生い立ちの記

小山清




思い出


 私は数え年の二つのとき、父母に伴われて大阪へ行った。大正の始であった。
 その頃、私の父は摂津大掾せっつのだいじょうの弟子で、文楽座ぶんらくざに出ていた。父は二つのとき失明した。脳膜炎を患ったためだという。父は十三四の頃初めて大阪へ行き、はじめ五世野沢吉兵衛の手解てほどきをうけ、その後当時越路太夫と云った摂津大掾のもとに弟子入りをした。祖父の姉で出戻の身を家に寄食していた人が、父に附添って行った。父は時々、学生の帰省するように、東京へ帰ってきては、また大阪へ出向いていたようである。その間に父は結婚して、兄と私が生れた。乳離れのしなかった私が連れられて行ったのは、父の最後の大阪行のときであった。
 大阪のどこに私の一家が住んでいたのか、私は知らない。大阪の家には、父母と私と祖父の姉にあたる人(この人のことを、家ではひとつは祖母と区別するために、大阪おばあさんと呼んでいた)と、それから私の子守のしづやがいた。しづやも東京者で、私達と一緒に大阪へ行ったのである。東京の家には、祖父母と兄がいた。兄は私より二つ年上であった。
 その頃、文楽座は御霊神社のそばにあった。私達が住んでいたのも、そこからそう遠いところではなかったであろう。御霊神社のことを、「ごりょうさん。」と云っていたのを覚えている。おそらく土地の人がそう呼び馴染なじんでいたのを、私達もそのままならっていたのだろう。私はしづやに被負おぶさって、よく御霊神社の境内へ遊びに行ったようである。「しいや、ごりょうさんへ行くの、しいや、ごりょうさんへ行くの。」そう云って私がしづやにせがんだということを、東京に帰ってきてから、よく母などから聞かされたものである。私は「しづや。」という発音ができず、いつも「しいや。しいや。」と呼んでいた。御霊神社の縁日えんにちで、夜店の飴屋のみせをしづやの背中にいて見て、あめが欲しいとせがんだら、「あれは毒です。」としづやから叱るように云われて、飴屋の親爺おやじの顔がそのとき鬼のように見え、毒なものをなぜ売っているのだろうと子供心にいぶかしく思ったことを覚えている。文楽座で御廉みすの垂れているのを見た記憶が眼に残っている。おそらく開演前に土間からでも、しづやに被負っていて見た記憶であろう。やはり御霊神社の近くだったらしいが、あやめ館と云う寄席よせがあって、そこへも私はよくしづやに連れられて行ったようである。寄席の入口の前にしづやといたとき、女芸人が人力車で乗りつけたのを見た。中へ入って私達はその女芸人が舞台でやるのを見た。「さっきのねえさんですよ。」としづやが私におしえた。私も覚えていた。女芸人が懐中電灯を掌にして踊りのようなことをしたのを覚えている。しづやは木魚をたたいて阿呆陀羅経あほだらきょうの真似をするのが巧かったそうである。暮れがたの町中で、しづやに被負りながら、その阿呆陀経を聞いたような記憶がある。私の玩具の中には、黒ずんだ色の手頃の大きさの木魚が一つあって、かなり後まで残っていた。摂津大掾は私の父を可愛がり、私も家に連れてゆかれて、摂津大掾の膝に抱かれて、摂津大掾がてずからむしってくれた魚を食べたことがあるそうである。私の幼い記憶には、そのときの膳の上の魚の白身の印象が眼に残っていた。少し覚束おぼつかない気もされるが、後になってその話を聞いてから、私がつくりあげたイメージではないようだ。住んでいた家のことは、ほとんど記憶にない。ただその家が通りに面して格子窓のある家であったのを覚えている。窓の外を牛乳売りが通りかかったのを聞きつけて、買ってくれと母にせがみ、なだめられてもききわけがなくて、仕方なく母が買ってくれた牛乳を一口飲んで吐出してしまったことがあったのである。「そらごらん。」と母から云われたようである。おそらく、それまでにも母が一度ならず牛乳を与えても、私は嫌って飲まなかったのだろう。窓の外を通りかかったものが、常々自分が嫌っているものだとは知らず、私はしつこくせがんだのだろう。そのとき私は子供ながらにひどくりたらしく、その後かなり長いあいだ私は牛乳を毛嫌いしていた。私は牛乳を飲まず、母乳だけで育った子供のようである。瀬多屋という菓子屋と私の家は懇意にしていたようで、その後東京へ帰ってからも、その家のうわさがよく出た。瀬多屋の主人は私を可愛がってくれたそうである。
 私が五つになった年に、父は文楽座を退いて、私達一家は東京へ帰った。鮨屋の娘で同じ年頃の女の子がいて、私と仲よしで、私が東京へ帰ることを聞かされて泣いたそうである。後になっても、その話を聞かされた。私はその女の子のことを少しも覚えていない。私達は夜汽車で大阪を立ったようである。夜の道をくるまを連ねて停車場へ行った。私は母の膝に抱かれて俥に乗っていたのだろうが、前をゆく俥の後姿が眼に残った。発車前に、見送りにきてくれた人が、男の人が思いついたように駅弁を買って窓口から入れてくれたことを覚えている。その人が瀬多屋の主人であったと私は記憶してきている。東京駅から自動車で家に帰った。それが私が自動車というものに乗ったことを記憶している最初である。電車通りを行ったことを覚えている。自動車には出迎えにきてくれた年寄の女の人が同乗していた。それは祖母だったらしいのだが、その後祖母と一緒に暮すようになってから、私にはどうもその年寄が祖母とは別の人だったような気がしてならなかった。その日は旗日で、家の玄関の前に国旗が掲げてあったのを覚えている。私の家は吉原遊廓よしわらゆうかくのはずれの俗に水道尻という処にあったのだが、検査場(吉原病院)の方から太鼓の音のようなものが聞えてきて、私はそれを気にして久し振りに帰ってきたわが家の玄関をしきりに出たり入ったりしたようである。
