私の『二笑亭綺譚』の初版は昭和十四年(一九三九)昭森社から出た。好評でたびたび版を重ねて、特製、A版、B版、C版(学生版)の四種がでている。しかし資料の写真その他が戦災でやけてしまったので、戦後の復元は困難であった。そこで私は、この機会に写真の挿絵をやめてすべて絵でゆこうという計画をたてた。幸に建設社が豪華本の出版をひきうけたので、私は木村荘八氏に挿画と装幀いっさいをたのんだ。荘八さんは旧版本を一読し、喜んでひきうけてくれた。ところが二笑亭の因縁といおうか、珍事がおきた。その打合せに、神楽坂のある料亭に出版社の坂上新一郎君と荘八さんと私の三人であつまった。戦後日が浅く当時はまだ占領下の食糧統制時代で、料飲食店はこっそりやみをやっているころだった。私たち三人が酒ものまずに食事しながら静かに打合せているところへ、見知らぬ男が入ってきた。取締の私服警官と名のって吸物のふたをとってしらべたりするが、初めは悪戯だと思っていたが、それは本物の刑事だった。そこであわてた私たちはひたすらわびたが、許されず翌日三人は神楽坂署へよばれ、始末書をとられてやっと許された。今になれば笑い話だが、荘八さんも私も警察での始末書は初めて書くので二人で顔を見合せて苦笑したものだった。しかし、二笑亭の仕事はどんどん進み、荘八さんは油絵を入れたたくさんの見事な絵をかいてくれた。それが完成したころ出版社が怪しくなって、この本は中止となり、やがて日比谷出版社にひきつがれた。とりあえず雑誌にのせようということになり、その重要な部分をえらび「文芸読物」(今の「オール読物」)の昭和二十五年一月号の巻頭に総色刷で発表し、好評だった。まだ紙や印刷の不自由な時代だったので、もう少し事情がよくなったら立派な本にして出そうということになっていた。その後、昭和二十七年(一九五二)に私は欧米の旅行に出た。半年の留守中に弟の俊三の手で私の書庫や書斎の整理がやられ、荘八さんの二笑亭資料は他のものといっしょに重要保存の行李へおさめられた。それがどこへいったことか、出てこない。
昭和三十一年(一九五六)に、三笠書房から新書版の『二笑亭綺譚』が出た。これは二笑亭の他に私の芸術病理学的の論文、研究、随筆を収めたものだった。こえて昭和三十三年に、浦和の芋小屋山房が豆本百種の第二冊として袖珍本の二笑亭を出した。これは主人公が足袋商だったのにちなんで、装幀を紺の木綿にして、足袋の爪で帙をとめるようなスタイルにしたものである。
こえて昭和三十六年(一九六一)に、日本書房の『現代知性全集』の第四十九巻に『式場隆三郎集』が出た。その中に、二笑亭が収録された。
私はいつか荘八さんの挿絵をしまった行李がみつかって、二笑亭の決定版の出るのをたのしく空想していた。しかし、その行李はその後いくら探しても、いまだにみつからない。荘八さんがメモにつかったいろいろかきこみのある旧版本だけが出てきた。それをみるにつけても、あの資料が神かくしになったように姿を消したのは、不思議でならない。
さて私は昨年の秋、欧米の旅から帰ると健康を害し、十二月一日に順天堂病院へ入院した。しらべてもらったら、意外にも酷い胃潰瘍のあることがわかった。それで大手術をうけて、輸血を五十日もつづけたのだった。やっと一命をとりとめてほっとした頃、かつて私のゴッホやロートレックの特製本を出してくれて、それがやみつきで限定本だけをやっている今野書房の今野健二さんが見舞にきてくれた。そのときふと私は二笑亭の決定版を出したいと話した。今野さんは、すぐそれをやらせてくれといった。そこで荘八さんの挿絵のなくなったことを話し、だれか適当な画家を探してくれとたのんだ。そこへ東峰出版の三ツ木幹人さんが見舞に来て、荘八さんの画風をつぐ三井永一さんを推薦してくれた。三井さんにきてもらって、事情を話して頼んだらよろこんでひきうけてくれた。そして「文芸読物」に複製の残っている荘八さんの絵は模写し、あとは三井さんが荘八風にかいてみようという話がきまり、まもなく一〇数枚の試作ができた。それらは私たちをよろこばせ、満足させた。そこで決定版二笑亭の計画がすすんだ。今野、三井、三ツ木の三氏は私の面会時間をまちかねるようにして、しばしば病室へきてこまかな打合せをしてくれた。こんな風にして、こんどの本が出るようになったのである。今野さんはたゆまぬ熱情を傾けて造本にあたってくれているので、きっといい本ができるだろうと楽しみにしている。寿岳文章兄もかつての英文解説に手をいれてくれたし、予約募集をしたら、全国のファンからは、電報や速達の申込がつづき、今野さんをよろこばせている。私は病気もよくなり、三月十九日に退院していま静養しているが、この病気が思いがけず久々でのいい本を出せるきっかけをつくってくれたことを感謝している。新緑の頃にでる私のもっとも愛着の深い限定版二笑亭のために、新しく署名用の硯や墨や毛筆まで用意して、できあがる日をたのしみつつ心待ちしている。
昭和四十年四月十二日あさ
式場隆三郎