遁走

小山清




 私は中学校の三年生のとき、家出をしたことがある。原因はいまだから話すが、幾何きかの宿題をなまけて、先生から叱られるのが恐かったからである。
 私の学校の幾何を担任していた先生は、とても恐かった。まだ若い人だったが。独身だったか、妻帯していたか、そんなことはわからない。いま想像してみても、どちらとも見当はつかない。独身であったかも知れないし、あるいは妻帯していたかも知れない。色黒で、痩せていて、目が光っていた。神経質の方だろうな。そう、一寸フィリッピン人のような感じがした。
 私はいまでも、あの先生がどうしてあんなに怒ったのか、わからない。察しがつかない。問題を当てられても解けず、黒板の前で立往生をしていると、また宿題をやって来なかったのがばれたりすると、先生は怒った。その怒り方は実に恐かった。怒るばかりでなく、生徒の頭をこづいたような気もする。なにしろ恐かった。なにもあんなにまで怒らなくとも、いいのではなかろうか。ともかく、生徒に対してあんな風に怒り、そして叱った先生の心理は、私にはどうにも見当がつかない。あれは少し異常ではなかろうか。それとも、そんなにまで先生を恐怖した私の方が異常だったのだろうか。明日幾何の授業があるという前日は、私は憂鬱ゆううつでかなわなかった。私が憂鬱という感情をしみじみ実感したのは、私の人生においては、このときが最初ではないかと思う。
 月曜日には幾何の授業があった。私は朝飯の途中で、茶碗と箸を膳の上に置き、顔を顰めて、母に訴える。
「おなかが痛いよ。」
「お前またきのう蜂蜜を呑んだんだろう?」
「うん。」と私はいかにもしおしおとした顔つきをしてうなずく。
「だから、もう呑んじゃいけないって、あれほどったじゃないか。」
 私はその頃、日曜日には大抵浅草公園へ行って映画を見て、帰りには瓢箪池ひょうたんいけの際に出ていた屋台の蜂蜜屋で蜂蜜を呑んだ。一杯五銭でなかなかおいしかった。蜂蜜はおいしかったが、明日の幾何の授業のことを考えると、憂鬱であった。遂にある朝私は仮病をつかい、腹が痛いといつわって学校を休んだ。而もその腹痛の原因を、昨夜呑んだ蜂蜜のせいにした。蜂蜜こそはいい面の皮である。それからは私は月曜日にはきまって腹痛を起すようになった。いつも原因は蜂蜜であった。親というものは有難いもので、そんな他人ならばやすやすと見抜いたであろうような嘘を信じてくれた。
 けれども私も、流石さすがにいつまでもそんなに腹痛ばかりを起し、そしてそれを蜂蜜のせいにばかりはしていられなくなった。そこでとうとうある朝、家出をしなければならぬ羽目になった。後になっては私も、学校へ行ったふりをして浅草公園で映画を見て時間つぶしをするような、そんな不埒ふらちな真似をするようになったが、その頃はまだそんな手を思いつかなかった。学校へ行かないと決心したからには家出をするよりしようがないと単純に思いつめてしまった。いま私はここまで書いてきて、ふと思い当ったような気がしたのだが、あの先生があんなに怒ったのは、あれは男のヒステリーの一種ではなかろうか。
 それは二月の終りだったろうか、それとも三月の始めだったろうか、ともかくまだ寒い頃のことで、私は自分がマントを羽織っていたのを覚えている。家出はしたが、行先はきまっていなかった。第一、金が無かった。私は市電で品川まで行き、品川駅で藤沢行の切符を買って、汽車に乗り込んだ。私の懐中にあった金は、藤沢行の片道切符を買うのがせいぜいであった。そのときなぜ藤沢へ行ったのかと云うと、二年のとき同じクラスにいたある美少年を私はこっそり思っていたのだが、その少年はその後中途退学してその頃藤沢にいるということを、私は風の便りに聞いていたからであった。もとよりその少年の家が藤沢のどこにあるとも知らなかったし、またたとえ知っていたとしても尋ねる気持はなかったのだが。
