がいなくなった後の家具もないあたしの家。家具があっての生活だよ。あたしはこの世で一体何をしたっていうんだい、こんな災難に会うなんて? うちのインゲンマメとジャガイモの料理で二十人の人を養ってきた。あたしの家へ警官が! これからはもう、あたし等はジャガイモしか食べないよ! こうなったらクリストフは辞めさせるよ!」
 サヴォワ出身の少年は居眠りしていたが、突然目覚めて言った。「奥さん?」
「可哀想な子! まるで犬ころ並みの扱いね」シルヴィが言った。
「引越しシーズンは終わってる。皆それぞれ住まいを決めちまってる。何処であたしは下宿人を失っちまったんだろう? 頭がぼっとしてきちまった。それにあの巫女のミショノーめ! あたしからポワレまで奪い取ったんだ! あの男と引っ付くために彼女は一体何をしたんだろうね。彼ったらまるで小犬みたいに付きまとってさ?」
「あー! 奥さん!」シルヴィがうなづいて言った。「あのハイミスはそれこそ悪知恵と巧妙さの塊ですからね」
「あの気の毒なヴォートランさんを奴等は徒刑囚にしちまったんだからね」寡婦は更に続けた。「やれやれ! シルヴィ、これはあたしの手に負えないから、あたしはもうこれ以上考えないことにするよ。陽気ないい人だったねえ、毎月一五フラン払って、ブランデー入りのコーヒーを飲んで、その上、即金で全額払ってくれるんだからねえ!」
「それにあの人は寛大だった!」クリストフが言った。
「ちょっと違うんじゃない」シルヴィが言った。
「いいえ全然違わないよ。彼は自分自身に忠実なだけさ」ヴォーケ夫人が引き取った。「それで、このごたごたの始末があたしのとこへ来るんだからたまんないよ、この猫一匹通らない一角にさ! 誓ってもいい、あたしは今悪い夢を見てるんだ。何故なら、あなたも見たでしょ、私達はルイ十六世が災難に会ったのを見てきたし、私達は帝国の崩壊も見てきたし、帝国が復活しまた倒されるのも見てきた。これら総ては秩序立った世の流れの中にいつだって起こり得ることとして組み込まれているのよ。一方で素人下宿なんぞに反対しようなんて動きはあり得ないのよ。王様無しで済ませられるけど、人は必ず食べてゆかなきゃならない。で、善良な女がいて、コンフラン家の出で、知恵を絞って夕食を提供してきたんだ、世界の終わりが来ない限りは……だけど、それも仕方ないね、世界の終わりなんだからね」
「貴女にとんでもない迷惑をかけたミショノー嬢が、噂によれば、六〇〇〇フランもの年金を受け取ることになるというんだから驚くじゃありませんか」シルヴィが叫んだ。
「あたしにはそのことは話さないでおくれ。あんな性悪女はいないよ!」ヴォーケ夫人が言った。「しかも彼女はラ・ビュノーのところへ行くんだ、念の入ったこった! だけど彼女はどんな報いを受けても仕方ないよ。彼女はここにいて、皆に不快な思いをさせ、人を殺し、盗みをしたんだからね。彼女はあの気の毒な好人物の代わりに徒刑場に行って当然なんだ……」
 ちょうどこの時、ウージェーヌとゴリオ爺さんが呼び鈴を鳴らした。
「あー! やっと仲間達が二人帰ってきた」寡婦は溜息をつきながら言った。
 二人の仲間はこの素人下宿を襲った災厄についての記憶がもう大分薄れていたので、女家主に対して特に改まった挨拶をすることもなく、ショセ・ダンタンの方に移り住むことになると告げた。
「あー! シルヴィ!」寡婦が言った。「これがあたしを殺す最後の切り札よ。貴方達はあたしに止めを刺したのよ、貴方達ったら! あたしは腹をぶたれたわ。そこに棒杭を叩き込まれたの。ほら、この一日は十年かそれ以上も頭から離れることはないだろうね。あたしは気が狂うよ、誓ってもいい! インゲンマメはどうしよう? あー! そうだ、もしあたし一人だけだったら、あんたは明日でお別れだよ、クリストフ。さようなら、皆さん、おやすみなさい」
「彼女は一体どうしたんですか?」ウージェーヌがシルヴィに訊いた。
「当たり前でしょ! ほら、事件以来、皆揃って出て行っちゃうじゃない。だから彼女の頭が変になっちゃったの。さあ、私が彼女の泣き言を聞いてあげるわ。泣き言を言うのも彼女のためになるわ。こんなの初めてよ、私が彼女のとこで働き始めて以来、彼女があんなに虚ろな目をしているなんて」
 翌日、ヴォーケ夫人は彼女自身の表現に従えば、理性を取り戻した。たとえ彼女が下宿人を総て失ってしまって、人生を一変させられた女性らしく、ひどく悲しげな様子に見えたにしても、彼女はもう完全に思考力を回復していて、本当の悲しみ、深い悲しみ――利害をめちゃめちゃにされたり、習慣を断ち切られたりすることが原因となる悲しみ――を彼女の姿は表していた。確かに、恋する男が愛する女が住んでいる家を離れながら投げかける眼差しの悲しげなのも、ヴォーケ夫人が無人の食卓を見つめる時の悲哀ほどではなかった。
 ウージェーヌは、ビアンションがあと数日でインターンを終了し、間違いなく自分の後釜にここへ来るだろうと言って、彼女を慰めた。博物館職員もしばしばクチュール夫人のアパルトマンに住みたいという希望を表明していたし、そう遠くない日に彼女は下宿人の補充が出来るだろうとも言ってみた。
「ありがとう、あなたの願いが叶えられますように! だけど、ここには不幸がとりついているんだ。十日もしないうちに死がやって来る。貴方にも分かるはず」彼女は食堂の方に陰鬱な眼差しを投げかけながら彼に答えた。「誰が亡くなるのかしら?」
「引越しするのがいい」ウージェーヌがうんと声をひそめてゴリオ爺さんに言った。
「奥様」シルヴィが仰天して駆けつけて言った。「私が猫を見かけなくなって、これで三日になりますわ」
「あー! そう、あたしの猫が死んだら、猫がいなくなったら、あたしは……」
 哀れな寡婦は終わりまで言わなかった。彼女は手を組み合わせて祈ろうとしたが、この恐ろしい予想に打ちのめされて肱掛椅子の背にのけぞって倒れこんだ。
[#改丁]

四 爺さんの死


 正午ごろ、ちょうどパンテオン区域に郵便配達が来る時間だったが、ウージェーヌは優美に包装され、ボーセアンの紋で封をされた手紙を受け取った。手紙の中にはニュシンゲン夫妻に宛てた大舞踏会への招待状が入っていた。舞踏会は一ヶ月前から告知されていて、子爵夫人の邸で開かれることになっていた。この招待状にウージェーヌ宛の便りが添えられていた。
〈私は貴方が私の気持ちをニュシンゲン夫人に伝える仲立ちを喜んで引き受けて下さるものと考えました。私は貴方から頼まれていた招待状をお送りします。これが縁でレストー夫人のご姉妹と知り合えたら私も嬉しく思います。ですから、その可愛らしい方をきっと私に紹介して下さいね。そして彼女が貴方の愛を独り占めするようなことのないようにして下さいね。何故って、私が貴方に注いだ愛のお返しに、貴方も私にいっぱいの愛を下さらないとね。
ボーセアン子爵夫人》
「しかし」ウージェーヌはこの手紙を読み返しながら考えていた。「ボーセアン夫人は僕に向かってとてもはっきりと言ったものだ。彼女はニュシンゲン男爵は好まないと」
 彼は直ぐにデルフィーヌのところへ行った。彼女に良い報せをもたらせられることが嬉しく、彼は間違いなくこれで自分の価値を高められるはずだと思った。ニュシンゲン夫人は入浴中だった。ラスチニャックは閨房で待った。彼は愛に燃える若者にとってごく自然な辛抱し切れない気持ちに駆り立てられ、一刻も早く愛人をこの腕の中に抱き締めたい気持ちでいっぱいだった。彼女こそは、この二ヶ月来、彼の欲望の対象だった。総ては若者だけに許された人生で二度と味わえない感動だった。初めての女、現実にそこにいる女、その女を男として愛する幸せ、パリの女がそうありたいと憧れるように、その女は彼に寄り添って美しく輝くことだろう、最早その女以外の誰かを愛することは彼には考えられなかった。パリにおける愛は、他所の愛とは全然違うものだ。男も女も、月並みな言葉で飾られた外観には騙されないで、誰もがいわゆる無私の愛の上に礼儀正しさを並べることになるのだった。この愛の国では女というものは単に心と感情を満足させればよいというのではなく、彼女達が完全に意識しているのは、人生を作り上げている幾千もの虚栄を満足させるという最大の責務を彼女達が負っているということである。そこでは愛は何よりも必然的に自慢の種になり、図々しく浪費癖があり、いかさまじみていて、贅沢でもあるのだ。もしルイ十四世の宮廷の総ての女性が、ラ・ヴァリエール嬢[95]のことを羨んだとしても、あの偉大な王をして、彼が息子のド・ヴェルマンドワ公爵の生誕を助けるためには自分のカフスが何千エキュにも値することを忘れて引き裂かしめたというあの情熱、それを引き込む力がヴァリエール嬢にはあったが、彼女以上の魅惑の人間を他に求めることが果たして出来ただろうか? 若くて金持ちで貴族であっても、貴方が更にもっと恵まれた状況であっても、貴方が偶像の前で焚く香の種を運んでくるだけ、偶像は一層貴方にとって好都合なものになるだろう、ただし貴方の偶像は一つに限られる。愛とは一種の宗教である。そこでの崇拝は他の総ての宗教よりも高くつくべきものである。彼の崇拝は早く過ぎ去る。少年時代は過ぎ去り、この少年は通り過ぎた跡をひどい荒廃の中に残すことを熱望するものなのである。感情のきらめきと屋根裏部屋の詩。こうした豊かさなくして愛は一体どうなるのだろうか? もしパリジャンの規範の過酷な法則に例外があるとすれば、少しも社会の原理に引きずられることがない魂、あるいは今にも尽きそうでいて絶えることのない澄み切った泉の傍らに息づいている魂の中に、そうした人物は孤独に耐えて存在している。このような魂は緑の木陰を離れることなく、森羅万象について、あるいは自身の内面について書かれたものの中に無限という言葉を聞くと幸せになり、俗世的な翼を哀れみながら、自身に相応しい翼を得る日を辛抱強く待っているのである。しかしラスチニャックは大部分の若者と同じように前もって豪奢さの味を知ってしまったので、社交界という闘技場へ完全武装して出場したいと思っていた。彼はそこでの熱狂に溶け込めた。彼は恐らく自分の中に社交界を支配する力があるのだろうと感じた。その方法も野望の目的も未だ分かってはいなかった。人生を満ち足りたものにする純粋で神聖な愛の代わりに、権力への渇望はもう一つの美しい目標たり得るものだ。それには個人的利益をことごとく収奪し、その上で国家の重要人物として自身を派手に売り込めば十分である。しかしこの学生は人が人生の流れを熟視し、それを判断出来る位置には未だ達していなかった。その頃の彼は、田舎で子供が幼い日に育てた木の葉のような清新で甘美な魅力を完全に振り払ったとはいえない状態にあった。彼は絶えずパリジャンとしてルビコン河[96]を越えようかどうしようかと迷っていた。彼には熱心な好奇心があったが、自分がお城に住むという野心は常に心の奥に抱いていた。しかしながら、彼の最後のためらいは前日に消えていた。その時、彼は自分のアパルトマンで自分の姿を見てみたのだった。彼は家柄から長年にわたって道徳的に優れた資質をはぐくんできたが、物質的富を享受するに際して、彼は故郷の人々の皮を剥いできた。そして彼はいかにも優雅な住居を得ることが出来た。そこからは輝かしい未来が見渡せるのだった。それゆえ、デルフィーヌを待ちながら、静かに今や幾らか我が物とさえ思える綺麗な閨房の中に坐っていると、彼には一年前にパリに出てきたばかりのラスチニャックがとても遠いもののように思えた。彼は道徳的観点でかつての自分をじっと見ていて自問するのだった。あの頃の自分は今この瞬間の彼自身に似たところはあるのだろうかと。
「奥様は寝室にいらっしゃいます」彼のところにテレーズか来て言った。彼は身震いした。
 デルフィーヌは暖炉の傍のソファに横たわっていた。瑞々しくて、くつろいでいた。このように波打つモスリンの上に横たわっている彼女を見ると、彼は彼女のことを果実が開いて花になるあの美しいインドの植物に比べずにはおられなかった。
「あー! やっと! 私達はここに来られたのね」彼女は感動して言った。
「貴女に報せたいことがあるんだ、当ててごらん」ウージェーヌは彼女の横に座って、彼女の手にキスするために腕を取った。
 ニュシンゲン夫人は招待状だと察して嬉しそうな身振りをした。彼女はウージェーヌに濡れた瞳を向け、腕を拡げて彼の首に飛びついた。虚栄心を満たされた彼女は有頂天になっていた。
「やっぱり貴方だわ」と叫んだ彼女は、「さすがに貴方ね、だけどテレーズがあたしの化粧室にいるのよ、ちょっと気をつけましょうね!」と彼の耳許で囁いた。それから大声で続けた。「貴方のお陰であたしのこの幸運があるのね? そう、あたしはこれを幸運と呼びたいわ。貴方によって勝ち取られた、これは自尊心の勝利以上のものじゃないかしら? 誰もあたしが社交界に現れるなんて思ってなかったでしょうね。貴方は多分たった今、あたしが唯のパリ女で小いちゃくて、下らない軽い女だと分かったでしょう。だけど、ねえ、考えてみて、あたしは貴方に従って行くためには何だってやるつもりだし、それに、あたしが今までなかったほどフォーブール・サンジェルマンに行きたくてたまらなくなったのは、貴方がそこの人だからよ」
「貴女は考えないのかい」ウージェーヌが言った。「ボーセアン夫人が我々に、彼女は舞踏会でニュシンゲン男爵に会う積りはないと言ってるように見えるんだが?」
「勿論そう思うわ」男爵夫人は彼に手紙を返しながら言った。「ああいう女性は無作法さにかけては天才的だわ。だけど、大したことない。あたしは行くわ。姉は当然そこにいるわね? あたし彼女がとても魅力的に化粧するのを知ってる。ウージェーヌ」彼女は声を落として続けた。「彼女はそこにひどい疑惑を晴らしに行くのよ。貴方は彼女について流されている噂を聞いてない? 今朝ニュシンゲンがあたしのところへ来て言ったんだけど、仲間内で昨日、皆がそのことであけすけに話してたんですって。それがまあ、どうでしょう! 妻と家族の名誉がかかってて! あたしは自分が姉のことで責められて傷つけられているような気がしたわ。確かな人の話では、ド・トライユ氏は総額一〇万フランの為替手形に裏書したそうよ。そのほとんどが期日も迫っていて、彼はこの件で訴えられそうなんですって。この瀬戸際になって、姉はダイヤモンドを例のユダヤ人に売ったらしいの、その美しいダイヤモンドというのが、貴方が彼女に会った時見たもので、ド・レストーの母上から譲られたものなのよ。つまり、この二日間というもの、皆はこの問題で持ちきりなのよ。あたしはまたアナスタジーがドレスに金銀の刺繍をさせて、ボーセアン夫人の舞踏会では皆の目をひきつけたいと思ってることも知ってるの。あそこで彼女の精一杯の輝きをそのダイヤモンドと共に見せびらかしたいということもね。でも、あたしは彼女には負けない積りよ。彼女はいつもあたしに打ち勝とうと一生懸命だったわ。あたしに対して良くしてくれたことなど一度もなかった。あたしの方は彼女にはずいぶん尽くしたわ。彼女にお金がない時はいつもあたしがお金を用立ててあげたの。だけど、人のことは放っておきましょう。今日はあたしはただ幸せになりたいだけ」
 ラスチニャックは午前一時になってもニュシンゲン夫人の家にいた。彼女は恋人にさよならの挨拶を惜しげもなく言わせた。それはあのまた来る喜びでいっぱいのさよならであって、ある種の憂愁を込めて彼女に言われたのだった。「あたしはとても臆病だし迷信を信じるたちなの。だからあたしの幸運は何か途轍もない破滅によって報いを受けるのではないかというあたしの予感に名前をつけて下さらないかしら」
「子供だね」ウージェーヌが言った。
「あー! 今夜のあたし、何と子供っぽいのかしら」彼女は笑いながら言った。
 ウージェーヌは翌日にはそこを離れるという確信を抱いて、メゾン・ヴォーケに戻ってきた。道中で彼は若者が幸運の味を唇の上にのせた時、彼等が皆見る甘美な夢に身を任せていた。
「おや?」ラスチニャックが戸口の前を通り過ぎようとした時、ゴリオ爺さんが言った。
「分かってますよ!」ウージェーヌが答えた。「明日、何もかも話します」
「総て、ですね?」爺さんが叫んだ。「おやすみなさい。我々は明日、我々の幸福な人生を始めるんだ」
 翌朝、ゴリオとラスチニャックはこの素人下宿を去るべく、使いの者が良い報せを持ってくることだけを待っていた。その時、正午頃だったが、メゾン・ヴォーケの戸口の前で停まった馬車の音が、ネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通に響き渡った。ニュシンゲン夫人が馬車から降りてきて、彼女の父がまだ下宿にいるかどうかを尋ねた。シルヴィから確認を取った彼女はゆっくりと階段を上がっていった。ウージェーヌが自分の部屋にいることを、その時、隣人は知らずにいた。彼は朝食の時にゴリオ爺さんに彼の衣類などを新居に持って行ってくれるように頼んでいて、その際、四時にはダルトワ通でまた会おうと話していた。しかし、爺さんが運搬人の手配をしていた間に、ウージェーヌは学校からの呼び出しに直ぐさま行くと応じていたが、誰も気付かないうちにまた戻っていた。彼はヴォーケ夫人との決済をする積りだった。それはゴリオに清算を任せておいたら、爺さんのあの狂信的性格でもって間違いなく彼の分まで下宿代を払ってしまうだろうと考えたからだった。が、女家主は外出していた。ウージェーヌは何か忘れ物がないか確かめるため自分の部屋に戻った。そして引き出しの中に彼の署名以外は空白の白地手形があるのを見つけた時には、よくぞ確認したものだと思ったものだった。それはヴォートラン宛の白地手形だったが、彼が借金を返したその日に無造作にそこへ放り込んでいたのだった。火がなかったので、彼はそれを細かく破り捨てようと思ったが、その時、デルフィーヌの声がしたので、彼は音を立てないようにして、じっとして彼女の声を聞こうとした。彼女は彼に対してはどんな秘密もないはずだと彼は考えていた。その時、最初の言葉から、彼は父と娘の間で交わされた会話に恐ろしく引き込まれて聞き入ってしまった。
「ああ! お父様」彼女が言った。「貴方が私の財産について、私に破産なんてさせないように、もっと早くから訊ねてくれる気があればよかったのに! ここで今、話せるかしら?」
「うん、ここには誰もいない」ゴリオ爺さんが上ずった声で答えた。
「それじゃ、何か売れるもの持ってないかしら、お父さん?」ニュシンゲン夫人が尋ねた。
「お前は」と老人が答えた。「私の首を斧ではねにやってきたんだね。神様はお前を許して下さるだろう、我が子よ! お前には私がどんなにお前を愛しているのかが分からないんだ。もしお前がそれを知っていたら、お前がそんなことを簡単に言うはずがない。特に絶望的なことなんてないのに。よりによって私達が揃ってアルトワ通へ行こうって時にだよ、お前がここへ私を訪ねてくるような、そんな緊急の用事って一体何だね?」
「まあ! お父さん、破滅に瀕してまずどう動いたらよいのか、誰だって分からないんじゃない? あたしは馬鹿よ! 貴方の代訴人は私達の破綻を少し早く見つけ過ぎたんだけど、それは間違いなくやがて明らかになるわ。貴方の商人らしい長年の経験が私達に必要になってきたの。だからあたしは溺れそうになった人が一本の木の枝にしがみつくように、貴方を頼ってここへ駆けつけてきたの。デルヴィーユ氏がニュシンゲンに会った時、彼はニュシンゲンにいっぱい三百代言を並べ立てて、手続きの大変さで彼を脅した末に、裁判長の許可は直ぐに取ってあげるとか何とか彼に言ったのよ。ニュシンゲンは今朝あたしのところへ来て、あたしに訊くのよ、あたしが彼や私自身の破産を望むのかって。あたしは答えてやったわ。あたしはこの手のことは何も分かりません、あたしにはあたしの財産があります、あたしがこれから所有しようとしている財産もあります、そしてこうしたことは全部今回の揉め事に関係しているとあたしの代訴人は見ています、そしてあたしは誰よりも無知で、この案件について聞いたところで何も出来ないんですってね。こういう言い方は貴方があたしに教えたんじゃなかった?」
「そうだよ」ゴリオ爺さんが答えた。
「ほーらね!」デルフィーヌが言った。「彼はあたしを自分の領分に巻き込んでるのよ。彼は自分の資本とあたしのをまだほとんど稼動していない事業に注ぎ込んだの、そしてそれ以外にまだ大きな額が必要になったのよ。もしあたしが彼にあたしの持参金をまた提示するように強要したら、彼は破産申し立てをせざるを得なくなるわ。一方で、もしあたしが一年待つことに同意するなら、彼は名誉にかけて、私に私の資本を二倍も三倍にもして返してくれると誓っているの。そして私の資本を最後には私が総ての財産を思い通りに動かせるような領域で運用すると言うのよ。ねえ、彼は誠実だった。彼は私を尻込みさせたくらいよ。彼は自分の行動について私に謝ったわ。彼は私に自由を返した。彼は私が思うままに行動すること、彼をそのまま責任者として置いておきながら、事業は私の名義で運営することも認めた。彼は私に約束した。私に彼の誠意を証明するため、その都度デルヴィーユ氏を立ち会わせることをね。それというのは彼があたしを所有者に設定している善意の証書が適切に作成されているかどうかをあたしが判断しようと思うと、デルヴィーユ氏に見てもらいたいと思うでしょ。要するに彼は手も足も出ない状態であたしの手の内にあるのよ。彼はまだ二年間、会社の経営を任せて欲しいと言ってる。そして、彼の同意なしにあたし自身のための出費を絶対にしないで欲しいと懇願してるの。彼はあたしに証明したわ、彼が外観をそのまま保持できたものの総て、彼が彼の踊り子に贈ったもの、そして彼が何よりも厳しく対処しなければならない、それでいて中味のはっきりしない経済、それは彼の信用を損なわないようにしながら、投機を手仕舞うこと。あたしは彼をじゃけんに扱ってきたわ。あたしは彼を疑って追い詰めて、利益を聞き出そうとしたわ。彼はあたしに帳簿を見せてくれたわ、しまいには彼は泣き出したの。あたしはこれまで、男の人があんなになるのを見たことないわ。彼は我を忘れてしまって、自殺すると言い出したの。彼は精神錯乱になってたわ。あたしは彼のことを哀れに感じたわ」
