御馬印拝借

山本周五郎





 土田源七郎が来たという取次をきいて、三村勘兵衛はうんとうなずきながら口をへの字なりにひき結んだ。なにやら思い惑うといいたげな顔つきである、「うん……」もういちど頷いて天床をふり仰いだ、それから明けてある妻戸の向うの庭を見やった。すると庭はずれにある蔬菜そさい畑でむすめの信夫がなにやらたちはたらいている姿をみつけたので、これまた慌てて眼をそらした。かたわらにいた妻のおすげは、そのようすをいぶかしそうに見まもっていたが、「いかがあそばしました、お会いなさいませんのですか」ときいた。「なに、ああ会う」勘兵衛はいそいで、「すぐにゆくから接待へとおしておけ……」取次の者にそう云って自分も立ちあがった。けれどもまだなにか心に決しかねるものがあるとみえ、屈託げに溜息ためいきをついたり、はかまひだを直したりした。そしてやがてふと妻のほうへふりかえり、にわかに思いついたという調子で、「どうだろう、あの鏡を源七郎につかわそうと思うが……」と云った。お萱は良人おっとを見あげたが、ああそのことだったのかと微笑した、「わたくしは結構に存じますが……」「信夫もいいだろうな」「それはもう申すまでもないと存じます」それならよいというように、勘兵衛は眉をひらきながらはじめてそこから出ていった。
 土田源七郎は下腹巻のこしらえで円座の上にしんと坐っていた。額の秀でた浅黒い顔に意志のつよそうなくちつきが眼をく、二十六歳のたくましい筋骨はそれだけでも人を圧倒するようにみえるが、ぜんたいの感じは奥底の深い、しんとした風格に包まれていた。「好日でございます」源七郎の会釈に答えて、「ようまいった」といいながら勘兵衛は座についた、そしてそれなり言葉が絶えてしまった。源七郎はじっとふすまのほうを見まもっているし、勘兵衛はひざの上で両のこぶしを代るがわるでている、しかし心の内では、――さあどうした、早くしないとまた折をのがすぞ、そういって自分をしかけているのである。ひとくちに云えば、かれはむすめの信夫を源七郎の嫁にりたいのである、源七郎は榊原康政の家来でその旗まわり十騎のひとりに数えられているし、またかれにはおいに当っていた、つまりお萱の兄の三男であった、ゆかりも浅からぬうえに人柄もたのもしく、これこそ信夫の良人にとはやくからきめていたのだが、相手が無口であり勘兵衛がそれに劣らぬ口べたで、……今日こそと思いながら、つい切りだす折を得ないで来た。それなら仲人をたのめばよいわけだけれど、勘兵衛はどうしてもじかに話をきめたかった、「貰ってくれるか」「頂きましょう」そういうはっきりした約束を自分でとり交わしたかったのである。……相対して坐ったままかなりほど経てから、「じつはこのたび出陣いたします」と源七郎がようやく口を切った、「……先手組の番がしらに取立てられまして、こんにちこれより掛川城までくだります」「ほう、先手の番がしらか……」勘兵衛は眼をみはった、榊原の先手組はその精鋭とはげしい戦闘力をもって知られている、その隊長に選まれたというのはひじょうな抜擢ばってきであり名誉であった、「それはめでたいな、しかもすぐ出陣とは、……ではいよいよ甲州と始めるのだな」「いかがでございましょうか、わたくし如きにはなにも相わかりませんが、当分は掛川にとどまるものと存じますので、ご挨拶を申しにまかり出ました」「それはよう来てくれた、それではともかく祝儀のしたくを致そう」勘兵衛はそう云って立ちかけた、しかし立ちかけた膝を元へ直すと、急に意を決したというようすで「……はなはだ突然ではあるが、そこもとが出陣するに当って、いや、その出陣するというについて話があるのだが」ひどく固くるしい調子でそう云いだした、「……と申すのは、じつはわしの家に伝来の古鏡がある、掌へはいるほどの小さな鏡だ、裏に牡丹ぼたんの花が彫ってあるので牡丹の鏡と申しておるが、なんでも後漢時代の品だそうだ、いやもちろん時代などはどうでもよい、話というのは、つまりその、わしとしては信夫の婿になる者があったら、かための印としてその鏡を進ぜようと考えておった、つまり婚姻のかためのしるしとしてだ」勘兵衛にはそこまでこぎつけるのが精いっぱいだった、それだけでもう頸筋くびすじへ汗がふき出てきた。源七郎はちょっとまぶしそうな眼つきになったけれど、やはりしんと坐っているきりだし、あとの言葉の続けようがなくなってしまった、それで思いだしたように「……とにかく祝いのしたくを致そう」と立ちあがった、源七郎はしずかに眼をあげた、「お待ち下さい、せっかくではございますがまだ挨拶にまいるところもあり、刻限も早くはございませんので祝って頂くいとまがございません、これで失礼を仕ります」「それはそうでもあろうが」勘兵衛は困ったようにそらぜきをしたが「……とにかく待て」と云いさま足ばやに奥へ去っていった。
 かなりながいあいだ待たされた、そしてやがて人の来るしずかな足音がした。それは勘兵衛ではなくてむすめの信夫だった、年は十八歳になる、とびぬけて美しいとはいえないが「三村の信夫どの」とかなり評判である、それは信夫の眼のためかも知れない、幼い頃からたいそう情ぶかい性質で、ひとが蜻蛉とんぼを捕るのを見てもなみだぐんでしまう、犬の仔や猫の仔をみるとすぐにふところへき抱かずにはいない、召使の者が叱られても泣きだす、そういう気心がそのまま表われているような眼だった、みつめられるだけでこちらの心が温かくなり、生きていることさえがたのしくなるような眼であった。「このたびはおめでとうございます……」信夫は手をついてつつましく挨拶をした、暇どったのは身じまいをして来たからであろう、うすく化粧をして、余るほどの黒髪からはきしめた香が匂ってくる、源七郎は黙って会釈を返した、信夫はしずかに持って来た袱紗包ふくさづつみをさしだしながら「……父からお引出物にと申します、お恥かしい品ではございますがお納め下さいますよう」そう云って低く頭をさげた。「かたじけのうござる、頂戴つかまつる……」源七郎は手を伸ばして受け取った、それはまちがいなく今あるじが話した古鏡と思えた。かれは眼をあげてじっと信夫の面を見まもりながら「信夫どの、こなたはこの品がなんであるかご存じですか」「……はい」そう答えながら信夫も眼をあげた、心にしみいるようなあの眼だった、「……存じております、牡丹の鏡でございます」そしてにわかにあかくなった、それはふいに花の咲いた感じだった。源七郎はその面をたしかめるようにみつめ、やがて眩しそうに目叩またたきをしながら云った、「たしかに頂戴いたします」
