武甲山に登る

河井酔茗




 武甲山ぶこうざんは武蔵の一名山である。その山、秩父連山の入口にあたり、かも山姿高峻、優に秩父連山の群を抜き、遠く武蔵野平原から望んでも、武甲山だけは、いちじるしく天空にそびええて[#「そびええて」はママ]る。
 武甲山より二里ばかり奥に、三峰山みつみねざんがあって、三峰神社の信仰者は多く登山するが、武甲山の方は近いにかかわらず、信仰のともなわない山だから、滅多に登山するものがない。武蔵風土記其他の古書に武蔵の名山なりとある一語に好奇心を動かされたる私は、M氏、T氏と共に今年夏、武甲山に登った。
 荒川の上流に架したる秩父橋を、ガタ馬車に乗りて渡ったころから、吾等の前途ゆくてを圧するような、雄大な山の姿は、問わずと知れた武甲山、成程武蔵の名山であると、心を躍らせながら、秩父大宮の町に着いた。町はずれの怪しげな饂飩うどん屋に入って、登山の支度をし、秩父街道をすこしいって、上影森村の辺から左へ間道を抜けると、いよいよ山麓の樹立途こだちみちは爪先上りとなり、色の好い撫子なでしこの咲いている草原くさばらの中に、武甲山入口とほった大きな石がある。ときに午後一時。元来登山は、麓を朝の中に立って、遅くも正午前後ひるごろまでには、頂上に達するようにせねばならぬとは、かねて聞いて居ることだが、見たところでは、武甲山はそれほど恐ろしい山ではない。大宮から登り五十二丁と云うのだから、今からでも大丈夫頂上をきわめて明るい間に下山することが出来ると断定してしまったのが、そもそあとに冒険のおこる発端であった。
 三十分許り樹林を縫うて登ったが、それから先は、草山になって、草は其一部を刈り取ってあるから、天日てんじつを遮るものがない、かつこの山は、殆ど上りばかりで、足を休める平坦なみちがない、暑いのと、急なのとで、一行やや疲れ気味が見え出したが、此処ここで疲れては仕様がないと、なるべく急がぬように上って行く。一方は急峻な傾斜になっている上に、途は細いし、草も木も手ごたえにするものがないのだから転ぶと何処どこまで落ちて行くか分らぬ。試みに石を転がしてみると、約半町許りもころころと転んでいって、暗い渓谷に隠れて了った。後で聞くと、此辺は俗に七曲りと云うそうだ、大宮の町も眼下に見え、秩父盆地一帯の展望には、この七曲り辺がもっとも好い。
 次に途は深い草原に入った、今までは兎に角草の刈った跡だから途は見えていたが、此れからは途が見えない、恰度ちょうど人間の丈ほどの茅萱ちがや其他の雑草が両方から生い茂って、前途をふさいでいるから、ステッキや洋傘で草を分け分け足では途を探って、一歩一歩注意して上って行く。全山殆ど岩石の途で、足袋たび裸足はだしとなった自分は足の裏の痛いことおびただしい。M氏はどこまでも駒下駄を脱がない。
 ようやく草原を魚貫ぎょかんして、ややたいらな途へ出た時には、武甲山の裏へ廻ったので、今まで高いと思っていた連山は、ことごとく下になり遠く山脈やまなみの彼方に浅間のけむりを見出した時は思わず高いと叫んだ、しかし未だ頂上ではない。
 いままで登ってきた山は山の一段であって、更に巌石がんせきが草原の海に、処々しょしょ島のように表われて居る山腹を攀じて、上の峰まで行かねばならぬ。幸い千年の大木は、悉く伐り倒されてあるからみちは明るい。此辺はいまでも春さきの雪の消える時分、秩父の奥から峰つづきに猿の群が遊びに来るそうだ。木の伐られなかった頃はししや狼が出てきたのは無論、今でも兎位は居るらしい。倒れて居る太い木の幹を踏み越え、痛い草のとげを分け、かろうじて武甲山の絶巓ぜってんに達した時は、天地ぐらぐらとして、今にも太古から動かないでいる大きな蒼い波の上に漂わされそうに思った。
 不思議なる山上の世界、地平線か水平線のほかは見なれない眼に、いま映るは全く曲線の世界で、濃淡はあっても只一つの蒼い色の曲線が重なり合い、延び合い、眼の下から天際てんさいまで少しもたいらかな地上を見ない。その周囲をパノラマのようにかぎって居る一々の山の名は、山岳に通じない吾等に其が何山、是が某岳と指示することは出来ないが、およそ関東の高山は、大半其姿を表わして居るので、生憎夕闇の為にかすんで見えないが、富士は勿論、武蔵、甲斐、信濃、両毛の諸高山は、皆其裡そのうちに収まっている。
 武蔵野平原は、蒼茫たる大海の如く、その大海の底に都会あり、市街あり、無数の人間があり、下界の空気は今、夕暮の渦巻に乱されて居るだろうが、山上より見下したる平原は、ただ蒼茫として太古、国なき世の如し。
