聖アンデルセン

小山清




「海は凪いでいた。」と月は言った。「水は私が帆走っていた晴朗な空気のように透明だった。私は海の表面より深く下の方の珍しい植物を見ることが出来た。それは森の中の巨大な樹木のように、数ひろの茎を私の方へ差上げていて、その頂きの上を魚が泳いで行った。空中高く一群の野生の白鳥が渡っていた。その中の一羽は翼の力が衰えて下へ下へと沈んで行った。彼の眼はだんだん遠ざかってゆく空中の隊商の後をったが、両翼を広くひろげたまま、石鹸せっけん球が静かな空気の中で沈むように、沈んで行って水面に触れた。首は翼の間に折り曲げられた。彼は穏やかな内海の上の白いはすの花のように静かに横たわっていた。やがて風が起って軽い水面にひだをたてた。水面はまるで大きな広いなみになって転がるエエテルででもあるように、きらきら輝いた。白鳥は首をあげた。閃々せんせんと光る水はあおい火のように胸とを洗った。朝の微光が赤い雲を照らした。白鳥は力づいて立上った。そうして昇る太陽の方へ、空中の隊商が飛んで行った、碧みがかる岸辺の方をさして翔けて行った。しかしただひとり胸に憧憬を抱いて翔けた。碧いふくらみあがる水を越えて寂しく翔けた。」
――アンデルセン「絵なき絵本」茅野蕭々訳――
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 お母さん、今晩は。いま、月が知らせてくれました。君のお母さんは揺椅子にもたって編物をしながら、こっくりこっくりしているって。昼間のお疲れが出たのだろうと私は返事をしておきました。お母さん、また寝間帽子ですか。私の衣裳箪笥いしょうだんすにはあなたが編んで下さった寝間帽子が三つも入っています。私はそれを折に触れては思いつくままに取りかえて被ります。それはいろんな意味で私のオーレ・ルゴイエ(眠りの精)なのです。まず私にやすらかな眠りを与えてくれるからです。それからいい夢を見せてくれます。そうして時にはあふれるほどの感興に、創作の感興に浸らせてくれるのです。こうした効果ききめは、私は人にも訊いてみましたが、これは私の寝間帽子に限るようですね。みんなあなたが、あなたのひとり息子のハンスの身を案じながら心をめて編んで下さるからだと思っています。お母さん、あなたが編物がお好きで、夕食後の刻をそうしてお過ごしになっていられるのを私は喜んでおりますが、またお手紙でも「わたしは編物をしながらお前のことを思っている時が一日で一番楽しいのだよ。」と云って下さるのを嬉しく思っておりますが、それもどうぞほどほどになさって下さい。お母さんは昼間一ぱい、お働きになるのですから。夜は早くお休みなさるように。ここのところ私も早寝の習慣をつけております。私の場合は至って造作もないことで、お心尽しの寝間帽子をかぶればいいのです。そうすればすぐとオーレ・ルゴイエが私を夢路へ誘ってくれるのです。お母さんはいま編物をお片づけになりましたね。ええ、月がおしえてくれたのですよ。古い馴染なじみの、そうして気のおけない友達の月です。私がこの壁の傾斜している屋根裏部屋に住むのも古いことですね。スラゲルセのラテン語学校を退いてこのコペンハーゲンに戻るとすぐこの部屋を借りたのですから、そう、もう六年になるわけですか。その間二度旅に出ましたが、後はずっとこの部屋で暮して来ました。思えば永いことですね。私の体にはコペンハーゲンの暮しが、そうしてこの屋根裏の匂いが染みついてしまっていることでしょう。いま窓の外に在っていい眼つきで私を見て微笑わらっている月とも、そうです、私もはじめは私の窓辺を訪れてくれたこの友達に対して、よそよそしくしていましたが、毎夜のように訪れてきて私を見護り顔な様子に気づくにつれて、だんだんしたしさが募ってゆきました。いつか私は彼に頼っていました。そうしてはてはこの友達に向って持前のいとけなさをさらけ出してしまいました。私は月にそっくり打ち明けて話しました。はじめて故郷のオーデンセからこのコペンハーゲンにやって来たのはやっと十四歳になったばかりの時だったということを、寄辺ない少年だった私がいろんな人の世話になって、どうやらここまではやって来たということを、その間の嬉しかったこと悲しかったことを、そうして私はいまも行き悩んでいるということを、なぐさめが欲しいのだということを、みんな打明けて話してしまいました。私の顔をみつめていた月はいました。「君はよく打明けてくれたね。人というものはいつでも自分の心を語れるようでなくては駄目だと思うな。僕に対して心を開いて見せてくれたということだけで君はもう一歩をふみ出したのだよ。君の生涯のうっとうしい一時期に、そうしておそらくは大事な一時期に君と近附きになれたのも、これはとうの昔に極められていたことだと僕は自分に云いきかせている。おそらく僕は性急な慰め手ではないかも知れない。君の涙をすぐ拭ってやるなどいうことは、僕などには出来ないだろう。僕は君を永い眼で見ているよ。」私は月を見つめ、一層彼に心を寄せました。そうして私達は友達になったのです。いまでは私達の友情は落着いたしっかりしたものになっています。はじめの頃のように無性に話しあったりはしませんが。私は月がかたわらにいてくれるということだけですべてを堪える気になるのです。でも時には私も心を弱くして彼に問いかけます。「ごらん、いまだに僕はこんな調子だ。君は僕をうとまないか?」すると月は私がそんな眼つきをする度に、誠実の籠った重い口調で云ってくれます。「疎まない。僕は君を永い眼で見ているのだよ。」私達の間柄のことはすべて彼のたまものです。彼の堅実な性質と思いやりの心がなかったならば、心弱い私にどうして永い友情など結べるものですか。「君は楽しそうに書いているね。お母さんへのお便りかい?」といま月が話しかけました。「うん。僕は君のことをお母さんにお話しているのだ。」と私は返事をしました。月はうなずいて云いました。「僕はこのコペンハーゲンという都会も好きだけど、君の故郷のオーデンセという町も好きだね。