 勘兵衛夫妻が源七郎を式台まで送って出た。信夫は居間へさがって、着替えをすると、すぐにまた庭の菜園へおりていった。僅かな時の間に自分がまるで違う人間になったように思える、牡丹の鏡を贈ることがなにを意味するかは父から聞かされた、かねてそうなるのではないかと考えたり、また自分のようなふつつかな者がとあきらめたりしていた、それがいよいよ事実になった、自分はやがて土田源七郎の妻になるのだ、そう思うとなんともいいようのない感動で胸がいっぱいになり、空の色もあたりの樹々も、畑の蔬菜のみずみずしい緑までが、今はじめて見るもののように、びっくりするほど新鮮にみえだすのだった。するとふいに、……信夫どのという人の呼ごえが聞えた、「信夫どのこちらです……」声は裏木戸のほうだった、ふり返ってみると、木戸を開けてつかつかとひとりの若者がはいって来る、甲冑かっちゅうを着けているのでちょっとわからなかったが、近づくにしたがって河津虎之助だということがわかった。虎之助もおなじ榊原康政の家来で、父親同志が親しかったから、この家へもかなりしばしば往来していた。「いよいよ出陣です……」かれは昂奮こうふんした調子でそう云いながらあゆみ寄った、「甲斐かいと手切れになったのです、先手組に加わって掛川へゆきますが、なにか非常な持場へつくようですから生還はのぞめません、こんどこそみごとに討死とかくごをきめています」そこまで聞いて信夫は胸をつかれた、源七郎はなにも云わなかった、そんなことはひと言も口にしなかった、本当だろうか、われ知らず心がよろめいたとき、虎之助のせきこんだ言葉が耳へつき刺さった、「……約束して下さい、万一にも生きて帰ったら、そのときは虎之助の妻になると、もちろん生きて帰るつもりはありません、死にもの狂いになって戦い、りっぱに討死とかくごしています、それだからこそこんなことを云うのです、信夫どのおねがいです、出陣のはなむけに約束して下さい、みれんではない、日頃のねがいをたしかめてゆきたいのです、無礼もぶ作法も知ってのおたのみです、信夫どの、どうか承知したと云って下さい」抑えに抑えたものがほとばしり出るような言葉だった、討死とかくごを決めた若い生命の、それがさいごの叫びだろう、真一文字につきつめた声音を浴びて、信夫は紙のように色を失った、「……はい」と夢中で頷いた、「はい……わたくし」「ああ約束してれますか」ああと虎之助は燃えるような眼で大きく空をふり仰いだ、「ありがとう、これで心残りなく出陣することができます、あなたの心さえたしかめればあとの話は改めて……いや、それはいま云う必要はありません、ありがとう信夫どの」かれは手を差出そうとしたが、さすがにそうは仕かねたとみえ、時刻が迫っているからと云って、情熱のあふれる眼でじっと信夫を見まもり、すぐに決然と身をひるがえして裏木戸から去っていった。
 すべてはあっという間の出来事だった。夢のようでもあり、通り魔にも似ていた、信夫は喪心した者のようにしばらくはそこへ立ちすくんだままだったが、やがて口のうちで「はい……」とつぶやき、その声で愕然がくぜんと眼をみひらいた、……いいえ違います、違います虎之助さま、こえを限りにそう叫びたかった、しかしもう遅いのである、一転瞬のうちにすべてが崩壊し去った、たったひと言の「はい」が運命を変えた、そのひと言はとり返しようがないのである。信夫はひしと眼をつむり、そこへくたくたと膝をついてしまった。


 どこかに月明りでもあるような仄白ほのじろんだ夜空から、こまかい霧粒のような雨が音もなく降りしきっている、五日あまり少しのれ間もない霖雨りんうだったが、どうやらもうあがりそうなようすで、山の背のほうではしきりに風のわたる音がしていた。あまり深くはないが、山峡の傾斜のひどい道で、そのうえ両がわからおおいかぶさる灌木かんぼくの繁みにふさがれているため、一列になった兵たちの一人ひとりが、その枝葉を押しわけて登らなければならなかった。……源七郎は先頭にいた、藪沢という所を過ぎてからは隠密挺進を命じてあるので、兵たちはみなしわぶきひとつせず、滑りやすい坂道を登るあえぎと、きわけてゆく叢林そうりんのざわざわいう音だけが、僅かに列の動きを示しているばかりだった。……死んで呉れ、全員あげて討死をして呉れ、掛川を出るとき云われた言葉は今もまざまざと耳にのこっているし、そう云ったときの康政のくいいるような眼光も忘れられない、かれはその言葉とまなざしとを思いかえすことによって、当面している任務の重大さを改めてたしかめる気持だった。
 甲斐の武田氏と三河の徳川氏とのあいだになにか事が起るであろうとは、すでに世人のはやくから推察していたところである、これまで両家には大井川を堺として互いに侵すべからずという一種の不侵略条約がとり交わされていたが、戦国の世のことではあり、雄大な勢力をもっている武田晴信が、当時ようやく擡頭たいとうしはじめたばかりでまだ劣弱な存在でしかなかった徳川氏との盟約を、どこまで守るかはまったく疑問だった。そしてその疑問が、ついに事実となってあらわれるときがきたのである、……駿河するがのくに府中城駿府すんぷともいう、現在の静岡市)には武田氏の部将である山県三郎兵衛昌景が二軍の軍を擁して居た。かれはそのころ勇猛の名を知られた人物で、もとより小徳川氏などは眼中になく、しだいに覊束きそくをやぶり、島田に陣屋を設けたうえ、大井川を越して遠州城東郡の米を奪い、到るところで傍若無人のふるまいを仕はじめた。かくて永禄十二年五月の或る日、徳川家康が馬まわり百騎ばかりをつれて、金谷から大井川の西岸を巡検に出たとき、山県昌景が千五百騎あまりの兵を率いて来るのと出会った、そこは川を越した金谷の駅に近いところで、つまり不侵の約束をふみにじった現場をみつかったわけである、昌景はさすがにぐあいの悪そうな顔で、目礼をしてそこそこにゆきすぎたが、家康の手まわりが僅かな人数であるのを見るとにわかに馬を返し、乱暴にもいきなり抜きつれて襲いかかった。家康はすばやく狭隘きょうあいの地へしりぞいて迎え、本多忠勝、榊原康政、大須賀康高らが死を決して斬り込んだ、御しゅくんの危急を救おうとする一念不退転の切尖きっさきに、たちまち七八騎を斬っておとすと、その勢に圧倒され、また時と場所の不利を察した昌景は、すぐに兵をまとめて退き去ったのである。それがこんどの手切れの原因となった、家康は浜松城へ帰るとただちに甲斐との一戦を決意し、掛川城へ援軍として松平清宗を入れ、松平家忠に馬伏塚のとりでを守らせた。こうして正面の守備をととのえたところで、菩提ぼだい山奪取という秘策をたてたのだ、菩提山は掛川から東北へおよそ十里、駿河のくに志太郡にあって、高さは七百尺あまりだが上に堅固な砦が築かれている、府中城の外塁として、遠州からの攻口をにらむなかなか重要な拠点であった、これを攻略して敵の側面へ一石を打とうというのである、……選まれたのは榊原の先手組で、土田源七郎を旗がしらに百五十騎、精兵すぐって敵塁へと挺進して来たのだった。菩提山奪取の使命は徳川本軍が駿河へ突入するまで府中の兵力を牽制けんせいするにある、すなわち府中攻撃の捨石になるわけで、――全員あげて討死せよ、という意味はそこを指したのだ。
