西隣塾記

小山清




 こないだ電車の中で新国劇の「大菩薩峠だいぼさつとうげ」上演の広告ビラを見かけた。中里介山なかざとかいざん居士追善興行としてあった。この芝居の上演も久し振りな気がする。介山居士は戦争中、生れ在所の西多摩郡の羽村はむらで急逝された。あれは何年のことであったろうか。救世軍きゅうせいぐんの秋元巳太郎氏が葬儀委員長をされたという簡単な新聞記事を読んだ記憶がある。くなられた月日のことを私は覚えていない。また今年は何回忌に当るのか、それも知らない。
 私はかつて介山居士の「千年樫の下にて」という随筆集を愛蔵していた。見返に居士の筆で「質直意柔軟」と書いてある。私の愛読書の一つであったが、手許不如意てもとふにょいの折に、鳴尾正太郎君がくれたフランシス・ド・サールの書簡集と一しょに、ほかの本とまとめて売り払ってしまった。私には介山居士という人はなんとなく忘れ難い人である。そうして居士のことを憶うときにはまたいつも鳴尾君のことを憶う。
 最早十余年の昔になるが、私は一時、介山居士の経営になる羽村の西隣塾にいたことがある。早春から秋ぐちにかけての半歳ほどの間であった。私はすでに二十五歳にもなっていて、最早親のすねかじっているのも工合が悪くまた家庭の事情もいつまでも私を養うわけにはゆかなくなっていた。羽村にゆく前日本橋の本町にあった大菩薩峠刊行会の事務所で初めて会った時、介山居士はった。「瞑想したり、近隣の山野を散歩したりし給え。」
 三月の上旬であった。立川で青梅おうめ線に乗り換えて羽村で下りた。生えはじめたばかりの麦畑や枝の芽吹いていない桑畑が見えて、まだ雪の消えずに残っている武甲の山脈やまなみが眼に迫ってくる感じだった。土地の人が「記念館」と呼んでいる西隣塾の文化瓦の赤い屋根が突き当りに見える、桑畑の間の一本道を歩いてゆくと、前方から自転車が走ってきたが、私を見かけると飛び下りた。
「小山さんですか?」
「そうです。」
「中里先生から通知がありました。待っていました。右手に建物が見えますね。あれは印刷所ですが、あそこに皆さんいますから。」
 それが鳴尾君だった。鳴尾君はそこまで買物にゆくがすぐ帰ると云って、また身軽に自転車に飛び乗った。十七八の少年に見えた。黒の、ボタンも黒のだぶだぶな詰襟服つめえりふくを著ていて、眼のクリクリした、熊の子のような可愛い顔つきをしている。私は振り返って走ってゆく自転車の後姿を見送った。鳴尾君の微笑がとてもよかったからである。「クオレ」の中に出てくる少年のような印象を受けた。
 印刷所の戸を開けると上端あがりがまちにストーブがあって、二人の人がちょうど一服しているところであった。介山居士の甥御おいごさんに当る村木さんと田中澄徹さんであった。私は村木さんの顔を見てなんだか見覚えがあると思った。すぐ思い当った。聖徳太子に似ているのだ。国定教科書の挿絵にある太子像によく似ているのだ。あの肖像はばかに頸長に描いてあるが、村木さんの頸が丁度あんな工合であった。村木さんもいまは子供さんの三四人はある家庭のいいパパに成り澄ましていることであろうから、私が頸長などと云っても、まさか縁起を担がれるようなことはあるまいと思う。私はまた田中さんの顔を見て、子供の時分家の違棚に飾ってあった木彫の鬼の念仏を思い出した。
「すぐわかりましたか?」と村木さん。
 私がうなずいて、そこで鳴尾君に逢ったことを話すと、そのさい私が口にした若い人という言葉をきいて、
「若い人には違いないんですが、いくつだと思います?」
「さあ? 十七八じゃないんですか。」
「二十三ですよ。」
「若いなあ。」
 そこへ鳴尾君が帰ってきた。鳴尾君はお茶請を買いに行ったのであった。鳴尾君の買ってきた饅頭を食べながら、
「いま、小山さんがね、そこで鳴尾君という可愛い少年に逢ったって話をしていたところだ。」と田中さん。
 鳴尾君はまた子供のような微笑を見せて、
「小山さんはおいくつ? 検査はすんだの?」
 私も笑いながら、
「ええ、検査はすみました。二十五です。」
「それじゃあ、僕よりお兄さんですね。若いなあ。」
 私達は顔を見合せて笑った。私もふだん人から年少に見られる方ではあるが、鳴尾君の飛び抜けた若さには一驚いっきょうきっした。村木さんはまた私より二つ上の二十七であったが、私達が幼いせいか、ぐっと老けて見えた。この西隣塾のいわば留守居役であり、また印刷所の主任であった。田中さんはもう三十を越していて子供もある人で、近くの多摩河畔にある小山のふもとに住んでいて、毎日自転車に乗って塾へ通ってきているのであった。