君の生家の窓辺には、えぞねぎとオランダせりの植っている大きな箱が置いてあるよ。君のお母さんの花園だ。僕は毎夜それを見るのを楽しみにしている。僕には僕の友達の幼時がそこに見えるような気がするのだ。このことをちょっとそのお便りの中に書き添えてくれないか。夜になるといつもその花園を照らしている月が、御自分の息子の仲良しだと知ったなら、君のお母さんも心丈夫に思われるだろうから。」ね、お母さん、いい友達でしょ。私達の友情はこんなにもくつろいだものになっているのですよ。彼はまた兄のような口調でいろんな話を聞かせてくれます。「麺麭パンの上に沢山のバタも下さいましって、お祈りした小さい娘の話。」「嘲罵ちょうばの口笛で舞台を逐われた不幸な俳優の話。」「何処に美の薔薇ばらが咲くかという話。」などを。私はそのうち彼から聞いた話をまとめて小型の好い本を編もうと心がけております。私はその本に「絵なき絵本」という名をつけて、月と私の友情を記念するよいものにしたいと思っています。ええ、もう彼の承諾は得ているのです。彼も心待ちにしてくれているようです。どうも月のことばかりお話してしまいましたね。あなたはさぞ「この子はいつまで経っても天上のことばかり考えている。」とお思いでしょうね。では私も少しは下界のことをわきまえているということを、私の身のまわりのこと、暮し向きのことなど少しお知らせ致しましょう。「お前の身の上のことはなんでも知らせて寄こしてくれなければいけない。これはお母さんには内緒だとか、このことは話しても解らないだろうなどとお前が思ったりすることがあれば、それはわたしを悲しませることになるのですよ。」そうあなたのお手紙にも云ってございましたから。当地コペンハーゲンの暮しは正直のところ楽ではございません。なかなかに骨が折れます。お母さん、私はここ四年というもの筆一本で自分の身の始末をして来ました。私はいまだに大きな子供ではありますが、でもよほどのことでなければ、私を顧みてくれる人のもとをも、そのことで尋ねは致しませんでした。筆一本の生活、それはこのデンマークという小さい国では容易なものではないのです。しかし自ら養う一つの技倆ぎりょうをも持ちあわせない私としては、自分の性に合ったことでどうにか暮してゆけるのを喜びとしなければなりますまい。そうして事実私は名の売れていない作家としての苦闘を喜びとして来ました。働いて暮すということが、お母さん、私にも解ってきましたよ。「友なるによりて起ちて与えねど、願いの切なるによりて……。」聖書にこんなことが云ってあったと思います。世の中の持ちつ持たれつという気持も引き出されるような気が致しますが。私達は自ら卑屈になることも、人を疑ぐることもいらないのですね。切に求めてゆくところに生活はあるのですね。私は逡巡する自分をむちうってひたすら求めました。そうしてそのつど道の開ける思いを、雲霧の晴れる思いを経験しました。私達は自分達の臆病な心をかばってはなりませんね。人に対して因循いんじゅんであってはいけませんね。「友なるによりて起ちて与えねど……。」ね、お母さん、私はよく思うのですが、イエスという人は若くてこの世を去られたのに、また御自分はなんの職にもかずに(家庭におられた時は大工さんだったそうですが)国々を遊説なさっておられたのに、世間の事情に通じておられたところがありますね。まあ、そうした方だったのでしょうね。そうでなかったなら、生れつきからだけでは、あれほどの弟子に対する思いやりの心は、イエスのような人でも持てなかったのではないでしょうか。ああ、お母さん、ごめんなさい。悲しい顔をなさらないで下さい。私は少し調子に乗っておしゃべりをしてしまいましたね。ばかですね。私としたことが信心深いお母さんを前にして、ふだんの自分のものの考え様をそのままあらわしてしまうなんて。「お前は亡くなったお父さんに似てきましたね。イエス様に対してそんな生意気な口をきいて。お前がどんなにおませな風をして見せたって、ハンス・アンデルセンが子供であることは、このお母さんがちゃんと呑み込んでいますよ。」私を叱るお母さんの顔が見えるようです。でも、お母さん、どうぞ御心配なさらないで。私もあなたに負けずにイエス様を愛しているのですよ。イエス様は私達のすぐれた模範です。この後私にどんな仕事が出来ようとも、それはイエス様の弟子の一人としてです。私が子供であること、それはあなたのおっしゃる通りです。ええ、私は子供ですとも。私にはこの幼い心がただ一つの頼りなのです。励みなのです。私が独りで世の中へ出て行った時、十四歳ではじめてこのコペンハーゲンの土をんだ時と今と、私はちっとも変っていません。ハンス・アンデルセンの持つ稚拙と勇敢は、これは生得のものですよ。それにしてもお母さん、私は子供の時のことを思い出しましたよ。亡くなったお父さんは聖書もよく読まれたようでしたね。お父さんはいつも一節ずつ丹念にお読みになりいろいろお考えになっているようなお様子で、そうしてその事に就いて御自分の考えをお母さんに向ってお説きになるのがきまりでした。でもあなたにはお父さんのおっしゃることがよく解らなかったようでしたね。或る日お父さんは聖書を閉じてこんなことを云われました。「イエスだって俺達と同じ人間だ、ただ、とても偉い人間だっただけだ。」あなたはこれを聞いてびっくりして泣き出してしまわれました。子供の私も何やら恐しくなって、神様にお父さんの大それた冒涜をお許し下さるようにとお祈りしましたっけ。「俺達の胸の中に巣くっている悪魔以外に、悪魔なんてこの世界にいるもんか。」お父さんがまたこんな事を云い出した時には、私も子供心にお父さんとお父さんの魂の行末が心配になったものでした。やがて或る朝のこと、お父さんの腕に深い引掻かれたような傷が三すじほど出来ていました。それを見てあなたやお隣りの小母さん達は、それこそ悪魔のなした業で、悪魔が自分の存在をお父さんに見せる為に夜中にやって来たのだ、と話していられました。