「しるしの松ではありませんか……」すぐうしろにいた河津虎之助がそう云った、「そこに見えているようですが」「うん……」源七郎は足をとめた、探索を放ってしらべさせたしるしの松、敵塁攻撃のあしばとなるべき場所へ着いたのだ。それは山の中段にある台地で、大きな赤松が叢林の中にぬきんでており、そこから上は草木をりはらった裸の斜面で頂上へと続いている、「息をいれろ……」源七郎はそう命じ、行李こうりの荷駄が着くのを待って、その中のひどく嵩張かさばる荷をひと包だけ別にした、なにが入っているのか、重くはないがひどくかさばかりある包だった、「……末吉、末吉孫兵衛はいるか……」源七郎は低いこえで一人の若者を呼びよせると、「これをそのほうの組で頂上まで運べ、大切にするんだぞ」そう云ってその包を孫兵衛にわたした。


 午前三時を過ぎた。じゅうぶんに休息したうえ、軽装になった兵たちは二手にわかれ、砦の西と南から急な斜面を匍匐ほふくしてじりじりと塁に迫った。いよいよ雨のあがるしらせだろう、遠く東のほうに雷鳴が聞え、あたりは幕を張ったように霧が巻きはじめた、……その濃霧のなかに、息をころしてい登ってゆく兵たちの、合印の白い肩布がちらちらと見えつ隠れつする、頂上の石塁はもう目前に迫ったが、そこにはなんの物音もなく、ひっそりとして人のけはいも感じられなかった。……源七郎は南がわから五十人を率いて登ったが、やがて高く右手をあげてうち振った、先鋒せんぽうの斬り込む合図だ、五人の銃手が鉄砲をあげていちどに射った、深閑たる暁闇ぎょうあんをつんざいて火がはしり、谷々にこだまして銃声がとどろきわたった、そして西がわから百人の先鋒が切尖をそろえて塁壁へおどり込んだのである。
 不意うちはみごとに功を奏した。まだ府中でさえ徳川軍が動きだしたことは知らない、ましてここまで突っ込んで来ようとは予想もしていなかったので、先鋒が斬って入るや砦の中はまったく混乱におちいった。そのまま潰走かいそうし去るかとみえたがさすがに甲斐武士で、斬り込んで来た人数が少ないのをみるとやがてたち直り、具足を着けるいとまもなく素肌でとびだしたような者までが、手に当る槍かたなを執って猛然と反撃に出はじめた、そこへ南がわに待機していた源七郎の五十騎が面もふらず突っこんだ。……濠をり石で組上げた砦の中はひどく狭い、その狭い通路で、溜り場で、塁壁の蔭で、絶叫と呶号どごうがとび交い刃と槍とがあい撃った。凄絶せいぜつとも壮烈とも形容しようのない白兵戦が到るところに展開し、それがしだいに砦の外へと移った、勝敗のわかれがあきらかとなり、塁をとび越え山腹を転げながら敗走する敵が眼につきだした。……源七郎は五人ほどの敵を斬り伏せたあと、塁壁の上に立って戦闘の指揮をしながら、榊原の先手組がいかに剽悍ひょうかんな戦隊であるかをまさしくおのれの眼で見た。一人ひとりの精強なことはいうまでもないし、組となれば組ぜんたい、隊となれば隊ぜんたいが一つの戦気にかっちりと結びつき、いかにも自在にその能力を発揮する、なかでも特に眼を惹いたのは河津虎之助だった、かれは求めて強敵に当り、いきなりおのれの全身を相手の切尖へぶっつける、敵を斬るまえにまずおのれを斬らせようとするかにみえる、その真向からぶっつけてゆく大胆不敵さは無類のもので、いかなる強敵も殆んどこれをさえぎることができぬ有様だった。……戦いは疾風の颯過するおもむきで終り、朝あけの輝かしい光りのなかで高らかに凱歌がいかをあげた土田隊は、やすむひまもなく敵の逆襲に対する防備をととのえた。荷駄をあげ、銃隊を配置し、崩れた塁壁を直し、見張りを立てた、そして敵味方の死傷者の始末をしてから、人員の点呼をした、味方の損害は死者二十余人と僅かな負傷者で、考えたよりもはるかに圧倒的な勝ち戦だった。
 兵粮ひょうろうをつかうゆるしをだしたのは午前八時をすぎた頃である、思い思いの場所に寄合って弁当をひらいた兵たちは、まるで野遊びにでも来た子供のように嬉々としていた、「おい、本当に朝飯まえということはあるものだな……」誰かそう云う者があった、いかにも感に堪えたという声音だったので、わっと笑いだす者があり、「黙れ弥五」とか「そんなことは榊原先手組の通例だ」とか喚きだす者もあって、満々たる活気がゆれあがるようにみえた。……てばやく兵粮をつかった源七郎は、ひとりで砦塁さいるいを隅々まで見まわった。武庫三棟、糧秣りょうまつ倉があり、東に面して馬の通う道がついている、空壕は二重で、そのうしろに石塁を築きあげ、西南の隅にものみの望楼がある、その下の石室のような造りが部将の詰所であろう、そこから狭い通路が兵たちの長屋へ続いていた。「……水がないな」すっかり見まわったかれは、眉をひそめながらそう呟いた、「なかなか堅固な砦だ、これなら小勢でもじゅうぶん戦える、水の補給さえつけば……」まず水のく場所をみつけなければなるまい、そうつぶやいているところへ河津虎之助がやって来た、「汗をおながしなさいませんか、いま水甕みずがめをみつけだしたのですが……」「いいな」源七郎はすぐにきびすをかえした、「しかしみんなにゆきわたるほど有るか」「いや下へいま水場を捜しにやりましたから……」そう云いながら虎之助は望楼の下へ導いていった。そこには四斗あまりも入りそうな水甕が担ぎ出してあり、※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)はんぞうのしたくもできていた、それを見ると数日来の汗とあぶらで粘りつくような肌が急にやりきれなくなり、源七郎はいそいで具足をぬぎにかかった。虎之助はそばから手を貸していたが、脱ぎすてられる物を片寄せているうちに、ふと小さな袱紗包をみつけだし、なにやらいぶかしそうにじっとそれを見まもっていた。源七郎は頭からざぶざぶと水をかぶりはじめた。


