前途なお

小山清




 金沢イエは私の父の浄瑠璃じょうるりの弟子である。短い間であったが内弟子に来ていたこともあった。私は小学校の五年生位だった。イエはそのとき十五位だったろう。あれは稚児輪ちごわというのだろう、絵に見る牛若丸のような形の髪にっていた。またそれがよく映った。色白で眼の涼しいイエは子供の聯想れんそうで牛若丸のように私の眼に映った。イエがその日から家に来るという日、学校から帰るとすぐ私はイエの姿を求め、台所で用をしていた母に、「イエちゃん来た?」と問いかけ、用をしていて母が咄嗟とっさに口のきけなかった、返事を渋った短い間を、私は頬のあからむ思いをした。
 私は寝起きがよくなかった。朝寝床の中でぐずぐずしていると、よく采配とほうきを持ったイエが起しに来た。私はわざとぐずついて「おめざは?」そんなことをってイエを困らせた。
「清さんが起きないと、お掃除が出来ません。」
「なんだい、まだ早いじゃないか。じゃ、もう十分……八分、五分。」
 イエは困ったように笑いながら、
「いけません。兄さんはとっくに起きていますよ。」
 私はずるくイエの顔をうかがって、
「それじゃあ、竹の子剥ぎをして。」とわざと大きい声をした。
 イエはにらむように私の顔を見て一瞬黙ってしまった。いつかやはりイエが私を起しにきて、私がいつまでも起きないので、「じゃ、竹の子剥ぎをしますよ。」心得顔でそんなことを云って、私が寝ているまま上から蒲団ふとんを一枚ずつ畳んではそれを押入へ仕舞った。小柄なイエは蒲団を押入へ仕舞い込むのにひどく持て余し骨を折った。私は寝たままそれを、その立膝をした後姿を見ていた。紅い根掛の眼に沁みる小さい髪の動くのを見ながら、私はうっとりとした気持を味わった、――イエはあの時気づいたのだ、私が見ているのを。
 私の家の玄関には大きい姿見が据えてあった。子供の私はよくその前にいってたたずんだ。自分の顔を映して見ては子供心に自信のない思いをした。私はそんなにお洒落でもなかった。また私は決して早熟な少年ではなかった。私は自分の無器量が悲しかったのではない。ただその頃の私には妙に自分の顔がへんに愚かしく見えて仕方がなかったのだ。友達の誰も彼もがみなちゃんとした顔をしているのに、自分の顔はなんだかへんだ、可笑おかしい、出来損いだ、私は独り肩身の狭いような思いをした。一つは私が絶えず家の者から叱られてばかりいたせいであったろう。あるとき、茶の間の集いでふと、私がよく姿見の前に佇んでは自分の顔に見とれているということが話題に上った。祖母は私を愛していなかった。祖母は下品な洒落を口にして家内の者を笑わせた。祖母はまた露骨に私の容貌の欠点を指摘して私に極りの悪い思いをさせた。厭味な悪口で子供は大人に勝てるものではない。祖母の意地悪には私はべそをかいてしまった。そのとき、(私は神の寵児なのかも知れない)天より声があった。「清さんは額が広いから、いまにきっとえらい人になります。」イエなのだ。ためらった末に口に出てしまったのだろう。イエはひどく真面目な怒ったような表情をしていた。祖母は「おや?」と云ったきり不興気な顔をして黙ってしまった。父がぽつんと云った。「そうか、清は額が広いのか。」父は眼が見えないのだ。二つのときからだという。浄瑠璃などを習ったのもそのためである。――イエはなぜ額が広いなどと云ったのだろう。私にはその言葉が鼻が低いと云われたほどにも聞かれたのだ。私は耳の火照ほてる思いでただ無性に恥かしかった。
 父の稽古は、弟子達は多く昼前に来た。午後連中の人達が見えた。イエは家にいる間午後も客のない隙には稽古をしてもらっていた。倉の二階が座敷になっていて、そこが父の稽古場であった。イエの稽古の折、私は家に居合すと、そっと倉の中に入り、階段の中途に腰かけて、二階の声に耳を澄した。偶々イエは「野崎村」を習っていた。※(歌記号、1-3-28)わけはそっちにおぼえがあろ……そなたは思いきる気でも……このお染の口説が二度三度と聴く中に私の耳に残るようになった。子供の私にはもとより文句の意味も解らず、云い廻しの情趣も汲みとれたわけのものではなかったが、あの恨み言葉を云うときのイエの声音が妙に私を惹きつけた。耳に心快こころよった[#「心快こころよった」はママ]のか、また心に沁みたのか、やはりイエという少女の肉声の持つ抒情であったろう。竹の子剥ぎの際に感じたのと同じような恍惚こうこつを私はこのときにも味わった。