 夕刻オート三輪車に乗って東京から介山居士が到着した。その頃介山居士は東京に十日羽村に七日という風に、居士の言葉を借用するならば、水陸両棲動物のような生活をしていた。東京羽村間の往復には最初オート三輪車を使用していたが、まもなく当時流行しはじめたダットサンを購入された。運転手は大竹さんと云って私達と同年配の人で東京の居士の家に夫婦で住み込んでいた。村木さんは器用な人で小型の運転が出来るので、居士が羽村へやってくると、大竹さんが東京へ帰るまでの時間を、私達はあちこちダットサンを乗り廻したものである。介山居士は大竹さんのことを「重兵衛、重兵衛」と呼んでいた。けだし先代貞山の読物に出てくる大竹重兵衛を連想されての愛称である。私は大竹さんに頼んで、駅留になっている私の夜具布団を、三輪車に乗せてもらって塾まで運んだ。介山居士はうどんを食べようと云って、五十銭銀貨を鳴尾君に渡した。鳴尾君は自転車を走らせた。東京の相場しか知らない私は、五十銭でいくらうどんが食えるものかと思い、あるいは介山居士という人は吝嗇けちなのであるまいかとひそかに心配したりしたが、やがて鳴尾君が帰ってきて、さて食べはじめてみて驚いた。一枚の五十銭銀貨は六人の大人がバンドをゆるめてかかっても食いきれないほどの大量のうどんに化けていて、鳴尾君と私は翌朝の食事もそれで済ましたほどであった。
 その頃西隣塾には五棟の建物があった。文化瓦の赤い大きなのが本館で、ここには「大菩薩峠」に関するいろんな記念品が飾ってあった。記念館の称のある所以である。本館に向って右手に印刷所。ここで介山居士の著書や機関誌「隣人之友」の活字を組んだ。輪転機がないので印刷は東京の印刷屋でやってもらった。本館の裏手に草葺くさぶきの家がある。この家は武州高尾山の妙音谷にあった居士の草庵そうあんをそっくりそのままこの地に移したもので、当時村木さんが住んでいた。耕書堂というのがあった。これは図書蔵で本館から渡り廊下が附いていた。その奥に居士が羽村に来た時に寝起する瓦葺の小庵があった。居士は羽村へ来るとこの小庵で自炊の生活をした。自分で畑のねぎなど抜いてきて汁をつくったりしていた。私達は居士は居士、村木さんは村木さん、そうして鳴尾君と私という風にめいめい勝手にやっていた。鳴尾君と私は始は二人かわりばんこに飯をいたが、そのうち私は横著を極め込んで、いつのまにか鳴尾君ひとり女房役に廻るようになった。鳴尾君は前年の十一月の末にここへ来たので、私より三月先輩というわけであった。
 鳴尾君と私は本館の三階と云うと体裁はいいが、実は屋根裏に寝た。「ひどいとこですよ。」と鳴尾君は幾分気づかわしげに私の顔色をうかがったが、私がさらに辟易した様子を見せぬので安心したようだった。私は衣食住には無関心な方なので、野蛮な生活様式はむしろ望むところである。私は細長い屋根裏のまんなかへんに柔道用の畳を三畳がとこ敷いて、そこをねぐらにした。鳴尾君はまた窓際に陣取っていた。「寒くないですか?」と訊いたら、「星が見えるから。」と風流なことを云った。窓の外をこがらしが吹く音をききながら寝ていると、自分が非常な高処たかみに巣をつくっているような気がしてきて妙だそうである。また樹上に坐禅を組んだという栂尾とがのお明恵上人みょうえしょうにんのことがしのばれるという。私はまた当時流行していたジャングル映画に出てきたなんとか族の土人が樹上に住居を営んでいたことを思い出したりした。私はこれから始まる自分の生活のことよりも、鳴尾君のような人がよくも鼠にも曳かれずにこんなところに独り暮してこられたものだと思った。
 話し合ってみると鳴尾君と私にはふしぎな縁故があった。私は十八の年に故高倉徳太郎先生から洗礼を受けた。当時の私にとっては基督教キリストきょうイコール高倉であった。それほどに私は一時先生に傾倒した。が、二十の年にはもう教会から離籍して浪人してしまった。私はズボンのポケットに無造作に突込んであった金を散歩の途上で落してしまったように、いつのまにか信仰を失くしてしまっていた。鳴尾君もまた二十の年に高倉先生から洗礼を受けた。そうしてその頃は高倉先生が校長をしていた東京神学社の学生であった。大竹重兵衛氏の説によれば失恋に由来する神経衰弱で一時休学しているのだということであったが、しかし失恋のことは措いて、鳴尾君のわだかまりのない微笑は、神経衰弱なんかとは縁のないものに見えた。「いいえ、わがままなんです。」と鳴尾君は言葉少に云うだけだった。高倉先生の消息を尋ねると、いまは郷里の綾部で病を養って居られるということだった。そうしてこの方はほんとの神経衰弱らしかった。鳴尾君は高倉先生のことが心にかかる風で「掛替のない人だから。」と云った。私はそういう鳴尾君にいきなり心が寄せられた。