「これはやりきれない、こう暑くてはどうにもならん、骨まで腐ってしまうぞ」だるそうな声でそう云う者があった、「……また始めたぞこいつ、ほかになにか云うことはないのか、口さえあけば暑い暑いと知恵のないやつだ」「……じゃあきさま暑くないのか」「暑いと思えば暑いさ、寒いと思えば寒い、すべてこれにんげん妄念のいたすところだ、唐のなんとかいう詩人のなんとかいう詩だっけ、安禅がどうとかして心頭を滅却すれば火もまた涼しと転結に云っているくらいだ」「安禅がどうするんだ」「安禅はどうでもいい心頭滅却というところが肝心だ」「どうでもいいといったって安禅がどうかするから火も涼しくなるんだろう」「いや安禅はどうもしやしない、安禅はなんにもしないんだ」「どうしてなんにもしないんだ」「……ぶん殴るぞ」まわりの者がみんな笑いだすと、向うからひとりが呼びかけた、「弥五に構うな、そのくらい無道理なやつはないぞ、このまえ犬居攻めのときだったが、総寄せになって矢だまのなかをひた押しに突っ込んでゆくと、弥五めおれの前へのそのそと背中を持って来た、……なんだときくと、背中をのみが食っているからちょっと手を入れて掻いて呉れと云うんだ」なに蚤だってという声につれてみんなが失笑した、「……なにしろ矢だまのびゅうびゅう飛んで来るまん中だからな、さすがのおれもあいた口が塞がらなかったよ」「それできさまどうした」「おれか、おれはその、どうしたって、それは榊原の先手組だ、頼まれていやとは云えないじゃないか」「つまり背中へ手を入れて掻いてやったわけか」「いってみれば、まあ、そういう結果になるが……」こんどこそみんないちどに笑い崩れた。弥五と呼ばれる男は少しも動じない顔つきで、「おまえは無道理だなんぞと云うがな、勘解由小路二郎三郎左衛門、鉄砲だまに当るのはがまんできるけれども、蚤に食われてかゆいのは堪らないぞ……」そう云いながらかれはいかにも堪らなそうな身振りをした、「まして甲冑を着けて、蒸されて、汗がじとじと流れているときなどは、背中じゅうがむずむずして、こう……このへんが」「おいやめろ弥五兵衛、なんだかこっちまで痒くなって来る……」
 日蔭になっている溜り場のはなしごえを聞きながら、源七郎は砦をまわってゆき、がけへつきだしに組上げてあるものみへ登った。六月はじめの夏空は浮き雲もなく晴れあがって、真上からふりそそぐ日光があたりの塁壁へ眼も痛いほどぎらぎらと照りつけている、しかしものみへ登ると駿河の海まで見わたす壮大な眺望がひらけ、吹きわたる風も膚にしみるほど爽やかだった。……この砦を占拠してからもう十余日になる、いつ逆寄せして来るかも知れない敵に対して、この僅かな日数がすでに決して楽なものではなかった、砦には水が無いので、夜になると敵の監視の眼をくぐっては谷峡までみにゆく、食糧も少ないし矢も弾丸も足りない、これは掛川城から補給が来る筈ではあるが、それまではいま持っているだけでいかなる挑戦にも応じなければならないのだ、一戦して死ぬだけなら問題はないけれども、本軍の駿河進攻まで敵兵力をひきつけて置くのがさいごの目的だとすると単純ではない、しかも敵がどう攻めて来るかによって防戦の法がきめられるので、困難はいっそう大である、――煩悩すべからず、源七郎は幾たびも繰り返しそう戒めた、挑んで来る戦いがいかなるかたちであろうとも、これを最終の目的までひきつけて放さぬ、その一点のほかに為すべきことはないのだ、すべては事実に当面してからである、そのまえの思案はかえってまぎれの因となるだろう。……源七郎は眩しげに眼を細めながら、紺碧色にいでいる遠い海の色を見まもり、ふと浜松の山河を思い描いたが、そのときうしろに人の足音がするのを聞きつけてふり返った。登って来たのは河津虎之助であった、「……ここは涼しゅうございますな」かれはそう云いながら近づいて来た、「むやみに登って来てはいけない、敵の目標になって狙撃されるぞ」源七郎がそう止めるのを、――ちょっとお話があるのですと押し返して、かれはじっとこちらの顔を見まもった。おなじ榊原の家臣ではあるが、先手組へ来るまで源七郎はかれのことをよく知らなかった、かれがすばらしい戦士であるのを知ったのはこの砦を攻めたときのことで、その敏捷びんしょうと大胆不敵な戦いぶりはまざまざと記憶にある、それで源七郎はかれに抜刀組のかしらを命じ、ひそかに片腕ともたのんでいたのであった。
「はなしというのはなんだ……」「じつは先日ふとして拝見したのですが」虎之助はなお相手の眼をみつめながら云った、「……お旗がしらは珍しい漢鏡を持っておいでですな、あの袱紗に包んだ品ですよ」源七郎は眉をひそめた、それはいつもよろいの下へつけて、なるべく人眼に触れぬようにしていたものである、どうして河津がそれをみつけたのかわからず、不快な気持で次ぎの言葉を待った。


「あの鏡の裏にはたしか牡丹が彫ってあると思いますが、違いますか」「……どうしてそんなことをきくのだ」「牡丹の鏡なら拙者も或るところで見たことがあるのです、ちょっと仔細しさいのある品でした、後漢時代のものだというそのねうちは別として……」そう云いながら、かれはしつこく源七郎の眼をみつめて離さなかった、「その仔細というのはこうなんです、その鏡の持主には美しいむすめがあって、鏡はそのひとの嫁入り道具に持たせてやる、……つまり婿ひきでというような意味でしょう、拙者が拝見したときその持主はそう云っていました、ところがあなたがその鏡を持っておいでになる、とすると、つまり」「つまりそれは」と源七郎が遮った、「どっちにしてもそこもとには関係のないはなしだ……」「そうお思いですか」虎之助は唇をぎゅっと片方へゆがめた、「……本当にかかわりがないとお思いなら申上げますが、その古鏡が婿ひきでとして誰かの手に渡ったとしても、それは、当のむすめの知らないことなんです、というのはすでにむすめはほかに云い交わした者があるのですから」いつもしずかな源七郎の顔つきがそのときくっとひき緊った、虎之助はとどめを刺すような調子で「そうです」と続けた、「……そのむすめにはゆくすえを約した者がある、たとえ親がどうきめようとも、むすめの心はほかにあるんです、はっきり申上げますがそれはこの河津虎之助ですよ」そう云い切ったとたんである、源七郎がものも云わずに突然かれをもろ手で突きとばした、虎之助は仰のけにだっと倒れ「なにをなさる」と叫んではね起きようとした。