思えばこんなこともありましたね。お母さんは覚えていられますか。いま思いますと、お父さんの腕の傷は寝台に出ていた釘で受けたものですよ。お父さん! 本の好きだったお父さん。ラ・フォンテーヌやホルベルや「アラビアン・ナイト」の好きだったお父さん。この世の中で少しも御自分の志を伸ばすことの出来なかった不幸なお父さん。お父さんが子供の私に読んで下さった「アラビアン・ナイト」を私はいま読み返していますよ。ああ、アラディンの生涯がこんなにも自分を慰めてくれるようになろうとは、あの時どうして知り得よう。あなたを少しも助けてあげることの出来なかったのを私は淋しく思っています。お父さん、あなたの心は私のうちに生きています。私はあなたの果せなかったものを、きっと後の世の人に受け継がさせて見せますよ。けれどもお母さん、悪魔は怖いものですよ。どうぞ私が悪魔に乗ぜられることのないように神様にお祈りして下さい。ところで筆がわきみちへ逸れてしまいましたね。私は私の屋根裏部屋の暮しをお伝えしようとしていたのに、とんだ思い出話をしてしまいました。やはり下界のことは私の不得手とするところでしょうか。筆一本の生活と申しましたが、もしかすると近いうちにその生活から抜けることが出来るかも知れないのです。王立図書館に私などにも勤められる口があって、いまさる人が私の為に熱心に推薦してくれているのです。それがうまくゆけば、いまのように創作に創作を続けてゆくことから、ことにも気に染まぬ原稿執筆から自分を護ることが出来ます。自分に欠けているものを身に着けるために勉強する便宜も得られますし、また月が私に語ってくれた話をそれこそゆっくり楽しみながらつづることも出来ようというものです。私はここのところずっと劇場のために、外国劇の飜訳ほんやくの仕事を引受けてきています。気に染まぬ原稿とはこのことなのですが、私のようにあまり有名でない作家が筆で暮してゆくのには、これは止むを得ないことなのです。ああ、私にもう少し余裕があったなら、お母さん、私は真に自分を発揮出来たとおもうものをまだ一つも書いていないのですよ。――私が永い間私の面倒を見てくれた人達の補助を離れて、どうやらおぼつかない一本立の生活をはじめた頃のことです。私はソレーという町に詩人インゲマンの家庭を訪問しました。ソレーはスラゲルセから二哩離れた、湖沼と森とに囲まれた田園詩的な町で、インゲマンはそこの学園の先生をしていたのです。私はスラゲルセの学校生活を退く直前にもソレーへ行って、インゲマンの許を訪れたことがあるのです。その時彼に示した私の幼い詩に対して、彼が寄せてくれた心を、その親切と誠実を永く私は忘れることが出来なかったのです。二度目の訪問、私はそれを不意に思い立ちました。その頃私は沈滞した、仕事の手につかぬ、苦い日々を送っていたのでした。心も暗かったのです。孤独な、そしてきゅうした心の底から一途いちずに「あの人に会おう。」という思いが湧いてきました。そう思い立つと私は矢も楯もたまらず、インゲマンのもとへ走りました。インゲマンは私の不意の訪問を驚くと共にまた喜んでくれて、親切に心から款待かんたいしてくれました。私はと云えば、まず第一に彼の顔を見て「ああ、この人はやはり善い人だった。」と感じたのでした。来てよかったと思いました。彼は書架から一冊の本を取り出して私に示し、「君はこれを読みましたか?」と問いました。その本は当時その早逝そうせいを惜しまれた若い詩人の遺した詩集でした。私が読まない旨を答えると、彼は私にその本を渡して「読んで見給え。いいものだよ。」と云いました。私はその場でその本をひもといてみました。一人の詩人の心が私の心に通ってきました。私は自分の心がその詩とともに流れてゆくのを覚えました。「いいですね。」と私が眼を輝かして云うと、彼は深く同感の意をあらわしてうなずきました。どうでしょう、私の心に自信が湧いてきたのです。私が自分の才能と認めているものはことごとく一種の自己欺瞞ぎまんなのではあるまいか。私にあるただ一つの情熱、自分はもうそれをたのむわけにはゆかない。私の若い力は一度も験されることなくして既に挫折してしまっているのではあるまいか。そのきわまで私の心はこういう疑惑に苦しめられていたのですのに。私はその詩集から二、三の詩を自分の手帳に写しとりました。その間彼は何かを読んでいるようでした。写し終って見ると、彼が読んでいたのは思いがけなくも最初の訪問の際私が彼の許に置いていった詩稿なのでした。彼はそれに眼を注ぎながら、自分につぶやくでもなくまた私に聞かせるともなく云いました。「素質はあるのだなあ。」彼の態度にも声にも、行き悩んでいる後進を思う心があらわれていました。嬉しさが胸にきました。初対面の時の直感、その時以来いつも私の心のなかにあって忘れかねていたもの、それが私をあざむかなかったからです。彼も私のことを覚えていてくれたのでした。お母さん、その人の傍にいるだけで自分というものが幾分か善良になるように思う、そういう人がこの世の中に本当にいるのですね。インゲマンという人はそういう人なのです。「アンデルセン君、僕には君がとてもいいものを書いてくれるように思えるのだがなあ。」私の顔を覗き込みながら励ますように云ってくれました。お母さん、私の稚さを笑って下さい。私はこう思ったのです。「僕も善良でないことはないのだ。僕にもなにか書けないことはないのだ。」と。もとより彼はすぐれた、そして既に立派な業績を残している人ですし、私は自分の道を歩みはじめたばかりの者に過ぎませんでしたが、彼と私とはその目指すものの上で傾向を一つにしているようなところがあって、種々の談話のうちにも嬉しい共感を味わうことが出来ました。私は彼と話しながら幾度となく自分の身を省みさせられました。そして果は自分の安逸さを責めずにはいられませんでした。彼の身内にはなお衰えぬ血と力とが感ぜられたのです。人生や仕事に対する熱意のことで、無名の私がこの人に負けるとしたら、それは恥しいことなのだぞ。