楠田匡介




(一)厳寒殺人事件


「もしもし、そうです。田名網たなあみです……まだ警視庁にごやっかいになっています。……おお、久保田検事さんですか? へえ、こっちに……ええ、ええ、そうです。じじいになりましてね。娘が嫁いでいるものですから……久保田さんは、ご元気で……ええ、何、休暇を頂きましてね、孫を見にきたってわけなんですよ。ほう殺人事件ころしが?……この私まで引っぱり出さなくたって……まあまあ……とんでもない。では、顔だけ出さして頂きましょうか? いやはや」
 そう言って田名網警部は電話室を出た。
「何ですの? お爺さん?」
「おいおい、お前まで、急にお爺さんかい。よせよ、なんぼ孫が出来たって、急にお爺さんもないだろう?」
「だって、お父さん、今、お電話で、ご自分でおっしゃったんでしょう」
「あっははは、聞いていたかい」
「ええ、あんな大きなお声なんですもの、坊やが起きるかと思ってはらはらしましたわ。やっと寝ついた所を……」
「いやはや」
 警部はその大きな手でぶるるんと、自分の顔を一なでして、ストーブの前にどっかと座り込んだ。
「事件ですの?」
「うん。そうだってさ。いやだね、樺太からふとまできてさ、せっかく骨休めに来たのに……」
「この間の、何とかいうえこじなお爺さんの殺された?」
「ああ、おことわりしたんだがね、東京地裁にいた久保田さんが、検事になってきているんだよ――日本の国も、広いようでせまいんだね」
 警視庁の捜査一課の係長、田名網幸策警部は新聞社の人達や、親しい人達から「アミさん」の愛称で呼ばれている人で、休暇を取ってこの恵須取えすとるの町に来ていた。
 北緯五十度の国境から三十里南下した西海岸にこの惨劇事件の起きた恵須取の町があった。韃靼だったんの海を前にして、海岸線にそうた一本道の町であった。
 大正の末期、密林を切り開いたこの町に樺太製紙は、その膨大な資本下に製紙工場と炭鉱を建設した。
 迎いに来た警察署の犬橇いぬぞりに乗って、田名網警部は「下町」と呼ばれている市街へ降りて行った。
 珍しく風もなく晴れた日で橇の滑金すべりがねの下ではキシキシキシと心よい軋音きしみと鈴の音が針葉樹の壁の中を後ろに流れて行った。
 警察署は丸太作りの床の高い建物で旧ロシヤ時代の郡役所をそのまま改造したものであった。橇の鈴の音を聞いて署長は自分から迎いに出て来た。
「やあ、ご苦労さまです。とんだお願いをしまして……」
「いや、どうも」
 警部が入って行くと、むっとストーブのいきれが寒さに、痛い程こわばった顔を襲った。ゴシゴシと両手で、顔をこすりながら入って行く警部に、久保田検事が立って来て手を出した。
「お久しゅう。お元気で……」
「君こそ、とんだ所で会ったもんだね……何かね、あんたの子供さんが、製紙にいるんだって?」
「ええ、長女が嫁いで……」
「そうだってね……ふとさっき古市君から聞いてね……会いかったし、ご意見でも聞かして頂こうと思ってね、電話をしたんですよ。まあまあ、僕を助けるつもりで一つ」
「あっははは、とんでもありません。私が久保田さんをお助けするなんて……」
「昔は新聞記者さん達がアミさんの行く所に犯罪あり、って追っかけるいていたもんでしたね」
 古い同僚である古市署長がいった。
「それは逆だ。事件のある所に僕が行くんで、僕の行った処に、犯罪が起きたんじゃまるで僕が、犯人見たいじゃありませんか……あはははは。まあね。何のお手伝いにならんかもしれませんが、勉強になりましょう。参考に拝見さして頂きますよ」
「嫌な事件でね。余程上手に立ち廻ったとみえて内側からカギまでかけた『密室の殺人』て型にしていやがるんだ」
 と久保田検事はいまいましそうに吐き出すように言った。
「本庁におれば、鑑識課って裏づけがあるので、私達も動けるんですが……」
「何しろ因業な爺さんで、誰一人として好感をもっている者はない。細君でさえも困っているらしい。洗ってみなければ判らないが、金銭なんかでも、相当他人を泣かしているんじゃないかと思っている……その早川久三老人が殺された、その夜はひどい寒さでね……」
 そういって古市署長はその顛末てんまつを詳細に話した。
 樺太の冬の朝は遅い。その日も九時になってやっと陽がさしかけて来た。
 いつも、夜の明けないうちからおきだして口うるさい久三老人も、今日は珍しくおきた気配がなかった。
 十時近くなっても茶の間に姿を現わさないので、第一番に不審を抱いた細君が、「どうしたのでしょう?」とひとり言の様に、朝飯の給仕の手を休めてつぶやいた。食卓にむかっていた五十嵐も、伊東も、
「ほんとうに珍しいんでしょう、朝飯にでて来ないなんて……」
「ええ……望月さん、旦那を見なかった?」と細君の常は敷居越しに声をかけた。
「いいえ、今朝は、お見かけいたしません……書庫じゃありませんか?」
「そうね……だけどまだ、火も入れてないのに。一寸ちょっと見て来て下さい」
 望月は出て行ったが、すぐ帰って来て、
「書庫には鍵がかかっていますが、返事がありません」
「返事がないって?」
 常は腰を浮かした。火も入っていない書庫である。
 常々心臓がるくて近年は家から一歩も出ない主人である。この寒さに麻痺まひでもおこしてたおれているのではなかろうか――常にはこの不安があった。
 伊東、五十嵐、望月、常と四人は食事もそこそこに立って、書庫に行ったが、中からだけしか掛けられないカギがかかってあり、その厚い扉は押してもびくともしなかった。
 人々は扉を壊すより仕方がなく、カジヤを持ってきて、無理矢理にこじ開けにかかったが、こんな事には金をおしまなかっただけに、なかなか開かなかった。人々が汗になってその扉を壊して入った時、人々の不安は不幸にも適中して、早川久三は自分の安楽椅子に深々と落ち込んでぐったり頭をたれて死んでいた。
「あ! あなた!」
 常がかけこんで、体にさわろうとして、はじかれたようにとびすさった。人々もびっくりして近寄って行ったが、
「…………」
 声もなく、立ちすくんで終った。
 久三は別に格闘のあともなく、帽子をかぶったまま丁度居眠りでもしている様な格好で座っているが、その頭から頬、首にかけて、黒い血がこびりついていた。余程ひどくなぐられたとみえて、鉄製の巌丈がんじょうなデレッキがかすかに曲りをみせて、その足元にころがっていた。
 机の上には革で作った手文庫と一二冊の和本が置かれてあった。書きかけの大きなフールスカップの一枚と鉛筆と万年筆がその側にころがっている。
 人々は茫然として立ちすくんでいたが、やがて事の重大さに気付き、まず警察に電話をかけに走った。
 書庫から茶の間に帰った人々の顔は紙のように白かった。そして誰も彼も落ち付けなかった。
 昨夜、早川家には、三人の客があった。
 その一人五十嵐新造は、東京から早川の蔵書を買いにきていた。彼は久三老人とは、少年時代、久三がまだ東京の古本屋に、小僧をしていた時の同僚で、その後久三は、占領直後の樺太に渡り産をなし、新造は新造で神田の古書舗として一家をなしていた。今度、久三がその膨大な蔵書の大部分を整理することになり、ふるいなじみの五十嵐を樺太に呼んだのだったが、久三は例の持前の癇癪かんしゃく癖から、一寸した事で昨夜は激しい口調でうたいをしたりした五十嵐をしかり飛ばしたりした。
 今一人の樺太航路の第二恵須取丸の伊東憲助事務長は久三がまだ達者で、北海道の方へよく古書あさりに出かけたころからの知りあいで最近では久三は彼を自分の使用人のように遇していた。
 一体に久三は、自尊心の強い、自我一点張の男で心臓病のくせに、激すると人の見境なく皮肉ったり、毒舌を浴びせかけたりする癖があった。目下の者や使用人にはことに呵責なくその態度は専制主の様だった。昨夜も伊東を彼は人々の前でののしっていた。