「それでお前はやつの無駄話を全部信じたというわけだ」ゴリオ爺さんが叫んだ。「やつは偽善者だ! 私は仕事で何人もドイツ人に出会っている。奴等は大体誠実で、とても率直だ。だが、奴等の率直で気立ての良い見かけの陰で、いったん抜け目のないペテン師的一面が出てくると、もう奴等のひどさは人一倍だ。お前の婿さんはお前を濫用してる。彼は追い詰められた気持ちでいるんだろう。彼は死んだふりをしてるんだ。彼は自分の名義では何も出来ないんで、むしろお前の名義で実権を握り続けたいのだ。彼はこの境遇を利用して、彼の商売の確率をより強固なものにしようと思ってるんだろう。彼は不実というよりもむしろ鋭敏だというべきだろう。抜け目のないやつなんだ。いや、いや、私は娘達がまだどこを突いてみても満足のゆく状態でないのを放っておいて、ペールラシェーズ墓地に消え去ってしまうわけにはいかんよ。私はまだ商売の知識を持っている。やつはやつの資金を幾つかの企業に投入したと言っている。そこでだ! 彼の儲けというのは有価証券、借用証書、個人協定の形をとっているんだ! そして彼はお前に夫婦共有財産を見せた上で、財産に関してのそれぞれの権利を決定したというわけだ。私達はもっと良い投機を選ぼうじゃないか、私達は幸運をつかむんだ、そして私達は権利書の名義を我々のデルフィーヌ・ゴリオにして保有するんだ。ニュシンゲン男爵同意による夫婦別居だ。だが彼の方は我々が冗談を言ってると思うかな、あいつは? 彼は私が二日間でもお前を財産もパンもなしで放っておくなんてこと考えてるんだろうか? 私はたとえ一日でも、一晩でも、一時間だってそんな考えを持つことは出来ない! 本当にそんなこと考えてるんだったら、私はそんなものには従わない。全く! 何という! 私は五十年という私の人生でずっと働いてきた。私は肩に粉袋を担いできた、にわか雨にあって苦労もした、私は生涯ずっと、お前のためには、切り詰めた生活をする積りだ。だけどなあ、誰が私にあの仕事をまたやらせてくれる? 荷物を軽くしてくれる? そして今では、私の財産も命さえも煙のように消えてしまった! これでは私は怒りの余り死んでしまう。天にまします聖なる神により、私達は総てをはっきりと照らし出して、帳簿を、金庫を、そして関連企業を精査しようじゃないか! 私は眠らない、ベッドに入らない、食べることもしない、彼がお前の財産はそっくり全部ここにあるということを証明してくれるまではな。幸いにも、お前は財産を分離した。お前はデルヴィユ先生を代訴人にするといいだろう。幸い彼は正直な男だ。何としても! お前は大事な可愛い百万フラン、お前の五万リーヴルの年金をお前の生涯の最後の日まで守り抜くんだぞ、さもないと私はパリに大騒ぎを起こしてやる。あー! あー! しかし私は裁判所に掛け合ってみるぞ、裁判所と言うところは私達を犠牲にするところなのかってな。お前も知ってる通り、お金の傍にいれば、心静かで幸福にしていられる。もちろん、この考えは私の災難を軽くしてくれるし、私の悲しみを静めてくれる。お金、それは人生そのものだ。金があれば何でも出来る。彼は私達に向かって一体何を歌ってくれるんだ、あのアルザスの太った切り株野郎は? デルフィーヌ、あのデブの野郎にはびた一文でも負けてやるな。やつはお前を鎖で縛って不幸にするだけだ。もしお前が必要なら、私達はやつとしっかり戦おう、そしてやつに真っ直ぐに歩かせようじゃないか。うわあ! 私の頭は炎上してしまった。私の頭の中のものが私に火をつける。私のデルフィーヌが貧苦にあえぐなんて! おー!私のフィフィーヌ! お前! 何てこった! 私の手袋は何処だ? さあ! 出掛けよう、私は全部調べに行くぞ、台帳、業務内容、金庫、手紙、直ぐにだ。彼がお前の財産が危険に晒されていないことを証明し、私がこの目でそれを見極めない限り、私は黙っちゃいないぞ」
「お父さん! 品良くお願いするわ。もし貴方が少しでもこのことに関して復讐したいような気持ちを持っていて、そしてもし貴方が強い敵意による意図でも見せるようなことでもあれば、私はもう途方にくれてしまいます。彼は貴方のことをよく知っています。彼は全く当然のことですが、貴方のアドヴァイスで、私が自分の財産について問い合わせたことに気がついています。彼は私の財産を手でつかんでいます。そして持ち続ける積りでいます。彼は資本金を全部持って逃げるタイプの男です。そして私達を放っちらかしてゆくんです、悪党よ! 彼は私が彼を訴えて、自分の名を汚してしまうようなことはしないのを良く心得ているんです。彼は同時に強くもあり弱くもあるんです。私は総てを良く調べました。もし私達が彼を追い詰めたら、私自身が破綻してしまいます」
「だが、やつのやってることは一種のペテンだろ?」
「まあそうね! そうよ、お父さん」彼女はそう言って椅子の上に身を投げ出すようにして涙ぐんだ。「私はそのことを認めたくなかったの。何故なら、あんな性質の男と私を結婚させたことで、貴方を悲しませたくなかったのよ! 内に秘められた習性と明確に意識的な行為、心と身体、総てが彼の中では調和しているの! それは恐ろしいことだわ。私は彼を憎み軽蔑する。そうよ、彼が私に言ったあの後では、この下劣なニュシンゲンをもう尊敬するなんて出来ないわ。彼が私に話してくれた商売の統合に向かって身を投じるのは分かるけど、その男にはこれっぽっちの繊細さもなくて、今の私の心配は彼の魂の中を私が完全に読み切ったことから来てるの。彼は私にはっきりと提案したわ、彼――私の夫――には自由裁量を渡せと、貴方にはこれが何を意味するかお分かり? 苦しい時には私を自由に利用させてくれないかと言うのよ、要するに私に名義人として彼の役に立ってくれないかって言うのよ」
「しかし法律はそういうことのためにあるんだろう! まさに、その手の婿さん共を処刑するためにグレーブ広場[97]があるんだ。だが、処刑人がいないんだったら、私自身がやつを処刑せにゃならん」
「いいえお父さん、彼を処罰する法律はないわ。一言でも彼の言い回しを聞いてみて。遠回しな言い方はしないで、彼は言い立てるのよ。『それじゃ、総て失われて、貴女は一文無しだ。貴女は破産だ。というのは、私は共犯者として貴女以外の誰も選ぶことが出来ないからだ。それが嫌なら、貴女は私の事業の運営を私に任せて欲しい』とてもはっきりしてない? 彼はまだ私に執着してるのよ。私の妻としての誠意を彼に再確認させたわ。彼は私が彼に彼の財産を残していることを知り、私には私の財産については満足させてくれたの。これはある意味で不誠実、悪徳商人の結託でね、私は破産するのを避けるために同意しなければならないのよ。彼は私から私の良心を買ったの、そしてその代償として、私に好きなようにウージェーヌの女として過ごすことを許してくれてるのよ。『わたしはお前が間違いを犯すのを許している。だから私が可哀想な人達を破綻させる罪を犯すのを放っておいてくれ!』この言い方、とても明解だと思わない? 彼が事業をすると言ってることが一体何か、あなた知ってる? 彼は何もない更地を彼の名義で買うの。それから、そこにダミーを使って家を建てるわけ。ダミーは馬鹿でかい建物にかかわる建築業者との一切の取引を完了させ、ダミーは実際に期間の長い手形で支払うの。一方で夫はうんと安い金額を支払ってダミーからこの建物を買い取ってしまうの。それからダミーは故意に破綻することによって手形を不渡りにして、騙された建築業者への支払いは踏み倒してしまうわけ。ニュシンゲン商会という名前は可哀想な建築業者の目をくらますために役立ってきたわ。私はこの騙しの手口はよく理解してるのよ。ニュシンゲンが必要に応じて巨額の支払いを証明するために、相当な金額の有価証券をアムステルダムやロンドンやナポリやヴェニスに送っていたのも知っています。彼が編み出す複雑な資金の流れを追いきれる人が果たしているかしら?」
 ウージェーヌはゴリオ爺さんの膝の重苦しい音を聞いた。爺さんは明らかに部屋の床に倒れたようだった。
「ああ、私はお前に何をやってきたんだ? 私の娘がこんな惨めなことになるなんて、彼は望み次第に何でも彼女に要求する。娘よ、すまない!」老人が叫んだ。
「そうよ、もしあたしが深淵に落ち込んでいるとすれば、多分お父さんの間違いがあるでしょうね」デルフィーヌが言った。「私達が結婚した時、そこにはほとんど正当な理由なんてなかった! 私達は世間のことを知ってたかしら、仕事のこと、人間のこと、人の品性のことを? 父親たるものが私達のために考えてくれたらよかったのに。お父さん、あたしは貴方を責める気は全然ありません、今の言葉ごめんなさい。こんなことになったのは、間違ったのは全部あたしです。いいえ、泣かないで、パパ」彼女は父親の額にキスをしながら言った。
「もう泣くな、私の可愛いデルフィーヌ、目をこちらに向けて、私のキスで涙をぬぐってあげよう、さあ! 私は私の頭を回復するぞ、そして、お前の主人が掻き回して紛糾させた事態を解決してやる」
「いいえ、私のことは放っといて。私は何か方法を考え出せるわ。彼は私を愛してるの。でね! 私は彼への影響力を利用する積りよ。そして私のために早急に何か不動産投資をさせる積りよ。恐らく私は彼にアルザスの土地を、私のニュシンゲン名義で買い戻させることになるわ、あの土地に彼は執着があるの。パパ、明日、彼の帳簿と業務内容を調べるために来てちょうだい。デルヴィユ氏は商売のことになるとちんぷんかんぷんなのよ。でも、明日はやめときましょう。私は余り興奮してばたばたしたくない。ボーセアン夫人の舞踏会は明後日にあるのね。私はあそこで綺麗ではつらつとして、私の大好きなウージェーヌに面目を施させたいの。今からでも見てくれに気をつけなくっちゃ! じゃ、彼の部屋を見に行きましょう」
 そしてこの瞬間、一台の馬車がネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通に停まり、シルヴィに話しかけるレストー夫人の声が聞こえてきた。「私の父はいますかしら?」この状況は幸運にもウージェーヌを救った。彼はベッドに飛び込んで寝たふりをしようと思案していたところだった。
「ああ! お父さん、貴方はアナスタジーのことも皆さんに話してたの?」デルフィーヌが姉の声に気づいて言った。「彼女の家庭にも困ったことがあるようね」
「一体何事だ!」ゴリオ爺さんが言った。「また私に用事なんだろう。私の哀れな頭では、二重の不幸には耐えられんよ」
「こんにちはお父さん」伯爵夫人が入ってきて言った。「あら! あんたもいたの、デルフィーヌ」
レストー夫人は妹に出会って戸惑った様子を見せた。
「こんにちはナジー」男爵夫人が言った。「あなたはあたしがいるのがそんなに不思議なの? あたしはお父さんに毎日会ってるのよ、あたしはね」
「いつから?」
「もしあなたがここへ来てたら、あなたは当然知ってるはずでしょ」
「もったいぶらないでよ、デルフィーヌ」伯爵夫人は悲しそうな声で言った。「私はとても運が悪くて、私は破産してしまった。ねえ、お父さん! ああ! 今度は大変な額の破産よ」
「どうしたんだ、ナジー?」ゴリオ爺さんが叫んだ。「何でも話すんだよ、いいから」彼女は青ざめた。「デルフィーヌ、さあ、何とか助けてやってくれ、お前が彼女にもっと親切にしてやるんなら、私はお前を今までよりももっと愛するぞ、だがな、私が愛してきた以上なんて無理だよ、お前!」
「ねえ私のナジー」ニュシンゲン夫人が姉を坐らせながら言った。「いいこと、あなた分かるでしょ、ここにいる私達二人があなたの言うことなら何でも聞きたいと思っていることくらい、ずっとあなたのことを愛しているってことを。分かってよ、家族の愛情が一番確かなものなのよ」彼女は姉に気つけ薬をかがした。伯爵夫人は妹の方に向き直った。
「私はもう直ぐ死ぬ」ゴリオ爺さんが土くれの火を掻き回しながら言った。「さあ、お前達二人とも火の傍に来なさい。私は寒い。どうしたんだ、ナジー? 早く言ってくれ、お前は私を殺す……」
「まあ何てことを」びっくりして夫人が言った。「夫は何もかも知っています。考えてみてよ、お父さん、大分以前になるけど、貴方はマクシムが振り出したあの為替手形のこと思い出しません? まあいいわ、それは大したことじゃないから、私はもう大分支払っていたんです。一月の初め頃、ド・トライユ氏がとても心配そうな様子だったの。彼は私には何も言ってなかったわ。だけど好きな人の心が何かで悩んでいるのを読み取ることなんてとても簡単だわ。それに虫の報せもあったわ。結局、彼のことが誰よりも大事なの、私がこれまでに会った誰よりも優しいの、それで私は最高に幸せだったわ。可哀想なマクシム! 彼の考えでは、彼は私に別れを告げる積りだったの、そう彼は言ってるわ。彼は頭にピストルを撃ち込む積りだったの。結局、私は彼をひどく苦しめた、いっぱい哀願もした、私は二時間も彼の前に膝まづいていたの。彼は一〇万フラン要ると私に言ったわ! ああ! パパ、一〇万フラン! 私は頭がおかしくなったわ。貴方はそんなの持ってないわよね、私は全部取られた……」
「いいや」ゴリオ爺さんが言った。「私はそんな金は持ってない、少なくとも盗みでもせん限り無理だ。だがお前のことを知っていれば盗みをやってれば良かったくらいだ、ナジー! 何でも言いなさい、やってやろうじゃないか」
 まるで瀕死者のあえぎのように搾り出されたこの悲痛な言葉を聞き、その人がもう手も足も出せなくなった父親の愛の最期を自ら責めるのを聞いて、二人の姉妹は一瞬沈黙した。この絶望的な叫びを聞き、ましてその叫びは深淵に落下する岩石のように淵の深さをまざまざと知らしめた時には、いかなるエゴイズムの持ち主も平静ではいられまい?
「私はそうしたお金を私のものでもないものを勝手に処分しては調達していたことに気がついたんです、お父さん」伯爵夫人は泣き崩れながら言った。
 デルフィーヌは心を動かされ、姉の首に頭をもたせ掛けて涙を流した。
「みんな全くその通りよ」彼女が言った。
 アナスタジーはうなだれた。ニュシンゲン夫人は全身でそれを抱え、優しくキスをした。そして胸の上にそれを支えてやった。「ここでは、あなたはどうのこうのと言われることもなく、いつだって愛されてるのよ」彼女はアナスタジーに言った。
「お前達」ゴリオが弱々しい声で言った。「逆境になって、お前達の団結がどうしても必要なのかね?」
「マクシムの命を救うため、つまり、私の幸せの総てを救うため」伯爵夫人は熱く胸の高鳴るような優しさの証を得たことに力を得て答えた。「私はあなたもご存知のあの高利貸し、地獄から来た男、何事もその心を和らげることはないと言われるあのゴプセックさんのお店に、レストー氏がとても愛着を感じている家族のダイヤモンド、彼自身のや私のものや、その他総てを私は売ってしまった。売ってしまったの! この気持ち分かる? 彼は守られたわ! だけど、私は、私は終わりよ。レストーは何もかも知っているわ」
「誰が知っているんだ? どうして? そいつを殺してやる!」ゴリオ爺さんが叫んだ。
「昨日、彼が私を自分の部屋へ呼んだの。私はそこへ行った……『アナスタジー』彼は私にこんな声で言った……(ああ! 彼の声だけで十分よ、私には何のことか直ぐにわかったわ)、『君のダイヤモンドはどうした?』『私の部屋に』『いや』彼は私を見据えながら言ったわ。『それはあそこだ、私の整理ダンスの上だ』そして彼はハンカチで覆っていた宝石箱を私に見せたの。『貴女はこれが何処にあったか分かるだろう?』彼は私に言った。私は彼の膝の前にくずおれた……私は泣いて、私がどんな死に方をするのを見たいかと彼に尋ねたわ」
「お前はそんなことを言ったのか!」ゴリオ爺さんが叫んだ。「こんちくしょう! 手を変え品を変えお前を苦しめるやつは、私が元気でいる限り、恐らく間違いなく私がじわじわと焼き殺してやる! そうさ、私はやつをばらばらにしてやる、まるで……」
 ゴリオ爺さんは黙った。言葉は彼の喉の中で消えてしまった。
「結局のところ、ねえどうなの、彼は私に何だか死ぬより辛いことを要求したんだわ。神様も私が聞かされたような事はどんな女にも聞かせないようにするはずだわ!」
「私はあの男を殺してやる」ゴリオ爺さんが静かに言った。「だが、彼の命は一つしかない。そして彼は私に対して、二度殺されても仕方のないようなことをした。どうなるんだ?」
 彼はアナスタジーをまじまじと見つめながら言った。
「それでね」伯爵夫人は話の続きに戻って言った。「一呼吸おいて彼は私を見つめた。『アナスタジー』彼が私に言った。『私は沈黙して総てを心に秘めている。我々はこれからも一緒に暮らそう、我々には子供がいるんだ。私はド・トライユ氏を殺しはしない。私は彼を見逃してやっていい。だがその代わり、私が彼を忘れるには、私が人間的公正さを欠くことも許されねばならない。お前と抱き合ってる彼を殺す事は、子供達の名誉を汚すことになる。しかし、お前の子供達、子供達の父親、この私達の誰もが破滅するのを見たくなければ、私はお前に二つの条件をつけたいと思う。答えてくれ。一人でも私の子供はいるのか?』私は答えました、いますと。『どの子だ?』彼は尋ねました。『エルネスト、長男です』『よろしい』彼は言いました。『今この場で、私に誓ってくれ。今後、ある一つのことについて、私の言うことに従うことを』私は誓いました。『お前は私の要求があれば、お前の財産の売却に同意すること』」
「同意してはいかん」ゴリオ爺さんが叫んだ。「そんなものには決して同意するな。あー! あー! ド・レストーさん、貴方は女性を幸せにするということが、どんなことか分かっていない。彼女は貴方がいるその場所に幸せを見つけに行ったんだ。それを貴方は無益で愚かな方法で罰すると言うのか?……私はここにいる、この私が言うんだ、ちょっと待て! 彼は行く手に私が立ちふさがっているのを見るだろう。ナジー、安心しなさい。ああ、彼は自分の跡継ぎのことが気になるんだ! よしよし、私は彼の息子でもって彼の気持ちをつかんでやる、ちょっ! 忌々しいことに、そいつは私の孫なんだな。私はいずれは彼、その子と会えるんだよね? 私はその子を私の故郷の村へ連れてゆく。私は彼がそこで暫くおとなしく暮らせるように面倒を見る。私は彼の父、あの冷酷な人でなしに、こう言って私の言うことに従わせる積りだ。『二人でさしで話そう! もしあんたが息子を返して欲しけりゃ、私の娘に彼女の財産を返してくれ。そして彼女のことは彼女の好きに任せろ』とな」
「父さん!」
「はいよ、お前の父だ! ああ! 私はまさに本当の親父だよ。どういうふざけた貴族野郎が私の娘達を虐めていいって言うんだ。畜生! 私は自分でも何をやらかすか分からんぞ。私は虎のように凶暴だ、私はこいつ等二人の男を食い殺してやりたい。ああ、子供達! お前達の人生はどうなるんだ? 確かなのは、私の死だ。私がもういなくなったら、お前達は一体どうなるんだ? 父親たる者は自分の子供がいる限りは生き延びなければならん。畜生、お前達の世界は何てひどい具合になってるんだ! しかも聞くところによると、お前には悪いことに子供まである。お前は私達がこれ以上子供のことで苦しめられることのないようにすべきなんだ。なあ、お前達、どうしたんだ! 私がお前達と会うのは、いつもお前達の困った時ばかりじゃないか。お前達は私にお前達の涙しか見せてくれない。まあ仕方ない! そうさ、お前達は私を愛してくれる、それは分かってる。おいで、おいで、ここでは何でも言いなさい! 私の心は広い、何だって受けとめてやる。そうさ、お前がそれを刺し貫いたとしても、断片がなおも父親の心として働き続けるんだ。私はお前の苦労を取り上げてやりたい、お前の代わりに苦しみたいんだ。ああ! お前達が幼かった頃、お前達はあんなに幸せだったのに……」
「私達、良かったのはあの頃だけだったわ」デルフィーヌが言った。「私達が穀物業であれだけ高い地位にいたのに、没落したあの瞬間て、いつだったのかしら」
「お父さん! それが総てでもないのよ」アナスタジーがゴリオの耳許で言ったので、彼は飛び上がった。「ダイヤモンドは一〇万フランで売れたんじゃないのよ。マクシムは訴追されたの。私達は一二〇〇〇フランしか支払えなかった。彼は私に二度と賭博はやらないと約束した。社交界で私に残されたものは彼の愛だけだったの、そして私は彼が私に漏らしたように彼が死んでしまわないように、彼にとても高い支払いをしたの。私は彼のために私の財産、名誉、休息、子供を犠牲にしたの。ああ! せめてマクシムに自由と名誉をお与え下さい。そして彼が社交界に留まり、然るべき地位で働くことを叶えてやって下さい。今、彼が私に返さなければならないものは幸福だけです。私達には子供がありますが、彼等には財産がありません。もし彼がサントペラジー[98]の牢獄へ入れられたら、何もかも失われてしまいます」
「私には財産はない、ナジー。もう、もう何も、もう何もない! これで世界は終わりだ。おー! 世界はもう崩壊だ、間違いない。逃げ出すんだ、前もって避難するんだ! ああ! 私はまだ銀のバックルを持っていた、それに食器が六セット、これは私が人生の門出の頃、手に入れたものだ。結論は、私にはもう一二〇〇フランの終身年金しかないということだ……」
「一体貴方は貴方の終身年金をどうなさったの?」
「私はそれを売ってしまった、私には必要な分だけの配当が入るように少しだけ残してあるがね。フィフィーヌのアパルトマンを整えるのに一二〇〇〇フランが要ったんだ」
「あんたのためだったの、デルフィーヌ?」レストー夫人が妹に言った。
「おー、それは何てこともないんだ!」答えたのはゴリオ爺さんだった。「一二〇〇〇フランかかったんでね」
「判ったわ」伯爵夫人が言った。「ド・ラスチニャックさんのためね。あー! ちょっと待って。私がどうなってるか見てよ」
「ねえ、ド・ラスチニャックさんは若者だけど、愛人を破滅させるような人じゃないわ」
「ありがとう、デルフィーヌ、私が今、困り果てているのに、あなたはもう少し優しく接してくれるかと思っていたわ。だけど、あなたはこれまでも決して私を愛してくれてなかったのね」
「勿論彼女はお前を愛してる、ナジー」ゴリオ爺さんが叫んだ。「彼女はいつだって私にそう言っている。私達はお前のことをよく話してるんだ。彼女はお前のことを美しい、そして彼女自身はただ可愛いだけだと言い張るんだ、彼女が!」
「彼女が!」伯爵夫人が繰り返した。「彼女は綺麗で冷たいのよ」
「そうであるにしても」デルフィーヌが顔を赤らめて言った。「あなたがあたしに対して、どうしてそんな風に振舞うの? あなたはあたしを否認した、あなたはあたしが行きたいと思ってた家の戸を全部閉じさせた。つまり、あなたはあたしを苦しめるためならば、どんな小さな機会も逃さなかった。そしてあたしは、あなたの様にこの可哀想な父さんから、千フランあれば千フラン、彼の有り金全部巻き上げにやってきたことがあって? それで彼の財産は今のような状態に減ってしまったんでしょ? ほうら、あなたのせいだわ、姉さん。あたしはね、あたしは出来るだけ多く父さんに会いに来てたわ。あたしは彼を外へ放り出すようなことはしなかったし、あたしが彼を必要とした時だって、彼におべっかを使いにやってきたことなんてないのよ。彼が私のために一二〇〇〇フラン使ってくれたことさえ私は知らないのよ。あたしは律儀なの、あたしは! あなた知ってるじゃない。第一、パパが私に贈り物をした時だって、私が欲しいと言ったことは決してないのよ」
「あなたは私より幸せなの。ド・マルセイさんは金持ちだったけど、あなたは、それを知ってたから彼に擦り寄ったんじゃない。あんたなんて規定重量不足の金[99]のようなみっともない女だったのよ。さようなら、私には妹もないし……」
「黙るんだ、ナジー!」ゴリオ爺さんが叫んだ。
「社交界の誰もが信じられないようなことを繰り返すあなたのような姉は他にいないわ。あなたは恐ろしい人よ」デルフィーヌは姉に向かって言った。
「お前達、お前達よ、黙ってくれ、でないと私はお前達の目の前で死ぬぞ」
「さあナジー、あたしはいいのよ」ニュシンゲン夫人が引き取って言った。「あなたは不幸せなんだもん。確かに、あなたに比べれば、あたしはましだわ。あなたを助けるために、あたしに何か出来そうな時だったら、あたしにこんな揉め事でも話してね。あたしの夫の部屋に相談に行ってもいいわよ。ただし、よそ様のことどころか、あたし自身のことでも、なかなか夫の部屋までは行けないんだけど……まあ、あなたがこの九年間、あたしに対してやってきた過ちの結果なんだから仕方ないのよ」