 私達はすぐにへだてのない仲になった。鳴尾君は私のことを「案山居士」などと云った。山田の中の一本足の案山子かかしのことである。勿論鳴尾君は口から出まかせを云ったのでなんの意味もないのだが、しかし私はそんなものに似ているわけはなかった。彼は頓馬とんまで、哀れで、笑止千万な奴ではあるが、それでも少くとも雀威すずめおどしの用には立つ。私には自分がなんによらず物の役に立とうなどとは思えなかった。私は自分を一本の焼木杙やけぼっくいだと思っていた。誰だか知らないが白い衣を著たへんな人がうしこく参りをして、私にかたどった人形ひとがたに呪いと共に瞋恚しんいの釘を打ち込んでいるのではあるまいかという妄想に襲われたりした。私にはしばらく前から睡眠中にギリギリ歯軋はぎしりを噛むいやな癖がついてしまっていた。私こそ神経衰弱かも知れなかった。私は鳴尾君のことを「贋牧師」と呼んだりした。鳴尾君は黒の色が好きらしかった。小柄なからだにいつも黒のだぶだぶな服を著ていたが、そのだぶだぶなところがまた気に入っているらしかった。「僕は窮屈なのは嫌いなんです。」と云っていた。鳴尾君の外套がいとうというのがまたひどく特徴のあるものであった。やはり黒い色の、丈は恐ろしく短いが、身幅はまた恐ろしくたっぷりしている、外套というよりもマントに近い感じのものであった。そのうえ帽子がまたふるっていた。ウェイクフィルドかステパンチコヴォの村長さんでも被りそうな黒の小型の山高帽子というよりは、お椀シャッポに短いへりをくっつけたようなへんてこな代物であった。穿く靴がまたよかった。ボタンで止めるのでもなければ、紐でくくるのでもない、ゴムの帯が附いていて、すぽっと足の入るやつ、あれであった。頭の天辺から足の爪先まで黒一色、宛然牧師の卵の如きものが出来上ったが、それが決して滑稽でなかった。偶然に寄せ集められたのではなくそこに鳴尾君の好尚がはたらいていたからではあろうが、なにか人柄にぴったりはまっていて一分の隙もなかった。詩人の身嗜みだしなみと云ったようなものさえ感じられた。私は鳴尾君におしゃれの天稟てんぴんのあるのを察知した。恐らく年頃の娘さんはこういう可愛い牧師さんから祝福を授けてもらいたくなるのではなかろうか。鳴尾君はときたまそんな扮装でいそいそと青梅の町などに出かけたりしていた。私はそういう鳴尾君を「贋牧師」と呼んだ。鳴尾君はいつも持前の柔和な微笑で応じた。鳴尾君の意識に厭味いやみな文学趣味など毛ほどもなかったことは云うまでもない。私はまた鳴尾君のことを時に「讃美歌牧師」と云ったりした。鳴尾君の声は純粋のバスだった。印刷所で文選をしながら詩吟をしたり讃美歌をうたうことがあったが、そういう時私達は思わずきき惚れた。そういう人を惑わす技倆ぎりょうを持っているからにはいよいよ贋牧師の資格があると云ったら、鳴尾君は真面目に「ええ、神学社の寄宿舎では僕が一番讃美歌が巧いんです。」と答えた。恐らく鳴尾君の讃美歌は天上のエホバの御座みくらにまでとどいたことであろう。私は時に鳴尾君の祈祷きとうの姿を瞥見べっけんすることがあった。鳴尾君は私達の眼につかぬようにつとめて気をつけていたようではあるが、そういう時私は自分が大事なものを失くしてしまったような気持になった。隠れたるに見給う神に祈を捧げている鳴尾君の姿には、使徒トマスとかアンデレとかを彷彿ほうふつさせるものがあって、私はひどく心をそそられたのである。バンカラな不良学生がお行儀のいい優等生にふと感ずる郷愁のようなものかも知れなかった。
 私達塾生の日課は主として印刷所で介山居士の著書や雑誌「隣人之友」を組むことであった。輪転機がないため印刷することが出来ないので、植字したやつをその都度大竹さんが東京羽村間を往復して印刷屋へ運搬した。植字は専ら村木さんがこれに当り、鳴尾君と私の二人が文選を受け持ち、田中さんは近眼だったので主に解版の仕事をやってもらった。私は日ならずして文選の仕事に熟達した。旬日を出ずして一日に九ポで八箱は拾えるようになった。自分でも意外であったがはたの人も驚いた。この仕事はあるいは自分の性に適するかも知れないと思ったが、しかし私の能率はそれ以上は決して上らなかった。一月立っても二月立っても同じであった。私の遣口やりくちにはどことなくもたもたした覚束おぼつかないところがあって、鳴尾君と比較すると、どうしても正確さや敏速さに欠けていた。二人で何度か競争もやったが、いつも負けた。自分のやることはいつもこれだ、決して番狂わせはないんだ、自分はやっぱり駄目な奴だ、焼木杙やけぼっくいだと思った。
「僕は駄目なんだ。わかっているんだ。」
「そんなことはない。」
「誰かが丑の刻参りをして僕を呪っているんだ。」
 鳴尾君は噴きだして、
「まさか、そんな、机竜之助ではあるまいし。小山さんのようないい人を呪う人なんかいるものですか。」
「そうかしら、僕はいい人かね。僕は買物をしても嘗て一度も有難うって礼を云われた験がないんだ。ひがまざるを得ないね。」
 鳴尾君はまた笑って、
「それはひどいな。ほんとですか。しかしそういう受難は聖者の生涯には附きものですね。人に賤しめられしりぞけられてこそ聖者でしょ。まあ癩病らいびょう人みたいなものだな。誰もその毫光ごうこうには気がつかない。」
「なんだ。そんな子供みたいな顔をしていて、それでもお世辞の一つ位は云えるんだね。贋牧師の本性紛れもないな。」
「いいえ、僕はほんとうにそう思っているんです。小山さんは生涯の終にはきっとこういう風になりますよ。」
 鳴尾君は眼をクリクリさせながら、指で頭の後に円を描いて見せた。
