十二月にはいってまもない或る日の午後八時過ぎ、――新出去定は保本登と話しながら、伝通院のゆるい坂道を、養生所のほうへと歩いていた。竹造が去定の先に立って、
――疲れているんだな。
去定の話を聞きながら、登は心の中でそっと首を振った。去定は疲れてくると怒りっぽくなる。その日はことに病人が多く、十五カ所も診察に廻ったあとで、帰りがいつもより一
養生所の経費削減と、かよい療治の停止令が出たのは夏のことであった。そのとき去定はずいぶん抗議をしたが、結局どうにもならず、去定がその費用を負担するという条件で、かよい療治を黙認することになった。そのため去定は、従来よりも多く、大名諸侯や富豪、大商人などの依頼に応じ、その収入で削減された経費や、かよって来る病人の投薬をまかなって来たのであるが、数日まえまた養生所付きの与力から呼ばれて、「かよい療治は一切ならぬ」ということ、同時に、入所している病人でも、身内に多少でも稼ぐ者がある場合には「食費を取る」ように、ということを云われたのであった。
「富者の万燈より貧者の一燈ということがある」と歩きながら去定が続けた、「これは貧者の信心こそ仏の意志にかなうという意味らしいが、じつはまったくのたばかりだ」
万燈を献ずる富者には限りがあるし、いつも万燈を献ずるものではない。だが、一燈しか献ずることのできない貧者は多数であって、しかも、一燈くらいの寄進ならいつでも応ずるだろう。「仏への供養」は来世へのつながりであり、安楽往生のみちだという。この世で貧苦にいためつけられ、一生うだつのあがらない人たちは、せめて安楽往生、来世での
「幕府の経済が年貢運上によって成り立つことはいうまでもない」と去定は云っていた、「しかし、それを支えているものはつねに、もっとも多数の小商人や小百姓や職人たちだ、その例をここで並べる必要はないだろうし、その是非については一概に云えない面もある、それにしても、かれらが日雇い人足の僅かな賃銭にまで運上を課することや、施療を受けているような病人から食費を取る、などという無道さにはがまんがならぬ」
去定はどしんどしんと、ちから足を踏んで歩いた。
「むろん、おれがここでどう頑張ったところで、役人どもを動かすことはできない」と去定は云った、「たとえ二三の役人を動かすことができたとしても、幕府の政治まで動かすことはできない、だからこんなことを喚きたてるのはばかげたぐちだ、源氏であれ平家であれ、人間がいったん権力をにぎれば、必ずその権力を護るための法が
お、と云いかけて去定は急に足を停めた。そこは伝通院の
「なんだ」と去定が訊いた。
竹造は「人が倒れています」と云い、溝の中を
「おい」と竹造は呼びかけた、「どうした、おい、どうかしたのか」そして、もっと覗きこんであっと叫んだ、「ああ血だ、ひどいけがをしているようですよ先生」
「触るな」と去定が云った。
近よってみると、溝の中に若者が一人倒れていた。石でたたんだその溝は、幅も深さも三尺たらずで、水はないが、横に倒れこんだ男の躯は身動きもできないようであった。去定は提灯の光を寄せて男のようすを眺めた。年は二十七八にみえる、めくら縞の
「おちつけ」と去定が云った、「おれは小石川養生所の医者だ、おまえはひどいけがをしているがどうしたんだ、
男は顔をあげた、「誰かそこらに、そこらに人はいませんか」
「誰もいないようだ」
「やりそくなった、ちくしょう」と男は呻いた、「もうちっとのところだったのに」
「喧嘩だな」
「野郎を一人殺すつもりだったんですが」と男は答えた、「向うに用心棒がいて、こっちのほうがこのざまです、済みませんが立たしてくれませんか」
去定が「竹造」と云い、提灯を受取った。竹造は溝の中へはいり、男の両腕へ手を入れて、そっと抱き起こした。男は辛うじて立ちあがったが、右足ががくんとなり、するどく呻きながら、崩れるように坐りこんだ。去定は提灯を登に渡し、男の側へ寄って、右の足をしばらせた。
「
「どうするんですか」と男が不安そうに訊いた。
「どうするって」と去定が怒ったように云った、「おれは医者だと云ったろう」
「しかし、あっしは」
「竹造」と去定が云った、「おぶってやれ」
竹造は男を背負い、去定は大股に歩きだした。
男の名は
藪下の長屋は去定も知っていた。いまでもときどき寄っているが、角三というその男のことは知らなかった。
「あっしは十二の年からよそへ出ていたんです」と角三は云った、「おやじは加吉といって、二年まえに死にました」
「加吉」と去定は眼をほそめた、「――あそこは八軒長屋が三棟並んでいた、加吉というと、端の長屋で畳職人をしていたと思うが」
「そうです、足の痛風で立ち居が不自由なくせに、おっそろしく強情なおやじでした」角三は寝返ろうとして顔をしかめ、痛みをこらえるために歯をくいしばった、「先生は、――」と彼は痛みをそらすように、わざと平気な声で訊いた、「先生は多助っていうとしよりを知ってますか」
「
