神經質に對する余の特殊療法

森田正馬




 最初に先づ余が此の療法を用ふるに至つた由來を一寸述べて見よう。余は十五六年も前には、神經質を治すに大に催眠術の奇效を得んとして、久しい間努力した。丁度黴毒に六〇六號の出來た時、從來不治であつた麻痺性痴呆も、初めて之によつて根治する事が出來るといふ夢を見たやうなものであつた。又所謂説得療法は、人が神經質の病的心理に就いて或ものを知らば、當然患者に對して説得せざるを得ない事になるものである。で、余は赤面恐怖症などに對しても、無暗に催眠術と此説得とを以て、其の病症に突貫肉薄したものであつたが、半年も一年も治療を講ずる間、余も閉口すれば患者もくたびれて、何時とはなしに中止する樣になり、赤面恐怖症の如きは一時は不治のものとあきらめた事もあつた。然しこれも今日では、余の特殊療法で一二ヶ月の短期間に、治癒し得るものとの自信が出來る樣になつた。又其後ビンスワンゲル(Binswanger)や、チーヘン(Ziehen)等の用ふる生活法正規の法を種々に案配して、患者をして之を實行せしめ、或は不眠に對してもチーヘンの法で就床前に時間を定めて、運動と安息とを交互にやらせる法などをも試みて來た。又説得法は固より常に用ふる所であるが、神經質に對する見解の異なるに從ひ、又個々の患者の心理を洞察する事の經驗と共に次第に變化して來た。特に前にも述べたやうに、論理の事實と感情の實際とを決して一樣に考へてはならぬ事、一概に論理を以て感情を厭服せんとすれば、却て其目的に矛盾する事等を知るに至つて、次第に余の説得法は變化して來たのである。其他余が神經性の苦悶状態に對し、絶對的臥蓐療法を用ひて著效を收めた事や、何や彼やで次第に治療法の系統を作り、覺束ないながら余の考案した今日の治療方式が出來上つたのである。自分自身では此の療法は神經質の根本療法の上に少くとも示唆を與へるものであつて自分の經驗では從來本症に對して著效を收めたやうに思ふ。併し乍ら自分で工夫した療法は何時でも我情に執着して、自己暗示作用により、特別の效能があるやうに謬見を起すものであるといふ事は、我れ人共に免れ難い處であるから、之に對して充分に識者の實驗と批評と教示とを希望する處である。其の方法はといへば一見極めて通俗平凡であつて全く醫術らしくもないものである
 余の神經質に對する共通的の基礎療法としては、之を左の四期に別つて施すのである。即ち、
第一期、絶對臥蓐。
第二期、徐々に輕き作業。
第三期、稍重き身體的精神的勞作。
第四期、不規則生活による訓練。
 此の治療期間は長くとも一期間一週日で、四週間を以て終り、或は三日宛とすれば十二日間で此療法を終るのである。で、其三期間は全く社會と絶つて、家族との面會をも許さない隔離療法であつて、其の根本的の目的は患者をして精神の自然發動及び其の成行きを實驗體得せしめて自己に對する從來の誤想臆斷を破壞し總て物に拘泥するといふ事を廢し、大きくいへば佛教の所謂無碍礙といふ心的状態に導き、身心の自然機能を發揮させるのである。即ち身心の自然療法である。
 第一期絶對臥蓐は、之を數日乃至一週間位用ふるので、之によつて一は診斷上の補助となり一は安靜によつて身心の疲憊を調整する事が出來一は患者の精神的煩悶苦惱を根本的に破壞する事の目的を達しようとするのである
 ここに診斷上の補助とは、例へば神經質の患者ならば、よく醫師の命令を守り、忍耐して臥蓐を繼續する事が出來るけれども、麻痺性痴呆とか破瓜性痴呆とかいふものは、之が出來ぬ。又臥蓐中の状態により、例へば破瓜性痴呆の輕い昏迷性のものは、幾日でも平氣で寢て居るし、神經質ならば何時でも臥蓐中必ず何か相當の煩悶を起して來るといふ事によつて區別が出來る。又身心の疲憊から起つたものならば、臥蓐によつて短時日の間に其の恢復が認められ、食慾等の如きも、起きて居る時よりは却て進むといふ事があるが、麻痺性痴呆などでは之によつて症状の輕快が認められないのである。