 日曜日が来る毎に私達は印刷屋から日曜学校の先生に早変りした。本館の二階の大広間を開放して教場に使った。生徒は村の子供達だった。たいして面白いものでもなかったのだが、それでも大勢やって来た。介山居士は子供達のために毎週短い感話を書いた。私達はそれをカードに印刷して子供達に配った。多くそのときの季節や月日にちなんだ話であった。彼岸ひがんのことや屈原くつげんについての小話があったのを覚えている。私を除いた三人の先生が話をした。私にはとても有象無象を前に控えて話など出来なかった。カードの文章を読んでそれを子供達に読ませるのがやっとだった。私はいまはそれほどでもないが、昔はひどいはにかみやでなにかと云えばすぐ処女の如くはにかんでしまったものだ。たまには介山居士が話をすることがあった。居士は子供達に多摩の河原からめいめいの好みの石を拾ってこさせてそれの品評をしたりした。居士は掌に一つ一つ石をのせて、この石は大へん奇抜な形をしていて面白いようではあるが、こういうものはすぐ飽きてしまって長くは私達の心を惹かない、この石は見た目は平凡でつまらないもののようではあるが、よく見るとこの素直な形には汲めども尽きない味わいがある。そんな風に話した。鳴尾君は話が巧かった。多く聖書の話をした。ノアの方舟はこぶねの話、イエスの誕生の日のうまや小屋の話、エマオの途上の話など記憶に残っている。ノアの方舟の話は傑作だった。鳴尾君は大混雑の方舟に乗り合せているいろんな動物の心理描写をやってのけたのだが、そのユウモラスな話し振りには子供達は大喜びであった。私は鳴尾君に文学の才能があると思った。
「童話を書いてみたら。」
 と云ったが、鳴尾君は否定して、
「僕は子供が好きなんです。くにへ帰って小学校の先生になろうかとも思っているんです。教会の日曜学校にも出たことがあるけれど、ここの子供の方がいいですね。野育ちの方がいい。都会の子供はなんて云うか子供の癖に文化的な厭味みたいなものがあって。ここの子供は暮しは貧しいようだけれど、皆んなのびのびしていますね。話をきいていると面白いですよ。明るい機智に富んでいて。生活の智慧ちえと云ったようなものさえ芽生えていますね。前にこの屋根裏へ上ってきて僕の寝床を見つけて、なんて云うかと思ったら、なんだ雀の巣かと思ったら人間の巣でやがんのだって。面白いことを云うでしょ。」
 そういう鳴尾君は子供達から慕われていた。鳴尾君の机のまわりは子供達からおくられた図画や習字が一ぱい飾ってあった。
「あんまり殺風景だから子供の絵でも貼りつけてやろうと思って無心をしたら、こんなに沢山持ってきてくれたんです。子供なんて自分の持っているものを一ぺんに出してしまわないと気がすまないんですかね。」
「僕がそうなんだ。」
「ええ、実は僕もそうなんだ。」
 二人は顔を見合せて笑った。なんと云っても私達は二人共に年が若かったのである。子供達に心を惹かれていることが、鳴尾君の滞在を長引かせている原因の一つであることは間違いなかった。
 私はこの屋根裏部屋で「こうのとり物語」という習作を書いた。鸛が揺籃ゆりかごへ置いていった子供、若い日のアンデルセンのことを書いた。鳴尾君に読んでもらった。「僕は好きだな。涙が出そうになったところが一箇所あった。」と鳴尾君は云ってくれた。
 鳴尾君はまた介山居士が子供達のために書いた文章をカードに印刷する際にハガキに印刷して(丁度カードの大きさがハガキ大だったので)その都度くにの弟妹達へ送っていた。鳴尾君の郷里は紀州のなんとか郡の富貴村というところで家は代々百姓をしていた。大家族らしく、そうして鳴尾君は長男で、弟妹達はまだ幼いらしかった。鳴尾君は私にもそうすることを勧めたが、私にはそんなハガキを送る宛はなかった。その時だったか、それからどんなことを云ったのか、それは忘れてしまったが、私が自分の家庭について云ったことをきき咎めて、鳴尾君が「エゴイストだなあ。」と嘆息を漏らしたことがある。私は鳴尾君の「神経衰弱」と云うより頭痛の種は家庭的なことかも知れないと思った。云うまでもなく鳴尾君の家の宗旨は基督教ではなかった。高倉先生が病気なのが鳴尾君には痛手らしかった。それでも鳴尾君は毎日日課のようにして英訳本で「基督教原理」を読み進めていた。その頃はいまのように宗教書の氾濫はんらんを見ず、「基督教原理」の完訳もまだ出版されていなかったのである。
 印刷所の仕事がわりに忙しくて、介山居士の云ったように、そんなに近隣の山野を散歩も出来なかったが、それでも日曜の午後などには鳴尾君に案内してもらってあちこち歩いた。私は木や草の名など皆目知らなかった。桑畑も実はわからなかった。あの木の根っこみたいのは一体なんだろうと思ったものだ。鳴尾君はそんな私にいろいろ知識を授けてくれた。げんのしょうこが植物で薬草だということを知ったのも鳴尾君のたまものである。私はそれまで※牛児げんのしょうこ[#「特のへん+尨」、U+727B、290-18]山椒魚さんしょううおの一種のようなものだと思い込んでいたのだ。鳴尾君はこんな風に私に野外教授を施してくれた。「これは道のべの木槿むくげは馬に喰われけりの木槿です。」とか、「これは遍く茱萸しゅゆを挿んでの茱萸です。」とか。鳴尾君は王維おういの望郷の詩をよく吟じていたものだ。私は月見草さえ知らなかった。