「そうです、済みませんがあそこへ使いをやってもらいたいんですが」と角三は云った、「おたねっていう娘に来てもらいたいんです、話さなくっちゃならないことがあるから、すぐ来てくれって云ってもらいたいんですが」
「明日になったら呼んでやろう、今夜はこのまま眠るがいい」
「今夜はだめですか」
「おまえは誰かを殺そうとしたんだろう」と去定が云った、「町木戸で
角三は眼をつむって云った、「わかりました、どうか朝になったらお願いします」
去定は登を見て立ちあがった。登は付いていてやろうかと思ったが、去定の眼つきで、その必要がないことを悟り、立ちあがってその病室を出た。去定は自分の部屋へゆこうとしていたが、登の出て来るのを見ると、「済まないが握り飯を持って来るように云ってくれ」と云った。その言葉で、急に登も空腹だったことに気づき、いそいで廊下口から賄所のほうへ出ていった。
「猪之じゃないか」と登が呼びかけた、「ばかに精をだすな、なにをやってるんだ」
「へえ、なにちょっとその」猪之はあいまいに口を濁した、「先生がたもこんなじぶんまでたいへんですね、外は寒いでしょう」
「話をそらすな、なにを作ってるんだ」
「その、おまるの腰掛なんです」そう云いながら猪之は赤くなった。
「おまるの腰掛だって」
「御存じでしょう、おゆみさんていう頭のおかしな娘さん」と猪之が云った、「あの人がすっかり弱っちまって、おまるを使うにも躯がふらふらするっていうんです、それで腰掛を
「そうか」と登が云った、「お杉に頼まれたんだな」
「あっしの役ですからね」と猪之はひどくいきごんだ高い声で云った、「こういう仕事をする約束でお世話になってるんですから、誰に頼まれたからするってわけのもんじゃねえ、へんなこと云わねえでおくんなさい」
「気に障ったのか」と登は笑った、「それは悪かった、勘弁してくれ」
「とんでもねえ、そんな」猪之はまた赤くなり、まごついたように頭を
「お互いに礼儀は正しいわけだ」と云って、登はまた笑った、「お杉によろしく云ってくれ」
猪之はやけに
夜の明けるのを待って藪下へ使いがゆき、おたねという娘を
「十日もすれば起きられるだろう」去定は傷のもようを説明してから云った、「足のほうはようすをみないとわからない、たぶん一と月もすれば
「うちへ伴れて帰ってはいけないでしょうか」
「五六日はこのままのほうがいいだろう」と去定が云った、「手当をするにも都合がいいし、また、なにかまちがいがあったようだから、いま伴れ帰っては悪いのじゃあないか」
「はい、そのことなんですが」
「おたね」と角三が云った、「なにかあったのか、高田屋からなにか云って来たのか」
「ええ」とおたねが答えた、「ゆうべおそく、
「やっぱりそうか」
「一軒一軒みて廻るので、あたし」とおたねはちょっと口ごもり、それから角三の気をかねるように云った、「あたしあんたが豊島の親類へいったって云いました、豊島の奥の親類に不幸があって、今夜は泊って来る筈だって云ったんですけれど」
「よく云った、だがやつらは信じやあしない、信じやあしなかったろう」
「だと思うけれど、帰らなければもっとひどいことになるわ」
「
「帰らなければあんたがやった証拠だし、長屋じゅうの共謀だって云うの」おたねは唾をのんだ、「長屋じゅうの者を訴えるって云ってるのよ」
「よし、おらあ長屋へ帰る」
「まあ待て」と去定が遮った、「しだいによっては相談に乗ろう、これはいったいどういうことなんだ」
「どうかなんにも訊かないで下さい」と角三が云った、「これ以上ご迷惑をかけたくはありませんから」
「迷惑か迷惑でないかはおれがきめる、とにかく話すだけ話してみろ」
「あんた」とおたねが云った。
角三は横へ寝返ろうとしたが、「う」といって顔ぜんたいを
「よし」と去定は頷き、立ちながら登に云った、「おまえ話を聞いておいてくれ」
音羽五丁目の、藪下と呼ばれるその長屋は、三棟で二十四戸あり、二十一家族が住んでいた。家主は牛込
藪下の三棟の長屋は、与七がまだ五丁目で質屋をやっているじぶん、正確にいうと十九年まえから、
「しかもそれは」と角三が云った、「与七という旦那の代だけではなく、
「なにかわけがあったのか」
「あったんでしょう」と角三は云った、「なにかわけがなければ、そんな約束をする筈がありませんからね」
「理由はわからないのか」と登が訊いた。
「わからないんです」と角三が答えた、「差配も代が替りましたし、そのじぶんのことを知っているのは、このおたねのじいさま一人だけで、それもすっかりぼけちゃってるもんですから」
だが約束のことはみんな知っていた。いまの差配は助三郎といって、その
「ところが、急にそれが変ったんです」
その年の五月、高田屋では与七が死に、一人息子の松次郎が跡を継いだ。彼は二十三歳であるが、去年の秋に嫁を取り、男の子が一人できていた。
「先月、いや十月の月ずえにその松次郎が来て、長屋をあけろと云いだしました」角三は続けた、「ならず者みたような男を三人伴れて来て、この長屋は
「約束を知らなかったのか」