無名であること、これくらい誇りかな境涯はないのだ。いまこそ私にむきなものが書けないとしたら、私はよっぽど駄目な男だ。私は自分にこう云いきかせずにはいられませんでした。別れ際に彼は私の掌を握りしめて云いました。「君がいいものを書いてくれたら僕はどんなに嬉しいだろう。若し君に助力を欲しいと思うような時があったら、いつでも僕のことを思い給え。」私は彼のうちの「詩人」に信頼し、彼もまた私のうちに一人の「詩人」を期待してくれたのでしょう。お母さん、これは四年前のことなのです。四年、歳月を数えるぐらい淋しい気のすることはありませんね。私は依然足蹈みをしています。私は決して怠けては来ませんでしたが、また私の書いたものはそれぞれ、私の素質に適ったものではあるのですが、これこそ自分の生命をその作品のうちに解放し尽せたと思えたものをまだ一つも書いてはいないのです。青春空しく逝くを悲しむ。私の廿にじゅう代はこうした苦い空白のうちに過ぎて行ってしまうのでしょうか。しかしお母さん、私が生活に負けていたずらに意気沮喪いきそそうしているとは思わないで下さい。私の生活が生気のない、懶惰らんだなものとは思わないで下さい。私もようやく戦うという気持がどんなものだか、わかりかけてきたような気がします。そうです、私も一人の戦士なのです。私の幼い心は向日葵ひまわりのように、いつも太陽の方を向いています。私は自分の花のさかりをずっと先の方に望んでいるのですよ。ええ、それだけの力はなお自分のうちに感ぜられるのです。自ら恃むものを感じます。理窟はないのです、ただ感ぜられるのです。しかし自信というものは多くそうしたものではないでしょうか。私の場合は云わばそこに「天佑」が予感されるのです。こう云えば人はアンデルセンらしい云い廻しだと笑うでしょうか。私はあらゆる意味で自分の人生に対して決してへたばってはおりません。お母さん、私はまた持前の癖を出してしまいましたね。私はどうも少しのぼせ気味になりますね。自分の感慨にふけりがちですね。自分の身のまわりのこと、この頃の生活の模様をお伝えしようとして、私はあなたに生活の苦しさを訴えし過ぎた傾きがございますね。これではあなたはあなたのハンスが着た切り雀で、それこそパンと水だけで露命をつないでいるのではないかと御心配でしょう。どうしまして私は着た切り雀などではありませんよ。私は自分の長身によく似合った晴着よそいきを二着も持っています。この下宿の近くに、コペンハーゲンで評判の好い、腕の確かな服屋があります。熱心なクリスチャンでまだ若い人で、夫婦の間に今年五歳になる女の子がひとりあって、職人を一人使ってやっていますが、まあ並みな暮し向きです。この服屋の家庭と私はごく懇意にしていて、散歩の途次など寄ってよくお茶を呼ばれてきますが、昨年の秋と今年の春と、この短い間に勧められて晴着を二着新装しました。私の境遇を知っている彼がまあ特別に心配してくれたのですが。「アンデルセンさん、あなたのように脊の高い立派な方には、私の仕立物でないと似合いませんね。」気さくな人で、どうです、なかなか勧め上手な言い草でしょ。私は自分の不恰好はよく承知していますから、万事この人に委してやってもらいました。ただ柄だけは自分で気に入ったのを見立てました。私は衣食住には無関心な方ですが、私の出入する社会の関係上、小ざっぱりした服装はどうしても必要なのです。それに私も若い証拠には、はじめて新しい服を身に着けた時はうれしくて、人生は楽しいものだと思いました。「お前もよく遣り繰りをしたもんだ。」とあなたはお思いですか。まあ私の屋根裏部屋をごらん下さい、なかなか、居心地の良さそうな部屋でしょう。家具もどうしてばかにしたものではありませんよ。取り分けあなたにお見せしたいのは、いま私が腰かけているこの椅子なのです。これはもともとこの部屋に附いていたものではなくて、最近ある家具屋で見つけたものです。その時どうしても欲しいという心を押えることが出来なくて、大分躊躇ちゅうちょした後で、なけなしの財布をはたきました。がっしりしていて、見ばもよく、掛心地もこの上なしという代物です。値段の方もこの上なしというほどいい値段でしたが。私はこの椅子に深く抱かれて、好きな読書をしたり、創作の想像を走らせたり、またはただぼんやり外を眺めたりするのが楽しみなのです。まあこれくらいの贅沢ぜいたくは自分に許しているのです。お母さん、これで私がそんなにみじめな暮しをしているのでないのがお解りでしょ。では私の一日がどんなものだか、ざっとお知らせしましょうね。私はこの頃朝は遅くも六時には起き、そして四十分ほど近くを散歩して来ます。私は朝の散歩が好きで時には雨降りでも出かけます。毎日見慣れている景色ですが、その日その日で不思議となにか違った新しいものが感ぜられて、きない思いがします。この感じは朝の新鮮な空気の中でなくては味わわれないものですね。人に睡眠があり、夜の次には朝が来るという自然の摂理は妙にして有難いものに思われます。散歩から帰って朝食というわけです。私はこの下宿には朝の珈琲コーヒーとパンだけを頼んでいます。それから例の椅子に腰かけて読書をします。私の蔵書、と云うにはそれは余りに貧しいものです。私の書架には僅かに、スコット、ホフマン、ハイネ、そしてこの国のものでは、ウェッセル、エーレンシュレーゲルなどがあるくらいのものです。もとより本を蒐める慾など皆無ですし、読書の上でもそう多くを読もうとは思っておりません。好きなものによく親しみたいと思っているだけです。私はほんとに一つものしか読んでいません。私はなまけものなのかも知れません。エーレンシュレーゲル、この人は私の師です。私はこの人によってはじめて広い文学の世界に導かれました。スコット、ホフマン、ハイネを読むことを教えられたのも彼のたまものです。思えば少年期から青年期へ移り変ろうとする心の柔い時期に彼の書に親しんだことから、私は深い影響をこうむりました。