 次に患者の精神的苦悶を破壞するといふ事に就いては、余がここに適用する絶對臥蓐は、其の條件として患者に只便通と洗面とに起床を許するのみで、新聞を讀む事も、談話も、手仕事も、喫烟も、又苦悶の起る時に自ら氣を紛らせるやうな事も一切全く禁ずるのである。其の目的は若し空想なり煩悶なりがあれば、之が自然に起るべきに起り、其の苦悶は自然の成行きに從ふより外に途のないやうに、患者の境遇を指定してある事である。尚注意すべき事は、臥蓐中に起る心的状態は之を豫め患者に説明する事なく、只患者に命令し之を指導するのみである。何となれば若し此時患者に豫め其の經過を知らすれば、患者は自ら豫期的態度を採り、其の自然の經過を曲げるやうになるからである。で、總て患者が或經驗を體得した後に、初めて之を單に解説してやるに止めるのである。又身體的精神的に特に刺戟症状を呈するものには、臭素劑等を與へるけれども、一般の神經質には全く服藥を用ひぬ。特にヒポコンドリー性の著明なもので、平常種々の藥劑を用ひてゐる患者には、悉く之を取り上げて用ふる事を許さない。之は特に余の治療方針に於て注射療法や諸種の藥劑や其他樣々の新聞廣告に迷ひ治療的迷信に陷れる弊害を打破して自力的修養の基礎を作る第一着となるのである。此故に嘗て諸種の療法に愛想をつかして多年に亙つた患者ほど、却て余の治療效果が明瞭となる場合が多い。或患者の如きは自らカオール、カスカラ錠、含嗽劑、カルモチンなど用ふるので、總て是等を取り上げて與へなかつた事もある。
 斯くて余の臥蓐療法により、勿論種々の場合はあるけれども、最も定型的のものに就いていへば、其の第一日は、今迄の煩雜な刺戟を離れて身心共に安靜となるから、心安く樂に寢られ、食慾も却て進むのである。然るに第二日は之が若し何かの身體病で發熱するとか、咳嗽があるとか、苦痛のあるものならば、精神は固より其の方に奪はれるから、普通病に於けるが如く安臥が出來るけれども、神經質患者は身體には何の苦痛もないから、必ずここに内部の精神活動は、自己一身上の事竝に病氣の事等、各個人の特性に從つて、それ相當の聯想、空想、乃至煩悶苦惱が起つて來る。で、ヒポコンドリーとか強迫觀念とかを有する患者は、『こんな事で病が治る筈はない。丸で狐につままれたやうなものである。若し治らなければ自分の將來はどうなるであらう。こんな苦しい目を見て、只寢て居るといふのは余り馬鹿げて居る。寧ろ起きようか。併し折角やり始めた事だから』とか種々の疑惑が起り、其の苦悶は次第に高まり不安となつて、時には苦しくてとても寢て居られないやうに思はれる事がある。
 之に對する余の患者に向つての注意は、若し患者が空想が起れば自然のままに空想し、煩悶が起つても決して自ら氣を紛らせようとか、其の煩悶を忘れよう、破壞しようなどとする事なく、寧ろ自ら進んで煩悶しなければならぬ。若し苦悶が堪へられないやうになれば、恰も齒痛、腹痛の時、止を得ず齒を喰ひしばり掌を固めて之を堪へ忍び、其の痛みの去るを待つやうにすればよい。決して床を離れて室外に出るとか、其の苦悶を人に訴へてはならぬといふのである。凡そ煩悶を思想や理屈によつて堪へんとするのは寧ろ直接に之を忍耐するの捷徑たるに如かない。抑も煩悶といふ事は、考慮の葛藤から起るもので、慾望と、之を否定する心と、更に其間の條件的の種々複雜なる思想が同時に入り交り、混戰状態で修羅の巷となる如き時の苦痛の感に名けたものである。神經質者若くは強迫觀念の患者は、若し之が或は無邪氣なる小兒のやうに、不快苦痛、若くは恐怖に對して、單に之を苦しみ恐れるに止まれば、其の苦痛は單に夫れだけであるが、又起りはせぬかと豫期恐怖するが故に、二重の苦痛となり、更に之を恐怖すまじとあせるが故に、ここに煩悶となり、其苦痛は恰も三倍となる譯である。即ち成るべく之を複雜から單純に還元すれば、其苦痛は少なくなるのである。煩悶に對して自ら之を破壞せんと努力する事は、禪の語に『一波を以て一波を消さんと欲す、千波萬浪交々起る』といつてあるやうに、我心を以て我心に對抗するのであるから、其の心は益々錯雜する計りである。我心で我心を直接に制せんとする事は、我が身體を物によらずに我が力で空中に持ち上げんとするやうなものである。又自ら氣を紛らせようとする事も、例へば幽靈怪物の出るといふ噂の淋しい處へ行く時、落葉のごそといふ音にも膽をつぶして後をも見ず逃げ出すやうなもので、強迫觀念の患者の恐怖する有樣は、恰も逃げ惑ふがため自分の足音も怪物の追かけるかと思はれ、人の呼ぶのも怪物の聲かと疑はれるやうなものである。