むかしの話だ。
私がそのみせの前を通ったとき、そこの番頭さんが、
「よう、前田山。」
と私のことを呼びかけた。その頃私は
「学生さんには、またそのように、遊んでいただきます。」
など
「若いのがいいでしょう。」
「うん。」
番頭さんは初見世と書いてあるびらを指さし、
「この
私はまずその妓の印象を得たいと思い、そこに並べてある写真の中を探してみたが、見つからない。私は決して気難しい男ではないが、ただあまり
「写真ないね。」
「ええ、写真はいま作製中です。おとなしい可愛い
番頭さんは私の心中の当惑を見ぬいたような口をきいた。私は少しく心許ない気もされたが、
「君の写真は作製中だそうだね。」
「ええ、まだ出来てこないの。」
「君はいつからみせに出たの?」
「今日で十二日になるわ。」
「君は十八だって?」
「ううん、十九。」
十八ではまだ身売りのできないことを彼女は説明した。番頭さんは日数のことも年齢のことも二つながらさばを読んだわけであるが、それは番頭さんとしても一生懸命のところだったのだろう。私には彼女の素直でごく当り前な感じのするのが好ましかった。廓で働く女の多くがそうであるように、彼女もまた百姓娘であった。彼女の発音には
翌朝、彼女に附き添われて洗面所へいった。私が顔を洗っている間、彼女は私の
帰るとき、下駄を履きかけている私の袂を彼女は控えて、
「また来てね。」
と囁いた。
私は彼女のもとへ通うようになった。彼女のいるK楼は、彼女の話によれば、この廓では三流のみせであるという。古いみせなので、やはりどことなくそれだけの格式と情味が感じられて、私などには遊びやすかった。保守的なもののよさとでも云うか、金をむさぼらないわりには客あしらいがよかった。働いている女の風俗もまたその呼び名もみんな古風であった。彼女の呼び名は「
私がいくと彼女は、私ではないかと思ったと云ったり、またあらかじめ私だということがわかったと云ったりした。どうしてわかったと云ったら、履物を置く場所に朴歯の下駄があったからと云った。朴歯など履いてくる客は私のほかには誰もいなかったのであろう。いつか帰るとき、足もとに立派な
遊びにいっていると、時にはほかの部屋から陽気な唄声や
「なんだ、鼻のあたまに汗をかいているじゃないか。」
「ふふふ、むずかしい。」
「誰か教えてくれる人がいるの?」
「ううん、自習帳があるの。」
そうして彼女は「君が代」も「ひばり」も弾けると云った。
ある日行ったら彼女は病気で寝ているということだった。私が帰りかけたら、
こんな話をしたこともある。
「あたしの村の役場の書記さんに、大山さんって人がいたの。大山さんって呼ぶとね、いつも、おう、って返事するの。」
「君のいい人だったの?」
「あら、ちがうわ。法律を勉強していたわ。いちど自転車のうしろに乗せてもらったら、ひっくりかえっちゃって。」
私にはその人がなにか
「僕に似ていたのかね?」
彼女は首を横にふったが、眼は笑っていた。きっとその大山大将は私に似ていたに違いない。
彼女のもとに行くようになって四月ばかり経った頃、私は勤め先きで不首尾のことがあって、ふいに東京を離れなければならなくなった。私は
私はまた東京に舞い戻ってきた。ある日浅草公園へ行って池の端の露店でミカン水を呑んだら、そこの親爺が私の掌に金を握らせた。見ると一円に対する釣銭の額だった。私はミカン水の価しか金を支払わなかったのだが。私のポケットにはそれだけの金しかなかったのだが。私はびっくりして親爺の顔を覗いたが、親爺はむっつりした顔をしてそっぽを向いていた。私は黙ってそこを離れた。私には親爺が思い違いをしたというよりは、私を
年が明けた正月の休みの日に、私はふとその気になってK楼へ行ってみた。まだいる筈だった。あの番頭さんがいた。番頭さんも朴歯のお客のことは覚えていた。念のために陳列の写真を覗いてみたら、すぐ見つかった。彼女の写真はお職から二枚目のところに並べてあった。いいおいらんになっているわけだった。私の顔を見ると彼女は、まあ、と云った。
「どうしていたの?」
「東京にいなかったんだ。」
「どこへいっていたの?」
「あちこち旅をしていた。」
「そうお。」
彼女はなにやら考え深そうな眼つきをしてうなずいた。
「この近所へきたよ。」
「近所って?」
「この裏の新聞やにいる。」
「ほんと?」
「ほんとさ。君のとこへ新聞を配達してあげよう。」
彼女はまた思案顔をした。
「なにを考えているんだ?」
「ううん。」
彼女は首を横にふった。
私は廓を配達している朋輩に頼んで彼女のもとに新聞を入れてもらった。
私はまた彼女のもとに行くようになった。ちょっと見なかった間に彼女はすっかりいいおいらんになっていた。鼻のあたまに汗をかいて大正琴を弾いていた
「俺の女はいつだって、グウグウ
と
「その女はお前によっぽど
とひやかされ、私はめんくらった。私が首をかしげていると、自分でもおぼつかなくなったのか、
「少くとも、嫌われていないことだけは確かだ。」
と訂正した。その心理家の説によると、遊女というものはよほど好きな男の傍でなければ安眠しないというのだが、果していかがなものであろう。彼女と私の間にはどんな
「あたし、はじめの頃、あんたは、いい人との間がうまく行かなくて、それであたしのとこへ来るのかと思っていた。」
とんでもない話で、私にはどんないい人もありはしなかった。けれども彼女のそういう言葉は私にはうなずけた。おそらく馴染客としては、私が