 東京に帰ってきてからも、しづやはしばらく私の家にいた。なかやという兄の子守もいたが、なかやはしづやよりも早く暇を取ったようである。兄と私はその頃根岸にあった幼稚園に通った。私の家から廓外かくがいへ出るには、検査場裏の裏門が近かったが、そこは昼間は締まっているので、私達は幼稚園へ通うのに、京町一丁目の番屋を抜けておはぐろどぶに架かった刎橋はねばしを渡って竜泉寺町へ出た。その頃は、くるわの周囲をとりまいていたおはぐろ溝はまだ埋められていなかった。三島神社のある通りに出て、永藤という屋号のパン屋の横町だったかの狭い露地を通りぬけると、そこはもう根岸で幼稚園は鶯谷うぐいすだにへ出る途中のやっちゃ場(青物市場)の近くにあった。しづやに附添われて行った。私ははにかみやで、はじめは、運動場で組に分れて紅白のまりを立てた棒の先にとりつけてある網の中へ投げ入れる競技などを、ほかの子供達と一緒になってやることが出来なかった。私はほかの子供達が活溌にやっているのを、ひとり手をつかねてきまり悪そうにただ見ていた。後でしづやから、なぜ一緒にしなかったのかと云われた。そのうち私も慣れてきて、先生が弾くオルガンの音に合わせて輪になって歩きながら、自分ひとり草履の爪先で歩くような真似をした。附添の人達が見ている前で。後で私は先生から叱られ、こらしめのために教室の戸棚の中へ閉込められた。このことは、後になっても、一つ話のように家の者から聞かされた。戸棚の中で私が唱歌をうたい出したので、先生が呆れて私を戸棚から出したと、そんなふうに家に帰ってから、しづやが家内に披露したようである。私には自分が戸棚に入れられた記憶はあるが、果して唱歌をうたったかどうかはっきりしていない。しづやの話におまけがなかったとすれば、私は戸棚の中に入れられてはじめは心細かったに違いないが、そのうち退屈してきて思わず歌をうたったのだろう。あるとき先生が、雨はどのように降るかと私達に質問した。たしか雨の日で、教室の窓硝子ガラス越しに雨の降るのが見えたように覚えている。私は雨は横に降ると答えて、先生やみんなから笑われた。私にはに落ちなかった。窓硝子越しに見える雨は、風があったのだろう、少しく斜に降っていたから。ある式日に、兄は洋服を着て行ったが、私は臙脂えんじ色の女物のはかまをはいて行った。それは他家に嫁いでいる叔母(父の妹)が、子供の時分にはいたものであった。私には長すぎたので、たっぷりあげをしたやつを、私ははいて行ったのである。私も気がすすまなかったのだが、祖母が強いてはかせた。子供心にもなんとなく変に思われ、女物ではないかという気がされたのだが。格別みんなからからかわれたというわけではなかったが、その日幼稚園にいる間私は気持がはずまなかった。幼稚園の先生は女の先生であった。「おこうや」の先生というのを覚えている。その先生のたしか左の上顎の辺に、小さな膏薬こうやくを貼ったほどのあざがあった。私は痣というものを知らず、先生が膏薬を貼っているのだとばかり思い、「おこうや」の先生と呼んだ。先生の痣は、その頃生薬屋で売っていた万金膏という膏薬を貼ったように見えたのである。私の記憶ちがいでなければ、角町の稲本楼の帳場でもこの膏薬を売っていて、私はいちど買いにやらされた覚えがある。「おこうや」という云い廻しには大阪なまりまじっているかも知れない。私は大阪から帰った当座、しばらくはその訛がとれず、兄からよく笑われたそうである。父や母はずっと後になっても、時々会話に大阪弁をまぜていた。私は「おこうや」の先生に抱かれて、その痣をふしぎそうに指でなでたことを覚えている。まだ年若な色の白い人であったような気がしている。幼稚園へ行く途中にあった子供相手の文房具屋で、かねて欲しいと思っていたろうしんこというものを買ってもらい、自分の指の力ではそれを柔くすることが出来ないので、幼稚園での休憩時間に運動場の隅のベンチで附添同士話しているしづやのもとへかけつけて、柔くしてもらったことなどを覚えている。しづやが私の家から暇を取ったのは、幼稚園へ通っている間であったようである。幼稚園の終りの頃には、私は年寄の婆やに附添って行ってもらうようになったから。しづやが私の家にいた間のことで覚えていることが一つある。その頃私はひとりでは廓外へ出たことはなかったが、ある日ひとりで京町二丁目のはずれのおはぐろ溝の際にあった、ふだん私の家で浅草方面へ行く場合に使用させてもらっている小林と云う仕舞屋しもたやの土間を通りぬけて廓外へ出て、小松橋の方まで行って木刀を買って帰り、水道尻のとば口にあった共同便所の前で、さかんに振り廻していたら、通り合せたしづやに見つかってうしろから目隠しをされたことがあった。しづやは十五六からはたち頃まで、私の家にいた。健康体で、太っていて、豊頬で、血色がよく、細い眼をしていた。しづやの家は吉原土手の向うにあって、べつに縁つづきというわけではなかったが私の家とは同姓で、またしづやの弟は私の兄と同年おないどしで、同じく土手向うの待乳山まつちやま小学校に通学していた。なかやもしづやも、私の家を暇取ってからも、時々顔出しにきた。しづやの後にきた婆やは、それほど長くは家にいなかったようである。婆やに連れられて幼稚園へ行く道すがら、私は空にある雲を指さして、あの雲が西洋の国へ行くと、西洋の国が昼になって、そして日本が夜になるのだということを婆やに教えた。婆やは本当のことを聞いているようなまじめな顔つきをしていた。どうやら、幼稚園というところは子供にそういうことを教えるところだと思い込んでいるようであった。米騒動の事件があったとき、吉原もそのとばっちりのようなものを受けた。そのあくる朝、まだ寝ている私の枕もとに婆やがきて、昨夜騒ぎがあったことを告げて、まさかのときには私を連れて逃げるつもりであったと話した。私はいつも夜は早く寝かしつけられてしまうので、なにも知らなかったのである。騒ぎの跡を見に行ったら、京町一丁目のある店の鎧扉の下りた鉄格子の間に煉瓦れんがが押し込んであった。軒灯けんとうこわされているのもあった。裏門のところには、騎馬巡査や銃剣を持った兵隊がいた。私は子供の頃、まぐろの刺身を御飯のうえにのせてそれに湯を注いで食べるのが好きだった。いちど誰かがそうして御飯を食べさせてくれたのが、ひどく私の気に入ったのであろう。湯を注ぐと、赤い色の細身が白っぽい脂身のような色に変った。私はそれを、誰かから聞いたのだろう、しぐれと呼んで、おかずが刺身のときは、いつもそうして食べた。吉原のお祭の晩に、六畳の蔵座敷で、婆やからしぐれ御飯を食べさせてもらったことを憶えている。