現在目の前に起つた現象を故らに見ないやうにしようとするのは、益々其の物に心が執着して念頭を去る事の出來ぬ結果を來すものであつて、或はたとへ此時腰を拔かしたとしても、頭から羽織を被つて顫へて居るよりも、眼だけでも其の方に向けて居れば、直ちに其正體を見屆ける事が出來るのである。斯の如く、恐怖苦惱は之から逃れんとすればする程益々不安となるもので、此の際勇を鼓し思ひ切つて、直接其物に正面から打つかり、其の苦惱を苦惱すれば、例へば武術の奧儀である處の『必死必生』とか、兵法の『背水の陣』とか、或は突貫戰の『最後の五分』とかいふやうなもので、其の苦惱も忽ちにして雲散し、爽快なる光明に觸れ、凱旋の喜びに遇ふのである。余は之を眞言宗の煩惱即菩提といふ事からもぢつて、煩悶即解脱といひたいと思ふ。即ち佛教の多くの宗派でいふ處の『煩惱を斷ぜん』とする方法ではなく、煩惱の中に其儘飛び込めば、其の儘に煩惱が安樂となり、解脱となるのである。序に一寸手輕なものに譬へて見れば、游泳の時、河水に臨んで其の内に這入れば、腹腸はらわたはつり上り、呼吸もつまるであらうなどと樣々に考へ、躊躇すればする程益々恐ろしくなつて這入る事も出來ぬが、一度思ひ切つて其の内に飛び込めば、何の事なく、後には水の中から出れば却て寒くて出られぬやうなものである。
 説明は不充分であるけれども、之が余の神經質患者をして、第一着に自ら實驗體得せしむる事の方法であつて、諸種症状の治療をなす基礎となるものである。之がヅボア氏の説得療法で『醫師は論理の力を信ずる不動の信念から、徹底的に説破し、患者の迷妄を破り、患者をして終に降服するの止むなきに至らしむべし』といふやうな、六かしい勞力と手數を要する方法と違ふ處である。余は總て余の治療主義として、常に先づ患者をして體得せしめ、然る後に一つ一つ順々に之に解説を與へ、其の應用を教へてやるのである。既に理屈を離れた一々の體得であるから、くど/\しい言説や、巧妙なる言語を要せず。恰も禪の問答の如く以心傳心で、患者は容易に之を理解するのである。
 扨此の第二日の煩悶期とも名づくべきものは、其の苦悶が激しければ激しい程治療が明確に行はれ、僅に二三時間で此の體得を得る事が出來る。轉々反側するといふやうな苦惱は『最後の五分』といふやうに、實際十分二十分とはかからぬのである。で、其時には激しい疼痛發作の去つた時のやうに、疲勞でうつとりとした氣分と、其間に幾分か爽快の氣持を持つて居て、非常に安樂になつたやうに感じる。然し中には此の煩悶が著明に起らず、或は激しくないもので不定に出沒して、第四日第五日迄も續く事がある。特に喫烟をするといふやうな事があれば、其の爲に精神が轉導され、慰安されるから、其の經過が永びくのである。
 第三日は、患者の前日の苦惱を追想して、今日氣樂になつた事を不思議に思ひ、中には再び前日の空想の道筋をたどり、自ら煩悶を起して見ようと試みるやうなものもある。併し此の時は空想は統一なく、續いて起らなくなり、前日のやうな苦惱は起つて來ず、却つて前日の事を興味ある追想とし、現在自分に直接でない思想として自ら慰むやうになる。余は多くの場合に患者をして、故らに前日の苦惱を再び起して見るやうに指圖する事もある。吾人の感情は夫れ相當の對照なり事情なりがなければ、隨意にいつでも驚き恐れ煩悶しようとしても出來ぬものである。恐怖を思想で故らに取除けようとする事も、之と同樣の關係である。
 で、此日は或は種々の思想が起り、或は何の氣なくうと/\として過し、幾らか退屈を感じ、じつとして寢て居るのが厭になつて來る。
 第四日には、前日は何となく無聊で單に物憂かつたが、今日は早く起きて何かして見たく、更に具體的にあれをああして、之をかうしてと樣々に考へて、前には憂慮の苦痛であつたのが、今度は希望の苦痛となる。健康なる吾人の精神は、決して無意義にぼんやりとして何の考もなく居られるものではない。若し居る事が出來れば、それは長い間の病氣で習慣になつたものか、破瓜病か變質者等の如きである。此の時間を假りに無聊期と名ける。