そこへ源七郎が折り重なるように身を伏せて押えつけ「動くな」と叫んだ、「敵の狙撃だ、じっとしていろ……」しかしそれより早く、かつ! 戞! と銃弾がものみの塁壁をえぐり、石屑いしくずと土をはね飛ばした。だあん、と谷にこだまして、銃声がかなり間近に聞える、虎之助はこくっと息をのんだ。しばらく飛弾の隙をみていたが、やがて源七郎は「はやく、この間に塁へはいれ」と虎之助を押しやった、「ひと言だけ云って置くがここは戦場だ、これから決して鏡のことなど口にしてはならん、……おれは此処ここにいる、下へいって二番組に松の木へ銃を伏せろといえ、敵は寄せて来るかも知れぬぞ」虎之助はつぶてのように塁の中へとびおりていった、源七郎は身を伏せたまま敵のようすを見やった。そこから山の斜面の東と南がわに三つの谷がある、敵はそこに陣を築いて攻撃の機をうかがっているのだ、今そのいちばん左手の陣地のあたりに硝煙のあがるのが見えた。
「お旗がしら応射をゆるして下さい……」登り口から二番組の刀根五郎太がそう叫んだ、源七郎はならんと答えた、「射つべきときには命令をだす、用意だけして待て」「敵が見えているのです、お願いです、一発ずつでもいいですから射たして下さい」ならんというきびしい声で、しかしようやく五郎太は去っていった。敵はものみにいた二人を狙撃しただけで、間もなく銃声もやみ、あたりはうだるような暑さの下でふたたび元のしずけさにかえった。
 思いがけぬところから思いがけぬ問題がおこって、源七郎の心は少なからず当惑した。虎之助がどんな男であるかは自分にはよくわかっている、戦いぶりそのままの直截ちょくさいなくもりのない性質で、決して根もないことをあのように云う男ではない、かれの言葉はおそらく事実であるか、よほど事実に近いものと思わなければならぬ、だがそれならあのときの信夫の態度はどう解したらいいのか、……この品がなんだか知っているかといたら、信夫は顔さえ赧らめながら、――存じておりますと答えた、それは牡丹の鏡であるということよりも、その鏡のもっている意味をさしているようすがあきらかだった、少なくともかれにはそう見えたのである。もしすでに河津と云い交わしてあったとすれば、へいぜいの信夫としてあのような態度を見せられるわけがない、そう考えるのは誤りであろうか。――信夫の良人はおれだという虎之助のはげしい表情と、頬を赧らめながら心をきめたようにふり仰いだむすめの眼とが、牡丹の鏡を中心にして解きがたいなぞを源七郎に押しつけるようだった。もちろんそんなことにいつまで心を苦しめていたわけではない、かれは妄念をふり棄てるようにすぐそのことを忘れた、今どんな小さなことを思う余地もないほど、かれの立場は重要である、そしてじっさい、間もなく敵陣の活気だってくるのがみえはじめた。


 敵はひましに兵を増強した。遠い平原のほうから山峡の道を縫って、丘陵をまわり森をぬけて、人馬の足もとから立ちのぼる土埃つちぼこりがうねうねと動きまなかった、ことに檜峠のあたりでは旗差物のひらめくさまも見え、矢弾丸やだまや兵粮の荷駄と思えるおびただしい馬の列も数えられた、「やつらは恐ろしく大がかりでやって来るな……」砦の人々は笑いながらそう云いはやした、「つまり駿府にありったけの物を持って来て見せるんだろう」「戦さには負けても数では負けないというつもりなんだ」「もの惜しみをしないわけなんだな……」そういうむだ口の裏に、敵がひじょうな兵馬と矢弾丸を集注するのはこの砦を守る自分たちの戦力のすばらしさの反証であるという、誇りと快心の気持があからさまに表われていた。源七郎はしかし違った意味でよろこびをじっと抑えていた。敵がここへ兵馬を多く集めることは願ってもない幸運である、本軍進攻まで敵を牽制するという菩提山占拠の目的は、これでなかば成功したともいえよう、あとはこの敵をひきつけて置けばよいのだ、――ただひとつ矢だまが足りない、どう思案してもそれだけは不足だった。兵たちにもそれが懸念だとみえ、しきりに補給の荷駄の来るのを待ちかねていたが、やがて五人の組がしらがそろって意見を述べに来た、……掛川へ使者をやって頂きたいと云うのである、「敵の攻撃はすぐ始まるかも知れません、糧食はともかく矢だまはぜひ補給を要します、おゆるし下さるなら拙者が掛川へまいりましょう……」刀根五郎太がそう云った。源七郎はかぶりを振った、「それはよそう、むろん補給が来ればそれに越したことはない、けれども此処の戦いはどれだけ矢だまが有ってもこれで充分という限度はないのだ、矢だまにたよるのはよそう、全員あげて討死というはじめの決意ひとつで戦ってゆこう」「仰せですが……」どこかにとげのある調子で河津虎之助がこちらを見た、「矢だまの補給がつけばついただけ戦いの効果もあがると思います、それともわれわれはただ討死さえすればよいのでしょうか、全員が討死さえすれば……」源七郎はきびしく五人を見まわして云った、「この隊の旗がしらは土田源七郎だ、命令はおれが出す、組がしらとしての意見までは聴くが指図にわたる言葉はゆるさん、いずれも持場へ帰れ」これまで曽てないきびしい調子だった、みんな威圧されたように黙るなかで、虎之助ひとりはしかしみつくような眼で源七郎の横顔をにらんでいた。
 それから数日して敵陣に新しく大軍の到着したようすがみえた、ちょうどその夜半に菩提山の砦へも待ちに待った掛川から補給の行李が着いた、かれらは五日まえに大井川を渉ったのだが、敵の監視の網をくぐるのに時を費し、菩提山の北がわの嶮路をじてようやくたどりついたのであった。考えたよりも余分の矢弾丸と、食糧に添えて酒が来た、けれどもそれより意外だったのは浜松に在る家族からの音信が託されてあったことだ、これはまったく予想もしていなかったので、そこにもここにも歓びの叫びがあがった。……源七郎には掛川にいる榊原康政からの密書と、そして浜松の三村勘兵衛からの手紙がわたされた。かれは自分の詰所へはいり、小さな燈明の光りの下でそれをひらいた、康政の書面は決戦の期を知らせるもので、……おん旗下本軍は六月十七日午後大井川を渡って進攻する、菩提山の諸士は当日万難を排して敵兵力を日没まで牽制せよ、そういう意味のことが簡単な力づよい文章で記してあった。