 藤沢で汽車を下りて、私は駅前にあったある店で懐中に残っていた金をはたいて田舎饅頭を買って食べた。それから私は江の島へ行く道を訊いて、江の島へ行った。江の島までは大分歩きでがあった。砂埃の立つ道で、私のはいている編上靴は真っ白になった。風が吹いていた日で、江の島にはそんなに人出もなかった。私はそれまで江の島には、ずっと子供の時分に、母に連れられて兄や弟と一緒にいちど行ったことがあるきりであった。ぶらぶらしている私を見かけて、写真屋が「学生さん。記念写真をとらないか。」と云った。金が無いと云うと、代金は写真を送ったときに引替えでいいと云った。けれども私は写真はとらなかった。まもなく私は同じ道を、また藤沢へ引返した。その辺をぶらぶらしているうちに日が暮れ、夜になった。私は往来から少し入った処のとある木下蔭に、マントを被って寝た。私が眠りに入らないうちに、私の寝ているわきを男の二人連れが通り、私に声をかけた。見ると暗いのでよくはわからないが、猟に行った帰りらしく鉄砲を肩にしていた。そうだ、たしか犬も連れていたようだ。はじめ犬が私の寝ているまわりをうろうろして、その気配に私が身を起したような記憶がある。男の一人が私に「なにをしている?」と訊いた。「寝ているんだ。」と私は答えた。男はこんな処に寝ていては死んでしまうと云った。私はそのとき、それほど寒いとは思っていなかったのだが。
 それから私はその人にその家に連れて行かれた。電灯の下で見ると、思いがけないことには、その人は印度人であった。年は六十位で、そう、一寸ビスマルクのような立派な顔をしていた。けれども、奥さんは日本人であった、息子が三人いて、いちばん末の人が私より一つか二つ年上で藤沢の中学校に行っているようであった。私は奥さんを見て、その少し前に築地小劇場の舞台で見た「叔父ワーニャ」に出てくる婆やにそっくりだと思った。奥さんはあの婆やのように優しくて、そして声もなんだかあのときの女優の口跡そのままのようだった。奥さんは私に向ってまじめに、「こんな可笑しな暮らしをしています。」と云った。自分達夫婦のことを。その家庭のことを。私のような年の行かない者に対して。また、私のような事情で自分の家に一夜の宿を借りたような者に対して。私は御飯を御馳走になり、また、すすめられて湯にも入った。私が湯をつかっていると、焚口たきぐちの処から息子さんが湯加減を訊いた。主人の猟の連れは日本人で、この家の出入りの職人かなにからしく、主人に対して下手な口をきいていた。
 あくる日の昼頃、玄関わきの部屋で私が携帯した鞄の中から聖書を出して読んでいると、戸外で女の声が「ごめん下さい。卵を分けて下さいませんか。」と云っているのが聞えた。なんだか母の声に似ているなと私が思っていると、しばらくしてこの家の玄関の戸があいて、「ごめん下さい。」とこんどはもう紛れもなく母のおとなう声がした。昨夜、この家の人が私のことを藤沢の警察署に届け、警察から私の家に連絡があって、それで母が迎えに来たのである。私はこの家の人から私の家の住所を訊かれたときに、べつに躊躇ちゅうちょはしなかった。このまま放浪をつづけて行く気など、私にありはしなかったのだから。母と一緒にこの家を辞して帰るとき見たら、隣りの家の門口に「生みたて卵あります。」と書いた紙が貼ってあった。その後私はふと、「卵を分けて下さいませんか。」と云った母の声音を思い浮べることがあったが、そのたびに私はなんとつかず可笑しくもなったものだ。
 奥さんは、主人に連れられてきた私の姿を見たとき、なんだか息子のような気がしたと私に語り、母に向っては、私のことを叱らないでくれと云った。
 その後、母は折にふれてはふと思い出したように、「あのクロンボさん、どうしたろうね。」と云った。
 けれども、甘やかされて我儘わがままに育った者は仕方のないものである。私はまた性懲りもなく家出をした。まえのほとぼりのまださめないうちに。
 私は三年から四年に進む時期にあったのだが、私には自分が落第することがはっきり判っていた。それは学年末の試験の最中であったか、しくは試験のはじまる直前であったか、私ははっきり覚えていないのだが、ともかくそういう落第という運命が目睫もくしょうに迫っている時期に、私はまたもや家出を決行した。最初の家出から十日位しか経っていなかったろう。
 こんどは私は東京駅から夜汽車に乗った。私は大阪までの切符を買ったのだが、それで私の懐中は空っぽになってしまった。こんどは私にも目当があった。私はその頃神戸の貧民窟で宗教運動をしていたK氏のもとへ行くつもりであった。関東の大震災後、神田のバラック建てのYMCAで、アメリカから帰ってきたばかりのK氏の話をきいて、それまで知らなかった世界が私の前にひらけた。それから私はその頃YMCAで日曜日毎にあった早天礼拝や、夏、御殿場で開催されたイエスの友の会の修養会などに行くようになった。K氏が呶鳴どなるような声でうたう讃美歌に、少年の私の心はわけもなくきつけられた。K氏は私にとっては最初のあこがれの人であった。私は神戸までの切符を買わなければならなかったのだが、そのとき私が所持していた金では、大阪までしか買えなかったのだ。私はともかく大阪まで行けば、あとはどうにかなるだろうと思った。私は汽車の中で聖書をひらき、すきに手をかけた者は後をふりむくなというような聖句を見つけて、このような際にこの聖句が目に入ったのは、これは神が私の行為を是認している証拠だといて思おうとつとめた。自分はこれから貧民窟で貧しい人達のために働く人間なのだと自分で自分に云いきかせた。
 大阪へ着いた。私はおなかが空いていたし、また無一文では心細いので、マントを売りはらって金に換えようと思い、駅前にあった古着屋の暖簾のれんをくぐり、交渉したが、古着屋のあるじは私の方を胡散臭うさんくさそうに見て、買うわけにはいかないということを大阪弁で云った。私はマントを売ることは諦めた。私は駅前の交番に行き巡査に、神戸へ行くにはどう行ったらいいかと訊いた。巡査は私を見ていろいろ尋問し、私が東京からやってきて無一文であり、K氏のもとへ行くのが目的だということを知ると、丁度そのとき交番の前を通りかかったトラックを呼び止めて、そのトラックが神戸へ行くことを確めてから、私を神戸まで乗せて行ってやってくれと運転手に頼んでくれた。運転手は途中で車を止めて、私に今川焼を買ってくれた。私はトラックの上で、ある雑誌にK氏の住居が武庫郡のなんとか村にあることを読んだことを思い出し、神戸の貧民窟を尋ねるよりはその住居の方を尋ねた方が確実かも知れないと思い、そう運転手に話したところ、彼は神戸の手前で私を下してくれた。私は運転手がなんとか村ならばそっちの方へ行けばいいと教えてくれたとおりに歩いて行き尋ねたのだが、またK氏のような有名な人だからすぐわかるものと私は高をくくっていたのだが、それがなかなか知れなかった。二十五六年も前のはなしで、私の記憶もあやふやなのだが、ともかく尋ねあぐんでいるうちに、日がとっぷりと暮れてしまった。私が心細い思いで田舎道を歩いていると、赤ん坊を抱いて歩きながら、ヴォルガの舟唄をロシア語でうたっている中年の女の人に行き逢った。私はこの人はあるいは知っているかも知れないと思ったが、私が訊きそびれているうちに行ってしまった。
 私は喉が渇いて仕方がなかったので、とある百姓家を見かけて、水の無心をした。そして私は水の振舞いをうけたばかりでなく、一夜の宿さえ与えられた。四十代の夫婦とはたちばかりの息子の三人家族だった。ちょうど一日の労働を終えて、夕めしを食べるところであった。私の寝床には湯婆ゆたんぽが入っていた。そんな心づかいをしてくれた。あくる朝の飯には、ゆうべ焚いた御飯の冷くなったのを食べた。昨夜は私は腹の空いていたせいもあるだろうが、焚きたての御飯とあたたかい汁と鉢に山盛の沢庵たくあんとで食べた夕めしがとてもおいしかった。朝になって食べためしはまるでぼそぼそしていて、ゆうべのとは同じものとは思えないような不味さだった。米の質がよくなかったのかも知れない。この頃私たちが食べている外米の味によく似ていた。私はそのとき、お百姓さんというものは朝夕のおかまいなしにおはちに一杯めしを焚いて、冷たくなってもなんでもなくなるまではそれを食べるのかと思った。朝めしを食べてから、お百姓さんは私を神戸のK氏の処へ連れて行ってくれると云い、私達は電車に乗って神戸へ行った。神戸の市内電車の中で、私が車掌に向って、新川へ行くのだと云ったら、車掌は新川は遊廓ゆうかくのある方かと問い返した。私がK氏のいる処だと云ったら、そんならはじめからそう云えばいいと云った。神戸に一歩入ったら、K氏の名はいっぺんに通りのいいものになった。まもなく私達はK氏の著書でなじみになっている新川の貧民窟へ行った。イエス団の建物は皮肉にも酒屋の前にあった。案内を乞うと、私の方では名前も顔も知っているSという人が出てきた。Sさんの話によると、K氏はやはり、武庫郡のなんとか村の住居の方にいるのだった。Sさんは私に向い、ここで働きたい意志なのかと云った。私は口ごもり、K氏にあいたいとだけ云った。私は貧民窟に足をふみ入れてから、その辺にいる子供、と云っても、私と同年輩位になる少年の人相を見て少からず怖気づいていたので、Sさんの問いに対しては躊躇せずにはいられなかったのだ。Sさんは一寸ちょっとに落ちないような表情をしたが、K氏あてに手紙を書いてくれ、お百姓さんに対しては私のために礼を述べてくれた。
 私達はまた神戸から引返し、武庫郡のなんとか村へ行った。どうも先刻から、なんとか村とばかりで、読者に対してたいへん申訳ないのだが、なにしろ二十五年以上も前のはなしで、私はその村の名前をどうにも思い出せなく、調べればわかることだが、いまそれを調べているひまもないので、それにひょっとすると当時の私にもその村の名がわかっていなかったのじゃないかという気がふとして、……いや、どうもそれに違いない、そうでなければ、いくらなんでも私があんなにまごまごするわけがない。私が世話になったお百姓さんの家のあった村とそのなんとか村とはどんな位置にあったのか、そんなこともさらに記憶にない。ところでK氏の家に行ったら、そこで偶々たまたま第一回の福音農民学校が始まっていて、私達が尋ねたときはちょうど授業時間中らしく、私達はしばらく座敷でK氏の講義がすむのを待った。その座敷の床の間にはお手製の大きなひな人形が飾ってあった。してみると、私の二回目の家出は三月の節句の頃であったと見える。お百姓さんはきちんとかしこまって坐っていたのでしびれをきらしたらしく、一寸足を崩して私を見て笑った。とても邪気のない笑いだった。
 K氏は私の話をきくと、すぐ人を遣って私の家に電報を打たせた。私は一週間ばかりK氏のもとにいて、また東京へ帰ったが、その間私は全国各地から集まってきていた農村の子弟達にまじって農民学校の講義をきいた。一人の青年がまじめに、「いま東京からK君が見えました。」と云って、私のことをまるで同志のようにそこにいる青年達に紹介したので、流石に私は恥ずかしくなった。K氏は私が親から月々どの位小遣をもらっているか、そんなことを訊いた。そのときK氏のもとにいた青年の一人に神戸まで送ってもらって、私は東京へ帰った。その青年は東京までの切符を買って私に与え、また弁当代として五拾銭玉を一個くれた。私はその五拾銭で、ある週刊雑誌の増刊号と※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)あんパンを買った。その週刊雑誌に載っていたある小説が、そのときの私の気持を随分柔げてくれた。それはその作家の身の上話らしくて、小説が好きで学業をなまけ中学校で落第する話を書いたものであった。家に帰ったら、母からはK氏のもとから電報がくるまでは御飯もろくろく喉には通らなかったときかされ、私を愛していなかった祖母まで、母に同情する口吻こうふんをもらした。父には私が学校から旅行に行っているように話してあるからそのつもりでと云われた。父は目が見えなかった。警察に捜索願を出したらしく、その下書なるものを私は見たが、それは父の浄瑠璃の弟子の筆になるもので、私の容貌ようぼうのことを、眉ひいで、目もと涼しく、鼻筋とおり、口もと尋常、と云った工合で、典型的な美少年のように書いてあり、これで家の者も誰一人怪しむ者もいなかったのかと思ったら、私は可笑しくて仕方がなかった。私は学校の方は我を張りとおして、そのまま中途退学してしまった。私は試験はついに受けなかったのだが、三学年終了ということにしてもらった。つまり私は落第はしなかったわけである。

 二度あることは三度あるというが、私の家出もそのたとえにもれなかった。もっとも、その三度目は二度目のときからは、大分歳月が経っていた。
 一度目のときは品川駅が出発点であり、二度目は東京駅であったが、三度目はまた変って、こんどは両国駅であった。私は成田までの切符を買った。一度目も二度目も片道切符を買うと、私の財布は空になってしまうのがきまりだったが、このときは空にはならなかった。私は成田で不動さまに参詣して、それからその近くにあった床屋に寄って散髪をした。私はその日は成田で泊ることにきめ、宿屋に上ると、すぐ床をのべてもらい、女中に云いつけて近所の本屋から新青年という雑誌を買って来させ、床の中でその雑誌に掲載してある探偵小説を読んだ。私の隣りの部屋には素人相撲の一行がいて、がやがやと騒々しかった。佐原かどこかで興行をして、その帰りにこの成田に寄ったらしかった。あくる日、宿屋を立つ際に、私は新青年を女中にやった。
 私は銚子へ行った。秋冷しゅうれいが身に気持よく感じられる頃で、私はレインコートをつけ、それから蝙蝠傘こうもりがさを携帯していた。銚子でもすぐ私は宿屋に上った。番頭が私の職業を訊いたとき、教員だと私は云った。「先生だそうです。」帳場で多分私のことだろう、女将おかみに告げている番頭の声がきこえた。私は宿屋のどてらに着換えて散歩に出た。犬吠いぬぼう岬の灯台を仰いでから、映画館に入った。映画館ではアトラクションに、歌と踊をやっていた。私は映画の方は見残して宿屋へ帰った。湯に入ったら、番頭が肩を流しにきた。便所に入った。いくらか下痢ぎみであった。便所の壁には一面にいたずら描きがしてあった。あくる朝、宿を立った。番頭に茶代をやった。
 バスに乗って、水郷へ行った。香取、鹿島を見て、土浦行の船に乗った。霞ヶ浦の水の上で日が暮れた。幾艘いくそうもの大きな帆かけ船と行き逢った。土浦に着いたら、もうすっかり夜の帳が下りていた。
 私は水戸行の汽車に乗った。透いていた。箱の中には四五人の乗客しかいなかった。水戸で私は駅前の宿屋に上り、めしを食った。けれども私はそこに泊るつもりではなかった。私は一休みしただけで宿屋を出た。私は自分のなかにある勘のようなものに導かれて、ただあてずっぽうに歩いた。そのうち、私は自分の心が欲している処へ出た。往来のそこ、ここに女の影があった。私は一人の女のそばを行き過ぎ、しばらく行って引返した。女は私を見て、私の蝙蝠傘を執えた。私は女に促されるままに、その家に上った。私は着換をして、女の来るのを待った。女はなかなか姿を見せなかった。私は不安な気持になった。と、女が顔を見せ、「臨検です。」と云い、すぐ女の背後から刑事が部屋に入ってきた。刑事はさりげない口調で私にいろんな質問をし、それから私の所持金をしらべた。刑事は一寸警察まで同行してくれ、手間はとらせないからと云った。私は身支度をして刑事に従った。その家の戸口で、刑事は女をかえり見て、すぐ帰ってくるんだからねと私のことを云った。なにやら優しいものの云い方であった。警察へ行く道すがら、刑事は私を自分よりは前方に歩かせ、心配しなくともいい、なに一寸しらべるだけだからと、同じことをくりかえしくりかえし云った。
 母はもうこの世に亡く、私は二十四歳になっていた。





底本:「落穂拾い・犬の生活」ちくま文庫、筑摩書房
   2013(平成25)年3月10日第1刷発行
底本の親本:「小山清全集」筑摩書房
   1999(平成11)年11月10日発行
初出:「新潮 第五十一巻第一号」新潮社
   1954(昭和29)年1月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:酒井裕二
2018年10月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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