 家には「大阪お祖母さん。」と呼ばれる人がいた。祖父の姉で出戻りの身をそのまま家にいてしまったのである。この人は太棹は女としてはかなりのてだれであった。父が初めて大阪へ修業に行ったのは十三、四の頃であったというが、この人が伴いて行った。家では祖母と区別するために、この人のことを「大阪お祖母さん。」と呼んでいた。私が物心のついた頃にはもういい齢で多少耄碌もうろくしていたが、でも家に来る女弟子の三味線しゃみせんのさらい位はやってのけられた。なんといっても段数があるので調法だったのである。やはり天性好きな血が流れていたのか、なかなか天狗てんぐのところもあって、時には憎い口をきいたものだという。あるときふとこの人に私は子供らしい質問をした。
「お父さんのお弟子さんの中では誰が一番うまい?」
 大阪お祖母さんはまじめな顔をして一寸考えてから、
「イエだろう。イエがいまに一番よくなる。」
 私には思いがけなかった。イエのことが念頭にあって問いかけたわけではなかったから。
「越春さんは?」
 イエにとっては姉弟子、父の一番古い弟子のことを云ってみた。その豊富な美音は弟子達の誰もがうらやむところだった。
「さあね?」とまた考えて「やっぱり、イエだろう。」
「イエちゃんはそんなにうまいの?」
「素性がいいのだよ。」
 私にはよく解らなかった。しかしぼんやり感ぜられるものがあった。「いまにきっとえらい人になります。」初めて耳にした支持の言葉が私の胸によみがえった。
「イエちゃん、お父さんがね、」その日私はイエをつかまえて、「イエちゃんが一番浄瑠璃が上手だって、そう云ってたよ。」
 大阪お祖母さんでは流石さすがに権威がないように子供心に思えたのだ。嘘のような真実を私はイエにささやいた。ひとこと報いたい心だった。イエは一瞬そう云う私の面をっと見つめ頬をあかくしたが、すぐ笑い顔になって背を見せながら、「うそ、うそ。」と云った。
 イエはわずかに三月ほどでまた自分の家へ帰った。しかしその間にイエは父からさかずきをもらった。ある日私が遊びから帰ってきて縁側を馳けてゆくと、茶の間の火鉢のわきにいた祖母がいきなり叱った。解らぬままに私は神妙を装った。縁側を過ぎながら、閉めきった障子の硝子ガラス越しに、茶の間の隣りの座敷内をぬすみ見た。盃を唇にあてているイエの姿が眼に入った。緊張しているのが感ぜられた。イエの傍にはイエの母もいた。その晩私が近所の友達の家に遊びに行っていると、イエが迎えに来た。私はイエをきへ帰したが、ふと思い出して後を追った。家の裏口のところで追いつき、
「お父さんから、何んて名前もらったの?」
「知らない。」
「ねえ、何んて名前さあ?」
「知らない、知らない。」
 イエは先きへ馳け出していった。
 竹本越喜代、イエの芸名である。私の父は初め五世野沢吉兵衛の手ほどきを受け、その後、後の摂津大掾せっつのだいじょうの門に入り、越喜太夫という名である。イエは師匠の名をそっくり貰ったわけである。父は弟子も少くて、それに多く女弟子であったが、誰もが単に越の一字を譲られるのみであった。イエの場合はいわば破格の栄誉であった。弟子達の中には不平の声を漏らす者もあったという。それかあらぬか、その後弟子達の間でイエは妙に孤立するような立場に置かれた。何んと云ってもイエが小娘のことであったから。イエの名には祖母も大分躊躇ちゅうちょしたらしい。しかし父だけは至って無造作に、「越喜代って悪くないよ、なかなかいい名じゃないか。」そう独り頷いていたという。父にしてまたイエの素性を見込んだものとすれば、大阪お祖母さんはひそかにほほえむものがあったわけだが、そこのところはなんともわからない。
 イエがまた自分の家へ帰ってしまった当座、私はやはり物足りない気がした。短い間であったが起居を共にしては、家内のそこ、ここにイエの俤が残っていて、ふとさみしさに襲われたりした。イエはいままで通り稽古には来ていたが、その時間を私は学校へ行っていて、イエを見かけることも少くなってしまったのだ。
 あれは確かその年の十二月のことだったと思う。雪の夜だった。イエの名披露の会が吾妻橋あづまばしたもとの東橋亭で催されたのは。兄も私も行った。家では母が厳しくて、子供の私達はそれまで一度もそうした場所へは行ったことがなかったのだが、その夜はイエの母が誘って連れていってくれた。その夜私は初めて肩衣を着けたイエを、竹本越喜代を高座の上に見た。イエはまた初めて髪を島田に結っていた。イエの高座姿は絵から抜けて出たように美しかった。私は目をみはってしまった。イエの語物は「寺子屋」だった。三味線は大阪お祖母さんが勤めた。段切れのいろは送りをイエは相応に哀感を持たせて、余音嫋々じょうじょう巧みに語りこなした。鳴り止まぬ喝采かっさいの音を聴きながら、私は親身な感情のこみあげてくるのを感じ、面をあげることが出来なかった。イエの成功を願う心が自分のうちにこんなにもあろうとは、私にも思いがけないことだった。