 小学校の入学式の日には、私の祖母に連れられて行った。帰りに吉原土手の下にあった汁粉しるこ屋に寄った。上が畳敷になっている縁台に腰かけて汁粉を食べながら祖母は、兄が入学したときにも、その帰りにはここで汁粉を食べたのだという話をした。私は行灯袴あんどんばかまをはいて、兄のお古の鞄を肩に掛けて、赤い色の草履袋を手に提げて学校へ行った。私には鞄がお古であることよりも、草履袋ぞうりぶくろの色が赤いことの方が気になった。最初の授業がある日に、学校へゆく途中私がひとりで仲の町を歩いていると、一人の新入生を交えた二三人連れの顔知りの上級生が通り合わせて、上級生の一人が私の袴の紐に下げてある手拭のうえに書いてある組名を見て、私の組は昼組だと云った。その頃、午前中に授業を受ける者のことを朝組と云い、午後から行く者のことは昼組と云った。上級生からそう云われて私は迷った。そのまま聞かないふりをして学校へ行く勇気は私にはなかった。私はすごすごと家に引返して、上級生から昼組だと云われたことを家の者に告げた。家の者は、先生はどう云ったのかと私に尋ねた。先生は朝組だと云ったのである。家の者から先生が云うのが正しいと聞かされて、私はまた学校へ行ったが、心細くて泣きたいような気持であった。私はやはり朝組であった。それでもいい塩梅あんばいに遅刻はしなかった。上級生はいたずらな気持から、私にそう云ったのであった。兄は私にはかまわずに自分だけ先へ行ってしまったのだろう。その後も私は学校へゆくのに兄と連れ立ってゆくことはあまりなかった。私は子供のときは腰巻をまいていた。その頃は男女共に腰巻をまとう習慣がまだすたれてはいなかった。それでも子供も学校へ行くようになれば、もう腰巻はしていなかった。兄も腰巻から猿股さるまたに変っていた。私も腰巻は嫌だったが、けれどもお前はまだ小さいのだからと云われて、依然腰巻をさせられていた。私の遊び友達もみんな猿股をはいていた。私は戸外で立小便をするときなど、自分だけ腰巻をしているのが恥しくてならなかった。学校で身体検査があったとき、目方を計るときに私は腰巻を外して真っ裸になった。同級生の見ている前で、腰巻姿ではかりの上にあがるよりは、真っ裸の方がまだよかったから。ある日、吉原公園の池の際にあった吉原の鳶頭とびがしらの家の前で友達と遊んでいたときに、私はそこに転してあった土木作業に使う鉄の重石おもしのようなものを、過って右足のうえに落した。足の甲がれあがって指の股がひっついてしまった。たいした怪我ではなかったが、私は足を引摺らずには歩くことが出来なかった。直るまで学校は休んでも差支えはなかっただろうが、家では私を休ませなかった。その頃父のもとに内弟子にきていた春さんというはたちあまりの若者の背に負われて私は学校へ行った。体操の時間に私が繃帯ほうたいをした足を引摺って歩いているのを見て、先生が私を列外に出して休ませた。私は運動場にある号令台にからだをよせてたたずんで、同級生が元気よく行進しているさまを眺めていた。私は自分ひとり落伍しているのが、きまりが悪くて仕方がなかった。私のそばを通る際に、嘲弄ちようろうしてゆく生徒もあった。後になっては私も、もっと些細ささいな怪我でも、それを理由にして体操をなまけたこともあった。
 婆やの後にきた女中はえつと云った。えつやは叔母の嫁ぎ先の縁故で私の家にきたのであった。年頃は十六七であった。えつやの髪にしらみがいっぱいたかっていたことを、母が呆れたように云っていたのを覚えている。家の玄関には大きな姿見が置いてあった。その前で、私はえつやから帯の間に新聞紙を折りたたんで心代りに入れることを教えられた。えつや自身そうしていた。私は新聞紙を挟んで幅広に帯を締め、そのうえに袴をつけて腹のとびでるほどにきつく紐を結んで、そうして学校へ行った。私はえつやに本を読んでもらった。えつやはいつもいやな顔をしないで読んでくれた。「深夜の人」「虎の面」などという西洋の活劇物や水戸黄門漫遊記などの類であった。えつやは西洋人の名前を読み損うことがあった。けれども私はえつやの朗読に殆ど満足していた。家では河鹿かじかを飼っていた。湯河原かどこかで捕獲したものであった。夏になると、金網の中に放して縁先へ置いた。金網の中で、河鹿はその形に似げない可愛い声を出して鳴いた。私ははじめ河鹿の声を虫が鳴いているのだと思っていた。河鹿が鳴いていると家の者が云っても、私はかじかという虫が庭のどこかで鳴いているのだと思い、その声と金網の中にいる小さい醜い生物とを一つにしては考えなかった。私は金網にとりついている河鹿の腹を指さきで押して水の中に落したり、金網越しに如雨露じょうろの水をかけたりした。餌には蠅や油虫をやった。揚屋町のある台屋に、その料理場に繁殖したものだろう、油虫をもらいにやらされた覚えがある。冬の間には河鹿を大きな瓶の中に入れてうえから海綿をかぶせ蓋をして湯殿の隅に置いた。瓶の中で河鹿は冬眠したのだろう。夏になって瓶から出そうとしたら、沢山いたやつが一匹残らずいなくなっていた。誰かが瓶の蓋を動かした形跡があり、その隙間から河鹿は逃げたものらしかった。犯人はすぐわかった。えつやであった。えつやが湯に入ったとき、こっそり海綿を取出してそのあとよく蓋をしておかなかったのである。えつやも年頃であったから、海綿で顔を磨きたかったのだろう。ある日私は学校の帰りみちに鞄から筆箱を落した。家に帰ってから気がついた。道に落ちているだろうから探してこいと祖母が云った。誰かが拾って交番に届けてあるかも知れないから聞いてこいと云った。私はえつやに附いてきてもらった。往来には見あたらなかった。私は交番へ行ってお巡りさんに聞くのは恥しかったので、えつやひとりに行かせた。土手下の見返り柳の向い側にあった交番の手前で、私はえつやにお巡りさんに云うべき台詞せりふを伝授した。うちの坊ちゃんが筆箱を落したのですが云々という台詞であった。えつやはまじめな顔をしてうなずいた。交番に筆箱は届けてなかった。私の家では子供は早く寝る習慣であった。夕飯を食べてしばらくすると、兄と私は湯に入れられそして寝かしつけられた。戸外で友達と遊んでいてようやく遊びが佳境に入るところで、よく連れ戻された。私が後に心を残して迎えにきたえつやと一緒に帰ると、先廻りをした友達が不意に物陰からあらわれて私達をおどかした。