「中里先生は月見草が好きなようですね。おそらく余の愛するに適した花かも知れない、なんて随筆に書いていますね。」
 そうして鳴尾君は云った。
「小山さんは中里先生をどう思います?」
「やさしい人だと思う。」
「僕もそう思います。」
 一日「大澄山」の麓にある田中さんの家庭を訪問した。この辺は多摩川の流に沿ってひとつらなりの丘陵が起伏していて、田中さんは自家の裏山に当る一つを仮りに名づけて大澄山と呼んでいたのである。こんもりとした恰好のいい小山で、この山を見た人には、田中さんの命名はなんとなく思いつきな気がされるのである。「私は大澄山の麓に居住いたします田中澄徹と申す者でございます。」など「大菩薩峠」の弁信法師もどきに、食後の腹ごなしにはよくやっていた。いつか、大澄山という名称と澄徹という雅号とは、どちらが先に生れたのかとききただしたところ、田中さんは頭をなでなで、「それは君、鶏がさきか卵がさきかというようなものだよ。」とぬからぬ笑を見せた。私はさきに田中さんのことを鬼の念仏に似ているように云ったけれど、なにも田中さんはあんな恐い顔もまた苦虫を噛み潰したような顔もしているわけではない。なんとなく感じに似ているところがあるのだ。また鬼の念仏とか鬼瓦とかいうやつはよく見ると、恐くもなんともない。かれらには人間に見かけるような悪相がない。つまり邪慳じゃけんでも陰険でもないのだ。むしろ人間を恐怖するのあまりあんな顔つきになってしまったような形跡さえ見える。かれらの鬼面はあるいは正当防衛の結果なのかも知れない。口からはみ出している牙は敵に挑むためのものではなく守るためのものである。田中さんは愛想のいい気のおけない腰の低い人である。少しく多弁でそうして親切である。人と話しながら時々頭に手をやってなでさするような手つきをする。そういう時田中さんは相手の気を兼ねて口をきいているのだ。田中さんの家庭はお母さんに奥さんにそうして子供さんは二つ位の男の子が確か一人だったと覚えている。田中さんが毎日塾へ出かけている留守を、お母さんと奥さんは畑仕事をしているのだ。そういう暮しである。田中さんは生れつき鋤鍬すきくわ作業は嫌いらしく、はたち前後から家を飛び出して、東京でいろんな職業にいたり、宗教団体に加盟したり、社会改良派の仲間入りをしたりして、自分の好きなことをやってきたらしい。そういう「浮草」のタイプなのだ。狭山茶の行商をして苦学していた頃の思い出を書いて「隣人之友」に載せたこともある。田中さんのような人はどんな田舎にも一人や二人は見かけるのではあるまいか。田中さんはこまめであった。人のいやがるようなことも気軽に引き受けた。いつも進んで貧乏籤びんぼうくじを引き当てようとする人間が塾には二人いたのである。田中さんと鳴尾君である。それをいいことにして村木さんと私はいつも横著を極め込んでいた。だから田中さんはちょこちょこしているように見えることもあった。けれども決してそんな人ではなかった。私は田中さんを見てやはり素朴な田舎人だと思った。都会で猫の額ほどの地歩を争っている者の持つずるさもひつっこさもない。まして田中さんは挑むにも守るにも牙などは持ち合せていなかった。私のような世間見ずの天邪鬼あまのじゃくに対しても終始寛容を以て臨んでくれた。そういう田中さんにはいわば人生の端役を以て任じている者の雅懐がかいがあった。私がその第一印象に鬼の念仏を聯想れんそうしたというのも、つまりその雅懐から生ずる田中さんの持つ微笑ユウモアが然らしめたのではあるまいか。思うに子供の虫封むしふうじなどのまじないに利用されるかの鬼の念仏像はむしろユウモラスな存在ではなかろうか。その日鳴尾君と私は田中さんの東京放浪時代の形見とでも云うべき署名帳を見せてもらったが、それには実に各界名士の署名が綺羅星きらぼしの如く並んでいて、よくもかく万遍なく天路歴程てんろれきていが出来たものだと二人とも魂消たまげてしまった。サンプルをお目にかければ、床次竹二郎とこなみたけじろう菊池寛きくちかん与謝野晶子よさのあきこ山室軍平やまむろぐんぺい賀川豊彦かがわとよひこ喜多村緑郎きたむらろくろう中村吉右衛門なかむらきちえもん堺利彦さかいとしひこ丸山鶴吉まるやまつるきち、ざっとこんな工合である。中には寸言や俳句さえ書き添えてあるのがあった。田中さんは私達の驚いているのを満足そうに見て、「皆んないい人だった。気軽にすぐ書いてくれた。」と云った。奥さんがつくってくれた菜を炊き込んだかゆを御馳走になった。
 塾へ帰る途で、
「羽村って貧乏村だね。なんにもないね。いいね。」
 と云ったら、それで鳴尾君には通じたようで、