私は日頃折に触れては、彼の感化が自分のうちに深く染み込んでしまっているのを、屡々しばしば思い知らされます。それはもう私のからだから消すことの出来ないものです。私のものの感じ方、考え方、見方、そして読書の上の心の保ち方、すべてみなエーレンシュレーゲル譲りのものです。なんと云ってもエーレンシュレーゲル譲りのものです。私はなんによらず文学上の党派の存在や党派心というものは嫌いですが、若し閑雅にして親切に富める人があって、現下デンマーク文壇の色分けを描いてくれると云うならば、そして幸にして私をもその数に加えてくれると云うならば、この「スカンディナヴィアの詩王」の下に小さくアンデルセンの名をつらねて下さいと虚栄の心からではなくお願いしたいと思っています。ウェッセル、我がウェッセル。お母さん、ウェッセルこそはあなたのハンスが、一番好きな作家なのです。私の心に一番よく似ている心を持っている人。彼の綴る一行一行はそのまま私の心です。「故郷へ帰って謙遜な気持で自分の貧しい自叙伝でも綴ろう。」彼がこう書けばそれだけで私の心は満されてしまいます。しかしお母さん、私が彼を読みはじめた時には彼はもう死んでいなかったのです。私はずっと彼の遺したもののうちに彼の眼差しを追ってきました。私は暗い夜々にどんなに彼の懐にすがって泣いたことでしょう。ああ若し彼が生きていたならば、彼と私の眼差しはどんな風にゆきあうことでしょう。お母さん、もう書きたいように書かせて下さい。自分の心象を綴るに恋々れんれんとしている私の心をもう押えることは止めにしましょう。低徊ていかい逡巡しゅんじゅんする筆先はかえって私の真相をお伝えするでしょう。調ととのわぬ行文はそのまま調わぬ私の心の有様です。私は書架から本を抜くと、どこでもかまわずページをあけて、気の向いたところから読みはじめます。幾度となく読み返して馴染みになっている文章を一行一行、ゆっくりゆっくり読んでゆくのです。親しい友の言葉に耳を傾け、その表情に見入る感じです。また事実私の場合はそれと選ぶところがありません。なにを学ぼうという気もありません。好きな文体に親しむのがただ心地良く感ぜられるのです。心に染みる音楽に聴き入るようなものでしょうね。また人というものは、愛読の書に向う時ほど自分を取りかえしたような気のすることはありますまい。なまけものの読書、私の朝のひとときです。さて、私も怠けてばかりはいられません。義務が控えているからです。そうです、義務です。私は飜訳にとりかかります。そうして午前中一ぱいその仕事に没頭します。近くのニコライ堂の鐘がお昼を告げて鳴り出すと、私はやっと重荷を下したような気持で、ほどよいところで打ち切りにします。私は着更えをし、いそいそと外出します。昼食をしにゆくのです。コリン家とレッセーエ夫人の家庭で昼食の食卓に、私の為に席を一つ設けてくれているのです。私は多くコリン家へ参りますが、レッセーエ夫人の許にもしばしば呼ばれます。コリン家のことに就いては、今更改めてお母さんにお伝えするがものはありません。あなたのお気持はよく御家族の人に通じてあります。それは私にとっては自分の家庭を語るも同じことなのですからね。頑な自分本位の少年のために門戸を開放して、家庭的な訓練と温情の中に、人と睦みあい、喜びを共にしあう心を養ってくれたのですからね。コリン家にしてよく私を容れてくれなかったならば、私はいまよりももっと社会人として欠けたところの多い、野蛮な、反抗に満ちた心の人間になってしまったことでしょう。自暴自棄への道は一度ならず私の眼の前に見えたのです。ひとり身であることほど人のあなどりを受け易いものはありません。コリン家は世間に対しては私の後楯ともなってくれたのです。レッセーエ夫人のことはまだお話してなかったと思います。この人とはごく最近近附きになったばかりなのですが、私はこの人に多くのものを負っています。ウルフ家の晩餐会ばんさんかいの席上のことでした。その夜の宴会にはエーレンシュレーゲルもそれから作曲家のワイゼなども招待されて来ていました。私は人中に出ることが嫌いなので、それまでもこんな集りには数えるほどしか行ったことはなかったのですが、その夜はウルフから「今夜は多分エーレンシュレーゲルも来るよ。」と聞かされていたので、彼を一眼見たいという稚な心の動くのを止めることが出来なかったのでした。エーレンシュレーゲルは令嬢同伴でした。お母さん、私はその令嬢の綺麗さには眼をみはってしまいました。私は隅の方の席から、自分で「我が師」とめている人を「ここにあなたの貧しい弟子が一人います。」という気持をめて見つめていました。私はいつものでんで、すっかり場うてがしてしまい、彼の顔でも見つめているよりほかには自分の身の始末が出来かねたのです。すると、私の隣りに腰を下した人があって、やさしい女の声が私に話しかけました。「シャルロッテさんは今夜は大変お綺麗ですね。」と云うのです。エーレンシュレーゲルの令嬢のことだというのが察せられたので、「ええ、綺麗な方ですね。」とはにかみながら答えました。綺麗なのはその婦人も同じでした。私はおどおどしてしまいました。これは厄介なことになったと思っていると、やさしく微笑わらいながら、「あなたは誰方でしたでしょうか?」と問いかけるのです。「ハインリッヒ・ハイネです。」とも云えず、もじもじしていると、丁度傍にいたウルフが見かけて引き取ってくれました。「レッセーエの奥さん、アンデルセン君です。デンマークのシェイクスピアです。」この人の持前の人の好い揶揄やゆするような調子でずばりと云ったものです。デンマークのシェイクスピアは一層もじもじしてしまいました。レッセーエ夫人は一瞬やさしくウルフをにらむようにしましたが、すぐまた私の方を見て、真面目な口調で「私はあなたのことを少しも存じませんでしたが、お近づきになれて嬉しく思います。」と云うのです。私のことをちっとも知らないという率直な言葉に反って私の心は動きました。ああ、この人は善い人だと思うと、もう私の心は正面を向いてしまいました。