入婿十万両

山本周五郎





「――浅二郎あさじろう
「はい」
「今日もまた家中の若い奴等が何か悪さをしたそうではないか」
 矢走源兵衛やばせげんべえは茶をすすりながら柔和な眼をあげて婿を見た。
「なに、つまらぬ事でござります」
五郎兵衛ごろべえが先だって練武堂へ誘い込んだうえ、いやがるものを無理に竹刀を持たせ、さんざんに恥辱を与えたと聞いたが――よく我慢をしてくれたの」
「どうつかまつりまして」
 浅二郎は色白の顔に静かな微笑をうかべながら、
「いずれも腕達者の方々、かえって良き勉強をいたしてござります」
「そう思って忍んでくれれば重々じゃ。――馬鹿な奴等めが、深い仔細しさいも知らず、その方がただ商家の出だと云うだけの理由で小意地の悪い事をしおる、ましばらくの辛棒じゃ、よろず堪忍を頼むぞ」
「御心配をお掛け仕り、私こそ申訳ござりませぬ……」
 つつましい婿の態度を、心地よげに見やりながら、ゆっくり茶を喫した源兵衛、やがてさりげない調子で、
「時にどうじゃ、娘は気に入ったか」
「……は?」
「娘不由ふゆ、気に入ったかと申すのじゃ」
 浅二郎はさっとまぶしげに眼を伏せた。
勿体もったいのうござります、分に過ぎましたお言葉、私こそ御家風に合わぬと」
「はぐらかしてはいかん――浅二郎」
 源兵衛は微笑しながら、「遠慮も良いが事と次第がある。分るか、ことに男女の仲というやつはそうだ、遠慮がかえって無遠慮になるという事もあるぞ」
「はい、――よく、承知いたしております」
「そうか、分っているならいい」
 源兵衛はうなずいて、「ではもうやすむがよい、今宵はその方たち夫婦の寝所を奥へ移させた、当分のあいだそうするからそのつもりでの」
「――それは又……」
「何も申すな、わしの計いじゃ、行け」
 万事承知と云いたげなしゅうとの笑顔を見て、浅二郎は返す言葉もなく部屋を出た。
 困った事になったと思った。奥の間と云えば次間のない部屋である。どうでも不由としとねを並べて寝なければならぬが、――できる事であろうか。
 婿に来て五十余日になるが、娘はかつて一夜も同じ部屋にすことを許さなかった。召使の者が並べて延べる夫婦の夜具を、いざ寝ると云う段になると、自分でさっさと隣室へ運び去り、間のふすまを閉して寝息も聞かせまいとするのである。――御槍奉行、矢走源兵衛の一人娘として育ち、男勝りで、才智容色とも京極きょうごく家随一と云われる不由の、高く持してげぬ強い気性には実際ちょっと手の出せぬところがあるのだ。
「弱った、また悶着もんちゃくだな――」
 つぶやきながら奥の間へ行ってみると、あかりの側に不由が端坐していた。果して……澄透るような凄艶せいえんな顔に険しいものが見える、浅二郎は大剣を刀架へかけて静かに坐った、
「――浅二郎さま」
 不由は黒耀石こくようせきのような眸子ひとみに、冷たい光をうかべながら向直った、
「これはどうした訳でござります」
「私は知らないのです……」
「お言葉にお気をつけ遊ばせ!」
 ぴしりと叩くようにさえぎって、「何度も申上げるように、商人の頃なら知らぬこと、武士には武士の言葉つきがござります、さような生温い口振りを遊ばしては矢走家の体面にも関わりまする」
「――気をつけましょう」
「貴方は父に何を仰有おっしゃいました」
 浅二郎は逆う様子もなく、
「別に何も申した覚えは……」
「ない事はございますまい。貴方が仰有らないでこんな事になる筈がありませぬ、武辺一徹の父に、――夫婦のねやの事など察せられると思いますか」
「実際のところ知らないのです」
 そう云う浅二郎の顔へ、不由は冷やかな一瞥いちべつを与えながら云った、
「改めて申上げるまでもありませぬが、例え父の申付で祝言こそ挙げたれ、わたくしには心を許せぬ方に身を任す事などできませぬ――お分りでございましょうね」
「御意のままに……」
「父上に仰有らぬと云うならそれ迄です、わたくしはあちらで寝みますから――」