「ええ。土地の気風も悪くないし。どう? 落著けそうですか。」
 私はそれには答えずに、
「僕は夢をみてもみんな東京のことばかりだ。ここの生活はまだ夢の中に入ってこない。」
 鳴尾君はふと思いついたように、
「高尾山にいた頃の中里先生の生活はよかったようだな。御自分でもそう云っていますね。『千年樫の下にて』という本があるでしょ。読みましたか? あんな生活はたのしいだろうな。」
 羽村は小さい貧しい村である。家も粗末な家ばかりだ。それでも養蚕期ようさんきには少し実入があるらしい。初めて羽村の駅に下りて、畑の中に桑の根っこを見、まだ雪の消えずに残っている山脈を見た時には殺風景にも思った。また土地の人の口の悪いのに、喧嘩腰で話しているようなのには驚いた。気性の荒いところかとも思ったが、そうではなかった。暮してみて私の心に触れてきた貧しさには柔かさがあった。私は思った。貧しい人の心には決して貧を卑しむ気持がないということを。その頃介山居士が「隣人之友」に書いた詩の一節に「平なる野と空とを見つ」というのがあったが、羽村はただそれだけの奇もない平凡な貧乏村である。しかし平なる野と空と、そうして多摩の流があり、好い青葉期を持つ村の貧しさは平明なものだ。それは人の心を荒くしたり鋭くしたりするようなものではない。子供が明るくのびのびしていて、土地の気風に貧を卑しむところのないのは自然だと思う。東京をわずかしか離れていないのに、すでに言葉もひなびていて、その土地の気風を存しているのが、私にはゆかしい気がした。
 ある日、介山居士が名づけて「お銀様の桜」と呼んだ桜樹の下に縁台を持ち出して皆んなでお茶を呑んでいた時、「大菩薩峠」の朗読会をめいめい役をきめてやってみようという話が出た。村木さんは自ら竜之助の役を買って出た。田中さんの弁信法師は自他共に許すところ。鳴尾君はさしずめ清澄の茂太郎。さて私だが、その時介山居士がふと云った。
「小山君は与八がいいだろう。」
 あの種も仕掛もない善玉の役を私に振ってくれたのである。なるほどと私は思ったが、
「僕はピグミーになりたい。」
 居士はさりげない表情で、
「そう先っ走りをしてはいけない。」
「大菩薩峠」の読者は知っているわけだが、あの大長篇の中巻あたりに、ピグミーと呼ぶ一種の下等動物が出てくる。こいつはまことに下等なやつで、勿論人並にお袋の腹から生れ出るというわけにはまいらなかった。天井の節穴などから過って世の中に顔を出した哀れな代物である。眼もなければ口もないのに、胃袋は自尊と虚栄でパンクせんばかりにふくれている。こいつが時々思い出したように竜之助を挑みにくる。竜之助がとりあわないでいると、いつまでもへばりついていて、さかんに神経戦術を用いる。流石さすがに煩くなってきて、抜く手も見せず一刀両断にするのだが、そこが下等動物の哀れさと云うか、浅間しさと云うか、自分が真二つにされたという自覚症状がない。壁なんかにとりついてヒクヒクやっているうちに、安直なことには、どうやら息を吹返す。そこで安直先生、わが鉱脈の底知れぬことよと自分で自分に感服して、またぞろ竜之助のおひげの塵をはらいにくる。まことにうるさいやつ。ピグミーとはかかる下等動物である。私だとてこんなやつにはなりたくない。それでは折角いい役を振ってくれたのになぜあんなことを云ったのか。天邪鬼からでも悪戯気からでもない。私はそういうことは大嫌いなのだ。ただ雑音である。出来の悪いラジオではないが、私は時々こんな雑音を発する。「ピグミーになりたい。」という言葉の背後には私という人間は全然いないのだ。またこんなこともあった。あるとき東京からお客様が来て、介山居士は本館の中を案内して廻って記念品を見せていた。私もかたわらにいた。記念品の中に石井鶴三いしいつるぞう氏の画があった。狼を連れて走っている清澄の茂太郎を描いたものである。いい画だった。私はその時その画をやたら褒めちぎった。介山居士と石井氏の間に大喧嘩のあったことは世間周知のことである。まだそのほとぼりの醒めていない時であった。東京のお客は私の誇張した賞讃の言葉にまゆしかめた。しかし介山居士は笑いながら「よく描けている。」と一言云っただけだった。このことも私の性に反する。やはり雑音のたぐいである。
 耕書堂からなにやら古ぼけた本を抱えて出てきた介山居士が、渡り廊下を本館の方へ歩いて来ながら私を見かけて、「小山君、一寸ちょっときてくれ。」と呼んだ。私は印刷所へゆくところだったが、居士に附いて本館の一室に入った。居士はそこにある大机に向って腰をかけ、私にもその脇に腰をかけさせた。口述筆記なのであった。その頃居士は「隣人之友」に「日本武術神妙記」の続篇を連載していたが、その口述筆記であった。居士は懐から眼鏡のケースを取出して眼鏡をかけ、本を開いてゆっくり口述された。源頼政のぬえ退治のくだりであった。居士の顔は眼鏡をかけるとやさしくなる。また居士は太鼓腹で恰幅のいい人で、みかけは土方の親方のようであったが、声はやさしかった。少年時代には電話の交換手を勤めたことがある位で、きれいな声をしていた。ふだんはそれほどにも思わなかったが、口述などする時にはそれがわかった。私は胸をどきどきさせながら筆記した。居士は私がのべつインキ壺にペン尖を漬けるのに気づいて、