「お前達、お前達よ、抱き合いなさい!」父が言った。「お前達は二人とも天使だよ」
「いいえ、私を放っといて」伯爵夫人はそう叫んで、彼女の腕を取ったゴリオの抱擁を振り払った。「彼女なんて私の夫くらいの同情すら私に対して持っていないわ。そもそも美徳なんかを話すべきじゃなかったんだわ!」
「あたしはド・トライユ氏があたしに二〇万フラン以上の損害を与えたなどと認めるくらいなら、ド・マルセイ氏にお金を借りてるんだと人に思われる方がまだましだわ」ニュシンゲン夫人が答えた。
「デルフィーヌ!」伯爵夫人は彼女の方に一歩近づいて叫んだ。
「あなたがあたしのことを中傷するから、あたしが本当のことを言ったまでよ」男爵夫人が冷たく言い返した。
「デルフィーヌ! あんたって人は……」
 ゴリオ爺さんは伯爵夫人に飛びつくと彼女を制止した。そして彼女の口を手で覆って、彼女にそれ以上喋らせないようにした。
「ええ? お父さん、今朝は貴方、一体何をしようっていうの?」アナスタジーが彼に言った。
「うーむ! そう、私が間違っていた」哀れな父は手をズボンで拭きながら言った。「だが、お前が来ることを私は知らなかった。私は引越しをするんだ」
 彼は非難を自分の方に引き寄せて喜んでいた。それで娘の怒りを彼に向けさせることが出来たからである。
「ああ!」彼は坐りながら続けた。「お前達は私の心を引き裂いた。私はもう直ぐ死ぬ、お前達よ! 頭に火がついたように、頭の中が煮えてるんだ。だからお願いだ、優しくしておくれ! お前達のお陰で私は死にそうだ。デルフィーヌ、ナジー、しっかりするんだ、二人とも、理屈は合ってるにしろ間違ってるにしろ。どうしたもんかなあ、デデール」彼は男爵夫人に向き直ったが、その目には涙が溢れていた。「彼女には一万二千フランが必要だ、そのことを考えてみよう。そんな目で見ないでくれ」彼はデルフィーヌの前に膝まづいた。
「私を喜ばせるために彼女に謝ってくれないか」彼はデルフィーヌの耳許で言った。「姉さんは一番不幸せな目に会っている、そうだろ?」
「私の可哀想なナジー」デルフィーヌは父の顔の上に刻まれた悲しみからくる野蛮で常軌を逸した表情にぎょっとして言った。「私が間違ってました。私を抱いて……」
「ああ! お前は私の悲しみを慰めてくれる」ゴリオ爺さんが叫んだ。「しかし、何処で一二〇〇〇フランを見つけたもんかのう? 私が軍隊の補欠にでも志願するか?」
「あー! お父さん!」二人の娘は彼を取り囲んで言った。「駄目、駄目」
「神も貴方のその考えにご褒美を下さるでしょうが、我々の生活の足しにはなりません! そうよね、ナジー?」デルフィーヌが言った。
「その上、お父さん、そんなのは雀の涙よ」伯爵夫人が意見を述べた。
「それじゃ、もうどうしたって駄目なのか?」老人は絶望的に打ちひしがれて叫んだ。「私はお前を救ってくれるものなら、何にだって身を捧げるぞ、ナジー! 私はお前のために人一人殺したっていい。私はヴォートランのようにやってやる。そして徒刑場にでも行くさ! 私は……」彼は雷に打たれたように、そこで黙った。「もう何もない!」彼は髪をかきむしりながら言った。「もし泥棒するのにいいところを知ってたらなあ、だが、上手く泥棒出来るところを見つけるのも難しいな。そして銀行強盗となると、こんな難しいことは他にないだろうな。もう私は死ぬべきなんだ。私にはもう死ぬ以外に道はないんだ。そうだ、私がいたって何の役にも立たない、私は最早父親でもない! 彼女が私に頼んでいる、彼女には必要なんだ! それでこの私は、惨めだ、私には何もない。あー! お前は終身年金を持ってたんだが、くそ爺の悪党め、しかもお前には娘達までいる! しかし、お前は一体娘達を愛してるのか? 犬のようにくたばれ、くたばれ、お前から先にな! そうだよ、私は犬以下の存在だ、犬でもこんな馬鹿な生き方はしないよ! おー! 私の頭が! 頭が煮える!」
「だけどパパ」二人の若い女が叫んだ。彼女達は父が壁に頭を打ちつけないように彼を取り囲んでいた。「さあ、まともになって」
 彼は泣きじゃくっていた。ウージェーヌは驚いて、さっき引き出しの中に見つけた手形を取り出した。それはウージェーヌの署名以外は空白の白地手形だったが、その収入印紙は巨額の金に対応していた。彼は金額を一二〇〇〇フランにしてゴリオ振出の正規の為替手形を作った。そして部屋へ入っていった。
「はい、貴女のお金がそっくりありますよ、奥様」彼は手形を差し出して言った。「私は寝ていたんです。貴方達の話し声で目が覚めました。私はゴリオさんに如何に沢山のご負担を頂いているかを知りました。この手形を貴女は譲渡出来ます。支払いは私が責任を持って行います」
「デルフィーヌ」怒り、凶暴、激怒に震え青ざめてアナスタジーが言った。「私はあなたに何だって許してあげる。神かけて本当よ、だけどこれは! どうして、この方があそこにいらしたの、あーた知ってたんでしょ! あんたは私の秘密、私の生活、子供達のこと、私の恥辱、私の名誉が彼に漏らされるのをそのままにして、私に仕返しをするというけちな行為をしたのね! こうなったら、あんたなんか虫けら以下よ、あんたを憎むわ、私あんたにはあらゆる嫌がらせをしてやる、私は……」怒りの余り彼女は言葉を途切らせた。彼女は喉をからしてしまった。
「だがこの人は私の息子だ、私達の子供だ、お前の兄弟だ、お前の救い主だ」ゴリオ爺さんが叫んだ。「さあ彼と抱擁しなさい、ナジー! ほら私は、私は彼と抱擁するぞ」彼はそう言うと、ある種激昂したようにウージェーヌをつかんだ。「おー! 我が子よ! 私は君に対しては父親だけには留まらない、私は君の家族でありたいもんだ。私は神になって、君の足元に世界を置いてみたいもんだ。しかし、彼にキスしたかね、どうなんだナジー? この人は唯の人じゃない、そうじゃなくて天使だ、本当の天使だ」
「そっとしといて、お父さん、今は彼女気違いのようになってるから」デルフィーヌが言った。
「気違い! 気違い! それじゃ、あーた、あーたはどうなの?」レストー夫人が尋ねた。
「お前達、お前達がやめなければ私は死んじまうよ」老人は叫ぶと、まるで鉄砲玉が当たったようにベッドの上に倒れた。「彼女達が私を殺す」彼はそう思った。
 伯爵夫人はウージェーヌを見つめた。彼はじっと動かず、この光景の余りの荒々しさに呆然としていた。「貴方」彼女は尋問するような物腰、声音、眼差しで彼に話しかけた。彼女は父親には注意を払わなかったが、デルフィーヌが素早く父のチョッキを脱がせにかかっていた。
「奥様、私が支払いを致します、そして、私は黙っています」彼は質問を待つことなく答えた。
「あなたが父を殺したのよ、ナジー!」デルフィーヌは気絶した老人を姉に見せながら言った。姉は急いで立ち去った。
「私は彼女のことは許してやるよ」爺さんは目を開けていった。「彼女の立場は実にひどいもんだから、もう少しましな頭でもおかしくしてしまうんだろ。ナジーを慰めてやってくれ。彼女に優しくな、どうかこの哀れな父にそう約束してくれ、私はもう直ぐ死ぬ」彼はデルフィーヌの手を強く自分に押し当てながら言った。
「ね、一体どうしたの?」彼女はひどくおびえて言った。
「何でもない、何でもない」父が答えた。「こんなのは直ぐに直るさ。何だか額に圧迫感があるんだ、頭痛だな。可哀想なナジー、将来はどうなるんだ!」
 この瞬間、伯爵夫人が戻ってきた。彼女は父の膝元に身を投げ出した。「許して!」彼女が叫んだ。
「さあ」ゴリオ爺さんが言った。「お前は今のところ、誰よりも心配の種なんだ」
「貴方様」伯爵夫人がラスチニャックに向かって言った。その目は涙に濡れていた。「悩みのため私は正常さを失くしていました。貴方はやがては私の兄弟におなりなんでしょうか?」彼女は彼の方に手を拡げながら言った。
「ナジー」彼女を抑えながらデルフィーヌが言った。「ねえナジー、みんな忘れて」
「いいえ」彼女が答えた。「私は覚えてるわ、絶対に!」
「誰か」ゴリオ爺さんが叫んだ。「目を覆っている布切れを取ってくれないか、お前達を見ると元気が出るんだ。お前達、さあ、もう一度抱き合いなさい。おや! ナジー、この為替手形、これでお前は助かるんじゃないのかね?」
「私も希望を持ってます。じゃ教えて、パパ、そこに貴方のサインをして頂けるかしら?」
「あれ、こりゃあうっかりしてた、私としたことが、それを忘れてたとは! だがな私は自分の状態が悪いと感じるんでな、ナジー、私には期待しないでくれ。私にはお前が危機を脱したという知らせを届けてくれ。いや、私が行こう。やっぱり駄目だ、私は行かない、私はもうお前の夫とは会えない、急に彼を殺さんとも限らん。お前の財産を損なうようなら、私も立ち会おう。早く行きなさい、お前、そしてマクシムが賢明な道を取るのを助けてあげなさい」
 ウージェーヌは呆然としていた。
「あの可哀想なアナスタジーはいつも乱暴なのよ」ニュシンゲン夫人が言った。「だけど気立てはいいのよ」
「彼女は裏書のために戻ってきたんだ」ウージェーヌがデルフィーヌの耳に囁いた。
「貴方そう思う?」
「僕はそう思いたくないんだがね。彼女を信用し過ぎない方がいいよ」彼はそう答えると、上を見上げたが、その目は敢えて言わなかった彼の考えを神に委ねようとするかのようだった。
「そうなの、彼女はいつもちょっと芝居がかってるのよ、でね、可哀想にお父さんたら自分の宝物を持ってゆかれるのを放ってるのよ」
「ご機嫌いかがですか、僕の好きなゴリオのお父さん?」ラスチニャックが老人に声をかけた。
「私は眠りたいよ」彼が答えた。
 ウージェーヌはゴリオが寝るのを手伝ってやった。やがて爺さんが、デルフィーヌの手を取ったまま眠りに落ちると、娘は爺さんの傍を離れた。
「今晩イタリア座でね」彼女はウージェーヌに言った。「そして、彼の具合を私に教えてね、明日、貴方は引っ越すのよ、旦那様。さあ、貴方の寝室ね、おー! 何と恐ろしい!」彼女はそこに入って言った。「本当に貴方の住居って父のところ以上にひどかったのね。ウージェーヌ、貴方って立派に振舞ってたのね。私はもし許されるなら、これまで以上に貴方を愛せると思うわ。だけど、ねえ、もし貴方が財を築きたいんなら、あの一二〇〇〇フランを窓から投げ出すようなことをしちゃあ駄目よ。ド・トライユ伯爵は賭博人よ。姉はその現実を見ようとしない。彼はずっと一二〇〇〇フランを求めてあそこへ通い続けるんだわ、そこなら彼は金貨の山を失くしたり取ったり出来るんだから」
 うめき声がしたので二人はゴリオのところへ戻った。彼は眠っている様子だった。しかし恋人二人が近づいた時、彼等はこんな言葉を聞いた。
「彼女達は幸せでない!」彼は眠っていたにせよ、目覚めていたにせよ、この言葉の響きがひどく生々しく娘の心を打ったので、彼女は父が横たわっている粗末なベッドに近寄って、彼の額にキスをした。彼は目を開けて言った。「デルフィーヌじゃないか!」
「さあさあ! 具合はどうですか?」彼女が尋ねた。
「いいよ」彼が言った。「心配せんでもいい、私は直ぐ外出する。がんばるんだよ、お前達、幸せにな」
 ウージェーヌはデルフィーヌに付き添って彼女を家まで送っていった。しかし、彼が残してきたゴリオの状態が気がかりだったので、彼女との夕食を断って、メゾン・ヴォーケに戻ってきた。彼はゴリオ爺さんが起きていて食卓につこうとしているのを見つけた。ビアンションは製麺業者の様子を仔細に観察し始めていた。老人がパンを手に取り、自分としてはその小麦粉にはぎりぎり我慢が出来るといった判定を下すためにいじっているのを見ると、この医学生は老人の動作の中に行動の意識と普通呼ばれているものの統合性が欠けているのを観察することが出来た。そして彼は不吉な見解を身振りで示した。
「おい僕の横へ来いよ。コシン病院のインターンの先生よ」ウージェーヌが言った。
 ビアンションもまた、そこへ移動したいと思っていたので、あっという間に親しい下宿人の横にやってきた。
「彼はどうなんだ?」ラスチニャックが尋ねた。
「僕が間違ってなければ、彼は炎上してる! 彼の中でとんでもない何かが起こったに違いない。僕には脳出血がいつ起こってもおかしくない症状が出ているように見えるんだ。身体の下半身は極めて平静なんだけど、顔の全体を掌握する特徴が彼の意志に反して額の辺りに引っ張られてるんだ、見ろよ! そして目は漿液が脳に漏れ出していることを示す特殊な状態にあることが読み取れる。僕達は無数の終わり方があることを前に話したことはなかったかな? 明日の朝になれば、僕にはもっと色々分かってくると思う」
「何か治療法はないのか?」
「何もない。恐らく彼の死を遅らせるには、身体の先端部分、足などに対して何らかの反発を引き起こす方法が考えられる。しかし、明日の夜、症状がやまなければ可哀想な爺さんは死んじまうだろうな。君は病気の発症の原因となる何か事件でも知ってるのか? 彼は何かひどく荒々しい衝撃を受けて精神的に押しつぶされたに違いないんだ」
「うん」ラスチニャックは二人の娘が絶え間なく父親の心を痛め続けていたことを思い出して答えた。
「少なくとも」とウージェーヌは思った。「デルフィーヌは父親を愛している。彼女の方は!」
 その夜イタリア座でラスチニャックはニュシンゲン夫人を過度に心配させないように気遣った。
「心配しないでね」ウージェーヌが彼女に対して発した最初の言葉に答えて彼女が言った。「私の父は丈夫なのよ。ただね、今朝は私達、彼をちょっと驚かせたわね。私達の財産は今問題なのよ、貴方、この損害の大きさを測ってみた? 貴方の愛情がなければ、最近経験した耐え難いほどの苦しみを忘れて生きるなんて出来なかったわ。今日この頃はたった一つの心配事しかないの、私にとって唯一の災厄、それは私に生きる喜びを感じさせてくれる愛を失うことなの。この感情を除いては何もかも私には関心がないの、私はもう社交界の何も愛さないわ。貴方が私にとって総てなのよ。私が金持ちで幸せだと感ずるとすれば、それは貴方をもっと喜ばせたいと考えるからなの。私は不名誉なことだけど、人の娘であるよりも、まず愛人なの。何故かって? 分からない。私の命は総て貴方のものよ。父は私に心臓を与えてくれたけれど、貴方はそれをどきどきさせてくれた。社交界は揃って私を非難するでしょう、それは私にはどうでもいいこと! 私は貴方に要求する権利はないんだけど、もしかすると貴方は、私が抗い難い感情によって犯してしまった罪から私を無罪放免にして下さらないかしら? 貴方は私のことを異常な女だとお思いになって? ああ、そんなことないわ、私達の父のような優しい父親を愛さないなんてことはあり得ない。彼に私達のひどく間違った結婚の当然の成り行きを見せないで済ますことは出来ないものかしら? どうして彼はそれを未然に防げなかったのでしょう? 彼が私達のためにそこまで考えるのは無理だったのかしら? 今では私もそれを理解しています。彼は私達と同じように苦しんでいます。でも、それだからと言って私達に何が出来るんですか? 彼を慰める! 私達には何一つ彼を慰めるようなことは出来ません。私達の諦めは、私達の非難や不平が彼に悪い影響を与えるよりもっとひどく彼を悲しませることになります。彼は今、人生において何もかもが苦く感じられる、そういう時期に来ているのです」
 ウージェーヌは真摯な感情から溢れ出たナイーヴな表現に打たれて、甘美な気分に浸って黙って聞いていた。たとえパリの女性がしばしば偽装し虚飾に酔い利己的に偏り媚態を尽くし冷淡に振舞うことがあるにしても、彼女達がひとたび真に誰かを愛すると、彼女達は間違いなく他所の女性以上に、情熱の前では小さな感傷を潔く犠牲にするのである。彼女達は皆、自分の卑小さから背伸びをする、そして崇高さにまで達するのである。至高の愛の前では彼女達から感傷は隔てられ、彼女達は感傷から距離を置いている。ラスチニャックが打たれたのは、デルフィーヌが自分の感傷は極めて自然だと判断する時に見せた深くて公正な知性だった。しかしニュシンゲン夫人はウージェーヌが沈黙を守っていることに気を悪くした。
「貴方、一体何を考えているの?」彼女が尋ねた。
「僕は貴女が僕に言ってくれたことを、まだ心の中で繰り返し聞いてるんだ。僕は今まで、貴女が僕を愛してくれる以上に、僕が貴女を愛していると思っていた」
 彼女は微笑んだ。気持ちはもう彼女が抱いている楽しみの方へ向かっているのだった。会話は礼儀に適っている限り、何処までも自由に解放されているのだ。彼女は若く真摯な愛情が、これほど活き々々と表現されたのをかつて聞いたことがなかった。これ以上もう、どんな言葉も彼女には要らなかった。
「ウージェーヌ」彼女は話題を変えて言った。「ところで貴方は今起こってることを知らないの? パリ中が明日はボーセアン夫人の話で持ちきりよ。ロシュフィード家とダジュダ侯爵は何も言いふらさないように申し合わせてきたのよ。だけど国王が明日、結婚契約に署名するのよ、なのに貴方の気の毒なお従姉さんはまだ何も知らないの。彼女はこれを受け入れざるを得ないでしょう、そして侯爵は彼女の舞踏会には出ないはずよ。皆この意外な出来事のことばかり話してるわ」
「そして社交界は人の不名誉をあざ笑って、そこに浸りきっている! 貴女はまさかボーセアン夫人が死ぬかもしれないとか思ってるんですか?」
「いいえ」デルフィーヌが微笑しながら言った。「貴方はあのタイプのご婦人達のことをご存じないのね。だけど、パリ中の人が彼女のところへ集まってくるわよ。そしてあたしもそこへ行く! そういうこともあるけれど、この幸運は貴方のお陰よ」
「しかし、この馬鹿げた騒ぎというのは、皆がパリ中を走り回って広めたようなもんではありませんか?」
「私達は明日になれば本当のところを知ることになるわよ」
 ウージェーヌはメゾン・ヴォーケには帰らなかった。彼は自分の新しいアパルトマンを楽しむという誘惑を断ち切れなかった。前日は真夜中過ぎの一時にデルフィーヌと別れざるを得なかったが、それが今度は、帰宅するために彼と二時頃に別れて帰って行くのはデルフィーヌの方だった。彼は翌日遅くまで寝ていた。正午頃にはニュシンゲン夫人を待っていた。
 そして彼女は彼と昼食をとるためにやってきた。若者というのは、こうしたささやかな幸せに飢えているものである。彼はゴリオ爺さんのことをほとんど忘れてしまっていた。彼が馴染まなければならなくなったこの優雅な事共のことごとに慣れることそのものも結構長い楽しい祭りのようなものだった。ニュシンゲン夫人がそこにいる事は、あらゆるものに新しい価値を与える事になった。しかしながら、四時頃、二人の恋人はゴリオ爺さんの事を考えた。幸せの中で、彼がこのマンションに住みにくることを当てにしていた事を思い出したのだった。ウージェーヌは爺さんが病気になってしまっただけに、彼を即刻こちらへ連れてくる必要があると言って、デルフィーヌをおいて、メゾン・ヴォーケへ走っていった。ゴリオ爺さんもビアンションも食卓についていなかった。
「おや!」絵描きが彼に言った。「ゴリオ爺さんは足を痛めたんだ。ビアンションが上で彼の傍にいるよ。爺さんは片方の娘と会ったんだ、レストー伯爵夫人の方だ。それから彼は外出したいと言い出して、そして彼の病気が悪化したんだ。ここの仲間はもうすぐ良き友人を一人失うんじゃないか」
 ラスチニャックは階段の方へ飛んでいった。
「まあ! ウージェーヌさん! ウージェーヌさん! 奥さんが貴方をお呼びですよ」シルヴィが叫んだ。
「貴方」寡婦が言った。「ゴリオさんと貴方、貴方達は二月十五日には、ここを出てゆく事になってるんです。ところが十五日を過ぎて三日になります。もう十八日なんですよ。貴方と彼は一か月分を私に払わなければなりません、だけど、もし貴方がゴリオ爺さんの分も保証してくれるんなら、貴方の言葉だけで十分ですよ」
「どういうことですか? 貴女は彼を信用していないんですか?」
「信用! もし爺さんが意識を回復しないで死んでしまったら、彼の娘達はあたしにはびた一文も払いはしないわ、で、彼の古着全部売っても一〇フランにもならないわ。彼は今朝、彼が最後まで持っていた食器セットを持ち去ったわ、あたしにはどうしてだか分からない。彼は若者のようにめかしこんでいたの。思い切って言うと、あたしは彼が頬紅をつけてたと思うの、あたしには彼が若返ったように見えたわ」
「僕は後でみんなご返事します」ウージェーヌはそう言って恐ろしさに震えた、そして破局が近いことを理解した。
 彼はゴリオ爺さんの部屋へ上がっていった。老人はベッドに横たわっていた。そしてビアンションが彼の脇にいた。
「こんにちは、お父さん」ウージェーヌが言った。
 爺さんは彼に優しく微笑んで、彼の方に輝きの消えた目を向けながら答えた。「彼女のご機嫌はどうかね?」
「いいですよ、で、貴方は?」
「悪くない」
「彼を疲れさせないようにな」ビアンションはウージェーヌを部屋の隅に引っ張って行って言った。
「えっそうかい?」
「彼はもう奇跡でも起こらない限り助からない。漿液性の充血があったんだ。芥子泥療法をとってるんだが、上手い具合に彼は反応してるし効き目があるようだ」
「彼を移動させることは出来るか?」
「無理だ。彼はあそこに置いておくしかない。彼にとって肉体的動きや強い感動も総て避けなければならない……」
「おいビアンションよ」ウージェーヌが言った。「僕達が二人の家で彼の看護をしたいんだが」
「僕はもう病院の主任の医者を来させてるんだよ」
「それで、どうなんだ?」
「彼が言うには、明日の夜までだ。彼は日中の仕事が終わったら来ると約束してくれた。悪いことに今朝、このすっかり弱った爺さんが軽率なことをしたんだが、彼は僕に説明したくないらしいんだ。彼はひどく頑固なんだ。僕が彼に話しかけると、彼は聞いてない振りをするんだ、そして僕に返事しないために眠ってしまうんだ。あるいは、彼が目を開けていたとすると、彼はうめき始めるんだ。彼は午前中外へ行ってた。パリのどこかへ歩いて行ったんだが、何処へ行ったのかは誰も知らない。彼は頑張って持ち続けてきたものを全部運び去ったんだ。彼は何かとんでもない努力をしてしまったはずなんだ。そのせいで、彼の力の限界を越えてしまった! 彼の娘の一人が来てたよ」
「伯爵夫人かい?」ウージェーヌが言った。「背が高くて褐色の肌、目はきらきらしてて綺麗に髪をカットしている、脚がすらっとしていて、しなやかなボディの女だったろう?」
「そうだよ」
「僕と彼と暫く二人だけにしてくれないか」ラスチニャックが言った。「僕が彼に白状させる。彼は僕に何でも話すと思う、多分僕にだけは」
「僕はその間に夕食に行ってるよ。ただ、彼にあまり興奮させないように気をつけてくれ。僕達はまだ幾らかの希望は持ってるんだ」
「任せてくれ」
「彼女達は明日が楽しみだね」二人だけになった時、ゴリオ爺さんがウージェーヌに話しかけた。「彼女達が同じ大舞踏会に行くんだ」
「貴方は今朝一体何をなさってたんですか、パパ、そんなに夜になってベッドから動けないほどひどく身体を痛めてしまうなんて?」
「別に何も」
「アナスタジーが来たんですって?」ラスチニャックが尋ねた。
「うむ」ゴリオ爺さんが答えた。
「さあ! 僕には隠し事なしにしましょう。彼女がまた何を貴方に頼んだんですか?」