 ……私は楽屋の廊下に佇んで硝子戸越しに、向うに見える吾妻橋の雪の夜景に眺め入っていた。ふと背後に人の気配を感じて振り向くと、イエだった。高座姿のままだった。見ると両手に甘酒の湯呑みを持っていた。私の分と自分の分だった。イエはそのまま私の隣りに並び硝子戸に頬を寄せた。橋の上の外燈のあかりに粉雪の舞うのが見えた。時々雪を被った電車が緩く橋の上を動いて通った。
「清さんはもう学校はお休み?」
「ああ。」
「今度級長になったんですって?」
「うん。」
「この間おばさん、家へいらしったわ。……甘酒、もっと飲みます?」
「もう沢山。」
 私は内弁慶で外ではから意気地がなかった。高座姿のイエの美しさに私は鼻白はなじろんでばかりいた。その夜はイエが自分よりずっと大人に見えてしょうがなかった。
「おばさんが云ってらしてよ。清さんは大学校まで上げるって。清さんは大きくなったら、どういう人になるの?」
 イエは凝っと私の眼を見つめた。私はあかくなりながら云った。
「僕はね、お医者さんになって、貧乏な人をただで病気を治してやるんだ。」
 イエはまじめな顔でうなずいた。大学という言葉が子供の私の心をくすぐったのだ。また私の医者になるということは母の望みでもあった。「いまにきっとえらい人になります。」イエの前では私も無心ではいられなかったのかも知れない。私はこのときイエの顔にはっきり支持者の期待を見た。
 翌年あの大震災があった。私の一家は小さい弟を亡くした。震災を境にしてその後一家の上には何かと不幸が続いた。何んにせよ父が不自由な身であった。母の努力は一方ではなかった。一家の重荷はすべて独り母の肩にかかった。次々と心労の種になるような事が起って母を休ませなかった。遂には家のために身も心も擦りへらして世を早く去るようになったのだ。私のかけた苦労だけでも。中学校へ行くようになってから祖母と私の仲は目立って悪くなった。毎日のように衝突した。兄は余り学問が好きでなかったところから、自分から進んで洋服屋へ年期奉公に行ったのだが、一つはそんなことも祖母には面白くなかったらしい。家庭の空気がそのために平穏を欠くようなことも多くなった。それに私が学業に身を入れなくなったことも母には心配になったのである。世話する人があって私は番町の伊沢先生の私塾にあずけられ、そこから通学するようになった。浅草の家へはたまにしか帰らなかった。
 ある日学校の帰りに私は家へ寄った。母と話している私の耳に二階の稽古の声が聞えた。その声にふと私は惹かれた。一瞬私の胸を掠めるものがあった。思わず私は母にただした。イエであった。イエがまたその頃稽古に来ていることを母は云った。震災後イエの一家は田舎に引っ込んでしまった。田舎と云っても多摩川の上流で東京の管内ではあった。そこに金沢の家の本家があって代々百姓をしていた。だから祖母などはイエ達のことをよくこんな憎まれ口をきいた。「炭焼き江戸っ子の癖に。」など。震災直後私達が向島むこうじまの隅田町に一時仮りの住居を見つけて移り住んでいたとき、一、二度母と一緒に訪ねてきたが、それきり私はイエを見なかった。イエ達はまた東京へ出てきて当時深川に居るという。イエはすっかり大人びていた。変らず涼しい眼をしていたが。久し振りにイエを見て私は祖母の憎まれ口を思い出した。しばらく田舎にいたせいかイエにはその血筋らしい武蔵野むさしの少女の匂いが感ぜられた。制服姿の私を見て、「まあ、清さん、大きくなって。」と云った。私はまた中学校へ行くようになってぐんと背が伸びた。私の学校が本所の錦糸堀なのを聞いていたイエは、学校の帰りに遊びに寄るように云った。私はイエと余り話さなかった。母と話しているのを傍にいて見ながら、その応対の大人なのに軽い威圧を感じたりした。帰りしなにイエは大人らしい眼色を見せて云った。「勉強しなさいね。」私は狼狽ろうばいして母の顔色をうかがった。私の不勉強への憂いを母は既にイエに話したものらしかった。
 少年期の憂鬱に既に私はとりかれていた。私は快活な心を失った。学業にはてんで興味が湧かず熱意を持てなかった。学校は苦になることばかり多かった。親しい友達も持てなかったから。心を傾ける物にも人にも遇わず、もの足らわぬ心で優柔不断な朝夕を送っていた。そういう私には伊沢先生の厳格な塾風が気に入らなかった。なんによらず克己ということが、私にはひどく苦が手であった。先生の寛容にれては無智な傲慢で迷惑をかけることも度重なっていた。奔放不羈ほんぽうふき、と先生は私のことを云われたが、それは先生が少年の血気を咎められなかったからである。私ほど独立の心に欠けた者もあるまい。私は単に放縦であったに過ぎない。長ずるにしたがって私の精神の薄弱は事毎に暴露された。先生は今は亡き人である。ふと辛い気持に襲われる。先生の光風霽月こうふうせいげつの心境が今は私にも仰がれる気持だ。