源七郎は読み終ると共にふと微笑し、燈明の火をうつしてそれを焼き捨てた、それから三村勘兵衛の手紙をとって封を切ったが、中から出てきたのは信夫の文であった、気づいてみると封の手跡も信夫のものである、源七郎はなにごとかと思い、燈明をひき寄せて読みはじめた、……とりいそぎ申上げまいらせそろ、文はそういう書きだしで、出陣の日の出来事が正直に書いてあった、心ならずも虎之助に「はい」と答えた前後のところは文字もみだれているようで、いかにも切ない気持があらわれていた。……ひとすじに思い詰めたる御ようすなり、必死をかくごの御出陣と申し、いかにもいやとは申上げられず、夢うつつの如くはいとお答え申し候ことにござそろ、あなたさまへはおびの致しようもなき不始末、信夫の身にもとりかえし難き、……そこまで読んできた源七郎は、あとの文字を見るに堪えなくなって卒然と文を措いた、かれは片手で額を押え、低くうめきながら眼をつむった。はじめて謎が解けた、……信夫は自分と未来を云い交わしてある、そう云った虎之助の言葉が今こそよくわかる、たとえそれが虎之助のひとり合点だったとしてもその言葉に嘘はなかった、「……うん」源七郎はもういちど呻いたが、それからしずかに立って塁を出てゆき、望楼へと登っていった。深夜の望楼で、かれは独りなにを考えたのであろうか、それは信夫がいじらしいというただひとつの想いだった、そのとき「はい」と答えた信夫の心理が、源七郎には痛いほどあざやかに推察できる、ほかの者ならいいえと云えたであろう、事情は話せないまでも帰陣のうえでというくらいは口にした筈だ、信夫にはできなかった、かなしいほどあわれみの情のふかい、あわれなほども温かいやさしい信夫には、それができなかったのである、「……信夫」源七郎は美しく星のきらめく空をふり仰ぎ、しずかに口の内で呟いた、「よくはいと云った、それがおまえにはいちばん似合っている、不始末ではない、それでよかったんだ、……虎之助の申込みもひとすじで美しい、これでいい、なにも悲しむことはないじゃないか、おれはよろこんで、あれに鏡を譲るよ……」


 半刻はんときほどして望楼から下りた源七郎はすっかりおちついていた。かれはすぐ三村勘兵衛に宛てて手紙を書いた、それから牡丹の鏡をかたく包にして、いっしょに荷役の宰領に託した。……かれらが山を下りていったのは夜明け前のことだった、このあいだに兵たちは矢弾丸の荷を解き、糧食を倉へ運び入れていた、みんな活き活きと元気になり、つきあげてくる闘志を抑えかねるもののように、なにやら喚いては叱られるが、すぐにまた好きなことを呶鳴ったり叫んだりしていた。
 六月十六日の夕刻、源七郎は河津虎之助を呼んで一通の書状をわたし、――これを持って掛川城へゆけと命じた、「日がれたらすぐ山を下りろ、この書状をいかなることがあっても御しゅくんへ御手わたし申すのだ」「……拙者がまいるのですか」虎之助はあおくなり、しずかに頭を振った、「失礼ですがほかの者にお命じ下さい、拙者はここにとどまります、このときに当って戦場を去ることはできません」「旗がしらの命令だ違背はゆるさん」「……鏡の返礼ですか」虎之助は唇をひきゆがめた、「われわれ先手組はこの砦を守って決戦する、全員のこらず討死だとあなたはおっしゃった、その決戦の時を眼前にして拙者を除こうとなさる、牡丹の鏡がそれほど……」声をふるわせてそこまで云いかけたが、源七郎は大股おおまたに一歩すすみ出ると、手をあげて虎之助の高頬をはげしく打った、二つ、三つ、そしてよろめく相手の上へのしかかるように「黙れ」と叫んだ、「……ここは戦場だ、われわれは武士だ、女のことなどでうろたえるような未練者はひとりもおらぬ、死ぬも奉公、生きるも奉公、いずれに優り劣りがあるか、旗がしらとしてそのほうならではと思うから命ずる、……河津虎之助、掛川城の御しゅくんまで使者を申し付けるぞ、出発は日没と同時だ、わかったか」きめつけるように云うと、源七郎は踵をめぐらして自分の詰所へ去った。虎之助はその日の昏れがたに山を下りていった、谷へはいるところで敵にみつけられ、しばらく銃撃されたようすだったが、たしかに駆けぬけてゆくのを見た者があった、「……足を射たれたとみえてびっこをひいていた、しかし元気に森へとびこんでゆくのがはっきりと見えた」その森は谷のはずれから伊久美川の流れまで地をおおっている、そこへはいればあとは大丈夫だろう、これで心残りはないと源七郎は大きく安堵あんどの息をついた。そしてその夜、かれは砦の広場へ全員を集めた、まったく風のないしずかな夜で、虫の音がわくように湿った夜気をふるわせていた、源七郎は兵の一人ひとりを見まわしながら、明日こそ決戦の時であると告げた、「……明十七日午後、御旗もと本軍は大井川を渉って駿府城攻撃の火蓋ひぶたを切る、われらは日没まで敵の兵力をこの菩提山へひきつけて置かなければならない、先手組がこの砦を奪取した意味はそこにあるのだ、此処が死に場所だ、しっかりやろうぞ」簡単なしずかな言葉だったが、かねてこの期を待っていた兵たちは火のような昂奮こうふんのためにどよめいた、源七郎は別宴の酒をあけろと命じ、自分も兵たちのなかに席を占めた、にぎやかな、まるで凱陣の祝を思わせるような、明るい酒宴がそれから一刻ほど続き、やがて見張りを残して、兵たちはそれぞれ眠りについた。
 源七郎は兵たちがしずまるのを待って、四人の組がしらをつれて武庫へはいってゆき、嵩張かさばった大きな荷包を運び出した、それは掛川から持って来て武庫へ納めたまま手もつけなかった物である、いったいなんだろうという疑問の種になっていたのが、今ようやく眼の前に解きひらかれるのだ、組がしらたちは望楼の下へ運んで来ると、興をそそられたようすで、その包をとり囲んだ、源七郎は姿勢を正して「礼……」と云った、四人はびっくりしながら急いで低頭した、そして荷包が解かれた、幾重にも包んである中からあらわれたのは「金の御幣」と「金の扇」の二つの大馬印だった、四人はあっと息をのんだ、それは二つとも徳川家康の馬印である、家康本陣ならでは見ることのできないものなのだ、かれらはあまりに意外だったので、なかば茫然と源七郎をかえりみた、源七郎はしずかに手をあげて「それを塁壁の上へ立てるのだ……」そう云いながら、自分からさきにその場所へあがっていった。