「ああ!」彼は話すために彼の力を結集して答えた。「彼女はひどく不幸せなんだよ、なあ、そうだろ! ナジーはダイヤモンドの件以来、びた一文持ち合わせもないんだ。彼女は今度の舞踏会用に金刺繍入りのドレスが要るんだ。それは彼女にとって宝石同様に欠かせないものなんだよ。彼女の仕立て屋、とても嫌な女だがね、こいつが彼女に信用売りするのを嫌がってね、で、彼女の小間使いが化粧品代の内金として千フランを支払ったんだ。可哀想なナジー、そんなことになるなんて! 私は胸が張り裂けそうだ。だがこの小間使いは、あのレストーがナジーに対する信用を全部取り下げてしまうのを見て、自分の金を失くすのが心配になって、仕立て屋とぐるになって、もし千フランを返してくれるならドレスの引渡しはしなくてもいいことにしてしまったんだ。舞踏会は明日だ、ドレスも準備出来ている。ナジーはすっかり絶望している。彼女は私から食器一式を借りて担保にしようと思ったんだ。彼女の夫は彼女がその舞踏会に行って、皆が彼女によって売られたと言い張っているダイヤモンドをパリ中の人に見せびらかして欲しいと思ってるんだ。この人でなしに彼女はこんなこと言えるかね。『私は千フラン要るんです、どうぞ私に下さい』なんてことを? いいや、私はそんなこと分かってる、私には。妹のデルフィーヌは素晴らしく着飾って、そこに行くことだろう。アナスタジーとしては妹にひけをとるわけにはいかないんだよ。それで、彼女はすっかり涙にくれているわけだ、私の哀れな娘よ! 私は昨日一二〇〇〇フランを持っていなくて非常に屈辱的な思いをした。そこで、その時、彼女にしてやれなかったことへの償いのために、私の惨めな残りの人生を総て彼女にやったんだ。お分かりでしょう? 私には全部持ってゆくだけの力が残っていた。しかし、私の最終的な金不足が私の心を引き裂いた。おー! おー! 私にはひとつとして出来ることがないんだ。私はとりあえず体に応急処置をして立ち直った。私は食器一式と金の金具を六〇〇フランで売った。それから、期間一年の契約で私の終身年金証書を四〇〇フラン一括払いで質入した、ゴプセックの爺さんの店だ。なあに! パンくらい食ってゆけるだろう! 若い頃はそんなもの何でもなかった、今度も何とかいけるだろう。少なくとも彼女は素敵な夜会に行けるんだ、私のナジー。彼女は粋なもんだろう。私は千フラン札をあそこ、私の枕の下に置いてるんだ。あそこ、頭の下に可哀想なナジーを喜ばせるものを置いてることが、私の心を何とも暖かくしてくれるんだよ。彼女は意地悪な召使いヴィクトワールを追い出すことだって出来るんだ。あいつほど自分達の主婦に対して好き勝手な召使いなんて見たことないよ! 明日になれば私は良くなるだろう。ナジーは十時にここへ来る。私は彼女達に私の病気を知られたくない。彼女達二人とも舞踏会に行かなくなるだろ、彼女達は私のことで気を遣ってしまうだろ。ナジーは明日になれば、私を子供のように抱いてくれるだろう、彼女の愛撫で私は治っちまうさ。しかし、私は薬屋に千フランくらいは払うことになるのかな? 私は金を私の万能薬、ナジーに払ってやりたいんだが。そうしたら私は彼女が惨めな思いをしていても、少しは彼女を慰めることが出来るんだ。それで、私は自分に終身年金を掛け続けて迷惑をかけてはいかんと思って解約したわけだ。彼女は深い淵の底に沈んでいる。それなのに私ときたら、もう彼女をそこから引き上げてやるほどの力はない。あー! 私はまた商売に戻れたらと思うんだが、そして、オデッサに穀物の買い付けに行きたい。小麦がそこではわが国の三分の一の値段しかしないんだ。たとえ穀物の輸入が原産物では禁止されていても、法律を決めるお堅い連中は加工品を禁止することまでは考えてないんだ、しかもこの分野では小麦が主力品なんだよ。ねえ!……私はこれを考えついた、今朝、私の頭に浮かんだ! 澱粉を扱う商売なら上手くいきそうだよ」
「彼は狂ってる」老人を見つめながらウージェーヌは思った。「さあ、休んでた方がいいですよ、もうしゃべらないで……」
 ビアンションが戻ってきたので、ウージェーヌは夕食のため階下へ行った。その後は二人で代わる代わる病人を見守り、合間に一人は持ってきた医学書を読み、片方は母と妹に手紙を書いたり等して夜を過ごした。翌朝、病人に現れる徴候が、ビアンションの言に従えば、好ましい徴候に見えた。しかし容態は引き続き看護を必要としており、それをやるのは二人の学生しかいなかった。その模様は現代風の婉曲的な語り口では間に合わないので、生々しい直接的表現を使わざるを得ない。爺さんの衰えた身体に蛭療法が行われ、続いて湿布剤、足湯、更に二人の若者の力と献身なくしてはなし得ない医学的措置がとられた。レストー夫人は来なかった。彼女は使いを寄越して彼女のお金を取っていった。
「私は彼女自身が来るものと思っていた。だが、かえってこれでよかった。彼女に心配させるところだったよ」父親はそう言って、こうなったことを喜んでいるように見えた。
 晩の七時にテレーズがデルフィーヌの手紙を持ってきた。
〈貴方は一体何をなさってるの? ほとんど愛されることもなく、私はもう飽きられてしまったの? 貴方はこの心から心へ溢れ出した打ち明け話の中で、感情には如何に多くの微妙な違いがあるかを見知った時、いつでも忠実であり続ける人間でいるには余りにも綺麗過ぎるその魂を、まだこの私にお示しくださいませんのね。ちょうど貴方がオペラの中で、モーゼの次のような言葉を聞いた時おっしゃいましたわね。『ある者にとって、それは普通の言葉の響きだが、別の者にとっては、それは音楽の無限そのものだ!』どうぞ、ボーセアン夫人の舞踏会に行きたくて、貴方を待っている私のことを考えてください。ダジュダ氏の誓約書は確かに今朝、裁判所で署名されています。そして気の毒な子爵夫人は二時までそのことを知らなかったのです。パリ中の人が彼女の家へ集まってくるわ、だって民衆は死刑執行があると、ピケを張って大混雑をさせるものでしょ。あの貴婦人が悲しみを隠し通せるのか、彼女は見事な最期を遂げて見せるのか、それを見に行くって恐ろしいことじゃありませんか? 私はきっと行かないと思います、そうよ、もし私が一度でも彼女の邸へ行ったことがあればね。だけど、彼女が今後招待することは絶対になくて、私がこれまでやってきた努力は全て無駄になるというわけ。私の場合は他の人達のそれとは全然違うのです。それとは別に、私は貴方のためにもそこへ行くつもりです。私は貴方をお待ちしています。もし二時間以内に貴方が私の傍へいらっしゃらないなら、私は貴方の裏切りを許せないでしょう〉
 ラスチニャックはペンを執ると次のように返事を書いた。
〈僕は医者から、貴女のお父さんがまだ生きておられるかどうかを聞くために待ってるところです。彼は危篤です。僕は貴女に診断結果を知らせに行きますが、僕はそれが死亡宣告でないことを祈っています。貴女には、貴女が舞踏会に行けるかどうか、お分かりのことと思います〉
 医者が八時半に来て、希望的見解は述べなかったが、死が非常に迫っているとは考えていないと言った。彼は回復と逆戻りが交互に来て、そのうちに爺さんの命と理性が下降してゆくだろうと告げた。
「彼はこのまま亡くなってしまう方が楽でしょうな」医者は最後にこう言った。
 ウージェーヌはビアンションが見守る中でゴリオ爺さんと内密の話をした。それから悲しい報せを持って、ニュシンゲン夫人に知らせるべく下宿を出た。その時の彼の心は家族としての義務感がしみ込んでいたので、この報せで楽しみなどは総て中止されるものと思っていた。
「ねえ、彼女にはいつも通り楽しんでくるように言ってくださいよ」ラスチニャックが出てゆく時、それまでうとうとしているように見えたゴリオ爺さんが起き上がって坐った姿勢で彼に向かって叫んだ。
 若者は悲嘆に暮れた様子でデルフィーヌの家に現れた。彼女は帽子を被り、靴を履き、後は舞踏会のためのドレスを着るばかりになっていた。しかし、画家が絵を仕上げようとする最後の一筆にも似て、最後の支度が絵の基本部分に要した以上の時間を費やさせていた。
「あら何、貴方まだ着替えてないの?」彼女が尋ねた。
「しかし奥さん、貴女のお父様が……」
「また私の父のこと」彼女は彼の話を遮って叫んだ。「だけど貴方はあたしが父に対して何をすべきなのか教えてくれないじゃないの。あたしはずっと長い間、父を知ってるわ。とても一言では言えない、ウージェーヌ。あたしは貴方が身支度を整えるまでは貴方の言うことなんて聞かない。テレーズが貴方の家の方で皆整えてるわ。私の馬車も待ってる。その馬車で行って戻ってくるのよ。私達、舞踏会へ行く道のりで、父のことを話しましょ。私達早めに出なきゃいけないわ。馬車の混雑に巻き込まれたりしたら、私達十一時に辿り着けるかどうかになってしまうわ」
「奥さん!」
「さあ! もう言わないで」彼女はそう言うと首飾りを着けるため閨房に駆け込んでいった。
「さあ、それじゃ行きましょう、ウージェーヌさん、奥さんを怒らせちゃいますよ」テレーズはそう言って、この優美な親殺しに呆然とした若者を押していった。
 彼はとても悲しく意気消沈した思いのまま服装を整えに行った。彼はまるで汚泥の海のような社交界を目の当たりにした。そこに足を踏み入れたとたんに、人は皆そこで首まで浸かってしまうだろう。「卑しい犯罪の他に何があるんだ!」彼は思った。「ヴォートランの方がよほど立派だ」彼はその時、社会に存在する三つの偉大な理念を見て取った。忍従、闘争、そして反逆。それらを具象化したものが家族、社交界、そしてヴォートラン。しかし彼はあえて今、態度を決めようとは思わなかった。忍従は退屈だ、反逆は不可能だ、そして闘争は不確かだ。彼の思いは彼を家族の中に戻していた。彼は誰よりも自分を愛してくれた人達の中で過ぎて行った日々を思い出した。家族の団欒の自然の法則に順応していれば、可愛い子供達はそこで溢れるばかりのいつまでも変わらない幸せを見出し、何の苦悩もなく過ごせる。彼は正しい思考をしたにもかかわらず、デルフィーヌに向かって、純粋な魂の信念をはっきり宣言し、彼女にも愛の名において美徳を求めるという勇気が湧いてこないのだった。既に彼が受け始めた教育は彼に果実をもたらしていた。彼は今はもう利己主義を愛していた。彼の如才なさは、デルフィーヌの心の自然さを認めることを既に自分に許していた。彼は彼女が舞踏会に行くために父の身体を乗り越えることさえはばからないだろうことを察した。その上で、彼は条理を諭す役目を演じる力もなく、彼女に不快な思いをさせる勇気もなく、彼女と別れるだけの美徳もなかった。「彼女はこの状況の中で、彼女に対立する考えを持ったことで、僕を決して許してくれないだろう」彼はそう思った。そして彼は医者が言った言葉に注釈をつけてみた。「医者達はゴリオ爺さんが彼等が考えていたほどには危険な病状でなかったという判断に傾いていたんだ」結局、彼はデルフィーヌを正当化するために人殺しの理屈を積み重ねていたのだ。「彼女は父親がどんな状態であるかを知らないんだ。それに爺さん自身が、もし彼女が彼に会いに来たら、彼女を舞踏会に送り返すだろう」社会の法は公式には斟酌の余地など残していないはずだが、実地では、罪が明白であっても、家族間に存在する性格の違いや関心や立場の多様性を考慮し、無数に変形した理由をつけて、無罪判決を下すことがしばしばあるのだ。ウージェーヌは自分自身を欺きたいと思った。彼は彼の女主人のために自分の良心を犠牲にしたいと思った。この二日間で彼の人生の総てが変わった。この女性は自分のごたごたをこちらへ放り込んできた。お陰であれほど深かった彼の家族への思いやりも薄れ、彼の行為においては総て彼女の利益が優先されることとなってしまった。だがラスチニャックとデルフィーヌはお互いに最も激しく快楽を享受するには絶好の条件下で巡り会ったともいえた。彼等の十分に準備されていた情熱は、多くは情熱を殺してしまうもの、すなわち快楽の所有によって更に大きくなった。この女性を自分のものにして初めて、ウージェーヌはその時に至るまで自分は彼女を欲していただけだったこと、翌朝の幸せに包まれて真に彼女を愛することが出来たことを知った。愛とは多分、喜びを知ることに過ぎない。汚らわしかろうと崇高であろうと、彼はこの女性に火をつけ持参金代わりに彼女の肉体を熱愛した。そして快楽をむさぼれば、その味が更に彼の愛を掻き立てた。同様にデルフィーヌもラスチニャックを愛した。それはちょうどタンタロスが彼の空腹を満たすため、あるいは彼の喉の渇きを癒すためにやってきた天使を愛したのと同じことだった。
「さあ! それで、父の具合はどうですか?」彼が舞踏会用に着替えて戻ってきた時、ニュシンゲン夫人が彼に尋ねた。
「とても危ない状態です」彼が答えた。「もし貴女が貴女の愛のしるしを私に見せたいとお思いなら、私達は彼に会いに行きましょう」
「そうねえ! そうしましょう」彼女は答えた。「だけど舞踏会の後よ。ねえウージェーヌ、あなた優しいんだから、私に道徳を押し付けないで、いらっしゃい」
 彼等は出発した。ウージェーヌはその道中しばらく黙り込んでいた。
「貴方どうなさったの?」
「私には貴女のお父さんのあえぐ声が聞こえるんです」彼は怒りをにじませながら答えた。それから、彼は若者らしい熱のこもった調子で話し始めた。レストー夫人が虚栄心に駆られてやった残忍な行為、父親としての最後の献身が彼を危篤に陥らせたこと、そしてアナスタジーのラメ入り衣装がゴリオに与えた打撃。デルフィーヌは涙を流した。
「私の涙で化粧が落ちてしまいそうだわ」彼女はそう考えた。彼女の涙は直ぐに乾いた。「私は父を助けに行くわ。私は彼の枕元を離れないわ」彼女が言った。
「あー! やっと僕が望んでいたような貴女になったんだね」ラスチニャックが叫んだ。
 五百台の馬車のランプがボーセアン邸の周りを明るく照らしていた。光り輝くそれぞれの入り口には騎馬憲兵が跨った馬が盛んに前脚で地面を蹴っていた。上流社会の人々が驚くほど多数押しかけて、そして誰もがこの大貴婦人の凋落する瞬間を見ようとやたらに急いでいたので、邸の一階を占めていたアパルトマンは、ニュシンゲン夫人とラスチニャックがそこへ姿を現した時には既に人で溢れていた。ルイ十四世がかの有名なモンパンシェ嬢[100]から恋人を奪い去ったときに宮廷人たちが彼女の邸に押し寄せたあの時以来、今回のボーセアン夫人が味わったほど激しい心の痛みが人々の耳目を集めたことはなかった。このような状況で、ブルゴーニュの王族に近い家柄の末娘は彼女に起こった災厄を克服する能力を見せつけて、最後の瞬間まで社交界に君臨し続けた。そこにおいて彼女は見栄を張れば自分の情熱の勝利をアピールするくらいのことは出来たであろうけれど、それを拒否した。パリで指折りの美しい貴婦人達は彼女達の化粧と微笑でサロンを彩っていた。宮廷で殊に際立った存在の男達、大使、閣僚、あらゆるジャンルの秀でた人々が勲章、バッジ、色とりどりのリボンで自分を飾り立てて、子爵夫人の周りにひしめいていた。オーケストラは女王にとって既に空しくなったこの宮殿の豪華な装飾の下で主題曲を鳴り響かせていた。ボーセアン夫人は第一広間の前に立って、彼女のいわゆる友人達を出迎えていた。白いドレスを着て、髪を質素に結っただけで何の髪飾りも付けず、彼女は静かで、悲しみも自尊心も偽りの喜びも見せることはなかった。誰も彼女の心の中を読むことは出来なかった。たとえて言うならば、彼女は大理石のニオベ[101]のようだった。親しい友人に対する彼女の微笑は時には冷やかしの笑みだった。しかしながら、彼女は全く彼女に似つかわしく彼女そのものに見えたし、かつて幸福を独り占めにしているとさえ思われた頃、彼女がそうであったように実に見事に振舞っていたので、かつて若いローマの婦人達が、死の間際でも微笑んで見せた剣闘士に拍手を送ったように、鈍感極まる人ですら今夜の彼女には感嘆していた。社交界は一人の女王に別れを告げる準備を整え終わったように見えた。
「貴方が来ないのじゃないかと、私とっても心配だったの」彼女がラスチニャックに言った。
「奥様」彼はその言葉をある種の非難と捉えて、感情を込めた声音で答えた。「私は最後の一人として残る積りで参りました」
「よかったわ」彼女は彼の手を取りながら言った。「貴方は多分ここで私が当てに出来る唯一人の人だわ。ねえ、貴方はいつまでも愛せる女性一人を愛してね。誰かを棄てるようなことはしないのよ」
 彼女はラスチニャックの腕を取ると、人々がカードに興じている部屋のソファーに連れて行った。
「侯爵の家に行って下さい」彼女が彼に言った。「私共の召使のジャックが貴方をそこまで案内しますわ。ですから、貴方は彼に手紙を渡して頂きたいのです。私は彼に私のこれまでの手紙を返してくれるように要求しています。彼は貴方に私の手紙を総て返してくれることでしょう。私はそう信じています。もし貴方が私の手紙を返してもらったら、戻って私の寝室に上がって下さい。私には誰かが知らせてくれるでしょう」
 彼女はランジェ公爵夫人を迎えるために立ち上がった。彼女の最愛の友がやってきたのだった。ラスチニャックは外に出て、ロシュフィード邸でダジュダ侯爵の所在を尋ねた。侯爵はそこで夜を過ごすために出かけたはずだった。その通りラスチニャックはそこで彼を見つけた。侯爵は学生を自分の家に連れて行った。そして一つの箱を彼に手渡して言った。「この中に総て入っている」彼はウージェーヌに何か話したそうな様子だった。それが舞踏会や子爵夫人のことを彼に訊きたかったのか、それとも彼の結婚の話はやがて明らかになったように、推察するにその時既に絶望的な状態になっていたのを彼に告白したかったのかは分からなかった。いずれにせよ、自負心の輝きが彼の目に宿っていて、彼は自分の一段と高い感情についての内奥を残念なことに隠し通してしまった。「私のことは彼女に何も言わないでくれたまえ、すまないな、ウージェーヌ」彼はラスチニャックの手を情愛深く寂しげな様子で握り締め、別れの挨拶をした。ウージェーヌはボーセアン邸に戻ってきた。そして子爵夫人の寝室に案内されていった。そこに彼が見たものは旅立ちの支度だった。彼は暖炉の前に座ってヒマラヤスギで出来た小箱を眺めていたが、そのうちに深い憂愁に落ち込んでしまった。彼にはボーセアン夫人はイリアドの女神のような大きな存在だったのだ。
「ああ! 戻ってたのね」子爵夫人が入ってきて、ラスチニャックの肩に手を置いて言った。
 彼は従姉が泣いているのを知った。目を上げ、片方の手は震えていたが、もう一方の手を挙げていた。彼女は突然小箱をつかみ暖炉の火の中に入れた。そしてそれが燃えるのを見ていた。
「彼等は踊ってる! 彼等は皆きっちり時間通り来たわ、だけど死は遅れてやって来るのね。しっ! 黙って」彼女はそう言うと、喋りかけたラスチニャックの口の上に指を当てた。「私はこれから先、パリにも社交界にも二度と出ません。朝の五時に、私はノルマンディーの奥の方に隠遁生活をするために出発します。午後の三時からずっと、私はその準備のために手を取られていたの、証書に署名したり、身の回り品を見たりね。私は人をやって問い合わせることなんて出来なかった……」彼女は言いよどんだ。「結局、彼が何処にいるのかは、はっきりしてたんだから……」彼女は悲しみに打ちひしがれて再び言いよどんだ。今は何もかもが苦しくて、確信を持って話せる言葉は何もなかったのだ。「結局」ようやく彼女が言った。「今夜のこの最後の宴では、私はすっかり貴方に頼ってしまったわ。私、貴方には何か私の友情の証を差し上げたいと思うの。私は貴方のことをしばしば考えると思うの。貴方は私には感じが良くて気品のある、若くて率直な人に見えたわ。この社交界にあっては貴方の特質はとても貴重なものよ。私は貴方が時にはこの私のことを思ってくれると信じています。どうぞ」彼女は周囲を見回しながら言った。「ほらこの小箱は私の手袋を入れているのよ。私が舞踏会か観劇に行く前は、私はいつもこれを取り出して、自分のことを綺麗だと思った。だって私は幸せだったから。だから、私がこれに触れたのは何となく優雅な物思いにふける時だけだったの。この中には私の思いがいっぱい入っていて、ボーセアン夫人という今はもういない女の総てがここにあるんです。これをお持ち下さい。私は誰にも増してあなたの家、ダルトワ通の方を気にかけることでしょう。今晩のニュシンゲン夫人はとても素敵だわ。あそこへ行って彼女を愛してあげて。もし私達がこれっきりでお会いすることがないとしても、信じてね、私にこんなに尽くしてくれた貴方のことを私はお祈りしています。それは確かなことよ。さあ下へ行きましょう。私は皆に私が泣いているなんて思われたくないの。私の前には長い時間があって、その間わたしは一人ぼっちなの、だから、私の涙なんて誰も見たくないと思うわ」もう一度この寝室を一目見たくて彼女は立ち止まった。それから一瞬手で目を覆った後、それを拭った。そして綺麗な水で目を洗った。それから学生の腕を取った。「さあ行きましょう!」彼女が言った。ラスチニャックはそれまでに、これほどまでに気高く抑制した悲しみに接したことがなかっただけに、かつてないほどの激しい感動に胸を打たれた。舞踏会に戻ってきて、ウージェーヌはボーセアン夫人と共に会場を一回りした。それはこの優美な貴婦人の最後の粋を極めた心遣いだった。
 やがて彼は二人の姉妹、レストー夫人とニュシンゲン夫人の姿を認めた。伯爵夫人はダイヤモンドで飾り立てて華麗そのものだった。ダイヤは疑いもなく彼女のために燃えるように輝いていた。彼女はこれが最後のダイヤをつけてきたのだった。いかなる力が彼女の自尊心と愛情を保持してきたのだろうか。しかし彼女は彼女の夫の視線には耐えられなかった。この光景はラスチニャックの思いから少しでも悲しみを和らげてくれるようなものではなかった。あたかも彼がイタリア人連隊長を見るとヴォートランに再会したような気がするように、彼は二人の姉妹がつけているダイヤモンドを見ると、ゴリオ爺さんが横たわっていた粗末なベッドを連想してしまうのだった。彼の憂鬱そうな態度の理由は子爵夫人には分からなかった。彼女は彼の腕を引き寄せた。
「さあさあ! 私は貴方から楽しみを奪う気はないのよ」彼女が言った。
 ウージェーヌはやがてデルフィーヌに呼び求められた。彼女は自分が生み出した効果に幸せを感じていたし、彼女が受け入れられるのを期待していた社交界で得ることの出来た賛辞の数々を学生の足元に並べておくことを熱望していたのだった。
「ナジーの様子はどうだった?」彼女が尋ねた。
「彼女は父親が死ぬ前に手形を割引してもらったんだろうね」ラスチニャックが答えた。
 午前四時頃にはサロンの人ごみがまばらになり始めた。やがて音楽の演奏も聞こえなくなった。ランジェ公爵夫人とラスチニャックだけが大広間に残っていた。子爵夫人は学生とだけになりたいと思っていたので、ド・ボーセアン氏にお別れを言った後、そこへやってきた。ボーセアン氏は寝室に向かいながらもこんな言葉を繰り返していた。「貴女はまちがっとるよ、なあ考えてみろ、貴女の歳で田舎に引っ込んでしまうなんて! いいか、私達と一緒にいるんだ」
 公爵夫人の姿を見て、ボーセアン夫人はある種の驚きの声を抑えられなかった。