 不由は云い捨てて立上った。


 霜月の冷やかな夜のしじまに、ただ一人仰臥ぎょうがしながら、浅二郎は低く、
「――まるで四面の楚歌だな……」
 と呟くのだった。
 でては家中の若侍たちに嘲弄ちょうろうされ、入ってはお不由の卑しめを受ける、しかも黙ってそれを忍ばねばならぬのだ、――何故であろう。
 浅二郎が矢走家へ入婿した事情を知っているのは、藩主京極高信きょうごくたかのぶ侯と国老厨川靱負くりやがわゆきえ、同じく原口山城はらぐちやましろ、勘定方元締役布目玄蕃ぬのめげんば、それに矢走源兵衛の五人だけであった、その事情を簡単に記すとこうである。
 時はこれ、林子平はやししへいをして、
「現今諸侯のうち、現銀三千両を有するもの五指を出でず」
 と喝破せしめた寛政年度。徳川幕府を始めとして大小の諸藩、いずれも財政難に当面していたが、讃岐多度津の京極家もその例にもれず、年来の疲弊積り積って藩政はほとんど逼迫ひっぱくの頂点に達していた。
 ここにはその詳細を述べる要はないが、最も困惑を感じていたのが大阪の富商山屋八左衛門やまやはちざえもんから借入れた五万余両の金である。これには吉野の檜山が抵当に振当ててあった為、万一返済ができぬ場合には京極家の重要な財源を押えられる事になるのだ。そうなっては万事休すと云うので、重役は鳩首財政建直しを計ってみたが、どこをどう改革すべきか差当っての名案と云うものがない、しかも山屋の仕切り期限はこの年十二月二十五日と云う定めだ。
「とても我々の思案では切抜けられぬ」
 と匙を投げた国老厨川靱負は、高信に向って最後の案を申出た。
「この上は是非がござりませぬ、京の岡田寒泉おかだかんせん先生に御助力を願ったらと存じまするが」
くであろうか」
「お上には昌平黌しょうへいこうにて教えをお受け遊ばした間柄、必ず御尽力くださろうかと存じます」
 岡田寒泉は医学国文に通じ、幕府に召されて昌平黌に教鞭きょうべんを執ったが、一方経世済民の道にもくわしく、一度出でて代官職となるやまれなる政績を挙げ、治国家としても世を驚かした人物である。
「ではとにかく当ってみよう」
 と高信は事情を具して、京に隠退している寒泉の許へ使者を立てた――寒泉は高信の使者から精しく仔細を聴取ると、
「これは愚老が参ってもいたし方がない」
 と云って使者に一通の書面を托して帰した。
 待兼ねていた高信がそれを受取って読んでみると、――「大阪の唐物売買商(現今の貿易商)難波屋宗右衛門なにわやそうえもんせがれで浅二郎と申す者がいる、これは拙老の門弟で財理の道に精しいから、これにお任せあるがよろしかろう。難波屋方へは当方から通じておく」と云う意味が認めてあった。
 大阪の難波屋宗右衛門と云えば、唐船物を扱って巨万の富者と評判の商人である。その伜とあれば理財の道にも長じていようし、また寒泉先生が推薦する以上凡人ではあるまいと、早速使者を立てて浅二郎を迎えたが、素性が商人では藩政に参与させる事はできない、しかも重要な役目に就かせるのだから、身分も相当にする必要がある――と云う訳で、高信のお声掛りを以って矢走源兵衛の一人娘、不由の婿にと入ったのであった。
 勿論もちろんこの事情は秘密であったから、京極家随一の娘、才色兼備の不由を横取りされた家中の若侍たちは怒った。
「なんだ商人上りの算盤そろばん才子が」
「恐らく金の力で押掛け婿を極込きめこんだのであろ」
「あんな生白い奴に御槍奉行の跡目を継がせるとは四国武士の恥辱だ」
「構わぬから居堪らぬようにしてやれ」
 と折さえあれば恥辱を与えるのだった。――娘不由も同様、事ごとに冷たい眼と、冷たい言葉で浅二郎を迎え、五十余日になる今日まで一度も閨を許さぬのである。
「早く役目を果しさえすれば――」
 浅二郎は寂しげに呟いた。
「しかしあの不由、……京にも稀なあの美しさのどこに、あんな烈しい気性が隠れているのだろう。あの冷たい眼の底に時々ひらめく火花のような光は何だ――? この頃どうかするとおれは、あの眼の色が頭について忘れられなくなってきた。不思議な娘だ……」