 斯くの如く定型的のものは、此の無聊期の來りたるを標準とし、患者をして充分に退屈の苦痛を味はせたる後、其翌日は起床して第二期に移るのである。此の臥蓐療法で、種々の不安とか、頭痛頭重、不眠とかいふものは大體取り去られる。彼のワイル・ミツチエルの肥胖療法で、一週間許絶對臥蓐をさせる事や、近頃千葉の竹村博士が食鹽水注射を施して、少なくとも六時間安臥させる事や、其他ヅボアが重き病症に臥蓐療法を併せ用ひ、又デジエリンの隔離療法などは、其の臥蓐なり、外界の刺戟を避ける事なりが、病に對する效果のある處で、榮養とか食鹽水とかいふものは、或はお相伴のもの若くは假面暗示として作用するものではあるまいか。余は此の安臥の上に前に述べた主義に從ひ、或る精神的體驗を加へたのである。
 神經質の不眠症に對する此の臥蓐療法の效果は甚だ顯著である。中には數ヶ月間も全く不眠であると訴へたものもあるが、之は前に不眠の心理を説明したやうに、患者が實際眠つて居るにも拘らず、眠つたといふ氣分のしないもので、不眠の恐怖から起るものである。是等に對しては、『臥蓐中若しも眠を催うせば晝間にても時間を選ばず眠るべし。若し眠を催うさなければ、一週間眠らざるもよし。決して自ら努力して眠らうとする工夫をしてはならぬ』といふ風に教へ、時計は取り上げて時間を測る事の出來ぬやうにし、藥は此の際も故らに與へぬやうにする。斯の如き患者に對しては、普通醫者は患者のいふがままに屡々多量の催眠劑を與へるがため、不眠に效なきのみならず、却て益々種々の神經性不快症状を起すのである。然し余の臥蓐療法では、兎も角三日乃至一週間の内には、何時の間にか不眠の恐怖が破壞され、不眠の苦痛から逃れるのである。又不思議にも必ず晝間に眠つて夜眠らないといふやうな事も起らない。此の間の心理は、患者は晝夜のべつに寢て居るから、いつの間にか時間の觀念も薄くなつて來て、眠らんとする努力を忘れる。睡眠といふものは精神の活動がなくなり、所謂無念無想となり、無意識の状態となつて初めて起るものであるから、眠らんと努力して精神が緊張し、種々の方法を試みて精神活動が盛んとなり、同時に恐怖不安を伴ふ時には眠られる筈がないのである。
 禪の語に、『眠る時は棺の蓋を覆ひたるが如く思へ、人なき時人あるが如く、人ある時人なきが如く思へ』といふ事がある。それは誠に都合のよい事ではあるけれども、恰も無念無想となれと命令するやうなもので、吾々の心は中々さう思ふ通りになるものではない。即ち其の通りになるに對する方法を教へなければならぬ。然らざれば機根の惡いものは何年かかつても此の境涯に達する事は出來ぬ。其他不眠に對しては、從來自ら呼吸を數へるとか、數を百迄數へるとか、陀羅尼を唱へるとか、又少しく込入つたものでチーヘンの方法は、寢る前に一時間許り初め十五分間運動し、五分間安樂椅子に倚りかかり、又五分間室内を歩行し、又椅子に凭るとか、面倒な方法を行ふけれども、少しく込み入つたる不眠恐怖症には、是等の方法は却て心が常に其の恐怖に執着するやうになり、總て吾々の心は強いて忘れやうとする努力は、忘れまいとする努力と同じやうに強い意識的のものであるから、無意識となる筈がない。只是等の法は極めて輕い程度の不眠に對して效があるのみである。又若し是等の法が效がなかつた時には、其の込み入つたるもの程益々患者の失望と不安とを起すのみである。
 扨此の臥蓐療法を終つた時、其の身體精神の状態はどんな風であるかといふに、特に前に身心の多少の疲憊のあつたものは、精神は安靜となり、刺戟性は減じ、身體的にも眼瞼の震顫、筋肉の器械的亢奮性等減じて居る。然し疲憊のないものは、身體を長く使用しなかつた爲に、少しく其の活力を減じ、急に激しい勞作には堪へぬやうになつて居る。例へば脈搏の如きも横臥位と起立位との脈の差が少しく多くなり、階段を上下させるにも前よりも多少其の脈數が増すのである。
 第二期 の患者の規定は矢張り隔離療法で、交際、談話、外出を禁じ、夜は九時乃至十時に就床し、朝は五六時(冬ならば七時頃)に起床する事とし、晝間は必ず庭に出で空氣と光線とに觸れるやうにする。たとへ身體倦怠の感を覺ゆる事があつても、横臥、晝寢等を許さず、只椽側に腰をかけるとか、立つたり、しやがんだりして居る事を許すのみである。又これから引つづいて夜は毎日の日記をつけさせる事にする。