「私はあなたのことを見抜いていたのよ、クララ」ランジェ夫人が言った。「あなたはもう帰ってこない積りで去ってゆくのね。でもね、あなたは私の言うことを聞かないで、そして私達がお互いに理解することもなしで、去ってゆくことは出来ないのよ」彼女は友達の腕を取って隣の広間へ連れて行った。そしてそこで、目に涙をいっぱいためて友を見つめた。彼女は友を抱き締め、その頬にキスをした。「私はあなたと冷たい別れをするなんて出来ない、ねえそうでしょ、そんなことをすれば、後で耐えられないような重い悔恨となるわ。あなたは自分のことと同じように私のことまで考えられるはずよ。今晩のあなたは立派だった。私は自分はあなたの友人として相応しいと感じたわ、そしてそのことを貴方に証明したいと思ったの。私はあなたに対して間違ったことをしていた、私もいつも正しく振舞っていたわけじゃない、私を許して、お願い。私はあなたを傷つけたようなものは総て否定します。私は私のそういう言葉を買い戻したいくらいなの。同じ一つの悲しみが私達の魂を結びつけるのよ、そして私達のうちの誰が一番不幸せなのかなんてことはもう私には分からない。ド・モンリヴォーさんは今晩ここに来なかったでしょう、お分かりよね? この舞踏会であなたに会った人は誰もあなたのことは忘れないはずよ、クララ。私はね、私は最後の努力をしているところ。もしこれに失敗したら、私は修道女になる積りよ。あなたはどこへ行くの、あなたは?」
「ノルマンディーのクルセルよ、そこで愛して祈るわ、神が私をこの世から呼び寄せて下さるその日まで」
「いらっしゃいラスチニャックさん」子爵夫人はこの若者が待っていることに気がついて、感動のこもった声で呼びかけた。学生は膝を折って従姉の手を取り、そこにキスをした。「アントワネット、さようなら!」ボーセアン夫人は言葉を継いだ。「お幸せに」彼女は今度は学生に向かって言った。「貴方の場合は言うことなしだわ。貴方は若くて、貴方はどんなことだって出来るわ。私はこの社交界を離れたら、幾らか恵まれた余生として、宗教的な真摯な感動に包まれた環境で暮らしたいものだわ!」
 ラスチニャックはボーセアン夫人がベルリン馬車に乗り込んで旅に出るのを見送ってから、五時頃に立ち去った。彼は涙に濡れた最後の別れの言葉を受け取った。その涙は最も高い地位にいる人々といえども、心の規律の埒外にあることは出来ず、また生きてゆくからには悲しみからも逃れられないことを証明していた。それは民衆に迎合する弁舌家が民衆に説く話と奇妙に符合するところがあった。ウージェーヌは歩いてメゾン・ヴォーケの辺りに戻ってきた。ちょうど湿っぽくて冷え冷えとした時刻だった。彼の人生教育は既に完了していた。
「俺達は可哀想だがゴリオ爺さんは救えない」ビアンションが隣人の部屋に入ってきたラスチニャックに言った。
「君」眠っている老人を見てからウージェーヌが彼に答えた。「いつか言ってたな、君は人生の目標を限定したって……その控えめな道を精一杯追求してくれ。僕はね、僕は地獄にいるんだ、そして地獄にい続けなければならないんだ。皆が君に社交界のことを色々言ってくるだろうけれど、その悪いことは全部その通りさ! 金や宝石によって覆われていたローマの恐ろしさを風刺したユウェナリスでもお手上げだろうね」
 あくる日、ラスチニャックは午後二時頃ビアンションに起こされた。ビアンションは外へ行かねばならなかったので、彼にゴリオ爺さんの看病を頼んだ。爺さんの病状は午前中にひどく悪化していた。
「爺さんは長くても二日しか持たない、多分六時間も生きられないだろう」医学部の生徒は言った。「それではあるが、我々は病気との闘いをやめるわけにはいかないんだ。彼には高度の医療をしてあげるべきなんだ。我々は勿論彼の看護人を引き受けるさ、だが、僕には金がないんだ。僕は彼のポケットを探ってみたし、箪笥の中も丹念に調べた。綺麗にゼロだ。彼に意識が戻った瞬間があったので、僕は彼に訊いてみたんだが、彼が僕に言うには、彼は完全に一文無しだというわけさ。どうするね、君?」
「彼は僕に二〇フラン預けてる」ラスチニャックが答えた。「しかし、これを僕は賭けてみる、僕は儲けるぞ」
「もし君が負けたら?」
「僕は彼の婿さんや娘に金を請求するよ」
「それで、彼等が君にそれを出さなかったら?」ビアンションは言葉を継いだ。「まあそれは後だ、何より緊急なのは金を見つけることじゃない。爺さんを足先から腿の中ほどまで熱ーい芥子泥でくるんでやらねばならない。もし彼が泣き叫ぶようなら、また方策はある。君はどんな風にやるか知ってるだろ。まずクリストフが君を手伝ってくれるはずだ。僕の方は……僕は薬剤師のところへ立ち寄る積りだ。彼が我々が要求している薬を全部揃えてくれることになってるんだ。可哀想な爺さんを我々の病院へ運べないのが何とも残念だよ。あそこなら何かにつけてましなんだがな。さて、ここは君に頼んだから、僕が帰ってくるまで彼の傍を離れないでいてくれよ」
 二人の若者は老人が横たわっている寝室に入っていった。ウージェーヌは老人の顔が痙攣し、青白く、ひどく弱々しく変わってしまったのを見て一瞬たじろいだ。
「おやおや! パパ?」そう言いながら彼は粗末なベッドの上にかがみこんだ。
 ゴリオはウージェーヌの方に輝きの失せた目を上げた。それから注意深く彼を見つめたが、はっきりとは認識出来ないようだった。学生はこの光景に耐えられなくなった。涙が彼の目ににじんだ。
「ビアンション、窓にカーテンが要るんじゃないか?」
「いや、周りの環境はもう関係ないんだ。彼が暑いとか寒いとか言えば、まだ幸せなんだよ。とは言っても、薬を煎じたり、その他諸々のために我々に火は要るね。僕が君宛に太い柴を持ってこさせるよ。それでもって我々が薪で用を足す分には使えるだろう。昨日から今日の夜にかけて、僕は君んとこのやこの爺さんのとこの土くれをかき集めて燃やしてたんだ。じめじめしていて、壁から水が滴り落ちていたよ。僕はこの寝室の空気を乾かす事はほとんど出来なかった。クリストフが部屋を掃除してくれたが、ここは本当に馬小屋だよ。僕はネズの実も燃やしたが、あれは実に臭いんだ」
「何てことを! それにしても彼の娘達だ!」ラスチニャックが言った。
「いまさら仕様がないだろ、彼が喉が渇いたと言えば、君がそれを彼にあげるんだ」インターンがラスチニャックに大きな空の瓶を指し示しながら言った。「君は彼がうめいて、腹が熱くてつらいと言うのを聞いたら、クリストフの助けを借りながら、彼に薬を与えてやるんだ……そうだよな。彼がたまたま、すごく興奮したとする、あるいは彼が沢山喋ったとする、あるいは彼がとうとう少々痴呆になったとする、その時は彼のするがままにしとけよ。それは悪い兆候ではないんだ。だけどクリストフだけはコシン病院に連絡に寄越してくれ。我々の担当医、僕の同僚、それかこの僕、我々が彼にモグサを当てるために直ぐ来るよ。我々は今朝、君はまだ寝ていた間に、ガル博士の弟子の一人と、それからパリ市立病院の主任医師それに僕と、この医師が集まって大会議をやってたんだ。僕達は奇妙な兆候を見出したので、病気の進行具合を追跡する積りだ。それで医学的に様々なとても重要な症状を明らかに出来ると思っている。中の一人が主張しているのは、もし血圧がある臓器だけに他の臓器よりも特に強く圧力をかけたとすると、それによって特殊な作用が助長されるのではないかということだ。爺さんが話す時には、彼の話がどういう思考の分野に属しているかを判断出来るように、ともかく彼の言うことに耳を澄ませて聞くようにしたいんだ。つまりそれが、記憶力の結果か、洞察力か、判断力か。あるいは、彼が物質面に関心を持っているのか、それとも感情的なことに対してか。あるいは、彼は計算をしているのか、それとも過去を思い出しているのか。要するに、我々は正確な報告書を作る良い機会に恵まれているということだ。病気が一気に進行して、彼がちょうど現在そうであるように意識を喪失したままで、今この瞬間に死んでしまうということもあり得るわけだ。こうしたことは、このタイプの病気では結構珍しい! もしこの辺りで爆発が起こっても」ビアンションは病人の後頭部を指し示しながら言った。「特異な例だが、あるにはあるんだ。脳がその機能のうちのあるものを回復させて、死が訪れるのが遅れるんだ。漿液の流れが脳から逸れるんだ。そしてどのルートを取るのかは、死後の死体解剖で初めて解るんだ。救済院に収容されている痴呆症の老人の例だが、彼の場合、漿液の溢出は脊柱にまで及んでいる。ひどく苦しんでいるんだが、ともかく彼は生きてるんだ」
「彼女達はとても楽しそうだったかね?」ウージェーヌに気づいたゴリオ爺さんが言った。
「おお! 彼は娘達のことだけ考えてる」ビアンションが言った。「彼は昨晩なんか百回も僕に同じこと言ってたぜ。『彼女達が踊る! 彼女はドレスを着ている』彼は彼女達の名を呼びかけてるんだ。僕は泣いちまったよ、ちくしょうめ! 爺さんの抑揚のついた呼び声にね。『デルフィーヌ! 私の好きなデルフィーヌ! ナジー!』誓って言うけど」医学部の生徒は言った。「その言葉は涙の中に消えてしまうんだ」
「デルフィーヌ」老人が言った。「彼女はそこにいるんじゃないのかい? 私にはよく分かってるんだ」そして彼の目は壁や入り口の方を見るためにある種の熱狂的な活気を取り戻したように見えた。
「僕はシルヴィに芥子泥の準備をするように、下に行って言うよ」ビアンションが叫んだ。「ちょうどいいタイミングだ」
 ラスチニャックは一人老人の傍に残り、ベッドのすそに坐り、その目は見るのが恐ろしく辛いようなあの頭にじっとすえられていた。
「ボーセアン夫人は逃げていった、そしてこの人は死にかけている」彼は思った。「綺麗な心というのはこの世で長くはいられないものなのか。何とか立派な心情がこのけち臭いちっぽけなうわべだけの社会と本当に上手く調和出来るようにならないものかなあ?」
 彼自身がその目で見た宴の光景は彼の思い出の中に出現し、今目の前にある死の床の有様と著しい対照をなしていた。ビアンションが突然戻ってきた。
「おいウージェーヌ、僕は今、俺達の主任医師と会ってきたんだ。そしていつものように走って戻ってきたところだ。もし理性の兆候を示して健在振りを見せていたり、話したりするようなら、彼に長時間の芥子泥療法を施してくれ、やり方は、うなじから臀部までを芥子泥で覆ってしまうんだ。それから我々のところに使いを寄越してくれ」
「ビアンションよ」ウージェーヌが言いかけた。
「おお! それは科学的な療法なんだよ」医学部の学生は新米医師の溢れんばかりの情熱を込めて語を継いだ。
「よし、僕はこうなりゃ、この可哀想な爺さんを愛するが故に、たった一人で面倒みてやろうじゃないか」ウージェーヌが答えた。
「もし君が今朝の僕を見ていたら、君はそうは言わなかっただろうな」ビアンションはその申し出に気を悪くすることもなく言い継いだ。「熟練の医師は大体病気そのものしか見ないんだ。ところが僕はね、僕は病人の面倒まで見てしまうんだ、どうだい」
 彼は立ち去った。ウージェーヌは一人、老人と残された。しかも危機が宣言されるのがもう迫っていることは明らかだった。
「ああ! 貴方でしたか、君だったんだ」ゴリオ爺さんがウージェーヌに気づいて言った。
「気分は良くなりましたか?」学生は彼の手を握って言った。
「うむ、頭ががんじがらめになったような感じだったけれど、今は自由になったよ。貴方は娘達を見かけましたか? 彼女達はもう直ぐやって来るでしょう。彼女達は私が病気だと知ったら直ぐに駆けつけるでしょう。彼女達はジュシエヌ通の頃はずいぶん私の面倒を見てくれた。ああ! 私はこの部屋が彼女達を迎えられるようにちゃんとなってればと思うんだが。若い者が一人いて、私のためにありったけの土くれを燃やしてくれたがな」
「僕、クリストフに尋ねます」ウージェーヌが彼に言った。「その若い者が貴方のために薪を送ってきますので、彼に上に持ってこさせます」
「いいね! しかし、薪代の支払いはどうなるんです? だって、私は一文無しだ。私は全部あげてしまった、全部。私は施しを受ける身になってしまった。ラメ入りのドレスを着た彼女は少なくとも綺麗でしたか?(ああ! 辛いよ!)ありがとうクリストフ。神様がご褒美を下さるだろう、いい子だ。私はね、素寒貧だ」
「僕が君にちゃんと払うからね、君とシルヴィにね」ウージェーヌが少年の耳許でそう言った。
「私の娘達はもう直ぐ来ると君に言わなかったかね、クリストフ? もう一度訊きに行ってくれないか、君に一〇スーあげるよ。彼女達に言ってくれ、私は調子が良くなくて、彼女達と抱擁したがっている、死ぬ前にもう一度だけ会いたがってるとな。こう彼女達に言ってくれ、だが余り驚かさないようにな」
 クリストフはラスチニャックの目配せを見て部屋を出て行った。
「彼女達は来ようとしてるんだろう」老人は語を継いだ。「私はあの娘達を知っている。あの優しいデルフィーヌ、もし私が死んだら、彼女はどんなに悲しむことか! ナジーにしてもそうだ。私は死にたくはない、彼女達を泣かせたくないからな。死ぬってことは、なあウージェーヌ、もう彼女達に会えないってことだ。今立ち去ろうとしているこの世を私は懐かしく思うことだろう。父親にとって地獄とは、それは子供がいない状態なんだ。そして私は娘達が結婚して以来、私としての見習い期間は既に体験してきた。私の天国はジュシエヌ通なんだ。なあ、もし私が天国に行ったら、私は精霊になって地上の彼女達の周りに戻ってくることが出来るんじゃないかなあ。私はそんな話を聞いたことがあるんだ。本当かな? 私は今でもジュシエヌ通にいた頃と変わらぬ彼女達に会えるものと信じているんだ。朝には彼女達が上から降りてきたもんだ。お早うパパ、彼女達が言う。私は二人を膝に乗せる、私は二人にありとあるおべっかをしたり、いたずらをしたりする。彼女達は優しく私を撫ぜてくれる。私達は毎朝一緒に食事をするんだ、私達は夕食もとる、つまり、私は父親だった、そして子供達と遊んだ。彼女達がラ・ジュシエヌ通にいた時は、彼女達は理屈っぽくなかった。彼女達は世間のことは何も知らなかった、彼女達はとても私を愛してくれた。ああ! くそっ! 何故、彼女達はいつまでも小さいままでいてくれなかったんだ?(おお! 気分が悪い、頭がしびれるようだ)ああ! ああ! すまない、我が子よ! ひどく苦しいんだ、そして生憎こういうのが本格的痛みになってしまうんだ。貴方のお陰で私は病気に立ち向かうことが出来るようになったが。ちくちょう! 何とか彼女達の手を私が握り締めることさえ出来たら、私は病気のことなんて平っちゃらなんだが。貴方は彼女達が来ると思いますか? クリストフの大馬鹿野郎め! 私が自分自身で行くべきだった。だが彼でも彼女達に会えるだろう、どうかな。しかし、貴方は昨日、舞踏会に行かれてたんでしたな。彼女達が一体どんな具合だったか、私に話してもらえますか? 彼女達は私の病気のこと全然知らない、そうでしょ? ダンスなんて出来ないと言い出すところだったんだ、可哀想に! ああ! 私はもう病人じゃないと言ってやりたい。彼女達はまだ私なしでは無理だ。彼女達の財産が危うくなっている。そして何というひどい夫共に二人は引き渡されてしまったんだろう! 私を治して! 私を治して下さい!(おお! こんなに苦しいとは! ああ! ああ! ああ!)分かってくれるでしょう、私はどうしても治らにゃならん、というのは、彼女達には金が要る、そして私はどこへ行けば金を稼げるかを知っている。私はでんぷん製品をオデッサの先っぽで商いしに行くんだ。私は目端のきく人間だ、百万だって稼いでみせる。(おお! ひどく苦しい!)」
 ゴリオは暫く沈黙した。その間、彼は苦痛に耐えるための力を集めるために懸命の努力をしているように見えた。
「もし彼女達がそこにいてくれたら、私は何もぶつくさ言いませんよ」彼が言った。「一体どうして私が不平を言うのか?」軽い居眠りがそれに続き、かなり長く続いた。クリストフが戻ってきた。ゴリオ爺さんが眠っているものと思っていたラスチニャックはこの少年がお使いの報告を大声でするのをそのまま聞いていた。
「旦那さん」少年が言った。「私はまず最初に伯爵夫人のところへ行きました。ところが彼女はご主人と大喧嘩の最中で、私はとても彼女に話すことなんて出来ませんでした。私がしつこくお願いしたので、ド・レストー氏自身が出てこられて、私にこうおっしゃったんです。『ゴリオ氏が亡くなる、おやおや、彼としてはそれに越したことはないんじゃないか。私は大事な用件があって、それを片付けるためにレストー夫人にはいてもらわねばならない。総て片付いたら彼女は行く』このご主人は怒ったような様子でした。私が出てゆこうとした時、奥さんが私からは見えない別の戸口から控えの間へ入って来られて私に言われました。『クリストフ、お父様に言っといて下さい。私は夫と議論の最中で、彼を置いて行くことが出来ない。だけど、総て片付いたら直ぐに私は行きます……』と。男爵夫人については、話はまた違うんです! 私は彼女にはてんで会えませんでした。それに彼女の話し声すら聞こえませんでした。ああ! 小間使いが私に言いました。『奥様は舞踏会から五時十五分に戻られて寝ておられます。もし私が昼前に彼女をお起こしすれば、彼女に叱りつけられるでしょう』と……。私は小間使いに、奥様のお父さんは彼女が来て呼び鈴を鳴らす頃にはもっと悪い状態になってるだろうと言ってやりました。もういつ何時、悪い報告を彼女に言うことになってもおかしくないでしょ。私も精一杯お願いしましたよ! ああ、うーむ! 私は男爵様にお話したいと頼みましたが、彼は外出していました」
「彼の娘の誰も来ないんだ!」ラスチニャックが叫んだ。「僕が二人共に手紙を書いてやる」
「誰も」起き上がって坐った姿勢の老人から言葉が出てきた。「彼女達には他の用事がある、彼女達は寝ている、彼女達は来ないだろう。私にはそれが分かった。子供とはこんなものだと悟るには死ぬしかないんだ、ああ! なあ、あんた、結婚なんてするな、子供なんて持つもんじゃない! 貴方は彼等に命をやるのに、彼等は貴方に死をもたらす。貴方は彼等を社交界に出してやる、彼等は貴方をそこから追い出す。駄目だ、彼女達はやってこない! 私にはこんなこと、十年前から分かっていた。私は何度そう思ったか知れない。しかし、私は敢えてそこまでは考えないようにしていた」
 彼の両の目から涙が赤らんだ縁に溢れたが、こぼれはしなかった。
「ああ! 私が金持ちだったら、私が自分の財産を守っていたら、私が彼女達に財産をやってしまってなければ、彼女達は今頃そこにいるだろうに、彼女達はキスするために私の頬をなめまわしていただろうに! 私は今でも屋敷に住んで、綺麗な寝室を持っていて、使用人達がいて、私には情熱もあったはずだ。そして彼女達はいつも泣かされている、彼女達の夫や子供のことでな。私だけがこういう時大きな存在のはずだった。だが、もう何もない。金で何でも得られる、娘達だって同じだ。ああ! 私の金は何処へ行っちまったんだ? もし私が残してやる財産を持っていたら、彼女達は私に包帯をしたり看護したりするんだろうなあ。そしたら私は彼女達の声を聞き、彼女達の顔を見ることも出来たんだ、ああ! ねえ君、たった一人の子供になってしまった、私はこうしてうち棄てられて惨めになってしまって、かえって良かったと思うよ! 少なくとも貧乏人が愛される時代になってみろ、間違いなく私は愛されるんだからな。いいや、私はやっぱり金持ちになりたい、そして彼女達に会いたい。確かに、あり得ないことでもない、だろ? 彼女達は二人揃って、まるで石のような心を持っている。私は彼女達が私に対して愛情を持ってくれると思って、余りにも深い愛情を抱き過ぎたようだ。父親という者はいつも金持ちでなければならない、父親は腹黒い馬を御するように上手く子供達の手綱を引かねばならない。ところが私は彼女達の前で膝をついていたんだ。惨め! 彼女達は十年来、この私をまるで女王様のように堂々と操ってきたんだ。彼女達が結婚して最初の頃、彼女達が私に対してどれほど細かい心遣いを見せてくれたか、貴方が知ったらなあ!(おお、苦しい! 何と残虐な痛さだ!)私は彼女達それぞれに八〇万フランずつ持たしてやっていたんだ、だから彼女達はもちろん彼女達の夫などはなおさら私に対して無礼な態度はとれないはずだったんだ。皆が私を迎えて言ったもんだ。こちらでは、私達の良きお父様いらっしゃい、またあちらでは、私の親愛なお父様いらっしゃい、と、こんな具合にだ。彼女達の家には、私用の食器がいつも揃えてあった。とうとう私は彼女達の夫とも夕食を共にした。彼は敬意を払って私をもてなしてくれたものだ。私にはまだ何かある種の雰囲気があったんだろう。何故そうだったのか? 私は私の商売については一言も話していなかったんだ。自分の娘達に八〇万フラン持たしてやるような男は十分に気を遣うべき男というわけだ。で、皆は何くれとなく面倒をみてくれた、だが、それは私が持ってる金のためだった。世の中は綺麗なもんじゃない。私はそれを見てきた、この目で! 皆が私を馬車に乗せて観劇に連れて行ってくれた。そして私はそこにいて、望めば夜の部まで観ることも出来たんだ。要するに彼女達は私の娘であると彼女達自身そう思っていたし、彼女達は私のことを自分達の父親だと認めていた。私はまだ鋭い感覚を持っていた、ほんとに、だから私は何一つ見逃さなかった。皆がそれぞれの居場所を持っていた、そしてそのことが私の胸を刺し貫いた。私にはそんなものは見せ掛けに過ぎないと分かっていた。しかし、私の不幸を癒す薬はなかった。私は彼女達の家では、庶民階級の食卓での様なくつろぎを感じることが出来なかった。私は一言も喋れなかった。そしてまた、誰かこの社交界の男が私の婿の耳許に質問をしているんだ。『あそこにおられる方はどういうお人なんですか?』『あれはお金で出来た父親です。彼はお金持ちです』ああ、ちくしょう! 誰もが私のことを言ったり見たりするんだが、いつもエキュ金貨への崇拝だけがそこには見えるだけだった。だが、仮に私が彼等に何度か少し気詰まりな思いをさせたにしても、私は自分の欠点を何とか補った積りだ! 第一に一体誰が完全な人間だと言えるんだ?(私の頭はどうにもならんのか!)今まさに死ぬ苦しみはこんなだろうと言うくらいに苦しいんだ、ああウージェーヌさんよ、なーに! これしきのことはアナスタジーが初めてあんな目で私を見た時、私が抱いた悲しみに比べれば何と言うこともないんだ。それは私が彼女を卑しめるような馬鹿を言ってしまったことを私に知らしめる視線だった。彼女の視線は私の中の霊感といったものを目覚めさせた。私は芸術的感興にも馴染みたいと思ったが、自分でよく分かったことは、私という人間が余りにも現実的だということだった。その翌日、私は心の慰めを得たくてデルフィーヌのところへ行った。ところがそこで私は彼女を怒らせてしまうような馬鹿をやってしまったんだ。それで私は気違いのようになってしまった。それから後、自分がどうなってたのか分からないまま、気がついたら八日が過ぎていた。それから私は彼女達に非難されるのが怖くて、彼女達に会いに行く勇気がなくなってしまった。そしてごらんの通り私は娘達の家から追い出されたってわけだ。ああ神よ! あんたは私が忍んでいる惨めさ苦しさを分かっているのに、あんたはこの老いて変わり果てた殺されたような白髪の男が今受けている刃の一刺しを数えているのに、何故あんたは今日もまた私を苦しめるんだ? 