 時間は長く吾等を山頂に止まることを許さない、下山の途に就くと同時に、暮色にわかに身に迫るを覚えた。低い山から暗くなり初めて、果然太陽は浅間に近い山に落ちかかった。T氏は別の途から下ろうとして、山一ッ下に小さく見えていた樵夫きこりに、あるだけの声を出しで[#「出しで」はママ]途を聞いたが、矢張上って来た途をくだるのがいらしいので、樵夫は又、早く降りないと夜になるぞと励ますように言い足した。
 山上の落日は、僅少わずかの人間に示す空中の美しさであろう、雲の山に帰る時、日の山に隠るる時、山上の世界は、無言の讃美をゆうべの光線に集めて了った。
 われらは冥想する間も、黙契する暇も与えられない、くだりに降った、歩きに歩いた、既に疲労を感じいる一行は、更に不安に襲われた、就中なかんずくM氏は困憊の極に達したかの如く、もう休もうと云っては、処きらわず草原の上に仰向あおむきに倒れて了う。日も暮よ、夜も来よと自暴やけの気味であるが私もかなり疲れて居るから励ます言葉も出ない。只どうにかして例の丈なす草にうずもれた峻坂しゅんはんを下る間だけなりと、暗黒まっくらにしたくない。の草原さえ抜けて了えば何とか方法があるだろうと心ばかり急ぐが、と云って怪我をしてもならぬので夕暮のほの明りに三人とも声を掛合っては草おし分けて無暗むやみに進んだが、つねに先頭をしているT氏はもううしても暗くて途が分らぬと言いながら佇立たちどまった。し此時T氏が、西洋蝋燭ろうそくを用意(鍾乳洞へ入る時にと思ってたずさえて来たもの)していなかったら、吾等三人の一行は殆ど進退きわまったであろう。幸にも一挺の用意があったので、氏はこれに点火した。空は殆ど暮切っている。一道の火光あかりはあきらかに三人をみちびいた。最もはだか蝋燭だから半紙でかこいを作って、左手に高く捧げては、此処は曲りだ、大きな石がある、すべるぞ、と絶えず種々な掛声をして先に立つT氏の労は普通ひととおりではない。後殿しんがりになっていたM氏は、其辺で太さ湯呑大の蛇が途によこたわっていたのを火光あかりかして見たそうだ。何うしても動かぬのでまたいで来たそうだが、吾等二人は其事を後で聞いた、暗中石坂途を命懸いのちがけで降る時には、蛇が居ようがひきが居ようが、何が居ようとそんな事どころではなかった。
 程なく草の深い所を抜けて、例の七曲りの上の方へ出た、今までは草に隠れて居たが、山麓の秩父の街の火の明り、村々の貧しい灯火ともしびが、手のとどくような下に見えた。併し此七曲の上までは、登る時に二時間以上もかかっている、仮令たとえ途は之からく分っても、蝋燭が途中で無くなったら何うしようと、私はそれが心配でならない。するとT氏は何うしたか途を失ったという、さア分からない、迷う許りで一向途が見えぬ、疲れ切ったM氏は此処で露宿しようと言い出して、横になったまま動かない。私は例え夜があけてもかまわぬ一歩でも下の方へ降りたいと言う、とは言え、七曲りの尽きた下は又大樹林で、見た所でも闇のとばりに閉じられた森を、何うして路のわからないのに抜けられよう、之もむだかも知れぬと殆ど途方にくれて、歩く気も出ない、此場合生命から二番目の蝋燭は吹き消して置く。
 T氏は降れると云う自信があると云って、又火を点けて一人途を探しに行ったが、訳なく発見したので、吾等二人は蘇生いきかえったようになって、此度こんどは道を失わぬように注意して降ったが、休むと蝋燭を消し歩き出すと又点ける、消えたり、点いたりする山腹の火光を見て、山麓の村人は不思議がった、其中そのうちの親切なる人が提灯を持って、七曲りの尽きる所まで迎いに来て居た。
 幸い大したけがもせず、不用意に露宿するような憂目うきめも見ず、麓にちかい木立道を提灯ちょうちんの明りにみちびかれ、やがて親切なある農家の広い縁がわに腰を掛け、星を隠して巨人のように屹立している真暗な武甲山を仰ぎながら、ホッと永い息をいたのは、正に夜の十時であった。





底本:「紀行とエッセーで読む 作家の山旅」ヤマケイ文庫、山と溪谷社
   2017(平成29)年3月1日初版第1刷発行
底本の親本:「街樹」梁江堂書店
   1915(大正4)年10月13日発行
※「みち」と「みち」の混在は、底本通りです。
入力:富田晶子
校正:雪森
2019年12月27日作成
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