 第一日は、空を仰ぐ事、高き處に昇る事、無意味なる散歩、小兒と遊ぶ事、筋肉を勞する仕事等を禁じ、只庭園の其處此處にしやがみ、若し氣に向けば、或は這ふ蟻を研究し、或は芝草の中の雜草、根笹の枯葉取り等をする事を許すのみである。
 其の目的は或る制限により患者の自發的活動を徴發するので患者は一定の制限を受け當然退屈して何かしなければ氣持が惡いといふ境遇に置かれてあるから其の間つい/\身心の自然發動が起つて來る。で、消極的に或る制限を置くのみで、余の治療中一切積極的に仕事を課するのではない。即ち注入的でなくて自發的である。『犬も頼めば糞食はぬ』といふやうに、若し仕事を課する時は、必ずここに努力せんとする意識が起り、反對觀念の拮抗を感ずるやうになる。
 余の治療法中、患者の最も苦痛を感ずるのは、臥蓐の第二日と此の起床第一日とであつて、此の日は患者の倦怠と退屈とを苦痛する時である。而かも此の日の午後になれば、少しづつ何かをするやうになる。
 第二日には、患者は次第に仕事に興味を生じ、それからそれへと何かをずには居られなくなる。例へば一群の根笹の一局部が枯葉なく綺麗になれば、序に其の全體をも綺麗にしたくなる。更に他の根笹の群も、庭の雜草も、植木の枯枝にも氣が付くやうになる。或患者は庭の蟻を何百とか殺し、蠅を何百とか打つた事があつた。斯く或事をし始め、或は物を整理する事によつて、或は之に區ぎりを付け、より多くし、よりよく纏めんとすると云ふ事は、所謂感情の完全慾で、神經質には特に此感情の病的に強いといふ事が、強迫觀念によつて之を見る事が出來る。然し若し最初から少しも手を付けず、打ちやらかしにして實行する事がなければ、此の感情は起らず、仕事といふ事に對する興味は起らぬ。興味とか趣味とかいふ事は、必ず常に唯爲す事によつてのみ起るものである。之に反して若し此の仕事を初めに豫定し、彼の一群の根笹の枯葉を取つて仕舞はなければならぬと命ぜられ、若くは自ら豫想した時には、所謂豫期感情に打たれて、必ず之に對して面倒と困難との感を起し、とても手を下す氣分になれぬものである。只初めから何の氣なしにする時は、何時とはなしに興が乘つて其の仕事が止められなくなり、例へば夕食に呼んでも、殘つた仕事を片付けてしまはなければ食事に來ぬといふやうなものである。總て神經質患者は此豫期感情が強くて、例へば勉強するにも時間割と豫定の見積りとに半日を費やし、而かも大袈裟に大儀に思はれ、徒らに何事にも煩累を感じ、獨り氣分のみいらいらするものである。仕事を片ぱしから片付け、切り開いて行くといふ事の出來ぬ性情のものである。神經質の理解、記憶が惡いと訴ふるものも、此の豫期感情の影響であつて、此の豫期感情を破壞すれば、是等の症状を去る事が出來る。故に余の此の方法は、神經質の心身活動を訓練する處の第一義となるものではなからうかと思ふのである。
 第三日は、既に其の活力は平常に復して居るから、次第に仕事の制限を減じ、木に昇る事も許し、植木の枯葉取り、掃除、雜巾がけ、畑仕事等をもさせ、只激しき筋骨の勞作を禁ずるのみである。又一方には此日から音讀を始める。之には歴代天皇とか、古事記とか、又女には古今集のやうなものを、朝起きた時夜就床する前、晝食後等に讀ませる。其の讀方は低き聲を出し、其の時の氣分のままに、厭になれば半枚でも止め、常に其の本の初から讀み、氣に向きたる時は何回でも反覆して讀む。お寺の小僧が經文を讀み習ふやうに、全く無意味に只調子で讀む。之によつて朝は次第に活力を引立て、夜は心を落ち付けるやうになる。第四日第五日と患者は次第に興味を持つやうになり、掃除、植木の手入れ、畑仕事等を盛んにやり、恰も小兒が活動により、自己の衝動發揮を快とするかの如く、又其のする事に豫期とか困難とかといふ事に全く無頓着に、或る目的のために勞作するといふ氣分を離れ、只勞作其物を樂しみて勞作のために勞作するやうになり、所謂無念無想で仕事の三昧に入るといふ風になる。で、自己健康の發動に驅られて、自ら益々重い勞作を渇望するやうになる。これから第三期に移るのである。此の第二期中に、多くは頭重倦怠とか、胃部不快感とか不眠の心配等は、いつしか忘れたやうになり、此の頃は最早誰の目にも其の治療前と比較して、顏貌、態度、應對等、殆んど別人のやうに元氣よくなる。之は余自身にさへも屡々想像以上に豫期せざる效果に驚く事がある。實驗して見なければ、机上の論では決して分らぬ事と思ふのである。