「私は自分で詩人だなぞと思っていません。」そう云って私は赤くなってしまいました。こんな自己紹介の言葉があるでしょうか。でもこの言葉はその時私の胸から真っ直ぐに出たものなのです。デンマークのシェイクスピアなどという言葉に祟られたのに違いありません。夫人はそういう私の言葉にうなずき、私を見つめていましたが、「アンデルセンさん。成程私はあなたの御本を読んではおりませんが、あなた自身を読んだつもりです。あなたは立派な詩人ですとも。」こうして私達は知りあいになったのです。場慣れない私が居心地悪そうにしていたのを、この心のやさしい人は不憫ふびんに思って話しかけてくれたのでしょう。臆病な人見知りをする性質の私は、自分から頼る気にならない人とは口一つ満足にはきけません。私はそんな小胆者しょうたんものですが、その好意が身に余るほど解るので夫人の許をしばしば訪れます。夫人は私の暮しのことも聞いてくれて、よかったら昼食は彼女の許でするようにと申し出てくれたのです。つまり、このコペンハーゲンで貧乏な学生がやっている「通い下宿」を私のためにしてもいいと云ってくれたのです。勝気な人なのですが、私の愚図ぐずなのがただいとしまれるのでしょうか、いつも私の気の引き立つように仕向けてくれます。お母さん、私達はまたあなたのことをも話しあうようになりましたよ。夫人はよく云うのです。「あなたのお母さんはいい方だと思います。あなたは何故お母さんのことをお書きにならないのですか?」私はいつも答えます。「私には悪い癖があって、自分の気に入っている題材ほど後廻しにしてしまうのです。」お母さん、コリン家は別です、私は自分がこうした家庭に迎えられるようになろうとは夢にも思っていませんでした。どちらかの家で楽しい昼食をすますと、私は食後の一刻をフレデレグスベルの外苑へ行って過ごします。ここはフレデリック六世の夏の離宮のあるところで、また私の少年時代の思い出のあるところでもあります。私はそこにある腰掛けの一つに倚って、辺りの景色や散歩する人の容姿を眺めながら、ぼんやりしていたり、またもの思いに耽ったりします。ここにはまたきまって遊びにくる子供達がいて、いつか私達は仲良しになってしまいました。私は彼等の遊びの輪に仲間入りをしたり、また時には彼等を集めて自作の童話を話してやったりします。私は書くほどには話はうまくないのですが、でも彼等は私の下手な話振りにも幼い眼を輝かして聴き入ってくれます。「しっかり者のすずの兵隊」(これは私のすくない童話の中で自分でも気に入っているものですが。)など喝采かっさいを博したものです。子供はいい、殊に素直な子供はいいものです。素直な子供を見ていると、なにもかもが備っているように、保証されているように思えてきます。「幼児を我に来らせよ。」イエス様は子供が好きだった。お母さん、私もまた子供は好きです。私はイエス様に似たのでしょうか。こう云ったからとて私を責めてはいけません。聖書にも主に似るように努めなくてはならぬと書いてございますね。またそのことは私が自分で思ったのではありません。人が云ったことなのです。「霊界通信」という本に私の評判が出ていて、私のことを「聖アンデルセン」などと云ってあったのです。「聖アンデルセン」というのは「聖ドン・キホーテ」というほどの揶揄ほめ言葉です。それからまたあなたのお手紙によると、御当地の新聞にオーデンセ出身の作家としての私の噂が少しばかり出ていて、その中にこんな「悪口」が云ってあってあなたを悲しませたとおっしゃるではありませんか。「アンデルセンは可愛いい奴さ。しかし奴がもてるのは子供だけだ。」してみると、私がイエス様に似て子供好きだということは、これはかなり公なことですね。しかしお母さん、これは「悪口」というものではありません。寧ろ好意ある批評ですよ。それを書いた人自身としてもおそらくそのつもりでしょうよ。しかしその人は私を知っているというわけにはゆきませんね。私はもとより可愛いい奴ではありませんし、また子供にもててもおりません。その人はきっと一人の詩人が子供にもてるということが、どんなことだか考えてもみたことのない人でしょう。またこのことに就いてのあなたの御心配は私を当惑させます。あなたはこんなことをおっしゃるのですもの。「私はお前が子供ばかりでなく、大人にもそして婦人の方にももてるようになってくれればいいと思っています。」お母さん、そう御心配には及びませんよ。しかし私もなんて勿体振った奴でしょう。誰がこう云った、彼がなんと云ったなどと云うよりも、寧ろ自分から率直に云えばいいのにねえ。「僕はイエス様が子供が好きなように、子供が好きなのだ。」と。子供の生活に触れては、また自分の性質を省みては、孤独な心の底から童話に対する一すじの憧れが燃えてきます。童話の世界は広く、その源泉は何処にも尋ねられ、どんな環境にも一すじの道は秘められていることでしょう。私もまた自分の生れつきを生かそうと思います。童話の世界に私らしいものを導入したいと思っています。そういう私の胸の中には一つの象徴があるのです。二年前の秋、私は旅をして憧れの国イタリアを訪れました。その時フィレンツェで私は見たものがあります。メディチのヴィーナス、いいえ、私の心をいたものは、それは愚かしい容子をした一匹の動物なのです。私はこの動物のことを一篇の童話に綴りました。それからこのお便りに引用させていただきましょう。(イタリアのフィレンツェの町のグランドウーカ広場からあまり遠くないところに、一つの小さな通りが走っています。私の思い違いでなかったなら、この通りは、たしかポルタ・ロッサという名だったと思います。この通りの、以前青物市場だった建物の前に、たいそう上手に作られた青銅のいのししがあります。きれいな新鮮な水が、この猪の口からさらさらと流れています。猪は年のせいで、全体が黒ずんだ[#「黒ずんだ」は底本では「黒すんだ」]緑色になっています。ただ、鼻さきだけは、丁度みがいたように、ぴかぴか光っています。