「浅二郎――」
 廊下で不意に、源兵衛の声がした。
「はい」
「不由は居るか」
 様子を見にきたのである、浅二郎は苦笑しながら声をひそめて、
「お静かに願います、いまよく睡ったところでござりますから」
「そうか、――冷えるのう」
 源兵衛は安心したように云うと、跫音あしおとを忍んで自分の寝間の方へ立去った。――燈の消えた闇の中で、隣にむなしく延べてある妻のなまめかしい夜具を見まもりながら、浅二郎はまじまじといつまでも眠れずにいた。


 国老厨川靱負は浅二郎を呼んで、
「どうするのだ」
 ともどかしげに云った。
「もうこれ霜月十日、山屋の仕切日まで余すところ僅かとなっている。もう何とか方策が建ったであろう」
「は、いましばらく、――」
「しばらくしばらくと云って何をしているのか、聞けば六十余日になる今日までろくろく書類もあらためず、ただ書庫へ入って御家譜の繙読はんどくのみいたしておるそうだが、――埋蔵金の記録でも捜出そうと云うのか」
 明らかに皮肉である。
「とにかくもう少々お待ちを願います」
 浅二郎はそう答えて引退ひきさがるより仕方がなかった。
 恩師寒泉は別離に臨んで、
「これはお主でなければできぬ仕事だ、もし行ってみて妙策がなかったなら、京極家の家譜を調べるがよい、必ず悟る事があろう」
 となぞのような言葉を餞別せんべつにしたのである。
 浅二郎は多度津へ来て、藩政の一般にざっと眼を通しただけで、とても急場をしのぐ策など建てられる筈がないという事を知った。――そうすると恩師の言葉に頼るより外に法はないから、「京極家家譜」の閲覧を願い出た。
「何の為に家譜を見るのか」
 浅二郎には謎だった、「果してお言葉通りを信じてよいものか――?」
 そういう迷いも出た。
 しかし、現に必至の期日を控えて他に策がないのである。浅二郎は毎日登城するとすぐに書庫へ入って、食事の暇も惜しく家譜の繙読を続けるのであった。
 靱負の督促は日毎に烈しく、
「どうだ妙案が建ったか」
「今日こそ待兼ねたがどうした」
「もう幾十日しかないぞ」
 ときに急いてくるし、日は恐ろしいほどはやくたっていく。浅二郎はようやく不安になってきた、――もう一度先生にたしかめた方がよくはないか、家譜を見ろと仰有ったのは、何か別の謎ではなかったのか。
 疑いは疑いを生んで、いよいよ寒泉の許へ書面を出そうかと思いはじめた、――十一月十九日のことである、家譜を調べて慶長十五年七月の項にかかった時、何を読当てたか急に眸子ひとみを輝かして、
「――や、これは」
 と低く叫び声をあげた。そのまましばらくは喰入るように記録を読んでいたが、
「これだ、これだ、これに相違ない」
 ひざを打って云った、「浅二郎の他にこの仕事のできる者はないと云われた、先生のお言葉がこれで初めて分る――そうだ」
 生返ったように呟くと、すぐに筆紙の用意をして記録の一部を書写しにかかった。
 家譜の中から何を発見したかと云う事は後に分る。半刻はんときほどして書庫を出た浅二郎は、老職の詰間へ行って靱負に会った。
「どうした、手段がついたか」
 靱負は顔を見るなり訊ねた、
「は、どうやらできそうにござります」
「なにできると云うか」
 靱負は思わず膝を乗出す、
「してその法は――?」
「改めて申上げるほどの事でもござりませぬ、時が参れば自然とお分り遊ばしましょう、どうぞ私にお任せくださるよう」
「だが――大丈夫であろうな」
「さよう思召おぼしめしください」
 浅二郎の顔には明るい微笑があった。
 城を退出して、途中飛脚問屋へ立寄った浅二郎が、屋敷へ帰ろうとしてお徒士町まで来ると、後から大声に、
「待て、冬瓜とうがん侍ちょっと待て」
 と呼ぶ声がした。
 ――また家中の若い奴等だな。
 と思ったから、聞えぬ風をして行くと、大股おおまたに追ってきて背後からぐいと肩をつかんだ。