「どれ、見せてごらん。」
 と私が差し出した原稿用紙をのぞいて、
「あまり力を入れて書くから、すぐインキがきれてしまうんだ。」
 と云った。私は自分のやたらインキをにじませている金釘流が恥ずかしくてならなかった。居士は自分でペンをってさらさら書き流した。
「ほら、こういう風に軽くペンを走らせればいいんだよ。」
 小学生の時習字の時間などに、たまたま先生から手を取ってもらって教を受けることがある。先生の掌は大きくて暖くて、小さい生徒の胸は嬉しさと恥ずかしさで一ぱいになる。私はその時それに似た気持になった。居士からペンを渡されてまた筆記を続けたが、いくら気をつけても私のペンは軽く走らず、私の書く字はたっぷりインキを滲ませて、私は相変らずせわしくインキ壺にペン尖を突込まねばならなかった。
「今日はここまでにしておこう。」
 と云って、居士は私の筆記に眼を通し、誤字を訂正し脱字を書き入れたりした。居士は「御苦労さん。」と云った。もう用はないのである。私はもじもじしていたが、云った。
「先生は千年樫の下にいた時には楽しかったですか?」
 居士は眼もとにうすく笑を見せて頷いただけだった。なんだかばつが悪かった。私はまた云った。
「自分の若さというものがまとまって胸に浮んでくるような期が来るでしょうか?」
 居士は私の顔から眼をそらしたが、誰にも心のらくになるような期が一度は来るようだ、というような意味のことを云った。それから居士はふと思いついたように立ち上って、そこに陳列してある本の中から一冊抜き出して、また机に向い、ペンを執って一寸躊躇ちゅうちょしてから見返に「質直意柔軟」と書いて、その「千年樫の下にて」を私にくれた。私が本をあけて挿入してある千年樫の写真や居士の草庵の写真に飽かず見入っていると、居士は立ち上った。渡り廊下を耕書堂の方へゆく居士の後姿に私は呼びかけた。
「先生。」
 居士は立ち止って横顔を向けた。
「青年はどういう本を読んだらいいでしょうか?」
「聖書。論語。」
 居士はそう云捨てて廊下を歩いていった。
 私は介山居士が千年樫の下に草庵を結んでいて、かしずく一人の弟子が私であったなら、どんなにいいだろうと思った。私は薪を拾い、水を汲み、畑を耕すだろう。私は「ピグミーになりたい。」など勿論云わないだろう。また青年はどんな本を読んだらいいかなど問いかけもしないだろう。居士の傍にいるだけで、その声をきいているだけで、私の心は満たされるだろう。時に居士が私を呼んで論語をひもとき教えてくれるならば、私はどんなに嬉しいことだろう。居士の一言一句に私は耳を傾けるだろう。そうして私の心はいつもあるべきところにあるだろう。
 夏のことであった。私が屋根裏部屋で昼寝をしていると、階下から「案山居士、いるかい?」と呼ぶ鳴尾君の声がした。鳴尾君が私のことをそんな風に呼ぶのは、いつもなにかある時に限る。下りていって見ると、鳴尾君はいやにそわそわしている。
「ばかに興奮しているじゃないか?」
 と云うと、
宋淵そうえん坊が来たんだ。」
 と眼を輝かせている。中川宋淵さんは介山居士の友達で、その頃「隣人之友」に毎号俳句を寄稿していた。時には行脚先から音信が舞い込んだりして、私はそのまれな古調を愛読していたものだ。
「どんな人だ。」
「ま、会ってごらんなさい。」
 私は鳴尾君の顔を見て、この輝きが宋淵坊の照返しだとしたら、これは相当なものだと思った。この日私は宋淵さんをつかまえて、坐禅のやり方を教えてもらったが、私はこの青年僧に完全に圧倒された。たくしあげた僧衣の裾からはみ出している、日焼した逞しいすねを見ただけで、眼のくらむ思いがした。その日焼けが並大抵の日焼けではないのだ。赤銅しゃくどう色なんてところを通り越していた。行脚あんぎゃというものが生易しいものでないことを雄弁に物語っていた。私の坐禅が三日坊主に終ったことは、これは云うまでもない。ずっと後になって、三好達治氏が著した「諷詠ふうえい十二月」という本に、宋淵さんの、たらちねの生れぬ前きの月明り、という句が択ばれてあるのを見た。
 九月に入って間もなく私は西隣塾を辞した。「田舎はこれからがいいんですよ。もっとゆっくりしてゆきなさい。」と村木さんは云った。田中さんは私が東京へ帰るのをしきりに止めた。私は使いあましたインキ、ペン、ノートのたぐいが荷物になるので、田中さんに上げたが、田中さんは「これは預っておきます。その気になったら、いつでも帰っていらっしゃい。」と云って、どうしても告別の言葉を云わなかった。鳴尾君は「僕もそのうち寄宿舎に帰ります。」と云った。介山居士は「また遊びに来給え。」と云った。