それは、何百人という子供や貧乏人が、手でその鼻さきをつかんで、自分の口を猪の口につけて、水を飲むためなのです。この恰好よく作られた動物が、半裸体の可愛らしい子供に抱きつかれて、子供のみずみずしい口を押しつけられているところは、それだけで一つの絵であります。)私はこの猪の姿に自分の童話の姿を見ているのです。私がこの猪に似ることが出来るか、お母さん、私はやってみるつもりです。さて、私は外苑の腰掛から立ち上ります。子供達ともさよならをしなければなりません。図書館へ行って調べ物をする時間がきたからです。私は王立図書館へゆき、そこで劇場関係の本を多く読みます。私はいま歌劇の台本を頼まれているのです。私は芝居は書いたことがあり、それは上演されましたが、これも試みてみようと思っています。主として収入の関係からですが。私は五時頃までかかって必要な抜き書をつくります。それを切りあげると一たん下宿へ戻り、またすぐ夕食をしに近くのゆきつけの飯屋へゆきます。大勢の人に交り食事をするのもまた楽しいものです。私はほんのまじないほど葡萄酒ぶどうしゅを飲み、陶然とした気持で飯屋を出ます。私はとある家の戸を押して入り、ちょっと私のお嫁さんの顔を見てゆきます。お母さん、びっくりなさることはありません。私のお嫁さんはイーダちゃんと云って今年五歳になる子です。あの服屋の女の子がそうなのです。私は上機嫌な顔をして服屋の店へ入ってゆき、「イーダちゃん、御無沙汰ごぶさたしましたね。」と云います。なに毎日のように遊びに行っているのです。するとイーダちゃんは「もみの木ちゃん、今晩は。」と云います。この辺の子供達は皆んな私のことを「樅の木さん。」と呼んでいます。私は長身のお陰でこの愛称を子供達からもらいました。小さい子はほんとに私が樅の木という名だと思っています。「樅の木さん。」と子供達の口で云われるのは悪い気がしません。殊に幼い子供がまわらない舌で「もむの木ちゃん。」と私を見かけて呼びかけてくれる時には、私は胸がどきどきするのを覚えます。イーダちゃんは顔も躯もむっちりしています。赤い縮れた髪をしていて、顔の形は栗みたいです。器量よしではありませんが、そのよい幼な心のため、よく見ると可愛いい子です。私はふとしたことから彼女を可愛ゆく思うようになったのですが、可愛いいと思い出したら、可愛さばかり眼に着くようになりました。お母さん。私には我が子の顔にうっとりとして見とれている母親の心が解りますよ。私は彼女を抱いて話しかけます。「イーダちゃん。大きくなったらねえ、樅の木さんのとこへお嫁にくる?」すると彼女はウンとうなずいて云います。「コンチハってくるわ。」あなたは私がいい齢をしてままごとに興じているとお思いですか。私が彼女を姉のようにも思う時があると云ったら、あなたはどんな顔をなさるでしょう。また私が彼女によって女というものはやさしいものだということを知ったと云ったら、あなたはなんとお思いになるでしょう。女には生来やさしいものがあるのですね。女らしさというのはやさしさのことなのですね。私はイーダちゃんの胸に顔を埋めてしまいたくなるようなことがあります。私の脚本が上演された時、私はその切符を彼女のお母さんにもあげました。私は道をこう云ってふれ歩いているイーダちゃんを見かけました。「あたい、今日お母ちゃんとお芝居ゆくの。お母ちゃんとお芝居ゆくの。」とても嬉しそうにしていました。お嫁さんの元気な顔を見ては私も満足した気持で屋根裏部屋へ帰ります。そして夜の時間を寝るまで原稿執筆に過ごします。時にはコリン家を訪問したり、またまれには観劇や音楽会へ出かけたりします。この屋根裏部屋に訪問の客を迎えることは殆どございません。こうして私の単調な一日は終ってしまいます。私は夜独りでランプの灯に照らされた部屋内を見廻し、堪えられない淋しさに圧倒されてしまいそうな気のする時があります。そういう時にはなにも考えずに寝ることにきめています。お母さん、私の一日が暮れるとともに、どうやら私の筆も渋ってきました。あなたにおやすみなさいを云う前に、いい話を一つお聴かせしてこのお便りを終りましょう。私はその話を聞いた時大変嬉しかったのですが、あなたにも喜んで戴けると思います。今日の昼食を私はレッセーエ夫人の許でしたのですが、その時夫人が「とてもいい話ですよ。」と前置きをして話してくれたのです。四、五日前のこと、レッセーエ夫人はさる家庭の集会に招かれました。小人数の、静かな、気持の良い集いだったそうです。招かれた人は、エーレンシュレーゲル、トルワルセン、ハイベル、ティーレ、ヘルツ……こういった立派な人達でした。食卓で夫人はヘルツの隣りの席におりました。すると、夫人の耳にちらと私の名が聞えたというのです。見るとヘルツの向う隣りにいるトルワルセンが(この人はデンマークのすぐれた彫刻家です。)ほんのりお酒の廻った顔をこちらに向けて、(トルワルセン先生はお酒をあがると、ほんとに子供のようになる方です。とこれは夫人の言葉です)「アンデルセンって、いい作家だなあ。」とヘルツに話しかけるというでもなく、自分でうなずいていたというのです。するとヘルツが顔をあげて(あの方はほんとに鋭い眼をしている、とこれも夫人の言葉です)「先生、なにをおっしゃるのです。私達が心の底で誰を贔負ひいきにしているかは、」と云いかけて食卓の顔ぶれを見廻し「みんな異口同音でしょうよ。先生お一人だけではありませんよ。」と熱っぽく食ってかかる風に云いました。(私のことを聖アンデルセンなどと云ってやっつけた人はこの人なのです。ああ、ヘルツが私のことをそんな風に思ってくれていたとは。とこれは私の言葉です)トルワルセンはそうだともという風に強くうんうんうなずいて「ヘルツ君、僕は彼を読んでいると、丁度故郷の森の中を歩いていて、あのデンマークの湖を聞いているような気がしてくるのだ。」と云いました。それを聞くとヘルツは「ああ、アンデルセンって、羨ましい奴だ。僕には天界に彼のためにとてもいい星座が設けられているような気がする。