 四年に進級する期に私は落第した。ひそかに怖れていたものが遂にきたのである。自分だけのことを云えば、その時の私には落第などは河童かっぱだった。ただ母のことが省みられた。そのことから受ける母の打撃を思うと流石に私も臆さないわけにはいかなかったのだ。私は母に謝罪もしなかった。「学校なんか落第したって、大丈夫だよ、大丈夫だよ。」そんなことをぶつぶつ云っただけだった。母はただゆるしてくれた。私を叱りもしなかった。加えて私は母に、なお私に学業を続けさせたいという母の念願を断念させた。私は学校を退いて神田のある古本屋に奉公に行った。伊沢先生のもとを辞して間もなくのことである。本屋にお目見得をした翌晩おそく、私は家の戸口をがたがたいわせた。「清かい。」と云う母の声に私はとむねを突かれた。母はすぐ戸口を開けてくれた。私が佇んだまま敷居を高くしているのを見て微笑いながら、「お上りなさい。」と母は云った。母はやさしかった。このときも何も云わなかった。他人の中で一日暮らしてもう心細く、母の懐が恋しくなってしまったのだ。「清かい。」と呼んだ母の声音は今も耳底に聴くことができる。私のいくじなしを母はよく知っていたのだ。
 もとより商人になろうという気など私にありはしなかった。ただ学校がいやだったのだ。無性にいやだった。学校をさえやめてしまえば文句はないのだった。私はずるずるに我を張り通し、結果は思い通りになった。学校は当分行かずに済み、また他人の中へ出て辛い思いをしなくともよくなった。翌年の新学期から必ずまた学校へ行くという条件で、しばらくは私の気儘きままを許されたのである。父も敢て私を咎めるでもなかった。ただ祖母がひどく御機嫌斜めだった。私が一晩で奉公先から舞い戻ってきたのには、あきれもすればまた我慢ができなかったらしい。母が私のためにとりなしをしてくれたので、当座はただ不機嫌な顔をしているだけだったが、その後祖母は何かというとこの話を持ち出しては、私をへこますたねにした。私としてもこのことでは一言もないわけだった。
 懶惰らんだな、そしてなにか日蔭者のような気持のまといついた一時期だった。いわば永い休暇が始まったようなものだったが、自分のうちに妙に伸びきらぬ、卑屈なもののあるのが私にも思いがけなかった。散歩の途上たまたま学校帰りらしい同窓の者の姿を見かけると、私はあわてて横町へ逃れた。その衝動を制し得なかった。一度満員の映画館の中で四、五人の連中に出くわした時には私は、寿命の縮む思いで汗が出た。私は終日自分にあてがわれた部屋に閉じこもるようになった。この期間私は生来の読書癖を募らせた。多く小説本に読みふけった。
 ある日本屋の店頭で雑誌の立ち読みをしていたら、不意に名を呼ばれた。振り向くとイエが立っていた。――私は久しくイエを見なかった。イエはその頃一年も家に稽古に来なくなっていた。席亭なども他の弟子達と顔をつらねることはまれになっていたようである。どんなわけがあったのでもなかった。いつかそんな風になってしまっていた。古参の姉弟子との間がうまくいかなかったというが、とりわけて反目するというわけでもなかったのだ。一体に弟子達の間では妙にイエはうけが悪かったのである。それほどひとの反感を買うたちでもないのだが。また稽古には身を入れる方だったが、他をしのごうという気性は本来イエにはないものだったし。事実その後イエの芸には格別の上達も見られなかったようである。年若かなのと器量のいいのが相応に人気を喚んだようだが。ただこんな風聞が伝わっていて、少年の私も自分の耳に判る程度には聞いていた。女のことでとかくの評判のある、ある若手の三味線弾きにイエの方で夢中になっている、そんな噂が。「越喜代さん、大分入り揚げてるって話ですよ。」家へ来てそんな陰口をきいていく女弟子もあった。弟子達の口からイエの名をきくと祖母は露骨に顔をしかめ、よしないものに軽率に名を遣ったことの愚痴ぐちを漏らすのがきまりだった。父はいつも黙っていた。――「そんなににらみつけていたら本にあながあいてしまいますよ。」そう云ってイエは笑った。はでな日傘を差していてそれをくるくる廻しながら。私はその頃瞬間ふと憑かれたようにものに見入ってしまうことがよくあったのだ。映画館の陳列の写真に見入って放心している隙にスリに袂を切られたこともある。いつからとなくそういう孤独な習癖が身に着いてしまっていた。偶々私のそんな姿を見かけて、でもよく声をかけてくれた……。イエは少し肥ったようだった。震災後田舎から出てきたときの野の匂いなど、もうイエの身には感ぜられなかった。変らず涼しい眼をしていたが、まえにはなかった勝気な強い光りがあった。笑うと金歯を入れているのがちらと覗いた。
