老人と孤独な娘

小山清




 小さな川を隔てて、少し遠い処に墓地があった。はじめて来たとき、老人は墓地を好んだ。樹の間がくれに、小さな墓地であった。一度、雨がひどく降るときに、寂しさがあった。明治十三年、慶応二年、文久二年、安政五年、天保十四年、……墓石は苔むしていた。地蔵さまがあったが、顔が欠けていた。そこは一里塚と言った。寺は何処にも見えなかった。上求菩提下化衆生、老人は言葉が言えなかったが、文句は知っていた。川が流れている小さな墓地に、老人は慰安を求めた。
 秋の日、墓地を訪れた。草蔭に杖を引いて腰を下した。凝っとしている。青空から白い雲が見える。人の顔を、馬の顔を、……高い雲は描いている。二時間後、やっと墓地から帰った。途中で、いつも、よしきり橋の袂で疲れた躯を休めた。
 そのとき、突然、「Q町四丁目は何処でしょうか?」とひとりの娘がたずねた。風呂敷包を持っていた。老人は咄嗟に口が言えなかった。
「さあ、……」と黙っていた。娘は黙礼して立去ったのだが、左足は跛であった。老人は「あっ。」とおもわず息を呑んだ。跛のためか、不便ふびんであった。
 そのうち、老人はQ町四丁目の一膳飯屋に寄った。いつも夕方に、ときどき飯屋に寄るのであった。アジが好きだった。見ると、そこに跛の娘が店に立働いていた。老人は娘の顔を見ていたが、娘は知らぬ顔をしていた。娘は老人に膳を持ってきた。老人は飯を食べて、杖を引いて立上ったが、土間に杖を転がした。娘は杖を拾ってやった。老人は「有難う。」と言った。
 家に戻って、寝椅子に腰を下していたが、娘のことを思った。髪も、化粧も、素朴な形であった。老人は眼が熱くなってきた。……また、池の辺りにしゃがんだときも、娘のことを思った。
 そのうち五日に老人はまた夕方に飯屋に寄った。娘は立働いていた。「イカを下さい。」と老人は言った。釣銭を受取ると、娘は「有難うございます。」と言った。六日の昼頃にまた老人は飯屋に寄った。昼は客も空いていた。「豆腐を下さい。」と老人は言った。豆腐は大好きだった。「有難うございます。」と娘は言った。
 老人は七日にS町の映画館に行った。西洋物であった。漢字がなかなか分らなかった。でも、西洋物が好きだった。偶然、「野鴨」を見た。十四歳の娘が屋根裏部屋で自殺した。とても可哀そうだった。娘は眼が悪いのであった。しばらく老人は娘のことを思った。また、跛の娘のことを思った。
 映画館を出てから、林の外れの道に、少し疲れて休んだ。老人は杖を引いて腰を下した。右半身がまだ痛いのであった。右腕が痛いし、そとに出ると右の胸が神経痛のように痛いのであった。三時頃であった。
 突然、跛の娘がそばを通った。老人も娘も不思おもわず黙礼した。「どこか、病気なのですか?」と娘は心配そうに言った。「くたびれた。なんでも、ないんだ。」と老人は言った。娘は「おじいさんは、映画を見ましたね。」と言った。「うん。」と老人は頷いた。「わたしも見ました。」と娘は言った。映画館の中で娘は老人の姿を見た。「娘が可哀そうですね。とても可哀そうですね。」と娘は言った。「うん。」と老人は頷いた。娘はそばに腰かけた。娘は言った、「野鴨はわたしの田舎の山の鴨池で、野生の鴨がとてもいますわ。」老人は頷いた。娘は言った、「『野鴨』の娘は可哀そうですね。」「うん。」「わたしは跛なんです。赤ん坊の頃、脱臼だっきゅうになってしまいました。左足が少し縮んでいます。」「そうか。」と老人は頷いた。脱臼がなんのことか、分らなかった。娘は「おじいさんは、Q町五丁目でしょう。」と言った。「うん。」と老人は頷いた。「じゃ、家へ帰るか。」と老人は言った。「わたしが送ってきますわ。」と娘は言った。杖を引いている老人と跛の娘。
 Q町四丁目を通ると、娘は「おじいさんの家に行きますわ。五丁目のどの辺ですか?」と言った。「はずれだ。」と老人は言った。家は小さい庭があって、誰も音沙汰がなかった。「独りでいるのですか。」と娘は言った。「うん。」と老人は言った。家の前で、娘は「さよなら。」と言った。
 五、六日にすこし寒さが続いたが、でもあたたかだった。庭の寝椅子に腰を下していた。青蛙が紫陽花あじさいの葉にのっかった。青蛙はじっとしている。ふと、跛の娘を思った。昼頃、老人は飯屋に寄った。老人と娘は頷いた。老人は南瓜を食べて、茶を飲んだ。「そのうち、お伺いしますわ。」と娘は言った。「うん。」と老人は言った。
 八日の二時頃、老人は庭に日向ぼっこをしていた。そのうち眠ってしまった。「御免下さい。」と娘の声がした。「あっ。」と老人は眠りを覚した。突然、寝椅子の布が破けた。老人は寝椅子に尻餅を突いた。立直れなかった。「おじいさん、いますか?」と娘の声。漸く、老人は「どうぞ。扉をあけてください。」と言った。娘は扉をあけて、六畳と四畳半の部屋へ入ったが、その庭の中に老人は寝椅子に尻餅を突いて、起き上れなかった。「おじいさん、どうしたんです?」と娘は手を握って老人の躯を持上げた。「ああ、草臥くたびれた。」と老人は溜息が洩れた。娘は寝椅子の布が破れたのを、「家具屋さんかしら?」と言った。老人は黙っていた。発病後、その日から二年目に別れた女は、寝椅子を買ってきて、老人にすすめた。家を引越したのは、五、六年になる。
 六畳の部屋に老人と娘は来た。娘は果物屋で林檎を買ってきて、庖丁で器用にすすめた。老人は林檎や梨は甘いのだが、殆ど食べなかった。
(「新潮」昭和四〇年五月号)





底本:「日日の麺麭・風貌 小山清作品集」講談社文芸文庫、講談社
   2005(平成17)年11月10日第1刷発行
底本の親本:「小山清全集」筑摩書房
   1999(平成11)年11月10日増補新装版第1刷発行
初出:「新潮 第六十二巻五号」新潮社
   1965(昭和40)年5月1日発行
入力:kompass
校正:酒井裕二
2019年3月29日作成
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