ある日、店の集金人のおばさんから、
「きょう、あんたのいい人を見たわよ。」
と云われ、なんの話かと
「なにをそらとぼけているの。K楼の、ほら、あの、なんとかいったねえ?」
と云われて、なんだ、彼女のことかと思った。
私は朋輩に頼んで彼女のもとに新聞を配達してもらっていたが、それはその後やめてしまっていた。それなのに、その月朋輩が勝手にまた新聞を入れて、そのうえ彼女の名宛で領収書を発行したのであった。それでその日なにも知らないおばさんが集金に行ってきたというわけであった。彼女はなにも云わず代金を払ってくれたという。
おばさんはまるで桜の花盛りでもほめるような
「綺麗な人だねえ。」
「よせやい。おばさんには
「あら、私はああいう人、好きだね。眼をカギカギといわせてね。」
「なんだい、カギカギって?」
「始終にこにこしているじゃないの。あの人はいいおかみさんになるね。気持もさくいようだし、所帯持ちだって悪くないよ。年が明けたら、あんたもらっておやりよ。」
「なに云ってんだい。」
おばさんは集金の勘定をしながらしきりに彼女のことをほめたてた。私は悪い気はしなかった。それは、云うならば、自分の身うちのいい評判を聞くような気持であった。私はおばさんから
新聞代を払わせたことを気の毒がったら、
「いいのよ。続き物を読んでいるから、続けて入れてもらいますわ。」
と云った。
「集金やのおばさんが君のことをほめていたよ。」
「あら、なんて?」
「
「あら、いやだ。」
「君の金の払いっぷりがよかったらしい。」
「なに云ってんのよ。」
私は昼間のおばさんの言葉が念頭にあったので、
「君はどういう人のおかみさんになりたい?」
「どういう人って?」
「たとえば、月給取りとか、商人とか、学校の先生だとか。」
「商人。あたし、お勤め人のとこへはいきたくないわ。」
商人といってもいろいろあるだろうが、それでも私には彼女の気持がわかるような気がした。彼女はおとなしい性質だが、しんには派手な気前が見えたから。亭主の留守をまもっているよりは、ともに働きたい方なのであろう。百姓出の持つ甲斐甲斐しさかも知れない。
「新聞やはなんだろうな。やっぱり商人のくちだろうな。」
彼女は笑ってそれには応えず、
「あんた、なにか勉強しているんでしょ?」
「なにも勉強していない。」
彼女は私の気を兼ねるふうに、
「でも、いつまでも新聞やさんをしているつもりはないんでしょ?」
私はしばらく前、
「僕は、あの、小説家になりたいと思っているんだ。」
自分の顔が
「ほら、
私はいつぞや彼女から雑誌の代りに浪六の「元禄女」を借りて読んだことがあったのだ。彼女は黙ったままうなずいたが、私が懸念したような
「あたし、前からあんたはなにか勉強していると思っていたわ。」
私を買い被ってくれていた人が、思いがけないところにいたというわけなのである。
夏のこと。
私も酒を
「まあ、大へんな呑み手なのね。」
「それほどでもないがね。きょうは
「いいとこへ連れてってあげましょう。涼しいわよ。少し風に吹かれるといいわ。」
いいとことは物干し場であった。なるほどそこはよかった。涼しい風が吹いていた。深い夜空の下に、廓の屋根屋根を越えて、遠くに浅草の灯さえ見えた。
「いいね。パラダイスじゃないか。」
「涼しいでしょ。あたし、よくここへ涼みにくるの。ちょいと、ここへ来てごらんなさい。あんたのお店が見えてよ。ほら、ね。」
背のびして眺めると、彼女の指さすさきに、わずかに店の屋根と看板が見えた。
「おや、君、指輪をはめているね。」
「ふふふ。」
私は彼女の差し出した手をとって、
「ダイヤか?」
彼女はうなずいて、そうしてぽつんと云った。
「妻の形見だって。」
「ふうん。」
私は酔っている頭で、いつぞや彼女が口にした商人という言葉にその指輪を結びつけて考えた。夜半、私はひどいていたらくになった。食べたものを、すっかり戻してしまった。彼女は私の介抱に
「ちえっ、つれえ商売だな。」
「あら、そんなこと云ったら、あたしの方がよっぽど、つらい商売じゃない。」
そうして彼女は云った。
「あんた、もう、来てくれないんじゃない?」
私は単に腹痛を
その朝私はどうにか配達をやり
秋になって。
そのとき寝床に腹這いになって、二人で映画雑誌に眼を
「ねえ、あんた。」
「なに?」
「あたし、ねえ、あさって、ひまがもらえるんだけれど、あんた、どこかへ連れていってくれない?」
「お客と出かけてもかまわないのか?」
「ええ、かまわないの。失礼だけれど、お金のことは心配していただかなくともいいのよ。ね、連れていってくれない。」
「だしぬけだね。」
「あんた、いやなの。」
その声音に思わず顔を覗くと、ふとそむけたが、
「お店の御都合が悪い?」
振りむいた顔も声も平静なので、なにやらほっとして、
「そうだね。いってもいいが、どこへ行く?」
彼女もすぐ笑顔になって、
「あたし、ねえ、まだ日光を見たことないの。」
そう云う彼女は小学校の女生徒のように思われた。
「僕も見ていないんだ。じゃ日光へ行くか。」
「連れていってくれる。」
そうして彼女ははにかんだ口調で云った。
「日光を見ないうちは、結構って云うなって云うでしょ。」
その日私は頭から足のさきまで、店の主任の服装を借着して出かけた。彼女は上にコートを着て、頭は初めて見る洋髪に
四、五日過ぎて私は廓を配達している朋輩から意外な事実を知らされた。彼女は
「河岸をかえるんだな。俺がいい妓を世話してやる。」
と云った。
私はやくざな