「約束は知ってると云いました、けれども証文があるわけではないし、十九年も只で住んで来た、親の代のことはおれは知らないから、そんな
登は渋い顔をした、「それはむずかしい、むずかしい話だと思うな」
「それは、あいつの云うことにも理屈はあるでしょう、けれども、松次郎があっしたちを追い立てるのは、金に困ったとかどうしたとかいうわけじゃあねえ、ちゃんとこんたんがあるんです」と角三が云った、「――ってえのは、藪下一帯の家を取払って、そこへ新地をつくり、料理茶屋とか岡場所を集めようというもので、護国寺の役僧も承知しているようなんです」
ありそうなことだ、と登は思った。宗教と花街はふしぎに付いてまわる、浅草寺、
「そうだとするとなおむずかしいな」と登が云った、「むろん新出先生に話してみるが、十九年も只で住んで来たとすると、この辺でいっそ引越したほうがいいじゃないか」
「へえ、それはまあ、そうです」
「そんな面倒なことにかかわっているより、新らしい土地へ移って、さっぱりと新規
「たぶんそのほうがいいんでしょう」と角三は力のぬけた声で云った、「しかしあの野郎、あんまりあこぎなまねをしやがるから」
「あんた」とおたねが云った、「帰るんならもう帰らなければいけないわ、あたしがうちをあけてるんですもの、あんまりおそくなると
「ちょっと待て」と登は立ちあがった、「とにかく先生に話してみる、先生の意見を聞いてみるから、そのままちょっと待っていてくれ」
登は二人を置いてそこを出た。
去定の診察が終るまで、少し待たなければならなかった。登は
「続けていい」と去定は書きながら云った、「それからどうした」
登は話し続けた。話が終っても、去定は黙って筆を動かしていたが、やがて最後の帳面が済むと、筆を置きながら、深く大きくまるで
「高田屋のほうはわかった」と云って、去定は登を見た、「だが角三のほうの事情はどうなのだ」
登は「それは」と云って口をつぐんだ。
「相手を殺そうとまで思い詰めるのは尋常ではない、なにかそれだけの
「それは聞きませんでした」
「肝心なのはそこではないか」と去定はふきげんに云った、「――まあいい、向うへいってからでもおそくはないだろう」
去定も角三を長屋へ帰すことにきめた。さもないと高田屋は、本当に長屋ぜんたいの者を、共謀といって訴えるかもしれない。そんな訴えを、町方で取りあげるかどうかは疑わしいが、高田屋で金を
音羽五丁目の裏通りへ来ると、路地へはいるところで角三が「その左の角です」と云った。長屋のその角の家は新らしく模様変えをしたらしい、裏通りに面して入口と
「どこからはいる」
「裏に勝手があります」と角三が答えた、「そっちから入れておくんなさい」
かれらは裏手へまわった。
戸板が担ぎこまれたので、たちまち人が集まって来た。去定は登を促して、勝手口をあけ、角三を移そうとした。すると、集まっている長屋の人たちを押しのけて、二人男が前へ出て来た。――一人は三十がらみで、
「それは角三ですね」と
「見てどうする」と去定が訊いた。
「ゆうべまちがいがありましてね」とその男は云った、「この長屋の家主の旦那を、殺そうとしたやつがあったんで、その下手人を捜しているところなんです」
「おまえはなんだ、町方の者か」
「いえ、私は高田屋さんの出入りで、伊蔵てえ者です」
「そういう下手人を捜すのは役人の仕事だろう」と去定が云った、「それともその高田屋では、十手でも預かっているのか」
伊蔵は黙った。
そのとき若いほうの男が、右手をふところへ入れながら、なにか云おうとし、去定がそれより早く、自分は養生所の新出去定という医者だ、と名のった。どうやらその名を聞けば相手がぎょっとする、とでも思ったらしい。少なくとも多少のおどろきは期待していたようだったが、若者の顔つきにはなんの変化もあらわれなかった。そこで去定の眼にほんの一瞬当ての外れたような色がみえ、登は
「よく聞け」と去定は云った、「どこでどういうまちがいがあったか、おれは知らぬ、だがこの男は昨日の夕方、豊島郡中丸村の
「昨日の暮六つ、水戸さまの脇だ」と若者が云った。女のようにやさしいが、その声もまたきみの悪いひびきを帯びていた、「おめえ、先刻ご承知じゃあねえか」と若者は笑った、「知っているからこそ、先手を打って、豊島だの鼠山だのって、方角ちげえの場所を並べたんだろう、じいさん、そうだろう」
「伊蔵――とか云ったな」去定はそっちを見て云った、「その高田屋の主人というのは殺されたのか、それともけがで済んだのか」
「いえそれは、その、おりよく旦那のうしろに、出入りの者が三人ついていましたので」
「けがもしずに済んだのか」
「三人がすぐに駆けつけたものですから」
「乱暴者のほうはどうした」
「つまりその、刃物を持っていたんで、危ねえもんだから叩き伏せました」
「するとその男はけがをしたんだな」と去定はだめを押すように云った、「高田屋は無事で、乱暴者のほうがあべこべにけがをした、それでこの角三を怪しいというんだな」
若者が云った、「おい、じいさん」
「黙れ」と去定が叫んだ、高い声ではないが、その叫びはするどく、若者を
「きさまは黙れ」と去定はすぐに声をやわらげて、伊蔵に云った、「ここをよく聞け、伊蔵、――養生所は町奉行に属し、つねに与力が詰めている、この角三はおれが現に鼠山でみつけ、養生所へ伴れ帰った者だ、その事実は与力にも届けてある、だが仮にそうでないにしても、高田屋はなにごともなかったのに、乱暴者のほうは三人がかりでやられてけがをしたという、これが表沙汰になったらどう裁かれるか、よく考えてみろ」
「しかしその、野郎は旦那を殺すつもりだったんで」
「証拠があるか」
「野郎がそう云ったって、旦那が」
「よせ」と去定が遮った、「誰がどう云い、誰がどう聞いた、そんな井戸端の喧嘩のようなことをお
それから去定は若者に一
「ましてこんな、ならず者のような人間を使っていれば、たとえ正当な理由があってもとおりはしない、帰ってよく相談をするがいい、おれはいつでも証人になるぞ」
若者は伊蔵を見た。右手をふところへ入れたままで、やるか、というふうな眼つきをしたが、伊蔵は首を振った。去定は登にめくばせをし、戸板の上から角三を抱きあげると、二人で勝手口から家の中へ運び入れた。そのまえに、おたねが人垣の中からとびだして来、先に家の中へはいって夜具を敷いた。
「一つうかがっておきますが」と勝手口から伊蔵が云った、「その角三をよそへやるようなことはないでしょうね」
「この男は崖から落ちたとき足の骨を折っている」と去定が家の中で答えた、「二三十日は動けないから安心しろ」
伊蔵と若者が去ると、長屋の人たちがみまいに来た。火種を持って来た女房もい、おたねが茶の支度にかかった。去定は登をそこに残し、差配の家を訊いて立ちあがった。
「角三は眠らせなければいけない」と去定は出てゆきながら云った、「みまいが済んだらなるべく早く帰ってくれ」
去定にそう云われたのでみまいの人たちもまもなく帰っていった。
「威勢のいい先生ですね」と角三が枕の上で微笑した、「とてもお医者とは思えねえ、あっしはいまにべらんめえが出やあしねえかと思ってましたよ」
「やりかねないね」と登も苦笑した、「いざとなればやくざ者の三人や五人」
登はそこで口をつぐんだ。本郷みくみ町の出来事を話そうとし、危ないところで思いとまったのであった。
「あんた」とおたねが脇から云った、「ついさっき
「源さんが、どうしたって」
「吉三郎さんのときと同じよ」とおたねが云った、「へんな人足みたような男が三人来て、こんどおれたちがこのうちを借りたんだって、源さんたちを追い出し、家財道具も
「源さんはどうした」
「相手が相手ですもの、どうしようがあるもんですか、おかみさんや子供たちと与平さんのうちにいますよ」
「どういうことだ」登が訊いた。
「高田屋のしごとです」角三は低く唸ってから云った、「掛合いじゃあ
登は圧迫を感じながら訊いた、「ここには
「そんなものが頼りになるなら、あっしだってやけなまねはしやあしません」と角三は云った、「あいつを殺してやろうと思うまでには、できるだけの手を打ってみたんです」
だが、条件は全部こっちに不利だった。この土地で護国寺の役僧がうしろ
――二十年ちかくも只で住んでいて、まだそんな欲の深いことを云うのか。
むろん只でいようというのではない、「これからは相応な店賃を払う」という相談がきまっていたのだが、そんな話には耳も
――引越したらいいじゃないか。
どうせこれから店賃を払うつもりなら、こんなごたごたはさっぱり捨てて、よそへ移るほうが簡単ではないか。なんのためにそうねばっているのだ、意地ずくか、それとも住み馴れた家へのみれんか。登はそんなふうに、心の中で角三に問いかけた。
去定は半刻ほどして戻ったが、上へはあがらず、登と竹造を促して帰り支度をした。「なにも心配はない」と去定はおたねに云った、「差配によく話しておいたから、伊蔵も乱暴なことはしないだろう、明日また誰かよこすが、短気なまねはしないように、――角三にも長屋の者にもそう云っておいてくれ」
音羽から外診に廻ったのだが、そのあいだ去定は、歩きながら登に仔細を語った。歩いているあいだしか話はできないから、終りまで聞くのに暇どったが、
角三は二十五になる。父は加吉といって畳屋の職人だったが、ついに自分の店を持つことはできなかった。
角三は十二歳のとき、下谷の「
このあいだに、角三はおたねと近づき、やがて夫婦約束をするようになった。彼女は早く両親に死なれ、祖父の多助に育てられた。多助は夜鷹そば屋をやっていて、まだ十二三のころからおたねは、仕込みも手伝ったし、夜は祖父といっしょに稼ぎにも出た。けれどもおととしの冬、祖父の多助は軽い卒中にかかってから、急に足腰が不自由になり、頭もぼけてしまって、稼ぎに出られなくなった。それでやむなく、おたねはかよいのできる茶屋奉公の口を捜し、二年このかた勤めて来た。
角三の父は、多助の倒れるまえに死んだ。母は五年まえに病死していたので、彼は一人だけになったが、それをきっかけに住込みをやめ、藪下のうちから「灘紋」へかようことにした。こうして、二人は毎日いちどは会うようになり、「めし屋」をやることについて語りあった。長いあいだ祖父の手伝いをしていたから、めし屋ならおたねも役に立つだろう。
――石にかじりついても、きっとものにしましょうね。
おたねは繰り返しそう云って、自分も乏しい家計の中から、僅かながら金を溜めるように努めて来た。すると今年の八月、いまの家が空いたので、差配に話したうえ、そのあとへ移った。裏通りではあるが、護国寺の参詣道に近く、また周囲には武家屋敷も多い。武家の奉公人などは案外いい客になるから、きっとしょうばいになると思った。同じ長屋に与平という大工と、小助という左官がいた。どちらも酒呑みで、手間取り程度の腕しかなかったが、その二人と相談をしておよその見積りをし、必要な材料を買って造作を直した。
こういう仕事は、手間取り職人などのほうが融通のきくものらしい。むろん暇をみてやるので手っ取り早いわけにはいかず、九月末になってようやく出来あがった。角三とおたねは、このあいだに料理用の
「それから半月経って、高田屋から立退けといって来たのだ」と去定は語った、「しょうばいはうまくすべりだし、馴染の客も付き始めていたそうだ」
それだけではなく、角三は十余年かかって溜めた金(その中にはおたねの分も含まれていた)を、その店にすっかり注ぎ込んだうえ、酒屋その他の商人に借りもできていた。
いまそこを追い出されれば、角三は借金を背負ったうえすっ裸になってしまうし、おたねはまた茶屋奉公にでも出なければならない。それで長屋ぜんたいが相談をし、高田屋と交渉して来た。
「だが、保本も聞いたとおり、高田屋は承知をしない、護国寺が尻押しをしているかいないかはともかく、町役連中も土地の繁昌という
「しかしいったい」と登が反問した、「そんなに長いあいだ、どうして店賃なしなどという約束が交わされたのでしょうか」
「交わされたのではない、先代の高田屋与七のほうで、自発的にそう約束したのだ、おれは差配のところで店賃の帳面を見たが、それには与七の名ではっきりと、松次郎一代まで無賃と書いてあり、与七と五人の長屋総代の署名、またそれぞれの
「字の書ける者がそんなにいたわけでしょうか」
去定は歩きながら、振向いて登を見た、「肝臓の悪い患者が、肝臓の悪いということを知らなくとも、肝臓の悪いことに変りはないだろう」
「はあ」と登はあいまいな声を出した。
「五人の総代が字を書けたかどうか、などということは問題ではない、店賃なし、という事実が証明しているじゃないか、――ばかなことを云う男だ」終りの言葉は独り言で、だが去定はすぐにまた本題に戻った、「おれの知りたいのは、どうしてそういう約束をしたか、ということだ、どんな理由があって、与七はそんな約束をしたのか、それがわからない限り長屋の者に勝ちみはない」
暫く歩いてから、登が訊いた、「その理由を知っている者はいないのですか」
「角三が云ったとおりだ」去定は
「ぼけてしまったという――」
「おれはさっき訪ねてみた、卒中のためにぼけたのだろう、いろいろやってみたし、老人自身もけんめいに思いだそうとした、しかし、おくめ殺し、ということしか記憶に残っていないんだ」
登は去定の顔を見た。
「おくめ殺しだ、――おれの顔を見たってなにもわかりゃしないぞ」去定は片手を意味もなく振った、「それがなにをさすのか誰にもわからない、長屋の者も手を尽して訊いたが、老人はその一と言しか覚えていないし、それがどんな意味を持つかもわからないのだ」
「ぜんぜん関係のないことかもしれないわけですね」と云って慌てて、登は話をそらした、「それでほぼわかりました」
「なにがほぼわかったんだ」
「高田屋を殺そうとまで思い詰めた角三の気持です」そう答えながら、今日のおれはばからしいほど愚鈍だぞ、と登は思った、「――十幾年かの辛苦が水の
「そんなことに感心するやつがあるか、どんな理由にせよ人を殺すなどということはゆるされない、その点では角三は愚か者だ」と去定は怒りの声で云った、「眼先の事ですぐによろこんだり、絶望して身を滅ぼしたりする例は貧しい人間に多い、恒産なければ恒心なしといって、根の浅い生活をしていると、思惑の外れた場合などすぐ極端から極端にはしってしまい、結局、力のある者の腹を肥やすだけだ」
「約束の理由さえわかれば打つ手もあるにちがいない」と去定はまた云った、「坊主どもや強欲な連中に、いかがわしい新地などをつくらせるより、一軒のめし屋を守ってやるほうが本当だろう、だがそのためには、与七がなんのためにあんな約束をしたかという、その理由がわからなくてはだめだ」
暫く歩いてから、去定は空を見あげて、現実でないなにかに問いかけるように、熱のこもった声で呟いた、「いったい与七はなんの代償に、あんな約束をしたのだろう、――」
肝臓の悪い病人を診てそれがわからず、どこが悪いのかと、神仏に助けを求めている医者のようなあんばいですな、と登は心の中でやり返した。
その翌日、去定に命じられて登は角三をみまいにいった。おたねの手を借りて、傷を洗い、
「まあおじいさん、どうしたの」おたねは立ってそっちへいった、「独りで出て来たりして危ないじゃないの」
それが多助であろう、登は手を洗うために
「わからないわ」とおたねがなにか訊き返していた、「なにがどうしたの」
角三がもの問いたげに登を見た。登は黙って首を振った。
「どうしたんだ」と角三が高い声で呼びかけた、「じいさんがどうかしたのか」
「ちょっと待って」とおたねが答えた。
登は角三に、こんどは明後日来る、と云って立ちあがった。熱もすっかりさがったし、傷の
「いいわよ、うちへ帰りましょう」とおたねが云うのを、登はうしろに聞いた、「角さんは大丈夫よ、仏壇なんて縁起でもないことを云わないで、おじいさんはうちでじっとしてればいいの、なんにも心配することなんかありゃあしないわよ」
登は路地から中通りへ出ていった。
登はそれから小石川橋へまわった。松平
「保本と入れ替った男さ」と半太夫が云った、「津川
登は思いだした。
「いやなやつだった」と登は云って、
「ここへさ」
「彼は御目見医になった筈じゃないか」
「ならなかったらしいな」と半太夫が云った、「いちどは席を与えられたが、へまをやって番を外されたということだ」
「それでここへ戻るのか」
「そういうことだ」半太夫は茶を
「ここで人が要るって」
「ああ」と半太夫は話を変えた、「猪之とお杉が夫婦約束をしたそうだが、知っているかね」
登は首を振った。半太夫はそのほうへ話をもってゆき、登も興を
「この養生所でこんな明るい話を聞くのは初めてだ」と半太夫は云った、「おそらく養生所はじまって以来のことだろう、おれはそう気がついて心が重くなった、――この世に生きていて、この眼で、人が仕合せになるのを見るということがいかに
そうだ、人が幸福にやっているのを見ることは極めて稀だ、と登は心の中で頷いた。猪之とお杉だって将来のことはわからない、夫婦になれるよろこびは短いが、生きてゆく年月は長いからな。そう思いながら、登は首を振って笑った。
「どうもこういうところにいると」登は云った、「考えることがとしより臭くなっていけないな、いや、おれ自身のことだよ」
明くる日、登が去定の供をしてでかけるとき、門のところで、知らない男に呼びとめられた。いま門番に教えられたらしい、「保本先生ですか」と呼びながら近づいて来た。印半纏に股引、草履ばきで、年は二十六七。背丈は低いが
「あっしは音羽から来ました」と男はしゃがれた声で云った、「角三と同じ長屋にいる、大工の与平てえ野郎です」
刷毛屋の源治たちを引取った男だな、と登は思った。
「角三の容態でも変ったのか」
「いえ、そうじゃねえんで」と与平は頭を掻いた、なにか悪いことでもみつけられたように、頭を掻きながら云った、「じつはその、ちょいとした事ができたんで、今日の七つ(午後四時)ごろにいちど来てもれえてえと、こういうわけで伺ったんですが」
「なにか騒ぎでもあったのか」と去定が脇から訊いた、「また高田屋か」
「そうじゃねえ、いや、そうかな」与平はまた頭を掻き、首をひねった、「騒ぎじゃねえんだが、高田屋のことってえわけでもねえんだが、騒ぎはあるかもしれねえが、そいつは来てもらえばわかるんで、いかがでしょう」
「七つだな」と去定が云った、「よし、その時刻までにいくと云っておけ」
与平は登を見た。登は「いくよ」と云って頷いた。
外診の供を五カ所済ましてから、去定に云われて、登は音羽へでかけていった。曇った午後で、四時まえだというのにあたりは暗く、弱い北風が肌へしみとおるほど寒かった。角三の家の勝手口で声をかけると、おたねが出て来た。履物がごたごた並んでいるのを、登が不審そうに見たことに気づいたのだろう、長屋の人たちです、とおたねが云った。――あがってみると、角三の寝床の横に、男たちが四人いて、登に挨拶をし、坐るところをあけた。男の一人は与平で、彼が他の三人をひき合わせた。左官の小助、魚屋の長次、
「いそがしいところを済みません」と寝たままで角三が云った、「じつは高田屋のことなんですが、十九年まえなにがあったか、ということがわかったんです」
「わかった」と登は眼をほそめた。
「多助じいさんが来まして、ああ、ちょうど貴方がいたときでしたね」と角三は云った、「舌がもつれるうえにのぼせあがっていて、云うことがよくわからなかった、貴方がお帰りになったあと、少しおちついてからよく聞いてみると、十九年まえの事で書いた物がある筈だって云うんです」
初めはしきりに「仏壇」ということを繰り返していたが、やがて、高田屋との約束の件を書いた物がある、それには自分のほかに四人の総代の名と拇印が押してあり、亡くなった加吉が預かっていた、と話しだした。
――おれは初耳だぜ。
角三は父からなにも聞いていなかった。そうかもしれない、と多助が云った。おまえは奉公ちゅうで、加吉さんの死に目に会えなかった。おまえさんが駆けつけて来るまえに、加吉さんがそのことをおれに話したんだ。
――そんなこともねえだろうが、もし長屋のことでいざござが起こったら、仏壇の
多助はそう聞いたが、そのまま忘れていた。そこへこんどの騒ぎで、「おくめ殺し」ということが頭にうかび、それがどんな事だったかを考えているうちに、昨日ようやく思いだした、ということであった。
「それが、あったのか」と登が
「ありました」と云って、角三は枕の下から平たく巻いた書き物を出して、「じいさんの云うとおり、位牌のうしろにこれが隠してありました」
「理由が書いてあるんだな」
「詳しく書いて、総代五人の拇印が押してあります、いや待って下さい」角三はその書き物を長次に渡しながら云った、「これに書いてあることはあとで話します、いま云うとまずいことになるかもしれないんで、というのは、これからあっしたちのする事を、貴方はたぶんとめようとなさるだろうと思うんです」
登は角三の顔を見まもった、「それならどうして、私をここへ呼んだんだ」
「証人になってもらいたいんです」
「なんの証人だ」
「そいつはあとでわかりまさあ」と与平が云った、「相手さえ来りゃあすぐに始めるし、もうそろそろ来るじぶんなんだから」
「誰が来るんだ」
「高田屋でさあ」と云って与平は角三を見た、「いけなかったかい」
「松次郎を呼んだんです」と角三が登に云った、「長屋を只で貸すという、約束の証拠がみつかった、それを見せるから来てくれといいましてね、来るという返辞でした」
「それで、どうして証人が必要なんだ」
「この人も
「よけえなことを云うな」と角三が遮った、「おめえは自分の役目を心得てりゃあいいんだ、長さんも大丈夫だろうな」
「
「おれがあとから持っていこう」と車力の正吉が云った、「呼んでくれればすぐに駆けつける、それでいいだろう」
登は黙った。かれらがなにをしようというのか、自分がどういうことの証人になるのか、まるで見当もつかないが、かれらは話す気はないらしいし、事はまもなく始まるようだから、黙って見ているよりしかたがあるまいと思った。――おたねが登に茶を
高田屋松次郎は四時ちょっと過ぎに来た。このあいだの伊蔵と、べつの若者が二人ついており、松次郎と伊蔵だけがあがった。角三が話しているあいだに、登は松次郎を横からよく眺めた。二十三歳だと聞いたが、三つ四つはふけてみえる。中肉中背で、どこにこれという特徴もなく、ただその眼つきや、ものの云いぶりなどに、あまやかされて育った人間の、権高な、こわいもの知らずといった感じが、露骨にあらわれていた。
「それは
「ごらんになればわかります」と角三が答えた、「あっしたちみてえな頭のちょろい人間に、高田屋さんほどのきれ者を
松次郎は振向いて登を見た。
「保本登だ」と登は云った。
「高田屋の松次郎です」と云って、松次郎は登の服装をじろじろ見た、「その着物は知っています、たしか養生所の先生がたの、お仕着でしたね」
お仕着という言葉に一種の調子があった。明らかに軽侮の口ぶりであるが、登は微笑しただけであった。
「長次と小助が御案内します」と角三が云った、「保本先生もいって下さるそうですから、どうぞごらんになって来て下さい」
「どこにあるんだ」
「崖下の空地です」と角三が云った、「但し、どうか供の人は残して、旦那お一人でいらしって下さい」
「どうして供はいけないんだ」
「旦那の恥になるらしい」と角三は穏やかに云った、「亡くなった旦那もそれが心配で、誰にも知れねえようにしておきなすった、それであっし達も今日までわからずにいたわけですから、どうかお一人でいっておくんなさい」
松次郎はちょっとためらい、伊蔵が「若旦那」と
「いいだろう」と松次郎はおうように頷いた、「私の恥になることかどうか見てみよう、やすだ先生もいらっしゃるんでしょうね」
登は黙ってい、角三が「
「それは失礼」と松次郎は登に気取った会釈をし、伊蔵に云った、「おまえは
登は立って、先に勝手口から出た。
「私も高田屋の松次郎、か」と登は路地へ出てから
すぐに与平が出て来、続いて松次郎、長次、小助と出て来た。長次は「こちらへ」と云って、路地を奥のほうへと歩きだし、登と他の三人はそのあとからついていった。あたりはもう濃い
長屋を出はずれると、一段高くなって空地がある。その向うは崖で、崖の上には武家屋敷があるのだが、下からは見えなかった。およそ五百坪くらいあるその空地は、人間の胸ほども高い枯草に
「この辺って」と松次郎が訊いた、「なにがこの辺なんだ」
「証拠のある場所です」と長次が云った、「ちょっとこっちへ来てみて下さい」
松次郎は登を見た。登は片手で「どうぞ」というふうに
「もう少しうしろだな」と長次は松の木と崖とを見比べながら云った、「済みませんがもうちょっとうしろへいって下さい」
松次郎はうしろへさがった。
「もうちょっと」と云って、長次は地面へしゃがみこんだ、「そう、もう少しですね」
松次郎はうしろへ二歩さがった。すると、彼の足がなにかを踏み外し、彼は両手を宙におよがせながら、すぽっと、枯草の中へその姿を消した。
濃い黄昏の光の中で起こったその出来事がなにを意味するか、あまりに突然で、登にはちょっとわからなかった。両手を振りながら枯草の中へ姿を消してゆくとき、松次郎は大きな声で叫び、その声が地面の下へ、尾をひきながら落ちてゆくのを、あっけにとられたまま登は聞いた。
「あれがじいさんの云うおくめ殺しなんでさ」と与平が云った、「本当はそんな名めえなんぞありゃあしねえ、ただの古井戸なんで、深さが二丈九尺、水のねえ空井戸なんだが、昨日しらべましてね、毒気のねえこともわかったんだが、ずっと昔ってえだけで、いつのことかわからねえが、おくめってえ女の子がおっこちて死んだことがある、古い人はそいつを知っていて、おくめの井戸と云ってたらしい、石の蓋をして
「与平を黙らせろ」と長次が云った、「おい正公、いるか」
正吉が提灯を持ってこっちへ来た。うまくいったか。うん、めどへぴたりだ、と長次が云った。それ、中で喚いてるぜ、ほんとだ、野郎さぞ肝をつぶしたこったろう。灯を見せてくれ、と長次が云った。登は黙って、かれらのすることを眺めていた。
「あんたは証人だ」と長次が登に云った、「こっちへ来て、これからあっしが野郎に云うことを聞いておくんなさい」
登は頷いた。空はまだ明るいが、崖下になっているその空地はすっかり
「おい、高田屋」と長次がどなった、「どこかけがでもしたか」
底のほうで喚く声がしたが、がんがんと空洞に反響するばかりで、言葉はまったく聞きとれなかった。
「それだけ元気な声が出せるんなら大丈夫だろう、よく聞け」と長次が云って、ふところからさっきの書き物を取り出した、「これからわけを話してやるからな、おい、よく聞くんだぞ高田屋」
「耳の穴をかっぽじれってんだ」与平が云った。
「おめえは新らしいことを云うよ」と小助がやじった。
「黙ってろ」と長次は制止し、井戸の中へ向かって、書き物を読みながら云った、「いいか、よく聞いてろよ、高田屋、――これはな、昔ここにあった武家屋敷の空井戸なんだ」
長次はそこで、与平が登に話したことを、もっと詳しく語ったが、女の子の年は六つ、井戸を
「いまから十九年まえの十月、日にちは十五日、おめえは四つの年だったが、この井戸へ落ちたんだ、いいか」と長次は続けた、「おめえは一粒種で、親御さんにとってはなんにも替えがたい大事な子だった、近所
井戸の中はひっそりとして、なんの音も聞えず、長次の声の反響するのが、あたりの静かさを際立てるようであった。
「だがおめえは助かった」と長次は続けていた、「親御さんがどんなによろこんだかわかるだろう、この恩は
長次はそこで、角三の家の仏壇から、総代連署の書き物が出たことを語った。
「これでわかったろう」と長次は云った、「おめえは先代の約定を
井戸の底から喚き声が聞えて来た。反響がひどいうえに、恐怖のため声がうわずっているので、言葉はやはり聞きとれなかった。
「おい、そうどなるな」と長次が云った、「どなったりあばれたりすると、それだけ早く精が尽きちまうぜ、それにここは忘れられた場所だ、おれたちでさえ、書いた物が出るまえには知らなかった、いくら喚こうと叫ぼうと、こんりんざい人の来る
長次が手を振ると、与平たち三人が、向うから石の蓋を運んで来、三人がかりで、やっと井戸の口を塞いだ。
「先生に話さなかったわけがわかるでしょう」と長次が登に云った、「こうするんだと聞けば、先生はきっと反対なすったでしょうからね」
「どうだかな」と登は微笑した。
「あっしたちのような人間でも、このくらいのはらいせはしたかった、これで野郎も幾らかこたえるでしょう」と長次が云った、「さて、角三も待ちかねてるだろうし、帰ってこの書き物を読んでもらいましょうかね」
「しかし、まさかあのまま」と登が訊いた、「高田屋をあのままにして置くつもりじゃあないだろうな」
「まあね」と長次があいまいに云った。
五人は長屋へ戻った。伊蔵には「旦那はもう牛込へ帰った」と告げ、角三の家へあがって始終を話した。登は書き物を読み、そこに長次の云ったとおりのことが、詳しく書いてあるのを慥かめた。
「私は口出しをしないが」と登が云った、「とにかく証人になったんだから、高田屋にもしものことがあると」
「ええ、わかっています」と角三が遮った、「先生に迷惑のかかるようなことは致しません、いずれ事が決着したらお知らせにあがりますから、どうか心配しないでいておくんなさい」
登はまもなく別れを告げた。
それから一日おきに角三の手当をしにかよったが、角三はなにも云わなかった。そうして五日めになったとき、初めて「事がうまくおさまった」ということを角三が話した。
「ゆうべ井戸から揚げたんですよ」とおたねが云った、「あたしたちみんな、これまでどおりここにいられるんですって」
「仕返しの心配はないのか」
「
「あの井戸の底ではな」
「あっし共は店賃を払うつもりです、い、いてえ」
「――お手やわらかに頼みますよ先生」