「おいみろ、御本陣の馬印だ」「これはどうだ、夢じゃないのか」「御馬印だ、夢じゃない御旗もと御本陣の馬印だ、……」まだ明けきらぬ早暁の砦に、時ならぬ叫びごえが起り兵たちがとびだして来た、塁壁の上には家康本陣の大馬印が立ち、それを護るように榊原の赤地九燿星、酒井の紺地四つ目、水野の黒地に通宝銭と、三部将の馬印差物が堂々と並んでいる、みんな眼をみはり、あっけにとられてふり仰いだ、……どうしたことだ、誰も彼も自分の眼を疑った。しかし敵の驚愕きょうがくはそんな程度のものではなかったらしい、朝の光りが菩提山の砦をくっきりと描きだしたとき、突風でも吹きわたるように敵陣の上にあわただしい動揺があらわれ、まるでたぐり込まれるようなかたちで銃隊が火蓋を切った。
 かくて敵の銃射によって決戦の幕はあがった、一旬のあいだ兵と武器弾薬を集結していた甲斐勢は、山上に徳川本軍ありとみて全陣地に伝令をとばし、うしろ備えをも挙げて総攻めの体勢をとった。源七郎はこれをしずかに視ていた、戦はかれの計った方向へ傾いてきている、はじめ掛川を出るときから、……先手組の寡数で敵の兵力をひきつけるにはこれが考えられる最上の策だ、そう思ってひそかに本陣の御馬印を摸作して来た、しかし敵がその策に乗るかどうかはなかば疑わしかったのである、それが僥倖ぎょうこうにも図に当ったのだ、敵はみごとに誘い込まれて来たし、味方の兵たちは御本陣の馬印の下で死ねるという、思い設けぬ幸運のために士気百倍した、あとはただ傾いてきたこの戦の方向をつかんで放さなければよい、味方の一人ひとりが、さいごの一人が討死するまで、がっちりと敵をひきつけて戦うのだ、……おちついてゆこう、日没まで時刻はたっぷりある、源七郎はそう呟きながら望楼へあがっていった。
 銃射にはじまった敵の攻撃は、時の移るにしたがって徐々と接近戦になり、午前十時ごろにはいちど敵の槍隊が塁下の濠まで突っ込んで来た、しかし源七郎はあくまで守勢をとり、適宜に矢弾丸をうちこむだけで、敵の誘いに乗ることをきびしく抑えつけていた。探りと誘いを兼ねた襲撃が幾たびかおこなわれ、陣構えもしだいに近接して来た。けつくような日光がぎらぎらと照りつける下で、硝煙が舞い立ち、銃声とときのこえが谷間にこだました、前進して来た敵は砦を東南から囲み、半円を随時に縮めながら、烈しい銃射と突撃とを矢継ぎばやに繰り返した、戦機はようやく熟しつつある、――今だ、源七郎は抑えに抑えていた第一矢を放った、三番組の抜刀隊を斬り込ませたのである。それはうまの刻をかなり過ぎた頃だった、砦を下りてまっすぐに敵のなかへ躍り込んだ二十余人の抜刀隊は、群がる人数を相手に悪鬼の如く斬りむすんだうえ、或いは敵と刺し違え、或いはぎ伏せ斬り伏せ奥へと突っこみ、相い組んで谷へ転げ落ち、さんざんに闘って一人のこらず討死をした。……およそ半刻あまり続いたこの死闘が終ると、敵の攻撃は再び砦へと集中した、こんどは新手も加わって、左右から銃を射かけつつ犇々ひしひしと攻め登って来る、源七郎は右翼から槍組を突っ込ませた、そして白兵戦が右翼に展開したとき、二番組の抜刀隊を棚まで切って出した、しかしこの二隊は一戦するとすぐ砦へ退かせ、押し詰めて来た敵の頭上へねらいうちに矢弾丸を叩きこんだ。……合戦は思いのほか早く頂点に達するかにみえる、源七郎は指揮をとりながら望楼にいる物見の兵に呼びかけた、「物見……本軍の動くようすはないか」「なにも見えません」物見の兵はそう叫び返した、「……まだなにも」源七郎は唇をんだ、本軍の大井川渡渉が済むまではこの砦を確保しなければならない、あせるな、あせるな、かれはもりあがってくる決戦の期を前にして、ともすればはやりたつ心をぐっとひきしめ、ひとしきり防戦を銃撃に集めた。
 午後二時すぎると塁の中に寐ていた傷兵たち十七人も出て来た、かれらはこの砦を奪取するとき負傷したもので、それまでかたく出ることを禁じられていたのだが、矢叫び鬨のこえの激しくなりまさるのを聞いて堪りかね、ついに塁へ出て戦いに加わったのである、かれらは死者の銃をとり、弓を持った、弾丸を運び、水を配ってまわった。敵の矢弾丸はその頃から圧倒的になり、みるみる味方の損害が増しはじめた。「おい勘解由小路二郎三郎左衛門……」左翼の塁壁の下でそう呼ぶこえがした、呼ばれた者がふり返ると、相手は横ざまに倒れ、銃を左手に起きあがろうとしているところだった、「どうした弥五兵衛、やられたか」「……なに」かれは走せ寄った友を見あげ、にっと笑いながら首を振った、「……背中を、また蚤が食いやがる、済まないが、手を入れて掻いて呉れ」「……そうか」頷くなり具足のえりをくつろげ、手をさし入れて掻きさぐった、蚤ではなく、貫通した銃創からながれ出る血だった、「いい気持だ……済まないなあ勘解由小路二郎三郎左……」そこまで云いかけると、かれは急にがくりと前へ崩れた、だが微かにこう続けた、「……長すぎる、べらぼうに長い名だ、来世はもっと短いのを付けて貰えよ」そして絶息した。そのときである、望楼から物見の兵の大きな叫びが聞えて来た、「お旗がしら、土煙が見えます……」「なにどうした」源七郎は中央へとびだした、「金谷の上流に土埃が大きく動いています、本軍が進撃をはじめました」その叫びは狭い塁の中いっぱいに響きわたり、兵たちはのども裂けよと歓呼の声をあげた。物見からは刻々に本軍の動きを知らせる叫びが聞えた、大井川にゆき着いた土煙は、先鋒が渡渉したとみえて、川を二つにわけて帯のように空へたなびきあがり、そのまま東へ東へとひた押しに移動してゆく、あきらかに東岸の敵陣を突破したようすだった、この知らせの一つ一つが砦の兵を狂喜させた、……とうとうここまでこぎつけた、源七郎は神にも謝したい気持でそう思い、いっそう熾烈しれつになった敵弾のなかへ大股に出ていった、「……みんな聞け、御旗もと本軍は大井川を越して、いま駿府へとまっしぐらに進んでいる、われわれはお役に立った、ここが先途だ、さいごの一人まで御馬印の下で死のうぞ」それに答えて砦をおおうように鬨があがった、源七郎は刀を抜き、家康の大馬印の下へいって立った。……傾きかかった真夏の日はなお烈々と輝き、惨憺さんたんたるこの戦場を斜に照らしだしていた。