「待てと云うに貴様つんぼか!」
「どなたでござる」
 振返ると果して、槇島五郎兵衛まきしまごろべえ市田銀造いちだぎんぞう、それと松井総助まついそうすけと云う、名うての乱暴者三人である。浅二郎は肩を掴んだ五郎兵衛の手を静かに押除けて、
「これはおそろいでいずれへ」「何をぬかすっ」
 五郎兵衛が喚きたてた。


「あんな大声で呼んだのにそらとぼけた真似をするな、この礼儀知らずの素町人め」「大層御立腹ですな」
「こいつ……落着いたことを――」
 酒臭い息を吹きながら、五郎兵衛いきなり胸倉を取ろうとする。浅二郎は軽くかわして、
「お危のうござる」「うぬ、手向いするか」
 酔っているから無法だ、こぶしを挙げて殴りかかる、浅二郎上体をひねってその拳を避けると、ひじのところを掴んで逆に捻上げた。
「む! こ、こいつ――」「小癪こしゃくな事をする、斬ってしまえ」
 松井総助が喚くと、酔ったまぎれに半分はおどしで大剣を抜いた。ところがその白刃の光を見ると市田銀造が前後の分別を失って、
「この冬瓜面※(感嘆符二つ、1-8-75)
 と叫びざま、右手からだっと抜討ちをかけた、余りの無法さに堪忍の緒を切った浅二郎、
「馬鹿者、何をする」と絶叫して、飛鳥のように身を跳らせたと見ると、五郎兵衛は突放されて仰さまに顛倒てんとうし、銀造の持った大剣は二三間飛んで、道の上にしょうと鳴った。
「何を狼狽うろたえて剣など抜くのだ」
 浅二郎は眉をあげて叫んだ、「新参なればこそ遠慮をしているのにおのれを知らぬ無道者。それほど望みなら改めて喧嘩けんかを買ってやろう、さあ参れ!」
 日頃の柔和さとはガラリ変った態度、色白の顔にほんのり血の気がさして、大きくみひらいた双眸そうぼうには犯し難い威力と殺気がひらめいていた。――相手の意外な変りように銀造らは無論のこと、腕自慢の五郎兵衛までが、起上ることも忘れて茫然と眼をいていた。
「ふふふふ」
 浅二郎は低く笑った、
「どうやら御三名とも喧嘩は不得心と見えるな、こっちもたって買おうとは云わぬ。口惜しかったら、闇討でもかけるがいいであろう、失礼だが貴公らの痩腕やせうでで斬れる相手ではないぞ」
 そう云って、冷やかに三人を見廻したが、さっとはかまの裾をはたくと、きびすを返して浅二郎は立去った。
「――出来る、見損った」
 五郎兵衛は半身を起したまま、浅二郎の後姿を見送って嘆賞の声をあげた。
 この有様をもう一人、それこそ夢見るような気持で見まもっていた者がある、――街並の軒に隠れていた女――不由であった。所用あって通りかかりに、思いがけぬ浅二郎の姿を発見して、彼女は身動きもならず立ちすくんでいたのだ。
「まあ……あの浅二郎さまが」
 頬を染め、熱い太息といきをつきながら、不由の眼は遠のく浅二郎の姿をみつめていた。
 その夜、――夕食が終って後、居間へ引取った浅二郎は、机の上に筆紙をひろげて、長いこと何か書き物をしていた。四つ頃(午後十時頃)であった、ふすまをそっと開けて不由が入ってきた。
「まだお寝み遊ばしませぬか」と云う、浅二郎はちらっと見やって、
「はあ、いま少し――」
 と云ったまま再び書き物を続けた。不由はしばらく黙っていたが、
「お茶をおれいたしましょうか」
 といた。かつてないことである、浅二郎はいぶかしく思って眼をあげた、何としたことであろう、不由の顔には薄く化粧が匂っている、帯にくくられた豊な腰の丸みも、かたく盛上った胸のふくらみも……今宵は見違えるようになまめかしい。そう云えば眩しげに浅二郎を見る双眸にも、今まで一度として現われたことのない、あやしい情熱の光が、ちらちらとりんのように燃えているではないか、
「いや、――欲しくありません」
 浅二郎は短く答えたまま筆を続けた。