 此の效果の理由に就いては、余は單に之を作業による精神の轉導作用とのみ解する事は出來ないと思ふ。即ち余の療法を終つて後に、症状が再發せず、或は若し何かの機會に症状を起しても、容易に自ら之を治する事が出來る。之は患者が自ら其の從來の症状が何物であつたかといふ事を體得理解するからである。患者は其の自發的活動により自己の健康なる事を體得し、從來の病覺に對し拘泥執着し、豫期恐怖を起す事がなくなるからである。而して此の信念は、例へば靜坐によつて自ら健康といふ事を觀念するとか、種々の方法によつて病が治るといふ事の暗示若くは自己暗示を受ける事や、説得によつて理解するといふ附燒刃的のものではない。
 第三期、重い勞働に移つて、例へば鋸びき、薪割り、溝さらへ、穴堀等をやるやうにする。又讀書を始める。其の種類は『滑稽日本史』、『動物の奇習』、ヘレン・ケラーの『我生涯』、『叙述と迷信』、『身心の關係』といふやうなものを適宜に與へ、其の讀み方は室内に坐つて讀んではならぬ。仕事のひま/\に、氣に向くままに或は椽側に、或は木影に、本を繙き、本の開けた處をあたりあひに譯なく讀過し、故らに理解し記憶せんと努力する事なく、理解し難い處は飛ばしてひろひ讀みにし、いやになれば本を閉ぢ、又讀みかけた處にしるしをして次の時に讀み繼いではならぬ。其時其時に開いた處を讀み、氣に向けば幾ら讀んでもよいといふ風に指定する。要するに、讀書といふ事に拘泥してはならぬといふ風にする。神經質者は、讀書するにも讀んで後に自ら何を讀んだか分らず、些細な外部の刺戟にも精神散亂して、理解記憶する事が出來ぬと煩悶するのが常であつて、其他仕事でも心は常に現在爲す事の外に散亂して、其の次々の事を考へて居る。之は一口にいへば、豫期恐怖に支配されるがためである。余の此の讀書法は此の豫期恐怖と拘泥を去る目的である。患者は此の期間の終りには、最早や周圍の騷がしい中でも、仕事中でも平氣に讀み、時には興に乘じて隨分讀み耽る事もある。例へば前述第十六例の赤面恐怖症で電車に乘る事が出來ず、自ら自己の精神力の望みなきを悲觀し、終に學校をも退學した者が、此の三期の終り、初から十五日目頃に、午前中余に伴れられて電車で白木屋に行き、人込みの中で買物をし、午後二坪許の畑の土を入れかへ、夜『叙述と迷信』といふ本を百五十頁許り讀んで、勞働の疲勞で却て爽快を覺え、勉強の興味を起し、自ら身心共に健全、事に堪へ得るものなる事を體驗自得したのである。
 此の第三期の間は、終日外にあつて何かをして居なければならぬといふ規定であつて、氣に向いた時には勞働でも讀書でも制限なく思ひきつてやらせる。其の禁ずるのは友人との交際とか、球投の遊戲とか、總て人と共にする事や、目的なき散歩や、體操、亞鈴振りとかいふやうな類のものである。只患者は單獨に自己の仕事若くは讀書をするのみである。又此の期間の終には、場合により外出を許すけれども、買物其他簡單な用事のみに外出させるだけである。或場合には患者は外出がしたくて、何か用事を頼まれ、八百屋物の買物などに喜んで出掛ける事がある。
 又特殊の強迫觀念症に對しては、是迄は成るべく其の強迫觀念に觸れないやうに保護療法的であつたが、此期間の終り頃から、少しづつ成るべく患者の氣の付かぬやうに、其強迫觀念に觸れるやうに練習を始める。例へば前の電車に乘る事の出來ぬ患者は、余が自ら伴れて何か用事を作り、電車に乘つて其の用足しをして來るやうにする。此の際注意すべき事は、其の用事が目的で電車に乘る稽古といふ事を言葉尻に表はしてはならぬ事である