私は娘達を愛し過ぎるという罪の報いをもう十分に受けた。娘達は私の愛情に対する仕返しをしている。彼女達はまるで処刑人のように私を責めさいなんでいる。何とまあ! 父親共がこれほど愚かだとは! 私は彼女達を余りにも愛し過ぎたため、賭博人が博打に狂うように愛に狂ってしまった。私の娘達、それは私にとっての悪徳だった。彼女達は私の女王様だった、つまり総てだった! 二人とも何やかやと装い品を欲しがっていた。そして小間使いの女達が私にそれを言ってくるんだ。私は娘達に優しく迎えてもらいたくて、そんな贈り物をしてやった! しかし彼女達は私に社交界での過ごし方に関する何がしかの教訓を与えてくれただけだった。おお! 彼女達は翌日に私が行っても待ってくれてもいないのだ。彼女達も私のことを恥ずかしいものと思い始めていたんだ。これがね、行儀の良い子を育てたのがこういうことなんだ。私の年代ではまだ学校へやってもらうことすら適わなかったものだが。(ものすごく苦しい、くそっ! 医者を! 医者を! いっそ頭を開けてくれ、その方がましだ)娘達、娘達、アナスタジー、デルフィーヌ! あの娘達に会いたい。憲兵隊や軍隊を使って探して、彼女達を連れてきてくれ! 私の言うことが正しい、何もかも私の言う通りだ、当然だ、民法典だ。私は抗議する。もし父親というものが土足で踏みにじられるようなら、祖国は滅びてしまうだろう。こんなことは明らかだ。社会も世間も父権の上で動いているんだ。子供が父親を愛さなくなれば全部が崩れてしまう。おお! 彼女達に会う、彼女達の声を聞く、彼女達が何を言おうとかまわない、私が彼女達の声を聞くことが出来るなら、私の悲しみは静められるのだが、特にデルフィーヌ。だが、彼女達に言ってくれ、彼女達がそこにやって来たら、これまでのように、私を冷たい目で見ないでくれってな。ああ、優しいウージェーヌさん、貴方にはまだ分かるまい、金に見えたものが突然鈍い色の鉛に変わってしまうのが、どういうことなのか。私を見ても娘達がもう目を輝かせることがなくなったその日から、私のここでの生活はずっと冬のように凍りついたままだ。そして私にはもう悲しみ以外に食べるものもなくなってしまった、そしてそれを食っていたんだ! 私は実際にさげすまれ辱められた。私は彼女達をとても愛している、だから私は総ての侮辱を飲み込んだ、その代わりに彼女達は私に哀れな小いちゃな快楽、恥ずべきものだが、それを売ってくれてたんだ。自分の娘達に会う為に父親がこそこそ隠れるんだよ! 私は彼女達に私の人生をやった、彼女達は今日、私のために一時間すら割いてはくれないだろう! 喉が乾いて、腹が減った、胸は焼けるようだ、彼女達が私の激痛を和らげるために来てくれることはないだろう。私は死ぬんだ、だから私にはそれが分かる。だが、彼女達には、自分達の父の死骸を踏んづけることが、どんなことかということすら分かっていない! 天にまします神は、私達、私達父親の意に反して私達を罰する。おお! 彼女達は来る! おいで、私の嬢ちゃん、また私にキスしておくれ、これが最後のキスだよ、お前達のお父さんへの路銀だよ、お父さんはお前達のために神に祈ろう、神にお前達は良い娘達だったと伝えよう、お父さんはお前達のことを擁護するよ! 要するに、お前達に罪はない、彼女達に罪はない、そうでしょ! 皆にそう言ってやって下さい、そしたら、私のことで世間が彼女達にとやかく言わないでしょう。みんな私が悪いんです。私が彼女達に足で踏んづけられても放っておいたんです。私はそれを好んでさえいました、この私は。だがあれで誰にどうこうということはないんです、この世でもあの世でも裁かれるようなことじゃないんです。もし神が私のことで娘達を有罪にするなら、神は正しくない。私は自分を処すすべを知らなかった。私は自分の権利を放棄するような馬鹿をやらかした。私は彼女達に値しなくなってしまった! 仕方がないんだ! どんなに美しい気性で最良の魂であっても、この父親の安逸という堕落の前には抵抗できなかったんだ。私は惨めな人間だ、私は罰を受けて当然なんだ。この私が一人で娘達をかき乱す原因を作った、私が彼女達を甘やかした。彼女達は今日も快楽を求めている、かつて彼女達がボンボンを欲しがってたのと変わらない。私はいつも彼女達が若い娘らしい夢を満足させることを許してきた。十五歳の時には、彼女達は馬車を持った! 彼女等に文句を言う者はいなかった。この私にひたすら責任がある、だが愛ゆえの責任だ。彼女達の声を聞くと私は心を開いてしまう。私に彼女達の声が聞こえる、そして彼女達が来る。おお! そうだ、彼女達は来るだろう。法は誰もが死にゆく父親を見送るためにやって来ることが望ましいとしている。私の言う事は法に適っているんだ。それに、そんなのはひとっ走りするだけのことじゃないか。何なら駄賃を払ったっていいんだ。一筆書いてやって下さい、私には彼女達に残す何百万かがあると! 誓ってもいい、私はイタリアからオデッサにパスタを動かす積りだ。私はそのやり方に関しては知識がある。私の計画なら、百万単位の稼ぎが出来る。誰もまだ思いついてない計画だ。あれは小麦や小麦粉のように輸送中に傷む心配が全くないんだ。えーと、えーと、澱粉だったかな? それでもって百万になるぞ! 貴方に嘘を言わすわけじゃないが、彼女達に百万フランと言ってやれ、そしたら、彼女達は欲にかられて、あっという間にやって来るさ、私はむしろ騙された方が嬉しいよ、私は彼女達に会いたい。私は娘達が欲しい! 私の娘だったんだ! 彼女達は私のものだ!」彼は起き上がって坐り直しながら言った。ウージェーヌには、彼の頭の白髪がさんばらになっているのが見え、そこにありとあらゆる心配事が巣くっているように思われた。
「さあ」ウージェーヌが彼に言った。「また横になった方がいいよ、ゴリオの父さん、僕が彼女達に手紙を書きますからね。ビアンションが戻ってきたら直ぐに、もし彼女達がまだ来てなかったら、僕が出向いて行きます」
「彼女達が来てなければだって?」老人はすすり泣きながら鸚鵡返しに言った。「私が死ぬっていうのに、死ぬんだ怒り狂って、怒り狂って! 怒りがこみ上げて! この瞬間に私の人生がはっきり見えてきた。私は騙され続けた馬鹿だ! 彼女達は私を愛してなんかいない、彼女達は一度だって私を愛したことがなかったんだ! これは明らかだ。彼女達がまだ来てないってことは、彼女達はいつまでたっても来ないってことだ。彼女達は遅れれば遅れるほど、私にささやかな喜びを与えることを決意する気持ちはなくなってゆくだろう。私には分かっている。彼女達は未だかつて私の悲しみを思いやったことなど露ほどもないはずだ、私の苦しみを、私の願いを、私が死んだ後でも彼女達は考えることすらないだろう。彼女達は私の優しさの秘密にすら通じていないだろう。そうさ、私には分かってる、彼女達には、私の心の底を見せてやる習慣が、私がやってやったことの総ての価値を下げる結果になったんだ。彼女達が私の目をくれと言ったとしたら、私は彼女達に言ったことだろう。『私の目をくりぬきなさい!』私は大馬鹿だ。彼女達はどこの父親も自分達の父親と同じようなものだと思い込んでいる。もう役にも立たない父親と分かって彼女達は私を棄てた。だが彼女達の子供が私の仇を討ってくれるだろう。それも彼女達がここへ来なければ、彼女達には復讐の意味すら分からないだろう。だから彼女達に警告してやってくれ、彼女達は自らの断末魔の苦しみを準備していることになるんだとな。彼女達は唯一つの罪を犯すと、彼女達はもうありとあらゆる罪を犯したことになる。だから行って、だからどうしても彼女達に言ってやってくれ、来ないということは、それは親殺しだと! 彼女達はこの罪を加えなくとも、もう罪を犯し過ぎてるんだ。だから、こんな風に大声で言ってやってくれ、『おいナジー! おいデルフィーヌ! お前達のお父さんのところへおいで、彼はお前達にとても優しかった、そして今は苦しんでいる!』無だ、誰も来ない。それじゃ私は犬のように死ぬしかないのか? これが私への報いだ、この見捨てられた状態が、忌まわしい最悪の最期だ。私は彼女達を嫌悪する、私は彼女達を呪う。私は夜になると、彼女達をたびたび呪うために棺から起き出して来るだろう、何故かって、つまり、ねえ、私が間違ってるかね? 彼女達の振る舞いこそひどいじゃないか! どうだね? 私が何か間違ったことを言ったかね? 貴方、もしかしてデルフィーヌがそこにいるからと、私に注意してくれたんじゃないのか? そりゃ彼女は二人のうちではましな方さ。貴方は私の息子だ、ウージェーヌ、貴方は! 父が彼女の方がいいと言ってるんだ、彼女を愛してやってくれ。片方の方は大分性悪だ。そして彼女達の財産だ! ああ、くそっ! 私は死にそうだ、苦しい、ちょっとひどい! 私の頭を切ってくれ、心臓だけにしてくれ」
「クリストフ、ビアンションを探しに行ってくれ」老人のうめき声と叫び声の異常さに驚いてウージェーヌが叫んだ。「それから僕のところに軽二輪馬車を来させてくれ」
「僕は貴方の娘さん達を探しに出かけます、ゴリオの父さん、僕は彼女達を連れて戻って来ます」
「力ずくで、力ずくで! 衛兵隊を呼べ、歩兵隊もだ、皆だ! 皆だ」彼は理性の輝きが見えた最後の眼差しをウージェーヌに投げかけながら言った。「政府に言え、王室の検事にも言え、私のところへ彼女達を連れて来るんだと、お願いだ!」
「しかし、貴方は彼女達を呪っていたのに」
「誰がそんなことを言ったんだ?」老人は仰天して答えた。「貴方はよく知っているじゃないか、私は彼女達を愛している、彼女達に焦がれている! 彼女達に会えば私の病気は治る……行ってくれ、親切なお隣さん、可愛い息子よ、行ってくれ、貴方は優しい、貴方は……貴方には感謝している、だが私には貴方にあげるものが何もない、ただ死にゆく者から祝福を捧げるしかないんだ。ああ! 私は少なくともデルフィーヌに会って言いたいんだ、貴方への借金を綺麗にしてくれとな。もし、あちらが来ないんなら、私をそちらへ連れて行ってくれ。彼女に言ってやる、もし彼女が来られないようなら、貴方はもう彼女を愛さないだろうとな。彼女は貴方をとても愛してるので、彼女は来るだろう。喉が渇く! はらわたが焼けるようだ! 何かで頭を冷やしてくれ。娘達の手、それで私は救われる、そんな気がする……さあ! 私がいなくなったら、誰が娘達の財産を立て直すんだ? 私は娘達のためにオデッサへ行きたい。オデッサでパスタを作るんだ」
「これを飲んで下さい」ウージェーヌは瀕死の老人を左腕に抱えて起こしながら言って、もう一方の手で煎じ薬がいっぱいに入ったコップを引き寄せた。
「貴方はお父さんとお母さんを愛してあげなさいよ、貴方!」老人は衰弱した手でウージェーヌの手を握って言った。「貴方には、私が彼女達、私の娘達に会うこともなく死んでゆこうとしているのが、どういうことか、お分かりですか? いつも喉が渇いていて、それでいて決して飲めない、それなんです、私がこの十年来体験してきたのはそんな具合でした……私の婿二人は私の娘達を殺してしまった。そうです、彼女達が結婚した後は、私にはもう娘がいなくなってしまったんです。父親達よ、行政院に結婚反対の法律を作るように要求しよう! 要するに、貴方が貴方の娘を愛するなら、娘を結婚させるなって言うことです。婿というやつは娘の総てを駄目にしてしまう極悪人です。奴等は何もかも汚してしまう。結婚なんてもう沢山だ! それは、我々に我々の娘を差し出させておきながら、我々が死ぬ時は、もはや我々には決して返してはもらえない、そういうものなんだ。父親の死について法律を作ってもらいたい。それは恐ろしいことになっている、今のところは! 復讐だ! 彼女達がやって来るのを阻んでいる奴等、それはあの婿達だ。奴等を殺せ! 死ねレストー、死ねアルザス野郎、奴等が私の殺人犯だ! 死か、さなくば、私に娘達を! ああ! もう終わりだ、彼女達が来ないうちに私は死ぬ! あの子達! ナジー、フィフィーヌ、さあ、おいでったら! お前達のパパは逝っちまう……」
「ゴリオの父さん、落ち着いて、さあ、静かに、興奮しないで、何も考えないで」
「彼女達に会えない、そんな悲しいこと!」
「もう直ぐ貴方は彼女達に会いに行けます」
「本当かね!」錯乱している老人は叫んだ。「おお! 彼女達と会う! 私は彼女達に会いに行く、彼女達の声を聞きに行く。私は幸せに死ねるだろう、それなら! そうだ、私はもう生きることもない、もうそれにはこだわらない、私の苦しみは増えるばかりだから。だが、彼女達に会う、彼女達のドレスに触れる、ああ! ただ彼女達のドレスだけでいい、実に些細なことだ。しかし、私は彼女達のなにかしらを感じることが出来る! 私に彼女達の髪を触らせてくれ……したい……」
 彼はこん棒で一撃食らったように枕の上に頭から倒れこんだ。彼の手は娘達の髪をつかもうとするかのように掛け布団の上で動き回った。
「私は娘達に神の加護を祈る」彼は懸命に祈った。「神の加護を」
 彼は突然崩れるように倒れた。この瞬間、ビアンションが入ってきた。「僕はクリストフに出会ったんだ」彼が言った。「彼は君のために馬車を呼びに行ってる」次いで彼は病人を見た。病人のまぶたを手でめくりあげた、そして二人の学生は彼の目には熱気も輝きも既に消えているのを見たのだった。「彼はもう復活出来ないだろうな」ビアンションが言った。「信じられないよ」彼は脈をとった、身体を触ってみた、手を爺さんの心臓の上に置いてみた。
「機能はずっと動いている。だけど、彼の状態では、それは不幸なことだ。むしろ死ぬ方がましなんだよ!」
「確かにその通りだな」ラスチニャックが言った。
「どうかしたのか? 君は死人のように青ざめてるぞ」
「ねえ、僕は彼のうめき声や叫び声を聞いてたんだぜ。神様はいるんだろう! ああ! そりゃあな! 神様がいて、そして神は我々により良い世界を作って下さった。でなきゃ、この世はナンセンスだ。もしそれがこれほど悲惨でなければ、かえって僕はさめざめと泣けば気が済むところだった。だけど僕はまだ心も身体も締めつけられるようで、ひどく苦しいんだ」
「ねえ、余分な仕事がいっぱいあるぜ、何処で金を作る?」
 ラスチニャックは自分の腕時計を取り出した。
「ほら、これを直ぐに質に入れてくれ。僕は質屋に寄ってけないんだ、というのは、僕は一分といえども無駄には出来ないんだ。それで今はクリストフを待ってるところだ。僕は今は一文無しだ、ところが帰ってきたら僕は御者に支払いをしなけりゃならない」
 ラスチニャックは階段に飛んでいって、エルデ通のレストー夫人のところへ向かうべく出て行った。道中、彼が目撃した恐ろしい光景に触発された彼の想像力は彼の憤りに益々熱を帯びさせた。彼は控えの間に着いて、レストー夫人に面会を申し込んだが、夫人は見当たらないという返事が返ってきた。
「しかし」彼は召使に言った。「私は夫人のお父様が危篤になっているその場から来たんです」
「お客様、私共は伯爵様から、とても厳しく命令されておりまして……」
「ド・レストーさんがおられるなら、どうぞお伝え下さい。彼の義父がどういうことになっているか、そして、私は彼に大至急お話しなければならないということを」
 ウージェーヌは長い間待った。
「彼はこの瞬間にも死ぬところじゃないか」彼は考えていた。
 召使が彼を大広間に案内した。そこで、ド・レストー氏が立ったままで学生を迎えた。彼は学生を座らせることもなく、暖炉には火もなかった。
「伯爵様」彼に向かってラスチニャックが言った。「貴方の義理の父上が今この瞬間にも、汚いあばら家で、薪を買うお金すらない状態で息を引き取ろうとされています。彼は間違いなく危篤です。そして娘さんに会いたがって……」
「貴方様」ド・レストー伯爵は冷淡に答えた。「貴方は既に認識されておられるはずだが、私はゴリオさんに対しては全くと言ってよいほど優しい感情は持っていないんですよ。彼はあの性格でもってレストー夫人を巻き添えにして評判を落とした。彼は私の人生に不幸をもたらした。私は彼のことを私の心の平和を壊す敵だと思っています。彼が死のうと、彼が生きようと、皆、私には全くどうでもよいことです。これが、彼について私の感情がどういうものであるかをお示ししたものです。世間は私を非難するでしょう。私はそうした意見は気にしません。私は今、私の考えでは馬鹿らしいとか無関心なことに関わるよりも、もっと重要なことでやり遂げねばならないことがあるんです。レストー夫人のことだが、彼女は外出できない状態なんですよ。それに、私は彼女が家を離れるのを好まないんです。彼女の父親には、彼女が私や私の子供に義務を果たすことが出来次第直ぐに、彼に会いに行くとお伝え下さい。それにしたって、彼女が自分の父を愛していれば、彼女も短い時間なら恐らく都合がつくはずなんだが……」
「伯爵様、私は無論貴方のご方針をとやかく言う立場ではございません。しかし、あなたは奥様に対するご主人でいらっしゃいます。ですから、私は貴方の誠意を当てに出来たらと思っております。どうでしょう! どうかこれだけは私にお約束下さい。彼女にお父様が一日も持つまいということ、そして彼は既に自分の枕元すら見えないほど衰えていることをお伝え頂きたいのです!」
「それは彼女に貴方自身の口で言って下さい」ド・レストー氏はウージェーヌの剣幕に彼の憤りの感情がこもっているのに驚いてそう答えた。
 ラスチニャックは伯爵に案内されて、伯爵夫人が普段過ごしている居間に入った。彼はそこに涙にくれた彼女を見つけた。彼女は安楽椅子の中に沈み込んで、まるでもう死んでしまいたいと思っている女のように見えた。彼女の様子は彼に憐れみを催させた。ラスチニャックを見るより先に、彼女は夫のほうにおどおどした眼差しを投げかけたが、それは精神と身体の両面にかけられた横暴によって押しつぶされた彼女の力がすっかり衰え切っていることを物語っていた。伯爵が頷いて見せたので、彼女はようやく話し始めた。
「貴方、私は総て聞いておりました。父に言って頂きたいのです、もし彼が私の置かれております立場を理解してくれるなら、彼は私を許してくれるはずだと。私は今回のひどい苦しみを考えてもいませんでした。それは私の手には全く負えないものですわ、貴方、でも、私は最後まで抵抗する積りです」彼女は夫に向かってそう言った。「私も母親です。父には言って下さい。彼については、私は実は申し分のない娘なんですよ、見た目ではお分かりにならないでしょうけれど」彼女は絶望的な気持ちにかられて学生に向かって叫んだ。
 ウージェーヌは夫婦二人に挨拶した。彼にも夫人の置かれている恐ろしい危機が見えてきて、呆然として引き下がった。ド・レストー氏の話しぶりは彼がこうして奔走していることが無駄であることを彼にはっきり示した。また彼はアナスタジーがもう自由に動けないことも理解した。彼はニュシンゲン夫人のもとへ走った、そして、まだベッドの中にいる彼女を見つけた。
「私具合が悪いのよ、貴方」彼に向かって彼女が言った。「私、舞踏会から帰る時に悪寒がしたの、肺炎じゃないかと心配で、お医者さんを待ってるの……」
「貴女が深刻な病を口にするなら」ウージェーヌは彼女を遮って言った。「貴女を貴女のお父さんの許へ引っ張っていかねばなりません。彼は貴女を呼んでいる! もし貴女に彼の呼ぶ声が少しでも聞こえたら、自分が病人だなんて絶対に思わないはずです」
「ウージェーヌ、父は多分、貴方が言うほどひどい病気じゃないのよ。でも、私が貴方の目に少しでも間違ったことをしているように映るのは堪らないことだわ、だから私は貴方がお望みのようにする積りよ。彼にはね、私は彼を知っているのでこう思うんだけど、彼はもし今私が外出して、そのせいで私の病気が死ぬくらいに悪化すれば、その悲しみのために死んでしまうでしょうね。それでは! 私のお医者さんが来たら直ぐに行くわ、ああ! どうして貴方はもう時計を持ってないの?」彼女は鎖が見えないので、そう言った。ウージェーヌは顔を赤らめた。「ウージェーヌ! ウージェーヌ、もしかして貴方、もうあれを売ってしまったの、失くした……おお! それってひどいわ」
 学生はデルフィーヌのベッドの上にかが見込んで彼女の耳許で言った。「それを知りたいのですか? それじゃあ! 知らせましょう! 貴女のお父さんには経帷子を買うお金がないんです。今晩にも我々はそれを彼に着せることになるんです。貴女の時計は質に入ってます。私には他に何もなかったんです」
 デルフィーヌはいきなりベッドから飛び出し、書き物机に駆け寄り、そこから財布を取り出し、それをラスチニャックに差し出した。彼女は呼び鈴を鳴らし叫んだ。「私行きます、私行きます、ウージェーヌ。服を着ますから、先に行ってて。でも、私って悪魔ね! 行って、私は貴方より先に着くと思うわ! テレーズ」彼女は小間使いを呼んだ。「ムシュー・ド・ニュシンゲンに私とほんのちょっと話すために上がって下さるように言って下さい」
 ウージェーヌは危篤の老人に娘のうちの一人が会いに来ることを告げられるのが嬉しくて、ほとんど陽気といってもいい様子でネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通へ戻ってきた。彼は直ぐに御者に支払いをするため財布の中をくまなく調べた。あの若くて、あんなに金持ちで、あんなに優美な夫人の財布の中には七〇フランがあった。階段の上の階に辿り着いた彼は、ゴリオ爺さんがビアンションに押さえられて、主任医師の目の前で、病院から来た外科医の治療を受けているのを見つけた。外科医は彼の背中にモグサを乗せて燃やしていた。これは医者が最後に仕方なくやる治療で無駄に帰する事が多い治療だった。
「感じますか?」医者が尋ねた。
 ゴリオ爺さんは学生をちらりと見ると、ウージェーヌの方に向かって言った。「彼女は来るんですか?」
「彼は持ちこたえられる、話してるじゃないか」外科医が言った。
「はい、デルフィーヌが僕の後から来ます」ウージェーヌがゴリオに答えた。
「まさか!」ビアンションが言った。「爺さんが娘のことを話してる。火あぶりにされた人は水を求めて叫ぶもんだというが、彼は娘を求めて叫んでいる」
「中止だ」主任医師が外科医に言った。
「もうこれ以上やることはない。我々は彼を救えない」
 ビアンションと外科医は瀕死の老人を彼の粗末なベッドに移して横たえた。
「そうは言っても、彼の寝間着は変えなければならんな」医師が言った。「何らの希望もないとはいえ、彼の本来の人間性を尊重しなければならない。私はまた来るよ、ビアンション」医師は学生に言った。「彼がまた苦しがったら、阿片を横隔膜の上に乗せてやりなさい」
 外科医と主任医師は出て行った。
「さあウージェーヌ、頑張れ我が子よ!」彼等が二人きりになった時、ビアンションがラスチニャックに言った。「彼に洗濯したての下着を着せて、ベッドを取り替えてやらにゃならんな。行ってシルヴィに言ってくれ、シーツを持って上がって、それから我々を助けてくれって」
 ウージェーヌが下へ降りると、ヴォーケ夫人はシルヴィと食器を並べにかかっていた。ラスチニャックが彼女に言った最初の言葉に対して、寡婦はとげとげしく、それでいて親切ぶったような態度を取っているように彼には見えた。いわば疑い深い商人の、金は失いたくなし、かといって客を怒らせたくもなしといった風情だったのだ。