「清さんはいま、何年生ですか?」
 私が笑いだしたものだから、イエは不審そうに私を見た。
「僕、落第しちゃったんだ。」
 私は思い切って云った。イエに対しては云い辛く、またイエだからその云い辛いことが云える、そんな気持だった。私が笑い顔でいるものだから、イエも笑ったが、すぐまゆを顰めて、
からだが悪かったんですか?」
 私は否定した。私は生れつき頑健でそれまでほとんど病気などしたことがなかった。
「僕、学校がいやなんだ。つまらないんだもの。」
「勉強が面白くないの? 清さんは何んの科目が好きなんです?」
「僕は修身。」
 イエは噴き出した。そして勝気ないい眼つきで私を見た。私は冗談を云ったのではなかった。学校の科目の中では孔孟こうもうの教だけに心惹かれるものがあった。事実点数も悪くなかったのである。
 来年の新学期からまた学校へ行くこと、中学校だけは卒業しておくつもりでいることを私は話した。「やっぱり、なんだかへんだ。」その頃の気儘な生活のことを、そう私は云った。本屋に一日だけお目見得したことは流石に話せなかった。
「おばさんに余り御心配をかけては駄目ですよ。」
 ふいにイエは云った。強い調子だったので、私は思わずイエの面を見た。むきな生真面目な眼だった。その表情に私はふとイエの幼顔を見る気がした。「おばさんは昔から、清さん一本槍なんですからね。」イエはまたそんなことを云った。
 イエはたまたま新国劇に頼まれて市村座に出ているという。出し物の中に短い間浄瑠璃を聴かせるものがあったらしい。沢田正二郎の素顔を見ることを云い、「いい男よ。」とイエは云った。私はわけもなく赤面した。私もまだ稚かったのである。イエからそんな言葉をきくことが擽ったかった。なんだか自分がいい男のように云われたような気もした。イエは芝居を見に来ないかと誘い、いつでも楽屋へ訪ねてくるように云った。沢正の名は少年の私の心を誘ったけれど、私は気持が進まなかった。そうしたところでイエの語るのを聴くのはいやだったのだ。
 別れ際だった。「どうして稽古に来ないの?」と私が云ったら、イエはただ笑っていた。少年の私にはイエの表情を捉えることは出来なかった。イエは甘栗の大きな包みを買って私に持たせ、「お師匠さんによろしく。」そう云った。
 翌年の新学期がきて私はまた学校へ行くことになった。尋常よりは二年遅れてそうして二度目の三学年を学び直すわけであった。一緒に入学した友達はもう五年になっていた。学校で旧友と顔を合わせるのは流石に面伏せな気がしたが、でも私はなんの焦躁も感じなかった。いつか生涯の方向が自分の心の中だけでおぼろげに予感されていた。私は依然として学業をなおざりにし、私の不成績は母の心を曇らせた。「よその本ばかり読んでいてしょうがありません。」親戚のものなどが来ると、母は私のことをこぼしたけれど、でも私が買いたい本があるのだと云うと、身分不相応に小遣いをくれたものだ。母としては私が曲りなりにも学業を続けていることでわずかに慰め、また私を許してくれていたのだろう。
 その後イエはやはり稽古には来なかった。イエについては時折弟子達のもたらす消息を聞くばかりであった。私がイエと路上で逢ったその年の暮のこと、私達は唐突にイエが大阪にいるということを聞いた。イエはあの三味線弾きのあとを追って大阪へ行ったのだという。大阪には一年ほどいたようである。イエがまた東京に帰ってきたことを聞いたのは、私の母が死ぬ二月ほど前のことであった。そして母の葬式の日に私はイエを見た。
 その年の春兄は無事に年期を勤め終え、一年のお礼奉公も済まして家に帰っていた。引き続いてお店の仕事をさせてもらい、また自分の顧客も出来つつあった。私はと云えば、私はまた祖母との折合いが悪く、家を出て神田の西さんという親戚のお医者さんの許から通学していたのだが、兄の帰家と共にまた家に戻った。私はようやく四年になっていた。母が死んだのは夏休みに入って間もなくであった。私は母の病いをよそに家を空けて海岸へ行っていた。母の臨終の枕許まくらもとに私はいなかった。
 葬式の日西さんが追悼の辞を読んだ。西さんはその文辞の末に後に遺ったもののうえにも云い及んで、兄に対してはその性質の正直で真面目なことを賞揚し、母に代って一家を双肩に荷う今後のことを励げます言葉があり、次いで私に向っては学業半途にして志操堅固ならざるは甚だ遺憾に思うとの意を漏らし、こんなことを云った、「前途なお心にかかるものあり。」母を墓に葬って家に帰り自分の部屋に独りになってから漸く私はほっとした。知る、知らぬ会葬者の中に在って私は日の光りが恐れられ、おどおどし窒息する思いであった。なろうことなら葬式に列なるのは勘弁してもらいたかったのである。部屋の隅に母が入院する際着ていった着物の風呂敷包みが、病院から持ち帰ったまま置きぱなしになっていた。ふとそれに眼がとまり、そんなものが私の涙を誘った。私は嗚咽おえつの声を漏らした。階段を上ってくる足音が聞えたので私は急いで涙を拭った。イエかも知れぬと思った。イエはまだ帰らずにいて階下の座敷にいるのを私は見ていた。やはりイエだった。
「私、また稽古に来さして戴くように、お師匠さんにお願いしてきました。」
「そう。」
「さっき、あれを読まれた方は御親戚の方ですか?」
「うん。」
「前途なお心にかかるものあり、そう云ってましたね。」
「ああ、うまいことを云うなア。」
 イエは笑った。
「大阪へ行っていたの?」
「ええ。」
「東京とどっちがいい?」
「大阪もいいですよ。」
 そう云ってイエはまた笑った。笑うとやはり金歯が見えたが、それがなんだか私の眼にはさびしく映った。イエは前よりずっと地味なつくりをしていた。何か私に言葉をかけてゆきたかったのだろう。
 母が死んでから私は家内で一層悪い子供になった。私のためによくいざこざが起った。祖母はまた依然として私に対して意地が悪かったのである。祖母は昔から兄と私とでは分け隔てを露骨に示した。私は幼い頃の憤りが蒸し返されるような思いがした。祖母とのことから私は兄とも喧嘩をするようになった。「兄貴がおとなしいものですから、ばかにしているのです。」と祖母はよく云ったが、私としては兄に対して弟らしい気持を失ったことは一度もなかった。
 一日私は昼飯後、洗濯盥せんたくだらいを力一ぱい蹴っとばして、底を抜いてしまった。私としては祖母の頭をなぐりつける代りだったのだ。まだ飯を食べていた兄は箸をおくと飛んできて私に掴みかかった。兄は興奮から「貴様ッ、貴様ッ。」と云い、私の喉を締めつけた。私はただ防いだ。そのとき祖母がそばから「こんな奴はいっそ勘当してしまうといい。」と云った。私は憤りが胸さきに込みあげた。私は攻勢に出た。兄の裁縫の弟子が止めに入った。兄は私の眼が憤りで一ぱいになったのを見ると力を緩めた。その時格子の開く音がして客の気配がした。私達は互いに手を振り解いた。客はイエだった。イエは挨拶しかけてその場の異様に気づき、「どうなさったんです?」と祖母の顔を見た。「ああ痛てえ、もう少しで息が詰まるとこだ。」私はわざとそんな捨台詞をして二階の自分の部屋に引き上げた。
 イエに見られた、イエに見られた、私はやけくそな気持になった。しかし私にはどこか心の底の方に見られてよかったと安堵する気持があった。やはり私にはイエに甘えるものがあったのだろう。「盥の底を抜いちまやがったんです。……おい、直るか?」私のこわした盥を片づけている弟子にであろう、そう呼びかけている兄の声が耳に入った。私はふいに可笑しさを感じた。私がいますぐ階下へ下りていって小遣いをねだったら、兄はどんな顔をするだろうと思った。私の神経もいい加減傷めつけられていた。私はそんな発作的な思いを行為に移したいような衝動さえ感じた。と、襖の外から「清さん、ごめんなさい。」と云うイエの声がした。私は咄嗟とっさに渋面をつくった。
「兄さんと喧嘩なんかしちゃ、駄目じゃないの?」
「兄さんじゃないよ。婆ばあだよ。」
「まあ。お祖母さんはもうお年寄なんですから、我慢しなさい。」
「いやだ。僕は我慢するってのはいやなんだ。」
「それは清さん、大人気ないってものよ。」
「どうせ僕は子供だよ。僕はうんとわがままがしたいんだ。僕はちっともわがままなんかしていないんだよ。自分の家にいてびくびくしているんだ。」
「お祖母さんも、清さんのことを心配なすっていますよ。」
「嘘だよ。」私はそんなことを云うイエが疎ましい気がした。「人前だけそんな振りをして見せるんだ。とても意地が悪いんだから。棺桶に片足突っ込んでいる癖に。まるで岩根御前みたいなんだから。」
 イエは噴き出した。私はいまのさき兄と争うはずみに裁縫台の上にあるアイロンに触れ、手首に火傷やけどをしていた。それがひりひりしてきたので、私は時々気にしては手首をめた。イエはそれに気づくと眉を顰め、一寸ちょっとお待ちなさいと云って階下へいったが、上ってきたのを見ると、硼酸ほうさん液と繃帯ほうたいを持っていた。イエは硼酸で火傷の個所をなでてくれ、それから繃帯を巻いてくれた。巻きながら「きついですか? 痛くありませんか?」と私の顔を覗いた。ねんごろなものの伝わってくるのを感じ、私は危くイエの胸に顔を埋めたくなるのをこらえた。私にはそのときイエが母のような気がした。自分の求めているものはこれだ、そういう思いで胸が一ぱいになり、私は険しい感情のとけてゆくのを覚えた。
「ずい分本を読むんですね。」イエは私の書棚を眺めながら「清さんは、先々こういう本を書く人になるつもりなの?」
「うん。一番性に合うような気がするんだ。でも、つまらないや、お母さんが死んでしまったから。僕の書いたものが本になっても誰にも喜んでもらえないもの。」
「そんなことありませんわ。おばさんの代りに私が読ませていただきますわ。」
 私の胸に光りのようなものが流れた。
「イエちゃんも、いつまでも浄瑠璃をやってゆくつもり?」
「いいえ。」イエは淋しそうに笑って否定した。「でも、清さんは自分の好きな道にお進みなさいね。男なのだから。」
 前途なお心にかかるものあり。思えばこの言葉は私よりもイエの心を強く打ったのだ。イエはまた私のうえに心を振り向けた。「いまにきっとえらい人になります。」幼いころの幻影をイエは再び私のために喚び起してくれたのだ。
 母が死んだ翌年私の家に新しい母が来た。その翌年兄が結婚した。私もやっと中学校を卒業することが出来た。卒業の年私は丁度適齢で徴兵検査を受けた。私は生来頑健な質なので甲種合格になるものと家のものはみんな思っていたが、結果は第一乙種で補充兵に編入された。体重が少し軽いということだった。卒業前の一箇年私はとりわけ懶惰な学生生活を送った。それが災いしたのに違いなかった。自分だけは多少危ぶむ気持があったのである。卒業後私は職業にもかず、ぶらぶらしていた。家のものも強いて私を促がすでもなく、また進んで私のために図ってくれるでもなかった。家族のふえた家内にあって、引き続き円満の欠けた関係のまま、私は放任された日々を送っていた。明らかによくなかった。私のためにも家のためにも。思えば私は随分と家庭の安穏を壊わす仲立を勤めた。父母と兄夫婦の間も折合がうまくいかなかった。遂に一家は離散しなければならぬなりゆきに立ち到った。私の廿三にじゅうさんの年の暮のことである。父達は仙台へ、兄は神戸へ、そして私は独り東京に残った。私も漸く自分の口は自分でせねばならなくなった。爾来じらいいろんな人の世話になりいまに至った。その間私なりに多少の浮沈はあった。私はこれまで周囲を顧慮せず自分のことばかり考えて来た。いまだってそうである。そういう私にはいまも親しい友達とてはない。私を迎えてくれる心易い家庭もない。みんな私が交りを大切にしなかったからである。ただ一つの家庭があっていまもなお私を迎えてくれることを云おう。イエの家庭である。イエが私を顧みることを止めなかったからである。竿で岸を強く突けば、それだけ船は岸を離れる。人と疎遠になる因はみんな自分の側にある。私は自分でひがんでイエの姿を見失ってしまったことが一度ならずある。そんなときこそイエは一番私のことを心配してくれていたのである。私は人との交りには至って臆病であるが、ただイエに対してだけはうぬぼれている。私がイエから離れたらイエはきっと悲しむ。私にはこれだけのことが云える。先々私にどんな運が開けようと、どんな縁故に結ばれようと、イエのような人には行き逢えぬと。イエは私にとってはいわば最後の人である。私はいままでがつたなかったように、これからさきも恐らくしくじってしまうかも知れぬ。そのとき人は私の誠実の足らわぬを笑うがいい。自分の手で消してしまわぬ限り消えぬものが私のうちにはあるのだ。――その後イエは浄瑠璃をさっぱり止めた。泉さんと結婚した。(結婚後間もなくイエの母が死んだ。)泉さんは彫金の職人である。間に女の児が生れた。しづという名である。しづちゃんが五つになった年泉さんが亡くなった。泉さんも肉親の縁には薄かった人のようである。私を弟のように愛してくれた。私も泉さんが好きだった。なんだか自分に似ているように私には思われた。もとより泉さんは私などとは違って、確かりした闊達かったつな気性の人で、イエを知る人はこの夫婦のことを鬼に金棒と云ったけれど。人を好きになるのはその人のうちに自分でない自分を見つけるからではなかろうか。なんだか私にはそんな気がしてならない。私が泣虫の証拠であろう。泉さんの死後その多いとは云えぬ知人名簿のはしに、私の転々とした住所がそのつど故人の筆でしたためられてあるのを見出した時、生前私に打ち解けてくれた数々の言動が新しく思い起され、ああ、この人にはもっともっとわがままをすればよかったと私は思った。しづちゃんも私を好きらしい。私に抱かれることを喜ぶ。私が行くとイエよりもまずしづちゃんが迎えてくれるのだ。自分の夢にだけ生きている私にとって、イエの家庭はいわば心のふるさとであった。生活に臆した気持になるとき、いつも私の心を引き立ててくれるものはイエの家庭のおもかげであった。そこでは辛いことも霧と薄らぎ、私も千の負目を忘れて団欒だんらんの仲間入りをした。泉さんの死後イエはあの多摩川の上流の田舎に帰った。「炭焼き江戸っ子。」とは祖母の憎まれ口であるが、いまはそれを本業にしている。ただしづちゃんの成長を楽しみに静かに生活している。しづちゃんもいまは十歳になる。イエの幼いころにそっくりである。小学校の三年生になる。しづちゃんの学校を私も見たが、田舎の学校はいい。校庭も広く、樹木も多く、そして周囲は塀の代りに、ただ生垣がめぐらしてあるだけの、木造の素朴な学舎まなびやである。しづちゃんの通信簿を見せてもらった。唱歌に、図画に、書方がいい成績である。操行のらんには「オ友達ニ親切デス。」と書かれてあった。いい先生だなと私は思った。この間しづちゃんから「星マデ高ク飛ベ。」という手習いが送られてきた。私の部屋の壁にはってあるのがそれだ。私はイエのとこへはめったに行かない。しかし一年に一度は必ず行く。六月七日には必ず行く。しづちゃんの誕生日である。私はしづちゃんに貧しい贈物をする。自作の童話一篇。あるとき、イエが流石に私の大器晩成振りにもあきれて、私の不勉強を揶揄やゆしたことがあった。どうも私はあてなしの努力というものが出来ぬ性らしい。「恋文なら書けるのだが。」そんな冗談を飛ばし、「よし、それじゃ、これから毎年しづちゃんの誕生日には童話を書いて、それを贈物にしよう。」と云ったら、イエはまじめに賛成した。たわむれがほんとになった。しづちゃんの七つの年のことである。私としてはいわば背水の陣をしいた形になり、私は大家のように一年に一度締切日を持つようになった。だからイエの許にはいま私の童話の習作が三篇ある。なまけものの私には努力の結晶とてはこの他にはない。いまは私もこの童話には心を傾けている。この間イエに会ったとき私は云った。「僕はしづちゃんのために童話を十二篇書く。十二篇目を書き終る年には、しづちゃんもいいお嫁さんになる。僕はその童話を一冊の本にまとめて結婚の贈物にする。」
 あるとき私はイエに向って云った。
「僕は駄目だな。いつまで経っても、僕は自分が水溜りのような気がするんだ。時に青空を映すことがあると云えばめ過ぎるかな。僕はかけいを流れる清水のような作品を書きたいのだが。」
「あまり気にしない方がいいですよ。自分ではそう思っていても、人が見たらそれほどでもないかも知れませんよ。」
 そしてイエは私を慰め顔にこんなことを云ってくれた。私が自分の欠点だと思ってくよくよしている性質は、本来の私にはない不自然なもので、私はずっと自由なふっきれた生れつきなのだという意味のことを。私はそのときそう云うイエの眼差しを信頼した。イエはいいことを云ってくれた。私の運の星は地上の私にかまわずいつも濁りにそまぬ光りをはなって輝きつづけているに違いない。私はそれを信ずる。
 またの日。私がのほほん顔で胸部の疾患のことを訴えたとき、イエは明らかに疎ましい眼で私を見た。私のどんな放恣醜態ほうししゅうたいの日にもイエはかつて一度も不機嫌な顔を見せたことはなかったのだが。そして、イエはこんな知己ちきの言を吐いて私をまいらせた。
「清さんの取柄は躯の丈夫なことだけだと思っていたのに。」
 私の精神の弛緩が肉体にまでひびを入らせたことをイエは怒ったのだ。
 またの日。
「僕、この頃絵が少しわかってきたような気がして、とても嬉しいんだ。」
 イエはいい眼つきで私を見つめ、モナ・リザの微笑みを見せた。
「前途なお心にかかるものあり。」





底本:「落穂拾い・犬の生活」ちくま文庫、筑摩書房
   2013(平成25)年3月10日第1刷発行
底本の親本:「小山清全集」筑摩書房
   1999(平成11)年11月10日発行
初出:「表現 第二巻第三号」角川書店
   1949(昭和24)年3月1日発行
入力:kompass
校正:酒井裕二
2018年7月27日作成
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