 徳川本軍はその夜のうちに府中城を攻め落した、山県昌景は奇襲を受けきれぬとみて、もろくも旗を巻いて退却した。家康が入城するとすぐ榊原康政がおめどおりを願い出た、家康は待ちかねていたようすで、かれがめどおりへ出るといきなり菩提山のようすをたずねた、今日の奇襲が成功したのは、菩提山の砦が敵の中枢勢力をひきつけて放さなかった点にある、だが僅かな兵数でどうしてこれだけの事が為し得たのか、家康にはそれがなにより不審だった、いかなる神謀鬼略があったのか、「……申上げます」康政は問いに答えて云った、「まことに申しわけもなきしだいではございますが、かの砦には本陣の御馬印を立てたのでございます」「本陣の……おれの馬印か」家康は眼をみはった。「……御旗もと本軍が山上に詰めたとみせるために、もったいのうはござれども御馬印を拝借つかまつりますと、前夜ひとりの使者を以て願い出ました、お許しもなく御馬印を拝借つかまつるなど、なんとも僭上せんじょうぶれいの沙汰ではございますが、寡兵を以て敵の大軍をひきつけ、駿府攻略のお役の端にもあい立ちましたことなれば、なにとぞお慈悲をもちまして……」「もうよい、わかっている」家康は手を振りながら、ふとその両眼を閉じ頭を垂れた、かなりながいことそうしていたが、やがてしずかに面をあげて「……二度とはならぬが、このたびはゆるす、そのほうすぐみにいってやれ」「……はっ」「生死にかかわらず是を遣わすぞ」そう云いながら、家康は着ている陣羽折をぬいでさしだした、康政は押し戴いて受け、幕営をさがるとそのまま、夜道をかけて菩提山へ向った。
 康政主従が山上へたどり着いたのは明くる日の黄昏たそがれまえだった。足の踏むところ、眼を向けるところ、どこもかしこも死躰だった、焼けた望楼や崩れた塁壁の下まで捜したが、息のある者は一人もなかった。防げるだけ防ぎ、さいごには敵が斬り込んで来たとみえ、刺し違えて死んでいる者がずいぶんあった、なかには負傷して身うごきができなかったのだろう、自ら屠腹とふくした者も十人あまりいた。土田源七郎の死躰は御馬印の下にみつかった、そこでもっとも烈しい戦いがあったらしく、折り重なっている二十人あまりの屍は、かぶとがとびよろいはずたずたに千切れ、持っている刀も或いは折れ或いはのこぎりのように刃こぼれがしていた。……あまりのすさまじさに康政も従者たちも声が出なかった、しかしむざんとかあわれとかいう感じはいささかもない、ただ神々しいまでに壮烈だった、神々しいというよりほかに形容しようのない壮烈なありさまだった。
「源七郎のなきがらを起してやれ……」康政がそう命じた、従者の二人が左右から源七郎の死躰を抱き起した。康政は下賜されてきた陣羽折をとってしずかに進み寄り、生きている者に云うように、感動を抑えた低いこえで云った、「あっぱれよく戦ったな、土田源七郎、……御馬印のことはおゆるしが下ったぞ、そのうえ御着用の陣羽折を遣わすとの仰せだ、おれが着せてやるぞ、いいか……」そしてみずから死躰に着せてやった、「うれしかろう、みごとな武者ぶりだぞ」そのときはじめて康政の眼から涙がはらはらとあふれ落ちた、ひれ伏している従者たちのあいだに嗚咽おえつのこえがひろがった、……蕭々しょうしょうと吹きわたる風が、このすさまじい戦の跡を弔うかのように、松のこずえを鳴らしていた。
 浜松の留守城にいた三村勘兵衛のもとへ、土田源七郎の書状が届いたのは、先手組の全員が菩提山で討死をとげたという飛報と殆んど同時であった。書状に添えて牡丹の鏡が戻されて来た、……勘兵衛は手紙を読み終ると、むすめを招いて「これを読んでみろ」とわたした、信夫にはそれが誰の書状であるかすぐにわかり、ちょっと顔を蒼くしながら、しかしおちついた態度で披いた。……心いそぎ候まま委細つくし申さずそろ。このたび出陣のみぎり、御秘蔵の古鏡、御恵与にあずかり候こと身にあまる果報と存じそろ。さりながら拙者にはお受け申すこと相成り難く、ぶしつけの儀いかにも申しわけこれなく候えども、ぜひぜひ河津虎之助にこそ古鏡お譲り下されたく存じそろ、虎之助ことは無双のもののふにて、拙者には片腕とも弟ともたのむ者にござそろ、信夫どのにも……よくよくこの儀お伝えのうえ、やがて華燭かしょくのおん祝もあらば、貞節なる妻としてすえながくお仕えなさるべく、万福の栄えをこそ、お祈り申上げそろ。源七郎という署名の力づよい文字を見ながら、信夫はあふれてくる泪を抑えることができなかった、源七郎のひろく温かい心がかなしいほどじかに胸をうつ、自分が迂濶うかつだったために犯したとり返しようのない過ちをかばって、虎之助に鏡を譲って呉れとみずから父に頼んで呉れた、貞節な妻になれというひと言は、おそらく信夫に呼びかけているのであろう、――よくわかりました源七郎さま。信夫はそっと心のうちで答えた、――わたくし河津の家へとつぎます、そして虎之助どのの貞節な妻になります、それが貴方さまへのお詫びのしるしにもなると信じますから……。勘兵衛はむすめのようすをいたましげに見まもっていたが、やがてしずかにいたわるように云った、「河津はけがをして掛川にいるそうだ、間もなく浜松へ帰ってまいるだろう、源七郎のこころざしだ、もし帰って来たら、おまえからこの鏡を贈るがよい、わかったな」「はい……」はいと口のうちで答えながら、信夫は両手で面を掩った、傍らにいた母親のお萱もそっと眼を押えた、勘兵衛は膝の上でかたく拳をにぎり、妻戸のほうへ眼をそらしながら、まるで自分で自分を慰めるように云った、「源七郎は殿から御着用の陣羽折を拝領したという、もののふとしては無上の死に方だった……まことに、うらやむべきやつだ……」

付記 この篇の二三七頁に「安禅がどうとかして心頭を滅却すれば」云々ということを記したが、これは唐の翰林院かんりんいん学士、杜荀鶴の詩の転結であって、正しくは「三伏門を閉じて一のうを被る、兼て松竹の勾廊蔭するあり、安禅何ぞ必ずしも山水をもちいん、心頭を滅却すれば火もまた涼し」というのである。後半二句の転結はいろいろな意味であじわいが深く、かなりひろく人々に愛誦あいしょうされている、甲斐のくに慧林寺えりんじの快川和尚が武田勝頼の滅亡したとき、織田信長の暴手に焚かれて死んだ、そのおり炎上する山門の楼上でこの句を大喝したというはなしは有名である。





底本:「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」新潮社
   1983(昭和58)年10月25日発行
初出:「講談雑誌」博文館
   1944(昭和19)年2月号
※「矢だま」と「矢弾丸やだま」、「大井川を渡って」と「大井川を渉って」の混在は底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2025年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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