ねえ、ハイベル、」と今度は自分の向い側の席にいるハイベルに向って話しかけました。「君はアンデルセンが好きだろ?」「なに、アンデルセン。」と云うとハイベルはぐっと体を乗り出してきて「ウェッセル以来彼位気分のデンマーク詩人はいないよ。僕は好きだ。だから大騒ぎをしないのだ。」「うん、解るよ。ウェッセル今は亡し、ハンス・アンデルセン健在なりというわけだ。」その間トルワルセンは二人を見比べてにこにこしていたそうです。そこで夫人はヘルツに話しかけました。(私はもう嬉しくて我慢が出来なかったのよ、と夫人は私に話しました)「みなさん、大変いいお話のようですけど、私もお仲間に入れて戴けないでしょうか?」するとヘルツが見返って「いいえ、奥さん、これは内緒の話なんですよ。」と云って、また三人顔を見あわせて気持良さそうに笑うんだそうです。夫人はその時こう思ったそうです。(デンマークっていい国だ。デンマークの詩人はほんとにいい方達だ。)ねえ、お母さん、いい話でしょ。私がもてるのはまんざら子供ばかりではないようですね。この話を聞いて私がどう思ったとお思いです? 私もまたこう思ったのです。「デンマークっていい国だ。デンマークの詩人はいい人だなあ。」と。お母さん、私の無邪気をお笑い下さい。私は自分がデンマークの詩壇の末席にいることを心から嬉しく思っています。賞讃が私の心を堅実にしてくれたと云ったら、人は笑うでしょうか。「アンデルセンって、いい作家だなあ。」トルワルセンが私の作品を喜んでくれているというその話を聞き、一度面識のあるあのすぐれた彫刻家の屈託のない、素朴な外貌が心に浮んだ時、私は自分を恥しく思う心を禁ずることが出来ませんでした。自分がとるに足らぬ人間だという意識に強く支配されました。お母さん、私は自分の器量はよく弁えているつもりです。それ故にかつて野心深かったことも、嫉妬深かったこともございません。レッセーエ夫人の話を聞いた時、私の心を領したものが、へりくだりの気持であったのを私はひそかな喜びとしています。先輩達の好意が身に染みて嬉しく、私は自分の行いを慎しむ気になりました。お母さん、この心があるうちは私も詩人ですよ。詩人同士の信頼はこの心の上に繋がれるのです。どんな小さな草の芽でも、花の咲く時のないものはない、どんな人でも自分に持って生れたもののない人はない、とか。これはエーレンシュレーゲルの言葉で、また私の忘れることの出来ない言葉なのです。私が恵みのパンを人から受けて来なければならなかった憐れな少年ならば、私はそのことをこそ書くべきなのですね。私の生い立ち、私のものの数でない浮沈、その中にこそ私の花は在るのですね。徒手空拳としゅくうけんとも云い、また孤立無援とも云います。若しも私が健気けなげな少年であったならば、私はいまもっと誇りに満ちた心を示すことも出来得たでしょう。私は私のような境遇のものとしては、例のないほど心弱い者です。私はいまだに誰かに支えられていなければやってゆけない者です。些細ささいなことに一喜一憂する日々を送っています。その癖私は自分に対し強い執着を持っています。他人の幸福にも増して自分の劣等の生を恃んでいます。私が敗けていないのは、周囲を顧慮せず、自分のことばかり考えて来たからです。私にはしおらしさというものはこれっぽちもないかも知れません。けれどもこうした考え方は、これまで私に注がれた好意に対して相応しくないでしょう。私はこうも思って自分を慰めているのです。私を顧みてくれた人達は、私に対してこう思ってくれていると。「君が君の弱点とみなしているものにこそ、僕達は期待しているのだ。君は自分を偽ってはいけない。君の花はそこに咲くのだよ。」若し今後私に努めるところがあって、子供も時が経てば大人になるということを、尋常の遣り方以外にもものを学ぶ道があるということを、身を以て作品の中に示すことが出来たなら、私を顧みてくれた人達はきっと喜んでくれるでしょう。お母さん、その時には私はもう人から可愛いい奴だなどとは云われないでしょう。そして私の書くものは真に子供の心を捉えることが出来るでしょう。大人にも婦人にも私はもてるでしょう。一人の頑な、愚か者の心の歴史に人は友を見出してくれるでしょう。聖アンデルセン、十字架の栄光が私のような者にも与えられることでしょう。私は自分の生い立ちの記をこういう一行からはじめようと思っています。(私の生涯は一つの可憐かれんなお伽噺とぎばなしです、幸福な、そうして思い出多い。)何故って私はお伽噺にならないような人生は嫌いだからです。お母さん、いま私の胸のうちに一つの童話の構想が生れています。それは、みにくいあひるの子、いいえ、あひるの庭で生れたために、自分をみにくいあひるだと思っていた白鳥の話なのです。私はその童話の中にこういう数行を入れたいと思っています。(……「さあ、僕を殺して下さい!」と哀れな鳥は云いながら、頭を水の上に垂らして死を待ちました。――その時、澄みきった水の面に、いったい何が見えたでしょうか? それは、自分自身の姿でした。けれども、もはや、あのぶざまな灰色の、みんなにいやがられた、みにくいあひるの子ではなくて、一羽の立派な白鳥でした。)お母さん、しこの童話を私がかしきることが出来たなら、これこそ私の魂の中から成長した作品となるでしょう。ではお母さん、おやすみなさい、さよなら。





底本:「落穂拾い・犬の生活」ちくま文庫、筑摩書房
   2013(平成25)年3月10日第1刷発行
底本の親本:「小山清全集」筑摩書房
   1999(平成11)年11月10日発行
初出:「表現 第一巻第一号(冬季号)」角川書店
   1948(昭和23)年2月5日発行
※誤植を疑った箇所を、「小山清全集」筑摩書房、1999(平成11)年11月10日発行の表記にそって、あらためました。
入力:kompass
校正:時雨
2019年9月27日作成
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