 此の療法の間、毎日患者の日記を檢し、之によつて其の既に體驗した事に就いては、之に解説と斷定と其の應用とを教へ、其後の事は成るべく患者に其の制限と仕事の範圍とを定めるのみで、決して斯くすれば興味が出て來るとか、病氣が輕くなるとかいふ事を教へぬ。之は豫め患者にも其の事を承知させて置く。何となれば、之を豫め示せば、患者は之を豫期し或は暗示を受け、純粹の有效なる自發的體得を得る事が薄弱となるからである。又患者が自己の病症に對して、常に自ら其の經過を測量する事を破壞するが爲に、患者の訴へる苦痛に對しては、所謂不問療法で寧ろ知らぬ振りに放任して置くが、例へば患者が『昨日は頭がぼんやりしたが、今日は非常に爽快になつた』とか、『今日は胃がすが/\として氣持がよくなつた』とかいふのに對しては、『氣分のよいといふ事も單に一の自覺であつて、苦痛と同樣のものである。爽快の後には不快といふ反動がひかへて居る』といふ風に排斥し、『君は肛門がせいせいとして氣持のよかつた事があるか』と問へば、『否』といふ。『然らば肛門の氣持惡しきや』と問ふ。患者は、『何とも氣が付かぬ。そんな事を思つた事はない』といふ。是に於て余は『それが肛門の健康である。何の感じもないのが胃なり頭なりの健康である。君は只惡い時は惡いと感じ、良い時は又其の通りに感ずればよい。夫以上余計に種々の臆測を逞うするに及ばぬ』などといふのである。
 此の第三期は梢重い身體的精神的勞作であるとはいへ、極めて單純であつて、一定の制限内に單調なる興味に乘じさせて、其の充分油が乘り調子付いた處で第四期に移るのである。
 第四期 は不規則生活期とでも名くべきで、一方には勞働でも讀書でも、患者が興味に乘つて居るにも拘らず、或は之を中止して仕事を變換させ、例へば激動の後に震へる手を以て習字をやらせるとか、種々の事をやらせて、今度は興味中心主義でなく、寧ろ興味をも破壞し之に拘泥せぬやうに練習して、日常生活に歸る準備とする。而して又一方には、學生ならば目的の課目を勉強し、興に乘りたる時は夜更かしをもして勉強し、食慾が進めば食物の攝生などにも拘泥せず、食慾がなければ一回拔きにし、講演會、演藝等にも行く事を許す。又冷水摩擦の如きも此の時期からやらせる。斯くの如くいつてしまへば、亂暴療法のやうであるけれども、要するに此の氣合を以て患者に奮發心を起させるのである。實は患者は余の指導のもとにあるし、且つ神經質者は決していふが如き亂暴な事は出來ぬのである。只ここに最も必要なる根本義は、患者が自ら何事にも堪へ、人以上の強健者であるといふ事の體得自信である。又之によつて患者の人生觀が變り、たとへ實際にはどうあらうとも、患者の信念としては、自分は世に立つて何事にも其境遇に從つて適應する事が出來る。例へば學者にでも、詩人にでも、將た實業家にでも、豆腐屋でも土方でも出來ぬ事はないといふ自信が出來る。之は決して理論や説得によつて得た處の判斷ではない
 余の治療中に於ける患者の思想は、初めから余を信じて治療にかかつたにも拘らず、其の中途は、常に自分の病が治るか治らぬかの疑惑の内に包まれて居る。他の信仰療法のやうに、病が必ず治するといふ暗示を與へるではないからである。而かも後には患者が余を離れるのが不安心で淋しさを感ずるといふ風になる。病が治癒して後には、其の感想が全く變つて、或は『治らぬ前とは全く心の置處が違つた』とか、『單に病から救はれたのみならず、心が救はれ、人生に活きた』とか、『嘗て宗教を求めて得られなかつたが、此の治療法により、初めて眞の信仰を得た』とかいふ風に告白するのである。余は余の療法に於て、常に患者に對して、『余を少しも信ずるの必要なく、只余のいふ處を實行さへすればよい』といひ、又患者が治癒に向つて後に、何となく余に頼るといふ事があるから、『余に頼る間は病氣の治癒ではない』といふ事を教へるのである。之が所謂信仰にあらぬ眞の信仰である。普通の信仰療法や、或は『只信ぜよ、信ずるものは救はれん』などいふ處の宗教で求めたる信仰は、外から附けた渡金である。得られたる信仰でなければならぬ。思想は自由自在にどうでも變化する。事實は動かす事の出來ぬものである。
 余の療法による神經質の症状の治り方は、常に何時とはなしに治つて、何時からといふ事を明かに意識する事は出來ぬ。即ち神經質症状の本態である處の意識の執着といふ事を取り去るからである。恰も吾人は眠りに入る刹那を意識する事が出來ず、物を忘れた時期を知る事の出來ぬと同樣である。意識下に這入るからである。神經質の神經痛樣疼痛でさへも其の通りで、何時から治つたのか分らぬ。若し之が藥物療法とか催眠術とかの症候療法ならば、其の輕快した時が分るけれども、其の代り一時的のもので其の根本を去る事は出來ぬ。