 二年生のときだったと思う。ある日私は放課後ひとり教室に残されて、先生から説諭された。その日大阪おばあさんが学校にきて、私が我儘わがままで家の者の云うことをきかず、また日頃貝独楽べいごまやめんこ遊びに夢中になっているということを先生に告げたのであった。「先生はお前のことをおとなしい良い子だと思っていた。」と先生は私に云った。先生からそう云われて私も恥しい気がした。貝独楽やめんこ遊びは良い子のすることではないと私も思っていたから。けれども家の者がわざわざ学校にきて先生に告げなければならないほどの行状を自分がしているとは私には思えなかった。私には大人のやることが納得できなかった。私が先生から説諭されている間に、小使さんが教室の掃除をしに入ってきた。先生は小使さんをかえりみて、さっきこれのお祖母さんがきてねというようなことを云った。私は先生に大阪おばあさんを祖母だと思われたことが恥しくてならなかった。私はふだん大阪おばあさんを子供心にあなどっていたし、また大阪おばあさんは貧相で少しも立派ではなかったから。私は祖母にも親しみを感じていなかったが、それでも大阪おばあさんよりは祖母の方が、私の虚栄心を満足させるものを備えていた。大阪おばあさんは家では玄関脇の四畳半に寝起きしていた。そこは女中部屋に次いで薄暗い感じがした。多分大阪おばあさんの持物だったろう、小さな古ぼけた鏡台が置いてあったのを覚えている。大阪おばあさんはもう七十位ではなかったかしら。多少耄碌もうろくしている感じであった。少しは三味線しゃみせんを弾けたようで、父のもとにくる女弟子に稽古をつけていたこともあった。あるとき、御飯を食べていたときに私は大阪おばあさんがどんぶりの中にはなみずをたらしたのを見つけた。私がそれを云ったら、大阪おばあさんは頑固に否定した。私は母からたしなめられたようである。大阪おばあさんが座を立ってから、祖父はどんぶりの中のものを捨てさせた。
 家の門口には父の名の標札のほかに祖父のも懸かっていた。祖父の姓は私の家のではなかった。祖父と私達とは血の繋りはなかった。祖母との間に父を設けた人が離縁になってから、祖父がきたのである。祖父は私の家と籍を別にしていて、菩提所ぼだいしょなども違っていた。他家に嫁いでいた叔母は祖父と祖母との間に生れた人で、この人は家にいたときは祖父の姓を名乗っていた。嫁ぎ先が牛込原町にあったので、この人のことを私達は原町の叔母さんと呼んでいた。父と叔母はそんなに年の隔りはなかったから、祖父が私達の家にきたのは父がごく幼かったときのようである。祖父は私が四年生のときに死んだが、祖父の死後、樺太からふとのおじいさんという人が尋ねてきたことがあり、子供の私達も引合された。けれども私はその血の繋りのある人に対して、その後も続いてうとい気持しか起きなかった。そのときの印象に格別のことがあったわけではなく、ただ私の気持の中だけで常に見下すものがあった。祖母とその人とのことを母が口汚く云った悪口が、子供の私の心に侮蔑の念を喚んだのである。祖母はその人に対して相当酷い仕打もしたらしいのだが、祖父が死んで、またその人を家に迎えたりしていたのである。樺太からふとのおじいさんのもとからは、折にふれて海産物の小包が送られてきた。私の家はもと京町二丁目で貸座敷業を営んでいて、一時祖父も三業取締の役員をしていたようだが、ちょうど私が生れた年にあった吉原の大火以後廃業したのである。祖父は相当な喧屋やかましやのようであった。煮物の味加減なども気難しかったらしく、自分で台所に出てきて鍋の蓋を取ってけんしていたのを、私も見かけたことがある。左の二の腕に桃の実の小さい刺青をしていた。骨董道楽で、家には祖父のあつめたものがかなりあったが、震災のときに焼失した。子供のときに眼に触れた感じだが、いまその記憶を思い起してみても、祖父の趣味はまんざらでもなかったような気がする。器用なたちだったらしく、兄や私のためにも、木片に船を彫ったり、竹細工に渋紙を張ったりなどして飛行機の模型を作ってくれたりした。私の家の裏に私の家の持家である長屋があったが、その一軒に祖父の弟にあたる人の一家が住んでいた。大阪おばあさんにしろ、またその弟の人にしろ、共に祖父が呼び寄せたのだろうが。弟の人は彫金をやっていたが、母の口振りによると、腕の確なわりには不遇であったようである。一家は貸座敷の新造をしていたおかみさんと浪江と云う年頃の娘との三人暮しで、ほかにどこやらに奉公していた太郎と云う少し人並でない長男があった。私にはおかみさんのかおかたちがいちばんはっきり思い出される。貸座敷の新造しんぞうによく見かけるタイプの人であった。弟の人は痩形やせがたの色の黒い、どことなく沈鬱ちんうつな感じの人であった。若しもこの人の顔が明るい感じのものであったなら、その男ぶりももっと引立って見えたに違いない。毎日父のもとに義太夫をやりにきていた。浪ちゃんは顔は母親似で、おとなしい内気な感じの娘であった。浪江だなんてまるで小説にでも出てくる人の名のようだと母が幾分冷笑ぎみに云ったのを覚えている。私は裏手の縁側の方から、浪ちゃんが針仕事などをしているところへよく遊びに行ったものである。ある日置き忘れてきた絵本を取りに行ったら、めずらしく太郎さんがきていて絵本を手にして見ていた。浪ちゃんは太郎さんのことを私の手前恥るけしきで、私の気を兼ねるように「貸してあげて下さいね。」と云った。浪ちゃんは湯は私の家に入りにきた。私は浪ちゃんと一緒に湯に入りながら、わざと恥がるようなことを口にして、浪ちゃんを困らせた。私はすぐ倦きてやめてしまったようだが、浪ちゃんのお父さんから習字の稽古をしてもらったことがある。ある晩、家の茶の間で祖父と大阪おばあさんと浪ちゃんのお父さんの三人姉弟が顔をそろえたことがあったが、祖父と浪ちゃんのお父さんが不意に立ち上って腕力沙汰に及んだ。浪ちゃんのお父さんが大阪おばあさんのことを悪く云ったのを祖父が聞き咎めて浪ちゃんのお父さんをなぐったのである。おかみさんがきて浪ちゃんのお父さんを連れて帰った。あとにおかみさんのくしが落ちていた。私は櫛を届けにやらされた。縁側の方から行って障子越しに私が櫛を持ってきたことを告げると、うちからおかみさんが「ご苦労さん。」と云った。私はほっとして縁先に櫛を置いて帰ってきた。

弟と母のこと


 関東大震災の時に、私の家では末の弟を亡くした。弟は数え年の八つで、早生れだったので、学校は二年生であった。地震の揺れる少し前に、弟は父の許に義太夫の稽古にきていた娘が帰るのに連れ立って、学校の近くの文房具屋に買物に出かけていた。娘に別れてひとりで帰ってくる途中で、弟は地震に遭ったのであった。私達は弟の亡躯なきがらは見ないのであった。
 弟はたつと云った。辰年の生れであった。私達は三人兄弟で、兄はあらた、私はきよしで、みな祖父がつけたものであった。弟が生れたのは、三月の節句の頃であった。ひな人形が飾ってあったのを、私は覚えている。私は知らされて、布団の中にいる赤子を見に行った。
 私は同じ部屋に、母の隣りに布団を敷いて寝ていた。母が弟の寝顔を見て、「可愛い顔をして。」と云ったのを覚えている。私達はよく弟を、自分達が飲んだ後の出殻だしがらのお乳を飲んでいると云っては、からかった。