 不由はかすかに太息をついた、――胸いっぱいにあふれてくる烈しい情熱。昼、お徒士町で計らずも浅二郎の真の姿を見た刹那せつなから、せきを切ったように燃えはじめた愛情の※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのお。生れて初めて感ずる抵抗し難い欲求に、彼女の体は熱い烈しいもだえに悩んでいるのだった。
 不由は、けれどそれをどう相手に伝えてよいのか分らなかった、浅二郎は見向きもせずに書き物をしている、――やがて、不由は静かに立って部屋を出た。そして二人の寝所へ入って、帯も解かずに浅二郎の来るのを待っていたのである、――すっかり夜が明けるまで……。
 浅二郎が書き物をおえて、居間から出てきたのは朝食の支度ができてからだった。
「どうした、眼が赤いではないか」
 食膳しょくぜんに向った時、源兵衛は婿の疲れた顔を見ながら訊いた、
「はい、どうやら御改革の案が建ちましたので、昨夜その試案を練ってみました」
「ほう、いよいよできたか」
 源兵衛は欣然と乗出した。
「多分うまく参ろうかと存じます。就きましては、当分のあいだ御城内に留らねばならぬかと存じまするゆえ、さよう御承知置きください」
「おおいいとも、大事の際じゃ、留守は源兵衛が引受けるで充分にやってこい」
かたじけのうございます」
 不由は悲しげに、脇から浅二郎の横顔を覓めていた。


 登城した浅二郎は、その日から勘定方詰間へこもり、布目玄蕃を始め役向の者と共に、藩政に関するあらゆる書類を集めて改革案の起草に取掛った。それは驚くべき努力であった、玄蕃や定役の多くは定刻に登城し、また退出するのだが、浅二郎だけは詰間から一歩も外へ出ず、朝は払暁から夜は三更に及ぶまで、筆紙を手から放さず働きつづけた。
 こうした日がおよそ十余日も過ぎた、十二月十日の朝である、宿直の番士がやってきて、
「矢走氏、かような書面を持った使の者が、河面口かわもぐち御門へ参った由でござる」
 と伝えた、浅二郎は書面を受取って披読すると、即座に立って、
「御苦労でござる、拙者が参りましょう」
 と出ていった。
 河面口御門へ行った浅二郎は、半刻ほどして戻ってくると如何いかにも晴れ晴れとした顔で、登城したばかりの厨川靱負に面会を求めた。
「――何か用かの」
「御登城早速ながら、お上へお目通り仰付けられたく、お願い申上げまする」
「お目通りの筋は何じゃ」
「かねてお申付に与りましたる件、ようやく落着仕りましたゆえ、ただ今より御披露申上げたいと存じまする」
「そうか、できたか」
 靱負はにっこりうなずいて「それは何より祝着じゃ、御意を伺って参る、待っておれ」
 そう云って立上った。
 浅二郎の望みで、賜謁は大書院に於て行われる事になった。上段には京極高信侯、列座は国老厨川靱負、同じく原口山城、勘定方元締役布目玄蕃の三名、――矢走浅二郎は、書上げた改革案の調書を持ってはるかに平伏した。
「許す、近う寄れ」
 高信は待兼ねた様子で云った。
「当藩財政の改革に当って数々の尽力、過分に思うぞ」
「は、は――」
「直答許す、仔細申述べよ」
 浅二郎は僅かにおもてをあげた。
「お言葉に甘え御直答申上げまする、何分にも無能鈍才の私、このたびの大役とうてい勤まるところにはござりませぬ。かには蟹なりに穴の掘りよう、お叱りを受けるは必定かと存じまするが、裁量お任せに与りましたるゆえ、下根の窮策を御覧に入れまする」
「辞儀は申すに及ばぬ、聞こう」
「は、恐れながら、あれを御覧くださりませ」
 浅二郎はそう云って、広庭の方を指さした。高信はじめ三名が見ると、――泉水のほとりに木箱が五つ山、高々と積上げてある。
「見馴れぬ物だが、何じゃ」
「御改革に入用の金十万両、御蔵入れ前に御披露申上げまする」
「なに、――十万両、とな」
 高信も靱負も、山城も玄蕃も、あっと云ったきりしばらくは二の句が継げなかった。窮迫し尽して必至の場合に、天から降ったような黄金十万両、――正に夢のようである。
「浅二郎!」
 高信は向直った、「かかる巨額の金を、疲弊した藩政より捻出ねんしゅつするというは考えられぬ、これにはなんぞ仔細があろう、訳を聞かせい」