 以上述べたる處は、余の一般神經質に於ける基礎治療法の模型的經路であつて、固より個人により種々の變化がある。要するに初め絶對臥蓐法により一方には身體的疲勞を恢復し他方には精神的煩悶を破壞して次に作業療法により小兒に生れ變りたるやうな氣持になり身心機能の自發的活動を促がし之を助長善導して身心を訓練するといふ所謂自然療法である。決して或る一方に偏し、或は一定の信念を憧憬するといふやうな堅苦しいものではない。身心訓練の順序としては、單より複、易より難に次第に自發的に進むので、先づ大體にいへば、(一)單獨なる輕い身體的働作、(二)單獨なる少しく重き身體的精神的作業、(三)外出用足しをする事、(四)職業的の事、(五)交際、(六)旅行、(七)演劇、(八)從來神經質の起りたる境遇等の順序である。一般には談話、勝負事等の如きを、讀書土堀り等よりも娯樂となり精神を安靜にするものと誤解して居る。昔から讀書の事を勉強といひ來つて、いかにも努力のやうに考へて居るけれども、それは讀方が惡いからであつて、十歳の小兒に論語を讀ませるからである。
 神經質は精神の病的過敏であるから、患者が自ら治さんとあせる事は皆却て有害で、例へば物を忘れようと努力する事は、意識が其の方に執着して、却て忘れる事の出來ぬと同樣の關係である。電氣療法、諸種の注射療法等の如きも、其の效果あるが如く思はれるのは、多くは假面暗示によるもので、只一時的に其症状が輕快するのみである。然し其の方法の弊害とする處は、患者が再發に再發を重ぬる間に、益々種々の療法に迷つて、病的觀念を徒らに深く心の底に押し込めるやうな結果を來す事で、神經質の本態に觸れて居ない。利よりは却て害が多いと思ふのである。是に於て余は先づ患者の意識する衞生法や治療法を一度び破壞し、治療的ならぬ治療法を行ひ、以て患者をして治療といふ事を忘れしめ、從つて病の觀念から離れしめるのである。治療に拘泥するといふ事は同時に病に執着するといふ事である。些細な事のやうであるが、或る患者は例へば毎日入浴する習慣がつく。何事をさて置いても入浴しなければ氣持が惡い。其の入浴は衞生上良き事であるが、余は此の患者に對して、一度び此の衞生觀念を破壞する。で、患者は入浴すれば氣持はよいが、しなくとも別に心にとまらぬといふやうにするのである。余は又神經質の患者に對して、種々の所謂精神療法は固より、或はサンダウの鐵亞鈴を振るとか、體操をやるとか、腹式呼吸とか、皆余は患者が斯の如きものを以て治療法と考へ、之に拘泥する事を一度破壞する。鍛冶の腕が太くとも、喇叭手の呼吸が強くとも、之が直に健康ではない。筋肉を肥らせようとして亞鈴を振るとか、身體を丈夫にしようとして體操をやるとか、精神を統一しようとして腹式呼吸をやるとかいふのは一の余技であつて、神經質ならぬ人には兎も角も、是等は精神の一方に偏したものである。作業療法による複雜なる精神の活動を促がし、從つて身體全部機能の自然的活動を盛んにし、人生の實際に觸れて知らず識らずの間に精神統一し、勞作の所謂三昧に入る事の出來るといふ事に比すべきものでないと思ふのである。或る患者は余の療法を受ける前、種々の療法の外腹式呼吸をもやつたけれども、思ふやうに出來なかつたものが、余の療法を僅に十三日間で終り、後にふと前の腹式呼吸を試みた處が、容易に精神が統一するやうになつたといふ報告があつた。又余の療法は、何の榮養療法をも試みず、全く普通自然のままであるが、多くの患者は常に體重を増し、或る患者は三週間の終りに一貫目余増加したものがある。





底本:「神經質及神經衰弱症の療法」精神醫學叢書、日本精神醫學會
   1921(大正10)年6月5日発行
※国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:貴重資料保存会(入力斑)(佐藤 文吉)
校正:貴重資料保存会(校正斑)(佐々木 香)
2016年6月23日作成
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