「まあウージェーヌさん」彼女が答えた。「貴方もこのあたし同様よくご存知でしょ、ゴリオ爺さんには、もうびた一文も残ってないのよ。今まさに目を閉じようとしている人にシーツをあげるって、それってまるきりの損よ、彼は埋葬用にどうしたって新しいシーツを一枚使っちまうのよ。ずっとこんなだから、貴方は既にあたしに一四四フランの借りがあるの、あたしにシーツ代として四〇フラン渡して下さい。それから他に細々したのがあるでしょ、ろうそくは後でシルヴィが貴方に渡します。こんなのを全部合わせると少なくとも二〇〇フランはするんですよ。このあたしのような貧しい寡婦にとって、それをただでやっちまうなんてとても無理ですよ。もちろん! 正確に言えば、ウージェーヌさん、あたしはこの災難があたしに降りかかって以来、この五日間は本当に気が動転してしまってね。あたしはこの善良なおじいさんが、貴方が言ってたように死んじゃうんだったら、それに対して一〇エキュあげちゃう積りだったのよ。それが、あたしの下宿人達には面白くなかったのね。一銭にもならないのに、あたしは彼を病院に行かせるところだったわ、でも結局、貴方があたしと交代してくれたってことよ。あたしは自分のことをしっかりすることが第一、大事なのはあたしの人生、あたし自身のこと」
 ウージェーヌは急いでゴリオ爺さんの部屋へ戻った。
「ビアンション、僕の時計で借りた金は?」
「そこだよ、テーブルの上だ。まだ三六〇と何フランかあるよ。僕は買ったものの分は払った。質屋の鑑定額なんて安いもんだよ」
「これ取って下さい、奥さん」階段を駆け下りたラスチニャックは嫌悪感を含んで言った。「私達の未払い分を清算して下さい。ゴリオさんは貴方のところに長くは留まらないでしょう、それに私も……」
「そうね、彼は担架に乗せられて運び出されることになるわ、可哀想なおじいさんね」彼女は二〇〇フランを数えながら言った。彼女の様子は半ば陽気で半ば愁いを帯びていた。
「締めて下さいね」ラスチニャックが言った。
「シルヴィ、シーツをあげてね、それから上の階の人達の手伝いに行ってあげてね」
「貴方、シルヴィのことも忘れないでよ」ヴォーケ夫人がウージェーヌの耳許で言った。「ほら、彼女が徹夜した夜が二日もあったのよ」
 ウージェーヌが背中を向けると直ぐに、老夫人は料理女のところへ駈けていった。「シーツを裏返してみて、七番かい。どういう積りなんだろうね、死人のためなのに、いつも上等過ぎるんだよね」彼女は料理女の耳許で囁いた。
 ウージェーヌは既に階段を数段上っていて、この老家主の言葉は聞こえなかった。
「さあ、彼にシャツを着せよう。彼を真直ぐにしてくれ」ビアンションが彼に言った。
 ウージェーヌはベッドの頭の方にいて、瀕死者の身体を支えた。ビアンションは病人のシャツを脱がせた。そして爺さんは彼の胸の辺りで何かを守るような仕草を見せた。そしてうめくように何かろれつの回らない叫び声をあげた。それは何か大きな悲しみを搾り出そうとしている動物を思わせた。
「おお! おお!」ビアンションが言った。「彼は小さな三つ編み髪とロケットを欲しがってるんだ。僕たちが彼にモグサの治療をするために、いつも取り上げているやつだよ。可哀想に! 彼にあれを返してあげなきゃ、あれは暖炉の上だな」
 ウージェーヌは灰色がかったブロンドの髪を三つ編みにした鎖を取りにいった。それは疑いもなくゴリオ夫人の髪だった。彼はロケットの一方の肖像にアナスタジー、反対側の肖像にデルフィーヌと記銘されているのを読み取った。ゴリオの心の中の偶像はいつも彼の胸の上にあったのだ。肖像の中の巻き毛がとても可愛いので、二人の娘達の少女時代、彼女達はずっとこの髪型を続けていたに違いないと察せられた。ロケットが彼の胸に触ったりすると、老人は「やっ」というような掛け声を引き伸ばして発したので、彼がものすごく満足していることを周囲は知るのだった。それは彼の感覚の最後の反響だった。そしてそれは見知らぬ内なる世界へ退却してゆくように見えながら、なおも彼の感情はそこから出て、外の世界の人々の共感を問いかけているように思われた。彼の顔はある病的な喜びの表情で痙攣した。二人の学生は思考力に続くこの恐るべき感情の力による閃光に打たれた。二人とも呆然として、熱い涙が瀕死の老人の上に落ちるがままにしていた。老人は発作的な喜びの叫び声をあげた。
「ナジー! フィフィーヌ!」
「彼はまだ生きてる」ビアンションが言った。
「それが彼に何の役に立つんですか?」シルヴィが言った。
「苦しむためにさ」ラスチニャックが答えた。
 仲間に自分を真似るように身振りで示して、ビアンションは膝まづくと腕を病人のひかがみの下に差し込んだ。一方、ラスチニャックは同じようにしようと、ベッドの反対側から、手を病人の背中の下に差し入れようとしていた。シルヴィもそこにいて、瀕死者が持ち上げられたら、シーツを彼女が持ってきたものと取り替えようと身構えていた。きっと涙に触れて勘違いしたのであろう、ゴリオが彼の最後の力を振り絞ってベッドの両端に向かって手を伸ばし、その手は学生達の頭に出会った。その手は激しく髪の毛をつかんだ、それから微かな声が聞こえた。「ああ! 私の天使!」短い言葉、微かなつぶやき、それはこの言葉と共に飛び立っていった魂によって人々の心に強く響いた。
「可哀想に、良い人だったのに」近くに来たシルヴィが言った。崇高な感情で澄み切ったゴリオの叫びは、恐ろしいまでに無意識のうちに最後の瞬間に今一度、彼の目の前に美しい幻影が映し出されていることを示していた。
 この老人の臨終は喜びのうちに息を引き取ったというべきだろう。この臨終が彼の人生の総てを表現していた。すなわち彼は最後にもう一度自分を騙したのだった。ゴリオ爺さんは彼の粗末なベッドに恭しく戻された。この時以後、彼の顔には苦痛の色が刻み込まれて定着した。それは生と死の間で身体機関に起こった戦闘を映したものであって、人間生活の表れである喜びや悲しみの感情を司るあの大脳の意識作用は最早介在していなかった。彼の死はもう時間の問題だった。
「彼は何時間かは、こんな調子で持つだろう。そして誰も気付かないうちに死んでしまうんじゃないかな。彼はあえぐことすらしないかもしれない。脳の方はもう完全にいかれてるからな」
 この時、階段の方から息を切らせて来る若い婦人の足音が聞こえてきた。
「彼女の来るのは遅過ぎたな」ラスチニャックが言った。
 それはデルフィーヌではなく、彼女の小間使いのテレーズだった。
「ウージェーヌさん」彼女が言った。「旦那様と奥様の間で喧嘩沙汰、と申しますのは、あの気の毒な奥様がお父様のことでお金が要ると申されたら、そんなことになってしまいましてね。彼女は気を失ってしまって、お医者様は来られましたが、彼女から刺※(「月+各」、第3水準1-90-45)しなければならなかったんです。彼女は『父が死ぬのよ、私パパに会いたい!』と本当に胸が張り裂けそうなほど泣かれました」
「もういいよ、テレーズ、彼女が今来たところで、それはもう無駄なんだ、ゴリオさんは既に意識がないんだ」
「お気の毒な旦那様、あの方はそんなにお悪かったんですか!」テレーズが言った。
「私のすることはもうないですよね。私は夕食にとりかからなくっちゃ、四時半だわ」シルヴィが言った。彼女は階段を上りきったところでレストー夫人とぶつかりそうになった。伯爵夫人の様子は暗くて恐ろしい亡霊のようだった。彼女はたった一本のろうそくで鈍く照らされた死者のベッドを見て、父の顔を見分けると涙を流した。そこには命の最後の振動がなおも鼓動を続けていた。ビアンションは遠慮して出て行った。
「私は遅過ぎたことの責めを免れる積りはありません」伯爵夫人がラスチニャックに言った。
 学生は悲哀に満ちてはいたが、肯定的に頭で頷いて見せた。レストー夫人は父の手を取り、キスをした。
「お父様、許して! 貴方は前におっしゃいましたね、私の声が貴方をお墓から呼び戻すんだと、それならば! 罪を悔いている貴方の娘を祝福するために、ほんの一瞬だけでもこの世に戻って下さい。私の言うことを聞き届けてください。ここにいるのはひどい娘です! 貴方の祝福だけが私がこれからこの世で受けることの出来る唯一の祝福なのです。皆が私を憎むでしょう、貴方だけが私を愛して下さいます。私の子供達ですら私を憎むことでしょう。貴方の手で私を導いて下さい、私は貴方を愛します、私は貴方のお世話をします。彼にはもう聞こえないのに、私は気が違ってるのね」彼女は彼の膝の上に崩れ落ち、錯乱のうちに娘達に叫び続けていたこの老人の残骸をじっと見つめた。「どうしたって私は不幸せになるんだわ」彼女はウージェーヌを見つめながら言った。「ド・トライユ氏は莫大な借金を残して逃げて行った、そして私は彼が私を騙したことを知った。夫は私のことを決して許さないでしょう。そして私は財産を彼の管理に任せたままにしてるの。私は私の抱いていた幻想を全部失ったわ。あーあ! 誰のために私はこの世でたった一つの心を(彼女は彼女の父の方を指し示した)裏切ってしまったんでしょう。その心の中で私は熱愛されていたというのに! 私は彼の価値を見誤ってました。私は彼を遠ざけていました。私は彼に数え切れないほど悪いことをしました。私って何と忌まわしい娘なんでしょう!」
「彼には分かっていましたよ」ラスチニャックが言った。
 この瞬間、ゴリオ爺さんが目を開けたが、それは痙攣的なものだった。この時、伯爵夫人の希望が絶望の淵へ滑り落ちてゆく有様は、今まさに閉じられんとする死者の目を見るような恐ろしい光景だった。
「彼は私の声を聞いたのかしら?」伯爵夫人が叫んだ。「そんなことないわ」彼女は父の横に腰を下ろしながら思った。
 レストー夫人が父の看病をしたいと言ったので、ウージェーヌは少し食べるために階下に降りた。下宿人達は既に再集合していた。
「おや!」彼に画家が言った。「我々は死者のために少しモルトラマ(お弔い)をすることになるのかな、上の階で?」
「シャルル」ウージェーヌが答えた。「僕は今とても悲しいんだ、貴方の駄洒落を聞く気分じゃないんです」
「我々はそれじゃここではもう笑うことも出来ないんですか?」絵描きもやり返した。「一体何が起こってるんだ、ビアンションが爺さんにはもう意識がないとか言って以来さあ?」
「さあそこだよ!」博物館員も口を挟んだ。「彼が生きたように彼は死ぬだろう」
「父が死んだ」伯爵夫人が階上で叫ぶ声がした。この恐ろしい叫び声を聞いて、シルヴィ、ラスチニャック、それにビアンションが駆け上がって、レストー夫人が気絶しているのを見つけた。彼女の意識を取り戻させてから、彼等は彼女が待たせたままにしていた辻馬車に彼女を運び込んだ。ウージェーヌは彼女をテレーズの世話に委ね、テレーズには彼女をニュシンゲン夫人のところへ連れてゆくように命じた。
「おお! 彼は確かに死んでいる」ビアンションが降りて来て言った。
「さあ皆さん、テーブルについて下さい」ヴォーケ夫人が言った。「スープが冷めてしまいますよ」
 二人の学生は隣り合わせに座った。
「今、どうしたらいいんだろう?」ウージェーヌがビアンションに言った。
「そうだな、僕は彼の目を閉じてきた。そして、彼をきちんと寝かせてきた。市の医者が、我々の申告した死亡に間違いないことを確認すると、彼は埋葬用の白布に包まれ、それから埋葬されるわけだ。彼をどうするかで、君は何か望みがあるのかい?」
「彼はもうこんな風にパンの匂いを嗅ぐこともないんだ」下宿人の一人が爺さんのしかめっ面を真似て見せながら言った。
「あーあ! 皆さん」家庭教師が言った。「さあ、もうゴリオ爺さんのことはいいでしょう、もう、それを肴にするのはやめましょう。何故なら、もう一時間も私達は彼をねたにして過ごしてるんですからね。パリのようなよい町に住んでいて、ありがたいことは、誰からも注意を払われずに、そこで生まれ、そこで生き、そこで死ねることです、だから、市民の優遇措置を大いに享受しようじゃありませんか。今日も六十人の死者があるんです。こんなに大量のパリの人間が死んでいることに哀れを誘われませんか? まあ、ゴリオ爺さんは逝ってしまったけれど、彼にとって良かったかも知れません! もし貴方が彼を愛するなら、行って彼を見守ってやってください、そして我々が静かに食事しているのは、そのままにしておいて下さい、私達のことはね」
「おお! そうだよ」寡婦が言った。「彼にとっては、死ぬ方がまだよかったよ! あの気の毒な人は生涯を通じて、色々不愉快な目に会ってきたみたいね」
 これが、ウージェーヌにとっては父親の権化とさえ思われた人に対して与えられた唯一の弔辞らしき言葉だった。十五人の下宿人達はいつものようなおしゃべりを始めた。ウージェーヌとビアンションが食べ終わった時、フォークやスプーンの音、会話から起こる笑い声、食いしん坊や冷淡な人々が発する様々な表現、人々の能天気ぶり、この総てが二人の学生を嫌悪感でぞっとさせた。二人は一晩中死者の傍らで徹夜で祈りを捧げてくれる神父を探すために出て行った。彼等は彼等が出せるわずかばかりの金で、善良な老人のための葬儀を何とか執り行わなければならなかった。夜九時頃、遺体は寝台の上に横たえられ、両側にはろうそくが灯り、部屋の壁はむき出しになっていた。そして神父が一人、彼の傍らに坐っているのが見られた。寝る前にラスチニャックは聖職者に葬儀を執り行う費用や葬列にかかる費用についても情報を得るために質問をしておいた。そしてニュシンゲン男爵とレストー伯爵に短い手紙を書き、埋葬にかかる総ての費用を賄えるように、何人かの人員も派遣して欲しい旨の要請をした。彼はクリストフを彼等の許に遣いに寄越してから、ベッドに入った。そして疲れに押しつぶされるように眠りに落ちた。翌る朝、ビアンションとラスチニャックは彼等自身で死亡申告に行かざるを得なくなった。そしてそれは正午頃に認可された。二時間後も二人の婿はどちらも金を送ってこなかった。彼等の家からは誰一人派遣されず、ラスチニャックは既に神父にかかる費用をやむなく支払っていた。シルヴィも爺さんに屍衣を着せて白布を縫って中に包み込んでやった手間賃として一〇フランを請求していたので、ウージェーヌとビアンションは、死者の親族が全く関わる気がない以上、親族からは葬儀費用はほとんど期待出来ないであろうと計算し始めていた。医学部の学生は彼自身の手で死骸を柩の中に入れることさえ引き受けた。その粗末な柩も彼が病院で安く手に入れたものを運んできたのだった。
「あのひどい親族どもに嫌味をしてやろうぜ」彼がウージェーヌに言った。「ペールラシェーズ墓地に五年契約で土地を一区画買うんだ。そして教会や葬儀屋に第三クラスのサービス[102]を頼むんだ。もし婿や娘達が君に借金の返済を断るようなら、君は墓石にこう彫りこんでやるんだ。〈ムシュー・ゴリオここに眠る、レストー伯爵夫人とニュシンゲン男爵夫人の父、ただし二名の学生の負担金によって埋葬さる〉」
 ウージェーヌはニュシンゲン夫妻の家とレストー夫妻の家を訪れたが遂に成果は得られず、とうとう友人の勧めに従う気持ちになった。彼は屋敷の入り口付近より踏み込んでゆくことさえ出来なかった。どちらの家の門番も厳しい命令を受けていた。
「旦那様も奥様も」彼等は言うのだった。「どなたもお会いになりません。お父上がお亡くなりになって、お二人とも深い悲しみに沈んでおられます」

 ウージェーヌはパリ社交界でかなりの経験を積んでいたので、執拗に言い張ることはしなかった。彼は自分がデルフィーヌの傍らに辿り着くことさえ出来ないのを知った時、彼の心は奇妙に縮こまっていた。
〈衣装を一揃い売り払って下さい。そうすれば、お父様は終の棲家へ然るべく導かれることでしょう〉彼は門番部屋で彼女宛に一筆書いた、そして文面を隠して、これを女主人に届くようにテレーズに託してくれるように門番に頼んだ。しかし門番はこれをニュシンゲン男爵に渡したので、男爵はそれを暖炉に投げ込んでしまった。ウージェーヌは自分のやるべきことを総て終えた後、三時頃、下宿に戻ってきたが、ここの雑然とした入り口に黒布でやっと覆われている棺を見ても、もう涙も出なかった。棺は人けのない道に二台の椅子の上に置かれていた。まだ誰も触ったこともなかった安物の灌水器が銀メッキされた銅の皿の中を神聖な水でいっぱいに満たしていた。入り口にはまだ黒幕も張っていなかった。これは何らの豪華さもなく、崇拝者もなく、友もなく、親族もいない、貧者の死なのである。ビアンションは病院の方にのっぴきならない用事が出来たので、ラスチニャック宛にメモを書き残していた。その中で彼は教会との交渉結果を報告していた。医学生がラスチニャックに報告するには、教会でミサを行うと法外な金が要るので、彼等は最小限の晩課だけで我慢しなければならないというのだった。そして彼はクリストフにメモを持たせて葬儀屋には既に連絡に行かせていた。ウージェーヌがビアンションの走り書きのメモを読み終わった時、彼はヴォーケ夫人が手に持っているロケットに目をとめた。それは金で丸く縁取られて、その中に二人の娘の髪の毛が保存されているものだった。
「どうして貴女がそれをお持ちなんですか?」彼が彼女に訊ねた。
「当たり前じゃない! 彼がこれを持ってくべきだとお思い? だって金ですよ」シルヴィが答えた。
「確かにそうだが」ウージェーヌが憤りの気持ちで答えた。「彼はこの品物だけが少なくとも娘二人を象徴してくれるものとして身に付けていたんですよ」
 霊柩車が来ると、ウージェーヌは棺を積み込んで、棺の釘を抜き、爺さんの胸の上に恭しく一枚の肖像画を乗せてやった。その画はデルフィーヌとアナスタジーが若くて、純潔で無垢で、父が死ぬか生きるかの瀬戸際でウージェーヌに対して妙な屁理屈を捏ねた彼女達とは違った過去りし日の二人を思い出させるものだった。ラスチニャックとクリストフ、それに二人の葬儀人夫が付き添い、葬儀車は哀れな老人をサンテチエンヌ・デュ・モンへと運んでいった。ここはネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通から少し離れたところの教会だった。そこへ着くと、遺体は小さな暗い礼拝堂に安置された。学生は遺体を移動させた周辺でゴリオ爺さんの二人の娘、あるいは彼女達の夫の姿を探したが無駄だった。彼はクリストフとたった二人だけになっていた。この少年は幾らかの心づけを彼にはずんでくれた老人に最後の御奉公でお返しをしなければならないと考えていた。二人の牧師、合唱隊の子供達、それに教会の用務員を待ちながら、ラスチニャックはクリストフの手を握り締めた。しかし一言も言うことが出来なかった。
「そうです、ウージェーヌさん」クリストフが言った。「あの方は善良で正直なお方でした。あの方は人より威張ったことなど決して言われませんでした、誰も傷つけず、そして決して人に悪いことはなさいませんでした」
 二人の牧師、子供の合唱隊それに用務員が来て、無料で祈りを捧げるほど宗教が裕福でないこの時代としては、七〇フランに見合うだけの奉仕をしてくれた。聖職者達は詩篇歌から“レ・リベラ”と“レ・デ・プロフンディス”[103]を歌った。お勤めは二十分間続いた。葬儀用の馬車は牧師と聖歌隊の子供一人のための一台しかなかったが、彼等はウージェーヌとクリストフが同乗するのを受け入れてくれた。
「ついてくる馬車はないな」牧師が言った。「私達は早く行けるよ、ぐずぐずしないで済む。今五時半だ」
 しかし遺体が霊柩車に乗せられた時だった、紋章で飾られた二台の馬車、――いずれも空だったが、一台はレストー伯爵のもので、もう一台はニュシンゲン男爵のものだった――その二台の馬車が現れ、葬列をなしてペール・ラシェーズ墓地にまで従ってきた。六時にゴリオ爺さんの遺体は墓穴の中に降ろされた。その周囲には娘達の家の使用人達がいたが、彼等も学生が支払った金額に見合う短い祈りが爺さんに捧げられると直ぐに牧師ともども姿を消してしまった。二人の墓堀人は土くれを何回か棺にかけて覆うと、体を起こし二人ともラスチニャックの方に向き直った。そして彼にチップを要求した。ウージェーヌはポケットの中を探し回ったが、一銭もなかったので、彼は仕方なくクリストフから二〇スーを借りた。そのこと自体は些細なことだったが、ラスチニャックの中で恐ろしいほどの悲しみの発作が突き上げてきたのだった。日が落ちて湿っぽい黄昏が神経をいらいらさせた。彼は日没を眺め、若者としての最後の涙もその場に埋葬したのだった。この涙こそ、純な心の中の神聖な感動によって搾り出された涙だった。この涙の一滴は地上に落ちた後、跳ね上がって天空にまで届いた。彼は腕組みをして、じっと雲を見つめた、そしてそのまま眺め続けていた。クリストフは去っていった。
 ラスチニャックは一人残って、墓地の高みに向かって少し歩いた。それから、セーヌ川の両岸に沿って曲がりくねって横たわるパリを眺めた。そこには明りが灯り始めていた。彼の目はほとんど貪るようにヴァンドーム広場の記念柱と廃兵院の丸天井の間に吸い寄せられた。その場所にこそ、あの華麗な社交界が息づいていて、彼はその中に入り込むことを望んでいたのだ。彼はぶんぶん蜜蜂が飛び回るこの巣の上に、まるで前もって蜜を吸ってしまいかねないような視線を投げかけた。それから、この壮大な言葉が彼の口をついて出た。「さあ今度はお前と一対一の勝負だ!」
 そして彼が社交界へ挑む第一幕として、ラスチニャックは夕食を共にするために、ニュシンゲン夫人宅に向かった。
一八三四年九月 サッシェにて
[#改丁]

1819年頃のフランスの通貨の相関関係と通貨事情


 1リャール(銅貨)=3ドゥニエ(古銭)
 1スー(硬貨)=4リャール
 1リーヴル(硬貨)=20スー
 エキュ銀貨=5フラン=6リーヴル
 ナポレオン金貨=20フラン
 ルイ金貨=20フラン=24リーヴル

 リーヴル・トルノワ(トゥールで鋳造されたリーヴル貨)については81リーヴル・トルノワ=80フランの換算レートがあり、フランとリーヴルは等価に近い見方をされていた。フランスの王政復古時代(1814−1830)にナポレオン金貨とその他の20フラン金貨は統一的にルイ金貨と呼ぶようになった。紙幣は1800年に500フランと1000フラン紙幣が発行されたが、紙幣の相次ぐ実質価格下落のため紙幣に対する不信感がフランスでは永く残った。紙幣は日常生活ではほとんど使われず、本編中でも、誘惑者ヴォートランがラスチニャックに手形への署名と引き換えに3,000フランを貸す場面、ラスチニャックがカジノで7,000フランを稼いだ場面にしか紙幣は登場しない。したがって当時のフランスの人々にとって、富の象徴的イメージはルイ金貨であり次いでエキュ銀貨だったのである。
[#改丁]

訳注


[1] ネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通 現在はパリ第五区内のトゥルヌフォール通である。有名な市場があるムフタール街の西に並行して走っている。
[2] カタコンベ 地下の納骨堂。
[3] カプチン病院 この頃は性病科の病院だった。
[4] テレマック ホメロスの〈オデッセイア〉の英雄オデッセウスの息子テレマックを主人公とした物語〈テレマックの冒険〉は一六九九年にフェヌロンによって書かれた。
[5] カリュプソ ホメロスの〈オデッセイア〉に出てくる不死のニンフ。アトラスの娘でオギギア島に住む。
[6] ジョルジュあるいはピシュグリュ 王党派。密告により彼等のナポレオン暗殺計画が一八〇四年に発覚。ジョルジュはギロチンで処刑され、ピシュグリュは獄死した。
[7] ヤペテの息子の子孫 ホラテウスの詩にあるように、神のごとき子達を作ったといわれるヤペテの子であるプロメテウス。ポワレはそのプロメテウスの子孫であり、かつてはあの華やかなイタリア大通を蝶のように飛びまわっていたという。
[8] ユウェナリス ローマの詩人、西暦五五―六〇生まれ、古代ローマの金持ち、権力者をターゲットにした風刺詩を書いた。
[9] 登録台帳(グラン・リーヴル) 国債保有者登録台帳、国債保有者はすなわち年金受給者であって、人間喜劇中でしばしば出てくる年金という言葉は、フランス国債を意味している。
[10] ブフアラモード パレロワイヤル近辺にある有名なレストラン「ブフアラモード」の看板は肩掛けと帽子を被った牛の姿になっていた。ブフアラモードとは赤ワインでマリネした牛肉の蒸し煮。
[11] プリュネル 絹または羊毛の丈夫な繊維。女性用の靴によく使われた。
[12] レストラパド通 ネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通への急坂の手前になる。そこからは馬車が入りにくかった。
[13] プラド……オデオン プラドは学生に人気のダンスホール。オデオン座は一八一九年一〇月に再建された。
[14] フォーブール・サン・ジェルマン セーヌ左岸、パリ北西部、伝統的貴族階級の邸が多い区域。その中のグリュネル通にボーセアン子爵邸がある。
[15] コントルダンス フランス風スクゥエア・ダンス、四人で方陣を組んで踊る。
[16] 森でも……ブフォンでも 森はブーローニュの森を指す。パリの西にあり、上流階級の人々は馬車に乗って散歩に出かけた。ブフォンはイタリア座あるいはイタリアンの別称、着飾って出かけ、主にイタリア歌劇を楽しんだ。
[17] モンリヴォー侯爵……ランジェ公爵夫人 「ランジェ公爵夫人」はこの二人の恋愛小説である。
[18] ショセ・ダンタン 現在のオペラ通の東部の一帯。新興商人、銀行家あるいはセーヌ右岸の新興勢力(セーヌ左岸に住む伝統的貴族階級に対する)が多く住む地域。
[19] サン・ヨセフ〔聖書〕 聖ヨセフ、キリストの母マリアの夫で、ナザレの大工。
[20] ポーランドのアウグスタス王 三〇〇人の子供を持ったといわれる。
[21] サン・テチエンヌ・デュ・モン パンテオンの直ぐ脇、メゾン・ヴォーケからも近いところにある教会。
[22] ミショネット……ポワロ シルヴィがミショノーとポワレを茶化して呼んでいる。ミショネットは親しげな呼び方だが、ポワロ(Poireau)は「西洋ねぎ」でポワレの容貌を連想させたものと思われる。
[23] リャール銅貨 スーの四分の一、巻末の通貨の相関関係を参照
[24] 私は久しく世界を……出たとこ勝負 エチエンヌの詩をもとに、ニコロによって作曲された一八一四年初演のオペラコミック「ジョコンドまたは誘惑者達」からの数節である。
[25] ガル フランツ・ヨセフ・ガル(一七五八―一八二八)医者、博物学者、ドイツ人で一八〇七年からパリに住んだ。骨相学の創始者。
[26] そしてバラ……朝だけ咲いた ヴォートランは相手によって歌を選ぶ。ここではビアンションとの会話の中で、マレルブの詩句を口ずさんでいる。
[27] 三十スー銀貨 一七九一年に政令によって鋳造された。この貨幣(一・五〇フラン相当)は流通が悪く再鋳造されることはなかった。
[28] カーロ……ノン・ドゥビターレ チマローザの「秘密の結婚」より「愛しい人、愛しい人、愛しい人、安心しなさい」
[29] ウェルギリウス ウェルギリウスの次のような田園詩を連想させている。「君は見たか ほんの微かな香りの中に親しい匂いを嗅ぎつけた 馬たちの身体が打ち震えるのを?」
[30] ラマルチーヌ 一七九〇ー一八六九 詩人、政治家、一八二〇年「瞑想詩集」の成功で文筆生活に入り、ロマン主義詩の時代をもたらした。一八三〇年アカデミー会員に選ばれたが、同年の七月革命以後、政治への関心を深め、三三年国会議員に選出された。
[31] 公安委員会(フランス革命期の) 不当利得者を容赦なくギロチンに送った悪名高い委員会。
[32] 九三年時代 ルイ一六世とマリー・アントワネットが処刑され、革命が最も過激となっていた時期。
[33] サン・ラザール街とグルネル街 サン・ラザール街はセーヌ右岸のショセ・ダンタンに含まれる、一方のグルネル街はセーヌ左岸のフォーブール・サンジェルマンの中にあって、ボーセアン子爵邸がある。
[34] アリアーヌの糸〔ギリシャ神話〕 テセウスが人身牛頭の怪物ミーノータウロスを殺すために迷路に入ってゆく時、アリアーヌが導きの糸を与え、テセウスは怪物を倒した後、無事に迷路から戻ってくることが出来た。
[35] ドリバン 一七九〇年に作られたコメディーで婿達に担がれて馬鹿にされる間抜けな父親。
[36] オブリン通 この道路はコキーユェール通から穀物取引所周辺にまで続く道である。
[37] ヴェルティーユ シャラント県でアングレームから三七キロの距離に隣接した町。
[38] あの高貴な婦人……仰せでない コルネィユの戯曲中の次のような台詞からのもじり。「あのテヴェレ川の水の話はされるけれど それ以外は何も仰せでない」
[39] サンジャック通からサンペール通まで ソルボンヌを中心としたラテン区、学生街。
[40] ヨアヒム・ミュラ 一七六七ー一八一五 南西フランス出身、一七九九年のクーデターではナポレオンに従った。ミュラはこの年の戦いでは、大胆で勇敢な働きをして際立った存在となった。一八〇八年にはナポリ王となった。しかしボロジノの戦い後、彼のナポレオンへの忠誠心が揺らぎ始めた。オーストリア軍から自分の王国を救うために無駄な努力をした挙句、撤退兵を見捨ててしまった。一八一五年一〇月、彼はナポリを取り返すため無計画な企てをほとんど誰の援護もなく試みたが、逮捕され銃殺された。
[41] スウェーデン王 ヨアン・バプテスト・ベルナドット(一七六四―一八四四)を指す。ピレネー地方に生まれ、ナポレオンのかつての婚約者だったデジレ・クラリーと結婚した。一八一〇年にスウェーデンの皇太子兼摂政に選ばれた。フランスがスウェーデンのポメラニア州を占領した時(一八一二)、彼はナポレオンに背き、イギリス、ロシア、プロシア、スウェーデン、オーストリア、ドイツの六国同盟を結成した。彼は一八一八年にスウェーデン王チャールス一四世となり、現在の王室の基を築いた。
[42] セリーニ 有名なフローレンスの彫刻家で金細工師セリーニ(一五〇〇―一五七一)の回想録は一八二二年にフランスで発行された。ベルリオーズはセリーニの賛美者で、彼のオペラ「ベンヴェヌート・セリーニ」はパリで一八三八年に初演された。
[43] サンクルーの網 セーヌ川で水死した人が流されてくるのを引っ掛けるために、サンクルーに網が張られている。
[44] ヴィエール……マニュエル 虚偽の選挙結果が発生したことが報じられた。一八一九年は総選挙の年に当たっていた。ヴィエールは極右王党派で王政復古内閣の支持者、マニュエルは共和主義の法律家で反政府無所属または自由主義者。
[45] 一〇人くらいの男が バルザックの「十三人組物語」の中に、これを思い起こさせる記述がある。「彼等は一三人の王である。――名は秘すが、真に王である、王以上でさえある――判断し実行する。彼等は社会の上を高く飛ぶ翼を持っていて、社会の底深く潜ることさえ出来る。そして彼等は社会の中にある場所を占めることを軽蔑する。何故なら、彼等は社会を上回る無限の力を与えられているからだ」
[46] オーブリイ ボナパルトが公安委員会で軍事部門の責任者だった時(一七九五年の四月から八月)フランソワ・オーブリイはボナパルトから、イタリア軍の大砲指揮権を奪った。しかし彼自身が一七九七年九月四日のクーデターによって仏領ガーナに追放された。
[47] 奴隷 フランスでは一七九四年に奴隷は廃止されたが、一八〇二年執政政府によって復活した。一八四八年第二共和政府によって完全廃止とされた。バルザックの弟アンリはクレオール(西インド諸島生まれの白人)と結婚し、モーリシャス島で三〇人の奴隷を使っていたが、破産して一八三四年にフランスに帰還した。
[48] カドラン・ブロー タンプル大通りにあるレストラン、おしゃれな客よりもブルジョワ層の客が多い。
[49] アンビキュ・コミック タンプル大通りにあるパリ最大級の劇場。メロドラマで中産階級の客が多い。
[50] タイユフェール 「赤い宿屋」にこの男の前歴が語られている。
[51] ラファイエット (一七五七―一八三四)軍人政治家、アメリカの独立戦争に参加して名声を得、帰国後、一七八七年の名士会、八九年の全国三部会に入り、自由主義貴族としてフランス革命初期の指導者の一人となった。しかし革命の主導権が中産市民層に移ると共に保守化し、一時亡命、逮捕などの生活を送った。後、一八三〇年の七月革命に際し、国民軍司令官として活躍した。
[52] タレーラン (一七五四―一八三八)政治家、一七八九年、オータンの聖職者代表として三部会議員となり、フランス革命時には憲法制定議会議員として聖職者財産の国有化に貢献した。のち米国に亡命(一七九四―九六)、帰国後は総裁政府の外相となったが、ナポレオンの登場と共にこれと結び帝政下の外相となった。のちナポレオンを裏切り王政復古に奔走して、ルイ十八世の外相に任ぜられ、ウィーン会議ではフランスの代表としてフランスの被害を軽小に止めた。更に七月革命後は国王ルイ・フィリップのもとで英国大使(一八三〇―三四)となっている。
[53] どうして可哀想な子供から……徒刑場送りに バルザックが考察したノートが残っている。〈身分の低い者より身分の高い階級の者が犯した罪の方が実際は重い事が多い。しかし、教育のない人間は置時計一個を盗んだだけで加重情状で断頭台に送られ、それなりの身分のある人間は遺言書を燃やすような事をやっても往々にして軽い刑で済まされている〉
[54] 法規なんてみんな不条理なんだ バルザックが同様の考察をノートに残している。〈社会原則とされているもので不条理でないものはほとんどない。ボタンから六リヤール・コインを二枚偽造しただけでギロチンにかけられた男がいるが、余りにも残酷ではないか?〉
[55] デスカール公爵 王党派将軍で著名な食道楽。ルイ一八世に公爵の爵位を与えられ、その後、料理長になった。一八二二年に消化不良のため亡くなったと言われている。
[56] タンタロス 神話中の小アジアの古代国家フリジアの王。神の秘密を漏らした罪で、決して潤されない渇きと決して満たされない飢えを罰として課された。
[57] シェリュバン ボーマルシェ作歌劇「フィガロの結婚」の登場人物。ヒロインのスザンヌに言い寄る男。
[58] アルセスト……・ジェニー・ディーン アルセストはモリエールの「人間嫌い」(一六六六年)の主人公、彼は世間の常識を嘲弄し、正しい価値に率直であるという決然とした態度のために嫌われ者になっている。ジェニー・ディーンはウォルター・スコットの「エジンバラの牢獄」の貞節なヒロイン。彼女は罪のない嘘をつくよりも、妹が死刑を宣告されるのをやむを得ないことと考えた。
[59] リュクサンブール公園 パリ第六区にある広い公園、ソルボンヌから近い。
[60] ゴルディアンの結び目〔神話〕 フリジアの王ゴルディアスが結んだ結び目(非常に入り組んでいて、これを解いた者はアジアの王たるべしとの宣託であったのをアレクサンダー大王が聞いて一刀のもとに断ち切った)
[61] キュヴィエ (一七六九―一八三二)パリの自然史博物館の比較解剖学教授、のちパリ大学教授を兼任した。いわゆる実証主義生物学の基礎を確立し、一九世紀初頭以降の生物学に大きな影響を与えた。機能を重視した解剖学の創始は重要な業績である。
[62] ラ・フォドールとペルグリーニ フォドールはソプラノ、ペルグリーニはバスのオペラ歌手、二人ともロッシーニの「セヴィリアの理髪師」で人気を博した。
[63] プチシャトーの婦人達 王の兄弟(のちのシャルル一〇世)に近い上流貴族の婦人達の排他的な派閥。
[64] 結構毛だらけ……箪笥の管だよ パリの商人の呼び売りの声をヴォートランがおどけて真似る場面だが、訳者の独断により、日本の的屋の口上をアレンヂしたものに置き換えた。
[65] 永久年金……終身年金 二種類の国債である。共に毎年利息を債権所有者に支払うが、永久年金は半永久的に支払い続けられる代わりに利率が低い。終身年金は所有者の死とともに支払いは終了するが利率が高い。
[66] 民法典 一八〇四年に制定され、その後ナポレオン法典になった。この法典のもとで、総ての男性は平等となった。しかし女性については逆行して、女性を父親や夫に従属させた。男性は親権、財産権を持ち、離婚についても優先権を与えられていた。ヴィクトリーヌ・タイユフェールやゴリオの娘達がこの法典によって苦しめられていた。
[67] ドラゴナントの……為替手形 ドラゴナントという合成語にはドラゴン(ルイ十四世の竜騎兵)とドラゴナード(ドラゴンがプロテスタントに対して加えた迫害)という敵対的関係を統一した意味があるが、ここではラスチニャックが余程のことがない限り為替手形で支払いに当てることがなかったことを強調している。
[68] ミラボー (一七四九―九一)雄弁家で革命の初期段階で指導的政治家だったが、貴族階級出身、若い頃に放蕩生活をしてギャンブルで莫大な借金を抱えたり、スキャンダラスな恋愛沙汰を起こしている。
[69] サン・ユベール 狩猟の神
[70] ベンジャミン〔聖書〕 ヤコブの息子、父のお気に入りでえこひいきされて育った。
[71] ムシュー・ド・トュレンヌ ルイ一四世に仕えた偉大な元帥(一六一一―七五)
[72] 不滅のヴェニス トーマス・オトウェイ(一六五二―八五)の悲劇で一六八二年に初演された。二人の重要人物、ピェールという外国人兵士、ジャフィエというヴェネチアの貴族が深い絆で結ばれるが、それは自殺によって終わりを遂げる。ヴォートランはこれに言及することによって、生活のみならず愛というかたちにおいても男同士の間に重要な絆が存するという彼の価値観を披瀝する。この箇所は彼がホモセックスへの性向を持っていることを暗示している。
[73] イェルサレム通の警官 シテ島のオルフェーヴル河岸から警視庁に至るまでがイェルサレム通である。
[74] コニャール事件 ピェール・コニャールは脱獄囚で、セント・ヘレナから移民してきた伯爵と偽って、陸軍中佐にまで出世していた。彼は一八一九年に逮捕された。
[75] ラグロー……モラン 計画的殺人事件で当時話題になっていた。一八一二年モラン夫人はラグロー氏の殺人を企てた罪で二〇年の懲役刑を言い渡された。
[76] アルガス〔ギリシャ神話〕 百の目を持つ巨人、厳重な見張り人。アルガスはのちにスパイあるいは監視人を意味する言葉となった。
[77] 私のファンシェット……素直でいる限り 一八一三年にオペラコミックで初演されたアリエットが含まれる劇「二人の嫉妬者」の一節。ファンシェットをヴィクトリーヌに見立て「素直でいる限り」の歌詞は彼女に対応するが、実は蓮っ葉女の典型であるファンシェットの刺激的な容姿はヴィクトリーヌに相応しからず、ヴォートランの揶揄に他ならない。
[78] ドリバンの父っあん(参照 注35 ドリバン) ヴィクトリーヌの父のタイユフェールの財産を狙うヴォートランからすると、タイユフェールもまたドリバンのように好きなように利用すべき対象に過ぎないので、このような言い方になったのであろう。
[79] おーリシャール、世界は貴方を見捨てた グレットリイの有名なオペラ「獅子心王リチャード」の第一幕で歌われるアリア。ナポレオンはフランスからエルバ島に流される道中で、ダブランテ公爵夫人を偲んで、この歌を口ずさんだ。
[80] シャトー・ラフィット ジャック・ラフィット Jacques Laffitte(一七六七ー一八四四)は綴りの中にfとtが二つずつ入っているが、ボルドーの有名なワインの綴りはfとtが一つずつしか入っていない。ジャック・ラフィットは有名な銀行家で政治家でもあった。ルイ・フィリップ治下の最初の首相であった。
[81] 一万五千フランの年金……相続額が三〇万フラン以上 一万五千フランの年金は父から相続する国債の年間配当金のことであり、三〇万フラン以上というのは母から相続する国債の額面総額のことである。年金という言葉で話されていても、一般に巨額の場合は国債の額面総額、比較的小額の場合は国債から得られる年間の配当金を指していることが多い。
[82] 「野性の山」……「隠者」 「野性の山」(一八二一)はピゼレクールにより恋愛小説「隠者」(ダーリンクール子爵原作)を翻案したものである。ルネ・ピゼレクール(一七七三―一八四四)は当時の人気メロドラマ脚本家である。彼は「私は本を読めない人々のために脚本を書いている」と言う一方で、彼の劇の中では労働者階級にも理解されやすいような道徳的指針を追及している。ヴォーケ夫人は誤って原作をフランソワ・ルネ・シャトーブリアン(一七六八―一八四八)だと言っている。しかもそのファースト・ネームを彼の作品の題名に使われた名前「アタラ」と混同している。
[83] おやすみ……寝ずの番をします 一八一九に作られたヴォードヴィル「夢遊病者」のロマンス、ギュスターブとセシルの二重唱の一部をアレンジしたものである。これは愛する女性セシルとのアンサンブルであるギュスターブのパートだ。つまりラスチニャックに悪の契約を結ばせ、ヴィクトリーヌとの結婚を促しながら、青年の保護者としてのヴォートランの立場を歌ったものなのである。
[84] ポールとヴィルジニー ベルナダン・ド・サンピェール(一七三七―一八一四)の純愛物語、少年少女の悲恋を描いた。
[85] ケルビム 翼をつけた愛らしい子供の姿の天使。
[86] ゲテ ゲテ座はタンプル大通りにあった。繁華街であって、劇場、キャバレー、カフェ、そして大道芸人などで賑わっていた。
[87] ニノン……ペールラシェーズのヴィーナス ニノン・ド・ランクロ(一六二〇―一七〇五)は寵姫であるとともに高名なインテリ女性、セックスについて開放的姿勢をとり、元老の意見にも堂々と反駁をした。ポンパドール侯爵夫人(一七二一―六四)は富裕なブルジョワ階級の生まれで高い教養を身に付けていた。ルイ一五世の寵姫であって、哲学の擁護者であり、彼女の政治的文化的影響力はかなりのものであった。歴史はこれ等の女性への評価も塗り替えるものであるが、ヴォートランが言わんとしたことは、ミショノー嬢が盛りを過ぎた娼婦であることを匂わせるとともに、墓地の彫像を思わせる彼女の陰鬱な印象であった。ペールラシェーズはパリ東部にある有名な墓地。
[88] オルフェーヴル河岸 (参照 注七三 イェルサレム通の警官)有名なフランス版スコットランド・ヤード(犯罪捜査課)はシテ島の左岸寄りのこの河岸にあった。警視庁と裁判所も近い。
[89] ジャン・ジャック・ルソー (一七一二―七八)スイスの作家、思想家、彼が強い影響と議論を引き起こしたのは一七六二年に出版した「社会契約論」によっている。この中で彼は人間が他人の上に権力を振るうことを否定し、その代わりに市民が互いに契約をすることで社会を成り立たしめるという思想を提案した。彼の自由、美徳、法、そして平等に関する思想は数世紀にわたって影響を及ぼし続けている。
[90] フリコトー 学生の町カルチェ・ラタンにある大衆向け食堂、パンは食べ放題である。
[91] シリアに向かって……デュノワ 作曲オルタンス王妃(ナポレオンの継子)で第一帝政時代に作られ大流行していた歌。ボナパルティストの集会でもよく歌われた。
[92] カフェ・デザングレ イタリアン大通りにある有名なカフェ、美味な料理とワインで知られ、エリート・パリジャンが通っていた。
[93] マリウス……カルタゴ マリウスはローマの将軍、政治家(前一五六―八六)順調な出世街道を歩んでいたが、ライバルのスラによってローマを追われアフリカに避難した。マリウスが廃墟のカルタゴに座している姿は有為転変を象徴する典型となっている。カルタゴは北アフリカの古代都市で紀元前数世紀、西地中海で一大勢力を張ったがローマとの三次にわたるポエニ戦争の末、前一四六年には徹底的に滅ぼされた。マリウスが逃れて行ったのは滅亡後のカルタゴだった。
[94] タッソー 北イタリアの都市フェララの詩人、この都市は一三世紀から一六世紀にかけて北イタリア・ルネサンスの中心として栄えた。
[95] ルイ十四世の宮廷……ラ・ヴァリエール嬢 ラ・ヴァリエール嬢がルイ十四世の子供ド・ヴェルマンドワ公爵を産んだ時、彼女は陣痛の苦しみに耐えかねてルイ十四世の袖に繰り返しすがりつき、それを引きちぎってしまった。後に彼女はモンテスパン夫人に寵姫の地位を奪われ尼僧院に隠棲した。
[96] ルビコン キサルピナ・ガリアとローマの境界となる小さな川、ローマの将軍がこの川を渡ることは禁じられていた。シーザーはこの川を渡ったことにより、ポンペイに対して宣戦を布告したことになった。以後、ルビコンは決断と最終ステップを意味する言葉となった。
[97] グレーヴ広場 セーヌ右岸のこの広場で処刑が行われていた。最後に執行されたのは一八三〇年で、以後ここは名称も市役所前広場に改められた。
[98] サント・ペラジー 債務不履行者の刑務所
[99] 金の規定重量 ヨーロッパで金、銀の重量の指標と定められている八オンス。
[100] モンパンシェ公爵夫人 大妃殿下すなわちルイ一四世の姪モンパンシェ公爵夫人、一六七〇年一二月、王は彼女とド・ローザン公爵の結婚を許可した。しかし三日後にはそれを取り消し、逆に彼を牢に入れてしまった。
[101] ニオベ〔ギリシャ神話〕 タンタロスの娘、子供を自慢したために石に変えられた。
[102] 第三クラスの葬儀 フランスでは葬儀屋が料金に応じて儀式を九段階に格付けしていた。第三クラス葬儀はまずまず標準的な葬儀といえる。
[103] リベラ……プロフンディス リベラは死者のための祈り、プロフンディスは賛美歌、共に死者の為のミサ曲の一部。





翻訳の底本:“Le P※(グレーブアクセント付きE小文字)re Goriot”
原作者:Honor※(アキュートアクセント付きE小文字) de Balzac(1799-1850)
   上記の翻訳底本は、日本国内での著作権が失効しています。
翻訳者:中島英之 1942年生まれ 国際基督教大学中退
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2015年3月1日翻訳
2015年10月10日作成
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