「恐入りまするお言葉、私より言上仕るははばかりに存じまするゆえ、御家譜のうち慶長十五年七月八日の条を御覧くださいまするよう、必ず御了解遊ばすことと存じまする」
「さようか、すぐに披見しよう」
「金十万両にては充分と申す訳には参りませぬが、一応は善後の処置がつこうかと存ぜられまする、――就きましては」
 と浅二郎は御改革調書を差出して、
「これに、――御藩政のうち改廃すべき箇条を調べ上げ、僭越せんえつながら愚案を認めおきましたれば、御老職に於て御検討御取捨のうえ十万両の配分よろしくお願い申上げまする、――半月足らずの早急の調べにて、もとより首尾整いませぬが、多少ともお役に立ちますれば面目至極に存じ奉りまする」
「予も見たい、預り置くぞ」
「御眼を汚し恐入りまする」
 浅二郎は調書を呈出して遙かに下り、「早朝を押してお目通り仰付けられ、数々差出がましき言上を仕り恐入り奉りまする。今日はこれにてお暇くだされまするよう」
「大儀であった」
 高信は重荷を下したように、えとした顔で云った。
「さすがに寒泉先生の推薦だけあって、商家育ちとは思えぬあっぱれの働き、高信満足に思うぞ、――追って沙汰するまで登城に及ばぬ、帰ってゆるりと休養せい」
「は、は――」
 浅二郎は平伏して御前をすべ退さがった。


 十万両の金を蔵へ納める一方、高信は書庫から家譜を取寄せ、慶長十五年七月八日の項を靱負に調べさせた。
 そこには意外な記録があった。
「――殿!」
 一読するなり靱負が叫んだ、「十万両の金は浅二郎の生家、大阪表難波屋宗右衛門より献上のものにござりまするぞ」
「何と云う――?」
「ここにその仔細がござります。即ち、――難波屋の祖先は慶長の頃、御宗祖丹後守高次たんごのかみたかつぐ公の御愛臣にて島田重左衛門しまだじゅうざえもんと申す者にございましたが、故あって慶長十五年七月、高次公より五千金を拝領のうえ武士をめ、大阪に出て唐船物売買を始めたとござります、今日難波屋が巨万の富を擁するにいたりましたも、もとただせば御当家の御恩顧。――寒泉先生には如何にしてかこの事実を御承知にて、浅二郎を選んだものと存じまする」
「うーむ」
 初めて分った十万両の出所。――さすがに寒泉の眼識は高かった、浅二郎なればこそ家譜の中からこの記録を発見し、生家に十万両呈出をうんと云わせる事ができたのである――
「申上げます」
 若侍が襖際へ来て平伏した。
「御老職まで、即刻お渡し申上げるよう、矢走浅二郎殿より御書面にござります」
「浅二郎が書面――?」
 訝りながらひらいて見た靱負が、
「おお――」
 と云って顔をあげた、「殿、浅二郎め、永のお暇願いを差出してございます」
「――どうした事じゃ」
「理由は申しておらず、このまま退国するとのことにござります」
「いかん、ただちに使者をやって止めろ」
 高信は驚いて云った、「暇はやらぬ、予が申したと早く伝えよ」
「はは」
 靱負は倉皇そうこうとして起った。
 その頃――。家へ帰った浅二郎は、事の始終を手短かに源兵衛へ報告すると、かたちを改めて、
「これにてお召出しにあずかりましたお役目、どうやら無事に果しましてござりますが、就ては舅上ちちうえに改めてお願いがござります」
「よいとも、何なりと望め」
 源兵衛はほくほくもので、「その方ほどの婿を持って家中への面目、わしにできる事なれば何でもかなえてやるぞ」
「きっとお協えくださいまするか」
「よいから申してみろ、何が望みだ」
「私を離別して頂きとう存じまする」
 源兵衛は眼をいた。
「な、何じゃ、離別……離別とは――」
「一度御当家の姓を汚しましたも、ただこのたびのお役を勤めるための方便、卑しい町人の分際にてお歴々の跡目に直るなど以ての外の事――それは初めより存念になき事でござりました」
「そ、そんな馬鹿な事があって堪るか、それでは娘はどうなるのだ、娘は」