 東京へ帰ると私はすぐにあくせくしはじめた。それは始からわかっていることだった。私が蓄音器商組合の調査部員などという怪しげな職業に就いていた時、突然鳴尾君から電報が来た。新宿駅へ直ぐ来いというのであった。私は自動車で駆けつけた。鳴尾君はれいの贋牧師の扮装で風呂敷包を下げて駅の前に立っていた。私達は近くの喫茶店に入った。鳴尾君が私に風呂敷包を渡して、これから柏木の学友の許にゆかなくてはならない、……そう、ゆくとは云わなかった、なにか用事があるらしく、ゆかなくてはならないと云った時、お巡りさんが入ってきていきなり私達に一寸交番へ来いと云った。なんですかと云うと、なんでもいいから来いと云った。私達は駅前の交番に連れ込まれた。お巡りさんは私達の顔を等分に見て、「君達は何をしていたんだ?」と訊問した。なにもしていない、お茶を呑んで久闊きゅうかつじょしていたところだったと答えると、その風呂敷包を拡げてみろと云った。私はこの時はじめてハハアと合点が入った。このお巡りさんは私が自動車で駆けつけた時から見ていて、それで私達のことをなにか街頭連絡のたぐいに見過ったのに違いないと思った。まったくそうらしかった。風呂敷包の中身は私が塾を辞する時鳴尾君に預けていった本である。千年樫の下にて、フランシス・ド・サール書簡集、秋元巳太郎氏の伝道日記、和讃集等々である。サール司教がシャンタル夫人に与えた書簡集は鳴尾君が私に餞別にくれたものである。塾にいる時私が一寸のぞいてみて、チェホフに似ているなどひどいインチキを云った本である。お巡りさんは一冊一冊手に取って見ていたが、どれもが赤い本でも黒い本でもなく、むしろ抹香臭いものであるのに怪訝けげんな面持になった。やがて自分の思い違いに気づいたけしきで、もう帰ってよろしいと云った。私達は今更お茶を呑みなおす気にもなれず、交番の前で左右に別れた。
 次にそうして最後に私が鳴尾君を見たのは、高倉先生がくなって、その葬儀が信濃町教会で執行された時であった。葬儀委員長は田川大吉郎たがわだいきちろう氏であったか、それとも斎藤勇さいとうたけし氏であったか、私の記憶はあやふやである。高倉先生のひつぎを担うお弟子さん達の中に鳴尾君はいた。私はふいに鳴尾君が顔をしかめるのを見た。大勢で担っているのに柩が重いわけはない。むしろ先生の遺骸は軽ろきに失したのであろう。そうしてこのことが鳴尾君の顔を顰めさせたのであろう。その日私は鳴尾君と遠くから目礼し合っただけで言葉は交さなかった。
 その後私の生活は急速にひどくなった。住処も転々と移り変った。
「その気になったらすぐ帰っていらっしゃい。」そう云った田中さんの声音を私は何度も思い起した。私もまた「浮草」の生れつきであった。そういう中で私は鳴尾君が松江教会の副牧師になって赴任したことを風の便りに聞いた。しばらくして私はまた鳴尾君が病を得て郷里の富貴村で急逝したことを耳にした。介山居士が鳴尾君の夭折をいたく惜しまれたという話も伝え聞いた。
 私は西隣塾を辞して間もなく鳴尾君から手紙をもらったが、その中にこんなことが書いてあったのを覚えている。断るまでもなく原文の通りではない。
「三家三勇士の一人は紀伊の某という若侍だ。三十三間堂で通し矢を試みて、始はうまく的を射ぬいたが、そのうち放つ矢がみんな的を外ずれるようになった。絶望して腕をこまねく折、始終を物陰で見届けていた、これも三勇士の一人である尾張の某という侍が出てきて、小柄で腕の鬱血うっけつをとりのぞいてくれる。そこでまた試みると、こんどは百発百中であったという。この話は今日耕書堂で『日本武術神妙記』の口述筆記をした時に、君の話が出て、そのさい中里先生が話してくれたのだ。僕はこの話を聞いて君が自分のことをいつも焼木杙だと云っていたことを思い出した。中里先生は君が塾を去られたことを遺憾に思っていられるようだ。耕書堂には君も知っているように、中里先生が虎の画を描いた衝立ついたてがある。先生はその衝立を背後にして口述された。僕はなんとなく四睡図しすいずを思い浮べた。確か浅草寺にあるやつだ。虎に倚懸よりかかってみんな昼寝しているのだ。豊干ぶかんはもとより先生である。僕は寒山かんざんだか拾得じっとくだか、それは知らないが、一人の欠けていることが物足りない気がした。」
 師友に先立たれて独りあとにとり残されるのは、所在ない気の抜けた気持のものである。





底本:「落穂拾い・犬の生活」ちくま文庫、筑摩書房
   2013(平成25)年3月10日第1刷発行
底本の親本:「小山清全集」筑摩書房
   1999(平成11)年11月10日発行
初出:「文学界 第三巻第九号」文藝春秋
   1949(昭和24)年11月1日発行
入力:kompass
校正:酒井裕二
2018年10月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。





●表記について

「特のへん+尨」、U+727B    290-18


●図書カード