 兄と私は二つ違いで、そして私と弟とは五つ違いであった。兄と私は共に遊んだが、弟とは殆ど遊んだことはなかった。もう少し経てば、私達の仲間入りが出来たのだったのに。
 弟はまだよく歩けない時分に、火鉢の角にぶつかって、どっちかの目蓋まぶたに傷をして、後になっても、その傷跡が消えずに残っていた。
 細面ほそおもての、やさしいおもざしであった。
 弟の婆やがいた。下総の佐倉の者で、弟はこの婆やに連れられて、その田舎に行ったこともあった。婆やは弟を連れて、よくそちこちの葬式に出かけて行った。菓子包を貰うのが目当のようであった。婆やは弟を可愛がっていたようだし、また弟も婆やを慕っていたようであった。そのうち婆やも暇取って行った。弟の死後、私にはこのことがなぜか弟の薄命をあかしするもののように思われた。
 弟と一緒に湯に入ったときに、私が湯船の縁に手拭を垂らしてそれを股の間から引き出して、「車屋さんだよ。」と云うと、弟はいかにも可笑しそうに声を立てて笑った。私は何遍もその仕種をくり返した。弟はその度に面白がった。
 弟も学校へ行くようになった。近所に弟の同級生がいた。その子は意地の悪い子で、自分は鞄の中にその教科書を入れておきながら、弟に向っては、きょうはその授業はないからと云って、強制的にその教科書を家に持ち帰らせるようなことをした。弟はその子に対しては、いつも唯々諾々いいだくだくとしているようであった。
 私もはにかみやであったが、弟は私に輪をかけたはにかみやであった。弟に比べれば、私はまだしも気の強いところがあった。
 震災の当日、その時びっくりして戸外に飛び出した私の目に、八階から上が折れてなくなった、浅草公園の十二階の無慙むざんな姿が映った。私の家は吉原遊廓のはずれにあって、家の前の広場からは、浅草公園の十二階がよく見えた。
 その日、私の一家はみんなばらばらになった。私と花やという女中が上野の山に逃げ、母と兄は向島むこうじまに逃げ、祖母と父は吉原の池の際に居残って命拾いをした。最初に逸速く自分から花やを促して逃げ、親兄弟を置去りにしたのは私であった。花やは天理教の信者で、神仏を尊崇する念が厚く、自分の衣類などはそのままにして、神棚や仏壇のものを大風呂敷にして背中にしょいこんで逃げた。
 上野の山には、避難民がいっぱい群らがっていた。私達はその晩そこに野宿した。花やは隣り近所の人と話しながら、私をかえりみて、「この子のお父さんがおめくらさんでね。」と云ったりした。私の父は盲目であった。
 あくる日、田端の方にある、花やの親戚の家に行った。震災の様子を偵察にでも行ったらしい若者が帰ってきたが、持っていた竹の皮包の握飯を、一寸ちょっと匂いを嗅いでみて、「大丈夫だ。」と云うと、それを私に食べさせた。家の者はどうしたろうと思って、流石さすがに私が心細そうな顔をすると、花やは、若しも私の父や母が死んだとしても、学校は行かせてあげると云って、私を慰めた。そんなことを云われると、よけい私は心細くなってきて、泣顔になった。その晩はその家に泊った。夜中に大地震があって、みんな戸外に飛び出し、家の前の空地にござを敷いて、そこにたむろして夜を明かした。
 あくる日、その家の小父さんが吉原の焼跡を尋ねて、家の者の安否を確かめてくれた。私と花やは小父さんに案内されて焼跡へ行った。焼跡には体裁ばかりの小屋掛けをして、祖母と母がいた。一家は向島の親戚の家に避難しているのだった。なにもかもが灰燼かいじんして、ただ玄関の三和土たたきに置いてあった傘桶だけが焼け残っていた。広場の池には、ふくれあがった死体がいっぱい浮んでいた。私は吐きそうになった。
 向島の親戚の家に当分厄介になることになった。父は盲目なので、当面の用事はみんな母がしなければならなかった。母は毎日のように外出した。私は母のお伴をした。焼跡に出来たライスカレーや水団すいとんを食わせる店に寄るのが楽しみだった。母はまた怪我人や迷子を収容している建物を尋ねて、弟を探した。けれども、それは徒労に終った。弟にしても、生きているならば、自分の父や母の名を人に告げられないという年でもなかった。
「マントを欲しがっていたが、買ってやればよかった。」
 母はそんな返らぬ愚痴をこぼした。
 一年ばかりして、私は映画の中に弟によく似た少年がいるのを見た。家に帰ってから、そのことを母に告げると、そのとき母は台所で用をしていたが、堪えかねたように大声を上げた。

 物心がついた頃には私は、祖父母達は、兄を、……母と自分、というような気持をもう抱いていた。父は盲目であった。そして祖父と私達兄弟とは血の繋りはなかった。
 私の気持はいちばん母にくっついていた。母は私をきつく叱った。私は母によくたれた。折檻された。兄はそんなに叱られなかった。私はときに泣きながら母に、母が兄のことは叱らないで、自分ばかりを叱ることへの不服を訴えたりした。自分ばかりが叱られることへの不服の心も確かにあった。けれども、そう口に出す気持の感傷的なものであることは自身感じられたのだ。母が自分をきつく思ってくれていることは、私は本能的に感じていたのだから。
 その後、記憶に残ってときに頭を掠めることに……。やはりなにかで叱られたか、若しくは自分の願いが退けられたかして、私は愚図ぐずついていた。母は台所でなにか用をしていた。私は茶の間にいた。ほかに誰もいなかった。私がおさまらぬ気持で愚図ついているのを、母は相手にせず用をしていた。その母に向けて、私は遂にこんな言葉を口に出した。「まるで継母みたいだ。」口に出してしまった。私は流石にひるんだ。その言葉を耳にすると、母はすぐ飛んできて、手をあげ私を撲ち続けた。私は、「ごめんなさい、ごめんなさい。」と、恐さと済まなさから云い続けた。
 私は家の持家の長屋の一軒に、私と同年の友達とそのお祖母さんが住んでいた。お祖母さんはそのひとりの孫をよく叱った。友達は泣虫でその泣き声がよく聞かれた。それを私は、「継のお祖母さんみたいだ。」と云ったりした。そのことが念頭にあったので、感傷的な気持に押されては、母に向って、あんなことを云ってしまったのである。
 母の心は私にあった。私は母の子供であった。祖父母達は私を愛さなかった。ことに祖母は、兄に対してと私に対してとで、分け隔てを露骨に示した。
 一家には私達が原町の叔母さんと呼んでいる人がいた。父の妹で、他家へ嫁いでいる人であった。母はこの原町の叔母さんのことを、義理の妹であり、小姑でもあった人のことをよく云わなかった。子供の私は、母の云う悪口をよく聞いた。「汚れ物を洗濯しないで押入に溜めておく。」とか、「左団次たかしまやに夢中になっていた。」とか。祖母とこの叔母対母の間に敵対の感情のあるのを、子供の私は感じていた。そして私もその渦の中にいた。私は母の側にいた。子供の私はなにも解らなかったけれど、自分が母の側の者であるということを感じていた。そして私の子供の気持はいちばん母にくっついていた。
 母と私達兄弟と幼い弟の子守とで、穴守あなもりへ潮干狩に行ったことがあった。母と弟と子守は休憩所に残っていて、兄と私だけが海に入った。私はその遠浅の海岸を、いつかかなり沖の方まで出て行った。ずっと向うに大きな汽船が碇泊していたが、私にはそれが、とても立派な、例えば軍艦ででもあるかのように見えた。私はわれを忘れてそれに見とれていた。そのうち私は自分が兄にはぐれてしまったことに気がついた。心細くなって振り返ってみると、休憩所はずっと後の方に見えた。而も同じように葦簾張よしずばりの小屋が並んでいるので、母達のいる小屋はどれがそれとも見当がつかなかった。私は大急ぎで帰った。ようやく小屋を見つけて入ると、母達の姿は見あたらなかった。よく見ると、手荷物はそこに置きっぱなしになっている。けれども、私は不安で胸がいっぱいになった。母達はそこに私ひとりを置き去りにして、もう帰って来ないのではなかろうかと。私はわあわあ声に出して泣きながら、小屋の中を駆けずり廻った。やがて、母達は散歩から帰り、兄はまた獲物を持って引き上げてきたが。
 震災で焼け出されて、向島の親戚の家に厄介になっていた頃、母は毎日のように外出したが、帰りが夜おそくなることが度々あった。私はそのつど母のことが心配になり、家にじっとして待っていることが出来なかった。私は隅田川を通う蒸気船の発着所まで出向いて、そこにあるベンチに腰かけて、母の帰りを待った。いくつか船を見送った後で、ようやく母の顔を見出しては、ほっとして共に帰った。母を迎えに行く途中、隅田堤を通ってくるが、堤の下にある二階家の明りのついた障子の中から、酒に酔った男達の騒ぐ声が聞えてくることがある。そんなとき私には、その中で母がいじめられているのではなかろうかという妄想が起きてくるのだった。
 母は私が二十の年に死んだ。母もいのしし年、私も亥年で、丁度二廻り違うのだから、四十四で世を去ったわけになる。その頃、台湾にいた母の長兄のもとから、あによめに当る人の悔状くやみじょうが届いたが、母のことを、遂に幸福の太陽が昇るのを見ずに世を去った、そう云ってあったのを私は読んだ。
 母の儀式の日に、家の遠い姻戚になる或る人が追悼の辞を述べたが、その人は、母が自身の生母に生面したのが漸く昨今のことであったことを云って、この一事から推量しても、母の人生がその出生からして薄倖多難であったことが察しられるということを云った。
 母はめかけの子であった。私はその自分には祖母に当る人の写真を見たが、年配は丁度母が世を去る頃の年ごろのもので、母によく似た人を見た。母は幼くして他人に貰われたようで、三四歳の母が、母を養女にしたという男の人に手を引かれている写真もあった。兄はその写真のおもざしが妹に生写しなことを云ったが、私もそう思った。母は信州の下高井郡のさる人のもとで成人した。私はその、母には育ての親にあたる女の人の写真も見た。その人の孫、母には義理の甥に当る青年と並んでいるもので、すらりとした品のいい年寄の姿が見られた。この母の甥に当る人は、その後東京へ出てきて、母の死後、家に尋ねて来たことがあったが、そのとき、田舎にいた時分、ポスターなどに見かける女の人の絵姿で、「東京の叔母さん。」と母のことを教えられた、子供の頃のその追懐ついかいを話したりした。聞いて、私もその追懐に同感できた。母は丸髷まるまげなどのよく映る別嬪べっぴんだったから。
 母の生母、母を一時養女にしたという男の人、それから信州の祖母。写真の人の印象はみな私の心に懐かしさを呼んだ。
 いま私は丁度母と同年になる。母が死んだのは丁度いまごろの、暑い最中であった。はっきりした月日を私は覚えていない。私は殆ど墓参りをしたことがない。最近私は女房をもらった。女房はいちど墓参りをしたいと云っているが、私は億劫おっくうにしている。草ぼうぼうに違いあるまいから、その辺の金物屋で鎌を買ってゆくことになるだろう。


 小学生の頃、あるとき受持の先生が、生徒にめいめいの家の間数と畳敷とを書かせたことがあった。やはりなにかの参考資料にするためだったのだろう。皆んなが書いている途中で、ひとりの生徒が手をあげて、「先生。うちの二階は十畳なんです。」と上気した顔で云った。その子は豆腐屋のせがれだった。
 私の家は吉原遊廓のはずれにあった。家の裏手には木柵がめぐらしてあって、台所口の前にあたる所に格子戸がとりつけてあった。格子戸にはりんがついていて、開閉するたびに音を立てた。格子戸の際に、洗濯する場所が設けてあった。母が甲斐がいしい姿で洗濯していたさまが、いまも目に浮かぶ。母は洗濯しながら、外を通る人と、よく話をしていた。私の家の持家の長屋にいた、茂ちゃんという子が、木柵の外から顔を覗かせて、母に向い、「おばさん。ぼくの鼻は胡床あぐらをかいているでしょ。」と云った。「剽軽ひょうきんな子だよ。いまに落語家はなしかにでもなるんじゃないか。」と母は云っていた。
 木柵の外を、豆腐屋や納豆屋が荷を担いで通った。また、格子戸をあけて御用聞がきた。豆腐屋は恵比須さまのような顔をした、いつも世辞笑いを浮かべているおじさんだった。「とうふイ。」と云う売り声も、いかにもいい声で、当人も気持よさそうであった。この豆腐屋の店は、その頃、おとりさまの裏にあった、俗称「みきや長屋」という処にあった。みきや長屋は、芝の新網、下谷の万年町ほどではないが、界隈に聞えた貧乏長屋であった。母が、「豆腐屋さんのお店は?」と訊いたら、口籠くちごもっていた。「みきや長屋の近く?」と訊いたら、「へえ。そのみきや長屋で。」と云った。雨の日には、菅笠すげがさをかぶってきた。よく似合っていて、まるで忠臣蔵の与市兵衛でも見るようであった。納豆屋は五十がらみのおばさんで、手拭をかぶり、手甲てこう脚絆きゃはんに身を固めていた。金歯をめているのが見え、いつも酸漿ほおずきを口に含んでいた。売り声にも年季が入っていて、新米には真似られない渋さがあった。この人は、その頃、観音さまの裏の宮戸座に出ていた沢村伝次郎(いまの訥子とつし)に岡惚おかぼれしていた。荷を格子戸の外に置いたまま、台所のとばくちに腰を下ろして、母を相手に、伝次郎の演ずる勘平や蘭蝶らんちょうのうわさをしていくことがあった。私は子供の頃には、納豆よりはみそ豆の方が好きだった。一体に私の嗜好はおとなしい方で、茄子よりは胡瓜、蕎麦よりはうどんの方が好きだった。そのほか南瓜やさつま芋などが好きだった。すべて下戸の好みである。兄はまた私とは反対であった。長じて兄は相当な酒呑みになったが、私はいまなお野暮な下戸である。
 私が学校から帰ってきたときに、格子戸の外に魚屋が板台を下ろして、庖丁をあつかっていることがあった。私は袴をはき鞄をかけたままの姿で、そこに佇んで、魚屋が魚の腹を割いたり、刺身につくったりしているのを見ていては、よく祖母から叱られた。この辺にくる魚屋は土手向うから来たし、また八百屋は千束町から来た。八百屋は来ると、腹がけから経木きょうぎを取り出して、それに列記してある商売物の名を読み上げた。「ええ、きょうは、なすにきゅうりに白瓜に、人蔘に里芋、……」すると母は、「きゅうりに白瓜に、里芋を、そうさね、一升ももらおうか。」八百屋は注文を取ると、しばらくして品物を運んできた。台所の柱には炭屋や酒屋や八百屋などの通帳が下がっている。八百屋は矢立を取り出すと、通帳にその日の注文の品名を書きつけて帰って行った。
 台所には、料理屋や魚屋にあるような大きな冷蔵庫が置いてあった。夏になると、毎日、五十間の通りにあった氷屋が氷を届けにきた。私は冷蔵庫の戸を、まるで金庫の扉をでもあけるようにそっとあけて、中にある桃を盗もうとしては、見つかってよく叱られた。流しには、水道の蛇口の下に、いっぱいに水を満たした桶が置いてあった。夏には、その桶の中に、一升壜に麦湯を入れて冷やした。私はその麦湯が好きだった。私の家はそれほど大人数というわけでもなかったが、四斗だる糠味噌ぬかみそ桶に使っていた。私は母が糠味噌をかきまわしているそばにいて、母がその中から、糠にまみれた茄子や胡瓜や大根を掴み出すのが面白くて、よく見たものだ。私はその現場は見なかったが、あるとき、母が糠味噌をかきまわしていたときに、不意に着物の裾から鼠に躯を這い上がられて驚いたという話を母から聞いたことがある。私はその話を聞いたとき、なんだかこそばゆい気がした。
 台所の隣りは湯殿であった。丁度冷蔵庫の大きさだけ羽目板が無くて、冷蔵庫の裏側の部分が少し湯殿の中に突き出ていて、それが羽目板の代りをした。冷蔵庫に入れた氷の溶けた水は、湯殿の敲土たたきに落ちるようになっていた。冷蔵庫の上部の長押なげしとの間にはいくらか隙間があって、そこに電灯の笠を引っ張ってきてあって、その明りが台所と湯殿の両方を照らした。夏のこと、兄と私が一緒に行水を使っていたときに、硝子戸の向うにいてそれを見ていた、仲の町の大村という蕎麦屋の息子が、私達をうらやむような口吻こうふんをもらした。その場に居合わせた母が、その子にも兄弟があることを云って反問したら、息子は、「でも、おっ母さんが違うんだもの。」と云った。その後も母は、そのときの息子の声色を真似ては同情を示した。私達遊び仲間では、ふだんその息子のことを、「親馬鹿ちゃんりん。そば屋の風鈴。」と云っては、からかったりしたものであった。湯殿の窓の向うは女中の部屋であったが、あるとき、私が湯に入っていると、その窓から兄が首を出して、白い紙片を見せびらかしながら、「ちぇっ、いとこのひとしちゃんへ、だって云やがら。」と云って嘲笑あざわらった。私は真赤になった。その頃私は小学校へ入ったばかりで、その日私は学校で、手紙を書くことを教わったのであった。私は従弟にあたるひとしという二つ年下の子にあてた手紙を半紙に書いて、折り畳んでおもてに「いとこのひとしちゃんへ」と書いた。私はそれをそのままポストに入れれば、仁ちゃんのもとに届くものと思っていた。私はそれを机の上に置いて、湯に入った。先に湯から出た兄がそれを見つけて、私をからかったのである。私は子供心にその手紙がよそゆきのものであることを感じていたので、まんまと兄に見ぬかれてしまったことが、顔から火の出るように恥ずかしかった。
 女中部屋は三畳で、ここは家の中で直接外光の入らない唯一の部屋であった。山の手辺の酒屋の息子で春さんという、はたちばかりの若者が父の義太夫の内弟子として来ていたことがあった。あるとき、春さんは湯から出て顔を真赤に火照ほてらせていたが、それが少し普通でなかった。どうしたのかと訊くと、顔がひりひりすると云い、実は御隠居さんの石鹸を顔に塗ったところ、こんなになったと云ったので、皆んな笑ってしまった。祖父はひとり湯に入るとき薬用石鹸せっけんを使っていたが、春さんはそれをなにか上等な化粧石鹸のように思い込んで、その日ひそかに、その満面に面皰にきびの吹き出ている顔にたっぷり塗り込んだというわけなのであった。薬用石鹸は面皰に対しては、ただ徒に刺戟するだけで、なんの効能もなかったようである。私は女中部屋で、私の子守であったしづやが母に叱られているのを見たことを覚えている。なんで叱られていたのかは知らないが、しづやは不満そうに押し黙っていた。しづやがなかなかあやまらないので、母の小言がいつまでも続いているようであった。母はしづやのことを、よく「さわるとふくれるゴム風船」と云った。つまり、叱るとすぐにふくれるという意味であった。私には母のその言葉が大変気がきいたものに思えた。母自身が、それをいかにも気がきいた表現のように、はたに云って聞かせたのである。しづやが暇を取ってからは、えつや、まきや、花や、それに婆やが二人来た。みんな一年かそこらで交替した。私はいちど子供らしい好奇心から、女中部屋の戸棚を覗いて見たことがある。誰のときだったかは記憶にないが、隅の方にその頃発行されていた面白倶楽部という雑誌があって、それが目に入ったのを覚えている。
 女中部屋は障子を隔てて、茶の間と隣り合っていた。茶の間には、その障子に近く長火鉢が置いてあった。長火鉢の引出には小銭が入っていることがあった。あるとき、私が誰もいない隙にこっそり引出をあけて、中の金を盗もうとしていると、不意に背ろの障子があいて、そこに母が立っていた。母は障子のかげで様子を窺っていたらしかった。私は勿論もちろん母から厳しく折檻された。茶の間には、柱時計の掛けてある下に、菓子を入れてある戸棚があった。私はよくその戸棚に首を突っ込んで、菓子を漁った。最中や銅鑼焼どらやきのような類のものが多かった。家内の者はここで御飯を食べた。祖父だけは躯を悪くしてからは隣りの八畳間に常住床を敷いて伏すようになり、御飯もひとりそこで食べた。ときどき兄がその相伴をしていた。兄は祖父じいさん祖母ばあさん子で、また、母の心は私にあった。あるとき、祖父が兄をひどく叱ったことがあった。私はそばにいたが、「ごめんなさい。」と云った。すると祖父は兄に向って、「みろ、清がお前に代ってあやまっているぞ。」と云った。祖父は腹の中では、私の賢しらをさげすんでいたに違いなかった。兄は私以上にききわけがなくて我儘なところもあったが、大根おおねは素直な性質であった。この座敷の違棚には木彫の鬼の念仏が飾ってあった。私が寝ている枕もとに、兄がこの像を置いて、目をさました私が怯えて泣き出したこともあった。茶の間とこの座敷とは、廊下を隔てて庭に面していた。
 庭の中央には小さな池があって、鯉や金魚が飼ってあった。池の向う側は小高く土が盛ってあって、そこには鋳物の小さな蟹や亀が幾匹も這っていた。焼物のまめだも立っていた。あるとき、私はそのまめだに池の水をかけようとして、誤って池に落ちた。「まめだの罰が当った。」と云って、みんなが笑った。母はびしょ濡れになった着物をぬがすと、すごい剣幕で、裸の私を打擲ちょうちゃくした。私の幼い頃、大人からよく聞かされた歌に、こんなのがある。「雨のしょぼしょぼ降る晩にまめだが徳利とっくり持って酒買いに。」これは上方かみがたの歌であろう。私の父は長く大阪に義太夫の修業に行っていたから、家内の者もこの歌を知っていたのであろう。また、こんな歌も聞かされた。「向島花ざかり。だんごの横ぐし、うで卵。姐さん、一寸おいで。おっと呑んで、ねんねしよ。」また、「ののさん、いくつ。十三、七つ。まだ年若いな。」
 庭には鼬鼠いたちや青大将や蝦蟇がまが出没した。祖母は雑巾の上から青大将を掴むと、敷石の上に叩きつけた。鼬鼠は鼠捕りを仕掛けて置くと、それによくかかった。私達は鼠捕りに入っている鼬鼠を、庭の隅にけてある水瓶の中に沈めて殺した。蝦蟇は鼬鼠や青大将に比べれば、可愛いところがあった。沓脱石くつぬぎの上の庭下駄の上にひっそりうずくまっていることもあった。
 廊下を曲がった奥の部屋は四畳半で、ここは外庭に面して出格子があったが、女中部屋に次いで薄暗かった。ここには祖父の姉にあたる人が寝起きしていた。父がはじめて大阪へ修業に行ったのは十三四の頃であったが、この人が附添って行った。家ではこの人のことを、一つは祖母と区別するため、大阪お祖母さんと呼んでいた。この部屋には炉が切ってあって、冬にはその上に炬燵こたつを設けた。雪の日など、兄と私は炬燵に暖まりながら、茶碗にすくってきた雪に砂糖をかけて食べたりした。
 隣りは玄関の三畳間であった。ここには大きな姿見が据えてあった。私はよくこの姿見の前に行って佇んだが、子供心にも自信の無い思いをした。私はその頃、家の者からしょっちゅう、「ばかだ。ばかだ。」と云われていた。またここには神棚が祭ってあって、父が外出するときには、神棚の上に置いてある火打石を取って、父の背ろからかちかち云わせた。
 隣りは蔵前の六畳間で、ここはいわば母と私の部屋であった。夜、ここに父母と私は川の字に寝た。私は生れつき皮膚が弱く、蚊や蚤に食われると、大きく腫れた。私が「かゆい、かゆい。」と悲鳴をあげると、母は夜中でも掻いてくれた。母はまた蚤を捕えると、その箱枕の上でぴしっと音をさせて殺した。ここには母の鏡台が置いてあった。昔風の小さな代物であった。母の髪を結いにくる人はお定さんという、もういい年の人であった。その日には、先に梳手すきてが二人ばかり来て、後からいい時分にお師匠さんが廻って来た。私は母が髪を結うとき、家に居合わせば、いつもそばにいて見た。梳手の一人は私の学校友達の姉さんであった。お定さんもまた沢村伝次郎の、それから伊井蓉峰いいようほう贔屓ひいきであった。髪を結いながら、そんな話ばかりしていた。伊井の背がもう何寸か高ければ申分ないのだがというようなことを云っていた。お定さんは話しながらも、その手は瞬時も休むことなく働いていた。母は殆ど丸髷にばかり結っていた。
 蔵の戸は網戸で、錠前が下りるようになっていた。中には箪笥たんす長持ながもち葛籠つづらの類があった。また祖父が集めた書画骨董の類があった。戸口のわきに二階に通ずる階段があった。二階は父の稽古場であった。この階段から、大阪お祖母さんは二度落ちて、そのつど虫の息になった。一度は回復したが、二度目にはそのまま寝込んでしまった。私はよく階段の中途に腰かけて、二階の稽古を聞いたりした。私はいつともなく、「酒屋」や「堀川」のさわりを聞き覚えた。二階は畳敷は四畳半で、床の間には父の師匠の摂津大掾の写真が飾ってあった。小松宮から拝領した素袍すおう烏帽子えぼしをつけた姿の写真であった。正月には、この床の間には父の弟子達から贈られた供餅おそなえが飾られた。父は盲目であったから、自分では見ることは出来なかったが、沢山の稽古本があった。父はいつもこの部屋にひとりとじこもっていた。部屋の窓から外を見ると、浅草公園の十二階や上野の山が見えた。窓の際には、丈高い公孫樹いちょうがあって、手を伸ばせば、その葉や枝に触れることが出来た。ほかに藤の樹もあって、枝を生垣の外にのばし、かなり大きな藤棚を成していた。花どきには、見事な房を垂れた。関東大震災のときに、この家は焼けた。焼跡に行ったら、玄関の敲土たたきにあった傘桶と、池の縁の鋳物の蟹と亀だけが、そのまま残っていた。私はその蟹と亀とを、そのとき避難した向島の親戚の家に持って行って、そこの池の縁に置いた。





底本:「落穂拾い・犬の生活」ちくま文庫、筑摩書房
   2013(平成25)年3月10日第1刷発行
底本の親本:「小山清全集」筑摩書房
   1999(平成11)年11月10日発行
初出:弟と母のこと「群像 第九巻第十一号」講談社
   1954(昭和29)年10月1日発行
   家「新潮 第五十一巻第十号」新潮社
   1954(昭和29)年10月1日発行
入力:kompass
校正:酒井裕二
2017年9月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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