 それに今一人の客――それは近所の高沢寺という寺の僧侶で、まだ三十を幾つも出ていない世襲の住職であった。
 この三人に雇人で、書生とも助手ともつかない望月青年の四人が、晩飯のもてなしにあずかっていた。主人役の久三の外は、相当にゆける口なので、酒も潤沢に廻った。雑談から自慢話にさては唄の一つも、出ようとしていた十時半ごろ何かのきっかけから久三はふと五十嵐にこんなことをいい出した。
「ねえ新造さん、あの極楽縁起の巻物だけはいけないよ。値にもならないしね」
 それは久三の横に座っている五十嵐にしか聴き取れない程の小声だった。
 伊東は大きな声で和尚さんと、望月の手拍子で俗謠を唄っていた。
「久三さん、だったらなぜ、東京からわざわざ呼んだのさ。わしだってあの極楽縁起があればこそやって来たんですよ……こんな樺太くんだりまで……」
「え! 何だって新造さん。樺太くんだりだって。ふん、それで悪かったら、帰るさ。船はあすあたり出るだろう」
 言葉だけではなしに不愉快そうに久三は、さかずきをからりと置くと立ち上った。
「えッ! 何だって? おい?」
 五十嵐も酒が入っていた。商人らしい頭のひくい男だったが、こう言って腰を浮かした。「まあまあ、五十嵐さん――」とお上人しょうにん山村常顕やまむらじょうけんが食卓の向うからとめた。
 久三の出て行ったあと一寸座は白けたが、又いつとはなしに酒の席らしい陽気さに返えって行った。
 その内、ふと伊東が立って、茶の間で久三に何か頼んでいたようだったが、久三はうるさそうに立って、書庫に入ったので伊東もそれを追って一緒に書庫に入った。半開きのドアからこれは又、とてつもない大きな声で久三の伊東を罵る声がしたが、やがてバタンとドアのしきる大きな音がして、足音を荒立てて伊東が興奮した顔で座敷に帰ってきた。
「ひどい爺だ!」
 伊東は吐き出すようにいった。
「うははは……」
 何を思い出したか、五十嵐が大声で笑ってぬっと、伊東に盃をつき出した。しばらく新しく盃のやりとりが二人の間で行われ、手を握ったり、肩を抱いたりして大声でくどくどしゃべり合っている所へ、僧侶の山村がふらふらと、便所にでも立ったらしくあおい顔して帰って来た。
「おや! お上人、どうしました」
 その様子をみて、びっくりした五十嵐は声をかけた。
「ひどく、むかついて、すっかり吐いてしまった。なあに、すぐなおりますよ。珍しく深飲みしたものですから……」
「おやもう十二時!」
 酔もさめたらしい山村は、こういって腰をあげた。五十嵐と伊東が引止めたが、やがて二人も立って山村を送った。
 玄関から丁度五間程の突きあたりに、書庫の小さな窓があり、そこからまだ久三がいると見えて、ほのかな灯が見えていた。
「おう、そうそう」
 山村は、台口におりかけて、一二歩書庫の方に行きかけたが、思い返したらしく、そのまま自分の爪皮のかかった足駄に、足を乗せた。
「おお、雪が止みましたな」
 戸の外でこういう山村の声が聞えた。

(二)豪華なる書庫の中で


 恵須取署から、署長以下馳けつけたが、雪の中の密室のこの殺人事件は幾多の謎を残したまま迷宮の中に入って行った。
 急報に接して二日路の本庁から久保田検事の一行が、犬橇を飛ばして到着した。そして一時捜査本部は新しい捜査に色めき立ったが、しかし依然として何んの得る所もなかった。ただ隣家の広瀬医師から一つの証言があった。
 それは、兇行のあった夜、広瀬氏が二時一寸前、急病患者で暗い廊下を診察室の方へ歩いて行くと、窓硝子ガラス越しに、ほんのり隣家の灯が見えていた。
「おや、今頃まで?」と一寸好奇心でカーテンをあげて見ると、書庫にまだカンカンと、灯がともっていた。
(ほう老人、やっているわい。だが、此の寒夜に……)と、その時は別に、不思議にも思わなかったが、診察室の鞄を取って引返して来ると、今度はその灯がスーと、何かに吸われる様に、薄らいでやがてふっと消えて終った。
 時間の正確な点も、玄関の柱時計が二時を打ち昔なら丑満うしみつ頃ってんですね、と云った、迎いの男の言葉に、丑満つ頃なんて、やに時代がかった事をいうじゃないか。出るかね、と広瀬氏が男の前に手を垂して見せて、冗談口をきき合ったので、よく記憶しているというのであった。
 その後、当の広瀬医師と、製紙工場の附属病院長の若尾氏の解剖で、死亡の時間も午前二時頃と推定された。
 捜査側では、容疑者として、その時分、当家にいた男達三人を訊問した。
 常、それから久三の遠い親類で雇人である、あさの二老女は、寝室は現場からは離れていたし、その時分は、起きもしなかった事が証明されたので、埒外らちがいに置かれ三人の男達、五十嵐、伊東、望月の訊問が続けられると、この三人は相前後して、当時カワヤに起きたと申し立て来た。
 五十嵐と、伊東は同じ室に寝ていて伊東は「五十嵐さんの帰って来る音で目を覚した」といっているし、一方五十嵐は、「伊東は自分の起きて行く前から、目を覚していた」と証言している。
 望月は望月で「自分の起きた時、書庫にまだ灯がついていて、帰って床に入ると、幽かな人の話し声と、重いドアの閉まる音がした」と申し立てている。その重いドアというのは、とりもなおさず書庫の扉の事で、誰かに嫌疑をかけようとしているらしい事が、うかがわれる。その点を検事が追究すると、
「その足音は男か女か分らないが、一人は太い声の男だった」
 と証言した。
 太い声の男……それは潮風にかれた伊東の声で五十嵐は、むしろ女に近い程、甲高かんだかい声であったし、被害者の早川は、ボソボソした声である。
 その点を伊東にくと、
「記憶していませんが、起きた事は事実です。だがドアには手もかけはいたしません。太い声……それは自分をさしたのだと、思いますが、床に入る迄は誰とも逢いません。まさか寝ぼけたのでもないでしょう……あるいは、おお寒い位の独り言はいったかも知れません、望月君も、他人の事をいうより、あの人こそ、誰にも判らず兇行の出来る所に、寝ているのですし、早川さんの死によって一番利益を受ける人ですからね」と、逆に望月を誹謗ひぼうしている。
 早川の老妻常も、
し主人が、亡くなった時は、長年家で働いてくれましたので、五千円程の退職金をやろうと思っていました」と証言しているし、又別に最近望月は、素行の点で可成かなり手ひどく、早川に叱責された事実があった。
 それは望月が、去年の秋ごろから遊びをおぼえ、年末の払いに窮し早川老人からの委託金を使い込み久三から解雇をいい渡された事であった。
「私が、主人の金を一寸、融通したのは事実ですが、それは三百円ばかりで、その金は近日友達から送って来る事になっています。五千円の退職金の事は、一二度聞かされた事はありますが、気まぐれな御主人の事ですから別に自分としては真に受けてはいませんでした。解雇の事は知りません。……主人の気まぐれを、気にして喜んだり、うらんだりする事になりますと、あの夜、家にいた五人の人は勿論もちろん、恵須取の人全部が兇行の動機を持つ事になるでしょう」と望月はそれをこの様に説明した。
 雪は十時頃やんで、屋敷の外の雪の中には、山村の帰って行った足跡しかついていなかった。
 書庫は丸太造りの頑丈なもので、その内側から※(「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37)カキガネカンヌキ)が下ろされていた。勿論、犯人の隠れる所も、ドア以外からは出られるすき一つなかった。
 署長の話が終ると、警部はため息をつきながら、
「こりゃあ、大変な事件ですね。一寸手におえないのではないかな……余程上手に、緻密に細工された殺人ですね。先ず、内側からカンヌキをかけて置いたなんてのは、どんな風な戸だか知りませんが、一筋縄では行かない奴ですよ。……さあ、では、現場を見せて頂きましょうか」
 二十分して、一行は早川家に着いた。
「ほう! これは……素晴しいものですね」
 田名網警部は、現場であるその書庫に一歩足を入れるなり、こう感嘆の声をあげた。
 旧樺太時代の丸太小屋を改造して書庫兼書斎にしたものであった。十畳位の広さで、内部には柾目まさめの通ったひのきの板を張り、保温のためその間には、木屑がつめられてあった。窓は防寒の二重戸になっていた。三方はほとんど書棚で、その中には、和、漢、洋の書物が、整然と整理され、分類されておさめられてあった。
 殊に素晴しいのはその什器じゅうきや調度で、全部マホガニーの、それも古いロマノフ朝風を模したものである。一方の天井から下った、タペストリーには、カザリン二世(十七世紀)頃のかおりがあり、死体のかけていた椅子などは、背部の木部の飾りに、ロマノフ廃朝の紋章が浮き彫され、銀の象眼が、なされていた。
 燭台や書類入れなども、中世紀のコーカサスの民芸品でもあろうか形といい色と云い、ほれぼれするものばかりだった。
 天井の中央から下げられた、その吊洋燈つりランプは、切子きりこ硝子で、シャンデリヤの様な豪華な姿を、人々の前に見せていた。そしてそれはツル草を模した金属製の黒光りした鎖で、あげさげする様になっていた。のぞいて見ると、六角のその油壺も切子硝子で作られていた。
 兇器に使われた火掻棒ひかきぼうまでに、唐草模様の象眼がされていた。
 カマチこわされた問題の扉は、厚さ二寸もあるカシの木で、縦に長く、巾三寸位の山形の彫んだ刻みが、一行ずつ、ちがたがいの切り込み模様がついていた。鍵は内側からのみ閉められる簡単なおとがね式の物で、そのカキガネは長さ約一尺、巾一寸五分、厚さ五分位の相当重い堅木で作られていてこれにも、アラベスクの象眼がされていた。一点をボールトで扉に固着し、上から框のL字形の留め金に落ちる様になっていた。それは軽く動き、留め金に落ちるとカーンと冴えた美しい音がした。
「早川って、評判は恐ろしく悪い男ですが、これで見ると相当、趣味の豊かな男だったんですね」
 警部は、検事や署長の説明を聞きながら、詳細に部屋の中を調べて、こういった。
 窓のすき間は、防寒のため目張りされストーブの四寸煙突は、外部に出るまで途中二回曲っていた。
「これじゃ、鼠でさえ通れませんね。ストーブだってこの通り、たき口にかけ金が、かかっていたのだからね」と久保田検事も苦笑しながらいった。
 田名網警部は一つの椅子に、じっと沈みながら自分の考えをまとめにかかった。
 この蟻もはいでるすきのない室内に、死体のあった場合。
(1)自殺又は過失死が考えられる。だが自分の後頭部をなぐりつけることは出来ない。過失死とするとあの重量の兇器では相当高さを必要とする。それは天井が余り低すぎる。
(2)犯人が部屋に入らないで惨劇を行ったとしたら。あのデレッキでは、他から飛道具のように使用することは出来ない。機械装置である一定の時間が来たら電気をバネで、または外から操作してそれを激動させる場合があるが、それには余りに空間がなさすぎるのでは。
(3)被害者が室外で要撃され室内に入ってから絶命する場合。家の外に出ていないのだから、一声出せば、皆んなにすぐ知れる筈だったがやはりあの場では不可能である。
(4)犯人が、あの扉のこわされるまで出ていかなかった場合は。この部屋のどこにもその様な隠れる場所はない。壁中、あの四人の目をかすめて、出て行けるものでもない。では、たった一つ、扉に機械的装置をして兇行後犯人は室外からそれを操作して、鍵をかける方法しか残っていないではないか。
 警部は立って、今度は強力レンズを借りて扉を調べて見たが、内にも外にもそんな操作をしたしるしも、共通の跡もなかった。
「久保田さん、外から、この錠をかけたまでは判ったのですが。どうして閉めたのか――どうしてこのカンヌキを外から落し得たか――これは私達の一枚上を行く、兇悪な奴ですね。久保田さん! こんな国境の近くに、これ程恐しい奴が居ようとは思いませんでした。今頃、そ奴はのうのうと僕達の無能ぶりをわらっているでしょうね」
 しばらくして、田名網警部は自ら沈黙を破って沈んだ声で久保田検事に話しかけた。
「いや、智者は智に倒れるということがあるよ。細工してあればある程きっと、どこかに破綻があるものですよ。“ながし”や変人の兇行でない限りはね」と久保田検事は口でそんな強がりをいったものの、やはり身動きも出来ない、厚いコオリの壁の中に、閉じ込められた思いだった。
「未亡人を呼んでもらいましょうか」
 田名網警部は古市署長に頼んだ。
 もう五十をいくつも越した――年よりもひどくふけて見える小柄な未亡人の常は、おどおどした態度で人々の前に立った。
「一、二お聞きしたく存じましてね」
 一通りのくやみをのべた後、警部はこう常にいった。「この間、お客さん達はご主人がお呼びした人ばかりだったでしょうね」
「ええ、そうでございます。……伊東さんはコオリのため船がまだ三四日出ませんのでそんな時は時々来て泊るのですが、今度も一昨日から私の所に泊っていました。そこに丁度高沢寺さんが見えられたものですから、今度の船で東京へ帰られる五十嵐さんの送別会を兼ねまして、何んですか、そんな事を皆さんがいい出して、一同でお食事を頂いたのでございますが……」
「山村さんは、始終おいでになります?」
「ええ、檀那寺だんなでらでございます。先代様とは碁や書籍の事でよく口争いをしましたり、仲直りをしたり、長い事でございました。大変“うま”が合っていたとでも申しましょうか、亡くなられる前の日まで遊びに来られていました。二三年前に亡くなられたのですが、若い時は相当学問をなすったのですが、こちらへ来られましても、ええ私達のきました次の年かに、岩国の方から、参られました。たくさんなご本をお持ちになりましてそれが……」
「それが?」
「ええあの……こんな事は、何んですけれども、今の常顕さんを大学にお出しになるのに、大変お金がいって、私共でお立替え申しました。その時大部分主人に、本や何かをお売りになったようです」
「……で、ご主人の蔵書の中に高沢寺の印のあるのが、沢山あるのですね」と警部はいったが、ふと話題を変えて、
「あの夜は雪が十時頃降り止んで出入りすると雪に足跡がつくのですけれどもあの通り山村さんの外家から出て行った者はないのです。で、犯人はあの時家の中に居た者と、みなされています。あの人達の中に、ご主人をうらんでいた者とか、ご主人が亡くなれば、利益の得られる様な立場にある人は誰でしょうか?」
「さあ……あさは主人の遠い親類で、最近孫娘を養子にしようかという話が出まして主人が亡くなれば一番に損をするのが、あさですから……」
「望月が、何か金の事で、ご主人に気まずかったとか、聞いていましたが?」
「ええ主人がなくなれば、五千円程の退職金をあげる事になっていましたが……まさか、望月さんがそれ位の金であんなだいそれた事をなさるとは思われません。でも、この正月に主人の金を少し使ったり印鑑を利用したりしましたので、たたき出すんだといって、松の内でしたけれど打ったりした事などもありました」
「ほう、打ったりね……」と警部は思わず顔をあげた。
「それに伊東さんや……何十年ぶりかでお会いした五十嵐さんにまで、ひどく不しつけな事をいいまして聞いていましてもはらはらする様な事が、再三ございました。その点で主人は……」とさすがに後は続けなかった。
 警部は一ぷくつけながら、
「あの夜書庫に、入られてから後はご主人は一度もお出になりませんでしたでしょうか?」
「ええ、出られなかったと思います」
「あなたはあの夜、書庫にはお入りになりませんでした?」
「入りませんでございます」
「ご主人が書庫に入ってからの事はお判りになりませんでしょうね?」
「ええ伊東さんが、一度入られましたがすぐ出て来られた様でした」
「入ったのは伊東さんだけでしょうか?」
「さあ……」と常は考えていたが「伊東さんが出られてからしばらくしてまた私が、その前を通りますとドアが細めに開いて中で話し声がしていました」
「ほう――それは誰でした?」
「はっきり判りませんでした……一人は主人でしたが……」
「ご主人の声に違いありませんでしたか?」
「え!」と常はびっくりして、そのとっぴな警部の問いに顔をあげたが、「ええドアが細目に開いていましたので誰かが出ていらっしゃるのだと思っていました」
「ほう、そして?」
「すぐまたドアが閉ったので、誰とも判りませんでした」
「どんな事をいっていられました」
「ドアが閉ったので、よく聞き取れませんでしたが……今思えば五十嵐さんの声でなかったかと思いますが……いいえ、はっきりした事はいえないのですけれども……そして私が台所に二、三分いまして座敷にもどりますと、皆さんが座っておられました。山村さんが青い顔してはばかりから帰って来られた所でした」
「それから、山村さんは、すぐ帰ったのですね?」
「はい、五分も経たないで……」
「いや有難うございました」といって警部は常を引き取らした。

(三)三人の男達


 常と入換いれかわりに、あさが呼ばれた。
 もう六十を幾つか越した――よく植民地にみる浮世の苦を、なめつくした感じの、然しまだしんにはどっか強そうな所のある、この老婆は、警察のおそろしい旦那方の前で、小さくなって何を聞いてもおどおどして自分の思っている事の半分も、口に出せなかった。
 然し警部は皆の聞きのがしていた二三の点をあきらかにする事が出来た。
 それはあの日、あさが書庫に、運んだまきの量と、何時頃、ストーブに火が入れられたかという事、ランプの石油がその油壺に充分に入れられてあったという事なのであった。
 あさ婆さんが去ってしまうと、
「うむ……」とため息して警部は頭をふった。
「何かありましたか?」と署長が聞いた。
「何んにもない」と警部はそっけなく言ったが、今度は検事に向って「久保田さん、指紋の分類は出来ましたね?」
「ああ、やらしておいたが、警視庁の鑑識課みたいには行かんよ。ご期待にそうかどうか」
「いややって頂けば結構です。あとで署に帰って拝見しましょう……次に伊東でも訊問しようか……一寸呼んでくれませんか」
 伊東は四角なあごの張ったマユの濃い潮焼しおやけのした、四十台の体のがっしりした、みるからに船乗りらしい男であった。きちんとしたダブルの制服をつけていた。
「伊東……憲助です」
「いや……警視庁の田名網です……早川氏の殺害の犯人が、まだあがらないのであなたにもご協力願いいと思いましてね」
「はあ私で出来ます事なら……」
「あの夜二時頃、皆んなが皆んな小用に起きたといっているが、その前にたとえば君は、異様な音で目を覚ましたというような事はなかったでしょうか?」
「いいえ、別に」と彼はけげんそうに警部をみた。
 警部はなおも続けて、
「あなたが便所に起きた時、書庫の灯はついていたでしょうか?」
「さあ……望月君は、ついていたといっていますが私は記憶ないのです」と伊東は考え考え答えた。
「あの夜あなたは早川さんと、いい争いなすったそうですね」と警部はずばりといって彼の顔をみ据えた。彼は二三度まぶしそうに、またたきしたがすぐ顔をふせてしまった。暗い影がその赤黒い顔をさっと走り通った。
「書庫であなたは何か早川にいっていたそうだがね。その内容を知りたいんですよ」
「それは……」と彼はいって、あとをいい淀み暫く考えている風だったが「私は早川さんから、色々なものを頼まれて買って来たり早川さんの集めたものを、買ってあげたりしていましたが、最近になって、一寸まとまった金が、必要だったものですから会社の金を少し使い込んだのです。それがこの三月にひょっとすると船が換るかも知れませんので、早川さんに一時の融通を頼んでいたのです。が拒絶されその上私が前に、お借りしていた千円ばかりの金も、すぐ返済しろというのです。私と、早川さんの中で、千円や二千円の金の事はどうでもないと思っていました。相当の事を私は早川さんにやってきたつもりです。それにかかわらず、すぐ返済しなければ私の事を会社に密告すると、いい出したものですからついかっとなって……」
「デレッキをつかんだ!」
「え! とんでもないです。それや早川さんの死ぬ事は、誰だって願っていますが……本当に、誰かくびしめる人があれば足位引っぱって手伝いするでしょうが……」と彼は苦っぽく笑った。
「じゃ誰が殺した?」
「…………」
「望月は夜中に君が、あのドアから出て来たといっているんだがね」
「そ、それは望月君が何かためにする事があっての証言ではないんですか?」
「だって君は会社の金を使い込んだという外、よからぬ商売をやっているんだろう。密輸入品を……魔薬のような……」
「…………」
「それを知っている早川を君はこの際、沈黙させるには良い機会ではないかね。望月にも相当な動機はあるし、五十嵐だってあの夜早川と争いをやっている。夜中に君は目を覚した、まだ一人書庫に早川は起きている。何気なく入って来て一撃する。それから出て――そしてどうして君はこの鍵をかけたんだい?」
 伊東はびっくりしたように、体をふるわしたが、みるみる恐怖がその顔一ぱいにみなぎって膝においた手がはたはたとなる程ふるえていた。口は半ば開いて目はかっとみ開いて空間の一点をみつめていたが、やがてゆっくり、それは丁度助けを求めるもののように順々に人の顔をみ廻した。
「――それにね伊東! 君の書いた三千円の……早川さんにやった借用証がなくなっているんだよ」
「…………」
「金の外は……もし期日までに返せない時は君は何か相当なものを引換えにする条件だったね……その証書はどうした?」
「焼きました」
 といった彼の語調には何かしら観念したもののひびきがあった。
「そうだろうな」
 警部はそういって煙草の一本をつまみ出した。彼もふてぶてしい態度で肩を張りながら自分もポケットから煙草を出してパイプにつめ火をつけた。じっと煙の中からそれをみていた警部は、いまいましそうに顔をゆがめると、
「君にも嫌疑がかかっている。暫くは外出は禁じますからね。一切出張の係官の指示にしたがってくれ給え、船の方へは僕の方から通知しておくよ」
 そういってひきとらした。
 伊東が出て行って終うと警部は、
「一筋縄では行かない連中ばかりだ」とはき出すようにつぶやいた。
「証書ってどうして、なくなった証書の事が判ったのかね」
 久保田検事はMCCを一本抜きながら聞いた。
「あああれですか、なあに、これですよ」
 そういって警部はあの夜現場の卓の上にあった大型の、早川が売却本の目録を書きかけていたフールスカップを、書類の下から引っぱり出して拡げた。
「ほれ、ここに鉛筆で、無駄書きをした所がありましょう。¥3.000.00 ¥3.000.00と二つ三つありますね」
「何か本の代価ではない?」
「僕も初めはそう考えたのです。下に POSER と、英語で乱棒に、書いてあります。これは伊東と話しながら無意識に書いたんです。調べてみると早川にはそんな癖があるんですね――で、僕は三千円を伊東に貸したか、又は貸すというのか、判らないがあの夜、二人の中に三千円が問題になっていたと想像したのです。それがあの文庫の中をみて了解したのですよ二、三証書を入れた封筒が入っていましてね。只の封筒でしたが――その中に(伊東¥3.000.00三月末)と書いてあるのがあって、中身はなかった。伊東と話中早川はそれを出して彼に見せたのだろうね。そして文庫に入れる時封筒に入れずに一番上に乗せておいた。次の日、ドアを破って入った時、人々の気の転倒しているすきに、伊東は手早く処理したという訳さ。彼は千円といってはいたがね」
「なら、どうして殺した時、盗らなかったのかね」
「誰が?」
「誰がって伊東がさ!」
「あっははは、伊東は犯人じゃないよ。少くとも今の所はね」
「え! じゃなぜ、あんな事を伊東にいったんだい」
「今の所、伊東にも外の者にも彼に嫌疑をかけていると思わせておき度かったからですよ」
「へえ……」と署長はいったが納得の行かない顔で「じゃ君は、証書は見ないんでしょう?」
「そりゃ見ないよ」
「じゃ三千円の金額は良いとして、交換条件に……」
「あっははは、あれかい? あれは山勘さ、どうせ早川の様な男だ、只で三千円は貸さんからね。あははは」

        ×         ×         ×

 五十嵐の場合は――
 伊東の話では、彼自身は、五十嵐の帰って来た音で、目を覚したといっているが、五十嵐の陳述では伊東は、その前から起きていたのだといっている。争いした事も金の事で「自分をわざわざ東京からいそがしい中を呼んでおいて、今になって売らんの金高が合わないのといい出しましたのです。私にすれば百冊の本より、久三さんの持っていた土佐光行の『極楽寺縁起』が欲しかったのです。それに、昔の事までいい立てられましたので……」というのだった。
「伊東さんの便所から帰ったのは知っています。然しその間の時間は三分のものやら三十分のものやら、一ねむりしたらしいので判りません」
「一番最後に、あの書庫に入ったのは、山村さんだろうと思います」と述べている。
 いつの間にか、日は暮れて、洋燈ランプに火が入れられていた。人々は疲れあぐんだていで煙草だけを、やけにあげていた。
 五十嵐の訊問が終ると、田名網警部はやっと腰をあげた。それから伊東、五十嵐のいる部屋を一応みて、望月の部屋に入った。そして暫く調べていたが、ふと警部は和服の一人に、
「さっき望月はオーバーを着て行ったろうね」と聞いた。
「いいえ、着て行きませんでした。暖かったし急いでいましたので」
「え! 着て行かなかった? うむ」と警部は何か考えていたが、急に勝手元の方にずかずかと入って行って、夕食の支度をしていたあさに、
「望月はオーバーをどうしたか知りませんか?」と聞いた。
「あ、望月さんのオーバー、あの旦那さんの、なくなられた朝、洗濯屋に出しましたよ」
「洗濯に――ね、あささん、その時、その時望月はオーバーだけだったの?」
「いいえ寝巻も出しました」
「ほう! 寝巻も!」と警部は思わず声を大きくした。
 警部はこの真冬の樺太で、一枚しかないオーバーをなぜ望月は、しかも事件のあった朝急いで洗濯に出したか疑問を抱いた。警部は早川の家を出て洗濯屋に廻ってみたが、そのオーバーも寝巻も、もはや洗濯終ってアイロンの仕上にかかっていた。
「何か変った点が、なかったろうか?」と警部は聞いてみたが、洗濯屋は、気の毒そうに頭をふるだけだった。

(四)ランプは誰が消した


「おお、これはこれは」
 そういって、山村常顕は自分から玄関に出て警部を招じ入れた。
「さっそくですが、あの早川さんの事件で、あなたに御助言頂こうと思いまして。……あなたの見られた最近の早川さんの事など、お話し頂けないでしょうか?」
 一通りの挨拶を交し、樺太の生活から、東京の話などで暫く時を過した後、警部はこういって切り出した。
「早川さんはあの通りの書籍マニヤで……何しろ、樺太もこんな北になりますと、見るもの聴くものとては何もなく、半年以上は雪の中なものですから、まあ船の着く度に注文した本の着くのが、楽しみ位なものでしてね。私などもご覧の通りもう雑書を……」と山村は、後の書棚をふり返った。そこには大きな本棚がならんでいて、仏典の外に歴史や、古文書に関したもの、泉鏡花や森おう外の[#「森おう外の」はママ]全集さては外国のシリーズ物らしい本が、背の美しい金文字と飾りをあわいランプの灯の中に浮かしていた。
「ほう、大変なもので……」とやはり、人並以上に本の好きな、田名網警部は、心からうらやましそうに合づちを打った。本当に、本を愛する者でなければ、あのズラリとならんだあの美しい装丁の感覚にはとらわれない。殊にこうしたヘンピの地ではそれは唯一の楽しみであったであろう。
「父は若い時から、相当和本類を集めていまして、その血が、私につながって来たのでしょう。私もごらんの通りの本好きでして……」
 とふと彼は笑ったが「父の蔵書は私の遊学中、早川さんに大部分お譲りしていました」と声を落した。
「そうですってね。……今度の事件があったからではないんですがそんな事で御先代と早川さんの間に、何か問題でもあったような事……まあそんな事は、あなたにお聞きするのも変なことですが……」
「さあ別に……父は、中には大変おしがっていたものもありましたが……」
「今度早川さんが蔵書を、手放しするということでしたが、高沢寺の社印のあるものまで散いつするのはおしいですね」
「ええ、父のものもですが、爺さん時代、いやまだその前のものもあったので。父の残して行きました目録を見ますと……」
「ほう、そんなお古い……その御記録を今でも御保存なすっていられますか?」
「ええございます。時々見ては夢をおっているわけでして……」と彼は淋しく笑いながら立ってその目録を持ってきた。和綴わとじの十二三枚の紙のもので表紙には、僧に似ない行成ゆきなり流の、しなやかな筆で「寺宝及承伝書籍目録」高沢寺と書かれてあった。警部は手に取って、頁をくったが殆ど漢籍と仏典で二、三物語りらしい物の名や、写本の類も記されてあった。その中に一行その行の上から、紙のはった跡があり墨で消してはあったが注意して見ると「大和・極楽寺縁起」と読めた。
「いやたいした物です。時価にしたら大変でしょう」
「ええ中には、日本に二、三冊しかない宋版の仏典の残欠本なんかありますので何んとかしてそれだけでもお返し頂くようお話ししていたんですが、何しろこんな貧乏寺でございまして」とさすがに声を落した。
 暫く二人の間に話がとだえた。「あの早川さんがなくなって……一寸困った事に、あの人の生きておられた一番最後にお会いなすったのが、あなただというのですがその時の事をお話し願えないでしょうか?」
 暫くして警部はこう聞いた。
「あの書庫で、なくなられましたそうで。夜中だったそうですが、私はなにしろそれから二時間前に失礼さして頂きましたので……あの人は例の通り、気むずかしい皮肉を言ったりしてみなさんを困らしておられました。私などにも、けんもほろろの挨拶でした」
「あなたの書庫に入られたのは何時ごろでしょうか?」
「いつごろと言いますと?」
「あなたが御気分が悪いとおっしゃって便所へおいでになった前でしたでしょうか、それともその後」
「その少し前です」と彼はけげんな顔をして答えた。
「そうですかその時、あのテーブルの上に文庫が出て居たのですが、あなたは御存知でしたか?」
「さて……」と山村は考えるように暫くランプのしんを見つめていたが「さあ……そう言われると……いやなかったのではありませんか?」
 と、チラと警部の顔に視線をもどしながら「文庫がどうかなさいましたか?」と聞いた。
「実はその文庫が一寸問題になりましてね」
「え! 文庫が! どんな?」
「何あにあの中からなくなったものがありましてね」
「え! なくなった物! と言いますと」
 山村の茶わん持つ手が幽かにふるえた。
「証書ですよ。貸借の」
「そうですか」と言った彼は、又静かな前に返って新しいお茶を入れかえてくれた。その茶をすすり終ると警部は、
「いや長い事おじゃま致しまして色々とありがとう存じました」と言って立ちあがった。彼は長い影法師を引いて送って出た。

 署に帰った田名網警部は、人々の訊問から得た事の総てを例のように、紙に箇条書きにしながら、一つ一つ分類し解剖して行った。その表には五十からの項目が書かれてあった。
 事実、疑問、嫌疑、指紋を分け更に個人別にし、そして動機、行動、情況、証言、性行など、それは一つの心理学の表に似ていた。一見しただけでは他人にはてんで判りはしないが、警部にはその仕事は楽しかった。そしてそれによって追い出しをして行けば残るもの、それは犯人のすがたのアウトラインだったからだった。
 警部はその表を幾度も読み直しながら小さな字で数字を、略図を幾回か書き足して行った、そして探究して見た――と、一つの事に警部は行きあたった。それはランプは、あの夜と、今でも同じ高さにあった。とすると灯は、あの高さのままで、消された事になる。だがその下には踏み台にする椅子も机もなかったではないか。では台なしであの高さの灯を消し得る者――それは五尺七八寸の丈のものでなければならない。然し容疑者の望月も伊東も五十嵐も又山村だっても五尺五寸以上ではなかった。ではどんな方法であの灯を消したろう? 何か、器物を使ったのであろうか? 犯人が消したのに違いないのだが――
 警部は暗い心で一応その問題をうち切った。そしてその灯を全然無視してあの惨劇を組み立てて見た。すると一つの可能が見え出された――だが灯の消されたのは、捨て去る事の出来ない事実である。
 警部は望月を出してもらって訊問したが、やはり新しい事実を聞き出す事は出来なかった。疑問を持ったオーバーや寝巻の件も、あの惨劇の午前中早川に便所の掃除を命ぜられ寒さに、石のように堅くなった糞尿を金テコでたたき割って運んだため、それが体中にとび散って、その為に洗濯に出したというのである。寝巻も長い事着放しにしていたので一緒に出したまでだ。というのであった。
 早川家に聞き合せると掃除の件は日時も符合していたし、若し血液があったとしても、このような田舎では洗濯して終ったそれから血痕の有無を証明する事はとうてい出来る事ではなかった。
「どうでした、ほしが少しはついた?」
 そう言って久保田検事が入って来た。
「いや」と警部は物うさそうに頭をふりながら検事の出したケースに手を出して一本抜きながら、
「今の所誰も彼も動機もあり機会もあったんですが、物的証拠というものは一つもないのですよ。そりゃあ無理に数えあげれば引っぱる理由もつきますが、それが皆んな情況証拠ばかりで……兇行と同時にランプを消した、というのも、見方によってはひどくち密な様でもあり、又ひどく大胆ないや、むしろ投げやりな所があるのです」と言いながら、体を起して淋しそうに検事の眼をのぞき込みながら「ね久保田さん、寒い所には――雪のふる夜には雪女って妖怪が出るそうですね。この殺人もそんな奴等の仕業かも知れませんよ」
 検事は警部を見ていたが、だまって立ってそして出て行った。警部は半ばうつろな目でそれを見送っていたが、やがて目をつむると思索の中に落ち込んで行った。
 灰が火の消えた煙草から、ぼとりと警部の膝の上に落ちた。
 二十分。三十分。そして一時間。
 警部の顔には苦悶の色がだんだん濃くなって行った。
 一時間半ばかりして、ぽっかりと目を開いた警部はポケットからスコッチの銀製の入物を出して、蓋にしている小さなカップで二つ三つ続けさまに飲んだ。
 ぼっと赤味がその顔にさして来た。
 警部は呼鈴をならして、あの日現場の外を見廻って、その外部の状況報告を書いた巡査を呼んでもらった。非番であったか、和服の上から外套がいとうを羽織ってその若い巡査はすぐやってきた。
「お休みの所を……このね、君の報告にある事で思い出したんですがね……外廻りの事項の中に、あの現場の煙筒に薄く雪が積ってあった、とありますがこれは間違いではないでしょうね」
「ええ」と巡査はその報告書を手に取って見ていたが「は、絶対に相違ありません」
「じゃ雪はあの夜十時過ぎにやんだ筈だが又ふったのですね」
「ええそうです」
「幾時ごろだろう? それを知り度いのですがね」
「はああの雪は、一時三十分ごろから、又少しふり出して約十分位でやみました。その後は月が出たと思っています」
「え! 一時半ごろ! それは……だが君はその時間を正確に証明してくれる事が出来る?」
「ええ出来ると思います。その巡ら日記にも記入したようにも思っています……ああ何んなら念のため入港中の船の当直日記でもご覧いただいたらと思いますが」
「いや有難う」
 警部はそう言って巡ら日記を取り寄せる一方、こおりで港に入ったままでいる二隻の船に問い合せの手紙を書いた。
 三十分もするとその返事がきてそれには二つとも、
「一時二十五分より三十七分迄薄く降雪あり」と明記されてあった。
 警部の顔にはうれしさが、こみあげてきた。やっと一つの糸口を見つける事が出来た。警部は苦労がむくいられる気がした。
 警部は早川家に電話をかけて、あの夜伊東、五十嵐、望月三人のうちの誰が洋服でいたかを出向いている刑事にたしかめさせた。洋服を着ていたのは伊東だけだった。
 警部は満足して山の社宅に帰った。そして会社の試験室に電話をかけてあの夜の最低温度を記録の中から捜してもらった。幾つものその表を見ながら、予期した数字を知り得た警部は今度は妙な事をはじめた。防寒具を念入りに着こんで、火の気を断った、会社の試験室に、泊り込みに出かけた。そしてチビリチビリと洋酒の杯をなめながら、ランプと時計とをにらめていた。
 そして彼の得たもの――
 それはあの夜、現場のランプには誰も手を触れやしなかった――いい換えれば、ランプを消した者は――誰もいなかった。という事実であった。

(五)雪


 次の日はよく晴れた、そして暖い日だった。
 珍しく軒から、雪融けの水が、シズクになって、氷柱つららを伝って、ぽたぽたと落ちていた。
 警部は署に電話をかけておいて犬ゾリで町へ下った。
 ソリが、丸太造りの、階段のある旧式な建物の、警察署の前に止まると、警部は待ち切れないように、ソリからとび下りたが、
「うはあ、はははつめたい!」と悲鳴をあげて首をちぢめた。シズクがいきなり警部の首筋を叩いたのだった。
「どうしました?」
 古市署長が立って来て訊いた。
「いや、どうも驚いた」
 今日ばかりはさすがに窓も開け放しているが、いきなり入って行った警部の目には、真暗で、暫くは、何も見えなかった。
「お電話、ありがとう」
 検事もいった。暗がりでまごまごして、警部は立ちすくんでいたが、目がなれると暖炉を囲んだ人々の顔が、見えた。
「いや、どうも、一寸考えついた事がありましてね。いやはや他国者にはなかなか判らん……寒い所には、寒さのためにこんがらがるものが、あるんですな」
 そういって警部はすすめられた椅子に、腰をおろした。そして手を暖めながら、寒さに強ばった顔をごしごしとこすった。
 暖い陽ざしが、窓から一ぱいに入り込んで、くすんだ埃っぽい庁舎も、今日ばかりは、まるで花束でもほうり込んだように、生々した光がはね返りあふれていた。半年雪の中にいる人々には、この時たまの太陽のおとずれは何よりもうれしかった。
「寒いのでこんがらがるって?」
「え、それで、とんでもない罪を作ったものですよ」と警部はふと広瀬医師の方を向いて「ああ、先生、先日は失礼しました」
「あっははは、広瀬先生はさっきからいられるよ」
「解決が、つかったようで……」と広瀬医師はいった。
「ええ」と警部はふくみ笑いしながら、テーブルの上に一枚の大きな紙を出し、いつもの癖で、それに短く要領を、書きながら、寒夜の殺人事件の真相の説明を始めて行った。
「先ず、あの夜、早川の家に寝泊りしていた三人の男達の外に容疑者として、新しく一人の男が、浮びあがったという事です」
「え! 誰です。それは?」
「高沢寺のお上人……山村常顕師ですよ」
「山村ですって!」と検事はいったが、「だって君、山村の帰った時はまだ早川は生きていたよ」
「ええ、生きていた……と思われていました。生きていたというのは、只状況からの推定で、それを研究するものは、何もないのです今迄は」
「だってランプは、二時までついていた。ね広瀬先生?」と検事は、広瀬氏をかえり見て訊いた。
「え! 二時まではついていました」
「ランプの消えたのは、二時でしたが、然しそれは、何も早川の生きていた証明には、ならないのです。私はあの灯の消えたのと、早川の死は、別々に考えるべきだと思ったのです」
「だって君、じゃランプは誰が消した! 犯人が、あの灯を消したのだよ。いや犯人でなくとも、その時誰かが、被害者以外に、あの部屋にいた」
「所が、ランプを消した者は、いなかったのです」
「え! 何ですって? 消した者がいない!」
 と検事は、思わず叫んだが、すぐ「莫迦ばかな」とつぶやいた。
「では、どうして?」と今度は署長が質問した。
「独りで、消えたんですよ」
 その唐突さに人々はぼう然として、警部を見守った。
「風が消したか? “隙間風すきまかぜ、人を殺す”って北露西亜ロシヤことわざがあるからね」
 久保田検事が皮肉って、顔をゆがめた。
「あれは、すうと、誰かの手で一度心を降ろしておいて、ふっと消したのでしたよ」と医師も口を添えた。
「ええそうでしたね……私もそう思っていました。そしてその事にのみ囚われて、失敗していました。あの犯罪の構図を組立てようと、かかったのですが、あの灯のためにどうしても大きなそごが出来てしようがないのです。で今一度、出発点に戻して見て……あのランプの灯がなかったとして、考えて見たのです。すると朧気おぼろげながら、あの兇行の時間に、一つの一致を見る事が出来たのです。だが灯の消えたのは事実です……けれどもあれは消したのではなく、消えたのです。私はあのランプは自然に消えたものと、断定したのです」
「だって君、あのランプには、まだ石油が、半分も残っていたし、風だって何処からも入る所はなかったぜ」
 検事は警部の言葉を反駁はんばくした。
「そうです。油も残っていました。だが、ランプの消える原因を、あげて見ましょう」
 警部は静かにそういって、手元の紙に、
 ア、油のなくなった時と書いて、
「これは絶対です。次に……」
 イ、吹き消した時。(風も)
 ウ、シンを圧した時。
 エ、シンを口金より下にさげた時。
 オ、急激な震動を与えた時。
 カ、酸素をたった時。(水をかけた時も)
「これだけあります。その外には……」
 警部はそういって「キ」と書き添えた。
「あ! それから石油の凍った時です」
 一人の若い巡査がぽっつりといった。
「そう、そうです。そうですよ。油の凍った時も、やはり消えるのです。あの広瀬先生のご覧になった深夜の二時、あのランプは寒さのために、石油が凍ってそして消えたのです。私より長年樺太で生活していられる皆さんが、石油が凍ってランプの消える時の状況はどんな風かよく知っていられると思います。広瀬先生のご覧になった通りですね」
「うむ、あの夜は寒かった」
「そうです。記録は、戸外では零下三十六度を下廻っている筈です。余りに有りふれた事なので、かえって樺太住いの皆さんには、気が付かれなかったのです。私は、あのシンの出されたまま、黒くもえ切っているのを見て不思議に思ったのです。そしてその原因を調べて見て、あのようにシンの黒くなって燃え切るには、二つの原因しか、ない事を知りました。
 一つは、油のなくなった時。今一つは油の凍った時です。が油はあの通り残っていました。では石油の凍った時しかなくなります。では石油が凍るには、どの位の寒さが必要でしょう。私は、あの部屋の状態から帰納して、あのランプは二時に消されたと断定したのです。そしてそれから逆算して、私はあの部屋のストーブは、もう長い事、火が消えていたと推定したのです。そう考えて来るといくら用があったかも知れないが早川が病身で、二時間も、三時間も零下二十度近くも下ったであろう、あの深夜の部屋にいた事の、不合理に気がつきました。でいい換えると、早川はランプの消える前、すでに死んでいたと結論したのです」
「……そのストーブの燃えていなかった事を、証明する事実があります。すくなくとも十二時頃にはもう灯は消えていたのです。それはあの日、あさ婆さんの運んで置いた薪の量と、残っていた数から帰納して、燃えていた時間を引いて見ると、その答えが出て来たのです。
 それは、被害者が、もう書庫を出ようとして、薪を入れなかったものだと、私は思うのです。そして有難い事には、それを裏書きしてくれる事実があった事です。それはこの報告です」
 警部は、あの日の外廻りの状況報告書を皆の前に拡げた。
「煙筒に薄雪がありました。あの日の雪は、十時すぎに一度止んで又一時半頃にうっすら降っています。その薄雪が、煙筒の上に消えずに残っていたという事は……その煙筒が完全に、その時は冷え切っていたという事なのです。尠くとも一時間以上前から、火の気がなかったと、見るべきではないでしょうか。で、私はそれ等から演繹えんえきして、あの惨劇は、十二時前後に、行われたものなりと断定するのです。
 としますとそこに、今迄完全に不在証明のあったと、信じられていた山村常顕もまた、犯人の一人として、浮び上って来るではありませんか」
「なる程」と検事は、組んだ手を解いて、体をのり出した。「だが広瀬さんは、報告書に、死亡時刻を二時前後と推定していられる」
「そうです。その点で私は、かなり苦しんだのです。が……専門の先生を前にして、私如き素人が、こんな事をいうのは先生方に対して、失礼でもあるんですが……私はあの先生の書かれた推定時間は間違いではなかったかと思うのです。尠くとも絶対的なものではないのではなかろうか、と、思うのです。この死亡時刻に関しては、非常に熟練された専門の法医学者でも、時には間違いを起すものなのです、いやこれは、先生には失礼ですけれども……良い例は、皆様もご存じの通り、去年の夏東京の千住であった。あの五味達の醤油屋殺しです。あの時は帝大の法医学教室の、宮永博士が解剖されたのですが、……勿論夏の事で死体の変化は、急激だったとはいいながら、十六の少年と五十才の老人とを、誤認して報告され私達の捜査陣に、ひどい混乱を来たさせました。専門医に於て、そうなのです。先生の前ですが……」といって警部は広瀬医師を見た。
「いやいや、それは田名網さんのおっしゃるのが本当かも知れません。私にしろ、若尾君にしろ、法医学的な解剖なんてものは、長い事やった事はなく、そうした誤謬ごびゅうはないとはいい切れませんよ」
 広瀬医師は、屈託なしに、素直にそれを認めた。
「では、なぜ先生方はそんな大きな誤謬をなさったのであろうか? それは午前二時迄ランプが、ついていたという、先入主が、無意識に働いていたのではないでしょうか?……で惨劇が十二時前後とすると、私の表の中で残ったもの、それは山村でした。山村は十二時一寸前に、早川と会っています。そしてそれが、被害者の生きている所を見た者の最初です[#「最初です」はママ]。山村はひどく青い顔をして、カワヤから帰って来たと皆は証言しています。本人にいわせると、悪酔いしてもどしたからだと、いっていますがいくら僧侶でも一人、かも知人をあやめたのでは、常態ではいられなかったと思います。
 彼は帰りぎわに、玄関に出ながら、一寸書庫の方に、もどりかけたといわれていますね。それも、私から解決すれば、山村の芝居……悪るくいえば、彼の悪らつなこまかな技巧ですよ。でなければ自分の細工したあの書庫のドア……ドアの事は、後で説明いたしましょう……の状態をたしかめたかったからではないだろうか? 僕はそう解釈しているのです。では、動機は?
 ……それは一つの本、それとうらみです。私は山村を訪問して、先代からのという、古い蔵書の目録を見せてもらいました。大部分は金のかたに、早川の所有になっていますが、あの中には宋版の仏典のような、貴重なものもありましたが、それよりも私はたいした物を、その中で見てしまいました。それは墨で消されてはありましたが大和の国の“極楽寺縁起”の一巻です。それは後醍ごだいご帝の[#「後醍ご帝の」はママ]御しん筆の御歌があり、詞は花山院大納言師賢かざんいんだいなごんもろかたです。
 そして絵は土佐光行です。私はこれを五十嵐に就いてたしかめました。彼もこれがあったので樺太まで来たのだといっています。
 日本には唯一つしか残っていない、馬越まこし翁の所蔵の残欠の一巻なのです。国宝以上のものなのです。この一巻が、この殺人事件の、直接動機なのです。ここに早川の作った目録があります。高沢寺本と書いた所には、この巻物の名はありませんが、ここの欄外に、書名だけ『極楽寺縁起』とあるので、私はこれも早川の所にあったが、これは正式に早川の所有には、なっていなかったものだと断定しました。買ったものではなく、預るか借りるかしてあったのだが、山村の先代が死んで、それなりになっていたのでしょう、勿論山村は再三、その返還を迫ったのでしょうが、早川は返さなかった。その内蔵書の一切を明日にでも、手放しするかも知れない状態になって来た。事態は切迫して来たのです。あの夜、最後の交渉を山村は、あの書庫でしたのでしょう。
 五十嵐も、伊東も、その前に、早川と争をしているので、再び書庫には入って来ない。家人も、めったに入って来ない事を、山村はよく知っていました。そしてその一巻を、彼は懐にして帰ったのです。
 私は彼を訪ねた時、
『文庫を見なかったか?』と質問して見ました。彼は一寸考えていましたが『文庫はテーブルの上にはなかった』と答えた事から彼が犯人だろうと推理したのです。私は帰って来て、彼の言葉を解剖して見ました。
 彼はなぜ、嘘をいったのであろう?
 彼はあの中から、問題の一巻を盗って来たからです。その事がとっさに、彼を混乱の中に落し入れ彼のまだ残っている良心が、恐怖にぬりつぶされて、その嘘をいわせたのです。その文庫の中から、伊東も自分の証書を盗ったのですが文庫には山村の指紋があり、それにかさなって、伊東の指紋も検出されました」
「……犯人は山村なりと、情況証拠は総て彼を指しているのに、一つ、どうしてあの密閉された室から彼が出たか……又は、どうして外から、あのカケガイをおろしたか、の一点で、私は苦しんだのです。恐しい奴ですね、だがコロンブスの卵ではないが、判って見れば、子供だましのような、いや、これも子供の悪戯いたずらから教えられたのですが、悪戯もそう莫迦には出来ないかも知れませんが……ほらごらんなさい!」そういって、警部は窓の外を指した。人々が立ってのぞいた。
 明るい陽ざしの中で、子供達が雪合戦に夢中になっていた。それ弾が幾つも、署のはめ板にぶつかって、白いコブを作っていた。先きのものは、融けかかって、そしてやがて落ちその跡は只黒いしみになっていた。
「検事、あれなのです。あの雪つぶてなのです」
「うむ」と検事はうなった。
「私も、昨日あの子供達の雪つぶてを見る迄は、気が付かなかったのです。
 ドアの外からカケガネをかけて痕跡を残さない方法……その可能には、何かの小説にあったピンと糸との操作があります。ピンでカケガネを止めておいて、外から糸を引いてピンを抜き取る方法です。だがあのドアはその痕跡は、ありませんでした。
 山村は兇行後、すぐ、それを発見される危険に、ほう着しました。どうかしてドアが開かない様にしなければ、ならない、うまくやれば、それでアリバイが作れるかも知れないと、気が付きました。彼はさすがに、寒い所で育った者です。カケガネは只落ちさえすれば、良いのです。彼は雪の粘着力を利用する事に、気が付きました。雪は手近にあります。彼は大急ぎで書庫を出てカワヤの手洗いにある雪を取った跡が残る、危険があります。落し金を半開きの状態に置き雪をドアに打ち付けて、それにツバを支えらせました。その時まだ部屋の中は、ぬくもっていました。雪は一分間もするとドアの面から融けはじめ、やがて雪自身の重みで、下に落ち、カケガイがかかり落ちた雪は完全に消えて終いました。その『雪』と考えつけなかった所に寒さや雪になじみの尠い僕の暖国生れの悲しさがありました。若し雪が消えずにドアの下に落ちていたにしても、この樺太の冬です僅な雪は見すごされて終ったでしょう。
 ……とまでは、完全だったのですが、彼は一つのミスをして行きました。雪を掴んだ手を、綺麗に拭く暇はなかった。ぬれたままの手で、彼は外を伺いながら静かに後手に閉めました。その逆の第二指と、第三指のあとがノッブの裏側に、ついていたのです。
「早川は、稀代の本好きだったのです。外国ではビブリオマニアといっています。大槻文彦博士は『珍書顛家』と訳をつけています。こんな人には金よりも、宝石よりも、本が大きな魅力なのです。古今東西に、幾多の犯罪が、殺人までが、それのために、なされて来たのです。被害者の早川がマニアの所に持って来て、山村もまた輪をかけたマニアです。そこにこの悲劇の出発点があったのです。恐ろしいものは、軌道を外した、マニアまで行った人達の心情です。
 最後にあのデレッキに指紋のなかった事です。僕ははじめ、犯人は手袋をしてたと思っていたのですが、あれは前から用意された殺人ではなくとっさの兇行です。偶然手袋を、持っていたとすれば、洋服の男だと推定しました。それは手袋というものは、外套か、でなければ、服のポケットに、入れておくのが普通だからです。洋服の男、それは伊東だけでした。だが彼の手袋は真新しいもので、そこには何んの痕跡もありませんでした。まさか犯人は、特別に何か布を用意したのでもないでしょう。
 さすがは、山村は僧侶だけあって、あの長い衣のソデで包んで、一撃しているのです。それが忍従の僧侶であるだけ、私の断定に違った一つの盲点だったのです。
 雪の夜からはじまって、雪でこの事件も、終りました。犯罪にもローカルカラー(地方色)が色濃く出るものですね。寒い所には、また寒さを利用した、恐しい犯罪があるものですね」





底本:「探偵小説アンソロジー 甦る名探偵」光文社文庫、光文社
   2014(平成26)年10月20日初版1刷発行
底本の親本:「探偵新聞」
   1948(昭和23)年5月5日号、5月15日号、5月25日号、6月5日号、6月15日号
初出:「探偵新聞」
   1948(昭和23)年5月5日号、5月15日号、5月25日号、6月5日号、6月15日号
※「丑満うしみつ頃」と「丑満つ頃」の混在は、底本通りです。
入力:sogo
校正:雪森
2017年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード