雨の山吹

山本周五郎





 母の病間をみまってから兄の部屋へゆくと、兄も寝床の上で医者と話していた。医者はすぐに帰り、兄は横になった。
「どうなさいました」
「ちょっと胃のぐあいが悪いんだ」兵庫は眉をしかめた、「――四五日よく眠れなかったところへ、いやな事が起こって、ゆうべちょっと酒をすごしたのがいけなかったらしい、明け方に血のようなものを吐いた」
 もとからせていたほうだが、そう云われて見ると頬がこけ、眼がくぼんで、血色もひどく悪い。唇が乾くとみえて、しきりにめるが、その舌の色も悪かった。
貴方あなたが酒をすごすとは珍しいじゃありませんか、いったいなにがあったんです」
 兵庫は枕の下から封書を出して、黙って弟に渡した。ひらいてある手紙で、宛名あてなは兵庫、裏には汝生なおという妹の名が書いてあった。
「汝生がどうかしたんですか」
「読んでごらん」
 又三郎はひらいてみた。かなり長いものであり、まったく意外な文面であった。彼はそれを二度読み返した。
 こんどの縁談でいろいろ心配をかけたが、自分はどうしても嫁にはゆけない、西牧という人に不満があるのではなく、自分の身にとつぐことのできないわけがあるのである。五歳のとき孤児になり、葛西家かさいけにひきとられてから、御両親にも兄さまたちにも、しんじつ肉親のように可愛がられて来た。その御恩と義理を思えば耐え難いが、縁談はもう断われなくなったし、とつぐわけにもゆかず、身の処置に窮したので、死ぬ決心をした。御病床の母上や兄上さまたちはさぞお怒りであろう、西牧という方にも相済まないが、ほかに思案がなかった、愚かなやつだと思ってゆるして頂きたい。一日も早く母上が御恢復かいふくなさるよう、また御一家の幸福と御繁昌を祈っている。――つまり遺書であった。
「いつのことですか、これは」
 又三郎は兄を見た。それから封書の裏に、小松町柊屋ひいらぎやと書いてあるのを読んだ。
「ここに小松町とありますが」
「文代が来る、聞かれては困るんだ」
 兵庫が云った。又三郎は手紙を巻いた。あによめの文代が、茶を持ってはいって来た。して五年になるが、こんど初めて妊娠し、帯の祝いをしたばかりである。健康そうに肥えて、膚もつややかに色づき、眼にはおちつきと満足感があふれているようにみえた。……彼女はあいそよく三浦のようすをき、さも済まなそうに云った。
「御用も多いでしょうに、とんだ事をお願いして申し訳ございません」
「これから頼むところだ」兵庫がさえぎった、「――いま手紙をみせたばかりなんだ、ここはいいから向うへいっておいで」
 茶を注ぎ、菓子鉢をすすめて、文代は去った。又三郎は兄の話すのを待った。
「八日まえに、紅梅会の者五人と粟津あわづへいったんだ」兵庫は云った、「――もうまもなく祝言だし、西牧へゆけば当分は出られないだろう、母上もぜひやってやれとおっしゃるので、出してやったんだ」
 城下の寺町に、小舘こだて梅園という女史の経営する女塾があり、藩士の娘たちに学問や諸芸を教えていた。紅梅会はその塾生たちの集まりで、毎年春と秋の二回、有志が組をつくって粟津へ旅行をする。粟津は名だかい温泉場であるが、往復の道に四日、中三日滞在の日程にはきびしい規則があり、行楽よりも、塾でならい覚えたことを実地にためす、というのが主眼になっていた。
 汝生はその旅行にでかけたのであるが、昨日の夕方、いっしょにいった娘の一人が、粟津から帰って、汝生の帰りがおくれるということを告げに来た。小松の宿で腹痛を起こしたそうで、その柊屋という家は紅梅会の定宿であり、治ったら宿の者が送って来る、という話であった。
「そうしてこの手紙を、汝生から預かったといって置いていったんだ」
「こんな手紙を、まさか悪戯いたずらに書くこともないだろうが、そんなけぶりでもあったんですか、死ぬなどという」
「なかったろうね、あれば誰か気がつく筈だ、ただ」兵庫は眉をしかめた、胃の気持が悪いらしい、だが続けて云った、「――ただ動木ゆるぎきのことではずいぶん悩んで、食事も満足にしないようなことがあったそうだ」
「あれは喜兵衛が好きでしたからね」
「彼が出奔したあとしばらくは、半病人のようになっていたが、……しかしそのために死ぬということも考えられない、たぶん、自分の身にとつげないわけがある、というのが本当なんだろう、どういうことかわからないけれど」
「とにかく小松へいってみるんでしょう」
「そのつもりで来て貰ったんだが、三浦のほうの都合はいいだろうか」
「都合もくそもあるものですか、私は婿にいったんじゃなく母親ごと松枝を嫁に貰ってやったつもりなんですからね、これからすぐ井波いばの馬を借りてとばせましょう」
「まあ待て、もうひとつ相談があるんだ」
 兵庫はちょっと障子のほうを見て、それから声を低くして云った。もし汝生が死んでいたばあいには、病気で急死したということにし、その手筈をとること。自分たち二人以外には、誰にも事実を知れないようにすること、などである。
「わかりました、ではいって来ます」
 又三郎は元気な声で云った。立つまでは顔つきも明るかったが、廊下へ出ると急に眉をひそめ、苦痛を感ずるもののように、強く唇をんだ。
「待て、汝生」彼はつぶやいた、「――おれがゆくまで待て、死ぬんじゃないぞ」


 馬を乗り続けて、小松へ着いたのはひるちかい時刻だった。柊屋という宿を訪ねると、汝生はもういなかった。
「皆さまがお立ちになって一ときばかりすると、もう治ったから駕籠かごでゆけば追いつくだろうと仰しゃいまして、急にお立ちなされました」
 宿の者はそう云った。供を付けようとしたが、駕籠でゆくのだからと断わって、独りで出ていったそうである。又三郎はすぐに駕籠屋へまわってみた、すると、寺井の宿しゅくまで送って、宿はずれでおろした。ということで、そのあとどうしたかはわからなかった。
 昼食の時刻を過ぎたが、食欲もないし気もせくので、彼はそのまま寺井まで戻った。そこは手取川に近い小さな宿場であるが、付近に陶器を多く産するのと、川上の鶴来へゆく道のわかれるところで、小さいながら繁昌している土地だった。又三郎は立場たてばへ馬を預け、かいばを頼んでから、帳場で訊き、駕籠かきや馬子たちに訊いてみた。
 ――年は二十一であるが若くみえる。背丈は五尺一寸ばかり、まる顔で色が白く、左の眼の下にかなり大きな黒子ほくろがある。武家そだちの娘一人。
 五軒ある宿屋や、街道の茶店なども、こういって訊いて歩いた。顔かたちや年などを云うたびに、又三郎は胸が痛くなり、涙がこぼれそうになった。三浦家へ婿にいってから半年、汝生とは暫く会っていない、――まる顔の白いふっくりした頬、泣き黒子など、思いだしては挙げていると、姿かたちばかりでなく、やや鼻にかかる声や、あまえた話しぶりや、いつまでも子供らしかった表情まで、まざまざと眼にうかんできて、どうしようもないほど哀憐あいれんのおもいをそそられた。
 おそい昼食を済ませてから、再び馬で、鶴来の町までゆき、また引返して川を越え、松任まつとうのあたりまで戻ってみた。しかしそれらしい者を見かけた、という程度の消息も得られなかった。一本街道のことで往来も多いが、娘一人の旅というのはまれだから、見た者があれば覚えている筈である。
 ――もうだめだろうか。……いやあきらめるには早い、ことによると思いかえして、どこかの宿で途方にくれているかもしれない。
 こんな自問自答を繰り返しながら、又三郎は寺井の宿へと戻った。そこまで来たことはたしかだし、手取川を越したようには思えなかったのである。もう日がれかかっていた。馬屋のある能登屋という宿で草鞋わらじをぬいだ。
 ――明日は海辺のほうを捜してみよう。
 夕食を済ませて、茶をすすりながらそう思うと、疲れて感情がもろくなっていたためもあろう、涙があふれてきて、止めることができなかった。
 午後から吹きだした西北の風が、まだかなり強く、海ではしきりに波の音がしていた。又三郎は窓の障子をあけ、雨戸をあけた。冷たい風が松籟しょうらいの音といっしょに、激しく吹き込んで来た。そちらは宿の裏手で、砂丘と松林が展望をさえぎっている、そうでなくとも海までは二十町あまりもあるのだが、波の音は高く、松風をしのいですぐま近のように聞えて来た。
「どこにいるんだ、汝生」彼は海のほうに向って呟いた、「――まだ生きているのか、それとももう死んでしまったのか」
 吹き千切られた松の葉が、ぱらぱらと飛んで来た。空はきれいに晴れて、いちめんの星が生きもののようにまたたいていた。彼はながいこと窓にって、波の音に聞きいりながら、涙の乾くままに任せた。
 るまえに兄と三浦の妻へ、手紙を書いた。
 汝生の病状が悪化して、どうやら危篤らしいから数日滞在する、追ってようすを知らせる。という簡単な文句である。兄へ宛てたほうには、(そこだけ破棄できるように)余白を多くとって、――捜しまわった事実と、絶望らしいこと、また今のところでは、自殺したとしても幸い人に知られていないこと、などを書き添えた。
 明くる朝、又三郎は食事のまえに手紙を頼み、草履を買わせた。そして朝食を済ませるとすぐ、海のほうを歩いて来ると云って、着ながしに脇差だけ差して宿を出た。
 そこの浜は「加賀の舞子」と呼ばれるくらいで、荒磯の多い北の海辺には珍しく、砂浜の広いみぎわがあり、松林が砂丘に沿って延びていた。風は弱くなったが、九月といえばもう海の荒れだす季節で、濃い碧色あおいろのうねりが高く沖のほうにも白い波がしらが頻りに立ち、汀は絶えず砕け散る波のあわで、雪白にぎらぎらと輝いていた。砂浜がゆるく彎曲わんきょくしてゆき、やがてしだいに岩の多い磯になると、近くに潮の流れでもあるとみえ、波はさらに荒あらしく、岩礁をんでは激しく飛沫しぶきをあげた。そのあたりには、漁夫の子供たちが、かぎの付いた長い竿さおで、流れて来るなにかの海草を拾っていた。
 又三郎はその子供たちや、みかけた人々に呼びかけて、この付近で溺死できしした者はなかったかどうか、と訊きながら、すっかりうちひしがれたような気持で歩いていった。


 又三郎は五日めに金沢へ帰り、またすぐでかけていって、こんどは四日後に、櫛笄くしこうがいの包と、小さな遺骨の壺を持って帰った。
 武家にはいろいろやかましい規則があって、自殺などはそのまま発表できないばあいが多かった。汝生の死も、葛西の家名に関するばかりでなく、婚約者に対する遠慮もあるので、どうしても病死ということにしなければならなかったのである。
 兵庫がまだ医者に注意されていたので、三七日の法事まで、又三郎は施主の役の代行で忙しかった。そして、その法事を済ませた夜、彼は初めて兄とおちついて話した。兵庫はまだ一日の大半を寝床にいたし、食事もようやくゆるいかゆになったばかりであるが、胃のほうは快方に向っているらしく、血色がずっとよくなり、眼にも活気が出ていた。又三郎はできるだけ、兄を驚かさないように話したが、兵庫は初めのひと言で殆んど色を変えた。
「壺の中が遺骨ではないって」
「黙っているつもりだったんですが、それも無責任じゃないかと思って、お話しするわけなんですが、じつは死躰したいがあがらなかったんです」
「では死んでいるのかどうかも」
「いや、海辺に遺品があったんです」又三郎はいそいで云った、「――手取川の河口の近くでした、汀から一段ばかりうしろの松林の中でしたが、結い付け草履をそろえてぬぎ、その上にあの櫛笄を紙に包んで置いたのを、石で押えてありました」
「おまえがみつけたのか」
「子供たちがみつけて騒いでいたのを、銭をって引取り、すぐに能登屋をひきはらって、松任へ宿を変えたのです」
「――ではあの壺の中には」
「遺品のあった場所の小石と、汀の砂と、それから結い付け草履を焼いて、その灰をいっしょに入れました」
 そう云って、とつぜん、又三郎は言句に詰ったように口をつぐみ、下を向いて暫く沈黙した。ひとりで草履を焼いたときの、汝生を哀れむ思いが胸にこみあげてきて、危うく涙がこぼれそうになったのである。……浜の者にきくと、そこは手取川の水勢が沖へ強く押出すので、水死者などはしばしば越前のほうまで流される、ということであった。事情が事情だから、それでは死躰を捜す方法も時間もない。やむなくそんな手段をとったのだが、壺の中へそれらの物を入れるときの哀れさはたとえようがなかった。
「それでは、なるべく早く埋葬するほうがいいな」
 と兵庫が云った。それから溜息ためいきをついて、
「寐ついてから、いろいろなことを考えたよ、一家の運とか、人間の一生などについてね、……葛西家はこれまで平穏無事だった、私もおまえも、殆んど不自由ということを知らず、父上の亡くなったとき以外は、悲しみや苦しみも知らずに育って来た、それがこの一年ばかりまえから、……母上が病気になられてからこっち、動木の問題で迷惑をし続け、ようやく片がついたと思うと、汝生、そして私が胃をやられた、不幸は重なってくるというから、この次またどんな事が起こるかわからないが、葛西の家にもそんな運がまわってきた、という感じがしきりにするんだ」
 兵庫には珍しく、感傷的なことを云いだした。それは気の弱りですよ、と又三郎はうち消しながら、心のなかではやはり同じような予感がするのを、否めなかった。
 ――そうだ、これまであまりに順調すぎた、こんなに平穏無事な生活はなかった、そろそろ崩れだす時期がきたのかもしれない。
 人間の一生は、思わぬ災厄や悲嘆や、困苦なしには済まないらしい。そういう例は飽きるほど見たり聞いたりしてきたが、自分たちがいま同じようなまわりあわせに当面している、と想像するのは、相当たまらないことであった。
「動木に対しても、少し同情が足りなかったような気がする」兵庫はしまいに云った、「――あれも苦しかったんだということが、少しずつわかってくるようだ、汝生のばあいもそうだけれど、そんなにつきつめている気持を感づかなかったというのは、みなこっちが至らなかったからだと思う、……自分が非運になって、はじめて他人の苦しみがわかるというのは、たまらないことだな」
 その言葉はつよく又三郎の頭に残った。
 紅梅会からは梅園女史が三度来た。汝生と同行した四人はもちろん、他の塾生たちもしばしば来て、霊前で思い出ばなしをしては泣いた。ずいぶん好かれていたらしい、おもいやりのある情のあついひとだったと、それぞれが例を挙げて語り、いかにも諦めきれないというようすだったが、もちろん病死について疑う者は一人もなかった。婚約者の西牧陽之助のほうも了解がつき、すべては無事におさまると思えたが、又三郎の気持は、日が経っていっても、この出来事からはなれられず、悲しいような、不安なような気分に、つきまとわれるのであった。
 ――しかし、汝生は本当に、結婚できないという理由だけで、死んだのだろうか、ほかにもっと隠れた意味があったのではないか。
 こういう疑問も、だんだん強くなってゆき、それがしだいに、動木喜兵衛とむすびつくようになった。
 ――二人は身の上も似ていたし、汝生は彼にひじょうな好意をもっていた。
 汝生の好意はむろん恋というものではなかった。恋ならば隠すことを誰の前でも平気で口にし、態度にあらわした。
 喜兵衛は葛西の家士、動木伊平次の子であった。汝生と似ているのは彼も伊平次の実の子でなく、三歳のとき貰われて来て、十二歳で孤児になったことである。動木は三代も葛西の家士を勤めていたし、喜兵衛は温和おとなしい気はしのきく少年だったので、そのまま葛西のほうへ引取られ汝生や又三郎と同じように育てられた。同じようにというのは、葛西の家族同様という意味で、寐起きにも、学問や武芸の稽古にも、まったく差別をつけなかったのである。
 兵庫はそのとき十八歳で、又三郎と喜兵衛は同年、汝生は二人より四つ下の八歳だった。喜兵衛が引取られて来ると、汝生はたちまち喜兵衛になついた。それも年下のくせに姉ぶって、庇護者ひごしゃを気取り、またいつも代弁者になった。そのころ彼はまだ喜市といっていたが、その名が汝生の口から出ない日はないくらいだった。
 ――喜市さまの足袋が切れましたわ。
 ――喜市さまのお草紙がなくなりましたわ。
 ――喜市さまはお風邪らしゅうございますわ。
 といったふうである。
 又三郎は大いに不満だった。彼は初めから汝生が好きで、そのためにいつも彼女を泣かせてしまうほど可愛がって、よく兄や母に叱られた。おまえのは可愛がるのか憎がるのかわからない、と云われたものであるが、汝生にはこっちの気持がわかるのだろう、いくら泣かされても、又三郎には誰よりも遠慮がなく、物をねだったりあまえたりした。
 喜兵衛がいっしょになってからも、その点には変りはなかった。又三郎にはやはり誰よりも親密で、自由にあまえたり付きまとったりした。喜兵衛に対しては、それとはまったく違うので、文句を云うわけにはいかなかったが、不満なことはどこまでも不満で、ときどき喜兵衛に鬱憤をはらした。いちどは殴って、
 ――おまえは家来だぞ、いばるな。
 と云ったことがある。喜兵衛は決して反抗はしない、罵倒ばとうされても殴られても、黙って頭を垂れているが、そのときは父がひどく怒って、
 ――黙って殴られているやつがあるか、構わないから殴り返してやれ。
 こうどなりつけた。又三郎も、家来だぞと云ったことで、例のないほど叱られ、拳骨げんこつの痛いやつを一つ貰った。そんなことは前にも後にもただ一度きりであったが……。


 又三郎が二十一歳の年、兄の兵庫が結婚した。そして、それを機会に喜兵衛は家を出たが、父の奔走で作事方に勤めることになり、御小屋を貰って独立したのである。
 又三郎はそれからのち、殆んど彼と交渉がなかった。明くる年、父が死んだとき一度、泊りがけで手伝いに来たことがある。また喜兵衛が結婚したときには、兄に代って又三郎が式に出た。そして四年、喜兵衛の妻は男の子を産んでから弱くなり、ずいぶん療養につとめたが、ついに今年の一月死んでしまった。……ちょうど又三郎は縁組がきまり、三浦家へ婿入りした直後のことで、詳しい事情は知らなかったし、また知りたいとも思わなかったが、とつぜん喜兵衛が訪ねて来て、十五両という借用を申し込まれて、びっくりした。
 ――冗談じゃない、まだ婿に来たばかりでそんな余裕があるものか、いっそこっちで欲しいくらいだ。
 喜兵衛は葛西へいった。あとで聞いたのだが、兵庫は幾らか都合してやった。するとまた日をおいて借りにいった。理由を訊くと、妻のながい療病や葬儀のために、つい役所の金を使ったのが返せない、ということだそうで、泣いたりしたらしい。兵庫はきちんとした人だから、
 ――そういう事をうやむやに済まそうというのは悪い、すでに公金を使った以上、その罪はまぬがれない筈だ、まずその責任をはっきりさせてからの相談にしよう。
 こう云ったそうである。それから三十日ばかりすると、喜兵衛は二歳になる子をれて、出奔してしまった。乏しい家財など売ったらしい、幾らかの金に添えて、手紙が残してあった。それは兵庫に宛てたもので、――父祖の代からの縁故にすがって頼む、どうか不足を補って、役所のほうの片をつけて頂きたい、恩義は死んでも忘れない。という意味の文面であった。
 兵庫は怒って、そのまま届け出ようとした。しかし病母や汝生がとりなすし、動木については葛西家としての責任もあるので、結局はあと始末をしなければならなかった。
 七夕の宵のことであるが、又三郎は久しぶりに葛西を訪ね、母の枕許まくらもとで兄といっしょに酒を飲んだ。そのとき喜兵衛の話が出て、又三郎がつい軽い調子で、あんなだらしのない男とは知らなかった、と云った。すると給仕をしていた汝生が、いきなり激しい調子でそれに応じた。
 ――三浦のお兄さまの仰しゃるとおりですわ、あんな僅かな不始末にうろうろして、いっそ切腹でもなさればいいのに、幼い子を伴れて逃げだすなんて、いったい逃げた先でどうするつもりでしょう、しまいには乞食こじきにでもなる気でしょうか。
 ――ひどく怒ったもんだね、もういいよ。
 又三郎が制止した。汝生は眼にいっぱい涙を溜め、唇をふるわせて今にも泣きだしそうにみえた。
 ――喜兵衛のことより自分のことを考えるがいい、ぜんたいいつまで嫁にゆかないつもりなんだ、もう二十一じゃないか。
 そんなふうに話をそらしていった。
 あとから思うと、汝生の怒りは喜兵衛を責めるのでなく、深い哀れみのためであったと想像されたのである。そのとき又三郎が結婚のことなど云いだしたのは、三浦のほうの知人から、――西牧陽之助へどうか、というはなしがあり、汝生が相変らずしぶっていると聞いたからであった。
 いったい汝生は人に好かれるたちで、十五六のころからよく縁談があった。縹緻きりょうは十人なみだが、ふっくりとまる顔で愛嬌あいきょうがあり、明るくて陰のない性分が好かれるらしい。泣き黒子は顔をさみしくする、といわれるのに、汝生のはかえって表情をやわらげるようにみえた。……縁談は初めのうち母が断わっていた、せっかく女の子ができたのだから、もう少し側に置いておきたい。というのである。自分の腹を痛めた子でなくとも、女親はやはり娘が惜しいのであろう。汝生はまた汝生で、
 ――わたくしちい兄さまのお嫁になりますの。
 などと云ってけろっとしていた。そして、やがて母の気持が変りだすと、こんどは汝生が首を振るようになり、一生お母さまの側にいるのだ、などと云い張って、ずっと断わりとおして来たのであった。
「――そうだ、たしかに動木のことも原因の一つになっている」
 仔細しさいに思い返してみて、又三郎は独りそう呟いた。
「――身の上もよく似ていたし、あんなに好きで、姉のようにいたわかばっていたのが、結局は不幸なみじめなことになってしまった、心のなかでは、おそらく自分の不幸よりも悲しく、辛いおもいをしていたに違いない」
 世をはかなんだ汝生の気持が、又三郎はよくわかるように思えた。そして、こんなときもし母が実の母親であり、兄や自分が肉親であったら、あるいは独りで思いつめるようなこともなく、死なずにも済んだのではなかろうか。などと考えて、哀れさ不憫ふびんさがいっそう増すばかりであった。
「――あの波の荒い、冷たい色をした海へ、……どんな気持で身を沈めたことだろう」
 彼は眼をつむって、「加賀の舞子」と呼ばれる浜辺を想った。すると、耳の奥にあの松風や波の音が聞えて、どうしようもなく涙がこぼれた。


 兵庫は三十日ほどして全快し、十月の中旬から勤めに出はじめた。
 ――葛西の家に不運がまわって来たのではないか。
 こういう疑惧ぎくはまだ去らなかったが、年の暮には母も床上げの祝いをするようになり、また正月の下旬には、あによめの文代が女の子を産んだ。母はまだ当分は医者の手からはなれられないそうであるが、一家をおおっていた二年越しの暗い影が、ともかくも晴れて、やわらかい春の風でも吹き込むかのような、温かい恵まれた気分に包まれた。
 その年の十一月に、三浦でも又三郎の妻が男の子を産んだ。
 葛西では母がすっかり健康になり、また兵庫は年が明けてまもなく納戸役から奥家老に挙げられて、五十石ばかり加増された。それまで無役だった又三郎も、秋になって定出仕を命ぜられ、表祐筆おもてゆうひつに席を与えられた。
 こうして無事に月日が経った。むしろ幸運な月日といってもいいだろう、あの不安な悲しい日の記憶も、しだいに薄れていって、今はもう思いだすことも稀になった。あしかけ五年、……汝生の出来事があってから、まる四年めの三月はじめに、それまでの仕合せな年月を転覆させるような、まったく意外な知らせがやってきた。
 南風の吹くなま暖かい宵のことだったが、葛西からすぐ来るように、という急の使いがあった。ちょうど夕食を済ましたところなので、又三郎はそのままでかけていった。兵庫は居間にいて、彼が坐るのを待兼ねたように、
「汝生が生きているそうだ」
 と云った。まるでこちらの罪でも責めるような、とがった鋭い調子であった。又三郎はびっくりして、暫く兄の顔をみつめた。
「それは、どういうことですか」
駿河するがの府中に汝生が生きている。しかも動木喜兵衛といっしょにいるらしいんだ」
「まさか、……あの汝生が」
「動木というのは私の想像だが、汝生のことは間違いはない、なぜなら梅園女史が見て来たんだから」
「小舘さんがですって、どうしてまた」
 その年は藩主前田侯の賀の祝いに当っていた。梅園女史はその祝儀に献上する目的で、東海吟行一巻を作るために、遠江とおとうみから駿河、相模さがみのくにと旅をした。駿河の府中で風邪をひき、十日ばかり宿で寝こんだが、そのとき汝生を見たというのである。汝生は三日に一度ずつ、順に宿屋をまわって花を活ける。つまりかせぎの一つらしいが、そのまわって歩く姿を、女史は二度みかけた。女史の部屋へは来なかったし、死んだ筈の者なので、二度めにはよくよく見たが、紛れもなく汝生であった。もちろん事情のあることだろう、呼びかけては悪いと思って、宿の女中にそれとなく身の上を訊いてみた。すると、名はおその、結城伊兵衛という浪人の妻で、三年まえにその土地へ来た。子供が二人ある。良人おっとは病弱のため自宅で読み書きを教え、妻女は茶の湯の稽古に出たり、宿屋をまわって花を活けたり、また賃縫いなどもして、親子四人の暮しを立てている、という話だったそうである。
「そうでしょうか、私にはどうしても本当とは思えませんがね」
「さっき女史が自分で来て話してれた、他人のそら似かもしれないし自分は決して他言はしないが、ともかく念のために、……と云ったが、それはこちらへの親切だろう、また浪人の名の結城伊兵衛は、動木喜兵衛と音がよく似ている、偽名はどこか似るものだというが、私にはどうも動木だという気がするんだ」
「事実だとすると、捨ててはおけませんね」
 とうてい信じられなかったが、又三郎はそう云って兄を見た。兵庫の頬がぴくぴくとひきつった。
「こんどもまたおまえに頼みたいんだが、勤めのほうの都合はつくだろうか」
「遠いですからね、日数のかかるのが問題だが、しかし殿の御在国ちゅうではなし、多少の無理をすれば暇を貰えると思います」
「私からも願いを出そう、理由をなんとするかだが……」
「それは私が考えますが、いってみて、慥かに二人だったとしたら、どうしますか」
「わかってるじゃないか、動木はもちろん汝生も国法を犯している、おそらく二人で自決するだろうが、みれんなまねをするようなら斬るほかはない」
「――汝生もですか」
「あれはいちど死んでいる筈だ」兵庫の声は怒りのために震えた、「――これがもし世間に知れたらどうなる、葛西の家名はもちろんおまえの身も無事には済まぬぞ」
 動木は公金を使って出奔した。つかまれば切腹はまぬかれない。汝生の死は又三郎が確認し、遺骨まで持ち帰って埋葬した、これも発覚すれば又三郎の罪になる。
「両親の恩義はともかく、同じ家の中できょうだい同様に育ちながら、こんな迷惑をかけて生きていられる筈はない、そんなことは許される道理がない、自決させるか斬るか、どちらか一つだ、わかったな又三郎」
 又三郎は黙ってうなずいた。


 役所の許可を得て、その翌々日に、又三郎は金沢を立った。
 旅にはいい季節であるが、気がせくので、途中の風景も殆んど眼にとまらなかった。駕籠と馬を乗り継ぎにして、信濃路を伊那へ入り、天竜川に沿って(舟便も利用しながら)遠江へと下った。二俣ふたまたという処で川と別れ、東海道の掛川へぬけたが、七日間ぶっとおしの旅でさすがに疲れたし、府中まではあと十里余りなので、掛川の宿で一日からだを休めた。
 ――ひと違いであって呉れ。
 彼は祈るような気持でそう思った。また一方では、裏切られたという怒りが、しだいに強くなっていた。それは汝生に対する愛情の深さを証明するように強く、激しい怒りであった。
 ――もし本当に動木と二人でいるとしたら、そうだ、それが事実としたら。
 生かしてはおけない、少なくとも喜兵衛だけは斬らずにはおけない。又三郎の気持はしだいにはっきりしてきた。ひと違いであって呉れ、という願いはまだ消えなかったけれども……。
 府中へ着いたのは、十六日の午後二時ころであった。彼は両替町の越木屋という宿に泊った。そこは脇本陣だから、花を活けに来ることはまちがいあるまいと思ったが、念のために訊いてみると、今日がその日で、もうまわって来るじぶんだということであった。
「お客さまはおそのさんを御存じでございますか」
「知っているわけではないが、まえにいちどみごとに活けたのを見たものだから」
「皆さんがよくそう仰しゃいます、よろしかったら此処ここへ来て活けるように申しますですよ」
「そうだな……」
 住居を訊いて、じかに訪ねるつもりだった。しかしひと違いのばあいもあると思い、そうして呉れるように頼んだ。
 泊り客も少ないとみえ、宿の中は静かだった。造り直したばかりらしい、新しい広い風呂に、ゆっくり浸っていると、雨の音がし始めた。ひっそりした降りようであるが、あけてある高い小窓から見ると、紫色に芽をふくらませた桐の枝が、たちまちしっとりと濡れていった。
 風呂から出て二階の座敷へ戻ると、まもなく女中が茶をはこんで来た。そのうしろから活け花の道具を持った、一人の女がついて来て、隅のほうにつつましく手をついた。
「おそのさんといいます、どうぞごひいきに」
 女中はそう云って、茶をすすめ、なおそこへ茣蓙ござを敷いたり、水盤や水差をそろえたりして、それから出ていった。
 女は汝生であった。幾たびか縫い直したらしい、じみな縞柄の着物にも、古びた厚板の帯にも見おぼえがある。しかし面ざしは変った、ふっくりとまるかった頬も痩せ、額の生え際も薄くなった。膚には艶がなく日にやけて、眼尻や鼻のわきにはしわがめだった。そしてあの泣き黒子がびっくりするほど大きく、なにか物でも付いているように見えた。
 ――こんな姿になって。
 又三郎は躯がふるえた。
 ――喜兵衛め、汝生をこんな姿にして。
 怒りが新しく、非常な激しさでつきあげてきた。そして、声をかけようとしたとき、道具をひろげていた汝生が、初めてこちらを見た。又三郎は黙っていた。汝生の眼が大きくみひらかれ、唇があいた。声も出ず、身うごきもできないようだ。尖った肩がしだいに荒く波うち、顔が乾いた土のような色になった。
「まさかと思ったのに」又三郎が云った、「――本当だったんだな、生きていたんだな、汝生、そして本当に動木といっしょなのか」
 汝生は眼をつむった。同時に躯がぐらぐらと揺れ、危うく両手をついたが、支えきれそうもないほど力弱くみえた。
「私が来た意味はわかるだろう」
 汝生はかすかに頷いた。
「小舘さんが見かけて、知らせて呉れたんだ、他言はしないと云われたそうだが、しょせん知れずに済みはしまい、……葛西の兄も、私も、おまえの遺書を信じた、私は小松へいったし、寺井の浜では、櫛笄と草履をみつけて、……おまえが死んだものと思い、遺骨の壺をこしらえて帰った、旅さきで病死したと届け、私たちはもちろん世間もそう信じている、ここでもし、おまえが生きていること、しかも動木喜兵衛といっしょに暮していることがわかったとしたら、葛西の家やこの私がどうなるか、云わなくともおまえにはわかる筈だ」
「――わたくしはいちど死にました」
 汝生は云った。聞きとれないほど細く、かすれた低い声である。両手をつき頭を垂れたまま、……だが言葉はしっかりしていた。
「――あの浜で草履をぬぎ、髪道具を包みましたとき、あのときわたくしは死にました、ここにいるのは汝生ではございません」
「そしてそれがおまえの望みなのか、そんなに痩せやつれて、みじめな姿になるのが、汝生でいるよりも望ましいことだったのか」
「――あのひとには、わたくしが付いていてあげなければなりませんでした、小さいじぶんからずっと、いつもそうだったんです、いつも、……葛西の兄上さまや、あなたにはわかって頂けないでしょうけれど」
「わかるまいとは、なにがだ」
「なにもかもでございます」
 ようやく汝生は身を起こした。ひざの上で両手の指を組み合せ、固く絞るようにしながら、顔はうつむけたままで、静かに続けた。
「――葛西のお家は温かく平和で、悲しみや不幸などは影ほどもございませんでした、兵庫兄さまもあなたも、不自由とか辛いとかいうことは、おそらくいちどもお感じになったことはございませんでしょう、……あのひとは御家来の出であり、みなしごでした、御両親のお情で、御家族と同じように育てて頂きましたけれど、家来の出であり、みなしごだということには変りはなかったのです」
「それは差別をつけたということか」
「いいえ決して、……御両親もあなた方も、本当によくして下さいました、差別などということは少しもなかったのですけれど、……叱られるとき、褒められるとき、あのひとの顔には、亡くなった二た親を想う色が、ありありと表われるのです」
 しんじつの父ならこう叱って呉れるだろう、しんじつの母ならこう褒めて呉れるだろう。その父や母にはもう会えない、どんなことをしてももうその袖に触ることもできない。……そういう想いが、かなしいほどはっきり表われる、自分はそれを見ると、いつも胸が裂けそうに痛んだ。そして、どうしたらその悲しみをまぎらわしてやれるか、どう慰めてやったらいいかと、いつも幼い知恵をしぼったものである。と汝生は云った。
「――兵庫兄さまにも、あなたにも、こういう気持はおわかりにはなりませんでしょう、ゆたかで温かな家庭と、やさしい立派な御両親をもって、仕合せに暮していらっしゃる方には、悲しく傷ついた者、不幸な者の、傷の痛みや不幸の深さはわからないと思います」
 汝生は云う、喜兵衛は気が弱く、あまりに善良であった。独立して一家をたて、妻を迎えたとき、彼は初めて幸福を手に入れたと思った。しかしその妻は子を産んで健康をそこね、やがて病むようになった。つかんだと思った幸福は、彼の手の中でもろくも消えようとする。彼は狼狽ろうばいした、みじめに狼狽した。妻の病気を治し家庭の幸福をとり戻すためには、どんな代価をも払おうとした。
 兵庫や又三郎には、ただみれんでめめしいとしか、思えないであろうし、話しても理解はできないにちがいない。結果としては妻に死なれ、役所の金を使ったという事実だけが残った。彼は金のくめんに狂奔したが、ついにそれだけの都合がつかなかった。そして兵庫には、名乗って出て責任をはっきりさせろ、と云われた。
「あいつ、そんなことまで饒舌しゃべったのか」
 又三郎が堪りかねて云った。けれども汝生はそれを聞きながして続けた。
「兵庫兄さまには当然のことでしょう、でもあのひとにはできませんでした、ようやく歩き始めたばかりの子を置いて、自分の罪を名乗って出ることは、あのひとにはできなかったのです、そして、わたくしもそうなさるようにとは云えませんでした」
「汝生は動木と会っていたのか」
「塾を早退はやびけして、家事をみてあげに毎日いっておりました、だってそうしなければ、男手に子を抱えて、あのひとはどうすることができたでしょう」
「出奔のことも知っていたんだな」
「あのひとは切腹しようとしたのです、危ないときにゆき合せて、止めました、そして、わたくしたち三人で、新しい生活を始めましょうって、泣いて頼んだのです」
 喜兵衛はそうする気力もないほど、まいっていた。しかしついには決心し、ひとまず福井へ身を隠した。それは四月のことで、汝生は溜めていた小遣や、物を売った金を持たせてやった。そして九月の紅梅会の旅に、うちあわせていっしょになり、参覲さんきんの道筋では家中の人の眼につくので、遠く近江路おうみじをまわって東海道へ来た。
「住みついてから三年、次郎という二男も生れました、貧しゅうはございますけれど、親子四人たのしく暮しております、……動木喜兵衛も汝生も、もうこの世にはいません、どうぞわたくしたちをそっとしておいて下さいまし、此処にいて悪ければもっと遠い処へまいります、決して御家中の方の眼につかない処へ、……お願いでございます、ちい兄さま」
 汝生は両手をつき頭を垂れた。そして激しく泣きだした。


「今ここでは返辞ができない」
 暫くして又三郎が云った。
「兄は二人に自決させるか、さもなければ斬れと云った……、私もこう思う、おまえが喜兵衛を庇う気持はわかるが、喜兵衛はそれを受けてはならぬ筈だ、汝生をこんなみじめな姿にし、これからも、いつ終るかわからない苦労を、汝生に負わせる権利は彼にはない筈だ、それだけは私にもゆるせない」
「やっぱりわかっては頂けませんのね」汝生は泣きながら頭を振った、「――わたくしたちはこうするよりしかたがなかった、そして、今は仕合せなのだということが、ちい兄さまにもわかっては頂けませんのね」
「明日いって返辞をしよう、彼に少しでも男の意地があったら、こんどは卑怯ひきょうなまねはするなと云って呉れ」
 汝生は泣きやんで、涙を拭きながら、じっと息をひそめた。肩がおち、仮面のように無表情な顔になった。ちから尽き、絶望して、なにを考えることもできないというようすだった。それが又三郎の眼につよく残った。
 ――哀れな汝生。
 その夜寐てから、又三郎はそう呟いては幾たびも涙を拭いた。喜兵衛に対する怒りは、ますます強くなるばかりだった。それは殆んど憎悪にまでたかまった。
「ひどいやつだ」
 彼は夜具の中でこぶしを握りながら云った。
「なんというひどいやつだ」
 朝になっても雨はやまなかった。
 まさか逃げはしまいが、彼は念のため、朝食まえに宿をでかけた。ゆうべ汝生が花も活けず、泣いた顔で帰ったので、宿の者は不審に思ったのだろう、傘を借りるとき、女中はなにやら敵意のある眼でこちらを見た。
 住居は浅間せんげん神社の西で、井宮という処だと云った。駿府城の外曲輪そとくるわをまわり、武家屋敷の裏をぬけてゆくと、まもなく向うに賤機山しずはたやまの緑がけぶるように見えてきた。……金沢に比べると町そのものも小さいし、家並も低く狭かった。そして、十丁ばかりも歩くと、その家並もまばらになり、左にひろく、荒地や畑や、安倍川の流れなどが眺められた。
 又三郎はふと立停った。
 道の右側に一軒だけ離れた家があり、垣に添って山吹の花が咲いていた。その鮮やかな色に眼をひかれたのである。彼はわれ知らずそっちへ近よった。山吹は竹の四つ目垣の中にあるのだが、枝は垣の外まで伸びていた。誰かが――笠に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)すべき、とよんだとおり、しなやかにたわんだ枝々は、雨に濡れていっそう重たげにみえた。若い浅緑の葉も、弁の大きなひと重咲きの花も、雨に濡れて、やはり重たげに、たわんでいた。
 彼は放心したように立っていた。
 ――自分に非運がまわってきて、初めて他人の苦しみがわかる、というのはたまらないことだ。
 そういう言葉が耳の奥で聞えた。それはいつか兄の云った言葉である、どういう連想作用かわからないが、まるで現実のように、はっきりと聞えた。
 彼はなお山吹の花を見ていた。さし交わす枝の中で、或る二つの枝が絡みあうようなかたちで伸びていた。重たげに濡れて、たわんだなりに、寄り添って花をうけていた。彼はその二つの枝を見ていた、それは他の枝のようではなかった、それは汝生と喜兵衛のようであった。
 ――自分に非運がまわってきたとき……。
 又三郎はふと顔をあげた。
 庭の中へ人が出て来たのである、そちらに菜でもあるのだろう、傘をさして、目笊めざるを持った女だった。
「まことに申しかねるが」と又三郎が呼びかけた、「――この山吹を少し頂きたいのだが、どうでしょうか」
 女はこちらを見た。まだごく若い、娘のようにみえるが、眉をおとしかねをつけていた。女はあいそよく微笑して答えた。
「はい、どうぞ、お好きなだけどうぞ」
 それからすぐに、
「ああ、お召物が濡れますからわたしが切ってさしあげましょう、ちょっとお待ち下さいまし」
 女は家へ戻って花鋏はなばさみと紙を持って来た。そして柴折戸しおりどをあけて、こちらへ出て来ると、片袖をぐっと絞り、垣の間へ手を入れて、巧みに花枝を切った。
 ――その二た枝でいいのだが、
 彼はこう云おうとしたが、黙って見ていた。
 女の腕は柔らかに肉付いて白く、健康な若い血に満ちていた。こころよい鋏の音につれて、散りかかる花びらが幾つか、その白いなめらかな肌にりついた。
 ――兄へなんと云おう。
 又三郎は解放されたような、すがすがしい気持で、そう思っていた。





底本:「山本周五郎全集第二十四巻 よじょう・わたくしです物語」新潮社
   1983(昭和58)年9月25日発行
初出:「講談倶楽部」大日本雄辯會講談社
   1952(昭和27)年9月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2021年11月27日作成
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