「お嬢さまは清浄無垢むくにござります」
「――――う……む」
 源兵衛はうなった、やっぱり駄目だったのか、気位の高い娘が、浅二郎を嫌って寄せつけぬ様子だから、親としてできぬ寝間の心配までしてやったのに、――これほどの男を見る眼がなかったとは、何と云う愚かな娘であろう。
「御承知くださいまするか」
「そうでもあろうが、考え直してくれる訳にはいかぬか、娘が不所存者ゆえ親のわしまで面目ない、――もしよかったら改めてよそから嫁を迎えても」
「いやいや、ただ今も申す通り、お役目を果すだけのために参りました私、もはやここに留る要がござりませぬ、お上へも既にお暇願いを差上げましたれば、ぜひとも御離別を願いまする」
「殿へもお暇を願ったと……?」
 源兵衛はその一言でがっかりした。
「御承知くださいまするな」
「――――」
「では早急ながら支度がござりますゆえ」
 と浅二郎が立とうとした時、
「お待ちくださいませ」
 と云いながら不由が入ってきて、静かに浅二郎の前へ坐った。
「様子は次間にいて伺いました、大阪へお帰り遊ばすとのことでござりますが、それなればわたくしもおれくださいませ」
「――それは、何故でござるか」
「わたくしは貴方様の妻、妻は良人おっとに従うが道でござります、――それに貴方様はいまわたくしを清浄無垢と仰せられましたが、わたくしはもはや身籠みごもっておりまする」
 これは驚くべき一言だった。
「何を仰せらるる」
 浅二郎はあきれて、「御当家へ参って以来、一夜たりとも閨を共にせぬ事、御許御自身とく御承知の筈ではないか」
「例え閨は共にせずとも、夫婦して同じ家の内にめば良人の気が籠って妻は身籠ると、――下世話にも申してござりまする」
「や、や――うまいぞ!」
 源兵衛がいきなり喚いた。
「うまいぞ娘、同じ家におれば、ひとつ寝せずとも男の気が籠って懐妊するか、あっぱれだ、よくそこへ気がついた、浅二郎こいつは道理だぞ」
「しかしそれは余りに」
「余りもくそもあるか、娘の口から身籠ったと申すものを、今更知らぬとは云わさぬ。もう金輪際放さぬからそう思え。わっははははは際どいところで軍配は娘にあがったな、うまい処を掴みおった、いや実にあっぱれだ、女の智恵も馬鹿にはできぬ、見ろ、浅二郎が眼をぱちぱちさせている、わっははははは」
 源兵衛独り大満悦で笑うところへ、
「申上げます、城中より急のお使者にござります」
 と家扶かふが知らせにきた。
「なに急使とな」
 源兵衛は急いで出ていったが、間もなく走るようにして戻ってきて、
「浅二郎――」
 と入ろうとすると、これはどうだ、あの気位の高い不由が、たもとで顔をおおい、啜りあげながら浅二郎の膝の上へうち伏しているではないか。
「今までの不束ふつつかは、どうぞお許し遊ばして、ねえ……」
 涙にしめった、しかし初めて女らしい潤いのにじむような声で、訴えるように云っている、
「不由は半月もまえから、貴方様のお閨を守って、淋しくお帰りを待っておりました。これからは良い妻になりまする、どうぞお見捨て遊ばさずに」
「――不由どの」
 浅二郎もさすがに心を動かされたか、思わず妻の、――さよう、今こそ明らかに妻の――肩へ手を廻した。
 源兵衛は感悦の声を抑え、跫音を忍ばせて、そっとそこを離れていった。――もう殿の御意を急いで伝えるにも及ぶまい、浅二郎は間違いなくこっちのものじゃ……と呟きながら。





底本:「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」新潮社
   1983(昭和58)年6月25日発行
初出:「婦人倶樂部」大日本雄辯會講談社
   1936(昭和11)年11月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2022年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード